やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ
芥川龍之介 宇野浩二 下巻 (十五)~(二十三) 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友宇野浩二による渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された。底本は中央公論社昭和五十(一九七五)年刊の文庫版上・下巻を用いた。ルビの拗音の同ポイントについては私の判断で小文字を採用している。本文中の割注のような( )によるポイント落ちの筆者の解説が入るものは(ポイント落ちでない補足がやはり( )や⦅ ⦆で行われているが、それとは違う。それはそのまま( )や⦅ ⦆を用いた)、[ ]で同ポイントで示した(当初はこれは筆者とは別な編集者が挿入した疑いを持ったが、幾つかの箇所から筆者でなければ書けない内容であることが分かったので、省略しなかった)。なお、手紙等の引用は底本では全体が二字下げとなっているが、ブラウザ上の不具合を考えて、本文と同一にしたが、引用であることが判然とするように前後には底本にはない「*」を附して読み易くした(但し、詩歌などの引用でブラウザ上の不具合が生じない箇所は底本通りとして「*」は挿入していない)。書簡のクレジットなどの注で下インデントになっているものは、原則、引用文末から三字下げで示した。「〱」「〲」の繰り返し記号は正字に直した。一部に私のオリジナルな注を附した(注の位置は私の判断で空行パートごと若しくは当該語句を含む形式段落の直後の何れかに配してある)。注を附す対象は私がよく知らない(若しくは作家名として知っていても作品を読んだことのない)人物・事件を主としたが、本文で十全に語られていると判断した人物・事件については省略したものも多い。悪しからず。上巻はこちら。なお、本頁のルビは単語が連続している場合、それぞれが自立語であってもそのまま(分割せずに)配している。これは面倒だからではなく、連続するルビ・タグが一定量を越えると、私のHP作成ソフトでは何故かそれをエラー認識して書き換えてしまう(書き換えない設定にしても書き換えてしまう)ためである。長いルビに関しては字配と一致しないものがあるが、悪しからず。【二〇一二年五月十日】]
芥川龍之介 下巻
芥川龍之介
――思い出すままに――
十五
前にも述べたように、『傀儡師』[大正八年一月発行]出した頃は、芥川の全盛時代であり、芥川がもっとも
『傀儡師』は、いうまでもなく、芥川の第二作品集であり、その装幀は芥川がしたものである。(もっとも、『羅生門』の装幀も芥川がした。)
[やぶちゃん注:私の電子テクストに可能な限り、この第二作品集を味わえるように仕組んだ「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」がある。お楽しみあれ。
「競う」の読みは誤りではない。勢い込んで先を争う、張り合うの意の「きおう」は「競う」「勢う」と書く。]
*
世の中は箱に入れたり傀儡師
二伸これは新年の句本の広告ぢやありません
*
これは芥川が、大正八年の一月四日に書いた葉書の文句であるが、芥川は、おなじ年のおなじ日に、これと同じ文句を書いた葉書を南部修太郎と
ところで、私が、前に、「芥川がもっとも競っていた時の一つ」と書いたが、その例の一つは大正六年の一月号の『新思潮』に、芥川が、「文壇は来るべき何物かに向つて動きつつある。亡ぶべき者が亡びると共に
もっとも、『競う』といえば、元気と張りあった自分の芥川は、いつも、なにか、競っていた。(『競う』とは、もとより、「負けじと進む」「意気ごむ」という程の意味である。そうして、また、『競う』というと、芥川は、文壇に出てから、死ぬまで、
大正六年といえば、芥川の、かぞえ
こういう事を書きながら、ふと三十六歳の頃の私は、(おなじ年頃の私の友だちは、)このような『競う』気もちなどは殆んど
さて先に引いた、同じ
私は、前にたびたび書いたように、
ところが、
例えば、(例えば、である、)上林 暁は、昭和二年、(ちょうど芥川の死んだ
川崎長太郎は、経歴からいえば、
さて、私がこのような事を書いたのは、これから作家生活にはいろう、と覚悟して、作家になる人、ずるずるべったりに作家になる人――こういう
さて、前に述べた芥川の場合であるが、さきに、私は、「何ともいえぬ不思議な気がした、」と述べたけれど、こういう事を思いうかべて、よく考えてみると、不思議でも何でもないような気がしたのである。それは、簡単にいうと、芥川という人は、前にも述べたように、案外、常識的な人であったからである、
*
人生は
人生は地獄よりも地獄的である。……
人生の悲劇の第一幕は親子になったことにはじまつてゐる。
*
これらの『侏儒の言葉』の中の文句は、もとより、筆者の本音のように思われる
ところが、芥川は、『或阿呆の一生』のなかに『
*
彼等夫妻は彼の養父母と
*
右の文章の
[やぶちゃん注:「養父母とは、芥川の養父であり伯父(芥川の実父新原敏三の兄)である」とあるが、この芥川道章の妹フクが芥川龍之介の実母であるから「兄」ではなく、「義兄」である。なお、精神病を患ったフクの生前(龍之介が芥川家へ入ると同時に)、新原敏三は家事手伝いに来ていたフクの妹であるフユを後妻に迎えている。
「大正七年の二月に、前から交際していた、塚本文子と結婚したので、その
前に書いたか、と思うが、芥川は、私などにも、決して愚痴をこぼした事はないけれど、一度か二度、「……
*
彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤の
彼の伯母はこの二階に
彼は或郊外の二階に何度も
彼は結婚した翌日に「
[やぶちゃん注:ここに有意な行空けが存在する。]
*
『或阿呆の一生』は、一般に、「散文詩のような」と云われているが、私は、それにも同感であるけれど、芥川の文学の中で、特殊なものの一つである、と思っている。(それについては、後に述べる。さて、――)
右の二つの文章の中に出てくる、伯母は、前に書いた、ふきである。芥川の実母のふくは、そのふきの妹であり、道章の妹でもある。そうして、ふくは、芥川家から新原家に
ところで、芥川の実父の新原敏三は、――この人については、芥川は、『大導寺信輔の半生』の中に、ほんの
[やぶちゃん注:「初子」については、実母フクや実父敏三とともに一読忘れ難い人物として「點鬼簿」の中の「二」に「初ちやん」として登場する(但し、戸籍上は「初」「初子」「ハツ」ではなく、「ソメ」であるらしい)。明治十八(一八八五)年生れで、風邪をこじらせて脳膜炎となり、明治二十四(一八九一)年四月五日に満六歳に満たずして亡くなっている(新全集の宮坂年譜(一一八)頁では没年を一八八八年とするが、これでは三歳に満たず、おかしいので採らない)。なお、この風邪は母フクが連れて新宿の牧場に椿狩りに出かけた折りに罹患したとされ、フクはそれを深く気に病み、それが精神病発症の遠因となったとも言われている。
「竹内 真の『芥川龍之介の研究』」は昭和九(一九三四)年大同館書店刊。]
*
実父新原敏三の本籍は山口県玖珂郡賀見畑村
*
この記事は大へん
[やぶちゃん注:「新原敏三」は「にいはら」と読む。その生年は「嘉永四年」ではなく、嘉永三(一八五〇)年で、没年は大正八(一九一九)年三月十六日(スペイン風邪による)である。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の庄司達也氏の「新原敏三・新原家」によると、まず「生見八十八番地」(「生見」は「いきみ」と読む)は推定で「一五六四」番地とし、慶応二(一八六六)年に『火蓋を切った四境戦争(長州征伐)に』敏三は数え十七歳で『大林源治の変名を用いて長州軍の農兵隊である「御楯隊」(後の整武隊)の器械方(砲兵隊)下士卒として参戦』、七月二十八日に『あった芸州口(現、広島県大竹市付近)の戦闘で負傷し、戦線を離脱した』とあり、その後はしばらく消息が途絶えるが、明治九(一八七六)年九月に『千葉県成田三里塚の官営牧場「下総御料牧場」に「雇」として入所』、『その後、神奈川県仙石原の耕牧舎牧場』(「畊」は「耕」と同音同義)に移って、『実業家渋沢栄一のもとで次第に頭角を現していった』、とある(長州征伐は幕府軍が小倉口・石州口・芸州口・大島口の四方から攻めたために長州側では「四境戦争」と呼ぶ)。この記載からは竹見の明治九(一八七六)年の萩の乱は勿論、慶応四(一八六八)年の鳥羽・伏見の戦いも誤認である。
「益田孝」の名はこちらにはないが、渋沢栄一との絡みで言えば、三井財閥を支えた実業家益田孝(嘉永元(一八四八)年~昭和十三(一九三八)年)がおり、彼の三井物産創立は正に明治九(一八七六)年のことである。但し、この増田孝は新潟佐渡の出身であり、やはり「同郷」ではない。
「益田右衛門介」は、幕末の長州藩永代家老であった益田親施(ちかのぶ 天保四(一八三三)年~元治元(一八六四)年)で、
「芥川が、『大導寺信輔の半生』のなかに、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、」と書いているように」は、『大導寺信輔の半生』の「二 牛乳」の中の一節、
彼は只頭ばかり大きい、無氣味なほど痩せた少年だつた。のみならずはにかみ易い上にも、磨ぎ澄ました肉屋の庖丁にさへ動悸の高まる少年だつた。その點は――殊にその點は伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃膽勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違ひなかつた。
の部分を指す。しかし、今、見てきたようにこれも芥川の変改であった。「長州征伐」や「四境戦争」では、箔が附かない(正に箔のある父と「似ていない」ことを言う場面であるあるから)から、メジャーな「鳥羽伏見の戦い」を言ったものであろう。]
さて、私がこのような事を述べたのは、山口郡玖珂郡賀見畑村、といえば、山口県の隅の方の、(
ここまで書いて、私は、ふと、このような、進歩的な、平民的な、人が、どうして、芥川家のような、古風な、因循な、家の娘を、嫁にもらったのか、と、不思議なような気がした、それから、反対に、芥川家のような、由緒のある、旧家が、どうして、一介の牛乳屋に、大事な娘を、片づけたのか、とも思って、不審なような気がした。
ところが、これ故、不思議な事でも何でもなく、案外、両方とも、俗っぽい考え方からではないか、というような気もした。それは、偶然かもしれないが、芥川の実父の新原敏三の弟の元三郎(つまり、芥川の叔父)は、兄より前に上京して、芥川の養父(母方の伯父)の妻(
[やぶちゃん注:正しくは「えい」ではなく「ゑい」。]
つまり、芥川の」父は牛乳屋であり、叔父は炭屋である、という事になるのである。
私は、もし『遺伝』というものがあるとすれは、芥川は、この父(敏三)と母(ふく)の気質をもっとも多く受け、つぎに、伯母(ふき)の気質をうけているところもある、と考えるのである。それから、芥川の顔は伯母のふきにいくらか似てい、芥川の目と口もとは母のふくにかなり似ている。(写真で見ると、芥川は養父の道草とも似ているようである。)
もし、(もし、である、)かりに私の思った事がいくらかでも当たっているとすると、さきに引いた、『侏儒の言葉』のなかの、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる、」といふ文句は、おそらく、芥川が、死ぬことを覚悟してから、遠く自分の実の父母と自分の昔の事どもを思いやって、
私は、さきに、芥川の実父の少年時代の事が不明である、と書いたが、芥川の幼少年時代の事どもも、私には、不明なことが多いのに、気がついたのである。それは次ぎのような事である。
前にも述べたように、芥川は、生後九箇月ぐらい後に、その頃の、京橋区入船町の実家から、本所区小泉町の芥川家に、もらわれて行ったのであるが、その時分の事は芥川の書いている文章によっておよそ想像ぐらいはつくが、はっきりしない所もある、それは、『大導寺信輔の半生』や『点鬼簿』のような小説(あるいは小説風のもの)は、もとより、『追憶』や『本所両国』のような物にまで、芥川流の見えや修飾があるからである。それから、『大導寺信輔の半生』の最初の『本所』の書き出しの「大導寺信輔の生まれたのは本所の
[やぶちゃん注:芥川龍之介は、明治二十五(一八九二)年三月一日、当時外国人居留地の一画であった東京市京橋区入船町八町目一番地(現在の中央区明石町一〇―一一)で出生した。現在、碑が立つ。]
参考、といえば、迂闊な私は、田端に住んでいた芥川しか知らないので、芥川は生まれた時から田端町住んでいたような気がしていたが、(もっとも、そんな事をはっきり考えたこともなかったが、)『本所両国』のはじめの方で、「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐたのである、」というのを読み、その事を初めてはっきり知ったことである。
[やぶちゃん注:芥川龍之介は出生後に母フクが精神に異常をきたしたため、七ヶ月後の同年十月末に本所区小泉町一五番地(現在の墨田区両国三丁目二二番一一号)に引き取られた。明治三十七(一九〇四)年八月三十日新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組、以下に見る通り、明治四十三(一九一〇)年十月に芥川家は、この本所小泉町から府下豊多摩郡内藤新宿二丁目七一番地(現在の新宿区新宿二丁目)に転居、更に大正三(一九一四)年十月末に北豊島郡滝野川町字田端四三五番地(現在の北区田端)に家を新築して転居した。ここ田端が芥川龍之介の終生の地となった。]
そこで、あらためて、年譜を見ると、「明治四十三年、(十九歳、)三月、第三中学校卒業、九月、無試験にて第一高等学校第一部乙(英文科)入学。同級に、久米正雄、菊池 寛、山本有三、松岡 譲、土屋文明あり。特に作家たらん希望なし。新宿二丁目七十一番地に移転。」「大正二年、(二十二歳、)第一高等学校卒業。帝国大学英文科入学。田端四百三十五番地に移転。」とある。
これを読むと、知ってみれば、そうか、と思うような事ではあかが、芥川は、「三十五年あまりの生涯のうちで、十八九年ぐらい、本所の小泉町で、くらし、一年あまりを府下の新宿で、おくり、田端で、十三四年ほど、生活した。つまり、芥川はその生涯の大半を、東京の中でも最も見すぼらしい
芥川が二十歳頃まで住んでいた本所小泉町は、今の両国駅の近くであるが、芥川の幼少時代(つまり、明治二三十年代)は、うす
[やぶちゃん注:「穴蔵大工」の穴蔵は、地面や山盛り土の斜面に横穴・竪穴を造成して物を収納できるようにした地下室。江戸時代、特に安政元(一八五四)年十一月四日に発生した安政の大地震以後の江戸で流行ったが、江戸では地下水位が高いために水漏れや湿気対策として内装の材料が主にヒバ材で作られ、穴蔵本体の材木部分を製造することを主な業務とする穴蔵大工という専門職が存在した。
「お竹倉」現在の両国駅から北側一帯(墨田区横網町)にかけては嘗ての幕府材木倉・竹倉・米蔵などの御蔵屋敷跡の一部であった。芥川が幼・少年期を過した頃の芥川家は、ここの南に隣接していた。芥川龍之介の「本所兩國」の「お竹倉」などを参照されたい。
・「南京藻」他の芥川作品でもそうだが、彼がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目Chroococcales・プレウロカプサ目Pleurocapsales・ユレモ目Oscillatoriales・ネンジュモ目Nostocales・スティゴネマ目Stigonematales・グロエオバクター目Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属
Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属Anabaenaや同目のアナベノプシス属Anabaenopsisであるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属Chlamydomonas等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。
「大溝」は「おほどぶ(おおどぶ)」と訓ずる。]
しかし、又、そう云い切れないところもある。自分の事をほとんどまったく書かない、と称せられた芥川が、『保吉の手帳から』を書いた時分から、十年あるいは二十年以上も前の事ではあるが、自分が見聞きし経験した事を、歯に
芥川の父は、(養父か実父かよくわからないが実父らしい、)多少の貯金の利子をのぞけば、一年の五百円の恩給で、女中をいれて五人の家族を養わねばならなかった。(こういう事を芥川は、「中流下層階級の貧困」と云っている、さすがに巧みな云い方だ。)そのために節倹の上にも節倹をしなければならなかった。それで
[やぶちゃん注:「養父か実父かよくわからないが実父らしい」は誤り。これは養父芥川道章を指している。]
*
……信輔は
*
右の文章は、いうまでもなく、修飾も気取りもないので、(気取りは、芥川の癖で、いくらかあるけれど、)しみじみと、読む人の心を、打つ、叩く。殊に、私などは、あの芥川が、
ところで、『大導寺信輔の半生』のなかに、『牛乳』という不思議な文章がある。それは、信輔が、生まれ落ちた時から、母の乳をまったく吸った事がなく、牛乳ばかり飲んで育ったことを、「憎まずにはゐられぬ運命」と考え、それに、「誰にも知らせることの出来ぬ一生の秘密」と思いこむ事である、それから、自分が、
この父は、牛乳屋の、実父、新原敏三であろう。
[やぶちゃん注:ここでの「父」は勿論、宇野の言う通り、実父新原敏三を指している。]
(余談であるが、作家になってからの芥川の事を、誰いうとなく、「芥川の
ところで、芥川は、『点鬼簿』の中で、その父について、「僕の父は牛乳屋であり、
[やぶちゃん注:「槲」をカシと訓じている資料が多く、芥川龍之介もそのつもりで混同して用いているようだが(後掲される恒藤恭の描写では正しく「樫」とある)、槲はブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentate で落葉性、樫はコナラ属でも常緑性の種であるウバメガシQuercus phillyraeoides やアカガシQuercus acuta 等を「カシ」と呼び、「カシワ」を「カシ」とは言わない。ただ、、この誤用は一般に見られるものではある。]
芥川は、このような実父と、寛永年聞からつづいている、代代お坊主として殿中に奉仕した、というような旧家に生まれた養父と、――こういうまったく両極端の二人の父を持ったのである。
ところで、芥川は、おなじ『点鬼簿』のなかに、この実父が、こういう珍しいものを自分にすすめて、自分を養家から取り戻そう、と、述べたあとに、つぎのように書いている。
*
……僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げ来いと
*
つまり、この伯母がふきである。
さて、はじめに述べた芥川が海軍機関学校の教師を
その年(つまり、大正八年)の一月に出版した『傀儡師』は、この伯母のふきに、献じたものである。
追記――これらの文章を書き終ってから、芥川の高等学校時代の親友である、恒藤 恭の『旧友芥川龍之介』という本を手に入れた。その中に、芥川が高等学校時代に住んでいた新宿の家の事が出ていたので、それをつぎに引用したい。
*
芥川が一高に入学した明姶四十三年に芥川家は本所小泉町から新宿二丁目に移転した。そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終点に近づいて行くと、電車通りに新宿の遊廓の建物がならんでゐるのが窓から見えたものであつた。たしか三丁目で下車して少し引返し、左へ折れて二三町ばかり行くと、千坪ぐらゐの広さの方形の草原を前にして芥川の住んでゐた家がぽつんと建つてゐた。樫の木などが疎らに生えてゐる地面を十四五坪へだてて牛舎があつた。芥川の実父新原氏はそこと今一つほかの場所で牧場を経営してゐた。いま一つの方のことは知らないけれど、新宿の方は牧場といつても小規模だつた。しかしホルスタイン種か何かの骨骼のたくましい牛を幾頭も飼つてゐた。
*
右の文章を借用したのは、芥川が、高等学校時代に、こういう所に住んでいたことがわかる事が、私ばかりでなく、大方の人におもしろいと思われる、と考えたからである。
十六
『傀儡師』は、前述べたように、第二短篇集であるが、『羅生門』[ここでは、第一作品集のこと]と共に、芥川の前記の作風を代表する短篇集である。それに、この本の中には、初期以来の筆法にますます脂の乗ってきた小説が、はいっている。それから、この本におさめられている作品の大部分は歴史小説であり、中でも、徳川時代に題材を取った、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、『枯野抄』、それから、『地獄変』などは、芥川の数おおい作品のなかの、代表作に属するものであろう。
それから、これは『傀儡師』だけの事ではないが、たとえば、おなじ切支丹物でも、『尾形了斎覚え書』では物物しい候文をつかい、『奉教人の死』では物体ぶった切支丹語をもちい、おなじ徳川時代に取材した物でも、『或日の大石内蔵助』と『戯作三昧』とでは、一方は四角ばった手法、他はくだけた筆法、というように、書き方をかえ、『地獄変』と『蜘蛛の糸』とでは、作風がまったく違うのに、文章の一節のおわりに、『ございました。』『ございません。』などという言葉を
されば、くりかえし云うようであるが、芥川の前期(から中期へかけて)の作品の幾つかは、――そのたぐいない巧緻な手法、そのきわまりない絢爛な文章、そういう事だけ(そういう事だけである)から見れは、――誇張して云うと、日本の近代文学の
ところで、一般に、芥川は、アナトオル・フランス、ストリンドベルヒ、メリメなどに傾倒していた、と云われているが、芥川が、感心していたのは、フランスやメリメだけではない、それ以上に、手本のようにしていたのは、モウパッサンとゴオティエである。芥川の、前期から中期へかけての、絢爛で彫琢の妙をきわめた小儲の中には、ゴオティエの作品を思い出させるものが、幾らもある。つまり、芥川や『観念よりは形式に、思想よりは美に、心をひかれた、』という、ゴオティエの小説に読みふけった事があるにちがいないのである、それから、芥川の、やはり、前期から中期へかけての、気のきいた短篇の中には、その構成に、(『構成』だけである、)短篇小説の名人と称せられた、モウパッサンの短篇を手本にしたように思われるものが、幾つもある。つまり、芥川は、モウバッサンの短篇をも耽読した事があるにちがいないのである。
もっとも、モウパッサンは、日本でもっとも早くから
ところで、私が学生時代の頃、(大正の初めの時分、)“After-dinners Series”という叢書の中に、英訳のモウパッサンの短篇集が五六冊あって、一冊五拾銭(古本で参拾銭ぐらい)であった。(それは、英語とフランス語の読める人の話に、ほとんど直訳でありながら、名訳である、という事であった。)その英訳のモウパッサンの短編集を五六冊、私のような語学のできない者さえ、読んだのであるかち、秀才であった芥川は、こういう英訳のモウパッサンの短篇など、
[やぶちゃん注:「“After-dinners Series”」は、“After-Dinner Series”(London, Mathieson,
n. d. 12 vols.)のこと。「食後叢書」として本本邦でも親しまれた。この記載を発見した足立和彦氏のHPの「『悪魔伯夫人』とは誰なのか―モーパッサンの偽作に関して(1)」によれば、モーパッサンの訳者は“Short stories by Guy de Maupassant, translated from the
French by R. Whitling”で、また明治三十五(一九〇二)年にはほぼ全巻が出版されていたともある。ところが、この足立氏の記事によれば、そこには実に六十六編にも及ぶ偽作が含まれており、その贋作者は訳者ウィトリング本人であるとする。宇野や芥川がこれに親しんだとすると――もしかすると、彼らは正にその贋作の幾つかにインスピレーションを受けていたという、皮肉な可能性も、あるわけである――。]
おなじ頃、モウパッサンのほかに、いろいろな作家の英訳の短篇集が出たが、その中にチェエホフとキイランド[註―キイランドは英語読みで、ノルウェイの人であるからキエランと云う、大学を出てからフランスで幾冬かをすごしたので、フランスの第一流の作家たちと親しく交わったので、非ノルウェイ的な文章で、警句と機智にみちた話を明快に、簡潔に、書いた人]の短篇集があって、そのチェエホフの短篇集の帯封にも、そのキイランドの短篇集の帯封にも、大きな活字で、de Maupassant type としてあった。つまり、私は、こういう事を思い出して、チェエホフのような天才的な短篇作家やキイランドのごとき
[やぶちゃん注:「キイランド」Alexander Lange Kielland(アレクサンダー・ランゲ・シェラン 一八四九年~一九〇六年)はノルウェーを代表する作家の一人。本邦では「枯葉」「季望は四月緑の衣を着て」等、専ら岩波文庫の前田
ところが、花袋、秋声、藤村、荷風、というような大家の幾つかの作品が、一部の具眼者には、「……モウパッサンだね、」とか、「モウパッサン
さて、何度も云うように、芥川が、『傀儡師』の中におさめられている小説を書いていた頃は、生涯のうちでもっとも
私はかんがえる、「立てきつた障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる
これはずっと前に
この妙な言葉をつかうと、芥川は、この『或日の大石内蔵助』だけについて云えば、カキダシストとキリストとを兼ねている、という事になる。いや、芥川は、
しかし、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、『枯野抄』、それから、『地獄変』、――と、これだけ読みかえしてみても、かぞえ
ところで、この
しかし、芥川は、やはり、一代の、奇才であり、鬼才であった、小説のよしあしは別として、世にも稀な才能の持ち主であった。
たいていの批評家は、『或日の大石内蔵助』と『戯作三昧』と『枯野抄』とを、芥川が、昔の人の日常生活を書きながら、それに託して、自分の心事と感慨を述べているように論じている。が、私は、そうばかりとは思わない。
『枯野抄』について、室生犀星は、「彼は十分な縹渺や枯寂を『枯野抄』、ではあらはし得なかつたと云つてよい、」と云い、宮本顕治は、「彼等は枯野に窮死した先達を歎かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を歎いてゐる、」と述べている。(この「薄暮に先達を失つた自分たちを歎いてゐる、」という文句は、『枯野抄』の中にある文句である、つまり、『枯野抄』の中から取ったものである。)
[やぶちゃん注:前者は昭和二(一九二七)年七月号『新潮』に載った「芥川龍之介の人と作品」から、後者は有名な「敗北の文学」(昭和四(一九二九)年八月号『改造』)からであるが、ここは宮本の引用が不十分(尚且つ不正確)なために分かり難くなってしまっている。ここでの宮本は先の室生の評を批判しながら、次のように述べているのである(引用は筑摩書房全集類聚版別巻所収のものに拠る)。
「枯野抄」も亦単に渺茫の趣きを
宇野の引用は『彼等は「枯野に窮死した先達を嘆かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を嘆いてゐる」。我々はこゝに、近代的個性の痛々しい自己省察を見せられるのである。』と「彼らは」の後に引用の括弧を配し、尚且つ、せめてその後の一文を附してこそ宮本の(ひいては宇野が室生の評と並べた)意味が分かる。]
この二人の説は、それぞれ、見当がはずれている。(もっとも、宮本の方はいくらか当を得ているが。)
さて、芥川は、この『枯野抄』で、芭蕉よりも、(いや、芭蕉ではなく、)師の臨終に
芥川は、『一つの作が出来上るまで』という文章の中で、この『枯野抄』を書くまでに、三たび構想をかえた、そうして、三度目に、蕪村の『芭蕉涅槃図』からヒントを得て、この『枯野抄』を書いた、と述べている。
それは、作者自身が書いているのであるから、本当であろうが、私は、この文章の中の「それを書くについては、先生の死に逢ふ弟子の心持といつたやうなものを私自身もその当時痛切に感じてゐた、」という一節に、心を引かれた。この『先生』とはおそらく夏目漱石であろう。
ところで、これはずっと前に書いたことがあるように思うが、たしか、『傀儡師』が出てから
ところが、『枯野抄』に出てくる門弟たちは、みな、いかに師の臨終の部屋の中であれ、およそ愛敬というものがなく、それぞれ、腹に
閑話休題、(あだし
芥川は、『地獄変』にあるような世にも恐ろしい事を書きながら、絵空事のようにしか、書けなかった人である。しかし、絵空事の物語を書けば、芥川は、一代の名人であった。『古今著聞集』に、「ありのままの寸法に書きて侯はば、見所なきものに侯ふ故に、絵空事とは申すことにて候」という文句がある。つまり、芥川の前期から中期までの間の歴史物(殊にいわゆる王朝物と切支丹物)の大部分は『絵空事』であるから、その絵空事の大部分は、成功しているのである。
[やぶちゃん注:「『古今著聞集』に、……」上巻の「三」に既出。該当箇所の私の注を参照されたい。]
ところが、この『枯野抄』に出る人物は、みな、常識的な、ありふれた、俗人であるから、およそ絵空事にならない人たちである、つまり、その頃の芥川の小説にまったく不向きな人間であり、書くのに芥川の一ばん不得手な人間である。それで、芥川が、私に、内証話でもするように、ひくい声で、「漱石門下の人たちだよ、」と云ったのが、かりに本当であったとすれば、こういう種類の人間を書くことがもっとも下手な芥川が、カクカクコレコレの人間をあらわそうと思いながら、書いたのが、まったく別の性格の人間になったのかも知れないのである。又、それでなければ、本当に、『花屋日記』と支考や其角が書いいた芭蕉の臨終記のようなものを参考にして、芭蕉の臨終の座敷に集まった、其角、去来、支考、惟然、丈艸、その他の、風貌、性格、心理、その他を真面目に書いたのを、芥川が、私をからかうために、「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云ったのかもしれない。これは芥川のよくやる手であるからだ。
[やぶちゃん注:勿論、芥川は宇野を『からかうために、「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云った』のではない。寧ろ、芥川は「枯野抄」を読んだ宇野は、その性格から「まったくヤリキレない気が」するに違いなく、『どんな社会でも』、こん『な妙な(イヤな)悪意の人たちばかりだけが集まる事はないゾ、と云いたい』に決まっている、「枯野抄」は『人間の心の地獄の図のようにさえ、思』っているに違いないと確信したからこそ、芥川独特の露悪的性向から、わざと『「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云った』のである。因みに、私の「枯野抄」の電子テクストその他、私の高等学校現代文用のオリジナルな「枯野抄」授業ノートなどがある。御笑覧あれ。]
『戯作三昧』は、『枯野抄』などとくらべると、手のこんだ作品である。菊池 寛がこの小説について、「彼の創作生活の告白ではなくて何であらう。ただ、彼が世の所謂告白作家よりももつと芸術家である為めに、曲亭馬琴を傀儡として、告白の代理をせしめたのに過ぎない、」と論じているが、これは、まちがってもいないが、いかにも菊池流の見方である。
立ち入った見方をすれば、銭湯の中で馬琴の小説を遠慮なく
それから、この小説の中に、「この
[やぶちゃん注:「眇」は「すがめ」と読む。片目の不自由なこと。「水守亀之助」(明治十九(一八八六)年~昭和三十三(一九五八)年)は小説家。大正八(一九一九)年に新潮社入社し、『新潮』の編集の傍ら、自然主義傾向の小説「末路」「帰れる父」等を発表した。参照したウィキの「水守亀之助」の記載によると、その後は数奇な人生を辿っている。]
それから、この小説の中で、馬琴が、一九、三馬、種彦、春水、その他と比較されるところがあるが、それらの作家の名を書く時、芥川は、同時代の作家たち(例えば、⦅『例えば』である、⦆潤一郎、弴、春夫、その他)の名を、
それから、この小説のおわりの方の、誰も問題にする、「
「古人は
「それは後生も恐ろしい。だから私どもは唯、古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進むのです。」
「
これは『戯作三昧』の中の、華山と馬琴の問答であるが、実は、作者の芥川の心の中の自問自答である。つまり、「古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進む」
というような事を、二十六歳の芥川は、かんがえていたのである。
[やぶちゃん注:「根かぎり書きつづけろ。今己が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ、」私はこの芥川の『戯作三昧』の馬琴の台詞を読むと、彼の晩年の『闇中問答』の最後の台詞を思い出さずにはおれない。
僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模樣はいつ何時變るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の爲だ。同時に又お前の子供たちの爲だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
そうして私もまた、宇野と同じく、この言葉が『悲壮に、聞こえる、悲壮、というより、悲痛な感じがする』のである。]
それから、芥川は、おなじ『戯作三昧』の中で、馬琴が、『
しかし、芥川は、「自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合」がある事には、気がつかなかったとしても、自分の創作力がおとろえ行きづまってきた事は、うすうす、感じていた。
それが『戯作三昧』にかすかながら出ているように思われるのである。
馬琴に「根かぎり書きつづけろ、」と云わしたのは、芥川が自分をはげます言葉でもあったのだ、作者が意識しているといないとにかかわらず。
『戯作三昧』が出てから半年ぐらい後に発表した『地獄変』は、芥川の全作品の
しかし、それはそれとして、さすがに、芥川は、その後、別の
それから、『地獄変』は、(その文章だけで云うと、)芥川の他の小説の文章が、彫琢し過
窮屈になり、感情までなくなるが、『地獄変』の文章は、のびのびしていて、一種の感情もある、そのかわり、冗漫なところがある。一長一短というべきか。
『
[やぶちゃん注:「文藻」この場合は、詩才・文才の意味ではなく、その作者個人の文章に特有な、独特の綾や色彩の謂いである。それにしても相馬の「藻がないよ」はなかなか面白いし、それを丁々発止に受ける宇野も面白い。芥川龍之介の文章に「藻」は充分にある――いや、あり過ぎる程に、ある――と思っている私でも、この掛け合いは面白い。この宇野の一段落には確かに彼等の言う『藻』がある。]
『傀儡師』におさめられている小説の中の一ばん新作は『毛利先生』である。
『毛利先生』は、芥川が現実的な小説に
回想を
それが、今、むかし軽蔑した『小説と呼ぶ種類ではないかも知れない』ような小説を、芥川は、書かざるを得なくなったのである。それが、つまり、『毛利先生』(これはちょいと小説になっているが)であり、この『あの頃の自分の事』であり、ずっと後の、『大導寺信輔の半生』であり、幾つかの、『保吉』物である。
[やぶちゃん注:「毛利先生」の私の電子テクストはこちら。]
さて、芥川が生前に出した短篇集は、『羅生門』、『傀儡師』、『影燈籠』、『夜来の花』、『春服』、『黄雀風』、『湖南の扇』の七冊であり、芥川の死後に出された短篇集は、『大導寺信輔の半生』と『西方の人』の二冊である。
[やぶちゃん注:「芥川の死後に出された短篇集」は二冊どころではない。ざっと見ても没年(昭和二(一九二七)年末には『侏儒の言葉』、翌昭和三年には童話集『三つの宝』、昭和四年に『西方の人』、昭和五年に『大導寺信輔の半生』と続く。]
この生前に出した七冊の中で、『黄雀風』と『湖南の扇』には主として身辺を書いた作品が多くはいっており、他の五冊のうちでは『影燈籠』が一ばん見おとりがする。
『影燈籠』の中には、『蜜柑』とか、『葱』とか、という現代の庶民の日常の何でもない事を題材にした小説がはいっているが、これは、いわゆる歴史物ばかりを書いていた芥川が、このような物を書いたという事で、めずらしがられただけの物で、ちょいと気のきいた小説ではある。が、唯それだけのものである。それに、『葱』は、あまり
それから、この短篇集には十四篇もおさめられてあるが、その中の、二篇は旧訳の翻訳であり、他の二篇は旧作と『小品四種』である。つまり、この四篇は、他の十篇だけでは一冊の本にならないので、「紙数の不足を補うため」に、入れられたのである。
[やぶちゃん注:「十四篇」は十七篇の誤り。『影燈籠』の収録作品は「蜜柑」「沼地」「きりしとほろ上人伝」「龍」「開化の良人」「世之助の話」「黄粱夢」「英雄の器」「女体」「尾生の信」「あの頃の自分の事」「じゆりあの吉助」「疑惑」「魔術」「葱」の創作、アナトール・フランスの「バルタザアル」及びイェイツの「春の心臓」の翻訳二篇の計十七篇である。「黄粱夢」「英雄の器」「女体」「尾生の信」のことを宇野は小品四種と呼んでいるものと思われる。]
概して、この集におさめられている作品は、切支丹物でも、
[やぶちゃん注:「犬と笛」は大正八(一九一九)年一月、『赤い鳥』に発表された童話であるが、『影燈籠』には所収しない(どころか、単行本には未収録の作品である)から見当違いの批評である(次の段落を読むと、彼のこの部分の批評は『影燈籠』への批評から、それが発刊される前年の大正八(一九一九)当時の芥川の作風への批判となっているのであるが、誰が読んでも『影燈籠』に「犬と笛」が所収しているようにしか読めないから、よくない文章である)。また、私は「犬と笛」を「雑駁で、味がない」とする一刀両断にも、宇野自身の評価自体、「雑駁で、味がない」物言いであると反論するものである。
「『蜜柑』もちょっとした思いつきであり」確かに『影燈籠』はマンネリズムに陥った芥川の作品集として後代では最も評判が悪いが、私はこの「蜜柑」は、芥川龍之介の現代物の中でも一番に挙げてよい名作と信じて疑わない。宇野の「ちょっとした思いつき」という二度の謂いには烈しく反論するものである。]
芥川は一たいどうしたのであろう、――と、私は、これらの小説をよんだ時、一人で、気をもんだ。
そこへ、『竜』が出たのである。大正八年の五月号の「中央公論」である。『竜』は、例の『宇治拾遺物語』の巻十一の「
[やぶちゃん注:「
蔵人得業が、人をかつぐつもりで、「三月三日この池より竜
されば、私は、この『竜』を読みおわって、タメ息をついたのであった。
しかし、芥川は、さすがに、その頃の自分の事を、よく知っていた。その事を、私は、こんど、はじめて、つぎのような文章を読んで、知ったのである。
*
樹の枝にゐる一匹の毛虫は、気温、天候、鳥類等の敵の為に、絶えず生命の危険に迫られてゐる。芸術家もその生命を
(『芸術その他』)
*
この文章を、芥川は、大正八年の十月に、書いているが、最後に、「おひおひ僕も一生懸命にならないと、浮かばれない時が近づくらしい、」と
この文章には、芥川の、覚悟のようなものと、
[やぶちゃん注:「藝術その他」とそれへの批評の反駁文「一批評家に答ふ」が私の電子テクストにある。参照されたい。]
いずれ.にしても、大正八年は、芥川には、よい
この大正八年に書いた『沼地』という短篇の中で、絵が思うように描けないために、「恐ろしい焦燥と不安に
[やぶちゃん注:「沼地」も私の好きな作品のである。私が勝手にデュシャンの「薬局」を飾った電子テクストは、こちら。]
芥川も、亦、大正八年には、幾度か、「恐ろしい焦燥と不安」に、さいなまれたのではないか。そのために、しばしば、
十七
つぎに述べる話はずっと前に書いたと思うけれど、話をすすめるために必要であるから、重複するのを承知の上で、書く。
大正九年の秋の中頃であったか、芥川は、いつものように、
その時、芥川が「つきあってくれ、」と云った行く先きは、芥川の友人の石田幹之助のつとめている『東洋文庫』であった。その『東洋文庫』は、たしか、今の運輸省の裏の辺であった。が、その頃は、まだ、赤煉瓦の小さい、せいぜい二三階
私は、芥川と一しょに、上野の桜木町から、大通りに出て、善光寺坂をくだり、
「君は、僕の小説など、読んでいないだろう。」「読んでるよ。」「感心してないんだろう。」「感心してないね、……そりや、僕だって、君が
すると、芥川は、急に真剣な顔つきになって、ささやくような声で、「ありがとう、実はその用事で、石田に逢いに行くんだよ、」と云った。
さて、前に述べたように、『東洋文庫』は、丸の内の、
『東洋文庫』は、「東京市本郷区駒込上富士前町にある。大正六年(一九一七)男爵岩崎久弥は、前中華民国総統府顧問モリソン G. A. Morrison
より多年の蒐集にかかる支那を中心とせる東洋諸国各般の欧文文献の一大蒐集『モリソン文庫』を購入し、大正十三年、現在の敷地、建物、その他一切の設備を挙げて財団法人東洋文庫が設立された。爾来東洋文庫は、従来のモリソン文庫を核心として、更に年々この方面の洋書と、従来のモリソン文庫には含まれてゐなかつた漢籍の購入をつづけてゐる。[下略]」と或る辞書にある。
ところで、この辞書にあることを本当とすれは、『東洋文庫』を持っていた岩崎が、『モリソン文庫』を買い入れた時、それを整理するために、この丸の内の赤煉瓦のビルディングの二階の一室(あるいは二三室)を借りて、倉庫兼事務所にしたのであろうか。そうして、その購入した『モリソン文庫』の数多の整理その他を、「支那を中心とした東洋の文書」の権威である石田に、依頼したのではないか。(以上の事は、もとより、愚鈍な私の臆測である。)
もし私の臆測どおりであるとすれは、芥川と私が
芥川と石田が
石田は、芥川と用事の話をしている間に、二三度、となりの部屋に行って、二三冊(あるいは四五冊)の本を、かかえて来た。そのたびに、芥川と石田は、両方から本の上に顔をよせて、
やがて、芥川は、「どうもありがとう、」と云って、立ちあがった。
芥川は、その
さて、電車に乗ってから、芥川が口をきった。
「……
ここで、つぎの話にうつる前に、芥川のために、
猶、芥川の体質と病気についてしじゅう質問をうけて困っていた、芥川の親友であり主治医であった、下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で、「世間にイイ加減な臆説や誤りが流布されてゐる。また種々の尾鰭がついて、肺結核だの甚だしきは精神病者とまで伝へられてゐる、」と憤慨している。
結局、芥川の病気は、胃のアトニイ、痔疾(脱肛)、神経衰弱、――この三つであったのである。
[やぶちゃん注:「下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で」とあるが、標題は正確には「芥川龍之介氏のこと」で、昭和二(一九二七)年九月号『改造 芥川龍之介特輯』に所載され、後に昭和二十二(一九四七)年清文社刊の下島勲著「芥川龍之介の回想」に収められた。私の電子テクストがあるので参照されたい。
「胃のアトニイ」胃壁筋肉の緊張が低下、胃の機能が低下する状態を言う。先天的に全身的に筋肉が弱く痩せた人に多く起き、胃下垂自体が胃の機能低下を惹起することが多いために胃下垂と合併して発症することが多い。]
ついでに、下島の書いた文章の中に私の注意を引いたものが一つあるので、それについて、述べておく。それは、『
*
私は芥川氏の自殺の背景に多大の関係があるやうに書かれたり、喧伝せられてゐるS子夫人に対する彼の煩悶苦悩といふのは、時に病的ではなからうかと思はしめた神経の一つの現れで、その現れが婦人殊に有夫の人で而も知友などに関係ある対象だつただけに、比較的
*
私がわざわざこの長い文章を引用したのは、私がこの下島の説にほぼ同感であるからだ。
それから、私が、この文章を書き出してから、ときどき、(ほんのときどき、)不審に思ったのは、私は、芥川とナニかあるようなナニもないような噂をされている婦人は、たいてい、芥川から、『ナンの関係もないような女』として紹介せれるか、名前を聞かされるか、していたのに、この下島の文章に出てくる『S子夫人』の名だけは、芥川が、私に、一度も口にしたことがない事である。
この事は、こう書きながらも、やはり、不審に思われ、妙に思われるのである。
[やぶちゃん注:「S子夫人」は言わずもがな、秀しげ子。]
さて、私は、『東洋文庫』に一しょに行った時から、ずっと、芥川に、逢わなかった。
しかし、私は、自分の仕事に追われながらも、ときどき、芥川の事が、気になった。あの時、電車の中で、
ところが、『東洋文庫』に行ってから
ところが、その十月号の「中央公論」に出たのは前篇だけで、後篇は十一月号の[中央公論」に出た。そうして、両方で百枚ちかくであるから、芥川の小説としては幾らか長い方である。これは、簡単に荒筋を述べると、死にかかっている母(お律)と子等(
ところで、こういう日本の自然主義の作家が
しかし、この小説は、芥川が、大袈裟にいえば、作者として立ちなおる気で、書いたものであり、気負って書いたものであるから、いま述べたような欠点はあるが、実に
ところで、私は、この小説を、発表された当時に、読んで、一ばん気になったのは、作者が、この小説に出てくるいかなる人間にも、
ところで、話は別であるが、私は、この『お律と子等』 の後篇の終りの方に感じられる何ともいえぬ「陰気」さは、芥川が、この小説を書いた
芥川が『お律と子等』を書いたのは、さきに述べたように、二十九歳の
さて、『お律と子等』を失敗作であると思っていた、私は、芥川が、『東洋文庫』から帰りに、電車の中で、「もし失敗したら、別の手を打つつもりだ、」と云ったことに、期待した。それが、たぶん、その翌年(つまり、大正十年)の「中央公論」と「改造」の一月号に出た『山鴫』と『秋山図』であろう。
『山鴫』も、『秋山図』も、発表された当時、世評はわりによかったようである。
『秋山図』は、(これにに書いたような気がするが、)芥川のところに出入りしていた、支那文学に通じている、伊藤
[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」をはじめとする中国文学の翻案物を得意とした。
「『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである」作品の原典は清初の画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年 字・寿平 号・南田)の画論集「鷗香館集」補遺画跋に載る「記秋山圖始末」であるが、実際に芥川が参考披見した原拠は今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治十五(一八八二)年~昭和四十五(一九七〇)年 号・天彭:中国研究家・漢詩人)の編になる「東洋画論集成」の上巻(大正四(一九一五)年読画書院刊)所収の訓読文と考えられている(本記載は一部を翰林書房「芥川龍之介新事典」に拠った)。]
『山鳩』は、『秋山図』とくらべると、(「くらべると」である、)いくらかおもしろく、心にくいほど巧みなところもある。そうして、例によって、些細なところにも気をくばっている。それで、一と口に云うと、この作品は、気のきいた物語ではあるが、小説としては、やはり、物たりない。
けっきょく、私は、待ちかねていただけに、この二つの小説を読んで、かるい失望を感じた。そうして、寂しい気がした、これでは心細い、と思ったからである。しかし、又、芥川は、こんな事で、決してへたばる男ではない、と思った。
話がまったく変るが、(これも前に述べたことがあるかもしれないけれど、)大正十年の一月の末頃であったろうか、芥川と、神田の神保町の
[やぶちゃん注:ここまで読んでくると、宇野は作家の発表雑誌や飲食店・茶屋、職業、更には女性の容貌、人間の品性に至るまでの総てを殊更に(ある意味、偏執的に)格付け(そこには、時代背景を考慮するとしてもかなりの差別意識も入り込んでいることは疑いがない)することが好み(というのが失礼ならば趣味)であることがよく分かる。これが彼の本来の性格によるものか、それとも精神病後の人格変性によるものであるのかは定かではないが、[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―それは生じ得るのである。宇野の記載を読んでいて感じるのは、本書の中の大部分である芥川龍之介の回想はその殆どが、宇野が精神に異常をきたす以前の記憶であるわけだが、その当時感じた印象と記述時の印象が一八〇度転換しているケースが散見される。これは実際にそうであった(当時の宇野の思い違いであった)と感じさせる部分もあるが、中に有意な割合で何か感受者である宇野自身の脳の器質的変化によるものではないかと感じさせる部分が私には確かにあるからである(但し、精神病による病変であるからといってその差別性の責任が相殺されるとは私は思っていない)。]これはかなり奇異に見える(私は時に読んでいて不快感さえ覚える)ことは事実である。ここで言っておきたいのであるが、私は彼の差別語や差別表現に対して、本電子テクストの冒頭や最後に、如何にもな例の差別注記を附ける気はポリシーとして全くない。[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―私は、現在の出版界やネット上で、ただ同文の差別ママ注記を附ければ、それで差別がなくなるというような安易な免罪符的用法に対して強い違和感を抱くからである。私は差別注記を本気でやるのなら、どこが差別用語であり、どれが差別表現であり、それがどのような部類の差別であり、どのような人間がどう差別されるのか、ということを誰にも分かるように逐一解説せねば嘘だと思うからであり、そんなことを文学作品(それも過去の)に適応することは現実的に不可能だからである。]が、ここでそうした批判的視点を常に持って読者一人ひとりが彼の文章全体を読むべき必要性を「ここで一度だけ」指摘しておきたいのである。差別の解消の総ての核心は個々人の不断の内的省察に基づかねばならない。と私は思うからである。]
六畳ぐらいのうすぎたない部屋であった。そこで、注文した物が出る前に、芥川は、その時はなにか上幾嫌で、ほとんど一人で喋った。
「……君、われわれ都会人は、ふだん、一流の料理屋なんかに、行かないよ、菊池や久米などは一流の料理屋にあがるのが、
さて、注文した物がはこばれ出した時、芥川が、私に、自慢そうに、なにか字を書いた半紙を見せながら、例の鼻にかかる声で、「これ、ヘキドウが書いたんだよ、」と、云った。
見ると、細いくねくねした字で、『夜来の花』と書いてあった。「ヘキドウ」とは、小沢碧童という、新傾向の俳人である。
「うまいだろう、」と、芥川は、ニコニコしながら、云った。
「うむ、」と、私は、いった。『うむ』といったのは、私には、その字が、
ところが、大正十年の三月十三日に、芥川が、小穴にあてた手紙の中に、「……空谷老人入谷大哥の『夜来の花』を見て曰『不折なぞとは比へものに怒りませんな』と、」という文句がある。空谷すなわち下島 勲は書の名人であるから、この、『入谷大哥』が小沢碧童ならば、私が、碧童の書いた『夜来の花』を、芥川に、「うまいだろう、」と云って、見せられながら、下手だと思って、「うむ、」と生返事をした時、芥川は、何も云わなかったが、心の中では、大いに軽蔑したであろう、と思う。
こんな事を思って、ちょいと調べてみると、碧童は、
というような句を
こういう点で、芥川が文人とすれは、(いや、
[やぶちゃん注:「入谷の大哥」「小沢碧童」河碧梧桐門下の俳人小澤碧童(明治十四(一八八一)年~昭和十六(一九四一)年 本名、忠兵衛)のこと。「大哥」は「あにい」「あにき」と読む(芥川龍之介が親しくした友人の中でも十一歳年上の最年長であった)。ここに書かれた通り、芥川の第五作品集『夜来の花』(大正十(一九二一)年三月新潮社刊)の題簽をものしている。]
私はこの神保町の牛肉屋で、芥川と一しょに食事をしてから、二た
十八
私が芥川と一しょに旅行したのは、前に述べたように、二度である。二度だけである。その最初の旅行(大正九年の十一月下旬)の事は、この文章のはじめの方に、くわしく書きすぎるほど書いた。
ところが、二度目の時は、芥川が支那旅行に出る前であったという事、大阪に行ったという事――この
ところで、この
大正十年の二月の中頃であったか、芥川が、息を切らしながらやって来て、なにか
[やぶちゃん注:「大正十年の二月の中頃であったか」上巻の「一」では「大正十三年の二月の中頃」と誤認していたクレジットが、ここでは修正されて正しく示されている。再注すると、現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、これから宇野が訂正するように、この旅は大正十(一九二一)年二月二十日夜東京発、二十四日帰京であることが分かっている。
「大阪イ」は「一」と同様でママ。]
大阪に幾日か滞在した或る日、芥川にさそわれて、大阪毎日新聞社に、学芸部長をしていた
[やぶちゃん注:上巻の「一」ではギプスをはめている理由として薄田が脊椎カリエスであることを芥川は語っているが、上巻の注で示した通り、彼の病気は脊椎カリエスではなく、パーキンソン症候群であった。]
ここまで書いて、ふと、気がついて、芥川の書翰集を見ると、
さきに書いた芥川と私のかわした話だけで判断すれば、芥川と私が一しょに大阪へ出かけたのは、芥川が私をたずねてきた日から、早くて二三日のちか、遅けれは、四五日のちか、であろう、と、これを読む人も思うであろう、書く私も、そう思ったのである。
ところが、芥川が、その時、大阪に行く事になったのは、大阪から、(たぶん、大阪の毎日新聞社から、)電報で呼びよせられたからである。そうして、その電報は二月十九日につき、その電報には「十九日の晩に立て」と書いてあったらしいのである。
芥川は、この電報を見ると、いくらかあわてて、つぎのような手紙(あるいは葉書)を書いている。
*
大阪より電報参り唯今急に下阪仕る事と相成候間御約束の原稿[註―『往生絵巻』]その次の号へ御まはし下さるまじくや二十日までには如何なる事ありても出来致すまじく[下略]
*
これは二月十九日午後、小林憲雄[「国粋」という雑誌の編輯者]に宛てたものである。
*
急に下阪の為国粋の原稿は延期した裏絵だけ描いて国粋へ送つて頂きます[中略]君がこの端書を見る時僕は浜名湖
*
これも、やはり、十九日に、小穴に宛てたものである。
ところが、その翌日、(つまり、二十日、)芥川は、また、小穴にあてて、つぎのような便りを、出している。
*
言おくれ今夜発足同行は宇野耕右衛門二人共下戸故【①】や【②】はなし唯【③】ばかり
[やぶちゃん注:底本では【①】には盃の、【②】には御銚子の、【③】には蜜柑の、それぞれ芥川龍之介自筆の絵が描かれている。以下、該当書簡(岩波旧全集八五五書簡)の本文総てを画像で示す。
冒頭二首の短歌の「一游亭」は小穴隆一の俳号、「圓中」も小穴の別号で芥川はしばしば「圓中先生」と彼を呼称したようである。]
*
右の文句のうちの『耕右衛門』とは、私が大正八年の十月号の「改造」に出した『耕右衛門の改名』という小説の題名から、芥川が、勝手に、私につけた名前で、私の目にふれたのでは、小穴にあてた手紙に使っている。しかし、客観的にいえば、この
ところで、私は、こんど、これを読んで、芥川が私をたずねて来たのは、二月の十九日か
この事を知って、私は、自分の軽率さに、今更ながら、あきれた。そうして、私は、あの時、芥川が、あの不意の大阪ゆきに、私をさそったのは、深切でしたのか、退屈しのぎの道づれにしたのか、と、
しかし、結局、あれは、やっぱり、深切で誘ってくれたにちがいない、と、私は、思いかえすのである。というのは、あの時、芥川が大阪ゆきを誘いに来た時、私が「行きたいけど金ない、」と云うと、芥川は、言下に、「行けよ、金は僕がもつから、……」と云ったが、その時、芥川は余分の金など持っていないらしかったからである、それから、大阪に行ってからも、毎日新聞社から金を取った様子がなかったからである。
ところで、この大阪ゆきから帰って、芥川が、三月二日に、薄田淳介に宛てて、支那旅行の費用について、質問したり、「御願い」したり、する手紙を書いているが、その手紙の大半はつぎのような
*
㈠ 旅費とは汽車、汽船、宿料 日当とはその
㈡ 上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり
㈢ 旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと
又次ぎの件御願ひします
㈠ 旅費並びに日当はまづ
㈡ 出発の日どりは十六日以後なら
*
この箇条書きは、言葉はおだやかであり、
つまり、この箇条書きをよく読めば、㈠、旅費と日当を別のものと「解釈」し、日当の中に宿料も入れなければ、貰う方の条件は二重三重によくなるように思われるし、㈡、上海までの切符を買ってもらえば、それだけの汽船賃が助かるし、という事になるかもしれない。が、それらは私の例の臆測であるとしても、或る男の説として、「上海から北京と又東京までぐるり
それから、この箇条書きの文章であるが、さきに述べたように、「日当中に宿料
[やぶちゃん注:ここでの宇野の指摘は極めて核心を突いている。則ち、「生活者」たる芥川龍之介という男は、想像を絶してなかなかに「したたか」である、ということだ。これは先に宇野が引いた『或阿呆の一生』のなかの『械』の、
彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。
という謂いを、我々が芥川の真実の告白として鵜呑みにしてはいけない、ということをも意味しているということに気づかねばならないのである。遺書に於いても、芥川龍之介はこの自死という土壇場でも新潮社との全集出版契約をけんもほろろに(『僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す』という身勝手甚だしい理由から)破棄している。私の「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通≪二〇〇八年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」を是非、参照されたい。]
ところで、ここで、私が奇特に感じ有り難く思うのは、
見ずや、若草
霞吐く野の末とほく、
あかぬ
側目もふらで路せくに、
ふりさけみれば、紫の
雲のあなたに日は落ちぬ。 『尼が紅』の内
[やぶちゃん注:「墾道」新たに切り開かれた道、新道のことで、題名「尼が紅」は、「夕焼け雲」のこと。本来は「天が紅」で、訛って「おまんが紅」、音の類似から「尼が紅」とも書く。]
とうたった『暮笛集』の詩人、薄田泣菫が、このような手紙を、なくさないで、取っておいてくれた事である。
さて、この芥川が薄田に宛てた手紙をよんで、私は、実は、はじめて、芥川にこういう性質もあった事を、知ったのであった。ところが、芥川が二月の中頃に、小穴に宛てた手紙の殆んど全部が『往生絵巻』のくわしい筋書であるのに、私は、一そう、目を見はった。つまり、
しかしたびたび云うが、こういう所があったために、芥川の小説が、窮屈になり、理づめになり、『自然』なところがなく、感情が
[やぶちゃん注:宇野の評は誤っている。芥川龍之介の作品には「ニュウアンス」は絶望的な意識の揺らぎとして非常に深く存していると私は思う。では、何故、宇野は芥川の作品は全く「ニュウアンスのない」ものばかりだ、というのか? それは宇野という生物の可視出来る波長域が、芥川という生物の持っている波長域よりも狹い、若しくは芥川龍之介の可視短波域(精神のマイナー域)の「色」が宇野には見えないか、長波域へと大きくずれているからにほかならない。これは個人の持って生まれた人格の相違だから仕方がないと言うべきであり(これは実は後文で宇野自身も認めている)――寧ろ、宇野は人間愛を素直に抱きとめることの出来る生物であり――私は――私は芥川龍之介という種の亜種である故に――私には宇野が「色」として感じない芥川龍之介の短波域を、その明度の非常に低いグラデーションを、あらゆる作品の中に、ありありと「見る」ことが出来るのである。]
さて、この文章のはじめの方で、私は、『往生絵巻』の最後の「法師の屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐる、」というところを、「芥川一流のマヤカシの文句である、」と
ところが、やはり、この小説を、正宗白鳥が、「国粋」[註―大正十年四月号]で読んで、この白い蓮華のところを、「小説の結末を面白くするための思ひ附き」である、と評し、「芸術の上の面白づくの遊びではあるまいか、」と非難している。
すると、芥川は、この批評に対する自分の感想(というより意見)を述べた手紙を、正宗に出した。そうして、その手紙の中で、芥川は、あの白蓮のところは自信がある、というような文句(つまり、不服)を云っているそうである。
私は、この芥川の手紙は読んでいないが、芥川はこの手紙を向きになって書いたにちがいない、と思うのである。それに、この正宗の批評は、独立したものではなく、雑文の中に入れられたものであるから、そういう事もいくらか芥川の気にさわったのかもしれない。
[やぶちゃん注:ここで宇野が問題にしている書簡は、旧全集書簡番号一一六二の正宗白鳥宛大正十三(一九二四)年二月十二日附書簡(田端発信)を指す。以下に、岩波版旧全集より、当該書簡を引用しておく(繰り返し記号「〱」は正字に直した)。
冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生繪卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中から是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ししい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今で後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます最後に國枠などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首
二月十二二位 芥川龍之介
正宗白鳥樣 侍史
なお、「往生絵巻」初出とこの書簡との間には、二年弱の大きなタイム・ラグがある点に注意されたい。]
ところで、この小説は、枚数も十四五枚のものであり、芥川としては割りに早く書いたものであろう、芥川の作品としてもすぐれたものではない。しかし、はじめて雑誌で読んだ時は、やはり、最後の白蓮華が気になった程度であったが、こんど、何度目かで、読みなおしてみて、私は、ふと、芥川龍之介が五位の入道のような気がして、これは
ここで話がちょっと
[やぶちゃん注:「現代日本文学全集」の割注にある『芥川龍之介全集』は正確には同全集の一巻であるから「芥川龍之介集」とすべきところ。同全集第三十篇で芥川の死後、昭和三(一九二六)年一月に刊行されている。]
さて、私が見たのは、
『里見篇』――広い庭の一隅らしい所に、一
さて、晩写が開始されると、まず、この『旋回棒』(仮名)がうっる。『旋回捧』が写ると殆んど同時に、
[やぶちゃん注:「ホオム・スパン」 “homespun”(ホームスパン:一単語であるから中黒は不要)は、手紡ぎの太い紡毛糸を用いて手織りにした(現在の手織に似せて機械織りしたものも含む)素朴な印象と肌触りを与える毛織物。]
『廣津篇』――画面の左寄り七
廣津は、里見とまったく反対で、画面にあらわれた時から、既に、うつされる事を気にしているように思われた。それに、おどおどしでいるように見えたのは、廣津が、無類の親孝行な人であるばかりでなく、人および芸術家としての柳浪を心から尊敬していたからであろう。ところで、縁側に横むきに腰をかけた廣津が、はじめは殆んど
いよいよ『芥川篇』――画面ほとんど一ぱいが、
さて、映画が開始されると、すぐ、この陰気な暗い風景があらわれ、「おや、」と思っている
やがて、屋根の上に全身をあらわした芥川は、ぱっと両手を左右に開いたかと思うと、目にもとまらぬ早さで、枯れ木のような樹木の枝に飛びつき、両手で枝をにぎると殆んど同時に、
[やぶちゃん注:この宇野の記憶は錯誤がある(滝井の指摘もそこであろうと推測する)。興味深いことに、この宇野の宇野の記憶は当該映像を逆回しにして述べているのである(これは病跡学的な見地からいつか検討してみたいと思っている)。以下、私なりに当該映像を説明してみる(以上の三篇を私はすべて、かつて芥川龍之介の文学展で実見しているが、一部の記憶がアヤフヤではある。一部実見可能なネット上の画像――1シークエンス3ショット――を元に説明してみる)。撮影場所は田端の書斎の前庭である(画面を右下から左上へ斜めに区切っている庭木。この庭木は縁側に恐るべき直近で生えており、配置は如何にもせせこましい。恐らく書斎の増築によってこうなったものと推測される)。
〇庭に降りている(若しくは降りてくる――その前にカメラがもっと引いていて手前に多加志のものと思われる三輪車のあるスチールが写真として残るから、この前があるかも知れない)芥川龍之介、その向かって(以後、総て観客から見て)やや左背後に小学校の制服を着た長男比呂志が麦藁帽子を被って立っており、しゃがんだ芥川のすぐ左側には前掛けを附けた次男多加志が頻りに目や顔を擦りながら立っている。
比呂志が自分の被っていた麦藁帽子を取って父龍之介の頭に被せる。
それを芥川は左手で自分の頭に落ち着かせる。
その後、三人は一時、スナップぽくカメラの方に視線を送る(この時、龍之介は少し笑ったように見える)。
〇直後にその場所のままに、しゃがんだ麦藁帽子を被った龍之介の胸部上から頭部がアップにされる。
龍之介、右手で両切り煙草を出して右の口に加えると、マッチで火を点け、やや眉間にしわを寄せて、六回ほど、銜えたままで、すぱすぱと煙を吹く。五回目で右手で口中央へ、六回目で反対側の左口端へと煙草を銜え直す。
〇カメラは下がって、縁側中央に座る多加志が、木を見上げており、比呂志が既に木に登っている。
右手の木の根元には龍之介が立ってやはり比呂志を見守っている。
比呂志は悠々と登り切って、軒の上を右手に歩いて消える(ここは比呂志の足元のみ)。
龍之介、比呂志が登り切って、軒に移るのとほぼ同時に、多加志のいる前の沓脱石に立って木に攀じ登る(この時、芥川龍之介が股引足首まである股引を穿いているのが分かる)。
木の高みで両手を左右の枝に添え、カメラに向かって一種の見得を切って立つ(その前から、カメラがティルト・アップするため、急に光量が過剰になって、表情などはよく見えない。その後、比呂志と同じく、画面右手に軒を歩いて姿を消す。
この謂わば、円本全集販売促進用のプモーション・ヴィデオは個人ブログ「神保町系オタオタ日記」の「円本全集の広告合戦と久米正雄監督の映画」などによれば、三十五ミリで撮影されたもので、正式な名称は「現代日本文学巡礼」、コンセプトは『諸作家の日常生活を映画に撮り、全国各地の文藝講演会で上映するという企画』で、改造社社員の水島治男(後に起こる有名な言論弾圧である横浜事件で逮捕された出版人)が『文学青年に仕立てられ、各作家を訪問するという趣向で』、久米正雄が監督、出演は挙げられている里見弴・廣津柳浪・和郎父子・芥川龍之介以外に徳田秋聲、近松秋江、上司小剣、小山内薫、佐藤春夫、武者小路実篤などが出演した、とある(現在は「こおりやま文学の森資料館」が所蔵)。なお、「この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う」とあるが、複数の記載から、芥川龍之介の撮影は宇野の言う通り、昭和二(一九二七)年六月に行われたと推定される。正に芥川龍之介自死の一ヶ月か一ヶ月半程前の撮影ということになる(但し、現在の芥川龍之介の年譜には記載がない)。]
ところで、私は、この映画で、芥川が、屋根の上に全身をあらわした時、
さて、木にのぼり、あらい網の目のように木の枝が交錯している
[やぶちゃん注:「獰悪」は「どうあく」と読み、性質や容貌が凶悪で荒々しいこと。
宇野のこの映像の芥川龍之介の描写はやや大袈裟ながら、正しい。私の友人でも、複数の者が、この芥川の映像は気持ちが悪い、と言う。確かに、煙草を吸うシーンの表情や樹上の見得のシーン――というより、何か、虚空を茫然と見つめて立ち尽くすシーン――には、一種の鬼気迫るものを感じずにはおかないものである。]
ところで、私がこのような事をながながと述べたのは、私は、この映画を見た時、
[やぶちゃん注:あの映像と「往生絵巻」のラスト・シーンを結びつけた宇野のそれは恐るべき慧眼である。]
しかし、前に書いたかと思うが、私は、この『往生絵巻』を雑誌で読んだ時は、眉をひそめたのである。私が、こういう、簡単にいえば、厭世的な小説を、
ところが、これは、やはり、私の愚鈍のためで、(それに、性質がまったく違うからでもあろう、)
いずれにしても、芥川は、私には、一
芥川が門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日である。ところが、芥川は、上海につくと
[やぶちゃん注:「門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日」とあるが、正しくは三月二十八日である。上海到着は三十日午後、四月一日には上海の里見病院に入院、退院は同月二十三日。この辺りの顛末は、私の電子テクスト「上海游記」及び私の注をご覧戴きたい。
「乾性肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。]
前にもたびたび書いたように、芥川は、もともと、蒲柳の質であった、というより、病身であった、つまり、
ところで、この支那旅行は、芥川が、かねて望んでいたものであるが、創作のユキヅマリを打開するためでもあったのではないか。しかし、又、この支那旅行は、病身な芥川には、ずいぶん無理であったらしい。下島 勲も、この事について、「支那視察に行かれたときは、感冒後の気管支
[やぶちゃん注:引用は下島勲の「芥川龍之介氏のこと」によるものである。
「気管支
この無理がたたって、芥川は、支那旅行から帰ると、すく持病の胃病と痔疾と神経衰弱に、なやまされている。(ここに「持病の痔疾」と書いたのは誤りである、というのは、芥川がその
[やぶちゃん注:「阿修羅百臂」旧闘争神である阿修羅は知られた造形は三面六臂であるが、この阿修羅が百本の腕で、それぞれに刀を持って、その百本を肛門に一斉に突き立てたと思われるような痛み、という諧謔(本人には諧謔どころではないのだが)である。]
さて、幾度も云うが、支那旅行のために、芥川は、健康をますます
ところで、芥川が支那旅行から帰った
[やぶちゃん注:「芥川が支那旅行から帰った月日は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう」現在の年譜上の知見よれば、芥川龍之介の帰国は七月十七日頃(何故か現在でも明確でない)である。]
芥川は、十一月の二十日に、薄田にあてた手紙のなかに、「支那旅行[註―『支那游記』]の為文債をのばして行つたのとその後
[やぶちゃん注:「文債」は「ぶんさい」と読み、締切りまでに完成出来ない原稿をいうが、どうもこれは、夏目漱石の造語である可能性が高い(そもそもこの意味内容自体が近代的である。)。岩波旧全集書簡番号八四三、小宮豊隆宛明治四十(一九〇七)年十二月十六日附書簡に、
文債に籠る冬の日短かゝり
という漱石の句がある。因みに、同全集の第十七巻「索引」の語句・次項索引にも見出しとして「文債」はない。]
この手紙の中の、「新年号を退治する」とは、「新年号の小説を書きあげる」という程の意味である。それから、『十一月二十四日』頃から新年号の小説を幾つか書く、というのは、その時分の諸雑誌の新年号の小説のシメキリはたいてい十二月の十五六日であったからだ。(『今昔の感』という句があるが、新年号の諸雑誌⦅娯楽雑誌と婦人子供雑誌はいつの
さて、芥川は、その時の新年号には、(つまり、大正十一年の一月号の雑誌には、)『将軍』(「改造」)、『藪の中』(「新潮」)、『俊寛』(「中央公論」)、『神神の微笑』(「新小説」)の四篇を、発表している。これで見ると、さきに引いた芥川の手紙の中の言葉を本当とすれは、芥川は、十一月二十五六日から十二月十五六日までの
しかし、これは、これだけ云えば、見事なように思われるけれど、この四篇の小説の中で増しなのは『藪の中』だけで、『将軍』は、まあまあというところで、思いつきだけの物であり、『俊寛』は失敗作であり、『神神の徴笑』も
これらの事は
ここで、私は、腕をくんで、考える。――極めて大ざっばな考えではあるが、支那旅行は、芥川の短かい一生の中の、もっとも重大な
それから、さきに述べたように、芥川が支那旅行に出る頃、芥川の芸術がユキヅマリになりつつあった。かぞえ
さて、私は
その大正十三年以後の小説の中で、芥川の小説らしくない、と云いながら、評判のよかった、『一塊の土』と『トロッコ』は、さきに述べたように、他人の作品を焼き直した物であり、『庭』というちょっとした味のある小品は小穴から聞いた話を
私は、これもたびたび述べたが、芥川の初期(と中期)のいわゆる芥川らしい小説は、もとより、私などにはとうてい書けない物であるかち、一と
ところが、心境風の小説は、肌が合うので、おおかた、感心し、中には、いたく心を打たれる物があった、いや、心を打たれる物がたくさんあった。しかし、それらの小説や小品の多くは、いたく心を打たれながら、あまりに痛まし過ぎたり陰気すぎたり、中にはほんの少し妖気のようなものが
結局、私は、『歯車』などをも含めて、芥川の小説は、一般に評判のよい、晩年の心境物(と身辺を書いた物)より、初期(と中期)の芥川らしい小説の方を買うのである。もとより、私も晩年の心境物(と身辺を書いた物)は大へん
十九
これから述べる事は、前に、或る長篇小説の中に、一つの挿話として、(
大正十五年の十一月の末頃あったかと思う。私は、その二三箇月前から、神経衰弱にかかり、その上、家庭の内と外にかなり厄介な事件などがあったりして、とかく気もちが落ちつかなかった。それに、私も、その頃、自分の仕事にユキヅマリを感じていたからでもある。それで、その十一月の末頃、気をはらすために、母をつれて、(母と一しょに、)箱根に出かけた。そうして、私たちは、箱根の底倉にとまり、熱海にまわって、伊豆山の熱海ホテルにとまった。(そこで、新婚旅行で来でいた、片岡鉄兵夫妻に逢った。「日清戦争の
[やぶちゃん注:この宇野の鵠沼訪問は新全集宮坂覺氏の年譜によれば、同年十一月二十七日のことである。]
そこで、私は、急に芥川逢いたくなったので、母にその事を話し、母と汽車のなかでわかれ、(母はそのまま汽車で東京に帰ることにして、)藤沢で、おりた。芥川とは、ずっと前に書いたように、その頃、雑誌「新潮」の主催で毎月ひらかれた月評会の帰りに、浅草の茶屋に一しょに行った時に、逢ったが、その時は、芥川が愛していた、私もよく知っている、小亀という芸者が傍にいたので、十分に話ができなかった、それで、したしく逢うのは、五年ぶりぐらいであった。それで、私は、芥川に逢うことが、心がおどるほど、うれしく、なつかしかった。
さて、鵠沼で電車をおりた時は、もううす
やっと私が芥川の家の前にたどりついた時は、日はすっかり暮れて、あたりは
その家は、
私が、入り口の
やがて、おりて来た芥川は、
前に述べたように、あたりは
(私は、その頃、⦅十一月頃⦆芥川が、佐佐木にあてた手紙の中に、「羊羹をありがたう(羊羹と、書くと何だか羊羹に毛の生えてゐる気がしてならぬ)」とか、「何しろふと出合つた婆さんの顔が死んだお袋の顔に見えたりするので困る、」とか、斎藤茂吉にあてた手紙の中に「先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候、」とか、いうような事を知らなかったのである。⦅芥川の母は、芥川の生後間もなく、発狂し、発狂したまま死んだのである。⦆それから、芥川が、やはり、その頃、部屋の
[やぶちゃん注:宇野に、宇野自身の当時の状態への特殊なバイアスがかかっていることが、実はここで分かる。実はここに引用されている「羊羹」云々の佐佐木茂索宛書簡は宇野の訪問した翌日十一月二十八日附で書かれた書簡(旧全集書簡番号一五三一)で、その掉尾には正に訪問した宇野のことが以下のように書かれているからである(引用は旧全集による)。
昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた。以上
宇野が「羊羹」の「異常」な叙述(これを私は「異常」とは思わないし――私も「羊羹」の「羹」の児は不快である――一種の文字に対するゲシュタルト崩壊に類するものとしても尋常である)を引きながら、そうして正に宇野の訪問日時を特定しているこの手紙の、肝心の自分への言及を引用しなかったのは、宇野が敢えてこれを示したくなかったからだと私は考えるのである。宇野はこの時の芥川龍之介の鬼気迫る異様な様を強く読者に印象付けておきながら、その実、実はその時の自分も芥川龍之介によって「尋常でない」「何だか要領を得ない事を云」って、ふらっと「歸つて行」った変な状態であったと、認識されていたことを読者には完全に隠蔽しているのである。私は宇野の精神の変調はこの時、既に始まっていたのかも知れないと、逆に踏むのである。そうしてそれを宇野は断固として抹消否定しようとしているのではなかろうか。]
いずれにしても、私は、まったく久しぶりで、逢うのが楽しみで、たずねたのに、
「やあ、」と、聞きなれた、癖の、鼻にかかったような声をかけられると、たちまち、懐しさの情が、私の心に、あふれた。「やあ、よく来てくれたね、君、ごはん、
やがて、芥川は、すぐ、
さて、東家の座敷にとおると、芥川は、
そうして、久しぶりで、芥川と向こう前に
さて、芥川は、
「……君、これだよ、」と云いながら、右の足を、一
それは、茶色の、なにかの
私は、それを、
やがて、女中が注文したものを持ってきたので、二人は、数年ぶりで、一しょに食事をした。それは実に楽しかった。
しかし、食卓をはさんで、さしむかいに、食事をしながら、いろいろな話をしている
それから、長い、ふさふさしていた、
しかし、芥川は、そのように、肉体が、痛わしいほど衰えているのに、気力はそれほど衰えていないらしく、ぽつりぽつりと、言葉をくぎりながら、昔ながらの、おちついた、口調で、文学の、(おもに小説の、)話をした。そうして、その小説の話がとぎれた時、芥川は、いきなり、
「僕は、……めずらしいだろう、……新年号の雑誌を、
私は、これを聞いて、その
「それは、よかったね、」と、心からよろこんで、云った。
しかし、こう云ってから、私は、すぐ、この『半分ぐらい』というのは、
すると、芥川は、にわかに、真剣な顔になって、
「君は、書いたか、」と、まるで、
と「うむ、」と、私は、そこで、ちょぅと返事につまった、というのは、私も、芥川ほどひどくはなかったが、神経衰弱気味に、(あるいは、半分ぐらい神経衰弱に、)なっていたからである、それで、私も、新年号の雑誌の小説を、やはり、三つぐらい、引き受けていて、その中の一つぐらいは書くつもりであったが、その
そこで、芥川は、急に緊張した顔つきになって、
「僕も、やっぱり、『中央公論』だけは、出すつもりだ、」と、云った。
「ぜひ、書けよ。」
すると、芥川は、しばらくして、こんどは、妙に、声をひそめて、
「君、……君も、ほかは
(ところで、芥川が、この時、何度も、くりかえし、「中央公論」だけに、とか、「中央公論」だけは、とか、云ったのは、どういう訳であるか。――それについて臆測すると、つぎに述べるような次第ではないか、と思う。)
一代の名編輯者と称せられた、滝田樗陰(哲太郎)は、「中央公論」の主幹であったが、短かい一生[四十四歳で死去]の間に、創作(小説、戯曲)の権威と価値を広く社会化した上に、新進作家を見出だして、世に出す事に苦心をするとともに、非常な喜びを感じた。そうして、滝田は、原稿をたのむ時は、(自動車のない時分であったから、)人力車で走った、そうして、いそぐために、常に二人びきの人力車に乗った。それで、大正時代は、「中央公論」は、作家の、『登竜門』であり、『檜舞台』である、と云われた。そうして芥川や「新思潮」(醍削第)の同人の幾人かの憧憬の
[やぶちゃん注:因みに伝説の名編集長滝田樗陰(明治十五(一八八二)年~大正十四(一九二五)年)は、この話柄の時制にあっては前年に鬼籍に入っていた。編集長を継いだのが文中に現れる高野敬録である。
菊池寛の逸話については、菊池自身が『文藝春秋』に連載した「半自叙伝」の中で、次のように記している(昭和四年十二月連載分より。引用は『honya.co.jp「菊池寛アーカイブ」編集部』によるテクストをコピー・ペーストした)
「大島が出来る話」と一緒に「新時代」という雑誌に書いた「若杉裁判長」というのも好評だった。この頃の私は、新進作家として旭日昇天の形で、世の中に出て行った。私は、その頃、夏目漱石氏の家と、一町とはなれていない南榎町の陋巷に住んでいた。そこは、九円五十銭位の家賃で、男便所のない家であるから、どんな汚い家だか想像ができる。半間ぐらいの入口をはいった路地裏であった。あるとき、時事新報社から帰って来ると、その路地の入口に、自家用の人力車が止っていた。その頃の自家用人力車は現在の自家用自動車と匹敵していると思う。私は(ああ「中央公論」の滝田氏だな)と直覚した。その頃の滝田氏の文壇における勢威は、ローマ法王の半分ぐらいはあったと思う。ことに、その自家用の人力車は有名であった。私は、家へ入って見ると、滝田氏ではなかったが、滝田氏の命を受けた高野敬録氏であった。この頃、「中央公論」へ書くことは、中堅作家としての登録をすますようなものだったから、私はこのときの嬉しさを今でも忘れない。]
ああ、「中央公論」――『檜舞台』、というような考えは、この頃、菊池ばかりでなく、芥川にも、誰にも、あったのである。そうして、それを誇張して云うと、その頃は、芥川ばかりでなく、大正の初め頃から中頃までに文壇に出た作家たちのうちの幾人かの作家の
それはそれとして、そのような考えが、芥川に、(芥川のような人に、)甚だしかったらしいのである。それは次ぎのような事があるからである。
どういう
さて、食事がすんだ頃、時計を見ると、まだ八時半ぐらいであったから、私は、ふと、これから、鎌倉の坂井をたずねて、何年ぶりかで、(そうだ、もう七八年ぶりになる、)坂井に案内してもらって、横須賀に行って、「
しかし、私は、もとより、そんな事は明かさないで、芥川に、唯、「まだ時間が早いから、これから、鎌倉の友だちを訊問して、……その男は海軍士官だから、その男に案内さして、今晩は、横須賀に、とまって、……」と云った。すると、芥川は、ニヤニヤ笑いながら、
「……横須賀は、『苦の世界』の思い出の地だね、」と、云った。
「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」
「ふん、……あ、自動車を呼ばせようか。」
「ああ、たのむよ。」
やがて、自動車が来た。
そこで、私は、芥川と東家の女中たちに送られて、玄関の前に
私は、思わず、口の中で、いや、声に出して、アッと、叫んだ。夜露でガラスが濡れていたせいか、私の目がうるんでいたのか、その芥川の顔が、ゆがんでいるように、泣いているように、見えたからである。
[やぶちゃん注:「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」は、上巻の「十四」で、宇野が体験したエピソード、
さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様と同業の、小説家がいるよ、」と云った。
「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。
私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、歴れっきとした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。
それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。
を語り出そうとしたものであるが、ここは偶然にも同じ宇野の「ふん、」を受けるかのように、芥川龍之介が「ふん、」で遮ったところ、絶妙の照応(これは宇野の作為ではあるまい)であることに気がつく。]
二十
その翌年(つまり、昭和二年)の「中央公論」の一月号には、芥川の小説『玄鶴山房』は、その「一」というのが、四百字づめの原稿紙でいうと、一枚半ぐらいしか出なかった。私は、それを見て、大へん失望した。が、そういう私は、『軍港行進曲』という小説が予定の五分の一ぐらいしか書けなかったので、それを二月号に延ばしてもらったので、結局、芥川との約束(のようなもの)を破って、「中央公論」の一月号には、とうとう、小説が出せなかったのである。しかし、そんな事は棚に上げて、私は、その芥川の『玄鶴山房』の「一」の終りの、
*
彼等は二人とも笑ひながら、
*
という一節を読みおわって、「あいかわらず気どったものだなあ、」と、思った。しかし、これからどういう事を書くのかわからないが、この十
ここで、又、芥川の書翰をしらべてみると、大正十五年の十二月のところで、十六日に「中央公論」編輯者の高野敬録[高野はたしか編集長であった]に宛てた手紙の中に、「昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バガの如くなりて書けず、少々われながら
それから、この手紙の中に「斎藤さんにも相すまざる事になり、」とあるのは、芥川が、眠れなかったり、痔の痛みに堪えられなくなったり、する時に必要な薬を、しばしば、斎藤茂吉から、都合をしてもらいながら、仕事がはかどらない事が、茂吉にすまない、という程の意味であろう。それは、芥川が、十二日に、鵠沼から、茂吉に出した、つぎのような手紙をよんでも、ほぼ察しられる。
*
冠省、まことに恐れ入り候へども、
*
私は、この手紙を読んで、驚歎した、――まず、『鴉片丸』などというものが初耳だったからだ、(鴉片は阿片であり、阿片は毒薬でもある、)その『鴉片丸』を、
私のような不眠症などに殆んど
ところで、この手紙は、よく読めば、(念を入れて読むと、)ここに述べたように、普通の人が思いも寄らないような、
それで、この手紙には、前に述べたような、文章だけを、無心に、読み流すと、堪えがたい
ところで、この手紙の中に「中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候、」とあるのは、これが『玄鶴山房』であれば、噓であるが、これは、手にはいりにくい薬で世話になっている上に、ときどき診察もしてもらう、脳病院長、医学博士、斎藤茂吉の気を安めるための、芥川の心づくしであろう。(晩年の芥川は、⦅死を決していたからでもあったか、⦆二一十五六歳の若さでありながら、いろいろな人に、こまかく心をくばり、いたく深切にした。――この事については
大正十五年は芥川が自ら命を絶った前の
大正十五年は、芥川は、一月の初めから、胃腸をわるくし、痔疾もひどくなり、神経衰弱もはげしくなる一方であった。それで、前にちょっと書いたように、芥川は、一月の中頃から二月の中頃を、湯河原に、湯治に、出かけた。それから、四月から十二月の末項まで、鵠沼で、暮らした。
この鵠沼にいた頃が芥川のみじかい生涯の
大正十五年は、芥川は、殆んど小説らしい小説を、書いていない、不断に堪えがたい病苦に
*
……近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顔ばかり大きく
……僕はここへ来る匇匇下痢し、二三日立つて又立てつづけに下痢し、[中略]唯今弟[註―これは、芥川夫人の弟、塚本八洲であるから義弟である]についてゐる看護婦について貰らひ、やつとパンや半熟の卵にありついた次第、[中略]一人で茫漠の海景を見ながら横につてゐるのは実に寂しい。[大正十五年六月二十日小穴隆一宛て]
……痔の手術をするにはもつと営養がよくならねば駄目のよし。[中略]兎に角唯今はひよろひよろしてゐます。[中略]何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらにカラシを
……唯今也寸志鵠沼にて
……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない気がする。ちよつと上京した
……今はどんな苦痛でも神経的苦痛ほど
……オピアムありがたく頂戴仕り候。胃腸は
[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの注記が、書簡文から改行されて、下インデントになっている。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。
「精神鑑定」この用法は誤りである。「精神科で診察」若しくは「斎藤先生に診察」と記すべきである。こうした誤用は現在でもしばしば見られるのでここで注記しておくが、精神科で診断を受けることを「精神鑑定」とは絶対に言わない。「精神鑑定」とは「司法精神鑑定」のことであり、刑法及び刑事訴訟法の規定による「刑事精神鑑定」と、民法及び民事訴訟法の規定による「民事精神鑑定」、更に精神保健福祉法の規定による「精神保健鑑定」の三種のみを「精神鑑定」と呼称する。因みに精神保健鑑定とは措置入院(自傷乃至他害の恐れのある精神障碍を有すると判断される者を強制入院させること)の可否を判定するために実施される精神鑑定を言う。ゆめゆめ芥川のように日常会話には用いられぬように。
「オピアム」“opium”。オピウムで前段で出て来た「鴉片丸」、アヘン製剤のこと。因みに、「アヘン」とはこの“opium”の中文音訳“a piàn”(アーピエン)の漢訳「阿片」を日本語読みしたもの。]
*
ざっと、こういう状態であったから、芥川は、この
『カルメン』 (四月 十日作)
『三つのなぜ』 (七月 十五日作)
『春の夜』 (八月 十二日作)
『点鬼簿』 (九月 九日作)
『悠々荘』 (十月二十六日作)
『彼』 (十一月 三日作)
『玄鶴山房』 (十二月十五日以後作)
数は七篇であるが、四百字づめの原稿紙でかぞえると、『カルメン』は六七枚であり、『三つのなぜ』は十枚ぐらいであり、『春の夜』は七八杖であり、『点鬼簿』は十三四枚であり、『悠々荘』は五六枚であり、『彼』は十七八枚であり、『玄鶴山房』の㈠は一枚半ほどであるから、全体で六十二三枚である。
さて、右の七篇の小説の中では、一般に、(いや、
ここで、又、ちょいと寄り
*
……まつたく寒くてやり切れない。お褒めに
*
(この手紙に書かれている事は
さて、この手紙の中の「あの話」とは『玄鶴山房』らしいか、これを褒めたとすると、半分ぐらい世辞である。その事は例によって後に書くことにして、私は、こんど、この手紙をよんで、芥川が、『春の夜』も、『玄鶴山房』も、「或る看護婦」から聞いた話を
(この看護婦は、さきに引いた、大正十五年六月二十日に、芥川が、鵠沼から、小穴に出した手紙の中に、「今弟についてゐる看護婦について貰らひ、……」と書いている、あの看護婦であろう。)
Nさんという看護婦が派出させられた家は、女隠居が一人と、その子の、雪さんという姉と清太郎という弟と、三人きりの家であったが、姉も弟も肺結核でへ弟の方が病気が
これは『春の夜』の大へん粗雑な荒筋であるが、この小説に書かれてある話は、あまりに暗く、不気味であり、書き方が冷たい。作者は、どの人物にも、同情を持っていないばかりでなく、悪意を抱いているようにさえ思われる。これは言い過ぎとしても、作者の気もちが暗い方へ暗い方へと向いているのが、この小説を、大正十五年の九月号の「文藝春秋」で、読んだ時、私は、気になって、『これはいかん、』と思ったものである。
*
……Nさんはこの
*
この『春の夜』の初めの方の一節を読んだ時、私は、
*
僕はこの話の終つた時、Nさんの顔を眺めたまま多少悪意のある言葉を出した。
「清太郎?――ですね。あなたはその人が
「ええ、好きでございました。」
*
というところを読んで、私は、索然とした、
『オチ』といえば、この小説と、巧拙は別として、構想がいくらか似ている、殆んど同じおもむきの『玄鶴山房』にも、話はまったく違うけれど、やはり、妙な、気になる、『オチ』は附いている。つぎのような一節である。
*
……彼は急に
*
この最後の大学生がリイプクネヒト(K. Liebknecht)の『追憶録』を読むところが、その頃「新潮」の呼び物になっていた『創作合評会』で、(青野季吉のほかにどういう人たちが出ていたか、私には不明、)問題になって、なにもリイプクネヒトでなくても、原敬でも、東郷大将でも、あるいは、「苦楽」[註―大正十二年頃、大阪のプラトン社から出した娯楽雑誌で、主幹は山内 薫であるが、編輯は直木三十五が川口松太郎を助手にしてやった]でも、よいのだ、などという意見が出た。
この合評の記事を読んで、芥川は、青野季吉に宛てて、次ぎのような手紙を、書いている。
(これは芥川が青野に唯一度だした手紙である。)
*
……「新潮」の合評会の記事を読み、ちよつとこの手紙を書く気になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦楽」でも善いと言ひました。しかし「苦楽」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外や世界へ触れさせたい気もちを持つてゐました。[中略]なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り。「桜の園」の中に新時代の大学生を点出し、それを二階から転げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑声を与へることは出来ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶録」の中にあるマルクスやエンゲルスと会つた時の記事の中に多少の嘆声を洩らしてゐます。わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企図は失敗だつたかもしれません。少くとも合評会の諸君には尊台を
*
この手紙には芥川の八
さて、この芥川の手紙を読んで、青野は、手紙の返事は出さないで、『芥川龍之介と新時代』という評論を書いている。つぎに、それを抜き書きする。
*
……『玄鶴山房』の中にとぢ込められた悲劇の終りに、広い世間、それも動的な社会の
*
この青野の論は、これだけでも
それから、芥川の手紙の中の、「その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」とか、「わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです、」とか、云うのは、これ
例の「新潮」が催した『芥川龍之介研究』(座談会)で、上司小剣が、湯河原で、芥川と逢った時のことを回想して、「社会主義の話、無政府主義の話などが出て、ちよつと
[やぶちゃん注:「『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)」は、モリスが一八九〇年に刊行した社会主義化した未来のロンドンを舞台とする一種のファンタジー小説。「ユートピアだより」と邦訳される。]
私は、一この記事を読んだ時、妙な興味を感じた。湯河原に滞在していた芥川が、おな土地の宿屋に小剣がとまっている事を聞くと、芥川流の好奇心をおこして、(ほんの
[やぶちゃん注:「堺 枯川」は社会主義者思想家堺利彦の号。]
(わたくし事であるが、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』は、
[やぶちゃん注:この布施延雄の訳本は「無何有郷だより」という題で、大正十四(一九二五)年十一月十八日至上社より刊行されている。]
さて、その翻訳を
[やぶちゃん注:「関 鑑子」(明治三十二(一八九九)年~昭和四十八(一九七三)年)は「せきあきこ」と読む。昭和十九(一九四八)年に結成された左翼系合唱団、中央合唱団の創立者。因みに、私の父はこの合唱団の団員であった。
「遊無何有之郷以処壙埌之野」底本では「無何有の郷に遊びて以て壙埌の野に処す」と訓ずるための返り点(一二点)が配されている。以上の訓読は「
天根游於殷陽、至蓼水之上、適遭無名人而問焉、曰、「請問爲天下。」。無名人曰、「去。汝鄙人也、何問之不豫也。予方將與造物者爲人、厭則又乘夫莽眇之鳥、以出六極之外、而游無何有之鄉、以處壙埌之野。汝又何暇以治天下感予之心爲。」又複問、無名人曰。「汝游心於淡、合氣於漠、順物自然而無容私焉、而天下治矣。」。
〇やぶちゃんの書き下し文
天根、殷陽に遊び、
〇やぶちゃん現代語訳
天根なる者、殷陽の地に遊び、
「どうか、天下を治める
と。無名人は答えて言った、
「去れ! 汚らわしき俗人よ。不快な問をしよって! 儂は今、造物主を友として遊んでおる。それに飽いたら、あの
と。しかし尚も天根は最初の問いを繰り返した。されば、無名人は答えた、
「一切を捨てて心を恬淡無欲無知無心の境地に遊ばせ、生命の気を空漠虚空静寂無限に共時させ、万物流転無為自然の理に従って一切の己れを差し挟むことが無とならば――自ずと天下は治まる――。」
と。
「無為優游」「優游」はゆったりしていること、伸び伸びとしてこせつかないことの意。一切の人為を排して悠然と遊ぶこと。]
(『無何有』といえば、『万葉集』にも、「心をし無何有のさとに置きたらば
[やぶちゃん注:この歌は「万葉集」巻十六に詠み人知らずで載る三八五一番歌で、一般には、
心をし
の表記。その意は、
この心を、正しく何の作為もない無何有の境地においておくことが出来たなら――仙人の住むという
といった感じか。「藐姑射の山」はやはり「荘子」の「逍遙遊篇」の三章に現れる仙山。但し、これは本来は「
つまり、私のような者でも、一方では、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、ランボオ、その他のいわゆる頽廃派の詩人たちの詩を読みながら、他方では、いま述べたように、ウィリアム・モリスの小説(さきに書いた、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』のほかに、これも、社会主義の宣伝のために書いたような『ジョン・ボオルの夢』という小説など)や、クロボトキンの、『ロシア文学の理想と現実』[これは伊東整の名訳がある]は、もとより『一革命家の思い出』、その他や、芥川が読んだと云うリイプクネヒトの、『追憶録』と、『新世界への洞察』や、それに類する本を、無方針に、手当り次第に、読んだ。まったく『
[やぶちゃん注:「ジョン・ボオルの夢」“A Dream of John Ball”(ジョン・ボールの夢)は、モリスがワット・タイラーの乱を題材にした一八八八年刊行の小説。]
つまり、私のような語学のできない者でもそうであるから、語学の方でも秀才であった芥川は、おなじ『手当り次第』でも、このはかに、レエニン、トロツキイ、カウツキイ、その他のものをも読んでいたにちがいないのである。私が、或る時、このような話が出た時、「
[やぶちゃん注:「カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』」マルクス主義の政治理論家カウツキーの“Thomas More and his Utopia”は一八八八年の刊行。]
私は、今、ふと、思い浮かべた、芥川が読んだと云う、ウィリアム・モリスの『ニュウズ・フロム・ノオウェア』も、『ジョン・ボオルの夢』も、両方とも、社会主義の宣伝のために書かれたものであるが、形式は美しい物語であり、殊に『ジョン・ボウルの夢』などは、ところどころ、詩がはさまれている、これは、もとより、モリスが根が詩人であるからであろうが、私などは、まず、モリスの『詩』に心を引かれたのであろう、と。
ところで、卒業論文に、『ウィリアム・モリス研究』を書いた芥川は、(芥川も、)「詩人としてのモリスからやり出し、それから、社会改良家としてのモリスに及び、全体のモリスの研究をやるつもりだったが、だんだん時間がなくなってしまって、……」と久米が述べているから、芥川の『ウィリアム・モリス研究』はおそらく詩人としてのモリスだけを論じたものであろう。
[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒業論文『ウィリアム・モリス研究』は、関東大震災で焼失し、残念ながら我々はそれを読むことが出来ない。]
ところで、芥川が、もっとも興味を持ったらしいモリスは、すぐれた詩人であり、たくみな美術工芸家であり、ラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、『玄鶴山房』の終りに使ったリイプクネヒトは、社会主義者であり、ジャアナリストであり、その著書を読んだカウツキイは社会主義者であり、トロツキイは、革命運動家であり、時事評論家であり、文芸批評家であるが、この人たちは、
さきに述べた「新潮」主催の座談会『芥川龍之介研究』で、上司小剣が、芥川を「モリスとどこか似てゐやしないかといふやうな気がする、」と云ったり、「モリスはアナアキズムの詩人だから、」と云ったり、しているのは、
[やぶちゃん注:「白柳秀湖」上巻の「八」で既出であるが、ここで注しておくと、白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ 明治十七(一八八四)年~昭和二十五(一九五〇)年)は小説家・社会評論家・歴史家。早稲田大学哲学科在学中から堺利彦の影響を受け、社会主義活動を支援、明治四十(一九〇七)年に隆文館編集記者となり、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。明治四十三(一九一〇)年の大逆事件以後は社会主義思想や文学活動から離れ、社会評論や歴史研究に従事した(以上はウィキの「白柳秀湖」に拠った)。]
さて、湯河原の或る宿屋に、芥川が、
こういう芥川が、突然、湯河原の或る宿屋に、こういう上司を、たずねて、社会主義の話や無政府主義の話などをしてから、カウツキイの話をした。ところが、その時の記録によると、上司は、「その時、
[やぶちゃん注:「カアカツプ」“An Inquiry into Socialism”等を書いたThomas Kirkup(一八四四年~一九一二年)であろう。]
ウィリアム・モリスは、多芸多才の人であるから、前に述べたよう町、すぐれた詩人でありながら、たくみな物語や小説も書き、その上、モリスは「美術工芸家としてもおどろくべき腕を持っていた。それで、モリスは、美術的な家具の製作や装飾意匠に努力をした、つまり、ステインド・グラス、壁画、壁掛け、絨毯、それから、刺繡、
しかし、もしこういう話であれば、これは、芥川が、
芥川が、学生時代にモリスに心を引かれたのは、社会運動家(あるいは社会運動指導者)としてのモリスではなく、詩人(あるいは芸術家)としてのモリスである。これはさすがに賢明である、なぜなら、ウィリアム・モリスは、まず第一にラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、つぎに美術工芸家であり、それから、社会運動家であるからである。(余話であるが、芥川より五六歳も
前にもちょっと書いたように、芥川は、散文的なところもありながら、根は詩人であった。そうして、それに
*
冬とは云ひながら、
[やぶちゃん注:「潺湲」は現代仮名遣で「せんかん」で、水がさらさらと流れるさまを言う。「せんえん」とも読む。]
*
これは『芋粥』の初めの方の一節であるが、
これは、説明するまでもなく、唯きれいに書いてあるだけで、つまり、「修辞を巧みにし、美しく飾りたる」文章、というだけのものである。
*
……その
窓の中には尼が
*
これは、『六の宮の姫君』の
私は、この小説を読む前に、『往生絵巻』を読んで、何ともいえぬ暗い気もちになった。そうして、この『六の宮の姫君』を読みおわった時は、「これは
「芥川が、……こんな小説を書いている、これはよくない、……」
『往生絵巻』は、ずっと前に述べたように、「国粋」という殆んど人の知らない雑誌に出た。『六の宮の姫君』も、やはり、「表現」という三流以下の雑誌に出た。私は、この二つの小説を、雑誌に出た時に、読んだのである。どんな雑誌に出た、(か、)というような事は、もとより、問題ではない。
ところで、『往生絵巻』は、これも
ここで、ちょっと著作年表をひらいて見ると、『芋粥』は大正五年八月の作であり、『往生絵巻』は大正十年四月の作であり、『六の宮の姫君』は大正十年八月の作である。そうして、『芋粥』も、『往生絵巻』も、『六の官の姫君』も、ついでに云えば、『好色』[大正十年作]も、『藪の中』[大正十一年一月作]も、みな、
そうして、芥川の、準処女作といわれている『羅生門』も、出世作となった『鼻』も、そのころ新進作家の初舞台といわれた「新小説」に出た『芋粥』も、みな、『今昔物語』の中の話を素材にしたものである。それから、芥川は、『鼻』と『芋粥』を書いた
それで、芥川の『王朝物』と称される作品は、初めは、物珍しかったのと、ちょいと奇抜な書き方がしてあったのと、
ところで、おなじ『今昔物語』から素材を取ったものでも、原作の筋が殆んどそのまま取られているものでも、(原作の筋を殆んどそのまま取った物の方が多いけれど、それでも、)
そこで、
ところで、(ここでは、いわゆる『切支丹物』、については、わざと言及しない。
芥川は、『地獄変』でその頂上にのぼった。もっとも、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、『宇治拾遺物語』の第三と、『十訓抄』の第六と『古今著聞集』第十一の画図第四話などに依って書いたものであろう。つまり、芥川は、『地獄変』以後は、しだいに『今昔物語』の話に気乗りがしなくなり、そこから種を無理にあさるようになったのであろう。そうして、そういう状態で書かれたのが、『往生絵巻』であり、『六の宮の姫君』である。
たしか、『古今集』か
芥川の著作年表を見ると、昭和二年の一月号には、『悠々荘』、(「サンデー毎日」)、『彼』、(「女性」)、『彼(第二)』、(「新潮」)、『玄鶴山房(一)』、(「中央公論」)、とある。
昭和二年の一月号の雑誌が出た時分には、私は、前の年の十一月の末に、芥川が、鵠沼の東家で、「新年号の小説を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いた、」と、眉をつりあげて、云った時は、『眉唾物』だ、と思いながらも幾らか期待もしたが、その時分には、そんな事を忘れてしまっていた。しかし、「中央公論」に、『玄鶴山房』の㈠が、雑誌で、二ペイジ半ぐらいしか出ていないのを見て、私は、自分の小説が出来なかった事を
ところで、
しかしこんな憎まれ口のような事を書いてしまったが、これは、私が、その時の「サンデー毎日」を見ていなかった
*
ベルは
*
これは『悠々荘』の終りの方の一節であるが、「僕」という主人公より、読む者の方が「何か無気味」な感じがする。猶、この小説の終りに、特に、『鵠沼』と書いてあるが、鵠沼の芥川の住んでいた辺に、このような廃屋があったのであろうか。
[やぶちゃん注:私はかれこれ四十七、八年前、叔父が住んでいた鵠沼をしばしば訪れたが、私の記憶の中に、正にこんな風な廃屋が実際にあったのを覚えている。]
*
棕櫚の木はつい硝子窓の
*
これは『彼』の中の一節である。
こういう事を、骨と皮のようになった芥川が、あの鵠沼の
大正十三年の初め頃からますます健康のわるくなっていた芥川は、しだいに創作力もおとろえて来た、得意であった歴史物の種も尽きて来た。
[やぶちゃん注:よく見ると、ここは見開き右側のページの終行ながら、次が実は一行空いているのが分かった(一頁行数を数えて判明)。]
大正十三年の一月に芥川が書いた『一塊の土』は、(これもずっと前に述べたが、私はこの小説を「新潮」で読んだ時、「これは、おかしい、」と頸をひねった、「これは、芥川の小説らしくない、芥川の小説ではない、」と思ったからである、ところが、)非常に評判がよかった、それは、久しぶりで、芥川が、芥川風ではないが、おもしろい小説を書いたからでもあるけれど、すぐれた作品であったからでもある。それで、この小説を、たしか、いつも悪口をいう正宗白鳥もほめ、片岡鉄兵などは、「一塊の土と朽ち果てる運命が恐ろしいはど冷やかに客観され、必然を追つて描写されてゐる、」と述べ、「或る意味で写実の極致であらう」とまで賞讃している。
それから、もう
私が、『一塊の土』にも、『トロツコ』にも、おなじような
ところで、『一塊の土』が好評を博していた頃、誰いうとなく、「あれは芥川が書いたものでは ない、」という噂が立った。しかし、もとより、噂であるから、それは、いつとなく、立ち
ところが、その頃から二十六七年後に、――昭和二十六年に、――「改造」[昭和二十六年]に出た、滝井草孝作の『純潔』という小説の中の、つぎにうつす一節を読んで、私は、『一塊の土』、その他 に対する真相のようなものを、知った。
*
……この時分、芥川さんは他人の材料で書く癖も、二三あつたやうで、大正十年三月に出た田舎風景の『トロッコ』、これは、芥川さんは、私に向いて「力石君から貰ひ受けた五六枚の原稿で、書き改めたのだが、力石君は『トロッコ』を出たのを読んで、ひどく
[やぶちゃん注:「力石君から貰ひ受けた」既に宇野は「十二」でこの件を仄めかしているが、原案提供者は
*
私などが今更いうまでもなく、この滝井の文章は、芥川の文学についての、実に貴重な文献である。殊に私には大へん為めになった。が、この滝井の文章の最後の「ふかい親し味があつたらこそその材料を採り上げて製作されたわけで」という文句は私には不可解である。
しかし、又、この滝井の文章を読むと、『トロッコ』の最後の、
*
良平は二十六の
*
という文句もわかり、ついでに、おなじ良平の出てくる『百合』[大正十一(一九二二)年]の最初の、
*
良平は或雑誌社に校正の朱筆を握つてゐる。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さへあれば、翻訳のマルクスを耽読してゐる。
*
という一節も思い出されて、ますます
ところで、さきに引いた滝井の文章の中に、芥川が、力石から、「材料を採り上げて、……」というところがあるが、ここだけ読むと、芥川は
前にしはしば述べたように、芥川は、(芥川だけに限らないが、特に、)素材がないと、殆んど物の書けない人であった。誇張して云うと、芥川は、素材の選択に成功したために、文壇に出たようなところさえある。そうして、その素材とは、思いうかぶままに、順序不同に、上げると、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『古今著聞集』、『古事談』、『十訓抄』、『古事記』、『平家物語』、それから、『聊斎志異』、それから、切支丹に関する諸文献、それから、ゴオゴリ、ストリンドベルヒ、メリメ、モウパッサン、フランス、シング、ブロウニング、ポオ、その他の小説や戯曲や詩、等、等、等、である。そうして、芥川は、これらの物を素材にして小説をつくる名人であったのである。
[やぶちゃん注:「ブロウニング」イギリスの詩人Robert Browning(ロバート・ブラウニング 一八一二年~一八八九年)のこと。]
ところが、これも先きに述べたとおり、これらの物から自分にむく素材を取りつくした時分から、芥川は、おもい病気にかかったのである。そうして、病気のために、芥川は、たといよい素材が見つかっても、得意の、構想を
芥川が、力石の五六枚の原稿を書き改めたり、力石の持っていた材料を「採り上げ」たり、したのは、そういう時分であった。しかし、芥川は、さきに述べたように、世に聞こえた東西古今[この『今』には、鷗外、漱石などがはいっている]の古典や名著から、結構をまなび」自分の気に入った素材を「採り上げ」て、名作と称せられた幾つかの小説を書いてきた。されば、芥川は、いわば無名の校正係の「五六枚の原稿」や『話』を、素材に、「採り上げ」るくらいの事は、何でもない事だ、と思っていたのであろう。しかし、こういう事は、私には、経験のない事であるから、よくわからない。
大正十一年の二月十六日に、芥川が、佐佐木茂索に宛てた手紙の中に、「今夜
骨っぽくて、痩せている、と云えば、この
[やぶちゃん注:「『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)」は巻二十九の第二十三の誤り。それにしても――宇野は『テエマが露骨に出すぎている』とし、「藪の中」を『テエマ小説』と一刀両断にして憚らないんだけど――宇野さんよ、じゃあ、「藪の中」の『露骨』『すぎる』真相と『テエマ』とやらも、ここで一気に語って欲しかった――な――そんなに簡単明快露骨出来というのなら――後人やこの私が、こんなに喧々諤々議論するわきゃ、ねえだろが!――]
ところが、その特徴であった、美辞麗句を使わなくなった、(私は、これは、かなり
しかし、芥川は、『トロツコ』を書いてから、これも、久しぶりで、切支丹物の『報恩記』を書いた。これは、『藪の中』が好評であったからか、(それとも別の
その次ぎは『お富の貞操』と『六の宮の姫君』である。
『六の宮の姫君』は、(これも、)例の『今昔物語』(第十九の第五話)に依ったものであるが、この小説は、よしあしは別として、芥川が『今昔物語』から素材を取った最後の作品であり、芥川の小説らしい小説の最後の作品である。この小説は、(谷崎潤一郎も書きそうな物語で、純日本風の女が主人公になっているが、)素材とした『今昔物語』の話を、芥川は、自分の言葉と文章に書き改めただけで、ほとんどそのまま使っている。この時までに、これも先きに述べたように、芥川は、処女作以来、『今昔物語』の話の中から素材を取って、幾つかの小説を書いている。そうして、それらの小説は、唯その素材を『今昔物語』の話の中から取った、というだけで、大てい皆、『芥川の小説』になっている。それで、原作と違った面白味が
それから、この年(つまり、大正十一年)の作品の中で、注臥すべき小説が
この小説は、何年かの話を、何人かの風変りな人間の性格と生活を、殆んど一句一行も無駄なしに、含みのある簡潔な文章で、書かれてある。この小説は、寡聞な私の知るかぎりでは、山本健吉のほかに、ほめた人もないようであり、この小説を問題にした評論家もないようであるが、芥川の中期(あるいは、後期)の作品の中でもっともすぐれた小説の
[やぶちゃん注:「庭」に関しては私も宇野の意見に一二〇%同意する。]
さて、私が、さきに、この作品を「注目すべき小説」である、と述べたのは、この小説は、芥川の、晩年の、『春の夜』、『玄鶴山房』、という一列の作品の一ばん初めの物であるからだ。
この世の中にあってもなくてもよいような一家、いや、極端にいえは、ない方が増しなような、癈人と廃人が主人公であるような、家族、――それが、つまり、『春の夜』の野田の家であり、『玄鶴山房』の堀越の家であり、この『庭』の中村の家である。中村の家には、肺結核の病人が
ところで、『庭』では、二人の病人も、精神病者も、死んでいるが、癈人(老妻)は生き長らえている、『春の夜』では、二人の病人は生き長らえている、『玄鶴山房』では、病人は死に、癈人は生きながらえている。――これは、作者の芥川がそのようにしたのである。
それから、『庭』の老妻は、頭瘡を
『庭』[これは、前に書いたように、大正十一年の作であるが]、『春の夜』、『玄鶴山房』、――この三つの小説は、くりかえし云うが、芥川の晩年の作品の中で、(小説のよしあしは別として、)特殊の位置を
但し、私は、私の好みでは、このような種類の小説は嫌いであるが、そのような事は別にして、この三つの小説の中で、『庭』と『玄鶴山房』とは、一般の小説として見ても、すぐれた作品である。
(余話であるが、『玄鶴山房』が、昭和二年の二月号で完結した時、
[やぶちゃん注:ここで偏執的で古典的な分類学の好きな宇野が「癈人」と「廃人」を区別しているのは――時代的差別性や宇野の個性という条件を考慮しても、これはやるべきではない言われなき差別に繋がる行為である――極めて不快な印象を与える。人はおうおうにして「嫌い」なものについて語る時、鮮やかに卑俗に差別的になるという事実を、これらは物語っていると言える。]
この考えは今でも変らないが、私は、芥川の最晩年(つまり、大正十五年の末頃から死ぬまで)の幾つかの作品の中で、極言すれば、小説らしい小説は『玄鶴山房』だけである、と思っている。そうして、もっとも評判のよい『歯車』も、世評のよい『点鬼簿』も、一部の人たちにもっとも認められている、『海のほとり』、『年末の一日』、『蜃気楼』[傍題に『或は「続海のほとり」』とあるが、まったく別の作品である]その他は、すぐれた作品ではあるが、(『歯車』だけは別としても、)小説とは別の物である、と、私は、思っている。これらのことは、例のごとく、
ところで、さきに上げた『庭』は、小穴隆一に聞いた話を本にして、芥川が、自分流に、いろいろ
*
庭は二年三年と、だんだん荒廃を
*
これは『庭』の中の一節である。これは、『庭』が、どのような事を、どのような文章で、書かれてあるか、という見本のつもりで、うつしたのである。これは、いうまでもなくありふれた言葉であるが、一字一句抜き差しならぬ簡潔な文章である、簡潔すぎる文章である。しかし、そういう事よりも、私は、こういう事を、(このような薄気味のわるい事を、)書いた作者(芥川)の気もちを、考えて、
この小説(つまり、『庭』)は、これも前に述べたかと思うが、小穴から聞いた話を
例の『芥川龍之介研究』[前にも書いた「新潮」主催の座談会]の中に、「鬼気といふこと」、「死の影のある作」などという題目があるが、(その座談会の記事にははっきり出ていないけれど、)一部の人は、それが、(それに近いものが、)『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、『歯車』などに、出ている、と云っている。が、それは結果論であって、私は、芥川の晩年の作品に、(その他の作品にも、)「死の影のある作」はあるかも知れないが、「鬼気」のある小説などは殆んどない、と思っている、そうして、それに近いものを、
さて、私が、さきに『庭』を、(過褒と承知しながら、)殊更に取り上げたのは、『庭』が出た翌月に発表された『六の宮の姫君』が一般に過大に評価されたことが気に入らないからでもある、というのは、『六の宮の姫君』は、芥川らしいところが殆んど
[やぶちゃん注:「サワリ」この場合の用法は、通常の「勘所」「見どころ」の意ではなく、義太夫節で他の
このような一節とくらべると、これは、死ぬところではないが、『庭』の中の、
*
……一度掘つた池を埋めたり、松を抜いた跡へ松を植ゑたり、――さう言ふ事も
殊に廉一を
*
というところは、次男の
しかし、この短篇(十五六枚ぐらい)を書いてから、芥川は、『これ』という物を書かなくなった、(書けなくなったのである。)
芥川は、『庭』を出した
それから、『お富の貞操』と同じ月に出た『おぎん』も、(ついでに書けば、その翌年の四月号の「中央公論」に出た『おしの』も、)やはり、芥川がむかし得意にした「切支丹物」ではあるが、共に、昔のような魅力はなく、その作者の芥川も、既に、王朝物にも、切支丹物にも、開化物にも、興味がうすれ、魅力が感じられなくなった。それに、そういう小説を書く根気がなくなった。
芥川が、歴史物(王朝物、切支丹物、その他)を書けなくなった事は、いわゆる芥川の文学とわかれる、という事である。されば、いわゆる「保吉物」を書き出すと共に、芥川の文学はなくなった、と見るべきである。
しかし、それは、私の(私だけの)
さて、芥川は、回想の小説の手はじめに、まず、横須賀の機関学校につとめていた時分の思い出を、順順に、書いて行った。それが謂わゆる「保吉物」である。
芥川の同時代の大正初年に文壇に出た作家の大部分は、(むろん例外は幾つもあるが、)自分自身を題材にした作品から書きはじめた。それから、明治の末年から出発した自然主義の作家たちの大部分も、やはり、自分自身を題材にした小説から書きはじめた。
ところが、芥川は、そのような作品を否定した小説に依って名を成し、それでつづけて来たのが、みじかい生涯の終りに近くなってから、自分自身を題材にした小説を書きはじめる事になったのだ。
大正初年(といっても、正確に云えば、明治の末年から大正七八年まで)に文壇に出た作家(その中には芥川より先きに出た人もあり
ところが、その出発の初めから、その時分(つまり、大正五年頃から十二年頃)まで、殆んど歴史小説(か、それに近いもの)ばかり書いていた芥川には、
しかし、
ところが、『保吉の手帳から』[大正十二年の五月号の「改造」]は、海軍機関学校につとめていた時分の思い出のようなものであるが、そこにおさめられている五つの話は、小説というより、小品であり、その小品の主人公の保吉は、作者の芥川ではなく、芥川のような人である。そうして、その小品には、保吉のほかに、いろいろな人間が出てくるが、それらの人間には殆んど血が
[やぶちゃん注:「弊に堪えない」とは、その持っている弊害を我慢することが出来ないほど深刻で問題である、という謂いであろう。]
『
その気取りは、『鼻』、その他の小説では、役に立ち、成功した、そうして『或阿呆の一生』にも、あるいは、『河童』にも、成功した。――
(つまり、芥川は、死ぬ時までも、気取り通し、見えを張った、という事にもなる。)
さて、芥川は、その気取りのために、『保吉の手帳から』を失敗したのであった。つまり、おなじ「回想」を取り扱っても、さきに述べた作家たちは、「回想」を殆んどありのままに、飾らない文章で、飾りなく、書いたので、その主人公は、もとより、出てくる人間に、血が
ところで、芥川は、それからも、猶、つづけて、『お時儀』、『あばばばば』、『寒さ』、『文章』、『少年』、『十円札』、と、「保吉物」を、書きつづけた。そうして、それらの作品の中には、『保吉の手帳から』とくらべると、いくらか自然な物もあったが、結局、大同小異であった。
ところが、この連作の中で、
四歳の保吉(つまり、芥川)が、ある日、お鶴という女中につれられて、
「これは車の輪の跡です。」
*
これは車の輪の跡です!――保吉は
*
これは『少年』の中の『道の上の秘密』の終りの方の一節である。
それから、芥川は、やはり、『少年』のうちの『死』という小品の中で、四歳の保吉が、父と話をしているうちに、殺された蟻と死んだ蟻とは違う、というような理窟をこねた、という話を述べたあとで、つぎのような事を書いている。
*
……殺された蟻は死んだ蟻ではない。それにも
*
(ここで、前に書いた事を少し訂正する。それは、前に、『少年』と『大導寺信輔の半生』とが
さて、ここに引いた文章だけからでも想像できるように、『少年』におさめられでいる六篇の小品は、少年の頃の思い出を書いたものであろうが、書かれているのは、その思い出を
ところで、さき引いた文章であるが、『死』の中の、犬が、「入り日の光の中に反対の方角へ「顔を向けたまま」などというところは『
*
……僕等はもう
「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の
O君は眉をひそめたまま、何とも僕の言葉に答へなかつた。……
*
前のは荷車であり、これは牛車である。前のは大正十三年五月の作であり、これは昭和二年二月の作である。
この文章の中の、砂原は鵠沼であり、O君は小穴隆一である。
前のは三十年も昔の事を書いたものではあるが、「寂しい彼の心の中におのづから車輪をまはしてゐる、」というのは、その時の実感を書いたものであろう。これは、この『蜃気楼』の話が半分ぐらい本当とすれは、これはこの小品を書いた時分の実感であろう。二年前の小品が荷車であり、これは牛車であるが、車の輪が道の上に残っている事は同じである。すると、『蜃気楼』の二本の線は、(この時分は、例の「筋のない小説」の説を立てていた頃であるが、やはり、)話を面白くするために、わざと入れたのかもしれない、という事にもなる。
ところが、『蜃気楼』の前篇になっている『海のほとり』に出でくる久米が、(文学、殊に小説に理解のふかい久米が、)「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから、」という言葉を見ても、作品全体に死相が漲っている、と云うのであるから、この牛車の轍は『蜃気楼』の中でもっとも注目すべき文句である、という事になるのである。
作品に死相があらわれる、という言葉をつかえば、私は、くりかえし云うが、昭和二年(つまり、死んだ年)の作である、『河童』、その他より、『庭』や『春の夜』や『玄鶴山房』などであり、この『蜃気楼』とか、『海のほとり』とか、『年末の一日』とか、殊に『点鬼簿』とか、いう小品は、強いで云えば、「鬼気せまる
さて、大正十三年の四月と五月にかけて書いた『少年』と、同じ年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』とは、芥川の文学の何度目かの変り目の作品であり、枚数も、『少年』は四十五六枚であり、『大導寺信輔の半生』は三十五六枚であるから、芥川の作品としては長い方である。そうして、両方とも、自伝的な作品である。(もっとも、自伝的、と云っても、現在とは縁の遠い、機関学校時代の事や、もっと
『保吉の手帳から』を書いたのは大正十二年五月であるが、『少年』を書きあげたのは、その翌年(つまり、大正十三年)の五月であり、『大導寺信輔の半生』を書いたのは、その年の十二月である。
そうして、この『少年』と『大導寺信輔の半生』を書いた頃は、芥川の、作家としても、人間としても、もっとも
*
……旅行中お金をつかひ
*
これは、大正十三年五月二十八日に、芥川から、新潮社の支配人、中根駒十郎に宛てた手紙の抜萃である。
(中根駒十郎は、大正時代から昭和の初め頃まで、新潮社を創立した社長、佐藤義亮の代理を殆んど一切した。それで、その頃の大抵の作家は、多少とも、中根の世話になった。『駒十郎、役者のやうな、名をつけて、
さて、芥川が、この手紙を書いたのは、『少年』を書いた頃である。
ところで、芥川は、この手紙を書いてから
私が、殊更、このような手紙まで写したのは、(私などはこういう事は
[やぶちゃん注:「
ざっと、こういう状態の中で、芥川は、『少年』を書いたが、その頃から、芥川の創作力はますます衰えて行った、衰えて行く一方であった。しぜん、『少年』を書きあげた
*
……
*
右の一節の中の、長谷正雄は久米正雄であり、大友雄吉は、いわゆる「啓吉物」のうちの幾つかの小説の主人公に「雄吉」という名をつける、菊池 寛であり、松本法城は、『法城を
ところで、これを写して気がついたのは、お粗末な小説であることは別として、芥川がこのような平明な文章を書いている事である。
さて、このような小説を書いた
『大導寺信輔の半生』がいくらか好評をうけたのは、芥川のこれまでの小説とくらべると、目
『大導寺信輔の半生』は、文章はきびきびしているし、部分部分(殊に最初の方)にすぐれたところはあるとしても、結局、きびしそうに見えて、作者が、主人公を甘やかし過ぎている、それが、殊に、後半に、目立つ、それから、前からの癖で、風物を書いても、人間を書いても、小細工である、それから、人間が殆んど書けていない、結局、失敗作である。(断っておくが、ここで、『小細工』と云ったのは、『小刀細工』という意味である、『小刀細工』とは、「小刀を用いてする、精微な、繊巧な、細工」という程の意味である。)
それから、『大導寺信輔の半生』は小説ではない。
それから、『大導寺信輔の半生』は、附記として、芥川は、「この三四倍つづけるつもりである、」と書いているが、芥川のような作家(これは決して
しかし、私は、『大導寺信輔の半生』は、きらいではない。
*
……中学は彼には悪夢だつた。けれども悪夢だつたことは
*
これは、『大導寺信輔の半生』の中の、『学校』の終りの方の一節である。
芥川は、やはり、詩人であった。
この『落莫とした孤独』の歌をうたってから、たしか、半月後、芥川は、数え
二十一
『大導寺信輔の半生』で失敗した芥川は、文学の上で、敗北した
芥川が『大導寺信輔の半生』を書いたのは、さきに述べたように、大正十三年の十二月の中頃であった。
その十二月の十九日に、芥川は、又、中根に宛てて、つぎのような葉書を、出している。
*
……「羅生門」「傀儡師」なる可く沢山
*
(余計な事であるが、読む
ところで、この葉書の文句にあるように、この年の十二月には、芥川は、『大導寺信輔の半生』だけしか、書いていない。ところが、翌年(つまり、大正十四年)の一月には、『早春』と『馬の脚』とを書いている。
ここで、私が不思議に思うのは、芥川のような作家が、前にも、ずいぶん乱作をした事があったが、この時も、ひどく健康をわるくしながら、まだ乱作(大いそぎで書くという意味も含めて)をしている事である、というのは、『早春』[大正十四年一月作]は、「保吉物」の一つであるが、単なる思いつきの短篇であり、『馬の脚』[大正十四年一月作]も出来そくないの小説であるからだ。
『馬の脚』は、何から思いついたのか、頓死した人間が、生きかえったが、両足とも
この小説について、吉田精一は、「ゴオゴリの『鼻』の模作にすぎない、」と説いている。それも当っているけれど、芥川は、殊にゴオゴリの愛読者であったが、あの、
そこで、臆測をすれば、芥川は、書くのに気が楽な、荒唐無稽な物を書いてみよう、と思い立ち、それに向く舞台を自分が
(こんな事を述べているうちに、私は、これもずっと前に書いた、芥川が私にくれたゴオゴリの半身像は、長い間、芥川の机辺にあったのではないか、というような事を思い出した。わたくし事を云えば、今、そのゴオゴリの半身像は、この文章を書いている机辺にある。)
大正十三年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』も、大正十四年の一月に書いた、『早春』も、『馬の脚』も、雑誌社(と新聞社)が強要したのか、それとも、芥川が、必要があって、強行したのか、三つとも、無理に無理をして、書いたものであった。そのために、『大導寺信輔の半生』は未完成のものとなり、『早春』も、『馬の脚』も、前に述べたような、作者自身も不満を感じるような、いやな、作品になってしまった。その上、その無理がたたって、持病が一そう
大正十四年の二月二十一日に、芥川が、清水昌彦[註―中学の同窓]に宛てた手紙の中に、「僕は、胃を
この芥川の手紙は、その清水から来た手紙への、返事である。だから、その芥川の手紙は、「君の手紙を見て驚いた、」という文句から始まっている。その芥川が「驚いた」というのは次ぎのような手紙である。
*
これは僕の君に上げる最後の手紙になるだらうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併発してゐる。妻は僕と同じ病気にかかり僕より先に死んでしまつた。あとには
[やぶちゃん注:読者諸君は、ここで疑問に思われることであろう。この芥川龍之介宛清水昌彦書簡をどうして宇野浩二は引用できるのか、と。実は、宇野は注記していないが、この引用は実際の清水昌彦書簡からの引用ではないのである。これは実は大正十五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載された「追憶」(後に『侏儒の言葉』にも所収)からの引用なのである。以下、当該章「水泳」を総て引用する(引用元は私の「追憶」テクスト)。
水 泳
僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。
「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」
かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。
「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」
僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絶望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。
「清水昌彦」は、江東小学校時代に回覧雑誌を作ったりした幼馴染で、明治三十九(一九〇六)年に東京都立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の生徒だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戦争」の中で、好戦の末、轟沈する『帝国一等装甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。彼は正に憧れの海軍士官となったが、その後は音信が途絶えていた。なお、宇野がこの後で一部引用し、芥川龍之介がこの「水泳」末尾で述べている書簡は、旧全集書簡番号一二八四の清水昌彦宛書簡(田端発信・大正十四(一九二五)年二月二十一日附)で、先に以下に全文を示しておきたい(岩波版旧全集に拠る。「〱」は正字に直した)。
冠省君の手紙を見て驚いたそんな病気になつてゐようとは夢にも知らなかつたのだから。第一君が呼吸器病にならうなどとは誰も想像出来なかつた筈だ。君の手紙は野口眞造へ郵便で送る。僕は胃を患ひ、腸を患ひ、神經衰弱を患ひ、惡い所だらけで暮らしてゐる。生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とも思はない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ。實は僕の妻(山本喜譽司の姪だ)の弟も惡くて今度三度目の喀血をしたのでいま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其處へ君の手紙が來たので餘計心にこたへた。何か東京に用はないか。もつと早く知らせてくれれば何かと便利だつたかも知れないと思つてゐる。この手紙は夜書いてゐる。明日近著「黄雀風」を送る。禮状、返事等一切心配しないでくれ給へ。
冴え返る
二月二十一日夜 龍之介
昌彦樣
素の龍之介の優しさが伝わってくる。清水はしかし、同年四月十日前後に逝去の報が入った。同年四月十三日の府立三中時代の共通の友人西川英二郎宛の書簡(旧全集書簡番号一三〇〇)には「淸水昌彦が死んだ。咽喉結核と腸結核になつて死んだのだ。死ぬ前に細君に傳染してこの方が先へ死んでしまつた。孤兒四歳。」とある。年次や子の年などの些細な部分は問題ではなく、芥川の「追憶」の叙述に粉飾は皆無である。]
*
これは、芥川ならずとも、驚くべき手紙である。これを読んだ芥川は、さきに引いた、二月二十一日に清水に宛てた手紙の中に、清水をはげますために、(ついでに、自分自身をもはげますつもりか、)次ぎのような事を、書いている。
*
……生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とは思はない。僕も生きられ るだけ生きる。君も二日も長く生きろ。実は僕の妻の弟[註―塚本八洲という名、芥川がたよりにしていた義弟、鵠沼でも傍にいた]も悪くて今度三度目の喀血をしたので、いま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其処へ君の手紙が来たので余計心にこたへた。
*
これはこたえる筈である。芥川としては、(もっとも、これは私が思うのであるが、)義弟が「三度目の喀血」をし、旧友の妻が肺結核で死に、旧友が結核の病気で死にかかっている、という事になるからである、しかも、その時、自分も三つの病気をしているからである。
芥川が、その後、前に述べたように、『春の夜』にも、『玄鶴山房』にも、『悠々荘』にも、肺結核の病人を出したのは、こういう事も一つの原因のようなものであろうか。
ところで、この
[やぶちゃん注:この時の修善寺滞在は、四月十日から五月三日。上司小剣関連では、宮坂覺氏の新全集年譜のこの湯治期間中の四月十七日の条に、芥川龍之介が編集する『近代日本文芸読本』(全五巻興文社から同年十一月刊行)への作品収録許可を水上滝太郎や上司小剣らに依頼するという記事があり、これは宇野が勘ぐるように龍之介が多分に悪戯っ気から上司に面会を求めたのわけではない、仕事であった(尚且つ、その掲載許諾依頼という性質上、それはある意味、相手をよいしょして和やかなものとしなくてはならなかったに違いない)ことが明らかである。]
しかし、又、芥川が、小説らしい小説を書かなくなったのも、その時分からである。いや、小説らしい小説どころか、殆んど作品を書かなくなり始めたのも、その頃からである。
それを
しかし、この時分から、芥川は、昔のような筋と文章に凝ったような小説は、肉体的に書けなくなったばかりでなく、興味がなくなった。が、これは、前に述べたように、そういう物を書く素材の
そうして、芥川が、その頃から、身辺の見聞のような物を、書き出したのは、病苦を押して書くのに、一ばん
それから、そういう小品さえなかなか書けなかったのは、健康が極度におとろえていたからである。しかも、それらの作品は、長くて、十八九枚であり、短かいのは、七八枚ぐらいであった。(しかし、その頃の芥川をよく知っている私は、それでも、あれだけ、よく書けたものだ、と、しばしば、感心する事がある。)
そうして、それらの作品の中で、『海のほとり』[大正十四年八月七日]、『年末の一日』[大正十四年十二月八日]、『点鬼簿』[大正十五年九月九日]、『悠々荘』[大正十五年十月二十六日]、『蜃気楼』[昭和二年二月四日]、の五篇がすぐれている。
芥川は、前にちょっと書いたように、大正十五年(いや、昭和元年)の十二月の月末から昭和二年の一月一日まで、
[やぶちゃん注:これについて、新全集の宮坂覺氏の年譜の昭和元(一九二六)年十二月三十一日の条には、鵠沼で甥偶々葛巻義敏と二人っきりになり、「体の具合が悪くなって」(芥川文「追想 芥川龍之介」に拠る)『鎌倉小町園に静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』が、所在は明らかにされており(葛巻には知らせていたか)、『田端の自宅から早く帰るよう電話で催促を受け』ている。しかし、『結局、翌年正月の二日まで滞在し』、二日は鵠沼に一度戻ってから、田端に帰っている。因みに、昭和の改元はこれに先立つ六日前の十二月二十五日であった。]
それで、書翰集[ここで後ればせに断っておくが私の使っているの『芥川龍之介全集』は昭和三年の初版である]を開いて見ると、十二月
*
御手紙拝見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。[下略]
*
ここで、猶、よく書翰集の十二月のところを調べて見ると、二日から、日をおいて、十三日までのが、鵠沼はかりであるのに、十六日と十九日のだけが田端であり、飛んで、二十五日のが、今うつした滝井に宛てた、鵠沼となっている。そうして、この滝井に宛てたのだけが、「鵠沼イの四号」となっていて、年号が「昭和」となっている。(この「イの四号」は、前に述べた、私が
[やぶちゃん注:宮坂年譜を見ると、十二月十三日に鵠沼(前年の四月から芥川の生活の拠点はここに移っていた)から田端に戻って、同二十二日夜、鵠沼に戻っている。宇野がこれから推理するのは、この原稿を書くために田端に戻るという口実が、『小さな家出』の秘密の決行準備として仕組まれたものだとするのであるが、私はこの時期の書簡と年譜を見ていると、この田端帰還には別の、隠された「準備」(それは『小さな家出』の中に、芥川が一つの選択肢として野々口との心中を考えていたかも知れない可能性と実は密接に繋がっている)が行われたのではなかったかという気がするのである。先に「二十」で見た通り、十二月十三日に芥川は精神科医斎藤茂吉に宛てて鴉片丸二週間分を田端の芥川宛で送ってくれるように依頼しており(十九日に薬到着の礼状を書いている)、また、田端では友人であると同時に主治医でもあった下島勲が十七日、十九日の夜に来訪、何れも夜九時過ぎまで話し込み、しかも二十二日は下島を連れだっての鵠沼帰還であった。実は鵠沼では前年六~七月より藤沢の医師
さて、前に書いた、芥川が、大正十五年の十二月の十六日と十九日に、田端から、出したのは、十六日のは、「中央公論」の編輯長の、高野敬録に宛てたものであり、十九日のは、佐佐木と斎藤茂書に宛てたものである。そうして、高野に出したのは手紙であり、斎藤と佐佐木宛てのは葉書である。
この頃は『玄鶴山房』を書きしぶっていた時分であるから、芥川は、高野への手紙のなかにも、(これはずっと前に引いたが、)佐佐木と斎藤に出した葉書の中にも、「二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、」とか、「中央公論はとうとう出来
これらの手紙や葉書を出した
ところで、昭和二年の一月一日まで『小さな家出』をしていた、とすれば、芥川は、一月二日には、田端の家に帰っていた、という事になる。
ここで、又、書翰集の昭和二年の一月のところを開いて見ると、みな、田端から、となっていて、八日の野間義雄宛ての葉書の中にも、九日の宇野浩二宛ての葉書の中にも、十日の藤沢清造[註―芥川より年上で、不遇作家で、ずっと本郷の根津あたりに住んでいたが、不遇でありながら人に頭をさげない人であった。菊池 寛、久保田万太郎、室生犀星、その他と親しかったように思う。『根津権現裏』という長編を一冊のこし、たしか昭和の中頃、芝公園の中で餓死したが、行路病者と見られた。武田麟太郎はこの長編の愛読者であった。この本の題字は高村光太郎である。]宛ての葉書の中にも、十二日の佐藤春夫と南部修太郎宛ての葉書の中にも、十五日の伊藤貴麿宛ての葉書の中にも、殆んど同じような文句が書いてある。次ぎに、みな、短かいから、写してみよう。
[やぶちゃん注:「藤澤清造」(明治二十二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は、小説家。出版社などで生活を支えつつ、大正十一(一九二二)年に「根津権現裏」を発表するが、昭和七年一月二十九日早朝に芝公園内六角堂で凍死体となって発見された。本作の『文学界』連載が昭和二十六(一九五一)年九月から翌年十一月、文藝春秋新社からの単行本化が昭和二十八(一九五三)年五月、宇野がこの時点で昭和七年を「昭和の中頃」と呼称しているのが面白い。]
*
冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の発音を御注意下され
[やぶちゃん注:「支那語の……」が何れの作品を指すかは未詳。「野間」は野間義雄なる人物であるが、この人物も未詳。]
冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、毎日忙殺されてゐる。はがきで失礼 頓首(宇野宛て)
冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は焼けて主人はゐないと来てゐるから弱る。右御礼まで。(藤沢宛て)
冠省君の所へ装幀[註―随筆集、『梅、馬、鶯』の装幀。わたくし事、私も佐藤に、『恋愛合戦』の装幀をしてもらったことがある]の礼に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出来、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。録近作一首
ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ[宇野いう、芥川はよく、ナニナニ流といって、人の歌風をまねたが、これはまったく茂吉流なり](佐藤宛て)
はがきにて失礼。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。神経衰弱
冠省御手紙ありがたく存じます。大騒ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神経衰弱なほるの時なし。とりあへず御礼まで。頓首(伊藤宛て)
[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの( )注記(表記通り、同ポイントで割注形式ではない)が、書簡文から改行されて、下インデントになっている。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。因みに老婆心ながら添えておくと、順にそれぞれ「野間義雄」「宇野浩二」「藤沢清造」「佐藤春夫」「南部修太郎」「伊東貴麿」宛てである。]
*
先きに「殆んど同じような文句」と書いたのは、これらの葉書の中にあるように、親戚に、「とりこみ」「厄介な事」「不幸」が起こった事と、そのために「東奔西走中」という事と、神経衰弱がなおらない事と、――この三つである。
この中の、親戚の『とりこみ』とは、芥川の姉の久子[葛巻義敏の母]の夫[義敏の父の死後再婚した人]の西川豊が、自宅が火災に遭ったのを、保険金を取るために放火をした、という嫌疑をかけられ、それを苦にして、鉄道自殺をした、という事件である。西川は弁護士であるが、西川が、嫌疑をかけられたという事で、どういう事情のために、自殺したか、その事情を、私は、まったく知らない、しかし、その西川の死骸を義弟になる芥川が引き取りに行った、といううな事を、誰からとなく、聞いたような気がする。『歯車』は、一つの小説であるから、事実の噓が、あり過ぎる程、書かれてあるかも知れないが、(あるにちがいないが、)『歯車』の中の『レニン・コオト』の終りの方に、「僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に轢死してゐた。しかも季節に縁のないレニン・コオトをひつかけてゐた、」という所がある。
[やぶちゃん注:義兄の弁護士西川豊(明治十八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)の事件を時系列で追っておく。なお、西川豊と新原久子の婚姻は大正五(一九一六)年で、久子は再婚で、先夫で義敏の実父である獣医葛巻義定[龍之介の実父新原敏三の経営する牧場に勤務していたことがある]とは明治四十三(一九一〇)年に離婚している(但し、西川没後の後年に久子と義定とは再び再婚している)。これらは正に直近の昭和二年一月上旬の出来事である(以下は主に鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)のコラム「義弟西川の自殺」(一九二頁)及び当該箇所に写真で載る昭和二年一月八日附『東京朝日新聞』の記事などを元にした。記事は原文通りとした)。
〇一月四日
南佐久間町(現・港区西新橋)の西川豊の自宅が出火する。同日の調査により、時価約七千円の同家屋に対し、火事の前に帝国火災保険株式会社へ三万円(『東京朝日新聞』の記事には『一萬圓』)の保険をかけていたこと、火災現場の検証によって二階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことの二点が明らかとなり、同日、放火の嫌疑を受けて取り調べを受ける。西川は否認(任意同行であると思われるが、西川が解放されたのは同日か翌日かは不明。火災から現場検証、嫌疑の発生と任意同行と取り調べという一連の出来事が同日内で終わるというのは考えにくいから、翌日の一時解放か)。
〇一月六日
西川豊が、午後六時五〇分頃、房総線
〇一月八日(『東京朝日新聞』記事より)
大見出しは「放火の嫌疑から/弁護士の自殺/身の潔白を立てるため/文士芥川氏の義兄」とあり、西川の履歴、家族構成、前記の引用などの事件の経緯を記す。その後に「涙の夫人」と小見出しして、
右につき妻久子さんは涙ぐんで『四日の出火について最初漏電といふ事になつてゐたのににはかに警察側で放火の疑ひを起され元來小心の夫はそれを苦にして到頭死を決心した譯です、二人の子供がありますがいづれもまだ幼いものですから私等の前途は實にさびしいものですたゞ賴りとする弟があの通り病身で現在でも神經衰弱で病臥してゐる始末ですから、この度の事件を知らせるさへも心苦しい次第です』と語つた
とあり、最後に「驚く芥川氏/自殺とは意外」と小見出しして、
芥川龍之介氏は病氣で臥床中であつたが義兄の死について語る『まだ遺書は見てゐないからよく判らぬが義兄は私とは性格も趣味も非常に異つてゐるので年に一、二度位より逢つてゐません。西川君は実際家なので自殺をするのが寧ろ意外な位です、昨夜急な用事があるからたれか來てくれといつて來ましたから母を送り屆けたのでした母も向ふへ着いてはじめて知つたのでせう全く意外です
とある。「昨夜」は一月六日であろうから、この芥川龍之介の談話は一月七日田端自宅での採録と思われ、記事中の『母』とは同居している養母
「この國では絞罪などは用ひません。稀には電氣を用ひることもあります。しかし大抵は電氣も用ひません。唯その犯罪の名を言つて聞かせるだけです。」
「それだけで河童は死ぬのですか?」
「死にますとも。我々河童の神經作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」
「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使ふのがあります。――」
社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染りながら、人懷つこい笑顏をして見せました。
「わたしはこの間も或社會主義者に『貴樣は盜人だ』と言はれた爲に心臟痲痺を起しかかつたものです。」
「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或辯護士などはやはりその爲に死んでしまつたのですからね。」
なお、この見解は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』でも既に示してある。但し、岩波新全集の人名解説索引によると、西川はそれ以前に『偽証教唆の罪で失権、市ヶ谷刑務所に収監された』ことがある旨の記載があり、彼は当時、この偽証罪の執行猶予中の身であった(芥川龍之介「齒車」の「二 復讐」や芥川龍之介「冬と手紙と」を参照)という弁護士西川豊という人物評価のマイナス要因ともなる事実は、事実としてここに提示しておかねばなるまい。芥川龍之介はこれ以後、三月頃まで、亡き義兄家族の生活問題[久子には先夫との間の葛巻義敏と妹左登子(それぞれ当時、満で十八歳と十七歳)、豊との間に瑠璃子・晃(それぞれ十一歳と九歳)の四人の子がいた]、豊の死後に発覚した残された高利の借金の後始末、疑われた火災保険及び自殺した豊の生命保険の問題等で文字通り、『東奔西走』せざるを得なかったのであった。]
この義兄の変死と、たしか、その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死と、――この二つの死が、芥川の自殺の幾つかの原因の中の一つである。
[やぶちゃん注:「その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死」は宇野の大きな錯誤。芥川が才能を高く評価していた文の弟塚本八洲の没年は、芥川龍之介自死の遙か後の、昭和十九(一九四四)年である。]
ところで、『歯車』の中の、やはり、『レエン・コオト』の中に、
*
……往来の両側に立つてゐるのは
*
というところがあるが、右の一節の中に「眼科の医者はこの錯覚(?)の
つまり、『歯車』の中の一節である、右に引用した文章の中で、作者の芥川は、「錯覚(?)」と書いているが、これは、『錯覚』ではなく、はっきり、『幻覚』である。『幻覚』とは、幻視、幻聴、幻触、幻味、幻齅、その他の事である。そうして、『幻覚』は精神病者の感じるものである。されば、『歯車』の主人公の「僕」は、神経衰弱にかかっている人であるが、それ以上に、精神病者である、という事になる。
もし、その時分の芥川が、神経衰弱がしだいにひどくなって、精神病者になっていた、とすれば、いや、はっきり精神病者になりつつあった芥川が、死ぬ前の年あたりから、死ぬ
[やぶちゃん注:ここで宇野浩二に悪いが、はっきりさせておきたいことがある。私は芥川龍之介を宇野が言うような重篤な精神病者であるとは全く(殆ど全く)思っていない。近年の研究では芥川龍之介を統合失調症と断定する病跡学者がいるが、私はせいぜいノイローゼか強迫神経症のレベルであったと思う。統合失調症の状態で、まさに宇野が讃嘆する通り、あの『天晴であり、見事であり、壮烈と称したい程』の緻密に計算された全く破綻のない名作群を持続的に書き続けることは不可能に近いと思われるからである。まず、ここで宇野が鬼の首を取ったように『幻覚』『幻視』とし、芥川を真正の重い『精神病者』と断定している「歯車」に描かれた視覚異常であるが、これは既に眼科の専門医によって(私は十代の頃、この方の論文を直に読んでいる)、実は単純で問題のない閃輝暗点であることが明らかにされている。この症状は主にストレスによって脳の視覚野の血管が一時的に収縮を起こすことで発生するものとされており、稀な症状でさえないものなのである。さて、しかし――私が寧ろ、ここで言っておきたいことは、
宇野浩二が――ワトソンのように即物的証拠から『精神病者』というとんでもない誤った推理をしているという事実への批判しよう――
というでは、ない。
宇野自身が――芥川龍之介を、何が何でも、重篤で致命的な回復可能性のなかった末期的精神病患者に仕立て上げないでは済まない、という、それこそ極めて異常な思い込みや執念の中にいる――
ということが、問題なのである。そうして、
その「異常さ」に宇野自身、全く気付いていない
ということを問題にしたいである。私は宇野が梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患によって(マラリア療法の副作用による脳変性の可能性を含め)、その予後に、ある種の偏執質(パラノイア)的性格に変容(若しくは「を附加」)するに至ったのではないかと深く疑っているということである。ここまで私と宇野浩二「芥川龍之介」に付き合って来た読者は、既に気づいておられると思うが、宇野の文体はその読点の打ち方の異常な結節性を示しており、自覚的ながらも必要以上に同一内容を偏執的に繰り返し書き、物品や人に限らないあらゆる対象を執念深く分類等級貴賤化する嗜好を示している。私は宇野の限りない芥川への友情を感じながらも、時に、その宇野の眼の底にこそ、慄っとするモノマニアの冷たい輝きを見る気がするのである。他者を「精神異常だ!」と連呼する者は、まず連呼する本人の精神の異常性を疑ってかかる必要がある、ということだけは言っておきたいのである。以下、そうした(私からは)異常と感じられる芥川龍之介精神病者断定叙述が増えるが、ここで述べて終わりとする。]
芥川が、新規蒔き直しのつもりで、先ず保吉物をつぎつぎに書き、『大導寺信輔の半生』と書いて行って、自ら失敗と感じ、小説の道に行き暮れた思いをした
ところで、この小品の終りの方で、芥川は、日の暮れに、四人の人にあるきながら話をさせて、海蛇がいるかいないか、という話から、
[やぶちゃん注:「ながらみ」腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科サラサキサゴ属ダンベイキサゴUmbonium giganteum。沖縄を除く全国の沿岸砂底に棲息する蝸牛型の巻貝。殼幅は四十センチに達し、キサゴ類では最大種。相模湾では一般的に茹でて食用に供され、関東の市場では「ナガラミ」「ナガラメ」と呼称する。光沢のある綺麗な貝で貝殻は玩具(おはじき)や装飾品とした。和名の「だんべい」とは舟荷専用の大きな川船のことで大きいことを、「きさ」とは表面の木目模様のことを言うか。
「達磨茶屋」は私娼を置いた専ら売春行為が目的の茶屋のこと。語源は、寝ては起きて起きては寝ることのよる。]
しかし、久米のいう、「変な鬼気」のようなものが晩年の芥川の作品に最初に出たのは、この『海のほとり』の中の、「
*
HやNさんに
*
これは、『海のほとり』の終りの方の一節であるが、それほど
ところが、この小品より四
しかし、一方、芥川の健康は、しだいに、
その頃の芥川は、やがて滝つ瀬となる急流に、その滝つ瀬にしだいに近づいて行く急流に、船に
こういう状態の中で、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『歯車』その他の作品が、つぎつぎに、
さて、『年末の一日』は、八九枚の小品で、書かれてある事は、「年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結局は
大体これだけの筋の物で、最後の、胞衣会社の車の後押しをするところだけが異常であるだけで、至って平凡な話である。常識的な云い方をすれば、他の作家がこういう話を書けば、問題にも
ところで、この『年末の一日』の中で、目のある批評家も、理解の深い人も、もとより、一般の人が、申し合わせたように、賞讃する、最後の、
*
北風は長い坂の上から
*
というところが、私には、やはり、芥川が、見得を切っているように、思われるのである。そうして、見得を切っているとすれば、仮りに、この小品(『年末の一日』)を芝居とすると、この「見得」は九十パアセントぐらいの舞台効果を
ところで、ここまで書いて、ふと、この小品を芥川が大正十四年の十二月の初めに書いた事を考えて、私は、ペンをおいた。芥川が、その日常生活に於いて、(は、もとより、)その作品の中でも、しばしば」見えを張ったり、見得を切ったり、する事が、私の
[やぶちゃん注:この、『東京胞衣会社』の箱車が見得を切るための仮構であったか体験的事実であったかという拘りについて、以下の文で宇野は久保田の引用を以って仮構であったと採っている。こうした宇野の悪意ではないがものの、何とも不快な勘繰りや合点に対して、既に私の電子テクスト「年末の一日」の後注で述べものたが、ここでもそれについて注せずにはおれない。諏訪優氏の一九八六年踏青社刊「芥川龍之介の俳句を歩く」の中で、この箱車について興味深い考察をしている。即ち、一般に芥川はこの後押しする箱車に書かれた文字を何度も書いては消しして、考え抜いたに違いなく、そこに芥川らしい、文章に凝る面目があると褒める人が多い。しかし、これは実際に経験したことをありのままに書いたに違いないと私(諏訪氏)は信じるようになっている、として以下のように叙述されているのである(なお、諏訪氏は「芥川龍之介の俳句を歩く」執筆当時、田端に在住していた)。
《引用開始》
と言うのは、同じ坂を登り下りし、このあたりの、今はないもろもろの路地を知ってたずねたりしているうちに、この八幡坂を登り芥川家の方へ右折して(坂から芥川家までは三、四分)その先を田端駅裏口へ出る崖の上に、東京胞衣会社の処理場(塚)があって、胞衣神社というちいさな社が実際にあったからである。
胞衣は出産の際に出る廃棄物で(いわゆる水子も含まれていたと想像する)、当時はそんな処理の仕方をしていたようである。
大正十四年の年末の心象風景を現実の田端のわびしさに重ねて成功したこの小品の決手のひとつ〝東京胞衣会社〟は、期せずして八幡坂上のそこにあったことをわたしは信じて疑わない。
《引用終了》
とし、以下にその胞衣神社について、東京胞衣会社が経営していた事実などを考証、最後に御自身による踏査によって、『芥川龍之介が胞衣会社の箱車を押した坂は八幡坂ではなく東覚寺坂である。(「年末の一日」のその部分は「庚申堂」を通り過ぎ、「墓地裏の八幡坂の下」で箱車に出会う、から)道筋から言って東覚寺坂である』と記されている。『文学の鬼』宇野が自分の記憶と如何にもロマンティックにダブらせつつ、それでも見得を切るために「異常な」箱車を芥川は「いつものように」仮象として出現させたのだ、と言っている(宇野はこの箱車を押したことは「本当の話」とするが、それは特に以下で引用する佐々木の証言から東京胞衣会社ではなかったという例によって『鬼の首を取った』解釈をしているように思われる)と、この諏訪氏の堅実な冷徹な考証と――私は諏訪氏こそ真に鬼の眼を持った作家である、見鬼である、と言いたい。
更に、最後に一言言わせてもらえば、「年末の一日」は宇野の言う通り、『他の作家がこういう話を書けば、問題にも何もならぬ作品であ』り、作家として安泰に生きて行こうとする『大ていの作家はこういう話は書かない』なんてことは言わずもがなな物言いである。芥川龍之介が自死せずに戦後までずっと生きていたと仮象してみればよい。「年末の一日」は、凡そ芥川龍之介の名作として残るはずが――絶対に、ない――のである。芥川龍之介が自死を覚悟しつつ本作を書き、その自死を確かに貫徹したことによってのみ、本作は名作となったのである。本作は芥川龍之介の自栽へと向かう孤独な死の道程の道標として生きたのである。いや、本来、我々の綴る作物とは、その濃淡は激しいものの、実にそういうものを何処かに内包しているものなのではあるまいか(私はそれこそが正に「文章が生きている」ということなのだと信ずるものである)。少なくとも名作とされるものは、作者の生と裁ち難く有機的に結びついているものである。だから『文学の鬼』宇野にして、こうした凡百自称文士的発言をするのは、残念なことに、読んでいて虫唾さえ走るのである。彼が確かに芥川龍之介の直近にあって彼を深く愛していたればこそ、この場面での論理的な無理解や絶望の意識への感受性の共時性のなさには、私は何とも言えず、哀しい思いが、してくるのである。]
ところが、芥川の『或阿呆の一生』について、「最後まで美しく扮装しつづけた、」と云い、「逐に本音を吐かず、自分をむき出しにすることなしに終つた、」と述べた、[以上は、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』で知った。――が、私も、この久保田の説に半分以上同感である]、久保田万太郎が、『年末の一日』について、先きに私が引いた、最後の一節を引用して、そのあとに、つぎのように、書いている。
[やぶちゃん注:私は1/3位同感である。]
*
そして、この作[つまり、『年末の一日』]は、かうした哀しい結尾[さきに引いた最後の一節]をもつてゐる。
十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に残つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは、「点鬼簿」「玄鶴山房」を経て「河童」、を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつては、「……闘ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりに
しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではッきりさせようとした。飽くまでたゞしく伝へようとした。わたしはこれをその当時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その横に広いあと口に東京胞各会社の数文字を書くまで、幾度その一行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣会社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身
[やぶちゃん注:「佐々木千之」(明治三十五(一九〇二)年~平成元(一九八九)年)は作家・出版人。大正一三(一九二四)年『新潮』の記者となり、同郷作家葛西善蔵と親交を持つ。後に小学館に勤務、作家としては「和井内貞行」「間宮林蔵」などの伝記作品を手掛け、昭和十八(一九四三)年には畏友の晩年を綴った「葛西善蔵」を刊行した(青森県近代文学館の記載を参考にした)。]
*
これを読んで、魯鈍な私は、いろいろな事を学んだ。まず、芥川が、八幡坂を箱車を押したのは本当の話で、その箱車を
しかし、結局、私は、『年末の一日』を、久保田が
ここで又、ちょっと寄り路する。これも、前に、引いた事があるが、大正十四年の十二月一日に、芥川が、私に、つぎのような
*
朶雲奉誦新年号出来しや上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ君が小説と小品との別を云々したから僕が「私」小説論私見を書いたと言ふ藤森[成吉ならん]の説には驚いたねああなるととてもかなはん僕は兜をぬぐ
*
この芥川の便り[註―前にも書いたが、私は芥川の手紙やはがきは一つも持っていない、書簡集を見て、こんなのがあったのか、と思う程である]の中の、私が「小説と小品との別を云々」というのは殆んど全く覚えていないが、今、察するところ、大正十四年十二月一日、と云えば、芥川が『海のほとり』その他を発表した
[やぶちゃん注:今回の注は長くなる。御覚悟の上、お読み頂きたい。
「藤森[成吉ならん]」は宇野の誤りと思われる。この「藤森」について、筑摩書房全集類聚版脚注では藤森淳三とする。藤森淳三(明治三十(一八九七)年~昭和五十五(一九八〇)年)は小説家・評論家。横光利一らと同人雑誌『街』を創刊、雑誌編集者をしながら作家活動をした。小説集『秘密の花園』童話集『小人国の話』などがある。この「藤森」も芥川龍之介の批評という点から考えて、高い確率で彼と考えてよい。実は藤森淳三と宇野と芥川絡みでは、芥川龍之介の大正十二(一九二三)年三月の『新潮』に載る「色目の辯」に、非常に興味深い叙述が現れる。以下に引用する(底本は岩波旧全集を用いた)。
新潮二月號所載藤森淳三氏の文(宇野浩二氏の作と人とに關する)によれば、宇野氏は當初輕蔑してゐた里見弴氏や芥川龍之介に、色目を使ふやうになつたさうである。が、里見氏は姑く問はず、事の僕に關する限り、藤森氏の言は當つてゐない。宇野氏も色目を使つたかも知れぬが、僕も亦盛に色目を使つた。いや、僕自身の感じを云へば、寧ろ色目を使つたのは僕ばかりのやうにも思はれるのである。
藤森氏の文は大家たる宇野氏に何の痛痒も與へぬであらう。だから僕は宇野氏の爲にこの文を艸する必要を見ない。
しかし新らしい觀念(イデエ)や人に色目も使はぬと云ふことは退屈そのものの證據である。同時に又僕の恥づるところである。すると色目を使つたと云ふ、常に溌剌たる生活力の證據は宇野氏の獨占に委すべきではない。僕も亦分け前に與るべきである。或は僕一人に與へらるべきである。然るに偏頗なる藤森氏は宇野氏にのみかう云ふ名譽を與へた。如何に脱俗した僕と雖も、嫉妬せざるを得ない所以である。
かたがた僕は小閑を幸ひ、色目の辯を艸することとした。
「委す」は「まかす」、「与る」は「あづかる」と訓ずる。芥川龍之介は座談会などで藤森淳三と同席しているが、その抜粋録などを読むと、実際には彼とは肌が合わなかったのではないかという感じがする。因みに、大正十一(一九二二)年八月四日附佐佐木茂索宛書簡(岩波旧全集書簡番号一〇六三)末尾には、『藤森淳三 僕論を書くと云ふ 行為は感佩するが書いて貰ひたくない 僕は毀譽とも頂戴せずに文章を作つてゐたいのである 頓首』と記す。これは好意を持っている人物への物謂いとは、私には思われない。
「上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ」これは「上海游記」の「十九 日本人」の以下の部分を指す(リンク先は私の注釈つきテキスト。以下の注もその私自身の注を加工した)。
上海の日本婦人
「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」
「いえ、あれは惡作です。」
私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。
「松本夫人」は本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「松本」姓で該当人物と思しい人は見えない。「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's
Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。しかし乍ら、試みにこの英名を調べてみたところ、面白いことに余りに美しすぎて他の花が売れなくなるから(であろうか)、“Cineraria”という語は“cinerarium”、「納骨所」の複数形で、「死ね」に通底するところの“Florist's
Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった。『「鴉」』既にお分かりの通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説。私は未読なので作品内容は不明。松本夫人が誤ったのは大正十(一九二一)年四月一日発行の「中央公論」で、この宇野浩二の「鴉」の後に芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう(「鴉」の注については筑摩書房全集類聚版脚注及び岩波版新全集の神田由美子氏の注解に拠った)。
「君が小説小品との別を云々した」既に読者は、この宇野の謂いを何度も眼にしてきた。ここで是非、注しておきたいと思う。これは極めて重要なことである。まず、この書簡で、
《芥川が言っている「小説」と「小品」との区別》
は、実に一般的に知られるオーソドックスな謂いと考えてよい。則ち、――
「小説」はモデルや作者の実体験が含まれている場合があるにしても、その主要な核心部分は技巧的に脚色された、話者の主体の人称に関わらず、創作されたもの
であり、
「小品」とは多少の潤色はなされていても、アウトラインが作者の実体験に基づいたもので(則ち所謂、「私小説的なる」もので)、尚且つ、必ず短篇に限る
という主に内容に基づくものである(例えば、芥川龍之介の作品を例にとると、「河童」クラスの原稿量を持つ作品は、その内容如何に関わらず(完全な実体験であったとしても)、「小品」とは呼ばない、ということである。確かに「河童」を小品と呼ぶ人は少ないであろう)。なお、この「小品」の一般的見解は、「小品」が「小品文」に由来するからである。「小品文」は、例えば「大辞泉」には、①として、
「日常生活で目に触れた事柄をスケッチふうに描写したり、折々の感想をまとめたりした、気のきいた短い文章。小品。」
とあり、②として、
「中国で、明代中期以降行われた短い評論・随筆・紀行文などの総称。」
とある(やや不審なのは①が原義ではなく、②からの派生と見えるのだが、天下の辞書がこう書くということは、①は②と無縁であり、その内容的類似は偶然だということであろう)。辞書的にもこれらの区別に何らの違和感も私は感じない。こんなくだくだしい分かり切ったこと(私は「分かり切った」とは思っていないが)を記したのは、実は、
《宇野の言っている「小説」と「小品」の区別》
は、今までの宇野の叙述から、実はその『決定的な差』は、そのような内容とは無縁な単純な判断基準に基づくものではないか、則ち、宇野の謂いは一般的な考え方と異なっているのではないか、と疑っているからである。宇野の謂いをよく確認されるとよい。彼は常に、異常なまでに、『物理的な原稿量』を偏執的に数えている事実に気がつくはずである(私はこれを宇野の異常な要素として先の注で正に「数えた」のだが、それにはここでは言及しない)。則ち、宇野にとっては、
一定以上の原稿枚数を持つ、所謂、「中編」以上(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の「河童」である――但し、宇野が「河童」を「小説」=「本物の小説」と考えているかどうかとは別問題である――)の物理的枚数を持つ「創作物」だけが「小説」である
ということである。そして、
完璧な創作であろうが、実体験まんまの叙述であろうが、一定枚数以下(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の純然たる「評論」以外の――何を以って「評論」と言うか自体も無意味な区別と私は考えるが――殆ど総ての作品群)は総て「小品」
なのである。但し、宇野に怒られると困るからお急ぎで補足すると、勿論、
「小説」はただ量なのではなく、内容も、その胆の部分に宇野が(これも宇野だけにしか分からないのだが)「創作性がある」と判断するものは(ここが肝心だが「創作性の高い」「作り事」では断じてないのである。宇野の初期作品はその多くの部分が彼の実体験に基づいている)「小説」である
が、宇野にとってはそういう
「本物の小説」(これも多分、宇野だけに分かる、宇野が誰にも譲れない絶対条件である)というものは絶対に最低、中編以上の原稿量になる、たとえ物語性や創作性が強くても短篇では「本物の小説」は創れない、短篇は悉く「小品」でしかなく、「小説」ではない
と宇野は暗に言っているのだ、と私は思うのである。間違ってはいけないのは、宇野のそれは私小説か非私小説かを問題にしていない、ということである。これは引用された書簡から芥川龍之介自身も同じ立場を実はとっていることが分かるということも押さえておかねばならぬ。そもそも宇野の初期作品は悉く私小説「風」である(「風」としないと宇野先生は絶対に怒る。彼は「文学史的」には私小説作家の代表のように語られているが、彼は、自分は「小説」を書いているのであって「私小説」なんどというへんてこりんなものを書いているのではない、という点に於いて、正に内心、『小説』の『鬼』と自負されている、と私は信じて疑わないからである)。
――いや、そんなことはどうでもいい――
実は以上の「小説」と「小品」への宇野の拘りは、
一つの宇野の言葉にしない芥川龍之介への見解
を、暗に物語っているものなののではなかろうか? 則ち、
芥川龍之介の書いたものは、その殆どすべてが、その分量に於いて、当たり前の如く、中編以上であることを絶対的属性とする「小説」ではない
と言いたいのではないか? 言い換えれば、
芥川龍之介は短い「物語」の作家であり、短いことを絶対的属性とする「小品」作家である/しかない/しかなかった
という宇野の中に隠された、正直な感懐を、である。それは『小説の鬼』宇野浩二にして、実は芥川龍之介に対して、この場(この「芥川龍之介」という評論を書いている現在時制)に至っても
――表立ってはやっぱりはっきり言えない――しかし正直なところの印象――
であった、のではあるまいか? いや
――それを表だって言うことなく、ここまで、これだけの芥川龍之介へのオードを書き進めることの出来る宇野浩二という男――
――彼は確かに正しく芥川龍之介を愛している――
そうして、
――正しく自身の信じ殉ずるところの、「小説」というものの、正に『鬼』であった――
とも言えるのではあるまいか?]
さて、『海のほとり』、(『尼提』と『湖南の扇』とは、私は、取らない、)『年末の一日』、『春の夜』、と、書きつづけて来て、芥川は、これまでの作品とまったく違った、『点鬼簿』を書いたのである。
『点鬼簿』は、やはり、小説ではないけれど、芥川の全作品の中でもつとも重要な作品である。
点鬼簿とは、俗にいう過去帳であり、過去帳とは、いうまでもなく、死人の、法名、俗名、死亡年月日などを書き止めておくものであり、鬼籍、鬼簿、鬼神簿、などとも云うが、芥川は、それらの中から、『点鬼簿』というのを、選んだのである。しかし、どれを選んでも、『鬼』という字は附くのである。)
『点鬼簿』は、めずらしく、芥川が、真剣になって、書いている、極言すれば、芥川の全作品の中で、もっとも真剣になって、書かれた作品の一つである。『大導寺信輔の半生』のなかでは、唯、「信輔は母の乳を吸つたことのない少年だつた、」と、書いているだけであるが、この作品では、いきなり「僕の母は狂人だつた、」と、書いている。
大正十五年の九月の初め頃、鵠沼の寓居で、極度の神経衰弱(というより、精神病)にかかりながら、頭脳は冴え切っていた芥川が、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」と、書き出すのに、書きはじめるまでに、いかに
『点鬼簿』の㈠の中に、こういう所がある。
*
……何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり
*
この母は、芥川の十一歳の年に、なくなったから、この話は、芥川の七八歳の事であろうか。いずれにしても、いきなり長煙管で頭を打つところ、もの静かな狂人が、子女の行楽(子女の行楽である)の
[やぶちゃん注:「なくなったから」は底本「なくなつたから」で、誤植と判断して訂した。]
『点鬼簿』で、芥川は、はじめて、真実を、真実な言葉で、書いた。『点鬼簿』の文章こそ、本当に、無駄のない、抜き差しならぬ、文章である。『点鬼簿』を書く前から、芥川は、眠られぬ
されば、芥川は、しみじみした思いにもなりながら、必死の思いにもなりながら、心魂こめて、(誠に、心魂しめて、)『点鬼簿』を、石に字を刻むように、書きつづけたにちがいない。私などは、この作品を何度か読みながら、ある所では、芥川のすすり泣きしている声が聞こえるような気さえする事がある。
しかし、又、この作品には、側側として迫るような痛わしいところもあるが、
*
僕の父はその
*
これで見ると、芥川の実父も、亦、死ぬ前に、「頭が狂つた、」という事になる。
ところで、『点鬼簿』の最後に、(
*
僕は墓参りを好んではゐない。若し忘れてゐられるとすれば、僕の両親や姉のことも忘れてゐたいと思つてゐる。が、特にその日だけは肉体的に弱つてゐたせゐか、
かげろふや塚より
僕は実際この時ほど、かう云ふ
[やぶちゃん注:内藤丈草の名句は以下の通りの前書を持つ。
芭蕉翁塚にまうでて
陽炎や塚より外に住むばかり
「初蟬」所収の句で元禄九(一六九六)年の春、現在の滋賀県大津市にある義仲寺の先師芭蕉の墓を詣でた際のもので、後の「丈草発句集」では『芭蕉翁の墳にまふでて
陽炎や墓より外に住むばかり
と中七が異なる。句意は、
……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……
といった絶唱である。私も好きな句の一つである。]
*
実際、この時分の芥川は、「塚より外に住むばかり」というような、世を厭う心になっていたにちがいない、又、去来が「句の寂しき事丈草に及ばず」と云われたような、丈草の句を、芥川は、好んでいたかもしれない。
[やぶちゃん注:丈草と親しかった去来の評は、彼の「旅寝論」の「序」に『我蕉門に年ひさしきゆへに虛名高しといへ共、句におゐて其しづかなる事丈草に及ばず、其はなやかなる事其角に及ばず、輕き事野坡に及ばず、あだなること土芳に及ばず、たくみなる事正秀に及がたし』(底本は岩波文庫版)と冒頭に挙がる。宇野派は「しづかなること」(閑かなること)を恐らく「閑寂」の連想からか、誤って「寂しき事」としている。]
さて、『点鬼簿』について、それを知っている人には、ちょっと問題になった論争があった。それは、徳田秋声が、この作品は小説ではない、と云ったのに対して、廣津が、報知新聞で月評をした時、それを反駁した事である。今、その時の廣津の文章が手もとにないので、例の『芥川龍之介研究』[前にも説明したが、「新潮」でもよおした座談会]の中から、そこの所をうつそう。
*
川端。晩年のものを読んでみると、何だか死にさうなやうな気がしますね。
廣津。徳田さんを前においていふのも変ですが、徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないと云つて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかし、あれは死の隣りにゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうなことを云つて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞[註―報知新聞]に書いたんですが、あれを読んでゐると、死ぬと思つたな。
川端。結果論でせうが、
久米。後で読んで見ると、皆さうだね、晩年の作は皆さうだ。
*
私は、「結果論」とか、「後で読んで見ると、」とか、いうような考え方には、同感ができない。それから、私は、『点鬼簿』を読んだ時、「死ぬな、」などとも、思わなかった。
しかし、『点鬼簿』の最後の、墓まいりの話が本当とすれば、芥川は、あの三人の墓まいりをしてから、一年半も立たないうちに、『点鬼簿』を書いてから、
ところが、『点鬼簿』は、誠に
芥川は、発狂した実母の血をもっとも多く受け、それから、疳性で神経質な実父の性質を受けている。(芥川の目は実母、のふくに一ばんよく似ている。)
『点鬼簿』は、前に述べたように、芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品である。
[やぶちゃん注:私はそう思わない。特に私には「点鬼簿」の「二」の「初ちやん」の話が、「蜜柑」や「杜子春」のエンディングに次いで芥川龍之介の作品群の中から、暗い山の彼方に、そこだけ明るい日差しの射し込むのを見るように感ずる程であり、「点鬼簿」を『芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品』などとは、全く以て思わないということを明言しておく(後文で宇野もこの「二」の部分は「稍明るい」とは述べている)。]
そうして、『点鬼簿』の中でもっとも憂鬱なのは、最初の、実母の事を、書いた、一節である。実母、実姉、実父、――と、三人の事を書いてある中で、実母だけは殆んど死ぬ所と葬式だけが書いてある。それは次ぎのような所である。
*
僕の母は二階の
僕の母の葬式の出た日、僕の姉は
*
芥川は、死ぬ一年ほど前に、こういう文章を書いたのである。これは
[やぶちゃん注:「気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品」という言いは本作に現れる最も差別的で、芥川龍之介に対して最大級に失礼な評言であり、しかも全く見当違いの誤認である、と私は思う。そうした批判的視点から本表現を読まれるよう、読者の方に敢えてお願いするものである。なお、この注が目障りと感じられる方は、私のこのテクストでお読みにならず、実際の書籍の「芥川龍之介」でお読みになられれば、よい。速やかにこの私のサイトから去られるのが肝要である。私の人生には、そうお感じになったあなたとは、議論する余裕を、一秒たりとも持っていないからである。]
芥川の青年時代の無二の親友であつた、恒藤 恭が、大正十五年の九月二十八日頃、(芥川が『点鬼簿』を書き上げてから
[やぶちゃん注:「大正十五年の九月二十八日頃」現在、新全集の宮坂覺氏の年譜では恒藤恭の来訪を九月二十九日頃にクレジットしている。恒藤は同月二十六日に遊学していたアメリカから横浜港に帰国していた。引用の直前で『それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川を訪ねたが、……』と述べている。]
*
……当時鵠沼に滞在してゐた芥川をたづねたが、三年ぶりに会つた彼の容貌は、三年まへの、其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの
ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣きをただよはしてゐて、昼食を共にしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることを
[やぶちゃん注:本部分に関して私が参照した鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一八四頁)のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、宇野の引用の後、もう少し引用があり、『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』が、結局、恒藤は今一度帰京前に逢うことは叶わず、そして、これが恒藤が芥川龍之介に逢った最後となってしまう。鷺氏の要約によれば、恒藤は『のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという。』と、ある。]
*
この恒藤の文章を読んで、私は、いたく心を打たれた、芥川の旧友であり親友であった恒藤は、芥川の作品(つまり、『点鬼簿』、その他)を読まないで、芥川が「余命いくばくもない」事を、予感したのである。
つまり、この文章にあるように、芥川は、「正視するのも痛はしいやうな」衰えた肉体を
これは、文字どおり、まったく必死の仕事である。暗澹そのもののような『点鬼簿』の中では、実姉の事を書いた㈡だけが
*
……「初ちやん」[註―芥川の生まれない前に夭逝した姉で、きょうだいの中で一番賢かった人、として、芥川のもっとも愛している姉]は今も存命するとすれば、
*
という所があるが、これは、(これだけでも、)ぞっとするほど、気味がわるい。
私の(私だけの)考えでは、このような気味のわるい文章は、『玄鶴山房』にも、『歯車』にも、ない。(『玄鶴山房』や『歯車』の中にある気味わるさに就いては、後に述べる。)
[やぶちゃん注:私は「点鬼簿」を芥川龍之介の作品群の中でも殊の外愛し、数えきれない程何度も読み返したが、全体を通して(「二」のここだけではなく、「点鬼簿」総て、である)、「ぞっとするほど、気味がわるい」なんどは、ただの一度も感じたことがない。むしろ、ある種の怖くない見たい暖かな霊が、私には見える(こう感じる私もまた、宇野と対極の異常性を持っていると自認はする)。またここで宇野自身の病跡学的問題を語りたいと思う。そもそも宇野は直感優先の人で、最初の生理的感覚を完全に捨て去ることが出来にくい性質の持ち主であるように思われる。今まで、しばしば、彼はいろいろな場面、いろいろな対象(小説や人物や記憶等々)の、「最初の印象を後に変えた(訂正した)」という謂いを語ってきているが、これは実は裏を返せば、宇野は、心的振幅の大きい感情的な最初の印象に関しては相当に深く心に彫りつけて忘れない(忘れられない)タイプ、粘着気質であることを示していると言える(これはどうも宇野の生得的性格であると思われるが、梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患と予後によって、更にそうした性格が突出してきたという印象を私は持っている)。そうした宇野にとって、特にその中でも強い不快感や恐怖感を必ず伴う「気味がわるい」という感じ方(はっきり言わせて頂くと「稍奇異な」印象さえ私は感じている。則ち、強迫観念としてのフォビアである)に関しては、初読で感じてしまったものに対して、殆ど、というか実は全く、後の修正が効かないのである。図らずもここで宇野が「(私だけの)」とわざわざ述べているのは、宇野自身がそうした自分のフォビアの印象の固着に薄々感づいていることを示していると言えるのではないだろうか。宇野の執念深い、粘着的な芥川作品への断定は、そうした評者である宇野の心理的側面への分析的視点からも同時に捉えていかないととんでもないことになる、と私はつくづく思うのである。]
大正十五年は、芥川は、一月の初めから、健康をわるくし、一月の中頃から、保養をかねて、湯河原に出かけ、二月の中頃に、湯河原から、帰り、四月頃から、鵠沼に行きはじめ、終に、その年一ぱい、殆んど、鵠沼で、暮らすようになった。
芥川の神経衰弱は
その大正十五年の四月十三日に、(鵠沼にて浄書)と断り書きのある、『凶』という文章がある。これは、大へん参考になるので、全文をうつす。
*
大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高[註―今の農科大学]の横から
大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢の
大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一[註―直木三十五]、中山太陽堂社長[註―プラトン社に出資していた人。プラトン社から、直木の編輯した、「苦楽」「女性」を発行した]などと築地の待合に食事をしてゐた。僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――と云ふ順序に坐つてゐたのである。そのうちに僕は何かの
大正十五年の正月
*
この文章は、(この文章も、)実に気味のわるい文章である。しかし、この気味のわるい話を、ちゃんと辻凄の合うように、書いているのが、一そう気味がわるい。ところで、芥川が、このような気味のわるい文章を、わざわざ、浄書したのは、どういう訳であろう。
それはそれとして、この話(『凶』)の中で、一ばん気味のわるいのは、アカシヤの枝の間に「人の
金色の唐草をつけた、葬式に使う自動車や、アカシヤの枝の間にぶら下っている二本の人間の脚や、麦酒罎にうつる幻の顔や、――そういうものは幻視であり、「何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、」というような考え方は、恐るべき、脅迫観念である。
[やぶちゃん注:宇野はまたしても鬼の首の確信犯『精神病者』立証を行っているわけでるが、これについて私は既に「凶」の私のテクストのマニアック注で『異常とも神経症的関係妄想だとも言えない』という見解を述べている。是非、参照されたい。]
つまり、大正十五年には、(殊に、鵠沼に住むようになってからは、)芥川は、不断に、幻視、幻聴、その他の、幻覚に、なやまされ、さまざまの脅迫観念に、おそわれていたのである。
それにもかかわらず、芥川が、それらの異常な経験を
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]
*
僕は全然
僕は
*
こういう、(これに類するような妙な、)話がもう一つあって、その話の終りに(以上東家にゐるうち、)と断り書きがしてある。つまり、以上が東家にいた時に経験した話、という意味であ、る。そうして、その次ぎに、やはり、似たような話が
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]
*
僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や
僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三
[やぶちゃん注:『鵠沼雑記』の私の全テクストはこちら。]
*
これらの文章は七月二十日に書いたものである。
この文章だけで見れば、この文章の主人公である「僕」はハッキリ精神病者である。しかし、この文章を書いている人(つまり、芥川)は、仮りにこのころ精神病者であったとしても、頭脳は
さきに引いた『鵠沼雑記』の中の、松の中で、「尻を振り振り歩いて行つた、」急にふり返って、「確かににやりと笑つた、」白犬は、名作と称せられた、『蜃気楼』の中では、
*
僕等はいつか家の多い
「K君はどうするの?」
「僕はどうでも、……」
そこへ
[やぶちゃん注:「K君」は東京から遊びに来た大学生の知人。モデルは堀辰雄か。]
*
という所に、登場している。(つまり、『鵠沼雑記』の中で、「……白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた、」というのが、『蜃気楼』の中では、「……黄白い犬が一匹、向うからぼんやれ尾を垂れて来た、」という事になったのである。つまり、『鵠沼雑記』の中では、薄気味わるい白犬であったのを、作者は、『蜃気楼』では、その犬を、大事な所の、点景として、登場させたのである。)
それから、やはり、『鵠沼雑記』の中で、「何度見直しても、」
ところで、芥川は、その、『鵠沼雑記』の中の、「白い洋館」を『悠々荘』の初めの方の、
*
そのうちに僕等は
*
というところで、「茅葺き屋根の西洋館」として、『悠々荘』のもっとも重要な役に立てている。
私は、
ところで、さきに、『鵠沼雑記』の中の、歪んだ洋館の話を読んだ時、すぐ、『アッシャア家の崩壊』、を、思い出した、と述べたが、私は、『悠々荘』は、その「歪んだ洋館」と、それ以上に、『アッシャア家の崩壊』が芥川の
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]
*
僕は風向きに従つて
十月の或る午後、僕等一二人は話し合ひながら、松の中の小みちを歩いてゐた。小みちにはどこにも人かげはなかつた。……
そのうちに僕等は
雲が重苦しく空に低くかかつた、陰鬱な、暗い、寂莫たる、秋の終日、私はただひとり馬に跨つて妙にもの淋しい地方を通り過ぎて行つた。そして
*
最初の一節が『鵠沼雑記』であり、次ぎの一節が『悠々荘』であり、最後の一節が『アッシャア家の崩壊』である。
もとより、『アッシャア家の崩壊』はポオの傑作の一つであり、『悠々荘』は芥川の病中に書いた小品である。それから、『悠々荘』と『アッシャア家の崩壊』とは、むろん、構想も手法もまったく違う。それに、前に述べたように、『悠々荘』は、『アッシャア家の崩壊』から思いついたらしいものではあるが、
それにもかかわらず、この小品をわざわざ取り上げたのは、この文字どおり
大正十五年の下半季は、(前にくどいほど述べた、芥川の鵠沼時代は、)芥川の晩年のうちで、死んだ
大正十五年の九月の初め頃に、文字どおり骨身をけずる思いをして、『点鬼簿』を重いた芥川は、
大正年代は、創作を特に載せる綜合雑誌が、たしか、四五冊しかなかった。その中で、たぶん、三つか四つかの大雑誌が、一年のうちに、一月、四月、七月、十月、と、
さて、その大正時代には、どの雑誌でも、おそらく、新年号には、芥川の作品が、ほしかったにちがいない。それに、芥川も、新年号には
[やぶちゃん注:以下のリストは底本では引用でもないのに、特異的に全体が二字下げになっている。私のテクストでは見易くするために、大きく改変して二字下げ年改行とし、一桁の年号部に一字空けを施した。]
大正 六年、四篇。
大正 七年、二篇。
大正 八年、五篇。
大正 九年、三篇。
大正 十年、四篇。
大正十一年、四篇。
大正十二年、ナシ。
大正十三年、四篇。
大正十四年、三篇。
右のうち、『大正十二年、ナシ。』というのは、これは、前に述べたように、支那旅行のために、疲労困優し、重い病気になったからである、それから、前に引いたと思うが、大正十二年の十二月二日に、芥川は、真野友二郎に宛てた手紙の中に、「小生心臓をいため叉胃腸をそこなひずつと病臥、新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました。小生の病は一切神経衰弱より
さて、大正十四年の新年号の三篇は、そのうちの、
つまり、芥川が、大正十五年の秋の末の頃、殆んど誰に宛てた手紙の中にも、新年号、新年号、と、まるで自分に云い聞かせるように、書いているのは、いま述べたように、前の
*
……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやれ切れない気がする。ちよつと上京した
……唯今新年号の仕事中、相かはらず頭が変にて弱り居り侯間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。…… [大正十五年十一月二十一日、斎藤宛ての手紙]
……こちらは新年号と云ふものにて弱つて居ります。
かひもなき眠り薬や夜半の冬
*
この大正十五年の十二月頃、芥川は、
枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀬戸ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ
というような歌を、斎藤茂吉に宛てた手紙の中にも、室生犀星あての手紙の中にも、
はさんでいる。
芥川が、このような
これは、もとより、作者である芥川には、堪えがたい寂しさであったろうが、前に述べたような
ところが、旧友の思い出の話ではあるが、それが
*
……彼はベッドに腰かけたまま、
「僕はあの綜憫の木を見る
棕櫚の木はつい
……太陽はとうに沈んでゐた。しかしまだあたりは
「この砂はこんなに
僕は彼の言葉の通り、
「うん、ちよつと気味が
「
僕はなぜかかう云ふ対話を覚えてゐる。それから僕等は半
[やぶちゃん注:本作の主人公Xのモデルは府立第三中学校時代の友人府立三中時代の同級生である平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二十五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)である。本作の私の電子テクストには「海雀」「弘法麦」等、詳細な私の注を施してある。参照されたい。]
*
この小説の主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、
が、そんな事より「この砂はこんなに冷たいだらう、」と云われて、海岸の砂の中に片手を差しこんで、太陽の熱がまだかすかに残っているのを感じて、「うん、ちよつと気味が悪いね。夜になつてもやつぱり温いかしら、」と云う、それに答えて、「
[やぶちゃん注:『主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、
私が、あまり上等でない作品『彼』について長ながと述べたのは、『彼』の中にある、
さて、芥川は、このような小説を書いて、まもなく、昭和二年になり、数え
昭和二年は、いうまでもなく、芥川の死んだ
二十二
例の『芥川龍之介研究』の中で、川端が、「僕は『歯車』は芥川氏のすべての作品に比べて断然いいと思ふ、」と云うと、佐藤が、「僕も同感です、」と云い、廣津も、「僕なんかも一ばん頭に残つてゐるのは『歯車』だと思ふ、」と述べている。
私は、(私も、)『歯車』は、芥川の晩年の作品の中で、特殊なものの
『玄鶴山房』は、前に述べたように、㈠は、大正十五年の十二月に、鵠沼で、書いたが、大部分は、昭和二年の一月に、田端で、書いた。
*
僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテキル。出来上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ読ソダ、実ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野[註―中野重治]君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ
*
右は、大正十五年十二月五日、芥川が、鵠沼から、室生に宛てた手紙から、引用したのである。(この文章の中にある、室生の『美小童』という作品は、大正十五年の十二月号の
「近代風景」[たしか、北原白秋が個人で出していた雑誌である]に出たものであるが、この「近代風景」には川端康成、岡田三郎、浅原六朗、今野賢三、の作品が、出ている。それから、やはり、大正十五年の、十一月号の「世界」[これは、私も、聞いたことも、見たことも、ない]という雑誌に、芥川の『鴉片』というのが出ている、ついでに書けば、十月号の「改造」には、芥川の『点鬼簿』のほかに、佐佐木茂索、村山知義、の作品も、出ている。――こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの
[やぶちゃん注:「中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。」文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃(大正十五(一九二六)年)、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正にこの前後に鹿地亘らとともに社会文芸研究会(一九二五年)やマルクス主義芸術研究会(一九二六年)を結成、この年(大正十五(一九二六)年)に日本プロレタリア芸術連盟へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。
「近代風景」は大正十五(一九二六)年に白秋が創刊した詩誌。
「岡田三郎」(明治二十三(一八九〇)年~昭和二十九(一九五四)年)は小説家。博文館で『文章世界』の編集者をする傍ら、小説を発表した。当時は新興芸術派倶楽部に属した(後に私小説に転ずる)。代表作に「巴里」「伸六行状記」。
「浅原六朗」(ろくろう 明治二十八(一八九五)年~昭和五十二 (一九七七)年)は小説家。新興芸術派倶楽部の結成に参加、モダニズム文学の作家として活躍した。戦後、日本大学教授となった。代表作に「或る自殺階級者」「混血児ジヨオヂ」、童謡「てるてる坊主」などの作詞者(浅原鏡村名義)としても知られる。
「今野賢三」(いまのけんぞう 明治二十六(一八九三)年-昭和四十四(一九六九)年) は小説家。大正十(一九二一)年に郷里の秋田で小牧近江らと『種蒔く人』を創刊、後に『文芸戦線』同人となった。
「世界」は大正十五(一九二六)十一月一日に創刊された雑誌とされるが、詳細未詳。芥川龍之介の「鴉片」の初出とするデータは、昭和二十九(一九五四)年から翌年にかけて刊行された岩波書店小型版全集十九巻所収の「作品年表」によるものであって、実は宇野だけでなく、現在も現物の確認がなされていない。以上の雑誌『世界』の情報は平成十二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介全作品事典」の「鴉片」の項(吉岡由紀彦氏執筆)に拠った。
「こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。」という部分、私が馬鹿なのか、意味がよく判らない。そもそも「こういう事」とは何を指しているのか? そして、どんな「有識者」から、どんな「示教」を宇野は期待しているのか? 「こういう事」とは馬鹿な私なりに勘ぐってみると、『たかが』個人の出した詩の雑誌「近代風景」とやらや、『どこの何様が出したのかも分からない、それこそ今だって現物が見つからない、怪しげな』雑誌「世界」やらや、『天下の小説誌(と宇野も芥川も一目置く――これは既出の内容である――)「中央公論」ではない、社会主義評論に偏頗していた、所詮、綜合』雑誌に『過ぎない』「改造」やらに、天下の著名作家達がこの頃何故、気安くほいほいと小説を発表したのか、してしまったのか、私(宇野)にはとっても理解が納得出来ないね、ということか? 雑誌を小説を本分とする一流(宇野はそう表現していないが)の雑誌と、綜合雑誌や女性誌やその他の怪しげな個人誌や趣味雑誌(と宇野が思っている)を二流として見下し(やはりそう言ってはいないが、今までの部分を読めば、宇野のそうした蔑視感は一目瞭然である)敢然と区別する宇野にして、私はそういう解釈をせざるを得ないのであるが、如何か? 有識者の御示教を乞う。]
ところで、先きに引いた、芥川が室生に宛てた手紙の中の、「陰鬱極マル
その『玄鶴山房』の㈠を、芥川は、「痔猛烈に再発、昨夜呻吟して眠られず」というような状態の中で、一字、五字、一行、三行、と、苦心惨憺しながら、書いたのであろう。神経衰弱(というより、精神病)に
されば、芥川は、二枚あまりの『玄鶴山房』の㈠を書くのに、半月以上はかかったであろう。
ところが、その㈠だけをやっとの思いで書き上げて、昭和二年の一月二日に、田端の自宅に、帰って来た芥川は、一月早早、思いがけない災難に
極度の神経衰弱(というより、殆んど精神病)にかかっていた芥川には、このような事件は、精神的にも、物質的にも、大変な打撃であった。それは、たびたび云うように、大正十五年の中頃から、芥川は、神経衰弱を
*
僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらの
*
これは、『歯車』の中の『復讐』の
ところで、この文章の初めの方の姉を、芥川の姉の久子と見なすと、芥川は、義兄の西川が自殺したために、忽ち、寡婦になった姉の一家の面倒を見なければならぬ事になった。それで、ずっと前に引いた葉書の文面でもわかるように、芥川は、一月の九日から十五日頃までの
*
……唯今姉の家の後始末の
……まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙の
*
右の、佐佐木あての手紙の中の「何か書かねはならず、」も、宇野あての手紙の中の「何か書いてゐる始末だ、」も、共に、『玄鶴山房』のことである。おなじ日に書いた手紙でありながら、
ここで、やはり、『玄鶴山房』に関係のある書翰がまだ
*
……僕は暗タンたる小説を書いてゐる。中々出来ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。
*
というのがあった。
この「暗タンたる小説」というのは、どうも、『玄鶴山房』らしい。そうして、これが、もし、『玄鶴山房』とすれば、
*
……オピアム毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用ひ居り、なほ又その
*
こういう事を書いた手紙を斎藤茂吉に出した翌日、(つまり、十二月五日、)芥川は、室生に宛てた手紙の中に、先きに引いた、「僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」という文句を書いている。
さて、この、佐佐木あての葉書の中の、「暗タンたる小説」というのも、斎藤あての手紙の中の、「陰鬱なもの」というのも、室生あての手紙の中の、「陰鬱極マルカ作」というのも、結局、『玄鶴山房』のことである。
それから、十二月の、三日、四日、五日、とつづけて佐佐木と斎藤と室生とに「暗タンたる小説を書いてゐる、」「少くとも陰鬱なものしか書けぬ、」「陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」と、同じような事を報告しているのを見ると、芥川が如何に『玄鶴山房』に乗り気になっていたかが
それから、誰に出す
そうして、それには、力作をしなければならぬ、と覚悟した。『力作』とは、いうまでもなく、「力をこめて製作すること」である。
その頃の、たびたび云うが、幾つかの重い病気にかかっていた芥川は、力作をするためには必死の努力をしなければならなかった。そうして、芥川は、必死の努力をしたのであった。されば、その有り様を見た小穴には、死に物ぐるいのように見えたのである。『
[やぶちゃん注:現在の年譜的事実によれば(鷺及び宮坂年譜を参考にして関連のありそうな部分を纏めてみた)、「玄鶴山房」の脱稿の経緯は以下のようになる(リンク先は総て私の電子テクスト)。
十二月 三日 「玄鶴山房」は十二・三枚まで進んだが、そこで停滞。宇野の引く「暗タンたる小説を書いてゐる」という佐佐木宛書簡を書く。
一二月 四日 「僕は」を脱稿。宇野が引用した斎藤宛「オピアム毎日服用」の書簡を書く。
一二月 五日 先に宇野が引いた中野重治に言及する室生宛書簡を書く。
一二月 九日 漱石忌。「彼 第二」を脱稿。小穴によれば、この日を自殺決行日と考えていたこともあるとする。
一二月 十日 「或社会主義者」脱稿。
一二月一一日 痔と不眠に苦しむ。
一二月一三日 宇野が引いた「アヘンエキス二週間分」の書簡を書く。夕刻、鵠沼から田端へ戻り、原稿執筆を続ける(恐らく「玄鶴山房」)。
一二月一六日 この日に予定していた「玄鶴山房」の脱稿が出来ず、二月号への掲載延期を中央公論社に申し入れる。そこでどのような交渉が行われたかは分からないが、結局、この日の直近で「玄鶴山房」の「一」と「二」を脱稿している。
一二月二〇日 佐佐木らと赤倉へスキーに行く予定であったが、「玄鶴山房」執筆遅滞のため、中止する。
一二月二二日 午後八時頃、下島勲とともに鵠沼に帰る。
一二月二五日 大正天皇崩御、皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚、昭和に改元。宇野が引いた「くたばつてしまへと思ふ事がある」という滝井孝作宛書簡を書く。芥川龍之介随筆集『梅・馬・鶯』が新潮社から刊行される。
一二月二七日 妻文、正月準備のために田端に戻る。代わりに(自殺願望を持つ龍之介を監視する意味があったと思われる)葛巻義敏が鵠沼へ来る。
十二月三一日 鎌倉小町園へ行く(所謂、宇野の言う「短い家出」である。なお、鵠沼の借家は翌年の三月まで借りていたものの、これ以降は鵠沼には殆んど滞在しなかった)。
一月 一日 鎌倉小町園に居続けする。「玄鶴山房」の「一」と「二」、『中央公論』に掲載される。
一月 二日 鵠沼に立ち寄った後、夜、田端に帰還する。
一月 三日 嘔吐する。下島来診。
一月 四日 西川豊宅全焼。西川には放火の嫌疑がかかり、取り調べを受ける。
一月 六日 午後六時五十分頃、西川、鉄道自殺。なお、芥川龍之介はこの頃から、平松麻素子の口利きで帝国ホテルに執筆用の部屋を借りている。後の自殺未遂もここで起きた。
一月一六日 『中央公論』二月号に掲載を延引して貰った「玄鶴山房」の後半を執筆するが、義兄西川の事件で脱稿出来ない(この日が脱稿予定日であったか)。
一月一九日 下島の他、友人一人が来訪するが、二人の前で「玄鶴山房」の推敲を続け、遂に「玄鶴山房」を脱稿する。]
一般に、『地獄変』は、凄惨で、怪異で、「読む人ことごとく戦慄する、」名作である、と称されている。しかし、『地獄変』の陰惨は、作者の
*
かげろふや塚より
僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸の心もちが押し迫つて
*
という一節さえ、私には、昔ながらの芥川の気取りがあるようにさえ思われるのである。
*
芥川は、丈艸を、蕉門の中で、「最も的的と芭蕉の
[やぶちゃん注:「的的と」明白なさま。]
ところで、前に、『ポオズ』とか、『気取り』とか、いう言葉を使ったが、
ここまで書いて、『点鬼簿』を、念のために、読みなおして見て、さきに述べた事を訂正しなければならなくなった、それは、先きに引いた所のほかは、(これも、もとより、晩年の作品であるから、)殆んどポオズや気取りがないからである。それは、(その一例は、)次のようなところである。
*
僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは、何と云つても「初ちやん」[註―ずっと前にも註をした、芥川の生れぬ前に死んだ、賢かった姉(長女)]である。「初ちやん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か
[やぶちゃん注:「サンマアズ夫人の幼稚園」言語学者・日本研究家James Summers(ジェームス・サマーズ 一八二一年~明治二十四(一八九一)年)の夫人が経営した幼稚園。明石橋橋畔にあった。ジェームス・サマーズは英国人お雇い外国人教師として明治六(一八七三)年に来日、東京開成学校の英文学と論理学教授から始まり、新潟英語学校、大阪英語学校の英語教授を経、明治十五(一八八二)年の札幌農学校を最後に満期契約となったが、そのまま帰国をせずに東京築地の自宅に「欧文正鵠英語学校」を設立、日本で生涯を終えた(以上は北海学園大学人文論集第四十一号(二〇〇八年十一月刊)所収の中川かず子氏の「ジェームス・サマーズ――日本研究者,教育者としての再評価」の記載に拠った)。筑摩書房全集類聚版脚注には、『築地のサンマーズ塾といえば英語を解する人達は大抵一度は厄介になったことのある古くから有名な学校』で、『塾長キャッセー・サンマーズ嬢』で(サマーズ夫婦の娘か?)、彼女は明治四十二年に『三十年ぶりで帰国した』[『東京日日新聞』記事]とある(私の注も異様に細かくなったが、この脚注も異例に長い)。なお、Hisato Nakajima氏のブログ「東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present」の2011年4月26日 at 12:40 AM のコメントへの氏の返信の記事に現れるものでは、『藤善徳「築地居留地の思い出」では、「サンマー・スクール」と呼ばれた英語塾とされ、リリイ・サマーズという人がやっていたようで』(この「リリイ」が「サンマアズ夫人」の名か?)、『谷崎潤一郎や岡倉由三郎が学んだと』ある(岡倉由三郎(慶応四(一八六八)年~
昭和十一(一九三六)年)は英語学者。夏目漱石の友人で、岡倉天心の実弟)。『清水正雄「築地に開設された教会と学校」では、正式名が「欧文正鵠学院」』、明治十六年から四十一年まで『開設されていたことが記載され』ている、とある。
「キヤラコ」英語“calico”は、インド産の平織りの綿布を言う。但し、本邦ではインド産の厚手の染色されたそれとは異なり、薄く織り目を細かく糊付けした純白の光沢のある布地を主に言い、足袋やステテコの材料とする。]
これは、『点鬼簿』の㈡の中程の、芥川が、見たことない、懐しい、姉を思いながら、二十六七年前の、小学校に
これ(つまり、『点鬼簿』)を書いている頃の芥川は、芥川について述べている誰の文章でも、(私の知る限り、)大てい、既に死を覚悟していた、とか、死に隣りしていた、とか、書いている。それは、鬼籍にはいった人たちのことを、その人たちの殆んど陰気な話はかりを、暗い、しみじみした、真に迫った、文章で、書いてあり、それに、厭世家の丈艸の、厭世的な、『かげろふや塚より外に住むばかり』という句にも幾らか動かされたからであろう。
しかし、私は、前にも述べたように、魯鈍なためか、「改造」[註―大正十五年十月号]で、この作品を読んだ時、「ずいぶん暗い作品だなあ、しかし、うまいな、」とは思ったが、この作者人つまり、芥川)が、これを書く頃、「死を覚悟」していた、とか、「死に隣り」していた、とか、いうような事は、私の
ところで、先きに引いた一節は、殆んど
[やぶちゃん注:「金巾」は「かなきん」と読み、経糸と緯糸の密度をほぼ同じにして織った、目が細かく薄地で平織の綿織物のこと。本邦ではポルトガル語の「カネキン」が語源でかく呼称される。言わば「キャラコ」は、艶出しして光沢を持たせたカネキンである。]
『点鬼簿』――まず、書き出しの、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を
[やぶちゃん注:「西廂記」
「土口気泥臭味」これについて、筑摩書房全集類聚版脚注は、『これと同一の語は「西廂記に」見えない』とし、『第四本第三折に『土気息泥滋味』(土のにおい泥のあじ)とあるのがこれに近い』とある。これは、ネット検索をかけると、登場人物の以下の台詞の中に次のように現れることが分かる。
「將來的酒共食、嘗著似土和泥。假若便是土和泥、也有些土氣息、泥滋味。」
残念ながら私の能力では、注はここまでである。]
ところで、私が殊更に述べようと思うのは、一般に『点鬼簿』を暗い憂鬱な作品であると云うのは、その最初の㈠の話があまりに凄惨で陰鬱なためであって、全体として見れば、『点鬼簿』は、暗い陰気な作品ではあるけれど、それほど暗い作品でないばかりでなく、なかなかうまい
さて、㈠を読みおわって、㈡にうつると、前に述べたように、急に、書かれてある事も
*
「伯母さん、これは何と云ふ
「どの樹?」
「この苔のある樹。」
僕の母の実家の庭には
「これはお前と同じ名前の樹。」
伯母の洒落は
「ぢや莫迦の樹[註―ボケの木、バカの木]と云ふ樹なのね。」
伯母は「初ちやん」の話さへ出れば、
*
これは、『点鬼簿』の㈡の
㈠には、「髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた
胃と腸をわずらい、ひどい痔になやまされ、精神病に近い神経衰弱にかかり、「催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独り語をつづけ」[大正十五年九月二日、室生あての手紙のうち]た、というような状態にありながら、芥川は、このような心にくい
さて、㈢は、実父の話であるが、これも、亦、㈠のように、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」というような書き
*
僕が病院へ帰つて
[やぶちゃん注:「註―インフルエンザのために父が入院したので、……」には注を要する(以下、主に宮坂年譜を参考にした)。まず、実父新原敏三のインフルエンザ(スペイン風邪)による東京病院入院は大正八(一九一九)年三月十三日で、当日、電報で連絡を受け、鎌倉の文との新居から上京、この日は病院に泊まっている。「教師をしていた」とあるが、実はこの五日前、龍之介はかねてよりの希望通り、大阪毎日新聞社から客員社員の辞令を受け取っており、芥川は三月三十一日で辞職することになっていた(実際に当日に退職はしたものの、免官辞令は何故かずれたらしい)。「友人たちに呼ばれて宴会に行って」とあるが、これは彼の親友であったアイルランド人ロイター通信の記者トーマス・ジョーンズで、「点鬼簿」で『僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた』たるのを指す(なお、このジョーンズを主人公に芥川との交流を実に印象深く描いたのが「彼 第二」である)。翌、三月十六日日曜の朝、敏三没。享年六十八であった。]
*
この一節は、小さいうちに養子にやったために、滅多に逢えない子に、死にかかっている実父が、看病に来ている人たちを皆しりぞけて、気が違ったままで死んで行った妻(つまり、その子の母)と、所帯を持った頃、一しょに、箪笥を買いに行った話とか、鮨をとってたべた話とか、(つまり、)「瑣末な話」をして聞かせるところで、いわば普通の人情話ではあるが、読みながら、目頭が痛くなるではないか。
先きに述べたように、『点鬼簿』といえば、唯、沈鬱な、陰気な、物語のように思われているが、『点鬼簿』とは、前に述べたように、一般に『過去帳』というもので、死んだ人たちの、俗名と法名と死亡した年月日を書き
[やぶちゃん注:この段落の宇野の芥川龍之介への思いは、本作の中でも最も万感迫ってくる、友人ならではの謂いである、と私は思う。]
*
……僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覚えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から実家へ
*
と、芥川は、『点鬼簿』の㈢の終りに、書いている。
この一節にはほのかな感傷があり、しみじみしたところがある。
しみじみしている、と云えば、『点鬼簿』の文章は、寄り
『点鬼簿』の
『点鬼薄』の中に、「実家」という言葉が、
それは、「僕の母は髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人……」というところ、「僕の母の実家の庭には育の低い
数え
その実家、の二階では、狂人の母が、いつも
[やぶちゃん注:「その実家の庭には」とするが、「実家」の連関を認めたい宇野には申し訳ないのだが、「二」の中の「実家」は新原家ではない。「点鬼簿」の該当箇所を読めば分かるが、直前に「初ちやん」は『土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに』来たと記し、その後にあのシークエンスに入り、そこでは『僕の母の實家の庭には背の低い木瓜の樹が一株、古井戸へ枝を垂らしてゐた』とあるのである。『僕の母の實家』とは、母フクの実家、則ち「初ちやん」が毎土日にかけて泊まりに来ていた本所小泉町(現在墨田区両国)の芥川家を指すのである。だからこそ伯母フキもそこに居るのである。]
養家で人と
[やぶちゃん注:先の宇野の誤解を瓢箪から駒とするなら、芥川龍之介にとっては実は、実家新原家だけではなく――『養家』芥川家の旧宅も(それにシンボライズされる芥川という家の存在も)、結局は『限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家であ』ったと言えるのかも知れない。]
そこで、
ところで、『点鬼簿』の中から、父と母とが死ぬ前の事を書いてあるところを、ならべて、引いてみよう。
*
僕の母は
僕の父はその
*
これでは、なんぼなんでも、
しかし、いずれにしても、『点鬼簿』は、実に巧みな作品である、しかし、結局、小品である。
さて、この小品が発表された当時」わりに高く評価されたのは、この作品で、芥川が、はじめて、自分の幼少年時代の回想を述べるのに、「僕」という言葉をつかい、その僕が、肉身の、(父母と姉の、)思い出を、しみじみと語る、という形式を使ったからである、それは、又、これまで、幼少年時代の回想風のものを書いても、例えば、『少年』には、まだ、不評判であった、保吉という名をつかい、一部の評論家に劃期的と云われた『大導寺信輔の半生』でも、信輔という名を
勿論、『点鬼簿』にも少しは思わせぶりなところがある。(「思わせぶり」は芥川の芸術の特徴の
私は、四節に分かれている『点鬼簿』の
書き出し、といえは、㈡、㈢、㈣は、前に述べたように、㈠よりは落ちるけれど、それでも、「僕は
芥川が志賀直哉と共に尊敬した、葛西善蔵は、若き間宮茂輔に、「小説は、書き出しと、切りが、大切ですぞ、」と教えた、という話を、間宮が、『風の日に』という実名(
[やぶちゃん注:「間宮茂輔」(もすけ 明治三十二(一八九九)年~昭和五十(一九七五)年)は小説家。慶應義塾大学中退後、『文藝戦線』に参加、昭和八(一九三三)年に逮捕、昭和十(一九三五)年に転向して出獄、代表作に「あらがね」。戦後は新日本文学会に属した。]
*
彼はまたいつとなくだんだんと場末へ追ひ込まれてゐた。
*
これは、葛西の処女作『哀しき父』[大正元年八月作]の書き出しの文句である。
さて、芥川が『点鬼簿』を書いた鵠沼時代の生活の
*
「あすこに船が
「ええ。」
「檣の二つに折れた船が。」
*
右の文章の中に、「二度目の結婚」とあるのは、大正七年の二月に結婚したので、その頃、横須賀の海軍機関学校の教師をしていた芥川は、田端の家をはなれ、鎌倉で、家(あるいは、部屋)を借りて、
ところで、先きに引いた文章の中の、絶えず水沫を打ち上げている、という海の話も、沖の稲妻を三人の子等と一しょに眺めるところも、更に、評論家たちが、その時分の芥川の心を現したものである、とか、その頃の芥川の象徴である、とか、いうような理窟をつけている、「檣の二つに折れた船」が見える、というような話も、私には、みな、『
諸君、さきに引いた文章をよく読んでごらんなさい。実に、心にくいほど、うまく出来ているではないか。これは、
五十一章から
『或阿呆の一生』は、どの章を読んでも、何ともいえぬ痛ましい気がする。
しかし、この久米正雄に托された原稿、(遺稿、)、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と割註がしてあって、それが抹消されてあるそうだが、故人がそれを抹消した気もちはわかるような気はするけれど、これは、「自伝的エスキス」のようなところもあるが、文学の観照眼の特にすぐれた久米が云うように、「一箇の『作品』」である。
[やぶちゃん注:「エスキス」は、フランス語“esquisse”で、英語の“sketch”のこと。素描。下絵。]
つまり、『或阿呆の一生』は、
その『或阿呆の一生』のなかの『譃』という章の中に、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた、」という文句がある。そのルッソオの『懺悔録』を、(私は、いつ、どこで、誰の文章で、読んだか、忘れたが、)
ブリリアント・ライ。――『或阿呆の一生』はブリリアント・ライである。
何と、これは、見事ではないか。
久保田万太郎は、さすがに、芥川が、「最後まで自分を美しく扮装しつづけた、」と云い、そうして、『或阿呆の一生』が読者に与えるものは、「魂の美しい旋律」だけである、と云った。
魂の美しい旋律。
『或阿呆の一生』の最後の『敗北』という章の初めに、「彼はペンを執る手も震へ出した、」という文句がある。それを、大抵の評論家も、多くの人も、「芥川の文学の敗北」を意味する文句のように、云う。
しかし、それは、違う。
芥川は、仮にこの文句が本当とすると、ペンを執る手が震え出すまで、文章を書いていたのである。
つまり、芥川は、死ぬ時まで、芸術家であったのだ。されば、芥川は、決して、文学に敗けたのではないのである。
[やぶちゃん注:私はこの最後の宇野の言葉には、完全に同意するものである。]
*
三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、
そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
妻はやつと頭を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもした
*
これは、『歯車』の最後の『飛行機』の終りに近いところの一節である。
私は、この一節が、芥川の鵠沼時代の或る時の真相にいくらか近いのではないか、と思う。
つまり、芥川は、ざっと、こういう状態の中で、『点鬼簿』を、書いたのである。
そうして、芥川は、やがて、大正十五年を送ったのであった。
大正十五年の十二月の三十一日から昭和二年の一月二日まで、芥川が、小さな家出をした、という話を、私は、ここで、思い出した。
二十三
『玄鶴山房』は、芥川の晩年の作品ちゅうの傑作の一つであり、芥川の全作品の中でも最も
[やぶちゃん注:お気づきになられたか? 宇野は、「玄鶴山房」は、「本格的な小説」と言うには、見え透いた作為性と如何にもな出来過ぎた結構に於いて躊躇を感じないでもないが、芥川龍之介の『大正十三年の春頃から死んだ年の昭和二年の初夏の頃までの四年ちかくの間の数だけ多い作品の中で、本格的にちかい小説』と呼んでやっても、まあ、許してやろう、その程度には「上手い創作」「小説と呼んでも許し得る」作品だ、と言っているである。ここでは宇野が、芥川の「玄鶴山房」を除く後期作品を(初期作品も恐らく宇野にとっては厳密には「評価出来る上手い物語」であって「本格小説」ではないのだと私は思う)、その分量と結構に於いて小品(小品文)とし、小説としては決して認めないぞ、という強烈な意識が露呈している部分と言えるのではあるまいか?]
『玄鶴山房』は、ずっと前に述べたように、大正十五年の十二月の初め頃から、手をつけているが、その大部分は、昭和二年の一月の中頃から下旬にかけて、書いたものであるから、『玄鶴山房』は昭和二年の一月の作、と見るべきであろう。
[やぶちゃん注:前掲の私の関連表を参照されたい。看護婦からの聴取の推定も妥当なものと思われる。この六月の中下旬、芥川は下痢(後に大腸カタルと診断)に悩まされ、合併症の痔でも苦しんだため、妻文の母塚本鈴が心配して、塚本八洲附きの看護婦を鵠沼の芥川の元に送っている(宮坂年譜に拠る)。]
芥川は『玄鶴山房』の構想はずいぶん前から立てていたにちがいない。
ずっと前に引いた、芥川が、私に宛てた手紙[昭和二年一月三十日]の中に、「あの話[つまり、『玄鶴山房』]は『春の夜』と一しよに或看護婦に聞いた話だ、」と書いているのが本当とすれは、芥川は、大正十五年の六月二十日頃に、義弟[文子夫人の弟、塚本八洲]の附き添い看護婦から、『春の夜』の話と『玄鶴山房』の話を聞いた筈である。
『春の夜』はNさんという看護婦が話し手になっており、『玄鶴山房』でも甲野という看護婦が主役の一人になっているから、この
それから、両方とも、人がもっとも
それから、この二つの作品は、
『春の夜』は、その看護婦から話を聞いてから、一と
*
……離れへ行つて見ると、清太郎は薄暗い電燈の下に静かにひとり眠つてゐる。顔も亦
「氷嚢をお取り換へ致しませう。」
*
最後の、「氷嚢をお取り換へ致しませう、」と云うのは、むろん、看護婦であり、眠っている清太郎はいつ死ぬかもわからない病人である。
このぞオッとするような冷たさは、後の、『玄鶴山房』に、通じるものである。
八月十二日に、芥川は、この小品を書き上げてから、苦心惨憺して、九月九日に、やっと、『点鬼簿』を書き上げた。
[やぶちゃん注:九月九日の脱稿後、十五日頃に数枚を追加する加筆の上、再度推敲して改造社へ決定稿を発送した(宮坂年譜に拠る)。]
『点鬼簿』を書いてから、芥川は、あいかわらず、極度の不眠症になやまされながら、『悠々荘』、『彼』などを、書いた、が、
芥川の頭には、『春の夜』を書く頃から、『玄鶴山房』の、ぼやっとした、構想が、湧き出していたのではないか。
芥川は、『春の夜』は、もとより、不満であった、一心をこめて書いた『点鬼簿』も、自分では思いきって書いたつもりでも、不安であった、ずっと前に引いた、芥川が、廣津に、はじめて出した手紙[大正十五年十月十七日]の中で、廣津が『点鬼簿』をほめたことを、「近来意気が振はなかつただけに感謝した、」と書いているように、その時分の芥川は、幾つかの病気になやみながらも、それ以上に、
芥川が『玄鶴山房』を書きたい、と思ったのは、自分が芸術上の不振を感じるとともに、それ以上に、世間で自分が不振である、と思っていることを痛感していたので、この一作によって、自分(つまり、芥川龍之介)が健在である、という事を、
芥川が、これもずっと前に引いた、佐佐木や斎藤[茂吉]や室生などに宛てた手紙の中に「暗タンたる小説」とか、「陰鬱なもの」とか、「陰鬱極マル力作」とか、書いているのは、そのような沈鬱な小説を書くのが、その頃の芥川の好みではあったが、それとともに、そういう、暗澹たる、陰鬱極まる、無気味な、小説を発表して、世の
いずれにしても、それだけの、必死の、意気ごみを持って、いざ腰を据えて書こう、と思った時に、(つまり、昭和二年の一月の初めに、)先きに
芥川は、それにもめげず、堪えがたい病苦を押し切って、十日ほどの間に、『玄鶴山房』を、書き上げたのだ。しかし、その十日ほどの間は、芥川は、『玄鶴山房』のために、真に骨身を削る思いで、一字、一句、と、ペンを、すすめた。これ(この小説)を見よ、という念に燃えながら、芥川は、『玄鶴山房』を、書きつづけたのである。それは、
[やぶちゃん注:最後の「神曲」からの引用について一言附言しておく。原文は“Nessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.”で、生田の訳の通り、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」といった意味である。ダンテ「神曲」の「地獄篇」第五歌で、ダンテが地獄の第二圏に至り、フランチェスカ・ダ・リミニに出逢う部分に現れる台詞。昭和六十二(一九八七)年集英社刊寿岳文章訳訳「神曲」の該当シークエンスの脚注を引用しておく。ダンテがヴィルジリオに『つねに離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える、あの二人とこそ語りたい。』の「二人」に附された注である。『フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マルテスタ。北イタリアのラヴェンナ城主グイド・ミノーレ・ポレンタの娘フランチェスカは隣国の城主で狂暴かつ醜男ジャンチオット・マラテスタと一二七五年頃政略結婚させられた。初めジャンチオットは結婚の不成立をおそれ、眉目秀麗の弟パオロを身代わりに立てたが、婚後事実を知ったフランチェスカのパオロに対する恋情はいよいよつのり、フランチェスカにはジャンチオットとの間にできた九歳の娘が、そしてパオロにも二人の息子があったにもかかわらず、一二八五年頃のある日、ジャンチオットの不在を見すまして密会していたところ、不意に帰宅したジャンチオットにより、二人は殺された。フランチェスカはダンテがラヴェンナで客となっていたグイド・ノヴェロの伯母なので、特に親近の感が強かったに違いない。(後略)』。寿岳文章の訳では、地獄の苦界の只中にいる彼女がダンテの『フランチェスカよ、あなたの
*
……
[やぶちゃん注:「儕輩」は、仲間・同輩。「せいはい」とも読む。]
*
これは、玄鶴が、だんだん衰弱して行き、
そうして、これは、芥川が、「神経衰弱なほるの時なし、」と慨歎し、ますます
すると、「画家としても多少は知られてゐた、」堀越玄鶴が、全盛時代に、「儕輩の妖妬や彼の利益を失ふまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめてゐた、」と書いた芥川も、亦、全盛時代には、「儕輩の嫉妬」や自分の「利益を失ふまいとする」焦燥の念に絶えず苦しめられたのであろうか。
そこで、ますます臆測を
『玄鶴山房』は、芥川の心が、ざっと、こういう状態になった時に、書かれたのであろう。
『玄鶴山房』には、子供と女中まで入れると、十一人の人物が、出てくる。子供や女中まで数えたのは、この小説の中では、ちょいと出てくる子供や女中まで、巧みに使っているからである。
さて、この小説の主要人物をつぎつぎに上げると、「門の内へはひるが早いか、」妙な
されば、この小説に出てくる人たちの中に、その時分の芥川の好みである、醜悪な病人なり
芥川は、『玄鶴山房』を書く前も書いている間も書いてから後も、誰に宛てる
さて、こんど、やはり、何度目かで、『玄鶴山房』を読みかえして、今まで気がつかなかったところで、痛く心を打たれたところがあった。それは、主人公の玄鶴の気もちとこの小説を書いていた頃の芥川の心もちが、どこか、通じているところであった。そういうところは、作者の気もちが、
*
「玄鶴山房」の夜は静かだつた。朝早く家を出る武夫は勿論、重吉夫婦も大抵は十時には
*
この一節は、読み過ごしてしまへば、何でもないようであるが、『玄鶴山房』の中で、もっとも気味のわるい場面の一つである。例えば、「甲野は玄鶴の枕もとに赤あかと火の
玄鶴は、死病にかかっている病人であり、自分も先きの長くないことを知っている上に、死んだ方が極楽だ、と思っていた。また、甲野は、(甲野も、)「病家の主人だの病院の医者だのとの関係上、何度一塊の青酸加里を
されば、これは、夜がふけ、人が寝しずまった、薄ら寒い静かな、「離れ」で、底の知れない、底の知れない孤独に落ち入っている女が、赤あかと火のおこった火鉢をかかえ、居睡りもしないで、坐っていて、死の床についている、くさい
つまり、この一節を読んで私が感じたのは、「植ゑ込みの戦ぎだけ」を聞いたのは、作者の芥川であり、その芥川は、玄鶴の落ち入っていた、恐ろしい孤独にも、落ち入り、甲野が落ち入っていた、底の知れない孤独にも、落ち入っていたような気がした事である。
芥川は、この『玄鶴山房』を書いた
*
仏説によると、地獄にもさまざまあるが、
[やぶちゃん注:「根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分つ事が出来る」の「根本地獄」は我々が普通にイメージする地獄で、上層から順に大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒繩・等活・無間地獄の八種、総称して八大(八熱)地獄のことを言っている。「近辺地獄」というのは、その大種別である八大地獄の中にはそれぞれの四方に四つの門があり、その門外にまた、各々罪状によって詳細に区分けされた四種の副地獄があり、それを総称して十六遊増地獄・四門地獄・十六小地獄と言うのを「近辺地獄」と呼んでいる。因みに、この上位の八大地獄のタクソンと幅地獄を合わせると、地獄の数は百三十六となる。「孤独地獄」は芥川の述べるように、これらの地下の地獄とは次元の異なった地獄であって、現世の山野・空中・樹下などにパラレルに孤立して存在する地獄とする。孤地獄とも言い、現在の精神医学的知見から言えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)による鬱病に近い孤立感・孤独感や、引きこもりの様態と近いか。
「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄」(南瞻部洲
「山間曠野樹下空中」筑摩書房全集類聚版脚注には、「倶舎論頌疏一〇」(「倶舍論頌釋疏」のことか)に見られる一句、とある。]
*
という一節があるが、その時は、芥川は、唯、小説を作るために、こういう事を、書いたにちがいない。
ところが、この『玄鶴山房』を書く時分から、(あるいは、その前から、)死ぬ時まで、芥川は、この「山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現れる、」という、『孤独地獄』に落ち入っていためではないか。
ところで、芥川が、この『孤独地獄』を書いたのは、大正五年の二月であるから、かぞえ
*
……唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現れる。云はば目前の境界が、すぐそのまゝ、地獄の
*
というような文章を書いている。
しかし、これは、前に述べたように、芥川が、『孤独地獄』という作品の中で、
いずれにしても、『孤独地獄』は、小品ではあるが、二十五歳の青年の作品としては、すこし
ところで、『孤独地獄』とは、仏説では、「八大地獄や
つまり、私のような無学な者でさえ、このくらいの事は、知っているのであるから、まして、博覧強記であり、古今東西にわたって
そうして、『朝飯前の仕事』としても、前に引いたところなど、
ところが、この文章を読んでも、「目前の境界が、すぐそのまま、地獄の
これは、作者が、この禅超の『孤独地獄』に堕ちている苦しい気もちを、しみじみと感じていないからである。それは、作者が、この小品の最後に、「一日の大部分を書斎で暮してゐる自分は、生活の上から云つて、自分の大叔父やこの禅僧とは、全然没交渉な世界に住んでゐる人間である。[中略]しかも自分の中にある
それから、やはり、この小品の
この文句を
短歌に『題詠』というのがある。『題詠』とは「題をもうけて、ことさらに歌をよむこと」という程の意味である。
西吹くや風さむければ網ほせるみぎはの葦に氷むすびぬ
これは長塚 節が『氷』という題をもうけて、
これは、伊藤左千夫が、『桜』という題をあたえられて、
秋はいぬ風に木の葉は散りはてて山寂しかる冬は来にけり
木の葉ちり秋も暮れにし片岡のさびしき杜に冬は
右の
もとより、『題詠』とは短歌の方で使い
『テエマ』とは、いうまでもなく、ドイツ語の『テエマ』(Thema)であるから、「主題」(あるいは、「題目」、「問題」)という程の意味である。
しかし、菊池のテエマ小説は、現代の日常の事か史実かの中から『これ』と思う題材をつかまえ、それを主題(テエマ)にして書いたものであるから、短歌の『題詠』とは殆んど
ついでに述べると、私は、その作品がその作者の物になりきっていれば、こういう事は問題にはならない、と思っている。
もう
[やぶちゃん注:「昔」全文の私のテクストはこちら。]
ここに引用した文章は大正七年の一月に書かれたものである。『羅生門』から数えて、大正六年の終りまでに、芥川は、二十五六篇の短篇小説を書いているが、その中に、「
[やぶちゃん注:これは正確ではない。以前述べた如く、宇野の「短篇小説」の定義(特に原稿量)が難しいが、「今日この日本に起つたような事を題材にした」ものは、大正五(一九一六)年には「父」「猿」「手巾」の三篇を数え、大正六年には「二つの手紙」「
ところで、ここに引用した芥川の意見をそのまま取ると、芥川は、菊池と反対に、テエマを捉えてから、題材を探して、(あるいは、題材を考えて、)小説を書いた、という事になる。そうして、もしそうだ、とすれば」それらの芥川のチエマ小説は、短歌でいう、題詠に幾らか
ここで、さきに述べた『孤独地款』のことに
*
彼は雨に
すると目の前の架空線が
架空線は
*
これは、『或阿呆の一生』の中の『火花』の全文である。
前にも述べたよう忙、『或阿呆の一生』(五十一章)は、その一章一章、散文詩でも書くように、書かれているように見える。されば、その
そこで、さきに引いた文章を、「彼は人生を見渡しても……」以下は別として、まず本当とすれば、(たぶん本当であろう)「新思潮」を出した頃は、青年、芥川は、唯ただ文学のために意気ごんでいたにちがいないから、『孤独地獄』に、孤独地獄に堕ちた人の心もちが殆んど現れていないのは、まったく無理ではない、という事になる。
しかし、『孤独地獄』は、さきに述べたように、肝心の事は殆んど書けていない、としても、そうして、その最後の「
『孤独地獄』を書いてから、ちょうど二年ほど
『地獄変』は、(この作品については、前に可なり
そこで、
しかし、それも、あの世の地獄ではなく、この世の地獄のようなものである。
さて、私が、『玄鶴山房』を、はじめて、まとめて、読んだのは、昭和二年の二月号の「中央公論」である。『まとめて』とは、先きに述べたように、『玄鶴山房』は㈠だけ、(それも、原稿用紙[註―四百字づめ]で二枚ぐらい、)その前の月の、(つまり、一月号の、)「中央公論」に、
ところで、私は、その一月号の「中央公論」に出た、『玄鶴山房』の㈠を読んだ時は、卒読したので、その㈠の終りの、
*
「
彼等は
*
という妙に
[やぶちゃん注:「黒色の鶴などというものがあるのかな」クロヅルという和名のツルは実際に存在する。ツル目ツル亜目ツル科ツル属クロヅル Grus grus で、参照したウィキの「クロヅル」によれば、『成鳥の頭頂は赤く裸出し、まばらに黒く細い毛状の羽毛が生え』、『後頭から眼先、喉から頸部前面の羽衣は黒く、頭部の眼の後方から頸部側面にかけては白い』。『胴体の羽衣は淡灰褐色または灰黒色』で、『和名は全体的に黒っぽいことに由来する』。但し、分布域は『ヨーロッパ北部のスカンジナビア半島からシベリア東部のコリマ川周辺にいたるユーラシア大陸で繁殖し、ヨーロッパ南部、アフリカ大陸北東部、インド北部、中国などで越冬』し、『日本には、毎冬少数が鹿児島県の出水ツル渡来地に渡来するが、その他の地区ではまれである』とある。]
ところが、完結した『玄鶴山房』を読んでみて、私は、「これは、」と、思った、「これは、うまい、」と感心したのである。しかし、この時も、あまり念を入れて、読まなかったらしかった、それは、すぐれた作品とは思ったのであるが、唯、暗澹とした、救われないような、感じが、たまらなかったので、それだけに辟易して、やはり、肝心のものに、気がつかずにしまったからである。
それで、その感想を、私は、廣津にも高野[註―前にも書いたが、その頃の「中央公論」の責任編輯者]にも、述べた、あまりに
それから、これも前に書いたが、その
「……しかし、『玄鶴山房』は、旨いもんだな、旨いのには、感心したよ。」
「うむ、……すこし骨を折ったよ。……『軍港行進曲』、……
芥川は、急に、しみじみした調子で、云った。
「……僕も、こんどは、すこし変った小説、書くつもりだから、君も、『軍港行進曲』の後篇を、すぐ、書けよ。」
「うむ、僕も、書くから、君も、書けよ。」
「……君には、ちょっと云ったが、僕の
「………」
「……じゃ、失敬するよ、
「君も、大事にしたまえ。」
[やぶちゃん注:この宇野の回想する芥川龍之介の宇野浩二への見舞いは何頃のことになるか、少し考証してみたい。まず、これは『改造』に「玄鶴山房」後半が掲載された後であるから、二月二日以降と考えると、文中の(宇野の記憶に誤りがないとすれば)『僕も、こんどは、すこし変った小説、書くつもりだから』が、大きなヒントになる。実は宮坂年譜によれば、同二月四日には「蜃気楼」が脱稿されており、更に七日までには「河童」六十枚が執筆されていることが判明する。河童の脱稿は二月十三日頃とされるが、「蜃気楼」は何より芥川龍之介の起死回生の「筋のない小説」としての自信作で、また、近年にない速筆で書いたと自慢する「河童」は怪作寓話小説で、ともに正しく『すこし変わった小説』と言ってよい。『書くつもり』という語に拘るなら、二月二日以降で、せいぜい「河童」を執筆したという七日前後ぐらいまでがリミットとなるが、もしかすると、芥川は宇野を元気づけるために、既に書き終わっていた「蜃気楼」「河童」を『こんどは……書くつもりだから』と言った可能性を考えれば、同二月上旬から中下旬頃までを同定候補として引っ張ることは出来よう。]
さて『玄鶴山房』を、こんど、少し念を入れて読んでみると、前に述べた二十五六年前の感想と
『玄鶴山房』は、いうまでもなく、沈鬱な話ではあるけれど、それは作者が殊更に陰惨にしたところが多分にあるからで、案外に常識的な人情話めいたところも随分ある。
例えば、婿の重吉が養父母に対する態度や気もちも、お鈴の、父母に対する気もちも、父の妾であったお芳に対する態度なども、
*
玄鶴はお芳[註―元女中]を囲ひ出した後、省線電車の乗り換へも苦にせず、二週間に二度づつは必ず妾宅へ
*
というところなど、やはり、普通の人情ではあるが、晩年の芥川は、これだけの事を書いても、例の説明する
それから、『玄鶴山房』の特徴は、そのために読後の感銘がうすくなる程、用意周到に
中心の人物である玄鶴が
それから、この小説の㈡の
つまり、『玄鶴山房』は、㈠は
[やぶちゃん注:「㈣は、」の読点は底本にはなく、ただの字空きとなっているが、前後から読点の脱字と判断した。「啀み合ったりする」は「いがみあったりする」と読む。]
ついでに書くと、この『伏線』である、重吉が、勤めさきの銀行から、帰って来て、門の内にはいった途端に、妙な臭気を感じる、「それは老人には珍しい肺結核の床に就いてゐる玄鶴の息の
ところで、『玄鶴山房』に出てくる人たちは、もとより、それぞれ、性質がちがうけれど、大てい、善人であり、凡人である。ところが、看護婦の甲野だけは違う。
それは、作者が、甲野という底意地のわるい看護婦を出して、その甲野に冷たい意地のわるい観察をさせるためであろうか。もしそうだ、とすれば、甲野などに出来ない事は、作者、みずから、
*
……七八年前から腰抜けになり、便所へも
*
この最後の、腰抜けの老女など、七十字ぐらいであるが、
ところが、『玄鶴山房』のもう
*
お鈴はお芳の顔を見た時、存外彼女が
「これは兄が檀那様[つまり玄鶴]に差し上げてくれと申しましたから。」
お芳は
*
仮りにこれを『芸』とすれば、実に
ところで、芥川は、この『玄鶴山房』を、あるだけの力を
私は、芥川の最後の小説らしい小説である、『玄鶴山房』が、仮りに、完璧に近い作品である、とすれば、その、「山房内」を書いた、㈡、㈢、㈣、㈤の四節であって、「山房以外へ触れさせた」㈥は、余計なものではないが、書き方が
そうして、私が、こんど、少し念を入れて、『玄鶴山房』を、読んで、心を打たれたのは、
*
一時間ばかりたつた後、玄鶴はいつか眠つてゐた。その晩は夢も恐しかつた。彼は
「離れ」には誰も来てゐなかつた。のみならずまだ
そこへ
「やあ、お
*
という所だけであった。
ここに、芥川が、いる。
極言すれば、『玄鶴山房』一篇の中で、芥川が、一ばん心を入れて、書いたのは、ここだけである。この一節は、不思議な作品『歯車』と通じるものがある。(『歯車』については、
この一節は、『或阿呆の一生』のなかの『死』を思わせる。いや、この一節とつぎに引用する『死』と殆んど同じような気さえする。
*
彼はひとり寝てゐるのを
*
さすがに、この方が、真に
[やぶちゃん注:ここで宇野は「玄鶴山房」を再読して、『心を打たれたのは』、引用した玄鶴の縊死未遂のシークエンス『という所だけであった』と述べている点に注意されたい。彼は本作をこの「芥川龍之介」執筆時点で、実は小説として高くは評価出来ない、と暗に言っているのである。嘗て宇野が芥川に手紙や会話で褒めた(手紙については既に「二十」で当時でも半分ぐらいお世辞であると断定しているが)「玄鶴山房」も、今、再読してみれば、その全体は体のいい人情話で、レベルの低い「小説」に過ぎない(宇野に言わせれば本物の「小説」とは言えない)、と一刀両断にしているのである。]
さて、「中央公論」の二月号に『玄鶴山房』が出た翌月、「改造」の三月号に『河童』が出たので、私は、
それで、私はさっそく、その「改造」に出た『河童』を読んでみた。そうして、この時は、どんなものを書いたのであろう、という気もちが可なりあった。ところが、これは、『玄鶴山房』とまったく反対で、これ亦、芥川としては、珍しく、走り書きのような、
[やぶちゃん注:「三舎を避ける」相手を恐れてしりごみすること、また、相手に一目置くことの喩え。「春秋左氏伝」の
私の学生時代の友人に、浅井という、文学ずきの、法科の学生があった。(今[昭和二十八年]からざっと
私は、今、『河童』のことを書きながら、この話を、思い出した。
[やぶちゃん注:系図ではないが、私の「河童」の電子テクストに別頁で附した「芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈」の冒頭には、「登場河童一覧」を附して参考に供してある。向後の部分を読む際の参照にされたい。]
『河童』の
「うン、読みかけたが、‥…」
「……あれ、……書きながしだけど、……君には、読んでほしいんだ、……僕は、もう……」
「……そう、……うン、読むよ、……読んで、……読んだら、……」
「……読んでくれよ、……君も、……書けよ、……じゃあ、……大事にしたまえ。……」
「君も、……」
ざっと、こういう問答をして、そうして、芥川は、
ところが、その時、私は、いろいろな事情で、とうとう、『河童』を、読まなかった、読めなかったのである。
そこで、これから、又、少し念を入れて読むために、浅井の
『玄鶴山房』は、先きに述べたように、芥川が、最晩年の作品の中で、一ばん力をそそぎ骨を折った小説であるが、最後㈥のところで、息がつづかなくなった。その事は、芥川も、滝井に宛てた手紙[昭和二年二月二十七日]の中に、「『玄鶴山房』は力作なれども自ら脚力尽くる所廬山を見るの感あり」と書いている。
この事は、真に、芥川には、泣いても泣き切れない程、遺憾であったに違いない、無念であったに違いない、
既に生涯の終りに近いことを覚悟していた芥川は、『玄鶴山房』を書き上げると間もなく、すぐ『蜃気楼』を書いた。が、『蜃気楼』は、鵠沼に住んでいた時分の思い出を、そ町思い出に幾らか色をつけた、小品である、
されば、その頃の
そこで、芥川は、『蜃気楼』を書きながら、それと殆んど一しょに、『河童』に取りかかった。
芥川は、昭和二年二月二日に、斎藤茂吉に宛てた手紙の中に、「唯今『海の秋』[註―改題して『蜃気楼』となったか]と云ふ小品を製造中、同時に又『河童』と云ふグァリヴアの旅行記式のものをも製造中、」と書き、二月七日に、蒲原春夫あての
[やぶちゃん注:蒲原春夫宛の「婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚」は、すぐ後に示されるように『婦人公論十二枚』が三月号掲載の「蜃気楼」、『改造六十枚』が三月号掲載の「河童」の初期段階の枚数(決定稿脱稿は二月十三日頃)、『文藝春秋三枚』が三月号掲載の「軽井沢で」、『演劇新潮五枚』が三月号掲載の「芝居漫談」(リンク先は私の電子テクスト)。
「ライネツケフツクス」“Reineke Fuchs”とはゲーテの小説の題名で、「ライネケ狐」などと訳される。一七九三年に刊行された叙事詩で、奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中の「ゲーテ」のページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは十三世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』(アラビア数字を漢数字に変換した)。]
つまり、これらの手紙から想像すると、二月二日から十六日までの間に、芥川は、『河童』と『蜃気楼』のほかに、(ここに引用しなかったが、)四五枚あるいは五六枚の短文を四五篇も、書いている。
[やぶちゃん注:三月一日の公開作品は、先の注で挙げた「蜃気楼」・「河童」・「軽井沢で」・「芝居漫談」の他にも、「註文無きに近し」(『新潮』)と「少時からの愛読者」(『随筆』)があり、計六篇あるが、実はそれ以外に四月以降の雑誌掲載分の脱稿があり、「春の夜は」(二月五日脱稿)、また十六日以降でも「その頃の赤門生活」(二月十七日脱稿)、「女仙」(二月二十五日脱稿)の二作品があるから、芥川龍之介は実に二月一杯で中編「河童」を含む九作をものした勘定になる。]
ところで、先きに引いた『河童』を製造中と書いた手紙を出した、二月二日から、『河童』を脱稿したという報告めいた
[やぶちゃん注:義兄西川豊の死後の後始末のための「親族会議」は、当該書簡(小穴隆一宛旧全集書簡番号一五七五)によって二月十五日にあったことが分かる。]
私は、これらの文句は、相手によって少しずつ違っているけれど、普通に云えば、つまり、『愚痴』である、と思った。(『愚痴』とは、いうまでもなく、「つまらぬ不平」とか、「口に出しても、甲斐なき事を歎く」とか、いう程の意味である。)
ところが、よく見ると、「考へなければならず、」とか、「中々莫迦に出来ないものだよ、」とか、「どうにも始末がつかないのだ、」とか、「
ところで「或る人に聞くと、昭和二年頃の年三割と云えば、非常な高率の利息だそうである。すると、鉄道自殺をした、芥川の姉の夫[註―ずっと前に書いた西川 豊]は、その年三割という高利の借金を残して、あの世に行ってしまった
これは、今の人には、(いや、
ところが、芥川は、この『東奔西走』を、二月になっても、つづけなければならなかったのである。
つまり、病める芥川は、二月には、「東奔西走」しながら、『玄鶴山房』を書き、二月になっても、二月の初めから、『河童』にかかり、『河童』を非常な速力で書きながら、その
されば、その頃の芥川は、
つまり、『河童』は、そういう状態の中で、書かれたのだ。『河童』の中に、焼けになっているような所もあり、血迷っているような所もあり、悲歎にくれているようなところもあり、あるいは、「鬱懐を消した」[芥川が、二月十六日に、佐佐木に宛てた手紙の中の文句]ようなところもあり、また、鬱憤を晴らしたようなところもある。(『鬱懐』とは「心のむすばれてあること」とか、「晴れやかならぬ心」とか、いう程の意味であり、『鬱憤』とは、「積もるいきどおり」とか、「晴れぬ忍み」とか、いう程の意味である。)
しかし、結局、芥川は、『河童』によって、鬱懐も、鬱憤も、晴らすとともに、これまで心の中に
しかし、仮りに、これが、私の臆測したとおりであったとしても、芥川は、やはり、持って生まれた性質で、それらの事を、あからさまに、書けない人であった。(そこに、芥川の、人に、知られぬ、寂しさと悲しさがあったのではないか。)
そこで、芥川は、かねがね特に興味を持っていた、河童を使うことにし、河童の国を舞台にしたのであろう。そうして、猶、云いたい事を、(書きたい事を、)思う存分にしたいために、この話(あるいは、この小説)全体を、河童の国に住んだ、と云う一人の狂人が、話をした、という
しかし、又、『河童』の中で、芥川は、出産、産児制限、遺伝、恋愛、結婚、家庭、法律、人口問題、食糧問題、機械工業、芸術、哲学、宗教、人生問題、社会問題、戦争、自殺、その他、さまざまの問題にふれて、批判をしている。もっとも、それらは、大抵、自己流であり、芥川ごのみの逆説であり、衒学的なところもあり、得意の機智を弄しているところもあり、あるいは、久保田万太郎の云うように、「聞くものをして、ときに
ところで、私は、久保田の『ある
芥川は、ずっと前に書いたように、実に行儀のよい人であったが、唯
ある時、芥川が、その流儀で、頰ばりながら、こんな話をした、「……君、今は、一流の印刷所では、職工君が
芥川がこんな話を私にしたのは、たしか、大正十二年の春の初めの頃であった。そうして、私が、このような事を書いたのは、『河童』の中で、つぎに引くようなところを、読んだからである。
*
…何でもそこでは一年間に七百万部の本を製造するさうです。が、僕を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。何しろこの国[つまり、河童の国]では本を造るのに唯機械の
「これですか? これは驢馬の
*
これは、
『円本』とは、大正の終りから昭和の初めにかけて、さまざまの出版社が、ナニナニ全集と称して、一冊一円で売り出したものを略して呼んだ名である。はじめ、大正十五年の末に、改造社が、『現代日本文学全集』というものを一冊一円で売り出したのが
そうして、その元祖の『現代日本文学全集』は、菊判[今のA5版より少し大形]で六号活字三段組み、というのであるから、一ペイジが四枚[四百字づめ]ちかくであったから、一冊五百ペイジの本は二千枚ちかくはいっている訳である。そうして、その一冊に、その人によって、
ところが、誰がきめたのか、例えば、武者小路、志賀、谷崎、里見、菊池、その他が一人で一冊であるのに、芥川は、室生と二人で一冊(つまり、「芥川龍之介集・室生犀星集」)となっていた。(これは、新聞の広告にも、「内容見本」にも、出たのである。)
これは、芥川は、(芥川としてみれば、)武者小路や志賀は別としても、里見や菊池が
[やぶちゃん注:当該「新聞の広告」については「東京大学総合研究博物館画像アーカイヴス 日本の新聞広告」で大正十五(一九二六)年十月十八日発行の『東京朝日新聞』分を実見出来た。それによると(この最初期の新聞広告分について言うなら)宇野の謂いとは異なる部分が多々ある。実はこれから述べるように、この内容一覧は実際に刊行されたものとは全刊冊数(ここでは全三十六巻しかないが、実際は倍近い別巻一冊含む全六十三巻が刊行されている)も、その作家の組み合わせも全く異なっている(以下、宇野の記述が結果的に正しい場合を「〇」とし、誤った部分を「×」とし、実際の刊行物を「◎」で示した)。
「例えば、武者小路、志賀、谷崎、里見、菊池、その他が一人で一冊であるのに、芥川は、室生と二人で一冊(つまり、「芥川龍之介集・室生犀星集」)となっていた」とある箇所は、
〇 「第二四篇 志賀直哉集」(実際の刊行では◎第二五篇)
〇 「第二五篇 武者小路實篤集」(◎第二六篇)
〇 「第二三篇 谷崎潤一郎集」(◎第二四篇)
〇 「第三〇篇 菊池寛集」(◎第三一篇)
は正しいが、里見弴は
×→「第二八篇 里見弴集・佐藤春夫集」
でカップリングされており、単独ではない。実際の刊行でも、
◎ 「第二九篇 里見弴集・佐藤春夫集」
で同カップリングである。また、この広告では芥川龍之介は、
×→「第二九篇 芥川龍之介集・久米正雄集」
でカップリング相手が室生ではなく、久米である。因みにこの初期広告には、
×→(室生の名前ナシ)
である。但し、実際の刊行では室生は、
◎「第四四篇 久保田万太郎集・長與善郎集・室生犀星集」
としてカップリング刊行されている。なお実際に刊行されたもので宇野が最初に例として提示しているものでは、
〇 「第一五篇 島崎藤村集」(◎第一六篇)
が新聞広告にあり、後の二例も、実際の刊行本では、
〇 「第三二篇 山本有三集・倉田百三集」
〇 「第四〇篇 伊藤左千夫集・長塚節集・高濱虛子集」
と、同じカップリングで刊行されて存在することから見て、宇野は恐らく改造社の、もっと早い刊行予告か、刊行予告後に暫く経ってからの新聞広告、更には出版後若しくは直前の内容見本等の複数資料(後掲する自分の巻に付帯した広告等を含む)に拠ってこの部分を書いているのではないかと思われる。だから実際の刊行物と奇妙な具合に齟齬(或いは一致)しているのではなかろうか?
さて、肝心の「芥川龍之介集」であるが、実際の刊行では、芥川龍之介は、
◎ 「第二六篇 芥川龍之介集」
と単独となっており、新聞広告でカップリングされていた久米正雄は、
◎ 「第三二篇 近松秋江集・久米正雄集」
のカップリングで所収されている。「芥川龍之介集」は芥川の自死の翌年の昭和三(一九二八)年一月九日の発行であるから、センセーショナルな自殺を受けて急遽、単独配巻となった可能性も否定出来ない。
因みに宇野は何も述べていないが、彼自身はというと、その更に翌年である昭和四(一九二九)年十一月十日発行の、
◎ 「第四八篇 廣津和郎集・葛西善藏集・宇野浩二集」
で、芥川より遙かに後、遙かに後巻で、尚且つ盟友らととはいえ、三人の合巻の、それも掉尾の配置である。
鑿って考えると、本格小説の本物の小説家である、と自認する『小説の鬼』宇野が、このような配置を受けることは、『如何にも心外であったにちがいな』く、又、彼の巻が刊行された昭和四(一九二九)年、三十八歳だった宇野は精神病の予後に加え、脳貧血を起して重態となり、再度十ヶ月に亙っての入院となった年でもあった。正に『何とかして立ち直ろう、と、もっとも焦心していた頃であった。しぜん、神経も苛立っていた』と言ってよい。そう考えると――この改造社版現代文学全集の、『こういう些細な事までが、気になったの』は――実は芥川龍之介ではなく、宇野浩二自身だったのでは、なかろうか? といったことを考えていると、こんな一見、詰まらなく見える注も、面白くなってくる。]
しかし、『河童』では、このような事は、些細な話で、芥川は、書籍製造会社を取り上げると、つづいて、絵画製造会社、音楽製造会社、というようなものまで持ち出して、大量生産から起こる、職工の解雇や失業や罷業の事などまで書いているが、これこそ、久保田の云う「座談の延長以上に出ない」ような、お『話』であるに過ぎない。
結局、『河童』には、無理なところもあり、調子にのり過ぎたところもあり、得意の諧謔を弄し過ぎたようなところもあるけれど、ここに出てくる幾匹かの河童の中に、私など、読んでいるうちに、ひょいと、その河童が芥川に見えたり、ふと、河童がまくしたてるように喋っている、のが芥川が喋っているように思われたり、その河童の姿が芥川の姿のような気がしたり、して、ほほえましくなったり、もの悲しくなったり、する事があるのである。
つまり、河童の国にただよう、哀傷、憂鬱、苦悩、その他は、芥川の心象であり、さまざまの河童は、
*
僕等[註―主人公の人間と河童の学生]はぼんやり
「
しかしラツプは目をこすりながら、意外にも落ち
*
このラップの股目金も、芥川が、僕などと一しょに
ところで、おなじ「遺伝」を取りあげても、『河童』では、母親がお産をする時、父親が、まるで、電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へ
ところが、おなじ「出産」でも、『或阿呆の一生』の中では、
*
彼は
「何の
しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だった。 (『出産』)
*
と書いてある。
この
ところで、これで見ると、(この『出産』のことだけ見れば、)生きている間に発表した『河童』は、ずいぶん思い切った事を書いているようであるが、それでも
ところが、この二つの作品全体をよく読んでみると、用意周到に念には念を入れて一字一句を
何の為にこいつも生れて来たのだらう?
この裟婆苦の充ち満ちた世界へ。
何の為に又こいつも己のやうなものを父に……
というところなど、散文詩(というより、まるで、詩)の一節のようにさえ、感じられるからである。
[やぶちゃん注:「『或阿呆の一生』の中の『出生』」の「出生」は「出産」の誤り。]
つまり、やはり、ずっと前に『或阿呆の一生』は(いたく心を引かれるところも随処にあるけれど、)散文詩である、と私が云い切ったのは、こんなところが到る処にあるからである。
さて、『河童』は、なかなか面白いところもあるが、かなり冗漫なところがあり、雑駁なところもある、それから、作者が調子に乗って、時どき饒舌を弄しすぎ、いろいろな風変りな事件を
それで、『河童』は、発表された当時、殆んど問題にされなかった、もっとも、たまに批評したものもあったが、それらは
それはそれとして、前の
わたくし事であるが、『河童』が「改造」に出てから
『芥川龍之介』の人と芸術について書いている人たちが、「十人が十人まで」と云ってもよい程、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『河童』、その他について述べる時、「既に死を覚悟していた作者は、……」という文句を、使っている。しかし、これらの作品を、発表された時、はじめて読んだ時は、私は、作者が「死を覚悟」して書いたなどという事は、まったく考えなかった。いや、はじめて読んだ時は、そんな事は
凡そ
ところが、こんど、芥川の最晩年(つまり、昭和二年)の幾つかの作品をくりかえし読んでみて、芥川の最晩年の作品だけは、「作者が、その作品を書く時、どういう心の状態にあったか、」という事と、かなり関係がある事を、私は、感じたのである。
*
……芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の板をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ
*
これは『闇中問答』の最後の一節である。
[やぶちゃん注:「闇中問答」の私の電子テクストは、こちら。]
私が、この『闇中間答』をはじめて読んだのは、昭和二年の九月号の「文藝春秋」に出た時である。(この「文藝春秋」は、『芥川龍之介追悼号』であり、その「文藝春秋」の発行所は、東京市麹町区下六番町であるから、文藝春秋社が、有島武郎邸を借りていた時分である。その頃、直木三十五が、有島邸の近くに、住んでいた。さて、文藝春秋社は、この『芥川龍之介追悼号』を出してから間もなく、あの内幸町の大阪ビルディングの二階に、移転したのである。――こういう事を書いていると、その時分の事をよく知っている私は、懐しさとともに、ありふれた言葉であるが、そのありふれた言葉どおり、『感慨無量』である。)
さて、その「文藝春秋」には、遺稿として、巻末に、この『闇中問答』が
[やぶちゃん注:「或旧友へ送る手記」は、宇野の言う通り、自死の翌日の昭和二(一九二七)年七月二十五日の『東京日日新聞』と『東京朝日新聞』に初出掲載され、同年九月号『文藝春秋』と『改造』に再掲されている。]
それから、ついでに述べると、前に書いたほかに、芥川の死後、遺稿として、『西方の人』は、「改造」の八月号に、『続西方の人』は、「改造」の九月号に、『歯車』は、「文藝春秋」の十月号に、『或阿呆の一生』は「改造」の十月号に、発表せられた。
私がこういう事を殊更に書いたのは、『西方の人』や『続西方の人』や『十本の針』や『闇中問答』や『歯車』や『或阿呆の一生』などを、芥川が死んでから二三
*
若し天国を造り得るとすれば、それは唯地上にだけである。この天国は勿論
*
これは、『十本の針』の中の『天国』という一節であるが、この一節を、芥川が死んでから二た
ところが、その時から二十五六年も過ぎた今、この一節をおちついて読むと、これも、亦、散文詩のようなものである。しかし、最後の方の「人々の外には犬ばかり沢山
[やぶちゃん注:「十本の針」の私の電子テキストは、こちら。]
ところで、『或阿呆の一生』は、前に述べたように、気の向いた時に、一節ずつ書いて行って、六月(
[やぶちゃん注:現在の年譜的知見によれば、「或阿呆の一生」の脱稿は六月二十日で(同日中に久米正雄に同作を託す文章を書いている。「十本の針」の脱稿は不詳。]
『或阿呆の一生』も、『十本の針』も、一節一節が極めて短かいのは、根気がなくなったからである。それから、大正十五年の末から昭和二年の七月までの作品の中に、ときどき、同じような事を、書いているのは、書くべき事を殆んど書きつくしてしまったからである。そうして、それらの作品の中に出てくる、芥川のもっとも得意なものとされているアフォリズムの文句も、つまらなくなり、精彩がなくなった。(私には、大抵の人がほめる、『侏儒の言葉』は、面白いところもあるが、殆んど興味が感じられない。しぜん、『或阿呆の一生』の中のアフォリズムめいた文章を、私は、あまり取らない。)
*
あらゆる古来の天才は、
しかしああ言ふ踏み台だけはどこの古道具屋にも転がつてゐる。
*
これは、『侏儒の言葉』の中の、ふと開いたところから、引いたのであるが、ちょいとは面白いようであるが、私には、つまらない。
[やぶちゃん注:以上の引用は「侏儒の言葉」の「作家」十一章の内の、連続する二つを並べたもので、これはこの十一章全部を通読して初めて面白い。私の電子テクスト『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』で確認されたい。]
ところで、『闇中問答』(何という陰気な題であろう)は、(昭和元年十二月)とあるから、わかりよく云えば、大正十五年十二月二十六日以後に、書かれたものであろう。とすると、この作品は、芥川が、心のもっとも迷っていた時分に、書いたものである。それで、今よむと、死ぬ覚悟をきめていたらしいようなところも窺われるが、弁解めいた、(いや、はっきり弁解をした、)文句が随所にあり、後に、『河童』や『或阿呆の一生』などに出てくるのと同じ話が
[やぶちゃん注:「闇中問答」の初出である昭和二(一九二七)年九月号の『文藝春秋』の「編集後記」で、菊池寛はその執筆時期を『昨年末若しくは今年初のもの』と推定している。]
しかし、又、その同じような話の
ところが、又、この『闇中問答』の中には、まだこの世に、(芥川の
それで、さきに引いた、この『闇中問答』の最後の、「芥川龍之介! 芥川籠之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ
芥川は、こういう覚悟をして、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、と、つづけざまに、必死に、書いたに違いない。(『必死』とは、「死を決してなすこと」とか、「死力を尽すこと」とか、いう程の意味であるが、芥川が『玄鶴山房』と『河童』をつづけさまに書いた時は、文字どおり、「必死」であったのだ。)
芥川は『玄鶴山房』に
仮りに芥川が、『河童』と『或阿呆の一生』との中で、自分の事と自分の気もちとを述べた、とすれば、先きに述べたように、『或阿呆の一生』には飾りが多く、『河童』の方が、飾りが少なく、芥川という人を、ひょいひょいと、現しているところがある。
私は、ずっと前に述べたように、『河童』の中に、随処に、芥川の、苦悩、悲哀、不平、不満、その他が、現れているのを、殊更に高く買うのである。
*
……殊に家族制度と云ふものは莫迦げてゐる以上にも莫迦げてゐるのです。トツクは或時窓の外を指さし、「見給へ。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに言ひました。窓の外の往来にはまだ
*
これは、
しかし、これは『河童』の中のほんの
トックは超人(超河童)であり、クラバックは「この国の生んだ音楽家
さて、この河童の国に、クラバックとならんで称せられているロックという音楽家がある。クラバックは、そのロックの存在を
芥川の本音、と云えば、私が、『河童』の中で、いろいろ心を引かれた所の中から、その
*
「………」
「この近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ本を見給へ。――」
クラバツクは僕に一冊の本を渡す――と云ふよりも投げつけました。それから又腕を組んだまま、
「ぢやけふは失敬しよう。」
僕は
「やあ、暫らく
僕はこの芸術家たちを喧嘩させては
「さうか。ぢややめにしよう。
「どうだね、僕等と一しよに散歩をしては?」
「いや、けふはやめにしよう。おや!」
トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の腕を摑みました。しかもいつか
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
「
僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチヤツクに診察して貰ふやうに
「僕は決しで無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは
僕等はぼんやり
*
この一筋の中で、特に、トックが気違いになりかかっているところの書き方は、巧妙を極めている。
ところで、この一節を読んで、私は、『歯車』の㈡『夜警』の中の次ぎの一節を、思い出した。
*
或精神病院の門を出た後、僕は又自動に乗り、前のホテルへ帰ることにした。が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が
*
この主人公も一種の精神病者であるが、この書き方も、やはり、実に旨いものである。
ところで、作者はこの哀れな詩人のトックを、(この『河童』の国に登場する河童たちの中で作者が一ばん愛していたらしいトックを、)自殺させている。
硝子会社の社長のゲエルに、「何しろトツク君は我儘だつたからね、」と云われ、医者のチャックに、「トツク君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になり易かつたです、」と云われたトックは、つぎのような詩を、書き残している。
*
いざ、立ちて行かん。裟婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま
*
哲学者のマッグは、「これはゲエテの『ミニオンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れてゐたのですね、」と云う。
しかし『万葉集』の中にも、
神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも
という歌もある。
いずれにしても、作者の芥川は、自殺したトックについても、身に
*
「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトツク君とは親友の
「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
*
これは、トックの自殺の報を聞いて
芥川は、『河童』の中で、こういう事を、書いているのである。
私は、『河童』は、芥川の最晩年の作品の中で、いろいろな欠点はあるけれど、最後のかがやかしい「火花」である、と、確信するのである。
[やぶちゃん注:引用では分かり難いので注しておくと、台詞の話者は、
マツグ「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
クラバツク「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」
マツグ「しかしあなたはトツク君とは親友の
クラバツク「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
マツグ「不幸にも?」
クラバツク「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
である。私の電子テクストで確認されたい。
以下、本引用に現れた部分について、私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』から引用しておく。出来れば、この前後の注も参照されたい。
・「こごしく」古語「凝(こご)し」で、凝り固まっているさま。険しいさま。
・「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊ですよ」ここでマッグが剽窃だ言う Johann Wolfgang Goethe ゲーテ(一七四九年~一八三二年)の“Mignon”「ミニヨンの歌」は、現在、「ヴィルヘルム・マイスター修業時代」の第三巻に収められている南欧への憧れを詠った著名な詩“Mignon”の内(“Mignon”と称するものは他にも三種ある)、最終第三連である。以下にドイツ語原詩を示し(引用はドイツのテキスト・サイトから)、後に該当部分の訳詩集「於母影」の森鷗外訳を(岩波版新書版選集を底本として正字に直した)、その後に高橋義孝訳を示し(こちらは新全集三嶋氏注解に示されたものの孫引き)、最後にトックの詩を掲げて参考に給する。
Kennst du den Berg, und seinen Wolkensteg?
Das Maultier sucht im Nebel seinen Weg;
In Höhlen wohnt der Drachen alte Brut;
Es stürzt der Fels und über ihn die Flut,
Kennst du ihn wohl?
Dahin! Dahin
Geht unser Weg! o Vater, laß uns ziehn!
*
立ちわたる霧のうちに驢馬は道をたづねて
いなゝきつゝさまよひひろきほらの中には
もも年經たる竜の所えがほにすまひ
岩より岩をつたひしら波のゆきかへる
かのなつかしき山の道をしるやかなたへ
君と共にゆかまし
*
ご存じなの、その山を、雲の行きかう山道を?
らばは霧の中で道をさがし、
ほら穴には、年老いた龍の族が住み、
岩は切り立って、その上を滝が流れていて――
御存じなの、あの山を?
さあゆきましょう、あの山へ、
この道真直ぐに。お父さま、
さああの山へ!
*
いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。
岩むらはこごしく、やま水は淸く、
藥草の花はにほへる谷へ。
それにしてもこのマッグは残酷である。自殺したトックの死体の前で微苦笑さえ浮かべて、こんな死者を辱しめる言葉を吐けるとは。いや、それが河童の世界なのである。いや、人間世界のように虚飾を排した正直な感懐と言うべきなのかも知れない。そうして――そうしてこの時、芥川龍之介は、五ヶ月後の、自分自死の後に集まった文人たちの思いを、既に以ってここに悪意を以って(こうした行為を果たして「悪意」と言うだろうか?)予言してもいたものであろう。
「神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも」は、「万葉集」巻七の一一三〇番歌、
芳野にて作れる
で、詠み人知らず。「
〇やぶちゃん通釈
……神々しくも岩と石が積み重なり聳え立つ吉野の
*
「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃気楼」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戦ひをるやうなものに有之、疲労に疲労を重ねをり候。[中略]一休禅師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も残せるや否や覚束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に廻転する事あり、
[やぶちゃん注:「楠正成が湊川にて戦ひをるやうなもの」勝ち目のない戦さと知りながら、死を覚悟で出陣したことを比喩する。
「一休禅師は朦々三十年と申し候……」は一休話の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の句を指して言っているものと思われる。
朦々然而三十年
淡々然而三十年
朦々淡々六十年
末後脱糞捧梵天[以下略]
朦々然として三十年
淡々然として三十年
朦々淡々 六十年
末期の脱糞 梵天に捧ぐ[以下略]
「朦々」とはこの場合、心がぼんやりとすることで、迷いに迷って、の意。「淡々」は悟りの境地を指している。
「碌々三十年」一休はそれでも三十年の迷いを経て悟達し得ましたが、小生は、凡俗そのままに全く以て役立たず、たいした事も出来ないままに、その三十年が過ぎてしまいました、と言っているのである。]
*
これは、芥川が、昭和二年の三月二十八日に、斎藤茂吉に宛てて、書いた手紙の中の一節である。
さて、『歯車』は、㈠「レエン・コオト」、㈡「復讐」、㈢「夜」、㈣「まだ?」、㈤「赤光」、㈥「飛行機」の六章から成り立っている。
『歯車』(一種の連作)を書こうと思い立った時の芥川は、文字どおり、必死の覚悟をしたかもしれない。少なくとも、『歯車』を書く時、芥川は、(たとい「ペンを執る手も震へ出し」ていた、としても、)
三月、――芥川は、二十三日に、まず、「レエン・コオト」を書いた、(「レエン・コオト」を読んだ人は、作者の精神が少し異常ではないか、というような気がするであろう、さて、)「レエン・コオト」を書いて、へとへとになり、暫く休んで、二十七日から、
ここで、ついでに述べると、『歯車』の㈠から㈤までの
*
僕はもう
[やぶちゃん注:「屠竜」の割注を補足する。「とりょうのわざ」「とりゅうのわざ」と読むが、これは「荘子」の「雑篇」「列禦寇篇 第三十二」にある故事に基づくもので、宇野の引用を書き下すと、「
*
これは、『歯車』の中の㈢「夜」のなかの一節である。(『歯車』は、原稿には、はじめ、『夜』とか、⦅『東京の夜』とか、⦆いう題をつけてあったが、佐藤春夫が、その原稿を見せられた時、『夜』というのは個性がなさ過ぎ、『東京の夜』というのは気取りすぎる、と云って、『歯車』という題をすすめた、と書いている。)
さて、先きの話のつづきで、『僕』という主人公が、「或カツフエへ避難」してからの事を、つぎのように書いてある。
*
……僕は一杯のココアを啜り、ふだんのやうに巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行つた。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だつた。けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だつた時、彼の地理のノオト・ブツクの最後に「セント・ヘレナ、小さい島」、と記してゐた。それは
僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考へ出した。するとまづ記憶に浮かんだのは「侏儒の言葉」の中のアフオリズムだつた。(殊に「人生は地獄よりも地獄的である」と云ふ言葉だつた。)それから「地獄変」の主人公、――良秀と云ふ画師の運命だつた。それから……
[やぶちゃん注:ナポレオンの話はネット上で検索をかけると、ナポレオンが学生時代、授業で地図を開いていたところ、セント・ヘレナ島という島がたまたま目に留まり、何気なくノートに「セント・ヘレナ」と落書きしたとあり、実話らしいと記されている。確かな伝記か何かの一級資料が出典なのであろうか。識者の御教授を乞う。]
*
ここに引いた文章をあらためて読みかえして、『屠竜』という硯をくれた若い事業家が、いろいろの事業に失敗した
しかし、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、
*
僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三
日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかつた。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよつて行つた。それから「宗教」と云ふ札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢(けうまん)、官能的欲望」と云ふ言葉を並べてゐた。僕はかう云ふ言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の
[やぶちゃん注:『ストリントベルグの「伝説」』一八九七年に刊行された自伝小説で、創作活動と錬金術への傾斜から困窮、強迫観念と幻聴を伴う精神変調と治療、神秘主義者スウェーデンボリの思想との接触による救済から妻との離婚に至るストリンドベルグが自ら『地獄』と呼んだ時代を描く(以上は二〇一〇年花書院刊の三嶋譲『「歯車」の
*
ここにも芥川の(芥川流の)虚構はあるかもしれない。しかし、この文章には遊びがなく
さて、丸善の二階といえば、最初の一章であるからか、たいていの人が知っている、『或阿呆の一生』の一ばん初めの『時代』が、やはり、丸善の二階が舞台になっている。必要があるので、つぎに、それを写す。
*
それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、
そのうちに日は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が
「人生は一行のボオドレエルにも
彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。
*
おなじ丸善の二階が舞台になっていても、これは、さきに引いた『歯車』の中の一節とくらべると、感じもまるで違い、物も全然ちがう。つまり、先きに引いたところは、いくらか
『
それとこれとは
私は、ここで、二十歳の芥川が、こういう生意気な事を云うのが、おかしい、などと云うつもりではない、芥川が、相変らず、一等俳優を気取っているな、と思ったのである。
[やぶちゃん注:「見得を切っている」私の電子テクスト「或阿呆の一生」の最後に附した本章の別稿を以下に示す。
一 時 代
それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリンベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………
そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………
彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「何と云ふもの寂しさ、……」
彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………
「何と云ふもの寂しさ、……」の部分はテクストを見て頂くと分かる通り、最初、『何と云ふ貧しさ!』と書いたものを削除線で消し、「何と云ふもの寂しさ、……」と書き直したものである。宇野の言うように、この初期形と比すと、芥川龍之介は「南禅寺山門の場」の五右衛門の如く、美事に見得を切っている、とは言える。
「楼門五三桐」は安永七 (一七七八)年の大阪初演の歌舞伎。初代並木五瓶作の全五幕の荒唐無稽な伝奇ロマン活劇であるが、宇野が引用する二段目の返し「南禅寺山門の場」の五右衛門の名台詞で専ら有名。
『昭和二年の十月号の「改造」に、出た時、この一ばん初めの『時代』を読んで、「これはまずいな、」と思った』というのは、死後の小説家としての芥川の名声や光栄に、傷が附くことを宇野は危惧したということになる。勿論、この「一 時代」や「或阿呆の一生」、更には宇野のように後期の芥川作品を評価しない(宇野は少なくとも「小説」としては評価ていない)評者もいることはいる。しかし、どうであろう、宇野の危惧は杞憂であったというべきであろう。「見得」を切らなかった宇野の作品は、今や容易に書店に見出すことも出来ない。宇野の嫌った「見得」が(宇野はそれが芥川の「小説」を似非物にしていると考えていると私は断言する)、皮肉なことに(宇野にとってである)芥川龍之介の「小説」人気の長命の一つの要因であることは間違いないのである。]
芥川は、『一等俳優』の一人であった、が、普通の一等俳優に
*
彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝[註―『或阿呆の一生』]を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐる
*
という文句だけでも、わかる。
ついでに述べると、神経衰弱がひどくなるにつれて、芥川の
それから、しばしば云うように、その作品が用意周到であったように、生活などもなかなか用意周到であった芥川は、自分が死んだ後の事まで、作品の事も、残った者たちの生活の事も、ちゃんと、抜かりなく、考えていたのである。
*
何ものかの僕を狙つてゐることは
*
これは、『歯車』の㈥の「飛行幾」の最後に近いとこかの、一節である。
*
君は芸術の天にたぐひなき凄惨の光を与へぬ。即ち
[やぶちゃん注:これは「海潮音」のボードレールの上田訳の掉尾「梟」の後にポイント落ちで附された上田敏の解説に現れる。以下にその全文を引いておく(底本は一九六二年岩波文庫刊の「上田敏全訳詩集」に拠った)。
現代の悲哀はボドレエルの詩に異常の發展を遂げたり。人或は一見して云はむ、これ僅に悲哀の名を變じて欝悶と改めしのみと、而も再考して終に其全く變質したるを
*
先人の多くは、惱心地定かならぬまゝに、自然に對する心中の愁訴を、自然其物に捧げて、尋常の失意に泣けども、ボドレエルは然らず。彼は都府の子なり。乃ち巴里叫喊地獄の詩人として胸奧の悲を述べ、人に叛き世に抗する數奇の放浪兒が爲に、大聲を假したり。其心、夜に似て暗憺、いひしらず、汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐悔恨の凄光を放つが如きもの無きにしもあらず。 エミイル・ルハアレン
ボドレエル氏よ、君は藝術の天にたぐひなき凄慘の光を與へぬ。即ち未だ曾て無き一の戰慄を創成したり。 ヸクトル・ユウゴオ
「龍葢帳中」は「りようがいちようちう(りょうがいちゅちゅう)」と読み、「龍蓋」は超能力を持った龍を呪法によって封じ込めることを言う。ボードレールが魔術的自在性をその詩句に込めたことを比喩するものであろう。「黑衣聖母」黒い聖母マリア及び聖母子像。ここでは単にただ汚れて黒ずんだ聖像を指すのではなく、原始キリスト教以前にオリエント一帯に広まっていた大地母神信仰の習合されたそれをイメージし、原母(グレート・マザー)への畏怖を示す。「獅身女頭獸」スフィンクス。]
*
これは、ヴィクトル・ユウゴオが、シャルル・ボオドレエルに宛てた手紙の中の、有名な文句であるが、誇張して云えば、この文句をいくらか思わせるようなものが、『歯車』の中に、ところどころに、ある。例えば、(そのほんの一例を上げると、前にも引いたかもしれないが、)つぎのようなところである。
*
海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇つてゐた。その又砂山にはブランコのないブランコ台が
*
芥川は、その作品の中に好んで鴉をつかうが、鴉といえば、斎藤茂吉が鴉を詠んだ歌の中に、こういうのがある。
しまし
ひさかたのしぐれふりくる
[やぶちゃん注:「しまし」は上代語で、暫く、ちょっとの間、の意。いずれも「あらたま」所収の句。]
さて、『歯車』は、ずっと前に述べたように、葛西善蔵がほめ、佐藤春夫が、芥川の作品の中で第一である、と激賞し、廣津和郎も「一ばん
この川端の説には私もほぼ同感であるが、又、『歯車』には川端の
が、いずれにしても、『歯車』は、欠点は随分あるけれど、これこそ、芥川が、必死で書いたようなところもある。そうして、この作品の中には、それこそ、「人生は地獄よりも地獄的である、」というところもあり、その実感のいくらか出ている.ところもある、それに、作者が
ざっとこういう点で、『歯車』は、芥川の全作品の中で、もっともすぐれた作品という訳にはゆかないが、前にも書いたように、もっとも特殊な作品である。
しかし、又、この『歯車』は、無理やりに、怪奇に、怪奇に、と
それから、多くの人が問題にしている『歯車』の最後の「僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつと
しかし、さすがに、芥川は、『歯車』が書き過ぎであることは、
ところで、『歯車』を脱稿したのは四月七日であり、『歯車』は、芥川の物としては可なり長い
[やぶちゃん注:厳密には「一 レエン・コオト」は、生前の昭和二(一九二七)年六月の『大調和』に「歯車」の題で掲載されている(全文公開が死後の十月一日発行の『文藝春秋』)。また、私も(というより、本作の内容に於いて、勿論)、「歯車」全体は、芥川が死後に公開されることを念頭に於いて「計画的に」(それは作品の随処に現れている)執筆したものと考えてよい(芥川龍之介の自死があってこそ「歯車」は絶対暗黒の強靭さを持つのであり、生き延びた芥川龍之介と名作「歯車」のツー・ショットなんどは全体にあり得ないのである)。但し、芥川龍之介が「歯車」を『筐底にしまってしまった』という宇野の表現は、如何なものか。先に宇野が、
(『歯車』は、原稿には、はじめ、『夜』とか、⦅『東京の夜』とか、⦆いう題をつけてあったが、佐藤春夫が、その原稿を見せられた時、『夜』というのは個性がなさ過ぎ、『東京の夜』というのは気取りすぎる、と云って、『歯車』という題をすすめた、と書いている。)
と述べている事実からも、これは言い過ぎである。四月七日の脱稿は現在の年譜的事実からも確定されているが(但し、それも掉尾のクレジットによって、である)、芥川は「歯車」を、恐らく最後まで改稿する努力を続けていたと私は考えている。]
死後、と云えば、芥川が、いかに、自分の死後の
ところで、前に述べたように、芥川が、『歯車』の最後の
昭和二年になってから、芥川は、力作、『玄鶴山房』、『河童』、それから、『歯車』、と、書いてまったく、精根を、使い
それで、芥川の最後の作品は、(作品らしい作品は、)未定稿ではあるが、『歯車』である、という事になる。
芥川が、一世一代の作品、『或阿呆の一生』を書き上げたのは、六月
『或阿呆の一生』は、五十一章になっているが、章が
[やぶちゃん注:「或阿呆の一生」は松屋製ブルー二百字詰原稿用紙に書かれている。タイトルの「或阿呆の一生」は、写真版原稿によって最初、「彼の夢――自伝的エスキス――」とされ、次に「
ところで、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と云われているが、そういうところもあるけれど、全体から見て、『或阿呆(あるいは、或人間)の一生』という感じが殆んどない、が、芥川の晩年の「心象風景」として見れば、随所に、いたく心を打たれるものがある。
しかし、極言すれば、「いたく心を打たれる」のは、『或阿呆の一生』の最後の数章だけぐらいなもので、他の大部分は、芥川
*
あの遺稿[註―『或阿呆の一生』]に書いてある言葉は多く短い。しかし私はちひさなふし穴のやうなあの短い言葉の
*
これは、島崎藤村の『芥川龍之介君のこと』[註―昭和二年の十一月号の「文藝春秋」に出た]という文章の中の一節である。
これもなかなか気どった文章である。しかし、気どり
[やぶちゃん注:以上の宇野の義憤は私と完全にシンクロする。島崎藤村「芥川龍之介君のこと」は私のブログに電子テクスト化し、注も附してあるが、これは永久にHPからのブログ・リンクである。それはこの忌まわしい文章を、芥川龍之介を愛する私として、HPの芥川龍之介と対等な頁とすることを、私が許さないからである。]
*
彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然
*
これは、『或阿呆の一生』の最後の章にちかい、『剥製の白鳥』の一節である。
芥川は、いよいよ自分でこの世(裟婆)を捨てる、という時まで、かがやいた芸術家であった、極度の神経衰弱にかかりながら、『死ぬ薬』を飲む時吾も、決して
されば、ここ書いた一節も、創作であるかもしれない、いや、創作であろう。しかし、創作、である、としても、この時すでに自殺を覚悟していた、とすれば、「彼は彼の、一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」「日の暮の往来をたつた一人歩きながら、……」などというところは、文字どおり、悲痛である。
ところで、この『剥製の白鳥』は、六月
六月二十日、といえば、私は、日は忘れたが、六月の上旬に、芥川をたずねた。
[やぶちゃん注:以下の注で述べるが、この記憶は錯誤である可能性が高い。]
六月上旬の或る日の夜の九時頃、上野桜木町の私の家をたずねて来た、高野敬録と一しょに、芥川を、訪問することになった、「中央公論」の編輯を、滝田樗陰の下で、長い間、していたのを、半分以上自分から進んで
さて、時間もおそく、その
その家は、自笑軒[註―芥川の家(高台)の下の狭い町の中にあった。「天然自然軒」というのが本当の名で、茶料理専門も芥川のヒイキの家であったが、芥川の歿後、何十年、毎年、祥月命日(七月二十四日)の夜、友人たちが、芥川を思い出す『河童忌』をひらいたのも、この家である]の裏あたりの、静かな一軒家であった、(と思う。なにぶん、二十四五年前に、それも、夜、一度しか行った事がない所であるから、記憶はおぼろである、が、芥川の家の方から行って、自笑軒の前を
[やぶちゃん注:宇野のこの記憶には、私は錯誤があると踏んでいる。何故なら、現在の年譜的事実を並べて見た時、凡そこれから書かれるような――平常な状況下に宇野浩二自身がなかった――と考えられるからである。宮坂年譜などをもとにこの前後を見ると、
●五月中下旬か
精神に変調をきたし、母や内縁の妻八重、友人の画家永瀬義郎らに伴われて箱根に静養に行くも、途中の小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べるような奇行があり、数日で帰京する。
●五月下旬
友人広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らが、宇野発狂の報を受け、奔走する。
●六月二日
芥川龍之介の紹介で斎藤茂吉が宇野を診断する(同日診察後の宇野の同行は不明)。同夜十時頃、芥川は主治医で友人の下島勲を訪れ、宇野の病態を下島医師に説明している。
●六月上旬(二日から十一日前後)
斎藤茂吉の紹介によって、王子の小峰病院に嫌がる宇野浩二を半ば強制的に入院させる。以後の入院日数は七十日。
●六月十二日
午後、下島勲と宇野の症状などを談話。
●七月二十四日
芥川龍之介、自死(宇野は継続入院中)。
以上の経緯から、六月二十日には宇野は既に入院しており、芥川訪問などあり得ないのである。この錯誤記載の時期が宇野の発狂とシンクロしているのには、前にも少し書いたが、私は宇野の側の病跡学的な問題と大きな関係があると考えている。それはそれとして、宇野が先に引いた昭和二年一月三十日附宇野浩二宛芥川書簡に『高野さんがやめたのは気の毒だね。』の一言から、この宇野と高野の芥川龍之介訪問が事実あったとすれば(年譜上は確認されていないが、これは事実あったと考えてよい)、その上限は昭和二(一九二七)年二月から下限は同五月下旬の宇野が精神病の発作をする直前までである。しかし、五月は十三日から二十七日まで例の改造社の『現代日本文学全集』宣伝のための旅行に出ており、上記のように宇野の発作も起こっているから考えにくい。宇野が以下で、『六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物の襟をかき合わせた』と記す六月以外を信ずるならば、二、三月ではあり得ない。これは、四月下旬、いや、五月の上旬の記憶の錯誤ではあるまいか?
更に付け加えるならば、芥川龍之介がこのような自宅近くに作業場を持っていたことも初耳である。宮坂年譜を見ると、六月の上旬の項に、『この頃、編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とはあるのだが、実はこれは、この宇野浩二「芥川龍之介」のここの記載にのみ拠ったもので、他にそのような事実を証明する事実はないようである。私は宇野のこの時期の記憶は、以上述べた通り、精神病発症の直後であるだけに信ずるに躊躇するのである。しかし、宇野のここでの道筋や家屋の描写は実にリアルである。逆に言えば、この作業場がこの時期にあったことが他のソースで立証されれば、私の宇野への疑惑は偏見であったことになる。情報があれば御教授願いたい。宇野のために。]
私たちが、
「……客らしいね、」「うん、でも、……」と、云いながら、私たちは、暗い中で、顔を見あわして、ちょっと、ためらった。
と、ふいに、玄関に、芥川の、立ちはだかるような
しかし、それは、一瞬間で、私は、芥川の姿を見かけると、すぐ、「おおい、」と、向うまでとどくような声で、叫んだ。私は、自分の声のはずんでいるのが、自分で、わかった、うれしかったのである。芥川の方でも、私の声がすぐわかったらしく、「やあ、」と、元気のよい声で、答えた。
ここで、思い出したが、(まちがっているかもしれないけれど、)その家は、玄関が二
さて、先客は、二人であったか、私たちと入れ違いに、帰って行った。芥川は、客を送り出して、座敷に戻ってきて、私の方を見ると、いきなり、
「君、困ったよ。……まあ、
「……なに、『婦人公論』の小説って、」と、私は、ちょっと考えて、「ああ、そうか、『彼等のモダアン振り』というのか、」と聞いてみた。
「そうだよ、君、……彼等は、モダアンじゃないよ、だから、モダアンでない僕が、仲裁をたのまれて、因ってるんだ。」
この小説は、たしか、その頃、井伏鱒二と、傾向は正反対であるが、『ナンセンス』文学の創始者と云われ、新進作家の雙璧と
[やぶちゃん注:「彼等のモダアン振り」不詳。宇野の代表的作品一覧の中には見当たらない。宇野には登場人物に実際のモデルが多く、「大阪人間」(昭和二十六(一九五一)年)はモデルから告訴されて未完となっている。
「中村正常」(まさつね 明治三十四(一九〇一)年~昭和五十六(一九八一)年)は劇作家・小説家。岸田国士に師事し昭和四(一九二九)年に戯曲「マカロニ」で注目される。他に「ボア吉の求婚」「隕石の寝床」などのナンセンス・ユーモア作品を発表し新興芸術派の代表的作家となったが、後に文壇を離れた。女優中村メイコの父である(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「田中常憲」(つねのり 明治六(一八七三)年~昭和三十五(一九六〇)年)は歌人・教育者。鹿児島生。上京して落合直文に師事。二十三歳で小学校校長となり、長野・大阪・大分・福岡県・京都府福福知山から桃山の各中学校校長を歴任した。
「伊牟田何子」不詳。]
さて、私が殊更このような事を書いたのは、私が芥川を訪問したのは、前に述べたように、昭和二年の六月十日頃であり、その六月十日頃には、芥川が、あの一世一代の『或阿呆の一生』を、この隠れ家で、一章ずつ、ぽつり、ぽつり、と書いていた時分である、そうして、私が、高野と、
しかし、私は、その時、芥川に、「君はそんなことを云うけど、君だって、ほんとは、『彼等』をモダアンだ、と思ってるんだろう、」と、云おう、と思ったのであるが、それは
さて、その話がすんで、高野が帰って行き、
その『御馳走』というのは抹茶であった。
二人きりになると、二人は、やっと、
「……ここで、ずっと、書いてるの。」
「うん、書いてる、……しかし、先月は、書きなぐったので、つまらない物ばかりだ、……君、僕は、ね、書かなければならない。必要があって、書いたんだよ、……
[やぶちゃん注:この証言が事実とすると、作品群から推すと一見、六月説が正しく見えるように叙述されてはいる。私の推測するように、五月説をとると、四月発表の作品には「三つのなぜ」・「春の夜は」・「誘惑」・「浅草公園」・「今昔物語鑑賞」といった、とても書きなぐったとは言えない、野心的な(若しくは「三つのなぜ」のように芥川にとって私的に深い意味のある)作品があるからである。]
「しかし、
「うん、」と云って、顔を上げた芥川は、久しぶりで見る『いたずらっ
「長いもの、」と、私は、ちょっと息をはずまして、聞いた。
「いや、二十五枚だが、君の『軍港』のような勢いはないけど、……僕のは、二万噸の一等戦闘艦が、舞台だ、……が、結局、しまいに、その戦闘艦を人間にしてしまうのが『味噌』なんだけど、……」と云って、云ってしまってから、なぜか、芥川は、急に侘しそうな顔をした。
しかし、その時は、私は、「戦闘艦を人間にしてしまう」などというのは、例の芥川の
[やぶちゃん注:「三つの窓」の脱稿は六月十日である。正に悩ましい日附けではないか!「書いたんだ」という過去形は確かに気になる。宇野が元気なら六月二十日は正にぴったりくるのだが、先に述べたようにそれはあり得ない。……いや……それより何より……宇野が……「三つの窓」の、正にこの「三 一等戰鬪艦××」の……
横須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊してゐた。一萬二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だつた。彼等は廣い海越しに時々聲のない話をした。△△は××の年齡には勿論、造船技師の手落ちから舵の狂ひ易いことに同情してゐた。が、××を
すると或曇つた午後、△△は火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい
それから三四日たつた
そう……この……
『一萬二千噸』の『戰艦△△』が……
他ならぬ宇野浩二であることに……
これを書いている時点に於いても本人宇野浩二が全く気付いていないことに……
私は呆然とするほか……
ないのである……
いや……
分かっていなかったとは思われない……
もし、恐ろしく鈍感なのでないとしたら……
宇野は――この比喩を――自分とは絶対に認めないのだ、としか思えない――
絶対に自身の精神異常を――精神異常、則ち――「発狂」としたくないのである――
彼は自分はあくまでも――正常範囲での――たかが境界的な神経衰弱に過ぎなかったと――
固く信じていることになる――いや――信じているのである――と私は確信しているのである……
さればこそ宇野浩二にとって、この『戰艦△△』が、彼自身であろうはずが、ないのである――]
さて、芥川は、その晩、「門のところまで送ろう、」と云って、
今、この時の事をかんがえると、この時、芥川が、「すこし骨の折れる原稿」と云ったのが、『或阿呆の一生』であったのだ。
七月の初めに、私は、芥川に、斎藤茂吉を紹介してもらい、斎藤茂吉の世話で、滝野川のナニガシ病院に、入院した。
[やぶちゃん注:「七月初め」前掲の通り、現在の知見では宇野の入院は六月上旬である。
「滝野川のナニガシ病院」は王子の小峰病院のこと。現在の東京都北区滝野川北端は明治通りと本郷通りを境界に王子と接する。]
私のはいった病室は六畳ぐらいで、両側が壁で、南側の一
私が入院した七月の初め頃はまだそれ程ではなかったが、
[やぶちゃん注:「華氏の九十度」は摂氏三二・二度、華氏「九十二三度」は摂氏三三・三から三三・九度。]
二十日の夕方であったか、妻が、たずねて来て、その日の昼すぎに、「芥川さんが、お見えになりまして、僕は、旅の支度で忙しいので、病院までお見まいに行けないから、と、おっしゃいまして、これを持って来てくださいました、」と云って、その頃めずらしかったタオル地の
[やぶちゃん注:「僕は、旅の支度で忙しいので」芥川龍之介の、この宇野の妻(八重)への伝言が真実だとすれば……これはドリュ・ラ・ロシェル&ルイマルの「鬼火」のアランの、正にあの台詞――「だけどもうすぐ
以下、二つの後記は底本では全体が一字下げ。]
(後記――これも、後に述べてある、芥川が世を捨てる前にいろいろな『伝説』が流布したが、その中の一つに、芥川は、死ぬ覚悟をしてからは、大へん深切にした人たちと、その反対に、わざとらしい
[やぶちゃん注:窪川いね子(佐田稲子)が、この頃に偶然、近所に住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていたのが、七月二十一日、夫の窪川と共に芥川龍之介を来訪、七年振りの再会を果たしたが、その際、芥川は自殺未遂の経験のある稲子に詳細を訊ねたのは事実であり、伝説ではない。また、稲子は非常に困惑し、薄気味悪く感じたことは事実であるが、それは『わざとらしい嫌がらせ』ではない。芥川は稲子には終始、好感を持っていた(彼女とは男女の関係にはなかった。が、しかし、窪川と彼女の関係を知って漠然とした嫉妬心を芥川が持った可能性はあり、それを強いて『わざとらしい嫌がらせ』の可能性があると言おうなら、言えぬとは言えないが)。それは、まさに自死の三日前のことであった。]
(後記-それから、これは、誠に通俗的な『伝説』であるが、私のうろおぼえの記憶であるが、芥川が死んでからは、いろいろな『伝説』が新聞や週刊雑誌に出たが、その一つに、芥川家の女中のナニガシの話として、芥川は、伯母のところに紙につつんだ短冊をわたして、自分の部屋に帰る途中で、廊下、から名品の花瓶を庭にむかって投げつけた、というのが「ソレガシ」(週刊雑誌)に出た。それを読んだ菊池 寛が、「そんなら、芥川は、もっと三つも四つも花瓶を投げつけたら、死なずにすんだかもしれない、」と云った、誠しやかな、話も流布された。その他、これに似た『伝説』は私が聞いたり読んだりしたものでも十以上あるから、かかる伝説は数しれずあるにちがいない。)
[やぶちゃん注:これは、自死の四日前の七月二十日、伯母フキと諍いを起こして、フキが泣き出したために一度は宥めたものの、芥川自身の気持が収まらず、床の間にあった花瓶を庭石に投げつけた(宮坂年譜に昭和二年八月十四日「週刊朝日」の森梅子「芥川氏の死の前後」に基づく)という記事が誤って伝えられたもの(若しくは誤って宇野が伝え聞いたもの)であろう。]
その翌日であったか、二人の看護人が、廊下を掃除しながら、「
ところが、その雨が、
七月二十三日は、九十五六度の暑さが夕方までつづき、八時を過ぎて、窓の外が暗くなってからも、まだ蒸し暑かった。それで、窓を
[やぶちゃん注:金子大輔氏の「気象から考える河童忌」などによれば、気象庁天気相談所の公式なデータとして同年七月二十三日の最高気温は摂氏三五・六度、不快指数八九の猛暑日であったが、七月二十四日は最低気温二〇・七度、最高気温二六・八度という涼しさになっていたことと、暗い雲に覆われて雨が降りしきり、一四・二ミリの降水を観測していた、とある。そして金子氏は『寒冷前線が近づくと喘息の発作が起きやすい、うつ病が悪化する方が多いと話す人もいる。寒冷前線は、急激な気温低下・天候悪化などをもたらし、体にとって大きなストレスになる』として、当日の天候が芥川龍之介の自殺決行を促す一因子であった可能性を示唆されて興味深い。宇野が降雨の時間を記憶しているのも印象深いが、当時の宇野の病態を考えると、これは残念ながら、後の吉田精一の評論等に所載するデータを、自分のオリジナルな疑似記憶として取り込んでいる可能性が、残念ながら高い気がする。]
芥川は、その雨の降り出した頃、死ぬクスリを飲んで、永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった。そうして、その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は、伯母[註―養父道章の妹であり、実母ふくの姉である、芥川ふき]の寝ている枕元に来て、紙に包んだ短冊をわたしながら、「これを、
[やぶちゃん注:「永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった」とあるが、現在の年譜的知見では、この時刻に二階の書斎から階下に降り、文と三人の子の眠る部屋で床に就いたが、既にこの時、薬物を飲用していたとされる。「その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は……」は、現在では午前一時頃とされており、宇野の謂いはより細かいが、これは寧ろ宇野独自の情報ではなく、彼の推測(午前二時の雨の振り出し、同時刻の自殺決行という時系列から宇野が割り出した推測に過ぎないものと思われる。
辞世とされる著名な句について、私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句集四 続 書簡俳句」の掉尾の「辞世」から、私の鑑賞文とともに引いておく。
自嘲
水涕や鼻の先だけ暮れのこる 龍之介
昭和五十三(一九七八)年九月一日発行の雑誌「墨 十四 特集 芥川龍之介」に所収する下島勲(空谷)宛オリジナル短冊写真版より起こした。
短冊サイズは三六〇×六〇。原型句自体は「澄江堂句集」によると、大正十二年頃の作か。「發句」所収のものとは、「殘る」のひらがな表記で相違する。
しかし、慄っとするほど美事な彼の死のシルエットである。大正十四年の「土雛や鼻の先だけ暮れ殘る」の改案故に、この句を諧謔味に富んだ芥川の軽みの句境と解する向きには全く私は組しない。
――バッハ弾きの名手グレン・グールドは恐るべき怪演にして快演の「ゴルトベルグ変奏曲」で華々しく実質的にデビューし、その同じ「ゴルトベルグ変奏曲」の新録音演奏を以ってその最期を閉じた――
――芥川龍之介も漱石激賞の実質的なデビュー作「鼻」に始まり、その円環をやはり、この「鼻」の句で閉じた――のであった。
それはとりもなおさず、自嘲的諧謔であると同時に、自己同一性証明への確信犯としての覚悟の一句であった。――
――ヴィトゲンシュタインが言った如く――我々は語り得ぬものについて、沈黙せねばならない――のである――
以下、後記は底本では全体が一字下げ。]
(後記――この『水涕や鼻の
これは芥川の死ぬ前の晩から夜中へかけての『伝説』である。(『伝説』とは、英語でいう“Tradition”とすれば、「口碑または文書によって伝えられた過去の事実、あるいは、事実と信じられた事件の伝承」という程の意味である。)
[やぶちゃん注:私は「伝説」というと、“legacy”を思い浮かべるが、因みにその違いを調べてみると、“legacy”は個人から個人へ受け渡されるもの、“tradition”は民族・結社・宗派といった集団から集団に受け渡されるものであるらしい。――なるほど――これは芥川龍之介の「遺産」とは何かを考える時、面白い違いである気がした――。]
さて、こういう芥川の伝説は、寡聞な私の知っている限りでは、芥川の無二の親友であった小穴隆一の『二つの絵』の中に、もっとも多く出てくる。
そこで、芥川のいろいろな伝説を作った人を、仮りに小穴その他とすれば、小穴その他は唯『伝説』を書いただけであって、その伝説を
ところで、芥川は、前にも述べたように、晩年になってからは、健康が弱るとともに、創作力もしだいに衰え、しまいには書くものが断片的になり、題材は幾らかちがっても、同じようなものばかり書いているような観があった。しかし、どの作品にも、何ともいえぬ哀調があり、底に
*
「わが父よ、
あらゆるクリストは
*
これは『西方の人』の中の(28)「イエルサレム」の最後の一節である。(後記――口さがない人たちは、⦅あるいは、根も葉もないことを喋る連中は、⦆さきに引いた、『西方の人』の(28)のなかの、「あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは『いたく憂へて死ぬばかり』な彼の心もちを理解せず……」という文句のなかの『弟子たち』は芥川の『弟子たち』を差すのであろう、と云う。しかし、私は、この言葉は信じたくないのである。)
[やぶちゃん注:「弟子たち」宇野は例えば龍門の四天王と呼ばれた連中や、その他の芥川に師事した若い作家志望の『若者』をイメージしていると考えてよい。則ち、当然の宇野は勿論、芥川の盟友であり、『弟子』ではない。ではないが、芥川龍之介が「西方の人」と「続西方の人」で自らをキリストに擬えた時、彼は年若の後の小説家や小説家志望の若者らだけを『弟子』と認識していたのでは、無論、ない。寧ろ、彼に敵対し、彼を正しく理解出来ない、彼よりも先に自らを預言者(作家)であると自認していた者達をこそ、真の教え(芸術世界)へと導くべき『弟子』と認識していたはずである。宇野には承服出来ないであろうが――それは、宇野が芥川を、いや、寧ろ、他の小説家や大衆が芥川龍之介という稀有にして孤高の小説家を、正しく見なかった、芥川と自分との間の『一歩』の違いを理解し得なかった、と芥川龍之介自身は感じていたのである(『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ』。「侏儒の言葉」の「天才」)。芥川龍之介は、ある意味で(少なくともその生前に於いて)芸術家としては絶対の孤高者として、絶対の孤独の中で、軍靴の音が響き始める大日本帝国の幻影の城を見上げる曠野に立ち竦まざるを得なかった。しかしにも拘らず彼は、惨めな「失敗であった」自身の一個の生と死が、無数の彼を遺伝する未来人として復活することを予言して(『わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。』(「侏儒の言葉」掉尾「民衆」)、自らを架刑したのである(リンク先は私の電子テクスト「正續完全版「西方の人」)。]
『西方の人』も、『続西方の人』も、芥川の死後、「遺稿」として、雑誌[註―「改造」の八月号と九月号]に出た。
前者は七月十日に脱稿し、後者は七月二十三日に書き上げた。つまり、芥川は、『続西方の人』の最後の章(22)「貧しい人たちに」を書いた日の翌日の未明に、死んでしまったのである。
[やぶちゃん注:私のテクストから、最終章「貧しい人たちに」を引用しておく。
22 貧しい人たちに
クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天國などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも
さて、これから書こうとする事は、芥川が死んでからの『伝説』である。
十返舎一九が死んで、遺骸を茶毘に附すると、数道の星光が棺の中から
[やぶちゃん注:十返舎一九の荼毘花火の逸話は、出所データが不明ながら、宇野の言うような一九の作品中にあるのではなく、同時代人であった落語家初代林家正蔵(安永十・天明元(一七八一)年~天保十三(一八四二)年)のエピソードとしても知られており、実際には一九の逸話として伝えたのも正蔵であったというのが事実であるらしい。とすれば、実際には一九はやっておらず、正蔵がそうした都市伝説を高座で語り、実際に自分の葬儀でやった、というのが正しいのであろうか。識者の御教授を乞うものである。]
『伝説』とは大体こういうものであるから、私がこれから書こうと思う芥川の死後の伝説も、この一九の伝説と似たり寄ったりの
芥川が自殺しそうな心配がある、と思って、芥川の
やがて、下島が、「もう
さて、下島は、手続きをするのにも菊池に来てもらわねばならぬ事情があるので、文藝春秋社に電話をかけさせた。そこへ、小穴がやって来た。小穴は、下島から芥川の死んだ事を聞くと、何ともいえぬ悲痛な顔をした、が、すぐ、芥川の最後の面影を写すために、縁の近くの程よい所に画架を据えた。(小穴がその木炭でその
さて、前の晩の二時頃に、芥川が、睡眠剤を飲んで、寝た、として、
(芥川は、睡眠剤で死ねる、とは思っていなかったので、ほかの『クスリ』を用意していたのである。)
[やぶちゃん注:この下島の文章は昭和二(一九二七)年九月一日発行の『文藝春秋・芥川龍之介追悼号』に載った「芥川龍之介氏終焉の前後」からの引用である。山崎光夫氏の「藪の中の家」によれば、昭和二年八月五日の執筆年月日がクレジットされている。但し、下島はこの後にその『真因』を語っていないのである。宇野は芥川龍之介の死後、小峰病院を退院後に、以下に見るように、誰かからの伝聞によって、「ほかの『クスリ』」であるという情報を得たのであろうが(山崎氏は小島政二郎と推定しているが、私は微妙に留保したい。山崎氏が根拠として昭和三十五(一九六〇)年十二月号『小説新潮』に掲載された「芥川龍之介」の『実際、死後の彼の書斎には青酸加里が一ト
*
最後に僕の
……彼女は
今度こそほんとに青酸加里を手に入れたよ。
[やぶちゃん注:私は特に小穴の記載に着目する。それは、この証言が真実を語っているとすれば、芥川は青酸カリを裸の粉末状態で一定量入手したという事実を指しているからである。則ち、芥川龍之介が入手した際、それが入っていた容器ごと入手は出来なかったことを意味する。また、余裕のある状態なら事前に壜を用意してそれを入れるだろうから、それを入手するシチュエーションが、比較的場当たり的な状況であるか、稀なチャンスであった、だから紙包とか封筒とか家庭内にあるピル・ケースのようなものに入れざるを得なかったのではないかと私は考えるのである。なお、青酸カリは、潮解により空気中の二酸化炭素と反応して猛毒のシアン化水素(青酸ガス)を放出しながら炭酸カリウムに変化してしまう(保管するだけでも家内の者にも危険が及ぶ可能性が生ずるし、長期にわたって開放的に放置すれば毒性は容易に失われてしまう)。特に日光に当たる状態では反応が進み易いため、空気に触れず、日光に当たらないよう、飴色の密閉したガラス瓶に保管するのが普通である。]
*
右の三つの文章はみな一種の作品であるけれど、下島が「初めてその真因を摑むことが出来た」と書いているのは「(つまり、下島が芥川の机の上に見つけたのは、)『青酸加里』(つまり『シャン化カリウム』⦅Cyan 化 Kalium⦆である。いうまでもなく、この薬は、猛毒薬であるから、下島は、その『真因』を公表しなかったのであろう。
さて、下島が文藝春秋社にかけさせた電話によれば、菊池は、雑誌「婦女界」の講演のために、水戸から宇都宮の方へまわった、と云う。それで、下島は、近親の人たちと相談して、法律の手続きを取ることにした。
やがて、警察官が来て、検案や調査をはじめた。
[やぶちゃん注:ここで多くの読者は、もし、山崎氏や私が考えるように青酸カリによる自死であったなら、何故、それが司法解剖(変死体で犯罪の結果の致死の可能性が疑われる場合の死因究明のための剖検)なり行政解剖(死因の判明しない犯罪性のない異状死体への死因究明のための剖検)なりが警察の検死によってなされなかったのかを疑問視されるであろう。それは下島医師が死亡診断書を書くに当たって、警察当局に、睡眠剤の「劇薬『ベロナール』と『ジャール』等を多量に服用」(昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』)したことによる「急性心不全」(山崎氏の「藪の中の家」での死因推定)であることを語り、当時の通報を受けて芥川家を訪れた担当警部補二人が、その下島の医師証言や家族の希望などを勘案して、解剖の必要を認めないと判断したからであると考えてよい。推理小説好きの方は、それでも当時であっても、もし青酸カリの自殺だったら、それは入手経路が問題にされるはずだ、と言われるであろう。下島から、もしかするとこの時の警部補らもそれが青酸カリ自殺であることを知らされていたのかも知れない(山崎氏は真相を下島は警部補らに話していたと考えておられるようである)。しかし、この時の芥川の身内・下島・警部補らは――そしてその直後に真相を知った周辺の人々も――『真相を包みこむ文学的処理は龍之介の名誉を守る』『芥川龍之介の場合、文学こそ真実だ』――という考えで一致した、と記しておられる。私も山崎氏の推論を支持するものである。読者の中のホームズ氏は――それでも尚且つ、入手先は? と食い下がるであろう。そこは山崎氏の名推理を「藪の中の家」で堪能されたいのである。……ヒントは……龍之介の辞世の句の……「鼻の先だ」け……である……♪ふふふ♪]
(ここで、書き忘れたことを述べる。――文子夫人に宛てた遺書の中に、「絶命後は小穴君に知らせよ、」という文句があったので、さっそく小穴の所へ葛巻が走ったので、小穴が一ばん早く来た。つぎに、近くの日暮里諏訪神社前に住んでいた、久保田万太郎が飛んで来た。)
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、ここらから後は、総て宇野の実体験に基づくものではなく、総て伝聞である。宇野自身は精神病院で『死ぬか生きるかの瀬戸際』(水上勉による底本の解説)にいたのである。宇野の叙述は会葬場の配置にまで及び、驚くべき精緻を凝らすのを不審に思われる読者も居ようが、これは小穴隆一の「二つの絵」の一四一頁に載せる精密巧緻な芥川龍之介の会葬場見取り図に拠るものである。その証拠は、後文で中野重治出席の誤りが中野自身によって指摘されたとあるが、小穴のそれには、はっきりと「記録係」の位置の左端に「中野重治」と記されていることから明白である。]
さて、遺書は、芥川夫人、小穴隆一、菊池 寛、竹内得二[註―養父の道章の弟、つまり芥川の叔父]あての四通と、伯母のふきと甥の義敏と、別に、『或旧友へ送る手記』とである、ところが、これらの中で、芥川は、殊更に、『旧友へ送る手記』の中に、「どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せず措いてくれ給へ、」と書いているが、これは、『思わせ
[やぶちゃん注:芥川龍之介の遺書は、厳密に言うと(現在、作品に数えられている「或旧友へ送る手記」を除いて考える)、宇野が挙げている「小穴隆一」宛は昭和二(一九二七)年四月七日に「歯車」脱稿後、帝国ホテルで心中平松麻素子と心中未遂をした頃に書かれたものと推測される五枚から生前遺書で、外の実際の自死直近の遺書群とは区別する必要がある。その遺書群も「芥川夫人」宛一通(+断片二通)、「わが子等に」宛一通、「菊池 寛」宛一通、「竹内得二」宛(一通?)、「伯母のふき」宛(一通?)葛巻「義敏」宛(一通?)等、小穴宛生前遺書を含めると確実に総計七通を超える数の遺書があった。その内、紛失(焼却?)も含めて芥川文宛の複数(若しくは一通の一部)の一部、竹内得二宛・芥川フキ宛・葛巻義敏宛の四通から五通が未発表(恐らくは最早公開されないか、存在しない)である。この後、宇野は遺書の内容に触れていないが、私の渾身の電子テクスト「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」及び先行する旧全集版「芥川龍之介〔遺書〕(五通)」の私の注は是非お読み戴きたい。]
さて、午後四時頃、久米は、佐佐木たちと一しょに、既に白木の台と晒木綿などの置いてある玄関をあがり、うすい掛け蒲団をかけてある既に
永眠した芥川の顔は、
*
僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにおいて貰ひたいと思つてゐる。
僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもつたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも
最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。
*
これは、『或阿呆の一生』にそえた、久米正雄にあてた、手紙で、日づけは「昭和二年六月二十日」となっているから、『或阿呆の一生』を脱稿した月に、書いたものである。(実に『一
この手紙(『或旧友へ送る手記』)と『或阿呆の一生』の原稿を、久米は、二階の座敷(芥川の書斎であった部屋)で、
その頃は、小島政二郎、南部修太郎、野上豊一郎、野上弥生子、香取秀真、犬養 健、その他の人たちが、その応接間になっている座敷の中に続続とつめかけていた。
[やぶちゃん注:「犬養 健」(たける、明治二十九(一八九六)年~昭和三十五(一九六〇)年)は政治家・小説家。元首相犬養毅三男。法務大臣。長与善郎や武者小路実篤は義父の弟に当たり、彼等の影響下、白樺派の作家としてデビュー、大正十二(一九二三)年、処女作品集『一つの時代』を刊行、精緻な心理描写と繊細な感性が評価され、後に政治家に転身してからも文士の知友が多かった。昭和二十七(一九五二)年に吉田茂首相の抜擢で法務大臣に就任したが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対して重要法案審議中を理由に指揮権を発動、逮捕の無期限延期と任意捜査へと強引に切り替えさせて不評を買った。指揮権発動の翌日には法務大臣を辞任したが、この指揮権発動によって事実上の政治生命は絶たれ、この指揮権発動を理由として日本ペンクラブは彼の加入を拒否している(以上はウィキの「犬養健」を参照した)。]
久米は、ずっと後に、『或阿呆の一生』の原稿を「もう少し早くわたしてくれたら、死因などもすっきりして、別にいろいろ云われずにすんだと思うのだが、ごたごたがあってから渡されたものだから、……」と、こぼしたが、その時は、『或旧友へ送る手記』を発表すべきかどうか、というような問題などが出て、それがやっと決定する、というような状態であった。
さて、やっと菊池がついたのは、長い夏の白が暮れて、もう
菊池が着く少し前から、いろいろな新聞の記者が、おしよせて来て、これと思う人に、面会をもとめた。しかし、みな、「九時に、『竹むら』[前に書いた、六月十日頃の夜、私が高野と、芥川をたずねて行った家か]で、すべて、発表するから、」と云って、断った。
[やぶちゃん注:「竹むら」は芥川邸の近くにあった貸席。宇野の推測は恐らく誤りである。]
さて、菊池が
[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
喪主は満七歳の長男芥川比呂志が務めた。通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]
その翌日(つまり、七月二十五日)の都下の各新聞は、(七八種の新聞は、)その第三面の殆んど全部を、芥川の自殺に関する記事で、埋めた。(その頃、出版社の
[やぶちゃん注:披見した昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』では下部の広告欄を除くほぼ十段の一面全部を芥川龍之介自殺関連記事で埋めている。]
それは、
[やぶちゃん注:ここで宇野が参照しているのは、昭和二年七月二十五日附の『東京朝日新聞』の方である。こちらは全十段の内、八段強相当を芥川龍之介自死関連に割いている。]
つまり、芥川の自殺は、このように、文壇の人たちは、もとより、世人の
七月二十四日の午後三時頃、家の者が、
と、虫が知らした、と云うか、この言葉が、私に、妙に、異様に、感じられた。なにか、どきッとしたような感じをうけた。
それで、なにか予感のようなものを感じていたのか、その翌日、あの誇大な新聞の記事を見た時、もちろん、はッとしたが、それほど驚かなかった。
その日も、どんよりした暑い日で、じっとしていても、
[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]宇野浩二の渾身の作品「芥川龍之介」のコーダ、ここに窮まれりの感がある。永遠に忘れることの出来ない本作の最も美事なシーンである。]
芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、
谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。
その狭い道路に面して、通路の両側に
[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。
「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。
「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。
「青地喜一郎」不詳。
「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。
「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。
以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]
(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)
[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]
ところで、この明き地の右側と左側に、おなじ
[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。
「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]
さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。
斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、
香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が
そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。
[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]
この日の導師は、芥川の菩提寺である、日蓮宗、慈眼寺の住職、原 智光師であった。
[やぶちゃん注:「原 智光」は「篠原智光」の誤り。]
告別式は、午後三時から三時半までであったが、会葬した文壇の人は七百数十人であった。そうして、先輩の総代として泉 鏡花が、友人の総代として菊池 寛が、文芸家協会を代表して里見 弴が、後輩を代表して小島政二郎が、それぞれ、弔文を読んだ。これらの人たちの中で、菊池は、弔文を、読みはじめる前に啜り泣き、読み出してからも、一句よんでは
*
芥川龍之介君よ、
君が自ら選み自ら決したる死について、
[やぶちゃん注:菊池の直筆弔辞の写真を見ると、「堪ゆべく」は「堪ゆるべく」、「我等また」は「我等亦」、「眠り」は「眠」、「せうでう」は「蕭条」の表記である。最後に「友人總代 菊池寛」とある。]
*
この時の葬儀に私の
この時の葬儀に会葬した帰り道で、田山花袋が、三上於菟吉に、「君、物事を
芥川が死んでから数日後に、吉井 勇と廣津和郎が、銀座で逢った。「ほかの人が死んでも『ああ、そうか、』と思うくらいだが、芥川が死んだ時は、悲しい気がしたね、」というような事を、何度も、云い合った。
[やぶちゃん注:以下の行間のアスタリスクは底本のもの。]
*
今、こういう時から二十五六年たった、西洋流に云えば、四半世紀すぎたのである。
この頃、
[やぶちゃん注:この最後の部分を読むと――私は何故か――片山廣子(松村みね子名義)の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」を思い出す――いや――正に「小説の鬼」を自認した宇野浩二のこの「芥川龍之介」という書は――廣子のそれと同じく――正しく自らをもミューズから遣わされた者とする――小説の使徒ルカ宇野浩二の――ルカによる福音書であった。――]
芥川龍之介 宇野浩二 附やぶちゃん注 完