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鬼火へ


僕は   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年二月発行の雑誌『驢馬』に掲載され、後に『湖南の扇』に所収。底本は、岩波版旧全集を用いた。但し、底本は数字以外は総ルビであるが、うるさいので、読みの振れるもののみのパラルビとした。傍点「丶」は下線に代えた。]

 

僕は

        誰でもわたしのやうだらうか?――ジュウル・ルナアル

 

 僕は屈辱を受けた時、なぜか急には不快にはならぬ。が、彼是一時間ほどすると、だんだん不快になるのを常としてゐる。

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 僕はロダンのウゴリノ伯を見た時、――或はウゴリノ伯の寫眞を見た時、忽ち男色を思ひ出した。

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 僕は樹木を眺める時、何か我々人間のやうに前後ろのあるやうに思はれてならぬ。

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 僕は時々暴君になつて大勢の男女を獅子や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉體的に忽ち不快になつてしまふ。

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 僕は度たび他人のことを死ねば善いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。

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 僕はどう云ふ良心も、――藝術的良心さへ持つてゐない。が、神經は持ち合せてゐる。

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 僕は滅多に憎んだことはない。その代りには時々輕蔑してゐる。

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 僕自身の經驗によれば、最も甚しい自己嫌惡の特色はあらゆるものに譃(うそ)を見つけることである。しかもその又發見に少しも滿足を感じないことである。

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 僕はいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋(さかなや)の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音に終つてゐない、ちよつと羅馬字(ロオマじ)に書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴ふのかしら。

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 僕はいつも僕一人ではない。息子、亭主、牡(をす)、人生觀上の現實主義者、氣質上のロマン主義者、哲學上の懷疑主義者等(とう)、等、等、――それは格別差支へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩(けんか)するのに苦しんでゐる。

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 僕は未知の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。

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 あらゆる言葉は錢(ぜに)のやうに必ず兩面を具へてゐる。僕は彼を「見えばう」と呼んだ。しかし彼はこの點では僕と大差のある訣(わけ)ではない。が、僕自身に從へば、僕は唯「自尊心の強い」だけである。

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 僕は醫者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確に僕自身の容態を話せたことはない。從つて譃をついたやうな氣ばかりしてゐる。

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 僕は僕の住居を離れるのに從ひ、何か僕の人格も曖昧になるのを感じてゐる。この現象が現れるのは僕の住居を離れること、三十哩(マイル)前後に始まるらしい。

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 僕の精神的生活は滅多にちやんと歩いたことはない。いつも蚤のやうに跳ねるだけである。

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 僕は見知越しの人に會ふと、必ずこちらからお時宜をしてしまふ。從つて向うの氣づかずにゐる時には「損をした」と思ふこともないではない。

(大正一五・一二・四)