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鬼火へ



年末の一日   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正十五(1926)年一月一日発行の雑誌『新潮』に掲載、後に作品集『湖南の扇』に所収された。岩波版旧全集を底本に用いたが、読みは邪魔と判断し、難読と判断するもの以外は、極力排除した。これは、大切な、芥川の内実告白であるから。附録として、1986年踏青社刊の諏訪優「芥川龍之介の俳句を歩く」より、作品末尾に現れる「東京胞衣會社」についての文章を引用注記した。]

 

年末の一日

 

 ………僕は何でも雜木の生えた、寂しい崖の上を歩いて行つた。崖の下はすぐに沼になつてゐた。その又沼の岸寄りには水鳥が二羽泳いでゐた。どちらも薄い苔の生えた石の色に近い水鳥だつた。僕は格別その水鳥に珍しい感じは持たなかつた。が、餘り翼などの鮮かに見えるのは無氣味だつた。――

 ――僕はかう言ふ夢の中からがたがた言ふ音に目をさました。それは書齋と鍵の手になつた座敷の硝子戸(ガラスど)の音らしかつた。僕は新年號の仕事中、書齋に寢床をとらせてゐた。三軒の雜誌社に約束した仕事は三篇とも僕には不滿足だつた。しかし兎に角最後の仕事はけふの夜明け前に片づいてゐた。

 寢床の裾の障子には竹の影もちらちら映つてゐた。僕は思ひ切つて起き上り、一まづ後架へ小便をしに行つた。近頃この位小便から水蒸氣の盛んに立つたことはなかつた。僕は便器に向ひながら、今日はふだんよりも寒いぞと思つた。

 伯母や妻は座敷の縁側にせつせと硝子戸を磨いてゐた。がたがた言ふのはこの音だつた。袖無しの上へ襷をかけた伯母はバケツの雜巾を絞りながら、多少僕にからかふやうに「お前、もう十二時ですよ」と言つた。成程十二時に違ひなかつた。廊下を拔けた茶の間にはいつか古い長火鉢の前に晝飯の支度も出來上つてゐた。のみならず母は次男の多加志に牛乳やトオストを養つてゐた。しかし僕は習慣上朝らしい氣もちを持つたまま、人氣のない臺所へ顏を洗ひに行つた。

 朝飯兼晝飯をすませた後(のち)、僕は書齋の置き炬燵へはひり、二三種の新聞を讀みはじめた。新聞の記事は諸會社のボオナスや羽子板の賣れ行きで持ち切つてゐた。けれども僕の心もちは少しも陽氣にはならなかつた。僕は仕事をすませる度(たび)に妙に弱るのを常としてゐた。それは房後の疲勞のやうにどうすることも出來ないものだつた。………

 K君の來たのは二時前だつた。僕はK君を置き炬燵に請じ、差し當りの用談をすませることにした。縞(しま)の背廣を着たK君はもとは奉天の特派員、――今は本社詰めの新聞記者だつた。

 「どうです? 暇ならば出ませんか?」

 僕は用談をすませた頃、ぢつと家にとぢこもつてゐるのはやり切れない氣もちになつてゐた。

 「ええ、四時頃までならば。………どこかお出かけになる先はおきまりになつてゐるんですか?」

 K君は遠慮勝ちに問ひ返した。

 「いいえ、どこでも好(い)いんです。」

 「お墓はけふは駄目でせうか?」

 K君のお墓と言つたのは夏目先生のお墓だつた。僕はもう半年ほど前に先生の愛讀者のK君にお墓を教へる約束をしてゐた。年の暮にお墓參りをする、――それは僕の心もちに必ずしもぴつたりしないものではなかつた。

 「ぢやお墓へ行きませう。」

 僕は早速外套をひつかけ、K君と一しよに家を出ることにした。

 天氣は寒いなりに晴れ上つてゐた。狹苦しい動坂(どうざか)の往來もふだんよりは人あしが多いらしかつた。門に立てる松や竹も田端青年團詰め所とか言ふ板葺きの小屋の側に寄せかけてあつた。僕はかう言ふ町を見た時、幾分か僕の少年時代に抱いた師走の心もちのよみ返るのを感じた。

 僕等は少時(しばらく)待つた後、護國寺前行の電車に乘つた。電車は割り合ひにこまなかつた。K君は外套の襟を立てたまま、この頃先生の短尺(たんじやく)を一枚やつと手に入れた話などをしてゐた。

 すると富士前を通り越した頃、電車の中ほどの電球が一つ、偶然拔け落ちてこなごなになつた。そこには顏も身なりも惡い二十四五の女が一人、片手に大きい包を持ち、片手に吊り革につかまつてゐた。電球は床へ落ちる途端に彼女の前髮をかすめたらしかつた。彼女は妙な顏をしたなり、電車中の人々を眺めまわした。それは人々の同情を、――少くとも人々の注意だけは惹(ひ)かうとする顏に違ひなかつた。が、誰(たれ)も言ひ合せたやうに全然彼女には冷淡だつた。僕はK君と話しながら、何か拍子拔けのした彼女の顏に可笑(おか)しさよりも寧ろはかなさを感じた。

 僕等は終點で電車を下り、注連飾(しめかざ)りの店など出來た町を雜司ケ谷の墓地へ歩いて行つた。

 大銀杏(おほいてふ)の葉の落ち盡した墓地は不相變けふもひつそりしてゐた。幅の廣い中央の砂利道にも墓參りの人さへ見えなかつた。僕はK君の先に立つたまま、右側の小みちへ曲つて行つた。小みちは要冬靑(かなめもち)の生け垣や赤鏽(あかさび)のふいた鐵柵の中に大小の墓を並べてゐた。が、いくら先へ行つても、先生のお墓は見當らなかつた。

 「もう一つ先の道ぢやありませんか?」

 「さうだつたかも知れませんね。」

 僕はその小みちを引き返しながら、毎年(まいねん)十二月九日には新年號の仕事に追はれる爲、滅多に先生のお墓參りをしなかつたことを思ひ出した。しかし何度か來ないにしても、お墓の所在のわからないことは僕自身にも信じられなかつた。

 その次の稍(やや)廣い小みちもお墓のないことは同じだつた。僕等は今度は引き返す代りに生け垣の間を左へ曲つた。けれどもお墓は見當らなかつた。のみならず僕の見覺えてゐた幾つかの空き地さへ見當らなかつた。

 「聞いて見る人もなし、………困りましたね。」

 僕はかう言ふK君の言葉にはつきり冷笑に近いものを感じた。しかし教えると言つた手前、腹を立てる訣(わけ)にも行かなかつた。

 僕等はやむを得ず大銀杏を目當てにもう一度横みちへはいつて行つた。が、そこにもお墓はなかつた。僕は勿論苛(い)ら苛らして來た。しかしその底に潛んでゐるのは妙に侘しい心もちだつた。僕はいつか外套の下に僕自身の體温を感じながら、前にもかう言ふ心もちを知つてゐたことを思ひ出した。それは僕の少年時代に或餓鬼大將にいぢめられ、しかも泣かずに我慢して家(うち)へ歸つた時の心もちだつた。

 何度も同じ小みちに出入した後(のち)、僕は古樒(ふるしきみ)を焚(た)いてゐた墓地掃除の女に途(みち)を教はり、大きい先生のお墓の前へやつとK君をつれて行つた。

 お墓はこの前に見た時よりもずつと古びを加へてゐた。おまけにお墓のまはりの土もずつと霜に荒されてゐた。それは九日に手向けたらしい寒菊や南天の束の外に何か親しみの持てないものだつた。K君はわざわざ外套を脱ぎ、丁寧にお墓へお時宜をした。しかし僕はどう考えても、今更恬然とK君と一しよにお時宜をする勇氣は出惡(でにく)かつた。

 「もう何年になりますかね?」

 「丁度九年になる訣(わけ)です。」

 僕等はそんな話をしながら、護國寺前の終點へ引き返して行つた。

 僕はK君と一しよに電車に乘り、僕だけ一人富士前で下りた。それから東洋文庫にいる或友だちを尋ねた後、日の暮に動坂へ歸り着いた。

 動坂の往來は時刻がらだけに前よりも一層混雜してゐた。が、庚申堂を通り過ぎると、人通りもだんだん減りはじめた。僕は受け身になりきつたまま、爪先ばかり見るやうに風立つた路を歩いて行つた。

 すると墓地裏の八幡坂(はちまんざか)の下に箱車(はこぐるま)を引いた男が一人、楫棒(かぢぼう)に手をかけて休んでゐた。箱車はちよつと眺めた所、肉屋の車に近いものだつた。が、側へ寄つて見ると、横に廣いあと口(くち)に東京胞衣(えな)會社と書いたものだつた。僕は後から聲をかけた後(のち)、ぐんぐんその車を押してやつた。それは多少押してやるのに穢(きたな)い氣もしたのに違ひなかつた。しかし力を出すだけでも助かる氣もしたのに違ひなかつた。

 北風は長い坂の上から時々まつ直に吹き下ろして來た。墓地の樹木もその度にさあつと葉の落ちた梢を鳴らした。僕はかう言ふ薄暗がりの中に妙な興奮を感じながら、まるで僕自身と鬪ふやうに一心に箱車を押しつづけて行つた。………

(大正一四・一二・八)

[やぶちゃん注:この作品の末尾に現れる「東京胞衣會社」の箱車について、諏訪優氏は最初に掲げた著作の中で、興味深い考察をしている。即ち、一般に芥川はこの後押しする箱車に書かれた文字を何度も書いては消しして、考え抜いたに違いなく、そこに芥川らしい、文章に凝る面目があると褒める人が多い。しかし、これは実際に経験したことをありのままに書いたに違いないと私(諏訪氏)は信じるようになっている、として以下のように叙述されている(なお、諏訪氏は当時田端に在住)。

『と言うのは、同じ坂を登り下りし、このあたりの、今はないもろもろの路地を知ってたずねたりしているうちに、この八幡坂を登り芥川家の方へ右折して(坂から芥川家までは三、四分)その先を田端駅裏口へ出る崖の上に、東京胞衣会社の処理場(塚)があって、胞衣神社というちいさな社が実際にあったからである。

 胞衣は出産の際に出る廃棄物で(いわゆる水子も含まれていたと想像する)、当時はそんな処理の仕方をしていたようである。

 大正十四年の年末の心象風景を現実の田端のわびしさに重ねて成功したこの小品の決手のひとつ〝東京胞衣会社〟は、期せずして八幡坂上のそこにあったことをわたしは信じて疑わない。』

とし、以下にその胞衣神社について、東京胞衣会社が経営していた事実などを考証、最後に御自身による踏査によって、次のように考察されている。

『芥川龍之介が胞衣会社の箱車を押した坂は八幡坂ではなく東覚寺坂である。(「年末の一日」のその部分は「庚申堂」を通り過ぎ、「墓地裏の八幡坂の下」で箱車に出会う、から)道筋から言って東覚寺坂である。』]