冬と手紙と 芥川龍之介
[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年七月發行の『中央公論』に掲載。ネット上のある記載に、後に「冬」と「手紙」に改題、とあり、青空文庫版テクストでもそのように分割して公開されている(但し、新字新假名)が、そのような記載は旧全集注記にはない。また、これを後に芥川が分割し、改題した可能性は極めて低いと思われる。底本は岩波版旧全集を用いた。【二〇〇六年八月十三日】二〇一三年三月に、未知の方である
metal_clarinet 氏のブログ「ただ目的もなく...」内に「芥川龍之介と南方熊楠」(二〇一三年一月四日附記事)に非常に興味深い、というより驚くべき考察を見出した。それは本作で芥川龍之介がかの南方熊楠を引用していた可能性を強く示唆する驚くべき内容であった(この事実に不覚にして気づかなかったことが私には恥ずかしい)。恐らく現在、芥川龍之介と南方熊楠の接点を探った目ぼしい論文は存在しないものと思われ、この氏の見解はすこぶる貴重なものと思われる。今回、氏の御許可を得て、作品末に『★参考資料 metal_clarinet
氏「芥川龍之介と南方熊楠」』として全文を引用させて戴いた。ここに感謝申し上げるものである。なお、今回はこれを期に本文の再校訂と再注作業も行った。藪野直史【二〇一三年八月八日】誤字・正字不全を訂正し、ママ注記を挿入した。【二〇二三年二月七日】]
冬と手紙と
一 冬
僕は重い外套にアストラカンの帽をかぶり、市ケ谷の刑務所へ步いて行つた。僕の從兄は四五日前にそこの刑務所にはひつてゐた。僕は從兄を慰める親戚總代に外ならなかつた。が、僕の氣もちの中には刑務所に對する好奇心もまじつてゐることは確かだつた。
二月に近い往來は賣出しの旗などの殘つてゐたものの、どこの町全體も
市ケ谷の刑務所は草の枯れた、高い土手をめぐらしてゐた。のみならずどこか中世紀じみた門には太い木の格子戶の向うに、霜に焦げた檜などのある、砂利を敷いた庭を透かしてゐた。僕はこの門の前に立ち、長い半白の髯を垂らした、好人物らしい看守に名刺を渡した。それから餘り門と離れてゐない、庇に厚い苔の乾いた面會人控室へつれて行つて貰つた。そこにはもう僕の外にも薄緣りを張つた腰かけの上に何人も腰をおろしてゐた[やぶちゃん注:「薄緣り」は「うすべり」と読む。]。しかし一番目立つたのは黑縮緬の羽織をひつかけ、何か雜誌を讀んでゐる三十四五の女だつた。
妙に無愛想な一人の看守は時々かう云ふ控室へ來、少しも抑揚のない聲に丁度面會の順に當つた人々の番號を呼び上げて行つた。が、僕はいつまで待つても、容易に番號を呼ばれなかつた。いつまで待つても――僕の刑務所の門をくゞつたのは彼是十時になりかかつてゐた。けれども僕の腕時計はもう一時十分前だつた。
僕は勿論腹も減りはじめた。しかしそれよりもやり切れなかつたのは全然火の氣と云ふもののない控室の中の寒さだつた。僕は絕えず足踏みをしながら、
しかし大勢の面會人も看守の呼び出しに來る度にだんだん數を減らして行つた。僕はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]控室の前へ出、砂利を敷いた庭を步きはじめた。そこには冬らしい日の光も當つてゐるのに違ひなかつた。けれどもいつか立ち出した風も僕の顏へ薄い塵を吹きつけて來るのに違ひなかつた。僕は自然と依怙地になり、兎に角四時になるまでは控室へはひるまいと決心した。
僕は生憎四時になつても、まだ呼び出して貰はれなかつた。のみならず僕よりも後に來た人々もいつか呼び出しに遇つたと見え、大抵はもうゐなくなつてゐた。僕はとうとう[やぶちゃん注:ママ。]控室へはひり、搏奕打ちらしい男にお時宜をした上、僕の場合を相談した。が、彼はにこりともせず、浪花節語りに近い聲にかう云ふ返事をしただけだつた。
「一日に一人しか會はせませんからね。お前さんの前に誰か會つてゐるんでせう。」
勿論かう云ふ彼の言葉は僕を不安にしたのに違ひなかつた。僕は又番號を呼びに來た看守に一體從兄に面會することは出來るかどうか尋ねることにした。しかし看守は僕の言葉に全然返事をしなかつた上、僕の顏も見ずに步いて行つてしまつた。同時に又搏奕打ちらしい男も二三人の面會人と一しよに看守のあとについて行つてしまつた。僕は土間のまん中に立ち、機械的に卷煙草に火をつけたりした。が、時間の移るにつれ、だんだん無愛想な看守に對する憎しみの深まるのを感じ出した。(僕はこの侮辱を受けた時に急に不快にならないことをいつも不思議に思つてゐる。)
看守のもう一度呼び出しに來たのは彼是五時になりかかつてゐた。僕は又アストラカンの帽をとつた上、看守に同じことを問ひかけようとした。すると看守は橫を向いたまま、僕の言葉を聞かないうちにさつさと向うへ行つてしまつた。「餘りと言へば餘り」とは實際かう云ふ瞬間の僕の感情に違ひなかつた。僕は卷煙草の吸ひさしを投げつけ、控室の向うにある刑務所の玄關へ步いて行つた。
玄關の石段を登つた左には和服を着た人も何人か硝子窓の向うに事務を執つてゐた。僕はその硝子窓をあけ、黑い
「僕はTの面會人です。Tには面會は出來ないんですか?」
「番號を呼びに來るのを待つて下さい。」
「僕は十時頃から待つてゐます。」
「そのうちに呼びに來るでせう。」
「呼びに來なければ待つてゐるんですか? 日が暮れても待つてゐるんですか?」
「まあ、兎に角待つて下さい。兎に角待つた上にして下さい。」
相手は僕のあばれでもするのを心配してゐるらしかつた。僕は腹の立つてゐる中にもちよつとこの男に同情した。「こつちは親戚總代になつてゐれば、向うは刑務所總代になつてゐる、」そんな可笑しさも感じないのではなかつた。
「もう五時過ぎになつてゐます。面會だけは出來るやうに取り計つて下さい。」
僕はかう言ひ捨てたなり、ひとまづ控室へ歸ることにした。もう暮れかかつた控室の中にはあの丸髷の女が一人、今度は雜誌を膝の上に伏せ、ちやんと顏を起してゐた。まともに見た彼女の顏はどこかゴシツクの彫刻らしかつた。僕はこの女の前に坐り、未だに刑務所全體に對する弱者の反感を感じてゐた。
僕のやつと呼び出されたのは彼是六時になりかゝつてゐた。僕は今度は目のくりくりした、機敏らしい看守に案内され、やつと面會室の中にはひることになつた。面會室は室と云ふものの、精々二三尺四方ぐらゐだつた。のみならず僕のはひつた外にもペンキ塗りの戶の幾つも並んでゐるのは共同便所にそつくりだつた。面會室の正面にこれも狹い廊下越しに半月形の窓が一つあり、面會人はこの窓の向うに顏を顯はす仕組みになつてゐた。
從兄はこの窓の向うに、――光の乏しい椅子窓の向うに圓まると肥つた顏を出した。しかし存外變つてゐないことは幾分か僕を力丈夫にした。僕等は感傷主義を交へずに手短かに用事を話し合つた。が、僕の右隣りには兄に會ひに來たらしい十六七の女が一人とめどなしに泣き聲を洩らしてゐた。僕は從兄と話しながら、この右隣りの泣き聲に氣をとめない訣には行かなかつた。
「今度のことは全然寃罪ですから、どうか皆さんにさう言つて下さい。」
從兄は切り口上にかう言つたりした。僕は從兄を見つめたまま、この言葉には何とも答へなかつた。しかし何とも答へなかつたことはそれ自身僕に息苦しさを與へない訣には行かなかつた。現に僕の左隣りには斑らに頭の禿げた老人が一人やはり半月形の窓越しに息子らしい男にかう言つてゐた。
「會はずにひとりでゐる時にはいろいろのことを思ひ出すのだが、どうも會ふとなると忘れてしまつてな。」
僕は面會室の外へ出た時、何か從兄にすまなかつたやうに感じた。が、それは僕等同志の連帶責任であるやうにも感じた。僕は又看守に案内され、寒さの身にしみる刑務所の廊下を大股に玄關へ步いて行つた。
或山の手の從兄の家には僕の血を分けた從姉が一人僕を待ち暮らしてゐる筈だつた。僕はごみごみした町の中をやつと四谷見附の停留所へ出、滿員の電車に乘ることにした。「會はずにひとりゐる時には」と言つた、妙に力のない老人の言葉は未だに僕の耳に殘つてゐた。それは女の泣き聲よりも一層僕には人間的だつた。僕は吊り革につかまつたまゝ、夕明りの中に電燈をともした麹町の家々を眺め、今更のやうに「人さまざま」と云ふ言葉を思ひ出さずにはゐられなかつた。
三十分ばかりたつた後、僕は從兄の家の前に立ち、コンクリイトの壁についたベルの鈕へ指をやつてゐた[やぶちゃん注:「鈕」は「ボタン」と読む。]。かすかに傳はつて來るベルの音は玄關の硝子戶の中に電燈をともした。それから年をとつた女中が一人細目に硝子戶をあけて見た後、「おや……」何とか間投詞を洩らし、すぐに僕を往來に向つた二階の部屋へ案内した。僕はそこのテエブルの上へ外套や帽子を投げ出した時、一時に今まで忘れてゐた疲れを感じずにはゐられなかつた。女中は瓦斯暖爐に火をともし、僕一人を部屋の中に殘して行つた。多少の蒐集癖を持つてゐた從兄はこの部屋の壁にも二三枚の油畫や水彩畫をかゝげてゐた。僕はぼんやりそれらの畫を見比べ、今更のやうに有爲轉變などと云ふ昔の言葉を思ひ出してゐた。
そこへ前後してはひつて來たのは從姉や從兄の弟だつた。從姉も僕の豫期したよりもずつと落ち着いてゐるらしかつた。僕は出來るだけ正確に彼等に從兄の傳言を話し、今度の處置を相談し出した。從姉は格別積極的にどうしようと云ふ氣も持ち合せなかつた。のみならず話の相間にもアストラカンの帽をとり上げ、こんなことを僕に話しかけたりした。
「妙な帽子ね。日本で出來るもんぢやないでせう?」
「これ? これはロシア人のかぶる帽子さ。」
しかし從兄の弟は從兄以上の「仕事師」だけにいろいろの障害を見越してゐた。
「何しろこの間も兄貴の友だちなどは××新聞の社會部の記者に名刺を持たせてよこすんです。その名刺には口止め料金のうち半金は自腹を切つて置いたから、殘金を渡してくれと書いてあるんです。それもこつちで檢べて見れば、その新聞記者に話したのは兄貴の友だち自身なんですからね。勿論半金などを渡したんぢやない。唯殘金をとらせによこしてゐるんです。その又新聞記者も新聞記者ですし、………」
「僕も兎に角新聞記者ですよ。耳の痛いことは御免蒙りますかね。」
僕は僕自身を引き立てる爲にも常談を言はずにはゐられなかつた。が、從兄の弟は酒氣を帶びた目を血走らせたまま、演說でもしてゐるやうに話しつづけた。それは實際常談さへうつかり言はれないのに違ひなかつた。
「おまけに豫審判事を怒らせる爲にわざと判事をつかまへては兄貴を辯護する手合ひもあるんですからね。」
「それはあなたからでも話して頂けば、………」
「いや、勿論さう言つてゐるんです。御厚意は重々感謝しますけれども、判事の感情を害すると、反つて御厚意に背きますからと頭を下げて賴んでゐるんです。」
從姉は瓦斯暖爐の前に坐つたまま、アストラカンの帽をおもちやにしてゐた。僕は正直に白狀すれば、從兄の弟と話しながら、この帽のことばかり氣にしてゐた。火の中にでも落されてはたまらない。――そんなことも時々考へてゐた。この帽は僕の友だちのベルリンのユダヤ人町を探がした上、偶然モスクヷヘ足を伸ばした時、やつと手に入れることの出來たものだつた。
「さう言つても駄目ですかね。」
「駄目どころぢやありません。僕は君たちの爲を思つて骨を折つてゐてやるのに失敬なことを言ふなと來るんですから。」
「成程それぢやどうすることも出來ない。」
「どうすることも出來ません。法律上の問題には勿論、道德上の問題にもならないんですからね。兎に角外見は友人の爲に時間や手數をつぶしてゐる、しかし事實は友人の爲に陷し穽を掘る手傳ひをしてゐる、――あたしもずゐぶん奮鬪主義ですが、ああ云ふやつにかかつては手も足も出すことは出來ません。」
かう云ふ僕等の話の中に俄かに僕等を驚かしたのは「T君萬歲」と云ふ聲だつた。僕は片手に窓かけを擧げ、窓越しに往來へ目を落した。狹い往來には人々が大勢道幅一ぱいに集つてゐた。のみならず××町靑年團と書いた提灯が幾つも動いてゐた。僕は從姉たちと顏を見合せ、ふと從兄には××靑年團々長と云ふ肩書もあつたのを思ひ出した。
「お禮を言ひに出なくつちやいけないでせうね。」
從姉はやつと「たまらない」と云ふ顏をし、僕等二人を見比べるやうにした。
「何、わたしが行つて來ます。」
從兄の弟は無造作にさつさと部屋を後ろにして行つた。僕は彼の奮鬪主義に或羨しさを感じながら、從姉の顏を見ないやうに壁の上の畫などを眺めたりした。しかし何も言はずにゐることはそれ自身僕には苦しかつた。と云つて何か言つた爲に二人とも感傷的になつてしまふことはなほ更僕には苦しかつた。僕は默つて卷煙草に火をつけ、壁にかかげた畫の一枚に、――從兄白身の肖像畫に遠近法の狂ひなどを見つけてゐた。
「こつちは萬歲どころぢやありはしない。そんなことを言つたつて仕かたはないけれども………」
從姉は妙に空ぞらしい聲にとうとう[やぶちゃん注:ママ。]僕に話しかけた。
「町内ではまだ知らずにゐるのかしら?」
「ええ、………でも一體どうしたんでせう?」
「何が?」
「Tのことよ。お父さんのこと。」
「それはTさんの身になつて見れば、いろいろ事情もあつたらうしさ。」
「さうでせうか?」
僕はいつか苛立たしさを感じ、從姉に後ろを向けたまま、窓の前へ步いて行つた。窓の下の人々は不相變萬歲の聲を擧げてゐた。それは又「萬歲、萬歲」と三度繰り返して唱へるものだつた。從兄の弟は玄關の前へ出、手ん手に提灯をさし上げた大勢の人々にお時宜をしてゐた。のみならず彼の左右には小さい從兄の娘たちも二人、彼に手をひかれたまま、時々取つてつけたやうにちよつとお下げの頭を下げたりしてゐた。………
それからもう何年かたつた、或寒さの嚴しい夜、僕は從兄の家の茶の間に近頃始めた薄荷パイプを啣へ、從姉と差し向ひに話してゐた。初七日を越した家の中は氣味の惡いほどもの靜かであつた。從兄の白木の位牌の前には燈心が一本火を澄ましてゐた。その又位牌を据ゑた机の前には娘たちが二人夜着をかぶつてゐた。僕はめつきり年をとつた從姉の顏を眺めながら、ふとあの僕を苦しめた一日の出來事を思ひ出した。しかし僕の口に出したのはかう云ふ當り前の言葉だけだつた。
「薄荷パイプを吸つてゐると、飴計寒さも身にしみるやうだね。」
「さうを、あたしも手足が冷えてね。」
從姉は餘り氣のないやうに長火鉢の炭などを直してゐた。……… (昭和二・六・四)
二 手 紙
僕は今この溫泉宿に滯在してゐます。避暑する氣もちもないではありません。しかしまだその外にゆつくり讀んだり書いたりしたい氣もちもあることは確かです。ここは旅行案内の廣告によれば、神經衰弱に善いとか云ふことです。そのせゐか狂人も二人ばかりゐます。一人は二十七八の女です。この女は何も口を利かずに手風琴ばかり彈いてゐます。が、身なりはちやんとしてゐますから、どこか相當な家の奧さんでせう。のみならず二三度見かけた所ではどこかちよつと混血兒じみた、輪廓の正しい顏をしてゐます。もう一人の狂人は赤あかと額の禿げ上つた四十前後の男です。この男は確か左の腕に松葉の入れ墨をしてゐる所を見ると、まだ狂人にならない前には何か意氣な商賣でもしてゐたものかも知れません。僕は勿論この男とは度たび風呂の中でも一しよになります。K君は(これはここに滯在してゐる或大學の學生です。)この男の入れ墨を指さし、いきなり「君の細君の名はお松さんだね」と言つたものです。するとこの男は湯に浸つたまま、子供のやうに赤い顏をしました。………
K君は僕よりも十も若い人です。おまけに同じ宿のM子さん親子と可也懇意にしてゐる人です。M子さんは昔風に言へば、
K君、S君、M子さん親子、――僕のつき合つてゐるのはこれだけです。尤もつき合ひと言つたにしろ、唯一しよに散步したり話したりする外はありません。何しろここには溫泉宿の外に(それもたつた二軒だけです。)カツフエ一つないのです。僕はかう云ふ寂しさを少しも不足には思つてゐません。しかしK君やS君は時々「我等の都會に對する鄕愁」と云ふものを感じてゐます。M子さん親子も、――M子さん親子の場合は複雜です。M子さん親子は貴族主義者です。從つてかう云ふ山の中に滿足してゐる訣はありません。しかしその不滿の中に滿足を感じてゐるのです。少くとも彼是一月だけの滿足を感じてゐるのです。
僕の部屋は二階の隅にあります。僕はこの部屋の隅の机に向かひ、午前だけはちやんと勉强します。午後はトタン屋根に日が當るものですから、その烈しい火照りだけでも到底本などは讀めません。では何をするかと言へば、K君やS君に來て貰つてトランプや將棊に閑をつぶしたり、組み立て細工の木枕をして(これはここの名産です。)晝寢をしたりするだけです[やぶちゃん字注:「將棊」は「しやうぎ(しょうぎ)」と読む。]。五六日前の午後のことです。僕はやはり木枕をしたまま、厚い澁紙の表紙をかけた「大久保武藏鐙」を讀んでゐました[やぶちゃん注:「大久保武藏鐙」は「おほくぼむさしあぶみ」と読み、大久保彦左衛門の実録本の一種。]。するとそこへ襖をあけていきなり顏を出したのは下の部屋にゐるM子さんです。僕はちよつと狼狽し、莫迦々々しいほどちやんと坐り直しました。
「あら、皆さんはいらつしやいませんの?」
「ええ。けふは誰も、………まあ、どうかおはひりなさい。」
M子さんは襖をあけたまま、僕の部屋の椽先に佇みました。
「この部屋はお暑うございますわね。」
逆光線になつたM子さんの姿は耳だけ
「あなたのお部屋は凉しいでせう。」
「ええ、………でも手風琴の音ばかりして。」
「ああ、あの氣違ひ部屋の向うでしたね。」
僕等はこんな話をしながら、暫く椽先に佇んでゐました。西日を受けたトタン屋根は波がたにぎらぎらかがやいてゐます。そこへ庭の葉櫻の枝から毛蟲が一匹轉げ落ちました。毛蟲は薄いトタン屋根の上にかすかな音を立てたと思ふと、二三度體をうねらせたぎり、すぐにぐつたり死んでしまひました。それは實に呆つ氣ない死です。同時にまた實に世話のない死です。――
「フライ鍋の中へでも落ちたやうですね。」
「あたしは毛蟲は大嫌ひ。」
「僕は手でもつまめますがね。」
「Sさんもそんなことを言つていらつしやいました。」
M子さんは眞面目に僕の顏を見ました。
「S君もね。」
僕の返事はM子さんには氣乘りのしないやうに聞えたのでせう。(僕は實はM子さんに、――と云ふよりもM子さんと云ふ少女の心理に興味を持つてゐたのですが。)M子さんは幾分か拗ねたやうにかう言つて手すりを離れました。
「ぢや又後ほど。」
M子さんの歸つて行つた後、僕は又木枕をしながら、「大久保武藏鐙」を讀みつづけました。が、活字を迫ふ間に時々あの毛蟲のことを思ひ出しました。……
僕の散步に出かけるのはいつも大抵は夕飯前です。かう云ふ時にはM子さん親子をはじめ、K君やS君も一しよに出るのです。その又散步する場所もこの村の前後二三町の松林より外にはありません。これは毛蟲の落ちるのを見た時よりも或は前の出來事でせう。僕等はやはりはしやぎながら、松林の中を步いてゐました。僕等は?――尤もM子さんのお母さんだけは例外です。この奧さんは年よりは少くとも十位はふけて見えるのでせう。僕はM子さんの一家のことは何も知らないものの一人です。しかしいつか讀んだ新聞記事によれば、この奧さんはM子さんやM子さんの兄さんを產んだ人ではない筈です。M子さんの兄さんはどこかの入學試驗に落第した爲にお父さんのピストルで自殺しました。僕の記憶を信ずるとすれば、新聞は皆兄さんの自殺したのもこの後妻に來た奧さんに責任のあるやうに書いてゐました。この奧さんの年をとつてゐるのも或はそんな爲ではないでせうか? 僕はまだ五十を越してゐないのに髮の白い奧さんを見る度にどうもそんなことを考へ易いのです。しかし僕等四人だけは兎に角しやべりつづけにしやべつてゐました。するとM子さんは何を見たのか、「あら、いや」と言つてK君の腕を抑へました。
「何です? 僕は蛇でも出たのかと思つた。」
それは實際何でもない、唯乾いた山砂の上に細かい蟻が何匹も半死半生の赤蜂を引きずつて行かうとしてゐたのです。赤蜂は仰けになつたなり、時々裂けかかつた翅を鳴らし、蟻の群を逐ひ拂つてゐます。が、蟻の群は蹴散らされたと思ふと、すぐに又赤蜂の翅や脚にすがりついてしまふのです。僕等はそこに立ちどまり、暫くこの赤蜂のあがいてゐるのを眺めてゐました。現にM子さんも始めに似合はず、妙に眞劍な顏をしたまま、やはりK君の側に立つてゐたのです。
「時々劍を出しますわね。」
「蜂の劍は鉤のやうに曲つてゐるものですね。」
僕は誰も默つてゐるものですから、M子さんとこんな話をしてゐました。
「さあ、行きませう。あたしはこんなものを見るのは大嫌ひ。」
M子さんのお母さんは誰よりも先きに歩き出しました。僕等も步き出したのは勿論です。松林は路をあましたまま、ひつそりと高い草を伸ばしてゐました。僕等の話し聲はこの松林の中に存外高い反響を起しました。殊にK君の笑ひ聲は ――K君はS君やM子さんにK君の妹さんのことを話してゐました。この田舍にゐる妹さんは女學校を卒業したばかりらしいのです。が、何でも夫になる人は煙草ものまなければ酒ものまない、品行方正の紳士でなければならないと言つてゐると云ふことです。
「僕等は皆落第ですね?」
S君は僕にかう言ひました。が、僕の目にはいぢらしい位、妙にてれ切つた顏をしてゐました。
「煙草ものまなければ酒ものまないなんて、………つまり兄貴へ當てつけてゐるんだね。」
K君も咄嗟につけ加へました。僕は善い加減な返事をしながら、だんだんこの散步を苦にし出しました。從つて突然M子さんの「もう歸りませう」と言つた時にはほつとひと息ついたものです。M子さんは晴れ々々した顏をしたまま、僕等の何とも言はないうちにくるりと足を返しました。が、溫泉宿へ歸る途中はM子さんのお母さんとばかり話してゐました。僕等は勿論前と同じ松林の中を步いて行つたのです。けれどもあの赤蜂はもうどこかへ行つてゐました。
それから半月ばかりたつた後です。僕はどんより曇つてゐるせゐか、何をする氣もなかつたものですから、池のある庭へおりて行きました。するとM子さんのお母さんが一人船底椅子に腰をおろし、東京の新聞を讀んでゐました[やぶちゃん注:「船底椅子」とは廃船の船底板を素材としたものの謂いか。]。M子さんはけふはK君やS君と溫泉宿の後ろにあるY山へ登りに行つた筈です。この奧さんは僕を見ると、老眼鏡をはづして挨拶しました。
「こちらの椅子をさし上げませうか?」
「いえ、これで結構です。」
僕は丁度そこにあつた、古い藤椅子にかけることにしました。
「昨晩はお休みになれなかつたでせう?」
「いいえ、………何かあつたのですか?」
「あの氣の違つた男の方がいきなり廊下へ駈け出したりなすつたものですから。」
「そんなことがあつたんですか?」
「ええ、どこかの銀行の取りつけ騷ぎを新開でお讀みなすつたのが始まりなんですつて。」
僕はあの松葉の入れ墨をした氣違ひの一生を想像しました。それから、――笑はれても仕かたはありません、僕の弟の持つてゐる株劵のことなどを思ひ出しました。
「Sさんなどはこぼしていらつしやいましたよ。……」
M子さんのお母さんはいつか僕に婉曲にS君のことを尋ね出しました。が、僕はどう云ふ返事にも「でせう」だの「と思ひます」だのとつけ加へました。(僕はいつも一人の人をその人としてだけしか考へられません。家族とか財產とか社會的地位とか云ふことには自然と冷淡になつてゐるのです。おまけに一番惡いことはその人としてだけ考へる時でもいつか僕自身に似てゐる點だけその人の中から引き出した上、勝手に好惡を定めてゐるのです。)のみならずこの奧さんの氣もちに、――S君の身もとを調べる氣もちに或可笑しさを感じました。
「Sさんは神經質でいらつしやるでせう?」
「ええ、まあ神經質と云ふのでせう。」
「人ずれはちつともしていらつしやいませんね。」
「それは何しろ坊ちやんですから、……しかしもう一通りのことは心得てゐると思ひますが。」
僕はかう云ふ話の中にふと他の水際に澤蟹の這つてゐるのを見つけました。しかもその澤蟹はもう一匹の澤蟹を、――甲羅の半ば碎けかかつたもう一匹の澤蟹をじりじり引きずつて行く所なのです。僕はいつかクロポトキンの相互扶助論の中にあつた蟹の話を思ひ出しました。クロポトキンの敎へる所によれば、いつも蟹は怪我をした仲間を扶けて行つてやると云ふことです。しかし又或動物學者の實例を觀察した所によれば、それはいつも怪我をした仲間を食ふ爲にやつてゐると云ふことです。僕はだんだん石菖のかげに二匹の澤蟹の隱れるのを見ながら、M子さんのお母さんと話してゐました。が、いつか僕等の話に全然興味を失つてゐました。
「みんなの歸つて來るのは夕がたでせう?」
僕はかう言つて立ち上りました。同時に又M子さんのお母さんの顏に或表情を感じました。それはちよつとした驚きと一しよに何か本能的な憎しみを閃かせてゐる表情です。けれどもこの奧さんはすぐにもの靜かに返事をしました。
「ええ、M子もそんなことを申してをりました。」
僕は僕の部屋へ歸つて來ると、又椽先の手すりにつかまり、松林の上に盛り上つたY山の頂を眺めました。山の頂は岩むらの上に薄い日の光をなすつてゐます。僕はかう云ふ景色を見ながら、ふと僕等人間を憐みたい氣もちを感じました。………
M子さん親子はS君と一しよに二三日前に東京へ歸りました。K君は何でもこの溫泉宿へ妹さんの來るのを待ち合せた上、(それは多分僕の歸るのよりも一週間ばかり遲れるでせう。)歸り仕度をするとか云ふことです。僕はK君と二人だけになつた時に幾分か寛ぎを感じました。尤もK君を劬りたい氣もちの反つてK君にこたへることを惧れてゐるのに違ひありません[やぶちゃん字注:「劬り」は「いたは(いたわ)り」と読む。]。が、兎に角K君と一しよに比較的氣樂に暮らしてゐます。現にゆうべも風呂にはひりながら、一時間もセザアル・フランクを論じてゐました[やぶちゃん注:セザール・フランク(César
Franck 一八二二年~一八九〇年)はベルギー出身でフランスで活躍した作曲家・オルガニスト。]。
僕は今僕の部屋にこの手紙を書いてゐます。ここはもう初秋にはひつてゐます。僕はけさ目を醒ました時、僕の部屋の障子の上に小さいY山や松林の逆さまに映つてゐるのを見つけました。それは勿論戶の節穴からさして來る光の爲だつたのです。しかし僕は腹ばひになり、一本の卷煙草をふかしながら、この妙に澄み渡つた、小さい初秋の風景にいつにない靜かさを感じました。………
ではさやうなら。東京ももう朝晩は大分凌ぎよくなつてゐるでせう。どうかお子さんたちにもよろしく言つて下さい。 (昭和二・六・七)
[やぶちゃん注:★参考資料 metal_clarinet 氏「芥川龍之介と南方熊楠」
《引用開始》
芥川龍之介の晩年(昭和二年六月七日)の作品「手紙」の中にこういう一節がある:
僕はこういう話の中にふと池の水際に沢蟹の這っているのを見つけました。しかもその沢蟹はもう一匹の沢蟹を、……甲羅の半ば砕けかかったもう一匹の沢蟹をじりじり引きずって行くところなのです。僕はいつかクロポトキンの相互扶助論の中にあった蟹の話を思い出しました。クロポトキンの教えるところによれば、いつも蟹は怪我をした仲間を扶けて行ってやるということです。しかしまたある動物学者の実例を観察したところによれば、それはいつも怪我をした仲間を食うためにやっているということです。
この「ある動物学者」というのが誰であるかについて、芥川は作品中では触れていない。しかし、この部分を読んで南方熊楠「十二支考」の中の「蛇に関する民俗と伝説」の中の文章を思い出した:
ただし、かかる現象を実地について研究するに、細心の上に細心なる用意を要するは言うまでもないが、人の心をもって畜生の心を測るの易からぬは、荘子と恵子が魚を観ての問答にも言える通りで、正しく判断し中つるはすこぶる難い。たとえば一九〇二年に出たクロポトキン公の『互助論』に、脚を失いて行きあたわぬ蟹を他の蟹が扶け伴れ去ったとあるを、那智山居中一月経ぬうちに、自室の前の小流が春雨で水増し矢のごとく走る。流れのこなたの縁に生えた山葵の芽を一疋の姫蟹が摘み持ち、注意して流れの底を渡りかなたの岸へ上がり終わったところを、例の礫を飛ばして強く中てたので半死となり遁れえず。その時岩間より他の姫蟹一疋出で来たり、件の負傷蟹を両手で挟み運び行く。この蟹走らず歩行遅緩なれば、予ク公の言の虚実を試すはこれに限ると思い、抜き足で近より見れば、負傷蟹と腹を対え近づけ、両手でその左右の脇を抱き、親切らしく擁え上げて、徐ろ歩む友愛の様子にアッと感じ入り、人をもって蟹に及かざるべけんやと、独り合点これを久しうせしうち、かの親切な蟹の歩みあまりに遅く、時々立留まりもするを訝り熟視すると、何のことだ、半死の蟹の傷口に自分の口を接けて、啖いながら巣へ運ぶのであった。これを見て、予は書物はむやみに信ぜられぬもの、活き物の観察はむつかしいことと了った次第である。
芥川が南方のこの文章を読んで、自分の創作の中で引用したのかどうかは分からない。しかし、両者ともクロポトキンの相互扶助論の中のエピソードを引用していることからその可能性は高いのではないかと思う。
南方のこの文章は、雑誌「太陽」の大正六年出版の第二十三巻に掲載されているので、時代的に芥川が読んでいてもおかしくはない。「十二支考」は十二支に当てられている動物に関する民俗や伝説を古今の広い文献から求めて書き記した文章だけれど、必ずしも「動物学者」的な観点から見ている訳ではない。
柳田國男については芥川は「河童」の中でその著作「山島民譚集」の名前を出しているが(また芥川は「河童」の執筆に当たって「山島民譚集」を参照したらしい)、南方熊楠については他の作品の中でも名前を出しているかどうか分からない。南方熊楠は東京で出版されていた雑誌にも投稿をしていたけれど、東京の人々に当時一般的に知られていたかどうかは疑わしい。生前は南方はむしろ紀州で有名であり、また彼の名前は日本でより欧州での方が有名だった。
それにも関わらず、芥川龍之介と南方熊楠が接していた(であろう)証拠になるような文章を見かけて興味深く思った。
《引用終了》]