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三つの窓   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年七月一日発行の雑誌『改造』に掲載された。雑誌掲載としては、この作品、芥川の意識の中では「西方の人」「或阿呆の一生」へと直連関してゆく、最晩年の重要な作品の一つである。底本は岩波版旧全集を用いたが、総ルビなので、読みが振れるもの以外は排除した。また「/\」の濁音は正字に直した。簡単な語注を最後に付した。]

 

三つの窓

 

       一 鼠

 

 一等戰鬪艦××の橫須賀軍港へはひつたのは六月にはひつたばかりだつた。軍港を圍んだ山々はどれも皆雨のために煙(けむ)つてゐた。元來軍艦は碇泊したが最後、鼠の殖ゑなかつたと云ふためしはない。――××も亦同じことだつた。長雨の中に旗を垂らした二萬噸(とん)の××の甲板の下にも鼠はいつか手箱だの衣囊だのにもつきはじめた。

 かう云ふ鼠を狩るために鼠を一匹捉へたものには一日の上陸を許すと云ふ副長の命令の下つたのは碇泊後三日にならない頃だつた。勿論水兵や機關兵はこの命令の下つた時から熱心に鼠狩(ねづみが)りにとりかかつた。鼠は彼等の力の爲に見る見る數を減らして行つた。從つて彼等は一匹の鼠も爭はない訣には行かなかつた。

 「この頃(ころ)みんなの持つて來る鼠は大抵八つ裂きになつてゐるぜ。寄つてたかつて引つぱり合ふものだから。」

 ガンルウムに集つた將校たちはこんなことを話して笑つたりした。少年らしい顏をしたA中尉もやはり彼等の一人だつた。つゆ空に近い人生はのんびりと育つたA中尉にはほんたうには何もわからなかつた。が、水兵や機關兵の上陸したがる心もちは彼にもはつきりわかつてゐた。A中尉は卷煙草をふかしながら、彼等の話にまじる時にはいつもかう云ふ返事をしてゐた。

 「さうだらうな。おれでも八つ裂きにし兼ねないから。」

 彼の言葉は獨身者(どくしんもの)の彼だけに言はれるのに違ひなかつた。彼の友だちのY中尉は一年ほど前に妻帶してゐたために大抵水兵や機關兵の上にわざと冷笑を浴びせてゐた。それは又何ごとにも容易に弱みを見せまいとするふだんの彼の態度にも合(がつ)してゐることは確かだつた。褐色の口髭の短い彼は一杯の麥酒(ビール)に醉つた時さへ、テエブルの上に頰杖をつき、時々A中尉にかう言つたりしてゐた。

 「どうだ、おれたちも鼠狩(ねづみがり)をしては?」

 或雨の晴れ上つた朝、甲板士官だつたA中尉はSと云ふ水兵に上陸を許可した。それは彼の小鼠を一匹、――しかも五體の整つた小鼠を一匹とつたためだつた。人一倍體の逞しいSは珍しい日の光を浴びたまゝ、幅の狹い舷梯(げんてい)を下(くだ)つて行つた。すると仲間の水兵が一人身輕に舷梯を登りながら、ちやうど彼とすれ違ふ拍子に常談のやうに彼に聲をかけた。

 「おい、輸入か?」

 「うん、輸入だ。」

 彼等の問答はA中尉の耳にはひらずにはゐなかつた。彼はSを呼び戾し、甲板の上に立たせたまゝ、彼等の問答の意味を尋ね出した。

 「輸入とは何か?」

 Sはちやんと直立し、A中尉の顏を見てゐたものゝ、明らかにしよげ切つてゐるらしかつた。

 「輸入とは外から持つて來たものであります。」

 「何のために外から持つて來たか?」

 A中尉は勿論何の爲に持つて來たかを承知してゐた。が、Sの返事をしないのを見ると、急に彼に忌々(いま/\)しさを感じ、力一ぱい彼の頰を擲(なぐ)りつけた。Sはちよつとよろめいたものゝ、すぐに又不動の姿勢をした。

 「誰(たれ)が外から持つて來たか?」

 Sは又何とも答へなかつた。A中尉は彼を見つめながら、もう一度彼の橫顏を張りつける場合を想像してゐた。

 「誰だ?」

 「わたくしの家内であります。」

 「面會に來たときに持つて來たのか?」

 「はい。」

 A中尉は何か心の中に微笑しずにはゐられなかつた。

 「何(なん)に入れて持つて來たか?」

 「菓子折に入れて持つて來ました。」

 「お前の家はどこにあるのか?」

 「平坂下であります。」

 「お前の親は達者でゐるか?」

 「いえ、家内と二人暮らしであります。」

 「子供はないのか?」

 「はい。」

 Sはかう云ふ問答の中(うち)も不安らしい容子を改めなかつた。A中尉は彼を立たせて措いたまま、ちよつと橫須賀の町へ目を移した。橫須賀の町は山々の中にもごみごみと屋根を積み上げてゐた。それは日の光を浴びてゐたものの、妙に見すぼらしい景色だつた。

 「お前の上陸は許可しないぞ。」

 「はい。」

 SはA中尉の默つてゐるのを見、どうしようかと迷つてゐるらしかつた。が、A中尉は次に命令する言葉を心の中に用意してゐた。が、しばらく何も言はずに甲板の上を步いてゐた。「こいつは罰を受けるのを恐れてゐる。」――そんな氣もあらゆる上官のやうにA中尉には愉快でないことはなかつた。

 「もう善(よ)い。あつちへ行け。」

 A中尉はやつとかう言つた。Sは擧手の禮をした後(のち)、くるりと彼に後ろを向け、ハツチの方へ步いて行かうとした。彼は微笑しないやうに努力しながら、Sの五六步隔つた後(あと)、俄かに又「おい、待て」と聲をかけた。

 「はい。」

 Sは咄嗟にふり返つた。が、不安はもう一度體中に漲(みなぎ)つて來たらしかつた。

 「お前に言ひつける用がある。平坂下にはクラツカアを賣つてゐる店があるな?」

 「はい。」

 「あのクラツカアを一袋買つて來い。」

 「今でありますか?」

 「さうだ。今すぐに。」

 A中尉は日に燒けたSの頰に涙の流れるのを見のがさなかつた。――

 それから二三日たつた後(のち)、A中尉はガンルウムのテエブルに女名前の手紙に目を通してゐた。手紙は桃色の書簡箋に覺束ないペンの字を並べたものだつた。彼は一通り讀んでしまふと、一本の卷煙草に火をつけながら、丁度前にゐたY中尉にこの手紙を投げ渡した。

 「何だ、これは? ………『昨日(さくじつ)のことは夫の罪にては無之、皆淺はかなるわたくしの心より起りしこと故、何とぞ不惡(あしからず)御ゆるし下され度候。……尚又御志(おこゝろざし)のほどは後のちまでも忘れまじく』………」

 Y中尉は手紙を持つたまま、だんだん輕蔑の色を浮べ出した。それから無愛想にA中尉の顏を見、冷かすやうに話しかけた。

 「善根を積んだと云ふ氣がするだらう?」

 「ふん、多少しないこともない。」

 A中尉は輕がると受け流したまゝ、圓窓(まるまど)の外を眺めてゐた。圓窓の外に見えるのは雨あしの長い海ばかりだつた。しかし彼は暫くすると、俄かに何かに羞じるやうにかうY中尉に聲をかけた。

 「けれども妙に寂しいんだがね。あいつのビンタを張つた時には可哀さうだとも何とも思はなかつた癖に。………」

 Y中尉はちよつと疑惑とも躊躇ともつかない表情を示した。それから何とも返事をしずにテエブルの上の新聞を讀みはじめた。ガンルウムの中には二人の外に丁度誰もゐ合はせなかつた。が、テエブルの上のコツプにはセロリイが何本もさしてあつた。A中尉もこの水々しいセロリイの葉を眺めたまゝ、やはり卷煙草ばかりふかしてゐた。かう云ふ素つ氣ないY中尉に不思議にも親しみを感じながら。………

 

       二 三  人

 

 一等戰鬪艦××は或海戰を終つた後(のち)、五隻の軍艦を從へながら、靜かに鎭海灣(ちんかいわん)へ向つて行つた。海はいつか夜になつてゐた。が、左舷の水平線の上には大きい鎌なりの月が一つ赤あかと空にかかつてゐた。二萬噸の××の中は勿論まだ落ち着かなかつた。しかしそれは勝利の後だけに活き/\としてゐることは確かだつた。唯(ただ)小心者のK中尉だけはかう云ふ中にも疲れ切つた顏をしながら、何か用を見つけてはわざとそここゝを步きまわつてゐた。

 この海戰の始まる前夜、彼は甲板を步いてゐるうちにかすかな角燈の光を見つけ、そつとそこへ步いて行つた。するとそこには年の若い軍樂隊の樂手(がくしゆ)が一人甲板の上に腹ばひになり、敵の目を避けた角燈の光に聖書を讀んでゐるのであつた。K中尉は何か感動し、この樂手に優しい言葉をかけた。樂手はちよいと驚いたらしかつた。が、相手の上官の小言を言はないことを發見すると、忽ち女らしい微笑を浮かべ、怯づ/\彼の言葉に答へ出した。……しかしその若い樂手ももう今ではメエン・マストの根もとに中(あた)つた砲彈のために死骸になつて橫になつてゐた。K中尉は彼の死骸を見た時、俄かに「死は人をして靜かならしむ」と云ふ文章を思ひ出した。若しK中尉自身も砲彈の爲に咄嗟に命を失つてゐたとすれば、――それは彼にはどう云ふ死よりも幸福のやうに思はれるのだつた。

 けれどもこの海戰の前の出來事は感じ易いK中尉の心に未だにはつきり殘つてゐた。戰鬪準備を整へた一等戰鬪艦××はやはり五隻の軍艦を從へ、浪の高い海を進んで行つた。すると右舷の大砲が一門なぜか蓋を開かなかつた。しかももう水平線には敵の艦隊の擧げる煙も幾すぢかかすかにたなびいてゐた。この手ぬかりを見た水兵たちの一人は砲身の上へ跨るが早いか、身輕に砲口まで腹這つて行き、兩足で蓋を押しあけやうとした。しかし蓋をあけることは存外容易には出來ないらしかつた。水兵は海を下にしたまま、何度も兩足をあがくやうにしてゐた。が、時々顏を擧げては白い齒を見せて笑つたりもしてゐた。そのうちに××は大うねりに進路を右へ曲げはじめた。同時に又海は右舷全體へ凄(すさ)まじい浪を浴びせかけた。それは勿論あつと言ふ間に大砲に跨つた水兵の姿をさらつてしまふのに足るものだつた。海の中に落ちた水兵は一生懸命に片手を擧げ、何かおほ聲に叫んでゐた。ブイは水兵たちの罵る聲と一しよに海の上へ飛んで行つた。しかし勿論××は敵の艦隊を前にした以上、ボオトをおろす訣には行かなかつた。水兵はブイにとりついたものの、見る見る遠ざかるばかりだつた。彼の運命は遲かれ早かれ溺死するのに定(き)まつてゐた。のみならず鱶はこの海にも決して少ないとは言はれなかつた。……

 若い樂手の戰死に對するK中尉の心もちはこの海戰の前の出來事の記憶と對照を作らずにゐる訣はなかつた。彼は兵學校へはいつたものの、いつか一度は自然主義の作家になることを空想してゐた。のみならず兵學校を卒業してからもモオパスサンの小説などを愛讀してゐた。人生はかう云ふK中尉には薄暗い一面を示し勝ちだつた。彼は××に乘り組んだ後(のち)、エヂプトの石棺(せきくわん)に書いてあつた「人生――戰鬪」と云ふ言葉を思ひ出し、××の將校や下士卒は勿論、××そのものこそ言葉通りにエヂプト人の格言を鋼鐵に組み上げてゐると思つたりした。從つて樂手の死骸の前には何かあらゆる戰ひを終つた靜かさを感じずにはゐられなかつた。しかしあの水兵のやうにどこまでも生きやうとする苦しさもたまらないと思はずにはゐられなかつた。

 K中尉は額の汗を拭きながら、せめては風にでも吹かれるために後部甲板のハツチを登つて行つた。すると十二吋(インチ)の砲塔の前に綺麗に顏を剃つた甲板士官が一人兩手を後ろに組んだまま、ぶらぶら甲板を步いてゐた。その又前には下士が一人頰骨の高い顏を半ば俯向け、砲塔を後ろに直立してゐた。K中尉はちよつと不快になり、そはそは甲板士官の側へ步み寄つた。

 「どうしたんだ?」

 「何、副長の點檢前に便所へはいつてゐたもんだから。」

 それは勿論軍艦の中では餘り珍らしくない出來事だつた。K中尉はそこに腰をおろし、スタンシヨンを取り拂つた左舷の海や赤い鎌なりの月を眺め出した。あたりは甲板士官の靴の音の外に人聲も何も聞えなかつた。K中尉は幾分か氣安さを感じ、やつとけふの海戰中の心もちなどを思ひ出してゐた。

 「もう一度私はお願ひ致します。善行賞はお取り上げになつても仕かたはありません。」

 下士は俄に顏を擧げ、かう甲板士官に話しかけた。K中尉は思わず彼を見上げ、薄暗い彼の顏の上に何か眞劍な表情を感じた。しかし快活な甲板士官はやはり兩手を組んだまゝ、靜かに甲板を步きつづけてゐた。

 「莫迦なことを言うな。」

 「けれどもここに起立してゐてはわたくしの部下に顏も合はされません。進級の遲れるのも覺悟しております。」

 「進級の遲れるのは一大事だ。それよりそこに起立してゐろ。」

 甲板士官はかう言つた後(のち)、氣輕に又甲板を步きはじめた。K中尉も理智的には甲板士官に同意見だつた。のみならずこの下士の名譽心を感傷的と思ふ氣もちもない訣ではなかつた。が、ぢつと頭を垂れた下士は妙にK中尉を不安にした。

 「こゝに起立してゐるのは恥辱であります。」

 下士は低い聲に賴みつゞけた。

 「それはお前の招いたことだ。」

 「罰は甘んじて受けるつもりでをります。唯どうか起立してゐることは……」

 「唯恥辱と云ふ立てまへから見れば、どちらも畢竟同じことぢやないか?」

 「しかし部下に威嚴を失ふのはわたくしとしては苦しいのであります。」

 甲板士官は何とも答へなかつた。下士は、――下士もあきらめたと見え、「あります」に力を入れたぎり、一言も言はずに佇んでゐた。K中尉はだん/\不安になり、(しかも又一面にはこの下士の感傷主義に欺されまいと云ふ氣もない訣ではなかつた。)何か彼の爲に言つてやりたいのを感じた。しかしその「何か」も口を出た時には特色のない言葉に變つてゐた。

 「靜かだな。」

 「うん。」

 甲板士官はかう答へたなり、今度は顋(あご)をなでゝ步いてゐた。海戰の前夜にK中尉に「昔、木村重成は……」などと言ひ、特に叮嚀に剃つてゐた顋を。…………

 この下士は罰をすました後(のち)、いつか行方不明になつてしまつた。が、投身することは勿論當直のある限りは絶對に出來ないのに違ひなかつた。のみならず自殺の行はれ易い石炭庫の中にもいないことは半日とたゝないうちに明かになつた。しかし彼の行方不明になつたことは確かに彼の死んだことだつた。彼は母や弟にそれぞれ遺書を殘してゐた。彼に罰を加へた甲板士官は誰(たれ)の目にも落ち着かなかつた。K中尉は小心ものだけに人一倍彼に同情し、K中尉自身の飮まない麥酒を何杯も強ひずにはゐられなかつた。が、同時に又相手の醉ふことを心配しずにもゐられなかつた。

 「何しろあいつは意地つぱりだつたからなあ。しかし死なゝくつても善いぢやないか?――」

 相手は椅子からずり落ちかゝつたなり、何度もこんな愚痴を繰り返してゐた。

 「おれは唯立つてゐろと言つただけなんだ。それを何も死なゝくつたつて、……」

 ××の鎭海灣へ碇泊した後(のち)、煙突の掃除にはいつた機關兵は偶然この下士を發見した。彼は煙突の中に垂れた一すぢの鎖に縊死してゐた。が、彼の水兵服は勿論、皮や肉も燒け落ちた爲に下(さが)つてゐるのは骸骨だけだつた。かう云ふ話はガンルウムにゐたK中尉にも傳はらない訣はなかつた。彼はこの下士の砲塔の前に佇んでゐた姿を思ひ出し、まだどこかに赤い月の鎌なりにかゝつてゐるやうに感じた。

 この三人の死はK中尉の心にいつまでも暗い影を投げてゐた。彼はいつか彼等の中に人生全體さへ感じ出した。しかし年月はこの厭世主義者をいつか部内でも評判の善(よ)い海軍少將の一人に數へはじめた。彼は揮毫を勸められても、滅多に筆をとり上げたことはなかつた。が、やむを得ない場合だけは必ず畫帖などにかう書いてゐた。――

   君看双眼色

   不語似無愁

 

       三 一等戰鬪艦××

 

 一等戰鬪艦××は橫須賀軍港のドツクにはいることになつた。修繕工事は容易に捗どらなかつた。二萬噸の××は高い兩舷の内外に無數の職工をたからせたまま、何度もいつにない苛立たしさを感じた。が、海に浮かんでゐることも蠣(かき)とりつかれることを思へば、むず痒い氣もするのに違ひなかつた。

 橫須賀軍港には××の友だちの△△も碇泊してゐた。一萬二千噸の△△は××よりも年の若い軍艦だつた。彼等は廣い海越しに時々聲のない話をした。△△は××の年齡には勿論、造船技師の手落ちから舵の狂ひ易いことに同情してゐた。が、××を劬(いたは)るために一度もそんな問題を話し合つたことはなかつた。のみならず何度も海戰をして來た××に對する尊敬の爲にいつも敬語を用ひてゐた。

 すると或曇つた午後、△△は火藥庫に火のはいつた爲に俄かに恐しい爆聲(ばくせい)を擧げ、半ば海中に橫になつてしまつた。××は勿論びつくりした。(尤も大勢の職工たちはこの××の震へたのを物理的に解釋したのに違ひなかつた。)海戰もしない△△の急に片輪(かわた)になつてしまふ、――それは實際××には殆ど信じられない位(くらゐ)だつた。彼は努めて驚きを隱し、はるかに△△を勵(はげま)したりした。が、△△は傾いたまま、炎や煙の立ち昇る中(うち)にただ唸り聲を立てるだけだつた。

 それから三四日たつた後(のち)、二萬噸の××は兩舷の水壓を失つてゐた爲にだんだん甲板も乾割(ひわ)れはじめた。この容子を見た職工たちは愈(いよ/\)修繕工事を急ぎ出した。が、××はいつの間にか彼自身を見離してゐた。△△はまだ年も若いのに目の前の海に沈んでしまつた。かう云ふ△△の運命を思へば、彼の生涯は少くとも喜びや苦しみを嘗め盡してゐた。××はもう昔になつた或海戰の時を思ひ出した。それは旗もずたずたに裂ければ、マストさへ折れてしまふ海戰だつた。……

 二萬噸の××は白じらと乾いたドツクの中に高だかと艦首を擡(もた)げてゐた。彼の前には巡洋艦や驅逐艇が何隻も出入(しゆつにふ)してゐた。それから新らしい潜航艇や水上飛行機も見えないことはなかつた。しかしそれ等は××には果なさを感じさせるばかりだつた。××は照つたり曇つたりする橫須賀軍港を見渡したまま、ぢつと彼の運命を待ちつづけてゐた。その間もやはりおのづから甲板のぢりぢり反り返つて來るのに幾分か不安を感じながら。………(昭和二・六・十)

 

[やぶちゃん注:

・「ガンルウム」:gun room 英海軍流でいう下級将校室のこと。

・「木村重成」:安土桃山時代の豊臣秀賴に仕えた武将。見苦しい首を曝さぬよう、兜にはいつも香をたきしめて居たと言われ、実際、夏の陣で討たれ、家康の元に届けられたその首級には、香の匂いがしたと伝えられる。

・鎭海灣:大韓民国の慶尚南道南部海岸にある天然の良港で、明治三十三(1900)年に日本が買収、日露戦争の際の海軍の集結地となった。その後も軍港として使用された。]