やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ

本所兩國   芥川龍之介
[やぶちゃん注:昭和2(1927)年5月6日から5月22日まで十五回の連載(9日と16日は休載している)で、『大阪毎日新聞』の傍系誌であった『東京日日新聞』夕刊にシリーズ名「大東京繁昌記四六――六〇」を附して、連載(芥川龍之介は大阪毎日新聞社の社員である)。底本は岩波版旧全集を用いた(但し、これは何を「底本」としたかが記載されていない。底本の原則に従い『東京日日新聞』と判断されるが、そうすると注で示した、先行する岩波普及版全集との異同(普及版全集が何を底本としたのか)に対する疑義が更に生ずる。が、筑摩書房全集類聚版で確認する限り、例えば「匂」という漢字を「匀」という芥川好みの字体で用いている点などからも、この有意な別稿の存在は大きいと私は思う)。が、底本には多くのルビがあるが、読みの振れるものだけのパラルビとした。傍点「丶」は下線に代え、踊り字「/\」の濁点は正字に直した。また、一部に注を附した。最後に岩波版新全集の草稿を附したが、例によって恣意的に旧字体に変換してある。新全集編者が便宜上草稿原稿に付けたⅠ及びⅡの記号位置は各原稿前行に示した。

 なお、連載時の挿絵は芥川龍之介の友人であり、画家の小穴隆一(作中のO君)であった。これにはエピソードがある(以下は鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の記述に基づく)。当初の新聞社の指示は、挿絵も芥川自身が描くという条件で、芥川は相当に悩みながらも、小穴の指導を受けて第一回・第二回分の絵を描くが、社に帰参した記者が芥川が挿絵を描くことを嫌がっている伝えたところ、小穴が描いてもよいということになり、芥川は快哉を叫んだという。また、このシリーズ「大東京繁昌記」は昭和2(1927)年3月の高濱虚子の「丸の内」に始まり、田山花袋の「日本橋付近」等、名随筆を生み出している。]

 

 

本所兩國

 

       「大溝」

 

 僕は本所界隈のことをスケツチしろといふ社命を受け、同じ社のO君と一しよに久振りに本所へ出かけて行つた。今その印象記を書くのに當り、本所兩國と題したのは或は意味を成してゐないかも知れない。しかしなぜか兩國は本所區のうちにあるものの、本所以外の土地の空氣も漂つてゐることは確(たしか)である。そこでO君とも相談の上、ちよつと電車の方向板じみた本所兩國といふ題を用ひることにした。――

 僕は生れてから二十歳頃までずつと本所に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者が比較的大勢住んでゐた町である。從つて何處を歩いて見ても、日本橋や京橋のやうに大商店の並んだ往來などはなかつた。若しその中に少しでも賑やかな通りを求めるとすれば、それは僅に兩國から龜澤町に至る元町通りか、或は二の橋から龜澤町に至る二つ目通り位なものだつたであらう。勿論その外に石原通りや法恩寺橋通りにも低い瓦屋根の商店は軒を並べてゐたのに違ひない。しかし廣い「お竹倉」をはじめ、「伊達樣」「津輕樣」などといふ大名屋敷はまだ確(たしか)に本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。…………

 殊に僕の住んでゐたのは「お竹倉」に近い小泉町である。「お竹倉」は僕の中學時代にもう兩國停車塲や陸軍被服廠に變つてしまつた。しかし僕の小學時代にはまだ「大溝(おほどぶ)」に圍まれた、雜木林や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だつた。「大溝」とはその名の示す通り、少くとも一間半あまりの溝のことである。この溝は僕の知つてゐる頃にはもう黑い泥水をどろりと淀ませてゐるばかりだつた。(僕はそこへ金魚にやるぼうふらをすくひに行つたことをきのふのやうに覺えてゐる。)しかし「御維新」以前には溝よりも堀に近かつたのであらう。僕の叔父は十何歳かの時に年にも似合はない大小を差し、この溝の前にしやがんだまま、長い釣竿をのばしてゐた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘當てをしかけた者があつた。叔父は勿論むつとして肩越しに相手を振り返つてみた。僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ氣の强かつた者はない。かういふ叔父はこの時にも相手によつては賣られた喧嘩を買ふ位の勇氣は持つてゐたのであらう。が、相手は誰かと思ふと、朱鞘の大小をかんぬき差しに差した身の丈拔群の侍だつた。しかも誰(たれ)にも恐れられてゐた「新徴組」の一人に違ひなかつた。かれは叔父を尻目にかけながら、にやにや笑つて歩いてゐた。叔父はかれを一目みたぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにゐたとかいふことである。……

 僕は小學時代にも「大溝」の側を通る度にこの叔父の話を思ひ出した。叔父は「御維新(ごいしん)」以前には新刀無念流の劍客(けんきやく)だつた。(叔父が安房上總へ武者修行に出かけ、二刀流の劍客と仕合をした話も矢張り僕を喜ばせたものである。)それから「御維新」前後には彰義隊に加はる志を持つてゐた。最後に僕の知つてゐる頃には年とつた猫背の測量技師だつた。「大溝」は今日の本所にはない。叔父も亦大正の末年に食道癌を病んで死んでしまつた。本所の印象記の一節にかういふことを加へるのは或は私事に及び過ぎるであらう。しかし僕はO君と一しよに兩國橋を渡りながら、大川の向うに立ち並んだ無數のバラツクを眺めた時には實際烈しい流轉の相に驚かない譯には行かなかつた。僕の「大溝」を思ひ出したり、その又「大溝」に釣をしてゐた叔父を思ひ出したりすることも必しも偶然ではないのである。

 

       兩  國

 

 兩國の鐵橋は震災前と變らないといつても差支へない。たゞ鐵の欄干の一部はみすぼらしい木造に變つてゐた。この鐵橋の出來たのはまだ僕の小學時代である。しかし櫛形の鐵橋には懷古の情も起つて來ない。僕は昔の兩國橋に――狹い木造の兩國橋にいまだに愛惜を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日よりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、浪の荒い「百本杭」や蘆の茂つた中洲を眺めたりした。中洲に茂つた蘆は勿論、「百本杭」も今は殘つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸に近い水の中に何本も立つてゐた亂杭である。昔の芝居は殺し塲などに多田の藥師の石切塲と一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸を使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸を歩いたかどうかは覺えてゐない。が、朝は何度もそこに群がる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川でも魚の釣れたことに多少の驚嘆を洩らしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何と何だつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人もそこに來てゐなかつた。その代りに杭の間には坊主頭の土左衞門が一人俯向けに浪に搖すられてゐた。……

 兩國橋の袂にある表忠碑も昔に變らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役の陸軍總司令官大山巖(いはほ)侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中學へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日淸役のことを覺えてゐない。しかし北淸事變の時には大平(だいへい)といふ廣小路(兩國)の繪草紙屋へ行き、石版刷の戰爭の繪を時々一枚づつ買つたものである。それ等の繪には義和團の匪徒や英吉利兵などはたふれてゐても、日本兵は一人もたふれてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張り日本兵も一人位は死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾露西亞位惡い國はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に發達する譯には行かなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐたためもあるかも知れない。この知人は南山の戰に鐵條網にかゝつて戰死してしまつた。鐵條網といふ言葉は今日では誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在來の辭書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年前(ぜん)の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない譯には行かなかつた。

 この表忠碑の後には確(たしか)兩國劇塲といふ芝居小屋の出來る筈になつてゐた。現に僕は震災前にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁を見たことを覺えてゐる。けれども今は薄汚ないトタン葺きのバラツクの外に何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は兩國の鐵橋に愛惜を持つてゐないやうにこの煉瓦建の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。兩國橋の木造だつた頃には駒止め橋もこの邊に殘つてゐた。のみならず井生村(いぶむら)樓や二州樓といふ料理屋も兩國橋の兩側に並んでゐた。その外に鮨屋の與平、うなぎ屋の須崎屋(すさきや)、牛肉の外にも冬になると猪や猿を食はせる豐田屋、それから囘向院の表門に近い橫町(よこちよう)にあつた「坊主軍鷄」――かう一々數へ立てて見ると、本所でも名高い食物屋は大抵この界隈に集つてゐたらしい。

 

       「富士見の渡し」

 

 僕等は兩國橋の袂を左へ切れ、大川に沿つて歩いて行つた。「百本杭」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達樣」は殘つてゐるかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達樣」の中にある和靈(われい)神社のお神樂を見に行つたものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさつたまま、熱心にお神樂をみてゐるうちに「うんこ」をしてしまつたこともあつたらしい。しかし何處を眺めても、トタン葺きのバラツクの外に「伊達樣」らしい屋敷は見えなかつた。「伊達樣」の庭には木せいが一本秋ごとに花を盛つてゐたものである。僕はその薄甘いにほひを子供心にも愛してゐた。あの木犀も震災の時に勿論灰になつてしまつたことであらう。

 流轉の相の僕を脅(おどか)すのは「伊達樣」の見えなかつたことばかりではない。僕は確(たしか)この近所にあつた「富士見の渡し」を思ひ出した。が、渡し塲らしい小屋は何處にも見えない。僕は丁度道ばたに芋を洗つてゐた卅前後の男に渡し塲の有無をたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し塲のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸から「明治病院」の裏手に當る向う河岸へ通つてゐた。その又向う河岸(がし)は掘割になり、そこに時々どこかの家の家鴨なども泳いでゐたものである。僕は中學へはひつた後も或親戚を尋ねるために度々「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派の「五りん」[やぶちゃん後注]とかいふもののお上さんだつた。僕の家へ何かの拍子に圓朝の息子の出入したりしたのもかういふ親戚のあつたためめであらう。僕は又その家の近所に今村次郞といふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覺えてゐる。――

 僕は講談といふものを寄席では殆ど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釋師は先代の村井吉瓶(きつぺい)だけである。(もつとも典山とか伯山とか或は又伯龍とかいふ新時代の藝術家を知らない譯ではない。)從つて僕は講談を知るために大抵今村次郞氏の速記本に依つた。しかし落語は家族達と一しよに相生町の廣瀨だの米澤町(日本橋區)の橘家だのへ聞きに行つたものである。殊に度々行つたのは相生町の廣瀨だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎はつきりと覺えてゐない。たゞ吉田國五郞の人形芝居を見たことだけは未だにありありと覺えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵小幡小平次とか累とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ行き、久振りに文樂を見物した。けれども今日の文樂は僕の昔見た人形芝居よりも輕業じみたけれんを使つてゐない。吉田國五郞の人形芝居は例へば淸玄の庵室などでも、血だらけな淸玄の幽靈は大夫の見台が二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席の廣瀨も燒けてしまつたであらう。今村次郞氏も「明治病院」の裏手に――僕は正直に白狀すれば、今村次郞氏の現存してゐるかどうかも知らないものゝ一人である。

 そのうちに僕は震災前と――といふよりも寧ろ廿年前と少しも變らないものを發見した。それは兩國驛の引込み線をとゞめた、三尺に足りない草土手である。僕は實際この草土手に「國亡びて山河(さんか)在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情なかつた。

[やぶちゃん後注:「五りん」とは当時、寄席の客一人に付き五厘の計算で、各芸人を寄席に斡旋していた世話人。寄席と芸人の双方の利害を勘案することを仕事とした。なお、芥川龍之介の「追憶」の中の「剥製の雉」も参考にされたい。]

 

       「お竹倉」

 

 僕の知人は震災のために何人もこの界隈にたほれてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命を全うしたのは二十前後の息子だけだつた。それも火の粉を防ぐために戶板をかざして立つてゐたのを旋風のために捲き上げられ、安田家の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに來た「お條さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は發狂したのも同樣だつた。(「お條さん」は髮の毛の薄いために何處へも片付かずにゐる人だつた。しかし髮の毛を生やすために蝙蝠の血などを頭へ塗つてゐた。)最後に僕の通つてゐた江東小學校の校長さんは兩眼とも明を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも燒け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張りこの界隈に火事を避けてゐたことであらう。從つて又僕は勿論、僕の家族もかれ等のやうに非業の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所會館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。

 「しかし兩國橋を渡つた人は大抵助かつてゐたのでせう?」

 「兩國橋を渡つた人はね。……それでも元町通りには高壓線の落ちたのに觸れて死んだ人もあつたといふことですよ。」

 「兎に角東京中でも被服廠程大勢燒け死んだところはなかつたのでせう。」

 かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大體「御維新」前と變らなかつたものの、もう總武鐵道會社の敷地の中に加へられてゐた。僕はこの鐵道會社の社長の次男の友達だつたから、みだりに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雜木林や竹やぶのある、町中には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかゝつた掘割さへ大川に通じてゐた。僕は時々空氣銃を肩にし、その竹藪や雜木林の中に半日を暮らしたものである。どぶ板の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中學を卒業する前に英譯の「獵人日記」を拾ひ讀みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の陰や大きい晝の月のかかつた雜木林の梢を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃にはいかめしい陸軍被服廠や兩國驛に變つてゐた。けれども震災後の今日を思へば、――「卻(かへ)つて并州(へいしう)を望めばこれ故郷」[やぶちゃん後注1]と支那人の歌つたのも偶然ではない。

 總武鐵道の工事の始まつたのはまだ僕の小學時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜は「本所の七不思議」[やぶちゃん後注2]を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、晝間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉(かたは)の蘆」はどこかこのあたりにあるものと信じない譯には行かなかつた。現に夜學に通ふ途中「お竹倉」の向うにばかばやしを聞き、てつきりあれは「狸ばやし」に違ひないと思つたことを覺えてゐる。それはおそらくは小學時代の僕一人の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも總武鐵道の工事中にそこへ通つてゐた線路工夫の一人は宵闇の中に幽靈を見、氣絶してしまつたとかいふことだつた。

[やぶちゃん後注1:この詩は中唐の詩人、賈島(かとう)の「唐詩選」にも所収する七絶、「度桑乾」の結句である。

  度桑乾       桑乾を度(わた)る

 客舍并州已十霜   并州に客舎すること已に十霜(じつさう)

 歸心日夜憶咸陽   帰心日夜咸陽を憶ふ

 無端更渡桑乾水   端無くも更に渡る桑乾の水

 卻望并州是故郷   卻つて并州を望めば是(これ)故郷

なお、この結句は古来、このように訓読されているが、「卻望」は副詞ではなく、「振り返る」の意の動詞であるから、「并州を卻(かへ)り望めば」が意味上は正しい訓読であると思う。]

[やぶちゃん後注2:「本所の七不思議」は、一「置いてけ堀」・二「狸囃子」(「馬鹿囃子」)・三「送り提灯」・四「落葉無き椎の木」・五「津軽屋敷の太鼓」・六「片葉の葦」・七「消えずの行灯」(燈り無し蕎麦)とされるが、ほかに○「送り拍子木」、○「足洗い屋敷」も挙げられることがある。サイト「落語の舞台を歩く」『落語「本所七不思議」の舞台を歩く』等のページによると、

1「置いてけ堀」:現在の錦糸町駅北口付近の錦糸堀または細川屋敷のあった墨田区吾妻橋1-23。

2「狸囃子」:本所一帯での現象であるが、特に同定するならば、備前国平戸藩松浦家下屋敷のあった東駒形3丁目本所中学校。

3「送り提灯」:本所出村町辺りで、現在の太平1丁目報恩寺付近。

4「落葉無き椎の木」:横網町平戸新田藩松浦家上屋敷で、現在の両国公会堂付近。

5「津軽屋敷の太鼓」:現在の両国駅近くの北斎通り。津軽越中守(津軽藩)上屋敷は亀沢2丁目緑図書館及び緑公園一帯。

6「片葉の葦」:藤代町の南側から両国の広小路に架かる駒止橋の下を流れる隅田川の入堀。現在の両国橋付近であるが、『駒止(留)橋は東両国広小路の北側(現京葉道路の南側)に有ったごく小さな橋で、その下の堀は片葉掘りと言った。明治37年、前両国橋が架けられる時、埋め立てられた』(上記ページより引用)。

7「消えずの行灯」:南割り下水辺り、現在の北斎通り。

○「送り拍子木」:入江町大横川沿い北辻橋近く。現在の江東橋脇の緑4丁目24付近。

○「足洗い屋敷」:本所三笠町、現在の亀沢4丁目12付近。

に同定されている。]

 

       「大川端」

 

 本所會館は震災前の安田家の跡に建つたのであらう。安田家は確(たしか)花崗石を使つたルネサンス式の建築だつた。僕は椎の木などの茂つた中にこの建築の立つてゐたのに明治時代そのものを感じてゐる。が、セセツシヨン式の本所會館は「牛乳デー」とかいふものゝために植込みのある玄關の前に大きいポスターを掲げたり、宣傳用の自動車を並べたりしてゐた。僕の水泳を習ひに行つた「日本ゆう泳協會」[やぶちゃん後注1]は丁度この河岸にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代將軍家光は水泳を習ひに日本橋へ出かけたと言ふことを發見し、滑稽に近い今昔の感を催さない譯には行かなかつた。しかし僕等の大川へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。

 僕は又この河岸にも昔に變らないものを發見した。それは――生憎何の木かはちよつと僕には見當もつかない。が、兎に角新芽を吹いた昔の並木の一本である。僕の覺えてゐる柳の木は一本も今では殘つてゐない。けれどもこの木だけは何かの拍子に火事にも燒かれずに立つてゐるのであらう。僕は殆どこの木の幹に手を觸れて見たい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供を連れたお婆さんが二人曇天の大川を眺めながら、花見か何かにでも來てゐるやうに稻荷ずしを食べて話し合つてゐた。

 本所會館の隣にあるのは建築中の同愛病院である。高い鐵の櫓だの、何階建かのコンクリートの壁だの、殊に砂利を運ぶ人夫だのは確(たしか)に僕を威壓するものだつた。同時に又工業地になつた「本所の玄關」といふ感じを打ち込まなければ措かないものだつた。僕は半裸體の工夫が一人、汗に體を輝かせながら、シヤベルを動かしてゐるのを見、本所全體もこの工夫のやうに烈しい生活をしてゐることを感じた。この界隈の家々の上に五月のぼりの飜つてゐたのは僕の小學時代の話である。今では、――誰(たれ)も五月のぼりよりは新しい日本の年中行事になつたメイ・デイを思ひ出すのに違ひない。

 僕は昔この邊にあつた「御藏橋」と言ふ橋を渡り、度々友綱(ともつな)の家[やぶちゃん後注2]の側にあつた或友達の家へ遊びに行つた。かれも亦海軍の將校になつた後、二三年前に故人になつてゐる。しかし僕の思ひ出したのは必しもかれのことばかりではない。かれの住んでゐた家のあたり、――瓦屋根の間に樹木の見える橫町のことも思ひ出したのである。そこは僕の住んでゐた元町通りに比べると、はるかに人通りも少なければ「しもた家」も殆ど門並みだつた。「椎の木松浦」[やぶちゃん後注3]のあつた昔は暫く問はず、「江戶の橫網鶯の鳴く」と北原白秋氏の歌つた本所さへ今ではもう「歷史的大川端」に變つてしまつたと言ふ外はない。如何に萬法は流轉するとはいへ、かういふ變化の絶え間ない都會は世界中にも珍らしいであらう。

 僕等はいつか工事塲らしい板圍ひの前に通りかかつた。そこにも勞働者が二三人、せつせと槌(つち)を動かしながら、大きい花崗石を削つてゐた。のみならず工事中の鐵橋さへ泥濁りに濁つた大川の上へ長々と橋梁(はしげた)を橫たへてゐた。僕はこの橋の名前は勿論、この橋の出來る話も聞いたことはなかつた。震災は僕等のうしろにある「富士見の渡し」を滅してしまつた。が、その代りに僕等の前に新しい鐵橋を造らうとしてゐる。……

 「これは何といふ橋ですか?」

 麥藁帽を冠つた勞働者の一人は矢張り槌を動かしたまま、ちよつと僕の顏を見上げ、存外親切に返事をした。

 「これですか? これは藏前橋です。」

[やぶちゃん後注1:「ゆう」はママ。なお、芥川龍之介の「追憶」の中の「水泳」では「日本水泳協会」とある。]

[やぶちゃん後注2:「友綱」は、力士友綱貞太郎のこと。高知県出身。板垣退助の世話で角界入りし、四股名は海山太郎。幕内での最高位は前頭筆頭止まりであったが、引退後友綱を襲名、指導者として角界発展に尽くした。]

[やぶちゃん後注3:前の『「お竹倉』のやぶちゃん後注2「本所の七不思議」の四「落葉無き椎の木」である。舟の往来の目印となるほどの巨木で、七不思議以前に、江戸の名所であった。]

 

       「一錢蒸汽」

 

 僕等はそこから引き返して川蒸汽の客になるために橫網の浮き棧橋へおりて行つた。昔はこの川蒸汽も一錢蒸汽と呼んだものである。今はもう賃錢も一錢ではない。しかし五錢出しさへすれば、何區でも勝手に行かれるのである。けれども屋根のある浮き棧橋は――震災は勿論この浮き棧橋もほのほにして空へ立ち昇らせたのであらう。が、一見した所は明治時代に變つてゐない。僕等はベンチに腰をおろし、一本の卷煙草に火をつけながら、川蒸汽の來るのを待つことにした。

 「石垣にはもう苔が生えてゐますね。もつとも震災以來四五年になるが、……」

 僕はふとこんなことを言ひ、O君のために笑はれたりした。

 「苔の生えるのは當り前であります。」

 大川は前にも書いたやうに一面に泥濁りに濁つてゐる。それから大きい浚渫船が一艘起重機を擡げた向う河岸(がし)も勿論「首尾(しゆび)の松」[やぶちゃん後注1]や土藏の多い昔の「一番堀」や「二番堀」ではない。最後に川の上を通る船も今では小蒸汽や達磨船である。五大力、高瀨船、傳馬(てんま)、荷足(にたり)、田舟などといふ大小の和船も何時の間にか流轉の力に押し流されたのであらう。僕はO君と話しながら、「沅湘日夜東に流れて去る」[やぶちゃん後注2]といふ支那人の詩を思ひ出した。かういふ大都會の中の川は沅湘のやうに悠々と時代を超越してゐることは出來ない。現世(げんせ)は實に大川さへ刻々に工業化してゐるのである。

 しかしこの浮き棧橋の上に川蒸汽を待つてゐる人々は大抵大川よりも保守的である。僕は卷煙草をふかしながら、唐棧(とうざん)柄の著物を著た男や銀杏返しに結つた女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない譯には行かなかつた。同時に又明治時代にめぐり合つた或懷しみに近いものを感じない譯には行かなかつた。そこへ下流から漕いで來たのは久振りに見る五大力である。艫(へさき)の高い五大力の上には鉢卷きをした船頭が一人一丈餘りの櫓を押してゐた。それからお上さんらしい女が一人御亭主に負けずに竿を差してゐた。かういふ水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩めいた心もちを起させるものは少ないかも知れない。僕はこの五大力を見送りながら、――その又五大力の上にゐる四五歳の男の子を見送りながら、幾分かかれ等の幸福を羨みたい氣さへ起してゐた。

 兩國橋をくぐつて來た川蒸汽はやつと浮き棧橋へ橫著けになつた。「隅田丸卅號」(?)――僕は或はこの小蒸汽に何度も前に乘つてゐるのであらう。兎に角これも明治時代に變つてゐないことは確(たしか)である。川蒸汽の中は滿員だつた上、立つてゐる客も少くない。僕等はやむを得ず舟ばたに立ち、薄日の光に照らされた兩岸の景色を見て行くことにした。尤も船ばたに立つてゐたのは僕等二人に限つた譯ではない。僕等の前には夏外套を著た、あご髯の長い老人さへやはり船ばたに立つてゐたのである。

 川蒸汽は靜かに動き出した。すると大勢の客の中に忽ち「毎度御やかましうございますが」と甲高い聲を出しはじめたのは繪葉書や雜誌を賣る商人である。これもまた昔に變つてゐない。若し少しでも變つてゐるとすれば、「何ごとも活動ばやりの世の中でございますから」などと云ふ言葉を挾んでゐることであらう。僕はまだ小學時代からかう云ふ商人の賣つてゐるものを一度も買つた覺えはない。が、天窓越しにかれの姿を見おろし、ふと僕の小學時代に伯母と一しよに川蒸汽へ乘つた時のことを思ひ出した。

[やぶちゃん後注:「首尾の松」は蔵前橋西詰め浅草御蔵の四番堀と五番堀の間の隅田川岸にあった松の名。この命名については、吉原通いの通人は当時、舟で隅田川から吉原に通じた山谷堀に向かったが、その上り下りの舟が、この松かげに寄って「首尾」を語り合ったことからついたとする洒落た説がある。(サイト『台東区の名所、旧跡』「首尾の松より)。]

[やぶちゃん後注2:この詩は中唐の詩人、戴叔倫の「三体詩」に所収する七絶、「湘南即事」の転である。

  湘南即事

 盧橘花開楓葉衰   盧橘(ろきつ)花開きて楓葉衰ふ

 出門何處望京師   門を出でて何れの處にか京師(けいじ)を望まん

 沅湘日夜東流去   沅湘日夜東に流れ去る

 不爲愁人住少時   愁人の爲に住(とど)まること少時もせず

「沅湘」は沅江と湘江で、共に洞庭湖に流れ入る川。]

 

       乘り繼ぎ「一錢蒸汽」

 

 僕等はその時にどこへ行つたのか、兎に角伯母だけは長命寺の櫻餠を一籠膝にしてゐた。すると男女の客が二人、僕等の顏を尻目にかけながら、「何か匂ひますね」「うん、糞臭いな」などと話しはじめた。長命寺の櫻餠を糞臭いとは、――僕は未だに生意氣にもこの二人を田舍者めと輕蔑したことを覺えてゐる。長命寺にも震災以來一度も足を入れたことはない。それから長命寺の櫻餠は、――勿論今でも昔のやうに評判の善いことは確(たしか)である。しかし饀や皮にあつた野趣だけはいつか失はれてしまつた。……

 川蒸汽は藏前橋の下をくぐり、廐橋へ眞直に進んで行つた。そこへ向うから僕等の乘つたのとあまり變らない川蒸汽が一艘矢張り浪を蹴つて近づき出した。が、七八間隔ててすれ違つたのを見ると、この川蒸汽の後部には甲板の上に天幕を張り、ちやんと大川の兩岸の景色を見渡せる設備も整つてゐた。かういふ古風な川蒸汽もまた目まぐるしい時代の影響を蒙らない譯には行かないらしい。その後へ向うから走つて來たのはお客や藝者を乘せたモオター・ボートである。屋根船や船宿を知つてゐる老人達は定めしこのモオター・ボートに苦々しい顏をすることであらう。僕は江戶趣味に隨喜する者ではない。[やぶちゃん後注1]しかし僕の小學時代に大川に浪を立てるものは「一錢蒸汽」のあるだけだつた。或はその外に利根川通ひの外輪船のあるだけだつた。僕は渡し舟に乘る度に「一錢蒸汽」の浪の來ることを、――このうねうねした浪のために舟の搖れることを恐れたものである。しかし今日の大川の上に大小の浪を殘すものは一々數へるのに耐へないであらう。

 僕は船端に立つたまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確(たしか)廣重も描いてゐた河童のことを思ひ出した。河童は明治時代には、――少くとも「御維新」前後には大根河岸(だいこんがし)の川にさへ出沒してゐた。僕の母の話に依れば、觀世新路(くわんぜじんみち[やぶちゃん注:「じん」はママ。])に住んでゐた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗つてゐるうちに大根河岸の川の河童に腋の下をくすぐられたと言ふことである。(觀世新路に植木屋の住んでゐたことさへ僕等にはもう不思議である。)まして大川にゐた河童の數は決して少くはなかつたであらう。いや、必しも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人は夜網を打ちに出てゐたところ、何か舳(とも)へ上つたのを見ると、甲羅だけでも盥ほどあるすつぽんだつたなどと話してゐた。僕は勿論かういふ話を悉く事實とは思つてゐない。けれども明治時代――或は明治時代以前の人々はこれ等の怪物を目撃する程この町中を流れる川に詩的恐怖を持つてゐたのであらう。

 「今ではもう河童もゐないでせう。」

 「かう泥だの油だの一面に流れてゐるのではね。――しかしこの橋の下あたりには年を取つた河童の夫婦が二匹未だに住んでゐるかも知れません。」

 川蒸汽は僕等の話の中に廐橋の下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼んでゐた。僕は昔は渡し舟へ乘ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭い匂のしたことを思ひ出した。しかし今日の大川の水は何の匂も持つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭い匂だけであらう。……

 「あの橋は今度出來る駒形橋(こまかたばし)ですね?」

 O君は生憎僕の問に答へることは出來なかつた。駒形は僕の小學時代には大抵「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と發音するやうになつてしまつた。「君は今駒形(こまかた)あたりほとゝぎす」を作つた遊女[やぶちゃん後注2]も或ひは「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の聲に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづから匂を失つてしまふことは大川の水に變らないのである。

[やぶちゃん後注1:底本注記によると、この部分、普及版全集では、

從つて又モオタアボオトを無風流と思ふ者ではない。しかし僕の小學時代……

となっている。]

[やぶちゃん後注2:新吉原の有名な遊女二代目高尾太夫のこと。この句は万治2(1659)年に伊達綱宗に贈った句とされる(しかし高尾は熱心に通う綱宗を徹底して振り続け、結局、彼に惨殺される。これが伊達騒動の火種となった)。]

 

       柳  島

 

 僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋の袂へ出、そこへ來合せた圓タクに乘つて柳島へ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覺えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?――若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小學時代に業平橋かどこかにあつた或かなり大きい寺へ葬式に行つた時だけである。僕はその葬式の歸りに確(たしか)父に「御維新」前の本所の話をして貰つた。父は往來の左右を見ながら、「昔はこゝいらは原ばかりだつた」とか「何とか樣の裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊りとかの死骸を早桶に入れ、その又早桶を葭簀(よしず)に包んだ上、白張りの提燈を一本立てて原の中に据ゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原の中に立つた白張の提燈を想像し、何か氣味の惡い美しさを感じた。しかもかれもれ眞夜中になると、その早桶のおのづからごろりと轉げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少いはゆる「御朱引外(ごしゆびきそと)」[やぶちゃん後注1]の面かげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、たゞ電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往來を見ながら、金錢を武器にする修羅界の空氣を憂鬱に感じるばかりだつた。

 僕等は「橋本」の前で圓タクをおり、水のどす黑い掘割傳ひに龜井戶の天神樣へ行つて見ることにした。名高い柳島の「橋本」も今は食堂に變つてゐる。尤もこの家は燒けずにすんだらしい。現に古風な家の一部やあれ果てた庭なども殘つてゐる。けれどもすり硝子へ綠いろに「食堂」と書いた軒燈は少くとも僕にははかなかつた。僕は勿論「橋本」の料理を云々するほどの通人ではない。のみならず「橋本」へ來たことさへあるかないかわからない位である。が、五代目菊五郞の最初の腦溢血を起したのは確(たしか)この「橋本」の二階だつたであらう。

 掘割を隔てた妙見樣も今ではもうすつかり裸になつてゐる。それから掘割に沿うた往來も、――僕は中學時代に蕪村句集を讀み、「君行くや柳綠に路長し」といふ句に出合つた時、この往來にあつた柳を思ひ出さずにはゐられなかつた。しかし今僕等の歩いてゐるのは有田ドラツグや愛聖館[やぶちゃん後注2]の並んだ、せせこましいなりに賑かな往來である。近頃私娼の多いとか云ふのも恐らくはこの往來の裏あたりであらう。僕は淺草千束町(せんぞくまち)にまだ私娼の多かつた頃の夜の景色を覺えてゐる。それは窓ごとに火かげのさした十二階の聳えてゐるために殆ど莊嚴な氣のするものだつた。が、この往來はどちらへ拔けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊する氣にはならなかつたであらう。けれども明治時代の諷刺詩人、齋藤綠雨は十二階に惡趣味そのものを見出してゐた。すると明日の詩人たちは有田ドラツグや愛聖館にもかれ等自身の「惡の花」を――或は又「善の花」を歌ひ上げることになるかも知れない。

[やぶちゃん後注1:江戸時代の江戸地図には、御府内(中央の正規市内に相当)と御府外(周辺の郡部に相当)との境界線が朱書きで記されていた。本所は朱引内の地であるが、芥川はここで、まさに「朱引」地の周縁性を述べていると思われる。]

[やぶちゃん後注2:「愛聖館」とは現在の萩寺(本文次項参照)の境内の一画にあったキリスト教の教会。後に(芥川龍之介の死後)、亀戸に移転した。]

 

萩寺あたり

 

 僕は碌でもないことを考へながら、ふと愛聖館の掲示板を見上げた。するとそこに書いてあるのは確(たしか)かういふ言葉だつた。

 「神樣はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」

 產兒制限論者は勿論、現世の人々はかういふ言葉に微笑しない譯にはゆかないであらう。人口過剩に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の證據と思ふことは出來ない。いや、寧ろ全能の主の憎しみの證據とさへ思はれるであらう。しかし本所の或塲末の小學生を教育してゐる僕の舊友の言葉に依れば、少くともその界隈に住んでゐる人々は子供の數の多い家ほど反つて暮らしも樂だと云ふことである。それは又どの家の子供も兎に角十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼いで來るからだと云うことである。愛聖館の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事實を知らなかつたかも知れない。が、確(たしか)にかういふ言葉は現世の本所の或塲末に生活してゐる人々の氣持ちを代辯することになつてゐるであらう。尤も子供の多い程暮らしも樂だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事實である。

 それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺を見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に燒けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文先生の石碑を前にした古池の水も渇れ渇れになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの寂びてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所の猿江にあつた僕の家の菩提寺を思ひ出した。この寺には何でも司馬江漢や小林平八郞[やぶちゃん後注1]の墓の外に名高い浦里(うらざと)時次郞[やぶちゃん後注2]の比翼塚も殘つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論餘り古いことではない。しかし義士の討入りの夜に兩刀を揮つて鬪つた振り袖姿の小林平八郞は小學時代の僕等には實に英雄そのものだつた。それから浦里時次郞も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には惡緣の深いものである。從つて矢張り小學時代から浦里時次郞を尊敬してゐた。(けれども正直に白狀すれば、はじめて浦里時次郞を舞臺の上に見物した時、僕の戀愛を感じたものは浦里よりも寧ろ禿(かむろ)だつた。)この寺は――慈眼寺といふ日蓮宗の寺は震災よりも何年か前に染井の墓地のあたりに移轉してゐる。かれ等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移轉してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江の墓地は未だに僕の記憶に殘つてゐる。就中薄い水苔のついた小林平八郞の墓の前に曼珠沙華の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所以外に見ることの出來ないものだつたかも知れない。

 萩寺の先にある電柱(?)は「龜井戶天神近道」といふペンキ塗りの道標を示してゐた。僕等はその橫町を曲り、待合やカフエの軒を並べた、狹苦しい往來を歩いて行つた。が、肝腎の天神樣へは容易に出ることも出來なかつた。すると道ばたに女の子が一人メリンスの袂を飜しながら、傍若無人にゴム毬をついてゐた。

 「天神樣へはどう行きますか?」

 「あつち。」

 女の子は僕等に返事をした後、聞えよがしにこんなことを言つた。

 「みんな天神樣のことばかり訊くのね。」

 僕はちよつと忌々しさを感じ、この如何にもこましやくれた十ばかりの女の子を振り返つた。しかしかれ女は側目も振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張り毬をつき續けてゐた。實際支那人の言つたやうに「變らざるものよりして之を見れば」[やぶちゃん後注4]何ごとも變らないのに違ひない。僕も亦僕の小學時代には鐵面皮にも生藥屋(きぐすりや)へ行つて「半紙を下さい」などと言つたものだつた。

[やぶちゃん後注1:「小林平八郞」は吉良義央の家老。赤穂浪士による吉良亭襲撃時に討死。]

[やぶちゃん後注2:「浦里時次郞」は吉原山名屋の遊女裏里と春日屋時次郎の二人を指すが、この名前は実在の人物のものではない。明和6(1769)年に公儀役人の息子伊藤伊之助と吉原の花魁三芳野が心中した実際の事件を元に、三年後、両者を時次郎と浦里とした新内「明烏夢泡雪」(あけがらすゆめのあわゆき)が作られ好評を博し、「明烏花濡衣(あけがらすはなのぬれぎぬ)」等の歌舞伎もされたが、その新内の関係者によって本比翼塚は建立されたが、これは正しくは実在した三芳野伊之助の比翼塚と称すべきであろう。なお、後述される巣鴨の慈眼寺は奇しくも芥川龍之介の墓所でもある。]

[やぶちゃん注3:「禿」は花魁の使う七、八歳で売られてきた童女。]

[やぶちゃん注4:これは北宋の詩人蘇軾の名文「前赤壁賦」の末尾に現われる。以下に末尾原文と書き下し文を示す。

蘇子曰、客亦知夫水與月乎。逝者如斯、而未嘗往也。盈虚者如彼、而卒莫消長也。蓋將自其變者而觀之、則天地曾不能以一瞬。自其不變者而觀之、則物與我皆無盡也。且夫天地之間、物各有主。而又何羨乎。苟非吾之所有、雖一毫而莫取。惟江上之淸風、與山間之明月、耳得之而爲聲、目遇之而成色。取之無禁、用之不竭。是造物者之無盡藏也。而吾與子之所共食。客喜而笑、洗盞更酌。肴核既盡杯盤狼藉。相與枕藉乎舟中、不知東方之既白。

蘇子曰く、「客も亦夫の水と月を知る乎。逝く者は斯くの如くにして、未だ嘗て往かざるなり。盈虚する者は彼くの如くにして、卒に消長する莫きなり。蓋し將た其の變る者より之を觀れば、則ち天地も曾て以て一瞬たる能はず。其の變らざる者より之を觀れば、則ち物も我も皆盡くること無き也。又何をか羨まんや。且夫れ天地の間、物各々主有り。荀も吾れの有する所に非れば、一毫と雖も取ること莫し。惟だ江上の淸風と、山間の明月とは、耳之を得れば聲を爲し、目之に遇えば色を成す。之を取れども禁無く、之れを用いても竭(つ)きず。是れ造物者の無盡藏なり。而して吾れと子と共に食ふ所なり。」客喜んで笑ひ、盞(さかづき)を洗ひて更に酌む。肴核(かうかく)既に盡て杯盤狼籍たり。相共に舟中に枕藉して、東方の既に白むを知らず。

該当部分に下線を引いて示した。]

 

       「天神樣」

 

 僕等は門並みの待合の間をやつと「天神樣」の裏門へ辿りついた。するとその門の中には夏外套を著た男が一人、何か滔々としやべりながら、「お立ち合ひ」の人々へ小さい法律書を賣りつけてゐた。僕はかれの雄辯に辟易せずにはゐられなかつた。が、この人ごみを通りこすと、今度は背廣を著た男が一人最新化學應用の目藥と云ふものを賣りつけてゐた。この「天神樣」の裏の廣塲も僕の小學時代にはなかつたものである。しかし廣塲の出來た後にもこゝにかゝる見世物小屋」は活き人形や「からくり」ばかりだつた。

 「こつちは法律、向うは化學――ですね。」

 「龜井戶も科學の世界になつたのでせう。」

 僕等はこんなことを話し合ひながら、久しぶりに「天神樣」へお詣りに行つた。「天神樣」の拜殿は仕合せにも昔に變つてゐない。いや、昔に變つてゐないのは筆塚や石の牛も同じことである。僕は僕の小學時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思ひ出した。(が、僕の字は何年たつても、一向上達する容子はない。)それから又石の牛の額へ錢を投げてのせることに苦心したことも思ひ出した。かう云ふ時に投げる錢は今のやうに一錢銅貨ではない。大抵は五厘錢か寛永通寶である。その又穴錢の中の文錢(ぶんせん)[やぶちゃん後注1]を集め、所謂「文錢の指環」を拵へたのも何年前の流行であらう。僕等は拜殿の前へ立ち止まり、ちよつと帽をとつてお時宜をした。

 「太鼓橋も昔の通りですか?」

 「ええ、――しかしこんなに小さかつたかな。」

 「子供の時に大きいと思つたものは存外あとでは小さいものですね。」

 「それは太鼓橋ばかりぢやないかも知れない。」

 僕等はのれんをかけた掛け茶屋越しにどんより水光りのする池を見ながら、やつと短い花房(はなふさ)を垂らした藤棚の下を歩いて行つた。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に變つてゐない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立つてゐるのは僕には何か時代錯誤を感じさせない譯には行かなかつた。江戶時代に興つた「風流」は江戶時代と一しよに滅んでしまつた。たゞ僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」の匂を殘してゐた。けれども今は目のあたりに、――O君はにやにや笑ひながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾を指し示した。

 「カルシウム煎餠も賣つてゐますね。」

 「ああ、あの大きい句碑の前にね。――それでもまだ張り子の龜の子は賣つてゐる。」

 僕等は、「天神樣」の外へ出た後、「船橋屋」の葛餠を食ふ相談をした。が、本所に疎遠になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋の前に水を撒いてゐたお上さんに田舍者らしい質問をした。それから花柳病の醫院[やぶちゃん後注2]の前をやつと又船橋屋へ辿り著いた。船橋屋も家は新たになつたものの、大體は昔に變つてゐない。僕等は緣臺に腰をおろし、鴨居の上にかけ並べた日本アルプスの寫眞を見ながら、葛餠を一盆づつ食ふことにした。

 「安いものですね、十錢とは。」

 O君は大いに感心してゐた。しかし僕の中學時代には葛餠も一盆三錢だつた。僕は僕の友だちと一しよに江東梅園(こうとうばいえん)[やぶちゃん後注3]などへ遠足に行つた歸りに度たびこの葛餠を食つたものである。江東梅園も臥龍梅と一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田や榛(はん)の木のあつた龜井戶はかう云ふ梅の名所だつた爲に南畫らしい趣を具へてゐた。が、今は船橋屋の前も廣い新開の往來の向うに二階建の商店が何軒(けん)も軒を並べてゐる。……

[やぶちゃん後注1:「文錢」は寛永通宝の一つで、寛文年間に鋳造された銅銭。表に「寛」、裏(背)に「文」の字が刻印されていたことから、こう称した。]

[やぶちゃん後注2:「花柳病の醫院」が多いのは、天神参りと称して、女遊びをする人が多く、この辺りには性病科病院が多かった。]

[やぶちゃん後注3:亀戸天神の東にあった小村井梅園を指す。「梅屋敷」とも呼ばれていたが、明治43(1913)年の洪水で破壊された。]

 

       錦 糸 堀

 

 僕は天神橋の袂から又圓タクに乘ることにした。この界わいはどこを見ても、――僕はもう今昔の變化を云々するのにも退屈した。僕の目に觸れるものは半ば出來上つた小公園である。或はトタン塀を繞らした工塲である。或は又見すぼらしいバラツクである。齋藤茂吉氏は何かの機會に「ものの行きとどまらめやも」[やぶちゃん後注]と歌ひ上げた。しかし今日の本所は「ものゝ行き」を現してゐない。そこにあるものは震災のために生じた「ものゝ飛び」に近いものである。僕は昔この邊に糧秣廠(りやうまつせう)のあつたことを思ひ出し、更にその糧秣廠に火事のあつたことを思ひ出し、如露亦如電(によろやくによでん)といふ言葉の必しも誇張でないことを感じた。

 僕の通つてゐた第三中學校も鐵筋コンクリートに變つてゐる。僕はこの中學校へ五年の間通ひつゞけた。當時の校舍も震災のために灰になつてしまつたのであらう。が、僕の中學時代には鼠色のペンキを塗つた二階建の木造だつた。それから校舍のまはりにはポプラアが何本かそよいでゐた。(この界隈は土の痩せてゐるためにポプラア以外の木は育ち惡かつたのである。)僕はそこへ通つてゐるうちに英語や數學を覺えた外にも如何に僕等人間の情け無いものであるかを經驗した。かう云ふのは僕の先生たちや友だちの惡口を言つてゐるのではない。僕等人間と云ふうちには勿論僕のこともはひつてゐるのである。たとへば僕等は或友だちをいぢめ、かれを砂の中に生き埋めにした。僕等のかれをいぢめたのは格別理由のあつた譯ではない。若し又理由らしいものを擧げるとすれば、たゞかれの生意氣だつた、――或はかれはかれ自身を容易に曲げようとしなかつたからである。僕はもう五六年前、久しぶりにかれとこの話をし、この小事件もかれの心に暗い影を落してゐるのを感じた。かれは今は揚子江の岸に不相變孤獨に暮らしてゐる。……

 かう云ふ僕の友だちと一しよに僕の記憶に浮んで來るのは僕等を教へた先生たちである。僕はこの「繁昌記」の中に一々そんな記憶を加へるつもりはない。けれどもたゞ一人この機會にスケツチしておきたいのは山田先生である。山田先生は第三中學校の劍道部と云ふものの先生だつた。先生の劍道は封建時代の劍客(けんかく)に勝るとも劣らなかつたであらう。何でも先生に學んだ一人は武徳會の大會に出、相手の小手へ竹刀を入れると、餘り氣合ひの烈しかつたために相手の腕を一打ちに折つてしまつたとか云ふことだつた。が、僕の傳へたいのは先生の劍道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人に成る道も修行してゐた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正眞紛れのない仙人の住んでゐることを確信してゐた。僕は不幸にも先生のやうに仙人に敬意を感じてゐない。しかし先生の鍛煉にはいつも敬意を感じてゐる。先生は或時博物學教室へ行き、そこにあつたコツプの昇汞水(せうこうすい)[やぶちゃん後注2]を水と思つて飮み干してしまつた。それを知つた博物學の先生は驚いて醫者を迎へにやつた。醫者は勿論やつて來るが早いか、先生に吐劑を飮ませようとした。けれども先生は吐劑と云ふことを知ると、自若としてかう云ふ返事をした。

 「山田次郞吉は六十を越しても、まだ人樣のゐられる前でへどを吐くほど耄碌はしませぬ。どうか車を一台お呼び下さい。」

 先生は何とか云ふ法を行ひ、とうとう醫者にもかからずにしまつた。僕はこの三四年の間は誰(たれ)からも先生の噂を聞かない。あの面長の山田先生は或はもう列仙傳中の人々と一しよに遊んでゐるのであらう。しかし僕は不相變埃臭い空氣の中に、――僕等をのせた圓タクは僕のそんなことを考へてゐるうちに江東橋を渡つて走つて行つた。

[やぶちゃん後注:齋藤茂吉の短歌、

ものの行(ゆき)とどまらめやも山峽(やまかひ)杉のたいぼくの寒さのひびき

を指す。]

[やぶちゃん後注2:塩化第二水銀の水溶液。蛋白質を分解する極めて強い毒性を有する。]

 

       綠町、龜澤町

 

 江東橋を渡つた向うもやはりバラツクばかりである。僕は圓タクの窓越しに赤錆をふいたトタン屋根だのペンキ塗りの板目(はめ)だのを見ながら、確(たしか)明治四十三年にあつた大水のことを思ひ出した。今日の本所は火事には會つても、洪水に會ふことはないであらう。が、その時の大水は僕の記憶に殘つてゐるのでは一番水嵩の高いものだつた。江東橋界隈の人々の第三中學校へ避難したのもやはりこの大水のあつた時である。僕は江東橋を越えるのにも一面に漲つた泥水の中を泳いで行かなければならなかつた……

 「實際その時は大變でしたよ。尤も僕の家などは牀の上へ水は來なかつたけれども。」

 「では淺い所もあつたのですね?」

 「綠町(みどりちやう)二丁目――かな。何でもあの邊は膝位までゝしたがね。僕はSと云ふ友だちと一しよにその露地の奧にゐるもう一人の友だちを見舞ひに行つたんです。するとSと云ふ友だちが溝の中へ落ちてしまつてね……」

 「ああ、水が出てゐたから、溝のあることがわからなかつたんですね。」

 「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出てゐたんです。それがあつと言ふ拍子に可なり深い溝だつたと見え、水の上に出てゐるのは首だけになつてしまつたんでせう。僕は思はず笑つてしまつてね。」

 僕等をのせた圓タクはかう云ふ僕等の話の中に壽座の前を通り過ぎた。繪看板を掲げた壽座は餘り昔と變らないらしかつた。僕の父の話によれば、この邊、――二つ目通りから先は「津輕樣」の屋敷だつた。「御維新」前の或年の正月、父は川向うへ年始に行き、歸りに兩國橋を渡つて來ると、少しも見知らない若侍が一人偶然父と道づれになつた。かれもちやんと大小をさし、鷹の羽の紋のついた上下を著てゐた。父はかれと話してゐるうちにいつか僕の家を通り過ぎてしまつた。のみならずふと氣づいた時には「津輕樣」の溝の中へ轉げこんでゐた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなつてゐた。父は泥まみれになつたまゝ、僕の家へ歸つて來た。何でも父の刀は鞘走つた拍子にさかさまに溝の中に立つたと云ふことである。それから若侍に化けた狐は(父は未だこの若侍を狐だつたと信じてゐる。)刀の光に恐れたためにやつと逃げ出したのだと云ふことである。實際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差支へない。僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度に昔の本所の如何に寂しかつたかを想像してゐた。[やぶちゃん後注]

 僕等は龜澤町の角で圓タクをおり、元町通りを兩國へ歩いて行つた。菓子屋の壽徳庵は昔のやうにやはり繁昌してゐるらしい。しかしその向うの質屋の店は安田銀行に變つてゐる。この質屋の「利(り)いちやん」も僕の小學時代の友だちだつた。僕はいつか遊び時間に僕等の家にあるものを自慢し合つたことを覺えてゐる。僕の友だちは僕のやうに年とつた小役人の息子ばかりではない。が、誰も「利いちやん」の言葉には驚嘆せずにはゐられなかつた。

 「僕の家の土藏の中には大砲(おほづつ)萬右衞門の化粧廻しもある。」

 大砲は僕等の小學時代に、――常陸山や梅ケ谷の大關だつた時代に橫綱を張つた相撲だつた。

[やぶちゃん後注:底本後記のよると、岩波書店刊普及版全集では、ここは、

僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度にいつも昔の本所の如何に寂しかつたかを想像してゐた。

となっている、とする。]

 

      相 生 町

 

 本所警察署もいつの間にかコンクリートの建物に變つてゐる。僕の記憶にある警察署は古い赤煉瓦の建物だつた。僕はこの警察署長の息子も僕の友だちだつたのを覺えてゐる。それから警察署の隣にある蝙蝠傘屋も――傘屋の木島さんは今日でも僕のことを覺えてゐてくれるであらうか? いや、木島さん一人ではない。僕はこの界隈に住んでゐた大勢の友だちを覺えてゐる。しかし僕の友だちは長い年月(としつき)の流れるのにつれ、もう全然僕などとは緣のない暮らしをしてゐるであらう。僕は四五年前の簡閲點呼[やぶちゃん後注1]に大紙屋の岡本さんと一しよになつた。僕の知つてゐた大紙屋(おほかみや)は封建時代に變りのない土藏造りの紙屋である。その又薄暗い店の中には番頭や小僧が何人も忙しさうに歩きまはつてゐた。が、岡本さんの話によれば、今では店の組織も變り、海外へ紙を輸出するのにもいろいろ計畫を立ててゐるらしい。

 「この邊もすつかり變つてゐますか?」

 「昔からある店もありますけれども、……町全體の落ち著かなさ加減はね。」

 僕はその大紙屋のあつた「馬車通り」(「馬車通り」と云ふのは四つ目[やぶちゃん後注2]あたりへ通ふガタ馬車のあつた爲である。)のぬかるみを思ひ出した。しかしまだ明治時代にはそこにも大紙屋のあつたやうに封建時代の影の落ちた何軒かの「しにせ」は殘つてゐた。僕はこの馬車通りにあつた「魚善(うをぜん)」といふ肴屋を覺えてゐる。それから又樋口さんといふ門構への醫者を覺えてゐる。最後にこの樋口さんの近所にピストル强盜淸水定吉[やぶちゃん後注3]の住んでゐたことを覺えてゐる。明治時代もあらゆる時代のやうに何人かの犯罪的天才を造り出した。ピストル强盜も稻妻强盜[やぶちゃん後注4]や五寸釘の虎吉[やぶちゃん後注5]と一しよにかう云ふ天才たちの一人だつたであらう。僕はかれの按摩になつて警官の目をくらませてゐたり、かれの家の壁をがんどう返しにして出沒を自在にしてゐたことにロマン趣味を感じずにはゐられなかつた。これ等の犯罪的天才は大抵は小説の主人公になり、更に又所謂壯士芝居の劇中人物になつたものである。僕はかういふ壯士芝居の中に「大惡僧」とか云ふものを見、一塲々々の血なまぐささに夜もろく/\眠られなかつた。尤もこの「大惡僧」は或はピストル强盜のやうに實在の人物ではなかつたかも知れない。

 僕等はいつか埃の色をした國技館の前へ通りかかつた。國技館は丁度日光の東照宮の模型か何かを見世物にしてゐる所らしかつた。僕の通つてゐた江東小學校は丁度ここに建つてゐたものである。現に殘つてゐる大銀杏も江東小學校の運動塲の隅に、――といふよりも附屬幼稚園の運動塲の隅に枝をのばしてゐた。當時の小學校の校長の震災のために死んだことは前に書いた通りである。が、僕はつい近頃やはり當時から在職してゐたT先生にお目にかゝり、女生徒に裁縫を教へてゐた或女の先生も割り下水に近い京極子爵家(?)の溝の中に死んだことを知つたりした。この先生は著物は腐れ、體は骨になつてゐるものの、貯金帳だけはちやんと殘つてゐたためにやつと誰だかわかつたさうである。T先生の話によれば、僕等を教へた先生たちは大抵は本所にゐないらしい。僕は比留間先生に張り倒されたことを覺えてゐる。それから宗(そう)先生に後頭部を突かれたことを覺えてゐる。それから葉若(はわか)先生に、――けれども僕の覺えてゐるのは體罰を受けたことばかりではない。僕は又この小學校の中にいろいろの喜劇のあつたことも覺えてゐる。殊に大島と云ふ僕の親友のちやんと机に向つたまま、いつかうんこをしてゐたのは喜劇中の喜劇だつた。しかしこの大島敏夫[やぶちゃん後注6]も――花や歌を愛してゐた江東小學校の秀才も二十前後に故人になつてゐる。……

 國技館の隣りに囘向院のあることは大抵誰(たれ)でも知つてゐるであらう。所謂本塲所の相撲も亦國技館の出來ない前には囘向院の境内に蓆張りの小屋をかけてゐたものである。僕等はこの義士の打ち入り以來、名高い囘向院[やぶちゃん後注7]を見るために國技館の橫を曲つて行つた。が、それもここへ來る前にひそかに僕の豫期してゐたやうにすつかり昔に變つてゐた。

[やぶちゃん後注1:「関閲点呼」とは本来、軍隊が予備役の下士官兵や補充兵を招集点呼することを言う。しかし、これが如何なる時の、如何なる意味合いの関閲点呼であるかは不明である。特定できる方は御教授願いたい。]

[やぶちゃん後注2:「四つ目」は、両国にあった有名な性具屋である「四つ目屋」を指すか。しかし、文脈上、そう取るには、少しおかしい気がする。御存知の方は御教授願いたい。]

[やぶちゃん後注3:明治20(1887)年12月3日未明、東京・日本橋馬喰町の商家に清水定吉が押し入り、金品を求めて持参のピストルを一発放った(金を奪取奪、逃走するも、巡回中の巡査に不審尋問され、更にピストルを撃ったが外れ、逮捕、日本最初のピストル強盗となった。ちなみに、著作権を声高に叫ぶ人々が、このような彼の実名を本作が挙げてしまっていることを誰一人問題にしないのは何故か? 当該団体や人権弁護士の御意見をお聴きしたい。奇妙な差別語注記をするくらいなら、これを伏字にせよ。私は本文・本注に対して勧告があり次第、速やかに伏字にする用意がある。]

[やぶちゃん注4:「稻妻强盗」について、私は前注のポリシーに基づき、筑摩書房全集類聚版注からの引用に止めることとする。『坂本慶次郎(1866-1900)。強盗・殺人・強姦をはたらき、関東一帯を荒し回った。牢破りの名人でイマズマのアダナで恐れられた。死刑に処せられた。』彼が処刑されたのは明治33(1900)年2月17日であった。死刑に処せられた者の氏名を公然と明らかにしている現在の日本の状況は、明らかな被告人の人権侵害であると私は判断する。私は本注に対して勧告があり次第、速やかに伏字にする用意がある。]

[やぶちゃん後注5:「五寸釘の虎吉」とは、昭和の脱獄犯と異称された人物で、逃げる際に足に五寸釘が刺さっても、逃げおおせたところから付いた呼び名とされる。]

[やぶちゃん後注6:この「大島敏夫」という少年もついては、芥川龍之介は「學校友だち」という小品の中で、特に一項を裂いて語っている。]

[やぶちゃん後注:吉良邸は回向院の隣りの松坂町にあり、義士一行が当初、回向院に引き上げようとして、寺院側から断られた事実を指す。]

 

       囘 向 院

 

 今日の囘向院はバラツクである。如何に金の紋を打つた亞鉛(トタン)葺きの屋根は反つてゐても、ガラス戶を立てた本堂はバラツクと云ふ外は仕かたはない。僕等は讀經の聲を聞きながら、やはり僕には昔馴染みの鼠小僧の墓を見物に行つた。墓の前には今日でも乞食が三四人集つてゐた。が、そんなことはどうでもよい。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獸(おつとせい)供養塔[やぶちゃん注]と云ふものの立つてゐたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奧の鼠小僧の墓に同情しない譯には行かなかつた。

 鼠小僧治郞太夫(ぢろうたゆふ)の墓は建札も示してゐる通り、震災の火事にも滅びなかつた。赤い提燈や蠟燭や教覺速善居士(けうかくそくぜんこじ)の額も大體昔の通りである。尤も今は墓の石を缺かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちやんと「御用のおかたにはお守り石をさし上げます」と書いた、小さい紙札も貼りつけてある。僕等はこの墓を後ろにし、今度は又墓地の奧に、――國技館の後ろにある京傳の墓を尋ねて行つた。

 この墓地も僕にはなつかしかつた。僕は僕の友だちと一しよに度たびいたづらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追ひかけられたものである。尤も昔は樹木も茂り、一口に墓地と云ふよりも卵塔塲と云ふ氣のしたものだつた。が、今は墓石は勿論、墓をめぐつた鐵柵にも凄まじい火の痕は殘つてゐる。僕は「水子塚」の前を曲り、京傳の墓の前へ辿り著いた。京傳の墓も京山の墓と一しよにやはり昔に變つてゐない。たゞそれ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひよろりと枝をのばしたまま、若葉を開いてゐるのは哀れだつた。

 僕等は囘向院の表門を出、これもバラツクになつた坊主軍鷄(ぼうずしやも)[やぶちゃん注:不明。]を見ながら、一つ目の橋へ歩いて行つた。僕の記憶を信ずるとすれば、この一つ目の橋のあたりは大正時代にも幾分か廣重らしい畫趣を持つてゐたものである。しかしもう今日ではどこにもそんな景色は殘つてゐない。僕等は無慙にもひろげられた路を向う兩國へ引き返しながら、偶然「泰ちやん」の家の前を通りかかつた。

 「泰ちやん」は下駄屋の息子である。僕は僕の小學時代にも作文は多少上手だつた。が、僕の作文は、――と云ふよりも僕等の作文は、大抵はいはゆる美文だつた。「富士の峰白くかりがね池の面に下り、空仰げば月麗しく、余が影法師黑し。」――これは僕の作文ではない。二三年前に故人になつた僕の小學時代の友だちの一人、――淸水昌彦君[やぶちゃん後注2]の作文である。「泰ちやん」はかう云ふ作文の中にひとり教科書のにほひのない、生き/\とした口語文を作つてゐた。それは何でも「虹」といふ作文の題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じてゐた。が、先生の一番にしたのは「泰ちやん」――下駄屋「伊勢甚」の息子木村泰助君の作文だつた。「泰ちやん」は先生の命令を受け、かれ自身の作文を朗讀した。それは恐らくは誰(たれ)よりも僕を動かさずにはおかなかつた。僕は勿論「泰ちやん」のために見事に敗北を受けたことを感じた。同時に又「泰ちやん」の描いた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西に亙つて少くはない。しかしまづ僕を動かしたのはこの「泰ちやん」の作文である。運命は僕を賣文の徒にした。若し「泰ちやん」も僕のやうにペンを執つてゐたとすれば「大東京繁昌記」の讀者はこの「本所兩國」よりも或は數等美しい印象記を讀んでゐたかも知れない。けれども「泰ちやん」はどうしてゐるであらう? 僕は幾つも下駄の並んだ飾り窓の前に佇んだまゝ、そつと店の中へ目を移した。店の中には「泰ちやん」のお母さんらしい人が一人坐つてゐる。が、木村泰助君は生憎どこにも見えなかつた。…………

[やぶちゃん後注1:「膃肭獸供養塔」とは、筑摩書房全集類聚版注によれば、『国技館でオットセイの展覧会があった際に死んだので葬ったという。』と記す。大正15(1926)年のことで、まだ新しかったようである。なお、この回向院の動物供養は、徳川四代将軍家綱が亡くなった愛馬を供養したことに始まりとされ、三味線に使われた猫や絹糸を紡いだ蚕など、実用動物たちの供養碑が並ぶ。現在もペットの慰霊に訪れる人が跡を絶たない。]

[やぶちゃん後注2:この「淸水昌彦」という少年について、芥川は「追憶」の「水泳」の中で言及している。]

 

     方 丈 記

 

 僕「今日は本所へ行つて來ましたよ。」

 父「本所もすつかり變つたな。」

 母「うちの近所はどうなつてゐるえ?」

 僕「どうなつてゐるつて……釣竿屋の石井さんにうちを賣つたでせう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提燈屋もあつた。……」

 伯母「あすこには洗湯(せんとう)もあつたでせう。」

 僕「今でも常磐湯(ときはゆ)と云ふ洗湯はありますよ。」

 伯母「常磐湯と言つたかしら。」

 妻「あたしのゐた邊も變つたでせうね?」

 僕「變らないのは石河岸(いしがし)だけだよ。」

 妻「あすこにあつた、大きい柳は?」

 僕「柳などは勿論燒けてしまつたさ。」

 母「お前のまだ小さかつた頃には電車も通つてゐなかつたんだからね。」[やぶちゃん後注1]

 僕「『榛(はん)の木馬塲(きばば)』あたりはかたなしですね。」[やぶちゃん後注2]

 父「あすこには葛飾北齋が住んでゐたことがある。」

 僕「『割下水』もやつぱり變つてしまひましたよ。」[やぶちゃん後注3]

 母「あすこには惡(わる)御家人が澤山ゐてね。」

 僕「僕の覺えてゐる時分でも何かそんな氣のする所でしたね。」

 妻「お鶴さんの家はどうなつたでせう?」

 僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋の娘さんか。」

 妻「ええ、兄さんの好きだつた人。」

 僕「あの家どうだつたかな。兄さんのためにも見て來るんだつけ。尤も前は通つたんだけれども。」

 伯母「あたしは地震の年以來一度も行つたことはないんだから――行つても驚くだらうけれども。」

 僕「それは驚くだけですよ。伯母さんには見當もつかないかも知れない。」

 父「何しろ變りも變つたからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目にあけて往來を見てゐたもんだらう?」

 母「法界節や何かの歸つて來るのをね。」[やぶちゃん注4]

 僕「今は雀さへ飛んでゐませんよ。僕は實際無常を感じてね。……それでも一度行つてごらんなさい。まだずん/\變らうとしてゐるから。」

 妻「わたしは一度子供たちに龜井戶の太鼓橋を見せてやりたい。」

 父「臥龍梅(ぐわりうばい)はもうなくなつたんだらうな?」

 僕「ええ、あれはもうとうに。……さあ、これから驚いたと云ふことを十五囘だけ書かなければならない。」

 妻「驚いた、驚いたと書いてゐれば善いのに。」(笑ふ)

 僕「その外に何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き盡してゐる。――『玉敷の都の中に、棟を並べ甍を爭へる、尊き卑しき人の住居は、代々を經てつきせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家は稀なり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人二人なり。朝に死し、夕に生まるゝならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方より來りて、何方へか去る。』……」

 母「何だえ、それは? 『お文樣(ふみさま)』のやうぢやないか?」[やぶちゃん注5]

 僕「これですか? これは『方丈記』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつた鴨の長明と云ふ人の書いた本ですよ。」[やぶちゃん注6]

[やぶちゃん後注1:底本後記によると、この後、岩波書店の普及版全集には、行を改めて左の文章がある、とする。

 父「上野と新橋との間さへ鐵道馬車があつただけなんだから。――鐵道馬車と云ふ度に思ひ出すのは……」

 僕「僕の小便をしてしまつた話でせう。滿員の鐵道馬車に乘つたまま。……」

 伯母「さうさう、赤いフランネルのズボン下をはいて、……」

 父「何、あの鐵道馬車會社の神戶(かんべ)さんのことさ。神戶さんもこの間死んでしまつたな。」

 僕「東京電燈の神戶さんでせう。へええ、神戶さんを知つてゐるんですか?」

 父「知つてゐるとも。大倉(おほくら)さんなども知つてゐたもんだ。」

 僕「大倉喜八郞をね……」

 父「僕もあの時分にどうかすれば、……」

 僕「もうそれだけで澤山ですよ。」

 伯母「さうだね。この上(うえ)損でもされてゐた日には……」(笑ふ)

この文中の「大倉喜八郞」は越後国新発田(現新潟県新発田市)出身の実業家である。『死の商人』と忌み嫌われたが、鹿鳴館・帝国ホテル・帝国劇場などを渋沢栄一らと共に設立したことで有名。]

[やぶちゃん後注2:「榛の木馬塲」は、現在の墨田区亀沢一丁目辺り、「お竹倉」の南に当たる一角で、江戸時代の乗馬練習場で、大きな榛があった広場を指す。

[やぶちゃん後注3:「割下水」というと、一般には本所の南北にあった掘割を指すが、ここでは北側の一本を指している。]

[やぶちゃん後注4:底本後記によると、この後、岩波書店の普及版全集には、行を改めて左の文章がある、とする。

 伯母「あの時分は蝙蝠も澤山ゐたでせう。」

この文中の「法界節」とは、歌いながら全国を旅した芸能の一種で、長崎節とも言った。清の楽曲であった「九連環」の囃子詞(はやしことば)である「不開(ほうかい)」をもとに長崎で発生したもので、明治23(1890)年から昭和初期にかけて全国に流布した。その出自は部落民、書生、盲人などで、月琴をはじめ三味線、琴、拍子木などを持ち、編笠に白袴の出で立ちで、様々な唄を歌って門付をした。]

[やぶちゃん後注5:「お文樣」は蓮如の「御文章」のこと。]

[やぶちゃん後注6:底本注記によれば『底本には文末に「次の大繁盛記は『銀座』/岸田劉生/自畫」との豫告が付されている。」とある。]

 

 

「本所兩國」草稿

[やぶちゃん注:Ⅰは「柳島」、Ⅱは『「天神様」』の草稿原稿断片である。]

 

       八

 

 僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋の袂へ出、更に又圓タクに乘つて柳島へ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つたことはない。のみならず電車の出來ない前にも歩いたことさへなかつたであらう。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往來を見ながら、たゞごみごみした兩側の家並みに憂鬱になるばかりだつた。

嘉永版の江戶切り圖に依れば、

 

 「豆藏なども昔はゐたものですがね。」

 僕等はこんなことを話しながら、白い石の牛の前を通つて行つた。僕は昔は「天神樣」へ來るとこの石の牛の額へ錢を投げてのせることに何度も苦心を重ねたものである。かう云ふ時に投げる錢は今日のやうに一錢銅貨ではない。大抵は五厘錢か穴錢で