やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句

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やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句

 (明治四十三年~大正十一年迄)


[やぶちゃん注:以下は、岩波版旧全集の書簡(第十巻及び第十一巻)から年次を追って、俳句を拾い出したものである。以上の句集に入集しているものとの重複しても、採用している。書簡内の俳句同士で表記すべてが同一の場合のみ先行している句のみを採用した。句が同一でも、詞書の有無、その異同がある場合も、採用した。手紙文中、俳句関連の記載で気づいたものを掲げた。旧全集版書簡番号と書簡番号下の日附(消印や推定の場合はその旨注記した)及び宛名等を後に( )で附した。また、それに続けて必要に応じ、句に関わる書簡内容の要約や、作句当時の芥川の周辺等を注記した(書簡中に俳句がなくても、そこに現われた興味深い俳句関連の事項は『*俳句関連記載』で挿入した)。注記には、昭和四十六(一九七一)年刊の筑摩書房全集類聚版第七巻及び第八巻の注、一九九二年河出書房新社刊 鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」、一九八八年近代文藝社刊 中田雅敏「俳人芥川龍之介 書簡俳句の展開」、一九九二年蝸牛社刊 中田雅敏編著「蝸牛俳句文庫3 芥川龍之介」等を参考にした。年齢は満年齢を用いた。【二〇〇九年 自二月至三月 追記】岩波版新全集書簡縦覧を行い、新発見書簡からの発見句を補遺。その際、書簡番号は全く新しく打ち直されているので、アラビア数字で示して区別し、表記は恣意的に正字に直した。た。新全集の新しい書簡と旧全集の既存の書簡の句のダブりについては、原則、新全集での発見部分をそのまま載せて、省略していないが、どれが相似相同で、新発見句は注で明記した。なお、冒頭のリンクを除き、検索の便を考え、各巻へのものは横書頁へのリンクのままとなっている。ご了承されたい(「やぶちゃん版芥川龍之介句集四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世」の頁も同様)。]



明治四十三(一九一〇)年   十八歳



秋立つ日うろ齒に銀をうづめけり

獻上の刀試すや今朝の秋

(三四 八月二十九日 西村貞吉宛。府立三中時代の同級生。後に齋藤に改姓、中国に渡った。「長江游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」を参照されたい。冒頭にこの西村が登場している。)



晝顏や甘蔗畑の汐曇り

(三五 九月一日 西村貞吉宛。本所小泉町より。芥川龍之介は八月五日に第一高等学校第一部乙類(文科)に、この年に始まった成績優秀者の無試験入学制度に推薦されて合格(西村は不合格であった)。八月七~十四日、不合格だった山本喜譽司と共に静岡に旅行した際の嘱目吟。)



大正二(一九一三)年     二十一歳



山羊の毛も刈らでくれけり秋の牧

(一一四 十二月三日 井川恭宛。「東京新宿にて」とある(井川は京都大学に進学)。芥川と井川の共通の友人が髪を伸ばしたことを揶揄した句。新全集の関口安義氏の注解に、『当時の大学生の多くは、在学中は坊主頭であったため、伸ばしはじめると話題になったのである。ちなみに芥川が髪の毛を伸ばすのは、大学卒業後のことである』とある。)




大正三(一九一四)年     二十二歳



砂にしる日のおとろへや海の秋

水松つみし馬の尿や砂の秋

砂遠し穗蓼の上に海の雲

(二二一 八月二十一日 井川恭宛。千葉県一の宮から。「水松」はミル。緑藻類ミル科ミル属、鮮緑色、フェルトのような手触りの丸紐状で叉状に分岐する。【二〇一一年三月一〇日追記】最後の句は底本では「砂遠し穗蓼の上の海の雲」であり、この句形で知られてきたが、二〇一〇年刊の岩波文庫「芥川龍之介句集」(加藤郁乎編)の原本書簡に拠って表記の訂正がなされ、年次も大正三年に変更されたので、ここに移し注の一部を除去した。)



銀杏落葉櫻落葉や居を移す

(一四四 十一月一日 井川恭宛。養父芥川道章との連名の田端への転居葉書。当時の転居地の住所表示は「北豐島郡瀧野川町字田端四百三十五番地」であった。)



大正四(一九一五)年     二十三歳



葡萄嚙んで秋風の歌を作らばや

(一七四 八月二十三日 井川恭宛。東京帝大英吉利文学科二年終了の夏季休暇、八月三日から二十二日まで、一高以来の無二の親友井川と共に、井川の故郷島根県松江市に滞在した。芥川は地元の新聞『松陽新報』に後に「松江印象記」と解題する「日記より」という印象記を発表している。手紙は心からの感謝の言葉に始まって、帰京の嘱目、五絶二首、七絶二首の松江を詠んだ漢詩と続き、「君にもらつた葡萄がいくら食つても食ひつくせなくて弱つた 最後の一房を龜岡でくつた時には妙にうれしかつた 桃は横濱迄あつた 旅行案内のすみへ」として句が現れる。句の直後に「と書いた まだ駄句病がのこつてゐると思つた」と記す。青雲の志に弾む二人の友情が眼前に浮かぶ、一読、忘れ難い書簡である。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」及び後に「松江印象記」も参照。)



粽解いて道光和尚に奉らむ

馬頭初めて見るや宍道の芥子の花

武者窓は簾下して百日紅

(一七六 八月三十一日 井川恭宛。直前の手紙文末尾に「そゞろに松江を思ふにたへない」とある。「粽解いて」は松江の定福寺住職を詠んだ句と中田雅敏氏は「書簡俳句の展開」と記すが、私には句意が不分明である(因みに、この「定福寺」は芥川の誤りで、正しくは「常福寺」である。この寺は曹洞宗であった)。「道光和尚」は江戸前期の黄檗宗の禅僧鉄眼道光てつげんどうこう(寛永七(一六三〇)年~天和二(一六八二)年)であろう。貧民救済に力を注いだ名僧であるから、死後に民から愛され、さればこそ屈原のように粽をということか。「馬頭」は馬頭観音。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」及び後に「松江印象記」と解題する「日記より」という印象記を参照。)



春雨の夜を佐殿の風呂長し

白梅や夕雨寒き士族町

寂として南殿さびしき春の雨

秋雨や大極殿の雨の漏

(一八五 十月三十日 山本喜譽司宛。「佐殿」は、通常なら源頼朝の呼称。「南殿」は「なでん」と読む。「羅生門」が雑誌『帝国文学』に載るのは、実にこの翌日十一月一日のことであった。)



金柑も枝なからそよぐ南風

(一四八 十二月十七日 井川恭宛。【二〇一一年三月一〇日追記】この句は底本では「金柑も枝ながらそよぐ南風」であり、この句形で知られてきたが、二〇一〇年刊の岩波文庫「芥川龍之介句集」(加藤郁乎編)の原本書簡に拠って表記の訂正がなされ、年次も大正四年に訂正されたため、位置もここに変更した。)



大正五(一九一六)年     二十四歳



閃かす鳥一羽砂丘海は秋なれど

(二〇〇 三月十一日 井川恭宛。前年夏の松江行の折りの印象を仮想した句か。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」及び後に「松江印象記」と解題する「日記より」という印象記を参照。なお、先立つ二月十五日に第四次『新思潮』を創刊し、「鼻」を発表している。)



海遠く霞を餐せ小島人

徐福去つて幾世ぞひるを霞む海

(二〇二 消印三月二十七日 井川恭宛。葉書冒頭「とても志摩の島などで縹渺とした生活をする暇はなし」と卒業論文の重圧にうちひしがれる感懐を述べたのを受けた仮想吟と思われる。この前の三月二十四日附井川恭宛二〇一書簡では、この十九日に漱石から届いた「鼻」激賞の、例の有名な手紙について、「夏目先生が大へん鼻をほめて わざわざ長い手紙をくれた 大へん恐縮した」とある。この後、四月一日、大伯父に当たる細木香以をモデルとした「孤独地獄」を『新思潮』二号に発表。)



ひなげしや夜ごと夜ごとのあけやすき

桑一村麻一村や風光る

雲遠し穗麥にまぢる芥子の花

麥を吹いて芥子なびきけり風光る

芥子あかしうつむきて食ふシウマイ(偕樂園)

卍欄に芥子赤し土卵ドランを食ふ(同上)

(二〇六 年月推定五月五日 井川恭宛。稲佐海水浴場、大社教育水族館の絵葉書。卒業論文「ウイリアム・モリス研究」を提出(四月下旬か)した後の書簡と思われる。どちらも出雲靜市大社長町にあるが、この時、芥川龍之介が出雲に旅行した事実はない。この絵葉書は二年前、井川との松江行の折りに手に入れたものを、井川へのオードとして用いたものと思われる。私は高い確率で、ここで芥川が用いた絵葉書は『山陰中央日報』HPにある「松江誕生物語」四十五回の「民家に絵はがき八〇〇点」という記事中に画像としてある、「大社教育水族館」の絵葉書ではあるまいかと踏んでいる。なお、五月一日には「父」を『新思潮』三号に発表、「虱」十二枚を雑誌『希望』に発表して、初めて三円六十銭の原稿料を得る。「土卵」はピータンのことであろう。



饅頭の名も城見とぞ春の風

秋風にわれ愧づらくは二千石

御佛に奉らむ紫藤花六尺

(二一三 年月推定六月二十九日 井川恭宛。最初「饅頭の」の句は直前の手紙文に松江のことを書き、「城見まんぢうと云ふのがあつたがあれを食はなかつたのは千古の遺憾である」とある。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」及び後に「松江印象記」と解題する「日記より」という印象記を参照。「秋風に」の句の「二千石」は芥川家の石高である。芥川家は江戸城の御数寄屋坊主を務めた家柄であった。ちなみに、養母トモは幕末の豪商にして通人、俳人細木香以の姪であることは、森鷗外の「細木香以」にも載る。「御佛に」の句は直前に『京都の口は確定したかね』とし、句後には『京都と云つたら奈良の大仏の事がおもひ出された』とあるから、これは嘱目吟というより、東大寺を背景にした想像の句であろう。「京都の口」というのは、この年七月に京都帝国大学法科を卒業した井川の卒業後の就職口のことを言うようだが、彼は結局就職はせず、大学院に進学、国際公法を専攻した。ちなみに、芥川龍之介も同時期に東京帝国大学大学院に進学はしているが、出席せず、後に除籍となっている。なお、六月一日には「酒虫」を『新思潮』四号に発表。)



   長安句稿 一
 花火
明眸の見るもの沖の遠花火

遠花火皓齒を君の涼しうす

花火やんで細腰二人樓を下る

君が俥暗きをゆけば花火かな

水暗し花火やむ夜の幌俥

(二一四 七月二十五日 井川恭宛。この月、東京帝国大学卒業。手紙文に「僕は來月の新小説に芋粥と云ふ小説を書く 世評の惡いのは今から期待してゐる 偸盗と云ふ長篇を書きかけたが間にあひそうもないのでやめた 書きたいことが澤山ある材料に窮すると云ふことはうそだと思ふ どん/\書かなければ材料だつて出てきはしない 持つてゐる中に醗酵期を通り越すと腐つてしまふ 又書いて材料に窮するやうな作家なら創作をしてもしかたがない」と発想の噴出の抑えがたい喜悦に身を任せる彼が、ここにいる。)



   fragment de la vie
明眸の見るもの沖の遠花火

水暗し花火やむ夜の人力車

(二一五 八月一日 藤岡藏六宛。“fragment de la vie”の前書は特異。フランス語で『人生の欠片(かけら)』の意である。「仙人」を『新思潮』に、「野呂松人形」を雑誌『人文』に発表。)



立つ秋を濱菊ひよろ高くさきにけり

砂に蒸す午日や菊のしぼむ匀

(一六四八 八月二十八日 谷森※[やぶちゃん字注:※=食<旧字しょくへん>+堯]男宛。自筆絵葉書、千葉県一の宮から。これは書簡番号を見てお分かりのように、一九七八年刊岩波版旧全集の一九八三年二刷の第十二巻に追加された「拾遺」の書簡(六九九ページ)中に所収する発句。二刷の現書は所持していないので、同書のコピーを底本に用いた。なお、これ以外に、旧全集にない句は当該の「補遺」の「書簡」中にはない。なお、これに先立つ八月二十五日、芥川は十六歳の女学生であった塚本文にプロポーズの手紙(二二二書簡)を書いている。)



枯るる菊のにほひも砂に蒸す日かな

(二二四 八月三十日 石田幹之助宛。千葉県一の宮から。八月十六日に「芋粥」を脱稿、十七~九月二日まで標記に久米正雄と滞在。読書と海水浴の『ボヘミアン・ライフ』(夏目漱石宛二二三書簡)を満喫する。なお、九月一日に『新小説』に「芋粥」発表している。)



靑鞋のあとをとどめよ高麗の霜

(二三五 十月十九日 石田幹之助宛。手紙文面の冒頭「道程の無事を祈る」に始まり、何か猥褻本を頼んでいたらしく、なければ金瓶梅を買ってきてくれと記し、「右おねがひ旁々送別の爲に」と結んで、句がある。石田の大陸行への送別句と思われる。「靑鞋」は「布韈青鞋」(ふべつせいあい)で旅支度の服装履物を言い、そこから旅中を意味する。 「布韈」は、布で作った脚絆、「青鞋」は草鞋(わらじ)の意。なお、十月一日に「手巾」を『中央公論』に発表。)



ひとはかりうく香煎や白湯の秋

(二三七 十月三十一日 原善一郎宛。宛名人は三渓園園主の子息で、手紙文末尾に「序でながら僕は君の所へ去年の夏矢代と二人でちよつとお庭を見にゆきましたさうして四阿のやうな所で田舎の女のやうな人の沸かしてくれるお湯を飲みました/が、どこをどうしてあすこまで辿りついたかまるで憶えてゐません」とある。なお、十一月一日に「煙管」を『新小説』に、「煙草と悪魔」を『新思潮』に発表。)



  鎌倉六句
夜をひとり省墓の記書く寒さかな

灰に書く女名前も火鉢かな

ひとり磨く靴のくもりや返り花

(二五二 十二月二十五日 山本喜譽司宛。「鎌倉六句」とあるも底本には三句しか掲載されていない。この十二月一日に海軍機関学校教授嘱託に就任、週十二時間の英語講義、俸給六十円であった。十二月九日、夏目漱石逝去、「夜をひとり」はその折りの句。「省墓」は「せいぼ」と読み、墓参りのこと。また、この山本喜譽司は塚本家との間に立って仲人の役割を担った人物でもあった(文は山本の姪)。手紙文冒頭で、「こないだ送つた契約書二通はあれでよかつたらうか あんまり君の方から何とも云つて來ないから少し心配になつた。」というのは、文と女学校を卒業を待って結婚する旨の縁談契約書のことを指すと思われる。)



大正六(一九一七)年     二十五歳



  寫生
霜どけに守衛の見る龍舌蘭

日暦の紙赤き支那水仙よ

(二六〇 一月十九日 松岡讓宛。なお、一月一日には「Mensura Zoili」を『新思潮』に、「尾形了齋覚え書」を『新潮』に、「運」を『文章世界』に発表。)



  即興
笹鳴くや横笛堂の眞木林

(二六一 一月二十九日 原善一郎宛。「横笛堂」は奈良法華寺にある、「滝口入道」で知られる悲恋物語の横笛が尼となった後に住んだとされる建物で、彼女は、そこにに籠もって入道から送られて来た千束の恋文をもって己の像を作ったとされる。但し、この句の「横笛堂」とは、手紙文末尾、俳句の直前に「三溪園そのものの冬枯も甚面白く思ひました」とあるので、原の父が園主である三渓園の中の横笛庵のことを指すと思われる。その像が、この庵に安置されていた。大戦の被害を受けて現在はない。)




中華有名樓の梅花の蘂黄なり

柚の實明るき古寫本を買ひし

 學校所見
霜どけにあり哨兵と龍舌蘭と

炊事場の飯の香に笹鳴ける聞きしか

(二六三 二月九日 井川恭宛。「笹鳴ける」とは冬鶯の鳴き声。)



  即景
裏山の竹伐る音や春寒し

(298 三月二十三日 林原耕三宛。岩波版新全集第十八巻所収の新全集より。)



  倣東洋城生生香奩体
鴨東の妓がTAXI驅る花の山

(二七七 四月十三日 松岡讓宛。底本では詞書は句の後ろについている。また、「生生」の右横に編者によるママ注記あり。松根東洋城は漱石門下の俳人。伝統的な品格を重んじ、幽玄・枯淡を好んだ。句に「春雨や王朝の詩タ今昔」等。芥川は漱石山房の木曜会の句会等で出会ったものであろう。「香奩体」は「こうれんたい」と読み、中国の詩風の一体で、主に後宮の婦人や深窓の閨媛などを詠んだ艶麗・艶情・媚態・閨怨を主題とした官能的なものをいう。晩唐の詩人韓渥かんあくは、官能的な艶美の詩が得意で、そうした艶体の詩ばかりを集めた彼の詩集「香奩集」三巻が評判を呼び、後に「香奩体」という詩体の呼称になったものである。「鴨東」は「おうとう」と読み、鴨川の東一帯を指す。南に祇園の花街を抱える。なお、四月一日には「偸盗」を『中央公論』に発表。)



春寒や竹の中なる銀閣寺

(二七八 四月十三日 佐野慶造宛。)



若葉に掘る石油井戸なり

若葉明きぬれ手の石鹸の匀

異國人なれど日本をめづる柘榴

花柘榴はらしやめん家の目じるし

(二八六 五月三日 井川恭宛。中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」には、この句に触れて、『当時鎌倉、横須賀近辺で石油の採掘が行われていたらしい』とあるが、私は鎌倉生まれで現住するが、寡聞にしてそのような話は知らない。調査続行中。)



  偶感
花曇り捨てて悔なき古戀や

(二八八 五月十七日 松岡讓宛。なお、この後、六月二十三日に第一短篇集『羅生門』を阿蘭陀書房より刊行。)



かはたるる靴の白さやほととぎす

明易き夜をまもりけり水脈みを光り

(二九六 六月二十日 松岡讓宛。なお、六月一日には「さまよへる猶太人」を『新潮』に発表。)



蚊帳釣つて吹かばや秋の一節切

(二九八 推定六月下旬 松岡讓宛。岩国錦帯橋の絵葉書。「一節切」は「ひとよぎり」と読み、尺八の一種。長さ一尺一寸一分、約三三・六センチ。反りのない真直ぐな竹製の縦笛。孔は表に四つ、裏に一つ。室町中期に中国から伝来したとされる。当時は単に尺八と呼ばれたが、後、竹管に節が1個だけあることから一節切と称するようになった。幕末頃、急速に衰退した(「一節切」については「広辞苑」を参照した)。直前の手紙文全文は以下の通り。「由宇の驛長と話したら尺八道樂だが蚊が多いので吹けないと云ふ そのせいか國産の第一は蚊帳ださうだ」。六月二十日から二十四日、海軍機関学校の航海見学で、軍艦金剛に乗って横須賀から山口県由宇ゆうまで航行した。)



朝燒くる近江の空やほととぎす

麥刈りし人のつかれや晝の月

(三〇四 七月十七日 池崎忠孝宛。大阪から。池崎忠孝は評論家赤木桁平の本名。七月一日には「續偸盗」を『中央公論』に発表。)



蛇女みごもる雨や合歡の花

(三〇五 七月十八日 池崎忠孝宛。大阪から。)



天に日傘地に砂文字の異艸奇花

(三〇六 七月二十五日 江口渙宛。直前の手紙文末尾に「一つ淺草の句を書きます」とある。この前日から、夏季休暇で田端へ帰京。)



蝙蝠やゆすりそこねて二朱一つ

人相書に曰蝙蝠の入墨あり

(三〇七 七月二十六日 松岡讓宛。お富与三郎で知られる「与話情浮名横櫛よはなさけうきなのよこぐし」の「源氏店」蝙蝠安の場面を素材とする。蝙蝠安はならず者で、頰に蝙蝠の刺青をしている。句後に「これは機關學校教官の餘戲だ」とある。)



うしろでや高尾大夫も冴返る

二階よりかざし落して冴返る

魚の眼を箸でつつくや冴返る

春寒むや御關所破り女なる

庖丁の餘寒ぐもりや韮を切る

口ひげも春寒むびとのうすさかな

(399 八月九日 宮沢虎雄宛。岩波版新全集第十八巻所収(但し、恣意的に正字に直した)。句前に「僕は暑いから夏でない句を作つてゐる」とあり、「庖丁の餘寒ぐもりや韮を切る」と「口ひげも春寒むびとのうすさかな」の間には「の類だ 冴返るの句は旨からう」改行して「即興を一つかいてやめるよ」とある。これによってこれら六句が、時期外れの春の季題「冴返る」「春寒む」「餘寒(ぐもり)」「春寒む(びと)」である理由や、嘱目吟でないことが知れる。「魚の眼を箸でつつくや冴返る」は全くの相同句が「手帳(二)」に現れる。これは「魚の目を箸でつつくや冴返る」で後掲の大正六年八月二十九日附三一四書簡にも現れているほか、同書簡には「後でや高尾大夫も冴返る」「二階より簪落して冴返る」「春寒や御關所破り女なる」のルビなし及び「む」の送り(これによってこれは「しゅんかん」ではなく「はるさむ」と読んでいることが判明)という異同が見られ、更に「庖丁の餘寒ぐもりや韮を切る」「口ひげも春寒むびとのうすさかな」の三句は新発見句である。「高尾太夫」は、吉原の代表的名妓で、この名を名乗った遊女は十一人いたと言われているが、いずれも京町一丁目三浦屋四郎左衛門方のお抱え遊女であった。)



澤蟹の吐く泡消えて明け易き

(三一二 八月二十四日 塚本様御内宛とあり、後の妻、塚本文へのもの。この葉書は芥川の自像写真の葉書とある。なお、八月一日には「産屋」を『鐘』に発表。)



  即興
銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ

(三一三 八月二十九日 佐野慶造宛。佐野は海軍機関学校の教官。遊びに来ていた悪友連中は今帰ったと言い、「さうしてそのあとが甚靜な夜となりました私は小さな机と椅子とを椽側へ持ち出してこれを書いているのです」とある。中田雅敏氏は六月に軍艦金剛に乗って山口まで航海見学に行った折の海の夜空を見ての句とする。手紙の目的が七月末に『時事新報』に発表した「軍艦金剛航海記」の切り抜きの貸し出しであったことからの推測であろうと思われるが、如何か? 私は素直に、その縁側での即興の嘱目吟としてよいと思うのだが。)



諭して曰牡丹を以て貢せよ

あの牡丹の紋つけたのが柏莚ぢや

牡丹切つて阿嬌の罪を許されし
    ×
魚の目を箸でつつくや冴返る

後でや高尾大夫も冴返る

二階より簪落して冴返る
    ×
春寒やお關所破り女なる

新道は石ころばかり春寒き

(三一四 八月二十九日 井川恭宛。これらの句の大半は、芝居見物を素材としていると思われる。「柏筵はくえん」は、二代目市川団十郎(元禄元(一六八八)年~宝暦九(一七五九)年)の俳号で、彼は榎本其角との交流もあった。牡丹はこの二代目以降、市川家の花とされているが、それは二代目の贔屓方であった江戸城大奥方の女性が彼に送った着物の柄が牡丹であったからと言う。「阿嬌」は、一般には美人の意味であるが、ここはその語源である陳阿嬌を指しているように思われる。阿嬌は漢の武帝の皇后で大変な美人あったが、武帝より十六歳年上な上に、房事に無関心であった。そのため武帝も彼女のもとには通わなくなってしまい、代わりに阿嬌の姉の平陽公主、次いで衛子夫えいしふを愛するようになった。後、子のなかった阿嬌は皇后を廃されてしまい、衛子夫が皇后となった(以上はサイト「中国美男美女列伝」「陳阿嬌」を参照させてもらった)。この句の「罪」とは、その房事無関心の罪ではなかろうか。なお、九月一日、「二つの手紙」を『黒潮』に、「或日の大石内蔵助」を『中央公論』に発表。)



みかへればわが身の綺羅きらも冷やかに

(三三五 十月十二日 菅虎雄宛。同日の松岡讓宛三三六書簡では、自分の小説について、「ボクは悲觀してゐる どうしても或ところより先へはいれないのだ 頭もはいれないし文章もはいれない」と書き、やはり同日の池崎忠孝宛三三六書簡でも、『「和解」を読んで以來どうも小説を書くのが嫌になつた』と記している。燦爛とした文壇の寵児と持て囃されながら、内実に苦悶する芥川の一面が覗く句。しかし、直後の二十日には「戲作三昧」の連載が始まっている。)



カハの香や舶載の書に秋晴るる

(三三八 十月十三日 石田幹之助宛。手紙文中に「モリソン文庫は是非拝見したい」とある。モリソン文庫は、この年、三菱財閥の総帥岩崎久弥が、当時中華民国の総統府顧問を務めていたジョージ・アーネスト・モリソンの所蔵する中国関連の欧文文献の膨大なコレクションを購入したもの。後のこれが東洋学の専門図書館である東洋文庫の基礎となった。)



雁は見ず堕落オロせと聲を聞く夜にて

(三四〇 消印十月二十五日 松岡讓宛。この二十日から『大阪毎日新聞』に「戲作三昧」連載開始。)



天の川見つつ夜積みや種茄子

(三四七 消印十一月三日 池崎忠孝宛。なお、この後の十日には、第二短篇集『煙草と悪魔』を新進作家叢書第八篇として新潮社から刊行。)



人去つて空しき菊や白き咲く

(三五四 十一月二十四日 松岡讓宛。この後の十二月九日が漱石一周忌であった。)



たそがるる菊の白さや遠き人

白菊や匀にもある影日なた

(三五五 十一月二十五日 池崎忠孝宛。前句は漱石の悼亡であるが、「白菊や」の句については、後掲する三六〇書簡注に記した久米正雄と筆子のスキャンダルを下敷きにしているとも考えられないことはない。)



Que m’importe que tu sois sage
Sois belle et sois triste.
C. Baudelaie


徂く春の人の名問へばぽん太とぞ

  その人の舞へるに
行けや春とうと入れたる足拍子

  その人のわが上を問へるに
暮るるらむ春はさびしき法師にも

われとわが睫毛見てあり暮るる春

  一九一七年日本の詩人思を日本の校書に寄するの句を録す。

(三五六 十二月一日 池崎忠孝様宛。葉書。引用されたボードレールの「悲しき恋歌」冒頭は全体の前書きと捉えて、当該書簡全文を掲載した。欧文は雰囲気を出すため、筆記体風のフォントにしてみた。ちなみに、「悪の華」所収のこの詩句は、「どんなにお前が貞淑であろうと、それが何になる? ただ美しくあれ! 悲しくあれ!」といった意味である。「徂く春」は「往く春」と同義。季節の移ろいと共に、さすがその面影に射している「ぽん太」の老いをも言う。中田雅敏氏は「書簡俳句の展開」で「ぽん太」について以下の解説をされている。『明治二十四年新橋玉の家から雛妓おしゃくとして出、はやくから嬌名を馳せていたが、一時落籍され座敷に出なかった。再び高座に上ったのは大正七年頃という。いつも洗い髪のようにさっぱりした髪型でほんのりと色気をただよわせていたという。』更に、次の「行けや春」の句については、福原麟太郎の次の文を引用されている。『北州は踊の方ではむつかしいものになっているようだがぽん太は何の苦もなくさらっと踊ってみせた。それが実に美しかった。浮世の垢をすべて洗い落としたような爽やかな踊りで、踊りはああでなくてはならない。』(出典未詳)。「北州」は「ほくしゅう」と読み、清元の曲名である。「北州千載歳壽」で「ほくしゅうせんざいのことぶき」と読む。蜀山人の作詞で、「北州」とは江戸の北、吉原を指す。遊廓吉原の年中行事と風物を詠んだ佳品の名曲。また、中田氏は「暮るるらむ」の句を、夏目家への出入りも禁じられて、寂しく郷里の福島へ帰った久米正雄を気づかっての句と解しておられる。「校書」は芸妓。)



木枯らしやどちへ吹かうと御意次第

(三六〇 十二月十日 久米正雄宛。夏目漱石令嬢筆子、久米、松岡讓の婚約内諾から破棄、結婚に至る事件は当時の新聞を賑わせた事件であった。手紙文中に「君の事が日々に出てゐるのを見た(ボクの事も出てゐるが)あんまりいい氣なもんぢやない菅さんに教へられて往來で新聞を買つてよんだが實際妙な氣がした(中略)何しろ世の中はでたらめなものだ」とあって句が続く。なお、中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」によれば、この事件は芥川自身ににも波及したとある。以前より芥川は筆子の第一婿候補であったことを、塚本文が漏れ聞き、「自分のやうなものがある爲に夏目家の良婿といふ立身出世の道を塞いでは。」と婚約取り消しを迫られたことがあったという。)



*俳句関連記載
(現存する書簡中では、十二月十一日附下島勳宛三六一書簡で初めて「我鬼」の俳号を用いている。但し、この書簡には句はない。夏目漱石遺墨の貸し出しと、月末に下島が句会でも予定していたのか、句を生み出すのに苦心惨憺しつつも、なかなか気に入ったものが作れないことを嘆いているようにも読める。しかし、もしかすると、この「風流地獄の業」「呻吟」というのは〆切が迫っていながら書けない新年号に向けての複数の創作活動(「開化の殺人」等)のことを言っているのかも知れない。以下に、全文を掲げておく。

拜啓
漱石先生遺墨出來候間御眼にかけ候 ゆる/\御覽下さる可く候 小生未風流地獄の業を脱せず廿日頃までは呻吟致す可くよろしく御同情願上候 頓首
   十二月十一日                      我鬼生
 空谷先生 梧右

なお、「出來候」の「候」は草書体のであるが、正字に直した。)



湘南の梅花我詩を待つを如何せむ

(三六三 十二月十四日 松岡讓宛。手紙文に「愈來年から鎌倉へ定住する東京へ來いとすすめてくれた先輩もあるが」とある。)



*俳句関連記載
(十二月二十六日附菅忠雄宛三六八書簡で芥川は菅に鎌倉の借家探しを依頼しているが、その本文末尾で、「鎌倉へ行つたら高濱さんへつれて行つて下さい句でもやつて閑寂に暮したいと思ひます 頓首」と記していることが注目される。)



  相着を着に歸京したれど相着なし
初袷なくしてサビしき歸省かな

  お早くお願ひ申す
                   芥川龍之介

(三七〇 年次推定 島谷洋服店宛。田端から。全文掲載した。)



大正七(一九一八)年     二十六歳



秋風に金音高し志津屋敷

花あかり人のみ暮るる山路かな

さびしさや棟の夕月庇の菜

太白の絲一すぢや春の風

宿シユク咲く藤や諸國の人通り

ひきとむる素袍の袖や夜半の春

蝙蝠や口紅の色夕まぐれ

(407 一月十四日 久米正雄宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅱより(但し、本文も含めて恣意的に正字に代えた)。七句中、後掲する井川恭宛二七四書簡の「ひきとむる素袍の袖や夜半の春」以外の六句は全てが新発見句である。書簡は「この間蛇笏の句を見たが俗臭があるので大に輕蔑した 彼が句作の上で完成したのはこの二三年の事らしい その前の句は皆いかん 赤木のいつか引いた句は「芋の露山影をしうす」だ これはいゝ句だと思ふ」として、自作七句を記し、その後で「これは鏡花の無憂樹を十頁ほどよんでその中から作つた句だ 作品蛇笏の比にあらず 外套は送つたよ」で終る葉書である(「赤木」は赤木桁平。泉鏡花の「無憂樹むゆうじゅ」は明治三十九(一九〇六)年発表の中篇。香合を巡る人情夢幻譚。最後の「外套」は、恐らく書籍で、ゴーゴリの「外套」のことであろう)。飯田蛇笏への鋭い批評は見逃せない。一句目は「曠野集」巻之四の其角の句、    關の素牛にあひて さぞ砧孫六やしき志津屋敷 を素材とする。美濃国の国関は刀鍛治の名工の出身地として知られる。その中でも関孫六と志津三郎兼氏が著名であった。――砧の音を聞くにつけても蕉門の同輩素牛(維然坊)の住む美濃の関の、かの二人の名工が刀剣を鍛える音にまごう――その古えに思いが馳せることだ――という句をインスパイアしたものである。「太白の絲」は絹糸の撚り糸で和書の綴じ紐にしばしば用いる。「素袍」は、直垂ひたたれの一種。江戸時代には平士ひらざむらいや陪臣の礼服とされた。)



爪とらむその鋏かせ宵の春

ひきとむる素袍の袖や春の夜

燈台の油ぬるむや夜半の春

葛を練る箸のあがきや宵の春

春の夜の人參湯や吹いて飲む

(三七四 一月十九日 井川恭宛。句の直後に「この間運座で作つた句を五つ録してやめる」とある。「運座」とは『1 江戸時代後期の月並俳諧で、兼題のほかに席題によって句作し、宗匠の即点を受ける会。/2 明治時代以降、連衆一同が一定の題で句を作り、優れた句を互選する会。膝回しと袋回しの二方法がある。伊藤松宇・正岡子規らが新しく定式化した。』(ネット上の「大辞林」より引用)。「人參湯」は「傷寒論」にも収載されている漢方で、人参・白朮・甘草・乾姜を配合したもの。理中丸。食欲不振・下痢・胃痛・嘔吐に効果がある。なお、一月一日の発表は、『新潮』に「首が落ちた話」、『人文』に「西郷隆盛」等。)



利きおそき眠り藥や藤鬱と

(413 一月二十五日 久米正雄宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅱより。句の直前、以下は駄弁と断りを入れた後、『(一句明き地へ書く 利きおそき眠り藥や藤鬱と)』ある句(「明き地」は余白の意)。「藤」はママであるが「鬱鬱と」とすべきところを誤ったものか。これは葉書であるが、かなり細字で記したものと思われ、この駄弁の後半部では服部嵐雪の「稻妻にけしからぬ巫女が目ざしやな」の句に感服したと言い、大島蓼太の「阿房宮賦をよむ」の前書を持つ「鬼灯や三千人の秋のこゑ」や「明易きあさがほつまむ星ひと夜」「あけぼのの靑き中より一葉かな」を佳句として掲げたりし、一向に句がうまくならないとぼやいている。)



花桐や雲のいづくに晝の月

(1781 一月二十五日 久米正雄宛。岩波版新全集第二十四巻「補遺二」の「書簡二」より。消息文中『この間富田氏に「花桐や雲のいづくに昼の月」と云ふ句を送つた。桐の花の歌より余程高等だと思ふが如何』と現れる。類型句なしの新発見句。この「桐の花の歌」とは北原白秋の歌集「桐の花」(大正二(一九一三)年刊)を指すか。だとすれば、相当に不遜な物謂いである。また、続いて『蕉門第一のいやな奴は許六だね 馬琴にちよつと似てゐる「唇や蓼食ふあとの秋の風」と云ふあいつの句はあいつの文章をよんだあとの気もちを直下に表現してゐるやうだ 但人間としては興味がある』とあり、ここでも妙に語気辛辣で、テンションが昂い。)



  寫懷二句
片戀や夕冷え冷えと竹婦人

靑奴わが楊州の夢を知るや否

(三七九 一月二十九日 池崎忠孝宛。「竹婦人ちくふじん」と「靑奴せいど」は共に、涼をとるためのベトナムの抱き枕を言う。この直後、二月二日に塚本文と結婚。)



足の腫物ディフィリスにもやくれの春

春風に靑き瞳や幼妻(文壇未來記一句)

(1781 一月二十五日 久米正雄宛。「ディフィリス」は“syphilis”、梅毒。これは勿論、戯句に過ぎぬが、芥川龍之介には梅毒罹患恐怖が終始附き纏っていたように思われる。但し、そこには母の発狂に非論理的に繋がる梅毒罹患→梅毒スピロヘータが引き起こす脳障害(梅毒)→発狂恐怖の意識の流れが存在したように私には思える。後の宇野浩二の梅毒性精神病発症(と私は捉えている。後に治癒した)がその最後の衝撃、自死へのスプリング・ボードの一つとなった。二句目は目前に迫った文との結婚の挨拶句。「文壇未來記」の意は未詳であるが、新鋭作家芥川龍之介自身の幼妻文を得た未来の姿をカリカチャライズした謂いとは読める。)



雪の山に靑きは何を燒く煙

早稻刈つて田の面暗さや鳴く雀

(三八一 推定一月二十九日 岡榮一郎宛。「雪の山に」の句の直前の手紙文には、「あの晩鎌倉にとまつたらあくる日は雪で甚綺麗でした」とある。)



灰墨のきしみ村黌の返り花

(三八二 一月三十一日 薄田淳介(泣菫)宛。芥川が敬愛する詩人薄田泣菫は、当時、大阪毎日新聞学芸部長で、彼の紹介で、この年の二月十三日附で同新聞社社友となった。手紙文中に「東京へかへる途中で所々の日だまりに梨の返り花がさいてゐるのは聊人意を強くするに足ります」とある。「村黌」は村の小学校、「返り花」は、狂い咲きの花のこと。)



草庵の梅やうつすと鏡立て

爐塞げど今日の狹さや鏡立て

(422 二月二日 井川恭宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅱより。二句とも新発見句。句の後に一字下げで「二月二日妻をむかへ候」とある。)



洗ふべき小判もなくて時雨かな(江戸調)

(427 二月五日 久米正雄宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅱより。この葉書は第四次『新思潮』発行に関わる借金返済のためと推定される五十円を久米に請求するもので、借金取りが来ても返す金がないと困窮している本文の、二伸として記される句。新発見句。)



春寒く鶴を夢みて産みにけむ

(三九一 二月十五日 井川恭宛。友人井川の長男出生の祝い句。前文に「御長男の生まれたの祝す 御母子の健康を祈りながら」とある。)



敲詩了芭蕉に雨を聽く夜あらむ

(三九五 消印二月二十六日 池崎忠孝宛。昭和四十六(一九七一)年刊の筑摩書房全集類聚版ではこの上句を「かうしをえ」と読んでいるが、歴史的仮名遣ならば「かうしをへ」が正しい。)



春かへるおぼつかなさや粉煙草

(三九六 消印二月二十六日 松岡讓宛。)



一本の牡丹に暗し月の蝕

蟻地獄隠して牡丹花赤き

眼を病んで孔雀幾日やつくる春

遅櫻極樂水と申しけり

(四〇二 消印三月十五日 池崎忠孝宛。直前の手紙文に「絢爛体の句を作つたから書く」とある。)




  病中
熱を病んで櫻明りに震へゐる

(四〇七 四月二十四日 薄田淳介宛。手紙文中に「過日神經疲勞の爲一切讀書きを廢してゐたので例の件の纏つた御禮も申し上げず甚恐縮しました實はまだ頭の調子が少し惡いのです」と書く。「地獄變」を二三日中に送る、「顧眄」という随筆を書く、それの後で「日本武尊」を書こうと思う、と記している。なお、四月一日には「袈裟と盛遠」を『中央公論』に、「世之助の話」を『新小説』に発表。)



  春五句
えつ日うらの櫻重ければ

遲櫻卵をれば腐り居る

熱病んで櫻明りに震へ居る
     ×
冷眼に梨花見て轎を急がせし

人行くや梨花に風景暗き村

(451 四月七日消印 久米正雄宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅱより(但し、本文も含めて恣意的に正字に代えた)。後の二句はホトトギス「雜詠」欄(大正七(一九一八)年五月『ホトトギス』)に相似句「熱を病んで櫻明りにふるへ居る」相同句「冷眼に梨花見て轎を急がせし」が載る(順序は逆)が、前の三句は新発見句である。)



  書懷
冷眼に梨花見て轎を急がせし

(四〇八 四月二十九日 松岡讓宛。「轎」は「かご」。)



傾城の蹠(あなうら)白き繪踏かな

(四〇九 五月一日 岡榮一郎宛。この日、『大阪毎日新聞』に「地獄變」の連載を社友第一作として開始。)



夕しぶき舟虫濡れて冴え返る

(四一〇 五月七日 原喜一郎宛。手紙文末尾に「高濱さんを先生にして句を作る位な閑日月はあるのです君がまだ俳句を續けてゐるのなら運座でもしませうか」とある。丁度この頃に、菅忠雄(一高時代の恩師菅虎雄の長男)の紹介で、鎌倉在の高濱虚子の指導を受け始め、この前後に発行されたと思われる『ホトトギス』五月号に、初めて
熱を病んで櫻明りにふるへ居る
冷眼に梨花見て轎を急がせし
の二句が所載されている。俳号は「椒圖」。)


罪深き女よな菖蒲湯や出でし

(四一五 五月十九日 池崎忠孝宛。)



  山陽線食堂車
背廣人朝餐いくたり金盞花

(四一七 六月三日 高濱年尾宛。この二日後の六月五日発行の『ホトトギス』には、
裸根も春雨竹の靑さかな
蜃氣樓見むとや手長人こぞる
暖かやしべに蠟塗る造り花
の芥川の句が三句載った。)



  即興
鎌倉は谷々やつ/\月夜竹の秋

(四三二 七月二十日 小林雨郊宛。手紙文に「こつちへ御出かけなさい建長や圓覺は又京都とはちがつた寂びのある寺ですから」とある。なお、先立つ七月八日には短篇集『鼻』が新興文藝叢書第八冊として春陽堂より刊行、七月十五日には「開花の殺人」を『中央公論』に発表。)



晝の月霍亂人の目ざしやな

(四三四 七月二十二日 薄田淳介宛。句の後に「鎌倉も暑くつてやり切れません」とあるが、八月六日附井川恭宛四四〇書簡では同句の直前、手紙文末尾で「一家無事 時々僕が肝癪を起して伯母や妻をどなりつける丈」とあり、この「霍亂」の主は、芥川自身のカリカチャアともとれる。)



連句をしに來い

     見本左の如し

   ほし店や名所饅頭黄金飴     龍

    飛ぶ蝙蝠も松にかくるゝ    正

   鳥居から八幡までの天の川    正

    馬にひきそふ太刀取の役    龍

   大町や穗蓼の上に雲の峯     龍

    異人の妻の日傘から傘     正

暇だつたら是非來い。(正)「來い(龍)

(四三五 七月二十三日 江口渙(句庵)宛。葉書、鎌倉から。久米正雄と寄せ書き。大町おおまちは当時芥川が居住していた鎌倉の町名(因みに私の実家のすぐ傍である)。全文掲載。句末の作者名の踊り字は正字に直した。最後の「來い」の後の鍵括弧はない。)



日傘人見る砂文字の異鳥奇花

日傘人見る砂文字の異花奇鳥

(四三八 消印七月二十五日 葉書、高濱年尾宛。後の「異花奇鳥」の句は以下の本文の次の言に則り、提示した。『「日傘見る砂文字の異鳥奇花」を御差支へなかつたら「異花奇鳥○○○○」に直して頂き度候 以上』。)



日傘人が見る砂文字の異花奇禽

(四三九 七月三十一日 薄田淳介宛。)



淺草の雨夜明りや雁の棹

雁啼くや廓裏畠粟熟れて

雁の棹傾く空や晝花火

藩札の藍の手ずれや雁の秋

(四四三 八月二十七日 小島政二郎宛。直前の手紙文に「運座の節作つた僕の句を書きます但皆でたらめですよ」とあり、これらの句のあとに久米正雄の句二句と江口渙の一句が続く。この時の運座には菊池寛、久米正雄、江口渙、小島政二郎、菅忠雄らがいた。)



ふるさとを思ふ病に暑き秋

(四四四 八月三十一日 小島政二郎宛。葉書。句の直前の手紙文に「節愈々來月から田舍教師職がまた始まるんだと思ふとうんざりします 實際一日も早く東京へ舞ひ戻りたい」(底本では「愈々」の二字目は左下の踊り字)とある。なお、この頃、「悪魔」を発表したか。)



  即興
松風や紅提灯も秋どなり

(四四六 九月四日 小島政二郎宛。九月一日には『三田文学』に「奉教人の死」が発表されている。)



流るるは夕鶯か橋の下

(四四八 推定九月十九日 江口渙宛。この句底本では( )で括られている。)



黑き熟るる實に露霜やだまり鳥

(四四九 九月二十二日 小島政二郎宛。句の後に「これはこの間虚子の御褒めに預つたから御らんに入れます」とある。)



  即興
松風や紅提灯も秋隣

(1785 九月二十六日 小林雨郊宛。小林雨郊(明治二十三(一八九〇)年~昭和四十七(一九七二)年)は京都在住の画家。)



桃の花靑雀今日も水に來ぬ

菊の酒酙むや白衣は王摩詰

  即興
笹鳴くや雪駄小島政二郎

(四五二 十月十四日 小島政二郎宛。「白衣」は「びやくえ」若しくは「びやくい」と読んでいるか。小穴の知られた芥川龍之介の肖像画の題も「びゃくえ」であった。蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」で中田雅敏氏は、「菊の酒」の句について次のように鑑賞している。『この頃芥川は小島を介して、慶應義塾への転職を依頼している。「もし纏るものなら来月一ぱい位に辞表を出したい」とある。また「三田の先生になれて」という言葉もあり大いに脈があったらしい。そうした気持ちを清貧の漢詩人に託した。』。王摩詰は、詩仏、王維の字。同人への十月十八日附四五四書簡で「王摩詰は王維です あの人の詩は淡々としてゐてしかも無限の趣があつて甚よろしい」と述べている。この月の一日には『新小説』に「枯野抄」を発表している。)



  即興
原稿はまだかまだかと笹鳴くや

(四五七 十月二十四日 薄田淳介宛。この原稿とは『大阪毎日新聞』連載の「邪宗門」のこと。)



胸中の凩咳となりにけり

(四五八 十一月二日 高濱年尾宛。葉書。直前の手紙文末尾に「僕は今スペイン風でねてゐます うつるといけないから來ちや駄目です 熱があつて咳が出て苦しい。」とある。なお、この月、「るしへる」を『雄弁』に発表。)



凩や大葬ひの町を練る

(四五九 十一月三日 小島政二郎宛。葉書。直前の手紙文に「スペイン風でねてゐます 熱がたかくつて甚よわつた病中髣髴として夢あり退屈だから句にしてお目にかけます」とあり、句の後に、「まだ全快に至らずこれもねてゐて書くのです 頓首」と続く。)



  病中髣髴として夢あり
凩や大葬ひの町を練る

(四六一 十一月九日 薄田淳介宛。これは前の四五九書簡の句と全く同じであるが、ちゃんとした詞書を持っているので再掲した。)



縫箔の糸に今朝冬の光り見よ

(四六四 十一月二十一日 小島政二郎宛。手紙文末尾に「句は全く作つてゐる暇がありません強ひて出たらめを書けば」とある。「縫箔」は「ぬいはく」と読み、刺繍と摺箔すりはく(布に糊・膠などで模様を描き、金箔銀箔を押しつけたもの)を合わせて模様を描いたもの。能装束で主に女役の着附けに用いる。)



見かへるや麓の村は菊日和

(四六五 十一月二十四日 松岡讓宛。松岡の肺炎入院見舞で、句の前の手紙文中で「僕もインフルエンザのぶり返しでひどく衰弱してゐた 辭世の句も作つた」と書き、松岡の軽快を聴いて安心、「御互に今度は命拾いをした方だらうと思ふ 僕の辭世の句は」とあって、掲載句が続き、「と云ふのだ 今はもうピン/\して原稿を書いてゐる」とある。)



むだ話火事の半鐘に消されけり

(四六九 十二月二十三日 小島政二郎宛。葉書。直前の手紙文に「句は僕ならかうやります」とあり、句の後に「實際むだ話を書くのはあきあきした」と続いている。)



瓦色黄昏岩蓮華ところどころ

(四七一 十二月二十六日 井川恭宛。鎌倉から。句の後に「これはお寺の屋根のスケツチ」とある。)



  高著を眺めながら思ひついた句一
春近し開眼申す盧遮那るしやな

(523 十二月二十六日 和辻哲郎宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅱより(但し、本文も含めて恣意的に正字に代えた)。新発見句。「高著」とは、和辻の同年十二月岩波書店刊の「偶像再興」を指す。著名な「古寺巡礼」に先行する随想集であるが、後に著者自身によって封印された。「盧遮那佛」の解釈は宗派によって異なり、釈迦の悟りの境地を仏身化した法身ほっしん仏であるとか、釈迦と同体等とするが、原語の梵語(サンスクリット語)“Vairocana”バイローチャナの「輝くもの」という意味では、真言密教の大日如来としっくりくる。奈良や鎌倉の大仏は盧遮那仏である。新発見句。)



大正八(一九一九)年     二十七歳



日曜に遊びにござれ梅の花

(四七三 一月三日 中塚癸巳男宛。葉書、田端から。句の上に「賀正」が入っている。一日には、「毛利先生」を『新潮』に、「犬と猫」を『赤い鳥』に、「あの頃の自分の事」を『中央公論』に発表。)



世の中は箱に入れたり傀儡師

(四七四 一月四日 南部修太郎宛。葉書、田端から。後ろに「二伸これは新年の句本の廣告ぢやありません」とある。一月十五日に第三短篇集『傀儡師』を新潮社より刊行。)



  即興
世の中は箱に入れたり傀儡師

(四七八 一月十九日 南部修太郎宛。田端から。これは前の四七四書簡の句と全く同じであるが、ちゃんとした詞書を持っているので再掲した。)



朝夕や薫風を待つ樓の角

(四八〇 一月二十九日 佐佐木茂索宛。佐佐木とは、前年の十二月十五日に本郷燕楽軒の劇団の招宴で、初めて会っている。佐佐木は久米正雄の紹介で芥川に師事し、逗子の中学校を中退し、作家志望で上京した。なお、二月一日には「開化の良人」を『中外』に発表。)



靑蛙おのれもペンキぬり立てか

(四八六 二月八日 薄田淳介宛。鎌倉から。句の直前手紙文末尾に改行して「左記の句得意なのだがどうでせう」とある。同日日附の小島政二郎宛四八七書簡でもこの句を披瀝しているが、こちらでは「句は一向怠けてます最近の句は」とトーン・ダウンしている。また、中田雅敏氏の蝸牛文庫版の鑑賞によると、『友人がルナールの『博物誌』に「とかげ ペンキ塗りたてご用心」があると指摘したら即座にだから「おのれも」としてあると答えたと言う。』と記されてあるが、ルナールの「博物誌」の中にはそのようなアフォリズムはない。「ルナール 岸田国士訳 博物誌 附原文 やぶちゃん補注版」を参照されたい。大阪毎日新聞入社内定。)



蠟梅や枝疎らなる時雨空

(四九〇 二月十九日 友常幸一宛。葉書、発信場所は推定で田端から。)



怪しさや夕まぐれ來る菊人形

(四九一 二月二十日 薄田淳介宛。田端から。インフルエンザのため病臥、その床中吟であることが手紙文より窺える。)



  寐ながらの句二つ三つ
胸中の凩咳となりにけり

(四九二 二月二十二日 岡榮一郎宛。田端から。これは前年の十一月二日附高濱年尾宛の四五八書簡の句と全く同じであるが、ちゃんとした詞書を持っているので再掲した。また、詞書には「二つ三つ」とあるがこの句の後に「二つ三つと書いたが一つであとが出なくなつた 頓首」と続く。)



歸らなんいざ草の庵は春の風

(四九三 二月二十三日 小島政二郎宛。田端から。直前の手紙文末尾で「思ひ切つて作家生涯になり了せました心中可成不安ですが兎に角のりかゝつた舟だし行ける所までは行つて見ようと思つてゐますしかしこれからリイダアを讀必要がないんだと思ふと可成愉快です」とある。芥川はこれに先立つ二月八日に、大阪新聞社入社が内定、この月内に海軍機関学校へ退職願を提出している。三月二十八日附岡榮一郎宛五〇九書簡に曰く、「今日最後の授業をしてから教科書出席簿その他皆ストオヴに抛りこんで燃やしてしまひました甚せいせいしてゐます早く東京へかへつてのらくら暮らしたい」と。更に、漱石に倣った大阪毎日新聞社への「入社の辞」の最終段落を以下に引用する。

 昔の支那人は「歸らなんいざ、田園將にせんとす」とか謠つた。予はまだそれほど道情を得た人間だとは思はない。が昨の非を悔い今の是を悟つてゐる上から云へば、予も亦同じ歸去來の人である。春風は既に予が草堂の簷を吹いた。これから予も輕燕と共に、そろそろ征途へ上ろうと思つてゐる。

なお、この「入社の辞」はその痛烈な軍部批判からか何故か新聞に掲載されることがなく、薄田泣菫の昭和四(一九二九)年刊の『艸木蟲魚』で日の眼を見ることになる)。



春日既に幾日ぬらせし庭の松

(四九七 二月二十六日 松岡讓宛。手紙文中に、煙草の吸い過ぎで喉を害して、発熱気味の由記載あり。)



病閒やいつか春日も庭の松

(四九八 二月二十六日 佐野慶造 佐野花子宛。田端から。前の注に同じ。)



    即景
時雨んとす椎の葉暗く朝燒けて

(四九九 二月二十八日 片山廣子宛。田端から。晩年、芥川が唯一対等に語り合えるとした女性、「越し人」片山廣子=松村みね子が病気見舞いに来てくれたことへの御礼と、病中の彼女への見舞いの手紙の最後に添えられた句である。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」に本書簡全文を掲載しているので参照されたい。)



  この頃教育業をやめるのだと思ふと甚愉快です
  そのせゐか汽車の中から見る景色も皆春氣を帯
  びてゐるやうな氣がしてなりません
春に入る竹山ならん微茫たる

(五〇二 三月六日 岩淵百合子宛。鎌倉から。新全集人名解説索引によれば、鎌倉に在住していた俳句愛好家で、芥川はこの女性の開催した句会にしばしば出席していた旨、記載がある。なお、三月一日には「きりしとほろ上人傳」前篇を『新小説』に発表(後篇は五月一日)。)



  即興
思へ君庵の梅花を病む我を

(五〇七 三月十二日 豊田實宛。鎌倉から。句の直前手紙文末尾に「目下インフルエンザの豫後で甚だ心細い生き方をしてゐます」とある。)



  即興
夜櫻や新内待てば散りかゝる

(五一〇 四月二日 井上猛一宛。鎌倉から。新全集人名解説索引によれば、この人物は新内節の家元とのことである。)



遠火事の覺束なさや花曇り

(五一一 四月三日 池崎忠孝宛。鎌倉から。手紙文末尾に「小生まだ免官の辞令出ず尻の落ち着き所に窮しつゝあり」とある。)



白木蓮ハクレンに聲を呑だる雀かな

(五一二 四月十五日 江口渙宛。田端から。)



    偶懷

引き鶴や我鬼先生の眼ン寒し

(五一七 四月二十八日 小島政二郎宛。田端から。この日、鎌倉大町辻の家を引き払い、田端の家に戻った。)



白壁や芭蕉玉巻く南京寺

(五二四 五月十三日 松岡讓宛。葉書末尾に「大阪にて 龍」の記載あり。三日頃から十八日迄、菊池寛と共に長崎から関西を回る旅に出ている。五月一日には後に「蜜柑」「沼地」と改題する「私の出遇つた事」を『新潮』に、「龍」を『中央公論』に発表。)



  聊歸心を催す
我鬼窟の實梅落つべき小雨かな

(五二五 五月十七日 小島政二郎宛。句の後に「唯今醉興な連中と夜半タキシイを走らせて渡月橋まで月見に行つてかへつた所/十七日 午前二時祇園梅垣にて 龍」の記載あり。長崎からの帰途、十一日、大阪毎日新聞社に入社の挨拶をして、十五日に京都で葵祭を見て、十八日帰宅。この年の四月より、田端の自宅の二階書斎に一校時代の恩師菅虎雄の書になる「我鬼窟」の扁額を掲げ、日曜以外は玄関に「忙中謝客」の貼紙をして面会謝絶とし、作家活動に専念。なお、「我鬼」とはエゴの意。大正六年頃から、書簡中に使用し始める号。)

粉壁や芭蕉玉巻く南京寺

(五二六 五月十七日 下島勳宛。)
  時々短冊に辟易す
酒前茶後秋立つ竹を描きけり



この頃や戲作三昧花曇り

醉ひ足らぬ南京酒や盡くる春

(五二七 五月十九日 恒藤[やぶちゃん注:旧姓、井川。大正五(一九一六)年に結婚、妻の恒藤家を継いだ。但し、結婚後も暫くは芥川は井川という旧姓で手紙を送っている。]恭宛。句の直前に「無事歸京早速小説にとりかかる」とあるが、創作の筆は花曇りの空の如く重く、遅々として進んでいない。この後のめぼしい作品は、六月三十日の『大阪毎日新聞』への「路上」連載開始(しかし執筆に苦渋、前篇で中断)と、七月一日の『中央公論』への「疑惑」ぐらいなものである。ちなみに、芥川の「戲作三昧」は、既に二年前の大正六年に発表されている。)



  即興
荷蘭陀の茶碗行く春の苦茗かな

(五三六 六月三日 岡榮一郎宛。「苦茗」は「くめい」と読み、品質の悪いお茶のこと。自家の茶の謙遜語で、句の直前手紙文末尾にある「この頃客を謝してとりいそぎ執筆中もう一週間ばかりしたら夜分にても御出を乞ふ 和蘭燒の茶碗にて御茶を獻ずべし」を受けた挨拶句。「我鬼窟日録」によると、「路上」執筆に難渋、五月三十一日には「第一回から改めての出直す事にした。」。この三日には「大阪毎日より原稿早く送れの電報あり。大いに恐縮す。」と記している。)



  偶懷

鵠は白く鴉は黑き涼しさよ

(五三八 六月十四日 龍村平藏宛。「鵠」は「くぐひ」と読ませているか。白鳥又はコウノトリを指すが、前者であろう。ちなみに、この四日前の六月十日に万世橋の「ミカド」での十日会でファム・ファータル、秀しげ子に会っている。これについては「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の冒頭にある「我鬼窟日録」の注を参照されたい。)



  偶懷

花薊おのれも我鬼に似たるよな

(五四三 六月二十日 岡榮一郎宛。なお、六月三十日から「路上」を『大阪毎日新聞』に連載するも、未完途絶。)



榾焚けば榾に木の葉や山暮るる

(601 六月二十三日 内田百閒宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅱより。句の後の手紙文に「この句勝手に感心し給へ 一月ぶりで始めて作つた句だ」とある。後掲の第五五八書簡及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」の「我鬼句抄補遺」の「冬」に相同句あり。)



眼底にうごめくものや白絽幮

(五四六 七月二日 佐佐木茂索宛。「絽幮ろちゅう」は、透いたとばり、蚊帳等を言う。句の前には「敬啓 當日の句記憶に殘れるは唯左の一句のみ艸稿は既に悉廢紙と致し候」とある。なお、七月一日に、「疑惑」を『中央公論』に発表。)



  本を難有う

黑ばえやたそがるゝ矢帆赤かりし

(五四七 七月二日 江口渙宛。筑摩全集類聚版の注釈に、「矢帆」は、『弥帆、大船のへさきに張る小さい帆、ただしここは江口の短編集題名「赤い矢帆」にかけた。』とある。)



山の月冴えて落葉の匀かな

榾焚けば榾に木の葉や山暮るる

(五五八 七月二十四日 赤木桁平宛。句の後、「こんな境涯が今の僕には住し易いのだ 頓首」と続く。)



宵闇や殺せども來る灯取虫

もの云はぬ研屋の業や梅雨入空(これをツイリゾラと讀む素人の爲に註する事然り)

時鳥山桑摘めば朝燒くる

靑蛙おまえもペンキぬりたてか(この句天下有名なり俗人の爲に註する事然り)

秋暑く竹の脂をしぼりけり

松風や紅提灯も秋隣(この句谷崎潤一郎が鵠沼の幽棲を詠ずる句なり勿體をつける爲註する事然り)

春の夜や蘇小に取らす耳の垢(美人の我に侍する際作れる句なり羨ましがらせる爲に註する事然り)

(五六五 八月十五日 秦豐吉宛。句の直前手紙文末尾に「この頃僕の句も新進作家にて君の水仙の句にも劣らず名句を盛に吐き出して居り候へば左に一二を録すべく御感服御嘆賞御愛吟御勝手たるべく候」とある。前出句があるが、まとまっており芥川の軽快な註もついているので、そのまま掲載した。最後の「春の夜や」の句と註は最後尾「二伸」の末尾にあり、二伸の最後、句の直前に改行して「近來句あり」とある。
 なお、この手紙文の冒頭には、「久米へ勢以子と小生との関係につき怪しからぬ事を申された由勢以子女史も嫁入前の體殊に昨今は縁談もある容子なれば爾今右樣の事一切口外無用に願ひたし僕大に辯じたればこの頃は久米の疑全く解けたるものの如くやつと自他の爲喜び居る次第なりこれ冗談の沙汰にあらず眞面目に御頼み申す事思召し下されたし谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汗が出るぜ」とあるが、この小林勢以子というのは谷崎夫人の千代子の妹で、谷崎の「痴人の愛」のナオミのモデルとされる女性である。岡本かの子の「鶴は病みき」にも登場する。)



朝寒やねればがさつく藁蒲團

病室の膳朝寒し生玉子

(五六七 八月二十三日 藤岡蔵六宛。相州金澤(現在の横浜市金沢区金沢八景)から。文面によれば茶屋遊びをするも、女中相手に五十銭で一夜遊べるというひどさに辟易し、特等三円という安価な病院に宿泊するも、寝冷えで熱を出し、その苦しみを忘れんがために、こんな句を作っていると記している。この月は大半を三浦半島で過ごし、二十六日頃に帰京している。この病院について新全集注解で関口安義氏は田中輝雄「芥川龍之介と金沢」を引き、これは田中病院という病院名で、『実は性病検査のための入院であったという』とある。この時、「妖婆」等を執筆。)



榾焚けば榾に木の葉や山暮るゝ

(五六八 八月二十四日 中村武羅夫宛。五五八書簡の句は踊り字を用いていない。)



勳章の重さ老軀の初明り

暖かや蕊に蠟塗る造り花

この匀藪木の花か春の月

時鳥山桑摘めば朝燒くる

赤百合の蕊黑む暑さ極まりぬ

秋風や水干し足らぬ木綿糸

夏山や空はむら立つ嵐雲

山の月冴えて落葉の匀かな

黄昏るゝ榾に木の葉や榾焚けば

凩にひろげて白し小風呂敷

秋風の句を夏山の句と入れ換へられたし 題は我鬼句抄 署名は唯我鬼

(五七八 九月十四日 佐佐木茂索宛。封筒に「SSS句稿在中」の注記。大正八(一九一九)年十月一日発行の『サンエス』第一巻第一号に「我鬼」の署名で、指示通りの入れ替えが行われて掲載された。但し、旧全集版の第九巻の表記とは「蕊」や「匀」に微妙な違いがある。全文掲載。ちなみに、この「山の月」の句はかなりの自信作であったか、大須賀乙字宛六二六書簡で「乞玉斧」と前書きして、記している。
【追記:二〇一〇年四月二十五日】今回、二〇〇九年二玄社刊の「芥川龍之介の書画」によって、本書簡の現物(封筒表裏を含む)を画像で確認出来た。その画像から私が起こしたものを以下に示す。これが最も正しい本書簡の全文である。


勳章の重さ老躯の初明り

暖かや蕋に蠟塗る造り花

この匀藪木の花か春の月

時鳥山桑摘めば朝燒くる

赤百合の蕋黒む暑さ極まりぬ

秋風や水干し足らぬ木綿糸

夏山や空はむら立つ嵐雲

山の月冴えて落葉の匀かな

黄昏るヽ榾に木の葉や榾焚けば

凩にひろげて白し小風呂敷

 秋風の句を夏山の句と入れ換へられた
 し 題は我鬼句抄/署名は唯我鬼


封筒の消印は駒込局内で九月十六日午後四時から六時の間、宛名は「牛込区天神町十三」の「佐々木茂索樣」(「々」はママ)、添書きに「SSS句稿在中」(「SSS」は横書)とあり、裏は手書きの「緘」に右に「九月十四日」中央下部に「芥川龍之介」と記して、住所はない。)



秋風や黑子に生えし毛一コン

(五八二 九月二十二日 菅虎雄宛。句の直前手紙文末尾に「昨日湯にはいつたら、胸のホクロに毛が一本はえてゐました。」とある。秀しげ子との一度目の密会が九月十五日であった。「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の冒頭にある「我鬼窟日録」の注を参照されたい。)



秋風にゆらぐ蓮の花一つ

(五八三 九月二十四日 瀧井孝作宛。句の直前手紙文末尾に「この頃は一向句を作らない 今日不忍池の側を通つて即景の句を一つ得た」とある。秀しげ子との二度目の密会はこの翌日となる。「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の冒頭にある「我鬼窟日録」の注を参照されたい。)



天心のうす雲菊の氣や凝りし

(五八六 十月一日 佐佐木茂索宛。ちなみに「我鬼窟日録」はこの日をもって、壮絶な漢文脈のアフォリズムと古俳諧の断片で終わっている。この日、「妖婆」(続篇)が『中央公論』に発表される。)



白菊は暮秋の雨に腐りけり

(五九二 十月十二日 瀧井折柴(孝作)宛。この後に「この頃暮方寂しい時こんな句意に似た心もちがする 以上」と終わる。)



埋火の仄に赤しわが心

(五九三 十月十五日 南部修太郎宛。「小説は愚作を書くが句は大分進歩した敬服させる爲に一句書く」として記す。芥川の自信作であった。にも拘らず彼が「澄江堂句集」にこれを採らなかった意味も、私には分かる――これは「愁人」秀しげ子への複雑な思いを詠んだものと思うからである。)



この頃妖婆續篇に辟易して句ばかり作つてゐます瀧井や佐佐木は大分惱ませたから今度はあなたを惱ませます

虹ふくや亂れゆゝしき川の蘆

夕燒や霧這いわたる藺田の草

べたべたと牡丹散り居り土のツヤ

何の肉赤き廚ぞ軒の雪

時雨るゝや軒に日殘る干し大根

白菊は暮秋の雨に腐りけり

  戀
埋火の仄に赤しわが心

どれを拔きますか皆落第ぢや心細い この頃凡兆に敬服してゐます几董は纖巧すぎるやうな氣がします二三日寒山落木を讀んで明治三十年以後の子規の句境が乾坤獨歩なのに驚いたあれは實に大したものです

十月十五日           我鬼

下谷の小政樣

(五九四 十月十五日 小島政二郎宛。内容が完全に俳句一色なので全文掲載した。「下谷の小政」とあるが、これは龍門の四天王の一人(他は南部修太郎・瀧井孝作・佐佐木茂索)であった小島が東京下谷の生れで、清水次郎長の子分である小政に掛け、『小』島『政』二郎の姓名一字から「下谷の小政」と呼んだものと思われる。)



埋火のほのかに赤しわが心

虹ふくや江の蘆五尺亂れたる

凩や目ざしに殘る海の色

(五九九 十月二十七日 小島政二郎宛。「埋火の」句は、「仄に」が「ほのかに」と違っているので掲載した。この書簡では、凡兆の佳句を挙げ、最後に二伸で「埋火の」の句を挙げ、この句は「傑作だと思ふがどうですか やけて鑑賞的態度が不純になつてゐるとくだらなく見える惧がありますがな」と述べ、それぞれ改行して後の二句を掲げている。)



祝砲やお降りあればどろどろと

(六〇〇 十月二十七日 佐佐木茂索宛。)



時雨るゝや晝も火ともるアーク燈

(七九四 十月二十九日 佐佐木茂索宛。これは岩波版旧全集では、大正九(一九二〇)年に所収されているが、新全集書簡第十八巻書簡Ⅱ(新書簡番号659)によって大正八(一九一九)年に改められている。手紙本文を読むと、ここで芥川は、ある女性(恐らく秀しげ子)の手紙を受け取るのに家人の眼を誤魔化すため、表・裏書きを小島が芥川龍之介宛で書いた封筒を、その女性に事前に送っておき、小島からの来診を装った女の偽手紙を送らせるという穏やかならざる内容が書かれており、これは大正八(一九一九)年のこの時期の前後の書簡とも一致する点で、新全集の判断は正しいもの推定出来、本頁でも位置を修正した。旧全集では整理上のミスからこの新書簡番号659と新書簡番号862が入れ替わってしまったものと判断される。)



  この頃の句
竹林や夜寒の路の右左

(六一二 十一月十三日 薄田淳介宛。)



天暗し一本杉や凍てゝ鳴る

門内の敷石長き寒さかな

松風や人は月下に松露を掘る

(六一六 十一月十九日 瀧井折柴(孝作)宛。後に『「天暗し」嚇したやうで氣に食はねど初五字思ひ當らず』とある。)



 この頃の句二つ

江の空や拳程なる夏の山

夏山や幾重かさなる夕明り

(六一七 十一月二十三日 佐佐木茂索宛。文中に「子規は三十六で死んでゐる 僕などは余程しつかりしないとあの年では碌な事一つせずに了りさうだ」と述懐。なおこの頃、「鼠小僧次郎吉」を執筆中、江戸言葉に苦心している様が、翌日二十四日附小島政二郎宛六一八書簡に記されている。ちなみに、「鼠小僧次郎吉」は十二月六日脱稿、発表は翌年の一月一日の『中央公論』であった。)



*俳句関連
(十一月二十四日附小島政二郎宛第六一八書簡の中で、芥川は「藤野古白の句にかう云ふがあり」として、「傀儡師日暮れて歸る羅生門」を挙げて「まるで小生の出す本を予言したやうで氣味の惡い位暗号の奇を極めたものと存候」(「候」は底本では草書)と述べた上で、十一月十九日附瀧井折柴(孝作)宛第六一六書簡で挙げた「門内の敷石長き寒さかな」の句を記している。古白の句と並ぶように示されたこの句、芥川はそれなりの自信があったか。)



稻むらの上や夜寒の星垂るる

(六一九 十一月二十六日 滝井折柴(孝作)宛。句の直前手紙文末尾に「昨夜往來で句を得た」とある。「稻むら」は、鎌倉の由比ヶ浜と七里ヶ浜を隔つ稲村ヶ崎を指すか。この前日については、鷺只雄氏の「年表作家読本」によると、「某女(馴染みの芸者か)と夜遅くまで会い粋な財布をプレゼントされて帰宅する。この事実を家族にごまかすため、岡榮一郎の所で遅くなり、財布は彼から貰ったものと口裏を合わせるよう、岡に手紙を書いている。」とある。ちなみに、件の岡書簡は全集の六二一書簡である。)



竹河岸の竹ひゞらぐや夕凍てて

(六二三 十一月二十九日 小島政二郎宛。)



枯藪に風あり炭火起す家

(六二五 十二月十四日 小穴隆一宛。葉書。洋画家の小穴とは十一月二十三日滝井孝作(折柴)の紹介で初めて会っている。後に「これはボクの癇癪を句にしたのです」とある。)



極月に取急ぎたる婚儀哉      碧童

襖つくらふ俳諧の反故       我鬼

(六二七 十二月十七日 瀧井孝作宛。瀧井の結婚の目星が附いたことへの小澤碧童との挨拶句。手紙末尾に「やつと今日で新年ものが書き上げられる筈だ/家も探して置かう 家賃は二十円位で好いか」とある。この「新年もの」とは新年号『新潮』に発表される「舞踏会」であろう。脱稿は十二月二十一日頃である。)



曇天や蝮生きゐる罎の中

(六二八 十二月十七日 小島政二郎宛。句の直前手紙文末尾に「五六日前癇癪が起つた時作つた句を御披露します」とある。蝮酒でも作っていたものか。事実蝮は酒漬けになっても想像を絶する長い間、生き続ける。)



風落ちて枯藪高し冬日影

人絶えし晝や土橋の草枯るゝ

雲遅し枯木の宿の照り曇り

(六三〇 十二月二十二日 瀧井折柴(孝作)宛。前に「こんな句はどうだい」とある。)



龍膽や風落ち來る空深し

冬空や高きにハタきかくる音

夏山や峯も空なる月明り

(六三一 十二月二十二日 瀧井折柴(孝作)宛。前に「更にこんな句はどうだい」とあり、後ろに「はがきで点をつけてくれないか 一時間ばかりに六つ作つたらくたびれた 頓首」と続く。六三〇書簡と合わせて六句という意味。)



風落ちて枯籔高し冬日影

(六三二 小島政二郎宛。六三〇書簡とは「籔」の字が違う。二伸で、これに六三〇書簡に既出の「人絶えし」と「雲遅し」が並び、その後に、「こんな句はいけませんかボクは十八世紀調を鼓吹しようと思つてゐます 以上」と続く。)



  この頃の句
惣嫁指の白きも葱に似たりけり

(六三三 十二月二十二日 齋藤茂吉宛。「惣嫁」は、江戸時代、上方で路傍に立って客を引いた下級娼婦を言う語。読みは「そうか」・「そうよめ」。ここは「そうか、ゆびの」と初句を字余りで読ませているか。)



水蘆や虹打ち透かす五六尺

(六三五 十二月二十五日 龍村平藏宛。句の直前手紙文末尾に「二伸 數日前私の所で運座をしましたその時の句を御披露しますから御笑ひ下さい寒中ことさら夏の題を選んだのです」とある。)



「葱」評 あんなひやかしはいかん あれを讀みながら句を得た 川柳かな

牛込に春陽堂や暑き冬

秋の字を入れたかつたがはいらなかつたと思ひ給へ

(六三七 消印十二月三十一日 佐佐木茂索宛。「葱」は芥川の小説、大正九年一月一日『新小説』に発表。脱稿は、十二月十一日であった。全文掲載。)



大正九(一九二〇)年     二十八歳



藤咲くや日もうら/\と奈良の町

(六三九 一月二日 小島政二郎宛。句の直前手紙文末尾に「この頃素堂句集を讀み天明に至つて蕪村の出でたる偶然ならざるを知り候言水は目下諸方詮索中短歌私鈔など讀むと歌も作りたくなりますなこんな調子の歌を」とあり、これを「歌」の詩想の表現としているようだが、一応、発句と捉え、採用した。ちなみに、一月一日の発表作品は「鼠小僧次郎吉」(『中央公論』)、「舞踏会」(『新潮』)、「葱」(『新小説』)、「魔術」(『赤い鳥』。脱稿は十一月十日)「尾生の信」(『中央文学』)。また、一月二十八日には第四短篇集『影燈籠』を春陽堂より刊行している。)



  この頃の句
蠟梅や枝疎なる時雨空

(六五三 二月十日 小島政二郎宛。このすぐ後の新全集新発見書簡である同年二月十九日附友常幸一宛新全集番号717書簡にも掲げ、次の旧全集六五九書簡と、約一月に亙って通信文に添えており、自信作であった。)



  即景
蠟梅や枝疎なる時雨空

(六五九 三月八日 小宮豊隆宛。)



  讀我鬼窟日録 萬感臻於臆
短夜や仙桃偸む計りごと

川風や菖蒲のうらしるしあり

夢涼し白蓮ゆらぐ枕上

韓内翰有詩、人許風流自負才 偸桃三度到瑤台 至今衣類臙脂在 曾被謫仙痛咬來 以可換自題
禁公表 可秘々々                       我 鬼 拝

(六六〇 消印三月八日 佐佐木茂索宛。葉書。全文掲載。「讀我鬼窟日録 萬感臻於臆」は『「我鬼窟日録」を讀み 萬感臆に臻る』で、「臆に臻る」は「おくいたる」と読み、心に及ぶ・至るの意。『「我鬼窟日録」を読んで、万感の想いが心を蔽う』というのである。言わずもがな、秀しげ子との情事がこの句群には背景としてある。「韓内翰有詩、人許風流自負才 偸桃三度到瑤台 至今衣類臙脂在 曾被謫仙痛咬來 以可換自題」の「内翰」は中国の唐代以降の官名。天子の直属で、主に詔勅の起草を行った。但し、ここでは「韓内翰」で晩唐の詩人韓渥かんあくその人を指している。韓渥は官能的な艶美な詩が得意で、そうした艶体の詩ばかりを集めた彼の詩集「香奩集」三巻が評判を呼んだ。以下の、

人許風流自負才 偸桃三度到瑤台 至今衣類臙脂在 曾被謫仙痛咬來

は、その韓渥の七言絶句「自負」の全文である。但し、ネット上の「全唐詩」巻三六三によれば、

人許風流自負才 偸桃三度到瑤台 至今衣領胭脂在 曾被謫仙痛咬來

で転句に異同がある。試みに芥川の提示したものを書き下そうとしたが、どうも結句の訓読は自信がない。

人は許す 風流自負の才
桃をぬすみて三度瑤台ようだいいた
今に至つても 衣類に臙脂えんじ在り
曾て仙痛咬み來つてたくせらる

この「桃」は天界仙境にある不老不死のネクターであり、「瑤台」は、玉を飾った美しい高殿、「臙脂」は破爪の血痕であろうと思われるが、その後結句が読めない。「曾つて謫仙せられて咬來を痛む」? 知り合いの中国語に堪能な方は女性ばかりで、どうもこの詩、伺うのも気が引ける――気長に識者の御教授を乞うこととしよう。同じ佐佐木宛六六二書簡も参照。)



  一句を拈して曰

鯨裂く包丁の光寒き見よ

(六六一 三月十一日 南部修太郎宛。「拈」は、「ねん」と読み、ひねるの意。)



  江西歌仙
短夜や仙桃偸む計

 今宵羅帳のそよとだもせぬ

涼しさや白蓮搖ぐ枕上

 落ちて鳴るらん銀の簪

川風や菖蒲の占もしるしあり

 手すりに倚るは明眸の人

禁公表 艷麗無比可祕々々

(六六二 消印三月十三日 佐佐木茂索宛。葉書。全文掲載。六六〇書簡の類句を附句形式とし、表記も異なるが、その五日後、同じ佐佐木への葉書である。)



短夜や稿料盜む計

 洩れて危し邦枝の首

川風や菖蒲の假名はしやぶ也

 などとほゝえむ小島先生

あら可笑し白檀匀ふ枕紙

 寐顏見たきは赤風盧アカブロの戀

禁公表 落想警拔可秘々々

(六六三 三月十三日 佐佐木茂索宛。葉書。全文掲載。六六二書簡の連句のパロディ、同日、同じ佐佐木への葉書である。「邦枝」は佐佐木茂索と共に時事新報社に勤務していた小説家邦枝完二であろう「小島先生」は小島政二郎。「赤風盧」は佐佐木の俳号。十月三十日附佐佐木茂索宛七九四書簡参照。)



  句にして曰
拔き殘す赤蕪いくつ夜寒哉

(六六四 三月十三日 瀧田哲太郎(樗陰)宛。瀧田樗陰は『中央公論』の編集者で、彼が原稿依頼に来ると、確実に流行作家になれると言われたカリスマ的存在であった。既に渡した「秋」の文章訂正を依頼する書簡の末尾に、その校正の朱筆をイメージして「句にして曰」と言った挨拶句。)



  即興
石渡る鶴危さや春の水

(六七一 三月十七日 瀧田哲太郎(樗陰)宛。)



三月や大竹原の風曇り

(六七三 三月二十一日 小穴隆一宛。句の後に『と云ふのはいけませんか人が「さら/\と二月の竹に日影哉」と云ふ句を作つたから負けない氣を出して三月の竹の句を作つたのです』とある。三月二十二日附小島政二郎宛六七五書簡によって、この「さら/\と」の句が小島政二郎の句であることが分かる。)



  新俳二句
恐るべき屁か獨り行く春夜這ひ

速達の戀一蘇活春風裡

(六七四 三月二十二日 佐佐木茂索宛。「蘇活」は、蘇生のこと。後ろに註があり「註曰 前句は滑稽中癡情の本然を描き後句は艷艷裡又状袋を書いて貰はんとす 非凡手 自捧腹久之」とある。この「状袋」というのは、先の佐佐木宛七九四書簡(年代違いで前年に移行してある)で記した、秀しげ子と思われる不倫相手との偽手紙用状袋(表裏書きを小島が記したダミー封筒)をまた依頼したい旨を暗示したものである。二伸で「ほんたうに状袋を三四枚書いて送つてくれたまへ たのむ たのむ」と真剣に懇請している。註の中の「捧腹」とは、腹を抱えて笑うということ。また最後尾に二句目に附いて、『三伸 裡だよ *[やぶちゃん注記:*=しめすへん+里。]ぢやないよ 裏と同字でその衣を唯「へん」にしたのだよ 衣+里と云ふ字なのだから』との追記がある。)



川上や桃煙り居る草の村

  即席の句
曇天の水動かずよ芹の中

古草にうす日たゆたふ土筆かな

吹かるゝや塚の上なるつぼ菫

(六七八 三月二十六日 小島政二郎宛。「川上や」の句の前に「どうも詩や俳句の方が小説を書くより氣樂で泰然としてゐて、風流なやうです」と記し、句の直後に、「と云ふのはいけませんか 桃源の詩を俳譯したのです」とある。また、「古草に」「吹かるゝや」の句の後は「だん/\まづくなりさうだからこの邊で切り上げます 頓首」となる。ちなみに、この手紙文では、第一句の前で、小穴隆一宛六七三書簡に表れた「三月や大竹原の風曇り」(もしくはその類句か)についてと思われる、『小生の竹の句「三月や」が駄目ですな 何が三月だか自分でも判然としないんだから呆れます』という自省が記されている。)



  昨日必要上作つた句二つ
星赤し人無き路の麻の丈ケ

曇天の水動かずよ芹の中

(六八〇 三月二十七日 小穴隆一宛。詞書があるので、後者も採用した。なお、この「必要上」について、次の三月二十七日附森幸枝宛六八一書簡に、「昨日高濱さんの所へ書いた句を景物に御らんに入れます」として「星赤し」の句を記載しているのが見える。『ホトトギス』四月号への登句稿かと思われる。)



星赤し人無き路の麻の丈

(六八一 三月二十七日 森幸枝宛。前の六八〇書簡句の注参照。森については、まず中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」より引用する。『静岡県島田町出身の女性、日本女子大学国文科に籍をおき小説家として世に出ようとしていた。こうして龍之介の交際がはじまった。写真も送っている。』次に鷺只雄氏の「年表作家読本」から。『身長一六三センチをこえるグラマーで、顔立ちは彫が深く美貌であった(中略)三月十七日に我鬼窟を訪ねて以来玉かんざし、博多人形、菓子などを芥川に贈り、翌年八月頃まで交際があった。』。その後の彼女は、中退して結婚し、破鏡、洋画や長唄を習い、周囲の反対をものともせず、長唄の師匠であった七つ年下の杵屋勝吉次と結婚するも、『生活は苦しく、結核に冒された幸枝は昭和五年四月に二七歳で命の火を烈しく燃やして駆け抜けて行った。幸枝は芥川の他に市川猿之助とも関係があったといわれている。』まさに火車の如く芥川の前を過ぎていった女である。蛇足ながら、ネットを検索すると彼女に宛てた菓子の礼をしたためた芥川書簡が五十五万円で取引されている……。ちなみに、この頃、「秋」の執筆の際の参考にする女性風俗について、妻文が紹介した幼馴染み平松麻素子との交際も、同時に始まっている。)



曇天や蝮生きゐる罎の中

曇天の水動かずよせりの中

(六八四 三月三十一日 瀧田哲太郎(樗陰)宛。前者は、六二八書簡で既出であるが、二句目の「せり」のルビと、句の直前手紙文末尾に、三月十六日脱稿した小説「秋」の出来栄えが気になって「甚だ不快ですその不快を俳句にして曇天二句を作りました」という記載が、作句状況を語って興味深いので共に掲載した。この句、相当な自信作であったようで、多くの書簡に現れる。四月一日小島政二郎宛六八七書簡では、『「芹の中」の句折柴を感心させて古瓦先生を感心させない理窟なし「セリの中」を「ゴミの中」と讀んだんぢやありませんか一笑一笑負けない氣になつて句を作つて曰』で「星赤し人無き路の麻の丈ケ」を掲げている。「折柴」は瀧井孝作、「古瓦先生」は小島政二郎。なお、「秋」は四月一日、『中央公論』に発表された。他に、同一日には「沼」「東洋の秋」も『改造』に発表されている。)



  遺懷
星赤し人無き路の麻の丈ヶ

埋火の仄かに赤し我心

(六八五 三月三十一日 松岡讓宛。どちらの句もこの前書は初見。前者は六八〇書簡に「ヶ」が「ケ」で、後者は大正八(一九一九)年十月十五日附小島政二郎宛第五九四及び同人への十月二十七日附五九九書簡に登場するが、「埋火の仄に赤しわが心」「埋火のほのかに赤しわが心」の表記なので一応、掲げておく。後者の前には、「二伸 金之助先生にあつた由あの家はちやちだがあの御婆さんは好い御婆さんだ 大いに僕の戀愛に同情してくれたの丈でもたのもしい 戀愛と云ふより失戀かな 當時の匀に曰」とあって句を掲げ、その後に「東洋城でも三舍を避けるだらう 健羨隨意 好笑々々」で終る。所謂、妖艶を得意とする松根東洋城でも、この私の句の妖しさには、恐れて三舎(=九十里)の外へと逃げ去るであろう、と言っているのである。ちなみにこの「戀愛と云ふより失戀」とは、前年九月からの秀しげ子との不倫を言うと考えてよい。但し、「失戀」とは芥川の内的な意味での恋への失望という意味で、である。)




  即興

草庵や秋立つ雨の聞き心

(六九三 四月九日 瀧田哲太郎(樗陰)宛。ちなみに、手紙文中、『まづは「秋」を読み候安堵御知らせまでに』の文言がある。)



  「秋」を讀む
草庵や秋立つ雨の聞き心

(六九四 四月九日 瀧井孝作(折柴)宛。この前書は六九三書簡で注記した安堵を如実に示すものと思われる。)



  南部修太郎三田文學編輯を辞す

杳として鮭の行方や春の水   古瓦我鬼合作

 南部の山も下萌えにけり   赤風呂

花咲いて鮭を食ふ人ありやなし 本湯天

 此修の字は江馬か南部か(鼻)

(六九七 四月十二日 南部修太郎宛。全文掲載。昭和四六(一九七一)年刊筑摩書房全集類聚の他書簡の二五二ページ注[この全集は残念ながら岩波版一九七八年刊旧全集書簡番号と一致しない。]によると、「赤風呂せきふうろ」は佐佐木茂索の兄の経営する古道具屋の号とあるが、これは以下の十月三十日附佐佐木茂索宛七九四書簡に見るように、佐佐木自身の俳号である。更に、新全集の宮坂覺氏の注解によれば「本湯天」も佐佐木茂索の俳号とする。連句で同一人が附句したのを嫌って号を替えたものか。それにしても私には末尾の「此修の字は江馬か南部か(鼻)」は「江馬」は作家江馬修と思われ、「南部」は勿論、南部修太郎であろうが、「(鼻)」と句意が判然としない。識者の御教授を乞う。)



桃咲くや砂吹く空に兩三枝

桃咲くや日影煙れる草の中

桃咲くや泥龜今日も眠りけり

桃咲くや水に靑きは鴨の首

白桃はうるみ緋桃は煙りけり

一句拔け々々

(七〇〇 消印四月十四日 佐佐木茂索宛。葉書。全文掲載。)



    俳消息(但粗製濫造の事)
  神戸の男とも女ともわからぬ人句を求む一句
山中や實黑の垂枝時雨たる

  酒間運座あり 題春夜
春の夜や小暗き風呂に沈み居る

  同扇面に題す
白桃はウルみ緋桃は煙りけり

  同短册にのたくる
晝見ゆる星うらうらと霞かな

  同器物を讀みこむ運座を催す 寒暖計に當る
花散るや寒暖計は靜なる

  室賀文武へやる手紙のはしに、この人は耶蘇教なり
朝燒の空どよもして蝗かな

  路上即景
霜解けや竹むら黄ばむ路の隈

  或男「秋」の惡口を云つて來る貴樣にはわからないのだと返事をする
幽石を知らず三竿竹の秋

  伊東忠太の伊土開戰圖に題す 楚人冠囑
花葛のからみ合ひたる夜明かな

  おとなりから白酒貰ふ返事
白酒や障子さしたる風曇り

  解放の寄稿を斷る
沈む日や畑打ちやめば海の音

どれか採用になりませんか
四月十五日                     我 鬼 拝

(七〇一 四月十五日 小島政二郎宛。「室賀文武」(一八六九~一九四九)は、俳人。もと新原家の使用人で、龍之介の子守なども経験している。後、行商・聖書会社等に勤務。無教会系のキリスト教に入信して内村鑑三に師事、晩年の芥川と再会する。芥川の相談にも乗り、その中でキリスト教への入信をも勧めた。「歯車」の「或老人」のモデルである。「伊東忠太」は東大工学部教授。工学博士だが漫画にも通じた。「伊土開戰」は一九一一年の伊土戦争(イタリア―トルコ戦争、トリポリ戦争、リビア戦争とも)を指す。イタリアが、英・仏・露の黙認のもとにオスマン帝国に宣戦。北アフリカのトリポリ、キレナイカ等を次々と占領して、この地域の古名である「リビア」を復活させ支配権を確立した。「楚人冠」は、朝日新聞記者で文筆も好くした、杉村広太郎のこと。「囑」は、「しょくス」で、たのむ、いいつけるの意。「幽石」は南朝宋の謝霊運の詩「過始寧墅」にある「白雲抱幽石 緑篠媚淸漣」(白雲幽石を抱き緑篠淸漣に媚ぶ)を指すが、寒山詩にも典故とされる禅語である。即物的には苔むした石。「三竿」は三丈程陽が昇ったことを指す。)



春寒やのび損ねたる日影獨活

(七〇四 四月十七日 水谷教章宛。水谷は雑誌『雄弁』の編集者。立て続け三回の「或敵討の話」原稿遅延詫び状の三通目に添えてある句。)



蜂一つ土クレ嚙むや春の風

(七〇七 四月二十六日 小島政二郎宛。手紙文は小島の出世作となった「睨み合ひ」を褒め、句の直前の二伸に『僕も「睨み合」に發奮して「偸盗」の改作にとりかゝりたいと思ひます』とある。)



  即興
春寒き小包解けば和布かな

軒先に和布干したる春日かな

(七〇八 四月二十七日 菅忠雄宛。十日に生まれた比呂志の誕生祝に贈答されたワカメへの挨拶句。なお、次の四月二十八日附恒藤恭宛七〇九書簡中、芥川は子の出産を喜びながらも、「相不變女には好く惚れる 惚れてゐないと寂しいのだね 惚れながらつくづく考へる事は惚れる本能が煩惱即菩提だと云ふ事――生活の上で云ふと向上即墮落の因縁だと云ふ事だよ 理屈で云へば平凡だがしみじみさう思ひ當る所まで行くと妙に自分を大事にする氣が出て來る 實際惚れるばかりでなく人間の欲望は皆殺人劍活人劍だ」と書いている。己が女難という公案への芥川自身の答えであった。)



  近作二三
白桃はウルみ緋桃は煙りけり

晝見ゆる星うら/\と霞かな

春の夜や小暗き風呂に沈み居る

(七〇九 四月二十八日 恒藤恭宛。七〇一書簡と相同であるが、「近作二三」という前書があり、「/\」記号を使用しているので一応、掲げておく。「粗製濫造」(七〇一書簡)の中でも無二の親友恒藤へ、この三句を選び取ったという事実も興味深い。)



桃煙る中や筧の水洩るゝ

(772 四月 岡榮一郎宛。新全集書簡第十八巻書簡Ⅲより。短冊であるが、裏に通信文があるため、書簡扱いとされている(私もそれに従うこととする)。同書後記によれば、一九九〇年五月小沢書店刊の岡富久子「あざなえる縄」からの転載とある。新発見句である。裏面の通信文は「手紙の中みが違つてゐやうとは思はなかつた閉口の餘句を作る」とあって改行し「九年四月」、下方に「桃宮居士」の署名に『桃宮之印』という押印があるとする。しかし、この「桃宮」という号は、芥川龍之介の号としては私は聞いたことがないものである。)



白南風しらばえの夕浪高うなりにけり

(七一一 五月五日 小島政二郎宛。 なお、五月一日には「黒衣聖母」(『文藝倶楽部』)、「或敵打の話」(『雄弁』)、「女」(『解放』)を発表している。)



石菖やわれは古錢を商はん

(七二三 六月三日 水守龜之助宛。手紙文末尾に「碧童が藥を賣つたりあなたがおせんべいを賣つたりしているのはちよいと風流ですなこれは御世辭ぢやありません實際昔の人のやうな氣がするのです 頓首」とある。この手紙文について言うと、小澤碧童は十四歳の時に薬種問屋に三年の見習奉公をしたあと、魚河岸で「家伝西徳めぐすり」というのを商って繁盛していた。また、水守龜之助は雑誌『新潮』の敏腕記者にして小説家であったが、月給が安かったために、牛込榎町で駄菓子屋を開いていたのを言ったもの。なお、「昔の人」について、類聚版全集注では「江戸の戯作者三馬が化粧水を売り馬琴が薬を売った例あり。」とある。「石菖」は、サトイモ科、春に長さ五センチから十センチほどの鼠の尻尾のような白い肉穂花序をつける。)



薫風や銀鞘來べきサト

(七二七 消印六月十四日 佐佐木茂索宛。久米正雄・芥川龍之介・壽々(不詳であるが、当夜出席した男性の女装偽名であろう)・小島政二郎の寄書。芥川家での宴会に欠席にした佐佐木への挨拶句。なお、この翌々日の佐佐木宛書簡は有名で、自作に自信がないことを吐露した佐佐木の手紙への懇切丁寧な激励返信である。)



鯉が來たそれ井月を呼びにやれ

(七三〇 六月十六日 下島勳(空谷)宛。彼は芥川龍之介及び芥川家のかかりつけ医。井上井月の研究家でもあり、翌大正十(一九二一)年に「井月の句集」を編し、芥川はその句集の跋も書いている。)



  悼亡一句
五月雨や鬼蓮の莟咲きもはへず

(七三六 七月三日 恒藤恭宛。友人恒藤の長男の死に対する追悼句。「さぞ君も奥さんも御力落しだらうおと思ふ 比呂志を見てこいつに死なれたらと思ふと君達の心もちが可成わかるやうな氣がする 僕の子もいやにませてゐるから何だか不安にもなり出した おやじが君の手紙を讀んで泣いた おふくろや何もかも泣いた 文子は泣きながらぽかんと坐つて「まあどうしたんでせう まあどうしたんでせう」と愚痴のやうな事を云つてゐた 女や老人は涙もろいものだと思つた それが羨ましいやうな氣も少しした 二番目の御子さんはどうした?/病名が書いてなかつたが何病かななどと思つてゐる」として句を添えている。更に、手紙の最後に二伸として

  御悼みの歌一首
ひんがしの國にかなしき沙羅ぼくの花さきあへぬ朝なるかも

の歌を添える。素朴にして哀切々、美事な労わりに満ちた手紙である。なお、七月一日には「南京の基督」(『中央公論』)、「杜子春」(『赤い鳥』)を発表。)



  小澤碧童は藥を賣り水守龜之助はせんべいを賣る
石菖やわれは茶漬を商はん

(七四一 七月八日 和氣律次郎宛。和氣は毎日新聞社社員にして翻訳家。「水守龜之助」は七二三書簡句注を参照のこと。)



  即興
明易き水に大魚の行き來かな

(七四五 七月二十二日 下島勳宛。)



  燈下讀書
谷幾つ越え來て此處に火取虫

(七四九 八月三日 小穴隆一宛。絵葉書。宮城県青根温泉から。なお、八月一日には「捨兒」を『新潮』に、「塵勞」と「秀吉と神と」を『改造』に発表。)



  燈下吟
谷幾つ越え來て此處に火取虫

(七五三 八月八日 岡榮一郎宛。絵葉書、寄書。宮城県青根温泉から。さても句とは関係がないが、八月四日附瀧井孝作宛七五一書簡では「僕は肉食交合二つながら絶縁だ」としながら、この葉書に寄せ書きしている「ふじ子」なる女性は何者か。)



野茨にからまる萩の盛りかな

(一三七二 十月十二日 下島勳宛。旧全集書簡では大正十四(一九二四)年に「推定九月十二日」として置かれているが、新全集では大正九(一九二〇)年十月十二日に変更され、特に推定注記がない。新全集の編集方針に照らすとこれは、この年月日が現在知り得る正確な同定であることを意味しているため、ここに移した。)



人遠し明る間早き山桔梗

(七五六 八月十二日 下島勳宛。絵葉書。宮城県青根温泉から。)



藥※るわれうそ寒き夜ごろ哉

(七七〇 九月十三日 佐佐木茂索宛。【※=者+下に「火」】これで、「にる」と読ませるか。手紙文冒頭に「昨日は藥を難有う 古瓦樓主人も貰つた由何だか君が藥の廣告でもしてゐるやうな氣してゐるやうな氣がした可笑しかつた御禮まで」とある。古瓦樓主人は小島政二郎のこと。言わずもがな、の丈草の名句「うづくまる藥の下もとの寒さ哉」のパロディである。)



秋の日や竹の實垂るゝ垣の外

(七八七 九月二十一日香取秀眞宛。旧全集では推定十月二十一日とあるが、新全集書簡第十八巻書簡Ⅲでは九月二十一日に移動している。句柄から考えて私も納得できるので、その位置に動かした。)



三日月や二匹つれたる河太郎

(七七七 九月二十八日 香取秀眞宛。編者注記で手紙文中央に〔このところに河童(二匹)の繪あり〕とある。この句は「河童の絵」「水虎問答の図」に添え句としてしばしば書かれたと、中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」にはある。鷺只雄氏の「年表作家読本」によると、九月二十日に葉書に河童の絵を描いて小穴隆一に送る、とあり、更に、この頃から、河童の絵を描き始める、とある。九月二十二日附小穴隆一宛七七四書簡を指すものと思われる。旧全集では同日附七七三には「僕の画をお目に」(「画」はママ)かけますとあるが、画の注記はなく活字のみで、七七四は写真版のみで「水虎問答之図/三拙漁人」としてそれぞれ山斧と釣竿を背負った二匹の河童の画がある。中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」によれば、芥川は柳田國男の「山島民譚集」を読んで興味を持ったと記されている。ちなみに、十月一日に大幅に遅れて「お律と子等と」を『中央公論』に、苦肉の二月に分けての分割発表。)




  實二句
栴檀の實に風聞くや石だたみ

草の實や門を出づれば水暗し

(七七九 十月一日 小島政二郎宛。後に「皆胸中蕭索の意です 頓首」とある。「栴檀」は、センダン。初夏に竹とんぼが回転しているような形の目立たない花をつけ、秋に楕円形の実を枝一面につける。それが落葉後も木に残るさまが数珠のようであることから、「センダマ」(千珠)と命名された。)



雨降るや竹の匀の古疊

(七八六 十月十七日 下島空谷(勳)宛。)



爐の灰のこぼるゝ榾の木の葉かな

(七八九 十月二十四日 小澤忠兵衛(碧童)宛。句の後に「と云ふのは落第ですか?」とある。)



時雨るゝや屢々暗き十二階(途上即景)

(六〇一 十月三十日 小島政二郎宛。これは岩波版旧全集では、大正八(一九一九)年に所収されているが、新全集書簡第十八巻書簡Ⅱ(新書簡番号862)によって大正九(一九二〇)年に改められている。大正九(一九二〇)年十月三十日附小穴隆一宛第七九五書簡で「昨日の途上吟」として「時雨るるや層々暗き十二階」という相似句を挙げていることから、新全集の判断は正しいものと推定出来、本頁でも位置を修正した。旧全集では整理上のミスから新書簡番号659とこの新書簡番号862が入れ替わってしまったものと判断される。「屢」の二字目は底本では右下の踊り字。)



  昨日の途上吟
時雨るるや層々暗き十二階

(七九五 十月三十日 小穴隆一宛。)



  即興
庵の秋蓬平ならば山描かん

(七九八 十一月十日 島空谷(勳)宛。空谷が所蔵する、江戸中期の画家、池大雅の門人である佐竹蓬平さたけほうへい(寛延四(一七五〇)年~文化四(一八〇七)年)の、恐らく山水画を見せてもらったその挨拶句。手紙文中「もう少し御早いと昨日は山本鼎氏が來てゐたので見せられる所でしたそれだけ殘念に思ひます」とあって、中田雅敏氏は「書簡俳句の展開」で「画家の山本氏の山を折り込んでの即興見事といえる。」と述べておられる。山本鼎は洋画家で、『赤い鳥』と関わり、児童自由画運動で著名。)



  近吟一
笹が根の土乾き居る秋日かな

(七九九 十一月十一日 小島政二郎宛。「お律と子等と」への小島の批評への挨拶句。手紙文中、「あれは未完ですもう二三回通夜や墓の事を書かないと纏まりません(今度はお絹を主人公にして)但しもう嫌氣がさしてゐます」として句となる。)


峽中に向ふ馬頭や初時雨

(八〇四 十一月二十二日 江口渙宛。絵葉書、宇野浩二と寄書。京都から。これについて一九八六年踏青社刊の「芥川龍之介の俳句を歩く」八十四~八十五ページで著者の諏訪優は、この句が、実は宇野浩二と共に下諏訪へ向かう前日、京都から出したものであることを述べて、『この句は、木曾谷を松本方面へ向けて走る車中からの眺め』であるが、『京都を立つ間ぎわに(中略)そこに、あたかも木曾谷を通過したかのような句を作ってそえたのだった』として、芥川の早業(?)を語っている。]



井月の瓢は何處へ暮の秋

(八一一 十一月二十四日 下島勳宛。下諏訪より。句前に「京阪より名古屋へ出て木曾の紅葉を見て當地へ來ました 二三日中に歸京する心算です」とある。前夜、宇野浩二が小説「人心」「一の踊」「心中」等のモデルとした馴染みの芸者ゆめ子(原とみ)と逢って三人で過ごしている。多分に、芥川の諏訪来訪は、このゆめ子への好奇心であったと宇野は回想している。井月所縁の地での井月研究家でもあった主治医下島への挨拶句。)



雪竹や下を覗けば暮るゝ川

(八二〇 十二月七日 佐佐木茂索宛。遅々として進まない「秋山図」について、「今晩これか八枚程書かねばならん 君にすれば半夜の仕事だが僕には中々一骨だ」とぼやいての句。それでも「秋山図」は、この日に脱稿している。)



夕暮やなびき合ひたる雪の竹

(八二三 十二月十四日 小穴隆一宛。二伸末尾に「暮の雪の句衷平先生の御説御尤にそろされどもあれにても句意通ずべしと存じそろ但し素人考故あまり當てにはなさるまじくそろ 頓首」とある。表記の句は、どうも既に小澤・小穴らを交えた運座で披露し、小澤がその場で何らかの批評をしたものであったように読める文面である。)



手賀沼の鴨を賜る寒さかな

わが庵や鴨かくべくも竹柱

  天岡先生を懷ふ
叟一人巴里に食ふ鴨寒からむ

(八二六 十二月十八日 香取秀眞宛。鴨を貰った挨拶句ほか。「天岡先生」とは、天岡均一あまおかきんいち(明治八(一八七五)年~大正十三(一九二四)年)。彫刻家。東京美術学校(東京芸術大学)彫刻科卒。代表作は大正二年製作の大阪難波橋欄干両端台座上の阿吽相をした四頭のライオン像。この頃、彼は大正九年七月からのヨーロッパ遊学中で(翌年の二月に帰国)、それが「懷ふ」という語となったものである。句は如何にも親しげな謂いであるが、豪放磊落であったと言われる天岡と芥川龍之介の交流についてはあまり一般に知られていないように思われる。六九一佐藤春夫書簡によるとこの香取を介して知り合ったことが分かる。)



大年や藥も賣らぬ隱君子

    〔我鬼醉墨。德利の繪あり〕

  歳末靑蓋翁へ御歳暮一句
烏瓜屆けずじまひ師走かな

  小穴先生の驥尾に附するの句
お降りや竹ふかぶかと町の空

    〔小穴隆一筆、門松の傍に子供に似たる犬の繪あり〕

(八三〇 十二月二十八日 小澤忠兵衛(碧童)宛。全集類聚注では「靑蓋翁」は不詳なるも、小澤忠兵衛自身を指すかと記す(新全集はそう断定している)。〔 〕内は旧全集編者注。これは、手紙文から、上野不忍池畔の日本料理店清凌亭で、小穴隆一と、当時そこの女中をしていた、後のプロレタリア作家田島(佐多)稲子の酌で飲んだ際の書き散らしであることが分かる。佐多に対しても芥川は好意を抱いていた。「驥尾」は「きび」と読み、優れた人に従えば自ずと事は成し遂げられる、先達を見習って行動することを言う故事成句。他人と同じ行動をとる際に謙遜して言う。青蠅が驥尾(駿馬の尾)につかまって一日に千里の彼方に行ったという「史記」伯夷伝に現れる「蒼蠅驥尾そうじょうきび」の故事から。ここでは小穴の絵に応えて拙句を附したことを言うのであろう。)



短日や味噌漬三ひら進じそろ

(八三一 十二月二十九日 下島空谷(勳)宛。)



山國の蜆とゞきぬ春隣

萬葉の蛤ほ句の蜆かな

襟卷のまゝ召したまへ蜆汁

(八三三 十二月三十日 香取秀眞宛。句前に「信州諏訪の湖の蜆少々ばかりしんじそろ」とある。)



大正十(一九二一)年     二十九歳



大寒や羊羹殘る皿の底

(八四四 一月十九日 中西秀男宛。句前に「羊羹もかたねりでうまいですねあれも有難う」贈られたわかさぎと羊羹への礼状で、句の後には「これはあの羊羹を食ひ/\夜原稿を書いたときの實景です」とある。ちなみに、この日までの発表作品は、一月一日に「秋山図」(『改造』)、「山鴫」(『中央公論』/脱稿は十二月二十日頃)、「妙な話」(『現代』)、「アグニの神」前篇(『赤い鳥』)、連載で一月五日から『大阪毎日新聞』に「奇怪な再会」。)



山畠や日の向き/\に葱起くる

(八四四 一月二十九日 佐佐木茂索宛。佐佐木の風邪の見舞で、後に「コレハ全快を祈ル句ナリ 下手デモ祈ル心ニマケテ置キ給ヘ」とある。「全快を」の「を」は原文のママ。)



*俳句関連
(二月十九日附小島政二郎宛第八五三書簡の中で、芥川は「召波抄」として「初冬や兵庫の魚荷何々ぞ」に始まり、「點心」の「池西言水」でも挙げている「いねかしの男うれたき砧かな」から「鶯や銅蓮水をたたへぬる」迄、実に二十五句も掲げている。特に「爐塞いで主をかしや力足」の後、『「新酒やあまた叩いてまゐる人」「袂なる頭巾さがすや物忘れ」等召波にこの類の佳句少からず』と言い、最後には『ゆつくりと一句づつ味はつて見たまへ几董輩とは氣品の高下が問題にならぬ程ちがふと思ふが如何』と結んでいる。芥川龍之介の古俳諧の好趣の傾向がよく分かる。)



  旅立たんとして
春に入る柳行李の靑みかな

(八五八 三月二日 薄田淳介宛。二月に大阪毎日新聞社海外視察員として中国へ特派されることとなり、三月二十八日に出発することとなる。帰国は七月二十日頃であった。)



  留別
海原や江戸の空なる花曇り

(八六九 三月十六日 澤村幸夫宛。なお、この前々日の十四日には第五短篇集『夜來の花』を新潮社より刊行。装丁は小穴隆一。小穴はこれ以降の芥川の著作の、殆どの装丁を手掛けることとなる。)



秋海棠が簇つてゐる竹椽の傾き

(八七〇 三月十七日 瀧井折柴(孝作)宛。「竹椽」は「ちくてん」と読み、竹で出来た垂木を言う。但し、芥川は「縁」を「椽」と書く癖があり、これも「竹縁」で竹で出来た縁側の意の可能性がある。)



春の夜や蘇小にとらす耳の垢

(八八七 五月二日 松岡讓宛。杭州から。この句から中国旅行となる。既出句であるが、現地での実感として、芥川の心内に湧き上がるものを感じるので、再掲。句の前文に「西湖は小規模ながら美しい所なりこの地の名産は老酒と美人、」としてこの句を掲げる。但し、「江南游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」の西湖の条を参照されたい。芥川は結局、西湖に失望する。)



燕や食ひのこしたる東坡肉

(八九〇 五月五日 江口渙宛。上海から。同日の下島勳宛八九一書簡でも同句を掲げ、その後ろに、こちらには東坡肉と云う脂っこい料理があるが、蘇東坡も今の中国人のように脂っこい物が好きだったのだろう、という内容の一文がある。「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」も参照されたい。)



  留別
夏山に虹立ち消ゆる別れかな

(九〇二 五月二十二日 石黑定一宛。廬山から。句の前に「上海を去る憾む所なし唯君と相見たがきを憾むのみ」とある。「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」も参照されたい。上海を発ったのは五月十六日、宛名人石黑定一は岩波新全集「人名解説索引」(関口安義・宮坂覺著)によれば、石黑定一(明治二十九(一八九六)年~昭和六十一(一九八六)年)は芥川が大正十一(一九二一)年の『中国特派旅行中に知り合った友人。東京高商(現・一橋大学)卒、当時三菱銀行上海支店勤務、のち同行名古屋支店長を務めた。「侏儒の言葉」に「人生―石黒定一君に―」がある』と記す。)



白南風や大河の海豚啼き渡る

(九一二 六月六日 小島政二郎宛。句の前に「今夜漢口を發して洛陽に向ふ、龍門の古佛既に目前にあるが如し 然れども漢口に止まる一週日、去るに臨んで多少の離愁あり」とある。「雜信一束 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」も参照されたい。)



夕月や槐にまじる合歡の花

(九一五 六月二十四日 岡榮一郎宛。北京から。「北京着 北京はさすがに王城の地だ 此處なら二三年住んでも好い」としてこの句を掲げる。芥川は大変北京が気に入って、いろいろな場面でこの心情を吐露している。中国旅行中の書簡句は、これが最後である。「北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」も参照されたい。)



秋立つや金剛山に雲の無し

八道の山は禿げたり今朝の秋

芙蓉所々昌德宮の月夜かな

七夕は高麗の女も祭るべし

八道の新酒に醉つて歸けむ

妓生の落とす玉釵やそぞろ寒


(996 七月二十一日 西村(齋藤)貞吉宛。岩波版新全集第十九巻書簡Ⅲより。宛名と月は推定とある。帰国の途次、朝鮮での嘱目吟であるが、六句すべてが新発見句、類型句も全く見当たらない。冒頭に「斎藤先生」、改行して「淸鑒」とある。「淸鑒」は「せいかん」と読み、「淸鑑」に同じ。相手の鑑識眼を敬って言う語。自身の書画詩文を人に見せる際に用いる謝辞。西村貞吉は芥川の府立三中時代の同級生で東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めた。西村の招きで蕪湖を訪れた芥川は五月十九日から二日間、西村の社宅に泊まって歓待を受けた(同人宛九二六書簡に記す)。この辺りは、「長江游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」を参照されたい。冒頭にこの西村が登場している。「斎藤先生」とあるが、これは西村の結婚後の改姓に依る。「金剛山」は「クムガンさん」と読ませていると思われる。現在の朝鮮民主主義人民共和国江原道カンウォンドにある太白山脈の山。朝鮮半島では白頭ペクトゥ山と並ぶ名山である。「八道」は朝鮮王朝が配した京畿道キョンギド忠清道チュンチョンド慶尚道キョンサンド全羅道チョルラド江原道カンウォンド平安道ピョンアンド黄海道ファンヘド咸鏡道ハムギョンドの朝鮮八道を指すが、ここでは朝鮮全体、漠然とした朝鮮半島の山並みを言うのであろう。「昌德宮」は朝鮮語読みでは「チャンドックン」、ソウルにある李氏朝鮮時代の宮殿で、王宮景福宮キョンボッグンの離宮。創建当時の面影を現在も残すと言われる。「妓生」は「キーセン」と読ませているか。芥川は七月十二日に天津から南満州鉄道に乗り、奉天(瀋陽)を経て朝鮮半島を縦断、釜山から門司から帰国の途についた。「)芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全五十三通) 附やぶちゃん注釈」も参照されたい。



さ庭べの草煙り居る薄暑かな

(1005 八月 吉植庄亮宛。岩波版新全集第十九巻書簡Ⅲより。一九八五年十刊の『図書』からの転載。吉植庄亮(明治十八(一八八四)年~昭和三三(一九五八)年)は歌人。この手紙は、芥川の中国行の留守に吉植から処女歌集「寂光」が贈呈されており、その返礼の遅れを謝し、かなり素朴にして素直な口調で歌を褒めた内容である。)



夕立や鮎の鮨皆生きつべう

井月ぢや酒もて參れ鮎の鮨

(九三五 九月二日 下島勳(空谷)宛。田端から。贈られた鮎鮨への挨拶句であるが、下島空谷編になる「井月の句集」に附、芥川が虚子に題句を依頼し、快諾を得たことを伝えて寿ぐ。自身も序文を書いており、自書出来の如く悦ぶ芥川の姿が見える。なお、九月一日には「母」を『中央公論』に発表。)



炎天に上りて消えぬ箕の埃

(九三七 九月八日 薄田淳介宛。句の後に「これは俳賢俳仙どもにほめられた句であります 頓首」とある。この句については、九月二十日附佐佐木茂索宛九四二書簡でも「これは心境よろしきよし諸先生のおほめに預かりし句なり 同じく感涙御随意たるべし」と自信を覗かせている。)



秋風や尻ただれたる女郎蜘蛛

(九三八 九月十三日 下島勳宛。手紙文末尾に「この間の下痢以來痔と云ふものを知り 恰も阿修羅百臂の刀刃一時に便門を裂くが如き目にあひ候へば書面にて御免蒙ります」とあるのを踏まえる。)



あらあらし霞の中の山の襞

(九四三 九月二十三日 久米正雄宛。句の前に「人あり因に問ふ 如何か是藝術 我鬼先生答へて曰」とある。小島政二郎はこの句を、芥川の俳句開眼と見ている。それを昭和五十二(一九七七)年読売新聞社刊の小島政二郎「長編小説 芥川龍之介」から次に引用する。「名古屋の椙山すぎやま女学校から講演を頼まれて、菊池寛と三人でツバメに乗って出掛けた。」「秋だったように思う。お天気はよし、そう込んではいなかったし、楽しい旅だった。」として、

汽車は丁度天竜川手前の袋井、中泉あたりを走っていた。芥川は心がなごんだのだろう、西の窓の、遠い山の姿に目を遊ばせていたが、暫くすると、
「小島君――」
と私を呼んで
「これ、どうだ?」
そう云って、今出来たばかりの

  あら/\し霞のなかの山のひだ

と云う句を口誦くちずさんで見せた。
「いゝなあ――」
私は思わず感動して云った。
「何だ何だ」
菊池が聞き耳を立て傍へ寄って来た。そうして私と一緒になって褒めた。その日、名古屋に着いてから、ホテルでエハガキに
「芸術とは――」
と云う前書きを附けて、久米正雄へこの句を書き送ったのを私は見た。
 それを見て、私は芥川が自分の俳句に自信を得たのだと思った。今までの彼の遊びの句とは全く違った句境くきょうだった。たま/\偶然にこの句が出来たのではなく、長い間掛かって――いや、悟りの早い彼は、そんなに長くは掛からなかったかも知れない。しかし、私のところへ俳句を書いてよこさなくなってから、かなり長い間、彼は芭蕉の句境を、「ああでもない、こうでもない」と暗中模索していたのだろう。
 芭蕉の神髄はつかめても、摑んだ通りに自分の句をその高さまで持って行くことは、そうすぐには出来ることではない。芭蕉の神髄は会得しているのだが、会得した神髄に実作で近づくことは至難中の至難だったろう。
 失敗してはまた近附き、近附いては、余りに隔たりのあるのに失望し、失望して、その繰り返しだったろう。生意気を云うようだが、私にも覚えがある。
 が、芥川は芭蕉のどこらへんだろうか、兎に角芭蕉の肉体に爪を立てたことは間違いない。

  この道や行く人なしに秋の暮

 芭蕉自身「来る人」のないのに絶望した「この道」を、芥川は或るところまで辿たどり附いて行ったのだ。

私は小島のこの言葉を、過褒とは思わない。)



荒々し霞の中の山の襞

(九四七 九月二十六日 小穴隆一宛。)



荒あらし霞の中の山の襞

(九四八 九月二十九日 小島政二郎宛。句直前に「この句如何」とある。この後、十月一日、「好色」を『改造』に発表。)



山に雲下りゐ赤らみ垂るる柿の葉

竹むら夕べの澄み峽路透る
  ×
家鴨ま白に倚る石垣の乾き

(九五四 十月八日 瀧井折柴(孝作)宛、南部修太郎との寄書。句の前に「この頃新傾向の俳人となり句を作つた」とあり、句の後ろに「どうだ 中々うまいだろう」とあり、改行して「我鬼先生の新傾向に中毒しさうなり、助け給へ 折柴兄。修太郎生。」と修太郎の言葉が記されている。)



山に雲りゐ、赤らみ垂るる柿の葉

タケむら夕べの澄み、峽路カヒヂ透る

(九五五 消印十月九日 佐佐木茂索宛。新傾向俳句では、句読点やルビ・当て字の使用が一時期流行った。)



山に雲りゐ、赤らみ垂るる柿の葉。

竹むら夕べの澄み峽路カヒヂ透る

大いなる帽子野分に黑かりし

(九五七 十月十日 小島政二郎宛。「山に雲下りゐ、」の句は下句に句点がある。最後の「大いなる」の句の前には「南部修太郎を句にしました」とある。)



  井月句集成る
月の夜の落栗拾ひ盡しけり

(九六六 十一月四日 下島勳宛。十一月二十五日に下島が編した「井月の句集」数冊を贈られたことへの御礼に添えられた。井月の名句「落ち栗の座を定めるや窪溜り」に和して、同時に下島の拾遺蒐集に汗した編集の労を労わる挨拶句。)



  讀太子所行讚
秋風にゆらぐや蓮の花一つ

(九六九 十一月十五日 池崎忠孝宛。「太子所行讚」はペンネーム赤木桁平である池崎の著作で、この書簡はそれを高く評価した内容。私は不学にして内容未詳。)



  この頃の一句
秋の日や榎のウラの片靡き

(九七五 十二月二日 佐佐木茂索宛。手紙文中で、「君の小説の結末獨合點なりと菊池云ふ由 多少その氣味もあるかも知れぬ 一体僕は小説を書く時 獨合點になりはせぬか なりはせぬかと思つて書く それでも獨合點になる事あり(勿論駄目を押しすぎる事もあり)菊池などの小説にはそんな所は見えず 思ふに氣質の相違なるべし 菊池の評語を聞き 君も獨り合點組かなと思ひし故弁ずる事然り」(「体」「弁」はママ)として、句がある。菊池の批評にくさっている佐佐木を慮っているのだが、中田雅敏氏が「書簡俳句の展開」で解釈されるように、「片靡き」は「獨合點」を洒落た句のようにも見える。)



元日や手を洗ひ居る夕心

秋の日や榎のウラの片ナビ

(九七六 十二月三日 小穴隆一宛。句の後に「入谷尊老に叱られる句か」とある。「入谷尊老」は、俳人小澤碧童を指す。小穴隆一の「二つの繪」に引用される小穴自身の日記の説明に「入谷といふは小澤碧童のこと」とあり、また、芥川の大正九(一九二〇)年十月二十四日附小穴隆一宛七九〇書簡の河童の絵の吹き出し台詞中にも「ドウカ入谷ノ兄貴ニヨロシク」とある。)



  新年の句一つ
元日や手を洗ひ居る夕心

(九八〇 十二月二八日 香取秀眞宛。前書があるので、掲載。翌大正十一(一九二二)年の印刷された年賀状(林原耕三宛新全集書簡番号1054書簡)には手書きでこの句を書き入れている。)



大正十一(一九二二)年     三十歳



時雨るゝや文衡山もちろり酒

(九八三 一月十四日 下島空谷(勳)宛。文衡山は文徴明、明時代の人で、画家。詩文草書もよくした。江戸時代の書道界に大きな影響を与えた人物でもある。なお、この元日の発表作品は、「藪の中」(『新潮』)、「俊寛」(『中央公論』、「将軍」(『改造』)、「神神の微笑」(『新小説』)。また、「江南游記」を『大阪毎日新聞』に連載開始。)



*俳句関連記載

(九八四渡邊庫輔宛書簡で、長崎の渡邊が「戯作三昧」を批判したのに対して、作中の「馬琴は唯僕の心もちを描かむ爲に馬琴を借りたものと思はれたし」とし、「なほ現在の僕は俳句も短歌も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず」と記している。)



    病あり
山山を枕に敷きぬ三布蒲團

    人と別る
霜のふる夜を菅笠の行くへかな

    こもり居
冬の日や障子をかする竹の影

(九九〇 一月二十二日 小宮豊隆宛。最初の「山山を」の句は、芭蕉の「行く秋や身に引きまとふ三布蒲団」を下敷きとしていよう。「三布蒲團」は、「みのぶとん」と読み、三幅の布団のことで、一幅は幅約三十六センチ、倍を二布ふたの、四倍を四布よの等と言った。江戸の庶民の場合、敷布団でさえ三布、掛け布団は四布、五布であったとされる。「身に引きまとふ三布蒲團」は小さい。なお、現存書簡では、この前日の一月二十一日附小穴隆一宛九八九書簡で初めて「澄江堂主人」の号を用いている。時期を合わせるように、この年の春頃、書斎の扁額も一高の恩師菅虎雄揮毫の「我鬼窟」から、下島空谷揮毫の「澄江堂」に変えた。芭蕉由縁の隅田川にちなんだか。)



    伯母の云ふ
薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

(九九七 二月十六日 佐佐木茂索宛。)



  春を待つ
竹の芽も茜さしたる彼岸かな

(九九八 二月十八日 薄田淳介宛。)


    伯母の云ふ
薄綿はのばしかねたる霜夜かな

(一〇〇〇 二月十六日 渡邊庫輔宛。)



  名古屋道中
風澄むや小松片照る山のかげ

(一〇〇一 二月 下島空谷(勳)宛。この名古屋とは一月二十七日の菊池寛、小島政二郎との婦人会主催の講演会行を指していると思われる。ちなみに、菊池は二十八日の講演の後、ジャールを飲み過ぎて二日間昏睡状態に陥った。)



春雨に濡れ細りたる插木かな

(一〇〇三 三月十日消印。 小穴隆一宛。手紙文には冒頭に「今日は八日なり」とあり、「僕今日愚にもつかぬ芝居を見、その評判をいたさねばならず甚不ゆくわいなり中央公論改造等の小説いづれもまだ出來ずこれまた不愉快なり 頓首/三月八日午前 澄江堂主人」で、この句は「二伸」としてあり、句の後に「この手紙出しおくれ、今日となる今日雨蕭々たり 頓首/我鬼/十日」とあるので、自己戯画であると同時に即興の投函遅延の挨拶句ともなっている。ここで芥川龍之介が「愚にもつかぬ芝居」と言っているのは、新富座の「一谷嫩軍記いちのたにふたばぐんき」で、雑誌『新演芸』からの依頼であった。同誌四月号に超~口の劇評「新富座の『一谷嫩軍記』」を発表している(ちなみに、この劇評、「愚にもつかぬ」と罵倒しただけあって、すこぶる面白い。劇構成と演出をこき下ろした後、役者評では「うまいともまづいともつかない、まづ中位の藝になると、どの位うまいか(或はまづいか)判然としない」という落語みたような毒に富んだ枕に始まって、果ては「熊谷の馬の前足」はうまい、と言い出す始末。最後は子供を子役に使うことを激しく指弾して終わるのである)。なお、三月一日に「トロツコ」を雑誌『大観』に発表。)



  悼亡

靜かさに堪へず散りけり夏椿

(一〇〇五 三月十九日 齋藤貞吉宛。齋藤(西村)貞吉は府立三中時代からの芥川の友人である(前掲新全集996書簡参照)。句の直前に「Last but not least(コレハ西村流ナリ)お前の不幸をいたむ但しあんな手紙は貰ひたくない暗澹たる氣が傳染していかん下の句あの手紙を見た時作つたのだ」とあり、句の後に「夏椿は沙羅の異名と知るべし」とある。英文は「大事なことを一言言い忘れた」という意味。この書面全体に漂う芥川のアンビバレントな感情の原因、「あんな手紙」の内容は判然としない。)



  この頃

竹の芽も茜さしたる彼岸かな

(一〇〇八 三月二十三日(推定) 香取秀眞宛。前書違い。)



庭の花さける日永の駄菓子かな   一游亭

雨吹くやうすうす燒くる山のなり  我 鬼

(一〇一二 三月三十一日 渡邊庫輔宛。句の前に「これは二三日前友だちと作つた句です」とあるので、一游亭の句も併記した。一游亭は小穴隆一の俳号。また、この書簡には「わたしはこの頃新傾向旧傾向とも反対です」という見逃せない文句がある。)



たかんなの皮の流るるうららかな

(一〇一三 推定四月 恒藤恭宛。)



  宿の椽の外は鴨川なり
タカンナの皮は流るるうららかな

  御室仁和寺
花散るや牛の額の土ぼこり

(一〇一五 消印四月六日 佐佐木茂索宛。四月二日から八日まで、養母トモ、伯母フキを伴って京都、奈良を旅行。仁和寺は御室桜で知られる。なお、四月一日には、「報恩記」を『中央公論』に、「澄江堂雜記」を『新潮』に発表。)



    或教坊に近き御茶屋にて
おかめ笹今年赤める寒さかな

(一〇二〇 四月二十二日 渡邊庫輔宛。「教坊」は芸妓に歌舞演芸を教える所。)



タカンナの皮の流るる薄暑かな

(一〇二五 四月二十八日 小穴隆一宛。芥川は四月二十五日から、長崎再訪の旅に出発するが、京都で凡そ半月遊んだ。田端帰着は六月一日。なお、五月一日には「お富の貞操」前篇を『改造』に発表。)



ひと茂り入日の路に當りけり

(一〇二六 消印五月十日 小穴隆一宛。)



    五條はたご
新參の湯をつかひ居る火かげかな

    加茂堤
夏山やうす日のあたる一ところ

    所懷
ひと茂り入日の路に當りけり

(一〇三〇 五月二十日 岡榮一郎宛。長崎から。なお、五月十五日には最初の随筆集『點心』を金星堂から刊行。)



  長崎にて
花を持ち荷蘭陀こちを向きにけり   我 鬼

(一〇三四 五月二十二日 齋藤茂吉宛。「荷蘭陀オランダ」、オランダ人。中田雅敏氏は、これは芥川が愛蔵することになるマリア観音を買い求めて、この像からオランダ人を連想したものという。さらに、このマリア観音については諏訪優氏が「芥川龍之介の俳句を歩く」で次のように述べている。『「長崎日録」の大正十一年五月十六日を読んでみる。/「与茂平と大音寺、清水寺を見る。今日天晴、遥かに鯨凧の飛揚するあり。帰途まりや観音一体を得、古色頗る愛すべし。」/気分のよい何か浮き浮きした書きぶりだが、当然である。/このまりや観音が骨董的に(あるいは歴史的に)どれほど価値があったかどうかは別として、芥川龍之介はこの像に心惹かれて、ある寺で失敬して来たものだったからである。/彼は像を盗むと与茂平に手渡して何食わぬ顔で持ち出させてしまう。』この話、出典が明らかになっていないのが残念だが、事実とすれば芥川らしい面白いエピソードである。)



笋の皮の流るる薄暑かな

(一〇三七 五月二十五日 佐佐木茂索宛。長崎から。)



  欄外即景
夏山や薄日のあたる一ところ

(一〇四〇 五月二十七日 眞野友二郎宛。長崎から。)



花を持ち荷蘭陀こちを向きにけり     龍
  ○
花鳥ハナトリの一間に風は吹きかよひ、龍

茶荃さばきもなれた涵九カンキウ、庫
  ○
麥藁の家に小人の夫婦住み、龍

煙管持つ手ものばし兼ねたり、庫

(一〇四二 消印五月二十八日 小穴隆一宛。渡辺庫輔との寄書。長崎から。底本では「茶荃さばきも」の附句の「涵九」に、示した通り右手に「カンキウ」というルビの他に、左手に鍵の手に線が下に延びて「唐人の名」と記されている。なお、底本では発句と附句が一行になっているが、読みにくいので分けた。蝸牛文庫版一〇二ページの鑑賞で、中田雅敏氏はこの「花鳥の一間に風は吹きかよひ」の句をこの書簡を底本として挙げ、待合「たつみ」での芸妓との戯れの一齣と捉えている。但し、この鑑賞文中、渡辺庫輔の附句として「つき合ひさけて禁書ひもとく」を掲げているが、ご覧の通り、ここでの附句は「茶荃さばきもなれた涵九」である。これは「蕩々帖」に現れるこの句の附句である。)



  妓の扇に
夕立や我は眞鶴君は鷺

  同じく
うき人もをさな寂びたり衣更へ

(一〇四四 推定五月 小島政二郎宛。長崎港の絵葉書。句の後に「前のは其角調後のは嵐雪調とも申すべき乎」とある。中田雅敏氏はこれを、長崎待合丸山の美妓照菊への贈答句とし、『妖艶な中にも残る幼さを詠んだもの。ある新聞には二人の艶聞が記事にされたりもした。』とする。照菊は有名な銀屏風の「水虎晩帰図」を芥川から送られたことで知られる芸妓で、後に料亭菊本の女将となった。)



萱草も咲いたばつてん別れかな

旅立つや眞桑も甘か月もよか

水飲めば與茂平こひし閑古鳥

石の垢ものうき水の日ざしかな

(一〇四五 五月三十日 渡邊庫輔宛。鎌倉から。「與茂平」は渡邊庫輔のこと。芥川は五月二十八日に長崎を立ったが、三十日に鎌倉で降り、翌日も鎌倉に泊まっている。中田雅敏氏は、芥川の長崎再游の旅には、一つ、この齋藤茂吉の内弟子であると同時に、自身の弟子とも捉えていた渡邊庫輔(與茂平)の父親に会い、庫輔の上京の説得許諾を乞う意味もあったとし、「旅立つや」と「水飲めば」の句に、庫輔の上京を促す思いが込められていると解く。なお、最初の「萱草も」の句は、この四月に京都に旅した際、丸山の待合「たつみ」の照菊に「水虎晩歸之圖」を屏風に画いた折、彼女に与えた句と中田雅敏氏は「書簡俳句の展開」に記している。)



  長崎繪
花を持ちて荷蘭陀こちを向きにけり
  ○
沼のはに木のそそりたる霞かな
  ○
黑南風の海搖りすわる夜明けかな
  ○
ひと茂り入日の路に當りけり
  ○
  無季の句を試む
石の垢ものうき水の日ざしかな
  ○
  妓お若に
萱草も咲いたばつてん別れかな

(一〇四七 六月二日 小島政二郎宛。田端から。「ひと茂り」等の句は全く同一であるが、纏まって挙げられているので、省略しなかった。「石の垢」については後の一〇五二書簡句の注記を参照。「お若」は一〇四四書簡注でも述べた照菊のこと。なお、この日、「長崎小品」を『サンデー毎日』に発表。)



  人に園藝の事を問はれて
あさあさと麥藁かけよ草いちご

(一〇五一 六月十六日 眞野友二郎宛。)



黑南風クロバエの海搖りすわる夜明かな

晝中は枝の曲れる茂りかな

(一〇五二 六月十八日 渡邊庫輔宛。句の前の手紙文に『「石の垢」の句捨て候上五重すぎる故に候左の句如何にや高批を得ば幸甚なり』とある。)



  即興
茨刈る手になつかみそ蝸牛

(一〇五六 七月四日 眞野友二郎宛。手紙文中の「お宅の奥さんの出産は何時ですか荊妻[やぶちゃん字注:「荊」は(へん)にのみ(くさかんむり)。]もこの秋には子を産む筈です」とあり、文中の荊妻の荊字いばらから連想した挨拶句か。同年十一月八日に次男多加志が生まれている。なお、七月一日に「庭」を『中央公論』に発表。)



庭石も暑うはなりぬ花あやめ   一游亭

木の枝の瓦にさはる暑さかな   澄江堂

(一〇五七 七月八日 渡邊庫輔宛。句の前の手紙文に「左の句如何」と記して、この二句を並べて居るので、和した句と見て、一游亭のものも併載した。)



庭芝に小みちまはりぬ花つつじ

(一〇五八 七月九日 小穴隆一宛。)



  即興
點心はまづしけれども新茶かな

(一〇五九 七月十四日 井波淸治宛。本文は「冠省點心の爲に何か御書き下さるよしどうか御手柔かに願ひ候あれは小生のプロムナアドなれど路傍の寒花見るに足るものなく恐縮この事に存じ居り候幸ひに高臺の警策を得ばわづかに存在の理由ありと申すべき乎」とある。この二ヶ月前の五月十五日に最初の随筆集『點心』を金星堂から出版した。井波淸治は仏文学者で『三田文学』に文芸批評を連載していた。)



川狩や陶淵明も尻からげ

(一〇六〇 七月十六日 下島空谷(勳)宛。句前「結構な御魚難有く御礼申上げます 目下原稿〆切を控へてこの暑さにうん/\云つてゐます」とあるので、まずは川魚を呉れた下島を川漁の隠士のイメージで称揚しながらも、ここでは同時に売文業者としての自己を「尻からげ」と皮肉っている。しかしそこには密かに下島だけでなく己を淵明に比するところの詩人としての自負が見えるように思われる。)



花百合や隣羨む簾越し

(一〇六二 七月三十一日 眞野友二郎宛。句の直前の手紙文末尾に「あなたは女の御子さんのよしわたしも今度は女の子を持ちたい」とある。文は妊娠しており、十月出産予定であった。残念ながら、次男であった。なお、八月一日に「六の宮の姫君」を『表現』に、「魚河岸」を『婦人公論』に発表。同十三日には作品集『沙羅の花』を改造社より刊行。)



更くる夜を上ぬるみけり鰌汁

  小園日長
晝深う枝さしかはす木立かな

(一〇六九 九月八日 眞野友二郎宛。なお、九月一日には、「おぎん」を『中央公論』に、「お富の貞操」の後篇を前篇と共に『改造』に発表。)



  偶句あり
線香の束とかばやな桐一葉

(一〇七六 十月三日 小杉未醒宛。なお、十月一日には「百合」を『新潮』に発表。同二十五日には作品集『奇怪な再會』を金星社より刊行。)



  送一游亭別情愴然
霜のふる夜を菅笠のゆくへかな

(一〇八二 十一月十三日 小穴隆一宛。句の直前の手紙文末尾に「左句送別の爲作り候所家内ども縁起わるしと申し候故その節さしひかへし申候へども今は何と言ふ氣もいたさずなり候間書き添へ候」とある。しかし、この後、十一月二十七日になって、小穴の病名が脱疽と判明し、幕末の歌舞伎役者である澤村田之助の例を引き、「だつそは田之助のなりし病なり切り遅れはいよ/\あしきよし」と書く。十二月十八日、順天堂病院で右足第四指を切断し、芥川も立会った。しかし乍ら、芥川のいつもながらの不吉な予言はまた的中してしまう。なお、同日表題作のみを所収した『邪宗門』を春陽堂より刊行。)



  即興
初霜や藪にとなれる住み心

(一〇八八 十一月二十八日 小宮豐隆宛。)



  病懷蕭條
初霜や藪に鄰れる住み心

(一〇九〇 十二月二日 眞野友二郎宛。)



  夜坐
炭取の炭ひびらぎぬ夜半の冬

炭取の底にかそけき木の葉かな

  閑庭
初霜や藪に隣れる住み心(モウ一度書マシタ 入レナイトサビシイカラ)

時雨るゝや犬の來てねる炭俵

  送別
霜のふる夜を菅笠のゆくへかな

  長崎より目刺をおくり來れる人に
凩や目刺にのこる海のいろ

  即興
凩や藥のみたる腹具合

(一〇九一 十二月十七日 眞野友二郎宛。「ひびらぐ」は類聚版全集の注釈に「ひひらぐ。ひびが入る時音を発する。」とある。確かにそのように解釈されるが、「ひびらぐ」又は「ひひらぐ」というこうした用例を、私は古文でも現代文でも聞いたことがない。識者の御教授を乞うものである。「初霜や」の句の芥川の( )内注記[底本では割注のようにポイント落ちで句の下に二行に表記されている。]は、一〇九〇書簡を受けてのことであるが、「隣」の漢字表記が異なる。最後の「凩や」の句の前に手紙文が挿入されており、そこで「唯今北海道よりホツキ貝と云ふものを食ひ、胃の具合怪しければ早速頂戴の藥をのんだところ」とあるが、二伸の「數日前の小生の家族の健康如左」(改行)「主人 神経衰弱、胃痙攣、腸カタル、ピリン疹、心悸高進、」を手始めに、妻から父、母に至るまでの家族の病状を掲げて、最後に「これでは小説どころではないでせう」と終わる。眞野友二郎宛は多数の書簡が残るが人物未詳で、新全集人名解説索引には、『芥川の愛読者』で、大正十一(一九二二)年四月『頃に芥川に手紙を出して以来』、『やりとりを持っている』と記載があるのみである。)



やぶちゃん版芥川龍之介句集四 続 書簡俳句(大正十二年~昭和二年迄へ)