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鬼火へ
芥川龍之介「枯野抄」やぶちゃんの授業ノート 新版
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(2006―2014 藪野直史 この授業案の著作権は放棄する)
[やぶちゃん注:授業の便宜上、全体の構成を八段(冒頭引用を除く。内、第一段と第二段はさらに二節に分離したので結果として十パート)に分けた。本文は芥川龍之介の原文を尊重して、以上に示したものをそのまま配してあるが、高校生が読解する場合を考慮して、語注では読みが振れると私が判断したもの及び難読と思われる語句を可能な限り網羅的に挙げ、現代仮名遣の読みをルビで附した。私としては若者には芥川龍之介レベルの文章は正字正仮名で読めるようになって欲しいという思いを込めて、この一見、神経症的な語注を用意したものと思って戴きたい。
語注では利用し得る限りの辞書事典類及び芥川龍之介諸関連本その他、更にネット上の専門サイトの記載等を、吟味精査した上で用いている。教案を名乗っており、実際のプラグマティクな授業用であるため、引用や参考元などの記載は一切行っていないが、全くのコピー・ペストは一箇所もないと自信を持って言える。
なお、この授業ノートは私が手掛けた最後の、授業をしない「授業案」となるであろう。従って私は本授業ノートの著作権を放棄する。
個人的には如何なる指導書よりも詳しく、どれにも似ていないアブナい指導案となったと秘かに自負するものである。
他に参考資料として芥川が「枯野抄」の創作秘話を語った「一つの作が出來上るまで――「枯野抄」――「奉教人の死」――」のテクスト・データを附し、素材とした「芭蕉臨終記 花屋日記」文曉(偽書)・「前後日記」各務支考(「笈日記」より)・「芭蕉翁終焉記」宝井其角(「枯尾花集」より)の私の作成したPDF縦書データへのリンク等も附けてある。
興味を持たれた奇特な若き国語教師の方は、どうぞ、「おのおの遣ひたまへ」――【二〇一四年十一月二十八日新版差替 藪野直史 ――三百二十年後の芭蕉臨終のその日に――(芭蕉が亡くなった元禄七年十月十二日(逝去は同日午後四時頃)はグレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日である。これは二〇一四年十一月二十八日、まさに暦上のシンクロニティたる祥月命日に合わせてこの新版を公開したということを指す)】]
■冒頭引用
丈草、去來を召し、昨夜目のあはざるまま、ふと案じ入りて、呑舟に書かせたり、
おのおの咏じたまへ
旅に病むで夢は枯野をかけめぐる
――花屋日記――
《語注》
・丈草(じょうそう):後掲する「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・去來(きょらい)後掲する:「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・呑舟(どんしゅう):大原呑舟(寛政四(一七九二)年~安政四(一八五七)年)。大阪蕉門の重鎮槐本(えのもと)之道(しどう)の門人で画家。阿波国の生まれ。名は鯤(こん)、別号に崑崙(こんろん)など。京に出て、大原呑響(どんきょう)の養子となった。本句を筆記したのは「事実」と考えられている(*何も付け加えずに言う)。
・咏(えい)じ:「詠じ」に同じ。
・病(や)むで:元来の語表現としてはこれが正しいが、発音上、「病んで」と撥音に変化したもの(平安末期には発生し、実際に「病んで」と云う風な表記も始まっている)。
・(冒頭引用前書全訳)
芭蕉さまが、丈草、去来をお呼びになり、「昨夜眠られぬままに、ふと句案が浮かび、
呑舟(どんしゅう)に書き取らせた。おのおのがた、お詠み下さい。」
・旅に病んで夢は枯野をかけめぐる:実質上の芭蕉の辞世であるが、芭蕉がこれを確信犯として辞世と強く自覚していたかどうかは定かではない。
(句意)旅の途中で病に伏していると、夢は早くも、しきりにこれから行く先に待っている寂しい枯野をかけめぐっていることだ
本句は元禄七年の陰暦十月九日(グレゴリオ暦の一六九四年では十一月二十五日午前二時頃の本作で描かれる病床での作とされる。芭蕉は、このほぼ四日後の十月十二日(グレゴリオ暦の一六九四年では十一月二十八日)申の刻(午後四時頃)に享年(数え)五十一歳(数え)で亡くなった。即ち、本作はその臨終の日、
元禄七年(陰暦)十月十二日(グレゴリオ暦一六九四年十一月二十八日)
が舞台内時間であることをプレで確認する。
・花屋日記:芥川龍之介が本作の主素材とした、僧の文暁の著になる「芭蕉翁終焉記 花屋日記」(文化八(一八一一)年刊)。別名「芭蕉翁反古文(ばしょうおうほごぶみ)」「翁反古(おきなほご)」とも呼ぶ。上下二巻からなり、上巻には芭蕉の発病から終焉・葬送に至る模様を伝える門人たちの手記を、下巻には門弟・縁者の書簡を収める(※本書は現在は偽作(創作)であることが判明しているが、これについては、生徒の読解意欲を殺がないために。ここでは敢えて紹介しないでおく)。
(「花屋日記」引用の前後部分)
九日 諸子の取はからひとして、ふるき衣裝又夜具などの、垢つきたる不淨あるを脱かはし、よき衣に召せかへまゐらせ申。師曰、我邊地波濤のほとりに、革を敷寐、塊を枕として、終をとるべき身の、かゝる美々しき褥のうへに、しかも未來までの友どちにぎにぎしく、鬼錄に上らむこと、受生の本望なり。丈草・去來と召。昨夜目のあはざるまゝ、不斗案じ入て、呑舟に書せたり。各詠じたまへ。
旅に病で夢は枯野をかけ𢌞る
枯野をめぐる夢心ともし侍る。いづれなるべき。これは辭世にあらず、辭世にあらざるにもあらず。病中の吟なり。併かゝる生死の一大事を前に置ながら、いかに生涯好みし一風流とは言ながら、是も妄執の一ツともいふべけん。今はほいなし。去來言、左にあらず。日々朝雲暮雨の間もおかず、山水野鳥のこゑもすてたまはず。心身風雅ならざるなく、かくる河魚の患につかれ給ひながら、今はのかぎりに其風神の名章を唱へ給ふ事、諸門葉のよろこび、他門の聞え、末代の龜鑑なりと、涕すゝり泪を流す。眼あるもの是を見ば、魂を飛さむ。耳あるもの是をきかば、毛髮これがために動かむ。列座の面々、感慨悲想して、慟絶して、聲なし。是師翁一代遣教經なり。此日より殊更におとろへたまへり。度數しれず。(去來記)
■第一段 プロローグ~大書割からセットへ
□第一節 いかにも町人の町らしい情景描写
元祿七年十月十二日の午後である。一しきり赤々と朝燒けた空は、又昨日のやうに時雨(しぐ)れるかと、大阪商人(おほさかあきんど)の寢起(ねおき)の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘つたが、幸、葉をふるつた柳の梢を、煙らせる程の雨もなく、やがて曇りながらもうす明い、もの靜な冬の晝になつた。立ちならんだ町家(まちや)の間を、流れるともなく流れる川の水さへ、今日はぼんやりと光澤(つや)を消して、その水に浮く葱(ねぶか)の屑も、氣のせゐか靑い色が冷たくない。まして岸を行く往來の人々は、丸頭巾(まるづきん)をかぶつたのも、革足袋をはいたのも、皆凩(こがらし)の吹く世の中を忘れたやうに、うつそりとして歩いて行く。暖簾(のれん)の色、車の行きかひ、人形芝居の遠い三味線の音――すべてがうす明い、もの靜な冬の晝を、橋の擬寶珠(ぎばうしゆ)に置く町の埃も、動かさない位、ひつそりと守つてゐる……
《語注》
・時雨(しぐ)れる:初冬の時期に、一時、風が強まって急にぱらぱらと降っては止む、にわか雨を指す。
・幸(さいわい):幸運にも。副詞的用法。
・煙(けぶ)らせる
・もの靜(しずか)な
・明(あかる)い
・葱(ねぶか):ねぎ。ここは与謝蕪村の知られた句、
易水に葱(ねぶか)流るゝ寒さかな
を意識したものと思われる。句は「史記」「刺客列伝」の
風蕭蕭兮易水寒 壮士一去兮不復還
(風蕭々として易水寒く 壮士ひとたび去ってまた還らず)
に基づく。
・丸頭巾(まるづきん): 縁を縫い縮めて丸く作った頭巾。僧・老人などが被った(*百人一種の坊主の絵札を思い出させる)。
・うつそり:「うっそり」。ぼんやりと。呆けたように。
・人形芝居:人形浄瑠璃。(*文楽を概説。)
・擬寶珠(ぎぼうしゅ):宮殿の廻廊や橋の欄干などの、柱の頂きにとりつける丸く先の尖った葱の花の形をした飾り。ぎぼうし。一説に仏教の宝珠(ほうじゅ)に由来すると言われる。宝珠は舎利壺(釈迦の骨壺)の形とも、龍神の持つ霊珠ともされ、地蔵菩薩などの仏像が掌に載せているもののこと。
○芭蕉の忌日 旧暦十月十二日
(*現在の十一月上中旬に相当すること・グレゴリオ暦では一六九四年十一月二十八日)であること・現在只今(今日)の新暦を陰暦に換算しても季節感はずれてしまうことなどを注意させる)
○ロング・ショットからクレーン・ダウン
☆「一しきり赤々と朝燒けた空は、又昨日のやうに時雨(しぐ)れるかと、大阪商人(おほさかあきんど)の寢起(ねおき)の眼を、遠い瓦屋根の向うに誘つた」が示している多量の情報を丁寧に読み解く。
●朝焼け→雨の予兆
●昨日はしっかりと雨が降ったという事実=今日の空気の清澄感
●大阪商人の早起き
●その眼を向けた大阪商人の考えていることは?
☆朝から午後へ~一文中での時間的描出の妙味!
(*ここで一気に時間が経過していることに注意させる)
☆かすかな湿りと冷ややかではあるが、透明感のある空気描き方、葱や擬宝珠のアップによる鮮やかな色彩効果、遠い人形浄瑠璃の三味の音のSE(音響効果)の巧みさを見逃さない!
☆クロース・アップやバスト・ショットの、カット・バックを重ねた昼景描写の妙に着目!
□第一段第二節 登場人物のモンタージュ
この時、御堂前南久太郎町、花屋仁左衞門の裏座敷では、當時俳諧の大宗匠と仰がれた芭蕉庵松尾桃靑が、四方から集つて來た門下の人人に介抱されながら、五十一歳を一期として、「埋火(うづみび)のあたたまりの冷むるが如く、」靜に息を引きとらうとしてゐた。時刻は凡そ、申(さる)の中刻(ちうこく)にも近からうか。――隔ての襖をとり拂つた、だだつ廣い座敷の中には、枕頭に炷(た)きさした香の煙が、一すぢ昇つて、天下の冬を庭さきに堰いた、新しい障子の色も、ここばかりは暗くかげりながら、身にしみるやうに冷々(ひやひや)する。その障子の方を枕にして、寂然(じやくねん)と横はつた芭蕉のまはりには、先、醫者の木節が、夜具の下から手を入れて、間遠い脈を守りながら、浮かない眉をひそめてゐた。その後に居すくまつて、さつきから小聲の稱名を絶たないのは、今度伊賀から伴に立つて來た、老僕の治郎兵衞に違ひない。と思ふと又、木節の隣には、誰の眼にもそれと知れる、大兵肥滿(だいひやうひまん)の晉子(しんし)其角が、紬(つむぎ)の角通(かくどほ)しの懷(ふところ)を鷹揚にふくらませて、憲法小紋の肩をそば立てた、ものごしの凛々(りゝ)しい去來と一しよに、ぢつと師匠の容態を窺つてゐる。それから其角の後には、法師じみた丈草が、手くびに菩提樹の珠數をかけて、端然と控へてゐたが、隣に座を占めた乙州の、絶えず鼻を啜つてゐるのは、もうこみ上げて來る悲しさに、堪へられなくなつたからであらう。その容子をぢろぢろ眺めながら、古法衣(ふるころも)の袖をかきつくろつて、無愛想な頤(おとがひ)をそらせてゐる、背の低い僧形(そうぎやう)は惟然坊で、これは色の淺黑い、剛愎さうな支考と肩をならべて、木節の向うに坐つてゐた。あとは唯、何人かの弟子たちが皆息もしないやうに靜まり返つて、或は右、或は左と、師匠の床を圍みながら、限りない死別の名ごりを惜しんでゐる。が、その中でもたつた一人、座敷の隅に蹲(うづくま)つて、ぴつたり疊にひれ伏した儘、慟哭の聲を洩してゐたのは、正秀ではないかと思はれる。しかしこれさへ、座敷の中のうすら寒い沈默に抑へられて、枕頭の香のかすかな匂を、擾す程の聲も立てない。
芭蕉はさつき、痰喘(たんせき)にかすれた聲で、覺束ない遺言(ゆゐごん)をした後(あと)は、半ば眼を見開いた儘、昏睡の狀態にはいつたらしい。うす痘痕(いも)のある顏は、顴骨(くわんこつ)ばかり露(あらは)に瘦せ細つて、皺に圍まれた脣にも、とうに血の氣はなくなつてしまつた。殊に傷しいのはその眼の色で、これはぼんやりした光を浮べながら、まるで屋根の向うにある、際限ない寒空(さむぞら)でも望むやうに、徒に遠い所を見やつてゐる。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる。」――事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辭世の句に詠じた通り、茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のやうに漂つてでもゐたのかも知れない。
《語注》
・御堂前(みどうまえ)南久(みなみきゅう)太郎(たろう)町(まち):現在の大阪市の中心的な産業地区である大阪府大阪市中央区船場(せんば)にある久太郎町通(どおり)。中央大通(おおどおり)が整備されるまでは南久太郎町通と呼ばれた。現在は大阪府大阪市中心部を南北に縦断するである国道御堂筋に面して大阪センタービルや「御堂」として知られる真宗大谷派難波別院などがある(厳密に言うと「御堂」は北御堂(本願寺津村別院)と南御堂(真宗大谷派難波別院)が沿道にあることに由来する)。
・花屋仁左衞門(はなやにざえもん):一般には宿屋とされるようであるが、事実は「花屋」とあるように御堂に花卉を納める出入りの花屋であった。
・裏座敷:花屋所有の貸座敷であった。
・芭蕉庵松尾桃靑(とうせい):松尾芭蕉(寛永二一(一六四四)年~元禄七(一六九四)年)。伊賀国上野(現在の三重県伊賀市)生まれ。名は忠右衛門宗房。俳号としては当初は実名の宗房を用いていたが、後に桃青・芭蕉と改めた。元、北村季吟門下。
・宗匠(そうしょう):和歌、連歌、俳句、茶道などの師匠。俳諧宗匠は連句興行や俳席の場にあって指導運営をし、歳(さい)旦帳(たんちょう)(年初の発句や三つ物(発句・脇句・第三の三句を集めた縁起物として配布した摺物(すりもの))や撰集を刊行して一門を経営した。芭蕉の立机(りっき)(職業的俳諧師として俳諧宗匠となること)は延宝六(一六七八)年、満三十四歳の頃に比定されている。
・一期(いちご):一生。生涯。生まれてから死ぬまで。
・埋火(うずみび):灰に埋めた炭火。ここは「花屋日記」の芭蕉臨終のシーンの、『合掌たゞしく觀音經ときこえて、かすかに聞え、息のかよひも遠くなり、申の刻過て、埋火のあたゝまりのさむるがごとく、次郎兵衞が抱きまゐらせたるに、よりかゝりて寐入給ひぬとおもふ程に、正念にして終に屬曠につき給ひけり。時に元祿七甲戌十月十二日申の中刻、御年五十一歳なり。』(エンディングで再掲)とあるのから、フライング引用している。
・申(さる)の中刻(ちゅうこく):午後三時四十分頃から四時二十分頃。当時のスロー・ライフから言えば、実際の芭蕉終焉の時刻(午後四時頃)としては問題ない設定であり、この小説の以下の時間経過は決して事大主義的なのろのろしたものでないという点でも首肯出来る時間と言える。
・枕頭(ちんとう):臥している人の枕のそば。枕上(まくらがみ)。
・炷(た)きさした:「たく」は香をたくの意に用いる。「さす」は「読みさし」等と言うのと同じで、動作が途中であることを添えて動詞を作る接尾語。たきかけた、たいてまだ間もない、の意。
・天下の冬を庭先に堰(せ)いた:「堰いた」はせき止める、遮断するの意。 室内では各部屋の襖がはずしてあるが、戸外との間には障子があって、冬の寒さを庭先までさえぎりとめている、という比喩表現。
・寂然(じゃくねん):ひっそりと。静かに。「せきぜん」とも読むが、芥川は作品集「傀儡師」で「じやくねん」とルビを振っている。
・先(まず)
・木節(もくせつ):後掲する「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・間遠(まどお)い:間隔が長い。
・浮かない眉(まゆ):不安そうな、うきうきしない様子。「ひそめた眉」と同義で、ダブった表現となっている。
・その後(うしろ)に
・稱名(しょうみょう):念仏。「南無阿弥陀仏」と唱えること。
・老僕(ろうぼく):年老いた下男。
・治郎兵衞(じろべえ):後掲する「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・大兵肥滿(たいひょうひまん):体格が太くたくましく肥え太っていること。
・晉子(しんし)其角:後掲する「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・紬(つむぎ):つむぎ糸(くず繭あるいは真綿)で織った絹布。
・角通(かくどほ)し:当時の格調高い江戸の小紋(着物の種類の一つ。通常、全体に細かな模様を入れることからついた。普通の訪問着などは肩の方が上になるように模様づけされるのに対し、小紋はそうした衣服の上下方向とは無関係に模様が入っているのが特徴)を代表する江戸小紋三役(他は細かな粒が縦横に整然と並ぶ「鮫」と細かな丸い点が斜めに連続した「行儀」)の柄の一つ。細かい正方形を縦横に連続させた模様で、これは「縦にも横にもしっかり筋を通す」という意気込みをも示すとされる。
・憲法小紋(けんぽうこもん):「憲法」は憲法染めという独特の染め方をいう。江戸初期の兵法師範であった吉岡憲法が、渡来した明の人から伝授された手法を以って創始したと伝える、黒茶染めの染め方。ここは赤みがかった暗い灰色を地色として染めた小紋(染め)を指す。江戸時代には黒系統の平服として広く愛用された。
・鷹揚(おうよう)に:ゆったりとしてこせこせしていない様子。
・凛々(りり)しい:勇ましく、きりりとしまっている。主に後者の謂いを採る。
・端然(たんぜん):正しく整っているさま。きちんとしているさま。
・容態(ようだい):「ようたい」と読んでもよい。
・法師じみた:この「じみた」は、「如何にも~といった感じを漂わせている」、の意。しばしば誤って用いられる傾向が強い、「似てその実、非なる」という謂いではない。
・菩提樹(ぼだいじゅ):狭義には釈迦がその樹下で悟りを開いたとする双子葉植物綱イラクサ目クワ科イチジク属インドボダイジュを指すが、本邦の仏教寺院では本種の代用として双子葉植物綱アオイ目アオイ科シナノキ属ボダイジュがよく植えられており、そのためボダイジュが「菩提樹」であるかのように誤解されることが多い。但し、彼が持っている数珠は真正のものである可能性は高い。
・乙州(おとくに):後掲する「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・啜(すす)つて
・容子(ようす):様子。
・頤(おとがい):下顎(したあご)。
・惟然坊(いねんぼう):後掲する「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・剛愎(ごうふく):頑固で容易に人に従わないさま。また、気が強くて独立自尊の心の強いこと。ここは取り敢えず両意を採ってよい。
・慟哭(どうこく):大声をあげて泣き叫ぶこと。号泣。
・洩(もら)して
・正秀(せいしゅう):後掲する「□第一段第二節」の「★登場人物の確認」を参照。
・匂(におい)
・擾(みだ)す:騒擾(そうじょう)する。乱す。
・痰喘(たんせき):痰が詰まり、咳き込んだ状態。「喘」は「喘(あえ)ぐ」と訓ずる。本来は「タンゼン」が正しく、これは喘息の謂いでもある。
・覺束(おぼつか)ない
・うす痘痕(いも):薄痘痕(うすあばた)。微かなあばた。所謂、しみ。老人性色素斑のこと。
・顴骨(かんこつ):頬骨。
・脣(くちびる)
・茫々(ぼうぼう):(一)広くはるかなさま。(二)ぼんやりとしてとりとめのないさま。(三)草・髪などが乱れをおい茂るようす。ここも多層的な意味で、総てのニュアンスを含んでいる。
・一痕(いっこん):一つの跡・形跡。ここのように月の光りなどに用いる。
〇奥座敷の門人の風貌
(*その簡略な容貌描写が、これから芥川の銀のピンセットでいちいち剖検されるところの、それぞれの内実の ※伏線※ とされていることに注意させる)
〇配置図(一部推定)=映像化への重要な作業
~番号は芥川の描写の順(⑤番目―臺⑤段―は「乙州」と「正秀」の二人を描写する)
(庭)
――――――――――――――――――――――――――(障子)
②治 ①木 芭 ⑦惟
⑧丈 ③其 蕉 ⑥支
⑤乙 ④去
⑤正
――――――――――――――――――――――――――(襖)
★登場人物の確認(これ以外にも先に出た「呑舟(どんしゅう)」や後に出る「之道(しどう)」他、多くの弟子が周囲にいる事実をも指摘することを忘れずに)
(*①を除き、現在知られる事実の事蹟を中心にする。①の事実はまだ明かさない)
①治郎兵衛(じろべえ):今回、郷里伊賀上野から連れ立ってきた昔馴染みの松尾家家附きの老下男。
②木節(もくせつ):望月木節(生没年不詳)。近江蕉門の一人。医師として末期の芭蕉の主治医を兼ねた。芭蕉自らが彼の処方や治療を望んだとされている。
③其角(きかく):蕉門十哲の一人。宝井其角(寛文元(一六六一)年~宝永二(一七〇五)年)江戸生まれ。本名、竹下侃憲(ただのり)。前に出た「晉子(しんし)」は俳号。近江国膳所藩御殿医竹下東順長男として医師を志したが、父の紹介で蕉門に入り、第一の高弟となった。博覧強記の才人。この時は、たまたま好きな上方方面への旅行中で、江戸蕉門ではただ一人、師の臨終に立ち会うことが出来た。(*赤穂浪士の一人大高忠雄との話など附説する)当時、満三十三歳。
④去来(きょらい):蕉門十哲の一人。向井去来(慶安四(一六五一)年~宝永元(一七〇四)年)肥前国長崎の医師(後に宮中儒医)の次男として生まれた。本名、向井平次郎。武芸にも優れたが、若くして武士身分を捨てている。京都嵯峨野の落柿舎(らくししゃ)を中心に西日本蕉門の束ねとして。「西国三十三ヶ国俳諧奉行」と渾名されるほどの活躍を成した。「去来抄」など、蕉門きっての学究系の逸材。当時、四十三歳。
⑤乙州(おとくに):川井乙州(生没年未詳)大津生まれ。問屋兼伝馬役川井左右衛門の妻で芭蕉パトロンにして女流の門人でもあった川合智月の弟で、後にこの川井家の養嗣子となった。大津蕉門の重鎮の一人で、通称の又七や次郎助の名でもしばしば芭蕉の関連書に出る(妻の荷月も蕉門となっている)。一説の没年齢などから仮に考えると、当時、三十代後半か。
⑤正秀(せいしゅう):水田(みずた)正秀(まさひで)(明暦三(一六五七)年~享保八(一七二三)年)近江蕉門の重鎮の一人であった菅沼曲水の伯父といわれる。近江生まれ。武士で膳所藩の重役にあったと推定されており、芭蕉のパトロンの一人でもあった。当時、三十七歳。
⑥支考(しこう):各務(かがみ)支考(寛文五(一六六五)年~享保一六(一七三一)年)。蕉門十哲の一人。美濃国山県郡北野村(現在の岐阜市)生まれ。幼少の頃に父を失い、禅刹大智寺に小僧として預けられたが、山を下って乞食僧となり、諸国を行脚、十九の頃に還俗(げんぞく)して京都や伊勢で修学、元禄の始め頃に蕉門に入った。蕉門十哲の一人である森川許六とともに論客と知られたが、利己的で門人内での評判はあまり良くない。芭蕉没後は其角のグループと分裂し、後年は美濃派の育成に努めた。この芭蕉の臨終の床では遺書を代筆している。後に出る「東花坊」彼の俳号の一つ。因みに彼は生涯を僧形で通した。当時、二十九歳。
⑦惟然坊(いねんぼう):広瀬維然(?~正徳元(一七一一)年)。武田信玄家臣広瀬郷左衛門の子孫で、美濃国関の酒造家岩本屋の三男坊。本名、広瀬源之丞。当初、素牛(そぎゅう)と号した。この直前、芭蕉が伊賀から最後の大坂入りをした際、伊賀から随行、この臨終に至るまで、その末期の時間を殆ど一緒に過ごした門人であった。一説による没年齢から仮に考えると、当時、既に四十を越えていたと考えられ、この主要人物の中では、事実としては去来とともに最年長グループに属すると考えてよいであろう。
⑧丈草(じょうそう):内藤丈草(寛文二(一六六二)年~元禄一七(一七〇四))年)蕉門十哲の一人。尾張国犬山藩士内藤源左衛門長男であったが、幼少時に生母と死別して継母に育てられ、公私ともに不幸な半生を歩んだ。若くして無常を感じ、武士を捨てて遁世、近江松本に隠棲後、元禄初めに蕉門に入った。その後、後に芭蕉が葬られることとなる膳所義仲寺境内にある無名庵を栖かとし、しばしばあった芭蕉の近江滞在中は常に芭蕉のそばにあった。この芭蕉の死の二年後の元禄九(一六九六年)には近くの竜が岡(現在の滋賀県大津市竜が丘)に仏幻庵を結び、芭蕉の没後、自ら示寂(じじゃく)(享年四十三歳)するまでの十年、ただただ師の追善に日々を送ったと伝えられる。当時、三十二歳。
☆死に瀕した病みつかれた痛ましい芭蕉~「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」の芥川による簡明にして秀抜な句解釈に着目する
『事によるとこの時、このとりとめのない視線の中には、三四日前に彼自身が、その辭世の句に詠じた通り、茫々とした枯野の暮色が、一痕の月の光もなく、夢のやうに漂つてでもゐたのかも知れない。』
↓
昏睡の夢の中に在って芭蕉一人きり →※伏線※
段(以下最後までのくっきりとした一人一人の整然としたエピソード構成に着目)
□第二段第一節 [治郎兵衛]
「水を。」
木節はやがてかう云つて、靜に後にゐる治郎兵衞を顧みた。一椀の水と一本の羽根楊子(はねやうじ)とは、既にこの老僕が、用意して置いた所である。彼は二品をおづおづ主人の枕元へ押し並べると、思ひ出したやうに又、口を早めて、專念に稱名(しょうみやう)を唱へ始めた。治郎兵衞の素朴な、山家育ちの心には、芭蕉にせよ、誰にもせよ、ひとしく彼岸(ひがん)に往生するのなら、ひとしく又、彌陀の慈悲にすがるべき筈だと云ふ、堅い信念が根を張つてゐたからであらう。
《語注》
・一椀(ひとわん)
・二品(ふたしな)
・羽根楊子(はねやうじ):細長い柄の先に小鳥の羽をつけた小さな楊枝。鉄漿(おはぐろ)や薬などをつけるのに用いるが、ここは唇を潤すのに置かれてある。以下、最早、死に水の儀式に入る。
・山家(やまが):山里にある家。山村。
・誰(*私は朗読では強意で「たれ」と読む)
・彼岸(ひがん):【仏教用語】こちらの岸(=此岸(しがん)・現世)から彼の岸(=涅槃(ねはん))に行くこと。つまり仏道に精進し、迷いを脱し、涅槃に達すること。悟りの境地。
・往生(おうじょう):【仏教用語】死後、極楽浄土に生まれること。
・彌陀(みだ)の慈悲(じひ):【仏教用語】阿弥陀仏が人々に楽を与え、あらゆる苦しみを取り去ること。
〇従順な老下男=(愚昧(ぐまい)な)大衆を代表する男=(一つ覚えの)念仏の信者。
(*但し、実際は若者であった事実をここで初めて暴露する。この次郎兵衛なる人物は生没年不詳であるが、青年である。一説によれば、彼の母は芭蕉の内縁の妻のような存在であった、この三月前に深川芭蕉庵で亡くなった寿貞(じゅてい)(?~元禄七年六月二日)の連れ子であったともされる。ところが別説では、治郎兵衛は実は芭蕉が若き日にこの寿貞との間にもうけた実の子であったという説もあること、寿貞に纏わる不可解なエピソードや芭蕉の述懐及び芭蕉の追悼吟「数ならぬ身となおもひそ玉祭」などを紹介する)
(*称名念仏と御題目の違いとそれぞれの宗教的意味を解説)
(*ここで、序でに芥川が素材とした文曉の芭蕉臨終記「花屋日記」が偽書であることを紹介、但し、芥川龍之介は実はこれが偽書であることに薄々気づいていたらしいことも述べて、一種、確信犯的に典拠としていたという可能性を暗示しておく。なお、実は「花屋日記」の下巻所収の書簡には「壽貞子治郎兵衞」(治郎兵衛と同一人物)とはっきり出ているのである)
★素朴~山家育ち= 無知
★ここでの下男治郎兵衛は、芭蕉の周縁の非芸術的存在である一般的な不特定多数の民衆の一人を代表させている。そこには芭蕉個人の死を純粋に悼んでいるのではなく、死ぬ者には誰であろうと一つ覚えの念仏を唱えるべき=唱えることしか能がないもの=無知蒙昧(もうまい)の徒(大衆)という醒めた芥川龍之介の視線が感じられはしないか?
(*但し、彼は唯一、本登場人物の中で門人ではない形で描かれており、皮肉にもその点では仏信心ではないが――救われている――という感じがしないでもない)
□第二段第二節 [木節]
一方又木節は、「水を」と云つた刹那の間、果して自分は醫師として、萬方(ばんぱう)を盡したらうかと云ふ、何時(いつ)もの疑惑に遭遇したが、すぐに又自ら勵ますやうな心もちになつて、隣にゐた其角の方をふりむきながら、無言の儘、ちよいと相圖をした。芭蕉の床を圍んでゐた一同の心に、愈と云ふ緊張した感じが咄嗟に閃いたのはこの時である。が、その緊張した感じと前後して、一種の弛緩した感じが――云はば、來る可きものが遂に來たと云ふ、安心に似た心もちが、通りすぎた事も亦爭はれない。唯、この安心に似た心もちは、誰もその意識の存在を肯定しようとはしなかつた程、微妙(びめう)な性質のものであつたからか、現にこゝにゐる一同の中では、最も現實的な其角でさへ、折から顏を見合せた木節と、際どく相手の眼の中に、同じ心もちを讀み合つた時は、流石にぎよつとせずにはゐられなかつたのであらう。彼は慌(あわたゞ)しく視線を側へ外らせると、さり氣なく羽根楊子をとりあげて、
《語注》
・刹那(せつな):【仏教用語】極めて短い時間。梵語(ぼんご)クシャナの音訳。経典「倶舎論(くしゃろん)」によれば、一度指をはじく時間(指弾(しだん)・弾指(だんし))の六十五分の一という極めて短い時間。←→劫
・萬方(ばんぽう):あらゆる手段・処置。
・弛緩(しかん):ゆるむこと。だらけること。←→緊張
・愈(いよいよ)
・咄嗟(とっさ)
・閃(ひらめ)いた
・側(わき)
〇 医師
★医師として、すべてのなすべき=なしうる最善の施療をしたかどうか自問しつつ(しかし、それは「いつもの疑念」=「(医師としての)いつもの」癖でしかない、即ち芭蕉を「ただの一患者」としてしか見ていない)、また気を取り直す。
↓
『手段は尽くした。手落ちはない。彼の死は所詮(しょせん)、天命である。』
↓
職業人として 死を業務の一帰結として捉える のクールな姿。
あとは患者の死を(医師として)待つのみ。
↓
『来るべきもの』が早く来て片付いてもらいたかった。それがやっとやって来たという
↓
安堵
↓そうしてこれは
この場に居合わせているすべての人々の内心 →※伏線※
(*漱石の「こゝろ」の学生の「私」やその兄が最早助かりようはない実の父に対して抱く内心を想起させる。)
(*芭蕉の存在があまりに巨大過ぎ、門弟個々人の存在を圧迫していたという作品末の ※伏線※。尊敬し崇拝する偉大な師であるだけに、それからの解放感も大きいというラストの丈草の内実に、どこまでここの部分で思い至れるかという点もポイント。それは必しも難しいことではない。)
☆どのような点が「微妙」なのか?
何より彼は医師である前に、やはりこの場の治郎兵衛を除く総ての人間と同じく
芭蕉の門人木節 であるという事実に想到すると
芭蕉の死を迎えて安心を感じるなんて……
↓まさか?!
芭蕉の死を無意識にもせよ望んでいた?←―――――↰
↓いや! ↑
門弟として絶対にあるはずがない! ↑
↓しかし…… ↑
事実として安心したじゃないか?! ↑
↓とすれば……[フィード・バックせざるを得ない!]
★ 芭蕉の死を無意識にもせよ望んでいた/いるのかも知れぬ →※伏線※
■第三段 [其角]
「では、御先へ」と、隣の去來に挨拶した。さうしてその羽根楊子へ湯呑の水をひたしながら、厚い膝をにじらせて、そつと今はの師匠の顏をのぞきこんだ。實を云ふと彼は、かうなるまでに、師匠と今生の別をつげると云ふ事は、さぞ悲しいものであらう位な、豫測めいた考もなかつた譯ではない。が、かうして愈末期(まつご)の水をとつて見ると、自分の實際の心もちは全然その芝居めいた豫測を裏切つて、如何にも冷淡に澄みわたつてゐる。のみならず、更に其角が意外だつた事には、文字通り骨と皮ばかりに瘦せ衰へた、致死期の師匠の不氣味な姿は、殆面を背(そむ)けずにはゐられなかつた程、烈しい嫌惡の情を彼に起させた。いや、單に烈しいと云つたのでは、まだ十分な表現ではない。それは恰も目に見えない毒物のやうに、生理的な作用さへも及ぼして來る、最も堪へ難い種類の嫌惡であつた。彼はこの時、偶然な契機(けいき)によつて、醜き一切に對する反感を師匠の病軀の上に洩らしたのであらうか。或は又「生」の享樂家たる彼にとつて、そこに象徴された「死」の事實が、この上もなく呪ふ可き自然の威嚇だつたのであらうか。――兎に角、垂死の芭蕉の顏に、云ひやうのない不快を感じた其角は、殆何の悲しみもなく、その紫がかつたうすい脣に、一刷毛の水を塗るや否や、顏をしかめて引き下つた。尤もその引き下る時に、自責に似た一種の心もちが、刹那に彼の心をかすめもしたが、彼のさきに感じてゐた嫌惡の情は、さう云ふ道德感に顧慮すべく、餘り強烈だつたものらしい。
《語注》
・湯呑(ゆのみ)
・今生(こんじょう):この世に生ある間。この世。現世。
・あらう位(くらい)な(*芥川は「ぐらい」とは濁らない清音のケースの方が多い)
・末期(まつご)の水:死にぎわに口にふくませる水。死に水。
・致死期(ちしき):この語、如何にも芥川龍之介らしい謂いに見え、オリジナルかと錯覚するが、実はこれは彼が「花屋日記」以外に参考にしたところの、宝井其角が元禄七(一六九四)年に出した芭蕉追善集「枯尾花」の一節、「芭蕉翁終焉記」で、病床の芭蕉に対面した際の描写、『予は岩翁・龜翁ひとつ船に、ふけゐの浦心よく詠めて堺にとまり、十一日の夕へ大坂に著て、何心なくおきなの行衞覺束なしとばかりに尋ければ、かくなやみおはすといふに胸さはぎ、とくかけつけて病床にうかゞひより、いはんかたなき懷(ヲモヒ)をのべ、力なき聲の詞をかはしたり。是年ごろの深志に通じて、住吉の神の引立玉ふにやと歡喜す。わかのうらにても祈つる事は、かく有るべしとも思ひよらず、蟻通の明神の物とがめなきも、有がたく覺侍るに、いとゞ泪せきあげてうづくまり居るを、去來・支考がかたはらにまねくゆへに、退いて妄昧の心をやすめけり。膝をゆるめて病顏をみるに、いよいよたのみなくて、知死期も定めなくしぐるゝに、
吹井より鶴を招かん時雨かな 晉子
と祈誓してなぐさめ申けり。』の「知死期」をインスパイアしたものである。
・殆(ほとんど)
・面(おもて)
・恰(あたか)も
・病軀(びょうく):病に冒された体。
・享樂家(きょうらくか):何事も思うままに楽しみを味わうことを信条とする人。
・威嚇(いかく):脅すこと。脅かし。
・垂死(すいし):今にも死にそうな状態。瀕死。
・一刷毛(ひとはけ)
・顧慮(こりょ):気にすること。気を使うこと。「考慮」と同義的と考えてよい。ここ「さう云ふ道德感に顧慮すべく、餘り強烈だつたものらしい」は、――そういう道徳感に基づいた顧慮を加え得るべきものとしては、余りにもそれ(嫌悪感)が強烈なものあったが故に抑制することが出来なかったのであるらしい。――という謂いである。(*今はこういう言い回しはしないにしても、芥川のこの表現の格好良さは、学んでいいと思う)
〇木節の目に、自分と同じ 安堵の気持ち を認めて、ぎょっとする。
↓しかも
〇予測に反して、冷淡に澄みわたった心境。
(「澄わた」るとは心の平衡(フラットな)状態を指す)
↓そうしてだんだんと変化が起こる
★生の享楽家にして現実主義者
↓故に
★醜き一切に対する反感
醜い芭蕉の姿=《醜と死の象徴》=「死」という人間の持つ宿命を突きつけられ脅された
(*「羅生門」の下人が死体を剝ぐ老婆を見た際の心理を想起させる)
↓結果
★ 死穢(しえ)に対する生理的嫌悪感 ~ 不快・吐き気
●かすめる自責の念の提示(*但し、これは実は嫌悪の情が如何に大きいかを逆に引き出すための逆技巧である点に着目させる)
■第四段 [去来]
其角に次いで羽根楊子をとり上げたのは、さつき木節が相圖をした時から、既に心の落着きを失つてゐたらしい去來である。日頃から恭謙の名を得てゐた彼は、一同に輕く會釋をして、芭蕉の枕もとへすりよつたが、そこに横はつてゐた老俳諧師の病みほうけた顏を眺めると、或滿足と悔恨との不思議に錯雜した心もちを、嫌でも味はなければならなかつた。しかもその滿足と悔恨とは、まるで陰(かげ)と日向(ひなた)のやうに、離れられない因緣を背負つて、實はこの四五日以前から、絶えず小心な彼の氣分を搔亂してゐたのである。と云ふのは、師匠の重病だと云ふ知らせを聞くや否や、すぐに伏見から船に乘つて、深夜にもかまはず、この花屋の門を叩いて以來、彼は師匠の看病を一日も怠つたと云ふ事はない。その上之道(しだう)に賴みこんで手傳ひの周旋を引き受けさせるやら、住吉大明神へ人を立てゝ病氣本復を祈らせるやら、或は又花屋仁左衞門に相談して調度類の買入れをして貰ふやら、殆彼一人が車輪になつて、萬事萬端の世話を燒いた。それは勿論去來自身進んで事に當つたので、誰に恩を着せようと云ふ氣も、皆無だつた事は事實である。が、一身を擧げて師匠の介抱に沒頭したと云ふ自覺は、勢、彼の心の底に大きな滿足の種を蒔いた。それが唯、意識せられざる滿足として、彼の活動の背景に暖い心もちをひろげてゐた中は、元より彼も行住坐臥に、何等のこだはりを感じなかつたらしい。さもなければ夜伽(よとぎ)の行燈の光の下で、支考と浮世話に耽つてゐる際にも、故(ことさら)に孝道(かうだう)の義を釋(と)いて、自分が師匠に仕へるのは親に仕へる心算(つもり)だなどゝ、長々しい述懷はしなかつたであらう。しかしその時、得意な彼は、人の惡い支考の顏に、ちらりと閃いた苦笑を見ると、急に今までの心の調和に狂ひの出來た事を意識した。さうしてその狂ひの原因は、始めて氣のついた自分の滿足と、その滿足に對する自己批評とに存してゐる事を發見した。明日にもわからない大病の師匠を看護しながら、その容態をでも心配する事か、徒(いたづら)に自分の骨折ぶりを滿足の眼で眺めてゐる。――これは確に、彼の如き正直者の身にとつて、自ら疚しい心もちだつたのに違ひない。それ以來去來は何をするのにも、この滿足と悔恨との扞挌(かんかく)から、自然と或程度の掣肘を感じ出した。將に支考の眼の中に、偶然でも微笑の顏が見える時は、反つてその滿足の自覺なるものが、一層明白に意識されて、その結果愈自分の卑しさを情なく思つた事も度々(たびたび)ある。それが何日か續いた今日、かうして師匠の枕もとで、末期の水を供する段になると、道德的に潔癖な、しかも存外神經の纖弱な彼が、かう云ふ内心の矛盾の前に、全然落着きを失つたのは、氣の毒ではあるが無理もない。だから去來は羽根楊子をとり上げると、妙に體中が固くなつて、その水を含んだ白い先も、芭蕉の脣を撫でながら、頻にふるへてゐた位、異常な興奮に襲はれた。が、幸、それと共に、彼の睫毛に溢れようとしてゐた、涙の珠もあつたので、彼を見てゐた門弟たちは、恐くあの辛辣な支考まで、全くこの興奮も彼の悲しみの結果だと解釋してゐた事であらう。
《語注》
・恭謙(きょうけん):慎み深く、謙虚であること。
・病(や)みほうけた:病んでもうろくした。病気のためにぼけた。
・錯雜(さくざつ):入りまじること。
・因緣(いんねん):ここでは、宿命的に結ばれた関係、の意。
・搔亂(そうらん):かき乱すこと。
・之道(しだう):槐本之道(えのもとしどう)(万治二(一六五九)年?~宝永五(一七〇八)年)。本名久右衛門。大坂道修町(どうしゅうまち)(現在の大阪府大阪市中央区道修町。薬種問屋街。当時、清やオランダから入った薬は一旦、この道修町に集められてその後に全国に流通していた。それらの薬種を一手に扱う「薬種中買仲間」がここに店を出していた。現在でも製薬会社や薬品会社のオフィスが多い)の薬種問屋伏見屋の主人。大坂蕉門の重鎮の一人。この元禄七年九月九日に伊賀から大坂に着いた芭蕉は、最初、酒堂(しゃどう)(浜田洒堂(?~元文二(一七三七)年)近江膳所の医師で、菅沼曲水と並ぶ近江蕉門の重鎮であったが、この頃、大坂に移住していた)亭に入るが、後に之道亭に、その後、花屋仁左衛門方へと移っている。酒堂と之道はこの頃激しく対立しており、芭蕉は之道の同輩であった膳所の正秀らの懇請を受けて両者の和解を策すため、病体を押してこの大阪へ出向いていた。和睦は一応成功したように見えたが、実際には失敗であった。それを芭蕉も察していた事実は本小説の外縁の事実として押さえておく必要がある。
・手傳(てつだ)ひの周旋(しゅうせん):飯炊きや洗濯の用をする人間の手配。
・住吉大明神(すみよしだいみょうじん):現在の大阪府大阪市住吉区住吉にある住吉大社神社。全国の住吉神社の総本社で、下関の住吉神社及び博多の住吉神社とともに「日本三大住吉」の一社。仲哀天皇の妃神功皇后(じんぐうこうごう) の新羅遠征(三韓征伐)の際、皇后は住吉大神の神力によって海を渡って新羅を平定、無事帰還を果たしことから、この地にお告げによって住吉大神を祀ったのを創建とする。海の神とされる。
・本復(ほんぷく):全快。
・調度(ちょうど):手回りの道具、家具。
・彼一人が車輪になつて:芭蕉を看病する弟子たちの中心になって、の意。
・行住座臥(ぎょうじゅうざが):ふだんの起居動作。
・夜伽(よとぎ):夜通しの看病。
・行燈(あんどん)
・孝道:本来は親に仕える孝行の道であるが、ここは後に去来が述べているように師への思いをそれに準じたのである。
・釋(と)いて:「説く」に同じく、相手に解るように話し聞かせて、の意。
・さもなければ夜伽(よとぎ)の行燈の光の下で、支考と浮世話に耽つてゐる際にも、故(ことさら)に孝道(かうだう)の義を釋(と)いて、自分が師匠に仕へるのは親に仕へる心算(つもり)だなどゝ、長々しい述懷はしなかつたであらう。:この箇所は、やはり芥川が素材の一つとした、各務支考編になる元禄八(一六九五)年奥書の「笈日記」の一節にある、芭蕉終焉前後の日記風の記載の七日の条の、『洛の去來は、しばらくも病家をはなれず。いかなるゆへにかと申に、此夏阿叟の我方にいまして、誰れ誰れの人は吾を親のごとくし侍るに、吾老て子のごとくする事侍らずと仰せられしを、いさしらず、去來は世務にひかれてさるべき孝道もなきに、かゝる事承る事の肝に銘じおぼえければ、せめて此度ははなれじとこそおもひ候へと申されし也』という箇所によるものである。
・疚(やま)しい:良心に恥じるところがある。
・扞挌(かんかく):意見などが食い違うこと。互いに相手を受け入れないこと。ここは去来の内的なアンビバレンツ、コンフリクトをいう。(*これは多かれ少なかれ、この場の人々に共通した内的感情であることに注意させる)
・掣肘(せいちゅう):脇から干渉して人の自由な行動を妨げること。ここも去来の内実に於ける抑圧、抑鬱的気分を指す。(*同前)
・纖弱(せんじゃく):かよわいこと。
・睫毛(まつげ)
・涙の珠(たま)
・辛辣(しんらつ):きわめて手厳しいこと。
★「ある満足と悔恨」
1. 満足 ……芭蕉の看病に献身的に没頭していた状態
2. 悔恨 ……師が師の床にあるにもかかわらず、「その献身的骨折りを、満足の目で眺めている」 ことに対する自己批評
★この満足感を支考に悟られて内心苦々しく思われたことを知ったことから生じた悔恨
無意識の満足感=調和した心理
↓支考に見抜かれて以降
満足感を強く意識しなければならなくなることから生じる 倫理的罪障感
= 心理的不調和の発生
↓結果
去来は落ち着きを失って興奮せざるを得なくなっている
= 心内の1と2の二律背反のディレンマに捕われる
↓しかし、彼にとってそれがまた都合のよいことに
他人の目には、その状態が悲しみの結果と映る ~強烈な皮肉
〇物腰りりしい[+]
〇恭謙[+]
↑
↓
×繊弱な神経[-]
× 卑小な小心者に過ぎない下劣漢 [-]
■第五段 [乙州]
やがて去來が又憲法小紋の肩をそば立てゝ、おづおづ席に復すると、羽根楊子はその後にゐた丈艸の手へわたされた。日頃から老實な彼が、つゝましく伏眼になつて、何やらかすかに口の中で誦しながら、靜に師匠の脣を沾(うるほ)してゐる姿は、恐らく誰の見た眼にも嚴(おごそか)だつたのに相違ない。が、この嚴(おごそか)な瞬間に突然座敷の片すみからは、不氣味な笑ひ聲が聞え出した。いや、少くともその時は、聞え出したと思はれたのである。それはまるで腹の底からこみ上げて來る哄笑が、喉と脣とに堰かれながら、しかも猶可笑(をか)しさに堪へ兼ねて、ちぎれちぎれに鼻の孔から、迸つて來るやうな聲であつた。が、云ふまでもなく、誰もこの場合、笑を失したものがあつた譯ではない。聲は實にさつきから、涙にくれてゐた正秀の抑へに抑へてゐた慟哭が、この時胸を裂いて溢れたのである。その慟哭は勿論、悲愴を極めてゐたのに相違なかつた。或はそこにゐた門弟の中には、「塚も動けわが泣く聲は秋の風」と云ふ、師匠の名句を思ひ出したものも、少くはなかつた事であらう。が、その凄絶なる可き慟哭にも、同じく涙に咽ばうとしてゐた乙州は、その中にある一種の誇張に對して、――と云ふのが穩でないならば、慟哭を抑制すべき意志力の缺乏に對して、多少不快を感じずにはゐられなかつた。唯、さう云ふ不快の性質は、どこまでも智的なものに過ぎなかつたのであらう。彼の頭が否(いな)と云つてゐるにも關らず、彼の心臟は忽ち正秀の哀慟の聲に動かされて、何時(いつ)か眼の中は涙で一ぱいになつた。が、彼が正秀の慟哭を不快に思ひ、惹いては彼自身の涙をも潔しとしない事は、さつきと少しも變りはない。しかも涙は益眼に溢れて來る――乙州は遂に兩手を膝の上についた儘、思はず嗚咽(をえつ)の聲を發してしまつた。が、この時歔欷(きよき)するらしいけはひを洩らしたのは、獨り乙州ばかりではない。芭蕉の床の裾の方に控へてゐた、何人かの弟子の中からは、それと殆同時に洟(はな)をすゝる聲が、しめやかに冴えた座敷の空氣をふるはせて、斷續しながら聞え始めた。
《語注》
・老實(ろうじつ):物慣れていて誠実なこと。
・誦(ず)し:唱え。
・哄笑(こうしょう):大声で笑うこと。
・堰(せ)かれ:前出。ふさがれる。せきとめられる。さえぎられる。
・迸(ほとばし)つて
・溢(あふ)れた
・悲愴(ひそう):悲しく痛ましいこと。
・「塚も動けわが泣く聲は秋の風」:芭蕉の「奥の細道」の中の句。元禄二(一六八九)年七月二十二日の金沢の門人小杉一笑追悼の句。一笑は芭蕉の来訪を心待ちにしつつ、前年の冬に没し、他方、芭蕉はその死を知らずにこの地を訪れたのであった。
(句意)墓も動け! とばかり泣く私の嘆きの声は、さながら秋風と化して墓標を吹きめぐっている!
・凄絶(せいぜつ):ものすごさのきわまること。
・哀慟(あいどう):悲しみと嘆き。
・しかも涙は益(ますます)
・嗚咽(おえつ):むせび泣き。すすり泣き。
・歔欷(きよき):すすり泣くこと。噎(むせ)び泣き。
・冴(さ)えた:ここは、外気を元としながら、精神的な意味で、冷え切ったという心象的形容である。
〇乙州
ここで
サブ・キャラクターの正秀は実は最初から終始
道化役 → トリック・スター
としてのみ描かれていることに着目。
〇乙州は正秀の慟哭に対し、
1 ある誇張を不快に感じる。
2 意志力の欠乏。
1=『所詮、このような臨終の床で、人は芝居じみた感情表現をするものである。』
《冷め切った感じ》+『いくらなんでもさぁ……オーバー・アクトじゃない?』
2=知的批判→冷徹な理性
↓ところが、
★乙州自身が知的抑制力に欠く
↓クールなはずの自己の単純な感情をコントロール出来ない
★ 自己矛盾
↓
「正秀の哀慟」に動かされて嗚咽をもらしてしまう
~ 貰い泣き に過ぎない・単なる 非論理的悲哀感の伝染 ・ 無内容な涙
(*『悲しいから泣くのか、泣くから悲しいのか?』という脳生理学的な概説)
■第六段 [支考]
その惻々として悲しい聲の中に、菩提樹の念珠を手頸にかけた丈艸は、元の如く靜に席へ返つて、あとには其角や去來と向ひあつてゐる、支考が枕もとへ進みよつた。が、この皮肉屋(ひにくや)を以て知られた東花坊には周圍の感情に誘ひこまれて、徒に涙を落すやうな纖弱な神經はなかつたらしい。彼は何時もの通り淺黑い顏に、何時もの通り人を莫迦にしたやうな容子を浮べて、更に又何時もの通り妙に横風に構へながら、無造作に師匠の脣へ水を塗つた。しかし彼と雖もこの場合、勿論多少の感慨があつた事は爭はれない。「野ざらしを心に風のしむ身かな」――師匠は四五日前に、「かねては草を敷き、土を枕にして死ぬ自分と思つたが、かう云ふ美しい蒲團の上で、往生の素懷を遂げる事が出來るのは、何よりも悦ばしい」と繰返して自分たちに、禮を云はれた事がある。が、實は枯野のただ中も、この花屋の裏座敷も、大した相違がある譯ではない。現にかうして口をしめしてゐる自分にしても、三四日前までは、師匠に辭世の句がないのを氣にかけてゐた。それから昨日は、師匠の發句を滅後(めつご)に一集する計畫を立てゝゐた。最後に今日は、たつた今まで、刻々臨終に近づいて行く師匠を、どこかその經過に興味でもあるやうな、觀察的な眼で眺めてゐた。もう一歩進めて皮肉に考へれば、事によるとその眺め方の背後には、他日自分の筆によつて書かるべき終焉記の一節さへ、豫想されてゐなかつたとは云へない。して見れば師匠の命終(めいしう)に侍しながら、自分の頭を支配してゐるものは、他門への名聞(みやうもん)、門弟たちの利害、或は又自分一身の興味打算(ださん)――皆直接垂死の師匠とは、關係のない事ばかりである。だから師匠はやはり發句の中で、屢豫想を逞くした通り、限りない人生の枯野の中で、野ざらしになつたと云つて差支へない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼(いた)まずに、師匠を失つた自分たち自身を悼(いた)んでゐる。枯野に窮死した先達を歎かずに、薄暮に先達を失つた自分たち自身を歎いてゐる。が、それを道德的に非難して見た所で、本來薄情(はくじやう)に出來上つた自分たち人間をどうしよう。――かう云ふ厭世的な感慨に沈みながら、しかもそれに沈み得る事を得意にしてゐた支考は、師匠の脣をしめし終つて、羽根楊子を元の湯呑へ返すと、涙に咽んでゐる門弟たちを、嘲るやうにじろりと見𢌞して、徐に又自分の席へ立ち戻つた。人の好い去來の如きは、始からその冷然とした態度に中(あ)てられて、さつきの不安を今更のやうに又新にしたが、獨り其角が妙に擽つたい顏をしてゐたのは、どこまでも白眼で押し通さうとする東花坊のこの性行上の習氣を、小うるさく感じてゐたらしい。
《語注》
・東花坊(とうかぼう):支考の俳号の一つ。
・莫迦(ばか):馬鹿。
・横風(おうふう):傲慢(ごうまん)な態度。横柄。
・「野ざらしを心に風のしむ身かな」:芭蕉の「野ざらし紀行」冒頭句。
(句意)旅で行き倒れになって、白骨をさらすことがあってもと、覚悟を決めて出立すると、一入(ひとしお)、秋風が骨身にしみることよ。
・他日自分の筆によつて書かるべき終焉記:支考には事実、実に芭蕉の亡くなった同年元禄7年中に記された「芭蕉翁追善之日記」という同年七月十五日から十一月三十日までを日記風に綴った作品が残る。
・名聞(みょうもん):世間に於ける評判・名誉。
・差支(さしつか)へない
・窮死(きゅうし):困窮のうちに死ぬこと。ここには、真の理解者がいない精神的な孤独としての困窮の謂いが核心である。
・屢(しばしば)
・厭世的(えんせいてき):人生には苦痛や悲しみが多いと考え、生きるのがいやになる様子や傾向。悲観的。ペシミスティック。←→楽観的(オプティミック)
・嘲(あざけ)る
〇支考の性格描写の ※伏線※ の確認
●剛愎そうな
●人の悪い
●皮肉屋(として周囲から認知されており同時に自分もそれを確信犯としている)
●色の浅黒い、人を馬鹿にしたような顔
●横風
《結構な場所で美しい布団にくるまれ、弟子達に囲まれて安らかに往生出来る》
↓
絵面(えづら)上での華やかな死に過ぎない
↓だから、ここは
★ 《人生の枯野》
↓
弟子達の誰一人として(自己を含め)彼の死を純粋に悼む者はない
↓
《たった一人枯野の中で行き倒れになったのと精神的な孤独という点においては全く同じであるという絶対零度の認識》
↓
★ 支考の中のリアルな「枯野」
1.三、四日前までは師匠に辞世の句がないことを気にかけていた。
2.師匠の発句集を、その死後一本にまとめる計画を立てていた。
3.師の臨終の姿を、その経過に興味でもあるような、観察的な目で眺めていた。
↓
「他門への名聞」=1
「門弟たちの利害」=2
「自分一身の興味打算」=3
↓
師の死とは全く無関係なことばかり
↓明確に冷徹に自覚したものである点に注意!
★ 他の門弟たちも同様
↓
それが 《真実》 だ という開き直りの 救い難い露悪性 の提示
……しかしそれは……人間の持たざるを得ない 存在悪 とも言えまいか?……
★顕在的主題の提示
……限りない人生の枯野の中で、野ざらしになったと云って差支えない。自分たち門弟は皆師匠の最後を悼まずに、師匠を失った自分たち自身を悼んでいる。枯野に窮死した先達を嘆かずに、薄暮に先達を失った自分たち自身を嘆いている。が、それを道徳的に非難して見た所で、本来薄情に出来上った自分たち人間をどうしよう。……
(*漱石の「こゝろ」上のエンディングの「私」の感懐を想起させる。)
↓しかし
★このような厭世観に 「沈み得る事を得意にしていた支考」
↓という風に
理智的に 皮肉に 見抜くこと自体に 快感を得るのを常としていた支考
↓とは実は……
鼻につく衒学(げんがく)者 のイメージ=後年の芥川龍之介自身の影が感じられないか?
■第七段 [惟然坊]
支考に續いて惟然坊が、墨染の法衣(ころも)の裾をもそりと疊へひきながら、小さく這ひ出した時分には、芭蕉の斷末魔も既にもう、彈指の間に迫つたのであらう。顏の色は前よりも更に血の氣を失つて、水に濡れた脣の間からも、時々忘れたやうに息が洩れなくなる。と思ふと又、思ひ出したやうにぎくりと喉が大きく動いて、力のない空氣が通ひ始める。しかもその喉の奧の方で、かすかに二三度痰が鳴つた。呼吸も次第に靜になるらしい。その時羽根楊子の白い先を、將にその脣へ當てようとしてゐた惟然坊は、急に死別の悲しさとは緣のない、或る恐怖に襲はれ始めた。それは師匠の次に死ぬものは、この自分ではあるまいかと云ふ、殆無理由に近い恐怖である。が、無理由であればあるだけに、一度この恐怖に襲はれ出すと、我慢にも抵抗のしやうがない。元來彼は死と云ふと、病的に驚悸する種類の人間で、昔からよく自分の死ぬ事を考へると、風流の行脚(あんぎや)をしてゐる時でも、總身に汗の流れるやうな不氣味な恐しさを經驗した。從つて又、自分以外の人間が、死んだと云ふ事を耳にすると、まあ自分が死ぬのではなくつてよかつたと、安心したやうな心もちになる。と同時に又、もし自分が死ぬのだつたらどうだらうと、反對の不安をも感じる事がある。これはやはり芭蕉の場合も例外には洩れないで、始まだ彼の臨終がこれ程切迫してゐない中は、――障子に冬晴の日がさして、園女の贈つた水仙が、淸らかな匂を流すやうになると、一同師匠の枕もとに集つて、病間を慰める句作などをした時分は、さう云ふ明暗二通りの心もちの間を、その時次第で徘徊してゐた。が、次第にその終焉が近づいて來ると――忘れもしない初時雨の日に、自ら好んだ梨の實さへ、師匠の食べられない容子を見て、心配さうに木節が首(かうべ)を傾けた、あの頃から安心は追々不安にまきこまれて、最後にはその不安さへ、今度死ぬのは自分かも知れないと云ふ險惡な恐怖の影を、うすら寒く心の上にひろげるやうになつたのである。だから彼は枕もとへ坐つて、刻銘に師匠の脣をしめしてゐる間中、この恐怖に祟られて、殆末期(まつご)の芭蕉の顏を正視する事が出來なかつたらしい。いや、一度は正視したかとも思はれるが、丁度その時芭蕉の喉の中では、痰(たん)のつまる音がかすかに聞えたので、折角の彼の勇氣も、途中で挫折してしまつたのであらう。「師匠の次に死ぬものは、事によると自分かも知れない」――絶えずかう云ふ豫感めいた聲を、耳の底に聞いてゐた惟然坊は、小さな體をすくませながら、自分の席へ返つた後も、無愛想な顏を一層無愛想にして、なる可く誰の顏も見ないやうに、上眼ばかり使つてゐた。
《語注》
・彈指(だんし):既注。ごく直近。
・驚悸(きょうき):驚いて胸がどきどきすること。拍動が高まること。
・風流の行脚(あんぎゃ):俳諧の道を極めるための諸国遍歴。
・園女(そのめ)の贈つた水仙:「園女」は斯波園女(しばそのめ)(寛文四(一六六四)年~享保一一(一七二六)年)。蕉門の女流俳人。伊勢国山田(現在の三重県伊勢市)の神官の家に生まれ、同地の医師斯波一有(俳号は渭川(いせん))に嫁した。元禄三(一六九〇)年に蕉門に入り、同五年、夫と大阪に移住していた。この直前の九月二十七日、園女に斯波亭へ招かれた芭蕉は、最晩年の清新な恋句「白菊の目に立てゝ見る塵もなし」をものしている。
・なる可(べ)く
・上眼(うわめ)
〇「明暗二とおりの心持ち」
「明」…自分以外の人が死んだ場合の安心
「暗」…万一自分の死だったらと考える時の不安
↓次第に
★「暗」の恐怖に捕われて行く惟然坊
↓~師匠の次には自分の死があるという険悪な恐怖の影
死恐怖=不安神経症(強迫観念)= ネクロフォビア
(*「こゝろ」の先生を想起させる)
(*広場恐怖・先端恐怖・ Arachnophobia 等、さまざまな恐怖症(-phobia)について、その発症の精神分析学的意味等を含めて概説。ついでに、necrophlia・pedophilia等の(-philia)の異常性愛との混同の注意を促し、これも概説)
↓そのため
師の末期の顔が正視できない~ 無愛想な顔つき(で誤魔化す)
(*この段は、もう駄目押しで飽きる気がする――作品の構成上は蛇足ではないか――とう私の意見を投げ掛けてみる)
■第八段 [丈草]
續いて乙州、正秀、之道、木節と、病床を圍んでゐた門人たちは、順々に師匠の脣を沾した。が、その間に芭蕉の呼吸は、一息毎に細くなつて、數さへ次第に減じて行く。喉も、もう今では動かない。うす痘痕(いも)の浮んでゐる、どこか蠟のやうな小さい顏、遙な空間を見据ゑてゐる、光の褪せた瞳の色、さうして頤(おとがひ)にのびてゐる、銀のやうな白い鬚――それが皆人情の冷(つめた)さに凍(い)てついて、やがて赴くべき寂光土を、ぢつと夢みてゐるやうに思はれる。するとこの時、去來の後(うしろ)の席に、默然と頭を垂れてゐた丈艸は、あの老實な禪客の丈艸は、芭蕉の呼吸のかすかになるのに從つて、限りない悲しみと、さうして又限りない安らかな心もちとが、徐に心の中へ流れこんで來るのを感じ出した。悲しみは元より説明を費すまでもない。が、その安らかな心もちは、恰も明方の寒い光が次第に暗の中にひろがるやうな、不思議に朗(ほがらか)な心もちである。しかもそれは刻々に、あらゆる雜念を溺(おぼ)らし去つて、果ては涙そのものさへも、毫も心を刺す痛みのない、淸らかな悲しみに化してしまふ。彼は師匠の魂が虛夢の生死を超越して、常住涅槃(じやうぢうねはん)の寶土(はうど)に還つたのを喜んででもゐるのであらうか。いや、これは彼自身にも、肯定の出來ない理由であつた。それならば――ああ、誰か徒に――䠖跙(しそ)逡巡して、己を欺くの愚を敢てしよう。丈艸のこの安らかな心もちは、久しく芭蕉の人格的壓力の桎梏に、空しく屈してゐた彼の自由な精神が、その本來の力を以て、漸く手足を伸ばさうとする、解放の喜びだつたのである。彼はこの恍惚たる悲しい喜びの中に、菩提樹の念珠をつまぐりながら、周圍にすすりなく門弟たちも、眼底を拂つて去つた如く、脣頭にかすかな笑(ゑみ)を浮べて、恭しく、臨終の芭蕉に禮拜した。――
かうして、古今に倫を絶した俳諧の大宗匠、芭蕉庵松尾桃靑は、「悲歎かぎりなき」門弟たちに圍まれた儘、溘然として屬纊(しよくくわう)に就いたのである。
《語注》
・頭(こうべ)を垂れてゐた
・寂光土(じゃっこうど):極楽浄土。
・禪客(ぜんかく):禅の修行者。
・徐(おもむろ)に
・明方(あけがた)
・暗(やみ)
・亳(ごう)も:(下に打ち消しを伴って)少しも。いささかも。(~ない)
・虛夢(きょむ):本来は事実とは異なる夢や実現しない空しい夢の謂いであるが、ここは無常のこの世そのものをいう。
・常住涅槃(じやうぢうねはん)の寶土(はうど):極楽浄土。
・䠖跙(しそ)逡巡(しゅんじゅん):あれこれとためらい迷って動きがとれなくなること。
・桎梏(しっこく):手枷(てかせ)と足枷で、行動や生活を厳しく制限し、自由を束縛するもの。
・漸(ようや)く
・恍惚(こうこつ):ある対象やその与えるイメージに心奪われて意識を失い、うっとりとするさま。
・眼底(がんてい)を拂(はら)つて去つた如く:眼中に入らなくなったように。
・脣頭(しんとう):口先。
・禮拜(らいはい)
・倫(りん)を絶した:凡そ比類し得るものがない。
・「悲歎(ひたん)かぎりなき」:ここは芭蕉の死後、臨終に間に合わなかった伊賀の門人土芳らが、義仲寺で死顔を拝するシークエンスである、『幸ひ出船ありければ、其まゝ飛乘り、伏見京橋に著しは夜明也。直に飛下り狼谷にかゝり、義仲寺に著しは、未入棺し給はざるまへなりければ、諸子に斷りて、死顏のうるはしきを拜しまゐらせ、悲歎かぎりなく、一夜も病床に咫尺せざる事をかきくどきけれど、まづ因緣の深きことを身にあまり有がたく、嬉しく燒香につらなりけり。(〔土芳・卓袋〕物語)』(「花屋日記」)からの時間差引用である。
・溘然(こうぜん):俄かなさま。突然であるさま。特に人の死に用いる。
・屬纊(しよくくわう):元は臨終の人の口に真綿を当てがって呼吸の有無を見ることをいう。臨終のこと。前掲の如く、「花屋日記」の芭蕉臨終のシーンに、『合掌たゞしく觀音經ときこえて、かすかに聞え、息のかよひも遠くなり、申の刻過て、埋火のあたゝまりのさむるがごとく、次郎兵衞が抱きまゐらせたるに、よりかゝりて寐入給ひぬとおもふ程に、正念にして終に屬曠につき給ひけり。時に元祿七甲戌十月十二日申の中刻、御年五十一歳なり。』とあるのを踏まえる。
〇「人情の冷たさ」=「限りない人生の枯野」~末尾の皮肉としての「悲嘆かぎりなき」
限りない悲しみ
↓
安らかな心持ち
↓
次第に広がってゆく朗らかな気持ち
↓
悲しみさえ清らかなものに変化してしまう事実
●師の極楽往生を喜んでいる?
↓
×「肯定できない理由であった」
=僧が死者の極楽往生を確信し、それを讃える等というのは、余りにも出来すぎて、美化され過ぎていて、法体(ほったい)の自分でさえちゃんちゃら可笑しくてとっても言えない。
↓それは実に
★ 長く芭蕉の人格的圧力の下にむなしく屈していた彼の自由な精神の解放の喜び
↓以外の何ものでもなかったという真相の暴露
かすかな笑み ~ ネガテイヴな慄っとさせる余韻に注目させる
※補説
◎偽書「花屋日記」では、支考が芭蕉の発句を滅後に一集しようと病床の芭蕉に相談しようとして、去来が殊の外に立腹するという、本作に出る精神の「枯野」に似たシークエンスがあるが、これは実際に読んでみると、決して強い重さを持っておらず、終焉という全体のシークエンスに投げ込んだ一種のアクセントに過ぎないことが分かる。寧ろ、「花屋日記」の流れは、何度か小康を取り戻してはだんだんと悪くなってゆく芭蕉に、門人たちが子どものように一喜一憂するという、最後には途轍もなく憂鬱になってくるネガティヴ一辺倒の本作とは全く異なった、極めてポジティヴにさえ見えるリズムを持っている。
◎一見、この場の弟子たちを支配している感情が《主題》のように見えるが、しかし、
芭蕉の門弟たちのエゴイズムを抉り出すという仕掛けの向こうにあるのは、
実は
芥川龍之介の師夏目漱石の臨終に集まった門人らのカリカチャアであるという真相
・漱石の臨終は本作に先立つ二年前の大正五(一九一六)年十二月九日、満四十九歳。
(*便所に落ちた岩波重雄のエピソードなど。よろしく)
↓しかし
◎ドラマ・画面の中心に居て、終始無言の昏睡状態の 芭蕉 こそが、やはりもう一人の主人公である、ということをも意識しなくてはならない点を指摘
恐らく、芭蕉の魂は
◎弟子達との関係とは、実は全く無縁な 枯野=芸術と哲学の人生的地平 に立っている
↓愚昧な群小詩人に囲まれた
大芸術家の孤高の最後が全体の絵の中に浮上しはしまいか?
↓
「俳句に生き、俳句に死ぬ」~ 「鬼」 としての芸術家
↓
孤独な芸術至上主義者としての理想像
↓
芥川我鬼自身の影との重層化
※参考資料Ⅰ
芥川龍之介は本作発表のほぼ二年後の、大正九(一九二〇)年四月発行の『文藝倶樂部』に、本作の創作に纏わる随筆「一つの作が出來上るまで」をものしている。本作の解読のヒントと創作秘話を垣間見せる、非常に貴重な文章である。以下に全文を示して参考に供する(底本は岩波版旧全集に拠る)。
一つの作が出來上るまで
――「枯野抄」――「奉教人の死」――
或る一つの作品を書かうと思つて、それが色々の徑路を辿つてから出來上がる場合と、直ぐ初めの計畫通りに書き上がる場合とがある。例へば最初は土瓶を書かうと思つてゐて、それが何時の間にか鐵瓶に出來上がることもあり、又初めから土瓶を書かうと思ふと土瓶がそのまゝ出來上がることもある。その土瓶にしても蔓を籐にしようと思つてゐたのが竹になつたりすることもある。私の作品の名を上げて言へば「羅生門」などはその前者であり、今こゝに話さうと思ふ「枯野抄」「奉教人の死」などはその後者である。
その「枯野抄」といふ小説は、芭蕉翁の臨終に會つた弟子達、其角、去來、丈艸などの心持を描いたものである。それを書く時は「花屋日記」といふ芭蕉の臨終を書いた本や、支考だとか其角だとかいふ連中の書いた臨終記のやうなものを參考とし材料として、芭蕉が死ぬ半月ほど前から死ぬところまでを書いてみる考であつた。勿論、それを書くについては、先生の死に會ふ弟子の心持といつたやうなものを私自身もその當時痛切に感じてゐた。その心持を私は芭蕉の弟子に借りて書かうとした。ところが、さういふ風にして一二枚書いてゐるうちに、沼波瓊音氏が丁度それと同じやうな小説(?)を書いてゐるのを見ると、今迄の計畫で書く氣がすつかりなくなつてしまつた。
そこで今度は、芭蕉の死骸を船に乘せて伏見へ上ぼつて行くその途中にシインを取つて、そして、弟子達の心持を書かうとした。それが當時(大正七年の九月)の「新小説」に出る筈になつてゐたのであつたが、初めの計畫が變つたので、締切が近づいてもどうしても書けなかつた。原稿紙ばかり無駄にしてゐる間に締切の期日がつい來てしまつて甚だ心細い氣がした。その時の「新小説」の編輯者は今「人間」の編輯をしてゐる野村治輔君で、同君が私の書けない事に非常に同情してくれて、その原稿がなかつたら實際困つたでもあらうが、心よく翌月號に延ばしてくれた。それから直ぐにその號のために書き出したが、その頃、私の知つてゐる人が蕪村の書いた「芭蕉涅槃圖」――それは佛畫である――を手に入れた。それが前に見て置いた川越の喜多院にある「芭蕉涅槃圖」よりは大きさも大きかつたし、それに出來も面白かつた。それを見ると、私の計畫が又變つた。で、今度はその「芭蕉涅槃圖」からヒントを得て、芭蕉の病床を弟子達が取り圍んでゐるところを書いて漸く初めの目的を達した。
かういふ風に持つてまはつたのは先づ珍しいことで、大抵は筆を取る前に考へて、その考へた通りに書いて行ゆくのが普通である。その普通といふのは主に短いものを書く場合で、長いものになると書いてゐる中に、作中の人間なり事件なりが豫定とは違つた發展のしかたをすることが往々ある。
神樣がこの世界を造つたものならば、どうしてこの世の中に惡だの悲しみがあるのだらうと人々はよく言ふが、神樣も私の小説と同じやうに、この世界を拵へて行ゆくうちに、世界それ自身が勝手に發展して思ふ通りに行かなかつたかも知れない。
それは冗談であるけれども、さういふ風に人物なり事件なりが豫定とちがつて發展をする場合、ちがつた爲ために作品がよくなるか、わるくなるかは一概に言へないであらうと思ふ。併し、ちがふにしても、凡そちがふ程度があるもので、馬を書かうと思つたのが馬蠅になつたといふことはない。まあ牛になるとか羊になるとかいふ位である。併し、もう少し大筋おほすぢを離れたところになると、書いてゐるうちに色々なことを思ひつくので、隨分ちがふことがある。例へば「奉教人の死」といふ小説は、昔のキリスト教徒たる女が男になつてゐて、色々の苦しい目に逢ふ。その苦しみを堪へしのんだ後に死んだが、死んで見たらば始めて女であつたことがわかつたといふ筋である。その小説の仕舞のところに、火事のことがある。その火事のところは初めちつとも書く氣がしなかつたので、只主人公が病氣か何んかになつて、靜かに死んで行くところを書くつもりであつた。ところが、書いてゐるうちに、その火事場の景色を思ひついてそれを書いてしまつた。火事場にしてよかつたか惡かつたかは疑問であるけれども。
※参考資料Ⅱ
以下は総て私のサイト「鬼火」の「やぶちゃんの電子テクスト集:俳句篇」内に配した私の作成になるPDF縦書データである。参考にされたい。印刷は勿論、データ・コピーも可能である。
「芭蕉臨終記 花屋日記」文曉(偽書)
「芭蕉翁終焉記」宝井其角(「枯尾花集」より)
※参考資料Ⅲ
私は以下の私のブログ内カテゴリ「松尾芭蕉」で、「奥の細道」の行程の中で創られた総ての句のオリジナル評釈や、萩原朔太郎の「郷愁の詩人與謝蕪村」の巻末に配された「附錄 芭蕉私見」の掉尾に配された芭蕉鑑賞文の電子化を手掛けている。恐らくは何らかの参考になる(特に古文の「奥の細道」の教授の際など)ものとも思われるので、以下にリンクしておく。
藪野直史 ブログ「鬼火~日々の迷走」内・カテゴリ「松尾芭蕉」
なお、この内、
の二本はPDF縦書版(リンク先)を作成してある。御笑覧戴けるならば、恩幸これに過ぎたるはない。
枯野抄 芥川龍之介 附 やぶちゃん授業ノート 完