やぶちゃんの電子テクスト:心朽窩旧館へ

鬼火へ

 

淺草公園   ――或シナリオ――   芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:昭和2(1927)年4月1日発行の雑誌『文藝春秋』に掲載、後に作品集『湖南の扇』に所収された。底本は岩波版旧全集を用いたが、読みは誤読しやすいもののみに抑えた。傍点「ヽ」は下線に代えた。【2005年11月9日】
ページ設定やスクリプトの一部を変更、一部の誤字を訂正した。なお、新全集でも全く問題にしていないが、「44」の台詞にはどちらも鍵括弧(「,」)がついておらず、どちらも一字下げで組まれている。しかしこれはどう考えても鍵括弧の脱落としか思えない。今回、私の判断で鍵括弧を勝手に補った。【2009年9月21日】]

 

 

淺草公園

   ――或シナリオ――

 

 

         1

 淺草の仁王門の中に吊つた、火のともらない大提燈(おほぢやうちん)。提燈(ちやうちん)は次第に上へあがり、雜沓した仲店を見渡すやうになる。但し大提燈の下部だけは消え失せない。門の前に飛びかふ無數の鳩。

         2

 雷門から縱に見た仲店。正面にはるかに仁王門が見える。樹木は皆枯れ木ばかり。

         3 

 仲店の片側。外套を着た男が一人、十二三歳の少年と一しよにぶらぶら仲店を歩いてゐる。少年は父親の手を離れ、時々玩具屋(おもちやや)の前に立ち止まつたりする。父親は勿論かう云ふ少年を時々叱つたりしないことはない。が、稀には彼自身も少年のゐることを忘れたやうに帽子屋の飾り窓などを眺めてゐる。

         4

 かう云ふ親子の上半身(かみはんしん)。父親はいかにも田舍者らしい、無精髭を伸ばした男。少年は可愛いと云ふよりもむしろ可憐な顏をしてゐる。彼等の後ろには雜沓した仲店。彼等はこちらへ歩いて來る。

         5 

 斜めに見た或玩具屋の店。少年はこの店の前に佇んだまま、綱を上つたり下りたりする玩具の猿を眺めてゐる。玩具屋の店の中には誰(たれ)も見えない。少年の姿は膝の上まで。

         6 

 綱を上つたり下りたりしてゐる猿。猿は燕尾服の尾を垂れた上、シルク・ハットを仰向けにかぶつてゐる。この綱や猿の後ろは深い暗(やみ)のあるばかり。

         7

 この玩具屋のある仲店の片側。猿を見てゐた少年は急に父親のゐないことに氣がつき、きよろきよろあたりを見まはしはじめる。それから向うに何か見つけ、その方へ一散に走つて行く。

         8

 父親らしい男の後ろ姿。但しこれも膝の上まで。少年はこの男に追ひすがり、しつかりと外套の袖を捉へる。驚いてふり返つた男の顏は生憎田舍者らしい父親ではない。綺麗に口髭の手入れをした、都會人らしい紳士である。少年の顏に往來する失望や當惑に滿ちた表情。紳士は少年を殘したまま、さつさと向うへ行つてしまふ。少年は遠い雷門を後ろにぼんやり一人佇んでゐる。

         9

 もう一度父親らしい後ろ姿。但し今度は上半身。少年はこの男に追ひついて恐る恐るその顏を見上げる。彼等の向うには仁王門。

         10

 この男の前を向いた顏。彼は、マスクに口を蔽つた、人間よりも、動物に近い顏をしてゐる。何か惡意の感ぜられる微笑。

         11

 仲店の片側。少年はこの男を見送つたまま、途方に暮れたやうに佇んでゐる。父親の姿はどちらを眺めても、生憎目にははひらないらしい。少年はちよつと考えた後(のち)、當(あて)どもなしに歩きはじめる。いずれも洋裝をした少女が二人、彼をふり返つたのも知らないやうに。

         12

 目金屋(めがねや)の店の飾り窓。近眼鏡、遠眼鏡(とほめがね)、双眼鏡、廓大鏡(くわくだいきやう)、顯微鏡、塵除け目金などの並んだ中に西洋人の人形の首が一つ、目金をかけて頰笑んでゐる。その窓の前に佇んだ少年の後姿。但し斜めに後ろから見た上半身。人形の首はおのづから人間の首に變つてしまふ。のみならずかう少年に話しかける。――

         13

 「目金を買つておかけなさい。お父さんを見付るには目金をかけるのに限りますからね。」

 「僕の目は病氣ではないよ。」

         14

 斜めに見た造花屋の飾り窓。造花は皆(みな)竹籠だの、瀬戸物の鉢だのの中に開いてゐる。中でも一番大きいのは左にある鬼百合の花。飾り窓の板硝子(いたガラス)は少年の上半身を映しはじめる。何か幽靈のやうにぼんやりと。

         15

 飾り窓の板硝子越しに造花を隔てた少年の上半身。少年は板硝子に手を當ててゐる。そのうちに息の當るせゐか、顏だけぼんやりと曇つてしまふ。

         16

 飾り窓の中の鬼百合の花。但し後ろは暗(やみ)である。鬼百合の花の下に垂れてゐた莟(つぼみ)もいつか次第に開きはじめる。

         17

 「わたしの美しさを御覽なさい。」

 「だつてお前は造花ぢやないか?」

         18

 角から見た煙草屋の飾り窓。卷煙草の罐、葉卷の箱、パイプなどの並んだ中に斜めに札が一枚懸つてゐる。この札に書いてあるのは、――「煙草の煙は天國の門です。」徐ろにパイプから立ち昇る煙。

         19

 煙の滿ち充ちた飾り窓の正面。少年はこの右に佇んでゐる。但しこれも膝の上まで。煙の中にはぼんやりと城が三つ浮かびはじめる。城は Three  Castles の商標を立體にしたものに近い。

         20

 それ等の城の一つ。この城の門には兵卒が一人銃を持つて佇んでゐる。その又鐵格子の門の向うには棕櫚(しゆろ)が何本もそよいでゐる。

         21

 この城の門の上。そこには横にいつの間にかかう云ふ文句が浮かび始める。――

 「この門に入るものは英雄となるべし。」

         22

 こちらへ歩いて來る少年の姿。前の煙草屋の飾り窓は斜めに少年の後ろに立つてゐる。少年はちよつとふり返つて見た後(のち)、さつさと又歩いて行つてしまふ。

         23

 吊り鐘(がね)だけ見える鐘樓(しゆろう)の内部。撞木(しゆもく)は誰(たれ)かの手に綱を引かれ、徐ろに鐘を鳴らしはじめる。一度、二度、三度、――鐘樓の外は松の木ばかり。

         24

 斜めに見た射撃屋の店。的は後ろに卷煙草の箱を積み、前に博多人形を並べてゐる。手前に並んだ空氣銃の一列。人形の一つはドレッスをつけ、扇を持つた西洋人の女である。少年は怯(お)づ怯づこの店にはひり、空氣銃を一つとり上げて全然無分別に的を狙ふ。射撃屋の店には誰(たれ)もいない。少年の姿は膝の上まで。

         25

 西洋人の女の人形。人形は靜かに扇をひろげ、すつかり顏を隱してしまふ。それからこの人形に中(あた)るコルクの彈丸。人形は勿論仰向けに倒れる。人形の後ろにも暗(やみ)のあるばかり。

         26

 前の射撃屋の店。少年は又空氣銃をとり上げ、今度は熱心に的を狙ふ。三發、四發、五發、――しかし的は一つも落ちない。少年は澁(し)ぶ澁ぶ銀貨を出し、店の外へ行つてしまふ。

         27

 始めは唯薄暗い中に四角いものの見えるばかり。その中にこの四角いものは突然電燈をともしたと見え、横にかう云ふ字を浮かび上らせる。――上に「公園六區」下に「夜警詰所」。上のは黑い中に白、下のは黑い中に赤である。

         28

 劇場の裏の上部。火のともつた窓が一つ見える。まつ直に雨樋(あまど)ひをおろした壁にはいろいろのポスタァの剥(は)がれた痕(あと)。

         29

 この劇場の裏の下部。少年はそこに佇んだまま、暫くはどちらへも行かうとしない。それから高い窓を見上げる。が、窓には誰(たれ)も見えない。唯逞(たくま)しいブルテリアが一匹、少年の足もとを通つて行く。少年の匂を嗅いで見ながら。

         30

 同じ劇場の裏の上部。火のともつた窓には踊り子が一人現れ、冷淡に目の下の往來を眺める。この姿は勿論逆光線のために顏などははつきりとわからない。が、いつか少年に似た、可憐な顏を現してしまふ。踊り子は靜かに窓をあけ、小さい花束を下に投げる。

         31

 往來に立つた少年の足もと。小さい花束が一つ落ちて來る。少年の手はこれを拾ふ。花束は往來を離れるが早いか、いつか茨の束に變つてゐる。

         32

 黑い一枚の掲示板。掲示板は「北の風、晴」と云ふ字をチョオクに現してゐる。が、それはぼんやりとなり、「南の風強かるべし。雨模樣」と云ふ字に變つてしまふ。

         33

 斜に見た標札屋(へうさつや)の露店。天幕(てんと)の下に並んだ見本(みほん)は德川家康、二宮尊德、渡邊崋山、近藤勇、近松門左衞門などの名を並べてゐる。かう云ふ名前もいつの間にか有り來りの名前に變つてしまふ。のみならずそれ等(ら)の標札の向うにかすかに浮んで來る南瓜畠(かぼちやばたけ)………

         34

 池の向うに並んだ何軒かの映畫館。池には勿論電燈の影が幾つともなしに映つてゐる。池の左に立つた少年の上半身。少年の帽(ばう)は咄嗟の間(あひだ)に風の爲に池へ飛んでしまふ。少年はいらいらあせつた後(のち)、こちらを向いて歩きはじめる。殆ど絶望に近い表情。

         35

 カッフエの飾り窓。砂糖の塔、生菓子、麥藁のパイプを入れた曹達水(さうだすゐ)のコップなどの向うに人かげが幾つも動いてゐる。少年はこの飾り窓の前へ通りかかり、飾り窓の左に足を止めてしまふ。少年の姿は膝の上まで。

         36

 このカッフエの外部。夫婦らしい中年の男女が二人硝子戸(ガラスど)の中へはひつて行く。女はマントルを着た子供を抱いてゐる。そのうちにカッフエはおのづからまはり、コック部屋の裏を現はしてしまふ。コック部屋の裏には煙突が一本。そこには又勞働者が二人せつせとシャベルを動かしてゐる。カンテラを一つともしたまま。………

         37

 テエブルの前の子供椅子の上に上半身を見せた前の子供。子供はにこにこ笑ひながら、首を振つたり手を擧げたりしてゐる。子供の後ろには何も見えない。そこへいつか薔薇の花が一つづつ靜かに落ちはじめる。

         38

 斜めに見える自動計算器。計算器の前には手が二つしきりなしに動いてゐる。勿論女の手に違ひない。それから絶えず開かれる抽斗(ひきだし)。抽斗の中は錢(ぜに)ばかりである。

         39

 前のカッフェの飾り窓。少年の姿も變りはない。暫らくの後(のち)、少年は徐ろに振り返り、足早にこちらへ歩いて來る。が、顏ばかりになつた時、ちよつと立ちどまつて何かを見る。多少驚きに近い表情。

         40

 人だかりのまん中に立つた糶(せ)り商人(あきうど)。彼は呉服ものをひろげた中に立ち、一本の帶をふりながら、熱心に人だかりに呼びかけてゐる。

         41

 彼の手に持つた一本の帶。帶は前後左右に振られながら、片はしを二三尺現してゐる。帶の模樣は廓大(くわくだい)した雪片(せつぺん)。雪片は次第にまはりながら、くるくる帶の外へも落ちはじめる。

         42

 メリヤス屋の露店。シャツやズボン下を吊つた下に婆さんが一人行火(あんくわ)に當つてゐる。婆さんの前にもメリヤス類。毛絲の編みものも交(まじ)つてゐないことはない。行火の裾(すそ)には黑猫が一匹時々前足を嘗(な)めてゐる。

         43

 行火の裾に坐つてゐる黑猫。左に少年の下半身も見える。黑猫も始めは變りはない。しかしいつか頭の上に流蘇(ふさ)の長いトルコ帽をかぶつてゐる。

         44

 「坊ちやん、スウェエタァを一つお買ひなさい。」

 「僕は帽子さへ買へないんだよ。」

         45

 メリヤス屋の露店を後ろにした、疲れたらしい少年の上半身。少年は涙を流しはじめる。が、やつと氣をとり直し、高い空を見上げながら、もう一度こちらへ歩きはじめる。

         46

 かすかに星のかがやいた夕空。そこへ大きい顏が一つおのづからぼんやりと浮かんで來る。顏は少年の父親らしい。愛情はこもつてゐるものの、何か無限にもの悲しい表情。しかしこの顏も暫らくの後(のち)、霧のやうにどこかへ消えてしまふ。

         47

 縱に見た往來。少年はこちらへ後ろを見せたまま、この往來を歩いて行く。往來は餘り人通りはない。少年の後ろから歩いて行く男。この男はちよつと振り返り、マスクをかけた顏を見せる。少年は一度も後ろを見ない。

         48

 斜めに見た格子戸造りの家の外部。家の前には人力車が三臺後ろ向きに止まつてゐる。人通りはやはり澤山ない。角隱しをつけた花嫁が一人、何人かの人々と一しよに格子戸を出、靜かに前の人力車に乘る。人力車は三臺とも人を乘せると、花嫁を先に走つて行く。そのあとから少年の後ろ姿。格子戸の家の前に立つた人々は勿論少年に目もやらない。

         49

 「XYZ會社特製品、迷ひ子、文藝的映畫」と書いた長方形の板。これもこの板を前後にしたサンドウィッチ・マンに變つてしまふ。サンドウィッチ・マンは年をとつてゐるものの、どこか仲店を歩いてゐた、都會人らしい紳士に似てゐる。後ろは前よりも人通りは多い、いろいろの店の並んだ往來。少年はそこを通りかかり、サンドウィッチ・マンの配つてゐる廣告を一枚貰つて行く。

         50

 縱に見た前の往來。松葉杖をついた癈兵(はいへい)が一人ゆつくりと向うへ歩いて行く。癈兵はいつか駝鳥に變つてゐる。が、暫らく歩いて行くうちに又癈兵になつてしまふ。横町の角にはポストが一つ。

         51

 「急げ。急げ。いつ何時(なんどき)死ぬかも知れない。」

         52

 往來の角に立つてゐるポスト。ポストはいつか透明になり、無數の手紙の折り重なつた圓筒の内部を現して見せる。が、見る見る前のやうに唯のポストに變つてしまふ。ポストの後ろには暗(やみ)のあるばかり。

         53

 斜めに見た藝者屋町(げいしややまち)。お座敷へ出る藝者が二人ある御神燈のともつた格子戸を出、靜かにこちらへ歩いて來る。どちらも何の表情も見せない。二人の藝者の通りすぎた後(のち)、向うへ歩いて行く少年の姿。少年はちよつとふり返つて見る。前よりもさらに寂しい表情。少年はだんだん小さくなつて行く。そこへ向うに立つてゐた、背の低い聲色遣(こわいろつか)ひが一人やはりこちらへ歩いて來る。彼の目(ま)のあたりへ近づいたのを見ると、どこか少年に似てゐないことはない。

         54

 大きい針金の環(くわん)のまはりにぐるりと何本もぶら下げたかもじ。かもじの中には「すき毛入り前髮立て」と書いた札も下つてゐる。これ等のかもじはいつの間にか理髮店の棒に變つてしまふ。棒の後ろにも暗(やみ)のあるばかり。

         55

 理髮店の外部。大きい窓硝子の向うには男女(なんによ)が何人も動いてゐる。少年はそこへ通りかかり、ちよつと内部を覗いて見る。

         56

 頭を刈つてゐる男の横顏。これも暫らくたつた後(のち)、大きい針金の環(くわん)にぶら下げた何本かのかもじに變つてしまふ。かもじの中に下つた札が一枚。札には今度は「入れ毛(げ)」と書いてある。

         57

 セセッション風に出來上つた病院。少年はこちらから歩み寄り、石の階段を登つて行く、しかし戸の中へはひつたと思ふと、すぐに又階段を下(くだ)つて來る。少年の左へ行つた後(のち)、病院は靜かにこちらへ近づき、とうとう玄關だけになつてしまふ。その硝子戸を押しあけて外へ出て來る看護婦が一人。看護婦は玄關に佇んだまま、何か遠いものを眺めてゐる。

         58

 膝の上に組んだ看護婦の兩手。前になつた左の手には婚約の指環が一つはまつてゐる。が、指環はおのづから急に下へ落ちてしまふ。

         59

 僅かに空(そら)を殘したコンクリイトの塀(へい)。これもおのづから透明になり、鐵格子の中に群(むらが)つた何匹かの猿を現して見せる。それから又塀全體は操り人形の舞臺に變つてしまふ。舞臺はとにかく西洋じみた室内。そこに西洋人の人形が一つ怯づ怯づあたりを窺つてゐる。覆面をかけてゐるのを見ると、この室へ忍びこんだ盜人(ぬすびと)らしい。室(へや)の隅には金庫が一つ。

         60

 金庫をこぢあけてゐる西洋人の人形。但しこの人形の手足についた、細い絲も何本かははつきりと見える。………

         61

 斜めに見た前のコンクリイトの塀。塀はもう何も現してゐない。そこを通りすぎる少年の影。そのあとから今度は背むしの影。

         62

 前から斜めに見おろした往來。往來の上には落ち葉が一枚風に吹かれてまはつてゐる。そこへ又舞ひ下(さが)つて來る前よりも小さい落葉が一枚。最後に雜誌の廣告らしい紙も一枚飜(ひるがへ)つて來る。紙は生憎引き裂かれてゐるらしい。が、はつきりと見えるのは「生活、正月號」と云ふ初號活字である。

         63

 大きい常磐木(ときはぎ)の下(した)にあるベンチ。木々の向うに見えてゐるのは前の池の一部らしい。少年はそこへ歩み寄り、がつかりしたやうに腰をかける。それから涙を拭ひはじめる。すると前の背むしが一人やはりベンチへ來て腰をかける。時々風に搖れる後ろの常磐木。少年はふと背むしを見つめる。が、背むしはふり返りもしない。のみならず懷(ふところ)から燒き芋を出し、がつがつしてゐるやうに食ひはじめる。

         64

 燒き芋を食つてゐる背むしの顏。

         65

 前の常磐木のかげにあるベンチ。背むしはやはり燒き芋を食つてゐる。少年はやつと立ち上り、頭を垂れてどこかへ歩いて行く。

         66

 斜めに上から見おろしたベンチ。板を透かしたベンチの上には蟇口が一つ殘つてゐる。すると誰かの手が一つそつとその蟇口をとり上げてしまふ。

         67

 前の常磐木のかげにあるベンチ。但し今度は斜めになつてゐる。ベンチの上には背むしが一人蟇口の中を檢べてゐる。そのうちにいつか背むしの左右に背むしが何人も現れはじめ、とうとうしまひにはベンチの上は背むしばかりになつてしまふ。しかも彼等は同じやうにそれぞれ皆熱心に蟇口の中を檢べてゐる。互に何か話し合ひながら。

         68

 寫眞屋の飾り窓。男女(なんによ)の寫眞が何枚もそれぞれ額縁にはひつて懸つてゐる。が、それ等の男女の顏もいつか老人に變つてしまふ。しかしその中にたつた一枚、フロック・コオトに勳章をつけた、顋髭(あごひげ)のある老人の半身だけは變らない。唯その顏はいつの間にか前の背むしの顏になつてゐる。

         69

 横から見た觀音堂。少年はその下を歩いて行く。觀音堂の上には三日月が一つ。

         70

 觀音堂の正面の一部。但し扉はしまつてゐる。その前に禮拜(らいはい)してゐる何人かの人々。少年はそこへ歩みより、こちらへ後ろを見せたまま、ちよつと觀音堂を仰いで見る。それから突然こちらを向き、さつさと斜めに歩いて行つてしまふ。

         71

 斜めに上から見おろした、大きい長方形の手水鉢(てうづばち)。柄杓(ひしやく)が何本も浮かんだ水には火(ほ)かげもちらちら映つてゐる。そこへ又映つて來る、憔悴(せうすゐ)し切つた少年の顏。

         72

 大きい石燈籠の下部。少年はそこに腰をおろし、兩手に顏を隱して泣きはじめる。

         73

 前の石燈籠の下部の後ろ。男が一人佇んだまま、何かに耳を傾けてゐる。

         74

 この男の上半身。尤も顏だけはこちらを向いてゐない。が、靜かに振り返つたのを見ると、マスクをかけた前の男である。のみならずその顏も暫らくの後(のち)、少年の父親に變つてしまふ。

         75

 前の石燈籠の上部。石燈籠は柱を殘したまま、おのづから炎になつて燃え上つてしまふ。炎の下火になつた後(のち)、そこに開き始める菊の花が一輪。菊の花は石燈籠の笠よりも大きい。

         76

 前の石燈籠の下部。少年は前と變りはない。そこへ帽を眉深(まぶか)にかぶつた巡査が一人歩みより、少年の肩へ手をかける。少年は驚いて立ち上り、何か巡査と話をする。それから巡査に手を引かれたまま、靜かに向うへ歩いて行く。

         77

 前の石燈籠の下部の後ろ。今度はもう誰(たれ)もゐない。

         78

 前の仁王門の大提燈(おほぢやうちん)。大提燈は次第に上へあがり、前のやうに仲店を見渡すやうになる。但し大提燈の下部だけは消え失せない。


(昭和二・三・十四)