やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ
芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づく
やぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した
「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」
という無謀不遜な試み やぶちゃん
(copyright 2009-2010 Yabtyan)
――我が有能なる助手Tark C60. O. Fullerene君に本作を捧ぐ
[やぶちゃん口上:以上の通り、以下は既に私のHPでテクスト化した芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」を、私が勝手自在に面白おかしく現代語に翻案した(逐語的でなくオリジナルな解釈を敷衍して訳文に癒合させている部分も多く最早訳とは言えない)不遜にして不完全なる拙文である。しかし、このような暴挙に及んだ最大の要因は、当該作品が私を含めた現代の大半の読者にとって最早難解であり、特に若い層にとっては注なしでは読めない部分も多く、それ故に芥川作品としては敬遠される傾向にあることを惜しむ故であり、後年の「侏儒の言葉」の淵源をこれに感じる私としては、本作を多くの若い読者に読んでもらいたいとも感じている故である。そのためには新全集や種々の電子テクストのような新字新仮名であるだけでは全く不十分であり、私の経験上から言えばページが遥かに飛んだ注釈をひっきりなしにめくり返さねばならぬ煩瑣(また、そこには必ずしも読者の満足する解説があるとは限らぬ)にうんざりすること甚だしく、さればこそ一読してほぼその意を汲み得る現代語訳こそが(出来得るとすれば)最もふさわしいものではなかろうかという、勝手なる妄想にはまったのである。勿論、暴虎馮河の謗りを受けることは覚悟の上、誤訳・誤解の類を発見された方は、是非、御鞭撻の程、お願い申し上げる。
本篇の原文は大正9(1920)年4・5・6月発行の雑誌『人間』に「骨董羹 壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載された(但し、それが分かるような記載が当該号若しくは後の号等の編集後記等にあった可能性はあるが、初出誌は確認していない)。底本で「別稿」とされている、後に本篇を大正11(1922)年5月刊の芥川龍之介初の随筆集『点心』に収める際に削除された五篇は、雑誌『人間』の初出時の位置に復してある。また、人名や地名のカタカナ表記は読み易さを第一にし、一部を除いて原則として現代の標準的読み若しくは原語の発音に近いものに換えた。読みは既に原作に現れている語については私がそちらで補足している経緯もあり、うるさくなるので最小限に止めてある。別ウィンドウで開いて、正字正仮名の原文と並べてお読み戴けることを切に願うものである。なお、本勝手自在現代語翻案に際しては、昭和42(1967)年刊の筑摩書房全集類聚版の脚注及び1996年岩波版新全集第六巻の赤塚正幸氏の筆になる注解を一部参考にした。原典に附した私の注は翻案で説明し切れなかった場合について、補注と名を改めてほぼ同内容を援用してあるが、省略したのとは逆に、新たにここでのみ附したもの(例えば「演劇史」の「“KAKKOKU INGEKISHI”」や「罪と罰」の注等)もあるので御注意願いたい。
題名の「骨董羹」は、宋代に生じた中華の料理法・料理名で、魚・獣の骨をベースに野菜や魚肉を長く煮て作った羹(あつもの:スープ・煮こごり)、更に広くごった煮の意味で用いられる。本作が芥川龍之介の傲岸不遜にして放言猥雑、中には闇鍋のように食えない大変な代物も入っていることを暗に示すものである。芥川龍之介自身による解説が本テクスト最後の項「泥黎口業」(でいりこうぎょう)に示される。
「壽陵余子」という芥川龍之介のここでの雅号(公的には本作にのみ用いられた)は「荘子」の「秋水篇」中の故事として語られる一エピソードに基づく。戦国時代の燕の片田舎寿陵に住む少年(「余子」は未成年の意)が、趙の都邯鄲に赴いてその都会風な歩き方を学ぼうとした。しかしその都風のお洒落な歩き方が身に付かないうちに、本来の自分のオリジナルな歩き方さえ忘れてしまい、遂には無様にも故郷へ腹這いになって帰った。一般的には、自身の力量も考えずに他人の真似ばかりしていると、どっち就かずになって結局は自身の本分をも失って我身をも滅ぼすことになる、ことを言う。大正9(1920)年3月31日付瀧田哲太郎宛書簡の中で、「壽陵余子」という自分の雅号について説明した下りで、その命名の由来を『僕自身西洋を学んで成らずその内に東洋を忘れてゐる所が邯鄲壽陵兩所の歩き方を學び損なつた青年に似てゐると思つたからです』と述べている。後年、芥川は「歯車」の「三 夜」で本作をものした際の思い出を以下のように語っている(引用は私の同テクストを用いた。文中の「壽陵餘子(じゆれうよし)」の読み「れう」はママである。傍点は下線に代えた)。
『日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかつた。僕は電燈の光の中に書棚の間(あひだ)をさまよつて行つた。それから「宗教」と云ふ札を掲(かか)げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一册の本へ目を通した。この本は目次(もくじ)の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」と云ふ言葉を並べてゐた。僕はかう云ふ言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかつた。が、傳統的精神もやはり近代的精神のやうにやはり僕を不幸にするのは愈僕にはたまらなかつた。僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用ひた「壽陵余子(じゆれうよし)」と云ふ言葉を思ひ出した。それは邯鄲(かんたん)の歩みを學ばないうちに壽陵の歩みを忘れてしまひ、蛇行匍匐(だこうほふく)して歸郷(きけう)したと云ふ「韓非子(かんぴし)」中(ちう)の靑年(せいねん)だつた。今日(こんにち)の僕は誰の目にも「壽陵余子(よし)」であるのに違ひなかつた。しかしまだ地獄へ墮ちなかつた僕もこのペン・ネエムを用ひてゐたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を拂ふやうにし、丁度僕の向うにあつたポスタアの展覽室(てんらんしつ)へはひつて行つた。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ヂヨオヂらしい騎士が一人(ひとり)翼(つばさ)のある龍(りう)を刺し殺してゐた。しかもその騎士は兜(かぶと)の下(した)に僕の敵の一人に近いしかめ面(つら)を半ば露(あらは)してゐた。僕は又「韓非子」の中の屠龍(とりう)の技(ぎ)の話を思ひ出し、展覽室へ通りぬけずに幅の廣い階段を下つて行つた。』
ちなみにここで芥川はどちらの出典も錯誤している。既にお分かりの通り、「寿陵余子」の出典の「荘子」を「韓非子」とし、また同じく「荘子」に出る「屠龍の技」をも「韓非子」と誤っている。本篇の漢文素養の意気軒昂なるを考えるとこの錯誤は如何にも哀しいものがあるが、この引用部全体に既に『地獄よりも地獄的な』現実に生きていた「歯車」執筆当時の晩年の芥川を感じ、私はまた別な悲愴の趣きを覚えずにはいられないのである――。
最後に、本翻案の最終読み合わせを手伝ってくれ、何箇所もの助言と誤訳の指摘をしてくれた青年Tark C60. O. Fullerene君に心からの謝意を表す。【2009年1月31日】
Tark C60. O. Fullerene氏は本日、東京大学理科に現役で合格した。私は今年の一月、最高学府の試験を前に、入試とは全く無関係な私とのこのテクストの翻訳検討作業を喜んでやってくれた君の、その「智の遊び」心に、文字通り、心からの快哉を叫ぶものである。ありがとう!【2009年3月10日】
筑摩全集類聚版の脚注及び岩波版新全集第六巻巻末所収の赤塚正幸氏の注解伴に『不詳。』とする「聊齋志異」の項に現れる「崑崙外史」が、Seki氏の御教授により判明、訳及び該当注を全面的に改訂した。これは今まで多くの日本人に知られていなかった事実であると思われる。必読されたい。ここにSeki氏に深く感謝の意を表するものである。【2010年3月10日】]
骨董羹(中華風ごった煮)
―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯(ざ)れごと―
芥川龍之介原作 やぶちゃん勝手自在現代語翻案(copyright 2009 Yabtyan)
天路歴程
イギリスの作家ジョン・バニヤンが1678年に書いた夢幻的な寓話“Pilgrim's Progress”「ピルグリムズ・プログレス」を「天路歴程」と翻訳したのは、清の同治8(1896)年上海美華書館から出版された漢訳の書名を踏襲したものであろう。この本には、篇中の人物風景を悉く中国風に描いた銅版画の挿絵が数葉ある。その「窄門(さくもん)に入るの図」――天国へ達する狭き門や、或いは「美宮に入るの図」――天国の宮殿といった版画は、西洋人の異国風景を描いて出色の出来である本邦の「長崎絵」の強烈な印象の紅毛人の絵姿には及ばないものの、しかしまた、一種の不可思議な風雅さがない訳ではない。文章も中国語を以て西洋の文物を叙した部分は、何とはなしに読み始めて、さて読み終わってみて、おや、何とも変わった感興がかえって少なくはないな、という感じを覚えるものである。殊にその英詩を漢訳したものは、詩としては見るに堪えない類いのものであるけれども、また別な雰囲気の情趣があるのは挿絵の場合と同じである。たとえば同書の第一部第十章の、旧約聖書の「詩篇」23・2及び「イザヤ書」14・30に基づく「生命水の河」の詩に、「路旁の生命水清く流る、天路の行人喜び暫く留まる、百菓奇花悦楽に供す、吾が儕(さい)幸ひに得たり此の埔(ほ)の遊。」(路傍の命の泉は清く流れ、天国へと歩む人は嬉々として暫し憩う。そこではあらゆる美味なる果実と百花繚乱が旅人を慰める、天界へと歩む私は心からのこれら自然の友を得たのだ、このパラダイスの道すがら……)といった感じである。この種の神聖なる聖書の翻訳物が持っている面白さを殊更に云々することは、恐らく不謹慎にして第三者の嘲笑を買うところではあろう。しかし考えても見るがよい、獄中のオスカー・ワイルドが行往坐臥の伴侶としたのも、ものものしいギリシャ語の聖書であったということを――。(一月二十一日)
[やぶちゃん補注:本篇で取り上げている書「天路歴程」については、後に大正11(1922)年1月発行の雑誌『明星』に発表した「本の事」でも「天路歴程」と見出しを設けて取り上げており(こちらは口語である)、こちらも随筆集『点心』に所収しているところから、同作品集では削除されたものと思われる。参考までにそちらを掲げる(底本は岩波版旧全集を用いた。私が読みに迷う部分には歴史的仮名遣で〔 〕で、筑摩書房全集類聚版を参考に読みを附した)。
天路歴程
僕は又漢譯のPilgrim's Progressを持つてゐる。これも希覯書とは稱されない。しかし僕にはなつかしい本の一つである。ピルグリムス・プログレスは、日本でも譯して天路歴程と云ふが、これはこの本に學んだのであらう。本文〔ほんもん〕の譯もまづ正しい。所々〔しよしよ〕の詩も韻文譯である。「路旁生命水清流 天路行人喜暫留 百果奇花供悦樂 吾儕幸得此埔遊」――大體こんなものと思へば好〔よ〕い。面白いのは銅版畫の插畫〔さしゑ〕に、どれも支那人が描〔か〕いてある事である。Beautifulの宮殿へ來た所なども、やはり支那風の宮殿の前に、支那人のChristianが歩いてゐる。この本は清朝の同治八年(千八百六十九年)蘇松上海華草書院の出版である。序に「至咸豐三年中國士子與耶蘇教師參譯始成」とあるから、この前にも譯本は出てゐたものらしい。譯者の名は全然不明である。この夏、北京の八大胡同〔はちだいことう〕へ行つた時、或清吟小班〔せいぎんせうはん〕の妓の几〔つくゑ〕に、漢譯のバイブルがあるのを見た。天路歴程の讀者の中にも、あんな麗人があつたかも知れない。
・「蘇松上海華草書院」は誤り。「蘇松」以下は「骨董羹」本文の「上海美華書館」の方が正しい。
・「路旁生命水清流 天路行人喜暫留 百果奇花供悦樂 吾儕幸得此埔遊」の原詩は以下の通り(英文サイト“The Pilgrim's Progress: Part I: The River of Life”より引用した)。漢訳者はかなりの意訳を施していることが知れる。
Behold ye how these crystal streams do glide,
To comfort pilgrims by the highway side;
The meadows green, beside their fragrant smell,
Yield dainties for them; and he that can tell
What pleasant fruit, yea, leaves, these trees do yield,
Will soon sell all, that he may buy this field.
この漢訳詩では「埔」が難解である。これは「廣漢和辭典」を見ると、「大埔」で広東省の地名、また「柬埔寨」で「カンボジア」を意味するとだけある。後者のイメージから熱帯の珍しい果実や花のある場所、変じて現実から離れたパラダイスの謂いであろうか。識者の御教授を俟ちたい。
・「Beautifulの宮殿へ來た所」は、「骨董羹」の「入美宮圖」で、岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解に『芥川が例示している挿絵は、主人公クリスチャンが、「美麗宮」と呼ばれる宮殿に入ろうとする』図とし、それを掲載している。平面的な作品をそのまま複写したものに著作権は発生しない(文化庁公式見解)ため、以下にそれを画像として掲げる。
・「至咸豐三年中國士子與耶蘇教師參譯始成」は「咸豐三年に至り、中國の士子、耶蘇教師と參譯、始めて成る。」と読み、「咸豊三(1853)年に中国の学者とキリスト教宣教師との共同訳が完成した。」の意である。
・「この夏、北京の八大胡同へ行つた時」芥川龍之介はこの前年、大正10(1921)年3月末から7月下旬まで大阪毎日新聞社特派員として訪中しているが、6月14日から7月10日という凡そ1箇月の長期に亙り北京に滞在した。芥川は一、二年はここに住みたいとその愛着を書簡等で繰り返している。
・「八大胡同」は現在の天安門広場の南端にある正陽門から伸びる前門大街の先にあった色町のことで、それらの遊郭が八本の胡同(フートン:細い路地)に面していたことからこう称した。
・「清吟小班」は北京の一等の娼家を言う。当時の北京の妓楼には「清吟小班」「茶室」「下処」「小下処」の四等級が存在した。]
別乾坤――別個な逍遥世界
フランスの大家テオフィール・ゴーティェの娘Judith Gautierジュディット・ゴーティェの詩に表出する中国は、確かに中国であると同時に、また、中国ではない。葛飾北斎が、曲亭馬琴と高井蘭山がものした「水滸画伝」に描いた挿絵も、一体、どこの誰が現実の中国をリアルに描写したものであるなどと言うであろうか。それ故に、あの目もと涼やかな女流詩人ジュディスの、この髪薄き老画伯北斎の、その彼の無声の詩たる絵と、彼女の有声の画たる詩とに、現前と立ち現れたところの似て非なる中国とは、寧ろ彼等が白昼夢の中にあって恣(ほしいまま)に遊んだところの全くの別乾坤――別個な逍遥世界――であると言うべきであろう。さても、この現実の退屈な人生にあっても、幸にこの別乾坤というのものが確かにあるのである。だから誰も、「怪談」の一篇「蓬莱」を記したかの小泉八雲と一緒になって、古えの我等の別乾坤たる、仙女の住むという蓬莱山上の、蜃気楼の如き麗しき高楼(たかどの)が、天空の大風と強き大浪のような文明開化によって、遥か遠い蒼穹、大洋の彼方に去つてしまって二度と戻っては来ないのだ、と深く嘆き悲しむ必要は、ないのである――。(一月二十二日)
[やぶちゃん補注:このアフォリズムの末尾部分は、小泉八雲の「怪談」の掉尾をなす「蓬莱」の記述に基づく。まずLafcadio Hearn“Hôrai”の、その冒頭原文を掲げる(引用は“K.Inadomi's Private Library”所収のものを用いた)。
*
Blue vision of depth lost in height, — sea and sky interblending through luminous haze. The day is of spring, and the hour morning.
Only sky and sea, — one azure enormity. . . . In the fore, ripples are catching a silvery light, and threads of foam are swirling. But a little further off no motion is visible, nor anything save color: dim warm blue of water widening away to melt into blue of air. Horizon there is none: only distance soaring into space, — infinite concavity hollowing before you, and hugely arching above you, — the color deepening with the height. But far in the midway-blue there hangs a faint, faint vision of palace towers, with high roofs horned and curved like moons, — some shadowing of splendor strange and old, illumined by a sunshine soft as memory.
. . . What I have thus been trying to describe is a kakémono, — that is to say, a Japanese painting on silk, suspended to the wall of my alcove; — and the name of it is SHINKIRÔ, which signifies "Mirage." But the shapes of the mirage are unmistakable. Those are the glimmering portals of Hôrai the blest; and those are the moony roofs of the Palace of the Dragon-King; — and the fashion of them (though limned by a Japanese brush of to-day) is the fashion of things Chinese, twenty-one hundred years ago. . . .
*
この作品の訳を示すに、平井呈一先生の訳以外に名訳を私は知らない。特に先生は、この冒頭に二段落分を擬古文に訳されており、それがこの芥川のそれと美事に照応するかのように美しい。ここにそれを引用せずにはおられない(1975年恒文社刊「怪談 骨董他」所収の「蓬莱(ほうらい)」を用いたため、恐らく初訳の際はそうであったであろう歴史仮名遣は残念ながら現代仮名遣に改められている。もとに戻した願望に駆られるが、著作権存続中の作品の引用であるので、そのままとする。読者は是非、歴史的仮名遣且つ正字に直して鑑賞・対比されると、芥川龍之介――小泉八雲――平井呈一という稀有の美しいラインが見えてくる)。
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水や空なるわだの原。霞にけぶる空と水。時は春なり、日は朝(あした)。
見わたせば、ただ渺々の海と空(そら)。見る目くまなき群青(ぐんじょう)の、こなたに寄する岸の波。ただよう五百(いお)の水泡(みな)くずは、銀の光をとらうらん。その岸べより沖かけて、目路(まじ)には動くものもなく、ただ一刷毛の藍の色、日に蒸れけむる碧水の、蒼茫として碧天に、つらなるきわを眺むれば底(そこひ)も知らぬ穹窿(きゅうりゅう)の、帰墟(ききょ)の壑(たに)にも似たるかや。高きとともにその色の、ひときわ深き中空に、反りたる屋根の新月に、まがうと見ゆる高楼(たかどの)の、ほのかに遠くかかれるは、げにそこはかとなき思い出の、姿もかくやほのぼのと、朝日に映(は)ゆるとつ国の、古き栄華のまぼろしぞこれ。
上に試みに訳したのは、一幅の掛物である。素絹に描いて、わが家の床の間にかけてある、日本の絵だ。題を「蜃気楼」という。「蜃気楼」とは「まぼろし」の意である。しかし、この蜃気楼は形がさだかである。これに見えるのは、仙境蓬莱に輝く光りの門、あれに見ゆるは、竜宮の月の屋根である。その様式は、(現代の日本の画家が描いたものだが)二千年前の中国の様式だ。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]
*
小泉八雲は以下、常世としての蓬莱の不老不死等について語りながら、悲しみや死が犯さない世界などあるはずがない、と否定はする。しかし、すぐに蓬莱の語りの魅力に負けて、その大気が空気ではなく、幾千万億という太古の霊魂の精気によって構成されており、それを摂取することよって蓬莱に生きるものの感覚は我々とは異なったものになると語り出す。蓬莱では正邪の観念がない。故に老若もない。不死ではないが、その死の瞬間以外は、常ににこやかに微笑んでいる。蓬莱では全ての人々が家族のように愛と信頼の絆によって結ばれている。そうして蓬莱の「女」の人の心やその語りかける言葉は、小鳥の魂のように軽やかである。蓬莱では死の瞬間の別れの悲しみ以外には、何一つ、人に隠すことがない(神は死の瞬間の悲しみがその当人の表情から消え去るまで、その顔を蔽うのである)から、もとより恥を感ずるいわれもない。他者から何かを盗む必要も、盗まれるという恐れの感情も不要だから、戸閉まりをする必要もない。そこに住む人々は皆、神仙である。だから、その世界のものは殆んどが極めて小さくて奇妙に見える。彼らは極めて小さな茶碗で飯を食い、極めて小さな杯で酒を飲む……。八雲はここでこれらの霊妙なるものの核心を総括する。それは、理想、即ち古き世の希望の光、に対する憧憬であるとする。その希望の『無私の生涯の朴直な美しさ』(平井氏訳)が蓬莱の「女」の人の誠実な優しさに現われている……と。もう、この八雲が語る「蓬莱」なるものが何辺にあるか、何処であるか、お分かり頂けたものと思う。
最終段落は象徴的である。そうしてこれが芥川の最後の一文に直に繋がる(引用は原文・訳文共に前記引用に同じ)。
*
— Evil winds from the West are blowing over Hôrai; and the magical atmosphere, alas! is shrinking away before them. It lingers now in patches only, and bands, — like those long bright bands of cloud that trail across the landscapes of Japanese painters. Under these shreds of the elfish vapor you still can find Hôrai — but not elsewhere. . . . Remember that Hôrai is also called Shinkirô, which signifies Mirage, — the Vision of the Intangible. And the Vision is fading, — never again to appear save in pictures and poems and dreams. . . .
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――西の国からくる邪悪の陰風が、蓬莱の島の上を吹きすさんでいる。霊妙なる大気は、かなしいかな、しだいに薄らいで行きつつある。いまは、わずかに、日本の山水画家の描いた風景のなかにたなびく、長い光りの雲の帯のように、片(きれ)となり、帯となって、漂うているばかりである。その一衣帯の雲の下、蓬莱は、その雲の下にのみ、今は存しているのである。それ以外のところには、もはやどこにも存在していない。蓬莱は、又の名を蜃気楼という。蜃気楼とは手に触れることのできない、まぼろしの意である。そうして、そのまぼろしは、今やすでに消えかかりなんとしつつある。――絵と、歌と、夢とのなかにあらざれば、もはやふたたびあらわれぬかのように。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]
*
なお、「蜃中樓」について、筑摩全集類聚版注は『蓬莱にある仮空[やぶちゃん注:ママ。]の楼の名か。又は蜃気楼と同じ意味で用いたか。清曲の一に「蜃中楼」というのがあるが、無関係であろう。』とし、岩波版新全集注では『広津柳浪の処女作「女子参政蜃中楼」(「東京絵入新聞」一八八七年六月一日―八月十七日)の「序」に「蜃中楼とは蛤が吐出した気の中に玲瓏たる楼閣が層々累々巍乎として出現せるを申せしものなるハ、何人も御存のことにて」とある。』とする。私は、殊更にこの語の根拠を云々することに意味を感じないが(蜃気楼と同義であってなんら問題ないし、字面から言っても意味も少しもおかしくはないから)、敢えて言わせて貰えば、芥川が本作中でも掲げている艶本「肉布團」の作者に比定される李漁(彼は明末から清初にかけての文人とされている)の作品に、「蜃中樓伝竒」なるものも存在していることを挙げて終わりとする。]
軽薄
元代の李衎(りかん)は、竹画の名手として知られた北宋の文湖州の手になるという竹の絵を数十幅観てみたが、正直言って、どれもこれも、その悉くが満足出来るものでなかった。蘇東坡や黄山谷といった文人の、湖州を激賞する文章を読んでみても、かえって、『これは彼らが李と親しく交際していたことによるエコ贔屓であろう』ぐらいにしか思っていなかったのであった。さて、たまたま友人の王子慶と逢い、話が文湖州の竹に及んだ。子慶が言うには、「それは、君がいまだ文湖州の真蹟を見ていないからに過ぎぬ。私の知人の府史の所蔵にかかる一本は正真正銘の湖州、明日私が彼から借りてきて貴君にお見せすることと致そう。」と。翌日、果してこれを観たところ――風に揺れる疎らな竹の枝は、遠く望む山上の砦から立ち上る狼煙を拭うかの如くくっきりと鋭く、露に濡れそぼった寂寞たる竹の葉は、更に清々しい霜の気も帯びてしっとりとして……あたかも見ている自分が、竹の名所として知られる甘粛省の渭川(いせん)と、そこから遥かに遠く離れた河南省の、あの「詩経」国風にも詠まれた美しい名川、淇水(きすい)との間の、別乾坤に座っているかのようであった――。衎は感嘆せずにはおられなかった。同時に自身の見聞の如何に狭隘(きょうあい)であったかを知って大いに恥じ入ったということである。衎のような人間はまだ許し得る存在である。近年、あの光の魔術師と呼ばれたセザンヌの絵の、粗悪なモノクロームの写真版を見て、そのヴァルール――色彩の微妙な度合いや調和を云々するかのような、無知蒙昧の評論家の唾棄すべき軽佻浮薄さに比べれば、遥かにましであると言うべきである。その噴飯たること、ここで戒めずにおくわけには、とてもいかない。(一月二十三日)
[やぶちゃん補注:「府史」の「府」は中国の行政区画の一。唐代から清代まで続いた。「史」は記録を司る役人の謂いであるから、ここは府の役所の書記官。
「ヴァルール」はフランス語“valeur”で、色価と訳される。色の明度や色相互の関係を言う美術用語。前近代にあっては、専ら色の明暗度の違いによってパースペクティヴの違いを引き出すような空間的描出の様態を指して言ったが、印象派セザンヌ以降の近現代絵画では、単純な明度に加えて、色相互の色合いや配置・調和といった画面構成全般に及ぶ評言として用いられる。]
俗漢――俗物
バルザックがペェル・ラシェーズ墓地へ葬送された際、柩(ひつぎ)の側に侍して、当時の内務大臣バロッシュがいた。彼は、その葬送の途上、同じく柩に控えていたユーゴーの方を向いて尋ねた、「故バルザック氏は有能の士だったのかね?」と。ユーゴーはむっとして吐き捨てるように答えた。「天才じゃわい!」と。バロッシュはその答えに腹を立てたのであろう、傍らの人に囁いて言った。「このユーゴー氏も聞きしに勝る狂人じゃわい!」と――。フランスの内閣にもまた、かくの如き俗物の輩のなきにしもあらずである。大日本帝国の大臣・諸公卿は、安心して宜しいであろうと言うべきである。(一月二十四日)
同性恋愛
オスカー・ワイルドの小説の主人公、かのドリアン・グレイを愛する人は“Escal Vigor”「エスカル・ヴィゴール」を読まなくてはならない。男子が男子を愛するという霊妙な情愛が、本書のように遺憾なく描かれた作品は他に類を見ないからである。本作の中の、その情愛に関わるシークエンスをもしも翻訳しようとするなら、本邦当局の忌違に触れるであろうこと疑なき文字(もんじ)が少なくない。現地ベルギーに於いても出版当時、有名な訴訟事件を惹き起したというのもまた、これら、艶っぽい言辞・表現に関わる筆禍が多かったからという。著者George Eekhoudジョルジュ・エックハゥトはベルギー近代の大作家である。本邦では無名であるが、欧州にあってはその名声、必しも鷗外漁史の翻訳「聖ニコラウスの夜」で知られる同じベルギーの作家カミーユ・ルモニエの下に置かれるものではない。にも関わらず、これだけ多士済々たる日本の文壇にあって、未だにこのジョルジュ・エックハゥトの一代の傑作「エスカル・ヴィゴール」について、一行の紹介文すら私は見たことがない。これは甚だ残念なことである。優れた文芸が――その豊饒なる同性の恋愛の幽玄美と、それを理解する心が――かの地のオーロラ・ボレアリス(極光)の神秘的な輝きのように、ただ、その北欧の天地にのみあって、日本にはないものだとは、私は、思わないのである――。(一月二十五日)
[やぶちゃん補注:「オウロラ・ボレアリス」は“aurora boreālis”、ラテン語でオーロラ、北極光のことを指す。“aurora”はローマ神話の暁天の女神アウロラAuroraに由来し、“boreālis”は“boreal”=“northern”で「北の、北風の、北方の」の意である。“boreālis”という語自体もギリシャ神話の北風の神ボレアスBoreasに由来する。英語圏でオーロラを“aurora borealis”とラテン語表記することは必ずしも特殊なことではない。]
同人雑誌
年少の子弟が金を出し合って同人雑誌を出版する事が、当今の流行の一つであるようである。しかし紙代・印刷費用ともに決して安くはない昨今、同人誌の経営に苦しむ者もまた、少なくない。聞くところによると、フランス象徴派の牙城『ル・メルキュール・ド・フランス』の創刊号公刊の折も、元より参加した文壇の不遇の同人諸氏が当時裕福であった訳もなく、止むを得ず、1株60フランの債券を同人に募ったのだけれども、その唯一の大株主であったジュール・ルナールの引き受けた持株すら、僅かに4株に過ぎなかったということである。しかもその同人の中には、詩人アルベール・サマンや作家レミ・ド・グルーモンの如き、象徴主義(サンボリスム)という限定を抜きにしても、一代の才人とすべき作家が多かったことを思えば、当代に流行している同人雑誌と雖も、資金が如何にも潤沢でないことを憾むべき理由はないことも、また同じである。ただ、本邦昨今の『ル・メルキュール』に相当する同人誌に得難いのは、本家『ル・メルキュール』にあってサンボリスムという天子の御旗の如き一大新潮流を生み出したような優れた芸術家達の存在であって、本邦には悲しいかな、一握りしか居はしない――。(一月二十六日)
三馬
二三人が集って議論して言うことには、「現代人の眼を以つて古人の心情を描くということは、自然主義文学以後の文壇に於いて最も目ざましい傾向であるといってよい。」と――。その時、一人の老人があった。傍らより言葉を挾んで言った、「式亭三馬の『大千世界楽屋探し』はどうじゃ?」と。二三人の者達は読んだことはおろか、名さえ知らぬ作品を挙げられて、言うべき言葉を知らず、互いに顧みて唖然としているしかなかった。(一月二十七日)
[やぶちゃん補注:本篇は大正11(1922)年5月刊の芥川龍之介初の随筆集『点心』に収める際、削除された。その理由は私には推測不能であるが、短か過ぎ、ひねりもそれほどなく(これでひねりを加えるとなると「大千世界楽屋探し」の梗概見たようなものになりかねないか)、アフォリズムとしては、やや食い足りない印象は拭えない。]
雅号
日本の作家は昨今、多くは雅号を用いていない。文壇の新人と旧人を見分けるには、殆んど雅号の有無を以てすれば足りるほどである。故に前に雅号を持っていた作家も、今はそれを捨てて用いない者さえ少なくない。雅号という存在が最早風前の灯たること、ああ、また何と甚しきことか――。ロシアの作家にオーシップ・ディーモフという人物がいる。チェーホフの短篇「蝗」の主人公と同名であったかと思われる。ディーモフはその主人公の名を借りてペンネームとしたのであろうか。このことについて博覧強記の士の教示を得られるならば恩幸これに過ぎたるはない。(一月二十八日)
[やぶちゃん補注:「オーシップ・ディーモフ」はОсип Дымов(Ossip Dymov 1878~1959)で、ロシア出身の劇作家。但し、1913年に米国へ移住している。本名はИосиф Исидорович Перельманで、ラテン語綴りに換えるとIosif (=Joseph) Isidoroviych Perelmanイョーシフ・イシドーローヴィチ・ペレルマンで、名の発音の近似性が確認できる。
『チェーホフの短篇「蝗」』というのは1892年作の原題“Попрыгунья”(Poprygunya)で、これはロシア語で腰の落ち着かない女の謂い、ところがこれが英訳題名では“The Grasshopper”(イナゴ・バッタ)となる。しかし英語の“The Grasshopper”にはロシア語のような意味が通常の辞書には現われない(英訳される以上、そのような卑俗語として英語には存在するのであろうが、少なくとも芥川龍之介はそれを認識していなかったのではなかろうかとも思われる)。現在、邦題では「浮気な女」「気まぐれ女」「浮気」等と訳されている作品である。この作品の主人公の名前はОсип Степаныч Дымов(Osip Stepanych Dimov オーシップ・ステパーヌィチ・ディモフ)である。私はこれ以上の知見を持たないが、芥川龍之介の推理が正しい可能性はかなり高いものと思われる。ここに芥川の遺志を新たにして博覽の士の示教を受けられるならば、恩幸これに過ぎたるはない。]
青楼
フランス語で娼家のことを“la maison verte”(緑の館)と言うのは、ゴンクール兄弟(エドモンとジュール)の兄エドモンの造語であるという。思うにこれは明和7(1770)年に鈴木春信が吉原遊廓の名妓166名を描いた彩色摺絵本「青楼美人合せ」の書名を翻訳したものにその源を発するものであろう。ゴンクール兄エドモンの日記に言う。「本年(寿陵余子注:1882年)、私の病的な日本美術品蒐集のために費やした金額、実に30,000フランに達した。これは今までの私の収入の全てであって、残金は、最前より購入しようと思っていた懐中時計のための40フランさえもない――。」と。また言う。「この数日来(寿陵余子注:1876年)、日本に行きたいという思い、切にして止み難い。しかし、この旅は私の日頃の日本画の蒐集癖を充たそうとするためばかりではない。私は夢みる、その旅で一巻の著作をものすことを。題は『日本の一年』。日記のような体裁。叙述よりも情調。それを美しくものし得たならば、きっと比類ない満足の中に浸れるであろうに。――ただしかし、私のこの老いを、如何せん――。」と。日本の版画を愛し、日本の骨董を愛し、更にまた日本の菊花自然を愛した、挫折と孤寂のただ中にあった当時のゴンクールのことを思うと、この「青楼」“la maison verte”というちょっとした一語とは言え、その彼の万感の思いが伝わって来て、無限の共感を感ぜずには居られないのである――。(一月二十九日)
[やぶちゃん補注:岩波版新全集注解によると、後者の日記の引用はゴンクールの1882年12月19日からの引用であるが、芥川は原典で、「三万法に達した」とするところを「三千法」と誤って引用している、とする。それに従い、本翻案では「30,000フラン」と改めた。
末尾、原文の「短なり」の訳にやや逡巡した。これは「短慮」「よくないこと」を意味する「短」であって『ゴンクールが、「青楼」から「淫売宿」の意の“la maison verte”という薄っぺらな一語を造語してしまったことは、短慮に過ぎた、拙(つたな)いものであったと感じはするものの』という意味を芥川は込めたかと当初は考えたが、それでは「無限の情味」が傷つくと考え、以上のように訳した。]
言語
言語は元より多種多様である。「山」と言い、「嶽」と言い、「峯」と言い、「巒」と言う。それらは広義に於いて同じ意であって、しかも字の異なるものを用いるならば、即ち大いに微妙にして玄妙なる意の相違をそこに宿らせることがまた可能であると言えるのである。江戸で大食漢のことを「大松」と言い、差し出がましい出しゃばり野郎を「左兵衛次」と言う。さても、これらの言葉を聞く者が江戸っ子でなかったとしたら、このように面前で自分を痛罵されても、まるで意味が分からないから、阿呆のように平然としているであろう(それがまた阿呆の上塗りになることも知らずに)。試に考えて見給え、性戯フェラチオの意の典雅なる「品蕭(ひんしょう)」の如き、男色の要締、基、要諦、菊花の契りたる肛門の美称「後庭花(こうていか)」の如き、四十八手の一、騎乗位の雅びなる謂い「倒澆燭(とうげいしょく)」の如き、『金瓶梅』『肉蒲団』といった作品中の語彙を借りて一篇の小説を作ろうとする時、よくその淫邪猥褻なる語が風俗壊乱罪を構成するということを看破できる検閲官が一体、何人居るかを――。(一月三十一日)
誤訳
無遠慮にも、イギリスの大史家たるカーライルのドイツ語の翻訳に誤訳があると指摘を試みたのは、同じイギリスの作家ド・クインシーの差し出口であった。しかし、この批難されたチェルシーの哲人は、彼よりも十歳年上ではあるものの、文壇に於いては後進であったこの鬼才を正当に評価するにかえって甚だ篤かったが故に、当の批評者たるド・クインシーもまた、その誠心に感服して百年の友情を結んだという。因みにカーライルの誤訳が如何なるものであったかは私は知らない。さて、私が知っている本邦の誤訳の中で最も滑稽だったのは、聖母マリアの意たる「マドンナ」を市井の御婦人たる「奥さん」と訳したものであった。いくらなんでも訳者が天国の楽園の門番である下級天使であったわけでも、はたまた遺書を書く「こゝろ」の先生がキリストであったわけでもあるまいに――。(二月一日)
[やぶちゃん補注:「チェルシーの哲人」のチェルシーはロンドンの南西部テムズ川北岸の地名。芸術家が多く居住した。カーライルはスコットランドのダンフリーシュッシャーの生れであるが、1834年ここに移り、終生ここに住み、加えて厭人癖が強かったこともあり、世に「チェルシーの哲人」と呼ばれた。]
戯訓
過ぎ去りし日、友久米正雄氏は、作家バーナード・ショーに当て字して「笑迂(セウウ)」と言い、イプセンを「燻仙(イブセン)」と言い、メーテルリンクを「瞑照燐火(メイテルリンクワ)」と言い、チェーホフを「知慧豊富(チエホウフ)」と言った。これは戯訓と称してよいであろう。かつて「二人比丘尼」の作者である鈴木正三は、そのキリスト教を排斥する論難の書に題して「破鬼理死端(はキリシタン)」と言った。これはまたしかし、如何にも悪意に満ちた戯訓の一例と言うべきであろう。(二月二日)
[やぶちゃん補注:当て字の読みは、当時の雰囲気を出すために、歴史的仮名遣を用いた。
「鈴木正三」は現在、主に仮名草子の作家として知られるが、元は旗本で、後に曹洞宗の僧となった。出家後、島原の乱の後に天草の代官となった弟の要請を受ける形で当地へ赴き、三年の内に宗派を問わず三十二の寺を復興、残存するキリスト教の影響力を殺ぐために寛永19(1642)年に「破吉利支丹」を執筆し、天草の寺院に配布したという。本文の「鬼理死端」という表記は、実際に天草の乱の後に書かれたと思しい、幕府要人の現存する文書に存在しているという記載が、ネット上に存在する。]
尾崎紅葉
紅葉の歿後、殆んど二十年となる。その「多情多恨」「伽羅枕」「二人女房」といった作品は、現在でも、なおこれをつま開いて読むも、さながら一房(ひとふさ)の鼈甲細工の牡丹を象った髪飾りのように、その光彩は聊(いささ)かも磨滅していないかのように見える。人が亡くなって初めてその人の真の仕事が顕れるというのは誠にこの人のことを言うのであろう――。思ふに前に記した諸篇のように、構成の布置に計算された技巧があり、語彙表現がしっかりと根を下ろしており、ストーリーが自在な変化に富みながらしかも作者の定めた大いなる定石から逸脱していない点、よく永久に後世に残すべき作品である所以であると言ってよい。私は常に思う、芸術の世界に未完成なものなどないと。紅葉はまた、それを体現してはいないだろうか――。(二月三日)
[やぶちゃん補注:本篇は大正11(1922)年5月刊の芥川龍之介初の随筆集『点心』に収める際、削除された。次の「俳句」ではかなり辛辣な評を紅葉に加えており、そのバランスを考えたか。確かに、次の「俳句」とどちらかを残すとするならば――この毒性の高い「骨董羹」にはこちらは不要であろう。]
俳句
俳句結社紫吟社やら秋声社やらを興した尾崎紅葉土千萬堂(とちまんどう)の俳句に、未だに古き名俳諧師の持つ侘び寂びの境地に至ったような霊妙さを見出せないのは、ただそれが談林調であることだけによるのではあるまい。この人の文章を見ても如何にもそのあさっりとした筆致には、凡そそれが時期を得て古寂びた松を成すといった玄妙さはない。彼の筆の長所は精緻にして精密な点であり、石を描写するに際しても、その表面に生える見えるか見えないかという一本の小さな雑草さえも付け加えることを忘れないという巧みさにある。さればこそ、そうした細密描写を伝家の宝刀とする彼にして、俳句が下手なのは当然のことではなかろうか。牛門の秀才である泉鏡花氏の句品が師紅葉翁の遥かに上に出ずるということも、またひとりこの道理故に他ならない――。それはそれとして、かの稀代の毒舌の皮肉文学者たる齋藤緑雨が、あれだけの自由自在縦横無尽の才能を蔵しながら、その俳句は遂に凡百の俳人のものと何ら変わりがないということこそ、当代の不可思議というべきである。(二月四日)
[やぶちゃん補注:「牛門」は紅葉の家が牛込区にあったことから、鏡花の他、紅葉門下を言う。]
松並木
東海道の松並木が伐られるらしいということを何時か新聞で読んだことがある。元より道路改修のためとならば止むを得ないようには思われるけれども、このために斧や鉞(まさかり)に伐り倒される災難を受ける老松の古木が、百千にも及ばんとすることにまで想到するならば、これは惜んでもなお惜みきれない悲劇ではなかろうか。フランスの外交官にして詩人であったポール・クローデルが来日した際、この東海道の松並木を見て作った所の一文が「東方の認識」第一部「松」にある。それは、ひねこびた枝がその古色故に煙ったように見え、地面から高々と出でては曲がりくねった根が石の上に倒れるように覆い被さっているさまを描写して素晴らしく、その文章自体が、まさに不可思議な燦爛(さんらん)たる光を放っていると言ってよい。ところが今やその当の松並木が亡びようとしている。クローデルが若しこのことを聞いたら、と考えると私は心配する――、彼が「黄いろい面(つら)の小僧っ子め! 未だに彼奴(きゃつ)らは神の徳によって教化されていない、度し難い類人猿だ!」と長い嘆息(ためいき)をつかずにはいられないであろうことを――。(二月五日)
日本
テオフィール・ゴーティエの娘ジュディット・ゴーティエについては、既に冒頭の「別乾坤」の一篇で語った。同様にやはり、キューバ出身のフランスの詩人José Maria de Herediaジョッゼ・マリア・ド・エレディアの描いた日本もまた別乾坤である。『簾の内なる美しき女は、琵琶を弾きつつ、鎧を着た勇士の到来を待っている……。』これは彼の詩“le samourai”「サムライ」からの一節である。その雰囲気は元より日本でないわけではない。しかし、詩全体を味わってみるに、その絹の白さと漆の煌(きら)めきとに彩られた世界は、寧ろ、果ても霞んだ広漠たるフランスのパルナシアン(高踏派詩人)の詩心の中にのみ、その存在が許されている夢幻境に過ぎない。しかもそのエレディアの夢幻境たるや、若しその所在を世界地図の上に示すことが可能なものであるとすれば、恐らくそこは、フランスには近いけれども、日本からは遥かに遠く隔たった場所であろう。かの文豪ゲーテの描いたギリシャと雖も、そのトロイ戦争の場面の勇士の口元には、多少のミュンヘン・ビールの泡がついており、それは残念なことに今読んで見ても未だに消えずにはっきりと読者の目に止まるのである。これは致し方ないことである。ここで嘆かねばならぬこと、それは、想像の中にあっても、また、国籍なるものが存する、ということである――。(二月六日)
大雅
本邦に画家多しと言えども、池大雅九霞山樵のような大人物は二人といないと言ってよい。しかしその大雅ですら、三十歳になるに及んで、思い通りに筆が進まないことを憂えて、七十三歳の南画家祇園南海に教えを請うたことがあった。昨今の血気だけは大雅より旺盛な芸術家連が、どうして自身が遅々として進歩しないことに焦燥を感じずにいられるのであろうか、まことに不可思議なことと言わざるを得ない――。ただただ、こうした輩が返す返すも学ばねばならないこと、それは、聖胎長養の機――禅僧が悟達した後も座禅修養を怠らないように、南画の大成者として既に崇められれていた彼が、初心に還って謙虚に南海に教えを請うた、生涯修練という真摯な覚悟の中で選び取った「時」――を誤らなかった九霞山樵の芸術家としての「人生の手法」である。(二月七日)
[やぶちゃん注:「血性大雅に過ぐるもの、何ぞ進歩の遅々たるに焦燥の念無きを得可けんや。」の部分の訳は、力技である。識者の御教授を乞うものである。]
妖婆
英語で“witch”と称するものは、概ね「妖婆」と翻訳するけれども、年少美貌のウィッチもまた決して少なくはない。ロシアのメレジュコフスキイの歴史小説三部作「キリストと反キリスト」中の一篇「先覚者」、イタリアのダンヌンツィオの「ジョリオの娘」、或いは作品としてはこれらより遥かに文学的香気が劣るが、クロフォードの“Witch of Prague”「プラーグの妖婆」など、宝玉のように美しい年若きウィッチを描いたものは、ちょっと探してみるならば、もっと沢山見出せるであろう。しかし、お馴染みの白髪に蒼い顔をしたお婆ウィッチが自在に跳梁跋扈するに対し、少女ウィッチの誰もが活発々と躍動することの少ないのは否み難い事実である。ヒロインが魔女裁判にかけられるサー・ウォルター・スコットの「アイバンホー」や、魔法使いの老婆が登場するホーソンの「緋文字」といった古典は別として、近代英米文学中、妖婆を描いて出色の出来と言えば、キップリングの“The Courting of Dinah Shadd”「ダイナ・シャッドの求愛」などが、或いは随一のものと称してよいであろうか。ハーディの小説にも、妖婆に材を取った作品が珍らしくない。彼の著名な“Under the Greenwood Tree”「緑の木蔭に」に登場する、エリザベス・エンダーフィールドなる人物も、作中、村人達が噂するように、この魔女の類いである。本邦では、一見似て見えるのは山姥や鬼婆であるが、ともに純然たるウィッチとは言えない。中国では、かの清代の和邦額作の「夜譚随録」に所載する夜星子なる者が、九十余りの老婆として描かれ、ほぼ妖婆と称するに近いものと言ってよい。(二月八日)
[やぶちゃん補注:原典で芥川はトーマス・ハーディの作品名を “Under the Greenwood ”と記しているが、正しくは“Under the Greenwood Tree”であるので改めた。]
柔術
西洋人は日本と言う度に、必ず柔道を想起すると聞いている。だからだろうか、アナトール・フランスが1914年にものした「天使の反逆」の中の第33章にも、日本からパリにやって来た天使が、フランスの巡査を掻い摑んでものの美事に投げ捨てる下りがある。モーリス・ルブランの探偵小説の主人公である義賊アルセーヌ・ルパンが柔道に通じているというのも、何でも日本人より学んだという設定になっているそうである。しかし、本邦の現代小説の中で、柔道の技を極めた主人公というのは、僅かに二年ほど前に出た泉鏡花氏の「芍薬の歌」に登場する峰桐太郎だけである。柔道もまた、「ヨハネによる福音書」でイエスが言ったように、『真の予言者というものは故郷で敬われることなく、受け入れられもしない。異郷でのみ認められるものなのである。』というのと同様の苦い歎きをせずにはいられぬものらしい――。いや、冗談、冗談。(二月十日)
昨日の風流
清の碩学趙甌北(ちょうおうぼく)の「呉門雑詩」に言う。「煙花を看尽して細やかに品評す、始めて知る佳麗の也(ま)た虚名なるを。今より作さず繁華の夢、消領す茶煙一縷の清。」(妓女を見尽くして一人一人を心を尽くして品定めしたが、さても今始めて悟った、女の美しさというものは誠に虚ろなものであるということを。今より遊郭繁華の夢を絶って、日がな一日を己が草庵に暮らそう、茶を煮る一筋の清らかな煙を立てて……。)また、その「山塘」の詩に言う。「老いて歓場に入れば感増し易し、煙花猶ほ記す昔遊の曾(そう)。酒楼旧日紅粧の女、已に似たり禅家退院の僧。」(年老いて妓楼に入れば甚だ感傷が刺激されるもの、ある妓女は今もなお覚えているではないか、嘗て私がここに遊んだことを。昔の御茶屋の美しく化粧した思い出の女、その彼女も今は禅寺を退いて隠居した遁世の僧のように老いさらばえている……。)――彼の体に満ちているその詩情は、殆んど永井荷風氏を連想させるものであると言ってよい。(二月十一日)
[やぶちゃん補注:「趙甌北」は趙翼(1727~1812)の号。清代の代表的な考証学に通じた史家。歴代の詩家、李白・杜甫・韓愈・白居易・蘇軾・陸游・元好問・高啓・呉偉業・沙慎行の十人の詩を論じた「甌北詩話」で広く知られる。
「已に似たり禅家退院の僧」の訳は自信がない。ここは「その彼女を抱いた私は、最早老いさらばえ、禅寺を退いて隠居した遁世の僧そのものだ……」という自分の老醜のようにも読めるが、それでは前の句の「旧日」の意が生きてこない。識者の御教授を乞う。]
誨淫の書――猥雑淫靡なることを教示する書物
四大奇書の一にして世界に冠たる淫書「金瓶梅」や、卓抜したポルノ小説の鏡たる「肉蒲団」は暫く措いて、私が知っている中国小説中、誨淫(かいいん)の譏(そしり)――淫らなことを勧めるものとの謗りあるものを列挙するならば、「杏花天」「燈芯奇僧伝」「痴婆子伝」「牡丹奇縁」「如意君伝」「桃花庵」「品花宝鑑」「意外縁」「殺子報」「花影奇情伝」「醒世第一奇書」「歓喜奇観」「春風得意奇縁」「鴛鴦夢」「野臾曝言(やゆばくげん)」「淌牌黒幕(しょうはくこくばく)」等になるであろう。聞くところによると、これらの内、早くから本邦に持ち込まれた書は、既に殆んどが日本語に翻案されているということである。また聞くところでは、近年この種の翻案を、密かに地下出版した者がいるともいう。さればもし、これらの和訳の艶情小説を一挙に通読したいと思う者は、潜在した淫邪の魔性をも鮮やかに解明して映し出すという現代の照魔鏡たる、検閲官諸氏の門を叩いて、その蔵する所の汗牛充棟の発禁本の山を貸し給えと恭しく請うのが一番の得策である――。(二月十二日)
[やぶちゃん補注:本篇に掲げられる諸作については、私は芥川が「問わず」と外している「金瓶梅」「肉蒲団」の一部を除いて一作も読んだことがなく、おこがましい注を附すのも気がひけるので、主に岩波版新全集注を用いて成立時代と作者を挙げておく。「杏花天」(清代・作者未詳・「金瓶梅」と並び称される好色本)・「燈蕊奇僧伝」(未詳)・「痴婆子伝」(明代・作者未詳)・「牡丹奇縁」(清代・徐震「桃花影」の改題)・「如意君伝」(明末清初・徐松齢)・「桃花庵」(正式には「桃花庵題詞」・成立時代不詳・作者不詳)・「品花宝鑑」(清代・陳森書)・「意外縁」(清代・秋斎)・「殺子報」(成立時代不詳・作者不詳)・「花影奇情伝」(成立時代不詳・建光)・「醒世第一奇書」(未詳)・「歓喜奇觀」(清代・西湖漁隠主人・別名「歓喜冤家」「貪歡報」)・「春風得意奇縁」(未詳)・「鴛鴦夢」(明代・采芝客または即薜旦・作者の読みは「へきたん」又は「はくたん」)・「野臾曝言」(清代初期・夏敬渠)・「淌牌黒幕」(未詳)。ただ、この内、岩波版新全集が全くの「未詳」としている「燈蕊奇僧伝」・「醒世第一奇書」・「春風得意奇縁」・「淌牌黒幕」の4作品(そのような作品が見当たらないという風に注釈者が解釈していると私は判断するのだが)の中の「燈蕊奇僧伝」というのは、昭和20年代末から30年代にかけての会員制特殊雑誌(一種の地下本)『生活文化』(改題して『造化』)の目次の中に伏見冲敬なる人物の訳で掲載される「燈草禅師伝」なるものがそれではなかろうかと思われる。初掲載号を見ると原作者として「琵琶記」で著名な元末明初の作家高則誠がクレジットされている(地下本を真摯に考究されているサイト“閑話休題××文学の館”の該当雑誌の頁を参照されたい。ちなみに、この雑誌には「痴婆子伝」等の訳も掲載されていて、戦後の雑誌ながら『既に日本語の翻案あり』という芥川龍之介の言を裏付けると言えないことはない)。これから考えて、芥川は故意か偶然か書名を変えている可能性が考えられ、本作中の書名の同定は未だ考証の余地があるように思われる。]
発音
ポオの名前は、 1884年にボードレールの翻訳によりフランスの書肆A. Quantinカルタン社から刊行された「異常な物語」「新・異常な物語」に、“Poë”と印刷されてからというもの、ヨーロッパ諸方で「ポオエ」の発音が行われている由を聞き及んでいる。私らの英文学の師であった東京大学文科大学英吉利文学科主任教授の故ジョン・ローレンス先生も、時に「ポオエ」と発音なさっていたのを聞いたことがあった。西洋人の名前の発音が誤りやすいのはさることながら、ホイットマン、エマーソンなどを個人的に崇め貴ぶ人が、その自分の持仏のように祈念尊崇している作家の名前の、アクセントさえ誤って発音するのには、ひどく卑しい心持ちにさせられるものである。これは重々気をつけて慎まなくてはならないことである。(二月十三日)
[やぶちゃん補注:「ホイットマン」アメリカの愛国詩人Walt(Walter)Whitmanの発音は、[(h)wítmәn]であるが、私も含めて多くの日本人はアクセント位置を誤り、現在も[hówitmәn]と発音する。また、アメリカの評論家・詩人にして思想家「エマーソン」Ralph Waldo Emersonの発音は、[émə(r)s(ə)n]であるが、やはり私も含めた多くの現在の日本人はアクセント位置を誤り、[emársən]と発音し、加えて長音符を用いて「エマーソン」と表記する者も多いと思われる。]
演劇史
西洋演劇研究の書物は、昨今多く出版されているけれども、その濫觴をなすものは永井徹が著した「各国演劇史」の一巻であろう。この書は、太鼓・喇叭・竪琴などを描いた銅版画の表紙の上に“KAKKOKU INGEKISHI”(原書ママ)なるローマ字を題している。内容は劇場及びその機関・道具等の変遷、古今の男女俳優のプロフィル、各国の著名な戯曲の由緒などであるが、イギリスの演劇を論ずることに最も詳しく、他に比して多くの紙数を割いているようである。その一部を紹介すると、「然るに1576年の女王『エリサベス』の時代に至って、始めて特別演劇興行のために、『ブラック・フラヤス』寺院の空いている寺領地に於いて劇場を建設した。これを英国の正統な劇場の始めとする。(中略)俳優には『ウイリヤム・セキスピヤ』と言う人がいる。当時は12歳の子供であったが、後に『ストラタフオルド』の学校にて、ラテン語並びにギリシャ語の初等学科を卒業した者である。」といった、思わず苦笑させられてしまう記事が少なくない。明治17(1884)年1月の出版、著者永井徹なる人物が警視庁警視属というのも、これまた一興である。(二月十四日)
[やぶちゃん補注:本篇で取り上げている書「各国演劇史」については、後に大正11(1922)年1月発行の雑誌『明星』に発表した「本の事」でも「各国演劇史」と見出しを設けて取り上げており(こちらは口語であり、内容も「骨董羹」より詳しい)、こちらも随筆集『点心』に所収しているところから、同作品集では削除されたものと思われる。参考までにそちらを掲げる(底本は岩波版旧全集を用いた。私が読みに迷う部分には歴史的仮名遣で〔 〕で、筑摩書房全集類聚版を参考にして読みを附した。「(原)」「(中略)」は芥川龍之介によるもの)。なお、本篇の注はこの引用への注でほとんどを代替することとする。
各國演劇史
僕は本が好きだから、本の事を少し書かう。僕の持つてゐる洋綴の本に、妙な演劇史が一册ある。この本は明治十七年一月十六日の出版である。著者は東京府士族、警視廳警視屬、永井徹と云ふ人である。最初の頁にある所藏印を見ると、嘗は石川一口〔いつこう〕の藏書だつたらしい。序文に、「夫演劇は國家の活歴史にして、文盲〔もんまう〕の早學問なり。故に歐洲進化の國に在ては、縉紳貴族皆之を尊重す。而してその隆盛に至りし所以のものは、有名の學士羅希〔らき〕に出て、之れが改良を謀るに由る。然るに吾邦〔わがくに〕の學者は夙に李園(原)を鄙〔いやし〕み、措て顧みざるを以て、之を記するの書、未嘗多しとせず。即文化の一具を缺くものと謂可し。(中略)餘茲に感ずる所あり。寸暇を得るの際、米佛等〔とう〕の書を繙〔ひもと〕き、その要領を纂譯したるもの、此册子を成す。因て之を各國演劇史と名く」とある。羅希に出た有名の學士とは、希臘や羅馬の劇詩人だと思ふと、それだけでも微笑を禁じ得ない。本文〔ほんもん〕にはさんだ、三葉の銅版畫の中には、「英國俳優ヂオフライ空窖〔くうかう〕へ幽囚せられたる圖」と云ふのがある。その畫〔ゑ〕が又どう見ても、土の牢の景清と云ふ氣がする。ヂオフライは勿論 Geoffrey であらう。英吉利の古代演劇史を知るものには、これも噴飯に堪へないかも知れない。次手に本文の一節を引けば、「然るに千五百七十六年女王エリサベスの時代に至り、始めて特別演劇興業の爲め、ブラツク・フラヤス寺院の不用なる領地に於て劇場を建立したり。之を英國正統なる劇場の始祖とす。而て此はレスター伯に屬し、ゼームス・ボルベージ之が主宰たり。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり。當時は十二歳の兒童なりしが、ストラタフオルドの學校にて、羅甸竝に希臘の初學を卒業せしものなり」と云ふのがある。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり! 三十何年か前の日本は、髣髴とこの一語に窺ふ事が出來る。この本は希覯書でも何でもあるまい。が、僕はかう云ふ所に、捨て難いなつかしみを感じてゐる。もう一つ次手〔ついで〕に書き加へるが、僕は以前物好きに、明治十年代の小説を五十種ばかり集めて見た。小説そのものは仕方がない。しかしあの時代の活字本には、當世の本よりも誤植が少い。あれは一體世の中が、長閑だつたのにもよるだらうが、僕はやはりその中に、篤實な人心が見えるやうな氣がする。[やぶちゃん注:中略。この中略部は丸々本篇の「入月」の私の補注の部分にある。参照されたい。]何だか話が横道へそれたが、永井徹著の演劇史以前に、こんな著述があつたかどうか、それが未に疑問である。未にと云つても僕の事だから、別に探して見た訣ではない。唯誰かその道の識者が、教を垂れて呉れるかと思つて、やはり次手に書き加へたのである。
・「警視属」一等と二等があるが、当時あった17階級の警察官の、それぞれ7等・9等に位置し、相応に高い地位である。
・「石川一口」というのは、明治中期に人気を馳せた大阪の講釈師のこととと思われる。
・「李園(原)」の「(原)」は芥川の補注で「(正しくは「梨園」であるが)原文ママ」の意。
・「英國俳優ヂオフライ空窖へ幽囚せられたる圖」は、岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解に「英国演戯及び劇場の沿革」の章に挿入されているとあり、その図を掲載している。平面的な作品をそのまま複写したものに著作権は発生しない(文化庁公式見解)ため、以下にそれを画像として掲げる。絵の下のコピーは右から左へ「英國ノ俳優ヂオフライ空窖ヘ幽囚セラレタル※」(※は「圖」の異体字と思われるが、小さなため解字不能である。上部に音叉状の突起+「一」その下に隙間があって「回」といった感じの字であるが、恐らく「圖」の(くにがまえ)を取った字体の最上部の横画が印刷不良で擦れて消えたものと思われる)と読むが――さてもこれは確かに鎌倉は扇が谷の景清の土牢に違いない。
・「Geoffrey」はイングランドの司教にして預言者Geoffrey of Monmouthジェフリー・オブ・モンマス(1100頃~1155頃)のことで、アーサー王伝説の完成者に比定されている。彼は俳優ではないし、石川が言うような幽閉の事実は不学にして知らない。
・「レスター伯」はイングランドの貴族Robert Dudleyロバート・ダドリー(1533~1588)で、彼は1st Earl of Leicester初代レスター伯を名のり、エリザベス1世の寵臣として知られる。
・「ゼームス・ボルベージ」はJames Burbageであるが、これはその息子であるRichard Burbage(1568~1619)リチャード・バーベッジの誤りであろう(父ジェームズもロンドンのブラックフライヤーズ他の劇場へ投資していたが、1597年に没している)リチャードはイギリスの俳優にしてグローブ及び次に示すブラックフライヤーズ劇場の経営者であり、彼の作品の初演時では多くの主役を演じた(若い頃は先のレスター伯一座に所属していたという説もある)。
・「『ブラツク・フラヤス』寺院」は先の注で示したリチャード・バーベッジが経営になる“Blackfriars Theatre”ブラックフライヤーズ劇場のことで、寺院ではない。
・「ウイリヤム・セキスピヤ」という表記は、岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解によると、明治17(1884)年当時の表記としては一般的であるとする。
・「ストラタフオルド」とはシェイクスピアの故郷ストラットフォード・アポン・エイボンのこと。
・「ストラタフオルドの學校にて、羅甸竝に希臘の初學を卒業せしものなり」とあるが、岩波版新全集第六巻の赤塚正幸氏の注解によると、『シェークスピアは、生れ故郷のグラマー・スクール(小学校程度)を出ただけであり、ラテン語もギリシャ語もほとんど知らなかったといわれている。』とある。しかし、ウィキペディアの「シェイクスピア」によれば、彼は『ストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校(King Edward VI School Stratford-upon-Avon)に通ったであろうと推定されている。』(中略)『エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである。 シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』(“The Two Menaechmuses”)との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である。』という詳細な記述があり、必ずしもここの石川の叙述を見当違いとして否定するものではないようである。
「“KAKKOKU INGEKISHI”」は原典ではちゃんと“Kakkoku Engekishi”となっているが、岩波版新全集第六巻の赤塚正幸氏の筆になる注解によると、当該の「各国演劇史」の表紙は表記の通り、“KAKKOKU INGEKISHI”と誤植していると書かれている。本「各国演劇史」を完膚なきまでに笑い飛ばそうとする芥川にして、淫劇、これを挙げない手はない。これも実は芥川の確信犯の正しい「誤記」である可能性も強いが、最早、我々がこの「各国演劇史」を容易に手に取ることが出来ぬ以上、私はここで「正しく改めて(原書活字のママ)で」示したい欲求を抑えられなかったのである。]
傲岸不遜
一青年作家がある会合の席上、「我等、文芸の士は――」と言いかけたところ、傍に居たバルザックは即座にその語を遮って言った、「君の言う『我等』の一人に私を含めようとすることこそ、そもそも厚かましいというのだ! 私は近代文芸の統率者であるのに!」と――。本邦文壇の二三の方は以前から傲岸不遜であるという批難をよく受けていると聞く。しかし、私は未だ一人のバルザックに似た人を見たことがない――。元よりバルザックが自身の一連の作品に絶大なる自信を込めて冠したような『人間喜劇』の小説群の如き、いやいや、その真正な写実的小説の一つに相当するような一篇さえも、本邦の名家の誰それの手に成った、ということを聞いたことがないのだが――。(二月十五日)
[やぶちゃん補注:底本注記によれば、ここまでの24篇(削除分5篇含む)が雑誌『人間』4月号所載分である。]
煙草
喫煙がこの世で行われるようになったのは、アメリカ大陸発見以後のことである。エジプト・アフリカ・ローマなどでも喫煙の風俗があったなどと言うのは、明き盲の虚言に過ぎない。アメリカ原住民が如何に古くから喫煙を嗜んだかは、コロンブスが新世界に辿り着いた時、既に葉巻あり、刻み煙草あり、嗅ぎ煙草があったことを見ても知られるであろう。タバコの名も実は植物の名称ではなく、刻みの煙を味わうためのパイプを意味する語であったという事実は、如何に西洋人が煙草に無知であったかを示して滑稽である。であるからしてヨーロッパの白色人種が喫煙に新機軸を創出したのは、僅に一事のみ、かの手軽なシガレットの案出があるきりである。寺島良安の「和漢三才図会」によれば、南蛮紅毛の甲比丹(カピタン)がまず日本に船に乗せて持ってきたものも、このシガレットと思われる。お江戸日本橋の村田屋の煙管が未だ世に出ていなかった頃――春風駘蕩陽光暖かな一日(いちじつ)、キリシタン大名氏の領内、今の山口の街頭に立てられた、厳かなローマン・カトリックの教会堂の上の十字架を仰ぎ見つつ、我々の祖先は、既に悠々とシガレットを口にしながら、西洋の巧みな建築技術に賛嘆の声を惜まなかったことであろう――。(二月二十四日)
[やぶちゃん補注:「エジプト・アフリカ・ローマなどでも、喫煙の風俗があったなどと言うのは、明き盲の虚言に過ぎない。」については、岩波版新全集注解によると、『古代のエジプト、中央ヨーロッパ、ギリシア、ローマなどでは、呪術、医療用として、大麻の実、乾燥させた柊など、燃やすと心地よい香を出す草木の煙をパイプで喫煙する習慣があった。』と記す。従って、これは芥川龍之介の誤謬である。
「シガレットの案出」について、岩波版新全集注解は『一五二〇年にスペインが現在のメキシコを占領したとき、先住民のアステカ族は、粒の粗いタバコを植物の薄い皮で包んで喫煙していた。一六〇〇年代になって、在留のスペイン人が植物の皮にかえて薄紙を用いたのが紙巻きたばこの始まり。』と記載する。これは、シガレットの創造主を日本人やインディアンの同胞たる環太平洋民族に帰した点、注釈者赤塚正幸氏の快挙と言ってよい。誤謬者芥川龍之介も逆に溜飲を下げると言うべきものであろう。
「和漢三才圖會によれば」同書「卷九十九 ○二十」の「煙草」の項に「羅山文集云侘波古希施婁皆番語也其草採之乾暴剜其葉貼干紙捲之吹火吸其烟其後用希施婁而不貼于紙[やぶちゃん注:以下キセルの解説が続くが略す。]」とある。書き下すと『「羅山文集」に云ふ、『侘波古(タバコ)・希施婁(キセル)は、皆、番語なり。其の草、之を採り乾し暴し其の葉を剜(きざ)み、紙に貼りて之を捲きて火を吹きて其の烟を吸ふ。其の後は希施婁を用ひて紙に貼らず。……』ということで、ここに記されている煙草の吸い方は、まず、シガレット様に紙で巻いて一服し、その後はキセルで喫するという不思議な作法があったように読めるのが面白い。
「甲比丹」ポルトガル語capitoの当て字。「甲必丹」とも。本来は、江戸時代の長崎出島のオランダ商館館長を言ったが、その後広く、鎖国の日本にやって来たヨーロッパ船の船長をこう言った。
「村田屋の煙管」明治期、浅草黒船町にあった評判の煙管屋。
「教会堂」新全集注解によれば、『天文十九(一五五〇)年に、初めて山口で布教を行ったF・シュヴィエルは、翌年の再訪時に大内義隆より一寺院を与えられ、そこを拠点に伝道活動を行った。シャヴィエルの後任C・トルレスは、天文二一(一五五二)年、大内義長の許しを得て教会と修道院を建設した。さらに、天正十四(一五八六)には、毛利輝元から寄進された地所に、C・モレイラが山口教会を建設した。』とある。ちなみにこの「F・シュヴィエル」とはFrancisco de Xavierフランシスコ・ザビエルのことである。ポルトガル語原音に忠実に写すとこうなる。一寺院とは廃寺となっていた大道寺で、ここが日本最古のキリスト教会となった。現在の山口市内自衛隊山口駐屯地の傍にあり、サビエル公園となっている。]
ニコチン夫人
ボードレールの「悪の華」のパイプの詩はもとより、1898年ロンドンで刊行されたウォルター・スコット編になる煙草の詞華集“Lyra Nicotiana”「リラ・ニコチアーナ」(「煙草の詩歌」)をつま開いてみても、西洋の詩人が喫煙を愛づることは、東洋の詩人が抹茶をたてることを悦ぶのと好一対であるということが出来るであろう。小説では「ピーター・パン」で知られるサー・ジェームス・マシュー・バリーが初期に書いた「ニコチン夫人」が最も人口に膾炙している。しかしこの作品はただ軽妙なる筆致で、安易に読者を微笑せしめるだけのものでしかない。ニコチンの名は、元来、フランス人の外交官にして学者であったジャン・ニコットの名前より生じた語である。十六世紀の中葉、ニコットは大使の職を帯びてポルトガルに派遣されるやいなや、フロリダから渡来した葉煙草を入手し、それに医療効果があることを知り、大いに栽培に努めたため、一時、フランス人は煙草を呼ぶにニコチアーナと言うに至ったということである。ド・クインシー1819年作の「阿片喫煙者の懺悔」は、二年前の大正七(1918)年、佐藤春夫氏の「指紋」という妖しくも美事な作品にインスパイアされた。誰かまたバリーに続いて、バリーを抜くこと数等上の、あたかも煙草の銘品ハバナに対抗する銘柄マニラに相当するような煙草小説を書くものはいないか?(二月二十五日)
[やぶちゃん補注:文中、ニコットの事蹟の内、彼が大使として派遣されたのはスペインではなく、ポルトガルが正しい。芥川の単純な誤りと考え、改めた。]
一字の師
晩唐の詩人任翻(じんはん)が浙江省台州府臨海県にある名山天台巾子峯に遊んで、詩「宿巾子山禅寺」(巾子山禅寺に宿す)をそこの寺の壁に詠み記した。「絶頂の新秋夜凉を生ず、鶴飜へつて松露衣裳に滴る。前峯月は照る一江の水、僧は翠微に在つて竹房を開く。」(巾子峰の絶巓(ぜってん)は初秋の気配で涼しい夜気に満ちている。鶴は羽を飜して飛び、その煽りで落ちてきた松露が私の衣裳に清新に滴った。前方の峰に月が照り、その光は下を流れる霊江の水面(みなも)全てを照らし出す、僧は山の中腹に竹で編んだ庵を静かに構えている――。)題し終わって後、行くこと数十里、しかしその途上で先の詩中の「一江水」は「半江水」(霊江の半ばは山の陰となって流れているが、月の光はその目に見える水面に鮮やかに輝いている)に及ばないことを覚って、直ちに詩を題した処に戻ってみると、何人(なんびと)かが既に「一」の字を削って「半」の字に改めた後であった。翻は長い嘆息(ためいき)をせざるあたわず、その後に言った、「この台州府(天台県)には真の詩人がいる!」と――。古き人々が如何に詩に心を砕いたか、如何に苦心惨憺の末に詩を成し得たかをしっかりと感じ取らなくてはならぬ。ホトトギスの俳人松瀬青々の明治の個人句集の濫觴たる「妻木」の中に、「初夢や赤(アケ)なる紐の結ぼほる」(初夢を見た……それは人と人の縁(えにし)を繋ぐという赤い紐がしっかと結ばれている夢であった……)の一句がある。私が思うには、下五の一字が不可、「る」の字に換えるに「れ」の字を以て「初夢や赤(アケ)なる紐の結ぼほれ」(初夢を見た……縁を繋ぐまっ赤な紐がしっかと結ばれ……)すれば可であろうと。勿論、松瀬青々が私を拝して能く一字の師と做(みな)すや否やは、知らない。いや、これはもう、傲岸不遜を遥かに越えて、お笑い草の域である。(二月二十六日)
応酬
ユーゴーが、ある夜、アヴェニュー・デイローの自邸でパーティを催した。たまたま参集した客人らが皆、杯を挙げて主人の健康を祝した際、ユーゴーは傍にいた四十歳も年下の若き詩人フランソワ・コッペェを顧みて次のように言った、「今この席上にいる二人の詩人の健康を互いに祝そうと思う。それもまた悪くはあるまい?」と。その祖父ほども離れたユーゴーの意図は実に新進気鋭の詩人コッペエのために乾杯しようというところにあったのである。ところがコッペェは辞退して言った、「ノン! ノン! この座席には詩人はただ一人しかおりません。」と。そのコッペェの意図は実に詩人の名に背かぬ者はただユーゴー一人のみであることを言っているのであった。時に「レ・オリアンタール」(「東方詩集」)の作者は、忽ち破顔一笑して答えた、「詩人はただ一人しかいない、とな? いや、その通り! それならば私はどうなるんだい?」と。そのユーゴーの意図はコッペェの前言に切り返すと同時に、ユーゴー自身がお洒落に謙遜するところにあったのである――。さて、やれ、南部修太郎「僧院の秋」他(ほか)合同出版記念の会、やれ、久米正雄「三浦製糸場主」上演記念の会、やれ、猫の会、やれ、杓子の会――と、昨今の文壇に猫も杓子も「会」と名づくもの甚だ多いと雖も、未だ嘗てこれほど垢抜けした洒落た応酬があったことを聞かない――。……これを言っている傍に人がいて、彼は笑って私に言った、「そうするがいい、『まず隗より始めよ』だぜ。」と。(二月二十七日)
[やぶちゃん補注:『「僧院の秋」の會』「僧院の秋」は南部修太郎の処女作「修道院の秋」のこと。大正9(1920)年2月に発表された。この出版記念会は、新全集注解によれば、同じ頃に発表された他の二作家の作品、中戸川吉二「反射する心」及び邦枝完二「邪劇集」の三作品と合わせて大正9(1920)年2月8日にミカド行われた、と記す。ミカドは旧銀座線万世橋駅の上にあったレストランである。実に本篇の執筆クレジットから二十日程前の出来事で、更に次に芥川が掲げる久米正雄作『「三浦製絲工場主」の會』と同日でもあるのである。龍門の四天王の一人である南部の処女小説の出版記念会であり、また、この合同出版記念会の発起人には何と久米正雄も含まれていることから、芥川は病み上がりであったが(前月末まで10日程インフルエンザで病臥していた)、無理をして掛け持ちした可能性が高い。
『「三浦製絲工場主」の會』「三浦製絲工場主」は久米正雄の戯曲「三浦製糸工場」のこと。新全集注解によれば大正8(1919)年発表の本作は、翌大正9(1920)年2月に帝国劇場で初演され、前注で述べた通り、同年2月8日にこの上演記念会が丸の内東京海上ビル内にあった中央亭で開かれている。ちなみに芥川龍之介はこの会の発起人にしっかり名を連ねてもいる。
更に1992年河出書房新社刊の鷺只雄編著の「年表作家読本 芥川龍之介」の同年2月8日の条が興味深いので引用しよう。『井上猛一から新内の会の案内を毎度もらうが、いつも行けず、今日は行こうと思っていると雪なので帰りのことを考えて欠席とことわりを出す。』とあるのである。果たして芥川はこの三つの「会」に愛想つかして一日家から出ずにほっかむりを決め込んだのであろうか?――さて、以上から、「僧院の秋」「三浦製絲工場主」の作品名の誤記は、猫も杓子も会、会、会の波状攻撃に閉口した芥川の、悪戯っぽい確信犯であることは最早明白で、敢えて訂正せずにそのままとした。]
白雨禅――俄か雨の禅機
狩野芳涯は常に弟子達に教えて言った、「画というものの神妙な理(ことわり)は、ただまさに自身が孤独に悟ってしか得ることは出来ぬ。師からの教授によることは出来ぬのだ。」と。ある日、芳涯が病臥した。時に一転俄かに掻き曇って、天空をひっくり返したような雨がざあーっと降り来たり、芳涯の居宅のあった奥深く入り組んだ街中も、ただもうひっそりとして、道行く人も絶えたのであった――。伏す師――看病に侍する弟子達――、共に久しい間、黙ったままその雨音を聴いていた――と、忽ち一人の人が通る――高歌声唱して門外を過ぎて行く――。すると芳涯、がばと起き直って、にっこりと微笑むと、弟子達を顧みて言った――、「会得したか!?」と――。微笑んではいるものの、その時の師の言葉には鋭い殺気があった――。これはまさに禅の公案である。……かの匈奴の壮士たる王単于(ぜんう)が千金で買うような我が家の、我が吹毛剣……精霊(すだま)はそこに射す月の光の中で泣く……一筋の冷たい光……、君よ、それを見切れ!――(三月三日)
[やぶちゃん補注:「吹毛劍」とは、一本の毛髪をその切っ先に吹き付けただけで、さっと二つに裂ける程の恐ろしく切れ味のよい刀を言う。ここでは個人の内なる秘めた才能を暗示してもいようか。……ともかくも、この末尾部分は芥川龍之介の創出した公案であろうと思う。私の理解の及ぶところではなく、とんでもない誤訳かも知れない。]
批評
フランスの詩人ピロンが、皮肉屋であることは世に広く知られている。ある作家が彼に向かって、未だかって誰もやったことのない大仕事をしてみたいと語ったところ、ピロンは冷然と答えて言った、「そんなことは易々と出来る。実際には誰からも認められていない君が、無能なはずの君自身の作品を批評して絶対の讃辞を書けば、それで事足りる。」と。ピロンは文壇に左右される評価と名声を皮肉たっぷりに言ったわけだが、現代の本邦の文壇は、私が知る限りでは……徒党を組んだ仲間の馴れ合いの党派批評があり……さもしい売名行為に過ぎない売春批評があり……空虚で軽薄な挨拶批評があり……誰ぞの言った批判をただただ受け売りしているだけの雷同批評がある――そこは紛々とした毀誉褒貶に満ち満ちており、凡庸にして愚劣極まりない俗物の自画自讃のようなものでも、一匹の野良犬が虚言(そらごと)の遠吠えをしただけで、周りの多くの駄犬どもがまたそれを真理であると勘違いして犬々、基、喧々囂々伝える始末……この悪循環――こんな堕落した文壇にあっては、必しもピロンが皮肉で言ったようなことをやったとしても、未だかって誰もやったことがない大仕事と見なせるものでさえ、ない、というわけである――。不肖私、寿陵余子、たまたまこの末法の世に生まれ出る。さても現代のピロンであろうとすることさえもまた、難しいことよ――。(三月四日)
誤謬
尋ねてくる人が少なくて淋しきさまを言う「門前雀羅を張る」と「門前の小僧習わぬ御経を詠む」の同故事「勧学院の雀は蒙求を囀る」とを混同して「門前雀羅蒙求を囀る」――淋しい門前に霞み網を張ると捕まった子雀どもが「蒙求」を誦(そらん)ずる――と説くとんでもない先生があるかと思うと、「燎原の火の如し」と言うところを「燎原を焼く火の如し」――大草原を燃え広がっていく火を更に焼く火のように――と言う呆れた教師もいる。明治神宮に用られている木材を褒めるに、「彬々(ひんひん)たるかな文質」――外見と中身が実に調和しておる品質最上の材木である――なんどと、本来、人品・文章の評言であるところの、「論語」の「文質彬々」を場違いに用いて感心している農学博士がいるかと思うと、海・陸軍の拡張を議論するに、「艨艟貔貅(もうどうひきゅう)」即ち強力な軍艦と勇猛な将兵と言うべきところを「艨艟罷休(もうどうひきゅう)あらざる可らず」――戦艦には是非ともしっかりした休養が必要であるとぶち上げる代議士もいる。昔、唐の奸臣李林甫は、婿の太常少卿の姜度(きょうど)に男の子が生まれるや、喜んで彼に手紙を書くに、「聞く、弄麞(ろうしょう)の喜あり」――いじけたのろ鹿を与えるに相応しい子が生まれたと聞いてこれを壽ぐ――と記した。それをたまたま見た客人は思わず口を掩って表情を隠した。それは林甫が男子出産の報を慶賀すという意味で「聞く、弄璋(ろうしょう)の喜あり」と書くところを、「璋」の字を誤って「麞」の字を書いて噴飯ものの言祝ぎになってしまったことを笑ったのである――慌てて隠したのは、勿論、笑い顔を見られて彼に粛清されることを恐れてのことであることは言うまでもない――。今や、大臣が当今の時勢を憤慨するに際して、危険思想が蔓延していることを論じて曰く、「病既に膏盲(こうもう)に入る、国家の興廃は危急にして切迫している」と――勿論、病は「膏肓(こうこう)に入る」のである……これでは群盲が股座(またぐら)膏薬しているような妙な具合だ――。しかしながら、もっと問題なのは、この「膏盲」という誤用を天下の誰一人として怪しむ者がいないことだ。漢学の素養が顧られなくなってこの方、漢学の智の滅びつつあること甚しいと言わざるを得ない。況や昨今の青年子女は、種々のものに印字された英文は理解出来ても、四書の素読は覚束ず、トルストイの名は耳に馴れ親しんでいながら、李白の号である李青蓮の文字を見ても何処の何者やらまるで分からぬ――、こうした細々したことを数え上げていたらきりがない――。近頃、たまたまとある書房の店頭に、数冊の古い俳句雑誌を発見した。題して「紅潮社発行 紅潮 第何号」という――。ご存じないか? 漢語で「紅潮」というのは女性の月経に他ならないことを――。(四月十六日)
[やぶちゃん補注:「太常少卿」は官名で、上級官の九卿の一。礼楽や祭事を司る。
「姜度」は全集類聚版注では未詳、新全集は注を掲げず、邦文サイトでは芥川龍之介のこの「骨董羹」以外の記載は見当たらない(また、全集類聚版はこれを「きょうと」と濁らない読みで示しているが、根拠が分からないので、とらない)。中文簡体字サイトの「唐書」の「李林甫伝」の引用部に「太常少卿姜度 李林甫舅子」の文字列を見出したので、勝手に推論して「婿の太常少卿の姜度」とした。識者の御教授を乞う。
「弄麞」は本文にある通り、「弄璋」の誤り。「弄璋」の「璋」は玉製の器の一種で、昔、男子が生まれるとそれを与えて玩具にした故事(「詩経」小雅・斯干)から、男子の出生を言う。反対語の女子の出産は同故事による「弄瓦(ろうが)」で、「瓦」は土製の糸巻きのこと。
「紅潮社」及び「紅潮」は実在した俳句結社の俳誌である。雑誌名や書名ならば他にも同名異物のものを容易に発見出来るが、殊更にそれらをこの注であげつらうのは如何と思う(知りたければ、岩波版新全集注解及びネット検索で判明する)。ここでの芥川は「枯野抄」の如き余りのダメ押し、度を過ぎて厭味な感じがする。]
入月
西洋に女子の月経を歌った詩があるや否や、寡聞にして未だにこの事実を知らない。中国には宮廷の婦人や後宮を詠んだ詩の中に、稀に月経を歌ったものがある。宮廷の秘事・遺聞を詠み込んだ宮詞という詩の一群があり、その中に、唐代の文人王建が、「君王に密奏し月に入るを知る、人を喚んで相伴ひて裙裾を洗ふ。」(皇帝に内密に上奏します、妃さまが月の季節に入ったことを。妃さまは同じ月の人となった女の方とともに仲良く少し汚れた衣の裾を洗います――。)と詠んでいる。春風が珠簾を吹いて、銀で出来た簾掛けを揺り動かす辺りに、美女の宮人(みやびと)が少し月のものに染まった己が衣裙(いくん)を洗う光景――月のものもまた、こうして見ると如何にも風流ではあるまいか――。(四月十六日)
[やぶちゃん補注:題名の「入月」とは月経が始まることを言う語。
本篇で取り上げている内容は、後に大正11(1922)年1月発行の雑誌『明星』に発表した「本の事」の「各国演劇史」の項でも、誤植の話の脱線の中で述べている(こちらは口語)参考までにその該当部分を掲げる(底本は岩波版旧全集を用いた。私が読みに迷う部分には歴史的仮名遣で〔 〕で、筑摩書房全集類聚版を参考にして読みを附した。前・後略部分は丸々本篇「演劇史」の私の補注にある。参照されたい)。
(前略)誤植の次手〔ついで〕に又思ひだしたが、何時〔いつ〕か石印本〔せきいんぼん〕の王建の宮詞を讀んでゐたら、「御池水色春來好、處處分流白玉渠、密奏君王知入月、喚人相伴洗裙裾」と云ふ詩の、入月が入用と印刷してあつた。入月とは女の月經の事である。(詩中月經を用ひたのは、この宮詞に止まるかも知れない。)入用では勿論意味が分らない。僕はこの誤にぶつかつてから、どうも石印本なるものは、一體に信用出來なくなつた。(後略)
文中の漢詩は書き下すと、「御池の水色春來好し、處處分流す白玉の渠(きよ)」(以下同前)で、意味は「後宮のお池の景色はすっかり春で御座います。雪解けの水の豊かな流れが、幾つにも分かれた美しい白玉で設(しつら)えた小川を、心地よく流れて参ります。」といった感じか。なお、「石印本」は石版による版本のこと。岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解には、芥川が言うように、『中国では、「石印の法は清末西洋から伝わり、出版界に新紀元を開いた』が、『多くは試験用と携帯の便を目的とし、善本が少ない』と、大修館書店「中国学芸事典」から引用している。]
遺精
西洋に男子の遺精・夢精を歌った詩があるや否や、寡聞にして未だにこの事実を知らない。日本には元禄10(1697)年刊の其角編の「俳諧錦繍段(はいかいきんしゅうだん)」に、元禄の江戸俳人青木氏の「遺精驚く暁のゆめ 神叔(しんしゅく)」(暁方、妖艶な夢を見てはっと目覚めた……と、驚いた……この年になって夢精している自分がいた……)がある。但し、この遺精の義が、果して当今用いているところの夢精と同じであるや否やは詳らかではない。識者の御教示を得られるならば幸甚である。(四月十六日)
[やぶちゃん補注:底本注記によれば、ここまでの9篇が雑誌『人間』5月号所載分である。
「俳諧錦繍段」は幾つかのテクストで「俳諧」を一般名詞として書名を「錦繍段」と判断していると思しいルビの振り方を見掛けるが、これは「俳諧錦繍段」で書名である。そもそも「錦繍段」は五山で編まれた唐・宋・元詩の漢詩のアンソロジーで、これはそれをパロった俳諧集である。
芥川は表記のように、「この遺精の義、果たして當代に用ふる所のものと同じきや否やを詳にせず」と留保しているが、とりあえず神叔の句の解釈では、現在の意味でとっておいた。]
後世
君は見たことないか――刀剣の鑑定士として知られた本阿弥家のお墨付き、まさに伝家の宝刀の如き「鑑定書」でさえも、その時代時代で大きく変わってしまうということを――。ヨーロッパ近代文芸にあって18世紀も末、ロマン派が起つてシェイクスピアの名が四海に雷電の疾るが如く轟き響いたかと思ったら、ロマン派は一気に亡んでユーゴーの作品がもてはやされる、いや、それもまた見る間に……みるみる八方に広がってみるみる廃れるさまは、霜にうたれた葉があっと言う間に枯れてしまうのに似ている――。広く果てしなく先も見えぬ流転の相――目の前は怒濤の泡沫、身の後は夢幻の霧――真に互いを理解し合える友は所詮、得られぬ。圧倒的多数の愚昧の徒は全く以って、度し難いものだ――。フランスの画家フラゴナールがその技能をイタリアで修練しようと思い立って旅立った時、師であった画家ブゥシェは彼を見送って言った、「ミシェル・アンジュ(ミケランジェロのフランス語読み)の作品を見てはならぬ。彼のような存在は狂人以外の何ものでもない。」と。ブゥシェのことを笑って度し難い俗物と見なすこと――それは確かにた易いことではあろう。しかしそうであったとしても、千年の後、世界中の人が悉く風に靡くようにブゥシェ! ブゥシェ! と彼の絵を見に押し寄せる――ということが絶対にないなんどと言い切ることは出来ぬ。……冷酷なる視線の持ち主、自称評論家は今を天下と驕り高ぶっている……一向に顧みられない詩を吟じては死後の喝采を待つ……というのでは、これまた鬼窟裡――偏見に満ち満ちたこの世――の唾棄すべき生計(たつき)に過ぎぬではないか……。陶淵明靖節先生の如、何より、俗物に混じって生活しながらも、しかも自らは俗物でなく確かに「在る」――というに若くはない――。垣根に菊の花が咲いている――。絃のいらない大自然という琴の音を聴こう――。ゆったりと落ち着いた南山――それを眺める時、心は常にゆったりと落ち着いていて……いやいや……しかし現実の私は……この寿陵余子は、むさ苦しいあばら屋に文を綴り、それを切り売ってしがなく暮らしているに過ぎない……願わくば、もうこれから死ぬるまで後生のことは一切考えっこなし、有象無象の入り乱れる文壇の、張三李四、熊さん八っさんと、トルストイを議論し、西鶴を論じ、或いはまた甲主義やら乙傾向やらの是非また善悪を喋繰り合い、本質を黙考することもせず、ただただ遊興三昧の境地に遊ぶことに満足しようではないか――。(五月二十六日)
罪と罰
鷗外先生を主筆とする『しがらみ草紙』第47号(明治26(1893)年8月発行)に、漢詩人野口寧斎謫天情僊の七言絶句、「『罪と罰』上篇を読む」の数首が載っている。ヨーロッパの小説を題材とした漢詩の嚆矢は恐らくはこの数首であろうか。左にその二三を抄出するならば、「考慮閃き来つて電光のごとし、茫然飛んで入る老婆の房、自ら談ず罪跡真か仮か、警吏暗殺す狂か不狂か」(『こんなことは早く片付けてしまうのだ』という思いが再びラスコリニコフの脳髄を電光の如く貫き、不可思議な欲求が彼を飛んで火に入るかのようにあの老婆の部屋へと導く――そこにいた内装職人に「血はもうないのか?」「ここで老婆と妹が殺されたのだ。その時、床はすっかり血の海だった。」と彼は語りかける――それは彼自身の犯行を告白しようとしているのか? それとも一時の危ない探りなのか? ――訝る職人や庭番に「私が何者か知りたいか? ならば一緒に警察へ行こう。そこで話す。」「警察には行ったか? 警察には副所長も皆もいるか?」「僕を警吏に引き渡すのが怖くなったのか?」と彼は頻りに警察を口に出して言う。いかれた輩として門番に追い出された後も彼は『警察へ行くべきか? 行かざるべきか?』と思う――これは彼の狂気のなせる業か? それとも狂気の一分もない真剣な心の発露なのか?)〈第十三回・原作第2篇の6〉、「窮女病妻哀涙紅に、車声轣轆(れきろく)として家翁仆(たお)る、嚢(のう)を傾けて相救ふ客何ぞ侠なる、一度相逢ふ酒肆(しゅし)の中(うち)」(貧しさのどん底の肺病みの妻カチェリーナは瀕死の夫に悲しみの血の涙を流す……馬車の車輪の激しく軋る音――道に血だらけになって彼女の夫マルメラードフは倒れた――追い出された老婆の家の近くの通りでラスコリニコフは偶然、その事故現場に遭遇した。瀕死のマルメラードフを家に運び、医者も呼ぶが、甲斐もなく彼は、急を聞いて駆けつけた娘ソーニャに抱かれて死に至る――通りすがりに過ぎないラスコリニコフは悲嘆にくれるカチェリーナに葬儀費用として20ルーブリを渡す――何と言う義侠の人、ラスコリニコフ! 彼は、一週日前にただ一度きり、生まれて初めて入った酒場で出会った酔客に過ぎないというのに――)〈第十四回・原作第2篇の7〉、「可憐の小女去て賓を邀(むか)へ、慈善の書生半死の身、見到(みいた)る室中一物(いちぶつ)無し、感恩の人は是れ動情の人」(マルメラードフの死の翌日、父の葬儀と式後の会食に賓客として招待するため、可憐な少女ソーニャがラスコリニコフを訪れる――しかし、葬儀費用を工面してくれたこの慈善の青年は、今は見るからに病み疲れているように見受けられ、そして見渡したその室内はがらんとして椅子等の調度以外に目ぼしいものが何一つない――「あなたは私どものために、ご自身の物をすっかりお使いになってしまわれた!」とうな垂れるソーニャ、ここに、恩を感ずる彼女は、同時にラスコリニコフの運命の人として激しい情感を彼に抱くに至ったのである――)〈第十八回・原作第3篇の4〉といった感じである。詩の良し悪しは暫く問わない、ただ、明治26(1893)年の昔、既に文壇でドストエフスキイを云々する者があったことを思えば、この数首の詩に対して何よりも得心して素直に微笑むことを禁じ難い者が、どうしてただ、この私、寿陵余子独りだけ、なんどということがあるであろう――。(五月二十七日)
[やぶちゃん補注:岩波新全集注に、「讀罪與罰上篇」は『「しがらみ草紙」の第四六号(一八九三年七月)に第一回から第十回が、第四七号(一八九三年八月)に第十一回から第二十回が掲載された。「罪と罰」の「第一篇」の「1」を第一回とし、以下「第三篇」の「6」までの二十章にそれぞれ漢詩一篇をあて、全二十回としたもの。』とある。
漢詩の通釈に際しては、角川文庫版米川正夫訳「罪と罰」等を参考にした。
なお、ここに登場する野口寧斎について、私は別な側面からの関心を持っている。但し、それについては芥川とは関連がない。また別な機会に語ることもあろう――そのもう一つの世界とは「猟奇」という言葉によってしばしば語られる部類のものである。キーワードは男三郎・人肉・寧斎殺しである。この魅力的なフレーズ検索によってそれは容易に知ることは出来る。しかし、その件の事実があなたにどう作用するかは、あなたの自己責任でお願いしたい――。]
悪魔
悪魔の数は甚だ多い。その総数は1,745,926匹である。それを更に分けて72隊となし、1隊ごとに隊長1匹を配置するという。これは16世紀の末に、ドイツ人医師Ioannes Wierusヨハンネス・ウィエルスの悪魔学の書「悪霊の幻惑および呪法と蠱毒について」“De Praestigiis Daemonum et Incantationibus ac Venificiis”(1563年)に記載するところのもので、古今東西を問わず、魔界の消息を伝えるに詳細にして精密で、このような書は他に類を見ないと言ってよい(16世紀のヨーロッパには、悪魔学の先達は少なくない。ウィエルスの外にも、イタリアのPietro d'Aponeピエトロ・ド・アポーネや、シェイクスピアが「マクベス」執筆に際して魔女についての教えを請うたと言われるイングランドの作家レジナルド・スコットReginald Scotといった者は、皆、その悪魔学の方面では世におどろの雷鳴を轟かせている碩学である)。また言う、「悪魔の変化自在なことは、ある時は紳士然とした法律家に、またある時は中国の黒人奴隷たる昆侖奴(こんろんぬ)に、はたまた黒馬ブラック・ビューティに、更には聖職者に、そして驢(ロバ)、猫、兎、或いは馬車の車輪にさえなる。」と。既に馬車の車輪とさえなる!――。ああ、さすればどうして夜半に人を誘って、狼煙を上げる大宮の城中へと、はたまた、それに見紛う高級料亭へと、いっさんに滑ってゆく高級自動車のタイヤにさえならないことがあろうか。畏るべし、戒むべしである――。(五月二十八日)
[やぶちゃん補注:ここに記す総数1,745,926が厳密であるとすると、仮に蠅の王(ベルゼブブ)の1を、または72隊の隊長を引いてみても、どれもこの総数からは72で綺麗に割れない(70を引かないと割れない)。半人前、基、半悪魔前(0.5)の悪魔がいるわけでもあるまいに!
「Ioannes Wierus」(1515~1588)ヨハン・ヴァイエルともヴァイアとも表記する。但し、ここで示した“De Praestigiis Daemonum et Incantationibus ac Venificiis”「悪霊の幻惑および呪法と蠱毒について」という著作は、魔女狩りは、逆に悪魔に惑わされた高官の成せる誤った行為であるとし、魔女の証しとされるものは根拠もないものがほとんどで、彼らの多くは精神的な疾患を持ったものが大部分であるという啓蒙的立場から書かれたものであることは知っておくべきところではあろう。
「Pietro d'Aponeピエトロ・ド・アポーネ」筑摩・新全集ともに未詳とする。ネット検索でイタリアの錬金術師に同名の人物を見出したが、この人物、1250年頃の生年とあり、時期が合わない。識者の御教授を乞う。
「Reginald Scot」(1528?~1599)イギリスの作家。彼もIoannes Wierus同様、魔女狩りのヒステリー現象を批判して “Discoverie of Witchcraft”(「魔女術の正体」)を1584年に刊行している点を押さえたい。本書はコイン・マジックや手品の技法の最も古い記載としても知られる。]
聊斎志異
清代の「聊斎志異」が、明代は瞿佑(くゆう)の「剪燈新話」と共に、中国の小説の中、鬼狐の類を説いて、寒々とした淋しい灯(ともしび)の火を更に慄っとさせる蒼い色に変えるような妙味を極めていることは、広く人の知るところであろう。しかし作者蒲松齢が、満洲人の朝廷に帰順するを潔しとしなかったが故に、牛鬼蛇神のまがまがしい話に託して、当の清朝宮廷内部の隠微にして淫靡なことを諷(ふう)して批判していることが、往々にして本邦の読者に看過されてしまっていることは、甚だ残念に思わないわけではない。例えば第二巻に所載する「侠女」の如きものも、実は宦官年羹堯(ねんこうぎょう)の女が、雍正帝(ようせいてい)を暗殺した謀略秘史の翻案に外ならないとも言う。作者の友人「崑崙外史」張篤慶歴友が「聊斎志異」巻頭に記した詩の中に、「董狐豈に独り人倫の鑒ならんや」(どうして、かの命を張って真実を記したという晋の忠吏董狐だけしか人倫の道の鏡はいないなんてことがあるだろう!)と言う讃辞があるのは、また、こういった消息を秘かに洩らしたものでなくて何であろう。スペインに痛烈な人間社会批判の戯画群たるゴヤの “Los Caprichos”「ロス・カプリチョス」(「気まぐれ」)がある。中国に蒲松齢留仙の「聊斎志異」がある。どちらも自然界の精霊悪鬼の姿を借りながら、國を乱す政治家や不逞の輩を厳しく非難し撲滅せんとしているのである。この東西一双の輝かしい宝玉と言うべき二篇、大切に所蔵するに相応しい著作と言うべきものである。(五月二十八日)
[やぶちゃん補注:「年羹堯」(?~1726)は、清代の武将。四川巡撫・定西将軍(清国政府が任命した第六代達頼喇嘛(ダライラマ)の護衛に名を借りたチベット平定軍指揮官)を経て、新皇帝雍正帝の即位(1722)後、太子太保銜(かん:「位」の意。)・撫遠大将軍といった高位高官に登り詰めたが、専横な振舞や他の官吏の嫉妬不満から、遂には雍正帝の怒りを買い、自死を命ぜられた。しかし年羹堯は宦官ではないし、以下に記される雍正帝暗殺云々の話も、かつて処罰した呂留良の娘呂四娘、或いは、反乱を企てた罪で処刑された盧某の妻が復讐のために正体を隠して後宮に入ることを許され、それと知らずに抱いた雍正帝が閨房で殺害され首を奪われたという不確かにしておどろどろしい伝説が混同されて誤伝したものと思われる。但し、「俠女」の結末は、確かにこの伝説と結びつきそうな終わり方ではある。
「崑崙外史」【2010年3月10日全面補正】先日(2010年3月3日)、芥川龍之介を愛読され、本頁をお読み頂いたSeki氏という方からメールを頂戴した。そこで、Seki氏は私がここに附した以下の注、
『「崑崙外史」筑摩・新全集ともに不詳とする。文脈から言っても、これは「聊齋志異」中の一篇に現われる台詞でなければ意味が通らぬのだが、「崑崙外史」という細項目は「聊齋志異」の中にない。両注がお手上げということは、続く「董狐豈獨人倫鑒」の文字列も「聊齋志異」には見出せないということであろう。今暫く探索してみたい。』
について、次のような事実をお知らせ下さった(メール本文から引用することを、Seki氏よ、お許しあれ)。
実は「崑崙外史」は蒲松齡の友人、張篤慶(字歴友)の雅号です。張篤慶は「聊齋志異」のために、三首の詩を題しました。「聊齋志異」の書首に載せられています。「董狐豈獨人倫鑒」云々の詩はその第一首にあたります。「題詞」は感想などの言葉を綴る文体で、「台詞」ではありません。卑見を述べさせて頂きましたが、ご参考になれば幸いです。
私は舞い上がってしまった。
「崑崙外史」は筑摩全集類聚版の脚注も、最新の岩波新芥川龍之介全集の注も伴に不詳としているのである。更に、この張篤慶なる人物をネット上で検索しても、邦文の記載では数件、それも中国の出版物の彼を含む文人の年譜書名「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」が上がって来るだけなのである。即ち、今現在、芥川龍之介の「骨董羹」を読む日本人の殆んどが知らない事実だと言ってよい。芥川龍之介が言った「崑崙外史」に関わるこの部分を、僕等日本人の多くが、訳も分からず読んでいた、私のように誤魔化して分かった積りでいた、という事実がはっきりしたのである。
早速、Seki氏への御礼と共に、厚かましくも、この「聊齋志異題詞」の原文をお教え頂きたい旨、返信申し上げたところ――当然の事ながら現在、邦訳の出ている「聊齋志異」には所収していないと思われる。私の所持する3種類には少なくともない。そもそも何処かに所収していれば誰かがとっくに気づいていたはず、いや、いなければならなかったはずである――昨日(2010年3月9日)、該当部分の版本の画像をPDFファイルにして送付して下さった。それをとりあえず電子テクストに翻刻、簡単な注を附し、今まで芥川龍之介の「骨董羹」で『不詳』であった真実を詳らかにし、世界中の芥川龍之介の愛読者と共有したい。
世界中である――Seki氏は『今後とも同じく芥川の愛読家として、国境を越えた交流を図りましょう』とおっしゃって下さった――御本人は『芥川龍之介の愛読者』とおっしゃるだけである――――が、記された御本名から、実は有名な日本文化の研究者であられるようだ――しかし、私はここでSeki氏を「同じ芥川龍之介を愛する方」とのみ、名を記させて戴くに止めたい。
今の私の至福は、Seki氏にとっても共有されていると確信するものである。
最後に今一度、Seki氏に深い感謝の意を表して、翻刻を示す。
聊齋志異題詞
冥搜鎭日一編中、多少幽魂曉夢通、五夜燃犀探祕籙、
十年縱博借神叢、蕫狐豈獨人倫鑒。干寶眞傳造化工、
常笑阮家無鬼論、愁雲颯颯起悲風、
盧家冥會自依稀、金盌千年有是非、莫向酉陽稱雜俎、
還從禹人問靈威、臨風木葉山魈下、研露空庭獨鶴飛、
君自問人堪説鬼、季龍鷗鳥自相依、
搦管蕭蕭冷月斜、漆燈射影走金蛇、嫏嬛洞裏傳千載、
嵩獄雲迸中九華、但使後庭歌玉樹、無勞前席問長沙、
莊周漫説徐無鬼、惠子書成已滿車、
崑崙外史張篤慶歴友題
[やぶちゃん翻刻注:底本は上記Seki氏より頂戴した「同治丙寅年」西暦1866年刊「聊齋志異評註 青柯亭初雕維堂藏板」の部分画像を用いた。前文で「とりあえず電子テクストに翻刻し」としたのは、この詩が私には難解で訳はおろか、書き下しすらもままならないからである。まだまだこの注は未完成である。もう少し、お時間を頂きたい。
・「冥搜鎭日一編中」という冒頭から意味も分からずに翻刻するのであるが、ここ以外の活字を見ても「日」は確かに「日」であって「曰」ではない。
・「十年縱博借神叢」の「博」は原文では「扌」であるが、「博を縱(ほしいまま)にして」と意と判断し、補正した。「搏」や「塼」では意味が通らないように思われる。
・「蕫狐豈獨人倫鑒」芥川が引用したのはこの部分である。
・「張篤慶」(1642~1720)清代前期の文人。字は歴友、号は厚齋。別号、崑崙山人、崑崙文史。山東淄川(しせん:現在の山東省淄博市。)。の人。提督学政(:省の学務・教育の監督。)であった著名な詩人であった施閏章(しじゅんしょう 1618~1683)に師事、崑崙山麓に住み、博学才穎、詩文の名声高い人物で、「聊齋志異」の作者蒲松齡の友人あった。著作に「班范肪截」「両漢高士伝」「五代史肪截」「崑崙山房集」等がある(張篤慶についての事蹟は主に中文サイトの「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」のブック・レビュー記事等を参考にした)。]
「董狐豈獨人倫鑒」の「董狐」は、春秋時代の晋の国の太史(歴史を司る記録官)の名。彼はその晋の正史の記録に「趙盾がその君主である霊公を弑した」と憚ることなく正しく記した(実際の実行犯は趙盾の弟趙穿であったが、正卿(せいけい)というそれを当然追討すべき地位にあった趙盾が動かなかったため、董狐は趙盾を首謀者として記したとされる)。「鑒」は「鑑」と同字。]
麗人図
スペインに美人がいる。Dona Maria Theresaドンナ・マリア・テレーザと言う。若くしてナバラの町ヴィラフランカを領した十一代目のアルバ公爵Don Jose' Alvalez de Toledoドン・ホセ・アルバレス・デ・トレドに嫁した。澄んだ瞳に紅く麗しい唇、香立つ肌の白きこと凝脂の如くであった。しかしスペイン王カルロス4世の王妃マリア・ルイザは、テレーザの美を妬み、遂に彼女を毒殺せしめた。この世に遺品としてとどめ得たのは、ただ夫婦のベッドに掲げた香袋(においぶくろ)のみ――それはかの「長恨歌」の身と蓋に分けた香合を思い出させる――その長く残る恋情の恨みの思いの深さは、かの楊太真貴妃とマリーア・テレーザと、一体何れが深かったであろうか。さて、侯爵夫人には情夫がいた。Francesco de Goyaフランシスコ・デ・ゴヤと言う。ゴヤは、画家としての名声をスペインに馳せた、あのゴヤである。生前、しばしばドンナ・マリア・テレサの肖像を描いた。俗に伝えるところを信ずるならば、“Maja vestida”「着衣のマハ」と“Maja desnuda”「裸のマハ」との二枚の画は、また実に侯爵夫人の一代の、国随一、否、絶世の美を伝えるものである、と。後年、フランスに一人の画家があった。Edouard Manetエドワルド・モネと言う。件のゴヤの侯爵夫人の絵を見るを得て、狂喜乱舞、自ら禁ずる能はず、直ちにその画像を模写して、一枚の春の如き美人画を描いた。マネはまさにフランス印象派のルーツであった。彼と交わりを結ぶ者には、当代の才人が少なくなかった。その中に一人の詩人がいた。Charles Baudelaireシャルル・ボードレールと言う。その彼がマネの模写した侯爵夫人の絵を見るを得て、耽溺して愛翫すること、途轍もない巨きなダイヤを手中にしたかのようであった。1866年、ボードレールは発狂し、パリのアパルトマンに絶命した――その部屋の壁には、また、この薄紅(うすくれない)の唇と雪の肌えの、天使の如き美人画が飾られていたのであった――。星のように輝く瞳に永遠の蠱惑を浮かべて、かの「悪の華」の詩人の臨終を見つめるマリア――しかしそれはまた、彼女が往年、マドリードの宮廷に招かれた黄色い面(つら)をした東洋渡りの小人の芸人が、とんぼ返りの技を披露したのを、如何にも気のなさそうにぼんやりと眺めていた時の彼女の視線と、同じだったとも言う――。(五月二十九日)
[やぶちゃん補注:「一香嚢」は筑摩版注によれば、『合わせ香を入れて帳台の柱にかける袋』のことを言う。
『“Maja vestida”「着衣のマハ」と“Maja desnuda”「裸のマハ」との二枚の画』の「マハmaja」は、「小粋なマドリードの娘」といった意味のスペイン語で固有名詞ではない。この絵は西洋美術史の中で実際の陰毛を描いた最初の作品とされ、その猥褻性から何度も裁判所によるゴヤの喚問が行われ、そこで絵の依頼者(ひいてはモデル)が糾されたが、彼は終生、依頼主についてもモデルについても黙秘した(本作は1797年から1800年の間に描かれたと推定されているが、この裁判以降、1901年までマドリッド美術館の地下に秘匿された)。マハのモデル説には、ここで芥川が記すところのアルバ公夫人María del Pilar Teresa Cayetana de Silva y Álvarez de Toledoマリア・デル・ピラール・テレーザ・カィエターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレドを描いたとする説が19世紀半ばに噂され、現在もよくその説が知られるが、当時のスペイン首相にして王妃マルア・ルイザの寵臣であったマヌエル・デ・ゴドイ(この二枚の絵はゴドイの邸宅から発見された。ちなみに1808年の民衆蜂起アランフェス暴動とフェルディナンド7世の王位継承で、カルロス4世及びその妃マルア・ルイザと同様、亡命生活を送った)の愛人であったPepitaペピータを描いたとする説が現在は有力である。
「後年、フランスに一人の画家があった。Edouard Manetエドワルド・モネと言う。件のゴヤの侯爵夫人の絵を見るを得て、狂喜乱舞、自ら禁ずる能はず、直ちにその画像を模写して、一枚の春の如き美人画を描いた」とあるのはマネが1865年にサロンに展示して物議を醸した“Olympia”「オランピア」を指すのであろうが、ここに書かれたようなエピソードは私は不学にして知らない。一般に本作はルネサンス・ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」にインスピレーションを得たものとされるが、その大胆な構図と、彼女の不敵な視線は容易に「マハ」との類似性を感じさせるし、当時、両「マヤ」の絵にはレプリカがあり、それを複写したものによってフランスで既に知られており、モネの作品の中には「着衣のマハ」の影響を受けた作品もあるとされることからも、強ち不自然な話ではない。
「彼と交わりを結ぶ者には、当代の才人が少なくなかった。その中に一人の詩人がいた。Charles Baudelaireシャルル・ボードレールと言う。その彼がマネの模写した侯爵夫人の絵を見るを得て……」確かにボードレールはマネの友人であったが、以下の逸話も私は不学にして知らない。ただ、「オランピア」の描かれた実際のモデルが娼婦であり、それが鑑賞する当時の人々に判然と分かるように確信犯でマネは描いている。それはボードレールが評論「現代生活の画家」中で「古典的絵画をもとにしてもいいものは描けない」とし、「芸術家は娼婦と同じく、自身の身体すべて、如何なる手技を用いても、観る者の注意を惹きつけなければならぬ」と言ったことと直結する。――そうしてこの、あのマネの「オランピア」が、「女は宿命的に暗示的である」と言ったボードレールの末期を見つめるというシチュエーション――事実ではないにしても、これはもう、芥川ならずともそそられるイメージではないか(以上マネとボードレールの注には個人ブログ「《オランピア》から《ウルビーノのヴィーナス》へ―近代絵画と伝統」及びHP“Salvastyle.com”の「エドゥアール・マネ―オランピア」等の記載を参考にさせて頂いた)。]
売色鳳香餅(ばいしょくほうこうべい)
中国で男娼をこととする少年を「相公(しょうこう)」と言う。相公という語は、本来は北京で酒席に侍した少年の俳優を言う「像姑(しょうこ)」から生まれた。その艶めかしい姿像(すがたかたち)の少女のようであるから「像姑」と言うのである。「像姑」と「相公」は中国語では同音で相通ずる。即ち用いて陰間、男娼の名に換えただけのことである。中国では路上に春を鬻(ひさ)ぐ女のことを「野雉(やち)」と言う。概ね街路を徘徊して行人を誘うさまが、あたかも野生の雉のようであるから言うのである。日本語ではこうした輩を「夜鷹(よたか)」と言う。面白いことに、殆んど同一の現象・観察・命名になるものと言ってよい。「野雉」の語が一般に用いられるようになって、「野雉車」の語が生まれるに至った。「野雉車」とはそも何であるか? これは北京・上海に出没するところの、無鑑札のモグリの車夫の謂いで、強引に客引きをしたり、法外な料金を吹っかけてくるゴマの蠅、無理矢理怪しげな遊郭へと客を連れ込んでしまうヤクザ車夫のことを言う。(五月三十日)
[やぶちゃん補注:表題の「売色鳳香餅」は意味不明。筑摩全集類聚版注釈も「未詳」とし、ネット上にも本作品以外では存在しない。読みは一応、内容が中国であるから音読みで記したが、歌舞伎や浄瑠璃の外題の如く、特殊な訓読みを考えてみてもよいのかも知れない。
「姑」は広く女性の意。]
泥黎口業(ないりくごう)
――地獄に落ちる業(ごう)深き下らぬお喋り
または 堕地獄の売文の業(ぎょう)
私、寿陵余子は雑誌『人間』の依頼により、本「骨董羹」を書くこと既に三回に及んだ。古今東西の雑書を引用して、衒学の気焔を挙げること、あたかも戯曲「マクベス」の中の妖婆三人が無類の地獄の闇鍋を作る類いに似ている。世の心ある知識人は三千里の外にその鍋のむくつけき臭いを避け、凡俗の暗愚の者は一瞬のうちにその臭いの毒に当たって斃(たお)れてしまう――。思うにこれは泥黎の口業――地獄に落ちる業深き下らぬお喋りまたは堕地獄の売文の業――なのである。羅貫中が「水滸伝」を作つて、その報いで三世に亙って唖の子を生んだというのが本当ならば、私、寿陵余子もまた、「骨董羹」を書いて、そも如何なる冥罰(みょうばつ)を受けることになるのであろう。それは黙殺か。撲滅か。或いは私の公刊する小説集が一冊も売れないという分かりやすい罰であろうか――。いや、されば速やかに筆を投げ捨てて、酒に酔って、仏を縫い取りした裂地(きれじ)の前に座禅を組み、浮世を逃れて醉禅観想の清閑の境地を愛するに若かず、だ。昨日の非を悔い改め、今日の是なるを知る、というもの。そうと決まったらどうしてぐずぐずと躊躇(ためら)っていることがあろうか。潔く鍋ごとぽいと投げ捨てよう、吾が寿陵余子一代の名物「骨董羹」を――。されど若し、このごった煮を今日味わうことを得て、おや? なかなか変わった味で旨いじゃないかということにでもなれば、もしかすると明日の貴方の家の厠の中には、奇瑞を現す瑞雲瑞光が舞い射すやも知れぬ――。そうしてその折には、そこの貴方の糞(くそ)の中に、有り難い仏舎利があるやも知れぬ――、その時はそれぞれの道にすぐれた人よ、そう、貴方だ! しっかと見据えるがいい、その有難い己が糞まみれの仏舎利を――。(五月三十日)
[やぶちゃん補注:底本注記によれば、ここまでの8篇が雑誌『人間』6月号、連載最終回の所載分である。本篇の最後の「されど若し、このごった煮を今日味わうことを得て……」以下最後までの翻案には芥川龍之介の原典の真意を汲み取れたかどうか、自信がない。識者の改良案の御示教を俟つ。
「泥黎口業」の「泥黎」は仏教語。梵語“niraya”を音写し漢訳したもので、「奈利(なり)・奈落・地獄」の意を表わす。「口業」も仏教語。三業(さんごう)の一。広く言葉が元となって善悪の結果を招く行為を言う。ちなみに筑摩全集類聚版注では「地獄からのおしゃべり」と訳し、岩波版新全集注では「地獄の文筆業」と訳している。どちらも捨て難く、どちらも言い得て妙とは、また、言い難い。故に贅沢に二つとも使わせてもらった。
『戯曲「マクベス」の中の妖婆三人が無類の地獄の闇鍋を作る類いに似ている』の「闇鍋」とは、シェイクスピア「マクベス」の第4幕第1場の洞窟のシークエンス(実は幻想)に登場する魔女の秘薬(一種の蠱毒)を調合していると思われる鍋のこと。投げ入れるものを列挙してみると、毒の油を31日流し続けた蟇蛙・蛇のぶつ切り・毒蛇や狼の牙・井守の目玉や蜥蜴の足や蛙の指先・蝙蝠や梟の羽・犬や蝮の舌・龍の鱗・魔女の木乃伊・人食い鮫の内臓・闇夜に掘った毒人参・イエスを罵ったユダヤ人の肝臓・山羊の胆・月食の夜に折り取ったイチイの枝・トルコ人の鼻・韃靼人の唇・売春婦がドブに産み落として直ぐに首を絞めた胎児の指・虎の腸等。これを、狒々(ヒヒ)の血で冷ましたものに呪文を加え、自分の子を9匹食らった豚の血と、死刑に処せられる人殺しの今はの際の脂汗をたらしこんだものである(以上の鍋の内容物については、昭和44(1969)年新潮社刊の福田恆存訳「マクベス」を参考にしたが、以下の魔女の台詞は私の好みで福田の訳ではない)。そして途中で登場したマクベスの目の前で、あの「女の股から生まれた者にはマクベスは倒せない」や「バーナムの森がダンシネインの丘に近づいて来ぬ限りマクベスは滅びない」という有名な予言を鍋から次々と立ち上る幻影が語ってゆくのである。]