やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ

江南游記   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

[やぶちゃん注:「江南游記」(こうなんいうき/こうなんゆうき)は大正111922)年1月1日~2月13日の期間の中で、28回に亙って『大阪毎日新聞』朝刊に連載され、後に『支那游記』(「自序」の後、「上海游記」を筆頭に「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に所収された。初出は未見なので推測であるが、「前置き」+全29章であるから、幾つかの回がカップリングしたか、トリプルとなったかと思われる。「江南游記」底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビ(但し、引用漢詩などの一部はルビなし)であるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。

 私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「卒然」「ボンボン」「攘夷」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「江南游記」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。

 その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。

 本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。なお、それに関わって私が本紀行群を初めて読んだ21歳の時の稚拙な感想をブログにアップしてある。参考までにお読み頂ければ幸いである。

 本篇テクスト及び注釈は、2009年6月23日から7月22日にかけて、私自身のブログに連載したものであるが、本頁で一括掲載するに際し、注を全体にブラッシュ・アップしてあるので、公開時の内容とは一部異なっている。引用(必ず本ページからのものであることを明記)・リンクされる場合は、こちらを基本にされた方がよいと思う。【2009年7月24日 83年目の河童忌に】
「二十四 古揚州(中)」に「橋のアアチの石面には、白墨かペンキか覺えてゐないが、兎に角白い字を並べ立てた、排日の宣言が書き立ててある」の注を追加し、「徐氏の花園」の注を補足した。2009年8月11日
更に製作した以下の関連ページをリンクさせた。
芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈
芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊) 【2009年8月30日】
「二十八 南京(中)」の意味不詳であった「高跳動(カオチヤオトン)」の注を新規に書き換えた。【2010年10月16日
「十七 天平と靈巖と(中)」の「モンモンケ」の注に教え子T.S.君から得た新規情報を追加した。【2012年7月5日】
「十三 蘇州城内(上)]に教え子T.S.君の撮って呉れた北寺塔の写真を二枚追加した。【2012年7月12日】
「九 西湖(四)」の「樓外樓」注に、驚天動地の「樓外樓」前共時写真及び、教え子T.S.君の撮って呉れた検証写真と解説を追加した。【2010年11月4日】
「三 杭州の一夜(上)」の「新新旅館」注に、教え子T.S.君の撮って呉れた写真と彼の解説を、また、「九 西湖(四)」の「樓外樓」注の最後に、やはりT.S.君の手になる「樓外樓」前からの現在の西湖の景観を追加した。【2012年11月7日】]

江南游記

       前置き  

 私はつい昨日の朝、本郷臺から藍染橋(あゐそめばし)へ、ぶらぶら坂を下つて行つた。すると二人の靑年紳士が、反對にその坂を登つて來た。私も男の淺間しさに、すれ違ふ相手が女性でないと、滅多に行人には注意しない。が、この時はどう云ふ訣か、まだ五六間距離のある内から、相手の風采に氣をつけてゐた。殊にその一人が薄靑い背廣に、雨外套をひつかけたのには、血色の好い瓜實顏や、細い銀の柄の杖と共に、瀟洒たる趣を感じてゐた。二人は何か話しながら、ゆつくり足を運んで來る。――それが愈(いよいよ)すれ違つた時、私の耳は意外にも、卒然噯喲(アイヨオ)と云ふ間投詞を捉へた。噯喲! 私は心の躍るのを感じた。それは何も彼等二人が、支那人だつたのに驚いたのではない。この偶然耳にした噯喲と云ふ言葉の爲に、いろいろな記憶がよみがへつたのである。

 私は北京の紫禁城を思つた。洞庭湖に浮んだ君山(くんざん)を思つた。南國の美人の耳を思つた。雲崗(うんかう)や龍門の石佛を思つた。京漢(けいかん)鐵道の南京蟲を思つた。廬山の避暑地、金山寺(きんざんじ)の塔、蘇小小の墓、秦淮(しんわい)の料理屋、胡適(こてき)氏、黄鶴樓、前門牌(チエンメンはい)の煙草、梅蘭芳(メイランフアン)の嫦蛾(じやうが)を思つた。同時に又腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事をも思つた。

 私は彼等を振り返つた。彼等は勿論悠悠と不相變何か話しながら、霜晴(しもば)れの坂を登つて行つた。しかし私の耳の中には、未に噯喲の聲が殘つてゐる。彼等は何處(どこ)の下宿から、何處へ出かける途中であらう? 事によると彼等の一人は、「留東外史」の張全(ちやうぜん)のやうに、戸山(とやま)ケ原の雜木林へ、女學生をつれ出す所かも知れない。さう云へばもう一人の留學生も、同じ小説の王甫察(わうほさつ)のやうに、馴染の藝者位はありさうである。私はこんな彼等にとつては失禮な想像を逞しくしながら、藍染橋の停留場へ出ると、田端の家へ歸る爲に、動坂(どうざか)行きの電車に乘つた。

 處が家へ歸つて見ると、大阪の社から電報が來てゐた。文句は「ゲンコウヲタノミマス」である。私は度度薄田氏に、迷惑をかけるのに恐縮した。しかし正直に白狀すれば、重重恐れ入りながらも、腹の工合が惡かつたり、寢不足が何日も續いたり、感興がなかつたりする所から、ペンを執らない事もないではない。それがこの電報を見た時は、明日にも早速「上海游記(シヤンハイいうき)」の續篇を書き出さうと云ふ氣になつた。噯喲! さう云ふ聲が私の耳に、忘れない響を残したのは、薄田氏の爲にも私の爲にも、意外な仕合せになつた訣である。私の知つてゐる支那語の數は、やつと二十六しかない。その中の一つが偶然にも、私の耳に止まつたばかりか、兎に角何かを目ざめさせた事は、大袈裟に言へば天惠である。尤も私の惡文の爲に惱まされる讀者の身になれば、天惠より寧ろ天災かも知れない。しかし天災と考へれば讀者も諦め易さうである。かたがた噯喲の聲を耳にしたのは、御互に感謝して然るべきであらう。これが本文にとりかかる前に、かう云ふ前置きを加へる所以である。

[やぶちゃん注:新全集版年譜(宮坂覺)によれば、大正101921)年9月7日、『体調不良のため、薄田泣菫に「上海游記」終了後、次の「江南游記」までに一週間の猶予を申し入れ』たまま、その後、同月中は本文でも言訳しているように、『胃腸の調子が優れない上、痔疾も併発して苦し』み、『体重も減り、寝たり起きたりの生活が続いた』。10月にはやや回復はしたものの(1日から25日頃まで湯河原にて南部修太郎と共に静養、静養中は一本の作品も発表せず)、『神経衰弱のせいで、熟睡』出来ず、不眠症状がしつこく付き纏い、新年号の各社原稿依頼の多忙の中、1124日には再度、そうした『新年号の原稿が片付くまで「江南游記」の執筆を延期することを薄田泣菫に申し入れ』ている。「上海游記」公開終了の9月12日以後12月末迄に発表されたものは、「好色」「『チヤツプリン』その他」、下島勳著「井月句集」の跋、湯河原での俳句五句及び室賀文武(芥川の実父新原敏三の使用人で、芥川の子守もしたが、後年は芥川のキリスト教の師ともいうべき存在であった)の句集「春城句集」の序のみである。しかし、本連載が始まる大正111922)年1月1日には、我々は「藪の中」「俊寛」「將軍」(中国旅行のインスピレーションの賜物)「神神の微笑」「パステルの龍」(「三 杭州の一夜(上)」に登場するJudith Gautierジュディット・ゴーティエの詩の翻訳2篇を所収)「LOS CAPRICHOS」(「十五 蘇州城内(下)」にゴヤへの言及がある)「英米文學上に現れた怪異」といった彼の晩年にあってエポックとなった重要な作品群を読むことになる。

・「藍染橋」東京都文京区千駄木2丁目にあった橋。現在の文京区と台東区の区境に当たる道路は美事に蛇行しているが、これが今は暗渠となっている藍染川で、そこに架橋していた一本が合染橋(藍染・琵琶・枇杷とも表記)である。西の東京大学を中心とした山の手の文教地区本郷台からということであれば、通常ならば団子坂を下ってここに至る。

・「噯喲(アイヨオ)!」“aiyo!”=“aiya!”。「ひえっ!」「やあっ!」といった間投詞。突発的な事態に対して驚いたり、嘆いたり、素晴らしい対象に対して感動した際に発する。

・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初(1373)に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月14日以降、恐らく6月24日までの間に見学しているが、唯一「北京日記抄」の掉尾に(引用は岩波版旧全集から)、

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大(ぼうだい)なる夢魔のみ。

とあるのみである。この一行は芥川にとって紫禁城がある衝撃的感覚を呼び起こしたことには相違ない。私自身もまた、紫禁城を見た経験から、この芥川の投げつけるような一行が、実は大いに共感出来るのである。しかし、私は中国の思い出にあのスクブス・インクブスの空気に満ち満ちた膨大な虚を最初に想起はしない。即ち実は芥川もそうであったと私は確信する。如何にもな中国的シンボルとして「江南游記」という中国紀行文の枕に附した芥川龍之介の粉飾的虚構であると私は思うのである。この皮相性はこの後に羅列する史跡に対しても数多く見られる点に注意されたい。

・「洞庭湖に浮んだ君山」本来は洞庭湖の中に浮かぶ島であるが、現在は渇水期の方が長い様子で、陸繋島(湖底に舗装道路が敷設されている)と記されているものが多い(島自体の広さは約1㎢)。島名の由来は、伝説の君主舜の愛妃であった蛾皇と女英(ともに尭の娘とも)がここに旅した折り、舜帝の崩御を知り入水したから(現在も二妃の墓と伝えるものがある)、秦の始皇帝が南方巡幸の際の行宮であったからなどとする。その島の美しさは『銀盆の中の青い巻貝』と称された。他にも始皇帝の「封山印」(南巡中ここで暴風波浪に見舞われた彼がそれを占い、ここに封じられた蛾皇と女英の魂の仕業と知り、それを鎮魂するために岩壁に「永封」「封山」と陰刻したとされるもの)、唐代伝奇で柳毅が龍宮へ下って行ったという「柳毅井」、有名な仙人呂洞賓(りょどうひん)のゆかりの「郎吟亭」等の旧跡が多くある。君山銀針茶という銘茶の産地としてもよく知られる。芥川龍之介は5月29日に訪れている。しかし乍ら、芥川は洞庭湖については、唯一「雜信一束」の中で、

       五 洞庭湖

 洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い黑松。

とあるだけでそっけなく、5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌を掲げ『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している。芥川は君山には例外的に心惹かれ印象として残ったのか?――いや、芥川は実際には洞庭湖に失望したのである。これは「紫禁城」同様、「江南游記」の枕としての粉飾的虚構であろうと私は思う。

・「南國の美人の耳」これは先行発表した「上海游記」「十七 南國の美人(下)」冒頭の以下の部分に拠る。招待された上海の茶屋で、案内してくれた余洵氏(この人については同「十五 南國の美人(上)」の「余洵」以下の諸注を参照)の中国女性の何処がよいと思うか、という問いに芥川は「さうですね。一番美しいのは耳かと思ひます。」と答えた後、以下のように綴っている。

 實際私は支那人の耳に、少からず敬意を拂つてゐた。日本の女は其處に來ると、到底支那人の敵ではない。日本人の耳には平(たひら)すぎる上に、肉の厚いのが澤山ある。中には耳と呼ぶよりも、如何なる因果か顏に生えた、木の子のやうなのも少くない。按ずるにこれは、深海の魚が、盲目(めくら)になつたのと同じ事である。日本人の耳は昔から、油を塗つた鬢(びん)の後(うしろ)に、ずつと姿を隱して來た。が、支那の女の耳は、何時も春風に吹かれて來たばかりか、御丁寧にも寶石を嵌めた耳環なぞさへぶら下げてゐる。その爲に日本の女の耳は、今日のやうに墮落したが、支那のは自然と手入れの屆いた、美しい耳になつたらしい。現にこの花寶玉(くわはうぎよく)を見ても、丁度小さい貝殼のやうな、世にも愛すべき耳をしてゐる。西廂記(せいさうき)の中の鶯鶯(あうあう)が、「他釵軃玉斜横。髻偏雲亂挽。日高猶自不明眸。暢好是懶懶。半晌擡身。幾囘掻耳。一聲長歎。」と云ふのも、きつとかう云ふ耳だつたのに相違ない。笠翁(りつおう)は昔詳細に、支那の女の美を説いたが、(偶集(ぐうしふ)卷之三、聲容部)未嘗この耳には、一言(ごん)も述べる所がなかつた。この點では偉大な十種曲の作者も、當に芥川龍之介に、發見の功を讓るべきである。

以上の幾つかの語句については、リンク先の私の該当部分の注を参照されたい。

・「雲崗や龍門の石佛」「雲崗」は山西省大同市西方20㎞の武周山南側にある東西約1㎞、約40窟を有する石窟寺院。本来は霊巌寺と呼んだが、現在は雲崗石窟又は石仏寺と呼称する。南北朝時の460年頃、北魏の僧曇曜(どんよう)が第5代皇帝文成帝(440465)に上奏し開いた通称「曇曜五窟」(第1620窟)に始まり、その後も造窟造仏が行われた。493年に北魏は平城から洛陽へ遷都、これ以降、北魏は凋落、534年に東魏・西魏に分かれてしまうが、中国仏教彫刻史ではこの460年から494年頃まで期間を本窟を代表させて雲崗期と呼ぶ。日本人建築学者伊東忠太が発見した。芥川は「雜信一束」の中で、

       十七 石彿寺

 藝術的エネルギイの洪水の中から石の蓮華が何本も歡喜の聲を放つてゐる。その聲を聞いてゐるだけでも、――どうもこれは命がけだ。ちよつと一息つかせてくれ給へ。

と述べている。また「龍門」は河南省洛陽市南方13㎞の伊河の両岸に形成された石窟寺院。中国仏教彫刻史の雲崗期の後を受けた龍門期(494520)と呼ばれる時期を代表するが、その後も造営維持管理は継続し、龍門石窟自体は唐代の第3代皇帝高宗(628683)の頃に最盛期を迎える。それを代表するものが高宗の発願になる龍門最大の石窟である675年造営になる奉先寺洞である。芥川は「雜信一束」の中で、

       十一 龍門

 黑光りに光つた壁の上に未に佛を恭敬(くぎやう)してゐる唐朝の男女の端麗さ!

と述べている。彼は洛陽滞在中の6月10日に龍門石窟を、北京滞在中の6月25日から7月9日の間に雲崗石窟をそれぞれ見学している(雲崗石窟は6月24日に訪問する予定であったが、列車のストライキにより行けなかったことが分かっている。なお、以上の両石窟の記載は主に「雲崗石窟」及び「龍門石窟」を中心に複数の頁を参照にした)。私も両方訪れたが、石仏を愛するなら敦煌と並んで必見の地である。

・「京漢鐵道」現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。芥川は「雜信一束」の中で次のように記している。

       八 京漢鐵道

 どうもこの寢臺車の戸に鍵をかけただけでは不安心だな。トランクも次手に凭せかけて置かう。さあ、これで土匪(どひ)に遇つても、――待てよ。土匪に過つた時にはテイツプをやらなくつても好いものかしら?

「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミCimex lectulariusの別名。因みに、「トコジラミ」という和名は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる昆虫である以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

・「廬山」江西省九江市南部の名山。海抜1,474m。古くは陶淵明・李白・白居易ら文人墨客が訪れ、神聖な山として知られたが、また後には毛沢東ら中国共産党高官も避暑地としてここに山荘を構えた。1959年には毛沢東の右腕であった国防部長彭徳懐がここで開催された中国共産党政治局拡大会議(廬山会議)で追放された。因みに私はその彭徳懐がこの山荘の前を笑いながら歩いてくる最後の映像が、何故かひどく印象に残っているのである。芥川の「長江游記」では、二章に渡って失望に満ちた皮肉な実見記を綴っている。

・「金山寺」江蘇省鎮江北西の金山にある寺。本篇の「二十六 金山寺」本文及び注に譲る。

・「蘇小小」5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。現在の彼女の墓は西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。本篇の「七 西湖(二)」本文及び注に譲る。

・「秦淮」東晋及び南朝たる四王朝(宋・斉・梁・陳)の都となった健康(南京)の運河の名。両岸は遊郭であった。本篇の「二十八 南京(中)」本文及び注に譲る。

・「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 18911962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。

・「黄鶴樓」湖北省武昌の西南の隅、長江を見下ろす高台にある楼閣で、江南三大名楼の一として、李白や崔顥(さいこう)の詩で頓に知られる。芥川は「雜信一束」の中で、やはり感興を殺いだ如く、

      三 黄鶴樓

 甘棠酒茶樓(かんたうしゆちやろう)と赤煉瓦の茶館(ちやかん)、惟精顕眞樓(いせいけんしんろう)と言ふやははり赤煉瓦の写真館、――尤も代赭色の揚子江は目の下に並んだ瓦屋根の向うに浪だけ白じらと閃かせてゐる。長江の向うには大別山、山の頂には樹が二三本、それから小さい白壁の禹廟(うべう)………、

 僕――鸚鵡洲は?

 宇都宮さん――あの左手に見えるのがさうです。尤も今は殺風景な材木置場になつてゐますが。

と述べている。

・「前門牌(チエンメンはい)の煙草」“qiánmén”「牌」は「~印」の意。中国製シガレットの銘柄。

・「梅蘭芳(メイランフアン)」(méi lánfāng メイ ランファン 18941961)は、本名梅瀾(méi lán メイ ラン)、清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋、尚小雲、そして「白牡丹」こと荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年である。芥川の「侏儒の言葉」には、

      「虹霓關」を見て

 男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。

 「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?

とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。

○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。山田俊治氏の注では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。

○「虹霓關」は「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるという悲惨なストーリーらしい(私は管見したことがないので、以上は複数のネット記載を参考に纏めてみたもの)。山田俊治氏の注によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、今一つ『わかる』の意味が分らない。どなたか分かる方は御教授を乞う。

○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武(生没年未詳)は兵法書「孫子」の著者で、紀元前5世紀頃、春秋時代に活躍した兵家。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。

○『「戲考」』「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯(おうだいさく)の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(1915年から1925年の長期に亙る刊行)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

○「兵機」は戦略・戦術の意。

○「董家山」山田俊治氏の注によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリーである。

○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、山田俊治氏の注では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の記す平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。

○「雙鎖山」山田俊治氏の注によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。

○「馬上縁」明治大学法学部の加藤徹氏のHP「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。山田俊治氏の注によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。

○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。山田俊治氏の注によると、『明代の物語で、柳素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。

・「嫦蛾」は、「竹取物語」の原典とも言われる晋代の干宝の撰になる「捜神記」をもとにした京劇「嫦娥奔月」のヒロイン、月の天女。191521歳の時に初演して以来、梅蘭芳の当り役であった。

・「腸胃の病の爲に、三月ばかり中絶してゐた、私の紀行の事」本注冒頭注参照。

・『「留東外史」』民国平江不肖生著上海民権出版部1916年刊行の中国人によって書かれた中国人日本留学生の赤裸々な私生活を活写した通俗小説。東京都立図書館HPの特別コレクションのページ中の「留東外史」に筆者の本名・正体他、詳細な記載がある。岩波新全集の神田由美子氏の注解では『大胆な性欲描写のため、周作人によって淫書だと評されている』とある。

・「戸山ケ原」は、岩波新全集の神田由美子氏の注解によると、1874年から『第二次世界大戦中まで陸軍用地だった東京と新宿区の原野(現、大久保三丁目辺)。陸軍戸山学校(現、新宿区戸山町)の西北にあたり、射撃場、陸軍科学研究所、陸軍技術本部もあった。演習のための広大な原っぱだったので、民間人の格好の行楽の地であったとともに、多くの犯罪もおこった』とある。個人ブログ“Chinchiko Papalog”の「この戸山ヶ原は、どこだかわからない。」のページに大正9(1920)年の写真が掲載されている。ご覧あれ。記事自体も大いに参考になる。

・「大阪の社」芥川龍之介が社員であった大阪毎日新聞社。芥川が中国へ行った肩書きも同社の中国特派員による。「上海游記」の私の諸注を参照。

・「薄田」大阪毎日新聞社学芸部部長の薄田淳介(じゅんすけ)、詩人薄田泣菫(すすきだ きゅうきん 明治101877)年~昭和201945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。この大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正121923)年末には新聞社を休職している。「度度薄田氏に、迷惑をかける」というのは、この芥川の中国特派に際し、しょっぱなからの病気による遅延による躓きに始まり、上海での入院、現地からするはずであった特派員報告の完全不履行等、社交辞令でなく、芥川には、尊敬する詩人でもあった薄田に対し、内心忸怩たるものがあったと言ってよい。具体的には本注の冒頭注及び「上海游記」の私の諸注を参照されたい。

・「かたがた」は、人称代名詞や名詞ではない。「以上のいろいろなことを考え合わせると」、「いずれにしても」の意の副詞である。

・「御互に」の部分は授業であれば高校生に質問してみたいところである。老婆心乍ら言っておくと、芥川龍之介と「天災と諦め」ねばならない「讀者」では意味が通じない。芥川龍之介と「薄田氏」にとって、の意である。]



       一 車中



 杭州行きの汽車へ乘つてゐたら、車掌が切符を檢(しら)べに來た。この車掌はオリヴ色の洋服に、金筋(きんすぢ)入りの大黑帽をかぶつてゐる。日本の車掌に比べると、何だか敏活な感じがしない。が、勿論さう考へるのは、我我の僻見(へきけん)である。我我は車掌の風采にさへ、我我の定木(ぢやうぎ)を振り回しやすい。ジヨン・ブルは乙に澄まさなければ、紳士でないと思つてゐる。アンクル・サムは金がなければ、紳士でないと思つてゐる。ジャップは、――少くとも紀行文を草する以上、旅愁の涙を落したり、風景の美に見惚れたり、游子(いうし)のポオズをつくらなければ、紳士でないと思つてゐる。我我は如何なる場合でも、かう云ふ僻見に捉はれてはならん。――私はこの悠悠とした車掌が、切符を檢べてゐる間に、かう云ふ僻見論を發表した。尤も支那人の車掌を相手に、気焰を揚げた訣ではない。案内役に同行した、村田烏江君に吹きかけたのである。

 汽車の外は何時まで行つても、菜畑かげんげ野(の)ばかりである。その中に時時羊がゐたり、臼挽き小屋があつたりする。と思ふと大きい水牛も、のそのそ田の畔(くろ)を歩いてゐた。五六日前やはり村田君と、上海の郊外を歩いてゐたら、突然一頭の水牛に路を塞がれた事がある。私は動物園の柵内(さくない)は知らず、目(ま)のあたりこんな怪物に遭遇した事は始めてだから、つい感心した拍子に、ほんの半歩ばかり退却した。すると忽ち村田君に、「臆病だなあ。」と輕蔑された。今日は勿論驚嘆はしない。が、ちよいと珍しかつたから、「君、水牛がゐるぜ。」と云はうとしたが、まあ、泰然と默つてゐる事にした。村田君もきつとあの瞬間は、私も中中支那通になつたと、敬服してゐたに相違ない。

 汽車は一室八人の、小さい部屋に分かれてゐる。尤もこの客室には、我我二人の外誰もゐない。室(しつ)のまん中の卓子(テエブル)の上には、土瓶や茶碗が並べてある。其處へ時時靑服の給仕が熱いタオルを持つて來てくれる。乘り心は餘り惡い方ぢやない。但し我我が乘つてゐても、この客車は正に一等である。一等と云へば何時か鎌倉から、ちよいと一等へ乘つた所が、勿體なくも或宮樣と、たつた二人ぎりになつたのには、恐懼の至りに堪へなかつたけ。しかもあの時持つてゐたのは、白切符だつたか赤切符だつたか、其邊も實は確(たしか)ぢやない。………

[やぶちゃん注:芥川が上海を発って西湖に向かったのは大正101921)年5月2日のことである。上海上陸直後に即入院(乾性肋膜炎による。「上海游記」の「五 病院」を参照)した彼が、やっと退院出来たのが4月23日であったから、その9日後の未だ病み上がりであった。その後、5月4日の夕刻には上海に戻っているので、2泊3日の小旅行であった。

・「杭州」浙江省の省都。中国八大古都(2004年現在、中国古都学会によって公認された歴史的に重要な首都であった8つの古都。北京・南京・洛陽・西安・開封・杭州・安陽・鄭州)の一つ。古くから江南運河の終着点として発達、「天に天堂あり、地に蘇杭あり」と謳われた。五代十国の時代には呉越国の首都、南宋時代には事実上の首都であった臨安府が置かれた。市中心部の西に観光の目玉である西湖がある(ウィキの「杭州市」の記載を参照した)。

・「大黑帽」は大黒帽子のこと。七福神の大黒が被っている頭巾に似た、上が平らな丸形で縁のない帽子。明治中期には男性がよく被った。

・「僻見」偏見。「僻」=「辟」=「偏」で、偏(かたよ)るの意。

・「ジヨン・ブル」“John Bull”英国政府又は典型的な英国人を示す架空の人名。また、英国人を揶揄した渾名。イギリスの作家John R. Arbuthnotアーバスノット(1667-1735)の書いた寓話小説“Law Is a Bottomless Pit”(1712)等の一連のジョン・ブルの物語から出た語。これらは、スィフトらと共にイギリスのスペイン継承戦争(17011714)に反対していた彼が、スペイン継承戦争を近所の訴訟合戦に置き換えて揶揄したパンフレット群である。従って“John Bull”はこの話の中では本当にイギリス王国の名前なのである。英語塾の経営者の方のサイトにある「人名を使う慣用句(8)」によれば、ジョン・ブルは当初、『善意と常識に満ちながら不満を抱える、ファッション・センスがないフツーの田舎者。ちょっとビールを一杯やる家庭的な平和を好み、風格があるわけでも英雄的な反骨精神もない男』(コンマを読点に変更した。以下同じ)として描かれたが、『のちにイメージとして描かれるときは、第1次世界大戦の新兵募集のポスターで見られるように、ボタンを外したタキシードと,ユニオンジャックの模様のベストが見えるビール腹。ひざまである半ズボンを履き、low topper と呼ばれる山高帽を被る姿をして』おり、『このイメージは19世紀から20世紀初めの新聞漫画によく登場した』と記されている。

・「アンクル・サム」“Uncle Sam”アメリカ合衆国政府又は典型的なアメリカ人を示す架空の人名。またアメリカ人を揶揄した渾名。United Statesの頭文字をもじったものとされる。前注の「人名を使う慣用句(8)」の、末尾に“John Bull”との対比で掲げられているのを引くと、『米英戦争最中の1813年に John Bull に対抗して作られたキャラクタ』とある。

・「ジャップ」“Jap”日本国又は日本人を軽蔑的に表現する渾名。ネットを調べると、現在、オーストラリアでは「日本製の」という意味で必ずしも差別語としては意識されずに使われているらしいが、「支那」と同様、言われる身になれば、使うべき語ではあるまい。同僚の英語教師に聞いたが、ネイティヴとの会話の中でこの単語を聞いたことは一度もないとのことである。

・「村田烏江」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。

・「げんげ」マメ目マメ科ゲンゲAstragalus sinicus。緑肥(りょくひ)=草肥(くさごえ)及び牛等の飼料とするため、種を蒔まいて栽培した。根粒菌の働きにより、多量の窒素を根の根粒に固定するため、緑肥として翌春にゲンゲを田畑にそのまま鋤き込んで肥料とした(以上はウィキの「ゲンゲ」を参照した)。

・「水牛」哺乳綱ウシ(偶蹄)目ウシ(反芻)亜目ウシ科スイギュウBubalus arnee中国はスイギュウの原産地であるアジア(世界のスイギュウの95%が生息)の主要な一国。現在の中国では凡そ2300万頭程度がいるとされる。中国南部では重要な役畜であり、また、その乳加工して用いる順徳料理(広東省仏山市順徳区の地方料理を言う。広東料理の一つ)があり、広く広東料理ではその肉を煮込み料理とする。怒らせるとその巨大な角が凶器となるが、私もベトナムで水牛そのものに乗ったが、極めて温和な性格である(以上は主に複数のウィキの記載を参考にした)。

・「白切符だつたか赤切符だつたか」鳩サブレーでお馴染みの豊島屋のHPのまさにズバリ「鎌倉のなかの大正 その2(白切符 赤切符)」という本注のためにあるようなページから引用させて頂く。『大正の初め、鎌倉には別荘が約四百あり、そのうちの六十が皇族、華族の別邸だった。御用邸のほかに、皇族が三、華族が五十六、――その内訳は公爵七、候爵七、伯爵七、子爵八、男爵二十七だった。これがそのまま反映していたと思えるものに、鎌倉駅の一、二等の乗客数がある。なにしろ鎌倉に自動車が一台しかなかった時代だから、どんな「おえらがた」でも出かけるとなれば、汽車だった。大正五年の統計によれば、鎌倉駅の一等車乗客、いわゆる「白切符」は一万二千八百人、二等の「青切符」が十三万二千九百人である。なお三等の「赤切符」客は五十七万五千四百人だった。いずれも湘南別荘地の各駅よりは格段に多い数字である。当時の駅は現在よりも南にあり、後ろは田と畑ばかりの標準的な田舎の小駅で、上りホームには、下りホームからブリッジを渡らなければならなかった』(ダッシュの長さを変更、一部の誤植を訂正した)。運賃は2等は3等の3倍、1等の運賃は更にその2等運賃の2倍程度あったと考えてよい。等級別に客車の帯の色が異なり、それが切符の色となっていた(但し、1等車両の帯の色は実際には黄色であった)。(線路の話だから脱線)――赤切符――横須賀線――ときたら、もう「蜜柑」である。]


       二 車中(承前)


 その中(うち)に汽車は嘉興(かこう)を過ぎた。ふと窓の外を覗いて見ると、水に臨んだ家家の間に、高高と反つた石橋がある。水には兩岸のの白壁も、はつきり映つてゐるらしい。その上南畫に出て來る船も、二三艘水際に繋いである。私は芽を吹いた柳の向うに、こんな景色を眺めた時、急に支那らしい心持になつた。

 「君、橋がある。」

 私は大威張りにかう云つた。橋ならばまさか水牛のやうに、輕蔑されまいと思つたからである。

 「うん、橋がある。ああ云ふ橋は好かもんなあ。」

 村田君もすぐに賛成した。

 しかしその橋が隱れたと思ふと、今度は一面の桑畑の彼方に、廣告だらけの城壁が見えた。古色蒼然たる城壁に、生生しいペンキの廣告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉(むてきはいがふん)、雙嬰孩香姻(さうえいがいかうえん)、――さう云ふ齒磨や煙草の廣告は、沿線到る所の停車場に、殆(ほとんど)見えなかつたと云ふ事はない。支那は抑(そもそも)如何なる國から、かう云ふ廣告術を學んで來たか? その答を與へるものは、此處にも諸方に並び立つた、ライオン齒磨だの仁丹だのの、俗惡を極めた廣告である。日本は實にこの點でも、隣邦(りんぽう)の厚誼を盡したものらしい。

 汽車の外は不相變、菜畑か桑畑かげんげ野である。どうかすると松柏の間に、古塚(ふるつか)のあるのが見える事もある。

 「君、墓があるぜ。」

 村田君は今度は橋の時程、私の興味に應じなかつた。

 「我我は同文書院にゐた時分、ああ云ふ墓の崩れたやつから、度度頭蓋骨を盗んで來たですよ。」

 「盗んで來て何にするのですか?」

 「おもちやにし居つたですよ。」

 我我は茶を啜りながら、腦味噌の焦げたのは肺病の薬だとか、人肉の味は羊肉のやうだとか、野蠻な事を話し合つた。汽車の外には何時の間にか、莢になつた油菜(あぶらな)の上に、赤赤と西日が流れてゐる。

[やぶちゃん注:

・「嘉興」現在の嘉興市は浙江省東北部に位置し、西を杭州市と、東北を上海市と、北を江蘇省蘇州市と接し、南は銭塘江(せんとうこう)と杭州湾に面する。上海と杭州のほぼ中間点に当たる。古くから陸稲の産地であり、現在も江南最大の米の産地として知られる。南湖菱でも有名。私は菱が大好きだ。45年前、鹿児島の大隈半島のど真ん中にある母の実家岩川を訪ねた時、菱採りをしたのが忘れられぬ。タイでは、炭で燻したこれを竹籠に入れたのを、僕が熱心に見ていたら、少女のようなガイドのチップチャン(タイ語で蝶の意)がポケット・マネーで(!)買ってくれたのが忘れられない。

・「好かもんなあ」村田孜郎は佐賀県出身であるため、会話の中にその方言がしばしば現れる。

・「無敵牌牙粉」歯磨き粉の商標。「無敵印歯磨き粉」。

・「雙嬰孩香姻」「嬰孩」は嬰児・乳児・赤ん坊のことであるから、「ツイン・エンジェルズ」「双天使」といった感じの煙草の銘柄である。

・「同文書院」東亜同文書院のこと。日本の東亜同文会が創建した私立学校。東亜同文会は日清戦争後の明治311898)年に組織された日中文化交流事業団体(実際には中国進出の尖兵組織)で、日中相互の交換留学生事業等を行い、明治331900)年には南京に南京同文書院を設立、1900年の義和団の乱後はそれを上海に移して東亜同文書院と改称した。後の1939年には大学昇格に昇格、新中国の政治経済を中心とした日中の実務家を育成したが、1946年、日本の敗戦とともに消滅した。村田孜郎はこの東亜同文書院出身であった。

・「腦味噌の焦げたのは肺病の薬だ」以下、第二次世界大戦で中国を侵略した日本兵の異常なる蛮行を綴った以下のページ(タイトル「脳を食った話」)

http://www.geocities.jp/yu77799/nicchuusensou/nou.html

に「歩一〇四物語」より以下の記事を引用する(本ページは冒頭左に「非公開」とあるため、リンクを貼らず、トップ・ページやHP及びHP製作者の名も伏せることとする)、

 Aの妹は肺病(結核と思うが)である。Aは両親がなく妹と二人だけであった。不治の病と宣告されていた。妹の病気には脳の黒焼がいいということを聞いていた。彼は敵兵の脳をひそかにとって、おぼろげな話をたよりに黒焼を作って凱旋の日を待った。

HPの製作者の別ページによれば「歩一〇四物語」は昭和441969)年発行。主に歩一〇四物語刊行会事務長門馬桂氏が執筆。当時の愛知揆一外務大臣・山本壮一郎宮城県知事や同連隊の実質的な指揮者であった山田栴二元旅団長らが揮毫や推薦の言葉を寄せている、とある。上記該当ページには他にも詳細な日本兵による中国人の脳の喫食事件が他の証言者の記録から引用されている。但し、相当に凄惨な内容である。お読みになる場合は、相応な覚悟が必要であることを申し添えておく。しかし、このおぞましさも村田が髑髏を弄んだことといささかの径庭もないと、私は感ずるものである。

・「人肉の味は羊肉のやうだ」人肉は古く仏教では鬼子母神説話から柘榴の味が挙げられ、また枇杷の味とも聞いたことがある。一般には豚肉や鶏肉に近い味であるなどと言われるが(最も近年に食した佐川一政は鶏と言っていたように記憶する)、中国語で人肉を「二脚羊」「双脚羊」と言う話はよく聴く。但し、これだけの雑食と化学合成物質を摂取している現代人の人肉は、極めて高い確率で、まずく、健康に悪いと思われる。]



       三 杭州の一夜(上)



 杭州の停車場へ着いたのは、彼是午後の七時だつた。停車場の柵の外には、薄暗い電燈のともつた下に、税關の役人が控へてゐる。私はその役人の前へ、赤革(あかがは)の鞄を持つて行つた。鞄の中には手當り次第に、書物だのシヤツだのボンボンの袋だの、いろいろな物が詰めこんである。役人はさも悲しさうに、一一シャツを畳み直したり、ボンボンのこぼれたのを拾つたり、鞄の中の整理に着手してくれた。いや、少くともさう見えた程、一通り檢査をすませた後は、ちやんと鞄の中が片附いたのである。私は彼が鞄の上へ、白墨の圓を描いてくれた時、「多謝(トオシエ)」と支那語の御禮(おれい)を云つた。が、彼はやはり悲しさうに、又外の鞄を整理しながら、私には眼さへ注がなかつた。

 其處にはまだ役人の外にも、宿引きが大勢集まつてゐる。彼等は我我の姿を見ると、口口に何か喚きながら、小さい旗を振り廻したり、色紙の引き札をつきつけたりした。が、我我が泊まる筈の、新新旅館の旗なるものは、何處を搜しても見當らない。すると圖圖しい宿引きどもっは、滔滔と何か饒舌(しやべ)り立てては、我我の鞄へ手をかけようとする。如何に村田君に怒鳴られた所が、少しも辟易する樣子がない。私は勿論この場合も、雀が丘のナポレオンのやうに、悠然と彼等を睥睨(へいげい)してゐた。しかし何分か待たされた後、怪しげな背廣を一着した新新旅館の宿引きが、やつと我我の前に現れた時には、やはり正直な所は嬉しかつた。

 我我は宿引きの命令通り、停車場前の人力車に乘つた。車は梶棒を上げたと思ふと、いきなり狹い路(みち)へ飛びこんだ。路は殆どまつ暗である。敷石は凸凹を極めてゐるから、車の搖れるのも一通りではない。その中に一度芝居小屋があるのか、騒騒しい銅鑼(どら)の音を聞いた事がある。が、其處を通り過ぎた後(のち)は、人聲一つ聞えて來ない。唯生暖い夜(よる)の町に、我我の車の音ばかりがする。私は葉卷を啣(くは)へながら、何時(いつ)か亜刺此亞夜話(アラビヤやわ)じみた、ロマンテイツクな氣もちを弄び始めた。

 その内に路が廣くなると、時時戸口に電燈をともした、大きい白壁の邸宅が見える。――と云つたのでは意を盡さない。始は唯(ただ)闇の中から、朦朧と白い物が浮き上つて來る。その次にそれが星のない夜空(よそら)に、はつきり聳え立つた白壁になる。それから壁を切り拔いた、細長い戸口が現れて來る。戸口には赤い標札の上に、電燈の光が當つてゐる。――と思ふと戸口の奥にも、電燈のともつた部屋部屋(へやへや)が見える。聯(れん)、瑠璃燈(るりとう)、鉢植ゑの薔薇、どうかすると人の姿も見える。このちらりと眼にはいる、明るい邸宅の内部程、不思議に美しい物は見た事がない。其處には何か私の知らない、秘密な幸福があるやうな氣がする。スマトラの忘れな草、鴉片(あへん)の夢に見る白孔雀、――何かそんな物があるやうな氣がする。古來支那の小説には、深夜路に迷つた孤客(こきやく)が、堂堂たる邸宅に泊めて貰ふ。處が翌朝になつて見ると、大廈高樓(たいかかうろう)と思つたのは、草の茂つた古塚(ふるつか)だつたり、山蔭の狐(きつね)の穴だつたりする、――さう云ふ種類の話が多い。私は日本にゐる間、この種類の鬼狐(きこ)の譚(だん)も、机上の空想だと思つてゐた。處が今になつて見ると、それはたとひ空想にしても、支那の都市や田園の夜景に、然るべき根ざしを持つてゐる。夜の底から現れて來る、燈火(ともしび)に滿ちた白壁の邸宅、――その夢のやうな美しさには、古今の小説家も私と同樣、超自然を感じたのに相違ない。さう云へば今見た邸宅の戸口には、隴西(ろうせい)の李庽(ぐう)と云ふ標札があつた。事によるとあの家の中には、昔の儘の李太白が、幻の牡丹を眺めながら、玉盞(ぎよくさん)を傾けてゐるかも知れない。私はもし彼に合つたら、話して見たい事が澤山ある。彼は一體太白集中、どの刊本を正しいとするか? ジユデイト・ゴオテイエが飜譯した、佛蘭西語の彼の采蓮の曲には、吹き出してしまふか腹を立てるか? 胡適(こてき)氏だとか康白情氏だとか、現代の詩人の白話詩には、どう云ふ見解を持つてゐるか? そんな出たらめを考へてゐる内に、車は忽ち横町を曲ると、無暗に幅の廣い往來へ出た。

[やぶちゃん注:

・「多謝(トオシエ)」“duōxiè”。感謝する。

・「新新旅館」西湖湖畔を望む現・杭州新新飯店“HANGZHOU THE NEW HOTEL”。洋風建築のホテル。蒋介石・宋美齢・魯迅といった著名人ゆかりのホテルで、孤雲草舎(1913年に建てられた西楼)、新新旅館(1922年に建てられた中楼。現在、省級文物保護建築群に指定されている)、秋水山荘(1932年に建てられた東楼)から成る、と中国旅行会社サイトなどにある。この記載から見ると、芥川が泊まったのは孤雲草舎である(写真で見る限り、これも西洋建築)。【二〇一二年十一月七日追記】教え子のT.S.君が現在の新新旅館を訪ねて写真を送付して呉れた。彼の消息文とともに以下に掲げる。



①は、芥川が宿泊した旧新新旅館の前から道路を隔てた西湖の眺めです。白堤とそれに連なる断橋が西湖の上を夢のように左右に伸びています。決して忘れられない景色です。

②は旧新新旅館の「孤雲草舎」です。今では西楼と呼ばれていますが、旧称をホテルの従業員に確認しましたので間違いないと思います。今も杭州新新ホテルの建物として使用されています。



④はそのエントランス・ホール、⑤はそのホールから玄関を振り返ったところです。訪れた当日は西楼全体が貸切になっていたため、ホテルの従業員と交渉しましたが、ここまでしか入ることが許されませんでした。それでも私は濃厚なロマンティシズムを味わうことが出来ました。

……彼の眼は、芥川龍之介の眼であり、それを見るあなたは、芥川龍之介自身になれるのである……。【二〇一二年十一月七日追記 終】

・「雀が丘のナポレオン」「雀が丘」は、現在モスクワ大学があるモスクワ川南岸に広がる丘陵地帯(ソヴィエト時代は「レーニン丘」と呼ばれたが、現在は旧名 ВОРОБЬЁВЫ ГОРЫ”(ヴァラビョーヴィ・ゴールイ)「雀が丘」に復している)。古くからモスクワの町全体を見渡せる名所として知られる。Napoléon Bonaparteナポレオン(17691821)は大陸封鎖令を破ってロシアがイギリスとの貿易を再開したことに端を発し、1812年にロシアに60万の軍で侵攻するが、冬将軍の寒冷に加え、フランス軍の兵站の甘さとロシア軍の焦土戦術により、駐屯や食料調達もままならず、極寒と飢餓の中、遂に総退却を余儀なくされた。帰還した兵は僅かに5000人であったとされる。そのロシア軍の焦土作戦によるモスクワの大火を、ナポレオンはこの丘の近くから眺めたとされる(このシーンはトルストイ「戦争と平和」にも描かれている)。この失敗がナポレオンを直接滅亡へと導いた。

・「亜刺此亞夜話」アラビア語で書かれた説話集「アラビアン・ナイト(千一夜物語)」のこと。原題は「千夜と一夜」であるが、初めて英訳された際に“The Arabian Nights Entertainments”とされ、明治期の邦訳でもアラビア物語等と訳された。

・「聯」は対聯のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。ここでは招福や厄払のために入り口の左右に掲げたものを言っている。

・「瑠璃燈」ガラスの油皿を中に入れた六角形の吊り灯籠。

・「スマトラの忘れな草」現在のインドネシア共和国Pulau Sumateraスマトラ島に咲いているとされる伝説の花。その匂いをかいだ者は、すべての記憶を消失すると言われる。芥川の好きなフレーズで、大正9(1920)年作の「沼」にも、

(前略)

 おれは沼のほとりを歩いてゐる。

 沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界に憧がれて、蔦葛に掩はれた木々の間を、夢現のやうに歩いてゐた。が、此處に待つてゐても、唯蘆と水ばかりがひつそりと擴がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れな草の花」を探しに行かねばならぬ。見れば幸、蘆の中から、半ば沼へさし出てゐる、年經た柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作なく水の底にある世界へ行かれるのに違ひない。

 おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。(以下略)

と印象的に現れている。文中の「Invitation au voyage の曲」とは、ボードレールの有名な詩“Invitation au voyage”(旅への誘い)に、フランスの作曲家Eugène Marie Henri Fouques Duparcアンリ・デュパルク(18481933)が曲をつけた歌曲。You TubeDuparc - L'invitation au voyage Kiri Te Kanawaで聴くことが出来る。因みにKiri Te Kanawaキリ・テ・カナワ(1944~)は、ニュージーランド出身の私の愛するソプラノ歌手である。因みに私のブログの芥川龍之介の次男芥川多加志についての「蒼白 芥川多加志/附 芥川多加志略年譜」の中に、小沢章友氏の小説「龍之介地獄変」(2001年新潮社刊)を引用・略述させて頂いた(私はこの小説がある個人的体験と共振して大変好きなのである)が、そこで小沢氏もこの「スマトラの忘れな草」を印象的に用いられている。また、そこに私は書いたのだが――ビルマで戦死したまま、その遺骨さえ失われたこの多加志が、この最も父芥川龍之介に容貌が似ていたとされる作家志望だった多加志が――その多加志が――蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――と夢想するのである……

・「大廈」は豪邸。「廈」自体が大きな家の意である。

・「隴西の李庽」の「隴西」は地名で、河西回廊とシルクロードの通過点(現在の甘粛省天水に位置した。現在の甘粛省定西市隴西県はややずれる)。「隴西出身の李姓の家」の意。本名を神聖視し、多様な別名呼称を有する昔の中国では、出身地や長く住み慣れた地を持ってその人の呼称とするのは極めて一般的。

・「李太白」旧来、李白の出身地は隴西郡成紀県(現・甘粛省天水市秦安県)とされた。現代中国での通説は、西域に移住した漢民族の商人の家に生まれ、幼少時に父とともに西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現・四川省江油市青蓮鎮)に移住したものとされる(以上はウィキの「李白」を参照した)。

・「幻の牡丹」私はこの「幻の」という形容は、その芥川の、盛唐へのタイム・スリップの幻視の一齣であることを示すと同時に、李白が楊貴妃の美しさを歌った「清平調詞 三首」、それに纏わる李白の狼藉、それを恨んだ宦官高力士の楊貴妃への讒訴、それによる長安追放、放浪流謫の一齣といったイメージが重層化されているに違いない。更に、直前の「スマトラの忘れな草」をも縁語的に受け、幻の花、花の王、妖花、凋落、有為転変そして無常といった、こもごもの感懐を引き起こすようにセットされていると読む。

・「玉盞」玉石を加工した盃。

・「太白集中、どの刊本を正しいとするか?」李白の詩集には、北宋期の刊本をもととする最古の「李太白集」(宋蜀本)・宋蜀本を清の繆曰芑(ぼくえつき)が校正重刊したもの(繆本)・南宋の刊本をもとに清代に影印刊行された「景宋咸淳本李翰林集」(咸淳(かんじゅん)本又は当塗(とうと)本)・注釈書としては最古である南宋の楊斉賢集注本に元の蕭士贇(しょうしいん)が補注した「分類補注李太白詩」(楊蕭本)・清の王琦(おうき)による注釈書「李太白文集輯註」(王琦本)等、刊本が多く、またその内容にも、著名な詩も含めて、かなりの異同が見られる。

・「ジユデイト・ゴオテイエ」Judith Gautierジュディット・ゴーティエ(18451917)はフランスの作家。「死霊の恋」「ポンペイ夜話」等で知られる文豪Pierre Jules Théophile Gautierテオフィル・ゴーティエ(18111872)の娘。日本と中国を中心とした東洋文化に造詣が深く、小説の他、李白や杜甫の翻訳や日本美術の解説書などをものしている。ここで言う詩ではないが、芥川は本「江南游記」発表開始の同日大正111922)年1月1日発行の『人間』に発表した「パステルの龍」の中に、彼女の詩の翻訳「月光」「陶器(すゑもの)の亭(ちん)」二篇を訳出している。

・「胡適」(Hú Shì ホゥ シ こせき又はこてき 18911962)は中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」(ぶんがくかいりょうすうぎ)をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介は北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。

・「康白情」(kāng báiqíng カン パイチン 18951959)本名康鴻章。詩人。胡適・陳独秀らの影響を受け、1919年の五四運動に参加、散文形式の白話詩人として好評を博した。アメリカ留学を経て、解放後まで華南大学文学部教授等を歴任した。詩集「草児」「河上集」等。

・「白話詩」中国の口語詩のこと。胡適の注で記した通り、当時の民主主義革命をリードした胡適や陳独秀は、文学面にあっては難解な伝統的文語文を廃し、口語文による自由な表現と内実の吐露を可能とする白話文学を提唱する論文「文学改良芻議」を1917年に雑誌『新青年』に発表、同時に白話詩がもてはやされた。但し、芥川龍之介「上海游記」の「六 城内(上)」の記載を見ると、芥川が訪れた1921年頃にはやや下火になっていたようである。

 最後に。芥川は「さう云へば今見た邸宅の戸口には、隴西の李庽と云ふ標札があつた。」として、以下、そこに詩仙李白の幻影を見るのだが、これがもし私なら「隴西」ときた以上、……

……事によるとあの家の中には、昔の儘の李徴が、幻の月を眺めながら、玉盞を傾けてゐるかも知れない。私はもし彼に合つたら、話して見たい事が澤山ある。彼は一體何故(なにゆゑ)に袁傪(ゑんさん)に虎になんどに變身したと云ふ見え透いた作り譚(ばなし)をさせておいて、斯の如き田舎に今も獨り住まふてゐるのか? 將來、我國の中島敦氏が飜案することとなる、日本語の貴君の絶對の孤獨を描いた悲劇の一篇には、吹き出してしまふか腹を立てるか? 谷川俊太郎氏だとか荒川洋治氏だとか、今の日本で詩人面(づら)をしてゐる輩(やから)の詩には、どう云ふ見解を持つてゐるか? そんな出たらめを考へてゐる内に、車は忽ち横町を曲ると、無暗に幅の廣い往來へ出た。……

というお遊びで締め括ることと致そう……]



       四 杭州の一夜(中)



 この往來の兩側には、明るい店店が並んでいるが、人通りは疎らだ

から。少しも陽氣な心もちがしない。寧ろ町幅が廣いだけに、如何にも支那の新開地らしい。妙な寂しさを與へるだけである。

 「これが城外の町、――この突き當りが西湖(せいこ)ですよ。」

 後(うしろ)の車に乘つた村田君は、かう私に聲をかけた。西湖! 私は往來の外れを眺めた。しかしいくら西湖でも闇夜に鎖されてゐては仕方がない。湖でも、唯車上の私の顔には、その遙な闇の中から、涼しい風が流れて來る。私は何だか月島あたりへ、十三夜を見にでも來たやうな氣がした。

 車は少時(しばらく)走つた後、とうとう西湖のほとりへ出た。其處には電燈をつけ並べた、大きい旅館が二三軒ある。が、それもさつきの店店のやうに、明るい寂しさを加へるに過ぎない。西湖は薄白い往來の左に、暗い水面を廣げたなり、ひつそりと靜まり返つてゐる。そのだだつ廣い往來にも、我我二人の車の外は、犬の子一つ歩いてゐない。私は晝のやうな旅館の二階に、去來する人影を眺めながら、晩飯だのベツドだの新聞だの、――要するに「文明」が戀しくなり出した。しかし車屋は不相變、默默と走り續けてゐる。路も行人を絶つた儘、何處まで行つても盡きさうぢやない。旅館も、――旅館はもうずつと後(うしろ)になつた。今では唯湖の縁に、柳らしい樹ばかり並んでゐる。

 「おい、君、新新旅館はまだ遠いのかね?」

 私は村田君を振り返つた。すると村田君の車屋が、咄嗟にその意味を想像したのか、君よりも先に返事をした。

 「十里! 十里!」

 私は急に悲しい氣がし出した。この上まだ十里も先だとすると、新新旅館に着かない内に、夜(よ)が明けてしまふに相違ない。して見れば今夜は斷食である。私はもう一度村田君へ、我ながら情無い聲をかけた。

 「十里とは驚いたな。僕は腹が減つて來たがね。」

 「わしも減つた。」

 村田君は車上に腕組をした儘、恬然と支那煙草を啣へてゐた。

 「十里位何でもないですよ。支那里數の十里だから、――」

 私はやつと安心した。が、忽ち又がつかりした。如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある。この空腹を抱へながら、まだ日本の一里以上、闇夜の車に搖られるのは、何人にも嬉しい行程ぢやない。私は失望を紛らせる爲に、昔習つた獨逸文法の規則を、一一口の中に繰り返し始めた。

 それが名詞から始まつて、強變化動詞に辿りついた時、ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狹くなつた上に、樹木なぞも左右に茂つてゐる。殊に不思議に思はれたのは、その樹の間に飛んでゐる、大きい螢の光だつた。螢と云へば俳諧でも、夏の季題ときまつてゐる。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思はれない。おまけにその光の輪は、ぽつと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほほづき)程もありさうな氣がする。私はこの靑い光に、燐火を見たやうな無氣味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンテイツクな氣もちに涵(ひた)るやうになつた。しかし肝腎の西湖の夜色は、家の蔭か何かに隱れたらしい。路の左の樹木の向うは、ずつと土塀に變つてゐる。

 「ここが日本領事館ですよ。」

 村田君の聲が聞えた時、車は急に樹樹の中から、なだらかに坂を下り出した。すると、見る見る我我の目の前へ、薄明るい水面が現れて來た。西湖! 私は實際この瞬間、如何にも西湖らしい心もちになつた。茫茫と煙つた水の上には、雲の裂けた中空から、幅の狹い月光が流れてゐる。その水を斜に横ぎつたのは、蘇堤か白堤に違ひない。堤(つつみ)の一箇所には三角形に、例の眼鏡橋が盛り上つてゐる。この美しい銀と黑とは、到底日本では見る事が出來ない。私は車の搖れる上に、思はず體(からだ)をまつ直にした儘、何時までも西湖に見入つてゐた。

[やぶちゃん注:以下、語りの中心となる浙江省杭州市西郊にある淡水湖西湖について、主にウィキの「西湖」の記載を参照にして概略を述べておく。別名、銭唐・銭源・銭唐湖(唐代以降は「唐」は「塘」に用字を変更され、「西湖」の呼称の定着は宋代以降とする)と呼ぶ。司馬遷の「史記」に、始皇帝が銭唐に至り浙江を臨むとの記述が見え、これが史書に現れる西湖の初出とされる。当時は、まだ淡水湖化しておらず、湖というよりも、銭塘江下流三角州の干潟であったと考えられている。芥川も記述している通り、それがかつて干潟であったことを示す如く、水深は平均1.8mで最深部でも2.8mである。南北3.3㎞・東西2.8㎞・外周15㎞。芥川も言及する「西湖十景」を掲げておくと「断橋残雪・平湖秋月・曲院風荷・蘇堤春暁・三潭印月・花港観魚・南屏晩鐘・雷峰夕照・柳浪聞鶯(ぶんおう)・双峰挿雲」である。京劇「白蛇伝」の白素貞が入水したとされる白堤、蘇軾の造営になるとされる蘇堤等名所旧跡が豊富にあり、また、西湖の名称の由来とされる美姫西施の入水に纏わる伝承が語られる。但し、ウィキでは『呉越の時代にはまだ西湖は淡水化しておらず、漢代でもなお西湖とは呼ばれていなかったことから、この伝承は後代のものであろう』と考証している。

・「支那里數の十里」この中国の「里」は、清代の旧制であるから、1里=人の歩数の360歩=576mである。「十里」は5,760mとなり、凡そ6㎞である。現代の中文の旅行会社のサイトを見ると、杭州駅から新新旅館までは約7㎞とある。

・「如何に六町一里だと云つても、十里となれば六十町ある」この「町」は本邦の単位で1町は約109m。6町では654m、その10倍は6,540m。前注で示した通り、計らずも実際の杭州~新新旅館の距離には、芥川の危惧した心内での計算距離の方がずっと近い。

・「強變化動詞」ドイツ語では動詞の時制は不定形(現在)・過去基本形(過去)・過去分詞(現在完了)が基本となり、これらを纏めて三要形と言う。その三要形から動詞は規則動詞と不規則動詞に分けられ、規則動詞を弱変化動詞とも言い、三要形すべてを通して語幹に変化が起こらず、“(語幹)+te”によって過去基本形を、“ge+(語幹)+t”によって過去分詞を作る。対する不規則動詞は、過去基本形や過去分詞を作る際に語幹の母音(幹母音という)の交換・変化が起こる動詞で、その変化の仕方から更に強変化動詞と混合変化動詞に分かれる。強変化動詞は、過去基本形に語尾が付かず、過去分詞の語尾が“-en”となるもの、混合変化動詞は、語幹は不規則に変化するものの、語尾は規則動詞と同じになるものである(私はドイツ語に暗いので、サイト「自由学芸堂ドイツ語」の「動詞の役割」を参照させて頂いた)。

・「大きい螢の光」勿論、これは大きさも成虫になる時期からも本邦の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科Lampyridaeホタル亜科 Luciolinaeの代表種ゲンジボタルLuciola cruciataやヘイケボタル Luciola lateralis等とは異なった種である。中文のウィキの「螢科」(元は簡体字)のページを見るとホタル科Lampyridae以下に、下記9属が示されている。

   脈翅螢屬 Curtos

   雙櫛角螢屬 Cyphonocerus

   弩螢屬 Drilaster

       Ellychnia

       Hotaria

   螢屬 Lampyris

   鋸角螢屬 Lucidina

   熠螢屬 Luciola

   Photinus

   Photuris

   黑脈螢屬 Pristolycus

   Pyractomena

   窗螢屬 Pyrocoelia

   垂鬚螢屬 Stenocladius

リストの内、「熠螢屬」が本邦のホタル属と同属であるが、掲げられた種名は異なっている(本邦産Luciola属のルーツは中国でないかと推定され、現在、その検証プロジェクトが進行している模様である)。また、この中の中文属名「螢屬」に、中文名で雌大火虫Lampyris noctilucaというのがおり、中文ウィキにはその画像もある。これは相当にデカいが、芥川が見たものがこれであるかどうかは不明。昆虫にお詳しい識者の御教授を乞うものである。

・「日本領事館」田中貢太郎の「断橋異聞」冒頭に「杭州の西湖へ往って宝叔塔(ほうしゅくとう)の在る宝石山の麓、日本領事館の下の方から湖の中に通じた一条の長隄を通って孤山に遊んだ者は、その長隄の中にある二つの石橋を渡って往く。石橋の一つは断橋で、一つは錦帯橋(きんたいきょう)であるが、この物語に関係のあるのは、その第一橋で、そこには聖祖帝の筆になった有名な断橋残雪の碑がある。」(引用は河出書房新社1987年刊の田中貢太郎「中国の怪談(一)」を用いた)とある。引用文中の「長隄」(ちょうてい)が白堤である。

・「蘇堤」西湖の西部をほぼ南北に貫く堤で、総延長約2.8㎞の直線道路、6基の石橋がある。北宋の蘇軾(10371101)が杭州の知事となった後、荒廃していた西湖全体の浚渫を敢行し、その浚渫で出た土を盛ってこの堤を作ったことからこの名がある(蘇軾がこの銭塘湖を西施湖と名付け、それが西湖となったとも言われる)。西湖の内、蘇堤の西は西里湖という。

・「白堤」西湖の北部を東北から西南方向に走る約1㎞の堤。東北の断橋と西南端の孤山を結ぶ。白居易(772846)が杭州刺史であったときに造営したとされることからこの名があるが、古くは白沙堤と言った。西湖の内、白堤の北側は北里湖という。]



       五 杭州の一夜(下)


 新新旅館へ辿り着いたのは、その後(ご)十分とたたない内だつた。此處は新新と號するだけに、兎に角西洋風のホテルである。が、支那人の給仕と一しよに、狹い裏梯子を登りながら、我我の部屋へ行つて見ると、東洋人(トンヤンレン)と見縊つたのか、餘り居心の好い二階ぢやない。第一狹い部屋の中に、寢臺を二臺並べた所は、正に支那の宿屋である。おまけに肝腎の部屋の位置も、丁度ホテルの後の隅だから、坐つた儘西湖を眺めるなぞと云ふ、賛澤な眞似は到底出來ない。しかし車と空腹とロマンテイシズムとにくたびれた私はこの部屋の椅子へ腰を下すと、やつと人間らしい心もちになつた。

 村田君は早速我我の給仕に、食事の支度を註文した。が、食堂はもう締つたから、西洋料理は出來ないと云ふ。では支那料理と云ふ事になつたが、給仕が持つて來た皿を見ると、どうも食ひ殘りか何からししい。何でも偕樂園主人の説にょると、全家寶と稱する支那料理は、食ひ殘りの集成だと云ふ事である。私は無氣味になつたから、この幾皿かの支那料理の中、全家寶はないかと尋ねて見た。すると忽ち村田君に、全家寶はこんな物ぢやないですよと、水牛以來の輕蔑をされた。

 給仕はこの間(あいだ)も珍しさうに、我我の顏を覗きながら、絶えず小うるさい御饒舌(おしやべり)をしてゐる。しかも村田君に飜譯して貰ふと、穴の明いた銀貨を持つてゐたら、一枚くれろと云ふのだつた。ではその銀貨を何にするかと聞けば、チヨツキの釦(ボタン)にすると云ふのだから、非凡な思ひつきには違ひない。成程さう云はれて見ると、この給仕のチヨツキの釦は悉(ことごとく)穴の明いた銀貨である。村田君はビイルを引掛けながら、日本へそのチヨツキを持つて行けば、きつと五十錢には賣れるぜなぞと、つまらない保證を與へてゐた。

 我我は食事をすませた後、下のサロンヘ降りて行つた。が、其處には寫眞の額や、安物の家具が並んでゐる外は、一人も客の姿が見えない。唯玄関へ出て見ると、石段の上の卓子(テエブル)のまはりには、ヤンキイの男女が五六人、ぐいぐい酒を煽りながら、大聲に唄をうたつてゐる。殊に禿頭(はげあたま)の先生なぞは、女の腰を抱いた儘、唄の音頭をとる拍子に、何度も椅子ごと倒れさうになつた。

 玄関の外には門の左に、玫瑰(メイクイ)の棚が出來てゐる。我我はその下に佇みながら、細かい葉の間に簇(むらが)つた、赤い花を仰いで見た。花は遠い電燈の光に、かすかな匂ひを放つてゐる。それが何だかつやつやと、濡れてゐると思つたら、何時の間にか暗い空は、糠雨に變つてゐるのだつた。玫瑰・微雨・孤客(こかく)の心――此處までは詩になるかも知れない。が、鼻の先の玄關には醉つ拂いのヤンキイが騒いでゐる。私はとてもこの分では「天鵞絨(びろうど)の夢」の作者のやうに、ロマンテイツクにはなれないと思つた。

 其處へ靜に門の外から、雨に濡れた轎子(けうし)が二つ、四人の駕籠舁(かごか)きに舁かれて來たそれが玄關へ横附けになると、まつさきに轎(かご)をくぐり出たのは、品の好(よ)い支那服の老人である。その次に玄關へ下りたのは、――私は正直に白狀すると、せめては十人並みの器量だと云ひたい。が、實際はどちらかとへば、寧ろ醜い少女である。しかし靑磁色の緞子(どんす)の衣裳に、耳環の水晶のきらめいてゐるのは、確に風流な心もちがした。少女は老人の指圖通り、出迎へた宿の番頭と一しよに、ホテルの中へはいつてしまふ。老人は後に殘つた儘、丁度來合せた我我の給仕に、轎夫の貸銀を拂はせてゐる。この光景を眺めてゐる内に、もう一度私は變節した。これならば谷崎潤一郎氏のやうに、ロマンテイツクになり了(おほ)せる事もどうやら出來さうな氣がしたのである。

 しかし結局運命は、私のロマンティシズムに殘酷だつた。この時突然玄關から、ひよろひよろ石段を下りて来たのは、あの禿頭の亜米利加人である。彼は同類に聲をかけられると、妙な手つきをして見せながら、ブラツデイ何とか返答をした。上海の異人はヴエリイの代りに、屢(しばしば)恐る可きブラツデイを使ふ。これだけでも既に愉快ぢやない。その上彼は危なさうに、我我の側へ立ち止まるが早いか、後を向けたなり、玄關へ傍若無人にも立小便をした。

 ロマンテイシズムよ、さようならである。私は陶然たる村田君と、人気のないサロンヘ引き返した。水戸の浪士にも十倍した、攘夷的精神に燃え立ちながら。

[やぶちゃん注:

・「東洋人(トンヤンレン)」“dōngyángrén”清代から中華民国初期の中国語で日本は「東洋」で(現在でも用いられる)、これは日本人の意である。

・「偕樂園主人」笹沼源之助(明治191886)年or1887年~昭和351960)年)当時、東京日本橋龜島町にあった日本最初の高級中華料理店偕楽園の店主笹沼源吾の長男。芥川にとっては東京府立第三中学校(現・都立両国高校)の先輩で、芥川のよきライバルであった谷崎潤一郎の竹馬の友にして生涯の盟友でもあったことから、多くの文人がこの店を利用した。

・「全家寶」諸注はこれを中華料理の料理名とし、多種の食材を用いたものとか(岩波版新全集注解)、雑多な素材のごった煮のことで『「支那風俗」には「全家福」とある』(筑摩版全集類聚脚注)とか記すのであるが、日本語のインターネット上にはそのような中華料理名が、いっかな検索をかけても出現しないのが不審である。筑摩版に言う本は、芥川が「上海游記」「十七 南國の美人(下)」でその書名を挙げている井上紅梅の「支那風俗」であろう。井上紅梅や「支那風俗」については当該リンク先を参照されたい。

・「穴の明いた銀貨を持つてゐたら、一枚くれろと云ふ」今から12年程前、私が敦煌へ旅した際、乗った鉄道で全く同じ経験をした。コンパートメントに入ってきた30歳前後の男性の客室乗務員が、少し勉強しているという片言の日本語で話しかけてきた。私は一般の中国人に話しかけられたのが、この時、初めてであったので、何だか嬉しくなって、ナプキンに李賀の「南山田中行」を書き記し、この詩人を知っていますかと尋ねた(今思えば、日本の高校の国語教師でさえ知らない奴がいる李賀を示すなぞ如何にもマズいコンタクト法であった)。首を横に振って、それでもかなり長い間、詩を見ながら「むつかしいね」を繰り返していた。途中、ポットのお湯を継ぎ足しに来た女性の乗務員に、僕の部屋のポットを開け、私の目の前で親指を突っ込んで(!)温度を見ると、「不要」と言ったのを覚えているから、相応な時間、それに眼を落としていたものと思う。そうしてやおら、その紙片を置くと、微笑んで「穴の開いたコインはありませんか?」と言った財布を探ると50円玉が出て来た。テエブルの上に置くと、「私、コインを集めています。いいですか?」と言われ、呆うけた顔で笑って頷いてしまった。彼は恭しく礼をしてそれを頂くと、謝謝を参度程連発しながら、コンパートメントを出て行った。私は実にこの顔とこの態度で何時も外国人に馬鹿にされるのだ、と後に昼寝から起きた妻に叱られた。穴開きコインは海外では人気が高い。19年前、初めての海外旅行でペルーはナスカの地上絵を見に行ったが、後からフライトした同行の友人達のセスナが戻ってくるまで、外をぶらついていると物売りのインディオのおじさん(といっても彼らは紫外線の影響で肌の老化が早いので、声が思い切り若かったから、きっと30代であったろうと思う)がやってきて、物も売らずに(!)単刀直入、「コイン、アナ! ノウ?」を連呼しつつ、真っ白な歯を出して笑いながら、懐からどこかの穴開き硬貨を出して僕に示した。これもまた、誰もいないところで、巨漢のインディオ、――呆うけた顔で笑って、財布を探って見るが、地球の反対側まで日本の穴開き硬貨の持ち合わせはないのである。ところが、はたと気づいた。私は新たに会心の笑みを浮かべると、財布の奥をごそごそと探った。そこには私が唯一入っていた死亡保険の業者がくれた鎌倉のピッカピカの銭洗弁天の御縁玉があったのだ。彼はそれを受け取ると、また真っ白な歯をむき出して確かに「アリガト!」と言うと、くるりと背を向けて走って行ってしまった。走らなくても、おっかけないよ……と内心、ちょっと淋しい気になりながら……無論、これを話した妻にはやはり怒られたことは言うまでもない――ちなみに、その頃でさえ、ナスカのセスナ発着所の待合室(ちっちゃなオアシスみたいな所で、沢山のハチドリが花の蜜を吸っていた)の売店には「売店」という巨大な漢字の看板がかかっていた。私と妻の乗ったセスナのパイロットが「こんな所に来るのはアメリカ人と日本人だけだ。」と言っていたのを思い出す――

・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。

・『「天鵞絨の夢」の作者』谷崎潤一郎。「天鵞絨の夢」は大正8(1919)年11月~12月に『大阪朝日新聞』に連載された谷崎潤一郎の作品。西湖湖畔に白壁を廻らした別荘がある。池の底には阿片窟、水中には美少女の舞――ここで淫楽の道具となっていた美しき奴隷達が語り織りなす、その主人の絢爛奇態な生活の謎解きの、妖艶なる物語である。

・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。

・「緞子」織り方に変化をつけたり、組み合わせたりして紋様や模様を織り出す紋織物の一種。生糸の経(たて)糸・緯(よこ)糸に異色の練糸を用いた繻子(しゅす:絹を繻子織り――縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず一般には縦糸だけが表に現れる織り方――にしたもの)の表裏の組織りを用いて文様を織り出した。「どんす」という読みは唐音で、室町時代に中国から輸入された織物技術とされる。

・「ブラツデイ」“bloody”は本来は“blood”由来の形容詞で、「血の(ような)」「血の出る」「血塗られた」「血まみれの」「血腥さい」「殺伐とした」「残虐な」「惨(むご)たらしい」の意であったが、口語の俗語として副詞化、「ひどい」「どえらい」即ち“very”の代りに現在でもしばしば用いられる。血の穢れを強く意識する日本人にしてみると、如何にも汚れた表現ではある。]


       
六 西湖(一)


 ホテルの前の棧橋には、朝日の光に照された、槐(ゑんじゆ)の葉の影が動いてゐる。其處に我我を乘せる爲に、畫舫(ぐわばう)が一艘繋いである。畫舫と云ふと風流らしいが、何處が一體畫舫の畫の字だか、それは未に判然しない。唯(ただ)白木綿の日除けを張つたり、眞鍮(しんちゆう)の手すりをつけたりした、平凡極まる小舟である。その畫舫――兎に角畫舫と教へられたから、今後もやはりさう呼ぶつもりだが、その畫舫は我我を乘せると、好人物らしい船頭の手に、悠悠と湖水へ漕ぎ出された。

 水は思つたより深くはない。萍(うきくさ)の漂つた水面から、蓮の芽を出した水底(みづぞこ)が見える。これは岸に近いせゐかと思つたが、何處まで行つても同じ事らしい。まあ、大體の感じを云ふと、湖水なぞと稀へるよりも、大水の田圃に近い位である。聞けばこの西湖なるものは、自然の儘任せたが最後、忽(たちまち)干上つてしまふから、水を外に出さないやうに、無理な工面がしてあるのだと云ふ。私は舟縁(ふなべり)に凭(よ)りかかりながら、その淺い水底の土に、村田君の杖を突こんでは、時時藻の間に泳いで來る、鯊(はぜ)のやうな魚を嚇かしたりした。

 我我の畫舫の向こうには、日本領事館のあたりから、湖の中に浮んだ孤山へ、連つてゐる。西湖全圖を按ずると、これは昔白楽天が築いた、白堤なるものに相違ない。尤(もつとも)石版刷の畫圖を見ると柳や何かが描(か)いてあるが、重修した時に伐られたのか、今は唯寂しい沙堤である。その堤に橋が二つあつて、孤山に近いのを錦帶橋と云ひ、日本領事館に近いのを斷橋と云ふ。斷橋は西湖十景の中、殘雪の名所になつているから、前人の詩も少くない。現に橋畔の殘雪亭には、淸の聖祖の詩碑が建つてゐる。その他楊鉄崖(やうてつがい)が「段家橋頭猩色酒」と云つたのも、張承吉(ちやうしやうきつ)が「斷橋荒蘚澁」と云つたのも、悉この橋の事である。――と云ふと博學に聞えるが、これは池田桃川(たうせん)氏の「江南の名勝史蹟」に出てゐるのだから、格別自慢にも難何にもならない。第一その斷橋は、ははあ、あれが斷橋かと遙かに敬意を表したぎり、とうとう舟を寄せずにしまつた。が、萍の疎らな湖中に、白白と堤の續いてゐるのは、――殊に其處へ近づい時、辮髮を垂れた老人が一人、柳の枝を鞭にしながら、悠悠と馬を歩ませてゐたのは、詩中の景だつたのに違ひない。私は楽天の西湖の詩に「半醉閑行湖岸東。馬鞭敲鐙轡玲瓏。萬株松樹靑山上。十里沙隄明月中。」云々とあるのは、たとひ晝夜を異にするにしても、髣髴出來るやうな心もちがした。勿論この詩も斷橋同樣、池田氏の本の孫引きである。

 畫舫は錦帶橋をくぐり拔けると、すぐに進路を右に取つた。左は即ち孤山である。これも西湖十景の中(うち)の、平湖の秋月と稱するのは、この邊の景色だと教へられたが、晩春の午前では致し方がない。孤山には金持の屋敷らしい、大きいだけに俗惡な、門や白壁が續いてゐる。其處を一しきり通り過ぎた所に、不思議にも品の好(よ)い三層樓があつた。水に臨んだ門も好ければ、左右に並んだ石獅(せきし)も美しい。これは何者の住居かと思つたら、乾隆帝の行宮(あんぐう)の址だと云ふ、評判の高い文瀾閣(ぶんらんかく)だつた。此處には金山寺の文字閣(鎭江)や、大觀堂の文※閣(揚州)と共に、四庫全書が一つづつ納めてある。おまけに庭を立派だと云ふから、一見の爲岸へ登つたが、どちらも凡人には見せてくれない。我我はやむを得ず岸傳ひに昔の孤山寺(こざんじ)、今の広化寺を瞥見してから、その先にある兪樓(ゆろう)へ行つた。[やぶちゃん字注:「※」=「匯」の「氵」を「匚」の左に外に出して偏とした字体。]

 兪樓は兪曲園(ゆきよくゑん)の別莊である。規模は如何にもこせついてゐるが、滿更惡い住居でもない。東坡の古址(こし)にちなんだとか云ふ、伴坡(ばんぱ)亭の後(うしろ)なぞも、竹や龍の髭の茂つた中に、藻の多い古池が一つあるのは、甚(はなはだ)閑寂な心もちがした。その池の側を登つて見ると、所謂曲曲廊(きよききよくろう)の盡きる所に、壁へ嵌めこんだ石刻(せきこく)がある。それが曲園の爲に描いた、彭玉麟(はうぎよくりん)の梅花の圖――と云ふよりも本郷曙町の、谷崎潤一郎氏の二階に懸つてゐた、凄(すさま)じい梅花の圖の原物だつた。曲曲廊の上の小軒(せうけん)、――扁額によれば碧霞西舍(へきかせいしや)を見た後(のち)、我我はもう一度山の下の、伴坡亭へ下つて來た。亭の壁にはべた一面に、曲園だの朱晦庵だの何紹基(かせうき)だの岳飛だの、いろいろの石刷(いしずり)がぶら下つてゐる。石刷もかう澤山あると、格別どれも欲しい氣がしない。その正面には額に入れた、髯の長い曲園の寫眞が、難有(ありがた)さうに飾つてある。私はこの家(や)の主人が持つて來た、一碗の茶を啜りながら、つらつら曲園の人相を眺めた。章炳麟(しやうへいりん)氏の兪先生傳によると、(これは孫引きをするのではない)「雅性不好聲色既喪母妻終身不肴食。」云々とある。成程そんな所も見えないではない。「雜流亦時時至門下此其所短也。」――さう云へば多少の俗氣(ぞくき)もある。事によると兪曲園は、この俗氣があつたおかげに、かう云ふ別莊を拵へてくれる、立派な御弟子たちが出來たのかも現に一點の俗氣も帶ない、玲瓏玉の如き我我なぞは、未に別莊を持つどころか、賣文に露命を繋いでゐる。――私は玫瑰(メイクイ)のはいつた茶碗を前に、ぼんやり頰杖をついた儘、ちよいと蔭甫(いんぽ)先生を輕蔑した。

[やぶちゃん注:5月3日。ここから「十一 西湖(五)」までは総てが一日の嘱目という形で叙述されており、実際にそうであったと思われる。

・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「畫舫」装飾や絵・彩色を施した中国の屋形船。遊覧船。

・「孤山」西湖の北部にある小島にある山(標高約38m)。断橋から白堤で繋がっている。以下で芥川が記すように、ここには西湖の名所旧跡が集中している。

・「西湖十景」は南宋の時に定めた西湖の名数(時代により異同があり、順序や表記も微妙に違うものがある)。以下に説明する。

○断橋残雪:白堤の東北の端にある断橋の残雪。後世、著名な異類婚姻譚である古伝承に基づく「白蛇伝」の幾多の小説・戯曲等で、その舞台として比定されために、十景の中ではもっとも知られている。

○平湖秋月:「平湖」は白堤の西端の水域を指す。その鏡のような湖面に秋の明月が映えるさま。

○曲院風荷:蘇堤の跨虹橋の西北に宋代官営醸造所である麹院(きくいん)があったが、そこはまた蓮花の名所でもあった。湖畔に曲折した蓮見台でもあったのかも知れないが、それ以上に「麹」の中国音が“”、「曲」の音が“”或いは“”であるから、やや特異な施設「麹院」を分かりやすい発音の似る「曲院」に変えたというのが真相ではあるまいか? ネット上には元は「麹院風荷」であったが、清の第4代聖祖(康熙帝 6541722)の勅命により「曲院風荷」と改名したとある。

○蘇堤春暁:蘇堤(命名は後人の知事による)の春の明け方。造営した蘇軾は堤に沿って沢山の柳と桃を植えたというから、春の景は美事であったろう。南宋の画家による命名。

○三潭印月:「三潭」は1089年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。現在のものは800年前のものとされ、高さ2mの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れると言う。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。天に印した真影、そして、この月影と、視野の可視範囲である灯籠の60°角及び120°角からの灯影が西湖に「印」された三つという謂いであろうか。

○花港観魚:宋代、西湖の西南の湖畔にあった内侍盧氏の個人の別荘盧園とその鯉を養殖した園池を原型とする。

○南屏晩鐘:呉越時代にルーツを持つ西湖南岸の南屏山麓に建つ古刹浄慈寺(じんずじ)の夕刻を告げる鐘の音。

○雷峰夕照:雷峰は浄慈寺の前にある丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔であるが、芥川が見た後、1924年に倒壊し、現在のものは2002年の新造。

○柳浪聞鶯(ぶんおう):「柳浪聞鸚」とも。南宋期、杭州城西清波門外の湖畔に皇帝の御苑である聚景園があり、春は園に植えられた柳に西湖の波風が吹き渡って、華麗に鶯が鳴く。

○双峰挿雲:もと「両峰挿雲」であったものを康熙帝が勅命で改名。双峰とは西湖西方に離れて南北に聳える南高峰(標高約257m)と北高峰(標高約314m)をいう。昔、西湖の西方にある霊隠路の洪春橋橋畔から、この二つの峰が中天の雲を刺し貫いて聳えるのを眺めるによい双峰挿雲亭というのがあったという記載を見かけたが、位置関係から考えると西湖の湖上に舟を浮べて西方の夕景を眺めるのが最も美観であるように思われる。

・「斷橋」は、孤山路の道はここまでであることから、道を断つ橋という名となったというが、唐代には段家橋と呼称したというから、「段」と「断」はどちらも“duàn”で、ここは音通でもあろう。

・「殘雪亭」現在、断橋近くには二つの亭があり、清の康熙帝及び乾隆帝が行幸した際に記したという二つの碑があるらしい。芥川は「清の聖祖の詩碑」としており、これは第4代康熙帝(16541722)のことであるから、その碑は前者のものとなるのだが、諸注は芥川の誤りで第6代高祖乾隆帝(1711799)の碑ととっている(筑摩書房版脚注では康熙帝の碑はここではなく三潭にあるとするのだが、中国の旅行社が作ったと思しい杭州・西湖の紹介サイト等の記事を見ると上記のような記載がある)。

・「楊鉄崖」本名楊維楨(12961370)、元末から明初の詩人・学者。鉄崖は号。1327年進士に登第、地方官に任ぜられたが、性狷介、出世には恵まれなかった。元末の兵乱から避難した後、銭塘に至り西湖の鉄治嶺に隠棲、湖山に周遊、江南文壇を支えた(晩年は松江に移住)。酒色に耽けり、「文妖」の異名も持つが、節を守って明には仕えなかった。岡本隆三「纏足物語」(福武書店)によれば、『彼は妓女の小さい靴で酒をすすめる趣味があったが、倪元慎はきれい好きだったのでこれをいやがり、それをみるたび怒って席を立った』とある。

・『「段家橋頭猩色酒」』は「段家(だんか)橋頭 猩色(せいしよく)の酒」で、「段家橋(=断橋:前の「斷橋」の注参照。)のたもとに 傾ける赤き葡萄酒」の意。

・「張承吉」本名張祜(ちょうこ)、晩唐の詩人(792?~852?)。盟友杜牧との交遊はよく知られている。岩波版新全集の神田由美子氏の注解では『各地を放浪し、特に淮南から江南の風物を愛して、晩年、丹陽(江蘇省鎮江府)に隠居した。『張処士詩集』五巻など』、とある。

・『「斷橋荒蘚澁」』は「斷橋 荒蘚澁(じふ)たり」で、「断橋橋畔には苔がびっしりと生えて通ることも出来ない」といった意味になるが、「澁」の字は如何にも苦しい気がする。岩波版新全集注解では正しくは「斷橋荒蘚合」とし、これならば「斷橋 荒蘚合す」で、「断橋橋畔には苔がびっしりと生えている」という枯れた分かりやすい情景描写となる。

・『池田桃川氏の「江南の名勝史蹟」』池田桃川は本名池田信夫(明治221889)年~昭和101935)年)、中国文学研究家。著書に「支那の古代文化と神話伝説」等。「江南の名勝史蹟」は上海日本堂書店大正101921)年刊、江南地方の主要な名所旧跡の紀行文。

・『楽天の西湖の詩に「半醉閑行湖岸東。馬鞭敲鐙轡玲瓏。萬株松樹靑山上。十里沙隄明月中。」』これは白楽天の「夜歸」と題する詩の前半部であるが、明治書院漢文大系100「白氏文集 四」より引く(本書は現在望み得る最も厳密に校訂された「白氏文集」であり、芥川の引用だけでなく、「全唐詩」等に載る既知の本篇とも異なっている。但し、書き下し・訳は全くの私のオリジナルである)。

 夜歸

半醉閑行湖上東

馬鞭敲鐙轡瓏璁

萬株松樹靑山下

十里沙堤明月中

樓角漸移當路影

潮頭欲廻滿江風

歸來未放笙歌散

畫戟門開蠟燭紅

○やぶちゃんの書き下し文

 夜歸(やき)

半ば醉ひて 閑(のど)かに行く 湖岸の東(ひんがし)

馬の鞭 鐙(あぶみ)を敲(たた)きて 轡(くつわ) 瓏璁(ろうそう)

萬株の松樹 靑山の下

十里の沙堤 明月の中(うち)

樓角 漸(やうや)く移る 路に當る影

潮頭 𢌞(かへ)らんと欲す 江に滿つる風

歸り來たるも 未だ笙歌(しやうか)の散んぜんとするを放(ゆる)さず

畫戟(がげき)の門開きて 蠟燭(らふしよく) 紅(くれなゐ)

○やぶちゃんの現代語訳

 夜の散歩

半酔の ままにのどかに行く道は 西湖東(ひんがし)岸辺の通り

鐙を鞭で ちょいちょいと 叩いちゃ拍子 軽く取り――執ったは 清らなその手綱(たづな)

緑なす 山の麓(ふもと)に延々と うち続いたる松の木々

遙に続く白砂(しらすな)の 堤(つつみ) 明(あき)らむ月の影

高楼(たかどの)の 尖った先も だんだんに 移り動ける 映る影

湖の 潮の頭(かしら)も だんだんに 岸を離れてゆかんとす――湖面に満ちる 涼の風

――さても醒むれば 我が館 戻って見れば まだ宵の 宴(うたげ)の後のざわめきの 名残り惜しやと うち続き

色とりどりの戟並ぶ その門 ぱんと開きしまま 紅き蠟燭(ろうそく)漏れ至る――

以下、簡単な語釈を附す。

○「瓏璁」は、白くはっきりとして清らかなこと。

○「靑山下」は、芥川の引用したように一本に「上」に作るが、底本は草書体の読取の誤りと推定する。

○「十里」の中国の「里」は、唐代の旧制であるから、1里=559.8mで、十里は5,598m。白堤は約1㎞であるから誇張も甚だしい。対句の誇張表現「萬株」に合わせた。

○「潮頭欲廻」は芥川が引用したように一本に「潮頭欲過」に作るが、底本注は恐らく誤りとする。

○「畫戟門」は彩色を施した儀式用の戟(矛の一種)を並べた役所の門。ここは杭州刺史であった白居易の官舎の門を言う。

・「平湖」白堤の西の水域。西湖の最大湖面部分を言う。

・「石獅」日本の狛犬。古代インドをルーツとし、日本へは中国から朝鮮を経て移入、そこから「高麗(こま)犬」と呼ばれるようになったとされる。

・「乾隆帝」清の第6代皇帝高祖(1711799)。

・「文瀾閣だつた。此處には金山寺の文字閣(鎭江)や、大觀堂の文※閣(揚州)と共に、四庫全書が一つづつ納めてある」[「※」=「匯」の「氵」を「匚」の左に外に出して偏とした字体。]清の乾隆帝の1741年の勅命によって編纂された中国史上最大の漢籍叢書「四庫全書」(完成は乾隆461781)年。経・史・子・集の4部に分類され、総冊数は36000冊に及ぶ)は、全書正本が7部と副本1部が浄書され、正本はそれぞれ文淵閣(北京紫禁城内)・文源閣(北京円明園)・文津閣(熱河避暑山荘)・文溯閣(ぶんそかく:奉天=現在の瀋陽)の内廷四閣、文匯閣(ぶんかいかく:揚州)・文宗閣(ぶんそうかく:鎮江)とこの文瀾閣(杭州)に収蔵され、副本は翰林院(皇帝専属の秘書室)に収められた。芥川は「文字閣」としており、岩波新全集の神田由美子氏の注解は「文宗(文字)閣」と記して、文宗閣の別名のように記載しているが、私はこれは芥川の誤りか誤植だと思う。なお「金山寺」については後の「二十六 金山寺」を参照されたい。

・「孤山寺、今の広化寺」唐代、白居易所縁の道林禅師という人物がここに招かれ、竹閣(これを芥川は島の名をとって孤山寺と言ったか)という禅寺を開いた。後に広化寺に改名している。

・「兪曲園」本名兪樾(ゆえつ 18211907)。曲園は号。清末の考証学者。1850年、進士に登第、翰林院編修・国史館協修を歴任後、咸豊帝からその博識を評価され、1855年には河南学政(省の教育行政長官)となったが、出題した科挙試について弾劾され、あっさりと官を退き二度と出仕しなかった。1875年に西湖湖岸のこの地を買い取り、彎曲した地形を巧みに使い、自ら設計して庭園を造った。曲園という号は「老子」第二十二章にある「曲則全。枉則直。」=「曲なれば則(すなわ)ち全(まった)し。枉(おう)なれば則ち直(ただ)し。」(曲がっているからこそ、全うすることが出来る。枉(まが)っているからこそ、正しい。)という逆説から取ったとするが、文字通りこの地形と庭園(この兪楼の庭を曲園と名付けている)にも掛けられているのであろう。晩年は杭州の詁経精舍(こきょうしょうじゃ:清朝の政治家・学者であった阮元(げんげん 17641849)が創立したで訓詁学の研究機関)で考証学を講義した。章炳麟は1890年にこの詁経精舎に入り、彼に師事した正統な弟子の一人であった(以上は主にウィキの「兪樾」を参照した)。

・「東坡の古址にちなんだとか云ふ、伴坡亭」筑摩全集類聚脚注・岩波版新全集注解共に兪楼内の亭とのみ記し(筑摩版には兪楼の西方にあるとする)、「東坡の古址」なる蘇軾の所縁についての記載はない。ネット上にも伴坡亭についての邦文の記載も見当たらず、不詳である。西湖にお詳しい方の御教授を乞う。

・「龍の髭」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。

・「曲曲廊」「所謂」とある以上、これは固有名詞ではなく、ただ曲折した廊下・階段のことである。

・「彭玉麟」(18161890)は、清末の軍人。湘軍の指揮官。太平天国の乱や清仏戦争の歴戦の名将であったが、画文にも優れた。詩集「彭剛直詩集」がある。

・「碧霞西舍」筑摩全集類聚脚注には『伴坡亭のことをこういった』とあり、神田由美子氏の岩波版新全集注解は一般名詞の注の必要を感じない「扁額」に注を附しておきながら、これを注さない。しかし、「扁額によれば碧霞西舍を見た後、我我はもう一度山の下の、伴坡亭へ下つて來た」と芥川は述べており、もしこれが伴坡亭であるなら、芥川は「山の下の」別な建物を伴坡亭を誤認したことになる。山下のごてごてに「石刷」を飾った建物と「曲曲廊」と山上の「小軒」全体が「伴坡亭」とも思われない。西湖にお詳しい方の御教授を乞う。

・「朱晦庵」儒学中興の祖である宋代の儒者朱熹(しゅき 11301200)の号。

・「何紹基」清の詩人・学者・能書家(17991873)。書では顔真卿を規範として篆・隷併せもった書風を打ち立てたとされる。

・「岳飛」南宋の武将(11031141)。度々侵略する金をよく防いだが、権力の奪取を恐れた宰相秦檜の謀略により獄死させられた。後にはその冤罪が雪がれ、彼の深い忠心をも称えて、武穆(ぶぼく)と諡(おくりな)され(「穆」は稲の実が熟することで、誠心に満ちた武人の鑑といった意味であろう)、次いで鄂王(がくおう)に封じられた。中国では神格化したスターであり、関羽と並んで祀られる。次の「八 西湖(三)」で芥川が詳述する。

・「石刷」拓本。

・「章炳麟」Zhāng Bĭnglín(ヂャン ビンリン 18691936)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは本文で本人が直接話法で語るように、彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅は生涯に渡って一貫して章炳麟に対し、師としての深い敬愛の情を示している(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。「上海游記」の芥川の会見録「十一 章炳麟氏」も参照されたい。

・「兪先生傳」書誌不明。章炳麟の著作物の中にある一篇なのかも知れない。芥川はこれに鍵括弧を附していないことからも、このような題名でさえなく、師を回顧した叙述の中の一部なのかも知れない。

・『「雅性不好聲色既喪母妻終身不肴食。」』は書き下すなら「雅(もと)、性(せい)、聲色(せいしよく)を好まず、既に母・妻を喪ひて、終身、肴食(かうしよく)せず。」で、『彼の人柄は、本来、華美で派手な芸能や女色を好まず、早くに母や妻を失ったことから、その後は節を守って肉を口にしなかった。』の意である。最後の「不肴食」はベジタリアンであったことを言うのであろう。

・『「雜流亦時時至門下此其所短也。」』は書き下すなら「雜流、亦、時時、門下に至る。此れ其の短とする所なり。」で、『(立派な文士も大勢その門下生にはいたが、)時々、種々雑多な人々も同様に、その門人になった。実にこれが先生の欠点である。』の意。伝記を綴る程に正統な門人を自負していたのであろう章炳麟にとっては、余程、鼻持ちならない似非文士の同輩が多かったということか。

・「蔭甫先生」「蔭甫」は兪曲園(兪樾)の字。]


       
七 西湖(二)


 その次に蘇小小の墓を見た。蘇小小は錢塘(せんたう)の名妓である。何しろ藝者と云ふ代りに、その後は蘇小と稱へる位だから、墓も古來評判が高い。處が今詣でて見ると、この唐代の美人の墓は、瓦葺きの屋根をかけた漆喰か何か塗つたらしい、詩的でも何でもない土饅頭だつた。殊に墓のあるあたりは、西冷橋の橋普請の爲に荒され放題荒されてゐたから、愈(いよいよ)索漠を極めてゐる。少時(せうじ)愛讀した孫子瀟(そんしせう)の詩に、「段家橋外易斜曛。芳草凄迷綠似裙。弔罷岳王來弔汝。勝他多少達官墳。」と云ふのがある。が、現在は何處を見ても、裙(くん)に似た草色(さうしやく)どころの騒ぎぢやない。掘り返された土の上に、痛痛しい日の光が流れてゐる。おまけに西冷橋畔の路(みち)には、支那の中學生が二三人、排日の歌か何かをうたつてゐる。私は匆匆(さうさう)村田君と、秋瑾(しうきん)女史の墓を一見した後(のち)、水際の畫舫へ引き返した。

 畫舫は岳飛の廟へ向ふ爲に、もう一度西湖へ漕ぎ出された。

 「岳飛の廟は好(い)いですよ。古色に富んでゐるですからね。」

村田君は私を慰めるやうに、曾遊(そういう)の記憶を話してくれた。が、私は何時の間にか、西湖に反感を持ち出してゐた。西湖は思つた程美しくはない。少くとも現在の西湖なるものは、去るに忍びざる底(てい)のものぢやない。水の淺い事は前にも云つた。が、その上に西湖の自然は、嘉慶道光の諸詩人のやうに、繊細な感じに富み過ぎてゐる。大まかな自然に飽き飽きした、支那の文人墨客(ぼくかく)には、或は其處が好(よ)いのかも知れない。しかし我日本人は、繊細な自然に慣れてゐるだけ、一應は美しいと考へても、再應は不滿になつてしまふ。が、もしこれだけに止まるとすれば、西湖は兎に角春寒(しゆんかん)を怯(おそ)れる、支那美人の觀だけはある筈である。處がその支那美人は、湖岸至る所に建てられた、赤と鼠と二色(いろ)の、俗惡恐るべき煉瓦建(だて)の爲に、垂死の病根を與へられた。いや、獨り西湖ばかりぢやない。この二色の煉瓦建は殆(ほとんど)大きい南京蟲のやうに、古蹟と云はず名勝と云はず江南一帶に蔓(はびこ)つた結果、悉(ことごとく)風景を破壞しゐる。私はさつき秋瑾女史の墓前に、やはりこの煉瓦の門を見た時、西湖の爲に不平だつたばかりか、女史の靈の爲にも不平だつた。「秋風秋雨愁殺人」の詩と共に、革命に殉じた鑑湖秋女俠(かんこしうぢよけふ)の墓門(ぼもん)にしては、如何にも氣の毒に思はれたのである。しかもかう西湖の俗化は、益(ますます)盛(さかん)になる傾向もないではない。どうも今後十年もたてば、湖岸に並び建つた西洋館の中に、一軒づつヤンキイどもが醉拂つてゐて、その又西洋館の前に、一人づつヤンキイが立小便してゐる、――と云ふやうな事にもなりさうである。何時か蘇峰先生の「支那漫遊記」を讀んでゐたら、氏は杭州の領事にでもなつて、悠悠と餘生を送る事が出來れば、大幸だとか何とか云ふ事だつた。しかし私は領事どころか、浙江の督軍に任命されても、こんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでゐたい。………………

 私が西湖を攻撃してゐる内に、畫舫は跨虹橋(ここうけう)をくぐりながら、やはり西湖十景の内の、曲院の風荷(ふうか)あたりへさしかかつた。この邊は煉瓦建も見えなければ、白壁を圍んだ柳なぞの中に、まだ桃の花も咲き殘つてゐる。左に見える趙堤の木蔭に、靑靑と苔蒸した玉帶橋が、ぼんやりと水に映つてゐるのも、南田(なんでん)の畫境に近いかも知れない。私は此處へ船が來た時、村田君の誤解を招かないやうに、私の西湖論へ増補を施した。

 「但し西湖はつまらんと云つても、全部つまらん次第ぢやないがね。」

 畫舫は曲院の風荷を過ぎると、岳王廟の前へ止まつた。我我は早速船を跡に、「西湖佳話」以来御馴染の、岳將軍の靈を拜みに出かけた。すると廟は八分(ぶ)ばかり、新しい壁を光らせた儘、泥や砂利の山の中に、改修中の醜さを曝してゐる。勿論村田君を喜ばせた、古めかしい景色なぞは何處にもない。唯燒け跡のやうな境内には、土方や左官ばかりがうろついてゐる。村田君はカメラを出しかけたなり、落膽したやうに足を止めた。

 「これはいかん。かうなつてはもう形なしだ。――ぢや墓へ行つて見よう。」

 墓は蘇小小の墓のやうに、漆喰を塗つた土饅頭である。尤もこれは名将だけに、蘇家(そか)の麗人のより餘程大きい。墓の前には筆太に、宋岳鄂王之墓(そうがくがくわうのはか)と書いた、苔痕斑斑(はんぱん)たる碑が立つてゐる。後(うしろ)の竹木の荒れたのも、岳飛の子孫でない我我には、詩趣こそ感ずるが、悲しい氣はしない。私は墓のまはりを歩きながら、聊か懷古めいた心もちになつた。岳王墳上草萋萋――誰(だれ)かにそんな句もあつたやうな氣がする。が、これは孫引きではないから、誰の詩だつたか判然しない。

[やぶちゃん注:5月3日。

・「蘇小小の墓」5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。後に美妓を皆この名で呼ぶが、実在した蘇小小の事蹟については確かなものは、

我乘油壁車 我は乘る 油壁車

郎乘靑驄馬 郎は乘る 靑驄(せいさう)の馬

何處結同心 何處(いづく)にか同心を結ばん

西陵松柏下 西陵の松柏の下(もと)

○やぶちゃんの書き下し文

我は乘る 油壁車

郎は乘る 靑驄(せいさう)の馬

何處(いづく)にか同心を結ばん

西陵の松柏の下(もと)

○やぶちゃんの現代語訳

私の乗るのは 色鮮やかな引き車

貴方の乗るのは 駿馬の白馬(あおうま)

貴方と私 どこで永遠(とわ)の契りを結べばよいの?

それは――あの西陵の 松柏植わった 墓の中――

という悲恋の古えの楽府の作者であるというだけである。現在の彼女の墓と伝えられるものは西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。

 実は私はここで、芥川龍之介への恨みを語りたい。正にここで、彼が愛読したはずの李賀の「蘇小小墓」の名吟を引用していれば、芥川と李賀の比較研究は、今頃、もっと深化していたであろうということである。しかし、『西湖に反感を持ち出してゐた』芥川にとって、最早この時そこは、幽冥の境としての幻視を全く許さない愚劣な噴飯物の現実となっていたのであった。ジャーナリストとしての彼の視点は正しかったにしても、私が愛してやまない稀代の幻想詩人、中国のランボーを、芥川龍之介にダイレクトに連結し得た一瞬は、ここにこそあった筈であると私は思うのである。誠に惜しいと言わざるを得ない。芥川龍之介と李賀――その確信犯的な結び付きは、芥川自身の言葉では遂に記されることがなく、言わば都市伝説(アーバン・レジェンド)のように芥川研究に見え隠れするばかりなのである。せめて私はここに李賀の、その「蘇小小墓」(原田憲雄氏は「蘇小小歌」とすべきと説かれている)を引用して注としたいのである(原文は1998年平凡社刊の原田憲雄訳注東洋文庫「李賀歌詩編1」を用いたが、書き下し文と現代語訳は私のオリジナルである。現代語訳には私の相応な思い入れもある)。

 蘇小小墓

幽蘭露

如啼眼

無物結同心

煙花不堪剪

草如茵

松如蓋

風爲裳

水爲珮

油壁車

久相待

冷翠燭

勞光彩

西陵下

風吹雨

○やぶちゃんの書き下し文

 蘇小小(そせうせう)の墓

幽蘭(いうらん)の露(つゆ)

啼(な)ける眼(め)のごとし

物として同心を結ぶ無く

煙花 剪(き)るに堪へず

草 茵(しとね)のごとく

松 蓋(かさ)のごとし

風 裳(も)と爲(な)し

水 珮(たま)と爲す

油壁車(いうへきしや)

久しく相(あひ)待つ

冷たり 翠燭(すゐしよく)

勞たり 光彩

西陵の下(もと)

風 雨を吹く

○やぶちゃんの現代語訳

 蘇小小の墓

荒蕪の蘭に置く露は

そなたの泣いた目もとである――

永遠(とわ)の契りを結び得る ところとても最早 ない――

されど霞めるその花を 無惨に剪(き)るが如くには 断てぬ哀しき縁(えにし)なる――

生い茂る草は ふうわり 敷布

古びた松柏は 雨風凌ぐ 羅蓋(らがい)となり

もの凄まじくして吹き抜く風は 絹より軽き裳の裾のさま

流れ流れる水の音(ね)は 数多(あまた)の佩び玉 触るる音(おと)

彼女の乗った 色鮮やかな引き車――

それは ずっと 待ち続けている――

冷たい 鬼火――

消えゆく 炎――

闇に堕ちゆく西陵の墓――

ただもう 風――ただもう 雨――

以下に、簡単に(李賀の詩は難解で多層的であるから、注を附すとなると無闇に長くなってしまうので)語注を附す(主に原田氏の注を参照した)。

○「幽蘭」「幽」は人気のない場所、「蘭」はキク目キク科ヒヨドリバナ属フジバカマEupatorium fortunei。「孔子家語」にこの花は人気のないところに咲きながら芳香を放つとすることから、ここでは名妓の節操の面目を言う。

○「物として同心を結ぶ無く」は、先に提示した楽府の「何處結同心 西陵松柏下」を受け、最早契りを結ぶべき場所は冥界にさえなくなったことを言う。

○「煙花 剪るに堪へず」の「煙花」は靄に包まれた果敢なく消えてゆく花で、ここは待てども来ぬつれない男との縁(えにし)をシンボライズし、しかしそれでもそれを切る(縁を断つ)に忍びない蘇小小の魂魄の切ない思いを謂う。

○「茵」を原田氏は後に出る蘇小小の魂魄が乗る幻の油壁車のクッションを言うとするが、私はダイレクトに男を待つ空しき褥(しとね)と読みたくなるのだが。

○「蓋」は車に付属した傘という。私は幻の閨の褥に差しかけられた羅蓋ととった。

○「水 珮と爲す」の「珮」は女性が腰に帯びた飾り玉で、「水」=河の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。

○「油壁車」は車の壁に漆で彩色を施した高貴な女子の専用車という。防水効果もあろうから、この雨露にぬれそぼった景には相応しいか。

○「風吹雨」一本に「風雨晦」(「風雨晦(くら)し」)とする。これだと、風雨のためにすっかり暗くなってゆく、でフェイド・アウトするが、原田氏はこれを「詩経」の一節を踏まえるとし、そこでは女が男に会える期待を余韻とする。しかし李賀の本詩では『舞台はすでに闇黒である。闇黒は自体が暗いので、それを「晦し」という必要はない』とし、ここでの蘇小小の魂魄の沈黙は『永遠の女性の、永遠のたたかいなのだ。この句は必ず「風吹雨」でなければならない』とされる。そのパッショネイトな見解に私は強く惹かれる。但し、優れた漢詩サイトである「詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「蘇小小墓 李賀」で、碇豊長氏はここを「風雨晦」で採り、注して『風雨晦:(蘇小小の魂の燐光も衰え、附け加えて)風雨で暗くなっている。』『ここを「風吹雨」ともするがその場合、韻脚がなくなる。どちらがより原初の形かを論じない場合、詩としては「風雨晦」の方が詩としては適切である』とされている。これもこれで説得力がある。

・「錢塘」は杭州の古名。秦代に会稽郡銭唐県が置かれたのが名の濫觴という。

・「西冷橋」は孤山の南側山麓にある。「西冷」というのはこの付近一帯の地名というが、更に「冷」ではなく「泠」が正しいという記載もネット上で見かけた。

・「孫子瀟」は元代の山水画の巨匠。本名孫君澤(生没年未詳)、子瀟は号。

・『「段家橋外易斜曛。芳草凄迷綠似裙。弔罷岳王來弔汝。勝他多少達官墳。」』は、題不詳。

○やぶちゃん書き下し文

段家橋外 斜曛(しやくん)し易し

芳草 凄迷 綠 裙(くん)に似たり

岳王を弔(ちやう)し 罷(や)みて來たり 汝を弔す

勝(まさ)る 他の多少の達官の墳

○やぶちゃん現代語訳

段家橋畔 日暮れが早い

かんばしき花――鬱蒼たる緑 それは 貴女の裳裾の色

岳鄂王を 墓参の後 蘇小小 貴女を弔った

参ってよかった 貴女の墓に――他のお偉い役人の 有り難くもない墓参るより――

因みに「段家橋」は、断橋のこと。孤山路の道はここまでであることから、道を断つ橋という名となったというが、唐代には段家橋と呼称したという(「段」と「断」はどちらも“duàn”で、ここは音通でもあろう)。「岳王」は岳飛。

・「秋瑾女史の墓」秋瑾(Qiū ĭn チィォウ チン 秋瑾 18751907)は清末の女性革命家。18歳で官僚に嫁したが、義和団運動に影響されて家庭を捨てて、日本に留学、革命を鼓吹するとともに、女性の自立を訴える文章を発表、明治381905)年の帰国後は教員をしながら、浙江省の革命秘密結社光復会の会員として本格的な革命運動に身を投じた。1907年、徐錫麟(じょしゃくりん 18731907)らとともに武装蜂起を計画したが失敗、同年7月、浙江省紹興軒亭口の刑死場で斬首処刑された。享年32歳。遺骨は各地を転々とし、処刑4年後の辛亥革命の後には、芥川が参った場所に移されて孫文の献辞も掲げられたが、その後、文化大革命で墳墓は荒らされ、遺骨も散逸した。文革後に遺骨の再追跡調査がなされ、再び西冷橋畔に建立されたという。従って現在のものは頗る新しいものである(秋瑾の事蹟は主に小学館「日本大百科全書」の伊藤昭雄氏の記載を参照した)。

・「岳飛の廟」は西湖北西岸に位置し、1221年に建立された。

・「嘉慶道光」1796年から1850年。「嘉慶」年間は清第7代皇帝仁宗、嘉慶帝(17601820)の在位期間(17961820)。「道光」年間は第8代皇帝宣宗、道光帝(17821850)の在位期間。政治的には清王朝に陰りが見え始める時期であるが、文学的には張問陶(17641814)・陳鴻寿(17681822)・陳文述(17711843)・龔自珍(きょうじちん 1792年~1841)といった清新な詩派が興隆した時期でもあった。

・「秋風秋雨愁殺人」「秋風秋雨 人を愁殺す」は秋瑾が紹興での処刑に臨んで詠んだ辞世のと伝えられている詩。

・「鑑湖秋女俠」秋瑾の号。「鑑湖」は紹興(秋瑾の原籍地)の南西にある湖の名。

・『蘇峰先生の「支那漫遊記」』徳富蘇峰(文久31863)年~昭和321957)年)の1906年の華南旅行に次ぐ、1917年9月~12月の二度目の中国行の紀行文で、朝鮮・華北・湖北・安徽の各地方に及ぶ旅行記。大正7(1918)年民友社刊。クレジットは本名の徳富猪一郎。

・「督軍」辛亥革命後、省長とともに各省に置かれた軍政長官。後には省長を兼任して行政権を握って軍閥の元を作った。

・「跨虹橋」蘇堤にある6つの橋の内、最も北に位置する橋の名。

・「西湖十景」前掲「六 西湖(一)」の同語注参照。

・「曲院の風荷」蘇堤の跨虹橋の西北に宋代官営醸造所である麹院(きくいん)があったが、そこはまた蓮花の名所でもあった。湖畔に曲折した蓮見台でもあったのかも知れないが、それ以上に「麹」の中国音が“”、「曲」の音が“”或いは“”であるから、やや特異な施設「麹院」を分かりやすい発音の似る「曲院」に変えたというのが真相ではあるまいか? ネット上には元は「麹院風荷」であったが、清の第4代聖祖(康熙帝 6541722)の勅命により「曲院風荷」と改名したとある。

・「趙堤」筑摩全集類聚版には裏湖(蘇堤によって仕切られた西側の狭い部分。現在はこの南の大半部分を西里湖と呼ぶようである)の西岸にあるとし、『蘇堤と垂直になっている』と記す。中文ネット上の地図では拡大すると字が潰れて判読出来ないが、さる中文サイトの西湖の詩をや芥川の叙述から判断して、蘇堤の北の端に近いところにある、西から伸びた半島状の先にある堤であるらしい(その北を岳廟があるので岳湖と呼ぶ)。

・「玉帶橋」岳湖と裏湖(西里湖)の間に架かる橋の名。私はこれが蘇堤と先の趙堤を結ぶ橋であると思ったのだが、筑摩全集類聚版脚注では『蘇堤の東浦橋より裏橋の堤につうじる金沙堤にある橋』とあり、訳が分からなくなった。それ程広い地域でないので、余程短い地域に複数の地名が配されているのか? 西湖にお詳しい方の御教授を乞う。

・「南田」惲寿平(うんじゅへい 16331690)は清代前期の画家。南田は号。詩・書・画共に優れて「三絶」と称せられた。山水画の名手。芥川龍之介は彼の画風を好み、大正9(1920)年の小説「秋山図」にも彼を登場させている。

・『「西湖佳話」』は正式書名「西湖佳話古今遺蹟」で、清代初期に成立した短編小説集。編者古呉墨浪子(古ごは杭州の謂い)は人物未詳。西湖の名勝旧跡に纏わる16篇の物語を史伝・説話・伝承から翻案したもの。

・「宋岳鄂王之墓」岳飛は死後、冤罪が雪がれ、鄂王(がくおう)に封じられたため、岳鄂王と呼ばれた。「鄂」は現在の湖北省の長江南岸、鄂州市の西にある武昌市(現在の鄂州市ではない)の古名。

・「岳王墳上草萋萋」は「岳王墳上 草 萋萋(せいせい)」と読む。「萋萋」は草木が生い茂ること。芥川は失念しているが、これは南宋末から元初の政治家にして文人であった趙孟頫(ちょうもうふ 12541322)の詩「岳鄂王墓」の一節である。岩波版新全集の神田由美子氏の注解には、芥川が先に掲げた古呉墨浪子著の「西湖佳話」の一篇である『「岳塡忠蹟」は、この詩で結ばれている。正しくは「岳王墳上草離離」。』とある。「離離」は「萋萋」と同義。]



       八 西湖(三)


 岳飛の墓前には鐵柵の前に、秦檜(しんくわい)張俊等(ら)の鐵像がある。像の格好を按ずると、面縛された所に違ひない。何でも此處に詣でるものは、彼等の姦を憎む爲に、一一これらの鐵像へ、小便をひつかけて行くさうである。しかし今は仕合せと、どの鐵像も濡れてゐない。唯そのまはりの土の上に、靑蠅が何匹も止まつてゐる。それが僅かに遠來の私に、不潔な暗示を與へるだけだつた。

 古來惡人多しと雖も、秦檜程憎まれたものは滅多にない。上海あたりの往來では確か字では油炸塊(ユツアコイ)とか云ふ、棒のやうな油揚を賣つてゐる。あれも宗方(むなかた)小太郎氏の説によると、秦檜の油揚と云つたつもりだから、油炸檜(ユツアコイ)と云ふのが本名ださうである。一體民衆と云ふものは、單純なものしか理解しない。支那でも關羽とか岳飛とか、衆望を集めてゐる英雄は、皆單純な人間である。この特色を具へてゐない限り、如何に不世出の英雄でも、大向うには持て囃されない。たとへば井伊直弼の銅像が立つには、死後何十年かを要したが、乃木大將が神樣になるのは殆(ほとんど)一週間も要さなかつたやうなものである。それだけに又敵になると、かう云ふ英雄の敵は憎まれ易い。秦檜は如何なる惡因縁か、見事にこの貧乏鬮(くじ)を引いた。その結果御覧の通り、中華民國の十年にさへも、散散な取扱ひを受けてゐる。私もこの新年の「改造」に、「將軍」と云ふ小説を書いた。しかし日本に生れた難有(ありがた)さには、油揚の憂目にも遇はなければ、勿論小便もひつかけられない。唯一部分伏せ字になつた上、二度ばかり雜誌の編輯者が當局に小言を云はれただけであつた。

 次手どの位秦檜と云へば憎惡の的になつてゐたか、――その間の消息を語るべきコントを一つ紹介しよう。これは淸人景星杓(けいせいしやく)の「山齋客談(さんさいかくだん)」の中の話である。

         *    *    *    *    *

 「何年前になりますか? 私が江上の或寺に、讀書かたがた住んでゐた時です。突然隣家の婆さんに、何か鬼物が乗り移りました。」

 嚴曉蒼(げんげうさう)は話し出した。

 「婆さんは白眼を吊り上げたなり、一家の男女(なんによ)を睨み廻しては、頻にかう罵るのです。――わが輩は冥道押使(めいだうあふし)だぞ。今秦檜の魂を押しながら、閻王の府へ赴いた還りだが、途中此處を通りかかると、この死損ひの婆あの爲に、汚れ水を着物にかけられた。何とか扱ひをつければよし、さもなければこの婆あは閻王の御前(おんまへ)へ引きずつて行くぞ。

 「一家の男女は仰天しました。が、婆さんについたのは、實際冥土の使かどうか、それをまづ確める爲に、いろいろ問答をして見たさうです。すると婆さんは不相變、傲然と正面にかまへながら、何でもはきはき返答をしました。して見れば鬼使(きし)に相違ない。――かう云ふ事になりましたから、一家の男女はとりあへず、紙錢に火をつけるやら、地に酒を注ぐやら、百方祈願を凝らしました。御承知の通り冥土の下役(したやく)も、人界の下役と同じやうに、賄賂を使ひさへすれば無事なのです。

 「婆さんは少時(しばらく)たつた後、ばつたり其處へ倒れました。が、ぢきに起き上つた時には、もう鬼使も去つたのでせう、唯きよろきよろするばかりだつたのです。鬼に憑かれる、――それは珍しい事でもありますまい。が、婆さんに乗り移つた鬼は、一家の男女の問を受けると、こんな幽冥の事も話したさうです。

 「問。――秦檜は一體どうなりましたか? 御差支なければ御教へ下さい。

 「答。――秦檜も今は輪廻の果に、金華の女に生れてゐる。それが今度大膽にも、謀夫の罪を犯したから、磔(はりつけ)の刑に處せられたのだ。

 「問。――しかし秦檜は宋の人ではありませんか? 金元明の三朝を閲した後(のち)、やつと罪を正されると云ふのは、遅過ぎるやうに思ひますが。

 「答。――檜賊(くわいぞく)は、恣(ほしいまま)に和議を唱へ、妄(みだり)に忠良を屠戮(とりく)した。兇惡も亦甚しい。天曹(てんさう)はその罪を憎む餘り、磔刑(たくけい)三十六度、斬首の刑三十二度の判決を與へた。合計六十八度の刑は、さう手輕にすむものではない。

 「まあ、かう云ふ調子なのです。秦檜の罪憎むべしとは云へ、氣の毒なものではありませんか?」

 嚴曉蒼が嚴灝庭(げんかうてい)先生の曾孫(そうそん)である。決して譃をつくやうな人ではない。

[やぶちゃん注:5月3日。

・「秦檜」は南宋の宰相(10901155)。侵攻を繰り返す金に対して和平工作を進めて講和を結んだが、内政では、主戦論を唱え実際に善戦した岳飛を謀略に陥れ、獄死させたことから、後世、売国奴の汚名を蒙ることとなった。ここの岳廟の鉄柵の中には、実は秦檜の妻の像がある。これについて以上の記載を参照したウィキの「秦檜」には、以下の記載がある。『秦檜自身も岳飛を殺すことについては大いに悩んだが、妻にうながされて殺すことを決意したという。そのため、岳飛を殺したのは秦檜夫妻だとみなされており、岳王廟には夫婦の像が縄に繋がれる姿で置かれている。以前の中国にはこの像に唾を吐きかける習慣があった(現在では「像に唾を吐いたり、叩いたりしてはならない」という掲示がある)。』(一部の衍字を削除した)とある。

・「張俊」は南宋の政治家(10971164)。「照鏡見白髪」で知られる唐代の詩人にして名臣張九齢の弟の子孫である。優れた軍師として主戦論を唱え、よく金軍と善戦したが、年下の辣腕将軍岳飛とそりが合わず、軍役ではことあるごとにぶつかって、遂には秦檜に岳飛を讒訴するに至った。岳飛の冤罪の元を作ったことから秦檜と並んで売国奴の汚名を蒙ることとなったが、ウィキの「張俊」には、終始、正統な主戦論で国防を唱え、敵の金の、皇族にして南宋攻略の将軍であった粘没喝(ねんぼっかつ 10791137)をして『「中国で自分の敵となりうるのは張浚だけである」と言い、四川を取る望みを絶つよう本国に遺言』せしめたとある通り、軍師としての才能は抜群であった。

・「油炸塊(ユツアコイ)」“yóuzhàkuài”「炸」は火薬で爆発させる意以外に、中華料理の調理法でも有名な通り、油で揚げる、の意を持つ。現在でも中華菓子として知られる細長い揚げパン風のもの。ちぎって粥に入れ食う。現在は油条というのが一般的。現在の正確なカナ表記の発音は「イォウチアコアイ」となる。

・「宗方小太郎」(文久3・元治元(1864)年~大正131924)年)は、所謂、大陸浪人の一人。肥後の細川の支藩藩士の長男として現在の熊本県宇土市に生まれた。日清戦役に従軍後、中国に凡そ40年滞在、孫文らと親交を結び、当時の政治・改革運動の内奥にも精通した。上海通信社の創業、上海日清貿易研究所設立及び東亜同文会とその教育機関である東亜同文書院の創立に関わる等、日本の大陸政策を陰で支えた策士である。

・「油炸檜(ユツアコイ)」“yóuzhàguì 現在の正確なカナ表記の発音は「イォウチアコェイ」となる。確かに似て、面白い。中国古代の刑罰には熱した油の入った釜で煮られる刑があったとする。

・「關羽」後漢末の劉備に仕えた武将(?~219)。「三国志演義」で知られるが、その伝説的武勇と信義節操の堅実さから、後世、神格化して関帝となった。岳飛とともによく祀られる(各地の中華街でよく見られるのは彼が特に商売の神として崇められるからである)。

・「中華民國の十年」この芥川渡中の年、1921年。大正10年。

・「この新年」大正111922)年1月。

・『「將軍」』大正111922)年1月発行の『改造』に掲載された。後、作品集『将軍』『沙羅の花』『芥川龍之介集』に所収された。

・「一部分伏せ字になつた」試みに私が数えたところでは「二 間諜」に2箇所5文字分「×」がある他は、総て「一 白襷隊」に集中する(他の「三 陣中の芝居」「四 父と子と」にはない)。「一 白襷隊」冒頭の「第×師團第×聯隊」を除くと(凡そ3,100人からなった中村覚少将により組織された同突撃隊は編入された第三軍の各師団から選ばれた人員による特別支援部隊で、「第×師團×聯隊」はその複数の同一連隊出身の白襷隊員を指しているから、ここは芥川自身が「×」としたものと判断される。以下本文中の「第×聯隊」も同様に判断すると)、「一 白襷隊」の中で14箇所ジャスト100字分が伏字「×」となっている。現在、原稿は存在せず、伏字は復元出来ない。実は、私は今、不遜にもこの推定復元作業を目論もうと考えている。

・「淸人景星杓」景星杓(16521720)は清代の書道家・学者。若き日には放蕩の限りを尽くして家産を傾けたが、後、学に励み、書道家として名を成した。詩文も好くした。また、菊の栽培に凝り、自ら菊公と号した。

・『「山齋客談」』正しくは「山齋客譚」。景星杓の随筆集。8巻。怪異譚を多く載せる模様。

・「江上」ここは長江のほとり、の意。

・「嚴曉蒼」不詳。ネット検索でも不発。諸注でも不詳。後掲の「嚴灝庭」と共に識者の御教授を乞う。

・「冥道押使」は、閻羅庁に罪人を引き立てて行くことを職務とする冥界の官職名。

・「秦檜の魂を押しながら」の「押す」は、強制する、の意で、秦檜の魂を追い立てながら、という意味である。

・「鬼使」冥界の役人。「鬼」は死者の意であって、まがまがしい「鬼」ではない。

・「紙錢」紙を現行の銭の形や紙幣に似せて切ったもの。十王思想(後の「判官」の注参照)の中から生れたものと考えられ、副葬品としたり、法事の際に燃やして死者の冥福や、自身の来世での来福を願うために用いた。現代では実際の紙幣と類似した印刷物も用いられるが、近年、中国共産党は旧弊として禁じたというニュースを聞いている。

・「金華」浙江省の地名。私の大好きな金華火腿“jīnhuáhuŏtuĭ”(ヂンホアフオトェイ 金華ハム)の名産地。

・「謀夫の罪」広く夫を騙す罪の謂いで、必ずしも間男との姦淫を指すわけではないようである。

・「秦檜は宋の人」秦檜は宋の宰相で1155年に65歳で没している。

・「金元明の三朝を閲した後」中国の北半分を支配した女真族の王朝である金王朝(11151234)、その金と南宋を滅ぼして中国を統一した元王朝(12711368)、その後の明王朝(13681644)を経過して後の意で、この話自体は更にその後の清朝での出来事(作者景星杓の生没年から考えて1650年代後半か)であるから、500年を軽く越えてしまう時間経過を言う。

・「檜賊」は「賊」は卑小の接尾語。檜というあの盗っ人野郎、の意。

・「天曹」「曹」は裁判官。天界の裁判官の意。ここでは閻羅庁の地獄の裁判官の代表たる閻魔王であろう。

・「嚴灝庭」不詳。ネット検索でも不発。諸注でも不詳。芥川の翻訳の内容からすれば、こちらは清代の実在した知られた人物でないとおかしい。それともこれもまた景星杓の都市伝説的虚構的手法なのか。識者の御教授を乞う。]


       
九 西湖(四)




 岳王廟に詣でた後(のち)、我我は又畫舫を浮べながら、孤山の東岸へ返つて來た。其處には槐(ゑんじゆ)や梧桐(ごとう)の蔭に、樓外樓の旗を出した飯館がある。「讀賣新聞」に出た紀行によると、武林無想庵(たけばやしむさうあん)氏の新夫妻は、この樓外樓で食事をしたらしい。我我も船頭の勧め通り、この店の前の槐の下に、支那の晝飯(ひるめし)を食ふ事にした。が、私の前に坐つてゐるのは、押川春浪の冐險小説を愛讀した結果、中學時代に家を拔け出して、何とかといふ軍艦の給仕になつて、八月十日の旅順の海戰に、砲火の下をくぐつ來たとか云ふ、蠻骨稜稜とした村田君である。私は料理を待ちながら、村田君には内證だつたが、ひそかに無想庵氏を羨望した。

 我我の卓子(テエブル)は前に云つた通り、枝をさし交した槐の下にある。前にはぢき足もとに、西湖の水が光つてゐる。その水が絶えずゆらめいては、岸を塞いだ石の間に、音を立ててゐるの物優しい。水際には靑服(あをふく)の支那が三人、――一人は毛を拔いた鷄を洗ひ、一人は古布子(ふるぬのこ)の洗濯をし、一人はやや離れた柳の根がたに、悠悠と釣竿をかまへてゐる。と思ふとこの男は、急に釣竿を高くあげた。綸(いと)の先には鮒が一匹、ぴんぴん空中に芋に跳ね返つてゐる。――かう云ふ光景は春光の中に、頗(すこぶる)長閑(のどか)な感じを與へた。しかも彼等の向うには、縹渺(へうべう)とした西湖が開いてゐる。私は確かに一瞬間、赤煉瓦を忘れ、この平和な眼前の景色に、小説めいた氣もちを起す事が出來た。――石碣村(せきけつそん)の柳の梢には、晩春の日影が當つてゐる。阮小二(げんせうじ)は、その根がたに坐つた儘、さつきから魚釣りに餘念がない。阮小五は鷄を洗つてしまふと、庖丁をとりに家の中へはいつた。「鬢(びん)には石榴(ざくろ)の花を插し、胸には靑き豹を刺(いれずみ)し」た、あの愛すべき阮小七は、未に古布子を洗つてゐる。其處へのそのそ歩み寄つたのは、――

 智多星(ちたせい)呉用(ごよう)でも何でもない。大きい籃(かご)に腕をかけた、甚(はなはだ)散文的な駄菓子賣である。彼は我我の側へ來ると、キヤラメルか何か買つてくれろと云ふ。かうなつてはもうおしまひである。私は水滸傳の世界から、蚤のやうに躍り出した。天罡地煞(てんかうちさつ)百八人の中にも、キヤラメルを賣る豪傑は一人もゐない。のみならず今は湖水の上にも、まつ白に塗つたボオトが一艘、四五人の女學生に漕がれながら、湖心亭の方へ進んでゐる!

 十分の後、我我は老酒を啜つたり、生姜煮の鯉を突ついたりしてゐた。すると其處へ又畫舫が一艘槐の蔭に横づけになつた。岸へ登つた客を見れば、男が一人、女が三人、男女いづれとも判然しない、小さい赤ん坊が一人である。女の一人は身なりを見ると、乳母か下女の類らしい。男は金縁の眼鏡をかけた、(如何にも不思議な因縁だが)無想庵氏に似た大男である。跡に殘つた二人の女は、きつと姉妹(きやうだい)に違ひない。それが二人共同じやうに、桃色と藍と縞になつた、セル地の衣裳(イイシヤン)を一着してゐる。器量も昨夜(ゆうべ)見た少女よりは、少くとも二割方美しい。私は箸を動かしながら、時時彼等へ眼をやつた。彼等は隣の卓子に、料理の來るのを待つてゐる。その中でも二人の姉妹だけは、何かひそひそ話しながら、我我へ流眄(りうべん)を送つたりした。尤もこれは嚴密に云ふと、食事中の私を映すとか云つて、村田君がカメラをいぢつてゐる――其處が御目(め)にとまつたのだから、餘り自慢にもならないかも知れない。

 「君、あの姉(ねえ)さんの方は細君だらうか?」

 「細君さ。」

 「僕にはどうもわからない。支那の女は三十を越さない限り、どれも皆御嬢さんに見える。」

 そんな話をしてゐる内に、彼等も食事にとりかかつた。靑靑と枝垂れた槐の下に、このハイカラな支那人の家族が、文字通り嬉嬉と飯を食ふ所は、見てゐるだけでも面白い。私は葉卷へ火をつけながら、飽かずに彼等を眺めてゐた。断橋、孤山、雷峰塔、――それ等の美を談ずる事は、蘇峰先生に一任しても好(よ)い。私には明媚な山水よりも、やはり人間を見てゐる方が、どの位愉快だか知れないのである。

 しかし何時(いつ)までも彼らの食事に敬意を拂つてゐる訣にも行かない。我我は勘定を拂つた後、三譚の印月へ出かける爲に、早速畫舫の客になつた。三譚の印月は孤山から見ると、丁度向う岸に近い島のほとりにある。島の名は何と云ふのだか、これは西湖全圖にも池田氏の案内記にも記してない。唯この島の近所には、東坡が杭州の守(しゆ)だつた時、みをつくしの爲に建てたと云ふ、石塔が三つ殘つてゐる。その石塔が月明の夜には、水面に三つの影を落す、――と云ふ事だけは確である。舟は可也長い間、靜かな湖水を漕ぎ續けてから、やつと柳と蘆との深い、退省庵前(ぜん)の棧橋に着いた。

[やぶちゃん注:5月3日。【二〇一二年十一月四日追記Ⅰ】正に、この章のシークエンスで語られている通りに(!)芥川龍之介が写っている写真を二種複数枚、中文ネット上にて発見した(撮影者は同行者村田孜郎としか考えられず、彼は昭和二〇(一九四五)年に逝去しているから、本邦の著作権上ではこの写真はパブリック・ドメインである)。少なくとも私は、この芥川龍之介の西湖樓外樓前の写真を今迄、見たことはなかった。それだけに驚天動地であった。



 まずこの①は、まさに『樓外樓の旗を出した飯館』『の前の槐の下に』『卓子(テエブル)』に西湖を向いて腰かけている芥川龍之介である。



 次の②は、前よりもずっと近い位置で①と同じテーブルの芥川を写しており(背後の「●●全席」という樓外樓入口左の牌及び、その奥にある建物の外壁とポールや木立が①の背景と完全に一致するから間違いない)、その向こうのテーブルには①ではいない人物が何人かがこちらを気にしながら写っている。これは正しく第四段落目のシーンと思しい。奥のテーブルにいる人物は手前に『男女いづれとも判然しない、小さい赤ん坊が一人』、その左右に女性が二人、奥の西湖寄りに帽子を被った『男が一人』確認出来る。写真の解像度が低いためによく分からないが、この男は一番奥の人物でありながら顔が大きく、しかも首の下から左肩のカーブを見る限り、『大男である』。また、仔細に見ると眼窩の滲みの部分がやや大きく黒ずんでおり、金縁眼鏡ならばレンズで光が飛んでこのような滲みを起こようにも思われ、『金縁の眼鏡をかけ』ていない、とは言えない。しかも芥川側の女性は『桃色と藍と縞になつた、セル地の衣裳(イイシヤン)』という表現に頗る近い独特の服を着ており、しかも(!)彼女は『流眄(りうべん)を送つ』ているようにも、また『食事中の私を映すとか云つて、村田君がカメラをいぢつてゐる――其處が御目にとまつた』のでカメラの方を向いているようにも見える。更に写真ではその家族の奥に立っている人物が見えるが、これは男性のように見え、この家族とは関係がないように思われる。寧ろ、テーブルの西湖側の女性(これが『乳母か下女』と芥川が推理した人物であろう)の奥、主人風の男自身から右隣の位置、若しくは赤ん坊の頭の向こうの男自身から左隣の位置、そして芥川側の女性の奥の位置、以上の三箇所が空席であるかどうかが疑わしい。赤ん坊の頭の向こうには背の低い人の頭部のようなものや肩のような出っ張りが写っているようには見える。但し、私は実は、最後の芥川側の女性の奥位置にもう一人座っているのではないかと疑っているのである。もし、もう一人の女性が芥川が述べている通り、『二人の女は、きつと姉妹(きやうだい)に違ひない。それが二人共同じやうに、桃色と藍と縞になつた、セル地の衣裳を一着してゐる』のだとすれば、手前の芥川寄りの女性の左手と胸との間及びその左手の有意な向こう奥に、実は芥川寄りの女性の衣服と『同じやう』な色の滲みが垣間見えるのは――これは彼女の右腕の一部などではなく――彼女の向こう側に、彼女と全く同じ模様の服を来た『姉妹』と見紛う、ほぼ同じ背丈の女性が、もう一人いる――ということを示唆しているように思われるのである。芥川はまた、『私は箸を動かしながら、時時彼等へ眼をやつた。彼等は隣の卓子に、料理の來るのを待つてゐる。その中でも二人の姉妹だけは、何かひそひそ話しながら、我我へ流眄(りうべん)を送つたりした』と述べている。普通に『ひそひそ話』が無理なく出来る最も自然な位置関係は、その二人が殆ど身を寄せて並んで座っている場合であるから、この位置に二人並んでいるというのは、その点からも最も相応しいと言えるのである。
 何れにせよ、この①と②の写真は、まるでこの「九 西湖(四)」のための組写真と言ってもよい、稀有の画像である。原版かもっと版の大きいものがあれば、これらの私の推理が正しいかどうかが分かるのだが、実に残念ではある。この写真の原版や、より大きな版を所持される方の御意見を俟つものである。【二〇一二年十一月四日 追記Ⅰ 終】
【二〇一二年十一月四日 追記Ⅱ】実は先月、上記のⅠの画像について、以前から協力して貰っている中国上海在住の教え子T.S.君が実地検証を行ってくれた消息文を以下に続けて示す。


楼外楼前で村田氏が撮影したと思われる芥川の写真と同じ地点、同じアングルでの撮影に挑戦しました。それが以下の写真です。楼外楼は旧館の西側に新館ができていますが、これは旧館の前です。日除け棚、建物、木々の様子などが昔とは異なりますが、西湖畔の通りのカーブの形が往時を偲ばせます。九十一年前、芥川は確かにここで食事を取ったに違いありません。


彼の消息には他にも西湖の写真や彼の捉えた西湖の情感が語られてあった。私はT.S.君のお蔭で、芥川龍之介が見、しかも未だ私の見ぬ西湖の景観を、彼の心眼を通して味わうことが出来た。ここに謝意を表したい。【二〇一二年十一月四日 追記Ⅱ 終】
【二〇一二年十一月七日 追記Ⅲ】やはりT.S.君の撮った樓外樓菜館前の西湖の面影である。


T.S.君の消息文には『龍之介はこの景色を目にしたのです。この通りはまさに白堤の延長上にあるので、白堤自体を見ることはできません。南にはるかに広がる西湖の湖面を見渡すことができます』とある。【二〇一二年十一月七日 追記Ⅲ 終】

・「梧桐」本邦のビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科アオギリ
Firmiana simplexと同一種。東南アジア原産の落葉高木。街路樹によく用いられる。

「樓外樓」西湖湖畔に現在も建つ杭州料理の名店。1914年創業(リンクは中文(英文あり)のズバリ樓外樓のHP)。

・「飯館」中国語で料理店(レストラン)のこと。「餐館」とも。ご承知の通り「飯店」となると旅館(ホテル)の意となる。

・「武林無想庵」小説家・翻訳家(明治131880)年~昭和371962)年)本名、磐雄(いわお)後に盛一と改名。大正9(1920)年5月に再婚、中国に新婚旅行をした。神田由美子氏の岩波版新全集注解によると、夫妻は立ち寄ったものの樓外樓では食事をしていないとし(その実証は該当注を読まれたい。私としては諸注の安易な引用は避けて先人の発見と著作権は十分に守りたいと思う)、更に芥川の西湖での描写には、この武林無想庵が大正9(1920)年の夏に『読売新聞』に連載した「放浪」と題する紀行文の影響が顕著に見られることを挙げられている(武林のどのような表現が芥川のどの箇所に影響を及ぼしているかは是非とも該当注を読まれたい)。ちなみに、私は次に芥川が記す押川春浪なら幾つも読んだし知っている(だから「江南游記」最初の冒頭注で申し上げた通り、押川春浪の注は施さないのである)が、怠惰にしてこの人のものは読んだことがないので語りようもない。

・「八月十日の旅順の海戰」日露戦争の黄海海戦のこと。明治371904)年8月10日に、東郷平八郎大将率いる大日本帝国海軍連合艦隊はロシア帝国海軍太平洋艦隊を破った海戦(但し巡洋艦3隻の撃沈に留まり、主力艦を葬ることが出来なかった点で日露戦争史上では失敗とされるようである)。

・「蠻骨稜稜」「蠻骨」は蛮勇の気質、バンカラな格好、の意。「稜稜」は角張って勢いのある様子を言う。如何にもがっしりとして筋肉質で、物怖じしない風体バンカラな様を言う。

・「石碣村」「水滸伝」の主な舞台となる、梁山泊(現在の山東省済寧市梁山県にあった巨大な沼沢地)の石碣湖岸の村名。

・「阮小二」は、後の「阮小五」「阮小七」と共に、「水滸伝」中の人物。石碣村阮氏三兄弟の長兄。石碣湖の漁師であったが、呉用から生辰綱(せいしんこう:北京知事から宰相に送られた誕生祝いの献上品。)強奪の誘いを受けて、二人の弟と共に参加、梁山泊に入ってからは元漁師の手腕を生かして水軍の頭領として活躍する。

・『「鬢には石榴の花を插し、胸には靑き豹を刺し」』ネット上の「水滸伝」ファンのサイトを見ると、少なくとも胸に青い豹の刺青をしているのは、芥川の言う阮小七ではなく、阮小五の方である。中文サイトを探す内、改編劇本 - 水滸傳 - 第五集「水滸伝」の劇化された台本を発見(「改編劇本 - 水滸傳 - 第五集」)、その中の阮小五登場シーンと思しいところに書かれたト書きに、

阮小二:五郎來了。

 (那阮小五斜戴著一頂破頭巾、鬢邊插石榴花、披著一領舊布衫露出胸前刺、

  著的靑鬱鬱一個豹子來、裏面匾扎起褲子、上面圍著一條間棋子布手巾。)

[やぶちゃん字注:「※」(上)「几」+(下)「木」。]

とある(記号を一部変更した)。この文字列から類推するに少なくともこの芝居では「鬢には石榴の花を插し、胸には靑き豹を刺し」ているのは阮小五である。「水滸伝」にお詳しい方の御教授を乞うものである。

・「智多星呉用」書生であったが、梁山泊の2代目首領晁蓋(ちょうがい)から生辰綱奪取の協力を求められ(前掲「阮小二」注参照)、阮氏三兄弟の協力を得て奪取に成功する。梁山泊に逃れた後は軍師格として権謀術数を廻らすとともに、魅力的な好漢を次々と山寨に引き入れた。「智多星」は「水滸伝」特有の次の「天罡地煞百八人」に関わる彼の綽名。

・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。

・「雷峰塔」「雷峰」は丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔であるが、芥川が見た後、1924年に倒壊し、現在のものは2002年の新造。

・「三譚の印月」「三潭」は1089年に蘇軾が西湖を浚渫した際、その最深部に三つの石塔を建立、その三基の内部には菱や蓮などの水草を植えることを禁じたという古跡。蓬莱山を模した庭園技巧の一つ。現在のものは800年前のものとされ、高さ2mの球形塔身で中空となっており、その周囲に五つの穴が等間隔で開き、明月の夜には大蠟燭を入れると言う。古来「天上月一輪 湖中影成三」と詠まれたという。天に印した真影、そして、この月影と、視野の可視範囲である灯籠の60°角及び120°角からの灯影が西湖に「印」された三つという謂いであろうか。

・「島の名」これは西湖最大の島、小瀛洲(しょうえいす)のことであろう。小瀛洲は明代末期1607年に造られた人工島で、島の内の殆んどが池になっている。一般に三譚印月はここから見るとされる。

・「退省庵」西湖南岸、「六 西湖(一)」に現れた清末の軍人にして文人であった彭玉麟(「六 西湖(一)」注参照)がしばしば釣りを楽しんだところに1869年に建てた故居。退省庵主人は彭玉麟の号。]


       
十 西湖(五)




 桟橋を上ると門がある。門の中には水の澄んだ池に、支那の八つ橋がかかつてゐる。兪樓の廊が曲曲廊なら、これは曲曲橋だと評しても好(よ)い。その橋の處處に、氣の利いた亭(ちん)が出來てゐる。それを向うへ渡り切ると、眩(まばゆ)い西湖の水の上に、三つの石塔のあるのが見えた。梵字を刻んだ丸石に、笠を着せた石塔だから、石燈籠と大した違ひはない。我我は其處の亭の中に、この石塔を眺めながら、支那の卷煙草を二本吸つた。それから、――露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである。八つ橋をもとへ渡つて來ると、若い四五人の支那人に遇つた。彼等は皆めかした上に、胡弓や笛を携へてゐる。何でも長安の公子とか號したのは、かう云ふ連中だつたのに違ひない。水色や綠の大掛兒(タアクワル)、指環にきらめいたいろいろの寶石、――私は彼等とすれ違ひながら、一一その容子を物色した。すると最後に通りすがつた男は、殆(ほとんど)小宮豐隆氏と、寸分も違はない顏してゐた。その後京漠鐵道の列車ボオイにも、宇野浩二にそつくりの男がゐたし、北京の芝居の出方にも、南部修太郎に似た男がゐた所を見ると、一體日本(につぽん)の文學者には、支那人に似たのが多いのかも知れない。しかしこの時はまだ始めだつたから、他人の空似とは云ふものの、きつと小宮氏の先祖の一人は――なぞと、失禮な事も想像した。

 ――こんな事を書いていると、至極天下泰平だが、私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる。頭も勿論、ふらふらすれば、喉も痛んで仕方がない。が、私の枕もとには、二通の電報がひろげてある。文面はどちらも大差はない。要するに原稿の催促である。醫者は安靜に寢てゐろと云ふ。友だちは壯(さかん)だなぞと冷かしもする。しかし前後の行きがかり上、愈(いよいよ)高熱にでもならない限り、兎に角紀行を續けなければならぬ。以下何囘かの江南游記は、かう云ふ事情の下に書かれるのである。芥川龍之介と云ひさへすれば、閑人のやうに思つてゐる讀者は、速に謬見(べうけん)を改めるが好(よ)い。

 我我は退省庵(たいしやうあん)を一見した後(のち)、さつきの棧橋へ歸つて來た。棧橋には支那人の爺さんが一人、魚藍(びく)を前に坐りながら、畫舫の船頭と話してゐる。その魚藍を覗いて見たら、蛇が一ぱいはひつてゐた。聞けば日本の放し龜同樣、この爺さんは錢を貰ふと、一匹づつ蛇を放すのだと云ふ。如何に功德になると云つても、わざわざ蛇を逃がす爲に、金を出す日本人は一人もゐまい。

 畫舫は又我我を乘せると、島の岸に沿ひながら、雷峰塔の方へ進んで行つた。岸には蘆の茂つた中に、河柳が何本も戰(そよ)いでゐる。その水面へ這つた枝に、何か蠢いてゐると思つたら、それは皆大きい泥龜だつた。いや、龜ばかりならば驚きはしない。ちよいと上の枝の股には、代赭色に脂切つた蛇が一匹、半身(はんしん)は柳に卷ついたなり、半身は空中にのたくつてゐる。私は背中が痒いやうな氣がした。勿論さう云ふ心もちは、愉快なものでも何でもない。

 その内に島の角を繞(めぐ)ると、水を隔てた新綠の岸には、突兀(とつこつ)と雷峰塔の姿が見えた。まづ目前に仰いだ感じは、花屋敷の近處(きんじよ)に佇んだ儘、十二階に對したのと選ぶ所はない。唯この塔は赤煉瓦の壁へ、一面に蔦蘿(つたかつら)をからませたばかりか、雜木(ざふき)なぞも頂には靡(なび)かせてゐる。それが日の光に煙りながら、幻のやうに聳え立つた所は何と云つても雄大である。赤煉瓦もかうなれば不足はない。赤煉瓦と云へば案内記には、何故に雷峰塔は赤煉瓦であるか、その理由を説明した、尤らしい話が載せてある。但しこの案内記は、池田氏の著した本ではない。新新旅館に賣つてゐた、英文の西湖案内記である。私はそれを書いた後、ペンを捨てるつもりだつたが、かう頭がふらついては、到底もう一枚と書く勇氣はない。跡は又明日(あした)でも、――いや、さう云ふ斷りを書くのも面倒である。肺炎にでもなられた日には、助からない。

[やぶちゃん注:5月3日。描写は前段最後に続いて彭玉麟の故居退省庵から始まる。

・「支那の八つ橋」「六 西湖(一)」で芥川は兪樓にあった曲折した廊下(階段)を中国風に洒落て「曲曲廊」と言ったのを受けて、池上に架かった雷(いかずち)型の丁度本邦の八橋の如き曲折した橋(中国では池庭に一般的)をこう言った。

・「露西亞のソヴイエツト政府の話はしたが、蘇東披の話はしなかつたやうである」ロシア語表記“Совет”(サヴィェート ラテン語表記“Soviet”)は本来はロシア革命時の社会主義者を中心とした労働者・農民・兵士の評議会を言う。このソヴィエトは形の上では1917年の第二次ロシア革命(二月革命)の際に結成されたものを指すが、事実上、既にニコライ2世を処刑(1918年)し、本篇公開のその年の1922年に一党独裁のソビエト社会主義共和国連邦が成立することになっていたから、ここは勿論、国家としてのソヴィエト又はソビエト政府の謂いである。ここにはさり気ない形で、中国の革命運動に連動してくる時代の流れを敏感に感じ取っている鋭いジャーナリスト芥川龍之介自身の姿が描かれていると言ってよい。それを彼は「蘇東披の話はしなかつた」という切り替えしで、悟られないようにしているのであるが、この切り替えし自体は、正に「七 西湖(二)」で芥川が表明した西湖への反感、引いては中国に対する失望の皮肉な表現に他ならない。芥川にとって『西湖は思つた程美しく』なく、その自然は一応は『繊細な感じに富』んで見え、蘇軾に代表される『支那の文人墨客には、或は其處が好いのかも知れない』が、『繊細な自然に慣れてゐる』日本人にとっては、再顧すればそれは『不滿になつてしま』わざるを得ない程度に退屈なものであり(それ故に西湖を眼前にしながら「露西亞のソヴイエツト政府の話」をするばかりなのである)、今もここで彼の嘱目に景に点々とする古き良き東洋の景観を侵食する近代西洋文化のシンボライズされた『俗惡恐るべき煉瓦建の爲に』、西湖は最早瀕死に至る致命的な疾いを患っている。『いや、獨り西湖ばかりぢやない。この二色の煉瓦建は殆大きい南京蟲のやうに、古蹟と云はず名勝と云はず江南一帶に蔓つた結果、悉風景を破壞し』尽している、だから『私はこんな泥池を見ているよりは、日本の東京に住んでゐたい』のである、というのである(但し、その東京も例外ではないことを芥川は十全に認知していた)。芥川はよくこうした言わずもがなな皮肉を畳み掛けることがある。その意外な粘着的厭らしさは、私には数少ないエレガンス龍之介の瑕疵に当たるもの、と思うところではある。

・「公子」身分の高い家庭や貴族の子息。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。「上海游記」の「十一 章炳麟氏」の筑摩版脚注では、「掛」は「褂」が正しいとある。

・「京漢鐵道」芥川が後日、漢口を列車で出発し北京に向かった際に乗った鉄道路線(途中、鄭州から洛陽に行っているが鄭州から洛陽の部分は隴海線と言って京漢線ではない)。現在、北京と広州を結んでいる南北縦貫鉄道(京広鉄道)2,324kmの北半分、北京から漢口(現・武漢市)間の全長約1,220kmの鉄道路線の名称。1897年に清がベルギーに借款を受けて着工、1906年、全線開通した。正式には平漢線と言ったようである(ネット上には京漢線に改称したのは1949年とする記載があり、分かりやすい通称として「京漢鉄道」は用いられていたか)。清朝政府はベルギー・ロシア・フランスが所有していた経営権を回収、1909年に国有化した。これに対する反対運動と暴動が、辛亥革命の大きな火種の一つとなった。

・「芝居の出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。

・「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」現在、最新の年譜記載にはこの執筆前後(大正101921)年12月~大正111922)年1月)に感冒で横臥した記載はない。次注参照。

・「友だちは壯だなぞと冷かしもする」本「江南游記」の連載開始の直前の大正101921)年12月は各社の新年号の作品群「藪の中」「俊寛」「將軍」(中国旅行のインスピレーションの賜物)「神神の微笑」「パステルの龍」(「三 杭州の一夜(上)」に登場するJudith Gautierジュディット・ゴーティエの詩の翻訳2篇を所収)「LOS CAPRICHOS」等を体調がすぐれない中で書き上げている。「藪の中」「將軍」「神神の微笑」等は、芥川作品の中でも飛びっきりの問題作と言ってよく、その最中か新年号発表後の、感冒に冒されながら、これだけの驚異的執筆を成し遂げた(12月中なら「つつある」)芥川への羨望と揶揄こもごもの同世代作家の友が「お盛だね」と言うシチュエーションは、如何にもありそうではないか。そのためには熱を出している方が凄絶ではあると言える。そもそも芥川は「江南游記」では、向後もしばしば無関係な執筆時のエピソードを話の中に挿入する。芥川ならではの手法であり、相応に面白く書けてはいるが、こんなことは「上海游記」では全くなかったことである。ここに図らずも「兎に角紀行を續けなければならぬ」と記してしまった諦観的感懐は、本紀行の執筆自体に乗り切れていない芥川の意識を明示していると言える。これは私は最終回まで持続していると感じている。

・「放し龜」仏教の殺生戒に基づく放生会(ほうじょうえ)由来の作善(さぜん)行為である「放生」の一つ。川端や社寺仏閣で桶や籠に捕捉されている生類を金を払って買い、その場で逃がしてやって生かすことで、放った者の功徳とするもの。それを専門に商う者がいた。江戸時代には放し亀・放し鰻・放し鳥等、極めて一般的風俗としてあった。現在でもタイ等の東南アジアの仏教国では極普通の商売である。私も雀と蝶のそれをタイの寺院参道で見かけた。鳥類のそれは餌付けしてあり、放たれた後、再び業者の元に戻って来るという話をガイドから聴いた。

・「花屋敷」は現在の東京都台東区浅草二丁目にある遊園地の名。現表記は「浅草花やしき」。嘉永6(1853)年開園になる日本最古の遊園地。以下、ウィキの「浅草花やしき」より、芥川自死前後迄のパートを引用する。『1853年に千駄木の植木商、森田六三郎により牡丹と菊細工を主とした植物園「花屋敷」が開園した。当時の敷地面積は約80000㎡だった。江戸期は茶人、俳人らの集会の場や大奥の女中らの憩いの場として利用され、唯一の遊具はブランコであった。』『明治に入り浅草寺一帯を浅草公園地とした際、花屋敷は奥山一帯と共に第五区に指定された。しかし敷地は縮小し、1885年(明治18年)に木場の材木商・山本徳治郎(長谷川如是閑の父)とその長男・松之助が経営を引き継ぐ。翌年、勝海舟の書「花鳥得時」を入口看板として掲示した。』『この頃でも利用者は主に上流階級者であり、園内は和洋折衷の自然庭園の雰囲気を呈していた。しかし、徐々に庶民にも親しまれるようトラ、クマなど動物の展示などを開始したり、五階建てのランドマーク奥山閣を建設し、建物内に種々の展示物を展示したりした。浅草が流行の地となるにつれて、この傾向は強まり、動物、見世物(活人形、マリオネット、ヤマガラの芸など)の展示、遊戯機器の設置を行うようになった。』『大正から昭和初期には全国有数の動物園としても知られ、トラの五つ子誕生や日本初のライオンの赤ちゃん誕生などのニュースを生んだ。関東大震災の際は罹災民が集ったため、多くの動物を薬殺した』。

・「十二階」明治から大正末まで浅草にあった12階建ての塔で、正式名称は凌雲閣(りょううんかく)という。通称「浅草十二階」と呼ばれた。以下、ウィキの「凌雲閣」より引用する。『凌雲閣は、東京における高層建築物の先駆けであり、藤岡市助による日本初の電動式エレベーターが設置されたことでも知られる。完成当時は、12階建ての建築物は珍しくモダンで、歓楽街・浅草の顔でもあった。明治・大正期の『浅草六区名所絵はがき』には、しばしば大池越しの凌雲閣が写っており、リュミエールの短編映画にもその姿は登場する。

』『建物の中は、8階までは世界各国の物販店で、それより上層階は展望室であった。展望室からは東京界隈はもとより、関八州の山々まで見渡すことができた。1890年の開業時には多数の人々で賑わったが、明治後期には客足が減り、経営難に陥った。明治の末に階下に「十二階演芸場」ができ、1914年にはエレベーターが再設されて一時的に来客数が増えたものの、その後も経営難に苦しんだ。なお設計者のウィリアム・K・バルトンは設計時はエレベーターの施工は考慮しておらず、設計時の構造強度ではエレベーターの施工は危険であると猛烈に反対したと言う。関東大震災時の崩落はバルトンの指摘通り、起こるべくして起こった惨劇と言える。』『凌雲閣はその高さゆえに浅草のランドマークとなり、石川啄木や北原白秋、金子光晴の詩歌や江戸川乱歩の代表的短編『押絵と旅する男』など、数多くの文学作品にその姿は登場する。しかし、192391日に発生した関東大震災により、建物の8階部分より上が崩壊。経営難から復旧が困難であったため、同年に陸軍工兵隊により爆破解体された。跡地は後に映画館の浅草東映劇場となるが、現在はパチンコ店になっている』。なお、同ウィキには「明治末期、大池越しに見た凌雲閣(手彩色絵はがき)」の画像があるが、この位置からもう少し後方(手前)から見上げたものが、本文で芥川が描写している雰囲気と合致するものと思われる。

・「池田氏の著した本」前出の池田桃川著「江南の名勝史蹟」のこと。「六 西湖(一)」及び同書の注参照。]


       
十一 西湖(六)


 その案内記Hangchow Itinerariesによると、今を距(さ)る三百七十年餘りの昔、この西湖のほとりには、屢(しばしば)倭寇が攻めこんで來た。處が彼等海賊には、雷峰塔が邪魔になつて仕方がない。何故かと云ふと支那の官憲は、塔上に物見を立たせてある。だから倭冠の一進一退は、杭州城へ近(ちかづ)かない内に、ちやんと支那側に知られてしまふ。そこで或時日本の海賊は、雷峰塔のまはりに火を放つて、三日三晩焼き打ちを續けた。かかるが故に雷峰塔は、赤煉瓦の製造が始まらない以前、早くも赤煉瓦の塔に變つたのである。――ざつとかう云ふ次第だが、眞僞は勿論保證しない。

 雷峰塔を少時(しばらく)仰いだ後(のち)、我我は新新旅館の方へ、――今日は昨日よりも熱が低い。喉も燒いたのが利いたやうである。この分ならば二三日中に、机の前へ坐れるかも知れない。しかし紀行を續ける事は依然として厄介な心もちがする。その心もちを押して書くのだから、どうせ碌な物は出來さうもない。まあ、一日に一囘だけ、纏りがつけば本望である。そこでもう一度繰り返すが、――雷峰塔を少時仰いだ後、我我は新新旅館の方に、徐(おもむろ)に畫舫をめぐらせた。

 西湖は今我我の前に、東岸一體を開いてゐる。向うに、――新新旅館の上に、綠をなすつた石山は、葛洪(かつこう)煉丹の地だとか云ふ、評判の高い葛嶺であらう。葛嶺の頂には廟が一つ、丁度飛び立たうとする小鳥のやうに、軒先の甍を反らせてゐる。その右に續ゐた山、――西湖全圖によると寶石山には、華奢な保俶塔(ほしゆくたふ)の姿も見える。この塔が細細と突き立つた容子は、老衲(ろうのう)の如き雷峰塔に比すると、正に古人の云つた通り、美人の如きものがあるかも知れない。しかも葛嶺は曇つてゐるが、寶石山の山頂の草には、鮮やか日の光が流れてゐる。これらの山山の裾あたりには、我我の泊つたホテルを始め、赤煉瓦の建物(たてもの)もないではない。が、いづれも遠いせいか、格別目に立やないのは幸福である。唯(ただ)山山のなだれた所に、白い一線の連つてゐるのは、今朝過つた白堤に違ひない。白堤が左に盡きた所には、樓外樓の旗こそ見えないにせよ、新綠の孤山が横はつてゐる。かう云ふ景色は何と云つても、美しい事だけは否み難い。殊に今は點點と菱の葉を浮べた水の面(おもて)も、底の淺いのを瞞着すべく、鈍い銀色に輝いてゐる。

 「今度は何處に行くのです?」

 「放鶴亭に行つて見ませう。林和靖(りんわせい)のゐた所だから。」

 「放鶴亭と云ふと?」

 「孤山ですよ。新新旅館のすぐ前の所――、」

 その放鶴亭に上陸したのは、二十分餘り後の事だつた。畫舫は今度も其處へ來るのには、錦帶橋をくぐつた上、ずつと圍はれた、所謂裡湖(りこ)を横(よこぎ)つたのである。我我は梅の靑葉の中に、放鶴亭を見物したり、もう一つ上に側立つた、これも林逋(りんぽ)の巣居閣へ行つたり、その又後(うしろ)に立てられた、やはり大きな土饅頭の「宋林處士墓」なるものを見たり、いろいろその邊をうろつき廻つた。林逋は高人(かうじん)だつたに違ひない。が、日本の小説家程、貧乏もしてゐなかつたのに違ひない。林逋七世の孫(そん)、洪(こう)の著した「山家淸事」(さんかせいじ)によると、洪の隱遁生活は「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」だつたと云ふ。和靖先生も似たやうなものだとすれば、月五十圓の借家にゐるより、餘程豐だつたと云はなければならぬ。私にしても箱根あたりへ、母屋が一軒に物置が一軒――書齋、寢室、女中部屋等、すつかり揃つたのを建てて貰つた上、書生一人、女中一人、下男二人を使つて好ければ、林處士の眞似などはむづかしくもない。水邊(すゐへん)の梅花に鶴を舞はせるのも、鶴さへ承知すれば訣無しである。しかし私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。――私は放鶴亭一見をすませた後、岸の畫舫へ歸りながら、こんな理屈を發表した。岸には柳絮(りうぢよ)の飛び交ふ間(あいだ)に、白の着物へ黑のスカアトをはいた、支那の女學生が二三十人、ぞろぞろ西冷橋の方へ歩いてゐる。

[やぶちゃん字注:「※」=「广」+(中)に「甾」。]

[やぶちゃん注:5月3日。

・「Hangchow Itineraries」“Hangchow ”は杭州“Hángzhōu”、“Itinerary”は旅行案内書。「杭州旅行案内」の意。

・「今日は昨日よりも熱が低い。……」前段「十 西湖(五)」を受ける。同段の「私は現在床の上に、八度六分の熱を出してゐる」及び続く「友だちは壯だなぞと冷かしもする」の注を参照されたい。以下、「……我我は新新旅館の方に」迄、実に175字。私が大阪毎日の薄田泣菫なら確実に苦虫を潰すね。

・「葛洪煉丹」葛洪(283343)は、西晋・東晋期の道士・仙人。遊仙思想と煉丹術の書「抱朴子」の著者として有名。他にも「神仙伝」「隠逸伝」等、神仙関連の著書多数。尸解仙の呪法(自身の死体から抜け出て仙人となること。登仙の方法としては下位の呪法)を修得していたとされ、最後にはそれで登仙したとされる。「錬丹」は煉丹とも書き、中国の道士の呪法の一つで、不老不死となれる霊薬「丹」を製造する技術を言う。古来、辰砂などを原材料とした硫化水銀(HgS)を原料として製造出来るとされ、盛んに服用もされた。漢方では精神安定効果を認められており、不眠・眩暈・癲癇などに用いるとある。主に用いられた硫化第二水銀(HgS())は急性毒性はないとされるが、多量の長期服用による水銀中毒で多くの犠牲者や障害者をも生み出すこととなった。

・「葛嶺」現在の杭州市の西部西湖北岸、白堤に対峙して見下ろす位置にある標高166mの山。葛洪を開祖として祀る道教寺院抱朴道院が山腹にある。

・「寶石山」葛嶺の東に位置する山。標高約78m(約100mという記載もあるが、神田由美子氏の岩波新全集注解の200mは何かの間違いであろう)。西湖や杭州市街を見下ろす景勝地である。山名の由来は、山の鉱物組成が凝灰岩と流紋岩を主としているため、陽光が射すと宝玉の如く輝くことからという。

・「保俶塔」宝石山にある杭州のシンボルとも言える層塔。北宋の開宝年間、970年(異説あり)の創建といわれる。神田由美子氏の岩波新全集注解では、986年、都へ登った越王銭弘俶の無事を祈って宰相呉延爽が建てられたと記し、芥川が訪れた『当時は九層の塔』とあるが、ネット上には中文サイトも含め、呉越王銭弘俶により銭塘江の水害を鎮めるために建てられたという記載も多く見受けられる。現在は六面七層で、高さ45.3m(邦人のブログにはには59.89mとの記載も見られる)。日中多くのサイトを見るに、芥川の華奢で女性的な優美な塔という保俶塔のイメージは、現代中国でも一般的な印象であるようだ。

・「老衲」年老いた僧のこと。

・「放鶴亭」林逋の旧居。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、『孤山の北麓の大樹の茂みの中にあ』り、林逋が舟で遊行に出かけた最中に来客があった際には、留守居の童子が籠に伏せてあった鶴を放って林逋に合図させたことからこの名が付いたという。如何にも人界仙境の趣きではないか。

・「林和靖」林逋(9671028)。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第4代皇帝仁宗(10101063:この縁は父第3代皇帝真宗の時から)が諡(いみな)として与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと20年におよんだ』とし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた。』『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。ここに三野豊氏の美事な訳がある。

・「錦帶橋」は白堤のやや孤山寄りの中央付近に架橋している橋。日本の岩国の錦帯橋はこれがモデル(であるが、遥かに岩国の方が美しい)。

・「裡湖」裏湖。西湖では堤の内(陸側)の湖を言う。ここは白堤に仕切られた西湖の北側の細長い湖の名。現在は北里湖と呼ぶ。

・「林逋の巣居閣」筑摩全集類聚版脚注には、『放鶴亭の右にある』とする。元代には西湖十景とは別に「銭塘十景」が選ばれているが、その中に「巣居雪閣」とある。ここの雪景色のことを指すか。

・『「宋林處士墓」』「處士」は在野にあって若しくは隠棲して仕官しない人のこと。これは林逋の墓であるが、彼は生前に墓を作り、「茂陵他日求遺稿 猶喜曾無封禪書」(茂陵他日遺稿を求むとも 猶ほ喜ぶ曾て封禪(ほうぜん)の書無きを)と詠んだと言う。散文翻案をすると「武帝の使者が、茂陵に隠居していた司馬相如を尋ねた時には相如は既にあの世行き、優れた遺稿を救わんとするもとっくに散逸、しかし卓文君が差し出したのは遺言の秘書「封禅の文」だったんだと――いや! 嬉しいね! 私は彼のように公(おおやけ)に気を使って封禅の書なんぞを遺書として用意をしなくってよいからね」といった感じか。これは国政に飽くまで無関心であることをあの世まで嘯く林逋の痛快な一言と言えよう。本詩は前漢の文人政治家司馬相如(B.C.179B.C.117) の故事のパロディである。司馬相如を高く評価していた武帝(B.C.156B.C.87)は絶えていた封禅の儀(帝王が天地に王の即位を闡明し、また天下太平を感謝祈念する秘儀)をB.C.110年に初めて泰山行っているが、それには司馬相如が晩年隠棲した茂陵で、武帝への忠心から記したところの遺書封禅の書一巻が役立ったのであった。因みに茂陵(現・陝西省咸陽市)は後に武帝自身の墳墓の地ともなった地で、因縁に満ちている。

・「高人」「かうにん(こうにん)」とも。身分の高い人という意味ではなく、ここでは人品ともに高潔な志しの高い人、更に、世俗に汚されていない人という意味も付与されている。

・『洪の著した「山家淸事」』ネット上のいろいろな記載を勘案すると、南宋末の文人にして林逋の子孫であった林洪が記した、山林隠士の生活マニュアル本のようなものらしい。

・『「舍三寢一讀書一治藥一。後舍二一儲酒穀列農具山具一安僕役庖※稱是。童一婢一園丁二犬十二足驢四蹄牛四角」』[「※」=「广」+(中)に「甾」。]書き下そう。「舍三、寢一(いつ)、讀書一治(いちぢ)、藥一(いつ)。後舍二、一は酒穀を儲(たくは)へ、農具・山具を列し、一(いつ)は僕役を安んじ、庖※(はうし)是れに稱(かな)ふ。童一、婢一、園丁二、犬十二足、驢四蹄、牛四角。」か。訳せば「主な棟は3棟で、寝室1室・書斎1室・療治に用いる特別室1室。更に主屋の後ろに2棟あって、1棟には酒や穀物を貯蔵し、更に農機具や山仕事の道具の置き場所とし、もう1棟には下僕を住まわせて、そこをまた私の家の厨房として仮称している。ボーイ1名・女中1名・園丁2名・犬12匹・驢馬4頭・牛四頭。」か。とんでもないゼイタクな隠棲ではある。

・『私はさうなつても、「犬十二足驢四蹄牛四角」は使ひ途がない。これはそつくり君に上げるから、どうとも勝手にしてくれ給へ。』とあるが、驢馬と牛なら我慢出来ようが、特に芥川は犬が大の苦手であったことを申し添えておこう。

・「柳絮」白い綿毛のついた柳の種子を言うが、一般に漢詩では、それが春の風に飛び漂うことを言うことが多い。]


       
十二 靈隱寺




 私は薄汚い新新旅館の二階に、何枚かの畫(ゑ)はがきを認めてゐる。村田君はもう寢てしまつた。暗い窓硝子(まどがらす)の一角には、不思議な位鮮かに、一匹の守宮(やもり)がひつ附いてゐる。それを見るのが嫌だから、私は全然わき見をしずに、ずんずん萬年筆を走らせ續ける。………

 豐島與志雄に。

 今日靈隱寺(れいいんじ)に出かける途中、淸漣寺と云ふ寺を覗いたら、大きい長方形の池の中に、眞鯉、緋鯉が澤山ゐた。此處は玉泉魚躍とか號して、五色の鯉に名高い寺だと云ふ。尤も五色と云つた所が、實際は精精三色しかない。池に臨んだ亭の中には、籐椅子や卓子(テエブル)が並べてある。其處に腰をかけてゐると、坊主が茶や菓子を持つて來てくれる。くれると云つても唯ぢやない。つまり坊主は鯉を養つてゐるやうだが、實は鯉に養はれてゐるのだらう。君は染井の釣堀に、夜通し絲を垂れる豪傑だから、この寺の鯉を見さへすれば、釣りたくなるのに違ひない。

 小穴隆一に。

 靈隱寺に詣(いた)る。途中小石橋(せうせきけう)あり。橋下(けうか)の水(みず)佩環(はいくわん)を鳴らすが如し。兩岸皆幽竹。雨を帶ぶるの翠色、殆(ほとんど)人に媚ぶるに似たり。石谷(せきこく)の畫境に近きもの乎(か)。僕大いに詩興を催す。然れども旅嚢(りよのう)「圓機活法」なし。畢(つひ)に一詩なき所以(ゆゑん)。ない方が仕合せかも知れない。

 香取秀眞(かとりほづま)氏に。

 靈隱寺は中中大きい寺です。總門をはいつて少し行つた所に、天竺の靈鷲山(りやうじゆせん)が飛んで來たと云ふ、來峯と號する山があります。(實は山と云ふよりも、大岩と云ふ方が好(よ)いのですが。)其處の石窟(せきくつ)にある佛は、宋元の佛だと云ふ事です。が、僕にはどの佛も、好いのだか惡いのだかわかりません。難有いと思つたのはたつた一つです。尤も石窟の一部分は、連日の雨に水が出てゐましたから、中へはいらずにしまひました。今日も時時雨が來ます。高い杉檜、苔の蒸した石橋(せきけう)、――まあ、この寺の大體の感じは、支那の高野山と思へばよろしい。

 小杉未醒氏に。

 靈隱寺を見ました。杉の幹に栗鼠の駈け上(のぼ)る所なぞは、如何にも山寺らしい閑寂なものです。雨天だつたせゐか、赭(そほ)塗りの大雄寶殿なぞも、甚(はなはだ)落着いた氣がしました。駱賓王(らくひんわう)がゐたと云ふのは、傳説かも知れないが、一應尤らしい氣がします。此處の空氣には何となく、駱賓王じみた所がある。あなたはさう思ひませんか? もう一つ次手に申し上げたいのは、この寺の五百羅漢です。これも勿論御覧だつた事と思ひますが、少くとも二百位は、殆あなたと瓜二つです。冗談でも何でもない、實際あなたにそつくりです。聞けばこの五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像があるさうですが、まさかあなたの遠つ祖(おや)はマルコ・ポオロだつた次第でもないでせう。が、僕は萬里の異域に、あなたと相見(しようけん)する事が出來たやうな、愉快な心もちになりました。

 佐佐木茂索に。

 靈隱寺に詣りし歸途、鳳林寺一名喜鵲寺(きじやくじ)を訪(と)ふ。烏窼(うさう)禪師のゐた寺なり。寺は殆(ほとんど)見るに足らず。唯(ただ)葬ひか何かありしならん、鼠色の袈裟に海老茶の袈裟かけし坊主、何人も經を讀みながら、歩みゐたり。白樂天、烏窼に問ふ。如何か是(これ)佛法の大意(たいい)。烏窼答へて曰、諸惡莫作(まくさ)、衆善奉行。樂天又云ふ。三尺の童子も之を知れり。烏窼笑つて曰、三尺の童子も之を知れど、八十の老翁も行ひ難し。樂天即ち服すと。かう手輕く服された日には、烏窼禪師も氣味が惡かつたらう。寺門の前に支那の子供大勢あり。前綵(ぜんさい)の花を持ちて遊ぶ。雨後夕陽愛すべし。

 手紙を書いてしまつたら、幸ひ守宮も見えなくなつてゐた。明日は杭州を去る豫定である。湧金門(ゆうきんもん)、囘囘堂(くわいくわいだう)、――そんな物を見る暇はないかも知れない。私は多少の寂しさを感じながら、シヤツ一枚になつた後(のち)、ベツドの毛布へもぐりこもうとした。が、思はず飛びのきながら、「こん畜生」と大きい聲を出した。白いべツドの枕の上には、碁石程の蜘蛛がぢつとしてゐる! これだけでも西湖は碌な處ぢやない。

[やぶちゃん注:「靈隱寺」は雲林寺とも呼ばれ、杭州市街及び西湖の西にある霊隠山の麓に位置する、杭州一の名刹にして中国禅宗十大古刹の一つ。臨済宗。東晋時代、インドから来朝した僧慧理によって開山された(326年)。慧理が杭州の連山を見て「ここは仙霊が宿り隠れている場所である」と言ったことから霊隠寺と名づけられたとする。五代十国時代、杭州が呉越国(907978)の中心であった当時は3000人を越える学僧が修行していたとされ、他に類を見ない大規模な伽藍を誇ったが、相次ぐ火災や戦災、特に太平天国の乱の折に大部分が崩壊し、芥川が当時見たものは清末に再建されたものであった。南側にある石灰岩でできた岩山には沢山の洞窟が掘られ、芥川が「飛来峰の磨崖仏」と呼んでいる五代十国から元代にかけて彫られた338体の石仏が安置されている。特に五代十国の末期の951年に造立された青林洞西岩壁上座像が著名である。但し、私の感触ではここで芥川が「難有いと思つたのはたつた一つ」と言うのは、これではないように思われる。なお、本篇は複数の手紙文を組み合わせた書簡体形式であるが、実際には類似した各人宛の手紙は現在残されておらず、これは書簡体を意識した創作と思われる。芥川は5月4日に霊隠寺を訪れている。その日の晩という設定である。5日の夕方には上海に戻っている。

・「豐島與志雄」仏文学者・作家(明治231890)年~昭和301955)年)。東京帝国大学仏文科在学中の大正31914)年2月に芥川龍之介らと第3次『新思潮』を刊行、その創刊号に処女小説「湖水と彼等」を寄稿している。ユーゴーの「レ・ミゼラブル」(191819年新潮社刊)やヘッセ「ジャン・クリストフ」(1921年新潮社刊)等の翻訳で知られる。芥川より2歳年上。

・「淸漣寺」神田由美子氏の岩波版新全集注解では『現在の玉泉寺』とあるが、ネット上の記載を見ると、現在は寺としては機能していない模様で、杭州植物園の一角として単に「玉泉」と呼ばれているようであり、池のある庭園施設のように紹介されている。玉泉は西湖三大名泉の一つで、今は現地名産の茶をこの玉泉で淹れたものが人気であるとある。

・「玉泉魚躍」「チャイナネット」200271日の記事『中国でよく知られた魚を観る観光スポット(2) 杭州の「玉泉魚躍」』を以下に全文引用する。『玉泉は西湖の三大名泉の1つであり、いままでずっと魚の観賞で有名になり、玉泉は泉の水が綠の玉のようであり、一年中涸れず、四角形の池に集まり、池の中の百尾はいると思われるアオウオが、すぐ後に続いて泳いでおり、群れをなして東へ泳いだり西へ泳いだりし、沈んだり浮かんだりし、和らいだ気持ちで悠々自適であるように見える。池のほとりのあずまやの廊下には明代の著名な書家董其昌の題字である「魚楽図」が掲げられており、池のほとりにホールがあり、大理石の欄干で囲まれている。観光客はお茶をたしなみながら、手すりによりかかって魚を観、「魚が楽しくて人も楽しく、泉が清らかで心がさらに清らかである」という面白みを深く体得するのである。』。文中の「アオウオ」は条鰭綱骨鰾上目コイ目コイ科ソウギョ亜科アオウオMylopharyngodon piceus。中国原産の淡水魚で中国四大家魚(アオウオ・ソウギョ・コクレン・ハクレン及びこれらの魚を同一の池で飼うことによる理想的食物連鎖養魚システムの名称でもある)の一。成魚は2mに及ぶ。コイに似た形態を有するが、ヒゲはない。口はやや下方に伸びており、ベントス食に適す。体色がコイに比べて青みがかっていることからの名称であるが、実際には黒い印象である(以上は主にウィキの「アオウオ」の記載によった)。また、「董其昌」(とうきしょう 15551636)は明末の文人画家・書家。その書を後の第4代皇帝康煕帝(16541722)が敬愛したため、清朝正統の書ともされた。南宗画を興隆させ、後世、芸林百世の師と呼称されるに至った(以上は主にウィキの「董其昌」の記載によった)。

・「染井」は本郷区染井、現在の東京都豊島区駒込。神田由美子氏の岩波新全集注解によれば、豊島与志雄は大正6(1917)年9月より『本郷区駒込千駄木町に住んでいた』とある。彼の釣好きは彼の諸作品によく現れ、小品「鯉」では夜間に帝大の池に鯉をこっそり釣りに行くさまが描かれている(青空文庫「鯉」)。因みにこの染井にある染井霊園を抜けたすぐの豊島区巣鴨にある慈眼寺(日蓮宗)は、芥川龍之介の墓所でもある。

・「小穴隆一」(おあな りゅういち 明治24(1894)年~昭和41(1966)年)洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川より2歳年下。

・「橋下の水佩環を鳴らすが如し」「佩環」は佩玉で、帯び玉、貴人が腰に帯びる飾りの玉の輪を言う。水の流れの音(ね)を、それらが触れ合う音に比した。私はここを「橋下の水珮と爲す」として李賀の「蘇小小墓」を思い出してはくれなかった芥川龍之介を深く恨むものである(「七 西湖(二)」注参照)。唐の柳宗元の「至小丘西小石潭記」に「如鳴佩環」とあり、田山花袋の「山水小記」(大正7(1918)年富田文陽堂刊)の「日光」の中の鬼怒川を描写する一節にも「水の鳴ること佩環の如く」とある。

・「石谷」王翬(おうき 16321717)清初の画家。石谷は字。南宋・北宋の画風を統一して清の新たな正統的様式を完成、世に画聖と称された。

・『「圓機活法」』王世貞校正・楊淙(ようそう)参閲になる明代の作詩用辞書。24巻。天文・時令・節序・地理などの44門を更に細目化し、それぞれについて叙事・事実・品題・大意等を解説、その下に故事成句等を配す。「円機詩韻活法全書」等、異名多し。神田由美子氏の岩波版新全集注解に芥川の蔵書の中には1884年刊本があるとする。これは明治17年山中出版舎刊行になる石川鴻斎訂正版の和本であろう。和訳本には「詩学筌蹄」「和語円機活法」等がある。

・「香取秀眞」鋳金工芸師(明治7(1874)年~昭和291954)年)。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。芥川より18歳年上。

・「靈鷲山」インドのビハール州の中央部に位置する山。釈迦在世時はマガダ国の首都王舎城の東北、尼連禅河(にれんぜんが)の側であった。釈迦はここで8年の間、無量寿経や法華経を説いたとされる。一説にその頂上が平らになっており、それがハゲワシの形をしているからという(ウィキの「霊鷲山」による)。

・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん 明治141881)年~昭和391964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外貌と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外貌と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。同じ田端に住んでいた。芥川より11歳年上。

・「赭塗り」赤の顔料を塗った壁の意。「赭」は本来は「赭土」(そおに)で、赤色の土・赤土を指し、上代には顔料等に用いた。

・「大雄寶殿」霊隠寺の本殿。ここで芥川が見たのは民国初年に再建されたもの。後、解放直後に倒壊し、内部の仏像も壊れた。現在のものは1956年に再建されたもの。

・「駱賓王」(640?684?)は初唐の著名な詩人。「初唐四傑」の一人。性格は傲慢にして剛直。官僚となって武則天(則天武后 623?705)に対し、数々の上疏をしたが浙江の臨海丞に左遷された。出世の望みを失い、官職を棄てて去った後、684年に名将李勣(りせき)の孫であった李敬業が武則天に謀叛を起こすと、その一味として武則天を誹謗する檄文を起草、その罪を天下に伝えんとした。武則天はその檄を手に入れると、部下に読ませた。「蛾眉敢えて人に譲らず 孤眉偏に能く主を惑わす」の辺りまでは笑っていたが、「一抔土未乾、六尺孤安在」(一抔の土いまだ乾かざるに、六尺の孤いずくにか在る:武則天に殺された王族の墓の土は未だに血の湿りをもって乾かない――ああその遺児たちはいったいどこでどうしているのだろう。)の句に至って、愕然としてその作者の名を問い、かの駱賓王であることを知ると、逆に「このような才人を流謫不遇の徒としたのは宰相の過ちである」と言ったという。敬業の乱平定後は、行方不明となったが(一説には誅殺されたとする)、ここ霊隠寺に隠れ住んでいたという伝説もある。宋子問に「靈隠寺」と題する詩があるが、これはその駱賓王隠棲伝承に因む曰く附きの詩である。石九鼎氏の「千秋詩話 16 駱賓王」をお読みあれかし。

・「この五百羅漢の中には、マルコ・ポオロの像がある」本邦の盛岡にある報恩寺の五百羅漢にはマルコ・ポーロやフビライ・ハンの像が入っているらしいというので調べてみると、第百番善注尊者と第百一番法蔵永劫尊者の像が中国で1840年頃からマルコ・ポーロ像、ジンギスカンの孫フビライ像といわれるようになったという記事を発見した(「盛岡歴史探究館」の「羅漢曼荼羅」内)因みにMarco Poloマルコ・ポーロ(12541324)は杭州を「世界で最も美しく華やかな土地」と讃美している。

・「佐佐木茂索」(明治271894)年~昭和411966)年)は小説家・出版人。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。後、「文芸春秋」編集長を経て、昭和211946)年、文芸春秋社社長(当時の名称は文芸春秋新社)となった。芥川より2歳年下。

・「烏窼禪師」は鳥窠道林(ちょうかどうりん 741824)のこと。中唐の禅僧。円修禅師と諡(おくりな)された。径山道欽(どうきん)の法灯を受く。後、杭州の秦望山に隠棲し、鳥の巣のように松の枝葉が茂った庵に住んだことから鳥窠禅師・鵲巣(じやくそう)和尚と呼ばれた。白居易との交流は極めて著名で、ここで芥川が綴るエピソードは人口に膾炙する禅問答・公案である。大意を示すと、ある時、杭州太守であった白居易が鳥窠禅師に仏法の真意とはと尋ねたところ、禅師は「諸惡作(な)すこと莫(な)かれ、衆善(しゆぜん)奉行」(ぶぎやう)せよ」(悪いことはするな、ただひたすらに良いことをせよ)という「七仏通誡偈」(しちぶつつうかいげ)の一節をもって答えた。それを聞いた白居易がうっかり「それは三つの童子も知るところですね」と答えたところが、禅師は笑って、「三つの童子でも知っているが、八十の老人であってもそれをまことに行なうことは難しい」と言った。それを聞いた白居易は即座に悟って、西湖孤山に竹閣(「六 西湖(一)」の「孤山寺、今の広化寺」の注参照。現在の広化寺)を建て、そこに鳥窠禅師を招いて朝夕に参禅したという。

・「剪綵」綾絹を花鳥形に切りぬいたもの。又は色糸で作った造花。「綵」は繊維や布が彩られたさま。人形(ひとがた)た花鳥に切り抜いたものは古来からあり、玩具や飾り、天井装飾などに用いられた。

・「湧金門」西湖の四水門の一。西湖東岸にあるが、芥川がこの地名を出したのは「水滸伝」絡みと推測する。その第四一話「魂帰湧金門」で、南軍への使者に立った水軍の頭、張順が兄弟たちの見守る中、身をもって矢襖(やぶすま)となった場所が、ここである。

・「回回堂」筑摩全種類聚は未詳、神田由美子氏の岩波版新全集注解では注に挙げてさえいないが、これは杭州中山中路に現存する武林真教寺、通称で鳳凰寺と呼ばれるイスラム教のモスクの別称である。唐代に建立され、元初期にペルシア人によって再建された。建物の外観が羽を広げた鳳凰の姿に似ていることから鳳鳳寺と呼ばれることが多い。礼拝堂である無梁架はメッカに向かって建てられており、中央の壁には1451年に刻まれたアラビア文字のコーラン(中国語「古蘭經」)が嵌め込まれている。中国東南沿海域の4大イスラム寺院の一つ(以上は複数の中文サイトを参照にした)。

・「これだけでも西湖は碌な處ぢやない」最後に、西湖に禍々しい守宮と蜘蛛を配して、生理的な嫌悪の対象と化した西湖に唾棄する。]



       十三 蘇州城内(上)



 驢馬は私を乘せるが早いか、一目散に駈け出した。場所は蘇州の城内である。狹い往來の南側には、例の通り招牌(せうはい)が下つてゐる。それだけでも好い加減せせこましい所へ、驢馬も通る、轎子(けうし)も通る、人通りも勿論少くはない、――と云ふ次第だつたから、私は手綱を引張つたなり、一時は思はず眼をつぶつた。これは臆病で何でもない。あの驢馬に跨つた儘、支那の敷石道を駈けて行くのは、容易ならない冒險である。その危なさを經驗したい讀者は、罰金をとられるのを覺悟の上、東京ならば淺草の仲店、大阪ならば心齋橋通りへ全速力の自轉車を驅つて見るが好(よ)い。

 私は島津四十起氏と、今し方(がた)蘇州へ來たばかりである。本來ならば午前中に、上海を立つつもりだつたが、つい朝寢坊をしたものだから、晝の汽車に間に合はなかつた。――それも一汽車乘り遅れたのぢやない。都合三列車乘り遅れたのである。其處へ島田太堂先生なぞは、その度に停車場(ていしやじゃう)へ來られたと云ふのだから、今思ひ出して恥ぢ入らざるを得ない。しかも私を送る爲に、七絶を一首頂いた事は、愈(いよいよ)恐縮すべき思い出である。………

 私の前には意氣揚揚と、島津氏が驢馬を走らせてゐる。尤も島津氏は私のやうに、始めて驢馬に乘つたのぢやない。だから腰の据り方が違ふ。私は島津氏を御手本に、内心は何度も冷や冷やしながら、いろいろ馬術の工夫をした。但しその後落馬したのは、正に御弟子の私ぢやない。御師匠番の島津氏自身ある。

 狹い往來の左右には、――實は最初の何分かは、何があるのか見えなかつた。が、その何分かが過ぎた後には、經師屋(きやうじや)と寶石屋とが何軒(なんげん)もあつた。經師屋の店には山水だの花鳥だの、表装中の畫(ゑ)が並べてある。寶石屋の店には、翡翠や玉(ぎよく)が銀の飾りなぞときらめいている。それがどちらも姑蘇城らしい、優美な心もちを起させた。しかし、あの優美な心もちも驢馬の背中に躍つてゐないと、もつと嬉しかつたのに相違ない。實際一度なぞは縫箔屋(ぬひはくや)の店に、牡丹だの麒麟だのを縫ひとつた、紅い布が壁に吊してある、――それを見ようと思つたら、もう少しで目くらの胡弓彈きと、衝突してしまふ所だつた。

 しかし驢馬を走らせるのも、平な敷石の上ならば、まだしも我慢が出來ない事はない。それが橋を渡るとなると、いづれも例の反り橋だから、上りは尻餠をつきさうになるし、下りも運が惡ければ、驢馬の頭越しにずり落ちかねない。おまけに橋の多い事は、姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋の語が、文字通りほんたうでないにもせよ、満更譃ばかりではなささうである。私はやむを得ず橋へかかると、手綱なぞを控へる代りに、驢馬の鞍へしがみついた。それでも橋を渡る時は、汚い白壁の並んだ間に、細細と蒼い運河の水が、光つてゐるのだけ眼にはいつた。

 そんな道中を續けた後(のち)、やつと我我の辿りついたのは、北寺(ほくじ)の塔の前である。聞けば蘇州七塔の中、登覧する事の出來るのは、僅にこの塔ばかりだと云ふ。塔の前の草原(くさはら)には、籃(かご)を携へた婆さんたちが、二三人摘草に耽つてゐる。この草原は案内記によると、昔の死刑場だと云ふ事だから、草も人血に肥えてゐるのかも知れない。しかし白堊(はくあ)に日の光を浴びた、九層の塔の聳える前に、靑服(あをふく)の婆さんが三三五五、静かに草を摘んでゐるのは、頗(すこぶる)悠悠とした眺めである。

 我我は驢馬を飛び下りると、塔の最下層の入り口ヘ行つた。其處には支那の寺男が一人、格子戸の中に控へてゐる。それが二十鏡の銀貨を貰つたら、大きい錠を外した上、おはいりなさいと云ふ手眞似をした。塔の二階へ上る所には、埃臭い暗闇の中に、カンテラが一つともつてゐる。が、梯子を上(のぼ)りかけると、もうその光はさして來ない。その上手(うへて)すりへつかまつたら、この塔へ詣でた善男善女何萬人かの手垢の名殘が、ぺとり冷たいのには辟易した。しかし二階へ登つてしまへば、四方に口もついてゐるし、もう暗いのに困る事なぞはない。塔の内部は九層とも、皆桃色の壁の間に、金色の佛が安置してある。桃色と金と――かう云ふ色の配合は、妙に肉感的な所があるだけ、如何にも現代の南國らしい。私は何だかこの塔の上には、支那料理でもありさうな心もちがした。

 十分の後、我我は塔の頂上から、蘇州の市街を見下してゐた。市街は黑い瓦屋根の間に、鮮かな白壁を組みこんだなり、思つたより廣廣と擴がつてゐる。その向うに霞を帶びた、高い塔があると思つたら、それは孫權が建てたとか云ふ、名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)町の外はどちらを向いても、水光(みづひか)りと綠との見えない所はない。私は欄干によりかかりながら、塔の下に草を食つてゐる、小さい二頭の驢馬を見下した。驢馬の側には驢馬引きの子供も、二人ながら石に腰かけてゐる。

 「おおうい。」

 私は大きい聲を出した。が、彼等はふり向きもしない。高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである。

[やぶちゃん注:蘇州行は西湖から帰った3日後の5月8日。本文にあるような次第のために蘇州到着は夕方となった。芥川は「今し方蘇州へ來たばかり」と言っているが、それでは嘱目は夕景となる。しかし、本描写にはそのような印象は全くない。それどころか次の「十四」では続いて玄妙観に回っている。これは実は翌日の5月9日の午前中の体験と思われる。蘇州滞在は5月10日迄で、同日深夜12時頃、蘇州駅から次の目的地鎮江へと向かった。

・「招牌」看板。

・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。

・「島津四十起」(しまづよそき 明治4(1871)年~昭和231948)年)。俳人・歌人。明治331900)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正2(1914)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。なお、彼が上海の里見病院入院中の芥川の病床で開いた句会での芥川の作が、岩波版新全集第24巻「補遺一」で「芥川氏病床慰藉句会席上」として明らかにされている。

・「島田太堂」本名島田数雄(慶応2(1866)年~昭和3(1928)年)新聞人。太堂は号。当時の日本語新聞『上海日報』の主筆。二松学舎(現・二松学舎大学)卒業後、郷里熊本の済々黌(せいせいこう:現・熊本県立済々黌高等学校)で教員(総監)となる。明治331900)年頃、渡中して井手三郎(文久2(1862)年~昭和6(1931)年:熊本出身の新聞人。)らと上海に同文滬報(こほう)館を設立、中文新聞『亜洲日報』を創刊した。後、井手が創刊した『上海日報』主筆となり、凡そ30年に亙って編集業務に従事した。『上海日報』》は『上海日日新聞』『上海毎日新聞』と並ぶ、上海3大日本語新聞の一つ。

・「姑蘇城」蘇州の別名。春秋時代の呉の都。南西にある姑蘇山から附いた。当時の都の位置は現在の江蘇省呉県、蘇州市の南に当たる。

・「縫箔屋」刺繍と摺箔(すりはく:布に糊や膠(にかわ)等を用いて模様を描いてそれに金箔・銀箔を押しつけたもの。)を組み合わせて布地に装飾模様を施す店屋。

・「姑蘇三千六百橋、呉門三百九十橋」姑蘇の城内には3,600橋(きょう)の橋があり、その周縁部(姑蘇城内を除いた)である呉江蘇省呉県の範囲には更に390橋の橋がある、という意味。

・「北寺」は蘇州駅に近くにある蘇州最古の寺。三国時代の呉の孫権(後注参照)が母への報恩を目的に造立(247250頃)された通玄寺を元とする。唐代に再建されて現在のように報恩寺と名づけられた(筑摩全集類聚版の「報講寺」は誤りと思われる)。諸注が孫権の建立とする北寺塔の元自体は梁時代(502557年頃)のものらしいが、芥川が言うように損壊と再建が繰り返され、ここで芥川が登った現在の八角形九層塔は、南宋時代の1153年の再建になるものである(七層から上は明代、廂と欄干は清代の再建・補修になるもので、正にこれもまた「瑞光寺の古塔」以上に「重修に重修を重ねた」増殖した塔である)。高さ76m、江南一の高さを誇る(以上は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「北寺塔」の記載を参照した)。【二〇一二年七月十二日】教え子のT.S.君が昨日、北寺塔を仕事の昼休みに訪ねて呉れて、写真を寄せて呉れた。一枚目は最上層から南側の旧城内を望んだ眺め、二枚目は塔内の階段である。

[北寺塔からの眺め]


[北寺塔内階梯]


・「蘇州七塔」友人が中文サイトを調べてくれたところによると、六朝時代に始まった「七塔」の名数は時代や数え方で何種類もあるらしい。現在の観光名所としての名数では北寺塔・大同塔・瑞光塔・白塔・双塔(×2)・石塔を指すが、芥川が訪れた時代の名数が同じとは必ずしも言い難い。友人は古跡を含めた白塔・孟子堂の東にある塔・虹塔・司獄司署内にある塔・雄塔・雌塔と、それに妙湛寺にあった塔(現存せず)という記載がそれに近いのではないかと教えてくれた。これだと7つを数えることが出来るのだが、しかし、芥川の謂いの北寺塔が含まれない。とりあえず、前者現代の観光版と同じととっておく。

・「孫權」呉の太祖(182252)。後漢末から三国時代にかけて活躍した「三国志」で知られる武将。赤壁の戦いで劉備と同盟し曹操の軍を破り、江東六郡の呉を建国して初代皇帝に即位した。

・「瑞光寺の古塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。自分が登っている北寺塔の造立者孫権を芥川はこの塔の造立者と誤認している。

・「高い塔上に立つてゐる事は、何だか寂しいものである」私はこのヴィジュアルなエンディングが如何にも印象的で好きである。パースペクティヴに富んだ彼の視線の映像と声が鮮やかに聞こえてくる。そうしてその最後の言葉は芥川龍之介版「第三の男」の哲学である。]


       
十四 蘇州城内(中)


 我我は北寺(ほくじ)の塔を見てから、玄妙觀を見物に行つた。玄妙觀はさつき通つた、寶石屋の多い往來から、ちよいと横町をはいつた所にある。觀前(かんぜん)の廣場に露店の多い事は、上海の城隍廟(じやうくわうべう)と違ひはない。うどん、饅頭、甘蔗(かんしよ)の莖、地栗(デリイ)! さう云ふ食物店(くひものみせ)の間には、玩具屋や雜貨屋も店を出してゐる。人出も勿論非常に多い。が、上海と違ふ事は、これ程ぞろぞろ練(ね)つてゐる中に、殆(ほとんど)洋服の見えない事である。のみならず場所も廣いせゐか、何だか上海のやうに陽氣でない。華やかな靴下が並べてあつても、韮(にら)臭い湯氣が立つてゐても、いや、漆のやうに髮が光つた、若い女が二三人、鶸色(ひわいろ)や薄紫の着物の尻をわざと振るやうに歩いてゐても、何處か鄙びた寂しさがある。私は昔ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時も、こんな氣がしたのに違ひないと思つた。

 その群集の中を歩いて行つたら、突きあたりに大きい御堂(おだう)があつた。これも大きい事は大きいが、柱の赤塗りも剥げてゐれば、白壁も埃にまみれてゐる。その上參詣人もこの堂へは、たまに上つて來るばかりだから、一層荒廢した感じが強い。中へはいるとべた一面に、石版だの木版だの肉筆だの、いづれも安物の懸け軸が、惡どい色彩を連ねてゐる。と云つても書畫の奉納ぢやない。皆新しい賣物である。店番は何處にゐるのかと思つたら、薄暗い堂の片隅に、小さい爺さんが坐つてゐた。しかしこの懸け物の外には、香花は勿論尊像も見えない。

 堂を後へ通り拔けると、今度は其處の人だかりの中に、兩肌脱ぎの男が二人、兩刀と槍との試合をしてゐた。まさか刄(は)はついてもゐるまいが、赤い房のついた槍や、鉤(かぎ)なりに先の曲つた刀が、きらきら日の光を反射しながら、火花を散らして切り結ぶ所は、頗(すこぶる)見事なものである。その内に辮子(ベンツ)のある大男は、相手に槍を打ち落されると、隙間もない太刀先を躱(かは)し躱し、咄嗟に相手の脾腹を蹴上げた。相手は兩刀を握つた儘、仰向けざまにひつくり返る、――と、まはりの見物は、嬉しさうにどつと笑ひ聲をあげた。何でも病大蟲薛永(びやうだいちうせつえい)とか、打虎將李忠(だこしやうりちゆう)とか云ふ豪傑は、こんな連中だつたのに相違ない。石段の上に、彼等の立ち廻りを眺めながら、大いに水滸傳らしい心もちになつた。

 水滸傳らしい――と云つただけでは、十分に意味が通じないかも知れない。一體水滸傳と云ふ小説は、日本(にほん)にも馬琴の八犬傳を始め、神稻水滸傳(しんとうすゐこでん)とか本朝水滸傳とか、いろいろ類作が現れてゐる。が、水滸傳らしい心もちは、そのいづれにも寫されてゐない。ぢや「水滸傳らしい」とは何かと云へば、或支那思想の閃きである。天罡地煞(てんこうちさつ)百八人の豪傑は、馬琴などの考へてゐたやうに、忠臣義士の一團ぢやない。寧(むしろ)數の上から云へば、無賴漢の結社である。しかし彼等を糾合(きうがふ)した力は、惡を愛する心ぢやない。確(たしか)武松(ぶしよう)の言葉だつたと思ふが、豪傑の士の愛するものは、放火殺人だと云ふのがある。が、これは嚴密に云へば、放火殺人を愛すべくんば、豪傑たるべしと云ふのである。いや、もう一層丁寧に云へば、既に豪傑の士たる以上、區區たる放火殺人の如きは、問題にならぬと云ふのである。つまり彼等の間には、善惡を脚下に蹂躙すべき、豪傑の意識が流れてゐる。模範的軍人たる林冲(りんちゆう)も、專門的博徒たる白勝(はくしよう)も、この心を持つてゐる限り、正に兄弟だつたと云つても好(よ)い。この心――云はば一種の超道德思想は、獨り彼等の心ばかりぢやない。古往今來(こわうこんらい)支那人の胸には、少くとも日本人に比べると、遙に深い根を張つた、等閑に出來ない心である。天下は一人(にん)の天下にあらずと云ふが、さう云ふ事を云ふ連中は、唯(ただ)昏君(こんくん)一人(にん)の天下にあらずと云ふのに過ぎない。實は皆肚(はら)の中では、昏君一人の天下の代りに彼等即ち豪傑一人(にん)の天下にしようと云ふのである。もう一つその證據を擧げれば、英雄頭(かうべ)を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある。神仙は勿論惡人でもなければ、同時に又善人でもない。善惡の彼岸に棚引いた、霞ばかり食ふ人間である。放火殺人を意としない豪傑は、確にこの點では一囘頭(くわいとう)すると、神仙の仲間にはいつてしまふ。もし譃だと思ふ人は、試みにニイチエを開いて見るが好い。毒藥を用ゐるツアラトストラは、即ちシイザア・ボルヂアである。水滸傳は武松が虎を殺したり、李逵(りき)が鉞(まさかり)を振廻したり、燕靑(えんせい)が相撲をとつたりするから、常人に愛讀されるんぢやない。あの中に磅礴(ほうはく)した、圖太い豪傑の心もちが、直に讀む者を醉はしめるのである。………………

 私は又武器の音に目を見張つた。あの二人の豪傑は、私が水滸傳を考へてゐる内に、何時か一人は靑龍刀を、一人は幅の廣い刀をふり上げながら、二度目の切り合ひを始めてゐる。――

[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。私は「江南游記」の中でも、本篇が殊の外、気に入っている。それはここで語られる芥川の「善悪の彼岸」、豪傑の哲学に魅せられるからである。私は今の中国や中国人の中に、連綿と続くこの「力」を感じるし、それに一種の羨望さえ抱いていると言ってもよいのである。なお、本篇には沢山の「水滸伝」中の人物が登場するが、私はまともに「水滸伝」を読んだことがなく、ドラマ等も完全に通して見たことはない。そのため、それらの登場人物の事蹟については、大々的にウィキの「水滸伝」関連の記載を参照させて頂いた(その際、一部の難解な漢字に私が振ったことが分かるように《 》で読みを補った箇所がある)。なるべく芥川の叙述と関わる内容を心掛けたため、恣意的な一部の引用になっていることをお断りし、また、ここで美事な解説をなさっているウィキの執筆者の方々に心から敬意を表するものである。

・「玄妙觀」西晋の咸寧年間(275280)に創建された道教寺院。但し、玄妙観という呼称は元代以降のもの(それまでは真慶道院)。明の1371年に道教の聖地として興隆し、盛時は建物三十数棟、敷地面積4haに達したと言われる。太平天国の乱等により、多くの建物・文物の損壊と修復を繰り返したが、宋から清にかけての道教文化を伝えるものとして、また長江以南に現存する最大の建築群として、現在、全国重点文物に指定されている(以上と以下の「大きい御堂」の注は主に『中国・蘇州個人旅行 ユニバーサル旅行コンサルジュ「蘇州有情」』の「玄妙観の記載を参照した)。

・「上海の城隍廟」中国の民間信仰である道教の土地神たる城隍神を祀るための廟所。上海城隍廟(俗に老城隍廟)は現在の黄浦区南部の豫園及びその商店街に隣接した地に建つ。芥川龍之介「上海游記」の「七 城内(中)」を参照。

・「甘蔗」イネ目イネ科サトウキビSaccharum officinarumのこと。

・「地栗(デリイ)」“dìlì”は水生多年草の単子葉植物綱オモダカ目オモダカ科オモダカ属クワイ(慈姑)Sagittaria trifolia。「地栗」は上海での呼び名で、中日辞書ではクワイはやはり「慈姑」で、拼音(ピンイン)は“cígū”、「ツク」である。

・「鶸色」黄緑色。スズメ目アトリ科カワラヒワ属マヒワ(真鶸)Carduelis spinusの羽の色の連想から名づけられた色名。

・「ピエル・ロテイが、淺草の觀音に詣でた時」Pierre Lotiピエール・ロティはフランスの海軍士官にして作家であったLouis Marie-Julien Viaudルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(18501923)のペンネーム。艦隊勤務の中、彼は明治181885)年と明治331900)年の二度の来日しているが、ここで言う彼の浅草観音来訪の様子は、明治181885)年の体験を元にした1889年刊の“Japoneries d'automne”「秋の日本的なるもの」の「江戸」の章にある。

・「大きい御堂」玄妙観の主殿である三清殿。南宋の1179年の造立、設計は著名な北宋の画家趙伯駒(ちょうはくく)。神田由美子氏の岩波版新全集注解では、『中国最古最大の御堂』であるとする。

・「辮子(ベンツ)」“biàz”弁髪(辮髪)のこと。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。

・「病大蟲薛永」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「薛永」によれば、渾名の「病大蟲」とは「病」が『顔色が薄黄色い事、またはそれに『~匹敵する』という意味。大虫とは虎の事である。没落武官の孫で、槍棒の使い手』であったが、その演武を見世物にした膏薬売りに身を落としていたところを、宋江に見出される。

・「打虎將李忠」「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李忠」によれば、渾名の打虎将とは虎殺しの意で、棒術の使い手であった。薛永同様、『膏薬売りなどをしつつ、各地を放浪していた』が、魯智深との縁で入山する。

・「神稻水滸傳」文政121829)年より明治141881)年頃まで刊行され続けた読本。28140冊。岳亭定岡(がくていさだおか:五編迄)・知足館松旭(ちそくかんしょうきょく:五編以降)作、岳亭定岡他画。「水滸伝」を室町時代の結城合戦(ゆうきがっせん:永享121440)に関東で勃発した室町幕府に対して結城氏を中心とした豪族が起こした反乱)に翻案したもの。正しくは「俊傑神稲水滸伝」。

・「本朝水滸傳」安永21773)年に建部綾足(享保41719)年~安永31774)年)が死の前年に発表した、「水滸伝」を換骨奪胎するとともに日本史をも改変した伝奇小説の先駆的作品。

・「天罡地煞百八人」「百八人」は「水滸伝」に登場する豪傑の数(これは最大の陽数9の12倍)。それを二種の星。天罡星(てんこうせい:本来は中国語で北斗星を意味する。)と地煞星(ちさつせい:「煞」=「殺」で禍々しい神で、真理に向かう過程では必要とされるべき存在を意味するか。何れにせよ、この二星は本来、道教の神である)に分けて、人物を配する。天罡星は36人、地煞星(ちさつせい)は72人。それを示す神文を刻んだ作中明らかにされる(その伏線は作品の冒頭に現れる)。その碑に記された「替天行道」(天に替りて道を行ひて)と「忠義双全」(忠義双つながら全し)の言葉が梁山泊の御旗となる。

・「武松」行者武松(ぎょうじゃぶしょう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人であり、また「金瓶梅」等にもスター・システムのように登場する一種の侠客である(渾名は修行者の格好をしていることから)。「金瓶梅」では人食い虎を退治し都督となり、最後のシーンでは兄を殺した主人公ら西門慶・潘金蓮を小気味よく惨殺する。「水滸伝」では、その後に自首した彼が、巡り巡って憤怒から再び大量殺人を犯して逃亡する内に、魯智深ら梁山泊の仲間となっている。京劇では豪傑にして義人として描かれ、その立ち回りが人気のキャラクターである。なお、「水滸伝」では林冲の死を見取り、80歳で天寿を全うしたことになっているが、浙江工商大学日本文化研究所のHP「中国の日本研究」の王勇氏の「《水滸伝の文化誌》 第十六回 武松の墓を再訪して」に、筆者の幼少の頃に聴いた話として、『湧金門の水城を攻めるとき、両腕を失った武松は杭州を放浪中、宿敵に遭遇して両足を切り取られ、「瓢箪人間」となり、西湖に身を投げて命を絶ったそうである。また一説では、四肢を失った武松は魯智深の手を借りて、惨めな生涯を閉じたとも言われる。『水滸伝』とは逆に、武松は魯智深より先に逝ったことになる』という興味深い伝承を伝えている(「湧金門」は「十二 靈隱寺」の同注参照)。

・「區區たる」小さくてつまらないさま。

・「糾合」ある目的のために人々を寄せ集め、纏めること。

・「林冲」豹子頭林冲(ひょうしとうりんちゅう)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。渾名はヒョウのように鋭く勇猛な顏の意。梁山泊中、武芸はトップクラス、槍棒を得意技とする。ウィキの「林冲」によれば、『首都開封で禁軍の教頭として妻と暮らしていたが、その妻を上司である高俅《こうきゅう》の養子、高衙内《こうがない》に横恋慕されてしまう。林冲の親しい友人であった陸謙らの協力を得て高衙内は夫人に迫るが、間一髪の所で林冲に見破られ未遂に終った。しかし、それを知った高俅により罠に嵌められ、滄州へ流罪となった。護送中に命を狙われるが魯智深により助けられる。流刑先では柴進《さいしん》の世話になり、まじめに刑に服していたが、開封から陸謙らに命を狙われ、彼らを返り討ちにして逃亡する』という生涯の前段を見ても、芥川の言うように高潔な軍人である。妻との悲恋のエピソード等、日本人にはその悲劇性故に人気が高い人物である。

・「白勝」白日鼠白勝は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「白勝」によれば、「白日鼠」という名は『昼間からこそこそつまらない悪さばかりしていたのでこの渾名がついた。この威厳の無い渾名通り非力で、これと言った特技も』ない上に、官憲に捕縛されて同賊の名前を自白する等、芥川が言うところの「専門的博徒」=『博打好きのチンピラ』として『席次は梁山泊でも最下位に近い人物だが』、芥川が「九 西湖(四)」で取り上げた『「智取生辰綱」《ちしゅせいしんこう》という、有名な場面で重要な役回りを演じた男であり、また使い走りとしては非常に良く働き、時たま思わぬ手柄を立てる事もあるので意外と出番は多く読者認知度もかなり高い』(「智取生辰綱」の内容については「九 西湖(四)」の「阮小二」の私の注を参照されたい)。そのウィキに記された演技力や奇策を見るに、決してただの『博打好きのチンピラ』とは思われない。

・「昏君」道理に暗い主君。愚かな君主。

・「英雄頭を囘らせば、即ち神仙と云ふ言葉がある」筑摩全集類聚版は出典未詳とし、神田由美子氏の岩波版新全集注解は注としてさえ挙げていないが、これは北宋の詩人・書家として「詩書画三絶」と讃えられた黄庭堅の「絶句」の結句である。

   絶句

半竿春水一蓑煙

抱月懷中枕斗眠

説與時人休問我

英雄囘首即神仙

○やぶちゃんの書き下し文

半竿(はんかん)の春水 一簑(りふ)の煙(えん)

月を懷中に抱きて 斗に枕して眠る

説與(せつよ)す 時人(じじん) 我に問ふを休せよ

英雄 首(かうべ)を囘らせば 即ち神仙

○やぶちゃんの現代語訳

竿(さお)半分 春まだ浅き川流れ 粗末な蓑の一つきり 霞の中の小舟の上(へ)

さても月を 懐に抱きしめて 北斗を枕に 一眠り

言っておきたいことがある――世の者たちよ この儂(わし)に 訊いてくれるな

英雄の そっ首 ぐるりと回したら あらら 見る間に 即 神仙――

黄庭堅(10451105)は、字は魯直、号は山谷。23歳で進士に登第、地方官を経て国史編修官となったが、王安石(10211086)ら新法派(財政・軍事・農業・教育行政に及ぶ改革派)と対立し、四川の辺境に流謫されて没した。蘇門四学士(張耒(ちょうらい 10541114)・晁補之(ちょうほし 10531110)・秦観(10491100))中の第一、蘇軾は弟子としてではなく友人として接したという。因みに、宋の釈恵洪(しゃくえこう 10711128)はその著「冷斎夜話」(見聞雑記であるが多くは詩話)で黄庭堅の言葉として「然不易其意、而造其語、謂之換骨法。窺入其意、而形容之、謂之奪胎法。」(然るに其の意を易へずして、而して其の語を造る、之れ、換骨法と謂ふ。其の意を窺ひ入れて、而して之を形容す、之れ、奪胎法と謂ふ。)を引く。これこそが、芥川文学の核心を成すところでもある、「換骨奪胎」の語源である。

・「シイザア・ボルヂア」Cesare Borgiaチェーザレ・ボルジア(14751507)はイタリアルネサンス期の専制君主。枢機卿からロマーニャ公となり、権謀術数をもって支配領域を拡大したが、父であった教皇Alexander VIアレクサンドロ6世(14311503 Rodrigo Borgiaロドリーゴ・ボルジア)の死とともに失脚した。弟妹の暗殺疑惑やボルジア家秘伝の毒と呼ばれた“Cantalera”「カンタレラ」(かつて屍毒とされたが、現在は一種の細菌毒と考えられている)による政敵の毒殺等、私には芥川の言わんとするようなピカレスクなロマン性よりは、異常なサディスト・殺人嗜好症の変質者の印象が強い。

・「李逵」黒旋風李逵は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李逵」によれば、『二挺の板斧(手斧)を得意と』し、そのすばしっこさと荒々しい強さに加えて、『色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ば』れた。『怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。』『一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない』ため、なついて尊崇する宋江等からも『叱責を買うことも多い』。ある意味、『破茶滅茶で失敗も多いが憎めない部分もあるトリックスター的存在で、この手の破壊的快男子が喝采を浴びる中国では群を抜く人気を誇っている。しかし日本ではあまりに行動が短絡的で、無節操に人を殺すせいか辟易する読者も多く、好き嫌いがはっきり分かれる人物のようである』とある。その宋江との意外な別れは魅力的であり、『死後も徽宗《きそう》の夢の中に現れ奸臣にいいように騙された事を罵って斬りかかったり』するなど、如何にも芥川好みのプエル・エテルヌス・ピカレスクではある。

・「燕靑」浪子燕青(ろうしえんせい)は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「燕青によれば、渾名の浪子は『伊達者を意味』し、『年齢は登場時で22歳と、時期的に考えて梁山泊でも最年少の部類に入る。体格は小柄で細身、色白で絹のような肌を持った絶世の美青年。全身に見事な刺青を入れている。多芸多才な人物で弩《いしゆみ》の腕は百発百中、小柄ながらも相撲(拳法)の達人であり肉弾戦も強い。また遊びや音楽、舞踊等の芸事、商売人の隠語や各地の方言にまで精通している。頭の回転も非常に速く、ここぞというときに機転を利かせることができる。また、粗暴なことで知られる李逵を制御する事ができ「天才」といっても過言ではない人物である。故に人気は非常に高い』。『梁山泊の朝廷への帰順の最大の功労者となった』が、最後には不思議な蒸発をする。この若衆も、その消え方といい、芥川はしびれたに違いない。

・「磅礴」は「旁礴」「旁魄」とも書く。混ぜて一つとすること、の意と、広く満ちて限りないさま、の意があるが、ここは渾然一体となって、水滸伝世界に遍く広がっている、というダブルの意を示していよう。]


       
十五 蘇州城内(下)


 孔子廟へ來たのは日暮れ方だつた。疲れた驢馬に跨りながら、敷石の間に草の生えた、廟前の路へさしかかると、寂しい路(みち)ばたの桑畑の上に、薄白い瑞光寺の癈塔が見える。塔の一層一層に、蔦蘿(つたかつら)や草の茂つたのも見える。その空に點點と飛び違ふ、この邊(へん)に多い鵲(かささぎ)も見える。私は實際この瞬間、蒼茫萬古(さうばうばんこ)の意とでも形容したい、哀れにも嬉しい心もちになつた。

 この蒼茫萬古の意は、幸ひにずつと裏切られなかつた。門外に驢馬を乘り捨てた後(のち)、路も覺束ない草の中を行けば、暗い柏や杉の間に、南京藻の浮んだ池がある。と思ふと池の縁(ふち)には、赤い筋の帽子の兵卒が一人、蘆や蒲を押し分けながら、叉手網(さであみ)に魚(うを)を掬つてゐる。此處は明治七年に再建(さいこん)されたとは云ふものの、宋の名臣范仲淹(はんちゆうえん)が創(はじ)めた、江南第一の文廟である。それを思へばこの荒廢は、直に支那の荒廢ではないか? しかし少くとも遠來の私には、この荒廢があればこそ、懷古の詩興も生ずるのである。私は一體歎けば好(よ)いのか、それとも又喜べば好いのか?――さう云ふ矛盾を感じながら、苔蒸した石橋(いしばし)を渡つた時、私の口には何時の間にか、こんな句がかすかに謳はれてゐた。「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」但しこの句の作者は私ぢやない。北京にゐる今關天彭(いまぜきてんぽう)氏である。

 黒い禮門を通り過ぎてから、石獅(せきし)の間を少し歩むと、何とか云ふ小さい通用門がある。その門を開けて貰ふ爲には、靑服(あをふく)の門番の上(かみ)さんに、二十錢銀貨をやらなければならない。が、その貧しさうな上さんが、痘痕(あばた)のある十ばかりの女の子と一しよに、案内に立つ所は哀れである。我我は彼等の後から、毒だみの花だけ仄白(ほのしろ)い、夕濕りの敷石を踏んで行つた。敷石の盡きる所には、戟門(げきもん)と云ふのだらう、大きい門が聳えてゐる。名高い天文圖や支那全圖の石に刻まれたのも此處にあるが、あたりに濡つた薄明りでは、碑面もはつきりとは見る事が出來ない。唯その門をはいつた所に、太鼓や鐘が並んでゐる。甚しいかな、禮樂の衰へたるや。今考へると滑稽だが、私はこの埃だらけの、古風な樂器を眺めた時、何だかそんな感慨があつた。

 戟門の中の石疊みにも、勿論茫茫と草が伸びてゐる。石疊みの南側には、昔の文官試驗場だつたと云ふ、廊下同樣の屋根續きの前に、何本も太い銀杏がある。我我は門番の親子と一しよに、その石疊みのつきあたりにある、大成殿(たいせいでん)の石段を登つた。大成殿は廟の成殿だから、規模も中中雄大である。石段の龍、黄色(きいろ)の壁、群靑に白く殿名を書いた、御筆(ぎよひつ)らしい正面の額――私は殿外を眺めまはした後、薄暗い殿内を覗いて見た。すると高い天井に、雨でも降るのかと思ふ位、颯颯(さつさつ)たる音(おと)が渡つてゐる。同時に何か異樣の臭ひが、ぷんと私の鼻を打つた。

 「何です、あれは?」

 私は早速退却しながら、島津四十起氏をふり返つた。

 「蝙蝠(かうもり)ですよ、この天井に巣を食つてゐる。――」

 島津氏はにやにや笑つてゐた。見れば成程敷き瓦の上にも、一面に黑い糞が落ちてゐる。あの羽音を聞いた上、この夥しい糞を見れば、如何に澤山の蝙蝠が、梁間の暗闇に飛んでゐるか、想ふだに餘り好(よ)い氣味はしない。私は懷古の詩境からゴヤの畫境へつき落された。かうなつては蒼茫どころぢやない。宛然(ゑんぜん)たる怪談の世界である。

 「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」

 「何、蝠(ふく)と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶものです。」

 驢背(ろはい)の客となつた後、我我はもう夕靄の下りた、暗い小道を通りながら、こんな事を話し合つた。蝙蝠は日本でも江戸時代には、氣味が惡いと云ふよりも、意氣な物だと思はれたらしい。蝙蝠安(かうもりやす)の刺靑(ほりもの)の如きは、確にその證據である。しかし西洋の影響は、何時の間にか鹽酸のやうに、地金(ぢがね)の江戸を腐らせてしまつた。して見れば今後二十年もすると、「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」の唄には、ボオドレエルの感化があるなぞと、述べ立てる批評家が出るかも知れない。――驢馬はその間も小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新綠の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる。

[やぶちゃん注:「十三 蘇州城内(上)」の冒頭注で示した通り、5月9日の嘱目。ここまで入れ込んで注を附していると、不思議なことが起こるものだ。私は西湖に行ったことがないのに、眼をつぶってもその略図が書けるようになり、その半ば淀んだアオコの水の生臭い匂いがし、擦れ違う中国人の鮮やかな服が思い出せる。そうして遂には「小走りに、頸の鈴を鳴らし鳴らし、新綠の匂の漂つた、人氣のない路を急いでゐる」驢馬に跨った華奢な芥川をドキュメンタリーで撮影しているカメラマンである自分が実感されるのである。

・「孔子廟」蘇州文廟とも。宋の1035年に教育行政の一環として蘇州知事范仲掩によって創建された江南最大の孔子廟である。現在は廟内にある蘇州碑刻博物館としての肩書の方が知られ、儒学・経済・孔廟重修記碑等多数が展示されている。芥川が見えないことを嘆いたのはその目玉である「平江図碑」(1229)・「天文図碑」(1247)・「地理図碑」(1247)・「帝王紹運図碑」(1247)の四大宋碑である(主に松倉大輔氏の「旅で出会った文物たち 第 蘇州をゆく」の記載を参照した)。

・「瑞光寺の癈塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。ここで芥川が「癈塔」と表現している(「十三 蘇州城内(上)」では『名高い瑞光寺の古塔だつた。(勿論今のは重修に重修を重ねた塔である。)』とあったのだが)のは、芥川が見た時は、「重修に重修を重ねた」ものが以下に描出されるように、羅生門の如く相当に荒廃していたということを指している。

・「蔦蘿」「蘿」も、つた・かずらの意。

・「鵲」スズメ目カラス科カササギPica pica。本邦では主に有明海沿岸に分布、コウライガラスとも呼ぶ。中国では「喜鵲」で、「鵲」「客鵲」「神女」等とも言う。大陸や朝鮮半島では極一般的な鳥である。

・「蒼茫萬古」。目に見えない何ものかが無限の彼方まで広がっているさまが、永遠に続く時の中にあること。限定を超越した永遠無限の時空間認識、その感懐を言う語。

・「南京藻」他の作品でもそうだが芥川がこう言う時には、必ず腐れ水の匂いが付き纏う。従ってこれは、所謂、水草らしい水草としての顕花植物としての水草類や、それらしく見える藻類を指すのではなく、真正細菌シアノバクテリア門藍藻類のクロオコッカス目Chroococcales・プレウロカプサ目Pleurocapsales・ユレモ目Oscillatoriales・ネンジュモ目Nostocales・スティゴネマ目Stigonematales・グロエオバクター目Gloeobacterales等に属する、光合成によって酸素を生み出す真正細菌の一群、所謂、アオコを形成するものを指していると考えられる。アオコの主原因として挙げられる種は藍藻類の中でもクロオコッカス目のミクロキスティス属 Microcystis、ネンジュモ目アナベナ属Anabaenaや同目のアナベノプシス属Anabaenopsisであるが、更に緑藻類の緑色植物亜界緑藻植物門トレボウキシア藻綱クロレラ目クロレラ科のクロレラ属Chlorella、緑藻植物門緑藻綱ヨコワミドロ目イカダモ科イカダモ属Scenedesmus、緑藻綱ボルボックス目クラミドモナス科クラミドモナス属Chlamydomonas等もその範囲に含まれてくる。若しくは、それらが付着した水草類で緑色に澱んだものをイメージすればよいであろう。

・「叉手網」2本の竹木を交差させて袋状に網を張り、魚を掬い採る漁具。

・「明治七年」1874年。清の同治13年。

・「范仲淹」(9891052)は北宋屈指の名臣。蘇州出身で、辺境をよく守備して西夏の侵入を防いだ。名文「岳陽楼記」中、理想的な為政者の在り方を示した「先憂後楽」は特に知られる故事成句である。1104年にこの孔子廟(蘇州文廟)を建立している。

・「文廟」一般名詞としての孔子廟のこと。

・『「休言竟是人家國。我亦書生好感時。」』は、

○やぶちゃんの書き下し文

言ふを休めよや 竟(つひ)に是れ 人の家國(かこく)

我れ亦 書生 好く時に感ずべし

○やぶちゃんの現代語訳

あれこれ言うのは止めましょう トドのつまり ここは中国 人の国

私もこれまた たかが学生(がくしょう) 人生に いろいろ感じて懐(おも)うのも 仕方がないとは言えましょう

てな感じだろうか。前後がないのでとんでもない誤訳かも知れない。ご注意あれ。

・「今關天彭」本名今関寿麿(いまぜきとしまろ 明治151882)年~昭和451970)年)は日本の中国研究家・漢詩人。石川鴻斎(こうさい)、森槐南(かいなん)らに師事。朝鮮総督府嘱託などを経て、大正71918)年に北京に中国文化学術の研究所である今関研究室を設立。昭和171942)年には重光葵(しげみつまもる)駐華大使の大使顧問となった。著作に「宋元明清儒学年表」「中国文化入門」「近代支那の学芸」「天彭詩集」等多数。

・「禮門」ここでは、孔子廟の一番外側にある入場門の謂い。

・「石獅」日本の狛犬。古代インドをルーツとし、日本へは中国から朝鮮を経て移入、そこから「高麗(こま)犬」と呼ばれるようになったとされる。

・「戟門」ここでは、孔子廟の内の正門の謂い。

・「天文圖」四大宋碑の一つである「淳祐天文図碑」(1247)のこと。十二支を星座に配してある。この星図自体は既に南宋の1190年頃には完成していたらしい。

・「支那全圖」四大宋碑の一つである「地理図碑」(1247)というのがそれであろうか。識者の御教授を乞う。

・「昔の文官試驗場」科挙試のための一方開放式ボックスの試験室が長屋状になったもの。私も復元されたものに受験生気分で座って写真を撮ったことがある。極めて狭い。ここで2泊3日自炊で試験を受けた。筆記試験実施中にここから出た者は即座に失格であった。

・「大成殿」孔子廟の正殿。

・「御筆らしい正面の額」筑摩全集類聚版脚注には、北宋の徽宗(10821135)の宸筆か、と推測されているが、岩波版はここに注しない。そうではないということか?

・「ゴヤの畫境」晩年のFrancisco José de Goya y Lucientesフランシスコ・ホセ・デ・ゴヤ・イ・ルシエンテス(17461828)は179246歳で聴力を失い、1800年代初頭のフランスとの半島戦争(18081814)の戦火の中、1799年には有名なグロテスクな寓意に富んだ処女版画集『ロス・カプリチョス』を刊行(芥川龍之介には丁度本篇を発表した大正111922)年1月1日に『人間』に発表した、この題名をそのまま用いた作品「LOS CAPRICHOS」がある)、戦中には著名な戦争画「マドリード、180853日」(素晴らしい構図の「巨人」も挙げたいところだが、2009年1月に所蔵するプラド美術館によってゴヤの真筆ではないことが結論された)を描き、1810年には版画集『戦争の惨禍』を、また1820年から1824年にかけては「我が子を食らうサトゥルヌス」で有名な、魔女や暴力を描いた『黒い絵』シリーズを描くなど、暗い現実への皮肉と憎悪に満ちた陰惨な怪奇幻想作品を好んで描いている。

・「宛然たる」そっくりそのままであること。全くもって。完全に。

・「孔子も蝙蝠には閉口でせう。」というこの台詞、音読してみると一目瞭然、次の中国音の音通以前に、芥川自身が「孔」・「蝙」・「口」で音通を洒落ているのである。こういう部分にこそ「注」は必要である。向後、誰一人としてこうした芥川の技巧が分からなくなる日が必ず来る。「蝙蝠」が読めず、「閉口」の意味が分からず、「孔子」の当たり前の事蹟も知らない者が、どうしてこのウィットに気づけるであろう。私は誰かが、こんなつまらないことを今、注しておかなくてはならないのだとしみじみ思うのである。

・「蝠と福とは同音ですから、支那人は蝙蝠を喜ぶもの」本邦と同じくコウモリを言う「蝙蝠」は中国語で“biănfú”で、「蝠」の字の音は“”である。「福」は同じく“”で、完全な音通となる。しばしば見られる紅い蝙蝠のデザインは「紅蝠」“hóngfú”が完全な同音の「洪福」“hóngfú”(大きい幸福)の意となるからである。また、長寿・富貴・健康・修徳・天寿という中国人の理想的「福」を示すために5頭の蝙蝠が飛ぶデザインで描いたりもする。

・「蝙蝠安の刺靑」歌舞伎世話物で一般に「お富与三郎」とか「切られ与三(よさ)」の通称で知られる「与話情浮名横櫛」(よわなさけうきなのよこぐし)の主人公。一立斎文車(いちりつさいぶんしゃ ?~文久2(1862)年)の講談が原作。但し、原作は菅良助(かんりょうすけ 明和6(1769)年~万延元(1860)年)説もある。三代目瀬川如皐(せがわじょこう 文化3(1806)年~明治141881)年)が歌舞伎に仕立てて、嘉永6(1853)年に江戸で初演された一種のピカレスク・ロマン。身を持ち崩した主人公与三郎とつるむゴロツキの渾名が「蝙蝠安」で、左頰に蝙蝠の刺青をしている。

・『「蝙蝠も出て來て濱の夕涼み」』筑摩全集類聚版は未詳とし、神田由美子氏の岩波版新全集注解は注としてさえ挙げていないが、これは海賀変哲編「端唄及都々逸集 附はやり唄と小唄」(大正6(1917)年東京博文館刊)の「かの部」にある、

○蝙蝠が(三下リ)

蝙蝠が、出てきた浜の夕凉、川風さつとふく牡丹、からい仕かけの色男、いなさぬ/\いつまでも、浪花の水にうつす姿絵。

が元であろう。芥川のものも「出て」という用語が如何にも新しい感じがする。芥川は「蝙蝠が、出てきた浜の夕凉」の部分を俳諧に改作して江戸趣味にアレンジしたものかと思われる。引用は「J-TEXT」のアーカイブから。当該ブラウザは何度やっても表示すると画面が慄っとするほどフリーズするのでリンクは張らない。因みに、この海賀変哲(明治 4(1871)年~大正121923)年)は雑誌記者・作家。本名は篤麿(あつまろ?)。札幌農学校(現・北海道大学)に学び、明治391906)年、博文館に入社、ベストセラーとなった雑誌『少女世界』『文芸倶楽部』の編集に当った。]


       
十六 天平と靈巖と(上)


 天平山白雲寺(てんぺいざんはくうんじ)へ行つて見たら、山に倚(よ)つた亭の壁に、排日の落書きが澤山あつた。「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」と云ふのがある。「犬與日奴不得題壁」と云ふのがある。(尤も島津氏は平然と、層雲派の俳句を題してゐた。)更に猛烈なやつになると、「莽蕩河山起暮愁。何來不共戴天仇。恨無十萬横磨劍。殺盡倭奴方罷休。」と云ふ名詩がある。何でもこの詩の前書きには、天平山へ詣でる途中、日本人と喧嘩をしたら、多勢に無勢のため負けてしまつた。痛憤に堪へないなどと書いてあつた。聞けば排日の指嗾費(しそうひ)は、三十寓圓内外とか云ふ事だが、この位利き目があるとすれば、日本の商品を驅逐する上にも、寧ろ安い廣告費である。私は欄外の若楓(わかかへで)の枝が、雨氣(うき)に垂れたのを眺めながら、若い寺男の持つて來る、抹香臭い茶を飮んだり、固い棗(なつめ)の實を嚙つたりした。

 「天平山は思つたより好い。もう少し綺麗にしてあると猶好(よ)いが、――おや、あの山の下の堂の障子は、あれは硝子(がらす)が嵌まつてゐるのですか?」

 「いや、貝ですよ。木連(きつ)れ格子(がうし)の目へ一枚づつ、何とか云ふ貝の薄いやつを、硝子代りに貼りつけたのです。――天平山は何時か谷崎さんも、書いてゐたぢやありませんか?」

 「ええ、蘇州紀行の中に。尤も天平山の紅葉よりは、途中の運河の方が面白かつたやうです。」

 我我は靈巖山(れいがんざん)へも登る必要上、今日も驢馬に跨つて來たが、それでも初夏の運河に沿うた、姑蘇城外の田舍路は、美しかつたのに相違ない。白い鵞(が)の浮いた運河には、やはり太鼓なりに反り上つた、古い石橋がかかつてゐる。その水にはつきり影を落した、涼しい路ばたの槐(ゑんじゆ)や柳、或は靑麥の畠(はた)の間に、紅い花をつけた玫瑰(メイクイ)の棚、――さう云ふ風景の處處に、白壁の農家が何軒も見える。殊に風流に思つたのは、そんな農家を通り過ぎる毎に、窓の中を覗きこむと、上(かみ)さんだか娘だか、刺繡(ししう)の針を動かしてゐる、若い女も少くない。生憎(あいにく)空は曇つてゐたが、もし晴れてゐたとすれば、彼等の窓の向うには、靈巖、天平の靑山が、描いたやうに見えた事であらう。

 「谷崎さんも乞食に惱まされたやうですね。」

 「あれには誰でも惱まされる。しかし蘇州の乞食はまだ好(い)いですよ。杭州の靈隱寺(れいいんじ)と來た日には――」

 私は思はず笑ひ出した。靈隱寺の乞食の非凡さは、日本人には到底想像も出來ない。大袈裟にぽんぽん胸を叩いたり、地(ぢ)びたへ頭を續け打ちにしたり、足首のない足をさし上げて見せたり、――まづ、乞食の技巧としては、最も進歩した所を見せる。が、我我日本人の眼には、聊(いささか)藥が利きすぎるから、憐憫の情を催すよりも、餘り仰仰しいのに吹き出してしまふ。あれを思へば蘇州の乞食は、唯泣き聲を出すだけだから、手の内をやるにもやり心地が好い。しかし獅子山(ししざん)の裾か何かの、寂しい村を過つた時、うつかり一錢投げてやつたばかりに、村の子供だの女だのが、いづれも手をさし出しながら、驢馬のまはりを取り卷いたのには、少からず難澁した。如何に柳が垂れてゐたり、女が刺繡(ぬひ)をしてゐたりしても、敬服ばかりすべきものぢやない。その村の白壁の一重内(へうち)には、丁度巣を食つた燕のやうに、恐るべき娑婆苦(しやばく)が潛んでゐる。

 「ぢや山の上に登つて見ませうか?」

 島津氏は私を促しながら、亭後(ていご)の山路(やまみち)を登り始めた。油ぎつた若葉の中に、土の赤い山路が、細細と岩を縫つてゐるのは、何だか嬉しいものである。その路を斜(ななめ)に登りつめると、今度は屏風を立てたやうに、巨岩の突き立つた所へ出た。此處が行き止りかと思つたら、岩と岩との迫つた間に、體を横にしなければ、殆(ほとんど)通過も出來ない位、小さい路が走つてゐる。いや、走つてゐるのぢやない。まつ直に天上へ向つてゐるのである。私は岩の下に佇んだ儘、樹の枝や蔦蘿(つたかつら)に絡(かが)られた、遠い靑空を振り仰いだ。

 「卓筆峰とか望湖臺とか云ふのはこの山の上にあるのでせうか?」

 「さあ、多分さうでせう。」

 「成程、これは登天平路らしい。」

[やぶちゃん注:5月10日の蘇州周遊。標題は蘇州の西にある天平山と靈巌(れいがんざん)の意。天平山は蘇州市西方約14㎞に位置する山で、標高382m221mとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる。霊巌山は天平山の南方蘇州市街西南西へ約15㎞に位置する山で、標高182m、李白・白居易・范仲淹・高啓といった高名な詩人達が題詠を残している名勝である。

・「天平山白雲寺」天平山自体は有名な寒山寺からは真西に約6㎞のところに位置する。現在、寺は存在しないのか、ネット検索に殆んど掛かってこない。神田由美子氏の岩波版新全集注解では『宋の范仲淹のために建立』とある。【二〇一三年九月二十九日T.S.君通信(附写真)】上海在住の教え子T.S.君がこの九月の初旬、出張で蘇州に行った際、昼休みを利用して天平山を訪ねて、写真を送って呉れた。その消息によれば、『天平山は思ったより低い丘でした。市民のための山岳公園として整備されていました。麓には范仲淹の祠の隣に白雲寺がひっそりとありました』とあって、ネット上では情報が得難かった白雲寺が現存することが分かった。



[麓から眺めた天平山]




[天平山案内図]




[白雲古刹]




[范文正公忠烈廟(文正は范仲淹の諡)]

・「山に倚つた亭」現在の白雲茶室か。【二〇一三年九月二十九日T.S.君通信(附写真)】T.S.君によれば、『亭というのは、龍之介の前後の記述との照合から、おそらく更衣亭かと思われます』とあった。位置は上記案内図を参照。「白云古刹」のすぐ北にある。




[更衣亭]

・『「諸君儞在快活之時、不可忘了三七二十一條」』は、訓読するなら「諸君儞(なんぢ)快活の時に在りて、三七二十一條を忘了(ばうりやう)すべからず」で、「三七二十一」は九九の掛け算で読む。「君たち! そこの、あなた、だ! この大事な時にあって、あの屈辱的な二十一ヶ条を忘れてはならない!」の意。本邦で言う通称「対華21ヶ条要求」のことを言っている(中国では「二十一条」。本条約には正式名称がない)。大正4(1815)年に日本が権益と侵略のために中華民国袁世凱政権に受諾させた条約。第一次世界大戦に敗北したドイツの山東省での権益の日本継承・関東州租借期限延長・満鉄権益期限延長・漢冶萍公司(かんやひょうこんす:中国最大の製鉄会社)日中合弁化等を内容としたあからさまな不平等条約であった。中国国民はこれを非難し、要求を受諾した59日を国恥記念日と呼び、学生・労働者のストライキから、1819年の五四運動の火種となった(以上は主にウィキの「対華21ヶ条要求」を参照した)。

・『「犬與日奴不得題壁」』訓読すると「犬と日奴とは壁に題することを得ず」で、「犬と日奴(日本人野郎)は壁に落書きするな」の意。これは有名な上海外灘(“Wàitān”ワイタン『外国人の河岸』の意 英語名“The Bund”バンド)あった“Public Garden”パブリック・ガーデンの入口の看板「華人與狗不得入内」を逆手に取ったパロディである(芥川龍之介「上海游記」の「十二 西洋」等の本文及び私の注を参照されたい)。

・「層雲派の俳句を題してゐた」先に記した通り、島津四十起は俳句を嗜み、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。ここで言う「層雲派」とは、新傾向の河東碧梧桐門下の荻原井泉水が、非定型・無季語という更に突っ込んだ自由律俳句を創始し出した結社。その雑誌名を『層雲』という。尾崎放哉や種田山頭火が著名。因みに私も若い時分、この雑誌に依って自由律俳句をものした。私の卒論は尾崎放哉論であった。よろしければ「尾崎放哉全句集(やぶちゃん版新版)」をもご覧あれ。

・『「莽蕩河山起暮愁。何來不共戴天仇。恨無十萬横磨劍。殺盡倭奴方罷休。」』筑摩全集類聚版も神田由美子氏の岩波版新全集注解も注として挙げていない。自明とおっしゃるのか? 私はよく分からない。暴虎馮河なれど、諸注の態度が気に入らないから、意地でひねり出す。句読点を排除して書き下せば、

○やぶちゃんの書き下し文

莽蕩(まうたう)たる河山(かざん) 暮愁起る

何くより來たる 共に天を戴かざるの仇(かたき)

恨むらくは 十萬の横磨劍(わうまけん)の無きを

倭奴を殺し盡して 方(まさ)に罷休(ひきゆう)せんに

○やぶちゃんの現代語訳

遙かに遙かに茫々と広がるこの大地大河 そこが暗く沈んで暮れゆく そこに自ずから愁いが立ち上ってくる――

一体お前たちは どこからやってきた? 不倶戴天の仇敵よ!――

恨むらくは 今 この国に十万の横磨剣が無いこと――

ああ! 日奴を殺し尽くして初めて 私は安らかな休息を得ることが出来ようというものなのに!――

後晋の軍人にして宰相であった景延広(892947)は圧迫してくる契丹に対し臣と称することに反対、契丹の使者に「孫(=後晋の比喩)には十万の横磨剣がある。翁(=契丹)がもし戦いたいならさっさと来るがいい」と言ったことを指す(景延広の事蹟については杭流亭の「中国人名事典~後晋」の記載を参照した)。「横磨剣」の意味がよく分からないが、雰囲気としては横たえなければならない程太い鋭く研磨し上げた剣(若しくは触れなば即死のまがまがしい程の切れ味のよい魔剣)と言った意味か。ともかくも国民総てが勇猛果敢死を恐れず、一丸となって闘うぞ! といった感じの、強国契丹への挑発である。この詩の転句・結句の解釈には自信はない。自信はないが、私の意識の中では牽強付会の訳では、必ずしもない。誤りがあれば、是非、御教授を乞うものである。

・「排日の指嗾費」排日運動を陰でけしかけるために、中華民国政府が秘かにばら撒いている非合法の秘密費という意味であろう。同僚の世界史の教師に訊いて見たが、このような事実を確認することは出来なかった。しかし、あったとしても少しもおかしくはないとのことである。中日の軍閥割拠、何をしていたか、誰も分からない。情報操作は大事な戦略である。後のことになるが、上海事変の末期の昭和7(1932)年4月29日に虹口公園(現・魯迅公園)で起こった上海天長節爆弾事件では、抗日テロ行為に中華民国政府が資金調達をしていたことが知られる。以下にウィキの「上海天長節爆弾事件」から該当部分を引用する。当時の昭和天皇誕生日であった天長節4月29日、日本の上海派遣軍と在上海日本人居留民によって『大観兵式と天長節祝賀会を執り行うことになった。この行事は日本軍の上海における軍事行動の勝利を祝賀するものでもあった』が、『このテロ実行の恰好の機会に、朝鮮半島からの日本による支配を駆逐する事を目的とする大韓民国臨時政府(亡命政権)の首班金九は尹奉吉をテロの実行犯として差し向ける事にした。またこのテロ計画には中華民国行政院代理院長(日本の内閣総理大臣代理に相当)であった陳銘樞などが、朝鮮人側の要人であった安昌浩に資金を提供し協力していた。これは当日の天長節の祝賀会場への入場を中国人は一切禁止されていたため、日本語が上手で日本人に見える実行犯を使うことにしていた。そのため日本の軍事力に蹂躙されていた中国と朝鮮が抗日で一致して中朝協力の下で実行したといえる。』2名死亡・5名重傷、『犯人の尹は、その場で「大韓独立万歳!」と叫んだ後に自殺を図ろうとした所を、検挙され軍法会議を経て1219日午前7時に金沢刑務所で銃殺刑となった。なお尹は戦後韓国では日本に打撃を与えた独立運動の義士として顕彰されている。事件の首謀者であった金九は事件の犯行声明をロイター通信に伝えたうえで、上海を脱出した。日本軍はフランス租界にいた安昌浩ら大韓民国臨時政府のメンバー17名を逮捕した。』。

・「棗」双子葉植物綱クロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメZiziphus jujuba、シノニムZiziphus zizyphusの実。中国北部原産の落葉高木で、果実を乾燥させて干しなつめとし、漢方薬や菓子材料として利用される。

・「木連れ格子」屋根の妻(切妻や入母屋(いりもや)の屋根の側面の三角形の壁面部分)の飾りの一つ。格子の内側に板を張ったもの。狐格子。妻格子。

・「何とか云ふ貝」二枚貝綱翼形亜綱ウグイスガイ目ナミマガシワ超科ナミマガシワ科マドガイ(窓貝)Placuna placenta若しくはその近縁種。円形、殻長は約8㎝。右殻は平らで薄く、白色半透明。熱帯の浅海に生息する。貝ボタンの材料とする一方、中国やフィリピンでは昔から窓にガラスのように使用された。現在もアクセサリーや手工芸品(風鈴・モビール・トレー等)に用いられる。

・「天平山は何時か谷崎さんも、書いてゐた」/「蘇州紀行」谷崎潤一郎は大正7(1918)年10月上旬から12月上旬までの2ヶ月間、朝鮮・満州・江南を単独旅行、その紀行文「画舫記」(後に「蘇州紀行」と改題)は翌大正8(1919)年2月の『中央公論』に掲載された(小谷野敦氏の製作された谷崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年による)。

・「途中の運河」やはり小谷野敦氏の製作された谷崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年1124日の条に、正に『画舫を傭い、天平山へ出掛ける。運河の眺めが目当てだと言う。』とある。

・「靈巖山」天平山南西約4㎞のところに位置する。なお、この山嶺の南南東山上にある古刹霊巌山寺は空海が長安への道中、立ち寄った所縁の地である。

・「白い鵞」ガチョウ。

・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。

・「谷崎さんも乞食に惱まされたやうですね」やはり小谷野敦氏の製作された谷崎潤一郎詳細年譜大正7(1918)年1124日の条に、正に「白雲亭で昼食、白雲寺で乞食に悩まされる」とある。私は北京のホテルに泊まった翌朝薄明の頃、窓から見下ろしていると、棧三三五五、ホテルの前に人々が集まって来るのを見た。総勢、二十人を下らなかった。一人の元締めらしき人物が、何人かを指名していろいろな方向を指差す。また、ある幼児を抱きかかえていた女性に近寄って何か言ったかと思うと、その女性は別の女性にその幼児を手渡して、四方に散会した。子供を託された女性と数人がそこに残った。これらが何を意味するかを推理することは容易い。数十分後、早朝出発の団体がホテルのロビーから出てくると、他人の子を抱いた女性は急に悲痛な顔をして、バスに乗り込もうとする客に右手を差し出していた。白人の老婦人はその手に何がしかの「手の内」を渡した。これが私の見た一部始終であり、脚色はない。また、「あちゃ!乞食の8割は「やらせ」、当局が市民に注意を呼び掛け―湖北省武漢市」というこんなホットな記事も見出した。中国発でもあり、そのまま引用する(改行を排除した。報道記事で消失するため、リンクは張らない)。

[引用開始]

2009717日(金)2321分配信 Record China

2009717日、「街で見かける乞食の8割はやらせ」―湖北省武漢市でホームレスの支援活動を行う救助管理センターが、市民に「騙されないよう」注意を促した。楚天都市報が伝えた。同センターは街で物乞いをしているホームレスを支援施設に入所させる活動を行っているが、責任者の庄厳(ジュアン・イエン)氏は「8割以上はやらせ。金儲けのために弱者になり済ますプロの乞食だ」と話す。庄氏によれば、その手口は様々。“小道具”として借りてきた小さな子供を抱え「病気の子供を助けて下さい」。空の骨壷を傍らに「父の埋葬代が払えない」。足が不自由なふりをするパターンもあれば、汚い身なりをした78歳の女の子が街で生花を売る姿も良く見かける。「乞食」の稼ぎは悪くないらしい。中には「仕事の時間」が終わると互いに携帯電話で連絡を取り合い、1日の疲れを癒しに食事に繰り出す輩もいるという。ベテランともなれば、故郷に立派な「乞食御殿」まで建ててしまうというから驚きだ。同センターはこうした「プロの乞食」に騙されないよう市民に呼び掛けた。(翻訳・編集/NN

[引用終了]

・「杭州の靈隱寺」前掲「十二 靈隱寺」参照。

・「地びた」「地べた」の音便変化したもの。

・「手の内をやる」施しをする。

・「獅子山」杭州の西南方向に西湖西岸から約4㎞のところに位置する山。茶の名産地。

・「恐るべき娑婆苦」芥川にとって「娑婆苦」は仏教用語を超えたのっぴきならないキーワードである。「或阿呆の一生」から引用しておきたい。

       二十四 出  産

 彼は襖側(ふすまぎは)に佇んだまま、白い手術着を着た産婆が一人、赤兒を洗ふのを見下してゐた。赤兒は石鹸の目にしみる度にいぢらしい顰(しか)め顏を繰り返した。のみならず高い聲に啼きつづけた。彼は何か鼠の仔に近い赤兒の匂を感じながら、しみじみかう思はずにはゐられなかつた。――「何の爲にこいつも生まれて來たのだらう? この娑婆苦(しやばく)の充ち滿ちた世界へ。――何の爲に又こいつも己(おのれ)のやうなものを父にする運命を荷つたのだらう?」

 しかもそれは彼の妻が最初に出産した男の子だつた。

・「卓筆峰」天平山西側の中腹にある峰。

・「望湖臺」天平山頂上の別称。山頂は平らになっており、西南に広がる広大な太湖を見下ろす。

・「登天平路」天平山に登る路の意であるが、これは天へ登らんとするような急峻の小道という皮肉なニュアンスを込めた、芥川の機知の表現である。このシニックな感覚はこれから現れる芥川の感情のカタストロフへの伏線として機能している。なお、知人が簡体字「白云寺」で検索し、調べてくれたところによると、やはり現在は寺院ではない模様で、当該地と思しい場所には「游客」(旅行客)用の「餐庁」(レストラン)があるらしい。(下線部留保中)そして、その西の塀沿いに門があり、その門の上に掲げられた門額には「登天平路」と記されていて、天平山への登山道になっていると伝えてくれた。きっと芥川もその門額を見上げていたのであろう。【二〇一三年九月二十九日T.S.君通信(写真)】



[山路の入り口の門(奥に更衣亭)]



下は龍之介を幻視しやすくするためにモノクローム古写真加工して見たもの。





[更衣亭の後ろから上に続く路]





[屏風を立てたやうに巨岩の突き立つた「龍門一線天」]



[人間との対比(狭いところで幅三〇センチメートル)]




[龍之介のように遠い青空を振り仰いでみました]

写真のキャプションは概ねT.S.君が附したものをそのまま使っている。]



       十七 天平と靈巖と(中)


 萬笏朝天(ばんこつてうてん)の名を負うた、山頂の岩むらへ登つた後(のち)、又山路(やまみち)を下りて來ると、さつきの亭へ出る前に、横に切れる廊下が見えた。次手に其處を曲つて見たら、龍の髭や擬寶珠(ぎぼしゆ)に圍まれた、小さい池が一つある。――その池へ亞鉛(とたん)の懸け樋(ひ)から、たらたら水の落ちてゐるのが、名高い呉中第一泉だつた。池のまはりには白雲泉とか、魚樂とか、いろいろの名を彫りつけた上に、御丁寧にもペンキか何かさした、大小の碑が並んでゐる。あれは呉中第一泉にしては、餘り水が汚いから、唯の泥池と間違はれないやうに、廣告をしたのに違ひない。

 しかしその池の前の、見山閣とか號するものは、支那の燈籠がぶら下つてゐたり、新しい絹の布團があつたり、半日位寢ころんでゐるには、誂へ向きらしい所だつた。おまけに窓に倚つて見れば、山藤(やまふじ)の靡いた崖の腹に、ずつと竹が群つてゐる。その又遙か山の下に、池の水が光つてゐるのは、乾隆帝が命名した、高義園の林泉であらう。更に上を覗いて見ると、今登つた山頂の一部が、かすかな霧を破つてゐる。私は窓によりかかりながら、私自身南畫か何かの點景人物になつたやうに、ちよいと悠然たる態度を粧つて見た。

 「天平地平、人心不平、人身平平、天下泰平」

 「何です、それは?」

 「さつきの壁に書いてあつた、排日の落書きの一つですがね。中中口調が好いぢやありませんか? 天平地平、人心不平、………」

 天平山一見をすませた後(のち)、我我は又驢馬に乘りながら、靈巖山塞靈巖寺へ志した。靈巖山は傳説にもせよ、西施彈琴の岩もあれば、范蠡(はんれい)の幽閉された石室もある。西施や范蠡は幼少の時に、呉越軍談を愛讀した以來、未に私の贔屓役者だから、是非さう云ふ古蹟は見て置きたい。――と云ふ心もちも勿論あつたが、實は社命を帶びてゐる以上、いざ紀行を書かされるとなると、英雄や美人に縁のある所は、一つでも餘計に見て置いた方が、萬事に好都合ぢやないかと云ふ、さもしい算段もあつたのである。この算段は上海から、江南一帶につき纏つた上、洞庭湖を渡つても離れなかつた。さもなければ私の旅行は、もつと支那人の生活に觸れた、漢詩や南畫の臭味(しうみ)のない、小説家向きのものになつたのである。が、今は便便(べんべん)と道草なぞを食つてゐる場合ぢやない。――兎に角靈巖山へ志した。處が十町と來ない内に、何時か道が無くなつてしまつた。あたりには草の深い濕地に、背の低い雜木が茂つてゐる。可笑しいなと思つてゐると、驢馬を曳いて來た二人の子供も、其處に足を止めたぎり、何か不安さうに饒舌(しやべ)り出した。

 「路が分らないのですか?」

 私は島津氏に聲をかけた。島津氏は私の鼻のさきに、痩せた驢馬を乘り据ゑた儘、大澤に陷つた項羽のやうに、あたりの景色を見廻して、ゐる。

 「分らないのださうです。――おお、あすこに百姓がゐる。おい、モンモンケ!」

 但しこのモンモンケなる言葉は、驢馬曳きの子供に發せられたのである。既に百姓がゐると云ふ以上、これはきつとその百姓に、路を問へと云ふ事に違ひない。私の推察にして誤らなければ、モンは問答の問である。――私はさう思つたから、私について來た驢馬曳きにも、早速同樣の命令を下した。

 「モンモンケ! モンモンケ!」

 モノモンケは祕密の呪文のやうに、忽(たちまち)路をわからせてくれた。驢馬曳きの復命した所によれば、右にまつ直に行きさへすれば、靈巖山の麓へ出るさうである。我我は早速教へられた方へ、驢馬の頭を向け直した。が、又一二町行つたと思ふと、本街道へ來るどころか、寂しい谷合ひへはひつてしまつた。磊磊横はつた石の間には細い松ばかり生え伸びてゐる。おまけに水でも出た跡か、その松の根こぎになつたのも見えれば、山腹の土の崩れてゐるのも見える。更に一層困つた事には、少時(しばらく)谷に沿うて登つて行つたら、とうとう驢馬が動かなくなつた。

 「弱つたな。」

 私は山を見上げながら、ため息をつかずにはゐられなかつた。

 「何、かう云ふ事も面白いです。あの山がきつと靈巖山ですから、――さうです、兎に角あの山へ登つて見ませう。」

 島津氏は私を勵ますやうに、わざとしか思はれない快活さを見せた。

 「驢馬はどうするのです?」

 「驢馬は此處に待たして置けばよろしい。」

 島津氏は驢馬を飛び下りると、一人の子供と二頭の驢馬とを松の中に殘した儘、猛然と山腹へ登り出した。勿論、登り出したと云つても、路なぞがついてゐる訣ぢやない、野薔薇や笹を押し分けながら、ひた押しに斜面を押し上るのである。私はもう一人の驢馬曳きと一しょに、負けずに島津氏の跡を追つた。が、病後の事だから、かうなるとさすがに息が切れる。その上十間ばかり登る内にぽつりと冷たい物が顏に落ちた。と思ふと一山の木木が、さあつとかすかに戰(そよ)ぎ始める。雨――私は靴を、辷(すべ)らせないやうに、細い松の木につかまりながら、足もとの谷を見下した。谷の底には驢馬や子供が小さく雨に濡らされてゐる。

[やぶちゃん注:ここまで注釈を附けてきて、私ははたと気がついた。これはツルゲーネフ「猟人日記」を確信犯的にインスパイアしたものではなかろうか?(リンク先は私のHP「心朽窩 新館」、イワン・ツルゲーネフ作中山省三郎訳「獵人日記」を公開中) 勿論、これらの体験は芥川の実際のものであることに疑いはない。しかし、そこに現れる自然描写・案内人島津と驢馬曳きの子供・主人公芥川の心内描写の一切、その悉くが、私にはツルゲーネフの「猟人日記」の様々な複数のシークエンスと二重写しになって見えるのである。いや、島津四十起の姿はあの下男のエルモライの風貌となって私の映像の中に立ち現れてくると言ってもよい。そして――雨、風、濡れた梢、その葉、草原、湿めった気――道に迷った主人公そして谷の底の驢馬や子供――そこはあのベージン草原――ビェージンの草原に見紛うばかりではないか!

・「萬笏朝天」神田由美子氏の岩波版新全集注解に、天平山西側の中腹にある『卓筆峰の背後にそびえる環状に多くの笏が天にむかっているように見える岩』塊とある。「笏」は官吏が正装した際、帶の間に差し挟んだ板で、重要な事柄をメモする備忘録に用いた。「朝」は動詞で、拝する、の意。

・「龍の髭」ユリ目ユリ科ジャノヒゲOphiopogon japonicus。別名リュウノヒゲとも言う常緑多年草。開花は夏7月であるから、ここではあの淡い紫の花は咲いていない。

・「擬寶珠」ユリ目ユリ科ギボウシ属Hostaの総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は靑色の花の開花はやはり夏であるから、これも咲いてはいない。筑摩全集類聚版脚注ではこれを、橋の欄干などに使う擬宝珠と解しているが、確かに人造の「擬宝珠」は池塘に配して不自然ではないが、植物のリュウノヒゲと人工物を並列にするというような無粋なことを、芥川がするだろうか? 私にはとても採れない解釈である。

・「呉中第一泉」天平山の東側中腹の雲泉精舎にある泉。盛唐から中唐にかけて生きた作家で、「茶経」を著し、茶聖と呼ばれる陸羽(733804)が、この白雲泉を呉中第一泉と認定したと伝えられる。【二〇一三年九月二十九日T.S.君通信(写真)】



[呉中第一泉(但し、これは実は案内板上の写真で実物は改修中とのこと)]


・「白雲泉」中唐の白居易(772846)の命名による。

・「魚樂」これは「荘子」第十七「秋水」篇にある荘子と恵子の詭弁のエピソード「知魚楽」に基づくものであろう。教え子諸君は私がオリジナル・プリントでやったのを思い出して欲しい。

・「見山閣」雲泉精舎の建物の一部か。【二〇一三年九月二十九日T.S.君通信(写真)】T.S.君の送ってくれた天平山案内を見てもこの名称は見出せない。T.S.君の見たそれらしい建物を以下に示しておく。



・「乾隆帝」清第6代皇帝高宗(17111799)。

・「高義園の林泉」天平山の麓にある林泉式庭園。林泉式とは泉水・築山・曲水・樹林など自然の景観を真似て造られた庭園を言う。

・『「天平地平、人心不平、人身平平、天下泰平」』日本語は勿論小気味よいのだが、これを拼音(ピンイン)で示すと

tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpíngpíng, tiānxiàtàipíng

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピンピン、ティエンシィアタイピン)

若しくは

tiānpíngdìpíng, rénxīnbùpíng, rénshēnpiánpián, tiānxiàtàipíng

(ティエンピンティピン、レンシンプピン、レンシェンピェンピェン、ティエンシィアタイピン)

となってより美事である。因みに、後者は「平平」の部分の意味を「安らか」の意でなく、「整い治まる」として用いた際の読みを試みたものである。

・「靈巖寺」現在は「霊岩寺」と表記する。霊厳山の山頂にある(地図上では山頂表示の南東のかなり離れた位置に寺が示されている)中国浄土宗の名刹。元は呉王夫差(?~B.C.473)が西施(生没年不詳)の住居として設けた館娃宮(かんあいきゅう:「娃」は美人)であった。後、東晋時代に寺院となり、その後も興廃を繰り返した。現存の建物は1911年から1932年にかけて再建されている。なお、ここは空海が長安への道中、立ち寄った所縁の地でもある。【二〇一三年九月二十九日T.S.君通信(写真)】出張の貴重な休息時間を割いてまで訪ねてくれた彼の消息から。『霊巌山は、時間切れのため登りませんでした。龍之介が路に迷ったあたりから眺めた霊巌山頂の写真を添付します。 龍之介が路に迷った、白雲寺と霊巌寺の麓の間のあたりは、郊外で土地が広いこともあってか、高校やいくつかの大きな施設が建てられており、昔の寂しい原野の風景は遠く遥かに感じられるのみでした。しかしそこから見る天平山と霊巌山の丘の連なりは、恐らく昔から変わらないものと思われます。僕は、龍之介と島津氏が驢馬で行く姿を遥かに想いました』。



[天平山から霊巌山への途上から見上げた霊巌山頂]


・「范蠡」(生没年不詳)は春秋時代の越の政治家・軍人。呉王夫差と対抗した越王勾践(?~B.C.465)に仕えた名臣。但し、彼が「幽閉された石室」が、彼の策謀で差し出された西施の居所にあるというのは、私には解せない。識者の御教授を乞う。

・「呉越軍談」書名。元禄161703)年に清地以立(きよちいりつ 16631729)が明代に成立した歴史小説「春秋列国志伝」を翻案した「通俗列国志呉越軍談」のこと。

・「十町」1町は約109mであるから、約1㎞強。

・「モンモンケ」を諸注は「問問咯」とし、江蘇方言で「お尋ねします」の意とする。因みに現代中国語の拼音(ピンイン)で示すと“wènwènlo”(ウェンウェンロ)であろう。岩波の倉石武四郎著「中国語辞典」に依るならば、この場合の「咯」“lo”は、現代中国語の文末の完了の助詞「了」“le”等を投げやりに発音した時に、「言うまでもなくそうだ!」という語気を示す、とある。しかしだとすれば、「お尋ねします」という丁寧語訳は少々おかしい。「訊ねん!」「教えてくんな!」「教えてくれ!」でよいのではないか? 江蘇方言にお詳しい方の御教授を乞う。【以下、二〇二一年七月五日追記】私の教え子で中国在住のT.S.君が、同僚で、蘇州語と近い上海語を母語とする日本語も話せる女性に、この場面の「モンモンケ」について意見を聴いて呉れた。その彼女の答えを以下に転載しておく。
『私、蘇州方言は詳しくないけど……。そういう場合、上海方言では「メンメンク」と言います。そうですねえ、少し丁寧な感じ。日本語で言うと「ちょっと聞きたいのですが……」と言う感じかなあ。……人に道を尋ねるのを頼むときも同じ「メンメンク」でいいです。命令文です。「ちょっと尋ねてみてくれ」ということです。……はい? 漢字で書くと? 「問問看」と書きます。北京語と同じく「看」には「調べてみる」「確認してみる」というニュアンスが込められています。きっと蘇州でも同じだと思いますよ。』
これだと丁寧語訳もおかしくない。この女性の「メンメンク」こそが芥川龍之介の言う「モンモンケ」の正体ではあるまいか? ここまで書いたところで、アップ・トゥ・デイトに再びさっき、T.S.君から追伸が舞い込んだ。『先生、島津四十起氏は上海語を話したのでしょうから、部下の女の子の言う「問問看」がそのまま当てはまるのであって、蘇州語を気にする必要はなかったのです。私は勘違いしていました。なお、今手元にある「江南遊記」中国語版(陳豪訳、新世界出版社)にも、この部分に「上海話‘問問看’」という注があります。』――これで「モンモンケ」の呪文は解けた。

・「病後の事だから」芥川龍之介「上海游記」の「五 病院」参照。退院から未だ17日後のことである。]


       
十八 天平と靈巖と(下)


 やつと靈巖山へ辿り着いて見たら、苦勞して來たのが莫迦莫迦しい程、侘しい禿げ山に過ぎなかつた。第一西施の彈琴臺とか、名高い館娃宮趾(くわんあきうし)とか云ふのは、裸の岩が散在した、草も碌にない山頂である。これでは如何に詩人がつても、到底わが李太白のやうに、「官女如花滿春殿」なぞと、懷古の情には沈めさうもない。それに天氣でも好かつたなら、遙に太湖の水光(すゐくわう)か何か、見晴らす事が出來たのだが、生憎今日はどちらを見ても、唯(ただ)模糊たる雲煙が立ち迷つてゐるばかりである。私は靈巖寺の朽廊に、蕭蕭(しやうしやう)たる雨の音を聞きながら、七級(きふ)の廢塔を仰ぎ見た時、古人の名句を思ふよりも、しみじみ腹の減つた事を感じた。

 我我は寺の一室に、ビスケツトばかりの晝飯をすませた。が、一應腹は張つても、精力は更に快復しない。私は埃臭い茶を飮みながら、妙に悲しい心もちがして來た。

 「島津さん。この寺の坊主に掛け合つてくれませんか? 白砂糖が少し欲しいのですが、――」

 「白砂糖? 白砂糖をどうするのです?」

 「舐めるのです。白砂糖がなければ赤砂糖でもよろしい。」

 しかし小皿へ山盛り一杯、どす黒い砂糖を舐めた後(のち)も、やはり元氣にはなれなかつた。雨は中中晴れさうもない。蘇州へは日本里數にしても、四五里の道を隔ててゐる。――そんな事を考へると、愈(いよいよ)心もちは沈んでしまふ。私は何だか肋膜炎が、再發しさうな氣さへして來た。

 この情ない心もちは、靈巖山を下る間にも、だんだん募つて來る一方だつた。風雨は暗い中空から、絶えず我我を襲つて來る。我我は傘を持つてゐたが、さつき驢馬を捨てる時に、二本とも其處に殘して來た。路は勿論、辷(すべ)りさうである。時間も彼是三時過ぎになつた。――其處へ最後の打撃だつたのは、山の麓の村へ來ても、我我の驢馬の姿が見えない。驢馬曳きの子供は大聲に、何度も友だちの名を呼んだが、それこそ答へるのは谺(こだま)だけである。私は吹きかける雨の中に、ずぶ濡れの島津氏へ聲をかけた。

 「驢馬がゐないとすると、どうしたものでせう?」

 「ゐますよ。ゐなければ歩くだけです。」

 島津氏はやはり元氣だつた。それは私を慰める爲に、強て裝つたものだつたかも知れない。が、私はその言葉を聞くと、急に癇癪(かんしやく)が起り出した。元來癇癪と云ふものは、決して強者の起すものぢやない。この場合も私が腹を立てたのは、全然弱者だつた崇りである。四百餘州を縱横した島津氏と、自脈ばかりとつてゐる病後の私と、――困苦缺乏に耐へる上から見れば、私なぞは島津氏の足もとへもよれない。それだけに、平然たる島津氏の言葉は、私の怒火(どくわ)を吹き煽(あふ)つたのである。私は前後四箇月の旅行中、この時だけ比類ない佛頂面になつた。

 その内に驢馬曳きは驢馬を尋ねに、何處か村の外へ行つてしまふ。我我は或農家の戸口に、やつと雨を避けながら、驢馬曳きの歸るのを待ち暮してゐる。古い白壁、石だらけの村道、雨に光つた道ばたの桑の葉、――その外は殆(ほとんど)人影さへ見えない。時計を出して見れば、四時になつてゐる。雨、四五里の路、肋膜炎、――私はなほこの上にも、日が暮れる事を憐れながら、風を引かない用心に、絶えず足踏みをする必要があつた。

 すると其處へこの家の主人か、ぢぢむさい支那人が顏を出した。見れば家の内部には轎子(けうし)が一基しまつてある。

 きつと此男の副業は、駕籠舁(か)きか何かに違ひない。

 「此處から轎子は雇へないのですか?」

 私は業腹なのを我慢しながら、かう島津氏に尋ねて見た。

 「聞いて見ませう。」

 しかし島津氏の上海語(シヤンハイご)は、相手の支那人に通ずるにしても、殘念ながら相手の蘇州語は、十分島津氏に通じないらしい。島津氏は押問答を重ねた後(のち)、とうとう交渉を斷念した。斷念したのはやむを得ない。が、一瞬の後振り向いて見ると、島津氏は私に頓着(とんぢやく)なく、悠悠と手帳を廣げながら、今日得た俳句を書きつけてゐる。私はこの容子を眺めた時、羅馬(ロオマ)の大火を前にした儘、微笑してゐるネロを見たやうに、喧嘩を吹きかけなければすまない氣になつた。

 「お互に迷惑しますね、案内者がその土地を知らないと。」

 喧嘩面の私の言葉は、忽ち島津氏にも腹を立てさせた。これは怒るのが當り前である。私は今考へると、あの時島津氏に擲(なぐ)られなかつたのは、不幸中の幸と思はざるを得ない。

 「その土地を知らない? 知らない事は前にも申し上げた筈です。」

 島津氏は私を睨みつけた。

 私も足踏みを續けながら、負けずに島津氏を睨み返した。これは次手に注意するが、かう云ふ時には威張るにしても、ちやんと直立して威張るべきである。威張る傍(かたはら)機械的に、行儀の好い足踏みを繰返してゐるのは、少からず威嚴を傷けるらしい。

 雨は依然として降りしきつてゐる。驢馬の鈴音は何時(いつ)になつても、容易に聞えさうなけはひがしない。我我は寂しい桑畑を前に、二人とも血相を變へながら、ぢつと長い間立ち續けてゐた。

[やぶちゃん注:

・「館娃宮趾」「十七 天平と靈巖と(中)」の「靈巖寺」注参照。

・『「官女如花滿春殿」』は李白の有名な七絶「越中覧古」の転句。

 越中覧古

越王勾踐破呉歸

義士還家盡錦衣

宮女如花滿春殿

只今惟有鷓鴣飛

○やぶちゃんの書き下し文

 越中覧古

越王勾踐 呉を破りて歸り

義士 家に還りて 盡く錦衣す

宮女 花のごとく 春殿に滿つるも

只今惟だ 鷓鴣(しやこ)の飛ぶ有るのみ

○やぶちゃんの現代語訳

 越中に古えを眺めて

越王の句践は 会稽の恥を雪いで呉の国を破り凱旋する――

忠義を尽くした戦さ人らも 栄誉の錦の服に身を包む――

後宮の女たちも 花のごと 春の宮殿に満ち溢れ……

……今はただ ただ 鷓鴣が淋しく鳴きながら 飛んでゆくばかり――

「鷓鴣」はキジ目キジ科シャコ属コモンシャコFrancolinus pintadeanus

・「太湖」江蘇省南部と浙江省北部の境界上、長江デルタに位置する湖。蘇州は東岸に当る。ウィキの「太湖」には、『改革開放後は、蘇州や無錫には多くの工業団地が作られて外資系企業の大工場が進出し、激しい勢いで都市化・工業化が進んでいる。一方で、太湖に入る川や太湖から出る川は汚染が進み、透明度の低下や悪臭が著しい。20075月には藻類の大発生により湖水が青く変わり悪臭が激しくなる公害事件が起こり、無錫市内では水道水が使えなくなる事態になった。人々がミネラルウォーターを買い求めたため通常の六倍以上の値になり、市当局が水の値上げを禁止する騒ぎが起こっている。』という哀しい記事が附帯する(同じ江蘇省無錫は太湖の北岸)。

・「七級の廢塔」神田由美子氏の岩波版新全集注解には、『霊巌寺の多宝塔。梁代に建立、五代の呉越時代に再建ののち倒壊。芥川の見たのは南宋の紹興一七(一一四七)年の再建で八角九層の磚塔。』という詳細な記述が載る。級は階段の意があるので、7階建の意(9層とあるから芥川の誤認ということになる)、磚塔(せんとう)とは煉瓦造りの塔のことを言う。

・「肋膜炎が、再發しさう」芥川龍之介「上海游記」の「五 病院」参照。

・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。

・「上海語」/「蘇州語」共に北京語に次いで話者の多い中国語方言である呉語(呉越語)のグループ。呉語は上海語・蘇州語・温州語等がある。上海語との近似性は大きいそうだが、上海語自体が一種の南方の都会語として急速に変化してきたため、恐らく島津氏には、ネイティヴな庶民の蘇州語はお手上げであったか。

・「羅馬の大火を前にした儘、微笑してゐるネロ」「ネロ」は勿論、暴君ローマ帝国第5代皇帝Nero Claudius Caesar Augustus Germanicusネロ・クラウディウス・カエサル・アウグストゥス・ゲルマニクス(3768)。以下、ウィキの「ローマ大火」よりほぼ主要本文すべてを引用する(改行は「/」で示した)。『ローマ大火はローマ帝国の皇帝・ネロの時代、64年7月19日にローマで起こった大火。/チルコ・マッシモから起こった火災は市内のほとんどを焼き尽くし多くの被災者と死傷者を出した。ネロはこの火災に際して、的確な処置を行い、陣頭で救助指揮をとったといわれ、被害が広がらないよう真剣に対処したものの、火災後のローマ再建で後に記すような宮殿建造を行ったこともあり、市民の間ではネロの命によって放火されたとの説が流れた。こうした風評に対してネロは当時の新興宗教であったキリスト教の信徒を放火犯として処刑した。この処刑がローマ帝国による最初のキリスト教の弾圧とされ、キリスト教世界におけるネロのイメージに大きな影響を与えたが、タキトゥスらローマの歴史家はローマ伝統の多神教を否定するキリスト教に対して嫌悪感を抱いており、ネロの弾圧そのものは非難しながらもその原因をキリスト教とその信徒に求めている。/こうしてキリスト教徒へ迫害を行い、犯人としたにもかかわらず、ネロがローマ復興の際に広大な黄金宮殿(ドムス・アウレア)の建造を行なったため新宮殿の用地確保のために放火したという噂は消えることはなかった。/一方この迫害によって市民の一部ではキリスト教徒に対する同情心が生まれたとも言われる』。]



       十九 寒山寺と虎邱と


 客。蘇州はどうだつたね?

 主人。蘇州は好い處だよ。僕に云はせれば江南第一だね。まだあすこは西湖のやうに、ヤンキイ趣味に染(そ)んでゐない。それだけでも難有い氣がした。

 客。姑蘇城外の寒山寺は?

 主人。寒山寺かい? 寒山寺は、誰でも支那へ行つた連中に聞いて見給へ。きつと皆下らんと云ふから。

 客。君もかね?

 主人。さうさね。下らんには違ひない。今の寒山寺は明治四十四年に、江蘇の巡撫(じゆんぶ)程德全が、重建したと云ふ事だが、本堂と云はず、鐘樓と云はず、悉(ことごとく)紅殼(べにがら)を塗り立てた、俗惡恐るべき建物だから、到底月落ち烏鳴くどころの騷ぎぢやない。おまけに寺のある所は、城の西一里ばかりの、楓橋鎭(ふうけうちん)と云ふ支那町(まち)だがね。これが又何の特色もない、不潔を極めた門前町と來てゐる。

 客。それぢや取り柄がないぢやないか。

 主人。まあ、幾分でも取り柄のあるのは、その取り柄のない所だね。何故と云へば寒山寺は、一番日本人には馴染の深い寺だ。誰でも江南へ遊んだものは、必寒山寺へ見物に出かける。唐詩選は知らない連中でも、張繼の詩だけは知つてゐるからね。何でも程德全が重修したのも、一つには日本人の參詣が多いから、日本に敬意を表する爲に、一肌脱いだのだと云ふ事だ。すると寒山寺を俗惡にしたのは日本人にも責はあるかも知れない。

 客。しかし日本人には氣に入らないのだらう?

 主人。さうらしいね。が、程德全の愚を哂ふ連中でも、西洋人相手の仕事になると、程大人(たいじん)と同じ事をしてゐる。寒山寺はその實物教訓だね。其處に多少興味があるだらう? 殊にあの寺の坊さんは、日本人の顏さへ見ると、早速紙を展(ひろ)げては、「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」と、得意さうに惡筆を振ふ。これは誰でも名を聞いた上、何何大人正(せい)とか何とか入れて、一枚一圓に賣らうと云ふのだ。日本人の旅客の面目(めんもく)は、こんな所にも窺はれるぢやないか? まだその上に面白いのは、張繼の詩を刻んだ石碑が、あの寺には新舊二つある。古い碑の書き手は文徴明、新しい碑の書き手は愈曲園(ゆきよくゑん)だが、この昔の石碑を見ると、散散に字が缺(か)かれてゐる。これを缺いたのは誰だと云ふと、寒山寺を愛する日本人ださうだ。――まあ、ざつとこんな點では、寒山寺も一見の價値があるね。

 客。それぢや國辱を拜見する訣ぢやないか?

 主人。さうさね。事によると案外程德全は、日本人を愚弄する爲に、あんな重修をやつたのかも知れない。たとひ皮肉でないにしても、あらゆる支那旅行記の著者のやうに、程德全を哂ふのは殘酷だね。敷島の大和の知事閣下にしても、あの位の英斷に出づるの士は、餞りなささうでもないぢやないか?

 客。寶帶橋は?

 主人。唯長い石橋さ。ちよいとあの不忍の池の觀月橋と云ふ感じだね。尤もあれ程俗な氣はしない。春風春水春草堤――道具立てはちやんと揃つてゐる。

 客。虎邱(こきう)は好い所だらう?

 主人。虎邱も荒廢を極めてゐたつけ。あすこは呉王闔閭(かふりよ)の墓ださうだが、今日では全然塵塚の山だね。傳説によればあの山の下には、金銀珠玉を細工をした鴨が、三千の寶劍と一しよに埋めてあると云ふ。そんな事だけ聞いてゐる方が、反つて興味が多い位だ。秦の始皇の試劍石、生公(せいこう)の説法を聞いた點頭石、江南の美人眞孃の墓、――いろいろ因縁を承ると、難有い遺蹟が澤山あるが、どれも見てはつまらん物だ。殊に劍池なぞと來た日には、池と云ふよりも水たまりだね。しかも五味捨て場も同じ始末なのだから、王禹(う)の劍池銘にあるやうに、「巖巖虎邱、沈沈劍池、峻不可以仰視、深不可以下窺」 の趣は、義理にもあるとは考へられない。唯殘曛(ざんくん)を漲らした空に、やや傾いた塔を見上げた時は、悲壯に近い心もちがした。この塔もとうに朽廢してゐるから、一層毎に草を茂らせてゐる。それに何だか無數の鳥が、盛に囁き聲を飛ばせながら、塔のまはりを繞(めぐ)つてゐたのは、一段と嬉しかつたのに違ひない。僕はその時島津氏に、鳥の名前を尋ねて見たが、確かパクとか云ふ事だつた。パクとはどう云ふ字を書くのか、其處は島津氏も知らないのだがね。君はパクなるものを知らないかい? 

 客。パクかい? バクなら夢を食ふ獸だがね。

 主人。一體日本の文學者は、動植物の智識に乏しすぎるね。南部修太郎と云ふ男なぞは、日比谷公園の蘆を見ても、麥だとばかり思つてゐたのだから。――まあ、そんな事はどうでも好い。塔の外にもう一つ、小呉軒と云ふ建物がある。其處は中中見晴しが好い。暮色に煙つた白壁や新樹、その間を縫つた水路の光、――僕はそんな物を眺めながら、遠い蛙(かはづ)の聲を聞いてゐると、かすかに旅愁を感じたものだ。

[やぶちゃん注:寒山寺は蘇州中心部から西方5㎞の楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(502519)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(627649)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。先の蘇州の靈巌寺(霊岩寺)と同じく、空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある。虎邱は蘇州北西の郊外約5㎞に位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~B.C.463)が父王闔閭(こうりょ:?~B.C.496)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからとも)。標高36m。五代の周の961年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記。

・「巡撫」清代の皇帝直属の官職名。省の長官で、軍の指揮権や地方財政の監督権も持っていた。

・「明治四十四年」西暦1911年。以下の「程德全」の注を参照。

・「程德全」(Chéng Déquán チェン ドゥーチュエン 18601930)は清末民初の政治家で中華民国の初代江蘇都督(この「都督」は清代に消滅後、伝統的な都督の名を復活させたもので、辛亥革命後に置かれた地方軍政担当官)。清の文官として各地で実務職を歴任後、1909年に奉天巡撫に任命され、翌1910年に江蘇巡撫に異動した。寒山寺の大修理はその翌年であるが、その『辛亥革命勃発後の1911年(宣統3年)11月、程徳全は周囲から推戴され、江蘇都督となる。1912年(民国元年)13日に南京臨時政府が成立すると、その内務部総長に任命された。その同日、中国同盟会を離脱した章太炎、張謇らと中華民国連合会(後の統一党)を組織した。4月、臨時大総統に就任した袁世凱から、改めて江蘇都督に任命される。5月、統一党は民社と合併して共和党となったが、程徳全は章太炎と不和になり、共和党から離党した。1913年(民国2年)の二次革命(第二革命)では、程は江蘇省の独立を宣言したが、まもなく上海に赴くなどして、実際の活動は乏しかった。同年9月、二次革命の敗北と共に、江蘇都督を辞任した。これにより政界から引退し、以後は上海で仏門に入った。』(以上は引用を含めウィキの「程徳全」を参照した)。

・「紅殼」赤色顔料の一。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。

・「月落ち烏鳴く」日本人には余りにも有名な中唐の詩人張継の七言絶句「楓橋夜泊」の起句の冒頭

 楓橋夜泊

月落烏啼霜滿天

江楓漁火對愁眠

姑蘇城外寒山寺

夜半鐘聲到客船

○やぶちゃん書き下し文

 楓橋夜泊

月 落ち 烏 啼いて  霜 天に滿つ

江楓 漁火 愁眠に對す

姑蘇城外 寒山寺

夜半の鐘聲  客船(かくせん)に到る

○やぶちゃん現代語訳

 楓橋夜泊

月は落ち――烏鳴いて――満天霜の気配あり

岸辺の楓(かえで)――漁(いさ)なとる篝火(かがりび)……旅愁に眠れぬ眼に映る

姑蘇城外の寒山寺

そこから聞える夜半(よわ)の鐘――私の宿れるこの船にまで――陰に籠って――心に響く

私は高校時代、この詩をならった時に訳しにくいなあと感じたものだった。何んで夜中に鴉が鳴くのか? 川岸の楓は緑なのか紅葉しているのか? 「江村」か「江楓」かっていうのは衍字じゃあないの? こんな夜の夜中に何を漁(すなど)るんじゃい? 夜の夜中に鐘鳴らす寺って何よ?――と疑問だらけなのだ。そうして参考書を見て、正にそのような議論が昔からなされていることを知るに及んで、私はこの詩が決していい詩だとは思わなくなっていた。寒山寺を案内してくれた南京大学日本語学科卒業の知人靑年は「中国人にとっては韻律も意味も決していいとは思われません。」と、私にはっきりと言ったのを覚えている。

・『「跨海萬里弔古寺 惟爲鐘聲遠送君」』書き下せば「海を跨(また)ぐこと萬里、古寺を弔す。惟だ鐘聲と爲りて遠く君を送らん」か。「あなたは海の遙か彼方からこの古き寺に敬虔にも過ぎしすべての過去の死者の魂をとむらいに来られた。そのあなたをこの何もない私はただあの知られた寒山寺の鐘の音(ね)を以って送別するばかりです。」という意か。

・「何何大人正」この「大人」は立派な人を、「正」は高位の者を示す尊称で、「君・様」の意味であろう。諸注は「正」は「正せ」という命令形の意味とするが、何を「正せ」というのか? 謙譲の接尾語だとでも言うのか? では、何故そう説明しない? 僕が馬鹿なのか、意味が分からない。

・「張繼」中唐の詩人(生没年不詳)。湖北省襄州(現・襄樊市襄陽)の出身。現在の京杭(けいこう)大運河を旅した際の感懐を「楓橋夜泊」に詠んだ。

・「文徴明」明代中期の画家・書家(14701559)。蘇州(江蘇省長州県)の出身。祝允明(しゅくいんめい)・王寵とともに「呉中三大家」と呼ばれた名書家であり、「天下の法書はみな呉中に帰す」と言わしめたという(ウィキの「文徴明」による)。

・「愈曲園」本名兪樾(ゆえつ 18211907)。曲園は号。清末の考証学者。1850年、進士に登第、翰林院編修・国史館協修を歴任後、咸豊帝からその博識を評価され、1855年には河南学政(省の教育行政長官)となったが、出題した科挙試について弾劾され、あっさりと官を退き二度と出仕しなかった。1875年に西湖湖岸に隠棲、晩年は杭州の詁経精舍(こきょうしょうじゃ:清朝の政治家・学者であった阮元(げんげん 17641849)が創立したで訓詁学の研究機関)で考証学を講義した。(「六 西湖(一)」の同注を参照)。

・「寶帶橋」蘇州市東南の蘇州と杭州を結ぶ大運河の支流である玳玳河(たいたいが)に架かる橋。橋長317m(中国最長の石橋)、幅4mで、全53のアーチを有する。建造は唐の819年に遡り、蘇州刺史(地方長官)であった王仲舒(761822)が水運の発展を企図して建設を始めたが、その壮大な計画ゆえに資金が不足し、募金を募った。仲舒自らも家伝の宝帯(珠玉で飾った腰帯)を売り、それに感じた富豪たちの寄附で3年後の822年にに完成した。橋名はこれに由来する(以上は「人民中国」の「中国の橋」の史和平氏の「宝帯橋」の記事を参照した)

・「呉王闔閭」(?~B.C.496)は春秋時代の呉の第6代の王。呉を覇者に興隆させたが、越王句践に敗れて没した。

・「秦の始皇の試劍石」闔閭が手に入れた「莫邪」(ばくや)の名剣を石を虎に見立てて斬ったというもの。実見したが、やや楕円形をした大石の長軸に沿ってすっぱりと切れ目が入っていた。秦の始皇帝(B.C.259B.C.210)というのは異聞か、ただの芥川の勘違いか。

・「生公の説法を聞いた點頭石」優れた僧生公(晋とも南北朝の梁とも)が説法をした際、縦に首を振ったという石。

・「眞孃」唐代の蘇州の名妓であった真嬢の墓所。本名を胡瑞珍といった北方人で、唐代の安史の乱の頃、蘇州に流れて来たが、寄る辺なく妓女となった。歌唱作詩の才といいその美貌といい蘇州一の名をほしいままにした。一青年が金にまかせて彼女を身請けしようとしたところ、貞節を守るために真嬢は縊れて自死した。青年は悔いてここに墓を造り、またその当時蘇州知事であった白居易はこれを聞いて墓誌銘を書いたという(以下の“JRE Corporate, Suzhou real estate agency”の蘇州紹介ページを参照にしたが、強引な中文の機械翻訳を行っているのか、日本語が激しく壊れているため、私がいいように整文してしまったことをお断りしておく)。

・「劍池」夫差は刀剣好きであった父呉王の遺体と共に、3000本の名剣を同所に副葬したと伝承された結果、秦の始皇帝や呉の孫権が周囲を掘り返した。結果は一本も見つからず、その窪地に何時しか水が溜まって、池となったもの。私は一心にその緑の水底を見つめながら、何故かザリガニを探していたのを思い出した。そこは僕には不思議に郷愁を誘う昭和30年代の水景色であったのであろう。

・「王禹の劍池銘」王禹は王禹※[※=「稱」-「禾」+(にんべん)。](おううしょう 954-1001) は宋代の詩人・散文家。杜甫・白居易の唐代古文の現実主義を称揚、北宋の詩文革新運動の先駆者となった。「劍池銘」とは剣地の由来について記した碑のこと。

・『「巖巖虎邱、沈沈劍池、峻不可以仰視、深不可以下窺」』「巖巖たるかな、虎邱、沈沈たるかな、劍池、峻なること、以て仰ぎ視るべからず、深なること、以て下り窺ふべからず」。

・「殘曛」日没後も空に照り残っている日の光。夕照。

・「パク」筑摩全集類聚版脚注では「鸊」を示す。これは拼音(ピンイン)で“”(ピ)であるが、カイツブリを示す日本語の音としては「ハク・ヒャク」という音があるので、この字と同定してよいであろう。カイツブリ目(中文名:鸊鷉目)カイツブリ科(中文名:鸊鷉科 Podicipedidaeに属する鳥の総称又は以下の6属の中文属名を持つ何れかに属するカイツブリ類を指すと考えられる。本邦産のカイツブリは「小鸊鷉屬」Tachybaptusに属するTachybaptus ruficollisであるが、芥川が識別出来ず、島津も発音するのみでカイツブリと同定し得なかったということは、我々の知るこのカイツブリ、鳰(にお)と同種ではない可能性が高い。

   鸊鷉屬Podiceps

   小鸊鷉屬Tachybaptus

   巨鸊鷉屬Podilymbus

   北美鸊鷉屬Aechmophorus

・「バク」獏。人の夢を食うとされる伝説上の生物。その形状は一種のキマイラで、体は熊・鼻は象・目は犀・尾は牛・脚は虎とされる。その姿は哺乳綱獣亜綱奇蹄目バク科Tapiridaeのバクと近似しており、ウイキの「獏」によれば、『京都大学名誉教授 林巳奈夫の書いた『神と獣の紋様学―中国古代の神がみ―』によれば、古代中国の遺跡からバクをかたどったと見られる青銅器が出土している。 このことから、古代中国には象や犀などと同じように現在は絶滅してしまったが野生のバクがいた可能性が高い。であるから、一般的には伝説上の獏と生物学上のバクは無関係であると考えられているが、もともと同じものを指していたものが中国では絶滅したために伝説化した可能性も否定はできない。』とする。即ち、架空のバクのモデルこそが、絶滅した実在したバクであったというのである。

・「小呉軒」筑摩全集類聚版脚注に、清の第4代聖祖(康熙帝 16541722)及び第6代皇帝高宗(乾隆帝 17111799)が『南巡のおりの行宮の一部』とある。]


       二十 蘇州の水



 主人。寒山寺だの虎邱(こきう)だのの外にも、蘇州には名高い庭がある。留園だとか、西園だとか。――

 客。それも皆つまらないのぢやないか?

 主人。まあ、格別敬服もしないね。唯(ただ)留園の廣いのには、――園その物が廣いのぢやない、屋敷全體の廣いのには、聊(いささか)妙な心もちになつた。つまり白壁の八幡知(やはたし)らずだね。どちらへ行つても同じやうに、廊下や座敷が續いてゐる。庭も大抵同じやうに、竹だの芭蕉だの太湖石だの、似たやうな物があるばかりだから、愈(いよいよ)迷子になりかねない。あんな屋敷へ誘拐された日には、ちよいと逃げる訣にも行かないだらう。

 客。誰か誘拐されたのかい?

 主人。何、された訣ぢやないが、どうもさう云ふ氣がするのだね。今に支那の谷崎潤一郎は、きつと「留園の祕密」とか何とか、そんな名の小説を作るに違ひない。いや、未來は兎も角も、金瓶梅や紅樓夢を讀むには、現在一見の價値があるやうだ。

 客。寒山寺、虎邱、寶帶橋(ほうたいけう)、――いづれもつまらないとなつて見ると、蘇州は大抵つまらなささうぢやないか。

 主人。そんな所はつまらないがね。蘇州はつまらない所ぢやない。蘇州にはヴエニスのやうに、何よりもまづ水がある。蘇州の水、――さうさう、蘇州の水と云へば、僕は當時手帳の端に、こんな事も書いて置いたつけ。「自然と人生」式の名文だがね。

 ――橋名を知らず、石欄に依りつつ河水を見る。日光。微風。水色鴨頭(あふとう)の綠に似たり。南岸皆粉壁(ふんぺき)、水上の影描けるが如し。橋下を過ぐるの舟、まづ赤塗りの船首見え、次に竹を編みし船艙(せんさう)見ゆ。櫓聲の咿啞(いあ)耳にあれど、船尾既に橋下を出づ。桂花一枝流れ來るあり。春愁水色と共に深からんとす。

 ――暮歸。蹇驢(けんろ)に騎す。路(みち)常に水畔(すいはん)。夜泊の船、皆蓬(ほう)を蔽へるを見る。月明、水靄(すいあい)、兩岸粉壁の影、朦朧として水にあり。時に窓底の人語、燈光の赤きに伴ふを聞く。或は又石橋あり。偶(たまたま)橋上を過ぐるの人、胡弓を弄する事三兩聲。仰ぎ見ればその人既にあらず。唯橋欄の高きを見るのみ。景情宛として「聯芳樓の記」を想はしむ。知らず、閶闔門外(しやうかふもんがい)宮河の邊、珠簾重重(ちようちよう)月に垂るる事、薜家(せつか)の粧樓(しやうろう)の如きものありや否や。

 ――春雨霏霏(ひひ)、兩岸の粉壁、苔色鮮なるもの少からず。水上鵞(が)浮ぶ事三四。橋畔の柳條、殆(ほとんど)水に及ばんとす。画(ぐわ)とすれば或は套(たう)。實景を見るは惡しからず。舟あり。徐(おもむろ)に橋下より來る。載する物を見れば棺なり。艙中(さうちゆう)の一老媼(あう)、線香に火をともしつつ、棺前に手向けんとするを見る。

 客。へええ、大いに又感心したものぢやないか?

 主人。水路だけは實際美しい。日本にすれば松江(まつえ)だね。しかしあの白壁の影が、狹い川に落ちてゐる所は、松江でもちよいと見られさうもない。その癖未に情ない事には、とうとう畫舫にも乘らずにしまつた。しかし水には感服しただけ、兎に角未練は殘つてゐない。殘念なのは美人を見なかつた事だ。

 客。一人も見ない?

 主人。一人も見ない。何でも村田君の説によると、目をつぶつて摑んでも、蘇州の女ならば別嬪ださうだ。現に支那の藝者の言葉は、皆蘇州語ださうだから、その位の事はあるかも知れない。處が又島津氏の説では、一體蘇州の藝者なるものは、蘇州語に一通り通じた上、上海へ出ようと云ふ候補生か、又は上海へ出ても流行らないので、歸つて來たと云ふ落伍卒(そつ)だから、碌な女はゐないさうだ。成程これも一理窟だね。

 客。それで見ずにしまつたのかい?

 主人。何、別に理由なぞはない。唯藝者の顏を見るよりは、一時間も餘計に眠りたかつたのさ。何しろあの時分は驢馬へ乘つたおかげに、すつかり尻をすり剥いてゐたから。

 客。意氣地のない男だな。

 主人。我ながら意氣地があつたとは思へないよ。

[やぶちゃん注:

・「留園」明の嘉靖年間(15221566)の1525年に太朴寺(記載によっては太僕寺)の少卿(寺院の管理を司る長官か)であった徐時泰が私邸の庭「東園」として造園、18世紀末(清の乾隆末)に劉恕の所有となり、改築されて「寒碧荘」、嘉慶年間(17961820)に改修され、園主の姓に因んで俗称が「劉園」となり、さらに1874(同治12)年に盛康に買い取られた際、劉の音通で「留園」となった。蘇州四大名園の一つとして「呉下名園之冠」と呼ばれるだけでなく、中国四大名園の一つに数えられている。敷地面積23,310㎡、約2haに及び、東・中・西・北部の4パートに分かれる。東部の居住建築群、中央部は池泉を置き、西に山林、北に田園の風景の趣を造る。それらを巡る回廊にある「漏窓」と称する、多様なデザインの透かし窓からの眺めが、また計算された風景画となっている。私はもう一度行って見たい中国のランドマークの一番にこの「留園」を挙げたいくらい、ここが気に入っている。

・「西園」厳密には戒憧律寺と西花園放生池を総称する俗称。元代に建造・造園、本来の寺名は帰元寺。虎丘路を挟んで留園と隣り合う。

・「白壁の八幡知らず」「八幡知らず」とは「八幡の藪知らず」のこと。入ったら二度と出て来ることが出来なくなる場所・迷路・迷宮(ラビリンス)、道に迷うことや出口が分からないこと、「藪の中」を言う。現在の千葉県市川市の国道14号線沿いの市川役所の斜め前にある森(現在は殆んどが孟宗竹の竹林)の名称。何故、このような名称なのかについては、古来、日本武尊の陣屋であったという伝説による禁足説の他、平良将(生没年未詳:将門の父)の墓所説・平将門(?~天慶3(949)年)の墓所説等が挙げられている。個人のHP「市川歴史散歩」の「八幡不知藪」には入会地説が挙げられており、『この場所が行徳の入会地(いりあいち)であり、八幡の住民はみだりに入ることが許されず、そのため「八幡知らず」と言われたのが藪知らずになった』という解説がなされている。『入会地とは、自給肥料や燃料を確保し農業生産能力を維持する目的で共同利用する場所と定めた土地であり、八幡のこの場所が行徳住民の入会地であったことから八幡の住民からすると入ると恐ろしい目にあう場所、としてきた、というのは説得力のある説ではあります。』とあり、『直接史料を確認してはおりませんが、史実として入会地であったことも確かなようです。』と結ばれている。大変、納得出来る内容であると私は思う。因みに、中国旅行による日本脱出の一つの要因であった不倫相手秀しげ子の影(「上海游記 一 海上」の私の注を参照)をその「真砂」に色濃く反映させた芥川龍之介の名作「藪の中」は、正にこの「江南游記」の連載が始まる大正111922)年1月1日に『新潮』に掲載されている。「広辞苑」の「藪の中」を引くと『(芥川竜之介の同名の小説から) 関係者の言うことが食い違っていて、真相が分らないこと。』とある(私はこの語源説には納得出来ないのであるが、それ以前の使用例を見出せないことも事実ではある)。

・「太湖石」蘇州近郊の主に太湖周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称して言う。

・「紅樓夢」に登場する公子の大邸宅に付随する大庭園「大観園」なるものが登場するが、実はこの「留園」にはその「大観園」が再現された部分があると言う。但し、『人民中国』の「庭園に見る江南文化の爛熟美」によると、「紅楼夢」の作者清代乾隆期の作家曹雪芹(そうせっきん 1724?1763?)が「大観園」のモデルとしたと推定されるのは、同じ蘇州にある最大の庭園「拙政園」(敷地面積5.2ha)であるという。『少年時代に家族に連れられ、よくここを訪れた。それで小説の舞台である「大観園」の描写は、ここでの印象がかなり生かされているという』とある。

・「寒山寺」/「虎邱」/「寶帶橋」は、前篇「十九 寒山寺と虎邱と」の本文及び注を参照。

・「自然と人生」徳冨蘆花(明治元(1868)~昭和2(1927)年)が明治331900)年に民友社から刊行した小説・随筆集。クレジットは本名の徳冨健次郎。芥川龍之介は大正9(1920)年『文章倶楽部』に発表した「愛讀書の印象」で『中學へ入學前から徳富蘆花氏の「自然と人生」や樗牛の「平家雜感」や小島烏水氏の「日本山水論」を愛讀した。同時に、夏目さんの「猫」や鏡花氏の「風流線」や綠雨の「あられ酒」を愛讀した。だから人の事は笑へない。僕にも「文章倶樂部」の「靑年文士録」の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」時代があつた。』と述べている。因みに、国木田独歩の「武蔵野」と並ぶ、私の青春時代の愛読書の双璧でもあった。

・「粉壁」白壁と同義。

・「咿啞」ギイギイ。舟の櫂や櫓のきしる音。

・「桂花」双子葉植物綱マノハグサ目モクセイ科モクセイ属ギンモクセイOsmanthus fragrans。常緑小高木。小さな総状の花は強い芳香を持ち、乳白・黄・橙・紅等、色も多彩。中国南部原産。なお、本邦に産するキンモクセイOsmanthus fragrans var. aurantiacusギンモクセイOsmanthus fragrans変種で、且つ、その雄株のみである(従って本邦産は結実しない)。

・「蹇驢」びっこの驢馬。「蹇」は片足が曲がっている意。蛇足であるが、私は片足飛びのことを「ケンケン」と呼ぶのは、これが語源であると思っていたのだが、辞書類には見ない。こんなことを言うと、またぞろ世の言葉狩りのフリークは、「ケンケン」を差別用語として抹殺しかねないな。

・「蓬」菰莚(こもむしろ)のこと。マコモ(イネ目イネ科マコモZizania latifolia)の葉を粗く編んだむしろ。

・「三兩聲」二三声で、ちょっと弾くの意。

・「宛として」宛然として、あたかも、まるで。

・『「聯芳樓の記」』明代の文人瞿佑(くゆう 13411427)の伝奇集「剪灯新話」の一篇。楼上の呉郡(蘇州)の金満家薛(せつ)氏の娘、姉の蘭英・妹の蕙英(けいえい)と、楼下の舟に泊まる青年鄭(てい)の詩の遣り取りによる恋愛の成就の物語(「剪灯新話」の主調である志怪性は全くない)。才子佳人譚小説の先駆的作品。

・「閶闔門外」蘇州城の西北の門。「聯芳樓記」冒頭、薛氏は「居於閶闔門外」し、米屋を営む、とある。

・「宮河」閶闔門外を流れている河川名は「官河」である。これは芥川の誤認か、若しくは誤植の可能性さえも考え得る。

・「珠簾重重」「聯芳樓記」には該当の詩句はないが、蘭英・蕙英姉妹の詩才に感じた詩人楊鉄崖が姉妹の七言古詩に附した讃詩の中に「連珠合璧照華筵」、「連珠(れんじゆ)合璧(がうへき)華筵(くわえん)を照らす」(二人の詩才は、あたかも珠玉を連ねて璧玉を合わせたものが美しい敷物に照り映えるようだ)とはある。

・「霏霏」絶え間なく降るさま。

・「鵞」ガチョウ。

・「柳條」柳の枝。

・「套」古臭い。ありきたり。陳腐。

・「松江」島根県松江市。芥川龍之介は大正4(1915)年8月3日から22日迄、畏友井川(後に恒藤に改姓)恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷心を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されている。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和4(1929)年岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開された(諸注はここの注に「松江印象記」という題名を用いているが、以上より、これは芥川龍之介自身による表題はないと考えるべきであり、『松江での印象を記したものが残されている』とすべきである)。

・「落伍卒」落伍者の意であるが、この場合の「卒」は下級兵士や下役を言う語であり、都落ちした失格者・敗残者の意味を更に強めた語である。]



       二十一 客棧と酒棧



 島津氏が何處かへ出て行つた後(のち)、私は椅子に腰を下しながら、ゆつくり一本の敷島を吸つた。寢臺(ねだい)が二つ、椅子が二つ、茶道具を載せた卓子(テエブル)が一つ、それから鏡のある洗面臺が一つ、その外は窓掛も敷物もない。唯白いむき出しの壁に、ペンキ塗りの戸が鎖(とざ)してある。が、思つたより不潔ぢやない。蚤とり粉を盛に撒いたせゐか、幸(さいはひ)南京蟲にも食はれなかつた。この分なら支那宿へ泊るのも、茶代の多寡を心配しながら日本人の旅館に陣取るよりは、遙に氣が利いて居る位である。

 私はそんな事を考へながら、硝子(ガラス)窓の外へ眼をやつた。この部屋のあるのは三階だから、窓の外の眺も可也廣い。しかし眼にはひるものは、夕明りの中に黑み渡つた、侘しい瓦屋根ばかりである。何時かジヨオンズがさう云つたつけ、最も日本らしい寂しさは、三越の屋上から見下した、限りない瓦屋根に漂つてゐる。何故日本の畫家諸君は。――

 私は物音に驚かされた。見ればペンキ塗りの戸口には、不相變靑い服を着た、背の低い婆さんが佇んでゐる。婆さんはにやにや笑ひながら、何か私に話しかけるが、啞(おし)の旅行家たる私には、勿論一言(ひとこと)も判然しない。私は當惑し切つた儘、やむを得ず顏ばかり眺めてゐた。

 すると、開け放した戸の外に、ちらりと花やかな色彩が見えた。水水しい劉海(リウハイ)(前髮)、水晶の耳環、最後に繻子(しゆす)らしい薄紫の衣裳(イイシヤン)――少女は手巾(ハンケチ)を弄びながら、部屋の中には一瞥も送らず、靜に廊下を通り拔けた。と思ふと又婆さんは、早口に何か饒舌(しやべ)り立てては、得意さうに笑つて見せる、かうなればもう婆さんの來意も、島津氏の通譯を待つ必要はない。私は脊の低い婆さんの肩へ、ちよいと兩手をかけるが早いか、くるりと彼女に廻れ右をさせた。

 「不要(プヤオ)!」

 其處へ島津氏が歸つて來た。

 その晩私は島津氏と一しよに、城外の酒棧(チユザン)へ出かけて行つた。島津氏は「老酒(ラオチユ)に醉つた父の横顏」と云ふ、自畫像めいた俳句の作者だから、勿論相當の酒豪である。が、私は殆(ほとんど)飮めない。それが彼是一時間あまり、酒棧の一隅に坐つてゐたのは、一つには島津氏の德望の力、二つには酒棧に纏綿(てんめん)する、小説めいた氣もちの力である。居酒屋は都合二軒見たが、便宜上一軒だけ紹介すると、其處は白壁を左右にした、天井の高い店裏(みせうら)である。部屋の突き當りはどう云ふ訣(わけ)か、荒い格子戸になつてゐたから、夜目(よめ)にも往來の人通りが見える。机や腰掛けは剥(はげ)てゐたが、ため塗りのやうに塗つてあるらしい。私はその机を中に、甘蔗の茎をしやぶりながら、時時島津氏へ御酌をしたりした。

 我我の向うには二三人、薄汚い一座が酒を飮んでゐる。その又向うの白壁の際には、殆(ほとんど)天井につかへる位、素燒の酒瓶(さけがめ)が積み上げてある。何でも老酒(ラオチユ)の上等なのは、白い瓶に入れると云ふ事だから、この店の入り口の金看板に、京莊花雕(けいさうくわてう)なぞと書いてあるのは、きつと大法螺に違ひない。さう云へば土間に寢てゐる犬も、氣味の惡い程瘦せた上に、癬蓋(かさぶた)だらけの頭をしてゐる。往來を通る驢馬の鈴、門附(かどづけ)らしい胡弓の音、――さう云ふ騷ぎの聞える中に、向うの一座は愉快さうに、何時(いつ)か拳(けん)を打ち始めた。

 其處へ面皰(にきび)のある男が一人、汚い桶を肩へ吊りながら、我我の机へ歩み寄つた。桶の中を覗いて見ると、紫がかつた臟腑のやうな物が、幾つも渾沌と投げこんである。

 「何です、これは?」

 「豚の胃袋や心臟ですがね、酒の肴には好(よ)いものです。」

 島津氏は銅貨を二枚出した。

 「一つやつて御覽なさい。ちよいと鹽氣がついてゐますから。」

私は小さい新聞紙の切れに、二つ三つ紫がつた臟腑を見ながら、遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した。母夜叉孫二娘(ぼやしやそんじぢやう)の店ならば知らず、今日明るい電燈の光に、こんな肴を賣つてゐるとは、さすがに老大國は違つたものである。勿論私は食はなかつた。

[やぶちゃん注:「客棧」は旅館。中国の伝統的な普通の旅籠屋を指す。「酒棧」は居酒屋。芥川龍之介がもし「酒棧」を本文同様中国音で「チユザン」と読んでいるのであれば、「客棧」は“kèzhàn”で「コザン」となる。但し、本文には「客棧」が現れないから、この標題は素直に日本語の音で通して「きやくさんとしゆさん」と読ませていると考えてよい。

・「敷島」国産の吸口付き煙草の銘柄。明治371904)年に発売され、昭和181943)年販売終了。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等かやや短い口紙と呼ばれるやや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に十字や一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミCimex lectulariusの別名。「トコジラミ」は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

・「ジヨオンズ」Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この中国行での上海での出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、「上海游記」「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい。

・「劉海(リウハイ)」Liú Hăi”は元来は神仙の名前である。額の前に垂れ下がった髪を短く切り揃えた童子の姿で描かれた、人気の仙童(実は南京大学で一年間日本語教師をした妻の私への土産物がこの劉海の絵であった)で、そこから前髪をこう言うようになった。別に、男の子の額の左右の両角の産毛と女の子の額の中央の産毛を合わせて「留孩髪」と呼んだが、その「留孩」の中国音“liúhái”が、劉海“Liú Hăi”と似ており、野暮ったい「留孩」を伝承が知れていた「劉海」に換えたという話や、則天武后の婉児の額の梅の刺青にまつわるエピソードなどは、面白さ満載の以下をお読みあれ。個人のブログ「中縁ネット」916中国の三面記事を読む(314)前髪をなぜ“劉海”というのか?」という中国の新聞記事の素晴らしい日本語訳である。

・「繻子」絹を、縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず、一般には縦糸だけが表に現れる織り方(繻子織りと言う)にしたものを言う。

・「衣裳(イイシヤン)」“yīshāng”。

・「不要(プヤオ)」“búyào”。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。

・「老酒(ラオチユ)」“lăojiŭ”。中国産の醸造酒(黄酒)の総称。長期熟成したものほど貴ばれることからこの名で呼ばれることが多い(一般に3年以上でないと商品とはならないとされる)。特に紹興酒に用いることもあるが、逆に地域ブランドとしての紹興酒以外の老酒を紹興酒を呼んでしまう誤りのもとともなっている。現在、2000年4月20日に中国政府の発令により、紹興以外の土地で造られた老酒を「紹興酒」と呼称することは禁じられている。

・『「老酒(ラオチユ)に醉つた父の横顏」と云ふ、自畫像めいた俳句』完全な自由律俳句である。言葉少なに自分の横で「老」酒(ラオチュウ)を酌み交わす父、その酔った父の「老」いた横顔を眺めるうち、それが如何に自分に似ているかに気づいた視線である。芥川の「自畫像めいた」という読みは鋭い。因みに島津四十起は明治4(1871)年生まれであるから、この時既に50歳であった(芥川は当時29歳)。

・「纏綿する」からみついている、まとわりついた、の意。

・「店裏」店の内部。

・「ため塗り」これは「溜塗り」で、漆器の漆の塗り方の一種。まず下地に朱色を塗って、その上から半透明の透漆(すきうるし)を塗って仕上げる。下の朱が微妙に見え、赤茶色のような色合いが生まれる。更に経時変化によって透明度が増してくる漆の特性を最大限に発揮させる塗りである(京都の漆塗り・漆器販売「漆器の井助」の漆塗り豆知識」を参照した)。

・「甘蔗」イネ目イネ科サトウキビSaccharum officinarumのこと。

・「京莊花雕」紹興酒の内、長期熟成させた老酒(ラオチュウ)を「花雕」、花彫酒という。これは紹興地方の習慣で、女児が生まれた三日後に酒を甕(かめ)に仕込み、嫁入りの際に掘り出して甕に彫刻と煌びやかな彩色を施して婚家へ持参したことから。中文記事等を斜め読みすると、京荘酒というのは、紹興酒の中でも美事に熟成した上品を指し、それを京師(けいじ:長安)に高級酒として運んだことに由来するらしい。「荘」は恭しく奉る、厳かにして高品質の、と言った意味合いではなかろうか。

・「拳」拳遊び。日本のジャンケンのルーツ。二人又はそれ以上で手・指・腕の開閉・屈伸交差による数字や形象等によって競う、本来はこの場面の通り、酒席で行われた大人のギャンブルである。

・「豚の胃袋や心臟」中国人の方の日本語ブログ「忠于云端」に福建省沙県での記事があり、そこで「炖罐」“dùnguàn”(トェンコアン)なる食べ物を紹介されている。失礼ながら、やや日本語がおかしいのであるが、本文の島津の言と総合すると、豚の心臓・肝臓・胃及び鶏肉や兎の肉を炭・塩で漬け込んだものである。如何にもこれっぽい。因みに「炖」は「廣漢和」にも所収しない字であるが、ネット検索により、とろ火で長時間煮込むことを意味することが分かった。「罐」は(水を入れる)素焼きの甕の意。――私はこう書きながら、既に唾液が口中に浸潤してくるのを感じるのであった――

・「遙に東京醫科大學の解剖學數室を思ひ出した」芥川龍之介は大正3(1914)年3月、巣鴨の精神病院を見学後、東京帝国大学医科大学で人体解剖を見学している(東京大学は明治191886)年3月に東京大学医学部から帝国大学医科大学となり、明治301897)年6月に帝国大学の呼称が東京帝国大学と変更、大正8(1919)年4月に学部制が敷かれて医科大学は医学部となった)。後の「羅生門」の死体描写に生かされ、また、「或阿呆の一生」の中にも描かれている。無縁とも思えぬので精神病院の記載と合わせて私の電子テクストから引用する。

   二 母

 狂人たちは皆同じやうに鼠色の着物を着せられてゐた。廣い部屋はその爲に一層憂鬱に見えるらしかつた。彼等の一人はオルガンに向ひ、熱心に讚美歌を彈きつづけてゐた。同時に又彼等の一人は丁度部屋のまん中に立ち、踊ると云ふよりも跳ねまはつてゐた。

 彼は血色の善い醫者と一しよにかう云ふ光景を眺めてゐた。彼の母も十年前には少しも彼等と變らなかつた。少しも、――彼は實際彼等の臭氣に彼の母の臭氣を感じた。

 「ぢや行かうか?」

 醫者は彼の先に立ちながら、廊下傳ひに或部屋へ行つた。その部屋の隅にはアルコオルを滿した、大きい硝子の壺の中に腦髓が幾つも漬つてゐた。彼は或腦髓の上にかすかに白いものを發見した。それは丁度卵の白味をちよつと滴らしたのに近いものだつた。彼は醫者と立ち話をしながら、もう一度彼の母を思ひ出した。

 「この腦髓を持つてゐた男は××電燈會社の技師だつたがね。いつも自分を黒光りのする、大きいダイナモだと思つてゐたよ。」

 彼は醫者の目を避ける爲に硝子窓の外を眺めてゐた。そこには空き罎の破片を植ゑた煉瓦塀の外に何もなかつた。しかしそれは薄い苔をまだらにぼんやりと白らませてゐた。
   *

   九 死  體

 死體は皆親指に針金のついた札をぶら下げてゐた。その又札は名前だの年齡だのを記してゐた。彼の友だちは腰をかがめ、器用にメスを動かしながら、或死體の顏の皮を剥ぎはじめた。皮の下に廣がつてゐるのは美しい黄いろの脂肪だつた。

 彼はその死體を眺めてゐた。それは彼には或短篇を、――王朝時代に背景を求めた或短篇を仕上げる爲に必要だつたのに違ひなかつた。が、腐敗した杏(あんず)の匂に近い死體の臭氣は不快だつた。彼の友だちは眉間(みけん)をひそめ、靜かにメスを動かして行つた。

 「この頃は死體も不足してね。」

 彼の友だちはかう言つてゐた。すると彼はいつの間にか彼の答を用意してゐた。――「己(おれ)は死體に不足すれば、何の惡意もなしに人殺しをするがね。」しかし勿論彼の答は心の中にあつただけだつた。

・「母夜叉孫二娘」は「水滸伝」中の梁山泊の女傑の一人。水滸伝百八星の七十二地煞星の103番目で、102番目の夫張青に従っている。孟州十字坡(は:坂の意。)で、居酒屋を営んでいたが、金品を持った旅人に毒を盛って荷物を奪い、その死体を刻んで牛肉と偽って肉饅頭を作り客に出すというとんでもない牛頭人肉酒桟(チュザン)であった。そこから渾名を「母夜叉」(女の夜叉=鬼神)の意。以上は主に「山頭水賊漢」「母夜叉 孫二娘」のページを参照した。武松との関わりから梁山泊へと身を寄せる過程など、不精な私には有難い「水滸伝」ダイジェスト・ページである)。]


       
二十二 大運河




 我我は鎭江(チンキヤン)から揚州に通ふ、川蒸氣の上等室に腰をかけてゐる。と云ふと如何にも贅澤らしいが、この汽船の上等室は奴隸の船艙(ふなぐら)と大差はない。現に我我が坐つてゐるのも、まつ黑な揚げ板の上である。揚げ板の下は、察する所、直(すぐ)と船底(ふなぞこ)に違ひない。ぢや上等室なる所以は何處にあるかと云ふと、兎に角此處は室になつてゐる。下等は船の屋根の上だから、室と呼びたくも室ぢやない。

 船の外は名代(なだい)の揚子江である。揚子江の水の赭(あか)い事は、中學生と雖も心得てゐる。が、どの位赭いかと云ふ事は、江に泛(うか)ばないと髣髴出來ない。私は上海滯在中、黄浦江の水さへ見れば、必ず黄疸を思ひ出した。あれは今考へると、多少でも海水を交へてゐるだけ、やつと黄疸ですんでゐたのである。しかし揚子江の水の色は、黄浦江よりも遙に赭い。まあ似た色を搜して來れば、金物の赤錆にそつくりである。それが起伏する波の間に、紫の影を煙らせながら、何處までも無法に廣がつてゐる。殊に今日は曇つてゐるから、一層その色が重苦しい。江上には無數のジヤンクの外に、英吉利の旗を飜した、二本檣(マスト)の汽船が一艘、一心に濁浪と鬪つてゐる。勿論實際は鬪はずとも、航行出來たのかも知れないが、そのまつ白に塗られた船が、徐(おもむ)に江を遡る所は、どうしても鬪ふと云ふ感じである。私は彼是五分ばかり、揚子江に敬意を拂つてから、冷い板の上に寢ころんだ儘、眠るとも思はず眠つてしまつた。

 我我は昨夜十二時頃、蘇州の停車場から汽車に乘つた。錢江(チンキヤン)へ着いたのは夜明け方である。停車場の外へ出て見ると、車屋もまだ集まつてゐない。唯曇つた葉柳の空に、鴉ばかり何羽も集まつてゐる。我我は兎に角朝飯を食ひに、停車場前の茶館(ちやかん)へ行つた。茶館も今起きたばかりだから、麺類も急には出來ないと云ふ。すると島津氏は茶館の亭主に、何とか云ふ物を持つて來いと云つた。それならば今でもある所を見ると、上等な食物ぢやないに違ひない。又實際食つて見た感じも簾麩(すだれふ)のやうな、湯葉のやうな要するに二度と食ふ氣のしない、頗(すこぶる)怪しげな代物である。――さう云ふ艱難を嘗めた上、やつとこの汽船に乘つたのだから、ほつと一息すると同時に、眠氣を催したのも不思議ぢやない。

 少時(しばらく)うとうとしてゐた後(のち)、汽船の外を眺めると、何時の間に瓜州(くわしう)を過ぎたのか、草の靑い一帶の土手が、直(すぐ)と眼の前に動いてゐた。此處はもう長江ぢやない。隋の煬帝(やうだい)が開鑿(かいさく)した、延長二千五百哩(マイル)と云ふ世界第一の大運河である。しかし船から眺めた所は、格別雄大でも何でもない。薄日の當つた土手の上に、野菜の色がちらついたり、百姓の姿が見えたりするのは、何だか銚子通ひの汽船の窓から、葛飾の平野でも眺めるやうな、平凡な氣もちがする位である。私は又煙草を啣(くは)へながら、紀行を書かされる時の下拵へに、懷古の詩情を捏(こ)ね上げようとした。しかしこれは取りかかつて見ると思つた程容易に成功しない。第一私が考へる事は、悉(ことごとく)案内記が破壞してしまふ。今その見本を擧げて見れば、大體下(しも)の通りである。

 私。ああ、煬帝はこの堤に、萬株(ばんしゆ)の楊柳を植ゑさせた上、十里に一亭を造らせたと云ふ。堤は昔の堤である。が、煬帝は今何處にあるか?

 案内記。堤は昔の堤ぢやない。爾來五代以降元明淸、皆北京に都を定め、食糧を江南に需(もと)めたから、運河も度度修理された。この堤の草色(さうしよく)を見ながら、煬帝の昔を懷ふのは、銀座尾張町に佇みながら、太田道灌を憶ふのも同じ事である。

 私。水は今も昔のやうに、悠悠と南北に通じてゐる。が、隋朝は夢のやうに、忽(たちまち)瓦解してしまつたではないか?

 案内記。水は南北に通じてゐない。とうに山東省臨淸州では、河底に田畑を拵へたから、舟楫(しうしふ)の通ずるのは其處までである。

 私。ああ、過去よ。美しい過去よ。たとひ隋は亡びても、雲の如き麗姫(れいき)と共に、この運河に舟を浮べた、我(わが)風流天子(ふうりうてんし)の榮華は、たとへば壯大な虹のやうに、歴史の空を横切つてゐる。

 案内記。煬帝は快樂に耽つたのではない。あれは大業(たいげふ)七年に、遠く高麗を伐たうとした、その準備が暴露しないやうに、表面だけ悠遊(いういう)を裝つたのである。この運河もすはと云ふ時に、糧食を送る必要上、特に開かせたと思ふが好(よ)い。お前は「迷樓記」や「開河記」(かいかき)なぞを正史と混同してゐはしないか? あんな俗書は信ずるに足りない。殊に「煬帝艷史」なぞは、小説としても惡作である。

 私は煙草を吸ひやむと共に、詩情の製造も斷念した。土手の上の春風(はるかぜ)には、子供を乘せた驢馬が一匹、汽船と同じ方へ歩いてゐる。

[やぶちゃん注:ここで芥川が言う「大運河」とは、京杭運河のこと。北京から杭州までを結び、途中、黄河と揚子江を横断する。総延長は1,794㎞に及び(ネット上にはウィキを初め2,500㎞という記載もある)、全面開鑿時には世界最長の運河であった。戦国時代から部分的に開削されていたものを、隋の第2代皇帝煬帝(569618)が610年に完成させた。

・「鎭江(チンキヤン)」“Zhènjiāng”(チェンチィアン)は江蘇省西南部長江下流南岸、長江と京杭運河とが交差する地点、上海から凡そ200㎞上流、南京の下流凡そ80㎞に位置する。芥川は5月11日深夜、午前0時頃、蘇州駅から乗車して、夜明けに鎮江に到着、下車してこの運河を船で揚州に向かった。

・「揚州」鎮江の長江を隔てた北方30㎞に位置する京杭運河沿いの町。運河開通により物資の集積地となって古くから繁栄した。続く「二十三 古揚州(上)」以下三篇に譲る。

・「黄浦江」太湖を源流とする上海市内を貫通する川。市街地下流で長江に合流する。

・「ジヤンク」元来はジャワ語の「船」の意。中国・ベトナムの沿岸や河川で使用される中型以上の伝統的木造帆船の総称。

・「簾麩のやうな、湯葉のやうな要するに二度と食ふ氣のしない、頗怪しげな代物」料理名不詳。中華料理にお詳しい方の御教授を乞う。

・「瓜州」揚州、長江北岸の町。鎮江との長江の渡し場として栄えた。

・「二千五百哩」1mile1.6㎞で計算しても、2,500×1.64,000㎞。前述の通り、最大長をとっても2,500㎞であるから、芥川もすっかり中華的誇張表現に狎らされてしまった。

・「十里」隨代の記載によるものならば、1里=300歩≒531m(現代中国は500m)であるから、5.31㎞ごと。

・「銀座尾張町に佇みながら、太田道灌を憶ふ」太田道灌(永享41432)年~文明181486)年)は室町時代の武将で武蔵国守護代として江戸城を築城、江戸の繁栄の礎を創った人物。「銀座尾張町」は現在の銀座4丁目で、明治中期以降、ここの尾張町角(現・銀座四丁目交差点)の服部時計店と、現在の三越の位置にあった山崎高等洋服店が、帝都東京を代表する繁華街銀座の象徴であった。

・「山東省臨淸州」山東省西部に位置し、現在は聊城市(りょうじょうし)に属する。名称は古く清河という川が近くを流れていたことに由来する。京杭運河に面した交通の要衝として栄えた。清代の開国以降、芥川が言うようにこの付近の運河は閉塞した模様であるが、中華人民共和国成立以後、再整備されて再び運河として機能している。

・「風流天子の榮華」「風流天子」は煬帝のこと。後に芥川が挙げる「煬帝艷史」の清代の刻本に「絵図風流天子伝」と題するものがあり、芥川はそれを意識したか。ウィキの「揚州市」の記載によると、『煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている』とある。

・「大業七年」611年。煬帝42歳。但し、以下に示す通り、高句麗第一次遠征は大業八(612)年である。

・「高麗を伐たうとした」ウィキの「煬帝」によれば、大運河開鑿によって物流の円滑化に成功した彼は、領土拡大を目論み、612年に高句麗遠征を敢行する。その後も3度に亙って遠征したが、完全な失敗に終わり、隋の権威は失墜、『国庫に負担を与える遠征は民衆の反発を買い、第2次遠征途中』には、『各地で反乱が発生、隋国内は大いに乱れた』。各地で群雄が割拠する惨憺たる政情不安の中、煬帝は江南に逃れることとなった。その後、『煬帝は現実から逃避して酒色にふける生活を送り、皇帝としての統治能力は失われていた。618年、江都で煬帝は故郷への帰還を望む近衛兵を率いた』側近達に裏切られて殺された、とある。芥川の記述とは時制を齟齬にはするが、この高句麗遠征後の事蹟を以って、「快樂に耽つた」とするか。結果と原因がどちらであったにせよ、ある意味、芥川の詠じる如く、煬帝の「榮華」は、その大運河のうねりと同じく「壯大な虹のやうに、歴史の空を横切つてゐる」と言えるように、私には感じられる。

・『「迷樓記」』作者未詳。宋代の劉斧「青瑣高議」という書に所収しているため、唐代から宋以前と推定される。煬帝の生涯を描く伝奇小説。迷楼は作中に現れる、晩年の煬帝が莫大な費用と1年の歳月をかけて作らせた大規模な複数の迷宮型楼閣の名。真仙も一日中迷い続けるという意味で煬帝自らが名付けたという。今も揚州市にその跡とされる迷楼址がある。

・『「開河記」』作者未詳であるが、文体から「迷樓記」と同じ作家になるものと推定されている。主に煬帝の大運河開鑿を描く伝奇小説。そこには揚州に行幸した煬帝が将軍麻叔謀に、黄河を浚渫し、揚州の北にある黄河と長江の間を東西に流れている淮河との運河の開鑿を将軍麻叔謀に命じ、麻叔謀は兵士や人夫を冷酷無惨に犠牲にして実行したことが記されている。因みに、この麻叔謀なる男は上田秋成の「雨月物語」の「青頭巾」で小児の肉を好んで食った人物として挙げられている。「開河記」には他にも嗜好的人肉食の話が出てくるようである。これは私の嗜好譚、脱線である――

・『「煬帝艷史」』正しくは「新鍋全像通俗演義晴煬帝艶史」。通常は略して「煬帝艶史」「晴煬艶史」「艶史」と呼ぶ。作者未詳。明末期の成立。煬帝の誕生から死に至るまでの先行する「迷樓記」「開河記」等の記載を自在に組み合わせ、更に女性との絡みを主たる部分に効果的に据えて創作された通俗小説。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によると、『日本では『通俗二十一史』にも収められ、この書の記述が大体は歴史的事実であるかのように考えられていた』とある。「通俗二十一史」とは、早稲田大学出版部が明治441911)年に出版した叢書。以上の三書については、多様なネット記載を総合して記載したが、特に書誌的な部分は最も信頼出来ると思われる九州大学中国文学論集の河野真人氏の論文「『隋煬帝艶史』に於ける『隋遺録』『海山記』『開河記』『迷楼記』の襲用について」を参照した)。]


       
二十三 古揚州(上)




 揚州の町の特色は、第一に見すぼらしい事である。二階建の家なぞは殆(ほとんど)見えない。平家(ひらや)も眼に止まつた限りは、いづれも貧しさうな容子である。往來は敷石の凸凹した上に、至る所泥水がたまつてゐる。蘇州や杭州を見た眼には、悲しい氣がすると云つても誇張ぢやない。私は泥だらけな人力車の上に、さう云ふ町町を通りながら、鹽務署(えんむしよ)の門前へ辿りついた時、腰纏(えうてん)十萬貫(ぐわん)、鶴に騎して揚州に遊んでも、これぢやつまらないに違ひないと思つた。   

 鹽務署の前には石獅(せきし)と一しよに、番兵がちやんと控へてゐる。我我は來意を告げた後(のち)、長い石疊の奧にある、大きい役所の玄關へ行つた。それから給仕の案内通り、アンペラ敷きの應接室へ通つた。應接室の外の庭には、梧桐(ごとう)か何かが立つてゐる。その梢を透かして見たら、糠雨(ぬかあめ)の降つてゐる空が見えた。役所の中はひつそりした儘、何處に人がゐるか判然しない。成程今でもかう云ふ風なら、歐陽修とか蘇東披とか、昔の文人墨客(ぼくかく)たちが、本職の詩酒を樂む片手間、役人を務めたのも當然である。

 少時(しばらく)其處に待つてゐると、老人のやうな、若いやうな、背廣の御役人がはひつて來た。これが揚州唯一の日本人、鹽務官の高洲太吉(たきち)氏である。我我は上海の小島氏から、高洲氏へ紹介狀を貰つて來た。さもなければ意氣地のない私は、揚州へ來る氣にはならなかつたかも知れない。來ても高洲氏を知らなければ、愉快に見物は出來なかつたかも知れない。私は甚失禮だが、此處に小島梶郎(かじらう)氏へ、感謝を表して置きたいと思ふ。「上海游記」を讀まれた君子(くんし)は、多分記憶に殘つてゐると思ふが、小島氏はあの小い庭に、櫻の咲いたのを得意にしてゐた、俳骨稜稜たる紳士である。――高洲氏は大きい卓子の向うに、我我二人を招ずると、快活にいろいろ話をした。氏自身の説によると、外國人の揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後(のち)に高洲氏あるのみだと云ふ。私はこれを聞いた時、大いに氏を尊敬したが、今になつて考へて見ると、損をしたやうながしないでもない。今年今月今日今時、揚州の鹽務署へはひつたのも、一足先には島津四十起、一足後(あと)には私のみである。

 うどんの御馳走になつた後(のち)、我我は揚州一見の爲に、高洲氏と鹽務署の門を出た。すると番兵が二三人、一度に我我へ捧げ銃(つつ)をした。糠雨はもう晴れてゐたが、往來は不相變ぬかるみが多い。私はこの泥の中を歩きながら、又古蹟なるものを見るのだと思ふと、甚心細い氣もちがした。が、高洲氏に尋ねて見たら、見物は畫舫でするのだと云ふ。畫舫ならば勿論悄氣(しよげ)なくとも好(よ)い。私はそれを聞かされるが早いか、忽(たちまち)揚州廣しと雖も、悉(ことごとく)經めぐりたい心願を起した。

 高洲氏の邸(やしき)に一休みしてから、門前の川へ繋がせた、屋根のある畫舫に乘りこんだのは、その後まだ三十分と、たたない内の事である。畫舫はぢぢむさい船頭の棹に、直(すぐ)と川筋へ漕ぎ出された。川は幅も狹ければ、水の色も妙に黑ずんでゐる。まあ正直に云つてしまへば、これを川と稱するのは、溝(どぶ)と稱するの勝れるのに若かない。その又黑い水の上には、家鴨や鵞鳥が泳いでゐる。兩岸は汚い白壁になつたり、乏しい菜の花の畑になつたり、どうかすると岸の崩れた、寂しい雜木原になつたりする。が、いづれにした所が、名高い杜牧の詩にあるやうな「靑山隱隱水迢迢」の趣なぞは見られさうもない。殊に煉瓦の橋があつたり、水際に下りた支那の年増が、泥靴の洗濯をしてゐたりするのは、吟懷を傷けるばかりである。が、それはまだしも好(よ)い。一番私の辟易したのは、この大溝(おほどぶ)の臭氣である。私はその臭ひを嗅ぎながら、ぢつと舟の中に坐つてゐると、何だか又肋膜のあたりが、かすかに痛みさうな氣がして來た。しかし高洲、島津の兩先生は、香料の川にでも泛(うか)んでゐるやうに、平然と何か話してゐる。私の信ずる所によれば、日本人は支那に住んでゐると、第一に嗅覺が鈍るらしい。

[やぶちゃん注:「古揚州」をウィキの「揚州市」の「歴史的地名としての楊州」から 引用しよう。『揚子江(江水)を中心に、北は淮水から南は南嶺山脈までの地域のことである。現在の江蘇省全体よりも広く、江南(揚子江の南部)の広大な地域をも含んでおり、魏晋南北朝においては、全国一の重要な地位を占める地域であった。楊州は北に徐州、豫州と接し、西は荊州、南は交州に接していた。楊州は三国時代、呉の孫策・孫権によって支配された土地である。楊州は南部が山岳地帯であるために、人も物資も北部に集中した。このため、三国時代の呉では戦争が相次いで人口不足に陥り、兵力が減少して国が滅亡する一因を成した。しかし楊州は中国南部の要衝地帯であり、晋滅亡後に建国された東晋は、楊州を本拠地としている』。以下、たった一泊(翌12日には鎮江を経由して南京へ向かった)の揚州行に「古揚州」3篇を配した点を見ても一目瞭然、芥川は、この揚州を江南第一として、忘れがたい中国行の郷愁の記憶として、北京と共に刻んでいるのである。私は残念ながら揚州を訪れたことがない。以下、多くを引用でまかなうことをお許し頂きたい。

・「揚州」はウィキの「揚州市」によれば、『本来「楊州」と書かれ、漢代に置かれた13州の一つであった。それが唐代に表記を「揚州」と改められた』とある。同じくウィキの「揚州市」の「都市名としての揚州」から 引用しよう。『隋の煬帝が開削させた大運河により物資の集積地となり、一躍繁栄することとなる。また、煬帝が再三行幸を行い、遊蕩に耽ったため、亡国に至った都市としても知られている。唐代にはすでに国際港としての位置づけになって交易が発展したほか、明代以降は、現在の江蘇省の東部を中心とした塩田からとれる塩の集積地としても重要な位置をしめ、この地に豪商を産み、文化の花を開かせる基礎となった。清代の揚州八怪を初めとする、文人を多く輩出しており、揚劇や書画、盆景、料理といった、中国文化の上でも重要な位置を占める。市内にある大明寺は、鑑真和上が唐代に日本に来る前にいた寺である』。

・「鹽務署」中国では製塩は漢の武帝以来(当時は匈奴との戦乱による財政再建のため)、中華民国に至るまで官営であり、その産塩や品質の管理・個人製塩や盗難の防止・販売流通・塩に関わる徴税その他塩に関わる一切の行政権を掌る役所を塩務署と称した。

・「腰纏十萬貫、鶴に騎して」「腰纏十萬貫」は、腰に緡(さし:穴あきの銭を100枚、紐で貫いた束。)で十万貫(一貫は千文)ぶら下げるような金持ちになり、その上更に、鶴に乗る仙人ともなったとしても、の意。

・「アンペラ」中国南部原産の単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科Cyperaceaeの仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。

・「梧桐」本邦産の双子葉植物綱ビワモドキ亜綱アオイ目アオギリ科アオギリFirmiana simplexと同じ。

・「歐陽修とか蘇東披とか、昔の文人墨客たちが、本職の詩酒を樂む片手間、役人を務めた」欧陽修(10071072)は、北宋の文人政治家。唐宋八大家(とうそうはちたいか)の一人。1030年に進士に登第後、開封府尹・館閣校勘、失脚して夷陵県令以下、10年の地方官吏、返り咲いて諌官、再度失脚して滁州知事、再度の返り咲きで、翰林学士・権知礼部貢挙(この時に科挙を監督中、蘇軾を見いだす)、後、枢密副使・参知政事(副宰相)となり、1071年、政界を引退して隠棲。同じく唐宋八大家、北宋の文人政治家であった蘇軾(10361101)は1057年に進士登第、地方官を歴任後、中央政府入りを果たすが、師欧陽修が抜擢した王安石の新法に反対して左遷、再び地方官を歴任。1079年には讒言を受けて投獄後に黄州(湖北省黄州区)へ左遷(左遷先の土地を東坡と名づけ、この時自ら東坡居士と名乗った。1089年、杭州知事の際には西湖の浚渫を手掛けた)、その後に中央に復帰するも、1094年には再び新法派が勢力を盛り返して、再び恵州(現在の広東省)左遷、62歳のときには海南島にまで追放された。66歳にして勅許により中央復帰が叶ったが、上洛途上に常州(現・江蘇省)で死去した。芥川の言うように、必ずしも「本職の詩酒を樂む片手間」という閑適の世界に遊んでいたわけでは、ない(以上は主にウィキの「欧陽修」及び「蘇軾」の履歴部分を参照・簡約したものである)。

・「高洲大吉」高洲太助の誤り。中文個人ブログ「三風堂」の「日本人高洲太助在揚州」(元は簡体字表記)に本篇の記載も含めて詳細な記事が載り、そこに「高洲太助」と明記、現在、揚州にある「萃園」という庭園がこの「高洲太助」なる人物の旧居であるらしい。更に、国立公文書館アジア歴史資料センターの検索をかけると52件がヒットし、明治391906)年に「清国杭州駐在領事高洲太助」宛委任状、明治401907)年に「清国長沙駐在領事高洲太助」宛委任状、ここや京都大学東南アジア研究センター『東南アジア研究』18巻3号(Dec-1980)中村孝志『「台湾籍民」をめぐる諸問題』(リンク先はHTMLバージョン)という論文の中にも、明治431910)年1月・12月・翌1911年1月附で日本の台湾領有によって生じた台湾籍民についての外務省機密文書が福建省の『福州領事高洲太助』なる人物に示されたことが記されている。この人物は同姓同名で同一人物である可能性が極めて高い。

・「上海の小島氏」/「小島梶郎」上海紡績(シヤンハイぼうせき)の社員(管理職?)という以外は不詳。「上海游記」の「十九 日本人」参照(但し、小島梶郎というフルネームはここで初めて明らかにされたものである)。

・「俳骨稜稜」これは「九 西湖(四)」で、ここでも同行している島津四十起を表現した「蠻骨稜稜」(「蠻骨」は蛮勇の気質、バンカラな格好、の意。「稜稜」は角張って勢いのある様子を言う。如何にもがっしりとして筋肉質で、物怖じしない風体バンカラな様を言う)の対比的パロディとして用いた芥川の造語である。如何にも俳句でも捻りそうな諧謔風狂味に満ち満ちた感じが、ありありと伺われる風貌、の意である。

・「外國人の揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり」イタリア・ヴェネツィア共和国商人にして旅行家Marco Polo(マルコ・ポーロ12541324)の「東方見聞録」(これは彼の著作ではなく、イタリアの小説家Rustichello da Pisaルスティケロ・ダ・ピサがマルコの口述を筆記したものである)によれば、マルコは1271年にシルクロードを経て元に入り、皇帝のフビライに謁見後、実に17年間に亙って元に仕えた(但し、モンゴルの言葉は話せたが、中国語は話せなかった)。中国周辺の各地を周遊、ここ揚州では3年間行政官を務めた。1292年に帰国した(以上は主にウィキの「マルコ・ポーロ」を参照した)。

・『杜牧の詩にあるやうな「靑山陰陰水迢迢」』は晩唐の詩人杜牧(803853)の七絶「寄揚州韓綽判官」の起句である。

 寄揚州韓綽判官

靑山隱隱水迢迢

秋盡江南草木凋

二十四橋明月夜

玉人何處教吹簫

○やぶちゃんの書き下し文

 揚州の韓綽(かんしやく)判官に寄す

靑山 隱隱 水 迢迢(てうてう)

秋盡き 江南 草木(くさき)凋(しぼ)む

二十四橋 名月夜

玉人 何れの處にか吹簫(すいせう)せしむる

○やぶちゃんの現代語訳

 揚州の韓綽判官に寄せて

霞む靑山 水面(みなも)は遙か

晩秋 江南 草木もみんな枯れ果てた

揚州二十に四(し)の橋の その明月のその夜に

佳人 何処(いづく)に笛を吹く――

「韓綽」は人名。判官は唐代律令官の四等官制(長官・通判官・判官・主典)の第三等官。政務判断(決済権)を有する長官・通判官・判官三判制の一人。久下昌男氏の「ひとりよがりの漢詩紀行」の「揚州の韓綽判官に寄す」の解説に、『これは、作者が江南の池州(安徽省貴池県)にいたときの作と考え』、『揚州を厳密に「江北」の地ととらえて、江南のここ池州も、秋が過ぎて寂しくなった。君のいる揚州はいいなあ、美しい橋に月が輝き、玉のようなひとが笛を』吹いているから、と作詩背景と感懐を推測されている(杜牧は恐らく州長官である池州刺史)。また、「杜牧 寄揚州韓綽判官 詩詞世界 碇豊長の詩詞」の「二十四橋」の語釈には『揚州の別名。唐代、市内に二十四の橋があったことから云う。我が国の大阪を「八百八橋」というようなものか。』また、揚州にあった橋の名とも言い、『呉家橋、別名紅薬橋のことで、昔ここで、二十四人の美女が簫を吹いたという伝承から起こった名称とも云う』と記す。なお、「草木凋」については一本に「草未凋」(草未だ凋まず)とするが、碇豊長氏は『秋が盡きてもなおも草木は凋まない、という江南の温暖さを強調している。どちらが原初の形かを別とすれば、「草未凋」は、なかなかのものである』と記されている。景観への認識と感懐の違いがあるので如何とも言い難いが、私は詩想としては「草木凋」を、論理的説得性から言うと「草未凋」を採りたい。とりあえず私にとって本詩を味わうには、このお二人の導きで十分であると感じている。

・「何だか又肋膜のあたりが、かすかに痛みさうな氣がして來た」上海上陸直後に即入院(乾性肋膜炎による。「上海游記」の「五 病院」を参照)した彼が、やっと退院出来たのが凡そ一ヵ月後の4月23日であったから、5月11日はその僅か18日後のことであった。神経質な芥川にしてみればこうした心気症的描写は、実は切実な現実であったことが、最終回に向けて明らかにされてゆく。

・「一番私の辟易したのは、この大溝の臭氣である」ここに私は尾籠乍ら、どうしても書いておきたい体験を記して本注を終わりとしたい。≪!注意!≫≪以下は気持ちが悪くなる方もいるやに思いますが、自己責任でお読み下さい。お食事中・お食事直後の方はお読みになるのを控えられた方がよろしいでしょう。これ以降には本章の注はありません。≫芥川が行って大いに失望した寒山寺には、ご他聞に漏れず、実は私も失望した。その失望の頂点は私の場合、楓橋であった。その造形は悪くはなかった。しかし楓橋の下に水がなかった。観光整備のために、真下を潜る運河を直下で板と杭を用いて遮断し、ぐずぐずこてこてのヘドロを浚渫している最中であった。――「橋のない川」は文学になるが「川のない橋」ぐらいとぼけたものはない――その作業のせいもあってか、強烈な「大溝(おおどぶ)の臭気」が楓橋一帯を包んでいた。ウォシュ・タイプのチーズもクサヤも大好きな私でさえ思わずハンカチで鼻をふさいだことから、その強度がご想像戴けるものと思う。――さても時に、私は慣れない中華料理攻めに合い、その油にやられて、朝から少々腹が下っていた。――日本では、中国の扉のない公衆トイレの「大」を平気で使いこなせれば立派な中国人だ、等とよく言われるが、世界どこに行こうが日常的腹下し状態に生きている私には、背に下痢腹は変えられない。ふんばっている私をもの珍しそうに凝っと見る中国人を(何故か知らん毎回必ずこっちをわざわざ見る人がいたのである。これは私が中国で実は最も痛感した言われない排日ならぬ排泄の差別であった)、負けじと私は睨み返すぐらいの便所蟋蟀ならぬ便所根性は上陸初日から培ってきていた。――目の前の公衆便所に飛び込んで事なきを得、ほっとして出てくると、その便所のすぐ脇に遊覧船の乗り場がある。船の喫水線は沈むんじゃないかと思う程、異常に低い。船端から溢れんばかりに人が乗っているせいである。勿論、あらかたが「楓橋夜泊」大好き日本人ツアー客である(私は妻との個人旅行で、妻の南京大学日本語学科の教え子たちがわざわざ「日本人好み」ということでここを案内してくれたのであった)。私はその彼らの前の正真正銘真っ黒などぶどろの水面を情けなく眺め乍ら、その臭気を鼻の高さに直(じか)に感じなければならぬ、遊覧船に乗らねばならぬ彼等の不幸に、幾分同情していた(勿論、瘴気にハンカチで鼻を覆ってである)。その時、手前の見知らぬ中年の御婦人と目が合った。私を日本人と分かってか(大体、服装で区別がつくのである)、彼女はにっこり笑って私に手を振つのが眼に入った――ところが、その、御婦人の直ぐ目と鼻の先、も眼に入った――優雅に浮き沈みながら水面(みなも)を漂っている一物が――ある――それはまごうかたなき、さっき私の体からひりだされたばかりの、一物そのものであった――私は如何にも申し訳なさそうな泣き笑いの表情で、その御婦人に何とも言えぬ中途半端な手を、振り返したのであった……これはまた、一切の脚色をしていない、中国での、私にとって視覚と嗅覚の記憶を鮮やかに伴った、忘れがたい一齣ではあったのである……]


       二十四 古揚州(中)


 この水路を行き盡した所に、城門へ穿つた水門があつた。水門にはちやんと番人がゐるから、舟さへ行けば開けてくれる。それを向うに通り拔けると、急に川幅が廣くなつた。畫舫の左には高々と、揚州城の城壁が連(つらな)つてゐる。この城壁も瓦の間に、蔦蘿(つたかづら)が網を張つてゐたり、灌木が生え伸びてゐたりするのは、杭州や蘇州と變りはない。水と城壁との境には、盛り上つた洲の土の色が、蘆むらの向うに續いてゐる。畫舫の右には竹林(ちくりん)が多い。その中に一軒百姓家が見えた。百姓家の壁にはべた一面に、牡丹餠程のものが貼りつけてある。いや、現在もこの家の前には、鳥打帽をかぶつた男が一人、頻に牡丹餠を製造してゐる。これは何かと思つたら、冬の燃料を作る爲に、牛糞を干し固めてゐるのであつた。

 しかし水門を拔けてからは、水も前程臭くはない。景色も畫舫の進むのにつれて、だんだん美しさを加へるやうである。殊に或竹林の後(うしろ)に、古い茶館(ちやかん)が一軒ある、その邊の名前を聞いて見たら、綠楊村(りよくやうそん)と云ふのは風流だつた。實際さう云はれて見れば、茶館の卓子(テエブル)を圍みながら、川を見てゐる連中の顏も、綠楊村裏の住人らしい、泰平の相を具へてゐる。

 その内に我我の畫舫の先には、もう一艘畫舫が見え始めた。この畫舫に乘つてゐるのは、いづれも女ばかりである。しかも棹をとつたのなぞは、日本めかしい御下げの髮に、紅い玫瑰(メイクイ)の花をさしてゐる。私はもう五分もすれば、彼等の舟を追ひ越すから、その時この揚州の美人に、一瞥を與へようと思つてゐた。が、城壁が盡きると同時に、水路の分れる處へ來ると、彼等の畫舫は右へ曲るし、我我の畫舫は反對の方へ、冷淡にも船首を向けてしまふ。見送れば彼等の舟の跡には、兩岸の蘆の靜な間(あひだ)に、薄白い水光(みづひかり)が殘つてゐる。「二十四橋明月夜。玉人何處教吹簫」――私は突然杜牧の詩が、必しも誇張ぢやない事を感じた。どうも揚州の風物の中には、私さへ詩人と化せしめるやうな、快い惱しさがあるやうである。

 畫舫は船頭の操る棹に、水上の水草を押し分けながら、大きい石の眼鏡橋(めがねばし)をくぐつた。橋のアアチの石面には、白墨かペンキか覺えてゐないが、兎に角白い字を並べ立てた、排日の宣言が書き立ててある。その橋の下を通り拔けると、畫舫は高洲氏の命令通り、斜に右岸へ進路を向けた。其處にはずつと水際に、柳ばかり枝を垂らしてゐる。

 「今の橋? 今の橋が大虹橋、この岸が春柳堤さ。」

 高洲氏は舟を止めさせながら、かう私に教へてくれた。

 その春柳堤へ上つて見たら、路を隔てた麥畠の向うに、草色の薄い小山がある。その又小山に幾つとなく、丁度鼹鼠(もぐら)が土を上げたやうに、小さい土饅頭が並んでゐる。墓もかうなると惡くはない。何だか揚州の土の底では、死人さへ微笑してゐさうな氣がする。私は徐氏(じよし)の花園(かえん)の方へ、ぶらぶら柳の下を歩きながら、うろ覺えのミユツセなぞを暗誦した。ミユツセ、――尤もミユツセだつたかどうだか當てにはならない。實は唯(ただ)口の内に、柳、墓、水、懸、草、と云ふやうな、その場合に適切な言葉ばかり、好い加減に呟いてゐると、如何にもミユツセじみた氣がし出したのである。徐氏の花園を一見した後(のち)、我我は又畫舫に乘つて、元通り川を上つて行つた。すると今度は水の向うに、名高い五亭橋が見え始めた。五亭橋一名蓮華橋は、やはり石の眼鏡橋の上に、中央に一つ、二つ、都合五つの亭を構へた、頗(すこぶる)贅澤な橋である。亭の柱や欄干は、皆寂びた丹塗りだから、贅澤でも格別惡どくはない。唯(ただ)橋臺(はしだい)の石の色は、もう少し古みを帶びてゐても、差支へないと云ふ氣がした。が、大體感じを云へば、周圍に蔓(はびこ)る柳や蘆と、多少不調和な氣がする位、支那風に風雅を極めてゐる。私はこの橋の姿が、かすかに靑んだ空を後(うしろ)に、柳の中から現れた時、思はず微笑せずにはゐられなかつた。――西湖、虎邱(こきう)、寶帶橋、――それらも勿論惡いとは云はない。しかし私を幸福にしたのは、少くとも上海以來、何處よりもまづ揚州である。

[やぶちゃん注:5月11日。名前が示されないが、揚州西北の郊外にある名勝、痩西湖の周遊である。痩西湖は文字通り細長い人工湖で全長4.3㎞、湖面は凡そ30ha。清の康煕・乾隆年間に湖畔庭園として整備され、長堤・徐園・小金山・吹台・月観・五亭橋・鳧荘(ふそう)・白塔等、名跡が多数ある。

・「綠楊村」痩西湖湖畔の村。銘茶の産地として知られる。

・「玫瑰(メイクイ)」“méiguī”本邦ではこの表記でバラ科バラ属ハマナス(浜梨)Rosa rugosaを表わすが、Rosa rugosaは北方種で中国では北部にしか分布しない。中国産のハマナスの変種という記載もあるが、芥川が中国語としてこの語を用いていると考えれば、これは一般的な中国語としてバラを総称する語であり、注としては「バラ」「薔薇」でよいと思われる。

・『「二十四橋明月夜。玉人何處教吹簫」』前篇「二十三 古揚州(上)」注『杜牧の詩にあるやうな「靑山陰陰水迢迢」』参照。

・「橋のアアチの石面には、白墨かペンキか覺えてゐないが、兎に角白い字を並べ立てた、排日の宣言が書き立ててある」これは「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳」の「手帳 6」の『○勿用日貨(白、城壁)。墓。麥。柳。鳩。橋(大)。大虹橋(勿用日貨)。春柳堤。徐園。(徐寶山)乾の爲一夜ニ作ル。向うに湖心寺。やがて五亭橋。左にラマ寺(塔)。右に釣魚臺。』とあることから、「排日の宣言」とは「勿用日貨」、「日貨を用ふる勿かれ」(日本製品を用いるな!)という不買運動のスローガンであることが分かる。

・「大虹橋」痩西湖の入口に架かり、揚州二十四景の西園曲水と長堤春柳を結ぶ。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、明末に架橋後、清の乾隆年間にアーチ型に改修された。命名は『虹が東西両岸にかかっているようにみえる』ところから、とある。

・「春柳堤」湖の西岸にある。入口から小金山迄の数百メートルの堤であるが、揚州二十四景の「長堤春柳」がこれである。

・「徐氏の花園」筑摩全集類聚版脚注は、鎮江の徐宝山の花園とし、岩波版新全集の神田由美子氏の注解は『揚州市の市街東南部にある花園か? 旧市街の徐凝門外の裏道にある』とする。検索をかけるうちに「徐凝門」で、以下の個人ブログ「考古学用語辞典」の記載を発見した。「何園」(かえん)という旧跡についてである。改行は「/」に変えた。『揚州市南徐凝門街77号にあり、寄嘯山荘とも呼ばれている。清の光緒年間に造営されたもので、揚州の名園の一つ。園主は隠退して揚州に帰ってきた湖北漢黄徳道道台の何芷(舟+刀)で、陶淵明の「南窓に倚りて以つて寄傲し、東皋に登りて以つて舒嘯す」の詩句から取って、「寄嘯山荘」と名づけたといわれている。/これは大型の邸宅庭園で、後花園、庭付き住宅、片石山房からなっている。面積はわずか7000㎡で、最大の特徴は池の周りに異なる形をした楼が連なっていることで、その長さは430m余に及ぶ。観光客は回廊に沿って一回りして見学することができるようになっている。/この園は東西2部分に分かれ、東部に船庁と牡丹庁があり、船庁の北側に女性の客を宴会でもてなす丹鳳朝陽がある。養魚池の水亭は納涼をとるところであれば、舞台として使うこともでき、また回廊は観劇の観衆席に使われる。主楼の蝴蝶庁は男性の客を宴会でもてなすところである。国内に築山、怪石、古木があり、四季折々の花が咲いている。/何園は曲がりくねった道と回廊で有名。中国・西洋の建築芸術をうまく融合させている。中国の現代の有名な古建築専門家の羅哲文氏は「全体的な配置が整然としており、疎密が適当で、なかでも北部の花園が絶妙を極めている」と述べ、また何園は「江南庭園における唯一つの例」と高く評価している。』。「花園」といい、一見、これかと思わせるのだが、やはり「徐氏」はどうみても人名である。すると中文サイト「壹旅游」の「非游不可」の「揚州有位“徐老虎”――徐宝山其人其事」という記事を発見、「徐園」なるものが存在することが分かった。決定打は「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳」の「手帳 6」の『○勿用日貨(白、城壁)。墓。麥。柳。鳩。橋(大)。大虹橋(勿用日貨)。春柳堤。徐園。(徐寶山)乾の爲一夜ニ作ル。向うに湖心寺。やがて五亭橋。左にラマ寺(塔)。右に釣魚臺。』で、筑摩版に軍配が上がった。徐宝山(18621913)とは清末の軍人。鎮江新勝党の統領として揚州軍政府を弾圧、自ら揚州軍政分府を組織した地元のボス(鎮江出身)。革命党により暗殺された。

・「ミユツセ」Alfred Louis Charles de Mussetアルフレッド・ルイ・シャルル・ド・ミュッセ(18101857)はフランスのロマン主義の作家。

・「如何にもミユツセじみた氣がし出した」ウィキの「ミュッセ」には彼を評して『その詩はうわべの抒情、表面的な憂愁に満ちていて、ロマン主義のもっとも軽薄な部分が出ていると言える』という記載がある。この批判的一刀両断、ウィキならではという感じで、面白い。

・「五亭橋」痩西湖のシンボルと言える極めて異形の建造物。乾隆221757)年、この年の乾隆帝2度目の江南巡幸に合わせて、莫大な財産を恣にした地元の塩商人らが出資し、架橋した。橋上には二重の急激に反り返った廂を有した主亭を中心に、四つ角で接した同じ傾斜角を持った単廂の方亭が囲むように四つ配されている。橋脚には大小異なる遂道が通り、最大の中央のものは水面から7.13m、複雑な形状が四季折々の変化に飛んだ景色を楽しめるよう工夫されている。

・「橋臺」橋脚のことであるが、五亭橋の写真を見ると、如何にも「台」である。]



       二十五 古揚州(下)


 「――五亭橋畔に喇嘛(らま)塔があります。この寺は法海寺と云ふのださうですが、紅殼(べにがら)を塗つた本堂は勿論、喇嘛塔もびどく荒れてゐました。しかし疎な竹林の空に、大きい辣韮(らつきよう)形の塔が聳えてゐるのは、壯觀でない事もありません。我我は寺の中をぶらついた後(のち)、又畫舫に乘りこみました。

 「川の南岸には不相變、寂しい蘆の茂つた間(あひだ)に、柳や槐(ゑんじゆ)が立つてゐます。法海寺の對岸は、確(たしか)乾隆帝の釣魚臺(てうぎよだい)だつたと思ひますが、その水郷らしい風景の中に、古い亭が一つありました。その水路の窮まつた所が、平山堂のある蜀岡(しよくかう)です。遙に畫舫から眺めても、松林と麥畠と土の赤い崖(がけ)と、斑(まばら)に入り交つた蜀岡の景色は、頗(すこぶる)畫趣に富んでゐました。これは一つには岡の上に、處處靑空を見せた、春雲が靜に動いてゐる、――その微妙な光の工合が、手傳つてゐたのかも知れません。

 「しかし畫舫から上つた後も、蜀岡、少くとも歐陽修が建てたと云ふ、平山堂のあるあたりは、甚(はなはだ)閑雅な所でした。堂は法海寺の境内に、大雄寶殿と並んでゐますが、ひやりと埃の匂のする、薄暗い堂へはひつた時は、何だか難有い氣がしたものです。私は額や聯(れん)を讀んだり、欄外の見晴しを賞したり、少時(しばらく)堂の中を徘徊しました。この堂の主人歐陽修は勿論、此處に遊んだ乾隆帝も、きつと今の私のやうに、悠悠たる氣もちを樂んだでせう。その意味では私も凡俗ながら、古人と默會が出來たのです。堂の前には亭亭(ていてい)と、幹の白い松が二本、高い軒瓦(のきがはら)を凌いでゐる、私はそれを仰ぎ見ながら、鄭蘇戡(ていそかん)先生のヴエランダの外にも、やはり此(この)白松(はくしよう)と云ふのが植ゑてあつた事を思ひ出しました。松の梢に遮られた空には、絶えず時鳥(ほととぎす)が啼き渡つてゐます。………………」

 私は手紙を書きかけた儘、「やあ」と高洲氏に御時儀をした。高洲氏は其時私の前へ、一椀の草決明(さうけつめい)を勸めたからである。――我我は名所の見物をすますと、高洲氏の邸宅へ引き揚げて來た。邸宅は手廣い庭を控へた、好く云へば支那の庵室のやうな、惡く云へば稗(ひえ)蒔きの家に近い、藁葺屋根の建物である。が、草花の多い庭は決して稗蒔きどころの騷ぎぢやない。殊に現在暮色の中に、シネラリアや雛菊の仄(ほのめ)いてゐるのは、明星派(めうじやうは)の歌じみた心もちもする。私は窓の硝子の外に、さう云ふ庭先を眺めながら、書きかけた手紙はそつちのけに、ゆつくり熱い草決明を吸つた。

 「これさへ飮んでゐれば無病長壽さ。僕は珈琲(コオヒイ)も紅茶も飮まない。朝夕こればかり飮んでゐる。」

 高洲氏はやはり茶椀を前に、草決明の效能を吹聽した。按ずるに草決明と稱するのは、はぶ草の實を煎じたものである。これに牛乳や砂糖を入れると、飮料としても惡いものぢやない。

 「つまり何首烏(かしゆう)の類(るゐ)ですか?」

 島津氏は一口飮んでから、口髭についてゐる滴を拭つた。

 「何首烏は君、婬藥(いんやく)さ。草決明はあんな物ぢやない。」

 私はそんな對話を外(よそ)に、もう一度手紙を書き始めた。

 「我我は今夜高洲氏の所に、一晩止めて貰つた後、鎭江(チンキヤン)へ引返す豫定です。島津氏とは多分鎭江から別れる事になるでせう。私は蘇州滯在中、島津氏と一度大喧嘩をしました。が、今ではかう云ふ好漢と、何故喧嘩をしたかと思つてゐます。どうかその點は御安心下さい。

 「何でも坊間の説によると、高洲氏は年俸何萬圓とかの大官になつてゐるさうですが、この部屋も紫檀の寢臺(ねだい)があつたり、いろいろ骨董が並べてあつたり、ホテルよりも遙に難有い位です。唯(ただ)の寢臺足りない爲、私は島津氏と長椅子の上へ、同衾(どうきん)する運命を荷ひました。それも足と頭と並ぶやうに、枕を反對にするのださうですから、私の頭は島津氏の足に何時蹴飛ばされるかわかりません。私は如何に島津氏の足が、赤縣(せきけん)の山河を踏破しただけに、巖丈であるかを知つてゐます。その足が私の枕の近所に、夜中(よぢゆう)横はつてゐるのだと思ふと、確に愉快ではありません。私は昔袈裟御前が、盛遠に打たれる覺悟をしながら、靜に獨り寢てゐた如く、今夜も豫(あらかじ)め………」

 私は急に手紙を隱した。

 「大分長い手紙ですな。」

 島津氏は何だか落ち着かなさうに、部屋の中を歩きながら、私の手紙へ眼をやつた。事によると島津氏自身も、私に頭を蹴られはしないかと、内心不安に思つたのかも知れない。

[やぶちゃん注:5月11日夜。これは書簡体小説を意識した入れ子構造の実験的一篇である。この書簡も実在しないと考えてよい。ちょっと考えても、この手紙を受け取る人間を考えると分かる。この宛名人は、上海での芥川の鄭孝胥訪問を恐らく知っており、島津四十起とも旧知、更に恐らく高洲大吉も知らぬわけではない相手である。そういう人物は上海には複数いると考えられる。しかし、芥川の書簡の嘱目の説明からして、その宛先は日本にいる日本人であると断定してよい。だいたい一泊の小旅行で上海在留の日本人知人に宛てて手紙を書くはずがない。芥川に「上海游記」等に出てくる西村貞吉のような上海以外の中国在住日本人の知人がいないことはないが、この揚州の情景描写はここに来れない者へ向かっての語り口であり、日本にいる日本人以外には考えられない。そうして、その根拠の決定打は、その人物は芥川龍之介の「袈裟と盛遠」を雑誌『改造』か、作品集『傀儡師』で読んでいる人物である点である……これはもう、現にこの連載を読んでいる「毎日新聞」の購読者の中の、芥川好きの読者以外には、いないのである。

・「喇嘛塔」/「法海寺」は五亭橋の南端のある元代に創建された寺。蓮性寺の元の寺名。そこに立つ「喇嘛塔」とは白塔のこと。チベット仏教=ラマ教様式の白い独特の形をした塔で、高さ約28m。乾隆帝によって1784年に改修された。五亭橋同様、帝の歓心を得るために塩商人が一夜にして築いたという伝説もある。揚州二十四景の「白塔晴雲」はここである。

・「紅殼」赤色顔料の一。主成分は酸化第二鉄Fe2O3。着色力が強い。塗料・油絵具の他、研磨剤に用いる。ベンガラ。名称はインドのベンガル地方で多く産出したことから。それに当字したものの訓読みである。

・「釣魚臺」五亭橋の東北、湖上の島の張り出した先端に位置する。K.Iwata氏の「中国を楽しく旅行する」の「古都揚州」のページに『乾隆帝行幸の折、皇帝が湖上を行くときに、水辺で楽隊が音楽を吹奏するために造ったものであるので、吹台と呼ばれたが、水辺にあるその姿が、いかにも魚釣りのあずまやに見えるところから、いまは一般に釣魚台と呼ばれている。このあずまやには、大きな丸窓があって、その丸窓の借景、とくに水面に浮かぶ五亭橋を丸く切り取って撮すことができるスポットとしても、好事家の間で知られている名所である』と解説され、また『乾隆帝は実際ここで釣りをしたという話も伝えられている。帝が釣り糸を垂れるたびに、蓮の葉で身を隠して近づき、蓮の茎で呼吸をして水中に潜っては、釣り糸の先に生魚を付けて、皇帝がそれを釣り上げるたびに、なみいる皆が拍手喝采して、皇帝を喜ばせたという。』と、興味深いお話を綴られている。

・「平山堂のある蜀岡」蜀岡は痩西湖最北端の眺めの良い高台。南北朝の南朝宋孝武帝大明年間(457464)に創建された大明寺がある。唐の743年、当時のこの住持を務めていた鑑真和上は遣唐僧の懇請を受けて苦難の末に来日した。日中仏教文化の所縁の地でもある。この一画に「平山堂」があり、北宋の1048年、欧陽脩が揚州知府に任じられた際に建てた、文人墨客を招いたサロン。揚州大明寺日本語版公式サイト「文人墨客区」によれば、『平山堂から遠くの江南地域の山並みを眺めたら、山の高さはちょうど平山堂の高さと同じように見えた』ことから名づけた、とある。このサイト、中国のサイトの日本語版としては頗る高度な内容となれた日本語で構成されている。一見の価値あり。

・「大雄寶殿」揚州大明寺日本語版公式サイトに敬意を示して「大雄宝殿」から全文を引用する。『大明寺の本堂に相当する廟殿である。宝殿前の庭園の東側に百年以上の柏木、右側に百年以上の黄楊が植えられ、中央に二つの鼎が置かれている。清時代に建てられた大雄宝殿は前後に回廊に囲まれ、正面間口三間、三重もこし付の建築物である。屋根は全部灰色の瓦を葺き、その脊に透かし彫りの美しい模様が刻まれている。二重目のひさしに「大雄宝殿」の扁額がかかっている。屋根に鏡がかかっていて、表面に「国泰民案」の文字が刻まれ、裏面に「風調雨順」の文字が彫刻されている。仏教によると、大雄宝殿及び天王殿で祭られている仏は国と民衆の平安無事、農作物の豊作を守るという重責を担っている。大雄宝殿殿内の仏像は静かな厳しさを感じさせる。中央の蓮華座の上にある南向きの仏像は釈迦牟尼仏坐像、即ち仏陀であり、「釈尊」と呼ばれ、また中国語で「大雄」とも呼ばれ、尊敬されている。それは釈迦牟尼仏がまるでライオン、勇士のようになにものも恐れないわけである。釈尊の左側には薬師如来坐像であり、居所たる東方浄瑠璃世界を主宰し、右側には阿弥陀仏坐像であり、居所たる「西方極楽浄土」を主宰している。また、釈尊の両側に十人弟子のうちの二人の立像も祭られていて、左側の立像が経験及び威厳を象徴し、右側の坐像が智慧及び学識を象徴している。釈尊の反対側、北面にある仏像は「海島観音」である。観世音菩薩は西方極楽世界にいる聖者であり、仏の大慈大悲で衆生を済度することを本願とし、衆生の求めに応じるため、大衆に最も尊重されている。殿内東西側に十八羅漢が祭られ、それぞれの生き生きした表情は人々の心を引き付ける。毎年、中国そして世界各地から数多くの観光客が大明寺を訪問していて、信者のお寺参りが絶え間なく続いている、特に毎年の大晦日に鐘を鳴らし、来年の幸福を祈念する行事が国内外の観光客及び信者を引き付けている。』芥川が静かに佇んだ堂内と堂前が髣髴としてくるではないか。

・「聯」は対聯のことで、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。ここでは経や法句を記したものであろう。

・「亭亭と」高く聳えるさま。

・「幹の白い松」恐らく裸子植物門マツ亜門マツ綱マツ亜綱マツ目マツ科マツ属シロマツPinus bungeanaと思われる。「白松(はくしょう)」「白皮松」とも言い、中国中部から北西部原産。針葉が三本で一組。成長が遅く、現在は希少種。

・「鄭蘇戡」鄭孝胥(ていこうしょ)の号。鄭孝胥(Zhèng Xiàoxū ヂョン シアオシュー 18601938)は清末の1924年総理内務府大臣就任(最早、清滅亡を眼前にして有名無実の職であったが、失意の溥儀によく尽くし、後、満州国にあってもその誠心を貫いた)、後、満州国国務院総理(首相)となった。詩人・書家としても知られる。ウィキの「鄭孝胥」によれば、1932年の『満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし』、1934年、初代国務院総理となったが、『「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから』1935年辞任に追い込まれた。「上海游記」「上海游記 十三 鄭孝胥氏」を参照のこと。

・「草決明」漢方名は「決明子」(ケツメイシ)とも。バラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属エビスグサSenna obtusifolia、シノニム Cassia obtusifoliaの成熟種子。平行四辺形の独特の形状を成す。目薬や便秘薬として用いられ、健康茶「ハブ茶」としても古くから用いられた。後掲「はぶ草」を必ず参照されたい。

・「稗蒔きの家」貧乏な百姓家の謂い。

・「シネラリア」キク目キク科ペリカリス属シネラリアPericallis cruenta。北アフリカ・カナリヤ諸島原産。冬から早春にかけて開花、品種が多く、花の色も白・青・ピンクなど多彩。別名フウキギク(富貴菊)・フキザクラ(富貴桜)。英名を“Florist's Cineraria”と言い、現在、園芸店などでサイネリアと表示されるのは英語の原音シネラリアが「死ね」に通じることからとされる。――しかし乍ら、試みに調べてみたら、余りに美しすぎて他の花が売れなくなるからか――“Cineraria”という語は“cinerarium”――「納骨所」の複数形である――“Florist's Cineraria”「花屋の墓場」という意味なのであった――

・「明星派」与謝野鉄幹主宰の東京新詩社同人による詩歌雑誌『明星』(明治331900)年4月~明治411908)年11月:第一次と呼称)に拠った明治30年代の浪漫主義を代表する詩人・歌人の一派及びその詩風を言う。高踏的・唯美的で、強い芸術至上主義傾向を持つ。星菫派。与謝野鉄幹・与謝野晶子・北原白秋・石川啄木・吉井勇・山川登美子らが挙げられる。芥川はそれに続く『明星』第二次(大正101921)年11月~昭和2(1927)年4月・明星発行所刊)に寄稿している(同時期の寄稿者には旧来の星菫派以外に森鷗外・永井荷風・佐藤春夫・堀口大学らがいたが、この時期の『明星』は最早、本来第一次が内包していた文学的革新性からはほど遠いものとなっていた)。芥川龍之介は大正111923)年1月の第一巻第三号に「本の事」(内容の一部である「各国演劇史」「天路暦程」は同趣旨のものを大正9(1020)年発表の骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」に所収しており、リンク先の私の注で「本の事」版と比較して読める)、大正121923)年9月第四巻第三号に「洞庭舟中」、大正141925)年3月第六巻第三号に恋情抑えがたき片山廣子への「越びと 旋頭歌二十五首」等を発表している。「洞庭舟中」は本「江南游記」冒頭の「前置き」注で述べた5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)で、『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』と記す前に掲げたものである。中国行での吟詠でもあり、以下に示しておく。

 洞庭舟中

しらべかなしき蛇皮線に、

小翠花(シヤウスヰホア)は歌ひけり。

耳環は金(きん)にゆらげども、

君に似ざるを如何にせん。

「蛇皮線」は「じゃびせん」と読む。中国伝統の弦楽器、三弦(弦子)のこと。沖繩の三線(さんしん)や三味線のルーツ。「小翠花(シヤウスヰホア)」“xiăcuìhuā”は名花旦として知られた于連泉(本名桂森19001967)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花“xiăocuìhuā”(シィアォツォェイホア しょうすいか)である(「筱」は「篠」の本字)。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした(以上の事蹟はこちらの個人の京劇サイト「歴代の主な京劇俳優一覧」を参照させてもらった)。芥川は上海で「彼女」の舞台を見ている。「上海游記」「九 戲臺(上)」を参照されたい。

・「はぶ草」バラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属ハブソウSenna occidentalis。江戸時代、毒虫・毒蛇、特に南西諸島でハブに咬まれた際の民間薬として用いられたため、この名を持つが、漢方薬処方としては用いられない。現在、知られている「ハブ茶」には、本種は全く用いられず、先に「草決明」で掲げた同属のエビスグサSenna obtusifoliaの種子を原料とする。

・「何首烏」本邦の漢方処方ではナデシコ亜綱タデ目タデ科タデ属ツルドクダミPolygonum multiflorumの塊根を乾燥させた生薬(但し、中国「何首烏」にはリンドウ目ガガイモ科イケマ属 Cynanchumに属するCynanchum auriculatumを基原植物とするものもある)。現在は老人性の湿疹・皮膚掻痒症・慢性蕁麻疹等に処方されるが、ここで島津が言うように民間薬として強壮剤・緩下薬としても用いられ、髪を黒くするという効能から名付けられたという。

・「婬藥」精力増強剤のこと。実際の効果はクエスチョンだが、「何首烏 精力」の検索ワードで4940件ヒットし、そのようなリードが並んでいる。

・「紫檀」マメ目マメ科ツルサイカチ属Dalbergia及びシタン属Pterocarpusの総称。古くから高級工芸材として利用される。ビワモドキ亜綱カキノキ目カキノキ科カキノキ属コクタンDiospiros ebenum・マメ目ジャケツイバラ科センナ属タガヤサンSenna siameaとともに三大唐木の一つに数えられる。

・「赤縣」中国の異名。「史記」の「孟子荀卿列伝 第十四」に『中國曰赤縣神州。赤縣神州内自有九州。』とある。

・「昔袈裟御前が、盛遠に打たれる覺悟をしながら、靜に獨り寢てゐた如く」大正7(1918)年4月に『中央公論』に発表、翌大正8(1918)年1月15日に新潮社より刊行した第三番目の作品集である『傀儡師』に再録した、自作の「袈裟と盛遠」を意識した叙述。未読の方は、私の電子テクストには岩波旧全集版テクスト(附原典)作品集『傀儡師』版テクスト2種を用意してある。お好きな方でお楽しみあれ。]


       
二十六 金山寺




 「對聯(たいれん)の文句も變りましたね。御覧なさい。あすこに貼つてあるやつなぞは、獨立大道、共和萬歳としてあります。」

 「成程、此處のも新しい。文明世界、安樂人家(あんらくじんか)と書いてあります。」

 我我は人力車に搖られながら、こんな事を話し合つた。狹い路の南側には、煮賣屋(にうり)だの安宿(やすやど)だの、いづれも薄汚い家が並んでゐる。その戸口に貼りつけた、例の緋唐紙(ひとうし)の聯を讀むと、大抵今話した通り、新時代の對句(つゐく)が書いてある。我我が今通つてゐるのは、呉中の門戸(もんこ)たる鎭江(チンキヤン)ぢやない。正に「西暦千八百六十一年天津(てんしん)條約により開港せられたる」民國十年の錢江である。

 「今眞紅な着物を着た子供がゐたでせう?」

 「ええ、肥つたお上さんが抱いてゐた。――」

 「あれです。あれは天然痘ですよ。」

 私は急にこの四五年、種痘をしない事を思ひ出した。

 その内に我我の人力車は、鎭江(チンキヤン)停車場の前に着いた。が、時間表を調べて見ると、南京(ナンキン)行の汽車に乘るのには、まだ一時間程餘裕がある。既に餘裕があるとなれば、あの山の上に塔の見える、金山寺(きんざんじ)を見ないと云ふ法はない。我我は評議一決するが早いか、早速又人力車の客となつた。但し早速とは云ふものの、例の通り賃錢(ちんせん)を値切る爲に、十分ばかりかかつたのは事實である。

 最初に車の通つたのは、掘立小屋ばかり軒を並べた、頗(すこぶる)原始的な貧民窟である。小屋の屋根は藁葺きだが、土を塗つた壁は殆(ほとんど)見えない。多くはあんぺらか蓆張りである。その内外には男も女も、陰慘たる顏をしたのがうろついてゐる。私は小屋の屋根の後に、長の高い蘆を眺めながら、もう一度疱瘡になりさうな氣がした。

 「どうです、あの犬は?」

 「毛も何もない犬は珍しい。が、氣味も惡いですね。」

 「ああ云ふのは皆梅毒ですよ。苦力(クウリイ)や何かに移されるのださうです。」

 その次に車の通つたのは、川があつて、材木屋があつて、――要するに木場のやうな所である。此處には家家の軒に貼つた、小さい緋唐紙(ひたうし)の切れ端に、「姜大公在此」(きょうだいこうここにあり)云云の文字が並んでゐる。これは「爲朝御宿」(ためともおんやど)のやうな、お呪(まじな)ひの類(るゐ)に違ひない。その川を向うへ渡つたら、不景氣な町を通り拔けた所に、赤壁の寺の門が立つてゐた。門の前には乞食が一人、松の木の根かたに坐つた儘、どう云ふ訣か深呼吸をしてゐる。事によるとあれは哀(あい)を乞ふ爲に、苦しさうな容子をして見せたのかも知れない。

 金山寺は勿論この寺である。我我は車を捨てた後、一通り寺内を歩き廻つた。が、何分にも汽車の時間があるから、ゆつくり見物する氣もちになれない。寺は山に倚つてゐるので、(昔はこれが島だつたと云ふが、)一堂(だう)毎(ごと)にだんだん高くなつてゐる。その間(あひだ)の石段を上下しながら、ざつと見て歩いた感じを云ふと、勢ひ未來派の畫(ゑ)のやうな、妙に錯雜したものになつてしまふ。しかし當時の印象は、それに違ひなかつたのだから、手帳に書いてあるのを寫して見ると、大體こんな調子である。

 「白壁。赤い柱。白壁。乾いた敷石。廣い敷石。忽(たちまち)又赤い柱。白壁。梁(はり)の額。梁の彫刻。梁の金と赤と黑と。大きい鼎(かなへ)。僧の頭(あたま)。頭に殘つた六つの灸跡。揚子江の波。代赭色に泡立つた波。無際限に起伏する波。塔の屋根。甍の草。塔の甍に劃(かぎ)られた空。壁に嵌めた石刻(せきこく)。金山寺の圖。査士票(さしへう)の詩。流れて來る燕。白壁と石欄(せきらん)と。蘇東坡の木像。甍の黑と柱の赤と壁の白と。島津氏はカメラを覗いてゐる。廣い敷石。簾(すだれ)。突然鐘の音。敷石に落ちた葱の色。………」

 どうもこれだけ書いたのぢや、讀者には一向通じさうもない。が、通じる事にして置かないと、書き直すだけでも手數である。手數も勿論ふだんなら辭さない。が、私は今名古屋にゐる。おまけに道づれの菊池寛は、熱を出して呻(うな)つてゐる。どうか其處を御酌量の上、通じるとして置いて頂きたい。この一囘を書き終つた後(のち)、私は又菊池の病室へ出張しなければならないのである。

[やぶちゃん注:5月12日、南京に向かう途中の鎮江にて。

・「對聯」は書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。但し、佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言い、それらにはここで語られるような社会批評が現れることがあることを佐々木氏は語っておられる。大変面白いのでリンク先をお読みになることをお薦めする。

・「例の緋唐紙の聯」「唐紙」は竹とコウゾ(楮)を用いて漉く中国の伝統的な紙のこと。柔らかく脆い。赤いそれに文句を記した対聯は、今も中華街などでよく見かけるお馴染みのものである。

・「呉中の門戸たる鎭江(チンキヤン)」“Zhènjiāng”(チェンチィアン)は古くは京口と呼ばれ、三国時代の呉の孫権は一時、ここ京口(鎮江)に都を置いた。
・「南京(ナンキン)」“Nánjīng”。ここで初めて地名として用いられて、初めてルビもカタカナとなっている。

・「天津條約」天津に於いて清と諸外国間に、複数期に亙って締結された17条約の通称。1858年アロー号戦争により清とロシア・アメリカ・イギリス・フランスの間で結ばれたものを1回目とし、2回目は1885年に、ベトナム領有を巡る清仏戦争の講和条約として再度、清とフランスが、同時に同年4月には清と日本との間で締結された。この条約はいずれも広範囲の外国の特権を規定しており、これ以降に中国が蒙る不平等条約の元凶となった。1858年の条約の主な内容は、軍事費賠償・外交官北京駐在・外国人の中国旅行開放と貿易の自由化・キリスト教布教の自由と宣教師の保護・漢口、鎮江、南京等10港の開港を定めていた(以上はウィキの「天津条約」を参照した)。

・「民國十年」西暦1921年。大正10年。この芥川の中国行の年。

・「眞紅な着物を着た」赤色は疱瘡除けの呪(まじな)い。患者には赤い着物、赤い頭巾、枕頭には疱瘡神を祀った。その他、赤い蠟燭・紅団子・赤飯・赤鯛・赤い猿の面・緋色の袈裟を纏った達磨・朱で描いた鍾馗、本邦では赤紙の幣(ぬさ)や紅潮した源為朝・桃太郎の絵等、徹底した赤色アイテムを護符代わりとして用いた。

・「天然痘」オルトポックスウイルス属天然痘ウイルス(Poxvirus variolae)により引き起こされる強感染性疾患。死亡率は最大30%。天然痘の症例は世界的なワクチン接種により1977年以来発生していない。1980年の世界保健機関(WHO)の定期ワクチン接種の中止推奨により根絶宣言を出した(但しテロリストが既存の貯蔵天然痘ウイルスを入手することによる再発の危険性はある)。免疫は経時的に低下するため、現在ではほぼ全人類に天然痘に感受性があると言ってよい。感染は直接接触及び飛沫感染による。汚染された衣服・寝具も感染源となり得る。発疹が出現後、最初の7~10日間に感染力は最大となる。皮膚病変部に瘡蓋が形成される頃には低下する。ウイルスは口腔咽頭又は気道粘膜に侵入、該当部位のリンパ節で増殖する。潜伏期間は7~17日の範囲で、その後、発熱・頭痛・背部痛及び激しい倦怠感を伴う前駆症状が2~3日続く。前駆症状に続いて斑点状丘疹が口腔咽頭粘膜・顔面・腕を中心に発現、速やかに体幹および脚部に拡大、その1~2日後、皮膚病変が小水疱になり、次いで膿疱となる。膿疱は体幹よりも顔面および四肢に密集する。膿疱は丸く、よく膨れ、外見上、上皮組織に深く埋没して見える。死亡率はこの2週目前後にショックと多臓器不全を引き起こす激しい炎症反応により最も高まる。その状態が8~9日間続いた後、膿疱は瘡蓋を形成して終息するが、重度の瘢痕が残る。以上を「大痘瘡」と称し、それに類似しているがはるかに軽度な症状の「小痘瘡」は発疹の範囲も狭く、死亡率は1%未満である(以上は「メルクマニュアル 第18版 日本語版」「天然痘」を私が要約したものである。下線部やぶちゃん)。

・「私は急にこの四五年、種痘をしない事を思ひ出した」ほくそ笑んだ方は、上記下線部を参照のこと。

・「金山寺」鎮江市街西北約3㎞の郊外にある寺。東晋の319年に創建され、正しくは江天禅寺というが、唐代にこの辺りで金を採掘したことから金山寺と呼ばれるようになったという。芥川のメモに現れる塔は鎮江のシンボルとされる七層八角高さ30mの慈寿塔で、金山の尾根上にある。現在のものは清の1900年に重修されたものである。

・「あんぺら」中国南部原産の単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科Cyperaceaeの仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。

・『「ああ云ふのは皆梅毒ですよ。苦力(クウリイ)や何かに移されるのださうです。」』――ここに注を施さない先人達に私は大いに不満を持っている。アカデミズムの世界にいる人々は、ここを注なしで誰もが分かるとでも思っているのか? そもそも、あなた方は性感染症の深い知識おありになり、一般大衆も同等だなどと思っているのか? 注とは文学の領域を遙かに超えていることを、あなた方は理解しているか? いや、あなたは危ない経験も、不倫も、何もしたことがない。それで、しかし、芥川龍之介の核心的内実を理解しているなどと、思っているとしたら、こんな最下劣な噴飯物はあるまいよ!――まず、語注からとりかかる。「梅毒」は言わずと知れた“Syphilis”、スピロヘータ門スピロヘータ綱スピロヘータ目スピロヘータ科トレポネーマ属Treponemaの梅毒トレポネーマTreponema pallidumによって発症する性感染症である。各期病態については幾らも容易に読める資料があるから省略する。次に「苦力(クウリイ)」は“ kǔで肉体労働者の意であるが、ここは鎮江であるので、私にとってしっくりくる「港湾の荷積労務者」である。次にここで描写される無毛の犬であるが、これは犬皮膚真菌症や膿皮症等の重症の皮膚疾患による脱毛症状である。私が言いたいのは、ここからだ。「苦力や何かに移される」とは、どういうことか若い読者は、本当に分かるだろうか? 「識者」どもはカマトトの女子高校生に、これが説明なしで本当に分かるとでも思っているのだろうか? この台詞(文脈からは高洲氏かと思われるが、内容からは島津氏の言いそうなことである)は、苦力たちが性欲のはけ口に犬を獣姦し、そのために苦力の罹患している梅毒が犬に感染しているということを言っているのである。私が言いたいのは、そのような誤った差別的(言っておくが、私は苦力たちが「誰一人として」そのような行為を「絶対にしない」などということを力説しようとしているのではない。そんな変態もいたであろう。しかし、それは中国に限ったことではない。どこだってあるさ! 先進諸国の今にあっても)にして、非科学的であることを、何故、アカデミズムは語らないのかという憤懣である。一言で済む。犬に人間の梅毒は感染しないということだ。ここは、向後、必ず注されるべきである。そして、最後に。ここには図らずも芥川龍之介の梅毒感染恐怖に基づく強迫神経症が垣間見えるということである。以上。

・「木場」東京都江東区深川地域内の地名。江戸時代初期から隅田川の河口に設けられた貯木場。江戸の度々の大火を目した建設資材の集積場として発展した。現在は埋め立てられて公園となっている。

・『「姜大公在此」』「姜大公」は太公望呂尚(りょしょう)のこと。B.C.11世紀頃、周の軍師として活躍し後に斉の始祖となった。姓は姜、氏は呂、名は尚または望、字は子牙又は牙。謚は太公。斉太公、姜太公とも呼ばれる。明代のベストセラーであった神怪小説「封神演義」では姜子牙と称し、革命を指揮する周の軍師として、また崑崙山の道士として主役級の扱いを受ける。この辺りの天下無敵の神格化により、疱瘡除けの呪符にその名が記されるようになったものであろう(以上の太公望の事蹟はウィキの「呂尚」を参照した)。

・『「爲朝御宿」』「爲朝」は鎮西八郎源為朝(保延51139)年~嘉応21170)年?)。平安末期の武将。源為義の八男、源義朝の弟。保元の乱(保元元(1156)年7月)で父為義に従い崇徳上皇方に組みするも敗れ、伊豆大島に配流となった。粗暴にして強腕、弓の使い手として知られた。生き延びて沖繩へと流れて行き、琉球王朝の祖となったという伝承の他、御霊伝説に事欠かないヒーローである。古河市公式サイト内の古河歴史博物館学芸員立石尚之氏の「続・歴史の散歩」にある「病の調伏と弓の使い手 源為朝と源頼政」に『昭和14年(1939)夏、古河地方で疱瘡(天然痘)が流行し、人々は疱瘡にかからぬまじないとして「鎮西八郎為朝公御宿(源為朝の宿)」としるした札をかかげていたという』記載が見られる。この芥川の映像の中の中国の民を笑うなかれ、昭和ですぞ。

・『どう云ふ訣か深呼吸をしてゐる。事によるとあれは哀を乞ふ爲に、苦しさうな容子をして見せたのかも知れない』芥川さん、あんたが何度も自殺のポーズをしたように、そうした乞食もいたろうよ、しかし、あんたが本気で自殺したかったように、本気で激しい呼吸器障害を伴う慢性疾患は無数にあるんだよ、芥川さん。彼が演技をしていたのか、いなかったか、それを真摯にあの時に立ち戻って、あんたは、その乞食に優しく訊ねて見給え! それがあんたの、まず、すべきことだ!

・「昔はこれが島だつたと云ふ」以前、金山は標高約60m・周囲500mの島であったが、長江の蛇行により清代に陸繋島になったという。

・「未來派の畫」未来派は、Futurismo(イタリア語)・Futurism(英語)フューチャリズムの訳語。20世紀初頭のイタリアで、既成美術概念の破壊と近代の機械技術革新によって現前した現代社会の持つ純粋な「運動性」や「速度」を称える前衛芸術運動。その短絡的感性故に第二次世界大戦への軍靴の音、ファシズムの賛美に連動していってしまった。ここでの芥川の叙述は、一見、堂内の動的な自己視線の文字化には見えるが、私にはこれといった未来派的な運動と速度への分析的統合という程のものには思えない。それよりもエイゼンシュタインのモンタージュ理論による脚本に近いものを感じる。これは言葉の絵コンテというに相応しい。

・「頭に殘つた六つの灸跡」六星球というらしいが、それ以上の意味を捜し得ない(ネットではドラゴンボールの記載ばかり)。少林寺の僧等でお馴染みであるから、仏教というよりも、道教絡みの神仙関連の星座との意味合いがあるか。識者の御教授を乞う。

・「査士票」明末清初の画家(16141698)。諸生に合格するも明が滅んだため節を守って仕官しなかった。新安四大家(弘仁・汪之瑞(おうしずい)・孫逸)の一人。山水画を得意とし、書画の鑑識家としても有名で、晩年は揚州に住んだ。

・「私は今名古屋にゐる。おまけに道づれの菊池寛は、熱を出して呻つてゐる。……」これによって本篇が大正111922)年1月29日以降の執筆脱稿であることが分かる。芥川は同年1月27日に名古屋へ出発、28日の午後6時半に新婦人教会主催、新愛知新聞社文芸部後援による名古屋椙山(すぎやま)女学校での文芸講演会に、小島政二郎・菊池寛と出席、芥川は文学の「形式と内容」の演題で講演をした(その際、最後に講演した菊池が芥川のことに言及したため芥川が再登壇して反論を述べて拍手喝采を浴びるというハプニングがあったことを後年、芥川の死後に菊池は記している。但し、彼はそのことを『なかなか愉快な會だつた』と言っている)。ところがその夜、別宿していた菊池は芥川から貰った睡眠薬ジャールを処方量を知らずに飲み過ぎ、二日二晩昏睡を続けるという事件を起こしたのであった。――しかし乍ら、私はこれは1月29日ではなく(その日は確かに名古屋に居た)、その翌日、鎌倉に居た1月30日の執筆であるように思われる。――勿論、妻、文には名古屋にいることになっているのだが、その日は居た場所は、鎌倉の料亭小町園――女将の名は野々口豊子――いやいや、これ以上は大脱線……桑原、桑原……]


       
二十七 南京(上)




 南京(ナンキン)へ着いた日の午後、私は何とか云ふ支那人と、とり敢へず城内一見の爲に、例の通り人力車の客となつた。夕日の光の流れた町は、西洋建も交つた家並(やなみ)の後(うしろ)に、麥や蚕豆(そらまめ)の畠を見せたり、鵝鳥(がてう)のゐる池を見せたりする。その上比較的廣い往來には、行人の數も疎(まばら)にしかない。案内者の支那人に尋ねて見ると、南京城内の五分の三は、畠や荒地になつてゐると云ふ。私は路側(みちばた)の柳だの、崩れかかつた土塀だの、燕の群だのを眺めながら、懷古の情を催すと同時に、かう云ふ空き地を買つて置いたら、成金になれさうな心もちもし出した。

 「誰か今の内に買つて置けば好(よ)いのに。浦口(プウカオ)(南京の對岸にある町)が盛になりさへすれば、きつと地價も暴騰するぜ。」

 「駄目です。支那人は皆明日の事を考へない。地面なぞを買ふものはありやしません。」

 「ぢや君だけ考へるさ。」

 「私もやはり考へない。――第一考へる事は出來ないのです。家を燒かれるか殺されるか、明日(あした)の事はわからんでせう。其處が日本とは違ふ所です。まあ今の支那人は、子供の生ひ先を樂(たのし)みにするより、酒か女かに嵌つてゐますね。」

 その内に何時か往來には、呉服屋だの本屋だの、賑かな店が見え始めた。私は靈巖山へ登つた歸りに、何度も路に迷つた擧句、とうとう日さへ暮れたものだから、驢馬ごと田の中へ飛びこんだり、襯衣(シヤツ)まで雨に透されたり、一方ならない難儀をした。その記念にはキツドの靴に、二三箇所大きい穴が明いてゐる。私は靴屋の見えたのを幸ひ、靴を買ふ必要を痛感したから、早速その店の飾り窓の前へ、車を止めるやうに命令した。靴屋は軒へはひつて見ると、思つたより廣い店構へだつた。其處に職人がたつた二人、こつこつ靴を拵へてゐる。まはりには大きい椅子の戸棚に、西洋風の靴は勿論、支那の靴もいろいろ飾つてある。黑い靴、桃色の靴、水色の靴、――支那の靴はいづれも繻子(しゆす)張りだから、大小さまざまの男女の靴が、夕明りの中に並んでゐるのは、妙に美しい氣がしない事もない。おまけに帳場に立つた主人は、色の白い、口もとの優しい、それだけに一層氣味の惡い、片目眇(かためすがめ)の男である。私はちよいとロマンテイツクな氣になりながら、出來合ひの靴を物色し出した。この店には戸棚の何處かに、人間の皮を縫ひ合はせた、華奢な女の靴があるかも知れない、――そんな氣も多少はしたのである。が、私が買つた靴はロマンテイツクでも何でもない。正價六圓の編上げである。色は、――その後(のち)この靴をはいた儘、村田烏江君とめぐり過つたら、「妙な色ですね。鞄をはいて歩いてゐるやうぢやないですか。」と、殘酷な批評を加へられた。實際又黄色いやうな、黑いやうな、甚(はなはだ)怪しげな赤靴である。

 新しい靴をはいた後(のち)、又車に乘つて行つたら、貢院の續いてゐる往來へ出た。貢院は坪數約三萬、戸數二萬六百とか云ふ、途方もない規模を備へた、昔の文官試験場である。通りすがりに見た感じは、棟割長屋と大差はない。が、日の入りの空に聳えた、壁だけ灰白い明遠樓(めいえんろう)の下に、無數の甍が連つてゐるのは、大袈裟な氣もちがするばかりか、如何にも荒涼たる景色である。私はその屋根を眺めてゐると、急に天下の試驗制度が悉(ことごとく)下らない氣がし出した。同時に又天下の落第書生に、滿腔の同情も捧げたくなつた。諸君が試驗に落第したのは、諸君の無能によるのぢやない。單に不幸なる偶然である。古來支那の小説家は、この偶然を必然とする爲に、諸處の貢院を舞臺とする、因果の怪談を作り出した。が、あれは信ずるに足りない。いや、寧ろさう云ふ話は、彼等も試驗の及落には、如何に偶然が幅を利かすか、明かに知つてゐた證據である。諸君は試驗に落第しても、諸君の能力を疑つてはならない。もしそれを疑つたが最後、諸君は諸君自身を亡ぼすと共に、諸君の先進たる試驗官をも、精神的殺人の犯罪に陷らせる事になるからである。現に私なぞは落第點を取つても、私自身の才力に就いては、寸毫(すんがう)の疑(うたがひ)も挾まなかつた。その爲に當時の試驗官諸公も、私に接する時だけは、良心の呵責を感じないらしい。……

 「貢院はもつとあつたのです。」

 案内者の聲は卒然と、私の妄想を驚かせた。彼は私を顧みながら、點點と空に蝙蝠を飛ばせた、物悲しい瓦屋根を指さしてゐる。

 「一時は議員の選擧場にも使はれたのですが、去年以來どしどし毀され出しました。」

 我我の車はさう云ふ内に、名高い秦淮(しんわい)のほとりへ出てゐた。

[やぶちゃん注:5月12日、揚州から鎮江へ戻った芥川は、ここで案内をしてくれた島津四十起と別れ、単身、列車で南京“nánjīng”に赴いた。

・「浦口(プウカオ)」“pŭkŏu”は現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、1968に竣工した南京長江大橋で市街と連絡する。この橋は鉄道道路併用橋で、この開通によってそれまで長江によって分断されていた上海・北京間の鉄道が繋がった。新技術開発区や経済開発区に指定されているが、活気は今一つである。

・「靈巖山へ登つた歸りに、……」前掲「十八 天平と靈巖と(下)」参照。

・「キツドの靴」“kid”でキッド革、子山羊の革。

・「繻子」絹を、縦糸と横糸とが交差する部分が連続せず、一般には縦糸だけが表に現れる織り方(繻子織りと言う)にしたものを言う。

・「村田烏江」村田孜郎(むらたしろう ?~昭和201945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。「上海游記」には勿論のこと、本篇前半の西湖の案内者として既に登場している。

・「貢院」科挙試のための一方開放式ボックスの試験室が長屋状になったもの。私も復元されたものに受験生気分で座って写真を撮ったことがある。極めて狭い。ここで2泊3日自炊で試験を受けた。筆記試験実施中にここから出た者は即座に失格であった。

・「明遠樓」上記の江南貢院は清末に科挙の廃止に伴い、順次、取り壊されてしまったが、試験官の詰め所であった明遠楼は、現在も保存されている。

・「秦淮」江蘇省南西部から南京市街の西を流れ、長江に通ずる運河の名。南京の名勝地で、両岸には料理屋や遊郭が殷賑を極めていた。]


       
二十八 南京(中)


 私はホテルの西洋間に、きな臭い葉卷を啣(くは)へた儘、昨日ざつと見物した、秦淮の景色を書き留めてゐた。此處は日本人經營の宿屋だが、室(しつ)の一隅に立て廻した、惡どいペンキ塗りの山水屏風は、私を惱ます事一通りぢやない。おまけにバタの惡い燒麪包(やきパン)は、私の胃袋の口もとに、さつきからまだ痞(つか)へてゐる。

 私は多少のノスタルジアを感じながら、せつせと萬年筆を走らせ續けた。

 「秦淮(しんわい)の孔子廟を過ぐ。時既に薄暮なれば、門を鎖して人を入れず。門前に老いたる講釋師あり。多數の閑人に圍まれつつ、三國志か何か辯ずるを見る。掌中の扇子、舌頭の諧謔、日本の辻講釋を髣髴せしむ。

 「橋上より眺むれば、秦淮は平凡なる溝川(どぶがは)なり。川幅は本所の竪川(たてかは)位。兩岸に櫛比(しつひ)する人家は、料理屋藝者屋の類(るゐ)なりと云ふ。人家の空に新樹の梢あり。人なき畫舫三四、暮靄(ぼあい)の中に繋がれしも見ゆ。古人云ふ。「煙籠寒水月籠沙」と。這般(しやはん)の風景既に見るべからず。云はば今日の秦淮は、俗臭紛紛たる柳橋(やなぎばし)なり。「水畔の飯館に晩飯(ばんめし)を喫す。一流の料理屋の由なれども、室内は餘り綺麗ならず。木彫りの菊にべンキを塗れる柱、西瓜の種の散亂したる板敷き、拙(つたな)き水墨の四君子の軸、――畢(つひ)に今日の支那料理屋は、味覺以上の何物をも滿足せしめざる場所なるべし。食事は八寶飯佳(か)。勘定は祝儀共二人前(ふたりまへ)三圓二十錢。食事中隣室に胡弓の音あり。歌聲又次いで起る。昔は一曲の後庭花、詩人をして愁殺せしめたれど、東方の遊子多恨ならず。靑黑き玉子を頰張りながら、微醺(びくん)を帶びたる案内者と、明日(みやうにち)の豫定を談ずる事多時。

 「飯館を出づれば既に夜なり。家家(かか)の電燈の光、妓の人力車に駕せるを照(てら)す。宛然代地(だいち)の河岸(かし)を行くが如し。されど一の姝麗(しゆれい)を見ず。私(ひそかに)に疑ふ、「秦淮畫舫録」中の美人、幾人か懸け値のなきものある。もし夫「桃花扇傳奇」の香君に至つては、獨り秦淮の妓家(ぎか)と云はず、四百餘州を遍歴するも、恐らくは一人もあらざるべし。………」

 私はふと顏を擧げた。卓子(テエブル)の前には社の五味君が、支那服を着たなり佇んでゐる。暖さうな黑の馬掛兒(マアクワル)に、藍の大掛兒(タアクワル)を着こんだ所は、威儀堂堂と評しても誇張ぢやない。私は挨拶をする前に、ちよいとその支那服に敬意を表した。(後に私の支那服が、北京の日本人諸君を惱ませたのは、確にこの五味君の惡影響である。)

 「今日は私が御案内しませう。明の孝陵から莫愁湖の方へ。」

 「さうですか。ぢや早速出かけませう。」

 私は名所を見たいよりも、胃の中の麪包(パン)を消化したさに、早速外套へ手を通した。

 一時間の後(のち)、我我二人は、鍾山(しようざん)の陵(りよう)に至るべき、堂堂たる石橋(せきけう)を渡つてゐた。孝陵は長髮賊の亂の爲に、大抵の殿樓を燒かれたから、何處を見ても草ばかりである。その離離とした草の中に、大きい石の象が立つてゐたり、門の礎(いしづゑ)が殘つてゐたりするのは、到底奈良の郊外の綠蕪(りよくぶ)に、銀の目貫の太刀を下げ佩(は)いた公子を憶ふ所の寂しさぢやない。現にこの石橋にしても、處處の石の隙間に、薊の花が咲いてゐるのは、その儘(まま)懷古の詩境である。私は吐き氣をこらへながら、鍾山の松柏を仰ぎ見ては、六朝(りくてう)の金粉(きんぷん)何とか云ふ前人の詩を思ひ出さうとした。

 陵その物――かどうか知らないが、兎に角最後に聳えてゐるのは、無暗に高い石の壁だつた。その壁のまん中に、ざつと自動車でも通れさうな、爪先上りのトンネルがある。このトンネルの高ささへも、壁全體の高さから見れば、やつと四分の一位しかない。私はトンネルの前に佇んだ儘、薄黑い壁のずつと上に、晩春の靑空を仰いだ時、何だか急に自分の體が、小鳥程になるやうな心もちがした。さうして其處の敷石の草へ、酸つぱい水を少し吐いた。

 そのトンネルを通り拔けた後、少時石段を登つたら、とうとう陵の一番上へ出た。其處には屋根も柱もない、赤壁だけがぐるりと殘つてゐる。あたりに生え伸びた若木や草、壁一面の落書の跡、――荒廢はやはり變りがない。しかしこの陵上に立つて見ると、紛紛と飛び交ふ燕の下に、さつき渡つた石橋は勿論、正殿(せいでん)、郭門、薄白い陵道、――その他日の光に照つた山河が、遙に靑靑と廣がつてゐる。五味君は叡山(えいざん)の將門(まさかど)のやうに、悠然と風に吹かれながら、點點と眼下を歩いてゐる、何人かの男女を見下した。

 「御覽なさい。今日は西門外(せいもんがい)に、高跳動(カオチヤオトン)があるものですから、見物人が大分多いやうです。」

 が、鳥打帽をかぶつた純友(すみとも)は、酸つぱい水を口にためた儘、高跳動とは何の事だか、尋ねて見る元氣も起らなかつた。

[やぶちゃん注:5月13日。

・「孔子廟」は南京市内の秦淮河北岸にある。南京では夫子廟“fūzĭmiào”(フゥツミアオ ふうしびょう)と呼ぶが、この呼称はこの孔子廟を中心として秦淮河畔から建康路周辺までの地域全体を夫子廟と呼び、南京有数の歓楽街となっている。ここで私はやはり個人的な体験をどうしても記しておきたい。

 私は2000年、中国派遣日本語教師として南京大学日本語学科で日本語を教えていた妻を訪ねた際、この夫子廟で晩餐をとった。その時、妻と、当時、同学科で日本語や経済政策等を教えておられた福田茂老師(「先生」という呼称では足りない。妻の1年間の中国生活を支えて下さり、妻から伝え聞いたそのアップ・トゥ・デイトな鋭い教授内容は素晴らしいもので、数回の談話で私は魅了された)、そうして老師の知人の文部科学省からの若い派遣員二人と一緒であった。食後、夫子廟の繁華街を抜けて行った折りのこと、鰻の寝床のような酒桟(“jiŭzhàn”チィォウチァン)の前を通り過ぎた。日本のションベン横丁の立ち飲みみたような店を想像してもらえればよい。朦々たる煙草の煙に裸電球が煌き、労働者たちが声高に言い合う声とともに、盛んに酒盃を挙げていたのが見えた。外には小さな椅子を並べてこれまた、ままごとに使えそうな小さな卓子(テエブル)にグラスを置いて二人の老人が静かに酒を飲んでいた。その時、老師は誰に言うともなく「こういうところでコンイーチーは飲んでいたんだねえ……」と呟かれた。妻や文科省の役人二人は黙っていた。私は「魯迅ですね――しかし、僕はコンイーチーが好きです――ああした前時代の滅んでゆくべき彼や阿Qような人物を、魯迅は優しい視線で愛情を持って描いていますね。」と答えた。老師は「そう、そうなんだよ!」と如何にもという風情で相槌を打たれた。文科省の役人は――知っていて黙っていたのかどうか、知らない――少なくとも私の妻は「コンイーチー」が何者であるか知らなかった――「孔乙己」“kŏngyĭjĭ”(クゥォンイチ)は魯迅の同名小説の主人公の名である。私は「薬」や「故郷」と並んで好きな作品の一つなのである――私はこの一瞬、この日初めて逢ったばかりの、この福田老師を、心から尊敬した。その何気ない視線と感懐に、この老師が心底「中国」を愛しておられるということを知ったからであった――後日、私は妻から福田老師は少年の頃、満州からの引揚者であったと聞いた(そこから老師の御年を推測されたい)。その時、何か師の琴線に触れるものがあったのでは、などと私は不遜にも想像したりしたけれど、師はその後もご自身の経験については、特にお話にはならなかった――福田茂老師は今も、矍鑠として中国にあって、日中何れに対しても歯に物着せぬ勘所を得た批評をされ、中国の若者たちに教鞭をとっておられるのである――

・「本所の竪川」現在の東京都墨田区の南を東から西に流れ(交差する大横川に対する名)、芥川所縁の回向院の近く、首都高7号線と6号線の合流する両国ジャンクションの下で隅田川に注いでいる。

・「櫛比」櫛(くし)の歯のように、すき間なく並んでいること。

・『「煙籠寒水月籠沙」』は晩唐の詩人杜牧(803853)の七絶「泊秦淮」の起句。

 泊秦淮

煙籠寒水月籠沙

夜泊秦淮近酒家

商女不知亡國恨

隔江猶唱後庭花

○やぶちゃんの書き下し文

 秦淮に泊す

煙(えん)は寒水を籠(こ)め 月は沙(さ)を籠む

夜(よ) 秦淮に泊し 酒家(しゆか)近し

商女は知らず  亡國の恨(こん)

江を隔てて猶ほ唱(うた)ふ 後庭花

○やぶちゃんの現代語訳

 秦淮に泊す

夜霧は冷たき川面(かわも)を覆い 月光砂を守って光る

夜(よる) 秦淮の舟泊(ふなどま)り 近き酒場のさんざめく

歌い女(め) 知らず 亡国の 恨みの籠もるその曲を

川を隔てて 歌う その 酒(さけ)と傾城(けいせい) 「後庭花」

「月籠沙」は川の砂洲に月光が射してそこが特異的に光り輝くさまであろう。やや無理があるが上記のように訳してみた。「商女」は妓。結句の「後庭花」は、正しくは「玉樹後庭花」で、「杜牧 泊秦淮 詩詞世界 碇豊長の詩詞」の語注によれば、『嘗てここに都を構えていた』、『南朝の陳の後主が作った淫靡な詩(本来は音楽)』である。君主がそのような酒色に耽ったがために、陳は亡んだとされる、とある。そこに籠もった「亡國恨」、亡国の恨みを知る由もなく、艶めかしい魅力的な声で、妓が「玉樹後庭花」を歌う声が、舟旅の旅愁に沈む私の心に響いて来る、といった意味であろう。

・「這般の」「這」は宋代の俗語で「此」(これ)の意。「これらの」「このたびの」「今般の」の意味で、芥川は擬古文では好んで用いる。ここでは、「この辺りの」の意。

・「柳橋」現在の台東区(旧・浅草区)の神田川が隅田川に流れ入る河口部に架橋する柳橋(元禄111698)年竣工)を中心とした隅田川一帯の地名。その江戸中期より隅田川の船遊び客相手の船宿が多く、幕末から明治にかけては新橋と共に「新柳二橋」と並び称された花街であった。

・「四君子」蘭・竹・菊・梅の四種を草木の中の高潔な君子に喩えた語で、それら4種を総て用いたモチーフを言う。宋代の画題から頻繁に見られるようになり、春を蘭に、夏を竹、秋を菊、冬を梅に配して四季のシンボルともした。

・「八寶飯」米の上に金柑・棗(なつめ)・冬瓜・小豆・蓮の実・松の実・黒豆など8種類の果物など乗せて蒸したデザート。CHINA SUPER CITY ON LINE 今の中国を知る」のグルメ記事に『周王朝に貢献した8名の勇士をもてなすために創り出され、数千年の歴史を持つ』とある。

・「昔は一曲の後庭花、詩人をして愁殺せしめたれど、東方の遊子多恨ならず。」前掲注の杜牧の「泊秦淮」の詩を参照。『しかし、日本の旅人はそんなに感じやすくウエットじゃない、頗るドライである。』の意。

・「靑黑き玉子」皮蛋“pídàn”(ピータン)。アヒルの生卵に石灰・木炭・塩を混ぜた泥を塗りつけ、それに籾殻をまぶした上、土中又は甕の中に入れて2~3箇月熟成させたもの。塗布物のアルカリ成分によってタンパク質が変性して固化し、白身は黒味の強い琥珀色のゼリー状に、黄身は青磁のような翡翠色となる。

・「宛然」あたかも。

・「代地の河岸」前掲の東京都台東区柳橋の隅田川の河岸の旧通称。

・「姝麗」本来は見目麗しい、美麗という形容。ここでは美女のこと。

・『「秦淮畫舫録」』捧花生著。岩波版新全集の神田由美子氏の注解によれば、秦淮の芸妓の評判記で、嘉慶221817)年刊、『上、下二冊。付録に「画舫余談、三十六春小譜」。』とある。この余談なるものは名妓の名数か。上海古籍出版社2007年刊の「清代筆記小説大観 全6冊」に所収する。

・『「桃花扇傳奇」の香君』「桃花扇傳奇」は、通常、単に「桃花扇」とも呼ぶ、清代の孔尚任(16481718 こうしょうじん:孔子64代の子孫。)作の戯曲。40幕。1699 年に完成した。明清の興亡を背景に、文人の侯方域と名妓李香君の悲恋物語を描いた長編で、「長生殿伝奇」(「長生殿」とも。洪昇(16451704)作の50幕の戯曲。1688年に完成。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を主題とする)と並ぶ清代の代表的戯曲である。李香君は実在した秦淮の有名な美人の妓女の一人であった。本名、楊吉児、明の名将楊之浩の娘であった。夫子廟(フゥツミアオ)の西南に彼女の旧居が今も残る。

・「四百餘州」中国全土を言う美称。

・「社の五味君」中国在留毎日新聞社社員で、恐らく南京支局員であろう。それ以外は未詳。

・「馬掛兒(マアクワル)」“măguàér”日本の羽織に相当する上衣で対襟。「上海游記」の筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「大掛兒(タアクワル)」“tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。前注参照。

・「後に私の支那服が、北京の日本人諸君を惱ませた」芥川は涼しくゆったりとした中国服が大層気に入り、北京でもそれで過すことが多く、「北京日記抄」によれば、辜鴻銘(Gū Hóngmíng グー ホンミン ここうめい 18571928:清末から中華民国初期の学者・リベラリスト。)との会見でも中国服で臨み、辜鴻銘に『洋服を着ないの感心だ。只憾むらくは辮髮がない。』と言わしめ、やはり北京で中国服の芥川に会見した胡適は、『あまりに中国人に似ている容貌にびっくりしたとのことばを「日記」に書きつけ』(毎日新聞社1997年刊の関口安義「特派員 芥川龍之介」より引用)ている。同書から具体的に引くと(孫引きになるが)、『彼は容貌が中国人に似ている。そのうえ、中国服を着ているため、なおさら中国人に似ている。この人は日本人の悪い習性がないらしく、談話(英語を使って)も相当見識のあるものである。』(單援朝「芥川龍之介と胡適―北京体験の一側面―」(『国文学 言語と文芸』1991年8月)の中の單氏による日本語訳)と記しているのである。中国服の着用は、ジャーナリスト芥川龍之介に極めて有効に作用しているのである。止めを刺すならば、同書には帰国時のエピソードとして、『天津の税関で中国服を着ていたため、鞄の中を引っかき回され、「大いに窮したので、其処からは大阪までは洋服に着替へ、大阪からまた支那服で乗車」したところ、車中の客に「大分、長く此方にお出ですね、日本語が中々お達者だ」とやられて閉口した』(芥川龍之介「最近の文壇のいろいろ」『文芸倶楽部』1921年9月)という話を載せている。

・「明の孝陵」南京の東、紫金山南麓にある明の太祖、洪武帝朱元璋(しゅげんしょう 13281398)と后妃の陵墓。明の陵墓では最大で、造営に25年、1383年に完成している。この未発掘の二人が埋葬されている地下宮殿玄宮というのは如何にも魅力的ではないか。

・「莫愁湖」南京市内南西部、水西門外大街にある湖。周囲約5㎞、面積約50haウィキの「莫愁湖公園」の記載に『伝説によれば南斉年間、洛陽に莫愁という女性がおり、家が貧しく父の死後に身を売って葬儀を行った。ちょうど建業より洛陽を訪れたある富豪が莫愁の美しさに引かれ莫愁を身請けする。しかし、莫愁は故郷を懐かしみ湖に身を投げ』たとある。

・「鍾山」孝陵のある紫金山の旧名。

・「長髮賊の亂」太平天国の乱のこと。清代の1851年に宗教結社上帝会の洪秀全(18141864)が起こした大規模な反乱。農民出身の洪秀全はキリスト教の影響を受けた新興宗教上帝教を組織し、自らをヤハウェの子にしてキリストの弟、天王とし、土地私有の禁止、辮髪を禁じて長髪を蓄え(政府側は「長髪賊」「髪匪」と呼ばれた)、清朝打倒を宣言、広西省桂平県金田村で挙兵、南京を陥落して、天京と改めて首都とした。信者は約1万人と伝える。1864年に政府軍に滅ぼされたが、後の中国革命の先駆として後世に大きな影響を与えたとされる。

・「離離」草木が乱れて繁茂しているさま。

・「綠蕪」青青と生い茂った草原。

・「目貫」目釘。本来は刀身と柄(つか)を接合する固定具であるが、柄の外に見える目釘の鋲頭(びょうがしら)と座が装飾化されてその部分全体を指すようになり、更には実際の目釘とは無関係にもっと広範に柄に飾られた金物を言うようになった。

・「六朝の金粉何とか云ふ前人」筑摩全集類聚版脚注や岩波版新全集の神田由美子氏の注解共に、ここに、この歌は催馬楽にある、とのみ記している。これは如何にもおかしくはないか。いや、歌謡の催馬楽にそのような歌詞があることについては問題ない。あるのであろう(しかし両注共に引用していないのは残念である)。私がおかしいというのは、ここで芥川が「前人の詩」と言っている点である。ここで、芥川は「到底奈良の郊外の綠蕪に、銀の目貫の太刀を下げ佩いた公子を憶ふ所の寂しさぢやない」、日本のしみじみとした風景の寂しさじゃあない、と言っているのである。それは「吐き氣をこらへ」てでも、「鍾山の松柏を仰ぎ見」んとさせる程に、激しく胸を突く「その儘懷古の詩境であ」るのだ。そこに何で場違いな日本の催馬楽を思い出す必要があるのかという疑義である。ここで芥川が想起せんとしたのは漢詩である。そうしてそれにぴったりの作品が存在する。清代、袁枚(17161797)・趙翼(趙甌北 17271812)とともに乾隆(江家)三大家と讃えられた詩人・劇作家蒋士銓(しょうしせん 17251785)の七絶「卜居(ぼっきょ)二首」の、その「二」である。

 卜居

鍾山眞作我家山

揀得行窩靜掩關

洗去六朝金粉氣

展開屏障畫煙鬟

○やぶちゃんの書き下し文

 卜居

鍾山 眞(まこと)に我が家山と作(な)し

窩(か)を揀(え)り得て靜かに關を掩ふ

六朝金粉の氣を洗ひ去りて

屏障を展開して煙鬟(えんくわん)を畫(か)く

○やぶちゃんの現代語訳

 地を占って居を定める

見つけたよ――離離たる緑蕪のこの鍾山さ――僕の遂の住みかなんだ

潜り込む心地よい洞(うろ)の窩(あな)を選りすぐって――僕は庵の閂(かんぬき)を下ろした

もう派手な六朝の金粉なんかいらない

屏風を張り巡らし――僕はひたすらけぶるように豊かな女の髷(まげ)を描く……

転・結句は私のいい加減な感触で訳しているに過ぎない。是非、お分かりになる方の御教授を願う。

・「正殿」地下宮殿がある法宝城のことであろう。芥川がここで立っているのはそこに囲まれた高さ129mの「宝頂」と思われる。

・「郭門」明孝陵の正門である朱塗りの文武方門であろう。

・「陵道」文武方門に至る左右の獅子・駱駝・象・馬や武人等の石像が配列された神道(参道)。

・「叡山の將門」これは若き日の平将門が藤原純友とともに比叡山に登り、京の町を睥睨していつかこの町を我らがものにせんと誓い合ったという伝説のパロディ。「暖さうな黑の馬掛兒(マアクワル)に、藍の大掛兒(タアクワル)を着こんだ」威儀堂堂たる五味氏演じる将門が高みからの「第三の男」、対する芥川は胃液を吐く役不足の純友である。

・「高跳動(カオチヤオトン)」“gāotiàodòng”であるが辞書にもなく、検索にも掛からず、筑摩全集類聚版脚注が『竹馬にのって踊りをするのか。』とするのみで、新全集の神田由美子氏注では注さえない。今回、中国通の知人の二人の協力を得て、遂に解明出来た。これは正しくは「高蹻戲」“gāojiăoxì”(ガオチャオシ)若しくは「高脚戲」“gāojiăoì”(ガオチャオシ)である。大正15(1926)年に書かれた青木正児著劉延年図「北京風俗図譜」の解説本平凡社東洋文庫「北京風俗図譜2」(1964年刊 内田道夫解説)の「伎芸第八」に、「道化芝居、竹馬芝居(秧歌戯〔高脚戯〕」として以下の記載がある。青木氏の著作権は存続しており、画師である劉延年の著作権も存続している可能性があるが、現在まで『不詳』とされてきたこの項目を、多くの方に認識して頂くという公益性を重んじて敢えて以下に全文と3枚の画像を示す(万一、著作権侵害を申し立てられた場合は、画像を削除し、引用を部分引用にする意志はあるが、本件に関して言えば、その全体の引用が本件注釈としては不可欠と判断され、それがかの芥川龍之介の「江南游記」の注としてならば、私は青木氏も許容して頂ける引用範囲内にあると考えている。なお、3枚の内の1枚は同書に参考として掲げられている「鴻雪因縁図記」の画像であるが、これは麟慶(1791~1846)の書で既に著作権は切れている)。内、最初のカラー版は友人の所有になる「北京風俗図譜」彩色図版の同一画像である。彩色の美しさが少しでも分かって頂けると嬉しい。なお、ルビの拗音は私が勝手に判断したものである。

 《引用開始》
 秧歌(ヤンコ)はがんらい田植や収穫の時に歌われる民謡であったが、化装をともなった秩歌戯(ヤンコシー)(道化芝居)に発展して、お正月の農民の遊びとなった。高蹻戯(カオチャオシー)(高足駄)もやはりお正月の演技として各地に行なわれる。十二人または十人を一組とし、化装して足に高蹻(カオチャオ)(高脚(カオチャオ))―竹馬をつけて巧妙に演技する。その構成は(図向かって右より前へ)漁翁(りょうし)、武扇(扇をもった男子)、文扇(扇をもった女子)、小二格(シャオアルコ)(花籠をさげた子供)、大頭和尚、俊鼓(太鼓を打つ美男)、丑鑼(銅鑼を打つ醜女)、俊鑼(銅鑼を打つ美女)、丑鼓(太鼓を打つ醜男)、海女、膏薬売り、樵夫の十二人で、十人のときは海女と膏薬売りがぬける。北京の北郊妙峯山の縁日のときは、高蹻戯(カオチャオシー)が賑やかに上演されるが、これを秧歌(ヤンコホイ)と称している。
 湖北省にも同じくこの風が行なわれ、小丑(シャオチョウ)という道化役が手に一尺ほどの竹筒をもち、これを振ると筒の中の一文銭が高い響きをたてる。竹筒を連番(リェンシャン)といい、この道化役を打連香(ダーリェンシャン)という。あるいは銅の簡を用い、中に金環をいれて振る。古く雑劇に列せられた「打連廂(ダーリェンシャン)」の遺響であるという。児童が女性に扮して、指さきで筒をまわして音を出し、顔にのせて眉間より鼻の先に落として見せる。また眉間のところで筒をまわしながら、左手に拍板を鳴らし、右手に扇を舞わせて歌を歌ったりする。
 高脚戯の装束が何を意味するのか、よく分らないが、十二人はいずれも妖怪変化で、大頭和尚は蛤蟆(がま)、小二格は蝎虎子(やもり)の精というように、端午節に演ずる『混元金(フンユアンホ)』の芝居をまねたのだともいう。
 演技は仰向けにひっくりかえって見せたり、腰掛を飛びこえたり、一本脚で跳びまわったり、二人が相手の一部を持ちあったり、肩を組んだりして駈けまわる。高蹻(カオチャオ)(竹馬)は木の棒で作り、下端には鉄のたが、または釘をはめ、棒の中程のところに足がかりの板をつけ、その上に出た棒の部分を足に縛りつける。その由来はたいへん遠く、『列子』説符篇に「宋に蘭子というものあり、技をもって宋元君に干(もと)む。……雙枝の長さその身に倍するものをもって、その脛(すね)に属し、並びに趨(はし)り、並びに馳す」という。くだって宋の都杭州のことを述べた『武林旧事』巻二にも舞隊の中に踏※の名が見える。(『支部民俗誌』二巻二篇)[やぶちゃん字注:「※」=「距」-「巨」+「堯」。以下の「※」も同じ。]
[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがある。]
 清時代の麟慶の『鴻雪因縁図記』(三集上)には山東臨清県の運河ぞいの縁日の賑わいを述べ、
[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがあり、以下の同書からの引用は底本では全体が二字下げである。ここではブラウザ上の不具合を考え、字下げを行っていない。]
四月十八日は碧霞元君(泰山の神)の聖誕と伝え、遠近数百里の郷民争って来たり社火(まつり)の会をなす。百貨つぶさに衆まり百戯つぶさに陳(つら)ぬ。しかして独り脚高※もっとも奇絶となす。蹬壜(かるわざ)、走索(つなわたり)、舞獅(ししまい)、耍熊(くなつかい)精妙ならざるはなし。
[やぶちゃん注:ここに有意な行空きがある。]
 と記している。いずれも農村娯楽の古い歴史につちかわれてきた演技である。
 《引用終了》

上に掲げたのが、清の麟慶『鴻雪因縁図記』の該当図絵である。ここで芥川に話しかけている五味君は日本人であるから、中国語の発音の類似と、恐らくはその動きから、このような和製中国語を造ったものか、若しくは南京の方言で「高蹻戲」を実際にこう言ったのかも知れない。]


       
二十九 南京(下)


 私はホテルに歸つて來ると、直(すぐ)にベッドに這ひ上つた。胃は不相變痛んでゐる。熱も少しはあるらしい。何だかこのベツドに横はつた儘、曠世(くわうせい)の大志を抱きながら、私は茶を入れて來た束髮の女中に、按摩はないかと尋ねて見た。すると純粹の按摩はないが、按摩をする床屋ならばあると云ふ。私は床屋でも湯屋(ゆや)でも好(よ)いから、早速その按摩を呼んでくれろと云つた。往生してしまひさうな心もちがする。

 女中が驚いて引き下つた後(のち)、久米正雄とお揃ひに買つた、ニツケルの時計を出して見ると、やつと二時何分過ぎである。今日は孝陵を見物したぎり、莫愁湖へは廻らずに歸つて來た。西湖では蘇小を弔ひ、虎邱では眞娘を弔つたのだから、やはり三美妓(びぎ)の一人たる莫愁も弔ひに行きたかつたが、かう云ふ始末ぢややむを得ない。いや、今日五味君と晝飯を食ひに、秦淮の料理屋にゐた時などは、鮑(あわび)の湯(タン)を吸ひかけたなり、少時(しばらく)は口も利けなかつた程、世にも胸苦(むなぐる)しい心もちになつた。事によると胃病と同時に、肋膜炎も再發したのかも知れない、――さうな事を考へてゐると、愈(いよいよ)私は五六分の内に、落命にでも及びさうな氣がし始めた。

 その内にふと人音(ひとおと)がしたから、突伏(つつぷ)してゐた顏を擧げると、嫌に背の高い支那人が一人、ベツドの前に佇んでゐる。私はちよいとシヨツクを受けた。實際ペンキ塗りの屏風の前に、突然こんなのつぽを發見するのは、誰にも氣もちの好(よ)いものぢやない。しかも彼は私を見るなり、悠悠と支那の腕まくりをし出した。

 「何だい、君は?」 

 彼は私に怒鳴られても、全然顏色を動かさなかつた。さうして唯一言返事をした。

 「アンマ!」

 私は思はず苦笑しながら、彼に揉めと云ふ手眞似をした。が、この床屋を兼ねた按摩は、揉みもしなければ叩きもしない。唯(ただ)首筋から背筋の方へ、順順に筋肉をつまむだけである。それでも決して莫迦には出來ない。私はだんだん體の凝りが、寛いで來るのを感じたから、出たらめに「好(ハオ)、好(ハオ)」と褒めてやつた。

 その後二時間程晝寢をしたら、大分(だいぶ)元氣も恢復してゐた。五時には五味君と多賀中尉――多賀氏は少時(せうじ)愛讀した、「家庭軍事談」の筆者である。私はその時の署名通り、最も私に親みのある、多賀中尉と云と云ふ名を使ふ事にするが、現在は何だか未に知らない。――その當年の多賀中尉に、晩餐の御馳走になる約束がある。そこで顏へ剃刀を當てたり、黑い洋服を着用したり、五時までにはざつと身支度をすませた。

 その夜私は多賀中尉と、昆布だの干物だのを嚙りながら、「家庭軍事談」の話をした。この昆布だの干物だのは、抵抗療法に據つたとか云ふ、惡辣な獻立の一部である。中尉は一見武人らしい、脊梁(せきりよう)骨(こつ)を感ぜしむる人物だつた。その癖座談も下手ぢやない。私は中尉と桂月先生の噂をしたり、我我の他にもう一人呼ばれた年の若い御客樣と、江南の風光を論じたり、少時(しばらく)は病體も忘れてゐた。殊にその御客樣が、搗栗(かちぐり)や何かを平げるのにも、頗(すこぶる)みやびやかだつた事は、今でも印象が鮮(あざやか)である。

 我我は食事をしまつてから、客間に又一しきり話しこんだ。此處には支那の土中物(どちゆうも)だの、眞紅な山を描(か)いた田夫(でんぷ)氏の畫(ゑ)だの、骨董じみた物が並べてある。私は例のペンキ塗りの屏風に、半日惱まされた後(あと)だつたから、かう云ふ室内の安樂椅子に、漫然と腰を落ちつけてゐるのは、少からず愉快だつた。おまけに中尉は仕合せにも、「唐(とう)の三彩は」とか何とか辯ずる程、骨董眼を具へてゐないらしい。

 その内に何時か一座の話題は、病氣の上に移つて行つた。

 「南京で怖いのは病氣だけだね。古來南京で病氣になつたら、早速日本へ歸らない限り、一人も命の助かつたやつはない。」

 多賀中尉は酒氣と一しよに、冗談のやうな、眞面目のやうな、甚(はなはだ)心もとない斷案を下した。一人も命の助かつたやつはない、――私はこの言葉を聞いた時、急に又死にさうな心もちになつた。同時に明日は汽車のあり次第、栖霞寺(せいかじ)も見ず、莫愁湖も見ず、上海(シヤンハイ)へ歸らうと決心した。………

 翌日上海へ歸つた私は、糠雨の降る翌翌日の朝、里見病院の診察室に、打診や聽診を受けてゐた。それが一通り終つた時、里見先生は手を洗ひながら、私の方へ笑ひ顏を見せた。

 「何處も惡くありません。惡いと思つたのは神經ですね。」

 「しかしまだ漢口(ハンカオ)から、北京(ペキン)へ行かなければならないのですが、――」

 「その位の旅行は大丈夫です。」

 私は兎に角嬉しかつた。しかしその嬉しさの何處かには、折角上海へ歸つて來たのも、結局骨折損に過ぎなかつたと云ふ、失望があつたのは事實である。里見先生は立派な醫者だが、憾むらくは立派なサイコロヂストぢやない。もし私が先生ならば、たとひ無病息災でも、かう云ふ診斷を下したであらう。

 「右の肺にちとインフラマテイオンがあります。すぐに御入院なさるがよろしい。」

[やぶちゃん注:5月12日は孝陵から早々にホテルへ戻っている。この前後に、長男比呂志の初節句の祝に着物を買っている。『支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから比呂志の體ははひらないかもしれません尤もたつた一圓三十錢です』(517日上海から芥川道章宛岩波旧全集書簡番号九〇〇)。本文のような経緯で、心気症と多賀中尉の談話の逆プラシーボ効果によって、芥川は南京到着の翌々日の14日には一切の観光をせず、上海へと戻った(鷺只雄編著「年表読本 芥川龍之介」では船で上海に戻ったとし、上海帰着を15日、その日のうちに里見病院での診断とする。岩波新全集の宮坂覺の年譜では、帰着を14日同日中とし、里見病院での診断を15日とする。診断日自体は九〇〇書簡から動かない(書簡中に『體は一昨日もここの醫者に見て貰ひましたが、一切故障はないと云ふ事でした』とある)。本篇の叙述通りならば、汽車で帰り、日程的には宮坂説が正しいということにはなる。当時の交通機関のデータが欲しいところである。

・「曠世の大志」広いこの世で誰にも負けない偉人たらんとする大望。

・「西湖では蘇小を弔ひ、虎邱では眞娘を弔つた」美妓「蘇小」は七 西湖(二)を、「眞娘」は「江南の美人眞孃」で「十九 寒山寺と虎邱と」をそれぞれ参照のこと。

・「莫愁」という名の悲劇の美女については前篇「二十八 南京(中)」の「莫愁湖」注を参照のこと。

・「湯(タン)」“tāng”。スープ。

・「「好(ハオ)」“hăo”。よろしい。いいね。

・「多賀中尉」多賀宗之(明治5(1872)年~昭和101935)年)。中国名、賀忠良。明治271894)年陸軍少尉として任官、大正61917)年には参謀本部附・江蘇省督軍顧問となり、芥川が逢った際には既に陸軍歩兵大佐であった(後に支那駐留陸軍少将及び福州領事館武官となっている)。「家庭軍事談」以外にも、「支那の軍情」(昭和6(1931)年兵林館刊)、「天皇と世界及び吾人」(大正141925)年嶽陽互助育英会刊)、「赤裸の支那」(昭和7(1932)年新光社刊)などの著書がある。因みに彼は後に満州国建国に暗躍、大陸浪人川島浪速(かわしまなにわ 慶応元(1866)年~昭和241949)年:東洋のマタ・ハリ、川島芳子の養父)らと繋がっている。当時49歳。

・『「家庭軍事談」』文武堂明治341901)年刊の少年向けの軍事講話集。刊行当時、芥川は9歳であった。

・「抵抗療法」岩波版新全集の神田由美子氏の注解が詳しいので、例外的に全文を引用させて頂く。『高野太吉が唱えた健康法。周囲の環境から栄養を摂り、悪影響を拒否する抵抗力が人体には存在し、その抵抗力を養うには外部と接する部分、特に栄養の吸収にあたる胃腸に刺激を与え、その機能を旺盛にするのが重要とする。』とある。これは彼の著「抵抗養生論」(大正3(1914)年仙掌堂刊)で広まった。彼は孫文とも関係があり、邦文サイトより中文サイトの方が記載が多い珍しい日本人である(2009年7月24日現在、google検索「高野太吉」日本語ページ25件に対して中国語(簡体)2820件・(繁体)354件)。読めないながら、中文記事を覗いてみると、1920年に孫文が胃病に罹り、それを上海で高野太吉が施術、自然療法(ここに言う抵抗療法であろう)をもって治療したらしい。

・「脊梁骨」読みで示したように、「せきりょう/こつ」と読まねばならない。「脊梁」は背骨、「骨」はしっかりとした堅固なものの謂いで、一筋ピンと通った軍人気質を讃した語である。

・「桂月先生」大町桂月(明治2(1869)年~大正141925)年)高知出身の詩人・歌人・随筆家・評論家。多賀宗之は同じ高知出身で著作物も多いので、桂月とは知り合いであった可能性が高い。芥川龍之介は大正9(1920)年『文章倶楽部』に発表した「愛讀書の印象」で『中學へ入學前から徳富蘆花氏の「自然と人生」や樗牛の「平家雜感」や小島烏水氏の「日本山水論」を愛讀した。同時に、夏目さんの「猫」や鏡花氏の「風流線」や綠雨の「あられ酒」を愛讀した。だから人の事は笑へない。僕にも「文章倶樂部」の「靑年文士録」の中にあるやうな「トルストイ、坪内士行、大町桂月」時代があつた。』と述べている。

・「搗栗」栗を干した後、搗いて殻と渋皮を除去したもの。主に本邦での加工法。但し、天津甘栗でご存知のように、中国産のクリの方が殻や渋皮が剥がれ易く、この加工が容易である。

・「土中物」これは次の「田夫氏」との釣り合いから言っても、地中から発掘した、という文字通りの意味に加えて、所謂、くすぐりで言うところの怪しげな謂いとしての「掘り出しもの」の意味を掛けているように思われる。

・「田夫氏」田夫野人を慇懃無礼に皮肉った謂い。教養のない粗野な人。田舎者。風流・風雅を解さない、才能のない俗流自称芸術家。

・「栖霞寺」南京市街の北東約22㎞の摂山西麓にある南京最大級の寺院。南斉の頃(500)の栖霞精舎に始まり、唐代には禅堂として栄えた。清の1855年、栖霞一帯での清軍と太平天国軍の激戦により破壊されたが、光緒年間(1908)に再建。

・「里見病院」渡中直後に乾性肋膜炎で一ヶ月入院した病院。神田由美子氏の岩波版新全集「上海游記」の注解によると、院長は内科医里見義彦で、『密勒路A六号(当時この一帯は日本人街。現、上海氏虹口区峨嵋路十八号)にあった赤煉瓦四階建の左半分が里見病院。』とある。現在はアパートになっているが、建物そのものは現存しているらしい。西湖に同行している大阪毎日新聞社上海支局長村田孜郎が、院長の俳句の仲間であった縁故による。上海游記 五 病院」を参照。

・「北京(ペキン)」“bĕijīng”。芥川が北京へ向かって上海に別れを告げるのは翌々日の5月17日のことであった。但し、途中、蕪湖・九江・廬山・漢口・洞庭湖・長沙・洛陽を経ているため、実際に北京に着いたのは凡そ一ヶ月後の、6月14日(11日説もあり)である。

・「インフラマテイオン」“inflammation”。炎症。諸注はドイツ語とするのだが、これは英語かフランス語、読みからしてフランス語であろう。私の所持する同学社1977年刊「新修ドイツ語辞典」には、このような綴りの単語はない。ドイツ語の医学用語の「炎症」ならば“Entzündug”(エント・ツュンドゥング)が一般的ではないか。識者の御教授を乞うものである。]


江南游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈 完