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藝術その他 芥川龍之介
一批評家に答ふ 芥川龍之介
[やぶちゃん注:「藝術その他」は大正8(1919)年11月発行の『新潮』に掲載され、後に作品集『點心』『梅・馬・鶯』に所収された。底本は岩波版旧全集第三巻を用いた。傍点「ヽ」は下線に代え、一部に簡単な注を附した。後ろに明白なその「藝術その他」に対して行われた批評への反駁文「一批評家に答ふ」をカップリングした(間に「◆」記号を挾んで区別した)。底本は同じく岩波版旧全集の第六巻を用いたが、総ルビのため、読みに振れると判断するものだけのパラルビとしてある。この「一批評家に答ふ」は底本後記に『初出未詳。單行本には收められていない。本全集は普及版全集第六卷所收本文に據り、その文末日付「(大正十一年)」に従い』旧全集(発表順編集)第六巻に配した旨記されている。この「一批評家」とは評論家伊福部隆輝(いふくべたかてる 明治31(1898)年~昭和43(1968)年)で、この反駁は大正11(1922)年9月発行の『新潮』に掲載された彼の「芥川龍之介論」に対するものである(当該論文は私は未見であるが、筑摩版全集類聚脚注及びネット上の複数の資料から確定出来る)。伊福部隆輝なる人物は生田長江門下で、後世の肩書では評論家の他、詩人・宗教家ともある。前者「藝術その他」との三年弱もの不自然な時間差があるが、これは恐らく伊福部が「藝術その他」を初出で読んでおらず、大正11(1922)年5月15日発行の随筆集(因みにこれは芥川龍之介最初の随筆集である)『點心』で初めて読んだ結果と推定される。末尾に簡単な補注を附した。]
藝術その他 芥川龍之介
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藝術家は何よりも作品の完成を期せねばならぬ。さもなければ、藝術に奉仕する事が無意味になつてしまふだらう。たとひ人道的感激にしても、それだけを求めるなら、單に説教を聞く事からも得られる筈だ。藝術に奉仕する以上、僕等の作品の與へるものは、何よりもまづ藝術的感激でなければならぬ。それには唯僕等が作品の完成を期するより外に途はないのだ。
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藝術の爲の藝術は、一步を轉ずれば藝術遊戲説に墮ちる。
人生の爲の藝術は、一步を轉ずれば藝術功利説に墮ちる。
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完成とは讀んで
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勿論人間は自然の與へた能力上の制限を越える事は出來ぬ。さうかと云つて怠けてゐれば、その制限の所在さへ知らずにしまふ。だから皆ゲエテになる氣で、精進する事が必要なのだ。そんな事をきまり惡がつてゐては、何年たつてもゲエテの家の馭者にだつてなれはせぬ。尤もこれからゲエテになりますと吹聽して步く必要はないが。
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僕等が藝術的完成の途へ向はうとする時、何か僕等の精進を妨げるものがある。偸安の念か。いや、そんなものではない。それはもつと不思議な性質のものだ。丁度山へ登る人が高く登るのに從つて、妙に雲の下にある麓が懷しくなるやうなものだ。かう云つて通じなければ――その人は遂に僕にとつて、緣無き衆生だと云ふ外はない。
[やぶちゃん注:「偸安」は「とうあん」と読み、眼前の安楽を貪る意。]
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樹の枝にゐる一匹の毛蟲は、氣溫、天候、鳥類等の敵の爲に、絶えず生命の危險に迫られてゐる。藝術家もその生命を保つて行く爲に、この毛蟲の通りの危險を凌がなければならぬ。就中恐る可きものは停滯だ。いや、藝術の境に停滯と云ふ事はない。進步しなければ必退步するのだ。藝術家が退步する時、常に一種の自動作用が始まる。と云ふ意味は、同じやうな作品ばかり書く事だ。自動作用が始まつたら、それは藝術家としての死に瀕したものと思はなければならぬ。僕自身「龍」を書いた時は、明にこの種の死に瀕してゐた。
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より正しい藝術觀を持つてゐるものが、必しもより善い作品を書くとは限つてゐない。さう考へる時、寂しい氣がするものは、獨り僕だけだらうか。僕だけでない事を祈る。
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内容が本で形式は末だ。――さう云ふ説が流行してゐる。が、それはほんたうらしい譃だ。作品の内容とは、必然に形式と一つになつた内容だ。まづ内容があつて、形式は後から拵へるものだと思ふものがあつたら、それは創作の眞諦に盲目なものの言なのだ。簡單な例をとつて見てもわかる。「幽靈」の中のオスワルドが「太陽が欲しい」と云ふ事は、誰でも大抵知つてゐるに違ひない。あの「太陽が欲しい」と云ふ言葉の内容は何だ。嘗て坪内博士が「幽靈」の解説の中に、あれを「暗い」と譯した事がある。勿論「太陽が欲しい」と「暗い」とは、理窟の上では同じかも知れぬ。が、その言葉の内容の上では、眞に相隔つ事白雲萬里だ。あの「太陽が欲しい」と云ふ莊嚴な言葉の内容は、唯「太陽が欲しい」と云ふ形式より外に現せないのだ。その内容と形式との一つになつた全體を的確に捉へ得た所が、イブセンの偉い所なのだ。エチエガレイが「ドン・ホアンの子」の序文で、激賞してゐるのも不思議ではない。あの言葉の内容とあの言葉の中にある抽象的な意味とを混同すると、其處から誤つた内容偏重論が出て來るのだ。内容を手際よく拵へ上げたものが形式ではない。形式は内容の中にあるのだ。或はそのヴアイス・ヴアサだ。この微妙な關係をのみこまない人には、永久に藝術は閉された本に過ぎないだらう。
[やぶちゃん注:「エチエガレイ」José Echegaray y Eizaguirre ホセ・エチュガライ・イ・エイサギレ(1832~1916)劇作家・政治家。数学・物理学・経済学に精通、としても活躍する。ロマン主義演劇の掉尾を飾る劇作家。「割符帳」(1874)・「恐ろしいなかだち」(1881)等。1904年にはノーベル文学賞を受賞している。「ドン・ホアンの子」は1891年にエチュガライが書いた戯曲。「ヴアイス・ヴアサ」はラテン語“vice versa”で、“vice”は副詞で、~風に・~の如く、“versa”は回転する・双方の向きを変えるで、逆も同じ、逆も真なりの意。]
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藝術は表現に始つて表現に終る。畫を描かない畫家、詩を作らない詩人、などと云ふ言葉は、比喩として以外には何等の意味もない言葉だ。それは白くない白墨と云ふよりも、もつと愚な言葉と思はなければならぬ。
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しかし誤つた形式偏重論を奉ずるものも災だ。恐らくは誤つた内容偏重論を奉ずるものより、實際的には更に災に違ひあるまい。後者は少くも星の代りに隕石を與へる。前者は螢を見ても星だと思ふだらう。素質、教育、その他の點から、僕が常に戒心するのは、この誤つた形式偏重論者の喝采などに浮かされない事だ。
[やぶちゃん注:底本には注がないが、岩波版新全集の当該作品の後記を見ると、初出も『點心』も『梅・馬・鶯』も全て「素質教育」となっていて読点がないとして、『改む』として「素質、教育」としている。旧全集の底本も『梅・馬・鶯』であるから、これは旧全集編者も同じことをしていながら後記で漏らしたということになる。]
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偉大なる藝術家の作品を心讀出來た時、僕等は屢その偉大な力に壓倒されて、爾餘の作家は悉有れども無きが如く見えてしまふ。丁度太陽を見てゐたものが、眼を外へ轉ずると、周圍がうす暗く見えるやうなものだ。僕は始めて「戰爭と平和」を讀んだ時、どんなに外の露西亞の作家を輕蔑したかわからない。が、これは正しくない事だ。僕等は太陽の外に、月も星もある事を知らなければならぬ。ゲエテはミケル・アンジエロの「最後の審判」に嘆服した時も、ヴアテイカンのラフアエルを輕蔑するのに躊躇するだけの餘裕があつた。
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藝術家は非凡な作品を作る爲に、魂を惡魔へ賣渡す事も、時と場合ではやり兼ねない。これは勿論僕もやり兼ねないと云ふ意味だ。僕より造作なくやりさうな人もゐるが。
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日本へ來たメフイストフエレスが云ふ。「どんな作品でも、惡口を云つて云へないと云ふ作品はない。賢明な批評家のなすべき事は、唯その惡口が一般に承認されさうな機會を捉へる事だ。さうしてその機會を利用して、その作家の前途まで巧に呪つてしまふ事だ。かう云ふ呪は二重に利き目がある。世間に對しても。その作家自身に對しても。」
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藝術が分る分らないは、言詮を絶した所にあるのだ。水の冷暖は飮んで自知する外はないと云ふ。藝術が分るのも之と違ひはない。美學の本さへ讀めば批評家になれると思ふのは、旅行案内さへ讀めば日本中どこへ行つても迷はないと思ふやうなものだ。それでも世間は瞞着されるかも知れぬ。が、藝術家は――いや恐らくは世間もサンタヤアナだけでは――。
[やぶちゃん注:「言詮」言葉で説明すること。またはその説明する言葉。「サンタヤアナ」George Santayanaジョージ・サンタヤーナ(1863~1952)。スペイン生まれのアメリカの哲学者・詩人。ヘーゲル的観念論に立脚した美学論を展開した。主著「美の感覚」「理性の生命」「最後の清教徒」等。]
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僕は藝術上のあらゆる反抗の精神に同情する。たとひそれが時として、僕自身に對するものであつても。
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藝術活動はどんな天才でも、意識的なものなのだ。と云ふ意味は、倪雲林が石上の松を描く時に、その松の枝を悉途方もなく一方へ伸したとする。その時その松の枝を伸した事が、どうして或效果を畫面に與へるか、それは雲林も知つてゐたかどうか分らない。が、伸した爲に或效果が生ずる事は、百も承知してゐたのだ。もし承知してゐなかつたとしたら、雲林は、天才でも何でもない。唯、一種の自働偶人なのだ。
[やぶちゃん注:「倪雲林」は「げいうんりん」と読む。本名、倪瓚(げいさん)。元末四大家の一人に数えられる文人画家(元末四大家は他に黄公望・呉鎮・王蒙)。四大家中気韻随一と称せられた。「自働偶人」は「じどうぐうじん」と読み、自動人形・ロボットのこと。]
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無意識的藝術活動とは、燕の子安貝の異名に過ぎぬ。だからこそロダンはアンスピラシオンを輕蔑したのだ。
[やぶちゃん注:「アンスピラシオン」フランス語“inspiration”。]
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昔セザンヌは、ドラクロアが好い加減な所に花を描いたと云ふ批評を聞いて、むきになつて反對した事がある。セザンヌは唯、ドラクロアを語るつもりだつたかも知れぬ。が、その反對の中にはセザンヌ自身の面目が、明々白地に顯れてゐる。藝術的感激を齎すべき或必然の方則を捉へる爲なら、白汗百囘するのも辭せなかつた、あの恐るべきセザンヌの面目が。
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この必然の方則を活用する事が、卽謂ふ所の技巧なのだ。だから技巧を輕蔑するものは、始から藝術が分らないか、さもなければ技巧と云ふ言葉を惡い意味に使つてゐるか、この二者の外に出でぬと思ふ。惡い意味に使つて置いて、いかんいかんと威張つてゐるのは、菜食を吝嗇の別名だと思つて、天下の菜食論者を悉しみつたれ呼はりするのと同じ事だ。そんな輕蔑が何になる。凡て藝術家はいやが上にも技巧を磨くべきものだ。前の倪雲林の例で云へば、或效果を生ずる爲に松の枝を一方に伸すと云ふ
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單純さは尊い。が、藝術に於ける單純さと云ふものは、複雜さの極まつた單純さなのだ。〆木をかけた上にも〆木をかけて、絞りぬいた上の單純さなのだ。その單純さを得るまでには、どの位創作的苦勞を積まなければならないか、この局所に氣のつかないものは、六十劫の流轉を閲しても、まだ子供のやうに喃々としやべり乍ら、デモステネス以上の雄辨だと己惚れるだらう。そんな手輕な單純さよりも、寧ろ複雜なものゝ方が、どの位ほんたうの單純さに近いか知れないのだ。
[やぶちゃん注:「喃々と」は「なんなんと」と読み、口数多くしゃべり続ける続けるさまを言う。「デモステネス」Dēmosthénēs(B.C.384年頃~B.C.322年)。古代ギリシアの雄弁家・政治家。アテナイの指導者としてギリシアの諸ポリスのマケドニアからの自立を訴えたが失脚、最後は自殺した。]
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危險なのは技巧ではない。技巧を驅使する小器用さなのだ。小器用さは眞面目さの足りない所を胡麻化し易い。御恥しいが僕の惡作の中にはさう云ふ器用さだけの作品も交つてゐる。これは恐らく如何なる僕の敵と雖も、喜んで認める眞理だらう。だが――
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僕の安住したがる性質は、上品に納り返つてゐるとその儘僕を風流の魔子に墮落させる惧がある。この性質が吹き切らない限り、僕は人にも僕自身にも僕の信ずる所をはつきりさせて、自他に對する意地づくからも、殼の出來る事を禦がねばならぬ。僕がこんな饒舌を弄する氣になつたのもその爲だ。追々僕も一生懸命にならないと、浮ばれない時が近づくらしい。 (八・十・八)
[やぶちゃん注:「魔子」は「まし」と読んで、一事に熱中する余り、本質を見失った人間の意。後記に文末の日付は、初出では(八・十・七)とある、とする。]
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一批評家に答ふ 芥川龍之介
一批評家は新潮の九月號に、芥川龍之介の藝術を論じた。僕の藝術に與へられた評價は、少時(しばらく)辯ずる必要を見ない。僕が今辯じたいのは、僕の感想に關する部分である。論理さへちやんと考へれば、水掛論に終らない部分である。
一 僕はかう書いた。「作品の内容とは必然に形式とべつになつた内容である。」一批評家も認めてゐるらしい。僕は又かうも書いた。「内容がもとで形式が末だ。――さう云ふ説が流行してゐるが、これはほんたうらしい嘘だ。」その批評家はこれを認めないと云ふ。しかし形式と内容と一つになつてゐる以上、いづれがもと、いづれが末とは當然云ふ事が出來ぬ筈である。もし本末を分ち得るとすれば、双手(さうしゆ)相拍(あひう)つて聲ある時も、右が鳴つたか左が鳴つたか、容易に判斷が出來るであらう。その批評家の云ふ「はつきりしない内容」の如きも、必(かならず)「はつきりしない形式」を伴つてゐた筈である。
二 僕は又かう書いた。「畫(ゑ)を描かない畫家、詩を作らない詩人などと云ふ言葉は、此喩として以外には何の意味もない言葉だ。」その批評家はこれも謬見(びうけん)だと云ふ。しかし藝術の本質を表現にありとする以上、表現を得ない藝術家は、藝術家たる事を得ぬ筈である。又實際いづれの處に、畫(ゑ)を描かないレムブランド、句を作らない芭蕉がゐたか? ゐたのは不幸なる夢想家に過ぎない。のみならずその批評家は、上掲の僕の文章に勝手な解釋を加へてゐる。その一つは芥川龍之介には、「詩を作らない時の詩人、畫を描かない時の畫家すらも、それは詩人でもなく畫家でもなく思はれるであらう」と云ふ事である。その二つは芥川龍之介は、「描かれたる畫、作られたる詩は認めても、描かれない畫、作られない詩の存在することを知り得ない」とする事である。上掲の僕の文章はそんな解釋を許すものではない。
一批評家は未(いまだ)小兒(せうに)である。これ以上僕には云ふ事はない。
[やぶちゃん補注:芥川龍之介の舌鋒は鋭いが如何にも不快感を前面に押し出しており、言葉遣いも普段の芥川に比して投げやりで、反論も冷静さを欠いてやや論理的には不親切の嫌いがある。最後の二文に至っては、将に唾棄に等しいもので、芥川の個人批評の文章としては出来れば見たくない部類に属するものである。これについて、ネット上で読める出色の芥川龍之介論の一つ、土井美智子氏の「芥川龍之介論─表現形式の変遷とその芸術観─」(2001年東京大学大学院人文社会系研究科修士課程修士論文)の中に、こうした印象を補完してくれ、伊福部論考なるものがどの程度のものであったかを垣間見ることが可能な論考があるので、以下に引用させて頂く。
《引用開始》
芥川にとっては、どのような題材による作品であっても、文学は現実の再現ではありえなかった。芥川の考えでは、文学において言葉は道具ではなく目的そのものである。描くべき現実や事実が予め存在し、それを再現するのが文芸であるとするのが自然主義系統の文学者の発想であるとすれば、芥川にとっては、表現されたものが描かれるべきすべてであった。予め存在するのは混沌とした思念にすぎず、それらは表現を与えられてはじめて実在を得るのである。文芸においては表現が即ち芸術であり美なのであって、作家は表現を磨き作品の完成を期さねばならない──これが芥川の論理であった。
こうした表現意識は思索の果てに生み出されたというよりは、芥川が幼少期以来の読書体験から自明のものとしていた発想であったと考えられる。芥川は表現論、そして形式と内容論を繰り返し論じているものの、その真意を明確に論述し得たとは言い難い。またその議論が同時代的に正当に理解されていたとも言い得ない。それは単に芸術至上主義的文学論と受けとめられ、理解のない批判と反論にさらされ続けたのであった。
そのことは、伊福部隆輝による「芥川龍之介論」(大11・9、「新潮」第37巻第3号)などを想起することで理解されよう。伊福部は、「芸術その他」における芥川の言葉を引きながら、次のように論じている。
『幽霊』の作者は、オスワルドに「太陽が欲しい」と言はせる以前に、明らかに、この言葉がもつてゐる内容のもとをもつてゐた。そのもとが、この言葉を生んだのである。(中略)このもとの、まだ明らかな形を供へぬ内容をもつてゐずして、『幽霊』の作者はこの言葉を生んだのではない。この意味に於て、明らかに内容がもとであつて形式は末である──といふことが言ひ得る。/しかも芥川氏はこの間の消息を見落してゐるのである。/氏はたゞ、さういふ内容をもつてゐる言葉が、形式が、存在するやうに考へてゐるのである。換言すれば言葉の組み合はせによつて如何なる内容をもつくることが出来るやうに考へてゐるのである。〔傍点原文[やぶちゃん注:とあるが、引用元ブラウザでは傍点は確認出来ない。また、この伊福部論文の引用部は引用元では全体が三字下げとなっているが、ブラウザの関係上、本文とフラットにした。]〕
伊福部の説の欠点は、「内容のもと」と「内容」とを混同しているところにある。芥川は伊福部の言う「内容のもと」の存在を認めることにやぶさかではなかっただろう。しかし、それを「内容」と呼びうるのは、的確な「形式」が与えられ、「表現」の形をとったときのみである。芥川が形式と内容が不即不離であることを強調するのはこういう意味においてである。言葉の持つ形象性やイメージにまで配慮して文章を作る芥川にとっては、「内容」は的確な語彙と文体によって表されてはじめて「表現」となるとの意識が強かったのである。ただし、芥川はこの伊福部の批判に答えた「一批評家に答ふ」において自説を再度述べているものの、伊福部の理解を促すような懇切さは見られない。芥川の説が同時代において特異な芸術至上主義的発想と見なされたのは、芥川自身の説明不足、あるいは言語観の断絶に対する認識の不足によるところも大きかったように思われる。(土井美智子「芥川龍之介論─表現形式の変遷とその芸術観─」第一部第六章より)]
《引用終了》
……これを読んで僕は、紐の付いたコルク弾を撃つピエロのような伊福部を「小兒」と言い捨てた芥川の気持ちが分かる気がした――
また、「藝術その他」が書かれた前月(大正8(1919)年9月)、芥川はあの「愁人」秀しげ子と不倫関係に堕ちていたこと――
この反駁文が書かれた3年後には、芥川が激しいスランプに陥っていいたこと――
5月の作品集『點心』以降の発表は「長崎小品」(6月2日)、「庭」(7月1日)、「六の宮の姫君」「魚河岸」(8月1日)、「おぎん」・「お富の貞操」後篇(9月1日:但し「お富の貞操」は『改造』5月号に既に発表した前篇とのカップリングであった)、「百合」(10月1日)と如何にも淋しいこと――
翌大正12(1923)年の文芸雑誌巻頭には(創刊号であった『文藝春秋』の「侏儒の言葉」の連載開始を除いて)一切、芥川の作品が掲載されることはなかったことなど――
そもそも、同年7月27日に彼が志賀直哉を訪問し、自身がスランプに陥っていることや、志賀のスランプの乗り切り方等を尋ねているという事実等が思い出されるのであった……
そして同時に――――土井氏の言われる『芥川自身の説明不足、あるいは言語観の断絶』という言葉に――暗い画室に佇むダヴィンチや汨羅の岸辺に立つ屈原の面影を見たのは、僕だけであろうか……]