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鬼火へ

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年四月発行の雑誌『中央公論』に「春宵一刻の値」の大見出しのもとに、「春の夜」の題で掲載され、後に『湖南の扇』に「春の夜は」と改題して所収。底本は、岩波版旧全集を用いた。但し、底本は一部の数字を除いて総ルビであるが、うるさいので、読みの振れるもののみのパラルビとした。傍点「丶」は下線に代えた。なお、最後に参考として、底本の注記による「八」の初出形を復元して示した。本作は確信犯のルナールのインスパイアである。]

 

春の夜は   芥川龍之介

 

       一

 

 僕はコンクリイトの建物(たてもの)の波んだ丸の内の裏通りを歩いてゐた。すると何か匂を感じた。何か、?――ではない。野菜サラドの匂である。僕はあたりを見まはした。が、アスフアルトの往來には五味箱一つ見えなかつた。それは又如何にも春の夜(よ)らしかつた。

 

       二

 

 U――「君は夜は怖くはないかね?」

 僕――「格別怖いと思つたことはない。」

 U――「僕は怖いんだよ。何だか大きい消しゴムでも嚙んでゐるやうな氣がするからね。」

 これも、――このUの言葉もやはり如何にも春の夜らしかつた。

 

       三

 

 僕は支那の少女が一人、電車に乘るのを眺めてゐた。それは季節を破壞する電燈の光の下(した)だつたにもせよ、實際春の夜に違ひなかつた。少女は僕に後ろを向け、電車のステップに足をかけようとした。僕は卷煙草を銜へたまま、ふとこの少女の耳の根に垢の殘つてゐるのを發見した。その又垢は垢と云ふよりも「よごれ」と云ふのに近いものだつた。僕は電車の走つて行つた後もこの耳の根に殘つた垢に何か暖さを感じてゐた。

 

       四

 

 或春の夜、僕は路ばたに立ち止つた馬車の側(そば)を通りかかつた。馬はほつそりした白馬(はくば)だつた。僕はそこを通りながら、ちよつとこの馬の頸すぢに手を觸れて見たい誘惑を感じた。

 

       五

 

 これも或春の夜のことである。僕は往來を歩きながら、鮫(さめ)の卵(たまご)を食ひたいと思ひ出した。

 

       六

 

 春の夜の空想。――いつかカッフエ・プランタンの窓は廣い牧場に開(あ)いてゐる。その又牧場のまん中には丸燒きにした鷄(にはとり)が一羽、首を垂れて何か考へてゐる。……

 

       七

 

 春の夜の言葉。――「やすちやんが青いうんこをしました。」

 

       八

 

 或三月の夜、僕はペンを休めた時、ふとニッケルの懷中時計の進んでゐるのを發見した。隣室の掛け時計は十時を打つてゐる。が、懷中時計は十時半になつてゐる。僕は懷中時計を置き火燵の上に置き、丁寧に針を十時へ戻した。それから又ペンを動かし出した。時間と云ふものはかう云ふ時ほど、存外急に過ぎることはない。掛け時計は今度は十一時を打つた。僕はペンを持つたまま、懷中時計へ目をやると、――今度は不思議にも十二時になつてゐた。懷中時計は暖まると、針を早くまはすのかしら?

 

     九

 

 誰(たれ)か椅子の上に爪を磨いてゐる。誰か窓の前にレエスをかがつてゐる。誰かやけに花をむしつてゐる。誰かそつと鸚鵡(おうむ)を絞め殺してゐる。誰か小さいレストランの裏の煙突の下に眠つてゐる。誰か帆前船の帆をあげてゐる。誰か柔い白パンに木炭畫の線を拭つてゐる。誰か瓦斯の匂の中にシャベルの泥をすくひ上げてゐる。誰か、――ではない。まるまると肥つた紳士が一人、「詩韻含英(しゐんがんえい)」を擴げながら、未だに春宵の詩を考へてゐる。………

(昭和二・二・五)

 

[やぶちゃん注:以下に「八」の「中央公論」初出形を復元して示す。「存外急に過ぎることはない。」が「不思議に急に過ぎることはない。」に、「今度は不思議にも十二時になつてゐた。」が「今度は十二時になつてゐた。」になっており、文末の「懷中時計は暖まると、針を早くまはすのかしら?」の一文がない。]

 

       八

 

 或三月の夜、僕はペンを休めた時、ふとニッケルの懷中時計の進んでゐるのを發見した。隣室の掛け時計は十時を打つてゐる。が、懷中時計は十時半になつてゐる。僕は懷中時計を置き火燵の上に置き、丁寧に針を十時へ戻した。それから又ペンを動かし出した。時間と云ふものはかう云ふ時ほど、不思議にも急に過ぎることはない。掛け時計は今度は十一時を打つた。僕はペンを持つたまま、懷中時計へ目をやると、――今度は十二時になつてゐた。