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鬼火へ

宇野浩二「芥川龍之介」上巻へ

芥川龍之介   宇野浩二   下巻 (十五)~(二十三) 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友宇野浩二による渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された。底本は中央公論社昭和五十(一九七五)年刊の文庫版上・下巻を用いた。ルビの拗音の同ポイントについては私の判断で小文字を採用している。本文中の割注のような( )によるポイント落ちの筆者の解説が入るものは(ポイント落ちでない補足がやはり( )や⦅ ⦆で行われているが、それとは違う。それはそのまま( )や⦅ ⦆を用いた)、[ ]で同ポイントで示した(当初はこれは筆者とは別な編集者が挿入した疑いを持ったが、幾つかの箇所から筆者でなければ書けない内容であることが分かったので、省略しなかった)。なお、手紙等の引用は底本では全体が二字下げとなっているが、ブラウザ上の不具合を考えて、本文と同一にしたが、引用であることが判然とするように前後には底本にはない「*」を附して読み易くした(但し、詩歌などの引用でブラウザ上の不具合が生じない箇所は底本通りとして「*」は挿入していない)。書簡のクレジットなどの注で下インデントになっているものは、原則、引用文末から三字下げで示した。「〱」「〲」の繰り返し記号は正字に直した。一部に私のオリジナルな注を附した(注の位置は私の判断で空行パートごと若しくは当該語句を含む形式段落の直後の何れかに配してある)。注を附す対象は私がよく知らない(若しくは作家名として知っていても作品を読んだことのない)人物・事件を主としたが、本文で十全に語られていると判断した人物・事件については省略したものも多い。悪しからず。上巻はこちら。なお、本頁のルビは単語が連続している場合、それぞれが自立語であってもそのまま(分割せずに)配している。これは面倒だからではなく、連続するルビ・タグが一定量を越えると、私のHP作成ソフトでは何故かそれをエラー認識して書き換えてしまう(書き換えない設定にしても書き換えてしまう)ためである。長いルビに関しては字配と一致しないものがあるが、悪しからず。【二〇一二年五月十日】]

芥川龍之介 下巻

芥川龍之介
  
――思い出すままに――

     
十五

 前にも述べたように、『傀儡師』[大正八年一月発行]出した頃は、芥川の全盛時代であり、芥川がもっともきおっていた時の一つであった。いいかえると、この頃、(つまり、大正八年のはじめ頃)は、芥川の短かい一生の中でもっとも張りのある時代の一つであった。
 『傀儡師』は、いうまでもなく、芥川の第二作品集であり、その装幀は芥川がしたものである。(もっとも、『羅生門』の装幀も芥川がした。)
[やぶちゃん注:私の電子テクストに可能な限り、この第二作品集を味わえるように仕組んだ「芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)」がある。お楽しみあれ。
「競う」の読みは誤りではない。勢い込んで先を争う、張り合うの意の「きおう」は「競う」「勢う」と書く。]

     世の中は箱に入れたり傀儡師
 二伸これは新年の句本の広告ぢやありません

 これは芥川が、大正八年の一月四日に書いた葉書の文句であるが、芥川は、おなじ年のおなじ日に、これと同じ文句を書いた葉書を南部修太郎と薄田すすきだ淳介(泣菫)に、出している。
 ところで、私が、前に、「芥川がもっとも競っていた時の一つ」と書いたが、その例の一つは大正六年の一月号の『新思潮』に、芥川が、「文壇は来るべき何物かに向つて動きつつある。亡ぶべき者が亡びると共にうまるべきものが必ず生まれさうに思はれる。今年ことしは必ず何かある。何かあらずにはゐられない。僕等は皆小手しらべはすんだと云ふ気がしてゐる、」と書いているからである。
 もっとも、『競う』といえば、元気と張りあった自分の芥川は、いつも、なにか、競っていた。(『競う』とは、もとより、「負けじと進む」「意気ごむ」という程の意味である。そうして、また、『競う』というと、芥川は、文壇に出てから、死ぬまで、一生いっしょう、競いとおしたようなところもあった。
 大正六年といえば、芥川の、かぞえどし、二十六歳のとしである。
 こういう事を書きながら、ふと三十六歳の頃の私は、(おなじ年頃の私の友だちは、)このような『競う』気もちなどは殆んどまったく持っていなかった事を、思い出した。これは、わたくしごとを述べることになったが、決して決して自慢などをする気もちではない、気もち(あるいは気質)の違いなのである。

 さて先に引いた、同じとしのおなじ日に薄田と南部に同じ文句の葉書が出ている芥川の『書翰集』のおなじペイジに、芥川が、おなじとし(つまり大正八年)の一月十二日に、薄田にあてた手紙のなかに、意外な事を、(まったく意外な事を、)書いているのを読んで、私は、二三度くりかえして読みなおした程、おどろいた、というより、驚歎したのである。それは、「突然こんな事を申上げるのは少々恐縮ですが私をあなたの方の社の社員にしてはくれませんか」と書き出し、今のままではろくな生活が出来ないから、社員にしてほしい、つまり「社へ出勤する義務だけは負はずに年に何回かの、小説を何度か書く事を条件として報酬を貰ふと云ふ事です勿論さうすれば学校はやめてしまつて純粋の作家生活にはいるのですつまり私とあなた方の社との関係を一部分改造して小説の原稿料を貰はない代りに小説を書く回数を条件に加へて報酬を一家の糊口に資する丈増して貰ふと云ふ事になるのです」と、芥川が、述べているからである。
 私は、前にたびたび書いたように、としは二十七八歳でありながら、芥川は、名声だけは、その当時の諸大家を、しのぐ獲であったから、毎日新聞社での地位などは、社の方からあたまをさげて頼みに来たのであろう、ぐらいに、(その頃、その時を聞いた時、)思っていたのであった。
 ところが、いましらべて見ると、芥川は、その前の年(つまり、大正七年)の二月に、結婚をしている。しかし、それにしても、海軍機関学校から六十円の月給をとり、毎日新聞社からも月に五十円もらっていたのであるから、(大正七八年頃なれば、)それだけで、「一家の糊口に資する」ぐらいの事は十分じゅうぶんにあうばかりでなく、いくらかの余裕も出る等である、(と思われるのである、)それを、芥川のような人間が、(芥川のような花形の流行作家が、)このような手紙を書いているのを見て、くりかえし云うが、私は、やはり、何ともいえぬ不思議な気がした。それは次ぎのような事を思い出したからである。
 例えば、(例えば、である、)上林 暁は、昭和二年、(ちょうど芥川の死んだとし、)東京大学英文学科を卒業し、卒業すると、すぐ、改造社にはいって「改造」の編輯員となり、昭和八年に、「文芸」が創刊された時、その編輯長になったが、その翌年の四月に、退社すると共に、作家生活にはいったのである。ところで、上林は、その時までに、――つまり、昭和二年の四月に、高等学校時代の同窓と、「風車」という同人雑誌を出し、それから、いろいろな同人雑誌に関係したが、結局、昭和六年の七月号の「新潮」に、はじめて、『欅日記』を発表し、翌年(つまり、昭和七年)の八月に、おなじ「新潮」に発表した『薔薇盗人』によって、ようやく文壇に出たのである。されば、上林が、唯これだけの文学の経歴によって、昭和九年の四月に、足かけ八年つとめていた社をめて、作家生活にはいろう、と決心するまでには、上林は、必死にちかい覚悟をしたにちがいない。
 川崎長太郎は、経歴からいえば、ふるい作家であるが、近頃、上林などとならんで、私小説を代表する作家の一人と云われている。私がはじめで川崎を知ったのは、大正二年の初夏の頃であった。その年、川崎は、二十三歳であったボ、徳田秋声に師事していただけで、文学の友だちなどは余りないようであった。しかし、川崎の『兄の立場』という小説を読むと、川崎は、小田原の魚屋の長男でありながら、十六七歳頃から、小説を読んでいたらしく、大正十二年の九月の大地震で町がほとんど全滅した時、「自由のない世に残された自由な穴、文学に立てこもらうと意志がしつくり根強く生長して来た、」と、書いている。こういう川崎は、たしか、大正十三年の春の頃、秋声の推薦で、「新小説」に、『無題』という小説を、発表した。(この小説は、一部の人びとに認められ、私も感心した、それで、この小説をかりに川崎の処女作とすれば、この年頃としごろの人で、二十四歳で、処女作を見とめられるのは、異数というべきであろう。)ところで、川崎は、この時から、俗な言葉でいうと、ずるずるべったりに、作家生活に、はいったのである。
  さて、私がこのような事を書いたのは、これから作家生活にはいろう、と覚悟して、作家になる人、ずるずるべったりに作家になる人――こういうふたつのかたがある、というような事を述べたかったのでもあるが、そればかりではない。例えば、川崎と上林はたしか一つちがいであるが、川崎がずるずるべったりに作家生活にはいったのは大正十三年であり、上林が覚悟をして作家生活にはいった、のは昭和九年であるから、それは十年代のちがい、という事にもなりそうであるが、また、気質と境遇のちがいという事もかんがえられる。そうして、私は、結局、これは、気質のちがい、という事になる、と思うのである。(そうして、『我田引水』になるが、私の狭い見方であるけれど、今日こんにちはたらいている作家の大部分⦅あるいは、半分以上⦆は、このずるずるべったり派ではないか。)
 さて、前に述べた芥川の場合であるが、さきに、私は、「何ともいえぬ不思議な気がした、」と述べたけれど、こういう事を思いうかべて、よく考えてみると、不思議でも何でもないような気がしたのである。それは、簡単にいうと、芥川という人は、前にも述べたように、案外、常識的な人であったからである、世間体せけんていをかんがえる人であったからである、家庭(あるいは、家)の事を気にする人であったからである、時には、『芸術』より『家』の方に心を労した人であったからである、ひどく気の弱いちいさい人であったからである。

 人生は落丁らくちょうの多い書物に似てゐる。一部を成すとは称し難い。しかしかく一部を成してゐる。
 人生は地獄よりも地獄的である。……
 人生の悲劇の第一幕は親子になったことにはじまつてゐる。

 これらの『侏儒の言葉』の中の文句は、もとより、筆者の本音のように思われるふしはあるけれど、空虚なところがあるようにも感じられる。(『侏儒』とは、いうまでもなく、「身のたけの底い人」とか、「一寸法師」とか、いう意味であるが、「見識のない人を嘲る」という意味もある。)それで、私は、この『侏儒の言葉』は、「文藝春秋」に連載されている時から、ときどき、読んでいたが、『侏儒』(つまり、「見識のない人」)は、筆者の芥川ではなく、反対に、芥川が、あまたの読者を『侏儒』(つまり、見識のない人間)と見くびっているような気がして、しばしば、いやな気がした事があった。
 ところが、芥川は、『或阿呆の一生』のなかに『かせ』という、つぎのような事を、書いている。

 彼等夫妻は彼の養父母とひとつ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつたためだつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書をちからにしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

 右の文章のなかの夫妻とは、いうまでもなく、芥川夫妻であり、養父母とは、芥川の養父であり伯父(芥川の実父新原敏三の兄)である、つまり、芥川道章とその妻のともであり、或新聞社とは、毎日新聞社である、それから、ひとつ家とは、その時(つまり、大正八年の三月)から芥川が、死ぬまでで住んでいた、府下[その頃は府下であった]田端四百三十五番地の家である。(芥川が、この家に住むようになったのは、大学に入学したとし[大正三年]であるが、芥川は、大正七年の二月に、前から交際していた、塚本文子と結婚したので、そのとしの四月のはじめに、鎌倉の海浜ホテルのとなりにの部屋を借りて、引っ越した。)つまり、この文章のはじめに「一つ家に住むことになつた、」とあるのは、前に述べた、大正八年の一月十二日に、芥川が、鎌倉から、「あなたの方の社の社員にしてはくれませんか、」と頼んだ手紙薄田淳介に出してから、ふたつきほど後の三月のはじめに、やっと、薄田の骨おりで、毎日新聞社の社員になる事にきまったので、妻と共に、鎌倉を引きあげ、養父母と一しょに、田端の家で、くらす事になった、という程の意味である。(ところで、右の文章の中の文句を文字どおりに取れば、毎日新聞社にはいる事になったので、養父母と一しょに暮らす、という事になるが、蒲田あての手紙の文句を文字どおりに取ると、養父母と暮らすために、毎日新聞社に入社した、という事になる。しかし、いずれにしても、)あの田端の家で、(かなり大きな家であった、)養父母のほかに、伯母(道安章の妹、ふき)がもう一人ひとりいたのであるから、(五人が暮らしてゆくのであるから、)相当(以上)の金がいったにちがいない、されば、芥川が、機関学校の教師をめて、毎日新聞社の月給をげてもらって、創作に専念しよう、と思ったのは、決して無理ではない、と、いまの私は、思いやるのである、心から同情するのである。
[やぶちゃん注:「養父母とは、芥川の養父であり伯父(芥川の実父新原敏三の兄)である」とあるが、この芥川道章の妹フクが芥川龍之介の実母であるから「兄」ではなく、「義兄」である。なお、精神病を患ったフクの生前(龍之介が芥川家へ入ると同時に)、新原敏三は家事手伝いに来ていたフクの妹であるフユを後妻に迎えている。
「大正七年の二月に、前から交際していた、塚本文子と結婚したので、そのとしの四月のはじめに、鎌倉の海浜ホテルのとなりに二た間の部屋を借りて、引っ越した」とあるが、誤り。「鎌倉の海浜ホテルのとなりに二た間の部屋」は、大正五(一九一六)年十二月に海軍機関学校教授嘱託となった直後、田端からの通勤が困難なために借りた、鎌倉町和田塚の海浜ホテル隣りにあった野間西洋洗濯店の離れを指している。新婚生活の新居は鎌倉町大町字辻の小山別邸であった(横須賀線の辻の薬師の踏切の南側)。芥川文は回想して、この時の生活が龍之介にとっても一番幸せだったと述懐している。因みに、私の藪野の実家は(敗戦直後の移住であるが)この別邸の西の向かいに当たる。]
 前に書いたか、と思うが、芥川は、私などにも、決して愚痴をこぼした事はないけれど、一度か二度、「……きみ、僕の家庭は、実に複雑なんだよ、ときどき、やりきれない、と思うことがあるよ、」と、云った。しかし、その頃の私には、その芥川のいう事が、わからないばかりでなく、想像もつかなかった。ところが、こんど、『或阿呆の一生』のなかで、

 彼は或郊外の二階の部屋に寝起きしてゐた。それは地盤のゆるために妙に傾いた二階だつた。
 彼の伯母はこの二階にたびたび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生独身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十歳に近いとしよりだつた。
 彼は或郊外の二階に何度もたがひに愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間もなにか気味のわるい二階の傾きを感じながら。   (『家』)
 彼は結婚した翌日に「来勿々きさうさう無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言こごとつた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詫びを言つてゐた。彼のために買つて来た黄水仙の鉢を前たしたまま。……(『結婚』)
[やぶちゃん注:ここに有意な行空けが存在する。]


『或阿呆の一生』は、一般に、「散文詩のような」と云われているが、私は、それにも同感であるけれど、芥川の文学の中で、特殊なものの一つである、と思っている。(それについては、後に述べる。さて、――)
 右の二つの文章の中に出てくる、伯母は、前に書いた、ふきである。芥川の実母のふくは、そのふきの妹であり、道章の妹でもある。そうして、ふくは、芥川家から新原家にかたづいて、龍之介を生んだのである。(もっともふくは、その前に、初子と久子という二人の娘を、生んでいる。しかし、長女の初子は、芥川の生まれない前に、夭逝した。)
 ところで、芥川の実父の新原敏三は、――この人については、芥川は、『大導寺信輔の半生』の中に、ほんのすこし書いているだけで、その素性すじょうが殆んどまったくわからない。ところが、こんど、これまで、この文章を書いているあいだに、たびたび、おかげをこうむった、竹内 真の『芥川龍之介の研究』の中で、つぎにうつすようなところを、発見した。
[やぶちゃん注:「初子」については、実母フクや実父敏三とともに一読忘れ難い人物として「點鬼簿」の中の「二」に「初ちやん」として登場する(但し、戸籍上は「初」「初子」「ハツ」ではなく、「ソメ」であるらしい)。明治十八(一八八五)年生れで、風邪をこじらせて脳膜炎となり、明治二十四(一八九一)年四月五日に満六歳に満たずして亡くなっている(新全集の宮坂年譜(一一八)頁では没年を一八八八年とするが、これでは三歳に満たず、おかしいので採らない)。なお、この風邪は母フクが連れて新宿の牧場に椿狩りに出かけた折りに罹患したとされ、フクはそれを深く気に病み、それが精神病発症の遠因となったとも言われている。
「竹内 真の『芥川龍之介の研究』」は昭和九(一九三四)年大同館書店刊。]

 実父新原敏三の本籍は山口県玖珂郡賀見畑村あざ生見八十八番地屋敷。彼は、十八の頃、萩の乱[註―簡単にいえば、明治九年、前原一誠が萩に反旗をひるがえして鎮圧せられた事件であるが、これは会津の永岡久茂の思案橋の変、西南の役、と共に、武力による反政府運動である]にくははり敗走し、同郷、益田孝、渋沢栄一をたより、箱根仙石原に畊牧舎を開き成功し、後上京。新宿と築地入船町に牧場を持ち手びろく事業を経営した。降つて築地入船町が外国人居留地となるや、当時芝、新銭座町に住宅を移し営業に従事し、新宿には依然として牧場を持つてゐた。龍之介が生まれたのは、まだ入船町に住居があつた頃である。

 この記事は大へんめになったが、右の文章のなかにすこし不審なところもある。それは、「同郷、益田孝、渋沢栄一」とあるのは、益田は、益田右衛門介ますだうえもんのすけという名家老が山口藩にあったから、同郷であるかもしれないが、渋沢は、武蔵むさしの国(今の埼玉県)の農家と商家とを兼ねた家に生まれた人であるから、同郷ではない、という事である。しかし、同郷ではなくても、新原がこの人をたよった、というのは有り得る事であろう。さて、それはそれとして、「十八歳の頃、萩の乱に加はり」と云うところがあるが、新原は、たしか、嘉永四年頃の生まれであるから、十八歳の頃は、明治元年ぐらいであるから、もし加わったとすれば、――「萩の乱」ではなく、芥川が、『大導寺信輔の半生』のなかに、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、」と書いているように、明治元年の一月の初めの、鳥羽伏見の役ではないであろうか。
[やぶちゃん注:「新原敏三」は「にいはら」と読む。その生年は「嘉永四年」ではなく、嘉永三(一八五〇)年で、没年は大正八(一九一九)年三月十六日(スペイン風邪による)である。二〇〇三年翰林書房刊の「芥川龍之介新辞典」の庄司達也氏の「新原敏三・新原家」によると、まず「生見八十八番地」(「生見」は「いきみ」と読む)は推定で「一五六四」番地とし、慶応二(一八六六)年に『火蓋を切った四境戦争(長州征伐)に』敏三は数え十七歳で『大林源治の変名を用いて長州軍の農兵隊である「御楯隊」(後の整武隊)の器械方(砲兵隊)下士卒として参戦』、七月二十八日に『あった芸州口(現、広島県大竹市付近)の戦闘で負傷し、戦線を離脱した』とあり、その後はしばらく消息が途絶えるが、明治九(一八七六)年九月に『千葉県成田三里塚の官営牧場「下総御料牧場」に「雇」として入所』、『その後、神奈川県仙石原の耕牧舎牧場』(「畊」は「耕」と同音同義)に移って、『実業家渋沢栄一のもとで次第に頭角を現していった』、とある(長州征伐は幕府軍が小倉口・石州口・芸州口・大島口の四方から攻めたために長州側では「四境戦争」と呼ぶ)。この記載からは竹見の明治九(一八七六)年の萩の乱は勿論、慶応四(一八六八)年の鳥羽・伏見の戦いも誤認である。
「益田孝」の名はこちらにはないが、渋沢栄一との絡みで言えば、三井財閥を支えた実業家益田孝(嘉永元(一八四八)年~昭和十三(一九三八)年)がおり、彼の三井物産創立は正に明治九(一八七六)年のことである。但し、この増田孝は新潟佐渡の出身であり、やはり「同郷」ではない。
「益田右衛門介」は、幕末の長州藩永代家老であった益田親施(ちかのぶ 天保四(一八三三)年~元治元(一八六四)年)で、右衛門介うえもんのすけの名で知られる。嘉永六(一八五三)年のペリー浦賀来航により浦賀総奉行として着任、安政三(一八五六)年、長州藩国家老となったが、後、尊皇攘夷に走り、第一次長州征伐によって幕府軍から益田の責任が追及され、徳山藩に身柄を預けられた後、切腹を命じられた(以上はウィキの「益田親施」に拠った)。この事蹟から見て、残念がら新原敏三との接点は極めて薄いと考えてよいであろう。
「芥川が、『大導寺信輔の半生』のなかに、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、」と書いているように」は、『大導寺信輔の半生』の「二 牛乳」の中の一節、
彼は只頭ばかり大きい、無氣味なほど痩せた少年だつた。のみならずはにかみ易い上にも、磨ぎ澄ました肉屋の庖丁にさへ動悸の高まる少年だつた。その點は――殊にその點は伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃膽勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違ひなかつた。
の部分を指す。しかし、今、見てきたようにこれも芥川の変改であった。「長州征伐」や「四境戦争」では、箔が附かない(正に箔のある父と「似ていない」ことを言う場面であるあるから)から、メジャーな「鳥羽伏見の戦い」を言ったものであろう。]
 さて、私がこのような事を述べたのは、山口郡玖珂郡賀見畑村、といえば、山口県の隅の方の、(周防すおうの国の片隅の、)山中さんちゅうの寒村である、そういう山の中の僻地で、しかも、今から百年ほど前に、芥川の実父の新原敏三は、少年時代を、おくりながら、また、青年時代には、鳥羽伏見の役などに加わりながら、明治二十年代に、ほとんど人の住んでいない、箱根の仙石原で、耕作をしたり、牧畜をしたり、した、という事だけでも、非常な進歩的な人ではなかったか、という事である。それは、新原が、上京して、新宿や築地入船町に、更に、牧場をつくった、という事でも、わかるではないか。
 ここまで書いて、私は、ふと、このような、進歩的な、平民的な、人が、どうして、芥川家のような、古風な、因循な、家の娘を、嫁にもらったのか、と、不思議なような気がした、それから、反対に、芥川家のような、由緒のある、旧家が、どうして、一介の牛乳屋に、大事な娘を、片づけたのか、とも思って、不審なような気がした。
 ところが、これ故、不思議な事でも何でもなく、案外、両方とも、俗っぽい考え方からではないか、というような気もした。それは、偶然かもしれないが、芥川の実父の新原敏三の弟の元三郎(つまり、芥川の叔父)は、兄より前に上京して、芥川の養父(母方の伯父)の妻(とも)の大叔父、細木香以の姪のえいを嫁にもらっているのである。そうして、この元三郎は炭屋であつた。
[やぶちゃん注:正しくは「えい」ではなく「ゑい」。]
 つまり、芥川の」父は牛乳屋であり、叔父は炭屋である、という事になるのである。
 私は、もし『遺伝』というものがあるとすれは、芥川は、この父(敏三)と母(ふく)の気質をもっとも多く受け、つぎに、伯母(ふき)の気質をうけているところもある、と考えるのである。それから、芥川の顔は伯母のふきにいくらか似てい、芥川の目と口もとは母のふくにかなり似ている。(写真で見ると、芥川は養父の道草とも似ているようである。)
 もし、(もし、である、)かりに私の思った事がいくらかでも当たっているとすると、さきに引いた、『侏儒の言葉』のなかの、「人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる、」といふ文句は、おそらく、芥川が、死ぬことを覚悟してから、遠く自分の実の父母と自分の昔の事どもを思いやって、つくったものではないか、と、私は、ふと、思うのである。

 私は、さきに、芥川の実父の少年時代の事が不明である、と書いたが、芥川の幼少年時代の事どもも、私には、不明なことが多いのに、気がついたのである。それは次ぎのような事である。
 前にも述べたように、芥川は、生後九箇月ぐらい後に、その頃の、京橋区入船町の実家から、本所区小泉町の芥川家に、もらわれて行ったのであるが、その時分の事は芥川の書いている文章によっておよそ想像ぐらいはつくが、はっきりしない所もある、それは、『大導寺信輔の半生』や『点鬼簿』のような小説(あるいは小説風のもの)は、もとより、『追憶』や『本所両国』のような物にまで、芥川流の見えや修飾があるからである。それから、『大導寺信輔の半生』の最初の『本所』の書き出しの「大導寺信輔の生まれたのは本所の回向院ゑかうゐんの近所だつた、」というのは、かりに大導寺信輔が芥川龍之介とすれば、嘘であるが、それは、『大導寺信輔の半生』という題の横に、「――或精神的風景画――」と断ってあるから、仕方がないとすれば、この小説は、芥川の『精神的風景画』として、見れば、いくらかの参考にはなる。
[やぶちゃん注:芥川龍之介は、明治二十五(一八九二)年三月一日、当時外国人居留地の一画であった東京市京橋区入船町八町目一番地(現在の中央区明石町一〇―一一)で出生した。現在、碑が立つ。]
 参考、といえば、迂闊な私は、田端に住んでいた芥川しか知らないので、芥川は生まれた時から田端町住んでいたような気がしていたが、(もっとも、そんな事をはっきり考えたこともなかったが、)『本所両国』のはじめの方で、「僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐたのである、」というのを読み、その事を初めてはっきり知ったことである。
[やぶちゃん注:芥川龍之介は出生後に母フクが精神に異常をきたしたため、七ヶ月後の同年十月末に本所区小泉町一五番地(現在の墨田区両国三丁目二二番一一号)に引き取られた。明治三十七(一九〇四)年八月三十日新原家から除籍され、芥川道章と養子縁組、以下に見る通り、明治四十三(一九一〇)年十月に芥川家は、この本所小泉町から府下豊多摩郡内藤新宿二丁目七一番地(現在の新宿区新宿二丁目)に転居、更に大正三(一九一四)年十月末に北豊島郡滝野川町字田端四三五番地(現在の北区田端)に家を新築して転居した。ここ田端が芥川龍之介の終生の地となった。]
 そこで、あらためて、年譜を見ると、「明治四十三年、(十九歳、)三月、第三中学校卒業、九月、無試験にて第一高等学校第一部乙(英文科)入学。同級に、久米正雄、菊池 寛、山本有三、松岡 譲、土屋文明あり。特に作家たらん希望なし。新宿二丁目七十一番地に移転。」「大正二年、(二十二歳、)第一高等学校卒業。帝国大学英文科入学。田端四百三十五番地に移転。」とある。
 これを読むと、知ってみれば、そうか、と思うような事ではあかが、芥川は、「三十五年あまりの生涯のうちで、十八九年ぐらい、本所の小泉町で、くらし、一年あまりを府下の新宿で、おくり、田端で、十三四年ほど、生活した。つまり、芥川はその生涯の大半を、東京の中でも最も見すぼらしい下町したまちで、おくった、という事になるのである。これは、この、私の書いているような、ふらふらした、(つまり、足元の定まらぬような、)文章ではなく、もっと真面目に芥川龍之介を研究する文章を書く人には、重大な問題である。
 芥川が二十歳頃まで住んでいた本所小泉町は、今の両国駅の近くであるが、芥川の幼少時代(つまり、明治二三十年代)は、うすぐらいごたごたした町で、芥川の家は貧乏ではあっても門がまえの幾らか大きな家であったけれど、近所は、穴蔵大工あなぐらだいく、駄菓子屋、古道具屋、その他、それに類した家ばかりであった。芥川は、後年、(大正十四年に、)このような町に住んでいた時分の事を回想して、「それ等の家々に面した道も泥濘ぬかるみの絶えたことは一度もなかつた。おまけに又その道の突き当りはお竹倉たけぐらの大溝だつた。南京藻なんきんもの浮かんだ大溝はいつも悪臭を放つてゐた、」と、書いている。これを文字どおりに読めば、こんな所に一日も半日も住んでいられない、と思われる。が、すらすらと読めば、そんな実感はほとんど感じられないで、いかにも懐しそうに書いているように思われる。作者が散文詩でも作るように書いているだけであるからだ。
[やぶちゃん注:「穴蔵大工」の穴蔵は、地面や山盛り土の斜面に横穴・竪穴を造成して物を収納できるようにした地下室。江戸時代、特に安政元(一八五四)年十一月四日に発生した安政の大地震以後の江戸で流行ったが、江戸では地下水位が高いために水漏れや湿気対策として内装の材料が主にヒバ材で作られ、穴蔵本体の材木部分を製造することを主な業務とする穴蔵大工という専門職が存在した。
「お竹倉」現在の両国駅から北側一帯(墨田区横網町)にかけては嘗ての幕府材木倉・竹倉・米蔵などの御蔵屋敷跡の一部であった。芥川が幼・少年期を過した頃の芥川家は、ここの南に隣接していた。芥川龍之介の「本所兩國」の「お竹倉」などを参照されたい。
・「南京藻」他の芥川作品でもそうだが、彼がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目Chroococcales・プレウロカプサ目Pleurocapsales・ユレモ目Oscillatoriales・ネンジュモ目Nostocales・スティゴネマ目Stigonematales・グロエオバクター目Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属 Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属Anabaenaや同目のアナベノプシス属Anabaenopsisであるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属Chlamydomonas等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。
「大溝」は「おほどぶ(おおどぶ)」と訓ずる。]
 しかし、又、そう云い切れないところもある。自分の事をほとんどまったく書かない、と称せられた芥川が、『保吉の手帳から』を書いた時分から、十年あるいは二十年以上も前の事ではあるが、自分が見聞きし経験した事を、歯にきぬをきせたような云いかたではあるが、『作文』でもするような書き方ではあるが、大正十二年頃から、ぼつぼつ、書き出したので、ある時代の芥川がおよそどのような生活をしていたかが、すこしでもわかるようになった事がありがたいのである。それを、こんど、私は、『大導寺信輔の半生』、『点鬼簿』、それから、『追憶』、『本所両国』、その他を読みなおして、感じたのである。といって、それも、どのような話でも、肝心のところをそらしたりぼかしたりしてあるので、「少しでもわかる」というより、ほのかに想像できる、という程度である。それで、これから、私が芥川その他の人について述べる事は、当て推量すいりょうである、と思っていただきたい。
 芥川の父は、(養父か実父かよくわからないが実父らしい、)多少の貯金の利子をのぞけば、一年の五百円の恩給で、女中をいれて五人の家族を養わねばならなかった。(こういう事を芥川は、「中流下層階級の貧困」と云っている、さすがに巧みな云い方だ。)そのために節倹の上にも節倹をしなければならなかった。それであたらしい著物などは誰もめったに造らなかった。「父は常に客にも出されぬ悪酒の晩酌に甘んじてゐた。母もやはり羽織の下にははぎだらけの帯を隠してゐた。」(これはもう『作文』などではない。)この頃の事を、この頃の自分の事を、芥川は、『大導寺信輔の半生』のなかで、次のように述べている。
[やぶちゃん注:「養父か実父かよくわからないが実父らしい」は誤り。これは養父芥川道章を指している。]

 ……信輔はいまだにニスの臭い彼の机を覚えてゐる。机はふるいのを買つたものの、上へ張つた緑色の羅紗も、銀色に光つた抽斗ひきだしの金具も一見小綺麗こぎれいに出来上つてゐた。が、実は羅紗も薄いし、抽斗も素直にあいたことはなかつた。これは彼の机よりも彼の家の象徴だつた。体裁だけはいつもつくろはなければならぬ彼の家の生活の象徴だつた。……

 右の文章は、いうまでもなく、修飾も気取りもないので、(気取りは、芥川の癖で、いくらかあるけれど、)しみじみと、読む人の心を、打つ、叩く。殊に、私などは、あの芥川が、ちいさい時分に、ふるい机になやまされ、なによりもきな本が買えず、夏期学校にも行かれず、「友だちがいづれも愛用」している、外套も買ってもらえなかったのか、と思うと、おのずから目頭めがしらが熱くなるのを覚えるのである、涙ぐましくなるのである。
 ところで、『大導寺信輔の半生』のなかに、『牛乳』という不思議な文章がある。それは、信輔が、生まれ落ちた時から、母の乳をまったく吸った事がなく、牛乳ばかり飲んで育ったことを、「憎まずにはゐられぬ運命」と考え、それに、「誰にも知らせることの出来ぬ一生の秘密」と思いこむ事である、それから、自分が、あたまばかり大きく、無気味なほど痩せた少年であり、はにかみやすい上に、磨ぎすました肉屋の庖丁にさえ動悸の高まる少年である事が、「伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃胆勇自慢の父とは似ても似つかぬ」事を、牛乳のためであり、からだの弱いのも牛乳のためである、と確信する事である。そうして、牛乳のたあに体が弱い、という『秘密』を友だちに見やぶられないために、信輔(つまり少年の芥川)が、膝頭のふるえるのを感じながら、お竹倉の大溝をさおもつかわないで飛びこえたり、回向院の大銀杏いちょうに梯子もかけずに登ったり、友だちの一人ひとりなぐり合いの喧嘩をしたり、した。そのために、信輔は、右の膝頭に一生しょう消えない傷痕を残した。そうして、そういう事をする信輔を見る毎に、信輔の父は、威丈高いたけだかになって、信輔に「貴様きさま意気地いくぢもない癖に、なにをする時でも剛情がうじやうでいかん。」と小言こごとをいった。
 この父は、牛乳屋の、実父、新原敏三であろう。
[やぶちゃん注:ここでの「父」は勿論、宇野の言う通り、実父新原敏三を指している。]
(余談であるが、作家になってからの芥川の事を、誰いうとなく、「芥川のうちは牛乳屋だよ、」と云うのを、私は、ときどき、耳にしたのを、ふと思い出した。)
 ところで、芥川は、『点鬼簿』の中で、その父について、「僕の父は牛乳屋であり、ちひさい成功者の一人ひとりらしかつた。僕に当時あたらしかつた果物や飲料を教へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアツプル、ラム酒、――まだそのほかにもあつたかも知れない。僕は当時新宿にあつた牧場のそとかしの葉かげにラム酒を飲んだことを覚えてゐる、」と書いているが、明治三十年代の、バナナ、アイスクリイム、パイナップル、ラム酒、といえは新奇以上の新奇であったにちがいない。
[やぶちゃん注:「槲」をカシと訓じている資料が多く、芥川龍之介もそのつもりで混同して用いているようだが(後掲される恒藤恭の描写では正しく「樫」とある)、槲はブナ目ブナ科コナラ属コナラ亜属カシワQuercus dentate で落葉性、樫はコナラ属でも常緑性の種であるウバメガシQuercus phillyraeoides やアカガシQuercus acuta 等を「カシ」と呼び、「カシワ」を「カシ」とは言わない。ただ、、この誤用は一般に見られるものではある。]
 芥川は、このような実父と、寛永年聞からつづいている、代代お坊主として殿中に奉仕した、というような旧家に生まれた養父と、――こういうまったく両極端の二人の父を持ったのである。
 ところで、芥川は、おなじ『点鬼簿』のなかに、この実父が、こういう珍しいものを自分にすすめて、自分を養家から取り戻そう、と、述べたあとに、つぎのように書いている。

……僕は一夜大森の魚栄でアイスクリイムを勧められながら、露骨に実家へ逃げ来いと口説くどくかれたことを覚えてゐる。僕の父はかう云ふ時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎あいにくその勧誘は一度も効を奏さなかつた。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛してゐたからだつた。

 つまり、この伯母がふきである。
 さて、はじめに述べた芥川が海軍機関学校の教師をめ、大阪毎日新聞社にはいる事になって、田端の家で、自分たち夫婦と養父母と、伯母と、五人一しょに、暮らす事になった時、この伯母のふきは、六十二歳で、養母は、六十三歳であった。
 その年(つまり、大正八年)の一月に出版した『傀儡師』は、この伯母のふきに、献じたものである。

 追記――これらの文章を書き終ってから、芥川の高等学校時代の親友である、恒藤 恭の『旧友芥川龍之介』という本を手に入れた。その中に、芥川が高等学校時代に住んでいた新宿の家の事が出ていたので、それをつぎに引用したい。

 芥川が一高に入学した明姶四十三年に芥川家は本所小泉町から新宿二丁目に移転した。そのころは、四谷見附から新宿へ向けて走る電車が終点に近づいて行くと、電車通りに新宿の遊廓の建物がならんでゐるのが窓から見えたものであつた。たしか三丁目で下車して少し引返し、左へ折れて二三町ばかり行くと、千坪ぐらゐの広さの方形の草原を前にして芥川の住んでゐた家がぽつんと建つてゐた。樫の木などが疎らに生えてゐる地面を十四五坪へだてて牛舎があつた。芥川の実父新原氏はそこと今一つほかの場所で牧場を経営してゐた。いま一つの方のことは知らないけれど、新宿の方は牧場といつても小規模だつた。しかしホルスタイン種か何かの骨骼のたくましい牛を幾頭も飼つてゐた。

右の文章を借用したのは、芥川が、高等学校時代に、こういう所に住んでいたことがわかる事が、私ばかりでなく、大方の人におもしろいと思われる、と考えたからである。

     
十六

『傀儡師』は、前述べたように、第二短篇集であるが、『羅生門』[ここでは、第一作品集のこと]と共に、芥川の前記の作風を代表する短篇集である。それに、この本の中には、初期以来の筆法にますます脂の乗ってきた小説が、はいっている。それから、この本におさめられている作品の大部分は歴史小説であり、中でも、徳川時代に題材を取った、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、『枯野抄』、それから、『地獄変』などは、芥川の数おおい作品のなかの、代表作に属するものであろう。
 それから、これは『傀儡師』だけの事ではないが、たとえば、おなじ切支丹物でも、『尾形了斎覚え書』では物物しい候文をつかい、『奉教人の死』では物体ぶった切支丹語をもちい、おなじ徳川時代に取材した物でも、『或日の大石内蔵助』と『戯作三昧』とでは、一方は四角ばった手法、他はくだけた筆法、というように、書き方をかえ、『地獄変』と『蜘蛛の糸』とでは、作風がまったく違うのに、文章の一節のおわりに、『ございました。』『ございません。』などという言葉をおもにつかいながら、一方は物やさしく感じられ、他は重重しく思われるように、使いわけ、『開化の殺人』では明治時代の翻訳語調と漢文調と新聞の三面記事の文章をまぜあわせたような文章をつかう、というふうに、芥川は、こんな事にも、心をくだいている。もとより、これはほんの一例であって、芥川は、前に述べたように、小説を書きはじめる時から、なるべく新奇な題材をあさり、できるだけ奇抜な工夫くふうをこらし、それをりに凝った文章であらわす事に刻苦精励し、苦心惨憺した。
 されば、くりかえし云うようであるが、芥川の前期(から中期へかけて)の作品の幾つかは、――そのたぐいない巧緻な手法、そのきわまりない絢爛な文章、そういう事だけ(そういう事だけである)から見れは、――誇張して云うと、日本の近代文学のなかで、無比なものであろう。
 ところで、一般に、芥川は、アナトオル・フランス、ストリンドベルヒ、メリメなどに傾倒していた、と云われているが、芥川が、感心していたのは、フランスやメリメだけではない、それ以上に、手本のようにしていたのは、モウパッサンとゴオティエである。芥川の、前期から中期へかけての、絢爛で彫琢の妙をきわめた小儲の中には、ゴオティエの作品を思い出させるものが、幾らもある。つまり、芥川や『観念よりは形式に、思想よりは美に、心をひかれた、』という、ゴオティエの小説に読みふけった事があるにちがいないのである、それから、芥川の、やはり、前期から中期へかけての、気のきいた短篇の中には、その構成に、(『構成』だけである、)短篇小説の名人と称せられた、モウパッサンの短篇を手本にしたように思われるものが、幾つもある。つまり、芥川は、モウバッサンの短篇をも耽読した事があるにちがいないのである。
 もっとも、モウパッサンは、日本でもっとも早くからしたしまれた外国の作家の一人で、田山花袋、徳田秋声、島崎藤村、その他の作家の短篇の中にも、モウパッサン風の小説が幾つかあり、永井荷風の短篇の中にも、やはり、モウパッサン風の小説が幾つかある。しかし、それらの小説は、もとより、大家の作品であるから、それぞれ、多少の差はあるけれど、いくらかモウパッサン風のところは感じられても、みな、その人の『物』になっている。(そうして、そのなかでも、「そもそも私が初めてフランス語を学ばうと云ふ心掛こころがけおこしましたのは、ああモウパッサン先生よ、先生の攻章を英語によらず、原文のままによみあぢはひたいと思つたからであります。」[『モウパッサンの石像を拝す』の書き出し]と正直に述べている荷風のそれらの小説が一番こなれている。)
 ところで、私が学生時代の頃、(大正の初めの時分、)“After-dinners Series”という叢書の中に、英訳のモウパッサンの短篇集が五六冊あって、一冊五拾銭(古本で参拾銭ぐらい)であった。(それは、英語とフランス語の読める人の話に、ほとんど直訳でありながら、名訳である、という事であった。)その英訳のモウパッサンの短編集を五六冊、私のような語学のできない者さえ、読んだのであるかち、秀才であった芥川は、こういう英訳のモウパッサンの短篇など、十分じゅうぶんに読みこなしていたにちがいない。
[やぶちゃん注:「“After-dinners Series”」は、“After-Dinner Series”(London, Mathieson, n. d. 12 vols.)のこと。「食後叢書」として本本邦でも親しまれた。この記載を発見した足立和彦氏のHPの「『悪魔伯夫人』とは誰なのか―モーパッサンの偽作に関して(1)」によれば、モーパッサンの訳者は“Short stories by Guy de Maupassant, translated from the French by R. Whitling”で、また明治三十五(一九〇二)年にはほぼ全巻が出版されていたともある。ところが、この足立氏の記事によれば、そこには実に六十六編にも及ぶ偽作が含まれており、その贋作者は訳者ウィトリング本人であるとする。宇野や芥川がこれに親しんだとすると――もしかすると、彼らは正にその贋作の幾つかにインスピレーションを受けていたという、皮肉な可能性も、あるわけである――。]
 おなじ頃、モウパッサンのほかに、いろいろな作家の英訳の短篇集が出たが、その中にチェエホフとキイランド[註―キイランドは英語読みで、ノルウェイの人であるからキエランと云う、大学を出てからフランスで幾冬かをすごしたので、フランスの第一流の作家たちと親しく交わったので、非ノルウェイ的な文章で、警句と機智にみちた話を明快に、簡潔に、書いた人]の短篇集があって、そのチェエホフの短篇集の帯封にも、そのキイランドの短篇集の帯封にも、大きな活字で、de Maupassant type としてあった。つまり、私は、こういう事を思い出して、チェエホフのような天才的な短篇作家やキイランドのごときすぐれた短篇作家でさえ、(かりにイギリスの出版屋の失言としても、)『モウパッサン型』とか、ノ『モウパッサン風』とか、云われるのであるから、花袋、秋声、藤村、荷風、というような大先生の幾つかの作品がモウパッサンを思わせるところがある、などと、私が、放言をしても、寛恕してもらえる、と、虫のよい事をかんがえて、こういう事を、述べたのである。
[やぶちゃん注:「キイランド」Alexander Lange Kielland(アレクサンダー・ランゲ・シェラン 一八四九年~一九〇六年)はノルウェーを代表する作家の一人。本邦では「枯葉」「季望は四月緑の衣を着て」等、専ら岩波文庫の前田あきら訳(昭和九(一九三四)年刊)で知られる。]
 ところが、花袋、秋声、藤村、荷風、というような大家の幾つかの作品が、一部の具眼者には、「……モウパッサンだね、」とか、「モウパッサンふうだね、」とか、云われる事があるのに、それらの人たちにさえ、芥川が、モウパッサンのいろいろの短篇の構成を巧みにって、幾つかの小説を書いているのを、見やぶられないのは、どういう訳であろうか。

 さて、何度も云うように、芥川が、『傀儡師』の中におさめられている小説を書いていた頃は、生涯のうちでもっともあぶらの乗っていた時であった。
 私はかんがえる、「立てきつた障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木ろうぼくの梅の影が、何間なんげんかのあかるみを、右のはしから左の端までの如くあざやかに領してゐる、」と書き出し、「このかすかな梅のにほひにつれて、冴返さえかへる心の底へしみとほつてる寂しさは、この云ひやうのない寂しさは、一体どこから来るのであらう。――内蔵助くらのすけは、青空に象嵌ざうがんをしたやうな、かたつめたい花をあふぎながら、何時いつまでもぢつとたたずんでゐた、」と、芥川は、『或日の大石内蔵助』を、書きおわった時、昂然としたであろう。
 これはずっと前になにかの文章のなかに書いた事があるが、私が文学書生であった頃、友だちの中で、誰が云い出したか、「あれは『カキダシスト』だ、」「かれは『キリスト』だ、」というような言葉が一はやった事がある。『カキダジスト』とは、「小説の書き出しのうまい人」という意味であり、『キリスト』とは、「小説の書き終るところの巧みな人」という意味である。
 この妙な言葉をつかうと、芥川は、この『或日の大石内蔵助』だけについて云えば、カキダシストとキリストとを兼ねている、という事になる。いや、芥川は、なにを書くにも、カキダシストになると共に、キリストにもなろう、と心がけた人であったのだ。
 しかし、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、『枯野抄』、それから、『地獄変』、――と、これだけ読みかえしてみても、かぞえどし、二十六か二十七そこらで、よかれあしかれ、このようなせた小説を書いた芥川は、何という早熟な男であったことよ、いや、『早熟』、というより、『あたまでっかち』(あるいは『頭がち』)というようなところさえあった。(「鶏頭けいとうやはかなき秋をあたまがち」⦅太祇⦆
 ところで、このごろ、私は、ときどき芥川のいろいろな小説を、読みかえしてみてざかしい、と感じるこどもあるけれど、心にくい、と思う事もしばしばある。この数年来、かつて、(青年時代には、)芥川の作品を愛読した人たちが、芥川の小説は、今よみなおしてみると「ただのお話」みたいで、案外つまらない、とか、「芥川さんには、何という代表作がありますか、コレという小説がないように思います、……」とか、云うのを、私はときどき、耳にする。そうして、私も、時には、ちょいと、同じような考えをする事もある。
 しかし、芥川は、やはり、一代の、奇才であり、鬼才であった、小説のよしあしは別として、世にも稀な才能の持ち主であった。

 たいていの批評家は、『或日の大石内蔵助』と『戯作三昧』と『枯野抄』とを、芥川が、昔の人の日常生活を書きながら、それに託して、自分の心事と感慨を述べているように論じている。が、私は、そうばかりとは思わない。
『枯野抄』について、室生犀星は、「彼は十分な縹渺や枯寂を『枯野抄』、ではあらはし得なかつたと云つてよい、」と云い、宮本顕治は、「彼等は枯野に窮死した先達を歎かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を歎いてゐる、」と述べている。(この「薄暮に先達を失つた自分たちを歎いてゐる、」という文句は、『枯野抄』の中にある文句である、つまり、『枯野抄』の中から取ったものである。)
[やぶちゃん注:前者は昭和二(一九二七)年七月号『新潮』に載った「芥川龍之介の人と作品」から、後者は有名な「敗北の文学」(昭和四(一九二九)年八月号『改造』)からであるが、ここは宮本の引用が不十分(尚且つ不正確)なために分かり難くなってしまっている。ここでの宮本は先の室生の評を批判しながら、次のように述べているのである(引用は筑摩書房全集類聚版別巻所収のものに拠る)。
「枯野抄」も亦単に渺茫の趣きをねらつてゐる作ではない。この作品に渺茫な枯寂が現はされてゐないと言ふ室生犀星氏は、結局氏自身の好みを語つてゐるに過ぎないであらう。一般的に言つて、氏の作品にいつもさうしたものを発見したがる、芥川氏を余りに東洋的な文人としようとする鑑賞家的悪癖である。「悲嘆かぎりなき門弟たち」は、必ずしも嘆きの中の悦び――芭蕉の人格的圧力の桎梏からの解放の悦びを持たぬわけではなかつた。彼等は「枯野に窮死した先達を嘆かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を嘆いてゐる」。我々はこゝに、近代的個性の痛々しい自己省察を見せられるのである。
宇野の引用は『彼等は「枯野に窮死した先達を嘆かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を嘆いてゐる」。我々はこゝに、近代的個性の痛々しい自己省察を見せられるのである。』と「彼らは」の後に引用の括弧を配し、尚且つ、せめてその後の一文を附してこそ宮本の(ひいては宇野が室生の評と並べた)意味が分かる。]
 この二人の説は、それぞれ、見当がはずれている。(もっとも、宮本の方はいくらか当を得ているが。)
 さて、芥川は、この『枯野抄』で、芭蕉よりも、(いや、芭蕉ではなく、)師の臨終にけつけた幾人かの門弟たちの性格と気もちと腹の探り合いのようなものが、書きたかったのではないか。つまり、一と口に云うと、死にかかっている芭蕉の病床にはべっている、骨と皮ばかりになった師匠の見にくい姿に「はげしい嫌悪の情」をおこしている其角、師匠の看病の一切の世話を一人でした事に満足しながら、それは、師匠の容態を心配する、というより、それを人に見せびらかせて誇りに思っているような自分のさもしい心を反省しているような去来、同座の人たちの心事をしじゅう冷静に観察しながら、師匠が死んだら、『終焉記』でも書いて、と儲けしてやろう、とたくらんでいる支考、師匠のつぎに死ぬのは、自分ではあるまいか、と思って、おびえている惟然坊、師匠が死ねば、「人格的圧力」がなくなるから、ノウノウと手足をのばせるであろうと、喜んでいる丈艸、その他を書いて、結局、「師匠の命終に侍しながら、自分の頭を支配してゐるのは、他門への名聞みょうもん、門弟たちの利害、あるひは又自分一身の興味、打算――皆直接垂死の師匠とは、関係のない事ばかりである、」という支考の『考へたやうな事』を、芥川は、書くつもりであったのではないか。
 芥川は、『一つの作が出来上るまで』という文章の中で、この『枯野抄』を書くまでに、三たび構想をかえた、そうして、三度目に、蕪村の『芭蕉涅槃図』からヒントを得て、この『枯野抄』を書いた、と述べている。
 それは、作者自身が書いているのであるから、本当であろうが、私は、この文章の中の「それを書くについては、先生の死に逢ふ弟子の心持といつたやうなものを私自身もその当時痛切に感じてゐた、」という一節に、心を引かれた。この『先生』とはおそらく夏目漱石であろう。
 ところで、これはずっと前に書いたことがあるように思うが、たしか、『傀儡師』が出てからもなく、ある日、芥川が、目を三かくにして、大きな前歯(上の歯)が一ぽんかけているのが目につく口をあけ、徒児いたずらっこらしい顔つきをして、内証話をするような低い声で、「――きみ、ナイショだがね、『枯野抄』に登場する門弟たちは、漱石門下の人たちだよ、」と、私に、云ったことがある。
 ところが、『枯野抄』に出てくる門弟たちは、みな、いかに師の臨終の部屋の中であれ、およそ愛敬というものがなく、それぞれ、腹に一物いちもつありそうであり、一人ひとりとして心をゆるせそうな人間がいない、ちかごろ流行の言葉をつかうと、『善意の人』が一人ひとりもいない、悪意の人はかりである。
 閑話休題、(あだしごとはさておき、)私は、この小説を読んだ時、まったくヤリキレない気がした、どんな社会でも、(たとえば、政治家とか実業家とか云われる人たちの社会でも、)このような妙な(イヤな)悪意の人たちばかりだけが集まる事はないゾ、と云いたいのである。これは、大げさに云うと、人間の心の地獄の図のようにさえ、思われるからである。
 芥川は、『地獄変』にあるような世にも恐ろしい事を書きながら、絵空事のようにしか、書けなかった人である。しかし、絵空事の物語を書けば、芥川は、一代の名人であった。『古今著聞集』に、「ありのままの寸法に書きて侯はば、見所なきものに侯ふ故に、絵空事とは申すことにて候」という文句がある。つまり、芥川の前期から中期までの間の歴史物(殊にいわゆる王朝物と切支丹物)の大部分は『絵空事』であるから、その絵空事の大部分は、成功しているのである。
[やぶちゃん注:「『古今著聞集』に、……」上巻の「三」に既出。該当箇所の私の注を参照されたい。]
 ところが、この『枯野抄』に出る人物は、みな、常識的な、ありふれた、俗人であるから、およそ絵空事にならない人たちである、つまり、その頃の芥川の小説にまったく不向きな人間であり、書くのに芥川の一ばん不得手な人間である。それで、芥川が、私に、内証話でもするように、ひくい声で、「漱石門下の人たちだよ、」と云ったのが、かりに本当であったとすれば、こういう種類の人間を書くことがもっとも下手な芥川が、カクカクコレコレの人間をあらわそうと思いながら、書いたのが、まったく別の性格の人間になったのかも知れないのである。又、それでなければ、本当に、『花屋日記』と支考や其角が書いいた芭蕉の臨終記のようなものを参考にして、芭蕉の臨終の座敷に集まった、其角、去来、支考、惟然、丈艸、その他の、風貌、性格、心理、その他を真面目に書いたのを、芥川が、私をからかうために、「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云ったのかもしれない。これは芥川のよくやる手であるからだ。
[やぶちゃん注:勿論、芥川は宇野を『からかうために、「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云った』のではない。寧ろ、芥川は「枯野抄」を読んだ宇野は、その性格から「まったくヤリキレない気が」するに違いなく、『どんな社会でも』、こん『な妙な(イヤな)悪意の人たちばかりだけが集まる事はないゾ、と云いたい』に決まっている、「枯野抄」は『人間の心の地獄の図のようにさえ、思』っているに違いないと確信したからこそ、芥川独特の露悪的性向から、わざと『「あれは、漱石門下の連中を書いたのだよ、」と云った』のである。因みに、私の「枯野抄」の電子テクストその他、私の高等学校現代文用のオリジナルな「枯野抄」授業ノートなどがある。御笑覧あれ。]

 『戯作三昧』は、『枯野抄』などとくらべると、手のこんだ作品である。菊池 寛がこの小説について、「彼の創作生活の告白ではなくて何であらう。ただ、彼が世の所謂告白作家よりももつと芸術家である為めに、曲亭馬琴を傀儡として、告白の代理をせしめたのに過ぎない、」と論じているが、これは、まちがってもいないが、いかにも菊池流の見方である。
 立ち入った見方をすれば、銭湯の中で馬琴の小説を遠慮なくきおろす眇の男は、芥川のその頃ひどく気にいらなかった批評家の一人ひとりかもしれない。
 それから、この小説の中に、「このとしまで自分の読本よみほんに対する悪評は、なるべく読まないやうに心がけて来た。が、さう思ひながらも亦、一方には、その悪評を読んで見たいといふ誘惑がないでもない、」というところがあるが、これは、はっきり、馬琴の考え方ではなく、(もっとも、馬琴にもこういう考えはあったかもしれないが、)芥川が小説を書き出してからの気もちである。私の記憶ちがいかもしれないが、ある時、芥川が、私に直接はなしたのか、なにかの文章に書いたのか、まるで覚えていないけれど、「谷崎潤一郎は新聞を読まないそうだが、僕も新聞を読まないことにしている、」と述べたことがある。この『新聞』とは『月評』(つまり、毎月出る小説の批評)という程の意味である。これは、私の知るかぎり、芥川が非常に(人並ひとなみ以上に)『月評』を気にしていたという事にもなるのである。(この事について、芥川が新進作家時代に「新潮」の記者であり、それ以前に小説もたくさん書いたことのある、水守亀之助からの手紙の中に、「芥川氏が谷崎潤一郎が新聞の文芸欄をよまないといふのに感心して自分も見ないことにしたといふ一事は小生も直接にきかされました。ですから、あれは貴下も同様ぢかにお聞きになつたのでせう。同氏が文章の中に書いたのではなかつたと思ひます、」と書かれてあった。これは大へん為めになったので、うつしたのである。)
[やぶちゃん注:「眇」は「すがめ」と読む。片目の不自由なこと。「水守亀之助」(明治十九(一八八六)年~昭和三十三(一九五八)年)は小説家。大正八(一九一九)年に新潮社入社し、『新潮』の編集の傍ら、自然主義傾向の小説「末路」「帰れる父」等を発表した。参照したウィキの「水守亀之助」の記載によると、その後は数奇な人生を辿っている。]
 それから、この小説の中で、馬琴が、一九、三馬、種彦、春水、その他と比較されるところがあるが、それらの作家の名を書く時、芥川は、同時代の作家たち(例えば、⦅『例えば』である、⦆潤一郎、弴、春夫、その他)の名を、あたまの中に、うかべたかもしれない。それから、やはり、おなじ小説のなかの、「大きな事を云つたつて、馬琴なんぞの書くものは、みんなありややき直しでげす、」とか、「第一馬琴の書くものは、ほんの筆先一点張りでげす。まるで腹には、何にもありやせん。あればまづ寺小屋の師匠でも云ひさうな、……」とか、「……それが証拠にや、昔の事でなけりや、書いたと云ふためしはとんとげえせん、」とか、いうところなどは、世間でこういう非難をする事ぐらいは、『とっくに承知の助』と云わんばかりの芥川流の見得みえとも取れるけれど、これらの言葉の底に、私は、やはり、一脈の悲哀のようなものを、感じるのである。
 それから、この小説のおわりの方の、誰も問題にする、「こんかぎり書きつづけろ。今おれが書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ、」という言葉は、私には、悲壮に、聞こえる、悲壮、というより、悲痛な感じがする、そうして、その悲痛は、小説の主人公の馬琴ではなく、作者の芥川に、感じるのである。
「古人は後生こうせい恐るべしと云ひましたがな。」
「それは後生も恐ろしい。だから私どもは唯、古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進むのです。」
如何いかにも進まなければ、すぐに押し倒される。」
 これは『戯作三昧』の中の、華山と馬琴の問答であるが、実は、作者の芥川の心の中の自問自答である。つまり、「古人と後生との間に挾まつて、身動きもならずに、押され押され進む」
というような事を、二十六歳の芥川は、かんがえていたのである。
[やぶちゃん注:「根かぎり書きつづけろ。今己が書いてゐる事は、今でなければ書けない事かも知れないぞ、」私はこの芥川の『戯作三昧』の馬琴の台詞を読むと、彼の晩年の『闇中問答』の最後の台詞を思い出さずにはおれない。
僕 (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模樣はいつ何時變るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の爲だ。同時に又お前の子供たちの爲だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。
そうして私もまた、宇野と同じく、この言葉が『悲壮に、聞こえる、悲壮、というより、悲痛な感じがする』のである。]
 それから、芥川は、おなじ『戯作三昧』の中で、馬琴が、『こんかぎり書きづづけろ、』と何度も自分に呼びかけながら、堅く筆を握りながら、「自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる、場合を気づかつた、」と、書いているが、やがて、「自分の肉体が万一それに耐へられなくなる場合」があることに、気がつかなかったであろう。
 しかし、芥川は、「自分の肉体の力が万一それに耐へられなくなる場合」がある事には、気がつかなかったとしても、自分の創作力がおとろえ行きづまってきた事は、うすうす、感じていた。
 それが『戯作三昧』にかすかながら出ているように思われるのである。
 馬琴に「根かぎり書きつづけろ、」と云わしたのは、芥川が自分をはげます言葉でもあったのだ、作者が意識しているといないとにかかわらず。

 『戯作三昧』が出てから半年ぐらい後に発表した『地獄変』は、芥川の全作品のなかの代表作ちゅうの代表作のように云われているが、そのとおり、これは、代表作のひとつであるとしても、芥川の絵空事の小説(というより物語)のくだり坂にかかりかけた頃の作品である。
 しかし、それはそれとして、さすがに、芥川は、その後、別のかたちの絵空物や小説を、つぎつぎと、工夫くふうして、書いた。(それについては、これも、後に述べるつもりである。)
 それから、『地獄変』は、(その文章だけで云うと、)芥川の他の小説の文章が、彫琢し過
窮屈になり、感情までなくなるが、『地獄変』の文章は、のびのびしていて、一種の感情もある、そのかわり、冗漫なところがある。一長一短というべきか。

文藻ぶんそう』という言葉がある。相馬泰三が、むかし、(大正七八年ごろ、)私に、ある小説の大家の文章について述べた時、「きみ、この文章には『』がないよ、」と、云った、つまり、芥川の文章には『藻』がないのである。(ふと、思い出した、その時、相馬が、『藻』がない、と云った小説は、一代の名文家と称せられる、谷崎潤一郎の或る作品である。)
[やぶちゃん注:「文藻」この場合は、詩才・文才の意味ではなく、その作者個人の文章に特有な、独特の綾や色彩の謂いである。それにしても相馬の「藻がないよ」はなかなか面白いし、それを丁々発止に受ける宇野も面白い。芥川龍之介の文章に「藻」は充分にある――いや、あり過ぎる程に、ある――と思っている私でも、この掛け合いは面白い。この宇野の一段落には確かに彼等の言う『藻』がある。]

『傀儡師』におさめられている小説の中の一ばん新作は『毛利先生』である。
『毛利先生』は、芥川が現実的な小説にちからを入れるようになった、最初のキッカケになった作品である、なぜと云う批評家もあるが、『批評』という事になると、人さまざま、何とでも勝手な事が云える。だいたい、『毛利先生』は、芥川が、芥川らしい小説が書きにくくなったために、らくな方法で、回想をもとにして、諧謔と皮肉で、小説らしくしたものである。
 回想をもとにして、と云えば、この『毛利先生』と殆んど同じ頃に書いた『あの頃の自分の事』という小説のはじめに、芥川は、「以下は小説と呼ぶ種類のものではないかも知れない。さうかと云つて、何と呼ぶべきかは自分も亦不案内である、」と、ことわっている。
 かつて、(といって、二三年前には、)芥川は、『小説と呼ぶ種類ではないかも知れない、』というような小説は、断乎として、否定した人である。そんな小説は、小説ではない、と云い切った人である。
 それが、今、むかし軽蔑した『小説と呼ぶ種類ではないかも知れない』ような小説を、芥川は、書かざるを得なくなったのである。それが、つまり、『毛利先生』(これはちょいと小説になっているが)であり、この『あの頃の自分の事』であり、ずっと後の、『大導寺信輔の半生』であり、幾つかの、『保吉』物である。
[やぶちゃん注:「毛利先生」の私の電子テクストはこちら。]

 さて、芥川が生前に出した短篇集は、『羅生門』、『傀儡師』、『影燈籠』、『夜来の花』、『春服』、『黄雀風』、『湖南の扇』の七冊であり、芥川の死後に出された短篇集は、『大導寺信輔の半生』と『西方の人』の二冊である。
[やぶちゃん注:「芥川の死後に出された短篇集」は二冊どころではない。ざっと見ても没年(昭和二(一九二七)年末には『侏儒の言葉』、翌昭和三年には童話集『三つの宝』、昭和四年に『西方の人』、昭和五年に『大導寺信輔の半生』と続く。]
 この生前に出した七冊の中で、『黄雀風』と『湖南の扇』には主として身辺を書いた作品が多くはいっており、他の五冊のうちでは『影燈籠』が一ばん見おとりがする。
『影燈籠』の中には、『蜜柑』とか、『葱』とか、という現代の庶民の日常の何でもない事を題材にした小説がはいっているが、これは、いわゆる歴史物ばかりを書いていた芥川が、このような物を書いたという事で、めずらしがられただけの物で、ちょいと気のきいた小説ではある。が、唯それだけのものである。それに、『葱』は、あまり出来できがよくない。
 それから、この短篇集には十四篇もおさめられてあるが、その中の、二篇は旧訳の翻訳であり、他の二篇は旧作と『小品四種』である。つまり、この四篇は、他の十篇だけでは一冊の本にならないので、「紙数の不足を補うため」に、入れられたのである。
[やぶちゃん注:「十四篇」は十七篇の誤り。『影燈籠』の収録作品は「蜜柑」「沼地」「きりしとほろ上人伝」「龍」「開化の良人」「世之助の話」「黄粱夢」「英雄の器」「女体」「尾生の信」「あの頃の自分の事」「じゆりあの吉助」「疑惑」「魔術」「葱」の創作、アナトール・フランスの「バルタザアル」及びイェイツの「春の心臓」の翻訳二篇の計十七篇である。「黄粱夢」「英雄の器」「女体」「尾生の信」のことを宇野は小品四種と呼んでいるものと思われる。]
 概して、この集におさめられている作品は、切支丹物でも、工夫くふうをこらして、現実的にはなっているが、以前のような覇気がない、それから、おなじ話でも、『犬と笛』は、『蜘蛛の糸』より、雑駁で、味がない、それから、『蜜柑』もちょっとした思いつきであり、『葱』は出来そくないであり、全体に、芥川らしい気負きおったところが少しもない。
[やぶちゃん注:「犬と笛」は大正八(一九一九)年一月、『赤い鳥』に発表された童話であるが、『影燈籠』には所収しない(どころか、単行本には未収録の作品である)から見当違いの批評である(次の段落を読むと、彼のこの部分の批評は『影燈籠』への批評から、それが発刊される前年の大正八(一九一九)当時の芥川の作風への批判となっているのであるが、誰が読んでも『影燈籠』に「犬と笛」が所収しているようにしか読めないから、よくない文章である)。また、私は「犬と笛」を「雑駁で、味がない」とする一刀両断にも、宇野自身の評価自体、「雑駁で、味がない」物言いであると反論するものである。
「『蜜柑』もちょっとした思いつきであり」確かに『影燈籠』はマンネリズムに陥った芥川の作品集として後代では最も評判が悪いが、私はこの「蜜柑」は、芥川龍之介の現代物の中でも一番に挙げてよい名作と信じて疑わない。宇野の「ちょっとした思いつき」という二度の謂いには烈しく反論するものである。]
 芥川は一たいどうしたのであろう、――と、私は、これらの小説をよんだ時、一人で、気をもんだ。
 そこへ、『竜』が出たのである。大正八年の五月号の「中央公論」である。『竜』は、例の『宇治拾遺物語』の巻十一の「蔵人得業くらんどとくごふ猿沢の池の竜の事」から取材したものである。嘗て、(三四年前、)芥川は、『宇治拾遺物語』から素材をとって、彫琢された文章で、珠玉の短篇、と称されたような、幾つかの、小説を、書いた。ところが、今、おなじ『宇治拾遺物語』から取材した『竜』は、文章も、内容も、冗漫で、わざと延ばして書いたのではないか、と思われるほど、いたずらに冗長である。
[やぶちゃん注:「蔵人得業くらんどとくごふ猿沢の池の竜の事」は、一般には「蔵人得業くらうどとくごふ猿沢さるさはの池のりようの事」である。原話では龍は現れず、原話とは異なる。次文で宇野が言うように、宇野の梗概の方が、また更に増して原話の方が「はるかにおもしろい」とは、私は思わない。]
 蔵人得業が、人をかつぐつもりで、「三月三日この池より竜のぼらんずるなり」と書いた立て札猿沢の池のほとりに、立てる。すると、大和は、もとより、遠く、山のかなたの、河内、摂津、和泉、その他の国国の人びとが、言いつたえ、開きつたえ、して、『登竜』を見物したいために、ぞくぞくと、集まってくる。蔵人は気が気でない。するとその三月三日の四五日前に、摂津の国から、はるばると、蔵人の叔母が『登竜』を見たい、と云って、たずねてくる。蔵人はますますあわてる。ところが、その三月三日に、偶然、大雨がふり、かみなりが鳴りはためき、雲がむらがりおこって、池の中から竜が昇天した。そうして、人びとは確かにそれを見た、と云った。ところで、蔵人は、その後、知人や仲間に、あれはイタズラであった、と、ふれまわったが、誰ひとりそれをにうける者はなかった。――と、これが『竜』の荒筋である。ところが、この下手へたクソな荒筋の方が、書いた私が読んでも、本物の『竜』より幾らかおもしろく、この下手へたクソな荒筋よりも本元の『蔵人得業猿沢の池の竜の事』の方がはるかにおもしろいのである。
 されば、私は、この『竜』を読みおわって、タメ息をついたのであった。
 しかし、芥川は、さすがに、その頃の自分の事を、よく知っていた。その事を、私は、こんど、はじめて、つぎのような文章を読んで、知ったのである。

 樹の枝にゐる一匹の毛虫は、気温、天候、鳥類等の敵の為に、絶えず生命の危険に迫られてゐる。芸術家もその生命をたもつて行く為に、この毛虫のとほりの危険をしのがなけれはならぬ。就中なかんづく恐るきものは停滞だ。いや、芸術の境に停滞と云ふ事はない。進歩しなければかならず退歩するのだ。芸術家が退歩する時、常に一種の自動作用さようが始まる。といふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは芸術家としての死にひんしたものと思はなければならぬ。僕自身「竜」を書いた時は、あきらかにこの種の死に瀕してゐた。
(『芸術その他』)

 この文章を、芥川は、大正八年の十月に、書いているが、最後に、「おひおひ僕も一生懸命にならないと、浮かばれない時が近づくらしい、」とむすんでいる。
 この文章には、芥川の、覚悟のようなものと、なにか憤りのようなものも、感じられる。その憤りは、思うように小説が書けない事、それから、中篇小説『妖婆』が、失敗した上に、親友から手きびしい非難をされた事、それやこれやでイライラしていた事、等等から、来ているのではないか。
[やぶちゃん注:「藝術その他」とそれへの批評の反駁文「一批評家に答ふ」が私の電子テクストにある。参照されたい。]
 いずれ.にしても、大正八年は、芥川には、よいとしではなかった、過渡期のとしであった。
 この大正八年に書いた『沼地』という短篇の中で、絵が思うように描けないために、「恐ろしい焦燥と不安にさいなまれ」た末に、気ちがいになった画家の絵を見てから、その画家の話を聞いて、「殆ど厳粛にも近い感情が私の全精神に云ひやうのない波動を与へた、」と、芥川は、述べている。
[やぶちゃん注:「沼地」も私の好きな作品のである。私が勝手にデュシャンの「薬局」を飾った電子テクストは、こちら。]
 芥川も、亦、大正八年には、幾度か、「恐ろしい焦燥と不安」に、さいなまれたのではないか。そのために、しばしば、よる、眠れない事も、あったのではないか。

     
十七

 つぎに述べる話はずっと前に書いたと思うけれど、話をすすめるために必要であるから、重複するのを承知の上で、書く。
 大正九年の秋の中頃であったか、芥川は、いつものように、がらずに、玄関の部屋の前に立ったままで、私の顔を見ると、いきなり、「今日きょうは、僕につきあってくれないか、……そのまま でいいよ、」と云った。『そのままでいいよ』とは、「わざわざ著物をきかえなくてもいいよ、」という意味である。(芥川は、たずねてくる時は、いつも、和服であった。)
 その時、芥川が「つきあってくれ、」と云った行く先きは、芥川の友人の石田幹之助のつとめている『東洋文庫』であった。その『東洋文庫』は、たしか、今の運輸省の裏の辺であった。が、その頃は、まだ、赤煉瓦の小さい、せいぜい二三階ての、小さいビルディングの立てこんでいる細い町つづきで、『東洋文庫』は、それらの赤煉瓦のビルディソグの二階の一室であった。
 私は、芥川と一しょに、上野の桜木町から、大通りに出て、善光寺坂をくだり、藍染橋あいぞめばしから電車にのり、和田倉門で電車をおりて、そこから『東洋文庫』のある赤煉瓦のちいさなビルディングまで、あるいた。私たちは、その、道をあるいている時も、電車にのっているあいだも、――小一時間ほどのあいだ、絶えず、問答のような話を、つづけた。それはこういうのである。
「君は、僕の小説など、読んでいないだろう。」「読んでるよ。」「感心してないんだろう。」「感心してないね、……そりや、僕だって、君があたらしい境地を開こうとしている事ぐらいは、わかるよ。……しかし、あいかわらず、逆説――パラドックスという『手』を使っているのが、気になるね。」「……」「『黒衣聖母』など、なかなか凝ったところはあるけど、結局、『わざわいを転じて福とする代りに、福を転じて禍とする』というのが『味噌』じゃない.か、――といって、むろん、僕には、あんな物かけないが、あれは、やっぱり、味噌くさいね。」「……『秋』は、……」「実に行儀ぎょうぎのいい小説だね、それに、あまり理路整然としすぎているね、……ところで、君の小説も変ってきたね、……しかし、ああいう題材は、(つまり、『秋』のような題材は、)君に不向ふむきだと思うな、君には、やっぱり、出来不出来できふできは別として、『南京の基督』のような物の方が、合ってるな。」「……そうかなあ。」「……ところで、僕は、ずっと前から、心配しているんだが、……余計な事か知れないが、……それは、それは、君が、(君のような作家が、)もし、書く題材がなくなったら、どうするだろう、という事だ、……僕は、実は、君の小説はたいてい読んでいるよ、……『鼠小僧次郎吉』のような題材でも、題材があるうちは、まだいいよ、……僕はネ、君のような作家が、……『解放』や『雄弁』[註―この時分の「雄弁」は、「改造」や「解放」などとならんで、いわゆる純文学の作者の作品を出していた]らまだいいが、『文章倶楽部』のような雑誌に、『黒衣聖母』が出たのを見た時は、悲しかったよ、君、……」
 すると、芥川は、急に真剣な顔つきになって、ささやくような声で、「ありがとう、実はその用事で、石田に逢いに行くんだよ、」と云った。
 さて、前に述べたように、『東洋文庫』は、丸の内の、ちいさな赤煉瓦のビルディングのならんでいる細い町の片側の見すぼらしいビルディングの二階の一室にあった。その部屋は、十五六じょうぐらいの大きさであったろうか、なにか引っ越したて、というような感じで、部屋の中は雑然としていた。その部屋のなか一人ひとりいた石田がたいへんおおきな人に見えた事、芥川と私がそれぞれ椅子に腰をかけると、それだけで殆んど部屋一ぱいになったような記憶がある事、そういう事を思い出すと、あまり大きな部屋ではなかったのか。それから、片側が通りに面したまどであったことは確かであるが、他の側が本棚であったかどうか。(なにぶん三十年ぐらい前の記憶であるから、すべてアヤフヤである。)
『東洋文庫』は、「東京市本郷区駒込上富士前町にある。大正六年(一九一七)男爵岩崎久弥は、前中華民国総統府顧問モリソン G. A. Morrison より多年の蒐集にかかる支那を中心とせる東洋諸国各般の欧文文献の一大蒐集『モリソン文庫』を購入し、大正十三年、現在の敷地、建物、その他一切の設備を挙げて財団法人東洋文庫が設立された。爾来東洋文庫は、従来のモリソン文庫を核心として、更に年々この方面の洋書と、従来のモリソン文庫には含まれてゐなかつた漢籍の購入をつづけてゐる。[下略]」と或る辞書にある。
 ところで、この辞書にあることを本当とすれは、『東洋文庫』を持っていた岩崎が、『モリソン文庫』を買い入れた時、それを整理するために、この丸の内の赤煉瓦のビルディングの二階の一室(あるいは二三室)を借りて、倉庫兼事務所にしたのであろうか。そうして、その購入した『モリソン文庫』の数多の整理その他を、「支那を中心とした東洋の文書」の権威である石田に、依頼したのではないか。(以上の事は、もとより、愚鈍な私の臆測である。)
 もし私の臆測どおりであるとすれは、芥川と私がとおされたのは事務所である。そうして、その事務所には、ゆかの上のあちこちに私などが見たこともないような本がみかさねられてあり、片側の本棚にも私などのよくわからない本がならべられてあった。
 芥川と石田がなにかしきりに話し合っていたあいだ、私は、所在しょざいがないので、こういう物を、見るともなしに、見ていたのである。
 石田は、芥川と用事の話をしている間に、二三度、となりの部屋に行って、二三冊(あるいは四五冊)の本を、かかえて来た。そのたびに、芥川と石田は、両方から本の上に顔をよせて、なにか話し合っていた。
 やがて、芥川は、「どうもありがとう、」と云って、立ちあがった。
 芥川は、そのちいさな赤煉瓦のビルディングを出たところで、いきなり、「僕はすぐうちに帰るよ、」と云って、さっさとあるき出した。それから、電車の停留場まで、芥川は、例の前かがみの姿勢しせいで、むっとした顔をした、無言で、なにか急用でもある人のように、早足はやあしで、あるいた。
 さて、電車に乗ってから、芥川が口をきった。
「……今日きょうどうもありがと。」「いい題材みつかった。」「……うん、……ところで、さっき、君は、『秋』のような題材の物は、僕にはかない、と云ったが、そうなんだよ、実際、あんな物は、僕には苦手にがてなんだ、……しかし、僕は、もう一べん、いなおって、思いきって、感傷的なところや抒情的なところのまつたくないもので、現代物を書いてみよう、と思っているんだ、しかも、短篇じゃない、中篇だ、……」「ふん、そりや、おもしろい、かもしれないけれど、僕には、……」「ふん、しくじったら、別の手を打つつもりだ。」「その方がよかないか。」(すると、芥川は、急に低い声になって、云った。)「僕は、ずっと前から、トルストイとツルゲエネフの話を、書きたい、と思ってるんだが、……」「その方が面白いかもしれないね。」「うん、……君もどんどん書けよ。」「うん。」「失敬。」(この時、電車が、私のおりる藍染橋にとまったのである。)

 ここで、つぎの話にうつる前に、芥川のために、こと、弁護しておく。――それは、芥川が、支那の旅行から帰って、しばらく、病気をして寝ていたことがある。すると、いつの世にも絶えない、口さがない連中が、「『南京の基督』の話は、芥川の実験談で、芥川は支那でひどい梅毒にかかったらしい、」と云い触らした事である。ところが、いつの世にもゴシップを信じる人たちも亦多いので、この時が本当のように広がったのである。しかし、この弁護はいたって簡単明瞭である、『南京の基督』は大正九年七月の作であり、芥川の支那に出かけたのは大正十年の三月の末であるからである。
 猶、芥川の体質と病気についてしじゅう質問をうけて困っていた、芥川の親友であり主治医であった、下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で、「世間にイイ加減な臆説や誤りが流布されてゐる。また種々の尾鰭がついて、肺結核だの甚だしきは精神病者とまで伝へられてゐる、」と憤慨している。
 結局、芥川の病気は、胃のアトニイ、痔疾(脱肛)、神経衰弱、――この三つであったのである。
[やぶちゃん注:「下島 勲が、『芥川龍之介のこと』という文章の中で」とあるが、標題は正確には「芥川龍之介氏のこと」で、昭和二(一九二七)年九月号『改造 芥川龍之介特輯』に所載され、後に昭和二十二(一九四七)年清文社刊の下島勲著「芥川龍之介の回想」に収められた。私の電子テクストがあるので参照されたい。
「胃のアトニイ」胃壁筋肉の緊張が低下、胃の機能が低下する状態を言う。先天的に全身的に筋肉が弱く痩せた人に多く起き、胃下垂自体が胃の機能低下を惹起することが多いために胃下垂と合併して発症することが多い。]
 ついでに、下島の書いた文章の中に私の注意を引いたものが一つあるので、それについて、述べておく。それは、『ただしておきたいこと』という文章の終りの方の、「あれは晩年小穴といふ人の頭に映じたり印象づけた生活相や言行の一面で、主として彼[註―芥川のこと]がすがれ行く痛ましい姿の描写のやうである、」と書かれ、更に、そのあとの方に、書かれている、つぎのような文章である。

 私は芥川氏の自殺の背景に多大の関係があるやうに書かれたり、喧伝せられてゐるS子夫人に対する彼の煩悶苦悩といふのは、時に病的ではなからうかと思はしめた神経の一つの現れで、その現れが婦人殊に有夫の人で而も知友などに関係ある対象だつただけに、比較的いちじるしかつたに過ぎぬものと解したい。(尤も決して気違ひでない人でありながら、僅かの傷を致命傷ではなからうかと感じるものがあるかと思へば、顔面に出来た発疹を梅毒ではないかと勘違ひをして、煩悶の結果、自殺を企てた若い教養のある厳格な家に育つた立派な婦人もあつた。芥川氏に何の関係もないことであるが、参考までに記しておく、)だから、芥川氏の場合S子夫人のみを自殺背景の重大原因であると見たり、甚だしきは、「芥川龍之介を死なせた女」などといふ雑誌の表題を見るだけでも、ウンザリせざるを得ない。

 私がわざわざこの長い文章を引用したのは、私がこの下島の説にほぼ同感であるからだ。

 それから、私が、この文章を書き出してから、ときどき、(ほんのときどき、)不審に思ったのは、私は、芥川とナニかあるようなナニもないような噂をされている婦人は、たいてい、芥川から、『ナンの関係もないような女』として紹介せれるか、名前を聞かされるか、していたのに、この下島の文章に出てくる『S子夫人』の名だけは、芥川が、私に、一度も口にしたことがない事である。
 この事は、こう書きながらも、やはり、不審に思われ、妙に思われるのである。
[やぶちゃん注:「S子夫人」は言わずもがな、秀しげ子。]

 さて、私は、『東洋文庫』に一しょに行った時から、ずっと、芥川に、逢わなかった。
 しかし、私は、自分の仕事に追われながらも、ときどき、芥川の事が、気になった。あの時、電車の中で、気負きおった口調で、「現代物を、もう一ぺん、書いてみる、」と、云っていたが、それを書いているであろうか、残暑は猶きびしい、元気そうによそおってはいたけれど、しんが弱っているように見えたが、芥川よ、つつがなしやと、私は、思ったのである。
 ところが、『東洋文庫』に行ってからつきほど後、新聞の広告で、「中央公論」(大正九年十月号)に『お律と子等』が出たのを見た時、私は、「やったな、」と思った。『やったな』とは、「芥川が思ったよりも早く、現代物の小説を書いたのに、おどろいた、」という程の意味である。
 ところが、その十月号の「中央公論」に出たのは前篇だけで、後篇は十一月号の[中央公論」に出た。そうして、両方で百枚ちかくであるから、芥川の小説としては幾らか長い方である。これは、簡単に荒筋を述べると、死にかかっている母(お律)と子等(たねちがいの兄、腹ちがいの姉、弟)というような複雑なきょうだいとその身内みうちの人間たちを、その人たちの家であるメリヤス類の問屋にあつめ、それらの人たちが、危簿の状態にある病人をよそにして、つきつきあいをしているさまを書いたむのである。
 ところで、こういう日本の自然主義の作家がこのんで書いたような題材を、いわばかどちがいの芥川が、材料にしても、成功する筈がないのである。ところが、嘗て「理智主義」とか「新技巧派」とか称せられた芥川は、さすがに、こういう題材を、芥川流にこなし、巧緻な技巧と洗煉された文章によって、事件も、人物も、手際てぎわよく、きちんと、書いている。とごろが、この小説も、『秋』と同じように、作意がハッキリしすぎ、説明が多すぎ、心理描写があらわ過ぎ、辻凌が合い過ぎる。そのため、現実味がうすく、迫力がない。あたまつくって、頭で書いているからである。
 しかし、この小説は、芥川が、大袈裟にいえば、作者として立ちなおる気で、書いたものであり、気負って書いたものであるから、いま述べたような欠点はあるが、実にこまかいところまで気をくばり、文字どおり、用意周到な作品である。しかし、そのために、生き生きしたところがなく、どの人間にも血がかよっていない。しかし、又、いうまでもなく、これは誰にも書けるというような小説ではない。妙な言葉であるが、これは、秀才の小説である。
 ところで、私は、この小説を、発表された当時に、読んで、一ばん気になったのは、作者が、この小説に出てくるいかなる人間にも、微塵みじんの同情も持っていない事であった。この作者は人間らしい温か味というものを少しも持っていないのではないか。この作者の心は氷であるか。私は、この小説を読みおわった時、心の中が、心の底が、氷のように、寒く冷たくなるような気がした。(人間としての芥川は、私の知るかぎり、冷たいところなど殆んどなく、温か味のある人であったが、小説を書く時は、作品の上では、このようになるのであろう。しかし、これは、もとより、芥川ばかりでなく、たいていの作家は、書く時は、非情と思われるほど冷静な心にならねばならぬのである。)
 ところで、話は別であるが、私は、この『お律と子等』 の後篇の終りの方に感じられる何ともいえぬ「陰気」さは、芥川が、この小説を書いたとしから六年ほど後に、つまり、(自ら死んだとしの前の年に、)書いた『玄鶴山房』の暗い暗い「陰気」さに、どこか、通じるところがあるような気がするのである。(そういえば、こじつけるようであるが、『お律と子等』の構想と『玄鶴山房』の構想も、ほんの少しではあるが、似ているところがある。)
 芥川が『お律と子等』を書いたのは、さきに述べたように、二十九歳のとしの秋であるが、二十九歳のとしに『お律と子等』というような小説を書いた芥川は、二十九歳のとしに、既に、心の中に、いうにいわれぬ苦しみとなやみを、持っていたのではないか。そうして、そのひとつを仮りに病苦とすれば、他の一つは『家』の事ではないか。

 さて、『お律と子等』を失敗作であると思っていた、私は、芥川が、『東洋文庫』から帰りに、電車の中で、「もし失敗したら、別の手を打つつもりだ、」と云ったことに、期待した。それが、たぶん、その翌年(つまり、大正十年)の「中央公論」と「改造」の一月号に出た『山鴫』と『秋山図』であろう。
『山鴫』も、『秋山図』も、発表された当時、世評はわりによかったようである。
『秋山図』は、(これにに書いたような気がするが、)芥川のところに出入りしていた、支那文学に通じている、伊藤貴麿たかまろの話によると、(これは、伊藤が、私がなにも聞かないのに、わざわざ、教えてくれたのであるが、)『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである、と云う。その真偽は別として、芥川は、その小説の書きはじめの頃から、日本の古典や切支丹の文献などから題材を取って小説を作っていたのであるから、伊藤の『教え』を大目に見ることにして、『秋山図』について云えば、私は、この小説は、例の名文は別として、物語としても、アヤフヤであり、(たとい『アヤフヤ』を書いたものとしても、)あまりおもしろくない、と思うのである。
[やぶちゃん注:「伊藤貴麿」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十二(一九六七)年)は児童文学者・翻訳家。大正十三(一九二四)年に新感覚派の『文藝時代』に参加したが、その後は児童文学界で活躍、少年向けの「西遊記」「三国志」「水滸伝」をはじめとする中国文学の翻案物を得意とした。
「『秋山図』は、あれとまったく同じ筋の小説が支那にあって、その支那の小説そっくりである」作品の原典は清初の画家惲格(うんかく 一六三三年~一六九〇年 字・寿平 号・南田)の画論集「鷗香館集」補遺画跋に載る「記秋山圖始末」であるが、実際に芥川が参考披見した原拠は今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治十五(一八八二)年~昭和四十五(一九七〇)年 号・天彭:中国研究家・漢詩人)の編になる「東洋画論集成」の上巻(大正四(一九一五)年読画書院刊)所収の訓読文と考えられている(本記載は一部を翰林書房「芥川龍之介新事典」に拠った)。]
『山鳩』は、『秋山図』とくらべると、(「くらべると」である、)いくらかおもしろく、心にくいほど巧みなところもある。そうして、例によって、些細なところにも気をくばっている。それで、一と口に云うと、この作品は、気のきいた物語ではあるが、小説としては、やはり、物たりない。
 けっきょく、私は、待ちかねていただけに、この二つの小説を読んで、かるい失望を感じた。そうして、寂しい気がした、これでは心細い、と思ったからである。しかし、又、芥川は、こんな事で、決してへたばる男ではない、と思った。

 話がまったく変るが、(これも前に述べたことがあるかもしれないけれど、)大正十年の一月の末頃であったろうか、芥川と、神田の神保町のちゅうぐらいの牛肉屋で、私は、久しぶりで、一しょに、夕飯をたべたことがある。
[やぶちゃん注:ここまで読んでくると、宇野は作家の発表雑誌や飲食店・茶屋、職業、更には女性の容貌、人間の品性に至るまでの総てを殊更に(ある意味、偏執的に)格付け(そこには、時代背景を考慮するとしてもかなりの差別意識も入り込んでいることは疑いがない)することが好み(というのが失礼ならば趣味)であることがよく分かる。これが彼の本来の性格によるものか、それとも精神病後の人格変性によるものであるのかは定かではないが、[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―それは生じ得るのである。宇野の記載を読んでいて感じるのは、本書の中の大部分である芥川龍之介の回想はその殆どが、宇野が精神に異常をきたす以前の記憶であるわけだが、その当時感じた印象と記述時の印象が一八〇度転換しているケースが散見される。これは実際にそうであった(当時の宇野の思い違いであった)と感じさせる部分もあるが、中に有意な割合で何か感受者である宇野自身の脳の器質的変化によるものではないかと感じさせる部分が私には確かにあるからである(但し、精神病による病変であるからといってその差別性の責任が相殺されるとは私は思っていない)。]これはかなり奇異に見える(私は時に読んでいて不快感さえ覚える)ことは事実である。ここで言っておきたいのであるが、私は彼の差別語や差別表現に対して、本電子テクストの冒頭や最後に、如何にもな例の差別注記を附ける気はポリシーとして全くない。[やぶちゃんのやぶちゃんによる割注―私は、現在の出版界やネット上で、ただ同文の差別ママ注記を附ければ、それで差別がなくなるというような安易な免罪符的用法に対して強い違和感を抱くからである。私は差別注記を本気でやるのなら、どこが差別用語であり、どれが差別表現であり、それがどのような部類の差別であり、どのような人間がどう差別されるのか、ということを誰にも分かるように逐一解説せねば嘘だと思うからであり、そんなことを文学作品(それも過去の)に適応することは現実的に不可能だからである。]が、ここでそうした批判的視点を常に持って読者一人ひとりが彼の文章全体を読むべき必要性を「ここで一度だけ」指摘しておきたいのである。差別の解消の総ての核心は個々人の不断の内的省察に基づかねばならない。と私は思うからである。]
 六畳ぐらいのうすぎたない部屋であった。そこで、注文した物が出る前に、芥川は、その時はなにか上幾嫌で、ほとんど一人で喋った。
「……君、われわれ都会人は、ふだん、一流の料理屋なんかに、行かないよ、菊池や久米などは一流の料理屋にあがるのが、つうだと思ってるんだからね。……」(その他、いろいろ喋ったが、みな略す。)
 さて、注文した物がはこばれ出した時、芥川が、私に、自慢そうに、なにか字を書いた半紙を見せながら、例の鼻にかかる声で、「これ、ヘキドウが書いたんだよ、」と、云った。
 見ると、細いくねくねした字で、『夜来の花』と書いてあった。「ヘキドウ」とは、小沢碧童という、新傾向の俳人である。
「うまいだろう、」と、芥川は、ニコニコしながら、云った。
「うむ、」と、私は、いった。『うむ』といったのは、私には、その字が、下手へたに見えて、うまいとは思えなかったからである。(後記―これは、私の無知で、実は凝った巧みな字であった。)
 ところが、大正十年の三月十三日に、芥川が、小穴にあてた手紙の中に、「……空谷老人入谷大哥の『夜来の花』を見て曰『不折なぞとは比へものに怒りませんな』と、」という文句がある。空谷すなわち下島 勲は書の名人であるから、この、『入谷大哥』が小沢碧童ならば、私が、碧童の書いた『夜来の花』を、芥川に、「うまいだろう、」と云って、見せられながら、下手だと思って、「うむ、」と生返事をした時、芥川は、何も云わなかったが、心の中では、大いに軽蔑したであろう、と思う。
 こんな事を思って、ちょいと調べてみると、碧童は、
  何鳥なにどりか啼いて見せけり冬木立
  引窓ひきまどに星のひつつく寒さかな
というような句をつくっているばかりでなく、書と篆刻に巧みである。
 こういう点で、芥川が文人とすれは、(いや、たいした文人である、)私などは、野人であり、風雅を知らぬ無粋人である。
[やぶちゃん注:「入谷の大哥」「小沢碧童」河碧梧桐門下の俳人小澤碧童(明治十四(一八八一)年~昭和十六(一九四一)年 本名、忠兵衛)のこと。「大哥」は「あにい」「あにき」と読む(芥川龍之介が親しくした友人の中でも十一歳年上の最年長であった)。ここに書かれた通り、芥川の第五作品集『夜来の花』(大正十(一九二一)年三月新潮社刊)の題簽をものしている。]

 私はこの神保町の牛肉屋で、芥川と一しょに食事をしてから、二たつきほど後に、芥川に、(芥川が支那に行く前に、)旅行したきりで、それから、四五年も、芥川と逢う機会がなかったのであった。

     
十八

 私が芥川と一しょに旅行したのは、前に述べたように、二度である。二度だけである。その最初の旅行(大正九年の十一月下旬)の事は、この文章のはじめの方に、くわしく書きすぎるほど書いた。
 ところが、二度目の時は、芥川が支那旅行に出る前であったという事、大阪に行ったという事――このふたつの事だけしか覚えていないのである。
 ところで、このふたつの事だけを覚えているのは、つぎに述べるような事があったからである。(これから書くことも、ずっと前に述べた事と重複するところがあるから、前もって断っておく。)
 大正十年の二月の中頃であったか、芥川が、息を切らしながらやって来て、なにかこと三言みことはなしてから、くせで、いきなり、「きみ、大阪イかないか、」と云った、「行きたいけどかねない。」「けよ、金は僕がもつから、……こんど、支那にくことになったので、その事で、大阪の『毎日』に行くんだ。」「行ってもいいか。」「いいよ。」
[やぶちゃん注:「大正十年の二月の中頃であったか」上巻の「一」では「大正十三年の二月の中頃」と誤認していたクレジットが、ここでは修正されて正しく示されている。再注すると、現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、これから宇野が訂正するように、この旅は大正十(一九二一)年二月二十日夜東京発、二十四日帰京であることが分かっている。
「大阪イ」は「一」と同様でママ。]
 大阪に幾日か滞在した或る日、芥川にさそわれて、大阪毎日新聞社に、学芸部長をしていた薄田すすきだ淳介(泣菫)をたずね、辞して社を出ると、すぐ、私が「泣菫という人は実に姿勢しせいのいい人だね、」と云うと、芥川は、言下に、例のおどけたような笑い顔をしながら、「あれは、きみ、ギプスをはめているからだよ、」と云った。
[やぶちゃん注:上巻の「一」ではギプスをはめている理由として薄田が脊椎カリエスであることを芥川は語っているが、上巻の注で示した通り、彼の病気は脊椎カリエスではなく、パーキンソン症候群であった。]
 ここまで書いて、ふと、気がついて、芥川の書翰集を見ると、たいへんめになったので、これから、しばらく、書翰集によって、私の記憶ちがいなどもなおしながら、話をつづけることにしよう。

 さきに書いた芥川と私のかわした話だけで判断すれば、芥川と私が一しょに大阪へ出かけたのは、芥川が私をたずねてきた日から、早くて二三日のちか、遅けれは、四五日のちか、であろう、と、これを読む人も思うであろう、書く私も、そう思ったのである。
 ところが、芥川が、その時、大阪に行く事になったのは、大阪から、(たぶん、大阪の毎日新聞社から、)電報で呼びよせられたからである。そうして、その電報は二月十九日につき、その電報には「十九日の晩に立て」と書いてあったらしいのである。
 芥川は、この電報を見ると、いくらかあわてて、つぎのような手紙(あるいは葉書)を書いている。

 大阪より電報参り唯今急に下阪仕る事と相成候間御約束の原稿[註―『往生絵巻』]その次の号へ御まはし下さるまじくや二十日までには如何なる事ありても出来致すまじく[下略]

 これは二月十九日午後、小林憲雄[「国粋」という雑誌の編輯者]に宛てたものである。

 急に下阪の為国粋の原稿は延期した裏絵だけ描いて国粋へ送つて頂きます[中略]君がこの端書を見る時僕は浜名湖ぐらゐにゐます

 これも、やはり、十九日に、小穴に宛てたものである。
 ところが、その翌日、(つまり、二十日、)芥川は、また、小穴にあてて、つぎのような便りを、出している。

 言おくれ今夜発足同行は宇野耕右衛門二人共下戸故【①】や【②】はなし唯【③】ばかり
[やぶちゃん注:底本では【①】には盃の、【②】には御銚子の、【③】には蜜柑の、それぞれ芥川龍之介自筆の絵が描かれている。以下、該当書簡(岩波旧全集八五五書簡)の本文総てを画像で示す。

冒頭二首の短歌の「一游亭」は小穴隆一の俳号、「圓中」も小穴の別号で芥川はしばしば「圓中先生」と彼を呼称したようである。]

 右の文句のうちの『耕右衛門』とは、私が大正八年の十月号の「改造」に出した『耕右衛門の改名』という小説の題名から、芥川が、勝手に、私につけた名前で、私の目にふれたのでは、小穴にあてた手紙に使っている。しかし、客観的にいえば、この便たよりの文句としては、『宇野浩二』より『宇野耕右衛門』の方が趣きがある。そうして、全体の文句もいかにも芥川らしい洒落しゃれではないか。
 ところで、私は、こんど、これを読んで、芥川が私をたずねて来たのは、二月の十九日か二十日はつか(たぶん二十日の昼頃ひるごろ)である事を、はじめて、知った。そうして、もし芥川が二十日の昼頃にさそいに来たとすれば、私は、その誘われた日の晩に、いそいそと、東京を立った事になるのである。
 この事を知って、私は、自分の軽率さに、今更ながら、あきれた。そうして、私は、あの時、芥川が、あの不意の大阪ゆきに、私をさそったのは、深切でしたのか、退屈しのぎの道づれにしたのか、と、あたまをひねることがある。すると、あの時は、徹頭徹尾、芥川にられたような気がしたり、芥川が深切で誘ってくれたような気がしたり、するのである。
 しかし、結局、あれは、やっぱり、深切で誘ってくれたにちがいない、と、私は、思いかえすのである。というのは、あの時、芥川が大阪ゆきを誘いに来た時、私が「行きたいけど金ない、」と云うと、芥川は、言下に、「行けよ、金は僕がもつから、……」と云ったが、その時、芥川は余分の金など持っていないらしかったからである、それから、大阪に行ってからも、毎日新聞社から金を取った様子がなかったからである。
 ところで、この大阪ゆきから帰って、芥川が、三月二日に、薄田淳介に宛てて、支那旅行の費用について、質問したり、「御願い」したり、する手紙を書いているが、その手紙の大半はつぎのような箇条書かじょうがきである。

 ㈠ 旅費とは汽車、汽船、宿料 日当とはそのほか旅行ちゆう日割に貰ふお金と解釈してかまひませんかそれとも日当ちゆうに宿料もはひるのですか
 ㈡ 上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周ひとまはりする四つきつき通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい
 ㈢ 旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちとりなさうなのですが月給を三つき程前借する事は出来ませんか
 又次ぎの件御願ひします
 ㈠ 旅費並びに日当はまづ二月ふたつきと御見積みつもりの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから
 ㈡ 出発の日どりは十六日以後なら何時いつでも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな気もしますから

 この箇条書きは、言葉はおだやかであり、上辺うわべは、謙遜に見え、なにもかももたれかかっているように思われるけれど、よく読めば、かなり強引ごういんなところもあり、ずいぶん勘定高かんじょうだかいところもあり、なかなか抜け目のないところもある。
 つまり、この箇条書きをよく読めば、㈠、旅費と日当を別のものと「解釈」し、日当の中に宿料も入れなければ、貰う方の条件は二重三重によくなるように思われるし、㈡、上海までの切符を買ってもらえば、それだけの汽船賃が助かるし、という事になるかもしれない。が、それらは私の例の臆測であるとしても、或る男の説として、「上海から北京と又東京までぐるり一周ひとまはりする四つき通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい、」と云うところなどは、談判(つまり、掛け合い)としても、『至れり尽くせり』の観があるではないか、と云うのは尤もである。つまり、これでは、その頃の毎日新聞社の経理部にいかに豪物えらものがいたとしても、「四月通用の切符」をさがさざるを得ないであろう、そうして、その上に、「三つき程の月給の前借」㈢も承知し、二月ふたつき分の「旅費並びに日当」も送ったであろう。
 それから、この箇条書きの文章であるが、さきに述べたように、「日当中に宿料はひるのですか、」とか、「もしそんな切符があればそれでも○○○○よろしい、」とか、「前借をする事○○○は出来ませんか、」とか、「社の方で○○○○見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひます、」(これが一番うまい)とか、その他、下手したてに出ているように見えながら、結局、上手うわてに出ている、つまり、先手せんてを打っている、――それに、私は、感心したのである、なにもかも、用意周到であり、常識的であり、抜け目がないからである。 ――芥川には、こういう所もあったのである。
[やぶちゃん注:ここでの宇野の指摘は極めて核心を突いている。則ち、「生活者」たる芥川龍之介という男は、想像を絶してなかなかに「したたか」である、ということだ。これは先に宇野が引いた『或阿呆の一生』のなかの『械』の、
 彼等夫妻は彼の養父母と一つ家に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた為だつた。彼は黄いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。
という謂いを、我々が芥川の真実の告白として鵜呑みにしてはいけない、ということをも意味しているということに気づかねばならないのである。遺書に於いても、芥川龍之介はこの自死という土壇場でも新潮社との全集出版契約をけんもほろろに(『僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版肆を同じうせんことを希望す』という身勝手甚だしい理由から)破棄している。私の「芥川龍之介遺書全六通 他 関連資料一通≪二〇〇八年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」を是非、参照されたい。]
 ところで、ここで、私が奇特に感じ有り難く思うのは、
  見ずや、若草離々りりとして、
  霞吐く野の末とほく、
  野馬のまうちむれて永き日を、
  あかぬ快楽けらくに酔ぬらし。   『尼が紅』の内

  墾道はりみちかよふ旅人の
  側目もふらで路せくに、
  ふりさけみれば、紫の
  雲のあなたに日は落ちぬ。       『尼が紅』の内
[やぶちゃん注:「墾道」新たに切り開かれた道、新道のことで、題名「尼が紅」は、「夕焼け雲」のこと。本来は「天が紅」で、訛って「おまんが紅」、音の類似から「尼が紅」とも書く。]
とうたった『暮笛集』の詩人、薄田泣菫が、このような手紙を、なくさないで、取っておいてくれた事である。
 さて、この芥川が薄田に宛てた手紙をよんで、私は、実は、はじめて、芥川にこういう性質もあった事を、知ったのであった。ところが、芥川が二月の中頃に、小穴に宛てた手紙の殆んど全部が『往生絵巻』のくわしい筋書であるのに、私は、一そう、目を見はった。つまり、くちにいえば、芥川が、生活でも、創作でも、一つの計画を立てると、ちゃんと、設計(あるいは筋)をつくり、それも明細に丹念につくり、それを著著ちゃくちゃくと実行する、常識を持った人であった事を、知ったからである。
 しかしたびたび云うが、こういう所があったために、芥川の小説が、窮屈になり、理づめになり、『自然』なところがなく、感情がからびていて、冷たくて、作り物のように見えるのではないか。が、それもよい、それが芥川の小説らしい、という事になれば、である。しかし、私がもっとも不満に思うのは、あのような見事みごとな芥川の文学になにか肝心なものが欠けている事である。それをくちにいうと、ニュウアンス(nuance)がない事である。nuance はフランス語であるから、辞書を引いてみると、「色・音・調子・意味・感情などの微細な差異。陰影。濃淡、明暗、」とある。ニュウアンスのない事――これが芥川の文学の最大の欠点のひとつである。
[やぶちゃん注:宇野の評は誤っている。芥川龍之介の作品には「ニュウアンス」は絶望的な意識の揺らぎとして非常に深く存していると私は思う。では、何故、宇野は芥川の作品は全く「ニュウアンスのない」ものばかりだ、というのか? それは宇野という生物の可視出来る波長域が、芥川という生物の持っている波長域よりも狹い、若しくは芥川龍之介の可視短波域(精神のマイナー域)の「色」が宇野には見えないか、長波域へと大きくずれているからにほかならない。これは個人の持って生まれた人格の相違だから仕方がないと言うべきであり(これは実は後文で宇野自身も認めている)――寧ろ、宇野は人間愛を素直に抱きとめることの出来る生物であり――私は――私は芥川龍之介という種の亜種である故に――私には宇野が「色」として感じない芥川龍之介の短波域を、その明度の非常に低いグラデーションを、あらゆる作品の中に、ありありと「見る」ことが出来るのである。]

 さて、この文章のはじめの方で、私は、『往生絵巻』の最後の「法師の屍骸の口には、まつ白な蓮華が開いてゐる、」というところを、「芥川一流のマヤカシの文句である、」とけなしたことがある。(この考え方が変ったことはあとで述べる。)ところが、芥川は、この『往生絵巻』について、小穴に宛てた手紙の中で、「…僕の小説[註――『往生絵巻』]は駄目、いそがされた為おしまひなぞは殊になつてゐなささうです、」と書いている。(私は、この手紙をよんだ時、これは『眉唾物まゆつばもの』である、と思った。)
 ところが、やはり、この小説を、正宗白鳥が、「国粋」[註―大正十年四月号]で読んで、この白い蓮華のところを、「小説の結末を面白くするための思ひ附き」である、と評し、「芸術の上の面白づくの遊びではあるまいか、」と非難している。
 すると、芥川は、この批評に対する自分の感想(というより意見)を述べた手紙を、正宗に出した。そうして、その手紙の中で、芥川は、あの白蓮のところは自信がある、というような文句(つまり、不服)を云っているそうである。
 私は、この芥川の手紙は読んでいないが、芥川はこの手紙を向きになって書いたにちがいない、と思うのである。それに、この正宗の批評は、独立したものではなく、雑文の中に入れられたものであるから、そういう事もいくらか芥川の気にさわったのかもしれない。
[やぶちゃん注:ここで宇野が問題にしている書簡は、旧全集書簡番号一一六二の正宗白鳥宛大正十三(一九二四)年二月十二日附書簡(田端発信)を指す。以下に、岩波版旧全集より、当該書簡を引用しておく(繰り返し記号「〱」は正字に直した)。
冠省文藝春秋の御批評を拜見しました御厚意難有く存じました十年前夏目先生に褒められた時以來嬉しく感じましたそれから泉のほとりの中にある往生繪卷の御批評も拜見しましたあの話は今昔物語に出てゐる所によると五位の入道が枯木の梢から阿彌陀佛よやおういおういと呼ぶと海の中から是に在りと云ふ聲の聞えるのですわたしはヒステリツクの尼か何かならば兎に角逞ししい五位の入道は到底現身に佛を拜することはなかつたらうと思ひますから(ヒステリイにさへかからなければ何びとも佛を見ないうちに枯木梢上の往生をすると思ひますから)この一段だけは省きましたしかし口裏の白蓮華は今で後代の人の目には見えはしないかと思つてゐます最後に國枠などに出た小品まで讀んで頂いたことを難有く存じます往生繪卷抔は雜誌に載つた時以來一度も云々されたことはありません 頓首
    二月十二二位   芥川龍之介
   正宗白鳥樣 侍史
なお、「往生絵巻」初出とこの書簡との間には、二年弱の大きなタイム・ラグがある点に注意されたい。]
 ところで、この小説は、枚数も十四五枚のものであり、芥川としては割りに早く書いたものであろう、芥川の作品としてもすぐれたものではない。しかし、はじめて雑誌で読んだ時は、やはり、最後の白蓮華が気になった程度であったが、こんど、何度目かで、読みなおしてみて、私は、ふと、芥川龍之介が五位の入道のような気がして、これはただの小説ではない。特殊な、小説である、と思った。
 ここで話がちょっとよこに逸れるが、いわゆる円本全集のけとなった「現代日本文学全集」[註―菊判で六号三段組であったから、一ペイジ四百字づめ原稿紙で三枚半ぐらいであるから、全六十三巻のうち薄いのと厚いのはあるが、『芥川龍之介全集』などは五千枚ぐらいであろう]を出した改造社が、その「現代日本文学全集」の宣伝のために、その全集の作品を入れる幾人かの作家の日常生活の一端を活動写真に取って、それを、講演と講演との間に、うつして見せた事があった。といって、私は、その活動写真を、どういう時に、どこで見たかは、まったく忘れてしまった。が、見た写真だけは、うろおぼえではあるが、まずハッキリ覚えている。しかし、もとより、空覚うろおぼえであるから、これから書く事もいくらかまちがっているかもしれない。この事を前もって断っておく。(後記――たして後に述べる芥川の映画が少しまちがっている事を滝井孝作に教えられた。)
[やぶちゃん注:「現代日本文学全集」の割注にある『芥川龍之介全集』は正確には同全集の一巻であるから「芥川龍之介集」とすべきところ。同全集第三十篇で芥川の死後、昭和三(一九二六)年一月に刊行されている。]
 さて、私が見たのは、みっつだけで、『里見篇』、『廣津篇』、『芥川篇』とでもいうべきものであろう。それはざっと、つぎのようなものである。
『里見篇』――広い庭の一隅らしい所に、一ぽんの二けん半ぐら小の高さの棒が立っている。その棒のさきから、一けん半ぐらいの綱が、五六本、ぶらさがっていて、その綱のはし手頃てごろの鉄の輪がついている。――つまり、これは、子供たちが、反動をつけて、この鉄の輪に飛びつき、飛びつくとともに地を蹴り、地を蹴るとともに、からだを揺りながら、棒の廻りをまわる、というような運動具である。『旋回棒』とでもいうのであろうか。
 さて、晩写が開始されると、まず、この『旋回棒』(仮名)がうっる。『旋回捧』が写ると殆んど同時に、としよりずっと若く見える、(三十四五歳に見える、)里見と、ここのつかとおぐらいの二人ふたりの男の子が、ホオム・スパンのズボンをはき、鳥打ち帽を阿弥陀あみだにかぶって、きわめて真剣な顔をして、画面の一方いっぽうから、つぎつぎに、け足で、あらわれた。現れるとともに、三人は、順順に、目にもまらぬ早さで、鉄の輪に飛びついた。鉄の輪をつかむとともに、三人は綱にすがりながら、魚のようにからだをひらめかせながら、クルリクルリ、と、棒の廻りを、まわった。それで、三人のからだは、くうちゅうに跳ねかえるように見えたり、地をるように見えたり、した。それで、その見事みごとさに、あれよ、あれよ、と見惚みとれているうちに、映画は、あえなくも、パッパッパッ、と消えてしまった。(ある専門家の話に、映画に取られる時、レンズが気にならなかったら、一人前いちにんまえだ、という事であるが、この時の里見は『一人前』以上であった。)
[やぶちゃん注:「ホオム・スパン」 “homespun”(ホームスパン:一単語であるから中黒は不要)は、手紡ぎの太い紡毛糸を用いて手織りにした(現在の手織に似せて機械織りしたものも含む)素朴な印象と肌触りを与える毛織物。]
『廣津篇』――画面の左寄り七ぐらいがまわえんの障子のはまった部屋をそとから見た所。部屋の外に僅かに見える庭には草や木もえていないようである。映画が開始されると、右の方から、やはり、としより若く見える、(三十二三歳に見える、)廣津が、ちょこちょこあるきで、あらわれた。それと殆んど同時に、座敷の障子があいて、病柳浪が、縁まで、出て来た。(『びょう柳浪』と書いたのは、柳浪が晩年ずっと病気をしていたからであるが、柳浪は、この映画に取られたのは、六十五歳の時分であろうか、豊頰で、目の大きな鋭い人であったから、それほど病人らしくは見えなかった、しかし、体格は岩乗がんじょうらしいのに、どこか弱弱よわよわしく見えるところがあった。)さて、廣津は、実の姿があらわれると、にわかに、足を早めた、というより、小走りに、縁のほうへ、すすんで行った。と、子が近づいて来たのを見ると、縁側の中程まで出ていた柳浪は、顔全体が微笑するような表情をして、なにことこといった。「やあ、」とか、「しばらく、」とか、云ったのであろうか。(これは、前にも述べたように、大正の終りか昭和の初め頃の映画であるから、もとより、『トオキイ』などは、まだ名称さえ知られなかった時分である。)さて、廣津も、それに応じて、なにか云いながら、縁側に腰をかけた。
 廣津は、里見とまったく反対で、画面にあらわれた時から、既に、うつされる事を気にしているように思われた。それに、おどおどしでいるように見えたのは、廣津が、無類の親孝行な人であるばかりでなく、人および芸術家としての柳浪を心から尊敬していたからであろう。ところで、縁側に横むきに腰をかけた廣津が、はじめは殆んど後向うしろむきになって話していたのが、写真を取っていた人に注意をされたのか、ふと、正面をいた。その時である。廣津がなんともいえぬ目眩まぶしそうなまりわるそうな顔をしたのである。それを見ると、(廣津が、活動写真機のレンズが気になって、まぶしい顔をしたとは、愚鈍な私には、気づかなかったので、)友人の私は、なにか気の毒なような気がして、画面の廣津の顔を、正面まともに、見ていられなくなった。しかし、やがて、廣津父子の顔が、ならんで、こちらを向き、二人ふたりが殆んど同時に微笑した。そうして、二人が微笑するのと殆んど同時に、映画はすっと消えてしまった。見ていた私はほっとした。
 いよいよ『芥川篇』――画面ほとんど一ぱいが、珊瑚樹さんごじゅ拡大かくだいしたような、葉の殆んどまったくない樹木じゅもくである。(さきに述べたように、この時みた映画の記憶はアヤフヤであるが、)この奇怪な樹木じゅもく背後はいごに、たしか、の、ひくい、平屋ひらやの、家屋かおくがあった。これは、で、陰気な風景であった。
 さて、映画が開始されると、すぐ、この陰気な暗い風景があらわれ、「おや、」と思っているもなく、平屋の家の屋根の上に、あたまから、肩から、しだいに、姿をあらわしたのが、芥川だ。
 やがて、屋根の上に全身をあらわした芥川は、ぱっと両手を左右に開いたかと思うと、目にもとまらぬ早さで、枯れ木のような樹木の枝に飛びつき、両手で枝をにぎると殆んど同時に、飛鳥ひちょうのごとく、またをひらいて、木のまたに両足をかけた。というより、両足を踏ん張っていたので、芥川は、ほとんど画面一ぱいの大木たいぼく真中まんなかで、両手をひらいて枝をつかみ、またをひらいて枝を踏ん張っていたので、ほとんど画面一ぱいにだいの字になっていた。画面がくらかったので、画面全体が妙に気味わるく見えた。(この映画は、私は、芥川の死後に、見たのであるが、見た年月としつきは、忘れてしまった。ところで、この映画に出ている芥川は、手も足も丸見まるみえの姿であったから、芥川が、この映画を取られたのは、死んだとし[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う。とすれば、この映画は、芥川が死ぬつきか二月ほど前に、取られた、という事になる。)
[やぶちゃん注:この宇野の記憶は錯誤がある(滝井の指摘もそこであろうと推測する)。興味深いことに、この宇野の宇野の記憶は当該映像を逆回しにして述べているのである(これは病跡学的な見地からいつか検討してみたいと思っている)。以下、私なりに当該映像を説明してみる(以上の三篇を私はすべて、かつて芥川龍之介の文学展で実見しているが、一部の記憶がアヤフヤではある。一部実見可能なネット上の画像――1シークエンス3ショット――を元に説明してみる)。撮影場所は田端の書斎の前庭である(画面を右下から左上へ斜めに区切っている庭木。この庭木は縁側に恐るべき直近で生えており、配置は如何にもせせこましい。恐らく書斎の増築によってこうなったものと推測される)。
〇庭に降りている(若しくは降りてくる――その前にカメラがもっと引いていて手前に多加志のものと思われる三輪車のあるスチールが写真として残るから、この前があるかも知れない)芥川龍之介、その向かって(以後、総て観客から見て)やや左背後に小学校の制服を着た長男比呂志が麦藁帽子を被って立っており、しゃがんだ芥川のすぐ左側には前掛けを附けた次男多加志が頻りに目や顔を擦りながら立っている。
比呂志が自分の被っていた麦藁帽子を取って父龍之介の頭に被せる。
それを芥川は左手で自分の頭に落ち着かせる。
その後、三人は一時、スナップぽくカメラの方に視線を送る(この時、龍之介は少し笑ったように見える)。
〇直後にその場所のままに、しゃがんだ麦藁帽子を被った龍之介の胸部上から頭部がアップにされる。
龍之介、右手で両切り煙草を出して右の口に加えると、マッチで火を点け、やや眉間にしわを寄せて、六回ほど、銜えたままで、すぱすぱと煙を吹く。五回目で右手で口中央へ、六回目で反対側の左口端へと煙草を銜え直す。
〇カメラは下がって、縁側中央に座る多加志が、木を見上げており、比呂志が既に木に登っている。
右手の木の根元には龍之介が立ってやはり比呂志を見守っている。
比呂志は悠々と登り切って、軒の上を右手に歩いて消える(ここは比呂志の足元のみ)。
龍之介、比呂志が登り切って、軒に移るのとほぼ同時に、多加志のいる前の沓脱石に立って木に攀じ登る(この時、芥川龍之介が股引足首まである股引を穿いているのが分かる)。
木の高みで両手を左右の枝に添え、カメラに向かって一種の見得を切って立つ(その前から、カメラがティルト・アップするため、急に光量が過剰になって、表情などはよく見えない。その後、比呂志と同じく、画面右手に軒を歩いて姿を消す。
この謂わば、円本全集販売促進用のプモーション・ヴィデオは個人ブログ「神保町系オタオタ日記」の「円本全集の広告合戦と久米正雄監督の映画」などによれば、三十五ミリで撮影されたもので、正式な名称は「現代日本文学巡礼」、コンセプトは『諸作家の日常生活を映画に撮り、全国各地の文藝講演会で上映するという企画』で、改造社社員の水島治男(後に起こる有名な言論弾圧である横浜事件で逮捕された出版人)が『文学青年に仕立てられ、各作家を訪問するという趣向で』、久米正雄が監督、出演は挙げられている里見弴・廣津柳浪・和郎父子・芥川龍之介以外に徳田秋聲、近松秋江、上司小剣、小山内薫、佐藤春夫、武者小路実篤などが出演した、とある(現在は「こおりやま文学の森資料館」が所蔵)。なお、「この映画を取られたのは、死んだ年[註―昭和二年]の六月頃ではないか、と思う」とあるが、複数の記載から、芥川龍之介の撮影は宇野の言う通り、昭和二(一九二七)年六月に行われたと推定される。正に芥川龍之介自死の一ヶ月か一ヶ月半程前の撮影ということになる(但し、現在の芥川龍之介の年譜には記載がない)。]
 ところで、私は、この映画で、芥川が、屋根の上に全身をあらわした時、ず、ひやッとした。それから、その、痩せさらばえた、『骨と皮』のようになった、芥川を見、髪の毛がすくなくなって額がますます広くなり、頰がこけ、長い眉毛が釣るしあがり、目がくぼみ、大きな切れの長い目が三角になり、その目がぎょろりと光り、口の大きくけた芥川の顔を見た時、私は、ぎょっとした。人間世界の人ではないような気がしたからである。
 さて、木にのぼり、あらい網の目のように木の枝が交錯しているなかに、両手をひろげて木の枝をつかみ、木の下枝したえだをふんで、大の字に、立ちはだかった芥川は、やはり、活動写真機のレンズが気に、なったので、そういう妙な振る舞いをしたのかもしれないが、この振る舞いは、見ている私には、かなり気味わるく、ひどく異様に、鬼気がせまるようにさえ、感じられた。芥川は俳号を『我鬼』と称した。『我鬼』というのは芥川の造語であろう。いずれにしても、『鬼』とは、「亡魂」、「亡霊」などという言葉の古語であり、仏教では、「地獄にある獄卒。人類の形をなし、口は耳の辺まで裂けて、鋭き牙を有し、頭に牛角え、裸体にて腰に虎の皮をまとい、相貌獰悪にして、怪力ありと想像せらる。羅刹らせつ、夜叉、」という事になっている。『羅刹』とは、梵語で、『悪鬼』という意味である。ところで、この陰気な映画にあらわれた芥川は、誇張して云えば、あの世の『鬼』ではなく、この世の『鬼』というような観がしたのである。
[やぶちゃん注:「獰悪」は「どうあく」と読み、性質や容貌が凶悪で荒々しいこと。
宇野のこの映像の芥川龍之介の描写はやや大袈裟ながら、正しい。私の友人でも、複数の者が、この芥川の映像は気持ちが悪い、と言う。確かに、煙草を吸うシーンの表情や樹上の見得のシーン――というより、何か、虚空を茫然と見つめて立ち尽くすシーン――には、一種の鬼気迫るものを感じずにはおかないものである。]

 ところで、私がこのような事をながながと述べたのは、私は、この映画を見た時、故事こじつけではなく、『往生絵巻』の、最後の方の、五位の入道が、「幸ひ此処ここに松の枯木が、二股ふたまたに枝を伸ばしてゐる。まづこのこずゑに登るとしようか、」と云って、枯木の枝に、登って、餓死するところを思い出し、悲惨であるべきあの場面に悲惨な感じが殆んどしないで、(他の人が出れば愛敬あいきょうにもなり諧謔の味のようなものも出るかもしれないのに、この芥川の木のぼりの映画の方が、ときどき正面まともに見ていられなかったほど、凄惨な感じをうけたからである。
[やぶちゃん注:あの映像と「往生絵巻」のラスト・シーンを結びつけた宇野のそれは恐るべき慧眼である。]
 しかし、前に書いたかと思うが、私は、この『往生絵巻』を雑誌で読んだ時は、眉をひそめたのである。私が、こういう、簡単にいえば、厭世的な小説を、あたまから好まなかったうえに、芥川がこのような小説を書いたことが気に入らなかったからである。私は、芥川に、こういう小説を書くなよ、と云いたい、と思った程であるからである。
 ところが、これは、やはり、私の愚鈍のためで、(それに、性質がまったく違うからでもあろう、)到底とうてい、無理な事であったのだ。つまり、その時、芥川は、三十一歳であるが、もともと、こういう小説を書く人であったからだ。それから、芥川のもっとしたしい友人たちほど、私は、(芥川の、上辺うわべだけ知っていて、)芥川という人をよく知らなかったのである。あるいは、また、芥川が、私には、自分の性質の一面しか見せなかったのかもしれないのである。
 いずれにしても、芥川は、私には、一しょうの中でなかなか得られない友のうちの一人であり、みじかい交際ではあったけれど、ありがたい友だちの一人であった。殊に、わたくし事ではあるが、つぎつぎと同じ年頃としごろの友人が世を去ってゆくにつけて、もし芥川が……と思うことがしばしばある。

 芥川が門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日である。ところが、芥川は、上海につくともなく、乾性肋膜炎にかかって、三週間ぐらい入院した。
[やぶちゃん注:「門司から上海ゆきの船に乗ったのは大正十年の三月二十九日」とあるが、正しくは三月二十八日である。上海到着は三十日午後、四月一日には上海の里見病院に入院、退院は同月二十三日。この辺りの顛末は、私の電子テクスト「上海游記」及び私の注をご覧戴きたい。
「乾性肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。]
 前にもたびたび書いたように、芥川は、もともと、蒲柳の質であった、というより、病身であった、つまり、からだが弱くて、よく病気にかかったのである。しかし、私は、こういう事さえ、芥川とつきあっていた時分は、殆んどまったく知らなかったのである。
 ところで、この支那旅行は、芥川が、かねて望んでいたものであるが、創作のユキヅマリを打開するためでもあったのではないか。しかし、又、この支那旅行は、病身な芥川には、ずいぶん無理であったらしい。下島 勲も、この事について、「支那視察に行かれたときは、感冒後の気管支加答児かたるが全治しないのを、種々の都合で決行した。「案じた如く大阪の宿で発熱する。無理に船に乗つて上海に上陸早々肺炎をおこして入院する、」と書いている。
[やぶちゃん注:引用は下島勲の「芥川龍之介氏のこと」によるものである。
「気管支加答児かたる」は、現在の気管支炎のこと。「加答児かたる」は英語“catarrh”(カタル)で、感染症感染の際に生じる粘膜腫脹及びその炎症部位から粘液と白血球からなる濃い滲出液の浸出を伴う病態を言う。主に喉粘膜での病態を言うが、他の粘膜部でも用いる。]
 この無理がたたって、芥川は、支那旅行から帰ると、すく持病の胃病と痔疾と神経衰弱に、なやまされている。(ここに「持病の痔疾」と書いたのは誤りである、というのは、芥川がそのとしの、九月八日に、薄田にあてた手紙の中に「何分小生の胃腸なほらずその為痔までみ出し床上に机を据ゑて書き居る次第、」と述べ、九月十三日に、下島にあてた手紙の中に、「この間の下痢以来痔と云ふものを知り恰も阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂くが如き目にあひ居り候へば……」と書いているからである。これで見ると芥川が、晩年に、神経衰弱と殆んど同じくらいになやまされていた痔疾にかかったのは、大正十年の秋、という事になる。すると、芥川は、神経衰弱と胃病のほかに、死ぬまで、五年あまり、痔疾になやまされていたわけである。そうして、この芥川の痔疾は、脱肛であったから、寒い夜中に勉強をし過ぎたり、気候のわるい時分に仕事にこんをつめ過ぎたり、すると、おこるのである。そうして、それが起こると、ときどき、はげしい疼痛をじたり、出血したり、する。これでは、丈夫な着でも、殊に筆をとる者には、やりきれないから、まして、芥川のような病弱な人には、いっそ死ぬ方がましだ、と思われたにちがいない。
[やぶちゃん注:「阿修羅百臂」旧闘争神である阿修羅は知られた造形は三面六臂であるが、この阿修羅が百本の腕で、それぞれに刀を持って、その百本を肛門に一斉に突き立てたと思われるような痛み、という諧謔(本人には諧謔どころではないのだが)である。]
 さて、幾度も云うが、支那旅行のために、芥川は、健康をますますわるくしたうえに、経済的にも無理をしたようである。それから、これも、わぎとしばしば書くが、芥川は、誰もが意外に思うほど、複雑な家庭の事情にしじゅうなやみ、その負担にくるしみつづけていた、それに、原稿料の前借のようなものまでかたならず気にする男であった、と口にいうと、実に気のちいさい人であった。
 ところで、芥川が支那旅行から帰った月日つきひは、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう。いずれにしても、前に述べたように、芥川は、帰国してから、もなく病気になった。が、病気を押しながら、(つまり、痔になやみながら、)芥川は、ある時は、とこの上に机を据えて、毎日新聞に連載することを約束した、『支那游記』を、ときどき休みながらも、書きつづけた。これは、なによりも、芥川の責任を重んじる気もちを現している。しかし、それとともに、これは、芥川の健康をますますわるくするもとになった。
[やぶちゃん注:「芥川が支那旅行から帰った月日は、(はっきりわからないが、)七月の下旬頃であろう」現在の年譜上の知見よれば、芥川龍之介の帰国は七月十七日頃(何故か現在でも明確でない)である。]
 芥川は、十一月の二十日に、薄田にあてた手紙のなかに、「支那旅行[註―『支那游記』]の為文債をのばして行つたのとその後からだのわるい為もろもろの雑誌編輯者より原稿をよこせよこせとせめられ病軀その任にたへず実際へこたれ切つてゐます仰ぎ願くは新年号を退治するまで御待ち下さるやう願ひますその代り今度始めたら中絶しませんこの頃神経衰弱甚しく催眠薬なしには一睡も出来ぬ次第、……」と書いている。
[やぶちゃん注:「文債」は「ぶんさい」と読み、締切りまでに完成出来ない原稿をいうが、どうもこれは、夏目漱石の造語である可能性が高い(そもそもこの意味内容自体が近代的である。)。岩波旧全集書簡番号八四三、小宮豊隆宛明治四十(一九〇七)年十二月十六日附書簡に、
  文債に籠る冬の日短かゝり
という漱石の句がある。因みに、同全集の第十七巻「索引」の語句・次項索引にも見出しとして「文債」はない。]
 この手紙の中の、「新年号を退治する」とは、「新年号の小説を書きあげる」という程の意味である。それから、『十一月二十四日』頃から新年号の小説を幾つか書く、というのは、その時分の諸雑誌の新年号の小説のシメキリはたいてい十二月の十五六日であったからだ。(『今昔の感』という句があるが、新年号の諸雑誌⦅娯楽雑誌と婦人子供雑誌はいつのでも例外なり⦆のシメキリが十二月の十五六日であつた頃は、なつかしく、ありがたき哉。)
 さて、芥川は、その時の新年号には、(つまり、大正十一年の一月号の雑誌には、)『将軍』(「改造」)、『藪の中』(「新潮」)、『俊寛』(「中央公論」)、『神神の微笑』(「新小説」)の四篇を、発表している。これで見ると、さきに引いた芥川の手紙の中の言葉を本当とすれは、芥川は、十一月二十五六日から十二月十五六日までのあいだに、(つまり、二十日はつかぐらいの間に、)四篇の小説を書いた訳である。しかも、枚数をしらべてみても、四百字づめの原稿紙でかぞえると、(芥川は二百字づめの原稿紙を使っていたが、)『将軍』と『俊寛』は五十枚ほどであり、『藪の中』と『神神の微笑』は二十四五枚ぐらいであるから、みなで百五十枚ほどである。すると、二十日で百五十枚であるから、一日に七枚の割りになる訳である。
 しかし、これは、これだけ云えば、見事なように思われるけれど、この四篇の小説の中で増しなのは『藪の中』だけで、『将軍』は、まあまあというところで、思いつきだけの物であり、『俊寛』は失敗作であり、『神神の徴笑』もかるすぎる。
 これらの事はつらい病気を押して書いたためか。それもある。しかし、それよりも、手紙では「新年号を退治する」とかるく書いているけれど、この時、芥川が、「睡眠不足」をしのび、「食欲減退」にくるしみながら、せっせと原稿を書いたもっともおもな理由は、あの手紙にあるように、「のばして行つた」『文債』のためであったのではないか。
 ここで、私は、腕をくんで、考える。――極めて大ざっばな考えではあるが、支那旅行は、芥川の短かい一生の中の、もっとも重大なひとつである、と。支那旅行は、芥川の病弱なからだを一そう病弱にした、それは、直接ではなくても、芥川が幾つかの不治にちかい病気にかかるもとになった、それは、又、芥川の命をちぢめるもとひとつにもなった、そればかりではない、それは、芥川のもっとも大事だいじな芸術の道の邪魔におちいるもとにもなった。

 それから、さきに述べたように、芥川が支那旅行に出る頃、芥川の芸術がユキヅマリになりつつあった。かぞえどし二十五歳の三月に、処女作『鼻』によって忽ち世にみとめられ、大学時代に原稿料を得た、という芥川が、三十歳の年にユキヅマリを感じるのは当然である。それは、芥川ばかりではない、殆んどあらゆる作家は、五年も書きつづければ、たいていユキヅマリを感じる。まして、芥川のような小説は必ずユキヅマリがくる。しかし、あまりに若くして大家になり過ぎた芥川は、その性質にもよるけれど、その『ユキヅマリ』を気にし過ぎた、神経衰弱になるほど気にしたのである。
 さて、私は言目ことめには、『支那旅行』、『支那旅行』というが、それは、この『支那旅行』をさかいにして、芥川の小説の作風(と題材)が変ったからでもある。もっとも、大正十一年の四月には、『報恩記』、それから、大正十二年までの間に、『六の宮の姫君』、『おぎん』、『糸女覚え書』、その他の、初期(あるいは中期)の芥川風の小説が幾つかあるけれど、だいたい、大正十三年を境にして、それ以後の物は、いわゆる『保吉物』、それから、『大導寺信輔の半生』、その他の作者自身が主人公になっているような小説が多くなった。
 その大正十三年以後の小説の中で、芥川の小説らしくない、と云いながら、評判のよかった、『一塊の土』と『トロッコ』は、さきに述べたように、他人の作品を焼き直した物であり、『庭』というちょっとした味のある小品は小穴から聞いた話をもとにした物である。しかし、晩年の、(死の三年前から死ぬ年までの間に書かれた、)心境小説風の作品の中には、側側として人の心を打つ小説がある。しかし、それらの小説は、たいてい、小説、というより、小品である。
 私は、これもたびたび述べたが、芥川の初期(と中期)のいわゆる芥川らしい小説は、もとより、私などにはとうてい書けない物であるかち、一ととおり感心はしたけれど、いつも、なにか、不満を感じるのであった。
 ところが、心境風の小説は、肌が合うので、おおかた、感心し、中には、いたく心を打たれる物があった、いや、心を打たれる物がたくさんあった。しかし、それらの小説や小品の多くは、いたく心を打たれながら、あまりに痛まし過ぎたり陰気すぎたり、中にはほんの少し妖気のようなものがただようたり、するので、ときどき、芥川は近頃どうしてこんな物を書くのであろう、と、妙に心配になる事があった。
 結局、私は、『歯車』などをも含めて、芥川の小説は、一般に評判のよい、晩年の心境物(と身辺を書いた物)より、初期(と中期)の芥川らしい小説の方を買うのである。もとより、私も晩年の心境物(と身辺を書いた物)は大へんきであるが、芸術の上から見て、芥川の芸術として、私は、断然、芥川の初期(と中期)の芥川らしい小説を取るのである。そうして、私は、この方がただしい、と信じているのである。

     
十九

 これから述べる事は、前に、或る長篇小説の中に、一つの挿話として、(つくり話ではあるけれど――『つくばなし』といえば、まことしやかに書いているこの文章にも到る処に『作り話』がある事を、ここで、断っておく、)書いた事があり、芥川が死んでから間もなく書いた追悼文の中にも簡単に述べた事があるので、それらの話といくらか重複するところがあるけれど、これは、どうしても、この文章に必要があるので、『重複』を承知の上で書くのである。この事も前もって断っておく。
 大正十五年の十一月の末頃あったかと思う。私は、その二三箇月前から、神経衰弱にかかり、その上、家庭の内と外にかなり厄介な事件などがあったりして、とかく気もちが落ちつかなかった。それに、私も、その頃、自分の仕事にユキヅマリを感じていたからでもある。それで、その十一月の末頃、気をはらすために、母をつれて、(母と一しょに、)箱根に出かけた。そうして、私たちは、箱根の底倉にとまり、熱海にまわって、伊豆山の熱海ホテルにとまった。(そこで、新婚旅行で来でいた、片岡鉄兵夫妻に逢った。「日清戦争の最中さいちゅうに生まれたので、おやじは、僕に、『鉄考という名をつけたんでしょう、へへへへ、」と、ある時、笑いながら、云った片岡は、その頃は、まだ新感覚派の一人ひとりであった。)さて、熱海から東京ゆきの汽車に乗ってから、私は、汽車が大磯あたりを走っている時、ふと、やはり、神経衰弱で鵠沼に保養に行っている、芥川を、思い出した。
[やぶちゃん注:この宇野の鵠沼訪問は新全集宮坂覺氏の年譜によれば、同年十一月二十七日のことである。]
 そこで、私は、急に芥川逢いたくなったので、母にその事を話し、母と汽車のなかでわかれ、(母はそのまま汽車で東京に帰ることにして、)藤沢で、おりた。芥川とは、ずっと前に書いたように、その頃、雑誌「新潮」の主催で毎月ひらかれた月評会の帰りに、浅草の茶屋に一しょに行った時に、逢ったが、その時は、芥川が愛していた、私もよく知っている、小亀という芸者が傍にいたので、十分に話ができなかった、それで、したしく逢うのは、五年ぶりぐらいであった。それで、私は、芥川に逢うことが、心がおどるほど、うれしく、なつかしかった。
 さて、鵠沼で電車をおりた時は、もううすぐらかった。松の木の目だって多い、両側が生け垣つづきの、砂利の細道をいそぎ足にあるく私の心は、はずんだ。
 やっと私が芥川の家の前にたどりついた時は、日はすっかり暮れて、あたりは真暗まっくらであった。
 その家は、夜目よめで、よくわからなかったが、たしか、右も、左も、うしろも、まばらに、木立こだちがあって、ぢんまりした、二階だての、家であった。
 私が、入り口の格子戸こうしどをあけて、「ごめんください、」と云うと、すぐ二階から、だまって、おりてくる、しずかな、足音のしないような、足音がした。
 やがて、おりて来た芥川は、なにもいわずに、障子もなにもない上がり口のところに、両手をひらいて、鴨居かもいをつっぱり、両足をひらき、大の字の形で、立ちはだかった。
 前に述べたように、あたりは真暗まっくらであり、玄関は真の闇であり、唯むこうの部屋がほんのすこかるいだけであったから、例えば『とおせん坊』のような形で立っている芥川の姿は、黒い影人形かげにんぎょうのように見えて、顔などは殆んど見えなかった。それで、私は、一瞬間、茫然として、立ちすくんだ。
(私は、その頃、⦅十一月頃⦆芥川が、佐佐木にあてた手紙の中に、「羊羹をありがたう(羊羹と、書くと何だか羊羹に毛の生えてゐる気がしてならぬ)」とか、「何しろふと出合つた婆さんの顔が死んだお袋の顔に見えたりするので困る、」とか、斎藤茂吉にあてた手紙の中に「先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候、」とか、いうような事を知らなかったのである。⦅芥川の母は、芥川の生後間もなく、発狂し、発狂したまま死んだのである。⦆それから、芥川が、やはり、その頃、部屋の真中まんなかに寝ていても、部屋の四隅よすみが倒れてくるような気がする、と云って、わなわな震えているような事が、しばしば、あった、というような事も、知らなかったのである。)
[やぶちゃん注:宇野に、宇野自身の当時の状態への特殊なバイアスがかかっていることが、実はここで分かる。実はここに引用されている「羊羹」云々の佐佐木茂索宛書簡は宇野の訪問した翌日十一月二十八日附で書かれた書簡(旧全集書簡番号一五三一)で、その掉尾には正に訪問した宇野のことが以下のように書かれているからである(引用は旧全集による)。
 昨日宇野浩二がやつて來た。何だか要領を得ない事を云つて歸つて行つた。以上
宇野が「羊羹」の「異常」な叙述(これを私は「異常」とは思わないし――私も「羊羹」の「羹」の児は不快である――一種の文字に対するゲシュタルト崩壊に類するものとしても尋常である)を引きながら、そうして正に宇野の訪問日時を特定しているこの手紙の、肝心の自分への言及を引用しなかったのは、宇野が敢えてこれを示したくなかったからだと私は考えるのである。宇野はこの時の芥川龍之介の鬼気迫る異様な様を強く読者に印象付けておきながら、その実、実はその時の自分も芥川龍之介によって「尋常でない」「何だか要領を得ない事を云」って、ふらっと「歸つて行」った変な状態であったと、認識されていたことを読者には完全に隠蔽しているのである。私は宇野の精神の変調はこの時、既に始まっていたのかも知れないと、逆に踏むのである。そうしてそれを宇野は断固として抹消否定しようとしているのではなかろうか。]
 いずれにしても、私は、まったく久しぶりで、逢うのが楽しみで、たずねたのに、真黒まっくろな芥川らしい(芥川にちがいない)男が、物も云わずに、大の字の形で、がり口に、立ちはだかった時は、文字どおり、度胆どぎもをぬかれた。凄じかった。しかし、やがて、
「やあ、」と、聞きなれた、癖の、鼻にかかったような声をかけられると、たちまち、懐しさの情が、私の心に、あふれた。「やあ、よく来てくれたね、君、ごはん、だだろう、……ちょっと、待ってくれたまえ、」と云うとともに、芥川は、また、殆んど足音をたてないで、しかし、大いそぎで、二階に、あがって行った。
 やがて、芥川は、すぐ、りてきて、「東家あづまやに行こう、」と云いながら、下駄をはいた。
 さて、東家の座敷にとおると、芥川は、すわらぬうちに、「君と僕とは、おなじ物がすきだったねえ、」と云って、女中に、玉子焼と刺身さしみを注文してから、「……酒は、いらない、すぐ、ごはん、」と、云いつけた。
 そうして、久しぶりで、芥川と向こう前にすわって、あかりのしたで見た時、私は、はッと思って、しばらく、言葉が、出なかった。芥川が、はげしい神経衰弱にかかっている、とは、人づてに、聞いていたが、これほどひどくなっていようとは、思わなかったからである。
 さて、芥川は、すわると、すぐ、
「……君、これだよ、」と云いながら、右の足を、一、前の方に突き出して、膝から下を折って、足袋たびをぬぎ、その足袋を、私の前に、出して見せた。
 それは、茶色の、なにかのけだものの、皮を、裏から底まで、つけたものであった。
 私は、それを、と目、見て、にわかに、身の毛が、よだつような気がした。そうして、あらためて、こわごわ、(のような感じがしながら、)芥川の顔を見ると、笑っている時は、口の中の目にたつところに、一ぽんの大きな歯が抜けているからでもあるか、一種の愛敬あいきょうがあり、どんな人にもしたしみを感じさせるけれど、その時、芥川が、口を閉じ、痩せ細った指に巻き煙草をはさんで、ほとんど絶えなしに煙草を吸っている恰好を見て、私は、心の中で、ふかい溜め息をついた。
 やがて、女中が注文したものを持ってきたので、二人は、数年ぶりで、一しょに食事をした。それは実に楽しかった。
 しかし、食卓をはさんで、さしむかいに、食事をしながら、いろいろな話をしているあいだに、私が、又、おどろいたのは、もともと痩せてはいたけれど、この時の芥川は、まったく、骨と皮、というより、骨だけの人が丹前をきているような観がしたからであった。
 それから、長い、ふさふさしていた、あたまの毛が、油気あぶらけがなくなり、ぱさぱさしていた。それから、一文字の、釣り上がった、眉毛、ときどき、三角がたになる、鋭い、目、高い鼻、ややおおきな、やや唇のあつい、口、げっそり頰のおちこんだ、長い、青白い、とげとげした、顔。それは、この世の人とは、思われないような顔であった。私は、それを見ると、ぞっと、からだじゅうに、寒気さむけをおぼえるような気がした。
 しかし、芥川は、そのように、肉体が、痛わしいほど衰えているのに、気力はそれほど衰えていないらしく、ぽつりぽつりと、言葉をくぎりながら、昔ながらの、おちついた、口調で、文学の、(おもに小説の、)話をした。そうして、その小説の話がとぎれた時、芥川は、いきなり、
「僕は、……めずらしいだろう、……新年号の雑誌を、みっつ、ひきうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」と、目をかがやかしながら、云った。
 私は、これを聞いて、そのとし(つまり、大正十五年)は、(いや、その前の年頃としころから、)芥川が、病気のために、小説らしい小説を、ほとんど発表していなかったので、
「それは、よかったね、」と、心からよろこんで、云った。
 しかし、こう云ってから、私は、すぐ、この『半分ぐらい』というのは、すこ眉唾物まゆつばものだな、思った。
 すると、芥川は、にわかに、真剣な顔になって、
「君は、書いたか、」と、まるで、なにか、なじるような調子で、云った。
と「うむ、」と、私は、そこで、ちょぅと返事につまった、というのは、私も、芥川ほどひどくはなかったが、神経衰弱気味に、(あるいは、半分ぐらい神経衰弱に、)なっていたからである、それで、私も、新年号の雑誌の小説を、やはり、三つぐらい、引き受けていて、その中の一つぐらいは書くつもりであったが、そのひとつさえ、あまり自信がなかったからである。しかし、私は、「僕も、やっぱり、みっつぐらい、引き受けたけど、……できたら、『中央公論』だけには、書くつもりだ、」と、いくらか空元気からげんきで、云った。
 そこで、芥川は、急に緊張した顔つきになって、
「僕も、やっぱり、『中央公論』だけは、出すつもりだ、」と、云った。
「ぜひ、書けよ。」
すると、芥川は、しばらくして、こんどは、妙に、声をひそめて、
「君、……君も、ほかはめにして、何とかして、『中央公論』だけは、書けよ、書いてやりたまえ、……ね、書いてくれよ、……そして、僕と一しょに出そう、」と、云った。

(ところで、芥川が、この時、何度も、くりかえし、「中央公論」だけに、とか、「中央公論」だけは、とか、云ったのは、どういう訳であるか。――それについて臆測すると、つぎに述べるような次第ではないか、と思う。)
 一代の名編輯者と称せられた、滝田樗陰(哲太郎)は、「中央公論」の主幹であったが、短かい一生[四十四歳で死去]の間に、創作(小説、戯曲)の権威と価値を広く社会化した上に、新進作家を見出だして、世に出す事に苦心をするとともに、非常な喜びを感じた。そうして、滝田は、原稿をたのむ時は、(自動車のない時分であったから、)人力車で走った、そうして、いそぐために、常に二人びきの人力車に乗った。それで、大正時代は、「中央公論」は、作家の、『登竜門』であり、『檜舞台』である、と云われた。そうして芥川や「新思潮」(醍削第)の同人の幾人かの憧憬のまとであり、谷崎潤一郎を文壇におくり出したのも「中央公論」であった。それで、正直で麁相そそっかし屋の菊池は、大正七年の初夏の或る日、勤めきの時事新報社から帰ってくると、自分の家の前に人力車がまっていたので、「あ、滝田が来てるな、」と早合点はやがてんした。ところが、それは、滝田ではなかったが、おなじ「中央公論」の編輯者の高野敬録であった。
[やぶちゃん注:因みに伝説の名編集長滝田樗陰(明治十五(一八八二)年~大正十四(一九二五)年)は、この話柄の時制にあっては前年に鬼籍に入っていた。編集長を継いだのが文中に現れる高野敬録である。
菊池寛の逸話については、菊池自身が『文藝春秋』に連載した「半自叙伝」の中で、次のように記している(昭和四年十二月連載分より。引用は『honya.co.jp「菊池寛アーカイブ」編集部』によるテクストをコピー・ペーストした)
「大島が出来る話」と一緒に「新時代」という雑誌に書いた「若杉裁判長」というのも好評だった。この頃の私は、新進作家として旭日昇天の形で、世の中に出て行った。私は、その頃、夏目漱石氏の家と、一町とはなれていない南榎町の陋巷に住んでいた。そこは、九円五十銭位の家賃で、男便所のない家であるから、どんな汚い家だか想像ができる。半間ぐらいの入口をはいった路地裏であった。あるとき、時事新報社から帰って来ると、その路地の入口に、自家用の人力車が止っていた。その頃の自家用人力車は現在の自家用自動車と匹敵していると思う。私は(ああ「中央公論」の滝田氏だな)と直覚した。その頃の滝田氏の文壇における勢威は、ローマ法王の半分ぐらいはあったと思う。ことに、その自家用の人力車は有名であった。私は、家へ入って見ると、滝田氏ではなかったが、滝田氏の命を受けた高野敬録氏であった。この頃、「中央公論」へ書くことは、中堅作家としての登録をすますようなものだったから、私はこのときの嬉しさを今でも忘れない。]
 ああ、「中央公論」――『檜舞台』、というような考えは、この頃、菊池ばかりでなく、芥川にも、誰にも、あったのである。そうして、それを誇張して云うと、その頃は、芥川ばかりでなく、大正の初め頃から中頃までに文壇に出た作家たちのうちの幾人かの作家のあたまなかには、いつとなく、『小説は「中央公論」、「中央公論」は小説』というような考えが、こびりついてしまっていたのであろうか。
 それはそれとして、そのような考えが、芥川に、(芥川のような人に、)甚だしかったらしいのである。それは次ぎのような事があるからである。
 どういうわけか、(故意こいか、偶然か、)芥川は大正五年の五月から十五年の一月までに、(つまり文学生活の大部分のあいだに、)「中央公論」とならび称せられていた「改造」には、作品を、八篇しか出していないのに、「中央公論」には、小説を、三十一篇も、発表している。(もっとも、これは、「中央公論」の方が、伝統がふるく、その頃の綜合雑誌の中で、文学にもっともちからを入れたので、島崎藤村や永井荷風などのようにその作品を殆んど「中央公論」にだけ出している人もあるから、芥川だけが「中央公論」を贔屓ひいきにしたという訳でもない、という事になる。閑話休題。)

 さて、食事がすんだ頃、時計を見ると、まだ八時半ぐらいであったから、私は、ふと、これから、鎌倉の坂井をたずねて、何年ぶりかで、(そうだ、もう七八年ぶりになる、)坂井に案内してもらって、横須賀に行って、「今夜こんやは横須賀にとまって、東京へは、明日あした、帰ろう、」と、思い立った。それは、その時から、七八年前に、私は、『おんな』の一件で、横須賀に行った事があり、その横須賀で、中学校の同窓で、海軍の士官になっていた友だちと、風変りな『遊び』をした事があって、その事をひとつの小説に仕組しくんだ事を思い出し、横須賀に行ったら、小説のたねになるようなものを思いつくかもしれない、と、考えついたからである。
 しかし、私は、もとより、そんな事は明かさないで、芥川に、唯、「まだ時間が早いから、これから、鎌倉の友だちを訊問して、……その男は海軍士官だから、その男に案内さして、今晩は、横須賀に、とまって、……」と云った。すると、芥川は、ニヤニヤ笑いながら、
「……横須賀は、『苦の世界』の思い出の地だね、」と、云った。
「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」
「ふん、……あ、自動車を呼ばせようか。」
「ああ、たのむよ。」
 やがて、自動車が来た。
 そこで、私は、芥川と東家の女中たちに送られて、玄関の前にまっている自動車に乗りこんだ。さて、私が、わかれの挨拶をしよう、と思って、ふと、窓ガラスの方を見ると、殆んどそのガラス一ぱいに、その窓ガラスに、鼻までつくように、すれすれに、近づけて、私の方を見ている、芥川の顔が、目にとまった。
 私は、思わず、口の中で、いや、声に出して、アッと、叫んだ。夜露でガラスが濡れていたせいか、私の目がうるんでいたのか、その芥川の顔が、ゆがんでいるように、泣いているように、見えたからである。
[やぶちゃん注:「君だって、横須賀は、思い出の地だろう、海軍士官までが……」は、上巻の「十四」で、宇野が体験したエピソード、
 さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様と同業の、小説家がいるよ、」と云った。
 「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。
 私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、歴れっきとした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。
 それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。
を語り出そうとしたものであるが、ここは偶然にも同じ宇野の「ふん、」を受けるかのように、芥川龍之介が「ふん、」で遮ったところ、絶妙の照応(これは宇野の作為ではあるまい)であることに気がつく。]

    
二十

 その翌年(つまり、昭和二年)の「中央公論」の一月号には、芥川の小説『玄鶴山房』は、その「一」というのが、四百字づめの原稿紙でいうと、一枚半ぐらいしか出なかった。私は、それを見て、大へん失望した。が、そういう私は、『軍港行進曲』という小説が予定の五分の一ぐらいしか書けなかったので、それを二月号に延ばしてもらったので、結局、芥川との約束(のようなもの)を破って、「中央公論」の一月号には、とうとう、小説が出せなかったのである。しかし、そんな事は棚に上げて、私は、その芥川の『玄鶴山房』の「一」の終りの、

 彼等は二人とも笑ひながら、気軽きがるにこの家の前を通つて行つた。そのあとには唯て切つた道に彼等のどちらかが捨てて行つた「ゴルデン・バット」の吸ひ殻が一ぽん、かすかに青い一すぢの煙を細ぼそと立てでゐるはかりだつた。……

という一節を読みおわって、「あいかわらず気どったものだなあ、」と、思った。しかし、これからどういう事を書くのかわからないが、この十ぎょうか二十行ぐらいの文章で、玄鶴という人間とその玄鶴の妙な家を、その一端を、巧みに現しているのを読んで、私は、「やっぱりうまいところがあるなあ、」と、感心した。感心しながら、「これだけしか書けなかったのは、まだからだがよくないのであろうか、」と、私は、かげながら、心配した。
 ここで、又、芥川の書翰をしらべてみると、大正十五年の十二月のところで、十六日に「中央公論」編輯者の高野敬録[高野はたしか編集長であった]に宛てた手紙の中に、「昨夜は二時すぎまでやつてゐたれど、薄バガの如くなりて書けず、少々われながらなさけなく相成り候次第、何とも申訣無之これなく候へども二月号におまはし下さるまじくや。これにてはとても駄目なり。二月号ならばこれよりやすまずに仕事をつづく可く候。斎藤さんにも相すまざる事になり、不快甚しく候」と書いてある。この手紙は、いうまでもなく、『玄鶴山房』が少ししか出来なかった詫びとわけである。
 それから、この手紙の中に「斎藤さんにも相すまざる事になり、」とあるのは、芥川が、眠れなかったり、痔の痛みに堪えられなくなったり、する時に必要な薬を、しばしば、斎藤茂吉から、都合をしてもらいながら、仕事がはかどらない事が、茂吉にすまない、という程の意味であろう。それは、芥川が、十二日に、鵠沼から、茂吉に出した、つぎのような手紙をよんでも、ほぼ察しられる。

 冠省、まことに恐れ入り候へども、鴉片丸あへんぐわん乏しくなり心細く候間、もう二週間分はど田端四三五小生宛お送り下さるまじく候や。右願上げ候。中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候。一昨日は浣腸して便をとりたる為、痔痛みてたまらず、眠り薬を三包みつつみのみたれど、眠る事も出来かね、うんうん云ひて天明に及び候 以上

 私は、この手紙を読んで、驚歎した、――まず、『鴉片丸』などというものが初耳だったからだ、(鴉片は阿片であり、阿片は毒薬でもある、)その『鴉片丸』を、なんと、「もう二週間分ほど」送ってほしい、と書いてあるからである、眠り薬を三包ものんで、眠られず、うなりつづけているうちに夜がけた、と書いてあるからである、――これらの物事は、みな、異常以上の異常であるからである。
 私のような不眠症などに殆んどまったくかかった事のない者には、これだけの事を、手紙で読んでも、(あるいは、聞かされても、)これは大変な事だ、こんな事になったらたまらないなあ、と、思われた、このような恐ろしい病気にかかったら、結果から云うのではないが、いっそ死んだほうがましだ、という気もちにもなるであろう、と、この時分の芥川を幾らか知っている私には、なんとも痛ましくてたまらない思いがするのである。
 ところで、この手紙は、よく読めば、(念を入れて読むと、)ここに述べたように、普通の人が思いも寄らないような、むごたらしい、異常な、事が書かれてあるのに、あまりに、スラスラと流暢に、書いてあるので、うっかり読み流すと、その実感が殆んど浮かんでこないのである。それは、いまの人が、(いや、私なども、)使わない、書けない、スラスラした、『候文そうろうぶん』で書かれているうえに、例えば、「アヘンガン、トボシクナリ、ココロボソク、」とか、「ネムリグスリヲ、ミツツミ、ノミタレド、ネムルコトモ、デキカネ、」とか、「ウンウンイイテ、テンメイニ、オヨビソロ、」とか、いうように、口調のよい名文章で、書かれてあるからである。
 それで、この手紙には、前に述べたような、文章だけを、無心に、読み流すと、堪えがたいくるしさに悩んでいる難病人が書いたとは、どうしても、思われないような、余裕がある、余裕どころか、洒落のようなものさえ感じられる。例えば、初めの方の「鴉片丸乏しく心細く候」などというところは、不断ふだんの芥川を知っている私などには、いかにも芥川が使いそうな文句である、と思って、微笑ほほえましい気もちさえする。しかし、やはり、しじゅう、催眠剤を用いている、人一倍神経質で気むつかし屋の、斎藤茂吉は、その日の虫の居所いどころがわるい時は、こういう文句を読めば、腹を立てるかもしれない。
 ところで、この手紙の中に「中央公論のは大体片づき、あと少々残り居り候、」とあるのは、これが『玄鶴山房』であれば、噓であるが、これは、手にはいりにくい薬で世話になっている上に、ときどき診察もしてもらう、脳病院長、医学博士、斎藤茂吉の気を安めるための、芥川の心づくしであろう。(晩年の芥川は、⦅死を決していたからでもあったか、⦆二一十五六歳の若さでありながら、いろいろな人に、こまかく心をくばり、いたく深切にした。――この事についてはのちに述べるつもりである。)[やぶちゃん注:「鴉片丸」の「鴉片」は勿論、麻薬として知られる阿片あへん、オピウムのことであるが、これについての宇野の反応はやや過剰で、阿片は医薬品として(現在もアヘン末等で医師の処方によって流通している)重度の下痢症状や疼痛の改善薬としてあり、強い鎮痛鎮咳効果を持っている。]

 大正十五年は芥川が自ら命を絶った前のとしである。
 大正十五年は、芥川は、一月の初めから、胃腸をわるくし、痔疾もひどくなり、神経衰弱もはげしくなる一方であった。それで、前にちょっと書いたように、芥川は、一月の中頃から二月の中頃を、湯河原に、湯治に、出かけた。それから、四月から十二月の末項まで、鵠沼で、暮らした。
 この鵠沼にいた頃が芥川のみじかい生涯のなかでもっとも陰惨な時代であった。
 大正十五年は、芥川は、殆んど小説らしい小説を、書いていない、不断に堪えがたい病苦にさいなまれていたからである。それは、平凡な云いかたであるが、死んだ方がよほどらくではないか、と思われる程の、痛ましい病苦である。それは、その時分の芥川の手紙を見れば、およそ想像がつくから、その時分の芥川の書翰を拾い読みしてみよう。

……近頃目のさめかかる時いろいろの友だち皆顔ばかり大きくからだは豆ほどにて鎧を着たるもの大抵は笑ひながら四方八方より両眼の間へ駈けきたるに少々悸え居り候。[大正十五年六月十一日斎藤茂吉宛て]

……僕はここへ来る匇匇下痢し、二三日立つて又立てつづけに下痢し、[中略]唯今弟[註―これは、芥川夫人の弟、塚本八洲であるから義弟である]についてゐる看護婦について貰らひ、やつとパンや半熟の卵にありついた次第、[中略]一人で茫漠の海景を見ながら横につてゐるのは実に寂しい。[大正十五年六月二十日小穴隆一宛て]

……痔の手術をするにはもつと営養がよくならねば駄目のよし。[中略]兎に角唯今はひよろひよろしてゐます。[中略]何しろ僕は七月になると云ふのに足袋をはき足のうらにカラシをり、脚湯まで使つてゐるのだから。[大正十五年六月三十日小島政二郎宛て]

……唯今也寸志鵠沼にて寝冷ねびえ発熱ちゆう、田端にては多加志腹をこはし臥床中丈夫なのは比呂志ばかり僕もこの間催眠薬をのみすぎ夜中よなかに五十分もひとごとを云ひつづけたよし。[大正十五年九月二日室生犀星宛て]

……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやり切れない気がする。ちよつと上京した次手ついでに精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。[大正十五年十月二十九日佐佐木茂索宛て]

……今はどんな苦痛でも神経的苦痛ほどくるしいものはひとつもあるまいと云ふ気もちだ。数日前に伯母が来てヒステリイをおこした時に君に教へられたのはここだと思つて負けずにヒステリイを起したが、やはり結局は鬱屈してしまつた。我等人間は一つの事位ではまゐるものではない。しかし過去無数の事が一時に心の上へのしかかる時は(それが神経衰弱だと云へばそれまでだが)実にやり切れない気のするものだよ。[大正十五年十一月二十八日佐佐木茂索宛て]

……オピアムありがたく頂戴仕り候。胃腸は略々ほぼと旧に復し候へども神経は中々なかなかさうは参らず先夜も往来にて死にし母に出合ひ、(実は他人に候ひしも)びつくりしてつれの腕を捉へなど致し候。「無用のもの入るべからず」などと申す標札を見るといまだに行手ゆくてを塞がれしやうな気のすることすくなからず、世にかかる苦しみ有之これあるべきやなど思ひをり候。[大正十五年十一月二十八日斎藤茂吉宛て]

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの注記が、書簡文から改行されて、下インデントになっている。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。
「精神鑑定」この用法は誤りである。「精神科で診察」若しくは「斎藤先生に診察」と記すべきである。こうした誤用は現在でもしばしば見られるのでここで注記しておくが、精神科で診断を受けることを「精神鑑定」とは絶対に言わない。「精神鑑定」とは「司法精神鑑定」のことであり、刑法及び刑事訴訟法の規定による「刑事精神鑑定」と、民法及び民事訴訟法の規定による「民事精神鑑定」、更に精神保健福祉法の規定による「精神保健鑑定」の三種のみを「精神鑑定」と呼称する。因みに精神保健鑑定とは措置入院(自傷乃至他害の恐れのある精神障碍を有すると判断される者を強制入院させること)の可否を判定するために実施される精神鑑定を言う。ゆめゆめ芥川のように日常会話には用いられぬように。
「オピアム」“opium”。オピウムで前段で出て来た「鴉片丸」、アヘン製剤のこと。因みに、「アヘン」とはこの“opium”の中文音訳“a piàn”(アーピエン)の漢訳「阿片」を日本語読みしたもの。]

 ざっと、こういう状態であったから、芥川は、このとし、(つまり、大正十五年、)『これ』というような小説を書いていない、しかも、それは、たいてい、小説、というより、小品であるりそうして、それらの小品は、幻覚的なものでも、現実的なものでも、殆んど皆、気味のわるいものであり、病人や『死』をとりあつかつた物が多い。必要があるので、大正十五年に芥川が書いた小説(あるいは小品)を、私の目にふれ私が読んだものを、つぎにならべてみる。
  『カルメン』  (四月  十日作)
  『三つのなぜ』 (七月 十五日作)
  『春の夜』   (八月 十二日作)
  『点鬼簿』   (九月  九日作)
  『悠々荘』   (十月二十六日作)
  『彼』     (十一月 三日作)
  『玄鶴山房』  (十二月十五日以後作)
 数は七篇であるが、四百字づめの原稿紙でかぞえると、『カルメン』は六七枚であり、『三つのなぜ』は十枚ぐらいであり、『春の夜』は七八杖であり、『点鬼簿』は十三四枚であり、『悠々荘』は五六枚であり、『彼』は十七八枚であり、『玄鶴山房』の㈠は一枚半ほどであるから、全体で六十二三枚である。
 さて、右の七篇の小説の中では、一般に、(いや、たいていの評論家も、)『点鬼簿』と『玄鶴山房』を重要な物として取り上げるが、(それは尤もであるけれど、)私は、芥川が鵠沼で書いた作品の中で、『春の夜』と『悠々荘』とを見のがしてはならぬ、と思っている。
 ここで、又、ちょいと寄りみちをするが、私は、芥川から、何度か、手紙や葉書をもらった覚えがあるが、その中の一つも保存していない。ところが、初版の芥川龍之介全集の第七巻(書翰篇)のなかに、芥川が私にくれたのが四つ出ているが、その中の「昭和二年一月三十日」というのに、つぎのようなのがある。

 ……まつたく寒くてやり切れない。お褒めにあづかつて難有ありがたい。あの話は「春の夜」と一しょに或看護婦に聞いた話だ。まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙のために弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さん[註―前に書いた「中央公論」の編輯長]がやめたのは気の毒だね。.余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。

(この手紙に書かれている事はのちに述べる事に必要があるので、全部うつしたのである。)
 さて、この手紙の中の「あの話」とは『玄鶴山房』らしいか、これを褒めたとすると、半分ぐらい世辞である。その事は例によって後に書くことにして、私は、こんど、この手紙をよんで、芥川が、『春の夜』も、『玄鶴山房』も、「或る看護婦」から聞いた話をもとにして書いた、という事を知って、私は、やはり、得るところがあった。
(この看護婦は、さきに引いた、大正十五年六月二十日に、芥川が、鵠沼から、小穴に出した手紙の中に、「今弟についてゐる看護婦について貰らひ、……」と書いている、あの看護婦であろう。)
 Nさんという看護婦が派出させられた家は、女隠居が一人と、その子の、雪さんという姉と清太郎という弟と、三人きりの家であったが、姉も弟も肺結核でへ弟の方が病気がおもい。そうして、その弟は、木賊とくさばかりが繁茂している庭に面した、四じょう半の離れに、寝ていた。さて、ある晩、Nさんは、、氷を買いに行った帰りに、人どおりのすくない坂道で、うしろから、清太郎そっくりの青年に、きつかれた。しかし、一昨日おとといも喀血した清太郎がこんな所に出てくる筈はない、……うちに帰ったら、清太郎は死んでいるのではないか、とまで、Nさんは、思った。ところが、帰って、離れに行つて見ると、清太郎は静かにひとり眠っていた。
 これは『春の夜』の大へん粗雑な荒筋であるが、この小説に書かれてある話は、あまりに暗く、不気味であり、書き方が冷たい。作者は、どの人物にも、同情を持っていないばかりでなく、悪意を抱いているようにさえ思われる。これは言い過ぎとしても、作者の気もちが暗い方へ暗い方へと向いているのが、この小説を、大正十五年の九月号の「文藝春秋」で、読んだ時、私は、気になって、『これはいかん、』と思ったものである。

……Nさんはこのうちへ行つた時、なにか妙に気の滅入めいるのを感じた。それはひとつには姉も弟も肺結核にかかつてゐたためであらう。けれども又ひとつには四でふ半の離れの抱へこんだ、飛び石一つ打つてない庭に木賊とくさばかり茂つてゐたためである。

 この『春の夜』の初めの方の一節を読んだ時、私は、かたない気がした。ところが、おなじ小説の終りの方の、

 僕はこの話の終つた時、Nさんの顔を眺めたまま多少悪意のある言葉を出した。
「清太郎?――ですね。あなたはその人がきだつたんでせう?」
「ええ、好きでございました。」

というところを読んで、私は、索然とした、はぐらかされたような気がした。しかし」又、私の考えでは」芥川は、芥川流の小説のくくりをつけるために、こういう一節を、最後に、つける癖(というより、好みのようなもの)があった。つまり、こういう『オチ』をつけるのがきなようなところがあり、こういう『オチ』をつけねは気がすまないようなところもあった。
『オチ』といえば、この小説と、巧拙は別として、構想がいくらか似ている、殆んど同じおもむきの『玄鶴山房』にも、話はまったく違うけれど、やはり、妙な、気になる、『オチ』は附いている。つぎのような一節である。

……彼は急にけはしい顔をし、いつかさしはじめた日の光の中にもう一度リイプクネヒトを読みはじめた。

 この最後の大学生がリイプクネヒト(K. Liebknecht)の『追憶録』を読むところが、その頃「新潮」の呼び物になっていた『創作合評会』で、(青野季吉のほかにどういう人たちが出ていたか、私には不明、)問題になって、なにもリイプクネヒトでなくても、原敬でも、東郷大将でも、あるいは、「苦楽」[註―大正十二年頃、大阪のプラトン社から出した娯楽雑誌で、主幹は山内 薫であるが、編輯は直木三十五が川口松太郎を助手にしてやった]でも、よいのだ、などという意見が出た。
 この合評の記事を読んで、芥川は、青野季吉に宛てて、次ぎのような手紙を、書いている。
(これは芥川が青野に唯一度だした手紙である。)

……「新潮」の合評会の記事を読み、ちよつとこの手紙を書く気になりました。それは篇中のリイプクネヒトのことです。或人はあのリイプクネヒトは「苦楽」でも善いと言ひました。しかし「苦楽」ではわたしにはいけません。わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外や世界へ触れさせたい気もちを持つてゐました。[中略]なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました。チエホフは御承知の通り。「桜の園」の中に新時代の大学生を点出し、それを二階から転げ落ちることにしてゐます。わたしはチエホフほど新時代にあきらめ切つた笑声を与へることは出来ません。しかし又新時代と抱き合ふほどの情熱も持つてゐません。リイプクネヒトは御承知の通り、あの「追憶録」の中にあるマルクスやエンゲルスと会つた時の記事の中に多少の嘆声を洩らしてゐます。わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです。わたしの企図は失敗だつたかもしれません。少くとも合評会の諸君には尊台をのぞき、何の暗示も与へなかつたやうです。それは勿論やむを得ません。しかし唯尊台にはこれだけのことを申上げたい気を生じましたから、この手紙をしたためることにしました。

 この手紙には芥川の八ぐらいの本音ほんねが出ている。
 さて、この芥川の手紙を読んで、青野は、手紙の返事は出さないで、『芥川龍之介と新時代』という評論を書いている。つぎに、それを抜き書きする。

……『玄鶴山房』の中にとぢ込められた悲劇の終りに、広い世間、それも動的な社会のかぜをちよつと迎ひ入れて、そこで悲劇の小説的浮彫うきぼりを完成させる上にも、また――これが大切な点であるが、――芥川氏に潜んだ要求を適当な形で満足させる上にも、――やはりリイプクネヒトでなくてはいけないのだ。『玄鶴山房』を読んだ時、最初にまづ私に感ぜられたのはこの点であつた。[中略]芥川氏は新時代の存在乃至到来を、何等なんらかの形で『玄鶴山房』で、暗示しないではをれなかつた。それはまた芥川氏が彼の生活の世界のそばに新時代の世界の存在乃至到来を認めないではをれなかつたことを意味する。[中略]『玄鶴山房』に現れてゐるところでは、新時代の存在乃至到来を静かな眼で眺めでゐると云ふだけである。[中略]彼は、新時代を認めないではをれない。そして、その新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つてゐる。しかし、彼は彼の言葉をかりて言へば、『新時代と抱き合ふほどの情熱』を持つてゐないし、そんな情熱が彼のやうな生活の歴史を持つた者に持ち得るものではない。[下略]

 この青野の論は、これだけでもほぼわかるように、私が先きに引いた、『玄鶴山房』の最後の、大学生がリイプクネヒトの『追憶録』を読むところについて、自分の意見を述べたものである。が、これは、嘗て全プロレタリア文壇をひきいた論客であった青野が、自分の考えから付度そんたくした論文であるから、青野流の見方にかたむいている、それに、芥川に好意を持っているところもあるので、痛い所を突いていながら『贔屓ひいきの引き倒し』とまでけゆかないが、すこし見当のはずれているところもあるように思われる。それは、その頃の芥川が、「新時代を静かな眼で眺めてゐるだけの素直さと聡明さと準備を持つて」いたか、どうか、私には、それが、疑われるからである。
 それから、芥川の手紙の中の、「その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」とか、「わたしはわたしの大学生にもかう云ふリイプクネヒトの影を投げたかつたのです、」とか、云うのは、これまた、本当にそう思ったのであろうか、与れとも、雇いつき』であろうか、と、私は、くびをひねるのである。ここで、ハッキリ云うと、『玄鶴山房』をほぼかき終ったところで、芥川は、火葬場から帰りの馬車に乗っている大学生に、自分がちょっと愛読した、リイプクネヒトの『追憶録』を、読ましてみる気になったのである。ちょうど、幸い、リイプクネヒトは、哲学や言語学をまなんでいる、社会主義者であり、イギリスに逃れた時、マルクスにも、逢っている、そうだ、リイプクネヒトを使ってやろう、と思ったのであろう。(これはまったくシャレた趣向しゅこうだ、いかにも芥川らしい気のきいた趣向だ。)
 例の「新潮」が催した『芥川龍之介研究』(座談会)で、上司小剣が、湯河原で、芥川と逢った時のことを回想して、「社会主義の話、無政府主義の話などが出て、ちよつとがらにないやうな気がした、」と述べたあとで、「無政府主義なども可なり深いところまで考へてをられたやうで、おどろいた。ところが、後に、年表を見ると、大学の卒業論文が『ウィリアム・モリス研究』とあるので、成程なるほどと思つた。それなら、例の『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)まで読んで、アナアキズムの理想社会をとほり見られた筈だと思ふ、」と、述べている。
[やぶちゃん注:「『ニュウズ・フロム・ノオウェア』(“News from Nowhere”)」は、モリスが一八九〇年に刊行した社会主義化した未来のロンドンを舞台とする一種のファンタジー小説。「ユートピアだより」と邦訳される。]
 私は、一この記事を読んだ時、妙な興味を感じた。湯河原に滞在していた芥川が、おな土地の宿屋に小剣がとまっている事を聞くと、芥川流の好奇心をおこして、(ほんのすこしからかってみたい気もおこって、)未知の小剣を訪問したにちがいない、と思われるからである。学生時代に、モリスなどを読んだ芥川は、英訳のあった、リイプクネヒト、カウツキイ、あるいは、マルクス[これは、明治の末に、堺 枯川がマルクスとその思想を平明に解いたものがあって、私なども読んだことがある]、その他の本を、興味と好奇心とで、読んだにちがいない。これは、おそらく、芥川ばかりでなく、私たちの二十歳の初め頃はいわゆる社会主義思想の澎湃として起こっていた時分であったから、誰も彼も、若気の至りで、それらの本を、生嚙なまかじりでも、読んだものである。
[やぶちゃん注:「堺 枯川」は社会主義者思想家堺利彦の号。]
(わたくし事であるが、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』は、くちに云うと、十八世紀のイギリスの詩人、ウィリアム・モリスが、社会主義の理想郷を書いた、散文の夢物語である。そうして、これは、著者の友人の話となっているが、一人称で語られているので、平明に書かれていて、なかなか面白い。それで、私は、そのころ親友であった、布施延雄ふせのぶおに、この本を翻訳することをすすめた。すると、布施は、何箇月なんかげつ分か下宿代がたまっているから、「それをしたら、それが払える、」と云って、さっそく、⦅といって、まる三箇月くらいかかって、⦆その『ニュウズ・フロム・ノオウェア』の翻訳を仕上げた。
[やぶちゃん注:この布施延雄の訳本は「無何有郷だより」という題で、大正十四(一九二五)年十一月十八日至上社より刊行されている。]
 さて、その翻訳をえて、いそいそと私をたずねて来た布施は、いきなり、「こんどの翻訳で一ばん困ったのは、題名だよ、」と云って、つぎのような話をした。
 Nowhere ノオウェア Utopia ユウトピアという意味であり、『ユウトピア』は、トマス・モアの小説『ユウトピア』[千五百十六年出版]から出た言葉であり、モアは、この小説で、ユウトピア島を仮想して、自分の理想とする共産主義の制度がこの島でおこなわれていることを書いているのであるから、「僕は、『ノオウェア』を『理想郷』としよう、と思ったのだが、これでは、ありふれているので、叔父のせき[関 如来という明治から大正へかけての古い美術評論家であるが、ずっと前から前進座の後援などもしている、音楽家の、関 鑑子の父である]のところへ行って、Nowhere をそのまま直訳して、『どこにも、……ない』理想というか、夢想というか、……まあ、そういう所ですが、なんとか、うまい言葉がないでしょうか、と云うと、関は、腕をくんで、ちょっとくびをひねっていたが、やがて、『荘子』の応帝王篇に、「遊無何有之郷以処壙埌之野」というのがある。『無何有むかう』とは「何物も有ることなし」という意味だが、全体の文句は、「自然のままで、何の作為もない楽地」とか、「無為優游の地」とか、いう意味じゃ。……どうだ、『無何有郷』というのは、と云った。それで、やっと、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』を、『無何有郷だより』としたんだ、どうだ、うまいだろう。」)
[やぶちゃん注:「関 鑑子」(明治三十二(一八九九)年~昭和四十八(一九七三)年)は「せきあきこ」と読む。昭和十九(一九四八)年に結成された左翼系合唱団、中央合唱団の創立者。因みに、私の父はこの合唱団の団員であった。
「遊無何有之郷以処壙埌之野」底本では「無何有の郷に遊びて以て壙埌の野に処す」と訓ずるための返り点(一二点)が配されている。以上の訓読は「無何有むかうさとに遊びて、以て壙埌こうろうる」と訓ずる。以下に「荘子」の「応帝王篇」の三章総てを示す。
天根游於殷陽、至蓼水之上、適遭無名人而問焉、曰、「請問爲天下。」。無名人曰、「去。汝鄙人也、何問之不豫也。予方將與造物者爲人、厭則又乘夫莽眇之鳥、以出六極之外、而游無何有之鄉、以處壙埌之野。汝又何暇以治天下感予之心爲。」又複問、無名人曰。「汝游心於淡、合氣於漠、順物自然而無容私焉、而天下治矣。」。
〇やぶちゃんの書き下し文
 天根、殷陽に遊び、蓼水れうすいほとりに至りて、適々たまたま無名人に遭ひてれに問ひて曰く、「請ひ問ふ、天下ををさむることを。」と。無名人曰く、「去れ、汝、いやしき人よ。何ぞ問ふことの不豫ふよなる。われ方-將まさに造物者とにんらんとす。かば則ち又、莽眇まうべうの鳥に乘りて、以て六極の外へ出で、而して無何有むかゆうの鄉に游び、以て壙埌くわうらうの野にる。汝、又、何のいとまありてか天下を治むることを以て、予の心をうごかさんとるや。」と。又、かさねて問ふ。無名人曰く、「汝、心を淡に游ばせ、氣を漠に合はせ、物の自然に順はせてわたくしを容るること無くんば、すなはち天下、治まる。」と。
〇やぶちゃん現代語訳
 天根なる者、殷陽の地に遊び、蓼水りょうすいのほとりへと至った時、無名人と出逢った。天根は、すかさず彼に問いかけた、
「どうか、天下を治めるすべをお教え下されい!」
と。無名人は答えて言った、
「去れ! 汚らわしき俗人よ。不快な問をしよって! 儂は今、造物主を友として遊んでおる。それに飽いたら、あの莽眇もうびょうの鳥――遙かなる鳥と名指す鳥――の背に乗り、この天地の外へと飛び出し、そうしてその無可有むかゆうの地――何処でもないところと名指す地――に遊び、壙埌こうろうの野――果てしなく広がる曠野あらのと名指す野――におろうと思うておるに。なのに、お前はまた、何に言うにことかいて、天下を治めるなんどという下らぬことで、この儂の静かな心を乱そうとするか!」
と。しかし尚も天根は最初の問いを繰り返した。されば、無名人は答えた、
「一切を捨てて心を恬淡無欲無知無心の境地に遊ばせ、生命の気を空漠虚空静寂無限に共時させ、万物流転無為自然の理に従って一切の己れを差し挟むことが無とならば――自ずと天下は治まる――。」
と。
「無為優游」「優游」はゆったりしていること、伸び伸びとしてこせつかないことの意。一切の人為を排して悠然と遊ぶこと。]
(『無何有』といえば、『万葉集』にも、「心をし無何有のさとに置きたらば藐姑射はこやの山を見まく近けむ」というのがある。これを見れば、万葉集の時代に、すでに、『無何有のさと』――つまり、『無何有郷』――という言葉があったのである。)
[やぶちゃん注:この歌は「万葉集」巻十六に詠み人知らずで載る三八五一番歌で、一般には、
 心をし無何有むかうさとに置きてあらば藐姑射はこやの山を見まく近けむ
の表記。その意は、
 この心を、正しく何の作為もない無何有の境地においておくことが出来たなら――仙人の住むという姑射山こやさんとてもすぐにでも見られることであろう――
といった感じか。「藐姑射の山」はやはり「荘子」の「逍遙遊篇」の三章に現れる仙山。但し、これは本来は「とほき姑射の山」の謂いであるから、訳では「姑射山」とした。]
 つまり、私のような者でも、一方では、ボオドレエル、ヴェルレエヌ、ランボオ、その他のいわゆる頽廃派の詩人たちの詩を読みながら、他方では、いま述べたように、ウィリアム・モリスの小説(さきに書いた、『ニュウズ・フロム・ノオウェア』のほかに、これも、社会主義の宣伝のために書いたような『ジョン・ボオルの夢』という小説など)や、クロボトキンの、『ロシア文学の理想と現実』[これは伊東整の名訳がある]は、もとより『一革命家の思い出』、その他や、芥川が読んだと云うリイプクネヒトの、『追憶録』と、『新世界への洞察』や、それに類する本を、無方針に、手当り次第に、読んだ。まったく『手当てあたり次第』であって、凡そ『好学心』などというものではなかった。
[やぶちゃん注:「ジョン・ボオルの夢」“A Dream of John Ball”(ジョン・ボールの夢)は、モリスがワット・タイラーの乱を題材にした一八八八年刊行の小説。]
 つまり、私のような語学のできない者でもそうであるから、語学の方でも秀才であった芥川は、おなじ『手当り次第』でも、このはかに、レエニン、トロツキイ、カウツキイ、その他のものをも読んでいたにちがいないのである。私が、或る時、このような話が出た時、「きみ、カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』はおもしろいね、」と云うと、芥川は、言下に、「カウツキイが息子と共著で出した、マルクスの『資本論』の英訳があるが、ごれは、通俗に書いてあるから、僕らにもわかりいいよ、」と云いはなった。(余話であるが、私は、その時分よりずっと後に、いま名を上げた人の中では、レエニンの『トルストイ論』とトロツキイの『文学と革命』を読んで、拾い物をしたような喜びを感じた。)
[やぶちゃん注:「カウツキイの『トマス・モオアと彼のユウトピア』」マルクス主義の政治理論家カウツキーの“Thomas More and his Utopia”は一八八八年の刊行。]
 私は、今、ふと、思い浮かべた、芥川が読んだと云う、ウィリアム・モリスの『ニュウズ・フロム・ノオウェア』も、『ジョン・ボオルの夢』も、両方とも、社会主義の宣伝のために書かれたものであるが、形式は美しい物語であり、殊に『ジョン・ボウルの夢』などは、ところどころ、詩がはさまれている、これは、もとより、モリスが根が詩人であるからであろうが、私などは、まず、モリスの『詩』に心を引かれたのであろう、と。
 ところで、卒業論文に、『ウィリアム・モリス研究』を書いた芥川は、(芥川も、)「詩人としてのモリスからやり出し、それから、社会改良家としてのモリスに及び、全体のモリスの研究をやるつもりだったが、だんだん時間がなくなってしまって、……」と久米が述べているから、芥川の『ウィリアム・モリス研究』はおそらく詩人としてのモリスだけを論じたものであろう。
[やぶちゃん注:芥川龍之介の卒業論文『ウィリアム・モリス研究』は、関東大震災で焼失し、残念ながら我々はそれを読むことが出来ない。]
 ところで、芥川が、もっとも興味を持ったらしいモリスは、すぐれた詩人であり、たくみな美術工芸家であり、ラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、『玄鶴山房』の終りに使ったリイプクネヒトは、社会主義者であり、ジャアナリストであり、その著書を読んだカウツキイは社会主義者であり、トロツキイは、革命運動家であり、時事評論家であり、文芸批評家であるが、この人たちは、くちに云うと、一種の浪曼主義者のようなものである。
 さきに述べた「新潮」主催の座談会『芥川龍之介研究』で、上司小剣が、芥川を「モリスとどこか似てゐやしないかといふやうな気がする、」と云ったり、「モリスはアナアキズムの詩人だから、」と云ったり、しているのは、上司かみつかさ流(あるいは、上司ごのみ)の見方みかたであるJそれは、上司が、若い時分にアナアキズムに興味をひかれた事があり、いくらかアナアキスティックな思想を含んだ作品を書いたことがあるからであろう。しかし、上司は、そういう思想に興味を持った事はあっても、決してそういう思想に深入りできない性質を持っていた。(それは、上司と殆んど同時代の、白柳秀湖に似ている。)
[やぶちゃん注:「白柳秀湖」上巻の「八」で既出であるが、ここで注しておくと、白柳秀湖(しらやなぎしゅうこ 明治十七(一八八四)年~昭和二十五(一九五〇)年)は小説家・社会評論家・歴史家。早稲田大学哲学科在学中から堺利彦の影響を受け、社会主義活動を支援、明治四十(一九〇七)年に隆文館編集記者となり、山手線に勤務する青年を主人公とした小説「駅夫日記」を発表、初期社会主義文学を代表する作品として知られる。明治四十三(一九一〇)年の大逆事件以後は社会主義思想や文学活動から離れ、社会評論や歴史研究に従事した(以上はウィキの「白柳秀湖」に拠った)。]
 さて、湯河原の或る宿屋に、芥川が、二十はたちぐらいとしのちがう、作風も性質もちがう、未知の、上司小剣を、たずねたのは、例の、好奇心がはたらいたのか、からかうつもりであつたのか。仮りに芥川をと筋縄で行かない人物とすれは、上司も一と筋縄ぐらいでは行かない人物である。上司は、日本の社会運動家の元祖の一人である、堺 枯川につれられて、上京し、すぐ読売新聞社にはいり、その間に『平民新聞』などに寄稿しながら、作家生活をするまでに、二十三四年も、おなじ新聞社につとめていた人である、上司は、芥川より十年も前に可なり評判になった処女作(『神主』)を発表しながら、芥川が作家生活をはじめた一年後に作家生活にはいった。芥川を仮りに浪曼主義者であり詩人であったとすれば、上司はまったくその反対の人であった。芥川が、初めからしまいまで、け足で、花やかな作家生活をしたとすると、上司は、はじめからしまいまで、牛のあゆみのごとく、のろのろと、地味な作家生活をつづけた。
 こういう芥川が、突然、湯河原の或る宿屋に、こういう上司を、たずねて、社会主義の話や無政府主義の話などをしてから、カウツキイの話をした。ところが、その時の記録によると、上司は、「その時、独逸どいつのカウツキイの話が出たのを、うつかり、僕は大英百科全書に社会主義の説明をしてゐたカアカツプとまちがへて、とんちんかんな返事をして、あとで恥づかしく思つたことがある、」と述べている。そこで、芥川は、この先輩の作家を『くみやすし』と思ったのであろうか、学生時代にいくらか研究もし調しらべたこともある、ウィリアム・モリスについて、おおいに気焔をはいたらしい、きの話のあとで、「文芸と工芸との結合七いふやうなモリスの主張も、その時の話題にのぼつた、」と上司が述べているからでもある。
[やぶちゃん注:「カアカツプ」“An Inquiry into Socialism”等を書いたThomas Kirkup(一八四四年~一九一二年)であろう。]
 ウィリアム・モリスは、多芸多才の人であるから、前に述べたよう町、すぐれた詩人でありながら、たくみな物語や小説も書き、その上、モリスは「美術工芸家としてもおどろくべき腕を持っていた。それで、モリスは、美術的な家具の製作や装飾意匠に努力をした、つまり、ステインド・グラス、壁画、壁掛け、絨毯、それから、刺繡、つづおりのような物まで造った。それから、モリスは、公共用の建築の装飾の研究などして、イギリス全土にわたる建築の美化運動までくわだてた。つまり、くちに云うと、モリスは、自分の生活を美化すると共に、『美』を民衆の手のとどく所に置こうとしたのである。それから、モリスは、又、美術的な活字の母型や装飾縁模様などを意匠して、五十三巻の豪華版抄本を印刷した。そうして、最後に出したチョオサアの『カンタベリ物語』は豪華版ちゅうの豪華版と称されている。――つまり、湯河原の或る宿屋で芥川と上司の話題にのぼった、モリスの「文芸と工芸の結合」とは、こういう事を話し合ったのであろう。
 しかし、もしこういう話であれば、これは、芥川が、いきおい(つまり、他に勝とうと競う気力)に乗ってしゃべった、その場かぎりの話である。その勢いに乗った話がもとになって、この時の座談会では、芥川は、社会主義や無政府主義に関心を持っていて、時にはアナアキスティックな気持ちで物を書いている、とか、「思想として、ちょっとニヒリスティックな、アナアキスティックだつた、」などと、云われている。が、私は、芥川の小説にそういうものを感じさせる物が幾つかあるとしても、芥川は、ひとつの作品をつくるために、『そういうもの』を「道具」として使っていたのである、と思うのである。
 芥川が、学生時代にモリスに心を引かれたのは、社会運動家(あるいは社会運動指導者)としてのモリスではなく、詩人(あるいは芸術家)としてのモリスである。これはさすがに賢明である、なぜなら、ウィリアム・モリスは、まず第一にラファエル前派の代表的な芸術家の一人であり、つぎに美術工芸家であり、それから、社会運動家であるからである。(余話であるが、芥川より五六歳も年上としうえであるが、事情があって、芥川が大学を卒業した頃まだ大学に籍のあった、芥川の親友であった、江口 渙は、大学に出す論文を書くために、それまで愛読していた、オスカア・ワイルドの諸作品を一所懸命に読みかえしていた。芥川が処女作[つまり、『鼻』大正五年発表]を発表したとしから四五年も前から、「新小説」、その他に発表していた江口の小説は、その作風にちょうど合うような、いわゆる美文調の文章で書かれてあうた。)聞くところに依ると、芥川が大学に出した、『人及び芸術家としてのウィリアム・モリス』も、『詩人としてのウィリアム・モリス』も、研究というよりは、(むろん研究であるが、むしろ、)美文調で書いた伝記ふうの文章であったそうである。
 前にもちょっと書いたように、芥川は、散文的なところもありながら、根は詩人であった。そうして、それに故事こじつけて云うと、佐藤春夫は、詩人的なところがありながら、根は散文的なところもある人である。そうして、文人らしいところは、かたちはちがうが、佐藤と芥川とは共通している。(『文人』とは「詩歌書画などの道に心を寄せる人」という程の意味である。)美文を好み美文を巧みにつくれるところも、やはり、形や気もちはちがうが、芥川と佐藤は似たところがある。

 冬とは云ひながら、物静ものしづかに晴れた日で、しらけた河原かはらの石のあひだ潺湲せんくわんたる水のほとり立枯たちかれてゐるよもぎの葉を、ゆする程の風もない。川にのぞんだの低い柳は、葉のない枝に飴の如くなめらかな日の光りをうけて、こずゑにゐる鶺鴒せきれいの尾を動かすのさへ、あざやかにそれと、影を街道におとしてゐる。
[やぶちゃん注:「潺湲」は現代仮名遣で「せんかん」で、水がさらさらと流れるさまを言う。「せんえん」とも読む。]

 これは『芋粥』の初めの方の一節であるが、元慶がんきょうの末か、仁和にんなの始めか、(そんな事はどうでもよい、と作者も書いている、)の一月の五六日頃の朝、藤原利仁としひとと五位が、京都を立ちでて、加茂川の河原にそうて、粟田口の方へ行く街道の光景を書いてある――芥川の美文のひとつの見本みほんとして、うつして見たのである。
 これは、説明するまでもなく、唯きれいに書いてあるだけで、つまり、「修辞を巧みにし、美しく飾りたる」文章、というだけのものである。

 ……そのうちにふと男の耳は、薄暗い窓の櫺子れんじの中に、人のゐるらしいけはひを捉へた。男はほとんど何の気なしに、ちらりと窓を覗いて見た。
 窓の中には尼が一人ひとり、破れたむしろをまとひながら、病人らしい女を介抱してゐた。女は夕ぐれの薄明うすあかりにも、無気味なほど痩せ枯れてゐるらしかつた。

 これは、『六の宮の姫君』のおわりにちかいほうの一節である。
 私は、この小説を読む前に、『往生絵巻』を読んで、何ともいえぬ暗い気もちになった。そうして、この『六の宮の姫君』を読みおわった時は、「これはたすからない、」というような気がした。
「芥川が、……こんな小説を書いている、これはよくない、……」
『往生絵巻』は、ずっと前に述べたように、「国粋」という殆んど人の知らない雑誌に出た。『六の宮の姫君』も、やはり、「表現」という三流以下の雑誌に出た。私は、この二つの小説を、雑誌に出た時に、読んだのである。どんな雑誌に出た、(か、)というような事は、もとより、問題ではない。
 ところで、『往生絵巻』は、これもきに書いたように、芥川の作品としては、ざつなものであるから、雑誌を読んだ時は、それほど気にならなかった。しかし、『六の宮の姫君』は、やはり、(又か、と思うほど、)いわゆる王朝物ではあるけれど、例の「なにも、――なにも見えませぬ。くらい中に風ばかり、――冷たい風はかり吹いてまゐりまする、」というところは、何度よんでも、私には、気もちがわるい。
 ここで、ちょっと著作年表をひらいて見ると、『芋粥』は大正五年八月の作であり、『往生絵巻』は大正十年四月の作であり、『六の宮の姫君』は大正十年八月の作である。そうして、『芋粥』も、『往生絵巻』も、『六の官の姫君』も、ついでに云えば、『好色』[大正十年作]も、『藪の中』[大正十一年一月作]も、みな、おもに、『今昔物語』の中の話を素材にして作ったものである。
 そうして、芥川の、準処女作といわれている『羅生門』も、出世作となった『鼻』も、そのころ新進作家の初舞台といわれた「新小説」に出た『芋粥』も、みな、『今昔物語』の中の話を素材にしたものである。それから、芥川は、『鼻』と『芋粥』を書いたとしに、やはり、『今昔物語』から取った『運』と『道祖問答』を書いている。それから、その翌年[大正六年]、やはり平安朝[末期]を舞台にした『倫盗』[この小説は、作者が、失敗作と思って、単行本に入れなかった]という百二三十枚の小説を書いている。つまり、芥川は、大正四年の新秋から大正六年の初夏までの間に、いわゆる王朝物を六篇かいている、という事になる。
 それで、芥川の『王朝物』と称される作品は、初めは、物珍しかったのと、ちょいと奇抜な書き方がしてあったのと、手際てぎわのよい、頻りに凝った文章で書かれてあったのとで、今かんがえと、買いかぶられたようなところもあると思われたほど、たいそう評判がよかった、十返舎一九の『東海道中藤栗毛』の中に、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」という文句があるが、この初期の芥川の小説は、出るごとに、「さあ、評判ぢや、評判ぢや、」と、持てはやされた観があった。
 ところで、おなじ『今昔物語』から素材を取ったものでも、原作の筋が殆んどそのまま取られているものでも、(原作の筋を殆んどそのまま取った物の方が多いけれど、それでも、)と捻りかた捻りかして、一種の美文で、(一種の美辞麗句をつらねて、)書いた作品は、(たとえば、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、などは、)しな小説になっているが、素材の話を、あまり捻らないで、(つまり、あまり工風くふうしないで、)はでな形容詞など使わないで、洒落しゃれや皮肉を殆んど入れないで、書いた小説は、(つまり、『運』や『道祖問答』などは、)味ももない、あまり面白くもない、ただの昔の話になってしまうのである。
 そこで、おおざっぱに云うと、これまで、(芥川が書くまで、)殆んどだれも気のつかなかった『今昔物語』(『宇治拾遺物語』もあるが、ほとんど『今昔物語』)の中の話を素材にして小説を書いた、という事が、芥川の大きな手柄てがらひとつであり、それで、だれが附けたか、『王朝物』と称せられる幾つかの小説によって、芥川は、文壇的に、(文壇的に、である、)たちまち、高名になったのであった。
 ところで、(ここでは、いわゆる『切支丹物』、については、わざと言及しない。くちに云えば、『王朝物』も、『切支丹物』も、芥川の文学に於いては、論じる人があれば、殆んど同じ物であるからだ、)ここで、『たね』(あるいは『材料』)という言葉をつかうと、芥川の『王朝物』の種は、すなわち『今昔物語』の中の話であった。いうまでもなく、『今昔物語』には無数の話がはいっている。しかし、いくら無数の話があっても、芥川にむく話はそんなに数多くある筈がない。しぜん、芥川に、いかにすぐれた才能があっても、『種』の尽きてくるのは当然である。(そうして、もとより、『切支丹物』も同断である。)
 芥川は、『地獄変』でその頂上にのぼった。もっとも、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、『宇治拾遺物語』の第三と、『十訓抄』の第六と『古今著聞集』第十一の画図第四話などに依って書いたものであろう。つまり、芥川は、『地獄変』以後は、しだいに『今昔物語』の話に気乗りがしなくなり、そこから種を無理にあさるようになったのであろう。そうして、そういう状態で書かれたのが、『往生絵巻』であり、『六の宮の姫君』である。
 たしか、『古今集』かなにかの序に、「やまと歌は、人の心をたねにして、…」というような文句があったが、これは、大真面目おおまじめで云う、芥川が、仮りに、『人の心』をたねにしていたら、種に尽きるような事になりはしなかったか、と、私は、せつに、思うのである、芥川が、『人の心』でなく、『自分の心』を種にして、小説を書き出したのは、生涯の終りに近くなって、身も、心も、切羽せっぱつまってから、であったのだ。そうして、その最初の物が、『海のほとり』か、『年末の一日』か、『点鬼簿』か。――それは、後に述べることにして、ここで、ずっと前に書いた、芥川が、鵠沼の東家で、私に、半分ぐらい約束するように、云った、新年号の雑誌の小説を、書いたかどうか、という話にうつろう。

 芥川の著作年表を見ると、昭和二年の一月号には、『悠々荘』、(「サンデー毎日」)、『彼』、(「女性」)、『彼(第二)』、(「新潮」)、『玄鶴山房(一)』、(「中央公論」)、とある。
 昭和二年の一月号の雑誌が出た時分には、私は、前の年の十一月の末に、芥川が、鵠沼の東家で、「新年号の小説を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いた、」と、眉をつりあげて、云った時は、『眉唾物』だ、と思いながらも幾らか期待もしたが、その時分には、そんな事を忘れてしまっていた。しかし、「中央公論」に、『玄鶴山房』の㈠が、雑誌で、二ペイジ半ぐらいしか出ていないのを見て、私は、自分の小説が出来なかった事をたなに上げて、「何だ、例のとおりだ、」と思った。『例のとおり』とは、芥川がよく一つの小説を分載することがあったからであり、『何だ』とは、いくら分載にしても、その出し方の分量があまりにすくな過ぎるので、ちょいと軽蔑する気もちになったからである。(しかし、それは、今おもうと、あの時、⦅芥川と鵠沼で逢った時、⦆ 芥川とわかれてから、鎌倉に中学校の同窓の大木という海軍中尉をたずね、大木と横須賀に行って一泊した時、構想を得た『軍港行進曲』という小説を書くための『はげみ』になった。)
 ところで、今度こんど、この年表と全集とを参照して、私は、あの時の芥川の言葉をあまりあたまに置き過ぎた事を、今更ながらに、恥じた、つまり、芥川のよくやる手で、あの時、芥川は、あんな事を云って、わざと、私を、おどろかし、なぶったのである、つまり、私は馬鹿を見たのである。そのひとつの例は、あの時、芥川は、無闇むやみに、「中央公論」、「中央公論」、と云いつづけ、「僕も、『中央公論』だけには、出すつもりだ、」「きみも、ほかはめても、『中央公論』だけは、……」などと云いながら、「中央公論」は、大事だいじを取って、あとまわしにして、(この雑誌には『玄鶴山房』を出すつもりで、)「サンデー毎日」に、つきほど前に、みじかい楽な物(『悠々荘』)を書いてしまい、二週間ぐらい前に、これも、らくに書けたらしい『彼』を「新潮」に送ってしまっていたので、のうのうとして、「新年号の雑誌を三つ引きうけて、もう半分ぐらい書いたよ、」(『ヘン、どんなもんだい、』⦅と、これは、心の中で、⦆と、私に、云ったのである。
 しかしこんな憎まれ口のような事を書いてしまったが、これは、私が、その時の「サンデー毎日」を見ていなかったうえに、「新潮」に出た『彼』も、うかうかと、読みながしてしまったからである。それを、今度こんど、『悠々荘』と『彼』を読みなおして、私は、いたく心が寒くなるのを覚えたのである。『悠々荘』は六枚ぐらいであり『彼』は十七八杖である。極度の神経衰弱にかかっていた芥川には、二十日のあいだに二十三四枚ぐらいでも書いたという事は大変な苦労であったにちがいない。

 ベルは木蔦きづたの葉の中に僅にボタンをあらはしてゐた。僕はそのベルの釦へ――象牙のベルの釦へ指をやつた。ベルは生憎あいにく鳴らなかつた。が、万一鳴つたとしたら、――僕は何か無気味になり、二度と押す気にはならなかつた。

 これは『悠々荘』の終りの方の一節であるが、「僕」という主人公より、読む者の方が「何か無気味」な感じがする。猶、この小説の終りに、特に、『鵠沼』と書いてあるが、鵠沼の芥川の住んでいた辺に、このような廃屋があったのであろうか。
[やぶちゃん注:私はかれこれ四十七、八年前、叔父が住んでいた鵠沼をしばしば訪れたが、私の記憶の中に、正にこんな風な廃屋が実際にあったのを覚えている。]

 棕櫚の木はつい硝子窓のそと木末こずゑの葉を吹かせてゐた。その葉は文全体もらぎながら、こまかに裂けた葉の先々さきざきを殆ど神経的に震はせてゐた。

 これは『彼』の中の一節である。
 こういう事を、骨と皮のようになった芥川が、あの鵠沼のちいさい借家の二階で、しじゅう幻覚におびえながら、書いていたのである。

 大正十三年の初め頃からますます健康のわるくなっていた芥川は、しだいに創作力もおとろえて来た、得意であった歴史物の種も尽きて来た。
[やぶちゃん注:よく見ると、ここは見開き右側のページの終行ながら、次が実は一行空いているのが分かった(一頁行数を数えて判明)。]

 大正十三年の一月に芥川が書いた『一塊の土』は、(これもずっと前に述べたが、私はこの小説を「新潮」で読んだ時、「これは、おかしい、」と頸をひねった、「これは、芥川の小説らしくない、芥川の小説ではない、」と思ったからである、ところが、)非常に評判がよかった、それは、久しぶりで、芥川が、芥川風ではないが、おもしろい小説を書いたからでもあるけれど、すぐれた作品であったからでもある。それで、この小説を、たしか、いつも悪口をいう正宗白鳥もほめ、片岡鉄兵などは、「一塊の土と朽ち果てる運命が恐ろしいはど冷やかに客観され、必然を追つて描写されてゐる、」と述べ、「或る意味で写実の極致であらう」とまで賞讃している。
 それから、もうひとつ、これは、小説でなく、小品であるが、『トロツコ』が、大正十一年の三月号の「大観」に出た時も、私は、「これは、……」と思った。『これは』とは、「これは、芥川の作品らしくない、」という意味である。ところが、この小品も、一般に評判よく、教科書や副教科書などに採用されている。
 私が、『一塊の土』にも、『トロツコ』にも、おなじようなかるい疑いをいだいたのは、漠然と、都会人である芥川が、(田舎というものに殆んど何の関心も興味も持っていない芥川が、)こういう題材の物を書くのは凡そ無理だ、と思ったからである、殊に、『一塊の土』のような、と昔ほど前の自然主義の作品を思わせるような、小説を、芥川が、書こうと思ったのは、書いたのは、不自然のように思われたからである、そうして、決して皮肉な意味でなく、あの絢爛な文章で波瀾に富んだ『王朝物』や『切支丹物』を書いた作者が、どうして、こんなくすんだ地味じみな小説を……と考えたからである。
 ところで、『一塊の土』が好評を博していた頃、誰いうとなく、「あれは芥川が書いたものでは ない、」という噂が立った。しかし、もとより、噂であるから、それは、いつとなく、立ちえになった。
 ところが、その頃から二十六七年後に、――昭和二十六年に、――「改造」[昭和二十六年]に出た、滝井草孝作の『純潔』という小説の中の、つぎにうつす一節を読んで、私は、『一塊の土』、その他 に対する真相のようなものを、知った。

……この時分、芥川さんは他人の材料で書く癖も、二三あつたやうで、大正十年三月に出た田舎風景の『トロッコ』、これは、芥川さんは、私に向いて「力石君から貰ひ受けた五六枚の原稿で、書き改めたのだが、力石君は『トロッコ』を出たのを読んで、ひどく悄気しよげてゐた。永久に俺のぢやうなつた、と云つてネ、大事な掌中の玉を奪はれたやうにネ」と、話し、その湯河原から出て某社の校正係と云はれる力石青年は、控へ目なおとなしい人で、その時分、澄江堂連中の一人でした。また、十三年一月に出た百姓女を描いた秀作『一塊の土』も湯河原生れの力石君の協力した材料のやうでした。この青年とは何か格別の間柄があつたのでせう。ふかい親し味があつたからこそその材料を採り上げて製作されたわけで。
[やぶちゃん注:「力石君から貰ひ受けた」既に宇野は「十二」でこの件を仄めかしているが、原案提供者は力石ちからいし平蔵(明治三十一(一八九八)年~昭和五十(一九七五)年)で芥川龍之介に私淑、芥川の元に出入りしていた文学志望の青年であった。大正十五(一九二六)年の『文藝春秋』に載る小説「父と子と」が唯一の知られる小説である。]

 私などが今更いうまでもなく、この滝井の文章は、芥川の文学についての、実に貴重な文献である。殊に私には大へん為めになった。が、この滝井の文章の最後の「ふかい親し味があつたらこそその材料を採り上げて製作されたわけで」という文句は私には不可解である。
 しかし、又、この滝井の文章を読むと、『トロッコ』の最後の、

 良平は二十六のとし、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に校正の朱筆を握つてゐる。……

 という文句もわかり、ついでに、おなじ良平の出てくる『百合』[大正十一(一九二二)年]の最初の、

 良平は或雑誌社に校正の朱筆を握つてゐる。しかしそれは本意ではない。彼は少しの暇さへあれば、翻訳のマルクスを耽読してゐる。

 という一節も思い出されて、ますますおも白い。それは、この良平が滝井の文章の中の「力石君」とすれば、芥川は、この『百合』の素材も、力石君から、貰ったか、「採り上げたか」、どちらかである、という事になるからである、それから、これも前に書いたように、のちに、『玄鶴山房』の最後の方で、大学生に「リイプクネヒト」を読ませて、一部の人に問題をおこさせたが、すでに、その時より五年も前に、この『百合』の最初の方で、校正係に、「マルクス」を読せているナ、と思い合わせて、ほほませるからである。
 ところで、さきに引いた滝井の文章の中に、芥川が、力石から、「材料を採り上げて、……」というところがあるが、ここだけ読むと、芥川はなにか無法な人のように思われる。しかし、それは、ちがう。
 前にしはしば述べたように、芥川は、(芥川だけに限らないが、特に、)素材がないと、殆んど物の書けない人であった。誇張して云うと、芥川は、素材の選択に成功したために、文壇に出たようなところさえある。そうして、その素材とは、思いうかぶままに、順序不同に、上げると、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『古今著聞集』、『古事談』、『十訓抄』、『古事記』、『平家物語』、それから、『聊斎志異』、それから、切支丹に関する諸文献、それから、ゴオゴリ、ストリンドベルヒ、メリメ、モウパッサン、フランス、シング、ブロウニング、ポオ、その他の小説や戯曲や詩、等、等、等、である。そうして、芥川は、これらの物を素材にして小説をつくる名人であったのである。
[やぶちゃん注:「ブロウニング」イギリスの詩人Robert Browning(ロバート・ブラウニング 一八一二年~一八八九年)のこと。]
 ところが、これも先きに述べたとおり、これらの物から自分にむく素材を取りつくした時分から、芥川は、おもい病気にかかったのである。そうして、病気のために、芥川は、たといよい素材が見つかっても、得意の、構想を工夫くふうする気力も、文章をる気もちも、なくなった。
 芥川が、力石の五六枚の原稿を書き改めたり、力石の持っていた材料を「採り上げ」たり、したのは、そういう時分であった。しかし、芥川は、さきに述べたように、世に聞こえた東西古今[この『今』には、鷗外、漱石などがはいっている]の古典や名著から、結構をまなび」自分の気に入った素材を「採り上げ」て、名作と称せられた幾つかの小説を書いてきた。されば、芥川は、いわば無名の校正係の「五六枚の原稿」や『話』を、素材に、「採り上げ」るくらいの事は、何でもない事だ、と思っていたのであろう。しかし、こういう事は、私には、経験のない事であるから、よくわからない。
 大正十一年の二月十六日に、芥川が、佐佐木茂索に宛てた手紙の中に、「今夜一夜いちやに小説一篇を作つた」という文句があるが、この一夜づくりの小説が『トロツコ』である。しかし、『トロツコ』は、小説でなくて、小品である。しかし、それも、ただ書かれてある、というだけで、妙にぎくしゃくしていて、骨っぽく、なにせている、というような感じがする。
 骨っぽくて、痩せている、と云えば、このとしの一月の「新潮」に出た、評判のよかった、『藪の中』にも、ぎくしゃくした、骨っぽい、感じがある。『藪の中』は、久しぶりで、例の『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)から取ったもので、これも、久しぶりで、手法も、技巧も、ずいぶん工風を凝らしているが、極言すると、テエマが露骨に出すぎている。だいたい、芥川の小説は、その初期から、テエマ小説であった、唯、初期から中期へかけての、あぶらの乗った、小説は、独得の、修辞と技巧たっぷりの文章の方が勝っていたので、菊池の小説のように、(これは本人が『テエマ小説』、『テエマ小説』、と云いふらしたからでもあるが、)テエマ小説とは殆んど見えなかった。
[やぶちゃん注:「『今昔物語』(巻二十九の第二十九話)」は巻二十九の第二十三の誤り。それにしても――宇野は『テエマが露骨に出すぎている』とし、「藪の中」を『テエマ小説』と一刀両断にして憚らないんだけど――宇野さんよ、じゃあ、「藪の中」の『露骨』『すぎる』真相と『テエマ』とやらも、ここで一気に語って欲しかった――な――そんなに簡単明快露骨出来というのなら――後人やこの私が、こんなに喧々諤々議論するわきゃ、ねえだろが!――]
 ところが、その特徴であった、美辞麗句を使わなくなった、(私は、これは、かなりおもい病気が幾つかあったので、しぜんに、しだいに、そういう骨の折れる凝った仕事が出来なくなったのではないか、と思っている、)小説は、冬になって、木が枯れ、葉が落ちると、林の木の正体が見えてくるように、テエマ小説の正体をあらわしたのである。私は、きびしく云うと、それが、大正十一年の一月の雑誌に出た、『将軍』、『藪の中』、『俊寛』、に見られる、と思うのである。
 しかし、芥川は、『トロツコ』を書いてから、これも、久しぶりで、切支丹物の『報恩記』を書いた。これは、『藪の中』が好評であったからか、(それとも別の工夫くふうが出来なかったためか、)『藪の中』と殆んど同じテエマで、構想も幾らか似ているが、『藪の中』、より一そう物語ふうである。(芥川は、テエマ作家であると共に物語作者であった。それが一般の読者にも受ける所以であろう。)ところが、その物語は、芥川の昔ながらの好みの逆説的の面白さはあるけれど、通俗的なところもあって、手法も低調である。それに昔のような張りがない、なにか弱弱しい感じさえする。これは切支丹物のくだり坂を示すものであろう。
 その次ぎは『お富の貞操』と『六の宮の姫君』である。
『六の宮の姫君』は、(これも、)例の『今昔物語』(第十九の第五話)に依ったものであるが、この小説は、よしあしは別として、芥川が『今昔物語』から素材を取った最後の作品であり、芥川の小説らしい小説の最後の作品である。この小説は、(谷崎潤一郎も書きそうな物語で、純日本風の女が主人公になっているが、)素材とした『今昔物語』の話を、芥川は、自分の言葉と文章に書き改めただけで、ほとんどそのまま使っている。この時までに、これも先きに述べたように、芥川は、処女作以来、『今昔物語』の話の中から素材を取って、幾つかの小説を書いている。そうして、それらの小説は、唯その素材を『今昔物語』の話の中から取った、というだけで、大てい皆、『芥川の小説』になっている。それで、原作と違った面白味が十分じゅうぶんに出ている、ところが、この小説(つまり、『六の宮の姫君』)は、もとの話(と書き方)が殊にすぐれているからでもあろうが、そうして、もとの話の筋を殆んどそのまま使ったためであろうか、芥川のこの小説より『今昔物語』のその話の方がすぐれているところもあるのである、(例えば簡潔に書かれてあるという事だけでも。)そこで、この『六の宮の姫君』は、『今昔物語』の話に仮りに負けたとしても、これは、芥川の芥川らしい小説の最後の『火花』である、と、私は、思うのである。
 それから、この年(つまり、大正十一年)の作品の中で、注臥すべき小説がひとつある。それは『庭』という小説である。題は『庭』である.が、この小説は、年月としつきと共に変る庭のさまを述べながら、その庭のある旧家に住んでいる人たちの生活のうつりかわりを、手際てぎわよく、書いたものである。この旧家に住む人たちはたいてい癈人か廃人である。いうまでもなく、『廃人』とは「心身まったからざるところありて、世の用をなさぬ人、世用に堪えぬ人」という程の意味であり、『癈人』とは「創痍又は不治のやまいにかかっている人」、という程の意味である。まったく、この小説に出てくる人たちは、殆んどそのとおりで、隠居の老人、その老妻、跡つぎの癇癖かんぺきの強い長男、その病身な妻、脳黴毒のために精神病者になっている次男、行方ゆくえ不明になる三男、その他である。さて、この小説では、まず、隠居の老人が、「或るひでりはげしい夏、脳溢血のため」に、頓死し、次ぎに、長男は、癆症ろうしょう(今の肺病)にかかり、唯ひとり、「夜伽よとぎの妻に守られながら、蚊張かやの中」で、息をひきとり、長男の妻は、夫と同じ病気で、血を吐いて、死に、次男は、離れで、「誰も気づかないうちに、」死んでしまう。
 この小説は、何年かの話を、何人かの風変りな人間の性格と生活を、殆んど一句一行も無駄なしに、含みのある簡潔な文章で、書かれてある。この小説は、寡聞な私の知るかぎりでは、山本健吉のほかに、ほめた人もないようであり、この小説を問題にした評論家もないようであるが、芥川の中期(あるいは、後期)の作品の中でもっともすぐれた小説のひとつである。こう私は信じるのである。
[やぶちゃん注:「庭」に関しては私も宇野の意見に一二〇%同意する。]

 さて、私が、さきに、この作品を「注目すべき小説」である、と述べたのは、この小説は、芥川の、晩年の、『春の夜』、『玄鶴山房』、という一列の作品の一ばん初めの物であるからだ。
 この世の中にあってもなくてもよいような一家、いや、極端にいえは、ない方が増しなような、癈人と廃人が主人公であるような、家族、――それが、つまり、『春の夜』の野田の家であり、『玄鶴山房』の堀越の家であり、この『庭』の中村の家である。中村の家には、肺結核の病人が二人ふたりと癈人が一人ひとりと精神病者が一人ひとりいる。野田の家にも、肺結核の病人が二人いる。堀越の家には、肺結核の病人が一人と癈人が一人いる。(癈人も、肺結核の病人も、前に述べたように、『癈人』であるが、ここでは、便宜のために、二種にけた。)
 ところで、『庭』では、二人の病人も、精神病者も、死んでいるが、癈人(老妻)は生き長らえている、『春の夜』では、二人の病人は生き長らえている、『玄鶴山房』では、病人は死に、癈人は生きながらえている。――これは、作者の芥川がそのようにしたのである。
 それから、『庭』の老妻は、頭瘡をんでいる。(『頭瘡』とは「頭上に発する一種のかさ」であり、『瘡』とは「皮膚に発する腫物はれものの総称」であり、「黴毒のこと」でもある。)ところが、この老妻の頭瘡は、その「臭気をたよりに、夜更よふけには鼠が近寄ちかよつて」くるような、堪えがたい臭気を発する。臭気といえば、『玄鶴山房』の初めの方にも、「忽ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核のとこに就いてゐる玄鶴の息のにほひだつた、」という一節がある。――これも、(この常人には考えもつかないような臭気も、)やはり、芥川が、創作したものである。
 『庭』[これは、前に書いたように、大正十一年の作であるが]、『春の夜』、『玄鶴山房』、――この三つの小説は、くりかえし云うが、芥川の晩年の作品の中で、(小説のよしあしは別として、)特殊の位置をめるものである。
 但し、私は、私の好みでは、このような種類の小説は嫌いであるが、そのような事は別にして、この三つの小説の中で、『庭』と『玄鶴山房』とは、一般の小説として見ても、すぐれた作品である。
(余話であるが、『玄鶴山房』が、昭和二年の二月号で完結した時、早速さっそくそれを読んだ私が、芥川があそびに来た時、「あれは、実にうまいと思って、感心したが、ずいぶん気もちのわるい小説だね、僕は、あんな気もちの悪い陰気な小説はきらいだ、」と云うと、芥川は、「うん、」と云っただけで、すぐ、なんともいえぬいやアな顔をした。)
[やぶちゃん注:ここで偏執的で古典的な分類学の好きな宇野が「癈人」と「廃人」を区別しているのは――時代的差別性や宇野の個性という条件を考慮しても、これはやるべきではない言われなき差別に繋がる行為である――極めて不快な印象を与える。人はおうおうにして「嫌い」なものについて語る時、鮮やかに卑俗に差別的になるという事実を、これらは物語っていると言える。]
 この考えは今でも変らないが、私は、芥川の最晩年(つまり、大正十五年の末頃から死ぬまで)の幾つかの作品の中で、極言すれば、小説らしい小説は『玄鶴山房』だけである、と思っている。そうして、もっとも評判のよい『歯車』も、世評のよい『点鬼簿』も、一部の人たちにもっとも認められている、『海のほとり』、『年末の一日』、『蜃気楼』[傍題に『或は「続海のほとり」』とあるが、まったく別の作品である]その他は、すぐれた作品ではあるが、(『歯車』だけは別としても、)小説とは別の物である、と、私は、思っている。これらのことは、例のごとく、のちに述べるつもりである。
 ところで、さきに上げた『庭』は、小穴隆一に聞いた話を本にして、芥川が、自分流に、いろいろ工夫くふうをして、書いたものであろう。

 庭は二年三年と、だんだん荒廃をくはへて行つた。池には南京藻なんきんもうかび始め、植込みには枯木がまじるやうになつた。その内に隠居の老人は、或ひでりはげしい夏、脳溢血のために頓死した。頓死する四五日前、彼が焼酎を飲んでゐると、他の向うにある洗心事[註―東屋(あずまや)]へ、白い装束をした公卿くげが一人、何度も出たりはひつたりしてゐた。少くとも彼には昼日ひるひなか、そんなまぼろしが見えたのだつた。翌年は次男が春の末に、養家の金をさらつたなり、酌婦と一しよに駈落かけおちをした。その又秋には長男の妻が、月足つきたらずの子をおとした。

 これは『庭』の中の一節である。これは、『庭』が、どのような事を、どのような文章で、書かれてあるか、という見本のつもりで、うつしたのである。これは、いうまでもなくありふれた言葉であるが、一字一句抜き差しならぬ簡潔な文章である、簡潔すぎる文章である。しかし、そういう事よりも、私は、こういう事を、(このような薄気味のわるい事を、)書いた作者(芥川)の気もちを、考えて、くびをひねるのである。
 この小説(つまり、『庭』)は、これも前に述べたかと思うが、小穴から聞いた話をもとにして、作ったものである。もとより、小穴が芥川にどういう話をしたかはわからないが、大体だいたいこの『庭』にあるような話をしたのであろうが、それには、芥川の考えた事や好みが随分はいっているにちがいない。とすれば、右の一節の中の、隠居の老人が、昼日ひるひなか、白い装束をした公卿が、庭の池の向うにある東屋に、何度も出たりはいったりしたのを、まぼろしに見た、というのは、(それが小穴の話の中にあったとしても、それをこのように書いたのは、)芥川の創意である。
 例の『芥川龍之介研究』[前にも書いた「新潮」主催の座談会]の中に、「鬼気といふこと」、「死の影のある作」などという題目があるが、(その座談会の記事にははっきり出ていないけれど、)一部の人は、それが、(それに近いものが、)『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、『歯車』などに、出ている、と云っている。が、それは結果論であって、私は、芥川の晩年の作品に、(その他の作品にも、)「死の影のある作」はあるかも知れないが、「鬼気」のある小説などは殆んどない、と思っている、そうして、それに近いものを、いて(「強いて」である)上げれば、この『庭』と『春の夜』と『玄鶴山房』と、それから、調子の低いものではあるが、『温泉だより』などである。結果論といえは、廣津和郎が、『芥川龍之介研究』の座談会で、「徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないといつて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかしあれは死の隣にゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうな事をいつて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞に書いたんですが、あれを読んでゐると死ぬと思つたな、」と述べている。それに対して、川端康成が、「結果論でせうが、あとで見るとさういふ気がしますね、」と云っている。さて、その廣津の批評を読んだ芥川が、廣津に宛てて、「けふ或男が報知新聞を持つて来て君の月評を見せてくれた。近来意気がふるはないだけに感謝した。僕自身もあの作品[註―『点鬼簿』]はそんなに悪くないと思つてゐる。[中略]この手紙は簡単だが(又君に手紙を書くのは始めてかと思ふが、)書かずにゐられぬ気で書いたものだ、」[大正十五年十月十七日]と書いている。――私は、ここに見る友情の美しさに、いたく心を打たれた。


 さて、私が、さきに『庭』を、(過褒と承知しながら、)殊更に取り上げたのは、『庭』が出た翌月に発表された『六の宮の姫君』が一般に過大に評価されたことが気に入らないからでもある、というのは、『六の宮の姫君』は、芥川らしいところが殆んどまったくなく、(つまり、創意がなく、)全体がふるめかしく、よくない意味で通俗的であり、筋のはこびは巧みであるが有り触れており、(これは、さきに述べたように、素材にした『今昔物語』の話そのままであり、)殊に、終りの方の、先きに引いた、「なにも、――何も見えませぬ。暗い中に風ばかり、――冷たい風ばかり吹いてまゐりまする、」などというところは、わざと俗な言葉をつかうと、いわゆる『殺し文句』のようなものである。(ついでに云えば、『御所桜堀河夜討ごしょざくらほりかわようち』の三段目の終りの方で、初めて逢う父の弁慶に殺される侍女信夫じじょしのぶが死の真際まぎわに、「もう目が見えぬ、耳が聞えぬ、」というところがあるが、両方とも、きびしく云えば『サワリ』である。)
[やぶちゃん注:「サワリ」この場合の用法は、通常の「勘所」「見どころ」の意ではなく、義太夫節で他のふしに触っているという意で用いられる、義太夫節以外の他流の曲節を取り入れること、卑俗な慣用句の流用という批判的な謂いである。]
 このような一節とくらべると、これは、死ぬところではないが、『庭』の中の、

 ……一度掘つた池を埋めたり、松を抜いた跡へ松を植ゑたり、――さう言ふ事も度度たびたびあつた。
 殊に廉一をおこらせたのは、池のくひを造る為に、水際の柳をつた事だつた。「この柳はこのあひだ植ゑたばつかだに。」――廉一は叔父を睨みつけた。「さうだつたかなあ。おれには何だかわからなくなつてしまつた。」――叔父は憂鬱な目をしながら、日盛ひざかりの池を見つめてゐた。

というところは、次男のあたまくるっているのを書いたものであるが、これは見事みごとというほかに言葉がない。
 しかし、この短篇(十五六枚ぐらい)を書いてから、芥川は、『これ』という物を書かなくなった、(書けなくなったのである。)
 芥川は、『庭』を出したふたつき前[大正十一年五月]に、『お富の貞操』を発表した。これは、むかし得意であった「開化物」のひとつで、書きはじめる前に実に周到な用意をした、それだけに、描写は、写実的に、こまかすぎるほどこまかかったが、未完であった。しかも、枚数はおそらく十二三枚である。私は、これを「改造」の五月号で読んだ時、こんな書き方をして、あとはどうするのであろう、と思った。ところが、その続きは、六、七、八、と飛んで、九月号の「改造」に出た。両方あわせて二十七八枚であろうか。芥川は、もとより、短篇作家である、そうして、すぐれた短篇作家であった。しかし、『お富の貞操』は、ほめる評論家はあるけれど、部分部分の描写がうまいというだけで、(それも普通のうまさだ、)けっして勝れた小説とは云えない。
 それから、『お富の貞操』と同じ月に出た『おぎん』も、(ついでに書けば、その翌年の四月号の「中央公論」に出た『おしの』も、)やはり、芥川がむかし得意にした「切支丹物」ではあるが、共に、昔のような魅力はなく、その作者の芥川も、既に、王朝物にも、切支丹物にも、開化物にも、興味がうすれ、魅力が感じられなくなった。それに、そういう小説を書く根気がなくなった。
 芥川が、歴史物(王朝物、切支丹物、その他)を書けなくなった事は、いわゆる芥川の文学とわかれる、という事である。されば、いわゆる「保吉物」を書き出すと共に、芥川の文学はなくなった、と見るべきである。
 しかし、それは、私の(私だけの)見方みかたであって、芥川は、そういう昔を題材にした小説が書けなくなると、まず、『私小説』の形で、回想の小説を、書きはじめ、それから、身辺小説のような物に、はいって行った。(すると、私の思う芥川の、⦅あるいは、芥川らしい、⦆文学より、その後の身辺小説風の作品を愛読する人が随分できた。)
 さて、芥川は、回想の小説の手はじめに、まず、横須賀の機関学校につとめていた時分の思い出を、順順に、書いて行った。それが謂わゆる「保吉物」である。

 芥川の同時代の大正初年に文壇に出た作家の大部分は、(むろん例外は幾つもあるが、)自分自身を題材にした作品から書きはじめた。それから、明治の末年から出発した自然主義の作家たちの大部分も、やはり、自分自身を題材にした小説から書きはじめた。
  ところが、芥川は、そのような作品を否定した小説に依って名を成し、それでつづけて来たのが、みじかい生涯の終りに近くなってから、自分自身を題材にした小説を書きはじめる事になったのだ。
 大正初年(といっても、正確に云えば、明治の末年から大正七八年まで)に文壇に出た作家(その中には芥川より先きに出た人もありあとから出た人もある)の中で自分自身を題材にした小説を書いた人たちは、大抵、自分が作家にならない前の事を、あるいは、自分の少年時代か青年時代かの事を、題材にした小説を書いて、文壇に登場した。そうして、それらの小説は、構想その他のために、多少は事実でない事もまじっているであろうが、大方は作者自身が経験した事を明け透けに書いたものとされていた。そうして、そういう小説によって文壇に出たすぐれた作家が何人かいた。(そうして、その中に、芥川の尊敬していた、『大津順吉』の志賀直哉、『おめでたき人』の武者小路実篤、『善心悪心』の里見 弴などがいた。)
 ところが、その出発の初めから、その時分(つまり、大正五年頃から十二年頃)まで、殆んど歴史小説(か、それに近いもの)ばかり書いていた芥川には、大形おおぎょうに云えば、そのような小説(つまり、謂わゆる私小説)の書きかたの勝手さえ殆んどわからなかった。それから、芥川は、もともと、並並なみなみならぬ見え坊であり、非常な気取り屋であったから、自分の事(あるいは経験)を、ありのままに、けに、書くなどという事は、大嫌いであったうえに、まったく出来ない事であった。
 しかし、いまは、なにか書かないわけにはいかなかった。書くなら、しなものを、と思った。そうして、芥川が、思案にあまった末に、書いたのが『保吉の手帳から』である。(その前に、芥川は、『おぎん』[大正十一年九月]と『おしの』[大正十二年四月]という二つの切支丹物を書いているが、両方とも、二番煎じの感じがあるだけのものである。)
 ところが、『保吉の手帳から』[大正十二年の五月号の「改造」]は、海軍機関学校につとめていた時分の思い出のようなものであるが、そこにおさめられている五つの話は、小説というより、小品であり、その小品の主人公の保吉は、作者の芥川ではなく、芥川のような人である。そうして、その小品には、保吉のほかに、いろいろな人間が出てくるが、それらの人間には殆んど血がかよっているという気がしない。つまり、芥川は、題材が変っても、やはり、いやに文章に骨を折り、小道具のような物をくわしく書き、作り事のような話をと捻りもた捻りもしている。作者は面白がらせるつもりで書いているのであろうが、読む者には少しも面白くない。思い切って云うと、イヤ味で、キザで、衒学的で、結局、弊に堪えない、という感じがする、くちに云えば、相変らず気取っているな、と、私などには、思われるのである。
[やぶちゃん注:「弊に堪えない」とは、その持っている弊害を我慢することが出来ないほど深刻で問題である、という謂いであろう。]
たましい、百まで』というか、『持ったやまい』というか、芥川は、先天的か、後天的か、だいの見え坊であり気取り屋であったが、『気取り』は、芥川の文学で云うと、出世作となった『鼻』にもあり、『侏儒の言葉』や『西方の人』は、もとより、遺作として発表された、『或阿呆の一生』や、『闇中問答』にまで、ある。
 その気取りは、『鼻』、その他の小説では、役に立ち、成功した、そうして『或阿呆の一生』にも、あるいは、『河童』にも、成功した。――
(つまり、芥川は、死ぬ時までも、気取り通し、見えを張った、という事にもなる。)
さて、芥川は、その気取りのために、『保吉の手帳から』を失敗したのであった。つまり、おなじ「回想」を取り扱っても、さきに述べた作家たちは、「回想」を殆んどありのままに、飾らない文章で、飾りなく、書いたので、その主人公は、もとより、出てくる人間に、血がかよい、しぜん、話が生きたのである。ところが、『保吉の手帳から』は、芥川が、前にも述べたように、これまでの歴史物その他を書く時と同じように、「回想」そのものより、まず、人工の筋を立て、その筋のとおりに話をはこび、他の人物は、もとより、主人公の保吉にまで、ポオズを取らせ、人人にはなるべく酒落しゃれたことを云わせる、というような書き方をしたので、失敗したのである。
 ところで、芥川は、それからも、猶、つづけて、『お時儀』、『あばばばば』、『寒さ』、『文章』、『少年』、『十円札』、と、「保吉物」を、書きつづけた。そうして、それらの作品の中には、『保吉の手帳から』とくらべると、いくらか自然な物もあったが、結局、大同小異であった。
 ところが、この連作の中で、ひとつ、『少年』は、主人公は、やはり、保吉であるが、その保吉の少年時代の話を、わりに飾りのない文章で、要処要処を、述べてあって、ほかの作品と幾らか違うところがある。そうして、その違うところは、この『少年』と『大導寺信輔の半生』(未完)と関聯しているところもあるからである。
 四歳の保吉(つまり、芥川)が、ある日、お鶴という女中につれられて、大溝おおどぶ[両国橋の東側にあった]の往来をあるいていた時の事である。その人通ひとどおりの少ない土埃つちぼこりの乾いた道の上に、ふとい線が、三尺ばかりのはばをおいて、すじ、道の向うへ、走っているのを指さして、突然、お鶴が、保吉に、「ぼつちやん、これを御存知ですか、考へて御覧なさい、ずつと向うまで、並んで、つづいてゐるでせう、」と云った。そう云われて、保吉は、なんだろう、と、くびをひねった、何だろう、これは、いつか、幻燈で見た、蒙古の大沙漠にも、やはり、つづいているであろうか、とか、そのほか、いろいろと考えた。が、どうしても考えがつかない。それで、保吉は、とうとう癇癪をおこして、「よう、教へておくれよう、ようつてば、」と叫んだ。そこで、散散さんざんじらしていたお鶴が、やっと、説明した。
「これは車の輪の跡です。」

 これは車の輪の跡です!――保吉は呆気あつけにとられたまま、土埃の中に断続したふたすぢの線を見まもつた。同時に大沙漠の空想などは蜃気楼のやうに消滅した。今は唯泥だらけの荷車が一台、寂しい彼の心の中におのづから車輪しやりんをまはしてゐる。……

 これは『少年』の中の『道の上の秘密』の終りの方の一節である。
それから、芥川は、やはり、『少年』のうちの『死』という小品の中で、四歳の保吉が、父と話をしているうちに、殺された蟻と死んだ蟻とは違う、というような理窟をこねた、という話を述べたあとで、つぎのような事を書いている。

……殺された蟻は死んだ蟻ではない。それにもかかはらず死んだ蟻である。この位秘密の魅力に富んだ、摑へ所のない問題はない。保吉は死を考へるたびに、或日あるひ回向院の境内に見かけた二匹の犬を思ひ出した。あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔向けたまま、一匹のやうにぢつとしてゐた。のみならず妙に厳粛だつた。死と云ふものもあの二匹の犬と何か似た所を持つてゐるのかも知れない。……

(ここで、前に書いた事を少し訂正する。それは、前に、『少年』と『大導寺信輔の半生』とがつながりがあるように書いたとすれは、あやまりである、という事である。もしそう考えたとすれば、『少年』にも、『大導信輔の半生』にも、芥川の「郷愁」であった、少年時代に住んでいた、回向院や大溝などが出てくるからである。)
 さて、ここに引いた文章だけからでも想像できるように、『少年』におさめられでいる六篇の小品は、少年の頃の思い出を書いたものであろうが、書かれているのは、その思い出をもとにして、作者が工夫くふうに工夫をかさねてひとつの筋をつくり、それを凝りに凝った文章で書いたものである。そういう点では、『少年』は、作のよしあしは別として、(なかなかうまいものである、誠に芥川の「家の芸」であって、『トロツコ』や『一塊の土』のような借り物ではない。そうして、例の如く気取りや思わせぶりなところはあるが、作品としては、『大導信輔の半生』よりもうえである。
 ところで、さき引いた文章であるが、『死』の中の、犬が、「入り日の光の中に反対の方角へ「顔を向けたまま」などというところは『ってるな、』と思うが、「死と云ふもの」が「あの二匹の犬と何か似た所」などと云うのは、どんなものであろうか。それから、『道の上の秘密』のなかの「今は唯泥だらけの荷車が一台、……」というところは、うまい、とは思ったが、やはり言葉の巧みさだけだ、と思っていた。ところが、久保田万太郎、久米正雄、小島政二郎、というような文学のわかる人たちが、名作と激賞している、『蜃気楼』の中に、つぎのような一節があるのを思い出して、私は、「これは……」と思いなおした。

……僕等はもうオオ君と一しよに砂の深い路をあるいて行つた。路の左は砂原だつた。そこに牛車のわだちふたすぢ、黒ぐろと斜めに通つてゐた。僕はこの深い轍に何か圧迫に近いものを感じた。逞しい天才の仕事の痕、――そんな気も迫つて来ないのではなかつた。
「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車のあとを見てさへ、妙に参つてしまふんだから。」
 O君は眉をひそめたまま、何とも僕の言葉に答へなかつた。……

 前のは荷車であり、これは牛車である。前のは大正十三年五月の作であり、これは昭和二年二月の作である。
 この文章の中の、砂原は鵠沼であり、O君は小穴隆一である。
 前のは三十年も昔の事を書いたものではあるが、「寂しい彼の心の中におのづから車輪をまはしてゐる、」というのは、その時の実感を書いたものであろう。これは、この『蜃気楼』の話が半分ぐらい本当とすれは、これはこの小品を書いた時分の実感であろう。二年前の小品が荷車であり、これは牛車であるが、車の輪が道の上に残っている事は同じである。すると、『蜃気楼』の二本の線は、(この時分は、例の「筋のない小説」の説を立てていた頃であるが、やはり、)話を面白くするために、わざと入れたのかもしれない、という事にもなる。
 ところが、『蜃気楼』の前篇になっている『海のほとり』に出でくる久米が、(文学、殊に小説に理解のふかい久米が、)「まだ僕は健全ぢやないね。ああ云ふ車の痕を見てさへ、妙に参つてしまふんだから、」という言葉を見ても、作品全体に死相が漲っている、と云うのであるから、この牛車の轍は『蜃気楼』の中でもっとも注目すべき文句である、という事になるのである。
 作品に死相があらわれる、という言葉をつかえば、私は、くりかえし云うが、昭和二年(つまり、死んだ年)の作である、『河童』、その他より、『庭』や『春の夜』や『玄鶴山房』などであり、この『蜃気楼』とか、『海のほとり』とか、『年末の一日』とか、殊に『点鬼簿』とか、いう小品は、強いで云えば、「鬼気せまるかた」ではないか。(こういう事については、例によって、後に述べることにして。)
 さて、大正十三年の四月と五月にかけて書いた『少年』と、同じ年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』とは、芥川の文学の何度目かの変り目の作品であり、枚数も、『少年』は四十五六枚であり、『大導寺信輔の半生』は三十五六枚であるから、芥川の作品としては長い方である。そうして、両方とも、自伝的な作品である。(もっとも、自伝的、と云っても、現在とは縁の遠い、機関学校時代の事や、もっとさかのぼって、少年時代⦅というより、幼年時代⦆の事や、幼少年時代から大学時代までの事や、の思い出をもとにして、それをひとつ一つの話にした小品であるから、半自伝的、とでも云うのであろうか。そうして、その一が「保吉物」であり、その二が『少年』であり、その三が、『大導寺信輔の半生』である。)
『保吉の手帳から』を書いたのは大正十二年五月であるが、『少年』を書きあげたのは、その翌年(つまり、大正十三年)の五月であり、『大導寺信輔の半生』を書いたのは、その年の十二月である。
 そうして、この『少年』と『大導寺信輔の半生』を書いた頃は、芥川の、作家としても、人間としても、もっともくるしかった時代の一つであった。

……旅行中お金をつかひはたし、貧乏して居り候間今日午前、蒲原春夫君にたのみ、お店へお金百五十円ばかり拝借にやりし次第、もし午前中に同君にお金を渡されざる節は御光来の折御持参下され度、……

 これは、大正十三年五月二十八日に、芥川から、新潮社の支配人、中根駒十郎に宛てた手紙の抜萃である。
(中根駒十郎は、大正時代から昭和の初め頃まで、新潮社を創立した社長、佐藤義亮の代理を殆んど一切した。それで、その頃の大抵の作家は、多少とも、中根の世話になった。『駒十郎、役者のやうな、名をつけて、由良ゆらになつたり、吉良きらになつたり』という狂歌は、たびたび引いたが、相馬泰三の作である。)
 さて、芥川が、この手紙を書いたのは、『少年』を書いた頃である。
 ところで、芥川は、この手紙を書いてから十日とおかも立たな、いうちに、又、中根に宛てて、「この間女性改造を書かず、又々欲しきものありても買はれね故お金二百円ばかりどちらか[註―『百艸』か、『黄雀風』か]の印税の中より…」というような手紙を出している。(この手紙は、郵便でなく、使つかいに託したものである。)
 私が、殊更、このような手紙まで写したのは、(私などはこういう事は有内ありうちであると思っているが、)大方の人はこのような事を知らないであろう、と思うと共に、この時分いかに芥川が原稿が書けなくなっていたか、という事などを、しめしたかったからである。(つまり、「壷をひとつ買つた」とか、「欲しきものありても、」とか、云うのは、もとより、口実なのである。)
[やぶちゃん注:「有内ありうち」は、世間によくありがちなこと、の意。]
 ざっと、こういう状態の中で、芥川は、『少年』を書いたが、その頃から、芥川の創作力はますます衰えて行った、衰えて行く一方であった。しぜん、『少年』を書きあげたつきに書いた『文反古』はつまらぬ作品であり、その次ぎに書いた『十円札』は、「保吉物」の一つであるが、楽屋落ちの話である。どのような楽屋落ちであるか、愛敬あいきょうに、その中から、ちょいと写してみよう。

……長谷はせ正雄は酒の代りに電気ブランを飲んでゐる。大友雄吉も妻子と一しよに三畳の二階を借りてゐる。松本法城も――松本法城は結婚以来、少し楽に暮らしてゐるかも知れない。しかしついこの間迄はやはり焼鳥屋へ出入しゆつにふしてゐた。

 右の一節の中の、長谷正雄は久米正雄であり、大友雄吉は、いわゆる「啓吉物」のうちの幾つかの小説の主人公に「雄吉」という名をつける、菊池 寛であり、松本法城は、『法城をまもる人々』の作者、松岡 譲である。
 ところで、これを写して気がついたのは、お粗末な小説であることは別として、芥川がこのような平明な文章を書いている事である。
 さて、このような小説を書いたあとで、芥川が、書いたのが、『大導寺信輔の半生』である。
『大導寺信輔の半生』がいくらか好評をうけたのは、芥川のこれまでの小説とくらべると、目さきが変っている上に、ずっと気の乗らないような小説を書きつづけていたのが、この小説は、ときどき気息いきづかいが聞こえるほど、意気ごんでいるところが見えるからである。
『大導寺信輔の半生』は、文章はきびきびしているし、部分部分(殊に最初の方)にすぐれたところはあるとしても、結局、きびしそうに見えて、作者が、主人公を甘やかし過ぎている、それが、殊に、後半に、目立つ、それから、前からの癖で、風物を書いても、人間を書いても、小細工である、それから、人間が殆んど書けていない、結局、失敗作である。(断っておくが、ここで、『小細工』と云ったのは、『小刀細工』という意味である、『小刀細工』とは、「小刀を用いてする、精微な、繊巧な、細工」という程の意味である。)
 それから、『大導寺信輔の半生』は小説ではない。
 それから、『大導寺信輔の半生』は、附記として、芥川は、「この三四倍つづけるつもりである、」と書いているが、芥川のような作家(これは決してわるい意味ではない)には、たといもっと長生きしたとしても、こういう種類の小説は、永久に未完で、書きつづけられなかった、と、私は、思うのである。
 しかし、私は、『大導寺信輔の半生』は、きらいではない。

……中学は彼には悪夢だつた。けれども悪夢だつたことはかならずしも不幸とは限らなかつた。彼はそのためすくなくとも孤独に堪へる性情を生じた。さもなければ彼の半生のあゆみは今日こんにちよりももつとくるしかつたであらう。彼は彼の夢みてゐたやうに何冊かの本の著者になつた。しかし彼に与へられたものは畢竟落寞ひつきやうらくばくとした孤独だつた。この孤独に安んじた今日こんにち、――あるひはこの孤独に安んずるよりほかかたのないことを知つた今日こんにち、二十年の昔をふり返つて見れば、彼をくるしめた中学の校舎は寧ろ美しい薔薇色ばらいろをした薄明うすあかりのなかよこたはつてゐる。

 これは、『大導寺信輔の半生』の中の、『学校』の終りの方の一節である。
 芥川は、やはり、詩人であった。
 この『落莫とした孤独』の歌をうたってから、たしか、半月後、芥川は、数えどし、三十四歳になった。大正十四年である。

     
二十一

『大導寺信輔の半生』で失敗した芥川は、文学の上で、敗北したかたちになった。
 芥川が『大導寺信輔の半生』を書いたのは、さきに述べたように、大正十三年の十二月の中頃であった。
 その十二月の十九日に、芥川は、又、中根に宛てて、つぎのような葉書を、出している。

……「羅生門」「傀儡師」なる可く沢山ることとし、その印税の余分及「煙草と悪魔」印税至急おとどけ下され度候新年号に原稿かゝぬ為貧乏にて弱り居候両方合せ二百円位にならば幸この上なしと存居候何とぞ一両日に御めん下され度候

(余計な事であるが、読むたびに、芥川の金談の手紙のうまさには、おどろかされる。)
 ところで、この葉書の文句にあるように、この年の十二月には、芥川は、『大導寺信輔の半生』だけしか、書いていない。ところが、翌年(つまり、大正十四年)の一月には、『早春』と『馬の脚』とを書いている。
 ここで、私が不思議に思うのは、芥川のような作家が、前にも、ずいぶん乱作をした事があったが、この時も、ひどく健康をわるくしながら、まだ乱作(大いそぎで書くという意味も含めて)をしている事である、というのは、『早春』[大正十四年一月作]は、「保吉物」の一つであるが、単なる思いつきの短篇であり、『馬の脚』[大正十四年一月作]も出来そくないの小説であるからだ。
『馬の脚』は、何から思いついたのか、頓死した人間が、生きかえったが、両足ともももから腐っているので、その代りに馬の脚をつけられる。そこで、その馬の脚の人間が、足だけが馬であるために、いろいろな苦労をし、さまざまの事件をおこすことを、巨細こさいに書いてある。
 この小説について、吉田精一は、「ゴオゴリの『鼻』の模作にすぎない、」と説いている。それも当っているけれど、芥川は、殊にゴオゴリの愛読者であったが、あの、わにに呑まれながら、その腹の中で、生きながらえて、いろいろな意見を吐く男と、その一件のためにさまざまな事件が持ち上がる、ドストイェフスキイの『鱷』も読んでいたであろうし、あの、影をなくしたために、いろいろのつらい思いをし、さまざまの思いがけない事に遭遇する人物の事を書いた、シャミッツソオの『影をなくした男』なども、読んでいたにちがいない。
 そこで、臆測をすれば、芥川は、書くのに気が楽な、荒唐無稽な物を書いてみよう、と思い立ち、それに向く舞台を自分がかつて遊んだ『支那』に取ったのであろう、支那なら、どんな荒唐無稽な事でも書ける。(『荒唐』とは「漠然としてとりとめのない言説」という程の意味であり、『無稽』とは「よりどころのない言説」という程の意味である。)さて、それから先きは、ゴオゴリか、ドストイェフスキイか、シャミッソオか、そのいずれもか。ただ、『馬の脚』の初めの方の、「生憎大した男ではない。北京ペキンの三菱に勤めてゐる三十前後の会社員である、」とか、「同僚や上役の評判は格別善いと言ふほどではない。しかし又わるいと言ふほどでもない、」とか、いう、中流の会社員忍野半三郎おしのはんざぶろうは、芥川の愛読した、ゴオゴリの『外套』の主人公、アカアキイ・アカアキヰッチである。(そうして、このアカアキイ・アカアキヰッチは、ずっと前に述べたが、『芋粥』の五位である。)それから、『外套』の書き出しと『馬の脚』の書き出しは殆んどそっくりである。それから、やはり、ゴオゴリの「三月二十五日のこと、ペテルブルグではなはだ奇妙な事件が持ち上つた、」という『鼻』の書き出しは、『馬の脚』というような「奇妙な事件」を考え出すもとになったかもしれない。
 (こんな事を述べているうちに、私は、これもずっと前に書いた、芥川が私にくれたゴオゴリの半身像は、長い間、芥川の机辺にあったのではないか、というような事を思い出した。わたくし事を云えば、今、そのゴオゴリの半身像は、この文章を書いている机辺にある。)
 大正十三年の十二月に書いた『大導寺信輔の半生』も、大正十四年の一月に書いた、『早春』も、『馬の脚』も、雑誌社(と新聞社)が強要したのか、それとも、芥川が、必要があって、強行したのか、三つとも、無理に無理をして、書いたものであった。そのために、『大導寺信輔の半生』は未完成のものとなり、『早春』も、『馬の脚』も、前に述べたような、作者自身も不満を感じるような、いやな、作品になってしまった。その上、その無理がたたって、持病が一そうわるくなった。――
 大正十四年の二月二十一日に、芥川が、清水昌彦[註―中学の同窓]に宛てた手紙の中に、「僕は、胃をわづらひ、腸を患ひ、神経衰弱を患ひ、悪い所だらけで暮らしてゐる、」という文句がある。
 この芥川の手紙は、その清水から来た手紙への、返事である。だから、その芥川の手紙は、「君の手紙を見て驚いた、」という文句から始まっている。その芥川が「驚いた」というのは次ぎのような手紙である。

 これは僕の君に上げる最後の手紙になるだらうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併発してゐる。妻は僕と同じ病気にかかり僕より先に死んでしまつた。あとには今年五ことしいつつになる女の子が一人残つてゐる。……まづは生前の御挨拶まで。
[やぶちゃん注:読者諸君は、ここで疑問に思われることであろう。この芥川龍之介宛清水昌彦書簡をどうして宇野浩二は引用できるのか、と。実は、宇野は注記していないが、この引用は実際の清水昌彦書簡からの引用ではないのである。これは実は大正十五(一九二六)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載された「追憶」(後に『侏儒の言葉』にも所収)からの引用なのである。以下、当該章「水泳」を総て引用する(引用元は私の「追憶」テクスト)。

       水  泳

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。
 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」
 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。
 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」
 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絶望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

「清水昌彦」は、江東小学校時代に回覧雑誌を作ったりした幼馴染で、明治三十九(一九〇六)年に東京都立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の生徒だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戦争」の中で、好戦の末、轟沈する『帝国一等装甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。彼は正に憧れの海軍士官となったが、その後は音信が途絶えていた。なお、宇野がこの後で一部引用し、芥川龍之介がこの「水泳」末尾で述べている書簡は、旧全集書簡番号一二八四の清水昌彦宛書簡(田端発信・大正十四(一九二五)年二月二十一日附)で、先に以下に全文を示しておきたい(岩波版旧全集に拠る。「〱」は正字に直した)。

冠省君の手紙を見て驚いたそんな病気になつてゐようとは夢にも知らなかつたのだから。第一君が呼吸器病にならうなどとは誰も想像出来なかつた筈だ。君の手紙は野口眞造へ郵便で送る。僕は胃を患ひ、腸を患ひ、神經衰弱を患ひ、惡い所だらけで暮らしてゐる。生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とも思はない。僕も生きられるだけ生きる。君も一日も長く生きろ。實は僕の妻(山本喜譽司の姪だ)の弟も惡くて今度三度目の喀血をしたのでいま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其處へ君の手紙が來たので餘計心にこたへた。何か東京に用はないか。もつと早く知らせてくれれば何かと便利だつたかも知れないと思つてゐる。この手紙は夜書いてゐる。明日近著「黄雀風」を送る。禮状、返事等一切心配しないでくれ給へ。
   冴え返る夜半ヨハの海べを思ひけり
    二月二十一日夜   龍之介
   昌彦樣

素の龍之介の優しさが伝わってくる。清水はしかし、同年四月十日前後に逝去の報が入った。同年四月十三日の府立三中時代の共通の友人西川英二郎宛の書簡(旧全集書簡番号一三〇〇)には「淸水昌彦が死んだ。咽喉結核と腸結核になつて死んだのだ。死ぬ前に細君に傳染してこの方が先へ死んでしまつた。孤兒四歳。」とある。年次や子の年などの些細な部分は問題ではなく、芥川の「追憶」の叙述に粉飾は皆無である。]

 これは、芥川ならずとも、驚くべき手紙である。これを読んだ芥川は、さきに引いた、二月二十一日に清水に宛てた手紙の中に、清水をはげますために、(ついでに、自分自身をもはげますつもりか、)次ぎのような事を、書いている。

 ……生きて面白い世の中とも思はないが、死んで面白い世の中とは思はない。僕も生きられ るだけ生きる。君も二日も長く生きろ。実は僕の妻の弟[註―塚本八洲という名、芥川がたよりにしていた義弟、鵠沼でも傍にいた]も悪くて今度三度目の喀血をしたので、いま見舞に行くやら何やらごたごたしてゐる所だ。其処へ君の手紙が来たので余計心にこたへた。

 これはこたえる筈である。芥川としては、(もっとも、これは私が思うのであるが、)義弟が「三度目の喀血」をし、旧友の妻が肺結核で死に、旧友が結核の病気で死にかかっている、という事になるからである、しかも、その時、自分も三つの病気をしているからである。
 芥川が、その後、前に述べたように、『春の夜』にも、『玄鶴山房』にも、『悠々荘』にも、肺結核の病人を出したのは、こういう事も一つの原因のようなものであろうか。
 ところで、このとし(つまり、大正十四年)の四月の中頃から五月の初め頃まで、芥川が、修善寺に滞在したのは、病気の養生のためでもあろうが、憂さ晴らしのためでもあったのではないか。芥川が、修善寺から、方方へ出している手紙には、めずらしく、伸び伸びした文句なども書かれたのがあり、得意の洒落しゃれのはいった文章で書かれたのもある。ずっと前に書いた上司小剣を、突然、訪問して、西洋の社会主義者たちの話を持ち出して、けむに捲いたのも、その時分であろう。
[やぶちゃん注:この時の修善寺滞在は、四月十日から五月三日。上司小剣関連では、宮坂覺氏の新全集年譜のこの湯治期間中の四月十七日の条に、芥川龍之介が編集する『近代日本文芸読本』(全五巻興文社から同年十一月刊行)への作品収録許可を水上滝太郎や上司小剣らに依頼するという記事があり、これは宇野が勘ぐるように龍之介が多分に悪戯っ気から上司に面会を求めたのわけではない、仕事であった(尚且つ、その掲載許諾依頼という性質上、それはある意味、相手をよいしょして和やかなものとしなくてはならなかったに違いない)ことが明らかである。]
 しかし、又、芥川が、小説らしい小説を書かなくなったのも、その時分からである。いや、小説らしい小説どころか、殆んど作品を書かなくなり始めたのも、その頃からである。
 それをややくわしく云えば、大正十四年には、前に述べた、『早春』と『馬の脚』をのぞくと、『温泉だより』、『桃太郎』、『海のほとり』、『尼提』、『湖南の扇』、などを書いているが、その中で、しなのは『海のほとり』だけである。しかし、これも、小説というより、小品である。
 しかし、この時分から、芥川は、昔のような筋と文章に凝ったような小説は、肉体的に書けなくなったばかりでなく、興味がなくなった。が、これは、前に述べたように、そういう物を書く素材のたねが尽きたからでもあり、やはり、結局、根気がなくなったからである。それから、もうひとつの理由は、(かなり重大な理由は、)いろいろ複雑な家庭の紛糾が次ぎ次ぎに起こり、その上に、親戚に不幸や不慮の災難があった事で、それらがみな芥川の重荷になった事である。
 そうして、芥川が、その頃から、身辺の見聞のような物を、書き出したのは、病苦を押して書くのに、一ばんらくであったからである。それから、芥川は、それらの物を書くのに、一ばん楽な書き方をした。それで、それらの作品には、みな、『僕』という一人称を使っている。そうして、それらの作品が、しぜんに『筋のない小説』という事になったのである。それから、くりかえし云うが、それらの『筋のない小説』は殆んどみな小品である。
 それから、そういう小品さえなかなか書けなかったのは、健康が極度におとろえていたからである。しかも、それらの作品は、長くて、十八九枚であり、短かいのは、七八枚ぐらいであった。(しかし、その頃の芥川をよく知っている私は、それでも、あれだけ、よく書けたものだ、と、しばしば、感心する事がある。)
 そうして、それらの作品の中で、『海のほとり』[大正十四年八月七日]、『年末の一日』[大正十四年十二月八日]、『点鬼簿』[大正十五年九月九日]、『悠々荘』[大正十五年十月二十六日]、『蜃気楼』[昭和二年二月四日]、の五篇がすぐれている。

 芥川は、前にちょっと書いたように、大正十五年(いや、昭和元年)の十二月の月末から昭和二年の一月一日まで、ちいさな家出をした。
[やぶちゃん注:これについて、新全集の宮坂覺氏の年譜の昭和元(一九二六)年十二月三十一日の条には、鵠沼で甥偶々葛巻義敏と二人っきりになり、「体の具合が悪くなって」(芥川文「追想 芥川龍之介」に拠る)『鎌倉小町園に静養に出かける。女将の野々口豊子の世話になった。この時、行き詰まりを感じて家出を考えたとも伝えられている』が、所在は明らかにされており(葛巻には知らせていたか)、『田端の自宅から早く帰るよう電話で催促を受け』ている。しかし、『結局、翌年正月の二日まで滞在し』、二日は鵠沼に一度戻ってから、田端に帰っている。因みに、昭和の改元はこれに先立つ六日前の十二月二十五日であった。]
 それで、書翰集[ここで後ればせに断っておくが私の使っているの『芥川龍之介全集』は昭和三年の初版である]を開いて見ると、十二月二十日はつか過ぎのは、二十五日に、滝井に宛てたのが、(それも葉書が、)一通しかないから、それを次ぎに写そう。

 御手紙拝見。僕は多事、多病、多憂で弱つてゐる。書くに足るものは中々書けず。書けるものは書くに足らず。くたばつてしまへと思ふ事がある。[下略]

 ここで、猶、よく書翰集の十二月のところを調べて見ると、二日から、日をおいて、十三日までのが、鵠沼はかりであるのに、十六日と十九日のだけが田端であり、飛んで、二十五日のが、今うつした滝井に宛てた、鵠沼となっている。そうして、この滝井に宛てたのだけが、「鵠沼イの四号」となっていて、年号が「昭和」となっている。(この「イの四号」は、前に述べた、私がたずねた家であり、小穴の『二つの絵』の挿し絵に、略図まで書かれて、出ている家である。それから、この家は、田端の家とともに、《いや、田端の家以上に、》芥川の短かい生涯のなかで、大事だいじやくをつとめた家でもある。それから、大正十五年から昭和二年にかけての一年半程の間は、これ亦、芥川の短かい一生のうちで、重大な時期の一つである。)
[やぶちゃん注:宮坂年譜を見ると、十二月十三日に鵠沼(前年の四月から芥川の生活の拠点はここに移っていた)から田端に戻って、同二十二日夜、鵠沼に戻っている。宇野がこれから推理するのは、この原稿を書くために田端に戻るという口実が、『小さな家出』の秘密の決行準備として仕組まれたものだとするのであるが、私はこの時期の書簡と年譜を見ていると、この田端帰還には別の、隠された「準備」(それは『小さな家出』の中に、芥川が一つの選択肢として野々口との心中を考えていたかも知れない可能性と実は密接に繋がっている)が行われたのではなかったかという気がするのである。先に「二十」で見た通り、十二月十三日に芥川は精神科医斎藤茂吉に宛てて鴉片丸二週間分を田端の芥川宛で送ってくれるように依頼しており(十九日に薬到着の礼状を書いている)、また、田端では友人であると同時に主治医でもあった下島勲が十七日、十九日の夜に来訪、何れも夜九時過ぎまで話し込み、しかも二十二日は下島を連れだっての鵠沼帰還であった。実は鵠沼では前年六~七月より藤沢の医師富士山ふじたかしという医師が彼の主治医であったが、この富士医師は芥川が濫用に近く睡眠薬服用をしていることに批判的であった。それを考え合わせると、この田端帰還は、正に富士医師が処方してくれない睡眠薬やその他の薬物を斎藤や下島から手に入れるため――それは、もしかすると単品では致死に足りない薬物を総量的致死量分まで蒐集するため――であったとは言えないだろうか?]
 さて、前に書いた、芥川が、大正十五年の十二月の十六日と十九日に、田端から、出したのは、十六日のは、「中央公論」の編輯長の、高野敬録に宛てたものであり、十九日のは、佐佐木と斎藤茂書に宛てたものである。そうして、高野に出したのは手紙であり、斎藤と佐佐木宛てのは葉書である。
 この頃は『玄鶴山房』を書きしぶっていた時分であるから、芥川は、高野への手紙のなかにも、(これはずっと前に引いたが、)佐佐木と斎藤に出した葉書の中にも、「二時すぎまでやつてゐたれど、薄バカの如くなりて書けず、」とか、「中央公論はとうとう出来あがらなかつた、」とか、「中央公論は前後だけ出来て中間ちゆうかん出来ず、」とか、殆んど同じような文句を書いている。それから、十二月九日に、やはり、鵠沼から下島 勲に宛てた手紙の中に、「家へは新年は勿論、新年号の一部[これは『玄鶴山房』の大部分ならん]を書く為にもかへるかも知れません。こちらのことは御心配なく。それよりもどうか老人たち[註―義母と伯母とか]のヒステリイをお鎮め下さい。今度は力作[註―『玄鶴山房』ならん]を一つ書くつもりです、」というのがある。
 これらの手紙や葉書を出したつきや、これらの手紙や葉書の中の文句などを綜合して、臆測すると、芥川は、『小さな家出』を決行する前に、田端の自分の家に出入りしている下島に、「新年は勿論、新年号の一部を書く為にも……」というような文句を書いた手紙を出して、新年には必ず家に帰るようにほのめかしたり、鵠沼の寓居で監視しながら同居している妻に自分の決心を悟られるのを予防するために、十二月の十六日頃から十九日頃まで、原稿を書くのを口実にして、田端の自分の家に帰ったり、して、そのとしの十二月の末から翌年の一月一日まで、『小さな家出』をしたのであろう。
 ところで、昭和二年の一月一日まで『小さな家出』をしていた、とすれば、芥川は、一月二日には、田端の家に帰っていた、という事になる。
 ここで、又、書翰集の昭和二年の一月のところを開いて見ると、みな、田端から、となっていて、八日の野間義雄宛ての葉書の中にも、九日の宇野浩二宛ての葉書の中にも、十日の藤沢清造[註―芥川より年上で、不遇作家で、ずっと本郷の根津あたりに住んでいたが、不遇でありながら人に頭をさげない人であった。菊池 寛、久保田万太郎、室生犀星、その他と親しかったように思う。『根津権現裏』という長編を一冊のこし、たしか昭和の中頃、芝公園の中で餓死したが、行路病者と見られた。武田麟太郎はこの長編の愛読者であった。この本の題字は高村光太郎である。]宛ての葉書の中にも、十二日の佐藤春夫と南部修太郎宛ての葉書の中にも、十五日の伊藤貴麿宛ての葉書の中にも、殆んど同じような文句が書いてある。次ぎに、みな、短かいから、写してみよう。
[やぶちゃん注:「藤澤清造」(明治二十二(一八八九)年~昭和七(一九三二)年)は、小説家。出版社などで生活を支えつつ、大正十一(一九二二)年に「根津権現裏」を発表するが、昭和七年一月二十九日早朝に芝公園内六角堂で凍死体となって発見された。本作の『文学界』連載が昭和二十六(一九五一)年九月から翌年十一月、文藝春秋新社からの単行本化が昭和二十八(一九五三)年五月、宇野がこの時点で昭和七年を「昭和の中頃」と呼称しているのが面白い。]

 冠省 拙作をおよみ下されありがたく存じます。なほ又支那語の発音を御注意下されいよいよありがたく存じます。[中略]二伸 なほ又親戚にとりこみ有之はがきにて御免蒙り候(野間宛)
[やぶちゃん注:「支那語の……」が何れの作品を指すかは未詳。「野間」は野間義雄なる人物であるが、この人物も未詳。]

 冠省、先夜はいろいろありがたう。その後又厄介な事が起り、毎日忙殺されてゐる。はがきで失礼 頓首(宇野宛て)

 冠省 御見舞ありがたう。唯今東奔西走中。何しろ家は焼けて主人はゐないと来てゐるから弱る。右御礼まで。(藤沢宛て)

 冠省君の所へ装幀[註―随筆集、『梅、馬、鶯』の装幀。わたくし事、私も佐藤に、『恋愛合戦』の装幀をしてもらったことがある]の礼に行かう行かうと思つてゐるが、親戚に不幸出来、どうにもならぬ。唯今東奔西走中だ。右あしからず。録近作一首
  ワガ門ノ薄クラガリニ人ノヰテアクビセルニモ恐ルル我ハ[宇野いう、芥川はよく、ナニナニ流といって、人の歌風をまねたが、これはまったく茂吉流なり](佐藤宛て)              

 はがきにて失礼。御見舞ありがたう。又荷が一つ殖えた訣だ。神経衰弱なほるの時なし。毎日いろいろな俗事に忙殺されてゐる。頓首(南部宛て)

 冠省御手紙ありがたく存じます。大騒ぎがはじまつたので、唯今東奔西走中です。神経衰弱なほるの時なし。とりあへず御礼まで。頓首(伊藤宛て)

[やぶちゃん注:底本では、それぞれの末にある書簡クレジットの( )注記(表記通り、同ポイントで割注形式ではない)が、書簡文から改行されて、下インデントになっている。ここでは標記のように示し、各書簡の間に行空けを施して読み易くした。因みに老婆心ながら添えておくと、順にそれぞれ「野間義雄」「宇野浩二」「藤沢清造」「佐藤春夫」「南部修太郎」「伊東貴麿」宛てである。]

 先きに「殆んど同じような文句」と書いたのは、これらの葉書の中にあるように、親戚に、「とりこみ」「厄介な事」「不幸」が起こった事と、そのために「東奔西走中」という事と、神経衰弱がなおらない事と、――この三つである。
 この中の、親戚の『とりこみ』とは、芥川の姉の久子[葛巻義敏の母]の夫[義敏の父の死後再婚した人]の西川豊が、自宅が火災に遭ったのを、保険金を取るために放火をした、という嫌疑をかけられ、それを苦にして、鉄道自殺をした、という事件である。西川は弁護士であるが、西川が、嫌疑をかけられたという事で、どういう事情のために、自殺したか、その事情を、私は、まったく知らない、しかし、その西川の死骸を義弟になる芥川が引き取りに行った、といううな事を、誰からとなく、聞いたような気がする。『歯車』は、一つの小説であるから、事実の噓が、あり過ぎる程、書かれてあるかも知れないが、(あるにちがいないが、)『歯車』の中の『レニン・コオト』の終りの方に、「僕の姉の夫はその日の午後、東京から余り離れてゐない或田舎に轢死してゐた。しかも季節に縁のないレニン・コオトをひつかけてゐた、」という所がある。
[やぶちゃん注:義兄の弁護士西川豊(明治十八(一八八五)年~昭和二(一九二七)年)の事件を時系列で追っておく。なお、西川豊と新原久子の婚姻は大正五(一九一六)年で、久子は再婚で、先夫で義敏の実父である獣医葛巻義定[龍之介の実父新原敏三の経営する牧場に勤務していたことがある]とは明治四十三(一九一〇)年に離婚している(但し、西川没後の後年に久子と義定とは再び再婚している)。これらは正に直近の昭和二年一月上旬の出来事である(以下は主に鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一九九二年河出書房新社刊)のコラム「義弟西川の自殺」(一九二頁)及び当該箇所に写真で載る昭和二年一月八日附『東京朝日新聞』の記事などを元にした。記事は原文通りとした)。
〇一月四日
南佐久間町(現・港区西新橋)の西川豊の自宅が出火する。同日の調査により、時価約七千円の同家屋に対し、火事の前に帝国火災保険株式会社へ三万円(『東京朝日新聞』の記事には『一萬圓』)の保険をかけていたこと、火災現場の検証によって二階押入の二箇所からアルコール瓶が発見されたことの二点が明らかとなり、同日、放火の嫌疑を受けて取り調べを受ける。西川は否認(任意同行であると思われるが、西川が解放されたのは同日か翌日かは不明。火災から現場検証、嫌疑の発生と任意同行と取り調べという一連の出来事が同日内で終わるというのは考えにくいから、翌日の一時解放か)。
〇一月六日
西川豊が、午後六時五〇分頃、房総線土気とけ駅と大網駅間の千葉県山武さんぶ郡土気トンネル近くに於いて両国駅発下り列車に飛び込んで自殺。新聞記事によれば、彼は『放火の嫌疑をかけられたのを苦にし』て『六日の未明五時、遂に死を覺悟し、妻女久子の弟に當る文士芥川龍之介にあてた』『「重々御心配をかけて申し譯がないがこの度の出火につき一家の主人たるもの責任を問はれ、官權の壓迫に耐へかねて身の潔白をたてるため死を擇む覺悟をした、妻子の事はくれぐれも賴む」といふ意味の遺書を殘して家出し鐵路の露と消えたもので自殺の現場には遺書三通があつた』(繰り返し記号「〱」は正字に。草体「消江た」は「消えた」に変えた)。
〇一月八日(『東京朝日新聞』記事より)
大見出しは「放火の嫌疑から/弁護士の自殺/身の潔白を立てるため/文士芥川氏の義兄」とあり、西川の履歴、家族構成、前記の引用などの事件の経緯を記す。その後に「涙の夫人」と小見出しして、
右につき妻久子さんは涙ぐんで『四日の出火について最初漏電といふ事になつてゐたのににはかに警察側で放火の疑ひを起され元來小心の夫はそれを苦にして到頭死を決心した譯です、二人の子供がありますがいづれもまだ幼いものですから私等の前途は實にさびしいものですたゞ賴りとする弟があの通り病身で現在でも神經衰弱で病臥してゐる始末ですから、この度の事件を知らせるさへも心苦しい次第です』と語つた
とあり、最後に「驚く芥川氏/自殺とは意外」と小見出しして、
芥川龍之介氏は病氣で臥床中であつたが義兄の死について語る『まだ遺書は見てゐないからよく判らぬが義兄は私とは性格も趣味も非常に異つてゐるので年に一、二度位より逢つてゐません。西川君は実際家なので自殺をするのが寧ろ意外な位です、昨夜急な用事があるからたれか來てくれといつて來ましたから母を送り屆けたのでした母も向ふへ着いてはじめて知つたのでせう全く意外です
とある。「昨夜」は一月六日であろうから、この芥川龍之介の談話は一月七日田端自宅での採録と思われ、記事中の『母』とは同居している養母トモであろう。尚且つ、芥川龍之介は西川の現場にあったという遺書は勿論、家出の際の書置きも、この記者のインタビューの時点では読んでいないものと考えてよいであろう。この新聞画像記事自体、不学にして今回初めてちゃんと読んだのであるが、恐らく西川の現場に残した遺書の中の一通も芥川龍之介宛と思われ、何より出奔時の書置きが芥川龍之介宛であったことは初めて知った。芥川龍之介の受けた心傷を考えると想像を絶するものがあったろうと、考えを新たにしたし、更に言えば、芥川の姉久子が記者への談話中に、芥川龍之介の神経衰弱から病態にまで言及しているのには正直吃驚しもした(夫の自殺のインタビューに著名人である芥川龍之介のことを慮って語る姉久子の思いを考えると私は、彼女に如何にも傷ましいものを感じるのである)。なお、少なくともこの談話の時点での龍之介は義兄の否認を信じている印象であり、後も龍之介は、西川の放火疑惑は冤罪であったと考えていたのではないか、という可能性を私は抱いている。それは後に書かれる「河童」に、次のような箇所が出現するからである(引用は私の「河童」テクスト)。

 「この國では絞罪などは用ひません。稀には電氣を用ひることもあります。しかし大抵は電氣も用ひません。唯その犯罪の名を言つて聞かせるだけです。」
 「それだけで河童は死ぬのですか?」
 「死にますとも。我々河童の神經作用はあなたがたのよりも微妙ですからね。」
 「それは死刑ばかりではありません。殺人にもその手を使ふのがあります。――」
 社長のゲエルは色硝子の光に顏中紫に染りながら、人懷つこい笑顏をして見せました。
 「わたしはこの間も或社會主義者に『貴樣は盜人だ』と言はれた爲に心臟痲痺を起しかかつたものです。」
 「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或辯護士などはやはりその爲に死んでしまつたのですからね。」

なお、この見解は私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』でも既に示してある。但し、岩波新全集の人名解説索引によると、西川はそれ以前に『偽証教唆の罪で失権、市ヶ谷刑務所に収監された』ことがある旨の記載があり、彼は当時、この偽証罪の執行猶予中の身であった(芥川龍之介「齒車」の「二 復讐」や芥川龍之介「冬と手紙と」を参照)という弁護士西川豊という人物評価のマイナス要因ともなる事実は、事実としてここに提示しておかねばなるまい。芥川龍之介はこれ以後、三月頃まで、亡き義兄家族の生活問題[久子には先夫との間の葛巻義敏と妹左登子(それぞれ当時、満で十八歳と十七歳)、豊との間に瑠璃子・晃(それぞれ十一歳と九歳)の四人の子がいた]、豊の死後に発覚した残された高利の借金の後始末、疑われた火災保険及び自殺した豊の生命保険の問題等で文字通り、『東奔西走』せざるを得なかったのであった。]
 この義兄の変死と、たしか、その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死と、――この二つの死が、芥川の自殺の幾つかの原因の中の一つである。
[やぶちゃん注:「その前の年の、義弟[これは芥川の妻の弟]の死」は宇野の大きな錯誤。芥川が才能を高く評価していた文の弟塚本八洲の没年は、芥川龍之介自死の遙か後の、昭和十九(一九四四)年である。]
 ところで、『歯車』の中の、やはり、『レエン・コオト』の中に、

……往来の両側に立つてゐるのは大抵大たいていおほきいビルデイングだつた。僕はそこを歩いてゐるうちにふと松林を思ひ出した。のみならず僕の視野のうちに妙なものを見つけ出した。妙なものを――と云ふのは絶えずまはつてゐる半透明の歯車だつた。僕はかう云ふ経験を前にも何度か持ち合せてゐた。歯車は次第に数をやし、半ば僕の視野をふさいでしまふ、が、それも長いことではない、暫らくの後には消え失せる代り今度は頭痛を感じはじめる、れはいつも同じことだつた。眼科の医者はこの錯覚(?)のため度々たびたび僕に節煙を命じた。しかしかう云ふ歯車は僕の煙草にしたしまない二十はたち前にも見えないことはなかつた。僕は又はじまつたなと思ひ、左の目の視力をためすために片手に右の目をふさいで見た。左の目ははたして何ともなかつた。しかし右の目のまぶたの真には歯車が幾つもまはつてゐた。僕は右側のビルデイングの次第に消えてしまふのを見ながら、せつせと往来を歩いて行つた。

というところがあるが、右の一節の中に「眼科の医者はこの錯覚(?)のために……」という、この「錯覚(?)」は、『錯覚』ではなく、『幻覚』である、というのは、『錯覚』とは、英語でいうと、illusion であるから、主観的なものと客観的なものと二種あって、例えば、白衣を幽霊と誤認するようなのが主観的なものであり、正方形の物を長方形の物のように感じるのが客観的のものであるから、共に、その刺戟は外界にある、つまり、何の刺戟もなくて起こる『幻覚』とはまったく性質がちがい、そうして、『幻覚』とは、英語でいうと、hallucinationであるから、やはり、知覚ではあるが、感覚器官が、外部から何の刺戟をうけることがないのに、誤って、外界に実物があるように知覚するからである。
 つまり、『歯車』の中の一節である、右に引用した文章の中で、作者の芥川は、「錯覚(?)」と書いているが、これは、『錯覚』ではなく、はっきり、『幻覚』である。『幻覚』とは、幻視、幻聴、幻触、幻味、幻齅、その他の事である。そうして、『幻覚』は精神病者の感じるものである。されば、『歯車』の主人公の「僕」は、神経衰弱にかかっている人であるが、それ以上に、精神病者である、という事になる。

 もし、その時分の芥川が、神経衰弱がしだいにひどくなって、精神病者になっていた、とすれば、いや、はっきり精神病者になりつつあった芥川が、死ぬ前の年あたりから、死ぬとし(つまり、昭和二年)の上半季かみはんきまでのあいだに、『海のほとり』、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、『歯車』、『或阿呆の一生』、その他のような作品を書いたのは、天晴あっぱれであり、見事であり、壮烈と称したい程である、それは、それらの作品の中には作者が必死の努力をして書いた事がまざまざと分かる物があるからだ。(そうして、その一つの例が『歯車』である。)
[やぶちゃん注:ここで宇野浩二に悪いが、はっきりさせておきたいことがある。私は芥川龍之介を宇野が言うような重篤な精神病者であるとは全く(殆ど全く)思っていない。近年の研究では芥川龍之介を統合失調症と断定する病跡学者がいるが、私はせいぜいノイローゼか強迫神経症のレベルであったと思う。統合失調症の状態で、まさに宇野が讃嘆する通り、あの『天晴であり、見事であり、壮烈と称したい程』の緻密に計算された全く破綻のない名作群を持続的に書き続けることは不可能に近いと思われるからである。まず、ここで宇野が鬼の首を取ったように『幻覚』『幻視』とし、芥川を真正の重い『精神病者』と断定している「歯車」に描かれた視覚異常であるが、これは既に眼科の専門医によって(私は十代の頃、この方の論文を直に読んでいる)、実は単純で問題のない閃輝暗点であることが明らかにされている。この症状は主にストレスによって脳の視覚野の血管が一時的に収縮を起こすことで発生するものとされており、稀な症状でさえないものなのである。さて、しかし――私が寧ろ、ここで言っておきたいことは、
宇野浩二が――ワトソンのように即物的証拠から『精神病者』というとんでもない誤った推理をしているという事実への批判しよう――
というでは、ない。
宇野自身が――芥川龍之介を、何が何でも、重篤で致命的な回復可能性のなかった末期的精神病患者に仕立て上げないでは済まない、という、それこそ極めて異常な思い込みや執念の中にいる――
ということが、問題なのである。そうして、
その「異常さ」に宇野自身、全く気付いていない
ということを問題にしたいである。私は宇野が梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患によって(マラリア療法の副作用による脳変性の可能性を含め)、その予後に、ある種の偏執質(パラノイア)的性格に変容(若しくは「を附加」)するに至ったのではないかと深く疑っているということである。ここまで私と宇野浩二「芥川龍之介」に付き合って来た読者は、既に気づいておられると思うが、宇野の文体はその読点の打ち方の異常な結節性を示しており、自覚的ながらも必要以上に同一内容を偏執的に繰り返し書き、物品や人に限らないあらゆる対象を執念深く分類等級貴賤化する嗜好を示している。私は宇野の限りない芥川への友情を感じながらも、時に、その宇野の眼の底にこそ、慄っとするモノマニアの冷たい輝きを見る気がするのである。他者を「精神異常だ!」と連呼する者は、まず連呼する本人の精神の異常性を疑ってかかる必要がある、ということだけは言っておきたいのである。以下、そうした(私からは)異常と感じられる芥川龍之介精神病者断定叙述が増えるが、ここで述べて終わりとする。]

 芥川が、新規蒔き直しのつもりで、先ず保吉物をつぎつぎに書き、『大導寺信輔の半生』と書いて行って、自ら失敗と感じ、小説の道に行き暮れた思いをしたあとで、やっとたどりついたのが『海のほとり』[大正十四年八月]である。しかし、『海のほとり』は、十年ほど前に、久米と房州の一の宮の海岸に避暑をした時の思い出を、小説風に書いたもので、ただの小品文であるが、芥川としては珍しく飾りのない素直な文章で書かれてあって、否味いやみがなく、強弁すると、これが、後の、『年末の一日』、『点鬼簿』、『蜃気楼』、その他の、筋のない小説のもとになり、芥川がこの種類の小説を書く動磯にもなった。
 ところで、この小品の終りの方で、芥川は、日の暮れに、四人の人にあるきながら話をさせて、海蛇がいるかいないか、という話から、ながらみヽヽヽヽ[註―にしの一種]取りの話をさせる。ながらみヽヽヽヽ取りは、沖の方へ泳いで行って、何度も海の底に潜るから、もしみおに流されたら、十中八九は助からない。――というような話から、ながらみヽヽヽヽ取りの幽霊が出たという噂があったが、……という話が出て、それは幽霊ではなかったが、「幽霊が出るつて言つたのは磯つ臭い山のかげの卵塔場でしたし、おまけにその又ながらみヽヽヽヽ取りの死骸は蝦だらけになつてあがつたもんですから、気味悪がつてゐたことだけは確かなんです、」という話が出る。そうして、結局、それは、海軍の兵曹あがりの男が、宵のうちから卵塔場に張りこんでいて、幽霊の正体は、そのながらみヽヽヽヽ取りと夫婦約束をした、町の達磨茶屋だるまぢややの女、とわかり、「唯毎晩十二時前後にながらみヽヽヽヽ取りの墓の前へ来ちや、ぼんやり立つてゐただけなんです、」というのがオチである。
[やぶちゃん注:「ながらみ」腹足綱古腹足目ニシキウズガイ上科ニシキウズガイ科キサゴ亜科サラサキサゴ属ダンベイキサゴUmbonium giganteum。沖縄を除く全国の沿岸砂底に棲息する蝸牛型の巻貝。殼幅は四十センチに達し、キサゴ類では最大種。相模湾では一般的に茹でて食用に供され、関東の市場では「ナガラミ」「ナガラメ」と呼称する。光沢のある綺麗な貝で貝殻は玩具(おはじき)や装飾品とした。和名の「だんべい」とは舟荷専用の大きな川船のことで大きいことを、「きさ」とは表面の木目模様のことを言うか。
「達磨茶屋」は私娼を置いた専ら売春行為が目的の茶屋のこと。語源は、寝ては起きて起きては寝ることのよる。]
 しかし、久米のいう、「変な鬼気」のようなものが晩年の芥川の作品に最初に出たのは、この『海のほとり』の中の、「ながらみヽヽヽヽ採りの死骸は蝦だらけになつて、……」というところで、この文句には、『鬼気』という程のものは感じられないけれど、何とも云えぬ、不気味ぶきみさがただようている、大形おおぎょうに云えば、何ともいえぬ妖気のようなものが漂うている。そうして、この時分から、この妖気のようなものが、芥川の身に附きまとい、芥川の作品に漂うようになった。しかし、又、このころから、芥川の文章が、気味わるいほど、澄んできた、冴えてきた。

 HやNさんにわかれた後、僕等は格別いそぎもせず、ひえびえした渚を引き返した。渚には打ち寄せる浪の音の外に時々澄みわたった蟬の声も僕等の耳へ伝はつて來た。それは少くとも三町は離れた松林に鳴いてゐる蟬だつた。

 これは、『海のほとり』の終りの方の一節であるが、それほどすぐれた文章ではないけれど、この時分までの芥川の作品の文章とくらべると、かなり違っている。簡潔で、技巧が目立たなくなっている。しかし、蟬の声の聞こえるところなどは、やはり、例の凝りに凝った『技巧』が感じられる。しかし、全体を見れば、素直に書かれているが、結局、『海のほとり』にはまだ幾らか物足りないところもあった。
 ところが、この小品より四つきぐらい後に出た『年末の一日』は『海のほとり』とくらべると、面目一新という観があった。それは、『海のほとり』が十年ほど前の思い出を題材にし、『年末の一日』がその時分の事を書いたためであろうか。それもある。が、そればかりではない。芥川の気もちが、しだいに切迫してきて、自分に即するものを、自分の身についたものを、書きたくなったのである、書くようになったのである。
 しかし、一方、芥川の健康は、しだいに、わるくなるばかりであった。
 その頃の芥川は、やがて滝つ瀬となる急流に、その滝つ瀬にしだいに近づいて行く急流に、船にさおさす人であった。
 こういう状態の中で、『年末の一日』、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『歯車』その他の作品が、つぎつぎに、まれて出たのである。
 さて、『年末の一日』は、八九枚の小品で、書かれてある事は、「年末、ある新聞社の人を案内して夏目先生のお墓まゐりをしたところ、どう道を間違へたか、行けども行けどもお墓のまへに出なかつた。墓掃除の女に訊いたりして、結局はわかつたものゝ、その時はもうあぐねつくし、疲れ返つてゐた。そのあとその連れとわかれ、一人ひとりとぼとぼした感じに田端まで帰り、墓地裏の、八幡坂まで達したとき、たまたまそこに、その坂を上りなやんでゐる胞衣会社の車をみ出した。自分のその萎えた気もちを救ふため、無理から力を出し、ぐんぐんとその車のあとを押した」というだけの事である。(この荒筋は、久保田万太郎の『年末』という文章の中から、そっくりそのまま、借用したのである。何とうまいものではないか。)
 大体これだけの筋の物で、最後の、胞衣会社の車の後押しをするところだけが異常であるだけで、至って平凡な話である。常識的な云い方をすれば、他の作家がこういう話を書けば、問題にもなにもならぬ作品である、もっとも、大ていの作家はこういう話は書かないであろう、という事にもなる。ところが、異常で鋭敏な神経の持ち主になっていた芥川は、こういう有り触れた事を書いて、妙に人の心を打つ小品にした、芥川の心と目が異様に鋭くなり、文章が生き生きしてきたからである、というより、芥川の異常な心が文章に通うようになったからである。(わたくし事を云うと、この小品の終りの方の、「……庚申堂を通り過ぎると、人通ひとどほりもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先つまさきばかり見るやうに風立つた路を歩いて行つた、」などというところを読むと、私が、芥川をたずねる時、その前を通った、庚申堂も、目に浮かび、更に、いくらか猫背であつた芥川が、痩せさらぼうた芥川が、癖で、いくらか俯向き加減に、その頃は場末であった、動坂の裏町を、師走しわすの夙に吹かれながら、蹌踉そうろうと、あるいている姿が、おのずから目に浮かんできて、これを書く私の目に涕が浮かんでくるのである。――それはそれとして、この一節などは実にうまい。)
 ところで、この『年末の一日』の中で、目のある批評家も、理解の深い人も、もとより、一般の人が、申し合わせたように、賞讃する、最後の、

 北風は長い坂の上から時々ときどきまつすぐに吹きろして来た。墓地の樹木じゆもくもそのたびにさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗うすくらがりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。

というところが、私には、やはり、芥川が、見得を切っているように、思われるのである。そうして、見得を切っているとすれば、仮りに、この小品(『年末の一日』)を芝居とすると、この「見得」は九十パアセントぐらいの舞台効果をげている。
 ところで、ここまで書いて、ふと、この小品を芥川が大正十四年の十二月の初めに書いた事を考えて、私は、ペンをおいた。芥川が、その日常生活に於いて、(は、もとより、)その作品の中でも、しばしば」見えを張ったり、見得を切ったり、する事が、私のあたまにこびりついているので、この『年末の一日』の最後の一節も、さきに引いた『海のほとり』の中の一節も、芥川の見得(あるいは、技巧)ではないか、と、私は、考えたのであるが、この『年末の一日』の最後の一節の中の「まるで僕自身と闘ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた、」という所は、事実は噓であったとしても、これは、その頃の芥川の心境が、おのずから、象徴されたのではないか」――と、ペンをおいた私は、考えなおしたのである。そうして、もしこれがあたっているとすれば、北風がときどき吹きおろしてくる長い坂を、痩せ衰えた芥川が、『東京胞衣えな会社』と書いた箱車のあとを押しながら、がって行くのである、――これは、云う迄もなく、さきに述べたように、芥川の心境の象徴であろう、が、何という痛痛いたいたしい象徴であろう。
[やぶちゃん注:この、『東京胞衣会社』の箱車が見得を切るための仮構であったか体験的事実であったかという拘りについて、以下の文で宇野は久保田の引用を以って仮構であったと採っている。こうした宇野の悪意ではないがものの、何とも不快な勘繰りや合点に対して、既に私の電子テクスト「年末の一日」の後注で述べものたが、ここでもそれについて注せずにはおれない。諏訪優氏の一九八六年踏青社刊「芥川龍之介の俳句を歩く」の中で、この箱車について興味深い考察をしている。即ち、一般に芥川はこの後押しする箱車に書かれた文字を何度も書いては消しして、考え抜いたに違いなく、そこに芥川らしい、文章に凝る面目があると褒める人が多い。しかし、これは実際に経験したことをありのままに書いたに違いないと私(諏訪氏)は信じるようになっている、として以下のように叙述されているのである(なお、諏訪氏は「芥川龍之介の俳句を歩く」執筆当時、田端に在住していた)。
 《引用開始》
と言うのは、同じ坂を登り下りし、このあたりの、今はないもろもろの路地を知ってたずねたりしているうちに、この八幡坂を登り芥川家の方へ右折して(坂から芥川家までは三、四分)その先を田端駅裏口へ出る崖の上に、東京胞衣会社の処理場(塚)があって、胞衣神社というちいさな社が実際にあったからである。
 胞衣は出産の際に出る廃棄物で(いわゆる水子も含まれていたと想像する)、当時はそんな処理の仕方をしていたようである。
 大正十四年の年末の心象風景を現実の田端のわびしさに重ねて成功したこの小品の決手のひとつ〝東京胞衣会社〟は、期せずして八幡坂上のそこにあったことをわたしは信じて疑わない。
 《引用終了》
とし、以下にその胞衣神社について、東京胞衣会社が経営していた事実などを考証、最後に御自身による踏査によって、『芥川龍之介が胞衣会社の箱車を押した坂は八幡坂ではなく東覚寺坂である。(「年末の一日」のその部分は「庚申堂」を通り過ぎ、「墓地裏の八幡坂の下」で箱車に出会う、から)道筋から言って東覚寺坂である』と記されている。『文学の鬼』宇野が自分の記憶と如何にもロマンティックにダブらせつつ、それでも見得を切るために「異常な」箱車を芥川は「いつものように」仮象として出現させたのだ、と言っている(宇野はこの箱車を押したことは「本当の話」とするが、それは特に以下で引用する佐々木の証言から東京胞衣会社ではなかったという例によって『鬼の首を取った』解釈をしているように思われる)と、この諏訪氏の堅実な冷徹な考証と――私は諏訪氏こそ真に鬼の眼を持った作家である、見鬼である、と言いたい。
更に、最後に一言言わせてもらえば、「年末の一日」は宇野の言う通り、『他の作家がこういう話を書けば、問題にも何もならぬ作品であ』り、作家として安泰に生きて行こうとする『大ていの作家はこういう話は書かない』なんてことは言わずもがなな物言いである。芥川龍之介が自死せずに戦後までずっと生きていたと仮象してみればよい。「年末の一日」は、凡そ芥川龍之介の名作として残るはずが――絶対に、ない――のである。芥川龍之介が自死を覚悟しつつ本作を書き、その自死を確かに貫徹したことによってのみ、本作は名作となったのである。本作は芥川龍之介の自栽へと向かう孤独な死の道程の道標として生きたのである。いや、本来、我々の綴る作物とは、その濃淡は激しいものの、実にそういうものを何処かに内包しているものなのではあるまいか(私はそれこそが正に「文章が生きている」ということなのだと信ずるものである)。少なくとも名作とされるものは、作者の生と裁ち難く有機的に結びついているものである。だから『文学の鬼』宇野にして、こうした凡百自称文士的発言をするのは、残念なことに、読んでいて虫唾さえ走るのである。彼が確かに芥川龍之介の直近にあって彼を深く愛していたればこそ、この場面での論理的な無理解や絶望の意識への感受性の共時性のなさには、私は何とも言えず、哀しい思いが、してくるのである。]
 ところが、芥川の『或阿呆の一生』について、「最後まで美しく扮装しつづけた、」と云い、「逐に本音を吐かず、自分をむき出しにすることなしに終つた、」と述べた、[以上は、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』で知った。――が、私も、この久保田の説に半分以上同感である]、久保田万太郎が、『年末の一日』について、先きに私が引いた、最後の一節を引用して、そのあとに、つぎのように、書いている。
[やぶちゃん注:私は1/3位同感である。]

 そして、この作[つまり、『年末の一日』]は、かうした哀しい結尾[さきに引いた最後の一節]をもつてゐる。
 十枚にもみたないであらう小品だがわたしの好きな作である。好きといふ意味はいつまでも心に残つていとしい作である。大正十四年十二月の作だから、これを書いたあと、間もなく、かれは、「点鬼簿」「玄鶴山房」を経て「河童」、を書いたのである。そして、そのあと、かれは死んだのである。……ことによると、このとき、……すでにこの時それを意識してゐたかれだつたかも知れないのである。でなくつては、「……闘ふやうに一心に箱車を押しつゞける」かれのすがたはあまりにみじめである。曇つた空の下、ふきすさぶ風の中、どうしたら自分をはッきりつかむことが出来るか、どうしたらかれ自身その存在をたしかにすることが出来るか?……泣かうにももう涙の涸れた瀬戸の、空しい眼をあげてたゞ遠いゆくてをみまもるかれの頰のいかに蝮の如く冷めたかつたことよ……
 しかも、かれは、かれ自身この苦しみを飽くまではッきりさせようとした。飽くまでたゞしく伝へようとした。わたしはこれをその当時「新潮」の編輯をしてゐた佐々木千之君に聞いた。その八幡坂を上りなやんでゐた車、かれの力のかぎりをつくしてそのあとを押した箱車の、その横に広いあと口に東京胞各会社の数文字を書くまで、幾度その一行を書きかへたか知れないのだつた。胞衣会社の箱車をえてはじめてかれはかれ自身納得なつとくしたのである。……わたしはこれを聞いたとき、身うちの冷え切るのを感じた。
[やぶちゃん注:「佐々木千之」(明治三十五(一九〇二)年~平成元(一九八九)年)は作家・出版人。大正一三(一九二四)年『新潮』の記者となり、同郷作家葛西善蔵と親交を持つ。後に小学館に勤務、作家としては「和井内貞行」「間宮林蔵」などの伝記作品を手掛け、昭和十八(一九四三)年には畏友の晩年を綴った「葛西善蔵」を刊行した(青森県近代文学館の記載を参考にした)。]

 これを読んで、魯鈍な私は、いろいろな事を学んだ。まず、芥川が、八幡坂を箱車を押したのは本当の話で、その箱車をなんの箱車にしようか、と思って、それを「東京胞衣会社」とめるまでに、それだけに、何度も何度も書き改めたことを知って、重いつらい病気にかかりながら、然程さほどまでの苦労をしたのか、と、私は、感激しながら、詫びる心を兼ねて、芥川に、あたまげた。それから、『名匠は名匠を知る』というか、久保田が、芥川の苦心に、深い同情と理解のこもった文章を書いているのを読んで、久保田も、亦、芥川ような苦心をする人にちがいない、と、思って、私は、又、感激したのである。
 しかし、結局、私は、『年末の一日』を、久保田がめる程には、買えない。

 ここで又、ちょっと寄り路する。これも、前に、引いた事があるが、大正十四年の十二月一日に、芥川が、私に、つぎのような便たよりを、よこしている。

 朶雲奉誦新年号出来しや上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ君が小説と小品との別を云々したから僕が「私」小説論私見を書いたと言ふ藤森[成吉ならん]の説には驚いたねああなるととてもかなはん僕は兜をぬぐ

この芥川の便り[註―前にも書いたが、私は芥川の手紙やはがきは一つも持っていない、書簡集を見て、こんなのがあったのか、と思う程である]の中の、私が「小説と小品との別を云々」というのは殆んど全く覚えていないが、今、察するところ、大正十四年十二月一日、と云えば、芥川が『海のほとり』その他を発表したあとであるから、私が、『海のほとり』は、小説ではない、小品である、とでも、書いたのであろうか。もしそうだとすれば、私は、前にしばしば述べたように、『海のほとり』、『年末の一日』『悠々荘』、『蜃気楼』、その他は、小説ではない、小品である、と、今でも、思っている。
[やぶちゃん注:今回の注は長くなる。御覚悟の上、お読み頂きたい。
「藤森[成吉ならん]」は宇野の誤りと思われる。この「藤森」について、筑摩書房全集類聚版脚注では藤森淳三とする。藤森淳三(明治三十(一八九七)年~昭和五十五(一九八〇)年)は小説家・評論家。横光利一らと同人雑誌『街』を創刊、雑誌編集者をしながら作家活動をした。小説集『秘密の花園』童話集『小人国の話』などがある。この「藤森」も芥川龍之介の批評という点から考えて、高い確率で彼と考えてよい。実は藤森淳三と宇野と芥川絡みでは、芥川龍之介の大正十二(一九二三)年三月の『新潮』に載る「色目の辯」に、非常に興味深い叙述が現れる。以下に引用する(底本は岩波旧全集を用いた)。

 新潮二月號所載藤森淳三氏の文(宇野浩二氏の作と人とに關する)によれば、宇野氏は當初輕蔑してゐた里見弴氏や芥川龍之介に、色目を使ふやうになつたさうである。が、里見氏は姑く問はず、事の僕に關する限り、藤森氏の言は當つてゐない。宇野氏も色目を使つたかも知れぬが、僕も亦盛に色目を使つた。いや、僕自身の感じを云へば、寧ろ色目を使つたのは僕ばかりのやうにも思はれるのである。
 藤森氏の文は大家たる宇野氏に何の痛痒も與へぬであらう。だから僕は宇野氏の爲にこの文を艸する必要を見ない。
 しかし新らしい觀念(イデエ)や人に色目も使はぬと云ふことは退屈そのものの證據である。同時に又僕の恥づるところである。すると色目を使つたと云ふ、常に溌剌たる生活力の證據は宇野氏の獨占に委すべきではない。僕も亦分け前に與るべきである。或は僕一人に與へらるべきである。然るに偏頗なる藤森氏は宇野氏にのみかう云ふ名譽を與へた。如何に脱俗した僕と雖も、嫉妬せざるを得ない所以である。
 かたがた僕は小閑を幸ひ、色目の辯を艸することとした。

「委す」は「まかす」、「与る」は「あづかる」と訓ずる。芥川龍之介は座談会などで藤森淳三と同席しているが、その抜粋録などを読むと、実際には彼とは肌が合わなかったのではないかという感じがする。因みに、大正十一(一九二二)年八月四日附佐佐木茂索宛書簡(岩波旧全集書簡番号一〇六三)末尾には、『藤森淳三 僕論を書くと云ふ 行為は感佩するが書いて貰ひたくない 僕は毀譽とも頂戴せずに文章を作つてゐたいのである 頓首』と記す。これは好意を持っている人物への物謂いとは、私には思われない。
「上海游記の事、君に関する分だけ読んでくれ給へ」これは「上海游記」の「十九 日本人」の以下の部分を指す(リンク先は私の注釈つきテキスト。以下の注もその私自身の注を加工した)。

上海の日本婦人倶樂部クラブに、招待を受けた事がある。場所は確か佛蘭西租界の、松本夫人の邸宅だつた。白い布をかけた圓卓子まるテエブル。その上のシネラリアの鉢、紅茶と菓子とサンドウイツチと。卓子テエブルを圍んだ奧さん達は、私が豫想してゐたよりも、皆温良貞淑さうだつた。私はさう云ふ奧さん達と、小説や戲曲の話をした。すると或奧さんが、かう私に話しかけた。
 「今月中央公論に御出しになつた「鴉」と云ふ小説は、大へん面白うございました。」
 「いえ、あれは惡作です。」
 私は謙遜な返事をしながら、「鴉」の作者宇野浩二に、この問答を聞かせてやりたいと思つた。

「松本夫人」は本文以外のことは不詳。芥川龍之介書簡宛名には「松本」姓で該当人物と思しい人は見えない。「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。しかし乍ら、試みにこの英名を調べてみたところ、面白いことに余りに美しすぎて他の花が売れなくなるから(であろうか)、“Cineraria”という語は“cinerarium”、「納骨所」の複数形で、「死ね」に通底するところの“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった。『「鴉」』既にお分かりの通り、芥川龍之介の作品ではなく、宇野浩二の小説。私は未読なので作品内容は不明。松本夫人が誤ったのは大正十(一九二一)年四月一日発行の「中央公論」で、この宇野浩二の「鴉」の後に芥川龍之介の「奇遇」が掲載されているためであろう(「鴉」の注については筑摩書房全集類聚版脚注及び岩波版新全集の神田由美子氏の注解に拠った)。
「君が小説小品との別を云々した」既に読者は、この宇野の謂いを何度も眼にしてきた。ここで是非、注しておきたいと思う。これは極めて重要なことである。まず、この書簡で、
《芥川が言っている「小説」と「小品」との区別》
は、実に一般的に知られるオーソドックスな謂いと考えてよい。則ち、――
「小説」はモデルや作者の実体験が含まれている場合があるにしても、その主要な核心部分は技巧的に脚色された、話者の主体の人称に関わらず、創作されたもの
であり、
「小品」とは多少の潤色はなされていても、アウトラインが作者の実体験に基づいたもので(則ち所謂、「私小説的なる」もので)、尚且つ、必ず短篇に限る
という主に内容に基づくものである(例えば、芥川龍之介の作品を例にとると、「河童」クラスの原稿量を持つ作品は、その内容如何に関わらず(完全な実体験であったとしても)、「小品」とは呼ばない、ということである。確かに「河童」を小品と呼ぶ人は少ないであろう)。なお、この「小品」の一般的見解は、「小品」が「小品文」に由来するからである。「小品文」は、例えば「大辞泉」には、①として、
「日常生活で目に触れた事柄をスケッチふうに描写したり、折々の感想をまとめたりした、気のきいた短い文章。小品。」
とあり、②として、
「中国で、明代中期以降行われた短い評論・随筆・紀行文などの総称。」
とある(やや不審なのは①が原義ではなく、②からの派生と見えるのだが、天下の辞書がこう書くということは、①は②と無縁であり、その内容的類似は偶然だということであろう)。辞書的にもこれらの区別に何らの違和感も私は感じない。こんなくだくだしい分かり切ったこと(私は「分かり切った」とは思っていないが)を記したのは、実は、
《宇野の言っている「小説」と「小品」の区別》
は、今までの宇野の叙述から、実はその『決定的な差』は、そのような内容とは無縁な単純な判断基準に基づくものではないか、則ち、宇野の謂いは一般的な考え方と異なっているのではないか、と疑っているからである。宇野の謂いをよく確認されるとよい。彼は常に、異常なまでに、『物理的な原稿量』を偏執的に数えている事実に気がつくはずである(私はこれを宇野の異常な要素として先の注で正に「数えた」のだが、それにはここでは言及しない)。則ち、宇野にとっては、
一定以上の原稿枚数を持つ、所謂、「中編」以上(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の「河童」である――但し、宇野が「河童」を「小説」=「本物の小説」と考えているかどうかとは別問題である――)の物理的枚数を持つ「創作物」だけが「小説」である
ということである。そして、
完璧な創作であろうが、実体験まんまの叙述であろうが、一定枚数以下(その原稿量は特定できないが、例えば芥川龍之介の純然たる「評論」以外の――何を以って「評論」と言うか自体も無意味な区別と私は考えるが――殆ど総ての作品群)は総て「小品」
なのである。但し、宇野に怒られると困るからお急ぎで補足すると、勿論、
「小説」はただ量なのではなく、内容も、その胆の部分に宇野が(これも宇野だけにしか分からないのだが)「創作性がある」と判断するものは(ここが肝心だが「創作性の高い」「作り事」では断じてないのである。宇野の初期作品はその多くの部分が彼の実体験に基づいている)「小説」である
が、宇野にとってはそういう
「本物の小説」(これも多分、宇野だけに分かる、宇野が誰にも譲れない絶対条件である)というものは絶対に最低、中編以上の原稿量になる、たとえ物語性や創作性が強くても短篇では「本物の小説」は創れない、短篇は悉く「小品」でしかなく、「小説」ではない
と宇野は暗に言っているのだ、と私は思うのである。間違ってはいけないのは、宇野のそれは私小説か非私小説かを問題にしていない、ということである。これは引用された書簡から芥川龍之介自身も同じ立場を実はとっていることが分かるということも押さえておかねばならぬ。そもそも宇野の初期作品は悉く私小説「風」である(「風」としないと宇野先生は絶対に怒る。彼は「文学史的」には私小説作家の代表のように語られているが、彼は、自分は「小説」を書いているのであって「私小説」なんどというへんてこりんなものを書いているのではない、という点に於いて、正に内心、『小説』の『鬼』と自負されている、と私は信じて疑わないからである)。
――いや、そんなことはどうでもいい――
実は以上の「小説」と「小品」への宇野の拘りは、
一つの宇野の言葉にしない芥川龍之介への見解
を、暗に物語っているものなののではなかろうか? 則ち、
芥川龍之介の書いたものは、その殆どすべてが、その分量に於いて、当たり前の如く、中編以上であることを絶対的属性とする「小説」ではない
と言いたいのではないか? 言い換えれば、
芥川龍之介は短い「物語」の作家であり、短いことを絶対的属性とする「小品」作家である/しかない/しかなかった
という宇野の中に隠された、正直な感懐を、である。それは『小説の鬼』宇野浩二にして、実は芥川龍之介に対して、この場(この「芥川龍之介」という評論を書いている現在時制)に至っても
――表立ってはやっぱりはっきり言えない――しかし正直なところの印象――
であった、のではあるまいか? いや
――それを表だって言うことなく、ここまで、これだけの芥川龍之介へのオードを書き進めることの出来る宇野浩二という男――
――彼は確かに正しく芥川龍之介を愛している――
そうして、
――正しく自身の信じ殉ずるところの、「小説」というものの、正に『鬼』であった――
とも言えるのではあるまいか?]

 さて、『海のほとり』、(『尼提』と『湖南の扇』とは、私は、取らない、)『年末の一日』、『春の夜』、と、書きつづけて来て、芥川は、これまでの作品とまったく違った、『点鬼簿』を書いたのである。
『点鬼簿』は、やはり、小説ではないけれど、芥川の全作品の中でもつとも重要な作品である。
 点鬼簿とは、俗にいう過去帳であり、過去帳とは、いうまでもなく、死人の、法名、俗名、死亡年月日などを書き止めておくものであり、鬼籍、鬼簿、鬼神簿、などとも云うが、芥川は、それらの中から、『点鬼簿』というのを、選んだのである。しかし、どれを選んでも、『鬼』という字は附くのである。)
『点鬼簿』は、めずらしく、芥川が、真剣になって、書いている、極言すれば、芥川の全作品の中で、もっとも真剣になって、書かれた作品の一つである。『大導寺信輔の半生』のなかでは、唯、「信輔は母の乳を吸つたことのない少年だつた、」と、書いているだけであるが、この作品では、いきなり「僕の母は狂人だつた、」と、書いている。
 大正十五年の九月の初め頃、鵠沼の寓居で、極度の神経衰弱(というより、精神病)にかかりながら、頭脳は冴え切っていた芥川が、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」と、書き出すのに、書きはじめるまでに、いかにくるしい思いをしたであろうか。
『点鬼簿』の㈠の中に、こういう所がある。

……何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなりあたま長煙管ながぎせるで打たれたことを覚えてゐる。しかし大体僕の母は如何にももの静かな狂人だつた。僕や僕の姉などにいてくれと迫られると、をりの半紙に画を描いてくれる。画は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水絵みづゑ行楽かうらくの子女の衣服だの草木くさきの花だのになすつてくれる。唯それ等の画中ぐわちゆうの人物の顔はいづれも狐の顔をしてゐた。

 この母は、芥川の十一歳の年に、なくなったから、この話は、芥川の七八歳の事であろうか。いずれにしても、いきなり長煙管で頭を打つところ、もの静かな狂人が、子女の行楽(子女の行楽である)のくところ、それを、墨だけでなく、ちいさい娘の水絵具をつかって、それを行楽の子女の衣服と草木そうもくの花になするところ、行楽の子女がみな狐の顔をしているところ、――これだけの事を、芥川は、何と、二百字ぐらいの文章の中に、書いているのである。この一節は、詩歌の言葉でいえば、絶唱である。
[やぶちゃん注:「なくなったから」は底本「なくなつたから」で、誤植と判断して訂した。]
『点鬼簿』で、芥川は、はじめて、真実を、真実な言葉で、書いた。『点鬼簿』の文章こそ、本当に、無駄のない、抜き差しならぬ、文章である。『点鬼簿』を書く前から、芥川は、眠られぬ夜毎よごとに、実母や姉や実父の、いろいろな姿が目にうかび、実母や姉や実父の死に行くさまを心の中に思いうかべていたのであろう。そうして、いたく胸が迫る思いをしたであろう。
 されば、芥川は、しみじみした思いにもなりながら、必死の思いにもなりながら、心魂こめて、(誠に、心魂しめて、)『点鬼簿』を、石に字を刻むように、書きつづけたにちがいない。私などは、この作品を何度か読みながら、ある所では、芥川のすすり泣きしている声が聞こえるような気さえする事がある。
 しかし、又、この作品には、側側として迫るような痛わしいところもあるが、大形おおぎょうに言うと、鬼気のようなものが迫る思いをするところもある。その一つの例は、鬼気という程ではないが、

 僕の父はそのつぎの朝に余りくるしまずに死んで行つた。死ぬ前には頭もくるつたと見え「あんなに旗を立てた軍艦が来た。みんな万歳を唱へろ」などと言つた。

 これで見ると、芥川の実父も、亦、死ぬ前に、「頭が狂つた、」という事になる。
 ところで、『点鬼簿』の最後に、(くくりとして、)墓参りをする場面がある。それは、その年(つまり、大正十五年)の三月のなかごろに、芥川が、久しぶりで、妻と一しょに、谷中の墓地に、墓参りに行く所である。その墓地の石塔の下には、芥川が、『点鬼簿』に書いた三人の骨が埋められてある。(但し、実父だけは骨の代りのものが埋められてある。)その時の事を、芥川は、つぎのように、書いている。

 僕は墓参りを好んではゐない。若し忘れてゐられるとすれば、僕の両親や姉のことも忘れてゐたいと思つてゐる。が、特にその日だけは肉体的に弱つてゐたせゐか、春先はるさきの午後の日のひかりの中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人の中では誰が幸福だつたらうと考へたりした。
   かげろふや塚よりそとに住むばかり
 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸ぢやうさうの心もちが押し迫つて来るのを感じたことはなかつた。
[やぶちゃん注:内藤丈草の名句は以下の通りの前書を持つ。
  芭蕉翁塚にまうでて
 陽炎や塚より外に住むばかり
「初蟬」所収の句で元禄九(一六九六)年の春、現在の滋賀県大津市にある義仲寺の先師芭蕉の墓を詣でた際のもので、後の「丈草発句集」では『芭蕉翁の墳にまふでてわが病身をおもふ』と前書し、
 陽炎や墓より外に住むばかり
と中七が異なる。句意は、
……先師の墓に詣でる……と……折柄、春の陽炎ゆらゆらと……師の墓もその景も……みなみな定めなき姿に搖れてをる……その影も搖れ搖れる陽炎も……ともに儚く消えゆくもの……いや……儚く消えゆくものは、外でもない……この我が身とて同じ如……先師と我と……「幽明相隔つ」なんどとは言うものの……いや、儚き幻に過ぎぬこの我が身とて……ただただ「墓」からたった一歩の外に……たまさか、住んでをるに過ぎぬのであり……いや、我が心は既にして……冥界へとあくがれて……直き、この身も滅び……確かに先師の元へと……我れは旅立つ……
といった絶唱である。私も好きな句の一つである。]

 実際、この時分の芥川は、「塚より外に住むばかり」というような、世を厭う心になっていたにちがいない、又、去来が「句の寂しき事丈草に及ばず」と云われたような、丈草の句を、芥川は、好んでいたかもしれない。
[やぶちゃん注:丈草と親しかった去来の評は、彼の「旅寝論」の「序」に『我蕉門に年ひさしきゆへに虛名高しといへ共、句におゐて其しづかなる事丈草に及ばず、其はなやかなる事其角に及ばず、輕き事野坡に及ばず、あだなること土芳に及ばず、たくみなる事正秀に及がたし』(底本は岩波文庫版)と冒頭に挙がる。宇野派は「しづかなること」(閑かなること)を恐らく「閑寂」の連想からか、誤って「寂しき事」としている。]
 さて、『点鬼簿』について、それを知っている人には、ちょっと問題になった論争があった。それは、徳田秋声が、この作品は小説ではない、と云ったのに対して、廣津が、報知新聞で月評をした時、それを反駁した事である。今、その時の廣津の文章が手もとにないので、例の『芥川龍之介研究』[前にも説明したが、「新潮」でもよおした座談会]の中から、そこの所をうつそう。

 川端。晩年のものを読んでみると、何だか死にさうなやうな気がしますね。
 廣津。徳田さんを前においていふのも変ですが、徳田さんが『点鬼簿』を小説ぢやないと云つて批評されたことがあつた。それで、僕は、大体小説ぢやないが、しかし、あれは死の隣りにゐるから、さういふ点から見なければならぬといふやうなことを云つて、徳田さんに対する反駁をあの頃新聞[註―報知新聞]に書いたんですが、あれを読んでゐると、死ぬと思つたな。
 川端。結果論でせうが、あとで見ると、さういふ気がしますね。
 久米。後で読んで見ると、皆さうだね、晩年の作は皆さうだ。

 私は、「結果論」とか、「後で読んで見ると、」とか、いうような考え方には、同感ができない。それから、私は、『点鬼簿』を読んだ時、「死ぬな、」などとも、思わなかった。
 しかし、『点鬼簿』の最後の、墓まいりの話が本当とすれば、芥川は、あの三人の墓まいりをしてから、一年半も立たないうちに、『点鬼簿』を書いてから、十月とつきあまりのちに、この世を捨てたのであった。それを考えると、『点鬼簿』を読みながら、廣津が、「死ぬな、」と思ったのがあたった、という事になる。
 ところが、『点鬼簿』は、誠にはかない作品である、(「はかなくなる」とは、世を去る事である、死ぬ事である、)しかし、実にしみじみした作品である。この作品には芥川の持ち前である気取りが殆んどまったくない。やがて、もなく、点鬼簿のなかくわえられる筈の芥川が、この『点鬼簿』を小説風に書いたのが、この作品である。そうして、芥川は、この『点鬼簿』に書き入れている三人の肉親に、限りなき愛情と愛慕と哀情と哀惜を、寄せている。既にこの世を、「婆婆苦」と称して、はかなんでいた芥川は、この世に生まれて、あまり幸福でなく、はかなくこの世を去って行った、一ばん近い、三人の、肉親の『過去帳』(『点鬼簿』)を、書きたくなったのであろう、しかも、それを書く芥川も、花やかには見えたけれど、あまり幸福な生涯を送らなかった人である、いや、もしかすると、『点鬼簿』に書かれている三人の人たちよりも、芥川の方が、もっともっとくるしくつらい一生を送ったにちがいない。
 芥川は、発狂した実母の血をもっとも多く受け、それから、疳性で神経質な実父の性質を受けている。(芥川の目は実母、のふくに一ばんよく似ている。)
『点鬼簿』は、前に述べたように、芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品である。
[やぶちゃん注:私はそう思わない。特に私には「点鬼簿」の「二」の「初ちやん」の話が、「蜜柑」や「杜子春」のエンディングに次いで芥川龍之介の作品群の中から、暗い山の彼方に、そこだけ明るい日差しの射し込むのを見るように感ずる程であり、「点鬼簿」を『芥川の全作品の中で、もっとも陰鬱で憂鬱な作品』などとは、全く以て思わないということを明言しておく(後文で宇野もこの「二」の部分は「稍明るい」とは述べている)。]
 そうして、『点鬼簿』の中でもっとも憂鬱なのは、最初の、実母の事を、書いた、一節である。実母、実姉、実父、――と、三人の事を書いてある中で、実母だけは殆んど死ぬ所と葬式だけが書いてある。それは次ぎのような所である。

 僕の母は二階の真下ましたの八でふの座敷に横たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人ふたりとも絶えず声を立てて泣いた。殊に誰か僕のうしろで「御臨終ごりんじゆう御臨終」と言つた時には一層せつなさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小声でくすくす笑ひ出した。
 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌ゐはいを持ち、僕はそのうしろに香炉を持ち、二人ふたりとも人力車に乗つて行つた。僕は時々居睡ときどきゐねむりをし、はつと思つて目をます拍子ひやうしあやふく香炉をおとしさうにする。けれども谷中へは中々来なかなかこない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。[註―芝の新銭座から谷中の墓地までは一里ぐらいであろうか]

 芥川は、死ぬ一年ほど前に、こういう文章を書いたのである。これは身近みぢかの事を書いたから出来た、というような文章ではない。身近な事を書いたものでは、例の、『芥川龍之介研究』の中で、廣津、佐藤、川端、というような人たちまでが、芥川の全作品の中で一番すぐれている、と賞讃している、『歯車』があるが、『歯車』は、切羽せっぱつまった、気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品であり、無類の特徴のある、作品であるけれど、散漫なところがあり、息切れしているようなところもある。
[やぶちゃん注:「気違いに近い精神病者の気もちのまざまざと現れている作品」という言いは本作に現れる最も差別的で、芥川龍之介に対して最大級に失礼な評言であり、しかも全く見当違いの誤認である、と私は思う。そうした批判的視点から本表現を読まれるよう、読者の方に敢えてお願いするものである。なお、この注が目障りと感じられる方は、私のこのテクストでお読みにならず、実際の書籍の「芥川龍之介」でお読みになられれば、よい。速やかにこの私のサイトから去られるのが肝要である。私の人生には、そうお感じになったあなたとは、議論する余裕を、一秒たりとも持っていないからである。]
 芥川の青年時代の無二の親友であつた、恒藤 恭が、大正十五年の九月二十八日頃、(芥川が『点鬼簿』を書き上げてから二十日はつかほど後、)鵠沼に、芥川をたずねた時の事を」『最後に会つたときのこと』という文章の初めに、つぎのように、書いている。
[やぶちゃん注:「大正十五年の九月二十八日頃」現在、新全集の宮坂覺氏の年譜では恒藤恭の来訪を九月二十九日頃にクレジットしている。恒藤は同月二十六日に遊学していたアメリカから横浜港に帰国していた。引用の直前で『それから二、三日の後に、当時鵠沼に滞在した芥川を訪ねたが、……』と述べている。]

……当時鵠沼に滞在してゐた芥川をたづねたが、三年ぶりに会つた彼の容貌は、三年まへの、其れとは大へんな変りやうであつた。まるで十年もの年月としつきがそのあひだに経過したやうな気がした。[中略]元来が痩せてゐる芥川ではあつたが、そのときの彼の肉体の衰へは正視するのも痛はしいやうな程度のものであつた。だが、気力は一向におとろへてゐないもののやうに、意気軒昂といつた調子で、文壇のありさまなどを話してくれた。しかし、また、どうも健康がすぐれず、不眠にくるしんでゐるといふことも訴へた。
 ぜんたいとしての彼の風貌が、なにかしら鬼気人に迫るといつたやうな趣きをただよはしてゐて、昼食を共にしてお互ひに話し合ひながら、余命のいくばくもない人と対談してゐるやうな予感めいたものを心の底に感じ、たとへやうもなくさびしい気もちにおそはれることをとどめ得なかつた。
[やぶちゃん注:本部分に関して私が参照した鷺只雄氏の「年表作家読本 芥川龍之介」(一八四頁)のコラム「恒藤恭の〈最後の印象〉」には、宇野の引用の後、もう少し引用があり、『万事を抛擲して健康の回復をはかるやうに、くり返してすすめ、京都へかへる前にもう一度たづねるからと言ひ残して別れ、東京へかへつた』が、結局、恒藤は今一度帰京前に逢うことは叶わず、そして、これが恒藤が芥川龍之介に逢った最後となってしまう。鷺氏の要約によれば、恒藤は『のちに自殺の報に接し「必然の成り行き」と感じたという。』と、ある。]

 この恒藤の文章を読んで、私は、いたく心を打たれた、芥川の旧友であり親友であった恒藤は、芥川の作品(つまり、『点鬼簿』、その他)を読まないで、芥川が「余命いくばくもない」事を、予感したのである。
 つまり、この文章にあるように、芥川は、「正視するのも痛はしいやうな」衰えた肉体をむちうちながら、「余命のいくばくもない」身をもって、『点鬼簿』を書いたのである。芥川は、又、『点鬼簿』を書いてから一週間ほど後に、佐佐木に宛てた手紙のなかに、「その後例の如く時々風を引いたり腹を下したりしてゐる。点鬼簿に数枚つけ加へて改造に出したれど、その数枚に幾日もかかり、小生亦前途暗澹の感あり、」と述べている。ここに「数枚つけ加へ」とあるのは、『点鬼簿』の㈢と㈣つまり、実父の事と墓まいりの事を書いた分を云うのであろうか。
 これは、文字どおり、まったく必死の仕事である。暗澹そのもののような『点鬼簿』の中では、実姉の事を書いた㈡だけがややあかるい。その㈡の終りの方に、

……「初ちやん」[註―芥川の生まれない前に夭逝した姉で、きょうだいの中で一番賢かった人、として、芥川のもっとも愛している姉]は今も存命するとすれば、四十しじふを越してゐることであらう。四十を越した「初ちやん」の顔はあるひは芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に似てゐるかも知れない。僕は時々まぼろしのやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好かつかう女人によにん一人ひとり、どこかから僕の一生を見守みまもつてゐるやうに感じてゐる。

という所があるが、これは、(これだけでも、)ぞっとするほど、気味がわるい。
 私の(私だけの)考えでは、このような気味のわるい文章は、『玄鶴山房』にも、『歯車』にも、ない。(『玄鶴山房』や『歯車』の中にある気味わるさに就いては、後に述べる。)
[やぶちゃん注:私は「点鬼簿」を芥川龍之介の作品群の中でも殊の外愛し、数えきれない程何度も読み返したが、全体を通して(「二」のここだけではなく、「点鬼簿」総て、である)、「ぞっとするほど、気味がわるい」なんどは、ただの一度も感じたことがない。むしろ、ある種の怖くない見たい暖かな霊が、私には見える(こう感じる私もまた、宇野と対極の異常性を持っていると自認はする)。またここで宇野自身の病跡学的問題を語りたいと思う。そもそも宇野は直感優先の人で、最初の生理的感覚を完全に捨て去ることが出来にくい性質の持ち主であるように思われる。今まで、しばしば、彼はいろいろな場面、いろいろな対象(小説や人物や記憶等々)の、「最初の印象を後に変えた(訂正した)」という謂いを語ってきているが、これは実は裏を返せば、宇野は、心的振幅の大きい感情的な最初の印象に関しては相当に深く心に彫りつけて忘れない(忘れられない)タイプ、粘着気質であることを示していると言える(これはどうも宇野の生得的性格であると思われるが、梅毒に因る進行麻痺(麻痺性痴呆)の罹患と予後によって、更にそうした性格が突出してきたという印象を私は持っている)。そうした宇野にとって、特にその中でも強い不快感や恐怖感を必ず伴う「気味がわるい」という感じ方(はっきり言わせて頂くと「稍奇異な」印象さえ私は感じている。則ち、強迫観念としてのフォビアである)に関しては、初読で感じてしまったものに対して、殆ど、というか実は全く、後の修正が効かないのである。図らずもここで宇野が「(私だけの)」とわざわざ述べているのは、宇野自身がそうした自分のフォビアの印象の固着に薄々感づいていることを示していると言えるのではないだろうか。宇野の執念深い、粘着的な芥川作品への断定は、そうした評者である宇野の心理的側面への分析的視点からも同時に捉えていかないととんでもないことになる、と私はつくづく思うのである。]

 大正十五年は、芥川は、一月の初めから、健康をわるくし、一月の中頃から、保養をかねて、湯河原に出かけ、二月の中頃に、湯河原から、帰り、四月頃から、鵠沼に行きはじめ、終に、その年一ぱい、殆んど、鵠沼で、暮らすようになった。
 芥川の神経衰弱はこうじて、しだいに、精神病者になって行った。
 その大正十五年の四月十三日に、(鵠沼にて浄書)と断り書きのある、『凶』という文章がある。これは、大へん参考になるので、全文をうつす。

 大正十二年の冬(?)、僕はどこからかタクシイに乗り、本郷通りを一高[註―今の農科大学]の横から藍染橋あゐそめばしくだらうとしてゐた。あのとほりは甚だ街燈のすくない、いつも真暗な往来である。そこにやはり自動車が一台、僕のタクシイの前を走つてゐた。僕は巻煙草を啣へながら、勿論その車に気もとめなかつた。しかしだんだん近寄つて見ると、――僕のタクシイのへツド・ライトがぼんやりその車を照らしたのを見ると、それは金色の唐艸からくさをつけた、葬式に使ふ自動車だつた。
 大正十三年の夏、僕は室生犀星と軽井沢のみちを歩いてゐた。山砂やますなもしつとりと湿気を含んだ、如何にももの静かな夕暮だつた。僕は室生と話しながら、ふと僕等の頭の上を眺めた。頭の上には澄み渡つたそらに黒ぐろとアカシヤが枝を張つてゐた。のみならずその又枝のあひだに人のあしが二本ぶら下つてゐた。僕は「あつ」と言つて走り出した。室生も亦僕のあとから「どうした? どうした?」と言つて追ひかけて来た。僕はちよつとはづかしかつたから、何とか言つて護摩化ごまかしてしまつた。
 大正十四年の夏、僕は菊池寛、久米正雄、植村宋一[註―直木三十五]、中山太陽堂社長[註―プラトン社に出資していた人。プラトン社から、直木の編輯した、「苦楽」「女性」を発行した]などと築地の待合に食事をしてゐた。僕は床柱の前に坐り、僕の右には久米正雄、僕の左には菊池寛、――と云ふ順序に坐つてゐたのである。そのうちに僕は何かの拍子ひやうし餉台ちやぶだいの上の麦酒罎ビイルびんを眺めた。するとその麦酒罎には人の顔が一つうつつてゐた。それは僕の顔にそつくりだつた。しかしなにも麦酒罎は僕の顔を映してゐたわけではない。その証拠には実在の僕は目をいてゐたのにもかかはらず、まぼろしの僕は目をつぶつた上、稍仰向ややあふむてゐたのである。僕はかたはらにゐた芸者をかへりみ、「妙な顔が映つてゐる」と言つた。芸者は始は常談じやうだんにしてゐた。けれども僕の座に坐るが早いか、「あら、ほんたうに見えるわ」と言つた。菊池や久米もかはがはる僕の座に来て坐つて見ては、「うん、見えるね」などと言ひ合つていた。それは久米の発見によれば、麦酒罎の向うに置いてある杯洗はいせんなにかの反射だつた。しかし僕は何となしにきようを感ぜずにはゐられなかつた。
 大正十五年の正月十日とをか、僕はやはりタクシイに乗り、本郷通りを一高の横から藍染橋へくだらうとしてゐた。するとあの唐艸をつけた、葬式に使ふ自動車が一台、もう一度僕のタクシイの前にぼんやりとうしろを現し出した。僕はまだその時までは前にげた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々めいめいうちある警告を与へてゐる、――そんなことをはつきり感じたのだつた。   (大正十五年四月十三日鵠沼にて浄書)

 この文章は、(この文章も、)実に気味のわるい文章である。しかし、この気味のわるい話を、ちゃんと辻凄の合うように、書いているのが、一そう気味がわるい。ところで、芥川が、このような気味のわるい文章を、わざわざ、浄書したのは、どういう訳であろう。
 それはそれとして、この話(『凶』)の中で、一ばん気味のわるいのは、アカシヤの枝の間に「人のあしが二本ぶらさがつてゐた、」などという所より、最後の「僕はまだその時までは前に挙げた幾つかの現象を聯絡のあるものとは思はなかつた。しかしこの自動車を見た時、――殊にその中の棺を見た時、何ものか僕に冥々のうちに或警告を与へてゐる、」というところである。
 金色の唐草をつけた、葬式に使う自動車や、アカシヤの枝の間にぶら下っている二本の人間の脚や、麦酒罎にうつる幻の顔や、――そういうものは幻視であり、「何ものか僕に冥々の裡に或警告を与へてゐる、」というような考え方は、恐るべき、脅迫観念である。
[やぶちゃん注:宇野はまたしても鬼の首の確信犯『精神病者』立証を行っているわけでるが、これについて私は既に「凶」の私のテクストのマニアック注で『異常とも神経症的関係妄想だとも言えない』という見解を述べている。是非、参照されたい。]
 つまり、大正十五年には、(殊に、鵠沼に住むようになってからは、)芥川は、不断に、幻視、幻聴、その他の、幻覚に、なやまされ、さまざまの脅迫観念に、おそわれていたのである。
 それにもかかわらず、芥川が、それらの異常な経験をもとにして、作品を、少しずつでも、書いたのは、異常な精神作用を、持っていたからである。それを、こんど、『鵠沼雑記』を読んで、又、あらためて、知ったので、つぎに、『鵠沼雑記』から、抜き書きする。(これらの抜き書きは、わたくし事をいうと、私自身の備忘のためでもある。)
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]


 僕は全然ひとかげのない松の中のみちを散歩してゐた。僕の前には白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた。僕はその犬の睾丸かうぐわんを見、薄赤い色に冷たさを感じた。犬はその路のまがかどると、急に僕をふり返つた。それから確かににやりと笑つた。

 僕は風向かぎむきに従つて一様いちやうまがつた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。僕は僕の目のせゐだと思つた。しかし何度見直しても、やはり洋館は歪んでゐた。

 こういう、(これに類するような妙な、)話がもう一つあって、その話の終りに(以上東家にゐるうち、)と断り書きがしてある。つまり、以上が東家にいた時に経験した話、という意味であ、る。そうして、その次ぎに、やはり、似たような話がむっつあって、これも、一番しまいの話の終りに、(以上家を借りてから、)と断り書きがしてある。その六つの話から、二つ抜いて、それを次ぎにうつそう。
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]


 僕はこの頃空の曇つた、風の強い日ほど恐しいものはない。あたりの風景は敵意を持つてぢりぢり僕に迫るやうな気がする。その癖前に恐しかつた犬や神鳴かみなりは何ともない。僕はをととひ(七月十八日)も二三匹の犬が吠え立てる中を歩いて行つた。しかし松風が高まり出すと、昼でもあたまから蒲団をかぶるか、妻のゐるつぎの間へ避難してしまふ。

 僕はひとり散歩してゐるうちに歯医者の札を出した家を見つけた。が、二三にちたつた後、妻とそこを通つて見ると、そんな家は見えなかつた。僕は「確かにあつた」と言ひ、妻は「確かになかつた」と言つた。それから妻の母に尋ねて見た。するとやはり「ありません」と言つた。しかし僕はどうしても、確かにあつたと思つてゐる。その札は齒と本字を書き、イシヤと片仮名を書いてあつたから、珍らしいだけでも見違へではない。
[やぶちゃん注:『鵠沼雑記』の私の全テクストはこちら。]

 これらの文章は七月二十日に書いたものである。
 この文章だけで見れば、この文章の主人公である「僕」はハッキリ精神病者である。しかし、この文章を書いている人(つまり、芥川)は、仮りにこのころ精神病者であったとしても、頭脳は人並ひとなみ以上に冴えていた、肉体は衰え切っていたが、創作力は然程さほどおとろえていなかった。
 さきに引いた『鵠沼雑記』の中の、松の中で、「尻を振り振り歩いて行つた、」急にふり返って、「確かににやりと笑つた、」白犬は、名作と称せられた、『蜃気楼』の中では、

 僕等はいつか家の多い本通ほんどおりのかどたたずんでゐた。家の多い?――しかし砂の乾いた道には殆ど人通りは見えなかつた。
「K君はどうするの?」
「僕はどうでも、……」
 そこへ眞白まつしろい犬が一匹、向うからぼんやり尾を垂れて来た。
[やぶちゃん注:「K君」は東京から遊びに来た大学生の知人。モデルは堀辰雄か。]

という所に、登場している。(つまり、『鵠沼雑記』の中で、「……白犬が一匹、尻を振り振り歩いて行つた、」というのが、『蜃気楼』の中では、「……黄白い犬が一匹、向うからぼんやれ尾を垂れて来た、」という事になったのである。つまり、『鵠沼雑記』の中では、薄気味わるい白犬であったのを、作者は、『蜃気楼』では、その犬を、大事な所の、点景として、登場させたのである。)
 それから、やはり、『鵠沼雑記』の中で、「何度見直しても、」ゆがんでいる、無気味な、洋館の事を、書いているが、私は、これを読んだ時、すぐ芥川が愛読していた、アラン・ポオの『アッシャア家の崩壊』(“The Fall of the House of Usher”)を、思い出した。
 ところで、芥川は、その、『鵠沼雑記』の中の、「白い洋館」を『悠々荘』の初めの方の、

 そのうちに僕等は薄苔うすごけのついた御影石の門の前へ通りかかつた。石に嵌めめこんだ標札には「悠々荘」と書いてあつた。が、門の奥にある家は、――茅葺かやぶき屋根の西洋館はひつそりと硝子窓をとざしてゐた。

というところで、「茅葺き屋根の西洋館」として、『悠々荘』のもっとも重要な役に立てている。
 私は、大方おおかたの人があまり認めていないようであるが、『悠々荘』は、(『悠々荘』も、)芥川の最晩年の作品の中で、注意すべき物の一つである、と思っている。(芥川は、大正十五年には、五つの小品しか書いていないが、その中で、『悠々荘』は、『点鬼簿』に次ぐものである。)
 ところで、さきに、『鵠沼雑記』の中の、歪んだ洋館の話を読んだ時、すぐ、『アッシャア家の崩壊』、を、思い出した、と述べたが、私は、『悠々荘』は、その「歪んだ洋館」と、それ以上に、『アッシャア家の崩壊』が芥川のあたまにあって作られたものではないか、と思うのである。
[やぶちゃん注:ここに底本は有意な空行がある。]


 僕は風向きに従つて一様いちやうまがつた松の中に白い洋館のあるのを見つけた。すると洋館も歪んでゐた。

 十月の或る午後、僕等一二人は話し合ひながら、松の中の小みちを歩いてゐた。小みちにはどこにも人かげはなかつた。……
 そのうちに僕等は薄苔うすごけのついた御影石の門の前へ通りかかつた。[中略]しかし又そのほかにも荒廃を極めたあたりの景色に――びに伸びた庭芝や水の干上ひあがつた古池に……

 雲が重苦しく空に低くかかつた、陰鬱な、暗い、寂莫たる、秋の終日、私はただひとり馬に跨つて妙にもの淋しい地方を通り過ぎて行つた。そして黄昏たそがれの影があたりに迫つて来る頃、漸く憂鬱なアッシャア家の見えるところへまで来たのであつた。

 最初の一節が『鵠沼雑記』であり、次ぎの一節が『悠々荘』であり、最後の一節が『アッシャア家の崩壊』である。
 もとより、『アッシャア家の崩壊』はポオの傑作の一つであり、『悠々荘』は芥川の病中に書いた小品である。それから、『悠々荘』と『アッシャア家の崩壊』とは、むろん、構想も手法もまったく違う。それに、前に述べたように、『悠々荘』は、『アッシャア家の崩壊』から思いついたらしいものではあるが、いて云えば、晩年の芥川の物らしいところは幾らかあるけれど、作品としては、痩せている上に、おもむきというようなものが殆んどない、一と口にいうと、呆気あつけない作品である。
 それにもかかわらず、この小品をわざわざ取り上げたのは、この文字どおりはかない作品が、――この小品を書いた頃が、――大正十五年の終りに近い時分の芥川の有り様がもっともよくうかがわれるからである。
 大正十五年の下半季は、(前にくどいほど述べた、芥川の鵠沼時代は、)芥川の晩年のうちで、死んだとし(つまり、昭和二年)をのぞけば、心身ともに最も辛く苦しい時であった。
 大正十五年の九月の初め頃に、文字どおり骨身をけずる思いをして、『点鬼簿』を重いた芥川は、半月はんつきほどのあいだ、へとへとになってしまった。しかし、十月になると、たちまち、芥川のあたまに、長い間の習慣のように、こびりついている、「新年号に出す小説」という考えが、がった。
 大正年代は、創作を特に載せる綜合雑誌が、たしか、四五冊しかなかった。その中で、たぶん、三つか四つかの大雑誌が、一年のうちに、一月、四月、七月、十月、と、四度よど、特別号を出した。そうして、これらの特別号は、普通号の三倍ぐらいのペイジ数になり、その増ペイジの雑誌の半分ちかくのペイジが創作欄であった。そうして、それらの雑誌の編輯者は、年に四回の特別号の中で、特に、新年号にちからを入れた。しぜん、作家たちも、『新年号』には、という気になった。(今も、特別号というのがあるが、このごろは、書く人が、大正時代の四五倍ぐらいはありそうであるから、その為めか、特別号に類するものが殆んど毎月出るような観があるので、特別号が、特別号のような感じがしないから、大正時代の特別号とは、性質が殆んどまったく違う。)
 さて、その大正時代には、どの雑誌でも、おそらく、新年号には、芥川の作品が、ほしかったにちがいない。それに、芥川も、新年号にはなにをおいても書きたい、という気もちを十分じゅうぶんに持っていたようである。その証拠に、芥川は、それを、殆んど実行している。それは次ぎのとおりである。
[やぶちゃん注:以下のリストは底本では引用でもないのに、特異的に全体が二字下げになっている。私のテクストでは見易くするために、大きく改変して二字下げ年改行とし、一桁の年号部に一字空けを施した。]
  大正 六年、四篇。
  大正 七年、二篇。
  大正 八年、五篇。
  大正 九年、三篇。
  大正 十年、四篇。
  大正十一年、四篇。
  大正十二年、ナシ。
  大正十三年、四篇。
  大正十四年、三篇。
 右のうち、『大正十二年、ナシ。』というのは、これは、前に述べたように、支那旅行のために、疲労困優し、重い病気になったからである、それから、前に引いたと思うが、大正十二年の十二月二日に、芥川は、真野友二郎に宛てた手紙の中に、「小生心臓をいため叉胃腸をそこなひずつと病臥、新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました。小生の病は一切神経衰弱よりおこつたらしくいまだに睡眠薬を用ひない限り眠る事が出来ません、」というような事を、書いているからである。
 さて、大正十四年の新年号の三篇は、そのうちの、ふたつは、『早春』、『馬の脚』というような、わせ物の、け仕事であり、他のひとつは、切羽せっぱつまって書いた、未完の、『大導寺信輔の半生』である。
 つまり、芥川が、大正十五年の秋の末の頃、殆んど誰に宛てた手紙の中にも、新年号、新年号、と、まるで自分に云い聞かせるように、書いているのは、いま述べたように、前のとしに新年号のために書いた小説が、それぞれ、自分が不満であったように、世評もかんばしくなかった事が、気になったからである。それから、わりに評判のよかった『大導寺信輔の半生』が、自分では不満であった上に、その附記の中に、「この小説はもうこの三四倍続けるつもりである、」と断りながら、三四倍どころか、一倍の半分ぐらいさえ、書く自信がなかったからである、それで、気もちが非常にあせったからである。それは、(そのほんの一例として、)次ぎのような手紙を読めば、凡その事が、わかるであろう。

……僕の頭はどうも変だ。朝起きて十分か十五分は当り前でゐるが、それからちよつとした事(たとへば女中が気がきかなかつたりする事)を見ると忽ちのめりこむやうに憂鬱になつてしまふ。新年号をいくつ書くことなどを考へると、どうにもかうにもやれ切れない気がする。ちよつと上京した次手ついでに精神鑑定をして貰はうかと思つてゐるが、いつも億劫になつて見合せてゐる。節煙節茶の祟りもあるのだらう。……   [大正十五年十月二十九日、佐佐木茂索宛ての手紙]
……唯今新年号の仕事中、相かはらず頭が変にて弱り居り侯間、アヘンエキスをお送り下さるまじく候や。……   [大正十五年十一月二十一日、斎藤宛ての手紙]
……こちらは新年号と云ふものにて弱つて居ります。
  かひもなき眠り薬や夜半の冬

この大正十五年の十二月頃、芥川は、
 ふみ書カンココロモ細リ炭トリノ炭ノ木目ヲ見テヲル我ハ
 小夜さよフカク厠ノウチニ樟脳ノ油タラシテカガミヲル我ハ
 枕ベノウス暗ガリニ歪ミタル瀬戸ヒキ鍋ヲ恐ルル我ハ
というような歌を、斎藤茂吉に宛てた手紙の中にも、室生犀星あての手紙の中にも、
はさんでいる。
 芥川が、このようなくるしいつらおもいをし、不治のおもい病苦を辛抱して、昭和二年の新年号の雑誌のために書いたのが、『悠々荘』、『彼』、『玄鶴山房』㈠、の三篇である。しかも、『悠々荘』は六枚ぐらいであり、『彼』は十八九枚であり、『玄鶴山房』の㈠は二枚半ぐらいである。
 これは、もとより、作者である芥川には、堪えがたい寂しさであったろうが、前に述べたようなわけで、このとしの新年号に出る筈の芥川の小説を取り分け期待していた私には、(私にも、)大へん寂しい気がした。それから、何でもないような事ではあるけれど、いくら関係があるからと云っても、芥川の小説が、たとい小品でも、『悠々荘』が「サンデー毎日」のような雑誌に出たり、『彼』が「女性」などに出たり、した事も、私には、妙に心細い気がした。それから、『彼』が、旧友の思い出などを書いてある上に、芥川の作品として、調子が低い事などまで、私には、気になったのであった。
 ところが、旧友の思い出の話ではあるが、それがただの思い出の話でない事に気がついて、私は、こんどは、別の意味で、気になった、それは普通の思い出の話とちがう所があるからである。その幾らかちがう所を、前に引いたのとちょいと重複するが、次ぎにうつして見よう。

……彼はベッドに腰かけたまま、不相変あひかはらず元気に笑ひなどした。が、文芸や社会科学のことは殆ど一言ひとことも話さなかった。
「僕はあの綜憫の木を見るたびに妙に同情したくなるんだがね。そら、あのうへの葉つぱが動いてゐるだらう。――」
 棕櫚の木はつい硝子ガラス窓のそと木末こずゑの葉を吹かせてゐた。その葉は又全体も揺らぎながら、こまかに裂けた葉の先々さきざきを殆ど神経的に震はせてゐた。それは実際近代的なもの哀れを帯びたものに違ひなかつた。

……太陽はとうに沈んでゐた。しかしまだあたりはあかるかつた。僕等は低い松の生えた砂丘の斜面に腰をおろし、海雀うみずずめの二三羽飛んでゐるのを見ながら、いろいろのことを話し合つた。
「この砂はこんなにつめたいだらう。けれどもずつと手を入れて見給へ。」
 僕は彼の言葉の通り、弘法麦こうぼふむぎの枯れれになつた砂の中へ片手を差しこんで見た。するとそこには太陽の熱がまだかすかに残つてゐた。
「うん、ちよつと気味がわるいね。よるになつてもやつばりあたたかいかしら。」
なに、すぐにつめたくなつてしまふ。」
 僕はなぜかかう云ふ対話を覚えてゐる。それから僕等は半ちやうほど向うに黒ぐろとなごんでゐた太平洋も。……
[やぶちゃん注:本作の主人公Xのモデルは府立第三中学校時代の友人府立三中時代の同級生である平塚逸郎(ひらつかいちろう 明治二十五(一八九二)年~大正七(一九一八)年)である。本作の私の電子テクストには「海雀」「弘法麦」等、詳細な私の注を施してある。参照されたい。]

 この小説の主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会かるたかいをつづけて、大騒ぎをしたので、眠りをさまたげられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」という事になっている。
 が、そんな事より「この砂はこんなに冷たいだらう、」と云われて、海岸の砂の中に片手を差しこんで、太陽の熱がまだかすかに残っているのを感じて、「うん、ちよつと気味が悪いね。夜になつてもやつぱり温いかしら、」と云う、それに答えて、「なに、すぐに冷たくなつてしまふ、」と云うところの方が、よっぽど薄気味うすきびがわるいではないか。
[やぶちゃん注:『主人公の『彼』は、病院の医者や看護婦たちが、旧正月を祝うために、夜ふけまで、歌留多会かるたかいをつづけて、大騒ぎをしたので、眠りをさまたげられたために、「ベッドの上に横たはつたまま、おほ声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだ、」』という話を読者であるあなたは『薄気味がわるい』話と言うか? 砂浜のシーンの方が、その悲劇的事実より『よっぽど薄気味がわるいではないか』と平然と言えるか? 私は絶対に言わないし、言えないし、絶対に思わない(『薄気味がわるい』と感じる読者を私は嫌悪はしない。しかし、こう表現してしまう宇野に私は強い違和感を覚える)。これが宇野の(この執筆時の)感性なのである。注する現在の私と、宇野の感性上のギャップ、これだけは押さえておいて戴きたいのである。]
 私が、あまり上等でない作品『彼』について長ながと述べたのは、『彼』の中にある、つめたい気味わるさは、主人公の『彼』ではなく、作者の芥川である、と気がついたので、その事を、私は書きたかったのである。
 さて、芥川は、このような小説を書いて、まもなく、昭和二年になり、数えどし、三十六歳になったのであった。
 昭和二年は、いうまでもなく、芥川の死んだとしである。

     二十二

 例の『芥川龍之介研究』の中で、川端が、「僕は『歯車』は芥川氏のすべての作品に比べて断然いいと思ふ、」と云うと、佐藤が、「僕も同感です、」と云い、廣津も、「僕なんかも一ばん頭に残つてゐるのは『歯車』だと思ふ、」と述べている。
 私は、(私も、)『歯車』は、芥川の晩年の作品の中で、特殊なもののひとつである、とは思う、が、もっともすぐれた作品である、とは思わない。私は、芥川が昭和二年に書いた作品の中では、小説としても、『玄鶴山房』が一番すぐれている、と信じる。
『玄鶴山房』は、前に述べたように、㈠は、大正十五年の十二月に、鵠沼で、書いたが、大部分は、昭和二年の一月に、田端で、書いた。

 僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテキル。出来上ルカドウカワカラン。君ノ美小童ヲ読ソダ、実ニウラウラシテヰル。ソレカラ中野[註―中野重治]君ノ詩モ大抵ヨンダ、アレモ
キ活キシテヰル。中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。

 右は、大正十五年十二月五日、芥川が、鵠沼から、室生に宛てた手紙から、引用したのである。(この文章の中にある、室生の『美小童』という作品は、大正十五年の十二月号の
「近代風景」[たしか、北原白秋が個人で出していた雑誌である]に出たものであるが、この「近代風景」には川端康成、岡田三郎、浅原六朗、今野賢三、の作品が、出ている。それから、やはり、大正十五年の、十一月号の「世界」[これは、私も、聞いたことも、見たことも、ない]という雑誌に、芥川の『鴉片』というのが出ている、ついでに書けば、十月号の「改造」には、芥川の『点鬼簿』のほかに、佐佐木茂索、村山知義、の作品も、出ている。――こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れのひとつ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。)
[やぶちゃん注:「中野君ヲシテ徐ロニ小説ヲ書カシメヨ。今日ノプロレタリア作家ヲ抜ク事数等ナラン。」文学史ではプロレタリア文学作家として知られる中野重治は、この頃(大正十五(一九二六)年)、東京帝国大学独文科の学生で室生に師事しており、彼は正にこの前後に鹿地亘らとともに社会文芸研究会(一九二五年)やマルクス主義芸術研究会(一九二六年)を結成、この年(大正十五(一九二六)年)に日本プロレタリア芸術連盟へ加入し、その中央委員となっていた。芥川龍之介の先見性が窺われる。
「近代風景」は大正十五(一九二六)年に白秋が創刊した詩誌。
「岡田三郎」(明治二十三(一八九〇)年~昭和二十九(一九五四)年)は小説家。博文館で『文章世界』の編集者をする傍ら、小説を発表した。当時は新興芸術派倶楽部に属した(後に私小説に転ずる)。代表作に「巴里」「伸六行状記」。
「浅原六朗」(ろくろう 明治二十八(一八九五)年~昭和五十二 (一九七七)年)は小説家。新興芸術派倶楽部の結成に参加、モダニズム文学の作家として活躍した。戦後、日本大学教授となった。代表作に「或る自殺階級者」「混血児ジヨオヂ」、童謡「てるてる坊主」などの作詞者(浅原鏡村名義)としても知られる。
「今野賢三」(いまのけんぞう 明治二十六(一八九三)年-昭和四十四(一九六九)年) は小説家。大正十(一九二一)年に郷里の秋田で小牧近江らと『種蒔く人』を創刊、後に『文芸戦線』同人となった。
「世界」は大正十五(一九二六)十一月一日に創刊された雑誌とされるが、詳細未詳。芥川龍之介の「鴉片」の初出とするデータは、昭和二十九(一九五四)年から翌年にかけて刊行された岩波書店小型版全集十九巻所収の「作品年表」によるものであって、実は宇野だけでなく、現在も現物の確認がなされていない。以上の雑誌『世界』の情報は平成十二(二〇〇〇)年勉誠出版刊の「芥川龍之介全作品事典」の「鴉片」の項(吉岡由紀彦氏執筆)に拠った。
「こういう事は、大正末期の日本の文壇の現象の現れの一つ、とでも云うのであろうか。有識者の御示教を乞う。」という部分、私が馬鹿なのか、意味がよく判らない。そもそも「こういう事」とは何を指しているのか? そして、どんな「有識者」から、どんな「示教」を宇野は期待しているのか? 「こういう事」とは馬鹿な私なりに勘ぐってみると、『たかが』個人の出した詩の雑誌「近代風景」とやらや、『どこの何様が出したのかも分からない、それこそ今だって現物が見つからない、怪しげな』雑誌「世界」やらや、『天下の小説誌(と宇野も芥川も一目置く――これは既出の内容である――)「中央公論」ではない、社会主義評論に偏頗していた、所詮、綜合』雑誌に『過ぎない』「改造」やらに、天下の著名作家達がこの頃何故、気安くほいほいと小説を発表したのか、してしまったのか、私(宇野)にはとっても理解が納得出来ないね、ということか? 雑誌を小説を本分とする一流(宇野はそう表現していないが)の雑誌と、綜合雑誌や女性誌やその他の怪しげな個人誌や趣味雑誌(と宇野が思っている)を二流として見下し(やはりそう言ってはいないが、今までの部分を読めば、宇野のそうした蔑視感は一目瞭然である)敢然と区別する宇野にして、私はそういう解釈をせざるを得ないのであるが、如何か? 有識者の御示教を乞う。]
 ところで、先きに引いた、芥川が室生に宛てた手紙の中の、「陰鬱極マルりき作」というのは、いうまでもなく、『玄鶴山房』のことである。
 その『玄鶴山房』の㈠を、芥川は、「痔猛烈に再発、昨夜呻吟して眠られず」というような状態の中で、一字、五字、一行、三行、と、苦心惨憺しながら、書いたのであろう。神経衰弱(というより、精神病)になやまされながら、一字、一句、書いては消し、消しては書き、して、書きつづけたのであろう。十二月といえは、鵠沼でも、寒さ冷たさは、きびしかったにちがいない。寒さと冷たさは痔に大禁物である。
 されば、芥川は、二枚あまりの『玄鶴山房』の㈠を書くのに、半月以上はかかったであろう。
 ところが、その㈠だけをやっとの思いで書き上げて、昭和二年の一月二日に、田端の自宅に、帰って来た芥川は、一月早早、思いがけない災難にった。それは、ずっと前にちょっと書いたが、義兄[姉の久子の後添いの夫]の西川 豊の家が丸焼けになった事であった、その上、火事に遇う前に多額の火災保険がかけてあったために、不在中の西川に放火の嫌疑がかけられた事であった、おまけに、西川は或る偽証罪のために執行猶予中の身であった、さて、その西川が鉄道自殺をしていたのがかった事であった。
 極度の神経衰弱(というより、殆んど精神病)にかかっていた芥川には、このような事件は、精神的にも、物質的にも、大変な打撃であった。それは、たびたび云うように、大正十五年の中頃から、芥川は、神経衰弱をとおり越して、しばしば精神病者のようになりながら、まったく正気は失わなかった、それどころか、芥川の頭は、時に、精神病者だけが持つ、鋭さになり、異様に冴えることさえあった。

 僕はこのホテルの外へ出ると、青ぞらのうつつた雪解ゆきどけの道をせつせと姉の家へ歩いて行つた。道に沿うた公園の樹木は皆枝や葉を黒ませてゐた。のみならずどれも一本いつぽんごとに丁度ちやうど僕等人間のやうに前やうしろをそなへてゐた。それも亦僕には不快よりも恐怖に近いものをはこんで来た。僕はダンテの地獄の中にある、樹木になつたたましひを思ひ出し、ビルデイングばかりならんでゐる電車線路のむかうをあるくことにした。しかしそこも一ちやうとは無事に歩くことは出来なかつた。

 これは、『歯車』の中の『復讐』のうちの一節であるから、創作と見成みなすべきであるが、昭和二年三月二十七日の作であるから、死ぬ四箇月かげつほど前に、書いたものである。
 ところで、この文章の初めの方の姉を、芥川の姉の久子と見なすと、芥川は、義兄の西川が自殺したために、忽ち、寡婦になった姉の一家の面倒を見なければならぬ事になった。それで、ずっと前に引いた葉書の文面でもわかるように、芥川は、一月の九日から十五日頃までのあいだに、どの友人に出した葉書の中にも、唯、簡単に、「東奔西走中」と書いているけれど、それは、火災のために殆んど丸裸になった一家の後始末あとしまつの事であったから、並大抵なみたいていの事ではなかった、殊に病人の芥川には。

……唯今姉の家の後始末のため、多用で弱つてゐる。しかもなにか書かねばならず。頭の中はコントンとしてゐる。火災保険、生命保険、高利の金などの問題がからまるのだからやり切れない。神経衰弱癒るの時なし。   [昭和二年一月三十日、佐佐木茂索宛て]
……まだ姉の家の後始末片づかず。いろいろ多忙のために弱つてゐる。その中で何か書いてゐる始末だ。高野さんがやめたのは気の毒だね。余は拝眉の上。多忙兼多患、如何なる因果かと思つてゐる。   [昭和二年一月三十日、宇野浩二宛て]

 右の、佐佐木あての手紙の中の「何か書かねはならず、」も、宇野あての手紙の中の「何か書いてゐる始末だ、」も、共に、『玄鶴山房』のことである。おなじ日に書いた手紙でありながら、ひとつは「書かねばならず、」と云い、他は「書いてゐる始末」と述べている事など、誰あての手紙の中にも、『神経衰弱』を、まるで売り物のように、書きながら、昔ながらの、芥川である。
 ここで、やはり、『玄鶴山房』に関係のある書翰がまだほかにあるかもしれない、と思って、念のために、改めて、書翰集の大正十五年の十二月のところを、くりかえし、くりかえし、丹念に読んでみた。すると、十二月三日に、佐佐木に宛てた葉書の中に、

……僕は暗タンたる小説を書いてゐる。中々出来ない。十二三枚書いてへたばつてしまつた。

というのがあった。
 この「暗タンたる小説」というのは、どうも、『玄鶴山房』らしい。そうして、これが、もし、『玄鶴山房』とすれば、のちに書きなおしたとしても、芥川は、大正十五年の十二月三日に、『玄鶴山房』を、三分の一ぐらい、書いたわけである。しかし、その翌日、(つまり、十二月四日、)斎藤茂吉に宛てた手紙の中に、芥川は、次ぎのような事を、書いている。

……オピアム毎日服用致し居り、更に便秘すれば下剤をも用ひ居り、なほ又そのために痔が起れば座薬を用ひ居ります。中々楽ではありません。しかし毎日何か書いて居ります。小穴君いはくこの頃神経衰弱が伝染して仕事が出来ない。僕いはく僕は仕事をしてゐる。小穴君曰、そんな死にもの狂ひミタイなものと一しよになるものか。但し僕のは確なものは出来さうもありません。少くとも陰鬱なものしか書けぬことは事実であります。……

 こういう事を書いた手紙を斎藤茂吉に出した翌日、(つまり、十二月五日、)芥川は、室生に宛てた手紙の中に、先きに引いた、「僕ハ陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」という文句を書いている。
 さて、この、佐佐木あての葉書の中の、「暗タンたる小説」というのも、斎藤あての手紙の中の、「陰鬱なもの」というのも、室生あての手紙の中の、「陰鬱極マルカ作」というのも、結局、『玄鶴山房』のことである。
 それから、十二月の、三日、四日、五日、とつづけて佐佐木と斎藤と室生とに「暗タンたる小説を書いてゐる、」「少くとも陰鬱なものしか書けぬ、」「陰鬱極マルカ作ヲ書イテヰル、」と、同じような事を報告しているのを見ると、芥川が如何に『玄鶴山房』に乗り気になっていたかがかり、ありふれた言葉であるが、悲壮な気がする。
 それから、誰に出す便たよりの中にも、「暗澹」とか、「陰鬱」とか、いう言葉を入れているように、芥川は、『玄鶴山房』で、限りなく暗澹たる、陰鬱極まる、小説を書こう、とこころざしたのである。
 そうして、それには、力作をしなければならぬ、と覚悟した。『力作』とは、いうまでもなく、「力をこめて製作すること」である。
 その頃の、たびたび云うが、幾つかの重い病気にかかっていた芥川は、力作をするためには必死の努力をしなければならなかった。そうして、芥川は、必死の努力をしたのであった。されば、その有り様を見た小穴には、死に物ぐるいのように見えたのである。『死物狂しにものぐるい』とは、「死ぬる覚悟をして狂うがように働く、」という程の意味である。
[やぶちゃん注:現在の年譜的事実によれば(鷺及び宮坂年譜を参考にして関連のありそうな部分を纏めてみた)、「玄鶴山房」の脱稿の経緯は以下のようになる(リンク先は総て私の電子テクスト)。
十二月 三日 「玄鶴山房」は十二・三枚まで進んだが、そこで停滞。宇野の引く「暗タンたる小説を書いてゐる」という佐佐木宛書簡を書く。
一二月 四日 「僕は」を脱稿。宇野が引用した斎藤宛「オピアム毎日服用」の書簡を書く。
一二月 五日 先に宇野が引いた中野重治に言及する室生宛書簡を書く。
一二月 九日 漱石忌。「彼 第二」を脱稿。小穴によれば、この日を自殺決行日と考えていたこともあるとする。
一二月 十日 「或社会主義者」脱稿。
一二月一一日 痔と不眠に苦しむ。
一二月一三日 宇野が引いた「アヘンエキス二週間分」の書簡を書く。夕刻、鵠沼から田端へ戻り、原稿執筆を続ける(恐らく「玄鶴山房」)。
一二月一六日 この日に予定していた「玄鶴山房」の脱稿が出来ず、二月号への掲載延期を中央公論社に申し入れる。そこでどのような交渉が行われたかは分からないが、結局、この日の直近で「玄鶴山房」の「一」と「二」を脱稿している。
一二月二〇日 佐佐木らと赤倉へスキーに行く予定であったが、「玄鶴山房」執筆遅滞のため、中止する。
一二月二二日 午後八時頃、下島勲とともに鵠沼に帰る。
一二月二五日 大正天皇崩御、皇太子裕仁親王(昭和天皇)践祚、昭和に改元。宇野が引いた「くたばつてしまへと思ふ事がある」という滝井孝作宛書簡を書く。芥川龍之介随筆集『梅・馬・鶯』が新潮社から刊行される。
一二月二七日 妻文、正月準備のために田端に戻る。代わりに(自殺願望を持つ龍之介を監視する意味があったと思われる)葛巻義敏が鵠沼へ来る。
十二月三一日 鎌倉小町園へ行く(所謂、宇野の言う「短い家出」である。なお、鵠沼の借家は翌年の三月まで借りていたものの、これ以降は鵠沼には殆んど滞在しなかった)。
 一月 一日 鎌倉小町園に居続けする。「玄鶴山房」の「一」と「二」、『中央公論』に掲載される。
 一月 二日 鵠沼に立ち寄った後、夜、田端に帰還する。
 一月 三日 嘔吐する。下島来診。
 一月 四日 西川豊宅全焼。西川には放火の嫌疑がかかり、取り調べを受ける。
 一月 六日 午後六時五十分頃、西川、鉄道自殺。なお、芥川龍之介はこの頃から、平松麻素子の口利きで帝国ホテルに執筆用の部屋を借りている。後の自殺未遂もここで起きた。
 一月一六日 『中央公論』二月号に掲載を延引して貰った「玄鶴山房」の後半を執筆するが、義兄西川の事件で脱稿出来ない(この日が脱稿予定日であったか)。
 一月一九日 下島の他、友人一人が来訪するが、二人の前で「玄鶴山房」の推敲を続け、遂に「玄鶴山房」を脱稿する。]
 一般に、『地獄変』は、凄惨で、怪異で、「読む人ことごとく戦慄する、」名作である、と称されている。しかし、『地獄変』の陰惨は、作者のあたまで作られ、名文章で語られた、というだけのもので、借り物の観がある。それから、『点鬼簿』であるが、(これは、小説ではなく、随筆に近いものであるけれど、仮りに小説として見て、)この『点鬼簿』も、(『点鬼簿』でさえ、)しいて「鬼気せまる」という言葉をつかえば、そういう気もちを起こさせるのは、その㈠の気ちがいの母を書いたところだけで、その㈡にも、その㈢にも、題材が題材だけに人の心に迫るところもあるけれど、厳しく云えば、ところどころに、遊びがあり、ポオズがあり、気取りもある。そうして、更に極言すると、大抵の人がほめる、最後の、

  かげろふや塚よりそとに住むばかり
 僕は実際この時ほど、かう云ふ丈艸の心もちが押し迫つてるのを感じたことはなかつた。

 という一節さえ、私には、昔ながらの芥川の気取りがあるようにさえ思われるのである。

 芥川は、丈艸を、蕉門の中で、「最も的的と芭蕉の衣鉢いはつ」、を伝えている、(それに違いはないが、)という程、認めていたから、不断、丈艸の句にしたしんでいたにちがいない、しぜん、この「かげろふ」などという句は、いつとなく、暗記していたにちがいない。されば、妙な臆測をすると、この句は書く前に用意してあったかもしれない、と思われる程である、それほど、情と景とがぴったり合っているからである。
[やぶちゃん注:「的的と」明白なさま。]
 ところで、前に、『ポオズ』とか、『気取り』とか、いう言葉を使ったが、もともと、ポオズや気取りは芥川の持ち前である、したがって、ポオズや気取りは芥川の人間にも文学にもあった、そうして、ポオズと気取りは芥川の文学の独得の特徴である、極言すれば、ポオズと気取りのない芥川の文学はあり得ない、という事になる。しかも、その芥川の文学の『ポオズ』や『気取り』には、わざと俗な言葉を使うと、「いたらしい」ところがあった。そうして、それが、青年たちに受けた所以ゆえんでもあったのだ。(しかし、前に述べたように、最晩年の芥川の作品にはそれらが次第になくなった、それで、これも先きに書いたように、いわゆる芥川らしい文学は晩年には殆んどなくなってしまったのである。)
 ここまで書いて、『点鬼簿』を、念のために、読みなおして見て、さきに述べた事を訂正しなければならなくなった、それは、先きに引いた所のほかは、(これも、もとより、晩年の作品であるから、)殆んどポオズや気取りがないからである。それは、(その一例は、)次のようなところである。

 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは、何と云つても「初ちやん」[註―ずっと前にも註をした、芥川の生れぬ前に死んだ、賢かった姉(長女)]である。「初ちやん」は芝の新銭座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園かなにかへかよつてゐた。が、土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へとまりに行つた。「初ちやん」はかう云ふ外出の時にはまだ明治二十年代でもいまめかしい洋服を着てゐたのであらう。僕は小学校へ通つてゐた頃、「初ちやん」の着物の端巾はぎれを貰ひ、ゴム人形に着せたのを覚えてゐる。その又端巾は言ひ合せたやうにこまかい花や楽器をらした舶来はくらいのキヤラコばかりだつた。
[やぶちゃん注:「サンマアズ夫人の幼稚園」言語学者・日本研究家James Summers(ジェームス・サマーズ 一八二一年~明治二十四(一八九一)年)の夫人が経営した幼稚園。明石橋橋畔にあった。ジェームス・サマーズは英国人お雇い外国人教師として明治六(一八七三)年に来日、東京開成学校の英文学と論理学教授から始まり、新潟英語学校、大阪英語学校の英語教授を経、明治十五(一八八二)年の札幌農学校を最後に満期契約となったが、そのまま帰国をせずに東京築地の自宅に「欧文正鵠英語学校」を設立、日本で生涯を終えた(以上は北海学園大学人文論集第四十一号(二〇〇八年十一月刊)所収の中川かず子氏の「ジェームス・サマーズ――日本研究者,教育者としての再評価」の記載に拠った)。筑摩書房全集類聚版脚注には、『築地のサンマーズ塾といえば英語を解する人達は大抵一度は厄介になったことのある古くから有名な学校』で、『塾長キャッセー・サンマーズ嬢』で(サマーズ夫婦の娘か?)、彼女は明治四十二年に『三十年ぶりで帰国した』[『東京日日新聞』記事]とある(私の注も異様に細かくなったが、この脚注も異例に長い)。なお、Hisato Nakajima氏のブログ「東京の「現在」から「歴史」=「過去」を読み解くーPast and Present」の2011年4月26日 at 12:40 AM のコメントへの氏の返信の記事に現れるものでは、『藤善徳「築地居留地の思い出」では、「サンマー・スクール」と呼ばれた英語塾とされ、リリイ・サマーズという人がやっていたようで』(この「リリイ」が「サンマアズ夫人」の名か?)、『谷崎潤一郎や岡倉由三郎が学んだと』ある(岡倉由三郎(慶応四(一八六八)年~ 昭和十一(一九三六)年)は英語学者。夏目漱石の友人で、岡倉天心の実弟)。『清水正雄「築地に開設された教会と学校」では、正式名が「欧文正鵠学院」』、明治十六年から四十一年まで『開設されていたことが記載され』ている、とある。
「キヤラコ」英語“calico”は、インド産の平織りの綿布を言う。但し、本邦ではインド産の厚手の染色されたそれとは異なり、薄く織り目を細かく糊付けした純白の光沢のある布地を主に言い、足袋やステテコの材料とする。]
 これは、『点鬼簿』の㈡の中程の、芥川が、見たことない、懐しい、姉を思いながら、二十六七年前の、小学校にかよっていた時分の回想を書いたものである。
 これ(つまり、『点鬼簿』)を書いている頃の芥川は、芥川について述べている誰の文章でも、(私の知る限り、)大てい、既に死を覚悟していた、とか、死に隣りしていた、とか、書いている。それは、鬼籍にはいった人たちのことを、その人たちの殆んど陰気な話はかりを、暗い、しみじみした、真に迫った、文章で、書いてあり、それに、厭世家の丈艸の、厭世的な、『かげろふや塚より外に住むばかり』という句にも幾らか動かされたからであろう。
 しかし、私は、前にも述べたように、魯鈍なためか、「改造」[註―大正十五年十月号]で、この作品を読んだ時、「ずいぶん暗い作品だなあ、しかし、うまいな、」とは思ったが、この作者人つまり、芥川)が、これを書く頃、「死を覚悟」していた、とか、「死に隣り」していた、とか、いうような事は、私のあたまに、殆んど浮かんでこなかった。
 ところで、先きに引いた一節は、殆んどまったくらいところがない、それどころか、明かるい感じさえする、そうして、芥川と同じ頃(つまり、明治二十年代の中頃)に生まれた私などには、「ゴム人形」とか、「細かい花や楽器を散らした」模様もようのあるキャラコ[註―英語のCalico(キャリコ)の訛り、金巾に似て、金巾より薄く、織地の細かく、光沢のある布、更紗の一種]とか、いう物には、一種の『郷愁のすたるじい』という感じがあり、何ともいえぬ懐かしい気がするのである。
[やぶちゃん注:「金巾」は「かなきん」と読み、経糸と緯糸の密度をほぼ同じにして織った、目が細かく薄地で平織の綿織物のこと。本邦ではポルトガル語の「カネキン」が語源でかく呼称される。言わば「キャラコ」は、艶出しして光沢を持たせたカネキンである。]
『点鬼簿』――まず、書き出しの、「僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髪を櫛巻くしまきにし、いつも芝の実家にたつた一人坐ひとりすわりながら、長煙管ながぎせるですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顔もちひさければからだも小さい。その又顔はどう云ふわけか、少しも生気ない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記せいさうきを読み、土口気泥臭味どこうきでいしうみ出会であつた時に忽ち僕の母の顔を、――ほそつた横顔を思ひ出した、」と読んだ時、私は、ありふれた言葉ではあるが、その陰惨さに、その陰惨な書きかたに、目をおおいたいような気がした、しかし、それと同時に、至って見え坊な芥川が、心の底では愛している母を、このようなむごたらしい言葉で、書いたことに、一そう驚いた、芥川はどうかしたのではないかいぶかるほど驚いたのである、廣津が、伝えられるように、この作品を読んで、芥川は死ぬのではないか、と思った、というのも、私には、うなずかれるのである。
[やぶちゃん注:「西廂記」王実甫おうじっぽ作の元代の戯曲。唐の詩人元稹げんしんの小説「会真記」(「鶯鶯伝」とも言う)を元にした金の董解元が書いた語り物「董西廂」を元代の雑劇としては全二十折(=幕)という異例の長さの歌劇に改編したもの。旅の書生張君瑞ちょうくんずいと亡き宰相の令嬢崔鶯鶯さいおうおうの波乱万丈の恋愛劇。現在も昆曲や京劇の人気の演目である。
「土口気泥臭味」これについて、筑摩書房全集類聚版脚注は、『これと同一の語は「西廂記に」見えない』とし、『第四本第三折に『土気息泥滋味』(土のにおい泥のあじ)とあるのがこれに近い』とある。これは、ネット検索をかけると、登場人物の以下の台詞の中に次のように現れることが分かる。
「將來的酒共食、嘗著似土和泥。假若便是土和泥、也有些土氣息、泥滋味。」
残念ながら私の能力では、注はここまでである。]
 ところで、私が殊更に述べようと思うのは、一般に『点鬼簿』を暗い憂鬱な作品であると云うのは、その最初の㈠の話があまりに凄惨で陰鬱なためであって、全体として見れば、『点鬼簿』は、暗い陰気な作品ではあるけれど、それほど暗い作品でないばかりでなく、なかなかうまい工合ぐあいに作ってある、という事である。それから、『点鬼簿』を読んで、私が感心したのは、表現に、(表現だけに、)凍っていた芥川の文章が、無駄な形容や文句が殆んどなくなっただけでも、行きくところまで行った、という観がある事である。
 さて、㈠を読みおわって、㈡にうつると、前に述べたように、急に、書かれてある事もかるくほのぼのとし、書きかたも明かるく延び延びせしている。しぜん、㈠とちがって、読みながらも楽しい気がする、話がうらうらとしているからである。

 或春先あるはるさきの日曜の午後、「初ちやん」は庭をあるきながら、座敷にゐる伯母に声をかけた。(僕は勿論この時の姉も洋服を着てゐたやうに想像してゐる。)
「伯母さん、これは何と云ふ?」
「どの樹?」
「この苔のある樹。」
僕の母の実家の庭にはの低い木瓜ぼけの樹が一株ひとかぶ、古井戸へ枝をらしてゐた。髪をおげにした「初ちやん」は恐らくはおほきな目をしたまま、この枝のとげとげしい木瓜の樹を見つめてゐたことであらう。
「これはお前と同じ名前の樹。」
 伯母の洒落は生憎あいにく通じなかつた。
「ぢや莫迦の樹[註―ボケの木、バカの木]と云ふ樹なのね。」
 伯母は「初ちやん」の話さへ出れば、いまだにこの問答を繰り返してゐる。実際又「初ちやん」の話と云つてはそのほかなにも残つてゐない。「初ちやん」はそれから幾日もたたずにひつぎにはひつてしまつたのであらう。

 これは、『点鬼簿』の㈡の中程なかほどのところであるが、これだけでもわかるように、狂人の母の事を書いている㈠と、この夭逝した姉の事を書いている㈡の一節とを、読みくらべると、暗夜あんやひる日中ひなかほど、感じがちがう。これは、作者が、気分を一変いっぺんするために、このような書きかたをしたのであろうか、それとも、㈠は、作者が、幼年の頃に、まざまざと見た母の顔や姿が、このようにいまわしいものであったために、それを思い出しながら書くと、おのずから、こういう陰気な物語が出来できあがり、㈡は、自分の生まれる前に夭逝した、或る親しみ」を持っていた、姉の少女の時分の話、伯母[註―実母の姉の、芥川が憎みながらも愛していた伯母のふきか]から聞いたのを、懐しく思い出しながら書いたので、しぜん、このようなほがらかな可憐な話がまれたのであろうか。
 ㈠には、「髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人坐ひとりすわりながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる」ところの母の姿を書き、㈡には、その同じ芝の実家の庭で、「髪をおげ」にして、「恐らくは大きな目をしたまま、枝のとげとげしい木瓜ぼけの樹を見つめてゐたことであらう」ところの姉の姿を書いている。
 胃と腸をわずらい、ひどい痔になやまされ、精神病に近い神経衰弱にかかり、「催眠薬をのみすぎ夜中に五十分も独り語をつづけ」[大正十五年九月二日、室生あての手紙のうち]た、というような状態にありながら、芥川は、このような心にくいこまかい仕事をしているのである。しかし、たびたび云うが、そのころ芥川と逢っていなかった私は、この作品を読んだ時、芥川がこのような不治にちかい重い病気にかかっているのを、殆んど知らなかった、いや、うすうす知ってはいても、作品を読んでいる時は、そんな事は殆んどあたまに浮かんでこなかった、又、そんな事が頭に浮かんでくる筈はない。
 さて、㈢は、実父の話であるが、これも、亦、㈠のように、いきなり、「僕の母は狂人だつた、」というような書きかたをしないで、初めは、極めて穏かに、父が、明治三十年代の初めに、バナナ、アイスクリイム、パイナップル、ラム酒、その他、当時としては、実に珍しい果物や飲料を、幼年の芥川に、教えた、というような事から、書き出し、つづいて、短気な風変りな性質であった父と、やはり片意地で強情ごうじょうであった中学生時代の芥川が、相撲をとる所を、諧謔的に、述べたあとで、芥川は、一転して、死病の床についている父の死ぬ前の日の事を、つぎのように書いている。

 僕が病院へ帰つてると、[註―インフルエンザのために父が入院したので、教師をしていた芥川が、鎌倉から帰京して、二三日看病しているうちに、退屈して、友人たちに呼ばれて宴会に行って、帰って来たのだ]僕の父は僕を待ち兼ねてゐた。のみならず二枚おりの屏風のそとことごとく余人を引きさがせ、僕の手を握つたり撫でたりしながら、僕の知らない昔のこと、を、――僕の母[つまり、「狂人」の実母であり、この父は実父である]と結婚した当時のことを話した。それは僕の母と二人ふたりで箪笥を買ひに出かけたとか、鮨をとつて食つたとか云ふ、瑣末さまつな話に過ぎなかつた。しかし僕はその話のうちにいつかまぶたあつくなつてゐた。僕の父も肉の落ちた頰にやはり涙を流してゐた。
[やぶちゃん注:「註―インフルエンザのために父が入院したので、……」には注を要する(以下、主に宮坂年譜を参考にした)。まず、実父新原敏三のインフルエンザ(スペイン風邪)による東京病院入院は大正八(一九一九)年三月十三日で、当日、電報で連絡を受け、鎌倉の文との新居から上京、この日は病院に泊まっている。「教師をしていた」とあるが、実はこの五日前、龍之介はかねてよりの希望通り、大阪毎日新聞社から客員社員の辞令を受け取っており、芥川は三月三十一日で辞職することになっていた(実際に当日に退職はしたものの、免官辞令は何故かずれたらしい)。「友人たちに呼ばれて宴会に行って」とあるが、これは彼の親友であったアイルランド人ロイター通信の記者トーマス・ジョーンズで、「点鬼簿」で『僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた』たるのを指す(なお、このジョーンズを主人公に芥川との交流を実に印象深く描いたのが「彼 第二」である)。翌、三月十六日日曜の朝、敏三没。享年六十八であった。]

 この一節は、小さいうちに養子にやったために、滅多に逢えない子に、死にかかっている実父が、看病に来ている人たちを皆しりぞけて、気が違ったままで死んで行った妻(つまり、その子の母)と、所帯を持った頃、一しょに、箪笥を買いに行った話とか、鮨をとってたべた話とか、(つまり、)「瑣末な話」をして聞かせるところで、いわば普通の人情話ではあるが、読みながら、目頭が痛くなるではないか。
 先きに述べたように、『点鬼簿』といえば、唯、沈鬱な、陰気な、物語のように思われているが、『点鬼簿』とは、前に述べたように、一般に『過去帳』というもので、死んだ人たちの、俗名と法名と死亡した年月日を書きめておくものである、ところが、芥川は、この作品の㈡の初めの方に、「僕の『点鬼簿』にくはへたいのは勿論この姉[註―次姉の久子]のことではない。丁度ちやうど僕の生まれる前に突然夭折した姉[つまり、長子の初子]のことである、」と述べているように、この『点鬼簿』で、自分が心の底から愛している、もっとも近い肉親の、実父と実母と実姉のことを、限りない懐かしさと慕わしさを、心をこめて、書いたのである。この三人は、それぞれ、不幸な人であった、その㈠の母は狂人であり、その㈡の姉は早世し、その㈢の父は「小さい成功者」であるが、「たびたび一人子ひとりごの芥川を取り戻すために、「頗る巧言令色を弄した」が、一度もそれが成功しなかった、というように、世にも不仕合ふしあわせな人である、ありふれた言葉を使えば、死んでしまった子ならばあきらめはつく、が、そのたった一人ひとりの男の子は生きている、それをちいさい時分に何度む取り返しに行って、そのたびにその子にかぶりを振られた。ところが、その子の芥川も、短かい生涯の終りに近い頃になって、(自殺する考えを既に持っていたか、どうかそんな事は別として、自分のからだがどれほど弱っているか、自分は今にも気ちがいになるかもしれない、いや、もう既に気違いになっているにちがいない、というような事を一ぱいにしていたのは、だれでもない、本人の芥川である、)自分は、実の父にも、実の母にも、縁のうすい者であった、養父も、養母も、伯母も、みな、肉身も及ばぬほど、自分に、深切であった、が、しかし、……と思って、芥川は底知れぬ孤独を、しみじみと、感じた、『点鬼簿』の終りの方に、芥川は、「春先はるさきの午後の日の光の中に黒ずんだ石塔を眺めながら、一体彼等三人(つまり、実父、実母、実姉)の中では誰が幸福だつたらう、」と書いているが、この三人のほかに、くに石塔になった、芥川を入れて、四にんとし、さて、この四人の中で、誰が一ばん不幸であったか、と云えば、それは、芥川である。
[やぶちゃん注:この段落の宇野の芥川龍之介への思いは、本作の中でも最も万感迫ってくる、友人ならではの謂いである、と私は思う。]

 ……僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覚えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から実家へはこぶ時、大きい春の月がひとつ、僕の父の柩車きうしやの上を照らしてゐたことを覚えてゐる。

と、芥川は、『点鬼簿』の㈢の終りに、書いている。
 この一節にはほのかな感傷があり、しみじみしたところがある。
 しみじみしている、と云えば、『点鬼簿』の文章は、寄りみちしているところは別として、大体に、しみじみしている、切切せつせつたるところがある。それは、作者の回想がしたしくなつかしい最も近い肉親の身の上の事であり、それを回顧すれば、気が弱くなっていた作者に、限りなき極みなき悲しみの情が滾滾こんこんと湧き出すからである。
『点鬼簿』のひとひとつの回想には、そのひとひとに、侘しさと悲しさと懐しさとが、こもっている。
『点鬼薄』の中に、「実家」という言葉が、みっつかよっつ、出てくる。たった三つか四つであるが、それが、私の心を、打つのである。
 それは、「僕の母は髪を櫛巻きにし、いつも芝の実家にたつた一人……」というところ、「僕の母の実家の庭には育の低い木瓜ぼけの樹が……」というところ、「四十を越した『初ちやん』の顔はあるひは芝の実家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顔に……」というところ、「僕は彼是三日かれこれみつかばかり、養家の伯母や実家の叔母と病室の隅に……」というところ、「唯僕の父の死骸を病院から実家へはこぶ時、大きい春の月がひとつ、僕の父の柩車の上を……」というところ、――つまり、この五箇所である。この「実家」という言葉のほかに、「養家」という言葉が、同じくらい(か、いつむっつ)出てくるけれど、『点鬼簿』をすっかり読んでしまったあとに、読者のあたまに残るのは、殆んど「実家」という言葉だけである。
 数えどし、三十五歳の秋、『点鬼簿』に、むかし、(二十年、あるいは、三十五六年前、)死んで行った、父母や見たことのない姉のありし日の回想を書いているあいだに、心もからだも弱ってしまった芥川の心の目に、絶えず、幼ない時分霞んでいた「実家」の姿が、浮かんだのであろう。
 その実家、の二階では、狂人の母が、いつも一人ひとりすわっていて、長煙管ながぎせるで煙草ばかり吸っていた、その二階の真下ましたの八じょうの座敷で、その狂人の母は、死ぬ前には正気にかえったらしく、枕もとにすわっていた、十一の芥川と十五の芥川の姉の顔を眺めて、ふだんのようになにも口をきかないで、とめなしにぽろぽろ涙を落とした、が、もなく、死んでしまった、さて、その実家の庭には、古井戸ふるいどに枝をらしている木瓜ぼけと株あり、芥川のまれない前に夭逝した姉は、座敷にいる伯母に、「伯母さん、これは何と云ふ樹」と聞いたりしたが、それから幾日も立たないうちに、死んでしまった、それから、晩年は不遇であったらしい父の死骸が、病院から柩車ではこばれたのも、この実家であった。
[やぶちゃん注:「その実家の庭には」とするが、「実家」の連関を認めたい宇野には申し訳ないのだが、「二」の中の「実家」は新原家ではない。「点鬼簿」の該当箇所を読めば分かるが、直前に「初ちやん」は『土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに』来たと記し、その後にあのシークエンスに入り、そこでは『僕の母の實家の庭には背の低い木瓜の樹が一株、古井戸へ枝を垂らしてゐた』とあるのである。『僕の母の實家』とは、母フクの実家、則ち「初ちやん」が毎土日にかけて泊まりに来ていた本所小泉町(現在墨田区両国)の芥川家を指すのである。だからこそ伯母フキもそこに居るのである。]
 養家で人とり、養家で、作家となり、作家生活をし、今、しばし養家をはなれて、鵠沼の寓居で、三つの重い病気なやんでいる芥川には、昔の「実家」は、限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家である。
[やぶちゃん注:先の宇野の誤解を瓢箪から駒とするなら、芥川龍之介にとっては実は、実家新原家だけではなく――『養家』芥川家の旧宅も(それにシンボライズされる芥川という家の存在も)、結局は『限りなく懐かしくはあるが、かくの如く、侘しき家であり、哀傷の家であ』ったと言えるのかも知れない。]
 そこで、くちに云うと、『点鬼簿』は、芥川の哀傷の作品であり、芥川の哀傷の詩である。
 ところで、『点鬼簿』の中から、父と母とが死ぬ前の事を書いてあるところを、ならべて、引いてみよう。

 僕の母は三日目みつかめの晩にほとんくるしまずに死んで行つた。死ぬ前には正気にかへつたと見え、僕の顔を眺めては……   ㈠の内
 僕の父はそのつぎに朝に余りくるしまずに死んで行つた。死ぬ前にはあたまも狂つたと見え「あんなに……   ㈢の内

 これでは、なんぼなんでも、出来できすぎていて、つくものに見ええるではないか。作為さくいが見え過ぎるではないか。私が、ずっと前に、この作品をうまい工合ぐあいつくってある、と述べたのは、こういう所の事をも、云ったのである。
 しかし、いずれにしても、『点鬼簿』は、実に巧みな作品である、しかし、結局、小品である。
 さて、この小品が発表された当時」わりに高く評価されたのは、この作品で、芥川が、はじめて、自分の幼少年時代の回想を述べるのに、「僕」という言葉をつかい、その僕が、肉身の、(父母と姉の、)思い出を、しみじみと語る、という形式を使ったからである、それは、又、これまで、幼少年時代の回想風のものを書いても、例えば、『少年』には、まだ、不評判であった、保吉という名をつかい、一部の評論家に劃期的と云われた『大導寺信輔の半生』でも、信輔という名をもちいた上に、書き方にも見えいたような思わせぶりなところがあったからでもある。
 勿論、『点鬼簿』にも少しは思わせぶりなところがある。(「思わせぶり」は芥川の芸術の特徴のひとつでもある。そうして、その「思わせぶり」は、『或阿呆の一生』の中にも到る処にあり、死ぬ前の日まで書いた『続西方の人』の中にも多分にある。ところで、)『点鬼簿』には、仮りに「人間」は書かれていないとしても、なにか人の心に迫ってくるものがある。
 私は、四節に分かれている『点鬼簿』のなかで、その㈠が最もすぐれている、と思う、そうして、その㈠だけが最もすぐれている、と思う、『点鬼簿』に、(『点鬼簿』が雑誌[「改造」]に発表された時に、)読んで感心した大部分の人は、あの㈠の「僕の母は狂人だつた、」という書き出しの文句にず感嘆したにちがいない。
 書き出し、といえは、㈡、㈢、㈣は、前に述べたように、㈠よりは落ちるけれど、それでも、「僕は一人ひとりの姉を持つてゐる、しかしこれは……」という㈡の書き出しも、「僕は母の発狂したために生まれるが早いか…‥‥」という㈢の書き出しも、「僕は今年ことしの三月なかばに……」という㈣の書き出しも、みな、工夫くふう工夫くふうかさねたものにちがいない。そうして、見よ、ここでも、㈠、㈡、㈢、㈣の書き出しは、みな、「僕は…」となっている。
 芥川が志賀直哉と共に尊敬した、葛西善蔵は、若き間宮茂輔に、「小説は、書き出しと、切りが、大切ですぞ、」と教えた、という話を、間宮が、『風の日に』という実名(けん実際らしい)小説の中に、書いている。
[やぶちゃん注:「間宮茂輔」(もすけ 明治三十二(一八九九)年~昭和五十(一九七五)年)は小説家。慶應義塾大学中退後、『文藝戦線』に参加、昭和八(一九三三)年に逮捕、昭和十(一九三五)年に転向して出獄、代表作に「あらがね」。戦後は新日本文学会に属した。]

 彼はまたいつとなくだんだんと場末へ追ひ込まれてゐた。

 これは、葛西の処女作『哀しき父』[大正元年八月作]の書き出しの文句である。
 さて、芥川が『点鬼簿』を書いた鵠沼時代の生活のひとつの見本として、誰もかれも引用するので気が引けるが、やはり、その時分の芥川の生活と気もちの一端をかなりよく現しているので、次ぎに、『或阿呆の一生』の中の『夜』を、うつす。

 よるはもう一度迫り出した。荒れ模様の海は薄明うすあかりの中に絶えず水沫しぶきを打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空のもとに彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等にはよろこびだつた。が、同時に又くるしみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稲妻いなづまを眺めてゐた。彼の妻は一人ひとりの子をいだき、涙をこらへてゐるらしかつた。
「あすこに船がひとつ見えるね?」
「ええ。」
「檣の二つに折れた船が。」

 右の文章の中に、「二度目の結婚」とあるのは、大正七年の二月に結婚したので、その頃、横須賀の海軍機関学校の教師をしていた芥川は、田端の家をはなれ、鎌倉で、家(あるいは、部屋)を借りて、新妻にいづまと、所帯を持った、そこでは、養父母も伯母もいなかったから、夫婦だけの水入らずの暮らしが出来た、楽しかつた、それから、八年目に、(八年ぶりに、)鵠沼の貸し屋で、夫婦と子供だけで、暮らすようになったのを、しゃれて、「二度目の結婚」と称したのである。(それで、芥川は、大正十五年の八月二十四月に、下島 勲に出した手紙の中に、「……二三日中にお出かけなさいませんか。ちよつと我々われわれの二度目の新世帯に先生をお迎へして、御飯の一杯もさし上げたい念願があります、」と書いている。)
 ところで、先きに引いた文章の中の、絶えず水沫を打ち上げている、という海の話も、沖の稲妻を三人の子等と一しょに眺めるところも、更に、評論家たちが、その時分の芥川の心を現したものである、とか、その頃の芥川の象徴である、とか、いうような理窟をつけている、「檣の二つに折れた船」が見える、というような話も、私には、みな、『まこと』とは、取れないのである。
 諸君、さきに引いた文章をよく読んでごらんなさい。実に、心にくいほど、うまく出来ているではないか。これは、ひとつの散文詩と見ても、ひとつの小品として読んでも、少し病的なところはあるけれど、実に巧みな、ものである。
  五十一章からる『或阿呆の一生』は、最後の『敗北』の終りに(昭和二年六月)という日附けがついているが、この長短五十一篇の散文詩のような文章は、一度に書かれたものでなく、一章、一章、思いつくままに、念に念を入れて、書いたものらしく、死んだとしの昭和二年の春頃から、書かれたものであろうか、と思う。
『或阿呆の一生』は、どの章を読んでも、何ともいえぬ痛ましい気がする。
 しかし、この久米正雄に托された原稿、(遺稿、)、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と割註がしてあって、それが抹消されてあるそうだが、故人がそれを抹消した気もちはわかるような気はするけれど、これは、「自伝的エスキス」のようなところもあるが、文学の観照眼の特にすぐれた久米が云うように、「一箇の『作品』」である。
[やぶちゃん注:「エスキス」は、フランス語“esquisse”で、英語の“sketch”のこと。素描。下絵。]
 つまり、『或阿呆の一生』は、ひとつの芸術であり、一つの作品である。
 その『或阿呆の一生』のなかの『譃』という章の中に、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた、」という文句がある。そのルッソオの『懺悔録』を、(私は、いつ、どこで、誰の文章で、読んだか、忘れたが、)brilliant lie ブリリアント ライと云った人があった。『ブリリアント・ライ』を、簡単に、『光輝く嘘』と訳すると、『或阿呆の一生』の幾つかの章に「自伝的エスキス」のように見られるものがあれば、それらは、たいてい、『ブリリアント・ライ』という事になるのではないか。
 ブリリアント・ライ。――『或阿呆の一生』はブリリアント・ライである。
 何と、これは、見事ではないか。
 久保田万太郎は、さすがに、芥川が、「最後まで自分を美しく扮装しつづけた、」と云い、そうして、『或阿呆の一生』が読者に与えるものは、「魂の美しい旋律」だけである、と云った。
 魂の美しい旋律。
『或阿呆の一生』の最後の『敗北』という章の初めに、「彼はペンを執る手も震へ出した、」という文句がある。それを、大抵の評論家も、多くの人も、「芥川の文学の敗北」を意味する文句のように、云う。
 しかし、それは、違う。
 芥川は、仮にこの文句が本当とすると、ペンを執る手が震え出すまで、文章を書いていたのである。
 つまり、芥川は、死ぬ時まで、芸術家であったのだ。されば、芥川は、決して、文学に敗けたのではないのである。
[やぶちゃん注:私はこの最後の宇野の言葉には、完全に同意するものである。]

 三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、はげしい頭痛をこらへてゐた。すると僕の眶の裏に銀色の羽根をうろこのやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラディエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……
 そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いてからだおこすが早いか、丁度ちやうど梯子段の前にある、薄暗い茶のへ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
 妻はやつと頭を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもしたわけではないのですけれどもね、唯何だかおとおさんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」

 これは、『歯車』の最後の『飛行機』の終りに近いところの一節である。
 私は、この一節が、芥川の鵠沼時代の或る時の真相にいくらか近いのではないか、と思う。
 つまり、芥川は、ざっと、こういう状態の中で、『点鬼簿』を、書いたのである。
 そうして、芥川は、やがて、大正十五年を送ったのであった。
 大正十五年の十二月の三十一日から昭和二年の一月二日まで、芥川が、小さな家出をした、という話を、私は、ここで、思い出した。

     
二十三

『玄鶴山房』は、芥川の晩年の作品ちゅうの傑作の一つであり、芥川の全作品の中でも最もすぐれた作品の一つである。そうして、いて「本格」という言葉をつかうと、大正十三年の春頃から死んだとしの昭和二年の初夏の頃までの四年ちかくのあいだの数だけ多い作品の中で、本格的にちかい小説といえば、『玄鶴山房』だけである。
[やぶちゃん注:お気づきになられたか? 宇野は、「玄鶴山房」は、「本格的な小説」と言うには、見え透いた作為性と如何にもな出来過ぎた結構に於いて躊躇を感じないでもないが、芥川龍之介の『大正十三年の春頃から死んだ年の昭和二年の初夏の頃までの四年ちかくの間の数だけ多い作品の中で、本格的にちかい小説』と呼んでやっても、まあ、許してやろう、その程度には「上手い創作」「小説と呼んでも許し得る」作品だ、と言っているである。ここでは宇野が、芥川の「玄鶴山房」を除く後期作品を(初期作品も恐らく宇野にとっては厳密には「評価出来る上手い物語」であって「本格小説」ではないのだと私は思う)、その分量と結構に於いて小品(小品文)とし、小説としては決して認めないぞ、という強烈な意識が露呈している部分と言えるのではあるまいか?]
『玄鶴山房』は、ずっと前に述べたように、大正十五年の十二月の初め頃から、手をつけているが、その大部分は、昭和二年の一月の中頃から下旬にかけて、書いたものであるから、『玄鶴山房』は昭和二年の一月の作、と見るべきであろう。
[やぶちゃん注:前掲の私の関連表を参照されたい。看護婦からの聴取の推定も妥当なものと思われる。この六月の中下旬、芥川は下痢(後に大腸カタルと診断)に悩まされ、合併症の痔でも苦しんだため、妻文の母塚本鈴が心配して、塚本八洲附きの看護婦を鵠沼の芥川の元に送っている(宮坂年譜に拠る)。]
 芥川は『玄鶴山房』の構想はずいぶん前から立てていたにちがいない。

 ずっと前に引いた、芥川が、私に宛てた手紙[昭和二年一月三十日]の中に、「あの話[つまり、『玄鶴山房』]は『春の夜』と一しよに或看護婦に聞いた話だ、」と書いているのが本当とすれは、芥川は、大正十五年の六月二十日頃に、義弟[文子夫人の弟、塚本八洲]の附き添い看護婦から、『春の夜』の話と『玄鶴山房』の話を聞いた筈である。
『春の夜』はNさんという看護婦が話し手になっており、『玄鶴山房』でも甲野という看護婦が主役の一人になっているから、このふたつの作品のたねは看護婦から聞いた、というのは、本当であろう。(猶、この二つの作品で、両方とも、作者の芥川が、看護婦にいくらか重点をおいているように見えるのは、作者が、看護婦をつかって、作中の人物を観察しているように見える、そうして、その観察は、冷たいばかりでなく、なかなか意地がわるいようである。)
 それから、両方とも、人がもっともいやがる肺結核の病人が主要な人物としてあつかわれ、両方とも、無気味で沈鬱な作品であるのは、どうも、その時分の芥川のこのみであるらしい。
 それから、この二つの作品は、ひとつは小品であり、ひとつはちゃんとした小説であり、ひとつはかるいものであり、ひとつは念を入れたものであるが、どこか似たようなところがあるので、私は、はじめ、看護婦から聞いた話はひとつで、芥川が、そのひとつの「話」をもとにして、別別の構想を立てて、『春の夜』と『玄鶴山房』を、つくったのではないか、と思った程である。
 『春の夜』は、その看護婦から話を聞いてから、一とつき半あまり後、大正十五年の八月十二日に、鵠沼で、書き上げた。この作品については前に書いたが、これは、七枚ぐらいの小品であるけれど、今いったように、陰気で、つめたい作品である。そうして、小品としては、中途半端ちゅうとはんぱな物である。唯、姉より病気が重い清太郎という二十一歳の青年が、殆んど氷嚢をあたまに載せどおしで、いつも仰向あおむけに寝ているところなど、妙に無気味ぶきみである。

……離れへ行つて見ると、清太郎は薄暗い電燈の下に静かにひとり眠つてゐる。顔も亦不相変透あひかわらずすきとほるやうに白い。丁度ちやうど庭一ぱいに伸びた木賊とくさの影のうつつてゐるやうに。
「氷嚢をお取り換へ致しませう。」

最後の、「氷嚢をお取り換へ致しませう、」と云うのは、むろん、看護婦であり、眠っている清太郎はいつ死ぬかもわからない病人である。
 このぞオッとするような冷たさは、後の、『玄鶴山房』に、通じるものである。
 八月十二日に、芥川は、この小品を書き上げてから、苦心惨憺して、九月九日に、やっと、『点鬼簿』を書き上げた。
[やぶちゃん注:九月九日の脱稿後、十五日頃に数枚を追加する加筆の上、再度推敲して改造社へ決定稿を発送した(宮坂年譜に拠る)。]
 『点鬼簿』を書いてから、芥川は、あいかわらず、極度の不眠症になやまされながら、『悠々荘』、『彼』などを、書いた、が、なにか、落ちつかなかった、あたまの中に、絶えず、『玄鶴山房』が、あったからである。
 芥川の頭には、『春の夜』を書く頃から、『玄鶴山房』の、ぼやっとした、構想が、湧き出していたのではないか。
 芥川は、『春の夜』は、もとより、不満であった、一心をこめて書いた『点鬼簿』も、自分では思いきって書いたつもりでも、不安であった、ずっと前に引いた、芥川が、廣津に、はじめて出した手紙[大正十五年十月十七日]の中で、廣津が『点鬼簿』をほめたことを、「近来意気が振はなかつただけに感謝した、」と書いているように、その時分の芥川は、幾つかの病気になやみながらも、それ以上に、なおかつ、やはり、芸術上の煩悶をしていたのである。
 芥川が『玄鶴山房』を書きたい、と思ったのは、自分が芸術上の不振を感じるとともに、それ以上に、世間で自分が不振である、と思っていることを痛感していたので、この一作によって、自分(つまり、芥川龍之介)が健在である、という事を、しめしたかったのだ。
 芥川が、これもずっと前に引いた、佐佐木や斎藤[茂吉]や室生などに宛てた手紙の中に「暗タンたる小説」とか、「陰鬱なもの」とか、「陰鬱極マル力作」とか、書いているのは、そのような沈鬱な小説を書くのが、その頃の芥川の好みではあったが、それとともに、そういう、暗澹たる、陰鬱極まる、無気味な、小説を発表して、世の人人ひとびとをあッと云わせるつもりなども、おおいに持っていたからである。
 いずれにしても、それだけの、必死の、意気ごみを持って、いざ腰を据えて書こう、と思った時に、(つまり、昭和二年の一月の初めに、)先きにややくわしく書いた、義兄の鉄道自殺という事件が起こり、そのためにさまざまの事件が次ぎから次ぎと起こつたために、芥川は、「東奔西走」しなければならなくなったのである。
 芥川は、それにもめげず、堪えがたい病苦を押し切って、十日ほどの間に、『玄鶴山房』を、書き上げたのだ。しかし、その十日ほどの間は、芥川は、『玄鶴山房』のために、真に骨身を削る思いで、一字、一句、と、ペンを、すすめた。これ(この小説)を見よ、という念に燃えながら、芥川は、『玄鶴山房』を、書きつづけたのである。それは、大形おおぎょうに云えば、もし、芥川が『玄鶴山房』を書いているところを、はたから見れば、何物なにものにかに復讐をしているような緊張した顔をしていたかもしれない。しかし、又、その引き締まった気もちのゆるんだ時は、ふと、いたく衰えている自分のからだのことが考えられ、声名の花やかであった頃の事を回想して、心が弱くなった事もあったにちがいない。(ダンテの『神曲』の中の『地獄篇』のうしろの方に、「フランチェスカはわれに言ふ『悲しみの中にありて楽しかりし時を想ふより痛ましきはなし。……』」[生田長江訳]という一節がある。)
[やぶちゃん注:最後の「神曲」からの引用について一言附言しておく。原文は“Nessun maggior dolore che ricordarsi del tempo felice nella miseria.”で、生田の訳の通り、イタリア語で「逆境にあって幸せな時代を思い出すこと程つらいことはない。」といった意味である。ダンテ「神曲」の「地獄篇」第五歌で、ダンテが地獄の第二圏に至り、フランチェスカ・ダ・リミニに出逢う部分に現れる台詞。昭和六十二(一九八七)年集英社刊寿岳文章訳訳「神曲」の該当シークエンスの脚注を引用しておく。ダンテがヴィルジリオに『つねに離れず、頬よせて、いともかろがろと風を御するかに見える、あの二人とこそ語りたい。』の「二人」に附された注である。『フランチェスカ・ダ・リミニとパオロ・マルテスタ。北イタリアのラヴェンナ城主グイド・ミノーレ・ポレンタの娘フランチェスカは隣国の城主で狂暴かつ醜男ジャンチオット・マラテスタと一二七五年頃政略結婚させられた。初めジャンチオットは結婚の不成立をおそれ、眉目秀麗の弟パオロを身代わりに立てたが、婚後事実を知ったフランチェスカのパオロに対する恋情はいよいよつのり、フランチェスカにはジャンチオットとの間にできた九歳の娘が、そしてパオロにも二人の息子があったにもかかわらず、一二八五年頃のある日、ジャンチオットの不在を見すまして密会していたところ、不意に帰宅したジャンチオットにより、二人は殺された。フランチェスカはダンテがラヴェンナで客となっていたグイド・ノヴェロの伯母なので、特に親近の感が強かったに違いない。(後略)』。寿岳文章の訳では、地獄の苦界の只中にいる彼女がダンテの『フランチェスカよ、あなたの苦患くげんは、悲しさと憐れみゆえに、私の涙をひき出す。/だがまず語りたまえ。甘美なためいきの折ふし、何より、どんなきっかけで、定かでない胸の思いを恋とは知れる?』という問いに対する答えの冒頭で、『みじめな境遇にって、しあわせの時を想いおこすより悲しきは無し。』と訳される。以下、フランチェスカはパオロ・マルテスタとのなれそめを語る。なお、特にこの台詞について寿岳氏は、『ダンテは多くの古典をふまえてこれらの言葉を書いたと考えられるが、ポエティウス(四八〇-五二四)の『哲学の慰め』二の四、三-六行とのかかわりは最も深い。』と注を附している。]

……成程なるほどゴム印の特許を受けた当座は――花札や酒に日を暮らした当座は比較的彼の一生でもあかるい時代には違ひなかつた。しかしそこにも儕輩さいはいの嫉妬や彼の利益を失ふまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめてゐた。
[やぶちゃん注:「儕輩」は、仲間・同輩。「せいはい」とも読む。]

 これは、玄鶴が、だんだん衰弱して行き、とこずれの痛みのつらさを唸り声をあげて僅かにそのくるしみをまぎらせる、というような状態になった上に、底知れぬ孤独の寂しさを感じて、その一生を回顧した時のことを書いた文章の一節である。
 そうして、これは、芥川が、「神経衰弱なほるの時なし、」と慨歎し、ますますつのる不眠症のために、主治医である下島 勲に内証で、斎藤茂吉から、ヴェロナァル、ノイロナァル、阿片丸、その他を、都合しでもらって、飲んでいるような状態の時に、書いた小説の一節である。
 すると、「画家としても多少は知られてゐた、」堀越玄鶴が、全盛時代に、「儕輩の妖妬や彼の利益を失ふまいとする彼自身の焦燥の念は絶えず彼を苦しめてゐた、」と書いた芥川も、亦、全盛時代には、「儕輩の嫉妬」や自分の「利益を失ふまいとする」焦燥の念に絶えず苦しめられたのであろうか。
 そこで、ますます臆測をたくましくすると、この小説を書いていた時分の芥川は、全盛時代とは又ベつの、もっとイライラした焦燥の念に駆られていたのではないか。そうして、更に、臆測を逞しくし、極言すれば、この頃の芥川は、「儕輩の嫉妬」の反対に、「儕輩を嫉妬」し、創作力を回復しようとする焦燥の念に駆られていたのではないか。そのために、芥川の神経は興奮し、それとともに、芥川の気もちは、誇張して云うと、氷のごとくひややかになり、鬼のように残酷になった。そうして、物を見る目が、意地わるくなり、異常に鋭くなった。
『玄鶴山房』は、芥川の心が、ざっと、こういう状態になった時に、書かれたのであろう。

『玄鶴山房』には、子供と女中まで入れると、十一人の人物が、出てくる。子供や女中まで数えたのは、この小説の中では、ちょいと出てくる子供や女中まで、巧みに使っているからである。
 さて、この小説の主要人物をつぎつぎに上げると、「門の内へはひるが早いか、」妙なにおいのする、離れで肺結核の床に就いている、玄鶴老人、「七八年前から腰抜けになり、便所へも通へない体」になっている、玄鶴の老妻の、お鳥、或る相当な政治家の次男で、「豪傑肌の父親よりも昔の女流歌人だつた母親に近い秀才」である、銀行員の、婿の、重吉、苦労知らずであるが、よく細かい事に気のつく、内気な、家つきの娘の、重吉の妻の、お鈴、小学校にはいったばかりでありながら妙にませたところのある、息子の、武夫、それから、だまって一家の人びとを観察して意地わるな目で見ている、わたものの、看護婦の、甲野、信州うまれの女中のお松、――と、これだけの人たちが、玄鶴山房の中で、別別の心をもって、暮らしているのである。そこへ、「ある雪の晴れ上つた午後、二十四五の女が一人ひとり、かぼそい男の子の手を引いたまま、き窓しに青空の見える堀越家の台所へ顔を出した、」という所から、静かで打ち沈んでいた玄鶴山房に波瀾を起こさせ、玄鶴山房の内に思い思いに暮らしていた、先きに上げた、七人の老若の男女の心を、それぞれ、違った形で、動揺させる、(大人おとなたちは腹のさぐり合いをする、)というのが、この小説の『山』である。そうして、その 『山』をつくるもとの「二十四五の女」とは、前に堀越家で女中をしていた、玄鶴の妾の、お芳であり、そのお芳に手を訂かれている「か細い男の子」とは、玄鶴とお芳の中にまれた、武夫とおなどしぐらいの、文太郎である。
 されば、この小説に出てくる人たちの中に、その時分の芥川の好みである、醜悪な病人なりひねくれた人間なりが出てこなければ、この小説は、おそらく、「新派悲劇」というような作品になったであろう、それから、この小説の中に芥川らしい気取った説明が随所に出てこなかったら、この小説は、たぶん、「通俗小説」になったであろう。そうして、ついでに云えば、舞台に向く脚色のできる人(あるいは、脚色を本職にしている人)がよくやるように、この小説を、暗い陰気なところを、はぶくか、それとも、出来できるだけかるくし、芝居に必要な人物だけを取り上げ、場面を三場か四場ほどにし、脚色すれば、さしあたり、新生新派ぐらいで、上演できるであろう、もし久保田万太郎あたりがその気になれば。

 芥川は、『玄鶴山房』を書く前も書いている間も書いてから後も、誰に宛てる便たよりの中にも、『玄鶴山房』のことに触れると、かならず「力作」と書いている。『力作』とは、くちに云うと、「力をこめた製作」という程の意味であるが、芥川の『玄鶴山房』の場合は、「力作」と云うより、「骨を折った作」という方がふさわしいような気がする。『玄鶴山房』は、念には念を入れた、まったく用意周到な、細工さいくのこまかい、小説である、そのために、やはり、作為の見えくところもある、あまりにつくり過ぎるからである、そのかわり心にくいほどうまいところもある。

 さて、こんど、やはり、何度目かで、『玄鶴山房』を読みかえして、今まで気がつかなかったところで、痛く心を打たれたところがあった。それは、主人公の玄鶴の気もちとこの小説を書いていた頃の芥川の心もちが、どこか、通じているところであった。そういうところは、作者の気もちが、たくまずして、期せずして、作中の人物に、通じているからであろうか。

「玄鶴山房」の夜は静かだつた。朝早く家を出る武夫は勿論、重吉夫婦も大抵は十時にはとこくことにしてゐた。そのあとでもまだ起きてゐるのは九時前後から夜伽よとぎをする看護婦の甲野ばかりだつた。甲野は玄鶴の枕もとに赤あかと火の起つた火鉢を抱へ、居睡りもせず坐つてゐた。玄鶴は、――玄鶴も時々ときどきは目をましてゐた。が、湯たんぽがえたとか、湿布しつぷかわいたとか云ふ以外に殆ど口をいたことはなかつた。かういふ「離れ」にきこえてるものは植ゑ込みの竹のそよぎだけだつた。甲野は薄ら寒い静かさの中にぢつと玄鶴を見守みまもつたまま、いろいろのことを考へてゐた。この一家の人々ひとびと心もちや彼女自身のく末などを。……

 この一節は、読み過ごしてしまへば、何でもないようであるが、『玄鶴山房』の中で、もっとも気味のわるい場面の一つである。例えば、「甲野は玄鶴の枕もとに赤あかと火のおこつた火鉢を抱へ、居睡りもせず坐つてゐた。玄鶴は、――玄鶴も時々は目を醒ましてゐた。」というところなど、何という残忍な書き方であろぅ。「赤あかと火の起つた火鉢を抱へ、居睡りもせず」に、「薄ら寒い静かさの中にぢつと玄鶴を見守」っている甲野は、血のかよっていない、冷酷そのもののようであり、この甲野に見守られている玄鶴は、普通の、血も涙もある人間のようである。しかし、殆どまったく人間味(あるいは人情のようなもの)を持っていない、意地わるな、看護婦に見守られながら、「時々は」目をさまして、「湯たんぽがえたとか、湿布が乾いたとか、」云う以外に殆んど口をきかない玄鶴の孤独は、恐ろしいような孤独である。しかし、その玄鶴に附き添うている看護婦の甲野も、亦、玄鶴とまったく違った境遇で、玄鶴とまったく違った心もちで、孤独な女である。そうして、甲野の孤独も、底の知れないような孤独である。
 玄鶴は、死病にかかっている病人であり、自分も先きの長くないことを知っている上に、死んだ方が極楽だ、と思っていた。また、甲野は、(甲野も、)「病家の主人だの病院の医者だのとの関係上、何度一塊の青酸加里をまうとしたことだか知れなかつた、」というような過去を持っていた。
 されば、これは、夜がふけ、人が寝しずまった、薄ら寒い静かな、「離れ」で、底の知れない、底の知れない孤独に落ち入っている女が、赤あかと火のおこった火鉢をかかえ、居睡りもしないで、坐っていて、死の床についている、くさいにおいのする、恐ろしい孤独に落ち入っている老人を、見守っている図、ということになる。そうして、その女は、「他人の苦痛を享楽する病的な興味」を持っていたから、「植ゑ込みの竹の戦ぎ」などは、およそ耳にはいらなかったであろう。
 つまり、この一節を読んで私が感じたのは、「植ゑ込みの戦ぎだけ」を聞いたのは、作者の芥川であり、その芥川は、玄鶴の落ち入っていた、恐ろしい孤独にも、落ち入り、甲野が落ち入っていた、底の知れない孤独にも、落ち入っていたような気がした事である。
 芥川は、この『玄鶴山房』を書いたとしから十年ほど前に、『孤独地獄』[大正五年四月号の「新思潮」]という小説を書いた。その中に、

 仏説によると、地獄にもさまざまあるが、凡先およそまづ、根本こんぽん地獄、近辺きんぺん地獄、孤独地獄の三つにわかつ事が出来るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄なんせんぶしうしもごひやくゆぜんなをすぎてすなはちぢごくありと云ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中さんかんくわうやじゆかくうちゆう、何処へでも忽然として現れる。云はば目前もくぜんの境界が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱くげんを現前するのである。
[やぶちゃん注:「根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分つ事が出来る」の「根本地獄」は我々が普通にイメージする地獄で、上層から順に大焦熱・焦熱・大叫喚・叫喚・衆合・黒繩・等活・無間地獄の八種、総称して八大(八熱)地獄のことを言っている。「近辺地獄」というのは、その大種別である八大地獄の中にはそれぞれの四方に四つの門があり、その門外にまた、各々罪状によって詳細に区分けされた四種の副地獄があり、それを総称して十六遊増地獄・四門地獄・十六小地獄と言うのを「近辺地獄」と呼んでいる。因みに、この上位の八大地獄のタクソンと幅地獄を合わせると、地獄の数は百三十六となる。「孤独地獄」は芥川の述べるように、これらの地下の地獄とは次元の異なった地獄であって、現世の山野・空中・樹下などにパラレルに孤立して存在する地獄とする。孤地獄とも言い、現在の精神医学的知見から言えば、PTSD(心的外傷後ストレス障害)による鬱病に近い孤立感・孤独感や、引きこもりの様態と近いか。
「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄」(南瞻部洲五百踰繕那を過ぎて乃ち地獄有り)は「阿毘達磨倶舍論あびだつまくしゃろん」(通称「具舎論」)の一節であるが、正しくは「於此贍部洲下過五百踰繕那有琰魔王國」(此より贍部洲下五百踰繕那を過ぎて琰魔王國えんまわうこく有り」である。「南瞻部洲」は「閻浮提えんぶだい」と同義で我々の住む人間世界、「踰繕那」は古代インドの距離単位で「由旬」に同じい。「倶舎論」にあっては一踰繕那は約七キロメートルと解釈されているから、三千五百キロメートルのえらく近い地下にあることになる。但し、通常「地獄」は四万由旬の地下とされ、これだと三十八万キロメートルとなる。「琰魔王國」の「琰魔」は閻魔に同じい。
「山間曠野樹下空中」筑摩書房全集類聚版脚注には、「倶舎論頌疏一〇」(「倶舍論頌釋疏」のことか)に見られる一句、とある。]

という一節があるが、その時は、芥川は、唯、小説を作るために、こういう事を、書いたにちがいない。
 ところが、この『玄鶴山房』を書く時分から、(あるいは、その前から、)死ぬ時まで、芥川は、この「山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現れる、」という、『孤独地獄』に落ち入っていためではないか。
 ところで、芥川が、この『孤独地獄』を書いたのは、大正五年の二月であるから、かぞえどし、二十五歳の春であり、満二十四歳ぐらいである。こんなとしの若い時分に、芥川は、

……唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現れる。云はば目前の境界が、すぐそのまゝ、地獄の苦艱くげんを現前するのである。自分は二三年前から、この地獄へ堕ちた。一切の事が少しも永続した興味を与へない。だから何時いつでもひとつの境界から一つの境界を追つて生きてゐる。勿論それでも地獄はのがれられない。さうかと云つて境界を変へずにゐれば猶、くるしい思をする。そこでやはり転々としてその日その日の苦しみを忘れるやうな生活をしてゆく。しかし、それもしまひにはくるしくなるとすれば、死んでしまふよりもほかはない。昔は苦しみながらも、死ぬのがいやだつた。今では……

というような文章を書いている。
 しかし、これは、前に述べたように、芥川が、『孤独地獄』という作品の中で、いもあまいも知りつくしたような禅超という禅僧に語らせている文句である、つまり、『孤独地獄』に落ち入った、と云う禅超が述べた心境のようなものである。
 いずれにしても、『孤独地獄』は、小品ではあるが、二十五歳の青年の作品としては、すこし出来できすぎている、しかし、青年の作品らしい溌刺としたところがすこしもない、それに、こましゃくれたところがあり、妙に取り澄ましているところもある、そうして、結局、つくものかんがある、それから、更に極言すれば、この作品は、『孤独地獄』というテエマでつくったのではないか、とさえ思われる。
 ところで、『孤独地獄』とは、仏説では、「八大地獄や八寒はちかん地獄や八熱はちねつ地獄などのように、まった処にあるのではなく、おのおのの人がそれぞれ自分のごう[註―過去世にした悪の報い]の感ずるところ、あるいは虚空、或いは山野などに現出する、孤存する地獄」と云われている。それから、『八大地獄』とは、やはり、仏説によれば、「贍部せんぶ州の地下五百由旬ゆじゅん以下にたてかさなっている、という、八種の地獄」という事になっている。
 つまり、私のような無学な者でさえ、このくらいの事は、知っているのであるから、まして、博覧強記であり、古今東西にわたってゆたかな学殖があった、と称せられている、芥川であるから、『孤独地獄』について、先きに引いた、「南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄なんせんぶしうしもごひやくゆぜんなをすぎてすなはちぢごくありと云ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中、何処へでも忽然として現れる。…」という程の話をつくだすのは、けだし、朝飯前の仕事であろう。
 そうして、『朝飯前の仕事』としても、前に引いたところなど、ひとつの文章として見れば、なかなかうまいものであり、実に凝ったものである。
 ところが、この文章を読んでも、「目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱くげんを現出する」というような、恐ろしい、『孤独地獄』に、二三年も前から、ちている、というような人の苦悶も、それほど痛切に感じられないし、その人の「それもしまひには苦しくなるとすれば、死んでしまふよりもほかはない、」というような切羽つまった気もちも、一向いっこうに胸にせまってこない。
 これは、作者が、この禅超の『孤独地獄』に堕ちている苦しい気もちを、しみじみと感じていないからである。それは、作者が、この小品の最後に、「一日の大部分を書斎で暮してゐる自分は、生活の上から云つて、自分の大叔父やこの禅僧とは、全然没交渉な世界に住んでゐる人間である。[中略]しかも自分の中にあるある心もちは、ややもすれは孤独地獄と云う語を介して、自分の同情を彼等の生活にそそがうとする。が、自分はそれを否まうとは思はない。何故なぜと云へば、ある意味で自分も亦、孤独地獄に苦しめられてゐる一人ひとりだからである、」と書いているのを見ても、わかる。
 それから、やはり、この小品のうしろほうに、「母は地獄と云ふ語の興味で、この話を覚えてゐたものらしい、」という文句がある。
 この文句をもじって云えば、「芥川は孤独地獄と云う語の興味で、この小品を作ったものらしい、」という事になる。
 短歌に『題詠』というのがある。『題詠』とは「題をもうけて、ことさらに歌をよむこと」という程の意味である。
  西吹くや風さむければ網ほせるみぎはの葦に氷むすびぬ
  こほりゐる水のそこひの白珠の目にはつけどもとりがてぬかも
 これは長塚 節が『氷』という題をもうけて、んだ歌である。
  あまつ風いたくし吹けば海人あまの子が網曳あびく浦わに花ちりみだる
  みこやす君[註―正岡子規のこと]は上野うへののうら山[註―子規は、根岸に住んでいたから、寝ながら、上野のうら山の桜を見たのである]の桜を見つつ歌むらむか
 これは、伊藤左千夫が、『桜』という題をあたえられて、んだ歌である。
  秋はいぬ風に木の葉は散りはてて山寂しかる冬は来にけり
  木の葉ちり秋も暮れにし片岡のさびしき杜に冬はにけり
 右の源 実朝みなもとのさねともの歌について、斎藤茂吉は、「これらの歌はみな題詠であるらしい。題詠の場合にはいろいろ光景を心に浮かべ、心を働かして作る場合が多いから、一首がととのつてゐてもをさまりちで、『理づめの歌』になりやすく、流動溌剌りうどうはつらつの気に乏しいものになり易い。これらの歌にもさういふ傾きがある、」といている。
 もとより、『題詠』とは短歌の方で使いおこなう言葉であるから、この言葉をそのまま、小説(あるいは小品)に通用させるのは無理ではあるが、その無理を承知のうえで強弁すれば、むかし、(大正十年頃、)菊池 寛が『テエマ小説』というものを首唱した、その『テエマ』小説と『題』によってむ歌とは幾らか似通にかよったところがある、と、私は、思うのである。
『テエマ』とは、いうまでもなく、ドイツ語の『テエマ』(Thema)であるから、「主題」(あるいは、「題目」、「問題」)という程の意味である。
 しかし、菊池のテエマ小説は、現代の日常の事か史実かの中から『これ』と思う題材をつかまえ、それを主題(テエマ)にして書いたものであるから、短歌の『題詠』とは殆んどまったくちがう。ところで、菊池がさかんにテエマ小説やテエマ戯曲を書いた時分に、芥川も、菊池とまったく違った形式のテエマ小説を、つぎつぎと、書いた。そうして、芥川も、亦、菊池のように、昔の話(たとえば、『今昔物語』など)の中から、『これ』と思う題材を取り出し、それをテエマにして、幾つかの短篇を書いた。その例を初期の作品のなかから上げると、これもずっと前に引いたが、『鼻』と『芋粥』である。これらは、両方とも、『今昔物語』から逸材を取ったものであるが、その眼目がんもく(あるいはチエマ)は、「人生に対するひとつの幻滅だ、」と、菊池は、説いている。これは、菊池らしい解釈で、そのとおりであるが、私は、私の云い方で、これもずっと前に書いたが、『鼻』も、『芋粥』も、結局、「空想は空想をしてゐるあいだが花である、」というテエマを現したものである、と述べ、そのテエマは、シングの『聖者の井戸』(The Well if the Saints)から暗示をうけたのであろう、とも書いた。(もっとも、一番シングのいろいろな戯曲のテエマを自分のものにして、幾つかのしな戯曲を作ったのは、菊池であった。)
 ついでに述べると、私は、その作品がその作者の物になりきっていれば、こういう事は問題にはならない、と思っている。
 もうひとつ、ついでに、書けば、芥川は、『昔』という文章の中で、「いま僕があるチエマをとらへてそれを小説に書くとする。さうしてそのチエマを芸術的に最も力強く表現するためには、ある異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日こんいちこの日本におこつた事としては書きこなしにくい、もししひて書けば多くの場合不自然の感を読者におこさせて、その結果折角せつかくのテエマまでも犬死いぬじにをさせる事になつてしまふ、」と述べている。
[やぶちゃん注:「昔」全文の私のテクストはこちら。]
 ここに引用した文章は大正七年の一月に書かれたものである。『羅生門』から数えて、大正六年の終りまでに、芥川は、二十五六篇の短篇小説を書いているが、その中に、「今日こんにちこの日本におこつた」ような事を題材にしたのはただ一篇である。
[やぶちゃん注:これは正確ではない。以前述べた如く、宇野の「短篇小説」の定義(特に原稿量)が難しいが、「今日この日本に起つたような事を題材にした」ものは、大正五(一九一六)年には「父」「猿」「手巾」の三篇を数え、大正六年には「二つの手紙」「片恋かたこひ」が、更に「昔」と同日発表の「西郷隆盛」がある。計六篇である(恐らく宇野は「父」か「手巾」を一篇と数えているものと思われる。内容と分量から言えば「手巾」であるが、宇野は以前に上巻の「十四」で「手巾」について、『評判の立った時というのは妙なもので、これは、「中央公論」に出た、というだけで、目を引き、』と述べている。これは宇野が本作を全く評価していない証左である)。これらは都市伝説的な噂話に類するものを含み、正に「今日この日本に起つたような事を題材にした」(「ような」であればよいのである)小説である。]
 ところで、ここに引用した芥川の意見をそのまま取ると、芥川は、菊池と反対に、テエマを捉えてから、題材を探して、(あるいは、題材を考えて、)小説を書いた、という事になる。そうして、もしそうだ、とすれば」それらの芥川のチエマ小説は、短歌でいう、題詠に幾らか似通にかようている、という事になる。
 ここで、さきに述べた『孤独地款』のことにもどると、仮りに、芥川が、『孤独地獄』という言葉に興味をおぼえ、それをテエマにして、あの小品を書いた、とすると、あの小品には、『孤独地獄』に堕ちた人の索漠さくばくとした気もちもなさも殆んどまったく出ていない。それは、肝心の『孤独地獄』に堕ちた人のなやみを現すのに、芥川の文学の第一の欠点である、描写を殆んどしないで、説明で片づけてあるからだ。それから、その頃、まだ学生であって、したしい友人たちと「新思潮」[註―第四次「新思潮」大正五年二月創刊]を出したばかりの時で、文学(あるいは、文壇)に対して野望を燃やしていた時分であるから、青年の芥川の心には、『孤独地獄』どころか、『孤独』というものさえ殆んどまったく感じられなかったに違いないからである。

 彼は雨にれたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈かなりはげしかつた。彼は水沫しぶきの満ちた中にゴムびきの外套のにほひを感じた。
 すると目の前の架空線が一本いつぽん、紫いろの火花を発してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着うはぎのポケットは彼等の同人雑誌[註―「新思潮」か]へ発表する彼の原稿を隠してゐた。彼は雨の中をあるきながら、もう一度うしろの架空線を見上げた。
 架空線は不相変鋭あひかはらずするどい火花を放つてゐた。彼は人生を見渡みわたしても、なにも特にしいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――すさまじい空中くうちゆうの火花だけは命とへてもつかまへたかつた。

 これは、『或阿呆の一生』の中の『火花』の全文である。
 前にも述べたよう忙、『或阿呆の一生』(五十一章)は、その一章一章、散文詩でも書くように、書かれているように見える。されば、そのなかにはいわゆる事実ではない話が、幾つもあるかもしれない、いや、幾つもあるであろう。しかし、そういう穿鑿せんさくは、殊に芥川の文学には、野暮やぼであろう。
 そこで、さきに引いた文章を、「彼は人生を見渡しても……」以下は別として、まず本当とすれば、(たぶん本当であろう)「新思潮」を出した頃は、青年、芥川は、唯ただ文学のために意気ごんでいたにちがいないから、『孤独地獄』に、孤独地獄に堕ちた人の心もちが殆んど現れていないのは、まったく無理ではない、という事になる。
 しかし、『孤独地獄』は、さきに述べたように、肝心の事は殆んど書けていない、としても、そうして、その最後の「ある意味で自分も亦、孤独地獄にくるしめられてゐる一人ひとりだからである、」という文句は、気障きざなようであり、否味いやみなように思われるけれど、しかし、又、二十四や五の若さで、(しかも、大正の初め頃に、)作品のよしあしは別として、『孤独地獄』のような老成した作品を書いた芥川は、特異な作家のなかのそのまた特異な作家の一人ひとりであったのだ。
『孤独地獄』を書いてから、ちょうど二年ほどのちに、芥川は、『地獄変』を書いた。わずか二年ではあるが、この二年は、芥川の短かい生涯のうちで、もっともあぶらの乗った時であった。しぜん、この二年のあいだに、芥川の腕はめきめきがった。
『地獄変』は、(この作品については、前に可なりくわしく述べたから、簡単に云うと、)題材は凄惨きわまりない話である、が、それを書く作者が、唯こういう題材に興味を持ったというだけであるから、しぜん、筆が上滑りをしているので、ただ綺麗にかれた絵巻物、というような作品である。それから、この小説の段取だんどりがよくいている事や、この小説の筋や文章になにか妙にあまいところのあるのは、作者のあたまに、絶えず、「新聞の連載」という事が、あったからである。そのために、このような題材でありながら、読む者に迫ってくるような、物凄さも、恐怖も、感じさせないのである。
 そこで、くちに云うと、芥川は、『孤独地獄』とか、『地獄変』とか、いう題をつけた作品では、殆んど『地獄』のようなものが書けなかった、そうして、『玄鶴山房』で、ようやく、『地獄』に近い感じのものを出したのであった。
 しかし、それも、あの世の地獄ではなく、この世の地獄のようなものである。

 さて、私が、『玄鶴山房』を、はじめて、まとめて、読んだのは、昭和二年の二月号の「中央公論」である。『まとめて』とは、先きに述べたように、『玄鶴山房』は㈠だけ、(それも、原稿用紙[註―四百字づめ]で二枚ぐらい、)その前の月の、(つまり、一月号の、)「中央公論」に、て、二月号の「中央公論」で完結したからである。
 ところで、私は、その一月号の「中央公論」に出た、『玄鶴山房』の㈠を読んだ時は、卒読したので、その㈠の終りの、

なんだかな、まさか厳格と云ふ酒落しやれでもあるまい。」
 彼等は二人ふたりとも笑ひながら、気軽きがるにこの家の前をとほつて行つた。そのあとには唯て切つた道に彼等のどちらかが捨てて行つた「ゴルデン・バツト」のがら一本いつぽん、かすかに青いひとすぢの煙をほそぼそと立ててゐるばかりだつた。

という妙に酒落しゃれているところだけが気になって、「ふン、『青いひとすぢの煙をほそぼそ』か、あいかわらずつてるな、」と、思ったきりで、肝心なところを、読み過ぐしてしまった。そうして、『玄鶴』と云えば、「黒色の鶴」のことだが、黒色の鶴などというものがあるのかな、などと、思ったりした。
[やぶちゃん注:「黒色の鶴などというものがあるのかな」クロヅルという和名のツルは実際に存在する。ツル目ツル亜目ツル科ツル属クロヅル Grus grus で、参照したウィキの「クロヅル」によれば、『成鳥の頭頂は赤く裸出し、まばらに黒く細い毛状の羽毛が生え』、『後頭から眼先、喉から頸部前面の羽衣は黒く、頭部の眼の後方から頸部側面にかけては白い』。『胴体の羽衣は淡灰褐色または灰黒色』で、『和名は全体的に黒っぽいことに由来する』。但し、分布域は『ヨーロッパ北部のスカンジナビア半島からシベリア東部のコリマ川周辺にいたるユーラシア大陸で繁殖し、ヨーロッパ南部、アフリカ大陸北東部、インド北部、中国などで越冬』し、『日本には、毎冬少数が鹿児島県の出水ツル渡来地に渡来するが、その他の地区ではまれである』とある。]
 ところが、完結した『玄鶴山房』を読んでみて、私は、「これは、」と、思った、「これは、うまい、」と感心したのである。しかし、この時も、あまり念を入れて、読まなかったらしかった、それは、すぐれた作品とは思ったのであるが、唯、暗澹とした、救われないような、感じが、たまらなかったので、それだけに辟易して、やはり、肝心のものに、気がつかずにしまったからである。
 それで、その感想を、私は、廣津にも高野[註―前にも書いたが、その頃の「中央公論」の責任編輯者]にも、述べた、あまりにくらすぎて、読みながら、なにかやりきれないような気がする、と。
 それから、これも前に書いたが、その、芥川が、私の病気(やはり、かなりひどい神経衰弱)を見舞いに来てくれた時、この『玄鶴山房』について、「……あれは、随分ずいぶんうまい、と思ったが、実に気もちのわるい小説だね、」と、私が、云うと、「……そうかなア、」と、云って、芥川は、何ともいえぬ妙な顔をした。そうして、その顔はすこゆがんでいるように見えた。そうして、それには、幾らか『心外しんがい』というような表情もあるのが、うかがわれた。
「……しかし、『玄鶴山房』は、旨いもんだな、旨いのには、感心したよ。」
「うむ、……すこし骨を折ったよ。……『軍港行進曲』、……ひさしぶりで、調子ちょうしが出たね、……しかし、僕らの小説、新年号に、出したかったね。」
 芥川は、急に、しみじみした調子で、云った。
 二人ふたりとも、病気の事も、なにも、忘れてしまった。
「……僕も、こんどは、すこし変った小説、書くつもりだから、君も、『軍港行進曲』の後篇を、すぐ、書けよ。」
「うむ、僕も、書くから、君も、書けよ。」
「……君には、ちょっと云ったが、僕のうちは、……複雑なんでネ、それに、……」
「………」
「……じゃ、失敬するよ、大事だいじにしたまい、ね。」
「君も、大事にしたまえ。」
[やぶちゃん注:この宇野の回想する芥川龍之介の宇野浩二への見舞いは何頃のことになるか、少し考証してみたい。まず、これは『改造』に「玄鶴山房」後半が掲載された後であるから、二月二日以降と考えると、文中の(宇野の記憶に誤りがないとすれば)『僕も、こんどは、すこし変った小説、書くつもりだから』が、大きなヒントになる。実は宮坂年譜によれば、同二月四日には「蜃気楼」が脱稿されており、更に七日までには「河童」六十枚が執筆されていることが判明する。河童の脱稿は二月十三日頃とされるが、「蜃気楼」は何より芥川龍之介の起死回生の「筋のない小説」としての自信作で、また、近年にない速筆で書いたと自慢する「河童」は怪作寓話小説で、ともに正しく『すこし変わった小説』と言ってよい。『書くつもり』という語に拘るなら、二月二日以降で、せいぜい「河童」を執筆したという七日前後ぐらいまでがリミットとなるが、もしかすると、芥川は宇野を元気づけるために、既に書き終わっていた「蜃気楼」「河童」を『こんどは……書くつもりだから』と言った可能性を考えれば、同二月上旬から中下旬頃までを同定候補として引っ張ることは出来よう。]
 さて『玄鶴山房』を、こんど、少し念を入れて読んでみると、前に述べた二十五六年前の感想とまったくちがう考えが浮かんだ。
『玄鶴山房』は、いうまでもなく、沈鬱な話ではあるけれど、それは作者が殊更に陰惨にしたところが多分にあるからで、案外に常識的な人情話めいたところも随分ある。
 例えば、婿の重吉が養父母に対する態度や気もちも、お鈴の、父母に対する気もちも、父の妾であったお芳に対する態度なども、ひまを出された妾のお芳が手伝いにるところも、お鈴の子とお芳の子が喧嘩をするところも、その子等の喧嘩のために母親たちが気をむところなども、みな、常識的であり、普通の人情話であるからだ。

 玄鶴はお芳[註―元女中]を囲ひ出した後、省線電車の乗り換へも苦にせず、二週間に二度づつは必ず妾宅へかよつて行つた。お鈴はかう云ふ父の気もちに始めのうちは嫌悪を感じてゐた。「ちつとはおかあさんの手前も考へればいのに、」――そんなこともたびたび考へたりした。尤もお鳥はなにごともあきらめ切つてゐるらしかつた。しかしお鈴はそれだけ一そう母を気の毒に思ひ、父が妾宅へ出かけたあとでも母には「けふは詩の会ですつて」などと白々しらじらしい譃をついたりしてゐた。その譃が役に立たないことは彼女自身も知らないのではなかつた。

というところなど、やはり、普通の人情ではあるが、晩年の芥川は、これだけの事を書いても、例の説明するくせはあるけれど、手法が簡潔になり手堅てがたくなった。
 それから、『玄鶴山房』の特徴は、そのために読後の感銘がうすくなる程、用意周到につくってある事だ。
 中心の人物である玄鶴が身内みうちの者さえいやがりいとう病気にかかっている事が、この小説が通俗的になり人情小説になり兼ねないのを、救っている。それどころか、それだけで、一般の読者に、いや、大抵の評論家にさえ、それ程でもないのに、この小説を、大へん深刻な作品のように、思わせている。
 それから、この小説の㈡のはじめのほうに、「彼[註―玄鶴の婿、つまり、玄鶴の娘お鈴の夫の重吉]はこの数日来、門のうちへはひるが早いか、忽ち妙な臭気を感じた。それは老人には珍しい肺結核の床に就いてゐる玄鶴のいきにほひだつた、」というところがあるが、これは玄鶴の容体が急にわるくなった、という、作者の、用意周到な『伏線』である。(『伏線』とは、「後段に書く事を、唐突にならせないために、前もってほのめかしておく事」という程の意味である。)
 つまり、『玄鶴山房』は、㈠は前書まえがきであるが、㈡は、玄鶴の病気が重くなったので、甲野という附き添いの看護婦が来、㈢は、やはり、そのために、玄鶴が「東京の或近在に公然と囲つておいた女中上ぢよちゆうあがり」のお芳が、手伝いを兼ねて、子をつれて、現れ、㈣は、そのために、女たちが、腹の探り合いをしたり、あんに啀み合ったりする、㈤は、病苦のために、玄鶴が自殺しかけ、㈥は、玄鶴が死ぬ、という筋であるから、この『伏線』はまったく抜き差しならぬ『伏線』である。(私の知る限り、芥川の全作品の中でも、このような用意周到な『伏線』を使っているのは、おそらく、『玄鶴山房』だけである。)
[やぶちゃん注:「㈣は、」の読点は底本にはなく、ただの字空きとなっているが、前後から読点の脱字と判断した。「啀み合ったりする」は「いがみあったりする」と読む。]
 ついでに書くと、この『伏線』である、重吉が、勤めさきの銀行から、帰って来て、門の内にはいった途端に、妙な臭気を感じる、「それは老人には珍しい肺結核の床に就いてゐる玄鶴の息のにほひだつた、」というような現象であるが、いかに悪質の肺結核の患者であったとしても、「離れ」に寝ている病人の「息の匂」が、門をはいった途端に、感じられるかどうか、というような疑問を、たいていの読者に、いだかせないようなところに、『玄鶴山房』の魅力が、あるのであろうか。それとも、こういう事を、芥川が、わざと、書いたのであろうか、あるいは、その時分の芥川は、(その時分の芥川の気もちは、)おのずから、こういう事を書いたのであろうか。
 ところで、『玄鶴山房』に出てくる人たちは、もとより、それぞれ、性質がちがうけれど、大てい、善人であり、凡人である。ところが、看護婦の甲野だけは違う。
 それは、作者が、甲野という底意地のわるい看護婦を出して、その甲野に冷たい意地のわるい観察をさせるためであろうか。もしそうだ、とすれば、甲野などに出来ない事は、作者、みずから、かげにまわって、話を、なるべく、暗澹に、と、意地わるに、みちびいたので、はないか。(そうして、このころの芥川は、ともすれば、こういう気もちに、なったのではないか。)それは、例えば、次ぎのような所である。

……七八年前から腰抜けになり、便所へもかよへないからだになつてゐた。玄鶴が彼女を貰つたのは彼女が或大藩あるたいはん家老からうの娘と云ふほかにも器量きりやう望みからだと云ふことだつた。彼女はそれだけにとしをとつても、どこか目などは美しかつた。しかしこれもとこの上に坐り、丹念に白足袋などをつくろつてゐるのは余りミイラと変らなかつた。

 この最後の、腰抜けの老女など、七十字ぐらいであるが、かつて『往生絵巻』や『六の宮の姫君』などが凄惨な話のように称せられたけれど、これとくらべると、あれらは借り物であって、これは可なり無意味である。つまり、『玄鶴山房』を書いた頃の芥川は、こういう事を、書いたのである。
 ところが、『玄鶴山房』のもうひとつの特徴は、平凡な事でありながら必要と思われる事は実にこまかく書いている事だ。それは、例えば、お鈴とかお芳とか、いう、世間にざらにある女たちの仕種しぐさや言葉の端端はしばしを克明に書いているところである。それは、例えば、次ぎのような所である。(これは、玄鶴に公然とかこわれていた女中あがりのお芳が、ゆるしをうけて、手伝いをするために、台所から、はいって来た所である。)

 お鈴はお芳の顔を見た時、存外彼女がけたことを感じた。しかもそれは顔ばかりではなかつた。お芳は四五年以前にはまるまるとふとつた手をしてゐた。が、としは彼女の手さへ静脈じやうみやくの見えるほど細らせてゐた。それから彼女が身につけたものも、――お鈴は彼女のやすものの指環ゆびわなに世帯しよたいじみた寂しさを感じた。
「これは兄が檀那様[つまり玄鶴]に差し上げてくれと申しましたから。」
 お芳は愈気後いよいよきおくれのしたやうにふるい新聞紙の包みをひとつ、茶のへ膝を入れる前にそつと台所の隅へ出した。折から洗ひものをしてゐたお松はせつせと手を動かしながら、水々みづみづしい銀杏返いてふがへしにつたお芳を時々ときどき尻目に窺つたりしてゐた。

 仮りにこれを『芸』とすれば、実にこまかい芸である。そうして、誇張して云うと、死ぬ前の芥川の仕事はいよいよ冴えてきた、という事になるかもしれない。しかし、このくらいの事は芥川の『家の芸』として、この古い新聞紙の包みの中に、「悪臭あくしうを放つてゐる」大蒜にんにくを入れて、「お芳はお松を見なかつたものの、すくなくともお鈴の顔色に妙なけはひを感じたと見え『これは、あの、大蒜でございます』と説明した、」とあるところなどは、芸はますますこまかい、といううえに、以前の芥川になかったようなものを、チクリと感じさせる。
 ところで、芥川は、この『玄鶴山房』を、あるだけの力をしぼり、精根せいこんをつくして、書いたのである。しかし、芥川は、青野に宛てた手紙[昭和二年三月六日]の中で、「わたしは玄鶴山房の悲劇を最後で山房以外の世界へ触れさせたい気もちを持つてゐました。(最後の一回以外が悉く山房内におこつてゐるのはそのためです。)なほ又その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」と書いている、が、私は、(私の独断ではあるが、)この芥川の手紙の中の「その世界の中に新時代のあることを暗示したいと思ひました、」という文句は、あまり問題にならない、と思うのである。
 私は、芥川の最後の小説らしい小説である、『玄鶴山房』が、仮りに、完璧に近い作品である、とすれば、その、「山房内」を書いた、㈡、㈢、㈣、㈤の四節であって、「山房以外へ触れさせた」㈥は、余計なものではないが、書き方があわただしく、㈥があるために、作品の形がくずれている、と思うのである。
 そうして、私が、こんど、少し念を入れて、『玄鶴山房』を、読んで、心を打たれたのは、

 一時間ばかりたつた後、玄鶴はいつか眠つてゐた。その晩は夢も恐しかつた。彼は樹木じゆもくの茂つた中に立ち、腰の高い障子のすきから茶室めいた部屋を覗いてゐた。そこには又まる裸の子供が一人ひとり、こちらへ顔を向けて横になつてゐた。それは子供とは云ふものの、老人のやうにしわくちやだつた。玄鶴は声を挙げようとし、寝汗だらけになつて目をました。……
「離れ」には誰も来てゐなかつた。のみならずまだ薄暗うすぐらかつた。まだ?――しかし玄鶴は置き時計を見、彼是かれこれ正午に近いことを知つた。彼の心は一瞬間、ほつとしただけにあかるかつた。けれども又いつものやうに忽ち陰鬱になつて行つた。彼は仰向あふむけになつたまま、彼自身の呼吸を数ヘてゐた。それは丁度何ちやうどなにものかに「いまだぞ」とせかれてゐる気もちだつた。玄鶴はそつとふんどしを引き寄せ、彼のあたまに巻きつけると、両手でぐつと引つぱるやうにした。
 そこへ丁度ちやうど顔を出したのはまるまると着膨きぶくれた武夫[註―玄鶴の孫]だつた。
「やあ、おぢいさんがあんなことをしてゐらあ。」

という所だけであった。
 ここに、芥川が、いる。
 極言すれば、『玄鶴山房』一篇の中で、芥川が、一ばん心を入れて、書いたのは、ここだけである。この一節は、不思議な作品『歯車』と通じるものがある。(『歯車』については、のちに、ややくわしく述べるつもりである。)
 この一節は、『或阿呆の一生』のなかの『死』を思わせる。いや、この一節とつぎに引用する『死』と殆んど同じような気さえする。

 彼はひとり寝てゐるのをさいはひ、窓格子に帯をかけて縊死いししようとした。が、帯に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみのために恐れたのではなかつた。彼は二度目には懐中時計を持ち、試みに縊死いしはかることにした。するとちよつと苦しかつた後、なにもぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針をしらべ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを発見した。窓格子のそとはまつくらだつた。しかしそのやみの中に荒あらしいにはとりの声もしてゐた。

 さすがに、この方が、真にせまり、せつないところがある。(『或阿呆の一生』のうちには、思わせ振りなようなものもあるが、又、真に迫った、せつない、ものも、多分に、はいっている。それで、『或阿呆の一生』についても、後に述べるつもりである。)
[やぶちゃん注:ここで宇野は「玄鶴山房」を再読して、『心を打たれたのは』、引用した玄鶴の縊死未遂のシークエンス『という所だけであった』と述べている点に注意されたい。彼は本作をこの「芥川龍之介」執筆時点で、実は小説として高くは評価出来ない、と暗に言っているのである。嘗て宇野が芥川に手紙や会話で褒めた(手紙については既に「二十」で当時でも半分ぐらいお世辞であると断定しているが)「玄鶴山房」も、今、再読してみれば、その全体は体のいい人情話で、レベルの低い「小説」に過ぎない(宇野に言わせれば本物の「小説」とは言えない)、と一刀両断にしているのである。]

 さて、「中央公論」の二月号に『玄鶴山房』が出た翌月、「改造」の三月号に『河童』が出たので、私は、すくなからず驚いた、というより、かなり驚かされた、それは、『河童』が、芥川としては、珍しく、空前と云ってもよい程、長い物で、百枚をこえる作品であった、からだ、(それから、芥川にあれほど親切に進められながら、私の『軍港行進曲』の後篇が「中央公論」の三月号ににあわなかったので、ちょいと芥川に出し抜かれたような気もしたからである。)
 それで、私はさっそく、その「改造」に出た『河童』を読んでみた。そうして、この時は、どんなものを書いたのであろう、という気もちが可なりあった。ところが、これは、『玄鶴山房』とまったく反対で、これ亦、芥川としては、珍しく、走り書きのような、早口はやくちしゃべっているような、書きかたで、しかも、すこしダラシがないところがあるような感じさえした。が、又、これ亦、芥川としては珍しく、云いたい事を喋りまくっているような面白おもしろさもあるように見えた。ところが、又、なにか、ざつなところもあって、大へん読みづらかった。そうして、そのうえに、出てくる人物が、ことごとく、河童で、その名が、チャック、とか、バッグ、とか、トック、とか、似たような名の河童が、六七人(あるいは、それ以上)もいて、それらの河童たちが、一人ひとり一人ひとり、(あるいは、一ぴき、一ぴき、)調子に乗っている時の芥川でも三しゃを避ける程の弁説べんぜつを、ふりまわすので、いくら念を入れて読んでも、どれが、医者やら、詩人やら、音楽家やら、だれだれやら、読んでいるうちに、こちらのあたまが混乱してしまって、さっぱりからなくなってしまうような物であった。
[やぶちゃん注:「三舎を避ける」相手を恐れてしりごみすること、また、相手に一目置くことの喩え。「春秋左氏伝」の僖公いこう二十三年の、三舎(軍隊が三日間で行軍する距離のことで、「一舎」は中国里程の三十里(一里は五四〇メートル)であるから、現在の四十九キロメートル弱に相当)の距離の外に避けるという記載に基づく。]
 私の学生時代の友人に、浅井という、文学ずきの、法科の学生があった。(今[昭和二十八年]からざっと四十年よんじゅうねんほど前の話である。)或る時、浅井が、『戦争と平和』や『アンナ・カレエニナ』を読む時は、登場人物の系図をひょうに書いて、それを見ながら、読むことにしている、という話をした。
 私は、今、『河童』のことを書きながら、この話を、思い出した。
[やぶちゃん注:系図ではないが、私の「河童」の電子テクストに別頁で附した「芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈」の冒頭には、「登場河童一覧」を附して参考に供してある。向後の部分を読む際の参照にされたい。]
『河童』のっている「改造」が出てからもなく、或る日、芥川が、そわそわしたかたちで、やって来て、玄関の三じょうに、すわったまま、例のごとく、いきなり、(しかし、目をしばたたきながら、)「……『軍港行進曲』の後篇、間に合わなかったらしいね、」と云ってから、すぐ、「『河童』、読んでくれたか、」と、聞いた。
「うン、読みかけたが、‥…」
「……あれ、……書きながしだけど、……君には、読んでほしいんだ、……僕は、もう……」
「……そう、……うン、読むよ、……読んで、……読んだら、……」
「……読んでくれよ、……君も、……書けよ、……じゃあ、……大事にしたまえ。……」
「君も、……」
 ざっと、こういう問答をして、そうして、芥川は、なにか急用でもあるように、そわそわと、あわただしく、帰って行った。
 ところが、その時、私は、いろいろな事情で、とうとう、『河童』を、読まなかった、読めなかったのである。
 そこで、これから、又、少し念を入れて読むために、浅井の真似まねをして、「チャック――医者、バッグ――漁師りょうし、ゲエル――硝子会社ガラスかいしゃの社長、ラップ――学生、……」、とひょうは取らなくてもそれらの名前と職業などをあたまに入れて、読むことにする。

『玄鶴山房』は、先きに述べたように、芥川が、最晩年の作品の中で、一ばん力をそそぎ骨を折った小説であるが、最後㈥のところで、息がつづかなくなった。その事は、芥川も、滝井に宛てた手紙[昭和二年二月二十七日]の中に、「『玄鶴山房』は力作なれども自ら脚力尽くる所廬山を見るの感あり」と書いている。
 この事は、真に、芥川には、泣いても泣き切れない程、遺憾であったに違いない、無念であったに違いない、口惜くやしかったに違いない。
 既に生涯の終りに近いことを覚悟していた芥川は、『玄鶴山房』を書き上げると間もなく、すぐ『蜃気楼』を書いた。が、『蜃気楼』は、鵠沼に住んでいた時分の思い出を、そ町思い出に幾らか色をつけた、小品である、出来できばえはわるくはないが、はかない小品である。
 されば、その頃の傷心しょうしん焦心しょうしんしていた芥川には、『蜃気楼』ぐらいのものを書いただけでは、自分にも、物足ものたりなかった、満足ができなかった、それ以上に、「世間体せけんてい」というものが、非常に気になった。それで、大袈裟にいえば、もうひとつ、たとい失敗しても、乾坤一擲の仕事をしてやろう、と、芥川は、思ったにちがいない。
 そこで、芥川は、『蜃気楼』を書きながら、それと殆んど一しょに、『河童』に取りかかった。
 芥川は、昭和二年二月二日に、斎藤茂吉に宛てた手紙の中に、「唯今『海の秋』[註―改題して『蜃気楼』となったか]と云ふ小品を製造中、同時に又『河童』と云ふグァリヴアの旅行記式のものをも製造中、」と書き、二月七日に、蒲原春夫あての便たよりの中に、「僕は多忙中ムヤミに書いてゐる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、我ながら窮すれば通ずと思つてゐる、」と書き、二月十一日に、佐佐木に宛てた手紙の中に、「六十枚ぐらゐのものをやつと三十枚はかり書いた所だ。『河童』は僕のライネツケフツクス[註―芥川の愛読した、ゲエテの『ライネツケ狐』のこと、ゲエテのは六脚韻の荘重なものである]だ。しかし婦人公論へ書いた十枚ばかりの小品[註―『蜃気楼』]、或は御一読に堪ふるならん、」と書き、二月十一日に、小穴に宛てた手紙の中にも、「『河童』はだんだん長くなる。しかし明日中には脱稿のつもり。その校正を見次第、東京を脱出する、」と書き、更に、三月十六日に、佐佐木に宛てた便たよりの中に、「河童百六枚脱稿。聊か鬱憤を消した、」と書き、その翌日(つまり、二月二十七日、[やぶちゃん注:底本では「翌日」の右に編集部によるものと思われる『(ママ)』が打たれている。滝井の書簡は宇野の注記通り、「二月二十七日」で「翌日」ではない。雑誌連載時の誤りのまま残されたもののようである。])滝井に宛てた葉書の中にも、「河童は近年にない速力で書いた。蜃気楼は一番自信を持つてゐる、」と書いている。
[やぶちゃん注:蒲原春夫宛の「婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚」は、すぐ後に示されるように『婦人公論十二枚』が三月号掲載の「蜃気楼」、『改造六十枚』が三月号掲載の「河童」の初期段階の枚数(決定稿脱稿は二月十三日頃)、『文藝春秋三枚』が三月号掲載の「軽井沢で」、『演劇新潮五枚』が三月号掲載の「芝居漫談」(リンク先は私の電子テクスト)。
「ライネツケフツクス」“Reineke Fuchs”とはゲーテの小説の題名で、「ライネケ狐」などと訳される。一七九三年に刊行された叙事詩で、奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中の「ゲーテ」のページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは十三世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』(アラビア数字を漢数字に変換した)。]
 つまり、これらの手紙から想像すると、二月二日から十六日までの間に、芥川は、『河童』と『蜃気楼』のほかに、(ここに引用しなかったが、)四五枚あるいは五六枚の短文を四五篇も、書いている。
[やぶちゃん注:三月一日の公開作品は、先の注で挙げた「蜃気楼」・「河童」・「軽井沢で」・「芝居漫談」の他にも、「註文無きに近し」(『新潮』)と「少時からの愛読者」(『随筆』)があり、計六篇あるが、実はそれ以外に四月以降の雑誌掲載分の脱稿があり、「春の夜は」(二月五日脱稿)、また十六日以降でも「その頃の赤門生活」(二月十七日脱稿)、「女仙」(二月二十五日脱稿)の二作品があるから、芥川龍之介は実に二月一杯で中編「河童」を含む九作をものした勘定になる。]
 ところで、先きに引いた『河童』を製造中と書いた手紙を出した、二月二日から、『河童』を脱稿したという報告めいた便たよりを書いた、二月十六日までのあいだに、芥川がしたしい友だちに宛てた書翰の中には、誰に出した便たよりの中にも、「年三割と云ふ借金(姉の家の)のことも考へなければならず、」とか、「僕は姉の亭主の債務などの事を小説を書く間に相談してゐる。年三割の金と云ふものは中々莫迦に出来ないものだよ、」とか、「その後姉の家の生活のことや原稿のためにごたごたしてゐる。年三割の金を借りてゐるうへ、家は焼けてゐるし、主人はないため、どうにも始末がつかないのだ、」とか、「これから親族会議をすまさなければならん、」とか、「火災保険、生命保険、親族会議、――なにやゴチヤゴチヤで弱つてゐる。が、それだけに何か書いてゐるのは愉快だ、」とか、つまり、同じような事を、いろいろな云い方で、芥川は、書いている。(この二日から十六日までの間に、芥川は三十通余の手紙や葉書を出している。その中に、一日十通も出しているのもある。)
[やぶちゃん注:義兄西川豊の死後の後始末のための「親族会議」は、当該書簡(小穴隆一宛旧全集書簡番号一五七五)によって二月十五日にあったことが分かる。]
 私は、これらの文句は、相手によって少しずつ違っているけれど、普通に云えば、つまり、『愚痴』である、と思った。(『愚痴』とは、いうまでもなく、「つまらぬ不平」とか、「口に出しても、甲斐なき事を歎く」とか、いう程の意味である。)
 ところが、よく見ると、「考へなければならず、」とか、「中々莫迦に出来ないものだよ、」とか、「どうにも始末がつかないのだ、」とか、「なにやゴチヤゴチヤで弱つてゐる、」とか、云っているだけで、決して『弱音よわね』は吐いていない。
 ところで「或る人に聞くと、昭和二年頃の年三割と云えば、非常な高率の利息だそうである。すると、鉄道自殺をした、芥川の姉の夫[註―ずっと前に書いた西川 豊]は、その年三割という高利の借金を残して、あの世に行ってしまったわけである。そこで、それを、(あるいは、その利息だけでも、)払わなければならぬという事は、当時の芥川にとっては、大変な負担であったに違いない、いや、殆んど不可能に近い事であったに違いない。
 これは、今の人には、(いや、たいていの人にも、)想像がつかないほど、(想像ができないほど、)大変な事に違いない。ずっと前に引いたように、この年(つまり、昭和二年)の一月九日から十五日までに、芥川が数人の友だちに出している葉書の中に、みな、「東奔西走」という言葉を使っているが、この事件(つまり、姉の夫の鉄道自殺)のために、芥川は、文字どおり、東奔西走したに違いない、諸方をかけまわったに違いない、必死になってけずりまわったに違いない。そうして、この『東奔西走』はおそらく、「金策」のためであろう。
 ところが、芥川は、この『東奔西走』を、二月になっても、つづけなければならなかったのである。
 つまり、病める芥川は、二月には、「東奔西走」しながら、『玄鶴山房』を書き、二月になっても、二月の初めから、『河童』にかかり、『河童』を非常な速力で書きながら、そのあいだに、『蜃気楼』を書き、そのほかに、三四篇の短文も、書いたのである。しかも、これらの原稿を書いている間にも、芥川は、やはり、「東奔西走」しなければならなかった。
 されば、その頃の芥川は、からだで「束奔西走」した上に、そのあたまの中も「東奔西走」していたであろう。
 つまり、『河童』は、そういう状態の中で、書かれたのだ。『河童』の中に、焼けになっているような所もあり、血迷っているような所もあり、悲歎にくれているようなところもあり、あるいは、「鬱懐を消した」[芥川が、二月十六日に、佐佐木に宛てた手紙の中の文句]ようなところもあり、また、鬱憤を晴らしたようなところもある。(『鬱懐』とは「心のむすばれてあること」とか、「晴れやかならぬ心」とか、いう程の意味であり、『鬱憤』とは、「積もるいきどおり」とか、「晴れぬ忍み」とか、いう程の意味である。)
 しかし、結局、芥川は、『河童』によって、鬱懐も、鬱憤も、晴らすとともに、これまで心の中にわだかまっていた、さまざまの思いを「心で思っていても云えなくて、うずうずしていたのも、「なアに、もうかまうもんか、」という気もちで、と思いに、洗いざらいに、打ち明けたのではないか、ぶちまけたのではないか。
 しかし、仮りに、これが、私の臆測したとおりであったとしても、芥川は、やはり、持って生まれた性質で、それらの事を、あからさまに、書けない人であった。(そこに、芥川の、人に、知られぬ、寂しさと悲しさがあったのではないか。)
 そこで、芥川は、かねがね特に興味を持っていた、河童を使うことにし、河童の国を舞台にしたのであろう。そうして、猶、云いたい事を、(書きたい事を、)思う存分にしたいために、この話(あるいは、この小説)全体を、河童の国に住んだ、と云う一人の狂人が、話をした、という仕組しくみ(あるいは、趣向しゅこう)にしている。そうして、こういうところも、相変らず、用意周到である。しかし、又、「持ったがやまい」で、芥川は、『河童』の中でも、やはり、到る処で、見得を切っている。
 しかし、又、『河童』の中で、芥川は、出産、産児制限、遺伝、恋愛、結婚、家庭、法律、人口問題、食糧問題、機械工業、芸術、哲学、宗教、人生問題、社会問題、戦争、自殺、その他、さまざまの問題にふれて、批判をしている。もっとも、それらは、大抵、自己流であり、芥川ごのみの逆説であり、衒学的なところもあり、得意の機智を弄しているところもあり、あるいは、久保田万太郎の云うように、「聞くものをして、ときに屢々しばしば茫然たらしめ」るような、「座談の延長」のようなところもある。
 ところで、私は、久保田の『あるとしの七月二十四日に』という文章の中に、「田端の家の、毎日曜日に於けるかれ[註―つまり、芥川]の書斎は、終日客の絶え間がないとまでいはれ」る、と書かれてある、日曜日に、芥川をたずねたことは一度もないから、その日曜日の、芥川の、「機智縦横」と云われ、「巧みにも透きのない座談」というのも、やはり、一度も、聞いた事はない。そのかわり、私は、道をあるきながら、あるいは、物をたべながら、その「機智縦横」と称せられる芥川の座談は、しばしば、聞いた、というより、聞かされた。(ところで、『座談』と云っても、二種類あって、その一は「席上のはなし」であり、その二は「その座かぎりの話」である。そうして、私のは、その二の方である。)
 芥川は、ずっと前に書いたように、実に行儀のよい人であったが、唯ひとつ、食事をしながら話をする時、たべた物を口一ぱいほおばりながら、物を云う癖があった。それで、食事をしながら芥川と話をすると、芥川が調子にのって話し出すと、あのすこし大きな口の中に頰ばっている物がすっかり見えた。
 ある時、芥川が、その流儀で、頰ばりながら、こんな話をした、「……君、今は、一流の印刷所では、職工君がいちいち活字を拾わなくてもすむんだよ、つまり、大抵の活字は、必要な字の書いてある所を指で押すと、……つまり、タイプライタアを打つように、コツコツと、指で打てば、そのしたの方に、自分のこれと思った活字が、コロコロと、出てくるんだよ……だから、君、いまに、ある機械の口から、紙と活字を入れれば、その機械の裏の蓋をあけると、ちゃアんと、りあがったのが、出てくる、というふうになるよ。」
 芥川がこんな話を私にしたのは、たしか、大正十二年の春の初めの頃であった。そうして、私が、このような事を書いたのは、『河童』の中で、つぎに引くようなところを、読んだからである。

…何でもそこでは一年間に七百万部の本を製造するさうです。が、僕を驚かしたのは本の部数ではありません。それだけの本を製造するのに少しも手数のかからないことです。何しろこの国[つまり、河童の国]では本を造るのに唯機械の漏斗形じやうごがたの口へ紙とインクと灰色をした粉末とを入れるだけなのですから。それ等の原料は機械の中へはひると、殆ど五分とたたないうちに菊版、四六版、菊半裁版などの無数の本になつて出て来るのです。僕は瀑のやうに流れ落ちるいろいろの本を眺めながら、り身になつた河童の技師にその灰色の粉末は何と云ふものかと尋ねて見ました。すると技師は黒光りに光つた機械の前にたたずんだまま、つまらなさうにかう返事をしました。
「これですか? これは驢馬の脳髄のうずゐですよ。ええ、一度乾燥させてから、ざつと粉末にしただけのものです。時価は一とん、二三銭ですがね。」

 これは、上辺うわべから見て、簡単芸えば、『円本』をこすったものである。
『円本』とは、大正の終りから昭和の初めにかけて、さまざまの出版社が、ナニナニ全集と称して、一冊一円で売り出したものを略して呼んだ名である。はじめ、大正十五年の末に、改造社が、『現代日本文学全集』というものを一冊一円で売り出したのがもとで、その真似をして、『世界文学全集』[新潮社発行]、『明治大正文学全集』[春陽堂発行]、『現代大衆文学全集』[平凡社発行]、『近代劇全集』[第一書房発行]その他、十種以上も、出た。
 そうして、その元祖の『現代日本文学全集』は、菊判[今のA5版より少し大形]で六号活字三段組み、というのであるから、一ペイジが四枚[四百字づめ]ちかくであったから、一冊五百ペイジの本は二千枚ちかくはいっている訳である。そうして、その一冊に、その人によって、一人ひとりだけの作品がおさめられ、二人ふたりの作品がおさめられ、三人の作品がおさめられる、というような仕組しくみになっていた。(例えば、「島崎藤村集」、「山本有三集・倉田百三集」、「伊藤左千夫集・長塚 節集・高浜虚子集」、というふうにである。)
 ところが、誰がきめたのか、例えば、武者小路、志賀、谷崎、里見、菊池、その他が一人で一冊であるのに、芥川は、室生と二人で一冊(つまり、「芥川龍之介集・室生犀星集」)となっていた。(これは、新聞の広告にも、「内容見本」にも、出たのである。)
 これは、芥川は、(芥川としてみれば、)武者小路や志賀は別としても、里見や菊池が一人ひとりで一冊であるのに、自分が、室生と、二人で一冊にされたのは、如何いかにも心外であったにちがいない、殊に、これが発表された大正十五年の末から昭和二年の初めにかけての頃は、芥川が、何とかして立ち直ろう、と、もっとも焦心していた頃であった。しぜん、神経も苛立いらだっていた。それで、芥川は、こういう些細な事までが、気になったのであろう。
[やぶちゃん注:当該「新聞の広告」については「東京大学総合研究博物館画像アーカイヴス 日本の新聞広告」で大正十五(一九二六)年十月十八日発行の『東京朝日新聞』分を実見出来た。それによると(この最初期の新聞広告分について言うなら)宇野の謂いとは異なる部分が多々ある。実はこれから述べるように、この内容一覧は実際に刊行されたものとは全刊冊数(ここでは全三十六巻しかないが、実際は倍近い別巻一冊含む全六十三巻が刊行されている)も、その作家の組み合わせも全く異なっている(以下、宇野の記述が結果的に正しい場合を「〇」とし、誤った部分を「×」とし、実際の刊行物を「◎」で示した)。
「例えば、武者小路、志賀、谷崎、里見、菊池、その他が一人で一冊であるのに、芥川は、室生と二人で一冊(つまり、「芥川龍之介集・室生犀星集」)となっていた」とある箇所は、
〇 「第二四篇 志賀直哉集」(実際の刊行では◎第二五篇)
〇 「第二五篇 武者小路實篤集」(◎第二六篇)
〇 「第二三篇 谷崎潤一郎集」(◎第二四篇)
〇 「第三〇篇 菊池寛集」(◎第三一篇)
は正しいが、里見弴は
×→「第二八篇 里見弴集・佐藤春夫集」
でカップリングされており、単独ではない。実際の刊行でも、
◎ 「第二九篇 里見弴集・佐藤春夫集」
で同カップリングである。また、この広告では芥川龍之介は、
×→「第二九篇 芥川龍之介集・久米正雄集」
でカップリング相手が室生ではなく、久米である。因みにこの初期広告には、
×→(室生の名前ナシ)
である。但し、実際の刊行では室生は、
◎「第四四篇 久保田万太郎集・長與善郎集・室生犀星集」
としてカップリング刊行されている。なお実際に刊行されたもので宇野が最初に例として提示しているものでは、
〇 「第一五篇 島崎藤村集」(◎第一六篇)
が新聞広告にあり、後の二例も、実際の刊行本では、
〇 「第三二篇 山本有三集・倉田百三集」
〇 「第四〇篇 伊藤左千夫集・長塚節集・高濱虛子集」
と、同じカップリングで刊行されて存在することから見て、宇野は恐らく改造社の、もっと早い刊行予告か、刊行予告後に暫く経ってからの新聞広告、更には出版後若しくは直前の内容見本等の複数資料(後掲する自分の巻に付帯した広告等を含む)に拠ってこの部分を書いているのではないかと思われる。だから実際の刊行物と奇妙な具合に齟齬(或いは一致)しているのではなかろうか?
さて、肝心の「芥川龍之介集」であるが、実際の刊行では、芥川龍之介は、
◎ 「第二六篇 芥川龍之介集」
と単独となっており、新聞広告でカップリングされていた久米正雄は、
◎ 「第三二篇 近松秋江集・久米正雄集」
のカップリングで所収されている。「芥川龍之介集」は芥川の自死の翌年の昭和三(一九二八)年一月九日の発行であるから、センセーショナルな自殺を受けて急遽、単独配巻となった可能性も否定出来ない。
因みに宇野は何も述べていないが、彼自身はというと、その更に翌年である昭和四(一九二九)年十一月十日発行の、
◎ 「第四八篇 廣津和郎集・葛西善藏集・宇野浩二集」
で、芥川より遙かに後、遙かに後巻で、尚且つ盟友らととはいえ、三人の合巻の、それも掉尾の配置である。
鑿って考えると、本格小説の本物の小説家である、と自認する『小説の鬼』宇野が、このような配置を受けることは、『如何にも心外であったにちがいな』く、又、彼の巻が刊行された昭和四(一九二九)年、三十八歳だった宇野は精神病の予後に加え、脳貧血を起して重態となり、再度十ヶ月に亙っての入院となった年でもあった。正に『何とかして立ち直ろう、と、もっとも焦心していた頃であった。しぜん、神経も苛立っていた』と言ってよい。そう考えると――この改造社版現代文学全集の、『こういう些細な事までが、気になったの』は――実は芥川龍之介ではなく、宇野浩二自身だったのでは、なかろうか? といったことを考えていると、こんな一見、詰まらなく見える注も、面白くなってくる。]
 しかし、『河童』では、このような事は、些細な話で、芥川は、書籍製造会社を取り上げると、つづいて、絵画製造会社、音楽製造会社、というようなものまで持ち出して、大量生産から起こる、職工の解雇や失業や罷業の事などまで書いているが、これこそ、久保田の云う「座談の延長以上に出ない」ような、お『話』であるに過ぎない。
 結局、『河童』には、無理なところもあり、調子にのり過ぎたところもあり、得意の諧謔を弄し過ぎたようなところもあるけれど、ここに出てくる幾匹かの河童の中に、私など、読んでいるうちに、ひょいと、その河童が芥川に見えたり、ふと、河童がまくしたてるように喋っている、のが芥川が喋っているように思われたり、その河童の姿が芥川の姿のような気がしたり、して、ほほえましくなったり、もの悲しくなったり、する事があるのである。
 つまり、河童の国にただよう、哀傷、憂鬱、苦悩、その他は、芥川の心象であり、さまざまの河童は、ひとひとつ、芥川の姿である。

 僕等[註―主人公の人間と河童の学生]はぼんやりたたずんだまま、トツク[註―ひどい神経衰弱にかかり、不眠症になっている詩人]のうしろ姿を見送つてゐました。僕等は――いや、「僕等」ではありません。学生のラップはいつの間にか往来のまんなかあしをひろげ、しつきりない自動車や人通ひとどほりを股目金まためがねのぞいてゐるのです。僕はこの河童も発狂したかと思ひ、驚いてラツプを引きおこしました。
常談じやうだんぢやない。なにをしてゐる?」
 しかしラツプは目をこすりながら、意外にも落ちいて返事をしました。 「いえ、余り憂鬱ですから、さかさまに世の中を眺めて見たのです。けれどもやはり同じことですね。」

 このラップの股目金も、芥川が、僕などと一しょにあるいていたら、やりそうなことである、と、私は、思った。が、ここで、ラップが、「逆まに世の中を眺めて見」る光景は、それを心の目に浮かべて想像すれば、かぎりなく物がなしい光景に見えるではないか。
 ところで、おなじ「遺伝」を取りあげても、『河童』では、母親がお産をする時、父親が、まるで、電話でもかけるように母親の生殖器に口をつけ、「お前はこの世界へうまれて来るかどうか、よく考へた上で返事をしろ、」と大きな声でたずね、「僕はうまれたくはありません。第一僕のおとうさんの遺伝は精神病だけでも大へんです。その上……」と、返事を、聞くことになっている。
 ところが、おなじ「出産」でも、『或阿呆の一生』の中では、

 彼は襖側ふすまぎはたたずんだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤児を洗ふのを見下してゐた。赤児は石鹸しやぼんの目にしみるたびにいぢらしい顰めがほを繰り返した。のみならず高い声に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤児のにほひを感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。
「何のためにこいつも生れて来たのだらう? この裟婆苦の充ち満ちた世界へ。――何の為に又こいつもおれのやうなものを父にする運命をになつたのだらう?」
 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だった。   (『出産』)

と書いてある。
 このふたつの話は、もとより、主題は同じであるが、話の趣きはまったく違う。『河童』は、芥川が、きているあいだに、発表したものであり、『或阿呆の一生』は、死後に、遺稿として、発表するつもりで、書いたものである。
 ところで、これで見ると、(この『出産』のことだけ見れば、)生きている間に発表した『河童』は、ずいぶん思い切った事を書いているようであるが、それでもなり手加減てかげんをして書いてあり、遺稿として発表するつもりであった『或阿呆の一生』は、何の容赦もなく、びしびしと、書いているように思われる。
 ところが、この二つの作品全体をよく読んでみると、用意周到に念には念を入れて一字一句をゆるがせにしないで書いたらしい『或阿呆の一生』の中には、到る処に、気取りがあり、飾りがあり、絵空事のようなところがあり、不用意に書き流したような『河童』の中に、却って、心を引かれるところがあり、真実味が感じられるところがあり、しみじみしたところがある、というのは、ここに引いた『或阿呆の一生』の中の『出生』の中の、
  何の為にこいつも生れて来たのだらう?
  この裟婆苦の充ち満ちた世界へ。
  何の為に又こいつも己のやうなものを父に……
というところなど、散文詩(というより、まるで、詩)の一節のようにさえ、感じられるからである。
[やぶちゃん注:「『或阿呆の一生』の中の『出生』」の「出生」は「出産」の誤り。]
 つまり、やはり、ずっと前に『或阿呆の一生』は(いたく心を引かれるところも随処にあるけれど、)散文詩である、と私が云い切ったのは、こんなところが到る処にあるからである。
 さて、『河童』は、なかなか面白いところもあるが、かなり冗漫なところがあり、雑駁なところもある、それから、作者が調子に乗って、時どき饒舌を弄しすぎ、いろいろな風変りな事件をりすぎたために、読みづらくなり、退屈になったところがある。
 それで、『河童』は、発表された当時、殆んど問題にされなかった、もっとも、たまに批評したものもあったが、それらはたいてい見当ちがいであった。
 それはそれとして、前のつきに発表した『玄鶴山房』が、(いくらか自信はあったけれど、)誇大に評価されただけに、『河童』が殆んど黙殺されたのは、その時分の意気銷沈した芥川には、殊に堪えがたく寂しい事であったに違いない、それは、又、たとい幾らか失敗したところがあったとしても、かなり意気ごんで書いた作品でもあったからだ。
 わたくし事であるが、『河童』が「改造」に出てからもなく、芥川がたずねて来た時、私もその時は『河童』をそれ程すぐれた作品とは思わなかったけれど、前に『玄鶴山房』をあまりくらすぎるとけなしたことを思い出して、私が、「……『河童』は、君にしては、筆が走り過ぎているところはあるが、あの奇抜な、諷刺と、なにもかも思いきってぶちまけたところが面白おもしろいよ、」と云うと、芥川は、私の言葉がおわると殆んど同時に、相好そうごうをくずして、「そうか、ありがとう、」と云った。(この時の芥川のいかにも嬉しそうであった顔と、「そうか、ありがとう、」と、例の鼻声で、云った言葉は、これを書いている私のあたまに、おのずから、ありありと、浮かんでくるのである。)

『芥川龍之介』の人と芸術について書いている人たちが、「十人が十人まで」と云ってもよい程、『点鬼簿』、『玄鶴山房』、『河童』、その他について述べる時、「既に死を覚悟していた作者は、……」という文句を、使っている。しかし、これらの作品を、発表された時、はじめて読んだ時は、私は、作者が「死を覚悟」して書いたなどという事は、まったく考えなかった。いや、はじめて読んだ時は、そんな事はすこしもあたまに浮かばなかった、そんな事が頭に浮かびようもなかったからでもある。
 凡そひとつの作品は、作者が、それを書く時、どういう心の状態にあったか、というような事と殆んど関係はない。
 ところが、こんど、芥川の最晩年(つまり、昭和二年)の幾つかの作品をくりかえし読んでみて、芥川の最晩年の作品だけは、「作者が、その作品を書く時、どういう心の状態にあったか、」という事と、かなり関係がある事を、私は、感じたのである。

……芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の板をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時なんどき変るかも知れない。唯しっかり踏んばつてゐろ。それはお前自身のためだ。同時に又お前の子供たちの為だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。

 これは『闇中問答』の最後の一節である。
[やぶちゃん注:「闇中問答」の私の電子テクストは、こちら。]
 私が、この『闇中間答』をはじめて読んだのは、昭和二年の九月号の「文藝春秋」に出た時である。(この「文藝春秋」は、『芥川龍之介追悼号』であり、その「文藝春秋」の発行所は、東京市麹町区下六番町であるから、文藝春秋社が、有島武郎邸を借りていた時分である。その頃、直木三十五が、有島邸の近くに、住んでいた。さて、文藝春秋社は、この『芥川龍之介追悼号』を出してから間もなく、あの内幸町の大阪ビルディングの二階に、移転したのである。――こういう事を書いていると、その時分の事をよく知っている私は、懐しさとともに、ありふれた言葉であるが、そのありふれた言葉どおり、『感慨無量』である。)
 さて、その「文藝春秋」には、遺稿として、巻末に、この『闇中問答』が、巻頭に、『十本の針』と『或旧友へ送る手記』とが出ている。(猶、この『或旧友へ送る手記』は、「文藝春秋」、のほかに、「改造」にも、都下の新聞にも、出たように思う。)
[やぶちゃん注:「或旧友へ送る手記」は、宇野の言う通り、自死の翌日の昭和二(一九二七)年七月二十五日の『東京日日新聞』と『東京朝日新聞』に初出掲載され、同年九月号『文藝春秋』と『改造』に再掲されている。]
 それから、ついでに述べると、前に書いたほかに、芥川の死後、遺稿として、『西方の人』は、「改造」の八月号に、『続西方の人』は、「改造」の九月号に、『歯車』は、「文藝春秋」の十月号に、『或阿呆の一生』は「改造」の十月号に、発表せられた。
 私がこういう事を殊更に書いたのは、『西方の人』や『続西方の人』や『十本の針』や『闇中問答』や『歯車』や『或阿呆の一生』などを、芥川が死んでから二三箇月後かげつのちに読むのと、全集になってから読むのと、その全集をずっと後に読むのと、では、それぞれ、読む人に、随分ちがった感銘をあたえるに違いないと思うからである。

 若し天国を造り得るとすれば、それは唯地上にだけである。この天国は勿論いばらの中に蕎薇の花の咲いた天国であらう。そこには又「あきらめ」と称する絶望に安んじた人々の外には犬ばかり沢山あるいてゐる。尤も犬になることもわるいことではない。

 これは、『十本の針』の中の『天国』という一節であるが、この一節を、芥川が死んでから二たつきも立たないうちに、「文藝春秋」の九月号で、読んだ時は、私は、ぞっとした。
 ところが、その時から二十五六年も過ぎた今、この一節をおちついて読むと、これも、亦、散文詩のようなものである。しかし、最後の方の「人々の外には犬ばかり沢山あるいてゐる、」というところなどは、今よんでも、ずいぶん気味がわるい。
[やぶちゃん注:「十本の針」の私の電子テキストは、こちら。]
 ところで、『或阿呆の一生』は、前に述べたように、気の向いた時に、一節ずつ書いて行って、六月(何日なんいちかわからぬが)に、脱稿している。それから、『十本の針』は、これも何日かわからないけれど、七月に、脱稿している、が、芥川は七月二十四日に世を捨てたから、七月の上旬に、書き上げたものであろう。
[やぶちゃん注:現在の年譜的知見によれば、「或阿呆の一生」の脱稿は六月二十日で(同日中に久米正雄に同作を託す文章を書いている。「十本の針」の脱稿は不詳。]
『或阿呆の一生』も、『十本の針』も、一節一節が極めて短かいのは、根気がなくなったからである。それから、大正十五年の末から昭和二年の七月までの作品の中に、ときどき、同じような事を、書いているのは、書くべき事を殆んど書きつくしてしまったからである。そうして、それらの作品の中に出てくる、芥川のもっとも得意なものとされているアフォリズムの文句も、つまらなくなり、精彩がなくなった。(私には、大抵の人がほめる、『侏儒の言葉』は、面白いところもあるが、殆んど興味が感じられない。しぜん、『或阿呆の一生』の中のアフォリズムめいた文章を、私は、あまり取らない。)

 あらゆる古来の天才は、我我われわれ凡人の手のとどかない壁上の釘に帽子をかけてゐる。尤も踏み台はなかつた訣ではない。
 しかしああ言ふ踏み台だけはどこの古道具屋にも転がつてゐる。

 これは、『侏儒の言葉』の中の、ふと開いたところから、引いたのであるが、ちょいとは面白いようであるが、私には、つまらない。
[やぶちゃん注:以上の引用は「侏儒の言葉」の「作家」十一章の内の、連続する二つを並べたもので、これはこの十一章全部を通読して初めて面白い。私の電子テクスト『「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)』で確認されたい。]
 ところで、『闇中問答』(何という陰気な題であろう)は、(昭和元年十二月)とあるから、わかりよく云えば、大正十五年十二月二十六日以後に、書かれたものであろう。とすると、この作品は、芥川が、心のもっとも迷っていた時分に、書いたものである。それで、今よむと、死ぬ覚悟をきめていたらしいようなところも窺われるが、弁解めいた、(いや、はっきり弁解をした、)文句が随所にあり、後に、『河童』や『或阿呆の一生』などに出てくるのと同じ話が方方ほうぼうに使われている。そうして、この同じような話が到る処に出てくると、なに痛痛いたいたしい気がする。
[やぶちゃん注:「闇中問答」の初出である昭和二(一九二七)年九月号の『文藝春秋』の「編集後記」で、菊池寛はその執筆時期を『昨年末若しくは今年初のもの』と推定している。]
 しかし、又、その同じような話のなかひとつである、「僕は死ぬことを怖れてゐる。が、死ぬことは困難ではない。僕は二三度くびをくくつたものだ。しかし二十秒ばかりくるしんだ後はある快感さへ感じて来る。僕は死よりも不快なことにへば、いつでも死ぬのにためらはないつもりだ、」などというところを読むと、相変らず痩せ我慢を言っているな、と思って、苦笑するような気もちになる。
 ところが、又、この『闇中問答』の中には、まだこの世に、(芥川のきな言葉をつかうと、この裟婆に、)未練たっぷり、というような口ぶりが、随処に、見られる。
 それで、さきに引いた、この『闇中問答』の最後の、「芥川龍之介! 芥川籠之介、お前の根をしっかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模様はいつ何時なんどき変るかも知れない。唯しつかり踏んばづてゐろ。……」という文句を、仮りに、芥川が、自らを戒め、自らを励ます言葉と取れば、これは、まったく、文字どおり、悲壮な覚悟ではないか。(芥川が、この『闇中間答』を、せっかく書きながら、生前に、発表しなかった気もちが、私には、よおく分かる気がするのである。)
 芥川は、こういう覚悟をして、『玄鶴山房』、『蜃気楼』、『河童』、と、つづけざまに、必死に、書いたに違いない。(『必死』とは、「死を決してなすこと」とか、「死力を尽すこと」とか、いう程の意味であるが、芥川が『玄鶴山房』と『河童』をつづけさまに書いた時は、文字どおり、「必死」であったのだ。)
 芥川は『玄鶴山房』に精根せいこんをかたむけ、『河童』に精根をつくした。
 仮りに芥川が、『河童』と『或阿呆の一生』との中で、自分の事と自分の気もちとを述べた、とすれば、先きに述べたように、『或阿呆の一生』には飾りが多く、『河童』の方が、飾りが少なく、芥川という人を、ひょいひょいと、現しているところがある。
 私は、ずっと前に述べたように、『河童』の中に、随処に、芥川の、苦悩、悲哀、不平、不満、その他が、現れているのを、殊更に高く買うのである。

……殊に家族制度と云ふものは莫迦げてゐる以上にも莫迦げてゐるのです。トツクは或時窓の外を指さし、「見給へ。あの莫迦げさ加減を!」と吐き出すやうに言ひました。窓の外の往来にはまだとしの若い河童が一匹、両親らしい河童を始め、七八匹の雌雄めすをすの河童を頸のまはりへぶらげながら、息も絶え絶えに歩いてゐました。

 これは、ひとつ戯画として見ても、面白いばかりでなく、何ともいえぬ物悲しいところもあるではないか。
 しかし、これは『河童』の中のほんのひとつの場面であって、人物(いや、河童)として、作者がもっとも身を入れて書いているのは、トックという詩人とクラバックという音楽家とマッグという哲学者である。そうして、この三匹の芸術家は、それぞれ、作者の分身である。
 トックは超人(超河童)であり、クラバックは「この国の生んだ音楽家ちゆう、前後に比類のない天才」であり、マッグは、「いつも薄暗い部屋に七色の色硝子いろガラスのランタアンをともし、脚の高い机に向ひながら、厚い本ばかり読んでゐる」哲学者である。
 さて、この河童の国に、クラバックとならんで称せられているロックという音楽家がある。クラバックは、そのロックの存在をたいへん気にしていて、「ロツクは僕の影響を受けない。が、僕はいつのにかロツクの影響を受けてしまふ、……ロツクはいつも安んじてあいつだけに出来る仕事をしてゐる。しかし僕はらするのだ。それはロックの目から見れば、あるひ一歩いつぽの差かも知れない。けれども僕には十マイルも違ふのだ、」と云う。――このクラバックの言葉は、つまり、芥川の本音ほんねである。
 芥川の本音、と云えば、私が、『河童』の中で、いろいろ心を引かれた所の中から、そのひとつを、すこし長いけれど、つぎに、うつそう。

「………」
「この近頃マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ本を見給へ。――」
 クラバツクは僕に一冊の本を渡す――と云ふよりも投げつけました。それから又腕を組んだまま、つつけんどんに、かう言ひ放ちました。
「ぢやけふは失敬しよう。」
 僕は悄気しよげ返つたラツプと一しよにもう一度往来へ出ることにしました。人通りの多い往来は不相変山毛欅あひかはらずぶなみ木のかげにいろいろの店をならべてゐます。僕等は何と云ふこともなしにだまつて歩いて行きました。するをこへ通りかかつたの髪の長い詩人のトツクです。トツクは僕等の顔を見ると、腹の袋から手巾ハンケチを出し、何度も額を拭ひました。
「やあ、暫らくはなかつたね。僕はけふは久しぶりにクラバツクを尋ねようと思ふのだが、……」
 僕はこの芸術家たちを喧嘩させてはわるいと思ひ、クラバツクの如何にも不機嫌だつたことをトツクに話しました。
「さうか。ぢややめにしよう。なにしろクラバツクは神経衰弱だからね。……僕もこの二三週間は眠られないのに弱つてゐるのだ。」
「どうだね、僕等と一しよに散歩をしては?」
「いや、けふはやめにしよう。おや!」
 トツクはかう叫ぶが早いか、しつかり僕の腕を摑みました。しかもいつか体中からだぢゆうや汗を流してゐるのです。
「どうしたのだ?」
「どうしたのです?」
なにあの自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出したやうに見えたのだよ。」
 僕は多少心配になり、兎に角あの医者のチヤツクに診察して貰ふやうにすすめました。しかしトツクは何と言つても、承知する気色けしきさへ見せません。のみならずなにか疑はしさうに僕等の顔を見比みくらべながら、こんなことさへ言ひ出すのです。
「僕は決しで無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは真平御免まつぴらごめんだ。」
 僕等はぼんやりたたずんだまま、トツクのうしろ姿を見送つてゐました。

 この一筋の中で、特に、トックが気違いになりかかっているところの書き方は、巧妙を極めている。
 ところで、この一節を読んで、私は、『歯車』の㈡『夜警』の中の次ぎの一節を、思い出した。

 或精神病院の門を出た後、僕は又自動に乗り、前のホテルへ帰ることにした。が、このホテルの玄関へおりると、レエン・コオトを着た男が一人何ひとりなにか給仕と喧嘩をしてゐた。給仕と?――いや、それは給仕ではない、緑いろの服を着た自動車掛じどうしやがかりだつた。僕はこのホテルへはひることになに不吉ふきつな心もちを感じ、さつさともとの道を引き返して行つた。

 この主人公も一種の精神病者であるが、この書き方も、やはり、実に旨いものである。
 ところで、作者はこの哀れな詩人のトックを、(この『河童』の国に登場する河童たちの中で作者が一ばん愛していたらしいトックを、)自殺させている。
 硝子会社の社長のゲエルに、「何しろトツク君は我儘だつたからね、」と云われ、医者のチャックに、「トツク君は元来胃病でしたから、それだけでも憂鬱になり易かつたです、」と云われたトックは、つぎのような詩を、書き残している。

 いざ、立ちて行かん。裟婆界を隔つる谷へ。
 岩むらはこごしく、やまみづは清く、
 薬草さくさうの花はにほへる谷へ。

哲学者のマッグは、「これはゲエテの『ミニオンの歌』の剽窃ですよ。するとトック君の自殺したのは詩人としても疲れてゐたのですね、」と云う。
 しかし『万葉集』の中にも、
  神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも
という歌もある。
 いずれにしても、作者の芥川は、自殺したトックについても、身につまれたように、いろいろと、書いている。

「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」
「しかしあなたはトツク君とは親友の一人ひとりだつたのでせう?」
「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
「不幸にも?」
「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」

 これは、トックの自殺の報を聞いてけつけて来た、哲学者のマッグと音楽家のクラバックが、死んだトックの亡骸なきがらの傍で、わしている話である。
 芥川は、『河童』の中で、こういう事を、書いているのである。
 私は、『河童』は、芥川の最晩年の作品の中で、いろいろな欠点はあるけれど、最後のかがやかしい「火花」である、と、確信するのである。
[やぶちゃん注:引用では分かり難いので注しておくと、台詞の話者は、
マツグ「あなたはトツク君の死をどう思ひますか?」
クラバツク「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……裟婆界を隔つる谷へ。……」
マツグ「しかしあなたはトツク君とは親友の一人ひとりだつたのでせう?」
クラバツク「親友? トツクはいつも孤独だつたのです。……裟婆界を隔つる谷へ……トツクは不幸にも、……岩むらはこごしく……」
マツグ「不幸にも?」
クラバツク「やま水は清く、……あなたがたは幸福です。……岩むらはこごしく。……」
である。私の電子テクストで確認されたい。
以下、本引用に現れた部分について、私の『芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈』から引用しておく。出来れば、この前後の注も参照されたい。
・「こごしく」古語「凝(こご)し」で、凝り固まっているさま。険しいさま。
・「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊ですよ」ここでマッグが剽窃だ言う Johann Wolfgang Goethe ゲーテ(一七四九年~一八三二年)の“Mignon”「ミニヨンの歌」は、現在、「ヴィルヘルム・マイスター修業時代」の第三巻に収められている南欧への憧れを詠った著名な詩“Mignon”の内(“Mignon”と称するものは他にも三種ある)、最終第三連である。以下にドイツ語原詩を示し(引用はドイツのテキスト・サイトから)、後に該当部分の訳詩集「於母影」の森鷗外訳を(岩波版新書版選集を底本として正字に直した)、その後に高橋義孝訳を示し(こちらは新全集三嶋氏注解に示されたものの孫引き)、最後にトックの詩を掲げて参考に給する。

  Kennst du den Berg, und seinen Wolkensteg?
  Das Maultier sucht im Nebel seinen Weg;
  In Höhlen wohnt der Drachen alte Brut;
  Es stürzt der Fels und über ihn die Flut,
  Kennst du ihn wohl?
    Dahin! Dahin
  Geht unser Weg! o Vater, laß uns ziehn!

   *

  立ちわたる霧のうちに驢馬は道をたづねて
  いなゝきつゝさまよひひろきほらの中には
  もも年經たる竜の所えがほにすまひ
  岩より岩をつたひしら波のゆきかへる
  かのなつかしき山の道をしるやかなたへ
  君と共にゆかまし

   *

  ご存じなの、その山を、雲の行きかう山道を?
  らばは霧の中で道をさがし、
  ほら穴には、年老いた龍の族が住み、
  岩は切り立って、その上を滝が流れていて――
  御存じなの、あの山を?
  さあゆきましょう、あの山へ、
  この道真直ぐに。お父さま、
  さああの山へ!

   *

  いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。
  岩むらはこごしく、やま水は淸く、
  藥草の花はにほへる谷へ。

それにしてもこのマッグは残酷である。自殺したトックの死体の前で微苦笑さえ浮かべて、こんな死者を辱しめる言葉を吐けるとは。いや、それが河童の世界なのである。いや、人間世界のように虚飾を排した正直な感懐と言うべきなのかも知れない。そうして――そうしてこの時、芥川龍之介は、五ヶ月後の、自分自死の後に集まった文人たちの思いを、既に以ってここに悪意を以って(こうした行為を果たして「悪意」と言うだろうか?)予言してもいたものであろう。

「神さぶる岩板こごしきみよしぬのみくまり山を見ればかなしも」は、「万葉集」巻七の一一三〇番歌、
     芳野にて作れる
  かむさぶる岩根いはねこごしきみ吉野の水分山みくまりやまを見れば悲しも
で、詠み人知らず。「水分山みくまりやま」とは奈良県吉野郡吉野町の吉野山最南端にある青根ヶ峰のこと。この峰は極めて特異な分水嶺で、この山に降った雨は東に流れると音無川となり、蜻蛉の滝を経て吉野川に合流する。また、南に流れるそれは丹生川となり、下流の五条市で吉野川に合する。更に、西は秋野川から吉野川へと続き、北は喜佐谷を流れ下って(「象の小川」と呼ばれる)宮滝で吉野川と合流している。「悲しも」は「愛しも」である。
〇やぶちゃん通釈
……神々しくも岩と石が積み重なり聳え立つ吉野の水分山みくまりやま……それを見上げると……不可思議な畏敬の念と不可思議な帰属の念と……むらむらと湧き起こってくる、この私の心に……切ないまでに!……]


「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃気楼」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戦ひをるやうなものに有之、疲労に疲労を重ねをり候。[中略]一休禅師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も残せるや否や覚束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる歯車あまた右の目の視野に廻転する事あり、あるひは尊台の病院[註―青山脳病院]の中に半生を了ることと相成るべき乎……
[やぶちゃん注:「楠正成が湊川にて戦ひをるやうなもの」勝ち目のない戦さと知りながら、死を覚悟で出陣したことを比喩する。
「一休禅師は朦々三十年と申し候……」は一休話の一つとして伝わる、一説に一休辞世の句とされるものの、最初の句を指して言っているものと思われる。
  朦々然而三十年
  淡々然而三十年
  朦々淡々六十年
  末後脱糞捧梵天[以下略]
   朦々然として三十年
   淡々然として三十年
   朦々淡々 六十年
   末期の脱糞 梵天に捧ぐ[以下略]
「朦々」とはこの場合、心がぼんやりとすることで、迷いに迷って、の意。「淡々」は悟りの境地を指している。
「碌々三十年」一休はそれでも三十年の迷いを経て悟達し得ましたが、小生は、凡俗そのままに全く以て役立たず、たいした事も出来ないままに、その三十年が過ぎてしまいました、と言っているのである。]

 これは、芥川が、昭和二年の三月二十八日に、斎藤茂吉に宛てて、書いた手紙の中の一節である。
 さて、『歯車』は、㈠「レエン・コオト」、㈡「復讐」、㈢「夜」、㈣「まだ?」、㈤「赤光」、㈥「飛行機」の六章から成り立っている。
『歯車』(一種の連作)を書こうと思い立った時の芥川は、文字どおり、必死の覚悟をしたかもしれない。少なくとも、『歯車』を書く時、芥川は、(たとい「ペンを執る手も震へ出し」ていた、としても、)ふるったにちがいない。それは、『河童』が不評であったこともこたえたであろう、しかしそれ以上に、これが「最後」というような気もちもあったのではないか。
 三月、――芥川は、二十三日に、まず、「レエン・コオト」を書いた、(「レエン・コオト」を読んだ人は、作者の精神が少し異常ではないか、というような気がするであろう、さて、)「レエン・コオト」を書いて、へとへとになり、暫く休んで、二十七日から、なにかにき立てられてでもいるように、二十七日に、「復讐」を、二十八日に、「夜」を、二十九日に、「まだ?」を、三十日に、「赤光」を、書いた、そうして、それから一週間ほど後に、(四月七日に、)最後の「飛行機」を、書き上げた。
 ここで、ついでに述べると、『歯車』の㈠から㈤までのおもな舞台をホテルにしている事なども、芥川が、このような健康状態にあっても、いかに「用意周到」な人であったかが、わかるのである。「用意周到」といえば、芥川は、死後の事まで、「用意周到」な人であったのだ。この事については、例によって、後に、ややくわしく述べるつもりである。

 僕はもうよるになつた日本橋通りを歩きながら、屠竜[註―竜を屠り殺すこと」という意味である、ついでに書くと『屠竜の技』という句がある。これは荘子の『説剣篇』中の「主泙漫学屠竜於支離益殫千金之家三年技成、而無所用其巧」から出た句で、「芸に長じているけれど、時世に用をなさない」という譬]と云ふ言葉を考へつづけた。それは又僕の持つてゐる硯の銘にも違ひなかつた。この硯を僕に贈つたのは或若い事業家だつた。彼はいろいろの事業に失敗した揚句あげく、とうとう去年の暮に破産してしまつた。僕は高い空を見上げ、無数の星の光の中にどのくらゐこの地球のちいさいかと云ふことを、――従つてどのくらゐ僕自身の小さいかと云ふことを考へようとした。しかし晝間は晴れてゐた空もいつかもうすつかり曇つてゐた。僕は突然何ものかの僕に敵意を持つてゐるのを感じ、電車線路の向うにある或カツフエへ避難することにした。
[やぶちゃん注:「屠竜」の割注を補足する。「とりょうのわざ」「とりゅうのわざ」と読むが、これは「荘子」の「雑篇」「列禦寇篇 第三十二」にある故事に基づくもので、宇野の引用を書き下すと、「朱泙漫しゅひょうまん、竜をほふるを支離益しりえきに学び、千金の家をくし、三年にして技成るも、其の巧を用うる所無し。」と読む。本来は、世俗に於いてはそうした多大の犠牲を払いながら徒労に終わる、全く無駄な人為というものに満ち満ちていることを喩える語である。ところが、本邦では、第二次世界大戦中の大日本帝国陸軍戦闘機である二式複座戦闘機キ四五改の愛称として知られるように、「屠龍の技」を、「龍を殺すという想定外の事態に備えたような研鑽や努力」「その仕儀をを讃えること」という全く逆の意味にも使われる傾向がある。道家の本義に帰って考えれば、これは『無用の用』とも言えなくもないと私は思うので、これもあり、であろうとは思う。但し、芥川龍之介がここで「考へ」ているのは、「荘子」の意味する完全なる徒労であり、更に言えば、芥川龍之介の「龍」への関係妄想としての、「屠龍」であろう。なお、芥川は「歯車」の「三」(引用の前の部分)では、「屠龍」の故事を「韓非子」と誤って記している。更に、役に立たない徒労という謂いは芥川龍之介が好んだもので、そこでも回想しているように、若き日のペン・ネームに類語の「壽陵余子」を用いた「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文」がある。これには私藪野直史の暴虎馮河の現代語訳『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み』がある。興味のあられる方は御笑覧あれ。]

 これは、『歯車』の中の㈢「夜」のなかの一節である。(『歯車』は、原稿には、はじめ、『夜』とか、⦅『東京の夜』とか、⦆いう題をつけてあったが、佐藤春夫が、その原稿を見せられた時、『夜』というのは個性がなさ過ぎ、『東京の夜』というのは気取りすぎる、と云って、『歯車』という題をすすめた、と書いている。)
 さて、先きの話のつづきで、『僕』という主人公が、「或カツフエへ避難」してからの事を、つぎのように書いてある。

……僕は一杯のココアを啜り、ふだんのやうに巻煙草をふかし出した。巻煙草の煙は薔薇色の壁へかすかに青い煙を立ちのぼらせて行つた。この優しい色の調和もやはり僕には愉快だつた。けれども僕は暫らくの後、僕の左の壁にかけたナポレオンの肖像画を見つけ、そろそろ又不安を感じ出した。ナポレオンはまだ学生だつた時、彼の地理のノオト・ブツクの最後に「セント・ヘレナ、小さい島」、と記してゐた。それはあるひは僕等の言ふやうに偶然だつたかも知れなかつた。しかしナポレオン自身にさへ恐怖を呼びおこしたのは確かだつた。……
 僕はナポレオンを見つめたまま、僕自身の作品を考へ出した。するとまづ記憶に浮かんだのは「侏儒の言葉」の中のアフオリズムだつた。(殊に「人生は地獄よりも地獄的である」と云ふ言葉だつた。)それから「地獄変」の主人公、――良秀と云ふ画師の運命だつた。それから……
[やぶちゃん注:ナポレオンの話はネット上で検索をかけると、ナポレオンが学生時代、授業で地図を開いていたところ、セント・ヘレナ島という島がたまたま目に留まり、何気なくノートに「セント・ヘレナ」と落書きしたとあり、実話らしいと記されている。確かな伝記か何かの一級資料が出典なのであろうか。識者の御教授を乞う。]

 ここに引いた文章をあらためて読みかえして、『屠竜』という硯をくれた若い事業家が、いろいろの事業に失敗した挙句あげくの果てに、とうとう破産してしまった、とか、昼間は晴れていた空もすっかり曇り、「突然何ものかの僕に敵意を持つてゐる」のを感じて、「避難」するために、電車通りの向うにある、或カッフェにけ込む、とか、そのカフェの壁にかかっているナポレオンの肖像画を見つけて、ナポレオンが、学生時代に、地理のノオト・ブックの最後に「セント・ヘレナ、小さい島」と書いた、という話を思い出して、「そろそろ又不安を感じ出した、」とか、そのナポレオンの肖像画を見つめながら、自分の作品の、『侏儒の言葉』の中の「人生は地獄よりも地獄的である」というアフォリズムや、『地獄変』の主人公の絵師の良秀の運命を考え出した、とか、――それからそれと、よくも、このような不吉な事や気味のわるい話を、段取りよく、巧みに、書いたものだ、と、私は、今更ながら、感心した。
 しかし、『地獄変』は、ずっと前に述べたように、上手じょうずな絵巻物を見るような感じがするだけにとどまり、「人生は地獄よりも地獄的である」というアフォリズムはただ言葉だけで、空虚な感じがする。しかし、『歯車』は、それらのものとは違う。『歯車』にも随所に作り事のようなところはあるけれど、『歯車』には、ところどころに、切羽せっぱつまった気もちが、出ていて、読む者の心に迫ってくるものがある。

 僕は丸善の二階の書棚にストリントベルグの「伝説」を見つけ、二三ペイジづつ目を通した。それは僕の経験と大差のないことを書いたものだつた。のみならず黄いろい表紙をしてゐた。僕は「伝説」を書棚へ戻し、今度は殆ど手当り次第に厚い本を一冊引きずり出した。しかしこの本も挿し画の一枚に僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べてゐた。(それは或独逸人の集めた精神病者の画集だつた。)僕はいつか憂鬱の中に反抗的精神の起るのを感じ、やぶれかぶれになつた賭博狂のやうにいろいろの本を開いて行つた。が、なぜかどの本も必ず文章か挿し画かの中に多少の針を隠してゐた。どの本も?――僕は何度も読み返した「マダム・ボヴアリイ」を手にとつた時さへ、畢竟(ひつきやう)僕自身も中産階級のムツシウ・ボヴアリイに外ならないのを感じた。……
 日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかつた。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよつて行つた。それから「宗教」と云ふ札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一冊の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢(けうまん)、官能的欲望」と云ふ言葉を並べてゐた。僕はかう云ふ言葉を見るが早いか、一層反抗的精神のおこるのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものはすくなくとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかつた。
[やぶちゃん注:『ストリントベルグの「伝説」』一八九七年に刊行された自伝小説で、創作活動と錬金術への傾斜から困窮、強迫観念と幻聴を伴う精神変調と治療、神秘主義者スウェーデンボリの思想との接触による救済から妻との離婚に至るストリンドベルグが自ら『地獄』と呼んだ時代を描く(以上は二〇一〇年花書院刊の三嶋譲『「歯車」の迷宮ラビリンス」』の記載を参照した)。]

 ここにも芥川の(芥川流の)虚構はあるかもしれない。しかし、この文章には遊びがなくきがない。この丸善の二階の書棚の前で「賭博狂のやうにいろいろの本」を開いている人間の姿は痛ましく、その人間の心も痛ましい。(それから、ついでに書くと、右の文章の中の、「僕等人間と変りのない、目鼻のある歯車ばかり並べてゐた、」とか、「なぜかどの本も必ず文章か挿し画の中に多少の針を隠してゐた、」とか、いう文句は、これこそ、異様であり、気味がわるい。もっとも、芥川が愛読したゴオゴリの初期の作品には、これらよりもっと異様な気味のわるい物はあるが、……)
 さて、丸善の二階といえば、最初の一章であるからか、たいていの人が知っている、『或阿呆の一生』の一ばん初めの『時代』が、やはり、丸善の二階が舞台になっている。必要があるので、つぎに、それを写す。

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、あたらしい本を探してゐた。モウパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨウ、トルストイ……
 そのうちに日は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴエルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、……
 彼は薄暗がりと戦ひながら、彼等の名前を数へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈がひとつ、丁度ちやうど彼のあたまの上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下みおろした。彼等は妙にちひさかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
「人生は一行のボオドレエルにもかない。」
 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。

 おなじ丸善の二階が舞台になっていても、これは、さきに引いた『歯車』の中の一節とくらべると、感じもまるで違い、物も全然ちがう。つまり、先きに引いたところは、いくらか虚仮こけおどしの感じのするところもあり、文章も素気そっけない感じさえあるが、なに側側そくそくと人の心に迫るものがあった、ところが、これは、文章が気がきいていて、様子ようすがよく、見得を切っている観さえあるが、読む者の心に殆んど残るものがない。
楼門五三桐さんもんごさんのきり』という歌舞伎芝居で、石川五右衛門が、南禅寺の楼門にあがって、大見得を切りながら、「絶景かな、絶景かな、春の夕ぐれの眺め、あたひ千金とは、……」と叫ぶところがある。
 それとこれとはまったく違うけれど、私は、この『或阿呆の一生』が、はじめて、昭和二年の十月号の「改造」に、出た時、この一ばん初めの『時代』を読んで、「これはまずいな、」と思った、というのは、芥川が、本の一ぱい詰まっている丸善の書棚にかけた梯子の上に立って、傘のないひとつの電燈に照らされながら、下の方に動いている店員や客を見おろしで、「人生は一行のボオドレエルにもかない、」と、大見得を切りながら、叫んでいるのを、ふと、想像したからである。
 私は、ここで、二十歳の芥川が、こういう生意気な事を云うのが、おかしい、などと云うつもりではない、芥川が、相変らず、一等俳優を気取っているな、と思ったのである。
[やぶちゃん注:「見得を切っている」私の電子テクスト「或阿呆の一生」の最後に附した本章の別稿を以下に示す。

       一 時  代

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリンベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………
 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………
 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。
 「何と云ふもの寂しさ、……」
 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………

「何と云ふもの寂しさ、……」の部分はテクストを見て頂くと分かる通り、最初、『何と云ふ貧しさ!』と書いたものを削除線で消し、「何と云ふもの寂しさ、……」と書き直したものである。宇野の言うように、この初期形と比すと、芥川龍之介は「南禅寺山門の場」の五右衛門の如く、美事に見得を切っている、とは言える。
「楼門五三桐」は安永七 (一七七八)年の大阪初演の歌舞伎。初代並木五瓶作の全五幕の荒唐無稽な伝奇ロマン活劇であるが、宇野が引用する二段目の返し「南禅寺山門の場」の五右衛門の名台詞で専ら有名。
『昭和二年の十月号の「改造」に、出た時、この一ばん初めの『時代』を読んで、「これはまずいな、」と思った』というのは、死後の小説家としての芥川の名声や光栄に、傷が附くことを宇野は危惧したということになる。勿論、この「一 時代」や「或阿呆の一生」、更には宇野のように後期の芥川作品を評価しない(宇野は少なくとも「小説」としては評価ていない)評者もいることはいる。しかし、どうであろう、宇野の危惧は杞憂であったというべきであろう。「見得」を切らなかった宇野の作品は、今や容易に書店に見出すことも出来ない。宇野の嫌った「見得」が(宇野はそれが芥川の「小説」を似非物にしていると考えていると私は断言する)、皮肉なことに(宇野にとってである)芥川龍之介の「小説」人気の長命の一つの要因であることは間違いないのである。]
 芥川は、『一等俳優』の一人であった、が、普通の一等俳優に間間ままあるような、単純な心の持ち主ではなかった、そうして、すぐれて聡明な人であった、それから、前に何度か述べたようにはげしい神経衰弱にかかりながら、精神病者のようになりながら、あたまの働きは殆んど鈍らなかった。それは、(そのほんの一例は、)『或阿呆の一生』の中の『剥製の白鳥』の書き出しの、

 彼は最後の力を尽し、彼の自叙伝[註―『或阿呆の一生』]を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出来なかつた。それは彼の自尊心や懐疑主義や利害の打算の未だに残つてゐるためだった。……

という文句だけでも、わかる。
 ついでに述べると、神経衰弱がひどくなるにつれて、芥川のあたまは、ますます、冴えてきたようにさえ、私には、思われるのである。
 それから、しばしば云うように、その作品が用意周到であったように、生活などもなかなか用意周到であった芥川は、自分が死んだ後の事まで、作品の事も、残った者たちの生活の事も、ちゃんと、抜かりなく、考えていたのである。

 何ものかの僕を狙つてゐることは一足ひとあし毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。僕はいよいよ最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直にして歩いて行つた。歯車は数のえるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細ちやうどこまかい切子硝子きりこガラスを透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……

 これは、『歯車』の㈥の「飛行幾」の最後に近いとこかの、一節である。

 君は芸術の天にたぐひなき凄惨の光を与へぬ。即ちいまかつき一つの戦慄を創成したり。[上田敏による]
[やぶちゃん注:これは「海潮音」のボードレールの上田訳の掉尾「梟」の後にポイント落ちで附された上田敏の解説に現れる。以下にその全文を引いておく(底本は一九六二年岩波文庫刊の「上田敏全訳詩集」に拠った)。

現代の悲哀はボドレエルの詩に異常の發展を遂げたり。人或は一見して云はむ、これ僅に悲哀の名を變じて欝悶と改めしのみと、而も再考して終に其全く變質したるをさとらむ。ボドレエルは悲哀に誇れり。即ち之を詩章の龍葢帳中に据ゑて、黑衣聖母の觀あらしめ、絢爛なること繪畫の如き幻想と、整美なること彫塑に似たる夢思とを恣にして之に生動の氣を與ふ。是に於てか、宛もこれ絶美なる獅身女頭獸なり。悲哀を愛するの甚しきは、いづれの先人をも凌ぎ、常に悲哀の詩趣を讚して、彼は自ら「悲哀の煉金道士」と號せり。

           *

先人の多くは、惱心地定かならぬまゝに、自然に對する心中の愁訴を、自然其物に捧げて、尋常の失意に泣けども、ボドレエルは然らず。彼は都府の子なり。乃ち巴里叫喊地獄の詩人として胸奧の悲を述べ、人に叛き世に抗する數奇の放浪兒が爲に、大聲を假したり。其心、夜に似て暗憺、いひしらず、汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐悔恨の凄光を放つが如きもの無きにしもあらず。    エミイル・ルハアレン

ボドレエル氏よ、君は藝術の天にたぐひなき凄慘の光を與へぬ。即ち未だ曾て無き一の戰慄を創成したり。                                   ヸクトル・ユウゴオ

「龍葢帳中」は「りようがいちようちう(りょうがいちゅちゅう)」と読み、「龍蓋」は超能力を持った龍を呪法によって封じ込めることを言う。ボードレールが魔術的自在性をその詩句に込めたことを比喩するものであろう。「黑衣聖母」黒い聖母マリア及び聖母子像。ここでは単にただ汚れて黒ずんだ聖像を指すのではなく、原始キリスト教以前にオリエント一帯に広まっていた大地母神信仰の習合されたそれをイメージし、原母(グレート・マザー)への畏怖を示す。「獅身女頭獸」スフィンクス。]

 これは、ヴィクトル・ユウゴオが、シャルル・ボオドレエルに宛てた手紙の中の、有名な文句であるが、誇張して云えば、この文句をいくらか思わせるようなものが、『歯車』の中に、ところどころに、ある。例えば、(そのほんの一例を上げると、前にも引いたかもしれないが、)つぎのようなところである。

 海は低い砂山の向うに一面に灰色に曇つてゐた。その又砂山にはブランコのないブランコ台がひとつ突つ立つてゐた。僕はこのブランコ台を眺め、忽ち絞首台を思ひ出した。実際又ブランコ台の上には鴉が二三羽とまつてゐた。鴉は皆僕を見ても飛び立つ気色さへ示さなかつた。のみならずまん中にとまつてゐた鴉は大きい嘴を空へ挙げながら、確かに四たび声を出した。

 芥川は、その作品の中に好んで鴉をつかうが、鴉といえば、斎藤茂吉が鴉を詠んだ歌の中に、こういうのがある。
  しましわれは目をつむりなむ真日まひおちて鴉ねむりにゆくこゑきこゆ
  ひさかたのしぐれふりくるそらさびしつちりたちて鴉は啼くも
[やぶちゃん注:「しまし」は上代語で、暫く、ちょっとの間、の意。いずれも「あらたま」所収の句。]
 さて、『歯車』は、ずっと前に述べたように、葛西善蔵がほめ、佐藤春夫が、芥川の作品の中で第一である、と激賞し、廣津和郎も「一ばんあたまに残つてゐる、」と云い、川端康成などは、「芥川氏のすべての作品にくらべて、断然いいと思ふ、……文章までが『歯車』だけはなんか違ふやうな気がし、おのづから迫りながら、暢びてゐて、……芥川氏の気もちが一番よく出でゐると思ふ、……どこか気遣ひと正気の間ぐらゐな、……」と、述べている。
 この川端の説には私もほぼ同感であるが、又、『歯車』には川端のきそうなところもある。
 が、いずれにしても、『歯車』は、欠点は随分あるけれど、これこそ、芥川が、必死で書いたようなところもある。そうして、この作品の中には、それこそ、「人生は地獄よりも地獄的である、」というところもあり、その実感のいくらか出ている.ところもある、それに、作者がよるとなく昼となく悩まされた極度の神経衰弱から起こる脅迫観念と恐怖が一種の迫力をもって読者に迫ってくるところもある。
 ざっとこういう点で、『歯車』は、芥川の全作品の中で、もっともすぐれた作品という訳にはゆかないが、前にも書いたように、もっとも特殊な作品である。
 しかし、又、この『歯車』は、無理やりに、怪奇に、怪奇に、とたくんでいるようなところが随所にあり、なにもあまりに誇張して書いてあるので、不自然な気がするところも可也かなりあり、それに、筆がすべり過ぎていて、興味をぐようなところも多分にある。
 それから、多くの人が問題にしている『歯車』の最後の「僕はもうこの先を書きつづける力を持つてゐない。かう云ふ気もちの中に生きてゐるのは何とも言はれない苦痛である。誰か僕の眠つてゐるうちにそつとめ殺してくれるものはないか?」という文句なども、私などは、書き過ぎであるばかりで、なく、否味いやみである、とさえ思うのである。
 しかし、さすがに、芥川は、『歯車』が書き過ぎであることは、さとっていた。それから、芥川は、『歯車』は、書き過ぎたところがあるばかりでなく、発表をはばかられるような所もあり、未定稿でもあったからか、筐底にしまってしまった。
 ところで、『歯車』を脱稿したのは四月七日であり、『歯車』は、芥川の物としては可なり長いほうで、七十五六枚であるから、立ち入った事を云えば、その時分の芥川は、どこかの雑誌にでも出して、かねにかえた方が、便利であったのではないか、と思われるのに、それをしなかったのは、臆測を逞しくすれば、芥川の芸術的な良心と打算のためであったのであろうか。(ここで、『打算』というのは、この原稿⦅つまり『歯車』⦆を、死後に、家族のために、残しておこう、という程の意味である。)
[やぶちゃん注:厳密には「一 レエン・コオト」は、生前の昭和二(一九二七)年六月の『大調和』に「歯車」の題で掲載されている(全文公開が死後の十月一日発行の『文藝春秋』)。また、私も(というより、本作の内容に於いて、勿論)、「歯車」全体は、芥川が死後に公開されることを念頭に於いて「計画的に」(それは作品の随処に現れている)執筆したものと考えてよい(芥川龍之介の自死があってこそ「歯車」は絶対暗黒の強靭さを持つのであり、生き延びた芥川龍之介と名作「歯車」のツー・ショットなんどは全体にあり得ないのである)。但し、芥川龍之介が「歯車」を『筐底にしまってしまった』という宇野の表現は、如何なものか。先に宇野が、
(『歯車』は、原稿には、はじめ、『夜』とか、⦅『東京の夜』とか、⦆いう題をつけてあったが、佐藤春夫が、その原稿を見せられた時、『夜』というのは個性がなさ過ぎ、『東京の夜』というのは気取りすぎる、と云って、『歯車』という題をすすめた、と書いている。)
と述べている事実からも、これは言い過ぎである。四月七日の脱稿は現在の年譜的事実からも確定されているが(但し、それも掉尾のクレジットによって、である)、芥川は「歯車」を、恐らく最後まで改稿する努力を続けていたと私は考えている。]
 死後、と云えば、芥川が、いかに、自分の死後の名聞みょうもんの事や家族の事などを、気にしたか、――それは、『河童』の最後の方の、自殺したトックの幽霊と心霊学協会の会員との問答の報告(記録)の中の、「予の死後の名声は如何いかん?」「予の全集は出版せられしや?」(「君の全集は出版せられたれども、売行甚だふるはざる如し、」)「予の全集は三百年の後、――即ち著作権の失はれたる後、万人のあがなふ所となるべし。予の同棲せる女友だちは如何?」「予が子は如何?」「予が家は如何?」などという記事だけを見ても、大凡おおよその一端が窺われるであろう。
 ところで、前に述べたように、芥川が、『歯車』の最後のぶん㈥『飛行磯』を脱稿したのは、四月七日である。
 昭和二年になってから、芥川は、力作、『玄鶴山房』、『河童』、それから、『歯車』、と、書いてまったく、精根を、使いつくしてしまった。
 それで、芥川の最後の作品は、(作品らしい作品は、)未定稿ではあるが、『歯車』である、という事になる。

 芥川が、一世一代の作品、『或阿呆の一生』を書き上げたのは、六月二十日はつからしいが、『或阿呆の一生』を、なん月何日頃から、書きはじめたかは、よくからない、が、五月の終り頃か六月の初め頃ではないか、と思う。

『或阿呆の一生』は、五十一章になっているが、章がかわるごとに、原稿用紙が改めてあるそうであるから、思いつくままに、工夫くふう工夫くふうを凝らし、文章をりにって、丹念に、書いたものにちがいない。(そのために、迫力の欠けているところも随分ある。)
[やぶちゃん注:「或阿呆の一生」は松屋製ブルー二百字詰原稿用紙に書かれている。タイトルの「或阿呆の一生」は、写真版原稿によって最初、「彼の夢――自伝的エスキス――」とされ、次に「神話しんわ」というルビ付き標題となり(この時点で副題の「自伝的エスキス」がどうなったかは不明)、最後に「或阿呆の一生」となったことが分かっている。葛巻義敏は「芥川龍之介未定稿集」で本作は二度以上書き直しているのではないかという推定を示しており(宇野と同意見)、「芥川龍之介新辞典」の関口安義氏の本文脚注では、本作は久米正雄が本作の『改造』誌上への発表に際して『「脱字乃至誤字と目されるべきもの」がかなりあると言及してい』ることから、『十分に練られた作品ではな』く、『不眠症にとらわれていた芥川には、もはや作品を十分に推敲するゆとりはなかったのである』と断じている。私は――私は本作は、寧ろ十分に練られたものだと思う。――しかし、その練り方は整序する方向へではなく、芥川龍之介という謎に満ちた『神話』を創造するための、時空間を自在に行き来するような驚天動地の『練り方』であったと考えている。「或阿呆の一生」は恐らく、永遠に解けぬように創られた推理小説である。]
 ところで、『或阿呆の一生』は、「自伝的エスキス」と云われているが、そういうところもあるけれど、全体から見て、『或阿呆(あるいは、或人間)の一生』という感じが殆んどない、が、芥川の晩年の「心象風景」として見れば、随所に、いたく心を打たれるものがある。
 しかし、極言すれば、「いたく心を打たれる」のは、『或阿呆の一生』の最後の数章だけぐらいなもので、他の大部分は、芥川ごのみの、逆説的な話を、機智のある話を、あるいは、アフォリズムを、気どった文章で、書いたものである。(そうして、その中には、さすがに気のきいた物もあるが、つまらないのもある。)

 あの遺稿[註―『或阿呆の一生』]に書いてある言葉は多く短い。しかし私はちひさなふし穴のやうなあの短い言葉のひとひとつを通しても、君[註―芥川のこと]が感Jた精神の寂寥を覗き見る心地がした。

これは、島崎藤村の『芥川龍之介君のこと』[註―昭和二年の十一月号の「文藝春秋」に出た]という文章の中の一節である。
 これもなかなか気どった文章である。しかし、気どりかたはちがうが、おなじ気どっていても、藤村の方が意地がわるく、龍之介の方は、見えってはいても、さっぱりしていて、いさぎよいところがある。(この『芥川龍之介君のこと』は、芥川が死んでから出たのであるが、『或阿呆の一生』一章一章を「ちひさなふし穴のやうなあの短い言葉」などと書いてある、この文章を、仮りに芥川が生前に読んだとすれば、芥川は、あの青白い顔を真赤まっかにして、おこったにちがいない、私でさえ、あそこのところ読んだ時は、「この書きかたはあんまりひど過ぎる、」と思った程であるから。)
[やぶちゃん注:以上の宇野の義憤は私と完全にシンクロする。島崎藤村「芥川龍之介君のこと」は私のブログに電子テクスト化し、注も附してあるが、これは永久にHPからのブログ・リンクである。それはこの忌まわしい文章を、芥川龍之介を愛する私として、HPの芥川龍之介と対等な頁とすることを、私が許さないからである。]

 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後、偶然ある古道屋の店に剥製の白鳥のあるのを見つそれは頸を挙げて立つてゐたものの、黄ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯発狂か自殺かだけだつた。彼は日のくれの往来をたつた一人あるきながら、おもむろに彼を滅しに来る運命を待つことに決心した。

 これは、『或阿呆の一生』の最後の章にちかい、『剥製の白鳥』の一節である。
 芥川は、いよいよ自分でこの世(裟婆)を捨てる、という時まで、かがやいた芸術家であった、極度の神経衰弱にかかりながら、『死ぬ薬』を飲む時吾も、決して正気しょうきを失わなかった。
 されば、ここ書いた一節も、創作であるかもしれない、いや、創作であろう。しかし、創作、である、としても、この時すでに自殺を覚悟していた、とすれば、「彼は彼の、一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた」「日の暮の往来をたつた一人歩きながら、……」などというところは、文字どおり、悲痛である。
 ところで、この『剥製の白鳥』は、六月二十日はつか前後に、書いたものであろう。
 六月二十日、といえば、私は、日は忘れたが、六月の上旬に、芥川をたずねた。
[やぶちゃん注:以下の注で述べるが、この記憶は錯誤である可能性が高い。]

 六月上旬の或る日の夜の九時頃、上野桜木町の私の家をたずねて来た、高野敬録と一しょに、芥川を、訪問することになった、「中央公論」の編輯を、滝田樗陰の下で、長い間、していたのを、半分以上自分から進んでめた高野を、「文藝春秋」の編輯部に、世話してくれることを、芥川に、頼むためである。(その時分の「文藝春秋」は、『看板にいつわりなし』ということわざどおり、文芸雑誌であり、その頃、『文壇の檜舞台』と称せられた「中央公論」に、菊池に、はじめて、小説[註―『無名作家の日記』]を、たのみに行ったのは、高野であり、それ以来、芥川や菊池その他に、「中央公論」の原稿をたのみに行ったのは、殆んど皆、高野であったから、文藝春秋社に高野ははいれるであろう、と、こう、単純に、考えたからであった。それで、その時、高野は、文藝春秋社に、はいれなかったが。)
 さて、時間もおそく、そのほうが便利であったから、桜木町の私の家から、田端の芥川の家まで、私たちは、人力車に、乗った。六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物ひとえものの襟をかき合わせた。やがて、見なれた芥川の家の門の前に、車がついたので、玄関で声をかけると、めずらしく、夫人が出て来て、「すぐ近くにおりますから、呼んでまいりましょう、」と云った。が、私たちは、それは辞退して、「さしつかえのない所でしたら、おしえてくださいましたら……」と云って、芥川が原稿を書いているという、隠れの方へ、行くことにした。
 その家は、自笑軒[註―芥川の家(高台)の下の狭い町の中にあった。「天然自然軒」というのが本当の名で、茶料理専門も芥川のヒイキの家であったが、芥川の歿後、何十年、毎年、祥月命日(七月二十四日)の夜、友人たちが、芥川を思い出す『河童忌』をひらいたのも、この家である]の裏あたりの、静かな一軒家であった、(と思う。なにぶん、二十四五年前に、それも、夜、一度しか行った事がない所であるから、記憶はおぼろである、が、芥川の家の方から行って、自笑軒の前をとおり、五六けんほど行ったところを右にまがり、まがってからまた五六間ぐらい行った右側にあった、ように、覚えている。)
[やぶちゃん注:宇野のこの記憶には、私は錯誤があると踏んでいる。何故なら、現在の年譜的事実を並べて見た時、凡そこれから書かれるような――平常な状況下に宇野浩二自身がなかった――と考えられるからである。宮坂年譜などをもとにこの前後を見ると、
●五月中下旬か
精神に変調をきたし、母や内縁の妻八重、友人の画家永瀬義郎らに伴われて箱根に静養に行くも、途中の小田原の料理屋で突然薔薇の花を食べるような奇行があり、数日で帰京する。
●五月下旬
友人広津和郎・芥川龍之介・永瀬義郎らが、宇野発狂の報を受け、奔走する。
●六月二日
芥川龍之介の紹介で斎藤茂吉が宇野を診断する(同日診察後の宇野の同行は不明)。同夜十時頃、芥川は主治医で友人の下島勲を訪れ、宇野の病態を下島医師に説明している。
●六月上旬(二日から十一日前後)
斎藤茂吉の紹介によって、王子の小峰病院に嫌がる宇野浩二を半ば強制的に入院させる。以後の入院日数は七十日。
●六月十二日
午後、下島勲と宇野の症状などを談話。
●七月二十四日
芥川龍之介、自死(宇野は継続入院中)。
以上の経緯から、六月二十日には宇野は既に入院しており、芥川訪問などあり得ないのである。この錯誤記載の時期が宇野の発狂とシンクロしているのには、前にも少し書いたが、私は宇野の側の病跡学的な問題と大きな関係があると考えている。それはそれとして、宇野が先に引いた昭和二年一月三十日附宇野浩二宛芥川書簡に『高野さんがやめたのは気の毒だね。』の一言から、この宇野と高野の芥川龍之介訪問が事実あったとすれば(年譜上は確認されていないが、これは事実あったと考えてよい)、その上限は昭和二(一九二七)年二月から下限は同五月下旬の宇野が精神病の発作をする直前までである。しかし、五月は十三日から二十七日まで例の改造社の『現代日本文学全集』宣伝のための旅行に出ており、上記のように宇野の発作も起こっているから考えにくい。宇野が以下で、『六月の晩としては珍しく初秋のような涼しい晩で、いや、肌寒い晩で、私は、車の上で、幾度か、単物の襟をかき合わせた』と記す六月以外を信ずるならば、二、三月ではあり得ない。これは、四月下旬、いや、五月の上旬の記憶の錯誤ではあるまいか?
 更に付け加えるならば、芥川龍之介がこのような自宅近くに作業場を持っていたことも初耳である。宮坂年譜を見ると、六月の上旬の項に、『この頃、編集者や来客を避けるため、自笑軒の近くに家を借り、仕事場として利用していた』とはあるのだが、実はこれは、この宇野浩二「芥川龍之介」のここの記載にのみ拠ったもので、他にそのような事実を証明する事実はないようである。私は宇野のこの時期の記憶は、以上述べた通り、精神病発症の直後であるだけに信ずるに躊躇するのである。しかし、宇野のここでの道筋や家屋の描写は実にリアルである。逆に言えば、この作業場がこの時期にあったことが他のソースで立証されれば、私の宇野への疑惑は偏見であったことになる。情報があれば御教授願いたい。宇野のために。]
 の低い枝折垣しおりがきがあって、此方こちらから行くと、その枝折垣の手前の方に、柴折戸しおりどがあった。そうして、その枝折垣の中に、五六坪の庭があって、その庭のむこうに、小ぢんまりした平屋建ひらやだての家が立っていた。そうして、その家の座敷のまんなかうえほうに、あかりがひとつ、ぽつりと、ついていた。それが妙に寂しべに見えた。
 私たちが、くらせま町町まちまちをたどって、その柴折戸の前に、立った時、これらの光景が、陰絵かげえのように、見えたのであった。それとともに、そのあかりのしたに、二三人の人影が、影人形のように、あわただしく、動くのが、見えた、深閑しんかんとした町の中を、私たちがあるいて行った足音と、その 足音が柴折戸の前あたりにまったはいを、家の中にいた人たちが、さとったのであろう。
「……客らしいね、」「うん、でも、……」と、云いながら、私たちは、暗い中で、顔を見あわして、ちょっと、ためらった。
 と、ふいに、玄関に、芥川の、立ちはだかるような恰好かっこうをした、影法師が、あらわれた。それを見つけた私は、思わず、はッと、声が出るほど、おどろいた、その影法師が、骸骨のように痩せ細って、見えたからである。
 しかし、それは、一瞬間で、私は、芥川の姿を見かけると、すぐ、「おおい、」と、向うまでとどくような声で、叫んだ。私は、自分の声のはずんでいるのが、自分で、わかった、うれしかったのである。芥川の方でも、私の声がすぐわかったらしく、「やあ、」と、元気のよい声で、答えた。
 ここで、思い出したが、(まちがっているかもしれないけれど、)その家は、玄関が二じょうか三畳で、つぎのが、あのおもての方から見えた座敷で、八畳ぐらいであったか、(と思う。)
 さて、先客は、二人であったか、私たちと入れ違いに、帰って行った。芥川は、客を送り出して、座敷に戻ってきて、私の方を見ると、いきなり、
「君、困ったよ。……まあ、すわりたまえ、」と云った、「今の人たちは、君が『婦人公論』に出した小説のことで、ゴタゴタがおこった、と云って、優に相談に来たんだよ。」
「……なに、『婦人公論』の小説って、」と、私は、ちょっと考えて、「ああ、そうか、『彼等のモダアン振り』というのか、」と聞いてみた。
「そうだよ、君、……彼等は、モダアンじゃないよ、だから、モダアンでない僕が、仲裁をたのまれて、因ってるんだ。」
 この小説は、たしか、その頃、井伏鱒二と、傾向は正反対であるが、『ナンセンス』文学の創始者と云われ、新進作家の雙璧とならび称せられた、中村正常と、私の注学校[大阪府立天王寺中学校]の国語の教師であり、旧派の歌人兼歌学者である、田中常憲の姪、女流文士志望者、伊牟田何子いむたなにこと、――この両人の噂話を面白可笑おもしろおかしく作り上げた物であるが、どういう事を書いたか、きれいに忘れてしまった、殆んど悉く作り話であったからである。(唯、中村の最初の戯曲に、幕があくと、一人の青年が、仰向あおむけに寝ながら、両足を壁に突っぱって新聞を読んでいる、というような場面があったのに感心し、次ぎに、「芸術復興」とかいう同人雑誌に出た、中村の小説の中に、恋い人にシュウクリイムを贈るのに、持って行くのがまりがわるかったのか、そんな事は趣きがないと思ったのか、シュウクリイムを、郵便配達人になって、「はい、小包、」と云って、とどける、というような場面があるのを、面白い事を書くもんだな、と思ったような記憶がある。それから、ついでに書くと、昭和五六年頃であったか、文藝春秋社から出していた「婦人サロン」という雑誌に、毎号、『ユマ吉ペソ子何とか』という連載読み物が出ていたが、その筆者が井伏鱒二と中村正常であり、たしか、ユマ吉が中村であり、ペソ子が井伏であった。いうまでもなく、『ユマ』とは『ユウモア』であり、『ペソ』とは『ペエソス』である。)
[やぶちゃん注:「彼等のモダアン振り」不詳。宇野の代表的作品一覧の中には見当たらない。宇野には登場人物に実際のモデルが多く、「大阪人間」(昭和二十六(一九五一)年)はモデルから告訴されて未完となっている。
「中村正常」(まさつね 明治三十四(一九〇一)年~昭和五十六(一九八一)年)は劇作家・小説家。岸田国士に師事し昭和四(一九二九)年に戯曲「マカロニ」で注目される。他に「ボア吉の求婚」「隕石の寝床」などのナンセンス・ユーモア作品を発表し新興芸術派の代表的作家となったが、後に文壇を離れた。女優中村メイコの父である(以上は講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
「田中常憲」(つねのり 明治六(一八七三)年~昭和三十五(一九六〇)年)は歌人・教育者。鹿児島生。上京して落合直文に師事。二十三歳で小学校校長となり、長野・大阪・大分・福岡県・京都府福福知山から桃山の各中学校校長を歴任した。
「伊牟田何子」不詳。]
 さて、私が殊更このような事を書いたのは、私が芥川を訪問したのは、前に述べたように、昭和二年の六月十日頃であり、その六月十日頃には、芥川が、あの一世一代の『或阿呆の一生』を、この隠れ家で、一章ずつ、ぽつり、ぽつり、と書いていた時分である、そうして、私が、高野と、よるおそく、この隠れ家を、たずねた時、私たちより先きに芥川を訪問したのは、どうも、中村正常と伊牟田何子であるような気がするからである。
 しかし、私は、その時、芥川に、「君はそんなことを云うけど、君だって、ほんとは、『彼等』をモダアンだ、と思ってるんだろう、」と、云おう、と思ったのであるが、それはめて、その時の訪問の目的である高野の勤め口の話をした。
 さて、その話がすんで、高野が帰って行き、二人ふたりきりになると、芥川は、「御馳走しようか、」と云った。「御馳走なら、何でもいいよ、」と私が云った。
 その『御馳走』というのは抹茶であった。
 いま、思いがけなく、芥川が、茶を点じてくれるのは、私には、涙の出る程うれしい事であった、しかも、二人きりで。
 二人きりになると、二人は、やっと、くつろぎをおぼえた。が、ふと、茶を点じている芥川の手が、痩せて骨ばっているのに、目が止ったので、私が、思わず、「……君、ひどく、痩せたね、大事だいじにしたまい、ね、」と云うと、芥川は、(芥川も、)私の顔を眺めながら、「君も、痩せたよ、養生したまい、ね、」と、同じような事を、しみじみした調子で、云った。
「……ここで、ずっと、書いてるの。」
「うん、書いてる、……しかし、先月は、書きなぐったので、つまらない物ばかりだ、……君、僕は、ね、書かなければならない。必要があって、書いたんだよ、……なさけないよ。」(この時、芥川が、書きなぐつた、と云ったのは、『たね子の憂鬱』、『古千屋』、『冬』、『手紙』などで、これらの作品は、佐藤春夫が、「心にもない重たげな筆を義務を痛感しながら不機嫌さうに運んでゐる、」と説いているように、出来できのよい物ではない。)
[やぶちゃん注:この証言が事実とすると、作品群から推すと一見、六月説が正しく見えるように叙述されてはいる。私の推測するように、五月説をとると、四月発表の作品には「三つのなぜ」「春の夜は」「誘惑」「浅草公園」「今昔物語鑑賞」といった、とても書きなぐったとは言えない、野心的な(若しくは「三つのなぜ」のように芥川にとって私的に深い意味のある)作品があるからである。]
「しかし、今夜こんやは、元気そうな顔をしているね、」と、そこで、私が、云うと、
「うん、」と云って、顔を上げた芥川は、久しぶりで見る『いたずらっ』らしい笑い顔をしながら、「君の『軍港行進曲』の向こうを張ったわけではないが、横須賀を題材にした小説を書いたんだ。……妙な小説だけど、これは、ちょいと自信があるんだがね、……」
「長いもの、」と、私は、ちょっと息をはずまして、聞いた。
「いや、二十五枚だが、君の『軍港』のような勢いはないけど、……僕のは、二万噸の一等戦闘艦が、舞台だ、……が、結局、しまいに、その戦闘艦を人間にしてしまうのが『味噌』なんだけど、……」と云って、云ってしまってから、なぜか、芥川は、急に侘しそうな顔をした。
 しかし、その時は、私は、「戦闘艦を人間にしてしまう」などというのは、例の芥川の洒落しゃれ(『ざれごと』)であろうぐらいに、思っていた。(それが、『三つの窓』の㈢の『戦闘艦××』であった事は、後に知ったのである、「二万噸の××は白じらと乾いたドツクの中から高だかと艦首をもたげてゐた。彼の前には巡洋艦や駆逐艦が何隻も出入しゆつにふしてゐた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかつた。しかしそれ等は××にははかなさを感じさせるばかりだつた。××は照つたり曇つたりする横須賀軍港を見渡みわたしたまま、ぢつと彼の運命を待ちつづけてゐた。その間もやはりおのづから甲板かんぱんのじりじりり返つてるのに幾分か不安を感じながら。……」という文句で終つている『戦闘艦××』を、そうして、その『戦闘艦××』が芥川その人であった事を。)
[やぶちゃん注:「三つの窓」の脱稿は六月十日である。正に悩ましい日附けではないか!「書いたんだ」という過去形は確かに気になる。宇野が元気なら六月二十日は正にぴったりくるのだが、先に述べたようにそれはあり得ない。……いや……それより何より……宇野が……「三つの窓」の、正にこの「三 一等戰鬪艦××」の……

 横須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊してゐた。一萬二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だつた。彼等は廣い海越しに時々聲のない話をした。△△は××の年齡には勿論、造船技師の手落ちから舵の狂ひ易いことに同情してゐた。が、××をいたはるために一度もそんな問題を話し合つたことはなかつた。のみならず何度も海戰をして來た××に對する尊敬の爲にいつも敬語を用ひてゐた。
 すると或曇つた午後、△△は火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲ばくせいを擧げ、半ば海中に横になつてしまつた。××は勿論びつくりした。(尤も大勢の職工たちはこの××の震へたのを物理的に解釋したのに違ひなかつた。)海戰もしない△△の急に片輪かわたになつてしまふ、――それは實際××には殆ど信じられないくらゐだつた。彼は努めて驚きを隱し、はるかに△△をはげましたりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇るうちにただ唸り聲を立てるだけだつた。
 それから三四日たつたのち)、二萬噸の××は兩舷の水壓を失つてゐた爲にだんだん甲板も乾割ひわれはじめた。この容子を見た職工たちはいよいよ修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの間にか彼自身を見離してゐた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまつた。かう云ふ△△の運命を思へば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め盡してゐた。××はもう昔になつた或海戰の時を思ひ出した。それは旗もずたずたに裂ければ、マストさへ折れてしまふ海戰だつた。……

そう……この……
『一萬二千噸』の『戰艦△△』が……
他ならぬ宇野浩二であることに……
これを書いている時点に於いても本人宇野浩二が全く気付いていないことに……
私は呆然とするほか……
ないのである……
いや……
分かっていなかったとは思われない……
もし、恐ろしく鈍感なのでないとしたら……
宇野は――この比喩を――自分とは絶対に認めないのだ、としか思えない――
絶対に自身の精神異常を――精神異常、則ち――「発狂」としたくないのである――
彼は自分はあくまでも――正常範囲での――たかが境界的な神経衰弱に過ぎなかったと――
固く信じていることになる――いや――信じているのである――と私は確信しているのである……
さればこそ宇野浩二にとって、この『戰艦△△』が、彼自身であろうはずが、ないのである――]
 さて、芥川は、その晩、「門のところまで送ろう、」と云って、提燈ちょうちんを片手に、飛び石づたいに、あるきながら、問わず語りに、「僕は、今、すこし骨の折れる原稿を書いているんだが、それを書き上げたら、ここを引きあげるつもりだ、」と云った。「ここにいる間は、うちには帰らないの。」「うちへ帰ったら、寝てばかりいる。」「体もなんだけど、……君、どうしたんだ、ひどく気が弱くなったね。」「……」「ね、しつかりしろよ。」「ありがとう。」(この時、ちょうど柴折戸のところに来たので、)「じゃ、」と私が云うと、「じゃ、さよなら、大事だいじにしたまいね、じゃ、……」、芥川が、云った。
 今、この時の事をかんがえると、この時、芥川が、「すこし骨の折れる原稿」と云ったのが、『或阿呆の一生』であったのだ。

 七月の初めに、私は、芥川に、斎藤茂吉を紹介してもらい、斎藤茂吉の世話で、滝野川のナニガシ病院に、入院した。
[やぶちゃん注:「七月初め」前掲の通り、現在の知見では宇野の入院は六月上旬である。
「滝野川のナニガシ病院」は王子の小峰病院のこと。現在の東京都北区滝野川北端は明治通りと本郷通りを境界に王子と接する。]
 私のはいった病室は六畳ぐらいで、両側が壁で、南側の一けん半は、全体が窓で、四枚のガラスがはまっていて、なかの二枚が観音開かんのんびらきになっていた。そうして、三尺ぐらいの幅の寝台が、窓にむかって右側の壁のきわに、据えてあった。
 私が入院した七月の初め頃はまだそれ程ではなかったが、十日頃とおかごろからしだいに温度が高くなり、中頃には華氏の九十度をしばしば越えるようになり、二十日頃はつかごろには九十二三度ぐらいになった。
[やぶちゃん注:「華氏の九十度」は摂氏三二・二度、華氏「九十二三度」は摂氏三三・三から三三・九度。]
 二十日の夕方であったか、妻が、たずねて来て、その日の昼すぎに、「芥川さんが、お見えになりまして、僕は、旅の支度で忙しいので、病院までお見まいに行けないから、と、おっしゃいまして、これを持って来てくださいました、」と云って、その頃めずらしかったタオル地の寝間著ねまきと菓子箱を、風呂敷づつみの中から、取り出した。それから、芥川が、私の入院料の事から、うちの暮らしの費用の心配までしてくれた事、「それから、宇野が、退院してから、困るような事があったら、文藝春秋社に行ったら、都合するように、菊池にたのんでありますから、と、芥川さんは、御深切に、云ってくださいました、」というような事を話してから、妻は、急に妙な顔をして、わざとらしく声をひそめて、「芥川さん、今日きょうは、めずらしく、妙に、そわそわしていらっしゃいました、」と云った。
[やぶちゃん注:「僕は、旅の支度で忙しいので」芥川龍之介の、この宇野の妻(八重)への伝言が真実だとすれば……これはドリュ・ラ・ロシェル&ルイマルの「鬼火」のアランの、正にあの台詞――「だけどもうすぐ出立たびだちだ……旅に出る……出発が送れてるんだ……気がつかなかったかい?』――ではないか! 宇野にして正に「恐ろしい」「不気味な」言葉であったはずであるが……宇野はそれを語っていない……
以下、二つの後記は底本では全体が一字下げ。]

 (後記――これも、後に述べてある、芥川が世を捨てる前にいろいろな『伝説』が流布したが、その中の一つに、芥川は、死ぬ覚悟をしてからは、大へん深切にした人たちと、その反対に、わざとらしいいやがらせを云って閉口させた人たちと、――とおりある、という『伝説』である。そうして、その後者の例として、佐多いね子(その頃は窪川いね子)が、死ぬ数日前にたずねた時、芥川が「君は心中しそくなった時にどういう気持がしたか、」と云った、というのである。この話は、いくらか『伝説』ずきの私でも、信用しない。が、おなじ窪川いね子の処女作といわれる『レストラン洛陽』を「文藝春秋」に紹介したのは芥川である、という話もある。又、窪川鶴次郎に、おなじ頃、芥川が、ほんの少しの(志だけの)経済的な援助を一度したことがある、という話もある。但し、窪川や、その友人の中野重治や堀 辰雄などが、芥川を知ったのは、室生犀星を中心として出した、主として詩の雑誌「緒馬」の同人であったからであろう。)
[やぶちゃん注:窪川いね子(佐田稲子)が、この頃に偶然、近所に住んでいることを知り、堀辰雄を通して面会を申し入れていたのが、七月二十一日、夫の窪川と共に芥川龍之介を来訪、七年振りの再会を果たしたが、その際、芥川は自殺未遂の経験のある稲子に詳細を訊ねたのは事実であり、伝説ではない。また、稲子は非常に困惑し、薄気味悪く感じたことは事実であるが、それは『わざとらしい嫌がらせ』ではない。芥川は稲子には終始、好感を持っていた(彼女とは男女の関係にはなかった。が、しかし、窪川と彼女の関係を知って漠然とした嫉妬心を芥川が持った可能性はあり、それを強いて『わざとらしい嫌がらせ』の可能性があると言おうなら、言えぬとは言えないが)。それは、まさに自死の三日前のことであった。]

 (後記-それから、これは、誠に通俗的な『伝説』であるが、私のうろおぼえの記憶であるが、芥川が死んでからは、いろいろな『伝説』が新聞や週刊雑誌に出たが、その一つに、芥川家の女中のナニガシの話として、芥川は、伯母のところに紙につつんだ短冊をわたして、自分の部屋に帰る途中で、廊下、から名品の花瓶を庭にむかって投げつけた、というのが「ソレガシ」(週刊雑誌)に出た。それを読んだ菊池 寛が、「そんなら、芥川は、もっと三つも四つも花瓶を投げつけたら、死なずにすんだかもしれない、」と云った、誠しやかな、話も流布された。その他、これに似た『伝説』は私が聞いたり読んだりしたものでも十以上あるから、かかる伝説は数しれずあるにちがいない。)
[やぶちゃん注:これは、自死の四日前の七月二十日、伯母フキと諍いを起こして、フキが泣き出したために一度は宥めたものの、芥川自身の気持が収まらず、床の間にあった花瓶を庭石に投げつけた(宮坂年譜に昭和二年八月十四日「週刊朝日」の森梅子「芥川氏の死の前後」に基づく)という記事が誤って伝えられたもの(若しくは誤って宇野が伝え聞いたもの)であろう。]

 その翌日であったか、二人の看護人が、廊下を掃除しながら、「昨日きのうは九十三度だつたそうだが、新聞を見ると、この暑さはつづくそうだが、やりきれないね。」「いや、もっと暑くなるそうだよ、それに、もうつき以上も、雨が降らないからね、」というような話をしていた。
 ところが、その雨が、つき何日なんにちかぶりで、七月二十三日の夜中よなかから、(ただしく云えば、七月二十四日の午前二時頃から、)降り出した。
 七月二十三日は、九十五六度の暑さが夕方までつづき、八時を過ぎて、窓の外が暗くなってからも、まだ蒸し暑かった。それで、窓を細目ほそめにあけて、十時頃に寝た私は、夜中に、窓のそとに、雨の降る音を、うつつに、聞いたが、窓をしめて、すぐ又、眠ってしまった。
[やぶちゃん注:金子大輔氏の「気象から考える河童忌」などによれば、気象庁天気相談所の公式なデータとして同年七月二十三日の最高気温は摂氏三五・六度、不快指数八九の猛暑日であったが、七月二十四日は最低気温二〇・七度、最高気温二六・八度という涼しさになっていたことと、暗い雲に覆われて雨が降りしきり、一四・二ミリの降水を観測していた、とある。そして金子氏は『寒冷前線が近づくと喘息の発作が起きやすい、うつ病が悪化する方が多いと話す人もいる。寒冷前線は、急激な気温低下・天候悪化などをもたらし、体にとって大きなストレスになる』として、当日の天候が芥川龍之介の自殺決行を促す一因子であった可能性を示唆されて興味深い。宇野が降雨の時間を記憶しているのも印象深いが、当時の宇野の病態を考えると、これは残念ながら、後の吉田精一の評論等に所載するデータを、自分のオリジナルな疑似記憶として取り込んでいる可能性が、残念ながら高い気がする。]
 芥川は、その雨の降り出した頃、死ぬクスリを飲んで、永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった。そうして、その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は、伯母[註―養父道章の妹であり、実母ふくの姉である、芥川ふき]の寝ている枕元に来て、紙に包んだ短冊をわたしながら、「これを、明日あしたの朝、下島さんにわたしてください、先生が来た時、僕はまだ寝ているかもしれませんが、寝ていたら僕を起こさずにおいて、まだ寝ているからと云って、わたして下さい、」と云った。そうして、その短冊には、『自嘲 水涕や鼻のさきだけ暮れ残る』と書いてあった。
[やぶちゃん注:「永久の眠りにつく床についた。それは七月二十四日の午前二時頃であった」とあるが、現在の年譜的知見では、この時刻に二階の書斎から階下に降り、文と三人の子の眠る部屋で床に就いたが、既にこの時、薬物を飲用していたとされる。「その三十分ほど前に、(つまり、午前一時半頃に、)芥川は……」は、現在では午前一時頃とされており、宇野の謂いはより細かいが、これは寧ろ宇野独自の情報ではなく、彼の推測(午前二時の雨の振り出し、同時刻の自殺決行という時系列から宇野が割り出した推測に過ぎないものと思われる。
辞世とされる著名な句について、私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句集四 続 書簡俳句」の掉尾の「辞世」から、私の鑑賞文とともに引いておく。

    自嘲

 水涕や鼻の先だけ暮れのこる    龍之介

 昭和五十三(一九七八)年九月一日発行の雑誌「墨 十四 特集 芥川龍之介」に所収する下島勲(空谷)宛オリジナル短冊写真版より起こした。
 短冊サイズは三六〇×六〇。原型句自体は「澄江堂句集」によると、大正十二年頃の作か。「發句」所収のものとは、「殘る」のひらがな表記で相違する。
 しかし、慄っとするほど美事な彼の死のシルエットである。大正十四年の「土雛や鼻の先だけ暮れ殘る」の改案故に、この句を諧謔味に富んだ芥川の軽みの句境と解する向きには全く私は組しない。
 ――バッハ弾きの名手グレン・グールドは恐るべき怪演にして快演の「ゴルトベルグ変奏曲」で華々しく実質的にデビューし、その同じ「ゴルトベルグ変奏曲」の新録音演奏を以ってその最期を閉じた――
 ――芥川龍之介も漱石激賞の実質的なデビュー作「鼻」に始まり、その円環をやはり、この「鼻」の句で閉じた――のであった。
それはとりもなおさず、自嘲的諧謔であると同時に、自己同一性証明への確信犯としての覚悟の一句であった。――
 ――ヴィトゲンシュタインが言った如く――我々は語り得ぬものについて、沈黙せねばならない――のである――
以下、後記は底本では全体が一字下げ。]
(後記――この『水涕や鼻のさきだけ暮れ残る』という句は、この時分に作られたものではなく、大正十二年の一月頃に作られたものである。おなじ「自嘲」という題で、おなじ頃、『元日や手を洗ひをる夕ごころ』という句がある。)
 これは芥川の死ぬ前の晩から夜中へかけての『伝説』である。(『伝説』とは、英語でいう“Tradition”とすれば、「口碑または文書によって伝えられた過去の事実、あるいは、事実と信じられた事件の伝承」という程の意味である。)
[やぶちゃん注:私は「伝説」というと、“legacy”を思い浮かべるが、因みにその違いを調べてみると、“legacy”は個人から個人へ受け渡されるもの、“tradition”は民族・結社・宗派といった集団から集団に受け渡されるものであるらしい。――なるほど――これは芥川龍之介の「遺産」とは何かを考える時、面白い違いである気がした――。]
 さて、こういう芥川の伝説は、寡聞な私の知っている限りでは、芥川の無二の親友であった小穴隆一の『二つの絵』の中に、もっとも多く出てくる。
 そこで、芥川のいろいろな伝説を作った人を、仮りに小穴その他とすれば、小穴その他は唯『伝説』を書いただけであって、その伝説を仕組しくんだのは芥川である。芥川が、東西古今のさまざまの伝説を『種』にして、いろいろな小説をつくった事は、私が前にくどいほど述べ、多くの人が知っているとおりである。芥川は、創造したり空想したりする才能は、乏しかったようであるが、物事を仕組むことは実に巧みであった。
 ところで、芥川は、前にも述べたように、晩年になってからは、健康が弱るとともに、創作力もしだいに衰え、しまいには書くものが断片的になり、題材は幾らかちがっても、同じようなものばかり書いているような観があった。しかし、どの作品にも、何ともいえぬ哀調があり、底にせつない悲しみがひそんでいる。そうして、芥川は、書く事を、死ぬ薬を飲む数時間前まで、つづけたのである。(後記――校正ずりを読みながら、ここのところを読んだ時、私は、芥川は実に『異常な人』であった、と、しみじみと思うのである。それは、この文章のなかで既に述べたように、芥川は、死ぬ前のとしあたりから、強度の神経衰弱がこうじて神経病者になっていた。そのほんの一つの例をあげれば、『歯車』のしまいの方の「何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。……」という文句だけでも察せられるような状態であった。それにもかかわらず、芥川が、自殺をくわだてる一二時間ほど前まで、『続西方の人』の(22)『貧しい人たちに』を、少しも乱れない文章で書きつづけた、ということに、私は、文字どおり、驚歎し、実に『異常な人』であった、と感歎するのである。)

「わが父よ、し出来るものならば、このさかづきをわたしからお離しください。けれどもかたはないと仰有おつしやるならば、どうか御心みこころのままになすつてください。」
 あらゆるクリストは人気ひとげのない夜中よなかに必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは「いたくうれへて死ぬばかり」な彼の心もちを理解せずに橄欖の下に眠つてゐる。

 これは『西方の人』の中の(28)「イエルサレム」の最後の一節である。(後記――口さがない人たちは、⦅あるいは、根も葉もないことを喋る連中は、⦆さきに引いた、『西方の人』の(28)のなかの、「あらゆるクリストは人気のない夜中に必ずかう祈つてゐる。同時に又あらゆるクリストの弟子たちは『いたく憂へて死ぬばかり』な彼の心もちを理解せず……」という文句のなかの『弟子たち』は芥川の『弟子たち』を差すのであろう、と云う。しかし、私は、この言葉は信じたくないのである。)
[やぶちゃん注:「弟子たち」宇野は例えば龍門の四天王と呼ばれた連中や、その他の芥川に師事した若い作家志望の『若者』をイメージしていると考えてよい。則ち、当然の宇野は勿論、芥川の盟友であり、『弟子』ではない。ではないが、芥川龍之介が「西方の人」と「続西方の人」で自らをキリストに擬えた時、彼は年若の後の小説家や小説家志望の若者らだけを『弟子』と認識していたのでは、無論、ない。寧ろ、彼に敵対し、彼を正しく理解出来ない、彼よりも先に自らを預言者(作家)であると自認していた者達をこそ、真の教え(芸術世界)へと導くべき『弟子』と認識していたはずである。宇野には承服出来ないであろうが――それは、宇野が芥川を、いや、寧ろ、他の小説家や大衆が芥川龍之介という稀有にして孤高の小説家を、正しく見なかった、芥川と自分との間の『一歩』の違いを理解し得なかった、と芥川龍之介自身は感じていたのである(『天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ』。「侏儒の言葉」の「天才」)。芥川龍之介は、ある意味で(少なくともその生前に於いて)芸術家としては絶対の孤高者として、絶対の孤独の中で、軍靴の音が響き始める大日本帝国の幻影の城を見上げる曠野に立ち竦まざるを得なかった。しかしにも拘らず彼は、惨めな「失敗であった」自身の一個の生と死が、無数の彼を遺伝する未来人として復活することを予言して(『わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。』(「侏儒の言葉」掉尾「民衆」)、自らを架刑したのである(リンク先は私の電子テクスト「正續完全版「西方の人」)。]
『西方の人』も、『続西方の人』も、芥川の死後、「遺稿」として、雑誌[註―「改造」の八月号と九月号]に出た。
 前者は七月十日に脱稿し、後者は七月二十三日に書き上げた。つまり、芥川は、『続西方の人』の最後の章(22)「貧しい人たちに」を書いた日の翌日の未明に、死んでしまったのである。
[やぶちゃん注:私のテクストから、最終章「貧しい人たちに」を引用しておく。

      22 貧しい人たちに

 クリストのジヤアナリズムは貧しい人たちや奴隷を慰めることになつた。それは勿論天國などに行かうと思はない貴族や金持ちに都合の善かつた爲もあるであらう。しかし彼の天才は彼等を動かさずにはゐなかつたのである。いや、彼等ばかりではない。我々も彼のジヤアナリズムの中に何か美しいものを見出してゐる。何度叩いても開かれない門のあることは我々も亦知らないわけではない。狹い門からはひることもやはり我々には必しも幸福ではないことを示してゐる。しかし彼のジヤアナリズムはいつも無花果いちじくのやうに甘みを持つてゐる。彼は實にイスラエルのたみんだ、古今に珍らしいジヤアナリストだつた。同時に又我々人間の生んだ、古今に珍らしい天才だつた。「豫言者」は彼以後には流行してゐない。しかし彼の一生はいつも我々を動かすであらう。彼は十字架にかかる爲に、――ジヤアナリズム至上主義を推し立てる爲にあらゆるものを犧牲にした。ゲエテは婉曲にクリストに對する彼の輕蔑を示してゐる。丁度後代のクリストたちの多少はゲエテを嫉妬してゐるやうに。――我々はエマヲの旅びとたちのやうに我々の心を燃え上らせるクリストを求めずにはゐられないのであらう。]

 さて、これから書こうとする事は、芥川が死んでからの『伝説』である。
 十返舎一九が死んで、遺骸を茶毘に附すると、数道の星光が棺の中からほとばしった。これは、一九が遺言して、会葬者を驚かせるために、棺の中に花火を仕掛けておく事を花火師に頼んであったからである。(ところが、この話は嘘で、これに似た話が一九の作品のなかにあるのである。)
[やぶちゃん注:十返舎一九の荼毘花火の逸話は、出所データが不明ながら、宇野の言うような一九の作品中にあるのではなく、同時代人であった落語家初代林家正蔵(安永十・天明元(一七八一)年~天保十三(一八四二)年)のエピソードとしても知られており、実際には一九の逸話として伝えたのも正蔵であったというのが事実であるらしい。とすれば、実際には一九はやっておらず、正蔵がそうした都市伝説を高座で語り、実際に自分の葬儀でやった、というのが正しいのであろうか。識者の御教授を乞うものである。]
『伝説』とは大体こういうものであるから、私がこれから書こうと思う芥川の死後の伝説も、この一九の伝説と似たり寄ったりのものにちがいないから、その事を前もってお断りしておく。――
 芥川が自殺しそうな心配がある、と思って、芥川のうちの人たちは警戒していたが、殊に文子夫人は鵠沼にいる時分からよるとなくひるとなく警戒していた。ところが、芥川はその事を十分じゅうぶんに知っていた。さて、七月二十四日の午前六時すこし前に、文子夫人は、芥川の寝顔が不断とちがう事を、発見した。そこで、すぐ呼ばれた下島が、さっそく飛んで来て、聴診器を耳にはさんで、「蓬頭蒼顔の唯ならぬ貌」をしている芥川の寝間著ねまきの襟をかきあけると、左のふところから西洋封筒入りの手紙がはねて出た。それを、左脇にいた夫人が、はッと叫んで、手に取った。それは遺書であった。
 やがて、下島が、「もうまったくく絶望である、」と知って、近親その他の人びとに通知を出した頃は、午前七時をすこし過ぎていた。(その時分に、下島は、芥川の伯母から、「これは昨夜ゆうべ龍之介から、明日あしたの朝になったら、先生におわたししてくれと頼まれました、」と云って、紙につつんだ物を、わたされた、それが例の『水涕や……』の句を書いた短冊である。)
 さて、下島は、手続きをするのにも菊池に来てもらわねばならぬ事情があるので、文藝春秋社に電話をかけさせた。そこへ、小穴がやって来た。小穴は、下島から芥川の死んだ事を聞くと、何ともいえぬ悲痛な顔をした、が、すぐ、芥川の最後の面影を写すために、縁の近くの程よい所に画架を据えた。(小穴がその木炭でその下図したずをかいていると、その画架のまわりをうろついていた長男の比呂志が、突然、心配そうに、小穴の画布をのぞいて、「絵の具、つけるの、つけないの、」と、小穴に、云った、それで、小穴が「あとで、」と答えると、比呂志は、安心したような顔をして行ってしまったが、もなく、帳面とクレオンを持って、出て来たが、帳面とクレオンを持ったまま、しずかに眠っている父の枕元に、ぼんやり立っていた、という話が残っている。その時、比呂志は、かぞえどし、八歳であった。)
 さて、前の晩の二時頃に、芥川が、睡眠剤を飲んで、寝た、として、今朝けさの六時すこし前に、文子夫人が、寝ている芥川が異常であるのを、知った、――と、三時、四時、五時、六時、と四時間である、「これは、」と不審に思った下島は、斎藤茂吉の睡眠剤や薬屋から取って来た薬の包み紙や日数などを、計算してみた。すると、ますます腑におちない。「そこで、奥さんや義敏君[註―芥川の姉の子、葛巻義敏]に心当こころあたりを聞いてみると、二階の机の上が怪しさうだ。すぐあがつてしらべてみて、初めてその真因を摑むことが出来たのであつた、」と、下島は、書いている。
(芥川は、睡眠剤で死ねる、とは思っていなかったので、ほかの『クスリ』を用意していたのである。)
[やぶちゃん注:この下島の文章は昭和二(一九二七)年九月一日発行の『文藝春秋・芥川龍之介追悼号』に載った「芥川龍之介氏終焉の前後」からの引用である。山崎光夫氏の「藪の中の家」によれば、昭和二年八月五日の執筆年月日がクレジットされている。但し、下島はこの後にその『真因』を語っていないのである。宇野は芥川龍之介の死後、小峰病院を退院後に、以下に見るように、誰かからの伝聞によって、「ほかの『クスリ』」であるという情報を得たのであろうが(山崎氏は小島政二郎と推定しているが、私は微妙に留保したい。山崎氏が根拠として昭和三十五(一九六〇)年十二月号『小説新潮』に掲載された「芥川龍之介」の『実際、死後の彼の書斎には青酸加里が一トびんあった』を挙げておられるのだが、寧ろこの部分は、その前に書かれた本宇野浩二作の「芥川龍之介」のここの叙述を下敷きにしていると考える方が自然な気がするからである)、宇野の言を俟つ前に、山崎氏が不審(というより確信)を抱くのは、下島自身が記した行動と、その文脈の最後に現れる『真因』という語の重みである。確かなことは宇野も後述するように、これはド素人であっても芥川が自死に用いた薬物が、実は現在でも公式に記されているところの睡眠剤ベロナールとジャールでは――ない――確実に死を迎えることの出来る必殺の毒物で――ある――にという、自死の『真因を摑むことが出来た』という意味でしか、読めないということである。]

 最後に僕の工夫くふうしたのは家族たちに気づかれないやうに巧みに自殺することである。これは数箇月準備した後、兎に角ある自信に到達した。   『或る旧友へ送る手記』の内
……彼女はなにごともなかつたやうに時々ときどき彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡ひとびんわたし、「これさへあればおたがひに力強いでせう」とも言つたりした。   『或阿呆の一生』の中の『死』の内
 今度こそほんとに青酸加里を手に入れたよ。一寸ちよつときみ、と言つて薬屋に這入つて行つた彼を神明町の入口いりくちかどで其の日見た。目薬の罎よりも小さい空罎あきびんを買つて、透かしてみながら、やつとこれで入物いれものができたよと嬉しさうにみえてゐた。   小穴隆一の『二つの絵』の内
[やぶちゃん注:私は特に小穴の記載に着目する。それは、この証言が真実を語っているとすれば、芥川は青酸カリを裸の粉末状態で一定量入手したという事実を指しているからである。則ち、芥川龍之介が入手した際、それが入っていた容器ごと入手は出来なかったことを意味する。また、余裕のある状態なら事前に壜を用意してそれを入れるだろうから、それを入手するシチュエーションが、比較的場当たり的な状況であるか、稀なチャンスであった、だから紙包とか封筒とか家庭内にあるピル・ケースのようなものに入れざるを得なかったのではないかと私は考えるのである。なお、青酸カリは、潮解により空気中の二酸化炭素と反応して猛毒のシアン化水素(青酸ガス)を放出しながら炭酸カリウムに変化してしまう(保管するだけでも家内の者にも危険が及ぶ可能性が生ずるし、長期にわたって開放的に放置すれば毒性は容易に失われてしまう)。特に日光に当たる状態では反応が進み易いため、空気に触れず、日光に当たらないよう、飴色の密閉したガラス瓶に保管するのが普通である。]

 右の三つの文章はみな一種の作品であるけれど、下島が「初めてその真因を摑むことが出来た」と書いているのは「(つまり、下島が芥川の机の上に見つけたのは、)『青酸加里』(つまり『シャン化カリウム』⦅Cyan 化 Kalium⦆である。いうまでもなく、この薬は、猛毒薬であるから、下島は、その『真因』を公表しなかったのであろう。
 さて、下島が文藝春秋社にかけさせた電話によれば、菊池は、雑誌「婦女界」の講演のために、水戸から宇都宮の方へまわった、と云う。それで、下島は、近親の人たちと相談して、法律の手続きを取ることにした。
 やがて、警察官が来て、検案や調査をはじめた。方方ほうぼうに電報を打って通知した。そのうちに、鎌倉から、久米正雄と佐佐木茂索と菅 忠雄が駈けつけた。それが午後四時頃であった。夏の日はまだ高かった。
[やぶちゃん注:ここで多くの読者は、もし、山崎氏や私が考えるように青酸カリによる自死であったなら、何故、それが司法解剖(変死体で犯罪の結果の致死の可能性が疑われる場合の死因究明のための剖検)なり行政解剖(死因の判明しない犯罪性のない異状死体への死因究明のための剖検)なりが警察の検死によってなされなかったのかを疑問視されるであろう。それは下島医師が死亡診断書を書くに当たって、警察当局に、睡眠剤の「劇薬『ベロナール』と『ジャール』等を多量に服用」(昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』)したことによる「急性心不全」(山崎氏の「藪の中の家」での死因推定)であることを語り、当時の通報を受けて芥川家を訪れた担当警部補二人が、その下島の医師証言や家族の希望などを勘案して、解剖の必要を認めないと判断したからであると考えてよい。推理小説好きの方は、それでも当時であっても、もし青酸カリの自殺だったら、それは入手経路が問題にされるはずだ、と言われるであろう。下島から、もしかするとこの時の警部補らもそれが青酸カリ自殺であることを知らされていたのかも知れない(山崎氏は真相を下島は警部補らに話していたと考えておられるようである)。しかし、この時の芥川の身内・下島・警部補らは――そしてその直後に真相を知った周辺の人々も――『真相を包みこむ文学的処理は龍之介の名誉を守る』『芥川龍之介の場合、文学こそ真実だ』――という考えで一致した、と記しておられる。私も山崎氏の推論を支持するものである。読者の中のホームズ氏は――それでも尚且つ、入手先は? と食い下がるであろう。そこは山崎氏の名推理を「藪の中の家」で堪能されたいのである。……ヒントは……龍之介の辞世の句の……「鼻の先だ」け……である……♪ふふふ♪]
(ここで、書き忘れたことを述べる。――文子夫人に宛てた遺書の中に、「絶命後は小穴君に知らせよ、」という文句があったので、さっそく小穴の所へ葛巻が走ったので、小穴が一ばん早く来た。つぎに、近くの日暮里諏訪神社前に住んでいた、久保田万太郎が飛んで来た。)
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、ここらから後は、総て宇野の実体験に基づくものではなく、総て伝聞である。宇野自身は精神病院で『死ぬか生きるかの瀬戸際』(水上勉による底本の解説)にいたのである。宇野の叙述は会葬場の配置にまで及び、驚くべき精緻を凝らすのを不審に思われる読者も居ようが、これは小穴隆一の「二つの絵」の一四一頁に載せる精密巧緻な芥川龍之介の会葬場見取り図に拠るものである。その証拠は、後文で中野重治出席の誤りが中野自身によって指摘されたとあるが、小穴のそれには、はっきりと「記録係」の位置の左端に「中野重治」と記されていることから明白である。]

 さて、遺書は、芥川夫人、小穴隆一、菊池 寛、竹内得二[註―養父の道章の弟、つまり芥川の叔父]あての四通と、伯母のふきと甥の義敏と、別に、『或旧友へ送る手記』とである、ところが、これらの中で、芥川は、殊更に、『旧友へ送る手記』の中に、「どうかこの手紙は僕の死後にも何年かは公表せず措いてくれ給へ、」と書いているが、これは、『思わせり』で、実は、この原稿だけは、「死後にすぐに公表」される事を予期していたのである。(こういう所にも芥川の仕組しくみがあるので、それは、芥川が、この手記風の手紙も、『或阿呆の一生』も、菊池に託さないで、融通ゆうずうのきく久米に、託している事だけでも、窺われるのである。)
[やぶちゃん注:芥川龍之介の遺書は、厳密に言うと(現在、作品に数えられている「或旧友へ送る手記」を除いて考える)、宇野が挙げている「小穴隆一」宛は昭和二(一九二七)年四月七日に「歯車」脱稿後、帝国ホテルで心中平松麻素子と心中未遂をした頃に書かれたものと推測される五枚から生前遺書で、外の実際の自死直近の遺書群とは区別する必要がある。その遺書群も「芥川夫人」宛一通(+断片二通)、「わが子等に」宛一通、「菊池 寛」宛一通、「竹内得二」宛(一通?)、「伯母のふき」宛(一通?)葛巻「義敏」宛(一通?)等、小穴宛生前遺書を含めると確実に総計七通を超える数の遺書があった。その内、紛失(焼却?)も含めて芥川文宛の複数(若しくは一通の一部)の一部、竹内得二宛・芥川フキ宛・葛巻義敏宛の四通から五通が未発表(恐らくは最早公開されないか、存在しない)である。この後、宇野は遺書の内容に触れていないが、私の渾身の電子テクスト「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」及び先行する旧全集版「芥川龍之介〔遺書〕(五通)」の私の注は是非お読み戴きたい。]

 さて、午後四時頃、久米は、佐佐木たちと一しょに、既に白木の台と晒木綿などの置いてある玄関をあがり、うすい掛け蒲団をかけてある既にほとけになつた旧友の枕元でしばらく目をつぶって黙禱し、それから、そこそこに、二階に、あがって行った。
 永眠した芥川の顔は、あごのへんにすこしばかり不精鬚ぶしょうひげが生えていたが、平静で、清浄せいじょうで、冴え切って神神こうごうしく見えた。

 僕はこの原稿を発表する可否は勿論、発表する時や機関も君に一任したいと思つてゐる。
 君はこの原稿の中に出て来る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は発表するとしても、インデキスをつけずにおいて貰ひたいと思つてゐる。
 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き悪夫、悪子、悪親をもつたものたちを如何にも気の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的ヽヽヽには自己弁護をしなかつたつもりだ。
 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都会人と云ふ僕の皮を剥ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

 これは、『或阿呆の一生』にそえた、久米正雄にあてた、手紙で、日づけは「昭和二年六月二十日」となっているから、『或阿呆の一生』を脱稿した月に、書いたものである。(実に『一みだれず』という観があるではないか。)
 この手紙(『或旧友へ送る手記』)と『或阿呆の一生』の原稿を、久米は、二階の座敷(芥川の書斎であった部屋)で、籐椅子とういすに腰をかけていた時、芥川家の人から、わたされた。
 その頃は、小島政二郎、南部修太郎、野上豊一郎、野上弥生子、香取秀真、犬養 健、その他の人たちが、その応接間になっている座敷の中に続続とつめかけていた。
[やぶちゃん注:「犬養 健」(たける、明治二十九(一八九六)年~昭和三十五(一九六〇)年)は政治家・小説家。元首相犬養毅三男。法務大臣。長与善郎や武者小路実篤は義父の弟に当たり、彼等の影響下、白樺派の作家としてデビュー、大正十二(一九二三)年、処女作品集『一つの時代』を刊行、精緻な心理描写と繊細な感性が評価され、後に政治家に転身してからも文士の知友が多かった。昭和二十七(一九五二)年に吉田茂首相の抜擢で法務大臣に就任したが、造船疑獄における自由党幹事長佐藤栄作の収賄容疑での逮捕許諾請求を含めた強制捜査に対して重要法案審議中を理由に指揮権を発動、逮捕の無期限延期と任意捜査へと強引に切り替えさせて不評を買った。指揮権発動の翌日には法務大臣を辞任したが、この指揮権発動によって事実上の政治生命は絶たれ、この指揮権発動を理由として日本ペンクラブは彼の加入を拒否している(以上はウィキの「犬養健」を参照した)。]
 久米は、ずっと後に、『或阿呆の一生』の原稿を「もう少し早くわたしてくれたら、死因などもすっきりして、別にいろいろ云われずにすんだと思うのだが、ごたごたがあってから渡されたものだから、……」と、こぼしたが、その時は、『或旧友へ送る手記』を発表すべきかどうか、というような問題などが出て、それがやっと決定する、というような状態であった。
 さて、やっと菊池がついたのは、長い夏の白が暮れて、もうくらくなった頃であった。菊池は、遺骸の前に、長い間、だまって、うつむいて、坐っていた、が、急に立ち上がって、小走りにあるき出し、二階にあがると、皆に目もくれず、むせび泣きながら、廊下の隅の籐椅子の方へ、すごすごと、あるいて行った。
 菊池が着く少し前から、いろいろな新聞の記者が、おしよせて来て、これと思う人に、面会をもとめた。しかし、みな、「九時に、『竹むら』[前に書いた、六月十日頃の夜、私が高野と、芥川をたずねて行った家か]で、すべて、発表するから、」と云って、断った。
[やぶちゃん注:「竹むら」は芥川邸の近くにあった貸席。宇野の推測は恐らく誤りである。]

 さて、菊池がるともなく、軽井沢から、室生犀星が、駈けつけた。つづいて、斎藤茂吉、土屋文明、山本有三、その他も、やって来た。それから、どこからか聞き知ってるのも可也かなりあった。又、くやみに来た人の中には、その頃めずらしかったラジオのニュウス放送で知ったと云うのもあった。
[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
喪主は満七歳の長男芥川比呂志が務めた。通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]

 その翌日(つまり、七月二十五日)の都下の各新聞は、(七八種の新聞は、)その第三面の殆んど全部を、芥川の自殺に関する記事で、埋めた。(その頃、出版社のあいだに、書籍や雑誌の宣伝のために、新聞に一ペイジの広告をする事が、流行したが、芥川の自殺の記事の出ていた第三面は、ちょっと見た瞬間、その『二へイジ広告』か、と思われた程であった。)
[やぶちゃん注:披見した昭和二年七月二十五日附『東京日日新聞』では下部の広告欄を除くほぼ十段の一面全部を芥川龍之介自殺関連記事で埋めている。]
 それは、ひとひとつの見出みだしに、(例えば、『芥川龍之介氏』『劇薬自殺をぐ』『昨晩、滝野川の自宅で』『遺書四通を残す』というような文句に、)初号あるいは一号の活字をつかい、本文(例えば「二十四日午前七時市外滝野川田瑞四二五の自邸寝室で
劇薬ベロナアル』および『ヂエアールを多量に服用して[中略][やぶちゃん注:下線部は底本では太字ゴシックであるが、私が本文を太字にしているので、ゴシック下線とした。]」にところどころゴシック活字をつかう、というような麗麗れいれいしい組みかたで、仮りに一ペイジを六段とすれば、その六段全部に殆んど芥川の自殺に関する記事が出ていたのである。
[やぶちゃん注:ここで宇野が参照しているのは、昭和二年七月二十五日附の『東京朝日新聞』の方である。こちらは全十段の内、八段強相当を芥川龍之介自死関連に割いている。]
 つまり、芥川の自殺は、このように、文壇の人たちは、もとより、世人の耳目じもくをも聳動させたのであめる。

 七月二十四日の午後三時頃、家の者が、果物くだものなどを持って病院にたずねて来た時、問わず語りに、ふと、「……芥川さんが、昨夜ゆうべねむぐすりを飲みすぎて、……」というような言葉を、漏らした。
 と、虫が知らした、と云うか、この言葉が、私に、妙に、異様に、感じられた。なにか、どきッとしたような感じをうけた。
 それで、なにか予感のようなものを感じていたのか、その翌日、あの誇大な新聞の記事を見た時、もちろん、はッとしたが、それほど驚かなかった。
 その日も、どんよりした暑い日で、じっとしていても、からだじゅうに脂汗あぶらあせがにじみ出た。私は、すこし気がおちつくと、「芥川は死んだ、」と、しみじみ、思った。が、ふと、「僕は、うんと暑い時に死んで、みんなを困らしてやるつもりだ、」と、芥川が、目尻と頰に例のいたずらっらしい笑いをうかべて、云った事を、思い出したりした。
[やぶちゃん注:[やぶちゃん注:日本初のラジオ放送は、先立つ二年前の大正十四(一九二五)年三月二十二日に仮放送、本放送は同年七月二十一日に開始されたばかりであった。なお、このラジオの一件の記載は小穴隆一の「二つの絵」の「芥川の死」の末尾の記載に拠るものと考えてよい。
通夜の様子は『納棺は今暁四時ふみ子夫人外二三の家族ばかりでしめやかに済ませ棺を玄関突き当りの八畳間に移し、すべて仏式でねんごろなる通夜をした』とあり、位牌の戒名(後の墓碑も)は故人の遺志によって俗名のまま、白木に「芥川龍之介之靈位」とあったとする(昭和二(一九二七)年七月二十六日及び二十七日附『東京日日新聞』の記事を引いた翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き。「霊」のみ正字に改めた)。『棺のうへの写真には、頬杖に倚つて前面を凝視したものを選んである。守刀がこれに添えられてある。此処には満室の花輪の香と香水の匂が強い。花の香に酔ふもののあるくらゐに強い』(昭和二(一九二七)年九月号『改造』所収の犬養健「通夜の記」より。前記の池内輝雄氏の「葬儀」の項より孫引き)。]宇野浩二の渾身の作品「芥川龍之介」のコーダ、ここに窮まれりの感がある。永遠に忘れることの出来ない本作の最も美事なシーンである。]

 芥川の葬式は、七月二十七日の午後三時から、谷中斎場で、おこなわれた。
 谷中斎場の前の道路は狭い。しかし、斎場は可なり広い。
 その狭い道路に面して、通路の両側に受付うけつけがある。右側の受付には、天幕が張ってあって、長いテエブルにむかって、和田利彦[春陽堂の主人]、石川寅吉、久保田万太郎、島中雄作[中央公論社の社長]、小蜂八郎[元春陽堂の番頭、その時は文藝春秋社出版部長]等がひかえ、その右の記録係の席には、宮本喜久雄、窪川鶴次郎、青地喜一郎、菅 忠雄等がならび、左側の受付(常設受付)には、小島政二郎、石田幹之助、神代種亮こうじろたねすけ[荷風の『濹東綺譚』の終りの「作後贅言」の中に登場する神代帚葉はこの人である]豊島與志雄等がひかえ、その左の記録席には、大草実おおくさみのる[その頃の「文藝春秋」の辣腕記者]、堀 辰雄、中島氏、中野重治等がならんでいた。さて、これらの堂堂たる人物たちが控えている左右の受付のあいだの通路の、右側には、高野敬録、山本実彦[改造社の社長]、中根駒十郎[新潮社の支配人兼社長代理]等が立ち、左側には、山本有三、南部修太郎、伊藤貴麿たかまろ[その頃は新進作家、その後は童話作家]等が立っていた。さて、これらの人たちが両側に立っているところを通り抜けると、ちょっと広いき地に出る。
[やぶちゃん注:翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の項にある七月二十八日附『東京日日新聞』のデータによれば、会葬者は七百数十名、芥川家菩提寺である慈眼寺住職篠原智光を導師として、『先輩総代として泉鏡花』が『沈痛な声で弔文を読』み、『友人総代として菊池寛氏がたち弔文を読』んだが、菊池は『読むに先だつて既に泣いてゐた』。『文芸協会を代表して里見弴、後輩を代表して小島政二郎氏等の切々たる哀情に満てる弔文が』続き、午後五時に『式は終り、遺骸は親族知友の手で日暮里火葬場に送られた。遺骨は二十八日染井の墓地に埋葬される』とある(正確には「染井の墓地」ではなく、染井墓地の奥にある慈眼寺の墓地である)。同日附『読売新聞』では終式を『午後四時五分』とし、こちらの記事には『表通りには二千余人の人人が蝟集して個人の柩を見んと犇めき交通巡査がこの整理にあせだくであつた』と記す。
「石川寅吉」(明治二十七(一八九四)年~?)出版人。安政年間創業の版元を株式会社「興文社」にしてその代表となる。中等教科書や英語学関連書籍などを刊行、昭和二(一九二七)年には芥川龍之介と菊池寛編纂の『小学生全集』を出版して、アルス社の『日本児童文庫』と激しい販売合戦を繰り広げた。第二次世界大戦中に死亡(以上は岩波新全集の関口安義・宮坂覺の「人名解説索引」に拠った)。
「宮本喜久雄」詩人。雑誌『驢馬』同人。
「青地喜一郎」不詳。
「神代種亮」(明治十六(一八八三)年~昭和十(一九三五)年)は書誌研究者・校正家。海軍図書館等に勤務したが、校正技術に秀いで、雑誌『校正往来』を発刊、「校正の神様」と称せられた。芥川は作品集の刊行時には彼に依頼している。明治文学の研究にも従事し、明治文化研究会会員でもあった。「神代帚葉」は「こうじろそうよう」と読み、彼の雅号と思われる。「作後贅言」は「さくごぜいげん」と読み、所謂、「濹東綺譚」の作者後書き。そこで荷風の友人として登場し、明治人には人を押し退けて得をしようとする気風はなく、『それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている――その心持です。優越を感じたいと思っている欲望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常にすくないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれとの違うところですよ。』と述べさせている(自宅に原本が見当たらないので引用はSAMUSHI氏の「テツガクのページ」の「荷風を読んで 墨東綺譚再読」より孫引きした)。
「中島氏」不詳。芥川龍之介の従姉の子に中島汀なる人物がおり、新全集の人名解説索引には龍之介が勉強を見ていた旨の記載があるが、この人物か。先に示した本記載のソース「二つの絵」の会葬場見取り図にも「記録係」として「中島氏」とあり、宇野自身、「中島氏」とは誰であるか分からないままに、記したものと考えてよい。
以下の後記は、底本では全体が一字下げ。先に述べた通り、この誤りは小穴隆一の「二つの絵」の会葬場見取り図の誤りをそのまま引き写した結果である。因みに、この「中野重治」は翰林書房「芥川龍之介新辞典」の池内輝雄氏の「葬儀」の脚注によれば、神崎清(明治三十七(一九〇四)年~昭和五十四(一九七九)年:評論家。昭和九(一九三四)年から明治文学談話会を主宰、機関誌『明治文学研究』した。戦時中には大逆事件を、戦後は売春問題等を手掛けた。著作は「革命伝説」「大逆事件」「戦後日本の売春問題」等。)の誤りであった。]
(後記――この時、中野重治が列席していなかったことを、この本が出てからまもなく、本人から知らされた。これがほんの一例であるように、この本に書いたことのなかに、このようなマチガイがあることは必定であるから、ここでも、この事を、迷惑のかかった方方にお詫びし、その他の事を、読者に、御諄恕を乞う。)
[やぶちゃん注:「諄恕」は「じゅんじょ」と読むのであろう。敢えて言うなら「諄々として恕する」で、くどいくらいに何度も思いやりの心で過ちを許す、の意でとれなくもないが、「日本国語大辞典」にも「廣漢和辞典」の熟語にも出現しない。正直言わせてもらえば、「諒恕」の誤植ではなかろうか。]
 ところで、この明き地の右側と左側に、おなじかたちの大きな天幕てんとが張ってあって、両方とも、程よい所に、イスとテエブルが据えてある、つまり、『休憩所』である。そうして、その『休憩所』の接待係は、右側は、高田保、川端康成、斎藤龍太郎[その頃の文藝春秋社で、佐佐木茂索と同じくらいの位置にあった人]、藤沢清造[その一生を貧窮にくらしながら、決して人に頭をさげず、貧乏にめげず、芥川に「へんな芸術主義者だからな、」と云われ、久保田に「正義派」と云われたほど芸術一途な男で、『根津権現裏』というすぐれた長篇一冊だけ残して、昭和七年の二月、芝公園で妙な死に方をした。武田麟太郎は『根津権現裏』を激賞して居た。久保田、芥川、菊池、その他を「くん」と呼ぶ人であった。いい人であった]等であり、左側に、犬養健[この頃は、苦労知らずの行儀のよい小説をかいた新作家で、「白樺」の傍系であった]、三宅周太郎、横光利一、中河与一等であった。
[やぶちゃん注:「三宅周太郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和四十二(一九六七)年)は演劇評論家。堅実な歌舞伎・文楽の劇評家として知られ、文楽の興隆にも尽くした。正続とある「文楽の研究」は名著である。
「犬養健」この最後の連載時は、正に吉田内閣法務大臣として造船疑獄の自由党幹事長佐藤栄作収賄容疑での逮捕許諾請求に指揮権を発動した悪印象の直後であった。]
 さて、ここを通りすぎると、いよいよ斎場である。
 斎場の玄関をはいった所の、すぐ、右側には、葬儀係の、下島空谷[空谷は下島の俳号]、
香取秀真[優秀な鋳金家、子規門の歌人]鈴木氏亨[この時分、文藝春秋社の代理の一切の仕事をしていた人]、谷口喜作[うさぎやという菓子屋の主人、滝井に俳句をまなび、芥川家に出入りしていた人]等が立ち、左側には、記録係の、滝井孝作と菅 忠雄が立っていた。それから、奥の方には、右側に、喪主親族席には、菊池 寛、室生犀星、小穴隆一等が著席ちゃくせきし、左側に、会葬者席には、泉鏡花、里見 弴、その他が居ならび、すこし離れて葬儀係の、久米正雄、佐佐木茂索、小野田通平[この頃、新潮社の出版部長か]等がひかえていた。(それから喪主親族席のうしろの方に、広い婦人席があヶた。)
 そうして、柩は、いうまでもなく、正面の、奥の、本尊の前に、安置してあった。
[やぶちゃん注:「小野田通平」とあるが、小穴の会葬場見取り図には「小野田道平」とある。いずれにしても不詳。宇野の新潮社出版部長というのは会葬係としては不自然ではない。]

 この日の導師は、芥川の菩提寺である、日蓮宗、慈眼寺の住職、原 智光師であった。
[やぶちゃん注:「原 智光」は「篠原智光」の誤り。]
 告別式は、午後三時から三時半までであったが、会葬した文壇の人は七百数十人であった。そうして、先輩の総代として泉 鏡花が、友人の総代として菊池 寛が、文芸家協会を代表して里見 弴が、後輩を代表して小島政二郎が、それぞれ、弔文を読んだ。これらの人たちの中で、菊池は、弔文を、読みはじめる前に啜り泣き、読み出してからも、一句よんではむせび泣き、また一句読んではしゃくりあげ、ついには声を上げて泣きながら、読みおわったので、殊に人びとを感動させた。その菊池の弔文はつぎのようなものである。

 芥川龍之介君よ、
君が自ら選み自ら決したる死について、我等何われらなにをかいはんや。ただ我等は君が死面に平和なる微光のただよへるを見て甚だ安心したり。友よ、安らかに眠れ! 君が夫人賢なればよく遺児を養ふに堪ゆべく、我等また微力を致して、君が眠りのいやがうへに安らかならんことにつとむベし、ただ悲しきは君去りて我等が身辺とみにせうでうたるを如何いかにせん。
[やぶちゃん注:菊池の直筆弔辞の写真を見ると、「堪ゆべく」は「堪ゆるべく」、「我等また」は「我等亦」、「眠り」は「眠」、「せうでう」は「蕭条」の表記である。最後に「友人總代 菊池寛」とある。]


 この時の葬儀に私の紋附もんつきと羽織と著物と袴と足袋を身につけて会葬した直木三十五が、帰りに私の留守宅に寄って、タラタラ流れる汗をふきながら、「あの葬式を見ると、急に芥川の死んだのが惜しい気がした、」と、私の家の者に、云った。
 この時の葬儀に会葬した帰り道で、田山花袋が、三上於菟吉に、「君、物事をめて考えてはいけないよ、」と云った。(三上は、この話を、私に、何度も、した)

 芥川が死んでから数日後に、吉井 勇と廣津和郎が、銀座で逢った。「ほかの人が死んでも『ああ、そうか、』と思うくらいだが、芥川が死んだ時は、悲しい気がしたね、」というような事を、何度も、云い合った。
[やぶちゃん注:以下の行間のアスタリスクは底本のもの。]

      *

 今、こういう時から二十五六年たった、西洋流に云えば、四半世紀すぎたのである。
 この頃、つきのうちに十度ぐらい、私は、廣津と、喫茶店に、コオヒイだけを飲みに行って、文学談その他をかわす。その時、芥川の話が出ると、「芥川は、弱い男だったね、悲しい男だったね、……しかし、ああいう才能は滅多にないね、結局、あれは、不世出の才能だね、」と、(言葉はちがうが、こういう事を、)云い合うのである。そうして、二人の間に、何度、芥川の話が出ても、終局、こういう事を、云い合うのである。
[やぶちゃん注:この最後の部分を読むと――私は何故か――片山廣子(松村みね子名義)の「芥川さんの囘想(わたくしのルカ傳)」を思い出す――いや――正に「小説の鬼」を自認した宇野浩二のこの「芥川龍之介」という書は――廣子のそれと同じく――正しく自らをもミューズから遣わされた者とする――小説の使徒ルカ宇野浩二の――ルカによる福音書であった。――]


芥川龍之介   宇野浩二 附やぶちゃん注 完