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或阿呆の一生 附未定稿(草稿)   芥川龍之介

[やぶちゃん注:芥川龍之介の死後、昭和二(1927)年十月一日発行の雑誌『改造』に掲載。岩波版旧全集を底本としたが、底本は総ルビのため、誤読の虞れのあるもののみのパラルビ( )表記とした。

 冒頭の久米宛の献辞は底本ではポイント落ちで二字程全体が下がっている。

 なお、昭和三十一(1956)年中央公論社刊の小穴隆一「二つの繪」によれば、昭和二年四月上旬の平松麻素子との心中未遂を図ろうとした当日、行方不明の芥川を気遣って芥川の書斎を訪ねた小穴が、机上のハトロン封筒に「小穴隆一君へ」と書いてあるのを開封したところ、この「或阿呆の一生」の原稿だけが封入されていたとあり、現在、久米正雄への献辞を冒頭に持つこの作品が、当初は小穴隆一に宛てられた遺書相当のものとして書かれた作品であった旨の記載がある。これはほとんど知られていないことなので、ここに記載しておく。

 ○2006年 7月15日:最後に「或阿呆の一生」の未定稿(新全集では草稿と称している)を付した。

 ○2007年12月13日:再校訂補正及び追注記。

 ○2010年12月31日:三訂補正及びスクリプト整序。

 ○2017年 4月 8日:フォント指示を正式にユニコードとして一部の閲覧ソフトでの文字化けを解消。]

 

或阿呆の一生

 

 僕はこの原稿を發表する可否は勿論、發表する時や機關も君に一任したいと思つてゐる。

 君はこの原稿の中に出て來る大抵の人物を知つてゐるだらう。しかし僕は發表するとしても、インデキスをつけずに貰ひたいと思つてゐる。

 僕は今最も不幸な幸福の中に暮らしてゐる。しかし不思議にも後悔してゐない。唯僕の如き惡夫、惡子、惡親を持つたものたちを如何にも氣の毒に感じてゐる。ではさやうなら。僕はこの原稿の中では少くとも意識的には自己辯護をしなかつたつもりだ。

 最後に僕のこの原稿を特に君に托するのは君の恐らくは誰よりも僕を知つてゐると思ふからだ。(都會人と云ふ僕の皮を剝ぎさへすれば)どうかこの原稿の中に僕の阿呆さ加減を笑つてくれ給へ。

    昭和二年六月二十日                     芥 川 龍 之 介

   久 米 正 雄 君

 

        時  代

 

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは本といふよりも寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………

 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「人生は一行のボオドレエルにも若かない。」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………

 

        母

 

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂欝に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讚美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善(よ)い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黑光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

 

        家

 

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧嘩をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰(たれ)よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

 

        東  京

 

 隅田川はどんより曇つてゐた。彼は走つてゐる小蒸汽(こじようき)の窓から向う島の櫻を眺めてゐた。花を盛つた櫻は彼の目には一列の襤褸(ぼろ)のやうに憂欝だつた。が、彼はその櫻に、――江戸以來の向う島の櫻にいつか彼自身を見出してゐた。

 

        我

 

 彼は彼の先輩と一しよに或カツフェの卓子(テーブル)に向ひ、絶えず卷煙草をふかしてゐた。彼は餘り口をきかなかつた。が、彼の先輩の言葉には熱心に耳を傾けてゐた。

 「けふは半日自動車に乘つてゐた。」

 「何か用があつたのですか?」

 彼の先輩は頰杖をしたまま、極めて無造作に返事をした。

 「何、唯乘つてゐたかつたから。」

 その言葉は彼の知らない世界へ、――神々に近い「我(が)」の世界へ彼自身を解放した。彼は何か痛みを感じた。が、同時に又歡びも感じた。

 そのカツフェは極小さかつた。しかしパンの神の額(がく)の下には赭(あか)い鉢に植ゑたゴムの樹が一本、肉の厚い葉をだらりと垂らしてゐた。

 

        病

 

 彼は絶え間ない潮風の中に大きい英吉利語の辭書をひろげ、指先に言葉を探してゐた。

 Talaria  翼の生えた靴、或はサンダアル。

 Tale   話。

 Talipot  東印度に産する椰子。幹は五十呎(フイト)より百呎の高さに至り、葉は傘、扇、帽等(とう)に用ひらる。七十年に一度花を開く。………

 彼の想像ははつきりとこの椰子の花を描き出した。すると彼は喉もとに今までに知らない痒さを感じ、思はず辭書の上へ啖を落した。啖を?――しかしそれは啖ではなかつた。彼は短い命を思ひ、もう一度この椰子の花を想像した。この遠い海の向うに高だかと聳えてゐる椰子の花を。

 

        畫

 

 彼は突然、――それは實際突然だつた。彼は或本屋の店先に立ち、ゴオグの畫集を見てゐるうちに突然畫(ゑ)と云ふものを了解した。勿論そのゴオグの畫集は寫眞版だつたのに違ひなかつた。が、彼は寫眞版の中にも鮮かに浮かび上る自然を感じた。

 この畫に對する情熱は彼の視野を新たにした。彼はいつか木の枝のうねりや女の頰の膨らみに絶え間ない注意を配り出した。

 或雨を持つた秋の日の暮、彼は或郊外のガアドの下を通りかかつた。ガアドの向うの土手の下には荷馬車が一台止まつてゐた。彼はそこを通りながら、誰(たれ)か前にこの道を通つたもののあるのを感じ出した。誰か?――それは彼自身に今更問ひかける必要もなかつた。二十三歳の彼の心の中には耳を切つた和蘭人(オランダじん)が一人、長いパイプを啣(くは)へたまま、この憂欝な風景畫の上へぢつと鋭い目を注いでゐた。……………

 

        火  花

 

 彼は雨に濡れたまま、アスフアルトの上を踏んで行つた。雨は可也烈しかつた。彼は水沫(しぶき)の滿ちた中(うち)にゴム引の外套の匂を感じた。

 すると目の前の架空線が一本、紫いろの火花を發してゐた。彼は妙に感動した。彼の上着のポケツトは彼等の同人雜誌へ發表する彼の原稿を隱してゐた。彼は雨の中を步きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。

 架空線は不相變鋭い火花を放つてゐた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかつた。が、この紫色の火花だけは、――凄(すさ)まじい空中の火花だけは命と取り換へてもつかまへたかつた。

 

        死  體

 

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剝ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黃いろの脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

 

        先  生

 

 彼は大きい檞(かし)の木の下に先生の本を讀んでゐた。檞の木は秋の日の光の中に一枚の葉さへ動さなかつた。どこか遠い空中に硝子の皿を垂れた秤が一つ、丁度平衡を保つてゐる。――彼は先生の本を讀みながら、かう云ふ光景を感じてゐた。………

 

       十一 夜

 

 夜は次第に明けて行つた。彼はいつか或町の角に廣い市場(いちば)を見渡してゐた。市場に群つた人々や車はいづれも薔薇色に染まり出した。

 彼は一本の卷煙草に火をつけ、靜かに市場の中へ進んで行つた。するとか細い黑犬が一匹、いきなり彼に吠えかゝつた。が、彼は驚かなかつた。のみならずその犬さへ愛してゐた。

 市場のまん中には篠懸(すずかけ)が一本、四方へ枝をひろげてゐた。彼はその根もとに立ち、枝越しに高い空を見上げた。空には丁度彼の眞上に星が一つ輝いてゐた。

 それは彼の二十五の年、――先生に會つた三月目だつた。

 

       十二 軍  港

 

 潛航艇の内部は薄暗かつた。彼は前後左右を蔽つた機械の中に腰をかがめ、小さい目金(めがね)を覗いてゐた。その又目金に映つてゐるのは明るい軍港の風景だつた。

 「あすこに『金剛』も見えるでせう。」

 或海軍將校はかう彼に話しかけたりした。彼は四角いレンズの上に小さい軍艦を眺めながら、なぜかふと阿蘭陀芹(おらんだぜり)を思ひ出した。一人前三十錢のビイフ・ステエクの上にもかすかに匂つてゐる阿蘭陀芹を。

[やぶちゃん注:「おらんだぜり」はすべて標記の通り、平仮名表記である。]

 

       十三 先生の死

 

 彼は雨上りの風の中に或新らしい停車場のプラットフォオムを步いてゐた。空はまだ薄暗かつた。プラットフォオムの向うには鐵道工夫が三四人、一齊に鶴嘴(つるはし)を上下させながら、何か高い聲にうたつてゐた。

 雨上りの風は工夫の唄や彼の感情を吹きちぎつた。彼は卷煙草に火もつけずに歡びに近い苦しみを感じてゐた。「センセイキトク」の電報を外套のポケツトへ押しこんだまま。……

 そこへ向うの松山のかげから午前六時の上り列車が一列、薄い煙を靡かせながら、うねるやうにこちらへ近づきはじめた。

 

       十四 結  婚

 

 彼は結婚した翌日に「來(き)匇々(そうそう)無駄費ひをしては困る」と彼の妻に小言を言つた。しかしそれは彼の小言よりも彼の伯母の「言へ」と云ふ小言だつた。彼の妻は彼自身には勿論、彼の伯母にも詑びを言つてゐた。彼の爲に買つて來た黃水仙(きすゐせん)の鉢を前にしたまま。……

 

       十五 彼  等

 

 彼等は平和に生活した。大きい芭蕉の葉の廣がつたかげに。――彼等の家は東京から汽車でもたつぷり一時間かかる或海岸の町にあつたから。

 

       十六 枕

 

 彼は薔薇の葉の匂のする懷疑主義を枕にしながら、アナトオル・フランスの本を讀んでゐた。が、いつかその枕の中にも半身半馬神のゐることには氣づかなかつた。

 

       十七 蝶

 

 藻の匂の滿ちた風の中に蝶が一羽ひらめいてゐた。彼はほんの一瞬間、乾いた彼の唇の上へこの蝶の翅(つばさ)の觸れるのを感じた。が、彼の唇の上へいつか捺(なす)つて行つた翅の粉だけは數年後にもまだきらめいてゐた。

 

       十八 月

 

 彼は或ホテルの階段の途中に偶然彼女に遭遇した。彼女の顏はかう云ふ晝にも月の光りの中にゐるやうだつた。彼は彼女を見送りながら、(彼等は一面識もない間がらだつた。)今まで知らなかつた寂しさを感じた。………

 

       十九 人工の翼

 

 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲學者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に驅られ易い一面のルツソオに近い爲かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンディイド」の哲學者に近づいて行つた。

 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歡びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに燒かれた爲にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人(ギリシヤじん)も忘れたやうに。……

 

       二十 械(かせ)

 

 彼等夫妻は彼の養父母と一つ家(いへ)に住むことになつた。それは彼が或新聞社に入社することになつた爲だつた。彼は黃いろい紙に書いた一枚の契約書を力にしてゐた。が、その契約書は後(あと)になつて見ると、新聞社は何の義務も負はずに彼ばかり義務を負ふものだつた。

[やぶちゃん注:本作品中、見出しにルビを持つのは、これのみ。]

 

       二十一 狂人の娘

 

 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。後(うしろ)の人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。

 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。

 「もうどうにも仕かたはない。」

 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。

 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼(かきがら)のついた粗朶垣(そだがき)の中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

 

       二十二 或

 

 それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。

 一週間ばかりたつた後(のち)、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。

 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。

 「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」

 

       二十三 彼  女

 

 或廣場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のある體(からだ)にこの廣場を步いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。

 彼は道ばたに足を止め、彼女の來るのを待つことにした。五分ばかりたつた後(のち)、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ步み寄つた。が、彼の顏を見ると、「疲れたわ」と言つて頰笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い廣場を步いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる爲には何を捨てても善(よ)い氣もちだつた。

 彼等の自動車に乘つた後、彼女はぢつと彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顏はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。

 

       二十四 出  産

 

 彼は襖側(ふすまぎは)に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤兒(あかご)を洗ふのを見下してゐた。赤兒は石鹼の目にしみる度(たび)にいぢらしい顰(しか)め顏を繰り返した。のみならず高い聲に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤兒の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――

「何の爲にこいつも生まれて來たのだらう? この娑婆苦(しやばく)の充ち滿ちた世界へ。――何の爲に又こいつも己(おのれ)のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」

 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

 

       二十五 ストリントベリイ

 

 彼は部屋の戸口に立ち、柘榴(ざくろ)の花のさいた月明りの中に薄汚い支那人が何人か、麻雀戲(マアチヤン)をしてゐるのを眺めてゐた。それから部屋の中へひき返すと、背の低いランプの下に「痴人の告白」を讀みはじめた。が、二頁(ページ)も讀まないうちにいつか苦笑を洩らしてゐた。――ストリントベリイも亦情人だつた伯爵夫人へ送る手紙の中に彼と大差のない譃(うそ)を書いてゐる。………

 

       二十六 古  代

 

 彩色(さいしき)の剝げた佛たちや天人や馬や蓮(はす)の華は殆ど彼を壓倒した。彼はそれ等を見上げたまま、あらゆることを忘れてゐた。狂人の娘の手を脱した彼自身の幸運さへ。………

 

       二十七 スパルタ式訓練

 

 彼は彼の友だちと或裏町を步いてゐた。そこへ幌(ほろ)をかけた人力車が一台、まつ直に向うから近づいて來た。しかもその上に乘つてゐるのは意外にも昨夜の彼女だつた。彼女の顏はかう云ふ晝にも月の光の中にゐるやうだつた。彼等は彼の友だちの手前、勿論挨拶さへ交さなかつた。

 「美人ですね。」

 彼の友だちはこんなことを言つた。彼は往來の突き當りにある春の山を眺めたまま、少しもためらはずに返事をした。

 「ええ、中々美人ですね。」

 

       二十八 殺  人

 

 田舍道は日の光りの中に牛の糞の臭氣を漂はせてゐた。彼は汗を拭ひながら、爪先き上(あが)りの道を登つて行つた。道の兩側に熟した麥は香(かん)ばしい匂を放つてゐた。

 「殺せ、殺せ。………」

 彼はいつか口の中にかう云ふ言葉を繰り返してゐた。誰を?――それは彼には明らかだつた。彼は如何にも卑屈らしい五分刈の男を思ひ出してゐた。

 すると黃ばんだ麥の向うに羅馬(ローマ)カトリツク教の伽藍が一宇、いつの間にか圓屋根を現し出した。………

[やぶちゃん注:この教会の同定については私のブログ『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』を参照。]

 

       二十九 形

 

 それは鐵の銚子(てうし)だつた。彼はこの糸目のついた銚子にいつか「形(かたち)」の美を教へられてゐた。

 

       三十 雨

 

 彼は大きいベツドの上に彼女といろいろの話をしてゐた。寢室の窓の外は雨ふりだつた。濱木棉(はまゆふ)の花はこの雨の中にいつか腐つて行くらしかつた。彼女の顏は不相變月の光の中にゐるやうだつた。が、彼女と話してゐることは彼には退屈でないこともなかつた。彼は腹這ひになつたまま、靜かに一本の卷煙草に火をつけ、彼女と一しよに日を暮らすのも七年になつてゐることを思ひ出した。

 「おれはこの女を愛してゐるだらうか?」

 彼は彼自身にかう質問した。この答は彼自身を見守りつけた彼自身にも意外だつた。

 「おれは未だに愛してゐる。」

 

       三十一 大

 

 それはどこか熟し切つた杏の匂に近いものだつた。彼は燒けあとを步きながら、かすかにこの匂を感じ、炎天に腐つた死骸の匂も存外惡くないと思つたりした。が、死骸の重なり重つた池の前に立つて見ると、「酸鼻」と云ふ言葉も感覺的に決して誇張でないことを發見した。殊に彼を動かしたのは十二三歳の子供の死骸だつた。彼はこの死骸を眺め、何か羨ましさに近いものを感じた。「神々に愛せらるるものは夭折す」――かう云ふ言葉なども思ひ出した。彼の姉や異母弟はいづれも家を燒かれてゐた。しかし彼の姉の夫は僞證罪を犯した爲に執行猶豫中の體だつた。……

 「誰も彼も死んでしまへば善(よ)い。」

 彼は燒け跡に佇んだまま、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。

 

       三十二 喧  嘩

 

 彼は彼の異母弟と取り組み合ひの喧嘩をした。彼の弟は彼の爲に壓迫を受け易いのに違ひなかつた。同時に又彼も彼の弟の爲に自由を失つてゐるのに違ひなかつた。彼の親戚は彼の弟に「彼を見慣へ」と言ひつづけてゐた。しかしそれは彼自身には手足を縛られるのも同じことだつた。彼等は取り組み合つたまま、とうとう緣先へ轉げて行つた。緣先の庭には百日紅(さるすべり)が一本、――彼は未だに覺えてゐる。――雨を持つた空の下に赤光りに花を盛り上げてゐた。

 

       三十三 英  雄

 

 彼はヴォルテエルの家の窓からいつか高い山を見上げてゐた。氷河の懸つた山の上には禿鷹の影さへ見えなかつた。が、背の低い露西亞人(ロシアじん)が一人、執拗に山道を登りゞけてゐた。

 ヴォルテエルの家も夜になつた後(のち)、彼は明るいランプの下にかう云ふ傾向詩を書いたりした。あの山道を登つて行つた露西亞人の姿を思ひ出しながら。………

 

 ――誰(たれ)よりも十戒を守つた君は

   誰よりも十戒を破つた君だ。

 

   誰よりも民衆を愛した君は

   誰よりも民衆を輕蔑した君だ。

 

   誰よりも理想に燃え上つた君は

   誰よりも現實を知つてゐた君だ。

 

   君は僕等の東洋が生んだ

   草花の匂のする電氣機關車だ。――

 

       三十四 色  彩

 

 三十歳の彼はいつの間か或空き地を愛してゐた。そこには唯苔の生えた上に煉瓦や瓦の缺片(かけら)などが幾つも散らかつてゐるだけだつた。が、それは彼の目にはセザンヌの風景畫と變りはなかつた。

 彼はふと七八年前の彼の情熱を思ひ出した。同時に又彼の七八年前には色彩を知らなかつたのを發見した。

 

       三十五 道化人形

 

 彼はいつ死んでも悔いないやうに烈しい生活をするつもりだつた。が、不相變養父母や伯母に遠慮勝ちな生活をつづけてゐた。それは彼の生活に明暗の兩面を造り出した。彼は或洋服屋の店に道化人形の立つてゐるのを見、どの位彼も道化人形に近いかと云ふことを考へたりした。が、意識の外の彼自身は、――言はゞ第二の彼自身はとうにかう云ふ心もちを或短篇の中に盛りこんでゐた。

 

       三十六 倦  怠

 

 彼は或大學生と芒原(すゝきはら)の中を步いてゐた。

 「君たちはまだ生活欲を盛(さかん)に持つてゐるだらうね?」

 「えゝ、――だつてあなたでも………」

 「ところが僕は持つてゐないんだよ。制作慾だけは持つてゐるけれども。」

 それは彼の眞情だつた。彼は實際いつの間にか生活に興味を失つてゐた。

 「制作慾もやつぱり生活慾でせう。」

 彼は何とも答へなかつた。芒原はいつか赤い穗の上にはつきりと噴火山(ふんくわざん)を露し出した。彼はこの噴火山に何か羨望に近いものを感じた。しかしそれは彼自身にもなぜと云ふことはわからなかつた。………

 

       三十七 越

 

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

 

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

       三十八 復  讐

 

 それは木の芽の中にある或ホテルの露台(ろだい)だつた。彼はそこに畫を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶緣した狂人の娘の一人息子と。

 狂人の娘は卷煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。

 少年のどこかへ行つた後(のち)、狂人の娘は卷煙草を吸ひながら、媚びるやうに彼に話しかけた。

 「あの子はあなたに似てゐやしない?」

 「似てゐません。第一………」

 「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」

 彼は默つて目を反らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、殘虐な欲望さへない譯ではなかつた。

 

       三十九 鏡

 

 彼は或カツフェの隅に彼の友だちと話してゐた。彼の友だちは燒林檎を食ひ、この頃の寒さの話などをした。彼はかう云ふ話の中に急に矛盾を感じ出した。

 「君はまだ獨身だつたね。」

 「いや、もう來月結婚する。」

 彼は思はず默つてしまつた。カツフェの壁に嵌めこんだ鏡は無數の彼自身を映してゐた。冷えびえと、何か脅すやうに。………

 

       四十 問  答

 

 なぜお前は現代の社會制度を攻撃するか?

 資本主義の生んだ惡を見てゐるから。

 惡を? おれはお前は善惡の差を認めてゐないと思つてゐた。ではお前の生活は?

 ――彼はかう天使と問答した。尤も誰にも恥づる所のないシルクハツトをかぶつた天使と。………

 

       四十一 病

 

 彼は不眠症に襲はれ出した。のみならず體力も衰へはじめた。何人かの醫者は彼の病にそれぞれ二三の診斷を下した。――胃酸過多、胃アトニイ、乾性肋膜炎、神經衰弱、慢性結膜炎、腦疲勞、………

 しかし彼は彼自身彼の病源を承知してゐた。それは彼自身を恥ぢると共に彼等を恐れる心もちだつた。彼等を、――彼の輕蔑してゐた社會を!

 或雪曇りに曇つた午後、彼は或カツフェの隅に火のついた葉卷を啣へたまま、向うの蓄音機から流れて來る音樂に耳を傾けてゐた。それは彼の心もちに妙にしみ渡る音樂だつた。彼はその音樂の了(おは)るのを待ち、蓄音機の前へ步み寄つてレコオドの貼り札を檢べることにした。

     Magic Flute――Mozart

 彼は咄嗟に了解した。十戒を破つたモッツアルトはやはり苦しんだのに違ひなかつた。しかしよもや彼のやうに、……彼は頭を垂れたまま、靜かに彼の卓子(テエブル)へ歸つて行つた。

 

       四十二 神々の笑ひ聲

 

 三十五歳の彼は春の日の當つた松林の中を步いてゐた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のやうに自殺出來ない」と云ふ言葉を思ひ出しながら。………

 

       四十三 夜

 

 夜はもう一度迫り出した。荒れ模樣の海は薄明りの中に絶えず水沫(しぶき)を打ち上げてゐた。彼はかう云ふ空の下に彼の妻と二度目の結婚をした。それは彼等には歡びだつた。が、同時に又苦しみだつた。三人の子は彼等と一しよに沖の稻妻を眺めてゐた。彼の妻は一人の子を抱き、涙をこらへてゐるらしかつた。

 「あすこに船が一つ見えるね?」

 「ええ。」

 「檣(ほばしら)の二つに折れた船が。」

 

       四十四 死

 

 彼はひとり寢てゐるのを幸ひ、窓格子(まどかうし)に帶をかけて縊死しようとした。が、帶に頸を入れて見ると、俄かに死を恐れ出した。それは何も死ぬ刹那の苦しみの爲に恐れたのではなかつた。彼は二度目には懷中時計を持ち、試みに縊死を計ることにした。するとちよつと苦しかつた後(のち)、何も彼もぼんやりなりはじめた。そこを一度通り越しさへすれば、死にはひつてしまふのに違ひなかつた。彼は時計の針を檢(しら)べ、彼の苦しみを感じたのは一分二十何秒かだつたのを發見した。窓格子の外はまつ暗だつた。しかしその暗の中に荒あらしい鷄(とり)の聲もしてゐた。

 

       四十五 Divan

 

 Divan はもう一度彼の心に新しい力を與へようとした。それは彼の知らずにゐた「東洋的なゲエテ」だつた。彼はあらゆる善惡の彼岸に悠々と立つてゐるゲエテを見、絶望に近い羨ましさを感じた。詩人ゲエテは彼の目には詩人クリストよりも偉大だつた。この詩人の心にはアクロポリスやゴルゴタの外(ほか)にアラビアの薔薇さへ花をひらいてゐた。若しこの詩人の足あとを辿る多少の力を持つてゐたらば、――彼はデイヴアンを讀み了り、恐しい感動の靜まつた後(のち)、しみじみ生活的宦官に生まれた彼自身を輕蔑せずにはゐられなかつた。

 

       四十六 譃

 

 彼の姉の夫の自殺は俄かに彼を打ちのめした。彼は今度は姉の一家の面倒も見なければならなかつた。彼の將來は少くとも彼には日の暮のやうに薄暗かつた。彼は彼の精神的破産に冷笑に近いものを感じながら、(彼の惡德や弱點は一つ殘らず彼にはわかつてゐた。)不相變いろいろの本を讀みつづけた。しかしルツソオの懺悔錄さへ英雄的な譃に充ち滿ちてゐた。殊に「新生」に至つては、――彼は「新生」の主人公ほど老獪な僞善者に出會つたことはなかつた。が、フランソア・ヴィヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡(をす)」を發見した。

 絞罪を待つてゐるヴィヨンの姿は彼の夢の中にも現れたりした。彼は何度もヴィヨンのやうに人生のどん底に落ちようとした。が、彼の境遇や肉體的エネルギイはかう云ふことを許す譯はなかつた。彼はだんだん衰へて行つた。丁度昔スウイフトの見た、木末(こずゑ)から枯れて來る立ち木のやうに。………

 

       四十七 火あそび

 

 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷(うすごほり)にさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。

 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」

 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」

 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。

 「プラトニツク・スウイサイドですね。」

 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」

 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。

 

       四十八 死

 

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里(せいさんかり)を一罎(ひとびん)渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。

 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

 

       四十九 剝製の白鳥

 

 彼は最後の力を盡し、彼の自敍傳を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出來なかつた。それは彼の自尊心や懷疑主義や利害の打算の未だに殘つてゐる爲だつた。彼はかう云ふ彼自身を輕蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剝(む)いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と眞實と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自敍傳の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文藝上の作品に必しも誰(たれ)も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ氣も彼には働いてゐた。彼はその爲に手短かに彼の「詩と眞實と」を書いて見ることにした。

 彼は「或阿呆の一生」を書き上げた後(のち)、偶然或古道具屋の店に剝製の白鳥のあるのを見つけた。それは頸を擧げて立つてゐたものの、黃ばんだ羽根さへ虫に食はれてゐた。彼は彼の一生を思ひ、涙や冷笑のこみ上げるのを感じた。彼の前にあるものは唯發狂か自殺かだけだつた。彼は日の暮の往來をたつた一人步きながら、徐ろに彼を滅しに來る運命を待つことに決心した。

 

       五十 俘

 

 彼の友だちの一人は發狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤獨の、――輕快な假面の下にある孤獨の人一倍身にしみてわかる爲だつた。彼はこの友だちの發狂した後(のち)、二三度この友だちを訪問した。

 「君や僕は惡鬼につかれてゐるんだね。世紀末の惡鬼と云ふやつにねえ。」

 この友だちは聲をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇の花さへ食つてゐたと云ふことだつた。彼はこの友だちの入院した後(のち)、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。それはこの友だちの愛した「檢察官」の作者の半身像だつた。彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。

 彼はすつかり疲れ切つた揚句、ふとラディゲの臨終の言葉を讀み、もう一度神々の笑ひ聲を感じた。それは「神の兵卒たちは己(おれ)をつかまへに來る」と云ふ言葉だつた。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と鬪はうとした。しかしどう云ふ鬪ひも肉體的に彼には不可能だつた。「世紀末の惡鬼」は實際彼を虐んでゐるのに違ひなかつた。彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出來なかつた。あのコクトオさへ信じた神を!

[やぶちゃん注:やぶちゃん注:下線部「肉體的に」は原文では「丶」による傍点。]

 

       五十一 敗  北

 

 彼はペンを執る手も震へ出した。のみならず涎(よだれ)さへ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴェロナアルを用ひて覺めた後(のち)の外は一度もはつきりしたことはなかつた。しかもはつきりしてゐるのはやつと半時間か一時間だつた。彼は唯薄暗い中にその日暮らしの生活をしてゐた。言はば刄(は)のこぼれてしまつた、細い劍(つるぎ)を杖にしながら。

 

 

別稿

[やぶちゃん注:以下は全て葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」を底本とし、岩波版新全集の草稿と校合した。但し、「 時代」については底本編者による補正された部分を敢えて削除してある。具体的には、「 時代」の

「ストリン〔ト〕ベリイ」

及び

「そこに並んでゐるのは〔本といふよりも〕寧ろ世紀末それ自身だつた。」

の〔 〕部分である。なお別の底本(別の直筆原稿?)を用いていると思われる新全集では、前半部がなく、原稿のⅠとして

「き、西洋風の梯子を下りようとした。

に唐突に始まり、以下、最後までの部分のみを所収している。葛巻は編者註で『云うまでもなく、編者はこの最初に浮かんだままであろうこの別稿の素直さの表現の気持ちのほうを愛している。――それはたとえ表現としては「拙なく」あろうとも。 』と記している。その註では『最初、これは唐突に「何と云ふ貧しさ!」と書かれ、つぎの言葉の樣に[やぶちゃん注:「何と云ふもの寂しさ、……」を指す。]訂正されている。』ともあるので、私の独断で以下のような削除表記にしてみた。ちなみに岩波版新全集にはこのような記載(「何と云ふ貧しさ!」を書き直しているという記述)はない。別の直筆原稿であると考え、暫く葛巻の言を信じたい。]

 

        時  代

 

 それは或本屋の二階だつた。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新らしい本を探してゐた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリンベリイ、イブセン、シヨオ、トルストイ、………

 そのうちに日の暮は迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を讀みつづけた。そこに並んでゐるのは寧ろ世紀末それ自身だつた。ニイチエ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ダスタエフスキイ、ハウプトマン、フロオベエル、…………

 彼は薄暗がりと戰ひながら、彼等の名前を數へて行つた。が、本はおのづからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根氣も盡き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の頭の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上に佇んだまま、本の間に動いてゐる店員や客を見下した。彼等は妙に小さかつた。のみならず如何にも見すぼらしかつた。

 「何と云ふ貧しさ! 何と云ふもの寂しさ、……」

 彼は暫く梯子の上からかう云ふ彼等を見渡してゐた。………

 

[やぶちゃん注:以下は、底本では「×〔題不明〕」とあるが、この「×」は編集上の葛巻の記号であるので、排除した。また、直筆原稿に拠った新全集に従い、「これだよ、」の会話文の文頭を一字空けにし、底本の文末にある「・・・」を削除した。これは未定稿に対して葛巻の使う癖であると私は考えるからである。なお、新全集編者の後記では、これは「学生時代、医科大学見学の時のスケッチであろう」としている。]

 彼は一人の友だちを持つてゐた。この友だちは近眼鏡をかけた、背の低い醫學生だつた。彼はこの友だちの實行力を伴つた現實主義に殆ど尊敬に近いものを感じた。この友だちは彼の好奇心を利用し、いつか彼を支配して行つた。

 「これだよ、君たちの心臟と云ふのは。」

 この友だちは解剖臺を前に死骸の心臟を見せたりした。

 

[やぶちゃん注:以下は、底本では「×〔題不明〕」とあるが、この「×」は編集上の葛巻の記号であるので、排除した。また、直筆原稿に拠った新全集に従い、底本の文末にある「・・・」を削除した。これは未定稿に対して葛巻の使う癖であると私は考えるからである。なお、新全集編者の後記では、これは「晩年に親友の恒藤恭と会った時のものか」としている。しかし、晩年ということになると、大正十五(1926)年九月下旬に恒藤がアメリカから帰国した際ということになるが、この時は、帰国直後に恒藤が鵠沼の芥川を訪ねたのであり、「或ホテル」という表現は当たらない。ただ、これが恒藤が芥川に会った最後であったことは事実である。]

 彼は或ホテルの一室に或友だちと話してゐた。この友だちは彼の舊友だつた。彼はこの友だちに會ふのもけふ限りであると覺悟してゐた。

 

芥川龍之介 或阿呆の一生