大導寺信輔の半生
――或精神的風景畫―― 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正十四(一九二五)年一月一日発行の雑誌『中央公論』に掲載された。芥川龍之介満二十二歳。底本は岩波版旧全集を用いた。傍点「ヽ」は下線に代えた。最後に底本の第十二巻に所収する草稿「大導寺信輔の半生」を付したが、この内、最初の「空虛」は、昭和三(一九二八)年七月発行の雑誌『創作月刊』に掲載されている。簡単な語注を付けた。]
大導寺信輔の半生
――或精神的風景畫――
一 本 所
大導寺信輔の生まれたのは本所の囘向院の近所だつた。彼の記憶に殘つてゐるものに美しい町は一つもなかつた。美しい家も一つもなかつた。殊に彼の家のまわりは穴藏大工だの駄菓子屋だの古道具屋だのばかりだつた。それ等の家々に面した道も泥濘の絕えたことは一度もなかつた。おまけに又その道の突き當りはお竹倉の大溝だつた。南京藻の浮かんだ大溝はいつも惡臭を放つてゐた。彼は勿論かう言ふ町々に憂欝を感ぜずにはゐられなかつた。しかし又、本所以外の町々は更に彼には不快だつた。しもた家の多い山の手を始め小綺麗な商店の軒を並べた、江戶傳來の下町も何か彼を壓迫した。彼は本鄕や日本橋よりも寧ろ寂しい本所を――囘向院を、駒止め橋を、橫網を、割り下水を、榛の木馬場を、お竹倉の大溝を愛した。それは或は愛よりも憐みに近いものだつたかも知れない。が、憐みだつたにもせよ、三十年後の今日さへ時々彼の夢に入るものは未だにそれ等の場所ばかりである…………
信輔はもの心を覺えてから、絕えず本所の町々を愛した。並み木もない本所の町々はいつも砂埃りにまみれてゐた。が、幼い信輔に自然の美しさを敎へたのはやはり本所の町々だつた。彼はごみごみした往來に駄菓子を食つて育つた少年だつた。田舍は――殊に水田の多い、本所の東に開いた田舍はかう言ふ育ちかたをした彼には少しも興味を與へなかつた。それは自然の美しさよりも寧ろ自然の醜さを目のあたりに見せるばかりだつた。けれども本所の町々はたとひ自然には乏しかつたにもせよ、花をつけた屋根の草や水たまりに映つた春の雲に何かいぢらしい美しさを示した。彼はそれ等の美しさの爲にいつか自然を愛し出した。尤も自然の美しさに次第に彼の目を開かせたものは本所の町々には限らなかつた。本も、――彼の小學時代に何度も熱心に讀み返した蘆花の「自然と人生」やラボツクの飜譯「自然美論」も勿論彼を啓發した。しかし彼の自然を見る目に最も影響を與へたのは確かに本所の町々だつた。家々も樹木も往來も妙に見すぼらしい町々だつた。
實際彼の自然を見る目に最も影響を與へたのは見すぼらしい本所の町々だつた。彼は後年本州の國々へ時々短い旅行をした。が、荒あらしい木曾の自然は常に彼を不安にした。又優しい瀨戶内の自然も常に彼を退屈にした。彼はそれ等の自然よりも遙かに見すぼらしい自然を愛した。殊に人工の文明の中にかすかに息づいてゐる自然を愛した。三十年前の本所は割り下水の柳を、囘向院の廣場を、お竹倉の雜木林を、――かう言ふ自然の美しさをまだ至る所に殘してゐた。彼は彼の友だちのやうに日光や鎌倉へ行かれなかつた。けれども毎朝父と一しよに彼の家の近所へ散步に行つた。それは當時の信輔には確かに大きい幸福だつた。しかし又彼の友だちの前に得々と話して聞かせるには何か氣のひける幸福だつた。
或朝燒けの消えかかつた朝、父と彼とはいつものやうに百本杭へ散步に行つた。百本杭は大川の河岸でも特に釣り師の多い場所だつた。しかしその朝は見渡した所、一人も釣り師は見えなかつた。廣い河岸には石垣の間に舟蟲の動いてゐるばかりだつた。彼は父に今朝に限つて釣り師の見えぬ訣を尋ねようとした。が、まだ口を開かぬうちに忽ちその答を發見した。朝燒けの搖らめゐた川波には坊主頭の死骸が一人、磯臭い水草や五味のからんだ亂杭の間に漂つてゐた。――彼は未だにありありとこの朝の百本杭を覺えてゐる。三十年前の本所は感じ易い信輔の心に無數の追憶的風景畫を殘した。けれどもこの朝の百本杭は――この一枚の風景畫は同時に又本所の町々の投げた精神的陰影の全部だつた。
二 牛 乳
信輔は全然母の乳を吸つたことのない少年だつた。元來體の弱かつた母は一粒種の彼を產んだ後さへ、一滴の乳も與へなかつた。のみならず乳母を養ふことも貧しい彼の家の生計には出來ない相談の一つだつた。彼はその爲に生まれ落ちた時から牛乳を飮んで育つて來た。それは當時の信輔には憎まずにはゐられぬ運命だつた。彼は毎朝臺所へ來る牛乳の壜を輕蔑した。又何を知らぬにもせよ、母の乳だけは知つてゐる彼の友だちを羨望した。現に小學へはひつた頃、年の若い彼の叔母は年始か何かに來てゐるうちに乳の張つたのを苦にし出した。乳は眞鍮の嗽ひ茶碗へいくら絞つても出て來なかつた。叔母は眉をひそめたまま、半ば彼をからかふやうに「信ちやんに吸つて貰はうか?」と言つた。けれども牛乳に育つた彼は勿論吸ひかたを知る筈はなかつた。叔母はとうとう隣の子に――穴藏大工の女の子に固い乳房を吸つて貰つた。乳房は盛り上つた半球の上へ靑い靜脈をかがつてゐた。はにかみ易い信輔はたとひ吸ふことは出來たにもせよ、到底叔母の乳などを吸ふことは出來ないのに違ひなかつた。が、それにも關らずやはり隣の女の子を憎んだ。同時に又隣の女の子に乳を吸はせる叔母を憎んだ。この小事件は彼の記憶に重苦しい嫉妬ばかり殘してゐる。が、或はその外にも彼の Vita sexualis は當時にはじまつてゐたのかも知れない。………
信輔は壜詰めの牛乳の外に母の乳を知らぬことを恥ぢた。これは彼の祕密だつた。誰にも決して知らせることの出來ぬ彼の一生の祕密だつた。この祕密は又當時の彼には或迷信をも伴つてゐた。彼は只頭ばかり大きい、無氣味なほど痩せた少年だつた。のみならずはにかみ易い上にも、磨ぎ澄ました肉屋の庖丁にさへ動悸の高まる少年だつた。その點は――殊にその點は伏見鳥羽の役に銃火をくぐつた、日頃膽勇自慢の父とは似ても似つかぬのに違ひなかつた。彼は一體何歲からか、又どう言ふ論理からか、この父に似つかぬことを牛乳の爲と確信してゐた。いや、體の弱いことをも牛乳の爲と確信してゐた。若し牛乳の爲とすれば、少しでも弱みを見せたが最後、彼の友だちは彼の祕密を看破してしまふのに違ひなかつた。彼はその爲にどう言ふ時でも彼の友だちの挑戰に應じた。挑戰は勿論一つではなかつた。或時はお竹倉の大溝を棹も使はずに飛ぶことだつた。或時は囘向院の大銀杏へ梯子もかけずに登ることだつた。或時は又彼等の一人と毆り合ひの喧嘩をすることだつた。信輔は大溝を前にすると、もう膝頭の震へるのを感じた。けれどもしつかり目をつぶつたまま、南京藻の浮かんだ水面を一生懸命に跳り越えた。この恐怖や逡巡は囘向院の大銀杏へ登る時にも、彼等の一人と喧嘩をする時にもやはり彼を襲來した。しかし彼はその度に勇敢にそれ等を征服した。それは迷信に發したにもせよ、確かにスパルタ式の訓練だつた。このスパルタ式の訓練は彼の右の膝頭へ一生消えない傷痕を殘した。恐らくは彼の性格へも、――信輔は未だに威丈高になつた父の小言を覺えてゐる。――「貴樣は意氣地もない癖に、何をする時でも剛情でいかん。」
しかし彼の迷信は幸にも次第に消えて行つた。のみならず彼は西洋史の中に少くとも彼の迷信には反證に近いものを發見した。それは羅馬の建國者ロミユルスに乳を與へたものは狼であると言ふ一節だつた。彼は母の乳を知らぬことに爾來一層冷淡になつた。いや、牛乳に育つたことは寧ろ彼の誇りになつた。信輔は中學へはひつた春、年とつた彼の叔父と一しよに、當時叔父が經營してゐた牧場へ行つたことを覺えてゐる。殊にやつと柵の上へ制服の胸をのしかけたまゝ、目の前へ步み寄つた白牛に干し草をやつたことを覺えてゐる。牛は彼の顏を見上げながら、靜かに干し草へ鼻を出した。彼はその顏を眺めた時、ふとこの牛の瞳の中に何にか人間に近いものを感じた。空想?――或は空想かも知れない。が、彼の記憶の中には未だに大きい白牛が一頭、花を盛つた杏の枝の下の栅によつた彼を見上げてゐる。しみじみと、懷しさうに。………
三 貧 困
信輔の家庭は貧しかつた。尤も彼等の貧困は棟割長屋に雜居する下流階級の貧困ではなかつた。が、體裁を繕ふ爲により苦痛を受けなければならぬ中流下層階級の貧困だつた。退職官吏だつた、彼の父は多少の貯金の利子を除けば、一年に五百圓の恩給に女中とも家族五人の口を餬して行かなければならなかつた。その爲には勿論節儉の上にも節儉を加へなければならなかつた。彼等は玄關とも五間の家に――しかも小さい庭のある門構への家に住んでゐた。けれども新らしい着物などは誰一人滅多に造らなかつた。父は常に客にも出されぬ惡酒の晩酌に甘んじてゐた。母もやはり羽織の下にはぎだらけの帶を隱してゐた。信輔も――信輔は未だにニスの臭い彼の机を覺えてゐる。机は古いのを買つたものの、上へ張つた綠色の羅紗も、銀色に光つた抽斗の金具も一見小綺麗に出來上つてゐた。が、實は羅紗も薄いし、抽斗も素直にあいたことはなかつた。これは彼の机よりも彼の家の象徴だつた。體裁だけはいつも繕はなければならぬ彼の家の生活の象徴だつた。………
信輔はこの貧困を憎んだ。いや、今もなほ當時の憎惡は彼の心の奧底に消し難い反響を殘してゐる。彼は本を買はれなかつた。夏期學校へも行かれなかつた。新らしい外套も着られなかつた。が、彼の友だちはいずれもそれ等を受用してゐた。彼は彼等を羨んだ。時には彼等を妬みさへした。しかしその嫉妬や羨望を自認することは肯じなかつた。それは彼等の才能を輕蔑してゐる爲だつた。けれども貧困に對する憎惡は少しもその爲に變らなかつた。彼は古疊を、薄暗いランプを、蔦の畫の剝げかかつた唐紙を、――あらゆる家庭の見すぼらしさを憎んだ。が、それはまだ好かつた。彼は只見すぼらしさの爲に彼を生んだ兩親を憎んだ。殊に彼よりも背の低い、頭の禿げた父を憎んだ。父は度たび學校の保證人會議に出席した。信輔は彼の友だちの前にかう言ふ父を見ることを恥ぢた。同時にまた肉身の父を恥ぢる彼自身の心の卑しさを恥ぢた。國木田獨步を模倣した彼の「自ら欺かざるの記」はその黃ばんだ罫紙の一枚にかう言ふ一節を殘してゐる。――
「予は父母を愛する能はず。否、愛する能はざるに非ず。父母その人は愛すれども、父母の外見を愛する能はず。貌を以て人を取るは君子の恥づる所也。況や父母の貌を云々するをや。然れども予は如何にするも父母の外見を愛する能はず。……」
けれどもかう言ふ見すぼらしさよりも更に彼の憎んだのは貧困に發した僞りだつた。母は「風月」の菓子折につめたカステラを親戚に進物にした。が、その中味は「風月」所か、近所の菓子屋のカステラだつた。父も、――如何に父は眞事しやかに「勤儉尙武」を敎へたであらう。父の教敎へた所によれば、古い一册の玉篇の外に漢和辭典を買ふことさへ、やはり「奢侈文弱」だつた! のみならず信輔自身も亦噓に噓を重ねることは必しも父母に劣らなかつた。それは一月五十錢の小遣ひを一錢でも餘計に貰つた上、何よりも彼の飢ゑてゐた本や雜誌を買ふ爲だつた。彼はつり錢を落したことにしたり、ノオト・ブツクを買ふことにしたり、學友會の會費を出すことにしたり、――あらゆる都合の好い口實のもとに父母の金錢を盜まうとした。それでもまだ金の足りない時には巧みに兩親の歡心を買ひ、翌月の小遣ひを捲き上げようとした。就中彼に甘かつた老年の母に媚びようとした。勿論彼には彼自身の噓も兩親の噓のやうに不快だつた。しかし彼は噓をついた。大膽に狡猾に噓をついた。それは彼には何よりも先に必要だつたのに違ひなかつた。が、同時に又病的な愉快を、――何か神を殺すのに似た愉快を與へたのにも違ひなかつた。彼は確かにこの點だけは不良少年に接近してゐた。彼の「自ら欺かざるの記」はその最後の一枚にかう言ふ數行を殘してゐる。――
「獨步は戀を戀すと言へり。予は憎惡を憎惡せんとす。貧困に對する、虛僞に對する、あらゆる憎惡を憎惡せんとす。……」
これは信輔の衷情だつた。彼はいつか貧困に對する憎惡そのものをも憎んでゐた。かう言ふ二重に輪を描いた憎惡は二十前の彼を苦しめつづけた。尤も多少の幸福は彼にも全然ない訣ではなかつた。彼は試驗の度ごとに三番か四番の成績を占めた。又或下級の美少年は求めずとも彼に愛を示した。しかしそれ等も信輔には曇天を洩れる日の光だつた。憎惡はどう言ふ感情よりも彼の心を壓してゐた。のみならずいつか彼の心へ消し難い痕跡を殘してゐた。彼は貧困を脫した後も、貧困を憎まずにはゐられなかつた。同時に又貧困と同じやうに豪奢をも憎まずにはゐられなかつた。豪奢をも、――この豪奢に對する憎惡は中流下層階級の貧困の與へる烙印だつた。或は中流下層階級の貧困だけの與へる烙印だつた。彼は今日も彼自身の中にこの憎惡を感じてゐる。この貧困と鬪わなければならぬ Petty Bourgeois の道德的恐怖を。……
丁度大學を卒業した秋、信輔は法科に在學中の或友だちを訪問した。彼等は壁も唐紙も古びた八疊の座敷に話してゐた。其後へ顏を出したのは六十前後の老人だつた。信輔はこの老人の顏に、――アルコオル中毒の老人の顏に退職官吏を直覺した。
「僕の父。」
彼の友だちは簡單にかうその老人を紹介した。老人は寧ろ傲然と信輔の挨拶を聞き流した。それから奧へはひる前に、「どうぞ御ゆつくり。あすこに椅子もありますから」と言つた。成程二脚の肘かけ椅子は黑ずんだ椽側に並んでゐた。が、それ等は腰の高い、赤いクツシヨンの色の褪めた半世紀前の古椅子だつた。信輔はこの二脚の椅子に全中流下層階級を感じた。同時に又彼の友だちも彼のやうに父を恥ぢてゐるのを感じた。かう言ふ小事件も彼の記憶に苦しいほどはつきりと殘つてゐる。思想は今後も彼の心に雜多の陰影を與へるかも知れない。しかし彼は何よりも先に退職官吏の息子だつた。下層階級の貧困よりもより虛僞に甘んじなければならぬ中流下層階級の貧困の生んだ人間だつた。
四 學 校
學校も亦信輔には薄暗い記憶ばかり殘してゐる。彼は大學に在學中、ノオトもとらずに出席した二三の講義を除きさへすれば、どう言ふ學校の授業にも興味を感じたことは一度もなかつた。が、中學から高等學校、高等學校から大學と幾つかの學校を通り拔けることは僅かに貧困を脫出するたつた一つの救命袋だつた。尤も信輔は中學時代にはかう言ふ事實を認めなかつた。少くともはつきりとは認めなかつた。しかし中學を卒業する頃から、貧困の脅威は曇天のやうに信輔の心を壓しはじめた。彼は大學や高等學校にゐる時、何度も廢學を計畫した。けれどもこの貧困の脅威はその度に薄暗い將來を示し、無造作に實行を不可能にした。彼は勿論學校を憎んだ。殊に拘束の多い中學を憎んだ。如何に門衞の喇叭の音は刻薄な響を傳へたであらう。如何に又グラウンドのポプラアは憂欝な色に茂つてゐたであらう。信輔は其處に西洋歴史のデエトを、實驗もせぬ化學の方程式を、歐米の一都市の住民の數を、――あらゆる無用の小智識を學んだ。それは多少の努力さへすれば、必しも苦しい仕事ではなかつた。が、無用の小智識と言ふ事實をも忘れるのは困難だつた。ドストエフスキイは「死人の家」の中にたとへば第一のバケツの水をまづ第二のバケツヘ移し、更に又第二のバケツの水を第一のバケツヘ移すと言ふやうに、無用の勞役を强いられた囚徒の自殺することを語つてゐる。信輔は鼠色の校舍の中に、――丈の高いポプラアの戰ぎの中にかう言ふ囚徒の經驗する精神的苦痛を經驗した。のみならず――
のみならず彼の敎師と言ふものを最も憎んだのも中學だつた。敎師は皆個人としては惡人ではなかつたに違ひなかつた。しかし「敎育上の責任」は――殊に生徒を處罰する權利はおのづから彼等を暴君にした。彼等は彼等の偏見を生徒の心へ種痘する爲には如何なる手段をも選ばなかつた。現に彼等の或ものは、――達磨と言ふ諢名のある英語の敎師は「生意氣である」と言ふ爲に度たび信輔に體刑を課した。が、その「生意氣である」所以は畢竟信輔の獨步や花袋を讀んでゐることに外ならなかつた。又彼等の或ものは――それは左の眼に義眼をした國語漢文の敎師だつた。この敎師は彼の武藝や競技に興味のないことを喜ばなかつた。その爲に何度も信輔を「お前は女か?」と嘲笑した。信輔は或時赫とした拍子に、「先生は男ですか?」と反問した。敎師は勿論彼の不遜に嚴罰を課せずには措かなかつた。その外もう紙の黃ばんだ「自ら欺かざるの記」を讀み返して見れば、彼の屈辱を蒙つたことは枚擧し難い位だつた。自尊心の强い信輔は意地にも彼自身を守る爲に、いつもかう言ふ屈辱を反撥しなければならなかつた。さもなければあらゆる不良少年のやうに彼自身を輕んずるのに了るだけだつた。彼はその自彊術の道具を當然「自ら欺かざるの記」に求めた。――
「予の蒙れる惡名は多けれども、分つて三と爲すことを得べし。
「その一は文弱也。文弱とは肉體の力よりも精神の力を重んずるを言ふ。
「その二は輕佻浮薄也。輕佻浮薄とは功利の外に美なるものを愛するを言ふ。
「その三は傲慢也。傲慢とは妄に他の前に自己の所信を屈せざるを言ふ。
しかし敎師も悉く彼を迫害した訣ではなかつた。彼等の或ものは家族を加へた茶話會に彼を招待した。又彼等の或ものは彼に英語の小說などを貸した。彼は四學年を卒業した時、かう言ふ借りものの小說の中に「獵人日記」の英譯を見つけ、歡喜して讀んだことを覺えてゐる。が、「敎育上の責任」は常に彼等と人間同士の親しみを交へる妨害をした。それは彼等の好意を得ることにも何か彼等の權力に媚びる卑しさの潛んでゐる爲だつた。さもなければ彼等の同性愛に媚びる醜さの潛んでゐる爲だつた。彼は彼等の前へ出ると、どうしても自由に振舞はれなかつた。のみならず時には不自然に卷煙草の箱へ手を出したり、立ち見をした芝居を吹聽したりした。彼等は勿論この無作法を不遜の爲と解釋した。解釋するのも亦尤もだつた。彼は元來人好きのする生徒ではないのに違ひなかつた。彼の筺底の古寫眞は體と不吊合に頭の大きい、徒らに目ばかり赫かせた、病弱らしい少年を映してゐる。しかもこの顏色の惡い少年は絕えず毒を持つた質問を投げつけ、人の好い敎師を惱ませることを無上の愉快としてゐるのだつた!
信輔は試驗のある度に學業はいつも高點だつた。が、所謂操行點だけは一度も六點を上らなかつた。彼は6と言ふアラビア數字に敎員室中の冷笑を感じた。實際又敎師の操行點を楯に彼を嘲つてゐるのは事實だつた。彼の成績はこの六點の爲にいつも三番を越えなかつた。彼はかう言ふ復讐を憎んだ。かう言ふ復讐をする敎師を憎んだ。今も、――いや、今はいつのまにか當時の憎惡を忘れてゐる。中學は彼には惡夢だつた。けれども惡夢だつたことは必しも不幸とは限らなかつた。彼はその爲に少くとも孤獨に堪へる性情を生じた。さもなければ彼の半生の歩みは今日よりももつと苦しかつたであらう。彼は彼の夢みてゐたやうに何册かの本の著者になつた。しかし彼に與へられたものは畢竟落寞とした孤獨だつた。この孤獨に安んじた今日、――或はこの孤獨に安んずるより外に仕かたのないことを知つた今日、二十年の昔をふり返つて見れば、彼を苦しめた中學の校舍は寧ろ美しい薔薇色をした薄明りの中に橫はつてゐる。尤もグラウンドのポプラアだけは不相變欝々と茂つた梢に寂しい風の音を宿しながら。………
五 本
本に對する信輔の情熱は小學時代から始まつてゐた。この情熱を彼に敎へたものは父の本箱の底にあつた帝國文庫本の水滸傳だつた。頭ばかり大きい小學生は薄暗いランプの光のもとに何度も「水滸傳」を讀み返した。のみならず本を開かぬ時にも替ㇾ天行ㇾ道の旗や景陽岡の大虎や菜園子張靑の梁に吊つた人間の腿を想像した。想像――?しかしその想像は現實よりも一層現實的だつた。彼は又何度も木劍を提げ、干し菜をぶら下げた裡庭に「水滸傳」中の人物と、――一丈靑扈三娘や花和尙魯智深と格鬪した。この情熱は三十年間、絕えず彼を支配しつづけた。彼は度たび本を前に夜を徹したことを覺えてゐる。いや、几上、車上、厠上、――時には路上にも熱心に本を讀んだことを覺えてゐる。木劍は勿論「水滸傳」以來二度と彼の手に取られなかつた。が、彼は本の上に何度も笑つたり泣いたりした。それは言はば轉身だつた。本の中の人物に變ることだつた。彼は天竺の佛のやうに無數の過去生を通り拔けた。イヴアン・カラマゾフを、ハムレツトを、公爵アンドレエを、ドン・ジユアンを、メフイストフエレスを、ライネツケ狐を、――しかもそれ等の或ものは一時の轉身には限らなかつた。現に或晩秋の午後、彼は小遣ひを貰ふ爲に年とつた叔父を訪問した。叔父は長州萩の人だつた。彼はことさらに叔父の前に滔々と維新の大業を論じ、上は村田淸風から下は山縣有朋に至る長州の人材を讚嘆した。が、この虛僞の感激に充ちた、顏色の蒼白い高等學校の生徒は當時の大導寺信輔よりも寧ろ若いジユリアン・ソレル――「赤と黑」の主人公だつた。
かう言ふ信輔は當然又あらゆるものを本の中に學んだ。少くとも本に負ふ所の全然ないものは一つもなかつた。實際彼は人生を知る爲に街頭の行人を眺めなかつた。寧ろ行人を眺める爲に本の中の人生を知らうとした。それは或は人生を知るには迂遠の策だつたのかも知れなかつた。が、街頭の行人は彼には只行人だつた。彼は彼等を知る爲には、――彼等の愛を、彼等の憎惡を、彼等の虛榮心を知る爲には本を讀むより外はなかつた。本を、――殊に世紀末の歐羅巴の產んだ小說や戲曲を。彼はその冷たい光の中にやつと彼の前に展開する人間喜劇を發見した。いや、或は善惡を分たぬ彼自身の魂をも發見した。それは人生には限らなかつた。彼は本所の町々に自然の美しさを發見した。しかし彼の自然を見る目に多少の鋭さを加へたのはやはり何册かの愛讀書、――就中元祿の俳諧だつた。彼はそれ等を讀んだ爲に「都に近き山の形」を、「欝金畠の秋の風」を、「沖の時雨の眞帆片帆」を、「闇のかた行く五位の聲」を、――本所の町々の敎へなかつた自然の美しさをも發見した。この「本から現實」へは常に信輔には眞理だつた。彼は彼の半生の間に何人かの女に戀愛を感じた。けれども彼等は誰一人女の美しさを教へなかつた。少くとも本に學んだ以外の女の美しさを敎へなかつた。彼は日の光を透かした耳や頰に落ちた睫毛の影をゴオテイエやバルザツクやトルストイに學んだ。女は今も信輔にはその爲に美しさを傳へてゐる。若しそれ等に學ばなかつたとすれば、彼は或は女の代りに牝ばかり發見してゐたかも知れない。…………
尤も貧しい信輔は到底彼の讀むだけの本を自由に買ふことは出來なかつた。彼のかう言ふ困難をどうにかかうにか脫したのは第一に圖書館館のおかげだつた。第二に貸本屋のおかげだつた。第三に吝嗇の譏さへ招いた彼の節儉のおかげだつた。彼ははつきりと覺えてゐる――大溝に面した貸本屋を、人の好い貸本屋の婆さんを、婆さんの内職にする花簪を。婆さんはやつと小學へ入つた「坊ちやん」の無邪氣を信じてゐた。が、その「坊ちやん」はいつの間にか本を探がす風を裝ひながら、偸み讀みをすることを發明してゐた。彼は又はつきりと覺えてゐる。――古本屋ばかりごみごみ並んだ二十年前の神保町通りを、その古本屋の屋根の上に日の光を受けた九段坂の斜面を。勿論當時の神保町通りは電車も馬車も通じなかつた。彼は――十二歳の小學生は辨當やノオト・ブツクを小脇にしたまま、大橋圖書館へ通ふ爲に何度もこの通りを往復した。道のりは往復一里半だつた。大橋圖書館から帝國圖書館へ。彼は帝國圖書館の與へた第一の感銘をも覺えてゐる。――高い天井に對する恐怖を、大きい窓に對する恐怖を、無數の椅子を埋め盡した無數の人々に對する恐怖を。が、恐怖は幸ひにも二三度通ふうちに消滅した。彼は忽ち閲覽室に、鐵の階段に、カタロオグの箱に、地下の食堂に親しみ出した。それから大學の圖書館や高等學校の圖書館へ。彼はそれ等の圖書館に何百册とも知れぬ本を借りた。又それ等の本の中に何十册とも知れぬ本を愛した。しかし――
しかし彼の愛したのは――殆ど内容の如何を問はずに本そのものを愛したのはやはり彼の買つた本だつた。信輔は本を買ふ爲めにカフエヘも足を入れなかつた。が、彼の小遣ひは勿論常に不足だつた。彼はその爲めに一週に三度、親戚の中學生に數學(!)を敎へた。それでもまだ金の足りぬ時はやむを得ず本を賣りに行つた。けれども賣り價は新らしい本でも買ひ價の半ば以上になつたことはなかつた。のみならず永年持つてゐた本を古本屋の手に渡すことは常に彼には悲劇だつた。彼は或薄雪の夜、神保町通りの古本屋を一軒々々覗いて行つた。その内に或古本屋に「ツアラトストラ」を一册發見した。それも只の「ツアラトストラ」ではなかつた。二月ほど前に彼の賣つた手垢だらけの「ツアラトストラ」だつた。彼は店先きに佇んだまま、この古い「ツアラトストラ」を所どころ讀み返した。すると讀み返せば讀み返すほど、だんだん懷しさを感じだした。
「これはいくらですか?」
十分ばかり立つた後、彼は古本屋の女主人にもう「ツアラトストラ」を示してゐた。
「一圓六十錢、――御愛嬌に一圓五十錢にして置きませう。」
信輔はたつた七十錢にこの本を賣つたことを思ひ出した。が、やつと賣り價の二倍、――一圓四十錢に價切つた末、とうとう[やぶちゃん注:ママ。]もう一度買ふことにした。雪の夜の往來は家々も電車も何か微妙に靜かだつた。彼はかう言ふ往來をはるばる本鄕へ歸る途中、絕えず彼の懷ろの中に鋼鐵色の表紙をした「ツアラトストラ」を感じてゐた。しかし又同時に口の中には何度も彼自身を嘲笑してゐた。……
六 友だち
信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。たとひどう言ふ君子にもせよ、素行以外に取り柄のない靑年は彼には用のない行人だつた。いや、寧ろ顏を見る度に揶揄せずにはゐられぬ道化者だつた。それは操行點六點の彼には當然の態度に違ひなかつた。彼は中學から高等學校、高等學校から大學と幾つかの學校を通りぬける間に絕えず彼等を嘲笑した。勿論彼等の或ものは彼の嘲笑を憤つた。しかし又彼等の或ものは彼の嘲笑を感ずる爲にも餘りに模範的君子だつた。彼は「厭な奴」と呼ばれることには常に多少の愉快を感じた。が、如何なる嘲笑も更に手答へを與へないことには彼自身憤らずにはゐられなかつた。現にかう言ふ君子の一人――或高等學校の文科の生徒はリヴイングストンの崇拜者だつた。同じ寄宿舍にゐた信輔は或時彼に眞事しやかにバイロンも亦リヴイングストン傳を讀み、泣いてやまなかつたと言ふ出たらめを話した。爾來二十年を閲した今日、このリヴイングストンの崇拜者は或基督敎會の機關雜誌に不相變リヴィングストンを讚美してゐる。のみならず彼の文章はかう言ふ一行に始まつてゐる。――「惡魔的詩人バイロンさへ、リヴイングストンの傳記を讀んで淚を流したと言ふことは何を我々に敎へるであらうか?」!
信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。たとひ君子ではないにもせよ、智的貪慾を知らない靑年はやはり彼には路傍の人だつた。彼は彼の友だちに優しい感情を求めなかつた。彼の友だちは靑年らしい心臟を持たぬ靑年でも好かつた。いや、所謂親友は寧ろ彼には恐怖だつた。その代りに彼の友だちは頭腦を持たなければならなかつた。頭腦を、――がつしりと出來上つた頭腦を。彼はどう言ふ美少年よりもかう言ふ頭腦の持ち主を愛した。同時に又どう言ふ君子よりもかう言ふ頭腦の持ち主を憎んだ。實際彼の友情はいつも幾分か愛の中に憎惡を孕んだ情熱だつた。信輔は今日もこの情熱以外に友情のないことを信じてゐる。少くともこの情熱以外に Herr und Knecht の臭味を帶びない友情のないことを信じてゐる。況んや當時の友だちは一面には相容れぬ死敵だつた。彼は彼の頭腦を武器に、絕えず彼等と格鬪した。ホイツトマン、自由詩、創造的進化、――戰場は殆ど到る所にあつた。彼はそれ等の戰場に彼の友だちを打ち倒したり、彼の友だちに打ち倒されたりした。この精神的格鬪は何よりも殺戮の歡喜の爲に行はれたものに違ひなかつた。しかしおのづからその間に新しい觀念や新しい美の姿を現したことも事實だつた。如何に午前三時の蠟燭の炎は彼等の論戰を照らしてゐたか、如何に又武者小路實篤の作品は彼等の論戰を支配してゐたか、――信輔は鮮かに九月の或夜、何匹も蠟燭へ集つて來た、大きい燈取蟲を覺えてゐる。燈取蟲は深い闇の中から突然きらびやかに生まれて來た。が、炎に觸れるが早いか、噓のやうにぱたぱたと死んで行つた。これは何も今更のやうに珍しがる價のないことかも知れない。しかし信輔は今日もなほこの小事件を思ひ出す度に、――この不思議に美しい燈取蟲の生死を思ひ出す度に、なぜか彼の心の底に多少の寂しさを感ずるのである。………
信輔は才能の多少を問はずに友だちを作ることは出來なかつた。標準は只それだけだつた。しかしやはりこの標準にも全然例外のない訣ではなかつた。それは彼の友だちと彼との間を截斷する社會的階級の差別だつた。信輔は彼と育ちの似寄つた中流階級の靑年には何のこだわりも感じなかつた。が、纔かに彼の知つた上流階級の靑年には、――時には中流上層階級の靑年にも妙に他人らしい憎惡を感じた。彼等の或ものは怠惰だつた。彼等の或ものは臆病だつた。又彼等の或ものは官能主義の奴隷だつた。けれども彼の憎んだのは必しもそれ等の爲ばかりではなかつた。いや、寧ろそれ等よりも何か漠然としたものの爲だつた。尤も彼等の或ものも彼等自身意識せずにこの「何か」を憎んでゐた。その爲に又下流階級に、――彼等の社會的對蹠點に病的な惝怳を感じてゐた。彼は彼等に同情した。しかし彼の同情も畢竟役には立たなかつた。この「何か」は握手する前にいつも針のやうに彼の手を刺した。或風の寒い四月の午後、高等學校の生徒だつた彼は彼等の一人、――或男爵の長男と江の島の崖の上に佇んでゐた。目の下はすぐに荒磯だつた。彼等は「潛り」の少年たちの爲に何枚かの銅貨を投げてやつた。少年たちは銅貨の落ちる度にぽんぽん海の中へ跳りこんだ。しかし一人海女(あま)だけは崖の下に焚いた芥火の前に笑つて眺めてゐるばかりだつた。
「今度はあいつも飛びこませてやる。」
彼の友だちは一枚の銅貨を卷煙草の箱の銀紙に包んだ。それから體を反らせたと思うと、精一ぱい銅貨を投げ飛ばした。銅貨はきらきら光りながら、風の高い浪の向うへ落ちた。するともう海女はその時にはまつ先に海へ飛びこんでゐた。信輔は未だにありありと口もとに殘酷な微笑を浮べた彼の友だちを覺えてゐる。彼の友だちは人並み以上に語學の才能を具へてゐた。しかし又確かに人並み以上に銳い犬齒をも具へてゐた。………… (以下續出)
附記 この小說はもうこの三四倍續けるつもりである。今度掲げるだけに「大導寺信輔の半生」と言ふ題は相當しないのに違ひないが、他に替る題もない爲にやむを得ず用ひることにした。「大導寺信輔の半生」の第一篇と思つて頂けば幸甚である。大正十三年十二月九日、作者記。
[やぶちゃん注:「六 友だち」の三段落目の「惝怳」は「しょうこう」または「しょうきょう」と読み、驚いてぼんやりするさま、喪心して何も聞こえないさま、気抜けするさま、また、失望や失意のために面白くないさま、の意で、ここでは後者。]
*
大導寺信輔の半生[やぶちゃん注:草稿。]
空 虛
「ええ、わたしは何でもえらい學者になりたいのです。
下界の事から天上の事まで窮めまして、
自然と學問とに
通じたいと存じます。」
「フアウスト」の中の學生はかうメフィストフェレスに語つてゐる。
この言葉はそのまま學生時代の信輔にも當て嵌まる心もちだつた。尤も彼のなりたいものは必しも學者とは限らなかつた。それは純粋の學者よりも寧ろ學者に近いものだつた。或は藝術家にも近いものだつた。が、兎に角「精神的にえらいもの」であるには違ひなかつた。彼は只この「精神的にえらいもの」になるのに滿足してゐた。思想家になるとか、詩人になるとか、或は又小說家になるとか、具體的には何も考へなかつた。その又「精神的にえらいもの」は何か無造作になれさうだつた。若し彼さへなりたいと思へば、明日にも忽ちなれさうだつた。若し彼さへなりたいと思へば、――彼さへほんたうになりたいと思へば! 彼はかう言ふ空想の中に漫然と何年かの月日を暮した。けれども空想はいつの間にか腐敗の臭氣を放ち出した。彼はそれでも何箇月か豚の安逸を貪つた後、とうとう眞面目に「精神的にえらいもの」にならうと決心した。
信輔も彼の友だちのやうに哲學を第一の學問にしてゐた。同時に又彼の「えらいもの」も哲學的を第一の條件にしてゐた。彼はその爲に何よりも先に哲學の中へ没頭した。當時の哲學はベルグソンに第一の座を讓つてゐた。信輔はまづ手當り次第に「時間と自由意志」へ侵入した。それは硝子の建築よりも透明を極めた建築だつた。彼はこの冷たい壯嚴の中を犬のやうに彷徨した。が、犬の求める肉は不幸にも其處には見當らなかつた。彼はベルグソンの建築を出た後、これも當時の流行だつたオイケンの門へはひらうとした。しかしオイケンの宗敎的情熱は忽ち彼を不快にした。それから――それからは彼の放浪時代だつた。彼は只あせりにあせりながら、精神科學の十字街を乞食のやうに放浪した。或時はラ・メトリイの唯物主義に流し眄を與へたこともあつた。或時はスピノザの汎神論に歯の痕を殘したこともあつた。或時は又カントの「純粋理性批判」に、――信輔の「純粋理性批判」はレクラム版の古本だつた。彼は彼是二年の間、この本を書架に並べて置いた。しかし畢に三頁よりも先を讀んだことは一度もなかつた。かう言ふ哲學的摸索の失敗は一層彼を不安にした。彼は時々立ち止つては彼の道程を振り返つた。成程二三の哲學者は――ニイチエやシヨオペンハウエルは少くとも彼に一臠の肉を惠んでくれたのに違ひなかつた。けれども彼の饑ゑは依然としてゐた。彼は實は第一に準備的智識に不足してゐた。第二に根氣にも乏しかつた。第三に槪念を糧にするには餘りに感覺に執してゐた。が、それ等の考へは當時の彼には起らなかつた。彼は愈彼自身の中に空虛を感ずるばかりだつた。
[やぶちゃん注:底本ではここに「*」が付き、「空虛」の章末に「〔欄外ニ〕endevouring to be great and finding to be small.」とある。“endevouring”は“endeavouring”のスペル・ミスと思われ、「大きいと同時に、小さくもある発見に心掛けること。」と言った意味か。]
のみならず信輔の「えらいもの」は「藝術的」をも第二の條件にしてゐた。彼はその爲にあらゆる情緖をインクと紙とに表現しようとした。しかしそれも困難だつた。あらゆる情緖は穀物のやうに彼自身の中に積まれてゐた。少くとも積まれてゐる筈だつた。が、ベンを執つて見ると、紙の上へ髣髴出來るものは感歎詞の外に何もなかつた。しかしそれはまだ好かつた。彼は今度はありのまま見聞を書いて見ようとした。が、この試みも失敗だつた。彼には一匹の犬の姿も、或は二人の學生の電車の中に話してゐる容子も滿足には文章にならなかつた。彼は二度目の失敗に失望――と言ふよりも驚嘆した。實際かう言ふ表現的陰萎は彼自身にも意外な發見だつた。信輔はなほ念の爲に友だちをふり返つた。すると彼等は――彼等の二三は殆ど表現に苦しまなかつた。彼等のペンは紙の上へ續々と文章を綴つてゐた。彼は彼等を嫉妬するよりも寧ろ彼自身に憤りを感じた。若しこの表現上の才能も全然彼に缺けてゐたとすれば、畢竟彼の大望の全部は夢に了るより外ほなかつた。それは當時の信輔には悲劇以上の悲劇だつた。彼ほ少時躊躇した後、三度目には飜譯を試み出した。飜譯は彼には美術館へ模寫に出かけるのと同じだつた。彼はポオの短篇を一日に一頁づつ譯して行つた。しかしこれも容易ではなかつた。彼は複雜な從屬句の前に度たびペンを抛り出した。いや、一つの形容詞の前にも度たびペンを抛り出した。元來彼の志したのは完全にボオを譯すよりも、寧ろ大は一篇の布置を、小は文章の構成をポオに學ぶことに潛んでゐた。が、事實上この區別は當時の彼には出來惡かつた。彼は畢竟飜譯にも、――彼の三度目の試みにも倦怠を感ずるばかりだつた。
信輔はかう言ふ道程を經た後、やつと當時の彼自身の如何に無力かを發見した。尤もそれは幸ひにも彼を絕望には陷れなかつた。彼は前にも言つた通り、只彼自身の中の空虛を痛切に感じたばかりだつた。しかしこの空虛を感ずることは當時の彼には恐しかつた。彼はその恐しさを避ける爲に絕えず机に向ふやうにした。圖書館へ行つたり、夜學へ通つたり、羅甸語の獨習を始めたりした。けれどもこの空虛の感は時々彼を襲來した。現に或晩春の夜、彼は湯島の坂をおりながら、ふと目の下の家々の空に大きい月の出を發見した。月は薄曇りの立つた中に無氣味なほど赤い色をしてゐた。彼はその月を眺めた時、突然息もつまるやうに彼自身の中の空虛を感じた。同時に又彼のいつの間にか學生時代を浪費したのを感じた。これは當時の信輔には必しも珍らしい出來事ではなかつた。が、彼の半生の間に自殺と言ふことを考へたのは前にも後にもこの夜だけだつた。………
〔厭世主義〕
[やぶちゃん注:この標題はその〔 〕標記からして、岩波普及版全集の編者によるものである可能性が高い。]
信輔は既に厭世主義者だつた。厭世主義の哲學をまだ一頁も讀まぬ前に既に厭世主義者だつた。彼の家庭は前にも擧げたやうにいつも貧困を免れなかつた。のみならず彼の健康は何かと故障を生じ勝ちだつた。成程彼は彼の頭腦の彼と同級の靑年より多少銳いのを恃んでゐた。が、この自信も己惚以上に出てゐるかどうかは怪しかつた。現に彼の計畫したことは、――たとへば古典語を學ぶことなどは何度も徒らに猛然と初步を繰り返すばかりだつた。彼はその爲に大學を出次第、中學の敎師にでもなるより外に仕かたはないと信じてゐた。それは勿論信輔には屈辱に近い生計だつた。同時に又到底貧困の脅威を脫することの出來ない生計だつた。彼は時々目に見るやうに彼に英語や數學を敎へた敎師たちの一生を髣髴した。彼等の一生は見渡す限り、唯侘しい塵勞や病苦の影の中に沈んでゐた。彼の一生もことによれば、かう言ふ彼等の一生より見すぼらしいものかも知れなかつた。しかし彼はどう言ふ目にあつても、兔に角生きてだけは行かなければならぬ。何の爲に?
何の爲に?この疑問はいつか信輔に厭世主義を敎へてゐた。彼は彼の生涯の外に人生を認めない訣ではなかつた。いや、寧ろ彼の不幸はおのづから彼を彼以外の人びとの幸か不幸かに敏感にしてゐた。しかし兩親、親戚、知人、――彼の接して來た人びとの生涯はいづれも明らかに不幸だつた。成程彼等の或ものは所謂「片隅の幸福」を見出してゐたかも知れなかつた。が、彼等の生涯を浸した苦しみや悲しみに比べれば、それは暗夜に火を點じた 燭よりも小さい幸福だつた。或は感傷的な虛僞を含んだ、言はばロマンティックな不幸だつた。彼は或土曜日の午後、薄暗いガイゼル・ウント・ギルベルトの店に Familienbild と言ふ題をつけた、橫に大きい原色版のレムプラントを見たことを覺えてゐる。その又三人の子女を擁した、幸福らしい夫婦の姿に苛立たしさを感じたのを覺えてゐる。況や「片隅の幸福」さへない大多數の人びとの生涯は彼には意味のない悲劇だつた。彼の友だちの何人かはこの悲劇を解決するものの神の外にないのを信じてゐた。けれども神は信輔には一度も夢魔以上に出たことはなかつた。彼は又はつきり覺えてゐる。天井の高い教會の内部を、讚美歌を、オルガンを、金色の十字架を、どこか綿羊の匀のする亞米利加の宣教師の説教を。しかしかう言ふ「神の家」の空氣はいつも唯彼には輕蔑を交へた情感を燃え上らせるばかりだつた。
[やぶちゃん注:“Familienbild”はドイツ語で「家族の肖像」。]
信輔は既に厭世主義者だつた。厭世主義の哲學をまだ一頁も讀まぬ前に、――いや、彼の厭世主義は厭世主義の哲學とは緣の遠いものに違ひなかつた。彼も亦あらゆる靑年のやうにいつか哲學に溺愛してゐた。殊に二三の哲學者は彼には神々も同じことだつた。信輔は何人かの手垢のついたシヨオペンハウエルを讀む爲に夜を徹したことを覺えてゐる。又或友人の藏書を借りたワイニンゲルを寫す爲に學校を休んだことを覺えてゐる。けれどもそれは求道心の外にも感傷主義や衒學癖や獨逸語に對する尊敬(!)を交へた或精神的流行病だつた。彼は今日ふり返つて見れば、純粹に哲學に沒頭する爲には餘りに感覺に執着してゐた。のみならず餘りに思索以外の哲學的訓練を無視してゐた。彼の 「神々」はその爲にいつも一代の哲學者よりは寧ろ一代の名文家だつた。しかし彼の厭世主義はたとひ抒情詩を交へてゐたとしても、兔に角机上の産物ではなかつた。信輔は勿論厭世主義の哲學に、――殊にシヨオペンハウエルのアフォリズムに彼の厭世主義を辯護する無數の武器を發見してゐた。が、それは武器だけだつた。彼の人生に對する非難は、――彼はいつまでも薄暗いランプを、彼の「自ら欺かざるの記」を、磯臭い朝燒けの大川端に浮かんだ坊主頭の屍骸を覺えてゐた。
しかし二十前後の信輔に絕えず不安を輿へ[やぶちゃん注:以下、この直後から中黑点「・」を128個を連打し、その後に→](未完)
(大正十四年)