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骨董羹

―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文― 芥川龍之介

 

[やぶちゃん注:本篇は大正9(1920)年4・5・6月発行の雑誌『人間』に「骨董羹 壽陵余子」の署名で(芥川龍之介のクレジットなしに)連載された(但し、それが分かるような記載が当該号若しくは後の号等の編集後記等にあった可能性はあるが、初出誌は確認していない)。巻末に附した「別稿」は、後に本篇を大正111922)年5月刊の芥川龍之介初の随筆集『點心』に収める際、削除された項である。底本は岩波版旧全集第三巻を用いた。

 本篇は訓読に頗る難なる漢語を多用するが、底本は「一字の師」中の松尾青々の句中の「赤(アケ)」以外、一切ルビがない。音読するに迷うと思われるものについてのみ、私の判断で歴史的仮名遣によって〔 〕で補ったが、極めて禁欲的に附しており、若い読者には恐らく不足であろうとは思う(訓読については一部、昭和421967)年刊の筑摩書房全集類聚版を参考にした)。また、漢詩等の一部の中文については書き下しを各篇の後に補い、更に一部の語句についてはやはり各篇の後に注を附したが、その私の注も如何にも物足りないものとして不満をお感じになる向きもあろうかと思う(注に際しては前記筑摩全集類聚版の脚注及び1996年岩波版新全集第六巻の巻末に所収する赤塚正幸氏筆の注解を一部参考にした。一度注した語は以下では省略してある)。さて、この私のテクストへの不足不満に対して、実は私はある特殊な口語翻案テクストを作成した。それは

芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み やぶちゃん(copyright 2009 Yabtyan)

である。そちらでは勝手放題やらせてもらった。従って、本テクストの方は底本を可能な限り尊重する禁欲的立場を貫く。是非、以上の悪魔の翻案も御賞味あれ。

 題名の「骨董羹」は、宋代に生じた中華の料理法・料理名で、魚・獣の骨をベースに野菜や魚肉を長く煮て作った羹(あつもの:スープ・煮こごり)、更に広くごった煮の意味で用いられる。本作が芥川龍之介の傲岸不遜にして放言猥雑、中には闇鍋のように食えない大変な代物も入っていることを暗に示すものである。芥川龍之介自身による解説が本篇の最後(別稿の前)の項「泥黎口業」(でいりこうぎょう)に示される。

 「壽陵余子」という芥川龍之介のここでの雅号(公的には本作にのみ用いられた)は「荘子」の「秋水篇」中の故事として語られる一エピソードに基づく。戦国時代の燕の片田舎寿陵に住む少年(「余子」は未成年の意)が、趙の都邯鄲に赴いてその都会風な歩き方を学ぼうとした。しかしその都風のお洒落な歩き方が身に付かないうちに、本来の自分のオリジナルな歩き方さえ忘れてしまい、遂には無様にも故郷へ腹這いになって帰った。一般的には、自身の力量も考えずに他人の真似ばかりしていると、どっち就かずになって結局は自身の本分をも失って我身をも滅ぼすことになる、ことを言う。大正9(1920)年3月31日付瀧田哲太郎宛岩波版旧全集684書簡の中で、「壽陵余子」という自分の雅号について説明した下りで、その命名の由来を『僕自身西洋を学んで成らずその内に東洋を忘れてゐる所が邯鄲壽陵兩所の歩き方を學び損なつた青年に似てゐると思つたからです』と述べている。後年、芥川は「歯車」の「三 夜」で本作をものした際の思い出を以下のように語っている(引用は私の同テクストを用いた)。『日の暮に近い丸善の二階には僕の外に客もないらしかつた。僕は電燈の光の中に書棚の間をさまよつて行つた。それから「宗教」と云ふ札を掲げた書棚の前に足を休め、緑いろの表紙をした一册の本へ目を通した。この本は目次の第何章かに「恐しい四つの敵、――疑惑、恐怖、驕慢、官能的欲望」と云ふ言葉を並べてゐた。僕はかう云ふ言葉を見るが早いか、一層反抗的精神の起るのを感じた。それ等の敵と呼ばれるものは少くとも僕には感受性や理智の異名に外ならなかつた。が、傳統的精神もやはり近代的精神のやうにやはり僕を不幸にするのは愈僕にはたまらなかつた。僕はこの本を手にしたまま、ふといつかペン・ネエムに用ひた「壽陵餘子(じゆれうよし)」[やぶちゃん字注:「れう」はママ。]と云ふ言葉を思ひ出した。それは邯鄲(かんたん)の歩みを學ばないうちに壽陵の歩みを忘れてしまひ、蛇行匍匐(だこうほふく)して歸郷したと云ふ「韓非子」中の青年だつた。今日の僕は誰の目にも「壽陵餘子」であるのに違ひなかつた。しかしまだ地獄へ墮ちなかつた僕もこのペン・ネエムを用ひてゐたことは、――僕は大きい書棚を後ろに努めて妄想を拂ふやうにし、丁度僕の向うにあつたポスタアの展覽室へはひつて行つた。が、そこにも一枚のポスタアの中には聖ヂヨオヂらしい騎士が一人翼のある龍を刺し殺してゐた。しかもその騎士は兜の下に僕の敵の一人に近いしかめ面(つら)を半ば露してゐた。僕は又「韓非子」の中の屠龍(とりう)の技(ぎ)の話を思ひ出し、展覽室へ通りぬけずに幅の廣い階段を下つて行つた。』。ちなみにここで芥川はどちらの出典も錯誤している。既にお分かりの通り、「寿陵余子」の出典の「荘子」を「韓非子」とし、また同じく「荘子」に出る「屠龍の技」をも「韓非子」と誤っている。本篇の漢文素養の意気軒昂なるを考えるとこの錯誤は如何にも哀しいものがあるが、この引用部全体に既に『地獄よりも地獄的な』現実に生きていた「歯車」執筆当時の晩年の芥川を感じ、私はまた別な悲愴の趣きを覚えずにはいられないのである――。【2008年12月29日記】
 翻案テクスト完成・公開に合わせて、冒頭注の一部を改変した。【2009年1月31日】
 筑摩全集類聚版の脚注及び岩波版新全集第六巻巻末所収の赤塚正幸氏の注解伴に『不詳。』とする「聊齋志異」の項に現れる「崑崙外史」が、Seki氏の御教授により判明、該当注を全面的に改訂した。これは今まで多くの日本人に知られていなかった事実であると思われる。必読されたい。ここにSeki氏に深く感謝の意を表するものである。【2010年3月10日】]

 

骨董羹

―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―

 

     別乾坤〔べつけんこん〕

 

 Judith Gautier が詩中の支那は、支那にして又支那にあらず。葛飾北齋が水滸畫傳の插畫も、誰か又是を以て如實に支那を寫したりと云はん。さればかの明眸の女詩人も、この短髮の老畫伯も、その無聲の詩と有聲の畫とに彷弗たらしめし所謂支那は、寧ろ彼等が白日夢裡に逍遙遊〔せうえういう〕を恣にしたる別乾坤なりと稱すべきか。人生幸にこの別乾坤あり。誰か又小泉八雲と共に、天風海濤の蒼々浪々たるの處、去つて還らざる蓬莱の蜃中樓を歎く事をなさん。(一月二十二日)

[やぶちゃん注:「誰か又小泉八雲と共に、天風海濤の蒼々浪々たるの處、去つて還らざる蓬莱の蜃中樓を歎く事をなさん。」の部分は、小泉八雲の「怪談」の掉尾をなす「蓬莱」の記述に基づく。まずLafcadio HearnHôrai”の、その冒頭原文を掲げる(引用はK.Inadomi's Private Library所収のものを用いた)。

   *

Blue vision of depth lost in height, — sea and sky interblending through luminous haze. The day is of spring, and the hour morning.

 

Only sky and sea, — one azure enormity. . . . In the fore, ripples are catching a silvery light, and threads of foam are swirling. But a little further off no motion is visible, nor anything save color: dim warm blue of water widening away to melt into blue of air. Horizon there is none: only distance soaring into space, — infinite concavity hollowing before you, and hugely arching above you, — the color deepening with the height. But far in the midway-blue there hangs a faint, faint vision of palace towers, with high roofs horned and curved like moons, — some shadowing of splendor strange and old, illumined by a sunshine soft as memory.

. . . What I have thus been trying to describe is a kakémono, — that is to say, a Japanese painting on silk, suspended to the wall of my alcove; — and the name of it is SHINKIRÔ, which signifies "Mirage." But the shapes of the mirage are unmistakable. Those are the glimmering portals of Hôrai the blest; and those are the moony roofs of the Palace of the Dragon-King; — and the fashion of them (though limned by a Japanese brush of to-day) is the fashion of things Chinese, twenty-one hundred years ago. . . .

   *

 この作品の訳を示すに、平井呈一先生の訳以外に名訳を私は知らない。特に先生は、この冒頭に二段落分を擬古文に訳されており、それがこの芥川のそれと美事に照応するかのように美しいのである。ここにそれを引用せずにはおれない(
1975年恒文社刊「怪談 骨董他」所収の「蓬莱(ほうらい)」を用いたため、恐らく初訳の際はそうであったであろう歴史仮名遣は残念ながら現代仮名遣に改められている。もとに戻した願望に駆られるが、著作権存続中の作品の引用であるので、そのままとする。読者は是非、歴史的仮名遣且つ正字に直して鑑賞・対比されると、芥川龍之介―小泉八雲―平井呈一という稀有の美しいラインが見えているはずである)。

   *

 水や空なるわだの原。霞にけぶる空と水。時は春なり、日は朝(あした)。

 見わたせば、ただ渺々の海と空(そら)。見る目くまなき群青(ぐんじょう)の、こなたに寄する岸の波。ただよう五百(いお)の水泡(みな)くずは、銀の光をとらうらん。その岸べより沖かけて、目路(まじ)には動くものもなく、ただ一刷毛の藍の色、日に蒸れけむる碧水の、蒼茫として碧天に、つらなるきわを眺むれば底(そこひ)も知らぬ穹窿(きゅうりゅう)の、帰墟(ききょ)の壑(たに)にも似たるかや。高きとともにその色の、ひときわ深き中空に、反りたる屋根の新月に、まがうと見ゆる高楼(たかどの)の、ほのかに遠くかかれるは、げにそこはかとなき思い出の、姿もかくやほのぼのと、朝日に映(は)ゆるとつ国の、古き栄華のまぼろしぞこれ。

 

 上に試みに訳したのは、一幅の掛物である。素絹に描いて、わが家の床の間にかけてある、日本の絵だ。題を「蜃気楼」という。「蜃気楼」とはまぼろし」の意である。しかし、この蜃気楼は形がさだかである。これに見えるのは、仙境蓬莱に輝く光りの門、あれに見ゆるは、竜宮の月の屋根である。その様式は、(現代の日本の画家が描いたものだが)二千年前の中国の様式だ。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

   *

 小泉八雲は以下、常世としての蓬莱の不老不死等について語りながら、悲しみや死が犯さない世界などあるはずがない、と否定はする。しかし、すぐに蓬莱の語りの魅力に負けて、その大気が空気ではなく、幾千万億という太古の霊魂の精気によって構成されており、それを摂取することよって蓬莱に生きるものの感覚は我々とは異なったものになると語り出す。蓬莱では正邪の観念がない。故に老若もない。不死ではないが、その死の瞬間以外は、常ににこやかに微笑んでいる。蓬莱では全ての人々が家族のように愛と信頼の絆によって結ばれている。そうして蓬莱の「女」の人の心やその語りかける言葉は、小鳥の魂のように軽やかである。蓬莱では死の瞬間の別れの悲しみ以外には、何一つ、人に隠すことがない(神は死の瞬間の悲しみがその当人の表情から消え去るまで、その顔を蔽うのである)から、もとより恥を感じるいわれもない。他者から何かを盗む必要も恐れという感情も不要だから、戸閉まりをする必要もない。その人々は皆、神仙である。だから、その世界のものは殆んどが極めて小さくて奇妙に見える。彼らは極めて小さな茶碗で飯を食い、極めて小さな杯で酒を飲む……。八雲はここでこれらの霊妙なるものの核心を総括する。それは、理想、即ち古き世の希望の光、に対する憧憬であるとする。その希望の『無私の生涯の朴直な美しさ』(平井氏訳)が蓬莱の「女」の人の誠実な優しさに現われている……と。もう、この八雲が語る「蓬莱」が何辺にあるか、お分かり頂けたものと思う。

 最終段落は象徴的である。そうしてこれが芥川の最後の一文に直に繋がる(引用は原文・訳文ともに前記引用に同じ)。

   *

Evil winds from the West are blowing over Hôrai; and the magical atmosphere, alas! is shrinking away before them. It lingers now in patches only, and bands, — like those long bright bands of cloud that trail across the landscapes of Japanese painters. Under these shreds of the elfish vapor you still can find Hôrai — but not elsewhere. . . . Remember that Hôrai is also called Shinkirô, which signifies Mirage, — the Vision of the Intangible. And the Vision is fading, — never again to appear save in pictures and poems and dreams. . . .

   *

 ――西の国からくる邪悪の陰風が、蓬莱の島の上を吹きすさんでいる。霊妙なる大気は、かなしいかな、しだいに薄らいで行きつつある。いまは、わずかに、日本の山水画家の描いた風景のなかにたなびく、長い光りの雲の帯のように、片(きれ)となり、帯となって、漂うているばかりである。その一衣帯の雲の下、蓬莱は、その雲の下にのみ、今は存しているのである。それ以外のところには、もはやどこにも存在していない。蓬莱は、又の名を蜃気楼という。蜃気楼とは手に触れることのできない、まぼろしの意である。そうして、そのまぼろしは、今やすでに消えかかりなんとしつつある。――絵と、歌と、夢とのなかにあらざれば、もはやふたたびあらわれぬかのように。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

   *

 なお、「蜃中樓」について、筑摩全集類聚版注は『蓬莱にある仮空[やぶちゃん注:ママ。]の楼の名か。又は蜃気楼と同じ意味で用いたか。清曲の一に「蜃中楼」というのがあるが、無関係であろう。』とし、岩波版新全集注では『広津柳浪の処女作「女子参政蜃中楼」(「東京絵入新聞」一八八七年六月一日―八月十七日)の「序」に「蜃中楼とは蛤が吐出した気の中に玲瓏たる楼閣が層々累々巍乎として出現せるを申せしものなるハ、何人も御存のことにて」とある。』とする。私は、殊更にこの語の根拠を云々することに意味を感じないが(蜃気楼と同義であってなんら問題ないし、字面の意味もおかしくはないから)、敢えて言わせて貰えば、芥川が本作中でも掲げている艶本「肉布團」の作者に比定される李漁(彼は明末から清初にかけての文人とされている)の作品に、「蜃中樓伝竒」なるものも存在している。]

 

       輕薄

 

 元の李衎〔りかん〕、文湖州の竹を見る數十幅、悉意に滿たず。東坡山谷等の評を讀むも亦思ふらく、その交親に私するならんと。偶友人王子慶と遇ひ、話次〔わじ〕文湖州の竹に及ぶ。子慶曰、君未眞蹟を見ざるのみ。府史の藏本甚眞、明日〔みやうにち〕借り來つて示すべしと。翌日即之を見れば、風枝抹疎として塞煙を拂ひ、露葉蕭索として清霜を帶ぶ、恰も渭川〔いせん〕淇水〔きすゐ〕の間に坐するが如し。衎感歎措く能はず。大いに聞見の寡陋〔くわらう〕を恥ぢたりと云ふ。衎の如きは未恕すべし。かの寫眞版のセザンヌを見て色彩のヴアリユルを喋々するが如き、論者の輕薄唾棄するに足へたりと云ふべし。戒めずんばあるべからず。(一月二十三日)

[やぶちゃん注:「ヴアリユル」はフランス語“valeur”で、色価と訳される。色の明度や色相互の関係を言う美術用語。前近代にあっては、専ら色の明暗度の違いによってパースペクティヴの違いを引き出すような空間的描出の様態を指して言ったが、印象派セザンヌ以降の近現代絵画では、単純な明度に加えて、色相互の色合いや配置・調和といった画面構成全般に及ぶ評言として用いられる。]

 

       俗漢

 

 バルザツクのペエル・ラシエエズの墓地に葬らるゝや、棺側に侍するものに内相バロツシユあり。送葬の途上同じく棺側にありしユウゴオを顧みて尋ぬるやう、「バルザツク氏は材能の士なりしにや」と。ユウゴオ咈吁〔ふつく〕として答ふらく「天才なり」と。バロツシユその答にや憤りけん傍人に囁いて云ひけるは、「このユウゴオ氏も聞きしに勝る狂人なりけり」と。佛蘭西の臺閣〔だいかく〕亦這般〔しやはん〕の俗漢なきにあらず。日東帝國の大臣諸公、意を安んじて可なりと云ふべし。(一月二十四日)

[やぶちゃん注:「這般」(しゃはん)の「這」は、宋代の俗語で「此」と同義。通常は格助詞「の」を伴って「これら・この辺・この度・今般」という意味で用いる。]

 

       同性戀愛

 

 ドオリアン・グレエを愛する人は Escal Vigor を讀まざる可からず。男子の男子を愛するの情、この書の如く遺憾なく描寫せられしはあらざる可し。書中若しこれを飜譯せんか、我當局の忌違に觸れん事疑なきの文字少からず。出版當時有名なる訴訟事件を惹起したるも、亦是等艷冶〔えんや〕の筆の累する所多かりし由。著者 George Eekhoud は白耳義〔ベルギイ〕近代の大手筆なり。聲名必しもカミユ・ルモニエエの下にあらず。されど多士濟々たる日本文壇、未この人が等身の著述に一言の紹介すら加へたるもの無し。文藝豈獨り北歐の天地にのみ、オウロラ・ボレアリスの盛觀をなすものならんや。(一月二十五日)

[やぶちゃん注:「オウロラ・ボレアリス」は“aurora boreālis”、ラテン語でオーロラ、北極光のことを指す。“aurora”はローマ神話の暁の女神アウロラAuroraに由来し、“boreālis”は“boreal”=“northern”で「北の、北風の、北方の」の意である。“boreālis”という語自体もギリシャ神話の北風の神Boreasに由来する。英語圏でオーロラを“aurora borealis”とラテン語表記することは必ずしも特殊なことではない。]

 

       同人雜誌

 

 年少の子弟據金して、同人雜誌を出版する事、當世の流行の一つなるべし。されど紙代印刷費用共に甚廉ならざる今日、經營に苦しむもの亦少からず。傳へ聞く、ル・メルキウル・ド・フランスが初號を市に出せし時も、元より文壇不遇の士の黄白〔くわうはく〕に裕なる筈なければ、やむ無く一株六十法〔フラン〕の債劵を同人に募りしかど、その唯一の大株主たるジユウル・ルナアルが持株すら僅々四株に過ぎざりしとぞ。しかもその同人の中には、アルベエル・サマンの如き、レミ・ド・グルモンの如き、一代の才人多かりしを思へば、當世流行の同人雜誌と雖も、資金の甚潤澤ならざるを憾むべき理由なきに似たり。唯、得難きは當年のル・メルキウルに、象徴主義の大旆〔たいはい〕を樹〔た〕てしが如き英靈底の漢一ダアスのみ。(一月二十六日)

 

       雅號

 

 日本の作家今は多く雅號を用ひず。文壇の新人舊人を分つ、殆雅號の有無を以てすれば足るが如し。されば前に雅號ありしも捨てゝ用ひざるさへ少からず。雅號の薄命なるも亦甚しいかな。露西亞の作家にオシツプ・デイモフと云ふものあり。チエホフが短篇「蝗」の主人公と同名なりしと覺ゆ。デイモフはその名を借りて雅號となせるにや。博覽の士の示教〔しけう〕を得れば幸甚なり。(一月二十八日)

[やぶちゃん注:「オシツプ・デイモフ」はОсип ДымовOssip Dymov 18781959)で、ロシア出身の劇作家。但し、1913年に米国へ移住している。本名はИосиф Исидорович Перельманで、ラテン語綴りに換えるとIosif(=Joseph) Isidoroviych Perelmanイョーシフ・イシドーローヴィチ・ペレルマンで、名の発音の近似性が確認できる。

 『チエホフが短篇「蝗」』というのは1892年作の原題“Попрыгунья”(Poprygunya)で、これはロシア語で腰の落ち着かない女の謂い、ところがこれが英訳題名では“The Grasshopper”(イナゴ・バッタ)となる。しかし英語の“The Grasshopper”にはロシア語のような意味が通常の辞書には現われない(英訳される以上、そのような卑俗語として英語には存在するのであろうが、少なくとも芥川龍之介はそれを認識していなかったのではなかろうかとも思われる)。現在、邦題では「浮気な女」「気まぐれ女」「浮気」等と訳されている作品である。この作品の主人公の名前はОсип Степаныч ДымовOsip Stepanych Dimov オーシップ・ステパーヌィチ・ディモフ)である。私はこれ以上の知見を持たないが、芥川龍之介の推理が正しい可能性はかなり高いものと思われる。ここに芥川の遺志を新たにして博覽の士の示教を受けられるならば、恩幸これに過ぎたるはない。]

 

       青樓

 

 佛蘭西語に妓樓を la maison verte と云ふは、ゴンクウルが造語なりとぞ。蓋し青樓美人合せの名を飜譯せしに出づるなるべし。ゴンクウルが日記に云ふ。「この年(千八百八十二年)わが病的なる日本美術品蒐集の爲に費せし金額、實に三千法に達したり。これわが收入の全部にして、懷中時計を購ふべき四十法の殘餘さへ止めず」と。又云ふ。「數日以來(千八百七十六年)日本に赴かばやと思ふ心止め難し。されどこの旅行はわが日頃の蒐集癖を充さんが爲のみにはあらず。われは夢む、一卷の著述を成さん事を。題は「日本の一年」。日記の如き體裁。敍述よりも情調。かくせば比類なき好文字〔かうもんじ〕を得べし。唯、わがこの老を如何」と。日本の版畫を愛し、日本の古玩を愛し、更に又日本の菊花を愛せる伶俜〔れいへい〕孤寂のゴンクウルを想へば、青樓の一語短なりと雖も、無限の情味なき能はざるべし。(一月二十九日)

[やぶちゃん注:“la maison verte”はフランス語で「緑の館」。岩波版新全集注解によると、前者の日記の引用はゴンクールの18821219日からの引用であるが、「三千法に達した」は芥川の引用の誤りで、「三万法」(法=フラン)が正しいとする。]

 

       言語

 

 言語は元より多端なり。山と云ひ、嶽と云ひ、峯と云ひ、巒〔らん〕と云ふ。義の同うして字の異なるを用ふれば、即ち意を隱微の間に偶するを得べし。大食ひを大松と云ひ差出者〔さしでもの〕を左兵衞次と云ふ。聞くものにして江戸つ子ならざらんか、面罵せらるゝも猶恬然たらん。試に思へ、品蕭の如き、後庭花の如き、倒澆燭〔たうげいしよく〕の如き、金瓶梅肉蒲團中の語彙を借りて一篇の小説を作らん時、善くその淫褻俗を壞〔やぶ〕るを看破すべき檢閲官の數何人なるかを。(一月三十一日)

[やぶちゃん注:「品蕭」はフェラチオ、「後庭花」は肛門、「倒澆燭」は、茶臼・騎乗位の意。]

 

       誤譯

 

 カアライルが獨逸文の飜譯に誤譯指摘を試みしはデ・クインシイがさかしらなり。されどチエルシイの哲人はこの後進の鬼才を遇する事反つて甚篤かりしかば、デ・クインシイも亦その襟懷に服して百年の心交を結びたりと云ふ。カアライルが誤譯の如何なりしかは知らず。予が知れる誤譯の最も滑稽なるはマドンナを奧さんと譯せるものなり。譯者は樂園の門を守る下僕天使にもあらざるものを。(二月一日)

[やぶちゃん注:「チエルシイの哲人」のチェルシーはロンドンの南西部テムズ川北岸の地名。芸術家が多く居住した。カーライルはスコットランドのダンフリーシュッシャーの生れであるが、1834年ここに移り、終生ここに住み、加えて厭人癖が強かったこともあり、世に「チェルシーの哲人」と呼ばれた。]

 

       戲訓

 

 往年久米正雄氏シヨウを訓して笑迂と云ひ、イブセンを訓して燻仙と云ひ、メエテルリンクを訓して瞑照燐火と云ひ、チエホフを訓して知慧豐富と云ふ。戲訓と稱して可ならん乎。二人比丘尼の作者鈴木正三〔しやうざう〕、その耶蘇教弁斥の書に題して破鬼理死端〔はきりしたん〕と云ふ。亦惡意ある戲訓の一例たるべし。(二月二日)

[やぶちゃん注:「鈴木正三」は現在、主に仮名草子の作家として知られるが、元は旗本で、後に曹洞宗の僧となった。出家後、島原の乱の後に天草の代官となった弟の要請を受ける形で当地へ赴き、三年の内に宗派を問わず三十二の寺を復興、残存するキリスト教の影響力を殺ぐために寛永191642)年に「破吉利支丹」を執筆し、天草の寺院に配布したという。本文の「鬼理死端」という表記は、実際に天草の乱の後に書かれたと思しい、幕府要人の現存する文書に存在しているという記載が、ネット上に存在する。]

 

       俳句

 

 紅葉の句未古人靈妙の機を會せざるは、獨りその談林調たるが故のみにもあらざるべし。この人の文を見るも楚々たる落墨直〔ただち〕に松を成すの妙はあらず。長ずる所は精整緻密、石を描いて一細草の點綴〔てんてい〕を忘れざる巧〔かう〕にあり。句に短なりしは當然ならずや。牛門〔ぎうもん〕の秀才鏡花氏の句品遙に師翁の上に出づるも、亦この理に外ならざるのみ。遮莫〔さもあらばあれ〕齋藤緑雨が彼縱横の才を藏しながら、句は遂に沿門擉黑〔さくこく〕の輩〔はい〕と軒輊〔けんち〕なかりしこそ不思議なれ。(二月四日)

[やぶちゃん注:「牛門」は紅葉の家が牛込区にあったことから、紅葉門下を言う。]

 

       松並木

 

 東海道の松並木伐らるべき由、何時〔いつ〕やらの新聞紙にて讀みたる事あり。元より道路改修の爲とあれば止むを得ざるには似たれども、これが爲に百尺の枯龍斧鉞〔ふゑつ〕の災を蒙るもの百千なるべきに想到すれば、惜みても猶惜むべき限りならずや。ポオル・クロオデル日本に來りし時、この東海道の松並木を見て作る所の文一篇あり。痩蓋〔そうがい〕煙を含み危根石を倒すの状、描き得て靈彩奕々〔えきえき〕たりと云ふべし。今やこの松並木亡びんとす。クロオデルもしこれを聞かば、或は恐る、黄面〔くわうめん〕の豎子〔じゆし〕未王化に浴せずと長太息に堪へざらん事を。(二月五日)

 

       日本

 

 ゴオテイエが娘の支那は既に云ひぬ。José Maria de Herediaが日本も亦別乾坤なり。簾裡の美人琵琶を彈じて鐵衣の勇士の來〔きた〕るを待つ。景情元より日本ならざるに非ず。(le samourai)されどその絹の白と漆の金とに彩られたる世界は、却つて是縹渺〔へうべう〕たるパルナシアンの夢幻境のみ。しかもエレデイアの夢幻境たる、もしその所在を地圖の上に按じ得べきものとせんか、恐らく佛蘭西には近けれども、日本には遙に隔りたるべし。彼ゲエテの希臘〔ギリシヤ〕と雖も、トロイの戰〔たたかひ〕の勇士の口には一抹ミユンヘンの麥酒の泡の未消えざるを如何にすべき。歎ずらくは想像にも亦國籍の存する事を。(二月六日)

 

       大雅

 

 東海の畫人多しとは云へ、九霞山樵の如き大器又あるべしとも思はれず。されどその大雅すら、年三十に及びし時、意の如く技の進まざるを憂ひて、教を祇南海に請ひし事あり。血性〔けつせい〕大雅に過ぐるもの、何ぞ進歩の遲々たるに焦燥の念無きを得可けんや。唯、返へす返すも學ぶべきは、聖胎〔せいたい〕長養の機を誤らざりし九霞山樵の工夫なるべし。(二月七日)

 

       妖婆

 

 英語にwitchと唱ふるもの、大むねは妖婆と飜譯すれど、年少美貌のウイツチ亦決して少しとは云ふべからず。メレジユウコウスキイが「先覺者」ダンヌンツイオが「ジヨリオの娘」或は遙に品下れどクロオフオオドがWitch of Pragueなど、顏〔かほ〕玉〔たま〕の如きウイツチを描きしもの、尋ぬれば猶多かるべし。されど白髮蒼顏のウイツチの如く、活躍せる性格少きは否み難き事實ならんか。スコツト、ホオソオンが昔は問はず、近代の英米文學中、妖婆を描きて出色なるものは、キツプリングがThe Courting of Dinah Shaddの如き、或は隨一とも稱すべき乎。ハアデイが小説にも、妖婆に材を取る事珍らしからず。名高きUnder the Greenwoodの中なる、エリザベス・エンダアフイルドもこの類なり。日本にては山姥〔やまうば〕鬼婆共に純然たるウイツチならず。支那にてはかの夜譚隨録載〔の〕する所の夜星子なるもの、略妖婆たるに近かるべし。(二月八日)

[やぶちゃん注:トーマス・ハーディの作品名を芥川は“Under the Greenwood ”と記しているが、正しくは“Under the Greenwood Tree”である。]

 

       柔術

 

 西人は日本と云ふ毎に、必柔術を想起すと聞けり。さればにやアナトオル・フランスが「天使の反逆」の一章にも、日本より巴里に來れる天使佛蘭西の巡査を掻い摑んで物も見事に投げ捨つるくだりあり。モオリス・ルブランが探偵小説の主人公俠賊リユパンが柔術に通じたるも、日本人より學びし所なりとぞ。されど日本現代の小説中、柔術の妙を極めし主人公は僅に泉鏡花氏が「芍藥の歌」の桐太郎のみ。柔術も亦豫言者は故郷に容れられざるの歎無きを得んや。好笑々々。(二月十日)

 

       昨日の風流

 

 趙甌北〔てうおうぼく〕が呉門雜詩に云ふ。看盡煙花細品評、始知佳麗也虚名、從今不作繁華夢、消領茶煙一縷清。又その山塘〔さんたう〕の詩に云ふ。老入歡場感易増、煙花猶記昔遊曾、酒樓舊日紅粧女、已似禪家退院僧。一腔の詩情殆永井荷風氏を想はしむるものありと云ふべし。(二月十一日)

[やぶちゃん漢詩書き下し:

「呉門雑詩」の引用

煙花を看(み)尽して細やかに品評す、始めて知る佳麗の也(ま)た虚名なるを。今より作(おこ)さず繁華の夢、消領す茶煙(さえん)一縷(いちる)の清(せい)。」

「山塘」の引用

老いて歡場(くわんじやう)に入れば感増し易し、煙花猶ほ記す昔遊(せきいう)の曾(そう)。酒樓旧日紅粧(こうしやう)の女(ぢよ)、已に似たり禪家退院の僧。]

[やぶちゃん注:「趙甌北」は趙翼(17271812)の号。清代の代表的な考証学に通じた史家。歴代の詩家、李白・杜甫・韓愈・白居易・蘇軾・陸游・元好問・高啓・呉偉業・沙慎行の十人の詩を論じた「甌北詩話」で広く知られる。]

 

       發音

 

 ポオの名Quantin版にPoëと印刷せられてより、佛蘭西を始め諸方にポオエの發音行はれし由。予等が英文學の師なりし故ロオレンス先生も、時にポオエと發音せられしを聞きし事あり。西人の名の發音の誤り易きはさる事ながら、ホイツトマン、エマスンなどを崇め尊ぶ人のわが佛の名さへアクセントを誤りたるは、無下にいやしき心地せらる。愼まざる可らざるなり。(二月十三日)

[やぶちゃん注:“Quantin”フランスの書肆“A. Quantin”社。1884年にボードレールによって翻訳された「異常な物語」及び「新・異常な物語」を刊行している。

 「ホイツトマン」アメリカの愛国詩人WaltWalterWhitmanの発音は、[(h)wítmәn]であるが、私も含めて多くの日本人はアクセント位置を誤り、現在も[hówitmәn]と発音する。

 「エマスン」アメリカの評論家・詩人にして思想家Ralph Waldo Emersonの発音は、[émə(r)s(ə)n]であるが、やはり私も含めた多くの現在の日本人はアクセント位置を誤り、[emársən]と発音し、加えて長音符を用いて「エマーソン」と表記する者も多いと思われる。]

 

       傲岸不遜

 

 一青年作家或會合の席上にて、われら文藝の士はと云ひさせしに、傍なるバルザツク忽ちその語を遮つて云ひけるは、「君の我等に伍せんとするこそ烏滸〔をこ〕がましけれ。我等は近代文藝の將帥〔しやうすゐ〕なるを」と。文壇の二三子夙〔つと〕に傲岸不遜の譏〔そしり〕ありと聞く。されど予は未一人のバルザツクに似たるものを見ず。元より人間喜劇の著述二三子の手に成るを聞かざれども。(二月十五日)

 

       煙草

 

 煙草の世に行はれしは、亞米利加發見以後の事なり。埃及〔エジプト〕、亞剌比亞〔アフリカ〕、羅馬〔ロオマ〕などにも、喫煙の俗ありしと云ふは、青盲者〔せいまうしや〕流のひが言のみ。亞米利加土人の煙を嗜みしは、コロムブスが新世界に至りし時、既に葉卷あり、刻みあり、嗅煙草ありしを見て知るべし。タバコの名も實は植物の名稱ならで、刻みの煙を味ふべきパイプの意なりしぞ滑稽なる。されば歐洲の白色人種が喫煙に新機軸を出したるは、僅に一事輕便なるシガレツトの案出ありしのみ。和漢三才圖會によれば、南蠻紅毛の甲比丹〔カピタン〕がまづ日本に舶載したるも、このシガレツトなりしものの如し。村田の煙管〔キセル〕未に世に出でざりし時、われらが祖先は既にシガレツトを口にしつつ、春日煦々〔くく〕たる山口の街頭、天主會堂の十字架を仰いで、西洋機巧の文明に贊嘆の聲を惜まざりしならん。(二月二十四日)

[やぶちゃん注:「青盲者」は明きめくら。

 「埃及、亞剌比亞、羅馬などにも、喫煙の俗ありしと云ふは、青盲者流のひが言のみ」については、岩波版新全集注解によると、『古代のエジプト、中央ヨーロッパ、ギリシア、ローマなどでは、呪術、医療用として、大麻の実、乾燥させた柊など、燃やすと心地よい香を出す草木の煙をパイプで喫煙する習慣があった。』と記す。従って、これは芥川龍之介の誤謬である。

 「シガレットの案出」について、岩波版新全集注解は『一五二〇年にスペインが現在のメキシコを占領したとき、先住民のアステカ族は、粒の粗いタバコを植物の薄い皮で包んで喫煙していた。一六〇〇年代になって、在留のスペイン人が植物の皮にかえて薄紙を用いたのが紙巻きたばこの始まり。』と記載する。これは、シガレットの創造主を日本人やインディアンの同胞たる環太平洋民族に帰した点、注釈者赤塚正幸氏の快挙と言ってよい。誤謬者芥川龍之介も逆に溜飲を下げると言うべきものであろう。

 「和漢三才圖會によれば」同書「卷九十九 ○二十」の「煙草」の項に「羅山文集云侘波古希施婁皆番語也其草採之乾暴剜其葉貼干紙捲之吹火吸其烟其後用希施婁而不貼于紙[やぶちゃん注:以下キセルの解説が続くが略す。]」とある。書き下すと『「羅山文集」に云ふ、『侘波古(タバコ)・希施婁(キセル)は、皆、番語なり。其の草、之を採り乾し暴し其の葉を剜(きざ)み、紙に貼りて之を捲きて火を吹きて其の烟を吸ふ。其の後は希施婁を用ひて紙に貼らず。……』ということで、ここに記されている煙草の吸い方は、まず、シガレット様に紙で巻いて一服し、その後はキセルで喫するという不思議な作法があったように読めるのが面白い。

 「甲比丹」ポルトガル語capitoの当て字。「甲必丹」とも。本来は、江戸時代の長崎出島のオランダ商館館長を言ったが、その後広く、鎖国の日本にやって来たヨーロッパ船の船長をこう言った。

 「村田の煙管」明治期、浅草黒船町にあった評判の煙管屋。

 「天主會堂」新全集注解によれば、『天文十九(一五五〇)年に、初めて山口で布教を行ったF・シュヴィエルは、翌年の再訪時に大内義隆より一寺院を与えられ、そこを拠点に伝道活動を行った。シャヴィエルの後任C・トルレスは、天文二一(一五五二)年、大内義長の許しを得て教会と修道院を建設した。さらに、天正十四(一五八六)には、毛利輝元から寄進された地所に、C・モレイラが山口教会を建設した。』とある。ちなみにこの「F・シュヴィエル」とはFrancisco de Xavierフランシスコ・ザビエルのことである。ポルトガル語原音に忠実に写すとこうなる。一寺院とは廃寺となっていた大道寺で、ここが日本最古のキリスト教会となった。現在の山口市内自衛隊山口駐屯地の傍にあり、サビエル公園となっている。]

 

       ニコチン夫人

 

 ボオドレエルがパイプの詩は元より、Lyra Nicotianaを飜〔ひるがへ〕すも、西洋詩人の喫煙を愛づるは、東洋詩人の點茶を悦ぶと好一對なりと云ふを得べし。小説にてはバリイが「ニコチン夫人」最も人口に噲炙したり。されど唯輕妙の筆、容易に讀者を微笑せしむるのみ。ニコチンの名、もと佛蘭西人ジアン・ニコツトより出づ。十六世紀の中葉、ニコツト大使の職を帶びて西班牙〔スペイン〕に派遣せらるゝや、フロリダ渡來の葉煙草を得て、その醫療に效あるを知り、栽培大いに努めしかば、一時は佛人煙草を呼んでニコチアナと云ふに至りしとぞ。デ・クインシイが「阿片喫煙者の懺悔」は、さきに佐藤春夫氏をして「指紋」の奇文を成さしめたり。誰か又バリイの後に出でて、バリイを拔く事數等なる、恰もハヴアナのマニラに於ける如き煙草小説を書かんものぞ。(二月二十五日)

[やぶちゃん注:文中の「ニコツト大使の職を帶びて西班牙に派遣せらるゝや」という事蹟のスペインは芥川龍之介の誤りで、ポルトガル(「葡萄牙」)が正しい。]

 

       一字の師

 

 唐の任翻〔じんはん〕天台巾子峰〔きんしほう〕に遊び、詩を寺壁に題して云ふ。「絶頂新秋生夜凉。鶴飜松露滴衣裳。前峰月照一江水。僧在翠微開竹房。」題し畢〔をは〕つて後〔のち〕行く事數十里、途上一江水は半江水に若かざるを覺り、直に題詩の處に囘れば、何人か既に「一」字を削つて「半」字に改めし後なりき。翻長太息に堪へずして曰、台州有人と。古人が詩に心を用ふる、慘憺經營の跡想ふべし。青々〔せいせい〕が句集妻木〔つまぎ〕の中に、「初夢や赤(アケ)なる紐の結ぼほる」の句あり。予思ふらく、一字不可、「る」字に易〔か〕ふに「れ」字を以てすれば可ならんと。知らず、青々予を拜して能く一字の師と做〔な〕すや否や。一笑。(二月二十六日)

[やぶちゃん漢詩書き下し:

絶頂の新秋夜凉を生ず、鶴飜へつて松露衣裳に滴(したた)る。前峰月は照る一江の水、僧は翠微に在つて竹房を開く。]

[やぶちゃん注:「絶頂新秋生夜凉」の「凉」は「涼」に同じ。]

 

       應酬

 

 ユウゴオ一夕宴をアヴニウ・デイロオの自邸に張る。偶〔たまたま〕衆客皆杯を擧げて主人の健康を祝するや、ユウゴオ傍なるフランソア・コツペエを顧みて云ふやう、「今この席上なる二詩人迭〔たがひ〕に健康を祝さんとす。亦善からずや」と。意コツペエが爲に乾杯せんとするにあり。コツペエ辭して云ふ、「否、否、座間〔ざかん〕詩人は唯一人あるのみ」と。意詩人の名に背かざるものは唯ユウゴオ一人のみなるを云ふなり。時に「オリアンタアル」の作者、忽ち破顏して答ふるやう、「詩人は唯一人あるのみとや。善し、さらば我は如何」と。意コツペエが言を飜しておのが抑損を示せるなり。曰く「僧院の秋」の會、曰く「三浦製絲場主」の會、曰く猫の會、曰く杓子の會、方今の文壇會甚多しと雖も、未滑脱の妙を極めたる、斯くの如き應酬ありしを聞かず。傍に人あり。嗤〔わら〕つて云ふ、「請ふ、隗より始めよ」と。(二月二十七日)

[やぶちゃん注:『「僧院の秋」の會』「僧院の秋」は南部修太郎の処女作「修道院の秋」のこと。大正9(1920)年2月に発表された。この出版記念会は、新全集注解によれば、同じ頃に発表された他の二作家の作品、中戸川吉二「反射する心」及び邦枝完二「邪劇集」の三作品と合わせて大正9(1920)年2月8日にミカド行われた、と記す。ミカドは旧銀座線万世橋駅の上にあったレストランである。実に本篇の執筆クレジットから二十日程前の出来事で、更に次に芥川が掲げる久米正雄作『「三浦製絲工場主」の會』と同日でもあるのである。龍門の四天王の一人である南部の処女小説の出版記念会であり、また、この合同出版記念会の発起人には何と久米正雄も含まれていることから、芥川は病み上がりであったが(前月末まで10日程インフルエンザで病臥していた)、無理をして掛け持ちした可能性が高い。

 『「三浦製絲工場主」の會』「三浦製絲工場主」は久米正雄の戯曲「三浦製糸工場」のこと。新全集注解によれば大正8(1919)年発表の本作は、翌大正9(1920)年2月に帝国劇場で初演され、前注で述べた通り、同年2月8日にこの上演記念会が丸の内東京海上ビル内にあった中央亭で開かれている。ちなみに芥川龍之介はこの会の発起人にしっかり名を連ねてもいる。

 更に1992年河出書房新社刊の鷺只雄編著の「年表作家読本 芥川龍之介」の同年2月8日の条が興味深いので引用しよう。『井上猛一から新内の会の案内を毎度もらうが、いつも行けず、今日は行こうと思っていると雪なので帰りのことを考えて欠席とことわりを出す。』とあるのである。果たして芥川はこの三つの「会」に愛想つかして一日家から出ずにほっかむりを決め込んだのであろうか?――さて、以上から、「僧院の秋」「三浦製絲工場主」の作品名の誤記は、猫も杓子も会、会、会の波状攻撃に閉口した芥川の、悪戯っぽい確信犯であることは、最早、明白であろう。]

 

       白雨禪〔はくうぜん〕

 

 狩野芳涯常に諸弟子に教へて曰、「畫〔が〕の神理、唯當に悟得すべきのみ。師授によるべからず」と。一日芳涯病んで臥す。偶白雨天を傾けて來り、深巷寂として行人を絶つ。師弟共に默して雨聲〔うせい〕を聽くもの多時、忽ち一人あり。高歌して門外を過ぐ。芳涯莞爾として、諸弟子を顧みて曰、「會〔ゑ〕せりや」と。句下殺人の意あり。吾家の吹毛劍、單于〔ぜんう〕千金に購ひ、妖精太陰に泣く。一道の寒光、君看取せよ。(三月三日)

[やぶちゃん注:「吹毛劍」とは、一本の毛髪をその切っ先に吹き付けただけで、さっと二つに裂ける程の恐ろしく切れ味のよい刀を言う。ここでは個人の内なる秘めた才能を暗示してもいよう。「吾家の吹毛劍、單于〔ぜんう〕千金に購ひ、妖精太陰に泣く。一道の寒光、君看取せよ。」全体は一種の禅の公案と私はとる。]

 

       批評

 

 ピロンが、皮肉は世に聞えたり。一文人彼に語るに前人未發の業を成さん事を以てす。ピロン冷然として答ふらく、「易々たるのみ。君自身の讚辭を作らば可」と。當代の文壇、聞くが如くんば、黨派批評あり。賣笑批評あり。挨拶批評あり。雷同批評あり。紛々たる毀譽襃貶、庸愚の才が自讚の如きも、一犬の虚に吠ゆる處、萬犬亦實を傳へて、必しもピロンが所謂、前人未發の業と做〔な〕す可らず。壽陵余子生れてこの季世にあり。ピロンたるも亦難いかな。(三月四日)

 

       誤謬

 

 門前の雀羅蒙求を囀ると説く先生あれば、燎原を燒く火の如しと辯ずる夫子あり。明治神宮の用材を贊して、彬々〔ひんひん〕たるかな文質と云ふ農學博士あれば、海陸軍の擴張を議して、艨艟〔もうどう〕罷休〔ひきう〕あらざる可らずと云ふ代議士あり。昔は姜度〔きようと〕の子を誕するや、李林甫手書〔しゆしよ〕を作つて曰、聞く、弄麞〔ろうしやう〕の喜ありと。客之を視て口を掩ふ。蓋し林甫の璋〔しやう〕字を誤つて、麞字を書せるを笑へるなり。今は大臣の時勢を慨するや、危險思想の瀰漫〔びまん〕を論じて曰、病既に膏盲〔かうまう〕に入る、國家の興廢旦夕にありと。然れども天下怪しむ者なし。漢學の素養の顧られざる、亦甚しと云はざる可らず。況や方今の青年子女、レツテルの英語は解すれども、四書の素讀は覺束なく、トルストイの名は耳に熟すれども、李青蓮の號は眼に疎きもの、紛々として數へ難し。頃日〔けいじつ〕偶書林の店頭に、數册の古雜誌を見る。題して紅潮社發兌〔はつだ〕紅潮第何號と云ふ。知らずや、漢語に紅潮と云ふは女子の月經に外ならざるを。(四月十六日)

[やぶちゃん注:「姜度」は全集類聚版注では未詳、新全集は注を掲げず、邦文サイトでは芥川龍之介のこの「骨董羹」以外の記載は見当たらない。中文簡体字サイトの「唐書」の「李林甫伝」の引用に「太常少卿姜度 李林甫舅子」とあるが、これは「李林甫の娘婿の太常少卿の姜度」の謂いか。

 「弄麞」は本文にある通り、「弄璋」の誤り。「弄璋」の「璋」は玉製の器の一種で、昔、男子が生まれるとそれを与えて玩具にした故事(「詩経」小雅・斯干)から、男子の出生を言う。反対語の女子の出産は同故事による「弄瓦(ろうが)」で、「瓦」は土製の糸巻きのこと。

  「紅潮社」及び「紅潮」は実在した俳句結社の俳誌である。雑誌名や書名ならば他にも同名異物のものを容易に発見出来るが、殊更にそれらをこの注であげつらうのは如何と思う(知りたければ、岩波版新全集注解及びネット検索で判明する)。ここでの芥川、「枯野抄」の如き余りのダメ押し、度を過ぎて厭味な感じがする。]

 

       入月

 

 西洋に女子の紅潮を歌へる詩ありや否や、寡聞にして未之を知らず。支那には宮掖閨閤〔きゆうえきけいかふ〕の詩中、稀に月經を歌へるものあり。王建が宮詞に曰、「密奏君王知入月、喚人相伴洗裙裾」と。春風珠簾を吹いて、銀鉤〔ぎんこう〕を蕩〔たう〕するの處、蛾眉の宮人の衣裙を洗ふを見る、月事〔げつじ〕も亦風流ならずや。(四月十六日)

[やぶちゃん漢詩書き下し:

君王(くうわう)に密奏し月に入るを知る、人を喚(よ)んで相伴ひて裙裾(くんきよ)を洗ふ。]

[やぶちゃん注:題名の「入月」とは月経が始まることを言う語。

 本篇で取り上げている内容は、後に大正111922)年1月発行の雑誌『明星』に発表した「本の事」の「各国演劇史」の項でも、誤植の話の脱線の中で述べている(こちらは口語)参考までにその該当部分を掲げる(底本は岩波版旧全集を用いた。私が読みに迷う部分には歴史的仮名遣で〔 〕で、筑摩書房全集類聚版を参照して読みを附した。前・後略部分は丸々本篇「演劇史」の私の注にある。参照されたい)。

 

(前略)誤植の次手に又思ひだしたが、何時か石印本〔せきいんぼん〕の王建の宮詞を讀んでゐたら、「御池水色春來好、處處分流白玉渠、密奏君王知入月、喚人相伴洗裙裾」と云ふ詩の、入月が入用と印刷してあつた。入月とは女の月經の事である。(詩中月經を用ひたのは、この宮詞に止まるかも知れない。)入用では勿論意味が分らない。僕はこの誤にぶつかつてから、どうも石印本なるものは、一體に信用出來なくなつた。(後略)

 

文中の漢詩は書き下すと、「御池の水色春來好し、處處分流す白玉の渠(きよ)」(以下同前)で、意味は「後宮のお池の景色はすっかり春で御座います。雪解けの水の豊かな流れが、幾つにも分かれた美しい白玉製の小川を心地よく流れております。」といった感じか。なお、「石印本」は石版による版本のこと。岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解には、芥川が言うように、『中国では、「石印の法は清末西洋から伝わり、出版界に新紀元を開いた』が、『多くは試験用と携帯の便を目的とし、善本が少ない』と、大修館書店「中国学芸事典」から引用している。]

 

       遺精

 

 西洋に男子の遺精を歌へる詩ありや否や、寡聞にして未之を知らず。日本には俳諧錦繍段〔きんしうだん〕に、「遺精驚く曉のゆめ、神叔」とあり。但この遺精の語義、果して當代に用ふる所のものと同じきや否やを詳にせず。識者の示教を得ば幸甚なり。(四月十六日)

[やぶちゃん注:「俳諧錦繍段」は幾つかのテクストで「俳諧」を一般名詞として書名を「錦繍段」と判断していると思しいルビの振り方を見掛けるが、これは「俳諧錦繍段」で書名である。そもそも「錦繍段」は五山で編まれた唐・宋・元詩の漢詩のアンソロジーで、これはそれをパロった俳諧集である。]

 

       後世〔こうせい〕

 

 君見ずや。本阿彌の折紙古今に變ず。羅曼〔ロマン〕派起つてシエクスピイアの名、四海に轟く事迅雷の如く、羅曼派亡んでユウゴオの作、八方に廢るる事霜葉に似たり。茫々たる流轉の相。目前は泡沫、身後は夢幻。智音得可からず。衆愚度し難し。フラゴナアルの技を以太利に修めんとするや、ブウシエその行を送つて曰、「ミシエル・アンジユが作を見ること勿れ。彼が如きは狂人のみ」と。ブウシエを哂〔わら〕つて俗漢と做〔な〕す、豈敢て難しとせんや。遮莫〔さもあらばあれ〕千年の後、天下靡然〔びぜん〕としてブウシエの見に赴く事無しと云ふ可らず。白眼當世に傲り、長嘯後代を待つ、亦是鬼窟裡の生計のみ。何ぞ若かん、俗に混じて、しかも自ら俗ならざるには。籬〔まがき〕に菊有り。琴に絃無し。南山見來れば常に悠々。壽陵余子文を陋屋に賣る。願くば一生後世を云はず、紛々たる文壇の張三李四と、トルストイを談じ、西鶴を論じ、或は又甲主義乙傾向の是非曲直を喋々して、遊戲三昧の境〔きやう〕に安んぜんかな。(五月二十六日)

 

       罪と罰

 

 鷗外先生を主筆とせる「しがらみ草紙」第四十七號に、謫天情僊〔たくてんじようせん〕の七言絶句、「讀罪與罰上篇」數首あり。泰西の小説に題するの詩、嚆矢恐らくはこの數首にあらんか。左にその二三を抄出すれば、「考慮閃來如電光、茫然飛入老婆房、自談罪跡眞耶假、警吏暗殺狂不狂」(第十三囘)「窮女病妻哀涙紅、車聲轣轆仆家翁、傾囊相救客何俠、一度相逢酒肆中」(第十四囘)「可憐小女去邀賓、慈善書生半死身、見到室中無一物、感恩人是動情人」(第十八囘)の如し。詩の佳否は暫く云はず、明治二十六年の昔、既に文壇ドストエフスキイを云々するものありしを思へば、この數首の詩に對して破顏一番するを禁じ難きもの、何ぞ獨り壽陵余子のみならん。(五月二十七日)

[やぶちゃん漢詩書き下し:

(第十三回)

考慮閃き來つて電光のごとし、茫然飛んで入る老婆の房、自ら談ず罪跡眞か假か、警吏暗殺す狂か不狂か。

(第十四回)

窮女病妻哀涙紅に、車聲轣轆(れきろく)として家翁仆(たふ)る、囊(なう)を傾けて相救ふ客何ぞ俠なる、一度相逢ふ酒肆(しゆし)の中(うち)。

(第十八回)

可憐の小女去て賓を邀(むか)へ、慈善の書生半死の身、見到(みいた)る室中一物(いちぶつ)無し、感恩の人は是れ動情の人。]

 

       惡魔

 

 惡魔の數甚多し。總數百七十四萬五千九百二十六匹あり。分つて七十二隊を爲し、一隊毎に隊長一匹を置くとぞ。是れ十六世紀の末葉、獨人Wierusが惡魔學に載する所、古今を問はず、東西を論ぜず、魔界の消息を傳へて詳密なる、斯くの如きものはあらざるべし。(十六世紀の歐羅巴には、惡魔學の先達尠からず。ウイルスが外にも、以太利〔イタリイ〕のPietro d'Aponeの如き、英克蘭〔イングランド〕のReginald Scotの如き、皆天下に雷名あり。)又曰、「惡魔の變化自在なる、法律家となり、昆侖奴〔こんろんぬ〕となり、黑驪〔こくり〕となり、僧人となり、驢〔ろ〕となり、猫となり、兎となり、或は馬車の車輪となる」と。既に馬車の車輪となる。豈半夜人を誘つて、煙火城中に去らんとする自動車の車輪とならざらんや。畏る可く、戒む可し。(五月二十八日)

[やぶちゃん注:「Ioannes Wierus」(15151588)ヨハン・ヴァイエルともヴァイアとも表記する。ドイツの医師。但し、芥川が依っていると思われる彼の1563年刊行の“De Praestigiis Daemonum et Incantationibus ac Venificiis”「悪霊の幻惑および呪法と蠱毒について」という著作は、魔女狩りは、逆に悪魔に惑わされた高官の成せる誤った行為であるとし、魔女の証しとされるものは根拠もないものがほとんどで、彼らの多くは精神的な疾患を持ったものが大部分であるという啓蒙的立場から書かれたものであることは知っておくべきところではあろう。

 「Pietro d'Apone」筑摩・新全集ともに未詳とする。ネット検索でイタリアの錬金術師に同名の人物を見出したが、この人物、1250年頃の生年とあり、時期が合わない。

 「Reginald Scot」(1528?~1599)イギリスの作家。彼もIoannes Wierus同様、魔女狩りのヒステリー現象を批判して Discoverie of Witchcraft”(「魔女術の正体」)を1584年に刊行している点を押さえたい。本書はコイン・マジックや手品の技法の最も古い記載としても知られる。

 「黑驪」は黒馬。]

 

       聊齋志異

 

 聊齋志異が剪燈新話と共に、支那小説中、鬼狐を説いて、寒燈爲に青からんとする妙を極めたるは、洽〔あまね〕く人の知る所なるべし。されど作者蒲松齡が、滿洲朝廷に潔〔いさぎよ〕からざるの餘り、牛鬼蛇神の譚に託して、宮掖〔きゆうえき〕の隱微を諷したるは、往々本邦の讀者の爲に、看過せらるるの憾みなきに非ず。例へば第二卷所載俠女〔けふじよ〕の如きも、實は宦人〔くわんじん〕年羹堯〔ねんかうげう〕の女が、雍正〔ようせい〕帝を暗殺したる祕史の飜案に外ならずと云ふ。「崑崙外史」の題詞に、「董狐豈獨人倫鑒」と云へる、亦這般〔しやはん〕の消息を洩らせるものに非ずして何ぞや。西班牙〔スペイン〕にゴヤの Los Caprichos あり。支那に留仙〔りうせん〕の聊齋志異あり。共に山精野鬼を借りて、亂臣賊子を罵殺せんとす。東西一双の白玉瓊〔はくぎよくけい〕、金匱〔きんき〕の藏〔ざう〕に堪へたりと云ふべし。(五月二十八日)

[やぶちゃん書き下し:

董狐(とうこ)豈に獨り人倫の鑒(かん)ならんや。]

[やぶちゃん注:「年羹堯」(?~1726)は、清代の武将。四川巡撫・定西将軍(清国政府が任命した第六代達頼喇嘛(ダライラマ)の護衛に名を借りたチベット平定軍指揮官)を経て、新皇帝雍正帝の即位(1722)後、太子太保銜(かん:=位)・撫遠大将軍といった高位高官に登り詰めたが、専横な振舞や他の官吏の嫉妬不満から、遂には雍正帝の怒りを買い、自死を命ぜられた。しかし年羹堯は宦官ではないし、以下に記される雍正帝暗殺云々の話も、かつて処罰した呂留良の娘呂四娘、或いは、反乱を企てた罪で処刑された盧某の妻が復讐のために正体を隠して後宮に入ることを許され、それと知らずに抱いた雍正帝が閨房で殺害され首を奪われたという不確かにしておどろどろしい伝説が混同されて誤伝したものと思われる。但し、「俠女」の結末は、確かにこの伝説と結びつきそうな終わり方ではある。

 「崑崙外史」【2010年3月10日全面補正】先日(2010年3月3日)、芥川龍之介を愛読され、本頁をお読み頂いたSeki氏という方からメールを頂戴した。そこで、Seki氏は私がここに附した以下の注、

『「崑崙外史」筑摩・新全集ともに不詳とする。文脈から言っても、これは「聊齋志異」中の一篇に現われる台詞でなければ意味が通らぬのだが、「崑崙外史」という細項目は「聊齋志異」の中にない。両注がお手上げということは、続く「董狐豈獨人倫鑒」の文字列も「聊齋志異」には見出せないということであろう。今暫く探索してみたい。』

について、次のような事実をお知らせ下さった(メール本文から引用することを、Seki氏よ、お許しあれ)。

実は「崑崙外史」は蒲松齡の友人、張篤慶(字歴友)の雅号です。張篤慶は「聊齋志異」のために、三首の詩を題しました。「聊齋志異」の書首に載せられています。「董狐豈獨人倫鑒」云々の詩はその第一首にあたります。「題詞」は感想などの言葉を綴る文体で、「台詞」ではありません。卑見を述べさせて頂きましたが、ご参考になれば幸いです。

私は舞い上がってしまった。

「崑崙外史」は筑摩全集類聚版の脚注も、最新の岩波新芥川龍之介全集の注も伴に不詳としているのである。更に、この張篤慶なる人物をネット上で検索しても、邦文の記載では数件、それも中国の出版物の彼を含む文人の年譜書名「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」が上がって来るだけなのである。即ち、今現在、芥川龍之介の「骨董羹」を読む日本人の殆んどが知らない事実だと言ってよい。芥川龍之介が言った「崑崙外史」に関わるこの部分を、僕等日本人の多くが、訳も分からず読んでいた、私のように誤魔化して分かった積りでいた、という事実がはっきりしたのである。

早速、Seki氏への御礼と共に、厚かましくも、この「聊齋志異題詞」の原文をお教え頂きたい旨、返信申し上げたところ――当然の事ながら現在、邦訳の出ている「聊齋志異」には所収していないと思われる。私の所持する3種類には少なくともない。そもそも何処かに所収していれば誰かがとっくに気づいていたはず、いや、いなければならなかったはずである――昨日(2010年3月9日)、該当部分の版本の画像をPDFファイルにして送付して下さった。それをとりあえず電子テクストに翻刻、簡単な注を附し、今まで芥川龍之介の「骨董羹」で『不詳』であった真実を詳らかにし、世界中の芥川龍之介の愛読者と共有したい。

世界中である――Seki氏は『今後とも同じく芥川の愛読家として、国境を越えた交流を図りましょう』とおっしゃって下さった――御本人は『芥川龍之介の愛読者』とおっしゃるだけである――――が、記された御本名から、実は有名な日本文化の研究者であられるようだ――しかし、私はここでSeki氏を「同じ芥川龍之介を愛する方」とのみ、名を記させて戴くに止めたい。

今の私の至福は、Seki氏にとっても共有されていると確信するものである。

最後に今一度、Seki氏に深い感謝の意を表して、翻刻を示す。

 

聊齋志異題詞

冥搜鎭日一編中、多少幽魂曉夢通、五夜燃犀探祕籙、

十年縱博借神叢、蕫狐豈獨人倫鑒。干寶眞傳造化工、

常笑阮家無鬼論、愁雲颯颯起悲風、

盧家冥會自依稀、金盌千年有是非、莫向酉陽稱雜俎、

還從禹人問靈威、臨風木葉山魈下、研露空庭獨鶴飛、

君自問人堪説鬼、季龍鷗鳥自相依、

搦管蕭蕭冷月斜、漆燈射影走金蛇、嫏嬛洞裏傳千載、

嵩獄雲迸中九華、但使後庭歌玉樹、無勞前席問長沙、

莊周漫説徐無鬼、惠子書成已滿車、

          崑崙外史張篤慶歴友題

 

[やぶちゃん翻刻注:底本は上記Seki氏より頂戴した「同治丙寅年」西暦1866年刊「聊齋志異評註 青柯亭初雕維堂藏板」の部分画像を用いた。前文で「とりあえず電子テクストに翻刻し」としたのは、この詩が私には難解で訳はおろか、書き下しすらもままならないからである。まだまだこの注は未完成である。もう少し、お時間を頂きたい。

・「冥搜鎭日一編中」という冒頭から意味も分からずに翻刻するのであるが、ここ以外の活字を見ても「日」は確かに「日」であって「曰」ではない。

・「十年縱博借神叢」の「博」は原文では「扌」であるが、「博を縱(ほしいまま)にして」と意と判断し、補正した。「搏」や「塼」では意味が通らないように思われる。

・「蕫狐豈獨人倫鑒」芥川が引用したのはこの部分である。

・「張篤慶」(16421720)清代前期の文人。字は歴友、号は厚齋。別号、崑崙山人、崑崙文史。山東淄川(しせん:現在の山東省淄博市。)の人。提督学政(:省の学務・教育の監督。)であった著名な詩人であった施閏章(しじゅんしょう 16181683)に師事、崑崙山麓に住み、博学才穎、詩文の名声高い人物で、「聊齋志異」の作者蒲松齡の友人あった。著作に「班范肪截」「両漢高士伝」「五代史肪截」「崑崙山房集」等がある(張篤慶についての事蹟は主に中文サイトの「馮惟敏、馮溥、李之芳、田雯、張篤慶、郝懿行、王懿榮年譜」のブック・レビュー記事等を参考にした)。]

 「董狐豈獨人倫鑒」の「董狐」春秋時代の晋の国の太史(歴史を司る記録官)であった董狐はその晋の正史の記録に「趙盾がその君主である霊公を弑した」と憚ることなく正しく記した(実際の実行犯は趙盾の弟趙穿であったが、正卿(せいけい)というそれを当然追討すべき地位にあった趙盾が動かなかったため、董狐は趙盾を首謀者として記したとされる)。「鑒」は「鑑」と同字。]

 

       麗人圖

 

 西班牙〔スペイン〕に麗人あり。Dona Maria Theresaと云ふ。若くしてヴイラフランカ十一代の侯Don José Alvalez de Toledoに嫁す。明眸絳脣〔かうしん〕、香肌白き事脂〔し〕の如し。女王マリア・ルイザ、その美を妬〔ねた〕み、遂に之を鴆殺〔ちんさつ〕せしむ。人間〔じんかん〕止〔とど〕め得たり一香嚢〔いちかうなう〕の長恨ある、かの楊太眞と何れぞや。侯爵夫人に情郎あり。Francesco de Goyaと云ふ。ゴヤは畫名を西班牙に馳するもの、生前屢〔しばしば〕ドンナ・マリア・テレサの像を描く。俗傳にして信ずべくんばMaja vestidaMaja desnudaとの兩畫幀〔たう〕、亦實に侯爵夫人が一代の國色を傳ふるが如し。後年佛蘭西に一畫家あり。Edouard Manetと云ふ。ゴヤが侯爵夫人の畫像を得て、狂喜自ら禁ずる能はず。直にその畫像を模して、一幀春の如き麗人圖を作る。マネ時に印象派の先達たり。交を彼と結ぶもの、當世の才人尠からず。その中に一詩人あり。Charles Baudelaireと云ふ。マネが侯爵夫人の畫像を得て、愛翫する事洪璧〔こうへき〕の如し。千八百六十六年、ボオドレエルの狂疾を發して、巴里の寓居に絶命するや、壁間亦この檀口雪肌〔だんこうせつき〕、天仙の如き麗人圖あり。星眼長〔とこし〕へに秋波を浮べて、「惡の華」の詩人が臨終を見る、猶往年マドリツドの宮廷に、黄面〔くわうめん〕の侏儒が筋斗〔きんと〕の戲を傍觀するが如くなりしと云ふ。(五月二十九日)

[やぶちゃん注:「一香嚢」は筑摩版注によれば、『合わせ香を入れて帳台の柱にかける袋』のことを言う。

 「Maja」スペイン語の“maja”は、「小粋なマドリードの娘」といった意味で固有名詞ではない。この絵は西洋美術史の中で実際の陰毛を描いた最初の作品とされ、その猥褻性から何度も裁判所によるゴヤの喚問が行われ、そこで絵の依頼者(ひいてはモデル)が糾されたが、彼は終生、依頼主についてもモデルについても黙秘した(本作は1797年から1800年の間に描かれたと推定されているが、この裁判以降、1901年までマドリッド美術館の地下に秘匿された)。マハのモデル説には、ここで芥川が記すところのアルバ公夫人María del Pilar Teresa Cayetana de Silva y Álvarez de Toledoマリア・デル・ピラール・テレーザ・カィエターナ・デ・シルバ・イ・アルバレス・デ・トレドを描いたとする説が19世紀半ばに噂され、現在もよくその説が知られるが、当時のスペイン首相にして王妃マルア・ルイザの寵臣であったマヌエル・デ・ゴドイ(この二枚の絵はゴドイの邸宅から発見された。ちなみに1808年の民衆蜂起アランフェス暴動とフェルディナンド7世の王位継承で、カルロス4世及びその妃マルア・ルイザと同様、亡命生活を送った)の愛人であったPepitaペピータを描いたとする説が現在は有力である。

 「後年佛蘭西に一畫家あり。Edouard Manetと云ふ。ゴヤが侯爵夫人の畫像を得て、狂喜自ら禁ずる能はず。直にその畫像を模して、一幀春の如き麗人圖を作る」とあるのはマネが1865年にサロンに展示して物議を醸した“Olympia”「オランピア」を指すのであろうが、ここに書かれたようなエピソードは私は不学にして知らない。一般に本作はルネサンス・ヴェネツィア派の巨匠ティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」にインスピレーションを得たものとされるが、その大胆な構図と、彼女の不敵な視線は容易に「マハ」との類似性を感じさせるし、当時、両「マヤ」の絵にはレプリカがあり、それを複写したもので既に知られており、モネの作品の中には「着衣のマハ」の影響を受けた作品もあるとされることからも不自然な話ではない。

 「交を彼と結ぶもの、當世の才人尠からず。その中に一詩人あり。Charles Baudelaireと云ふ。マネが侯爵夫人の畫像を得……」確かにボードレールはマネの友人であったが、以下の逸話も私は不学にして知らない。ただ、「オランピア」の描かれた実際のモデルが娼婦であり、それが鑑賞する当時の人々に判然と分かるように確信犯でマネは描いている。それはボードレールが評論「現代生活の画家」中で「古典的絵画をもとにしてもいいものは描けない」とし、「芸術家は娼婦と同じく、自身の身体すべて、如何なる手技を用いても、観る者の注意を惹きつけなければならぬ」と言ったことと直結する。あのマネの「オランピア」がボードレールの末期を見つめるというシチュエーションは芥川ならずともそそられるといってよいであろう、それが事実ではなかったとしても(以上マネとボードレールの注には個人ブログ「《オランピア》から《ウルビーノのヴィーナス》へ―近代絵画と伝統」及びHPSalvastyle.com”の「エドゥアール・マネ―オランピア」の記載を参考にさせて頂いた)。]

 

       賣色鳳香餠〔ばいしょくほうこうべい〕

 

 支那に龍陽の色を賣る少年を相公〔しやうこう〕と云ふ。相公の語、もと像姑〔しやうこ〕より出づ。妖嬈〔えうぜう〕恰も姑娘〔こぢやう〕の如くなるを云ふなり。像姑相公同音相通ず。即用ひて陰馬の名に換へたるのみ。支那に路上春を鬻〔ひさ〕ぐの女を野雉〔やち〕と云ふ。蓋し徘徊行人を誘ふ、恰も野雉の如くなるを云ふなり。邦語にこの輩を夜鷹と云ふ。殆同一轍〔てつ〕に出づと云ふべし。野雉の語行はれて、野雉車〔やちしや〕の語出づるに至る。野雉車とは抑〔そも〕何ぞ。北京上海に出沒する、無鑑札の朦朧車夫なり。(五月三十日)

[やぶちゃん注:表題の「賣色鳳香餠」は意味不明。筑摩全集類聚版注釈も「未詳」とし、ネット上にも本作品以外では存在しない。読みは一応、内容が中国であるから音読みで記したが、歌舞伎や浄瑠璃の外題の如く、特殊な訓読みを考えてみてもよいのかも知れない。]

 

       泥黎口業〔ないりくごふ〕

 

 壽陵余子雜誌「人間」の爲に、骨董羹を書く事既に三囘。東西古今の雜書を引いて、衒學の氣焰を擧ぐる事、恰もマクベス曲中の妖婆の鍋に類せんとす。知者は三千里外にその臭を避け、昧者〔まいしや〕は一彈指間〔かん〕にその毒に中る。思ふに是泥黎の口業。羅貫中水滸傳を作つて、三生啞子〔あし〕を生むとせば、壽陵余子亦骨董羹を書いて、抑〔そも〕如何〔いかん〕の冥罰〔みやうばつ〕をか受けん。默殺か。撲滅か。或は余子の小説集、一册も市に賣れざるか。若かず、速に筆を投じて、醉中獨り繡佛〔しうぶつ〕の前に逃禪〔たうぜん〕の閑を愛せんには。昨〔さく〕の非を悔い今〔こん〕の是を知る。何ぞ須臾〔しゆゆ〕も踟蹰〔ちちう〕せん。抛下〔はうか〕す、吾家〔ごか〕の骨董羹。今日〔こんにち〕喫し得て珍重ならば、明日〔みやうにち〕厠上〔しじやう〕に瑞光あらん。糞中の舍利、大家看よ。(五月三十日)

[やぶちゃん注:「泥黎口業」の「泥黎」は仏教語。梵語“niraya”を音写し漢訳したもので、「奈利(なり)・奈落・地獄」の意を表わす。「口業」も仏教語。三業(さんごう)の一。広く言葉が元となって善悪の結果を招く行為を言う。は、筑摩全集類聚版注では「地獄からのおしゃべり」と訳し、岩波版新全集では「地獄の文筆業」と訳している。どちらも捨て難く、どちらも言い得て妙とは、また、言い難い。なお、私はここでは筑摩全集類聚版の読み「でいりくぎょう」を採用していない。何故なら、仏教用語としては前後共に誤った音であるからである。

 「妖婆の鍋」はシェイクスピア「マクベス」の第4幕第1場の洞窟のシークエンス(実は幻想)に登場する魔女の秘薬(一種の蠱毒)を調合していると思われる鍋のこと。投げ入れるものを列挙してみると、毒の油を31日流し続けた蟇蛙・蛇のぶつ切り・毒蛇や狼の牙・井守の目玉や蜥蜴の足や蛙の指先・蝙蝠や梟の羽・犬や蝮の舌・龍の鱗・魔女の木乃伊・人食い鮫の内臓・闇夜に掘った毒人参・イエスを罵ったユダヤ人の肝臓・山羊の胆・月食の夜に折り取ったイチイの枝・トルコ人の鼻・韃靼人の唇・売春婦がドブに産み落として直ぐに首を絞めた胎児の指・虎の腸等を、狒々の血で冷ましたものに呪文を加え、自分の子を9匹食らった豚の血と、死刑に処せられる人殺しの今はの際の脂汗をたらしこんだものである(鍋の内容物については昭和441969)年新潮社刊の福田恆存訳「マクベス」を参考にしたが、以下の魔女の台詞は私の好みで福田の訳ではない)。途中で登場したマクベスの目の前で、あの「女の股から生まれた者にはマクベスは倒せない」や「バーナムの森がダンシネインの丘に近づいて来ぬ限りマクベスは滅びない」という有名な予言を鍋から次々と立ち上る幻影が語ってゆくのである。]

 

 

 

骨董羹 別稿

 

       天路歴程

 

 Pilgrim's Progressを天路歴程と飜譯するは清の同治八年(西暦千八百六十九年)上海美華書館にて出版せる漢譯の名を踏襲せるにや。この書、篇中の人物風景を悉支那風に描きたる銅版畫の插畫數葉あり。その入窄門圖〔にふさくもんづ〕の如き、或は入美宮圖の如き、長崎繪の紅毛人に及ばざれど、亦一種の風韻無きに非らず。文章も漢を以て洋を叙するの所、讀み來り讀み去つて感興反つて尠からざるを覺ゆ。殊にその英詩を飜譯したる、詩としては見るに堪へざらんも、別樣の趣致あるは插畫と一なり。譬へば生命水の河の詩に「路旁生命水清流、天路行人喜暫留、百菓奇花供悦樂、吾儕幸得此埔遊」と云ふが如し。この種の興味を云々するは恐らく傍人の嗤笑〔ししやう〕を買ふ所にならん。然れども思へ、獄中のオスカア、ワイルドが行往坐臥に侶〔とも〕としたるも、こちたき希臘〔ギリシヤ〕語の聖書なりしを。(一月二十一日)

[やぶちゃん漢詩書き下し:

路旁の生命水清く流る、天路の行人喜び暫く留まる、百菓奇花悦樂に供す、吾が儕(さい)幸ひに得たり此の埔(ほ)の遊。]

[やぶちゃん注:本篇で取り上げている書「天路歴程」については、後に大正111922)年1月発行の雑誌『明星』に発表した「本の事」でも「天路歴程」と見出しを設けて取り上げており(こちらは口語である)、こちらも随筆集『點心』に所収しているところから、同作品集では削除されたものと思われる。参考までにそちらを掲げる(底本は岩波版旧全集を用いた。私が読みに迷う部分には歴史的仮名遣で〔 〕で、筑摩書房全集類聚版を参照して読みを附した)。なお、本篇の注はこの引用への注で代替する。

 

       天路歴程

 

 僕は又漢譯のPilgrim's Progressを持つてゐる。これも希覯書とは稱されない。しかし僕にはなつかしい本の一つである。ピルグリムス・プログレスは、日本でも譯して天路歴程と云ふが、これはこの本に學んだのであらう。本文〔ほんもん〕の譯もまづ正しい。所々〔しよしよ〕の詩も韻文譯である。「路旁生命水清流 天路行人喜暫留 百果奇花供悦樂 吾儕幸得此埔遊」――大體こんなものと思へば好〔よ〕い。面白いのは銅版畫の插畫〔さしゑ〕に、どれも支那人が描〔か〕いてある事である。Beautifulの宮殿へ來た所なども、やはり支那風の宮殿の前に、支那人のChristianが歩いてゐる。この本は清朝の同治八年(千八百六十九年)蘇松上海華草書院の出版である。序に「至咸豐三年中國士子與耶蘇教師參譯始成」とあるから、この前にも譯本は出てゐたものらしい。譯者の名は全然不明である。この夏、北京の八大胡同〔はちだいことう〕へ行つた時、或清吟小班〔せいぎんせうはん〕の妓の几〔つくゑ〕に、漢譯のバイブルがあるのを見た。天路歴程の讀者の中にも、あんな麗人があつたかも知れない。

 

・「蘇松上海華草書院」は誤り。「蘇松」以下は「骨董羹」本文の「上海美華書館」が正しい。

・「路旁生命水清流 天路行人喜暫留 百果奇花供悦樂 吾儕幸得此埔遊」の原詩は以下の通り(英文サイト“The Pilgrim's Progress: Part I: The River of Life”より引用した)。

Behold ye how these crystal streams do glide,

To comfort pilgrims by the highway side;

The meadows green, beside their fragrant smell,

Yield dainties for them; and he that can tell

What pleasant fruit, yea, leaves, these trees do yield,

Will soon sell all, that he may buy this field.

この漢訳では「埔」が難解である。これは「廣漢和辭典」を見ると、「大埔」で広東省の地名、また「柬埔寨」で「カンボジア」を意味するとだけある。後者のイメージから熱帯の珍しい果実や花のある場所、変じて現実から離れたパラダイスの謂いであろうか。識者の御教授を俟つ。

・「Beautifulの宮殿へ來た所」は、「骨董羹」の「入美宮圖」で、岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解に『芥川が例示している挿絵は、主人公クリスチャンが、「美麗宮」と呼ばれる宮殿に入ろうとする』図とし、それを掲載している。平面的な作品をそのまま複写したものに著作権は発生しない(文化庁公式見解)ため、以下にそれを画像として掲げる。

・「至咸豐三年中國士子與耶蘇教師參譯始成」は「咸豐三年に至り、中國の士子、耶蘇教師と參譯、始めて成る。」と読み、「咸豊三(1853)年に中国の学者とキリスト教宣教師との共同訳が完成した。」の意である。

・「この夏、北京の八大胡同へ行つた時」芥川龍之介はこの前年、大正101921)年3月末から7月下旬まで大阪毎日新聞社特派員として訪中しているが、6月14日から7月10日という凡そ1箇月の長期に亙り北京に滞在、一二年はここに住みたいとその愛着を書簡等で繰り返している。

・「八大胡同」は現在の天安門広場の南端にある正陽門から伸びる前門大街の先にあった色町のことで、それらの遊郭が八本の胡同(フートン:細い路地)に面していたことからの謂い。

・「清吟小班」は北京の一等の娼家を言う。当時の北京には「清吟小班」「茶室」「下処」「小下処」の四等級が存在した。]

 

       三馬

 

 二三子集り議して曰、今人の眼を以て古人の心を描く事、自然主義以後の文壇に最も目ざましき傾向なるべしと。一老人あり。傍より言を挾みて曰、式亭三馬が大千世界樂屋探しは如何と。二三子の言の出づる所を知らず、相顧みて啞然〔あぜん〕たるのみ。(一月二十七日)

 

       尾崎紅葉

 

 紅葉の歿後殆二十年。その多情多恨の如き、伽羅枕〔からまくら〕の如き、「二人女房」の如き、今日猶之を飜讀するも宛然たる一朶〔いちだ〕の鼈甲〔べつかう〕牡丹、光彩更に磨滅すべからざるが如し。人亡んで業〔げふ〕顯〔あらは〕るとは誠にこの人の謂なるかな。思ふに前記の諸篇の如き、布局〔ふきよく〕法あり、行筆〔ぎやうひつ〕本〔ほん〕あり、變化至つて規矩〔きく〕を離れざる、能く久遠に垂るべき所以ならん。予常に思ふ、藝術の境〔きやう〕に未成品ある莫しと。紅葉亦然らざらんや。(二月三日)

 

       誨淫〔かいいん〕の書

 

 金瓶梅、肉蒲團は問はず、予が知れる支那小説中、誨淫の譏〔そしり〕あるものを列擧すれば、杏花天、燈蕊奇僧傳〔たうしんきそうでん〕、痴婆子傳、牡丹奇縁、如意君傳、桃花庵、品花寶鑑、意外縁、殺子報、花影奇情傳、醒世第一奇書、歡喜奇觀、春風得意奇縁、鴛鴦夢〔えんあうむ〕、野臾曝言〔やゆばうげん〕、淌牌黑幕〔せいはいこくばく〕等なるべし。聞く、夙〔つと〕に舶載せられしものは、既に日本語の飜案ありと。又聞く、近年この種の飜案を密に剞劂〔きけつ〕に附せしものありと。若し這般〔しやはん〕の和譯艷情小説を一讀過〔いちどくか〕せんと欲するものは、請ふ、當代の照魔鏡〔せうまきやう〕たる檢閲官諸氏の門を叩いて恭しくその藏する所の發賣禁止本を借用せよ。(二月十二日)

[やぶちゃん注:本篇に掲げられる諸作については、私は芥川が「問わず」と外している「金瓶梅」「肉蒲團」の一部を除いて一作も読んだことがない。おこがましい注を附すのも気がひけるので、主に岩波版新全集注を用いて成立時代と作者を挙げておく。「杏花天」(清代・作者未詳・「金瓶梅」と並び称される好色本)・「燈蕊奇僧傳」(未詳)・「痴婆子傳」(明代・作者未詳)・「牡丹奇縁」(清代・徐震「桃花影」の改題)・「如意君傳」(明末清初・徐松齢)・「桃花庵」(正式には「桃花庵題詞」・成立時代不詳・作者不詳)・「品花寶鑑」(清代・陳森書)・「意外縁」(清代・秋斎)・「殺子報」(成立時代不詳・作者不詳)・「花影奇情傳」(成立時代不詳・建光)・「醒世第一奇書」(未詳)・「歡喜奇觀」(清代・西湖漁隠主人・別名「歡喜冤家」「貪歡報」)・「春風得意奇縁」(未詳)・「鴛鴦夢」(明代・采芝客または即薜旦・作者の読みは「へきたん」又は「はくたん」)・「野臾曝言」(清代初期・夏敬渠)・「淌牌黑幕」(未詳)。ただ、この内、岩波版新全集が全くの「未詳」としている「燈蕊奇僧傳」・「醒世第一奇書」・「春風得意奇縁」・「淌牌黑幕」の4作品(そのような作品が見当たらないという風に注釈者が解釈していると私は判断するのだが)の中の「燈蕊奇僧傳」というのは、昭和20年代末から30年代にかけての会員制特殊雑誌(一種の地下本)『生活文化』(改題して『造化』)の目次の中に伏見冲敬なる人物の訳で掲載される「燈草禪師傳」なるものがそれではなかろうかと思われる。初掲載号を見ると原作者として「琵琶記」で著名な元末明初の作家高則誠がクレジットされている(地下本を真摯に考究されているサイト“閑話休題××文学の館”の該当雑誌の頁を参照されたい。ここには「痴婆子傳」等の訳も掲載されている)。これから考えて、芥川は故意か偶然か書名を変えている可能性が考えられ、本作中の書名の同定は未だ考証の余地があるように思われる。]

 

       演劇史

 

 西洋演劇研究の書今は多く出でたれど、その濫觴をなせしものは永井徹〔てつ〕が著したる各國演劇史の一卷ならん。この書、太鼓喇叭豎琴〔たてごと〕などを描きたる銅版畫の表紙の上に、Kakkoku Engekishi なる羅馬字を題す。内容は劇場及機關道具等の變遷、男女俳優古今の景状、各國戲曲の由來等なれど、英吉利の演劇を論ずること最も詳しきものの如し。その一斑を紹介すれば、『然るに千五百七十六年女王『エリサベス』の時代に至り始めて特別演劇興行の爲め『ブラツク・フラヤス』寺院の不用なる領地に於て劇場を建立したり。之を英國正統なる劇場の始祖とす。(中略)俳優には『ウイリヤム・セキスピヤ』と云へる人あり。當時は十二歳の兒童なりしが『ストラタフオルド』の學校にて、羅甸〔ラテン〕竝に希臘〔ギリシヤ〕の初學を卒業せしものなり。』の如き、破顏微笑せらるる記事少からず。明治十七年一月出版、著者永井徹の警視廳警視屬なるも一興なり。(二月十四日)

[やぶちゃん注:本篇で取り上げている書「各國演劇史」については、後に大正111922)年1月発行の雑誌『明星』に発表した「本の事」でも「各國演劇史」と見出しを設けて取り上げており(こちらは口語であり、内容も「骨董羹」より詳しい)、こちらも随筆集『點心』に所収しているところから、同作品集では削除されたものと思われる。参考までにそちらを掲げる(底本は岩波版旧全集を用いた。私が読みに迷う部分には歴史的仮名遣で〔 〕で、筑摩書房全集類聚版を参照して読みを附した。「(中略)」は芥川龍之介によるもの)。なお、本篇の注はこの引用への注で代替する。

 

 

       各國演劇史

 

 僕は本が好きだから、本の事を少し書かう。僕の持つてゐる洋綴の本に、妙な演劇史が一册ある。この本は明治十七年一月十六日の出版である。著者は東京府士族、警視廳警視屬、永井徹と云ふ人である。最初の頁にある所藏印を見ると、嘗は石川一口〔いつこう〕の藏書だつたらしい。序文に、「夫演劇は國家の活歴史にして、文盲〔もんまう〕の早學問なり。故に歐洲進化の國に在ては、縉紳貴族皆之を尊重す。而してその隆盛に至りし所以のものは、有名の學士羅希に出て、之れが改良を謀るに由る。然るに吾邦〔わがくに〕の學者は夙に李園(原)を鄙〔いやし〕み、措て顧みざるを以て、之を記するの書、未嘗多しとせず。即文化の一具を缺くものと謂可し。(中略)餘茲に感ずる所あり。寸暇を得るの際、米佛等〔とう〕の書を繙〔ひもと〕き、その要領を纂譯したるもの、此册子を成す。因て之を各國演劇史と名く」とある。羅希に出た有名の學士とは、希臘や羅馬の劇詩人だと思ふと、それだけでも微笑を禁じ得ない。本文〔ほんもん〕にはさんだ、三葉の銅版畫の中には、「英國俳優ヂオフライ空窖〔くうかう〕へ幽囚せられたる圖」と云ふのがある。その畫〔ゑ〕が又どう見ても、土の牢の景清と云ふ氣がする。ヂオフライは勿論 Geoffrey であらう。英吉利の古代演劇史を知るものには、これも噴飯に堪へないかも知れない。次手に本文の一節を引けば、「然るに千五百七十六年女王エリサベスの時代に至り、始めて特別演劇興業の爲め、ブラツク・フラヤス寺院の不用なる領地に於て劇場を建立したり。之を英國正統なる劇場の始祖とす。而て此はレスター伯に屬し、ゼームス・ボルベージ之が主宰たり。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり。當時は十二歳の兒童なりしが、ストラタフオルドの學校にて、羅甸竝に希臘の初學を卒業せしものなり」と云ふのがある。俳優にはウイリヤム・セキスピヤと云へる人あり! 三十何年か前の日本は、髣髴とこの一語に窺ふ事が出來る。この本は希覯書でも何でもあるまい。が、僕はかう云ふ所に、捨て難いなつかしみを感じてゐる。もう一つ次手に書き加へるが、僕は以前物好きに、明治十年代の小説を五十種ばかり集めて見た。小説そのものは仕方がない。しかしあの時代の活字本には、當世の本よりも誤植が少い。あれは一體世の中が、長閑だつたのにもよるだらうが、僕はやはりその中に、篤實な人心が見えるやうな氣がする。[やぶちゃん注:中略。この中略部は丸々本篇の「入月」の私の注の部分にある。参照されたい。]何だか話が横道へそれたが、永井徹著の演劇史以前に、こんな著述があつたかどうか、それが未に疑問である。未にと云つても僕の事だから、別に探して見た訣ではない。唯誰かその道の識者が、教を垂れて呉れるかと思つて、やはり次手に書き加へたのである。

 

・「警視屬」一等と二等があるが、当時あった17階級の警察官の、それぞれ7等・9等に位置し、相応に高い地位である。

・「石川一口」というのは明治中期に人気を馳せた大阪の講釈師のこととと思われる。

・「李園(原)」の「(原)」は芥川の補注で「(正しくは「梨園」であるが)原文ママ」の意。

・「英國俳優ヂオフライ空窖へ幽囚せられたる圖」は、岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解に「英国演戯及び劇場の沿革」の章に挿入されているとあり、その図を掲載している。平面的な作品をそのまま複写したものに著作権は発生しない(文化庁公式見解)ため、以下にそれを画像として掲げる。絵の下のコピーは右から左へ「英國ノ俳優ヂオフライ空窖ヘ幽囚セラレタル※」(※は「圖」の異体字と思われるが、小さなため解字不能である。上部に音叉状の突起+「一」その下に隙間があって「回」といった感じの字であるが、恐らく「圖」の(くにがまえ)を取った字体の最上部の横画が印刷不良で擦れて消えたものと思われる)と読むが――さてもこれは確かに鎌倉は扇が谷の景清の土牢に違いない。

・「Geoffrey」はイングランドの司教にして預言者Geoffrey of Monmouthジェフリー・オブ・モンマス(1100頃~1155頃)のことで、アーサー王伝説の完成者に比定されている。彼は俳優ではないし、石川が言うような幽閉の事実は不学にして知らない。

・「レスター伯」はイングランドの貴族Robert Dudleyロバート・ダドリー(15331588)で、彼は1st Earl of Leicester初代レスター伯を名のり、エリザベス1世の寵臣として知られる。

・「ゼームス・ボルベージ」はJames Burbageであるが、これはその息子であるRichard Burbage15681619)リチャード・バーベッジの誤りであろう(父ジェームズもロンドンのブラックフライヤーズ他の劇場へ投資していたが、1597年に没している)リチャードはイギリスの俳優にしてグローブ及び次に示すブラックフライヤーズ劇場の経営者であり、彼の作品の初演時では多くの主役を演じた(若い頃は先のレスター伯一座に所属していたという説もある)。

・「『ブラツク・フラヤス』寺院」は先の注で示したリチャード・バーベッジが経営になる“Blackfriars Theatre”ブラックフライヤーズ劇場のことで、寺院ではない。

・「ウイリヤム・セキスピヤ」という表記は、岩波版新全集第九巻の宗像和重氏の「本の事」注解によると、明治171884)年当時の表記としては一般的であるとする。

・「ストラタフオルド」とはシェイクスピアの故郷Stratford-upon-Avonストラットフォード・アポン・エイボンのこと。

・「ストラタフオルドの學校にて、羅甸竝に希臘の初學を卒業せしものなり」とあるが、岩波版新全集第六巻の赤塚正幸氏の注解によると、『シェークスピアは、生れ故郷のグラマー・スクール(小学校程度)を出ただけであり、ラテン語もギリシャ語もほとんど知らなかったといわれている。』とある。しかし、ウィキペディアの「シェイクスピア」によれば、彼は『ストラトフォードの中心にあったグラマー・スクール、エドワード6世校(King Edward VI School Stratford-upon-Avon)に通ったであろうと推定されている。』(中略)『エリザベス朝時代のグラマー・スクールは学校ごとに教育水準の高低差はあったが、この学校はラテン語文法や文学について集中学習が行なわれていた。講義の一環として学生たちはラテン演劇の洗礼を受ける。実際に演じてみることでラテン語の習熟に役立てるためである。 シェイクスピアの最初期の戯曲『間違いの喜劇』にプラウトゥスの戯曲『メナエクムス兄弟』(“The Two Menaechmuses”)との類似性があることも、シェイクスピアがこの学校で学んだと推測される根拠の一つである。1482年にカトリックの司祭によってこの学校がストラトフォードに寄贈されて以来、地元の男子は無料で入学できたこと、父親が町の名士であったためそれなりの教育は受けていただろうと考えられることなどがその他の根拠である。家庭が没落してきたため中退したという説もあるが、そもそもこの学校の学籍簿は散逸してしまったため、シェイクスピアが在籍したという確たる証拠はなく、進学してそれ以上の高等教育を受けたかどうかも不明である。』という詳細な記述があり、必ずしもここの石川の叙述を見当違いとして否定するものではないようである。]