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十本の針   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年九月発行の雑誌『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に「闇中問答(遺稿)」と共に「十本の針(遺稿)」の題で掲載された。続く、〔十本の針〕は草稿の断片と考えられるもので、題名は実際にはない。草稿文中の〔 〕表記は底本のもので、底本がもとにした岩波の小型版全集の編者による脱字補正であろう。底本は岩波版全集を用いた。なお、傍点「丶」は下線に代え、一部に注を付した。]

 

十本の針

 

       一 或人々

 

 わたしはこの世の中に或人々のあることを知つてゐる。それ等の人々は何ごとも直覺すると共に解剖してしまふ。つまり一本の薔薇の花はそれ等の人々には美しいと共に畢竟植物學の教科書中の薔薇科(くわ)の植物に見えるのである。現にその薔薇の花を折つてゐる時でも。…………

 唯直覺する人々はそれ等の人々よりも幸bナある。眞面目(まじめ)と呼ばれる美コの一つはそれ等の人々(直覺するとともに解剖する)には與へられない。それ等の人々はそれ等の人々の一生を恐ろしい遊戲の中に用ひ盡くすのである。あらゆる幸bヘそれ等の人々には解剖する爲に滅少し、同時に又あらゆる苦痛も解剖する爲に増加するであらう。「生まれざりしならば」と云ふ言葉は正にそれ等の人々に當たつてゐる。

 

       二 わたしたち

 

 わたしたちは必しもわたしたちではない。わたしたちの祖先は悉くわたしたちのうちに息づいてゐる。わたしたちの中にゐるわたしたちの祖先に從はなければ、わたしたちは不幸に陷らなければならぬ。「過去の業」という言葉はかう云ふ不幸を比喩的に説明する爲に用ひられたのであらう。「わたしたち自身を發見する」のは即ちわたしたちの中にゐるわたしたちの祖先を發見することである。同時に又わたしたちを支配する天上の~々を發見することである。

 

       三 鴉と孔雀と

 

 わたしたちに最も恐ろしい事實はわたしたちの畢にわたしたちを超えられないと云ふことである。あらゆる樂天主義的な目隱しをとつてしまへば、鴉はいつになつても孔雀になることは出來ない。或詩人の書いた一行の詩はいつも彼の詩の全部である。

[やぶちゃん注:鴉が森に落ちている鳥達の羽を身に飾って鳥の王様なったものの、それぞれの鳥達に羽を持ってゆかれてただの鴉に戻ってしまうというイソップの伝える寓話を踏まえる。芥川龍之介の「飜譯小品」の「三 鴉」を参照のこと。]

 

       四 空中の花束

 

 科學はあらゆるものを説明してゐる。未來も亦あらゆるものを説明するであらう。しかしわたしたちの重んずるのは唯科學そのものであり、或は藝術そのものである。――即ちわたしたちの精~的飛躍の空中に捉へた花束ばかりである。L'homme est rien と言はないにもせよ、わたしたちは「人として」は格別大差のあるものではない。「人として」のボオドレエルはあらゆる精~病院に充ち滿ちてゐる。唯「惡の華」や「小さい散文詩」は一度も彼等の手に成つたことはない。

[やぶちゃん注:“L'homme est rien”はフランス語で、「人は無なり」。「小さい散文詩」はボードレールの、死後刊行された詩集「パリの憂愁」を指す。」

 

       五 224

 

 224ということは眞實である。しかし事實上+(プラス)の間(あひだ)に無數の因子(いんし)のあることを認めなければならぬ。即ちあらゆる問題はこの+のうちに含まれてゐる。

 

       六 天  國

 

 若し天國を造り得るとすれば、それは唯地上にだけである。この天國は勿論茨(いばら)の中に薔薇の花の咲いた天國であろう。そこには又「あきらめ」と稱する絶望に安んじた人々のほかには犬ばかり澤山歩いてゐる。尤も犬になることも惡いことではない。

 

       七 懺  悔

 

 わたしたちはあらゆる懺悔にわたしたちの心を動かすであらう。が、あらゆる懺悔の形式は、「わたしのしたことをしないように。わたしの言ふことをするように」である。

 

       八 又或人びと

 

 わたしはまた或人々を知つてゐる。それ等の人々は何ごとにも容易に飽くことを知らない。一人の女人や一(ひと)つの想念(イデエ)や一本の石竹や一きれのパンをいやが上にも得ようとしてゐる。したがつてそれ等の人びとほど贅澤に暮らしてゐるものはない。同時に又それ等の人びとほどみじめに暮らしてゐるものはない。それ等の人々はいつの間(ま)にかいろいろのものの奴隸になつてゐる。したがつて他人には天國を與へても、――あるいは天國に至る途(みち)を與へても、天國は畢にそれ等の人々自身のものになることは出來ない。「多欲喪身」と云ふ言葉はそれ等の人々に與へられるであろう。孔雀の羽根の扇や人乳を飮んだ豚の仔(こ)の料理さへそれ等の人びとにはそれだけでは決して滿足を與へないのである。それ等の人々は必然(ひつぜん)に悲しみや苦しみさへ求めずにはゐない。(求めずとも與へられる當然の悲しみや苦しみの外にも)そこにそれ等の人々を他の人々から截り離す一すぢの溝は掘られてゐる。それ等の人々は阿呆ではない。が、阿呆以上の阿呆である。それ等の人々を救ふものは唯それ等の人々以外の人々に變ることであらう。從つて到底救はれる道はない。

 

       九 聲

 

 大勢の人々の叫んでゐる中に一人(ひとり)の話してゐる聲は決して聞こえないと思はれるであろう。が、事實上必ず聞こえるのである。わたしたちの心の中に一すぢの炎(ほのお)の殘つてゐる限りは。――尤も時々彼の聲は後代のマイクロフオンを待つかも知れない。

 

       十 言  葉

 

 わたしたちはわたしたちの氣もちを容易に他人に傳へることは出來ない。それは唯傳へられる他人次第によるのである。「拈華微笑」の昔は勿論、百數十行に亘る新聞記事さへ他人の氣もちと應(おう)じない時には到底合點(がてん)の出來るものではない。「彼」の言葉を理解するものはいつも「第二の彼」であらう。しかしその「彼」も亦必ず植物のやうに生長してゐる。從つて或時代の彼の言葉は第二の或時代の「彼」以外に理解することはできないであらう。

 いや、或時代の彼自身さへ他の時代の彼自身には他人のやうに見えるかも知れない。が、幸ひにも「第二の彼」は「彼」の言葉を理解したと信じてゐる。

 

 

〔十本の針〕草稿断片二篇

       一 罪と罰と

 

 或空氣の澄んだ雨上りの午後、髪の毛を亂した男が一人、往來の泥の中に跪いたまま、通りがかる人々に懺悔をしてゐた。彼は重おもしい顔をしてゐた。それから家々の向うにある、薄い空を見つめてゐた。しかし彼のしてゐる懺悔はかう云ふ一行に外ならなかつた。

 「皆さん、わたしのしたやうになさるものではありません。私の言ふやうにして下さいまし。」

 彼の懺悔は大勢の人々を立ち止まらせたのに違〔ひなか〕つた。しかし、そこへ通りかかつた、髪の毛の明るい年はちよつと彼を見下したまま、かう言つてさつさと歩いて行つた。

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       二 人  間

 

 ~は未來の人間たちの爲に薔薇色の學校を開いてゐた。この學校の授業課目は一に算術、二に算術、三に、――三も算術だつた。しかし二三人の怠けものは滅多に教室へ出たことはなかつた。

 彼等は他の生徒たちと一しよに人間界に生まれることになつた。彼等の授業を怠つた罰は忽ち彼等へ加へられ出した。彼等は皆氣違ひになつたり、或は罪人になつたりした。しかしいづれも言ひ合はせたやうに彼等の詩をそつと大事にしてゐた。

 ~は彼等さへ憐んでゐた。が、どうにも仕かたはなかつた。彼等は人間界を去つた後、もう一度~の前へ歸つて來た。~は薔薇色の學校の中に彼等を集めて話かけた。それはどこか嚴かな中にも優しみのある言葉だつた。

 「今度は算術を勉強しろ。」

 彼等は一齊に返事をした。

 「いやです! あすこを御覧なさい。」

 「あすこ」とは即ち人間界だつた。そこには頭の禿げた卒業生が大勢、或大きな紙の上へ一しよにかう云ふ式を作つてゐた。

     2+2=5

 

       四 マイクロフォン

 

 詩人は~の作つたマイクロフォンである。誰も、この人間界ではほんたうのことをおほ聲では言はない。が、詩人は彼等の小聲を忽ちおほ聲にしてしまふのである。若し一例を擧げるとすれば、――

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