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闇中問答   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年九月発行の雑誌『文藝春秋』九月号(芥川龍之介追悼号)に「闇中問答(遺稿)」の題で掲載された。同号には「十本の針(遺稿)」も掲載された。底本には岩波版旧全集を用いたが、底本では、各台詞の頭が一字下げで、台詞が折り返す時のみ、一字目から書き出されている。本テクストでは、文字サイズを変えた際のWeb画面上の煩わしさを避けるために、各台詞の頭の一字下げを行っていない。また台詞のブラウザ上での見易さを考え、「僕」の後を二字空けにして、「或聲」の台詞部分とパラレルにした。――本作がルナールの「エロアの控え帳」の「エロア対エロア」のインスパイアであることは、最早、疑いない――しかし、同時に死を覚悟した芥川龍之介の搾り出すような魂の叫びであったことも――また揺るぎない真実なのである――。]

 

 闇中問答

 

       一

或聲 お前は俺の思惑とは全然違つた人間だつた。

僕  それは僕の責任ではない。

或聲 しかしお前はその誤解にお前自身も協力してゐる。

僕  僕は一度も協力したことはない。

或聲 しかしお前は風流を愛した、――或は愛したやうに裝つたらう。

僕  僕は風流を愛してゐる。

或聲 お前はどちらかを愛してゐる? 風流か? それとも一人の女か?

僕  僕はどちらも愛してゐる。

或聲 (冷笑)それを矛盾とは思はないと見えるな。

僕  誰が矛盾と思ふものか? 一人の女を愛するものは古瀨戶の茶碗を愛さないかも知れない。しかしそれは古瀨戶の茶碗を愛する感覺を持たないからだ。

或聲 風流人はどちらかを選ばなければならぬ。

僕  僕は生憎風流人よりもずつと多慾に生まれついてゐる。しかし將來は一人の女よりも古瀨戶の茶碗を選ぶかも知れない。

或聲 ではお前は不徹底だ。

僕  若しそれを不徹底と云ふならば、インフルエンザに罹つた後も冷水摩擦をやつてゐるものは誰よりも徹底してゐるだらう。

或聲 もう强がるのはやめにしてしまへ。お前は内心は弱つてゐる。しかし當然お前の受ける社會的非難をはね返す爲にそんなことを言つてゐるだけだらう。

僕  僕は勿論そのつもりだ。第一考へて見るが善い。はね返さなかつたが最後、押しつぶされてしまふ。

或聲 お前は何と云ふ圖々しい奴だ。

僕  僕は少しも圖々しくはない。僕の心臟は瑣細な事にあつても氷のさはつたやうにひやひやとしてゐる。

或聲 お前は多力者のつもりでゐるな? 

僕  勿論僕は多力者の一人だ。しかし最大の多力者ではない。若し最大の多力者だつたとすれば、あのゲエテと云ふ男のやうに安んじて偶像になつてゐたであらう。

或聲 ゲエテの戀愛は純潔だつた。

僕  それは譃だ。文藝史家の譃だ。ゲエテは丁度三十五の年に突然伊太利へ逃走してゐる。さうだ。逃走と云ふ外はない。あの秘密を知つてゐるものはゲエテ自身を例外にすれば、シユタイン夫人一人だけだらう。

或聲 お前の言ふことは自己辯護だ。自己辯護位手易いものはない。

僕  自己辯護は容易ではない。若し手易いものとすれば、辯護士と云ふ職業は成り立たない筈だ。

或聲 口巧者な橫着ものめ! 誰ももうお前を相手にしないぞ。

僕  僕はまだ僕に感激を與へる樹木や水を持つてゐる。それから和漢東西の本を三百册以上持つてゐる。

或聲 しかしお前は永久にお前の讀者を失つてしまふぞ。

僕  僕は將來に讀者を持つてゐる。

或聲 將來の讀者はパンをくれるか?

僕  現世の讀者さへ碌にくれない。僕の最高の原稿料は一枚十圓に限つてゐた。

或聲 しかしお前は資產を持つてゐたらう?

僕  僕の資產は本所にある猫の額ほどの地面だけだ。僕の月收は最高の時でも三百圓を越えたことはない。

或聲 しかしお前は家を持つてゐる。それから近代文藝讀本の……。

僕  あの家の棟木は僕には重たい。近代文藝讀本の印税はいつでもお前に用立ててやる。僕の貰つたのは四五百圓だから。

或聲 しかしお前はあの讀本の編者だ。それだけでもお前は恥ぢなければならぬ。

僕  何を僕に恥ぢろと云ふのだ?

或聲 お前は敎育家の仲間入りをした。

僕  それは譃だ。敎育家こそ僕等の仲間入りをしてゐる。僕はその仕事を取り戾したのだ。

或聲 お前はそれでも夏目先生の弟子か?

僕  僕は勿論夏目先生の弟子だ。お前は文墨に親しんだ漱石先生を知つてゐるかも知れない。しかしあの氣違ひじみた天才の夏目先生を知らないだらう。

或聲 お前には思想と云ふものはない。偶々あるのは矛盾だらけの思想だ。

僕  それは僕の進步する證據だ。阿呆はいつまでも太陽は盥よりも小さいと思つてゐる。

或聲 お前の傲慢はお前を殺すぞ。

僕  僕は時々かう思つてゐる。――或は僕は疊の上では往生しない人間かも知れない。

或聲 お前は死を恐れないと見えるな? な?

僕  僕は死ぬことを怖れてゐる。が、死ぬことは困難ではない。僕は二三度頸をくくつたものだ。しかし二十秒ばかり苦しんだ後は或快感さへ感じて來る。僕は死よりも不快なことに會へば、いつでも死ぬのにためらはないつもりだ。

或聲 ではなぜお前は死なないのだ? お前は誰の目から見ても、法律上の罪人ではないか?

僕  僕はそれも承知してゐる。ヴエルレエンのやうに、ワグナアのやうに、或は又大いなるストリントベリイのやうに。

或聲 しかしお前は贖はない。

僕  いや、僕は贖つてゐる。苦しみにまさる贖ひはない。

或聲 お前は仕かたのない惡人だ。

僕  僕は寧ろ善男子だ。若し惡人だつたとすれば、僕のやうに苦しみはしない。のみならず必ず戀愛を利用し、女から金を絞るだらう。

或聲 ではお前は阿呆かも知れない。

僕  さうだ。僕は阿呆かも知れない。あの「痴人の懺悔」などと云ふ本は僕に近い阿呆の書いたものだ。

或聲 その上お前は世間見ずだ。

僕  世間知りを最上とすれば、實業家は何よりも高等だらう。

或聲 お前は戀愛を輕蔑してゐた。しかし今になつて見れば、畢竟戀愛至上主義者だつた。

僕  いや、僕は今日こんにちでも斷じて戀愛至上主義者ではない。僕は詩人だ。藝術家だ。

或聲 しかしお前は戀愛の爲に父母妻子を抛つたではないか?

僕  譃をつけ。僕は唯僕自身の爲に父母妻子を抛つたのだ。

或聲 ではお前はエゴイストだ。

僕  僕は生憎エゴイストではない。しかしエゴイストになりたいのだ。

或聲 お前は不幸にも近代のエゴ崇拜にかぶれてゐる。

僕  それでこそ僕は近代人だ。

或聲 近代人は古人に若かない。

僕  古人も亦一度は近代人だつたのだ。

或聲 お前は妻子を憐まないのか?

僕  誰か憐まずにゐられたものがあるか? ゴオギヤアンの手紙を讀んで見ろ。

或聲 お前はお前のしたことをどこまでも是認するつもりだな。

僕  どこまでも是認してゐるとすれば、何もお前と問答などはしない。

或聲 ではやはり是認しずにゐるか?

僕  僕は唯あきらめてゐる。

或聲 しかしお前の責任はどうする?

僕  四分の一は僕の遺傳、四分の一は僕の境遇、四分の一は僕の偶然、――僕の責任は四分の一だけだ。

或聲 お前は何と云ふ下等な奴だ!

僕  誰でも僕位は下等だらう。

或聲 ではお前は惡魔主義者だ。

僕  僕は生憎惡魔主義者ではない。殊に安全地帶の惡魔主義者には常に輕蔑を感じてゐる。

或聲 (暫く無言)兎に角お前は苦しんでゐる。それだけは認めてやつても善い。

僕  いや、うつかり買ひ冠るな。僕は或は苦しんでゐることに誇りを持つてゐるかも知れない。のみならず「得れば失ふを惧る」は多力者のすることではないだらう。

或聲 お前は或は正直者かも知れない。しかし又或は道化者かも知れない。

僕  僕も亦どちらかと思つてゐる。

或聲 お前はいつもお前自身を現實主義者と信じてゐた。

僕  僕はそれほど理想主義者だつたのだ。

或聲 お前は或は滅びるかも知れない。

僕  しかし僕を造つたものは第二の僕を造るだらう。

或聲 では勝手に苦しむが善い。俺はもうお前に別れるばかりだ。

僕  待て。どうかその前に聞かせて吳れ。絕えず僕に問ひかけるお前は、――目に見えないお前は何ものだ?

或聲 俺か? 俺は世界の夜明けにヤコブと力を爭つた天使だ。

 

       二

 

或聲 お前は感心に勇氣を持つてゐる。

僕  いや、僕は勇氣を持つてゐない。若し勇氣を持つてゐるとすれば、僕は獅子の口に飛び込まずに獅子の食ふのを待つてゐるだらう。

或聲 しかしお前のしたことは人間らしさを具へてゐる。

僕  最も人間らしいことは同時に又動物らしいことだ。

或聲 お前のしたことは惡いことではない。お前は唯現代の社會制度の爲に苦しんでゐるのだ。

僕  社會制度は變つたとしても、僕の行爲は何人かの人を不幸にするのに極まつてゐる。

或聲 しかしお前は自殺しなかつた。兔に角お前は力を持つてゐる。

僕  僕は度たび自殺しようとした。殊に自然らしい死にかたをする爲に一日に蠅を十匹づつ食つた。蠅を細かにむしつた上、のみこんでしまふのは何でもない。しかし嚙みつぶすのはきたない氣がした。

或聲 その代りお前は偉大になるだらう。

僕  僕は偉大さなどを求めてゐない。欲しいのは唯平和だけだ。ワグネルの手紙を讀んで見ろ。愛する妻と二三人の子供と暮らしに困らない金さへあれば、偉大な藝術などは作らずとも滿足すると書いてゐる。ワグネルでさへこの通りだ。あのの强いワグネルでさへ。

或聲 お前は兎に角苦しんでゐる。お前は良心のない人間ではない。

僕  僕は良心などを持つてゐない。持つてゐるのは神經ばかりだ。

或聲 お前の家庭生活は不幸だつた。

僕  しかし僕の細君はいつも僕に忠實だつた。

或聲 お前の悲劇は他の人々よりも逞しい理智を持つてゐることだ。

僕  譃をつけ。僕の喜劇は他の人々よりも乏しい世間智を持つてゐることだ。

或聲 しかしお前は正直だ。お前は何ごとも露れないうちにお前の愛してゐる女の夫へ一切の事情を打ち明けてしまつた。

僕  それも譃だ。僕は打ち明けずにはゐられない氣もちになるまでは打ち明けなかつた。

或聲 お前は詩人だ。藝術家だ。お前には何ごとも許されてゐる。

僕  僕は詩人だ。藝術家だ。けれども又社會の一分子だ。僕の十字架を負ふのは不思議ではない。それでもまだ輕過ぎるだらう。

或聲 お前はお前のエゴを忘れてゐる。お前の個性を尊重し、俗惡な民衆を輕蔑しろ。

僕  僕はお前に言はれずとも僕の個性を尊重してゐる。しかし民衆を輕蔑しない。僕はいつかかう言つた。――「玉は碎けても、瓦は碎けない。」シエクスピイアや、ゲエテや近松門左衞門はいつか一度は滅びるであらう。しかれ彼等を生んだ胎は、――大いなる民衆は滅びない。あらゆる藝術は形を變へても、必ずそのうちから生まれるであらう。

或聲 お前の書いたものは獨創的だ。

僕  いや、決して獨創的ではない。第一誰が獨創的だつたのだ? 古今の天才の書いたものでもプロトタイプは至る所にある。就中僕は度たび盜んだ。

或聲 しかしお前は敎へてもゐる。

僕  僕の敎へたのは出來ないことだけだ。僕に出來ることだつたとすれば、敎へない前にしてしまつたであらう。

或聲 お前は超人だと確信しろ。

僕  いや、僕は超人ではない。僕等ヽヽは皆超人ではない。超人は唯ツアラトストラだけだ。しかもそのツアラトストラのどう云ふ死を迎へたかはニイチエ自身も知らないのだ。

或聲 お前さへ社會を怖れるのか?

僕  誰が社會を怖れなかつたか?

或聲 牢獄に三年もゐたワイルドを見ろ。ワイルドは「妄りに自殺するのは社會に負けるのだ」と言つてゐる。

僕  ワイルドは牢獄にゐた時に何度も自殺を計つてゐる。しかも自殺しなかつたのは唯その方法のなかつたばかりだ。

或聲 お前は善惡を蹂躙してしまへ。

僕  僕は今後もいやが上にも善人にならうと思つてゐる。

或聲 お前は餘り單純過ぎる。

僕  いや、僕は複雜過ぎるのだ。

或聲 しかしお前は安心しろ。お前の讀者は絕えないだらう。

僕  それは著作權のなくなつた後だ。

或聲 お前は愛の爲に苦しんでゐるのだ。

僕  愛の爲に? 文學靑年じみたお世辭は好い加減にしろ。僕は唯情事に躓いただけだ。

或聲 誰も情事には躓き易い。

僕  それは誰も金錢の慾に溺れ易いと云ふことだけだ。

或聲 お前は人生の十字架にかかつてゐる。

僕  それは僕の自慢にはならない。情婦殺しや拐帶犯人も人生の十字架にかかつてゐるのだ。

或聲 人生はそんなに暗いものではない。

僕  人生は「選ばれたる少數」を除けば、誰にも暗いのはわかつてゐる。しかも又「選ばれたる少數」とは阿呆と惡人との異名なのだ。

或聲 では勝手に苦しんでゐろ。お前は俺を知つてゐるか? 折角お前を慰めに來た俺を?

僕  お前は犬だ。昔あのフアウストの部屋へ犬になつてはひつて行つた惡魔だ。

 

       三

 

或聲 お前は何をしてゐるのだ?

僕  僕は唯書いてゐるのだ。

或聲 なぜお前は書いてゐるのだ。

僕  唯書かずにはゐられないからだ。

或聲 では書け。死ぬまで書け。

僕  勿論、――第一その外に仕かたはない。

或聲 お前は存外落ち着いてゐる。

僕  いや、少しも落ち着いてはゐない。若し僕を知つてゐる人々ならば、僕の苦しみを知つてゐるだらう。

或聲 お前の微笑はどこへ行つた?

僕  天上の神々へ歸つてしまつた。人生に微笑を送る爲に第一には吊り合ひの取れた性格、第二に金、第三に僕よりも逞しい神經を持つてゐなければならぬ。

或聲 しかしお前は氣輕になつたらう。

僕  うん、僕は氣輕になつた。その代りに裸の肩の上に一生の重荷を背負はなければならぬ。

或聲 お前はお前なりに生きる外はない。或は又お前なりに……。

僕  さうだ。僕なりに死ぬ外はない。

或聲 お前は在來のお前とは違つた、新らしいお前になるだらう。

僕  僕はいつでも僕自身だ。唯皮は變るだらう。蛇の皮を脫ぎ變へるやうに。

或聲 お前は何も彼も承知してゐる。

僕  いや、僕は承知してゐない。僕の意識してゐるのは僕の魂の一部分だけだ。僕の意識してゐない部分は、――僕の魂のアフリカはどこまでも茫々と廣がつてゐる。僕はそれを恐れてゐるのだ。光の中には怪物は棲まない。しかし無邊の闇の中には何かがまだ眠つてゐる。

或聲 お前も亦俺の子供だつた。

僕  誰だ、僕に接吻したお前は? いや、僕はお前を知つてゐる。

或聲 では俺を誰だと思ふ?

僕  僕の平和を奪つたものだ。僕のエピキユリアニズムを破つたものだ。僕の、――いや、僕ばかりではない。昔支那の聖人の敎へた中庸の精神を失はせるものだ。お前の犧牲になつたものは至る所に橫はつてゐる。文學史の上にも、新聞記事の上にも。

或聲 それをお前は何と呼んでゐる?

僕  僕は――僕は何と呼ぶかは知らない。しかし他人の言葉を借りれば、お前は僕等を超えた力だ。僕等を支配する Daimon だ。

或聲 お前はお前自身を祝福しろ。俺は誰にでも話しには來ない。

僕  いや、僕は誰よりもお前の來るのを警戒するつもりだ。お前の來る所に平和はない。しかもお前はレントゲンのやうにあらゆるものを滲透して來るのだ。

或聲 では今後も油斷するな。

僕  勿論今後は油斷しない。唯ペンを持つてゐる時には……。

或聲 ペンを持つてゐる時には來いと云ふのだな。

僕  誰が來いと云ふものか! 僕は群小作家の一人だ。又群小作家の一人になりたいと思つてゐるものだ。平和はその外に得られるものではない。しかしペンを持つてゐる時にはお前のとりこになるかも知れない。

或聲 ではいつも氣をつけてゐろよ。第一俺はお前の言葉を一々實行に移すかも知れない。ではさやうなら。いつか又お前に會ひに來るから。

僕  (一人になる。)芥川龍之介! 芥川龍之介、お前の根をしつかりとおろせ。お前は風に吹かれてゐる葦だ。空模樣はいつ何時變るかも知れない。唯しつかり踏んばつてゐろ。それはお前自身の爲だ。同時に又お前の子供たちの爲だ。うぬ惚れるな。同時に卑屈にもなるな。これからお前はやり直すのだ。