やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ


追憶   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正十五(1926)年四月から翌十六年二月まで、十一回にわたって『文藝春秋』に連載され、後に『侏儒の言葉』に所収された。底本は、岩波版旧全集を用いた。但し、一部の難読と思われる語には底本のルビとは区別して〔 〕で正仮名を用いて読みを振った。このルビに関しては、筑摩書房全集類聚版のルビを一部、参考にした。傍点「丶」は下線に代えた。一部に私の注を施した。]

 

追憶

       埃

 僕の記憶の始まりは數へ年の四つの時のことである。と言つても大した記憶ではない。唯廣さんと云ふ大工が一人、梯子か何かに乘つたまま玄能で天井を叩いてゐる、天井からはぱつぱつと埃が出る――そんな光景を覺えてゐるのである。

 これは江戸の昔から祖父や父の住んでゐた古家を毀した時のことである。僕は數へ年の四つの秋、新しい家に住むやうになつた。從つて古家を毀したのは遲くもその年の春だつたであらう。

       位  牌

 僕の家の佛壇には祖父母の位牌や叔父の位牌の前に大きい位牌が一つあつた。それは天保何年かに歿した曾祖父母の位牌だつた。僕はもの心のついた時から、この金箔の黑づんだ位牌に恐怖に近いものを感じてゐた。

 僕の後に聞いた所によれば、曾祖父は奧坊主を勤めてゐたものの、二人の娘を二人とも花魁に賣つたと云ふ人だつた。のみならず又曾祖母も曾祖父の夜泊まりを重ねる爲に家に焚きもののない時には鉈で椽側〔えんがは〕を叩き壞し、それを薪にしたと言ふ人だつた。

       庭  木

 新しい僕の家の庭には冬靑〔もち〕、榧〔かや〕、木斛〔もくこく〕、かくれみの、臘梅、八つ手、五葉の松などが植わつてゐた。僕はそれらの木の中でも特に一本の臘梅を愛した。が、五葉の松だけは何か無氣味でならなかつた。

       「て つ」

 僕の家には子守りの外に「てつ」と云ふ女中が一人あつた。この女中は後に「源さん」と云ふ大工のお上さんになつた爲に「源てつ」と云ふ渾名を貰つたものである。

 なんでも一月か二月の或夜、(僕は數へ年の五つだつた。)地震の爲に目をさました「てつ」は前後の分別を失つたと見え、枕もとの行燈をぶら下げたなり、茶の間から座敷を走りまわつた。僕はその時座敷の疊に油じみの出來たのを覺えてゐる。それから又夜中の庭に雪の積もつてゐたのを覺えてゐる。

       猫の魂

 「てつ」は源さんへ緣づいた後も時々僕の家へ遊びに來た。僕はその頃「てつ」の話した、かう云ふ怪談を覺えてゐる。――或日の午後、「てつ」は長火鉢に頰杖をつき、半睡半醒の境にさまよつてゐた。すると小さい火の玉が一つ、「てつ」の顏のまはりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははつとして目を醒ました。火の玉は勿論その時にはもうどこかへ消え失せてゐた。しかし「てつ」の信ずる所によればそれは四五日前に死んだ「てつ」の飼ひ猫の魂がじやれに來たに違ひないと云ふのだつた。

       草双紙

 僕の家の本箱には草双紙が一ぱいつまつてゐた。僕はもの心のついた頃からこれ等の草双紙を愛してゐた。殊に「西遊記」を飜案した「金毘羅利生記」を愛してゐた。「金毘羅利生記」の主人公は或は僕の記憶に殘つた第一の作中人物かもしれない。それは岩裂(いはさき)の神と云ふ、兜巾〔ときん〕鈴懸けを裝つた、目なざしの恐ろしい大天狗だつた。

       お狸樣

 僕の家には祖父の代からお狸樣と云ふものを祀つてゐた。それは赤い布團にのつた一對の狸の土偶〔でく〕だつた。僕はこのお狸樣にも何か恐怖を感じてゐた。お狸樣を祀ることはどう云ふ因緣によつたものか、父や母さへも知らないらしい。しかし未だに僕の家には薄暗い納戸の隅の棚にお狸樣の宮を設け、夜は必ずその宮の前に小さい蠟燭をともしてゐる。

       蘭

 僕は時々狹い庭を步き、父の眞似をして雜草を拔いた。實際庭は水場(みずば)だけにいろいろの草を生じ易かつた。僕はある時冬靑〔もち〕の木の下に細い一本の草を見つけ、早速それを拔きすててしまつた。僕の所業を知つた父は「せつかくの蘭を拔かれた」と何度も母にこぼしてゐた。が、格別、その爲に叱られたと云ふ記憶は持つていない。蘭は何處でも石の間に特に一二莖植ゑたものだつた。

       夢中遊行

 僕はその頃も今のやうに體の弱い子供だつた。ことに便祕しさへすれば、必ずひきつける子供だつた。僕の記憶に殘つてゐるのは僕が最後にひきつけた九歳の時のことである。僕は熱もあつたから、床の中に横たはつたまま、伯母の髮を結ふのを眺めてゐた。そのうちにいつかひきつけたと見え、寂しい海邊を步いてゐた。その又海邊には人間よりも化け物に近い女が一人、腰卷き一つになつたなり、身投げをする爲に合掌してゐた。それは「妙々車〔めうめうぐるま〕」と云ふ草双紙の中の插畫だつたらしい。この夢うつつの中の景色だけは未だにはつきりと覺えてゐる。正氣になつた時のことは覺えていない。

       「つうや」

 僕がいちばん親しんだのは「てつ」の後にゐた「つる」である。僕の家はその頃から經濟状態が惡くなつたと見え、女中もこの「つる」一人ぎりだつた。僕は「つる」のことを「つうや」と呼んだ。「つうや」は當り前の女よりもロマンテイツク趣味に富んでゐたのであらう。僕の母の話によれば、法界節が二、三人編笠をかぶつて通るのを見ても「敵討ちでせうか?」と尋ねたさうである。

[やぶちゃん注:「法界節」は、ここでは明治から昭和初期にかけて法界屋と称する門付芸人の称。彼等は法界節という歌を、主に月琴を演奏しながら歌った。原曲は清楽の「九連環」に基づき、歌詞で意味不明の「ホーカイ」という語句をリフレインすることから、この呼称が生まれた(「法界」は単なる当字である)。原曲の中国語歌詞中にある「不開」に基づくとも言われるが不詳。]

       郵便箱

 僕の家の門の側には郵便箱が一つとりつけてあつた。母や伯母は日の暮になると、代る代る門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往來の人通りを眺めたものである。封建時代らしい女の氣もちは明治三十二三年頃にもまだかすかに殘つてゐたであらう。僕は又かう云ふ時に「さあ、もう雀色時(すゞめいろどき)になつたから」と母の言つたのを覺えてゐる。雀色時と云ふ言葉はその頃の僕にも好きな言葉だつた。

       灸

 僕は何かいたづらをすると、必ず伯母につかまつては足の小指に灸をすえられた。僕に最も怖しかつたのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられると云ふことである。僕は手足をばたばたさせながら、「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」と怒鳴つたりした。これは勿論火がつく所から自然と聯想を生じたのであらう。

       剝製の雉

 僕の家へ來る人々の中に「お市さん」と云ふ人があつた。これは代地〔だいち〕かどこかにゐた柳派〔やなぎは〕の「五りん」のお上さんだつた。僕はこの「お市さん」にいろいろの畫本や玩具などを貰つた。その中でも僕を喜ばせたのは大きい剝製の雉である。

 僕は小學校を卒業する時、その尾羽根の切れかかつた雉を寄附して行つたやうに覺えてゐる。が、それは確かではない。唯未だにおかしいのは雉の剝製を貰つた時、父が僕に言つた言葉である。

「昔、うちの隣にゐた××××(この名前は覺えていない)と云ふ人は丁度元日のしらしら明けの空を白い鳳凰がたつた一羽、中洲の方へ飛んで行くのを見たことがあると言つてゐたよ。尤〔もつとも〕出でたらめを云ふ人だつたがね。」

[やぶちゃん注1:「柳派」は明治八年前後に形成された、円朝を中心とした三遊派と並ぶ落語の一派。三代目麗々亭柳橋を長老とした。]

[やぶちゃん注2:「五りん」とは当時、寄席の客一人に付き五厘の計算で、各芸人を寄席に斡旋していた世話人。寄席と芸人の双方の利害を勘案することを仕事とした。]

       幽  靈

 僕は小學校へはいつてゐた頃、どこの長唄の女師匠は亭主の怨靈にとりつかれてゐるとか、ここの仕事師のお婆さんは嫁の幽靈に責められてゐるとか、いろいろの怪談を聞かせられた。それを又僕に聞かせたのは僕の祖父の代に女中をしてゐた「おてつさん」と云ふ婆さんである。僕はそんな話の爲か、夢とも現ともつかぬ境にいろいろの幽靈に襲はれがちだつた。しかもそれ等の幽靈は大抵は「おてつさん」の顏をしてゐた。

[やぶちゃん注:「仕事師」土建屋。土方。鳶職。または、商売の巧みな人。]

       馬  車

 僕が小學校へはひらぬ前、小さい馬車を驢馬に牽かせ、その又馬車に子供を乘せて、町内をまはる爺さんがあつた。僕はこの小さい馬車に乘つて、お竹倉や何かを通りたかつた。しかし僕の守りをした「つうや」はなぜかそれを許さなかつた。或は僕だけ馬車へ乘せるのを危險にでも思つた爲めかもしれない。けれども靑い幌を張つた、玩具よりもわずかに大きい馬車が小刻みにことこと步いてゐるのは幼な目にもハイカラに見えたものである。

       水  屋

 その頃はまだ本所も井戸の水を使つてゐた。が、特に飮用水だけは水屋の水を使つてゐた。僕は未だに目に見えるやうに、顏の赤い水屋の爺さんが水桶の水を水甕の中へぶちまける姿を覺えてゐる。さう言へばこの「水屋さん」も夢現の境に現はれて來る幽靈の中の一人だつた。

       幼稚園

 僕は幼稚園へ通ひ出した。幼稚園は名高い囘向院の隣の江東小學校の附屬である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あつた。僕はいつもその落葉を拾ひ、本の中に挾んだのを覺えてゐる。それから又或圓顏の女生徒が好きになつたのも覺えてゐる。唯如何にも不思議なのは今になつて考へて見ると、なぜ彼女を好きになつたか、僕自身にもはつきりしない。しかしその人の顏や名前は未だに記憶に殘つてゐる。僕はつひ去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇ひ、その頃のことを話し合つた末、「先方でも覺えてゐるかしら」と言つた。

 「そりや覺えてゐないだらう。」

 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合はない、萩や芒に露の玉を散らした、袖の長い着物を着てゐたものである。

       相  撲

 相撲も亦土地がらだけに大勢近所に住まつてゐた。現に僕の家の裏の向うは年寄りの峯岸の家だつたものである。僕の小學校にゐた時代は丁度常陸山や梅ケ谷〔うめがたに〕の全盛を極めた時代だつた。僕は荒岩龜之助が常陸山を破つた爲、大評判になつたのを覺えてゐる。一體ひとり荒岩に限らず、國見山でも逆鉾でもどこか錦繪の相撲に近い、男ぶりの人に優れた相撲は悉〔ことごとく〕僕の贔屓だつた。しかし相撲と云ふものは何か僕には漠然とした反感に近いものを與へ易かつた。それは僕が人並みよりも體の弱かつた爲かも知れない。又平生見かける相撲が――髮を藁束ねにした褌かつぎが相撲膏〔すまふこう〕を貼つてゐた爲かも知れない。

       宇治紫山

 僕の一家は宇治紫山〔うぢしざん〕と云ふ人に一中節を習つてゐた。この人は酒だの遊藝だのにお藏前の札差しの身上〔しんしやう〕をすつかり費やしてしまつたらしい。僕はこの「お師匠さん」の酒の上の惡かつたのを覺えてゐる。又小さい借家にゐても、二三坪の庭に植木屋を入れ、冬などは實を持つた靑木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覺えてゐる。

 この「お師匠さん」は長命だつた。なんでも晩年味噌を買ひに行き、雪上がりの往來で轉んだ時にも、やつと家へ歸つて來ると、「それでもまあ褌だけ新しくつて好かつた」と言つたさうである。

[やぶちゃん注1:「一中節」浄瑠璃の一種で、重要無形文化財として現存する流派名でもある。初代都太夫一中が十八世紀初期、元禄から宝永にかけて京都で創始し、京の代表的浄瑠璃となった。後に江戸で発達したが、京坂では逆に絶えた。]

[やぶちゃん注2:芥川龍之介の小説「老年」のモデルは、この宇治紫山である。]

       學  問

 僕は小學校へはひつた時から、この「お師匠さん」の一人息子に英語と漢文と習字とを習つた。が、どれも進步しなかつた。唯英語はTやDの發音を覺えた位である。それでも僕は夜になると、ナシヨナル・リイダアや日本外史をかかへ、せつせと相生町二丁目の「お師匠さん」の家へ通つて行つた。It is a dog――ナシヨナル・リイダアの最初の一行は多分かう云ふ文章だつたであらう。しかしそれよりはつきりと僕の記憶に殘つてゐるのは何かの拍子に「お師匠さん」の言つた「誰とかさんもこの頃ぢや身なりが山水(さんすゐ)だな」と云ふ言葉である。

[やぶちゃん注:「山水だ」は、みすぼらしいの意味。]

       活動寫眞

 僕が始めて活動寫眞を見たのは五つか六つの時だつたであらう。僕は確か父と一しよにさう云ふ珍しいものを見物した大川端の二州樓へ行つた。活動寫眞は今のやうに大きい幕に映るのではない。少なくとも畫面の大きさはやつと六尺に四尺位である。それから寫眞の話も亦今のやうに複雜ではない。僕はその晩の寫眞の中に魚を釣つてゐた男が一人、大きい魚が針にかかつたため、水の中へまつ逆樣にひき落とされる畫面を覺えてゐる。その男は何でも麥藁帽をかぶり、風立つた柳や芦を後ろに長い釣竿を手にしてゐた。僕は不思議にその男の顏がネルソンに近かつたような氣がしてゐる。が、それはことによると、僕の記憶の間違ひかも知れない。

[やぶちゃん注:「ネルソン」はホレーショ・ネルソンを指すと思われる。 Horatio Nelson 17581805 イギリス海軍提督。アメリカ独立戦争、ナポレオン戦争などで活躍した。フランス革命戦争中、右眼を失明、右腕も失った。]

       川開き

 やはりこの二州樓の棧敷に川開きを見てゐた時である。大川は勿論鬼灯提燈を吊つた無數の船に埋まつてゐた。するとその大川の上にどつと何かの雪崩(なだ)れる音がした。僕のまはりにゐた客の中には龜淸の棧敷が落ちたとか、中村樓の棧敷が落ちたとか、いろいろの噂が傳はり出した。しかし事實は木橋だつた兩國橋の欄干が折れ、大勢の人々の落ちた音だつた。僕は後にこの椿事を幻燈か何かに映したのを見たこともあるやうに覺えてゐる。

[やぶちゃん注1:「龜淸」は、神田川と隅田川の合流点にある柳橋のたもとにある老舗料亭。創業安政元(1854)年。]

[やぶちゃん注2:「中村樓」は、両国橋を渡ったやや下流の本所元町にあった三層構えの豪華な高級料亭。]

[やぶちゃん注3:ここで五歳の龍之介が聴いたのは、明治30年8月11日の両国橋大惨事の「音」であった。雨天のために、8月7日から延期に延期を重ねた末の川開きの出来事であった。見物客の重みで両国橋の欄干が落ち、百余名が落水、溺死及び重軽傷者が数十人出るという大惨事となった。因みに、当時の主催者柳橋組合発行の『柳橋花街年譜』第4号の組合世話人加藤藤吉氏の手記を以下に載せる(サイト「花火万華鏡」よりの孫引きであるが、一部誤植と思われるところは、私が【 カ】で注した)。

 八月七日両国川開雨天のため延期す。

 八月八日両国川開また雨天にて延期。

 八月十日両国川開またまた延期す。

 八月十一一【衍字カ】日再三延期を電【重カ】ねたる川開きの花火開催す。

 橋の上下の花火は鍵屋が受け持つ【。カ】番組は川開万歳、近江八景、宝づくし、納涼の夕、四方吹四つ花車、東京名所、六方吹火車、立田川、花見車、獅子の遊び等なり。船相場は大伝馬三円、伝馬二円五十銭、尾形船五円、尾根船二円五十銭、荷足一円二十銭。また中村楼は二重折詰弁当花見料とも一円にて一般の客を迎える。午後八時三十分ごろ下手中村楼前の仕掛花火開始とともに両国橋上の群集は急に南側へ集ったため、二、三年以来手入れだけであった橋の欄干は重圧に堪へられず広小路寄り十二、三間のところより四間半川中に没落し百余名が川刺こ【「川にカ】投げ山され大滉【混カ】乱を極めたが、雑踏の割合いに被害少なく、当夜発見の水死者二名、その他後日に一、二の水死体ありしが、身元不明にて果たして当夜の犠牲者であるや判明せずに終わる。煙火はために中止となる。八月十四日柳橋花街は両国犠牲者のため今夕川施餓鬼を行う、遊船宿、積荷間屋【問屋カ】より伝馬船六艘の寄付中【申カ】出あり、千葉県日蓮宗茨木上人の導師にて執行溺死者二名の遺族に金五円づつの香典を贈りたり。]

       ダアク一座

 僕は當時囘向院の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乘り、大蛇、鬼の首、何とか云ふ西洋人が非常に高い桿〔さを〕の上からとんぼを切つて落ちて見せるもの、――數へ立ててゐれば際限はない。しかし一番面白かつたのはダアク一座の操り人形である。その中でも又面白かつたのは道化た西洋の無賴漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと稱してゐた。僕は未だに花キャベツを食ふ度に必ずこの「カリフラ」を思ひ出すのである。

[やぶちゃん注:このダーク一座は、日本に初めて西欧の人形劇を移入した一座として記憶されるべきイギリスの劇団である。1980年、座長ダークによって創立、明治271894)年の5月から7月に来日し、東京で興行している。折りしも日清戦争勃発直前で、戦乱を避けて離日したが、明治331900)年頃、再来日して全国を巡業している。マリオネットで、なお且つ、日本人には珍しい写実風の演出であった。また、筑摩書房全集類聚版の注では本文の「泊まる場面」の注として、読売新聞明治二十七年六月六日「劇評」から以下の文章を引用しており、演出の雰囲気が分かる。『二賊また安旅籠に投じ、二人一床に臥したるに夜半に及び此臥床の怪事に驚く』。]

       中  洲

 當時の中洲は言葉どおり、芦の茂つたデルタアだつた。僕はその蘆の中に流れ灌頂や馬の骨を見、氣味惡がつたことを覺えてゐる。それから小學校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて當惑したことも覺えてゐる。

[やぶちゃん注1:「流れ灌頂」とは、無縁仏や水死者・出産で死んだ女性等のために行われる供養。仏名や仏像等を記した卒塔婆、幡(はた)、紙片などを川に流した。]

[やぶちゃん注2:「アシかヨシか」について、一般に「アシ(芦=蘆)」は「悪し」に通ずるため、忌み言葉として反対語の「良し」で「ヨシ)」とも用い、植物和名としてはイネ科ヨシ亜科ヨシ属の同一総称であるとする見解が大多数である。また、関西ではアシ、関東ではヨシが多用され、現在はヨシが優勢という記述も見かけたが、反して、アシとヨシを特定のヨシ(例えばアイアシと他のヨシという具合に)区別して用いている地方もあるのではなかろうか。]

       壽  座

 本所の壽座が出來たのもやはりその頃のことだつた。僕は或日の暮れがた、或小學校の先輩と元町通りを眺めてゐた。すると亞鉛の海鼠板を積んだ荷車が何臺も通つて行つた。

 「あれはどこへ行く?」

 僕の先輩はかう言つた。が、僕はどこへ行くか見當も何もつかなかつた。

 「壽座! じやあの荷車に積んであるのは?」

 僕は今度は勢好く言つた。

 「ブリツキ!」

 しかしそれは徒らに先輩の冷笑を買ふだけだつた。

 「ブリツキ? あれはトタンと云ふものだ。」

 僕はかう云ふ問答の爲、妙に悄氣(しよげ)たことを覺えてゐる。その先輩は中學を出た後、たちまち肺を犯されて故人になつたとか云ふことだつた。

[やぶちゃん注1:「壽座」は、明治311898)年開場の歌舞伎劇場。]

[やぶちゃん注2:ブリキは鉄板に錫メッキを、トタンは鉄板に亜鉛メッキを施したもの。]

       いじめつ子

 幼稚園にはひつてゐた僕は殆ど誰にもいぢめられなかつた。尤も本間の德ちやんには度たび泣かされたものである。しかしそれは喧嘩の上だつた。從つて僕も三度に一度は德ちやんを泣かせた記憶を持つてゐる。德ちやんは確か總武鐵道の社長か何かの次男に生まれた、負けぬ氣の強い餓鬼大將だつた。

 しかし小學校へはいるが早いか僕は忽ち世間に多い「いぢめつ子」と云ふものにめぐり合つた。「いぢめつ子」は杉浦譽四郎である。これは僕の隣席にゐたから何か口實を拵へては度々(たびたび)僕をつねつたりした。おまけに杉浦の家の前を通ると狼に似た犬をけしかけたりもした。(これは今日(こんにち)考へてみれば Greyhound と云ふ犬だつたであらう。)僕はこの犬に追いつめられた揚句とうとう或疊屋の店へ飛び上がつてしまつたのを覺えてゐる。

 僕は今漫然と「いぢめつ子」の心理を考えてゐる。あれは少年に現われたサアド型性欲ではないであらうか? 杉浦は僕のクラスの中でも最も白晳(はくせき)の少年だつた。のみならず或名高い富豪の妾腹に出來た少年だつた。

       畫

 僕は幼稚園にはひつてゐた頃には海軍將校になるつもりだつた。が、小學校へはひつた頃からいつか畫家志願に變つてゐた。僕の叔母は狩野勝玉と云ふ芳涯の乙弟子(おとでし)に緣づいてゐた。僕の叔父も亦裁判官だつた雨谷に南畫を學んでゐた。併しか)し僕のなりたかつたのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描く洋畫家だつた。

 僕が當時買ひ集めた西洋名畫の寫眞版は未だに何枚か殘つてゐる。僕は近頃何かの次手(ついで)にそれ等の寫眞版に目を通した。するとそれ等の一枚は、樹下に金髮の美人を立たせたウイスキイの會社の廣告畫だつた。

[やぶちゃん注1:「狩野勝玉」(天保11(1840)年~明治24(1891)年)絵師狩野家の狩野貞信の子。狩野雅信(ただのぶ)に師事、維新後は内務省地理局雇として諸外国へ寄贈するための屏風等を制作している。また、フェノロサの新日本画創造運動に参加、狩野芳崖・橋本雅邦・木村立岳と合わせて勝川院門下の四天王と称せられらた。本文の「芳涯」は(狩野)「芳崖」が正しい。]

[やぶちゃん注2:「乙弟子」は弟(おとうと)弟子のこと。]

[やぶちゃん注3:「雨谷」は川村雨谷(天保9(1838)年~明治39(1906)年)慶応元(1865)年、長崎奉行支配定役として長崎に赴任した折り、木下逸雲・日高鉄翁らに南画を学んだ。維新後は刑部省に出仕、のち司法官として各地に赴任、後、大審院判事となった。画家としては明治17(1884)年の東洋絵画会結成に際し議員の一人となり、明治30(1897)年には高森碎厳らと東京南画会を結成している。明治31(1898)年に官を辞してからは下谷に隠棲、南画界の重鎮として門人が多かった。芥川龍之介が江東(えひがし)尋常小学校付属幼稚園に入園したのが明治30年4月であるから、その隠居前後と一致する。]

       水  泳

 僕の水泳を習つたのは日本水泳協會だつた。水泳協會に通つたのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風氏や谷崎潤一郎氏もやはりそこへ通つた筈である。當時は水泳協會も蘆の茂つた中洲から安田の屋敷前へ移つてゐた。僕はそこへ二三人の同級の友達と通つて行つた。淸水昌彦もその一人だつた。

 「僕は誰にもわかるまいと思つて水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびつくりしてしまつた。ウンコは水よりも輕いもんなんだね。」

 かう云ふことを話した淸水も海軍將校になつた後、一昨年(大正十三年)の春に故人になつた。僕はその二、三週間前に轉地先の三島からよこした淸水の手紙を覺えてゐる。

 「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思ふ。僕は喉頭結核の上に腸結核も併發してゐる。妻は僕と同じ病氣に罹り僕よりも先に死んでしまつた。あとには今年五つになる女の子が一人殘つてゐる。………まづは生前の御挨拶まで」

 僕は返事のペンを執りながら、春寒の三島の海を思ひ、なんとか云ふ發句を書いたりした。今はもう發句は覺えてゐない。併し「喉頭結核でも絶望するには當たらぬ」などと云ふ氣休めを並べたことだけは未だにはつきりと覺えてゐる。

[やぶちゃん注:「淸水昌彦」は、明治391906)年に東京都立第三中学校(現在の都立両国高等学校)の生徒だった芥川龍之介が書いた、近未来の日仏戦争を描く、夢オチ空想科学小説「廿年後之戰争」の中で、好戦の末、轟沈する『帝國一等裝甲巡洋艦「石狩」』の最期を報じる「石狩分隊長少佐淸水昌彦氏」として登場している。]

       體  刑

 僕の小學校にゐた頃には體刑も決して珍しくはなかつた。それも横顏を張りつける位ではない。胸ぐらをとつて小突きまはしたり、床の上へ突き倒したりしたものである。僕も一度は擲〔なぐ〕られた上、習字のお双紙〔さうし〕をさし上げたまま、半時間も立たされてゐたことがあつた。かう云ふ時に擲られるのは格別痛みを感ずるものではない。しかし、大勢の生徒の前に立たされてゐるのは切ないものである。僕はいつか伊太利(イタリイ)のフアツシヨは社會主義者にヒマシユを飮ませ、腹下しを起こさせると云ふ話を聞き、忽ち薄汚いベンチの上に立つた僕自身の姿を思い出したりした。のみならずフアツシヨの刑罰もあるいは存外當人には殘酷ではないかと考へたりした。

[やぶちゃん注:「お双紙」練習用の帳面、手習い草紙のこと。]

       大  水

 僕は大水〔おほみづ〕にも度たび出合つた。が、幸ひどの大水も床の上へ來たことは一度もなかつた。僕は母や伯母などが濁り水の中に二尺指しを立てて、一分〔ぶ〕殖えたの二分殖えたのと騷いでゐたのを覺えてゐる。それから夜は目を覺ますと、絶えずどこかの半鐘が鳴りつづけてゐたのを覺えてゐる。

[やぶちゃん注:「二尺指し」とは、和裁に用いる鯨尺(2566m=一尺=37.88cm)の二尺(約76cm)の竹の物差し。これでは一分≒0.37㎝(3.7㎜)となる。]

       答  案

 確か小學校の二、三年生の頃、僕らの先生は僕らの机に耳の靑い藁半紙を配り、それへ「可愛いと思ふもの」と「美しいと思ふもの」とを書けと言つた。僕は象を「可愛いと思ふもの」にし、雲を「美しいと思ふもの」にした。それは僕には眞實だつた。が、僕の答案は生憎(あいにく)先生には氣に入らなかつた。

 「雲などはどこが美しい? 象も唯大きいばかりじやないか?」

 先生はかうたしなめた後(のち)、僕の答案へ×印をつけた。

       加藤淸正

 加藤淸正は相生町二丁目の横町に住んでゐた。と言つてももちろん鎧武者ではない。極小さい桶屋だつた。しかし主人は標札によれば、加藤淸正に違ひなかつた。のみならずまだ新しい紺暖簾の紋も蛇の目だつた。僕等は時々この店へ主人の淸正を覗きに行つた。淸正は短い顋髯〔あごひげ〕を生やし、金槌や鉋〔かんな〕を使つてゐた。けれども何か僕らには偉さうに思はれて仕かたがなかつた。

       七不思議

 その頃はどの家もランプだつた。從つてどの町も薄暗かつた。かう云ふ町は明治とは云ふ條、まだ「本所の七不思議」とは全然緣のない譯ではなかつた。現に僕は夜學の歸りに元町通りを步きながら、お竹倉の藪の向うの莫迦囃しを聞いたのを覺えてゐる。それは石原か横網かにお祭りのあつた囃しだつたかも知れない。しかし僕は二百年來の狸の莫迦囃しではないかと思ひ、一刻も早く家へ歸るやうにせつせと足を早めたものだつた。

       動員令

 僕は例の夜學の歸りに本所警察署の前を通つた。警察署の前にはいつもと變り、高張り提灯が一對ともしてあつた。僕は妙に思ひながら、父や母にそのことを話した。が、誰も驚かなかつた。それは僕の留守の間に「動員令發せらる」と云ふ號外が家〔うち〕にも來てゐたからだつた。僕はもちろん日露戰役に關するいろいろの小事件を記憶してゐる。が、この一對の高張り提灯ほど鮮かに覺えてゐるものはない。いや、僕は今日こんにち)でも高張り提灯を見るたびに婚禮や何かを想像するよりもまず戰爭を思ひ出すのである。

[やぶちゃん注:この記載は明治371904)年3月5日の出来事である。]

       久井田卯之助

 久井田〔ひさゐだ〕と云ふ文字は違つてゐるかも知れない。僕はただ彼のことをヒサイダさんと稱してゐた。彼は僕の實家にゐる牛乳配達の一人だつた。同時に又今日ほど澤山いない社會主義者の一人だつた。僕はこのヒサイダさんに社會主義の信條を教へて貰つた。それは僕の血肉には幸か不幸か滲み入らなかつた。が、日露戰役中の非戰論者に惡意を持たなかつたのは確かにヒサイダさんの影響だつた。

 ヒサイダさんは五六年前に突然僕を訪問した。僕が彼と大人同士の社會主義論をしたのはこの時だけである。(彼はそれから何箇月もたたずに天城山の雪中に凍死してしまつた)しかし僕は社會主義論よりも彼の獄中生活などに興味を持たずにはゐられなかつた。

「夏目さんの「行人」の中に和歌の浦へ行つた男と女とがとうとう飯を食ふ氣にならずに膳を下げさせる所があるでせう。あすこを牢の中で讀んだ時にはしみじみ勿體〔もつたい〕ないと思ひましたよ。」

 彼は人懷〔ひとなつ〕こい笑顏をしながら、そんなことも話して行つたものだつた。

       火  花

 やはりその頃の雨上がりの日の暮、僕は馬車通りの砂利道を一隊の步兵の通るのに出合つた。步兵は銃を肩にしたまま、默つて進行をつゞけてゐた。が、その靴は砂利と擦れる度に時々火花を發してゐた。僕はこのかすかな火花に何か悲壯な心もちを感じた。

 それから何年かたつた後〔のち〕、僕は白柳秀湖〔しらやなぎしうこ〕氏の「離愁」とか云ふ小品集を讀み、やはり步兵の靴から出る火花を書いたものを發見した。(僕に白柳秀湖氏や上司小劍〔かみつかさせうけん〕氏の名を教へたものも或はヒサイダさんだつたかも知れない。)それはまだ中學生の僕には僕自身同じことを見てゐたせゐか、感銘の深いものに違ひなかつた。僕はこの文章から同氏の本を讀むやうになり、いつかロシヤの文學者の名前を、――ことにトウルゲネフの名前を覺えるやうになつた。それ等の小品集はどこへ行つたか、今はもう本屋でも見かけたことはない。しかし僕は同氏の文章に未だに愛惜を感じてゐる。ことに東京の空を罩〔こ〕める「鳶色の靄」などと云ふ言葉に。

[やぶちゃん注:「罩める」は、かごに入れる、入れ包む、の意。]

       日本海海戰

 僕等は皆日本海海戰の勝敗を日本の一大事と信じてゐた。が、「今日〔こんにち〕晴朗なれども浪高し」の號外は出ても、勝敗は容易にわからなかつた。すると或日の午飯〔ひるめし〕の時間に僕の組の先生が一人、號外を持つて教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と聲をかけた。この時の僕らの感激は確かに又國民的だつたのであらう。僕は中學を卒業しない前に國木田獨步の作品を讀み、なんでも「電報」とか云ふ短篇にやはりかう云ふ感激を描いてあるのを發見した。

 「皇國の興廢この一擧にあり」云々の信號を掲げたと云ふことは恐らくは如何なる戰爭文學よりも一層詩的な出來事だつたであらう。しかし僕は十年の後〔のち〕、海軍機關學校の理髮師に頭を刈つて貰ひながら、彼も亦日露の戰役に「朝日」の水兵だつた關係上、日本海海戰の話をした。すると彼はにこりともせず、極めて無造作にかう云ふのだつた。

 「何、あの信號は始終でしたよ。それは號外にも出てゐたのは日本海海戰の時だけですが。」

[やぶちゃん注1:國木田獨步の小説に「電報」という小説はない。該当する獨步の作品は「號外」である。]

[やぶちゃん注2:「朝日」は、明治331900)年、イギリスのジョン・ブラウン社竣工の日本海軍の戦艦。主艦「三笠」とほぼ同型。日露戦争では第一艦隊第一戦隊に属し、二番艦として活躍した。大正121923)年に特務艦となり、関東大震災の救助活動に活躍したが、ワシントン条約により兵装を撤去し工作艦兼潜水艦救難艦となった。日華事変の勃発により工作艦となり、太平洋戦争では馬来部隊に属し南方勤務についたが、昭和171942)年、アメリカの潜水艦の雷撃を受けて沈没した。]

       柔  術

 僕は中學で柔術を習つた。それから又濱町河岸の大竹と云ふ道場へもやはり寒稽古などに通つたものである。中學で習つた柔術は何流だつたか覺えてゐない。が、大竹の柔術は確か天眞揚心流だつた。僕は中學の仕合ひへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、忽ち見事な巴投げを食ひ、向う側に控えた生徒たちの前へ坐つてゐたことを覺えてゐる。當時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だつた。西川は今は鳥取の農林學校か何かの教授をしてゐる。僕はその後〔のち〕も秀才と呼ばれる何人かの人々に接して來た。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だつた。

[やぶちゃん注:西川英次郎については、芥川龍之介の大正十四(1925)年二月発行の雑誌『中央公論』に「わが交遊録」という大見出しのもとに「學校友だち」の題で掲載された中に、中学校以来の友達で、『僕も勿論秀才なれども西川の秀才は僕の比にあらず』とあり、渾名がライオン、あるいはライ公、『容貌、營養不良のライオンに似たるが故なり。中學時代には一しよに英語を勉強し、「獵人日記」、「サッフオ」、「ロスメルスホルム」、「タイイス」の英譯などを読みし記憶す。その外柔道、水泳等も西川と共に※古したり。震災の少し前に西洋より歸り、舶來の書を悉燒きたりと言ふ。リアリストと言ふよりもおのづからセンティメンタリズムを脱せるならん。この間鳥取の柿を貰ふ。お禮にバトラアの本をやる約束をしてまだ送らず。尤も柿の三分の一は澁柿なり。』[やぶちゃん字注:「※」=「稽」の俗字。「ヒ」を「上」に代える。](岩波版旧全集第七巻より引用)という記載がある。」

       西川英次郎

 西川は渾名をライオンと言つた。それは顏がどことなしにライオンに似てゐた爲である。僕は西川と同級だつた爲めに少なからず啓發を受けた。中學の四年か五年の時に英譯の「獵人日記」だの「サツフオオ」だのを讀み嚙〔かじ〕つたのは、西川なしには出來なかつたであらう。が、僕は西川には何も報いることは出來なかつた。もし何か報いたとすれば、それは唯足がらをすくつて西川を泣かせたことだけであらう。

 僕は又西川と一しよに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だつたらしい。しかし僕等は大旅行をしても、旅費は二十圓を越えたことはなかつた。僕はやはり西川と一しよに中里介山氏の「大菩薩峠」に近い丹波山〔たばやま〕と云ふ寒村に泊り、一等三十五錢と云ふ宿賃を拂つたのを覺えてゐる。しかしその宿は淸潔でもあり、食事も玉子燒などを添へてあつた。

 多分まだ殘雪の深い赤城山〔あかぎやま〕へ登つた時であらう。西川はこごみ加減に步きながら、急に僕にこんなことを言つた。

 「君は兩親に死なれたら、悲しいとか何とか思ふかい?」

 僕はちよつと考えた後〔のち〕、「悲しいと思ふ」と返事をした。

 「僕は悲しいとは思わない。君は創作をやるつもりなんだから、さう云ふ人間もゐると云ふことを知つて置く方が善いかも知れない。」

 しかし僕はその時分にはまだ作家にならうと云ふ志望などを持つてゐた譯ではなかつた。それをなぜさう言はれたかは未だに僕には不可解である。

       勉  強

 僕は僕の中學時代は勿論、復習と云ふものをしたことはなかつた。しかし試驗勉強は度たびした。試驗の當日にはどの生徒も運動場でも本を讀んだりしてゐる。僕はそれを見る度に「僕ももつと勉強すれば善かつた」と云ふ後悔を伴つた不安を感じた。が、試驗場を出るが早いか、そんなことはけろりと忘れてゐた。

       金

 僕は一圓の金を貰ひ、本屋へ本を買ひに出かけると、なぜか一圓の本を買つたことはなかつた。しかし一圓出しさへすれば、僕が欲しいと思ふ本は手にはひるのに違ひなかつた。僕は度たび七十錢か八十錢の本を持つてきた後〔のち〕、その本を買つたことを後悔してゐた。それは勿論本ばかりではなかつた。僕はこの心もちの中に中産下層階級を感じてゐる。今日でも中産下層階級の子弟は何か買ひものをする度にやはり一圓持つてゐるものの、一圓をすつかり使ふことに逡巡してはゐないであらうか?

       虛榮心

 或冬に近い日の暮、僕は元町通りを步きながら、突然往來の人々が全然僕を顧みないのを感じた。同時に又妙に寂しさを感じた。しかし格別「今に見ろ」と云ふ勇氣の起ることは感じなかつた。薄い藍色に澄み渡つた空には幾つかの星も輝いてゐた。僕はそれ等の星を見ながら、出來るだけ威張つて步いて行つた。

       發火演習

 僕らの中學は秋になると、發火演習を行なつたばかりか、東京のある聯隊の機動演習にも參加したものである。體操の教官――或陸軍大尉はいつも僕等には嚴然としてゐた。が、實際の機動演習になると、時々命令に間違ひを生じ、おほ聲に上官に叱られたりしてゐた。僕はいつもこの教官に同情したことを覺えてゐる。

       渾  名

 あらゆる東京の中學生が教師につける渾名ほど刻薄に眞實に迫るものはない。僕は生憎今日ではそれらの渾名を忘れてゐる。が、今から四五年前、僕の從姉〔いとこ〕の子供が一人、僕の家へ遊びに來た時、或中學の先生のことを「マツポンがどうして」などと話してゐた。僕はもちろん「マツポン」とは何のことかと質問した。

 「どう云ふことも何もありませんよ。唯その先生の顏を見ると、マツポンと云ふ氣もちがするだけですよ。」

 僕はそれから暫くの後〔のち〕、この中學生と電車に乘り、偶然その先生の風丰〔ふうばう〕に接した。するとそれは、――僕もやはり文章では到底眞實を傳へることは出來ない。つまりそれは渾名通り、正に「マツポン」と云ふ感じだつた。