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今昔物語鑑賞   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年四月、新潮社発行の『日本文學講座』第六卷の「(鑑賞)」欄に表記の題で収録されたもの。底本は岩波版旧全集を用いた。傍点「丶」は下線に代えた。「今昔物語集」引用部分に現れる返り点は、ポイントを落として入れてある(横書きでの返り点は私の意識では極めて不本意であるが、仕方がない)。最後に現れる芥川自身の詩についてのみ、注を付した。最後に、岩波版新全集より草稿(極めて短い)を附したが、恣意的に正字に代えてある。]

 

今昔物語鑑賞

 

 『今昔物語』三十一卷は天竺、震旦、本朝の三部に分れてゐる。本朝の部の最も面白いことは、恐らくは誰も異存はあるまい。その又本朝の部にしても最も僕などに興味のあるのは「世俗」並びに「惡行」の部である。――即ち『今昔物語』中の最も三面記事に近い部である。しかし、――

 しかし僕は佛法の部にも多少の興味を感じてゐる。それは佛法そのものは勿論、天台や眞言の護摩の煙に興味を感じてゐると云ふことではない。唯當時の人々の心に興味を感じてゐると云ふことである。道命阿闍梨は阿闍梨と言ふものゝ、和泉式部の情人だつた。しかし彼の經を誦(ず)する時には諸天善神も歓喜の餘り、法輪寺の前へ下つて來た。(本朝の部卷二。天王寺別當道命阿闍梨語第卅六)のみならず金峯山(きんぷせん)の藏王(ざわう)、熊野の権現、住吉の大明神等の下つて來たのは必しも經そのものゝ功德に浴したかつた爲ばかりではない。「就中に其微妙にして聞く人皆首を低て不貴と云ふ事」なかつた爲である。當時の諸天善神も勿論護法に熱心だつたであろう。が、彼等の情熱の中にはやはり僕等の音樂に對する情熱もまじつていない訣ではなかつた

 更に又佛法の部の僕に教へるのは如何に當時の人々の天竺から渡つて來た超自然的存在、――佛菩薩を始め天狗などの超自然的存在を如實に感じてゐたかと云ふことである。僕等は畢(つひ)に彼等ではない。法華寺の十一面觀音も、扶桑寺の高僧たちも、乃至は金剛峯寺の不動明王(赤不動)も僕等には唯藝術的、美的感激を與へるだけである。が、彼等は目のあたりに、或は少くとも幻の中にかう云ふ超自然的存在を目撃し、その又超自然的存在に恐怖や尊敬を感じてゐた。たとへば金剛峯寺の不動明王はどこか精神病者の夢に似た、氣味の惡い荘嚴を具へてゐる。あの氣味の悪い荘嚴は果して想像だけから生まれるであらうか?

 「今は昔、河内の國君江の郡の遊宜の村の中に一人の沙彌の尼有けり。……而る間尼聊に身に營む事有るに依て、暫く寺に不詣ざる程に、其の繪像盗人の爲に被盗ぬ。尼此れを悲び歎て、堪ふるに隨て、東西を求むと云へども尋得る事無し。……亦知識を引て放生を行ぜんと思ふ。攝津の國の難波の邊に行ぬ。河の邊を徘徊する間、市より返る人多かり。見れば荷へる箱を樹の上に置けり。主は不見えず。尼聞けば此の箱の中に種々の生類の音有り。此れ畜生の類を入れたる也けりと思て、必ず此れを買ひて放たむと思ふ。……良(しばらく)久く有て箱の主來れり。尼此れに會て云く、「此の箱の中に種々の生類の音有り。我れ放生の爲に來れり。此れを買はむと思ふ故に汝を待也」と。箱の主答て云く、「此れ更に生類を入たるに非ず」と。……其の時に市人等來り集りて此の事を聞て云く、「速に其箱を開て其虚實を可見し」と。箱の主白地(あからさま)に立去る樣にて箱を棄て失ぬ。……早く逃げぬる也けりと知て、其後箱を開て見れば、中に被盗にし繪彿(ゑぶつ)の像在ます。……」(同上。尼所被盗持併自然奉値語第十七)

 この話も樹の上の箱の中に畜生の音の聞えると云ふことに美しい生(な)ま々々しさを放らせてゐる。金剛峯寺の不動明王を描いたのも或は職業的畫工ではなかつたかも知れない。しかし、この話を作つたものは(若し「作つた」と言はれるとすれば)小説家でも何でもない當時の民の一人(ひとり)である。彼等は必ず佛菩薩の地上を歩いてゐるのを見たことであらう。それから、又鳶に似た天狗の空中を飛んでゐるのを見たことであらう。

 僕は前の話を批評するのに「美しい生(な)ま々々しさ」と云ふ言葉を使つた。美しいか美しくないかは暫く問はず、この「生ま々々しさ」は『今昔物語』の藝術的生命であると言つても差し支へない。たとへば、「三獸行菩薩道兎燒身語第十三」(天竺の部卷五。)を見ても、『今昔物語』の作者は兎の爲にかう云ふ形容を加へてゐる。――

 「兎は勵の心を發して……耳は高く※(くぐ)せにして目は大きに前の足短かく尻の穴は大きに開いて東西南北求め行けども更に求め得たる物无(な)し。」[やぶちゃん字注:「※」=(やまいだれ)+「區」]

 「耳は高く」以下の言葉は同じ話を載せた「大唐西域記」や「法苑珠林」には發見出來ない。(この話は誰でも知つてゐる通り、釈迦佛の生まれない過去世の話、――Jātaka中の話である。)従つてかう云ふ生ま々々しさは一に作者の寫生的手腕に負うてゐると思はなければならぬ。遠い昔の天竺の兎はこの生ま々々しさのある爲に如何にありありと感ぜられるであらう。

 この生(な)ま々々しさは、本朝の部には一層野蠻に輝いてゐる。一層野蠻に?――僕はやつと『今昔物語』の本來の面目を發見した。『今昔物語』の藝術的生命は生ま々々しさだけには終つてゐない。それは紅毛人の言葉を借りれば、brutality(野性)の美しさである。或は優美とか華奢とかには最も縁の遠い美しさである。

 「今は昔、京より東の方に下る者有けり。何れの國郡とは不知で一の郷を通ける程に、俄に婬欲盛に發(おこり)て、女の事を物に狂が如に思ければ、心を難靜めくて、思ひ繚ける程に、大路の邊に有ける垣の内に、靑菜と云物糸高く盛に生滋たり。十月許の事なれば、蕪の根大きにして有けり。此の男忽に馬より下て、其垣内に蕪の根の大なるを一つ引て取て、其を彫つて、其の穴を穿て婬を成してけり。……其の後其の畠の主靑菜を引取らむが爲に、下女共敷具し、亦幼き女子共など具して、其の畠に行て靑菜を引取る程に、年十四五許なる女子の、未だ男には不觸りける有て、其の靑菜を引取る程に、垣の廻を行て遊けるに、彼の男の投入たる蕪を見付て、『此に穴を彫たる蕪の有ぞ。此は何ぞ』など云て暫く翫ける程に、皺干たりけるを掻削て食てけり。然て皆従者(ずさ)共具て家に返ぬ。其の後此の女子何むと無く惱まし氣にて、物なども不食で心地不例有ければ、……奇異(あやし)くて月來(つきごころ)を經る程に、月既に満て糸嚴し氣なる男子を平かに生つ。……」(本朝の部第十六。東方行者娶蕪子語第二)

 この話そのものに野趣のあるのは今更言葉を加へずとも善い。しかし作者の寫生的筆致は「其穴を娶て婬を成し」とか、「皺干たりけるを掻削て」とか云ふ二三の言葉にも現れてゐる。かう云ふ表現上の特色は勿論この話ばかりにある訣ではない。たとへば源の賴光の四天王の女車に乘つた話にしても、(本朝の部第十八。賴光郎等共紫野見物語第二)彼等の単に醉つた光景を如何にも無遠慮に描き出してゐる。

 『今昔物語』の作者は、事實を寫すのに少しも手加減を加へてゐない。これは僕等人間の心理を寫すのにも同じことである。尤も『今昔物語』の中の人物は、あらゆる傳説の中の人物のやうに複雜な心理の持ち主ではない。彼等の心理は陰影に乏しい原色ばかり並べてゐる。しかし今日の僕等の心理にも如何に彼等の心理の中に響き合ふ色を持つてゐるであらう。銀座は勿論朱雀大路ではない。が、モダアン・ボオイやモダアン・ガアルも彼等の魂を覗いて見れば、退屈にもやはり『今昔物語』の中の靑侍(あをざむらひ)や靑女房(あをにようばう)と同じことである。

 「今は昔、年若くして形美麗なる男有けり。……其の男何れの所より來けるにか有りけむ、二條朱雀を行くに、朱雀門の前を渡る間、年十七八歳許なる女の形端正にして姿美麗なる、微妙の衣を重ね着たる大路に立てり。……門の内に人離れたる所に女を呼び寄せて、……男女に云く、「……君我が云はむ事に隨へ。此れ懇に思ふ事也」と。女の云く、「此れ可辭事に非ず。云はむ事に可隨しと云へども、我若し君の云はむ事に隨ひては、命を失はむ事疑ひ無き也」と。男何事を云ふとも不心得ずして、只辞ぶる言也と思ひて、強(あながち)に此の女を懐抱せむとす。女泣々云く、「君は世の中に有て家に妻子を具せるらむに、只行ずりの事にこそ有れ。我は君に代て、戲れに命失はむ事の悲き也。」如此く諍ふと云へども、女途に男の云ふに隨ひぬ。……」(本朝の部卷四。爲救野干死寫法花人語第五)

 この話の中の女は實は狐の化けてゐたのである。が、彼等の問答は長椅子の上にも行はれるであらう。狐は一夜を明かした後、扇に顏を隠したま、武德殿の中に倒れてゐた。しかもその扇は形見の爲に男の贈つた扇だつた。僕はこの話を『今昔物語』の中でも最も抒情詩的な話の一つに數へてゐる。秋の日のさしこんだ武德殿の外には、或は野菊の花なども咲いてゐたであらう。……

 かう云ふ作者の寫生的筆致は當時の人々の精神的争鬪もやはり鮮かに描き出してゐる。彼等もやはり僕等のやうに婆婆苦の爲に呻吟した。『源氏物語』は最も優美に彼等の苦しみを寫してゐる。それから『大鏡』は最も簡古に彼等の苦しみを寫してゐる。最後に『今昔物語』は最も野蠻に、或は殆ど殘酷に彼等の苦しみを寫してゐる。僕等は光源氏の一生にも悲しみを生じずにはゐられないであらう。まして兼通卿の一生にはもの凄さを感じるのに連ひない。が、『今昔物語』の中の話――たとへば參河守大江定基出家語」(本朝の部卷九。)には何かもつと切迫した息苦しさに迫られるばかりである。

 「……女の美麗也し形も衰へ持行く。定基此れを見るに、悲の心譬へむ方無。而るに女遂に病重く成て死ぬ。其後定基悲び心に不堪して、久しく葬送する事無くして、抱て臥たりけるに、日來を経るに口を吸けるに、女の口より奇異(あやし)き臭き香の出來たりけるに、疎む心出來て泣々く葬してけり。……亦雉を生け乍ら捕へて人の持來れるを、守の云く、「去來(いざ)此の鳥を生乍ら造て食はむ。……」物も不思えぬ郎等共、此れを聞て云く、「極(いみじ)く侍りなむ。……」と勸めければ、……而るに雉を生乍ら持來て揃(むしり)にするに、暫くはふたふたと爲るを引かへて、只揃(むしり)に揃れば、鳥目より血の涙を垂れて目をしば叩きて、彼れ此れが貌を見るを見て、不堪して立去く者も有けり。鳥此く泣くよと咲(わらひ)て、情無氣に揃る者も有けり。揃り畢てつれば下せけるに、刀に随て、血つふつふと出來けるを、刀を打巾(のご)ひ々々々下しければ、奇異(あやし)く難堪氣なる音を出して死畢にければ……」

 『今昔物語』は前にも書いたやうに野性の美しさに充ち満ちてゐる。其又美しさに輝いた世界は宮廷の中にばかりある訣ではない。従つて又此世界に出没する人物は上は一天萬乘の君から下は土民だの盗人だの乞食だのに及んでゐる。いや、必しもそればかりではない。世音菩薩や大天狗や妖怪變化にも及んでゐる。若し又紅毛人の言葉を借りるとすれば、之こそ王朝時代のHuman Comedy(人間喜劇)であらう。僕は『今昔物語』をひろげる度に當時の人々の泣き聲や笑ひ聲の立昇るのを感じた。のみならず彼等の輕蔑や憎惡の(例へば武士に對する公卿の輕蔑の)それ等の聲の中に交つてゐるのを感じた。

 僕等は時々僕等の夢を遠い昔に求めてゐる。が、王朝時代の京都さへ『今昔物語』の教へる所によれば、餘り東京や大阪よりも婆婆苦の少ない都ではない。成程、牛車の往來する朱雀大路は華やかだつたであらう。しかしそこにも小路へ曲れば、道ばたの死骸に肉を爭ふ野良犬の群れはあつたのである。おまけに夜になつたが最後、あらゆる超自然的存在は、大きい地藏菩薩だの女(め)の童(わらは)になつた狐だのは春の星の下にも歩いてゐたのである。修羅、餓鬼、地獄、畜生等の世界はいつも現世の外にあつたのではない。……

な醒めそねや、さ公(きん)だちや。

市に立ちたるはたものに

鴉はさはに騒ぐとも、

豊(とよ)の大御酒(おほみき)つきぬまは

な醒めそねや、さ公(きん)だちや。

 

[やぶちゃん注:この最後の詩は芥川自身の「酒ほがひ」という作品である。元の詩は大正十四(1925)年一月頃の作と思われる。漢字表記、改行にも有意な違いが認められるので、岩波版旧全集の「詩歌 二」に所収するそれを掲げておく。

 

 酒ほがひ

 

なさめそねや。

さ公(きん)だちや。

市に立ちたる磔(はた)ものに

鴉はさはにむるるとも、

豊(とよ)の大御酒(おほみき)つきぬまは、

篳篥ふけや。

さ公(きん)だちや。

 

推測であるが、これは「ルバイヤート」をインスパイアしているのではなかろうか。]

 

 

「今昔物語鑑賞」草稿

[やぶちゃん注:底本では初行に編者による原稿順序を示すローマ数字「Ⅰ」が入るが、省略した。]

 

 今昔物語 十卷は天竺、震旦、本朝の三部に分かれてゐる。僕は中學生の昔から何度もこの本に目を通した。が、震旦の部は滅多に讀んだことはない。それは僕の「孝子説話」に興味を持つてゐなかつた爲もあるであらう。或は又[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]