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鬼火へ

[やぶちゃん注:大正一五(一九二六)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載。底本は岩波版旧全集を用いた。点鬼簿てんきぼとは死者の姓名を書き記した過去帳の異名である。]

點鬼簿   芥川龍之介

   一

 僕の母は狂人だつた。僕は一度も僕の母に母らしい親しみを感じたことはない。僕の母は髮を櫛卷きにし、いつも芝の實家にたつた一人坐りながら、長煙管ですぱすぱ煙草を吸つてゐる。顏も小さければ體も小さい。その又顏はどう云ふ譯か、少しも生氣のない灰色をしてゐる。僕はいつか西廂記を讀み、土口氣泥臭味の語に出合つた時に忽ち僕の母の顏を、――瘦せ細つた橫顏を思ひ出した。
 かう云ふ僕は僕の母に全然面倒を見て貰つたことはない。何でも一度僕の養母とわざわざ二階へ挨拶に行つたら、いきなり頭を長煙管で打たれたことを覺えてゐる。しかし大體僕の母は如何にももの靜かな狂人だつた。僕や僕の姉などに畫を描いてくれと迫られると、四つ折の半紙に畫を描いてくれる。畫は墨を使ふばかりではない。僕の姉の水繪の具を行樂の子女の衣服だの草木の花だのになすつてくれる。唯それ等の畫中の人物はいづれも狐の顏をしてゐた。
 僕の母の死んだのは僕の十一の秋である。それは病の爲よりも衰弱の爲に死んだのであらう。その死の前後の記憶だけは割り合にはつきりと殘つてゐる。
 危篤の電報でも來た爲であらう。僕は或風のない深夜、僕の養母と人力車に乘り、本所から芝まで駈けつけて行つた。僕はまだ今日こんにちでも襟卷と云ふものを用ひたことはない。が、特にこの夜だけは南畫の山水か何かを描いた、薄い絹の手巾をまきつけてゐたことを覺えてゐる。それからその手巾には「アヤメ香水」と云ふ香水の匂のしてゐたことも覺えてゐる。
 僕の母は二階の眞下の八疊の座敷に橫たはつてゐた。僕は四つ違ひの僕の姉と僕の母の枕もとに坐り、二人とも絕えず聲を立てて泣いた。殊に誰か僕の後ろで「御臨終々々々」と言つた時には一層切なさのこみ上げるのを感じた。しかし今まで瞑目してゐた、死人にひとしい僕の母は突然目をあいて何か言つた。僕等は皆悲しい中にも小聲でくすくす笑ひ出した。
 僕はその次の晩も僕の母の枕もとに夜明近くまで坐つてゐた。が、なぜかゆうべのやうに少しも淚は流れなかつた。僕は殆ど泣き聲を絕たない僕の姉の手前を恥ぢ、一生懸命に泣く眞似をしてゐた。同時に又僕の泣かれない以上、僕の母の死ぬことは必ずないと信じてゐた。
 僕の母は三日目の晩に殆ど苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には正氣に返つたと見え、僕等の顏を眺めてはとめ度なしにぽろぽろ淚を落した。が、やはりふだんのやうに何とも口は利かなかつた。
 僕は納棺を終つた後にも時々泣かずにはゐられなかつた。すると「王子の叔母さん」と云ふ或遠緣のお婆さんが一人「ほんたうに御感心でございますね」と言つた。しかし僕は妙なことに感心する人だと思つただけだつた。
 僕の母の葬式の出た日、僕の姉は位牌を持ち、僕はその後ろに香爐を持ち二人とも人力車に乘つて行つた。僕は時々居睡りをし、はつと思つて目を醒ます拍子に危く香爐を落しさうにする。けれども谷中へは中々來ない。可也長い葬列はいつも秋晴れの東京の町をしづしづと練つてゐるのである。
 僕の母の命日は十一月二十八日である。又戒名は歸命院妙乘日進大姉である。僕はその癖僕の實父の命日や戒名を覺えてゐない。それは多分十一の僕には命日や戒名を覺えることも誇りの一つだつた爲であらう。

   二

 僕は一人の姉を持つてゐる。しかしこれは病身ながらも二人の子供の母になつてゐる。僕の「點鬼簿」に加へたいのは勿論この姉のことではない。丁度僕の生まれる前に突然夭折した姉のことである。僕等三人の姉弟の中でも一番賢かつたと云ふ姉のことである。
 この姉を初子と云つたのは長女に生まれた爲だつたであらう。僕の家の佛壇には未だに「初ちやん」の寫眞が一枚小さい額緣の中にはひつてゐる。初ちやんは少しもか弱さうではない。小さい笑窪のある兩頰なども熟した杏のやうにまるまるしてゐる。………
 僕の父や母の愛を一番余計に受けたものは何と云つても「初ちやん」である。「初ちやん」は芝の新錢座からわざわざ築地のサンマアズ夫人の幼稚園か何かへ通つてゐた。が、土曜から日曜へかけては必ず僕の母の家へ――本所の芥川家へ泊りに行つた。「初ちやん」はかう云ふ外出の時にはまだ明治二十年代でも今めかしい洋服を着てゐたのであらう。僕は小學校へ通つてゐた頃、「初ちやん」の着物の端巾はぎれを貰ひ、ゴム人形に着せたのを覺えてゐる。その又端巾は言ひ合せたやうに細かい花や樂器を散らした舶來のキヤラコばかりだつた。
 或春先の日曜の午後、「初ちやん」は庭を步きながら、座敷にゐる伯母に聲をかけた。(僕は勿論この時の姉も洋服を着てゐたやうに想像してゐる。)
 「伯母さん、これは何と云ふ樹?」
 「どの樹?」
 「この莟のある樹。」
 僕の母の實家の庭には背の低い木瓜の樹が一株、古井戶へ枝を垂らしてゐた。髮をお下げにした「初ちやん」は恐らくは大きい目をしたまま、この枝のとげとげしい木瓜の樹を見つめてゐたことであらう。
 「これはお前と同じ名前の樹。」
 伯母の洒落は生憎通じなかつた。
 「ぢや莫迦の樹と云ふ樹なのね。」
 伯母は「初ちやん」の話さへ出れば、未だにこの問答を繰り返してゐる。實際又「初ちやん」の話と云つてはその外に何も殘つてゐない。「初ちやん」はそれから幾日もたたずに柩にはひつてしまつたのであらう。僕は小さい位牌に彫つた「初ちやん」の戒名は覺えてゐない。が、「初ちやん」の命日が四月五日であることだけは妙にはつきりと覺えてゐる。
 僕はなぜかこの姉に、――全然僕の見知らない姉に或親しみを感じてゐる。「初ちやん」は今も存命するとすれば、四十を越してゐることであらう。四十を越した「初ちやん」の顏は或は芝の實家の二階に茫然と煙草をふかしてゐた僕の母の顏に似てゐるかも知れない。僕は時々幻のやうに僕の母とも姉ともつかない四十恰好の女人が一人、どこかから僕の一生を見守つてゐるやうに感じてゐる。これは珈琲や煙草に疲れた僕の神經の仕業であらうか? それとも又何かの機會に實在の世界へも面かげを見せる超自然の力の仕業であらうか?

   三

 僕は母の發狂した爲に生まれるが早いか養家に來たから、(養家は母かたの伯父の家だつた。)僕の父にも冷淡だつた。僕の父は牛乳屋であり、小さい成功者の一人らしかつた。僕に當時新らしかつた果物や飮料を敎へたのは悉く僕の父である。バナナ、アイスクリイム、パイナアツプル、ラム酒、――まだその外にもあつたかも知れない。僕は當時新宿にあつた牧場の外の槲[やぶちゃん注:かし。樫。]の葉かげにラム酒を飮んだことを覺えてゐる。ラム酒は非常にアルコオル分の少ない、橙黃色を帶びた飮料だつた。
 僕の父は幼い僕にかう云ふ珍らしいものを勸め、養家から僕を取り戾さうとした。僕は一夜大森の魚榮でアイスクリイムを勸められながら、露骨に實家へ逃げて來いと口説かれたことを覺えてゐる。僕の父はかう云ふ時には頗る巧言令色を弄した。が、生憎その勸誘は一度も効を奏さなかつた。それは僕が養家の父母を、――殊に伯母を愛してゐたからだつた。
 僕の父は又短氣だつたから、度々誰とでも喧嘩をした。僕は中學の三年生の時に僕の父と相撲をとり、僕の得意の大外刈りを使つて見事に僕の父を投げ倒した。僕の父は起き上つたと思ふと、「もう一番」と言つて僕に向つて來た。僕は又造作もなく投げ倒した。僕の父は三度目には「もう一番」と言ひながら、血相を變へて飛びかかつて來た。この相撲を見てゐた僕の叔母――僕の母の妹であり、僕の父の後妻だつた叔母は二三度僕に目くばせをした。僕は僕の父と揉み合つた後、わざと仰向けに倒れてしまつた。が、もしあの時に負けなかつたとすれば、僕の父は必ず僕にも摑みかからずにはゐなかつたであらう。
 僕は二十八になつた時、――まだ敎師をしてゐた時に「チチニウイン」の電報を受けとり、倉皇と鎌倉から東京へ向つた。僕の父はインフルエンザの爲に東京病院にはひつてゐた。僕は彼是三日ばかり、養家の伯母や實家の叔母と病室の隅に寢泊りしてゐた。そのうちにそろそろ退屈し出した。そこへ僕の懇意にしてゐた或愛蘭土の新聞記者が一人、築地の或待合へ飯を食ひに來ないかと云ふ電話をかけた。僕はその新聞記者が近く渡米するのを口實にし、垂死の僕の父を殘したまま、築地の或待合へ出かけて行つた。
 僕等は四五人の藝者と一しよに愉快に日本風の食事をした。食事は確か十時頃に終つた。僕はその新聞記者を殘したまま、狹い段梯子を下つて行つた。すると誰か後ろから「ああさん」と僕に聲をかけた。僕は中段に足をとめながら、段梯子の上をふり返つた。そこには來合せてゐた藝者が一人、ぢつと僕を見下ろしてゐた。僕は默つて段梯子を下り、玄關の外のタクシイに乘つた。タクシイはすぐに動き出した。が、僕は僕の父よりも水々しい西洋髮に結つた彼女の顏を、――殊に彼女の目を考えてゐた。
 僕が病院へ歸つて來ると、僕の父は僕を待ち兼ねてゐた。のみならず二枚折の屛風の外に悉く余人を引き下らせ、僕の手を握つたり撫でたりしながら、僕の知らない昔のことを、――僕の母と結婚した當時のことを話し出した。それは僕の母と二人で簞笥を買ひに出かけたとか、鮨をとつて食つたとか云ふ、瑣末な話に過ぎなかつた。しかし僕はその話のうちにいつかまぶたが熱くなつてゐた。僕の父も肉の落ちた頰にやはり淚を流してゐた。
 僕の父はその次の朝に余り苦しまずに死んで行つた。死ぬ前には頭も狂つたと見え「あんなに旗を立てた軍艦が來た。みんな萬歲を唱へろ」などと言つた。僕は僕の父の葬式がどんなものだつたか覺えてゐない。唯僕の父の死骸を病院から實家へ運ぶ時、大きい春の月が一つ、僕の父の柩車の上を照らしてゐたことを覺えてゐる。

   四

 僕は今年の三月の半ばにまだ懷爐を入れたまま、久しぶりに妻と墓參りをした。久しぶりに、――しかし小さい墓は勿論、墓の上に枝を伸ばした一株の赤松も變らなかつた。
 「點鬼簿」に加へた三人は皆この谷中の墓地の隅に、――しかも同じ石塔の下に彼等の骨を埋めてゐる。僕はこの墓の下へ靜かに僕の母の柩が下された時のことを思ひ出した。これは又「初ちやん」も同じだつたであらう。唯僕の父だけは、――僕は僕の父の骨が白じらと細かに碎けた中に金齒の交つてゐたのを覺えてゐる。……
 僕は墓參りを好んではゐない。若し忘れてゐられるとすれば、僕の兩親や姉のことも忘れてゐたいと思つてゐる。が、特にその日だけは肉體的に弱つてゐたせゐか、春先の午後の日の光の中に黑ずんだ石塔を眺めながら、一體彼等三人の中では誰が幸福だつたらうと考へたりした。
     かげろふや塚より外に住むばかり
 僕は實際この時ほど、かう云ふ丈艸の心もちが押し迫つて來るのを感じたことはなかつた。 (一五、九、九)