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芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)へ

毛利先生   芥川龍之介

[やぶちやん注:大正8(1919)年1月発行の雑誌『新潮』に掲載された。後に単行本『傀儡師』『戯作三昧』に所収された。底本は昭和551980)年ほるぷ社『特選 名著復刻全集 近代文学館』で復刻された大正8(1919)年新潮社刊の『傀儡師』を用いた。踊り字「/\」の濁音は正字に(漢字を含む場合は漢字を使用して)、傍点「ヽ」は下線に代えた。オリジナルな注を末尾に附した。]

 

毛利先生 大正七年十二月

       芥川龍之介

 

 歳晩の或暮方、自分は友人の批評家と二人で、所謂腰辨街道の、裸になつた並樹の柳の下を、神田橋の方へ歩いてゐた。自分たちの左右には、昔、島崎藤村が「もつと頭をあげて歩け」と慷慨した、下級官吏らしい人々が、まだ漂つてゐる黄昏の光の中に、蹌踉たる歩みを運んで行く。期せずして、同じく憂欝な心もちを、拂ひのけようとしても拂ひのけられなかつたからであらう。自分たちは外套の肩をすり合せるやうにして、心もち足を早めながら、大手町の停留場を通りこすまでは、殆ど一言もきかずにゐた。すると友人の批評家が、あすこの赤い柱の下に、電車を待つてゐる人々の寒むさうな姿を一瞥すると、急に身ぶるひを一つして、

「毛利先生の事を思ひ出す。」と、獨り語のやうに呟いた。

「毛利先生と云ふのは誰だい。」

「僕の中學の先生さ。まだ君には話した事がなかつたかな。」

 自分は否と云ふ代りに、默つて帽子の庇を下げた。これから下に掲げるのはその時その友人が、歩きながら自分に話してくれた、その毛利先生の追憶である。――

 

        ―――――――――――――――――

 

 もう彼是十年ばかり以前、自分がまだ或府立中學の三年級にゐた時の事である。自分の級に英語を教へてゐた、安達先生と云ふ若い教師が、インフルエンザから來た急性肺炎で冬期休業の間に物故してしまつた。それが餘り突然だつたので、適當な後任を物色する餘裕がなかつたからの窮策であらう。自分の中學は、當時或私立中學で英語の教師を勤めてゐた、毛利先生と云ふ老人に、今まで安達先生の受持つてゐた授業を一時囑託した。

 自分が始めて毛利先生を見たのは、その就任當日の午後である。自分たち三年級の生徒たちは、新しい教師を迎へると云ふ好奇心に壓迫されて、廊下に先生の靴音が響ゐた時から、何時(いつ)になくひつそりと授業の始まるのを待ちうけてゐた。所がその靴音が、日かげの絶えた、寒い教室の外に止まつて、やがて扉(ドア)が開かれると、――あゝ、自分はかう云ふ中(うち)にも、歴々とその時の光景が眼に浮んでゐる。扉(ドア)を開いてはいつて來た毛利先生は、何より先その背の低いのがよく縁日の見世物に出る蜘蛛男と云ふものを聯想させた。が、その感じから暗澹たる色彩を奪つたのは、殆ど美しいとでも形容したい、光滑々たる先生の禿げ頭で、これまだ後頭部のあたりに、種々(しよう/\)たる胡麻鹽の髮の毛が、僅に殘喘を保つてゐたが、大部分は博物の教科書に畫が出てゐる駝鳥の卵なるものと相違はない。最後に先生の風采を凡人以上に超越させたものは、その怪しげなモオニング・コオトで、これは過去において黑かつたと云ふ事實を危く忘却させる位、文字通り蒼然たる古色を帶びたものであつた。しかも先生のうすよごれた折襟には、極めて派手な紫の襟飾(ネクタイ)が、まるで翼をひろげた蛾のやうに、ものものしく結ばれてゐたと云ふ、驚くべき記憶さへ殘つてゐる。だから先生が教室へはいると同時に、期せずして笑を堪(こら)へる聲が、そここゝの隅から起つたのは、元より不思議でも何でもない。

 が、讀本と出席簿とを抱えた毛利先生は、恰も眼中に生徒のないやうな、悠然とした態度を示しながら、一段高い教壇に登つて、自分たちの敬禮に答へると、如何にも人の好さゝうな、血色の惡い丸顏に愛嬌のある微笑を漂はせて、

「諸君」と、金切聲(かなきりごゑ)で呼びかけた。

 自分たちは過去三年間、未嘗てこの中學の先生から諸君を以て遇せられた事は、一度もない。そこで毛利先生のこの「諸君」は、勢い自分たち一同に、思はず驚嘆の眼を見開かせた。と同時に自分たちは、すでに「諸君」と口を切つた以上、その後はさしずめ授業方針か何かの大演説があるだらうと、息をひそめて待ちかまへてゐたのである。

 しかし毛利先生は、「諸君」と云つた儘、教室の中を見廻して、暫くは何とも口を開かない。肉のたるんだ先生の顏には、悠然たる微笑の影が浮んでゐるのに關らず、口角の筋肉は神經的にびく/\動いてゐる。と思ふと、どこか家畜のやうな所のある晴々した眼の中にも、絶えず落ち着かない光が去來した。それがどうも口にこそ出さないが、何か自分たち一同に哀願したいものを抱いてゐて、しかもその何ものかと云ふ事が、先生自身にも遺憾ながら判然と見きわめがつかないらしい。

「諸君」

 やがて毛利先生は、かう同じ調子で繰返した。それから今度はその後(あと)へ、丁度その諸君と云ふ聲の反響を捕へようとする如く、

「これから私が、諸君にチヨイス・リイダアを教へる事になりました」と、如何にも慌しくつけ加へた。

 自分たちは益々好奇心の緊張を感じて、ひつそりと鳴りを靜めながら、熱心に先生の顏を見守つてゐた。が、毛利先生はさう云ふと同時に、又哀願するやうな眼つきをして、ぐるりと教室の中を見廻すと、それぎりで急に椅子の上へ彈機(バネ)がはずれたやうに腰を下した。さうして、すでに開かれてゐたチヨイス・リイダアの傍へ、出席簿をひろげて眺め出した。この唐突たる挨拶の終り方が、如何に自分たちを失望させたか、と云ふよりも寧、失望を通り越して、如何に自分たちを滑稽に感じさせたか、それは恐らく云ふ必要もない事であらう。

 しかし幸にして先生は、自分たちが笑を洩すのに先立つて、あの家畜のやうな眼を出席簿から擧げたと思ふと、忽自分たちの級の一人を「さん」づけにして指名した。勿論すぐに席を離れて、譯讀して見ろと云ふ相圖である。そこでその生徒は立ち上つて、ロビンソン・クルウソオか何かの一節を、東京の中學生に特有な、氣の利ゐた調子で譯讀した。それを又毛利先生は、時々紫の襟飾(ネクタイ)へ手をやりながら、誤譯は元より些細な發音の相違まで、一々丁寧に直して行く。發音は妙に氣取つた所があるが、大體正確で、明瞭で、先生自身もこの方面が特に内心得意らしい。

 が、その生徒が席に復して、先生がそこを譯讀し始めると、再び自分たちの間には、そここゝから失笑の聲が起り始めた。と云ふのは、あれ程發音の妙を極めた先生も、いざ飜譯をするとなると、殆ど日本人とは思はれない位、日本語の數を知つてゐない。或いは知つてゐても、その場に臨んでは急には思ひ出せないのであらう。たとへばたつた一行を譯するのにしても、「そこでロビンソン・クルウソオは、とう/\飼ふ事にしました。何を飼ふ事にしたかと云へば、それ、あの妙な獸(けだもの)で――動物園に澤山ゐる――何と云ひましたかね、――えゝとよく芝居をやる――ね、諸君も知つてゐるでせう。それ、顏の赤い――何、猿? さう/\、その猿です。その猿を飼ふ事にしました。」

 勿論猿でさへこの位だから、少し面倒な語になると、何度もその周圍を低徊した揚句でなければ、容易に然る可き譯語にはぶつからない。しかも毛利先生はその度にひどく狼狽して、殆どあの紫の襟飾を引きちぎりはしないかと思ふ程、頻に喉元へ手をやりながら、當惑さうな顏をあげて、慌しく自分たちの方へ眼を飛ばせる。と思ふと又、兩手で禿げ頭を抑へながら、机の上へ顏を伏せて、如何にも面目なささうに行きづまつてしまふ。さう云ふ時は、唯でさへ小さな先生の體が、まるで空氣の拔けた護謨風船のやうに、意氣地なく縮み上つて、椅子から埀れてゐる兩足さへ、ぶらりと宙に浮びさうな心もちがした。それを又生徒の方では、面白い事にして、くす/\笑ふ。さうして二三度先生が譯讀を繰返す間には、その笑ひ聲も次第に大膽になつて、とうとうしまひには一番前の机からさへ、公然と湧き返るやうになつた。かう云ふ自分たちの笑ひ聲がどれ程善良な毛利先生につらかつたか、――現に自分ですら今日その刻薄な響を想起すると、思はず耳を蔽ひたくなる事は一再でない。

 それでも猶毛利先生は、休憩時間の喇叭が鳴り渡るまで、勇敢に譯讀を續けて行つた。さうして、漸く最後の一節を讀み終ると、再元のやうな悠然たる態度で、自分たちの敬禮に答へながら、今までの慘澹たる惡鬪も全然忘れてしまつたやうに、落ち着き拂つて出て行つてしまつた。その後(あと)を追ひかけてどつと自分たちの間から上つた、嵐のやうな笑ひ聲、わざと騷々しく机の蓋を明けたり閉めたりさせる音、それから教壇へとび上つて、毛利先生の身ぶりや聲色を早速使つて見せる生徒――あゝ、自分はまだその上に組長の章(しるし)をつけた自分までが、五六人の生徒にとり圍まれて、先生の誤譯を得々と指摘してゐたと云ふ事實すら、思ひ出さなければならないのであらうか。さうしてその誤譯は? 自分は實際その時でさへ、果してそれがほんたうの誤譯かどうか、確な事は何一つわからずに威張つてゐたのである。

 

        ―――――――――――――――――

 

 それから三四日經た或午の休憩時間である。自分たち五六人は、機械體操場の砂だまりに集まつて、ヘルの制服の背を暖い冬の日向に曝しながら、遠からず來る可き學年試驗の噂などを、口まめにしやべり交(かは)してゐた。すると今まで生徒と一しよに鐵棒へぶら下つてゐた、體量十八貫と云ふ丹波先生が、「一二、」と大きな聲をかけながら、砂の上へ飛び下りると、チヨツキばかりに運動帽をかぶつた姿を、自分たちの中に現して、

「どうだね、今度來た毛利先生は。」と云ふ。丹波先生はやはり自分たちの級に英語を教へてゐたが、有名な運動好きで、兼ねて詩吟が上手だと云ふ所から、英語そのものは嫌つてゐた柔劍道の選手などと云ふ豪傑連の間にも、大分評判がよかつたらしい。そこで先生がかう云ふと、その豪傑連の一人がミツトを弄びながら、

「えゝ、あんまり――何です。皆あんまり、よく出來ないやうだつて云つてゐます。」と、柄にもなくはにかんだ返事をした。すると丹波先生はズボンの砂を手巾ではたきながら、得意さうに笑つて見せて、

「お前よりも出來ないか。」

「そりや僕より出來ます。」

「ぢや、文句を云ふ事はないぢやないか。」

 豪傑はミツトをはめた手で頭を掻きながら、意氣地なくひつこんでしまつた。が、今度は自分の級の英語の秀才が、度の強い近眼鏡をかけ直すと、年に似合わずませた調子で、

「でも先生、僕たちは大抵專門學校の入學試驗を受ける心算なんですから、出來る上にも出來る先生に教へて頂きたいと思つてゐるんです。」と、抗辯した。が、丹波先生は不相變勇壯に笑ひながら、

「何、たつた一學期やそこいら、誰に教はつたつて同じ事さ。」

「ぢや毛利先生は、一學期だけしか御教へにならないんですか。」

 この質問には丹波先生も、聊急所をつかれた感があつたらしい。世故に長(た)けた先生はそれにはわざと答へずに、運動帽を脱ぎながら、五分刈の頭の埃を勢よく拂ひ落すと、急に自分たち一同を見渡して、

「そりや毛利先生は、隨分古い人だから、我々とは少し違つてゐるさ。今朝も僕が電車へ乘つたら、先生は一番まん中にかけてゐたつけが、乘換への近所になると、『車掌、車掌』つて聲をかけるんだ。僕は可笑しくつて、弱つたがね。とにかく一風變つた人には違ひないさ。」と、巧に話頭を一轉させてしまつた。が、毛利先生のさう云ふ方面に關してなら、何も丹波先生を待たなくとも、自分たちの眼を駭かせた事は、あり餘る程澤山ある。

「それから毛利先生は、雨が降ると、洋服へ下駄をはいて來られるさうです。」

「あの何時も腰に下つてゐる、白い手巾へ包んだものは、毛利先生の御辨當ぢやないんですか。」

「毛利先生が電車の吊皮につかまつてゐられるのを見たら、毛絲の手袋が穴だらけだつたつて云ふ話です。」

 自分たちは丹波先生を圍んで、こんな愚にもつかない事を、四方からやかましく饒舌り立てた。ところがそれに釣りこまれたのか、自分たちの聲が一しきり高くなると、丹波先生も何時(いつ)か浮き浮きした聲を出して、運動帽を指の先でまはしながら、

「それよりかさ、あの帽子が古物(こぶつ)だぜ――」と、思はず口へ出して云ひかけた、丁度その時である。機械體操場と向ひ合つて、わずかに十歩ばかり隔つてゐる二階建の校舍の入口へ、どう思つたか毛利先生が、その古物の山高帽を頂いて、例の紫の襟飾へ仔細らしく手をやつた儘、悠然として小さな體を現した。入口の前には一年生であらう、子供のやうな生徒が六七人、人馬(ひとうま)か何かして遊んでゐたが、先生の姿を見ると、これは皆先を爭つて、丁寧に敬禮する。毛利先生も亦、入口の石段の上にさした日の光の中に佇んで、山高帽をあげながら笑つて禮を返してゐるらしい。この景色を見た自分たちは、さすがに皆一種の羞恥を感じて、暫くの間はひつそりと、賑な笑ひ聲を絶つてしまつた。が、その中で丹波先生だけは、唯、口を噤むべく餘りに恐縮と狼狽とを重ねたからでもあつたらう。「あの帽子が古物(こぶつ)だぜ」と、云ひかけた舌をちよいと出して、素早く運動帽をかぶつたと思ふと、突然くるりと向きを變へて、「一――」と大きく喚きながら、チヨツキ一つの肥つた體を、やにわに鐵棒へ抛りつけた。さうして「海老(えび)上り」の兩足を遠く空ざまに伸しながら、「二――」と再び喚ゐた時には、もう冬の青空を鮮に切りぬいて、樂々とその上に上つてゐた。この丹波先生の滑稽なてれ隱(かく)しが、自分たち一同を失笑させたのは無理もない。一瞬間聲を呑んだ機械體操場の生徒たちは、鐵棒の上の丹波先生を仰ぎながら、まるで野球の應援でもする時のやうに、わつと囃し立てながら、拍手をした。

 かう云ふ自分も皆と一しよに、喝采をしたのは勿論である。が、喝采してゐる内に、自分は鐵棒の上の丹波先生を、半ば本能的に憎み出した。と云つてもそれ丈又、毛利先生に同情を注いだと云ふ譯でもない。その證據にはその時自分が、丹波先生へ浴びせた拍手は、同時に毛利先生へ、自分たちの惡意を示さうと云ふ、間接目的を含んでゐたからである。今自分の頭で解剖すれば、その時の自分の心もちは、道德の上で丹波先生を侮蔑すると共に、學力の上では毛利先生も併せて侮蔑してゐたとでも説明する事が出來るかも知れない。或いはその毛利先生に對する侮蔑は、丹波先生の「あの帽子が古物だぜ」によつて、一層然るべき裏書きを施されたやうな、づう/\しさを加へてゐたとも考へる事が出來るであらう。だから自分は喝采しながら、聳かした肩越しに、昂然として校舍の入口を眺めやつた。するとそこには依然として、我毛利先生が、まるで日の光を貪つてゐる冬蠅か何かのやうに、ぢつと石段の上に佇みながら、一年生の無邪氣な遊戲を、餘念もなく獨り見守つてゐる。その山高帽子とその紫の襟飾と――自分は當時、寧、哂ふべき對象として、一瞥の中に收めたこの光景が、なぜか今になつて見ると、どうしても又忘れる事が出來ない。……

 

        ―――――――――――――――――

 

 就任の當日毛利先生が、その服裝と學力とによつて、自分たちに起させた侮蔑の情は、丹波先生のあの失策(?)があつて以來、いよいよ級全體に盛んになつた。すると、又、それから一週間とたゝない或朝の事である。その日は前夜から雪が降りつゞけて、窓の外にさし出てゐる雨天體操場の屋根などは、一面にもう瓦の色が見えなくなつてしまつたが、それでも教室の中にはストオヴが、赤々と石炭の火を燃え立たせて、窓硝子につもる雪さへ、うす青い反射の光を漂わす暇(ひま)もなく、溶けて行つた。そのストオヴの前に椅子を据えながら、毛利先生は例の通り、金切聲をふりしぼつて、熱心にチヨイス・リイダアの中にあるサアム・オヴ・ライフを教へてゐたが、勿論誰も眞面目になつて、耳を傾けてゐる生徒はない。ない所か、自分の隣にゐる、或柔道の選手の如きは、讀本の下へ武俠世界をひろげて、さつきから押川春浪の冐險小説を讀んでゐる。

 それが彼是二三十分も續ゐたであらう。その中に毛利先生は、急に椅子から身を起すと、丁度今教へてゐるロングフエロオの詩にちなんで、人生と云ふ問題を辯じ出した。趣旨はどんな事だつたか、更に記憶に殘つてゐないが、恐らくは議論と云ふよりも、先生の生活を中心とした感想めいたものだつたと思ふ。と云ふのは先生が、まるで羽根を拔かれた鳥のやうに、絶えず兩手を上げ下げしながら、慌しい調子で饒舌つた中に、

「諸君にはまだ人生はわからない。ね。わかりたいつたつて、わかりはしません。それだけ諸君は幸福なんでせう。我々になると、ちやんと人生がわかる。わかるが苦しい事が多いです。ね。苦しい事が多い。これで私にしても、子供が二人ある。そら、そこで學校へ上げなければならない。上げれば――えゝと――上げれば――學資? さうだ。その學資が入るでせう。ね。だから中々苦しい事が多い……」と云ふやうな文句のあつた事を、かすかに覺えてゐるからである。が、何も知らない中學生に向つてさへ、生活難を訴へる――或いは訴へない心算でも訴へてゐる、先生の心もちなぞと云ふものは、元より自分たちに理解されやう筈がない。それより訴へると云ふその事實の、滑稽な側面ばかり見た自分たちは、かう先生が述べ立てゝゐる中に、誰からともなくくす/\笑ひ出した。唯、それが何時(いつ)もの哄然たる笑聲に變らなかつたのは、先生の見すぼらしい服裝と金切聲をあげて饒舌つてゐる顏つきとが、如何にも生活難それ自身の如く思はれて、幾分の同情を起させたからであらう。しかし自分たちの笑ひ聲が、それ以上大きくならなかつた代りに、暫くすると、自分の隣にゐた柔道の選手が、突然武俠世界をさし置いて、虎のやうな勢を示しながら、立ち上つた、さうして何を云ふかと思ふと、

「先生、僕たちは英語を教へて頂く爲に、出席しています。ですからそれが教へて頂けなければ、教室へはいつてゐる必要はありません。もしもつと御話が續くのなら、僕は今から體操場へ行きます。」

 かう云つて、その生徒は、一生懸命に苦(にが)い顏をしながら、恐しい勢で又席に復した。自分はその時の毛利先生位、不思議な顏をした人を見た事はない。先生はまるで雷に撃たれたやうに、口を半ば開けた儘、ストオヴの側へ棒立ちになつて、一二分の間は唯、その慓悍な生徒の顏ばかり眺めてゐた。が、やがて家畜のやうな眼の中に、あの何かを哀願するやうな表情が、際とくちくりと閃ゐたと思ふと、急に例の紫の襟飾へ手をやつて、二三度禿げ頭を下げながら、

「いや、これは私が惡い。私が惡かつたから、重々あやまります。成程諸君は英語を習ふ爲に出席してゐる。その諸君に英語を教へないのは、私が惡かつた。惡かつたから、重々あやまります。ね。重々あやまります。」と、泣いてゞもゐるやうな微笑を浮べて、何度となく同じやうな事を繰り返した。それがストオヴの口からさす赤い火の光を斜に浴びて、上衣の肩や腰の摺り切れた所が、一層鮮に浮んで見える。と思ふと先生の禿げ頭も、下げる度に見事な赤銅色の光澤を帶びて、愈駝鳥の卵らしい。

 が、この氣の毒な光景も、當時の自分には徒に、先生の下等な教師根性を曝露したものとしか思はれなかつた。毛利先生は生徒の機嫌をとつてまでも、失職の危險を避けようとしてゐる。だから先生が教師をしてゐるのは、生活の爲に餘儀なくされたので、何も教育そのものに興味があるからではない。――朧げながらこんな批評を逞うした自分は、今は服裝と學力とに對する侮蔑ばかりでなく、人格に對する侮蔑さへ感じながら、チヨイス・リイダアの上へ頰杖をついて、燃えさかるストオヴの前へ立つた儘、精神的にも肉體的にも、火炙りにされてゐる先生へ、何度も生意氣な笑ひ聲を浴びせかけた。勿論これは、自分一人に限つた事でも何でもない。現に先生をやりこめた柔道の選手なぞは、先生が色を失つて謝罪すると、ちよいと自分の方を見かへつて、狡猾さうな微笑を洩しながら、すぐ又讀本の下にある押川春浪の冐險小説を、勉強し始めたものである。

 それから休憩時間の喇叭が鳴るまで、我毛利先生は何時もより更にしどろもとろになつて、憐む可きロングフエロオを無二無三に譯讀しようとした。「Life is real, life is earnest.」――あの血色の惡い丸顏を汗ばませて、絶えず知られざる何物かを哀願しながら、かう先生の讀み上げた、喉のつまりさうな金切聲は、今日でも猶自分の耳の底に殘つてゐる。が、その金切聲の中に潜んでゐる幾百萬の悲慘な人間の聲は、當時の自分たちの鼓膜を刺戟すべく、餘りに深刻なものであつた。だからその時間中、倦怠に倦怠を重ねた自分たちの中には、無遠慮な欠伸の聲を洩らしたものさへ、自分のほかにも少くはない。しかし毛利先生は、ストオヴの前へ小さな體を直立させて、窓硝子をかすめて飛ぶ雪にも全然頓着せず、頭の中の鐵條(ゼンマイ)が一時にほぐれたやうな勢で、絶えず讀本をふりまはしながら、必死になつて叫びつゞける。「Life is real, life is earnest. ―― Life is real, life is earnest.」……

 

         ―――――――――――――――――

 

 かう云ふ次第だつたから、一學期の雇傭期間がすぎて、再び毛利先生の姿を見る事が出來なくなつてしまつた時も、自分たちは喜びこそすれ、決して惜しいなどとは思はなかつた。いや、その喜ぶと云ふ氣さへ出なかつた程、先生の去就には冷淡だつたと云へるかも知れない。殊に自分なぞはそれから七八年、中學から高等學校、高等學校から大學と、次第に成人(おとな)になるのに從つて、さう云ふ先生の存在自身さへ、殆ど忘れてしまふ位、全然何の愛惜も抱かなかつたものである。

 すると大學を卒業した年の秋――と云つても、日が暮れると屢深い靄が下りる、十二月の初旬近くで、並木の柳や鈴懸などが、とうに黄いろい葉をふるつてゐた、或雨あがりの夜の事である。自分は神田の古本屋を根氣よくあさりまはつて、歐洲戰爭が始まつてから、めつきり少くなつた獨逸書を一二册手に入れた揚句、動くともなく動いてゐる晩秋の冷(つめた)い空氣を、外套の襟に防ぎながら、ふと中西屋の前を通りかゝると、何故(なぜ)か賑な人聲と、暖い飮料とが急に戀しくなつたので、そこにあつたカツフエの一つへ、何氣なく獨りではいつて見た。

 所が、はいつて見るとカツフエの中は、狹いながらがらんとして、客の影は一人もない。置き並べた大理石の卓(テエブル)の上には、砂糖壺の鍍金ばかりが、冷(つめた)く電燈の光を反射してゐる。自分はまるで誰かに欺かれたやうな、寂しい心もちを味ひながら、壁にはめこんだ鏡の前の、卓へ行つて腰を下した。さうして、用を聞きに來た給仕に珈琲を云ひつけると、思ひ出したやうに葉卷を出して、何本となくマチを摺つた揚句、やつとそれに火をつけた。すると間もなく湯氣の立つ珈琲茶碗が、自分の卓の上に現れたが、それでも一度沈んだ氣は、外に下りてゐる靄のやうに、容易な事では晴れさうもない。と云つて今古本屋から買つて來たのは、字の細い哲學の書物だから、こゝでは折角の名論文も、一頁と讀むのは苦痛である。そこで自分は仕方がなく、椅子の脊へ頭をもたせてブラジル珈琲とハヴアナと代る代る使ひながら、すぐ鼻の先の鏡の中へ、漫然と煮え切らない視線をさまよわせた。

 鏡の中には、二階へ上る楷子段の側面を始として、向うの壁、白塗りの扉、壁にかけた音樂會の廣告なぞが、舞臺面の一部でも見るやうに、はつきりと寒く映(うつ)つてゐる。いや、まだそのほかにも、大理石の卓が見えた。大きな針葉樹の鉢も見えた。天井から下つた電燈も見えた。大形な陶器の瓦斯煖爐も見えた。その煖爐の前を圍んで、頻に何か話してゐる三四人の給仕の姿も見えた。さうして――かう自分が鏡の中の物象を順々に點檢して、煖爐の前に集まつてゐる給仕たちに及んだ時である。自分は彼等に圍まれながら、その卓に向つてゐる一人の客の姿に驚かされた。それが、今まで自分の注意に上(のぼ)らなかつたのは、恐らく周圍の給仕にまぎれて、無意識にカツフエの廚丁(コツク)か何かと思ひこんでゐたからであらう。が、その時、自分が驚ゐたのは、何もゐないと思つた客が、ゐたと云ふばかりではない。鏡の中に映つてゐる客の姿が、こちらへは僅に横顏しか見せてゐないにも關らず、あの駝鳥の卵のやうな、禿げ頭の恰好と云ひ、あの古色蒼然としたモオニング・コオトの容子と云ひ、最後にあの永遠に紫な襟飾の色合いと云ひ、我毛利先生だと云ふ事は、一目ですぐに知れたからである。

 自分は先生を見ると同時に、先生と自分とを隔てゝゐた七八年の歳月を、咄嗟に頭の中へ思ひ浮べた。チヨイス・リイダアを習つてゐた中學の組長と、今ここで葉卷の煙を靜に鼻から出してゐる自分と――自分にとつてその歳月は、決して短かゝつたとは思はれない。が、すべてを押し流す「時」の流も、既に時代を超越したこの毛利先生ばかりは、如何ともする事が出來なかつたからであらうか。現在この夜(よる)のカツフエで給仕と卓を分つてゐる先生は、宛然として昔、あの西日もさゝない教室で讀本を教へてゐた先生である。禿げ頭も變らない。紫の襟飾も同じであつた。それからあの金切聲も――さういへば、先生は、今もあの金切聲を張りあげて、忙しさうに何か給仕たちへ、説明してゐるやうではないか。自分は思はず微笑を浮べながら、何時(いつ)かひき立たない氣分も忘れて、ぢつと先生の聲に耳を借した。

「そら、こゝにある形容詞がこの名詞を支配する。ね、ナポレオンと云ふのは人の名前だから、そこでこれを名詞と云ふ。よろしいかね。それからその名詞を見ると、すぐ後に――このすぐ後にあるのは、何だか知つてゐるかね。え。お前はどうだい。」

「關係――關係名詞。」

 給仕の一人が吃りながら、かう答へた。

「何、關係名詞? 關係名詞と云ふものはない。關係――ええと――關係代名詞? さうさう關係代名詞だね。代名詞だから、そら、ナポレオンと云ふ名詞の代りになる。ね。代名詞とは名に代る詞と書くだらう。」

 話の具合では、毛利先生はこのカツフエの給仕たちに英語を教へてゞもゐるらしい。そこで自分は椅子をずらせて、違つた位置から又鏡を覗きこんだ。すると果してその卓の上には、讀本らしいものが一册開いてある。毛利先生はその頁を、頻に指でつき立てながら、何時までも説明に厭きる容子がない。この点も亦先生は、依然として昔の通りであつた。唯、まはりに立つてゐる給仕たちは、あの時の生徒と反對に、皆熱心な眼を輝かせて、目白押しに肩を合せながら、慌しい先生の説明におとなしく耳を傾けてゐる。

 自分は鏡の中のこの光景を、暫く眺めてゐる間に、毛利先生に對する温情が意識の表面へ浮んで來た。一そ自分もあすこへ行つて、先生と久闊を敍し合はうか。が、多分先生は、たつた一學期の短い間、教室だけで顏を合せた自分なぞを覺えてゐまい。よし又覺えてゐるとしても――自分は卒然として、當時自分たちが先生に浴びせかけた、惡意のある笑ひ聲を思ひ出すと、結局名乘なぞはあげない方が、遙に先生を尊敬する所以だと思ひ直した。そこで珈琲が盡きたのを機會にして、短くなつた葉卷を捨てながら、そつと卓から立上ると、それが靜にした心算でも、やはり先生の注意を擾したのであらう。自分が椅子を離れると同時に、先生はあの血色の惡い丸顏を、あのうすよごれた折襟を、あの紫の襟飾を、一度にこちらへふり向けた。家畜のやうな先生の眼と自分の眼とが、鏡の中で刹那の間出會つたのは正にこの時である。が、先生の眼の中には、さつき自分が豫想した通り、果して故人に遇つたと云ふ氣色らしいものも浮んでゐない。唯、そこに閃いてゐたものは、例の如く何ものかを、常に哀願してゐるやうな、傷ましい目なざしだけであつた。

 自分は眼を伏せた儘、給仕の手から傳票を受けとると、默つてカツフエの入口にある帳場の前へ勘定に行つた。帳場には自分も顏馴染みの、髮を綺麗に分けた給仕頭が、退屈さうに控へてゐる。

「あすこに英語を教へてゐる人がゐるだらう。あれはこのカツフエで賴んで教へて貰ふのかね。」

 自分は金を拂ひながら、かう尋ねると、給仕頭は戸口の往來を眺めた儘、つまらなさうな顏をして、こんな答を聞かせてくれた。

「何、賴んだ譯ぢやありません。唯、毎晩やつて來ちや、あゝやつて、教へてゐるんです。何でももう老朽の英語の先生ださうで、どこでも傭つてくれないんだつて云ひますから、大方暇つぶしに來るんでせう。珈琲一杯で一晩中、坐りこまれるんですから、こつちぢやあんまり難有くもありません。」

 これを聞くと共に自分の想像には、咄嗟に我毛利先生の知られざる何物かを哀願してゐる、あの眼つきが浮んで來た。あゝ、毛利先生。今こそ自分は先生を――先生の健氣な人格を始めて髣髴し得たやうな心もちがする。もし生れながらの教育家と云ふものがあるとしたら、先生は實にそれであらう。先生にとつて英語を教へると云ふ事は、空氣を呼吸すると云ふ事と共に、寸刻と雖も止める事は出來ない。もし強ひて止めさせれば、丁度水分を失つた植物か何かのやうに、先生の旺盛な活力も即座に萎微してしまふのであらう。だから先生は夜毎に英語を教へると云ふその興味に促されて、わざ/\獨りこのカツフエへ一杯の珈琲を啜りに來る。勿論それはあの給仕頭などに、暇つぶしを以て目さるべき悠長な性質のものではない。まして昔、自分たちが、先生の誠意を疑つて、生活の爲と嘲つたのも、今となつては心から赤面のほかはない誤謬であつた。思へばこの暇つぶしと云ひ生活の爲と云ふ、世間の俗惡な解釋の爲に、我毛利先生はどんなにか苦しんだ事であらう。元よりさう云ふ苦しみの中にも、先生は絶えず悠然たる態度を示しながら、あの紫の襟飾とあの山高帽とに身を固めて、ドンキホオテよりも勇ましく、不退轉の譯讀を續けて行つた。しかし先生の眼の中には、それでも猶時として、先生の教授を受ける生徒たちの――恐らくは先生が面してゐるこの世間全體の――同情を哀願する閃きが、傷ましくも宿つてゐたではないか。

 刹那の間こんな事を考へた自分は、泣いて好いか笑つて好いか、わからないやうな感動に壓せられながら、外套の襟に顏を埋めて匇々カツフエの外へ出た。が、後では毛利先生が、明るすぎて寒い電燈の光の下で、客がいないのを幸いに、不相變金切聲をふり立てゝ、熱心な給仕たちにまだ英語を教へてゐる。

「名に代る詞だから、代名詞と云ふ。ね。代名詞。よろしいかね……」

 

□バーチャル・ウェブ版芥川龍之介作品集『傀儡師』の次篇「戯作三昧」へ

 

■やぶちゃん注

 

・歳晩:「さいばん」と読む。年の暮れ。

・所謂腰辨街道の、裸になつた並樹の柳の下を、神田橋の方へ歩いてゐた。自分たちの左右には、昔、島崎藤村が「もつと頭をあげて歩け」と慷慨した、下級官吏らしい人々が、まだ漂つてゐる黄昏の光の中に、蹌踉たる歩みを運んで行く:「もつと頭をあげて歩け」という台詞は、明治401907)年、島崎藤村が「文芸倶楽部」に発表した「並木」の主人公、相川のエンディングの台詞である。この芥川龍之介の叙述全体が、その藤村の「並木」に拠っている。「並木」の最後の部分は初出と明治421909)年12月博文館刊の作品集「藤村集」所収のものでは大きく違う。以下にそれを両方掲げておく(底本は昭和561981)年刊の筑摩書房全集類聚版を用いたが、私のポリシーから恣意的に正字に直してある)。

 

【初出】

 友達に別れると、遽然(にはかに)相川は氣の衰頽(おとろへ)を感じた。可傷(いたま)しい覺醒の念(おもひ)を抱(いだ)き乍ら、内堀に添ふて平坦(たひら)な道路を歸つて行つた。友達の計画して居ることを空想のやうに笑つた彼は、反對(あべこべ)に其友達の爲に、深く、深く、自分の抱負を傷(きづゝ)けられたやうな氣もした。實際、相川の計畫してゐることは澤山ある。學校を新(あらた)に興さうとも思つて居る。新聞をやつて見やうとも思つて居る。出版事業のことも考へて居る。すくなくも社會(よのなか)の爲に盡さうといふ熱い烈しい希望(のぞみ)を抱(いだ)いて居る。しかしながら、彼は一つも手を着けて居なかつた。

 和田倉橋から一つ橋の方へ、堀を左に見ながら歩いて行くと、日頃相川が「腰辨街道」と名を付けたところへ出た。方方の官省(やくしよ)もひける頃と見えて、風呂敷包を小脇に擁(かゝ)へた連中が、柳の並木の蔭をぞろ/\通る。何等の遠い慮(おもんぱかり)もなく、何等の準備(したく)もなく、たゞ/\身の行末を思ひ煩ふやうな有樣をして、今にも地に沈むかと疑はれるばかりの不規則な、力の無い歩みを運び乍ら、あるひは洋服で腕組みしたり、あるひは頭を埀れたり、あるいは薄荷(はくか)パイプを啣(くは)へたりして、熱い砂を踏んで行く人の群を眺めると、恰(あだか)も長い戰爭で疲れて了つて、肩で息をし乍ら歩いて行く兵卒を見るやうあな氣がする。「あゝ、並木だ」と相川は大學生の青木が言つたことを胸に浮かべた。原も、高瀨も、それから又た自分も、すべてこの堀端の並木のやうに、片輪の人に成つて行くやうな心地がしたのである。

 暗い、悲しい思想が憤慨の情に交つて、相川の胸を衝くばかりに湧き上つた。彼は敗兵を叱咤(しつた)する若い士官のやうに、塵埃(ほこり)だらけに成った腰辨街道の群れを眺め乍ら、

「もっと頭を擧げて歩け。」

斯う言つた。冷たい涙は彼の頰を傳つて流れた。

 

【藤村集】

 友達に別れると、遽然(にはかに)相川は氣の衰頽(おとろへ)を感じた。和田倉橋から一つ橋の方へ、内濠(うちぼり)に添ふて平坦(たひら)な道路を歸つて行つた。年をとつたといふ友達のことを笑つた彼は、反對(あべこべ)に其友達の爲に、深く、深く、自分の抱負を傷けられるやうな氣もした。實際、相川の計畫してゐることは澤山ある。學校を新に興さうとも思つて居る。新聞をやつて見やうとも思つて居る。出版事業のことも考へて居る。すくなくも社會の爲に盡さうといふ熱い烈しい希望(のぞみ)を抱いて居る。しかし乍ら、彼は一つも手を着けて居なかつた。

 翌々日、相川は例の會社から家(うち)の方へ歸らうとして、復た斯の濠端(ほりばた)を通つた。日頃「腰辨街道」と名を付けたところへ出ると、方々の官省(やくしよ)もひける頃で、風呂敷包を小脇に擁(かゝ)へた連中がぞろ/\通る。何等の遠い慮(おもんぱかり)もなく、何等の準備(したく)もなく、たゞたゞ身の行末を思ひ煩ふやうな有樣をして、今にも地に沈むかと疑はれるばかりの不規則な力の無い歩みを運び乍ら、洋服で腕組みしたり、頭を埀れたり、あるいは薄荷(はくか)パイプを啣(くは)へたりして、熱い砂を踏んで行く人の群を眺めると、丁度斯の濠端に、同じような高さに揃へられて、枝も葉も切り捨てられて、各自の特色を延ばすことも出來ない多くの柳を見るやうな氣がする。「あゝ、並木だ」と相川は腰辨の生涯を胸に浮べた。

「もっと頭を擧げて歩け。」

 斯う彼は口の中で言つて見て、塵埃(ほこり)だらけに成つた人々の群を眺め入つた。

 

なお、この作品の主人公相川は馬場孤蝶がモデルであり、筑摩書房全集類聚版の注によれば、明治401907)年9月の雑誌『趣味』に載る馬場孤蝶の「島崎君の『並木』」に、『雉子橋から牛が淵を経て、飯田町の交番に至るまでを腰辨街道と名づけたことがある』と記す(雉子橋は外堀(日本橋川)に懸かる一ツ橋1丁目・九段南1丁目と一ツ橋2丁目を結ぶ橋で、牛が淵は現在の九段下駅の近くのお堀、飯田町は牛が淵側の元飯田町を指すか)。この叙述は、取りも直さず、該当の通り(皇居と丸の内及び大手町の間を通る通り)を〝腰弁街道〟と渾名したのは馬場孤蝶その人であり、それを一般名詞化したのは「並木」の島崎藤村、ひいてはこの「毛利先生」の芥川龍之介ということになる(なお、「並木」全文は青空文庫等で読める)。

・蹌踉たる:「蹌踉(そうろう)たる」と読む。足元がしっかりせず、よろよろとした。

・停留場:筑摩書房全集類聚版では「ていりうば」と訓じている。

・十年ばかり以前、自分がまだある府立中學の三年級にゐた時の事:「府立中學」とは、東京府立の中学校(現在の都立高校)のこと。芥川龍之介は、本作発表のきっかり十年前の、明治411908)年に東京府立第三中学校の第三年級であったから、これは芥川龍之介自身の体験に基づく作品と考えてよいであろう。

・光滑々たる:筑摩書房全集類聚版では「光(ひかり)滑々(くわつ/\)たる」と訓じている。光が障害物なく美しくなめらかに反射する、という意味であろう。

・種々たる:筑摩書房全集類聚版では「種々(しよう/\)たる」と訓じている。髪が衰えて短くなっていることの形容。「しゅじゅ」と訓ずる方が一般的である。

・殘喘:「ざんぜん」と読む。残り少ない命。

・「諸君」と、金切聲で呼びかけた:この部分、底本では前行の「微笑を漂はせて、」が一行字数ぴったりで終っており、これが改行かどうかは不明であるが、効果としては改行が本場面での有効性を持つと判断し、改行した。

・讀本:筑摩書房全集類聚版では「とくほん」と訓じている。教科書。次のチョイス・リーダーのこと。

・チヨイス・リイダア:“Standard Choice Reader”は、当時の中学で一般的に用いられていた英語の教科書。鐘美堂刊。

・ヘルの制服:ドイツ語“Mohär”の略とする。英語“mohair”。モヘル。縦糸に梳毛糸(そもうし)、横糸に紡毛糸を用いて織った交織(こうしょく)サージ(梳毛糸は比較的長い毛を梳き短い毛を取り除いてから糸にしたもので、繊維が平行に揃って摩擦に強く切れにくいが、紡毛糸に比べ保温性が劣る。紡毛糸は繊維が混合した状態のままのものを言い、摩擦に弱く切れやすいが空気を多く含むために、様々な風合いを持たすことが出来る。サージとは日本では主に梳毛糸を用いたものを言う語であった)。ロー・サージとも言い、学生服や作業服に用いられる。現在は化繊の混毛が多いが、今もサージと呼称している(以上の注は、退屈な語彙調べによる注ではない。私は昨年から学生服の仕事(!)を任されている。そこで聞いたこともない名称や織りを沢山知った。その如何にも退屈な(!)智の一端である)。

・駭かせた:「駭(おどろ)かせた」と読む。

・海老上り:鉄棒に両手でぶら下がって、両足を両手の間から高く差し出して、反り身になり、鉄棒の上に腰かけるように上がる技。

・冬蠅:筑摩書房全集類聚版では「ふゆばい」と訓じている。

・サアム・オヴ・ライフ:米の詩人ヘンリー・ロングフェロー(Henry Wadsworth Longfellow 18071882)の代表的詩集“A Psalm of Life”(人生讃歌)のこと。

・武俠世界:明治441911)年頃、博文館を退社した押川春浪が主筆となって発刊した少年向けの冒険小説雑誌。

・押川春浪:〔明治9(1876)年~大正4(1914)年〕東京専門学校(現在の早稲田大学)法科の学生であった明治331900)年に日本のSFの濫觴とされる「海島冒険奇譚 海底軍艦」でブレイクした冒険小説作家。後に社員となった博文館の雑誌『少年世界』や『冒険世界』といった誌上で、折からの日露戦争等への国威発揚と相俟って、多くの少年読者を魅惑した。

・心算:筑摩書房全集類聚版では二文字で「つもり」と訓じている。

・慓悍:「ひょうかん」と読む。剽悍。すばやく、且つ荒々しく強いこと

・際とく:「際どく」の誤植。

・「いや、これは私が惡い。……」:この部分、底本では前行の「二三度禿げ頭を下げながら、」が一行字数ぴったりで終っており、これが改行かどうかは不明であるが、効果としては改行が本場面での有効性を持つと判断し、改行した。

・しどろもとろに:「しどろもどろに」の誤植であろう。

・「Life is real, life is earnest. ―― Life is real, life is earnest.」:前記ロングフェローの詩集の標題詩“A Psalm of Life”(“What the Heart of the Young Man Said to the Psalmist”「若者の心が人生を讃える私に語ったこと」という副題を持つ)の第二節。「人生は現実であり、人生は厳粛である。」の意。本作は明治15(1882)年刊の「新体詩抄」に立身出世を鼓舞するものとして訳出されており、その後の英語の教科書にもよく所収された。原詩では以下の通り、エクスクラメンション・マークを伴う。私なりに訳してみた。

 

   Life is real !  Life is earnest !

      And the grave is not its goal ;

   Dust thou art, to dust returnest,

      Was not spoken of the soul.

 

   人生は現実! 人生は厳粛!

      そうして、墓場はそのゴールではない――

   塵は塵へ、灰は灰へ?

      いや、それは私達の魂についての謂いでは断じて、ない。

 

・中西屋:中西屋書店。東京市神田区表神田番地(現在の靖国通り駿河台下交差点付近)にあつた文具・玩具と書籍(洋書も扱った)店。絵本や少年少女向雑誌を刊行した小学新報社としての肩書も持つ出版社でもあった。

・鍍金:「めっき(メッキ)」と読む。

・ハヴアナ:“Havana”。高級葉巻として知られる“Havanos”(ハバナ葉巻)のこと。

・瓦斯煖爐:「ガスだんろ」と読む。

・宛然として:そっくりそのままの様子で。

・遙に先生を尊敬する所以だと:筑摩書房全集類聚版では「所以(ゆゑん)」と訓じている。

・そこで珈琲が盡きたのを機會にして:筑摩書房全集類聚版では「機會(しほ)」と訓じている。

・擾した:筑摩書房全集類聚版では「擾(みだ)した」と訓じている。