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鬼火へ

その頃の赤門生活   芥川龍之介

[やぶちゃん注:昭和二(1927)年二月二十一日付『帝國大學新聞』に、「その頃の赤門生活(二十七) 芥川龍之介氏記」のシリーズ記事見出しに、「眞夏の卒業式に冬服で汗みどろ」の題と「三十圓が拂へなくて除名處分を受けた頃」の副題を付して掲載。底本は岩波版旧全集を用いたが、パラルビとした。]

 

その頃の赤門生活

 

       

 

 僕の二十六歳の時なりしと覺ゆ。大學院學生となりをりしが、當時東京に住せざりしため、退學届を出す期限に遅れ、期限後數日を經て事務所に退學届を出(いだ)したりしに、事務の人は規則を嚴守して受けつけず「既に期限に遅れし故、三十圓の金を收めよ」といふ。大正五六年の三十圓は大金なり。僕はこの大金を出し難き事情ありしが故に「然らばやむを得ず除名處分を受くべし」といへり。事務の人は僕の將來を氣づかび「君にして除名處分を受けん乎、今後の就職口を如何せん」といひしが、畢(つい)に除名處分を受くることゝなれり。

 

[やぶちゃん注:以下、次の段落は全体が底本では一字下げ。]

 

僕の同級の哲學科の學生、僕の爲に感激して曰、「君もシエリングの如く除名處分を受けしか」と! シエリングも亦僕の如く三十圓の金を出し澁りしや否や、僕は未だ寡聞にしてこれを知らざるを遺憾とするものなり。

 

       

 

 僕達のイギリス文學科の先生は故ロオレンス先生なり、先生は一日僕を路上に捉へ、娓々々(びび)數千言を述べられてやまず。然れども僕は先生の言を少しも解すること能はざりし故、唯雷に打たれたる啞の如く瞠目して先生の顔を見守り居(ゐ)たり、先生も亦僕の容子に多少の疑惑を感ぜられしなるべし。突如として僕に問うて曰く、“Are you Mr. K. ?”僕、答へて曰く、“No, Sir.”先生は――先生もまた雷に打たれたる啞の如く瞠目せらるゝこと少時(せうじの後(のち)、僕を後(うしろ)にして立ち去られたり。僕の親しく先生に接したるは實にこの路上の數分間なるのみ。

 

       

 

[やぶちゃん注:以下、この章、底本では全行一字下げで、且つルビがない。]

僕等「新思潮社」同人の列したるは大正天皇の行幸し給へる最後の卒業式なりしなるべし。僕等は久米正雄と共に夏の制服を持たざりし爲、裸の上に冬の制服を着、恐る/\大勢の中にまじり居たり。

 

       

 

 僕はケエベル先生を知れり。先生はいつもフランネルのシヤツを着られ、シヨオペンハウエルを講ぜられしが、そのシヨオペンハウエルの本の上等なりしことは今に至つて忘るゝこと能はず。

 

       

 

[やぶちゃん注:以下、「今もなほかく信じて疑はざる所なり。」迄、底本では全行一字下げで、且つルビがない。]

僕は確か二年生の時獨乙語の出來のよかりし爲、獨乙大使グラアフ、レツクスよりアルントの詩集を四冊貰へり。然れどもこは眞に出來のよかりしにあらず、一つには喜多床に髪を刈りに行きし時、獨乙語の先生に順を讓り、先に刈らせたる爲なるべし。こは謙遜にあらず、今もなほかく信じて疑はざる所なり。

 僕はこのアルントを郁文堂(いくぶんだう)に賣り金六圓にかへたるを記憶す、爾來星霜を閲(えつ)すること十余、僕のアルントを知らざることは少しも當時に異ることなし。知らず、天涯のグラアフ、レツクスは今(いま)果(はた)赭顏(しやがん)舊(きう)の如くなりや否や。

 

       

 

 僕は二年生か三年生かの時、矢代幸雄、久米正雄の二人と共にイギリス文學科の教授方針を攻撃したり、場所は一つ橋の學士會館なりしと覺ゆ。僕等は寡(くわ)を以て衆にあたり、大いに凱歌を奏したり。然れども久米は勝誇りたるため、忽ち心臓に異状を呈し、本郷まで歩きて歸ること能はず。僕は矢代と共に久米を擔(かつ)ぎ、人跡絶えたる電車通りをやつと本郷の下宿へ歸れり。 (昭和二・二・一七)