やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈 

copyright 2010 Yabtyan

[やぶちゃん注:本ページは私の正字正仮名版の芥川龍之介「河童」(附草稿)電子テクストに附した、私のオリジナルにしてマニアックな注釈である。私の本文は上記リンク先を参照されたい。検索で本ページに来られた方は、上端のリンクで私のHPトップ及び電子テクストページから再入場されたい。

 有意に異なると感じられる初出等との異同等の注記は、底本(岩波版旧全集)後記及び新全集後記の記載を参照にして記載した。特に何も示していないものは底本の後記の校異によるものである。新全集の校異には旧全集にある原稿(国立国会図書館蔵・昭和471972)年中央公論社発行複製版)に加えられていた訂正(抹消)の異同が一切省かれており、これはもう致命的と言わざるを得ない愚行であると断言しておく。旧全集でしか我々は芥川龍之介の「河童」の『産みの苦しみ』は味わえないのである。なお、その異同注記は私が『有意に異なると感じられる』ものだけで、総てを示している訳ではいない。私が『ある種の興味を惹かれる』部分だけという意味である。例えば、原稿と初出底本で「思ひ出した」という常体のものを「思ひ出しました」と敬体に訂したとか、原稿での「鼻目金」と「鼻眼鏡」の表記異同であるとか、初出での「?」の脱落、河童の皿が「顏のまん中に」にあるのを原稿で「頭」に訂したとか、といったものは一切省略したということである。他にも、普通の注記なら、注記するであろうような部分を注記していないということもお断りしておく。例えば、「上高地」や「穗高山」、「ビスマルク」や「孔子」「クレオパトラ」である。言わずもがなの退屈な注記は一切していないつもりである。但し、マニアックに仔細を極めたり、とんでもない関係妄想的脱線は多々あるので御覚悟の上、お読みあれ。

 一点、まさに芥川が本作の中で皮肉ったところの検閲による伏字部分(底本では現存する芥川龍之介自身による『改造』の切抜への訂正書き入れによって復元されている)は、逆に伏字であったことを漏れなくはっきりと示して、当時の日本のおぞましいまでのアイロニーを忘れずに明記した(伏字箇所であることが分かるように頭に「・」ではなく「×」を附して、注の前後を空けて目立つようにしてある)。

 冒頭に私のオリジナルな「登場河童一覧」を附した。

 本ページは私のブログ260000アクセス記念として「河童」正字正仮名テクストとともに公開したものであるが、計らずもこの数ヶ月の私自身の感懐の記録とも言えるという意味で、私にとって因縁のある注釈となったことを、ここに申し添えておきたい。これは惨めな私という生き物の、しかし、確かな記録ではあるのである――【2010年12月16日】

芥川龍之介の遺稿「闇中問答」に関わる部分を全体に追記した。【2010年12月29日】]

芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈

       登場河童一覧〈例外として獺一匹を含む。登場人物も前に附した〉

*原則、登場順(「グルツク」を除く)。固有名を持つ者だけでなく、読んだ際に映像としてほぼ単独でアップになる河童は漏れなく、また名前だけが登場する河童も含む。見出しに掲げたカタカナの河童の固有名だけは本文表記通りで示した。更に、私が同定候補とするモデル人物を付記した(同定者詳細及び同定理由は以下の各注を参照されたい)。なお、他の「登場人物」(●)としては「序」と「十七」に登場する以下の3名の人間がいる。

●主人公「僕」:「」以下の話者。河童国特別保護住民。訪問したと称する河童国の叙述等、高度な論理的体系を持った妄想性を主症状とする統合失調症でS精神病院患者番号第23号。内的には極めて秩序立った河童国訪問談の妄想の最後には(恐らく相手が話を信じていないということを察知すると)拳固を振るい、罵詈雑言を吐くことを常とするようであるが、実際の他虐傾向はあまり認められないように感じられる。三十歳を有に越えている(35歳前後か)が若く見える。穂高や槍ヶ岳への登頂経験を持ち、穂高単独登頂への自信が有意に認められる相応のアルピニスト。社会主義者で物質主義者(宗教に否定的という文脈からは唯物主義者という意味でとってよい)。草稿や話っぷりからも大学を出ており、通常の会社勤めの経験がある(草稿で確認出来る)。その後、サラリーマンを止めて起業家となったが、事業に失敗、推測するにその際に受けた精神的なストレスが遺伝的素因が疑われる統合失調症の発症へと繋がったものと思われる。なお、発症の直接の動機となった事業の失敗は、当初はPTSD(心的外傷後ストレス障害)としてのみ現れたものとも思われ、S博士が制止することから激しいフラッシュ・バックが精神病が増悪した現在もあることを窺わせる。但し、流暢な会話やその妄想体系の完璧さ(これは「ターミネーター」の連作に登場する精神科医シルバーマン先生も興味惹かれるに違いない高度の秩序性を保持している)から見ても、これは性格異常としてのパラノイア(偏執病)が強く疑われ、効果的な抗精神薬もなかった昭和初期の精神医学の医療レベルでは予後は悪いと判断せざるを得ない。勿論、芥川龍之介の二重身(ドッペルゲンガー)である。

●「僕」:精神病院を見学に来た人物で、「序」の執筆者にして「」以下の本記録の執筆者。モデルは芥川龍之介自身に仮託した内田百閒であろう。

●「S博士」:主人公「僕」が収容されている精神病院の院長。巣鴨精神病院院長呉秀三か青山脳病院院長にして歌人であった斎藤茂吉がモデルである。

○「バツグ」:漁師。最初に出逢い、親しく付き合うこととなる庶民の相応には年をとった河童。既婚。作中、子が出来るが、子は出生を拒否する。他に子があるかどうかは不明であるが、出生を拒否されたシーンでのバックやその妻の反応(妻の感懐は全く描かれない)から、私は既に子がいると判断する(但し、バックの反応を見ると、もしかすると長男や長女も出産を拒否して子は実際にはいない可能性もある)。相応に重い精神病の遺伝的因子を持っている。但し、本人が発症しているかどうかは不明。単なるキャリアである可能性もある。但し、原稿の書き換えから、実はこれは遺伝性精神疾患ではなく梅毒による統合失調症様症状の発症リスクを暗に指していることが分かる。狂言回しの重要な役ではあるが、モデルは同定し難い。

○「チヤツク」:若い医師。物質主義者(河童国での限定された謂いであって、ここでは「僕」と違って唯物主義者という意ではないように思われる)。河童国の特別保護住民に認定された「僕」は河童国滞在中、彼の隣家に居住する。田端文士村に居住した隣人で芥川龍之介及び芥川家の主治医にして、自死の看取りの場にもいた下島勲がモデルと思われるが、家族が描かれておらず、未婚河童の模様で、その点では、「河童」執筆時は既に中年であった下島とは大きく異なる。

○「ゲエル」:資本家。ガラス会社社長。高血圧気味で、毎日チャックに血圧を調べて貰っている。既婚で子持ち。河童国の実質的支配者を自称。田端文士村に居住した芥川のパトロン鹿島組(現在の鹿島建設)副社長鹿島龍蔵をモデルとするか。

○漁師「バツク」の細君:臨月。

○漁師「バツク」の子(胎児):バックの遺伝由来の精神病(実は梅毒による精神病への恐怖)及び河童という存在を悪と信ずるが故に、出生を拒否する。言葉つきからは男の子と思われる。

○産婆:バックの子の出産シーンで登場する助産婦河童。河童国では助産婦による薬物及び特殊器具を用いた堕胎手術が合法化されていることが分かる。

○「ラツプ」:学生。「僕」がバックと並んで親しくした一河童。詩人トックを紹介した。独身。芥川の最年少の弟子堀辰雄がモデルと考えられる。作中、雌河童に抱きつかれて嘴が腐って落ち、醜い面相となる。生活教教徒であるが、その聖書さえ読んでいない、実際には不信心河童である。妹や弟、叔母を含め、6人家族(但し、これは堀家がモデルというわけではない)。

○「トツク」:詩人。「超人倶楽部」会員。懐疑主義者・無神論者(自身が心霊――但し、霊媒は元女優であり、この心霊が本物であるかどうかは甚だ心もとない。但し、芥川はそうした留保を示しながらも、核心に於いてはこの心霊を実際のトックの心霊として登場させていると考えてよい――として出現しても霊魂の存在に懐疑する程度には頑なな懐疑主義者にして無神論者である)。自由恋愛家(従って未婚)にして厭世主義者。そして超河童(便宜上、「僕」は一箇所を除いて「超人」と称している)。噂では無政府主義者(但し、後に自身で否定する)。作中、自殺する(その直前には精神異常の兆候としての幻覚症状を呈するシーンがある)。まずは萩原朔太郎辺りがモデルとも思われるが、本作が「詩人⇔小説家」の互換モデルを頻りに用いていると思われるところからは、芥川の盟友で芥川自死直前に発狂した『小説の鬼』宇野浩二が目されるようにも思われる。しかし、また「」のクラバックの告白の中では、途中からは明らかに萩原朔太郎に対する芥川龍之介と相互互換的モデルへと変容しており、これ以降、作品の後半では結局、自殺する芥川龍之介の分身の要素が甚だ大きくなる。

○「トツク」の愛人の一人である雌河童:「僕」が初めて訪ねた時、トックの部屋の隅で編み物か何かをしており、後にトックとはクラバックの出る音楽会にも同伴している。河童の雄から見ると大変に美しいこの雌河童はしかし、トックと交際するようになる凡そ十年前、クラバックに懸想し、未だにクラバックを目の敵にしているらしい。この「僕」には美しく見えない、クラバックやトックに纏わりついている雌河童のモデルは、芥川の愛人で後に激しく忌避するようになる「狂人の娘」(「或阿呆の一生」)ストーカー秀しげ子か。なお、後掲する『「トツク」の内縁の妻』も参照。

○彫刻家:超人倶楽部会員。同性愛者である。

○雌の小説家:超人倶楽部会員。超人倶楽部でアプサント酒を飲み過ぎ、急性アルコール中毒で頓死する(「往生」という語を昏倒の比喩の意味に解するなら死んではいないかも知れない。しかし職工屠殺法などを見れば判る通り、河童国では死に対する観念はヒトのそれとは必ずしも一致はしないので実際に死んだものと私は捉える)。酒好きで酒癖が悪い当時の女流作家に、ぴったりなモデルがいそうな気がし、同定の誘惑には駆られる。

○「ラツプ」をストーカーする雌河童:背が低い。ダブル・キャストでストーカー秀しげ子をモデルとするか。

○「マツグ」:哲学者。河童は勿論、「僕」から見ても非常に醜くい形相をしている醜河童(ぶかっぱ)。独身。室生犀星がモデルと思われる。詩人トックの隣りに住んでいる。

○「クラバツク」:著名な作曲家にして詩人。芸術至上主義者。原モデルは山田耕筰か。実際にはダブル・キャストで萩原朔太郎を感じさせ、後にはトックと同じく萩原朔太郎や志賀直哉に対する芥川龍之介の相互互換的モデルとしても機能しているように感じられる。未婚か既婚かは不明。

○警官:音楽会でクラバックの演奏中、「演奏禁止」を宣告する。異様に身長が高い。マッグの謂いから推すと、既婚者の可能性が高い。

○「ゲエル夫人」:ゲエルの妻。ライチの実に似ており、河童国ではそれが美人のポイントであるらしい。

○「ゲエル」の子:河童の好物とされる胡瓜に似ている。

○「ペツプ」:裁判官。未婚か既婚かは不明。愛煙家である。作品のラスト・シーンで、失職の果てに発狂、精神病院に収容されていることが明かされる。これは芥川龍之介の義兄で執筆直前に鉄道自殺した西川豊をモデルとしているように思われる。

○書籍工場会社技師:「僕」の同工場の書籍製造過程見学を案内する。

○「ロツぺ」:内閣総理大臣、クォラックス党総裁。モデルは当時の内閣総理大臣にして憲政会総裁であった若槻禮次郎と思われる。「僕」とゲエルとの会話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「クイクイ」:左翼系の『プウ・フウ新聞』社社長。しかし実際には資本家ゲエルから後援(資金援助)を受けて操られている。ゲエルの話の中で語られる河童で実際には登場しない。芥川龍之介が社員であった毎日新聞社がモデルだとすると、時代的なズレがあるものの、原敬辺りがモデルであろうか。

○獺国のビップ獺:河童国に在留していた獺国籍の異国生物であるが、叙勲された獺国のビップであった。誤って殺害されて、そのことがカッパ・カワウソ戦争(やぶちゃん仮称)の発端となった。ゲエルの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○獺の知人である河童夫婦:夫は道楽者で、妻は秘かに生命保険をかけた夫の殺害を企んでいたが、毒殺するための青酸カリ入りのココアを、誤って来訪していた先のビップ獺に飲ませてしまい、殺害、これがカッパ・カワウソ戦争の発端となった。その詳細な叙述から見ると少なくとも、この夫の河童には特定モデルがあるものと思われる。ゲエルの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の母:ラップと同居している。ラップより妹を可愛がっている。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の叔母:ラップと同居している。ラップの母と仲が悪い。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の父:ラップと同居している。アル中で、相手構わず直ぐに暴力を揮う。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ラツプ」の弟:ラップと同居している。不良少年。ラップの話の中で語られる河童で実際には登場しない。

○「ロツク」:クラバックが内心、自分を越えていると感じている孤高の音楽家。嘴が反り返った、一癖ある顔をしている。芥川龍之介をクラバックとする位相からは志賀直哉がモデルと思しい。但し、クラバックの言説(ディスクール)の中では、明らかに芥川龍之介に対する萩原朔太郎や志賀直哉の相互互換的モデルになっているように思われる。この河童、会話の中に名前のみ現れるばかりで、実際には登場しないが「僕」も写真では知っており、ロックの作曲した曲も聴いている。重要なトリック・スターである。

○「グルツク」に職務尋問する警官:「僕」の通報告発を受けて、窃盗罪のグルックに職務尋問するが、河童国刑法1285条に則り、グルツクを解放する。

○「グルツク」:「僕」の万年筆(原稿では当初は銀時計である)を子供の玩具にするために盗んだ河童。ガリガリに痩せている。既婚で子持ち(作中時間内で死亡)の貧民。初期設定の銀時計がフロイト的な女性シンボルであるとすれば、モデルは芥川の不倫相手であった秀しげ子と同時に関係を持っていた龍門の四天王の一人南部修太郎か。

○「トツク」の内縁の妻:トックの自殺現場に居合わせる。これは前掲の「トックの愛人の一人である雌河童」と同一河童とも読めないことはないのだが、もし同一河童であったなら、クラバックは彼女が嫌悪しながらも今も何処かで惹かれいる相手であるはずであるが、駆けつけたクラバックとの間に何らの描写もないところから、私は別な雌河童ととる。

○「トツク」の私生児:数え年2~3歳。トックの自殺現場に母と共に居る。前掲の内縁の妻とトックとの間の子。トックは自由恋愛家であるから、当然、認知していないものと思われる。男児か女児かは不明であるが男児であろう(そうしたい根拠は注を参照されたい)。芥川龍之介三男の芥川也寸志がモデルであろう。

○長老:近代教(生活教)の大寺院に居住しているところを見ると、ただの信徒ではなく、高位の近代教の伝道師である。しかし、作中、実際には生活教を信じていないことを「僕」とラツプに告解する。既婚で、妻の尻に敷かれている恐妻河童。

○長老の妻:巨体にして強力(ごうりき)の雌河童。

○「ペツク」:心霊学協会会長。写真家のスタジオとなったトックの元の家で、降霊実験を行う。モデルは「千里眼事件」で知られる東京帝国大学助教授福来友吉か。「心霊学会報告」の文中に登場するのみ。

○「ホツプ夫人」:霊媒師。心霊学協会会員。元女優。自らにトックの霊を降霊させる。モデルは「千里眼事件」の超能力者御船千鶴子又は長尾郁子か。「心霊学会報告」の文中に登場するのみ。

○「ラツク」:本屋。かつてのトックの内縁妻が現在結婚している相手。片目が義眼であることをトックは知っている。ということはトックが生前、相応に親しかった人物であると考えてよい。当初の設定は弁護士である。「心霊学会報告」の文中に登場するのみ。

○街はずれ住む老河童:数え年1213歳にしか見えないが、実際は115116歳。「僕」に人間世界に戻る唯一つの路(繩梯子)を教える隠者の風格を持った河童。独身と思われる。「杜子春」の鐵冠子の生まれ変わりのような印象を持つ。

       題名と添え書きについての注

・「河童」ここで民俗学的妖怪学的記載を載せると膨大になるので、とりあえずは私の電子テクスト「和漢三才圖會 卷第四十 寓類 恠類」の「川太郎」の項を縦覧されんことを望む。私が河童について語っておきたい内容は、ほぼそこに尽きているからである。また、本作に先行する芥川龍之介の原「河童」というべき作品「河童」については、こちらに芥川龍之介真原稿恣意的推定版「河童 又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototypeKappaと讀んで下さい――」を用意してある。よろしければ私の原稿復元版と詳細な注記をお楽しみあれ!

・「どうか Kappa と發音して下さい」この注記は、「河童」の原義である「川(かは)」に棲息する「童子(わらは)」の転訛形である「わつぱ」に似た水棲生物の意の複合語である「川童(かはわつぱ)」及び、そこから派生した地方名である「がはっぱ」「がはわつぱ」「がらつぱ」や、やはり地方名である同義の「川太郎(かはたらう)」(芥川龍之介は自作の詩文では音数率の関係からであろう、好んでこの「川太郎」「河太郎」を用いている)の訛りである「がたらう」「がーたろ」「げーたろ」といった比較的知られた馴染みの別呼称ではなく、飽くまで本作では「かつぱ」“Kappa”と「發音」することを読者へ喚起している。これは、本作にローマ字表記で多出する多様な河童語を、作中で一種の外国語(フランス語風に感じられる)のような言語体系として捉えて楽しんでもらうことを伏線として示したものと言える。英文学専攻の芥川ならではの仕掛けである。新全集の三嶋譲氏の注解に、これはイギリスの作家 Samuel Butler サミュエル・バトラー(18351902)の、1872年刊の“Erewhon”「エレホン」の序にならっている旨の記載がある。そこでは『バトラーはこの題名を Ĕ-rĕ-whŏn と三つの音節に分けて読むように要求している』とある。小説「エレホン」について(実は私は持っているが読んでいない)、岩波書店のブックサーチャの解説によれば(句読点や記号を変更した)、『エレホンはNowhereの綴りを逆にして作った仮想国の名前』であり、『その仮想国の見聞記という形式で書かれたユートピア的物語であ』る。『宗教・教育・進化論・親子関係・機械文明など近代社会に対する諷刺文学である。一見まじめくさった表現の裏にかくされている作家のアイロニーをよみとられたい』とある。

       序 注

・「或精神病院」「東京市外××村のS精神病院」これについて筑摩全集類聚版脚注では、当時、東京市外巣鴨村にあった巣鴨精神病院に同定し(確かにイニシャルは「S」である)、『芥川は小説を書くためにここを見学した。』という注記を載せている。この病院は現在の東京都立松沢病院(現在は世田谷区上北沢に所在)の前身で、1940年代までは東京帝国大学医学部の関連病院として、教授が院長を兼任していた。明治221889)年、東京府巣鴨病院と改称、明治341901)年には近代精神科学会でも著名な人物として知られ、文人との交流もあった東京帝国大学精神病理学講座主任教授呉秀三(くれしゅうぞう 元治2(1865)年~昭和7(1932)年:彼の名「シュウゾウ」のイニシャルは「S」であり、呉秀三博士と尊称を附す記載が多い。)が巣鴨病院院長を兼任してから病院改革が始められた。参照したウィキの「東京都立松沢病院」によれば、その主たる改革は以下の通り。

 《引用開始》

拘束具使用禁止。それらをすべて焼却処分する。

患者の室外運動の自由化―看護職員や家族が付き添い、病院構内での運動を自由化。

旧来の看護観を持つ看護長などリーダー格の職員を更迭し、看護職員の人員と意識の刷新を図る。

新しい看護長には医科大学附属病院で看護学講習を聴講させ、看護技術の向上を図る。

患者処遇の改善と治療方針の刷新。

作業療法の積極的活用。

病棟の増改築の実行。

 《引用終了》

大正5(1916)年には東京帝国大学精神病理学講座が巣鴨病院から分離し、大正81919)年11月、荏原郡松沢村に移転、東京府松沢病院となった。当時の松沢病院は『敷地面積は6万坪。各病棟は□型をしており、閉鎖病棟の患者も中庭には出られる構造になってい』たとある。但し、新全集の宮坂覺年譜によれば、芥川龍之介が巣鴨病院を見学したのは本作執筆にかかる遙か13年も昔の、龍之介大学1年次22歳の大正3(1914)3月3日頃で、成瀬正一と同道、その後、医科大学にも赴き、人体解剖も見学している。この時の巣鴨精神病院院長は「S博士」呉秀三であったと思われる。この訪問の体験は、後に「或阿呆の一生」の「二 母」の章にも生かされたものと思われる。

       二 母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂鬱に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讚美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黑光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。

なお、河出書房新社1992年刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」の年譜によると、この時の医科大学の解剖では死体の臭気に辟易し(但し、これは死臭というよりホルマリン臭であろう)、また『人体の背中の皮膚は1.5㎝もの厚さがあることを知る』とある。この体験も、後にやはり「或阿呆の一生」の「九 死體」の章にも生かされた。

      九 死  體

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剥ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

勿論、この「王朝時代に背景を求めた或短篇」とは、翌大正4(1815)年11月に雑誌『帝国文学』に発表することとなる「羅生門」である。

・「第二十三號」これが「」以下の実質上の本話の話者「僕」である。これを芥川龍之介と同定するならば、記録者(この精神病院を見学しに来た「僕」)は何者かという問題が生じる。後注でみるように、この後者の本話の記録者「僕」は芥川龍之介自身の体験に基づいたものではある。話者「僕」の総ての河童国訪問記のディスクールはしかし、やはり芥川龍之介自身のものであることは言を俟たない。従ってこの「僕」という同一の一人称によって語られる二人の登場人物は芥川龍之介のドッペルゲンガーとまずは捉えられるのであるが、果たして本当にそうであろうか? 私は、この訪問者「僕」を、最終的に芥川の盟友の一人である内田百閒に同定するものである。その根拠は本ページ最後の注で明らかにしてあるので参照されたい。私はこの23という数字にも何かの仕掛けを感じているのだが――例えばこの患者は「彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい」とあるから、年齢相応には全く見えないのであって、それは、例えば23歳ぐらいにしか思えないとすれば、どうか? 芥川龍之介が「羅生門」を発表したのは、大正4(1915)年、数え23歳の時であった――未だ確信たり得るものがない。何かに気づかれた方は、是非、御教授願いたい。

・「彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人である。彼の半生の經驗は、――いや、そんなことはどうでも善い」執筆時の芥川龍之介の年齢は数え36歳であるから年齢としては完全に一致する。1983年みずち書房刊の文学研究者集団著・熊谷孝編「芥川文学手帖」の「河童」の項で芝崎文仁氏は、ここに注して『どうでもよいのではなく、彼の半生は〈冬の時代〉から〈暗い谷間〉の三・一五事件前夜にわたる時代である。トピック的に摘出してみると、一九二〇年大逆事件、日韓併合、一九一四年第一次世界大戦、一九一八年シベリア出兵、米騒動、一九二〇年不況、失業人口の増大、一九二三年関東大震災、右翼テロ、一九二五年治安維持法、一九二七年金融恐慌、となる。国外へ向けての帝国主義的侵略性は、国内に向けては、治安維持法等による労働者階級をはじめ民主運動の弾圧となる。階級闘争への弾圧と抑圧は暗い寒々とした現実社会をつくり出している。そこでは、狂人(チャックの言うところの)たちが大手を振って歩いている。』と記され、『当時のプチ・ブル・インテリゲンチャの深い苦悩は、「河童」の世界の苦悩と重なるのだ。河童の社会に満ちている苦悩と憂鬱は、彼等のメンタリティーにおいて実感されたであろう。河童の国はそのまま日本の社会ではない。が、喜劇精神によって虚構された河童の国を通路として見た時、あまりにも悲劇的な日本的現実がそこにリアリスティックに浮かび上がってくるのである』(記号の一部を変更した)と評されている。私がこれを読んで面白いと思うのは、ここで芥川の用いた「半生」という語との連関である。芥川龍之介は本作に先立つ2年前の大正141925)年1月の『中央公論』に「大導寺信輔の半生」を発表している。そのメイン・ストーリーは高等学校時代の思い出で断ち切られているのだが、作中、執筆時の作者大導寺は大学を卒業して既に作家となっている(更に厳密さを示すならば、中学時代を回想する「四 學校」では、大導寺が作家となったのをその二十年後に措定しているから、芥川は自分の執筆時間と主人公大導寺の記録時間を完全にリンクさせている)。芥川龍之介が「鼻」を発表し、新進作家としての地位を揺るぎないものとしたのが大正5(1916)年末であったことを考えれば、大正9(1920)年の大逆事件に始まる、この芝崎氏の摘出した芥川龍之介という個に襲い掛かる暗く絶望的な不安に満ちた外患としての年譜が、いみじくも芥川が「大導寺信輔の半生」に『或精神的風景畫』と副題を附した、正に芥川龍之介の詩的真実としての風景画――内的な自我の半生の挫折と成長、内憂としての暗い精神の年譜――下限を大正5(1916)年から「大導寺信輔の半生」脱稿の大正131924)年末とする――と美事に接合されるからである。

・「S博士」前注では病院との整合性から呉秀三を同定しておいたが、私はこの「S博士」には、晩年の彼が公私共に世話になった精神科医にして歌人であった齊藤茂吉の影があるように思われてならない。彼は姓「サイトウ」のイニシャルがやはり「S」である。また茂吉は本作が発表された昭和2(1927)3月の翌4月に養父紀一が引退、青山脳病院院長を継いでいるのである(因みに、その3ヵ月後の7月、芥川龍之介は茂吉などから処方してもらっていた睡眠薬を飲んで自殺し、激しい衝撃を受けることとなる――但し、私は自殺に用いた薬物はこの睡眠薬ではないと考えているが――それについては後述する)。

・「飽き足りない人」原稿は「飽き足らない人」とある(新全集後記による。これは珍しい旧全集編者の見落としである)。

       一 

・「」原稿は「」とある(新全集後記による。これも珍しく旧全集編者の見落としである)。芥川は当初は現在のような完全に分離した導入としての「序」を、作品の流れから切り離してはいなかったことが分かる。もしかすると芥川は、この「序」に対照する完全に見学者「僕」の目線で撮影されたエピローグ場面(その痕跡は現在の最終章「十七」の中に含まれていることは明白)を構想していたのではないかと思わせるものである。

・「三年前の夏」原稿では「二三年前の夏」とある。

・「晴れる氣色」は初出では「晴れる景色」であるのを原稿に即して訂しているが、旧全集ではその注記がない(新全集にはある)。ここまでの新旧の校異の相違を見ると、旧全集の編者は一部の異同を極めて単純な誤字やミスとして校異に記していないらしい可能性を想起出来る。しかし、それ以上にこれから出現する原稿の訂正部分の復元という、その瑕疵に余りある快挙をして呉れている点、旧全集はノー・プロブレム、ヴェリ・グッド、エクセレンスである。

・「梓川」長野県を流れる信濃川水系である犀川の上流域の古称。飛騨山脈北アルプス槍ヶ岳を源として南流、上高地で大正池を形成する。昔、ここの上流周辺地帯から上質の梓(ブナ目カバノキ科カバノキ属アズサBetula grossa)の産地として知られ、神事祭祀に用いられる梓弓(邪気を祓うための鳴弦用の祭器たる弓)の材料として朝廷に献上され、これが川の名の由来となったと言われる。

・「僕は前に穗高山は勿論、槍ヶ岳にも登つてゐました」本作発表に先立つ大正9(1920)年7月の雑誌『改造』に「槍ケ嶽紀行」なる槍ヶ岳登攀記録(但し、赤沢の登りで切れて未完)を発表しているが、これは一見、この年に登攀したように記したフェイクで(筑摩全集類聚版脚注や古い研究者の記載の中にはこれにまんまと騙されて、この年の6月に槍ヶ岳に登山しているという記載を載せるものがあるが完全な誤りである)、実際には11年も前、龍之介17歳の府立第三中学校4年次の明治421909)年8月8日、同級生と5~6泊で登山した際の印象を元にした仮想紀行なのである。

・「毛生欅」被子植物門双子葉植物綱ブナ目ブナ科ブナFagus crenata。「山毛欅」の他、「橅」「椈」等とも書く。落葉広葉樹。本州中部では凡そ標高1,000m以上1,500m以下の地域でブナ林を形成する。上高地は標高1,500m。「山毛欅」の漢和名は、ブナの葉が全くの異種であるバラ目ニレ科ケヤキ(欅)Zelkova serrataの葉に似ており、ケヤキは比較的丘陵地域から平地にまで植生するのに対して、ブナはケヤキに比して山間部に植生、更にブナの葉の若芽には細かな繊毛が生えていることからの命名。

・「樅」常緑針葉樹である裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科モミAbies firmaであるが、ここでは上高地という場所を考えるとモミよりも寒冷な亜高山帯下部に分布するモミ属AbiesウラジロモミAbies homolepis、若しくは更にその上の高山帯に分布するモミ属Abies シラビソ Abies veitchiiではないかと考えられる。本州中部では、高度1,000m前後でウラジロモミがモミと入れ替わり、1,5001,800m区間でウラジロモミからシラビソへと遷移、シラビソは2,500mまで分布する主人公はかなり梓川を遡っており、後2者の可能性の方が高いように思われる。

・「コオンド・ビイフ」“corned beef”。コーン・ビーフの缶詰。

・「白樺」双子葉植物綱ブナ目カバノキ科カバノキ属シラカンバBetula platyphylla var. japonica若しくはシラカンバより高高度に植生するカバノキ属 BetulaダケカンバBetula ermaniiであろう。両者は特に若木ではよく似ているが、シラカンバの樹皮が文字通り、黄味を帯びた白色であるのに対して、ダケカンバの成樹は樹皮が赤味を帯びた灰褐色、更にシラカンバの葉には光沢がないのに比してダケカンバの葉には幾分、光沢がある。上高地周辺にはどちらも見られる。主人公はかなり梓川を遡っており、ここでも後者の可能性の方が高いように思われる。

・「岩の上に僕を見てゐた河童は一面に灰色を帶びてゐました。けれども今は體中すつかり緑いろに變つてゐるのです」後述する河童の特異能力である皮膚の保護色、カメレオン効果の、印象的なヴィジュアル・シーンである。

・「橡」双子葉植物綱ムクロジ目トチノキ科トチノキAesculus turbinata。落葉広葉樹であるが中部山岳地帯には広く分布する。

・「牛が一匹、河童の往く先へ立ち塞がりました。しかもそれは角の太い、目を血走らせた牡牛なのです。河童はこの牡牛を見ると、何か悲鳴を擧げながら、一きは高い熊笹の中へもんどりを打つやうに飛び込みました」石田英一郎氏の「河童駒引考」などで、河童が馬を水に引き込むという伝承が知られるが、これは馬だけではなく、牛の場合もある。芥川は、普段の河童の餌食が、ここでは盛りのついた凶暴な牡牛という設定で河童の正面に突如アップで出現するという、河童駒引のパロディを狙っているのであろう。

・「河童橋」上高地のシンボルとして親しまれている梓川に架かる木製吊橋(幅3.1m・全長36.6m)。明治241891)年に架橋されているから、明治421909)年8月に訪れた龍之介もこの初代の橋を渡っているはずである(初代は昭和5(1930)年 に架け替えられており、現在のものは1997年改築になる5代目)。橋からの西穂高・奥穂高・前穂高・明神・焼岳の遠景を堪能出来る。この河童橋という名は、昔ここに如何にも河童が棲んで居そうな淵があったからとも、未だ架橋されていなかった頃、衣類を頭に乗せて川を渡る人の姿を河童に比したという説などがあるが、真説は不詳。ただ、正にこの芥川の小説「河童」に登場、その発表5ヶ月後に芥川が自殺したことで、決定的に有名になったと言えよう。私がかつて高校の山岳部の顧問をしていた頃の生徒中には、本作がこの橋の由来であると思い込んでいた者さえいた。

       二 

・「Quax quax」最初に「僕」が耳にする河童の台詞であるが、まだ「僕」には河童語は理解されていないから、ここでは正に「クワック(ス)クワック(ス)」(芥川が意図していると思われるフランス語風の感じからは、“x”は発音しないか、殆んどあるかなきかがいい気がする)という河童の声を単純に擬音語(オノマトペイア)としてローマ字で示したに過ぎない。

・「僕の兩側に並んでゐる町は少しも銀座通りと違ひありません。やはり毛生欅の並み木のかげにいろいろの店が日除けを並べ、その又並み木に挾まれた道を自動車が何臺も走つてゐるのです」芥川マジックが起動する。これは銀座の柳のパロディで、河童社会が一方では現実の日本社会への――時には当時のグローバルな「人間の國の文明」への――痛烈なカリカチャアとなることを伏線として示している。岩波版新全集三嶋氏注解に、当時の銀座『通りの西側には夜店が軒を並べ』ていた、とある。

・「チヤツクと云ふ醫者」これは田端に開業していた医師下島勲(いさを 明治3(1870)年~昭和221947)年)をモデルとしていると考えてよい。但し、チャックには家族が描かれず、下島とは違い(下島は当時既婚の57歳)、未婚河童の模様である。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川及び芥川家の主治医・友人として、その末期をも看取った。俳句もものし、号は空谷(くうこく)、井上井月の研究家としても知られる。芥川が辞世「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」を残した相手でもある。下島の田端の家は芥川の家のすぐ近くであった。芥川は下島勲について、その随筆「田端人」の中で、次のように記している(底本は岩波版旧全集を用いた)。

 下島勳 下島先生はお醫者なり。僕の一家は常に先生の御厄介になる。又空谷山人と號し、乞食俳人井月の句を集めたる井月句集の編者なり。僕とは親子ほど違ふ年なれども、老來トルストイでも何でも讀み、論戰に勇なるは敬服すべし。僕の書畫を愛する心は先生に負ふ所少からず。なほ次手に吹聽すれば、先生は時々夢の中に化けものなどに追ひかけられても、逃げたことは一度もなきよし。先生の膽、恐らくは駝鳥の卵よりも大ならん乎。

・「河童が人間を捕獲することが多い爲」先の駒引のみならず、水辺で炊事洗濯をしている女や通りかかり人間、泳いでいる子や大人を水中に引き込んで溺れさせて殺そうとしたり、人の肛門近くあるとされた架空の臓器、尻子玉(尻小玉・しりこだま)や肝(きも)を抜いて、結果、人を腑抜けにしたりにしたり死に至らしめるという伝承も多い。

・「或若い道路工夫などはやはり偶然この國へ來た後(のち)、雌の河童を妻に娶(めと)り、死ぬまで住んでゐたと云ふことです」ここから河童とヒトは交合が可能であることを推定出来る(また、両者に相応なコイツスによるエクスタシーもあることが、次の「夫の道路工夫を誤魔化すのにも妙を極めてゐた」という表現から類推出来る)。但し、異種であるため、実際の生殖(受精)は不能であった可能性が高い。実際、伝承中でも河童と人の異類婚姻譚は、私の知る限りでは、ない。

・「尤もその又雌の河童はこの國第一の美人だつた上、夫の道路工夫を誤魔化すのにも妙を極めてゐたと云ふことです」芥川の悪意に満ちた女性偏見が垣間見られるところ。

・「特別保護住民」「僕」は「捕獲」という語を用いているものの、河童国ではヒトが異国民として人権、基、河童権的に保護されていたことが明らかとなる。ヒト社会よりも遙かに高度な社会である、と言える。勿論、これは芥川龍之介が資本主義社会日本で与えられていた作家――売文業という非生産性の後ろめたさを背負ったプチブル階級の皮肉である。

・「エツテイング」“etching”。エッチング。銅版画。

・「唯肝腎の家をはじめ、テエブルや椅子の寸法も河童の身長に合はせてありますから、子供の部屋に入れられたやうにそれだけは不便に思ひました」多くの伝承で「子供ぐらいの大きさ」「2歳から10歳程度の児童に似る」とあり、江戸時代の捕獲資料等でも1m内外の身長のものが多いようである。次章で「身長もざつと一メエトルを越えるか越えぬ位でせう」と明確に示している。ここはスィフトの「ガリヴァー旅行記」にある小人国リリパット国とブレフスキュ国のイメージを取り入れていよう。

・「Quax, Bag, quo quel quan?」最後の“quel quan”は、想像される発音からはフランス語の「ある人」「誰か」の意の不定代名詞“quelqu’un”を想起させる。

・「この旦那の氣味惡がるのが面白かつたものですから、つい調子に乘つて惡戲をしたのです」芥川はここで読者に、この漁師のバックが豹変し、伝承で知られるように、「僕」を襲って尻小玉や肝を食いたいという抑え難い食人欲求を示しているのではと感じさせるように仕組んでいるものと思われる。少なくとも、私は高校時代にここを読んだ時、そのようなダークな欲求をバックの内心に見たのである。ここでは河童の伝承の中の、一つの属性であるネガティヴな要素をまず示した上で、その直後に「つい調子に」乗って悪戯心を出しちゃいました、ごめんなさい、というオチを設けて、河童社会への、ほっとするような読者のある種の受け入れ共感を狙っているように思われる。

       三 

・「水虎考略」原本は昌平坂学問所儒学者古賀侗庵(とうあん 天明8(1788)年~弘化4(1847)年)が、文政3(1820)年に纏めた河童専門も博物学書。和漢の博物誌や地誌、奇談集からの河童関連記事の採録や、諸国から蒐集した河童の目撃談や捕獲記録について記したものである。後には、これに幕府御殿医であった本草学者栗本丹洲(宝暦6(1756)年~天保5(1834)年:彼の「千虫譜」の一部は私の電子テクストで公開している)が、更に各地で捕獲目撃された河童写生図等を多数追加、天保101839)年には侗庵自身によって「後篇」2冊が増補されている。

・「體重は醫者のチヤツクによれば、二十ポンドから三十ポンドまで、――稀には五十何ポンド位の大河童(おほかつぱ)もゐる」1ポンドは453.59gであるから、20ポンドから30ポンドは、9㎏強から約13.6㎏、と50ポンドでも22.6㎏強というやはり幼児子供の軽さである。

・「楕圓形の皿」圧倒的多くの伝承では、頭頂部にある河童の皿は円形(楕円形ではない!)の平滑無毛(これは「皿」についての描写であるから、逆にその周囲には所謂「おかっぱ」の頭髪があることになろう)で水気を含んでいて、この皿が乾いたり割れたりすると力を失い、やがて死に至るという(単なる頭頂部の凹みとして描かれていたり、そう記載する例もある)。「僕」のこの記載は、河童の皿に関する興味深い記載である。

・「河童の皮膚の色」多くの伝承では、河童の皮膚は緑色か赤色と記載する。図像ではくすんだ灰白色が多いように思われるが、これはその多くが死骸であるためか。ここでは冒頭に現れた河童の特異能力であるカメレオン効果、擬態による体色変化を挙げる。

・「皮膚組織の上に何かカメレオンに近い所を持つてゐる」爬虫綱有鱗目トカゲ亜目イグアナ下目カメレオン科amaeleonidae の一部の種が持っている所謂、擬態様の変色現象のことを指している。これは外部からの刺激による感情・体調の変化で限定的(勘違いしている人が多いが、周囲に合わせて自在に変色する種はカメレオン類にはいない)に変色させる、変色する現象である。あれは皮膚の色ではなく、透明度の高い皮膚組織の中に、複数の色素細胞を持っており、それを拡張・収縮させることによって体色変化を起こすのである(カメレオンの変色メカニズムは必ずしもはっきりとは解明されていない)。それを導くのは外界からの紫外線の他にも、外部からの攻撃や接触刺激による感情の変化でも生ずる。通常緑色をしているカメレオンの一種は、比較的強い紫外線を受けると黒く変色するが、これは第一に変温動物である爬虫類の生活機能で、体温を上昇させることを目的とする。従って逆に活動を休止する夜間は灰白色になって放熱し易くするのである。感情による変化では、攻撃や興奮刺激に対し、体腔を大きくしつつ、警戒色として赤黒くなったり、求愛行動時に鮮やかな黄色になったりする。勿論、緑色は隠蔽色であるが、実際には魚類のヒラメやカレイ、頭足類のイカやタコの仲間が顕著に示すような隠蔽色のイメージとは、かなりずれるように私は思う。色を変える忍者としてのカメレオンは、かなり誇大広告の感がある。それより、河童にこのようなカメレオン属性があることは、私に限って言えば、特に聞いたことがない。芥川龍之介の「鼻行類」的記載に拍手である。

・「西國の河童は緑色であり、東北の河童は赤いと云ふ民俗學上の記録」大正3(1914)年刊の柳田國男「山島民譚集(一)」の「河童駒引」の「諸国河童誌の矛盾」には『九州筑後川流域ノ河童ハ肌膚(きふ、皮膚)褐色ニシテ総身ニ毛アルニ反シテ、三河、越前等ノモノハ青黒クシテ毛無ク、所謂「オカッパ」ノ部分ニノミ、人間ノ小児ト同ジキ毛ヲ頂ケリ』とある。本州中部を西国とし、オーソドックスな「青黒」=「緑」とし、『東北の河童は赤い』(以上、引用は筑摩文庫版全集より)の部分は、やはり柳田の「遠野物語」にある真っ赤な顔をした河童の記載を受けたものであろう(因みに方言周圏論ではないが、東北と九州に赤い河童がいるというのは面白いではないか!)。また、ウィキの「河童」によれば、『童の由来は大まかに西日本と東日本に分けられ、西日本では大陸からの渡来とされるが(河伯信仰を参照)、東日本では安倍晴明の式神、役小角の護法童子、飛騨の匠(左甚五郎とも)が仕事を手伝わせるために作った人形が変じたものとされる。両腕が体内で繋がっている(腕を抜くと反対側の腕も抜けたという話がある)のは人形であったからともされる。大陸渡来の河童は猿猴と呼ばれ、その性質も中国の猴(中国ではニホンザルなど在来種より大きな猿を猴と表記する)に類似する』とある。この猿猴については、私の電子テクスト「和漢三才圖會 巻第四十 寓類 恠類」の「猿猴」の項を参照されたい。

・「河童は皮膚の下に餘程厚い脂肪を持つてゐると見え」実はこれは、先に記した大正3(1914)3月の成瀬正一との医科大学での人体解剖に於ける顔面剖検の「皮の下に廣がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪」の記憶である。「序」に掲げた「或阿呆の一生」の「九 死體」を参照のこと。皮下の厚い脂肪層は爬虫類や両生類で人形(ひとがた)に平行進化した生物をイメージするならば、変温動物の一種の特徴としてはおかしくはない。

・「華氏五十度前後」F〔華氏度数〕= χ、℃〔摂氏度数〕= とおくと、その変換式は、

(χ-32)×5÷9=

となるので、

華氏50゚F=摂氏10

となる。年平均気温10℃となると河童の国は、その言語印象に相同性が認められるフランスのパリ(年平均気温10.6℃)や、ロンドン(同9.7℃)に近い。地下の相応に深い位置にあると思われる割には(地熱の影響を考えるなら)、かなり寒い。但し、冒頭の舞台である上高地は年平均気温5℃で、夏場でも20℃を越えることは稀であるから、河童国がその周縁の隠れ里として位置するとすれば、不審ではない。

・「河童はカンガルウのやうに腹に袋を持つてゐます」芥川龍之介版「鼻行類」ならぬ「河童類」の生物学的叙述が炸裂する。河童類は実は哺乳綱獣亜綱後獣下綱有袋上目 Marsupialia に属する有袋類から平行進化したヒト型動物であったことが明かされる。河童様生物の報告が皆無に等しいことを考えると、これはアメリカ有袋大目 Ameridelphiaではなく、オーストラリア有袋大目 Australidelphia でも、地底生活に適応している点では同大目フクロモグラ目 Notoryctemorphia 、また直立二足歩行性を獲得している点では、同大目のカンガルー目 Diprotodontia の近縁と考え得る。特に芥川が例してカンガルーを示していることは後者の可能性を窺わせるものがある。河童が本邦に特異的に棲息分布することを考えると(私は河童の起源を大陸に求める考え方には甚だ疑問を持っている。中国の「河伯」の形状――人の姿で、白亀又は龍に乗り、或いはずばり本体は龍の姿、更には人の頭で体は魚体という人魚形態――は伝えられるものを見ても、私には河童と同類同種とは思えないものである。河童自体は本邦固有種であると信じて疑わない)、大陸移動以前、オーストラリア有袋大目に属する古有袋類の一部が、日本列島に陸封され(河童は水棲動物であるが淡水産である可能性が極めて高く、海洋を自由に渡る能力は持っていない模様である)、独自に平行進化を遂げた結果、ヒトと極めて類似した形態へと進化したものと私は判断するものである。但し、この袋は河童の♂♀両方にあり(少なくとも現生有袋類の♂には袋は当然の如くない)、また、この後の河童の出産に関わる記録によれば雌河童は、その生殖器の奥の子宮と思われる器官内で完全に子を育て上げることが出来る、即ち、ヒト=有胎盤類と同様にその生殖器官をやはり平行進化させていることが分かる。なお、雄河童の袋については魚類である条鰭綱トゲウオ目ヨウジウオ亜目ヨウジウオ科タツノオトシゴ亜科タツノオトシゴ属 Hippocampus Rafinesque の♂の育児嚢のケース等を見れば、必ずしも奇異とは言えない。

・『唯僕に可笑しかつたのは腰のまはりさへ蔽はないことです。僕は或時この習慣をなぜかとバツグに尋ねて見ました。するとバツグはのけぞつたまま、いつまでもげらげら笑つてゐました。おまけに「わたしはお前さんの隱してゐるのが可笑しい」と返事をしました』生物の種の維持という観点からも、私は生殖器を「隠す」という行為は「可笑しい」と思うものである。但し、逆に言えばそのような大切な器官であるから保護するために覆うという行為はあっても「可笑し」くはないとは思う。日常的な排泄器も附属したり、同一機構を用いたりしている以上、やはり隠したり覆ったりするのは実は、理に適っているとは言い難い。であれば我々文明人は頭部をこそ全員がフルメタル・ヘルメットによって完全装甲せねばならぬはずではないか。なお、芥川のこの後の描写からも、河童の生殖器は男女共にヒトのそれと形状的には全く異ならないことが分かる。雄河童の生殖器がヒトと同様のものであることは、例えば「僕」が河童国に転落して人事不省に陥った際、その後の療養時も医師チャックの世話になっているのであるが、医師である以上、「僕」が服で隠蔽している、その生殖器を観察していないはずがないことからも容易に推定出来る。もし雄河童の男根がヒトと大きく異なる形状のものであったとすれば、それはすぐに周囲に知れ渡り、バツクもこのシーンでこのようには発言しないと思われるからである。ただ、先の「カンガルウのやうに腹に袋」があるとすれば、少なくとも♀の袋は有袋類の痕跡を残すと考えられるから、生殖器の直上、かなり股間に近い位置に袋があるものと推定される。更に、「僕」は雌河童の乳房について記載していない点にも着目したい。これは、実は現生有袋類と同様に、河童類の乳房は実はこの袋の中にあるのではないかという強い確信を私に起こさせるものだからである。最後に一言付け加えておくならば、芥川龍之介の一物は大きかったことで知られる。この「僕」の一物も大きかったとしたら――残念ながら、河童の身長は子供並みである――必ずしも、身長に比例するとは言えないが、まずはそれは河童から見れば、実用性のない異様なものに他ならなかったのではなかろうか? なお、本章のプロトタイプこそ芥川龍之介真原稿恣意的推定版「河童 又は やぶちゃん恣意的副題――どうかPrototypeKappaと讀んで下さい――」であると私は思う。前にも注したが、是非、お読みあれ。

       四 

・「河童は我々人間の眞面目に思ふことを可笑しがる、同時に我々人間の可笑しがることを眞面目に思ふ――かう云ふとんちんかんな習慣」と「僕」は述べているが、総てがそうした反転世界である訳ではない点に注意しないと「河童」は読み誤る。河童はヒトの反世界であると同時に相同世界でもある。そのキメラ的構造を冷徹に解剖してかからないと、我々は河童国に文字通り、転落することになるのである。ここで芥川自身、「滑稽」が反転しているに過ぎないということを明記している。

・「産兒制限」本作発表の5年前、大正111922)年にはアメリカ人の産児制限活動家Margaret Higgins Sangerマーガレット・ヒギンズ・サンガー 18791966)が改造社(芥川龍之介御用達の出版社)の招待で来日、日本でも各地に産児調節の研究会が発足していた。サンガーは、近代的な優生学的産児制限=受胎調節を推進した活動家である。労働運動や女性の権利向上に寄与したが、当時の日本は富国強兵策の只中で、公的には歓迎されなかった。因みに大正131924)年には産婦人科医荻野久作(明治251882)年~昭和501975)年)が論文「排卵ノ時期、黄体ト子宮粘膜ノ周期的変化トノ関係、子宮粘膜ノ周期的変化ノ周期及ビ受胎胎日二就テ」を発表、昭和5(1930)年 には留学先のドイツでその研究を基に論文「排卵と受胎日」を発表している(所謂、後のオギノ式であるが、彼の研究の真意は不妊治療にあり、荻野自身はその不確実な「避妊法」には強く反対していた)。なお、岩波新全集三嶋氏のこの部分への注解に、『この章は』「エレホン」『の、エレホン人が未成の国からこの世に生まれてくるには、それぞれの自由意志によるという部分(第一八、一九章)と似通っている』とある。

 ・「しかし兩親の都合ばかり考へてゐるのは可笑しいですからね。どうも餘り手前勝手ですからね。」このチャックの考え方は、例えば芥川龍之介の「侏儒の言葉」の次の「親子」のアフォリズムに通底するように思われる。

       親  子

 親は子供を養育するのに適してゐるかどうかは疑問である。成種牛馬は親の爲に養育されるのに違ひない。しかし自然の名のもとにこの舊習の辨護するのは確かに親の我儘である。若し自然の名のもとに如何なる舊習も辨護出來るならば、まず我我は未開人種の掠奪結婚を辨護しなければならぬ。

       又

 子供に對する母親の愛は最も利己心のない愛である。が、利己心のない愛は必ずしも子供の養育に最も適したものではない。この愛の子供に與へる影響は――少くとも影響の大半は暴君にするか、弱者にするかである。

       又

 人生の悲劇の第一幕は親子となつたことにはじまつてゐる。

       又

 古來如何に大勢の親はかう言ふ言葉を繰り返したであらう。――「わたしは畢竟失敗者だつた。しかしこの子だけは成功させなければならぬ。」

但し、このチャックの主張は、鏡返しで容易に「産めよ殖やせよ」といった、「しかし國家の都合ばかり考へてゐるのは可笑しいですからね。どうも餘り手前勝手ですからね」というパラグラフに変異することに気づかねばならない。私は少なくとも、ここでそのようなものとして自然に読めるのである。芥川龍之介に社会批評の不徹底を論(あげつら)う 輩には、

 僕は碌でもないことを考へながら、ふと愛聖館の掲示板を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かういふ言葉だつた。

「神樣はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」

 産兒制限論者は勿論、現世の人々はかういふ言葉に微笑しない譯にはゆかないであらう。人口過剩に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の證據と思ふことは出來ない。いや、寧ろ全能の主の憎しみの證據とさへ思はれるであらう。しかし本所の或塲末の小學生を教育してゐる僕の舊友の言葉に依れば、少くともその界隈に住んでゐる人々は子供の數の多い家ほど反つて暮らしも樂だと云ふことである。それは又どの家の子供も兎に角十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼いで來るからだと云うことである。愛聖館の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事實を知らなかつたかも知れない。が、確にかういふ言葉は現世の本所の或塲末に生活してゐる人々の氣持ちを代辯することになつてゐるであらう。尤も子供の多い程暮らしも樂だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事實である。

と、その「本所兩國」の「萩寺あたり」の冒頭で芥川龍之介が語っているのを、反証としておきたい。

×「父親は電話でもかけるやうに母親の生殖器に口をつけ、」

ここは初出では、

 「父親は電話でもかけるやうに母親の……………をつけ、」

と伏字になっている。新全集注記に芥川龍之介書き入れに『永見氏原稿 生殖器』とある、とする。この永見氏は不詳(芥川龍之介の近辺では親しくした人物に永見徳太郎という長崎の劇作家にして美術研究家がいるが、「河童」原稿との関連性を見出せない人物であり、彼ではないように思われる。これは雑誌『改造』に関係する編集者ではあるまいか?)。それにしてもいつも乍ら思うのだが、伏字というのも、実に律儀なものではないか。ちゃんと字数は合わせている。想像させる淫靡な楽しみを逆に与えるとも言えるか?

・「僕は生れたくはありません。第一僕のお父さんの遺傳は精神病だけでも大へんです。その上僕は河童的存在を惡いと信じてゐますから。」芥川龍之介が養子に出された原因でもある実母フクの精神異常は頓に知られ、芥川龍之介の自殺の原因の一つに遺伝による精神病発症(発狂)恐怖が挙げられるほどである。私は実は、フクの病状は遺伝が疑われるような精神病であったとは思われず、芥川のそれは所謂、精神病に対するフォビアに起因するノイローゼであったと考えている。「點鬼簿」の「一」の冒頭及び「序」の注に引用した「或阿呆の一生」の「母」等を参照されたい。但し、この部分、原稿では「黴毒」としたものを「精神病」と訂しているとあり、そうすると胎児が言う精神病は先天性梅毒による進行麻痺(麻痺性痴呆)のリスクを言っており、バックは梅毒に罹患していることを意味する。それが真相だと考えた時、私はバックが「てれてように頭を掻いてゐ」た理由が腑に落ちるのである(若き日に「河童」を読んだ時から、私は遺伝性精神病を言われて照れるバックが如何にも変に感じられたのである)。ここで彼が梅毒を書き換えたのは、芥川自身のフォビアの規制であると私は思う。だからおかしなままに残ってしまったのだと思う。これは「」の注で、後に明らかにする。ともかくもこの胎児は真正の厭世主義者である。胎内性先天性梅毒に罹患していた場合、胎児梅毒では当初から奇形であったり、母体内で胎児水腫を発症、死産・流産・生後早期の死亡の可能性が高い。出産後の発症となる乳児梅毒では生後1ヶ月頃に鼻炎や皮膚発疹が始まって骨変形が出現、四肢運動の有意な低下が見られるようになる。それよりも後になって発現するタイプ(遅延梅毒)では学童・思春期に発症が始まり、骨・皮膚・粘膜・内臓等広範囲に病変が認められるようになる。かつては罪なき多数のこうした悲惨な子供たちがこの世に生を受けた。

×「産婆は忽ち細君の生殖器へ」

ここは初出では、

 「産婆は忽ち………………へ」

と伏字になっている。新全集注記に芥川龍之介書き入れに『永見氏原稿 生殖器』とある、とする。

・「かう云ふ返事をする位ですから、河童の子供は生れるが早いか、勿論歩いたりしやべつたりするのです」ヒト以外の哺乳類は皆そうである。また、この一連の思索と根性は、私が河童の有力な共通祖先起源種として考えている哺乳綱獣亜綱後獣下綱有袋上目オーストラリア有袋大目カンガルー目 Diprotodontia のカンガルー類が、出生後、生殖孔から袋まで生きんがために這い登る様をも、反面教師として髣髴とさせるではないか。

・「河童の使ふ、丁度時計のゼンマイに似た螺旋文字」河童語の文字が示される。現存するものとしては、悪戯をして逆に腕を切落とされ、それを返してもらう際に残したといったような河童の詫証文といったものとして残る河童文字はある。幾つかを管見したが、篆書に似たごちゃごちゃ字で「時計のゼンマイに似た螺旋文字」と言えなくもないものもあるようだ。但し、単なる手形判であったり、水に映さないと見えないとあったり、古語に似ているが読めなかったり、しっかりとした読める古語であったりと、どうも河童文字は地方的変異が激しいようである。

・「僕は勿論その時にもそんなことの行はれないことをラツプに話して聞かせました」とあるが、この「行はれない」は「行われるべきではない」「行われるはずがない」「行われてしかるべきはずもないとんでもないことである」の謂いで「僕」は用いているように思われる。所謂、単に「(人間社会では)行はれない」という謂いの省略形ではない。

・「ラツプと云ふ河童の学生」これは高い確率で「タツヲ」のアナグラム、芥川龍之介の若き弟子堀辰雄であろう。発表当時、堀辰雄は満23歳、東京帝国大学文学部国文科2年であった。

・「大きいポスタア」

 遺傳的義勇隊を募る!!!

 健全なる男女の河童よ!!!

 惡遺傳を撲滅する爲に

 不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!

ここに示されたのは産児制限に関わる優生結婚の更なるパロディである。個人のHP、miwaさんの「Petit Table」の「自主ゼミ 加藤秀一『<恋愛結婚>は何をもたらしたか』(ちくま新書、2004)」」のレジュメに、当該著作を要約(この方の「自主ゼミ」での考察も含まれる模様である)した部分があり、本注の素材として極めて有効と判断されるので、一部引用しておく(私は本書は未見)。『第5章 恋愛から戦争へ―戦前期における「優生結婚」の模索』のパートである。

 《引用開始》

●人口の「質」

・日清・日露戦争期には国力増進のための人口増加が重要だという認識が広まったが、昭和になると、人口数ではなくその「質」にこだわるという優生学的な視点が官・民の間で広まった。例えば法律面では「合理的避妊ないし妊娠中絶、または優生手術」の容認、「結婚に際して健康証明書を必要とする法規の制定」などの人種改良の具体策が挙がっていた。また日本医師会も「遺伝病や犯罪常習者、変質者の増殖防止のために制産や断種を奨励するべきだ」と提言した。

●恋愛結婚と優生結婚

・昭和には「優生結婚」を看板に掲げる相談所が民間主導で出現しはじめる。その目的は優生学的な視点よりも多産に苦しむ貧困層の女性に避妊や中絶の情報を与えるという産児制限であった。しかし、この動きは政府から弾圧を受ける。政府はあくまでも優生学的なアプローチを望んでいたからだろう。ここで「優生結婚」という看板を掲げたのも弾圧から逃れるためだと考えられる。その後、優生学の観点から結婚をコントロールするという目的で「優生結婚相談所」がデパートの一角に設置される(この事業はもう貧困層の女性を対象にしたものではない!)。

・恋愛結婚と優生結婚は結びつき、「優生」の実現のために「恋愛」が必須と考えられるようになった。大正期の頃から「恋愛は個人の問題ではなく民族、種族、国家の問題である」という思想があったが、昭和期にもその思想が強まった。この裏には優生学を広めるという目的がある。当時、結婚においては「恋愛」よりも「お見合い」や「家柄、富、媒酌人の紹介」が重視されていたため優生結婚が浸透しなかった。そこで政府は男女自ら優生学を選ばせるために個人的なものである「恋愛」を通じて人々が優生結婚を意識するように仕向けた。⇒優生結婚のため恋愛結婚を政府が主導

●結婚は戦争のために

・昭和131938)年に創設された厚生省(戦争遂行に向けて国民の体力向上をはかる目的)は、優生政策を推し進めた。それまで優生結婚の理念を支えてきた「恋愛」が退けられ、国家のための結婚=生殖があからさまに求められるようになった。厚生省は「民族衛生」という言葉を用い、「民族の人口増加と素質向上」を目指す思想を広めた。翌年141939)年に厚生省にて「優生結婚座談会」が開かれ「結婚十訓」が定められた。その中身の一部は「健康な人を選べ、信頼できる人を選べ、盲目的な結婚をするな、産めよ殖やせよ国のため」というものである。また同時に優生結婚の相談もピークを迎える。もちろん、人口の「量」だけでなく「質」も重要であったことは言うまでもない。とはいえ、その「質」にこだわっている場合ではなかったのが現実とも言える。その理由は厚生省がはじめた10人以上の多子家庭の大臣表彰、つまり「産めば国からお金がもらえる」というシステムである。このようなシステムは現在も行政が「少子化対策」として行っているが、実際人口が増えているわけではないため、当時も人口増加につながらなかったと考えられる。

 《引用終了》

この、『「優生結婚座談会」が開かれ「結婚十訓」』というのが気になった。ネット上の複数の記載を調べてみると、昭和141939)年8月に厚生省内で開催されたもので人的資源保護を目的をした施策の議論が行われ、それを受けた民俗衛生研究会から以下の「結婚十訓」が提示されたとある(これは伝染性疾患・遺伝性疾患・精神障害を持った者及び禁治産者の結婚を禁じた1926年に発布されたドイツの「結婚保護法」(ナチス掌握以前であることに注意)に倣ったスローガンである)。以下の引用は昭和141939)年10月4日『中外商業新報』の記事「新しい結婚十則  民族衛生研究會の意見纏まり民族優生運動一歩前進」より(この記事を読むと座談会参加者の中に作家の長谷川如是閑がいるのが私の目を惹いた)。

一、父兄長上の指導を受けよ

二、自己一生の伴侶として信賴できる人を選べ

三、健康人を選べ

四、惡い遺伝のない人を選べ

五、盲目的の結婚を避けよ

六、近親結婚はなるべく避けよ

七、晩婚を避けろ

八、迷信や因習には捉われるな

九、式の當日に結婚届をせよ

一〇、生めよ殖やせよ國のため

この「結婚十則」なるもの、試みに儒教臭い1と官製御都合主義の9を省略して自在に繋げ、擬古文風の正字正仮名に補正、遡ること12年前の河童国のスローガンと並べてみよう。

 御國の爲に!!! 生めよ!!! 殖やせよ!!!

 健全なる男女臣民よ!!!

 惡遺傳を撲滅する爲に

 盲目的結婚・近親結婚・晩婚を避け、健全なる男女と結婚せよ!!!

 遺傳的義勇隊を募る!!!

 健全なる男女の河童よ!!!

 惡遺傳を撲滅する爲に

 不健全なる男女の河童と結婚せよ!!!

こんなスローガン、構造が似たようになるのは当たり前ではある――しかし――私の仕儀に、少なくとも、芥川はニヤリとしてくれるものと、期待はするものである。

・「一本の鐵道を奪ふ爲に互に殺し合ふ義勇隊ですね」本作発表直前、昭和元(1925)年12月、奉天軍閥内で対立抗争を繰り広げていた張作霖軍と郭松齢軍の戦闘に対し、満州鉄道を中核とした満州での権益拡大に脅威を抱いた日本軍部が、張作霖軍に実質上の荷担して、勝利を得させたことを指す。

・「太い腹だけは可笑しさうに絶えず浪立たせてゐました」これは河童の形態が一般に腹部以外はかなりスマートであることを意味している。それに比して腹部は膨満しているのである。但しこれは内臓性脂肪による膨満というよりもそこにある、例の袋に物を入れているからとも解釈出来る。

・「萬年筆」以降、この盗まれたものは総て原稿では『最初「銀時計」としたのを訂している』とある。新全集はこの注記はない。新全集では原稿の書き換えを校異の中に全く示していないのである。

       五 

・「トツクは河童仲間の詩人です」芥川龍之介と萩原朔太郎の相互互換的モデルと思われる。芥川龍之介が自らは密かに詩人を自任していたことは、萩原朔太郎との絡み(萩原朔太郎「芥川龍之介の死」を必ず参照のこと)の中で、最早明白である。それに心の隅に置いておいて本作は読む必要がある。

・「詩人が髪を長くしてゐることは我々人間と変りません」芥川龍之介も長髪にしていた。

・「トツクは自由戀愛家」芥川は妻子を持っていたが、結婚後も十指に有り余る女性との関係があった(その深浅や違いはここでは論じないが、小穴宛遺書に告白されている秀しげ子のように肉体関係にまで発展していたものや、ぎりぎり精神的なところで踏みとどまった片山廣子とのそれなど、極めて多様多彩である)。私は芥川龍之介は本音に於いては自由恋愛主義者であったと信じて疑わない。そうした意味では、実際には子供まで作っていたトックほどではないにしても、芥川龍之介は私と同じく……汚ない密やかな自由恋愛家である。

・「親子夫婦兄弟などと云ふのは悉く互に苦しめ合ふことを唯一の樂しみにして暮らしてゐる」これは皮肉の謂いであって、河童社会も現実の人間世界と全く同様の家長制度や扶養義務の宿命を持っていることを言っている点に注意せねばならない。即ち、ここでは河童社会を人間社会との対比的パロディとせずに、リアルで滑稽なパラレルなパロディとして提示しているのである。従ってここは、「或阿呆の一生」の以下を直ちに想起させるのである。

       三 家

 彼は或郊外の二階の部屋に寢起きしてゐた。それは地盤の緩い爲に妙に傾いた二階だつた。

 彼の伯母はこの二階に度たび彼と喧譁をした。それは彼の養父母の仲裁を受けることもないことはなかつた。しかし彼は彼の伯母に誰よりも愛を感じてゐた。一生獨身だつた彼の伯母はもう彼の二十歳の時にも六十に近い年よりだつた。

 彼は或郊外の二階に何度も互に愛し合ふものは苦しめ合ふのかを考へたりした。その間も何か氣味の惡い二階の傾きを感じながら。

・「まだ年の若い河童が一匹、兩親らしい河童を始め、七八匹の雌雄の河童を頸のまはりへぶら下げながら、息も絶え絶えに歩いてゐました」「年の若い河童の犧牲的精神」これは未だ34歳で養父母(父・道章・トモ)伯母(フキ)妻子(文・比呂志・多加志・也寸志)という芥川家7人の家計維持者という責務を担った上に、実家新原家や義兄の保険金放火疑惑からの鉄道自殺(本作発表に先立つ二ヶ月前)といった親族のごたごたまで一手に背負わねばならなかった芥川龍之介自身のカリカチャアである。

・「僕は勿論 qua(これは河童の使ふ言葉では「然り」と云ふ意味を現すのです。)と答へました」主人公「僕」は社会主義者であることが明示される。これは社会的政治的存在としての芥川龍之介の心情的社会主義支持表明と見てよい。

・「では百人の凡人の爲に甘んじて一人の天才を犧牲にすることも顧みない筈だ。」というとトックの反論は、「君はしかし、百人の凡人の爲に一人の天才を犧牲にすることを潔しとはしまい? いや、寧ろ、一人の天才の爲に百人の凡人を犠牲にすることも顧みない筈だ。」という隠された正反対の誘いを含んでいる。即ち、「僕」=芥川龍之介の中にある相反するところの、直後に表明される芸術至上主義的部分を、実は既にここで匂わせていると言えるのである。

・「僕は超人(直譯すれば超河童です。)だ」ここはトックにニーチェの哲学や超人思想を属性として付与させることが目的と言うよりは、「(直譯すれば超河童です。)」というパロディを目指したもの、河童のトックが「昂然とかのニーチエ自身になり變はつたかのやうに言ひ放ちました」というシチュエーションの面白さ――更には続く「超人倶樂部」で超人がぞろぞろ大安売りで登場する面白さ――を狙ったと考えた方が分かりがよい。その証拠に、芥川はトックにニーチェ的思想や主張の核心を開陳させずに、すぐに「僕」にトックの属性としての芸術至上主義の叙述、それによる超人思想――『善悪の彼岸』という説明へと移らせていて、分かり易くはあるが、必ずしもニーチェの導入が哲学的素材として有効化される流れにはなっていない。そもそもがニーチェが嚙みついたキリスト教的諸道徳に反したりずれたりしているところの、そして何より「十四」でニーチェがその聖徒に列している近代教が多数信者であるところの反世界的河童世界に、そのままにニーチェの超人思想を持ってきても上手く機能するはずがないからである。だからこそ、「僕」の説明は、如何にも分かり易い続く芸術至上主義の説明の部分で『藝術家たるものは何よりも先に善惡を絶した超人でなければならぬ』という、これまた如何にもな分かり切った説明が出現して来るのではあるまいか。私はここでのトックのニーチェ理解は極めて浅いものにしか思われない(但し、それは「トック」の浅さであって、芥川龍之介のそれであるわけではない)。さらに言えば、後に降霊されたトックの霊言の中にもニーチェ的な深い思惟があるようには私には思われない(但し、これはこれがトックの真の霊であったと仮定した上でのみ有効な批評ではある)。逆に芥川は、ニーチェの超人思想に相応の関心は持っていたものの、同時にそれが齎すところの狂気(それはニーチェ自身の梅毒による早発性痴呆による発狂をも含む興味であったことは、やはり「十四」章で明らかとなる――そして私は芥川の最大の関心――恐怖(フォビア)――こそ、「南京の基督」に見るように、この梅毒による発狂にこそあったと睨んでいるのである)や、その影響下に出現することとなる後のナチス・ドイツまで、予言的に射程に入れていたとさえ、私には思われるのである。それこそが正に「或舊友へ送る手記」に記された『ぼんやりした不安』であったと私は信じて疑わないのである。なお、芥川龍之介の「僻見」の一章「岩見重太郎」には掉尾に次のような一節がある(リンク先は私の「岩見重太郎」単独の注釈附きテキストである。引用もそこから)。

 僕の岩見重太郎を知つたのは本所御竹倉(おたけぐら)の貸本屋である。いや、岩見重太郎ばかりではない。羽賀井一心齋を知つたのも、妲妃(だつき)のお百を知つたのも、國定忠次を知つたのも、祐天上人を知つたのも、八百屋お七を知つたのも、髮結新三を知つたのも、原田甲斐を知つたのも、佐野次郎左衞門を知つたのも、――閭巷(りよこう)無名の天才の造つた傳説的人物を知つたのは悉くこの貸本屋である。僕はかう云ふ間(あひだ)にも、夏の西日のさしこんだ、狹苦しい店を忘れることは出來ぬ。軒先には硝子(がらす)の風鈴が一つ、だらりと短尺をぶら下げてゐる。それから壁には何百とも知れぬ講談の速記本がつまつてゐる。最後に古い葭戸(よしど)のかげには梅干を貼つた婆さんが一人、内職の花簪(はなかんざし)を拵へてゐる。――ああ、僕はあの貸本屋に何と云ふ懷かしさを感じるのであらう。僕に文藝を教へたものは大學でもなければ圖書館でもない。正にあの蕭條たる貸本屋である。僕は其處に並んでゐた本から、恐らくは一生受用しても盡きることを知らぬ教訓を學んだ。超人と稱するアナアキストの尊嚴を學んだのもその一つである。成程超人と言ふ言葉はニイチエの本を讀んだ後、やつと僕の語彙になつたかも知れない。しかし超人そのものは――大いなる岩見重太郎よ、兩手に大刀(だいたう)をふりかぶつたまま、大蛇(おろち)を睨んでゐる君の姿は夙(つと)に幼ない僕の心に、敢然と山から下つて來たツアラトストラの大業(たいげふ)を教へてくれたのである。あの貸本屋はとうの昔に影も形も失つたであらう。が、岩見重太郎は今日(こんにち)もなほ僕の中に潑溂と命を保つてゐる。いつも目深い編笠の下に薄暗い世の中を睨みながら。

更に芥川龍之介の遺稿「闇中問答」では「僕」に次のように言わせている。

或聲 お前は超人だと確信しろ。

僕  いや、僕は超人ではない。僕等は皆超人ではない。超人は唯ツアラトストラだけだ。しかもそのツアラトストラのどう云ふ死を迎へたかはニイチエ自身も知らないのだ。

・「超人倶樂部」芥川が実際にはあまり好まなかった各種出版記念会や文芸連中や芸術家連中のサロンのカリカチャアである。「」で「僕」は資本家「ゲエルの屬してゐる倶樂部へ行き、愉快に一晩を暮らしました。それは一つにはその倶樂部はトツクの屬してゐる超人倶樂部よりも遙かに居心の善かつた爲です」と告白している。

・「鬼羊齒」シダ植物門シダ綱ウラボシ目オシダ科ヤブソテツ属オニヤブソテツCyrtomium falcantum のこと。本邦では最も一般的な種で北海道南部から琉球列島まで極めて広範に分布植生する。小葉の幅が広くて葉全体が深緑色で厚く、強い光沢を持つ。垂直分布は高地系ではないようで、海岸から低地の日向に生育する種である。ここが上高地の地下だとすれば、そのような海岸平地からの花卉の流通経済も河童の社会では普通に行われていることが分かる。

×「頻に男色を弄んでゐました。」

ここは初出では、

 「頻に……を弄んでゐました。」

と伏字になっている。新全集注記に芥川龍之介書き入れに『永見氏原稿 男色』とある、とする。

・「アブサント酒」“absinthe”。薬草系リキュールの一種。ニガヨモギ(双子葉植物綱キク亜綱キク目キク科ヨモギ属ニガヨモギArtemisia absinthium)・アニス(双子葉植物綱マンサク亜綱セリ目セリ科ミツバグサ属アニス Pimpinella anisum)・ウイキョウ(セリ目セリ科ウイキョウ属ウイキョウ Foeniculum vulgare。フェンネルのこと)等を中心に複数のハーブやスパイスを主成分とする酒。芥川の表記はフランス語の発音に基ずく。その名はニガヨモギの学名の一部 absinthium はヘルブ(草)+アブサント(聖なる)に由来する。安価且つアルコール度数も70度前後と極めて高い酒であった。世紀末の芸術家たちに好まれ、詩人のボードレールやヴェルレーヌ、画家ロートレックやゴッホが愛飲家(中毒者)として知られる。

       六 

・「若い雌の河童は勿論、その河童の兩親や兄弟まで一しよになつて追ひかけるのです」注意すべきは、雌の河童が単独で雄の河童に対して個別的にストーカー行為をするのではなく、雌の家族ぐるみの集団感染的現象であると言う点である。自由恋愛でありながら、そこにあるのは旧体然とした日本と同様の「家」社会であるということである。

・「硫黄の粉末を顏に塗つた」私は本作を読んだ中学生の頃から、ずっとこの描写は無気味なパロディだと思い込んできたが、考えてみれば硫黄泉につかったり、それが肌によいといった実際的効果があるのだから、硫黄を化粧に用いているというのは滑稽なわけでは、実は、ないのだということに気づいた。現在でも市販されている女性用美顔化粧水やニキビ治療用美顔水などには硫黄が含まれているものがある(流石に直接顔に添加することはしないだろうが)。ただ黄色い硫黄の粉を満面に付けた雌河童が、硫黄臭を振りまきながらストーカーするというのは、私でも慄っとしない。私はこの雌河童や、河童国の雌河童の執拗な雄河童へのモーションは――晩年、その動物的な性欲に辟易し、正にストーカー的被害にさえ遭っていた不倫相手秀しげ子の面影(小穴宛遺書「或阿呆の一生」を参照)が影を落としていると確信している。「背の低い雌の河童が一匹、まだ戸口にうろついてゐる」――秀しげ子は、小柄であった。

・「いつかラツプの嘴はすつかり腐つて落ちてしまひました」これは梅毒による軟骨炎から鼻が欠ける症状(古くはかなり多く見られた)のパロディである。梅毒の感染後2年以降の第3期になると、堅いしこりやゴム腫が出現する。このゴム腫が鼻骨に生じると軟骨炎となって最後には鼻全体が腐り落ちる。芥川は「上海游記 十二 西洋」でそうした鼻の欠けた西洋人のことを記している。その注にも記したが、芥川は晩年、友人宇野浩二が梅毒による麻痺性痴呆によって発狂するに至るを含め、梅毒への感染恐怖を持ち続けた。この時の中国旅行で女を買った芥川が、それで梅毒に感染したのではないか(私はその後の種々の状況から判断して実際には芥川は梅毒に罹患してはいなかったと判断しているが)という強迫神経症を持つに至った可能性も否定は出来ないと私は考えている。

「さもがつかりしたやうに樂々とつかまつてしまふのです。」

ここは底本(初出)では、

 「さもがつかりしたやうに樂々とつかませてしまふのです。」

となっている。文脈からも原稿に従って前者を採用した。ここは唯一底本に従わなかった部分であるが、因みに岩波版新全集もこの「つかまつて」を採用している。

・「僕の見かけた雄の河童は雌の河童を抱いたなり、暫くそこに轉がつてゐました。が、やつと起き上つたのを見ると、失望と云ふか、後悔と云ふか、兎に角何とも形容出來ない、氣の毒な顏をしてゐました」この部分、私は芥川龍之介の日記「我鬼窟日録」大正8(1919)年9月25日の次の部分を即座に想起するのである。

愁人と再会す。

夜歸。失ふ所ある如き心地なり。

    こゝにして心重しも硯屏の青磁の花に見入りたるかも

數年來歌興あり。自ら驚く。

――これは、不倫相手の歌人秀しげ子と肉体関係を持った、その日の夜の記載と目されている日録なのである。――

・「けれどももうその時には雌の河童はにやにやしながら、大きい河童の頸つ玉へしつかりしがみついてしまつてゐたのです」この最後の部分、私は秀しげ子と南部修太郎と芥川の間に起こった三角関係(「藪の中」の執筆動機の一つともされる、秀しげ子が龍門の四天王(他に小島政二郎・佐佐木茂索・瀧井孝作)の一人とされた弟子格の南部とも肉体関係があることを芥川が知って衝撃を受けた一件)の事実をやはり想起するものである。

・「マツグ」“Maggu”か。“M”である。私は以前から密かにこの哲学者――は古来、多くは詩人である――は、室生犀星をモデルとしているのではないか、と思っている。彼が醜男であるかどうかは論議のあるところであろう(私のかつての同僚国語教師はしっかりした男らしいいい顔だと賞讃して止まなかった)が、私は予てから異形というに相応しい顔だと思っている。犀星の詩を読んで紅顔の美少年を想像していた朔太郎が、念願の作者犀星に逢って、その風貌に激しく失望したというのはかなり有名な話ではある。ともかく、この後も最後まで、このマッグが「僕」と親しく付き合っているところを見ても、私は、マッグは芥川の心の友の一人であった犀星以外に考えられないのである。

・「ランタアン」“lantern”。角灯。カンテラ。

・「それは一つには官吏の中に雌の河童の少ない爲ですよ。雌の河童は雄の河童よりも一層嫉妬心は強いものですからね。雌の河童の官吏さへ殖ゑれば、きつと今よりも雄の河童は追ひかけられずに暮せるでせう。しかしその效力も知れたものですね。なぜと言つて御覽なさい。官吏同志でも雌の河童は雄の河童を追ひかけますからね。」このマッグの説明の意図するところはなんだろう。雌河童が官僚の中に増えれば、雌河童の理不尽で横暴な雄河童への行為を法的に取り締まり、規制する法律が出来るであろうと述べているのであろうが、芥川は女性の参政権(ご存知の通り、戦前の日本では女性の選挙権及び国政参加は認められていなかった)を主張しているようにも思われない(雌河童の乱暴狼藉が、当時の野放しの売春行為のアナロジーであると限定すれば、後の売春禁止法の成立を想起することも出来るが、それは如何にも短絡的な解釈であろう)。寧ろ、芥川の真意は「雌の河童は雄の河童よりも一層嫉妬心は強いもの」だというマッグの主張部分にこそありそうだ。これは芥川の根底にあると私が睨んでいる女性蔑視・嫌悪の差別感情に照らして、至極当然な発言なのである。更に「官吏同志でも雌の河童は雄の河童を追ひかけますからね」という部分を考えても、女性が議員になっても所詮保守革新何れであっても、同一党派内の男性議員の腰巾着みたような存在になるに過ぎぬではないか、といった底意地の悪い解釈も可能であるように思われ、何れにしても、マッグのこの部分の台詞はそれほどカリカチャアとして成功しているようには私には思われないのである。

       七 

・「名高いクラバツクと云ふ作曲家」同時代人の作曲家として有名な人物としては山田耕筰(明治191886)年~昭和401965)年)がいる(但し、芥川龍之介との密接な接点はない模様)。彼は日本初の管弦楽団を創設するなど、本邦に於ける西洋音楽普及に尽力、日本人として初めて欧米でも評価された作曲家として文字通り、「名高」く「この國の生んだ音樂家中、前後に比類のない天才」と呼ぶには相応しい人物ではある。北原白秋らとの共作で多くの国民的童謡・歌謡を作曲している。幾つかの歌曲を挙げておく。「赤とんぼ」「野薔薇」(作詞:三木露風)、「からたちの花」「この道」「砂山」「ペチカ」「待ちぼうけ」(作詞:北原白秋)(作詞:北原白秋)、「兎のダンス」(作詞:中山晋平)、「七夕」(作詞:川路柳虹)。但し、ここで芥川龍之介はクラバックの「その又餘技の抒情詩にも興味を持つてゐ」たとあるところや、「」で自室に「トルコ風の長椅子を据ゑ」ているという部分を読むと、クラバックとは実は『サクタロウ』のアナグラム、口語自由詩の完成者とも言うべき萩原朔太郎が深く疑われるのである。朔太郎は逆に、音楽家を志した一時期があり(特に大正4(1915)年29歳の頃、ゴンドラ洋楽会を結成して指導に当たった時期がそれに相当する)、マンドリン倶楽部を作ったり、室生犀星の詩に依る合唱曲「野火」やマンドリン演奏曲“A Weaving Girl”(機織る乙女)等の作曲作品もある。また彼の知られた肖像写真(大正4(1915)年春のもの)では、トルコ帽を被っている。

・「Lied」「リイド」ドイツ語。ドイツで発達した芸術的創作歌曲。特にピアノ伴奏を伴った独唱曲としてシューベルトやシューマンなどに名曲が多い。英語では単に短詩・歌曲などと訳される。

・「あの美しい(少くとも河童たちの話によれば)雌の河童だけはしつかりプログラムを握つたなり、時々さも苛ら立たしさうに長い舌をべろべろ出してゐました。これはマツグの話によれば、何でも彼是十年前にクラバツクを摑まへそこなつたものですから、未だにこの音樂家を目の敵にしてゐるのだとか云ふことです」既にラップが嚙まれるシーンで、ヒトから見た雌河童の無気味さは表現されていたが、ここでは民俗学的美意識の大きな差がはっきりと示されてくる。また、河童が苛立たしさ表明する際に、その長い舌(「長い」と判断される。これは「」の最後でバックの「僕」への演技的威嚇でも用いられている)出し入れするという習性を知ることが出来る。

・「演奏禁止」当時の発売禁止・上演禁止や芥川龍之介自身も本作「河童」の初出(これは出版社側の自主的な伏字化と考えられる)や、過去の「将軍」で被った「伏字」(こちらは原稿がなく、芥川龍之介の作品の中でも完全稿復元不能な作品となっている)といった検閲制度や、言論及び表現の自由に対する公的弾圧のカリカチャアである。新全集三嶋譲氏の注解では、本作発表の前年である大正15・昭和元(1926)年では、『藤森成吉の戯曲「犠牲」の後半部を載せた「改造」一九二六年七月号が発売禁止処分になり、予定されていた築地小劇場での上演も禁止された。これに対し「改造」は九月号で批判の特集を組み抗議した』とある。因みに「河童」の掲載は翌年3月の『改造』であった。更に『一九二七年の発禁件数は安寧秩序』紊乱『が五四七件、風俗壊乱が一〇三五件』であったというデータ提示がある。以下、当時の発禁状況を概観しておくために、ィキの「発禁」の「戦前の発禁」の部分を引用しておく。『警視庁検閲課による検閲の様子(1938年(昭和13年))第二次世界大戦前及び戦中の日本においては、新聞紙発行条目(1873年太政官布告352号)、出版条例(1872年、明治4年)、讒謗律(1875年)、出版条例(1875年)、新聞紙条例(1875年)、出版法、新聞紙法(1909年)、映画法、治安警察法(第16条)、興行場及興行取締規則(警視庁令第15号)などに基づき検閲が行われた』。『戦前戦中の検閲で発禁処分を受けたものの中では、思想的に危険視されたもの、性描写に関するものなどがあった。これらは、それぞれ「安寧秩序紊乱」・「風俗壊乱」とに分類された。依拠法令は出版法・新聞紙法』。『このほか1枚刷り以上の私暦(「類似暦」と称す。冊子状のものは伊勢暦のみ可)、市井の呪術者が発行する守札も印刷物として検閲の対象となった。依拠法令は太政官達第307号(1870年)』。『「風俗壊乱」による禁止のみは地方長官の手に委ねられたが、「安寧秩序紊乱」等はすべて内務省の内務大臣の名義で行われた。言論弾圧の現場は実際には内務省警保局図書課であった。図書課は文官高等試験に通った幹部候補の新人研修の場の一つでもあり、後に官選の知事(地方長官)となった者も多い。警保局長や勅選議員となった者もいる。厚生省や文部省などのいわば「植民地」に出向して幹部となった者も少なくない』。『発売頒布禁止処分が行政処分であるのに対して、発行禁止は司法処分であった』。最後の部分には、本邦最初の出版法抵触によるレコード発禁第1号は大正6(1917)年の松井須磨子歌「今度生まれたら」であると言われているという情報を載せる。その発禁理由は『現在では考えられないが、歌詞中の「かわい女子と寢て暮らそ。」の部分が猥褻とみなされた』ためとする。なお、一部に本箇所の解説として治安維持法(大正141925)年制定)による発禁や上演禁止の諷刺とする記載を見かけたが、上記の関連法を見て頂いても分かる通り、治安維持法は含まれない。治安維持法は専ら共産主義革命運動に繋がる虞れのある団体及び私有財産制度を否認する結社・運動を禁じたものであって、治安維持法が施行されたことによる検閲の強化は正しいとしても、直接的に検閲・発禁等に関わる法律ではないから謂いとしては誤りであろう。

・「胡瓜」思ったよりも後になって河童の好物であるアイテムが使用される。水神関連の瓢箪との連関を胡瓜に繋げる解釈を見かけるが、私には今一つ、納得出来ない。眼から河童の鱗が落ちないのである。識者の御教授を乞うものである。

・「元來畫だの文藝だのは誰の目にも何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる筈ですから、この國では決して發賣禁止や展覽禁止は行はれません。その代りにあるのが演奏禁止です」ということは、河童国に於いては音楽を除いて、如何なる文芸も性的な過激露骨描写や反社会的プロパガンダを行っても「安寧秩序紊乱」や「風俗壊乱」には問われないということである。但し、ここでクラバックは「誰の目にも何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる」という条件に於いて「この國では決して發賣禁止や展覽禁止は行はれ」ないと言っているのであるから、所謂、ジャスパー・ジョーンズのアクション・ペインティングや、アーシル・ゴーキーの不定形の有機体然とした滴る絵の具の固まり、ジャック・フォートリエのゴテゴテ圧塗り油彩といった抽象的作品(バウハウス系の幾何学的抽象画やシュルレアリスムでは四角や丸であることや燃える麒麟であるといった「何を表はしてゐるかは兎に角ちやんとわかる」訳であるから、これは含まれないと言える)は河童国では展覽禁止になる可能性はあると言える。……しかしジョーンズもゴーキーもフォートリエも、河童国で発禁を受けたとたんに――次回作では相応に見ようによっては、河童見たような面影(オブジェ)をそれぞれの絵の中に出現させて、やんやの喝采を浴びるに違いない……。

・「耳のない河童にはわかりませんからね」という台詞は新しい河童の博物誌を我々に提示する、即ち、河童には聴覚器官がない、ということである。これは、河童全般に言えることであるらしいが、ただ「あの巡査には耳があるのですか?」という私の問いにマッグは「さあ、それは疑問ですね」と答えているのは、稀に耳のある個体もあるというニュアンスではある(これは後に「」で再考察する)。ともかくも彼らは耳がないのである。これが蛙のように聴覚器官はあるが、目立った体外に突き出るような耳介はないというような外観的なものでないことは明白である。更に言えば、一部の「河童」論に見られる『通常の場面で「僕」は普通に河童と会話しているから河童に耳はある。「耳のない河童」というのは本当に河童に耳がないという意味ではなく、多くの河童には音楽が分からない(理解出来ない)という意味である』と言う見解には、私は敢然と反対する。そもそも、この日本語の文脈ではそのような意味では決して採ることは出来ないからである。では彼らはどうして音楽会に来ているのか? いや、そもそも通常の生活の中で彼らはどうやって相手の言葉を理解しているのか? これは二通りの可能性がある。一つは読唇術で理解する方法、もう一つは音声の振動を体表で感知する方法である。次の「多分今の旋律を聞いてゐるうちに細君と一しよに寢てゐる時の心臟の鼓動でも思ひ出した」というところに、ヒントがある。これは恐らく後者である。河童は皮膚に当たる音声の音波を繊細にキャッチしてその意味を理解し、聴き取っているのである。コウモリやイルカのような超音波によるエコロケーションも考えたが、ヒトである「僕」ははっきりと河童の言葉を可聴域の音声として聞き分けて、自身も発声している(発声出来る)わけであるから、あり得ない。再度、言う。河童には人間のような聴覚器官はない。――但し、芥川は音楽というジャンルが最も抽象的で本当にその真価が分かって鑑賞している人間は少ないと思っていた――それをここで揶揄している――という解釈を否定するものではない。ただそうした皮相的理解は、音楽好きの芥川にして貰いたくはないし、芥川はそう考えていないと思いたいのである。――私は、音楽芸術の、その最も抽象的な属性こそが、国境や境界を軽々と越え、より多くの万人の共通言語として『在る』という、正にタルコフスキイの「ノスタルジア」の中でゴルチャコフが言った言葉をこそ、信じる者だからである。

・「多分今の旋律を聞いてゐるうちに細君と一しよに寢てゐる時の心臟の鼓動でも思ひ出した」から演奏禁止としたのであろうという謂いが面白い。耳のない河童にしてみれば、相手の鼓動を感じるには相手と密着している必要があろう。これは正に性行為の最中の激しい妻の拍動であろうか? 多分、その積りで芥川は書いているのであろう。しかし本当なら――芥川はファルスの高まりの脈動としたいところだったのではあるまいか? 耳のない河童なら、自分のドキドキドックンドックンの方が遙かにはっきりと認知出来るはずである。いや、それとも――それとも細君と一緒に寝て居ながらその時に不倫相手を妄想して高まる自分の鼓動か? 私はつい、そのどちらなのか、と迷ってみたりするのである。より猥雑である――発禁相当である――のは、勿論、後者ではあるまいか。伝永井荷風作とされる「四畳半襖の下張り」『面白半分』掲載に係る猥褻物陳列罪事件の公判で、いみじくも野坂昭如が「いやらしいと思っている、あんたがいやらしいんだ」と言い放った、その真理命題を思い出すではないか。

・「細い目を凄まじく赫やかせてゐました」「細い目」というのは河童のではなく、マッグの特徴である。私がマッグのモデルと考えている室生犀星は、その写真を見る限り、眼瞼が上下ともやや腫れぼったく、細い目という感じがする。

・「かう云ふ間にも大騒ぎは愈盛んになるばかりです。クラバツクはピアノに向つたまま、傲然と我々をふり返つてゐました。が、いくら傲然としてゐても、いろいろのものの飛んで來るのはよけない譯に行きません。従つてつまり二三秒置きに折角の態度も變つた譯です。しかし兎に角大体としては大音樂家の威嚴を保ちながら、細い目を凄まじく赫やかせてゐました。僕は――僕も勿論危險を避ける爲にトツクを小楯にとつてゐたものです。が、やはり好奇心に驅られ、熱心にマツグと話しつづけました。」の部分は原稿にはない。ということはこの国立国会図書館蔵の自筆原稿はプレ原稿で決定稿ではないということを意味する。

×「たとへば日本を御覽なさい。」

ここは初出では、

 「たとへば××を御覽なさい。」

と伏字となっている。原稿に従って復元された。

・「たとへば日本を御覽なさい。現につひ一月ばかり前にも」「河童」の掲載は昭和2(1927)年3月1日発行の雑誌『改造』であった。この小説「河童」の起稿は同年1月末から2月上旬と推定される。2月2日には齋藤茂吉宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一五六七)で「蜃氣樓」(原文では「海の秋」という題になっている)と共に『「河童」と云ふグァリヴァア旅行形式のものを製造中』と記しており、2月12日の小穴隆一宛書簡(旧全集書簡番号一五七四)には『「河童」はだんだん長くなる。しかし明日中には脱稿のつもり』とあるが、新全集宮坂覺氏年譜では2月7日迄にはほぼ完成していた旨、記載がある。脱稿は2月13日で、この日の瀧井孝作宛書簡では『河童は近年にない速力で書いた』と記している。従ってこれを執筆時まで遡るならば、昭和2(1927)年1月、その一ヶ月前にそれらしい関連事件を探すと、「光文事件」と「崩御に係る演芸放送停止」が挙げられる。前者は東京日々新聞が1225日の大正天皇崩御に際し、正式発表前のスクープとして号外を発行、新元号は「光文」であると報じた。実際の発表は「昭和」であったため、世紀の大誤報となり、同新聞社本山彦一社長が辞意を表明、編輯主幹城戸元亮の辞任で事態は収拾された。これについては、当時より、政府が不謹慎とし、一転して「昭和」に変更となったという説があった(真相ではない)。後者は1225日のクリスマスにNHKが天皇御小康と判断して童謡とクリスマス音楽特集を放送する予定であったものが、急遽取りやめとなったというものである(これは明治天皇御不例の際の隅田川花火大会中止、それへの夏目漱石の批判を直ちに想起する。今も全く変わらない。昭和天皇御不例の際に、井上陽水が「お元気ですか?」と語りかける車のCMからその台詞が消えたのは、未だ私たちの記憶に新しいではないか)を何れも検閲そのものではないが、ジャーナリズムが自律的に検閲に追従する典型的ケースである。マッグが日本での滑稽な出来事として挙げるに相応しい出来事であるように私には思えるのである。しかし――そもそもが――初出『改造』では、この「日本」が「××」と伏字になっているのである――。

・「quack(これは唯間投詞です)」“quack”という単語は英語に2種ある。但し、動詞・名詞・形容詞で、間投詞ではない。発音は何れも【kwæk】である。1つめの“quack”は、動詞(自動詞)では、①(アヒルなどが)ガーガー鳴く。②〔口語〕騒々しく無駄口をきく。名詞では可算名詞で、アヒルなどのガーガーという鳴き声そのもの、即ち擬音語(オノマトペイア)である。2つめの“quack”は、名詞では可算名詞で、①偽医者。②山師・イカサマ師。形容詞としては山師の(用いるところの)、イカサマの、の意となる。これは初期近代オランダ語の“quacksalver”(自分の治療法をうるさく自慢する者」という語を語源とする(以上は研究社の「新英和中辞典」を参照した)。

       八 

・「僕は硝子會社の社長のゲエルに不思議にも好意を持つてゐました。ゲエルは資本家中の資本家です。恐らくはこの國の河童の中でも、ゲエルほど大きい腹をした河童は一匹もゐなかつたのに違ひありません」底本では以降、すべて「がらすくわいしや」と会社が連濁していない。また、原稿では、

「ゲエルに不思議にも好意を」

の部分は、最初、

「ゲエルに勿論反感を」

とあるのを訂しているとある。非常に興味深い書き換えである。

私はこの人物、当時の鹿島建設鹿島組(後に現在の鹿島建設)副社長であった鹿島龍蔵(たつぞう 明治131880)年~昭和291954)年)ではないかと思う。彼は芥川の心酔者で田端文士村でサロン「道閑会」を組織し、芸術家たちのパトロンでもあった。芥川は鹿島龍蔵について、その随筆「田端人」の中で、次のように記している(底本は岩波版旧全集を用いた)。

鹿島龍藏 これも親子ほど年の違ふ實業家なり。少年西洋に在りし爲、三味線や御神燈を見ても遊蕩を想はず、その代りに艷きたるランプ・シエエドなどを見れば、忽ち遊蕩を想ふよし。書、篆刻、謠、舞、長唄、常磐津、歌澤、狂言、テニス、氷辷り等通ぜざるものなしと言ふに至つては、誰か啞然として驚かざらんや。然れども鹿島さんの多藝なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの「人となり」なり。鹿島さんの如く、熟して敗れざる底の東京人は今日既に見るべからず。明日は更に稀なるべし。僕は東京と田舍とを兼ねたる文明的混血兒なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情──或は狐狸相親しむの情を懷抱せざる能はざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに當り、活字を以て一言を餞す。あんまりランプ・シエエドなどに感心して來てはいけません。

文中の「歌澤」は歌沢節(うたざわぶし)のこと。俗謡で、主に端唄(はうた)をアレンジし、気品のあるゆっくりとした謡いを特徴とする。――そして――これを読むと分かってくる――「ランプ・シエエド」――これぞガラス会社社長の意味するところではあるまいか?

・「茘枝」双子葉植物綱ムクロジ目ムクロジ科レイシ Litchi chinensis。熱帯・亜熱帯に植生する常緑高木で中国南部原産。中国語では“Lìzhī”「リーチー」。日本語の「ライチー」又は「ライチ」、英語のlychee”という呼称は、広東語の「茘枝」の読みLai6 dzi1”又は閩南語(ミンナンご:閩南地方(福建省南部)の言語)の「茘枝」の読みLāichi”を音訳したもの。春に黄緑色の花を咲かせ、果実は夏に熟す。表面は赤く鱗状で亀甲紋を呈しイメージされる河童の皮膚感覚には近い。新鮮であれば果皮の棘が鋭い。内部の白色半透明の果肉(正確には仮種皮)を食す。中国では古来珍重され、楊貴妃が好物で長安まで早馬で運ばせた話は有名(以上は主にウィキの「レイシ」を参考にした)。ともかくもライチの実に似た女というのは、所謂、進化の過程であった可能性が高い恐竜からのトカゲ型人間がぴったりで、河童の形状としては美事マッチする――しかし、ライチの実に似た女とは――これ、慄っとしない。因みにこれは、次の子供が胡瓜(河童の好物)に似ているということと考え合わせると、実は河童は胡瓜と並んでライチも好物であるという未知の属性が読み取れる部分でもある。

・「菊版」152㎜×218㎜。漱石や芥川の岩波版旧全集のサイズ。以下、何れも旧来の本邦での出版規格。

・「四六版」127㎜×188㎜。新書判より大きくA5判(現在の文庫判の倍)より小さい。名称は4.2寸×6.2寸に由来し、通常は「四六判」と書く。

・「菊半截版」109㎜×152㎜。初期文庫本のサイズ。

・「驢馬の腦髓」哺乳綱奇蹄目ウマ科ウマ属ロバ亜属 Asinusロバ Equus asinusの脳味噌。西洋に於いてはロバは愚鈍・馬鹿のメジャーなシンボルである。

・「罷業」同盟罷業。ストライキ。本作発表の前年、大正15・昭和元(1926)年には労組や農組の増加により、共同印刷のストライキをはじめ、全国でストや小作争議が相継いだが、岩波版新全集三嶋氏注解によると、労働争議のピークは大正7(1918)年~大正8(1819)年で、その頃の争議『件数は四百件を超え、参加人員も六万人以上であったが、以後二百件台に激減した』とあるから、この大正の末年は最後の花火であった。以後、右傾化した政府による締め付けが一段と厳しくなってゆく。

・「第四階級」労働者階級(プロレタリアート)。1862年にドイツの社会主義者ラッサールが著書「労働者綱領」の中で、1848年フランスの2月革命を起こした自覚的労働者階級を、フランス革命のブルジョア的第三身分の市民階級に対し、「第四階級」と呼称したのが最初。本邦では大正9(1920)年頃からプロレタリア文学の台頭の兆しと共に、各種論文や新聞記事に頻繁に用いられるようになった。フランス革命史の中では第一階級が僧侶(教会)、第二階級が貴族、第三階級が商工業者を含む市民と農民(ブルジョア・資本家)であったが、マルクスの資本論の資本家・労働者・地主といった構造分析とは自ずとズレが生じてしまう言葉ではある。即ち、この第四階級に対する第一・二・三階級という規定はしにくいということである。

・「その職工をみんな殺してしまつて、肉を食料に使ふのです」河童がカニバリズムを日常的に行い、それが「職工屠殺法」によって合法化されていることを明らかにする。この「職工屠殺法」は明らかにスウィフトが1729年に発表した諷刺文書“A Modest Proposal: For Preventing the Children of Poor People in Ireland from Being a Burden to Their Parents or Country, and for Making Them Beneficial to the Public”(「穏健なる提案――アイルランド貧民の子供達が両親及び国家の負担となることを防止し、ひいては公益を利する存在たらしめるための穏健なる提案――」)の援用である。ウィキの「アイルランドの貧民の子供たちが両親及び国の負担となることを防ぎ、国家社会の有益なる存在たらしめるための穏健なる提案」によれば、夏目漱石が「文学評論」のスウィフト評で『本論文を一読して「狂人」と評したというエピソードもある』とある。以下、「主張」の部分。『スウィフトは膨大な数の貧民が数多くの子供を抱えて飢えるアイルランドの窮状を見かねて、彼らに経済的な救済をもたらすと同時に人口抑制にも役立つ解決策を提案した。その提案とは、貧民の赤子を1歳になるまで養育し、アイルランドの富裕層に美味な食料として提供することである』。『見積もりによれば、生まれたばかりの赤子は母乳と残飯によって充分に育てることができ、1歳まで養育する経費はせいぜい2シリング程度と見られる。また健康な幼児の肉は極めて美味とされていることから、貴族富豪の美食の宴席に供することもできる。この方策によって貧民は所得を得ることができ、子供が間引かれるので養育費の重い負担もなくなる。食われる当の赤子も、堕胎や口減らしのための嬰児殺害の犠牲とならずにすみ、またどのみち生涯全体にわたり貧困や飢餓によって不幸な人生を送るのであるから、たとえ食われるためであっても1歳まで充分な養育を受けるので幸福であろう。国や教区にとっては貧民対策の負担という損失がなくなり、国家の財産が増大する。そして堕胎を禁じているため多産種のカトリック教徒の数を減らすこともでき、八方めでたしである』。『彼は食肉として販売すべき子供のおよその人数や食肉に適した年齢になるまでの養育費、販売価格、食肉の消費パターン予測などをも具体的な数値を交えて詳細に見積もり、予測される様々な利点や社会的効果を列挙した上で、さらに料理の簡単なレシピや屍体の皮革の利用法についても言及している。その予測される波及効果は、経済面のみならず倫理面にも及んでいる。例えば両親が赤子を市場に出せる食料にするために養うことは、夫が妊娠した妻の身を大切にするようになり、また母親は商品価値のある子供を大切に可愛がることにもつながるので、家族愛を涵養するであろう』。以下、ウィキの記載者による「真意」の項。『このようなグロテスクな論理を、スウィフトはあくまでも冷徹かつ算術的に提案している。その真意は、無論、鬼面人を驚かす類の反社会的ジョークとしてではない。それほどに当時のアイルランドの窮状は救いがたい域にまで達しているということの反語的な嘆息、あるいは救済の手を差し伸べられない当局への痛烈な皮肉によるものと解されよう』とある。私は国家が刑法や兵役法によって合法的に死刑を執行し、徴兵戦死させるという行為はジャック・アタリ風に言わせて貰えば、全く以って食人主義のメタファーに他ならないと信ずるものである。否、現在の医療保険制度や悪名高き後期高齢者医療制度の根本思想も食人の隠喩である。医療費の払えぬ者は「餓死したり自殺したりする」ことを黙って指示しているのと変わらないそれを考えれば、「餓死したり自殺したりする手數を國家的に省略してやる」河童国の忌まわしい残酷さと何の違いもありはしない。芥川はそれを更に「第四階級の娘たちは賣笑婦になつてゐる」と医師(!)のチャックに批判させている。芥川は資本主義社会の構造そのものをカニバリズムの装置として示し、我々に突きつけているのである。但し、こうした資本家の労働者の搾取の比喩としてはこれ見よがしで聊かの感を免れぬという気もしないではない。しかし、この「職工」というのを書籍・絵画・音楽製造工場の職工という文脈で考えれば、これは小説家を始めとした芸術家のことを揶揄していることに容易に気づくのだ。――そうしてこの現代のIT万能の世界を見た時、どうだろう? デジタル映像を携帯で撮影、画像処理システムで油絵仕立てもクロッキー風も自由自在、映画も俳優は要らず総てCGで製作可能、コピー・ペーストを繰り返して他人の文章や小説をいとも簡単に加工してオリジナルの自作に改変(多くの注に他者の引用を用いている私自身への自戒をも勿論込めてである)、機械が気分に合わせて音楽を選ぶ(但し、これは真に自律的に選んでいるのではないから、未だ純粋に人工知能的機能とは言えないと私は感じるのであるが)――これが河童国でなくて、何だ?!

・「山桃」双子葉植物綱ヤマモモ目ヤマモモ科ヤマモモ Myrica rubra。中国大陸及び日本原産の高木。雌雄異株。春先に小さな数珠繋ぎになった赤色の花を開き、6月頃、暗赤色の球形の表面に粒状の突起を密生させた実を結ぶ。食用としてジャムや果実酒とする。

・「ちよつと有毒瓦斯を嗅がせるだけ」芥川はここで美事に、彼の死後にやってくる毒ガスの臭い――ナチス・ドイツによる絶滅収容所での青酸ガスであるチクロンBによるユダヤ人のホロコーストの臭いを確かに嗅ぎ取っていると言える。

       九 

・「ゲエルの屬してゐる倶樂部」私が秘かにゲエルの同定候補としている鹿島龍蔵は、先に示した通り、文芸サロン「道閑会」を組織していた。その他にも、中国思想研究会「老荘会」(芥川も出席したことがある)、田端の芸術家社交のテニス・クラブ「ポプラ倶楽部」や、画壇の「春陽会」等とも関係を持っていた。但し、これらの社交クラブは極めてレベルの高いものであるから、実際の鹿島龍蔵は相当な趣味人で、その点では如何にもな資本家然としたゲエルとははっきりと一線を画してはいる。鹿島はまさか自分が「河童」のゲエルのモデルだとは恐らく思っていなかったであろう。しかし、芥川龍之介は、確かにそういうメタファーでの底意地の悪さを確かに持っていたのである。

・「珈琲の茶碗」は、原稿では最初「珈琲のコツプ」と書いたのを訂している。

・「部屋全體は勿論、」は、原稿では最初「天井も壁も勿論、」と書いたのを訂している。

・「セセツシヨン風の部屋」“Wiener Secession”ウィーン分離派風の造形を施した部屋という意味。ウィーン分離派は1897年(本邦では明治30年)にウィーンでグスタフ・クリムトを中心に結成された新しい造形表現を目指した芸術家グループの呼称で、アール・ヌーヴォー等の影響下、世紀末的な官能退廃を孕みながら、モダン・デザインの新たな境地を開拓した。新全集三嶋氏注解によれば、本邦では明治431910)年頃から流行し出したとある。

・「丁度その頃天下を」は、原稿では最初「五六年前にこの國を」と書いたのを訂している。ということは正に後に示されるカッパ・カワウソ戦争の終結後に、政変が起こってクオラックス党政権となったことが明らかとなる。

・「Quorax 黨内閣」「クオラツクスと云ふ言葉は唯意味のない間投詞」と注するが、わざわざそう注されると気になる。近似した単語では英語に“quorate”という形容詞があり、これはイギリスで「(会議が)定足数に達した」の意である。また、ラテン語では“quorsus”=“quorsum”という単語があり、これは例の“Quo Vadis”「クォ・ヴァディス」(何処へ行かんとす?)の「クォ」で、副詞で「何処へ? 何のために? 如何なる目的で?」の意である。何となく私は後者のアナグラムではなかろうかと踏む。

・「ロツペ」因みに発表当時は第一次若槻禮次郎内閣(内閣総理大臣第25代 大正151926)年1月30日~昭和2(1927)年4月20日)。「レイジロウ」の「レ」がラ行で「ロッペ」を連想させる。若槻禮次郞(慶応2(1866)年~昭和241949)年)は前首相加藤高明が在職中に死去したため、憲政会総裁として内務大臣を兼任で組閣された。以下、ウィキの「若槻禮次郎」から当時の該当箇所を引用しておく。『彼の内閣の時期には左派政党で一種、社会主義的な「無産政党」が数多く結成された』。『大正15年(1926年)1225日に大正天皇が崩御し、その日のうちに昭和と改元された。明けて昭和2年(1927年)1月、少数与党で臨んだ第52回帝国議会冒頭で、おりからの「朴烈事件」と「松島遊郭事件」に関して、野党が若槻内閣弾劾上奏案を提出した。若槻は立憲政友会の田中義一総裁と政友本党の床次竹二郎総裁を待合に招いて、「新帝践祚のおり、予算案だけはなんとしても成立させたいが、上奏案が出ている限りどうしようもない。引っ込めてくれさえすれば、こちらとしてもいろいろ考えるから」と持ちかけた。野党はこの妥協を承諾、「予算成立の暁には政府に於いても深甚なる考慮をなすべし」という語句を含んだ文書にして三人で署名した。「深甚なる考慮」は内閣退陣を暗示し、予算案成立と引き換えに若槻内閣は退陣し、憲政の常道に基づき野党政友会が組閣の大命を受ける様取り計らうことを意味する。これで若槻は議会を乗り切ったが、予算が通っても一向に総辞職の気配を見せなかったことから、野党は合意文書を公開、「若槻は嘘つき総理である」と攻撃した。このため謹厳実直な能吏のはずの若槻禮次郎は「ウソツキ禮次郎」と呼ばれる羽目になった』。『また帝国議会終盤の314日、衆議院予算委員会で片岡直温蔵相は野党の執拗な追及に対し、次官から差し入れられた書付に基づき「現に今日正午頃に於て渡辺銀行が到頭破綻を致しました」と発言する。実際には東京渡辺銀行は金策にすでに成功していたが、この発言で預金者が殺到し、休業に追い込まれてしまう。これにより昭和金融恐慌が勃発した』。『大戦景気のあと不景気に悩まされていた銀行や成金たちは、ここで一気に倒産の憂き目に会うこととなる。特に台湾銀行は成金企業の鈴木商店と深い結びつきを持っていたが、台湾銀行が債権回収不能に陥り、休業すると同時に鈴木商店も倒産し、これは恐慌の象徴的事件ともいえる。台湾銀行の回収不能債権のうち8割近くが鈴木商店のものだったという』。『若槻内閣は日銀に特融を実施させて経済的混乱の収拾を図るために、台湾銀行救済緊急勅令案の発布を諮るが、枢密院は、本来帝国議会で救済法案を可決して対応すべきところ、勅令による手続きは憲法違反であるとして否決してしまう。政策実行不能と考えた若槻は4月20日に内閣総辞職し、政友会の田中義一に組閣の大命が下ることとなる』。『しかし、これは陰謀であった。若槻内閣は憲政会の内閣であり、穏健外交を政策に掲げていたため、大正15年(1926年)7月から始まった蒋介石の北伐に対してなんら対策を講じなかったのである。これが枢密院にとっては気に入らないことであった。そこで枢密院はこの事件を利用して若槻に揺さぶりをかけたものだと考えられる。よって次代の田中内閣が諮った同様の勅令案に対して枢密院は全く反対をしない』。『但し、内閣と枢密院の見解が食い違った場合、内閣が辞職しなければならないという規定はなく、ここで総辞職をしたのは若槻の性格の弱さとも取れる』とある。

・「『正直は最良の外交である』とはビスマルクの言つた言葉でせう。しかしロツペは正直を内治の上にも及ぼしてゐるのです」鉄血宰相ビスマルクは優れた外交官でもあった。この「正直は最良の外国政策である」という台詞は彼の演説から。前注、私が同定候補とした「ウソツキ禮次郎」が皮肉に打って響いてくるように思える。

・「我々河童はあなたがたのやうに、……」この6点リーダーは「」にあった「我々人間は正義とか人道とか云ふことを眞面目に思ふ、しかし河童はそんなことを聞くと、腹をかかへて笑ひ出すのです。つまり彼等の滑稽と云ふ觀念は我々の滑稽と云ふ觀念と全然標準を異にしてゐる」という「僕」の叙述を受けるものとして、私は読む。但し、ここで芥川がある種の具体的な、例えば前注での若槻内閣の「ウソツキ禮次郎」に関連する出来事などを仄めかしていないとは言えない。寧ろ、芥川はそこを暗に狙っていた感もあるやに思う。

・「Pou-Fou 新聞」これらは単独ならばフランス語にある。“pou”は「虱」、“fou”は形容詞で「狂った、浮気な」、若しくは名詞で「狂人」である。“Pou-Fou”「狂った虱新聞」「浮気な虱新聞」である。芥川龍之介が社員であった大坂毎日新聞社や朝日新聞社の当時の社主を検索してみたが、どうもうまく見つからない。「クイクイ」のアナグラム的な名としては時代的には大きくずれるものの、毎日新聞社社長であったことがある第19代内閣総理大臣原敬(安政3(1856)年~大正101921)年:明治311898)年就任。)――「ハラケイ」で脚韻を踏み四字姓名というが一致する――がいるが……識者の御教授を乞うものである。なお、ここで新聞社が社会を背後で動かすモーメントの一つとして示されるが、これを大正期の政治的運動に照らしてみるならば、所謂、護憲運動との絡みが挙げられよう。大正元(1912)年の西園寺内閣総辞職後、明治の妖怪内務卿山県有朋を頂点とした軍閥や、旧来の藩閥政治の意を受けた陸軍大将内閣総理大臣桂太郎が軍部の拡大を図る中、「閥族打破・憲政擁護」を掲げて健全な議会政治復活を求める第一次憲政擁護運動が起こったが、これは多くの記者や新聞人と密接な関わりを持っていた。彼らは紙面で憲政擁護キャンペーンを張るとともに、護憲集会を開催するといった実際的政治活動をも展開し、ジャーナリズムが当時の護憲運動に於いて指導的役割を果たしていた。朝日新聞社を例に採ると、『大正デモクラシー期には憲政擁護運動の一角を担い、桂太郎内閣を批判した。寺内正毅内閣期には同内閣だけでなく、鈴木商店を米の買い占めを行っている悪徳業者であると報道して米騒動を誘発し、鈴木商店は焼き討ちにあった』。『これに関連して、寺内内閣を批判した記事に書かれていた「白虹日を貫けり」という字句が新聞紙法の「朝憲紊乱」に当たるとして当局に発禁を迫られ、記者は有罪となり社を追われた(白虹事件)。事件後、朝日新聞は「不偏不党」「評論の穏健妥当」などを標榜する綱領を発表した。これ以降、政府を批判する記事は減少していった』とある(ウィキ「朝日新聞社」の歴史の項から引用)。但し、ここで芥川は極めて皮肉な言いで、河童の(そして日本の、人間世界の)世界を解剖する。国家を支配する政治家、その政治家を支配する世論を形成する新聞=ジャーナリズム、その世論を支配するのは実はゲエル=資本家である、そしてゲエルはゲエル夫人に支配されている、という、ややオチの見えた玉葱の皮むきである。

・「ゲエルは僕の無言に忽ちこの同情を感じたと見え、大きい腹を膨ませてかう言ふのです」の「大きい腹を膨らませて」の部分は、原稿では最初「前よりも快活に」と書いたのを、こう訂している。もとを読んで見て「大きい腹を膨らませて」というこの河童の独特の仕草には、この場合、不快不満とは逆の、ある種の相手の意識の読み取りやこちらの側の余裕失笑の表現でもあることが判然とする。不平表現と誤読していた人はいないか? 僕はかつて、そう誤読していたよ。

・「兎に角わたしは滿足してゐます。」は、原稿では最初「或は仕合せかも知れません。」とやや不確実に書いたのを訂している。

・「獺」食肉(ネコ)目イタチ科カワウソ亜科ニホンカワウソ Lutra lutra whiteleyi1970年代後半に絶滅したと考えられている。ウィキの「カワウソ」によれば、『1974年7月に高知県須崎市で捕らえられたのが生け捕りにされた最後の事例。翌1975年3月5日に高知県佐賀町の国道36号線で自動車に跳ねられた死体を回収した例が最後の個体の確認』とある。また、『日本や中国の伝承では、キツネやタヌキ同様に人を化かすとされていた。子供に化けて酒を買いに来たが「誰だ」と問われて「あわや」、「何処から来た」「川い」と答えてばれてしまったという愛嬌のあるものから、加賀(現・石川県)で、城の堀に住むカワウソが女に化けて、寄って来た男を食い殺したような恐ろしい話もあ』り、『石川県鹿島郡や羽咋郡ではかぶそまたはかわその名で妖怪視され、夜道を歩く人の提灯の火を消したり、人間の言葉を話したり、18歳―19歳の美女に化けて人をたぶらかしたり、人を化かして石や木の根と相撲をとらせたりといった悪戯をしたという』。『人の言葉も話し、道行く人を呼び止め』て、水中に引き込むという伝承もあるようである。『河童のモデルともいわれるほか、北陸地方、紀州、四国などではカワウソ自体が河童の一種として妖怪視された』ともあるので、河童と相似性や相同性がもともとあったようである。室町時代の国語辞典である「下学集」には、『カワウソが歳を経たものが河童になるとある』とさえ記す、とある。獺と河童が敵対しているという民俗誌か寡聞にして聞いたことがないが、しかし、この叙述は別なある真相を示唆しているようにも思われる。本文には本カッパ・カワウソ戦争のカワウソ軍の戦死者数が示されていないが、河童軍は勝利したとあるから、当然、36万以上の獺兵が戦死したものと推定される。そうすると、本戦争が1920年頃にあったとして、その50年後にカワウソが絶滅するというのは、生物学的にも自然である。実はニホンカワウソの絶滅は乱獲――「この國の毛皮と云ふ毛皮は大抵獺の毛皮」(!)とあるから、人間以上に河童によるそれが深刻な原因だったのである――やヒトの開発による生息環境の変化によるものではなく、このカッパ・カワウソ戦争による雄獺の想像を絶した戦死こそが原因であったのではあるまいか?

・「假設敵」仮想敵国。

・「山島民譚集」大正3(1914)年刊の柳田國男(やなぎたくにお:実際には濁らないのが正しい。)の著作。「山島民譚集(一)」に河童の詳細な民俗誌「河童駒引」がある。筑摩全集類聚版の脚注には、芥川は柳田に『河童のことをいろいろ教えてもらった』と注している。

・「わたしの妻などはこの河童を惡人のやうに言つてゐますがね。しかしわたしに言はせれば、惡人よりも寧ろ雌の河童に摑まることを恐れてゐる被害妄想の多い狂人です」とまで仔細に叙述する芥川は、この人物にある特定のモデルを意図していたとしか考えられないが、調べ切れなかった。識者の御教授を乞うものである。

・「靑化加里」シアン化カリウムの通称。化学式KCN。水酸化カリウムとシアン化水素を反応させることで得られる潮解性を持った白色粉末状結晶。水に易溶性を持ち、アルコールにもやや溶ける。猛毒で、致死量0.15g。金・銀の冶金・メッキ等で利用する。私は若い頃から、芥川龍之介の死因には疑問を持っていた。所謂、睡眠薬の多量服用では自殺の既遂(成功)の可能性がかなり低いからである。確実な死を望んでいた芥川がジャールやヴェロナールで安心したはずがない。また、芥川龍之介は「或阿呆の一生」の中でも、致死性に於いて万全である、この青酸カリを描写している。

       四十八 死

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。

 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

――私は高校時代からずっと、芥川の自殺に用いた毒物は青酸カリであろうと踏んでいた。ただ、ここに書かれた、この「彼女」(本「河童」発表後の翌月の帝国ホテルでの自殺未遂の一件等から、妻文の幼馴染みで文の考えで芥川の相談相手となっていた平松麻素子と同定してよい)から青酸カリを入手したというのは如何にも考えにくいと、やはりずっと思っていた。平松麻素子との心中未遂の一件について調べれば調べるほど、このシーンのように彼女が『持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした』とは考えられなかったからである。そうして――山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」に出逢った。――なるほど! そうか! 直ぐ近くに!――以下は、このスリリングな作品をお読みあれ!――ともかく芥川龍之介は青酸カリで自死に美事成功したのである――。

・「三十六萬九千五百匹の河童たちはその爲に健氣にも戰死しました」この数値に近い実際のは、第一次世界大戦における激戦の一つである、フランスとドイツのヴェルダンの戦いのフランス軍戦死者数である。1916年2月21日~1216日の10ヶ月に及ぶ戦闘でフランス軍362,000人、ドイツ軍336,000人の死傷者を出した。但し、これは本作発表の11年前になる。本作7年前という条件で考えると、第一次世界大戦後の19192月から19213月にかけてウクライナ・ベラルーシ西部・ポーランド東部を戦地としたポーランドとソビエト政府(但し、ソビエト社会主義共和国連邦の正式な成立はこの後)の間に起こった、ロシア革命への干渉戦争の意味合いを持つポーランド・ソビエト戦争か(戦死者は調べ切れなかったが、こんなにいるとは思われない)。以下、ウィキの「ポーランド・ソビエト戦争」から「概要」と「背景」の項を引用しておく。『第一次世界大戦直後のロシアは、ロシア革命に対する干渉戦争と内戦の影響により、混沌とした情勢にあった。パリ講和会議の結果により、ポーランド分割以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、民族的・宗教的影響やかつてのポーランド・リトアニア共和国の領域や人口動態などからベラルーシ西部やウクライナ西部の土地に関心を持っていた。このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大し、分割前(177285日以前)の領土を回復し1791年以後のポーランド共和国の版図を復活させソ連の共産主義に対抗して自由主義と民主主義の防衛線を築くために、干渉戦争の混乱に乗じ、ソビエト政府との戦争を開始した。1920年当初は、ポーランド軍は、キエフを占領するなど大きく進撃した。しかし、19204月以降、赤軍が反撃を開始し、6月にはワルシャワを包囲した。ポーランドはフランスなどから援軍をもらい、そのため、8月末から赤軍は撤退し、10月に停戦することとなった。19213月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドはヴィリニュス(ヴィルノ)を中心としたヴィルノ地方などリトアニア中部とリヴィウ(ルヴフ)を中心としたガリツィア地方などウクライナ西部を併合し、東方領土を正式画定した』。以下、「背景」の項。『1918年に第一次世界大戦が終了すると、東欧は大きな変革を迎えることとなった。ドイツの敗北により、ドイツによる東欧の緩衝国家建設計画は不可能となり、またロシアも革命の影響により、他国への干渉能力を失っていた。このため、ベルサイユ講和条約により誕生した東欧の新国家は、弱体な小国家が多かった。その中で、ポーランドは例外的・相対的に大国となりえた。また、かつてポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)として東欧に広大な領域を保有していたが、ポーランド分割によりその領土は失われたため、領域復活にかける願望を持っていた。ポーランドは、1918年に再独立を果たす際に、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシアなどから領土を獲得していた。ただし、東部国境は交渉すべきロシア政府が不在ということもあり、この時点で未確定であった。(ただし、191912月には境界としてカーゾン線の提案がなされている。)』。『ポーランドはユゼフ・ピウスツキを中心に、かつてのポーランド王国(ポーランド・リトアニア共和国)領域の復活と、ポーランドを中心とした民主主義国家連合によってソビエト連邦(ソ連)および(ドイツ革命と前後して労働運動が激化し共産主義革命の瀬戸際にあった)ドイツと対抗する方針を持っていた。ただし、ポーランドはソ連の政体そのものへの干渉やロシア地域の征服などの意図は持っておらず、旧ポーランド王国の版図全体における自らの国家建設とその思想的・領土的防衛が第一であった。しかしながら、ピウスツキの民主主義、自由主義、多民族主義(文化多元主義)の並立理念すなわち旧ポーランド・リトアニア共和国(の179153日憲法)の理念の復刻である「ヤギェウォ理念」に対するソ連の警戒感情は(この理念がまさにソ連の革命にとっての反革命の理念に他ならないことであるから)当然のことながら非常に高く、また革命を機に旧ロシア帝国の勢力範囲からの分離独立を目論む強力な勢力がいくつも「国家」を打ち立てていた小ロシア(ウクライナ)へのポーランド(小ロシア地方は1795年のポーランド分割以前は旧ポーランド・リトアニア共和国の領土であった)の干渉の可能性が極めて大きいこともあり、成立間もなく未だ戦時下にあったソ連政権の、ポーランドとそれに組する反革命勢力に対する警戒は弥増しに増していた』。『1919年前半頃は、ソ連で反革命の干渉戦争が行われていた。また、フランスの支援を受けて、ポーランド軍の創設が行われている。1919年後半になると、ソ連の革命政府は徐々に白軍に対し有利になり始めた。ソ連は、ドイツ革命を機に共産主義革命の機運が高まっているドイツと結ぶことも考慮し始め、レーニンやトゥハチェフスキーは、ポーランドへの攻撃を示唆した事もあった。このことも腹背に非友好国を持つことになるポーランドを刺激していた』。芥川がここで獺国(全くの感覚だがドイツよりむしろロシアを感じさせる印象である)と河童国(ポーランドというよりそれを支援したフランスの印象がある。河童語は極めてフランス語的である)の関係を「どちらも同じやうに相手を恐怖してゐた」とする辺り、一方はポーランドによる領土復活とフランスの自由主義・民主主義の浸潤を恐れ、一方は共産主義によるヨーロッパの赤化拡大を恐れていたと考えると、これはしっくりくるモデルのようにも思える。他にも中国の北京政府の主導権を巡って1920年7月14日から19日まで華北地方で安徽派の段祺瑞(だんきずい)と直隷派の曹錕(そうこん)が戦った軍閥間の安直戦争(あんちょくせんそう)等があるが、同じ穴の狢の権力闘争というさもしさは、本文の勃発の経緯に相応しいが、戦死者や戦闘としてはショボ過ぎる。最後に。このカッパ・カワウソ戦争は勝利したものの、恐らくその河童の戦死者の多さに批難が集中したものか、はたまた河童経済団体連合会から見放されたものか、当時の政権は辞職して存続出来ず、新たなクオラックス党が新政権を握ったのだということが、芥川龍之介の初期原稿の書き換えから分かるのである。

・「汝の惡は汝自ら言へ。惡はおのづから消滅すべし。」は古代ギリシアのストア派哲学者エピクテトス(55138)の「汝善ならんとせば、まず汝の悪なるを信ぜよ。」や親鸞の悪人正機説辺りのパロディか。私はこのマッグの箴言集が欲しくてたまらない。古書店で見つけられた方は、言い値で引き取ります。

・「隣はわたしの家作ですからね。火災保險の金だけはとれるのですよ」本作執筆の直前である、昭和2(1927)年1月4日に芥川の義兄で弁護士であった西川豊(実姉であるヒサの夫)の家が全焼したが、直前に多額の火災保険がこの家屋にかけられていたために、西川本人に放火の嫌疑がかけられた。2日後の6日午後6時50分頃、この西川豊は千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル近くで飛び込み、轢死した。以後、本作発表や自殺未遂を挟み、3月頃まで義兄の遺族の面倒、残された高利の借金、故人の生命保険や問題の火災保険の問題の後処理で東奔西走し、芥川は肉体と精神を著しく消耗させることとなった。本章の先行する獺と河童夫婦に関わる一件での保険金殺人といい、本件は、それを明らかに意識した、自身身辺の体験の強烈な素材利用であることに注意されたい。

       十 

・「蟲取り菫」双子葉植物綱キク亜綱ゴマノハグサ目タヌキモ科ムシトリスミレ Pinguicula macroceras 。『北海道から四国にかけての高山(亜高山帯)の岩の上などに生える。高山性のムシトリスミレ属はアルカリ性を厭わないものが多く本種もしばしば石灰岩や蛇紋岩上に生育する』。『花は一見スミレに似ているが、花弁が合着しており、類縁は遠い。根元に数枚の葉をひろげてロゼットをつくる。葉は長楕円形で長さ3―5㎝、葉柄がない。葉の表面は天辺に粘液の球を付けた細かい腺毛で覆われ、粘りつけられ動けなくなった虫を消化吸収する』。『花期は6―8月。花茎は高さ5―15㎝立ち上がるが次第に曲がって先端は下を向き、その先に横向きの花をつける。花は唇花型で、紫色、後方に細長い距を出す。花色は個体差が大きく完全な白花(シロバナムシトリスミレ)も見つかっている』(以上、引用はウィキの「ムシトリスミレ」)。このムシトリスミレは外界から河童の花卉業者によって持ち込まれてラップか家人が庭に植えたものであろうか、それとも自然のものであろうか――そもそもこの地下にあるところの河童国の太陽は人工的、基、河童工的に創られたものでなくてはならない――いずれにしても、ムシトリスミレが普通に植わっているというこの描写から、河童国はやはり、物理的に上高地の奥の地下にあるものと考えてよいように思われる。別な次元にある世界という考え方も、勿論、可能であるし、その方が都合のよい部分も多々あるが、わざわざ高山性のムシトリスミレを出したり、作品冒頭の「僕」の河童国への転落と終わりの河童国からの帰還(梯子による)を見ても、こう断定してよいと思われる。

・「僕の弟」この一連のエピソードはモデルの堀辰雄のものではなく、実は芥川の実家をモデルとしたものではあるまいか? 芥川龍之介には異母弟(しかし母は龍之介の実母フクの妹であるフユ)の新原得二(明治321899)年~昭和5(1930)年)がいる。得二については、新全集人名解説索引に『上智大学中退。父に似た野性的な激しい性格で、岡本綺堂についての戯曲「虚無の実」を書いたりしたが、文筆に満足しなかった。のち日蓮宗に入り、早逝した』とある。死後に遺族によって破棄された芥川龍之介の遺書の一部には、この新原得二との義絶が指示されていたとも言われる(私の芥川龍之介遺書の電子テクストの旧版「芥川龍之介(遺書五通)」注を参照)。

・「嘴でも腐つてゐなければ」ラップのモデルと私が考えている堀辰雄は19歳の時(第一高等学校理科乙類(独語)3年生)、大正121923)年10月に室生犀星の紹介で芥川龍之介に初めて逢うが、その直後の冬に肋膜炎のために休学、芥川の自死を経て、その翌昭和3(1928)年1月から4月にかけても同じく肋膜炎のために休学している(この間、昭和2年9月~翌昭和3年7月にかけて葛巻義敏らと共に岩波の「芥川龍之介全集」の編集に従事した)。昭和5(1930)年10月、自身と芥川龍之介、片山廣子・總子母子をモデルとした「聖家族」を脱稿後に、喀血を見る。ここまで読んでくると、実はこのラップの「腐った嘴」は、堀辰雄の結核の罹患と死――そこから引き出されるところの「あきらめる外はない」『死の病』(=「性」=「生」でもあろうが)――を意味し、且つ予言していることが分かってくる(勿論、当時にあって結核は宿痾であったから決して驚くべきことでもない)。

・「トツクさんのやうに大膽に家族を捨てることが出來ません」このトックがもし、私の推定するように萩原朔太郎であるとすれば、これは後に妻稲子に逃げられることになる彼への強烈な皮肉であるようにも読まれるが、それは、ない。但し実際、この頃には朔太郎の家庭は崩壊しかかってはいた。稲子との離婚の成立は芥川の自死の2年後、昭和4(1929)年7月のことである。ここは寧ろ、トック(萩原朔太郎⇔芥川龍之介)からクラバック(芥川龍之介⇔萩原朔太郎)相互互換性への関数変換のジョイントとして機能しているように私には読める。

・「タナグラの人形」未知未見のものであるので、全面的にウィキの「タナグラ人形」を引用する。『タナグラ人形はギリシアのボイオーティア地方のタナグラ(Tanagra)で紀元前4世紀後半から作られたテラコッタの人形。多くが高さ1020センチメートルである』。『タナグラ人形は型に粘土を入れておよその形を作り、型から出した後に彫刻して仕上げる。着色は、焼く前に白い泥漿を塗ることでなされるが、焼いた後に水彩で淡く着色されることもある。タナグラ人形のほとんどは女性像であるが、男性像や少年像も見つかっている。ほとんどは普段着の姿を模しており、帽子や花輪、扇子などを装飾していることもある。ヒマティオンを纏っているものもある。他には宗教的な意味を持つ人形が多い』。『タナグラ人形は1860年代の終わりまではあまり見つかっておらず、注目もされていなかった。その後、ボイオーティアVratsiの農夫が古代の墓をいくつか発掘してこの人形を発見した。特に1874年には紀元前4~3世紀のものが多数見つかっている。また、紀元前3世紀から1世紀の墓の内外で小さな人形が多数見つかっている。タナグラで最も多く発掘されており、他の場所で見つかったものも含めてここが初期の主な製造元であり、その後アレクサンドリア、マグナ・グラエキアのターラント、シチリアのチェントゥーリペ、ミュシアのミリア Myrina)など地中海沿岸の各地で製作されたと判明した』。『アレクサンドリアのクレコ・ローマン美術館に納められた女神の裸像タナグラ人形は19世紀の中流階級の人に写実主義の美術品として人気を博した。フランスの彫刻家ジャン=レオン・ジェロームはタナグラ人形に影響を受けた彫像をいくつか作っている』。『イギリスの作家オスカー・ワイルドは戯曲『理想の夫』(1895)の中で「メイベル(登場人物の一人)はタナグラ人形のようである」と書いている。タナグラ人形の人気が高かったため、偽物も多く作られた。2005年、ジンクとポルトは大英博物館に納められているタナグラ人形の2割が偽物であると報告している』。

・「どうするものか? 批評家の阿呆め! 僕の抒情詩はトツクの抒情詩と比べものにならないと言やがるんだ。」ここは「僕」が「しかし君は音樂家だし、……」と応ずるところで分かる通り、音楽家であるクラバックが、自分の書いた抒情詩が詩人トックのそれと比較されてけなされたことを、最初に憤懣ぶちまけるというのは奇異である。即ち、これはクラバックが、演奏禁止を受けねばならぬところの音楽家(=発売禁止や伏字を受けねばならぬところの小説家)である前に、自分自身、真の詩人でありたい、真の詩人であると自認しているということを意味する。ということは――この場面でのクラバックは萩原朔太郎ではなく、その朔太郎に「詩人を熱情してゐる小説家」(萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」)と批判された芥川龍之介自身のカリカチャアに変じているということに気づくのである。以降、その相互互換が随所に見られる(ように私には感じられる)。

・「僕はロツクに比べれば、音樂家の名に價しない」「僕はロツクに比べれば、」の部分、原稿では「僕のリイドやシムフフオニイは通俗」と書いたのを訂している。芥川が「通俗」と言う評価表現に拘っていたことが分かる。さて、この重要人物でありながら、実際には登場しない謎の音楽家ロックについて以下、整理してみよう。

★「ロツクと云ふのはクラバツクと度たび比べられる音樂家」であるというからこの「音楽家」は「詩人」若しくは「小説家」に置き換えられる。クラバックが朔太郎なら高村光太郎だが、どうもこれは日本文学史の口語自由詩の完成者みたような高校教師的思い付きで気に入らない。朔太郎は彫刻家としても大成し、後に文学報国会詩部長(忌まわしい響きだ。勿論、戦後にそうした戦争協力を恥じた光太郎は自らを山小屋に幽閉したのであるが)ともなった光太郎にコンプレックスを抱いていなかったとは言えないかも知れぬ。朔太郎はしかし、そもそもが総ての人物にコンプレクッスを抱くタイプなのである。高村光太郎の詩を朔太郎と並べてみても、その詩想に於いて私などは比較の対象物にさえならないと思っている(詩想が全く違う世界の住人だということである。因みに個人的には私は圧倒的に朔太郎のファンである)。

★「超人倶樂部の會員になつてゐない關係上」主人公「僕」は「一度も話したことは」ないと言う。これは同一の文学的グループに属していないことの隠喩であろう。するとこのクラバックが相互互換で芥川龍之介であるとするならば、自然主義作家のチャンピオンで芥川が終生批判的視座を捨てなかったところの島崎藤村や、その文章に終生コンプレックスを抱いていた(私はこの芥川が抱いたコンプレックスは全く異なったタイプの作家である芥川の神経症的見当違いだと考えているが)『小説の神様』志賀直哉が容易に思い浮かぶ(但し、芥川と志賀は既に大正11(1922)年7月に初面談後、数度の面会経験がある。但し、それらも双方ともに満足のゆくような会見ではなかった)。

★「一癖あるらしい顏」である。まあ、みんな作家は一癖ある顏と言やあ、言われるが、私は志賀の顔をそう感じる、と言っておきたい。

★「ロツクも天才には違ひない。しかしロツクの音樂は君の音樂に溢れてゐる近代的情熱を持つてゐない」という台詞は、芥川龍之介を批判した朔太郎の批評に酷似している(例えば朔太郎の「芥川龍之介の死」の「七」の『だから自分は、常に芥川君について考へてゐた。要するに彼は、聰明なる「詩の鑑賞家」である。どれが善き詩であり、それが惡しき詩であるかについて、彼は正しく特別批判する。しかしながらそれだけである。彼自身は詩をもたない。彼自身は詩人でない。故に、すべての詩は、彼にとつて單に「批判されるべきもの」であり、何等「感動さるべきもの」ではない。丁度あの所謂劇通が、劇に對してもつ興味のやうに、單にその藝術を「批判する」のであつて、一般觀客の如く、眞にそれを樂んだり、感激したりするのではない。彼自身は劇の外に居て、劇を客觀的に見てゐるもの、即ち所謂「批評家」にすぎないのだと。そしてこの點から、自分は彼を室生君や佐藤春夫君――その人たちは疑ひもなく詩人である。彼等は詩の鑑賞家であると共に、自分自身が詩を持つてゐる作家である。――と區別した。』や、「十」の全文を読むがいい。『芥川龍之介は、いよいよ私にとつて不可解の謎、むしろ神祕的な人物にさへなつてきた。彼は「思ひやり」と友情に充ちた、愛すべく慕はしき人のやうでもあり、反對に冷酷で意地惡き人のやうにも感じられた。何よりも不可解だつたのは、一面極めて冷靜なる理智の人でありながら、一面狂氣じみた情熱に内燃してゐる人のやうであつた。彼は常識的な人物でありながら、どこかに驚くべき超常的な、アナキスチックの本能感をかくしてゐる。常に彼の作品は、二二が四で割り切れる所の、あまりに常識的な理智的合理物でありながら、しかも言語の或るかくれたる影に於て、ふしぎに神祕的な「鬼」を感じさせる。/何よりも彼の矛盾は、一面に於て「典型的な小説家」でありながら、一面に於て「典型的な詩人」であることだつた。そして小説家といふ語の典型と、詩人といふ語の典型とは、私の辭書に於ては全く矛盾した、兩立できない反極に屬してゐる。彼は果たして詩人だらうか? それとも所謂小説家の範疇だらうか?/自分が芥川君と別れてゐる間、再三この疑問について考へた。そして結局、次のやうなはつきりした斷定に到達した。/芥川龍之介――彼は詩を熱情してゐる小説家である。/その頃、雜誌「改造」の誌上に於て、彼の連載してゐる感想「文藝的な、餘りに文藝的な」を讀むに及んで、この感はいよいよ深くなつて來た。その論文に於て、彼はしきりに「詩」を説いてる。もちろん彼の意味する詩は、形式上の詩――抒情詩や敍事詩の韻文學――でなく、一般文學の本質感たるべき詩、即ち「詩的情操」を指してゐるのだ。私がこの文中でしばしば言つてゐる「詩」の意味も、もちろんこれに同じ。芥川君のあの論文、及び最近における彼の多くの感想をよんだ人は、いかに彼が純粹な詩の憧憬者であり、ただ詩的なものの中にのみ、眞の意味の文學があり得ることを、必死に力説してゐるかを知るだらう。/自分は不讀にして、芥川君の以前の文藝觀を知つてゐない。しかし最近の如く、彼が詩に深い接觸をもち、詩的の實精神に憧憬し、殆んどそれによつて文藝觀の本質に突き入らんとするが如きは、恐らくかつて見なかつた所だらう。自分の憶斷する所によれば、最近の芥川君はたしかに一轉期に臨んでゐた。彼の過去における一切の思想と感情とに、ある根本的の動搖があり、新しき生活の革命に入らうとする、けなげにも悲壯な心境が感じられた。そして實際、この轉囘は多少その作品にも現はれてゐる。たとへばあの憂鬱でニヒリズムが濃い「河童」や、特に最近の悲痛な名作「齒車」やに於て。/けれども自分は、依然として尚芥川君の「詩」に懷疑を抱いてゐた。けだし芥川君は――自分の見る所によれば――實に詩を熱情する所の、典型的な小説家にすぎなかつたから。換言すれば、彼自身は詩人ではなく、しかも詩人にならうとして努力する所の、別の文學者的範疇に屬してゐるのだ。實に詩人といふためには、彼の作品は(その二三のものを除いて)あまりにも客觀的、合理觀的、非情熱的、常識主義的でありすぎる。特にその「文藝春秋」に掲載された「侏儒の言葉」や、私の所謂印象的散文風な短文やを見ると、いかに彼の文學本質が、詩人といふに遙かに別種の氣質に屬するかを感じさせる。しかも芥川君は、自ら稱して「詩人」と呼び、且つ「僕は僕の中の詩人を完成させるために創作する」と主張してゐる。/かうした芥川君の觀念は、たしかに詩の本質で誤謬をもつてる。すくなくとも私の信ずる所は、芥川君と「詩」の見解を別にする。それで私は、いつか適當の機會をみて、このことで芥川君と一論戰をしようと思つた。丁度その頃、雜誌「驢馬」の同人を主とし、室生、芥川の二君を賓とするパイプの會が上野にあつた。私はその機會をねらつた。だが不運にして芥川君は出席されず、歸途に驢馬同人の諸君に向つて、大いに私の論旨を演説した。「詩が、芥川君の藝術にあるとは思はれない。それは時に、最も氣の利いた詩的の表現、詩的構想をもつてゐる。だが無機物である。生命としての靈魂がない。」私はさういふ意味のことを、可成り大膽に公言した。』――こうした朔太郎に如何にアンビバレンツな感情を芥川が持っていたは想像に難くない。そうである。アンビバレンツ(心的複合)である。私は確かにクラバックは芥川龍之介と萩原朔太郎のアンビバレンツな複合的人物だと解釈するのである――いや! 更にそれはもっともっと沢山の詩人や作家を複合して「在る」のではなかろうか?――「僕はロツクを恐れてゐる」とある。芥川龍之介が恐れた作家の筆頭は志賀直哉である――「僕は――クラバツク」(=芥川龍之介)「は天才だ。その點ではロツク」(=志賀直哉)「を恐れてゐない」と芥川龍之介は思っていたと考えてよい。しかし芥川は「何か正體の知れないものを、――言はばロツクを支配してゐる星を」恐れていたという。その恐れとは、とりもなおさず「或舊友へ送る手記」に記された『ぼんやりした不安』であったかも知れない――否! 正に次のクラバックの台詞がこのロックこそ志賀直哉だと言っている!――「ロツクは僕の影響を受けない。が、僕はいつの間にかロツクの影響を受けてしまふのだ。」「ロツクはいつも安んじてあいつだけに出來る仕事をしてゐる。しかし僕は苛ら々々するのだ。それはロツクの目から見れば、或は一歩の差かも知れない。けれども僕には十哩も違ふのだ。」――因みに、最後に引用したクラバックの台詞は図らずも、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の次のアフォリズムと相同である。

       天  才

 天才とは僅かに我我と一歩を隔てたもののことである。只この一歩を理解する爲には百里の半ばを九十九里とする超數學を知らなければならぬ。

☆以上の考察から、私はこのクラバックが内心、自分を越えていると感じている孤高の音楽家ロックとは、まずこのシーン、クラバック朔太郎がクラバック芥川に変換され、そのクラバック芥川が、その文才に嫉妬を燃やし、痙攣的焦燥感を抱いた志賀直哉がロックとなっている。しかし、話柄の途中からは友人ながらもクラバック芥川を詩人としては頑なに認めなかった萩原朔太郎がロックに変容してゆく。そうした錯綜したトリプル互換のモデルになっているのではないかと考える。この河童は重要な人物であるのに、会話の中に名前のみ現れるばかりで、実際には登場しない。登場しないのは、そうした相互互換が錯雑化したために、実際の具体的キャラクターとしてのロックという個人、否、個河童が描けなくなってしまったからではなかろうか? これが現在のところ、私が辿り着いたロック解釈の限界点である。

・「タナグラの人形をひつ摑み、いきなり床の上に叩きつけました」これは直前の「僕」の台詞にある「君の音樂に溢れてゐる近代的情熱」に刺激された行為である。我々はクラバックの音楽を聴くことが出来ないので如何とも言い難いのであるが、実はクラバックの音楽(=芥川龍之介の小説)には、タナグラ人形に象徴されるような古典主義的憧憬がその核心にあったのではないか? それはクラバック(=芥川龍之介)にとって意識的なものであったか無意識的なものであったかは分からない――しかし、この瞬間にクラバックはそうした自己の背反的内的真実を「僕」の褒め言葉によって『意識してしまった』のである。だからこそタナグラ人形を叩き壊すのだと言えぬだろうか?

・「氣どつて見せる位ならば、批評家たちの前に氣どつて見せてゐる。」原稿は最初、「君たちに氣どつて見せても、何の役にも立たないぢやないか?」と書いたのを訂している。

・「それは君も亦俗人のやうに耳を持つてゐないからだ」これは通常の音楽的鑑賞力の比喩的な謂いである。「」で見たように河童には聴覚器官はない。しかし、これが河童の音楽家の謂いであるとすると、「俗人」は「俗河童」を意味し、有象無象の河童一般を指して、そこは器官的に正しい。ところがこの命題は次のような事実を明らかにする。『君はヒトであって耳を持ちながら、やっぱり耳がない俗物のあの河童と同じじゃないか!』と言っているのである。勿論、音楽家の河童が晩年のベートーベンの如く、額に棒を当ててその振動で音を聴いていたように、体感で作曲をしている可能性もないではないが、「」で演奏禁止を命じた巡査を指して「僕」がマッグに「あの巡査には耳があるのですか?」と訊ねたところ、「さあ、それは疑問ですね」と答えているのは、稀に耳のある個体もあるというニュアンスであった。即ち、ここで次の疑いが生ずるのである。河童の音楽家は――少なくともクラバックは実は特異的に耳を持っているのではあるまいか?

・「哲學者のマツグは」原稿は「マツグは不思議にも」と書いたのを訂している。

・「マツグの書いた『阿呆の言葉』と云ふ本」芥川龍之介の作品「侏儒の言葉」のパロディである。但し、芥川龍之介の単行本「侏儒の言葉」(遺稿を含む最初の集成)は死の後の凡そ4ヶ月後の12月6日に文芸春秋社から刊行されている。

・「クラバツクは神經衰弱だからね」芥川龍之介の診断病名の一つでもある。但し、現在、この「神経衰弱」という疾患(病態)自体が現在、精神疾患の名称として用いられていない。以下、ウィキの「神経衰弱」から引用する。『神経衰弱(しんけいすいじゃく、英: Neurasthenia)は、1880年に米国の医師であるベアードが命名した精神疾患の一種である』。『症状として精神的努力の後に極度の疲労が持続する、あるいは身体的な衰弱や消耗についての持続的な症状が出ることで、具体的症状としては、めまい、筋緊張性頭痛、睡眠障害、くつろげない感じ、いらいら感、消化不良など出る。当時のアメリカでは都市化や工業化が進んだ結果、労働者の間で、この状態が多発していたことから病名が生まれた。戦前の経済成長期の日本でも同じような状況が発生したことから病名が輸入され日本でも有名になった』。『病気として症状が不明瞭で自律神経失調症や神経症などとの区別も曖昧であるため、現在では病名としては使われていない』のである。その当時は具体的症状として眩暈・筋緊張性頭痛・睡眠障害・消化不良といった身体症状が挙げられ、それに付随する形で強迫感や焦燥感を伴う不定愁訴がある、即ち、それが自律神経失調症や神経症・鬱病などに基づく症状でないとすれば、現在の心身症とほぼ同等のものを念頭に置いてよいように思われるのである。

・「何、あの自動車の窓の中から緑いろの猿が一匹首を出したやうに見えたのだよ」トックの不吉な幻覚症状である。猿は悪魔の化身(嘗て私が訪れたマールブルグ城では聖書を訳すルターを邪魔する存在として緑色の猿が今も(!)扉の上にぶら下がっていたのを思い出す)として、しばしばキリスト教圏のエピソードに不吉邪悪な存在として出現する。芥川龍之介の「誘惑」なども参照。「緑いろの」というのは霊長(サル)目オナガザル上科オナガザル科オナガザル亜科サバンナモンキーCercopithecus aethiopsなどを想起させる。サバンナモンキーについては、以下の個人HP(作成者は医療関係者)の「サバンナモンキー」のページの記載を参照されたい(本注からは大脱線となるが、特に一番最後を是非お読みあれ。私の信ずるエイズ遺伝子操作生物兵器説の大きな疑惑傍証証拠の一つである)。

 《引用開始》

ベルベットモンキー、ミドリザルなどとも呼ばれる、アフリカ大陸サハラ以南では一部を除きどこにでもいるサル。サバンナモンキーの名の示すとおり、地上でよく見かけるが、樹上でも生活する。また、ベルベットとは光沢に富んだパイル織物、ビロードのことであるが、美しい毛並みからそう呼ばれることも頷ける。学名のaethiopsは「日焼けをしたような」という意味だそうだが、確かに真っ黒な顔をしている。住んでいる地域により顔の黒さなどに差が大きく、20以上の亜種に分けられるという。霊長目としては珍しく数が保たれているため、実験動物として重宝されている。とくに、マールブルグウイルスやエボラウイルスなどのウイルス感染症ではその貢献はまさに多大である。

動物実験というと残酷なイメージを抱かれる御仁も多いとおもわれるが、現時点において治療法の確立されていない疾患の治療には新薬の開発は不可避であり、そのためには生物を使った実験が不可避である。我々は日常より、生き延びるために他種の生命に犠牲を強いている。それは新薬開発に限らず、日々の食事もまた同様だ。菜食主義者とて植物の命を奪っている限り、その罪は無ではない。無論、だからといって毛皮を採るために殺していいということにはならない。実験のための犠牲と贅沢をするための犠牲とではおのずと異なる。毛皮がなくても生きていけるが、健康でありたい、生きたいというのは我々が生命体である限り持ち続ける感情なのだ。

食べなければ我々は生きていけない。彼らは我々のために犠牲になっているのだが、それは我々が生き延びるためには不可避の犠牲なのだ。病気の解明も、新薬の開発も同様である。その事実を無視して動物実験に対してかわいそうというのは、想像力がなさ過ぎると言わざるを得ないだろう。米一粒の命と、サルの命とに軽重の差はない。大切なのはこうした彼らの尊い犠牲を無駄にしないように、その命を受け継いだ我々が精一杯努めることなのだ。

さて、このサバンナモンキーにはもう一つ、我々医療従事者とは切っても切れない顔がある。AIDSの病原体であるHIV(Human immunodeficiency virus=AIDSウイルス)の自然宿主との説があるのだ。たしかにサバンナモンキーにはヒトの成人T細胞白血病の病原体であるHTLV-1と免疫交叉性のある(つまり似ているということ)サルT細胞白血病ウイルスによるRTLVが感染し、悪性リンパ腫を発症することが知られている。しかし、HIVとの関係は明らかになったわけではない。

なお、HIVの治療研究に使われているサルはむしろアカゲザルである。こちらはサル後天性免疫不全ウイルス(Simian immunodeficiency virus:SIV)を感染させることができ、HIV治療モデルとしているのだが、いまだ野生のアカゲザルからSIV抗体を有しているものが見つからないことから自然宿主ではないと考えられている。

 《引用終了》

なお、「自動車の窓の中から」は原稿では「毛生欅の枝の中に」と書いたのを訂している。

・「僕は決して無政府主義者ではないよ。それだけはきつと忘れずにゐてくれ給へ。――ではさやうなら。チヤツクなどは眞平御免だ。」これはトックの「僕」への遺言である。そこで彼が無政府主義者ではないことを最大の誤解訂正事としたことに着目しよう。また、医者のチャックを断固として拒んだのは、自分が発狂していないことを確信的に言っているのだという点にも、である。これは当時既に奇癖が目についていた盟友宇野浩二が、本作発表後の3ヵ月後の6月に発狂、茂吉の紹介で精神病院に入院するが、芥川は終始その面倒を見たことが関係しているものと思われる。ここには『小説の鬼』と呼ばれた(本作では「詩人⇔小説家」の互換性が顕著に見られることはここまでの注で既にお分かり頂けているものと思う)、文字通りの『風狂』の人宇野浩二の影も落ちているというべきである。

・『僕等は――いや、「僕等」ではありません。』原稿では「僕等は」とある。因みに、新全集では後者を本文採用している。それを日本語として唯一絶対に正当と言い切れるほどの自信は、私には、ない。従って底本のママとする。

       十一 

・『哲學者のマツグの書いた「阿呆の言葉」の中の何章か』本パートは実は私は以前に独立した電子テクストとして公開している(「マツグ著「阿呆の言葉」(抄)――芥川龍之介「河童」に現われたる芥川龍之介のアフォリズム」)。これは当然の事ながら、芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中でも、この時、未だ公表されいなかった遺稿部分(昭和2(1927)年10月及び12月の『文藝春秋』に掲載)に相似・相同のアフォリズムが多い。以下、一つずつ、「□」で掲げて検証してゆく。「●」は「侏儒の言葉」遺稿からの引用である。「○」は既に当時公開されていた「侏儒の言葉」からの引用」である。各標題は末尾に〔「 」〕で示した。クラバックが爪跡を附けたものは特に冒頭を「■」で表示し、似たアフォリズムが見当たらない場合は「×」を附した。「・」は私の補注である。

□阿呆はいつも彼以外のものを阿呆であると信じてゐる。

●阿呆はいつも彼以外の人人を悉く阿呆と考へてゐる。

・参考までに。私は大学生の時、贋作・侏儒の言葉」で次にように書いた。

       苦  悩

 誰もが自分の悩みこそ最上のブイヤベースだと思っている。

□我々の自然を愛するのは自然は我々を憎んだり嫉妬したりしない爲もないことはない。

●我我の自然を愛する所以は、――少くともその所以の一つは自然は我我人間のやうに妬んだり欺ゐたりしないからである。〔「自然」〕

□最も賢い生活は一時代の習慣を輕蔑しながら、しかもその又習慣を少しも破らないやうに暮らすことである。

●最も賢い處世術は社會的因襲を輕蔑しながら、しかも社會的因襲と矛盾せぬ生活をすることである。〔「處世術」〕

□我々の最も誇りたいものは我々の持つてゐないものだけである。

●我我の最も誇りたいのは我我の持つてゐないものだけである。實例。――Tは獨逸語に堪能だつた。が、彼の机上にあるのはいつも英語の本ばかりだつた。〔「矜誇」〕

・「矜誇」は「きょうこ」と読み、「矜持(矜恃)」(きょうじ)と同義で、自己の才能を優れたものとして誇る気持ち。

■何びとも偶像を破壞することに異存を持つてゐるものはない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持つてゐるものはない。しかし偶像の臺座の上に安んじて坐つてゐられるものは最も神々に惠まれたもの、――阿呆か、惡人か、英雄かである。

●何びとも偶像を破壞することに異存を持つてゐるものはない。同時に又彼自身を偶像にすることに異存を持つてゐるものもない。〔「偶像」〕

●しかし又泰然と偶像になり了せることは何びとにも出來ることではない。勿論天運を除外例としても。〔前の「偶像」に続く「又」〕

□我々の生活に必要な思想は三千年前に盡きたかも知れない。我々は唯古い薪に新らしい炎を加へるだけであらう。

(●)わたしは勿論失敗だつた。が、わたしを造り出したものは必ず又誰かを作り出すであらう。一本の木の枯れることは極めて區々たる問題に過ぎない。無數の種子を宿してゐる、大きい地面が存在する限りは。(昭和改元の第一日)〔「民衆」の「又」〕

・私は、このマッグのアフォリズムが発展した芥川の最後の言葉が、遺稿末尾にあるこのアフォリズムであると思っている。

・「薪」の部分、原稿では最初「思想」と書いたのを訂している。

□我々の特色は我々自身の意識を超越するのを常としてゐる。

●我我の性格上の特色は、――少くとも最も著しい特色は我我の意識を超越してゐる。〔「無意識」〕

□幸福は苦痛を伴ひ、平和は倦怠を伴ふとすれば、――?

○さあ、自警の部署に就かう。今夜は星も木木の梢に涼しい光を放つてゐる。微風もそろそろ通ひ出したらしい。さあ、この籐の長椅子に寢ころび、この一本のマニラに火をつけ、夜もすがら氣樂に警戒しやう。もし喉の渇ゐた時には水筒のウイスキイを傾ければ好い。幸ひまだポケツトにはチヨコレエトの棒も殘つてゐる。

 聽き給へ、高い木木の梢に何か寢鳥の騷いでゐるのを。鳥は今度の大地震にも困ると云ふことを知らないであらう。しかし我我人間は衣食住の便宜を失つた爲にあらゆる苦痛を味はつてゐる。いや、衣食住どころではない。一杯のシトロンの飮めぬ爲にも少からぬ不自由を忍んでゐる。人間と云ふ二足の獸は何と云ふ情けない動物であらう。我我は文明を失つたが最後、それこそ風前の燈火のやうに覺束ない命を守らなければならぬ。見給へ。鳥はもう靜かに寐入つてゐる。羽根蒲團や枕を知らぬ鳥は!

 鳥はもう靜かに寢入つてゐる。夢も我我より安らかであらう。鳥は現在にのみ生きるものである。しかし我我人間は過去や未來にも生きなければならぬ。と云ふ意味は悔恨や憂慮の苦痛をも甞めなければならぬ。殊に今度の大地震はどの位我我の未來の上へ寂しい暗黑を投げかけたであらう。東京を燒かれた我我は今日の餓に苦しみ乍ら、明日の餓にも苦しんでゐる。鳥は幸ひにこの苦痛を知らぬ、いや、鳥に限つたことではない。三世の苦痛を知るものは我我人間のあるばかりである。

 小泉八雲は人間よりも蝶になりたいと云つたさうである。蝶――と云へばあの蟻を見給へ。もし幸福と云ふことを苦痛の少ないことのみとすれば、蟻も亦我我よりは幸福であらう。けれども我我人間は蟻の知らぬ快樂をも心得てゐる。蟻は破産や失戀の爲に自殺をする患はないかも知れぬ。が、我我と同じやうに樂しい希望を持ち得るであらうか? 僕は未だに覺えてゐる。月明りの仄めゐた洛陽の廢都に、李太白の詩の一行さへ知らぬ無數の蟻の群を憐んだことを!

 しかしシヤウペンハウエルは、――まあ、哲學はやめにし給へ。我我は兎に角あそこへ來た蟻と大差のないことだけは確かである。もしそれだけでも確かだとすれば、人間らしい感情の全部は一層大切にしなければならぬ。自然は唯冷然と我我の苦痛を眺めてゐる。我我は互に憐まなければならぬ。況や殺戮を喜ぶなどは、――尤も相手を絞め殺すことは議論に勝つよりも手輕である。

 我我は互に憐まなければならぬ。シヤウペンハウエルの厭世觀の我我に與へた教訓もかう云ふことではなかつたであらうか?

 夜はもう十二時を過ぎたらしい。星も相不變頭の上に涼しい光を放つてゐる。さあ、君はウイスキイを傾け給へ。僕は長椅子に寐ころんだままチヨコレエトの棒でも嚙ることにしやう。〔「或自警團員の言葉」〕

・特に相似したものは見当たらないが、こうした短文の疑問文で、言い切らないタイプは芥川のアフォリズムでは比較的珍しい。ほぼ同等のことを言っているものとしては、この時既に「侏儒の言葉」で公開されていた、上のアフォリズムなどが相似内容を示す言説であると思われる。

□自己を辯護することは他人を辯護することよりも困難である。疑ふものは辯護士を見よ。

●他人を辨護するよりも自己を辨護するのは困難である。疑ふものは辨護士を見よ。〔「辨護」〕

□矜誇(きんこ)、愛慾、疑惑――あらゆる罪は三千年來、この三者から發してゐる。同時に又恐らくはあらゆる德も。

●道德的並びに法律的範圍に於ける冐險的行爲、――罪は畢竟かう云ふことである。從つて又どう云ふ罪も傳奇的色彩を帶びないことはない。〔「罪」〕

・これは十分相似形であると私は思う。「矜誇」は先にも示したが「きょうこ」と読み、「矜持(矜恃)」(きょうじ)と同義で、自己の才能を優れたものとして誇る気持ち。自負。プライド。また、そのアフォリズムで、マッグは「愛慾」と「慾」の字を用い乍ら、直後のアフォリズムでは「欲望」としており、「慾」と「欲」とを厳密に使い分けをしている模様である。

・参考までに。私は大学生の時、「贋作・侏儒の言葉」で次にように書いた。

       宗教的救済

 人が救われることなど絶対にない。救われたらおしまいである。疑問、苦渋、猜疑、戦慄、そして、しばしば醜悪な――人を傷つけたい、犯したい、殺したいという情動さえもヴァイタリティとなる。我々に救われている点があるとすれば、それはただ一点、それを実行に移さないということである。

■物質的欲望を減ずることは必しも平和を齎(もたら)さない。我々は平和を得る爲には精神的欲望も減じなければならぬ。

×やや陳腐で説教染みており、芥川のアフォリズムとしてはありそうで、ない。というより、書いても最終的には手を加えるであろう初期稿という気がする。例えば、

       自  由

自由は山巓の空氣に似てゐる。どちらも弱い者には堪へることは出來ない。

という感じに決定稿は行くであろうという気がするのである。

□我々は人間よりも不幸である。人間は河童ほど進化してゐない。

×これはもう「河童」オリジナルのアフォリズムである。そしてマッグは正しく進化論の真理を摘抉している。我々の不幸は実に「進化」という偽命題に内包されている。

□成すことは成し得ることであり、成し得ることは成すことである。畢竟我々の生活はかう云ふ循環論法を脱することは出來ない。――即ち不合理に終始してゐる。

○成すことは必しも困難ではない。が、欲することは常に困難である。少くとも成すに足ることを欲するのは。〔「企圖」〕

・これはほぼ相似した言説であると私は思う。

・参考までに。私は大学生の時、「贋作・侏儒の言葉」で次にように書いた。

       死  後

 人は自殺を考える時、しばしば「自分が欠けている世界」を思うものである。しかしその思い自体が、そもそも自分が世界というものの不可欠な構成要素であると不遜にも思っていることの証しである、という矛盾に気づく者は少ない。

■ボオドレエルは白痴になつた後(のち)、彼の人生觀をたつた一語に、――女陰(ぢよいん)の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必しもかう言つたことではない。寧ろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信賴した爲に胃袋の一語を忘れたことである。

●天國の民は何よりも先に胃袋や生殖器を持つてゐない筈である。〔「天國の民」〕

・この二つ、言わんとするところは同一であると私は思っている。芥川の発狂フォビアの反転でもある。「ボオドレエルは白痴になつた後」ボードレールは「パリの憂鬱」執筆中の、186645 歳の時、脳梅毒によって精神変調を来たし、言葉が喋れなくなって精神病院に収容され、翌年死去した。「女陰の一語に表白した」とあるが岩波新全集の三嶋氏注解には、ボードレールは『病院では crénom(畜生)とばかり呟き続けたらしいが、「女陰」の語については未詳』とある。“crénom”“Sacré nom de Dieu!”の短縮形で、原義は「神聖なる神の名に於いて」であるが、それが「いまいましい!」「こん畜生!」などといった罵倒する語として転訛したものである(幾つかの資料を調べてみたが、“crénom”“Sacré nom de Dieu!”の語自体には女性器を隠喩するような用法はない)。しかし、ボードレールが発狂後に「女陰」と呟き続けたとして、これはこれでボードレールらしいではないか。なお、芥川龍之介は遺稿「十本の針」に以下のように記している。

       四 空中の花束

 科學はあらゆるものを説明してゐる。未來も亦あらゆるものを説明するであらう。しかしわたしたちの重んずるのはただ科學そのものであり、或は藝術そのものである。――即ちわたしたちの精神的飛躍の空中に捉へた花束ばかりである。L'homme est rien と言はないにもせよ、わたしたちは「人として」は格別大差のあるものではない。「人として」のボオドレエルはあらゆる精神病院に充ち滿ちてゐる。唯「惡の華」や「小さい散文詩」は一度も彼等の手に成つたことはない。

[やぶちゃん注:“L'homme est rien”はフランス語で、「人は無なり」。「小さい散文詩」はボードレールの、死後刊行された詩集「パリの憂愁」を指す。」

□若し理性に終始するとすれば、我々は當然我々自身の存在を否定しなければならぬ。理性を神にしたヴオルテエルの幸福に一生を了つたのは即ち人間の河童よりも進化してゐないことを示すものである。

●わたしはヴォルテェルを輕蔑してゐる。若し理性に終始するとすれば、我我は我我の存在に滿腔の呪咀を加へなければならぬ。しかし世界の賞讚に醉つた Candide の作者の幸福さは!〔「理性」〕

・「ヴオルテエル」啓蒙主義を代表するフランスの多才な哲学者にして小説家Voltaire(ヴォルテール 本名François-Marie Arouet フランソワ=マリー・アルエ 16941778)。ウィキの「ヴォルテール」によれば(記号の一部を変更した)、『1718年に喜劇「オイディプス」を発表したが、その直後に摂政・オルレアン公フィリップ2世を諷刺したとしてバスティーユに投獄された。1726年、けんかのため再び投獄、まもなく釈放され、1728年までイギリスに亡命した。アイザック・ニュートン、ジョン・ロックなどの思想を直接知って哲学に目ざめ、帰国後1734年に「哲学書簡」(別名「イギリス書簡」)を著した。その後、文学、哲学、歴史学など多様な分野の第一線で活躍し、1750年には、プロイセンのフリードリヒ大王を訪問した。帰国後』、ディドロとダランベールの編纂した『「百科全書」にも寄稿した(直後に「百科全書」は出版許可が取り消される)。それまでの彼の活動を寓話的に総括し、合わせてゴットフリート・ライプニッツの「弁神論」に代表される調和的で楽観的な世界観を批判したのがコント「カンディード」(1759年)といえる。1760年にスイス国境に接するフランスの街フェルネーに居を定めてからは、折から生じたカラス事件などをきっかけに、自由主義的な政治的発言を活発に行った。この時期の代表作として、「寛容論」(1763年)、「哲学辞典」(1764年)などがあげられる。1778年4月7日パリでベンジャミン・フランクリンによりフランマソヌリに入会しフリーメイソンとなる』。『つねに目立ったところで行われた反ローマ・カトリック、反権力の精力的な執筆活動や発言により、ヴォルテールは18世紀的自由主義の一つの象徴とみなされた。没後、パリの教会が埋葬を拒否したためスイス国境近くに葬られたが、フランス革命中の1791年、ジロンド派の影響によって、パリのパンテオンに移された』とある。

・「Candide1759年に発表されたヴォルテールの代表作“Candide, ou l'Optimisme”「カンディード或いは楽観主義」。ウィキの「カンディード」によれば、『冷笑的な視点の下に、天真爛漫な主人公カンディードを紹介する以下の格言が冒頭で述べられ』、『「この最善なる可能世界においては、あらゆる物事はみな最善である」』という主人公カンディードの言説に基づき、『あらゆる不幸が襲いかかる一連の冒険を通じて、主人公カンディードが縋りつくこの格言は劇的に論駁される』。『この作品はゴットフリート・ライプニッツ哲学を風刺した小説であり、18世紀の世界に存在した恐怖を陳列した小説でもある。この小説でライプニッツ哲学は、カンディードの家庭教師である哲学者パングロスによって象徴される。物語の中で繰り返される不幸や災難にも関わらず、パングロスは「tout est au mieux(すべての出来事は最善)」であり、「自分は le meilleur des mondes possibles (最善の可能世界)において生活している」と主張し続ける』。『本作でカンディードとパングロスがリスボンで遭遇する大地震の場面は、1755111日に発生したリスボン大地震に基づいている。この惨事に衝撃を受けたヴォルテールは、ライプニッツの楽天主義に疑問を抱き、それが本作の執筆につながった』とある。最後に、「或阿呆の一生」の、ヴォルテールに言及した次のアフォリズムを示しておく。

       十九 人工の翼

 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲學者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に驅られ易い一面のルツソオに近い爲かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンディイド」の哲學者に近づいて行つた。

 人生は二十九歳の彼にはもう少しも明るくはなかつた。が、ヴォルテエルはかう云ふ彼に人工の翼を供給した。

 彼はこの人工の翼をひろげ、易やすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光を浴びた人生の歡びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつ直に太陽へ登つて行つた。丁度かう云ふ人工の翼を太陽の光りに燒かれた爲にとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人(ギリシヤじん)も忘れたやうに。……

★最後にクラバックが爪跡を附けたものを並べてみよう。

✔何びとも偶像を破壞することに異存を持つてゐるものはない。同時に又何びとも偶像になることに異存を持つてゐるものはない。しかし偶像の臺座の上に安んじて坐つてゐられるものは最も神々に惠まれたもの、――阿呆か、惡人か、英雄かである。

✔物質的欲望を減ずることは必しも平和を齎さない。我々は平和を得る爲には精神的欲望も減じなければならぬ。

✔ボオドレエルは白痴になつた後、彼の人生觀をたつた一語に、――女陰の一語に表白した。しかし彼自身を語るものは必しもかう言つたことではない。寧ろ彼の天才に、――彼の生活を維持するに足る詩的天才に信賴した爲に胃袋の一語を忘れたことである。

クラバックは「」古典主義のシンボルとしてのタナグラ人形という偶像を床に叩きつけて破壊した。しかしあれは破壊する以前の自分は「しかし偶像の臺座の上に安んじて坐つてゐられるもの」であったのであり、それ「は最も」お目出度い「神々に惠まれたもの、――阿呆か、惡人か、英雄かである」ということ――反権力、現代音楽家の「英雄」としての名声の下、しかしクラバックは、自身が古典主義的「英雄」憧憬に依拠した新奇性も近代性も持ち合わせていない凡百の音楽家の一人に過ぎないことをもはや『知ってしまっていた』からであった。そこではクラバックは真正の「或阿呆」でしかなく、「羅生門」の賤しい下人、惨めな「惡人」でしかなかったのではなかったか? そしてまた、そうした要素は王朝物という古典作品に依拠した新奇性を引っさげて登場した嘗ての芥川龍之介自身へのアイロニーとしても見えてくるものではないだろうか? そうしたクラバックや芥川が喉から手が出るほど欲しがった近代性という「精神的欲望」はまた、真の「平和」を齎しはしないのである。これは正に「こゝろ」の先生の謂いではないか! 精神的欲望を求めんとする近代人として生きることは、その犠牲として「平和」を捨てねばならない、個としての「淋しみ」を感受するしかない、ということである。三つ目のアフォリズムは、それを比喩する。物質的欲望を満たす「胃袋」を捨てて、めくるめく愛欲の「女陰」――近代的芸術至上主義の只中に自らを置くこと――それがクラバック芥川が求めて止まなかった境地であった――その「胃袋」を捨てた時、畢竟、芥川龍之介には自死しか、その先に見えるものはなかったのであった。なお、この三つのアフォリズムのポイントは「偶像」「神々」という宗教性、「(現実生活の)平和」と「(近代的自我の)欲望」の反比例の法則、そして「詩的」「(性的)生活(の維持)」と「胃袋(という現実の生活)」の齟齬背反である。そのキーワードを接合すると『宗教―近代―生活』となる。――これは実は、二章あとの「十三」末尾で「河童の生活」をしみじみ考えるマッグが「我々河童は何と云つても、河童の生活を完うする爲には、……」「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね。」と呟くのと響き合っているように思われてならない。即ち、このクラバックの爪跡は「十四」で示されるところの、河童の国の宗教である近代教(生活教)の開陳――及びそれへの失望――の伏線としても張られているのではないかと私は読むのである。

       十二 

・「水松(いちゐ)」裸子植物門イチイ綱イチイ目イチイ科イチイ属 Taxus cuspidata。深山に植生する常緑高木。樹皮は赤褐色で浅い裂け目を持つ。針状の葉はやや捩れて羽根状に展開する。雌雄異株で実は種子を肉質の仮種皮が覆い、秋に熟し、果肉は甘いが、種子は苦い上に呼吸中枢に作用するアルカロイドの一種タキシンを含んでおり、有毒である。材質は緻密で光沢を持ち、建築・家具・細工工芸材として用いられる。和名は、古来より笏の材としたことから位階の「一位」に因んでの呼称。アララギはイチイの別名である。

・「おい、君」原稿は「おい、こら」と書いたのを訂している。

・「グルツク」芥川龍之介から万年筆(初稿では銀時計)を奪った河童である。私にはこれは、知らずに秀しげ子(丸い銀時計はフロイト的には子宮・女性器の象徴)をファルス(万年筆のフロイト的象徴)で共有していた南部修太郎をモデルとしているように思われる。

・「如何なる犯罪を行ひたりと雖も、該犯罪を行はしめたる事情の消失したる後は該犯罪者を處罰することを得ず」という河童国刑法1285条は、よく考えてみると刑法の根幹に関わるとんでもない条文である。何故か? この「該犯罪を行はしめたる事情の消失したる後」という条件は、例えば怨恨による殺人を犯した場合、犯罪の完遂後は「該犯罪を行はしめたる事情」たる被害者は「消失し」ているのであり、殺人罪の場合、既遂犯は罰せられないことになるからである。万年筆どころじゃあ、ないぜ! なお、原稿ではここは「該犯罪を行はしめたる相當の事情の消失したる後」となっており、これだと事情の認定が玉虫色になる。処罰される可能性が高まるのである。芥川はそこを鋭く見抜いて「相當の」を除去した点、凄い。因みに、河童国刑法の条文は桁違いに多いことが窺われる。現行刑法は第264条(毀棄及び隠匿の罪の親告罪規定)で終わりである。河童国の刑法は1285条のこの規定内容から判断しても、まだまだ続く感じだ。

・「この國では絞罪などは用ひません。稀に電氣を用ひることもあります」電気椅子による死刑は絞首刑に代わる人道的死刑執行方式として1889年に初めてアメリカで法制化された(実際の電気椅子による死刑執行は1890年のニューヨーク州)。芥川龍之介が生まれた明治25(1892)年の前々年である。現在は、逆にその非人道性が批判され、実質的に電気椅子による死刑執行は行われていない。本章を概観するに、芥川龍之介は死刑反対論者(若しくは懐疑論者)であったと考えてよいであろう。

・「それは案外多いやうですね。わたしの知つてゐた或辯護士などはやはりその爲に死んでしまつたのですからね」ここも本作執筆の直前、昭和2(1927)年1月に起きた芥川の義兄で弁護士であった西川豊(実姉であるヒサの夫)一件を確信犯的に用いているものと思われる。既に前掲しているが、再度述べると、1月4日に西川の家が全焼したが、直前に多額の火災保険がこの家屋にかけられていたために、西川本人に放火の嫌疑がかけられた。2日後の6日午後6時50分頃、この西川豊は千葉県山武(さんぶ)郡土気(とけ)トンネル近くで飛び込み、轢死した事件である。この謂いから推測すると、芥川は西川の放火疑惑は冤罪と考えていたのではないかという可能性も捨て切れない気がする。

・「その河童は誰かに蛙だと言はれ、――勿論あなたも御承知でせう、この國で蛙だと言はれるのは人非人と云ふ意味になること位は。――己は蛙かな? 蛙ではないかな? と毎日考へてゐるうちにとうとう死んでしまつたものです」河童社会に於いては両生類である蛙と言われることが人格、基、河童格を全否定されるような、致命的な差別用語であることが分かる。また、本記載によって河童は極めてデリケートな神経の持ち主であり、ヒト以上に容易にノイローゼに罹患し、重篤な鬱病や統合失調症へと重症化――更に大事なことは――そうした激しい悲哀や統合失調様の心理状態の中で、所謂、憤死――狭心症や心不全によるショック死をしてしまう――ということが極めて普通に起こり得る、ということを示しているのである。これはもう、河童という生物がヒトには想像不可能なほど、繊細な神経(神経症的精神病質)の持ち主なのだと言わざるを得ないのである。

・「尤もその河童を蛙だと言つたやつは殺すつもりで言つたのですがね。あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺と云ふ……」この事例は河童国刑法1285条に照らし合わせて(先の注を参照のこと)、殺人罪にはならない。そもそも「あなたがたの目から見れば、やはりそれも自殺と云ふ」とマッグは言うが、人間社会でも本邦でも、これは「自殺」でさえない。何故なら前注で見たように、「毎日考へてゐるうちにとうとう死んでしまつたものです」と言っており、投身や薬物・凶器による何らかの積極的な手段によって死に至ったとは記載していないからショック死だからである。現刑法の解釈にあっても、例えばいじめのケースにあって、「お前は人間じゃない」という罵詈雑言によってノイローゼとなり、自殺した被害者を業務上過失致死罪で訴えられるかというと、これは無理である。せいぜい精神的な暴力として(そのためには執拗なまでの暴言の波状的攻撃が起訴の必須条件となるであろう。「蛙だ」と数度言ったぐらいで有責性があると認定されるかどうかは甚だ疑問と言わざるを得ない)暴行罪や傷害罪で立件出来るかというのもやはり怪しい気がする(そのような巧妙陰湿な行為は我々の日常に幾らも潜んでいる)。但し、「蛙だ」の暴言に極めて高い公然性があり、それが複数の証言や物証(手紙やネットへの書き込み等)によって立件出来れば、現行日本の刑法230条の名誉毀損罪の要件は満たすものとは思われるが。

       十三 

・「頭の皿から血を出し」「ピストルで頭を打つた」後者では「頭」と言っているので、「皿」が生命維持装置の根幹であるわけではなく、やはりヒト同様、頭部に生命維持に関わる脳があるということがこの描写から分かる。

・「雌雌の河童」トックは自由恋愛家であるから、愛人の一人と思われるのだが、後半のゲエルの「しかしかう云ふ我儘な河童と一しよになつた家族は氣の毒ですね。」という言に対する、ペップの「何しろあとのことも考へないのですから。」という答えは、この雌河童がトックの内縁の妻(「十五」の冒頭に「その頃にはもう雌の河童はどこか外へ行つてしまひ」とあるから、トックの死後も暫くトックの家に住んでいた――居住権を主張しており、それが公的に認められていた――以上、これは立派に内縁の妻である)であり、何を隠そう、ここにいる「二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑つてゐる」のは、トックとこの雌河童との間に出来た子であることを示している。そしてこれは「十五」のトックの霊の質問の中で「同棲せる女友だち」「予が子は如何?」という言葉で明らかとなる(これは降霊がイカサマであっても、その言説が降霊会のトックを知る人々にすんなり受け入れられたという点で『真実』なのである)。また勿論、それでこそ「僕が河童の國に住んでゐるうちに涙と云ふものをこぼしたのは前にも後にもこの時だけです」という「僕」の感懐もしみじみとしたものとして我々読者に伝わってくることも云うまでもあるまい。――トックには実は内縁ながら妻も子供もいた――しかし、自殺した――誰かと、全く同じではないか?――だとすれば……。――否、この現場にいた雌河童と子河童にこそ自殺の動機は、あるのではないか? この雌と子はその日、トックに正式な結婚と嫡出子としての認知を求めに来ていたのではないか? 執拗に言い寄られ、絶望したトックは衝動的に自分の所持していたピストルで自らのこめかみを撃ち抜いた――しかし、これも疑おうとすれば疑えるではないか? この銃は本当にトックのものだったのだろうか?――いや、こんな考え方も可能ではなかろうか?――これは本当に自殺であろうか?――そもそも自由恋愛家を自任するトックが、実際には内縁の妻と子がいたと世間に広く周知されてしまう(当然、これは河童国のゴシップとして新聞に載る)という如何にも不名誉な形で、いや、そもそもだ、内縁の妻や自分の子供さえいる目の前で超河童で自由恋愛家であるトックが自殺をするものだろうか?――これは擬装自殺ではないのか?――実際には、結婚と認知を拒絶された、この雌河童が撃ち殺したのではなかったか?――いや、殺したのは、この「二歳か三歳かの」「何も知ら」ぬかのよう「に笑つてゐる」子河童ではなかったか?――先に見たように河童の子は驚くべき早熟である。自由恋愛家を標榜して自分を嫡出子として認知せず、母を悲しませる憎むべき父ならざる父を撃ち殺したのは、この男児――でなくてはならぬ――ではなかったか? 男児であってこその父殺しの典型的モチーフではないか?! フロイトも喜ぶぞ!――これこそ「藪の中」だ! 「藪の中」だ!――

・「qur-r-r-r-r, qur-r-r-r-r」この河童の泣き声に近似した語としては、イスラム教の経典、アラビア語で書かれた“Qur’an ”がある。「クルアーン」は「コーラン」で、Muhammad ムハンマド(マホメット)が神から受けた言葉や教えを記録した書であるが、ここは飽くまで、河童語のオノマトペイアであろう。

・「我儘」原稿は「胃病」と書いたのを訂している。

・「トツク君は元來胃病でしたから、それだけでも憂欝になり易かつた」「僕」はトックに「」の最後の路上のシーンで逢っているが、そこでトックは不眠を訴え、更に傍の通過した(と思われる)自動車の窓から緑色の猿が首を出す幻覚(と思われる)を見ている。「僕」は明らかな精神の変調をトックに感じて医者のチャックに診察して貰うことを勧めるが、病的な猜疑の眼を向けて去ってゆく。因みに芥川龍之介も晩年は頻りに不眠を訴え、神経衰弱や胃アトニー(胃下垂)と診断され、私と同様、日常的に軟便と下痢(そ合併症としての痔)に悩んでいた。そうした心身の複合的症状が一種の鬱病や神経症若しくは統合失調症による被害妄想や自虐傾向に発展し自殺した――とトックの自死原因はここに一応、特定されることになる。

・「僕等は皆頸をのばし、(尤も僕だけは例外です。)」河童は頸部が亀のように伸縮自在であることがこの描写によって判然とする。

・「こごしく」古語「凝(こご)し」で、凝り固まっているさま。険しいさま。

・「これはゲエテの『ミニヨンの歌』の剽竊ですよ」ここでマッグが剽窃だ言う Johann Wolfgang Goethe ゲーテ(17491832)の“Mignon”「ミニヨンの歌」は、現在、「ヴィルヘルム・マイスター修業時代」の第三巻に収められている南欧への憧れを詠った著名な詩“Mignon”の内(“Mignon”と称するものは他にも3種ある)、最終第3連である。以下にドイツ語原詩を示し(引用はドイツのテキスト・サイトから)、後に該当部分の訳詩集「於母影」の森鷗外訳を(岩波版新書版選集を底本として正字に直した)、その後に高橋義孝訳を示し(こちらは新全集三嶋氏注解に示されたものの孫引き)、最後にトックの詩を掲げて参考に給する。

Kennst du den Berg, und seinen Wolkensteg?

Das Maultier sucht im Nebel seinen Weg;

In Höhlen wohnt der Drachen alte Brut;

Es stürzt der Fels und über ihn die Flut,

Kennst du ihn wohl?

                   Dahin! Dahin

Geht unser Weg! o Vater, laß uns ziehn!

   *

立ちわたる霧のうちに驢馬は道をたづねて

いなゝきつゝさまよひひろきほらの中には

もも年經たる竜の所えがほにすまひ

岩より岩をつたひしら波のゆきかへる

かのなつかしき山の道をしるやかなたへ

君と共にゆかまし

   *

ご存じなの、その山を、雲の行きかう山道を?

らばは霧の中で道をさがし、

ほら穴には、年老いた龍の族が住み、

岩は切り立って、その上を滝が流れていて――

御存じなの、あの山を?

さあゆきましょう、あの山へ、

この道真直ぐに。お父さま、

さああの山へ!

   *

いざ、立ちて行かん。娑婆界を隔つる谷へ。

岩むらはこごしく、やま水は淸く、

藥草の花はにほへる谷へ。

それにしてもこのマッグは残酷である。自殺したトックの死体の前で微苦笑さえ浮かべて、こんな死者を辱しめる言葉を吐けるとは。いや、それが河童の世界なのである。いや、人間世界のように虚飾を排した正直な感懐と言うべきなのかも知れない。そうして――そうしてこの時、芥川龍之介は、5ヶ月後の、自分自死の後に集まった文人たちの思いを、既に以ってここに悪意を以って(こうした行為を果たして「悪意」と言うだろうか?)予言してもいたものであろう。

・「あたりには」原稿は「トツクには」と書いて訂している。

・「髮を逆立てたクラバツク」河童は興奮すると髪が見た目にもはっきり分かるぐらい逆立つということがこの描写から判明する。

・「いざ、立ちて、……僕も亦いつ死ぬかわかりません。……娑婆界を隔つる谷へ。……」以下のクラバックの台詞は意味深長である。実はクラバックは、他の河童の知らないトックの秘密を、何か知っているのではないか?! それはクラバックの途切れ途切れの台詞を整序してみると分かる。やってみよう(一部括弧で私の語を補った。不明箇所は「■■■■」とした)。

「僕も亦いつ死ぬかわかりません。(トツクには)親友(などと云ふものはありません)、トツクはいつも孤獨だつたのです。(いや、私もさうした意味では同じだ。だから)僕も亦いつ死ぬかわかりません(と云ふのです)。唯トツクは不幸にも(■■■■だったのです)。あなたがたは幸福です。」

私は私なりに、この■■■■を埋める、ある言辞を想定している――が――それは言わないこととしよう――皆さんそれぞれに想像されよ。それは身体に関わるものであろう。しかし、気質的な病気ではあるまい(だったら音楽家のクラバックにではなく、医師のチャックの語らせるはずだ。それは精神や思想に関するものか? いや、だったらマッグに語らせるにふさわしいはずだ。それは何らかの秘すべき『性情』『性癖』なのではないか?――このくらいにしておこう――しかし、芥川がこの場面に2種もの草稿を残していることから見ても――ここにこそ、芥川龍之介自身の、ある秘密が――トックの、ではない!――隠されている証左ではなかろうか?

・「涙と云ふものをこぼしたのは前にも後にもこの時だけです」底本には注記がないが、新全集の注記を見ると、ここは初出も原稿も「僕が河童の國に住んでゐるうちに涙と云ふものをこぼしたのも前にも後にもこの時だけです」とあるのを改めたとある。恐らく旧全集編者も同じことをしたのだが、注記していないのである。勿論、その改変で正しいのであるが、旧全集にはそうした恣意的な操作がなされてい乍ら、それが示されていない場合がある可能性を示唆するものではある。

・「しめた! すばらしい葬送曲が出來るぞ。」このクラバックは正しく「地獄變」の良秀である。いや、自ら縊死してしまう良秀以上に、決して死なぬ、憐れみも同情も悲哀も微塵も感じさせぬ、芥川が最も望んだであろう、谷崎潤一郎のような脂ぎった『悪魔主義的』芸術至上主義者良秀である。このクラバックのようであれば――芥川龍之介は自殺しなかった――のである。

・「そこには二歳か三歳かの河童が一匹、何も知らずに笑つてゐるのです。僕は雌の河童の代りに子供の河童をあやしてやりました。するといつか僕の目にも涙のたまるのを感じました。僕が河童の國に住んでゐるうちに涙と云ふものをこぼしたのは前にも後にもこの時だけです」この子供は1925年7月12日に生まれた芥川龍之介の三男芥川也寸志がモデルであろう。本作執筆時、数えで3歳、満で1歳半過ぎであった。芥川龍之介は自死に際して、三人の子供たちのことだけが心残りであった――しかし同時にこの子供たちの『よき父』のままに自死せねばならなかった――芥川龍之介は芥川比呂志・多加志・也寸志という3人の自己の分身である「わが子等」から永遠に愛される、何よりも誰よりも「より良き父」である、ためにこそ、自死した――と言えると私は考えているのである(私の「芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本 やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫」の注を是非お読み頂きたい)。――私は、ここを書いた時、芥川龍之介は実際に遺児となる三人の子らを思って実際に涙していたことを、疑わないのである――

・「しかしかう云ふ我儘な河童と一しよになつた家族は氣の毒ですね。」「何しろあとのことも考へないのですから。」という二河童の問答も、芥川は自分の自死の枕頭に弔問に来た誰彼の歯の浮くような台詞として想定しているのであろうか。いや、寧ろ、死後の芥川自身の自嘲でもあったとした方が正しいかも知れぬ。

・「我々河童は何と云つても、河童の生活を完うする爲には」「兎に角我々河童以外の何ものかの力を信ずることですね」というマッグの感懐は次の基督教のパロディである「近代教(生活教)」を引き出すための枕である。

       十四 

・「僕は勿論物質主義者」「」で「僕」は既に社会主義者であると表明している。

・『(「生活教」と云ふ譯語は當つてゐないかも知れません。この原語はQuemoocha です。cha は英吉利語の ism と云ふ意味に當るでせう。quemoo の原形 quemal の譯は單に「生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」する意味です。)』この詳細な河童語注を見ると、芥川は真面目にこの河童国旅行記の続篇を考えており、そこでは河童語についての語学体系をも大真面目に展開しようと目論んでいたのではないかという気がして来る。所謂、偽書ばりの架空言語体系の構築という面白さである。私はこの英語のラテン語“male”(フランス語の“mal”)由来の接頭語“mal”、「悪の・不規則の・不良の・不全の・異常の」の意を利かせているのではあるまいかと考えている。即ち――「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」といった淫らなる人間存在の必要悪――という皮肉を利かしているのではないかと思うのである。また、三井直人氏のHPにある「芥川文学の原点<『義仲論』と高山樗牛>」の冒頭で「河童」のこの部分を解析され、以下のような興味深い考察をなさっている(一部の脱字を補正し、引用元で罫線で囲まれた部分は斜体で示した)。

 ≪引用開始≫

河童の国の宗教、Quemoochaは「近代教」とも、「生活教」とも呼ばれ、「飯を食ったり、酒を飲んだり、交合を行ったり」する「-ism」(『河童』14)である。

芥川はQuemoochaの六人の「聖徒」の一人に「ツァラトゥストラの詩人ニイチェ」を選んでいる。

これを読んで、私は『ツァラトゥストラ』第三部「新旧の板について」13にある「よく飲み食いすること、おお、わたしの兄弟たちよ、まことに、これはなんら空しいわざではないのだ!」(吉沢伝三郎訳)の反響であると直感した。

ここでニーチェは『新約聖書』にあるパウロの手紙に反駁しているのだ。

もし、死者の復活がないのなら、「あすは死ぬのだ。さあ、飲み食いしようではないか。」ということになるのです。(『コリント人への手紙 第一』1532

Quemoochaは河童の国の宗教でも、精神病者の幻想でもない。

それは芥川の末期の目で見た、わたしたちの時代の「みじめさ」である。人間は再び獣になった。

「死者の復活はない」と私たちの時代は確信している。わたしたちはパウロの危惧を現実のものとしてしまった。

 《引用終了》

誠に示唆に富むものである。近代西欧的自我に目覚めた者どもの拠り所とする個人主義――自由と独立と己とに満ちた『近現代教』――しかし、この宗教を――敬虔に見える長老様でさえ――実は信じちゃあ、いないのである――。

×「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」

は初出では、

 「飯を食つたり、酒を飮んだり、……を行つたり」

と伏字になっている。アホか!

・「ニコライ堂」東京都千代田区神田駿河台にある正教会の大聖堂。正式名称は「東京復活大聖堂」。重要文化財。本来はイイスス・ハリストスの復活を記憶する大聖堂で、「ニコライ堂」という通称は、広く日本に正教会の教えを齎したロシア人修道司祭(後に大主教)聖ニコライに因むもの。以下、参照したウィキの「ニコライ堂」より引用する。『建築面積は約800平方メートル、緑青を纏った高さ35メートルのドーム屋根が特徴であり』、『日本で初めてにして最大級の本格的なビザンティン様式の教会建築といわれる』。明治241891)年に竣工し、駿河台の高台に位置したため御茶ノ水界隈の景観に重要な位置を占めた』。『関東大震災で大きな被害を受けた後、一部構成の変更と修復を経て現在に至る』とある。

・「腰の曲つた」原稿は「嘴の反つた」と書いたのを訂している。後の「コリント風の柱」の段落の出るもう一箇所も同様。

・「この大寺院へラツプが滅多に來ないことの辯解にもなつてゐた」ラップは近代教(生活教)の信者ではあるが、熱心ではないことが分かる。

・「靜かに正面の祭壇を指さしました。」原稿は「靜かに大寺院の中を見まはしました。」と書いたのを訂している。

・「生命の樹」ウィキの「生命の樹」から引用する。『旧約聖書の創世記(2章9節以降)にエデンの園の中央に植えられた木。命の木とも訳される』。『カバラではセフィロトの木(英語:Sephirothic tree)という』(記号の一部を変更した)。『ヤハウェ・エロヒム(エールの複数形、日本語では主なる神と訳されている)がアダムとイヴをエデンの園から追放した理由は「禁止命令を無視して」知恵の樹の実を食べた人間が、生命の樹の実も食べてしまうのではと(ユダヤ伝承では知恵の樹の実、生命の樹の実をともに手に入れると、神に等しき存在になるとされているので)恐れたためである』。キリスト教ではしばしば葡萄の木として描かれる。但し、これはキリスト教の「生命の木」とは同一ではないように思われる(実際に、キリスト教以外にも「生命樹」信仰は多数ある)。但し、善悪の実を形象している点では、寧ろ単に「知恵の木」を単にパロディとしたものとは思われる。何故なら、もしこれがパラレルなもう一つの――「知恵の木」ではなく「生命の木」の実を食べて楽園追放されたアダムとイヴという――キリスト教世界であったとすれば――河童は不死であるが、聖なる白痴(イディオ・サヴァン)であることになるのである――が、そのような片鱗は全く河童国に見られない。そうだったら、かの諸星大二郎の「妖怪ハンター」シリーズのぶっ飛びの怪作――「みなでぱらいそさ、行くだ!」――「生命の木」の先駆になったであろうに! 惜しい! なお、芥川龍之介は大正121923)年5月発表の「保吉の手帳」の「午休み」(以下は私の初出形テクストである。必ずリンク先の注を参照されたい)にもこの「生命の樹」を登場させている(ここには聖徒の一人ゴーギャンも登場する)。以下、全文を引用しておく。

     午休み

 保吉は二階の食堂を出た。文官教官は午飯の後は大抵隣の喫煙室へはひる。彼は今日は其處へ行かずに、庭へ出る階段を降ることにした。すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗のやうに登つて來た。それが彼の顏を見ると、突然嚴格に擧手の禮をした。するが早いか一躍りに保吉の頭を躍り越えた。彼は誰もいない空間へちよいと會釋を返しながら、悠々と階段を降り續けた。

 庭には槇(まき)や榧(かや)の間に、木蘭(もくれん)が花を開いてゐる。木蘭はなぜか日の當る南へ折角の花を向けないらしい。が、辛夷は似てゐる癖に、きつと南へ花を向けてゐる。保吉は卷煙草に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。其處へ石を落したやうに、鶺鴒(せきれい)が一羽舞ひ下つて來た。鶺鴒も彼には疎遠ではない。あの小さい尻尾を振るのは彼を案内する信號である。

 「こつち! こつち! そつちぢやありませんよ。こつち! こつち!」

 彼は鶺鴒の云ふなり次第に、砂利を敷いた小徑を歩いて行つた。が、鶺鴒はどう思つたか、突然また空へ躍り上つた。その代り背の高い機關兵が一人、小徑をこちらへ歩いて來た。保吉はこの機關兵の顏にどこか見覺えのある心もちがした。機關兵はやはり敬禮した後、さつさと彼の側を通り拔けた。彼は煙草の煙を吹きながら、誰だつたかしらと考へ續けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は發見した。あれはポオル・ゴオギャンである。あるいはゴオギャンの轉生(てんしやう)である。今にきつとシヤヴルの代りに畫筆(ぐわひつ)を握るのに相違ない。その又擧句は氣違ひの友だちに後ろからピストルを射かけられるのである。可哀さうだが、どうも仕方がない。

 保吉はとうとう小徑傳ひに玄關の前の廣場へ出た。其處には戰利品の大砲が二門、松や笹の中に竝んでゐる。ちよいと砲身に耳を當てて見たら、何だか息の通る音がした。大砲も欠伸をするかも知れない。彼は大砲の下に腰を下した。それから二本目の卷煙草へ火をつけた。もう車廻しの砂利の上に蜥蜴が一匹光つてゐる。人間は足を切られたが最後、再び足は製造出來ない。しかし蜥蜴は尻つ尾を切られると、直(すぐ)にまた尻つ尾を製造する。保吉は煙草を啣へたまま、蜥蝪はきつとラマルクよりもラマルキアンに違ひないと思つた。が、少時(しばらく)眺めてゐると、蜥蜴はいつか砂利に垂れた一すぢの重油に變つてしまつた。

 保吉はやつと立ち上つた。ペンキ塗りの校舍に沿ひながら、もう一度庭を向うへ拔けると、海に面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を爭つてゐる。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネツトの右や左へ薄白(うすしろ)い直線を迸(ほとばし)らせる。あれは球(たま)の飛ぶのではない。目に見えぬ三鞭酒(しやんぱん)を拔いてゐるのである。そのまた三鞭酒をワイシヤツの神々が旨さうに飮んでゐるのである。保吉は神々を讚美しながら、今度は校舍の裏庭へまはつた。

 裏庭には薔薇が澤山ある。尤も花はまだ一輪もない。彼は其處を歩きながら、徑へさし出た薔薇の枝に毛蟲を一匹發見した。と思ふと又一匹、隣の葉の上にも這つてゐるのであつた。毛蟲は互に頷き頷き、彼のことか何か話してゐるらしい。保吉はそつと立ち聞きすることにした。

 第一の毛蟲 この教官はいつ蝶になるのだらう? 我々の曾曾曾祖父(そそそそふ)の代から、地面の上ばかり這いまわつてゐる。

 第二の毛蟲 人間は蝶にならないのかも知れない。

 第一の毛蟲 いや、なることはなるらしい。あすこにも現在飛んでゐるから。

 第二の毛蟲 なるほど、飛んでゐるのがある。しかし何と云ふ醜さだらう! 美意識さへ人間にはないと見える。

 保吉は額に手をかざしながら、頭の上へ來た飛行機を仰いだ。

 其處に同僚に化けた惡魔が一人、何か愉快さうに歩いて來た。昔は錬金術を教へた惡魔も今は生徒に應用化學を教へてゐる。それがにやにや笑ひながら、かう保吉に話しかけた。

「おい、今夜つき合はんか?」

 保吉は惡魔の微笑の中にありありとフアウストの二行を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金(こがね)なす生活の樹だ!」

 彼は惡魔に別れた後(のち)、校舍の中へ靴を移した。教室は皆がらんとしてゐる。通りすがりに覗いて見たら、唯或教室の黑板の上に幾何の圖が一つ描き忘れてあつた。幾何の圖は彼が覗ゐたのを知ると、消されると思つたのに違ひない。忽ち伸びたり縮んだりしながら、「次の時間に入用(いりよう)なのです。」と云つた。その廊下の突當りは賄ひの部屋になつてゐる。其處には今日も戸の向ふに音樂會が開かれたらしい。水道の水のヴアイオリンや皿小鉢のカスタネツトの中には炊事番のうたふ獨唱さへ聞える。「おつとオ――だハイ――イ――じやうぶゥ――よし――きたア――ア――どつこイ――しよウ――ウ」――譜は少し寫し惡い。

 保吉はもと降りた階段を登り、語學と數學との教官室へはひつた。教官室には頭の禿げたタウンゼンド氏のほかに誰もいない。しかもこの老教師は退屈まぎれに口笛を吹き吹き、一人ダンスを試みてゐる。保吉はちよいと苦笑した儘、洗面臺の前へ手を洗ひに行つた。その時ふと鏡を見ると、驚ゐたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に變り、保吉自身は腰の曲つた白頭(はくとう)の老人に變つてゐた。

この「保吉の手帳」の「午休み」に絡めて、布施薫氏は『芥川龍之介「河童」論(二)――具象の場と「近代」――』の中で、近代教が実はアンチ・テーゼとしての反近代教であるという皮肉を美事に解き明かしておられる。

 《引用開始》

「今夜つき合はんか?」が享楽の意味合いを内包していたのと同様に、「近代教」の教えとは、「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」して「旺盛に生き」ることにある。しかし、その聖徒とされている「ストリントベリイ」「ニイチエ」「トルストイ」「国木田独歩」「ワグネル」「十三四のタイテイの女を娶つた商売人上りの仏蘭西の画家」(=ゴーギャン)らは、決してそのような教義通りの現世享楽的な生き方をした人々ではない。これは普通なら矛盾であろう。例えば、石崎等には「これらの人達はみな、自殺未遂者、発狂者、死の理解者、死の誘惑者であったがゆえに聖徒に列せられている」(21)ことは気づかれていた。しかし教義に反する生き方をした人物がなぜ、教義を最も忠実に遂行したはずの「聖徒」として、信仰の中心たる大寺院という場所に列せられているのかは、石崎に限らず他の論者によっても、それがほとんど自明であるということなのか、あまり追求されてはいない。しかし例えば独歩は「死の理解者」であったために、つまり「轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた詩人」であったために、「聖徒」に列せられているのであり、「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」して「旺盛に生き」たためではない。「自殺未遂者、発狂者、死の理解者、死の誘惑者」であった彼らには、現存の安定や秩序の中におさまりきれず、そこから憧れいでていったという共通性があり、それは〈2〉で論じたところの「近代」を示す一つの指標である。ファウストは実在の人物ではないため、ここに列せられる資格を備えてはいないが、列せられても不思議のない人物としての性質を備えているように思われる。大学者であるファウストは、自身を「神の似姿」と考え、人間よりもむしろ「ひろい世界をさまよいめぐる忙しい霊」たちに親近感をいだく超人であるが、数々の学問を究め尽くしても「おれという阿呆が」「昔よりちっとも利口になっていない」ことや「実は我々になにも知る得るものでないということ」(22)に絶望して、毒杯をあおろうとした自殺未遂者であるからだ。ゲーテと芥川の問題に深く立ち入る余裕は今はなく、こうした点を指摘するのみに今回はとどめるが、メフィストフェレスはそういった超人的な在り方を目指す「近代」的な人間存在を、「馬鹿げた小宇宙」・「通常自分を全体だと思いこんでい」る「高慢ちきな光」などと評し、そうした「あらゆる束縛を脱して、自由に」「快楽や事業」や「官能」に満ちた「人生の体験にのり出す」よう、「力強きおん身、/前よりも麗わしく/世を建てなおせ、/胸の中にうち建てよ。/澄みたる心もて、/新たなる生の歩みを/踏みいだせ。/かくてあたらしき歌、/ここに響け」(23)という具合に享楽的な世界へとファウストを誘うのである。この「あたらしき歌」には「あたらし」さと感じられる要素はさしてなく、そこには「近代」的知性を満たすものはないが、代わりに自然としての大いなる安定が待っている。それは、またの名を「生活教」という「近代教」の教義に限りなく近い。つまり、教義の上では「近代教」とは反「近代」教なのである。そして聖徒となるためには、その教義に逆らわねばならない。「近代」とは実は反「生活」なのである。だから、長老自身が「我々の神を信ずる訳に行かな」くとも、この宗教においては聖職者の資格に何ら問題はない。なぜなら、妻とおぼしき「大きい雌の河童」、即ち「生活」に投げ飛ばされ聖職者としての権威を失墜させられているがごとき惨めな姿の中にこそ、揺れ動きの「近代」は存在しているからである。

 《引用終了》

注記番号「(21)」は『「ゆがんだ自画像――『河童』試論――」(海老井英次・宮坂覚・編『作品論芥川龍之介』双文社出版、一九九〇・一二)』、注記番号「(22)」は『「ファウスト」第一部「夜」(『ファウスト 第一部』相良守峯・訳、岩波文庫、一九五八・三/第一刷、一九九五・八/第五一刷) 』、注記番号「(23)」は『(二三)「ファウスト」第一部「書斎」(同(二二))』の引用注記である。「〈2〉で論じたところの」はリンク元の前文『〈2〉苦悩する〈近代〉』を参照されたい。但し、一箇所だけ私が微妙に留保したいのは、この「近代教」にあっても、イヴ河童とアダム河童はヤハウェ河童との契約を破って、楽園を追放されるのであろうから――そこが残念なことに書かれていないのであるが――先に述べた通り、「生命の樹」の実を食ったとすれば河童は不死で白痴でなくてはならないが、そういう風には設定されていない訳で、さすれば、生命の樹の実を食った訳ではなく、どうもキリスト教と同じく「知恵の樹」の実を食べたと推察される――そうしてエデンの東に去ったのである――とすれば、この「飯を食つたり、酒を飲んだり、交合を行つたり」して「旺盛に生き」よ、というヤハウェ河童の神言は、無原罪の原河童に対して行われた祝福なのであって、原罪を背負った河童への謂いではないということになる。近代教には楽園追放された雌雄の河童が背負わねばならなかった十字架――罰がやはりあるはずであるが、それは我々のキリスト教とは異なるものである可能性がないわけではなく、そこから贖罪としての近代教オリジナルの信徒教程が想定されなくてはならないという気がするのである。そこでは必ずしもヤハウェ河童の神言通りに生きることを絶対とする発想は、旧約聖書の以降の書に現れるような自ずと微妙に変形が施された教義が派生してくるのではなかろうか? そうした原契約からの遠心的齟齬こそが、実は自殺したくて出来なかった者たちを聖徒とする真の理由なのであり、長老さえも実はその教えを信じていないという、どんでん返しが用意されている核心なのではあるまいか?

・「忘れずにゐました。」原稿では続けて「大寺院の内部は畧圖(りやくづ)すると、大体(だいたい)下(しも)に掲げる通りです。――」(「体」はママ)として圖を描いてあるが、以上の文と共に抹消している、と底本後記にある。底本後記に添えられた画像を以下に挿入しておく。

・「穹窿」ドーム。

・「アラビアじみた市松」原稿は「セセツシヨン風の社」と書いたのを訂している。

・「祈禱机」通常のキリスト教信徒が祈りに用いる教会にある祈祷台のことか。

・「龕」元来は石窟寺院や横穴式の墳墓に見られる岩や石の側壁に仏像を安置する窪んだ場所を言う。キリスト教で見られるようなそれは壁龕、英語で“niche”(ニッチ)という。これはラテン語の「巣」の意である“nidus”からフランス語の“niche”を経て生まれた語であるが、古くは壁龕の上部をホタテガイの貝殻の模様に飾ることが多かったことからイタリア語の「貝殻」の意である“niccho”も関連すると言われる(ニッチの語源はウィキの「壁龕」を参照した)。

・「聖徒」ここで並んでいる聖徒を一覧にしておく。後掲するそれぞれの解説は各項で示した通り、多くをウィキの記載から引用したが、全体に渡って記号の一部呼び配置の一部を変更・追加させて頂いた。近代教だけに聖徒もみんな近代の芸術家ばかりである(年齢は逝去時)。

 ✞1《第1壁龕》ストリンドベリ (18491912) 63

 ✞2《第2壁龕》ニーチェ    (18441900) 56

 ✞3《第3壁龕》トルストイ   (18281910) 82

 ✞4《第4壁龕》国木田独歩   (18711908) 37

 ✞5《第5壁龕》ワーグナー   (18131883) 70

 ✞6《第6壁龕》ゴーギャン   (18481903) 55

 ✞7《第7壁龕》?……

ここから気づくことがある。死んだ年を見ると、一番最近死んだ聖徒はストリンドベリで、その没年は1912年。これは明治45年・大正元年なのである。私は大正以降に死んだ人物は、この聖堂の壁龕には立っていない気がする。それはまだ新しい過去だからではない。生活教は近代教なのである。近代は明治までなのだ。その伝説神話時代――甚だ素直に総てを信じていられた芸術の蜜月時代――は明治までだと、暗に芥川は言いたいのではなかろうか?

✞1「ストリンドベリイ」Johan August Strindberg(ヨハン・アウグスト・ストリンドベリ 18491912)。スウェーデンの作家。『ストックホルムに生まれる。ウプサラ大学に入り自然科学を修めたが、中途で退学し1874年に王立図書館助手となり、その間1870年に王立劇場へ「ローマにてI Rom」という一幕物を提出して採用され上演。1872年に史劇「メステル・ウーロフ師 Mäster Olof」を発表したがそれは認められず、憤懣のはけ口として1879年に諷刺小説「赤い部屋 Röda rummet」を発表して名声を得た。1877年に男爵夫人であったシリ・フォン・エッセン(Siri von Essen)と結婚する。史劇、童話劇、ロマン的史劇等を発表し1883年にフランスに行き、1885年に社会主義的傾向の短篇集「スイス小説集 Utopier i verkligheten」「結婚 Giftas」(188485年)を書き、後者は1884年に宗教を冒涜するものとして告訴され、フランスから国外退去を命ぜられた』。『自伝的小説「女中の子 Tjänstekvinnans son1886年」「ある魂の成長 En själs utvecklingshistoria1886年」「痴人の告白 Die Beichte eines Thoren1893年」を発表。この最後のものはフランス語で書かれ、ドイツ語ではじめて発表された。のちゲーオア・ブランデスとニーチェの影響のもとに精神的貴族主義に転じ、小説「チャンダラ Tschandala1889年」「大海のほとり I hafsbandet1890年」を書いた』。『1891年に離婚し、1893年オーストリアの女流作家フリーダ・ウール(Frida Uhl)と結婚したが、2年後に不幸な結果に終った。1894年パリに移り、自然科学、特に錬金術に没頭する。またスヴェーデンボリの影響をうけて神秘主義に接近し、不幸な結婚生活を回顧して自伝的小説「地獄 Inferno」(1897年)「伝説 Legender」(1898年)を書き、また戯曲「ダマスクスヘ Till Damaskus」(18981904)によって自然主義から離れた』。『1899年からストックホルムに定住し「グスタフ・ヴァーサ Gustaf Vasa」(1899年)をはじめ多くのスウェーデン史劇、ルターを主人公とした「ヴィッテンベルクの夜鶯 Näktergalen i Wittenberg」(1903年)を書いた。1901年に女優ボッセ(Harriet Bosse)と結婚したが1904年に離婚。長篇小説「ゴシックの部屋 Götiska rummen」(1904年)「黒い旗 Svarta fanor」(1907年)は、このころの混乱した精神から生れた。1907年に〈親和劇場〉を設立し、その劇場のために「室内劇 Kammarspel」を書いたが、経営困難のため3年後に閉鎖。晩年の随筆集「青書 En blå bok」(1907年-12年)には、ふたたび社会主義的な関心が示されている』とある(ウィキ「ストリンドベリ」より)。芥川の「侏儒の言葉」には以下のようなストリンドベリに関わるアフォリズムがある。

       二つの悲劇

 ストリントベリイの生涯の悲劇は「觀覽隨意」だつた悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「觀覽隨意」ではなかつた。從つて後者は前者よりも一層悲劇的に終つたのである。

       ストリントベリイ

 彼は何でも知つてゐた。しかも彼の知つてゐたことを何でも無遠慮にさらけ出した。何でも無遠慮に、――いや、彼も亦我我のやうに多少の打算はしてゐたであらう。

       又

 ストリントベリイは「傳説」の中に死は苦痛か否かと云ふ實驗をしたことを語つてゐる。しかしかう云ふ實驗は遊戲的に出來るものではない。彼も亦「死にたいと思ひながら、しかも死ねなかつた」一人である。

この『彼も亦「死にたいと思ひながら、しかも死ねなかつた」一人である』こそが、生活教の聖徒のキーワードである!

・「スウエデンボルグ」Emanuel Swedenborg エマヌエル・スヴェーデンボリ(16881772)スウェーデンのバルト帝国出身の博物学者・神学者で、現在、本邦ではその心霊学や神智学関連の実録や著述(主要なものは大英博物館が保管)から専ら霊界関係者に取り沙汰される傾向があるが、その守備範囲は広範で魅力的である。『ルーテル教会の牧師であり、スウェーデン語訳の聖書を最初に刊行した』人物で、エマヌエルは『その次男としてストックホルムで生まれ』た。『11歳のときウプサラ大学入学。22歳で大学卒業後イギリス、フランス、オランダへ遊学。28歳のときカール12世により王立鉱山局の監督官になる。31歳のとき貴族に叙され、スヴェーデンボリと改姓。数々の発明、研究を行ないイギリス、オランダなど頻繁にでかける』。『1745年、イエス・キリストにかかわる霊的体験が始まり、以後神秘主義的な重要な著作物を当初匿名で、続いて本名で多量に出版した。ただし、スウェーデン・ルーテル派教会をはじめ、当時のキリスト教会からは異端視され、異端宣告を受ける直前にまで事態は発展するが、スヴェーデンボリという人材を重視した王室の庇護により、回避された。神秘主義者への転向はあったものの、スウェーデン国民及び王室からの信用は厚く、その後国会議員にまでなった。国民から敬愛されたという事実は彼について書かれた伝記に詳しい。スヴェーデンボリは神学の書籍の発刊をはじめてからほぼイギリスに滞在を続け、母国スウェーデンに戻ることはなかった』。スヴェーデンボリは当時、『ヨーロッパ最大の学者であり、彼が精通した学問は、数学・物理学・天文学・宇宙科学・鉱物学・化学・冶金学・解剖学・生理学・地質学・自然史学・結晶学などで、結晶学についてはスヴェーデンボリが創始者である。動力さえあれば実際に飛行可能と思えるような飛行機械の設計図を歴史上はじめて書いたのはスヴェーデンボリが26歳の時であり、現在アメリカ合衆国のスミソニアン博物館に、この設計図が展示保管されている』。『その神概念は伝統的な三位一体を三神論として退け、サベリウス派に近い、父が子なる神イエス・キリストとなり受難したというものである。ただし聖霊を非人格的に解釈する点でサベリウス派と異なる。聖書の範囲に関しても、正統信仰と大幅に異なる独自の解釈で知られる。またスヴェーデンボリはルーテル教会に対する批判を行い、異端宣告を受けそうになった。国王の庇護によって異端宣告は回避されたが、スヴェーデンボリはイギリスに在住し生涯スウェーデンには戻らなかった。彼の死後、彼の思想への共鳴者が集まり、新エルサレム教会(新教会 New Church とも)を創設した』。『スヴェーデンボリへの反応は当時の知識人の中にも若干散見され、例えばイマヌエル・カントは「視霊者の夢」中で彼について多数の批判を試みている。だがその批判は全て無効だと本人が後年認めた事は後述する。フリードリヒ・シェリングの「クラーラ」など、スヴェーデンボリの霊的体験を扱った思想書も存在する。三重苦の偉人、ヘレン・ケラーは「私にとってスヴェーデンボリの神学教義がない人生など考えられない。もしそれが可能であるとすれば、心臓がなくても生きていられる人間の肉体を想像する事ができよう。」と発言している』。『彼の神秘思想は日本では、オカルト愛好者がその神学を読む事があるが、内容は黒魔術を扱うようなものではないため自然にその著作物から離れていく。その他、ニューエイジ運動関係者、神道系の信者ら』『の中にある程度の支持者層があり、その経典中で言及されることも多い。新エルサレム教会は日本においては東京の世田谷区にあり、イギリスやアメリカにも存在する』。『内村鑑三もその著作物を読んでいる』が、彼及びその支持者の思想を『異端視する向きが』あることも事実で、『一例として、日本キリスト教団の沖縄における前身である沖縄キリスト教団では、スウェーデンボルグ派牧師(戦時中の日本政府のキリスト教諸教会統合政策の影響からこの時期には少数名いた)が、戦後になって教団統一の信仰告白文を作ろうとしたところ、米国派遣のメソジスト派監督牧師から異端として削除を命じられ、実際削除されるような事件も起きている』と記す(ニライカナイを信仰しユタを巫女とする沖繩に相応しい!)。スヴェーデンボリは『神の汎神論性を唱え、その神は唯一の神である主イエスとしたのでその人格性を大幅に前進させており、旧来のキリスト教とは性格的・構造的に相違がある。スヴェーデンボリが生前公開しなかった「霊界日記」において、聖書中の主要な登場人物使徒パウロが地獄に堕ちていると主張したり』、『同様にプロテスタントの著名な創始者の一人フィリップ・メランヒトンが地獄に堕ちたと主張はした。だが、非公開の日記であるので、スヴェーデンボリが自身で刊行した本の内容との相違点も多い。この日記はスヴェーデンボリがこの世にいながら霊界に出入りするようになった最初の時期の日記であるため、この日記には、文章の乱れや、思考の混乱なども見られる。なお、主イエスの母マリアはその日記』『に白衣を着た天国の天使としてあらわれており、「現在、私は彼(イエス)を神として礼拝している。」と発言している』。『なお、スヴェーデンボリが霊能力を発揮した事件は公式に二件程存在し、一つは、ストックホルム大火事件、もう一つはスウェーデン王室のユルリカ王妃に関する事件で』、これは心霊学の遠隔感応として、よく引き合いに出されるエピソードである。『また、教義内の問題として、例えば、霊界では地球人の他に火星人や、金星人、土星人や月人が存在し、月人は月の大気が薄いため、胸部では無く腹腔部に溜めた空気によって言葉を発するなどといった、現代人からすれば奇怪でナンセンスな部分もあり、こうした点からキリスト教徒でなくても彼の著作に不信感も持ってみる人もいる』。『彼の生前の生き方が聖人的ではない、という批判もある。例えば、彼より15歳年下の15歳の少女に対して求婚して、父親の発明家ポルヘムを通して婚姻届まで取り付けておきながら少女に拒絶された。また、生涯独身であったわけだが、若い頃ロンドンで愛人と暮らしていた時期がある、とされている。しかし主イエスから啓示を受けた後、女性と関係したという歴史的な事実は全くない。次にスヴェーデンボリは著作「結婚愛」の中で未婚の男性に対する売春を消極的に認める記述をしている。倫理的にベストとはいえないかもしれないが、基本的にスヴェーデンボリは「姦淫」を一切認めていない。一夫多妻制などは言語道断であり、キリスト教徒の間では絶対に許されないとその著述に書いている』。『スヴェーデンボリは聖書中に予言された「最後の審判」を1757年に目撃した、と主張した。しかし現実世界の政治・宗教・神学上で、その年を境になんらかの変化が起こったとは言えないため、「安直である」と彼を批判する声もある』。『哲学者イマヌエル・カントは、エマヌエル・スヴェーデンボリについて最終的にこう述べている。『スヴェーデンボリの思想は崇高である。霊界は特別な、実在的宇宙を構成しており、この実在的宇宙は感性界から区別されねばならない英知界である、と。』(K・ペーリツ編「カントの形而上学講義」から)。哲学者ラルフ・ワルド・エマソンも、エマヌエル・スヴェーデンボリの霊的巨大性に接し、カントと同様、その思想を最大限の畏敬の念を込めて称えている』。以下、スヴェーデンボリから影響を受けた著名人として、ゲーテ・バルザック・ドストエフスキイ・ユーゴー・ポー・ストリンドベリ・ボルヘスなどの名を挙げてある。『バルザックについては、その母親ともに熱心なスヴェーデンボリ神学の読者であった。日本においては、仏教学者、禅学者の鈴木大拙がスヴェーデンボリから影響を受け、明治42年から大正4年まで数年の間、スヴェーデンボリの主著「天国と地獄」などの主要な著作を日本語に翻訳出版しているが、その後はスヴェーデンボリに対して言及することはほとんどなくなった。しかし彼の岩波書店の全集には、その中核としてスヴェーデンボリの著作(日本語翻訳文)がしっかり入っている』とある(ウィキの「エマヌエル・スヴェーデンボリ」より。参考までに国立国会図書館近代デジタルライブラリーでエマヌエル・スヴェーデンボリ鈴木大拙訳「天界と地獄」が画像で読める)。なお、彼の名は漱石の「こゝろ」の「下 先生と遺書」の中でもKが口にしている(『東京朝日新聞』大正3(1914)年7月13日(月曜日)掲載 夏目漱石作「心」「先生の遺書」第八十一回)。芥川は初期のアフォリズム『「Lies in Scarlet」の言――Arthur Hallwell Donovan――』(これは翻訳に偽装した芥川の創作である)の中で、

 藝術は人類にとつて、絶對に必要なものであらうか。スウエデンボルグの天國では、それもやはり不必要なものの一つにはいつてゐる。

と、述べている。

・「この聖徒の我々に殘した『傳説』と云ふ本を讀んで御覽なさい。この聖徒も自殺未遂者だつたことは聖徒自身告白してゐます」ストリンドベリの著作「伝説 Legender」(1898年)について、岩波版新全集三嶋氏注解に、『地獄のような結婚生活の失敗を回顧した自伝的小説』とある(私は不学にして読んだことがない)。芥川の「侏儒の言葉には、本作について言及した以下のアフォリズムがある(前掲した通り、「ストリントベリイ」に続く「又」である)

       又

 ストリントベリイは「傳説」の中に死は苦痛か否かと云ふ實驗をしたことを語つてゐる。しかしかう云ふ實驗は遊戲的に出來るものではない。彼も亦「死にたいと思ひながら、しかも死ねなかつた」一人である。

このアフォリズムは極めて重要である。ここで芥川は、生活教の最初の聖徒ストリンドベリは『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない!)男』なればこそ、生活教の「聖徒」に選ばれているのだ、と暗に言っているということである。この視点で他の生活教の聖徒をも考えねばならぬ。

2「ツアラトストラの詩人ニイチエ」Friedrich Wilhelm Nietzsche(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ 18441900)。芥川龍之介が彼を哲学者と呼ばず、詩人として掲げている点に注意。芥川はニーチェに詩人として強烈なシンパシーを感じているのである。決して彼の思想にではない(と私は思う)。事実、ここで長老の言を借りて「その聖徒は聖徒自身の造つた超人に救ひを求めました。が、やはり救はれずに氣違ひになつてしまつたのです」と述べている。そして大事なことは「若し氣違ひにならなかつたとすれば、或は聖徒の數へはひることも出來なかつたかも知れません」とも述べている点である。「ツァラトゥストラはかく語りき」(完成は1885年)の第一部は激しい自殺願望を払拭する中で書かれた。ウィキの「フリードリヒ・ニーチェ」には、その晩年の発狂について『初期の解説者はしばしば梅毒への感染を精神崩壊の原因とみなしているが、ニーチェの示している徴候は梅毒の症例とは矛盾しているところも見られ、脳腫瘍と診断する向きもある。大方の解説者はニーチェの狂気と哲学を無関係なものと考えているが、ジョルジュ・バタイユやルネ・ジラールなどのように、ニーチェの狂気は彼の哲学によってもたらされた精神的失調だと考える者もいる』とある。私は梅毒による早発性痴呆ととってきたし、芥川のフォビアとの絡みで言えば、そう芥川も考えていたのではあるまいか、とは思う。何れにせよ、彼も狂気によって『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない!)男』なのである。芥川は初期のアフォリズム『「Lies in Scarlet」の言――Arthur Hallwell Donovan――』(これは翻訳に偽装した芥川の創作である)の中で、珍しくダッシュ中断で、次のようなアフォリズムを記している。

 天才とは偉大なる感情の連續だと、ニイチエが云つてゐる。さうだ。連續にちがひない。もしさうでなかつたなら――

更に、そのずっと後ろには、

 ツアラトストラの死んだ事は書いてない。しかしニイチエは死んだのである。我々同樣死んだのである。

というアフォリズムを配している。

✞3「トルストイ」Лев Николаевич ТолстойLev Nikolajevich Tolstoj レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ 18281910)は「戦争と平和」(186469)と「アンナ・カレーニナ」(187377)によって世界的名声を不動のものにしたが、後者の上梓前後から『人生の無意味さに苦しみ、自殺を考えるようにさえなる。精神的な彷徨の末、宗教や民衆の素朴な生き方にひかれ、山上の垂訓を中心として自己完成を目指す原始キリスト教的な独自の教義を作り上げ』、『以後作家の立場を捨て、その教義を広める思想家・説教者として活動するようになった。その活動においてトルストイは、民衆を圧迫する政府を論文などで非難し、国家を否定したが、たとえ反政府運動であっても暴力は認めなかった。当時大きな権威をもっていたロシア正教会も国家権力と癒着してキリストの教えから離れているとして批判の対象となった。また信条にもとづいて自身の生活を簡素にし、農作業にも従事するようになる。そのうえ印税や地代を拒否しようとして、家族と対立し、1884年には最初の家出を試みた』。この『後は、「人生論」(1887)、「神の国は汝らのうちにあり」(1893)など宗教や道徳に関する論文が多くなる。「芸術とは何か」(1898)では、自作も含めた従来の芸術作品のほとんどが上流階級のためのものだとして、その意義を否定した。小説も教訓的な傾向の作品が書かれるようになる。「イワン・イリイチの死」(1886)、「クロイツェル・ソナタ」(1889)などがそれにあたる。その中でも最大の作品は、政府に迫害されていたドゥホボル教徒の海外移住を援助するために1899年に発表された「復活」であり、堕落した政府・社会・宗教への痛烈な批判の書となっている。また大衆にも分かりやすい「イワンのばか」(1885)のような民話風の作品も書かれた。ただ作品の出版は政府や教会の検閲によって妨害され、国外で出版したものを密かにロシアに持ち込むこともしばしばであった』。『作家・思想家としての名声が高まるにつれて、人々が世界中からヤースナヤ・ポリャーナを訪れるようになった』。『1891年から93年にかけてロシアを飢饉が襲ったときは、救済運動を展開し、世界各地から支援が寄せられたが、政府側はトルストイを危険人物視した』。『1890年代から政府や教会の攻撃は激しくなり』、『1901年には教会はトルストイを破門にしたが、かえってトルストイ支持の声が強まることになった。1904年の日露戦争や1905年の第一次ロシア革命における暴力行為に対しては非暴力の立場から批判した。1909年と翌年にはガンディーと文通している』。『その一方、トルストイはヤースナヤ・ポリャーナでの召使にかしずかれる贅沢な生活を恥じ』、『夫人との長年の不和に悩んでいた。1910年、ついに家出を決行するが、鉄道で移動中悪寒を感じ、小駅アスターポヴォ』(現在、レフ・トルストイ駅と改名)『で下車した。1週間後、1120日に駅長官舎にて肺炎により死去』した(ウィキの「レフ・トルストイ」より)。「この聖徒も時々書齋の梁に恐怖を感じた」とはやはりトルストイの自殺願望の抽出である。また、文豪トルストイの晩年の家出と、その惨めな死は、まさに止むに止まれぬ覚悟――狂気に他ならぬのではないか?(中学時代に私は、机の前にトルストイの写真を飾り、トルストイの諸作を貪るように読んだものだったが、今、私はトルストイの最期を確かに惨めな傷ましいものとして認識している自分を発見している。もう、恐らくトルストイを読むことは、ない、という気がしている)。そしてここで明確に芥川は示す。「けれども聖徒の數にははひつてゐる位ですから、勿論自殺したのではありません」――生活教も所詮、キリスト教同様に自殺を禁忌する。そこに芥川は皮肉な一瞥を加えるのである。芥川は初期のアフォリズム『「Lies in Scarlet」の言――Arthur Hallwell Donovan――』(これは翻訳に偽装した芥川の創作である)の中で次のように記している。

 トルストイの思想を知るには、トルストイの著書を讀めば好い。しかしトルストイの思想を得るには――さう思ふと、トルストイの思想を論じるより先に、口を噤まざるを得ない。

また、「侏儒の言葉」の一種として私が「侏儒の言葉」(やぶちゃん合成完全版)に所収したアフォリズム「風流――久米正雄、佐藤春夫の兩君に――」の中では、

        或  幻

 われ夢にトルストイを見たり。躓き倒れたるトルストイを見たり。われは立ち、トルストイは匍匐す。憐むべきかな、トルストイ! われトルストイを嘲笑ふ。しかも見よ、這へるトルストイは歩めるわれよりも速かなるを。われは疾驅し、トルストイは蛇行す。されどわれトルストイに及ぶ能はず。トルストイは天外に匍匐し去れり。トルストイよ! 偉いなる芋蟲よ!

と述べ、また「侏儒の言葉(遺稿)」では、

       トルストイ

 ビユルコフのトルストイ傳を讀めば、トルストイの「わが懺悔」や「わが宗教」の譃だつたことは明らかである。しかしこの譃を話しつづけたトルストイの心ほど傷ましいものはない。彼の譃は餘人の眞實よりもはるかに紅血を滴らしてゐる。

       二つの悲劇

 ストリントベリイの生涯の悲劇は「觀覽隨意」だつた悲劇である。が、トルストイの生涯の悲劇は不幸にも「觀覽隨意」ではなかつた。從つて後者は前者よりも一層悲劇的に終つたのである。

と続けて述べている。芥川に言わせればトルストイもまた、狂気によって『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない!)男』なのである。

・「いや、信じてゐるやうにさへ」原稿では「が、とうとう最後には如何に」と書いたのを訂している。

・「さすがに懷しさを感じました」原稿では「意外の感に堪」と書いたものを「さすがに懷し」と訂している。

4「國木田獨歩」日本の自然主義文学の騎手として名声高い国木田独歩(明治4(1871)年~明治411908)年)は、明治401907)年に自ら作った独歩社を破産させてしまい、加えて肺結核に罹患、神奈川県茅ケ崎の結核療養所南湖院で療養生活を送ったが、最後は見ようによれば病床に妻妾同衾という忌まわしい有様であった。この間に書かれたのが「轢死する人足の心もちをはつきり知つてゐた」とある「窮死」であった。――主人公の肺結核に冒され金も仕事も衣食も失った困窮する労務者文公(ぶんこう)が、最後の日雇いの金で安酒を飲み、知り合いの、これまた困窮している労務者の親子に頼み込んで土間に休ませてもらうものの、その親父が車夫との喧嘩であえなく死に、通夜の邪魔と銀貨一枚を貰って追い出される。文公はそれを受け取って、親父の死に顔をじっと見る。――そうして――ラスト・シーン――

 飯田町(まち)の狹い路地から貧しい葬儀(とむらい)が出た日の翌日の朝の事である。新宿赤羽間の鐵道線路に一人の轢死者が發見(みつか)つた。

 轢死者は線路の傍(そば)に置かれたまゝ薦(こも)が被(か)けて有るが、頭の一部と足の先だけは出て居た。手が一本ないやうである。頭は血にまみれて居た。六人の人がこの周圍(まはり)をウロ/\して居る。高い堤(どて)の上に兒守(こもり)の小娘が二人と職人體(てい)の男が一人、無言で見物して居るばかり、四邊(あたり)には人影がない。前夜の雨がカラリと晴(あが)つて、若草若葉の野は光り輝いて居る。

 六人の一人は巡査、一人は醫師(いしや)、三人は人夫、そして中折帽を冠(かぶ)つて二子(ふたこ)の羽織を着た男は村役場の者らしく線路に沿ふて二三間(げん)の所を往きつ返(もど)りつして居る。始終談笑して居るのが巡査と人夫で、醫師はこめかみの邊を兩手で押へて蹲踞(しやが)んで居る。蓋し棺桶の來るのを皆が待つて居るのである。

『二時の貨物車で轢かれたのでしよう。』と人夫の一人が言つた。

『その時は未だ降つて居たかね?』と巡査が煙草に火を點けながら問ふた。

『降つて居ましたとも。雨の上つたのは三時過ぎでした。』

『どうも病人らしい。ねえ大島樣(さん)。』と巡査は醫師の方を向いた、大島醫者(いし)は巡査が煙草を吸つて居るのを見て、自分も煙草を出して巡査から火を借りながら、

『無論病人です。』と言つて轢死者の方を一寸と見た。すると人夫が

『昨日(きのふ)其處の原を徘徊(うろつ)いて居たのが此野郎に違ひありません。確かに此の外套を着た野郎ですひよろ/\歩いては木の蔭に休んで居ました。』

『そうすると何だナ、矢張死ぬ氣で來たことは來たが晝間(ひるま)は死ねないで夜(よる)行(や)つたのだナ。』と巡査は言ひながら疲勞(くたび)れて上り下り兩線路の間に蹲踞んだ。

『奴(やつこ)さん、彼(あ)の雨にどし/\降られたので、如何(どう)にもかうにも忍堪(やり)きれなくなつて其處の土手から轉(ころが)り落ちて線路の上へ打倒(ぶつたふ)れたのでせう。』と、人夫は見たやうに話す。

『何しろ憐れむ可き奴(やつ)サ。』と巡査が言つて何心なく堤を見ると見物人が増えて學生らしいのも交つて居た。

 此時赤羽行きの汽車が朝日を眞(ま)ともに車窓に受けて威勢よく駛(はし)つて來た。そして火夫も運轉手も乘客も、皆な身を乘り出して薦のかけてある一物(もつ)を見た。

 此一物は姓名も原籍も不明といふので例の通り假埋葬の處置を受けた。これが文公の最後であつた。

 實に人夫が言つた通り、文公は如何(どう)にも斯(か)うにもやりきれなくつて倒れたのである。

以上、底本は昭和531978)年学研刊の「定本国木田独歩全集」を用いたが、底本は総ルビであるので、読みの振れるものだけのパラルビとし、傍点「ヽ」は下線に代えた。表記の不自然な箇所があるが総てママである。この文公の死は最後の親父さんの死体を見つめる視線を残したままフェイド・アウトし、以上の文公自身の轢断死体へと淡々と繋がる。文公は事故死とも病死とも自死とも分からぬ曖昧なままに葬られてしまうのである。――この文公はまるでトルストイのようではないか?! そして、結核に冒され、自死をする力もない中で、最後の生=性に執着した独歩――彼もまた結核菌まみれの妻妾同衾の饐えた病床で――これを狂気と言わずして何を狂気と言おう!――『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない!)男』なのである。但し、最後に断っておくが、私は、かの名品「武蔵野」をものした作家としての国木田独歩を心から愛している男ではある。

✞5「ワグネル」ロマン派の歌劇王Wilhelm Richard Wagner(ヴィルヘルム・リヒャルト・ワーグナー 18131883)。岩波版新全集三嶋氏注解には、『バクーニンの思想の影響を受けて一八四九年の五月革命に加わり、スイスに逃れたのちバイエルン王ルードヴィヒ二世に招かれて宮廷楽長となった』が、『晩年は経済上の苦難、疲労に悩まされ続けた。一時ニーチェとの交遊もあった』とある。ウィキの「リヒャルト・ワーグナー」には『作品でも私生活でも女性による救済を求め続けたワーグナーらしく、最後に書いていた論文は「人間における女性的なるものについて」であり、その執筆中に以前から患っていた心臓発作が起きての死であった』と記す。この「女性による救済云々」は、どこか晩年の芥川龍之介の一面を髣髴とさせるものがありはしないか。長老曰く、彼「の殘した手紙によれば、娑婆苦は何度この聖徒を死の前に驅りやつたかわか」らぬとある。ワーグナー、彼もまた、『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない!)男』なのであった。

・「死の前に驅りやつた」原稿は「死の前に立たせた」と書いたのを訂している。

6「聖徒ストリントベリイの友だちです。子供の大勢ある細君の代りに十三四のタイテイの女を娶つた商賣人上りの佛蘭西の畫家」「タイテイ」はタヒチ。原稿では最初「黑人の女」と書いたのを「タイテイの女」と訂し、また、「商賣人」も「株屋」と書いたのを訂している。これはEugène Henri Paul Gauguin(ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン 18481903)のことである。ウィキの「ポール・ゴーギャン」によれば、『1848年、二月革命の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルーのリマに亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される』。『フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアンの神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている[やぶちゃん注:「この聖徒は太い血管の中に水夫の血を流してゐました」である。]。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人(証券会社の社員)となり、デンマーク出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、五人の子供に恵まれ、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。株式相場が大暴落して仕事に不安を覚えたとき、安定した生活に絶対的な保証はないと気付き、勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである』。『1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール、ドニ、ラヴァルらの画家のグループをポン=タヴェン派というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である』。『1888年には南仏アルルでゴッホと共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。一般的にゴッホが自ら耳を切ったとされるこの事件だが、近年になり異説が唱えられ、耳を切ったのは実は剣を振りかざしたゴーギャンであったとも言われる』。『西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア)にあるフランス領の島・タヒチに渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期は、詩人マラルメのもとに出入りしたこともある) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した』。『タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した』とある。岩波版新全集三嶋氏注解には、『ストリンドベリイとは交友があり、彼との往復書簡が残されている』と記す。失意と貧困と絶望と――「唇を御覽なさい。砒素か何かの痕が殘つてゐます」――しかし自殺は未遂に終わる――遺作の題名は「われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか」――「クォ・ヴァディス」だ――彼もまた、『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない!)男』であった。

✞7「第七の龕の中にあるのは……」一体誰であったのか――。あなたの考える『自殺したかったにも拘わらず、しかも自殺出来なかった(断固として「しなかった」ではない!)男』をこの後に列してみるのも、一興ではあろう。……私? 私は秘かにこの第七の龕には夏目漱石の像が立っていたのではないかと思うのである……そして、それをあえて書かなかった芥川龍之介の、漱石への崇敬の念とともに、またある種冷ややかな何ものかの複合的感情を――芥川龍之介の「枯野抄」に見るような――嗅ぎ取るものである……その遺稿「闇中問答」の中で、次のように「僕」に言わせている。

或聲 お前はそれでも夏目先生の弟子か?

僕  僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの氣違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。

・「ヴエヌス」Venus。ヴィーナス。ローマ神話の菜園の女神。後にギリシャ神話の美と愛の神アフロディテと同一視された。しかし注意しよう。このヴィーナスは黒人である。素晴らしい! 芥川龍之介はミトコンドリアDNAの研究結果を待つまでもなく、アフリカの黒人の一人の女性が、人類の原型(プロトタイプ)たるイヴであったことを、この時、既に知っていたのではなかったか?!

・「我々の聖書」「我々の神は一日のうちにこの世界を造りました。(『生命の樹』は樹と云ふものの、成し能(あた)はないことはないのです。)のみならず雌の河童を造りました。すると雌の河童は退屈の餘り、雄の河童を求めました。我々の神はこの歎きを憐み、雌の河童の腦髓を取り、雄の河童を造りました。我々の神はこの二匹の河童にを與へました。………」惜しい。「僕」には、このパラレル・ワールドの我々の知らざるもう一つのバイブルを是非とも持ってきて欲しかった。そこでは誰がナザレのイエス河童を演じ、どう十字架に架けられ、そして復活したのであろう――。少なくとも、その生活教の「創世記」では、生物学的にも正しく雌の河童が河童の原型(プロトタイプ)であったことが分かる。そしてアダムの肋骨から不完全なイヴが生まれた代わりに、イヴの脳髄(ここが主智主義者芥川の脳味噌ならぬミソである)が不完全なアダムを創り給うたのであった。そしてその神の二人への祝福は『食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ』――Quemoocha「生活教」の由来――quemoo の原形 quemal ――『生きる」と云ふよりも「飯を食つたり、酒を飮んだり、交合を行つたり」する意』であった――

×「食へよ、交合せよ、旺盛に生きよ」

ここは初出では、

 「食へよ、……せよ、旺盛に生きよ」

と伏字になっている。アホか!

・「我々の運命を定めるものは信仰と境遇と偶然とだけです。(尤もあなたがたはその外に遺傳をお數へなさるでせう。)トツクさんは不幸にも信仰をお持ちにならなかつたのです」この「信仰」は、原稿では「神意」と書いたのを訂している。芥川は「侏儒の言葉(遺稿)」で、以下の二つのアフォリズムを残している。

       運  命

 運命は偶然よりも必然である。「運命は性格の中にある」と云ふ言葉は決して等閑に生まれたものではない。

       運  命

 遺傳、境遇、偶然、――我我の運命を司るものは畢竟この三者である。自ら喜ぶものは喜んでも善い。しかし他を云々するのは僣越である。

・「黑いヴエヌス」原稿は最初に「壁懸け」と書いて、次に「燭台」(「台」はママ)と訂したものを、更に「黑いヴエヌス」と書き換えている。

・「けふも又わたしの財布から一杯やる金を盗んで行つたな!」原稿は「又めふも酒を飲」と最初に書いたものを「又めふもわたしを欺して行つたな」と訂し、さらにそれを以上のように訂している。

・「實際逃げ出さないばかりに」「實際」は、原稿は「殆ど」と書いたものを訂している。以上、この生活教の大伽藍シーン「十四」の原稿は多数の(以上に示した以外にも細部の訂正が施されており、その数、実に18箇所に及ぶ)推敲の跡が見られる。芥川が如何にこのシーンに心を砕いたかが見てとれるのである。

・「あれではあの長老も『生命の樹』を信じない筈ですね」この滑稽に見える結末は、しかし、絶対の悲愴を我々に突きつける。――芥川は遂に如何なる宗教的救済にも絶望していたのであった。――

・「大寺院はどんより曇つた空にやはり高い塔や圓屋根を無數の觸手のやうに伸ばしてゐます。何か沙漠の空に見える蜃氣樓の無氣味さを漂はせたまま。……」これが芥川龍之介のキリスト教をはじめとするあらゆる宗教への最期の答えであった。因みに、本章全体の「基督教的信仰或は基督教徒を嘲る」ようにさえ思われる毒に満ちた冷笑性は、「侏儒の言葉」続篇草稿にある次のような芥川の痛切な感懐へと繋がるものでもあったろう。

       一 あ る 鞭

 僕は年少の時、硝子畫の窓や振り香爐やコンタスの爲に基督教を愛した。その後僕の心を捉へたものは聖人や福者の傳記だつた。僕は彼等の捨命の事蹟に心理的或は戯曲的興味を感じ、その為に又基督教を愛した。即ち僕は基督教を愛しながら、基督教的信仰には徹頭徹尾冷淡だつた。しかしそれはまだ好かつた。僕は千九百二十二年来、基督教的信仰或は基督教徒を嘲る爲に屢短篇やアフォリズムを艸した。しかもそれ等の短篇はやはりいつも基督教の藝術的荘嚴を道具にしてゐた。即ち僕は基督教を輕んずる爲に反つて基督教を愛したのだつた。僕の罰を受けたのは必しもその爲ばかりではあるまい。けれども僕はその爲にも罰を受けたことを信じてゐる。

       十五 

・「やはり靈魂と云ふものも物質的存在と見えますね」写真に写るということを指した皮肉である。チャックが、デジタル時代になっても未だに心霊写真を奉ずる本邦の愚民を知ったら、どう思うであろう。

・「心靈學協會々長ペツク氏」会のモデルはイギリスを初めとした欧米の心霊学協会であるが、この人物を私は日本の心理学者福来友吉(ふくらいともきち 明治2(1869)年~昭和271952)年)に同定したいと考えている(「ペック」の「ペ」は「フクライ」の「フ」のハ行音アナグラムではないか?)。本邦に於ける超能力としての念写の最初の科学的探究者として知られる。以下、ウィキの「福来友吉」から引用する。『岐阜県高山市の商家に生まれ、見習い奉公に出されたが商人になることを嫌い、学問に志を立てて斐太中学校から第二高等学校 (旧制)を経て、1899年(明治32年)東京帝国大学哲学科卒業。さらに同大学院で変態心理学(催眠心理学)を研究し、1906年「催眠術の心理学的研究」で文学博士号を授与された。1908年東京帝国大学助教授』。『1910年(明治43年)御船千鶴子・長尾郁子・高橋貞子・三田光一といった「超能力者」を各地で発掘、透視・念写などの超心理学的能力について実験や学会発表を行って世の注目を浴びるが、それらの発表は他の学者による追試に耐えられるものではなく、結果、激しい非難を受けた。1913年(大正2年)『透視と念写』を出版、東京帝国大学を追放(公的には休職)された。彼が取り上げた人物も「イカサマ」「ペテン師」などの攻撃を受ける事になってしまった。1915年東京帝国大学退職』。『その後は物理的検証といった方法論を放棄し、禅の研究など、オカルト的精神研究を行った』。『1921年真言宗立宣真高等女学校長、1926年から1940年(昭和15年)まで高野山大学教授』。『仙台市青葉区台原に「福来心理学研究所」を設立して独自の研究を進めるが、既に世間の信用を失った福来は一般の注目を浴びる事なくその生涯を閉じた』。『博士論文「催眠術の心理学的研究」は、日本における催眠の学術的研究の嚆矢』であるとする。私はここでトックの家が写真家のスタジオになっているという設定自体が、念写のパロディであると考えている。尤も、海外の「心霊写真」の嚆矢は(職業写真家しか写真機は持っていない時代であるから、当たり前と言えば当たり前)写真家のスタジオで撮られているからオーソドックスな導入ではある。以下、ウィキの「心霊写真」の歴史の項から引用しておく。『1884年に写真フィルムが発明され、写真技術が大衆化する前に、「心霊写真」は登場した』。『1862年、アメリカのボストンで交霊術師として知られていたガードナーがある写真屋が撮影した自分の写真に12年前に死んだ従兄とよく似た姿が写っていることを公表した』。『最初の撮影霊媒であるウィリアム・マムラーの「心霊写真」は驚異の的となり、彼のスタジオには人々が殺到したという。しかし、マムラーの「心霊写真」は不正なものであるとの告発により裁判で訴えられた。公判では写真界の有力者たちが「重ね写し」する手法について証言した』。『また、その後「心霊写真」はヨーロッパでも注目を集めた。1874年、フランスのパリの写真館のビュゲーが「心霊写真」を発表し、大評判となった。しかし、ビュゲーも写真制作における詐欺行為のかどで逮捕され、裁判にかけられることとなった』。『ビュゲーは公判において「二重露出」という方法を使っていたことを白状し、一年間の禁固刑と500フランの罰金刑を課せられた。この刑が確定した後も識者を含む多くの人はビュゲーの霊能力を信じ擁護したという』。『発明直後から「写るはずのないものが写る」といういわゆる「心霊写真」が多くあり、一時大ブームとなった。当時の心霊写真は現在のそれと異なり、非常に鮮明に「霊」が写っているのが特徴である。肖像写真においてもどちらが「被写体」でどちらが「霊」か見紛うほどに鮮明であったという。当時の写真撮影である非常に長時間同じ体勢を維持して、ゆっくりと像を焼き付けていくことに関係があるのかもしれないが、定かではない』。『そのため、心霊写真を偽造する写真師も多く現れ、多くの偽造心霊写真もあった。しかし、当時は写真における「ピクトリアリズム」という一種の偽造的手法で写真芸術を作るという手法があり、偽造そのものに対してさほど大きなアレルギーはなかったと推測される。現代において偽造心霊写真が忌みされるのと比較すると非常に興味深い現象である』。『日本で初めて心霊写真を撮影したというのが1879年(明治12年)の三田弥一のものである。さらに1909年(明治42年)になって作家の羽化仙史こと渋江保が日本国外の心霊写真研究を日本に紹介した。ただしこの頃の日本では心霊写真とは言わずに幽霊写真などと言っていた』 。『このように心霊写真自体は第二次世界大戦前から存在したが、当時は写り込んだ人の姿を死んだ身内などと解釈し、大切にする風潮があったようである。戦後、カメラの一般家庭への普及に伴い、旅行先などで撮影した写真に「霊が写っている」と騒がれる事例が増加した』。『1917年7月、イングランド北部の寒村、コッティングリーに住む二人の少女が妖精と戯れる写真を撮ったと大きな話題になり、心霊研究家のエドワード・ガードナーや心霊主義に傾倒していた小説家のコナン・ドイルらが本物と認めた。しかし、66年後の1983年、姉妹は絵本の妖精の絵を切り抜いて作ったものだと告白した』。『1922年には「心霊写真」も蔓延を憂慮していた手品師らが「神秘委員会」と称するチームを作り、当時評判を呼んでいたバン・コーム、デーン夫人などの「心霊写真家」らのトリックの多くを暴いた』(以下、現代パートは省略)。なお、私は福来友吉のファンである。

・「午前十時三十分、」原稿は「午後十二時」と書いたのを訂している。これは深夜という如何にもな、百物語的雰囲気を払拭、科学的な探究を強調するために午前に移したものであろう。

・「メデイアム」“medium”。霊媒。

・「ホツプ夫人」如何にも英国辺りの霊媒師ぽいのであるが、先に神霊学会会長を福来に同定した関係から、私は福来が実質的失脚をした「千里眼事件」の霊能力者御船千鶴子又は長尾郁子辺りを芥川は念頭に置いているのではないかと推測した(ハ行音アナグラムから「ホップ」は「ミフネ」の「フ」か)。以下、ウィキの「千里眼事件」から引用する。これについては私は日本の超心理学が疑似科学として葬られた不幸な源であると考えているが故に、著作権の侵害を恐れず、ほぼその全文の引用をすることをお許し頂きたい。『明治末の社会状況、学術状況を背景として起きた、千里眼・念写の能力を持つと称する御船千鶴子や長尾郁子らが、東京帝国大学の福来友吉や京都帝国大学の今村新吉らの一部の学者と共に巻き起こした、公開実験や真偽論争などの一連の騒動のことである』。『熊本生まれの御船千鶴子が「千里眼」能力の持ち主として注目されるようになったのは、明治42年(1909年)、23歳の時のことである。その能力を見出したとされるのは、自身が催眠術による心霊療法を行なっていた、義兄の清原猛雄であり、千鶴子は実家を出て清原家で千里眼による体内透視の「治療」を、前年より行なうようになっていた。明治30年代半ば(1900年)頃の日本では、催眠術ブームが起こり、清原や千鶴子のような民間療法を行なう民間医が多数存在した』。『最初に千鶴子を取り上げたのは、明治42年8月14日付の『東京朝日新聞』である。「不思議なる透視法」として、千鶴子が、京都帝国大学の前総長であった木下広次の治療を行なったことを報じている』。『実際に千鶴子の透視能力を直接に実験したのは、今村新吉である』。『明治43年(1910年)2月19日、熊本を訪れた今村が、カードを用いた透視実験を行い、高い的中率を得た』。『同年4月9日には、福来友吉と今村の二人で熊本を訪れ、より厳重に封印されたカードを用いて実験が行なわれたが、この時は失敗した。しかしその後、方法を変えて実験を行なうと、的中した。4月25日には、東京に戻った福来が、東京帝大内で実験報告を行い、一躍脚光を浴びるようになった』。『同年9月14日には、上京した千鶴子たちと福来らによって、当代の諸科学者たち、ジャーナリストらを集めた公開実験が行なわれた。が、その結果は、試験物のスリ替え事件によって、問題の「千里眼」能力の真偽に対する答えを出せないままに、話題性だけが一人歩きする形で幕を引くこととなった。翌9月15日、9月17日に少数の関係者を集めて、千鶴子の得意な方法で行なわれた再実験では、好結果が出たが、集まった学者たちの反応も、一歩下がった立場からの冷めた論調に終始した』。『その一因として、千鶴子の場合、「千里眼」による透視実験を行う際に、余人の同室を固辞し、また、ふすま越しに隣室からの同伴を認めた場合でも、終始、千鶴子は背を向けた形で座り、壁や障子などに向かって実験を行なったため、問題の千鶴子の手元が臨席者の目に触れることがなかったため、福来らの能力を信奉する立場の者たちにしても、その疑惑を払拭(ふっしょく)することができなかったことが挙げられる』。『結局、千鶴子は熊本に帰った後、明治44年(1911年)1月19日に自らの命を絶ってしまう。その死の前後に、長尾郁子の事件が報道されたことから、死後の千鶴子に関しても世間からの非難が集まることとなってしまった』。以下、長尾郁子の項。『長尾郁子は、香川県丸亀市の判事であった長尾与吉の夫人であり、当時40歳であった。郁子の場合、その数年前から災害等の予言が的中するということで身近な人たちから注目されるようになったという。それが、千鶴子の一連の報道を知ったことで、同様の実験を行なったところ、見事に的中したということで、福来の耳に郁子の情報が入ることとなったのである』。『福来と今村が郁子に対して初めて実験を行なったのは明治431112日のことである。郁子の場合、千鶴子との最大の相違点は、同席者と相対した位置で透視を行い、的中させた点である。さらに、実験方法においても、千鶴子の場合とは異なった手段が用いられた。それが、福来の考案した現像前の乾板を用いるというもの、いわゆる「念写」実験の始まりである。福来は千鶴子に対しても同様の実験を試みたが、不成功に終わった。郁子の場合は、福来のあらかじめ示してあった文字を念写することに成功したため、福来らはもっぱら丸亀において郁子の実験を中心に活動することとなる』。『明治44年1月4日、アメリカのエール大学に学んだ物理学者で東京帝国大学元総長の山川健次郎が同席した透視・念写実験が、丸亀の長尾宅で行なわれた。結果は、東京帝国大学物理学教室講師で、懐疑的な立場で実験に同席した藤教篤の、実験物である乾板を抜き取って実験に臨むという妨害行為のために中断してしまった。だが、長尾側が透視する文字を書く場所に特定の部屋を要求したり(山川がその部屋で体を盾にして書いた文字を長尾は透視できなかった)、山川側が一度開ければわかるように細工しておいた透視用の封筒に開封の跡が発見されるなど、不審な点があまりにも多いことが山川から指摘された。山川博士らの実験は一つ一つ意味を持っており、透視が当たった時と当たらなかった時はどのような条件であったかがわかるように計画を立てていた。こうして透視が当たった時は、全て袖で隠さずに書いた時か、封を空けた跡が見られた時など、前述のような不審な点が見受けられたときだけであった』。『また、同年1月12日の実験でも妨害行為があったことが報じられ、その妨害者として、長尾家に投宿し、郁子とも親密であった催眠術師・横瀬琢之の名が挙がるに及んで、郁子と横瀬の不倫疑惑というゴシップへと世間の関心は移ってしまい、やはり、肝心の「千里眼」「念写」の真偽は二の次になってしまった。そうして、同年226日に長尾郁子が病死。だが、これさえもマスコミは長尾家への非難の材料として取り扱った』。『山川博士らは、同年のうちに写真を添えて物理の実験結果と同様に公表し、手品の一つに過ぎないと結論付けた』。『この結果、超能力者達の研究に携わった科学者達もマスメディアの攻撃対象になったため、ついに研究者達は「千里眼は科学に非(あら)ず」という見解を公表した。この一方的な終結宣言によって事件は、幕引きを迎えることとなった。結果、「千里眼」「念写」の真偽が明かされる機会は失われた』。『同様に、千鶴子が脚光を浴びた後に日本各地に出現した「千里眼」能力者たちも、手品・ペテン師であるというレッテルを貼られ、一転して世の非難の的となってしまった。千鶴子・郁子に至っては、死してなお実家が批判にさらされる始末であった』。『福来は、御船千鶴子・長尾郁子をはじめとして、彼が取り上げた人物以上に「イカサマ師」「偽科学者」などと攻撃を受けることになり、東京帝国大学を辞職。その後、高橋貞子や月の裏側写真で知られる三田光一といった「千里眼」能力者を用いた実験を重ねるようになるが、以後の「実験」は千鶴子や郁子の時のような科学的な公開実験ではなくなり、また福来自身も、科学的な手法によって「千里眼」能力は実証し得ないといった意味の事を公言するようになり、『心霊と神秘世界』を出版するなどオカルティズムへの傾斜を加速度的に深めて行くこととなる』。『この事件はマスコミによるメディアスクラムの一例として、たびたび取り上げられることがある。だが、言論による被害概念が当時はまだ確立されていなかったことを考慮すれば、当時のマスコミが執拗に御船千鶴子・長尾郁子を死後も面白おかしく報じたのは、無理からぬことであった。ゆえに、マスメディアに対しての名誉毀損などの訴訟は起こらなかった。報道による人権侵害、という概念を確立させるには、当時のマスメディアは未熟ではあった。だが、そのマスメディアも、千鶴子の死に関して、新聞や世間からの激しい攻撃に耐えられず自殺したと一般から非難されたせいもあって、死後は千鶴子を非難する内容を報じていない』。『一方、日本国内における超能力研究は福来の辞職と同時に頓挫(とんざ)してしまい、ついには「千里眼は科学に非ず」という見解を公表せざるをえなくなる。マスコミが超能力者達の研究に携わった科学者達をも攻撃対象にしたためで、被害拡大を防ぐための苦肉の策ではあった。だが同時にこれは、科学者たちが「千里眼」「念写」の真偽の科学的解明を放棄した瞬間でもあった。より明確で再現性のある証拠が出るまで判断を保留した結果、超能力は疑似科学の1分野として扱われるようになり、ついには疑似科学と言う概念自体が成立した。そして、今日に至っても、日本国内の超能力研究の大きな妨げとなっている。福来友吉も、超能力に関しては物理的検証といった方法論を放棄し、やがて、禅の研究など、オカルト的精神研究を行うようになる。さらに、「福来心理学研究所」を設立して独自の研究を進めるが、ますます世間の信用をそぐこととなり、一般の注目を浴びることはなかった』。

・「日本の一詩人」言わずもがな、松尾芭蕉である。芥川龍之介にとっては、彼の「枯野抄」「芭蕉雜記」「續芭蕉雜記」等を挙げるまでもなく、尊崇する数少ない真実『鬼』の芸術家であった。

・「光彩陸離」美しい光が眩(まばゆ)いさま。光が入り乱れて美しく輝くさま。原稿では「光彩」の部分、「一層佳作」と書いたのを訂している。

・「我等河童は如何なる藝術にも河童を求むること痛切なればなり」これは河童を人間に置き換えると、「我等人間は如何なる藝術にも人間を求むること痛切なればなり」となって、晩年の芥川龍之介と谷崎潤一郎の間の文芸論争のパロディであることが分かる。芥川の「文藝的な、餘りに文藝的な」等を参照。

・「クライスト」Heinrich von Kleist(ハインリヒ・フォン・クライスト 17771811)はドイツの劇作家。代表作は喜劇「こわれ甕(がめ)」小説「ロカルノの女乞食」等。生活に困窮し、当時、作家としての世評を得られなかった彼は、失意の果てに、癌を患っていた不倫相手の人妻ヘンリエッテ・フォーゲルとともに、ポツダム近郊のヴァーン湖畔でピストルにより心中、自殺した。34歳であった。

・「マインレンデル」Philipp Mainländer(フィリップ・マインレンデル 18411876)。厭世哲学で名高いショーペンハウエルの子弟格で、満34歳で自殺した。森鷗外の小説「妄想」には、このマインレンデルの「救済の哲学」について語った箇所がある(以下、岩波版選集を底本としたが、私のポリシーに従い、恣意的に正字に直した)。

 自分は此儘で人生の下り坂を下つて行く。そしてその下り果てた所が死だといふことを知つて居る。

 併しその死はこはくはない。人の説に、老年になるに從つて増長するといふ「死の恐怖」が、自分には無い。

 若い時には、この死といふ目的地に達するまでに、自分の眼前に横はつてゐる謎を解きたいと、痛切に感じたことがある。その感じが次第に痛切でなくなつた。次第に薄らいだ。解けずに横はつてゐる謎が見えないのではない。見えてゐる謎を解くべきものだと思はないのでもない。それを解かうとしてあせらなくなつたのである。

 この頃自分は Philipp Mainlaender(フイリツプ マインレンデル)が事を聞いて、その男の書いた救拔の哲學を讀んで見た。

 此男は Hartmannの迷の三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これは皆迷だが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖して面を背ける。次いで死の廻りに大きい圈を畫いて、震慄しながら歩いてゐる。その圈が漸く小くなつて、とうとう疲れた腕を死の項(うなじ)に投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。

 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。

 自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬(しようけい)」も無い。

 死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。

――そうして――周知の通り、芥川龍之介はその文学的遺書「或舊友へ送る手記」の冒頭に彼の名を登場させている。

 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを讀んだのもこの間(あひだ)である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程を描いてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具體的に同じことを描きたいと思つてゐる。家族たちに對する同情などはかう云ふ欲望の前には何でもない。これも亦君には、Inhuman の言葉を與へずには措かないであらう。けれども若し非人間的とすれば、僕は一面には非人間的である。

なお、ここは原稿も初出も「マイレンデル」とあるのを、全集編者が先行する普及版全集によって訂したとある。新全集はママの「マイレンデル」であるが、現在の通用表現である前者を私は支持する。

・「ワイニンゲル」オーストリアのユダヤ系哲学者Otto Weininger(オットー・ヴァイニンガー 18801903)。カントやショーペンハウエルの影響下、一個の人間の中に共存する男性性と女性性に着目した『性の形而上学』を唱え、1903年にその集大成というべき名著「性と性格」を完成した後、最も敬愛したベートヴェン終焉の館でピストル自殺した。23歳。

・「自殺を辯護せるモンテエニユ」ルネサンス期フランスを代表する哲学者Michel Eyquem de Montaigne(ミシェル・エケム・ド・モンテーニュ 15331592)。人間探求の名著「エセー(随想録)」で知られる。筑摩全集類聚版脚注には、『ストア主義から懐疑主義を経て天性に随い自然を楽しむ人生観を綴った』とあるが、このトックの謂いは、芥川の「侏儒の言葉(遺稿)」(「自殺」の「又」)に説明されている。

 自殺に對するモンテェエヌの辨護は幾多の眞理を含んでゐる。自殺しないものはしないのではない。自殺することの出來ないのである。

「しない」お呼び「出来ない」は原文では傍点「丶」である。

・「唯予は自殺せざりし厭世主義者、――シヨオペンハウエルの輩とは交際せず」この世は考えうる限りの最悪の世界であるとした厭世哲学(ペシミズム)のチャンピオンArthur Schopenhauer(アルトゥール・ショーペンハウエル 17881860)は、その多くの若き追従者を容易に夭折の自死に追い込みながら、自身はヘーゲルの出現によって人気を奪われ隠棲、田舎に引っ込んで余生を暮らした。但し、ウィキの「アルトゥル・ショーペンハウアー」の「自殺論」の項には、『セネカなどのストア派は回復の希望のない苦痛を忍ぶよりは自殺を推奨するものであるが、ショーペンハウアーはこれに対する共感を語ってはいる。反面では、自殺のもたらす個体の死は、けして意志の否定による解脱を達するものではない点、虹をささえている水滴が次々に交代しても、虹そのものはそのまま残るようなものであって、自殺は愚行にすぎないとも説かれている』とある。――それにしてもあの世で性懲りもなく、またぞろ厭世哲学を説いているところを見れば、この頃の心霊界でも、死んだばかりの若者霊の中で自殺する者が格段に多かったのであろうことを考えると、私は少し可哀そうに思うのである。――因みに、萩原朔太郎「芥川龍之介の死」の「9」の最後で、芥川のこんな吐露を書き記している。

別れる時、前言の一切を取り消すやうな反語の調子で、彼は印象強く次の言葉を繰返した。

「だが自殺しない厭世主義者の言ふことなんか、皆ウソにきまつてゐるよ。」

 それから笑つて言つた。

「君も僕も、どうせニセモノの厭世論者さ。」

・「コレラも黴菌病なりしを知り、頗る安堵せるものの如し」1831年にベルリンでコレラが流行し、ヘーゲルはこれに感染して死ぬ。ショーペンハウエルは流行初期に早々にフランクフルトへ一家転住した。なお、大谷大学文学部哲学科教員共有のブログに、1901年に書かれたクーノ・フィッシャー「ヘーゲルの生涯」(勁草書房1971年刊)の中のヘーゲル研究者ラッソンの書いた付録(1911年)に「ベルリンでは一般に、かれの最後の罹病はこのいまわしい葛藤と関係あるものと受け取られていた。」(同書、357ページ)という記述があるとある。この部分、何を言わんとしているのか分かりにくい方がいると思うが、コレラは長い間、謎の病であったのである。第2次パンデミックは1829年に起きており、インドで発生、ヨーロッパに伝播して多くの死者を出して「ペストの再来」と恐れられたが、当時は未だコレラの発生原因が何であるか分かっていなかった。ペストが飲み水に関わるものであることに気づくのは実にこの後、1852年に始まる第3次パンデミックの時で、『イギリスの開業医ジョン・スノー(John Snow)は疫学調査を行い、コレラの病原因子が飲料水に関連した何かであることを明らかにした。一方、イタリアの医師フィリッポ・パチーニ(Filippo Pacini)は、コレラ患者の糞便に大量の細菌が存在することを見出し、これがコレラの病原菌だと考えてVibrio choleraeと名付け、1854年にイタリアの学術誌に発表した。しかし、この発表はヨーロッパの学者の目に止まらず、また当時はまだ細菌が病原体であるという考えは証明されていなかったため、この発表は以後30年にわたって日の目を見ることはなかった』のであった。そう、実は細菌が病気を引き起こすという我々に当たり前の考え方は、この当時、未だなかったのである。それは『1876年、ロベルト・コッホ(Robert Koch)が炭疽の病原体が炭疽菌であることを証明したことによって、細菌が病原体であるという、細菌病原体説が証明され』るのを待たねばならなかった。現在、コレラ菌は真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱ビブリオ目ビブリオ属コレラ菌Vibrio choleraeに分類されている(以上、引用はウィキの「コレラ菌」から)。――即ち、中には主席の座を奪われたショーペンハウエルがヘーゲルを秘かに毒殺したのではないかと考えた輩も、いたかも知れないということなのである。

・「我等會員は相次いでナポレオン、孔子、ドストエフスキイ、ダアウイン、クレオパトラ、釋迦、デモステネス、ダンテ、千の利休等の心靈の消息を質問したり。然れどもトツク君は不幸にも詳細に答ふることを做さず」とある。「デモステネス」Dēmosthénēs(紀元前384年頃~紀元前322年)は古代ギリシアの政治家・弁論家。『アテナイの指導者としてギリシア諸ポリスの自立を訴えて反マケドニア運動を展開したが叶わず、自殺へと追い込まれた』(ウィキの「デモステネス」より)。これらに先行する問答の中の「基督教、佛教、モハメツト教、拜火教」の教祖を含め、更にトックの霊言中に現れる人物も入れて、それらを年代降順に並べて連続しない間隙部分を計算して示してみる。

ゾロアスター    前2000(前400説/500説有)?~?

釈迦        前565~前486(前465~前386説有)

孔子        前551~前479

《間隙 95年》

デモステネス    前384~前322

《間隙260年》

クレオパトラ     前69~ 前30

《間隙 29年》

イエス・キリスト     1~  30

《間隙540年》

ムハンマド      570~ 632

《間隙633年》

ダンテ       1265~1321

《間隙  1年》

千利休       1522~1591

《間隙 52年》

モンテーニュ    1533~1592

《間隙 52年》

松尾芭蕉      1644~1694

《間隙 75年》

ナポレオン     1769~1821

クライスト     1777~1811

ショーペンハウエル 1788~1860

ダーウィン     1809~1882

ドストエフスキイ  1821~1881

マインレンデル   1841~1876

ヴァイニンガー   1880~1903

強引ではあるが、デモステネスとクレオパトラの4半世紀(260年)は仏教の完成期、キリストとムハンマドとの間の540年間、ムハンマとダンテの間の633年間の半世紀以上の有意な間隙についても、前者を初期キリスト教の完成期と分派するイスラム教の成立期、後者をキリスト教の近代化期という連続性として捉えるならば、残りは殆んど有意性を認める必要のない空隙である。即ち、これは4000年に及ぶ文明的人類史の時間軸をほぼ完全にカバーするものである。更に、彼らを以下のように分類してみると、

ゾロアスター    宗教

釈迦        宗教

孔子        哲学

デモステネス    政治

クレオパトラ    政治・女王 *トックの挙げた人物の中で(愛人を除き)唯一の女性。

イエス・キリスト  宗教

ムハンマド     宗教

ダンテ       文学

千利休       芸術

モンテーニュ    哲学

松尾芭蕉      文学

ナポレオン     政治・皇帝

クライスト     文学

ショーペンハウエル 哲学

ダーウィン     科学

ドストエフスキイ  文学

マインレンデル   哲学

ヴァイニンガー   哲学

人文・社会・自然科学を総てを内包していることがわかる。即ち、彼等は人智の総体(人智の産物としての人智的神智も含む)のシンボルであることも分かる。そして「我等の生命に關しては諸説紛々として信ずべからず。幸ひに我等の間にも基督教、佛教、モハメツト教、拜火教等の諸宗あることを忘るる勿れ」とトックの霊が言う時、我々はここに強烈なアイロニーを見出すことが出来るのである。心霊界にあっても心霊は魂(魂の魂)は、霊界にあり乍ら、しかも今なお宗教的救済を求めているのである。そして懐疑主義者であるトックの霊がそれらを批判的自嘲的に語り、その果てに人類の歴史の英知のシンボルであるはずの上記の人々の死後について、大した関心も興味も示さない――実際、彼等は何らのより高次の魂に昇華したわけでもなければ、否、もしかすると、遙かに下等な存在の心霊としてあるがために、トックは知らないのかもしれない――というのは、芥川龍之介が、あらゆる宗教、あらゆる歴史、あらゆる人智に、最早、救いや啓示はないと絶望し切っていたことの明白な証しのように、私には思えるのである。それ故にこそ「河童」は「あらゆるものに對する」「デグウ」(嫌悪)たり得ると言えるのではなかろうか? 

・「予の全集は三百年の後、――即ち著作權の失はれたる後、萬人の購ふ所となるべし」芥川龍之介はその遺稿「闇中問答」の中で、「僕」にこう言わせている。

或聲 しかしお前は永久にお前の讀者を失つてしまふぞ。

僕  僕は將來に讀者を持つてゐる。

或聲 將來の讀者はパンをくれるか?

僕  現世の讀者さへ碌にくれない。僕の最高の原稿料は一枚十圓に限つてゐた。

――今後も芥川龍之介全集は恐らく永遠の近代文学の個人全集として輝き続けるであろう。漱石や鷗外は並べられていても、若い層に圧倒的に読まれなくなってゆくであろう(今現在が既にそうである)。芥川龍之介よ、三百年は大きく出たな、でも、確かに百年になんなんとする今、君のここに仕組んだ予言は、美事に当たっている。それにしても――河童国の著作権法は著作権の消滅時期が本邦と違って300年なんだ!

・「書肆ラツク君の夫人と」「書肆」は本屋。原稿では「目下弁護士ラツク君」と書いたものを、「弁護士ラツク君の夫人と」と訂し、さらに上記のように訂している(「弁」はママ)。

・「ラツクの義眼なる」ラックの同定のヒントなのだろうが、調べ切れなかった。若しくは「義眼」に何らかの隠喩があるか。何か、気づかれた方、是非とも御教授を乞う。

・「予は予の机の抽斗に予の祕藏せる一束の手紙」これは芥川龍之介自身なら片山廣子からの手紙ではなかろうか? それは現存するのに(現在、作家辺見じゅん氏蔵)未だに全公開されていないのだ!(怨)――

・「夫人が女優たりし」流石は芥川、最後にぴりりと山椒を効かせて、この降霊の信憑性を微妙に留保させている。

――最後に申し上げよう――もしお読みでないならば――芥川龍之介の遺稿「闇中問答」をここで読まれるがよい。例えば、そこでは生活教の聖徒の名(「ワグナア」「ストリンドベリイ」「ゴオギヤン」「ニイチエ」)を幾つも見出すであろう。そうしてこのトックの意識に通底する現実や死への意識を読むことが出来る――そこから、正にこのトックの霊言が確かに芥川自身の魂の叫びであったということが、河童の皿から水が滴り落ちるように(これは私が秘かに知りえた河童国の諺である)鮮やかにその霊感ならぬ冷感を感じられるであろう――

       十六 

・「百十五六にはなる」作品発表時から換算すると、この長老河童の生年は文化8(1811)年~9年である。北斎や馬琴らが活躍した芥川が憧れた江戸文化絢爛の頃である。

・「大きい鏃に似た槍ヶ岳の峯も聳えてゐます」龍之介17歳の府立第三中学校4年次の明治421909)年8月8日、同級生と5~6泊で登山した際の紀行「槍ケ岳に登つた記」(末尾編者クレジットは明治44年頃)が残っている(後掲する大正9(1920)年7月の雑誌『改造』に発表した「槍ケ嶽紀行」ではない)が、その末尾は(引用は岩波版旧全集による。文中の「偃松」は「はいまつ」と読む)、

頭の上の遠くに、菱の花びらの半ばをとがつた方を上にして置いたやうな、貝塚から出る黑曜石の鏃のような形をしたのが槍ケ岳で、その左と右に齒朶の葉のやうな高低をもつて長くつゞいたのが、信濃と飛騨とを限る連山である。空は其上にうすい暗みを帶びた藍色にすんで、星が大きく明らかに白毫のやうに輝いてゐる。槍ケ岳と丁度反對の側には月がまだ殘つてゐた。七日ばかりの月で黄色い光がさびしかつた。あたりはしんとしてゐる。死のしづけさと云ふ思が起つて來る。石をふみ落すとから/\と云ふ音がしばらくきこえて、やがて又もとの靜けさに返ってしまふ。路が偃松の中へはいると、歩くたびに濕つぽい鈍い重い音ががさり/\とする。ふいにギヤアと云ふ聲がした。おやと思ふと案内者が「雷鳥です」と云つた。形は見えない。ただやみの中から鋭い聲をきいただけである。人を呪ふのかもしれない。靜な、恐れを孕んだ絶嶺の大氣を貫いて思はずもきいた雷鳥の聲は、なんとなくあるシムボルでもあるやうな氣がした。

とある。個人的にはこのエンディングの「なんとなくあるシムボルでもあるやうな氣がした」が遠く芥川龍之介の自死と響き合うようで素敵に慄っとする。さて、この描写は彼らが赤沢岩小屋に泊った翌早朝、そこから出立した直後の描写であるが、ここでは槍は「遠くに」であって、このシーンの「大きい鏃に似た」の映像のスケールとは違うように感じられる。しかし、この折りの印象を元にした後のフェイク「槍ケ嶽紀行」の末尾では(引用は岩波版旧全集による。なお、文中の「必」は「かならず」と読む)、

 私は時々大石の上に足を止めて、何時か姿を露し出した、槍ケ嶽の絶巓を眺めやつた。絶巓は大きな石鏃のやうに、夕燒の餘炎が消えかかつた空を、何時も黑黑と切り拔いてゐた。「山は自然の始にして又終なり」――私はその頂を眺める度に、かう云ふ文語體の感想を必心に繰返した。それは確か以前讀んだ、ラスキンの中にある言葉であつた。

 その内に寒い霧の一團が、もう暗くなつた谷の下から、大石と偃ひ松との上を這つて、私たちの方へ上つて來た。さうしてそれがあたりを包むと、俄に小雨交りの風が私たちの顏を吹き始めた。私は漸く山上の高寒を肌に感じながら、一分も早く今夜宿る無人の岩室に辿り着くべく、懸命に急角度の斜面を登つて行つた。が、ふと異樣な聲に驚かされて、思はず左右を見廻すと、あまり遠くない偃ひ松の茂みの上を、流れるやうに飛んで行く褐色の鳥が一羽あつた。

 「何だい、あの鳥は。」

 「雷鳥です。」

 小雨に濡れた案内者は、剛情な歩みを續けながら、相不變無愛想にかう答へた。

――大正九年六月――

とあって、シーンが赤沢岩小屋手前に恣意的に変えられている。私は槍に合計5回登攀し、この岩小屋にも泊まったことがあるが、槍のロケーションから言えば、やはり前者の、赤沢岩小屋から槍沢の奥を東へ回りこんだ辺りが実際の芥川の網膜に映った槍であったはずである。但し、私のイメージでは、この本文の映像はもう少し高い位置からの大槍の風景の方がマッチするように思われる。私なら、このロケ地としては槍沢奥の南方直上にある天狗原を選びたい。もっと近くでもよいが、河童が少なくとも水棲性を好み、頭部の皿には水が必要なことをも考え合わせれば、天狗池のある天狗原は河童の地上への唯一のルートとしては必要条件であろうと思われるからである。逆に、もっと離れて槍沢下流まで下がってしまうと、「大きい鏃に似た」という表現がそぐわない(実際には「僕」が河童国へと転落(昇天?)した場所は、その描写から寧ろ槍沢の下流のようにしか読めないのであるが)。

・「今まで僕の綱と思つてゐたのは實は綱梯子に出來てゐたのです」これはヤコブの梯子(旧約聖書創世記2812節でヤコブが夢に見た天使が上り下りしている天から地に至る梯子・階梯)のパロディである。芥川は「西方の人」の正篇で、芥川龍之介自身をダブらせたキリストの生涯をシンボライズして、ヤコブの梯子から連想したものと思われる「梯子」という語を用いているのも、この部分を解釈する一助となろう。私のテクスト「西方の人(正續完全版)」から私の注と共に引用しておく。

      36 クリストの一生

 勿論クリストの一生はあらゆる天才の一生のやうに情熱に燃えた一生である。彼は母のマリアよりも父の聖靈の支配を受けてゐた。彼の十字架の上の悲劇は實にそこに存してゐる。彼の後(のち)に生まれたクリストたちの一人(ひとり)、――ゲエテは「徐(おもむ)ろに老いるよりもさつさと地獄へ行きたい」と願つたりした。が、徐ろに老いて行つた上、ストリントベリイの言つたやうに晩年には神祕主義者になつたりした。聖靈はこの詩人の中にマリアと吊り合ひを取つて住まつてゐる。彼の「大いなる異教徒」の名は必しも當つてゐないことはない。彼は實に人生の上にはクリストよりも更に大きかつた。況や他のクリストたちよりも大きかつたことは勿論である。彼の誕生を知らせる星はクリストの誕生を知らせる星よりも圓まるとかがやいてゐたことであらう。しかし我々のゲエテを愛するのはマリアの子供だつた爲ではない。マリアの子供たちは麥畠の中や長椅子の上にも充ち滿ちてゐる。いや、兵營や工場や監獄の中にも多いことであらう。我々のゲエテを愛するのは唯聖靈の子供だつた爲である。我々は我々の一生の中にいつかクリストと一しよにゐるであらう。ゲエテも亦彼の詩の中に度たびクリストの髯(ひげ)を拔いてゐる。クリストの一生は見じめだつた。が、彼の後(のち)に生まれた聖靈の子供たちの一生を象徴してゐた。(ゲエテさへも實はこの例に洩れない。)クリスト教は或は滅びるであらう。少くとも絶えず變化してゐる。けれどもクリストの一生はいつも我々を動かすであらう。それは天上から地上へ登る爲に無殘にも折れた梯子(はしご)である。薄暗い空から叩きつける土砂降りの雨の中に傾いたまま。……

[やぶちゃん注:「天上から地上へ登る爲に無殘にも折れた梯子」という表現については従来、芥川誤記説が圧倒的である。しかし私は、これは誤記ではないと確信している。私は、「天上から地上へ」は芥川にとって確かに「登る」べきものであったのだと解釈している。昭和571982)年清水弘文堂刊の吉田孝次郎・中野恵海共著『芥川龍之介「西方の人」全注解』では、本箇所についての注の中で筆者は『キリストの一生は、彼の神としたところの詩的正義をこの現実の地上に生かそうとしたものであるところから、天上より地上へという表現にしたものと考えられる。』とし、続く要旨の中でも『彼の一生は神=詩的正義を、この地上での生き方もち来たらす((グウルモンの「神こそ我々の造つたもの」(20・エホバ)説をうべない、キリストの最後、最大の問題が「いかに生くべきか」(「25・近い山の上の問答」)にあったとする芥川は「登る」という語によって、生きている人間の尊重を示したと考えられる。))ために無残にも折れた梯子である。』としている。]

・「唯わたしは前以て言ふがね。出て行つて後悔しないやうに。」とそれに答える「僕」の「大丈夫です。僕は後悔などはしません。」は私には芥川龍之介自身の「杜子春」のエンディングの反措定であるように思われてならない。そうするとこの隠者染みた河童は「杜子春」の鐵冠子の生まれ変わりのような印象を私は受けるのである。――しかし、「僕」は結局、後悔することになる――

       十七 

・「我々人間の皮膚の匂に閉口しました。我々人間に比べれば、河童は實に淸潔なものです。のみならず我々人間の頭は河童ばかり見てゐた僕には如何にも氣味の惡いものに見えました。これは或はあなたにはおわかりにならないかも知れません。しかし目や口は兎も角も、この鼻と云ふものは妙に恐しい氣を起させるものです。僕は勿論出來るだけ、誰にも會はない算段をしました」ここに現われる体臭嫌悪や病的な潔癖症、人間の面相に対するゲシュタルト崩壊とフォビアの果ての対人恐怖は、「早發性痴呆症」=統合失調症の初期症状を深く疑わせるものではある。

・「僕は或事業の失敗した爲に」草稿にある、「しかしそれはもう昔のことです。僕は人並みに大學を出、人並みに又會社員になり、人」という部分は、「僕」が河童国を訪問したのが、大学生若しくはそれ以前(但し、これを芥川の実際の槍ヶ岳登攀の中学時代の年齢まで遡ることは、「僕」の印象から不可能である)の時であったということになり、やや我々が現在の「河童」からイメージしている体験時の「僕」の年齢よりも若い設定であったという感じがする。しかし、冒頭「彼はもう三十を越してゐるであらう。が、一見した所は如何にも若々しい狂人である」とあるから、芥川の履歴に合わせるなら(芥川は数えの25歳で大学を卒業)、「人並みに又會社員にな」って5~6年ばかりが過ぎたとすれば、「もう三十を越し」た年齢にはなっている。因みに、執筆時の芥川龍之介の年齢は数え36歳であったから、芥川自身が「僕」のモデルであったとしても、なんら問題はない。

・「河童の國のことを想ひつづけました」原稿では「マツグやチヤツクのことを考」と書いたのを訂している。なお、原稿では「河童の國のことを思ひつづけました」と表記している。

・「何、造作はありません。東京の川や堀割りは河童には往來も同樣ですから」江戸の河童伝説を踏まえる。例えば、私の「耳嚢 根岸鎭衞 巻之一 附やぶちゃん訳注」の「河童の事」等を参照されたい。

・「早發性痴呆症」以下、ウィキの「早発性痴呆」より引用する。『早発性痴呆(そうはつせいちほう)(Dementia Praecox)とは支離滅裂な妄想の拡大による人格の崩壊をひきおこす進行性精神疾患であり、かつてエミール・クレペリン(Emil Kraepelin 1856年―1926年)によって提唱された疾病単位である』。『クレペリンの分類体系において、破瓜病(エヴァルト・ヘッカー(Ewald Hecker)による)、緊張病(カール・カールバウム Karl Ludwig Kahlbaum)による)、妄想病という3疾病形態を抱合した』。『躁鬱病とともに内因性精神病の二大疾病単位を構成する』。『のちにオイゲン・ブロイラー(Eugen Bleuler 1857年―1939年)は、早発性痴呆に変えてスキゾフレニア(schizophrenia)(現在、日本の精神医学用語では統合失調症、旧・精神分裂病)という用語を提唱することになる』とある。但し、芥川はここで「僕」のこの症状を心因性統合失調様症状としてではなく、先行注でも述べた通り、梅毒性のそれとして想定していた可能性を考える必要はある。

・「黑百合」単子葉植物綱ユリ目ユリ科バイモ属クロユリFritillaria camschatcensis。以下、ウィキの「クロユリ」より一部引用する。『日本中部以北、千島列島、ロシア連邦のサハリン州、カムチャツカ半島、ウスリー地方、北アメリカ北西部に分布。高山植物で、高山帯の草地に生える。花期は夏。花は褐紫色で花径3cm程度、釣鐘の形をした花が下向きに咲くのが特徴。多年草。地下にりん茎があり、茎は1030cmになる。葉は互生ではあるが、接近して、23段の輪生状につく』。『花言葉は「恋」「呪い」。または「復讐」』である。

・「近頃出版になつた」原稿は「あの悲しい詩人の」としたのを訂している。私はこのトックの全集もマッグの箴言集と共に欲しくてたまらないのである。古書店で見つけられた方は分冊であっても言い値で引き取りますよ!

・トックの詩について

 ――椰子の花や竹の中に

   佛陀はとうに眠つてゐる。

   路ばたに枯れた無花果と一しよに

   基督ももう死んだらしい。

   しかし我々は休まなければならぬ

   たとひ芝居の背景の前にも。

 (その又背景の裏を見れば、繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ。!)――

□『改造』初出形

 ――椰子の花や竹の中に

   佛陀はとうに眠つてゐる。

   路ばたに枯れた無花果と一しよに

   基督ももう死んだらしい。

   しかし我々は休まなければならぬ

   たとひ芝居の背景の前にも。

 (その又背景の裏を見れば、繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ?)

□原稿

 ――椰子の花や竹の中に

   佛陀はとうに眠つてゐる。

   路ばたに枯れた無花果と一しよに

   基督ももう死んだらしい。

   しかし我々は休まなければならぬ

   たとひ芝居の背景の前にも。

 (その又背景も裏を見れば、繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかりだ。!)――

詩中の語句を注しておく。

・「椰子の花」単子葉植物綱ヤシ目ヤシ科ヤシ Arecales Bromhead Arecaceae の花は小型で、穂のような形で生じ、花序の基部には包があって、花弁自体も小さい。

・「枯れた無花果」はアダムとイヴの断種、人類の終末の隠喩であろうか。

以下、本詩について述べておく。

★前2連は、常夏の楽園である極楽にいて不死のはずの救済者仏陀が瞑目してしまい、同様にキリストももう死んでいる(再復活はない)という――宗教の全否定から救済の可能性を全否定する。後の2連は、現実世界は芝居の書割に過ぎないことを暴露する。そして、これが自殺した河童のトックによる詩であるということから、これは河童世界の絶対の絶望と無救済性が示されているということになる。すると、その世界を体験して帰還した「僕」が、自身の属する人間社会に嘔吐と嫌悪しか感じなくなっている現状では、河童世界と人間世界が相互反転することとなる。トック=「僕」にとっては可視的な意味で、河童世界も人間世界もキッチュな書割に過ぎず、所詮その裏側(真実)はどちらも「繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかり」ということになる。即ち、この二つの世界を亙って来た「僕」は、「繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかり」の人間世界――「惡黨」の、「莫迦な、嫉妬深い、猥褻な、圖々しい、うぬ惚れきつた、殘酷な、蟲の善い動物」(以上は「序」末尾より)である人間の世界――に絶望して河童世界に立ち戻ったとしても、河童世界もまた、「繼ぎはぎだらけのカンヴアスばかり」の世界でしかないということを厳然と示しているのである。裏側も裏側でしかないのだ。最早、「僕」には演ずるべき舞台は、この精神病院=狂気の世界しか必竟残ってはいない、ということを意味しているように私には読める。なお、「背景の裏を」は原稿では以上の通り、「背景も裏を」とあり、また末尾「。!」という句点を打ってエクスクラメンション・マークという異例の修辞部分は、原稿に従ったもので、初出では「ばかりだ?」となっており、末尾のダッシュもない。底本の詩形は原稿及び芥川龍之介自身の『改造』切抜きへの書き入れ(近代文学館蔵)に従ったもの、とある。

・「水道の鐵管を拔けて來た」本描写によって、河童は水道管の中を容易に行き来出来るまでに、身体をゴム紐のように伸縮することが可能であるという習性を明らかにしている。人型であるから軟体動物のような構造ではなく、骨組織が極めて柔軟性に富み、更にそれらの骨や軟骨及びそれに付随する人間とほぼ同様の筋肉や腱組織更には総ての臓器が強い柔軟性を持っており、それらが丁度、棘皮動物と同じようなキャッチ結合組織のように、自在に硬化したり軟化したりすることが可能な構造になっているものと思われる。芥川が最後に私たちに教えてくれた河童の未知の属性であった。

・「あなたは僕の友だちだつた裁判官のペツプを覺えてゐるでせう。あの河童は職を失つた後、ほんたうに發狂してしまひました。何でも今は河童の國の精神病院にゐると云ふことです」何故職を失ったのか、また、何故発狂したのかが述べられていない。この叙述からはペップは誰か、実在の人物がモデルになっている可能性が濃厚である。調べきれなかったので識者の御教授を乞うものであるが、ここまで来ると、これは、もしかすると火災保険詐欺のための放火の嫌疑をかけられ(裁判で有罪となれば弁護士としての仕事は出来ない。但し、岩波新全集の人名解説索引によると、西川はそれ以前に『偽証教唆の罪で失権、市ヶ谷刑務所に収監された』ことがある旨の記載があり、その執行が十年以内以前だとすると――弁護士法によれば禁錮以上の刑を受けても、その執行が終了して十年経過すれば弁護士としての再登録が可能であるが――彼は当時、この偽証罪の執行猶予中の身であったから〈芥川龍之介「齒車」の「二 復讐」や芥川龍之介「冬と手紙と」を参照〉弁護士資格は停止していたものと思われる)、自殺した(これを発狂したとも言い得るであろう)義兄の弁護士西川豊をモデルとしているのかも知れないという気がしてくるのである。

・「(昭和二・二・十一)」新全集宮坂覺氏の年譜によればこの日、芥川龍之介は午後になって、平松麻須子(後の5月に帝国ホテルで芥川が心中未遂をする相手で、文の幼馴染み)及び『下島勲を伴って室生犀星を訪ね』ている。また『この日までに、犀星と二人で、堀辰雄「ルウベンスの偽画」に目を通し、添削指導をし』、『堀の作品に目を通すのは、これが最後となった』とある。

●さて、本作の記録者である精神病院を訪れる「僕」とは何者か? 私は永く、芥川龍之介自身として読んできた。しかし、これは彼の友人作家であった内田百閒ではなかろうか? この同日附の佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号一五七三)中には「河童」に言及して

『常談言つちやいけない。六十枚位のものをやつと三十枚ばかり書い所だ。「河童」は僕のライネッケフックスだ。』

(「書い所」はママ)と書き、その後に

内田百閒曰芥川は病的のある氣違ひ、自分は病的のない氣違ひだから自分が芥川を訪問してわざと氣違ひじみた行動をして歸る。芥川は自分を氣違ひだと思ふ。自分は得意になつて歸つて來るうちにいつか氣違ひになつてゐる。同時に又芥川も氣違ひになつてゐる。――と云ふ話を書く爲に近々芥川を訪問するつもりだ。しかしどうも自分ながらコハイ」コハイのは寧ろこつちぢやないか。僕は姊の亭主の債務などの事を小説を書く間に相談してゐる。年三割の金と云ふものは中々莫迦に出來ないものだよ。』

(コハイの後の鍵括弧の前方括弧は文中にない。下線はやぶちゃん)とある。百閒が言ったというこのエピソード(「冥途」の彼にしてこの言葉はエピソードは事実であろう)は本作と連動するように思われる。実は冒頭の「僕」とは、この話の百閒を正に擬しているのではなかったか? してみれば患者番号第23号がすんなり芥川龍之介として同定出来るではないか。また、その後の義兄の話も「河童」という「小説を書く間に『挿入』してゐる」という芥川の無意識の表現のようにも見えてくる。因みに、書簡冒頭の「ライネッケフックス」“Reineke Fuchs”とはJohann Wolfgang von Goethe(ゲーテ 17491832)の叙事詩(小説)の題名で、「ライネケ狐」などと訳される。1793年に刊行されたで、奸謀術数の悪玉狐ライネケに封建社会の風刺をこめた寓意文学である。個人のHP「サロン・ド・ソークラテース」の主幹氏による「世界文学渉猟」の中のゲーテのページに、以下のようにある。『これはゲーテの創作ではなく、古くは13世紀迄遡ることが出来る寓話である。ゲーテは韻律を改作するに止まり、物語に殆ど手を加へてゐない。数々の危機を弁舌と狡智で切り抜ける狐のライネケ。その手口は常に相手の欲望を引き出し、旨い話にまんまと目を眩ませるもの。欲望の前に理性を失ふ輩を嘲笑する如くライネケはかく語りき。「つねに不満を訴へる心は、多くの物を失ふのが当然。強欲の精神は、ただ不安のうちに生きるのみ、誰にも満足は与へられぬ。」』。ともかくも、この正に「河童」擱筆直前の佐佐木茂索宛書簡は只物ではないという気がするのである。

●宮坂年譜では11日の項の次は『13日(土)頃』の見出し記載となっていて、『「河童」を脱稿』とある。2月16日佐佐木茂索宛書簡には「河童百六枚脱稿。聊か鬱懷を消した」ともある。

227日消印の瀧井孝作宛葉書(旧全集書簡番号一五八二)

『御手紙拜見。「玄鶴山房」は力作なれども自ら脚力盡くる廬山を見るの感あり。河童は近年にない速力で書いた。蜃氣樓は一番自信を持つてゐる。僕は來月の改造に谷崎君に答へ、并せて志賀さんを四五枚論じた。これから大阪へ立つ所。頓首』

とある。最後の「大阪へ立つ」というのは改造社の『現代日本文学全集』(円本全集)の宣伝講演会である(佐藤春夫らと同行)。先の義兄自殺・借金による姉一家の経済破綻も加わり、芥川は金になることは好悪に関わらず、成さねばならなかった。芥川の生き急ぐことを確信犯とする矢継ぎ早の超人的執筆に加え、その殺人的なスケジュール、そこで研ぎ澄まされつつも致命的に擦り切れてゆく彼の神経が痛いほど分かる。

●芥川の予期に反して公開後の評判はかんばしいものではなかった。そんな中、一人の好意的な評価者が現われ、芥川はその人物に宛てて手紙を書いた。昭和2(1927)年4月3日附吉田泰司書簡(岩波版旧全集書簡番号一五八九)である(田端より)。

冠省、あらゆる「河童」の批評の中にあなたの批評だけ僕を動かしました。あなたは僕を知らないだけにこれは僕には本望です。河童はあらゆるものに對する、――就中僕自身に對するデグウから生まれました。あらゆる「河童」の批評は「明るい機智」を云々してゐます。恰も一層僕自身を不快にさせる爲のやうに。右突然ながら排悶の爲に。(御禮の爲と云ふよりも) 頓首

   四月三日朝                         芥川龍之介

  吉田泰司樣

以上は昭和2年の雑誌『生活者』4月号に掲載された吉田泰司の「河童」評に対する芥川からの礼状である。これは芥川が自律的に吉田に向けて書いたものであることが書面から推察され、逆に他の作家や批評家の「河童」評が、如何に芥川を失望させ不快にさせた的外れなものであったかが痛感されるものと言える。この吉田泰司なる人物は、よく分からない人物で、新全集人名解説索引でも生没年不詳で大正8年(1919)年に『片山敏彦らと同人誌『青空』を創刊。のち「白樺」「高原」などに寄稿している』といった情報のみである(片山敏彦(明治311898)年~昭和361961)年)は独・仏文学者。吉田の情報としてはネット上で古書店目録に大正151926)年岩波書店刊の戯曲「折れた翼・立秋 有島武郎に捧ぐ」という作品を見出せる。なおこの雑誌『青空』は、梶井基次郎が依った「檸檬」を載せた『青空』〔大正141925)年刊〕とは違うものである)。「デグウ」とはフランス語“degout”で、「嫌悪・嫌気・吐き気・胸糞の悪さ」を意味する語である。この吉田評の内容について、関口安義氏が簡約したものが勉誠社平成122000)年刊の「芥川龍之介全作品事典」の「河童」の項に載っている。これは読まずばなるまい。私は該当批評の現物を読んでいないが、私淑する関口氏に敬意を表しつつ、以下にその梗概部分を引用する(但し、私のポリシーに則り、吉田の書簡引用部分は恣意的に正字に直したことをお許し頂きたい)。

 《引用開始》

吉田は「河童」に「雜踏の中の孤獨の感傷」「不思議な假面を被つた憂鬱の訴へ」を認め、「至るところに精巧な機智と冷たい狂想がある。それが作者の心の最も深い理性の奧から作用して來て、一種異樣な皮肉(アイロニー)の情熱を釀し出してゐる。賢明な諷刺の底に何か悲哀につながる憂憤がある。それは正直に自分らしく、自分をとり圍んで激しく動搖してゐる現象の社會に、關心し、考慮し、苦しみ喘いでゐる作者の痛ましい信仰告白のやうにもとれる」と書いた。

 《引用終了》

この吉田氏の評価は、不毛にして愚劣な芥川龍之介「河童」の有象無象の批評中、唯一、今も嚇奕たる鋭き光を放っている誠の霊言であると私は思う。そもそも日本近代文学には寓話小説を正当に評価し得るに足る十分な沃地がなかった。それはかの「ゴジラ」「ウルトラ・シリーズ」がキワモノやジャリ番組としてなかなか正当に評価されなかったことと軌を一にするものである。昭和初期の精神的に荒廃しかけた帝国日本に突如上陸した芥川ゴジラ河童を、当時の――そして基本的には現在も――日本人は、素朴に河童の存在を信じていた江戸の庶民よりももっと性質の悪い悪意を以って――気味(キビ)の悪いへんてこりんなモドキの子供騙し――としてしか見ていなかった/見ていない、のではないだろうか? ここに今成すべき「河童」の新たな読みの必要性が求められるように私には思われるのである。

●翰林書房2003年刊の「芥川龍之介新事典」の「河童」の項で執筆者愛川弘文氏は最後に、日本文学研究者ハーヴァード大学教授Howard S. Hibbett氏の言葉を引用しつつ、以下のように記されている。これこそが芥川龍之介の「河童」を『今、そして、これから、どう我々が読むべきか』という真の問いかけとして『在る』と私は思う。

 《引用開始》

 「河童」はいわば日本人の手によって書かれた世界文学であり、自然主義的文学観によって灰色に塗りつぶされた日本文学史にあって、ひときわ異彩を放つ傑作である。

1951年、ハワード・S・ヒベットは芥川の英訳本の序に「彼のはたしたことは、彼をとり巻く社会の諸価値を問うて見ることであり、錯綜した人間心理のあやを劇的にあらわし、逆説に対する禅的な趣好をもって幻想と現実との不安にみちたバランスを探求することであった。彼はリアリズムから空想、象徴主義からシュール・レアリスムにいたるさまざまな手法を発展させて行き、これらすべてを用いて詩的な真実をたずねた。」(「アクタガワ」『文芸読本 芥川龍之介』河出書房新社19751128に収録)と書いた。今から50年も前に外国人のよって書かれた正当な芥川評に耳を傾けるべきであろう。

 《引用終了》

これは今に至るまで、芥川龍之介の「河童」をまともに読んだ日本人が如何に少なかったかを示す、我々自身が忸怩たるもの感ずべき痛恨の警鐘でもある、と私は感ずるものである。

*   *   *

 最後に。

 旧全集書簡番号一五八八、3月28日附齋藤茂吉宛の鵠沼からの書簡(書いたのは田端で、投函は鵠沼と思われる)を全文引用して、私の「河童」マニアック注を終えたい。末期の芥川の心身の苦悩を語るものとして、しばしば引用される有名な書簡である。

原稿用紙にて御免蒙り候。度々御手紙頂き、恐縮に候。「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃氣樓」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戰ひをるやうなものに有之、疲勞に疲勞を重ねをり候。(今日は午後より鵠沼へ參る筈。)尊臺のことなど何かと申すがらにも無之候へども、あまりはたが齒痒き故、ペンを及ぼし候次第、高免を得れば幸甚に御座候。一休禪師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も殘せるや否や覺束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に廻轉する事あり、或は尊臺の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。この頃福田大將を狙撃したる和田久太郎君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存じ候。(一茶嫌ひの尊臺には落第にや)殊に「あの霜が刺さつてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。來月朔日には歸京、又々親族會議を開かなければならず、不快この事に存じをり候。そこへ參ると菊池などは大した勢いにて又々何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)唯今小生に慾しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。

   冴え返る枝もふるへて猿すべり

幾つかの注を附しておこう。「蜃氣樓――或は「續海のほとり」――」(当初の標題は「海の秋」であった)は「河童」と同日(昭和2(1927)年3月1日)に『婦人公論』に発表された(但し、こちらは「河童」よりも先に書き、脱稿も2月4日と「河童」脱稿より9日前であった)。「朦々」は「朦朧」と同義で、精神がはっきりしないさま。「齒車あまた右の目の視野に廻轉する事あり」という芥川の視覚異常は眼科の専門医によって(私は十代の頃、この方の論文を直に読んでいる)、問題のない閃輝暗点であることが明らかにされている。この症状は主にストレスによって脳の視覚野の血管が一時的に収縮を起こすことで発生するものとされる。なお、この頃、芥川はまさに「歯車」執筆の最中で、この書簡の日附3月28日には同作「三 夜」を脱稿している。「尊臺の病院」は茂吉が院長をしていた青山脳病院。「和田久太郎」は、関東大震災で憲兵甘粕大尉らによる友大杉栄殺害の仇を討つため、震災時の戒厳司令官であった陸軍大将福田雅太郎を大正131924)年に狙撃したが、失敗。彼は、事件の翌年に無期懲役の判決を受け、3年後、35歳で獄中で縊死自殺を遂げた。辞世の句は「もろもろの惱みも消ゆる雪の風」であった。「親族會議」は義兄西川豊の自宅放火保険金詐欺の嫌疑、西川の鉄道自殺、彼の死後の多額の借金返済問題等に関わるものと思われる。菊池寛の始めた「何とか讀本」は興文社刊の全88巻になる「小学生全集」のことを言っている。編纂者は菊池と芥川の共同であった。冒頭、『「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり』という軽口には、逆に秘やかな本作への自信が見てとれる。しかし……

……「時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり」……

……芥川には、その時間は、もう、なかった――

芥川龍之介「河童」やぶちゃんマニアック注釈copyright 2010 Yabtyan