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芥川龍之介   宇野浩二   上巻 (一)~(十四) 附やぶちゃん注
[やぶちゃん注:芥川龍之介の盟友宇野浩二による渾身の大作「芥川龍之介」は昭和二十六(一九五一)年九月から同二十七(一九五二)年十一月までの『文学界』に一年三ヶ月に及ぶ長期に連載され、後に手を加えて同二十八年五月に文藝春秋新社から刊行された。底本は中央公論社昭和五十(一九七五)年刊の文庫版上・下巻を用いた。ルビの拗音の同ポイントについては私の判断で小文字を採用している。本文中の割注のような( )によるポイント落ちの筆者の解説が入るものは(ポイント落ちでない補足がやはり( )や⦅ ⦆で行われているが、それとは違う。それはそのまま( )や⦅ ⦆を用いた)、[ ]で同ポイントで示した(当初はこれは筆者とは別な編集者が挿入した疑いを持ったが、幾つかの箇所から筆者でなければ書けない内容であることが分かったので、省略しなかった)。なお、手紙等の引用は底本では全体が二字下げとなっているが、ブラウザ上の不具合を考えて、本文と同一にしたが、引用であることが判然とするように前後には底本にはない「*」を附して読み易くした(但し、詩歌などの引用でブラウザ上の不具合が生じない箇所は底本通りとして「*」は挿入していない)。書簡のクレジットなどの注で下インデントになっているものは、原則、引用文末から三字下げで示した。「〱」「〲」の繰り返し記号は正字に直した。一部に私のオリジナルな注を附した(注の位置は私の判断で空行パートごと若しくは当該語句を含む形式段落の直後の何れかに配してある)。注を附す対象は私がよく知らない(若しくは作家名として知っていても作品を読んだことのない)人物・事件を主としたが、本文で十全に語られていると判断した人物・事件については省略したものも多い。悪しからず。本頁を藪野直史自身の野人化の記念として公開する。【二〇一二年四月十五日】「下巻」を公開、以上をもって完結した。【二〇一二年五月十日】]]

芥川龍之介 上巻

芥川龍之介
  
――思い出すままに――

     
まえがき

 芥川龍之介――と、こういう、ものものしい、題をつけたが、この文章は、芥川龍之介のことを、思い出すままに、述べるつもりで、書くのであるから、これまでに私が芥川について書いた文章と重複するところがかなりある、(いや、重複するところばかり、)というようなものになるにちがいない。
 この事を、まず、はじめに、おことわりしておく。
 それから、この文章は、もとより、評伝でも評論でもなく、私が芥川とつきあった短かいあいだの、私が、見、聞き、知った、芥川について、その思い出を、主として、書きたい、と思っているのであり、そうして、その思い出も、わざとノオトなどをとらないで、おもいだすままに、あれ、これ、と書つづる、というような方法をとりたい、と思うので、思い出すままに述べる事柄の年月としつきがあとさきになったり、それぞれの話がとりとめのないものになったり、するにちがいない。
 こういう事も、ついでに、おことわりしておく。
 それから、このような、はかない、あてどのない、とおい昔の事を、たよりない記憶で、書くのであるから、これから、たどたどと述べてゆくうちに、つぎつぎと出てくる事柄に、思いちがいやまちがいが多くある事、名を出す人たちに、とんでもない事やまちがった事を書いたために、すくなからぬ御迷惑をかけるかもしれないことを、(かけるにちがいないことを、)前もって、おことわりし、おわびを申しあげておく。
 それから、最後に、これから述べようとする事は、もとより、私のはかない記憶をたどりながら書くのであるから、まずしいあたまからくりだす、あやふやな思い出が、なくなってしまったら、おわらねばならぬ事を、おことわりしておく。

 さて、今日(七月二十三日)は、亡友、葛西善蔵の祥月命日であり、明日あす(七月二十四日)は、亡友、芥川龍之介の祥月命日である。葛西は、昭和三年七月二十三日、東京府下世田ケ谷町三宿みしゅくの寓居で、この世を去り、芥川は、昭和二年七月二十日、東京市外滝野川田端の自宅で、この世を捨てた。――こう書く私は、文字どおり、感慨無量である。

 葛西は、芥川の『歯車』をよんで、「芥川ははじめて小説らしい小説をかいた、」といったが、(といって、葛西が、芥川の『歯車』以前の小説を、どのくらい読んでいたかは、わからないけれど、)芥川は、志賀直哉の作品は別として、葛西の小説はかなりみとめていた。

     


 私は、芥川を思い出すと、いつも、やさしい人であった、深切な人であった、しみじみした人であった、いとしい人であった、さびしい人であった、と、ただ、それだけが、あたまに、うかんでくるのである。それで、私には、芥川は、なつかしい気がするのである、ときには、なつかしくてたまらない気がするのである。

 私が芥川と一しょに旅行したのはただ二度である。ところが、その二度とも大阪に行ったことをはっきり覚えていながら、大正九年の十一月の下旬に、直木三十五にさそわれて、里見、久米、菊池、その他と、大阪まで行き、それから、芥川と二人ふたりで、京都から、名古屋にまわり、諏訪に行った時の事は、よく、(些細の事まで、)おぼえているのに、もう一つの旅(二度目の旅)の思い出は、ただ、芥川と一しょに大阪に行った、というほどの記憶しかないのである。
 ただ、『二度目』という記憶があるのは、(といって、うろおぼえではあるが、)たしか、大正十三年の二月の中頃であったか、ある日、芥川が、私の家に、あそびに、(というより、はなしに、)来たとき、なにかのはなしがとぎれた時、とつぜん、「……大阪イ一しょに行かないか、ぼく……」[やぶちゃん注:「イ」はママ。]と、いった。そこで、私が、ちょっと考えてから、「ゆきたいけれど、……かねがないから、……」というと、芥川は、すぐ、「金なら、心配は、いらないよ、」といいながら、あの、目尻に、二三ぼんのしわをよせ、目にたつところに大きな歯が一ぽんかけている少し大きな口を細目ほそめにひらいて笑う、独得の、おどけたような、あかるい、笑い方をした。
 それだけで私は、すぐ「そんなら、行こう、」と、約束をした。
 今、その時の事をおもうと、(これも、また、まちがっているかもしれないが、)その時、芥川は、たしか、支那に行くことになっていて、それを、紀行文に、書く条件で、たのまれた、大阪毎日新聞社の、(その頃、学芸部長であった、)薄田泣菫にあうために、大阪にゆく用事があったので、私を、その『道づれ』にえらんだのである。それから、金の心配はいらない、といったのは、泣菫に、支那ゆきのうちあわせに行ったついでに、前借をたのんで、相当の金をうけとるつもりであったのだ。
[やぶちゃん注:「大正十三年の二月の中頃」宇野のクレジットの記憶には錯誤がある。これでは中国旅行後になってしまう。現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、これは大正十(一九二一)年二月二十日(東京発)、二十四日帰京であることが分かっている。]

 薄田泣菫といえば、私が、若年の頃、(十七八歳の時分に、)愛読した、第一詩集『暮笛集』の巻頭の、『詩のなやみ』の最初の、
  遅日ちじつちまたちりにゆき
  ちからあるにくるしみぬ
  はわたつみの真珠狩しんじゅがり
というのを、今でも、暗記しているほど、私の、青春の、あこがれの、詩人である。
 これは、わたくしばかりではない。ある時、ある会で、辰野 隆と久保田万太郎のちかくの席にすわった時、私が、なにかの話のきれめに、ふと、泣菫の詩のことを、述べると、その話がおわらぬうちに、辰野が、あの有名な『公孫樹下こうそんじゅかにたちて』のはじめの、
  ああ彼方かなた伊太利イタリア
  ななつの丘の古跡ふるあとや、
  まろき柱に照りはえて、
  石床いしゆかしろき回廊わたどの
と、くせの、口を長方形にひらき、目をランランとかがやかせながら、情熱をこめ、つばきをとばしながら、朗誦しはじめた。(私は、その辰野の姿を見ながら、その辰野の朗誦を聞きながら、ひそかに、涙をながさんばかりに、感激した。ああ、論をすれば、しばしば、はげしい敵になる、辰野よ、……と、これを書きながら、私は、また、感激を、あらたにするのである。)
 ところが、辰野が、
  きざはしせばぐらせる……
と、つづけているのに、いきなり、久保田が、そばから、ひきとるように、
  青地あをぢ襤褸つづれ乞食かたゐらが、
  つき降誕祭くりすます
  いち施物せもつを夢みつつ……
と、肩をゆすりながら、鼻の穴をふくらませながら、夢中むちゅうになって、朗誦しはじめた。すると、辰野が、また、……と、書きつづければ、はてしがないのである。
 そのうちに、辰野と久保田が合唱しだした。ここらで、私も、夢中になって、
  ここ美作みまさか高原たかはらや、
  国のさかひの那義山なぎせん
  谿たににこもれる初嵐はつあらし
  ひとたかみの朝戸出あさとでに、
  とほ銀杏いてふのかげを見て……
と、やりたいところであるが、遺憾なるかな、私には、胸にあまる感激だけがあって、声に出せないのである。
[やぶちゃん注:「詩のなやみ」の引用部分は、正しくは、宇野の示した一行が二行分かち書きで一部に句読点があり、行空きがあり、三行目の「わたつみ」は漢字表記である。且つ、宇野は二連目を最初の部分しか示していないので、二連目最後までを以下に示しておく(引用は昭和四十三(一九六八)年新潮社刊「日本詩人全集3」に拠った)。

 遅日ちじつちまた
      ちりにゆき、
 ちからある
      くるしみぬ。

 大海わたつみ
     真珠狩しんじゅがり
 深く沈めと
      人に聞く。

なお、「詩のなやみ」は全十一連からなる。
「辰野 隆」(たつの・ゆたか 明治二十一(一八八八)年~昭和三十九(一九六四)年)は仏文学者・随筆家。東京府立一中(現在の都立日比谷高等学校)では谷崎潤一郎・吉井勇と同窓、一高から大正二(一九一三)年に東京帝国大学法学部仏法科卒後、文学を志して同仏文科に再入学、大正五(一九一六)年卒業、大学院に進学し、同大講師から助教授(東大仏文科初の日本人助教授)、二年間のフランスに留学を経て、大正十二(一九二三)年帰国後、主任教授となった。彼の教室からは渡辺一夫・小林秀雄・三好達治・中村光夫など、錚々たる面々を輩出している。
「公孫樹下にたちて」は、明治三十四(一九〇一)年、薄田泣菫が京都時代に世話になった女性が未亡人となって岡山県津山に帰郷しているのを訪問、女学校を経営しながら伝道に献身している彼女の姿に感銘した泣菫が、その滞在中に金光山長法寺(同県津山市井口)に立寄り、その大イチョウ(現存)を見て作った全三連からなる人生賛歌の長詩。明治三十五(一九〇二)年一月、自身の編集する雑誌『小天地』に発表、明治三十八(一九〇五)年に刊行した詩集『二十五絃』に所収された。これを以ってポスト藤村としての泣菫は、明治詩壇の頂点を極めたと言ってよい。
「那義山」那岐山のこと。鳥取県八頭郡智頭町と岡山県勝田郡奈義町の境界に位置する。]

 さて、芥川と私は、大阪につくと、すく毎日新聞社に、薄田泣菫をたずねた。
 私は大正九年の秋の頃、東京日日新聞と大阪毎日新聞の夕刊に、『高い山から』という中篇小説を連載し、大正十年の春の頃やはり、東京日日新聞と大阪毎日新聞の夕刊に、『恋愛三昧』[『恋愛合戦』という長編小説の下巻になる]を連載したとき、泣菫から、しばしば、依頼や催促の手紙をもらったこともあるので、その挨拶をかねても、泣菫に、あいたかったからである。
 ところが、私が泣菫にはじめて逢って、いきなり、うけた印象は、こちらからお辞儀をしても、ただ、目をパチクリさせて、上半身を前にちょっとかたむけただけで、わずかな時間であったが、はじめからしまいまで、端然としたかたちをほとんどくずさなかったので、実に行儀ぎょうぎただしい人のように見えた事である。それで、毎日新聞社を出てから、すぐ芥川に、その事を、いうと、芥川は、いつも、いたずらをしたり、皮肉をいったり、する時に、してみせる、笑い顔をしながら、「きみ、知らなかったのか、…あれは、脊椎カリエスで、ギプスを、はめているからだよ、名づけて、『維摩端然居士』というのだ、」と、くすッ、と聞こえる、笑い声を、たてた。
[やぶちゃん注:「あれは、脊椎カリエスで、ギプスを、はめているからだよ」とあるが、「脊椎カリエス」は誤りで、薄田の病気は正しくはパーキンソン症候群である。大正六(一九一七)年頃には手足の動きが不自由になって、本症を発症していた。]
 ところで、この時の芥川との旅行は、たぶん、大阪だけで、ひとばんぐらい、とまって、帰京した、(と思う。)

 さて、私が芥川と一緒に最初に旅行した時の話は、すでに、二三書いたが、こんど、これから、書いてみたいのは、前に書かなかった、(というより、書けなかった、)いろいろさまざまの事どもである。
 ところで、それを述べるには、読む人たちが退屈しイヤになる以上に、書く私もイヤでたまらないのであるが、重複するのを承知で、前に二三度も書いたことを、くりかえし、書かねば、話の筋がとおらない。それで、イヤでたまらないのを辛抱しながら、これから、はじめることにしよう。
 さて、その時、私たちが、(その時は、直木のほかに、芥川、菊池、田中 純、私、の四人が、)東京駅から、午後六時の汽車で、立ったのを、大正九年の十一月十九日、とすると二十日の夜は、大阪の堀江の茶屋に、とまり、二十一日の晩は、芥川と私と久米は、生駒いこま山麓の妙な茶屋に、とまり、二十二日の夜は、芥川と私は、京都の鴨川の岸のちんな茶屋にとまり、二十三日の晩は、芥川と私は、下諏訪の宿屋に、とまった、という事になる。それから、里見と久米は、二十日の午後十二時頃に東京駅を出る汽車に、のりこんだ。
[やぶちゃん注:「私たちが、(その時は、直木のほかに、芥川、菊池、田中 純、私、の四人が、)東京駅から、午後六時の汽車で、立ったのを、大正九年の十一月十九日、とすると……」以下のクレジットや記述にも宇野の大きな複数の錯誤がある。現在の芥川龍之介の年譜的知見によれば、これは大正九(一九二〇)年十一月の「十九日」ではなく、十六日である。以下、主に新全集の宮坂覺氏の年譜に拠ってこの時の旅程を示す。
 十六日(火) 夕刻、宇野の他、久米・菊池・直木・佐佐木らと日本画家結社の一つである主潮社主催の公開講座講演旅行のため、大阪に出発。
 十七日(水) 午前五時、京都着。午前十時頃まで市内観光の後、大阪へ向かう。
 十八日(木) 公開講座講演初日(於大阪中之島公会堂)。但し、この日は芥川は登壇していない。
 十九日(金) 公開講座講演二日目(同じく於大阪中之島公会堂)。芥川は「偶感」と題して講演、夜、堀江の茶屋で催された主潮社の歓迎会に出席し、生駒山の茶屋に泊。
 二〇日(土) 大阪毎日新聞社主催で社員である芥川龍之介と菊池寛の歓迎会が北浜の鶴家で開かれたが、芥川は京都にいる親友恒藤恭を訪問して帰阪が遅れたため、宇野浩二が代理で出席する。
 二一日(日) 主潮社主催の展覧会を見、夕刻、文楽座公演を観劇、午後七時頃、京都着。宮川町の茶屋に泊。
 二二日(月) 時雨。一日、京都遊覧。芥川はこの日の夜に帰京する予定であったが、『宇野に誘はれて木曾』(芥川家宛絵葉書)諏訪行きを決し、午後十一時頃、京都発。江口(宇野と寄書き)・小穴(『京都駅にて』と記す)・小沢碧童・岡榮一郎宛絵葉書、投函。総て二二日京都発信。
 二三日(火) 午前四時頃、名古屋着。中央線乗換。昼過ぎ、諏訪着。夜、宇野の馴染みの芸妓原とみと逢う。下諏訪亀屋ホテルに泊。因みにこの日、薄田泣菫(宮坂年譜による。但し、旧全集書簡では宛名を瀧田樗陰宛とする。新全集を私は所持しないが、新知見による訂正であろう)に芥川は今回の旅で懐が淋しい故として、五十円の電報為替による送金を無心している。
 二四日(水) 佐佐木茂索宛で、何故か、宇野と二人で諏訪にいることを『公表しないでくれ給へ』と書いている。下島勲・中西秀男(芥川に私淑した英文学者)宛絵葉書、同日諏訪発信。
 二五日(木) 以下、二七日まで諏訪滞在の模様(年譜に記載なし)。
 二八日(金) 夕刻、帰京。夜(文面にも『今夕宇野と帰京しました』とあり、最後のクレジットも『廿八日』とある)、原とみに礼状を書いている。
以下、宇野はこの錯誤のままに話を進めているが、以下での錯誤の指摘は省略する。]
 ところで、二十一日の朝の五時ごろに、私たちは、京都で、おりた。大阪に行く筈であるのを、京都でおりたのは、直木が、だまって、汽車をおりたからである。これは、田中をのぞいて、芥川も、菊池も、私も、この旅行に出る三日まえに、直木(その時分は植村宋一)を、はじめて、知ったので、それに、その時の旅行は一さい直木まかせであったから、その時の行動は、かりに、私たちを羊とすれば、直木は、羊たちをみちびく、羊犬(つまり、シイプ・ドッグ)であった。
 それで、ふかい霧のたちこめている、早朝の、京都の町を、七条の駅の前から、三十三間堂のそばをとおって、東山ひがしやまのほうへ、黙黙もくもくとして、あるいて行く直木のあとから、芥川も、菊池も、私も、ほとんど無言で、あるいた。
 やがて、東山公園の『わらんぢや』に、はいった。『わらんぢや』は、大根の「ふろふき」[大根をゆでて、そのあつい間に、味噌をつけてたべるもの]を名物とする家であるが、かえってそれがゲテのうまさがあるのと、たしか、早朝だけ開業しているのとで、名代なだいの家である。その『わらんぢや』で食事をするあいだも、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、ことも、口を、きかなかった。(口をきかない、といえば、これも、前に、書いたことがあるが、東京駅の二等待合室で、芥川と顔をあわした時、両方がはじめて口をきいたのは、「君は、植村を、知ってるの、」「いや、こないだ、たのみにきた時、はじめてだ、」という言葉であった。それから、汽車のなかで、寝台車の中の喫煙室に通じるほそい廊下で、芥川とゆきあった時、芥川が、「きみ、植村って、こっちから、話しをしたら、ものをいうよ、」と、いった。それだけである。)
 さて、『わらんぢや』を出てからも、直木は、やはり、だまって、あるきつづけた。やがて、知恩院ちおんいんのそばもとおり、南禅寺の門の前もすぎた。「ものはいわないけど、植村は、実に足の達者たっしゃな男だね、」と、芥川が、いった。そのうちに、聖護院しょうごいんの前をとおり、それから、寺町の通りに出て、しばらくあるいたところで鎰屋かぎやの二階にあがった。(鎰屋は、ずっとのちに、梶井基次郎が、名作『檸檬れもん』のなかにも、書いているように、その頃の京都にしばらくでも滞在した人には、おくゆかしい、なつかしい、喫茶店である。)しかし、鎰屋の二階にあがって、一服した時は、私たちは、へとへとになり、みな、いくらか、不機嫌になって、口をきく元気げんきさえ、なくなった。
 ところが、直木は、ひとり、平気な顔をして、鎰屋を出ると、また、さっさと、あるきだした。私たちは、足をひきずりながら、直木のあとに、つづいた。直木は、私たちが、一二歩おくれてあるいていても、一けんぐらいはなれてあるいていても、すこしもかまわずに、おなじあるきかたであるいていた。やがて、あの古風な七条の停車場のものが、見えだした時、芥川が、例の鼻声のような低い声で、
 「……今日きょうは、二里ちかく、あるかされたね。……きみ、植村という男は、一しゅ不死身ふじみだね、」
  すると、その時、突然、私たちより半間はんげんぐらいおくれて、のろのろと、あるいてくる、菊池が、「……ぼくは、腹がすいた……」と、もちまえのカンだかい声で、(ちょっとなさけなさそうに聞こえる声で、)いった。
「こういう時に、空腹をうったえる菊池ひろしは、きみ、一種の猛者もさだね、」と芥川が私に、云った。
(芥川は、私の記憶では、『キクチ』とせいだけを、云う時のほかは、かならず『キクチ・ヒロシ』と、いった、これが、本当のかたである、と、いわんばかりに。)

 京都駅で、大阪に行くために、私たちが汽車にのったのは、午前十時頃であった。
 京都から大阪までのあいだの二等車のなかは閑散であった。その時分の二等車は、いまの都電や省線の電車のように、車の両側に座席がついていて、その座席もふかくクッションもやわらかく、座席と座席のあいだの通路もひろかった。
 さて、汽車のなかがすいていたので、私たち五人の連中れんぢゅうは、すこしずつはなれて、腰をかけた。私たちが腰かけたのは河内かわちの国のほうのかわであったが、その反対の側には、汽車のすすんで行くほうすみに、市村羽左衛門[十五世羽左衛門]と五十あまりの女が、席を、しめ、反対のすみのほうに近い席に、『くろうと』らしい女が二人つつましく、腰を、かけていた。
「……汽車にのる前に、ぼくは見たんだが、羽左衛門は、まだ五十前だろうが、顔ぜんたい縮緬皺ちりめんじわだね、あれは、白粉おしろいのせいだよ、」と私がいうと、
「色の黒いのも、白粉のせいだよ、」と芥川がいった。
 その時、ふと、見ると、羽左衛門も、そのつれの女も、座席の上にすわって、窓のそとをながめながら、なにか、しきりに話しあっていた。
「……あのつれの女は、細君じゃないね、」と私が云うと、
林家はやしやのおかみだよ、」と芥川がいった。
「きみは、妙なことまで、知ってるね。……ところで、こっちの隅にいる女は、芸者だろうが、ちょいとキレイだね。」
「君はじつにがはやいね。」
「そういう君は、僕より早く見ていたかもしれないから、どっちが早いか、わからないよ。」
 私たちがこういうくだらない話をしていた時、(いや、その前から、)座席のほとんどまんなかへんに腰をかけていた、菊池は、直木が、いつのまにか、どこかで、買ってきた、パンやかきもちを、ムシャムシャと、たべていた。が、それから、いつのまにか、座席のうえに、横になり、腕枕をして、寝てしまった。
 こちらから見ると、足をのばして寝ている、菊池のむこうがわに、田中が本をよんだり目をつぶったりしている、その田中のむこうに、(座席のすみにちかい方で、)直木が、京都から大阪まで、一時間あまりのあいだ、腕ぐみをしたまま、端然と、腰をかけていた。
[やぶちゃん注:「林家」不詳。識者の御教授を乞う。後に出て来る先斗町の『なにがし』の女将は、その叙述から、「こっちの隅にいる女」の一人であるから、『なにがし』=「林家」ではない。]

 やがて、大阪駅につき、改札口を出たところで、直木が、自動車をよんだので、私たちは、すぐ、自動車にのった。(まだ自動車のめずらしい項であった。)その自動車で、私たちは、堀江の茶屋に、案内された。(堀江は、大阪の島之内にあるが、土地とちが不便なところで、色町としては二流であるけれど、義太夫の巧みな芸者がいるので、知られていた。その義太夫のできる芸者を太芸者ふとげいしゃといった。これは、義太夫の三味線は太棹ふとざお[棹のふといこと。それで、普通の三味線を『ほそ』という]であることからちなんだものである。)
 さて、私たちがその堀江の茶屋についたとき、里見と久米が、そこに来ていたか、あとから来たか、――その記憶がまったくない。ただ、その日の夕方に、中之島の公会堂で、もよおされた、文芸講演会に、里見も、久米も、出なかった事を、はっきり、おぼえている。そうして、その講演会も、菊池が、『文芸と人生』という題で、田中が、ツルゲエネフについて、直木が、たしか、『ロシアの前衛作家』という題で、主として、ロオブシンについて、講演したことを、おぼえているだけで、芥川がどういう講演をしたかは、ほとんど覚えていないのである。と、書いたが、今、ふと、思い出したが、芥川は、会場の裏のほうの講演者の控室ひかえしつのなかで、「……僕は、準備もなにもしていないから、『偶感』という題にしてください、」といった。さて、芥川は、演壇にのぼると、四五日前までは、名前も知らなかった、人も知らなかった、植村宋一という人間に、ふらふらと、大阪三界まで、つれてこられ、そのうえ、このような演壇に、さらし者にされた、……「もっとも、『さらもの』といっても、晒しの刑に処せられた罪人などではありません、」と、いって、芥川は、横むきに、あるきだした、『どうです、ちょいと、おもしろいでしょう、』と、いわんばかりに。それから、もう一つ前おきの話をしてから、芥川は、「諸君は、漱石先生の『トリストラム・シャソデエ』という文章を、読んだことがありましょう、……なかったら、うちに帰って、読んでください、」というような事を、いってから、「その『トリストラム・シャンデエ』というのは、英国の十八世紀の中頃に、ロオレンス・スタアンという『坊さん』のつくった、大長篇小説の題名であるが、この小説は、型やぶりで、奔放で、無軌道で、……作家が人をくっているようなところは、(「今晩、この公会堂の講演者の控室まで来ていながら、講演に出ない、宇野浩二先生と、ちょいと似ていますが、」)この小説(『トリストラム・シャンデエ』)が、第三巻のおわりに至って、はじめて主人公があらわれる、というような脱線ぶりをしめすところなどは、宇野などの到底およばないところであります、…‥」と、いって、芥川は、また、横むきに、瞑想するような恰好で、あるきだした。
[やぶちゃん注:「菊池が、『文芸と人生』という題で」この時の菊池寛の講演は宮坂年譜によれば、「芸術の利益と必要」である。
「ロオブシン」В. Ропшин.(B.ロープシンV.Ropshin)は、ロシアの革命家であり小説家であったボリース・ヴィークトロヴィチ・サーヴィンコフ(Борис Викторович Савинков 一八七九年~一九二五年)のペンネーム。以下、ウィキの「ボリス・サヴィンコフ」によれば、社会革命党(エスエル)武装部門社会革命党戦闘団の指導者の一人。帝政ロシアの要人暗殺に関与し、一九一七年のロシア革命(二月革命)で臨時政府に参加するも、同年九月の軍内の反乱への関与が疑われ、一切の役職から解任されてエスエルも除名された。十二月末には「自由・祖国擁護同盟」を結成してモスクワに潜伏し、ソビエト政権打倒を掲げてレーニンとトロツキーの暗殺計画や武装蜂起を企てるも失敗、その後は主にフランスから反ソビエト活動を展開した。一九二四年八月にソビエト政府の謀略によりソ連領内で逮捕され、死刑判決を受けるが、裁判でソビエト政権の承認を表明し、禁固十年に減刑された。しかし翌年、ソヴィエト政府は彼の自殺を発表した(謀殺の疑いが濃い)。小説家としては革命家たちの内実を描いた「蒼ざめた馬」(一九〇九年)や「黒馬を見たり」(一九二三年)などを残している。
「大阪三界」の「三界」は「くんだり」と読む。当字。]
 しかし、これは、しいてほめて云えば、一等俳優の『おもむき』があった。この時、芥川は、かぞえどし、二十九歳であったが、すでに、よかれあしかれ、『孤独地獄』、『芋粥』、『地獄変』、『奉教人の死』、『秋』、その他を書いていたから、鬱然たる大家であった。

 その日の晩、堀江の茶屋で、私たちのためにもよおされた歓迎会は、実に盛大であった。いりかわりたちかわり、盛装した芸者が、あらわれた。
 その宴会には、東京から行った私たちのほかに、見しらぬ人が五六人もいた。その見しらぬ五六人とは、直木に紹介されて、矢野橋村、福岡青嵐、その他の、大阪在住の、日本画家であることを、知った。そうして、それらの人たちは、主潮社という、美術家の団体の同人であり、その主潮社の社主が、矢野橋村であり、矢野と直木が親友であることなどもわかってきた。
[やぶちゃん注:「矢野橋村」(明治二十三(一八九〇)年~昭和四十(一九六五)年)は日本画家。日本南画院会長。大正十三(一九二四)年に私立大阪美術学校を創立。吉川英治や長谷川伸の小説の挿絵で知られる。]
 私たちのなかでは、里見と久米と田中が飲み手であるから、この三人がみな酒のみの主潮社の六人を相手に、さかんに、飲んでいた。酒の飲めない直木は、あいかわらず、無言で腕ぐみをして、すわっていた。
 そのあいだにも、芸者が、めまぐるしいほど、いりかわり、たちかわり、あらわれるが、一人ひとりの芸者は、たいてい、五分ばかり、席にいるだけで、帰ってゆくので、一時間ぐらいのあいだに、数十人の芸者が、出たりはいったりする。「われわれは、酒はのまないから、酔わないけど、芸者に、ようね、」と、芥川が、いう。「そんなことをいいながら、ずいぶん熱心に見てるじゃないか。」「観察してるんだよ。なかなかシャンもいるよ。」「夜目遠目よめとおめということもあるよ。」「いや、あの、矢野のそばにすわっているのは、そばで見ても……」
 私と芥川がこんなたわいのない事をいっているあいだに、私たちのそばに来て、「菊池先生、どこにいやはります、」と、聞く芸者が、何人なんにん何人なんにんも、いた。これは、菊池のはじめての新聞小説、『真珠夫人』が、大阪毎日新聞に連載ちゅうであった上に、芝居になって、道頓堀の浪花座に、上演されていたからである。「菊池より、浪花座で、『真珠夫人』を見たほうがいいよ、」と私がいうと、「あて、もう、二へんも、『真珠夫人』みましたさかい……」「菊池センセ、どこにいやはりまんねん、」と、うるさく、聞いた。
[やぶちゃん注:「連載ちゅう」の「ちゅう」はママ。以下、まま見られるが、以下での注は略す。]
 こういう妙な会話をしていた時、ふと、菊池の方を、見ると、福岡青嵐のそばで、酒の飲めない菊池が、大きな膝をちゃんとあわし、その膝の上にふとい両手をついて、十六七の芸者にむかって、ほそい目を、一そうほそめ、しばたたきながら、なにか、しきりに、話しかけていた。私が、それを見て、芥川に、「あの、菊池君のよこに坐っている女は、半年はんとしぐらい前に、舞子になった、というぐらいのところだね、……丸顔だが、ゴムマリ、というような感じだね、」と、いうと、芥川は、すぐ「あれは、菊池が、くどいてるところだよ、なにか、カナしいね、」と、いった。
 そのとき、時間はあまり遅くなかったが、宴会の席が、すこし乱れてきて、たえがたくなったので、私は、たれにもいわずに、座敷からはなれた、表通おもてどおりに面した、六じょうの部屋に行って、そこにとこをとってもらった。床にはいっても、宴のさわぎは、そこまで、ひびいてきた。そうして、そのさわぎのきれ目に、表通りをする人の声や足音が、妙に、耳についた。
 しばらくすると、やはり、酒席にたえられなくなったらしい芥川が、私の寝ている部屋に、はいって来た。そうして、私の枕もとにすわりながら、芥川は、
「絵かきというものは、かなわんね。(芥川は、『気にいらぬ』ことも、『たまらない』ことも、一さい、『かなわん』という言葉を、つかった。)僕は、日本画家も、ずいぶん、知っているが、主潮社の連中は、みな、神経が、棒のように、ふといね。……きみ、主潮社というのは、なんだろう、」と、例のからかうような口調で、いった。
「さあ、僕も、よく、知らないが、……去年の夏ごろ、『主潮』という雑誌を、舟木重信君から、おくってもらって、読んだことがあるが、どこか変っているので、おぼえているが、小説は、青野季吉の『姉』という自然主義風の短篇とか、舟木重信の『給仕のたこ』という、これは、ちょっと、新鮮なものだったが、短篇が、一冊に、一篇ずつ、載っているだけだが、加藤一夫の、ロオブシンの、『嘗て起こらなかつた事』の翻訳とか、宮島新三郎の、アルツィバアセフの、『最後の一線』の翻訳とか、そういう長篇を、五六十枚ずつ、連載してあったのは、めずらしいだろう――つまり、その『主潮』という雑誌と、(四六判の雑誌だ、)あの画家れんの主潮社とは、もとは、おなじだ、と、思うんだ、」と私がいうと、
「ふふん、そんなら、あの講演会の費用も、われわれにくれた講演料の百円も、今晩の宴会費も、みな、主潮社のタイショウの、矢野が、出したんだよ。…ああいう日本画家は、artistじゃなくて、artisanだよ。‥…植村という男は、なかなか、ヤリテだね、そうして、あの男は、artistだよ、」と、芥川がいった。
[やぶちゃん注:「舟木重信」(明治二十六(一八九三)年~昭和五十(一九七五)年)は小説家・独文学者。代表作短編集『楽園の外』『詩人ハイネ・生活と作品』。
「加藤一夫」(明治二十(一八八七)年~昭和二十六(一九五一)年)は詩人・評論家・翻訳家。明治学院神学部卒。『トルストイ全集』刊行する一方、アナキズムに傾倒、後に半農生活に入って農本主義を唱えた。代表作「民衆芸術論」(大正八(一九一九)年)。
「宮島新三郎」(明治二十五(一八九二)年~昭和九(一九三四)年)は文芸評論家・英文学者。島村抱月に師事、後に早稲田大学教授。
「アルツィバアセフ」ミハイル・ペトローヴィチ・アルツィバーシェフ(Михаил Петрович Арцыбашев 一八七八年~一九二七年)はロシアの作家。参照したウィキの「ミハイル・アルツィバーシェフ」によれば、「近代主義小説の代表的作品で、性欲賛美をした『サーニン』やその続編となる、自殺賛美をした『最後の一線』が有名で」、「 特に『サーニン』は当時の若い世代を中心に一世風靡し、「サーニズム」という言葉まで生んだ」とある。「最後の一線」は一九一〇年から一九二〇年にかけての作。
「artisan」はフランス語で、原義は「職人」の意であるが、技巧は優れているものの、創造的精神(ミューズの霊感)に乏しい職人的芸術家を揶揄していう言葉。]
 このような話を芥川と私がしていた時、廊下のそとから、西洋流に、障子を、コツコツと、たたく音がしたので、こちらから、「どうぞ」と、いうと、直木が、のっそりと、はいって来て、私たちのそばにすわると、すぐ、
「このうちは、さわがしくて、うるさいでしょうから、しずかな所へ、案内しましょう、どうぞ、支度したくを、してください、」と、いった。
 妙な事をいう、とは、思ったが、私は、とこを出て、支度をし、芥川も支度をした。そうして、「では、行きましょう、」という直木のあとについて、私たちは、その茶屋を、出た。
 ところが、すぐ近くだ、と思ったのが、自動車にのせられ、上本町六丁目にゆき、そこから、奈良ゆきの電車にのせられ、生駒いこま駅でおろされた。そのあいだ、三人とも、ずっと、無言むごんであった。
 生駒山は、海抜は二千尺ぐらいであるが、金剛山脈の北部をめる生駒山脈の主峰であり、河内と大和の境にそびえる山である。二千六百年の昔、勇敢な神武天皇も越えられなかった、という伝説の山である。大阪から真東まひがしにある奈良まで行く電車がなかなか出来できなかったのは、この大きな生駒山を東西に抜けるトンネルが容易にできなかったからである。数年の歳月と巨額の金額をついやし十数人の人の命を犠牲にして、やっと、トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった。(これはまちがっているかもしれないが、)このトンネルをとおすために無理な金をこしらえて、岩下清周[小林一三はこの人にみとめられた]は牢に入れられた。
[やぶちゃん注:「トンネルを通じたのは、その大正九年の秋の頃であった」は宇野が注している通り、誤り。奈良線生駒トンネルは大正三(一九一四)年に、近畿日本鉄道の前身、大阪電気軌道によって開通している。
「岩下清周」(いわしたきよちか 安政四(一八五七)年~昭和三(一九二八)年は実業家・銀行家。三井物産社長から三井銀行大阪支店長などを経て、明治三十(一八九七)年に北浜銀行設立。衆議院議員や大阪電気軌道第二代社長なども勤め、大軌では生駒トンネル建設を提案、実現させた。その時の工事に関わった大林組の設立にも岩下は関わっている。後に南満州鉄道副総裁なども勤めた。「無理な金をこしらえて、岩下清周は牢に入れられた」というのは、大正三(一九一四)年)に、本トンネル工事当時、大林組や大軌などの営業不振による債務焦付きが重なり、北浜銀行が破綻したための背任横領罪による逮捕を指している。大正十三(一九二四)年に恩赦によって出獄した。
「小林一三」(明治六(一八七三)年~昭和三十二(一九五七)年)は実業家・政治家。阪急電鉄をはじめとする阪急東宝(現在の阪急阪神東宝グループ)の創業者。第二次近衛内閣商工大臣、貴族院勅選議員、幣原内閣国務大臣、初代戦災復興院総裁を歴任した。戦後に公職追放、解除後、東宝社長。]
 ところが、このトンネルが出来たために、これまで大阪から頂上までのぼるのにほとんど半日ぐらいかかったのが、三十分ぐらいでのぼれるようになった。
 この生駒山の山腹の東側に、『生駒聖天いこましょうてん』として名高い宝山寺がある。この宝山寺は、延宝六年、中興の開山、宝山律師が刻んだ、不動明王が本尊であるが、その上に、『歓喜天』を安置してからは、「霊験いやちこ」というので、近畿地方のある人たちは熱狂的に信心した。その『霊験』とは、「隣近所となりきんじょ七軒の財産が自分のものになり、自分から後の七代の財産を自分のものにする」という真にそらおそろしき霊験である。
[やぶちゃん注:「宝山寺」は奈良県生駒市門前町にある真言律宗大本山寺院。生駒聖天(いこましょうてん)とも呼ばれる。山号、生駒山。伝承上、生駒山は斉明天皇元(六五五)年に役行者が開いたとされる修験道場で、空海も修行したとされる。江戸時代の延宝六(一六七八)年に湛海律師が再興、歓喜天を祀ったが、これを事実上の開山とする。現在でも年間三百万の参拝客を集めるという(以上はウィキの「宝山寺」に拠った)。]
 ところが、その宝山寺にまいるために、生駒駅から宝山寺までケエブル・カアが出来できた。そうして、ケエブル・カアができるとともに、そのケエブル・カアの停車場の横から、ケエブル・カアの通じる坂にそうた道に、アイマイな茶屋が十数軒あらわれ、そのアイマイ茶屋のために、アィマイ芸者が五十人ちかく集まって来た。
 直木が、「しずかな所」と称して、芥川と私を案内したのは、このケエブル・カアの停車場のちかくの、ちょっとした茶屋であった。
 ところが、その日の午前に、京都の町を二時間ちかく、あるかされ、夕方には、講演をさせられた、(私は、講演はしなかったけれど、やはり、疲れた、)芥川と私は、その茶屋のしずかな部屋にとおされた時は、文字どおり、ヘトヘトになってしまった。そうして、芥川と私は、べつべつの部屋で、寝ることになったが、その時になって、ふと、気がつくと、直木は、もう、そのうちのどこにも、いなかった。(それは、ずっと後に、わかったのであるが、直本には、堀江に、豆枝まめしという、太芸者ふとげいしゃの愛人があり、矢野にも、おなじ堀江に、のちに矢野夫人になった、ナニガシという、太芸者の愛人があったのである。)
 つまり、芥川と私は、生駒山中さんちゅうの妙な茶屋に、オイテケボリに、されたのである。
 しかし、(といって、)私は、芥川がどの部屋に寝ているか、知らないし、芥川も、自分の寝る部屋にはいってしまえば、私のことなども、忘れてしまったであろう。
[やぶちゃん注:この辺りにも、宇野の錯誤があるが、それは「一ノ二」で宇野自らが訂することとなるので、ここでは指摘しない。]

 十一月の二十一日の夜ふけの生駒山中は、火鉢がひとつぐらいあっても、戸をしめきっても、寒い。
 それで、私は、寝床のなかにはいってからも、寒さとつめたさのために、ちょっとのあいだ眠れなかつた。しかし、私は、十年ほど前に、廣津和郎と一しょに旅行した時、いつも、寝床にはいると、すぐ、寝てしまうので、翌朝になってから、廣津に、よく、「にくらしくなる、」と、いわれたものである。
 ところで、私は、その晩も、三分ぐらいで、眠ってしまったが、それから、なにほどの時間がたってからであろうか、ふと、肩のあたりが寒いので、目をさますと、いつのまにはいったのか、一人の白い顔の(とだけしかわからない)若い女が、私と背中せなかあわせに、寝ている。しかし、「ハ、こういううちかな、」と、思っただけで、私は、すぐ、眠ってしまった。
 その翌朝、はやく、私は、女が、ハデな著物きもの(白とべににちかい赤い色が目にたったから、長襦袢であったろう)を殆んどきてしまって、寝床のよこに、立っているのを、かすかに覚えているだけで、すぐ、寝いってしまった。
 そうして、そのつぎに目がさめた時は、昨夜ゆうべねた時のとおり、私は、自分ひとり、寝ていたことを、発見した。そこで、ちょいと心ぼそくなったので、芥川の寝ている部屋をきいて、その部屋の襖を、表(おもて)から、コツコツ、たたきながら、
「……おい、もう、起きたか、はいってもいい、」と、私は、わざと、すこし大きな声でいった。
 すると、なか返事へんじをする前に、クスクス笑っている声がしたので、私が咄嗟とっさに、二人らしいな、と、思った瞬間に、
「…‥はいってもいいよ、」と、わりにちゃんとした声で、芥川が、いう声がした。
 そこで、遠慮なく、わざと快活に、襖をあけて、中にはいると、正面しょうめんに、壁にそうてしいた寝床に、蒲団を肩のへんまでかぶって、横むきに寝ていた、女の顔が、まず、見えた。
 その女は、目鼻だちはととのっているが、丸い顔で、平面ひらおもてで、なにもかもちいさいので、貧相ひんそうに見えた、それに、髪も平凡な銀杏いちょうがえしであったから、こういう所にいる女のようには見えず、いたって平凡な感じのする女であった。
 ところで、芥川は、丹前をきて、その女の寝床と、三尺ぐらいはなれて、並行に、肘枕をして、むこう向きに、横になっていたので、私が部屋にはいった時は、長い髪の毛のあたまだけ見えたが、すぐ起きあがって、私のほうを見て、ほんのすこしキマリのわるそうな顔をして、ちょいと笑い顔をして、
「やあ、」と云った。

 この生駒山中に行った時の写真が四五枚ある。(この時の旅行に、私は、写真の雑誌や本を出している、ある本屋から、もらった、イイストマン・コダックという、低級であるが、どんな素人しろうとがつかってもかならずうつる、写真を持って行ったので、二十枚ちかく写真をとった。久米もおなじ写真器を持ってきていた。)さて、その時の写真のなかに、その平面ひらおもてちいさい顔の女が、蒲団を肩までかむって、正面をむき、その前に、私が、腹ばいになって、横むきに、あごを両手でささえ、その前に、(写真では一ばんしたの左のすみに、)芥川の、むこう向いている、一見しでも特徴のある、ふさふさした髪の毛のあたまだけが見える写真がある。これは、長方形を横にして取ったものであるから、その長方形のむかって左よりに、上から、前むきの顔、その斜め右下に、横むきの顔、その斜め左下に、むこう向きのあたま、――と、この三つのものが、ざっと、上から下に、ならんでいるのであるから、ずいぶん、不細工ぶさいくな写真であり、だらしのない場面である。しかし、この写真を、その時から数年後に、廣津に、見せると、廣津は、癖の、ちょっと口をまげてわらう笑いかたをして、「ほお、これは、なかなか、オモシロイね、珍写真だね、」と、云った。
 それから、やはり生駒でとった写真のなかに、久米と私が、べつべつであるが、おなじがらの縞の丹前をきて、坂の途中で、蛇の目の傘を、だてに、肩にかけて、正面をきっているポオズの写真がある。このポオズは、『五人男』などといって、たぶん、久米が、考案したのであろう。
 ところが、この久米と私のきている丹前の柄と芥川があの部屋のなかでていた丹前の柄がおなじであるところを見ると、久米も、あの妙な茶屋に、とまったにちがいない。しかし、久米が、いつのまに、あの妙な茶屋に、きて、とまったのか、私は、まったく知らない。しぜん、久米が、あの妙な茶屋で、どういう行動をとったかも、私は、まったく知らないのである。
 それから、まったく覚えていないのは、芥川と私が、どうして、あの妙な茶屋を出て、大阪の堀江の茶屋に帰ったか、である。
 しかし、また、覚えている事もある。
 あの、平面ひらおもての、目鼻だちもちいさくからだちいさい、女が帰ってしまって、芥川と私がしばしボンヤリしていた時、「ごめんやす、」といって、その茶屋のおかみさんが、はいって来た。そうして、おかみさんは、私にむかって、「あんたはんよんべ[『昨夜』という意味]、女子おなごはん、寝さしといただけで、かえしなはったんか、」と、いった。そこで、私が「そうだ、」というと、「ほんなら、花代はなだいいりまへん、」と、それだけ、云って、おかみさんは、さっさと部屋を出て行った。
 おかみさんの足音が廊下のそとに消えると、芥川は、例の皮肉な笑い方をしながら、
ちんな計算だね。……ところで、ここの勘定、どうしよう、」と、いった。
「こんどは、一さい、植村が、やってるんだから、ほっとこう。」
「そうだ、こんなところへ、無断で、つれて来たんだからなあ。」

 その日のひるすぎ、直木は、例のごとく、だまって、私たちを、自動車にのせて、公会堂に、つれて行った。公会堂の前で自動車をおりると、前の日の夕方、『文芸大講演会』とかいたビラがはってあったあとに、『主潮社大展覧会』と書いたビラがはってある上に、おなじことを書いた、白、青、赤、その他の、幟が、数本、入り口の両側、その他、いたる所に、立ててあるのが、目をひいた。それを見ると、芥川は、私の耳のそはに、口をよせて、
「チンドン屋が、休憩しているようだね、」と、いった。
 さて、会場のなかにはいると、昨夜、だらしなく酩酊して、調子はずれの声で、端唄はうたをうたったり、義太夫をかたったり、むやみに手をたたいたり、して、さんざん私たち(酒の飲めない者)をなやました、画家たちが、今日きょうは、紋つきの羽織をき、仙台平の袴などをつけ、別人のような顔をして、会場内を、あちこちと、なにか、人をさがすような顔つきをしながら、あるいていた。それを見ると、芥川は、また、私の耳のそばで、
「アサマシイね、あれは、買い手を、物色ぶっしょくしているんだよ、」と、云った。
「そのアサマシイ連中から、植村が、一さいの費用を出してもらっている、とすると、僕らも、アサマシイ、という事になるね、」と、私が、いった。

 公会堂から、また、自動車で、堀江の茶屋に、帰ってくると、みな、自分の家にでも戻ったような気がして、二階の広間で、足を投げだしたり、寝そべったり、アグラをかいたり、くつろいだ気もちになった。
 ところが、私と芥川は、皆とわかれて、その日の晩は、京都にとまり、その翌日、京都から名古屋に出て、名古屋から、中央線にのりかえて、下諏訪に行くことになっていた。わざわざ、中央線にのりかえて、下諏訪による事になったのは、私が、その頃、『人心』、『一と踊』、『心中』その他の小説に、下諏訪を舞台にして、その町のゆめ子という芸者を、片恋いの女として、絵空事えそらごとにした、それらの小説がいくらか評判になっていたので、いたって(人一倍)好奇心のつよい、芥川が、「ひとつ、その女を、どんな女か、見てやろう、」と、思って、私に、諏訪に行くことをすすめ、「僕も、君のかく、『山国の温泉町』を見たいし、ゆめ子女史の顔を見たいから、一しょに行きたいんだ、」と、いささか、芥川りゅうの、煽動をしたからである。そうして、私も、その女を、見たくなったからである。
 それから、途中で、京都によるのは、大阪から諏訪まで行くには、大阪を夜たつ、とすれば、どうしても、途中で、一泊しなければならなかったからである。それに、堀江の茶屋に私をたずねて来た、広島晃甫[その前の年に、はじめて文展に出品して特選になった変り者の画家で、廣津の近著『同時代の作家たち』の口絵の写真に、芥川、私、菊池のよこにすわっている半分かくれて見えない人物である。なお、あの写真は堀江の茶屋で、大阪毎日新聞社の写真班がとったもの]が、「京都にゆくなら先斗ぽんと町に、僕のよく知っているお茶屋ある、……僕は、君たちが行く晩、そのお茶屋で、待っているから、」と、云ったからである。
[やぶちゃん注:「広島晃甫」(こうほ 明治二十二(一八八九)年~昭和二十六(一九五一)年)は日本画家。萬鉄五郎らと「アブサント会」を興したり、長谷川潔らと「日本版画倶楽部」を結成したりした。第一回及び第二回帝展で連続特選。後に帝展審査員・新文展審査員などを歴任した。]
 さて、私たちが、公会堂から、帰って、堀江の茶屋の二階で、くつろぎながら、四方山よもやまの話をしていた時、したから、二人の仲居なかい[東京でいう女中のこと]が、ウンウンいいながら、一人は、菓子を一ぱいった盆を、他の一人は、果物を山のようにつんだ盆を、持って、あがって来た。それを見た、階段の下り口の一はん近くにいた、直木が、
「そんなもの、注文しないよ、」と、云った。
「いえ、おくり物だす。」
「だれに。」
「芥川先生。」
「えッ、」と、芥川が、めずらしく、ちょっと顔色をかえて、云った。
「べッピンさんだっせ。」
「なに、べッピン、」と、菊池が、例のカンだかい声で、叫んだ。
 その時、私は、はッと、思いあたった。「が、それにしても‥…」と、思った。
 しかし、私は、用をたすような顔をして、したに、おりて行った。そうして、梯子段の下に、妙な顔をして立っていた、仲居に、
「僕の知っている人だ、今、おくり物を持って来た人は。……どこにいるんだ、」と、私が聞くと、
「玄関で、待ってはります、」と女中が云った。
 私は、いくらか胸をおどらしながら、玄関の方へ、早足に、あるいて行った。
 と、玄関のタタキのすみに、ちょっと見えないようなところに、あの生駒の女が、顔が見えないほど、うつむいて、立っていた。

      
一ノ二

   『ことわり』
 本文にかかる前に――
 この文章の『まえがき』のなかで、「これから述べようとする事は、もとより、私のたよりない記憶で、書くのであるから、これから、たどたどと、述べてゆくうちに、つぎつぎと、出てくる事柄に、おもいちがいやまちがいが多くある事、名前を出す人たちに、とんでもない事やまちがった事をかいたために、すくなからぬ御迷惑を、かけることを、(いや、かけるにちがいないことを、)前もって、おことわりをし、おわびを申しあげておく、」と、書き、「これから述べようとする事は、もとより、私のはかない記憶をたどりながら、書くのであるから、まずしいあたまからたぐりだす、あやふやな、思い出……というような事を、述べた。
 ところが、今から一週間ほど前に、まえの文章(『一』)のおわりのほうの『生駒山』の段のことについて、(その他の事について、)
[やぶちゃん注:冒頭注で述べたが、以下のこうした散文引用は底本では全体が二字下げである。以下、このように引用されている前後には底本にはない「*」を附して読み易くする。以下ではこの注は略す。]

……生駒へ直木の案内で行つたのは、菊池、久米、田中 純[直木と同級でありながら、里見、久米などと特にしたしく、「人間」(里見、吉井、久米、などが出した一種の同人雑誌)の同人]も一緒です。それは、主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、みな、小生も同行してゐるから確実です。
 生駒では深夜に菊池が大きな声を出したといふ珍聞もあります。

という文句のはいっている手紙をくれた人があった。
 つまり、ここにうつした一節だけによっても、いかに、私のこの文章(『芥川龍之介』)が、まちがった事をかいているか、デタラメなものであるか、いかに、私の『記憶』というものがアヤフヤなものであるか、ということを、証拠だてられた事になるのである。
 しかも、まだ、『一』の半分(あるいは三分の一ぐらい)しか述べていないうちに、このような、まちがった事をかき、このように、記憶のアヤフヤなことを、暴露ばくろされたのであるから、これから、私が、なお、懲りずまに、書きつづける事は、ほとんど、すべてが、まちがった事であり、アヤフヤな『記憶』であり、その『記憶』もまちがいだらけになるのは、必定ひつじょうであろう。この事を、かさねて、ことわっておく。 [やぶちゃん注:「懲りずまに」は副詞で、前の失敗に懲りもせず、性懲りもなく、の意。「ま」は、ある状態にあるの意を添える接尾語。]
 いずれにしても、あのような文章をよんで、あのように、深切に、忠告をしてくれた人があったことは、私には、なによりも、ありがたい。そこで、私は、その深切な人に、ここで、ふかき感謝の意を、表したい。
 ところで、私が、まえの文章で、生駒に行ったのは、芥川と久米と私だけのように、書いたのを、『それはちがいます、』と、あらわに、いわないで、そのほかに、菊池も、田中純も、一しょであった、というようなふくみのある云いかたをしてから、「それは、主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、みな、小生も同行してゐるから確実です、」と、ちくと、急所を、おさえ、すぐ調子をかえて、「生駒では深夜に菊池が大きな声を出したといふ珍聞もあります、」と、いうような、あじのある、(私などがとうてい足下あしもとにもおよばないような、)文句を述べて、ちょいと目尻にシワをよせ、ちよっと口をななめにゆがめて、微笑する、というような、こころにくいところのある、すみにおけない、男は、いずこの、いかなる、人物であるか。
 それは、ちょっとコセコセしたところもあり、気が弱いようなところもあるけれど、なみなみならぬ苦労人であり、くせ(つまり、どこか凡ならぬところの)ある、一人物いちじんぶつである。それは、文藝春秋新社の社長、佐佐木茂索である。(ところで、佐佐木が「主潮社の講演会、堀江の茶屋、生駒、」に、私たちと同行したのは、二十七歳のとしである。といって、そのとし、芥川は、二十九歳であり、里見と菊池は、三十三歳であり、久米と直木と私は、三十歳であった。――しかし、この年、佐佐木は、たしか、三篇の小説を発表しており、三四年のちに、一二年のあいだに、佳作を矢つぎばやに、発表しているところを見ると、その時、二十七歳の佐佐木は、こころの底に、文学にたいする鬱勃たる思いを、いだいていたにちがいない。)
 さて、佐佐木は、菊池が社長であった時分じぶんの文藝春秋社の専務取締役であったが、実際は文藝春秋社をほとんど一人ひとりできりまわしていたようなかんがあった、が、今の文藝春秋新社ができてからは、一人ひとりで社長と専務取締役をかねているように思われる。ところで、文藝春秋社の専務取締役であった頃の佐佐木は、(十年以上もおなじ役をしていたためであろうか、)りっぱな肘かけ椅子などにおさまっていると、時とすると、かえって、不敵な、(いきおいのあたりがたい、)社長のように見えることがあったけれど、こんどの、五階だての、宏荘こうそうな、ビルディングの、四階の、社長室の窓ぎわにちかいテエブルの前に座をしめている、佐佐木は、私がその部屋にはいった時だけかもしれないが、表面は居心地いごこちよさそうに見えることもあるけれど、しばしば、その反対のように見えることがあるのである。いや、そればかりではない。その顔にも、その姿にも、かすかに、憂鬱のおもむきが、ただようているように思われる時さえあるのである。私などが、いまさら、いうまでもなく、だいたい、社長とか取締役とかいう者には、太腹ふとっぱらであり、決断力があり、ふとい神経の持ちぬしであり、計算がこまかい、という事が、必要であるらしい、ついでにいえば、『文学』などわかることは禁物きんもつである。ところが、佐佐木は、計算はこまかいらしいが、決断力はあまりなさそうであり、もとより、太腹ではなく、神経はほそぎるほうである。それに、佐佐木は、気もちのいたって織細な人である。(たいへん卑俗な言葉であるが、)俗に、女をくどくのに『一、押し、二、かね、三、おとこ』という諺がある。この卑俗な諺をもじると、佐佐木は、かりにかねおおいにあるとしても、『三、男、』のほうであり、佐佐木が師として尊敬した、芥川も、やはり、『三、男、』のくみであるが、芥川には、いくらか、(いや、かなり、)『押し』のつよいところがあった。しかし、いずれにしても、当世とうせいでは、男前おとこまえがよい事だけでは、活動写真の俳優でさえ、しだいに、通用しなくなってきた。そうして、芥川のような鬼才さえ、男前おとこまえがよかった、という事が、(これは、もとより、『たとえ』ではあるが、)かえって、『わざわい』となったのである。西鶴の『日本永代蔵』のなかに、「みめは果報の一つ」という文句があるが、その果報があだになることもある。また、「見目みめのよい子は早く死ぬ」という諺もある。
 さて、佐佐木が、『女の手紙』『或る男の方に』などという短篇を発表したのは、大正七年であるから、私などがまだ小説を発表できなかった頃ある。(『おぢいさんとおばあさんの話』というちょっと気のきいた短篇は、大正七年の作か、大正八年の作か。)ところで、佐佐木は、それから、大正八年には、たぶん、小説を一篇も、発表せず、大正九年にも、たしか、『女の手紙と手』というのを一篇だけ出し、大正、十年、十一年、十二年、と、三年のあいだにも、『ある死・次の死』、『翅鳥』、『或日歩く』、その他、五篇ぐらい発表したが、それらのなかで、これは、と思われるものが、ここに題名をあげた三篇ぐらいである。これらの佐佐木の小説は、くちにいうと、表現(あるいは文章)が妙にっていて、(表現に気をつかいすぎるほど凝っているのが目につき、)しぜん、気がきいていて、がぬけたところなどほとんどないが、思いつきのようなところがあり、手軽てがるなところがある。それが、後年の『兄との関係』などになると、文章などにむやみに気をつかわなくなり、作品の木目きめも、しだいに、こまかくなり、深くはないが、人間味が出てくるようになった。しかし、さきに述べた、大正、七、八、九、年頃の作品は、いくら、気がきいていても、たくみに出来できていても、どこか、ものたりない、借り物のような、感じがあつた。これが、読者である私を、安心させなかったのである。そうして、これを、作者(佐佐木)のためにたれよりも、佐佐木の友人たちよりも、もっとも、親身しんみになって、心から、心配したのは芥川であった。
 さて、私は、こんど、必要があって、芥川龍之介全集のなかの第七巻(書翰篇)の一部をよみかえした時、大正八九年頃に、芥川が佐佐木にあてた数通の書翰をよんで、感動し、感激した。あの、儀礼の多い、魂胆こんたん(つまり、たくらみ)の多い、わざとらしい諧謔の多い、ある点で芥川の俗物らしい一面さえ、ところどころに、あらわれている言葉の多い、一千一百四十一通の書翰のなかで、極言すれば、真実と友情と情熱をもって書かれているのは、その佐佐木にあてた数通の書翰だけである。そのなかの、例になるようなものを、ひとふたつ、抜き書きしてみよう。(後記――これはまったく過言で、芥川の一千一百四十一通の書翰の中には真実に充ちた⦅本音を吐いた⦆書翰が随分ある事を後で知った。)

……書き飛ばす稽古なんぞする事なか如何いかにあせつて見た所できみ善く一夜にして牛込天神町よりヤスナヤポリヤナへ転居する事を得ん僕は尻を落ちつける工夫くふうを積まんとすけだし書き飛ばす稽古をしてもうり懲りしたればなり君さいはひに僕の愚をふたたびする勿れひそかに思ふ君のたんは伸びがたきにあらずして伸びやすきにあり書き飛ばす稽古なぞした日にはこの短遂におぎなふの日無からんとす[中略]……佐佐茂索は常に佐佐木茂索たらざるからず佐佐木茂索たる可からんには一拳石を積んで山とす程根気を持つ事肝腎なりあせる可らず怠る可らず僕自身この根気の必要を感ずる事今の如くせつなるはあらざるなりさればまさに君に望む書き飛ばす稽古なんぞしちやいかんすると君の天分がすさおそれがある
[やぶちゃん注:以下の長い注は以上の芥川龍之介書簡の「牛込天神町」の下にある割注であるが、読みにくくなるので、ここへ移した。]
[註―この書翰は大正八年十二月二十九日づけであるが、佐佐木は、この時分から、大正十三年ごろまで、この牛込天神町の家に、住んでいたのであろうか。牧野信一が、中戸川吉二に招かれて、小田原から上京したのが、大正十二年の十月で、その時、この佐佐木の家のすぐ近所に住み、朝に晩に、レコオドをかけたり、ダンスをしたり、して、佐佐木をなやました、という、ことを、私は聞いたことがある。しかし、その年、(つまり、大正十三年、)牧野は、佐佐木より、二つ下で、二十九歳であったが、すでに「新小説」、「新潮」、「中央公論」などに小説を発表し、『父を売る子』という短篇集を出していた]
[やぶちゃん注:「中戸川吉二」(明治二十九(一八九六)年~昭和十七(一九四二)年)は小説家。里見弴に師事。代表作「イボタの虫」。吉井勇・田中純らの雑誌『人間』にも参加、第五次『新思潮』同人でもあったが、次第に創作から手を引き、後は専ら批評家として活動した(ウィキの「中戸川吉二」に拠った)。]

 ここに引いた文章だけでほぼしられるように、これは、佐佐木が芥川に出した手紙のなかに、「書き飛ばす稽古」をしている、というような文句を述べたのに対する、芥川の返事の手紙であるらしい。私は。この手紙をよみながら、『書き飛ばす稽古』という文句が、いかにも佐佐木らしい(佐佐木独得)の文句である、と思って、ほほえませられ、その佐佐木の手紙に対して返事(このような文章の返事)をかく芥川の顔が、まざまざと、目にうかんで、私には、なんともいえぬなつかしい気がするのである。しかし、芥川が、佐佐木にたいして、その短所を、「伸び易き」ところにあり、と指摘し、「根気を持つ事」を、すすめ、自分が、書き飛ばしていることを「懲り懲り」している、と述べているところは、実に平凡な事であるけれど、その時分の、佐佐木が、いかに、文学に対して、むきであったか、その佐佐木の一途いちずな心にうごかされたのか、芥川が、めったに他人にはかさない事を、ここで漏らしている事などに私は、いたく、心をひかれたのである。
 佐佐木は、大正十一年には、『麗日』、『商売』『或日歩く』、[これはちょっと面白い作であった、と私は、うろおぼえに、おぼえている]などを、書きながら、大正十二年には、(このとしの前半、南部修太郎が、乱作と思われるほど、たしか、六七篇の小説を発表しているのに、)『水いらず』一篇しか発表せず、それが、大正十三年には、たぶん、『選挙立会人』、『おしやべり』、[これはちょっとおもしろい、但し、「ちょっと」である]『靦慚』[いまどき、(いや、大正十三年でも)このようなむつかしい熟語を知っている者があろうか。私は『字源』をひいて、これは『宋真宗文』から出た言葉で『テンザン』とよみ、「はじて顔を赤くする」という意味であることを知った。これは、芥川などの好みであるが、これは、わるい『このみ』であり、わるい癖である][やぶちゃん注:『宋真宗文』とは北宋の第三代皇帝真宗の文「進眞君事迹表(眞君の事迹を進むるの表)」の中に「勉從勤請、良積靦慙(勉めて勤請に從ひ、まことに靦慙を積む」とあることを指す。]、『赴くまま』、『三つの死に目』、『王城の従兄』、『夢ほどの話』、『莫迦な話』[この『莫迦』という言葉も変な『このみ』である]、『曠日』、と、九篇も、書いているが、おなじ年の十一月に、『自嘲一番』[これは中戸川吉二が社長になり、牧野信一が編輯人になった「随筆」という雑誌に出たものであるから随筆であろう]というものを、発表している。ところで、さきに引いた芥川の手紙は、前にのべたように、十二月二十九日の日づけであるから、佐佐木は、年の瀬がちかくなって、芥川に手紙をかいて、『自嘲一番』して、「書き飛ばす稽古」をしている、というような事を、書いたのであろうか。いや、いや、ちょいと『自嘲』もしたであろうが、佐佐木は、それで、自分を投げ出してしまうような男ではない。
 ここで、さきの芥川の手紙を、もう一度、念をいれて、読んでみると、「書き飛ばす稽古をしてもう懲り懲りした」とあるのは、調子はかるいように見えるが、これは、芥川の本音ほんねであったのだ。大正五年の二月、つまり、かぞえどし、二十五歳のとしの二月、「新思潮」に、『鼻』を発表し、それを漱石が激賞したために、たちまち、流行作家になった、芥川は、さすがに、調子にのってしまった。まず、二月の「新思潮」[その頃は、あまり知られなかった同人雑誌]に出た『鼻』が、五月に、「新小説」に、そのまま、せられた。それで、その年、[つまり大正五年]芥川は、『鼻』のほかに、小説を、十一篇も書き、その翌年[つまり大正六年]には、十三篇も、書き、その中の三篇が、その頃、文壇の登竜門といわれ、その雑誌に作品が出れば、第一流の作家の候補者になる、といわれた、「中央公論」に、出た。おそらく、二十六歳で、その頃の「中央公論」に、一年のうちに、三度、作品を発表したのは、芥川だけであろう。その上、その年の六月に、最初の短篇集『羅生門』が、出た。これでは、芥川でなくても、たいていの人は、有頂天になるであろう。一般に、谷崎潤一郎が文壇に出た時をもっともはなはなしかったように、いわれるが、(それはそのとおりであるが、)芥川の方が、どういうわけか、文壇に出方でかたが、なにか、颯爽していた。芥川には、なにか、そういう『とく』のようなものがあった。しかし、また芥川は、その『得』のようなもので、『得』以上の『損』をしたところがあった。(さきに、谷崎をヒキアイに出したが、谷崎は、はなばなしく文壇に登場しても、かるがるしく、調子にのらないようなところがあった、したがって、決して『書き飛ばす稽古』などしなかった。)さて、芥川は、大正七年には、小説を、十篇書き、この年、(大正八年、)には、小説を、十三篇も、書いた上に、翻訳まで、二篇も、雑誌に、出した。これだけでもわかるように、極言すれば、芥川は、佐佐木の手紙のなかに、『書き飛ばす稽古』をしている、という文句を見たとき、ドキッとしたにちがいないのである。――ここまで書いてきて、私は、芥川が、(二十八歳の芥川が、)この手紙のなかで、悲鳴ひめいをあげているような気がして、心が痛くなるのをおぼえるのである。
 さて、ここで、みちした文章を、もとにもどして、べつの手紙を、抜き書きしてみよう。

 君の手紙を読んだ
 あてがなければ書けないと云ふのはもつともだと思ふ。しかし君の場合はあてがないわけぢやない。僕は何時いつでも君としてはづかしくないやうな作品が出来たら中央公論へも持ちこむと云つてゐるのだ。翅鳥や此間このあいだの題のきまらない小説[『ある死・次の死』か]でも新小説とか何とか云ふ所なら何時でも持ちこんでげて好い。そんな事には遠慮なくもつと僕を利用すべきだ。
 しかし実際問題を離れての話だが、君に今最も必要なものは専念に仕事をすべき心もちの修業ではないか。……[中略]翅鳥やあの題のきまらない小説は実際君自身の云ふやうな短時間のうちに出来たかどうかそれは問ふ必要はない。しかし、あれらの作品にはどうも一気に書き流したやうな力の弱さが感ぜられる。筆鋒森然と云ふ言葉とは反対な心もちが感ぜられる。
 ああ云ふ心もちをなくなす事が(作品の上から)――ああいふ書き流しをしない事が(仕事の上から)すくなくとも君を成長させる第一歩ではならうか。[中略]
 ついでながら云ふが僕は此処ここ一二年が君の一生に可成大切な時期になつてゐるのではないかと思ふ。如何にこの時期を切り抜けるかと云ふ事が君の将来を支配する大問題なのではないかと思ふ。僕は君の作品を推薦するだけの役には立つ。小島や滝井も能動的に或はあるひは反動的に君を刺戟する事は出来るかも知れない。しかし大事を決定するのは飽くまでも君自身の動き方ひとつだ。……[中略]君は坂の中途の車が動き出したと云ふ。車の動いてゐる事は自力かも知れない。しかしそれならもう一進めてその自力の動き方をただしい方向に持続さすべきだ。さもなければ君は滅ぶ。
[やぶちゃん注:「翅鳥」は佐佐木の初期作品。芥川龍之介が序文を書いた第一作品集『春の外套』に所収する。「筆鋒森然」とは、文章文体がびっしりと隙を感じさせずに厳かに在るという意味であろう。日本語として一般的な用法とは言えない。]

 さて、こうして、抜き書きをして、読んでみると、芥川の手紙は、理論は井然せいぜんとしており、文章も納得なっとくゆくように書かれてある。しかし、私が、前に、「真実と友情と情熱をもって書かれている」と述べたのは半分ぐらいまちがっていないが、ただ、『もっとも』である、と感じさせるだけで、どうも、もうひとつ、せまってくるものがないのが気になるのである。口でだけで物を云って、手を出すところがないからである。これは、芥川のその時分の小説が、(いや、芥川の作品の大部分の作品が、)たいてい、おもしろい物語ものがたりで「筋に変化があり、語りかた上手じょうずであるために、気がつかないけれど、それらの作品に登場する人物たちが、形はちゃんとしていながら、血がかよっていないのと、つうじるところがある。それから、『いいまわし』のたくみな事では、もとより、芥川ほどではないが、佐佐木も、なかなか、うまいところがある。そのほんの一例は、この芥川の手紙の中に引用されている、「坂の中途の車が動き出した」などという文句である。芥川が、大正九年の一月十九日に、森 鷗外に出した手紙に、「友人佐佐木茂索氏を御紹介申上げます 氏は天真堂と云ふ古玩をあきなふ店の御主人でその天真堂の命名を先生に願つた事があるさうですから……」という一節がある。この頃、佐佐木は、時事新報の文芸欄の編輯者をしていたが、この手紙にあるように、『天真堂』の主人もしていたらしい。――大正十年の八月、私は、佐佐木と京都に一と晩とまった時、佐佐木と、鞍馬山に、のぼった事がある。それは、佐佐木の名作『兄との関係』に書かれてある、佐佐木の兄を、佐佐木が訪問するのに、私が佐佐木にたのんで同行したのであった。鞍馬山にのぼり鞍馬寺を見るのに興味があったからである。鞍馬山にのぼるには、今は鞍馬鉄道があるが、その頃は、出町柳でまちやなぎら鞍馬寺まで、二里あまり、山道を、のぼらなければならなかった。佐佐木の兄の家は、道よりだいぶ高くなっている鞍馬寺の山門の手前の右側で、山中の家にしては、風雅なかまえであった。その家のひろい玄関の部屋に、私は、今、ふと、骨董や古玩なども、かざられてあったように、思い出したのである。佐佐木の兄は、ちょっと無骨ぶこつに見えるが、ちゃんとした奥ゆきのある、風雅をこのむ人のように思われた。もしそうであるなら、佐佐木が風雅をこのむらしいのは、兄に似ているのであろう。ところで、芥川は、殊に、風雅をこのみ過ぎるところがあった、そのために、多分に、文人気質をもっていた。しかし、芥川は、私には、ほとんど文人気質を、見せなかった。
 さて、芥川が、まえに抜き書きした手紙のなかで、「翅鳥や此間の題のきまらない小説でも新小説とか何とか云ふ所なら何時でも持ちこんで上げて好い。そんな事には遠慮なく……」とまで書いているのが、その後、佐佐木の小説が、「新潮」、「新小説」、「人間」、その他に、出たところを見ると、その効果がいくらかあらわれたように思われるけれど、それが一年に三篇か四篇であったのは、けっきょく、佐佐木は、芥川の期待に添わなかった、という事になる。これは、一たい、どういうわけであるか。それは、佐佐木が、新聞社の仕事をもっていたためでもあり、それ以上の事情があった、としても、やはり、佐佐木の気質のためにちがいない。しかし、『兄との関係』をかいた時分(一、二年のあいだ)の佐佐木の小説のなかには、いまよんでも、同時代の同じ年輩の作家の小説とくらべると、それらの作家の持っていない、心にくいほど上手じょうずな小説があり、書きかたなんともいえぬうまさがある。しかし、なにか、肝腎かんじんのものがりないところがあった。(しかし、それは、性質はちがうが、芥川にも、あった。)
 昭和十年の十月に出た「文壇出世作全集」のなかにおさめた『兄との関係』の附記のなかに、佐佐木は、「……かりに『おぢいさんとおばあさんの話』以後を第一期とすると、ここに出した『兄との関係』は第二期の始まりだらう。この時分は本当に熱心に書くつもりであつたのだから。そして『魚の心』あたりから第三期で、『困つた人達』は中休みで、今後また書き始めるとしたら、それが第四期となるだらう」と、書いている。ここで、私は、「親愛なる佐佐木よ、」と、よびかけよう。世に『六十の手習』、『八十の手習』、という句がある。しかし、三十のなかばにならないうちに、立派りっぱに『手習』をし、その上手じょうずの域にまで達したのではないか。もとより、手習は、たちのよしあしにかかわらず、怠らなければ、としをとればとるほど、上達する、もとより、六十にちかいきみは、三十の君ではない、人一倍感受性のつよい君は、第三期で「中休み」した君は、第二期の頃の気もちにかえり、そこで、思いきって、第四期に進むべきである。そうしたら、君に誰よりも望みをかけた芥川は、生きていれば、『佐佐木君、大いにやれよ、』と、いいながら、目に涙を一ぱいためて、君の手を握るであろう。――と、こういう光景を思いうかべると、『佐佐木君、ぼくも、うれしいよ、』――こう書きながら、さきの君の手紙を、もう一度、とりだして、最後の『今年の暑さは澄江堂が死んだとし以来の暑さです、』とあるのを読み、私は、今更ながら、君が芥川によせる親愛の深さに、目頭めがしらのあつくなるのを、おぼえるのである。「佐佐木よ、その芥川のためにも、ふたたび、ひさしぶりで、小説をかくために、筆をとれよ、」と。
 ここで、おもわず、長く長くなった『ことわり』の文章を、おわる。
   『ことわり』(完了)

     
一ノ三

 さて、その日[大正九年の十一月二十二日]の夕方、さきに述べたように、芥川と私が、他の連中れんじゅうとわかれて、京都にゆくことになっていたので、直木は、私たちをもてなすつもりであったか、「……汽車の時間は十分じゅうぶんにあいますから、文楽にゆきませんか、里見さんも、一しょに行く、と、云ってらっしやいますから、……」と、いった。

 この時分は、文楽座は、平野町ひらのまち御霊神社ごりょうじんじや境内けいだいにあったので、俗に『御霊文楽』といった。そうして、文楽座は、この御霊神社の境内にあった頃が、一番はなやかな時代であった。
 ところで、この御霊神社のなかの文楽座は、大正十五年の十一月二十九日の朝、火災のために、焼けてしまった。名作『文楽物語』の著者、三宅周太郎が、この火災について、「見方によつては、『国宝』とも、大阪の『宝』ともすべき、幾多の古き風雅優美の人形を焼失してしまつた。勿論、それらのよき『頭』[舅、娘、老女形、新造、鬼一、孔明、文七、源太、みなで、十七種の『頭』という程の意味]は、再び作らうとしても、今の世ではどんな方法をもつても作り得ない名品ぞろひである。その時、文楽座の焼土を見て、こつちのひとかたまり、向うのひとかたまりの、座方、太夫、人形つかひが、その一かたまりづつゐて、みな、おなじやうに、泣きあつてゐた、といふのは、満更に誇張ではあるまい、と思ふ、」と、述べている。
 私は少年の頃(といって、十六七歳の頃から、)この『御霊楽』で、不世出の名人といわれた、摂津大掾、三代越路太夫、その他の浄瑠璃じょうるりを、聞き、名人、広助、吉兵衛、その他の三味線を、聞き、また先代、玉造、紋十郎、玉助、その他、というような、名人のつかう、さまざまの人形も、しばしば、見た。
[やぶちゃん注:「摂津大掾」竹本摂津大掾(だいじょう 天保七(一八三六)年~大正六(一九一七)年)は義太夫節太夫。二代目竹本越路太夫。五世竹本春太夫門弟。明治三十六(一九〇三)年に摂津大掾藤原愛純なるすみを名のる。美声で艶物つやものを得意とした明治期の名太夫。
「三代越路太夫」竹本越路大夫(慶応元(一八六五)年~大正十三(一九二四)年)義太夫節太夫。明治十一(一八七八)年に二代目越路大夫摂津大掾に入門、明治三十六(一九〇三)年に三代目越路大夫を襲名、大正四(一九一五)年、文楽座の紋下もんした(人形浄瑠璃の一座の代表者。語源は番付で座元の紋の下に名前が書かれたことから。櫓下やぐらしたとも言う)。
「先代、玉造」本書の発表時と宇野の年齢から推して、人形遣二代目吉田玉造(慶応二(一八六六)年~明治四十(一九〇七)年)のことと思われる。初代玉造の実子玉助の門下で、明治二十二(一八八九)年に二代目玉助を襲名。明治三十九(一九〇六)年に二代目玉造を襲名したが、翌年に没している。立役や女方専門とした。
「紋十郎」は人形遣の初代桐竹紋十郎(弘化二(一八四五)年~明治四十三(一九一〇)年)。信州や江戸で修行した後、明治九(一八七六)年大阪文楽座に戻り、明治十(一八七七)年に祖父が名乗った桐竹紋十郎の名跡を復活して襲名した。明治期の名女形遣として知られる。俳優嵐寛寿郎は彼の孫である。
「玉助」三代目吉田玉助(明治二十七(一八九五)年~昭和三十(一九六五)年)か。昭和十七(一九四二)年に三代目玉助を襲名。立役に優れた。]

 さて、その日の夕方、町幅のせまい平野町の、御霊神社の前で、自動車をおりて、ちいさな社殿の横をとおり、ぢんまりした劇場の前に、出た。(『小ぢんまりした劇場』とは、この劇場に登場するのは人形と人形つかいだけであるから、普通の劇場の舞台の三分の二ぐらい⦅こんど新築された東京の歌舞伎座の三分の一ほど⦆であり、二階は中二階ちゅうにかい[普通の二階より低く、平屋よりやや高くかまえた二階]の構造であるから、劇場の『雛形ひながた』の観あったからである。)
 ところで、私は、その時、うすぐらい平土間ひらどまうしろのほうのます[劇場で見物人をすわらせるように、四角な枡のような形にしきったところ]に五六人の連中と一しょにすわった事と、その平土間には四どおりぐらいしか『入り』がなかったので、平土間ぜんたいが、(いや、文楽座の客席ぜんたいが、)いやに、がらんとしていて、うすぐらくて、陰気に見えた事と、――そのくらいの記憶しかないのである。しかも、その五六人の連中のなかにひとりが一人いたことをおぼえていながら、その女が誰であったか、その連中がだれだれであったか、という事さえ、おぼえていない。が、その連中は、まえに述べたように、里見、芥川、直木、私、の四人であったことはほぼたしかで、女は、その頃の直木[前に書いたように、その頃は植村]の愛人であった、堀江の太芸者ふとげいしゃ豆枝まめしであった。豆枝は、そのころ、十七八歳であったが、ふとっていたうえに、が五尺二寸ぐらいであったから、大柄おおがらな女であった。(もとより、太芸者は、浄瑠璃をかたるのが専門であったから、たいてい、恰幅かつぷくがよかった。私は、それを知っていたので、豆枝をはじめて見た時から、『なるほど』と思っていたが、)そんな事を知らない芥川は、私の耳のそばで、「……豆枝は、植村にまけないはど、無口だから、おもしろいね、……相撲すもうをとったら、植村は、負けるね、」と、いった。
 ところで、この時の私の『文楽座』の思い出は、これだけであるが、里見の『芥川の追悼』という文章のなかに「植村宋一に案内されて、吾々われわれみんなで文楽に行つた。そこへ行くまで、私はどこかでひどく飲んでゐたものとみえて、はたの聴衆に迷惑をかけるほどの酔態を現した由、これは後に植村に聞いて恐縮したが、つれの芥川君といひ、宇野君といひ、さういふことは恐らくや毛虫より嫌ひにちがひないから、その日の私は、二人にずゐぶんうとまれたらうと、それは無理なく思つでゐる。そこを出てから、梅田[註―大阪駅のこと]まで二人を送つて行き、プラットフォオムで、またもや、大はしやぎにはしやぎ出して、そこらを踊りまはり、遂には二人の一路平安を祈るのだと云つて、機関車のそばに立つて、三拝九拝してゐた由、これも植村の話、」というところがある。
 これを読んでも、私には、里見が、酩酊していたために、文楽座で「はたの聴衆に迷惑をかけ」たことなど、まったく記憶していない。それから、私は、葛西善蔵、三上於菟吉、ふるくは、今井白楊、その他、強酒の人たちとつきあったが、その人たちがいくら泥酔しても、うとんだ事はほとんどない。さて、大阪駅のプラットフォオムの一件であるが、この時の事は、うろおぼえであるが、今でも、わりに、はっきり記憶にのこっている場面がある。これは、プラットフォオムで、若かりし里見 弴が、いかにも、楽しそうな、おもしろそうな、邪気のない、顔をして、おどった恰好である。誇張していえば、その時の里見の姿は『天真爛漫』そのものであった。私は、(私も、)それにつられて、里見と両手をとりあって、それをげたりげたりした。それは、すこしはなれてその里見の一等俳優のような振舞ふるまいをながめながら、酒をすこしも飲まぬ私も、酔い心地ごこちになったのであろうか、「……もうすこし背が高いと、いいのだがなあ、ほんとに惜しいなア、」と、いった。いってから、その時は、本当にそう思ったのであるが、先輩にたいして失礼なことをいったことを、いたく後悔した。さて、その時、里見が、あの文章のなかに書いているように、いくらかよろけながら『三拝九拝』したことを、私は、はっきり、おぼえている。しかし「機関車のそば」ではない。
[やぶちゃん注:「三上於菟吉」(おときち 明治二十四(一八九一)年~昭和十九(一九四四)年)は小説家。代表作は名匠衣笠貞之助によって映画化もされた「雪之丞変化』(昭和九(一九三四)年~昭和十(一九三五)年)。 「今井白楊」(明治二十二(一八八九)年~大正六(一九一七)年)は詩人。早稲田大学同窓であった親友で詩人の三富朽葉とともに明治四十二(一九〇九)年に自由詩社に参加、「早稲田文学」などにも作品を発表したが、大正六(一九一七)年八月、朽葉と犬吠埼で遊泳中に一緒に溺死した。]

    


 京都についたのは、よるの七時頃であった。私たちは、駅から、すく先斗町ぽんとちょうへ、むかった。その前の日、さきに述べたように、堀江の茶屋で、広島晃甫にあった時、京都でと晩とまる話をすると、広島が、そんなら、京都の先斗町の『なにがし』という茶庭に「ぼくが、さきに行ってるから、そこへないか、加茂川の岸にあるから、眺めもいいし、感じがいいから、……君たちがとまるように、いっておくから、」と、云ったからである。その先斗町の方へ、私たちは、しだいに、いそぎ足になって、あるきつづけた。あるきながら、「今晩は、しずかに寝られるね、……堀江の川は、掘割ほりわりで、にごっていて、きたないけど、加茂川は、…」と、芥川が、いった。
 先斗町は、加茂川の、西側の、三条と四条のあいだで、東側の祇園町ぎおんまちと対して、京都で一流の色町である。近松門左衛門の『長町女腹切ながまちおんなのはらきり』のなかに「名はかたく、人はやはらぐ石垣町、前には恋の底深き、淵に浮身うきみを、ぽんとちやう」という文句がある。
[やぶちゃん注:「長町女腹切」は近松門左衛門作の浄瑠璃。正徳二(一七一二)年に大坂竹本座で初演。モデルとなった京都に起ったお花半七心中事件と大坂長町での女性腹切事件の別個な二つを合わせて脚色した世話物。]
 ところが、その先斗町の『なにがし』という茶屋をたずねると、奥の方から、二十二三の、のすらりとした、色の白い、見目みめのうつくしい、芸者が、出てきて、私たちの顔を見ると、いきなり、「まあ、先生……」と、ちょっとあきれたような顔をして、いった。
 私は、ふと、その女の顔に、どこか、見おぼえがあるような気がしたので、何となしに、「やあ」と、応じた。
  すると、その芸者は、また、いきなり、「こないだは、汽車のなかで、……」と、云ってから、すぐ「……菊池先生せんせは、お行儀ぎょうぎ、わるおすな。パンを、ムシャムシャ、たべはって、そのくずを、えたお膝のうえへ、ポロポロ…‥」とか、「……あのすみほうで、どなたはんとも、口をきかんと、腕ぐみしたまま、むつッとしておいでやしたかたは、どなたどすね、」とか、たてつづけに、しやべった。
 これには、二人ふたりとも、呆気あっけにとられて、ちょっとのあいだ、ポカンとしていたが、これで、この女が、京都から大阪までの汽車のなかで、私たちと反対の側の、羽左衛門たちとはなれた隅のほうに、つつましく腰をかけていた、あの『黒人くろうと』らしい女のうちの一人ひとりであったことが、わかった。そこで、私が、その女の『おしゃべり』のすむのを待って、広島が来ているか、と聞くと、女は、急に、ふしぎそうな顔をして、「えッ、……広島先生せんせは、ひとつきぐらい前から、……」と、いった。すると、芥川は、女の話を、それだけ、聞くと、私のほうをむいて、「じや、ほかへ行こうか、」と、いった。「行こう、」と、私が、いうとともに、私たちは、さっさと、その茶屋を、出た。
[やぶちゃん注:ここで芥川がこの宿に泊まることをやめたのは、広島が既に一月も定宿にしている、即ち勝手知ったる自分の別荘ぐらいな感覚であることを見抜いたからであろう。そうした如何にもな手前味噌を披歴されるのを芥川は嫌ったものと私は推測する。この後の芥川の「押しつけがましいところ」も、そう考えると腑に落ちると思うのであるが、如何?]
 せまい先斗町を南のほうへあるきながら、私が、無言で私の半歩ほど前を早足にあるいて行く芥川に、「どこか、とまるとこ、知ってる、……どんな宿屋でもいいよ、」と、いうと、芥川は、しだいに足を早めてあるきながら、ちょいと私のほうをふりむいて、「宮川町へ行こう、」と、いった。そうして、そのかたは芥川としては、めずらしく、押しつけがましいところがあった。
 宮川町とは、先斗町をとおりぬけて、四条大橋をわたり、すく右にまがって、加茂川にそうて南の方へ行ったところにある、かなり大きな茶屋町である。しかし、ここは、笹町や先斗町の芸者が出入りするように茶屋に遊女が出入りするところに、特徴があり、一部の人にしたしまれた。それで、私は、芥川に、おもいがけなく、「宮川町に行こう、」といわれた時は、一瞬、『オヤ、』と、思ったが、すぐ『ままよ、』と、思いなおして、ますますいそぎ足になる芥川のあとを追うように、早足で、あるきつづけた。
 ところが、芥川は、四条橋をわたってから、すぐ右へまがらずに、まっすぐに、南座の前をとおり、縄手通なわてどおりを横ぎり、祇園新地を東の方へ、すすんで行った。そうして、縄手通りから半町はんちょうほど行ったつじの右の手前のかどの、のきにつるした赤い細長ほそなが提燈ちょうちんとうすぐらい陳列窓に妙な特徴のある、うすぐらい、なんともいえぬ異様な感じのする、家のなかに、芥川は、つかつかと、はいって行った。
『都の手ぶり』のなかに、「佐佐木の家の幕じるしかと思ふばかりなる紋[四つ目の紋]附けたる軒あり、茶ひさぐにや、長命・帆柱など、金字にだみたる札を掛けたり、」とあり、また、『古朽木』のなかに、「四目屋よつめやが薬じゃ、目出度き名を持ちながら、上下かみしも鼻のさきへは出されぬも、をかしく、」とあるのは、江戸の両国橋のあたりにあった、長命丸などという、風紀にれるような事をおこすもとになる、『クスリ』や弄具などを売る、四目屋という、家のことである。
[やぶちゃん注:『都の手ぶり』江戸後期の狂歌師・国学者・戯作者石川雅望(まさもち 宝暦三(一七五四)年~文政十三(一八三〇)年)が書いた随筆。文化六(一八〇九)年版行。
「佐佐木の家の幕じるしかと思ふばかりなる紋[四つ目の紋]附けたる軒あり」江戸両国米沢町二丁目にあった四つ目屋忠兵衛店のこと。性具・媚薬を商う日本最古のアダルト・ショップとして知られる店である。近江源氏佐々木氏の四つ目結(四角の中に小さな一つ小さな白抜の□を配した「一つ目結」を方形に四つ並べたもの)を家紋とした。明治中期までは存続していたらしい。
「長命」「帆柱」とは、四目屋名代の秘薬「長命丸」と「帆柱丸」で、どちらも房中用強精剤。前者は射精を遅らせる塗布薬、後者は勃起促進か勃起持続剤であろう。
「だみたる」の「だみ」は「だむ」で、マ行四段活用の動詞。 「彩色する・彩る」又は「金箔・銀箔を張る」の意。
『古朽木』は江戸の狂歌師で戯作者であった朋誠堂喜三二(ほうせいどうきさんじ 享保二十(一七三五)年~文化十(一八一三)年)が安永九(一七八〇)年に恋川春町画で版行した滑稽本。]
 いま、芥川が、つかつかと、こそこそと、はいって行ったのは、それとおなじ名の、おなじような物をうる、『四目屋』という家であった。芥川は、その家で、自分は、張型(『ハリカタ』)というものを買い、私には、「きみは、おおいに刺戟させる必要がありそうだから、……」と、いって、『アポロン』という薬を買うことをすすめた。『張型』は、茶色のゴムで、形は懐中電燈のかたちであるが、大きさは懐中電燈の半分ぐらいである。(しかし、芥川は、その翌日の昼頃ひるごろ、新京極の喫茶店のすみで、それを私に見せながら、「これに湯を入れると、この倍ぐらいになるよ、」といった。)
それから、『アポロン』は、茜草あかねそうたぐいの樹皮から採取したものを錠剤にしたものである。(『犬筑波集』のなかに、「あづまぢのが娘とかちぎらん⦅といふ句に⦆あふ坂山を越ゆるはりかた」という歌がある。)
 さて、四日屋を出ると、芥川は、無言で、道をいそいだ。これは、十月も二十日はつかをすぎた京都のよるは、じつとところに立っていると、寒冷の気が足の蓑から体中からだじゅうにしみとおるような気がするからでもある。
 やがて、宮川町に来た。
 宮川町の茶屋は、どの家も、三階だてで、しかも、一階も、二階も、三階も、みな、細目ほそめ格子こうしづくりである。そうして、それらの家家は、両側に、すきなしに、たっている。それに、町幅まちはばは五六けんであったから、私は、宮川町に足を一いれた時、北から南へまっすぐにとおっているその五六間の幅の道の両側に、一階、二階、三階、と、それぞれの高さの、細目の格子が、両側に、一枚の塀のように、ずっとつづいているのを見て、思わず、あッ、と、心のなかで、叫んで、立ちどまった。くちにいうと、それは、ありふれた形容であるが、壮観であった。
 こういう宮川町を、そのずっと前からであるが、私は、しじゅう、芥川より半歩はんぽぐらいずつおくれて、芥川にひきずられるように、あるきつづけた。と、芥川は、宮川町にさしかかってから半町の半分ほども行かないうちに、右側の一軒の茶屋の格子戸をあけて、すばやく、なかに、はいった。しぜん、私も、芥川のあとから、つづいた。はいった途端、中は真暗まっくらであったが、すぐ、ほのかに、かりがさし、すうっと入り口の障子があくとともに、仲居なかいの姿が、あらわれた。
 三階の部屋にとおされると、すぐまどをあけて、「おお、さむ、」と、いって、あわてて窗をしめた芥川は、「……君、この家も加茂川ぞいだけど、おなじ加茂川を東から眺めるにしても、祇園とここでは、……」といって、ちょっと例の皮肉な微笑をしながら、首をちぢめた。
 やがて、三十分ぐらいしてから、二人の女が、三分ほどのちがいで、前後して、あらわれた。それから、しばらくすると、さきの仲居が、部屋にはいって来た。そうして、その仲居は、芥川のそばに行って、なにか小さい声で芥川と話しあっていたが、やがて、「では、」というようなことをいって、部屋を出ていった。すると、こんどは、芥川が、私のそばに来て、私の耳もとで、「君、わすれないで、さっきの『クスリ』を、のめよ、」と、いった。それから、芥川は部屋の隅の方でちょこなんとすわっている二人ふたりの女のうちのせた女の方にむかって、「おい、ゆこうか、」と、いうと一しょに、立ちあがった。そうして、芥川は、私の方をむいて、「じゃ、しっけ、」と、いいのこして、さっさと、部屋を、出ていった。すると、やせた女は、あとに残された者になんの挨拶もしないで、芥川のあとを追うように、これも、さっさと、出ていった。
 私は、芥川が、なにか早業はやわざのよう事をして、消えうせてしまったようなかたちがあったので、にわかに、無聊ぶりょうを、感じた。が、すこし気もちがおちついてくると、今さき、芥川が、部屋を出しなに、「さっきの『クスリ』をのめよ、」といったことを、ふと、思い出して、ちょっとイヤアな気がしたが、すぐ、いかにも芥川のいいそうな事だな、と、思った。と、こんどは、ちょっとほほえましい気がした。すると、こんどは、ふと、前の日に、堀江で、菊池と町を散歩して、薬屋によった時、菊池が、胃の薬と、『アポロン』に似た薬を買ったので、私が、「そんな『クスリ』、あんまり、きかないだろう、」というと、菊池が、すく例のカンだかい声で、くせの目をクシャクシャさせながら、「きかなかったら、定量の二倍でも三倍でも、のんだらいいんだよ、」と云ったことを、私は、思い出した。
 それを、ふと、思い出して、私は、その晩、女が用をたしに行っているあいだに、『アポロン』を、定量の三倍ぐらい、のんだ。
 さて、芥川の選択によって私にのこされた女は、芥川の女とはなにからなにまで反対で、背のひくい、まるまるとふとった、女であった。
 そればかりではない。いつか夜がふけて、いよいよとこにはいる段になった時、その女は私がなにも聞かないのに、わたし(即ち、その女)は新潟うまれであるから、夏は、もとより、かんちゅうでも、ハダカで、寝る習慣になっているから、あんた(つまり、私)も、ハダカになりなさい、と、真面目まじめに、いうのである、(いや強要するのである。)
 ところが、その床にはいろうとする頃から、話がゲビて恐縮であるが、私は、異様に、尿意にょういをもよおすのを、感じだした。『異様』とは、便所に行っても出ない、出ないから部屋にかえる、部屋にもどると、すぐ、また、尿意をもよおす、というほどの意味である。
 ところが、その便所が、一階のひとした(つまり、地下室のようなところ)にあるのである。『地下室のようなところ』とは、その茶屋は、加茂川の岸にたっていたから、往来おうらい(つまり、おもて)から見れば、三階であるが、川(つまり、裏)から見ると、一階の下に、また、一階の三分の二ぐらいあいたところがあるので、そこが物置ものおきと便所になっているのである。そこで、私は、私のあてがわれた三階の部屋から便所にゆくには、四階分よんかいぶんの階段をおりなければならぬのである。であるから、部置から、便所にゆき、便所から、部屋にかえるのに、八つの階段をのぼりおりしなければならぬのである。その上、そういう異様な状態になっていたので、便所にはいっている時間がながい。しかも、それが十一月二十日すぎの夜中よなかの行動である。
 ところで、そう長く便所にもいられない上に、便所にいるあいだからだがこおるような思いをするので、いながら三階の部屋にもどると、越後の女が引きとめる。その越後の女は、その体格のごとく、力もつよいので、一たん部屋にかえってつかまえられると、いくら尿意をもよおしても、ふりはなすのに、二分ぐらいはかかる。ところが、その二分の間に、廊下を一つへだてた部屋から、ときどき「あツツ」という声やおかしそうに笑う声が、夜がふけて、あたりがシインとしているので、かすかな時もあるが、わりにはっきり聞えることもあった。
 さて、何時頃なんじごろであったろうか、私は、地下室の便所から、一階へ、二階へ、と、這いながら、あがってきたが、三階のあの部屋にはいるのがイヤになったので、二階のいくつかの部屋のなかの一つの部屋の唐紙からかみをそっとあけると、人の寝ていないとこがしいてあったので、私は、ほっとして、その寝床の中に、もぐりこんだ。
 それから、その床のなかで、何時間なんじかんぐらい眠ったであろうか。その床の中にもぎぐりこんだのが、おそらく、夜中よなかの二時か三時ごろあろうから、目をさましたのは、朝の六時か七時頃あるから、四時間ほど眠ったのであろう。
 め目をさまして、地下室の便所にはいった時、ふと、窓ガラスをすかして、見ると、すぐ目の下に(といって、ななめに二けんほどしたほうを)加茂川の水が、(ただしくいうと、琵琶湖疏水の水が、)つめたい色をして、はげしいいきおいで、ながれている。
 しかしその時は、まだ夜あけ前であったが、もう一度蒲団にもぐって、そのつぎに便所にはいった時は、疏水のむこうに、ひろい水のない、ほとんど砂石ばかりの、加茂川の川原かわらが、眺められた。そうして、それらの風景は、まったく、さむざむとした、冬景色であった。

 芥川と一しょに、宮川町の茶屋を出て、四条大橋をわたり、ひろい四条通りを、ぶらぶらあるいて、烏丸通りに出て、六角堂の横をとおり、それから、右にまがって、姉小路通りを、本能寺のある辺で、左にまがって、新京極まで来た頃は、ちょうど十時頃であった。宮川町の茶屋を出た時分は、はださむかったが、新京極まで来たときは、あるいたからでもあるが、かすかに汗ばむほどであった。『小春日和』というのであろう。
 新京極のさかり場の、まがりかどの、まんなかへんをあるいていた時、芥川が、例のごとく、突然、「おい、『鳶一羽空に輪をく小春かな』というのは、ちょいといいだろう、月並つきなみだけど……」と、いった。
「まさか、君の句じゃないだろう。」
「フン、星路――ホシのミチ、『ミチ』は『道路』の『路』だ。……ボンクラ俳人だ、……ちょっと疲れたね、このへんで、一服しようか。」
[やぶちゃん注:「星路」未詳。識者の御教授を乞う。]
 ちょうど右側に喫茶店があったので、私たちは、足をひきずりながら、中に、はいった。
 新京極は、戦前の東京でいえば、浅草のような所であり、大阪でいうと、道頓堀と千日前を一しょにしたような所である。こういう盛り場の午前十時頃は、町ぜんたいが、妙に白茶しらちゃけた色をしている。そうして、両側の劇場も寄席も、たいてい、木戸が、しまっている。こういう光景は、天気がよいほど、かえって、閑散に見え、味気あじきなく感じられる。
 私たちがはいった喫茶店も、やはり、閑散であり、味気なく感じられた。そうして、私たちの気もちも、やはり、なんとなく、味気なく、ものうかった。しかし、ほかに客がいなかったので、くつろいだ感じもした。
 それから、ふと気がつくと、夜中よなかにあのようにくるしんだ、(そうでないので苦しみ、用をたすとき、たまらない痛みを感じた、)あの不思議な症状が、しだいしだいに、うすらぎ、その喫茶店で便所に行った時は、まったく普通の状態になっていた。いつのまにか、普通の状態になっていたので、あの不思議な症状しょうじょうがなおっていたのが、気がつかなかったのである。それに気がつくと、私は、急に愉快な気もちになったので、芥川に、昨夜ゆうべ、その事で、困った話をした。
「……つまり、小便をすると、初めのうちは、出はじめる時から、出てしまうまで、痛みとおし、それが、つぎには、出はじめる時から中途ちゅうとまで、痛みとおし、……夜どおし、まったく、困ったよ、……それが、その中途まで痛いのが、その痛い期間がすこしずつ少なくなって、今はそれが、すっかり、知らぬ間に、なおってしまったんだ。……僕は、まだ、アノ病気にかかった事はないが、夜中よなかじゅう、そういう症状になって……しかも、きみ、ひどかった時は、……一時いちじは、『だい』も『しょう』も、一しょだったから、つらくもあったが、なさけなかったよ。……それがそういう症状になったのが、しだいに、なおり、今になって、ケロリとなおってしまうなんて、……どういうんだろう、」と、私は、いった。
 私が、こんな話を、なおったうれしさもあって、たてつづけに、しやべっている間、芥川は、私の話の途中で、ときどき、ニヤニヤ笑いを頰にうかべていたが、私の話がおわるのとほとんど同時に、
「君は、『アポロン』を、定量の三倍ぐらい、のんだろう、」と、すばりと、いった。
「君は、どうして、知ってるんだ。」
「おれも、やった事があるからだ。」
「あれを定量以上にのむと、どうして、あんな状態になるんだ。」
「摂護腺を異常に刺戟したからだよ、三倍ぐらいでよかったよ、五倍ぐらいアレをのんでいたら、君は、今頃いまごろ、僕とはなしをするどころか、つめたくなっていたかもしれないよ。」
 そこで、私が、こういう『クスリ』を定量の二倍でも三倍でも、のめ、と、すすめたのは、菊池である、と、昨日きのうの堀江の薬局の一件の話をすると、
「そんなら、菊池も、昨夜ゆうべは、君とおなじような症状に、悩まされたかもしれないよ。菊池は、前に、不眠症にかかっている、というので、名古屋へ講演旅行に行った時だ、――僕が、ジアアルをやると、一錠か、せいぜい、二錠でいい、と、いったのを、七錠ものんで、死にかかった事があるんだ。菊池は、どんな薬でも、定量以上にのむほど、きくと思うような男だからなあ、」と、芥川は、いって、例の茶目ちゃめらしい笑い方した。
「ところで、昨夜ゆうべ、君の部屋の方で、夜中よなかに、アツツ、というような声が、聞こえたが、あの、アツツというのは、何だ。」
「あれか、……」と、芥川は、苦笑しながら、いった。「あれは、君、『ハリカタ』にいれた湯があつすぎたので、ちょいと吾妹わぎも悲鳴ひめいをあげたんだよ。……あれは、しくじったよ、僕も、あれには、まいったね。」
[やぶちゃん注:「アノ病気」淋病。淋菌性尿道炎は尿道の強い炎症によって尿道内腔が狭窄し、激しい痛みと同時に尿の勢いが著しく落ちる。
「摂護腺」前立腺の旧称。
「君は、今頃、僕と話をするどころか、冷たくなっていたかもしれないよ」とあるが、例えば現在、最も知られる勃起不全治療薬であるバイアグラ(これは商品名で薬剤としてはシルデナフィルが正しい)の場合だと、心臓病治療に用いるニトログリセリン等の硝酸塩系薬剤と同様の薬理作用を持つため、副作用として血圧の急激且つ大幅な低下、心臓への酸素供給不全による狭心発作が認められ、適切な治療を施さない場合には死亡することもある(以上はウィキの「シルデナフィル」に拠った)。
「名古屋へ講演旅行に行った時だ、――」ここには宇野のとんでもない錯誤がある。本文中の現在時制は、
大正九(一九二〇)年十一月二十二日
である。ところがここに記される以下の菊池の事件は、
大正十一(一九二二)年一月二十八日
の出来事なのである。この場面で芥川が宇野に語れるはずはないのである。因みに、この事件を纏めておくと、同年、一月二十七日、名古屋の夫人会主催で講演を頼まれた芥川と菊池寛、小島政二郎が東京を出立、翌日、二十八日に椙山女学校にて講演(芥川龍之介は「形式と内容」という演題で講演)、講演後、芥川は不眠症状を訴える菊池に自分のジャールを与えた(菊池と芥川は別々なホテルに宿泊)。夜、菊池は定量二錠のところを4錠飲むも眠くならず、更に三錠を嚥下、計七錠を服用してしまった。その後、菊池は二日二晩昏睡状態に陥り、その後(嚥下から四五日後)も意識混濁や奇矯な言動をとったことが、菊池寛の「芥川について」(但し、鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」のコラム資料引用による)に記されている。そこで菊池は『その時の芥川の話では十錠以上は危険だといふ事だつたから、僕は危く三錠の差で助かつたわけである』と記している。
「ジアアル」は「ジャール」「ジアール」等とも表記され、後に芥川龍之介がヴェロナールと共に自死に用いたとされる、(恐らく)ヴェロナールと同じバルビツール酸系の睡眠導入剤。商品名であろう(何故かいくら調べても綴りが出てこないので同定出来ないでいる。識者は御教授を願う)。但し、私は芥川が使用した薬物はそれらではないと考えている。]

 さて、私たちは、下諏訪に昼頃ひるごろにつきたい、と思ったので、その喫茶店で、『時間表』をかりて、その晩の十一時何分なんぷんかの汽車にのることにきめた。
 やがて、私たちは、その喫茶店を出て、ぽつぽつ人どおりの出だした新京極の通りを、南の方へ、あるいて行った。あるきながら、ふと、左側の劇場看板を、見ると、その頃さかんに流行し出した剣劇の看板のはしに、私は、中田正造、小笠原茂夫、という名を見出みいだした。私は、小笠原は、沢田正二郎に紹介されて、知っていた。それと一しょに、小笠原が、本職より、文学がすきであった事を、私は、思い出した。
 そこで、私が、その剣劇の看板を指しながら、芥川に、その事を、いって、「昼の間は、京都の町を、ぶらぶら、あるいて、晩は、汽車に乗るまでの時間つぶしに、この芝居を、見ようか、」と、いうと、芥川は、すく「それがいい、それがいい、」と、いった。
 そこで、私たちは、新富の通りを穿抜けたところを右にまがり、烏丸通り右へまがって、高島屋[百貨店]に、はいった。高島屋にはいったのは、偶然、その前をとおりかかったからでもあるが、広島晃甫から、高島屋の美術部長にあてた紹介状を、もらっている事を、思い出したからである。しかし、高島星の中にはいると、芥川も、私も、「美術部長などにあっても、つまらないね、」と、いいあって、時間つぶしに、二階にあがったり、三階をまわったり、した。
 ところが、その三階で、冬物売り場というところを、ぶらぶら、あるいていた時、私の目が、毛皮部の売り場の隅に、兎の毛皮を裏につけた小さい、『ちゃんちゃんこ』に、とまった。明日の昼すぎに逢うことになっている、下諏訪の、私が自分の小説の女主人公にした、ゆめ子[私の小説に出る女の名]の子(二歳ふたつぐらいの赤ん坊)に、その『ちゃんちゃんこ』を、おくりたい、と思ったからである。そうして、私は、それを思いたつと、すぐ、芥川にも、あの生駒の女に、ナニか、おくることを、すすめよう、と、かんがえた。
 そこで、けっきょく、私は、その『ちゃんちゃんこ』を、諏訪の女におくることにし、芥川は、生騎の女に、ショウルを、おくることにした。(ショウルは、私が、芥川に、すすめたのである。ついでに書けば、ショウルは金参拾円であり、『ちゃんちゃんこ』は金拾八円であった。)
[やぶちゃん注:「中田正造、小笠原茂夫、という名を見出だした。私は、小笠原は、沢田正二郎に紹介されて、知っていた」沢田正二郎は大正から昭和初期にかけて爆発的人気を博した剣劇俳優で劇団「新国劇」座長。中田正造と小笠原茂夫は同劇団団員であったが、沢田のワンマン経営に異議を唱えて脱退、ここで宇野と芥川が京都を訪れた直前の大正九(一九二〇)年九月に劇団「新声劇」に入団しているから、この劇場の看板は「新声劇」の公演である。この「新声劇」は元は大阪道頓堀弁天座を根拠地とした辻野良一らの新派劇団であったが、中田らの入団によって剣劇団に様変わりし、「新国劇」とともに一大剣劇流行の時代を担うこととなった。]

 それから、私たちは、日の暮れる前あたりまで、京都のどの辺を、あるいたか、その記憶が、私に、ほとんど、まったく、ないのである。(その間に、時雨しぐれにあったことだけ、ふしぎに、おぼえている。)ところが、今、その写真は手もとにないが、芥川が、先斗町あたりの加茂川の岸で、加茂川の方を眺めている、その芥川の、横むきの、腰から上のシルエット(silhouette――このフランス語を、辞書で、しらべると『黒色半面影像』というのがある)のようにとれた写真、があったのを、おぼえている。これは、私がうつしたのであるが、その写真の芥川は、黒色の、つばのひろい、(むかしの宣教師のかぶっていたような、)帽子をかぶっていて、洋服は、たぶん、黒色であり、ネクタイも、黒色であったが、この芥川の横むきの姿は、アアサア・シモンズのようにも、見え、ちょっと、アルテュゥル・ランボオを、思わせるようなところもある。
 小島政二郎の『眼中の人』というおもしろい小説のなかに、

「ゆうべ見せていただいた写其のなんとか云ふかたね、ああいふの、芸術家らしくつていいわ。」[註――これは、主人公の妻の言葉]
 ゆうべ見せた写真? ああ、あれはフランスの象徴詩人マラルメを論じた本の巻頭に載つてゐた著者フランシス・グリヤアソンの肖像だつた。それは芥川龍之介に似た美男子で、文壇ゴシップの伝へるところによれば、芥川の髪の形は、このグリヤアソン・スタイルの模倣とまで云はれてゐるその原型だつた。

 というところがあるが、私の愛蔵している、グリヤアソンの“Parisian Portraits”という本の巻頭のグリヤアソンの写真は、ほんとうに、若き日の芥川に似ている、それは、ここに、それを写真版として、入れたい程である。
 (芥川と、アアサア・シモンズ、その他については、後に述べるつもりである。)
[やぶちゃん注:「シモンズ」「アアサア・シモンズ」アーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons, 一八六五年~一九四五年)はイギリスの詩人・文芸批評家・雑誌編集者。「十」の芥川との会話で詳述されるところで再注する。
「フランシス・グリヤアソン」Francis Grierson(フランシス・グリーアスン 一八四八~一九二七)作曲家にしてピアニスト、文芸評論家のイギリス人(幼少期に米国移住)。著作に近代ヨーロッパ文学と神秘主義思想を論じた“Modern Mysticism”(一八九九)などがある。]

 さて、その日の夕方、私は、芥川と一しょに、新京極のナニガシ劇場の楽屋に、小笠原茂夫を、訪間した。
 その時、小笠原は、もう鬘をかぶるばかりに、頭をきちんと手拭でまき、顔もすっかり舞台に出る扮装をしていたが、私たちの顔を見ると、
「きたない所です、」と、いいながら、弟子に座蒲団を出させながら、きまりわるそうな顔をした。
 そこで、私が、芥川を紹介してから、(汽車に乗るまでの時間つぶしなどという事はいわないで、)芝居を見せてもらいたいというと、
「たいへんな芝居ですが、……」と、小笠原は、頭をかきながら、「しかし、せっかくおいでくだすったのですから、まあ、どんなバカげた事をやっているか、を、見ていただきましょう、」
と、云った。
 それから、私たちは、舞台裏から、桟敷の一隅に、案内された。芥川は、剣劇だらけの絵のかいてある番組を見ながら、
「なるほど、小笠原は、芝居より、文学がすきらしいね、」といった。
「文学などがすきだから、小笠原は、沢田みたいに、俳優としては、出世しないよ。」
 やがて、幕があいた。見ると、どこかの屋敷の前で、数人のさむらいが斬りあっている。すると、やがて、その屋敷の中から、火事がおこって、舞台が一そう混乱する。その時、さッと、花道の入り口の揚げ幕のあく音がして、そこから、火消し姿の小笠原が、片手に鳶口を、かまえるような恰好をして、持ちながら、バタバタと、花道を、駆けてとおった。
「なるほど、さっき、小笠原君がいったとおり、たいへんな芝居だね、」と私がいうと、
「小笠原の足は、君、ほそすぎるね、」と芥川が云った。

[やぶちゃん注:『芥川は、剣劇だらけの絵のかいてある番組を見ながら、/「なるほど、小笠原は、芝居より、文学がすきらしいね、」といった。/「文学などがすきだから、小笠原は、沢田みたいに、俳優としては、出世しないよ。」』という部分は、省略された部分に小笠原と芥川たちの文学談義があったとしても、文脈から見ると芥川が小笠原が組んだ剣劇の外題を見て、それらが単なる浄瑠璃や歌舞伎のみならず、広範な古典や近代文学の知識に基づいて創作されたものであることを読み解いたからではなかろうか。だからこそ、二番目の芥川の台詞『そんなに文学に色気を持って脚本作りに肩入れしていると、俳優としての演技は散漫で疎かにならざるを得ない。だから出世はしない』といった推理を展開しているように私には読める。実際、芥川龍之介が生前、しばしば見せた辛口の劇評はどれも非常に鋭いものである。特に私は「足の細さ」に着目する芥川に同感する。歌舞伎や剣劇の荒事や武辺物にあっては、如何に二枚目で所作が上手くても、実際、足の細い(細く見えてしまう)俳優は、舞台では結局大成しないと私も実感するからである。]

 ここで、私は、念のために、と思って、芥川龍之介全集の第七巻(書翰篇)の大正九年十二月の二十日へんのところを、ひらいてみて、おどろいた、(というより驚歎した。)つぎのようなものがあるからである。

宇野耕右衛門先生にお守りをされてゐるまあボクも面白かつた。
 峡中に向ふ馬頭や初時雨

 これは、「三月二十二日京都から。絵端書へ宇野浩二寄書、江口渙宛」となっているが、どういうわけか、私に、まったく覚えがない。(『宇野耕右衛門』とは、私のその頃の小説に『耕右衛門の改名』というのがあるからである。)

 大阪道頓堀のcaféにゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐましたその上に昼のお 月様がありました歌か句になりませんか   頓首

 これは、「十二月二十二日京都から。絵端書、小穴隆一宛」とあり、葉書の文面のおもてに「京都駅にて 芥川龍之介」とある。

 今日一日時雨の中に宇野浩二先生と京都の町を歩きまはりました一軒紙のれんを青竹にとほした饅頭屋がありましたあなたと一しよならあひつて饅頭を食ひたいと思ひました

 これは、「十一月二十二日京都から。絵端書、小沢忠兵衛宛」となっていた。小沢忠兵衛とは、小沢碧堂という俳人で、芥川の『夜来の花』という本に、字を書いている。(この碧堂のかいた『夜来の花』を、版にする前に、芥川が、自慢そうに、見せたことがあるが、私には、うまいかまずいか、サツパリわからなかった。)

 白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し
   二伸
但し宇野僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給へ

 これは、「十一月二十四日諏訪から。佐佐木茂索宛」となっている。(この事については、後に、くわしく述べる。)
 以上の絵葉書を、今、よんで、芥川が、私と行動を共にしながら、いつ、京都のどこで、あるいは、京都の駅のどこで、こういう便りを書いたか、これは、私のまったく知らない間のことであるから、やはり、芥川は、『早業』の名人、ということになるか。しかし、また『早業』をしそこなうようなところも、多分に、あった。それから、……

 その日[大正九年の十一月二十三日]の晩、私たちが、新京極のナニガシ劇場を出て、くら底冷そこびえのする寒いよるの町を、いそぎ足にあるいて、七条の停車場についたのは、十時半であった。のぼりの汽車が出るまで二十分ぐらいあったので、私たちはその二十分ほどの時間をもてあました、いや、もてあます、というより、閉口した。よるも十一時ともなれば、あのだだっびろい七条の停車場の前の広場は真暗まっくらであり、もとより、土産物みやげものを売る商店などは皆ほとんどをしめており、ただ二三軒の宿屋の入口からかりがさしているだけである。その広場をいくら足ばやにあるいてみても、待合室のすみの方にからだをゆすりながら立っていても、顔がいたくなるような寒さをおぼえ、足の裏からつめたさがからだみとおるような気がしたからである。
 ところで、これだけの記憶があって、さきに引いた芥川の全集の書翰篇に出ているような、この日、江口 渙にあてて、絵葉書に、芥川ときをした覚えなどはまったくないのである。まして、京都のどこでそういう寄せ書きをしたかというような記憶はまったくないのである。ところが、ただひとつ、妙な記憶が、ふしぎに、残っているのである。それはこういう話である。
 京都の、どこであったか、(たぶん私たちが一服した新京極の喫茶店であったかと思うが、それもうろ覚えである、)芥川が、なにかの話のとぎれた時、ちょっときまりのわるそうな顔をしながら、
きみ、コレ、ぼくの家にもって帰って、もし見つかったら困るから、あずかっといてぐれないか、」と、ここで、例のニヤニヤ笑いをしながら、「なんなら、どうだ、君も、ひとつ、コレを、『しよう』してみたら、――もっとも、『しよう』というのは、『使い用』の『しよう』と『試み用』の『しよう』と、そのふたつの意味を、かねてだよ、」と、云った。
「……だって、さっき、君は、『ソレ』をつかって、失敗して、『ちょいと吾妹わぎもが悲鳴をあげた』などと、云ったじゃないか。」
吾妹わぎもといえば、万葉集の、『秋の宿に濡れつつをればいやしけどわぎもが宿し思ほゆるかも』、『わぎも子がゑめるまよびき面影おもかげにかかりてもとな思ほゆるかも』、などという歌は、じつに好もしいじゃないか。」
「……ふん、……が、僕は、そんなゴマカシには乗らないよ……しかし、『ソレ』は、あずかってやろう、但し、云っとくが、僕は、『コンナモノ』は、つかわないよ。」
この芥川が『コレ』といって私にわたしたものは、あの、前にのべた、四目屋よつめやと宮川町の一件と新京極の喫茶店で芥川と私がかわした妙な問答を思い出してくださらば、敏感な読者には、(いや、いかなる鈍感な読者でも、)ただちに、想像できるであろう、それは、すなはち、一ばん大きな指サックの五倍くらいの大きさの張型(『ハリカタ』)である。(ところで、私は、この時、芥川からあずかった『張型』を、どこにしまったか、⦅たもとのなかに入れたか、紙入れのなかにしまったか、⦆自分の家にもって帰って、どこにしまったか、まったく忘れてしまった、それゆえ、あの時の由緒ゆいしょある『ハリカタ』は行方不明ゆくえふめいとなってしまったのである、閑話休題。)
[やぶちゃん注:「万葉集の、……」以下二首の内、
秋の宿に濡れつつをればいやしけどわぎもが宿し思ほゆるかも
とあるのは、巻八の大伴利上としかみの一五七三番歌で、引用の初句に誤りがあり、
秋の雨に濡れつつをれば賤しけど吾妹が宿し思ほゆるかも
である。
〇やぶちゃんの通釈
……秋の雨に濡れそぼっていると……普段は訪ねるのも恥ずかしいと内心思う、あのみすぼらしいあのうち……それでも……この淋しく濡れた心を温めてくれるあの娘の家が……恋しく思われることだ……
次の、
わぎも子がゑめるまよびき面影おもかげにかかりてもとな思ほゆるかも
は、巻十二の詠み人知らずの二九〇〇番歌で、現行の通常の読みと表記は、
吾妹子が笑まひ眉引まよびき面影にかかりてもとな思ほゆるかも
である。
〇やぶちゃんの通釈
――あのの笑み――あのの引いた眉――あのの面影――僕の目のの前に――ぼんやりと浮かんでは消える面影――ああっ! 胸かきむしる、この思い!……
といった感じか。下の句が今一つ分からない。]

 さて、京都から下諏訪での道中は、これも、ほとんど記憶がない。ただ、中央線の汽車にのりかえるために、名喜で汽車からおりた時は、朝の四時頃あったから、私たちが時間をつぶすために駅の前の広場に出た時は、そらはまだ暗く、はるかに見える町に、かりが、ついていた、それが、いかにも、びしげに、さむざむしく、眺められた事だけは、はっきり覚えている。
 ところが、その中央線は、(ただしくいえば、中央本線は、)名古屋の方からいうと、坂下あたりから宗賀へんまでは、汽車の線路とふるい木曾街道がほとんど並行してとおっているから、所によると、汽車の窓のすぐしたに木曾街道がのぞまれる。それで、汽車の沿道の両側にそびえている木曾谷はことごとく紅葉に色どられていた筈であるが、それもほとんど記憶にない。しかし、芥川が、十一月二十四日に、下諏訪から下島勲にあてて出した絵葉書のなかに、「京阪より名古屋へ出て木曾の紅葉を見て当地へ来ました」と書いているところを見れば、さすがに、芥川は、木曾谷の見事みごとな紅葉を見のがしてはいなかったのである。ところが、また、さきに引いた、十一月二十二日に、芥川が、京都から、江口 渙にあてて出した、(私ときとなっている、私の覚えのない、)絵葉書のなかに、『峡中に向ふ馬頭や初時雨』というような句を書いたり、また、おなじ日に、京都から、小穴隆一あてに出した、やはり、絵葉書のなかに、「大阪道頓堀の café にゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐましたその上に昼のお月様がありました歌か句になりませんか」というような文句を書いたり、しているのを読むと、私は、ちょいとくびをひねりたくなるのである。それは、簡単にいえば、「『峡中に向ふ馬頭や初時雨』などという句は、うまくないばかりでなく、実感がなく、「木曾の紅葉を見て……」などというのは、べつに木曾の紅葉を見なくても、書ける文句であるからだ。それから、あの二日ほどしかいなかったあいだに、芥川が、いつ、道頓堀のカフェエに、出かけたか、そうして、あの時分の道頓掘には、café は、戎橋と太左衛門橋のあいだにしかなかったから、その café から道頓堀川をへだてて見える家といえば、宗右衛門町の茶屋(二三軒の料理屋をのぞくと)ばかりであるから、あるいは、それら町茶屋の一軒の家が飼っていた猿が、(芥川のようなイタズラずきの猿であって、)偶然、物干を散歩していたのであろうか、しかし客商売の家では、『まねく猫』をよろこぶように、猿は、『去る』というので、きらう、と聞いているが、――しかし、いずれにしても、「大阪道頓堀の café にゐたら川向うの家の物干に猿が一匹這つてゐました」といい、それに、「その上に昼のお月様がありました」などというのは、(このような穿鑿せんさくだてをすれば、もし生きていたら、芥川に、あたまから、笑われるにちがいない、と、ふと、思って、しいて考えなおしてみれば、これは、)芥川の、独得の、巧妙な、酒落しゃれであり、芥川りゅうの文学のひとつの『あらわれ』と見てもよい。また、「その上に昼のお月様がありました」というのは、島崎藤村の小説のなかにしばしば出てくる「月はそらにあった」という文句を、私は、思い出す。これは、もとより、小説と私信のちがいであるけれど、こじつけるようであるが、芥川龍之介と島崎藤村の文学と気質のちがいをよくあらわしている。
 ところで、この時の諏訪ゆきは、私は、まえに述べたように、いわゆる現実的な題材をなるべくロマン的に書いた小説の女主人公にしたモデルに逢いに行くのであるから、まず純真な気もちを持っていたが、芥川は、ほとんどまったく反対で、好奇心が六分、いたずらとからかい気分が三分、というくらいの割り合いであった。
 今から一年ちかく前、(つまり昭和二十五年の八月頃、)私は、二十七八年ほど前から妙な事から近づきになった、もとの大蔵次官、長沼弘毅から、ひさしぶりで目にかかりたく、ナン月ナン日の午後五時、ナニガシ町の『ソレガシ』[東京でも有名な料亭の一つ]に、「万障くりあはしておいでくださいませんか、」という手紙を、もらった。そうして、その手紙のなかには、「この席は私の友人がまうけてくれたのですが、私がとつたのと同じやうな気もちで、どうぞ、御遠慮なく、……なほ、当日は江戸川乱歩氏もおいでになる筈です、」と書いてあった。
 そこで、私は、すぐ承知の返事をだして、ナン月ナン日の午後五時すぎに、その『ソレガシ』に、行った。すると、すでに、その長沼の友人も、長沼も、江戸川も、私のとおされた座敷のなかで、細長い食卓の両側に、それぞれの席に、ついていた。私が、おくれた詫びをのべながら、江戸川のとなりの座につくと、すぐ長沼に紹介された、長沼の友人は、おもいがけなく、水野成夫であった。私が、ここで、「おもいがけなく」と書いたのは、その長沼の友人は、私が、今か十五六年前に、五六時間つぶして、ほとんど一気いっきに、読了したアナトオル・フランスの『神々は渇く』の訳者が、水野成夫であり、その時からつきほど前に、私が、私のふしぎな親友、辰野 隆と、ある所で、夕食を共にした時、辰野が、ときどき、私をものにして、そばにいるお雪という女中と、なんどか、「……コクサクパルプ、……コクサクパルプ……」という言葉を口にしていた、その時は私には「コクサクパルプ」と耳なれない言葉がなんの事かまったくわからなかったところの、わかってみれば「国策パルプ」株式会社の副社長の水野成夫であったからである。
 さでその水野が、長沼や江戸川を相手にいろいろさまざまの探偵小説やその作家たちの話にちょっと夢中むちゅうかたちでしゃべっていたのがとぎれた時、突然、私の方にむかって、私のことをおもいだすと、すぐ、「芥川さんの『秋風やもみあげ長き宇野浩二』という句を、思いだします、」と、いった。
 そこで、私は、こんな話をそらすために、俳句に薀蓄のふかい長沼に、「この句はまずいでしょう、」というと、長沼は、言下に、「まずいですなあ、」といった。
 この『秋風やもみあげ長き宇野浩二』という句は、芥川が、中央線の汽車が木曾の谷あいを走りつづけている時、その汽車のなかで、私の方をむいて、例の笑いを日と頰にうかべながら、私に、よんで聞かせたものである。つまり、このような句でも、また、さきに引いた、十一月の二十四日に、諏訪から、佐佐木茂索にあてた書翰のなかにある『白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し』などというつくごとのような歌でも、みな、この時の芥川の諏訪ゆきの半分ふざけたような気もちの一端いったんが、あらわれているのである。(ここで、私は、かりに生きているとして、芥川よ、「君がときどき持ちだした、万葉集のなかに、『しろたへににほふまつちの山川にわが馬なづむ家恋ふらしも』というのがあるね、」と、いってみたい。)
 それはそれとして、この十一月二十二日に芥川が大阪と京都から出した三枚の絵葉書は、どこで買ったのか、東京からわざわざ持ってきたのか、万年筆を持ったのを見たことのない芥川がこれらの便たよりをなにで書いたのか、いずれにしても、こういうところに芥川の独得の早業はやわざがあるのであろうか。芥川は、私の知るかぎり、創作のことは別として、女性の事その他については、『続世継』にある、「早業をさへならびなくしたまひければ」、とあるような、『太平記』にある、「早業は江都が勁捷にも超えたれば、」というような、『早業』の名手めいしゅであった。

[やぶちゃん注:「坂下」は岐阜県中津川市坂下。中央本線の岐阜県側の最終駅坂下駅がある。
「宗賀」は「そうが」と読む。長野県塩尻市大字宗賀。中央本線の駅では洗馬(せば)駅と日出塩が宗賀地区に含まれる。
「長沼弘毅」(ながぬまこうき 明治三十九(一九〇六)年~昭和五十二(一九七七)年)は大蔵官僚・実業家・文芸評論家。本作が発表される二年前の昭和二四(一九四九)年の池田勇人内閣時代、大蔵省を退官している。後に日本コロムビア会長。シャーロキアンで、当時、一九三四年に創立された「ベイカー・ストリート・イレギュラーズ」唯一人の日本人会員であり、江戸川乱歩賞選考委員を第一回から第十四回まで務めた推理小説好きとして知られる。
「水野成夫」(みずのしげお 明治三十二(一八九九)年~昭和四十七(一九七二)年)は実業家。ウィキの「水野成夫」によれば、池田勇人政権下の「財界四天王」の一人で「マスコミ三冠王」と呼ばれた。フジテレビジョン(現フジ・メディア・ホールディングス)初代社長にして元経済団体連合会理事。元共産党員であったが、昭和十三(一九三八)年に検挙され、その転向直後、『新聞紙からインキを抜いて再生紙を作るというアイデアを陸軍に持ち込』んで、まんまと軍部に取り入り、同年、日清紡績社長であった『宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプを設立させた』後、同社の『全額出資で別会社・大日本再生製紙』を創業、昭和二十(一九四五)年には同社を国策パルプに合併させて、昭和二十三(一九四八)年は常務取締役となり、昭和二十六(一九五一)年に社長、昭和四十五(一九六〇)年には会長に就任した。かくして彼は戦後の政財界に強い影響力を持つことになり、昭和三十一(一九五六)年には『民間会社組織に改組された文化放送の社長に就任した。これを契機にマスコミ各社の社長に就任する。文化放送では「良心的」とされるドラマ番組や探訪番組の打ち切り・娯楽番組中心への編成変え、保守財界人の宣伝、政府批判番組の禁止、反対者の配転、労働組合潰しなどを進めた。「財界のマスコミ対策のチャンピオン」とまで評され』た。翌昭和三十二(一九五七)年には経団連理事に就任、『ニッポン放送の鹿内信隆と共にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任』するや、翌年には今度は『産業経済新聞社(産経新聞)を買収して社長に就任』、在京メディアを実質的に掌握して「マスコミ三冠王」の名を恣にし、後のフジ・サンケイ・グループ『の土台を築いた。水野のマスコミへの進出は、財界のマスコミ対策とも言われ、ジャーナリズムからは「財界の送ったエース」と書き立てられた。新聞社の経営に普通の会社の経営方針を持ち込んだものと言われ、通常の編集、販売、広告の順番を逆にしてまず広告主を見つけることを最優先課題とした。また、労働組合を味方に取り込むために、産経新聞労組と「平和維持協定」を締結し(この結果、組合は日本新聞労働組合連合より脱退)、役員、職制、職場代表による再建推進協議会設置など労使一体による体制を構築した。このような水野のやり方は合理化に伴う配転・解雇などを生み「産経残酷物語」「水野天皇制」と言われた』。昭和四十(一九六五)年には産経新聞社会長に就任している。因みに彼は東大法学部出身で、戦前は『翻訳家・フランス文学者としても大いにその才能を発揮し、特に日本におけるアナトール・フランスの紹介に大いに功績があ』り、本文でも挙げられている「神々は渇く」は特に名訳とされてベストセラーとなった。『翻訳に当たってはフランス文学者の辰野隆の紹介で辰野の弟子に当たる渡辺一夫と出会い、翻訳上、不明な点がある時は、渡辺の教えを請い正確を期した。また、この時期、尾崎士郎、尾崎一雄、今日出海、林房雄などとの交友を持つに至った』と波乱万丈、勝組の立身出世伝として華々しい記載となっている。
「しろたへににほふまつちの山川にわが馬なづむ家恋ふらしも」巻七の一一九二番歌。作者不詳。
白栲ににほふ真土(まつち)の山川(やまかは)に我が馬なづむ家恋ふらしも
〇やぶちゃんの通釈
……美しく匂い立つ真土山……その山川の傍らに私の馬が歩みを止めてしまった……これはきっと――妻が私を恋しがっているからであろうよ……
「続世継」は「今鏡」の異名。同書五十二の「雁がね」に、九条民部卿四郎の話として、騎馬による渡渉で馬が倒れたが、鞍の上に瞬時に立って濡れなかったという「早業」の事跡として現れる。
「勁捷」は「けいしょう」と読み、素早いさま。これは「太平記巻二」の「南都北嶺行幸事」に現れる。「江都」は前漢の江都易王劉非。七尺の屏風を飛び越える俊敏さの持ち主であったと伝える。]

     


 下諏訪は、諏訪湖の東北岸にあり、旧中仙道きゅうなかせんどうの一駅であり、甲州街道と伊那街道の分岐点にあたり、和田峠の麓にある。と、こう書くと、書く私がいうまでもなく、固苦かたくるしいが、下諏訪は、このような所であるから、今もそうであろうが、その頃は、殊に古風な町であった。しかし、また、この町は、その時分は、長野県内で製糸場もっとも多い諏訪湖北の四箇町村のひとつであったから、下諏訪の駅前の通りの片側には、まゆをいれてある、まどのたくさんある、白壁の倉が、よっいつつ、ならんでいた。
 さて、私たちが、その時、この下諏訪の駅についたのは、ひるすぎであったが、プラットフォオムにおりると、二人とも、殆んど一しょに、「おお、これは、」と、うめくように、云った。『これは、』といったのは、『これは寒い、』という意味である。
 そう云ったきりで、二人は、無言で、足を早めて、あるせ出した。ところが、芥川は、改札口を二三ると、「ウ、ウ、」というような声を出して、立ちどまった。そうして、胴ぶるいしながら、もう一度、
「ウ、ウ、」と、いって、こんどは、おこったような声で、
「じっに寒いね、……きみ、これは、ひどいまちだね、……どこに、温泉が、あるんだ、」と、芥川は、いった。
「……ここは、温泉は、うえほうに、あるんだ、……この町の一ばん高いところにあるんだ、しかし、あまり遠くないから、歩こう、」と、私は、わざとおちついた調子で、云いながら、芥川の返事を待たずにあるきだした。
 すると、芥川は私と競争するようにすたすたと、歩きはじめた。
 停車場の前のせまい広場をぬけると、細い、でこぼこの道が、はじめだらだら坂であった町が、しだいに急になってくる。その坂道の両側に、両側の家家の前に、溝川がある。それらの家家はみすぼらしくてふるびている。風はすこしもないが、いくら早く歩いても、からだじゅうが、寒いのをとおりこして、つめたい。息をきらしながら無言で歩きつづけていた芥川が、突然、「ほお、ここに、郵便局があるね、」と、いった。青いペンキぬりのドアがついているので、目についたのであろう。やがて、その道が、ふたつにわかれて、さらに急な坂道になる。その急な坂道を半町ちょうほどのぼると、つきあたりになって、広い道に出る。温泉宿は、この急な坂道の上のほうの両側にあり、その広い道の両側にある。そうして、この広い道を左の方にゆけば、中仙道で、和田峠にで、右の方にゆけば、すく諏訪神社の下社しもしゃがある。私が一年ほど前とまった万屋よろずやは、その急な坂をのぼりきったつきあたりにあった。
 ところが、やっと万屋の二階の座敷におちついたが、ゆめ子をよぶには、日のみじかい時であったが、時間が早すぎた。そこで、部屋のまんなかの火燵に、私たちは、さしむかいに、はいってみたが、日が暮れるまで時間をつぶすのに困ってしまった。すると、芥川が、例のごとく、いきなり、
「君、土屋文明が、諏訪高等女学校の校長をしている筈だから、電話をかけてみて、いたら、たずねて行って、案内かたがた、おごらしてやろう、行かないか、」と、いった。
「……行くけど、土屋文明って、歌人だろう、……君は、さすがに、いろいろな人を知ってるね。」
「だって、土屋は、僕らのやった『新思潮』の同人だよ、……土屋は、われわれ――つまり、僕、菊池、久米、など――より、五六年も前に名を出したよ、きみ、その点、歌人は、いったいに、名をあげるのが早いね、……しかし、あんまり早く名をあげるのもヨシアシだね、(と、ここで、芥川は、ちょいと、例の一流の笑いかたをした、)……しかし、いずれにしても、ちょっと逢ってみたい。」
 ところが、宿屋の番頭をよんで、諏訪高等女学校に電話をかけてくれ、というと、諏訪高等女学校は、下諏訪でなく、上諏訪にあるという事であった、それで、せっかく思いついた土屋文明を訪問する事も、『おじゃん』になってしまった。
 土屋のところへ行かないときまると、二人とも急に眠くなってきた。そこで、温泉にはいってから、私たちは、火燵をはさんで、寝ることにした。
 その火燵の両側に蒲団をしいて、女中が部屋を出てゆくと、芥川は、私の方をむいて、例のように、いきなり、
「……きみ、あの女中は、蒲団をしきながら、君に、しきりに、色目いろめをつかっていたよ、」といった。
 その女中は、大柄おおがらで、もたかく、顔も大きく、鼻はひくかったが、目が大きく、ちょっと目をひく女であった。(その女中は越後の小千谷おぢやまれである。)
「……君は、あいかわらず、目が早いね、……君は、あんな女がすきか。」
「いや、僕は、大きな女は、きらいだ、……もっとも、例外もあるがね、」と、云いながら、芥川は、にやりと、笑った。
 さて、私は、蒲団のなかにもぐつてから、ふだんなら一ぷんか二ふんで寝ついてしまうのであるが、この時は妙に眠れなかった。それは、芥川が、「ぜひ逢わしてくれよ、君のあの小説の女主人公を見たいよ、」といった、そのゆめ子が、普通にいう美人ではなかったからである、いや、『美人』の部にはいらなかったからである。それで、芥川が、あの芥川りゅうの目で、ゆめ子を見て、どのような事をいうか、(というより、どのように思うか、)と心にかかったからである、芥川にゆめ子を見せるのがきまりがわるくなってきたからである、はては、芥川をこんな所につれて来たことを後悔する気になったからである。――私も、まだ若かったのである。前にかいたように、そのとし、芥川は、かぞえどし、二十九歳であり、私は、三十歳であった。
 私は、そのゆめ子をモデルにした小説のなかに、「芸者ゆめ子はその時二十一歳であつた。顔はいくらかしやくれ顔で、色は黒いかと思はれる、お世辞にも美人とはいひにくいが、顔をしじゆううつむきかげんにしてゐる、口数はすくない、髪は、すこし癖があるので、ゆひたての時でも、島田の髷がいつでもこころもち投げやつたやうに見えるのさへ気にいつたことであつた。鼻筋がうすく、鼻ぜんたいが顔のわりに小さすぎ、口もとがすこつりひにふくれてゐて、目にたつ二三本の金歯のほかに、二三本の味噌歯みそっぱさへある、つまり、反歯そっぱなのであるが、さういふところさへ気にいるのである、」という一節がある。しかし、これは、小説(しかも、あまい小説)であるから、もとより、絵空事えそらごとである。『絵空事えそらごと』とは、いうまでもなく、「絵に作意をくわえ実物を姿致あるように書きなす」という程の意味である。『古今著聞集』のなかに、「ありのままの寸法に書き候はば、見所みどころなきものに候ふ故に、絵空事とは申すことにて候ふ」とあるけれど、今は、『絵空事』などといってはいられない、なぜなら、その小説においてはずいぶん絵空事をつかうけれど、実生活のあるところにおいては、そのみちの『猛者もさ』である芥川が、あのときどき三角に見える、するどい光りをはなつ、目をもって、「ありのまま」のゆめ子を見る事になったのである。――と、こんな事をおもえば、私は、おちおち、寝られないのである。しかし、そのうちに、私は、眠りいってしまった。
[やぶちゃん注:「姿致」は容貌挙止動作。
「姿致ある」で美景美貌にして優雅にして趣のあることを言う。
「『古今著聞集』のなかに……」以下の引用は、同書の巻第十一画図の大系本番号三九六の「鳥羽僧正、侍法師の繪を難じ、法師の所説に承伏の事」の一節。「鳥獣戯画絵巻」等の作者と伝えられる画僧鳥羽僧正覚猷かくゆうの弟子の侍法師は僧正にも引けを取らない達筆であった。僧正は幾分の嫉妬もあってか、ある時、彼の描いた絵の中に相手に突き刺した短刀が背中に柄を握った拳ごと突き出ているのを見つけ、これ瑕疵と幸いに、こんなことは誇張した言説としては言うが、「あるべくもなき事なり。かくほどの心ばせにては、繪かくべからず」と咎めた。その法師は居ずまいを正すと、僧正のさらに畳み掛けた叱責をものともせず、「さも候はず。古き上手どもの書きて候おそくづの繪などを御覧も候へ。その物の寸法は分に過ぎて大きに書きて候ふ事、いかでかまことにはさは候べき。ありのままの寸法にかきて候はば、見所なきものに候ふゆゑに、繪そらごととは申すことにて候。君のあそばされて候ふものの中にも、かかる事はおほくこそ候ふらめ」と臆することなく答えた。僧正はこの真理の表明には黙るほかなかったという。この「おそくづの繪」とは「偃息図おんそくづ」(寝て休む絵図の意)の転訛したもので、男女の交合を描いた春画のことである。宇野は前話の「ハリカタ」をも受けて、この話柄を展開しているのである。上手い。]
 やがて、越後の女中におこされた時は、すでにあかりがつき、火燵の上の台の上には夕方の食事の用意もしてあった。そこで、私たちは、さっそく、火燵をはさんで、食事をしながらも、芥川は、なにかおちつかない様子で、たえず目をきらきらさせていた。
 食事がちょうどおわった頃に、しずかに襖のあく音がした。ゆめ子は、「こんばんは、……」とほとんど聞きとれないような声でいって、座敷の入口にすわって、両手をついて、あたまをさげた。それから、しずかに顔あげて、私がいたのを見ると、
「あらッ、おめずらしい、……」と、いいながら、立ちあがって、火燵の方にちかづいて来た。
 そこで、私が、紹介するつもりで、火燵に当ったままで、芥川を指さしながら、「この……」といいかけると、芥川は、いきなり、火燵から出て、すこしはなれてすわっているゆめ子の方にむかって、宿屋の丹前姿たんぜんすがたのままで、ちゃんと、端坐たんざして、両手を畳の上について、丁寧にあたまをさげてから、あらたまった声で、
「……お名前は、かねて、……宇野の小説で……それで、……」と、いった。
 ゆめ子は、ちょっと妙な顔をしたが、やがて、少し顔を赤らめた。それから、だまって、くせで、うつむきがちに、すわっていた。
 芥川は、ふだん、その家の家人かじん悪口わるくちを、かなり辛辣な悪口を、いっていても、その家を訪問した時は、玄関の部屋にあがると、すぐ、端坐して、そこの家人にむかって両手を畳の上について、丁寧にあたまをさげて、挨拶する癖があった。それは、むろん、私の家に来た時も、いつも、そうであった。であるから、どこの家行っても、そうであったにちがいない。この事について、岡本かの子は、ある小説のなかで、「浅いぬれ縁に麻川氏[芥川のこと]は両手をばさりと置いて叮嚀にお辞儀した。仕つけのい子供のやうなやうなお辞儀だ、」と述べているが、この見方ははっきりまちがっている。これは、芥川の、好みであり、趣味であるのだ。――
[やぶちゃん注:「岡本かの子は、ある小説のなかで、……」は岡本かの子の実質的文壇デビュー作ともいうべき昭和十一(一九三六)年の「鶴は病みき」の冒頭、主人公の「鎌倉日記」の引用の一節で、芥川龍之介をモデルとした麻川と初めて挨拶するシーンである。以下に引用する(引用は筑摩全集類聚版別巻を用いたが、恣意的に正字に直した)。
 某日。――主人が東京から來たので、麻川氏はこちらの部屋へ挨拶に來た。庭續きの芝生の上を、草履で一歩一歩いんぎんに踏み坊ちやんのやうな番頭さんのような一人の男を連れて居た。淺いぬれ緣に麻川氏は兩手をばさりと置いて叮嚀にお辞儀をした。仕つけの好い子供のやうなお辞儀だ。お辞儀のリズムにつれて長髪がさつと額にかかるのを氏は一々掻き上げる。一藝に達した男同志――それにいくらか氣持のふくみもあるやうな――初對面を私は名優の舞臺の顏合せを見るやうに默って見て居た。
宇野の引用は古文にしろ、現代文にしろ、表記や漢字使用がかなり正確で、引用に際しては、記憶に頼らず(一見すると彼の書き方は記憶に頼ったもののようにしか見えないが)、出来る限りの原本確認をしているものとは思われる。しかし、それでも宇野の思い込みによる誤りは思ったより多い(今回のテクスト化で分かったが、特に宇野が自身を以って断定的に言っている部分に限って逆に要注意である)。私が指摘した以外にもあろうと思われるので注意されたい。]
 さて、ゆめ子が来ても、ゆめ子は無口なたちであり、私も、ひさしぶりでゆめ子に逢ってみても、べつにこれという話もなく、ふだん饒舌の芥川も、この時はただ、ときどき、ゆめ子の方を、じろじろと、見るだけでほとんど物をいわなかった。
 ところが、芥川と私が、なにか、ぽつりぽつりと、話をして、それが、ちょっととぎれた時、めずらしく、上諏訪のナニガシ劇場で、活動写真をやっている、という話をした。
 すると、芥川は、すぐ、はずんだ声で、
「行こう、」と、いった。
「行こう、」と、いって、私は、立ちあがった。
きみも行きませんか、」と、芥川は、つづけて、ゆめ子の方を見ながら、いった。
「……お供いたしましょう、」と、ゆめ子は、立ちあがって、私の方を吾がら、「ちょっと、うちにかえって、支度したくしてまいります、」と、いって、部屋を、出て行った。
 ゆめ子の姿が座敷のそとに消えると、芥川は、私の方にむかって、
「僕たちも、すぐ、支度をしようか、……なかなかいいじやないか、……僕は、ああいうタイプの顔がすきだよ、」と、いった。
 その時、はるかしたほうで、(私たちのあてがわれた部屋は二階であったから、したの玄関の前あたりで、)コチ、コチ、コチ、というような、かたい、音が、小刻こきざみに、連続的に、した。そうして、その昔は、しだいに、遠ざかって行った。
「……気味がわるい音だね、あれは、なんの音だ。」
「……ゆめ子の足音だよ、……君の『おかぶ』をとっていうと、蕪村の『待つ人のあしおと遠き落葉かな』の、あの足音だよ。……しかし、あれは、落葉でなく、道がこおっているから、あんな音がするんだよ。…主のへんでは、今日きょうは、寒いとか、つめたいとか、いうことを、今日はみる、というよ。『しみる』というのは、『こおる』という意味だよ。……ここは、軽井沢をのぞくと、信州で、一ばん寒くてつめたい所だそうだ、……きみ、これから、――むろん、自動車だが、――上諏訪かみすわまで、出かける勇気があるか、」と、私は、芥川のまねをして、嫌がらせをいってみた。
 しかし、芥川は、言下に、
「むろん、行くよ、……きみ早く支度をしたまい、…自動車は、ぼく、その卓上電話、帳場にかけて、たのむから、……」と、せかせかした調子で、いった。
 私は、支度をしながら、ふと、いまさき、芥川が、「いいじゃないか、……僕は、ああいうタイプの顔がすきだよ、」といったことを、思い出した。そこで、私は、著物をきかえながら、芥川に、話しかけた。
「……僕は、君のすきな女を二三人ほど知っているが、……ね、芥川、君は、とおりの型の女が、すきだね、つまり、ちゃんとした、典型的な、瓜核うりざね顔の女と、すこしかたちのくずれた、たとえば、古今集のなかにある、あの『さそふ水あらばいなんとぞ思ふ』とでもいうような顔をした女と、――君のすきなのは、このふたつの型だよ、……しかし、どちらかといえば、君はデッサンのくずれた型の方が、すきだよ。……僕は、あまり、ちゃんとした、典型的の方は、このまないね。……それから、僕が、かりに、ロマン派とすると、君は、なかなか、実行派のようなところもあるね。……」
「ふん、……」
 そこへ、すうッと、襖があいて、簡単なよそ行きの支度をした、ゆめ子が、はいって来た。それとほとんど同時に卓上電話のベルがなりひびいた。自動車が来たのである。
[やぶちゃん注:「古今集の中にある、あの『さそふ水あらばいなんとぞ思ふ』……」は、「古今和歌集」(国歌大観番号九三八)の小野小町の歌、
   文屋康秀が三河のぞうになりて、
県見あがたみにはえいでたたじやと、
   いひやれりける返り事によめる
わびぬれば身をうき草の根をたえてさそふ水あらばいなむとぞ思ふ
を指す。三河国国司となって下向することとなった旧知の六歌仙の一人文屋康秀が「一緒に田舎の物見遊山に出掛けられませぬか」と戯れたのに対する返歌で、
――もう年も経て侘しく暮らししておりましたから……「浮き」草の根が絶えたように、おが身を「憂し」と思うておりましたところでございますから……誘うところの水があれば、浮き草の根が切れて水に流れて漂うごと……私も誘って下さるお方のあるのなら……ともに都を出て行かんと思うておりまする……
といった意味である。後の小野小町の零落回国流浪伝説のルーツとされ、宇野はそこに年増女の妖艶なちょっと崩れた、メンタルに危ない感じを表現したのであろう。宇野の言は美事に芥川の恋愛感情に於けるアンビバレツを言い当てている。後の「越し人」片山廣子は、そうした後者の中でも究極の例外的美神であったのだと、私は思うのである。]
 二階から玄関におりると、一に、身をきるような冷たさを、感じた。
 自動車にのる時、芥川は、運転手に、湖水は右側だ、と聞くと、すぐ、私の方をむいて、「君、さきにのりたまえ、」といい、私のあとから、ゆめ子をのせ、自分は、最後に、乗りこんだ。
 やがて、自動車は、走りだした。下諏訪の町をはずれると、ずうッと、上諏訪の町にはいるまで、道は、湖水に、そうている。田舎のほろのボロ自動車であったから、やぶれた幌のすきから、冷たい氷のような風が、容赦ようしゃなく、吹きこんでくる。ふと、気がつくと、自動車に乗りしなに、芥川が、運転手に、湖水が右側であることを、聞いておいて、私を、ていさいよく、先きに乗せたのは、自分が左側にのりたいためであったのだ。
 ところで、自動車にのってからまもなく、ゆめ子のからだが、どういうわけか、私の体を、押しはじめて、それが、しだいに、ひどくなってきた。はじめのうちは、寒さと冷たさのために、体をおしつけてくるのであろう、とぐらいに、私は、思っていた。ところが、ゆめ子が私を押してくるのがひどくなるとともに、自動車にのってから妙にしゃべりはじめた芥川の饒舌がはげしくなってゆくのに、私は、ふと、気がついた。
 しかし、その時の芥川の『おしゃべり』は、あまり取りとめがなかったので、殆んどまったく覚えていないが、唯、「……僕の尊敬している島木赤彦の故郷は、たしかこのへんだ、高木村というんだ、おい、宇野、『雪ふれば山よりくだる小鳥おほし障子のそとに日ねもす聞ゆ』――どうだ、こういう歌は、茂吉でも、よめないね、……」というような事だけが、記憶に、残っている。
[やぶちゃん注:「島木赤彦の故郷は、たしかこの辺だ、……」島木赤彦(明治九(一八七六)年~大十五(一九二六)年)は長野県諏訪郡上諏訪村角間(現在の諏訪市元町)に旧諏訪藩士の子として生まれ、後に同郡下諏訪町高木村(現在の西高木)に住した。「雪降れば」の短歌は大正九(一九二〇)年刊の第三歌集『氷魚』に所収するもの。]
 が、それ以上に記憶にのこっているのは、ゆめ子は決してそういう事をするひとではない、と思っていたのが、ゆめ子が、はじめ私を押しはじめ、それがしだいにひどくなったのは、芥川が、しだいしだいに、ゆめ子に、からだせつけだしたから、とわかった事であった。
 ところで、この、自動車の中で、芥川がゆめ子を押したのは、いま述べたとおり、記憶によって、あとで、さとったのであるけれど、ナニガシ劇場にはいってからは、私は、その場で、芥川の芥川流の『やりかた』を、見たのであった。
 ナニガシ劇場は、名はいかめしいけれど、ときどき、田舎まわりの役者が、三日みっか五日いつかぐらい、出演する、古風な芝居小屋である。それで、むかしの劇場のように、平土間ひらどまとか、桟敷さじきとかがあって、それらには『ます』があった。そうして、それぞれの『桝』の中には、まんなかに、櫓火燵やぐらごたつ、がおいてあり、その櫓火燵には蒲団がかけてあり、その櫓火燵のまわりには座蒲団がしいてある。
 私たち三人は、その櫓火燵を、三方から、かこんで、火燵にあたりながら、活動写真を見た。
 芥川は、ナニガシ劇場にはいってからも、一人ひとりで、はしゃいでいた。たとえば、写真の切れ目ごとに、例の鼻にかかる声で、「君、火燵にあたりながら活動写真を見る、また、楽しからずや、というのは、どうだ、」とか、「ほうぼうを持ちまわった、雨の降るような、ふるびた写真は、かえって、グロテスクなところがあって、いいね、」とか、いうのである。
 私は、もともと、火燵がきらいであったから、はじめから、あまり、火燵のなかに、手をいれなかった。芥川も、さきにいったように、ちょっと行儀のよい男であったから、やはり、あまり火燵の中に手をいれなかった。しかし、ひどいしょうであり、うまれた時から火燵にしたしむ国でそだった、ゆめ子は、はじめからしまいまで、火燵に、手をいれどおしであった。
 ところで、その劇場の中でも、私が一番なやまされたのは、宿屋を出てからの芥川の『おしゃべり』であった。が、それも、相手あいてにしないことにきめてからは、なれてしまった。ところが、それとともに、ふと、気がついたのは、ますにはいってからは、芥川が、妙なおしゃべりをする時、かならず、火燵の中に、手を、入れる事であった、そうして、それは、きっと、場内が、暗くなる時であった。それで、それに気がついた時、さすがの私も、ははあ、芥川は、この火燵のなかで、……と、さとったのである。
 ――ここまで書いてきて、私は、不意に、ハカバカしい気がしてきた。それは、これまで私が向きになって述べてきた事は、(すなわち、あの『生駒』の一件も、あの『張型』の一件も、このゆめ子との自動車や劇場のなかでのいも、)みな、芥川の一片いっぺんの好奇心(ともうひとつのもの)のあらわれで、『あとは野となれ山となれ』のかんもあり、『後足あとあしで砂をかける』ようなかたちもあるからである。もしそうであるとすれば、私は芥川に「シテヤラレタ」事になるのである。
 しかし、また、芥川が、あの『好奇心』を、ちょいとたしただけでめずに、どこまでも進めて行くような人であったら、と、私は、せつに、思うのである。それは、芥川の多くの小説が、やはり、『好奇心』をちょいとたしたようなところもあるからである。(こういう事と話はまったくちがうが、芥川が、ある時、例のにやにや笑いをしながら、「君なら感づいたかもしれないが、あの『枯野抄』に出てくるいろいろな人物は、漱石門下だよ、」と、いったことがある。)
 ところで、さきに述べた芥川の『好奇心』のことを書いた時、ふと、(これも『好奇心』とは別の話であるが、)思い出したのは、S女史の事である。S女史とは、小穴隆一が、『二つの絵』という文章のなかで、たいへん気にして書いている女であり、芥川のかかりつけの医師であり、親友の一人であった、下島 勲が、『訂しておきたいこと』という文章のなかで、「問題のS子夫人については、私は稍や徹底的に追求もし、(情事の状況まで、)話し合ひもしたもので、……」と書き、十数年前に、岡本かの子が、『鶴は病みき』のなかに書き、近頃、(といって、一昨年と昨年、)滝井や廣津が小説に書いた、謎の謎子の事である。――この謎の謎子の事は、後に、くわしく書くつもりであるが、この謎の謎子その他の事をおもえば、芥川という人は実に気が弱かった。この気が弱いという事は芥川のもっとも大きな欠点のひとつであった。(気が弱い、といえば、それぞれ、ちがった形で、菊池も、久米も、気の弱い人である、と、私は、思う。)
[やぶちゃん注:「S女史」「S子夫人」「謎の謎子」は勿論、芥川の愛人にしてストーカーであった歌人秀しげ子のことである。]
 さて、芥川は、さきに引いた、十二月二十四日に、佐佐木にあてた便りの中に、『白玉のゆめ子を見むと足びきの山の岩みちなづみてぞ来し』と、これだけ、書いて、そのあとに、「二伸 但し宇野僕二人この地にゐる事公表しないでくれ給へ」と書いている。これは、いったい、なんであろう。芥川は、この便りを出した二日前の晩に、佐佐木と一しょに生駒山の中腹の妙な茶屋にとまっているではないか。そうして、佐佐木はおそらく芥川と私が行動を共にしている事を知っている筈ではないか。しかし、私は芥川のこういう事を、単に『児戯にひとし』などとは、思わないのである、思いたくないのである。私は、こういう芥川をかんがえると、まったく涙ぐましくなるのである。
 また、小穴の『二つの絵』の中に、こういう、(つぎのような、)一節があることを、私は、思うのである。

(昔諏訪から帰った田端にてである。)「諏訪に〇〇〇といふ芸者がゐるが、これは宇野の女だが、君その頼むから諏訪に行つて、君がこれをんとか横取よこどりしてくれまいか。かねは自分がいくらでもすよ。」
[やぶちゃん注:本作の後に再合本単行本化されたものと思われる昭和三十一(一九五六)年刊行の「二つの繪」(宇野が言うのは、『中央公論』に連載されたとする先行する同名の原「二つの繪」である)の「宇野浩二」では、以下のように記されている。
「諏訪にゆめ子といふ(宇野の小説のヒロインとなった人、)藝者がゐるが、これは宇野の女だが、君、その賴むから諏訪に行つて、君がそれをなんとか横取りしてくれまいか、金は僕がいくらでも出すよ。」
とある。因みに、この昭和三十一(一九五六)年版「二つの繪」の、この直前の芥川の会話には、芥川が諏訪で宇野の机に宇野宛の秀しげ子(『〇〇〇子』『(□夫人)』と伏字となっているものの一目瞭然)の手紙があり、宇野としげ子が関係を持っていたと告白した記載が載る(秀しげ子と南部修太郎との三角関係は周知であるが、これは驚天動地の記載で、後に宇野は厳にこれを否定している。とすれば小穴の記載は嘘か勘違いである。そもそもこの小穴の文章自体が、次で宇野も言うように表現が捻じれて意味がとりにくく、日本語としては重度の悪文に属するものである)。因みに、この小穴の「宇野浩二」は後文を見ると、この宇野浩二の「芥川龍之介」を読んで、改稿されたものであることが分かる。]

 この小穴の『二つの絵』は、

 あはれとは見よ
 自分は裟婆にゐてよし人に鞭打たれてゐようとも君のやうに、死んで焼かれた後の□□□を、「芥川さんの聡明にあやかる。」とて×××種類のフアンは一人も持つてゐない。それをわづかに、幸福として生きてゐる者だ。
        昭和七年秋 隆一
[やぶちゃん注:この『序(のようなもの)』(以下の宇野の言)は、後の昭和三十一(一九五六)年版の「二つの繪」には(ざっと見たところでは)見当たらない。伏字は類推が出来ない。『中央公論』に連載されたとするプロトタイプ「二つの繪」をお持ちの方、この表記でよろしいか、また伏字の推定が出来る方、是非とも御教授を乞うものである。【二〇一七年二月追記】これは小穴隆一の後の「鯨のお詣り」の方の「二つの繪」の冒頭であった。]

という序(のようなもの)を読んでも察せられるように、一種かわった文章であるばかりでなく、意味のわからないようなところや、わざとわからなく書いたように思われるところや、いろいろで、「中央公論」に連載ちゅうに、読者に、ふしぎな好奇心をいだかせたものであるから、ここに引用したものも、半分ぐらい筆者の創作のようにも思われるが、……
 ところで、話は、また、かわるが、私は、昭和十年頃、飛騨の高山に行く途中、十五年ぶりぐらいで、上諏訪に寄った時、ゆめ子が上諏訪にこして来ていたことを知ったので、町の料理屋でゆめ子と食事をしながら、いろいろな話を、とりとめなく、しているうちに、ふと、芥川がふいに死んだ話が、出た。その時、ゆめ子が、ふとらした言葉から、私が、鎌をかけるつもりなどでなく、「芥川の手紙も取ってある、」と聞くと、ゆめ子は、ただ、「……ええ、」と、云った。しかし、その時は、そのままで、わかれた。
 ところが、その時から、また、十四五年のち(昭和二十三年)の秋、私は、富士見に行った時、上諏訪に三晩みばんほどとまったので、ふと、思いたって、ゆめ子を、たずねた。その時は、ゆめ子は、もう芸者をやめて、二階を人に貸して、一人ひとりで、くらしていた。二人ふたりの子をなくし母に死にわかれたからである。私がはじめてゆめ子に逢った時、ゆめ子は、かぞえどし、二十一歳であったが、その時は、五十歳になっていた。その時、私は、やっと、ゆめ子に、大正九年の十一月の末頃、芥川がゆめ子に出した手紙を、見せてもらった。
 その手紙は、ぜんたいが赤い色の、(べににちかい赤い色の、)巻き紙に、書かれてあった。そうして、その手紙のなかに書かれてある事は、ただ、私と一しょに諏訪に行った時の礼状のようなものであるが、そのなかには、「あんな楽しいことはありませんでした、」とか、「僕はこの世界にあなたのやうな人がゐるとは、……」とか、「僕はただあなたが僕のそばにすわつてゐて、ときどき茶をたててくださるだけで満足です、」とか、いうような、うれしがらせのような、文句が、はいっていた。
 しかし、おもしろいのは、このなかの、「茶をたてる」というのは、私が、抹茶がすきで、その前の年あたりにゆめ子を女主人公にして書いた小説のなかに、よくゆめ子に茶をたててもらった、という事を、書いたので、芥川が、それを応用しているところである。それから、おなじ手紙のなかに、「この手紙を出すことは宇野が知つてをります、」という文句があるが、これは、まったく、私のあずかり知らぬところであり、嘘である。
[やぶちゃん注:実はこの書簡は旧岩波版全集に所収している(旧全集書簡番号八一二)。本名は原とみ、本文では宇野は自作の『ゆめ子もの』(「人心」「一と踊」「心中」等)に合わせてあくまで「ゆめ子」と表記しているが、本当の源氏名は「鮎子」であった。以下に、活字化する。大正九(一九二〇)年十一月二十八日附、原とみ宛である。

拜啓
先日中はいろいろ御世話になりありがたく御礼申上げます 今夕宇野と無事歸京しました 他事ながら御安心下さい
あなたの御世話になつた三日間は今度の旅行中最も愉快な三日間です これは御せいじぢやありません實際あなたのやうな利巧な人は今の世の中にはまれなのです 正直に白狀すると私は少し惚れました もつと正直に白狀すると余程惚れたかもしれません但し氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました それでも顏が赤くなつた位ですから可笑しかつたら澤山笑つて下さい
その内にもつとゆつくり十日でも一月でも龜屋ホテルの三階にころがつてゐたい氣がします ああなたは唯側にゐて御茶の面倒さへ見て下さればよろしい いけませんか どうもいけなさそうな氣がするため、汽車へ乘つてからも時々ふさぎました これも可笑しかつたら御遠慮なく御笑ひ下さい
こんなことを書いてゐると切がありませんから この位で筆を置きます さやうなら
   十一月廿八日                               芥 川 龍 之 介
  鮎 子 樣 粧次
 二伸 いろは單歌「ほ」の字は「骨折り損のくたびれ儲け」です 今日汽車の中で思ひつきました
                                        龍 之 介 拜

宇野が指摘する「この手紙を出すことは宇野が知つてをります」という嘘は書かれていない。「氣まりが惡いから宇野には少し惚れたと云つて置きました」の勘違か、これをそのような意味で嘘といったのであろうが、私にはこれは問題視するような虚偽記載とは感じられないが、如何? なお、この書簡によって本文の旅館名「万屋」は仮名で、実は「龜屋」であることが分かる。……にしても……芥川のラブ・レターは実に巧みではないか。]
 ついでに、もうひとつ述べると、芥川は、私の『我が日我が夢』という諏訪を題材にした小説を六篇あつめた連作の本の序文の一ばんあとにつぎのように、書いている。

 最後に僕の述べたいのは僕も亦一度宇野君と一しよにこの本の中の女主人公――
夢子につてゐることである。夢子は実際宇野君の抒情詩を体現したのに近い女だつた。僕はこの悪文を作りながら、甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかゝつた紅葉と一しよに夢子をともなつた数年前の宇野浩二君を思ひ出してゐる。
[やぶちゃん注:本序文は現在までに電子テクスト化されていないので、ここに全文を示す。底本は岩波版旧全集を用いた。

「我が日我が夢」の序   芥川龍之介

 宇野浩二君の「我が日我が夢」に序するのに當り、先づ僕の述べたいのは君の諧謔的抒情詩の解されてゐないことである。宇野君はいつも笑ひ聲に滿ちた筆を走らせてゐる爲に往々戲作者などと混同され易い。しかし君の諧謔的抒情詩は君以前にはなかつたものである。(恐らくは又君以後にもないこととであらう。)宇野君はいつか君自身の抒情詩を輕蔑する口ぶりを洩らしてゐた。勿論君の輕蔑するか否かは自由であるのに違ひない。けれどもかう云ふ特色は確かに宇野君以前には誰も持つてゐない特色である。讀者はこの本の中に度々常談にぶつかるであらう。同時に常談の後ろにある戀愛家の歎聲にもぶつかるであらう。
 それから僕の述べたいのは宇野君の文藝的地位である。君はこの譜諺的抒情詩の爲に所謂「文藝の本道」を踏んでゐないやうに見られ易い。僕は所謂「文藝の本道」とは何であるかを疑つてゐる。が、たとひ宇野君は所謂「文藝の本道」を外れてゐたとしても、それは君の患ひとするに足りない。「正にして雅ならざるもの」よりも「正ならずして雅なるもの」を高位に置いて顧みなかつた芥舟學畫編の作者の見識は文藝の上にも通用するであらう。僕は宇野君の「正なること」よりも「雅なること」を進んで行けば善いと思つてゐる。
 最後に僕の述べたいのは僕も亦一度宇野君と一しよにこの本の中の女主人公夢子に會つてゐることである。夢子は實際宇野君の抒情詩を體現したのに近い女だつた。僕はこの惡文を作りながら甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかかつた紅葉と一しよに夢子を伴つた數年前の宇野浩二君を思ひ出してゐる。宇野君は未だにあの時代の元氣を持つてゐるかも知れない。しかし僕はいつの間にかすつかり無精になつてしまつた。「夢子」は女主人公の名だつたばかりではない。或は又僕等の夢の人間に落ちたものだつたのであらう。 (昭和二年五月七日)
底本後記によれば、本作は昭和二(一九二七)年六月発行の『文藝春秋』に掲載され(後に「文藝的な、餘りに文藝的な」の「十」となる「二人の紅毛畫家」が続けて掲載されている)、後の芥川自死の直後である昭和二年八月十日に新潮社から刊行された宇野浩二著『我が日・我が夢』に「序」として収められた。「芥舟學畫編」は「かいしうがくがへん(かいしゅうがくがへん)」と読み、清代中期の画家沈宗騫しんそうけんが一七八一年に刊行した画論書である。因みに、芥川龍之介はこの文章を認めた時にはとうに自死を決意していた。本文の末尾には遺書などに現れる共通した末期の眼の雰囲気が如実に表れているのが見て取れる。]

 これは、昭和二年五月七日の日づけになっているから、芥川が世を捨てたつき半ほど前に書いたものである。それはそれとして、この時分までに私がゆめ子と一しょにあるいたのは、下諏訪の諏訪神社秋社の境内を横ぎり、南側の石段をおり、万屋の間だけである、しかも、その時、ゆめ子は、二歳ふたつになる子をいていたのである。それが、海抜八千四百七十八尺の、「甲斐の駒ケ嶽に下りた雪やもう散りかゝつた紅葉と一しよに……」という事になるのであるから、話にもなにもならぬのである。しかし、おなじような事を幾度も述べるようであるが、芥川は、『話にならぬ話』を小説にしたのである。それから、ついでにいえば、芥川は、創造の才能がとぼしかったけれど、平安朝時代の物語(たとえば、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、その他)から、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、『地獄変』、『往生絵巻』、その他を、江戸時代を背景にして、『枯野抄』、『或日の大石内蔵助』、『戯作三昧』、その他を、明治の開化期を背景にして、『開化の殺人』、『舞踏会』、『お富の貞操』、その他を、キリスタンの文学を元にして、いくつかのキリスタン物を、工夫し、作り出す、というような才能には、実にめぐまれていた。そうして、それが、小説のヨシアシは、別として、芥川の押しも押されもせぬ才能であり、これが芥川の小説が生前から死後二十四五年になる今日こんにちまで、多くの人に読まれている所以であろう。(しかし、なにか『たね』⦅つまり、平安朝の話、その他⦆がなけれは、書けなかったようなところが、芥川の致命傷にちかいものであった、なぜなら、芥川はそういう種をつかいつくしてしまって、⦅それだけではないけれど、⦆いきづまってしまったからである。)

 さて、芥川は、前からすこしずつ述べたように、そういう事やする事に、ときどき、人を迷わせる事があるように、書く事にさえ人を迷わせるような事が、しばしば、ある。これは、芥川自身がたくまないのに、そういう事もあるけれど、それをはっきり意識してやる事もあるのである。
 それらのなかふたつの事件について述べよう。
  その一つは、『奉教人の死』の一件である。
 『奉教人の死』は、二十五六枚の短篇ではあるが、芥川の数おおいキリスタン物のなかで、まず最初の作であり、すぐれた小説のひとつである。しかし、この悪文をよむ人は、この小説が大正七年の作であることを、あたまにいれていただきたい。そこで、この小説について述べると、まず、「……これは或年あるとし御降誕の祭の夜、その『えけれしや』の戸口に、餓ゑ疲れてうち伏しつたを、参詣の奉教人衆が介抱し、それより伴天連ばてれんの憐みにて、寺じちゅうに養はれることになつたげでござるが、……」というような、まず才気のある、文体にも、その時分の一部の読者は、目をみはった。それに、たねのある事は知らないから、極めて変化のある異様な物語にも、この小説は、おおげさにいえば、その頃の一部の読者の度胆をぬいたのである、(いや、年わかくて高名になった芥川は、読者の度胆をぬくつもりで、書いたのであろう。)そうして、芥川は、更に調子にのって、この小説のおわりの方に、「予が所蔵にかかる、長崎耶蘇会出版の一書、題して『れげんだ・おうれあ』と云ふ。蓋し、「LEGENDA AUREAレゲンダ・アウレアの意なり。……体裁は上下二巻、美濃紙摺草体交みのがみずりさうたいまじり平仮名文にして、印刷甚だしく鮮明を欠き、活字なりや否やをあきらかにせず。上巻の扉には、羅甸字ラテンじにて書名を横書よこがきし……」などと書いている。この『奉教人の死』は、この『れげんだ・おうれあ』の下巻の第二章に依る、と書いている。
 ところで、この時分はキリスタン研究の草分け時代であったから、専門の学者たちは、キリスタン関係のめずらしい本を、血眼ちまなこになってさがしまわり、裕福な人たちは、千金をかけても、とあさりまわっていた。こういう時であったから、この芥川の『奉数人の死』の元になった『れげんだ・おうれあ』とはどのような本であろう、と、たちまち、専門家たちの注意をひいた。その中で、この『れげんだ・おうれあ』に、うっかり、興味を待ったのは、碩学、内田魯庵であった。魯庵は、その時分の事を、ずっと後に、『れげんだ・おうれあ』という文章のなかで、つぎのように述べている。

 ういふ最中に現れたのが芥川君の『奉教人の死』であつた。篇末著者が所蔵の切支丹本『れげんだ・おうれあ』から材を取つたといふ記事を見た切支丹党は恰もメシヤの再臨を聞いたやうなショックに打たれた。今思ふと馬鹿々々しいが、何しろドコかにマダ世に知られない切支丹本が秘襲されてゐてイツかは世に出る時が必ず有るに違ひないと信じ切つてゐた最中だから『れげんだ・おうれあ』なぞといふツイぞ聞いた事のない書名を少しも疑はずに逆上のぼせあがつたので、アトになつてこそいろいろ疑問も生じたが、これを聞いた瞬間は疑ふ余地もなく夢中になってしまつた。それまで芥川君とは面識もなく書信も通じた事さへなかつたのだが、恁うなつては矢も楯もたまらず、即時に飛札を芥川氏の寓居の鎌倉へ飛ばして『れげんだ・おうれあ』の内見を申しこんだ。
 中一日おいて折返して来た返事をワクワクしながら取る手も遅しと封を切ると、サラサラと書流した文句は、右は全く出鱈目の小説にて候。思はずアツと声を上げて暫らく茫然してしまつた間抜けさ加減……

 この年、内田は五十二歳であり、芥川は二十七歳である。が、としなどはどうでもよい。私は結果からいうのではないが、大袈裟にいうと、この『れげんだ・おうれあ』の一件は、ある意味で、芥川の一世一代の失敗の一つである、と思う。その理由は簡単に述べられないから別に書くとして、たとえば、何でもない事のようであるが、大正七年九月二十二日に、芥川が、鎌倉から小島政二郎にあてた手紙のなかに、「『奉教人の死』の『二』はね内田魯庵氏が手紙をくれたのは久米から御聞きでせう所が今日東京にゐると東洋精芸株式会社とかの社長さんが二百円か三百円で譲つくれつて来たには驚きました随分気の早い人がゐるものですね出たらめだつてつたら呆れて帰りました、」と書いている。芥川が、小説を作るために、『れげんだ・おうれあ』という世にない本をあるように書く事は決してわるいことではない。しかし小説で、世にない本をあるように書いたために、矢も楯もたまにあると思って、「欠も楯もたまら」ない思いで手紙を出した真面目な好学の徒、(しかも先輩である、)内田魯庵に一杯くわした事を、おもしろがって、久米に報告したり、けっきょく無邪気な会社の社長にもー杯くわした事を、手をうつように、よろこんだり、その上それらの事を小島に報告してホクソエんだり、した事は、その事を知った時は、私は、なんともいえぬイヤアな気がしたが、しかし、こういう事に、(こういうイタズラに、)興をおぼえる(としたら、)芥川を、今になって、思うと、私は、なんという理由なしに、失礼な言葉ではあるが、なんともいえぬ悲しさと哀れさのようなものを、しみじみと、感じるのである。
[やぶちゃん注:「奉教人の死」について、実は芥川は二度我々を騙している――これには実は種本が存在し、それは明治二十七(一八九四)年秀英社刊の斯定筌(スタインシェン Michael Steiche)の「聖人伝」所収の「聖マリナ」であること(原典は私の電子テクスト『斯定筌( Michael Steichen 1857-1929 )著「聖人傳」より「聖マリナ」』で読むことが出来る)――のであるが、それでも尚且つ私は(私は勿論、宇野が綴っている魯庵や某好事家社長の話も知っている)、ここで宇野のように芥川龍之介に対して『イヤアな気』は全くしない、ということだけは表明しておきたい。文芸、いや芸術によって構築された世界の内包と外延はテクストのみに留まるものではない。いや、「奉教人の死」のストーリーのどんでん返しは作品の中にのみ留まるものではないのである――これらのすべての総体が『芥川龍之介の稀有の名作「奉教人の死」という現象そのもの』なのである、ときっぱりと言明するものである。私は「奉教人の死」を芥川龍之介の一読、忘れ難い代表作の一つに数えることに、全く躊躇しない。]

 芥川がいくつか残した遺書のようなもののなかに、『或旧友へ送る手記』というのがある。この『或旧友』は久米正雄であるという事になっている。
 さて、その『或旧友へ送る手記』のなかに、つぎのようなところがある。

 僕はこの二年ばかりの間は死ぬことばかり考へつづけた。僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である。マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに死に向ふ道程をゑがいてゐるのに違ひない。が、僕はもつと具体的に同じことを描きたいと思つてゐる。
……僕は冷やかにこの準備を終り、今は唯死と遊んでゐる。このさきの僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう。
[やぶちゃん注:言わずもがなであるが、「……」は宇野による「或舊友へ送る手記」本文中核部の省略を示す。]

 聞くところによるとこの『或旧友に送る手記』を、当日、(つまり、昭和二年七月二十四日、)あつまった友人がじゅんじゅんに読んでいた時、だれも、かれも、『マインレンデル』という人を知らないので、マインレンデルとは、どういう人であろう、と頸をひねった、という。(この事ははまちがっていた。というのは、小島政二郎の『七月二十四日』という文章のなかに、まったく違うことが書いてあるからである。が、こういうふうに書かないと、この文章がすすまないから、このままにしておく。)
 ところで『芥川龍之介研究』という題で数人の人たちが座談会の形で語りあった時の速記を元にしたものが私の手もとにあって、そのなかに『マインレンデルについて』というのがあるから、それよって私の述べたいと思うことを書いてみよう。(なお、その座談会の顔ぶれは、廣津、久米、その他である。)
 まず、必要なところだけ、抜きながら、うつしてみよう。
[やぶちゃん注:『芥川龍之介研究』これは恐らく昭和十(一九三五)年七月の『新潮』に掲載された作家研究座談会「芥川龍之介」と思われる。出席者は上司小剣・内田百閒・久米正雄・佐藤春夫・広津和郎・杉山平助・川端康成・中村武羅夫むらお・徳田秋声。この内、私が不案内である杉山平助と中村武羅夫についてのみ注しておく(主にウィキのそれぞれの記事に依拠した)。
杉山平助(明治二十八(一八九五)年~昭和二十一(一九四六)年)は評論家。生田長江に認められ、自由主義的な論客、毒舌評論家として知られた。昭和六(一九三一)年からは『東京朝日新聞』に氷川烈のペン・ネームでコラムを執筆するなどしたが、日中戦争が勃発した昭和十二(一九三七)年頃から右傾化した。
中村武羅夫(明治十九(一八八六)年~昭和二十四(一九四九)年)は編集者・小説家・評論家。小栗風葉門下。後に『新潮』記者として活躍、昭和三(一九二八)年六月の『新潮』に掲載された評論「誰だ? 花園を荒らす者は!」でプロレタリア文芸派を真っ向から批判、戦中は日本文学報国会設立の中心人物となった。]

 廣津。遺書の中にマインレンデルを読んだつてあるが、マインレンデルの本があるのだらうか、僕はどうかと思ふな。メチニコフの『人生論』の中あたりから借りて来たのではないかと思ふが、どんなものかしら。僕はメチニコフの『人生論』を読んで、その名を記憶してゐたが。ショウペンハウエルの弟子で、ショウペンハウエルの厭世思想のために自殺する青年が輩出したので、ショウペンハウエルはたまりかねて、自殺は不道徳だといふんだ。すると、三十歳の若きマインレンデルが、「しかし先生」といつて自分で自殺してしまふんだが、僕は『人生論』の中に面白く書いてあつたので、それで知つてゐるんだが、芥川もその辺の知識ではないかと思ふんだが、どんなものかな。
 久米。誰かがしきりにさがしたやうだつたが、……高橋邦太郎か誰かが……。
 廣津。あの時は恒藤氏が何か翌日しらべて来たのだといふ事を聞いたよ。マインレンデルの書があるなら、それを知りたいんだが、僕はどうかと思ふな。
 久米。恒藤などは自分はここまで知つてゐるといつてゐるくらゐだから、困らせようなんといふ気はなかつたんぢやないか。
 廣津。困らせるといふのぢやないけれども、マインレンデルの書いたものはないかと思ふ。困らせてやらうといふのは、つまり、皆がちよつとそれを見て困つたことなんで、結果の問題なんだね、……
[やぶちゃん注:「メチニコフの『人生論』」とは、一九〇八年のノーベル生理学・医学賞を受賞したロシア生まれのフランスの生物学者Илья Ильич Мечников(イリヤ・イリイッチ・メチニコフ Ilya Ilyich Mechnikov 一八四五年~一九一六年)白血球の食菌作用を始めとした免疫系の先駆的研究者として知られるが、彼の「人生論」の中の第二部第八章にマインレンデルの哲学について概説されており、後掲される森鷗外も同書を参照していることが明らかになっている。
「高橋邦太郎」(明治三十一(一八九八)年~昭和五十九(一九八四)年)は仏文学者・翻訳家・元NHK職員。
「恒藤」は芥川龍之介の盟友で法哲学者恒藤恭。]

 この二人の問答だけではよく、意味がわからないけれど、芥川が『或旧友に送る手記』のなかに、殊更に『マインレンデル』などという当時の文学者たちが知らなかった名をつかったのは、この『或旧友へ送る手記』をよんだ人たちが、マインレンデルとはどういう人であろう、と、かならず、頸をひねるにちがいない、頸をひねらせてやろう、(困らせてやろう、)という気持ちがあったのではないか、と、いう程の意味であろう。
 それから、廣津が、「マインレンデルの本があるのだらうか、」とか、「芥川もその辺の知識ではないかと思ふんだが、どんなものかしら、」とか、いっているのは、芥川は、本当に、マインレンデルの本をよんでいたのであろうか、という意味にとれる。それは、私も、この『或旧友へ送る手記』のなかの先きに引いたところ(つまり、「僕のしみじみした心もちになつてマインレンデルを読んだのもこの間である、」とか、「マインレンデルは抽象的な言葉に巧みに……」とか、「この先の僕の心もちは大抵マインレンデルの言葉に近いであらう」とか、いうの)を読んでみても、表現が何となくアヤフヤで、やはり、芥川は本当にマインレンデルの書いていたものを読んでいたのかしら、という気になるのである。
 ここで、『世界文芸辞典』[中央公論社昭和十二年十月発行編輯者吉江喬松]でしらべてみると、

 マインレンデル Philipp Mainländer(1841―1876) 本名 Philipp Batz. ショーペンハウエルの学徒。その説に依れば、宇宙の救民は盲目的意志であり、人間に於ても此の意志が根底をなす。意志は常に要求に動かされ常に欠乏を持つ。欠乏は苦である。意志は絶えず苦に依って動かされ苦を予想する。従つて人生も亦苦である。世界過程は神の力が分裂し次第に弱くなり遂に消滅するに至る過程であり、一切の個体は相互に戦ひ力を弱め遂に破滅によつてその目的を達する。其故に自殺は許され、寧ろ讃美さるべきものであるとなし、彼自身も自殺を実行した。
[やぶちゃん注:ウィキの英語版“Philipp Mainländer”(日本語版はない)で写真を見る事が出来る。]

 とある。これならずいぶんはっきりしていて、誰にもわかるが、私には、芥川は、どうも、これぐらいの事も、知らなかったのではないか、(のではないか、)と、思われるのである。ところが、やはり、その頃、芥川がマインレンデルの存在を知ったのは、鷗外の『妄想』からであろう、と断じた人があった。そういった人は誰であるかまったく覚えていないが、私はこの人の説に同感する。『妄想』のなかに、つぎのようなところがあるからである。

 その頃自分は Philipp フイリツプMainlaender マインレンデルが事を聞いて、その男の書いた救抜の哲学を読んで見た。
 此男はHartmannハルトマンまよひの三期を承認してゐる。ところであらゆる錯迷を打ち破つて置いて、生を肯定しろと云ふのは無理だと云ふのである。これはみなまよひだが、死んだつて駄目だから、迷を追つ掛けて行けとは云はれない筈だと云ふのである。人は最初に遠く死を望み見て、恐怖しておもてそむける。次いで死のまはりに大きいけんゑがいて、震慄しながらあるいてゐる。その圏が漸くちひさくなつて、とうとう疲れた腕を死のうなじに投げ掛けて、死と目と目を見合はす。そして死の目の中に平和を見出すのだと、マインレンデルは云つてゐる。
 さう云つて置いて、マインレンデルは三十五歳で自殺したのである。
[やぶちゃん注:冒頭「その頃」は、原文は「この頃」。因みに宇野浩二は「妄想」のこの章の最後にある以下の鷗外の批評を省略している。『自分には死の恐怖が無いと同時にマインレンデルの「死の憧憬しようけい」も無い。/死を怖れもせず、死にあこがれもせずに、自分は人生の下り坂を下つて行く。』という二段落である。]

 これはさきに引用したものよりずっとわかりよく、マインレンデルの事がまずすっかりわかる。(これは私事であるが、この小説が明治四十三年の三月と四月に「三田文学」に出た時、私は、実に愛読した。)
 さて、芥川がマインレンデルの存在を知ったのは、鷗外の『妄想』からであろう、といった人の説に私が同感するのは、ここ引いた文章だけでもわかるであろう。しかし、また、芥川がこういうマインレンデルの考えに同感したかどうか。これは疑問である。
 しかし、いずれにしても、芥川が、『或旧友へ送る手記』にマインレンデルという名をつかって、死後、この手記をよむ人たちに、この事だけでも、なやましてやろう、と考えた、とすれば、私のような者でさえ、私なりに、骨を折らせられたのであるから、この手記が、死後、すぐに、幾人かの人びとに頸をひねらせたか、と思えば、芥川は死後で、そのたくらんだ事(かりに『タクランダ事』とすれば)に成功した、という事になる。とすれば、芥川は、それで本意をとげた、という事になるであろう。しかし、私は、そこまでは、考えたくない、考えないのである。
 それから、これもまったく別の話であるが、あの関東に大地震があってから数日後、芥川に逢うと、芥川は、真剣な顔をして、「君、ある権威のある学者の話だが、東京湾も、今に陥没する、ということだよ、」と、なにか内証話でもするように、いった事がある。私は、今、この事を思い出して、芥川が、本当にこういう事を信じていたか、こういう事を云って、人を脅かすつもりであったか、わからないのである。
 いずれにしても、あの『れげんだ・おうれあ』の一件の事を述べた時に書いたように、私は、芥川は、いろいろなイタズラはしたけれど、なんというかなしい人であったか、と、これを書きながら、思うのである。すると、何度もおなじ事をいうようであるけれど、実際、涙ぐましくなってくるのである。
 廣津は、「芥川は、死ぬ時、兜のなかに香を入れておくような心がけの男であったなあ……やっぱり、芥川は、ういやつであったなあ……」と、云った。

     


 たれであったか、(小島政二郎であったか、誰であったか、忘れたが、――ある人が、――)芥川の小説には、人の死ぬ事を述べたものが多い、殊に小説の最後に、(あるいは、最後の方に、)人が死ぬところが多い、と、なにか、それに意味があるように、いった。もっとも、これは、芥川があのようなに方をしてからもなくの時分であったから、いくらか敏感な人たちに、そのように思われたのであろう。
 しかし、私は、そのような事は、べつたいした意味などあるのではない、たまたま、芥川がとりあつかった小説の題材が、そのような事に、(つまり、人がよく死んだり、小説の最後に、⦅あるいは、最後の方に、⦆人が死んだり、する事に、)なったのである、と思うのである。
 芥川の初期の短篇に『ひよつとこ』というのがある。(芥川の全集のなかの別冊のうちにおさめられてある年譜によると、この『ひよつとこ』は、大正三年の四月号の「帝国文学」に発表されたが、書いたのはその前の年の十二月である。そうして、処女作は、大正三年の四月に書いて、第三次「新思潮」に発表した『老年』である。)
[やぶちゃん注:「芥川の全集のなかの別冊」は昭和四(一九二九)年岩波書店刊「芥川龍之介全集」(一般に元版全集と呼ばれる)の「別冊」。
「『ひよつとこ』は、大正三年の四月号の「帝国文学」に発表された」は誤り。「ひよつとこ」の発表は大正四(一九一五)年四月号『帝国文学』(脱稿時期は作品末に『(三年一二月)』というクレジットがある。但し、これは原稿の『(三○年一二月)』を編集者が訂したもの。リンク先の私のテクスト注を参照)。「処女作は、大正三年の四月に書いて、第三次「新思潮」に発表した『老年』である」発表は大正三(一九一四)年五月一日。]
 さて、『ひよつとこ』は、花見時はなみどきに、隅田川をのぼる花見の船(伝馬船)のうえで、塩吹面舞ひっとこまいをおどる事のすきな山村平吉が、得意の踊りをおどっているうちに、脳溢血をおこして、船の中に、ころがりおちて、死んでしまう、というような話を、独得のしゃれた、気どった、文章で、得意の揶揄と皮肉をまぜて、書いたものである。ところで、この小説の最後に、平吉が、ほとんど意識がなくなってから、「面を……面をとつてくれ……面を、」と、かすかな声で、いったので、傍にいた者が手拭と面をはずしてやるところがあって、そのあとに、作者は、

 しかし面の下にあつた平吉の顔はもう、ふだんの平吉の顔ではなくなつてゐた。小鼻が落ちて、唇の色が変つて、白くなつた額には、油汗が流れてゐる。一眼ひとめ見たのでは、誰でもこれが、あの愛嬌のある、へうきんな、話のうまい、平吉だと思ふものはない。たゞ変らないのは、つんと口とがらしながら、とぼけた顔を胴の赤毛布あかげつとの上に仰向あふむけて、静に平吉を見上げてゐる、さつきのひよつとこの面ばかりである。
と、書いて、この小説を、むすんでいる。
[やぶちゃん注:「ひよつとこ」は初出稿と全集所収の決定稿では大きく異なる。後の作品集『煙草と惡魔』に所収された際に大きな改稿が行われている。宇野の本文は全集の決定稿の掉尾の段落総てである。その違いはリンク先の私のテクストを参照されたい。]
 これだけ読めは、実に気味がわるい、ある種の批評家などは、「鬼気がせまる、」などという。
 が、私は、(私も、)ちょいとそう思うけれど、結局、そう思わない。ただ、かぞえどし二十三歳の青年がこういう小説を書いたことを思うと、ぞっとする。それは、私のような鈍なまれの者は、この年頃としごろの時分は、呑気のんきであったから、こんな事を思うのかもしれない。しかし、また、私はこうも考えるのである、
 たった二十三歳の青年が、このあんまりうまくない小説に、このような気のきいた結末を作つくったのであるから、これはなみなみの才能ではない、と。
 しかし、また、おなじ小説のなかにある、

 Janusと云ふ神様には、首が二つある。どつちがほんとうの首だか知つてゐる者は誰もいない。平吉もそのとほりである。

などというところを読むと、私は、芥川は、すでに、こんな時分から、(どこでまなんだのか、持ち前のものであるか、)こういうマヤカシの文句を、使いはじめていたのか、と、驚歎するとともにおおいにアキレもしたのであった。
[やぶちゃん注:「Janus」ヤーヌス又はヤヌスと読む。ローマ神話の門戸神。前後二つの顔を持つ。境界神であることから一年の堺に存在する一月を司る神として、英語の January の語源ともなった。]
 マヤカシといえば、『往生絵巻』のおわりの方の、五位の入道が、「阿弥陀仏よや。おおい。おおい、」と叫びながら、西へ、西へ、とけつけた末に、海辺の松の枯れ木の梢の上にのぼり、そこでにするところがあるが、それを見た老いたる法師が、とぶろうてやろう、と思って、その屍骸を見て、「や、これはどうぢや。この法師の屍骸の口には、まつしろ蓮華れんげが開いてゐるぞ。さう云へば此処ここへ来た時から、異香いかうも漂うてはゐた容子ようすぢや」というところなども、私は、やはり、芥川一流いちりゅうのマヤカシの文句である、と思うのである。
 ところが、私ずっと前に愛読したことのある、宮本顕治の『敗北の文学(芥川龍之介氏の文学いついて)』の中で宮本は、この『往生絵巻』について、「この『往生絵巻』はユウモラアスな形式のもとに、笑ひ切れない求道者の姿を書いている。正宗白鳥氏は、この作品の結末はまつ白な蓮華の咲く非現実的な描写を捉へて、芥川氏がリアルに徹することの出来なかった人だといふことの例証としてゐる。勿論、我々は別の意味で氏が現実を深く認識しなかつたことを批判する。けれどもかうした偏狭な自然主義的批判は永久に、作品の本質を理解し得るものではない。作者は『五位の入道』を愛してゐる。憐愍を越えて、まじめに愛してゐるのだ。蓮華の花を咲かす事は氏の『遊び』ではない。枯木の梢に死んだ求道者に、心から詩的な頌辞を最後に手向けてゐるのである、」と述べている。
 この宮本の『往生絵巻』にたいする意見は私がさき述べた事とほとんど反対である。しかし、私は、ここに引いた宮本の文章をよんで、感動した、一面に芥川の文学を否定しながら、他面ではかくのごとく、芥川の文学を、よかれあしかれ、ふかく理解し、(いくらかまやかされているところがあるが、)芥川の文学に引かれている、宮本の情熱に、私は、感動したのである。そうして、ついでに書けば、私は、宮本の『敗北の文学』のなかの

……プロレタリアートの戦列に伍して、プロレタリアの道を踏まうとしてゐるインテリゲンチャの書棚に、×の新聞と共に、芥川氏の『侏儒の言葉』が置かれてゐないと誰が断言し得よう。つて私は、自己の持ち場に帰つてゐるインテリゲンチャ出の一人の闘士が、一夜腹立しさうに語つたことをおぼえてゐる。「駄目だ! 芥川の『遺書』が、――『西方の人』が、妙に今晩は、美しく、懐しく感じられるのだ。」
 彼のみではない。青野季吉氏も「芥川氏の生涯とその死とは、私の心をとらへて離さないものがある。……私たちは芥川氏を批判することは出来る。だが、芥川氏を捨てて顧みないことは出来ない。自分の中にも、芥川氏があり、芥川氏の死があるからである、」と云つてゐる。そして又、林房雄氏が芥川氏の死によつて、虚無的な気持ちを掻き立てられ、中野重治氏が芥川氏を「大層かはいさう」に思ふのは、氏の中に感じる我れ我れ自身の残体のためであらう。

と述べているところを、何度目かで、読んで、心うたれた。それは、宮本が、こう書いたのは、「この作家の中をかけめぐつた末期の嵐の中に、自分の古傷の呻きを聞く故に、それ故にこそ一層、氏を再批判する必要があるだらう、」と思い、芥川の文学を再批判するため述べたのではあるが、ここ引いた一節は、おなじ世紀末の息を吸った私の心を、殊に、間道せるのである。(さて、記憶が例のようにまちがっているかもしれないが、)この時、「改造」で、この宮本のすぐれた論文が一等になり、小林秀雄の『様様なる意匠』が二等当選した。芥川の作品を、武田麟太郎や、こと小林多喜二などが、愛読していたことは聞き知っていたが、左翼の闘士たちの中にも、愛読していた者があった、という事を、もし、芥川が、あの世で、知ったら、ナンというであらうか、というような愚かな空想を、私は、したのであった。
[やぶちゃん注:私は宮本の「敗北の文学」を、その総論に於いて認めない者であるが、この宇野が引用する部分には、宇野同様、激しく心打たれたことを告白しておく。]  さて、まえに述べた「マヤカシ」についてふたたびいうと、前の章に書いた、『れげんだ・おうれあ』の話も、マインレンデルの一件も、やはり、芥川一流のマヤカシであろう。そうして、かりにこの私の偏見が半分ぐらいあたっているとすれば、芥川は実に人をった男であった、という事になる。まさにそのとおりで、芥川は、人をくうようなところもたしかにあった、が、それ以上に他人が想像もつかないような気の弱いところが多分にあった。それから、文壇で、高い地位をしめながら、はなやかな流行児になりながら、芥川は、あれはど、いわゆる左顧右眄さこうべんし、自分の作品の批評などを、ひどく気にする人であった。
 芥川の第一短篇集『羅生門』が出たのは、大正六年の五月である。この年、芥川は、かぞえどし、二十六歳であった。その頃の芥川の親友の一人であった、江口 渙が『芥川龍之介論』の最初に、

 数多い新作家の中で芥川君ぐらゐあざやかに頭角をあらはした者はない。志賀直哉、里見弴の二氏とならんで真に文壇近来の壮観である。芥川君が今度その創作第一集『羅生門』を出した。それを機会に私はいささか同君の作品を是非してみたい。

と述べている。
 ところが、私のおぼろげな記憶によれは、右の三人のうちで、としでいえば最年長者である、志賀直哉はいつとなく文壇にみとめられ、世に出てからは『うますぎる』というような評判を得た、里見 弴もしだいしだいに文壇にみとめられるようになったのである。ところが、芥川は、バイロンが、『チャイルド・ハロルヅ・ビルダリメイジ』が公刊された時、「一朝いつてう目ざむれば忽ち聞人ぶんじんたりき」という程ではなかったけれど、それにややちかいところがあった。
[やぶちゃん注:バイロンは一八一二年に二十四歳で刊行した小説“Childe Harold's Pilgrimage”(「チャイルド・ハロルドの巡礼」)のベストセラーで一躍、時代の寵児となった。]
 バイロンといえば、谷崎潤一郎が、『青春物語』のなかに、「バイロン卿の例を引くのも烏滸がましいが、由来私は最も花々しく文壇へ出た一人であるとされてゐる。しかし、それでも世間に認められるやうになつたのは、翌明治四十三年の三月『新思潮』[註―第二次]が廃刊した後、六月の『スバル』に『少年』を書き、七月(?)の同誌に『幇間』を書いた前後からだつた。その時分になつて、鷗外先生や上田敏先生が『麒鱗』や『幇間』を褒めてくだすつたといふ噂が、ポツポツ私の耳に這入はひつた、」と述べている。つまり、谷崎潤一郎さえ、「バイロン卿の例を引くのも烏滸がましいが、……」といったあとに、「それでも世間に認られるやうになつたのは、……」と述懐しているのである。
 それを、芥川は、「新思潮」(註―第四次)に発表した『鼻』が、はしなくも、夏目漱石に、賞讃されたために、たちまち、その名声があがったのであるから、バイロンの「一朝目ざむれば……」の十分の一ぐらいの状態になり気もちになったにちがいない。されば、いかに聡明な人であったとはいえ、かぞえどし、二十五歳の青年である。まして、「『ええ、わたしは何でもえらい学者になりたいのです。下界の事から天上の事まできはめまして、自然と学問とに通じたいと存じます。』「フアウストの中の学生はかうメフィストフェレスに語つてゐる。この言葉はそのまま学生時代の信輔にも当て嵌まる心もちだつた。尤も彼のなりたいものはかならずしも学者とは限らなかつた。それは純粋の学者よりも寧ろ学者に近いものだつた。あるひは藝術家に近いものだつた、」(『大導寺信輔』のうち)というような野心を学生時代から持っていた青年である、蓋し天狗になったのも無理ではないのである。
[やぶちゃん注:『大導寺信輔』は正確には『大導寺信輔の半生』。]
 その天狗になっているところへ、出世作となった『鼻』が、漱石門下の鈴木三重吉にもみとめられ、あらためて、三重吉の主宰していた「新小説」の五月号に掲載される事になった。そこで天狗は、ますます調子にのり、そのとしのうちに、『孤独地獄』、『父』、『虱』、『酒虫』、『野呂松人形』、『仙人』、『芋粥』、『猿』、『半巾』、『煙草と悪魔』、などを発表し、更に、その翌年(つまり、六年)には一月から六月までのあいだに、『運』、『尾形了斎覚え書』、その他、七篇の小説を書いた。しかも、そのうちの四篇は、その時分の文壇の登竜門といわれ檜舞台ひのきぶたいと称せられた、「中央公論」に出たのである。これには、文壇の人たちは、もとより、一般世間の人たちも、目を見はった、それには、作者が二十五、六歳の青年である、というような好奇心もあったが。いずれにしても、これは『日の出のいきおい』であった。しかし、また、この調子にのりすぎた事はそののちしだいに芥川をくるしめるもとになった。(前にも述べたかと思うが、志賀直哉や谷崎潤一郎などは決して調子にのらなかった。)
 さて、調子にのり、調子にのせられた、芥川は、ますます調子の波にのって、大正六年の六月に、さきげた、大正五年と大正六年の上半期の小説のうちから、十四篇をえらんで、第一短篇集『羅生門』を、出版した。そのうえ、その年の六月二十七日に、『羅生門の会』(つまり、『羅生門』の出版記念会)が、日本橋の『鴻の巣』で、開かれた。(菊池 寛は、これを、出版記念会の始まりであるといったが、その当否は別として、この『羅生門』の出版記念会は、私の知るかぎり、もっとも劃期的なものであり、もっとも花やかなものであった。)『鴻の巣』などといっても、いまの人はたいてい知らないであろう。久保万太郎が、『明治四十四五年』という文章のなかに、

 鴻の巣といへば、当時、「スバル」「白樺」のあたらしい文学者たちのより合場所として知られてゐた。高村光太郎、木下杢太郎、北原白秋、吉井勇、里見弴、萱野二十一の諸君が始終そこに出入してゐた。いふならば、そこに足をふみ入れるといふことが、すでに、新しい芸術の香気に触れるといふことにわれわれにすればなつた。
[やぶちゃん注:「萱野二十一」は「かやのはたかず」と読み、劇作家郡虎彦の初期ペンネーム。]

と述べている。しかし、その頃、私などがよく行った、(もっとも、久保田、水上滝太郎、小泉信三、その他も、行ったらしく、佐藤春夫、平塚明子、尾竹紅吉[今の富本憲吉夫人]その他も、行った、)コオヒイ一杯金五銭、ドオナツ一箇金五銭、というような、カフェエパウリスタなどとくらぶれば、『鴻の巣』は超高級の西洋料理店である。『羅生門』の出版記念会は、その『鴻の巣』で、もよおされたのである。そうして、その会の世話役は江口 渙と佐藤春夫がつとめた。
[やぶちゃん注:「平塚明子」は平塚らいてうの本名「明」。「はる」又は「はるこ」と読む。「尾竹紅吉」(明治二十六(一八九三)年~昭和四十一(一九六六)年)は一般には「おたけこうきち」と読まれているが、本来は「べによし」と読む女流画家・婦人運動家尾竹一枝の画号。日本画家尾竹越堂長女。明治四十五(一九一二)年に青鞜社に入社、平塚らいてうの愛弟子として雑誌『青鞜』の表紙を担当した。青鞜退社後の大正三(一九一四)年、陶芸家富本憲吉と結婚する。ペン・ネーム富本一枝で婦人雑誌などに評論・随筆を発表する。戦後に憲吉と離別、出版事業に活躍、後年は童話なども書いた。「カフェエパウリスタ」は芥川龍之介の「彼 第二」にも登場する。京橋区南鍋町二丁目(現在の中央区西銀座六丁目)にあったカフェで、女給を置かず、直輸入のブラジル・コーヒーを飲ませるカフェとして知られ、文士の常連も多かったという(リンク先の私のテクスト注を参照されたい)。]
 大正六年の六月六日に、芥川は、鎌倉から、江口と佐藤にあてて、つぎのような手紙を、書いている。

 羅生門の会は少々恐縮ですがやつて下されば難有ありがたく思ひます文壇の士で本を送つたのは森田 鈴木 小宮 阿部 安倍 和辻 久保田 秦 谷崎 後藤 野上 山宮 日夏 山本の諸君です
 ただし廿二日(金曜ですぜ土曜は廿三日でさあ)かへれません廿四日の日曜なら徴兵検査のためかへるのではなはだ都合がよろしいその夜か夕方ではどうですか場所と時間はきまり次第田端の方へ〇〇〇〇〇御一報下さい江口君の新聞[註―六月十日に、やはり、鎌倉から、江口にあてた手紙のなかに、「羅生門論をおかきだつたらその新聞を私の所へ送つて下さい願ひます」とあるから、江口が『羅生門論』を出した新聞、という意味]も田端へねがひます
      六月十六日   龍
 江口 渙
     両大人
佐藤春夫
[やぶちゃん注:「山宮」は詩人・英文学者の山宮允(さんぐうまこと、明治二十三(一八九〇)年~昭和四十二(一九六七)年)のこと。大正四(一九一五)年東京帝国大学英文科卒。本文にある通り、大正三(一九一四)年の第三次『新思潮』創刊では中心的役割を担った。大正六(一九一七)年には川路柳虹らと詩話会を結成、後に法政大学教授などを務め、イェーツやウィリアム・ブレイクの紹介に功があった。
「秦」秦豊吉(はたとよきち 明治二十五(一八九二)年=昭和三十一(一九五六)年)は実業家・興行家・翻訳家。七世松本幸四郎の甥。東京帝国大学法科大学卒業後、三菱商事に勤める傍ら、ドイツ文学の翻訳などを手掛ける。大正六(一九一七)年から大正十五(一九二六)年までベルリンに赴任、帰国後、ペン・ネーム「丸木砂土」(マルキ・ド・サドの捩り)で小説「半処女」や随筆を書き散らす一方、ゲーテ「ファウスト」の翻訳などを行った。三菱合資会社在勤中にはレマルクの「西部戦線異状なし」を翻訳して中央公論社から刊行、ベストセラーとなる。昭和八(一九三三)年、東京宝塚劇場に勤務、昭和十五(一九四〇)年には同社社長となった。敗戦後は戦犯指定されるが、後の「七」に宇野も述べる通り、昭和二十二(一九四七)年から東京帝都座に於いて日本初のストリップ・ショーを上演して成功を収め、昭和二十五(一九五〇)年帝国劇場社長として、国産ミュージカルの上演で成功を収め、後、東宝社長となった(以上はウィキの「秦豊吉」に拠った)。 なお、底本では江口と佐藤の名は併記で間は空いていない。 因みに、芥川龍之介は前年十二月一日附で横須賀の海軍機関学校教授嘱託(英語学)に就任、同じ十二月に塚本文と婚約もしている。]
*  この手紙はおもしろい、先輩の名をならべて、『諸君』と、肩で風をきっているようなところがあり、「羅生門の会は少々恐縮ですが……」とか、「江口君の新聞も……」とか、いうふうに、肩をすぼめているところがあるからである。
 ところで、この『羅生門』の出版記念会には、どれだけの人に案内状を出したか知らないが、出席した人が案外すくなかったようである。それは、七八年前に、私が、この『羅生門』の出版記念会の会場をうつした写真を見た記憶によると、細長いテエプルの両側に、十人か十二三人ぐらいいるだけで、空席があった程であったからだ。そうして、それらの人たちのなかで、私の知っている顔は、谷崎潤一郎、江口 渙、佐藤春夫、久米正雄、加能作次郎[註―その頃「文章世界」の編集長]、もう一人誰ひとりたれか、だけであった。しかし、佐藤春夫が、芥川が死んだ翌年(つまり、昭和三年)の七月[つまり芥川が死んでからちょうど一年目]に、『芥川龍之介を憶ふ』という文章のなかで、『羅生門』の出版記念会の事を、つぎのように書いている。
[やぶちゃん注:「どれだけの人に案内状を出したか知らないが、出席した人が案外すくなかったようである」新全集の宮坂覺氏の年譜によれば、約五十名への案内状が送付されている。また、ここには宇野の大きな記憶違いがある。まず出席者は江口の記録によって二十三名とされ、実際に写真でも同数が確認出来る。また、宇野が当然知っていると思われる松岡譲・和辻哲郎・小宮豊隆・赤木桁平・豊島与志雄・有島生馬・滝田樗陰・田村俊子の顔が(私でさえも)視認出来る。]

……この家の主人は文学者を愛好してゐたので、それに花の多い季節で、卓上にはどつさりスイトピーや薔薇などが盛られてあつた。自分はとても希望のない自分の文学的生徒を考へ乍ら、颯爽として席の中心にゐる芥川を幸福だと思つた。会の終に此の家の主人が稍々やや大きな画帳を持ち出して芥川に記念の揮毫を求めた、芥川は「本是山中之人もとこれさんちゆうのひと」の五字六朝まがひの余り上手でない字で書いた。……

 芥川と佐藤は、おなどしであるから、この出版記念会のあった時は、かぞえどし、二十六歳であった。もっとも、この文章は、佐藤が、三十七歳のとしに書いたものであるが、この文章を書きながら、十年まえを追想すれば、佐藤の心は、まったく、感慨無量であったにちがいない。大正六年といえば、すでに四五年も前から、佐藤は、「スバル」その他に詩を出していたが、そのとしの五月に、傑作『田園の憂鬱』の第一稿『める薔薇さうび』を「黒潮」という雑誌に発表しただけであり、芥川は、さきに述べたように、二十篇ぐらいの小説を書いて、すでに鬱然たる大家であり、花形作家であった。それで、その時分の二人をよく知っている私は、出版記念会の席上で佐藤春夫が「迚も希望のない自分の文学的生涯」をかなしみながら、「颯爽とし席の中心にゐる」芥川をうらやんでいる姿を、身も心も浮きたつ筈であるべき芥川の、『鴻の巣』の主人に出された画帳に『本是山中人』というような文句を書く、五分刈ごぶがりのあたまを、白い詰め襟のような白い夏服をきている、底にそこはかとない憂いをたたえている顔を、思いうかべて、たのしかるべき事を書きながら、なぜか、心がうかぬのである。しかし、ふと、大正六年といえば、佐藤が、(佐藤は、その四五年前から、「三田文学」、「スバル」、その他に、巧みな気のきいた詩や小品を、出していたが、)そのとしの五月に、傑作作『田園の憂鬱』の第一稿『める薔薇さうび』を「黒潮」に発表したとしであることを、私は、思い出した。そうして、私の記憶つがいでなければ、『病める薔薇』という題の横に、たしか、三上於菟吉に献ず、という言葉があって、そのまた横に、
  O Rose, thou art sick
  The invisible worm.
  That fries in the night
  In the howling storm;
という、ウィリアム・ブレイクの“Songs of Experience”、(『経験の歌』)のなかの“The Sick Rose”の一節(あるいは全体)が引かれてあった。
[やぶちゃん注:私はこの初出を現認したことがないので、ここに記された事実について語ることは出来ない。「田園の憂鬱」がブレイクの本詩に基づき、作中で「おお、薔薇、汝病めり!」と繰り返されることは周知の事実である。但し、私の所有する、後に単行本化された「田園の憂鬱」では、巻頭にエドガー・アラン・ポーの以下の詩が配されている。
  I dwelt alone
  In a world of moan,
  And my soul was stagnant tide.
Edgar Allan poe
  私は、呻吟しんぎんの世界で
  ひとりで住んで居た。
  私の靈はよどみ腐れた潮であつた。
         エドガア アラン ポオ
初出誌をお持ちの方は是非、宇野の叙述が正しいかどうか、是非、御教授願いたい。]
 “The Sick Rose”――『病める薔薇』――これだけでも、私の胸はおどった、それは私がブレイクの詩をふだん愛読していたからでもあるが。(ついでに書けば、私がブレイクの詩を愛読するようになったのは、柳 宗悦の『ヰリアム・ブレイク』[註―大正十三年十二月発行、この本を出した洛陽堂は「白樺」を出した本屋である]を読んでからである。私は、これを、はじめて「白樺」に出た時、読んだのであるが、そのころ二十一二歳であった私は、この文章の書き出しの「永遠のべエトオヴェンが、その形骸を地に棄てた年――同じ千八百二十七年に又一人の絶大な芸術家が永く天に帰つていつた。夏八月十二日である、」というところを読んだだけでもう感激してしまった。)
 さて、その時「黒潮」に発表されたのは、後に出された『田園の憂鬱』の三分の一ぐらいで、その最初の方である、これも、

 その家が、今、彼の目の前へ現れて来た。
 初めのうちは、大変な元気で砂ぼこりを上げながら、主人のあとになり前になりして、飛びまはり纏はりついて居た彼の二疋の犬が、やうやう柔順になつて、彼のうしろに、二疋並んで、そろそろいて来るやうになつた頃である。高い木立こだちしたを、路がぐつと大きく曲つた時に、
「ああやつと来ましたよ」

という書き出しを読んだだけで、私は、「これは、」と、目を見はった、この清新な表現にいたく心をうたれたからである。そうして、それにつられて、この小説を読みおわった時、私は、谷崎潤一郎の小説をはじめて読んだ時より、芥川龍之介の最初の小説をいくつか読んだ時より、作品のよしあしは別として、この小説にもっとも新味を感じた。それで、その翌年(つまり、大正七年)の九月、この小説が『田園の憂鬱』となって、「中外」という雑誌に出た時は、それを読んで、誇張していえば、驚歎した。私は、この小説の出ている「中外」を、その頃、赤坂の表町の伯父の家に寄寓していた、廣津から、借りて、本郷の弓町まで帰る電車の中で、乗りかえ場所の須田町の電車の停留場に立ちながら、この小説をむさぼるように読みつづけた。そうして、一気によみおわり、その翌日、廣津のところへその雑誌をかえしに行った、それは感心したことを報告するためでもあった。また、ついでに述べると、その弓町の下宿屋で、貸本屋でかりた永井荷風の『腕くらべ』にも感心して、私は、さっそく廣津を訪問して、自分ながら生意気なまいきな文学青年であったと思うが、「荷風がはじめて小説らしいもの書いたよ、読んでみたまい、」と、いったものである。
 ここで、悪例の長い寄り路をもとにもどすと、佐藤が『羅生門』の出版記念会に出た頃は、『病める薔薇』を書いたばかりの時で、都会の重圧と喧騒にくるしみ文学的のなやみにも堪えかねて、武蔵野の南のはしの田舎にわびずまいをしていた時分あろうか、そこから引き上げて都会の片隅に住んでいた頃であろうか、とにかく、そういう時であったから、颯爽として見えた芥川が、佐藤に、幸福そうに思われたのか。いずれにしても、私は、この『羅生門』の出版記念会に主客として出席した芥川の姿と世話役として出席した佐藤の姿とを、心の目にうかべると、いまの私には、「迚も希望のない自分の文学的生涯」を考えていた、という佐藤には、心の底には、気の張りがあり、ナニクソ、というような気がまえあり、颯爽としているように見えた芥川の心の底には、なにか、そこはかとなき、暗い、不安な、気もちがあったのではないか、と思われるのである。これは、また、持たぬ者の強みであり、持つ者の弱みである。そうして、その時、二十六歳であった佐藤には空想する余地があり、二十六歳であった芥川には空想する余地がなかった。それで、これは私の臆測ではあるが、『羅生門』の会の席上では、かえって佐藤や江口やその他の人たちがはしゃぎ、『羅生門』の扉に、「君看双眼色きみみよさうがんのいろ不語似無愁かたらざればうれひなきににたり」と書いた芥川がかえって沈んでいたのではないであろうか、と。
[やぶちゃん注:「君看双眼色、不語似無愁」は白隱禅師「槐安國語」にあり、「禅林句集」にも引かれる。芥川龍之介の作品集『羅生門』扉に記されており、晩年の「三つの窓」の「2 三人」の作品末尾にも現れる。]

 この事はしばしば書くが、芥川は、人に決して弱みは見せず、常に、浩然としているようには、颯爽としているようには、見えたが、実に、気の弱い、気のまわる、気をむ、人であった。
 大正六年七年八年九年は芥川の文学的生涯のうちでもっとも花やかな時代であった。それで、この芥川の花やかなりし時代には、たとえば、(たとえば、である、)森 鷗外、島崎藤村、徳田秋声、正宗白鳥、志賀直哉、有島武郎、里見 弴、菊池 寛、その他、当時の一流の大家がそれぞれ一流の雑誌に名前をならべていても、そのなかで、芥川龍之介だけが一ばん目にたった、といっても、まず、過言ではない。それは、芥川の小説がいくらか高級な文学青年に、わけわからずに、もてはやされたからでもあるが、『芥川龍之介』という、ぱっとした、派手はでな、名前がおおいあずかっていたのであろう。(その頃、⦅大正の中頃⦆、姓名判断というものにっていた、鍋井克之が、ある時、「……芥川龍之介、……芥川龍之介、……ふむ、ええ名前やなあ、……徳な名前やなあ、……芥川龍之介、桃井若狭之介、市村羽左衛門、といふやうな、ぱつとした、派手な、名前は、なんとなう、いたらしい、男前おとこまへ(大阪へんで、男ぶりがよい、という意味につかう言葉)らしうて、ええ名前や、徳な名前や、」と、いった事がある。閑話休題。)しかし、芥川自身も自慢であったらしいこの名前で、芥川は、徳もしたかもしれないけれど、この名前がわずらいになったようなところもあった、若年にして声名を得たことがそうであったように。しかし、結局、芥川に一生わずらいしたのはその性質言った。その性質は、しかし、複雑であるが、煩いをしたのは、見え坊と極端な気の弱さであった。
[やぶちゃん注:「鍋井克之」(明治二十一(一八八八)年~昭和四十四(一九六九)年)は大阪出身の洋画家。二科会から昭和二十二(一九四七)年の二紀会結成に参加。後に浪速芸大教授。
「桃井若狭之介」は「仮名手本忠臣蔵」の登場人物の一人。桃井若狭之助安近やすちか。浅野内匠頭相役の御馳走役。モデルは津和野藩主亀井茲親これちか。]
 ここで、ちょいと、芥川が大正六七八年のあいだに書いた手紙のなかの妙なの三つ四つ、(その一部分だけ、)読んでみよう。

 こなひだは色々お世話様でした[註―『羅生門』の会を世話してもらった礼]僕論[註―江口の「芥川龍之介論」のこと]は学校[註―海軍機関学校]で中と下を拝見しました少し褒めすぎてます殊に「貉」なんぞは下らないものですよそれから小道具こだうぐわるうち「運」の鶯はふるいのを又又承知の上で使つたんですあれは幾分古い情調に興味を持つた作なんですから「忠義」の時鳥はお説通り活字になつた時から不愉快で仕方がないんです「羅生門」は当時多少得意の作品だつたんですが新思潮連には評判が悪かつたものです成瀬が悪評の張本だつたやうに想像してゐますが
[やぶちゃん注:「鶯」は、「運」で主人公の青侍が清水近くに仕事場を構える陶器師すえものしの翁に語るシークエンスで、背後の藪から鳴くSE(サウンド・エフェクト)で二箇所で現れる。
「時鳥」の方は、SEというよりも(最初の近過去の回想シーンでは鳴くが)象徴的小道具として用いられる。「忠義」の主人公、世の嘲りを受け、家督を人の手に渡さざるを得ない主人公板倉修理いたくらしゅりが、時鳥の声を聴き、「あれは鶯の巣をぬすむそうじゃな。」と呟き、後に発狂、家紋の見間違いによって細川越中守を板倉佐渡守と誤認して(これは実際の歴史的事実とされている)殿中刃傷殺害に及んだ際にも「時鳥」云々という意味不明のことを呟いていたという「噂」として、エンディングでは修理の狂気のシンボルとして機能するが、確かに如何にもな伏線ではある。]

 これは、大正六年の六月三十日に、芥川が鎌倉から、江口にあてた手紙の書き出しの一節であるが、ことごとく自作の弁解であるのが誠におもしろいではないか。(わたくし事ではあるが、私には、こういう手紙を書いている芥川の顔が、今、ここに、目の前に、見えるような気がするのである。)

 小島さん
 三田文で褒めて下すつたのはあなただと云ふから申し上げますあの作品[私の憶測であるが『偸盗』]はあなたのやうな具眼者に褒められる性質のものぢやありませんこの間よみ返して大分冷汗を流しました。
[やぶちゃん注:「私の憶測であるが『偸盗』」とあるが、これは前月五月に大阪毎日新聞に社友第一作として連載した「地獄変」の誤認である。この手紙は葉書で計四通(次の段落で「三枚つづり」とあるが、主文は三通であるが、プラスもう一枚ある)配信されており、その「(2)」(岩波版旧全集書簡番号四二七)ではっきりと「大殿と良秀と娘との関係を……」と述べている。なお、この芥川が『褒めて下すつた』という小島の「地獄変」評は、大正七(一九一八)年六月号の『三田文学』に小島が「中谷丁蔵」名妓で発表した「『地獄変』を読む」を指すのであるが、実はこの評論、総体では「地獄変」に代表される芥川の作品群を賞賛しているものの、心理描写に於ける作者の説明癖を指摘して、実は「地獄変」を批判したものである。宇野の引用していない複数の葉書による後半を読めば分かる。ここは何故、宇野が「偸盗」と勘違いしたのか(勘違いのしようのない内容である)、私には不思議である。――そういう勘違いをする宇野に、私は実は『なぜか、悲しくなるのである』――そのことはいつか、また書こう。――]

 これは、大正七年の六月十八日に、芥川が、鎌倉から、小島政二郎にあてた、三枚つづきの葉書だよりの最初の一節であるが、私は、芥川のこういう文句をよむと、なぜか、悲しくなるのである。

 四回送りました
 この頃やつと話をしつかり進行させられるやうになつて来ましたどうも今までの所は気に食はないこれからはもう少し小説らしく動いて行きます何しろ今までが今までだから評判はるかないかと思つて大いに社のために気づかつてゐますそれから名越なごしさんの挿画も内容より上等なので恐縮ですあなたからよろしくその恐縮の意を御伝へ下さい今度ばかりは実際少評判が気になり出しました
[やぶちゃん注:「名越さん」大正・昭和前期の挿絵画家名越国三郎(なごしくにさぶろう 生没年不詳)である。当時は毎日新聞社お抱え画家の一人であった。]

 これは、大正七年の十一月九日に、芥川が、鎌倉から、薄田泣董[註―当時は大阪毎日新聞の学芸部長]にあてた手紙の大部分であるが、この手紙のなかの小説とは、『邪宗門』であろう。もう十何年も前によんだので、はっきり覚えていないが、たしか、『地獄変』の後日談のようなものではなかったか、と思う。(しかし、六分ぐらい記憶ちがいのような気がする。)いずれにしても、この手紙は、いくらユキヅマリを感じていた時分とはいえ、芥川にしては、なさけないほど、へりくだっている。
[やぶちゃん注:「たしか、『地獄変』の後日談のようなもの」は正しい。「邪宗門」は大阪毎日に「地獄変」を連載した五ヶ月後の大正七(一九一八)年十月から同新聞に連載を始めたが、その冒頭は「先頃大殿樣御一代中で、一番人目をおどろかせた、地獄變の屏風の由來を申し上げましたから、今度は若殿樣の御生涯で、たった一度の不思議な出來事を御話し致さうかと存じて居ります。」と「地獄変」の話者と同一人物の語りで始まるからである。但し、宇野が『しかし、六分ぐらい記憶ちがいのような気がする』と自信なさ気なのも分かる。何故なら、こう語り出した「邪宗門」の内容自体は、「地獄変」の内容とは無関係なもので、『後日談』、ではないからである。宇野の感覚はここでは正確である。なお、「邪宗門」は連載中に芥川がスペイン風邪に罹患して休載が続いた上、その構想や語りの構造的不備を克服することが出来ず、遂に未完で不当に匙を投げた作品であり(私は未完というのは作家として――特に芥川のようなストーリー・テラーとしては――あってはならないことだと思っている。更に私が不快なのは、芥川がこの未完作を作品集『邪宗門』に再録し、その作品集の題名にさえしている点である。厚顔無恥も甚だしいではないか――大好きな芥川龍之介にして瑕疵であると私は思っている)、確かに宇野が言う芥川の『弱さ』が、『しみじみ、思われる』作である。]
 私は、この手紙をうつしとったのを、後悔した。しかし、芥川はやっぱり弱い人であったのだ、と、しみじみ、思われるのである。

 自分は「羅生門」以前にも、幾つかの短篇を書いてゐた。恐らく未完成の作をも加へたら、この集に入れたもの[註―十四篇はいっている]の二倍には、上つてゐた事であらう。当時、発表する意志も、発表する機関もなかつた自分は、作家と読者と批評家とを一身に兼ねて、それで格別不満にも思はなかつた。

 これは、芥川が、『羅生門』の跋として書いた文章のなかの一節である。この文章のなかの「発表する意志も、……」から「格別不満にも思はなかつた、」までの言葉がもし本当とすれば、(もし本当とすれば、である、)二十三四歳の文学書生の心がけとしては、実に謙遜であり殊勝である。もし、かりに、『文学』を学校でおしえる学問のようなものであるとすれば、その学校の教師は、文学を志望する年少の学生たちにむかって、この芥川の言葉を黒板に書きながら、「……諸君、この人を見よ、この人の格言を、座右の銘としなさい、」と、いうであろう。これは、ただ読んだところだけでは、まことにただしき訓示のようなものであるからである。
 しかし、はたして芥川はこのような謙遜な殊勝な心がけを持っていたであろうか。芥川は、心の中でそのように思っていなくても、文章を縦横無尽に使いわける事においては随一の名人であるから、さきの学校の教師の口真似くちまねをして、私は、「年少の諸君よ、芥川の文章をそのままに取ることなかれ、」と、いいたく思うのである。
 ところで、この『羅生門』の跋を、(さきにいた一節のつづきを、)読んでみると、こんどは、修行しゅぎょう時代の(文学書生時代の)芥川の苦労や気づかいがよくわかって、大へん興味がふかいのである。ところが、なにぶん、この跋は、芥川が、功り名げてから、書いた文章であるから、やはり、謙遜に述べているように見えるが、思いあがっているようなところがあって、否味いやみなところはあるけれど、それはそれで、また、おもしろいところがあるから、さきに引いた文章のつづきを、つぎにうつしてみよう。

 尤も、途中で三代目の「新思潮」[註―大正三年二月、久米正雄、菊池 寛、山本有三、豊島與志雄、山宮 允、松岡 譲、芥川龍之介、その他が、同人となって創刊した]の同人になつて、短篇を一つ[註―『老年』]発表した事がある。が、間もなく[註―一年ほどで]「新思潮」が廃刊すると共に、自分は又元の通り文壇とは縁のない人間になつてしまつた。
 それが彼是かれこれ一年ばかり続く中に、一度「帝国文学」の新年号へ原稿を持ちこんで、返された覚えがあるが、間もなく二度目の[註―『ひよつとこ』]がやつと同じ雑誌で活字になり、三度目の[註―このあとに書かれてあるように『羅生門』]が又、半年ばかり経つて、どうにか日の目を見るやうな運びになつた。
 その三度目が、この中へ入れた「羅生門」である。その発表後間もなく、自分は人伝ひとづてに加藤武雄君が、自分の小説を読んだと云ふ事を聞いた。断つて置くが、読んだと云ふ事を聞いたので、めたと云ふ事を聞いたのではない、けれども自分はそれだけで満足であつた。これが、自分の小説も友人以外に読者がある、さうして又同時にあり得ると云ふ事を知つた始めである。
[やぶちゃん注:「加藤武雄」(明治二十一(一八八八)年~昭和三十一(一九五六)年)は小説家。小学校高等科を卒業後、郵便局員や小学校補助教員、訓導を経て、明治四十三(一九一〇)年から新潮社編集者として『文章倶楽部』などを編集。大正八(一九一九)年に自然主義的短編集「郷愁」で作家デビュー、大正末から昭和初期には中村武羅夫・三上於菟吉と並び称せられる通俗小説家として一世を風靡した。本記載の『加藤武雄君が、自分の小説を読んだと云ふ事を聞いた』とあるが、加藤武雄は後の大正六(一九一七)年一月の「新潮」一月号で「芥川龍之介を論ず」と題し、「ひょっとこ」「鼻」「羅生門」等を論評している。]

 右の文章は、上辺だけ読めば、「文壇とは縁のない人間になつてしまつた、」とか、「せつかく持ちこんだ原稿をかへされた、」とか、「どうにか日の目を見るやうな運びになつた、」とか、「自分の小説も友人以外に読者がある、」とか、いう文句は、一応心をひかれて、そんなに苦心惨憺したのであったか、と、ちょいと「同情する気になる、いや、心から同情する気になる。が、よく読めば、さきに述べたように、意地わるくとれば、功り名げた人が、(つまり、芥川が、)自分は、こういう思いをして来たが、今は、こうして、……と、心の底で、空そらうそぶいているように取れないこともない。それから、私は、『羅生門』が「帝国文学」[註―大正四年の十月号]に出た時、ほとんど誰もみとめたものはないが、加藤武雄は『羅生門』に感心したという事を聞いたことがある。それで、私は、おそらく、芥川も、加藤が、『羅生門』を、読んだばかりでなく、褒めたという事を、「人伝ひとづて」に、聞いたにちがいない、と思うのである。それを、芥川が、わざわざ、「断つて置くが、読んだと云ふ事を聞いたので、褒めたと云ふ事を聞いたのではない、」と書いているのは、これも、芥川一りゅうひねくる云い方である。物事を素直にいわない事は、芥川の長所といいたいが、芥川の短所である。
[やぶちゃん注:「帝国文学」の「註―大正四年の十月号」は十一月号の誤り。]
 しかし、また、芥川が、このように、いらいらしたり、じれたり、したのは、芥川のような性質の人には、無理もない事であった。第三次「新思潮」が出た、大正三年という年は、さまざまの、同人雑誌に、(同人雑誌にちかい雑誌に、)いろいろな新進作家や無名にちかい人たちが小説や戯曲を発表した年であったからだ。そうして、こういう現象は、すでに明治の末年からはじまり、新進作家や無名作家の作品を出す雑誌は、これまでの、「中央公論」、「文章世界」、「太陽」、「新小説」、その他、のほかに、「三田文学」、「白樺」、「スバル」、「劇と詩」、「モザイク」、「朱欒」、その他、その他、文字どおり、無数の文芸雑誌が出て、それが大正元年、二年、三年、と、しだいに、ふえて来た。そうして、それらに出る新進の(あるいは無名にちかい)作家や詩人や歌人はたいていは二十三四歳から二十五六歳で、それらの雑誌の読者はおおよそ十七八歳から二十二三歳ぐらいまでの年頃としごろの者が大部分であった。
 私は、明治の末年から大正の初め頃まで、それらの雑誌の愛読者であったが、それから四十年ぐらいまでのあいだに、その頃ほど、才能のある作家や詩人や歌人が数おおく活動したのを見たことがない、その時分ほど、あたらしい若若しい元気のある小説や戯曲や詩や歌の花ひらいたのを見たことがない。
 思い出すままに、順序不同に、書いてみれば、志賀直哉、武者小路実篤、谷崎潤一郎、里見 弴、久保田万太郎、小山内 薫、長田秀雄、吉井 勇、北原白秋、若山牧水、石川啄木、高村光太郎、秋田雨雀、森田草平、鈴木三重吉、長塚 節、伊藤左千夫、その他、更に、安倍能成や小宮豊隆までが小説を書いたのであるから、これでは、書いても、書いても、書ききれないのである。
 ところで、ためしに、大正元年から大正三年までの日本文学の年表を繰って見て、当然の事であるのに、意外な気がしたのは、それらの雑誌に作品を出している新進作家と無名作家の十分の三ぐらいがいわゆる自然主義の本山といわれた『早稲田』出の人たちである事であった。それは、加能作次郎、吉田絃二郎、白石実三、田中介二、谷崎精二、その他であるが、おどろいたのは、谷崎精二が、ずぬけて、数おおく書いている事であった。猶、谷崎精二が、その同人になっていた、「奇蹟」には、唐津和郎、葛西善蔵、相馬泰三、その他が作品を出している。
[やぶちゃん注:「谷崎精二」(明治二十三(一八九〇)年~昭和四十六(一九七一)年)は作家・英文学者。谷崎潤一郎の実弟。当時は作家として活動したが、後に創作を断念して早稲田大学教授となった。参照したウィキの「谷崎精二」には、『作風は、私小説、あるいは凡庸な恋愛小説が多かった』とし、早大内でのキナ臭い勢力争いが記され、更に兄潤一郎との関係については、『若い頃は兄に創作について相談もしたが、次第に疎遠になり』、昭和八(一九三三)年には弟妹たちの世話のことで喧嘩して絶交した。六年後に精二の『最初の妻が急死した時、潤一郎は新聞でそれを知って葬儀に現れ、和解した』が、『最後まで打ち解けることはなかった。これは、文学者としてあまりに兄に劣っていたことから来る精二側の劣等感と、潤一郎の、才能のない文学者への軽蔑によると思われる』とまである。
「相馬泰三」(明治十八(一八八五)年~昭和二十七(一九五二)年)は小説家。早稲田大学英文科中退。「萬朝報」に入社、『婦人評論』の記者となり、明治四十五・大正元(一九一二)年の『奇蹟』創刊に参加した。代表作「田舎医師の子」「荊棘の路」。参照したウィキの「相馬泰三」には最後に、『晩年は紙芝居の向上に努めた』とある。]
 さて、第三次の「新思潮」が出て、すぐ文壇にみとめられたのは、豊島與志雄あった。そうして、その「新思潮」の第一号に出た豊島の『湖水と彼等』は、題名からでもうかがわれるように、まったく清新な小説であった。そのためであろう、豊島は、その後、「新思潮」ばかりでなく、ほかの雑誌にも、つぎつぎと、作品を発表した。それで、菊池が、『新思潮と我々』という文章のなかで、(これも私のうろおぼえであるが、)第三次の「新思潮」の同人のなかで、文壇的に有名になったのは豊島與志雄一人であった、というような事を書いていたが、はっきりいえば、それが本当であろう。さて、それから、やはり、「新思潮」の第二号に、久米正雄が『牛乳屋の兄弟』という社会劇のようなものを出したが、それは新鮮味などはほとんどまったくなかったけれど、たまたま、新時代劇協会によって、それが、その年[つまり、大正三年]の九月に、有楽座[註―数寄屋橋を朝日新聞社の方へわたり、橋をわたるとすぐ右の方へ半町の半分ほど行った右側ににあった小劇場で、川の方にむかっていた]で上演されたために、『久米正雄』という名が、たちまち、有名になった。それで、久米は、劇作家になるつもりで、その後も、『鉄煙の中へ』などという脚本を「帝国文学」に出したり、時をおいて、脚本を、あちこちの雑誌に、出したり、した。が、それらの脚本は、みな、あまりよい出来ではなかった。それから、山本有三が、そのつぎの「新思潮」[註―第三号]に『女親』という自然主義風の戯曲を出したが、それきり、なんにも書かなくなってしまった。
[やぶちゃん注:「山本有三が……何にも書かなくなってしまった」とあるが、「何にも」は厳密には正しくない。創作ではないが、この後も「新思潮」第五号(大正三(一九一四)年六月号)に「美術劇場と無名会」という劇評、同六号(同年七月号)に翻訳「未来派と劇場」、同七号(同年八月号)に評論「復讐とSTIL」を発表している(その後は掲載がない)。]
 しかし、豊島でも、久米や山本でも、なにか書けば、それを、発表する機関さえあれば、気軽に、出したが、芥川は、持ち前の妙な内気なところ(と同時に内心に高慢なところ)と都会人の見えのようなものがあって、へたな物を出して、恥をかきたくない、というような気持ちもあって、それができないところがあつたのか。そのために、せっかく同人になりながら、芥川は逡巡して、一号にも、二号にも、三号にも、作品を、「新思潮」に、出さなかったのであろうか。それとも、芥川が、他の三人より、立ちおくれたのであろうか。それとも、……
[やぶちゃん注:『三号にも、作品を、「新思潮」に、出さなかった』というのは小説は出さなかったという意味で宇野は用いている。芥川龍之介は第一号(大正三(一九一四)年二月)に柳川隆之介名義でアナトオル・フランス「バルタサアル」、同第二号にはイエーツ『「ケルト民族の薄明」より』、同第三号にも引き続き、『「ケルトの薄明」より』を掲載している。後掲されるように、柳川隆之介名義の小説「老年」は、次の第四号(五月号)に掲載された。]
 後年、(大正八年の一月に、)芥川が、「大学一年の時、豊島だの、山宮さんぐうだの、久米だので、第三次『新思潮』を出した時に、『老年』といふ短篇を書いたのが初めである。それでもまだ作家になる考へがきまつてゐたのではなかつた。その頃久米が小説や戯曲などを書くのを見て、ああいふものなら自分たちでも書けさうな気がした。そこへ久米などが書け書けと煽動するから、書いて見たのが、『ひよつとこ』と『羅生門』とだ。かういふ次第だから、書き出した動機としては、久米に負ふところが多い、」と述べているが、そのとおり、芥川は、久米の煽動によって、小説を書きはじめたのであろうか。――いや、これは、眉唾物である。大正八年一月といえば、芥川は、そのとしの一月号(いわゆる新年号)の雑誌に、嘉の小説を発表し、第二短篇集『傀儡師』を出している。全盛の芥川が、談話を取りに来た記者を、けむにまいたのである。
 芥川が、「新思潮」に、豊島と久米と山本が、作品を発表したあとで、『老年』を、柳川隆之介という名で、出したのは、この小説はまだ本名で出す程のものでない、と思ったのか。それもあろうが、芥川が同人の誰よりも小説を出すのをおくれたのは、芥川の作品が他の人たちの作品と、よしあしは別として、まったく毛色がかわっていたからであり、芸術家としての芥川の素質が、やはり、よしあしは別として、他の人たちの素質と、まったく違っていたからである。それは、芥川が、『羅生門』に未完成の作品として入れなかったが、その時分[註―大正三四年]に書いた、『老年』、『ひよつとこ』、『仙人』の三篇だけを読んでも、わかるのである。
『老年』と『ひよつとこ』と『仙人』は、もとより、題材はちがい、書き方もちがうけれど、三篇とも、二十三四歳の作家の小説として見ると、(いや、三十歳の作家の小説としてみても、)みな、妙にうまくて、ませてはいるが、若若しいところなどまったくない。
『老年』は、芥川自身が書いた年譜によれば、芥川の処女作である。
 私が、かりに、大正三年の二月に創刊した、第三次の「新思潮」を第一号からつづけて読んでいったとすると、豊島の『湖水と彼等』、久米の『牛乳屋の兄弟』、山本の『女親』、と読んできて、この『老年』をよめば、この小説だけが別物のような氣がしたにちがいない。豊島の小説はまえに述べたように、清新な気がするだけでも、ちょっと感心したであろう、が、久米の脚本[註―この時分は戯曲を脚本といった]も、山本の脚本も、舞台にのぼせられるかもしれないが、なんの新味もないばかりでなく、久米のは通俗味が気になり、山本のはありふれた自然主義風の作品であったから、新進作家がこんなものを、と思ったであろう。そうして、芥川の『老年』は、ちょいとくびをひねってから、うまく出来ているとは思ったかもしれないが、あまりに古風な事と、俗な言葉をつかうと、ねこびれている事に、辟易したであろう。第二次の「新思潮」の何号かに、たしか、和辻哲郎の、バアナアド・ショウの『ウォレン夫人の職業』[註―連載]の出ている号に、谷崎潤一郎の『象』という脚本が出ていた。これは、なにぶん、今から四十年はど前の事であるから、筋はわすれたけれど、たしか、徳川時代の末頃の話で、行列の先頭に象がいて、その象が半蔵門にはいろうとすると、門がちいさくて、象が半分ぐらいしか門をくぐれない、という所で終っていたように思う。たしか、明治四十三年頃である。私が、その頃、牛込の戸塚の植木屋の二階に下宿をしていた、三上於菟吉をたずねて、文学談をかわしていると、下の方から、「三上君、」と呼ぶ声がして、まもなく、顔もからだ丸丸まるまるとふとった青年が、梯子段を、あがって来た。その青年も、三上も、毬栗頭いがぐりあたまで、紺絣の著物をきていた。そのふとった青年は、当時、二十歳のはた 豊吉である。秦と三上は、「文章世界」の投書家として、知り合いになったのである。さて、そこで、三人で文学談に花を咲かしていると、秦が、突然、ふところから二冊のうすい雑誌をとりだして、ちょっと目次をしらべてから、あるペイジをあけて、それを三上の膝の前におき、その開いたところを指づしながら、「これを読んでみたまい、」と、いった。そこで、三上が、その雑誌をとりあげて、「なんだ、『新思潮』か、……谷崎潤一郎か、……」というと、秦は、ちょいと不機嫌な顔をして、三上の手から雑誌をとりあげ、さきに開いたペイジの方をながめながら、「やりやがったな、畜生、やりやがったな、」と、叫んだ。つまり、その秦のひらいている「新思潮」のペイジに、谷崎潤一郎の『象』が出ているのである。
[やぶちゃん注:「第二次の「新思潮」の何号かに」これは明治四十三(一九一〇)年十月発行の第二次「新思潮」第二号。]
 私が、ここに、このような昔話を述べたのは、潤一郎の『象』は秦がいうほどすぐれた作品ではないけれど、つまり、第三次の「新思潮」に出ている先きに書いた三つの作品のなかに、「やりやがったな、」と叫ぶような作品が一つもない、ということを、いいたかったからである。
 もっとも、『老年』が、久米や山本の作品と特に変っているのは、おそろしく文章に凝っている事である。たとえば、「其前へ毛氈を二枚いて、ゆかをかけるかはりにした。あざやかな緋の色が、三味線の皮にも、ひく人の手にも、七宝に花菱の紋が抉つてある、華奢な桐の見台にも、あたゝかく反射してゐるのである、」などというところである。しかし、こまかい事を、なるべく凝った美しい言葉で、書く、という事は、決してわるい事ではなく、それが特徴になるという事もあるけれど、(芥川の場合はそれが特徴であるが、)私は、これには、反対である。無技巧というのは、自然主義の作家(たしか、田山花袋)が使いはじめた言葉であるが、遠く二葉亭は別としても、明治の末から大正にかけてあたらしい文学の道をあるこうとした文学者は、こういうわざとらしい技巧や美辞麗句をしりぞけ、各自が自分の使う言葉(あるいはそれに近い言葉)で、小説その他の文章を書くことに苦労をし身をやつしてきたのである。ところが、芥川は、その逆で、二十二三歳の年から、いかに、巧緻な、洗練した、文章を書こうか、と、苦心惨憺したのである。誇張していえば、骨身をけずったのである。その点で、そのよしあしは別として、芥川は、随一の人であった。が、その事にあまりわずらい過ぎたので、芥川の小説は、窮屈になり、飾りすぎて、いかなる切羽せっぱつまった事を書いても、人にせまるところがなかった。しかし、それが芥川の小説の特徴でもあったのである。それは、例えば、『或日の大石内蔵助』の最後の、「このかすかな梅のにほひにつれて、冴返さえかへる心の底へしみとほつてさびしさは、この云ひやうのない寂しさは、一体どこから来るのであらう。――内蔵助は、青空に象嵌をしたやうな、堅くつめたい花を仰ぎながら、何時いつまでもぢつとたたずんでゐた、」などというところである。
 しかし、この最後の「青空に象嵌をしたやうな、堅く冷い花」などというのは、いかにも巧みな凝った文句であるが、これでは、ただ美しい凝った言葉だけが強く目につくだけで、肝腎の情景が、読む人の目に、うかんでこないのである。
[やぶちゃん注:私はこの宇野の言を肯んじない。高校二年の時、初めてこの「或日の大石内藏助」を読んだ際(リンク先は私のテキスト)、その閾域ぎりぎりの部分の人間大石の意識に激しく共感した(私は忠臣蔵の討ち入りまでのだらだらした前振り、芝居小屋大立ち回り好みの討ち入り、書割の切腹シーンへの飴のように延びたドラマが大嫌いである)。そして――私には「もうすれ切つて、植込みの竹のかげからは、早くも黄昏がひろがらうと」いう「日の色」が見えた――そして人間大石になった私には「古庭の苔と石との間に、的皪てきれきたる花をつけた」「寒梅の老木が」見えた――そして、傍らの「障子の中」からは、浪士たちの「不相變面白さうな話聲が」聴こえてきた――私「はそれを聞いてゐる中に、おのづからな一味の哀情が、徐に」私「をつゝんで來るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透つて來る寂しさは、この云ひやうのない寂しさは、一體どこから來るのであらう」と感じたものだった――私には仰いだ大石の末期の眼に映る「靑空に象嵌ぞうがんをしたやうな、堅くつめたい」梅の花が確かに見えた――今も見えるのである。宇野の感じ方は『時勢の推移から來る人間の相違』、『或は個人の有つて生れた性格の相違』(漱石「こゝろ」)だから仕方がない、とでも言っておこう(リンク先は私の注釈附「こゝろ」初出テクスト)。]
 ところで、芥川の、養父は、一中節、盆栽、俳句、その他に趣味をもち、養母は、大通だいつう津藤の姪で、いろいろな昔話を知っている、という話である。それで、芥川は、おそらく、その養母から聞いた話を元にして、『老年』を作り出したのであろう。とすれは、やはり、芥川はまったく老成した青年というべきであろう。ところで、この小説の趣向は、もとより、話はまったく違うけれど、森 鷗外の『百物語』から、取ったのではないか、と思う。
[やぶちゃん注:「大通」は遊里や歌舞音曲、風狂・遊芸全般によく通じた粋人のこと。
「津藤」は細木香以(文政五(一八二二)年~明治三(一八七〇)年)。幕末の江戸京橋の豪商にして通人。新橋山城河岸の酒屋摂津国屋藤次郎竜池の子で、通称二代目摂津国屋藤次郎。俳諧に凝り、九代目市川団十郎・狂言作者河竹黙阿弥・合巻作者柳亭種員といった多くの芸人文人らと親しく、「今紀文」と称されたが、家産を蕩尽し、晩年は千葉寒川に逼塞、四十九歳で没した。芥川龍之介の母方の大叔父に当たる。芥川龍之介「孤独地獄」(大正三(一九一四)年)、大正六(一九一七)年に書かれた森鷗外の史伝「細木香以」(関口安義編「芥川龍之介新辞典」によれば、この時は芥川龍之介が鷗外に彼と縁続きであることを話に行ったらしい)などに描かれている。
「百物語」鷗外と思しい主人公が豪商飾磨屋しかまやの催した百物語怪談会に出る話。主人公が舟で川を上るシーンや酒肴や場の雰囲気など、確かに通じるものはある。因みに飾磨屋は明治・大正の鹿島清兵衛(慶応二(一八六六)年~大正十三(一九二四)年)がモデル。清兵衛は大阪の造り酒屋鹿島屋次男であったが東京の酒問屋鹿島屋の養子となった。写真家の走りで、写真館を営んだりしたが、後に鹿島家から除籍されて梅若流笛方三木助月となった。本作を読むと鹿島がやはり津藤のように「今紀文」と呼ばれたことが分かる。]
 趣向といえば、『ひよつとこ』の趣向は、(これも、)谷崎潤一郎の『幇間』から、得たものにちがいない。それは、これも、話はすっかり違うけれど、花見時に隅田川をのぼる花見船(伝馬船)の上で道化踊をする話が小説の始まりになっているからである。
[やぶちゃん注:「谷崎潤一郎の『幇間』」明治四十四(一九一一)年に発表された。主人公元相場師桜井が幇間の三平になった経緯、恋した若い芸妓梅吉に持て遊ばれて、全裸にされても皆に馬鹿にされても満足気な彼のマゾヒズムを描く、喜劇的短篇。宇野の言う通り、その冒頭、大川の花見船船上の三平が、大きな風船玉に細長い紙袋をつけたものをすっぽりと被ってろくろ首の真似をして、三味の馬鹿囃しに合わせてくねくねと道化踊りをするシーンは、明らかに「ひよつとこ」にインスパイアされたものであると考えてよい。いや、「幇間」の終わりの方で、梅吉に催眠術にかけられたふりをした三平が「梅ちゃんが死ねと云へば、今でも死にます。」と口走った後に、偶然の死をそこに持ち込めば、これはもう芥川「ひよつとこ」になろう。しかし谷崎ではそうならないし、そうしないのである。芥川は恐らく谷崎の「幇間」の世界に本当の死を持ち込むことで、人間存在の暗部を剔抉し得る、いや、何よりも谷崎とは真逆のベクトルで(寧ろ神のサディズムというべきか)面白くなる、と考えたのではなかろうか。そうして先に宇野も述べたように、芥川はそのデビュー作から主人公を殺し、常にどこかに死が付き纏うことになるのである。実に面白い。]

 芥川は、大正七年の一月に、芥川の作品には昔のことを書いたものが多いが、それはどういう訳であるか、と聞かれたのに対して答えた『昔』という文章のなかで、つぎのように述べている。

……今僕が或テエマを捉へてそれを小説に書くとする。さうしてそのテエマを芸術的に最も力強く表現するためには、或異常な事件が必要になるとする。その場合、その異常な事件なるものは、異常なだけそれだけ、今日こんにちこの日本に起つた事としては書きこなしにくい、もししひて書けば、多くの場合不自然の感を読者におこさせて、その結果折角のテエマまでも犬死いぬじにをさせる事になつてしまふ。所でこの困難をのぞく手段には「今日この日本に起つた事としては書きこなし悪い」と云ふ語が示してゐるやうに、昔か(未来は稀であらう)日本以外の土地か或は昔日本以外の土地からおこつた事とするよりほかはない。

 しかし、これは、強弁である、虚勢である、後からしいてつけた理窟である。しかし、また、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『十訓抄』、『聊斎志異』、その他の中から、ひとつの話をより出した、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』、その他のような、物語風の短篇は、何といっても、芥川の独創である。『芋粥』も、『今昔物語』にも、『宇治拾遺物語』にも、出ている、簡単な挿話(あるい笑話)であるが、あれらをあのような短篇に作り出したのは、よしあしは別に、芥川の発明で芥川のすぐれた才能の賜物たまものである。そうして、その芥川のたぐい稀な才能とは、まえに書いた、美辞麗句の文章と、細工のこまかい表現と、(『細工は流流りゅうりゅう仕上しあげを御覧ごろうじろ』と鼻にかけるような細工のこまかい流麗な文章と、)その作品の中の随所にあらわれている、これこそ芥川独得の、皮肉と諷刺と機智である。
 されば、『鼻』を発表し、つづいて、『芋粥』を出した頃の芥川は、人気にんき出花でばなの、若手作家の、なにもかも、颯爽たるところがあった。どこへ行っても、『鼻』と『芋粥』をほめる声が聞こえるような観さえあった。
 しかし、さきに引いた芥川のテエマという言葉をここに持ち出すと、『鼻』と『芋粥』のテエマは、兩方とも、理想(あるいは空想)は理想(あるいは空想)であるうちが花という程の意味である。とすると芥川や(殊に)菊池が愛読したアイルランドの劇作家シングの『聖者の泉』(“The Well of the Saints”――『霊験』という題で翻案された)とまったく同じ趣向である。
[やぶちゃん注:「アイルランドの劇作家シングの『聖者の泉』(“The Well of the Saints”――『霊験』という題で翻案された)」とあるが、この「翻案」された『霊験』なる作品は、菊池寛の作ではなく(文脈上、そのように読めてしまう)坪内逍遥の作品で、舞台は安土桃山時代の武蔵国とし、草鞋や草履を編んで生計を立てている盲目の夫婦が主人公で、村人たちによって二人は大変な器量良しと思い込んでいるところへ、開眼の法力を持った上人が訪れる、というシングの「聖者の泉」の完璧なインスパイア作品であるが、逍遙の作中のみならず、近代以降の西洋劇の国劇翻案の中でも白眉とされている作品である(リンク先は私の松村みね子(片山廣子)訳の同テキスト)。]
 ここで、又、趣向といえは『芋粥』、の主人公の五位と、アカアキイ・アカアキヰッチが似ているところがある事である。それは、例えば、同僚から、しじゅう、翻弄され、「その鼻と口髭と、烏帽子えぼしと水干とを、品隲ひんしつされ、」わるい悪戯をされる『芋粥』の主人公五位、さまざまな文学者から、「さんざん嘲弄されたり、揶揄されたり、」する終身九等官、アカアキイ・アカアキヰッチを思わせるところがあるからである。
[やぶちゃん注:「アカアキイ・アカアキヰッチ」は「外套」の主人公“Акакий Акакиевич Башмачкин”。音写すると「アカーキィ・アカーキエウィッチ・バシマチキン」である(因みに実藤正義氏の「ロシア語一“語”一会」の「第8回 所有形容詞(物主形容詞)③」によれば、“Акакий”はギリシャ語の「純朴な」という意の語に由来し、従って父称名も同じであるから「純朴な父をもつ純朴な男」という意味になる。更に“Башмачкин”は「靴(主に女性用)」を意味する“башмак”の指小形で、“под башмаком”『とすれば「誰々のいいなりになる」ということなので、「うだつのあがらない小心な男」というほどの意味で使ったのではないか』と推測されている)。現在、「芋粥」はその導入部や主人公五位の設定に、明らかに「外套」(芥川龍之介は英訳で読んでいた)の影響があることが知られており、ネット上でも影響関係を分析した論文を閲覧出来るが、宇野のこの指摘(「毛利先生」との類似も含めて)は、正にその嚆矢なのである。
『「その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲され、」』の原文は厳密には「彼等は、この五位の面前で、その鼻と口髭と、烏帽子と水干とを、品隲して飽きる事を知らなかつた。」で受身形ではない。逆に、直前の「翻弄され」の方は同段落冒頭に「所が、同僚の侍たちになると、進んで、彼を飜弄しやうとした」という他動詞形で現れる。「品隲」は「品騭」とも書き、品定めのこと。
『さまざまな文学者から、「さんざん嘲弄されたり、揶揄されたり、」』これは「外套」では、アカーキィ個人に対するものではなく、新聞小説や評論を書く当時の作家・評論家(ライター)の愚弄と嘲笑の格好の餌食となっていた九等官という当時の賤吏階級、という文脈で語られている部分である。]
 それから、また、「過去に於て黒かつたと云ふ事実を危く忘却させる位、文字どほり蒼然たる古色を帯びた」モオニング・コオトをきて生徒たちに笑いをこらえさせる、という『毛利先生』の主人公は、「仕立屋したてやがすぐれた腕をあらはさなかつたために、そのつぎあてた切れが大きすぎて、みにくい恰好につくられた」外套をきている、やはり、『外套』の主人公のアカアキイ・アカアキヰッチと似ているからである。
[やぶちゃん注:「毛利先生」の私の注附正字正仮名テクストはここにある。]
 ところで、これまで芥川の趣向の取り方についていろいろ述べてきたが、これは、(もとより小説と歌とでは違うけれど、)歌にもそれにはほんの少し似た例がある。その歌の方で一つの例をあげると、たとえば、源実朝の
  大海の磯もとどろに寄する波われて砕けてさけて散るかも
という歌は、万葉集のなかの
  伊勢の海磯もとどろに寄する波かしこき人に恋ひ渡るかも
  聞きしより物を思へばわが胸はわれて摧けて鋭心もなし
  大海のいそもとゆすり立つ波のよらむ[よせむ]と思へる浜のさやけく
などといくらか似ている。こういうのは、歌の方では『本歌取』というのであるが、この実朝の歌は、かりに本歌取という事になるとしても、この歌をよめは、豪快な天然の現象をながめて感動している実朝の感動が胸をゆするような韻律となってよむ者の心をうつところ、やはり、押しも押されもせぬ、源実朝の歌である。
[やぶちゃん注:「伊勢の海……」は、「万葉集」巻四の第六〇〇番歌で、作者は笠女郎かさのいらつめ。大伴家持との相聞歌である。「聞きしより……」は巻十二の第二八九四番歌。作者未詳。「鋭心」は「とごころ」と読む。「利心」とも書き、しっかりした心持ちを言う。「大海の……」は巻七の第一二〇一番歌であるが、宇野の表記は一般的でない。以下に示す。
  大海の水底みなそことよみ立つ波の寄らむと思へるいそのさやけさ
作者未詳。]
 そこで、さきに述べたように、歌と小説とではまったく違うけれど、芥川の『鼻』の元になったのは、『今昔物語』の巻二十二に出ている原稿紙[四百字づめ]で四枚たらずの簡単な挿話(あるいは笑話)であるが、それをあのような、まず、手のこんだ、物語に作ったのであるから、やはり、これは、芥川の独得の才能が発明した、という事になるのである。
『鼻』は、岩城準太郎が解説しているように禅智内供が、邪魔になる長い鼻を治療して年来の望みをとげた満足の気もち、さて、人間なみの鼻になったために却って人びとに笑われて後悔する気もち、それから、元のとおりの長い鼻になってほっとした気もち、――この三つの気もちを、芥川独得の皮肉と諧謔とをまぜて、機智のゆたかな、気のきいた、しやれた、心にくいような一種の名文で、書いたものである。そうして、

――かうなれば、もう誰もわらふものはないにちがひない。
内供は心の中でかう自分にささやいた。長い鼻をあけ方の秋風にぶらつかせながら。

むすんでいる。
[やぶちゃん注:「岩城準太郎」(明治十一(一八七八)年~昭和三十二(一九五七)年)は国文学者。奈良女女子高等師範学校教授。明治三十九(一九〇六)年に表した「明治文学史」は本邦初の体系的な近代文学史とされる。]
 これをかりに『芸』とすれば、これは、実に、あざやかな、水際みずぎわだった、芸である。
 それから、『芋粥』も、やはり、『今昔物語』の巻二十六の話をもとにしたものであるが、これも、『今昔物語』の話は、敦賀つるがの豪族の、藤原利仁の豪著な生活の有様ありさまを述べる事を主としているが、芥川の『芋粥』では、五位が、どうかして芋粥を腹一ばいたべたい、と念願していたのが、芋粥のたきかたがあまりおおがかりなのと、その饗応があまり大袈裟おおげさであったので、閉口した、という事になっている。が、この『芋粥』の最後の

……晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位はあわてゝ、鼻をおさへると同時にしろがねひさげに向つて大きな嚔した。

というところを読むと、『鼻』も、『芋粥』も同じ手である、と思えば、芥川の才能が、派手ではあるが、あまり底が深くないことがわかる。
[やぶちゃん注:「提」本来は、銀や錫製で出来た、つると注ぎ口の附いた小鍋形の銚子を言うが、「芋粥」に登場するそれは、『それから、一時間の後、五位は利仁や舅の有仁)と共に、朝飯の膳に向つた。前にあるのは、銀の提の一斗ばかりはいるのに、なみなみと海の如くたたへた、恐るべき芋粥である。』と描写されるから、かなり大振りの鍋様のものである。]
 しかし、また、芥川が、他の人の作品から趣向をとりながら、それをまったく自分が作った作品のようにしてしまうところは、いわゆる『家の芸』というべきものであろう。それは、どこかから趣向を取ってあっても、一般の人たちには、なかなか見やぶれない、というような上手になっているからである。
 ところが、芥川が師として尊敬している、夏目漱石は、趣向の取り方においては、芥川に輪をかけたようなところがあった。しかし、漱石が趣向をとった本は、私の知っているのでは、二つあって、両方とも、外国の昔の作者の本で、あまり人に読まれていないものであるから、わりに多くの人に知られていないようである。
 その作者とは、一人は、ドイツの十八世紀の、後期ロマン派の作家、アマデクス・ホフマンであり、他の一人は、イギリスの十八世紀の、詩人であり作家ある、ジョオジ・メレディスである。
 漱石が、はじめて筋らしいを仕組んだ小説といわれる、『虞美人草』は、野上豊一郎の解説によれば、漱石が、教職を捨て、朝日新聞社にはいって、自由の身になって、京都に遊び、嵐山に行ったり、比叡山にのぼったり、した時の事が、素材の一部になっているけれど、「作者[註―漱石]はメレディスの小説を愛読してゐた。京都滞在中、筆者[註―野上]に送つた葉書にも、『僕少々小説を読んで是から小説を作らんとする所なり、所謂人工的インスピレエションに取りかかる、』とありて、『花食まば鶯の糞も赤からん』の句が記してあつた、」と述べているが、誰か(人は忘れたが、信用できる人)が、『虞美人草』の荒筋は、メレディスの『我意の人』(“The Egoist”)とほとんどまったく同じであるばかりでなく、あの小説に出てくる、紫の女といわれる藤尾、哲学者の甲野さん、外交官志望の宗近さん、その他も、そのメレディスの『我意の人』[註―これはたしか平田禿木の訳名]に出てくる人物たちと同じ型の人間である、と書いていたのを、読んだことがある。私は早稲田大学の英文学科に籍をおいていた時、英語学の教授法の名人といわれる、増田藤之助という先生の、この“Egoist”の講義に二三度出たが、一時間のあいだに、四五行か十行ぐらいしか、その講義がすすまなかった。それは、(これはまちがいかもしれないが、漱石さえ、わからないところがあって、平田禿木に聞いた、という程であるから、)私などに読める筈がない。それに、この小説の日本訳もとうとう読む機会がなかったから、漱石の『虞美人草』の荒筋とメレディスの『我意の人』の荒筋が似ているかどうかは知る由もないが、さすがに漱石である、『虞美人草』はまったく漱石の小説であるから。
 ところで、漱石の『吾輩は猫である』の終りの方に、

……猫と生れて人の世に住む事もはや二年越しになる。自分では是程の見識家はまたとあるまいと思うて居たが、先達てカーテル、ムルと云ふ見ず知らずの同族が突然大気燄を揚げたのでので、一寸吃驚ちよっとびっくりした。よくよく聞いて見たら、実は百年前に死んだのだが、不図した好奇心から……

というところがある。
 この『カーテル・ムル』というのは、つまり、ドストイェフスキイを、その構成的手法で、驚歎させた、という、ホフマンの『牡猫ムルの人生観』の中で活動する猫の名である。そうして、この小説は、その荒筋を一と口に述べると、科学と文学とに深い造詣を持ちながら、世をすねて暮らしている、屋根裏の哲人、アブラハム先生の生活を、アブラハム先生にひろわれた牡猫のムルが、観察し描写したものであるから、漱石も、また、ドストイェフスキイ同様に、この『牡猫ムルの人生観』の構成的手法に驚歎(はしなくても、ちょいと感心)して、『吾輩は猫である』の趣向を立てた、と見てもたいしたまちがいではない、と、私は、思うのである。聞くところによると、はじめ、作者の漱石が『猫伝』という題をつけたのを、俳句の大家であり雑誌の経営の才能の多分にある、漱石の友人、高浜虚子が、この小説の最初の一節をとって、『吾輩は猫である』としては、とすすめたので、この題になったのである。
 私は、この『牡猫ムルの人生観』は、日本語の翻訳で読んだが、あるところなど、この小説と『吾輩は猫である』とには、ところどころに、(ほんのところどころにではあるが、)ほとんど同じような長い一節があるけれど、やっぱり、『吾輩は猫である』は、『吾輩は猫である』であって、『牡猫ムルの人生観』と根元的にちがうところがある。それは、漱石などとちがって、ホフマンは、生来、異常な幻想力をそなえ、奇矯な生活をいとなんでいたから、一般に『悪魔のホフマン』とか『お化のホフマン』とか、いわれているけれど、単なる怪談作者ではなく、怪奇な話の形式によって、ホフマン自身が感じたとおりの、自然に対する深奥な驚異、人間の運命的な苦悩を描いている。
 それで、これも、簡単にいうと、ホフマンの猫が、妖怪めいた、ばけ物のような、猫であり、したがって、その観察も、深く、怪しく、陰気な小説であるが、漱石の猫は、数多の読者が御承知のごとく、陽気で、楽天的で、そのいう皮肉も人の顔をしかめさせるような深刻なところがないので、大衆の読者にしたしまれ、ホフマンの猫はその反対である。(ついでにいえば、芥川の数数の怪奇な⦅怪奇めいた⦆小説も、谷崎潤一郎の同じような作品も、作者がホフマンのような人間とはほとんど正反対であるから、怪奇も、妖気も、人にせまるような凄みがなく、読者をおもしろがらせるところに、この二人の作家の小説が多くの人に読まれるところがあるのである。)
 ところで、漱石の場合は他の作家とかなり違うところがあるようである。漱石は、『吾輩は猫である』や『坊ちやん』(ついでにいえば、私は、漱石の小説の中では、しいていえば、この二つの小説と『草枕』をもっとも高く買うのである、)その『吾輩は猫である』や『坊ちやん』などを読むと、たいへん陽気な人のように思われるけれど、実際は、かなり陰気なところ、ひどく気むずかしいところ、時としては、気ちがいになるのを恐れた、と文章では、真面目らしく書いている、芥川より、漱石は、時としては、気ちがいめいた事をする時があるようである。(その事は何かの作品に書いている。)
 そうして、芥川は、(晩年をのぞいて、)実生活の方では、かなり陽気なところがあり、人がおもしろがる色色な所へは、たいてい、出かけ、また、そういう色色な所を知っていた。(私は、そういう芥川にかなり接しているので、それらの事は、稍くわしく、述べるつもりである。が、こんどは、おもわず、芥川の作品について、述べすぎたので、書けなかったのを、誠に残念に思っている。)

     


 この文章を書こうと思いたった時は、よもや、このように長くなろうとは、思わなかった。予想もしなかった。そうして、これから書きつづけるのであるが、これまでも、書いているうちに、それからそれと、あとからあとから、芥川について、いろいろな事が、思いだされるので、これからさきの見当がつかなくなった、(いや、ほぼ見当はついているけれど、いずれにしても、)こんな文章を書きだしたのを、今は、すこし後悔している。(無住法師のあらわした『沙石集』のなかに、「後悔さきに立たぬ事をわきまへざること誠におろかなるかな」という文句がある。)しかし、また、「乗りかかった船」という諺もあり、滝亭鯉丈の『花暦八笑人はなごよみはっしょうじん』の中にも、「ちよつ、どうするものか、乗りかかつた船だ、出かけよう、出かけよう、」という文句もある。そこで、おろかな私も、自分で自分を鞭うちながら、「出かけよう、出かけよう、」と、かけ声をかけながら、のろのろした筆をすすめよう。「鞭うつや又も時雨しぐれの牛ぐるま」(『俳諧新選(蘭春)』)
 さて、この文章をはじめて書き出したのは、七月二十三日であるから、一年中でもっとも暑いといわれる『大暑たいしょ』の頃であったが、今、この文章を書いている、十一月二十七日は、東京でも、早朝には、地上には一面に霜におおわれ、所によってはうすい氷がはり、六時頃は私の部屋も二ぐらいであった。この分では、もう三四日さんよっかもたって、十二月になれば、北の方の山山のいただきは雪におおわれるであろう。
 十二月といえば、私には、忘れられない思い出がある。
[やぶちゃん注:「滝亭鯉丈」(りゅうていりじょう ?~天保十二(一八四一)年)は江戸後期の滑稽本作家。「たきてい」とも読む。本名、池田八右衛門。代表作「花暦八笑人」(文政三(一八二〇)年~嘉永二(一八四九)年刊)は能楽(のうらく)仲間(遊び好きののらくら友達)八人の遊興を描く茶番狂言の嚆矢。
「俳諧新選」江戸中期の京都俳壇の長老三宅嘯山(しょうざん 享保三(一七一八)年~享和元(一八〇一)年)が安永二(一七七三)年に版行した当代俳句選集。この蘭春なる者の句は、恐らく「十訓抄」に載る楊梅大納言顕雅卿やまもものだいなごんあきまさきょうの言い間違いの話に基づくか。
楊梅大納言顯雅卿は、若くよりいみじく言失ごんしつをぞしたまひける。神無月のころ、ある宮ばらに參りて、御簾(みす)の外にて女房たちと物語りせられけるに、時雨のさとしければ、供なる雜色ざふしきをよびて、「車の降るに時雨さし入れよ」とのたまひけるを、「車軸とかやにや。恐ろしや」とて、御簾の内笑ひあはれけり。(後略)
「さとしければ」は「さつとしければ」で、さっと降ってきたので、の意。貴人の牛車の牛を鞭打って急がすのは実景ではあるが、この句の面白さは実は、この逸話の連想からあたかも時雨を鞭打つとする諧謔味ではあるまいか。識者の御教授を乞う。]

昭和十七年の十二月のはじめから、昭和十八年の二月の中頃までの間に、私は、一週間か十日ぐらいのあいだをおいて、五、大阪にゆき、大阪を根城ねじろにして、そのたびに、三日みっか四日よっか、毎日、大阪から電車で大和の各地をまわった。これは、ある出版社から、『大和路』(あるいは『大和めぐり』)というものを書くことを、たのまれたからである。大和の各地とは、奈良、橿原あたり、法隆寺あたり、西の京、(つまり、薬師寺、唐招提寺、その他、)佐保路、(つまり、佐保川、諸御陵墓、興福院、不退寺、法華寺、その他、)吉野あたり、多武峯とうのみね、初瀬、室生寺、山の辺の道、(つまり三輪みわ纏向まきむく、山辺の里、石上いそのかみ、その他、)である。
 さて、その大和めぐりをした時のことである。その昭和十七年の十二月の中頃であったか、その時は、長谷寺はせでらから室生寺にまわるつもりで、大阪の上本町六丁目から電車に乗ったのであるが、どういう訳であったか、途中で、私は、電車をおりた。乗りかえのために下りたのか、それとも、なにかの都合つごうで下ろされたのか、まったく覚えていないが、私はそのみすぼらしい停留場でおりた事を、その時も、今も、よかった、(ありがたかった、)と思っている。
 その狭い停留場のプラットフォオムに立って、ふと、気がつくと、そこが『耳成みみなし』という停留場であり、そのプラットフォオムの北側のすぐ目の下と思われるほど近くに、まったく三角さんかくかたちをしている耳成山がじんまりとそびえていたからである。『古今和歌集』のなかに、「耳なしの山のくちなし得てしがな思ひの色の下染したぞめにせむ」とよまれている耳成山が、全山緑の木立につつまれている耳成山が、草も木も枯れはてた、満目荒涼とした野のなかに、出現していたからである。それから、やっと掛けられるようなせまい腰かけのついている板壁の上に、昭和十八年の新年号の「中央公論」の広告が出ていたからである。そうして、それも、長方形の紙に、木版で、ただ二ぎょうに長編小説、『東方の門』島崎藤村、『細雪』谷崎潤一郎、と、筆で書かれた字で、すられてあったからである。そうして、しかも、それが、はるか東のかたに三輪山が望まれる、寒駅のプラットフォオムの待合室の板壁に、張られてあるのである。それは、文学を愛する程の者ならば、誰か感激せざらんや、という光景ではないか。
[やぶちゃん注:「耳なしの山のくちなしえてしがな思ひの色の下染にせむ」は「古今和歌集」一〇二六番歌。「耳なし山」は耳成山で、現在の奈良県橿原市木原町にある。山と呼称するが上円下方墳で、古代大君の御陵と伝わる。この「耳なし」は「口なし」から「梔子」を引き出す。「くちなし」梔子。アカネ目アカネ科クチナシ属 Gardenia jasminoides。古くから乾燥させた果実を黄色着色料として用いた。「梔子」は「口なし」で、これは「耳なし」と相まって「誰にも(私の秘めた恋は)知られないだろう」の意を掛けることになる。「下染め」は染色の際に二種以上の染料を用いて染める時、初めの染料で染める工程を言う。本染めの発色を良くするためのプレの染色である。「思ひの色」の「ひ」は 「火」色・「緋」色を掛けて、鮮やかな恋の情熱の赤い色に心を染め上げるために、まずは発色が冴える梔子で下染めをしよう、というのである。「えてしがな」は「得(動・ア行下二段・連用)て(完了(確述)・助動詞「つ」・連用)しが(願望・終助詞「しか」の中古以降の濁音化)な(感動・間投助詞)」で「~してしまいたいものだなあ」の意。
〇やぶちゃん通釈
耳成山の梔子の実が欲しい――それでもって――私の心を――誰にも知られぬあの人への思いで染めるための下染めにしたいものだ……]
 藤村が、『東方の門』を書き出した頃は、あの戦争がますますはげしくなる時分であった。それで、その頃すでに七十一歳であった藤村は、『東方の門を出すに就いて』という文章のなかで、「戦争が長引けは長引くほど時局はますます重大性を加へて来た。こんなはげしい渦の中に立つて、筆とることは一層身にしみるばかりでなく、いまの自分の老弱に思ひ到れば実に何事も容易でない、」と、述べている。これは非常な決心である。はたして、藤村は、この『東方の門』を、昭和十八年に、「中央公論」の、一月号、四月号、九月号、十月号、と、出したが、十月号のは、第三章の五が完結しないままのが出た。つまり、藤村は、第三章の五を、「松雲が東京へ来て聞きつけたのも、この時代の跫音あしおとである。和尚が耳にした狭い範囲だけでも、」という所まで書いて倒れたのである。そうして、藤村は昭和十八年の八月二十二日の夜のあけぬ前、七十二歳で、永眠したのである。これは、よくある事のように思われるかもしれないが、実に大した事である。(わたくし事ではあるが、私は、いつか、島崎藤村については、心ゆくばかり、書いみたい、と思っている。)
 谷崎潤一郎が『細雪』を書き出したのも、いうまでもなく、やはり、戦争がいよいよあげしくなった頃である。そうして、この小説は、たしか、つきおきに、「中央公論」に、出す予定であった。ところが、これは、たしか、このようなはげしい時局のおりに、こういう有閑階級の有閑な事を書くとは、……というような理由で、当局から、書きつづける事を、禁止された。ところが、谷崎潤一郎は、雑誌に発表できなくなっても、『細雪』を書きつづけたのである。そうして、その上巻を書きあげて、昭和十九年の七月に、非売品として、二百部印刷して、これと思う人に、『細雪』の上巻を寄贈したのである。いうまでもなく、昭和十九年といえは、戦争の状態がますますはげしくなり空襲がいよいよはげしくなった時分である。それを、谷崎が、空襲を避けながら、『細雪』を書きつづけた、という事は、なんといってよいか、これ後世にのこすべき語種かたりぐさである。これには、私など、頭がさがる思いがするのである。

 芥川の『或阿呆の一生』のうちの『譃』という章のなかに、「しかしルツソオの懺悔録さへ英雄的な譃に充ち満ちてゐた。殊に『新生』に至つては、――彼は『新生』の主人公ほど老獪な偽善者に出会つたことはなかつた、」という一節がある。『新生』の主人公とは、いうまでもなく、島崎藤村である。たいへん常識的なかたであるが、芥川ほどの聡明な人が、遺稿のなかに、こういう事を書くとは、と、私は、思うのである。それとともに、芥川には、あの『新生』に書かれてある一件が、遺稿の中にまで書くほど、気になったのではないか、気になって、気になって、仕方がなかったのではないか、とも、私は、思うのである。(この事については、別にくわしく述べる。)それから、また、藤村には、芥川がまったく持っていなかった、底の知れない辛抱づよさがあり、並大抵なみたいていでないシブトサがあり、おどろくべき図太さがあった。そうして、藤村は、また、あらゆる同時代の作家の作品を見とめていなかったようなところもある。

 芥川の『あの頃の自分の事』という文章のうちの帝国劇場の喫煙室の事を述べた一節のなかに、「そこの入口いりぐちに、黒い背広の下へ赤いチョッキを着た、の低い人がたたずんで、はかま羽織はおりの連れと一しよに金口の煙草を吸つてゐた。久米はその人の姿を見ると、我々われわれの耳へ口をつけるやうにして、『谷崎潤一郎だぜ』と教へてくれた、」というところがあるが、谷崎潤一郎は、芥川の学生時代の文学の目標のようなものであり、作家になってからの芥川には、競争相手のようなものであった。もっとも、作家になってからの芥川には、競争相手のような者は無数にあったけれど。
 それについて、ずっと前に引いた、『芥川龍之介研究』の座談会の筆記のうちの『文学上の競争者は?』という題のがあるから、それを、つぎに、うつしてみよう。

 久米。佐藤君の前で云つてはをかしいが、彼[註―芥川]の文学上の競争相手ともいふべきものは、実際は佐藤春夫君だつたらしいね。
 中村[註―武羅夫]。私はこのあひだ里見さんぢやなかつたかといふ話を聞いたが、……
久米。それは恐らく間違まちがひでせう。佐藤君を卒業することは彼は或る程度まで念願してゐた。いろいろな人と対立的な位置に立たされることは不愉快であつたらしいが、尊敬しながら克服しようといふ事もした。おしまひの時分になつて、双方の位置がおちついてから初めてさういふ気もちがなくなつたらしいので、僕にもさう云つてゐた。佐藤だけはしのぎをけづつたといふ意味をなにか別の言葉でいつてゐた。僕はそれを信じてゐる。君だつて、いくらか感じてゐたらう。
 佐藤。気がつかぬではなかつたね。
 廣津。さういふゴシップはあつたね。これは佐藤君を前において云ふんだが、やはり二枚目役者のアセリだね。さういふ感じがあるね。
 杉山[註―平助]。非常に老成人でゐながら、最後まで大人になりきれなかつたといふ……
 廣津。さういふにはいへるね。今まで四十男だと思つて話してゐたのに、立ちあがつたら足袋たびが七もん半だつたといふ、さういふ感じは非常にあつた。しかし、それもこれも引つくるめて、ある時はイヤダといふ気もちがしたけれど、全体をひつくるめてだん、だん考へてみると、非常に愛情を感じる。……たいていの事はわかつてゐて、しかもわかりきつたうへで、やはり、ちよつとかはゆいといふ感じ……なぜといふに、嘘をついてしまつてから、それで 負けたと思つてゐる男なんだ。決してごまかしとほすことのできない、その癖いへばつい誇張してしまふし、人と話せば相手を負かしてしまふし、それで、自分は勝つたと思つてゐない、思へないのだ。実にわびしい性格なんだね。
[やぶちゃん注:「七文半」一文は約二・四センチであるから、十八センチ。就学前児童の足の大きさである。]

 私は、ここに引いたところを、以前から、何度もよんだが、ここで話をしている久米と廣津は、もとより、性格その他はちがうけれど、共に、人間の微妙な気もちなど隈なくわかる人であるから、ここに述べられている久米と廣津の意見は、人としての芥川の、芸術家としての芥川の、かくれた長所と短所を、かなりするどく突きながら、底に芥川にたいする深い深い愛情をもっていることが忍ばれるので、読むたびに、なんともいえぬ奥ゆかしい気がして、私は、いつも、心をうたれるのである。そうして、私は、持つべきものは友だちである、と思い、友だちというものは実にいいなあ、と感じるのである。世のなかに友だちほどよいものはないなあ、と感じるのである。

 一般に芥川の小説のあるものには鬼気を感じるといわれているが、私は、そうは思わない、『鬼気』さえ、時によると、芥川の作り物のような誇張のような気がするからである。久米の話によると、芥川は、大学生時代から、時代物を書いている時分から、いかなる本をよんでも、文章のあいだにみなぎる鬼気(あるいはそれに似たもの)を拾い出すことに骨を折っていた、という事であるが、それと同じように、芥川は、ある場合は、ひとつの小説をつくる時に、なんとかして、ひとつ、鬼気を出してやろう、と苦心したにちがいない。

 何時頃いつごろの話だか、わからない。北支那のまちから市をわたつてある野天のでんの見世物師に、李小二と云ふ男があつた。鼠に芝居をさせるのを商売にしてゐる男である。鼠を入れて置くふくろが一つ、衣裳や仮面をしまつて置くはこが一つ、それから、舞台の役をするちひさな屋台やたいのやうな物が一つ――その外には、何も持つてゐない。

 これは『仙人』という小説の書き出しである。もっとも、この一節には、鬼気という程のものは現れていないが、しかし、この小説には、(全体をよめば、)やはり、鬼気のようなものをねらったようなところがたしかにある。しかし、いうまでもなく、作者が本当に鬼気を感じて書いているのと、作者が鬼気に興味を持って書いているのとでは、いかに筆さきで巧妙に書いてあっても、それは、まったく違う。筆さきだけで書いたものは、一応は読む人を感服させるが、せまってくるものがない。それから、この小説には、アナトオル・フランスと森鷗外の書き方をまねたようなところがあり、この小説が支那のふるい本のなかの話を焼きなおしたものである事もはっきりわかる。それから、これが大学生時代の二十四歳の年に書かれた小説か、と思われるほど、この小説には、気どった、いやに凝った、衒学的な、ところがある。そうして、この小説をよめば、芥川が、その頃から、すでに、いかに、生意気な青年であったかが、わかって、それが、また、おもしろいところもあるが、……しかし、これらの事は芥川の初期の幾つかの小説に共通する欠点(とあるいは長所か)である。そうして、それらの欠点(とあるいは長所)が既にこの小説(『仙人』)に、はっきり、すっかり、出ているのである。(『雀育まで踊り忘れず』というか、『みつご子の魂百まで』というか。)

 あらゆる神の属性中、最も神のために同情するのは神には自殺の出来ないことである。

 これは、芥川の『侏儒の言葉』のなかの一節であるが、大正十四五年頃に書いたものであろうか。『侏儒の言葉』のなかにはずいぶん否味いやみな警句のような文句が出てくるが、この言葉は、(芥川の最後をかんがえれば、)文字どおり真剣であり、悲壮な感じさえするではないか。                                          
[やぶちゃん注:「侏儒の言葉」に対するこうした不快感の表明は複数の文学者から挙げられているが、例えば萩原朔太郎はその長大な芥川龍之介の追悼「芥川龍之介の死」の「8」で(リンク先は私の電子テクスト)、
文學上における主觀主義者――それ故にまた浪漫主義者――としての私の立場は、芥川君の「あまりに文藝的な」「あまりに觀照的な」態度を好まなかつた。私の言語の意味に於て、「詩」といふことは主觀性を觀念してゐる。だから主觀性のない文學は、私の意味での「詩」ではない上に、自分の藝術上の立場として、對蹠的な地位に敵視するものでなければならぬ。そして芥川君の文學は、正にこの點で自分の敵――しかも最も強力な敵、それへの戰で最大の名譽を感ずるほど、それほど偉大で強力な敵。――として感じられた。特に月々の「文藝春秋」に出すアフォリズム風の文字(侏儒の言葉)は、機智のために機智を弄する弄筆者流の惡皮肉で、憎惡的にさへ不滿を感ぜず居られなかつた。
と述べている。]
 さて、芥川の後期(大正十三四年から晩年まで)の小説のなかには、前期の作品のなかに見られない、真剣な、読む人の心にせまるような、作品が幾つかある。(それらの作品については後に述べる。)ところが、芥川の初期の小説は……
 芥川たちまち高名にしたのは、しかし、初期の小説である。しかし、その初期の小説の多くは、題材が変っているので、ちょっとはおもしろいけれど、いわば、みな、小話こばなしである。(その頃、むやみに『ナントカナントカの話』、というような題の小説が流行した。たとえば、その時分の菊池の小説に、『恩を返す話』、『大島の出来る話』、などというのがある。)それで、私は、その頃の芥川の小説を、(菊池の小説も、)みな、小話こばなし小説である、といって、芥川を大いに憤慨させた事がある。しかし、芥川がいくら憤慨しても、芥川の初期の小説は、くちにいうと、たいてい、小話小説か物語小説かである。しかし、それで、芥川の小説がわりに多くの人に、受けたのである、もてはやされたのである。
 ところで、芥川は、外国の作家では、トルストイ、チェエホフ、ストリンドベルヒ、アナトオル・フランス、メリメ、ボオドレエル、ゲエテ、ポオ、などに、傾倒していた、といわれているが、それは、(フランスとメリメは別として、)傾倒していた、というより、例の読書癖で、手あたり次第しだいに読んだもののなかでもっとも念をいれて読んだもの、といった方が適当であろう。もし、『鬼気』などという事で、芥川の小説が、ほんとうに、ストリンドベルヒの小説のようになったり、ポオの小説になったり、していたら、芥川は決してあのような流行作家にならなかったであろう。
 くちにいうと、鬼気は芥川の好みであったのだ。そのように、王朝の話も、キリスタンの話も、その他、みな、芥川の好みであったのだ。好みで書かれてあったので、芥川の初期の小説は、どのような悲惨な残酷な事が述べられてあっても、それはそれとして、おもしろく読まれたので、多くの人にしたしまれたのである。(小説のたちはちがうが、谷崎潤一郎の初期の小説にもこれいくらか似たところがある。この事については別にあらためて書くつもりである。)
 芥川の初期の小説の中の、たとえば、『羅生門』、『孤独地獄』、『虱』、『尾形了斎覚え書』、『偸盗』、『地獄変』その他は、もとより、題材はそれぞれ違うが、みな、気もちのわるい話ばかりである。常識的なことをいえば、これらの小説をよんだ人のなかには、このような小説をかく人はどのような陰気なしかつめらしい顔をした人であろう、と想像するかもしれない。ところで、これらの小説は芥川が二十四歳から二十七歳までのあいだに書いたものであるから、私が、かりに、これらの小説を、二十八歳の年に読んだ、とすれば、私も、また、こんな小説を書く男は、おそらく、苦虫にがむしをかみつぶしたような顔をした、物体もったいぶった、男であろう、と、想像したであろう。
 しかし、もし、私が、こんな想像をしていたとすれば、いうまでもなく、この想像はまったくはずれていたのである。

     


 芥川と私が友だちになる前に、妙な事件がおこった。その事は、ずっと前に書いたが、あらためて、ここで、述べないと、肝腎の話がすすめられないから、つぎに書く。
 大正八年の五月頃であった。私は、そのとしの四月に、処女作といわれている『蔵の中』を発表しただけであるから、その頃は、まだ、はっきり新進作家として見とめられていなかった。それで、小説を書き出す二三年前から、『くらし』のために書いていた童話も片手間かたてまに書いていたので、日本の各地の口碑や伝説などを集めた本を読むことがあった。そういう本のなかに、鼻が高くなって困った男の話が出ていたので、それは五行ぎょうか六行のものであったが、私は、それを種にして、一つの童話を書いた。それは、あるイタズラずきの男が、ある時、重宝ちょうほうな小槌を手にいれた、重宝な、といっても、その小槌をふりながら、口のなかで、「あの人の鼻たかくなれ、」といえば、その人の鼻がいくらでも高くなり、反対に、低くなれ、といえば、そのとおりになる、と、唯それだけのものであるが、その男は、その小槌をもちいて、いろいろな人にためして、イタズラをしたが、それにも飽きて、その小槌で自分の鼻を高くしてみようと思いたつ、ところが、それを、庭で、あおむきに寝ながら、調子にのって、やったので、とうとう鼻が雲の中にはいってしまう、そのうちに、突然、鼻のさきの方がちくりちくりと痛みだしたので、うとうとしていたその男が、びっくりして、目をさまし、あわてて、無茶苦茶むちゃくちゃに、小槌をふりながら、「おれの鼻、ひくくなれ、ひくくなれ、」と、口の中で、となえると、どういうわけか、自分のからだが、地べたをはなれ、しだいしだいに、そらの方へ、うきあがっていった、「これは一たいどうしたわけかといふと、その男の鼻はいつのまにか天までとどいてゐたので、それがあまの川の川上かはかみの、たなばた川といふ川をつきぬけたのです。すると、ちやうど、そのたなばた川で、橋をかける工事ちゅうだつたので、突然、川の中からぬツと突き出てきた、えたいのしれない柱に、天の人びとは一時いちじはびつくりしましたが、天の人びとは、地上のその男よりもつとイタヅラずきだつたとみえて、これは、さいはひ、橋杙はしぐひには、もつてこいだ、といつて、それに穴をあけて、横桁よこげたをさしこみました。その男が遠くの鼻のさきに痛みを感じたのはその時でした。ですから、『おれの鼻みじかくなれ、』と、口の中で、となへながら、小槌をふればふるほど、からだが空の方へうきあがつてゆくわけです。そのうちに、にはかにそらがくもり、かみなりがなりだして、はげしい夕立ゆふだちがふつてきました。その中をその男のからだはますますそらの方へあがつてゆきました。は、手がかじかんで、小槌を、おとしました。ですから、その男は、雨がふつても、風が吹いても天にもとどかず、地にもとどまらず、空中くうちゅうに、ちゅうぶらりんになつてゐるさうです、」というような筋である。
 私はこの童話を作ってから、自分ながら、これはちょっとおもしろいと思ったので、その二三の友だちに話すと、そのなかで廣津と鍋井克之が、それはおもしろいから、童話の雑誌に出さないで、普通の雑誌に出したら、といった。それで、鍋井が顧問のようになっていた、解放社[註―この解放社の社長は鍋井や私と中学の同窓であった]から出している「解放」に出すことにした。それで、私は、ふと、思いついて、この童話の主人公を龍介という名にし、『龍介の天上』という題にし、ついでに、『たなばた川』を『あくた川』とかえる事にした。これは、いうまでもなく、芥川の出世作『鼻』をおもいだし、芥川をからかってみたくなったのである。それに、芥川も、ずっと前に、『MENURA ZOILI』という小説(のような小説)のなかで、メンスラ・ゾイリという芸術の価値を測定する『価値測定器』で、まず、久米の『銀貨』と自分の『煙管』をはかっておいて、「『しかし、その測定器の評価が、たしかだと云ふ事は、どうして、きめるのです。』『それは、傑作をのせて見れば、わかります。モオパッサンの「女の一生」でもせて見れば、すぐ針が最高価値を指しますからな。』」と書いて、間接に、『女の一生』を翻訳した、廣津をからかっているから、むこうはれっきとした小説であり、こちらはこどもだましの童話のようなものであるから、と思ったからである。
[やぶちゃん注:「龍介の天上」は大正八(一九一九)年十一月号『解放』に掲載されたが、「大阪国際児童文学館」のこちらのページを見ると、ここでは作者宇野自身がここでは語っていない、『初出にはラメエ、デタの「日本童謡集」の翻訳であると付記あり』という意外な記載(この話が英訳本の和訳翻案であったと言っていること)が確認出来る。……しかし、……原著者の名は引っ繰り返せば、これ、「デタ」「ラメエ」というフェイクであることは、言うまでもないのである。]
 ところが、この『龍介の天上』が発表されてからまもなく、あう人あう人が、私にちかいうちに、『宇野浩二撲滅号』という雑誌が出るそうである、そうして、その音頭取おんどとりは芥川龍之介だそうである、そうして、その雑誌は、「文章世界」だとか、「新潮」だとか、「秀才文壇」だとか、つたえる人によって、まちまちであった。私は、当時三十九歳の青年であったが、そんな事はまったく信じられなかった。ところが、改造社の社長であった、山本実彦さえ、その頃のある日、その事をつたえながら、「しつかりやりなさい、私はできるだけ後押あとおししますから、」といったが、「もしそんな事があったら、まだ無名の僕が得しますから、……が、そんなこと噓ですよ、」と、私は、いった。
[やぶちゃん注:「山本実彦」(さねひこ 明治十八(一八八五)年~昭和二十七(一九五二)年)は新聞人・出版人。大正四(一九一五)年に東京毎日新聞社(現在の毎日新聞と無関係)社長に就任後、大正八(一九一九)年に改造社を創業、総合雑誌『改造』を創刊した。志賀直哉「暗夜行路」、林芙美子「放浪記」、火野葦平「麦と兵隊」などの文学史上の名作の初出の場となり、『中央公論』と並び称せられる知識人必読の総合雑誌となった。アインシュタインやラッセルの来日招聘にも尽力、日本の科学界・思想界の発展にも貢献した(以上はウィキの「山本実彦」に拠った)。]
 そうして、それは、私がいったとおり、まったくの流言であった。
 さて、私がはじめて芥川と顔をあわしたのは、大正九年の、たしか、七月頃、江口 渙の短篇集『赤い矢帆』の出版記念会が、万世橋の二階の「みかど」という西洋料理店であった。(この「みかど」はその頃の文学者の会合のよくおこなわれたところである。)この会の発起人であり世話役であったのは、たしか、芥川である。芥川は、その前の前の年(つまり、大正六年)の六月に開かれた、自分の『羅生門』の出版記念会、江口の世話あったので、その礼のつもりであったのだ。芥川にはこういう物堅い実に謹直なところがあった。これは芥川の友人たちにとって忘れがたい美徳であった。(これを書きながら、またまた、私情をのべると、私は涙ぐむのである。私の目から涙がながれるのである。ああ、芥川は、よい人であった、感情のこまかい人であった。深切な男であった。昨日も、廣津がいった。芥川が死んだ時だけは悲しかった、あの朝、銀座であった、吉井 勇も、やはり、悲しい、といった、と。)
 さて、その『赤い矢帆』の会では、長いテエブルの向う前に人びとが腰をかけた、江口が正座に、江口の右横に芥川が、江口のむかいに廣津が、廣津の左横に私が、それぞれ、席についていた。そのテエプルにむかいあって腰かけていた人たちは、おもいおもいに、雑談をしていた。といって、話をするのは、となり同士か、せいぜい一つおいたとなりの人であった。私は、そういう会になれていなかったので、たいてい、となりの廣津とばかり、話をしていた。と、突然、むこう側の三人目の席の方から、
「宇野君、……僕が君を撲滅する主唱者になるって噂があったんだってね、おどろいたよ、僕は、それを聞いて……」と、芥川が、いった。
「……もし、それが、本当だったら、君なら、相手にとって、不足はないよ、」と私がこたえた。
 これが、つまり、私が芥川とはじめて逢った時の思い出である。

     


 私が芥川ともっともしげしげ往き来したのは大正九年から十一年頃までのあいだである。
 その頃、芥川の家は田端の丘の上の方(駅にちかい方)にあり、私の家は上野の桜木町の鶯谷にちかい方にあった。それで、私が芥川をたずねるのは、藍染あいぞめ橋の停留場まであるいて、動坂下で電車をおりて、それから坂をあがるのが道順であり、芥川が私の家にくるのは、やはり、普通にいえは、この道版である。しかし、時によると、わざわざ、電車にのって、坂をおりたり坂をあがったりするより、上の方を、ほとんど一直線に、あるいて行く事もあった。
 芥川は、くると、いつも、私の家の玄関の三畳さんじょうの部屋のすみに、ちゃんと正座して、家の者に、実に丁寧に挨拶をした。萩原朔太郎が、この事について、つぎのように書いている。

 私が田端に住んでゐる時、或る日突然、長髪痩軀の人がたづねて来た。「僕は芥川です、初めまして。」さう云つて、丁寧にお辞儀をされた。自分は前から、室生君と共に氏をたづねる約束になつてゐたので、この突然の訪問に対し、いささか恐縮して丁寧に礼をした。しかし一層恐縮したことには、自分が顔をあげた時に、尚依然として訪問者の頭が畳についてゐた。自分はあわててお辞儀のツギ足しをした。
[やぶちゃん注:「萩原朔太郎が、この事について、つぎのように書いている」は、萩原朔太郎「芥川龍之介の死」の「4」章にある(リンク先は私のテキスト)。]

 しかし、これはみずから野人と称する、あの、萩原であるから、おどろいたので、こういうのは、ただ芥川の習慣で、芥川自身は丁寧とも何とも思っていないのである。
 丁寧といえは、芥川が、よる、私の家に来て、遅くなって帰る時は、私は、たいてい、大通りの四つ角まで、芥川を送って行った。その大通りの角で、芥川が、私の家からよんだ車に乗るからである。その車に乗りしなに、芥川は、かならず、「御馳走になるよ、」と、いった。この「御馳走になるよ、」という芥川の言葉は今でも私の耳にのこり、そういって、ひょいと車にのる芥川の姿は今でも私の目にのこっている。
 芥川は私を方方ほうぼうに案内した、待合、たべ物産、その他、あやしき所など、等、等、等。

 浅草に、(馬道の東の方に、)『春日かすが』という待合があった。この『春日』のおかみは、のちに春日派の小唄の師匠になって、待合をやめてから、桜木町の私の家のそばに、大きな家を借りて、小唄の師匠になり、今では、小唄の師匠として、その名を知られている。その桜木町の『春日』の家には、毎日、午後になると、車に乗って、芸者が、十人以上も、ならいに来た。
[やぶちゃん注:「『春日』という待合」芥川は自死の直前の昭和二(一九二七)年六月二十五日に、友人小穴隆一とともに谷中の新原家の墓参をした後、この春日に行って馴染みの芸者であった小亀に別れを告げている。 「春日のお上」春日とよ、本名、柏原トヨ(明治十四(一八八一)年~昭和三十七(一九六二)年)はこの料亭「春日」の女将で、後に小唄春日派初代家元。函館生。後で芥川がちらりと述べているように、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、三歳の時に父は帰国、母と上京して十六歳で浅草の芸者となる。大正十(一九二一)年に浅草の料亭「春日」の女将となった。その後、小唄演奏家として知られるようになり、昭和三(一九二八)年、小唄春日流を創立した。]
 この『春日』に、芥川は、私をつれて行った事がある。芥川は、はじめての所に私を案内する時、そのゆくさきの家(料理屋など)の由来をくわしく説明する事もあるが、いきなり、だまって私を案内する事もしばしばあった。待合とかあやしき所などは、案内する前も、案内してからも、芥川は、その家について、説明をしたことは一度もない。ただ、はじめて、私を『春日』につれて行った時、家の中にはいる前であったか、家の中にはいってからであったか、いずれにしても、その『春日』の奥座敷の辺から、おもわず耳を立てるような、うつくしい、すきとおった、声で、語る常磐津ときわずが、聞こえた。私が、おもわず、「実にうまいね、実によくとおる声だね、こんな常磐津、僕は、聞いたことがない、」というと、芥川は、例のニヤリとする笑いをうかべながら、「ここのおかみだよ、あの声は、日本人ののどからは出ないよ、あれは、間子あいのこの喉だよ、つまり西洋人の喉だよ、」と、いった。私が、そこで、「君は、実に、いろいろな人を知ってるね、」というと、芥川は、すぐ、「あの女の亭主が僕の友だちだよ、」と、いった。
[やぶちゃん注:「あの女の亭主が僕の友だちだよ」不詳。識者の御教授を乞う。]

『春日』には、その後、芥川につれられて、一度も行ったことがないが、その後、芥川は、『春日』のちかくの、別の待合に、私を、案内した。その待合は、『春日』を一流とすれば、三流以下であった。が、その三流待合には、芥川は、その後、私を、しばしば、つれて行ったばかりでなく、ほかの人たちをも、誘った。その中に、徳田秋声も、いた。
 その三流待合に、芥川が、私ばかりでなくほかの人たちも案内したのは、その家にはハダカ踊りをする女が来たからである。芸者たちはそのハダカ踊りの女たちを眉をひそめて軽蔑していた。
 そのハダカ踊りの女たちをかかえていたのは、パンタライ社といった。そうして、そのパンタライ社を経営していたのは、ナントカという詩人であった。(芥川は、もしかすると、そのナントカという詩人を知っていたのかもしれない。)
[やぶちゃん注:「パンタライ社を経営していたのは、ナントカという詩人であった」「ナントカという詩人」はダダイスト辻潤(明治十七(一八八四)年~昭和十九(一九四四)年)のことであろう。但し、この出張ストリップは浅草区馬道一丁目九番地で黒瀬春吉(大正期の労働同盟会会長)が経営した「パンタライ社」のお座敷ダンス営業を指し、この黒瀬が新たに「ジプシイ喜歌劇団享楽座」を創った際、近くで尺八教授などをしていた辻が、同座の一員となったとet.vi.of nothing氏の「辻潤年譜」にはある。黒瀬を詩人とは呼ばないと思われるので、辻潤ととっておく。]
 パンタライ社の女たちは、その時分としてはめずらしい、洋装をしていて、その三流待合にくる時は、車にのって来た。そうして、その事の足をおく場所に、みな、ポオタブルをのせて来た。
 その女たちは、(もっとも、いつも、一人であるから、その女は、)座敷にはいると、ちょいとお辞儀をしてから、すく座敷の隅においたポオタブルの蓋をあけ、その上にレコオドをのせ、ハンドルをまわした。ハンドルをまわしおわると、その女は、すぐ、前だけかくした、ハダカになった。もっとも、腰に幾筋もの縄のさがった帯をまいていた。ポオタブルが音楽を奏しはじめると、その女は、座敷の中央に、小走りに、出て、その音楽にあわして、簡単な踊りをおどるのである、おどると、その腰に巻いた帯にさがっている幾筋かの縄も、おどるのである。それを見ながら、徳田秋声が、あのかすれたような声の笑い方をしながら、手をたたいた、その秋声の手をたたく姿は今も私の目に残っている。秋声は庶民を題材にした小説を書いた人だけに、すこしも気どらず、さばけた人であった。
 このパンタライ社について中戸川吉二が妙な事を書いているのを見つけたから、それを読みながら、私の悪癖を出して、ちょいと、ここで、寄り路をしよう。
[やぶちゃん注:「中戸川吉二」(明治二十九(一八九六)年~昭和十七(一九四二)年)は小説家・評論家。里見弴に師事、代表作に「イボタの虫」がある。]
 中戸川は、[いいわけ―中戸川吉二を知らない人が多いと思うから、中戸川について、書くと]その頃としては、芥川のように人目をひかなかったが、わりに年少にして文壇に出たが、どういうわけか、(その訳はだいたい想像はつくが、ここではそれを述べることを遠慮する、)思いきりよく、やはり、年少の時分に、文壇から退いてしまった。中戸川は、親友の一人であった、牧野信一は性質も作風もまったく違っていた。中戸川が文壇に出た頃は、中戸川が師事していた、里見 弴が、吉井勇、久米正雄、田中純、とともに、「人間」[註――同人雑誌の形で出したが、後に同人以外の人の作品も出した]を出した頃で、さかんに花柳の巷に出没した頃であったから、年少の中戸川は、それにかぶれ、里見たちが、その時分、芸者を『キモノ』、赤坂を『セキハン』、などという妙な隠語をつかった事まで、まねをした。そうして、また、中戸川は、五つ六つも年上としうえの先輩は、もとより、師である里見をも『くん』という癖があった。(もっとも、これは、芥川にもあった。)――これだけの事をを述べておいて、さきに書いた、中戸川の『芥川との関係』という文章の中から、パンタライ社の出てくるところを、つぎにうつそう。

……錦水[註―築地の一流料理屋の名]を出てから又浅草までのし、さる旗亭で夜更まで飲みかつ談じたのであつたが、その晩三四名あらはれたキモノの中に〇〇[註―これは、後に書く文章に出るからいう、〇〇とは小亀という芸者なり]と云ふスマアトな中年増ちゅうどしまがゐた。この妓が芥川にコツだつたが、御当人は知つてゐたかしら。[宇野曰く―御当人は知っていた]なんでも其の頃、パンタライシャに凝つて芥川君が、よく浅草へ通ふといふ話は聞いてゐたが、〇〇にあふ機会もなかつたらしい。

 この中戸川の手紙に善かれてある事は、本当らしい事もあるが、まちがっている事もある。その事は、ずっと後に書くこの文章に出てくるから、ここでは、はぶく。
 さて、その頃から三十年も後に、パンクライ社のごとくほんの一部の人に見せるというような姑息な事はしないで、ストリップガアル[ハダカにした女]と称して、そのストリップガアルを数十人も帝国劇場に進出させて、満都の子女を熱狂させた、芥川の親友の一人であった、秦 豊吉が、もし、(『もし』である、)この文章をよめば、あの秦もふかしぎな苦笑をするであろう。その秦のところへ、芥川が、大正六年の九月に、一中節 新曲『恋路の八景』なるものを作って、手紙を出しているのである。その中に、「君が堅田かただふみだよりああなんとせう帰帆きはんもしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髪のふじびたひ、」という文句がある。芥川は、自分で、一中節もいくらか語ったようである。思えば、芥川は、深くはないけれど、多才な男であった。閑話休題。
[やぶちゃん注:「その秦のところへ、芥川が、大正六年の九月に、一中節 新曲『恋路の八景』なるものを作って、手紙を出しているのである」この書簡年月は誤り。大正六(一九一七)年五月一日附である(旧全集書簡番号二八五・鎌倉より)。以下に引用する。標題中の「新曲」は底本ではポイント落ち横書き、庵点の前の「シテ」などもポイント落ちで右寄りである。底本はベタで記されているが、謡が変わる部分で改行を施して読み易くした。書信の前に行空けも施した。文末「まて」はママ。二伸と三伸は底本では全体が二字下げ。

 一中節
     新曲戀路の八景   宇治紫川
シテ〽心なき身にもあはれはしみじみと
ツレ〽たつな秋風面影の何時か夢にも三井寺や入りあひつぐる鐘の聲
シテ〽まづあれをばごらんぜよ神代かみよ以來の戀の路
ツレ〽瀨田の夕照せきせういまここにぽつと上氣のしをらしさかざす屏風の袖さへも女ごころの
三下り〽花薄すすき根ざしほかたき石山や
合ノ手〽鳰のうきねの身ながらも
ナヲス〽あだに粟津のせいらんとほんにせはしいころびねの
合ノ手シテツレ〽あらしははれてびとしぐれぬれて逢ふ夜はねて唐崎の
コトウタ〽松もとにふく風ならで琴柱におつる鴈がねは
ツレ〽君が堅田の文だよりああなんとせう歸帆きはんもしらできぬぎぬのはやき矢ばせの起きわかれねみだれ髪のふじびたひ比良の暮雪をさながらにかはせどつきぬ初枕うるほしかりける次第なり

論文をかき了つて新曲をつくる愉味御高察下され度候この曲澁くして餘情ありまことに江戸趣味の極まれるものと存候御高覽の上は久米へも御序の節御見せ下さる可く小生一世一代の作と云ふばかりにてもその位の價値は可有之と愚考仕候まづはとりあヘず新曲御披露まて
    五月一日   芥川龍之介
   秦豊吉樣
二伸例の件小生の知人の宅に子供が生れし爲その人に催促するわけにもゆかず目下一向發展致さず候
三伸「歸帆も知らで」は惡の如くに候へどこは文政頃より江戸にポピユラアなる地口の一つに候へば用ひ候註釋まで 勿々

この宇治紫川というペン・ネームは、芥川家の一中節の師匠であった宇治紫山をもじったものである。関口安義「世界文学としての芥川龍之介」などによれば、この新曲は一中節中興の祖である初代菅野序遊すがのじょゆう(宝暦十一(一七六一)年~文政六(一八二四)年)の作曲で桜田左交さこう(享和二(一八〇二)年~明治十(一八七七)年:狂言作者三代目桜田治助のこと)作詞になる「吉原八景」にかなり似た歌詞であるとする。ということは、その三味線で謡えるということであろう。因みに、同書では本書簡を大正五(一九一六)年とする。新全集で修正されたものか。新全集を私は所持していないので悪しからず。――にしても渋い――大正五(一九一六)年とすれば、実に大学卒業の年、芥川は未だ満二十四歳である。]

 さて、さきに述べたように、私は芥川にいろいろさまざまな所に案内されたが、私が、芥川にたのまれて、案内した所もある、その一つは浅草の金竜館である。
 その頃、浅草の金竜館の楽屋に高田 保がいたのである。
[やぶちゃん注:「高田 保」(明治二十八(一八九五)年~昭和二十七(一九五二)年)は劇作家・随筆家。早稲田大学英文科卒。大学時代に宇野浩二と知り合っている。映画雑誌記者を経て、浅草オペラの代表格「金龍館」文芸部に入った。大正十一(一九二二)年に帝国劇場の戯曲懸賞に応募した「案山子」が入選、昭和四(一九二九)年には丸山定夫や山本安英が結成した新築地劇団に加わるも、翌昭和五(一九三〇)年には検挙されて転向、昭和八(一九三三)年には『東京日日新聞』へ入社(同期に大宅壮一)するが、昭和十三(一九三八)年に退社して新国劇の脚色家兼演出家として活躍した。戦後は昭和二十三(一九四八)年から『東京日日新聞』に随筆「ブラリひょうたん」を連載、軽妙な文体で、鋭い時事批評を展開、『昭和の斎藤緑雨』と称せられた(以上は主にウィキの「高田保」によった)。]
 その頃の或る日の昼頃、芥川が、私の所に、小林せい子と一しょにたずねて来て、例のごとく、いきなり、「君、金竜館につれて行ってくれないか、金竜館の楽屋に、」と、いうた。
 小林せい子とは、その時分の谷崎潤一郎の夫人(今の佐藤春夫の夫人)の妹である。そうして、佐藤春夫が『蒲団きてあるく姿やせい子嬢』とうたったように、――せい子は、はでな服装をし、はでな行動をする事がすきであるらしかった。それから、芥川が、大正六年の八月十五日に、秦 豊吉にあてた手紙のなかに、「……それから君、久米へ勢以子せいこと小生との関係につきしからぬ事を申された由勢以子女史も嫁入前のからだ殊に昨今は縁談もある容子なれば爾今右様の事一切口外無用に願ひたし」と書いている、その勢以子が、この小林せい子である。
[やぶちゃん注:「小林せい子」小林勢以子(明治三十二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)は谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の」の小悪魔的ヒロインのナオミのモデルとされる。]
 ところで、これを書きながら、ふしぎに思われるのは、芥川が、どうして、私と高田 保とがしたしい事を知っていたのか、高田 保が金竜館の楽屋にいることを知っていたのか、である。
その高田 保が、『浅草オペラ時代』という文章のはじめに、こういう事(つぎのような事)を書いている。

 君の学歴はと訊かれて、浅草の金竜館だと答へたことがあつた。大正震災のすこし前の二三年の間あそこの楽屋に住んでゐたことがあつた。住むといふのは妙ないひ方だといはれるだらうが、事実あそこに寝泊ねとまりしてゐたのでさういふより外はない。若気わかげの至りで……

 まことに、高田のいうとおり、その頃(あの頃)は、芥川も、私も、これから書く、せい子も、たれも、かれも、みな「若気の至り」であったのだ。
 さてその若気(と血気)の至りで、芥川とせい子と私は、私の桜木町の家を出て、美術学校と音楽学校の間をとおり、それから、図書館の前をすぎて、博物館の前をとおり、浅草の六区まであるいて行ったのである。
 その図書館の前をあるきながら、せい子は、誰にいうともなく、(いや、芥川にか、私にか、)「兄の潤一郎は、菊池さんの小説のことを、あれは大道演説のようなものだ、と、いっています、」と、いった。
 私は、金竜館にはすでにしばしば出かけて、そこで、『カルメン』、『トラヴイアタ』、『ファウスト』、『アイイダ』、『リゴレット』、その他を見て、大いに楽しんでいた。ところが、芥川は、その時、そのような歌劇など見ないで、「金竜館の楽屋を!」と、いったのである、これは、芥川の希望であったか、せい子の願いであったのか、たぶん、二人ともの好みであろう。
[やぶちゃん注:「トラヴィアタ」はヴェルディのオペラ「椿姫」の原題。原題“La traviata”(ラ・トラヴィアータ)はイタリア語で「道を踏み外した女」の意で、現在、本邦ではアレクサンドル・デュマ(小デュマ)の原作小説“La Dame aux camelias”(フランス語で「椿の花の貴婦人」)からの意訳で専ら「椿姫」のタイトルで呼ばれる。]
 さて、高田 保は、私たちをむかえると、さすがに高田 保である、私たちを、すぐ、女優たちの楽屋(大部屋)に案内した。
 その文字どおり大部屋の中の四方にずらりと鏡台がならび、その数多の鏡台の前で、女優たち肌脱ぎになって化粧をしていた。私は、その大部屋の中に、ほとんど足の踏み所もないほど、赤や紫の衣裳などがまきちらされたように氾濫しているようなさまに、大形おうぎょうにいうと、目がくらむような気がし、部屋一ぱいにみなぎっている女と化粧品がはき出すにおいにせかえるような思いをして、一刻もはやくその部屋を逃げだしたいような気がした。ところが、せい子嬢は、平然として、いちいち、その化粧をしている女優たちのうしろに、立ちどまり、ことめには、「兄の潤一郎は……兄の潤一郎は、……」と、いったり、その時分の一ばん人気女優であった女優のそばに行くと、そのかたわらにしゃがんで、「へえ、あんたが、相良さがら愛子さん……」などと、いったり、した。
[やぶちゃん注:「相良愛子」(明治三十九(一九〇六)年~?)は女優。本名は内海愛子。先に掲げられた浅草金竜館の舞台「アイーダ」は彼女の代表作。]
 これには、私も、まったく辟易したので、私は、しじゅう、せい子嬢から二三もはなれたところを、あるいた。そうして、辟易したのは、私ばかりでなく、舞台に出れば傍若無人ぼうじゃくぶじんのようにっている歌劇女優たちでさえ、せい子嬢の言行には、恐れをなしたように、辟易し、目をそばだてていた。
 ところが、芥川は、そのあいだ、しじゆう、せい子嬢のそばにいて、せい子の方を見たり、相手の女優を見たり、しながら、例のにやにや笑いをしていた。もっとも、『にやにや』とは、「曖昧な」とか、「意味ありげに、ひややかに笑いを含む」とか、いうほどの意味であるが、芥川のこの時の笑い顔は、ただ好奇心をいだいているようにも見え、はなはだ興味をもっているようにも見え、えたいの知れないところがあった。それから、あの特徴のある、すこし大きい、唇の分あつい、口が、この時は、殊に、異様に見えた、もっとも、それは、ふだんより、唇の色が一そう赤く見えたせいかもしれないが。

 ところで、前に、「私が、芥川にたのまれて、案内した所もある。そのひとつは浅草の金竜館である、」と述べたが、これでは芥川をときどき金竜館に案内したように思われるかもしれないので、ことわっておくが、芥川が私に「金竜館につれて行ってくれないか、」といったのはこの時が一度だけであって、そののち、芥川は金竜館に行った事はまったくないらしい。
 されば、芥川が、金竜館に行った、という事は、金竜館の楽屋に、一度だけ、行った、という事になるのである。                                 
 さて、ここで、私が、やはり、「若気の至り」で、一時いちじ、金竜館オペラに夢中むちゅうになり、ロッシイニの『セヴィリヤの理髪師』、ヴェルディの『リゴレット』、『ラ・トラヴィアタ』、グノオの『ファウスト』、ビゼエの『カルメン』、マスネエの『マノン』、などと、さわぎまわり、それらの舞台稽古まで見に行った頃の事を、書きたいのであるが、これは、今いったように、芥川とまったく関係のない事であるから、やめて、つぎに、芥川に、さまぎまのたべ物屋に案内されたり、いかがわしき、あやしき、家につれて行かれたり、した事を述べよう。こう書くと、芥川ばかりが『わるい子』になって、私が『いい子』になるような事になるから、私が芥川をそそのかしたような事もあったことを、書いてみよう。(そそのかす、といえば、『源氏物語』に、「……まゐりたまはんことをそそのかしきこゆれば……という文句があり、例の近松門左衛門の『生玉いくたま心中』にも、「……人の小息子そそのかし、悪道に引き入れるの……」などという文句もある。)
[やぶちゃん注:「マスネエの『マノン』」オペラ好きには言わずもがななのであろうが、私はオペラが嫌いなので、分からないから注しておく。十九世紀末から二十世紀初頭にかけて活躍したフランスの作曲家ジュール・マスネのオペラ“Manon”。一八八四年初演。一七世紀のフランスの作家アベ・プレヴォーの著名な小説「マノン・レスコー」に基づくもの。
「まゐりたまはんことをそそのかししきこゆれば」は「源氏物語」の「桐壷」の中段、桐壷の更衣の死後、若君(光)が祖母母北の方へ宿下がりしているシーンである。以下に引用する。
……若き人びと、悲しきことはさらにも言はず、内裏わたりを朝夕にならひて、いとさうざうしく、主上の御ありさまなど思ひ出できこゆれば、とく参りたまはむことをそそのかしきこゆれど、「かく忌ま忌ましき身添ひたてまつらむも、いと人聞き憂かるべし、また、見たてまつらでしばしもあらむは、いとうしろめたう」思ひきこえたまひて、すがすがともえ参らせたてまつりたまはぬなりけり。
以下に私の訳を示す。
……若君に宮中からおつき申し上げて下って参った若き女房たちなどは、若君の母更衣の逝去の悲しきことは言うまでもないことで御座いますものの、宮中での雅びな日常に慣れてしまっておりますから、下った里方の暮しぶりがひどく寂しく感じられて、ありがたき帝の御様子なんども、ふと思い浮かび申し上げるにつけても、
「はよう、御参内なさいますように」
といったようなことを若君にお勧め申し上げるのですが、母北の方様は、
「……このように娘に先立たれ、死穢に触れた不吉な身でありながら、若君におつき添い申し上ぐることも、まこと、何かと悪しき人の噂の種ともなりましょうし……かと申して……しばしの間も御尊顔を拝し申さずにおるということは……これ、全くもって気がきでは御座らぬ……」
とご案じ申し上げなさって、先の帝の御言葉に対して命婦にお答え申し上げたようには、そうそうすっきりあっさりとは御参内させ申し上げなさらないので御座いましたのじゃ。
母北の方の、孫(光)への複雑な母性の逡巡が描かれるところである。――それにしても宇野はしばしば芥川の衒学趣味を批判する割に、宇野自身がこういう如何にもな衒学的引用をしばしばするのは、ちょっと面白い。「芥川龍之介」だから、わざと芥川を気取ってでもいるつもりなのだろうか。
「近松門左衛門の『生玉心中』にも、「……人の小息子そそのかし、悪道に引き入れるの……」多くの現行の辞書類の「悪道」の使用例として、正にこの「生玉心中・上」の台詞が引かれている。]

      


 この前の章のなかで、芥川とはじめて顔をあわした時の事を述べたので、こんどは、私がはじめて芥川を見た(というより瞥見した)時のことを、書いてみよう。この事は、ずっと前に、書いたことがあるけれど、それはもう三十年ぐらい前であるから、重複してもよいと思い、また、わたくしごとであるが、私の記念にもなるので、述べることにする。
 たしか大正七年の十二月の末である。私は、その頃、牛込の神楽坂の都館みやこかんという下宿屋に、住んでいた。その下宿屋は、肴町の停留所をおりて、坂のしたの方へ半町の半分ぐらい行ったところを右にあがった坂の途中にあった。
[やぶちゃん注:「肴町」は現在の神楽坂五丁目。「坂の下」は一般名詞というより、「神楽坂下」という固有名詞として用いていよう。]
 その十二月の末の夕方の七時ごろ、私は、歳暮せいぼの売り出しなどで雑沓ざっとうしている狭い町を、なにか急の用事があったのか、大いそぎで、人ごみのあいだを、縫うように、くぐり抜けるように、あるいた、南の方へ。私は、その頃、二十八にもなりながら、一介いっかいの無名の文学書生であった。しかし、その時、私は、自分だけは自信のある『蔵の中』を書きあげ、しかもそれが三四月のちに発表されることにきまり、さらに自信のある『苦の世界』も三分の一ほど書いていた。それで、長いあいだ、小説を書こう書こう、と思いながら、ふとしたあやまちのために出来できなかったのが、ようやく芽を出しかけ、前途にほのかなかりが見えはじめていたので、まだまずしくはあったが、私の心ははずんでいた。それで、心のはずんでいた私は、道の真中まんなかを、足もかるく、おそらく肩で風をきって、脇目もふらずに、あるいていたにちがいない。ところが、どういう拍子であったか、一けんほどはなれた、道の片側を反対の方向に、一人ひとりの洋装の男が、これも、燕のような早さで、すっすっと、とおりすぎるのが、ゆきかう人のれをすかして、ちらと私の目をひいた。そうして、それが、咄嗟に、芥川だな、と、私に、わかったのである。
[やぶちゃん注:「ふとした過ち」とあるが、参考までにウィキの「宇野浩二」の年譜を参照して、本文に関わると思われる前後を示しておく。
大正五(一九一六)年 二十五歳
蛎殻町の銘酒屋にいた伊沢きみ子と馴染み、西片町の家に同棲するが、浩二の生活苦を救うためにきみ子が蛎殻町から横須賀の芸者屋に身売りをする。後、きみ子が前借を踏み倒して脱走するのを幇助したため、身を隠す必要が生じ、東京渋谷の竹屋に「水上潔」の変名で大阪から帰った母とともに間借りをした。原稿料を得るため、「江口渙」名で童話を執筆。
大正六(一九一七)年 二十六歳
生活に窮し、東京神田錦町の出版社蜻蛉館に「水上潔」の変名で勤務、文芸雑誌『処女文壇』の編集者となり、佐藤春夫・葛西善蔵などに原稿を依頼。東京代々木の借家に転居。母を赤坂の親族に預け、きみ子が横浜や八王子の芸者屋に身売りした資金で東京九段中坂の下宿芳明館に転居。
大正七(一九一八)年 二十七歳
東京神田錦町下宿錦水館に転居後、再度芳明館に戻る。多くの童話を執筆、『二人の話』(後の「苦の世界」第二節)を雑誌『大学及大学生』」に発表。米騒動の渦中、「屋根裏の法学士」雑誌『中学世界』に発表。東京本郷弓町の従兄弟の下宿に居候しながら、「蔵の中」を執筆(「蔵の中」の「文章世界」発表は翌年のこととなる)。
確かにまともとは言えぬ、いや、一種、凄絶でさえ、ある。]
 ところが、その頃、私は、まだ、芥川を、知らなかったばかりでなく、見たこともなかった。そうして、芥川の顔は、ただ、雑誌の口絵に出たのを、見ただけであるが、それも、その時分まで、雑誌に出たのは、本棚の前に腰をかけている、それも、ぼんやりした、写真だけである。しかも、その写真は、私の記憶ちがいでなければ、着物をきていた。ところが、そんな不鮮明な写真しか見ていないのに、その写真とまったくちがったふうをしているのに、私は、実物(らしい物)を見た時、はっきり、芥川にちがいない、と、直覚した。
 その時、黒い、せたからだにぴったりついた、洋服をきた、長身の、芥川が、半身をやや前の方にかたむきかげんにして、真直まっすぐに、あるいて行く恰好は、としの暮れの町の目まぐるしく人のするなかにも、きわめて印象的に、私に、見えたのである。(それは、その数年前に、近代劇協会[註―上山草人が主宰し、伊庭 孝が助けた新劇団で、一時は島村抱月の芸術座と対抗した]で出した『ファウスト』で、伊庭 孝が扮した、黒装束をした、メフィストフェレスを、思わせた。)ところで、その時、私は、早足にあるきながらも、ちらりと、その黒服の男の方を、見た。と、その男も、いそぎ足にあるきながら、私の方を、ちらりと、見たような気がするのである、なぜなら、その男の青白く光る日が、(というよりその男の目から出る青白い光りが、)ぎろりと、私を、射るような気がしたからである。(しかし、これは、私の自惚うぬぼれであって、もしかすると、私のすぐそばを美しい人がとおっていて、そのほうに流し目をしていたのかもしれないが、……)
[やぶちゃん注:「伊庭 孝」(明治二十(一八八七)年~昭和十二(一九三七)年)は俳優・音楽評論家・演出家。大正元(一九一二)年に上山草人らと近代劇協会を設立(旗揚げ公演はイプセンの「ヘッダ・ガブラー」)、翌大正二(一九一三)年三月二十七日から三十一日に、宇野が語っている近代劇協会第二回公演上山草人演出になるグノーのオペラ「ファウスト」を帝国劇場で上演している。大正五(一九一六)年に舞踊家高木徳子と後に「浅草オペラ」と呼ばれることになるオペラ興行を立ち上げ、その後、藤原義江や田谷力三らとともにその全盛期を打ち立てた功労者である。後にラジオ放送での歌劇や音楽評論で活躍した。]
 しかし、その時の印象は、(もし、それが、芥川であったら、)芥川も、また、歳暮の町の群集をうるさく思って、町の片側を、なるべく人を避けるように、とおってゆくらしく、その、いそぎ足にあるく、かたむいた棒のような姿は、写真や絵で見た、異国の詩人、アアサア・シモンズか、ウィリアム・バトゥラア・イェエツか、ジャン・アルテュゥル・ランボオか、――そういう人たちの様子に似ているように見えて、(俗な言葉でいえば、なんとも意気に見えて、生意気なところもあったが、)私は、はなはだ感心したことであった。
[やぶちゃん注:「シモンズ」は以前にも注したが、「十」の芥川との会話で詳述されるところで再注する。彼が最初に挙がっているのは、後に宇野自身が述べるように彼の大好きな作家であったからである。]

 さて、芥川、といえば、どういうわけか、『鵠沼くげぬま』という言葉が、私のあたまに、うかぶ。そう思う、東家あずまやは、それを思い出すと、里見、久米、芥川、佐佐木茂索、江口、中村武羅夫、大杉 栄、小林せい子、その他の人びとの事を思い出す、その東家である。
 私がはじめて鵠沼の東家に行ったのは、大正九年の三月ごろで、その時は仕事をするために出かけたのであるが、それからは、習慣のようになって、仕事が七ほど遊びが三分ぐらいの割りで、行くと、一週間あるいは半つきぐらい滞在するのが常であった。
 ところで、その、書いてみたいと思う、東家は、大正十年の三月ごろの事で、この時の事は、十年ぐらい前に書いて、『文学の三十年』という本のなかに、入れたが、あらためて述べてみたくなったのである、それは、さきに名をげた人たちが、別別べつべつに出かけたのが一緒になったり、おなじ頃に一緒に滞在したり、したので、いろいろな事があったからでもある、そのうえ、プロレタリア文学に専心するようになった、江口と、ずっとのちに、プロレタリア文学が跋扈ばっこして、芸術派といわれた若い作家たちが圧倒され気味ぎみになったのを憤慨して、『花園を荒らす者は誰だ』というような論文を書いた、中村武羅夫とが、東家から半町以内の所に、住んでいたり、無政府主義者といわれた、大杉 栄と、のちにブルジョア作家と軽蔑された、里見 弴、久米正雄、芥川龍之介、宇野浩二、その他が、おなじ部屋で、談笑したり、したからでもある。(もっとも、大杉は、幸徳秋水や白柳秀湖[白柳は、明治から大正はじめかけて、相当な社会主義者であった]と交際したり、過激な文章をかいて筆禍をこうむったり、例の『赤旗事件』などにも連坐したり、したが、根は、極端な自由主義者であり、芸術家でもあり、人情ぶかい人でもあった。)
[やぶちゃん注:「赤旗事件」明治四十一(一九〇八)年六月二十二日に発生した社会主義者弾圧事件。前年三月、封建的家族制度を批判した「父母を蹴れ」を平民新聞に寄稿した山口孤剣が新聞紙条例違反の罪に問われて禁錮刑に処せられていたが、この六月十八日に出獄、その出獄歓迎会が東京府東京市神田区錦町(現在の東京都千代田区神田錦町)にあった映画館(元は貸ホールでもあった)錦輝館きんきかんで社会主義者数十名が集って行われた。以下、ウィキの「赤旗事件」によると、歓迎会自体は発起人の、山口に先んじて出獄していた平民新聞編集者の石川三四郎による開会の辞から始まった。続いて西川光次郎(日本初の社会主義政党「社会民主党」の結成発起人の一人)と堺利彦が挨拶した後に余興となり、夕刻には終了したが、『散会間際に、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎ら硬派の一団は、突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」「SOCIALISM」などと書かれた旗』を翻して『革命歌を歌い始めた』。『石川はこれを制止しようとしたが、硬派は従わず、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出した。歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊は、街頭に現れた硬派の面々を認めるや駆け寄って赤旗を奪おうとし、これを拒んだ彼らともみ合』いとなり、『格闘の末、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎、佐藤悟、徳永保之助、森岡栄治、百瀬晋のほか、女性4名(大須賀里子、管野スガ、小暮礼子、神川松子)が検挙され、またこれを止めに入った堺と山川も同じく検挙された』事件を言う。判決は大杉の重禁錮二年六ヶ月罰金二十五円を筆頭に予想に反した重刑が下された。『荒畑ら当事者がのちに明かしたところによれば、赤旗を翻したのは軟派に対する示威行動に過ぎなかった』のだが、その『判決は、大した罰を受けるとは考えていなかった彼らの楽観を裏切る内容であった』。事件発生から五日後の六月二十七日には西園寺公望首相は辞意を表明、七月四日、内閣は総辞職した。『表向きは健康上の問題によるとされたが、山縣有朋が「事件は社会主義者に対する融和の結果発生した。これは西園寺内閣の失策である」と奏上したのが直接の原因といわれている』。この当時、幸徳秋水はたまたま『郷里の高知県にいたため難を逃れたが、事件を知るや直ちに上京し、勢力の建て直しに奔走した。この結果、無政府主義者やそれに近い者が社会運動の主流派を占めるに至った』。次いで成立した第二次桂内閣は社会主義者への取締りを強化したが、これが逆に拍車をかけ、明治四十三(一九一〇)年の大逆事件へと発展することとなった、とある。]
 さて、この東家に偶然あつまった連中は、毎日、ほとんど仕事をしないで遊んで、くらした。(そうして、遊んでいなかったのは、神経衰弱とかをなおすために、といって、東家のおもての二階の部屋に陣取って、バアネットの『小公子』と『小公女』を翻訳していた、佐佐木茂索だけであった。その頃、佐佐木は、かぞえどし、二十八歳であったが、としよりふけて見えたけれど、色白く眉目びもく秀麗な青年であった。しかし、一人ひとり、はなれた部屋にこもって、その秀麗な顔を緊張させ、口を斜めにかたむすんで、適当な訳語を案じているところを、ときどき、私は、見て、あの茂索が、と感心した、それは、その真剣な顔つきにもたれたのであるが、おなじ宿にとまっている友だちが、その部屋から、そのさまも見えず、それらの人たちのはしゃぐ声は聞こえなくても、それを感じない筈のない敏感な佐佐木が、じっと辛抱している、その辛抱づよさに、一そう心を打たれたのであった。そうして、あの若さで、あの忍耐が、……と、いまの私は、思うのである。)
 ところで、その時の私たちの『あそび』というのは、その頃はやった「表現と理解」[註―字にかくと、しかめつらしいが、実は無邪気なバカバカしい遊戯であるから、解説したいが、省く]とか、まだ麻雀などなかった時分であったから、「花歌留多」[あるいは「花あわせ」]とか、等、等、等である。
[やぶちゃん注:「表現と理解」不詳。識者の御教授を乞う。私の直感だが、これは所謂、「天狗俳諧」や、シュールレアリストのやった“cadavre exquis”ではなかろうか? 因みに“cadavre exquis”とは「美しき屍体」「優雅な屍体」等と訳されるもので、私の好きな画家イヴ・タンギーが発明したとされる遊び。複数の参加者が一つの文章やデッサンを、各人が別個に(他の若しくは先の又は前後の)製作者の存在や内容・描画を伏せておいて共同で製作する、一種のパフォーマンス・自動描法(オートマティスム)の一つである。名の由来はタンギーらの最初の試みの際に偶然生じた文、“Le cadavre – exquis – boira – le vin – nouveau”(「優美な―屍体は―新しい―酒を―呑むだろう」)に基づく。)]
 さて、花歌留多は、徳川時代に、西洋伝来のカルタが禁止されたので、そのかわりに、案出されたものであるから、麻雀などとは比較にならぬはど、多くの人になじまれたので、徳川時代のことは知らないが、(『栄華物語』のなかに、「花合はなあはせ、菊の宴など、をかしき事をこのませたまひて……」というのがあるが、)明治から大正にかけて、民衆娯楽のひとつになっていた。しぜんその頃は、文学者のなかにも、「花」を好む人が、かなり誇り多かった。(滝井孝作の『博打ばくち』[昭和二年四月]のなかに、「自分は遊び事に熱中するたちで、ここつきばかり花や麻雀で仕事ができなかつた、……」というところがある。)
[やぶちゃん注:ここで宇野が「栄華物語」(本引用は同作の第三十七巻「けぶりの後」の一節)のなかに「花合」という語がある、と述べているが、この「花合」というのは花札とは全く異なるもので、これは「物合ものあはせ」の一種である。「物合せ」とは多くの人が集まって右方・左方二手に分かれてそれぞれの組になる示す対象の優劣を争う遊びである。「花合せ」はそのように二手に分かれ、それぞれ花を出し合って比べた上(一般には花の小枝を庭の遣水や池端に立てた)、通常は、その花に因んだオリジナルな和歌などを詠んで優劣を競った遊戯で「花競はなくらべ」「花軍はないくさ」などとも言った。勝負は勿論あるが、引き分けもあり、「」と呼称した。花は主に桜であったが、「紅梅合せ」・「女郎花合せ」・「菊合せ」(「栄花物語」の「菊の宴」はこれかも知れない)・「撫子合せ」・「菊合せ」などがあった。また、「草合せ」というのもあって「紅葉合せ」・「菖蒲の根合せ」(根の長さを競う)、更に凝ったものでは「前栽せんざい合せ」といって盆に植込みや箱庭のような盆景を作り、実物や工芸細工の虫やミニチュアの飾りを配したりして、そこに植えられた草花や装飾に関わる歌題を決めて、それらを詠んだ和歌をそれぞれの決められた位置に書き添えて配し、勝負を競ったりした。
「菊の宴」は重陽の節句の祝宴のこと。]
 さて、東家では、この「花」は、いつも、大杉の部屋で、もよおされた、大杉の部屋は、二階の八畳じょうで、誰の部屋よりも、ひろびろとしていたからである。その大杉の座敷からは、目のしたに、東家の庭が、見おろされた。その庭は全体が芝生しばふで、その芝生の真中まんなかへんに池があって、その池のほとりにちんがあった。それで、庭ぜんたいが箱庭のように見えた。さて、その亭は、ちいさい家になっていたので、入り口もあり、縁もあり、全体が四じょう半ぐらいの部屋になっていた。そうして、その部屋には、いつも、二人ふたりの男がいて、その二人ふたりの男は、障子があけてあるので、ときどき、大杉の座敷を、じろじろと、見あげた。それは大杉を尾行びこうする刑事である。したがって、大杉はその二階の座敷にいれば、二人の刑事は、安心して、その亭の部屋で、休息できるわけであつた。それで、大杉は、私たちと花歌留多をしている時、ときどき、目に微笑をうかべて、その亭の方を見ながら、「あそこに番人がいるから、安心だよ、」と、いった。(ところで、芥川は、ときどき、東京に帰ったからでもあるが、たまたま、大杉の部屋に、はいって来ても、花歌留多は一度もした事はない。)
[やぶちゃん注:「ちん」は唐音。池亭。四阿あずまや
「大杉栄」宇野の記憶通り、このシークエンスが大正十(一九二一)年三月頃とすると、大杉はこの一月にコミンテルンからの資金援助でアナキスト・ボルシェヴィキ(アナ・ボル)共同機関紙として第二次の『労働運動』を刊行しているが、二月に腸チフスを悪化させ入院している。鵠沼東屋での静養が、その予後の養生と考えるとしっくりくる。]

 さて、今、さきにげた『文学の三十年』を取り出して、開いてみると、その日絵に、私が、その時、東家でとった写真がふたつ、東家でない家でとった写真が二つ、――と、あわせて、よっつの写真が出ている。そうして、その四つの写真の解説が本のしまいに出ている。むろん、その解説は、私が、書いたものである。それを、便宜のために、左にうつしながら、解説の補遺と訂正をしよう。

 むかって右のガラス障子を背景にして、いかにも写真に取られるところらしい恰好をして、ならんでいる、二人の青年は、右が佐佐木茂索(二十八歳)で、左が芥川龍之介(三十歳)である。

 補遺――佐佐木も芥川も着物を着ている。芥川は、両手袖の中にかくし、膝をまげているが、ほとんど正面を見ている、そうして、かすかに歯を出している。佐佐木は、右の方にちょっとりかえり、左でを籐椅子とういすの背によせかけ、手の甲だけ出している、トルコ帽のようなものをかぶっている。そうして、佐佐木の方が年上としうえのように見える。よく見ると、御両人はとうの寝椅子にいささか行儀ぎょうぎわるくならんで腰をかけているらしい。

 むかって左の、庭園のなかで、これも、いかにも、写真に取られるかまえをしている、二人ふたりの人物は、右が里見、左が佐佐木、とだけ説明しておく方が無事であろう。ところで、この庭園は、東家ではなく、どうも、他の家の庭園であったような気がするが、なにぶん二十年ほど前の、あまり大切な事でない、記憶であるから、その「他の家」が如何いかなる家であったかをまるで忘れてしまった。見る人、諒焉。
[やぶちゃん注:「諒焉」返り点で返って、「これを諒せよ」と読む。]

 補遺訂正――「他の家」とは、むろん、東家でなく、鎌倉の、当世の流行の言葉でいえば、avec 専門の家である。但し、この家に、御両人は、avec などではなく、とまったのであろう。

 このふたつの改まっていないようで改まっている写真の下の、これ亦、改まっていないようで改まっている、食卓をかこんでいる図は、場所はやはり東家の座敷で、人物は、むかって右から、芥川、せい子[当時の谷崎潤一郎夫人の令妹]、宇野、里見、久米、である。

 解説の附加――五人とも宿屋のそろいの丹前をきているが、それぞれとりどりに写真にとられる姿勢をしているところに、興味がある。芥川は、右腕で頰杖をつき、斜め横むきで、写真器のある方を見ている。すこし不機嫌らしい顔をしている。せい子嬢は、正面をむいて、かすかに笑顔えがおをしている、ほんのすこし色っぽい顔をしている、里見は、やはり、横むきで、ちょいと頰笑ほほえみながら箸を鉢につっこんでいる、(が、それが、いかにも箸を突っこんでいる恰好かっこうをして見せている、というふうに見える、)半身だけしかうつっていない久米は、首をすこし無理にまげて、やはり、写真器のあるへんを、にらむように見ている。さて、私(つまり、宇野)はについては、解説に、こう(つぎのように)書いてある、「宇野だけが、食卓からすこしはなれて、かしこまっている形など、客観的に見て、なにちんである。しかし、これは私(宇野)が、写真器をうつす仕掛しかけにしておいて、自動停整器をかけておいて、あと仲間なかまいりしたので、こういうかたちになったのである。」――この解説は、十年ほど前に、私が書いたものであるが、せい子と里見のあいだに、食卓から少しはなれて、ちょこなんとすわって、真正面ましょめんをむいている私は、客観的に見て、(客観的に見なくても、)きわめておめでたい顔をしている。もっとも、これは、私ばかりでなく、他の四人の顏も、みな、遊んでいる、これは、四海なみしずかな、天下太平たいへいな、大正の世のせいばかりではなく、この時この鵠沼の東家に滞在していた人たちは、ここでは、仕事などほとんど忘れて、呑気のんきにあそびくらしていたからである。(大杉と私は、ときどき、宿の女中と相撲すもうをとった、という事によって、女中たちにもっとも人気があった、これをもって、他は「推して知るべし」である。)
[やぶちゃん注:「自動停整器」セルフ・タイマー。]

 さて、この食卓の図の下の右側は、やはり、鵜沼の、江口の家の座敷の縁側で、おなじ頃うつしたもので、むかって右から、佐佐木茂索、谷崎精二、江口、江口のそばにいる子供は誰の子か不明。そうして、江口だけが粗末な丹前をきているのは、谷崎と佐佐木が、東家から、江口を訪問した時であろう。

 解説の補遺――粗末な丹前をきた江口と粗末な二重廻にじゅうまわしし(鳶合羽とんびがっぱともいう)をきた佐佐木が江口と窮屈きゅうくつそうにからだをおしつけあって縁側に腰をかけている、ふだんこわいように見える江口の顔が、ほのかに笑っているので、柔和に見え、がさしてまぶしかったのか、佐佐木が二十五度ぐらいに首をかたむけ、その佐佐木と江口の顔のあいだに、やはり、粗末な二重廻しをきた谷崎が、腕ぐみをして、半身を出している。江口は両手を膝の辺でかるく組んでいるが、佐佐木は、両手を着物の袖からだらりと出し、右の手に持っているステッキを斜めにつき、着物の裾と二重廻しの裾がすこし広がっているので、いささかだらしなく見える、この時、佐佐木はよほど疲れていたらしい。(ここで、余計な事を、承知で述べると、このとき粗末な二重廻しをきていた二人が、二十七八年のちに、一人が早稲田大学の文学部長になり、他の一人が文藝春秋新社の社長になろう、とは、それは、西洋流にいえば、神だけが知っていたかもしれない。)
[やぶちゃん注:所謂、シャーロック・ホームズのスタイルで知られるインバネス(“Inverness coat”)のことである。肩から体を蔽う袖なしのオーバー・コートで、京都の「風俗博物館」の「日本服飾史 資料」の「山高帽、二重廻しのマント」によれば、本邦には十六世紀後半ポルトガル人宣教師らの外套として齎され、ポルトガル語の“Capa”から「合羽」と当字された。明治七(一八七四)年頃に外国軍人の外套を模して、陸海軍の将校用外套や警察・消防の防寒用制服とされた。一般には『洋服だけでなく和服用にも用い出され、和洋混交の新しい姿として重用された。特に半円形のマントを和服用に改良を加え、身の部分を袖なしに作り、マントを重ねたものが「とんび」「二重廻し」「インバネス」と呼ばれて一般の男子の防寒用のオーバーとされた』。大正・昭和を通じて『特に和服用として多く使用されたが、戦後は殆どその姿を消した』とある。]
 最後に、これらの写真を見て、ふと、気がついたのは、ふさふさした髪の毛を真中からわけて耳のへんまで垂らしている芥川の顔は、『ドリアン・グレイの画像』の作者、オスカア・ワイルドをおもわせ、佐佐木の鼻下に目にたつ細長い口髭をはやしている事である。これを見て、ふたたび、余計な口をきくと、「文藝春秋」の増刊の「炉辺読本」[昭和二十六年十二月五日発行]の口絵に、尾崎士郎、田村秋子、徳川夢声、越路吹雪、石黒敬七、一万田尚登、吉屋信子、宇野浩二、の若年の頃と現在の写真を出して、『彼は昔の彼ならず』という題をつけているが、そのなかに佐佐木茂索を漏らしたのは、『抜群ばつぐん』といわれる、「文藝春秋」の編輯者の手おちであろう、諺にいう『智者も千慮に一失あり』とはかくの如きごとをいうのであろうか、閑話休題。
[やぶちゃん注:「田村秋子」(明治三十八(一九〇五)年~昭和五十八(一九八三)年)は新劇女優。築地小劇場・築地座・文学座名誉座員。この頃は舞台復帰した直後で、前年の昭和二十五(一九五〇)年にはイプセンの「ヘッダ・ガブラー」でヘッダを演じている。
「石黒敬七」(明治三十(一八九七)年~昭和四十九(一九七四)年)は講道館所属の柔道家・随筆家。ヨーロッパや中近東など海外での柔道普及に尽くした。昭和二十四年からNHKのラジオ番組「とんち教室」のレギュラーとして出演、人気を博した。
「一万田尚登」一萬田尚登(いちまだひさと 明治二十六(一八九三)年~昭和五十九(一九八四)年)は日本銀行総裁・衆議院議員(五期)・大蔵大臣(四回)などを歴任。当時は日銀総裁であったが、この数ヶ月前の昭和二十六(一九五一)年九月のサンフランシスコ講和会議では、全権委員として吉田茂とともにサンフランシスコ平和条約の署名を行っている。]
 ところで、旧著の口絵の解説などをもちだしたのは、鵠沼の東家に、その頃、集まった人たちの動静を述べるには骨がおれる上に余程の枚数がいるので、手をぬいて、その一端を述べるためであった。
 さて、この東家にいた連中れんじゅうのなかの『花』の特にすきな人たちは、東家のちかくに住んでいた、中村武羅夫の家に、しばしば、出かけた。ところが、その人たちは、中村の『花』のやりかたが、手堅てがたくて、大きく勝たないが、決して負ける事がないので、感じがわるい、といって、ときどき、こぼしながら、しかし、その人たちは、やはり、中村の家に、出かけた。
 ところで、私は、『花』にはあまり興味がなかったので、その連中と中村の家に行ったことは一度もなかったが、ある時、用事があって、中村をたずねた時、めずらしい人に逢った、木蘇 穀という人である。木蘇は、私たちと同年ぐらいであったが、初志を得ないで、西洋の小説の翻訳などを、ほそぼそと、していた。これには、その頃(大正十年ごろ)の翻訳ばやりの有り様を、ちょっと、書いておかないと、一般の読者にわからない、と思うので、――その頃、翻訳の本をほとんど一手いってに出していたのは新潮社である。その新潮社で、その頃、『世界文芸全集』というのを出していて、その広告を見ると、「約一百巻の予定――空前の大叢書也」とあるが、実際に出したのはその半分ぐらいであったか、と思う。そうして、出したものは、『ボヴァリイ夫人』、『ヸルヘルム・マイステル』、『赤と黒』、『従妹ベット』、その他、大部のものでは、『戦争と平和』、『アンナ・カレエニナ』、『レ・ミゼラブル』、『ジャン・クリストフ』、その他、で、訳者は、中村星湖、米川正夫、原 久一郎、豊島與志雄、佐々木孝丸、その他で、この『その他』の中には、廣津和郎、阿部次郎、江馬 修、などもいるが、他は無名といってもよい人たちである。そうして、その無名といってもよい人たちのなかに、『従妹ベット』を翻訳した、布施延雄という男があるが、この布施は、早稲田で、私の同級生で、英語がよく出来たので、バルザックのほかにも、ツルゲエネフ、パルビュス、メリメ、その他翻訳をした。木蘇は、この布施としたしくしていたが、布施ほど語学ができなかったうえに、ひっこみ思案じあんの人であったから、翻訳をしても、代訳であったらしく、木蘇の名で出た和訳の本は一二冊であった。
[やぶちゃん注:「木蘇 穀」(きそこく 生没年未詳)は編集者・翻訳家・作家。辻潤から英語を習い、後に『万朝報』記者となり、国家社会主義を唱えた哲学者高畠素之などとも関係があった。個人のブログ「漁書日誌ver.β」の「余震の趣味展」の記事によれば、今東光が『文壇三大醜男』と呼び、谷崎潤一郎「人面疽」のモデルとも言われる、とある(谷崎の書生のようなことを彼はしていたらしい)。「後家ごろし」等、通俗推理小説の創作も手掛けているが、現在は忘れられた作家である。
「従妹ベット」はバルザックの『人間喜劇』シリーズの代表作の一つ。
「中村星湖」(明治十七(一八八四)年~昭和四十九(一九七四)年)翻訳家・小説家。『早稲田文学』記者、戦後、山梨学院短大教授。ここに出たフロベール「ボバリー夫人」は彼の翻訳の代表作。
「原 久一郎」(はらひさいちろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和四十六(一九七一)年)はトルストイの翻訳家として知られるロシア文学者。昭和十一(一九三六)年から十五(一九四〇)年に個人訳「大トルストイ全集」を完成させた。。東京外国語大学名誉教授。ロシア文学者として知られる原卓也は彼の息子である。
「佐々木孝丸」(明治三十一(一八九八)年~昭和六十一(一九八六)年)は俳優・翻訳家・作家・演出家。戦前は左翼系演劇に参加、落合三郎のペン・ネームでプロレタリア戯曲集を書き、フランス文学の翻訳をも手掛けた。ここに出る「赤と黒」(落合三郎名義)は彼のその代表作。また「インターナショナル」の日本語訳詞は彼の手にある。熱心なエスペランティストとしても知られ、私にとっては東宝特撮映画でお馴染みのバイ・プレーヤーである。
「江馬 修」(えましゅう/えまなかし 明治二十二(一八八九)年~昭和五十(一九七五)年)は作家。田山花袋の書生となり、夏目漱石門下の阿部次郎らと交遊を結び、大正五(一九一六)年の長編「受難者」がベスト・セラーとなる。関東大震災を契機として社会主義に傾き、『戦旗』派のプロレタリア作家として活動する。戦中から戦後にかけて、長編「山の民」を執筆、文化大革命の中華人民共和国に渡り、現地では最も有名な日本人作家として知られた(以上は、主にウィキの「江馬修」によった)。
「布施延雄」(明治二十五(一八九二)年~?)翻訳家。エドガー・アラン・ポオの作品集「全譯 橢圓形の肖像」(「楕円形の肖像」。大正八(一九一九)年。「ベレニス」「エレオノラ」「モレラ」等を含む作品集の全訳)、バルビュス「地獄」(大正十(一九二一)年で本邦に於けるバルビュスの初訳)、ツルゲーネフ「貴族の家」(現在の「貴族の巣」。大正十一(一九二二)年訳)、ウィリアム・モリス「無何有郷だより」(昭和四(一九二九)年訳)、メリメ「カルメン」(昭和十(一九三五)年訳)、など、多くの翻訳をものしている。]
 さて、私が、中村の家で、木蘇に邂逅したのは、その頃、木蘇も、鵠沼に、住んでいて、ときどき、木蘇は、特殊の用事で、中村を、たずねて来たからである。(木蘇は、翻訳の仕事で、中村と知り合い類を中村に買ってもらう事である。そうして、その書画の類は木蘇の父の遺産であった。木蘇の父は木蘇岐山という有名な漢学者である。
[やぶちゃん注:「木蘇岐山」(?~大正五(一九一六)年)漢詩人。美濃国出身。東本願寺派僧の子。若き日は勤王派として活動したらしい。「大阪毎日新聞」詩(漢詩)欄を担当し、関西詩壇を指導したこともある。宇野が鵠沼の東屋で出逢ったこのシークエンスは、先の記述から大正九~十年頃であるから、岐山の死後四~五年ということになる。]
 それを誰からか聞いた私は、その書画がちょいとほしくなったので、ある日、木蘇をたずねた。すると、木蘇は気の毒そうな顔をして、目ぼしい物はみな中村が取ってしまって、これだけしか残っていない、といって、奥から、二幅のしょを出して来た。そうして、木蘇は、その二幅を私の膝の前において、ちいさい声で、「梧竹と楊守敬です、……僕の親父おやじは、楊守敬としたしくしていたらしいのです、それで、……」と、いった。
[やぶちゃん注:「梧竹」は中林梧竹(文政十(一八二七)年~大正二(一九一三)年)のこと。明治の三筆と称せられた書家の一人。肥前国小城藩(現・佐賀県小城市)生。その特徴は絵画的で、実際に水墨画も描いた。
「楊守敬」(ようしゅけい Yáng Shŏu jìng 道光一四(一八三九)年~民国四(一九一五)年)清末の学者。湖北省宜都生。訓金石学に通じ、欧陽詢の書風を受け継ぐ能書家としても知られた。明治十三(一八八〇)年、初代駐日公使何如璋かじょしょうの随行員として来日、大陸では既に散逸した古典籍の収集に勤しむ傍ら、書家巌谷一六いわやいちろく日下部鳴鶴くさかべめいかくらに北魏の書を伝えて、本邦近代書道史に大きな影響を与えた。明治十七(一八八四)年帰国、晩年は上海に寓居、書を売って生計を立てたという。]
 私は、それだけ聞いて、「失敬ですが、……」と、いって、木蘇のいうままに、三拾円で、その二幅の書を、木蘇に、ゆずってもらった。
 ところが、私がこの二幅の書を木蘇から買った翌日、二三にち東京にかえっていた芥川が、また、東家にやって来たので、さっそく、芥川に、その二幅の書を見せながら、私は、
「……木蘇君は、もっといい物をたくさん持っていたらしいのだが、そのなかのもっともいい物を、はじめに、中村君が、買ってしまったらしいんだ、……だから、これは、きみ、その、売れ残りだよ、……」と、いった。
 すると、芥川は、私の話がおわらないうちに、目をかがやかしながら、
きみ、すぐ、その木蘇という人のうちへ、案内しでくれたまい、」と、云った。
 そこで、私が、すぐ、芥川を、木蘇のところへ、連れて行くと、木蘇は、ちょっと悲しそうな顔をして、書画の類はもう一幅ものこっていない、と、いった。
 すると、芥川は『だんだ』ふむようななさけなさそうな、顔をした。
 温厚な木蘇は、その芥川の顔を見て、しばらく、途方にくれていたが、やがて、芥川の顔をうかがうように見ながら、
「印章なら大分ありますが、……」と、云った。
「え、印章、」と、芥川は、めずらしく顔色をかえて、(平凡な形容をつかうと、愁眉しゅうびをひらいたような顔をして、)飛びつくように、いった。
 そこで、木蘇は、奥のほうへ行って、引きしを、そのまま、持って来た。
 すると、芥川は、たちまち、私がそばにいるのを忘れたように、その引き出しのなかから、大小の印形を、ひとひとつ、丁寧に、取り出して、「ほお、」とか、「これは、」とか、いちいち、感歎の言葉を、はなっていた。しかし、私は、印章というようなものにほとんど興味がなく、しぜん、芥川と木蘇が、それらの物について、何かしきりに話している事もほとんど全くわからなかったが、そのあいだに、しばしば、『蔵六ぞうろく』という名が、くりかえされたので、それだけが耳についた。
 さて、芥川は、それらの印形のなかから、気にいった物を、いつむっつ、木蘇から、ゆずりうけるところと、私の方にむかって、「やあ、失敬、さあ、おいとましようか、」と、いった。
 ところで、芥川の死後に『印譜』が刊行されたが、それにはとおおさめられていて、そのとおの中には、芥川の家厳芥川道章の作ひとつ、芥川の親友の小沢仲丙[俳人の小沢碧童のこと]の作一つ、他に鋳銅が一つ、陶印が一つ、その他(『仙箭楼居』と刻まれたもの)一つ、――それらのいつつのほかは、(他の五つは、)みな、蔵六浜村 袞の作である。
[やぶちゃん注:「蔵六浜村 袞」は恐らく篆刻家五世浜村蔵六(慶応二(一八六六)年~明治四十二(一九〇九)年)であろうか。初世蔵六以来の最大の印人と称された名工である(但し四世浜村蔵六門人で養子)。襲名は明治二十七(一八九四)年で、各地を遊歴後、二度にわたって清に渡中し、政治家康有為こうゆうい・篆刻家徐三庚じょさんこう・書家で篆刻家としても知られた呉昌碩ごしょうせきらと親交を結んで、奥義を学んだ。犬養毅や幸田露伴など多くの名士が彼の印を好んだ。但し、彼の名は「裕」、字が「有孚」、別号「無咎道人」「彫虫窟主人」、通称も「立平」で、本文に示された「袞」は見当たらない。ただ「袞」はよく見ると(上)が「谷」に、(下)が「衣」に似ていて、「裕」の字に通ずる気もする(事蹟部分はウィキの「五世浜村蔵六(五世)」の記載を参照した)。識者の御教授を乞うものである。]
 それで、これはまったく私の臆測であるが、この五つの蔵六の作と『仙箭楼居』と刻まれてあるのと合わせて六つの蔵六の作を、芥川が木蘇から、買ったものとすれば、芥川の印章の重なものは、木蘇穀の父の木蘇岐山の所蔵した物である、という事なるのである。そうして、それらの物のうちで、『印譜』の一番はじめに出ている『鳳鳴岐山』は、その大きさといい、その風格といい、私のような者が見ても、蔵六浜村袞の傑作の一つではないか、と思うほど、すぐれた篆刻である。(これは、先の色が出なくても、せめて写真版にしても出したいぐらいである。)
[やぶちゃん注:「澄江堂印譜」(復刻版)から以上の二つの印を画像で示す。
まず『仙箭楼居』。


次に『鳳鳴岐山』。

宇野先生、如何ですか? これで少しは溜飲を下げて戴けましたか?]
 木蘇 穀が、この芥川の『印譜』を見て、「芥川さんはひどい人だ、」といったそうであるが、死んでしまった芥川には、この木蘇の言葉は、もとより、つたわらない。
[やぶちゃん注:「芥川さんはひどい人だ」という台詞は――他人の印でありながら、自分のオリジナルのように死後の印譜で示させた点(印譜配布の指示は遺書(菊池宛)の中に書かれている)、心情的には、木蘇氏が呟くのは、倫理的な意味に於いては、分からないではない――が――論理的には、おかしい気がする――だったら、売るな、と言いたい、のだ――木蘇氏は、死んだ後には自分の元に返すべきだ、とでも、思ったものかも知れないが、「ゆずりうける」という語は、ただで贈った、というわけではあるまい。そんなに返して欲しければ、芥川家に行って、言を尽くして、買い戻すべし――と、私は言いたい。何だか、私が、宇野のような語り口に、なった。]

 さて、つぎに述べる事も、十五六年まえに、書いたけれど、それを書かないと、この文章の筋が通らないから、――
 この印章の高があってから、十日ぐらいのちであったか、ある日、芥川が、すこしあわただしい様子をして、私を、たずねて来た。そうして、座につくのと殆んど同時に、
今日きょうは、いつか、君が、鵠沼で買った、あれを見せてもらいに来たんだがね、……」と、いった。
 その芥川の『あれ』というのは、私が木蘇から買った、あの、二幅の書である。そうして、その二幅の書とは、前に述べたように、一つは梧竹の書であり、他は楊守敬の書であるから、私が、その二幅の書を出して、見せると、芥川は、その二つの軸を、ひろげて、いかにもれた見方で、しばらくながめていた。が、すぐ、楊守敬は、維新の時分に日本に来たが、書がうまいので有名である、殊に、「君、これは、楊守敬としても、出来できのいい方だよ、……それに、この詩も、ちょいと、うまいよ、」と、芥川は、いった。そうして、そう云いおわると、芥川は、すぐ、梧竹の書の方を見て、「やっぱり梧竹はいいな、」と、いった。
[やぶちゃん注:以下、「後記」は底本では全体が一字下げ。]
(後記――『楊守敬』について、私は、何も知らない。ここに書いた芥川の「維新の時分に日本に来たが、書がうまいのでヽヽヽヽヽヽヽ有名である、」というのも芥川流の云い方としか思われない。ところが、森 鷗外の『澀江抽斎』の(その二)の終りの方に、楊守敬の名が出ているのを、私は、発見した。そこのところをうつしてみよう。「……これ(抽斎の『経籍訪古志』)は抽斎の考証学の方面を代表すべき著述で、森枳園と分担して書いたものであるが、これを上梓することは出来なかつた。そのうち支那公使館にゐた楊守敬が其写本を手に入れ、それを姚子梁が公使徐承祖に見せたので、徐承祖が序文を書いて刊行させる、」と、これを見ると、芥川が、楊守敬が「書がうまいので有名である、」というのは、やはり、例の芥川流の云い方であり、それが面白い、と、私は、思うのである。)
[やぶちゃん注:「経籍訪古志」は弘前藩侍医にして稀代の考証家渋江抽斎(文化二(一八〇五)年~安政五(一八五八)年:伊沢蘭軒に師事。)が森立之とともに編んだ、奈良平安まで遡ったあらゆる分野に亙る漢籍の善本解題目録。近代の書誌目録学の中でも稀有の快挙とされる。
「森枳園」(もりきえん)は森立之(もりりっし/もりたつゆき 文化四(一八〇七)年~明治十八(一八八五)年)のこと。備後国(現・広島県)福山藩医。伊沢蘭軒に師事、渋江抽斎と親交、後に幕府医学館講師として「医心方」を校訂、維新後は文部省勤務。
「姚子梁」(ようしりょう 生没年未詳)。楊守敬と同じく駐日公使随行員と思われるが、初代何如璋・第二代黎庶昌れいしょしょう・第三代徐承祖じょしょうそのいずれの随員かは不明。
「徐承祖」(じょしょうそ 一八四二年~一九〇九年?)は清国第三代駐日公使(公使在日一八八四年~一八八八年)。徐承祖の序本邦の「経籍訪古志」は清国上海で光緒十一(一八八五)年に公刊を見た。その際、森立之が校訂を行った旨、鷗外の「渋江抽斎」には引用部に続いて『徐承祖が序文を書いて刊行させることになつた。その時幸に森がまだ生存してゐて、校正したのである』と続く。]
 私は、その芥川の云い方を聞いて、どうも、梧竹より楊守敬の方がいい、という意味にとれたので、芥川の気質をいくらか心得ている私は、『ははア、これは……』と思ったので、
「君に、こっちを進呈しようか、」と、梧竹の書の方を指さして、云ってみた。
 すると、はたして、芥川は、かすかににやりと笑って、
「これ、もらっていいか、ありがとう、じや、もらうよ、」と、いった。
 ところで、私は、その時は、ただ、それだけの考えで、芥川に、梧竹の書をあたえたのであるが、ずっと後あとで、私が取っておいた、楊守敬の書が、
   山路只通樵客江邸半是漁家
   秋水磯辺落雁夕陽影裏飛鴉
     岐山仁兄方家正  宜都 楊守敬
とあるのを見て、『岐山』は、前に述べたように、木蘇岐山であるから、このような書は、岐山でなければ、掛けておけない、という事になると、ふと、考えた、そうして、もし、この私の臆測があたっていれば、芥川のすばやい目は、この書を見た時、すぐこの『岐山仁兄』が目につき(それが芥川の気に入らなかった理由の一つであったのだ。
[やぶちゃん注:書を自己流で書き下してみる。
   山路やまじ 只だ樵客しょうかくを通し
   江邨こうとん 半ばは是れ漁家ぎょか
   秋水磯辺しゅうすいきへんの落雁
   夕陽影裏せきようようり飛鴉ひあ
     岐山仁兄方家正  宜都 楊守敬
「夕陽影裏」は、夕陽の中に、の意であるが、全体に禅語の「森羅影裏藏身」(「森羅影裏に身を藏す」)、天地万物と総ての現象の中にこそ――「夕陽の中を飛ぶ鴉」、その一匹の黒き鴉の飛ぶ景の中にこそ――まことは深く潜んでいる、の意を掛けているものと思われる。「仁兄方家正」は総て敬称であろう。「宜都」は楊守敬の出身地。]
 しかし、私は、こういう事は、ずっとあとになってから、気がついたのであるが、こういう事(つまり、梧竹の書の事)などをきれいに忘れた時分に、(その一件があってから半年ほどのち、)ある日、芥川が、私の家の二階の客間にとおると、すぐ、無造作むぞうさに新聞紙につつんだものをいて、一尺ぐらいの高さのブロンズの胸像を取り出し、それをテエブルの上において、例の少し鼻にかかる声で、
「これは進呈しよう、」と云った。
 それは、長い髪の毛を左わけにした柔和な人相の男の胸像である。そうして、その胸像のかわっているのは、その胸像の台が羽根ペンを添えた二冊の書物を台にしている事である。
 それで、私が、それを見て、ちょっとの間、呆気にとられていると、芥川は、それを右手で取り上げて、
「……わかるだろう、これ、君に、ゴオゴリだよ、この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ。今そこの、日暮里の、田村松魚[註―田村俊子の夫]の家で見つけたんだ、うん、松魚は、元はちょいとした小説家だが、今は、小説家を廃業して、骨董屋になってるんだ、……これ、たぶんロシア人が、国に帰る時、売って行ったんだ、と思うが……」と、ここで、芥川は、持ち前の微笑を目にうかべて、その胸像の底を私に見せながら、「見たまえ、これ、ブロンズのように見えるだろう、がテラコッタだよ、……ところが、テラコッタというものはイタリイが本場だ、それが不思議じゃないか、これはまちがいなくロシアのゴオゴリだからね、」といって、私の目を、うかがうように見た。
[やぶちゃん注:「田村松魚」(しょうぎょ 明治七(一八七四)年~昭和二十三(一九四八)年)は作家。幸田露伴に師事し、後に米国に留学、帰国後の明治四十二(一九〇九年)に同門の作家佐藤とし(田村俊子)と結婚した。小説「北米の花」「乱調子」など。結果的には作家としてよりも妻の作家デビューに力を尽したとされる(後に離婚)。
「この胸の下に書いてあるロシア語は、N.V.GOGOL と読むんだそうだ」ニコライ・ヴァシーリエヴィチ・ゴーゴリのロシア語表記は“Николай Васильевич Гоголь”。英語表記では“Nikolai Vasilievich Gogol”となる。
「テラコッタ」“terracotta”イタリア語で「焼いた土」の意。粘土を素焼きにして作った塑像。]

 さて、芥川からゴオゴリの胸像をもらってから、数日後であったか、数箇月であったか、私は、ふと、あのゴオゴリの胸像は、「あ、そうか、あの梧竹の書に対する返礼であったのだ、」と気がついた。そうして、返礼と思わせないために、わざと無造作に、新聞紙に、つつんで来たが、実は、わざわざ、自分のうちから、大事だいじにしていた物を、持ってきたのではないか、と、私は、思った。無造作に持ってきたのは、芥川の持ち前と都会人らしいこまかい気質のあらわれであり、返礼にきたのは、芥川の礼儀ずきと義理がたさをあらわしている。そうして、私は、「なるほど、芥川らしいな、」と思って、感心した。
 ところが、芥川がなくなってから五年ほど後(つまり、昭和七年頃)の在る日、諏訪三郎[註―この人は、たぶん、大正の末年頃の四五年のあいだ、「婦人公論」の名記者であった]が、たずねて来た時、私が、なにかの話のついでに、座敷のすみの台の上においてあった、ゴオゴリの胸像を見せながら、諏訪に、ここに書いたような話をすると、諏訪は、話の切れ目ごとに、うなずく癖があって、頻りにうなずきながら、私の話をおもしろそうに、聞いていた。ところが、その翌日、ある雑誌に、諏訪は『文学上の信念』という題で、私をたずねた時の事を、書いていたが、そのなかに、つぎのような一節があった。

……もうひとつのブロンズの胸像というのは、[註―これは、胸像ではなく、首だけであるが、大杉 栄のブロンズの首で、おなじ座敷の別の所においてあったもの]私は、嘗てこの品を芥川龍之介氏の書斎で見たことがあった。たしか宇野さんは芥川さんから貰ひうけたのであらう。本二冊つみかさねたうへに立てるゴオゴリである。私はさっきからブロンズと呼んでゐたが、実は、ブロンズではなく、テラコッタである。
「君、これはつちだぜ。」芥川さんもかう云つて私に見せられたことがあつたが、[中略]宇野さんも、「ブロンズのやうだらう。しかし、これ、土だよ、」とわざわざそのゴオゴリの胸像をさかさにして、見せてくだすつた。
 これを読んで、私は、自分の想像があたっていたので、いささか得意な気がした。が、すぐ、諏訪が、すでに、芥川の書斎で、そのブロンズのように見える胸像がテラコッタである事まで、聞き知りながら、いい気になってしゃべっている私の話を、なにくわぬ顔をして、聞いていたのだ、と、気がつくと、私は、心のなかで、真赤まっかになった。いや、私の事などは、どうでもよい。おなじ文章のなかで、諏訪は、「君、これは土だぜ、」という言葉だけで、芥川の高い鼻をさえ、折っているではないか。これを見れば、『腕』のある記者は、芥川のような抜け目のない秀抜な作家をさえ観察する『目』をも、持っている、という事なる。天下太平であった、といわれる、大正時代の記者でさえ、(しかも、諏訪のような温厚な人さえ、)かくのごとき観察眼を持っていたのであるから、近頃の、(つまり、『戦後』の、)記者たちは、(腕のない人でも、)エッキス光線のごとき観察眼をもっているかもしれない。そこで、「寄稿家諸氏よ、」と私は叫びたい、「近頃の記者にめったに心ゆるすな。」閑話休題。
[やぶちゃん注:「諏訪三郎」(明治二十九(一八九六)年~昭和四十九(一九七四)年)は編集者・小説家。本名、半沢成二。『中央公論』『婦人公論』の記者を経、新感覚派の『文藝時代』同人として創刊に参加、小説「郊外の貧しき街より」「ビルヂング棲息者」「大地の朝」など。
「これは、胸像ではなく、……」は日本語としては、やや説明不足。『もう一つの、というこの前で語っているブロンズの胸像というのは、これは、胸像ではなく、……』という意味。]

     


 この前の回のなかで、芥川が木蘇 穀から印章を買うことを述べたが、その年月を忘れたので書かなかった。ところが、芥川の全集の書翰篇のうちの、つぎにうつす手紙をよんでそれが大正十一年の三月下旬であることがわかった。
[やぶちゃん注:「大正十一年の三月下旬」三月二十六日。岩波旧全集書簡番号一〇〇九。]

 拝啓 この頃左の印を得ました鳳鳴岐は読めるのですがもう一つのは読めないのです何哉ですか教へて頂けれは幸甚です又小さい印の中細長い○日○石とか云ふ○印の中も教へて頂ければ幸甚です

こう書いたあとに、その字のよめない印がたてむっつ押してある。そうして、そのあとに、「作者は皆蔵六です 頓首 香取先生」とある。香取とは香取秀真である。

 その後無恙つつがなく御消光の事と存候さてこの頃石印両三顆手に入れ候につき御鑑裁を経たく存居侯へども近々御来駕下さるまじく候や当方より参上致すきの所何分にも煉瓦程の石印につき途中難渋に候間手前勝手を申上ぐる次第に御座候[下略]
[やぶちゃん注:これは大正十一(一九二二)年三月二十六日佐佐木忠一宛。岩波旧全集書簡番号一〇一〇。佐佐木忠一は佐佐木茂索の兄で、骨董屋を経営していた。]

 この二つの手紙のうちの、前の香取にあてた中の印の読み方は、(ここにその印を押したのを木版にして出せば判断はつくが、)『鳳鳴岐』は『鳳鳴岐山』であり、『何哉』は『鉞哉』であり、『○日○石』は『終日弄石』である。いずれにしても、これらの手紙をよむと、芥川が、木蘇からゆずりうけた印を自分の物にして、いかに喜び得意になったかが、うかがわれ、私も、これを知って、その印について間接の世話をした事を思い出して、うれしい気がするのである。
[やぶちゃん注:「鉞」は音「エツ」、訓で「まさかり」。鮮やかな斧正や王権を象徴する。以下、まず旧全集に所載する当該書簡のモノクロームの捺印画像を示す。最後の二つは同じ『終日弄石』を左右に捺印している。


次に、「澄江堂印譜」から上の画像の一番上にある『鉞哉』。

上の画像の上から三つ目『鳳鳴岐山』の下右の印。これは「白龍」と彫られている。

最後に『終日弄石』。

なお、「白龍」の左にある印影は不詳。「澄江堂印譜」にはない。]
 なお、香取秀真は、子規門人のふるい歌人であり、工芸(殊に鋳金)の大家である。芥川が、だいきらいな犬をおっぱらうために常用していた、といわれる、とうのステッキのあたまについていた、たしか、真鍮の、鳳凰の頭は、香取が造ったものである。こういうステッキはまったく珍しいものであったから、このステッキがいかなる場所においてあっても、その近くにかならず芥川がいる事がわかった。(十数年前に或る百貨店で物故作家の遺品展覧会があった時、あのステッキが出ていたが、あれは今だれが持っているのであろう。ところで、そのステッキ物語があるが、それは後に述べることにしよう。)
 ところで、芥川は、さきに述べたような手紙を書いた日から五日後いつかのちに、小説の題材に必要な事を聞きただす、という用事だけで、塚本八洲[註―芥川の夫人の弟]に、手紙を書いているのである。つまり、芥川はその手紙の中に、

㈠明治元年五月十四日(上野戦争の前日)はやはり雨天だつたでせうか
㈡雨天でないにしてもあの時分は雨降りつづきだつたやうに書いてありますが、上野界隈の町人たちが田舎の方へ落ちるのにはどう云ふ服装をしてゐたでせう? 殊に私の知りたいのは足拵へです足駄、草鞋、結ひ付け草履、裸足、等のうちどれが一番多かつたでせう?
㈢上野界隈、今日こんにちで云へば伊藤松坂あたりから三橋へかけた町家の人々は遅くも戦争の前日には避難した事と思ひますがこれは間違ひありますまいか? 念のために伺ひたいのです皆面倒な質問ですがどうかよろしく御返事下さいかう云ふ点が判然しないと来月の小説にとりかゝれないのです
[やぶちゃん注:三月三十一日附。岩波旧全集書簡番号一〇一一。「塚本八洲」(明治三十六(一九〇三)年~昭和十九(一九四四)年)は「つかもとやしま」と読む。芥川夫人文子弟。将来を嘱望されたが、結核に罹患、生涯を闘病で送った。]

と書いて、この手紙をあてた、塚本に、「御祖母様に伺つたうへ二三日ちゅうに御返事下さい、」とたのんでいるのである。
[やぶちゃん注:「御祖母様」は山本さと。生没年未詳。]
 ここに、芥川が、「来月の小説」と書いているのは、『お富の貞操』である。そこで、『お富の貞操』を読みなおしてみると、「戸をしめ切つた家の中は勿論午過ひるすぎでもまつくらだつた。人音も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨ヽヽヽヽの音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々ときどき急に降りそそいでは、何時いつか又中空なかぞらへ遠のいて行つた、」[やぶちゃん注:「連日の雨」に「ヽ」点があるが、これは宇野によるものである。以下の傍点も同じ。]というところと、「手織木綿の一重物ヽヽヽヽヽヽヽヽに、小倉の帯しか……」というところと、「素裸足ヽヽヽに大黒傘を……」[というところぐらいが、塚本の祖母に教えられた事を使っているだけで、他はことごとく芥川の空想(あるいは創作)である。してみると、『お宮の貞操』はすぐれた小説ではないけれど、雨降りの描写や殊に猫の描写などは、さすがに、水際みずぎわだっている。(『花舞台霞猿曳はなぶたいかすみのさるひき』のなかに、「見れば見る程、くつきりと、水際の立つよい男」という文句があるが、)芥川の幾つかの小説には、まったく水際だった作品がある。
[やぶちゃん注:「大黒傘」は「だいこくがさ」と読む。番傘のこと。江戸時代に大坂の大黒屋が大黒天の印を押して売り出したことに因む。
「花舞台霞猿曳」は江戸後期の歌舞伎。四世中村重助作の所作事で、天保九(一八三八)年、江戸市村座にて初演された。狂言「靱猿」に基づく。]
 芥川の小説を、このごろ、あまりよく云わない人が多いが、(かく云う私もときどきそう思う事もあるが、)芥川のさきにも、芥川のあとにも、芥川が書いたような、水際だった小説を、(よかれあしかれ、)つくった人はないのではないか。ついでにめていえば、私がさきに述べたように、芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても、(いや、相当にあったけれども、)それを十分じゅうぶんにおぎなう、独得の、無類の、心にくいような、文学的才能は、多分に、持っていたのである。
[やぶちゃん注:最後の宇野の逆説的な謂いは分かり難い。ここは「芥川は、空想の才能はあまりなかったとしても――いや、相当にあったけれども、それを作品にあからさまに発揮することを芥川は感性として好まなかったために、空想の才能の煌めきを感じさせる芥川の作品は少ないのだが――そこに起因する種の物足りなさを十分におぎなうに足る独得の、無類の、心にくいような、稀有の『物語作家ストーリー・テラー』としての文学的才能は、多分に持っていたのである。」といった意味で私は採る。但し、私は同時代の作家たちに比べて芥川龍之介の作品に空想が欠けている、という見解には、はっきりとノーと答えることを付け加えておきたい。]

 さきにくどいほど書いた、ゴオゴリの胸像(テラコッタ)をかりに骨董とすれば、芥川は、ある人たちが考えるほど、骨董という物にさほど興味をもっていなかったように、私は、思う。ただ、芥川の身辺にある物であれば、なんでもない物が、ツマラない物でも、由緒ゆいしょありげに見え、あじわいがあるように思われたのではないか。それは、芥川よりたったふた年下とししたの、小島政二郎、佐佐木茂索、というような、なみなみならぬ利発で利口な人でさえ、芥川の事では、あとで苦笑させられたような事がしばしばあったのではないか、と、私には、臆測されるからである。それから、更に臆測をたくましゅうすれば、芥川は、骨董(あるいは、それに類した物)を、無料、ではなくても、案外、手軽に、また、俗なことをいえは、安く、手に入れていたのではないか、と思われるふしもあるからである。
 芥川が死ぬまで住んでいた家は、その頃は、東京市外田端町で、市電の動坂から行っても、省線の田端から行っても、かなり遠く、どちらから行っても、長い坂道があり、さて、やっと近くまで行けば、入り組んだ細い道で、その細い道をいくつかまがったところのかどで、その角に門があった。そうして、その門をはいって、石畳いしだたみを一けんぐらい踏んでゆくと、目のあらい格子戸こうしどのはまった入り口がある。そうして、時によると、その格子の横桟に、今の言葉でいえは、A5判より少し大きいぐらいの大きさの紙が白い紐でしばりつけてあって、その紙に、『忙中謝客』という字を、『忙 中』『謝 客』とならべて、しゃれた書体で、墨で書いてある。ところが、ちかづいて、よく見ると、その左側の『謝 客』のよこに、うすい墨色すみいろでくずした字で、「おやぢにあらずせがれなり」と書いてある。つまり、この「せがれ」を芥川龍之介とすれば、「おやぢ」は、龍之介の養父の、芥川道章であろう。これは、なんと、ちんふだではないか。しかし、これは、今、かんがえると、(いや、そのとき見ても、)おもしろき札である。しかし、また、このような『珍中ちんちゅうちん』ともいうべき札を、所もあろうに、入り口に、かけているところが、やはり、芥川であり、また、こういう光景は、芥川の小説を思わせもして、おもしろいではないか。ところで、年月としつきを経て、往事おうじを回想しながら、このような呑気のんきらしい事を書いているけれど、三十にもならないうちに鬱然たる大家になり、同時代の数多あまたのすぐれた作家のなかでもっとも花やかに見えた、芥川龍之介を、さきに述べたように、電車をおりてからかなり遠い道をあるいて、やっと、たどりついて、たずねていったところで、奥ぶかく見える家の入り口で、この『忙中謝客』の札を見れば、気のよわい文学青年なれば、(あるいは、文学青年でなくても、)おおげさにいえば、芥川龍之介という人間が、後光ごこうでもあって、奥のいんにおさまっているような人物と思われて、しばし、茫然としたであろう。
 芥川の書斎(をかねた客間)は、この入り口をはいった玄関の部屋の斜め上ぐらいのところにあった。部屋は八じょうか十畳ぐらいである。廊下からその部屋にはいると、右手に、まん中に柱があって、その柱の手前は一間と三尺ぐらいの、たしか、板ので、そのむこうに二枚のちいさな障子のはまった小窓があった。そうして、その小窓の前に、ふたつの本棚がならんでいて、その三尺ぐらいの二つの本棚には、二つともたぶんならびに、和本が横につんである。その本棚は、たしか、三段で、一ばんしただけが広かった。さて、中央の長のむかって右側は、とこであるが、この床の間は、したほうが二しゃくぐらいの高さの戸棚になっていて、そのうえは、やはり、和本らしいものが、横にならべて、五六冊か十冊ぐらいずつ、かさねてあった。が、そのなかには、ちつに入れたものなどもあり、ふるい陶器でも入れてあるらしい茶色の箱などもあった。それから、壁には、誰かの手紙か原稿からしいものを表装したものが掛けてあり、壁の隅に掛け物の巻いたのが二三本たてかけてあった。
 さて、真中まんなかの柱から五六尺はなれたところに、紫檀したんの机がすえてあって、芥川は、いつも、その机の前に、すわっていた。そうして、その机の横にちいさい長火鉢がおいてあったので、私は、芥川をたずねると、その長火鉢の横に、すわる事になっていた。
 芥川は、大正五年(かぞえどし、二十五歳の年)の秋、『芋粥』を書いて、はじめて、一枚四十銭の原稿料をとったが、それでは一人前の生活ができないので、その年の十二月に、海軍機関学校の教官になった。(その年の十二月九日ここのかに、漱石が、死んだ。)ところが、それから一年ほどのちに、六十円の月俸が百円にあがり、原稿料も一枚二円前後になったので、「これらをあはせればどうにか家計をいとなめると思ひ、前から結婚する筈だつた友だちの姪と結婚した。僕の紫檀の古机ふるづくゑはその時夏目先生の奥さんから祝つていただいたものである。机の寸法は竪三尺、横四尺、高さ一尺五寸位であらう。木の枯れてゐなかつたせゐか、いま[註―大正十五年]では板のあはなどに多少の狂ひを生じてゐる、」と、芥川が、書いている。それから、おなじ文章のなかで、芥川は、「小さい長火鉢を買つたのもやはり僕の結婚した時である。これはたつた五円だつた。しかし抽斗ひきだし具合ぐあひなどは値段よりも上等に出来できあがつてゐる、」と、述べている。これで見ると、紫檀の机は無料であり、小さき長火鉢は金五円である。いずれにしても、これだけでも、いかに、芥川が、物もちのよい男であったかが、わかるであろう。
[やぶちゃん注:以上の引用は芥川龍之介が大正十五(一九二六)年一月発行の雑誌『サンデー毎日』に掲載した「身のまはり」から。以下の複数の引用も同じ(リンク先は私のテクスト)。]
 それから、私が、芥川のところに行くと、いつも、机の上に、妙に私の目をひく物があった。それは、私のすわっている方からいえば、机の上の一ばん手前においてある、りに凝った、ペン皿である。これは、私のような無骨ぶこつな者には殆んど不用な物であるから、目に立ったのであろうが、万年筆をきらって、ふだん、ペン(Gペン)を使っていた、芥川の自慢の物らしかったからでもある。芥川は、そのペン皿について、つぎのように、書いている。

 夏目先生はペン皿のかはりに煎茶の茶箕ちやみを使つてゐられた。僕は早速その智慧を学んで、僕の家に伝はつた紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以かうい[細木香以は、幕末の江戸の一代の通人で、新橋の山城河岸の酒屋であったが、豪遊を事としたが、「年四十露に気のつく花野哉」とよんで店を継母にわたし、妻のふさと子の慶次郎をつれて、浅草の馬道の猿寺に移った。この香以の姉の子が芥川の養母である。芥川の『孤独地獄』は香以を題材にしたものであるが、森 鷗外の『細木香以』はすぐれた小説である。大方の人に一読をすすめる]の妹婿に当たる細木伊兵衛のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄先生に字を書いていただきこの茶箕の窪んだ中へ「本是山中人愛説山中話もとこれさんちゆうのひととくことをあいすさんちゆうのわ」と刻ませることにした。茶箕のそとには伊兵衛自身がいかにも素人しろうとの手につたらしい岩や水を刻んでゐる。といふと風流に聞えるが、生来しやうらい無精ぶしやうのためにほこりやインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへさかさまになつてゐるのである。
[やぶちゃん注:「茶箕」は「ちゃみ」と読み、煎茶の殻・塵を取り除く箕である(最近では靴べらのような形をした茶筒から茶葉を掬う道具を指しているが)。
「浅草の馬道の猿寺」は、鷗外の「細木香以」に書かれたものの転載であるが、「猿寺」というと現在、東京都中野区上高田にある臨済宗松源寺で、この寺は江戸期には牛込通寺町にあったものの、「浅草の馬道」ではない。識者の御教授を乞う。
「本是山中人愛説山中話」は、特にその初句を芥川は好んで揮毫した。中国の禅僧蒙庵岳の「鼓山蒙庵岳禪師四首」の一首「本是山中人 愛説山中話 五月賣松風 人間恐無價」から採ったもの。]

 この文章のはじめの方の(先生のペン皿は竹だつた。)とあるのを読むと、(僕のペン皿は紫檀ですよ、)というようにもとれない事もない。
 それから、このペン皿の前に、(ペン皿でなく、硯がおいてあったかもしれないが、なにぷん二十六七年か三十年ぐらい前の記憶であるから、記憶がアヤフヤである、)やはり、凝った硯屏けんびょうがおいてあった。この硯屏は、私のような無知な者が見ても、見事みごとなものであったが、この青磁の硯屏も、こんど、必要があって、芥川の全集をとりどりに読みかえしてみると、これも、団子坂の骨董屋で、室生犀星が、見つけてきて、「売らずに置けといつて置いたからね、二三日中にちうちにとつて来なさい。もし出かける暇がなけりや、使つかひでもなんでもやりなさい、」といったので、十五円ぐらいで、買った物である。すなわち、これでわかるように、紫檀の茶箕のペン皿は無料であり、青磁の硯屏は金十五円である。

 いつ頃の事であったか、(大正十一二年頃であったか、)広島晃甫が、突然、たずねて発て、広島の癖で、座につくと、すぐ、芥川のところに、唐の三彩の壺があるらしいが、「それを見たい、すぐ、つれて行ってくれないか、」と、いった。
[やぶちゃん注:「広島晃甫」画家。「一」で既出。]
 広島は、極端な無口で、『遠慮』という事を少しも知らぬ男として友人間に知られている程であったから、私は、もう夜の八時頃であったが、さっそく、広島をつれて、芥川を、たずねた。しかし、芥川は、こころよく、私たちをむかえて、私が広島の希望をつたえると、「ふン、」といったが、すぐ、つぎの間に行って、片手で持てるくらいの、三彩の壺を、持ってきた。
 そこで、広島は、だまって、芥川の手からその三彩の壺を、うけとり、しばらく、めつすがめつ、眺めていたが、やがて、「しッ、」といって、芥川の膝の前に、おいた。「しッ、」というのは、「しッ、」というように聞こえるので、広島は、「ありがとう、」という時も、「しっけい、」という時も、自分ではそう云っているつもりであるらしいのに、それが、人には、「あッ、」と聞こえたり、「しッ、」と聞こえたり、するのである。
ところで、芥川は、私がハラハラしているのに、それにはあまり気にとめなかったらしいが、だまって、その三彩の壺を、部屋のすみに、おいた。そうして、それから、すぐ、立ちあがって、床の間のしたの戸棚の中から、二つの軸をとりだし、まず、その一つをひろげて、壁にかかっている掛け物の上に、かけてから、芥川は、私たちの方を、(おもに広島の方を、)見ながら、「これは、どうです、」と、いった。
 ところが、それは、広島のきそうな、宗達風の、風景画であったが、広島は、こんどは、見て、首を横にふりながら、「うン、」と、いった。
すると、芥川は、ちょいと苦笑してから、すぐ、その掛け物を取りはずして、別の軸を、するすると、そのあとに、かけた。それは、さな、長方形を構にした、大きさで、殆んどその紙面いっぱいに、牛を、(牛だけを、)かいたものであったが、一と目見て、私のような者でも、「はッ、」と思っただけに、広島は、その牛の絵が見えると殆んど一しょに、うなるように、「うン、」といった。すると、芥川は、すかさず、私と広島の方を、見くらべるように、眺めながら、
「これは、いいでしょう、」といった。
「うン。」
「これは、僕が見ても、いい。」
 そこで、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、
「これは、巧芸画だよ、進呈しようか、」と、私の方をむいて、いった。
[やぶちゃん注:「巧芸画」横山大観が大塚巧藝社(創業大正八(一九一九)年)と大正中期に開発した書画の複製品。原作の可能な限りの再現を目的とし、原作と同じかそれに近い材料・素材を用いて、作業工程もある程度まで再現、プロの画家によって、同質の顔料と手彩色を施した精密複製画を言う。]
 その時、女中が、したから、菓子皿をのせた盆を持って、あがって来た。
 そこで、菓子をたべたり、煙草をすったりしながら雑談しているうちに、座がくつろいで来た。
 座がくつろぎ、気もちがくつろぐと、芥川は、しだいに、おしゃべりになった。しぜん、話がはずんでくる。その話がはずんでいるうちに、芥川が、広島に、「あなたが、五六年前の文展に出された、たしか、『夕月』という絵は、ペルシャのミニイアテュウル[註―小画あるいは豆画というほどの意味]から来たのではないか、と思いますが……」というと、広島は、例の云いしぶるような口調で、「……そ、そう、……ミニイアテュウル、……ペルシャ、……サラセン、……」と、いった。
 そこで、私が、側から、
「君は、実に物おばえのいい男だなあ、」というと、
「ふん、」というような返事をしてから、芥川は、目尻に例のうす笑いをうかべながら、「……そうだ、僕の珍蔵している物を見せようか、」と、いいのこして、したへおりて行った。
 やがて、あがって来た芥川は、こんどは、ちょいとニコニコしながら、両手で白い細長い瀬戸物の人形のような物を大事そうにかかえて、もとの座にすわると、それを、机の上に、そっと、おいた。
「まりや観音かんのんだよ。」
『まりや観音(摩利耶観音)』とは、徳川時代に、キリスト教が禁止されてから、長崎で、聖母のマリヤを、観音に見たてて、崇拝し信仰したもので、殊に長崎の丸山の遊女たちに信仰された、といわれている。ところで、ここで、芥川が、「まりや観音だよ、」といったのは、たしか、観音の像になずらえてマリヤの像にした瀬戸物で、その像には気のつかないところに十字架の形がついている。
 さて、そのマリヤ観音像を、「どうだ、」というような顔をして、芥川に、見せられた時は、私は、もとより、物に動じても殆んど顔や声にあらわさない広島も、おもわず、はっと、目を見はった。そこで、私が、
「これは、うらやましいね、」というと、
「シッケイしてきたんだよ、」と、芥川は、例のニヤニヤ笑いをしながら、しゃあしゃあとして、いった。
「ぼくも失敬しにゆこうかな。」
「もうないよ。」
 ところで、芥川の『長崎日録』を見ると、

 五月十六日
  與茂平よもへい[註―渡辺庫輔]と大音寺だいおんじ清水寺きよみずでらとうを見る。今日こんにち天晴てんせい、遙かに鯨凧くじらだこの飛揚するあり。帰途まりや観音一体を、古色すこぶる愛すべし。
[やぶちゃん注:「清水寺」正式には「せいすいじ」と読む。
「鯨凧」長崎は出島貿易の昔から凧が名物で、凧の事を「はた」と呼び、現在も四月初めの行事としてハタ揚げが競技として楽しまれる。「鯨凧」とは鯨の形をした大きな凧のことか。特に長崎の名称としては見当たらない。ただの大きな凧を言っているのかも知れない。]

とある。が、これ、また、誠にしゃあしゃあとしているかの如くに見える。
 さて、そのよる、かえり道で、広島は、例の云いしぶるような口調であるが、あの芥川の三彩は、あまりきれい過ぎるので、康熙のものではないか、と思う、康熙の物は西洋人がよろこぶけれど、……という意味の事を、私に、はなした。
[やぶちゃん注:「康熙」清の元号。西暦一六六二年から一七二二年まで。聖祖の治世に使われた。以下の「後記」は底本では全体が一字下げ。]
(後記-筑摩書房版の『芥川龍之介』(日本文学アルバム叢書のうち)の中の『手に入れたマリア観音』という題の写真の説明のうち、大正八年[註―二十八歳の年]五月と十一年五月に、彼は二度長崎に遊んでいる。そこで、永見徳太郎、渡辺庫輔くらすけ、 蒲原春夫等を知り、『日本の聖母の寺』――大浦の天主堂、 『観音』等を見物している。彼の愛蔵した『マリア観音』 は当地で渡辺と共に、「多少の冒険をおかして手に入れたもの」 とある。ところで、『マリア観音』を芥川が「多少の冒険をおかして」 手に入れたのは、大正十一年の五月に長崎に行った時のことであろう。 それは、私が、昭和二十九年の十一月中頃に長崎に行って、 渡辺庫輔の案内で、大浦の天主堂を見物に行った時、その『マリア観音』入手の顚末を渡辺に聞くと、渡辺は、例の微笑をしながら、 「……あの時、芥川さんが、あの観音さんを私に手ばやくわたしながら『クラスケ、これを……』と云って、浴衣ゆかたをきていた私のふところにじこまれていたのです……」と云ったからである。ところで、大正十一年の五月二十日の日記に「払暁ふつげう與茂平よもへい(渡辺のこと)、春夫の二人と『日本の聖母の寺』に至る、弥撤ミサの礼拝式に列せん為なり。松ヶ枝橋まつがえばしを過ぐる頃、いまだ天に星光あり、」とあるから、芥川が『マリア観音』を「シッケイ」したのは五月二十日の夜明け頃ということになる。それから、五月十五日の日記のなかに、「今日こんにち暑気盛夏の如し、」とあるから、渡辺庫輔が、私に、五月(実は二十日であるのに)に「浴衣をきていた」のが噓でないこともわかるのである。
[やぶちゃん注:「永見徳太郎」(ながみとくたろう 明治二十三(一八九〇)年~昭和二十五(一九五〇)年)は実業家・作家・美術研究家。長崎で家業の倉庫業を営みつつ、俳句・小説などを書いた。南蛮美術・写真の蒐集研究でも知られる。
「渡辺庫輔」(明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。
「蒲原春夫」(かもはら・はるお 明治三十三(一九〇〇)年~昭和三十五(一九六〇)年)は作家・郷土史研究家。長崎県出身。長崎を舞台としたキリシタン小説を発表、大正十一(一九二二)年、渡辺庫輔とともに上京、芥川に師事した。
「日本の聖母の寺」大浦天主堂のこと。
「松ヶ枝橋」大浦川の最河口に架橋する。]
 それから、おなじ本のおなじペイジの中に、芥川が、やはり、大正十一年の五月に、長崎の茶屋(『鶴の家』)に書きのこしたちょいと有名な『河童屏風』の写真が出ている。この『河童屏風』について、たしか、青野季吉が、あの銀屏風が、年月としつきを経て、銀がいくらか黒くなり、銀色が沈んでいるので、あの気味のわるい河童カッパの絵が一そう気味わるく見える、という意味のことを云った。まったく青野の云うとおり、私は、『鶴の家』であの屏風を見たとき、その凄みと気味わるさに、正視できなかった、目をおおいたくなった。あの河童は、私が見たかぎりでは、どの人がかいた河童(十数疋の河童)のどれにも似ていない、他の人のかいた河童どもはたいていなにか趣きがあり幾らかの愛敬あいきょうもあり諧謔もある。ところが、この屏風の河童には、何の趣きもなく、愛敬もなく、諧謔もない、唯ただ凄さと気味わるさがあるだけである。猶この銀屏風の、右半そうには、「橋の上ゆ胡瓜なぐれば水ひびきすなはち見ゆるかぶろ(禿)のあたま」という歌を三行に書き、その横に少しげて少し小さい字で「お若さんの為に」と書き、その横にずっと下げてもう少し小さい字で「我鬼酔筆」と書いてある。(お若とはその頃の長崎の芸者照菊の本名である。)芥川は、その時、呼ばれた茶屋にあらわれた四五人の芸者のなかで、この照菊に一ばん興味を持っていたらしい。『長崎日録』のなかで、芥川は、「戯れに照菊に与ふ、」として、『萱艸くわんぞうも咲いたばつてん別れかな』という句を照菊に寄せている。この照菊は、今は、本名の杉本わかとなり、『鶴の家』のおかみになっているが、今は五十をなかば過ぎているであろう。が、私は、去年(昭和二十九年)の秋、この人に逢ったが、今でもまず美しく、大へん失礼な言葉であるが、この人はどこか芥川未亡人に似ているところがあるようにも思われた。それから、例の『河童屏風』は、私には、一分と眺めてはいられなかった、まったく青野の云うように、無気味で、実にもの凄くて、殆んど正視できなかった。そこで、卑しいことを云うと、芥川の書いたものなら大抵ほしいけれど、この屏風は……この屏風は、今の持ち主がもし私とおなじ思いをいだいているとすれば、東京の博物館にでも納めてはどうであろう。)
[やぶちゃん注:『河童屏風』(正しくは「水虎晩帰之図」と言う)についての宇野の感想には激しく反論する(但し、誰もが観賞出来る博物館等への寄贈云々は支持するし、実際に現在は長崎歴史文化博物館の所蔵となっている)。河童は零落した神であり、本来は人の尻子玉を抜いて死に至らせる立派な恐るべき妖怪である。更に零落させられて滑稽諧謔のみに堕した河童は真の河童にあらず(芥川の「河童」の登場する連中でさえ、実は我々人間から見てひどく不気味なものとして描かれている)。――私なら喜んで言い値で買う。
「照菊」(明治二十六(一八九三)年?~昭和五十二(一九七七)年)本名、杉本わかで、「お若」とも呼ばれた。当時は丸山の待合「たつみ」の芸妓。後に置屋の女将となり、源氏名の「菊」と本名の「本」をとった料亭「菊本」では、この芥川の「水虎晩帰之図」で有名であった。「菊本」は昭和四十二(一九六七)年に廃業し、その際、屏風は寄贈された。]
 ところで、『長崎日録』は大正十一年であるが、大正十二年の『澄江堂日録』の六月六日、というところを読むと、芥川は、つぎのような事を、書いている。

 蒲原[註―蒲原春夫]君に枇杷を貰ふ。午後、永日荘浴衣えいじつさうにペルシャの古陶を観る。 価あたひ高うして購あがなふべからず。

 ところが芥川龍之介全集の月報の第四号[註―昭和三年三月]を見ると、その中に、「遺愛の一つ」として、タテ四寸三分五厘四毛というギリシャの壺の写真が出ている。もとより、写真であるから、よくわからないけれど、もし本当のギリシャの壺であるならば、まったく大たいしたものである。それに、これは、さきに書いたように、芥川の「遺愛の一つ」として、親友であった小穴が、えらんだのであるから、本物であろう。ところで、ここで、どうしても不思議なのは、芥川がはっきり「僕の家に伝はつた紫檀」のペン皿と書いているのを、小穴が、さきの月報のなかで、やはり、「遺愛の一つ」として選んで出している、ペン皿の説明に、「竹材、本是云々の文字は菅白雲さんの書であらうが、刻上きざみあげた人は僕知らぬ。故人のペン皿はこれ、」と書いている事である。それは、写真で見ても、芥川が書いているとおり、窪んだ中に、「本是云々」という菅虎雄の字が刻んであり、外には、やはり、細木伊兵衛が刻んだ、という「素人の手に成つたらしい岩や水」が刻んであるから、小穴が「遺愛の一つ」として写真で出したペン皿と、芥川が『ペン皿』という文章で書いているペン皿は、同じ物にちがいないのであるが、ちがうのは『竹』と『紫檀』であるから、これは、たいへんな違いである。(芥川の事を誰よりもよく知っている筈の小穴にも、こういうマチガイがあるのであるから、私のこの『思い出すままに』などという文章はマチガイだらけにちがいない。たびたび断るようであるが、やはり、この事をくりかえし断っておく。)

 私が芥川を訪問した度数と芥川が私をたずねて来た度数をくらべると、比較にならぬほど、芥川が私をたずねてくる度数の方が多かった。そうして、芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んど坐すわる所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である。そうして、行くのは芥川と私と二人だけである。それで、まず、その『二人だけ』の例外から書きはじめよう。それは、不忍池しのばずのいけのほとりの、『清凌亭』という小ぢんまりした日本料理店である。
 この『清凌亭』にはじめて行ったのは芥川である。一度か二度そこに行ってから、芥川は、(ひどく気の弱いところもある芥川は、)一人でゆくのがキマリわるくなる理由ができて、友だちを連れて行くようになったのである。
 私がはじめて芥川につれられて『清凌亭』に行った時、芥川のほかに、どういう連れがいたか、私は、まるで覚えていない。(芥川が、『清凌亭』に一人でゆくのがキマリわるくなったのは、そこにつとめている、十七八歳の女中が、ちょいと好きになったのである。その女中とは後の窪川いね子である。)
[やぶちゃん注:「窪川いね子」は作家佐田稲子のこと。]
 私がその上野の桜木町の家に住むようになったのは、その家の裏(その家と背中あわせ) の家に住んでいた、江口 渙の世話で、その家を借りるようになったからである。江口は、ちょっと見ると、恐こわそうな顔をしている上に、人なみはずれて声が大きいので、気の荒い人のように見えるが、その反対で、気はいたってやさしく、感情にもろい人である。それで、江口は、私よりも年としが四よっつぐらい上うえであるからでもあるが、私よりもずっと前から、菊池、芥川、久米、佐藤春夫、広島晃甫、川路柳虹、その他と、したしい友だちである。中なかでも、その頃の、江口と芥川、佐藤と江口、江口と菊池などの友情の厚さは、涙ぐましい程である。まったく『好漢』というのは江口のような人をいうのであろう。その江口が、やはり、芥川につれられて、いつのまにか、『清凌亭』に連れて行かれた事を、くわしく、『芥川龍之介とおいねさん』という文章に、書いている。
 それによると、江口は、久米正雄、菊池 寛、小島政二郎、の三人と、芥川につれられて、『清凌亭』に、行っている。それは大正九年の春である。その時、芥川は、上野展覧会を見たかえりに、江口、菊池、久米、小島、と、ぶらぶらと、上野の山を山下の方へ、あるきながら、突然、江口に、「君、これから一ひとつ好いところに連れて行ってやろうか、」と、いって、江口を、その『清凌亭』に、連れて行ったのである。
 菊池と久米は、その洗で、芥川に、すでに、何度か、『清凌亭』に、連れて行かれていたのである。
 さて、その時、窪川いね子は、前に述べたように、諺にいう『鬼も十八、番茶も出花』という、十七八歳であり、色白く、豊頰で、眉は濃く、目が大きく、鼻は尋常で、ただ口がやや大きかったが、それも、笑うと、大きな白い歯が見えるので、愛敬になった。それに、髪は銀杏いちょうがえしで、(島田の時もあった、)あらい縞しまのお召めしをき、(銘仙の時もあった、)それに黒繻子の襟をかけ、はでなお召の前垂まえだれをかけていたから、まったく下町したまちの娘であり、あどけない娘であった。
[やぶちゃん注:「お召し」は御召縮緬のこと。縦横に絹の練糸を用い、横糸に強く縒よりをかけて織った高級縮緬。縞縮緬とも。名前は第十一代将軍徳川家斉が好んで着たことに由来。
「銘仙」は、秩父・伊勢崎・足利地方で織られた先染めの平織りの絹織物。
「黒繻子」は「くろしゅす」と読む、黒光沢の繻子織(縦横五本以上からなる密度の高い、光沢の強い織物。サテン)。]
 芥川が、そういう娘のような女中に、署名した自分の本をおくった、というのは、芥川が、世をはかなく思い、みずから命を絶とうとまで考えるようになった理由の一ひとつの中なかに、芥川が不義のような事をした一人のナゾの女(前に『謎の謎子』と書いた)があった、という噂が、芥川としたしかった人たちにまで、本当のように、つたわっている。そうして、その時の元になったのは、小穴隆一の『二つの絵』のなかの『S-』という文章である。(このナゾの女は私も面識はあるが、このナゾの女については、後のちに、くわしく書くつもりである。)
[やぶちゃん注:「芥川が不義のような事をした一人のナゾの女(前に『謎の謎子』と書いた)」言わずもがな、秀しげ子のこと。]
 さて、このナゾの女は女流歌人といわれているが、私は、このナゾの女が何という雑誌に歌を出したか、を知らないから、このナゾの女の歌を、よんだ事はない。芥川がこのナゾの女にはじめて逢ったのは大正八年の六月十日で、岩野泡鳴が主宰していた、十日会に出席した時である。
[やぶちゃん注:では一つ、芥川龍之介が運命の出逢いをした頃の秀しげ子の歌を読もうではないか。大正八(一九一九)年六月『潮音』から。
並倉をてらす夕陽の光りさへ春はなまめくおもひするかも
同年七月『潮音』から。
  わりなくも涙にぬれし眼にうつるたそがれ時のほの白き壁
同年八月『潮音』から。
  はかなげに身をひそめたる昼螢たまたま光る夏草の蔭に
  朝明けの外面に近く展けたる海の青きにめざめけるかも
同年十月『潮音』から。
  月見草仄かに匂ふ夕まぐれおもひ堪へなむわが憂かも
以上は中田睦美氏の「秀しげ子の著作」に拠った。]  十日会とは、毎月十日に、万世橋の駅の二階の「みかど」という西洋料理店で、岩野泡鳴を中心として、その時分の若い作家や詩人や歌人や画家などが、集まって、雑談をする会合で、毎月十日に開かれるので、『十日会』というのである。
 芥川は、その六月十日の日録のなかに、ただ、「……十日会へ行く。始めてなり。岩野泡鳴氏と一元描写論[註―泡鳴の発明した新論]をやる、」と書いているだけであるが、その時、会場で、はじめて、ナゾの女を見かけて、すぐ傍そばにいた、おなじ十日会の会員廣津和郎[註―廣津は、芥川よりさきにこの会員になっていた]の肩をたたき、その女の方をかげで指さして、「おい、僕を紹介してくれ、」と、廣津に、たのんだのでナゾの女は、二十四五歳ぐらいであったろうか。
[やぶちゃん注:「一元描写論」岩野泡鳴が主張した小説描写論。作中に作者の視点を担う人物を必ず設定し、すべてはその人物の目を通して観察され描写されてこそ、小説は真の人生を描くことが可能となるという、田山花袋の平面描写論への反論として展開された。
「二十四五歳ぐらいであったろうか」秀しげ子は明治二十三(一八九〇)年八月二十日生まれであるから、大正八(一九一九)年六月当時は満で既に二十八歳である。以下の「廣津」の説明でも示されるように、当時の彼女は見た目、かなり若く見えた。]
 廣津は、その女を、「目鼻立ちは当り前であり、飛び抜けて美人とは云へない、いはば十人並じふにんなみの器量ではあつたが、小作こづくりからだつきはとしよりは若く見え、ぢんまりした顔の中に怜悧な目がよく動き、ちよいと上唇の出た口つきが一種魅惑的であつた、」と述べ、江口は、「……彼女は妖婦ではなかつた。フラッパアでもなかつた。又男性に対して積極的に誘惑の手を差しのべる女でもなかつた。その上いはゆる美人型の美人でもなかつた。無論きれいではあつた。だが、そのきれいさは、むしろ清楚な消極的なきれいさだつた。それでゐて、都会的に洗練されたしとやかさの中に驚くほどこまやかな魅力を多量に持つてゐた。凡そ彼女に好感を寄せる男性に対しては彼女も亦同様な好感を持つて迎へることが出来る女性であつた。その上“How to play a love scene”といふことをく理解してゐて、しかもそれをあまり露骨に演じなかつた女性であつた、」と書いている。
[やぶちゃん注:「フラッパア」フラッパーとは大正から昭和初期の、正に一九二〇年代に普及した流行語で、「お転婆娘」の意。英語の“flapper”(ばたつくもの・ばたばたする状態)が元で、既存の道徳観などに捉われない女性に対して「おてんば娘」という意味で使われた。但し、当時はボーイッシュや先進的ニュアンスよりも主に批判的軽蔑的で、不良少女の言い換えの感が強かった。
「How to play a love scene」「恋路の手解き」「恋愛処方箋」といった意味。]
 右の二人の云い方は、それぞれ、このナゾの女の特徴のようなものを、さすがに、よく現している。ところで、私は、このナゾの女は、しいて云えば、瘠せ型で、すらりとしたからだつきではあるが、私が逢った場合は、都会的なところはあるとしても垢ぬけしたところがあるようでなく、黒人くろうとじみたところがありながらやはり垢ぬけがしていない、もし魅惑的なところがあるとすれば、細い目でときどき相手の顔をジロリとうわめ目に見る事ぐらいである、しかし、それは、スイタらしいところもあればイヤらしいところもあった。
 ところで、芥川は、このナゾの女にも、やはり、署名した自分の本を、おくっているのである。
 これには、なにか、魂胆が、あるのであろうか、ないのであろうか、私には、大した魂胆はないように思われるのである。
 話はまったく変るが、もう十五六年も前の事であろうか。私ははじめて安倍能成に逢った時の事をときどき思い出すのである。安倍がまだ朝鮮の京城大学の教授をしていた頃である。その頃、安倍が、たしか、暑中休暇で東京に帰って来た時、安倍の甥の、小山おやま書店の主人の、小山久二郎に紹介してもらって、はじめて安倍に逢ったのである。
[やぶちゃん注:「小山久二郎」(ひさじろう 明治三十八(一九〇五)年-昭和五十九(一九八四)年)は岩波書店勤務後、昭和八(一九三三)年に小山書店を創立。昭和十六(一九三一)年刊の下村湖人「次郎物語」がベストセラー、昭和二十五(一九五〇)年刊の伊藤整訳「チャタレイ夫人の恋人」は猥褻文書として告発され最高裁で有罪となる。]  私(あるいは私たち)が二十歳の文学書生時代に、安倍能成は、新進の評論家として、はなばなしく、活動した。おなじ頃、阿部次郎も、やはり、新進の評論家として、もてはやされた。そうして、この二人は、ほんの少しではあるが、書くものが幾らか似ている上に、おなじ『アベ』であるから、私たちは、それを区別するために、能成の方を『アンバイ』とよび、次郎の方を『アべ』と称した。ところで、書かれている事は別にして、『アンバイ』の文章は、滋味はあるが、地味であり、『アべ』の文章は、わかりよいうえに、一種の調子がついていたので、一般には、(『三太郎の日記』などというものがあるので、)非常にうけた。が、その反対に、一部には、「能成の方が、……」というものも可なりあった。私は、もとより、『アンバイ』組の方であった。
 さて、その日の夕方、銀座の裏(つまり、西銀座)の細い町のちいさな日本料理星の二階ので、私は、小山と一しょに、安倍を、待った。その部屋は、二階の角にあって、夏の事であるから、障子などはまったくはまってなかったので、すぐそとに梯子段のり口が、見えた。
 やがて、その梯子段のしたの方から、重い足音がしてきたので、その方をうかがうと、まず、斑白はんぱくのもしゃもしゃのあたまの毛らしいものが、見えてきた。それが安倍能成であった。
 さて、その晩、その日本料理屋を出ると、安倍が、「……こんどは、僕……」といって、小山と私を、とおりかかるタクシに乗せて、日本橋の呉服橋のちかくの、かなり大きな茶屋に、案内した。とおされた二階の座敷もひろかった。長方形で十五じょうぐらいの部屋であった。
 やがて、つぎつぎと部屋にはいって来た老若の芸者たちは、みな、安倍を知っていて、「まあ、先生、しばらく、……」と、口口に、いった。それに答えて、安倍は、「やあ、」と云っただけであった。が、その声をたてない笑い顔にはなんともいえぬあじわいがあった。ただ、それだけで、安倍は、それからは、芸者たちを相手に、ぽつりぽつりと、普通の平凡な話をするだけであった。しかし、それから、しばらくすると、安倍は、さまざまの唄を、うたった。しかし、そのさまざまの唄は、安倍が、決して、一人で、うたわなかった。そのかわり、長唄でも、清元でも、常磐津ときわずでも、小唄でも、安倍は、その芸者がうたえば、(あるいは、かたれば、)一秒ほどおくれて、何でも、うたい、何でも、かたった。
 そこで、私が、あとで、「ふしぎな事をやりますね、が、実にうまいですね、」と、いうと、西洋古代中世哲学史、その他の著者であり、オイケンの『大思想家の人生観』その他の訳者である、安倍は、持ち前のゆったりした口調で、「僕は附ける[註―ひたと合わす、というほどの意味]名人です、」と、いった。
[やぶちゃん注:「オイケン」ルドルフ・クリストフ・オイケン(Rudolf Christoph Eucken, 一八四六年~一九二六年)はノーベル文学賞を受賞したドイツの哲学者。安倍訳の「大思想家の人生観」は昭和二(一九二七)年刊。]
 そうして、また、安倍は、芸者たちが、ライオン先生[註―頭の毛からつけたらしい]と呼ぼうが、何といおうが、すこしも頓著とんぢゃくせず、五十歳ぐらいの芸者とも、十六七ぐらいの舞妓とも、おなじような事を、おなじ口調で、話した。もとより、色気いろけというようなものは殆んど感じられない。
 さて、安倍は、(日本橋だけでなく、新橋、その他の芸者にも、)すこしでも知っている芸者たちに、ときどき、旅さきから、『たより』を出す事がある。そうして、変っているのは、その時はかならず芸者の本名を書く。「あの先生は、あたしたちの本名を一ペんお聞きになったら、決してお忘れにならない、」と、安倍を知っている芸者は、みんな、そういうのである。むかし来栖三郎と相愛の仲であった或る芸者が、芸者をやめて、今、名古屋のちかくの四日市で、菓子屋をしている。その四日市の元芸者が、数年前に、「安倍先生からおたよりいただきました、」と、私に、いった事がある。
[やぶちゃん注:「来栖三郎」(くるすさぶろう 明治十九(一八八六)年~昭和二十九(一九五四)年)外交官。ペルー公使やベルギー大使を歴任後、昭和十四(一九三九)年、駐ドイツ特命全権大使となり、翌年の日独伊三国同盟調印では大使として署名している。但し、実際の彼は戦争回避のための親米主張派であった。]
 ところで、かくのごとく、悪例のごとく、ながながと、安倍能成のわたくし事を、書いたのは、芥川が、むかし、『清凌亭』のおいねさんや、謎の謎子、その他に、署名した自分の本を、おくったのは、安倍能成が、ときどき、芸者に、『たより』を出すのと、形はちがうが、ちょいと同じような種類のものではないであろうか、と、ふと、思ったからである。
 また、余談であるが、ある時、辰野 隆が、私に、なにかの話のついでに、「安倍能成は男に惚れられるところがあるねえ……」と。いった。

     


 前に「芥川は、私をたずねてくると、二分の一か三分の一ぐらいの割りで、私をつれだして、私をどこかへ案内した。そうして、芥川と私と一しょに行ったのは殆んどすわる所であり、そのすわる所の三分の二はたべ物屋である、」と書いたが、それはすこしまちがいで、十分の六ぐらいがたべ物屋で、十分の四ぐらいは特別の家であった、と訂正しておく。
 さて、ある日、芥川は、上野の公園をおりて、『山下やました』と云われるところの、今の永藤ながふじパン屋のあるへんの、一間半けんはんぐらいの間口まぐちの牛肉屋に、私を案内した。一間半ぐらいの狭い間口で、たしか、三階てであったから、その家は、両側の家から挾まれ押しつけられて、ほそったように見えた。
[やぶちゃん注:「永藤パン屋」上野広小路にあったパン屋。創業大正元(一九一二)年。惜しくも二〇〇一年に閉店し、現在は「永藤ビル」が建つ。]
 芥川は、その家にはいる前に、ちょっと立ちどまって、例の独得の微笑を頰にうかべながら、「どうだ、おもしろいうちだろう、」と、自慢するように、云った。それから、その家の二階の座敷におちつくと、芥川は、「この内は、東京で一番うまい肉屋だよ。……それから、このうちは、この四じょう半の部屋が大きいほうで、ほかには四畳半と三畳しかないんだよ、……おもしろいだろう、」と、また、自慢するように云って、にやにや笑った。(しかし、私は、その肉屋が、はたして、東京一のうまいうちかどうか、疑わしく思った、そうして、芥川は、むしろ、この細長い家に芥川流の興味をもっているのではないか、と思った。)
 その細長い家の牛屋に行ってから半月はんつきほどのち、芥川は、こんどは、「今日きょうは、鰻を、くいに行こう、」と云って、京橋で電車をおりて、左の方へあるきした。そうして、あるきながら、「これから行く『小松』(たしか『小松』と云った)という鰻屋は、東京で一番うまいうちだが、長いあいだ待たすのでも、有名なんだ、だから、僕は、一人ひとりでゆく時は、本をよんで待っているんだ、……本をよんで鰻の焼けるのを待っているんだよ、きみ……この前ひとりで行った時は君のすきな、アアサア・シモンズの“ Studies スタッデイイズin インSeven セブンArtsアアツ”を持って行ったんだが、あの本のなかで一ばん長い『リヒヤルト・ワグネルの観念』を読んでしまっても、まだ鰻を持ってこないんだ、それで、そのつぎに長い『ロダン』を読んでいると、『ロダン』を半分ぐらい読んでいる時に、やっと持って来たよ、……君、『ワグネル』は八十ペイジぐらいで、『ロダン』は三十ペイジぐらいだから、百十五ペイジぶんぐらい待たされた事になるんだ、……君、そのくらいの覚悟をしなければ、今日きょうの鰻は食えないんだから、今から覚悟をしときたまえごと、云った。『小松』は、しもた屋のような、地味じみかまえの、ちいさな、家であった。その『小松』の二階の小さな座敷で、鰻の焼けてくるのを待っているあいだに、私が、シモンズの、詩は、もとより、文芸評論を、このんで、読んでいるのに、いくらか反感を持っていた芥川が、持ち前のからかう気もちもあって、「……僕は、シモンズの、『シンボリスト・ムウヴメント』も、『ロマンティック・ムウヴメント』も、おもしろいとは思うけれど、あの気取ったような文章が気になるし、……」と云った。「かりに気どっているとしても、さすがにああいう詩を作った人だけに、あの文章はうまいじゃないか、……それに、流暢だし、……」と私がいうと、芥川は、それには答えないで、「……『フィギュアアズ・セヴュラル・センテュリイズ』の中にはいっているものでも、おもしろいのもあるけど、呆気あっけないのが随分すいぶんあるじゃないか、……それに、すこし穏健すぎるところもある、……」と、云った。「しかし、『ヸョン』を「ヸヨンは最初のモダン・ポエトであった、」などというのは、論の当否は別として、穏健どころか、ずいぶん思いきった論法じゃないか。」「しかし、あのほんの中では僕は、『エレオノラ・デュウゼ』を取るね。」「あれは、あの本じゃないよ、『セブン・アアツ』の中だ、……あれは、おもしろいが、君ごのみだね、……、……君はデュウゼみたいな女優がすきだろう。……もっとも、僕も、サラ・ベルナアルより、デュウゼのほうがすきだな、ダンヌンチヨが夢中になったのも、無理はない、と思うね。」(後記――『小松』は『小満津』か。)
[やぶちゃん注:「アアサア・シモンズ」アーサー・ウィリアム・シモンズ(Arthur William Symons 一八六五年~一九四五年)はイギリスの詩人・文芸批評家・雑誌編集者。以下、ウィキの「アーサー・シモンズ」から引用する(数字を漢数字化した)。『十七歳でロバート・ブラウニング作品批評を』『発表、ブラウニング協会の会員とな』り、一八八〇~一八九〇年代には『時代を代表する複数の文芸雑誌に文学、舞台、美術、音楽と多岐にわたる芸術分野に関する批評、エッセイを執筆する一方』、“Days and Nights”(一八八九年)、“Silhouettes”(一八九二)、“London Nights”(一八九七)といった『詩集もたてつづけに発表している』。一八九六年には『文芸編集シモンズ、美術編集オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley)という組み合わせで、芸術と文学の融合を目指した定期刊行物The Savoyを発行』、『その斬新かつ国際色豊かな執筆陣と内容は「前衛的な」と呼ぶにふさわしい内容であった』。『一八九九年、文芸批評代表作のひとつThe Symbolist Movement in Literature』(「象徴主義の文学運動」)を発表、これは『フランス、ベルギーですでに萌芽していた新しい文学運動をいち早く英語圏に紹介した批評集として』、エリオット、エズラ・パウンド、ジョイスといった『二十世紀のモダニズム作家達にも多大な影響を与えた』。『日本でも大正期の象徴派詩人に多大な影響を与えたことで知られる』。本邦での最初の邦訳は岩野泡鳴訳の「表象派の文学運動」(大正二(一九一三)年)であった。『ジプシーの生活に憧れ、外国語に堪能で旅を愛したシモンズは、数多くの旅行記も発表して』おり、“Cities”(一九〇三年)、この芥川との会話の中にも登場する“Cities in Italy”(一九〇七)などがある。『印象派詩人と評されることの多いシモンズらしい、眼に映る光景を個人の心象風景とともに色鮮やかに綴るスタイルは、同時に文学や美術の批評家としての側面も伺える独自の魅力を有している』。
「ヸョン」は十五世紀フランスの放蕩詩人フランソワ・ヴィヨン(François Villon 一四三一年?~一四六三年以後?)中世最大の詩人にしてシモンズの言うように最初の近代詩人とも称される。
「エレオノラ・デュウゼ」はイタリアの舞台女優エレオノーラ・ドゥーゼ(Eleonora Duse 、一八五八年~一九二四年)。ダンヌンツィオの戯曲やサラ・ベルナールの当たり役をイタリア語で演じてひのき舞台に出る。以下のウィキの「エレオノーラ・ドゥーゼ」によると(アラビア数字を漢数字に変更した)、『一八九五年に彼女はダヌンツィオの元を訪れ、共働して仕事に取り組んでゆくうちに二人のあいだにはロマンスが芽生えていった。しかし、ダヌンツィオが『死都』 ("La Città morta") の主役をドゥーゼではなくサラ・ベルナールに与えたため二人は猛烈な大喧嘩をし、ドゥーゼはダヌンツィオとの関係に終止符を打った。ダヌンツィオが彼女のために書いた戯曲は四本残された』。『名声が高まりゆくのを歓迎したサラ・ベルナールの外交的な性格とは対照的に、ドゥーゼは内向的かつ個人主義的で、芸術家肌の演技によってしか自己を語ろうとはしなかった。この好対照の二人は、長年にわたるライバルであった。この二人がロンドンで数日と間を置かずに同じ戯曲を上演したことがあるが、両方を観劇する機会を得た人物の一人にバーナード・ショーがいる。ショーはドゥーゼの方を高く買い、伝記作家のF. Winwarにも引用された断固たる賛辞を曲げなかった』。『ドゥーゼの伝記作家F. Winwarは、ドゥーゼはほとんど化粧をしなかったが「道徳的な装いをまとっていた。言い換えれば、自分の性格に潜む内的な衝動や悲しみや喜びが、自分の体を表現のための媒体として用いるがままにさせておき、それはしばしば彼女自身の健康を損なうほどであった」』と記している。『感情を伝達するために既成の表現法を用いていたそれまでの俳優に対して、ドゥーゼは先駆者として新しい表現を生み出した。彼女が「自己の滅却」と呼んでいた技法で、自分の描き出そうとする登場人物の内面に心を通じ合わせ、表現を自ずから湧き起こらせるというもので』、『一九〇九年に一度引退しているが、一九二一年にはアメリカとヨーロッパで契約を結んで舞台に復帰している』。後掲される南部修太郎と秀しげ子の邂逅事件大正十(一九二一)年九月二十四日よりも優位に後であることが判っているから、この会話時、デユウゼはカム・バックしていた。
「サラ・ベルナアル」サラ・ベルナール(Sarah Bernhardt 一八四四年~一九二三年)はフランスの舞台女優。ウィキの「サラ・ベルナール」によれば(アラビア数字を漢数字に変更した)。一八六二年に満二二歳でデビュー『一八七〇年代にヨーロッパの舞台で名声を得ると、間もなく需要の多い全ヨーロッパとアメリカでも名声を得た。彼女は間もなく真面目な演劇の女優としての才能も現し、「聖なるサラ」との名を博した。恐らくは十九世紀の最も有名な女優』と言える。『一九一四年、レジオンドヌール勲章を授与され』たが、一九〇五年に上演中の舞台で右脚を負傷、一九一五年には『右脚を切断し、数ヶ月の間車椅子に座ったままだった。それでも彼女は、木製の義足を必要としたにもかかわらず、仕事を続けた』という。
「ダンヌンチヨ」ガブリエーレ・ダンヌンツィオ(Gabriele D'Annunzio 1863年~1938年)はイタリアの詩人・作家・劇作家。彼の文学は『その高い独創性、力強さおよびデカダンスが高く評価されていたし、同時代の全ヨーロッパ文壇、また後世のイタリア作家たちに多大の影響を与えた』が、国家主義者としてイタリア・ファシスト運動の先駆者でもあったため、彼の世紀末の印象的な『作品群は現在では忘れ去られつつある感がある』(引用は参考にしたウィキの「ガブリエーレ・ダンヌンツィオ」より)。
「小満津」が正しい。食通大路魯山人の「魯山人の食卓」に鰻の上手い店の一つとして紹介されている。京橋にあったが後に閉店、ブランクを経て、現在、高円寺に場所を変えて再開している。]

 ふしぎな事に、私は、芥川に本を借りた事は一度もないが、めずらしく、私が芥川に本を貸した事がある。それは、ある日、芥川が、私のうちに来た時、「……君、シモンズの、なんとかいう、イタリイの紀行文のようなものと、パリのなんとかいう随筆か評論のようなものがあったね、あれを、持ってる、持ってたら、貸してくれないか、」と云ったからである。『イタリイの紀行文のようなもの』とは“City of Italy”のことであり、『パリのなんとか』とは、“Colour Studies in Paris”のことである。そうして、『パリの……』の中には、『モンマルトゥルとラティン区』とか『パリとパウル・ヴェルレエヌの覚書おぼえがき』とか、いう文章がはいっている筈なので、私は、この二冊の本を貸す時、「これも、おもしろいから、読んでみたまい、」と云って、ヴァンス・トムソンの“French Portraits”を添えた。この本には、マラルメ、ヴェルレエヌ、カテュウル・マンデス、ジャン・モレアス、レニエ、メリル、その他のフランスの詩人のほかに、ベルギイの、ヴェルハアレン、マアテルリンク、ロオデンハッハ、その他の詩人たちの事を、それらの詩人の詩を引用しながら、おもしろおかしく、書いてあるからである。
 ところで、芥川は、それから数日後に、それらの三冊の本をかえしに来て、「君のいうとおり、みなおもしろかったが、僕には『マウリス・バレスと利己主義』が一番おもしろかった、それから、あの本の中にある、いろいろな詩人をかいた、ヴァロットンの漫画のうまいのにはおどろいたな、ちょいと通俗味のあるのが気になるが、……」と云った。「……僕は、やっぱり、はじめのほうの『ヴェルレエヌの印象』と『ステファン・マラルメ』が圧巻だと思う、」と私は云った。
 ところが、それからつきほど後、芥川は、私をたずねて来て、いつものように、文学談をしきりしてから、「君、出ないか、」と云った。そこで、おもてに出ると、芥川は、電車の停留場の方へあるく道で、「今日きょうはうまい日本料理を食おうか、」と半分ひとりごとのようにいって、その日は、日本橋の『中華亭』という贅沢ぜいたくな日本料理屋に、私を、案内した。
電車をおりた時はすでに日が暮れていた。白木屋の横の狭い露地ろじをはいった時、私は、両側にさまざまなたべ物屋がならんでいるのを見て、ははあ、ここが有名な『食傷新道しょくしょうじんみち』だな、とさとった。私より一歩いっぽばかりきをあるいていた芥川は、その食傷新道の中程の右側の、墨で『中華亭』と書いた行燈の出ている家のなかに、さっさと、はいって行った。
 さて、その『中華亭』の二階の座敷で、二人が、高級の日本科理をたべながら、なにかの話に夢中むちゅうになっていた最中さいちゅうに芥川が、突然、
 「きみ、トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ、」と、云った。
 これは、ヴァンス・トムソンという、日本ではまったく無名の、名を忘れてしまっていた時分であるから、私は、はじめ、ちょっとなんの事かわからなかったが、すぐ、トムソンは私のふだん愛読している『フレンチ・ポオトレエツ』の著者であることに気がついて、なんともいえぬイヤアな気した。が、すぐ例の芥川の『いやがらせ』だ、と気がついたので、またかとは思ったけれど、私は、咄嗟に、
「それは、ちがう、同名異人だよ、」と、すこし強い調子で、いった。
すると、芥川は、私がはじめて見る、きまりのわるそうな、しょげた、顏をして、それには答えずに、聞きとれないような低い声で、
「どうも、このうちは、僕には、鬼門きもん』だ、」と、云った。

[やぶちゃん注:「ヴァンス・トムソン」ヴァンス・トンプソン(Vance Thompson 一八六三年~一九二五年)はアメリカの文芸評論家・小説家・詩人。一九〇〇年に刊行された“French Portraits: Being Appreciations of the Writers of Young France”はヨーロッパ・サンボリスムを解析した彼の代表的な評論。
「カテュウル・マンデス」カチュール・マンデス(Catulle Mendès 一八四一年~一九〇九年)はフランスの詩人・評論家。フランス初期のワグネリアンの一人として知られ、バイエルン王ルートヴィヒ二世とワーグナーを描いた長編小説“Le Roi vierge”(「童貞王」)』(一八八〇年)がある。
「ジャン・モレアス」(Jean Moréas 一八五六年~一九一〇年)、一八八六年に“Le Symbolisme”(「象徴主義宣言」)を起草した詩人。上田敏の「海潮音」に「かぞへうた」が載る。
「メリル」スチュアート・メリル(Stuart Merrill 一八六三年~一九一五年)はアメリカ出身の詩人。一八九〇年よりフランスに移ってサンボリスムの理論家の一人となる。代表作に“Pastels in prose”(「散文によるパステル画」一八九〇年刊)、“Les Quatres Saisons”(「四季」一九〇〇年刊)。
「ヴェルハアレン」エミール・ベルハーレン(Émile Verhaeren 一八五五年~一九一六年)はフランス語で執筆活動をしたベルギーの詩人。当初はフランドルの自然を讃えた自然主義的抒情詩を創っていたが、一八八八年から九〇年にかけて出版した「夕暮」「壊滅」「黒い炬火たいまつ」の三部作の詩集では死と幻想のサンボリスムへと沈潜した。後には社会主義的傾向へと傾いた。
「ロオデンハッハ」ジョルジュ・ローデンバッハ(Georges Rodenbach 一八五五年~一八九八年)はベルギーの詩人・小説家。私の愛読書である幻想文学の金字塔「死都ブリュージュ」の作者。
「マウリス・バレス」モーリス・バレス(Maurice Barrès 一八六二年~一九二三年)はフランスの小説家・ジャーナリスト。ウィキの「モーリス・バレス」によれば、『ナショナリズムや反ユダヤ主義などの視点による政治的発言でも知られ、フランスにおけるファシズムの思想形成に大きな役割を果たした』とあり、『政治思想では対照的なアナトール・フランスと人気を競』って、二十世紀前半のフランス知識人階級に影響を与える。代表作は観念小説三部作「自我礼拝」であるが、『日本では政治的立場の為か訳書が少なく、人気は余りない』とある。
「ヴァロットン」は恐らくスイス生まれの画家フェリックス・ヴァロトン(Felix Vallotton 一八六五年~一九二五年)。一八八二年にパリに出、ナビ派の一員と目されるようになる。一八九〇年の日本版画展に触発され、大画面モノクロームの木版画を手掛けるようになる。一九〇〇年にフランスに帰化した。ルナールの「にんじん」の印象的な挿絵は彼が描いている(リンク先は私のテクストでヴァロトンの挿絵もある)。
「中華亭」不詳。日本料理でこの名前、識者の御教授を乞う。
「食傷新道」現在の日本橋区通一丁目附近、今は完全な高層ビル街に変貌して往時の印象は全くない。前注に記した白木屋は後に東急百貨店となり、更にその跡地に現在はコレド日本橋ビルがある。このコレドと左側にある西川ビルの間の今や何の変哲もない細い通りが、「白木屋の横町」「木原店」と呼ばれ、左右共に美味の評判高い小飲食店が目白押しに建ち並んでいた。ここは江戸時代、文字通り通一丁目として、江戸で最も繁華な場所で、明治のこの頃は未だその面影が残っており、東京一の飲食店街として浅草上野よりも知られた通りであった。俗に「食傷通り」、ここで宇野が言うように「食傷新道」などとも呼ばれた。
「トムソンは『養鷄法』の本を出しているよ」確認は出来なかったが、ヴァンス・トンプソンの英語版のウィキを見ると、食生活関連の叙述を残していることが知られており、彼がこうした著作を書いていないとは言えない。
「どうも、この家は、僕には、『鬼門』だ」は、次の段で明らかになる。]


…‥さて帰り支度をして梯子段をおり、芥川が便所の方に行きかけると、意外にも階下の廊下でむかうから女をつれて、これも食事ををへて玄関の方へ出て来たのは南部修太郎で、しかも同伴の女性は、芥川の情人Hだつた。
[やぶちゃん注:「H」は秀しげ子。私の推測であるが、実質上はこの時には芥川はしげ子を既に嫌悪しており、少なくとも芥川の方からの積極的な不倫関係は疎遠になっていたものと思われる。]

 これは村松梢風の『芥川龍之介』のなかの一節であり、この食事をしたところは『中華亭』である。
 ここに村松が『H』であらわしている女性を、小穴は、『S』として、つぎのように書いている。

 S。高利貸の娘、芸者の娘、劇場の電気技師の妻、閨秀歌人、これが彼女の黒色影像シルエットであつた。
……さうしてただ一葉いちえふの書簡箋の数行のなかに、確かに、(南部修太郎と一人ひとりひとSを自分自身では全くその事を知らずして××してゐた。それを恥ぢて自決をする。)と読んだのではあるが、(此の自分にわたされた遺書で最初のものは後に彼にかへした。)次ぎに、南部修太郎が消えて宇野浩二の名が現れてゐた、と書かうとする自分には、非常な錯覚による支障をもたらすのである。
――ここに、二つの話が死者によつて僕に残されてゐる。(昔、宇野と一緒に諏訪に行つてゐた時である。)「一日いちにち、宇野の机の上に見覚えのある手紙があつたので、自分はそれをいまだに恥づかしい事には思つてゐるのだが、それをそつとけてみたら、実にたがはず、その筆者がSであつて、Sと宇野の間のことを、はじめて自分はその時知つて非常に驚いた。君、Sはそのやうな女なんだ。」以下省略。
[やぶちゃん注:最後の「以下省略」は宇野の記載。]

 これと同じような事を、村松も、『芥川龍之介』のなかで、つぎのように述べている。

……諏訪は宇野の第二の故郷みたいな土地だつた。その土地にゐた間に、ある日、宇野の下宿で彼の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があるのを見てけてみると、筆者はHだつた。Hは宇野とも関係があつたのだ。この時は流石の芥川も憮然となつた。このやうな放浪癖を有するHではあつたが、Hが生んだ男の子は甚だしく芥川に似てゐたので、最後まで彼は此の事を悩みの種にしてゐたといふ事だ。

 この村松の文章は小穴の文章から取ったものにちがいないが、その小穴の文章が、さきに引いたものだけでもわかるように、晦渋で、妙に気を持たせるようなところがある。それに、この謎の女と私とが関係があったなどという事はまったくマチガイであり、また、私はこの謎の女から手紙などもらった事は一度もない。それから、小穴の文章にあるように、もし芥川が本当に「宇野の机の上に見覚えのある筆蹟の手紙があつた」と云ったのなら、私は、かりに芥川が生きているとしたら、その芥川に、「いくら君が人をからかう事に興味をもっているにしても、君を信頼している小穴に、あんなつくごとをいうのは、あんまりひどいじゃないか、」となじりたい。
 その芥川の云った事をにうけて、小穴は、芥川の思い出を述べた『二つの絵』という文章のなかで、『S女史』について十ペイジ以上も書いているので、この二三年のあいだに、このS女の事を、滝井孝作が、『純潔』という小説のなかで、S夫人という名で書き、廣津和郎が、『彼女』という小説に、彼女という代名詞で、S女史の若い時分の事を書き、村松梢風が、さきに述ベた、『芥川籠之介』のなかで、Hという名で書いている。そこへ、私が、この文章のなかで、謎の女という事にして、S女史らしいものをちょいと書いた。そこで、そのS女史が、私と、偶然、町で逢った時、それらの小説の話などをして、私に、こぼした。
[やぶちゃん注:「滝井孝作が、『純潔』という小説のなかで、S夫人という名で書き」とは、『改造』昭和二十六(一九五一)年一月号に発表した作品。
「廣津和郎が、『彼女』という小説に、彼女という代名詞で、S女史の若い時分の事を書き」とは、『小説新潮』昭和二十五(一九五〇)年五月号に発表した作品。]
 そこで、私が、そのS女史といわれる女の人に、「……そういえば、僕は、あなたとあまりおいをした事はない、だから、あなたから手紙などもらった事はないでしょう、」と云うと、相手の女は、「……あたしも書いたおばえはございませんが、なんでも、あたしの名で、鍋井さんがお出しになった、と……」と云った。
 これには私もあいた口がふさがらなかった、鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男であるからである。
 そこで、「この文章をよむ人よ、」と私は云う、芥川に関する事は、小穴のような聡明なる人が書いても、村松のごとき賢明なる伝記者が述べても、このような、はなはだしい、マチガイがあるのであるから、私のごとき鈍物どんぶつが述べる事は、(引用文のほかは、)ことごとくマチガイにちがいない、よって、「この文章をよむ人よ、私が、これまでだらだらと述べてきた事も、これから述べる事も、マチガイだらけにちがいないですから、了承するとともに、なにとぞ、御容赦ごようしゃねがいあげます。」
[やぶちゃん注:「あたしの名で、鍋井さんがお出しになった」という秀しげ子の証言の意味が分からない。「鍋井」は前出の洋画家鍋井克之であり、宇野は「鍋井は、芥川に一度も逢った事がない筈であり、また、かりに親友からこういう手紙の代筆など頼まれても、絶対に書かない男」だと言い、ではその鍋井が『しげ子の名を騙って宇野に手紙を出した意図』は何なのか、翻って見れば『宇野は何故、その詐称された手紙を貰った記憶がないのか』(但しこれは、宇野がその後に重い精神病に罹患した事実による記憶の欠落という説明は可能ではある)、そもそもこの時、『このしげ子の告白を聞いた宇野はそれをどう解釈したのか、宇野にとって全くの解釈不能なら、なぜ、しげ子にそこを突っ込んで聞かなかったのか』さえも示されていない。況や、宇野はしげ子との冤罪の一件に対して(断っておくが「しげ子」に対してではなく、あくまでこの小穴を震源地とすると断定してよい宇野の受けたとばっちりに対してである)憤慨しているにも拘わらず、『どうしてそこで突っ込んで語らないのか?』というところで、この宇野の文章でさえ――正しく「謎の謎」――ではないか、ということなのである。]

 さきに、芥川が私を案内した所は、たべ物屋が六分で特別な所が四分、と書いたが、その『特別な所』とは、その頃、芥川ばかりでなく、多くの物ずきな人が、それからそれと、聞きつたえ、云いつたえ、して、そっと、出かけて行った、かくれた家である。
 いつの世にも、『ものずきな人』と、いう者は数多あまたあるものである。されば、『西鶴俗つれづれ』の中にも、「さりとは至りたる物ずき」という文句があり、『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句があるのである。
[やぶちゃん注:「西鶴俗つれづれ」は、西鶴の死後二年後の元禄八(一六九五)年版行の遺稿集。
「『狭衣物語』のなかにも、「いと花やかに物ごのみしたまふ御本性にて」というような文句がある」は「狭衣物語」巻三の冒頭部、洞院の上が、自分の老後の不安もあり、養女今姫君の入内を、夫の堀川の関白大殿おほいどのに依頼する段に現れる。
まこと、かの大殿御方にかしづかれ給ふ今姫君は、二十にもややあまり給ふままに、いとをかしけげにねびまさり給ふを、母上いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて、齋宮いつきのみやの御ありさま見たてまつり給ふもいとうらやしく、行すゑの心細さも年月にそえてはおぼししらるれば、「この君をかくまで取り寄せつとなららば、おなじくは人なみなみにもてなして、かくさまざまにもてかしづきたまふ御方々のくさはひにもせむかし」など、せちに「人に劣らじ」の御心おきてにて、内裏うち參りのことなどおぼしよりにけり。
洞院の上は「いとはなやかに物このみし給ふ御本性にて」(何事にも派手好みであられて何より目立つことのお好きな性質たちであらせられたによって)の意。「齋宮」は狭衣の母。「くさはひ」は「種輩」か。同じ仲間。洞院の負けず嫌いで派手好みな性格が示されるところである。]
 芥川は、この、「至りたる物ずき」の一人ひとりであった。
私が芥川につれて行かれた『かくれた家』は、下谷の西町の閻魔堂の前の露地の中にもあり、本郷の根津権現神社の境内の炭薪屋であり、小石川の伝通院のちかくの裏町のしもた屋であり、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にもあり、その他、いたる所にあった。
[やぶちゃん注:「下谷の西町の閻魔堂」は現在の東上野から下谷辺りにあった旧地名に下谷西町がある。ここにはかつて天台宗薬王山善養寺があり、この寺の閻魔像が江戸の三大閻魔の一つに数えられたことからこう称したが、寺地が鉄道用地となったために、大正三(一九一四)年に寺は西巣鴨に移転している。これはその後のことと思われる。]
 ある日、ある時、芥川と一しょに町をあるいていると、突然、芥川が、「君、僕のゆく所へつきあってくれないか、」と私に云った。「どこだ。」「だから、今いったじゃないか、僕のゆく所だよ。」
 そこで、私は、だまって、芥川より半歩はんぽぐらいおくれて、芥川とおなじように、早足であるいた。こういう時は、ふだんおしゃべりの芥川が、おうしのように無口になった。
 御徒町おかちまちの交叉点を横ぎって、すでに日のくれた、うすぐらい、ごみごみした、町を、横町よこちょうから横町へと、早足にあるきながら、私は、ふと、芥川という男は、ふしぎな男である、が、また、至極しごくおもしろい男であると思った。そうして、ときどき、道ゆくあらくれた人にきあたられたり、方方ほうぼうくさやの乾物ひものを焼いている臭いになやまされたり、しながら、いつか、芥川の気もちと私の気もちはひとつになってしまったようであった。
 が、やがて、芥川が、ふるびた閻魔堂の前で立ちどまり、ちょいと小首こくびをひねってから、すぐ私のほうにむかって、腭をふってをしてから、そのかいの、やはり、ふるびた格子づくりの家のなかに、つかつかと、はいって行ったので、私は、なにか、勝手かってがちがうような気がした。が、仕方しかたないので、芥川のうしろからなかにはいると、「ごめんください、」と云う芥川の声で奥から出てきた六十あまりの老婆が、芥川の顔を見るなり、「まあ、どうなすったんです、ずいぶん、お見かぎりですねえ、」と云った。
 これが芥川が『特別の家』につれて行ったはじめである。特別の家とは、いろいろな女が、呼ばれると、ごく内証ないしょうで、内証の『ハタラキ』をするために、そっとる家の事である。
[やぶちゃん注:これは所謂、「隠し町」、私娼窟である。因みに、江戸の下谷や浅草は天明(一七八一~一七八九)の末まで素人風の最下級の私娼がいた場所として知られ、彼女たちは「蹴転ばし」「けころ」と呼ばれた。]
 私は、もちろん、この老婆の顔つきと言葉によって、すぐ「ははアン、」と、さとった。
 ところで、私などをこういう『特別の家』に案内するのはよいとして、先日、ある会で、こういう芥川の『物ずき』の話がさかんに出て、その時、その席にいた、芥川を尊敬している、佐佐木茂索が、若年の頃、四谷の荒木町のちかくの谷底のような町の中にある『特別の家』に連れて行かれかかった、という話をしたので、たまげたことがあった。
 ある日、ひるすぎに、佐佐木が芥川のあとから、四谷の或る停留所で、電車をおりて、一町ちょうほどあるいて行くと、むこうから吉井 勇、里見 弴、田中 純[註―大正八九年頃、吉井、里見、久米、田中の、四人で、「人間」という同人誌を出した後に、同人以外の人の作品ものせるようになった。すなわちこれは「人間」の同人たちである。]の三人があるいて来たので、芥川が、「やあ、」と声をかけた、すると、その三人のうちの一人が、「君たちは、これから、『あそこ』へ行くんだろう、おれたちは『あそこ』からの帰りだよ、」と云った。それを聞いた温厚で内気であった、佐佐木は、かすかに感づいていた事ではあったが、びつくり仰天した、そこで、目的の『特別の家』に行くのに細い道をいくつもまがったので、その幾つ目かのまがり角で、佐佐木は「三十六けい逃ぐるにかず」と、芥川を、いたのである。(「逃ぐべき時に逃ぐるが、兵法ちゅう、第一の上策なり」という事を三十になるやならずで心得ていたからこそ、佐佐木は、今日こんにちだいをなしたのである。)

 大正十一年の春の頃であったか、私が、ある日、省線の牛込見附の駅で、ほそい腰かけに腰をかけて、電車のくるのを待っていると、すぐそばに腰をかけていた、いちょう返しの若い女が、膝の上にひろげて読んでいる本が、なんと、ストリンドベルヒの、『痴人の告白』であったから、私は、はっと驚いて、その女の横顔を見ると、その女は、川路歌子であったから、思わず、「あッ、」と、声をたてた。すると、その声に、歌子も、目をまるくして私のほうを見て、「まあ、」とちいさい声で、叫んだ。
 私がはじめて川路歌子を知ったのは、川路歌子が、たしか、美術劇場[註―大正四五年頃、秋田雨雀、楠山正雄を看板にして、鍋井克之、その他の美術学生がおこした新劇団で、高田 保も片岡鉄兵も関係した]で、秋田雨雀の『うもれた春』[ウェデキントの『春の目ざめ』風のものである]に、少女の役で、出た時であった。その頃、誰かが、私に、「あの女優は、若いけれど、おもしろいところがあるよ、川路柳虹をすきになったので、『川路』という名にした、という話だから、」と、云った。
 その次ぎに、私が、歌子に逢ったのは、たしか、大正四年の十二月の中頃、西片町に住んでいた時分で、ある晩、今の兵科大学の前のへんをあるいていた時、歌子が佐藤春夫と所帯道具をわけあって持ちながらあるいて来た時である。そうして、その時、私は、佐藤に誘われるままに、追分に近い東片町の露地の中にあった佐藤の新居に、行った。その時、春夫と歌子が話した事を、私は、ふしぎに、いろいろ覚えているが、そのなかひとつだけをここに書くと、歌子が、なにかの話のついでに、「あたし、川でも、溝でも、水を見ると、おしっこをしたくなる、」と、云った事である。私が、わざわざ、こういう尾籠びろうな話を書いたのは、この言葉は、「生きている」と思ったからである。(この歌子は、佐藤の傑作であり、大正の文学の中の傑作である、『田園の憂鬱』の女主人公、E・Y女史である。)
[やぶちゃん注:「西片町」「追分」「東片町」すべて現在の文京区駒込の旧町名。]
 さて、私が、この歌子と、牛込見附のプラットフォオムの腰かけで、逢ったのは、前に述べたように、大正十一年の春の頃であるから、歌子が二十四五歳の時分であろう。その時、私が、「ずいぶんしばらく……今、なにをしているの、」と聞くと、歌子は、その私の言葉がおわらぬうちに、「芝浦で芸者をしています、」と、云った。
 その歌子に偶然あった事を、四五日後に、芥川に逢った時、はなすと、芥川は、すぐ、「君、そのうち、芝浦へ行こうか、」と、云った。
 そうして、それから、また、四五日のちに芥川は、私をたずねて来て、座につくと、いきなり、(ほかのことはなにもいわないで、)「これから、芝浦に行こう、」と、云った。
 ところが、芝浦の或る茶屋にあがって、出てきた女中に、こうこういう芸者がいないか、いたら、呼んでくれ、と云うと、その話はすぐ女中に通じたが、女中は、「その人なら、おりますけど、毎晩、大酒をのんで、いつも、ぐでんぐでんに酔っています、……それに、二三日前から、あたまが痛いと云って休んでいます、」と、云った。
 そこで、仕方がないので、女中にまかして、かわりの芸者を呼ぶことにした。それで、まもなく、芸者が二人ふたりあらわれた。その二人の芸者を相手に無駄話をしているうち芥川が話の切れ目に、私の耳のそばで、「あのふとっている芸者、ぼくの女房に似てるよ、」とささやいた。
 そのふとっている芸者は、面長おもながで、目鼻立ちもちゃんとそろっていたが、いわゆる色気いろけがなかった。
 私は、その頃はまだ芥川夫人を知らなかったが、このふとった芸者の顔を見ると、すぐ、これは、芥川のきな女の顔のタイプの一つである、と思った。
 この事は前に述べたかもしれないが、芥川のすきな女の顔は、簡単にいうと、はっきり二つの型にわけることができる。そのひとつは、たいてい、面長おもながの、目鼻立ちのそろった、古風な、顔であり、他の一つは、やはり、面長おもながの、(面長でないのもあるが、)たとい美人であるとしても幾らか欠点のある、(器量はそれほどではないが男ずきのする顔、といわれるような、)顔である。そうして、それを、便宜のために、一つを古典的な顔とし、他のひとつを浪曼的な顔としておく。そうして、もう一つわかりよくするために述べると九条武子、赤坂の万竜[註―谷崎潤一郎の『青春物語』の中に写真まで出ている名妓で、潤一郎の友人の恒川の夫人になった人]ぽん太[註―斎藤茂吉の『三筋町界隈』に書かれてある、これも、名妓で、後、鹿島三河子として踊りの師匠になった。これも茂吉の『不断経』のなかに、写真まで出ている]などがその古典的な顔のそれぞれ代表的なものの一つであり、イギリスのラファエル前派の画家であり詩人である、ダンデ・ガフブリエル・ロゼッティの、名画、『ベアトリイチェの死』、『牧場の楽女』、その他に描かれている女などがその浪曼的な顔の代表的なものの一つであろう。
[やぶちゃん注:「赤坂の万竜」の「万竜」は「まんりゅう」で、本名、田向静(明治二十七(一八九四)年~昭和四十八(一九七三)年)。七歳で東京赤坂花街の芸妓置屋春本の養女となり、お酌(半玉)を経て芸妓になった。明治末頃、「日本一の美人」と謳われ、当時人気を博した芸妓。参照したウィキの「萬龍」に写真が載る。
「ぽん太」本名、鹿島ゑ津子(明治十三(一八八〇)年~大正十四(一九一五)年)。宇野が言うのは新橋玉の家の名妓初代ぽん太。今紀文鹿島屋清兵衛がこれを落籍するも、後に清兵衛は没落、それでも踊・寄席に出ては家計を支え、世に貞女ぽんたと称されたという。森鷗外の「百物語」はこの御大尽時代の清兵衛がモデルであるとされ、尾崎紅葉や齋藤茂吉も彼女に魅せられた。歌人茂吉の大正三年の歌集『あらたま』に、
  かなしかる初代ぽん太も古妻の舞ふ行く春のよるのともしび
とあり、芥川龍之介の大正六(一九一七)年十二月一日附書簡(旧全集書簡番号三五六 池崎忠孝様宛葉書)に、

  Que m’importe que tu sois sage
  Sois belle et sois triste.
  C. Baudelaie

  徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

    その人の舞へるに
  行けや春とうと入れたる足拍子

    その人のわが上を問へるに
  暮るるらむ春はさびしき法師にも

  われとわが睫毛見てあり暮るる春

    一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を録す。

とある。最初はボードレールの「悲しき恋歌」。「悪の華」所収のこの詩句は、「どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる? ただ美しくあれ! 悲しくあれ!」といった意味である。「徂く春」は「往く春」と同義。季節の移ろいと共に、さすがその面影に射している「ぽん太」の老いをも言う。中田雅敏氏は一九八八年近代文藝社刊「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」に「ぽん太」について以下の解説をされている。『明治二十四年新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、はやくから嬌名を馳せていたが、一時落籍され座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという。』更に、次の「行けや春」の句については、福原麟太郎の次の文を引用されており、『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだがぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない。』(出典未詳)。この解説中の「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歳壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲。「校書」は芸妓(以上は私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」の当該句注を一部加筆省略して用いた)。こちらのブログに萬龍とともに本名「谷田恵津」として写真が載る。]
 さて、芥川は、その芝浦の茶屋から帰る道で、例のごとくお喋りをつづけたが、そのうちに、ふと、真面目な調子で、声をひくめて、
きみ、さっきの、あの、ふとった芸者のような顔をした女は、人の細君さいくんになったら、良妻になるよ、」と、云った。
「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイニンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」
「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」
「ふうむ。……」
[やぶちゃん注:「オットオ・ワイニンゲル」オーストリアのユダヤ系哲学者Otto Weininger(オットー・ヴァイニンガー 一八八〇年~一九〇三年)。カントやショーペンハウエルの影響下、一個の人間の中に共存する男性性と女性性に着目した『性の形而上学』を唱え、1903年にその集大成というべき名著「性と性格」を完成した後、最も敬愛したベートヴェン終焉の館でピストル自殺した。二十三歳。なお、この最後の部分、私は、
《そうして続けて芥川は》「……君も、むろん、知っているように、オットオ・ワイエンゲルは、女を母婦型と娼婦型にわけているが、……君、だいたい、良妻の亭主は浮気者で、悪妻になやんでいる男は、かえって、その反対のところがあるね、……田中 純などの話では、直木の細君は悪妻だそうだが、そういうと、直木は実に堅いところがあるからね。……君などは……」《と続けたので、私[=宇野]は、》
「おれを浮気者というんだろう、僕は浮気者とすれば、……浮気者だが、……君、僕は、『心』の浮気者だよ。……」《と答えた。芥川は、》
「ふうむ。……」《と呟いた。》
と読む。順列から言うと、一見、そうではなく、宇野がワイニンゲルを語り、芥川が『心』の浮気者だと答えているように読めるが、「良妻」を受けたワイニンゲルの饒舌及び他者批評は明らかに同じ芥川の口吻である(このようなづけづけした言い方は宇野らしくない)。宇野はこの頃、正式な婚姻をせず、芸妓や愛人と複数の関係を持ってはいるが、「『心』の浮気者」というニュアンスは芥川よりも宇野らしく私には感じられるからである。何より、ワインンゲルは「河童」で芥川龍之介の影の濃いトックの心霊の霊界での交流人物として『予の交友は古今東西に亙り、三百人を下らざるべし。その著名なるものを擧ぐれば、クライスト、マインレンデル、ワイニンゲル、……』と挙げられてもいる。]

 芥川の『或阿呆の一生』のなかに女の事を書いているところが七箇所ぐらいある。そうして、そのなかに、「彼女の顔はかう云ふひるにも月の光りの中にゐるやうだつた、」という文句が二箇所も、(『月』と『スパルタ式訓練』とに、)出てくる、それから「彼女の顔は不相変あいかわらず月の光のなかにゐるやうだつた」(『雨』)というのもある。つまり、三つとも殆んど同じ文句である。それで、例の『芥川龍之介研究』(座談会)でも、それが問題になっている。それで、そこを次ぎに抜き書きしよう。

久米。『或阿呆の一生』の中に女が三人か四人出てくるだらう……
 廣津。だけど、あのホテルを出て後悔するかと聞く女……お月様つきさまのやうだと書いてある女……しかし、あれはどうもお月様の感じが全然ないからね。
 久米。あれはまた違ふんだ。君の云つてるのは気違ひの娘といふ方だらう。遺書の中にある女は、――スプリング・ボオドに使はうといふのはまた違ふんだ。僕に『す』とまではいふんだが、それから先きはどうしても云はん。……白蓮がよく知つてゐる。『あの方にはお気の毒しました……』と僕が知つてゐるやうに云ふんだが、どうもわからん。……それから、もう一人の女は廣津が今いつたのは京都だらうと思ふ。
 廣津。お月様といふのは、鎌倉の方面だらう。
 川端。月光のやうな感じがするといふこと、あれは二度も三度も書いてゐる。
 廣津。さうして、後悔するかしないかといふ、あれがどうもわからんがね。
 久米。聞いてみればわかるだらう。×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××、それから、むかうの人力車からすれちがつて、春の山が見えるといふのは、京都の××××お妾ぢやないかと思ふ、ちよつとそんな惚気のろけを云つたことがあつた。
 廣津。君と菊池君と宇野と僕が上野の山下で飯を食はうと云つて、芥川のステッキを見つけて、それで、芥川芥川とどなつた事があつたね。
 久米。あれは『おいねさん』窪川いね子だよ。
 廣津。さうぢやない、その時、大丸髷が唐紙からかみの向うにちよつと見えて、いいえ、芥川さん見えてをりません、……それで、四畳半へわれわれ押しこめられて、座敷のあくのを待たされた。
 徳田[註―秋声先生]。その大丸髷といふのは誰ですか。
 廣津。それは大抵わかつてゐるのだけれど、君は、(久米氏に、)よく知つてゐる、鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる。……宇野に何度聞いても云はない。
[やぶちゃん注:これを読むと、芥川龍之介を廻る女性関係のゴシップが憶測から連鎖して如何に錯綜していたかがよく分かる。以下、長くなるが宇野の叙述に先行して整理したい(宇野の叙述には誤りもあるので)。
まず、久米の言う『あれはまた違ふんだ』という〈月光の女複数説〉――後文で宇野が「芥川は、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか」と述べる見解は――基本的に正しい。芥川が複数の女性を、それもかなり長いスパンの中での複数の恋した女性を「月光の女」と呼んでいる(少なくとも「或阿呆の一生」の中で)ことは最早、間違いない事実である。而して、それが誤解の連鎖を生んでいることも事実であるが、私はそれを何ら問題としないのである。何故なら芥川龍之介は小説家だからだ。「或阿呆の一生」は芥川龍之介の辿り着いた最後のオリジナルな稀有の独特な告白形式の立派な小説である。但し、芥川龍之介は少なくとも、それぞれの瞬間での「月光の女」は現存在として実在の人物を名指すことが出来るようには書いている(後述しているように宇野は性格上、「月光の女」は架空の理想像、『絵空事』として拡散させ、個別に指し示せない存在――というよりそのような価値を認めない傾向がある。いや、それはそれで芥川龍之介の女性観を捉える上では意義のあるものではあると私も認めるし、これから私が示すようにそれを実名を挙げて名指すことに意味があるかどうかも私自身、実は一面、疑問を持ってはいる)。ともかく〈月光の女〉の候補と、それを詠んだ章句を線で(一対一ではないが)結ぶことは可能だということである。但し、「或阿呆の一生」中の〈月光の女〉は複数の異なった時系列の女性をわざとダブ(トリプ)らせて描いていると思われ、また、後に示される定型詩の場合も、私は、芥川は〈昔の月光の女〉を詠んだものを、〈その時点での月光の女〉に対して、完全に若しくは部分的に巧みにリサイクルしてリユースして用いていると考えている。――あたかも芥川龍之介の小説の多くに種本が存在するように――である。そして私はそれも問題にしない。我々の愛情は常に新鮮で一度きりのオリジナルで――あろうはずが――ない、と私は考えているからである。――愛の表現を永遠にデフォルメし続け、素朴な感情を粉飾し続けることなんぞが出来る輩の方こそ、私には救い難い「噓」がある――と言いたいのである。
以下、この座談で挙がっている女性を確認してみよう。但し、間違ってはいけないのは、芥川龍之介がここに挙がっている女性と総て特別な関係を持っていたという事実の提示ではないので注意されたい。
●「気違ひの娘」歌人秀しげ子(明治二十三(一八九〇)年~?)。既婚者。夫は帝国劇場電気部主任技師秀文逸。既出の、遺書にも登場するファム・ファータルである。
●「スプリング・ボオドに使はうといふの」「僕に『す』とまではいふ」「白蓮がよく知つてゐる」妻芥川文の幼馴染み平松麻素子。「白蓮」は歌人柳原白蓮のことで、平松は彼女と親しくしていた。未婚。彼女とは実際に帝国ホテルで自殺未遂をしているが、彼女は寧ろ、妻文の意志で自殺を志向していた芥川の一種の相談相手兼監視役としての存在が強い。「或阿呆の一生」の「四十七 火あそび」の、
 彼女はかがやかしい顏をしてゐた。それは丁度朝日の光の薄氷うすごほりにさしてゐるやうだつた。彼は彼女に好意を持つてゐた。しかし戀愛は感じてゐなかつた。のみならず彼女の體には指一つ觸れずにゐたのだつた。
 「死にたがつていらつしやるのですつてね。」
 「えゝ。――いえ、死にたがつてゐるよりも生きることに飽きてゐるのです。」
 彼等はかう云ふ問答から一しよに死ぬことを約束した。
 「プラトニツク・スウイサイドですね。」
 「ダブル・プラトニツク・スウイサイド。」
 彼は彼自身の落ち着いてゐるのを不思議に思はずにはゐられなかつた。
は彼女であると考えられる。但し、廣津の言う「ホテルを出て後悔するかと聞く女」、則ち、「二十三 彼女」の、
 或廣場の前は暮れかかつてゐた。彼はやや熱のあるからだにこの廣場を歩いて行つた。大きいビルデイングは幾棟もかすかに銀色に澄んだ空に窓々の電燈をきらめかせてゐた。
 彼は道ばたに足を止め、彼女の來るのを待つことにした。五分ばかりたつたのち、彼女は何かやつれたやうに彼の方へ歩み寄つた。が、彼の顏を見ると、「疲れたわ」と言つて頰笑んだりした。彼等は肩を並べながら、薄明い廣場を歩いて行つた。それは彼等には始めてだつた。彼は彼女と一しよにゐる爲には何を捨ててもい氣もちだつた。
 彼等の自動車に乘つた後、彼女はぢつと彼の顏を見つめ、「あなたは後悔なさらない?」と言つた。彼はきつぱり「後悔しない」と答へた。彼女は彼の手を抑へ、「あたしは後悔しないけれども」と言つた。彼女の顏はかう云ふ時にも月の光の中にゐるやうだつた。
は、必ずしも(という留保で)麻素子とは捉えられないというのが、今の私の印象ではある。
(●)「京都」「京都の××××お妾」この久米の言う女性は私には不詳であるが、これは実は次の野々口豊と同一人物である可能性が高いように私は思っている(二〇〇六年彩流社刊の高宮檀「芥川龍之介を愛した女性」に京都での野々口豊との遭遇の可能性が考証されている)。
●「鎌倉の方面」「大丸髷」「鎌倉だよ。宇野だけが知つてゐる」野々口豊(明治二十五(一八九二)年~昭和五十(一九七五)年)。既婚者。直後に示される如く、夫野々口光之助の営む鎌倉にあった料亭小町園の女将である。後に宇野も語る大正十五・昭和元(一九二六)年の暮れから翌年二日にかけての「小さな家出」の相手であり、相応に龍之介からの恋情は深いものがあった。
●「×××××××、軽井沢で逢つてゐる女の人は×××××××」歌人にしてアイルランド文学者片山廣子(ペン・ネーム松村みね子 明治十一(一八七八)年~昭和三十二(一九五七)年)。「越し人」である。既婚であるが、晩年の芥川龍之介が恋心を寄せた時は既に未亡人であった。私は個人的に晩年の芥川龍之介が真に恋した相手は彼女であったと思っている。それについては私のHPの「やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇」の芥川龍之介及び片山廣子のテクスト注やブログ・カテゴリ「片山廣子」を参照されたい。
●「おいねさん」「窪川いね子」既出の後の作家佐田稲子(明治三十七(一九〇四)年~平成十(一九九八)年)。料理屋の女中だった頃(大正九(一九二〇)年頃)からの馴染みであり、自殺の三日前に自殺未遂の経験を芥川龍之介から問われたりもしているが、彼女とは恋愛関係にはなかった。
また、芥川龍之介が〈月光の女〉と若き日に直に呼称した可能性が極めて高い女性として、
●横須賀海軍機関学校時代の同僚で物理学教授であった佐野慶造の妻で歌人の佐野花子(明治二十八(一八九五)年~昭和三十六(一九六一)年)
がいる事実は挙げておく必要がある。〈月光の女〉としての彼女について、私は過去に自身のブログの「月光の女」「芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察」『芥川龍之介「或阿呆の一生」の「二十八 殺人」のロケ地同定その他についての一考察』などで考察を重ねてきた。そちらも是非、参照されたい(但し、概ね、芥川龍之介の研究者は佐野花子のそれを一種の受身の恋愛妄想として捉え、眼中に置いていない。しかし――しかし、妄想や思い込みは多分にあるものの、彼女のことを芥川も愛していた、と私は踏んでいる)。
最後に言い添えておくと、直接に〈月光の女〉との関連はないものの、
芥川の恋愛観・人生観に大きな影響を及ぼした、
●失恋(芥川家の反対による)相手吉田弥生(明治二十五(一八九二)年~昭和四十八(一九七三)年)
や、二十一歳頃のものと思われる龍之介のラブ・レターが現存する、
●彼女に先行する初恋の相手とされる新原家の女中であった吉村ちよ(明治二十九(一八九六)年~昭和四(一九二九)年)
などは龍之介の思春期の致命的とも言える女性観形成に非常に重要な人物である。
既出の小亀などの芸妓などを除外すると、他には、
(●)大正十四(一九二五)年頃から翌年二月頃まで日本文学の個人教授を芥川がしていた南条勝代(詳細資料なし)
という女性などが少し気にはなる。が、逆に、宇野の話の既出部分で仄めかされる(若しくは取り上げられている)作家岡本かの子や、谷崎潤一郎の最初の妻千代の妹で谷崎の「痴人の愛」のナオミのモデルとされる小林せい子(小林勢以子)などは、失礼ながら、芥川の恋愛対象の外延からは大きく外れていると私は思っている。]

 この最後の『大丸髷』の一件について、前に少し書いたのを抹削したので、つぎに述べよう。
 やはり、大正十年か十一年頃であったか、たしか、秋のはじめ(まだ残暑)の頃の或る日の夕方、菊池が先頭に立って、久米、廣津、私の四人が、下谷の同朋町のなんとかいう大阪料理を食べさせる家にはいって行くと、四人のうちの誰かが「あッ、芥川が、」と云った。さきに述べた、真鍮の鳳凰の頭のついたステッキが玄関のタタキの隅に立てかけられてあったからである。
 そこで、私たちが、いわず語らず、「芥川がこのうちにいる、」というような好奇心をいだきながら、二階にあがって行くと、階段をあがったところの右側の部屋に、ちらと、大丸髷の女がむこうむきにすわっている後姿うしろすがたが、見えた。咄嗟に、私は、はッと思った。後姿だけで、(今は、もう、はっきり、書こう、)それが、鎌倉の『小町園』のおかみである事がわかったからである。
 私が、はッと思った途端に、唐紙がすうっと締まった。
 やがて、奥の座敷にとおされたので、私が、久米にむかって、「あれは……」と云いかけると、久米が、「フウン、」といったような顔をしたので、私は、すぐ、心のなかで、『あの女に久米は気がつかなかったらしいな、』と思ったので、あとの言葉を呑みこんでしまった。
 そこで、久米は、そのまま、だまってしまったが、菊池は、あのかんだかい声で、何度なんども、私に、「あれは、誰だ、誰だ、」と聞いたが、私は「後姿だから、見当がつかない、それに、すぐ、唐紙がしまってしまったから、」と、答えた。
 つまり、『大丸髷』の一件とはこれだけの話である、なぜなら、私はその後、芥川に何度か逢ったが、芥川がその時の事をなにもいわなかったから、私もその時の事は吹呿おくびにも出さなかったからである。
 ところで、さきの座談会であるが、あの記事だけで見れは、芥川という男は、遺書のなかにまでお歴歴の人人ひとびとを迷わせるような事を書いた、という事にはなるけれど、あの中で廣津や久米もちょっと指摘しているように、「月の光りの中にゐるやうな女」とは、結局、芥川の『絵空事えそらごと』であるのである。

 例の小穴の『二つの絵』のなかに、芥川が、自分で死をえらんだつきほど前に、小穴を浅草の茶屋につれて行って、小穴に「芸者E」を紹介するところがある。「芸者K」とは、小亀という芸者で、私もこの女をよく知っている事は、前にちょっと書いたか、と思う。書いた文章のなかに、つぎのような事を書いている。

 芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後幾何いくばくの日も経過してゐないうちに、一日少いちにちすこあるかうと夕方の下宿から自分を彼が誘つた。
「もうこれで自分の知つてゐる女のととほりは君に紹介してしまつたし、もう云つておく事もないし、すると、……」
 下宿の外に出てからかう云ひ出した彼の心は、何気なにげなしのやうに、各自ひとつの性格を持つた人々ではあるが、比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた。

 この文章の終りの方の、S夫人は例の謎の女であり、S子はせい子であり、Kのおかみさんは『小町園』のおかみさんである事は、想像がつくが、K夫人だけは私に見当がつかない。さて、ここで、ついでに述べると、さきの座談会の記事のなかで、久米が「軽井沢で逢つてゐる女の人」と云っているのは、私の臆測ではあるが、アイルランドの文学の翻訳を幾つかした、松村みね子ではないか。
[やぶちゃん注:「芸者Eを見せた以前、ホテル事件の後」「芸者Eを見せた」は小穴を連れて谷中の新原家墓参をし、浅草料亭「春日」に行って愛妓子亀と別れを告げた昭和二(一九二七)年六月二十五日、「ホテル事件」先立つ同年四月十六日(七日とも)に平松麻素子との帝国ホテルでの心中未遂を指す。
「比較的周囲の近くからの女、例へば、K夫人、S夫人、S子、Kのおかみさんといつたやうに、彼のいふ賢い女の名を数へた」という小穴の「K夫人」は片山廣子、「S夫人」はひとまず佐野花子、「S子」はひとまず平松麻素子、「Kのおかみさん」『小町園』の女将野々口豊と考える。「S夫人」は一見、秀しげ子と思ったが、既に自死を決した芥川龍之介が「彼のいふ賢い女」にいっかな彼女を挙げることはあり得ないと思われ、すると小穴が直接は知らない(既にこの頃は佐野夫妻とは疎遠にはなっていたものの)過去に愛した既婚女性を挙げたとしも私はおかしくはないと思うのである。「S子」は「ますこ」の「す」のSで、彼女は未婚であるから「子」としておかしくなく、この羅列の中に、直前に自殺未遂まで企てた身近であった平松麻素子が入らない方が不自然だからである。宇野の言う「小林せい子」は先に述べた通り、あり得ないと私は判断する。]
[やぶちゃん注:以下の「後記」は底本では全体が一字下げ。]
(後記-芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。ここで、愚鈍な私は、本文のなかで、「K夫人だけは見当がつかない、」と書いたが、このK夫人は、臆測すれば、片山ひろ子ではないか、と気がついたのである。片山ひろ子は、歌人で、翻訳する時に「松村みね子」という筆名を使ったのである。さて、臆測をもう一そう逞しゅうすると、堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木さいきといふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか、とまで思われるのである。片山ひろ子の『軽井沢にて』のなかに、「影もなく白き路かな信濃なる追分のみちのわかれめに来つ」、「われら三人影もおとさぬ日中につちゆうに立つて清水のながれを見てをる」などという歌がある。)
[やぶちゃん注:『芥川が、大正十四年の八月二十五日に、軽井沢から、小穴隆一にあてた手紙のなかに、「……軽井沢はすでに人稀に、秋冷の気動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日帰る筈、片山女史も二三日中に帰る筈、」という文句がある。』この書簡を書いた時こそ、芥川龍之介は切ない廣子への恋情を苦渋の中で断ち切ろうとしていたのである。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」を是非、参照されたい。
「堀 辰雄の処女作『聖家族』に出てくる「細木さいきといふ未亡人」は、片山ひろ子のような人を、小説に都合のよいように、使ったのではないか」よく知られているように言わずもがな、その通りである。私の「聖家族〈限定初版本やぶちゃん版バーチャル復刻版〉」でお読み戴ければ幸いである。
「軽井沢にて」の以下の短歌は、片山廣子の昭和六(一九三一)年九月刊の改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』(昭和二十九(一九五四)年)の「輕井澤にありて」にも採録された。但し、「日中」のルビは歴史的仮名遣ならば「につちう」が正しい(リンク先は私の電子テクスト)。]
 私がこう云うのは、室生犀星の、たしか、『青い猿』という、その中に芥川らしい人物の出てくる、長篇小説のなかに、軽井沢のホテルで松村みね子が出てくる所があるので、せんだって室生に逢った時、その話をすると、室生は、「芥川は、松村さんと一しょにコオヒイなど飲むと目立つのでね、……と、云ったよ、」と、云ったからである。しかし、松村みね子は、本名を片山広子といって、佐佐木信綱に師事しながら、
  をとこたち
  煙草のけむりを吹きにけり
  いつの代とわかぬ山里やまざとのまひるま
などという歌をよむ人であるが、明治十一年に東京の麻布で生まれているから、芥川より十四五も年上としうえである。といって、芥川がしたしくしていた、春日とよも、芥川よりとお以上も年上としうえであるから、芥川は松村みね子ともしたしく附き合っていたのであろう。
[やぶちゃん注:「室生犀星の、たしか、『青い猿』」昭和七(一九六二)年刊。芥川龍之介を主人公にしているらしい。私は不学にして未読。
「をとこたち」の短歌も改造社版『現代短歌全集』第十九巻「片山廣子集」の「日中」に初出し、後、第二歌集『野に住みて』の「輕井澤にありて」にも採録されたもの。但し、何れもこのような三行分かち書きではない。私のテクストを参照されたい。
「春日とよ」前出であるが再注しておく。本名、柏原トヨ(明治十四(一八八一)年~昭和三十七(一九六二)年)は既出の料亭「春日」の女将、後に小唄春日派初代家元。函館生。先に芥川がちらりと述べているように、イギリス人の父と日本人の母の間に生まれ、三歳の時に父は帰国、母と上京して十六歳で浅草の芸者となる。大正十(一九二一)年に浅草の料亭「春日」の女将となった。その後、小唄演奏家として知られるようになり、昭和三(一九二八)年、小唄春日流を創立した。]
 ここで、右にげた女人たちの顔を芥川のこのんだふたつの型に、しいて、わけてみると、つぎのようになる。
 芥川夫人、『小町園』夫人、松村みね子――以上の人たちは、はっきり、古典型であり、春日とよは古典型にちかく、小亀は古典型六分半浪曼型三分半であり、謎の女とせい子とはあまりパッとしない浪曼型であろう。
 ところで芥川は、小穴に、気質、顔つき、皮膚の色、爪の色まで、「江戸の名残なごをつたへた最も芸者らしい芸者である、」とまで褒めている、小亀を、大正十四年の秋の或る日、私と一しょに浅草の或る茶屋に行った帰り道で、今のさきまで其の茶屋で二人が逢っていた、小亀を、道をあるきながら、いきなり、私に、「きみ、小亀をやろうか、」と、云った。
私は、これを聞いて、芥川は小亀がかなりきらしいな、と思った。

     
十一

 この章では、まず、さきの章のおわりに、芥川が、道をあるきながら、いきなり、私に、「君、小亀をやろうか、」と云った事を書いたが、あれではまったく言葉がたりないので、あのような事を云った時分の芥川の事から、述べよう、と思っていた。
 ところが、私が、これまで、小穴が、「事露顕ことあらはれて、事を決するよりも、未然に自決してしまひたい、といふ考へであつた。もとをS女史との唯一度それも七年前の情事に帰して。――」と書いたり、「〇〇〇子(S女史)それは昔、彼が彼女に一座の人々を紹介し僕をも紹介してゐたときに、順々にお時儀じぎをしてゐながらに何故なぜか『わたし小穴さんにはわざとお時儀をしないの、』と、人に聞えぬ程の小声をもつて、笑ひをみせながら僕の顔をかへりみてゐた婦人である。大正十二年以前のことであつて、自分が、『こいつ、なにかあるな、』と考へてゐた女性であつた、」と書いたり、「Sは、はたして彼のいふが如き女であるのか?――××との唯一度の〇〇のためにのみ、彼が婆婆苦を嘗めてゐたのであらうか、」と書いたり、「Sの子は、芥川龍之介の子である。――この疑問を、この僕が抱く、」と書いたり、している『女』を、ほかの事うるさい程くどくどと述べながら、あの重大な女の事だけを、筆を惜しむように、ぼかすように書いているのは、どういう訳であるか、けしからぬではないか、というような意味の苦情が、数多くの人から、くるのである、しかも、そのなかには、知名の文学者まであるのである。それで、本文にかかる前に、その謎の女について、述べる事にしたのである。
 私がこの女を『謎の女』と書くのは、思わせぶりでもなく、隠すつもりでもなく、芥川をめぐる女(と思われている女)は一通ひととおり知っている筈であるのに、この女の事だけは、私は、殆んどまったく知らないからである。もっとも、さきに引いた小穴の「わたし小穴さんにはお時儀をしないの」という云いかたはあの女そっくりである、とか、廣津の『彼女』という小説のなかの「ああしてあれからあの人たちと珈琲を飲んだつて退屈でせう。――誰も気がつかないうちにいてやるの愉快ね」という言葉など、なるほどあの女の云いそうな事だ、とか、いう事ぐらいなら、私も、知っている。
 ところで、久米正雄が、『月光の女』という小説のなかで、「また考へやうに依ると、彼(つまり、芥川)をめぐる此の女たちに就いては、想像を逞しう出来るだけに、多少の過誤を招く恐れもある。弘津平郎[註―廣津のこと]でさへ、その近頃の小説『彼女』の中に、その、女主人公を、まちがへて、『月光の女』と錯覚した如きである、」と述べている。
[やぶちゃん注:「久米正雄が、『月光の女』という小説のなかで」とあるが、この小説については知見を持たない。識者の御教授を乞う。]  ところが、滝井孝作が、また、『純潔』と言う小説の中で、この女の事を、書いているが、その中に、小穴の話として、「彼女(つまり、その女)は芥川に関係した上で、南部修太郎とくつついたんだ、芥川が先きで南部の方があとなんだ、それで南部修太郎の女を芥川が知らずにつた場合は、まだしも我慢できたらうが、南部に見変へられたわけで、芥川のあの性格では南部ごときに頸根くびねツ子を押へられた形では、南部に急所を摑まれてゐて始終しじゆうあたまあがらないと考へると、芥川も立つ瀨がなかつたらうナ、ああいふ性格の人だから、それで世をはかなむ気持ちが出たのだらうナ、」と書いている。
[やぶちゃん注:「しじゆう」のルビはママ。]
 しかし、この話は、すでに、小穴の文章のなかにも書いてあるので、多くの人に、知られているが、私は、滝井が、そのあとに、大正九年頃、菊池の芝居かなにかの総見で新富座に行った時、幕間まくあいに、大ぜいが休憩室に集まった時、その窓際で、「花形作家の芥川と女流歌人のS夫人と両人が、皆の方に向いてたたずんで、その時両人が見交みかはした視線が、視線の交叉だけでなにか語つてゐたから、私は不ふと見かけて、男と女とが視線だけで話ができるのはただではないから、なんださうなのか、とハッキリ分つてしまつた。彼女は皮膚のうすい頰の血色もすきとほつて、きれ長のしていきづくり、当世向きの美しいひとらしく、我鬼窟の書斎にもきて、私は両人の秘事を知らん顔したが、我鬼山人は気づかれたと知つてゐて、りげなく私に向いて、君は口止めされるやうな事柄は決して他人に口外しない口の固い所があるがその口の固い所も君の特徴だネ、とさりげなく口止めの釘をされたりして、……」と書いているところに、感心した。滝井は、「口止めの釘をされた」と書いているが、こう書いて、芥川の一ばん痛いところを突いているからでもある。
 しかし、芥川には隙だらけのところもあったので、滝井ほどの観察眼があれば、このくらいの事を書くのは、『お茶の子さいさい』であろうが、その次ぎの、それから十年ほど後に、(むろん芥川の死後、)南部修太郎の通夜の席で、その女に逢った時の事を、滝井が、「彼女は厚化粧して出てきて、大勢おほぜい居並ゐならんだ所に割り込んで坐つたが、私の方みてしたしげにお時宜して、私はしたしげにされるおぼえもなく、十何年ぶりで見かけたが、彼女の醜聞も皆に知れわたつてゐる筈だが、通夜の座敷に、その四十ばばあが厚化粧して現れた様は、阿呆の広告の恰好で、亦横著者わうちやくものにも見えた。で、今更に、つての若き我鬼山人[註―大正九年といえば、芥川は二十九だ]も、南部のぼつちやんも、とんだ痴者しれもの引懸ひつかかつたものだとわかつた。とんだ痴者だから魅力が多かつたかもしれないが。……」と書いているところを読んで、私は、あたまをさげた、芥川は、滝井の師事した人であり、南部は、滝井の親友の一人ひとりであったからでもあるが、この女の描写は、私などとうてい及ばない、深刻さがあるからである、さすがに、志賀直哉の手法をまなんだだけの人である、と思ったからである。ところで、『深刻』とは、文字どおり、「ふかくりつける」という意味もあるが、「極めてむごい」という意味もある。そうして、この滝井の描写ほ、ふかくりつけてもあるが、すこしむごいようなところもある。私は、私自身の好みでいえば、こういう女は大へんキライであるが、作家として見れば、こういう女が、芥川のなくなった時に弔問ちょうもんしたり、南部が急死すると其の通夜に出たり、するところの心根こころねというようなことを、こういう女を主人公にして、こういう女の気もちを、書いてみたら、などと思うのである。
 さて、私は、前の章の終りの方で、小穴の文章(『二つの絵』)の中に善かれている、四人の女のなかで、「K夫人だけは私に見当がつかない、」と述べたが、そのK夫人を、仮りに、(まったく、仮に、である、)岡本かの子とすれば、岡本かの子の、はっきり芥川を題材につかった、『鶴は病みき』のなかにも、この女の事が書かれている事を、思い出した。[やぶちゃん注:くどいようだが、この仮定は偽である。この「K夫人」は先の注で私が述べ、宇野自身が後に訂正するように、片山廣子であって、岡本かの子ではない。]これは、私の臆測であるが、岩野泡鳴が主催した、十日会で、かの子が、この女を見た時の事を、書いたものである。ここでは、この女は、X夫人となっている。そうして、この女は、この小説のなかでは、「麻川氏[註―芥川のこと]の傍に嬌然としてゐるX夫人を見出みいだした。そして麻川氏がX夫人に対する態度を何気なく見てゐると、葉子[註―岡本かの子らしい人]はだんだん不愉快になつて来た。麻川氏はX夫人に向つてお客が芸者に対するやうな態度をとり始めた、」とか、「X夫人はかねてから文人たちの会合等に一種の遊興的気分をいてあるく有閑夫人だつた、」とか、「しかし、現在見るところのX夫人は葉子の目にも全く美しかつた。デリケイトな顔立ちのつくりに似合ふ浅い頭髪のウェエヴ、しなやかな肩に質のこまかな縮緬の著物と羽織を調和させ、細く長目に引いた眉をややげて嬌然としてゐるX夫人――だが、葉子はX夫人のつい先日せんじつまでを知つてゐた。黄色い皮膚、薄いさがり眉毛、今はもとの眉毛をつたあとに墨で美しく引いた眉毛の下のすこしはれぼつたいまぶたの目であつた。今こそウェエヴの額髪で隠れてゐるが、ほんたうはこの間までまるだしの抜け上つたおかみさんヽヽヽヽヽ額がその下にかくれてゐる筈だ、」とか、「それにもかかはらず麻川氏が変貌以後のX夫人に、葉子よりさきに葉子の欠席した前回のこの会で逢ひ、それが麻川氏とX夫人との初対面であつたためか、ひどくこの夫人の美貌を激賞したといふことが、文壇の或る方面で喧しく、今日も麻川氏はこの夫人を見るために、この会へ来たとさへ、菓子の耳のあたりの誰彼たれかれが囁き合つてゐる。葉子の女性の幼稚な英雄崇拝観念が、自分のがへんじ切れない対象に自分の尊敬する芸術家が、その審美眼を誤つてゐる、といふもどかしさで不愉快になつたのだ、」とか、書かれている。これらの言葉は、女が女を見た意地悪いじわるに充ち満ちている。これらの言葉は、作家の目で見たものではなく、浅はかな女の心で見たものである。されば、これらの言葉を虚心で読めば、読む人には、葉子の方が傲慢に見え、X夫人の方が、かえって、しおらしく、いじらしく、思われる。それはそれとして、これまで引いた文章をよむと、どの文章でも、この女は、わるく云われ、いじめられている。そうして、芥川は、『或阿呆の一生』のなかで、つぎのよう書いている。

 二台の人力車は人気ひとけのない曇天の田舎道を走つて行つた。その道の海にむかつてゐることは潮風しほかぜるのでもあきらかだつた。あとの人力車に乗つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して恋愛ではなかつた。し恋愛でないとすれば、――彼はこのこたへを避けるために「兎に角我等われらは対等だ」と考へないわけには行かなかつた。
「もうどうにもかたはない。」
 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎悪あるぞうをを感じてゐた。
 二台の人力車はその間に磯臭いそくさい墓地のそととほかかつた。蠣殻のついた粗朶垣そだがきの中には石塔が幾つも黒ずんでゐた。彼はそれの石塔の向むかうにかすかにかがやいた海を眺め、なにか急に彼女の夫を――彼女の心をとらへてゐない彼女の夫を軽蔑し出した。……

 ここでも、また、この女は「動物的本能ばかり強い女」になっている。こうなると、この女は、これらの文章だけで見れば、この女は、まったく立つ瀬のない女、という事になる。
 ところで、私が、この女についていろいろな人の文章を引いたのは、前に何度も述べたとおり、私は、芥川とこの女の関係については殆んどまったく知らないからである。

 さて、この『或阿呆の一生』については、いろいろな人がさまざまの意見を述べているが、私は、島崎藤村の「あの中に感知せらるるやうな作者の悲愴な激情も、何人の仮面をも剥いで見ようとしたやうなあの勇気も、病人のやうに繊細なあの感覚も、世紀末の詩人を思ひ出させる。それにしても日頃私の想像してゐた芥川君はもつと別の人で、あれほど君が所謂いはゆる『世紀末の悪鬼』にさいなまれてゐようとは思ひがけなかつた、」という説に六分どおり同感する、(六分どおりである。)
 昭和二年の五月頃であったか、私が、私も芥川にちかいぐらいの(あるいは芥川以上の)神経衰弱にかかった時、ある日、芥川に、「君も、僕も、けっきょく、十九世紀末の詩人のようなものだよ、」と云うと、芥川は、すぐ、『我が意を得たり、』というような顔をして、「そうだよ、そうだよ、」と云った。
[やぶちゃん注:島崎藤村の引用は、昭和二(一九二七)年十一月発行の雑誌「文藝春秋」に掲載された後、昭和三(一九二八)年の「市井にありて」の中に所収された「芥川龍之介君のこと」からである。リンク先は私の電子テクスト(ブログ版)である。
『世紀末の悪鬼』は「或阿呆の一生」の「五十 とりこ」からの引用だからである。以下に私の電子テクストに準じたものを示す。
       五十 俘
 彼の友だちの一人は發狂した。彼はこの友だちにいつも或親しみを感じてゐた。それは彼にはこの友だちの孤獨の、――輕快な假面の下にある孤獨の人一倍身にしみてわかる爲だつた。彼はこの友だちの發狂したのち、二三度この友だちを訪問した。  「君や僕は惡鬼につかれてゐるんだね。世紀末の惡鬼と云ふやつにねえ。」  この友だちは聲をひそめながら、こんなことを彼に話したりしたが、それから二三日後には或温泉宿へ出かける途中、薔薇の花さへ食つてゐたと云ふことだつた。彼はこの友だちの入院したのち、いつか彼のこの友だちに贈つたテラコツタの半身像を思ひ出した。それはこの友だちの愛した「檢察官」の作者の半身像だつた。彼はゴオゴリイも狂死したのを思ひ、何か彼等を支配してゐる力を感じずにはゐられなかつた。  彼はすつかり疲れ切つた揚句、ふとラディゲの臨終の言葉を讀み、もう一度神々の笑ひ聲を感じた。それは「神の兵卒たちはおれをつかまへに來る」と云ふ言葉だつた。彼は彼の迷信や彼の感傷主義と鬪はうとした。しかしどう云ふ鬪ひも肉體的ヽヽヽヽに彼には不可能だつた。「世紀末の惡鬼」は實際彼を虐んでゐるのに違ひなかつた。彼は神を力にした中世紀の人々に羨しさを感じた。しかし神を信ずることは――神の愛を信ずることは到底彼には出來なかつた。あのコクトオさへ信じた神を!
――ここで皆さんはあることに気付くはずである。それは宇野が自分自身を語られたこの「或阿呆の一生」の「五十 俘」を、不思議なことにちゃんと引用せずにいることである。これは極めておかしなことである。私はこれが、宇野が自らの精神病の正体を正しく見据えることを拒否しているからだと考えている。今まで述べてこなかったが、彼はここで「私が、私も芥川にちかいぐらいの(あるいは芥川以上の)神経衰弱にかかった」としているが、病跡学的には彼の精神病は「神経衰弱」のような心因性・内因性のものではなく、脳梅毒による外因性精神病、誇大妄想を顕著にする進行性麻痺であったと考えられている(入院は七十日に及び、複数の記載がマラリア療法を受けた可能性を指摘している)。彼の発症時の幾つかの病態を見ても私もそう考えている。また、彼の文体がこの発症と寛解以降では極端に異なることを見ても、脳梅毒及びそのマラリア療法により、予後、何らかの人格に関わる脳の大きな変性があったことも私は疑っているのである。彼は自分が梅毒によって脳を冒されたて精神に異常をきたしたという事実を認めたくないのである。内田百閒や廣津和郎の芥川関連の作品を読めば誰でもそれは分かる訳であるが、彼自身がそれを表明したくない、彼自身は心因性の神経衰弱(これは現在の精神医学では正式な病名ではなく、死後と言ってよいが)を断固として自認しているのではなかったか? 彼は実は「発狂」という事実も自覚していないのではないか? だからこそ、盟友芥川龍之介の、最後の遺言的作品「或阿呆の一生」に現れる「発狂した」自分を示すことが堪えられないのではなかろうか?――以上は私が本テクスト化を始めた最初から心底に蟠っていたことである――]

 さて、前の章で、『或阿呆の一生』の中に出てくる女は三四人ぐらい、と述べたが、久米が、『月光の女』のなかで、芥川が、月光という言葉を、意識して、幾度かくりかえして使ったのは、「死に際して、過去の思ひ出の中に真に美しく感じた女に対し、愛慕の象徴として考へたものに違ひない、」と述べているが、私は、芥川が、それぞれ、芥川流の見方で、美しく感じた女を、みな、月光の女にしてしまったのではないか、と考えるのである。
 それから、久米は、また、おなじ文章のなかで、その相手は、四章にわかれて書かれているから、「読者はひよつとすると、この四人が四人とも同じ人の摸写だと思ふかも知れないが、――それが私の最も危険な独断だらうが、実に、四人が四人とも、全く別な人だと思へるのだ。そして其の一々いちいちに、多少思ひ当る筋があるのだ。但しその推定人物が、実際に当つてゐるかどうかは私に取つても全幅の自信はなく、実はひそかに私の企画で、今のうちに現存の関係人、小谷隆之、殖生愛石、大島理一郎、木崎伊作、滝井等を集め、一夕、非公開の座談でも開いて、此のおせつかいヽヽヽヽヽな決定版を得ておきたいやうな気もするが、この顔ぶれに失礼だが、信輔夫人とそれから彼の最も近親の、藤蔓俊三氏を加へて、あの『痴人の生涯』の全部にわたり、検討を加へておく事も、一つのきずいた大正作家の文芸史であらうかと考へる、」と述べている。
 これには私も大賛成である。それは、「今のうちに現存の関係人」と述べた当人の久米がなくなくなつた今、久米の遺言どおり、小穴隆一、室生犀星、小島政二郎、佐佐木茂索、滝井孝作のほかに、芥川夫人と葛巻義敏を加えて、非公開でなく、『或阿呆の一生』の全部にわたって検討を加える、公開の座談を是非ぜひひらくべきである。そうして、それは芥川ともっとも縁故の深かった「文藝春秋」が進んでもよおすベきであろう。そうして、もしそういう座談会が実現されたら、(実現されたら、である、)佐藤春夫と私もその末席にくわえてほしい。
 それから、おなじ小説のなかで、久米は、

 中には、例へば竹柏園門の歌人で、愛蘭あいるらんど文学の翻訳者である、杉村みよ子夫人の如き、彼と才力の上に於て、格闘の出来る『越し人』(第三十七章)として、殆んど確定的であるが、併し又一方では、それが高名な漫画家の夫人で、稀才ある小説を残した、坂本かよ子夫人とまぎらはしい点など、もう、いづれも故人となり、思ひ出の中に住むのみに至つては、確認しておく必要が、村松梢風氏以外の伝記者たちのためにも、多分に必要であるかも知れない。

と述べている。(この久米の文章の中の、杉村みよ子夫人は松村みね子夫人であり、坂本かよ子夫人は岡本かの子である。)
[やぶちゃん注:くどいようだが、久米の「坂本かよ子夫人」(=岡本かの子)「と紛らはしい」という謂いは、全くの見当違いと言わざるを得ない。毫毛も「紛らはしい」点など、ない。]
 この久米の言葉を説明する前に、順序として、『越し人』をつぎにうつす。

 彼は彼と才力の上にも格闘出来る女に遭遇した。が、「びととうの抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それはなにか木の幹にこほつた、かがやかしい雪をおとすやうにせつない心もちのするものだつた。
  風に舞ひたるすげかさ
  なにかは道に落ちざらん
  わが名はいかで惜しむべき
  惜しむは君が名のみとよ。
[やぶちゃん注:「こほつた」のルビは誤り。「或阿呆の一生」では「こゞつた」である。]

 つまり、久米の考えは、この『越し人』は、大方おおかたの意見によると、松村みね子夫人が「殆んど確定的」であるが、しかし、「確定的」というだけで、岡本かの子とも見られるところがあるから、これを「確認しておく必要が多分にあるかも知れない、」というのである。
 ところで、私も、「確認しておく必要」はある、とは思うけれど、私は『確認』などなかなか出来ない、と考えるのである。ところが、いずれにしても、おもしろいのは、芥川は、松村みね子とは、軽井沢の万平ホテルで、逢っており、岡本かの子とは、鎌倉の雪の下ホテルH屋[註―かの子の『鶴は病みき』による]で、何日間か、となりの部屋で、同宿している事である。が、しかし、こういう事は、唯の興味のようなものである。興味といえば、時の人の謎の女(つまり、小穴のS女史)も、この、みね子も、かの子も、みな、歌人であり、噂だけでいえば、ほんの噂の、九条武子も、柳原白蓮も、また、歌人である事などである。が、こういう事は何の問題にもならない。
[やぶちゃん注:「松村みね子とは、軽井沢の万平ホテルで、逢っており」私はかつて芥川龍之介が片山廣子(松村みね子)とが、芥川の自死の年の五月、秘かに万平ホテルで逢った可能性について考察したことがある。よろしければ、私の『片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲』を御笑覧あれ。
「H屋」は、鎌倉駅西口直近にあった平野屋別荘。かの子が同宿したのは、大正十二(一九二三)年八月で、厳密に言えば「となりの部屋」ではなく、庭を隔てた向いの部屋であった。]
 ところで、ここに、佐藤春夫が纂輯した、『澄江堂遺珠(Sois belle,sois triste)』という詩集がある。私は、昭和八年の初春の頃、この本を手に入れてから、いまだに愛読しているのである。それは、芥川の詩の美しさと悲しさと、その詩のところどころに註をしている、佐藤の註の親切な感慨ふかい文章のためである。(Sois belle,sois triste)には『美しかれ、悲しかれ(?)』と記入してあるそうである。)
 さて、その『澄江堂遺珠』から、まず、雪にちなんだものを、うつして見よう。
[やぶちゃん注:「Sois belle,sois triste」は既に私の先行注に示したが、本文初出であるので改めて詳述する。このフランス語の語句は間違いなく、ボードレールの「悪の華」の“Madrigal triste”の冒頭一連の二行目の詩句に基づく。以下に原文を示す。
I
Que m'importe que tu sois sage?
Sois belle! Et sois triste! Les pleurs
Ajoutent un charme au visage,
Comme le fleuve au paysage;
L'orage rajeunit les fleurs.
以下、該当箇所の邦訳を堀口大學訳「惡の華」(昭和二十八(一九五三)年新潮文庫刊)の「補遺」の「續惡の華」の「三 悲しい戀歌」から引用しておく。なお、題名の“madrigal”はイタリア語由来で、元は十四世紀にイタリアで流行った牧歌的な叙情的歌曲(マドリガーレ)を言ったが、そこから無伴奏の短い歌を意味する。

大人しくとも何になろうぞ?
姿、美しくあつておくれよ! 心、さびしくあつておくれよ!
涙は顏に風情を添へるよ。
川が景色よくするように。
嵐は花を若返へらせるよ。
因みに、皮肉なことに、正にこの原文冒頭二行は芥川龍之介が激しく嫌悪した島崎藤村の「新生」の第百十一回に出現することも附記しておこう。
以下、『澄江堂遺珠』から引用が行われるが、芥川龍之介の整序された未定詩稿については、私が纏めた「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の中に所収する。御覧あれ。]

  雪は幽かにつもるなり
  こよひはひともしらじらと
  ひとり小床にいねよかし
  ひとりいねよと祈るかな

[やぶちゃん注:この詩は最初の一行「ひとり葉巻をすひをれば」が脱落している。実はこの一行は『澄江堂遺珠』原本では前頁末にあり、宇野はこれを見落として引用ミスをした可能性が高い。]

それから、つぎのようなのもある。

  きみとゆかまし山のかひ
  山のかひには日はけむり
  日はけむるへに古草屋
  草屋にきみとゆきてまし

[やぶちゃん注:底本、ここに空行。この間に原本ではもう一つの推敲形(四行)が入る。]

  きみと住みなば   
            山の峡
  ひとざととほき(消)
  山のかひにも日は煙り
  日は煙る□□□
[やぶちゃん注:底本では「きみと住みなば」と「ひとざととほき(消)」は並列され、その二行の下に「}」が附され、「山の峡」と配してある。「ひとざととほき(消)」とは「ひとざととほき」と書いて末梢してあることを示す。「日は煙る□□□」は、底本では「□□□」は下方(横書きでは右手)が開放になっている長方形の判読不能の空欄である(但し、『澄江堂遺珠』原本の長方形は実はもっと長い。従って判読不能三文字の意味ではないことに注意されたい。以下、同じなので注さない)。ほぼ原本と同一であるが、原本には後に引用される「はしがき」も含めて殆んどルビがない。これは宇野の施したものである(以下、注記しない限り、宇野による)。]

 この一聯の詩について、佐藤は、「即ち知る故人はその愛する者とともに世を避けて安住すべき幽篁叢裡の一草堂の秋日を夢想せる数刻ありしことを、」と註している。
 そうだ、そうなのだ、誠に佐藤の云うとおり、芥川は、こういう事を、(俗な言葉でいえば、手鍋さげても……』というような事を、)夢想せる数刻があったのであろう、「夢想せる数刻」が。
 さて、佐藤は、これらの詩とならべて、『戯れに』(⑴⑵)と題した、

  と住むべくは下町の
  どろは青き溝づたひ
  汝が洗場の往き来には
  昼も泣きづる蚊を聞かん
                      戯れに⑴
[やぶちゃん注:「泣き」は原本「なき」。]

  汝と住むべくは下町の
  昼は寂しき露路の奥
  古簾垂れたる窓の上に
  鉢の雁皮も花さかむ
                      戯れに⑵
[やぶちゃん注:「雁皮」はバラ亜綱フトモモ目ジンチョウゲ科ガンピDiplomorpha sikokiana。別名カミノキ。古くからの製紙原料として知られる。初夏に枝の端に淡い黄色の先端が四裂した小花を房状に密生させる。]

という詩を引いて、「と対照する時一段の興味を覚ゆるなるべし。隠栖もとより厭ふところに非ず、ただその地を相してあるひは人煙遠き田圃を択ばんか、はた大隠のむしろ市井に隠るべきかを迷へるを見よ。然も『汝と住むべくは』の詩の情に於ては根蒂つひに一なり、」と註している。
 この註は誠に『殉情詩集』の作者らしく、この作者と同年の芥川の詩も、たとい夢想としても、誠に純情きわまりないものではないか。
[やぶちゃん注:「根蒂」は「こんたい」と読む。植物の基幹である根とへたの意で、物事の土台、拠りどころ、根拠とするところの意。]

 ここで、又また、寄り路しなけれはならぬ事になった。それは先きに引用した文章のおわりのほうに、『澄江堂遺珠』から幾つかの詩を引きながら、その『澄江堂遺珠』とはどういうものであるか、を書くのを忘れた事に気がついたからである。
 しかし、『澄江堂遺珠』とは、さきに述べたように、佐藤春夫が、芥川の全集のなかにおさめられていない詩で、散佚していた詩をあつめて、一冊の詩集に纂輯した本につけた、題名である。そうして、それは、平凡にかりよく云えば、「芥川が残した珠玉のような詩」という程の意味である。されば、この本の扉には次ぎのように書かれてある。

  芥川龍之介遺著
  佐藤春夫纂輯

 澄江堂
    Sois belle,sois triste
 遺珠

 しかし、これだけではよくわからないから、纂輯者の佐藤の「はしがき」のなかから、つぎに、抜き書きしよう。
[やぶちゃん注:底本では「澄江堂」と「遺珠」は空行なしの併記で、その中央行間に「Sois belle,sois triste」。以下の「はしがき」引用は底本では全体が二字下げ。]

……遺稿は故人が二三の特別に親密な友人に寄せて感懐を述べた一束ひとたばの私書と別に三冊の手記冊に筆録した未定稿とである。この三冊を予はかりに各第一第二第三と呼んでゐるが、第一号は四六判形で単行本の製本見本かとも見るべきものを用ひ、これには作者が自ら完作したかと思へるものを一ペイジに一章づつ丹念に浄写してある。恐らく作者は逐次会心のものを悉くここに列記し最後の稿本をこれに作成する意嚮があつたかと見られる。他の二冊第二号第三号に至つては第一号とは全然その趣きを異にしてゐて、外形も俗にいふ大学ノオトなる洋罫紙のノオトブックでまつたく腹稿の備忘とも見るべきものが感興のまま不用意に記入されてゐるので逐次推敲変化の痕明あとあきらかで、一字もいやしくもせざる作者が心血の淋漓たるもの一目歴然たるに、そのあひだまたをりにふれては詩作とは表面上なんの関聯もなき断片的感想や筆のすさびの戯画などさへも記入されて、作者が心理の推移や感興の程度などを窺ふには実に珍重至極な絶好の資料であるが、それならばこそ一層取捨整理に迷ふ点が尠少ではない。既に作者自身がこれをし得なかつたとさへ見るべきだからである。
[やぶちゃん注:『澄江堂遺珠』原本では「ノオト」「ノオトブック」は、それぞれ「ノート」「ノートブック」。「尠少」は「せんせう(せんしょう)」と読み、少ないこと。]

 つまり、『澄江堂遺珠』は、詩人、佐藤春夫が、「既に作者(つまり、芥川)がこれを為し得なかつたとさへ見るべき」未定稿の詩を、幾度も幾度も通読し玩味し、苦心惨憺して、纂輯したものである。それは、芥川が、もっとも会心切実したらしい二三行の句をいかに活用すべきかに就いて執拗な努力をし、そのために一冊子の大半を費しながら、決定できないところが二箇所ぐらいあるのを、佐藤は、「この二三行を中心としてこの二箇所を探究してみることによつてこの部分はほぼ解決するだらう」というような苦心をかさねているからである。
 されば、この『澄江堂遺珠』を読みつづけてゆくと、芥川が一つの(わずか三四行の)詩をつくるためにいろいろと心をくだいている事が一目瞭然とわかると共に、それがわかるようにした佐藤の並大抵なみたいていでない努力と苦心が察しられ、そうして、佐藤の友情のあつさと詩を愛する心の深さがしのばれる。
 そこで、佐藤が、「詩に憑かれたるがごとき故人の風貌のそぞろに髣髴たるもの」がある、という、芥川がいろいろに書き改めながらついに完成できなかった小曲を、『澄江堂遺珠』のなかから、つぎに、抜き書きしてみよう。
[やぶちゃん注:先に示した如く、「□□□」などは下方(横書きでは右手)が開放になっている長方形の空欄である(但し、原本の長方形は実はもっと長い。従って判読不能三文字の意味ではないことに注意されたい)。また、間に入る佐藤の注は底本では表記通り、ポイント落ちである(この注の改行はブラウザ上の不具合を考慮し、底本によらず『澄江堂遺珠』原本に準じた)。なお、私の所持する『澄江堂遺珠』原本復刻と校訂し、誤りのある箇所は注で示した。但し、宇野の表記に合わせ、漢字は新字体を用いた。以下、同じ。]

  幽かヽヽに雪のつもる夜は
  ココアの色も澄みヽヽヽヽやすし
  こよひ□□□
  こよひはも冷やかに
  ひとりねよとぞ祈るなる

[やぶちゃん注:傍点は『澄江堂遺珠』のものであるが、傍点は原本では特異な白ヌキ「ヽ」傍点である(以下、同じ)。原本は最終行の「独り」の「独」に傍点がある。宇野のミスである。]

  幽かに雪のつもる夜は
  ココアの色も澄みやすし
  今宵はひとヽヽも冷やかに
  ひとりヽヽヽ寝よとぞ祈るなる

  幽かに雪のつもる夜は
  ココアの色も澄みやすし
  こよひはひとも冷やかに
  ひとり寝よとぞ祈るなる
     右は両章とも××を以て抹殺せり。その後
     二ペイジの間は「ひとりねよとぞ祈るなる」は
     跡を絶ちたるもこは一時的の中止にて三
     頁目には再び
[やぶちゃん注:『澄江堂遺珠』では「××」は「×」。]

  かすかに(この行――にて抹殺)
  幽かに雪の
      と記しかけてその後には
      「思ふはとほきひとの上
      昔めきたる竹むらに」
      とつづきたり。さてその後の頁にはまた
  幽かに雪のつもる夜は
     (一行あき)
  かかるゆふべはひややかに
  ひとり寝「ぬべきひとならば」
     (「 」の中の八字消してその左側に「ねよとぞ
     思ふなる」と書き改めたり。)
     さてこの七八行のちには
  雪は幽かにきえゆけり
  みれん□□□
     とありて

  夕づくまきの水明り
  花もつ草はゆらぎつつ
  幽かに雪も消ゆるこそ
  みれんの□□□

などと、似たような詩句が一転し二転して、書きつづられてあるあとに、

  幽かに雪のつもる夜は
  折り焚く柴もつきやすし
  幽かにいねむきみならばヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ
     (一行あき)
  ひとりいぬべききみならば
               併記して対比
               遂行せしか
  幽かにきみもいねよかし
[やぶちゃん注:「幽かにきみもいねよかし」と「ひとりいぬべききみならば」とは底本では二行併記で、その下に「}」が入って「併記して対比/遂行せしか」というポイント落ちの佐藤の注が示されている。]

とあって、更に似たような詩句がとおあまりもあって、その最後がつぎのような詩になっている。

  雪は幽かにつもるなる
  こよひはひともしらじらヽヽヽヽ
  ひとり小床にいねよかし
  ひとりいねよと祈るかなヽヽ

     幾度か詩筆はいたづらに彷徨して時には「いね
     よ」に代ふるに「眠れ」を以てし、あるひは唐突に「な
     みだ」「ひとづま」等の語を記して消せるも
     のなどに詩想の混乱の跡さへ見ゆるも尚
     筆を捨てず
[やぶちゃん注:「唐突」は原本「突唐」であるが、これは原本の植字ミスであろう。また、ここ以下は原本をかなり中略している。]

と佐藤が解説しているように、これに類似した詩が幾つかくりかえし書いてあって、「然も詩魔はなほ退散することなく、更に第何回目かに出直して、」つぎのような詩を書いている。
[やぶちゃん注:「更に第何回目かに出直して」は原本「更に第何回目かを出直して」。]

  ひとり葉巻をすひ居れば
  雪はかすかにつもるなり
  かなしきひとヽヽヽヽヽヽもかかる夜は
  幽かにひとりいねよかし

 ★ひとり胡桃を剥き居れば
 ★雪は幽かにつもるなり
 ★ともに胡桃を剥かずとも
 ★ひとりあるべき人ならば
[やぶちゃん注:この最後の四行詩は上部★部分(横書きでは左側)に四行総てに渡る音楽記号のスラー(丸括弧の始まり)のような記号が附されている。]

 この最後の小曲の後半の「ともに胡桃を剥かずとも、ひとりあるべき人ならば」という二節は、言外に意味ありげな感じがある。しかし、その意味は、つぎにうつす詩を読めば、ほぼ悟れる。

  初夜の鐘の音聞きこゆれば
  雪は幽かにつもるなり
  初夜の鐘の音消えゆけば
  はいまひとと眠るらむ

  ひとり山路を越えゆけば
  月は幽かに照らすなり
  ともに山路を越えずとも
  ひとり寝ぬべき君なれば

[やぶちゃん注:二首目の二行目「月は」には原本では「月はヽヽ」と傍点がある。宇野のミス。]

 これらの詩を読みつづけながら、私は、本音ほんねか、絵空事えそらごとか、と迷うのであるが、纂輯者の佐藤は、これらの小曲の書きつづられてある冊子について、「かくて第二号冊子の約三分の一はこれがため空費されたり。いたづらに空しき努力の跡を示せるに過ぎざるに似たるも、亦以て故人が創作上の態度とその生活的機微の一端を併せ窺ふにるものあるを思ひ敢て煩を厭はずここに抄録する所以なり、」と述べている。
 ところで、そも、これらの「かなしきひと」、「ひとりあるべき人」、「」、「ひとり寝ぬべき君」、などとまれているのは、いずこいかなる『人』であるか、それは、現実の人か、はた、空想(あるいは夢)の人か。
 ここで、又、佐藤がかりに『おいを待たんとする心とねたみ心と』という題をつけている第三号冊子から抜ききして見よう。

  雨にぬれたる草紅葉
  侘しき野路をわが行けば
  片山かげにただふたり
  住まむ藁家わらやぞ眼に見ゆる

     ふたりかの草堂に住み得て願ひは農に老
     いんといふにありしが如し――
[やぶちゃん注:原本では佐藤の注の最後は「如し。――」と句点がある。なお、この詩は第二号冊子の末にも全くの相同形で出現している。宇野の謂いでは、三号冊子になって初めて現れるような書き方をしているので、注意を喚起しておく。]

  われら老いなばもろともに
  穂麦もさはに刈り干さむ

  夢むは
  穂麦刈り干すおいふたり
  あかるき雨もすぎ行けば
  虹もまうへにかかれかし

  夢むほとほき野のはてに
  穂麦刈り干す老ふたり

  明るき雨のすぎゆかば
           らじや
  虹もまうへにかか れとぞ(消)
           れとか(消)

[やぶちゃん注:最終行は底本では「虹もまうへにかか」の下に記号「{」を配して、三つの句が併記されている。但し、三つ目の「れとか」は原本「れかし」で、宇野のミスである。]

  ひとり胡桃を剥き居れば
  雪は幽かにつもるなり
  ともに胡桃は剥かずとも
  ひとりあるべき人ならば

     見よ我等はここにまた『或る雪の夜』に
     接続すべき一端緒を発見せり、宛然八幡
     の藪知らずなり。

 ところで、それからは、又、似たやうな小曲が七八ななやつつ書いてあるが、そのなかの初めのみっよっつには、「みな、穂麦刈り干すおいふたり」と「遠き野のはてに」という句がはいっている。ところが、そのあとの方には、

  雨はけむれるひるさがり
  実梅の落つる音きけば
  ひとを忘れむすべをなみ
  老を待たむと思ひしが

[やぶちゃん注:最終行は原本「思ひしか」。宇野のミスか、誤植である。新全集の「『澄江堂遺珠』関連資料」を見ても「か」である。ところが、後の旧全集の「未定詩稿」では、「思ひしが」となっている。ここは宇野が思わず「思ひしが」としてしまったように、詩想からは、「か」ではなく「が」の、芥川自身の誤記であろう。]

というような詩が書いてあって、それから、又、つぎにうつすような、詩の断片のようなものが、書きつづってある。

  ひとを忘れむすべもがな
  ある日はふるふみのなか
  
  (ママ)[香と書きて消しあるも月にては調子の上にて何とよむべきか不明]も消ゆる
  白薔薇しろばら

[やぶちゃん注:「白薔薇の」の次の最終行「老を待たむと思ひしが」が脱落。宇野のミス。]

  ひとを忘れむすべもがな
  ある日は秋の山峡に

     ……中絶して「夫妻敵」と人物の書き出しありて、
     王と宦者との対話的断片を記しあり……

[やぶちゃん注:「対話的断片を記しあり……」は原本「対話ある戯曲的断片を記しあり……」で大きく異なる。「宦者」は宦官のこと。]

  忘れはてなむすべもがな
  ある日は□□□□

[やぶちゃん注:この間、原本の二つの詩篇断片を省略している。]

  牧の小川も草花も
  ゆふべとなれば煙るなり
  われらが恋も□□□

[やぶちゃん注:この間、原本の四つの詩篇を省略している。]

  夕となれば家々も
  畑なか路も煙るなり
  今は忘れぬ□□□□
  おいさりれば消ゆるらむ
     別にただ一行
     「今は忘れぬひとの眼も」
     と記入しあるも「ひとの眼も」のみは抹殺せ
     り。
     かくて、老の到るを待つて熱情のおのづからなる
     消解を待たんとの詩想は遂にその完全な
     る形態を賦与されずして終りぬ。この詩
     成らざるは惜むべし。
     然も甚だしく惜むに足らざるに似たり。
     最も惜むべきは彼がこの詩想を実現せず
     してその一命を壮年にして自ら失へるの
     一事なりとす。

 さて、これらの詩のつぎに、佐藤が仮りに、『ねたみ心』という題をつけた、数篇の小曲が書いてある。つぎに、それらの詩を抜き書きして見よう。

  ひとをころせどなほあかぬ
  ねたみごころもいまぞしる
  垣にからめる薔薇の実も
  いくつむしりてすてにけむ

  垣にからめる薔薇の実も
  いくつむしりて捨てにけむ
  ひとを殺せどなほあかぬ
  ねたみ心に堪ふる日は

     同じ心をうたひて『惡念』と題したるは

  松葉牡丹をむしりつつ
  人殺さむと思ひけり
  光まばゆき昼なれど
  女ゆゑにはすべもなや

  夜ごとに君と眠るべき
  男あらずはなぐさまむ

     右二句はこれを抹殺しあり。蓋しその發
     想のあまり粗野端的なるを好まざるが
     故ならんか。然もこの実感はこれも歌は
     でやみ難かりしは既に『惡念』に於て我等
     これを見たり。更に冊子第一冊中
[やぶちゃん注:佐藤の注の最後の「更に冊子第一冊中」は原本「更に、冊子第一号中」で、引用の誤り。]

  微風は散らせ柚の花を
  金魚は泳げ水の上を
  もてあそべ画団扇を
  虎疫ころりは殺せ汝がつま
                   夏

[やぶちゃん注:この「虎疫ころりは殺せ汝がつまを」のこの二箇所のルビは例外的に『澄江堂遺珠』原本にあるもの。]
     と云ひ、なほ別に一佳篇を成すあり。――

  この身はふかの餌ともなれ
  汝を賭け物に博打たむ
  びるぜん・まりあも見そなはせ
  つまあるはたへがたし
           船乗りのざれ歌
     ああ人殺さざりし彼は遂に自らを殺せしなるか。非か。
[やぶちゃん注:「びるぜん・まりあ」とはキリシタンの用語で、ポルトガル語の“Virgem Maria”即ち、聖処女マリアの意。「ああ」のルビは例外的に原本にもある。]

  ひとをまつまのさびしさは
  時雨しぐれかけたるアーク燈
  まだくれはてぬ町ぞらに
  こころはふるふ光かな

     その他単独の短章にして作者自身×印を
     以て題に代へたる作十章あるも、こは完作
     とし、て既に全集中に収録されあるを以て、
     ここには抄出することなし。ただ二三句
     のみに止まりて未だ章を成さざれども趣き
     に富めるものを玉屑として拾ひ得て試み
     に次に示さんか。
[やぶちゃん注:「趣き」は原本「趣」。]

  旃檀の木の花ふるふ
  花ふるふ夜の水明り
  水明りにもさしめぐる
  さしめぐる眼は□□□

[やぶちゃん注:「旃檀」通常は「栴檀」と書く。ムクロジ目センダン科センダン Melia azedarach。五月から六月にかけて若枝の葉腋に淡紫色の五弁花を円錐状に多数開く。諺の「栴檀は双葉より芳し」はこのセンダンではなく、全く違うビャクダン目のビャクダン(白檀)Santalum albumであるので要注意(以上は主に)ウィキの「センダン」に拠った。]

  こぼるる藤に月させど
  心は□□□□□□□

  しみらに雪はふりしきる
  □□□□□□秋の薔薇に

[やぶちゃん注:底本・原本共に、この「□」の長方形空欄は下(横書では右)が閉じている。]

     この類なほ入念にこれを求めなば、さすが
     に一代の名匠が筆端より出でし字々句々
     皆その片鱗神采陸離たらざるはなく、ただ
     二三にして足るべからず。就中なかんづく
[やぶちゃん注:「神采」は「神彩」とも書き、すぐれた風貌のこと。通常は「光彩陸離」と書いて、光が乱れ輝いて眩いばかりに美しい形容を言う。「就中」の後は『澄江堂遺珠』原本では読点。宇野の誤記。]

  ゆふべとなれば海原に
  波は音なく
  君があたりの
  ただほのぼのと見入りたる
  死なんと思ひし

[やぶちゃん注:原本では「死なんと思ひし」は前後に有意な空行があり、独立した一行。]

  入日はゆる空の中
  涙は落□□□□□□

  部屋ぬちにゆふべはきたり
  椅子つくゑあるは花瓶はながめ
  ものみなはうつつにあらぬ(この三行消)

     これらの句はやや長き一篇の連続的砕片
     とも見るべき、一頁中に或は二三行或は
     三四行おきに散記せるもの、或は故人が「死
     と戯れたり」と称する鵠沼の寓居の一夕を
     詠出せんとせしに非ざるかを疑はしめて
     唐突たる「死なんと思ひし」の一句は作者が
     後日の「美しけれどそは悲しきヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ」かの自裁あ
     るを以てか、慄然として人を寒からしむ。
     かくけみし来れば一把の未定詩稿は故人が
     心中の消息を伝へて余りあり。語らずし
     て愁なきに似たりし故人が双眸に似て幽
     麗典雅なるその遺詩は最も雄弁なる告白
     書に優るの観を呈するに非ずや。
[やぶちゃん注:佐藤の注の「見るべき、」は原本「見るべく、」。更に後半が省略されている。ここは因みに原本の掉尾の直前である。]

 右の佐藤の解説の終りの方の言葉について、私は、私なりに、意見のようなものを、持っているが、それついては後に述べるつもりである。それから、やはり、右の佐藤の解説のはじめの方の「あるひは故人が『死と戯れたり』と称する鵠沼の寓居」という一節があるが、この家については私は痛ましい思い出を持っているけれど、これも後に述べたいと思っている。

 さて、『澄江堂遺珠』の小曲のなかに、「ココアの碗もさめやすし」、「ココアの湯気もさめやすし」、「ココアの色も澄みやすし」、(この句だけ三所みところある)というところがあるが、『河童』のなかに、「……そこでその雌の河童は亭主のココアの茶碗の中へ青化加里せいかかり入れて置いたのです、」という文句がある。それから、『青化加里』といえば、『青化』が『青酸』となっているけれど、『玄鶴山房』のなかに、「彼女[註―看護婦の甲野]の過去は暗いものだつた。彼女は病家の主人だ医者だのとの関係上、何度一塊の青酸をまうとしたことだか知れなかつた、」という一節がある。
 それから、鵠沼に住んでいた頃、(小穴の『二つの絵』よると、)芥川は、ある日、小穴に、「医学博士斎藤茂吉の名刺を偽造して、藤沢で青酸加里を手に入れようか、」と云った。小穴は、その時の事を、回想して、「真面目に相談しかけてくる彼[註―つまり芥川]を、安心な者に自分は思つてゐた、」と述べたあとで、つぎに抜き書きするような事を、書いている。

 然し、恐ろしいのは、その藤沢の町を、単に夜の散歩としてあるいてゐた一日、通りがかりの店でたむしの薬を買つてゐた自分のうしろから、突如前とつじよまへに出た彼が、「青酸加里はありませんか。」「証明がなければ売りませんか。」と薬屋の店の者に言つてゐた。……
 斯様な芥川確之介を自分は最も怖れ、また、その時こそは彼を憎いやつとも思つた。
 店の者は、「証明がなくてもお売りするにはします。」と言つてゐた。ただ其時はさいはひに青酸加里はなかつたのだ。自分はいまだに忘れない。

 私が、殊更、こういう事を述べ、このような文章を引いたのは、この時分の芥川をいくらかよく知り、ずっとのちに思いあたった事があるからである。
 それから『澄江堂遺珠』から、数多の詩を引き、それに対する佐藤の解説を随所に引用したのは、これらの詩が、殆んど未発表のものであるうえに、詩のよしあしは別として、かぞえどし三十六歳のとしに自らいのちを絶った芥川が、晩年(つまり、大正十三年から昭和のはじめ頃まで)に、人知れず、精根せいこんかたむけて、苦心惨憺して、つくったらしい形跡が、ありありと窺われるからである、そうして、それらの未完成の詩(あるいは完成した詩)に対する佐藤の解説が至り尽していて、私などが到底できるわざではないから、それをなるべく多くの人に読んでもらいたいと思ったからである。それから、これらの詩をひそかに作っていた時分から、芥川は、しだいに健康をわるくし、作家としても『ゆきづまり』を感じ出しているように思われるからである。そうして、いわゆる保吉物はその行きまりの一つの例である。(さきに『澄江堂遺珠』のなかの詩は「殆んど未発表のものである」と述べたが、その中の幾つかは全集(別冊)に出ているのを発見したので、この言葉の三分の一ぐらい取り消す。)
[やぶちゃん注:「青化加里」は化学式KCNで化学的には(シアン化カリウム)と呼ぶが、他にも青酸カリウム・青酸カリ・青化カリとも呼称する。経口致死量は成人で一五〇から三〇〇ミリグラム程度(二〇〇程度と設定する記述もある)で、通常は嚥下後十五分以内に死に至る(胃酸と反応して出るシアン化水素又は青酸が発生、そのシアン・イオンによって体細胞の呼吸が阻害される結果)。「毒物及び劇物取締法」の「毒物」(誤飲した場合の成人致死量が二グラム程度以下のもの)に指定されており、販売するには毒物劇物営業者資格と登録が必要であるが、現在でも購入には薬物取扱い等の特定免許は必要ない。鋼の熱処理、金・銀・鉛などのメッキや分析試薬として販売されてはいる。但し、購入時には名前や使用目的を記載した書面のやり取りを行わねばならない。但し、古くは更に印刷・写真製版・金属の焼き入れや錆落し・塗装・殺虫剤・昆虫標本の脱色防止、果てはパチンコ玉の洗浄などに用いたというから、寧ろ、ごく普通に町工場などにあった薬物であり、極めて特異で入手困難な薬物とは言えないのである――因みに、私は若い頃から、芥川龍之介の死因には疑問を持っていた。所謂、睡眠薬の多量服用では自殺の既遂(成功)の可能性がかなり低いからである。確実な死を望んでいた芥川がジャールやヴェロナールで安心したはずがない。致死性に於いてより万全なものでなくてはならないからである。このシーンのように青酸カリに執拗に芥川が拘ったのも、そこにある。そして何より、宇野の話柄にも既に上っている「或阿呆の一生」の「四十八 死」で、正にこの青酸カリを登場させている事実からでもある。

       四十八 死

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。
 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

――実を言えば、私は高校時代からずっと、芥川の自殺に用いた毒物は青酸カリであろうと踏んでいた。ただ、ここに書かれたように、この平松麻素子から青酸カリを入手したというのは如何にも考えにくいと、やはりずっと思っていた。平松麻素子との心中未遂の一件について調べれば調べるほど、このシーンのように彼女が『持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした』とは考えられなかったからである。そうして――そうして山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」に出逢った。――なるほど! そうか! 直ぐ近くに!――後は、このスリリングな作品をお読みあれ!――ともかく芥川龍之介は青酸カリで自死に美事成功したのである――。
「その中の幾つかは全集(別冊)に出ている」とあるが、これは先にも示した昭和四(一九二九)年岩波書店刊「芥川龍之介全集」(元版全集)の「別冊」で、現行では『澄江堂遺珠』が拾った未定詩稿は、佐藤春夫の解説を除去した形で岩波版全集に「未定詩稿」と題して掲載されており(昭和十(一九三五)年刊行の普及版全集以降の旧全集)、残存するノートに当たってその校訂精度を更に高めたものが新全集に『「澄江堂遺珠」関連資料』として掲載されている(但し、佐藤が言う「第一号」冊子は現在所在不明であり、新全集はその部分を旧全集に依っている)。これらの未定稿は私が纏めた「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の中に所収するので参照されたい。但し、宇野も感嘆するように、佐藤春夫の編になる「澄江堂遺珠」は、それ一冊が素晴らしい稀有の詩集である。是非、「澄江堂遺珠」でお読みになることを強くお勧めする。]

 全集の別冊には『我鬼窟日録』と『澄江堂日録』とがふたつならんで出ている。
 大正十一年の四月八日に、芥川は、長崎の渡辺庫輔にあてた手紙のなかに、「この頃僕書斎の額を改めて澄江堂となす小島政二郎曰澄江と云ふ芸者にでも惚れたんですか僕曰冗談云つちやいけない書斎に名づける程の芸者が日本にゐてたまるものか、これは鶴の前につたあとだと云ひにくいから次手ついでに唯今披露します 一笑」と書いている。ところが、『澄江堂雑記』[註―大正十四年十一月]の中の『澄江堂』という文章には、芥川は、つぎにうつすような事を書いている。

 僕になぜ澄江堂などと号するかと尋ねる人がある。なぜと言ふほどの因縁はない。唯いつか漫然と澄江堂と号してしまつたのである。いつか佐佐木茂索君は「スミエと言ふ芸者に惚れたんですか?」と言つた。が、勿論そんなわけでもない。
[やぶちゃん注:厳密に言うとこれは『続澄江堂雑記』からの引用である。また、最後の部分に「僕は本名の外に入らざる名などつけることは好せばよかつたと思つてゐる。 (十一月十二日)」とあるのを宇野は省略している。]

 ところで、「澄江(スミエ)といふ芸者にでも惚れたんですか、」と云ったのが、小島であっても、佐佐木であっても、あるいは、南部であっても、誰であっても、そんな事は、どうでもよいのである。それより、芥川が、「唯漫然と澄江堂と号してしまつたのである」か、どうか。私は、芥川はそんな事をする男ではない、と思うのである。そうして、私には、さきに引いた、芥川が、渡辺にあてた手紙の最後に書いている、「これは鶴の前につたあとだ」という文句が、(例によって臆測であるけれど、)『澄江堂』と号した事になにか関係があるように思われるのである。
[やぶちゃん注:これは後に宇野も認めるが、宇野の全くの邪推の勘違いである。この「鶴の前」は先行する同年二月二十六日同渡辺宛書簡(旧全集書簡番号一〇〇〇番)の末筆に、
僕も丸山に鶴の前を拵へたい 頓首
とあり、同年三月三十一日同渡辺宛書簡(旧全集書簡番号一〇一二番)では、
あなたの鶴の前にも紹介してくれ給へ
としているのから明らかなように、「鶴の前」は長崎の丸山遊廓の渡辺の愛妓のことで、筑摩全集類聚版の脚注では『庫輔の恋人、丸山の芸者おはまさんにつけたあだ名らしい。』とある。芥川は、最近、小島が澄江堂という雅号に「澄江と云ふ芸者にでも惚れたんですか」というから、「冗談云つちやいけない書斎に名づける程の芸者が日本にゐてたまるものか」と答えたのだが、「これは」あなた(=渡辺)がしきりに美しいといい、綽名で「鶴の前」と附けたくらいの美妓「に会つた後だと云ひにくいから」、長崎に赴く前(一〇一二書簡で『四月上旬か五月上旬頃長崎へ行きたいと思ひます』として宿の世話を依頼した後に表記の「あなたの鶴の前にも紹介してくれ給へ」が続く)、絶世の鶴の前に逢ってしまって、この謂いが嘘になってしまう前に「次手ついでに唯今披露します」というのである。「澄江堂」と「鶴の前」とは全く無関係である。]

 全集第五巻の詩集のなかに『相聞』という題の詩がみっつ出ているが、そのなかにつぎのようなのがある。

 また立ちかへる水無月の
 欺きを誰にかたるべき。
 沙羅のみづ枝に花さけば、
 かなしき人の目ぞ見ゆる。

 ところで、きにくどいほど引いた『澄江堂遺珠』の中にある詩の大部分を仮りに相聞詩とすれば、そうして、あの詩を空想の恋いをんだものとすると、芥川には空想の恋い人があった、という事になる。(空想の恋い人なら、何人あってもつかえないであろう。)
 芥川に『或恋愛小説』[註―大正十三年四月作]という小説がある。その小説には「――あるひは『恋愛は至上なり』――」という傍註がついている。その小説は、「或婦人雑誌社の面会室」が場面で、主筆と堀川保吉の対話体になっている。その対話の中につぎのような話がある。

 保吉 ええ、……世間の恋愛小説を御覧なさい。女主人公はマリアでなければクレオパトラじぢありませんか? しかし人生の女主人公は必しも貞女ぢやないと同時に、必しも又婬婦でもないのです。もし人のい読者のうちに、一人ひとりでもああ云ふ小説をに受ける男女があつて御覧なさい。尤も恋愛の円満に成就した場合は別問題ですが、万一失恋でもした日には必ず莫迦莫迦ばかばかしい自己犠牲をするか、さもなければもっと莫迦莫迦しい復讐的精神を発揮しますよ。……
[やぶちゃん注:本作は大正十三(一九二四)年五月一日発行の婦人雑誌『婦人クラブ』に掲載されたもの。冒頭の「ええ、」の後のリーダは、直前で保吉のとんでもない恋愛小説の結末に、主筆が気色ばんで「堀川さん、あなたは一体真面目なんですか?」と詰問したのに対する、原文の「勿論真面目です。」という言葉を省略したことを示したもので、原文のものではない。末尾のリーダも以下の省略であって、原文のものではない。表記上も複数箇所異なる部分があるが、特に文意に変化を与えていないので校異は割愛する。殆んど作品の掉尾であるので、以下、原文を後略箇所から最後までを総て示す(旧全集によったが、宇野の本文と合わせるために新字体で示し、一部を除いてルビは省略した)。

しかもそれを当事者自身は何か英雄的行為のやうにうぬ惚れ切つてするのですからね。けれどもわたしの恋愛小説には少しもさう云ふ悪影響を普及する傾向はありません。おまけに結末は女主人公の幸福を讃美してゐるのです。
 主筆 常談でせう。……兎に角うちの雑誌には到底それは載せられません。
 保吉 さうですか? ぢや何処かほかへ載せて貰ひます。広い世の中には一つぐらゐ、わたしの主張を容れてくれる婦人雑誌もある筈ですから。

 保吉の予想の誤らなかつた証拠はこの対話の此処に載つたことである。

これを宇野がわざわざ引いたのは、この「或恋愛小説」のヒロインが実は一人合点の空想的恋愛をし、一人相撲をとりながら、結果として豚のように太ってその妄想に耽り続けるという設定を、芥川龍之介の「空想の恋い人」と重ねて論証しようとしているのである。――但し、宇野にも負けず――
――くどいようだが、私はそうは思わない――
――少なくともこの「相聞」一首を芥川は確かに――
――片山廣子のために/ためだけに――
――廣子へ/廣子の前から断腸の思いで去るために――
――詠んだ絶唱である――
――と御目出度くも思い込んでいるのである――
なお、次の引用は別な書簡からの引用の間には空行があるだけで、宇野の解説が入らない、今までのケースにはない、やや不思議な特異な引用法となっているが、これは偶々雑誌連載の切れ目であるからかも知れない(前回分が引用で終わり、偶然、その次の回が引用で始まった。単行本化ではそこに補筆をせずに続けた結果ででもあるのだろう)。]


このさとも鮎はあるゆゑぶとならば茶うけに食はん菓子を賜びたまへ
 左団次はことしはねど住吉の松村みね子はきのふにけり

 これは、大正十三年の七月二十八日、芥川が、軽井沢から、室生犀星にあてた、絵葉書にかいたものである。
[やぶちゃん注:この絵葉書記載の書信は旧全集一二二二書簡の大正十三(一九二四)年七月二十八日軽井沢発信のもの。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注」の「書簡4」を参照されたい。それにしても不思議な引用だ。尚且つ、直前には片山廣子(松村みね子)への「相聞」が示されている。宇野はこの引用で何を言いたかったのか? 単に廣子(そして直後に挙げられる小林勢以子)などなど……数多くの「空想の恋い人」因子となる対象が芥川龍之介の中にはあって、そのどれにも満足せず、その美しい部分だけを空想の中でフランケンシュタインの怪物のように集合合体させて、安全かつ完全なる観念的恋愛の世界に遊んでいた、などと言いたいのか? そもそも、そんな「安全かつ完全なる」恋愛など、恋愛とは言えない――ということは宇野は勿論、芥川龍之介自身でさえ分かりきった真理ではなかったのか?!――と私は宇野に叫びたい気がする。因みに、次の引用の前も一行空きとなっている。]


朶雲奉誦
東京へ帰り次第早速貴意の如くとり計ふべし
   (四行半削除)
それから君、久米へ勢以子せいこ[註―ずっと前に鵠沼の東家の事を書いた時に出て来た元谷崎潤一郎夫人の妹]と小生との関係につきしからぬ事を申された由勢以女子史も嫁入前の体殊に今は縁談もある容子なれば爾今右様の一切口外無用に願ひたし僕大い弁じたればこの頃は久米の疑全く解けたるものの如くやつと自他の為喜び居る次第なりこれ冗談の沙汰にあらず真面目に御頼申す事と思召おぼしめし下されたし
谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汗が出るぜ

これは、大正八年の八月十五日、芥川が、金沢から、秦 豊吉にあてた、手紙のなかの一節である。が、これを読んで、私は、この文章のたしか第五節あたりで、鵠沼の東家あずまやにいろいろな人が集まった話を書いた時、このせい子の事も述べたが、芥川が勢以子とずっと前から近づきであつた事を初めて知ったのである。
 そこで、芥川が仮りにまだ生きているとすると、私は、(私も、)芥川に手紙を書き、その最後に、「冷汗が出たぜ、」と書くであろう。閑話休題。
[やぶちゃん注:「朶雲」は「だうん」と読み、相手から受け取った手紙を尊んで言う書簡用語。唐代の韋陟いちょくは五色に彩られた書簡箋を用い、本文は侍妾に書かせて署名だけを自分がしたが、その自書を見て『「陟」の字はまるで五朶雲(垂れ下がった五色の雲)のようだ』と言ったという「唐書」韋陟伝の故事による。
なお、本書簡(旧全集書簡番号五六五)はこれで終わりではなく、まだ続き、感興に従って解説入りの俳句を六句も記している(「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」の当該五六五の箇所を参照)。従って実際にはこの前半の小林勢以子とのゴシップへの芥川龍之介の感情は険悪でも深刻でも、実はないとうところが肝心である。宇野のこの引用ではまるで『潤一郎にでも』(この実はやっぱり私通に近いものだったことがばれたらと思うと)『冷汗が出るぜ』、とでもいうようなニュアンスに読める。――そうではない。――くどいのだが、私は芥川龍之介の恋愛狙撃のスコープには小林勢以子は絶対に入らないのである。――では、『冷汗が出る』のはなぜか?――明白である。後年の「文藝的な、餘りに文藝的な」論争でも分かるように、先輩作家谷崎は芥川のライバルである。そのライバルの義妹とのゴシップは芥川にとって如何にも不都合である。更に言えば私は、谷崎がそれを知ったらどうするかを考えてみれば、『冷汗が出る』に決まっているのである。則ち、谷崎なら、そこでニヤリとして即座に芥川と勢以子をモデルにしたゴシップ恋愛小説をものすに決まっている――と芥川は直感しているからである。言わずもがなであるが、実際に後の大正十三年から連載が始まる彼の「痴人の愛」の主人公ナオミは小林勢以子なのである。]

    
十二

 私は、前に、芥川の健康がしだいにわるくなり出したのは、大正十三年のはじめ頃から、と書いたが、芥川の健康はもっと前から悪くなっていたのである。
 芥川の神経衰弱は、死ぬ前のとし(つまり、大正十五年)あたりに、おこつたように、表には、思われているが、本当は、すで大正十一年の中頃から、そのきざしはあったのである。
 芥川は、非常な神経質であった、おそろしく神経質であった、普通の人の想像のつかぬ程の神経質であった。芥川とくらぶれば、私などは鈍感の方である。
 真野友二郎という人は、芥川の親友か、芥川とどういう関係のある人か、知らないが、全集の中にこの人にあてた手紙が十三通もはいっている。それで、ちょいと調べてみると、調べてみて、私は、あきれかえった、真野は、ただの芥川の愛読者であり、大正十一年の四月頃に、芥川に、愛読者が誰もよく書くような手紙を出したのが縁で、どういう訳か、手紙を出すごとに、芥川から特別の手紙をもらっている、というような人であったからである、それに、芥川が、その真野の最初の手紙に対して、「先達は御手紙難有う早速御返事を書く気だつたのですが、」とか、「支那紀行もなまけてゐますがその内にそろそろ書き続けますさうしたら又御読み下さい、」とか、「わたしは日頃文学青年以外に読者を有する事を自慢にしてゐましたたまたまあなたの御手紙はこの自慢を増長させる力をそなへてゐたわけですかたがた難有いと思ひました、」とか、いうような、歯の浮くような、事を書いているからである。大正十一年といえば、芥川が、三十一歳のとしであり、まだまだ人気の頂点に立っていた頃である。それであるのに、芥川は、すでに、こういう弱い気もちになっていたのであろうか。たしかに、この時分から、芥川は、しだいに、持ち前の弱気の上に、ますます、気が弱くなって行ったようである。
[やぶちゃん注:「真野友二郎」は現在でも(新全集人名解説でも『未詳。』とあるのみ)如何なる人物か、未詳である。しかし、芥川の『わたしは日頃文学青年以外に読者を有する事を自慢にしてゐましたたまたまあなたの御手紙はこの自慢を増長させる力をそなへてゐたわけですかたがた難有いと思ひました』という言葉は、ある推測を逞しゅうさせる。則ち、彼は芥川が辟易するような『文学青年』気取りの人間ではない、ということは青年ではない可能性が高く、骨董の話などを芥川はしているから好事家ではあるらしいが文系の学者という風でもない。しかし一介の平凡な愛読者の一人というのもやや信じ難い。何故なら、ここでも見るように、芥川は病気の様態や執筆の実体など、かなりプライベートな内容を彼に発信しているからである(一介の在野人で、文壇と無縁なればこそそうした告白の相手として芥川が選んだとは言えるかもしれないが)。郵便物が届く以上、その姓名は偽名とも思えないが、もしかすると非文系的な特別な地位や役職にある実は著名な人物であったが、訳あって市井の一人物として本人も芥川も本人の名でない(しかし同居若しくは知人である人物)の「真野友二郎」という名を用いて書簡のやりとりをしていたのかも知れない。そうでなければ、芥川の死後、全く消息が絶えて不詳というのは如何にも不自然な気がするのである。向後、彼については調べてみるつもりである。]
 ところで、大正十一年といえば、私は、ときどき、芥川に逢っていたのであるが、芥川が私に愚痴のようなものをこぼす時は、いつでも、家庭の事であった。その中で、いつであったか、芥川が、突然、声をひそめて、「……君、……君にもわからないだろうが、僕の家庭はいりくんでいて、……」といった事を、今でも、覚えている。今、これを書いて、ふと、思い出したのは、この『家庭苦』のようなものを、一ばん真剣な顔をして、芥川が、私に、訴えるように、なったのは、死ぬ半年ほど前であった。――
 さて、私が、真野という人の事を、殊更に、ここに、述べたのは、大正十一年の十二月に、芥川が、真野にあてて、二日、十七日、十八日、と、三度も、手紙を書いていて、その手紙によって、芥川があの頃すでに軽くない病気にかかっていた事を、知ったからである。それから、芥川が、そんな病気にかかりながら、私には、病気である事を、一度も話した事がないのを、思い出したからである。
 私は、その芥川が真野にあてた手紙によって、つぎに書くような事を、知ったのである。
 大正十一年の十二月のはじめ、芥川は、心臓をいため、そのうえ胃腸をそこなったために、ずっと病床についていたので、雑誌の新年号に約束した小説を三つ四つ断った。(大正時代から昭和のはじめにかけて、諸雑誌の新年号の小説は、⦅むろん、娯楽雑誌や婦人雑誌は別であるが、⦆前のとしの十二月の十日ぐらいまでに書けば、にあったのである。)
 さて、芥川の病気はそればかりではない。おなじ頃、風をひいたので、医者の薬をのんだところ、その薬の中に、ミグレニンがはいっていたので、芥川は、ピリン疹にかかったために、筆がとれなくなった。
[やぶちゃん注:「ミグレニン」migrenin は古くからある鎮痛処方薬。鎮痛薬アンチピリン九〇%・鎮痛効果を高めるカフェイン九%・クエン酸一%を混合した薬剤。強い鎮痛作用があり、主に偏頭痛などに用いられたが、副作用が出易く、現在はあまり使用されない。]
 このピリン疹というのは、いかなる薬でも、その中にアンチピリンがすこしでもはいっていれば、その薬をのむと、のんだ途端に、蕁麻疹のひどいのにかかったのと殆んど同じ病気になる人がある。そういう人を、アンチピリンの特異体質と云う。こういう事をくわしく書いたのは、私も、アンチピリンの特異体質であるからである。(直木三十五の夫人であった人も、やはり、そうであった。)
 つまり、ピリン疹にかかると、忽ち、皮膚のうちの一ばんやわらかい部分(例えば、唇、手の指の間、その他)が、焼けつくようにあつくなり、かゆくなり、そこが漿液のためにれあがり、その脹れたところが紅色あるいは蒼白となるのである。
[やぶちゃん注:「ピリン疹」はピリン系薬剤の服用によって引き起こされるアレルギー性薬疹である湿疹を指す。解熱鎮痛効果の強いピリン系解熱鎮痛剤アンチピリン・イソプロピルアンチピリン・スルピリンなどで、古くは重いアレルギー反応を起こした。現在では非ピリン系の解熱鎮痛剤が普及し、ピリン疹は少なくなっている。
「漿液」は「しょうえき」と読み、粘性物質を含まない、比較的さらさらした透明な分泌液の総称。]
 芥川は、これにかって、両手に繃帯をかけたと書いているが、これにかかると、脹れたところに脂薬あぶらぐすりつけるので、殆んど身うごきさえ出来ない状態になり、なおるまで仕事らしいものは殆んど出来ない。むろん、原稿など書けない。(余話であるが、昭和二十二年の二月のはじめに、「文藝春秋」に出す小説を書いていた時、『ソレガシ』という咳の薬⦅売薬⦆をのんだ途端に、私は、ピリン疹にかかった。それで、私も困ったが、「文藝春秋」の編輯記者も大へん困った。その時、困り切ったあげく、「では、口述してください、それを筆記しましょう、」と云ったのは、そのころ文藝春秋新社にはいったばかりの、田川博一であった。私は、その時から、ときどき、口述を筆記してもらう癖がついた。それで、これを仮りにい事とすれば、私にとって、これは、田川博一の賜物である。閑話休題。)
[やぶちゃん注:老婆心ながら、若い読者には思わぬ注が必要な時があるので断っておくが、「ソレガシ」は「某」で、商品名を伏せたのであって「ソレガシ」という名の薬の商品名ではない。念のため。
「田川博一」は後に文芸春秋社編集長(在任:昭和三十二(一九五七)年~昭和三十九(一九六一)年)となって作家梶山季之らを発掘、その後は文藝春秋社副社長に就任した。]
 さて、もとに戻って、芥川は、真野にあてた手紙のなかに、「新年号の小説の約束も三つ四つありましたが皆断りました」と書いているように、その翌年(つまり、大正十二年)は、新年号に書いていないばかりでなく二月にもなにも発表せず、三月に、やっと、『猿蟹合戦』[婦人公論]、『二人小町』[「サンデー毎日」]、『雛』[「中央公論」]などを、書いて、お茶をにごしている。
 私は、その頃、芥川の顔を見ると、さすがなんにも云えなかったが、芥川がそんな病気にかかっているとは知らなかったので、芥川ももう駄目になったかな、と心配しながら、すこおし芥川を軽蔑する気にさえなった。
 ところで、ふたたび真野への手紙を見ると、十二月十五日の手紙には寝たり起きたりぶらぶらしている、などと書きながら、その間作った俳句を七つぐらい書きこんでいる。その中に「凧や薬のみたる腹工合」というのもある。但し、私には、このような風雅は、殆んどわからない。
 さて、この十五日の手紙のあとに、十七日に書き加えて、二伸というのがある。これは、かなり驚かされたので、つぎにうつして見よう。

 数日前の小生の家族の健康如左
  主人神経衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸昂進
  妻 産後、脚気の気味あり
  長男 虫歯(歯齦に膿たまる)
  次男 消化不良
   赤ン坊ナリ
  父 胆石、胃痙攣
  母 足頸の粘液とかが腫れ入り、切開す
 これでは小説どころではないでせう。
[やぶちゃん注:「歯齦に膿たまる」の「歯齦」は「しぎん」と読み、歯齦炎は歯肉炎と同じ。慢性歯齦炎を放置した結果、嚢腫(チステ)が形成されたやや重いものと思われる。
「粘液」は恐らく粘液膿炎(滑液庖炎)と思われる。滑液包とは関節にある少量の液体(滑液)を含んだ平らな袋で、皮膚・筋肉・腱・靭帯などと骨が擦れる部分にあって摩擦を減らす機能を持つが、その滑液包の腫脹や痛みを伴う炎症を言う。切開しているところを見ると、細菌感染が疑われる。]

 うつし終って、芥川が、何のために、こういう手紙を書いたのか、わかるような気もするが、はっきりわからない。
 ところで、芥川は、これらの真野にあてた手紙の中に、「年末或は年始に何処かへ湯治に行く筈ですが」と書いているが、湯河原へ『湯治』に出かけたのは、その翌年の(つまり、大正十二年の)三月頃である。
 湯河原といえば、芥川は、大正十年の十月に、やはり、湯治のために、湯河原に行って、二週間ぐらい滞在した。その十月九日に、芥川は、湯河原から、佐佐木茂索にあてた絵葉書のなかに、「南部と一しょに湯河原に来てゐる南部と如何に消光してゐるかひとへに御察しを乞ふ僕神経衰弱なほらず無暗に何か書きたくて困る……」と書いているが、その翌年(つまり、大正十一年)の一月には、『藪の中』、『将軍』、『俊寛』、『神神の微笑』、その他を発表しているから、「無暗に何か書きたくて」困ったのが、本当に、無暗に、書いた事になったらしい。(ところで、これは後に述べるつもりであるが、その時分、芥川が書いた、『トロッコ』と『一塊の土』は、芥川の作として変っている上に、すぐれた小説である、と多くの批評家から褒められたが、私は、この二つの小説が、それぞれ、雑誌で、発表された時、感心はしながら、なにか疑問のようなものを感じた。この二つの小説は、――『トロッコ』は大正十一年の三月の「新潮」に発表され、『一塊の土』は大正十三年の一月の「新潮」に出たが、――両方とも、これらの小説の題材は、芥川が、湯河原から上京して東京の或る出版社につとめていた青年から得たものである。それはそれとして、私は、これらの小説については、後に、あらためて、述べたい、と思っている、芥川は、この二つの小説はかりでなく、『ナニ』かから題材を取って、すぐれた小説を書く特殊の才能を持っていたのだ。そうして、その特殊の才能をはたらかせられなくなった時、芥川は、……)

 さて、さきに引いた芥川が湯河原から佐佐木茂索にあてた絵葉書の中に書いたたよりの中に「南部と如何に消光してゐるかひとへに御察しを乞ふ」という文句があるが、そのような事は、いくら智者の佐佐木でも「察し」はできないか、と思うが、(いや、いや、あの佐佐木なら適確な「察し」がついているにちがいないけれど、)私のような鈍な者にはまったく察しも出来ず見当もつかない。そこで、間にあわせに、南部が、『交遊十年』という文章のなかに、さいわい、この大正十年の十月に、芥川と、湯河原の中西旅館に、滞在した間の事を書いた中に、妙な一節があるから、その一節を読んでみよう。くりかえし云うが、これは『間に合わせ』である事を、かさねて、ことわっておく。つまり、「その場の役に立」ちさえすれはよい、という程のつもりである。

 或る日の午後、タイル張りの浴室で私は[つまり、芥川]と一緒に入浴してゐた。上面の硝子窓には秋日差あきひざしがあかあかと照り、中はひどくあかるかつた、或る刹那、互ひに浴槽のふちこしを降し、温泉の中に両足を投げ出したまま休んでゐたが、彼はふと私の陽物を眺め自分のそれと見くらべながら、
「君も少年時代に自慰をやつたね?」
「うん。……然し、それやア誰でもやることだらう?」
「はは、まアさうだが、その時分に自慰をやつた陽物はすぐ分かるんだぜ。君、エリスの『セクジュアル・フィシコロジイ』ね、それが詳しく説明してゐる。つまり、君と僕の形のやうな……」
「ふつふつふ……」
[やぶちゃん注:「エリスの『セクジュアル・フィシコロジイ』」エリスはイギリスの医師・性科学者・文芸評論家であったヘンリー・ハヴロック・エリス(Henry Havelock Ellis 一八五九年~一九三九年)のこと。『セクジュアル・フィシコロジイ』は一八九七年から刊行が始まった彼の代表作“Studies in the Psychology of Sex”「性の心理」全六巻を指す。因みに彼はそこで、同性愛をも肯定する西欧性科学の先駆的知見を披歴している。]

 話はこれだけであるが、これが本当の話とすれば、こういう芥川の話は出鱈目としても、いう本人が、自分の『物』をソレとして云うのであるから、南部でなくても、誰であっても、芥川のいう事を本当と思って、感心するかもしれない。しかし、私が考えれば、これは、いかにも芥川の云いそうな事であるが、結局、『カラカイ』である、としか思えないのである。(私が殊更こういうことを書いたのは、この南部の文章をよんで、ときどき茶目になった芥川のその時の顔つきが目に見えるような気がするからである。そうして、いかにも芥川が云いそうな事であるからである。)
[やぶちゃん注:ここには更に重要な補足が必要である。高宮檀氏の「芥川龍之介を愛した女」(二〇〇六年彩流社刊)の知見によれば、この一週間前の、九月二十四日の午後、例の食傷人道の中華亭で芥川龍之介は前出の通り、南部と秀しげ子が密会した現場に居合わせてしまったからである(但し、宮坂覺氏の年譜によれば、偶然にもこの湯河原への南部同行の依頼はそれ以前と考えられている)。因みに、この時の小沢碧童と南部と芥川の湯河原滞在時の川辺の岩場での写真が残されている。それを見ると、南部は二人の背後に居て、やや口元に笑顔を浮かべて、向かって左にいる小沢(彼も別段笑ってはいない)の肩に手を置いている。ところが、川側の位置にいる芥川の方には左手を伸ばしている気配がない。寧ろ、その左手は少し見える映像からは自身の腹部を経て、右手に伸びているように見える。――そうして何より芥川龍之介の顔は、目が窪んで口はややきゅっと結んだ形で、如何にも陰鬱なのである。]

附記――この文章を「文学界」に連載した時、(佐藤春夫の『澄江堂遺珠』を引用したしたところを書いた時、)そのあとで、芥川の令甥、葛巻義敏から次ぎにうつすような深切な手紙をいただいたので、それを抜き書きしよう。

……今月号(六月号)中に佐藤春夫氏纂輯の『澄江堂遺珠』御引用になつて居りますが、あれは佐藤氏の御訂正がないので、少し誤まつてゐるかと思はれます。(或は「故人が『死と戯れたり』と称する鵠沼の寓居」といふ解説がありますが、あれらの詩ノオトは「鵠沼時代」のものでなく、亦「死に戯れてゐる」と故人の書き残した、最晩年の「田端時代」のものでもないと思はれます。佐藤氏の挙げてゐられる未定稿ノオト、第一、第二、第三は、少くとも支那旅行前後、その中の遅いものでも、大正十二年以前のものと存じます。
 佐藤氏の挙げてゐられる、第二、第三は、現在私所持いたして居り、ノオト第一⦅即ち清書分⦆は、三男芥川也寸志結婚記念のために、右也寸志に贈りましたが、それらの筆蹟、ノオトの型、紙質から云つても前記の通りと存じます。なほ、ノオト第一節⦅即ち清書分⦆は、大正十二年発行の単行本『春服』のツカ見本と思へるものに清書いたして居り、どんな遅く見ても、大震災以前のものと存じます。――なほ、これらの事は昭和九年版改訂普及版全集で訂正して居りますが、「文学界」御引用の諸文章は、大部分旧版⦅昭和二年⦆全集に拠られて居る事と存じます。[宇野注―これは、葛巻の書いているように、私の使っているのは旧版の全集である]勿論、昭和九年版普及全集も、いまだいろいろの点で十分なものとは存じませんが、特に書簡集などは、改訂増補普及版を御引用下さつた方が、より『芥川龍之介』に就いて、不明な箇所が明らかになるかと存じます。)以上のやうな事を申し上げますのは、あれらの詩草稿ノオトを「故人が『死と戯れたり』と称する鶴沼の寓居」時代とする事によつて、故人の晩年に就いて、より誤まつた混乱が生じやしないかと思はれますので。――勿論、故人の肉親として、故人の様々の欠点もありました事を認めますと、それらの全部を明らかにし、批判されるべきものは、批判されるべきだと信じて居ります。唯、彼の場合にだけ「自ら死を選んだ」と云ふ事によつてか、その死後、(小穴隆一の『二つの絵』以来――或ひは、もつとさかのぼつて、様々の人の『追想』の中に)正しく正確に、彼の姿と云ふものの伝へられてゐないのを残念に存じます。
[やぶちゃん注:「ツカ見本」単行本出版の際、本文用紙や口絵・見返し・扉などを実際の仕上がりと同じ材質・同ページ数で製本した白紙の見本。これを元に更に本の外形・背幅・外函等のサイズが決まる。]
 なほ、これは前々号(四月号)の末尾に御引用の小穴隆一の文章中「賢い婦人」として挙げられてゐる「R夫人、S夫人、S子、Eのおかみさん」のうち、『S夫人』を『謎の女』として御引用になつて居りますが、(これは小穴隆一にお問ひ合せになる事が一番確かとは存じますが、)『謎の女』ではないのではないかと思はれます。御引用の通り『S女史』は『H夫人』であり、『S夫人』はもつとお身ぢかの別人ではなかつたかと存じます。
 以上、余談にわたりますが、久米正雄氏の『月光の女』に就いても、私としては些か疑問を持つて居ります。[宇野註―私も、あの久米の『月光の女』は大いに疑問であると思う](なほ、これは余談の余談にわたりますが、久米正雄氏御所有の『或阿呆の一生』真原稿では、「三十、雨」「三十二、喧嘩」の章の原稿のみ、原稿用紙の紙質が違ひ、而もノンブルが「三十、雨」「三十、大地震」とダブつて居ります。この『或阿呆の一生』の原稿は、現在残つて居ります書きほごし原稿から見ても、確かに二回は書きかへし、書き直してゐるもののやうに思はれます。従つて、大体はそれが年代順に続いてゐるにも拘らず、この「三十、雨」だけは、挿入の場所が違つたのではないかに思はれます。――同「雨」の章の中に、「彼女と一しよに日を暮らすのも年になつてゐることを思ひ出した」云々の句があり、「大震災」以前では意味が不明になりはしないかと思はれます。――福田恆存氏の如きは、戦後の『芥川籠之介』で、「彼が学生時代に犯した肉体上の過ちを世間的道義の場で苦しんでゐたとは思へない」云々と書かれて居りますが、これは小穴隆一のわかりにくい文章を読み誤まられ、亦、この「三十、雨」から逆算されたのでないかと思はれます。――勿論、芥川竜之介の言葉⦅表現⦆その儘を信じませんが、彼は昭和元年末日から、昭和二年一月二日にかけて、鵠沼の家から「小さな家出」をいたして居ります。――これは『侏儒の言葉』遺稿分⦅昭和改元第一日⦆の部分と照応しないか? と思はれます。)
 その意味で、晩年の芥川龍之介は、御引用の前期の『ごまかし』から『真実』を語らうとする態度に苦しみ、すすんで行つたのではないかと存じます。(勿論、これが完全に脱却は出来なかつたかも知れませんが、『真実』を語らうとした事だけは事実であらうかと存じます。――この意味では、彼の「対女性関係」などは、一つの『口実』でしかなかつたやうに思はれます。これを見誤り、この『口実』にだけ重点を置いたのが、小穴隆一の『二つの絵』以下の文章であるやうに思はれます。なほ、小穴隆一の『二つの絵』は、小穴隆一の主観的な『記憶』であり、その事実の部分に就いては、かなりの誤りがある事を信じます。)
[やぶちゃん注:葛巻の小穴を語る口調に鋭さを感ずる読者も多いと思われるが、これは小穴が、その正に「二枚の絵」の掉尾の章「奇怪な家ダニ」で、葛巻を名指しで芥川龍之介亡き後、「芥川龍之介」を食い物にして生きている『芥川家の家ダニ』と蔑称、完膚なきまでに指弾しているからである。因みに、先に見て来た通り、秀しげ子関連で宇野も小穴に煮え湯を呑まされているから、やはり同じく小穴に対して強い不快感・不信感を持っており、この手紙の引用を見ても分かる通り、葛巻には逆に強い親近感を覚えているのが筆致で分かって面白い。]
 なほ、これ亦、余談の余談でございますが、今月号(六月号)御引用の『我鬼窟日録』の終り近くに「愁人」と云ふ言葉が何回か続出いたしますが、この「愁人」が前月号(五月号)御引用の「狂人の娘」に移り変つてゐる間には、七年の移り変りがあるかと存じます。(しかし、そのために、『我鬼窟日録』の記事が全部偽りとは考へられないのであります。それが如何やうなものであれ、このやうな感情を待つた瞬間もある事と存じます。唯、彼自身の不幸は、この場合にも、御引用のやうな前期の『ごまかし』があり、それに身を任せたところにあるのではないかと存じます。)なほ、今月号の「澄江堂の額を改めた」に就いての渡辺庫輔宛の書簡の部分「鶴の前」云々と云ふのは、如何かと存じられます。改訂普及版全集の渡辺庫輔氏宛書簡ならびにその前後をお調べ下されば明らかでないかと存じます。
 以上、取りとめのない事を、突然手紙にて申し上げるやうに存じますが、御連載中の『芥川龍之介』を拝見いたし居り、ちよつと気づきました儘に申し上げます。
 なほ、それが彼自身の欠点であれ、何であれ、それらの総てが正しく正確に伝へられ、明らかにされる事を望んで居りますのは、前述申し上げました通りでございます。――が、晩年、彼自身の書いてゐるとほり、「偉大な作家でも何でもない、群小詩人の一人である」に過ぎない彼自身の場合にあつても、それが自ら死を選んだその経路だけは、-それらに至る細々こまごました事実にせよ、それは何処までも、正しく、正確に伝へたい念願にしか過ぎないのでございます。

 この葛巻の手紙によって、(読まれた人には、もとより、おわかりになるように、)さきに引いた芥川の詩が大正十二年以前に作られたものであり、最後の「ゆふべとなれば海原に」の詩が佐藤自身もいくらか疑っているように、鵠沼で書かれたものでないことがハッキリわかった。それから、一番きれいに書かれているノオト(詩集)が、葛巻から、芥川也寸志に、結婚の記念に、贈られた、というような美しい話を知ることができた。それから、私の書いたことが、あいもかわらず、まちがっていることも教えられて、ありがたかった。それから、『或阿呆の一生』の中の「三十、雨」と「三十、大地震」と、番号が重複していることなども、私などは、この手紙によって、気がついたのである。
 それから、芥川が、昭和元年(つまり、大正十五年)の十二月末から、昭和二年の一月二日まで、鵠沼の家から、『小さな家出』をした、という殆んど誰も知らないことを、知らされた。もう一つ、芥川の「対女性関係」が、一つの『口実』であるらしい、という事(これは私も感じていた事)を知らされた。――これは実にありがたかった。
 それから、この手紙の終りの方の「『我鬼窟日録』の終り近くに「恋人」と云ふ言葉が何回か続出」するというのは、つぎのとおりである。(大正八年の日記である。)

 九月十二日 雨。雨声繞簷。尽日枯座。愁人亦この雨声を聞くべしなどと思ふ。
 九月十五日 陰。午後江口を訪ふ。後始めて愁人と会す。夜に入つて帰る。心緒乱れて止まず。自ら悲喜を知らざるなり。
 九月十七日 晴。午後大彦来る。一しよに、ミカド[註―前に書いた、万世橋駅の二階にあった西洋料理店]へ晩餐を食ひに行く。後小島を訪ふ。江口あり。十時に至つて帰る。不忍池の夜色恋人を憶はしむる事切なり。
 九月二十二日 晴。妖婆続篇の稿やつと終る。夜十二時なり。無月秋風。臥榻に横たはつて頻に愁人を憶ふ。
 九月廿五日 雨。午後院展と二科とを見る。安井曽太郎氏の女の画に敬服する。愁人と再会す。夜帰。失ふ所ある如き心地なり。こゝにして心重しも硯屏の青磁の花に見入りたるかも。数年来始めて歌興あり。自ら驚く。
 九月廿九日 陰。菊池、佐佐木と社へ行く。初音で夜食。佐佐木の原稿を春陽堂へ持つて行く。芝へ行つて泊る事にする。愁人今如何。
[やぶちゃん注:本引用は「愁人」秀しげ子に関わりのある記載の前後を抜粋したもので、途中に省略した箇所が多く含まれる。更に、本来、分かち書きにしている記事を、日単位で連続させている点も日録原本と異なる。以下の注は多く筑摩書房版の脚注を参考にした。
「雨声繞簷」は音ならば「うせいねうえん(にょうえん)」、訓読するならば「雨声簷(のき)を繞(めぐ)り」で、「雨音が軒を巡り」の意。
「尽日枯座」は日がな一日何もせずに凝っと坐っている、の意。
「九月十五日」――この日こそが、芥川龍之介の運命を微妙に変更させた秀しげ子との密通の瞬間の記載である。――
「心緒」は「しんしよ(しんしょ)」と読み、「思いのはし」「心の丈け」の意。
「大彦」野口真造(のぐちしんぞう 明治二十五(一八九二)年~昭和五十(一九七五)年)。染織工芸家。芥川の江東尋常小学校附属幼稚園入学以来の幼馴染。日本橋の呉服屋「大彦」の次男。大正十四(一九二五)に「大彦」を継ぎ、昭和二(一九二七)年には大彦染織美術研究所を創設している。後、戸板女子短期大学名誉教授。
「臥榻」は「ぐわたふ(がとう)」寝台。寝床。
「こゝにして心重しも硯屏の青磁の花に見入りたるかも」漫然と読んでいると、日記本文のように見えるが、これは短歌。原本では前後から独立して四字下げとなっている。「硯屏」は音数律から「けんぺい」と読んでいるものと思われる。
「社へ行く」の「社」は芥川が社員であった大阪毎日新聞社傘下の東京日日新聞社のこと。
「初音」日本橋にあった鳥料理屋。
「佐佐木の原稿」未詳。]

 この『愁人』が、(葛巻の手紙によれば、)七年後には、『或阿呆の一生』の中の「狂人の娘」となるのである。すると、これが、(この娘が、)私の云う『謎の女』という事になる訳であるが、こうなると、私には、何が何やら、わからなくなるのである。
 それから、『澄江堂』という名と、渡辺庫輔の「鶴の前」という文句に意味があるように、私が、書いたところは、アヤフヤであるから、ここで取り消しておく。
 最後に、葛巻の手紙によって、芥川が、晩年に、自分のことを、「偉大な作家でも何でもない、群小詩人の一人である、」と、書いた、という事も、私は、はじめて、知ったのである、しかし、私は、芥川は、偉大な作家ではなかったが、特異な、無類な、作家であった、と信じるのである。
 最後に、この、「思い出すままに、」ダラダラと、述べたてている、文章(『芥川龍之介』)が、葛巻の手紙にくりかえし書かれている、芥川の姿を、「何処までも、正しく、正確に、」伝える、という言葉に、まったく副うていないのは、慙愧の至りである。しかし、自分勝手なことを云わしてもらうと、私のような者には、「物事を正確に伝える」などという事はまったく出来ないのは、知る人は知り過ぎるほど、知っているであろう。
 ところが、最近、吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』という本を手に入れて、(手に入れたばかりであるから、まだその百分の五ぐらいしか読んでいないが、)この本の終りについている解説の中に、この本は「芥川龍之介を知らうとする人にとつてスタンダアドのものであり、この事を除いて、芥川を云々するは怠慢であらう、」と書いてあるのを読んで、私は、このクダラナイ文章を書く前に、(つまり、一年半ぐらい前に、)この本を読んでいたら、私のような微力な者でも、もう少しマシなものが書けたであろう、と、いたく後悔しているのである。(なぜなら、この本の解説の中に、この本を読めば、「少くとも今後の読者、批評家、研究家は或る程度正確な資料を、浅くあり又平凡であらうとも、ほぼ信頼すべきであらう、」と書いてあるからである。そこで、私は、さっそく、葛巻さんに、こんな本のある事を、知らせてあげよう、と思っている。附記――そうして、私も、できれば、この文章の一ばん最後を書く時、この本を参考にしたいと思っている。)
[やぶちゃん注:「吉田精一の『芥川龍之介の芸術と生涯』」は本連載途中であった昭和二十七(一九五二)年に河出書房から刊行された(同市民文庫所収)。]

    
十三

 先代の尾上梅幸の芸談のなかに、つぎのような一節がある。

……父[註―五代目菊五郎]なぞはよく私に言つたもので、お前たちは、一と口にいへば、泥坊がまづいんだ、と云ふのです。他人さまのいろいろな型を取るには取つても、それをどう自分の物にするかといふ点に才覚がない。父なども、いろいろと人の型を盗んでゐるが、いはば、団子を団子として使はない、塩煎餅しほせんべいをもらつても、それを塩煎餅としてべてしまつたんぢや、なんにもならない。それをこなにくだいて、自分流のものをこねあげなければ仕様がないんだ、と父は申してをりました。

 芥川は、五代目菊五郎ほどの名人であったかどうかは別として、また演劇と文学はまったく違う芸術ではあるが、この先代の梅幸の芸談のなかの言葉をもじって云えば、五代日菊五郎さえ舌を巻いておどろくであろうと思われる程の『泥坊』の名人であった、という事になる。つまり、前に述べたように、芥川は、『今昔物語』、『宇治拾遺物語』、『十訓抄』、『聊斎志異』、キリスタン文献、その他は、もとより、シング、ゴオゴリ、フランス、モウパッサン、その他の作品からも極めて巧妙な『泥坊』(この言葉は、さきに引いた先代の梅幸の芸談の中の文句から取ったので、文字どおり『語弊』があるけれど)をしている、それは、たとえば、日本の古典から取る時でも、これをきに書いたように、出世作『鼻』は、『今昔物語』のなかの話をもとにしてシングの戯曲の仕組しぐみを才覚して、「自分流のものをこねあげ」たものであり、『芋粥』は、おなじシングの戯曲の仕組をつかって、『今昔物語』(あるいは『宇治拾遺物語』)のなかの話の主人公とゴオゴリの小説の主人公の話をつきまぜて、「自分流のものをこねあげ」たものではあるが、ふたつともまず渾然とした作品になっているからである。(山本健吉の『現代俳句』[昭和二十七年十月発行]のうちの芥川の俳句の解説をした文章の中に、「狂死した『鼻』の作者ゴーゴリは彼[つまり、芥川]の愛読する作家の一人であつた、」という文句があるが、これを読んで、私は、今更ながら山本の理解の広さに、おどろいた。ところで、いうまでもなく、おなじ『鼻』という題であるが、芥川の『鼻』とゴオゴリの『鼻』はまったく趣きは違うけれど、芥川の『鼻』もおもしろいが、その諷刺の鋭さや書き方の巧みさは、ゴオゴリの『鼻』の方が断然ずぬけている。)
[やぶちゃん注:ここで宇野が「鼻」と「芋粥」での影響関係を語っている「シングの戯曲」とは、間違いなく「聖者の泉」を指していると考えてよい。この芥川龍之介の初期代表作たる両作について、シングの「聖者の泉」との関連を問題にしている研究者は多くないと思われるが、「聖者の泉」を一読されれば、その通底はすこぶる明白である。未読の方は御一読をお奨めする(リンク先はそれこそ芥川を巡る女性として名を挙げている松村みね子(片山廣子)訳の私の電子テクストである)。]
 ところで、仕方しかたはまったく違うけれど、和歌に『本歌取ほんかどり』というのがある。本歌取とは、先人のつくった歌の言葉あるいは思想を借りて、一首の歌に仕立したてることである。例えば、「月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身ひとつはもとの身にして」「色よりも香こそあはれとおもほゆれが袖ふれし宿の梅ぞも」(『古今集』)の二首にもとづいて、『梅の花が袖ふれしにほひぞと春や昔の月にはばや」(『新古今集』)とつくたぐいである。
 この本歌取は、鎌倉時代から流行し出し、今の世でも、れっきした歌人でも、する事はある。いずれにしても、本歌取にかぎらず、『模倣』というものは、いつの世にも、いかなる世界にもあるものである。されば、歌でいえば、『万葉集』の歌のなかにも、例えば、巻四(五二五)の坂上郎女の、
  佐保河の小石[あるいはサザレ]踏み渡りぬはたまの黒馬くろまる夜はとしにもあらぬか
という歌は、巻十三(三三一三)の作者不詳の、
  川の瀬の石ふみ渡りぬばたまの黒馬の来る夜は年にあらぬかも
という歌の模倣であるという事は実にはっきりかる。
[やぶちゃん注:五二五番歌は恋人藤原麻呂に贈った歌で、藤原麻呂の五二三番歌、
  よく渡る人は年にもありとふを何時の間にそもわが恋ひにける
〇やぶちゃんの五二三番歌通釈
……天の川のような恋の苦しみの大河をよく堪えて渡ってゆく人というのは――彦星の如く一年ものあいだ逢わないでもいられる――というけれど……あなたに逢えぬ私は……とても耐えられぬ……ああっ! 私は何時の間に……あなたにこんなにも恋してしまったのか……
への返しで、
〇やぶちゃんの五二五番歌通釈
……彦星のように佐保川の石を踏み渡って貴方の騎った黒馬が来る夜……それは、七夕のようにせめて年に一度でもあってほしいものと……思いまする……
佐保川は現在の奈良市街を流れ、歌枕。藤原麻呂の愛馬は黒馬であった。
三三一三番歌は、男の三三一〇番の長歌及び三三一一番の反歌に対する、三三一二番の長歌に附した反歌で、全体が泊瀬はつせの神事歌物語をモチーフとした歌謡。
〇やぶちゃんの五二五番歌通釈
……川の瀬の石を踏み渡って……あなたの騎った黒馬が……夜毎のことであって欲しいもの……
三三一二番歌では相手の男を「わが天皇すめらぎよ」と呼び、神話世界への人物変換を示している。類歌であるが、宇野の言うように、神話的古形歌謡から見て、この歌の方が坂上郎女よりも先行し、本歌取のような様態となる。]
 ところが、源実朝の、有名な
  箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波の寄る見ゆ
という歌は、やはり、『万葉集』のなか
  逢坂をわがこえくれば近江の海白ゆふ花に浪たちわたる
という歌を真まねたように思われる、(いや、真似ている。)
[「逢坂を」の和歌は三二三八番歌であるが、一般には、
  相坂をうち出でて見れば淡海あふみ海白木綿花みしらゆふはなに波立ちわたる
の句形で諸本に載す。
「相坂」は「あふさか(おうさか)」と読み、山城国と近江国の国境となっていた逢坂関。「淡海の海」は現在の琵琶湖。「白木綿花に」は真っ白にさらした木綿が花を咲かせたように、の意。]
 しかし、この歌は、この『万葉集』の歌が手本になっているとしても、「箱根の山をうちいで見れば浪のよる小島あり供のものに此海このうみの名は知るやと尋ねしかば伊豆の海となん申すと答へはべりしをききて」という詞書ことばがきを見てもわかるように、実朝が、実景に対して感じたままを詠よむのに、おのずから自分の頭あたま中なかにあった歌が浮かび出て、この歌を作ったのであろうから、さきに引いた『泥坊』という言葉をつかうと、これは、極めて巧妙に泥坊をした『佳作』という事になるのである。もっとも、「逢坂を」の方ほうがいくらかすぐれでいるようには思われるけれど、この「箱根路を」は、「逢坂を」より、素朴なところがあり、純真な叙景のおもしろみもあるから、佳作にはちがいないのである。それから、やはり、実朝の
  泉川いづみがはははその杜もりになく蟬のこゑのすめるは夏のふかきか
[やぶちゃん注:「泉川」現在の木津川。「ははその杜」木津川の上流、現在の京都府相楽郡精華町祝園にある森。歌枕。「ははそ」は元来はナラの類の一般名詞。結句「夏のふかきか」は書陵部本の表記で、他所載するものでは「ふかさか」。]
という歌は、『万葉集』(巻六)の「ひとつ松幾代か経ぬる吹く風のこゑのすめるは年ふかきかも」が本になっているばかりでなく、先輩の定家の
  時わかぬ波さへいろにいづみ河ははその杜に嵐ふくらし(『古今集』)
という歌の影響もうけている。が、定家の歌は妙に技巧を弄していて否味いやみがあるけれど、実朝の方は、平淡で、素直で、調子がよくて、気もちがよい。気もちがよい。
気もちがよいと云えば、つぎにうつす歌なども気もちがよい。
  夕さればしは風さむし波間なみまより見ゆる小島こじまに雪はふりつつ
 正岡子規の歌に
  鏡かがみなすガラス張窓はりまど影かげすきて上野の森に雪つもる見ゆ
というのがある。それから、やはり、実朝の作に、
  さは山のははそのもみぢ千々ちぢの色にうつらふ秋は時雨しぐれふりけり
というような好このもしい歌もある。ところが、やはり、これにも、
  さは山の柞ははその色はうすけれど秋は深くもなりにけるかな
  白露はおきてかはれど百敷ももしきのうつろふ秋はものぞかなしき
などという似たような歌がある。(もっとも、これは、実朝が、『万葉集』ばかりでなく、『古今集』や『新古今集』で、歌の勉強をしていた、という事になる。)似たような歌、といえば、島木赤彦の
  わが庭に松葉牡丹の赤茎のうつろふころは時雨ふるなり
は、実朝の「さは山の」の歌が本もとであろう。
[やぶちゃん注:「ひとつ松」は一〇四二番歌で市原王いちはらのおほきみの作。「ふかきかも」とは、この松が想像を絶した「長い年月を経ているからなのであろうよ」の意。
「(『古今集』)」は「先輩の定家の」でお分かりの通り、宇野の誤り。本歌は「新古今集」八三七番歌。「いづみ河」は掛詞で「色に出づ」を掛ける。
〇やぶちゃんの八三七番歌通釈
――四季にあって異なろうはずもない川波にさえ、秋の色に濃く染まっている、この泉川――その川の上の、あの柞の森に秋の強い嵐が吹いているのであろうよ――
「さは山の」という二首初句と宇野の本文それは「さほ山」の誤記か誤植かと思われる。以下、和歌を一般表記に正して示す。
  佐保山のははそのもみぢ千々の色にうつろふ秋は時雨ふりけり
「佐保山」は奈良市佐保山町及び法蓮町・奈保町一帯を含む佐保川北方に広がる丘陵の総称。「千々の色にうつろふ」は「いろいろな色に変ずる」の意。
  佐保山のははその色はうすけれど秋は深くもなりにけるかな
は「古今和歌集」二六七番歌で坂上是則の歌。
「白露は」の歌は「新古今和歌集」一七二二番歌で伊勢の歌。「亭子院降りゐ給はんとしける秋、よみける」の前書を持つ。「亭子院」は宇多法皇、彼の譲位は寛平九(八九七)年七月三日。「白露」は「しらつゆ」と読む。
〇やぶちゃんの一七二二番歌通釈
……秋の白露というものは葉末においては消え、おいては消える変わりやすきものにてございまする……なれど……永えにと思うてございましたすめろぎのお変わりになられるこの秋は……とてもあらゆることが……悲しく思われることにございます……]

 ところで、実朝が本歌のある歌を多く詠よんでいるのは、実朝は、年少にして将軍になり、二十八歳の若さで死んだのであるから、いくら勉強をしても、先進の模倣をまぬがれる域いきまでに達していなかったからであり、『本歌取』はその頃の歌壇の一ひとつの習慣であったからである。
 歌人としての実朝を育そだてあげた、といわれる、藤原定家は、実朝に、「ふるきをねがふによりて、むかしの歌の言葉を、あらためよみかへるを、すなはち本歌とりと申す也、」と述べ、二三の歌を例にあげて、「かやうの歌を本歌にとりて、新あたらしき歌を詠よめるが誠によろしく聞ゆる姿に侍はべる也、是これより多く取れば我が詠みたる歌とは見えず、もとのままに見ゆるなり、」と教えている。
 つまり、この定家の言葉は、他人の作品から借りてもよいけれど、あまり度どが過ぎると、本もとの歌とあまり変りのない歌になる、という程の意味である。
 しかし、実朝は、はじめは、『古今集』、『新古今集』その他から、後には、『万葉集』から、「むかしの歌の言葉」を巧みに借りて、かずかず取すぐれた歌を作つくったが、目立たないようには出来できなかった。それは、実朝が、「むかしの歌の言葉」を借りる事などに、クヨクヨしなかったからでもある。もっとも、実朝は、つぎのような歌も詠よんでいる。
  ものいはぬ四方よものけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ
 これは、もとより、絶唱である。
 ところで、いうまでもなく、短歌はみじかい詩形であるから、小説や戯曲などとちがって、模倣(あるいは、『泥坊』)は、見わけやすい、(あるいは、見やぶられやすい。)しかし、その小説や戯曲でも、具眼者には、その『種』を見やぶられる事もあるのである。それはずっと前に書いたが、話の筋道をはこぶ上うえに必要があるので、重複するけれど、もう一度述べることに、する。(『重複』といえは、実朝の本歌取についても前に少し書いたが、……)
 大作家と称せられ、芥川が殊に崇拝していた、夏目漱石の代表作、(私は、小説のよしあしは別として、代表作と思っている、)『吾輩は猫である』は、アマデュウス・ホフマンの『牡猫ムルの人生観』から、(つまり、この二つの小説が、首尾結構がかなり似ているばかりでなく、迷亭、寒月、鼻子夫人、その他、と類似しているような人物が『牡猫ムルの人生観』にも登場する上に、猫に物語をさせるという構想も共通していかところを見ても、)ヒントを得ていると思われるし、それから、漱石が朝日新聞社にはいって初めて書いた、(はじめて筋らしい筋を仕組んだ長篇小説といわれる、)『虞美人草』が、ジョオジ・メレディスの『我意の人』(“The Egoist”)に、これも、構想から、それぞれの人物たちが似ているばかりでなく、全篇をつらぬいている浪曼的な物語の趣向も類似している、と云われている。
[やぶちゃん注:「アマデュウス・ホフマン」エルンスト・テオドール・アマデウス・ホフマン(Ernst Theodor Amadeus Hoffmann 一七七六年~一八二二年)は後期ロマン派を代表するドイツ幻想文学の奇才。彼の代表作の一つである“Lebensansichten des Katers Murr”「牡猫ムルの人生観」は一八二〇年の作。漱石の「吾輩は猫である」には主人公の猫が本作に触れてドイツにも同じ境遇の猫がいると知って感慨にふけるシーンがある(以上はウィキの「E.T.A.ホフマン」の記載を参照した)。
「ジョオジ・メレディス」ジョージ・メレディス(George Meredith 一八二八年~一九〇九年)はイギリスの小説家。“The Egoist”「エゴイスト」は一八七九年に発表された彼の代表作で、参照したウィキの「ジョージ・メレディス」によれば、『絢爛たるヴィクトリア朝式の文体を駆使して、ウィットあふれる心理喜劇風の作品を多く残し』、『早くに坪内逍遙や夏目漱石が日本に紹介し、特にその文体が』漱石の「虞美人草」などの初期作品に影響を与えている、とある。]
 ところで、漱石の代表作の一つである『草枕』が、明治三十九年の九月号の「新小説」に出た時、誰いうとなくこの小説は、漱石の門人の中なかで一ばん愛された、と云う、鈴木三重吉の『千鳥』[註―おなじ年の五月の「ホトトギス」に出た]に刺戟されて、書かれた、という話がつたえられた。いうまでもなく、その頃、私は、熱心な文学青年であったから、「千鳥の話は馬喰ばくらふの娘のお長で始まる、」という文句からはじまる、『千鳥』の書き出しの五六行は暗記し暗誦したものであった。(もっとも、これは、私ばかりでなく、三上於菟吉などもその一人ひとりであり、その他大ぜいである。)それで、『草枕』なども、その書き出しの「山路を登りながら、かう考へた、」などという文句にも感服した。もっとも、これは、虚子が本もとをひらいたホトトギス派の人たちに共通する同工異曲の書き出しである、例えば、「法隆寺の夢殿の南門の前に宿屋が三軒ほど固かたまつてゐる。」[虚子の『斑鳩物語』]「小春の日光は岡の畑一杯に射さしかけてゐる。」[節の『芋掘り』]「始めて此浜へ来たのは春も山吹の花が垣根に散る夕であつた。」[寺田寅彦の『嵐』]その他であるから、みな、単純であり単調である。(それから、余計な話であるが、ある時、正宗白鳥が、苦笑しながら、「おなじ雑誌に、僕の『旧友』という小説が出ていたのが、『草枕』が出ていたので、ほとんど読まれなかった、」と云った、閑話休題。)
 さて、さきに上あげた漱石の小説のほかに、やはり、漱石の小説の『道草』のはじめの方に、往来おうらいで、「黒い髭を生はやして山高帽をかぶつた」男に逢うところがあり、ドストイェフスキイの『永遠の良人』のはじめの方にも、主人公が、やはり、道で、「帽子に喪章をつけた一人の紳士」に逢うところがあるのを、思い出した。これは何なんでもない事のようであるが、小説のはじめの方にエタイの知れない人物を登場さしておいて、作者がなかなかその人物の正体をあかさない事にすると、そこ妙味が出てくるのである。しかし、こういう方法は一ひとつまちがうと、ケレンになる。(ケレンとは、いうまでもなく、『外連』の事で、外連とは、演劇で、俗受けを専もっぱらにするために、定格にかかわらない演出法をする事で、場あたりを取らんがために演ずる一手法の事である。)ところで、この二つの小説をしいてくらべると、『永遠の良人』にはまったく「ケレン」の「ケ」も感じられないけれど、『道草』にはいくらかケレンくさいところもある。しかし、漱石は、『彼岸過迄』の緒言のなかで、「自分の書くものを毎日日課のやうにして読んでくれる読者の好意だのに、酬いなくては済まない、」というような事を書き、『草枕』のなかには、「普通の小説はみんな探偵が発明したものですよ。非人情な所がないから、些ちつとも趣きがない、」と述べている。それで、漱石は初期の浪曼的な作品にも、『虞美人草』を境にして、人間の心理をあつかい出した、と一般に言われる、『三四郎』から後の小説にもうまい工合ぐあいに、読者の好意に酬いるような書き方をしている。そうして、それはいかなる作家もおよばない『腕』である。それで極限すると、漱石は最高級の上品なケレン師という事にもなる。(そうして、形も味もまったく違うけれど、芥川の好評を博した作品にもやはり、高級のケレンのようなものがあった。そうして、それを仮りに『ケレン』といえば、そういうケレンのようなもののある作品を書かなくなってから、⦅あるいは、書けなくなってから、⦆芥川の作風が少すこしずつ変ってきて、『話』らしい話のない小説というものを主張し出してから間まもなく、芥川は、みずから死をえらんだ――これらの事については後に述べるつもりである。)
 さて、私は、鷗外とならべて文豪と称せられる漱石の、(よかれあしかれ、)代表的な長篇小説である、『吾輩は猫である』と『虞美人草』とに「種」がある、というような事を、軽率に、見やぶったような事を、述べたが、これは、私のような鈍感な者に言える事ではなく、前に述べたように、最もすぐれた具眼者によって見やぶられるのであるから、一般の人には殆んどわからないのである。さて、その最もすぐれた具眼者の一人は、何なんと、中野好夫である。私は、その事を、こんど、「浪漫古典」という雑誌の『夏目漱石研究特輯』[昭和九年九月発行]のなかの中野の『漱石と英文学』という文章によって知ったのである、(いや、教えられたのである。)
 私は、これもずっと前に述べたように、メレディスの『我意の人』(“The Egoist”)は、早稲田学校の英文学科に在学ちゅうに、英語学の教授法の名人といわれた、増田藤之助に教わった事があるが、その講義は一時間に二三行ぎょうか四五行ぐらいしか進まなかった、が、それでも、あまりにむつかしいので、はじめの一ペイジほどで投げ出してしまった、つまり、私などには読めなかったのである。ところが、さすがに英文学の大学者である中野好夫は、やはり英文学の大学者と称せられた夏目漱石でさえ難解と云ったといい、「英本国に於てさへ厄介物視される」というメレディスの小説をスラスラと読みながし、まず、漱石が、メレディスの「影響を云々されるのは少しも不思議でない、」と喝破し、『虞美人草』が、メレディスの『エゴイスト』に「似てゐると云へば実に似てゐる、」と断定し、そのスタイルまで「如何に両者を聯想させるかを例証してみよう、」と述べて、その原文まで引いている、そうして、その原文とそれに似ている『虞美人草』の一部に対照させて、「読者はまづメレディスの原文を十度二十度誦して、一句一句のイメイヂを嚙みしめた上で、漱石の名文?に帰つてみることだ。もしメレディスが日本語で書けば、きつとこの文、少なくともこれに近いスタイルになつたに相違なからうと思ふのである、」とまで云いはなっている。
 昭和九年といえば、中野は、すでに新進気鋭の英文学者などという事は通り過ぎ、今日こんにちのような堂堂たる文学評論家になる下地したじが十分に出来ていた上うえに、今日こんにちのような円転滑脱なところがなかった代りに、ズバズバと物事を論じられた時分であろうから、この文章(『漱石と英文学』)は、今よんでも小気味がよく、私など教えられるところが甚だ多かった。
 さて、中野は、『草枕』についても、その第九章に出てくる画工が女に読んできかせる書物がメレディスの傑作の『ビイチャムの生涯』の一節である、と述べて、その一節を引用して、翻訳である、と云い、更に、「さういへば小野が藤尾にクレオパトラの最後の件くだりを読ませてゐる趣向もたしかにメレディス好みであるといつてよい、」と断じている。
[やぶちゃん注:「ビイチャムの生涯」“Beauchamp's Career”は一八七五年の作品。因みに「草枕」は明治三十九(一九〇六)年の発表。]
 ところで、この漱石の、『虞美人草』も、『草枕』も、共に、メレディスから暗示を得、メレディスの影響らしいものを受けているなどという事は、(私などはうすうす知っていただけであるから、)中野好夫のような、(往年の中野好夫のような、)英文学に造詣がふかい上に、慧眼の士でなければ、わからないのである。
[やぶちゃん注:この謂いは日本語としては厭味な感じを与える。宇野は漱石がメレディスか暗示や影響「らしいものを受けている」ということを「うすうす知っていた」のであり、今のような大家ではなく、若き日の生意気な中野好夫のような、それでいて英文学に造詣が深く、慧眼の士に属する真の知識人(「うすうす知っていた」以上、そこには宇野が当然含まれずにはおかない)でなければ、そうした漱石からのメレディスからの影響関係を見ぬくことは出来ないのだ、と手前味噌を言っているのと何ら変わりがないからである。勿論、宇野はそのような意図で語っているのではないのだが、ここは宇野のくだくだしい屋上屋の口説き(私は例えば宇野の句読点の打ち方――特に読点の打ち方には、一種のパラノイア的印象を受けることがある)が、時に慇懃無礼な厭な感じを与えるケースである。]
 ところが、漱石のような人物でさえ、五代目菊五郎の謂いう所の『泥坊』を、中野好夫、その他に見やぶられたのに、芥川は、『泥坊』をしても、「素材を取って……」と云われながら、「あくまでその時代の雰囲気をやぶらず、その範囲の中に、文明批評をし、諧謔や皮肉を弄し、……」などと称せられて、泥坊よばわりを殆んどされた事がない。
 これは、二十五歳の年に、『鼻』をみとめられ、(殊に漱石の推奨によって、)一躍その名声があがった事と、そのポオズの見事さに目を見はらせた事もその一つであるが、それ以上に、それらの題材が芥川の身についていたからである、一と口にいうと、初期の作について云えば、諧謔も、皮肉も、キリスタン好みも、深浅やよしあしは別として、芥川の持っていたものであるからだ。(そういう点では、漱石とホフマンやメレディスなどとの関係は本質的なものでなく、潤一郎が、王朝や徳川時代や支那の話を題材にしたものでも、それらが巧みに述べられてあっても、作者の『頭あたま』で作つくられている。そうして、)芥川のそれらの小説は、ほめていえば、芥川なりに、『心』で書いているからである。
 しかし、芥川のそれらの物語がたいてい陰気であるのが、それが芥川の心(あるいは、心の隅すみ)にあった事に私が気がついたのは、ずっと後のちであった。
 それで、出世作の『鼻』でも、『地獄変』、『奉教人の死』、『秋山図』、(いかにこれとそっくりの小説が支那にあるにしても、)『六の宮の姫君』、その他は、(思い出すままに上あげても、)かりに、また使うが、五代日菊五郎のいう『泥坊』をしたものであるとしても、みな、渾然とした、水際みずぎわだった作品である、まことに水際だった作品である。

 私が、はじめて、芥川はずいぶん気もちのわるい小説を書くなあ、と気がついた小説は、『往生絵巻』[大正十年四月]をよんだ時である。

 芥川は、『糸女覚え書』[大正十三年一月]でも、傑作といわれている、『地獄変』[大正七年五月]でも、両方とも、主人公を自殺させた上に、屋敷に附つ火びをさせている。

 小島政二郎であったか、千葉亀雄であったか、(忘れたけれど、)芥川ぐらい、人の死ぬとこや人の死ぬ場面を数多く書いた作家は稀である、というような事を書いていたが、まったくその通とおりである。それで、これも、思いうかべるままに、その例をあげると、さきに上あげた『地獄変』と『糸女覚え書』とを別として、『羅生門』、『奉教人の死』、『藪の中』、『黒衣聖母』、『開化の殺人』、『枯野抄』、『六の宮の姫君』、『手巾』、『一塊の土』、『将軍』、『温泉だより』、『蜃気楼』、『彼』、『玄鶴山房』、その他――これだけでも何と十六篇もある。
[やぶちゃん注:千葉亀雄(明治十一(一八七八)年=昭和十(一九三五)年)は評論家・ジャーナリスト。「国民新聞」「読売新聞」「時事新報」「東京日日新聞」などの社会部長や学芸部長を務め、文芸評論も書いた。「新感覚派」の命名者として知られる(以上はウィキの「千葉亀雄」に依った)。]
『死』を題材にした作品は沢山たくさんあり、『死』をとりあつかった作家は数多あまたある。しかし、人の死を書くのに、人の死ぬ場面を現すのに、芥川ほど、向きになり、真剣になり、自分自身が『死』に憑かれたようになり、それを書くのに、いかにも楽しそうに見えたり、あるいは、舌なめずりをしているように思われたり、あるいは、ほくそ笑えんだりしているのではないか、と想像されたりする作家は、真に稀有というべきであろう。

     
十四

 実をいうと、私は、こういう事を述べながら、とびとびには読んでいたけれど、芥川の小説は、(晩年のものは別として、)芥川の生きていた間は、あまり読まなかった、芥川の小説をそれほどすぐれているとは思わなかったからである。それは、どんな話でも、かならずひとつの物語に仕上しあげ、その物になにかカラクリのようなものがあるのが気になったからである、そうして、時に巧妙な『傀儡師』のようにも思われたからである。
 しかし、たびたび云うが、たとえば、初期の作品の幾つかを読みかえしてみても、それほどすぐれた小説とは思われないのに、それぞれ心にくいほどうまいところがあるのに、私など、改めておどろかされる事がしばしばある、もっとも、これは、もとより、初期の作品だけではなく、芥川の小説のほとんどすべてについて云われる事であるが。こういう事をかんがえると、誠に妙な事をいうようであるが、私は、芥川の小説は芥川という人間よりもすぐれていたのではないか、というような事を、ふと、思うことがある。が、又、芥川の小説より芥川という人間の方がおもしろさに於いては、ずっとおもしろかった、とも思うのである。
 ところが、一般に、芥川の初期の作品に対して、簡単に、皮肉がある、とか、諷刺がある、とか、諧謔がある、とか、機智がある、とか、あるいは、「逆説的に人心の機微を穿うがっている、」とか、云われているけれど、(もっとも、そういうところはあるが、)私は、こんど、その初期の小説を幾つか読みなおしてみて、そういうものとはまったくちがうものがある事に、気がついた。それは、例えば、その初期の作品のなかの代表作のように称せられている、『鼻』と『芋粥』の最後の、

 ――かうなれば、もう誰もわらふものはないにちがひない。
 内供ないぐは心の中でかう自分に囁いた。長い鼻をあけがたの秋風にぶらつかせながら。(『鼻』)

……晴れてはゐても、敦賀の朝は、身にしみるやうに、風が寒い。五位ごゐあわてゝ、鼻をおさへると同時にしろがねひさげむかつて大きなくさめをした。(『芋粥』)

 私は、こんど、この二つの小説の最後のところを読んだ時、(ずっと前に、やはり、ここのところを引いたが、こんどは、)誇張して云えば、あけがたの秋風に長い鼻をぶらつかせている内供も、身にしみるような風の吹く正月の朝、芋粥が一ぐらいはいっている銀の提にむかって、大きな嚔をする五位も、両方とも、芥川その人のような気がした。そうして、私はなんともいえぬ侘しい気がした。
 しかし、これは、私の思い過しであるとしても、といって、当時の二三の批評家がいたように、このふたつの小説が共に人生に対する幻滅をあらわしたものである、というような見方はありふれている。それより、この二つの作品は、ずっと前に述べたように、シングの『聖者の井戸』(“The Well of Saints”)と結構も主題(テエマ)もそっくりである、という見方みかたの方がおもしろいではないか、つまり、両方とも、結局、「理想は理想であるうちが尊い、」というようなテエマで書かれたものであるから。(なお、このシングの戯曲は、前に、『霊験』という題で翻案され、たしか、上演された事がある。)
[やぶちゃん注:「シングの『聖者の井戸』(“The Well of Saints”)」既出の「聖者の泉」シングの「聖者の泉」と(先には宇野は「井戸」ではなく「泉」と訳している)。「『霊験』という題で翻案」も既出。坪内逍遥作。]
 さて、テエマといえば、芥川の初期の作品には、(初期の小説ばかりでなく、)菊池の作品ほどあらわではないけれど、それぞれ、テエマがある。しかも、そのテエマが、ひねりもふたた捻りもされているうえに、機智縦横の才筆によってかしてある。つまり、芥川の小説は、題材が新奇であり、著想ちゃくそうが警抜であり、文章が絢爛であったから、すこし誇張していえば、類を絶していた。それで、こういう小説を矢つぎばやに発表した芥川が、その頃、尋常茶飯の事を目立めだたない文章で書いた自然主義風の小説にうんざりしていた文壇の人気を、一人ひとりさらってしまったような観のあったのは当然でもあったのである。
 ところで、話はかわるが、たとえば、『羅生門』のなかで気がついた事を述べてみよう。(読者よ、これは、映画や芝居で、勝手に、しやあしゃあとして、『藪の中』や『偸盗』の中から、筋や人物を取って、筋をつくりかえ、あるいは、まったく別の物にして、外国に持ち出して見せたり、外国人に見せたり、している、あの、『羅生門』ではない。)
[やぶちゃん注:ここで宇野が黒澤明の映画「羅生門」をそれとなく唾棄すべきものとして批判している点に着目したい。]
 さて、『羅生門』は、一部の人か知っているように、『今昔物語』の巻二十九の『羅城門登上層見死人盗人語』[やぶちゃん注:底本では「らせいもんのうはこしにのぼりて、 しにんをみたるぬすびとのこと)と訓読するための返り点(一二点)が附くが、省略した。]をもとにしてつくったものであるが、もとは、唯、一人の盗賊が、京にのぼり、日の暮れるのを待つために、羅生門の楼上にあがって、たまたま、死人の髪の毛を抜くおうなのいるのを見つけて、いきなり、死人の衣と嫗の衣と髪の毛を奪って、逃げ去った、というだけの話である。それを、芥川は、盗人を主人からひまを出された下人げにんとし、その下人に、餓え死にをするか泥坊になるか、と途方にくれさせ、雨の降りしきる夕暮れに、ねぐらをもとめるために、羅生門の楼上にのぼらせ、その楼上で、幾つかの男女の死骸のころがっているなかに、餓え死にしたくないばかりに、鬘にするために女の死骸の髪の毛を抜いている老婆を見出ださせる、そこで、下人がその罪つくりな事をなじると、生きて行くために仕方なくするわざだから、死人とて、「大方おほかたわしのする事も大目に見てくれるであろ、」と老婆が答える、これを聞くと、下人は、いきなり、老婆の襟上えりがみをつかんで、「では、おれ引剝ひはぎをしようと恨むまいな。己もそうしなければ、饑死をするからだなのだ、」と云いながら、その著物きものを剥ぎとり、しがみつく老婆を死骸の上に蹴たおし、急な梯子をかけおり、「黒洞々たる夜」の闇のなかに、逃げ去ってしまう、という事にしている。
 これだけ見れば、(これは『羅生門』の筋を抜ききしたのであるが、)実にはっきりした(はっきりし過ぎた)テエマ小説である。それで、当時の或る批評家は、この小説を「生きんがためのエゴイズムの無慈悲」を刳り出したものである、と云い、「生きんがための悲哀」をえがいたのである、などと評している。しかし、これは唯物論にかぶれた評論家と概念的な見方しか出来ない批評家の云うことであって、私などは、この小説をよんで、そういう考えは殆んどまったく浮かばなかった。それから、作者は、この小説に、羅生門の楼上のむごたらしい光景や人間の修羅場などを描いたつもりであるかも知れないが、それは、文字(あるいは文章)にあらわれているだけで、肝腎の実感はほとんど出ていない。それは、芥川は、理智派とか新技巧主義とか称せられたように、ひとつの小説を作るのに、まず、題材がきまると、それを、『あたま』(理解力と智慧)で丹念に組み立て、一字一句に凝った文章で、書く、そのために、文章が目立ちすぎて、書かれてある事が引き立たない場合ばあいがしばしばあるからである。たとえば、『羅生門』の中の、楼上の光景を述べた一部の、「その死骸は皆、それが、かつて、生きてゐた人間だと云ふ事実さへ疑はれる程、土を捏ねて造つた人形のやうに、口をいたり手を延ばしたりして、ごろごろゆかの上にころがつてゐた」などという所は、顔をそむけたくなるような場面であるはずであり、老婆の顔を叙した一部の、「皺で、ほとんど、鼻とひとつになつた唇を、なにか物でも嚙んでゐるやうに動かした。細いのどで、とがつた喉仏のどぼとけが動いてゐるのが見える。その時、その喉から、鴉の啼くやうな声が……」いう所なども、かなり凄味が感じられる筈であるのに、両方とも、実感がせまってこないのは、作者が、これらの事から遊離しているからである、題材と間隔をおいて描いているからである、題材だけに興味を持ち、それを現す文章に凝りかたまり過ぎるからである、そうして、題材を身近みぢかに感じていないからである。(私は、僭越な云いかたであるが、前に引用した、羅生門の楼上の死骸がゆかの上にころがっている光景を述べた中の「それが、嘗、生きてゐた人間だつたと云ふ事実さへ疑はれる程」という文句は、漱石の文章の影響が幾らかある、という事などは別として、不要である、と思うのである。)
[やぶちゃん注:この「羅生門」文体論は有象無象の同作評論よりも鋭い慧眼を備えたものである。]

 芥川の小説は、(あるいは、芥川の小説の文章は、)だいたい、簡潔であるが、ときどき、低徊趣味の漱石や理窟っぽい鷗外の影響がわるく現れて、(それ以上に、芥川流に、いい気になって、)叙述し過ぎたところがしばしばある。しかし、それが、物語の、進行のために、あるいは、進行ちゅうに、巧みに、使ってあるので、たいていの人に、気がつかないうえに、感心させられる事さえある。ところが、それは、気がつき出すと、芥川がこのんでよく使った言葉を借りると、かなわないヽヽヽヽヽ、と思うようになる、「もう沢山たくさんだ、」と思うようになる。そうして、その例は、『羅生門』からでも、『鼻』からでも、『芋粥』からでも、容易に、げられるが、それは、煩瑣になるから、はぶくことにして、それのもっともいちじるしい『芋粥』について、その事を、漱石が、書簡[大正五年九月二日に芥川にあてたもの]のなかに、書いているから、つぎに、引用しよう。

……あれ[註―『芋粥』のこと]は何時いつもより骨を折り過ぎました。細叙絮説に過ぎました。然し其所そこに君の偉い所も現れてゐます。だから細叙が悪いのではない。細叙するに適当な所を捕へてゐない点だけがくだくだしくなるのです。Too labored といふ弊に陥るのですな。うんと気張り過ぎるからああなるのです。物語り類は(西洋のものでも)シムプルなナイイヴな点に面白味がともなひます。惜い事に君はそこを塗り潰してベタ塗りに蒔絵を施しました。これは悪い結果になります。
[やぶちゃん注:「Too labored」は、非常に努力の跡が見えるものの、それがあまりに過剰過ぎて(若しくは見当違いの箇所を細叙し過ぎて)不自然でぎこちないものとなる、ということを言っていよう。]

 この漱石の文章は、もとより、ひとつの批評であり、急所を突いているところもあるが、かなり気をつかった云いかたをしているうえに、いたわった云い方もしている。ところで、この書簡の中に「気取り過ぎる」という文句があるが、それと語路ごろが似ているけれど、別に、「気取り過ぎる」という見方みかたもあるのではないか。
 ところで、芥川は、『羅生門』[大正六年六月発行]を出した頃かなりしたしくしていた江口の『羅生門』の批評を期待しながら気にしていたが、(その頃、江口は、新進気鋭の評論家であった、)その江口の評論[註―「芥川龍之介論」たしか時事新報連載]を読んだあとで、すぐ、江口にあてて出した手紙の中に、「少し褒めすぎてます」と書き、その少しあとに、「『羅生門』は当時多少得意の作品だったんですが新思潮連には評判がわるかつたものです成瀬が悪評の張本だつたやうに想像してゐますが、」と述べている。(私には芥川が『羅生門』を「多少得意の作品だつた」と云った気もちがわかるような気がする。)
 さて、江口のその評論は、芥川が書いているように、「少し(少しである)褒めすぎて」いるところもあるけれど、『羅生門』の中におさめられているひとひとつの小説については、(その中の幾つかについては、)非難すべきものはちゃんと非難している。それから、江口は、不満に感じるのは、「描かれたその心理が、善の場合にも悪の場合にも単なる普通の善又は悪を唯その儘の形その儘の質に於いて拡大してゐるに過ぎない事である。少しも病的な処超常識的な処がない。芥川君がとかく作の基調に熱と力とを欠くのは是にも半ば因するのである、」とも論じている。
 それから、おもしろいのは、江口が、おなじ評論の中で、「悪口を云つた次手ついでにもう一つ芥川君の使ふ小道具にちよつと異議を呈出したい。それは『忠義』に於いて狂乱後の主理に時鳥の事を口走らせたり、『運』に於いて藪に鶯を鳴かせたりするのは、一種の伝統主義と見ても余りにふるい。余りにティピカルであり、固定的である、」と難じているのに対して、芥川が、さきに引いた手紙の中で、「小道具のわるいうち『運』のふるいのを又又承知の上で使つたんです、あれは随分古い情調に興味を持つた作なんですから、『忠義』の時鳥はお説どほりに活字になつた時から不愉快なんです、」と弁解している事である。(ここに昔の江口の評論の一部を引いたのは、私がその半分以上同感であるからである。)
 小道具といえは、これは『小道具』ではないが、作者は、『羅生門』の主人公の下人の頰に、「赤くうみを持つた大きな面皰にきび」をつけている、そうしてこの『面皰』を三度つかっている、つまり、初めは、「楼の上からさす火の光が、かすかに、その男の右の頰をぬらしてゐる。短いひげの中に、赤く膿を持つた面飽にきびのある頰である、」であり、次ぎは、「その太刀のつかを左の手でおさへながら、冷然として、この話を聞いてゐた。勿論、右の手では、赤く頰に膿を持つた大きな面皰を気にしながら、聞いてゐるのである、」であり、最後は、「さうして、一足ひとあし前へ出ると、不意に右の手を面皰から離して、老婆の襟上えりがみをつかみながら、……」である。これを、ある批評家は、「主人公の下人の頰の上に大きい面皰を生ぜしめたユーモラスな点景」とめているが、この面皰は、この下人の頰におのずから生じたものではなく、作者の芥川が、『羅生門』という舞台に、主人公の下人を登場させる時、その下人の扮装をする際に、ほくそみながら、(これは誇張であるが、)附けたものであろうが、しかし、また、小説の筋をはこぶための手段の一つでもあるから、やはり、小道具のひとつ、と見てもよい。但し、この場合、『小道具』とは、「進行がかり」という程の意味であり、『進行』とは、「進ませる」(あるいは)「はかどらせる」というくらいの意味である。
 そういう意味では、芥川は、小道具つかいの名手であった、と云えよう。しかし、『上手じょうずの手から水が漏る』という諺のようなものもある。
 ところで、『羅生門』は、下人が普通の意味で悪人とめつけられ、物語は古風で陰惨きわまりなく、新進作家の小説らしい新鮮味などまったくなく、あまりの暗さに読むに堪えがたいようなところもあるが、それを一気に読ませるのは、よかれあしかれ、作者の彫琢された技巧がずぬけているからである。いずれにしても、『羅生門』の中に、おさめられている十九篇のうちで、この『羅生門』は、すぐれた作品のひとつである。
 近頃、(というよりも、この数年来、)「芥川に代表作というものがあるのであろうか、」という人がしばしばある。それを、私など、よく聞かれる事があり、かく云う私も、ときどき、こう考える事がある。ところで、それは、ない、と云えば、ない事になるが、ある、と云うと、四五篇か五六篇ぐらいはある、という事になる。そうして、その四五篇か五六篇のなかに、まず、確実に、はいるのは、『地獄変』であろう。
 『地獄変』は、(『地獄変』も、)やはり、『宇治拾遺物語』の第三の『絵仏師良秀家の焼くるのを見てよろこぶ事」、『十訓抄』の第六の「絵仏師良秀といふ僧」、それから、『古今著聞集』の第十一の画図第四話の、弘高の地獄変を描いた話などを参照し、それをもとにして、創作したものであろう。
[やぶちゃん注:「弘高」巨勢弘高(こせのひろたか 生没年未詳)平安中期の宮廷絵師。広貴・広高とも書く。大和絵の創始者にして巨勢派の第一世巨勢金岡は曾祖父に当たる。]
しかし、この小説は、おなじ昔の物語(というより、小話)を集めた本の中の話を素材にした、『羅生門』、『鼻』、『芋粥』とくらべると、規模が大きく、物(殊に人間)の見方も深くなり、空想も自由自在になった。(もっとも、この事は、この『地獄変』ばかりでなく、『傀儡師』[註―第三短篇集である、大正八年一月に発行される]におさめられている三四篇の小説についても、云える。――それについては、後に述べるつもりである。)
 さて、『地獄変』は、芥川の小説を多く読んでいる人も、たいていの批評家も、めるばかりでなく、芥川の、いわゆる王朝物といわれる諸作の中の第一等の小説であり、一代の名作であると称する人もかなりある。
 これは、――筆を取っては当代随一といわれながら、貧弱で、変り者で、人を人とも思わぬ、絵師の良秀が、良秀の倣慢を日頃ひごろこころよく思っていない大殿から、ふいに、地獄変相の絵を屏風に描け、という難題もちかけられた、が、良秀は、承知して、一所懸命に製作をはじめた、そうして、それが完成に近づく頃、ある日、良秀は、大殿に、自分は見たものでなければ描けないから、檳椰毛の車に上﨟を一人ひとりのせて、「私の見てゐる前で、火をかけていただきたうございまする、」と願った。大殿は、ちょっとためらっていたが、やがて、引きうけて、ある夜、洛外の荒廃した山荘の庭で、常用の檳榔毛の車に、自分がし使っていた良秀の娘を、(上﨟の姿をさせた良秀の娘を、)くさりでしばって、火をかけさせた。これを見た良秀は、一度は、「恐れと悲しみと驚き」のために正気を失いそうになったが、やがて、自分の娘が火焔につつまれている事さえも忘れてしまったように、「両腕をしつかり胸に組んで、」この世ながらの『地獄』の光景に眺め入った、そうして、世にも稀な傑作を完成した、が、その翌日、自ら縊れて死んだ。(荒筋)――というような小説である。
[やぶちゃん注:「地獄変」は私のテクストと私のオリジナルな詳細注がある。御覧あれ。]
 この小説について、ある批評家が、「王朝の盛時を背景に、異常の名匠を主人公として、彼の製作に関する慄然たる物語に取材し、凄惨の気の中に、人と芸術家との相剋を描き出している。その主人公に配するに、蒙宕な大貴族、可憐なる少女等を以てし、この貴族の侍者の口述体に擬して名家に伝わる重宝の由来を叙し、漸層的に展開される怪異の情景の中に主人公の苦悩を語り、芸術至上の主題を表出している、」といている。
[やぶちゃん注:「豪宕」は「ごうとう」と読み、豪放と同義。気持ちが大きく、細かいことに拘らずに思う儘に振る舞うこと。また、そのさまを言う。わざわざ鍵括弧で引用しているにも関わらず、この批評が誰のものかは示されていないが、後文を読めば分かる通り、宇野はこの如何にも事大主義的な(と私も感じる)褒め殺しのような、ベタ褒めの評価(やはり後に掲げられる『傀儡師』の広告文でも同様)を認めていないからである。なお、私は本文未読であるが、「地獄変」を非常に高く評価した作家に正宗白鳥がいる(『中央公論』(昭和二(一九二七)年十月)掲載の「芥川氏の文学を評す」)。]
 これは、誠に、もっともな説である、(但し、)尤もらしい説でもある。しかし、あたり前の話であるが、小説というものは唯よむのであるから、この『地獄変』でも、たいてい、こんな事を考えながら、読まない、そうして、私も、その一人ひとりである、しかし、『地獄変』を読んでいる私は、(『地獄変』を読んだ人たちは、)この説を読めば、「なるほど、そんなものかなア、」とは思う。
 いうまでもなく、この説を述べた人は、『地獄変』を読んでしまってから、このように考えたのであろう。しかし、私は、『地獄変』を読みながら、言葉にして云えば、おもしろい話だなア、凄い話だな、(ときどき、うまいなア、)などと思いながら、一気に、読んだ。一気に読んだのは、一冊の本になってから読んだからである。しかし、又、この小説は一気に読ませるように書いてある。
 この小説は、東京日日新聞と大阪毎日新聞に連載されたものであるからか、一回一回おもしろく読めるように書かれてある上に、明日あすが待たれるように書かれてある。しかし、おなじように、「明日」が待たれるように書かれてあっても、漱石の新聞小説は淡淡としており、(余計な話だが――山本有三のは常識的でポオズがあり、)この『地獄変』は、作者にはそんな気もちはなかったであろうが、低級な読者は、(あるいは、高級な読者も、)「猟奇」で釣るように見えるところもある。唯、『怪奇』は芥川の好むところであるとしでも、この、豪宕な、不屈な、吝嗇な、樫貪な、倣慢な、絵師が、一人娘にあまく、子煩悩なところなどは、普通の人情家である事が、ひどくわるく云えば、明治以来の通俗小説作家のこのんで出した人物を思わせ、ほんの幾らか似た人物としては、バルザックの『ゴリオ爺さん』のゴリオにはるかに及ばないところなども、私には、気になるのである。それから、この小説でも、はじめからしまいまで、猿という『小道具』をしきりに使っているが、これも実に巧みに使っている。それに、一つ一つの場面も人の気もちも誠によく書かれているから、やはり、『地獄変』は芥川の代表作の一つ、という事になるであろう。
 唯よく書かれているのに、凄惨さ、物凄さ、怪奇さ、その他を感じさせながら、その場かぎりで、迫ってくるものがない。
 結局、『地獄変』は見事みごとな「絵空事えそらごと」である。
 ところで、さきに述べたように、この小説の終りで、主人公の良秀は首を釣って死ぬ事になっているが、こういう事は云えないことであるけれど、主人公が死ぬ方が小説の終りとしてよいかも知れないが、読者としての私は、死なしてほしくなかった、芥川はあのような終り方がきらしいけれど、あそこで死んだら、負けではないか。よく批評家は、(いろいろな読者が、)あの主人公を芥川の芸術至上主義の『権化ごんげ』のように云うが、あの主人公が芥州の芸術至上主義の『権化』ならば、あれでは、芥川の芸術至上主義が負けた事になるではないか。(ここで、誰かの口真似をすると、「それでは困るね、」閑話休題。)
[やぶちゃん注:「誰かの口真似」の「誰か」とは芥川龍之介自身のことであろう。次に有意な空行が入って、引用となる。]


著者具さに名匠の苦心を尽して一作をゆるがせにせず、玆に漸く此一巻をおほやけにする事となれり。収する所『地獄変』『戯作三昧』以下。いづれも宝玉の光輝と、古金襴の色彩とを備へた気品高き作品のみにして、ひとり新興文壇の異彩たるのみならず、日本の文芸に空前の新生面を開き、独一無類の作風を完成せるもの也。

 これは、芥川の第三短篇集『傀儡師』[註―大正八年一月発行]を出版した新潮社の『傀儡師』の広告の文章である。
 私が、ここに、殊更に、このような出版社の広告の文章を引いたのは、なにも、『傀儡師』の中におさめられている小説が、「いづれも宝玉の光輝と、古金欄の色彩とを備へた気品高き作品」ばかりである、などと思っているからではない、この『傀儡師』と『羅生門』の中におさめらている幾つかの小説(つまり、初期の小説)は、(これらの小説こそ、)よしあしは別として、もっとも芥川らしいものであり、それこそ、誇張ではあるが、「独一無類の作風」にちかい小説であろう、と、私は、思うからである。しぜん、私は、芥川のいわゆる晩年の作品に、それはそれで、感心しているものもあるが、不満をいだき文句をつけたいものもあるので、それらについては、後に述べる事にする。

『羅生門』[註―大正六年五月発行]には、十四篇の短篇がおさめられている。そうしてその十四篇のうちで、『羅生門』は、大正四年に、『忠義』と『貉』は、大正六年の初め[三月と四月]に発表され、他の十一篇は大正五年じゅうに書かれたものである。大正五年といえば、芥川が、かぞえどし、二十五歳のとしであり、その年の七月に、芥川は、英文学科を卒業した。それで、『鼻』を発表したのはそのとしの二月であるから、学生時代である。(別の話になるが、私が、大正八年の四月に、『蔵の中』を発表した時は、かぞえどし、二十九歳のとしであったから、二三の友だちから、「君が一ばん遅いね、」と、私は云われたものである。)
 さて、『鼻』といえば、これもずっと前に書いたような気がするけれど、話の順序があるので、重複するのもかまわずに述べる。大正五年の初夏の頃であったか、そのころ谷中の清水町に住んでいた江口をたずねて、例のごとく文学談に花を咲かしていた時、その話がちょっと跡切とぎれた時、私が「どうだ、近頃、なにかあたらしい作家のものに、これというような小説があるか、」と述べてから、『菅原伝授手習鑑すがわらでんじゅてならいかがみ』のうち『寺子屋の段』のなかに出てくる武部源蔵の述べる文句をまねて、「いずれを見ても、山家やまがそだち、か、」と云うと、江口が、私の言葉がおわらぬうちに、「芥川龍之介の『鼻』を読んだか、……漱石が激賞した、という、……ちょっとおもしろいもんだよ、」と云って、『鼻』の出ている「新思潮」を貸してくれた。
[やぶちゃん注:「『菅原伝授手習鑑』のうち『寺子屋の段』の中に出てくる武部源蔵の述べる文句」とは、同段冒頭の、
「エヽ氏より育ちと云ふに、繁華の地と違ひ、いづれを見ても山家の育ち。世話甲斐も無き、役に立たず」
の台詞を指す。]
 しかし、私は、『鼻』を読んで、それの出ている「新思潮」を江口にかえす時、これまでの小説と題材や書き方のちがっているところが、おもしろいと云えば、おもしろいのかも知れないけれど、「どうだ、ちょいと、おもしろいだろう、」と、作者が、云っているようなところが、「気になるね、それに、やはり、小話こばなしだよ、……しかし、なかなか気のきいたものだね、」と、江口に、云った。
「ふん、そうかね、」と、江口は、いくらか不服そうに、云った。
 ところが、ずっとのちに知ったのであるが、この「新思潮」の二月号に出た『鼻』が、おなじとしの五月号の「新小説」に、出た。その頃、漱石門下の鈴木三重吉が「新小説」の主宰をしていたので、『鼻』は、その三重吉の好意によって、「新小説」に再掲載されたのであろうか。仮りにこれを三重吉の好意とすれば、その三重吉の好意によって、おなじとしの、九月号の「新小説」に『芋粥』が、十月の「新小説」に『煙管』が出ている。
 ところで、こんど、芥川の著作年表を見て、おどろいたのは、(意外な気がしたのは、)かがやかしい『羅生門』におさめられている十四篇の小説のなかの、五篇が同人雑誌の「帝国文学」と「新思潮」に発表されたものであり、二篇が「希望」という殆んど名の知られていない雑誌に発表されたものであり、二篇は「黒潮」というすこし出ただけで廃刊された雑誌と読売新聞に出されたものであり、他の六篇あるいは五篇(前に述べたよう『芋粥』は「新思潮」と「新小説」とに出たものであるから)だけが、「中央公論」、「文章世界」「新潮」、「新小説」に発表されたものであるからである。
[やぶちゃん注:第一作品集『羅生門』に所収された十四篇と、その初出誌とその発行クレジット及び芥川龍之介でない署名を( )内で示す。
「羅生門」(『帝国文学』 大正四(一九一五)年十一月一日 柳川隆之介)
「鼻」(『新思潮』     大正五(一九一六)年二月十五日 芥川龍之助)
「父」(『新思潮』     大正五(一九一六)年五月一日)
「猿」(『新思潮』     大正五(一九一六)年九月一日)
「孤独地獄」(『新思潮』  大正五(一九一六)年四月一日)
「運」(『文章世界』    大正六(一九一七)年一月一日)*
「手巾」(『中央公論』   大正五(一九一六)年十月一日)*
「尾形了斎覚え書」(『新潮』大正六(一九一七)年一月一日)*
「虱」(『希望』      大正五(一九一六)年五月)
「酒虫」(『新思潮』    大正五(一九一六)年六月一日)
「煙管」(『新小説』    大正五(一九一六)年十一月一日)*
「貉」(『読売新聞』    大正六(一九一七)年三月十一日)
「忠義」(『黒潮』     大正六(一九一七)年三月一日)
「芋粥」(『新小説』    大正五(一九一六)年九月一日)*
最後に「*」を附したものが宇野の言うメジャーな文藝専門誌に相当する。ところが、ここで宇野は、数え方を間違っている。まず、『五篇が同人雑誌の「帝国文学」と「新思潮」に発表されたもの』とあるが、御覧の通り、「五篇」ではなく六篇であり、『二篇が「希望」という殆んど名の知られていない雑誌に発表されたものであり』というのも「二篇」というのは一篇の誤りである。更に、『他の六篇あるいは五篇(前に述べたよう『芋粥』は「新思潮」と「新小説」とに出たものであるから)』と述べているが、これは何らかの宇野の錯誤ではあるまいか。『前に』とあるが、「芋粥」が二つの雑誌に掲載されたというようなことは宇野自身、本文以前には書いていない。これは直前の『この「新思潮」の二月号に出た『鼻』が、おなじ年の五月号の「新小説」に、出た。その頃、漱石門下の鈴木三重吉が「新小説」の主宰をしていたので、『鼻』は、その三重吉の好意によって、「新小説」に再掲載されたのであろうか。』と記したのを、「鼻」を「芋粥」に取り違えた錯誤のように思われるが、如何? それとも、やはり、確かに「芋粥」は『新思潮』に再掲(初出は間違いなく『新小説』)されているのであろうか? 手元に『新思潮』のデータがない。識者の御教授を乞う。なお、この『黒潮』という雑誌の出版元等は不詳。]
 いずれにしても、『鼻』(これは評判が評判をみ、その評判が又、……という風に、妙に有名になった)から始まって、雑誌のよしあし別として、嘉し:になつた)から始まって、雑誌のよしあしは別として、『芋粥』、『手巾』、(評判の立った時というのは妙なもので、これは、「中央公論」に出た、というだけで、目を引き、)それから、『運』、『尾形了斎覚え書』、『偸盗』(題まで普通ではない)、『さまよへる猶太人』、その他、と、芥川は、大正五年の中頃から六年の初めにかけてほとんど毎月、つぎつぎと、矢つぎばやに、発表したので、誇張して云えば、その頃の一二年は、その時分の同時代の作家は、もとより,時として大家の名さえ、芥川龍之介という花やかな名に、しばし、忘れられるか、と思われる程であった。
 たびたび云うが、その頃、芥川は、二十五六歳の青年で、大学を出たばかりであった。これでは、芥川でなくても、有頂天うちょうてんうわそら)になるのは当然ではないか。いうまでもなく、『上の空』とは「天空の上」という意味である。

 人生は二十九歳の彼にはもう少しもあかるくはなかつた。が、ヴオルテエルはかういふ彼に人工の翼を供給した。
 彼はこの人工の翼をひろげ、やすやすと空へ舞ひ上つた。同時に又理智の光をびた人生の歓びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行つた。彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を落しながら、遮るもののない空中をまつすぐに太陽へ登つて行つた。丁度ちやうどかう云ふ人工の翼を太陽の光りに焼かれたためにとうとう海へ落ちて死んだ昔の希臘人も忘れたやうに。……

 これは「或阿呆の一生」の中の「十九」のうちから引いたのである。
[やぶちゃん注:以上の引用は「或阿呆の一生」の「十九 人工の翼」の後半2/3の引用で、
 彼はアナトオル・フランスから十八世紀の哲学者たちに移つて行つた。が、ルツソオには近づかなかつた。それは或は彼自身の一面、――情熱に駆られ易い一面のルツソオに近い為かも知れなかつた。彼は彼自身の他の一面、――冷かな理智に富んだ一面に近い「カンデイイド」の哲学者に近づいて行つた。
という初段が省略されている。]
 ところで、理智的と称せられた芥川も、世の賞讃を大いに博し、『羅生門』が出た頃は、それがあたっているか当っていないかは別として、新理智派、新技巧派、新古典派、その他、名称をつける事のきな批評家たちから、さまざまな名称をつけられた。そうして、そのいろいろな名称の上にはみな『新』という字が附いていた。それやこれやで、若き芥川は、乱作をし出した。(この事もずっと前に述べたが、門下と呼ばれた人たちの中でもっとも愛していたらしい佐佐木茂索に乱作を戒めながら、当の芥川が乱作をし出したのである。)これが、芥川に、――芥川の文学生涯に、――もっともわざわいをした。(乱作した作家は、芥川だけではない、数多くある、私も、もとより、その一人ひとりであるが、)乱作が芥川に禍したのは、芥川の最初の幸福すいた文学の境涯であり、それ以上に芥川の性格(普通の人には想像できないような気の弱さ)のためである。
 そういう点で、(そういう点でも、)芥川という人は、なんともいえぬ痛ましい人であった。
[やぶちゃん注:下らぬ高校の文学史の副読本で覚えさせられた方もいるであろう。芥川龍之介は「新思潮派」(『新思潮』第三次・第四次の同人達を指すもので、「白樺派」と言うが如き、十把一絡げである。高校の文学史では妙にこれを筆頭に載せたがる)「新理知派」「理知派」「新技巧派」「新現実主義」「新古典派」(先行する擬古典主義に対しての謂いであろうが、一般的ではない。岡本かの子が「芥川龍之介の俳句」で使っているのを見かけた)……こういう手前勝手な非科学的分類学で分かったような気になって悦に入っている連中が、文学をますます貧困なものにして行き、若者を文学から去らせるのである。]

 又また、余計な話であるが、大正七年の秋の頃、私は、時をおいて、三四度、横須賀に、行った事がある。ついでに、わたくし事を述べると、その時分の「私事わたくしごと」を、『苦の世界』と『人心』という小説の中に、書き、更に、『軍港行進曲』という小説の中にも、書いた。(この『軍港行進曲』は、昭和二年の二月号の「中央公論」に、芥川の『玄鶴山房』と一しょに、出た、といばかりでなく、私の芥川に対する忘れる事のできない思い出を持っている小説であるから、その事についてはのちにかならず述べたい。)
[やぶちゃん注:宇野もちょっとお茶目だ。さりげなく自作の宣伝をしているではないか。――我々は気づかねばならない、例えば、今、この瞬間、この文章を書いている、『文学の鬼』の異名をとる(私は「神様」は嫌だが、「鬼」は羨ましい)宇野浩二の作品を、一体、シンクロニックに何人の人間がこの日本で読んでいようか? 私はそういう宇野の現存在をも射程に入れて、本作は読まれなければならないと思う。]
 さて、その頃、(大正七年頃、)軍港であった横須賀に、海軍中尉ぐらいであった私の中学同窓が、四五人、住んでいた。そうして、その中に海軍機関学校につとめている者がいて、その男が、ある日、私に、突然、「おい、おれの学校に、芥川という、貴様きさま[註―その頃の海軍士官は、自分たちは、もとより、同輩以下の相手を「貴様」といった]と同業の、小説家がいるよ、」と云った。
 「ふん、」と私はわざと鼻声で答えた。
 私は、その頃、自分の『なりわい』に追われていたからでもあろうか、芥川が海軍機関学校の嘱託となって英語の教授などをしている事を、まったく知らなかった。が、それはそれとして、その頃、私は、やっと小説を書き出し、その小説を二三の雑誌に出しはしたが、まったく無名で、横須賀までの汽車賃[その頃は、東京―横須賀間は、汽車しかなく、汽車賃は三十銭ぐらいだ]にさえ困るような状態であった。しかるに、前に何度も述べたように、芥川は、その頃、すでに、れっきとした作家であり、鬱然たる、大家であったのだ。
 それを、およそ文学とは縁どおい海軍機関中尉が「貴様と同業の小説家」などと云ったので、私は、わざと鼻声で、「ふん、」と答えたのである。
 私は、「ふん、」と、わざと、鼻声で、答えてから、「……自分なら、あれだけの小説を書き、小説のよしあしは別として、あれだけの大家にされたら、(大家にされなくても、)機関学校の教師などは、すぐでも、めてしまうなあ、いや、はじめから教師などにはならないなあ、……芥川という男の気が知れないなあ、」と、心の中で、思った。(しかし、ずっと後になって、⦅いや、この文章を書く時分になって、⦆芥川が、海軍機関学校の嘱託になったのは、世をわたるのにも大事を取る、というような用心ぶかさも多分に持っていたことを知って、私は、いくら『若気わかげの至り』とは云え、やはり、芥川という男は、人間としても、私などより遙かにすぐれていることを知ったのであった。)
 さて、後に芥川としたしくなってから、私は、ときどき、小説より人間の方がおもしろいところもあったなア、と思うことがあった。
[やぶちゃん注:以下、「後記」は底本では全体が二字下げ。]
(後記――これは、『大事取り』というより、芥川の細かい心づかいの現れでもあり、大正十二年の末といえば、芥川は、既に堂堂たる作家であったのに、このような心配のようなものが芥川にもあった、という一例として、大正十二年十二月十五日に、芥川が、当時の新潮社の支配人、中根駒十郎に、「昨日は失礼しました今日旅へ出るにつき手紙など片づけたら富士印刷の配当を貰つてゐなかつたのを発見しました故、貰ふ量見を起しましたどうか然る可く御取り計らひ下さい」という文句だけの便りを出している。『富士印刷』とは、その頃、新潮社が、訳があって、たしか、主に自分の社だけの用をたす印刷会社をつくり、その会社の一部の株主として、新潮社から本を出している文学者の有志の人に、本の印税の何分の一かで何株かの株主になってもらった、というような謂われのある印刷株式会社であった。)
[やぶちゃん注:「富士印刷」富士印刷株式会社は新潮社専属印刷工場として大正九(一九二〇)年に創立された。
以上で、底本である中央公論社中公文庫版宇野浩二「芥川龍之介 上巻」は終っている。]


「芥川龍之介」宇野浩二 下巻 (十五)~(二十三) 附やぶちゃん注 へ