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やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)




(全編集・全補注 : copyright 2006―2011 藪野直史)

やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句
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【句集全体(全五巻)の改訂・更新履歴】
【二〇一三年一月十日】
新発見句「尻立てゝ這ふ子思ふや雉子ぐるま」を「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に追加。
【二〇一一年三月二十六日】
『二〇一〇年八月岩波書店刊「芥川竜之介句集」に採句されたる五十六句』を「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に追加、本仕儀を以って私の「やぶちゃん版芥川龍之介全句集」全五巻は如何なる現行の芥川龍之介句集よりも多くの芥川の俳句を渉猟したものとなった。参考にさせて頂いた諸本の編著者の方や情報を寄せて下さった多くの協力者の方々に深く謝意を表する。――そして――三月十九日に筋萎縮性側索硬化症急性期呼吸器不全によって天へ召された母聖子テレジアにこの定本「やぶちゃん版芥川龍之介全句集」全五巻を捧げる――
【二〇一一年三月十日】
やっと二〇一〇年九月岩波書店刊の加藤郁乎編「芥川龍之介句集」を入手。特に原本書簡に当たって新たに訂された書簡俳句(旧全集書簡番号二二一及び一四八)の二句を訂正、そこでの年次変更に従って位置を変更した。筋萎縮性側索硬化症の母の病態の遷移が激しく、遅々として進まぬ乍ら、この加藤氏の(というよりも岩波書店編集部の博捜した)「芥川龍之介句集」と校合を向後行う。【同年三月十三日及び十四日追記】加藤郁乎編「芥川龍之介句集」の独自ソース(全集未収録自筆原稿の写真版)による採句の中に、凡そ五十数句に及ぶ、てにをはの違いの相似句から全くの新発見句を見出せた。これらは将来、注を附して纏めて公開する予定である。その一部作業に取り掛かった際、「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」所収の「蝙蝠や(仮)」句群の表記に不審を覚え、検討の結果、表記の一部変更と注記の訂正・追加を「蝙蝠や(仮)」及び「未定稿集」からの引用部に行った。
【二〇一一年二月二十六日】
芥川龍之介俳句余技説否定に関わる私の見解を各所に追加した。
【二〇一一年二月十九日】
ブログ270000万アクセス突破を記念し、全五巻の縦書版を公開した。
【二〇一一年二月十一日~】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の縦書化への補正中、「霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉」の原画像を挿入、旧全集「手帳(二)」及び新全集「手帳(1)」で句と判断していなかった「鳥と胡瓜と白味噌のぬた」の一句を追加、その他にも多くの注の一部を大々的に補正増補した。夜、五巻総ての頁のルビ化も終了、以上を以って縦書化へのプレ作業をほぼ完了した。以後、書簡俳句部分の誤植や注の細部補正をほぼ連日少しずつ行っている。

【二〇一一年二月六日】
全巻縦書化への準備のため、取り敢えず本「やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句」頁の表記を改造、読みのルビ化やHTML記述を整除、注の内容の一部も変更した。同時にHTML記述の整除を全五巻総てに亙って深夜に終了した。この六日以降、ほぼ連日、総ての頁について縦書化のための細部補正及びその際に発見した誤植訂正を逐次行っている。
【二〇一〇年八月十三日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」に意識的に排除していた「輕井澤にて」の川柳二句を追加した。
【二〇一〇年四月二十五日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に『二〇〇九年十月二玄社刊「芥川龍之介の書画」に現われたる句』を追加。類型句「餅花を今戸の猫にかささはや」表記違い「赤時や蛼なきやむ屋根のうら」及び新発見句二句「摺古木に山椒伐られぬ秋の風」「迎火の宙歩みゆく竜之介」(これは「迎火の宙歩みゆく」で「龍之介」は署名に過ぎないのかも知れない)から成る。また同書の現物画像によって、「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」の五七八書簡の正確な全文テクストを追加した。
【二〇〇九年十月十日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「靜かさに堪へず散りけり夏椿」の句に注を附した。
【二〇〇九年七月五日】
本頁に「巴旦杏」の注を追加した。
【二〇〇九年四月四日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「刹竿に動くは旗か木枯か」の句の注を補正した。
【二〇〇九年三月十四日】
岩波新全集最終巻第二十四巻縦覧により、新発見句「刹竿に動くは旗か木枯か」「街の敷石耗り春雨流るゝ」「吾子が自由畫の目白うららか」「星空暖かに家根々々の傾き」「春雨が暖かい支那人顏の汚れ」五句を含む連句等を、柱「二〇〇九年十二月刊行の岩波版新全集第二十四巻〔第二次版〕に現れたる俳句(書簡を除く)」で「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」に追加。その他にも注を追加した。また、同書補遺の書簡から「花桐や雲のいづくに晝月」「足の腫物ディフィリスにもや暮の春」「春風に靑き瞳や幼妻」の新発見句三句他を追加し、これをもって新全集縦覧による改訂を全て終了した。現在只今、私のこの「やぶちゃん版芥川龍之介全句集」は、如何なる著作、如何なるウェブ・ページよりも最多の芥川龍之介の俳句を公開しているという自負がある。「やぶちゃん版芥川龍之介句集(暫定版)」の最初の公開が二〇〇五年十二月十三日、ここまで辿り着くのに四年三箇月がかかった。名実共に私のHPの「鬼」の肉身である。
【二〇〇九年三月十二日】
岩波新全集の縦覧により、「やぶちゃん版芥川龍之介句集四 続 書簡俳句 附辞世」に新発見句三句を掲載、十数箇所に及ぶ注の追加を行った。これをもってすべての新全集書簡Ⅰ~Ⅳの縦覧による書簡部分の改訂を全て終了した。
【二〇〇九年三月十一日】
岩波新全集の縦覧により、「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」に大正十(一九二一)年七月二十一日の西村(齋藤)貞吉宛(岩波版新全集新書簡番号996)から「秋立つや金剛山に雲の無し」「八道の山は禿げたり今朝の秋」「芙蓉所々昌德宮の月夜かな」「七夕は高麗の女も祭るべし」「八道の新酒に醉つて歸けむ」「妓生の落とす玉釵やそぞろ寒」の完全な新発見句である朝鮮での嘱目吟六句と、他に「さ庭べの草煙り居る薄暑かな」の以上新発見句七句を掲載、十数箇所に及ぶ注の追加を行った。これをもって「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」頁分の新全集縦覧による改訂を終了した。
【二〇〇九年三月八日】
岩波新全集の縦覧により、「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」に新発見句「桃煙る中や筧の水洩るゝ」及び二十数箇所に及ぶ注追加及びミス・タイプ訂正を行った。新全集によって発見された旧全集書簡配置の誤りに従い、入れ替えも行った(該当箇所にはその旨注記してある)。
【二〇〇九年三月四日】
岩波新全集の縦覧により、「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」に新発見句十六句及び注追加及びミス・タイプ訂正を行った。
【二〇〇九年二月二十八日】
岩波新全集の縦覧により、「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」に新発見句「裏山の竹伐る音や春寒し」及び注追加及びミス・タイプ訂正を行った。
【二〇〇九年二月二十七日】
岩波新全集の縦覧により、「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に新発見句「凧三角、四角、六角、空、硝子」一句と注記及び本頁に二箇所の注記追加及びミス・タイプ訂正を行った。
【二〇〇九年二月二十六日】
岩波新全集の縦覧により、本頁及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に四箇所の補正及び注記追加を行った。
【二〇〇九年二月十四日】
本頁の「蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花」に河童の添えられた同句の画像と注記及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「澄江堂句抄」の「更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁」の自筆原稿画像(岩波版旧全集第十巻口絵のもの)を前書の疑義を示すために掲げ、注記を加えた。また本改訂・更新状況のレイアウトを刷新した。
【二〇〇九年二月八日】
驚天動地、「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に見落としていた岩波版旧全集月報9に示された疑義句(新発見句と称して良いと思う)十二句と注記を加えた。
【二〇〇九年二月七日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」に岩波版新全集第三巻に示されたホトトギス「雜詠」欄(大正七年五月『ホトトギス』)二句を追加(但し、既に全く同じ句が後掲する「我鬼窟句抄」に有り)し、芥川龍之介の若き日の俳号「椒圖」に関わる注記を加えた。
【二〇〇九年一月十七日】
本頁末に岩波版新全集第七巻に所収する「文壇眞珠抄」(編者仮題)の異型句「殘雪や墓をめぐれば龍の髯」一句を含む八句、「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」に「花葛のからみ合ひたる夜明かな」(「會ひたる」の表記違い)を追加。また、本頁と「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」のレイアウト及び注記の一部に手を加えた。
【二〇〇八年十月二十六日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「松江連句」に注を追加。件の「松江一中二〇期WEB同窓会・別館」を運営されている方からの最新情報を得た。
【二〇〇七年九月二十四日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「松江連句」に注を追加。久しく松江連句中の謎であった句中の「灘門」をこの「松江一中二〇期WEB同窓会・別館」を運営されている方の知人の方の協力を得て、完全解明を果たした。
【二〇〇七年八月二日】
前掲の仕儀により「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「松江連句」に注を更に追加した。
【二〇〇七年七月二十二日】
 「松江一中二〇期WEB同窓会・別館」を運営されている知人の指摘で「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の「松江連句」に注を大幅に追加した。今後もこの方の協力を得て「松江連句」注の鋭意充実を図る。特に「直山」の詞書を持つ井川の句の極めて高い誤植の可能性は今後の新全集校訂(岩波版新全集では現在も「直山」のままである)に関わる極めて重要な新事実と思われる。
【二〇〇七年一月二十一日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」の注を一部追加。
【二〇〇六年七月二十八日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に一句断片を追加。
【二〇〇六年六月十六日】
「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」に昭和四十八(一九七三)年短歌新聞社刊佐野花子・山田芳子「芥川龍之介の思い出」の佐野花子による「芥川龍之介の思い出」の中の新発見句六句を含む、十五句を追加。本資料の信憑性に疑義を持つ方もいると思われる(実際にこの著作には事実ではないことが多数、出現する。俳句を離れたその問題については、私なりの推論をブログ「芥川龍之介の幻の「佐野さん」についての一考察 最終章」等で記しているので是非参照されたい)。また、この手のものは疑義句欄を設けて扱うのが常識ではあろうとも思われる。しかしそうした謗りを受けても敢えて私は、芥川が愛した月光の女、その女が愛した龍之介の句として、我儘ではあるが掲げたいのである。なお、おめでたく思われるかの知れないが、私は直感的には、彼女の書き記した芥川龍之介の句についてはある種の信憑性を感じてもいるのである。

○緒言
 「やぶちゃん版芥川龍之介句集」の「一」から「五」の基礎底本は一九七八年刊岩波版旧全集第七巻・第九巻・第十巻・第十一巻と、一九八三年刊の同全集二刷に追加された第十二巻の「拾遺」及び一九九八年刊岩波版新全集第二十三巻、一九六八年刊岩波版未定稿集、一九九二年蝸牛社刊の中田雅敏編著になる蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」等を用いている。本ページ発句部分は、最後に第一級資料である「澄江堂句集」(復刻本)により校閲した。但し、新全集等の新字体については、私のポリシーに則り、正字への独断による変更を加えている。正字にし得る部分は、とりあえず殆んど正字に変えてあるが、芥川龍之介のテクストを作成して来た過去の私の経験則から、芥川は「蟲」「燈」や「虫」「灯」を気ままに両方用いたりする等、ある種の字を略字体(現在の新字体と同様の字体)にする傾向や、「匂」ではなく「匀」を、「嘘」は「譃」と書く等、ある種の字に対する偏愛傾向があるため、本来の原稿とは漢字表記において異なる可能性があることを付記しておく。それでも、新字であるよりも、芥川の「表現・表記」をずっと尊重していると私は、確信している。注記には、昭和四十六(一九七一)年刊の筑摩書房全集類聚版第七・八巻の注、一九九二年河出書房新社刊の鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」、一九八八年近代文藝社刊の中田雅敏著「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」、同氏の上記蝸牛俳句文庫、岩波版新全集注解等を参考にさせて頂いた。それらは皆、注に明記してあるが、ここに記して謝意を表するものである。


 「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」

 「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」

 「やぶちゃん版芥川龍之介句集四 続 書簡俳句 附 辞世」

 「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」

は、以上で別ページにリンクしてある。

 二〇〇五年十二月十三日の暫定公開から二〇〇六年一月二十五日に完了した校訂は、村山古郷編「芥川龍之介句集 我鬼全句」所収句と本「やぶちゃん版芥川龍之介句集」との完全一致の確認を基本とし、本句集未載句は勿論、表記の相違や詞書についても校合した。未載句及び表記相違句、及び疑義句(当該著作・編者のミスと思われるものも含む)はすべて「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の最後の『村山古郷編「芥川龍之介句集 我鬼全句」に現われたる句』に掲げた。暫く向後の識者の判断を俟つものである。なお、村山氏が蒐集した芥川龍之介の句数は一〇一四句であったが、私自身数え上げていないが、この句集は相同句を排除しても確実に、それを遙かに上回っている。【二〇〇六年一月二十五日】]


  發句


蝶の舌ゼンマイに似る暑さかな

[やぶちゃん注:一五九二書簡参照。]


木がらしや東京の日のありどころ


暖かやしべに蠟塗る造り花


癆咳の頰美しや冬帽子


[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)三月一日発行の雑誌『雲母』の「蛇笏君と僕と」、後に「飯田蛇笏」と改められる作品からこの句に絡んだ叙述を引用をしているが、この引用は正確ではない。該当段落をすべて以下に引用する。

 その内に僕も作句をはじめた。すると或歳時記の中に「死病得て爪美しき火桶かな」と云ふ蛇笏の句を發見した。この句は蛇笏に對する評價を一變する力を具へてゐた。僕は「ホトトギス」の雜詠に出る蛇笏の名前に注意し出した。勿論その句境にも剽竊した。「癆咳の頰うつくしや冬帽子」「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」――僕は蛇笏の影響のもとにさう云ふ句なども製造した。

とある。ちなみに、「惣嫁」とは、上方で言う最下級の売春婦、夜鷹のこと。更に、この作品には後半、次の芥川の句が示される。

春雨の中や雪おく甲斐の山

おらが家の花も咲いたる番茶かな

前の「春雨の」の句の直後に「これは僕の近作である。次手を以て甲斐の國にゐる蛇笏君に獻上したい。」と書き、最近は時々句作するが、忽ち苦吟に陥ってしまうとし、「所詮下手は下手なりに句作そのものを樂しむより外に安住する所はないと見える。」と書いて、「おらが家の」を示す。句の後に、「先輩たる蛇笏君の憫笑を蒙れば幸甚である。」と文を結んでいる。また、「芥川龍之介俳句集四 続 書簡俳句」の一一五一書簡参照。]


夏山や山も空なる夕明り


竹林や夜寒のみちの右ひだり


霜どけの葉を垂らしたり大八つ手


木がらしや目刺にのこる海のいろ


臘梅や枝まばらなる時雨ぞら


さがりや竹深ぶかと町のそら

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十(一九二一)年二月及び三月発行の雑誌『新潮』に掲載された、「點心」の「御降り」の項を参照とある。該当部分をすべて以下に引用する。ちなみに「御降り」は「おさがり」と読み、季語で、元日又は三が日の雪又は雨を言う。

         御 降 り
 今日は御降りである。尤も歳事記を檢べて見たら、二日は御降りとは云はぬかも知れぬ。が、蓬莱を飾つた二階にゐれば、やはり心もちは御降りである。下では赤ん坊が泣き續けてゐる。舌に腫物が出來たと云ふが、鵞口瘡[やぶちゃん語注:「がこうそう」と読み、カンジタ性口内炎の広範に広がったもの。]にでもならねば好い。ぢつと炬燵に當たりながら、「つづらふみ」[やぶちゃん語注:上田秋成の歌文集。]を讀んでもゐても、心は何時かその泣き聲にとられてゐる事が度々ある。わたしの家は鶉居[やぶちゃん語注:「じゅんきょ」と読む。この世に於いて居場所の定まらないさま。仮の住まい。]ではない。娑婆界の苦勞は御降りの今日も、遠慮なく私を惱ますのである。昔或御降りの座敷に、姉や姉の友達と、羽根をついて遊んだ事がある。その仲間には私の外にも、私より幾つか年上の、おとなしい少年が交つてゐた。彼は其處にゐた少女たちと、悉く仲良しの間がらだつた。だから羽根をつき落としたものは、羽子板を讓る規則があつたが、自然と誰でも私より、彼へ羽子板を渡し易かつた。所がその内にどう云ふ拍子か、彼のついた金羽根きんば ねが長押しの溝に落ちこんでしまつた。彼は早速勝手から、大きな踏み臺を運んで來た。さうしてその上へ乘りながら、長押しの金羽根を取り出さうとした。その時私は背の低い彼が、踏み臺の上に爪立つたのを見ると、いきなり彼の足の下から、踏み臺を側へ外してしまつた。彼は長押しに手をかけた儘、ぶらりと宙へぶら下がつた。姉や姉の友だちは、さう云ふ彼を救ふ爲に、私を叱つたり賺したりした。が、私はどうしても、踏み臺を人手に渡さなかつた。彼は少時下つてゐた後、兩手の痛みに堪へ兼ねたのか。とうとう大聲で泣き始めた。して見れば、御降りの記憶の中にも、幼いながら嫉妬なぞと云ふ娑婆界の苦勞はあつたのである。私に泣かされた少年は、その後學問の修業はせずに、或會社へ通ふ事になつた。今ではもう四人の子の親になつてゐるさうである。私の家の御降りは、赤ん坊の泣き聲に滿たされてゐる。彼の御降りはどうであらう。(一月二日)
     御降りや竹ふかぶかと町の空

なお、掲載句「お降りや竹深ぶかと町のそら」と表記上の大きな相違が認められる。]


  一游亭來る
草の家の柱半ばに春日かな

[やぶちゃん注:一游亭は、芥川の盟友、画家小穴隆一の俳号。]


白桃や莟うるめる枝の反り


薄曇る水動かずよせりの中


炎天にあがりて消えぬ箕のほこり


初秋の蝗つかめば柔かき


桐の葉は枝の向き向き枯れにけり


  自嘲
水涕や鼻の先だけ暮れ殘る


元日や手を洗ひをる夕ごころ


  湯河原温泉
金柑は葉越しにたかし今朝の霜


  あてかいな あて宇治の生まれどす
茶畠に入り日しづもる在所かな


白南風しらばえの夕浪高うなりにけり

[やぶちゃん注:復刻版「澄江堂句集」では「白南風」のルビが、濁音がなく、「しらはえ」のように見えるが、後にある「白じらと」の句の「絹帽子」のルビから見ても、ルビ植字のための潰れの可能性が大きい。「白南風」は、梅雨が明ける六月末ごろから吹く南風を言う。しろはえ。]


秋の日や竹の實垂るる垣の外


野茨にからまる萩のさかりかな

[やぶちゃん注:この句は芥川龍之介遺愛の句の一つであった。また、『にひはり』大正十三年五月の「澄江堂句抄」に、「相模驛にただ見るままを。」の前書があるが、「芥川龍之介句集二 発句拾遺」の該当の句の注記で示した通り、普及版全集では、「景の詩に入る、巧を用ふるに暇あらず。」となっている。更に、中村慎一郎著「俳句のたのしみ」によれば、これが実は相模駅での嘱目吟でなく、軽井沢での作の可能性がある、とする。以下当該書を所持していないので、近代文藝社二〇〇〇年刊大須賀魚師著「芥川龍之介の俳句に学ぶ」より孫引きする(表記は引用原書のママ。)。

「これは作者が室生犀星などと共に、軽井沢に遊んで、避暑のつれづれに句作を競った時の偶作で、『景の詩に入るる巧を用ふるの暇あらず』と前書がついているが、この何気ない句に、心の通い合った友人と安らかな一刻を過ごしている平和な雰囲気が、おのづから漂っている。その時、傍らにあった大学生の堀辰雄が、この句を書き散らした紙を作者から乞い受けて、生涯の記念とした」

ここでは、詞書が微妙に違う。しかし、私は少なくとも、「軽井沢に遊んで、避暑のつれづれに句作を競った時の偶作」ではあり得ないと思う。堀辰雄が芥川龍之介から詩二篇の批評を得て、親しく交わるようになるのは、大正十二年の十月下旬以降のことであり、現在の芥川龍之介に関わる年譜上では、この句の発表の大正十三年五月までの間に軽井沢に避暑に行った事実はない。なお、中村の言うこの軽井沢行は大正十三年八月か、最後となった十四年の八月のもので(室生、堀共に両年二人共に同時に芥川と同宿している事実がある。可能性としては、時間的な余裕から言うと後者である。但し、一般に私は知られているそれ以外にも芥川の軽井沢行はあったと確信しており、そこに堀辰雄が同行していた可能性も排除出来ない。私のブログ「松村みね子「五月と六月」から読み取れるある事実」等を参照されたい)、以上から、この句の成立とは全く関係なしに、堀に関わるこの中村が言うような事実があったことは想像には難くないと言い添えておく。]


荒あらし霞の中の山の襞

  洛陽
麥ほこりかかる童子の眠りかな

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として「雜信一束」の「洛陽」の項を参照とある。「雜信一束」は大正十四(一九二五)年十一月三日刊の単行本『支那游記』に所収された。該当部分をすべて以下に引用する。但し、見出しを除くと、総ルビなので、難読語と俳句以外は読みを排除、私の「雜信一束 附やぶちゃん注釈」から注も引用した。

        十 洛  陽
 モハメツト教の客棧かくさんの窓は古い卍字まんじ窓格子まどがうしの向うにレモン色の空を覗かせてゐる。夥しい麥ほこりに暮れかかつた空を。
     むぎほこりかかる童子の眠りかな

芥川の洛陽到着は六月七日から十日で確定しない。現在の最新知見では、少なくとも十日に洛陽の龍門石窟を訪問していることは確かであるらしい(新全集年譜)。「モハメツト教」以前はal-Islāmイスラム教のことをこう言ったらしいが、Muhammad ムハンマド(五七〇~六三二)は預言者であり、その教えは遠い昔から定まっているのだから、この言い方はおかしい。「客棧」旅館・宿屋の意であるが、これはイスラム教の信者達を泊めるモスクに付随した(もしくは近くに備えた)という意味であろうか。「麥ほこり」麦打ちをするときに立つ埃りのことを言う。夏の季語である。脱穀機のなかった時代に千歯きで扱いた麦の穂を玄穀干し(莚を透間のなく重ねて庭一面に敷き、その上に穀類を干すこと)にして直射日光で乾燥させた後、炎天下で棒打ちして実を採る脱穀法を用いた。その際の、黄色い埃りのことを言う。]


秋の日や榎のうらの片なびき


  伯母の言葉を
薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)二月一日発行の雑誌『女性』に、全集後記によると「冬十題」という大見出しで掲載された(これは諸家十人の冬絡みの小品と言う意味であろう)、「霜夜」参照とある。該当部分をすべて以下に引用する。

        霜 夜
 霜夜の句を一つ。
 いつものやうに机に向かつてゐると、いつか十二時を打つ音がする。十二時には必ず寢ることにしてゐる。今夜もまづ本を閉ぢ、それからあした坐り次第、直に仕事にかかれるやうに机の上を片づける。片づけると云つても大したことはない。原稿用紙と入用の書物とを一まとめに重ねるばかりである。最後に火鉢の始末をする。はんねらヽヽヽヽの瓶に鐵瓶の湯をつぎ、その中へ火を一つづつ入れる。火は見る見る黑くなる。炭の鳴る音も盛んにする。水蒸氣ももやもやと立ち昇る。何か樂しい心もちがする。何か又はかない心もちもする。床は次の間にとつてある。次の間も書齋も二階である。寢る前には必ず下へおり、のびのびと一人小便をする。今夜もそつと二階を下りる。座敷の次の間に電燈がついてゐる。まだ誰か起きてゐるなと思ふ。誰が起きてゐるのかしらとも思ふ。その部屋の外を通りかかると、六十八になる伯母が一人、古い綿をのばしてゐる。かすかに光る絹の綿である。
 「伯母さん」と云ふ。「まだ起きてゐたのですか?」と云ふ。「ああ、今これだけしてしまはうと思つて。お前ももう寢るのだらう?」と云ふ。後架の電燈はどうしてもつかない。やむを得ず暗いまま小便をする。後架の窓の外には竹が生えてゐる。風のある晩は葉のすれる音がする。今夜は音も何もしない。ただ寒い夜に封じられてゐる。
     薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

「はんねら」とは南蛮焼の一種で、江戸時代に伝わった、無釉又は白釉のかかった土器。灰器としては、普通に用いられたようである。]


庭芝に小みちまはりぬ花つつじ

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)年九月刊の「百艸」に所収する「長崎日録」の大正十一年五月十四日の条参照とある。該当部分の句の前文のみ、以下に引用する。

 五月十四日
 與茂平、蒲原春夫の二人と梅若の謠の會に至る。長崎に萬三郎や六郎を見んとは思ひかけざりし所なり。會場の庭の躑躅の花、紅將に褪せなんとす。(會場は富久屋)
     庭芝に小みちまはりぬ花つつじ

ちなみに與茂平は渡邊庫輔、蒲原春夫と共に長崎在の、芥川の弟子である。]


  漢口
ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として「雜信一束」の「支那的漢口」の項を参照とある。「雜信一束」については、先の「麥ほこり」の句の注を参照されたい。該当部分をすべて以下に引用する。但し、見出しを除くと、総ルビなので、難読語と俳句以外は読みを排除、私の「雜信一束 附やぶちゃん注釈」から注も引用した。

        二 支那的漢口
 彩票や麻雀戲マアヂヤンの道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。其處をひとり歩きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口ハンカオの夏を感じたのは、――
     ひとかごあつりけり巴旦杏はたんきよう

芥川は毎日新聞社特派員として大陸に赴く。急病を発しつつも上海を拠点に周辺域を踏査、大正十(一九二一)年五月十七日には上海に別れを告げて、蕪湖・九江・廬山等を経て、五月二十六日頃に漢口に到着している。「漢口」“Hànkǒu”は中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市で、一八五八年、天津条約により開港後、上海のようにイギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の五ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。「彩票」富くじ、宝くじの類。中国では比較的新しいものと思われる。因みに現在の中華人民共和国では「体育彩票」(スポーツ振興事業)と「福利彩票」(福祉関連事業)の二種が認められている。「麻雀戲(マアジヤン)」は正しくは「麻將」で“Májiàng”である。中国起源のゲーム。私は残念ながらルールも知らないので、ウィキの「麻雀」から引用する(数字表記を変更した。なお、これはウィキの旧記載で現在は書き代わっている)。『一八五〇年代、上海近辺で馬弔(マーチャオ)、馬将(マーチャン)とも呼ばれた伝統的な紙札遊戯と天九牌(骨牌遊戯の一種)から生まれた遊戯といわれている。創始者は陳魚門(チンイイメン)といわれるが、定かではない。なお、現在の中国語においては麻雀のことを一般に「麻将」(マージャン majiang)という。「麻雀」(マーチュエ maque)は中国語ではスズメを意味する。現在では中国ルールによる麻雀を中国麻雀と呼び、日本における麻雀と区別している』とし、『日本人で初めて麻雀に言及したのはおそらく夏目漱石で、『満韓ところどころ』(一九〇九年)に大連での見聞として「四人で博奕を打っていた。(略)厚みも大きさも将棋の飛車角ぐらいに当る札を五六十枚ほど四人で分けて、それをいろいろに並べかえて勝負を決していた」とある。実際の牌が日本に伝わったのも明治末期で、大正中期以降はルール面において独自の変化を遂げつつ各地に広まっていったともいうが、一般に認知されるようになったのは関東大震災の後である。神楽坂のカフェー・プランタンで文藝春秋の菊池寛らが麻雀に熱中し、次第に雑誌等にも取上げられるようになった。文芸春秋社では自ら麻雀牌を販売していたという』と、ずんずん芥川の近親に近づいてゆくような記載が面白い。「巴旦杏」は本来、中国語ではバラ目バラ科サクラ属ヘントウ
Prunus dulcis、アーモンドのことを言う。しかし、どうもこの句柄から見て、漢口という異邦の地とはいえ、果肉を食さないずんぐりとした毛の生えたアーモンドの実が籠に盛られているというのは、相応しい景ではない。実は中国から所謂スモモが入って来てから(奈良時代と推測される)、本邦では「李」以外に、「牡丹杏」(ぼたんきょう)、「巴旦杏」(はたんきょう)という字が当てられてきた。従って、ここで芥川はバラ目バラ科サクラ属スモモ(トガリスモモ)Prunus salicina の意でこれを用いていると考えるのが妥当である。季語は春。]


  病中
あかつきや蛼鳴きやむ屋根のうら

[やぶちゃん注:「蛼」は「いとど」。本来、狭義的には直翅目のカマドウマを指すが、無翅で鳴かない。ここは、コオロギを指す。]


唐黍やほどろと枯るる日のにほひ

[やぶちゃん注:「ほどろ」は、はらはらと散るさまであるが、ここでは唐黍の穗のほおけたさまを指す。]


しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり

[やぶちゃん注:「堀江」は大阪市の真ん中、道頓堀と長堀の間にある地名。堀江堀がそこを南北に分けていて、待合茶屋が多かった。芥川龍之介は大正十(一九二一)年二月二十日に大阪毎日新聞の面談依頼(海外視察員としての中国特派の打診)を受けて来阪、四日後の二十四日に帰京している。初日は宇野浩二と同伴、二十一日は当該特派員の懇請を受けて、北浜の「魚岩」で宇野及び里見弴の同席の上、社の接待を受けているから、この句が嘱目吟であるとすれば二月二十四日の可能性が高いか。]


  再び長崎に遊ぶ
唐寺からでらの玉卷芭蕉肥りけり

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)年九月刊の『百艸』に所収する「長崎日録」の大正十一(一九二二)年五月二十一日の条参照とある。該当部分の句の前文のみ、以下に引用する。

五月二十一日
 古袷の尻破れたれば、やむを得ずセルの着物をつくる。再び唐寺に詣る。
       唐寺の玉卷芭蕉肥りけり

唐寺は唐四箇寺とも呼ばれ、中国様式建築の顕著な崇福寺・興福寺・福済寺・聖福寺の四寺があるが、これはその中で最も古いとされる崇福そうふく寺であろう。]


更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁


木の枝の瓦にさはる暑さかな






[やぶちゃん注:参考に掲げた上記色紙は昭和三十五(一九六〇)年中央公論社より刊行された小穴隆一「芥川龍之介遺墨」に句帖六として所収するものの、三句目の句を後世、工芸品として加工したものである。末尾切れ字を「哉」としている。「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の当該句及び以下の頁も参照されたい。。]


夏の日や薄苔つける木木の枝


蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花






[やぶちゃん注:参考に掲げた上記画像は岩波版新全集〔第二次〕月報の最後の頁の下段に配されている、本句に河童(と思われる)をあしらった非常に珍しい一枚である(原本は写真であるが、そのまま取り込むと非常に汚くなってしまうので、一度コピーをとり、補正をかけた上で、残る汚れをマニュアルで消去した)。原本にはただこの画像の横に

蒲の穗はなひきそめつつ蓮の花

という翻刻がなされている(「ひ」はママ)だけで、不思議なことに所蔵者は勿論、これが色紙なのか画帳なのかも明記されていない。当然のこと乍ら、筆跡と河童のタッチから言っても芥川龍之介の真筆に間違いはない。クレジットもなく、また、平面画像の単なる撮影物に著作権は生じないという文化庁の見解があるため、本複製及び補正は著作権法違反ではない。]


  一游亭を送る 別情愴然
霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉

[やぶちゃん注:一游亭小穴隆一は大正十一年一月に右足に怪我をし細菌感染、足の痛みが続いていた。同年十一月に伊香保に療養に立った際の送別句。芥川は同年一月二十一日付小穴隆一宛九八九書簡で「足の手あて怠るべからず怠ると跛になる」と書くが、それは不吉にも的中し、同十一月二十七日には脱疽と診断、翌年、切断となる。なお、この九八九書簡で芥川は初めて「澄江堂主人」の号を用いている。]


  園藝を問へるひとに
あさあさと麥藁かけよ草いちご

[やぶちゃん注:「あさあさと」は、あっさりと。]


山茶花の莟こぼるる寒さかな


  菊池寛の自傳體小説「啓吉物語」に
元日や啓吉も世に古簞笥

[やぶちゃん注:「啓吉物語」は大正十三(一九二三)年二月に玄文社より出版されたもの。岩波版新全集「隣の笛」の本句の注解で山田俊治氏は『「啓吉」「雄吉」「準吉」などの作者を思わせる人物[やぶちゃん補注:筆者とは菊池。]を主人公にして、その幼年期から学生時代、そして結婚生活を描いた短編を収録。この句はその表紙を飾る』とあり、更に「世に古簞笥」については『「世にる」を掛ける。』とし、太祇(該当注解では「祗」を用いているがこれは誤りである)の「元日の居ごころや世にふる疊」『を参考にして新婚の菊池の箪笥が古くなるように、啓吉物も一巻になったことを祝す』歳旦句と解説している。「やぶちゃん版芥川龍之介句集四 続 書簡俳句 附 辞世」の小穴隆一一游亭宛同年一月十一日附一一六一書簡の注参照。]


  高野山
山がひの杉冴え返る谺かな

[やぶちゃん注:芥川が高野山を訪れたのが確実に確認されるのは、明治四十一(一九〇八)年の夏季休業中に、十六歳の芥川が、終生尊敬して止まなかった担任の英語教師廣瀨雄、同級の依田誠の三人で関西旅行をした折りである。この時、高野山の大円院に宿泊、丁度評判になっていた高山樗牛の「瀧口入道」や「平家雑感」等を素材に、横笛と入道の悲恋について夜が更けるまで語り合ったが、廣瀨が立って別棟の便所へ行ってきた後で、昼なお暗い杉の間から洩れる月光が凄かったなあと呟くと、臆病な龍之介は怖しくなって依田に便所へついてきてくれと頼んでいたという。(廣瀨雄「芥川龍之介君の思出」より。但し、鷺只雄氏の「年表作家読本」からの孫引きである。)]


雨ふるやうすうす燒くる山のなり


  再び鎌倉の平野屋に宿る
藤の花軒ばの苔の老いにけり


  震災の後増上寺のほとりを過ぐ
松風をうつつに聞くよ夏帽子

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十四(一九二五)年六月二日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雜詠」の「松」の項参照とある。該当部分を以下に引用する。

       五 松
 大正十二年九月七日。芝へ行く。姉や弟の家のあたりは一面の燒け野原。いつか竹田の畫の展觀のあつた金持ちの家も灰燼になり、燒け棒杭になつた椎の木ばかり立つてゐる。あの畫も燒けたかなとなどと思ふ。増上寺は無事。三門前の松林の不相變だつったのは嬉しかつた。
       松風をうつつに聞くよ夏帽子

竹田は「ちくでん」と読む。田能村たのむら竹田、江戸後期の文人画家。]


朝顏や土に匐ひたる蔓のたけ


春雨の中や雪おく甲斐の山

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として「癆咳の」の句で引用した、大正十三(一九二四)年三月一日発行の雑誌『雲母』の「蛇笏君と僕と」、後に「飯田蛇笏」と改められる作品参照、とある。再度引いておくと、この「春雨の」の句の直後に「これは僕の近作である。次手を以て甲斐の國にゐる蛇笏君に獻上したい。」とある。]


竹の芽も茜さしたる彼岸かな


風落ちて曇り立ちけり星月夜

[やぶちゃん注:後に記す旧全集注記内容より、以下の二句を推敲句形として掲げておく。

うすうすと曇りそめけり星月夜

冷えびえと曇り立ちけり星月夜

 旧全集では、この句の注記として大正十三(一九二四)年六月一日発行の雑誌『新潮』に掲載された「微哀笑」、後に「久保田万太郎氏」と改められる作品に『「うすうすと曇りそめけり星月夜」を「冷えびえと曇り立ちけり星月夜」と改めたことがでている。』と記している。この注記ゆえに、該当作品を容易に検討できるのは有難いが、類型句の多い彼の句に対して、この注記を、この注記のみを付すのが正しいか否かは、微妙に留保するものである。とりあえず、「久保田万太郎氏」の該当部分に相当する最終段落を以下に引用する。

 因みに云ふ。小説家久保田万太郎君の俳人傘雨宗匠たるは天下の周知する所なり。僕、曩日久保田君に「うすうすと曇りそめけり星月夜」の句を示す。傘雨宗匠善と稱す。數日の後、僕前句を改めて「冷えびえと曇り立ちけり星月夜」と爲す。傘雨宗匠頭を振つて曰、「いけません。」然れども僕畢に後句を捨てず。久保田君亦畢に後句を取らず。僕等の差を見るに近からん乎。

「曩日」は「のうじつ」、「先日」の意。かの『俳句の天才』久保田万太郎とのエピソードとしては極めて興味深い。因みに私は、芥川の俳句を遂に余技であったとする多くの識者の言説に対して、鮮やかにノンと言う者である。彼は既に大正十一(一九二二)年一月十九日附の渡邊庫輔宛九八四書簡で「現在の僕は俳句も短歌も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず」と記しているのである。「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄) 」参照のこと。]



小春日や木兎をとめたる竹の枝


切支丹坂を下り來る寒さ哉

[やぶちゃん注:この「切支丹坂」は長崎ではない。現在の文京区小日向一丁目に地下鉄の小石川検車区車両場があり、そこからからその下を潜る地下道へ続く区役所の方へ下りる坂で通称幽霊坂とも言う。寛永年間にこの坂を登った辺りに切支丹屋敷があったからと言う。但し、漱石が「琴のそら音」で「名前に劣らぬ怪しい坂」と語った「切支丹坂」(これは切支丹坂の更に先にある庚申坂と誤っている)を指すかも知れない。]


初午の祠ともりぬ雨の中


  金澤

簀むし子や雨にもねまる蝸牛

[やぶちゃん注:「簀むし子」については、中田雅敏編著 蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文に拠れば、竹の簀を、道路に面して格子代わりに横に細い桟で打ちつけ、積雪や日差しの直射を避ける日除けとある。一九八六年踏青社刊の諏訪優「芥川龍之介の俳句を歩く」では、『中からは外が見え、外からは中が見えないこの地方独特の仕掛けで、いわゆる格子とは似ているがちがうものらしい』ともある。]


乳垂るる妻となりつも草の餅


松かげに鷄はらばへる暑さかな


苔づける百日紅や秋どなり


  室生犀星金澤の蟹を贈る
秋風や甲羅をあます膳の蟹


  一平逸民の描ける夏目先生のカリカテユアに
餅花を今戸の猫にささげばや

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十四(一九二五)年六月二日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雜詠」の『「今戸の猫」』の項参照とある。該当部分を以下に引用する。

       四 今戸の猫
 畫賛等と言ふものはまだ一度もしたことはない。が、下島先生に岡本一平君の描いた夏目先生の戲畫をつきつけられ、いろいろ考えた揚句、やつとかう言ふ句を書いて見ることにした。
      餅花を今戸の猫にささげばや
 「今戸の猫」は通じないも知れない。しかし作者は「今戸の狐」と言ふから、「今戸の猫」と稱することも差支へあるまいとこじつけてゐる。

下島先生は下島勲(空谷)、田端在住の芥川家のホーム・ドクターにして、俳人。私には疑惑を感じさせる龍之介の死亡診断書を書いたのも彼である。
 今戸にある今戸神社は伏見稲荷から勧請した被官稲荷神社が有名であるが、招き猫発祥の地とも伝えられ、漱石の「吾輩は猫である」にも登場する。また、吾輩が苦沙弥先生食べ残しの雑煮を食うも、噛み切れず、歯にくっついてしまい、後足で立ち、左右の前足で餅を払い落とそうと、もがく。子供に「あら猫がお雑煮を食べて踊を踊つてゐる」と言われ、遂には苦沙弥先生から「この馬鹿野郎」と罵倒されるエピソードが「吾輩は猫である」の中ほどにある。]


明星のちろりにひびけほととぎす

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十四(一九二五)年六月二日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雜詠」の「ちろり」の冒頭を引き、『「これはお茶屋の二階での作。」として出ている。』と記すのみである。「ちろり」を以下に全文引用する。

       二 ちろり
     明星のちろりにひびけほととぎす
 これはお茶屋の二階での作。その後もあの位形の好いちろりを見たことはない。この句に苦労してゐる間に鼻の下の長い婆さんの藝者謠つて曰、「四條の橋から何とかを見れば、灯が一つ見える、あれは何とかの灯か、二軒茶屋の灯か」と。(勿論唄の記憶は確かではない。)

「ちろり」の表記が異なる。「ちろり」は銚、釐。銅や真鍮製で、お燗に用いる容器。筒形や円錐形で下の方がやや細く、注ぎ口と取手とがつく。]


  寄内
ひと向きに這ふ子おもふや笹ちまき

[やぶちゃん注:この句、「澄江堂句集」では

ひたすらに這ふ子おもふや笹ちまき

となっている。]


日ざかりや靑杉こぞる山のかひ


  越後より來れる婢、當歳の兒を「たんたん」と云ふ
たんたんの咳を出したる夜寒かな

[やぶちゃん注:「たんたん」は幼児語(これは必ずしも新潟の方言ではない)で、靴や靴下を言うが、使用例から考えると、幼児自身を指すこともある。]


  久米三汀新婚
白じらと菊をうつすや絹帽子きぬばうし

[やぶちゃん注:久米正雄の結婚は大正十二(一九二三)年十一月十七日。復刻版「澄江堂句集」では絹帽子」のルビに濁音がなく、「きぬはうし」のように見える。但し、前出の「白南風」の句から見ても、ルビ植字のための潰れの可能性が大きい。]


臘梅や雪うち透かす枝のたけ

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として大正十四(一九二五)年六月二日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雜詠」の「臘梅」の項参照とある。該当部分を以下に引用する。

       一 臘梅
 わが裏庭の垣のほとりに一株の臘梅あり。ことしも亦筑波おろしの寒きに琥珀に似たる數朶の花をつづりぬ。こは本所なるわが家にありしを田端に移し植ゑつるなり。嘉永それの年に鐫られたる本所繪圖をひらきたまはば、土屋佐渡守の屋敷の前に小さく「芥川」と記せるを見たまふらむ。この「芥川」ぞわが家なりける。わが家も德川家瓦解の後は多からぬ扶持さへ失ひければ、朝あさの煙の立つべくもあらず、父ぎみ、叔父ぎみ道に立ちて家財のたぐひすら賣りたまひけるとぞ。おほぢの脇差しもあとをとどめず。今はただひと株の臘梅のみぞ十六世の孫には傳はりたりける。
     臘梅や雪うち透かす枝のたけ

「鐫られたる」は「えられたる」と読み、上梓された、の意。「おほぢ」は祖父のこと。]


春雨や檜は霜に焦げながら

[やぶちゃん注:この句は大正十四(一九二五)年四月発行の『文芸日本』に「澄江堂雑詠」として掲載された中に

  庭前
春雨や檜は霜に焦げながら。

として掲げられている(俳句は一句のみ)。詞書と句点がある点で異なるが、この句読点はこの「澄江堂雑詠」特有のもので、他の短歌にも下の句末に句点が打たれている。]

  偶坐
鐵線の花さき入るや窓の穴

[やぶちゃん注:「偶坐」とは差し向かいで座ることを言うが、ここでは勿論、句の示す対象との「偶坐」である。]


  車中
しののめの煤ふるなかや下の關

[やぶちゃん注:旧全集では、この句の注記として「病牀雜記」項参照とある。これは、大正十四(一九二五)年十月一日発行の雑誌『文藝春秋』に「侏儒の言葉」の題に「――病牀雜記――」の副題を付して掲載されたものである。その俳句関連の該当部分のみ引用する。

 三、旅に病めることは珍しからず、(今度も輕井澤の寐冷えを持ち越せるなり。)但し最も苦しかりしは丁度支那へ渡らんとせる前、下の關の宿屋に倒れし時ならん。この時も高が風邪なれど、東京、大阪、下の關と三度のぶり返しなれば、存外熱も容易に下らず。おまけに手足にはピリン疹を生じたれば、女中など少なくとも梅毒患者位には思ひしなるべし。彼等の一人、僕を憐んで曰、「注射でもなすつたら、よろしうございませうに。」
      東雲しののめの煤ふる中や下の關

「しののめ」の表記が異なる。ここに記載された内容を詳細に記すと、大正十(一九二一)年三月、大阪毎日新聞社海外視察員として中国への特派となり十九日に東京発、二十一日に門司発の上海行きに乗船予定であったが、出発前に一旦治まった風邪がぶり返し、車中で発熱、二十日に大阪で途中下車、毎日新聞社近くの旅館で療養、二十七日に大阪発、二十八日門司から筑後丸に乗った。ちなみにその後、船は玄界灘でシケに遭い、船酔い、三十日に上海に着いてからも体調悪く、四月一日には乾性肋膜炎の診断を受け、上海の里見病院に入院となる。退院は、四月二十三日であった。]


庭土に皐月の蠅の親しさよ


  悼亡
更けまさる火かげやこよひ雛の顏

[やぶちゃん注:大正十五(一九二六)年三月に、下島勲(空谷)の小学校を終えたばかりの養女行枝が肺炎で急逝した折の追悼句。一四六七書簡参照。]


唐棕櫚の下葉にのれる雀かな

[やぶちゃん注:「唐棕櫚」(トウジュロ)は雌雄異株の常緑高木で、棕櫚(シュロ)に比して葉柄が短く、葉もやや小さくて、棕櫚のようには裂片が折れ曲がらない。]


  鵠沼
かげろふや棟も落ちたる茅の屋根

[やぶちゃん注:この句、「澄江堂句集」では

かげろふや棟も沈める茅の屋根

となっている。一五九二書簡参照。大正十二年の関東大震災の印象句と思われる。]


さみだれや靑柴積める軒の下


糸萩の風軟かに若葉かな


  破調
兎も片耳垂るる大暑かな

  計七十四句。大正六年より大正十五年に至る。

[やぶちゃん注:旧全集ではここで「發句」が終了している。さて、この最後の三句であるが、これは岩波版新全集第十三巻の『驢馬「近詠」欄』には、

  三句

糸萩の風軟かに若葉かな

さみだれや靑柴つめる軒の下

破調 兎も片耳垂るる大暑かな (大正十五年九月)

底本(岩波版新全集第十三巻)では、「破調」の文字がややポイントを落として句の頭の右寄りにあり、「兎」の字は三文字下げとなっている。そして、以上の通り、「糸萩の風軟かに若葉かな」の句の前に「三句」という前書がある。そしてこれによって、最後の句がその前書きの「三句」の一つであることを示すために「破調」の文字が三句目の頭についていたのだということが判明するのである。]


朝寒や鬼灯垂るる草の中

  金澤
町なかの銀杏は乳も霞けり

[やぶちゃん注:岩波版新全集第十五巻によると、この句と前の「朝寒や鬼灯垂るる草の中」は昭和二(一九二七)年六月発行の『椎の木』に「近詠」という見出しのもと、室生犀星の俳句二句と一緒に掲載されているとする。ところが、そこでは、

   金澤
町中の銀杏は乳も霞けり

朝寒や鬼灯垂るる草の中

の表記と順番になっている。ひらがな・漢字表記の相違もさることながら、この逆転が生じると、「朝寒や鬼灯垂るる草の中」も金沢での嘱目吟という印象を生じて、句想に大きな変異が生じるように思われる。勿論、それならば前書は「金澤二句」とあるべきだとする方もおろうが、実際には私が読者ならば、そのように読む。]

  旭川
雪解けの中にしだるる柳かな

[やぶちゃん注:昭和二(一九二七)年六月発行の『文芸時報』掲載の「講演軍記」の末尾には、

雪どけの中にしだるる柳かな

の表記で載る。]



[やぶちゃん補注一:旧全集では、大正十五(一九二六)年十二月二十五日新潮社発行の単行本『梅・馬・鶯』に「發句」の題で収められたものを底本とし、著者没後昭和二(一九二七)年自家版として刊行された「澄江堂句集」を参照したとあり、「澄江堂句集」にはここに掲げた三句「朝寒や鬼灯垂るる草の中」「町なかの銀杏は乳も霞けり」「雪解けの中にしだるる柳かな」が「兔も片耳垂るる大暑かな」の句の後にある、と記載している。従来の全集もこの三句を「發句」の表題のもとに収めている、と記しているので、ここに掲載することとする。なお、この追加があるために、「澄江堂句集」では本文末尾の注記が、

計七十七句。大正六年より昭和二年に至る

となっている。なお、旧全集後記の記載では、この注記の末に「……昭和二年に至る。」と句点があるが、復刻版「澄江堂句集」を見る限り、句点はない。]

[「發句」パート全体へのやぶちゃん補注二:以上、旧全集「發句」部分については、主にその「後記」に記された注記や異同を元に注記を施したが、その内容に疑義がある部分については、それに従わなかったところもある。また、幾つかの句に注記される、該当句所載の書簡については、該当句が、その示された書簡よりも前の別の書簡に現れているケースを既に発見している。従来認識されていた時期よりも、幾つかの句の成立が早まることは最早、確実である。]


「發句」パート全体へのやぶちゃん補注三:以上、「發句」の句については、最後に昭和五十二(一九七七)年ほるぷ刊「名著復刻 芥川龍之介文学館版 自家版 澄江堂句集」を用いて校閲した。この自家版「澄江堂句集」には他に、印譜と印譜目録及び「わが庭は枯れ山吹の靑枝のむら立つなへに時雨ふるなり」の短冊が帙に入る。]



  雑誌「文芸倶楽部」の「文壇眞珠抄」に掲載された句

[やぶちゃん注:底本は一九六六年刊の岩波版新全集第七巻を用いたが、本ページのポリシーに随い、漢字表記を恣意的に正字に改めた。底本後期によれば、大正十(一九二一)年五月発行の「文芸倶楽部」の「文壇真珠抄(1)」に掲載されたもので、『同欄は、「作家批評家の偶成の詩歌俳句その他を集めて、お目にかける・余技集ともいふ可きものだが、久米三汀(正雄)宗匠の俳句、佐藤春夫氏の小曲の如きは、寧ろ本技と目す可きであらう。本号以下得るに従つて再録する事にする。亦、諸子の為の一興となるであらう」との主旨のもとに、芥川以下、菊池寛、生田長江、久米正雄、田山花袋、佐藤春夫、江口渙、近松秋江、里見弴の俳句、詩、漢詩、短歌を掲載。』とある。最初の句を除いて殆んどが「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」所収する句の相同句であるが、新全集が本文としてとっている作品群であるので、ここに重複を厭わず全句を採録しておく。]


殘雪や墓をめぐれば龍の髯

[やぶちゃん注:異型句。「我鬼窟句抄」(「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」参照)の「大正八年」に、

殘雪や墓をめぐつて龍の髯

とあるが、中七が有意に異なる。]


白桃はうる緋桃ひももは煙りけり

[やぶちゃん注:相同句。大正六年から大正八年の作と推定される「我鬼句抄」(「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」参照)の「春」に

白桃はウルみ緋桃は煙りけり

とあるが、ルビに異同が認められるが、新全集は底本としたものに従わずに、適宜、編者がルビを振っているので異同とは見なせない。]


水蘆や虹打ち透かす五六尺

[やぶちゃん注:相同句。大正六年から大正八年の作と推定される「我鬼句抄」(「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」参照)の「春」に

水蘆や虹打ち透かす五六尺   (八年)

とあり、また、六三五書簡の十二月二十五日附龍村平藏宛にも同句がある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句(明治四十三年~大正十一年迄) 」参照)。この書簡では句の直前手紙文末尾に「二伸 數日前私の所で運座をしましたその時の句を御披露しますから御笑ひ下さい寒中ことさら夏の題を選んだのです」とある。]


曇天や蝮生きゐる罎の中

[やぶちゃん注:ほぼ相同句。「我鬼句抄」(『中央公論』大正十一年三月。「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」参照)に

曇天やまむし生きゐる罎の中

があり、その他、大正六年から大正八年の作と推定される「我鬼句抄」に

曇天や蛙生き居る罎の中   (八年)

があるが、これは以下の事蹟からも誤植の可能性が高いか。即ち、澄江堂句抄(『にひはり』大正十二年十二月―大正十三年五月)に、相同句があるのだが、これは旧全集編者によって

曇天や蜆生きゐる罎の中

となっているのを改めたと後記に記されているのである。従って、厳密な意味での完全な相同句(「蝮」と漢字表記になっているもの)は、六二八書簡十二月十七日附小島政二郎宛にあるものとなり、ここでは句の直前手紙文末尾に「五六日前癇癪が起つた時作つた句を御披露します」とある。]


秋の日や竹の實垂るゝ垣の外

[やぶちゃん注:相同句。「發句」に「秋の日や竹の實垂るる垣の外」とあり、この表記で他にも多出する。「蕩々帖」(「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」参照)にはこの表記通りの「垂るゝ」が所載されている。]


竹林ちくりん夜寒よさむの路の右左

[やぶちゃん注:相同句。「我鬼句抄」(「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」参照)に

竹林や夜寒の路の右左   (八年)

とある。ルビが認められるが、新全集は底本としたものに従わずに、適宜、編者がルビを振っているので異同とは見なせない。]


蠟梅や枝まばらなる時雨空

[やぶちゃん注:相同句。大正六年から大正八年の作と推定される「我鬼句抄」(「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」参照)の「我鬼句抄」の「冬」に

蠟梅や枝疎なる時雨空

があり、大正八(一九一九)年二月十九日附友常幸一宛四九〇書簡に

蠟梅や枝疎らなる時雨空

という相同句が載る。ルビが認められるが、新全集は底本としたものに従わずに、適宜、編者がルビを振っているので異同とは見なせない。]


さがりや竹深ぶかと町の空

[やぶちゃん注:相同句。「發句」に「おさがりや竹深ぶかと町のそら」と載り、他にも多出するが、「我鬼句抄」に、

お降りや竹深ぶかと町の空

で相同句が所収されている。ルビが認められるが、新全集は底本としたものに従わずに、適宜、編者がルビを振っているので異同とは見なせない。]



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