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鬼火へ

芥川龍之介〔遺書〕 (五通)

[やぶちゃん注:岩波版旧全集を底本とし、後述した注記の便宜のために、各五通の遺書に通し番号を< >記号で付し、また、一部に注記を施した。【2005年12月4日】
2008年、焼き捨てられていたと思われていた幻の芥川龍之介遺書が出現した。それを私が翻刻したものを新たに公開してある。本頁を検索で来られた方は、以下を必ず参照されたい。
芥川龍之介遺書全6通 他 関連資料1通≪2008年に新たに見出されたる遺書原本やぶちゃん翻刻版 附やぶちゃん注≫
【2009年12月24日追記】]

 

 

〔遺  書〕(五通)

 

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       ○

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた爲に(秀夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少なからず後悔してゐる。なほ又僕と戀愛關係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかった。これも道德的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を打算した爲である。(しかし戀愛を感じなかつた訣ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかったのである。僕はこの養父母に對する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。)今僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟氣違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌惡を感じてゐる。

 

                             芥川龍之介

 

 P.S. 僕は支那へ旅行するのを機會にやつと秀夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客棧にストリントベリイの「痴人の懺悔」を讀み、彼も亦僕のやうに情人に譃を書いてゐるのを知り、苦笑したことを覺えてゐる。)その後は一指も觸れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの 「たち」 は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

[やぶちゃん注:追伸の頭の「P.S.」は縦書本文でも横書。]

 

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わが子等に

 一人生は死に至る戰ひなることを忘るべからず。

 二從つて汝等の力を恃むことを〔忘る〕勿れ。汝等の力を養ふを旨とせよ。

 三小穴隆一を父と思へ。從つて小穴の教訓に從ふべし。

 四若しこの人生の戰ひに破れし時には汝等の父の如く自殺せよ。但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。

 五茫々たる天命は知り難しと雖も、努めて汝等の家族に恃まず、汝等の欲望を抛棄せよ。是反つて汝等をして後年汝等を平和ならしむる途なり。

 六汝等の母を憐憫せよ。然れどもその憐憫に爲に汝等の意志を抂ぐべからず。是亦却つて汝等をして後年汝等の母を幸福ならしむべし。

 七汝等は皆汝等の父の如く神經質なるを免れざるべし。殊にその事實に注意せよ。

 八汝等の父は汝等を愛す。(若し汝等を愛せざらん乎、或は汝等を棄てて顧みざるべし。汝等を棄てて顧みざる能はば、生路も亦なきにしもあらず)

                            芥川龍之介

[やぶちゃん注1:「二」の条中の「〔忘る〕」は脱字を編者が補ったものと思われる。不思議なことに、この〔 〕記号使用の凡例が当該巻はおろか、第一巻にもなく、当該十三巻後記の「遺書」の項にも、この脱字補正の注記がない。筑摩書房の全集類聚版でも全く同様の記号で〔忘る〕と補正され、且つ同全集でも、本記号についての凡例も、解説での補正の断りもない。全く奇妙と言わざるを得ない。]

[やぶちゃん注2:「四」の「但し汝等の父の如く 他に不幸を及ぼすを避けよ。」の「父の如く」の後は一字空けとなっている。]

 

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芥川文子あて

 追記。この遺書は僕の死と共に文子より三氏に示すべし。尚又右の條件の實行せられたる後は火中することを忘るべからず。

 再追記 僕は萬一新潮社より抗議に出づることを惧るる爲に別紙に4を認めて同封せんとす。

 

4 僕の作品の出版權は(若し出版するものありとせん乎)岩波茂雄氏に讓與すべし。(僕の新潮社に對する契約は破棄す。)僕は夏目先生を愛するが故に先生と出版書肆を同じうせんことを希望す。但し裝幀は小穴隆一氏を煩はすことを條件とすべし。(若し岩波氏の承諾を得ざる時は既に本となれるものの外は如何なる書肆よりも出すべからず。)勿論出版する期限等は全部岩波氏に一任すべし。この問題も谷口氏の意力に待つこと多かるべし。

[やぶちゃん注:冒頭の「再追記」の後は一字空けとなっていて、句点はない。]

 

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       ○

 一、生かす工夫絶對に無用。

 二、絶命後小穴君に知らすべし。絶命前には小穴君を苦しめ并せて世間を騷がす惧れあり。

 三、絶命すまで來客には「暑さあたり」と披露すべし。

 四、下島先生と御相談の上、自殺とするも病殺とするも可。若し自殺と定まりし時は遺書(菊地宛)を菊地に與ふべし。然らざれば燒き棄てよ。他の遺書(文子宛)は如何に關らず披見し、出來るだけ遺志に從ふやうにせよ。

 五、遺物には小穴君に蓬平の蘭を贈るべし。又義敏に松花硯(小硯)を贈るべし。

 六、この遺書は直ちに燒棄せよ。

[やぶちゃん注:「四」の「病殺」の「殺」は右に「〔死〕」の編者注記あり。なお「病殺」の部分は雑誌『現代文学序説』第五号 昭和四十三(1968)年九月発行の森啓祐「芥川龍之介の遺書」(但し、有精堂「日本文学資料叢書 芥川龍之介Ⅰ」からの孫引き)の原稿確認の記載に従っている。]

 

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       ○

一他に貸せしもの、――鶴田君にアラビア夜話十二卷あり。

 二他より借りしもの、――東洋文庫よりFormosa(臺灣)一册。勝峯晋風氏より「潮音」數册。下島先生より印數顆、室生君より印二顆。(印は所持者に見て貰ふべし。)

 三沖本君に印譜を作りて貰ふべし。わが追善などに句集を加へて配るもよし。

 四石塔の字は必ず小穴君を煩はすべし。

 五あらゆる人々の赦さんことを請ひ、あらゆる人々を赦さんとするわが心中を忘るる勿れ。

[やぶちゃん注:全集追記によると、<1>の「僕等人間は……」一通は著者自筆原稿(日本近代文学館蔵)により、他は初めてこれらが収められた岩波小型版全集によった、とある。小型版全集では<1>の「僕等人間は……」一通の文末に、小字で「(昭和二年、小穴隆一氏へ)」とあり、また、<3>「芥川文子あて」一通の文頭に「〔「再追記」に記されたる「別紙4」以外の、本文は、或る事情により燒却された〕」という注記があると記している。
 ここから考えるに、旧菊版全集は、この小型版全集時に用いられた衍字脱字補正記号である〔 〕記号をそのまま凡例表示さえしないで用いてしまい、それを筑摩版も無批判に丸写ししたと考えるべきであろう。新全集も底本は旧菊版全集のコンセプトを踏襲しているが、さすがに遺書に〔 〕の注記をつけるという愚は冒していない点、新字採用の大愚行を少しだけ贖っている。
 なお、後記には更に以下のような叙述が続く。
 小型版全集では「芥川文子あて」一通の文末に、小字で「嚴密に死に際しての遺書とよばるべきものを、死に最も近きものより擧げると左の順序となる。

一、                            芥川文子あて。昭和二年七月二十四日。死後懷中より發見されし遺書。<>

二、                            「芥川文子あて」昭和二年七月。<>

三、                            「わが子等に」昭和二年七月。<>

四、                            「菊池寛氏あて昭和二年七月。前記一芥川文子あて遺書に言及されたるもの。不載。」

との注記があるとする。< >部分は、実際には全集の頁行数が載るが、煩瑣を避けるために本電子テクストの通し番号に替えた。ちなみに、この注記についても疑義がある。遺書は全部で五通であるが、この注記は最後の<4>についての記載がない。恐らく<4><5>の二通を一まとめと考えて、「一」の「 芥川文子あて。昭和二年七月二十四日。死後懷中より發見されし遺書。」としていると思われるが、この注記ではそうは読めない。新全集後記でもこの部分については述べられていない。

 遺書について、昭和三十一(1956)年中央公論社刊の小穴隆一「二つの繪」に興味深い叙述が複数現れる(以下、下線はやぶちゃん)。

『 芥川の遺書の中には〔一、もし集を出すことあらば、原稿は小生所持のものによられたし。一、又「妖婆」(「アグニの神」に改鑄したれば、)「死後」(妻の爲に)の二篇は除かれたし。〕といふ字句があつた。』

同書の59ページ、「妻に對する、子に對する、」の一節である。更に、同文章のその直後(60ページ)には、

『芥川の夫人に宛てた遺書の中には僕といつしよになれと書いてあつたのもあつて見せられたが、それでもつて僕は新原得二に「六ヶ月たつてみなければ……」といふ二つの意味をふくめた心外な嫌味を言はれてゐる。(芥川はこの實弟と實姉とは義絶せよと家人に書いてゐた)』

この義絶云々については、同じく同書119ページの「養家」の一節、

芥川はまた實家の姉と弟、葛巻ひさと新原得二とは義絶をせよと妻子に書置してゐる。芥川は兄弟との間にもめぐまれてゐなかつた。姉はともかくとして新原のことは「弟は上野の圖書館に道鏡のことが書いてある本がある。それで不敬罪だと言つて宮内大臣を訴へてゐる。僕の弟はさういふことばかりしてゐて困るのだ。」などとこぼしてゐる。』

及び、同書241ページの葛巻義敏を指弾する「奇怪な家ダニ」の中で、

芥川は奥さんに、姉(葛巻の母)と弟(芥川の實家を繼いだ新原得二、この人芥川の死後いくばくもなくして死ぬ)とは義絶しろ義敏の生活は三年間みてやれといふ遺書をのこしておいた。葛巻は姉と弟と義絶しろといふ自分に困るところは切りすてておいて、三年間みてやれの都合のよいところばかりの遺書を持つてゐてそれをT君にふりかざして、自分はこんなにも愛されてゐたといつてゐたといふ(こんなにも芥川を穢した者があろうか)。』

という叙述もある。これらは、現行の遺書に見出せない条項である。按ずるに、この形態上、項目にして三つの

1.全集底本は原稿によること及び削除作品の指示(但し、項目をそれぞれ「一」と挙げているのが事実とすれば、これを一つに括るのは難がある)。
2.小穴隆一との再婚指示。
3.葛巻ひさ及び新原得二との義絶及び葛巻義敏の扶養の指示。

は、前掲の『
二、「芥川文子あて」昭和二年七月。<>』の、まさに、破棄されなかった別紙4以外の、「右條件」という破棄された3項目であったのではなかったか。識者の判断を待つ。

 更に、小穴隆一「二つの繪」の『「藪の中」について』の中に、以下の記載がある(204ページ)。



 大正十五年に鵠沼で芥川は、「自分が死んだあと、よくせきのことがあつたら、これをあけてくれたまへ」といつて白封筒のものを渡したことがあつた。私は内をみたら或は彼に自殺を思ひとどまらせる手がかりでもあらうかと、芥川夫人に示して、それをひそかに開封してみた。するとなかみはただ、自分は南部修太郎と一人の女を自分自身では全くその事を知らずに共有してゐた。それを恥ぢて死ぬ。とだけのたつた數十字のものであつた。
(私にさういふものを渡してゐた彼に、彼の死後、私がなにか世間から困らせてはといふ懸念からのいたはりのこころづかひがあつたことを感じる。)なぜ、彼はその時にもう一人の名をも書けなかつたのか。(「鯨のお詣り」一〇〇頁一〇一頁参照。廣津さんの「あの時代」参照。)

 私は小さな行李からまた一通の白封筒を発見した。なかみは赤門前の松屋の半きれの原稿用紙五枚のものである。私はこの白封筒が、どうしてまた私のところにあつたのかと、ふしぎに思つたほど驚いてゐるのである。
 私は忘れてゐたものを二十四年目にみた。私はここに彼のその全文を紹介することとし(某の一字だけ伏字)なほのこりの下書はひとまづ破棄しておくこことする。一つの藪の中をでて、また別の藪の中に人々を誘ふためにこれを書いてゐるのではないから。

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に某夫人と罪を犯したことである。僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。唯相手を選ばなかつた爲に(秀夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。)僕の生存に不利を生じたことを少なからず後悔してゐる。なほ又僕と戀愛關係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかった。これも道德的につくらなかつたのではない。唯情人をつくることの利害を計算した爲である。(しかし戀愛を感じなかつた譯ではない。僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、深入りしない前に脱却した。)僕は勿論死にたくない。しかし生きてゐるのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。が、僕は一人ならば或は自殺しないであらう。僕は養家に人となり、我儘らしい我儘を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかったのである。僕はこの養父母に對する「孝行に似たものも」後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。)今、僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。僕もあらゆる青年のやうにいろいろ夢を見たことがあつた。けれども今になつて見ると、畢竟氣違ひの子だつたのであらう。僕は現在は僕自身には勿論、あらゆるものに嫌惡を感じてゐる。

                             芥川龍之介

P・S・僕は支那へ旅行するのを機會にやつと夫人の手を脱した。(僕は洛陽の客棧にストリントベリイの「痴人の懺悔」を讀み、彼も亦僕のやうに情人に嘘を書いてゐるのを知り、苦笑したことを覺えてゐる。)その後は一指も觸れたことはない。が、執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの 「たち」 は二人以上の意である。僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。[やぶちゃん補注:追伸の頭の「P・S・」は全集の「P.S.」表記と異なり、アルファベットも中黒も縦にそれぞれ一字分で記されている。]



 この一連の叙述は、極めて興味深く、謎めいている。まず、「自分は南部修太郎と一人の女を自分自身では全くその事を知らずに共有してゐた。それを恥ぢて死ぬ。」は、全集に所収しない芥川の遺書の断片であることだ。断片と言っても、「たつた數十字」と述べていて、該当部は、句読点を含めると四十六字分あり、ほぼその内容は尽されたものと考えてよい。南部、芥川、秀しげ子の三角関係は広く知られたことではあるが、それを、はっきりと自裁の理由として挙げているこの遺書は、芥川の自殺を考える上で、重要な問題を投げかけるものと言うべきであろう。

 次に、小穴が「彼の死後、私がなにか世間から困らせてはといふ懸念からのいたはりのこころづかひ」という下りの不可解さである。これは、何を意味するのか。その直後の「もう一人の名」も意味深長である。文脈から推察すると、「もう一人の名」とは恰も、小穴隆一であるかのように読めてしまう。それとも、これは「一人の女」=秀しげ子の名を書かなかったことを、単に指しているだけなのか。それとも、本人は強く否定しているところの宇野浩二を入れた四角関係を暗示しているのか。
 しかし、ここで小穴が挙げている二冊、小穴の昭和十五(1940)年中央公論社刊「鯨のお詣り」の該当ページと、広津和郎の「あの時代」(岩波文庫 広津和郎「同時代の作家たち」所収)を読む限り、前者が、宇野と芥川のエピソードを綴るページであり、後者が副題として「芥川と宇野」であること、その叙述内容からしても、もう一人の名とは宇野浩二である可能性が極めて強い。なお、「鯨のお詣り」では、「二つの繪」と、重要な場面で微妙に違う表現が用いられている点を挙げておく(なお「鯨のお詣り」は総ルビであるが、煩瑣を避けて一部を除き、省略した)。

・「自分が死んだあと、よくせきのことがあつたら、これをあけてくれたまへ」に相当する部分は、もっと分かり易く、「自分の死後世間に全然途方もない誤解が生じて、如何しても君に我慢ができない場合になつたとしたら、これを家人に渡して發表してくれたまへ。」とあり、これならば、三人目の小穴自身の可能性は文脈上、消えるであろう。
・『するとなかみはただ、自分は南部修太郎と一人の女を自分自身では全くその事を知らずに共有してゐた。それを恥ぢて死ぬ。とだけのたつた數十字のものであつた。』の下りは、「一葉の書簡箋の數行のなかに、確かに(南部修太郎と一人の女(ひと[やぶちゃん注:ルビ])Sを自分自身では全くその事をしらずして××してゐた。それを恥ぢて自決する。)と讀んだのであるが、(此自分に渡された遺書で最初のものは後に彼に返した。)次に、南部修太郎が消えて宇野浩二の名が現れてゐた、と書かうとする自分には、非常な錯覺による支障を齎らすのである。(とりかへひきかへ三度受け取つた遺書はと考へて調べをしたら、事實は三度よりは餘計とだけ判明した。)」とやはり、具体的な女性個人名があり、捩れながらも「二つの繪」よりもデティルが明瞭である。

 即ち、まず「もう一人の名」は間違いなく宇野浩二であること。そして、小穴に渡されたプレの遺書は3通以上あったと推定される(この小穴の「三度よりは餘計」という語も、彼の恐ろしく読みにくい文中では、やや不審であり、その逆に「二通以下」ともとれない感じがないでもないが、あくまで字義通りでゆくと)ことである。また、そこには公にされた<1>同様に「秀しげ子」の実名が記載されていた公算が極めて高くなってきたと言えよう。そうして、それは「一葉の便箋」に「數行」記されたものであるという表現によって、やはりその核心の叙述はここにほぼ完璧に示されていると考えてよいであろう。

 それにしても、もし宇野の統合失調症様の症状が、齊藤茂吉の見立て通りの脳梅毒であって、ここに暗示される共有関係が事実であったならば、いや、その両者を事実である、事実ではないかと芥川が思っていたとすれば、その関係の中での梅毒の接触感染を芥川は、当然恐れたはずである。それでなくとも、芥川は、中国行での遊興からの梅毒の感染を恐れていた節もある。即ち、このストレスは最晩年の芥川にとって、単なる宇野浩二という親友の発狂に留まらない、おぞましいまでの驚異であったろうことは、想像に難くないのである。

 加えて、一見、「二つの繪」の、この後に続く遺書は、遺書<1>と同じように見えるが、

・「唯情人をつくることの利害を計算した爲である。」の下りが、「計算」が「打算」となっている点、
・「しかし戀愛を感じなかつた譯ではない。」の「譯」が「訣」となっている点、
・「(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかったのである)僕はこの養父母に對する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。」の( )の後ろ位置が提示部全部の後ろにある「(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかったのである。僕はこの養父母に對する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。)」点、
・同文の『「孝行に似たものも」後悔してゐる。』の「 」の後ろ位置が『「孝行に似たもの」も後悔してゐる。』と異なる点(これは小穴か元版のミスかもしれない)、
・「今、僕が自殺するのは一生に一度の我儘かも知れない。」の「今」の後の読点がない点、
・「僕もあらゆる青年のやうにいろいろ夢を見たことがあつた。」が、「僕もあらゆる青年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。」と、「いろいろ」の後に「の」が挿入されている点、
・「畢竟氣違の子だつたのであらう。」が、「氣違ひの子だつたのであらう。」と送り仮名が振られている点、
・「P・S・」の記載方法の相違(但し、これは単に「二つの繪」の元版の関係かも知れない)、
・「僕は支那へ旅行するのを機會にやつと夫人の手を脱した。」が、「僕は支那へ旅行するのを機會にやつと秀夫人の手を脱した。」となっている点(これは小穴が前文で秀しげ子の「秀夫人」の「秀」を「某」と『某の一字だけ伏字』と示したために、恣意的に省略させてものではあろう)、
・「彼も亦僕のやうに情人に嘘を書いてゐるのを知り、」の「嘘」が「譃」である点(これも、ただの小穴か版元のミスかもしれない)、

と微妙に異なるのである。これは日本近代文学館蔵の<1>のプロトタイプというべきものなのであろうか。それとも、同一物で、小穴や版元の不手際であったのか、今となっては分からない。

 更に、実はこの遺書には、同封された「下書」が存在したことを我々は知る。更に、それに続く「ひとまづ破棄しておくこことする」という叙述の不可解さである。文字通り、その下書きは「破棄」されてしまったのだろうか。いや、それは「ひとまづ」の方に真実があって、現在も、小穴の遺品のどこかに、その下書きは隠されていないとは言えない。そうして、その下書きが、この掲載分と大差ないものであるならば、何故、わざわざ小穴は「なほのこりの下書はひとまづ破棄しておくこことする。一つの藪の中をでて、また別の藪の中に人々を誘ふためにこれを書いてゐるのではないから。」という断りを挟まねばならなかったのであろう。それは取りも直さず、その「下書」には、恐らく何か、我々の現在知り得ていない芥川自裁に関わる重要な私的内容(しかしそれは更に自死の謎を深くさせる、藪の中へと導くところの何ものかかも知れぬ)が記載されている可能性を孕んでいるのだ。

 実は、私は、芥川と小穴の関係に、ある仮説を立てている。それは、「或阿呆の一生」の小穴隆一と考えてよい人物についての、次の一章から推察される。



       二十二 或 畫 家

 それは或雜誌の插(さ)し畫(ゑ)だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫(すみゑ)は著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。
 一週間ばかりたつた後、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。
 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍(からきび)に忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂鬱にするだけだつた。
「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」



「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」を呟く芥川は何を考えていたか?………ちなみに、小穴の「鯨のお詣り」には「僕は告白する。微妙にかばひあつてゐた宇野對芥川の友情を考へるときに、僕にしてなほ嫉妬に似たるものがある…」(同書99ページより)、とあるのだ……。
 ……但し、僕の推察は誤っているかもしれない。実証し得る証左が見つかるまでは(恐らく見つからないであろう)芥川や小穴のためにも、軽軽には語れない。暫くその仮説は私の胸中にのみ、秘しておくこととしよう。]

芥川龍之介 (遺書五通)