芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈
[やぶちゃん注:以下は、芥川龍之介が大正10(1921)年に大阪毎日新聞社特派員として中国に派遣された際の、旅行前、中国派遣がはっきりと文面に現れる書簡から、帰国直後の中国の友人への返礼発信迄、芥川龍之介の全53通を電子テクスト化したものである。底本は岩波版旧全集第十一巻の132頁から164頁までを使用したが、岩波版新全集第十九巻「書簡Ⅲ」を管見したところ、3通の新たな追加が認められたため、その3通も加えてある。但し、新全集分については以下に記す私の電子テクスト書式と一致させ、更に新字を恣意的に旧字に直して旧全集との統一を図った。書簡番号は岩波版旧全集のものはそのまま漢数字で示し(八五七から九二六まで)、追加した新全集分3通は区別するために、アラビア数字全角の新全集書簡番号で示した。
以下、本頁の書式を述べる。
・字の字体や大きさは底本に従わずに総てMS明朝・同ポイントとし、見出しは、書簡番号・(一字空け)・見出し日付で改行、四字下げで宛先・(一字空け)・宛名等で改行、四字下げで封書記載発信日・(一字空け)・差出人住所・(一字空け)・署名等・(全集編者注記)とした。
・書簡本文の最後の署名等、底本で下方にインデントされているものは、ブラウザの関係上、原則、左から二十字又は左に存在する語句から十字下げで記した。
・署名・宛名の字間は原則として詰めた。
・追伸は底本では一律全体が二字下げとなっているが、左に揃えた。「候」の草書体は正字に直した。
・各書簡間は三行空けとした。
・各書簡の後に私の注を附したが、その冒頭では統一して新全集書簡番号を示した。地名については原則として私が地図上に位置を想起し得ない場所・芥川が実際には赴かなかった場所についてのみ注を附し、『支那游記』に登場する、実際に赴いた中国の著名な地名については注を附していないものが多い。普通の地図帳を開けば一目瞭然であり、基本的に『支那游記』を読まずに(若しくは併読せずに)この書簡を読むことは余り意味のあることではないと私は考えるからである。人名等の一度示した注は原則として繰り返していない。但し、宛名よりも前に本文で初出した宛名の人名の注については繰り返してある。勿論、『支那游記』群で用いた注を多数援用しているので、既に私の『支那游記』をずっとお読み頂いている方には、ところどころ五月蠅いとお思いになる部分もあるであろう。そこは資料としての重要度を支えるために煩瑣を厭わず行った結果とご理解の上、御容赦頂きたい。最後に。全集編集・年譜等に関わる私が気がついた重要な誤りや疑義には下線を附した。【二〇〇九年八月三〇日】
六一四号書簡の注に、芥川が北京で泊まった「扶桑館」について、私の教え子で中国在住のT.S.君が探査した詳細な写真附き報告を追加した。【二〇一二年八月七日追記】]
八五七 二月二五日
牛込區矢來町三新潮社内 中村武羅夫樣
二月廿五日
拝啓
今度社命により急に支那見物に出かける事となりましたその爲五月号の小説及び四月号の随筆はさし上げられまいと存じます 誠に手前勝手で恐縮ですが右樣の次第故不惡御海恕を願誓す 右常用のみこの手紙を書きました 頓首
二月二十五日 芥川龍之介
中村武羅夫樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号924。中村武羅夫(なかむら むらお 明治19(1886)年~昭和24(1949))は小説家・評論家。小栗風葉門下。当時、雑誌『新潮』の編集者であった。昭和3(1928)年6月に『新潮』に掲載された芸術派としてプロレタリア文学運動を真っ向から批判する評論「誰だ? 花園を荒らす者は!」で知られる。昭和10年代後半には日本文学報国会設立の中心的役割を果たした。
この書簡に先行する2月10日附小穴隆一宛八四九書簡(田端発信)の末尾に、(恐らく作品集『夜来の花』の)校正が煩瑣なことをぼやき、『嫌で嫌で眞實へこたれた皆屎(クソ)の臭いがする 且つ急用ありて大阪の社へも行かねばならん娑婆苦無限』とある。大阪毎日新聞社との会合は同22日に大阪北浜の「魚岩」で行われ、そこで海外視察員としての中国特派が社から正式に提案されて、恐らく芥川はその場で快諾したものと思われる。関口安義氏の「特派員芥川龍之介――中国でなにを視たか」(1997年毎日新聞社刊)には、新聞社側の芥川派遣の話は急遽決まったものと推定している。それはこの年の『一月四日の『大阪毎日新聞』は、一面に「本年度の本社海外視察員及び留学生」の広告を掲げているが、ここには特派員芥川龍之介の名はない』からである。一方、芥川自身は、特派員としてではなく、一旅行者としての中国行をかなり以前から志向していた事実はある。鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」(1992年河出書房新社刊)の「中国特派員」の項に鷺氏は、新聞社の中国行の提案は、芥川の内実にとっては『寝耳に水ではなかった。大正七年頃から友人に上海では一ヶ月いくら位で暮らせるかと聞き合せ、八年、九年には、薄田泣菫や南部修太郎に実際の中国旅行の計画を手紙で書き送って』おり、『支那游記』でもしばしば挙げる、先に中国旅行をした谷崎の「天鵞氈の夢」「秦淮の一夜」等に触発されて大正9(1920)年には「南京の基督」も書いている、とする。但し、岩波新全集の宮坂覺氏編の年譜では早くも大正8(1919)年7月13日頃に、大阪毎日新聞社から中国派遣の話があったのではないかと推定されている。それは『薄田泣菫への書簡中に『支那旅行をしない限り』と記している』点(7月30日附旧全集書簡番号五六〇。毎日に連載した「路上」がうまくいかないことを弁解する中で、今後また小説を書くならば『支那旅行をしない限り九月頃又書いても差支へ無之候』とある)、更に決定打として、この日の大阪毎日新聞紙上の「芸術消息」欄に『芥川龍之介氏本年九月頃支那へ旅行すべし』とか、同誌7月27日の「文芸消息」欄に『芥川龍之介氏 来春桃の咲く頃支那漫遊に出発揚子江を溯行する』といった記載が見えることを挙げている。
なお、雑誌『新潮』の話に戻ると、芥川は同年同月の2月1日発行の『新潮』及び3月1日発行の同誌に随筆群『点心』を既に発表している。また、中国からの帰国後の『新潮』への最初の掲載作品は、随筆は10月1日の「『チヤツプリン』其他」、中村が焦燥の中で待ったであろう、又、芥川も満を持して書いた帰国後の小説は、翌大正11(1922)年1月1日発表の問題作、「藪の中」なのである。
・「海恕」「寛恕」と同義。海のように広い心で、相手を許すこと。専ら手紙文で用いる。]
八五八 三月二日
田端から 薄田淳介宛
拜啓 先達はいろ/\御世話になり且御馳走を受け難有く御禮申上げます 次の件御尋ねします
(一)旅費とは汽車、汽船、宿料 日當とはその外旅行中日割に貰ふお金と解釋してかまひせんかそれとも日當中に宿料もはひるのですか
(二)上海までの切符(門司より)はそちらで御買ひ下さいますかそれともこちらで買ひますか或男の説によれば上海から北京と又東京までぐるり一周りする四月通用の切符ある由もしそんな切符があればそれでもよろしい
(三)旅行の支度や小遣ひが僕の本の印税ではちと足りなさうなのですが月給を三月程前借する事は出來ませんか
又次の件御願ひします
(一)旅行並びに日當はまづ二月と御見積りの上御送り下さいませんか僕の方で見積るより社の方で見積つて戴いた方が間違ひないやうに思ひますから
(二)出發の日どりは十六日以後なら何時でも差支へありませんこれも社の方にて御きめ下さい自分できめると勝手にかまけて延びさうな氣もしますから
右併せて五件折返し御返事下されば幸甚に存じます
旅立たんとして
春に入る柳行李の青みかな
我鬼 拜
薄田樣 梧右
[やぶちゃん注:新全集書簡番号925。封筒はないものと思われる。薄田淳介(じゅんすけ)は大阪毎日新聞社学芸部部長、詩人薄田泣菫(すすきだ きゅうきん 明治10(1877)年~昭和20(1945)年)の本名である。明治後期の詩壇に蒲原有明とともに燦然たる輝きを放つ詩人であるが、明治末には詩作を離れ、大阪毎日新聞社に勤めつつ、専ら随筆を書いたり、新進作家の発表の場を作ったりした。大正8(1919)年には学芸部部長に就任、芥川龍之介の社友としての招聘も彼の企画である。但し、大正6(1917)年に発病したパーキンソン病が徐々に悪化、大正12(1923)年末には新聞社を休職している。
この手紙はなかなか巧妙な筆致である。例えば、どれもが慇懃に構えながら、その実、新聞社への細部に亙る経済上の言質を求めている点、「右併せて五件」もあるやや図々しいものも含めた要求項目を、二分することで誤魔化そうとするニュアンスが見て取れる。「新考・芥川龍之介伝」(1971年北沢図書出版刊)で森本修氏も『いずれも龍之介の有利になるよう考慮されたもので、すべての負担を新聞社にまかせようとする用意周到な交渉である』(関口安義氏の「特派員芥川龍之介――中国でなにを視たか」より孫引き)と評されているのは頗る同感である。]
八五九 三月四日
田端から 宮本勢助宛 (寫)
[やぶちゃん注:「(寫)」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、写しをもとにしていることを示す。]
拜啓 先達は參堂失禮仕候。さて御手紙この度は確に落手致候間左樣御承知下され度候。再度御面倒をかけ候段申譯無之重重御禮申上候。小生本月中旬支那へ參る事と相成居候爲目下拜趨の機を得ずこれ亦不惑御容捨下され度願上候。右とりあヘず當用まで如斯に候
三月四日 芥川龍之介
宮本勢助樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号926。宮本勢助(明治17(1884)年~昭和17(1942)年)は風俗史の中でも服飾史を中心とした民俗学者。彼と芥川龍之介の交流については、彼を顕彰した「宮本財団」の「宮本勢助と芥川龍之介」に詳しい。この直前3月1日の毎日新聞に芥川龍之介「点心」を発表しているが、その中の一章である「むし」で宮本勢助は登場している。「參堂」はまさにむしの文化史を確認した、その事を聞いた、宮本勢助訪問時のことを言うか。もしかすると、宮本は3月1日の「むし」を読み、むしに関わって更なる情報を芥川に書面で提供したものか。文面が簡略なためよく分からない。
・「拜趨」(はいすう)は、出向くことの謙譲語。急ぎ伺うこと。参上。]
八六〇 三月四日
本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
消印五日 三月四日 市外田端四三五 芥川龍之介
今卷紙なしこの惡紙にて御免蒙る
國粹いろいろ御手數をかけ感佩します僕の小説は駄目、急がされた爲おしまひなぞは殊になつてゐなささうです
今日中根氏が見本を見せに來ました表紙の藍の色が薄くなつた爲見返しの色彩が一層派手になつたやうです表紙の色の薄くなつた事は僕も知らなかつた故少し驚きましたそれから扉と見返しとの續きが唐突すぎる故紙を入れたい旨並に紙の質は何にしたら好いかと云ふ旨御宅へ伺ひに上るやうに云つて置きましたよろしく御取計らひを願ひますそれから見返しは和紙へ刷つた方が手數はかかつても紙代は安かつた由入らぬ遠慮をした事をひどく後悔してゐますまだ本文の刷にも多少不備な點がありしみじみ本一册造る事の困難なのを知りましたしかし新潮社としてはまあ精一杯の仕事故勘所する外はありません 唯一つあきらめられぬのは見返しに和紙を使はなかつた事ですこれは折角の君の畫を傷けたやうな氣がして君にすまないで弱つてゐます
愈月半に立つ事になりましたその前に入谷の大哥と小宴を開きたいと思ひます 以上
三月四日 芥川龍之介
小穴隆一樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号927。小穴隆一(おあな りゅういち 明治24(1894)年~昭和41(1966)年)は洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに父と思えと言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓をもらっている。
・「國粹」は雑誌名(大正9(1920)年10月国粋出版社創刊の文芸雑誌で泉鏡花・宇野浩二・幸田露伴・島崎藤村・馬場孤蝶らが執筆している)。ここに芥川龍之介が4月に「往生絵巻」を発表することになっていた(実際に渡中直後の4月1日に掲載)が、「いろいろ御手數をかけ」という冒頭はその「往生絵巻」の挿絵二枚を小穴に依頼したことを指している。先行する書簡を見ると、手紙で短い粗筋を示しただけで依頼しており、小穴にはかなりかったるい仕事だったのではないかと想像される。
・「感佩」は心から感謝し、それを忘れないことを言う。
・「中根氏」新潮社支配人の中根駒十郎(明治15(1882)年~昭和39(1964)年)。これ以下の文章は新潮社から3月14日に刊行することとなる第五作品集『夜来の花』見本についての記載。小穴はここで初めて芥川の単行本の装丁を手掛け、これ以降の作品集の殆んどを受け持つことになる。
・「入谷の大哥」の「大哥」は「あにい」「あにき」と読み、河碧梧桐門下の俳人小澤碧童(明治14(1881)年~昭和16(1941)年 本名忠兵衛)のこと。この『夜来の花』の題簽をものしている。八六六書簡参照。]
八六一 消印三月五日
京橋區尾張町時事新報社内 佐佐木茂索君
田端四三五 芥川龍之介 (葉書)
拜啓迭別會の事昨夜又考へるとどうしても小人數の方が好いやうな氣がして來た 大人數は僕の神經にこたへるのだ その旨菊池へも手紙を出した なる可く内輪だけの會にしてくれ給へ 今日小田原へ參る以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号928。佐佐木茂索(明治27(1894)年~昭和41(1966)年)は小説家・出版人。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。この当時は時事新報社文芸部にいたが、後、「文芸春秋」編集長を経て、昭和21(1946)年、文芸春秋社社長(当時の名称は文芸春秋新社)となった。姓の表記は、本名は普通の「佐々木」であるが、「々」が中国にはない知ってから(芥川龍之介のこの中国行以前の話)、「佐佐木」と表記するようになったと私は聞いている。芥川は「佐佐木」「佐々木」両方を用いている。
・「迭別會」芥川の中国漫遊の送別会(発起人は菊池寛・久米正雄・江口渙・宇野浩二)はここでの芥川の意に反して、3月9日、与謝野晶子・山本有三・吉井勇・小山内薫らも迎えた総勢約20名で上野精養軒で行われた。
・「今日小田原へ參る」新全集年譜で宮坂氏は『(谷崎潤一郎宅か)』と推定されている。谷崎潤一郎は3年前の大正7(1918)年9月9日から12月11日まで朝鮮・満州・中国を周遊しており(その送別会の出席者には芥川の名前が見える)、先輩に教授を受けにいったものか。]
八六二 三月七日
京都市下鴨森本町六 恒藤恭樣
消印八日 三月七日 東京市外田端四三五 芥川龍之介
啓
今この紙しかない 粗紙だが勘弁してくれ給へ 僕は本月中旬出發三月程支那へ遊びに行つて來る 社命だから 貧乏旅行だ谷森君は死んだよ 余つ程前に死んだ 石田は頑健 あいつは罵殺笑殺しても死にさうもない 藤岡には僕が出無精の爲會はない成瀨は洋行した 洋行さへすれば偉くなると思つてゐるのだ 厨川白村の論文なぞ仕方がないぢやないかこちらでは皆輕蔑してゐる 改造の山本實彦に會ふ度に君に書かせろと煽動してゐる君なぞがレクチュアばかりしてゐると云ふ法はない 何でも五月には頂く事になつてゐますとか云つてゐた 僕は通俗小説なぞ書けさうもないしかし新聞社にもつと定見が出來たら即 評判の可否に關らず作家と作品とを尊重するやうになつたら長篇は書きたいと思つてゐる この頃益東洋趣味にかぶれ印譜を見たり拓本を見たりする癖が出來て困る小説は藝術の中でも一番俗なものだね
同志社論叢拜受渡支の汽車の中でよむ心算だ 京都も好いが久保正夫なぞが蟠つてゐると思ふといやになる あいつの獨乙語なぞを教つてゐると云つたつて ヘルマン und ドロテアは誤譯ばかりぢやないか
奧さんによろしく 頓首
三月七日午後 龍之介
恭 樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号929。恒藤恭(つねとうきょう 旧姓井川(いがわ) 明治21(1888)年~昭和42(1967)年)は法学者。芥川一高時代からの無二の親友。小説家を目指して上京したが後に京都大学法学部に転じたが、芥川の勧めで第三次『新思潮』にジョン・M・シングの「海への騎者」 (Riders to the Sea) を翻訳寄稿したりしている。芥川の吉田弥生への失恋を慰めるために、恒藤は自身の故郷の松江に芥川を一夏招待、その折、水の都松江の印象を綴った芥川の初期文章がある。この折りの印象は芥川の決定的な文学的原風景として残ることとなった。そのイメージは「江南游記 二十 蘇州の水」等、具体的に『支那游記』の随所に現れている。恒藤は同京大大学院を退学後、同志社大教授(本書簡時。大正8(1919)年から大正11(1922)年12月迄)を経て、京大教授に就任したが、思想弾圧事件として知られる昭和8(1933)年の瀧川事件で退官、大阪商科大に転任。戦後は、大阪商科大学学長・大阪市立大初代学長を務めた。芥川の三男也寸志の名は彼の「恭」をもらっている。
・「谷森」は谷森饒男(たにもりにぎお 明治24(1891)年~大正9(1920)年8月25日)のこと。日本史学者。芥川・恒藤の一高時代の同級生。東京帝国大学史料編纂掛嘱託となり、「検非違使を中心としたる平安時代の警察状態」(私家版)等をものすが夭折。官報によれば、一高卒業時の席次は、首席の恒藤と次点の芥川に次いで3番であった。
・「石田」は石田幹之助(明治24(1891)年~昭和49(1974))のこと。歴史学者・東洋学者で、芥川・恒藤の一高時代の同級生。
・「藤岡」は藤岡蔵六(明治24(1891)年~昭和24(1949)年)のこと。哲学者。ドイツ留学中にヘルマン・コーエンの「純粋認識の論理」を翻訳して注目されたが、先輩であった和辻哲郎の批判を受け、後々まで不遇をかこった。甲南高等学校教授。芥川・恒藤の一高時代の友人。
・「成瀨」成瀬正一(明治25(1892)年~昭和11(1936)年)仏文学者。一高時代に第三次・第四次『新思潮』に参加、東大も芥川と同じ英文学科に進む。大正5(1916)年8月にアメリカに留学(芥川は「出帆」と題した作品にその船出の様を描いている)するが、失望、ヨーロッパに渡り、帰国後は18~19世紀のフランス文学研究に勤しんだ。芥川・恒藤の一高時代の同級生。
・「厨川白村」(くりやがわはくそん 明治13(1880)年~大正12 (1923)年)は英文学者・評論家。この頃、成瀬は彼に傾倒していたか。
・「山本實彦」(明治18(1885)年~昭和27(1952)年)は、当時の大阪毎日新聞社社長であり、芥川も御用達の改造社の創設者。大正15(1926)年に『現代日本文学全集』(全63巻)の刊行を開始、円本ブームの火付け役ともなった。
・「同志社論叢」柴田隆行編「L・フォイエルバッハ日本語文献目録」によれば、丁度この頃、恒藤はフォイエルバッハの著作の翻訳を行っている。例えば、フォイエルバッハ恒藤恭訳「哲学の改革に関する問題」(大正10(1921)年岩波書店刊のプレハーノフ「マルクス主義の根本命題」所収)・フォイエルバッハ恒藤恭訳「哲学の改革に関するテーゼ」(大正12(1923)年『同志社論叢』の「マルクス主義の根本問題」巻末)・フォイエルバッハ恒藤恭訳「哲学の始点」(昭和2(1927)年『大調和』6月号)である。芥川が彼から贈呈された論文もフォイエルバッハ若しくはマルクス主義関連の翻訳か論文であったと考えてよい。
・「久保正夫」(明治27(1894)年~昭和4(1929)年)は翻訳家・評論家。芥川・恒藤の一高時代の後輩。第三高等学校講師。ヨハンネス・ヨェルゲンセン「聖フランシスの小さき花」訳(大正5(1916)年新潮社刊)、トルストイ「人はどれだけの土地を要するか 外三篇」(大正6(1917)年新潮社刊)等。
・「ヘルマン und ドロテア」大正7(1918)年に新潮社から刊行されたギョオテ(ゲーテ)著久保正夫訳「ヘルマンとドロテア」を指している。大正9(1920)年にはゲーテの「親和力」(新潮社)も訳しており、久保正夫の訳した本は芥川好みのラインナップではある。芥川には余程我慢がならない訳であったか。]
八六三 三月十一日
田端から 薄田淳介宛
拜啓 今度はいろ/\御世話になり難有く御禮申上げます紹介状も澤山に今日頂きました大阪へは目下寄らぬつもりですが御用がおありなら一日位は日をくり上げてもかまひません折返し御返事を願ひますそれから紀行は毎日書く訣にも行きますまいが上海を中心とした南の印象記と北京を中心にした北の印象記と二つに分けて御送りする心算ですどうせ祿なものは出來ぬものと御思ひ下さい一昨日精養軒の送別會席上にて里見弴講演して曰「支那人は昔偉かつたその偉い支那人が今急に偉くなくなるといふことはどうしても考へられぬ支那へ行つたら昔の支那の偉大ばかり見ずに今の支那の偉大もさがして來給へ」と私もその心算でゐるのですそれからお金は一昨々日松内さんに貰ひましたもし足りない事があつたら北京から頂きますそれまでは澤山ですやはり送別會の席上で菊池寛講演して曰「芥川は由來幸福な男だしかし今度の支那旅行ばかりは少しも自分は羨しくない報酬がなければ行くのは嫌である」その報酬は二千圓ださうです事によると支那旅行と「眞珠夫人」と間違へてゐるのかも知れません以上とりあへず御返事まで 頓首
三月十一日 芥川龍之介
薄田淳介樣
二伸 澤村さんの本はまだ屆きません屆き次第御禮は申上げますがどうかあなたからもよろしく御鳳聲を願ひます それから何時か御約束した時事新報の通俗小説原稿料は一囘十圓だと云ふ事です朝日も恐らくその位でせう但し朝日は谷崎潤一郎に通俗小説を書かせる爲一囘二十圓とかの申込みをしたさうです 以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号930。封筒はないものと思われる。送別会については八六一書簡注を参照。また、ここでは当初芥川が目論んでいた原『支那游記』の構造が見て取れる。
・「松内さん」は松内則信(明治9(1876)年~昭和28(1953)年)。大阪毎日新聞社社員。昭和6(1931)年の『上海通報』に「支那及び南洋視察記」と題した記事を連載があり、そこに松内則信の名を見出せる(同一人物であるかどうかは不明)。後に彼も中国に赴いたか。
・『「眞珠夫人」』は、菊池寛が初めて書いた通俗小説(大正9(1920)年6月9日~12月22日まで大阪毎日新聞・東京日々新聞に連載)。不本意な結婚を強いられるも恋人のために処女を貫く男爵令嬢の愛憎劇で、何と小説が連載された大正9年中に国際活映が映画化する程の大ベストセラーとなった(以上はウィキの「真珠夫人」を参照した)。
・「澤村さん」は澤村幸夫(明治16(1883)年~昭和17(1942)年)。大阪毎日新聞社本社社員。外国通信部を経て支那課長・上海支局長を勤めた。芥川の中国行について多くの便宜を図った。戦前の中国・上海関連の民俗学的な複数の著作に同名の作者が居り、同一人物と思われる。彼はまたゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかった。更に芥川龍之介の遺稿「人を殺したかしら?――或畫家の話――」のエピソード(左記の私の電子テクスト冒頭注参照)に現れる「沢村幸夫」なる大阪毎日新聞社記者とも同一人物と思われ、実は、なかなかに謎めいた人物ではある。
・「鳳聲」伝言の尊敬語。
・「時事新報」日刊新聞。明治15(1882)年に福澤諭吉により創刊。
・「通俗小説原稿料は一囘十圓」新全集注解で宮坂覺氏は当時の白米10㎏の値段で物価を示しておられる。大正8(1919)年が3円86銭、大正11(1922)年が3円4銭。また大正9(1920)年の新聞購読料金は1円20銭とある。当時の原稿料の安さが知れる。]
八六四 三月十一日
田端から 菅虎雄宛
拜啓 洋畫家有田四郎君を御紹介申します 同君は忠雄さんなぞも御存じの鎌倉の住人です同君の友人小山東助氏の全集を出版するにつき表紙の文字を先生に御願ひしたいとか云ふ事でした
右よろしく御取計らひ下さらば幸甚です 頓首
三月十一日 芥川龍之介
菅先生 梧右
[やぶちゃん注:新全集書簡番号931。封筒はないものと思われる。菅忠雄への有田四郎の紹介状。菅虎雄(元治元(1864)年~昭和18(1943)年)ドイツ語学者。五高教授であった時、親友夏目漱石を招聘した。明治34(1901)年一高教授となり、その時の教え子に芥川竜之介や菊池寛らがいた。号を無為・白雲・陵雲などという能書家としても知られ、漱石の墓碑銘や芥川の「羅生門」の題字、芥川自宅書斎の「我鬼窟」の扁額なども彼の筆になる。本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。
・「菅忠雄」(明治32(1889)年~昭和17(1942)年)小説家・編集者。菅虎雄の次男。芥川は虎雄の依頼で彼の家庭教師を務めた。宿痾の喘息を抱えながら『文藝春秋』編集者として活躍した。
・「有田四郎」筑摩全集類聚版脚注は『未詳。』、岩波版新全集注解は注として掲げないが、洋画家有田四郎(明治18(1885)年~昭和21(1946)年)である。白馬会所属。大正6(1917)年に横浜市開港記念会館壁画を制作しており(合作)、それまで文展に6回入選している。芥川龍之介とは芥川が在職した海軍機関学校の絡みでこの頃知り合っている(居住地が二人とも同じ鎌倉でもあった)。晩年まで親しく交友した。
・「小山東助」(安政7・万延元(1860)年~大正8(1919)年)思想家・政治家。『帝国文学』編集人(芥川龍之介の羅生門が掲載された雑誌)。キリスト者の立場からの評論を行い、晩年には代議士となった。政治学者吉野作造の友人でもあった。
・「梧右」「ごゆう」と読む。「梧」は桐の木で出来た机の意で、「机下」・「梧下」等と同じく手紙の脇付として用いる。]
八六五 三月十一日
田端から 小杉未醒宛
拜啓 支那旅行につきいろいろ御配慮に預りありがたく存じそろ漢口に參り侯節は必水野先生を御訪ね仕る可くそろなほ肇を以て次手を以て拙著一册右に戲じそろ文章のまづい所は皆誤植と思召被下度又嫌味なる所は皆作者年少の故と御見なし下さる可く侯 頓首
三月十一日 夜來花庵主
未醒畫宗 侍史
[やぶちゃん注:新全集書簡番号932。封筒はないものと思われる。小杉未醒は小杉放庵(こすぎほうあん、明治14(1881)年~昭和39(1964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の「江南游記」岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より11歳年上。
・「水野先生」水野疎梅(文久4・元治元(1864)~大正10(1921)年10月6日)のことと思われる。政治家・詩人・書家。玄洋社同人。本名元直。韓国政府顧問となったが閔妃事件により退去、明治43(1910)年に上海に渡航、南画を呉昌碩に、書を王一亭・楊守敬らに師事する傍ら志士としても活躍した。但し、彼は芥川渡中のその年に過労から上海で病を得て帰国し幾許もなく同年10月6日に故郷福岡で没しているため、従って芥川は逢っていない可能性が高いと思われる。
・「拙著」は三日後に刊行される第五作品集『夜来の花』であろう。ここで『夜来の花』の収録作品を掲げておく。「秋」・「黒衣聖母」・「山鴫」・「杜子春」・「動物園」・「捨児」・「舞踏会」・「南京の基督」・「妙な話」・「鼠小僧次郎吉」・「影」・「秋山図」・「アグニの神」・「女」・「奇怪な再会」の全15篇である(リンク先は私の電子テクスト)。よく言われることであるが、「南京の基督」が中国行以前の作品であるというの意外の感を受ける方が多い。それほど、この作品の情景描写は(谷崎の作品の影響を考慮しても)実にリアルである。
・「畫宗」は画家の宗匠の意の画家への敬称。]
八六六 三月十三日
本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
三月十三日 市外田端四三五 芥川龍之介
拜啓
いろいろ御手數をかけ難有く存じます十六日までに出來れば好いがと思つてゐます十五日頃入谷の兄貴や何かと人形町の天ぷらを食ひに行きませんか古原草先生も行けば好都合です兎に角僕は午後三時頃最仲庵へ行きます(これから小澤遠藤兩先生へも手紙を出します)田村松魚と云ふ人が未見なるにも不關新潮の隨筆を見て柿右ェ門の鉢を一つ僕にやらうと云つて來ましたその時までに貰つたらおめにかけます空谷老人入谷大哥の「夜來の花」を見て曰不折なぞとは比べものになりませんな」と 頓首
三月十三日 夜來花庵主
一遊亭主人 侍史
[やぶちゃん注:新全集書簡番号933。八六〇書簡参照。冒頭は八六〇書簡の「國粹」の注で示した「往生絵巻」の挿絵の件。また、ここに記された送別会は「了中先生渡唐送別記念会」と名付けられ、記念帖もものされた。了中は芥川の俳号の一つ。
・「古原草先生」遠藤古原草(明治26(1893)年~昭和4(1929)年 本名清平衛)は俳人・蒔絵師。「海紅」同人。
・「最仲庵」入谷の小澤碧童宅の庵号。老婆心ながら、天麩羅屋の屋号ではない。
・「小澤遠藤兩先生」「小澤」は小澤碧童で「入谷の兄貴」「入谷大哥」も総て小澤のこと。遠藤は遠藤古原草のこと。
・「田村松魚」(明治10(1877)年~和23(1948)年)は幸田露伴の高弟として活躍した作家である。作家田村俊子は彼の元妻である(但し、彼女は大正7(1918)年に愛人を追って逃避行した)。ここに書かれた一件は後掲の田村松魚宛八六八書簡注を参照。
・「空谷老人」下島勲(明治3(1870)年~昭和22(1947)年)の俳号。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、また書画の造詣も深く、能書家であった。
・『入谷大哥の「夜來の花」』第五作品集『夜来の花』の題簽は小澤碧童の筆になる。
・「不折」中村不折(慶応2(1866)年~昭和18(1943)年)のこと。洋画家・書家。歴史画を得意とし、漱石「吾輩は猫である」の挿絵や森鷗外墓碑でも知られている。勿論、下島は不折にまるで及ばないとけなしているのである。なお、ここは直前の『「』を芥川が落としたものと思われる。]
八六七 三月十三日
田端から 中根駒十郎宛
拜啓お孃さんの御病氣如何ですかさて夜來の花の裝幀につき小澤小穴先生へなる可く早く御禮上げてくれませんか津田青楓には二十五圓とか云ふ事ですがなる可く御奮發下さい印税は菊池なぞ一割二分の由小生春陽堂では一割二分ですが「夜來の花」は一割でよろしいその代り兩先生の方へ御禮を少し餘計出して頂きたいと思ひます右とりあへず御願ひまで 頓首
三月十三日 芥川龍之介
中根駒十郎樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号934。封筒はないものと思われる。中根駒十郎(明治15(1882)年~昭和39(1964)年)は新潮社支配人。芥川の作品を積極的に『新潮』に掲載した。この書簡、自分の印税を減じて小澤・小穴に少しでも多くの御礼をという芥川の優しい心配りが伝わってくる。
・「小澤小穴先生」第五作品集『夜来の花』は題簽が小澤碧童の筆、装丁が小穴隆一。
・「津田青楓」(明治13(1880)年~昭和53(1978)年 旧姓西川・本名亀治郎)は画家。大正3(1914)年の二科会創立に参加。左翼運動のシンパとして昭和6(1931)年第18回二科展に巨費を投じた国会議事堂と庶民の住宅群を描いた「ブルジョワ議会と民衆の生活」を出品して検挙されている(後に転向して二科を退会)。後に日本画に転じた。夏目漱石や河上肇と親しく、漱石の単行本の装丁を多く手がけた。ここではその漱石の装丁料を芥川は示して言ったものか。
・「春陽堂」明治11(1878)年創業の出版社。泉鏡花・夏目漱石・芥川龍之介の著作の出版や『中央文学』『新小説』等の雑誌も発行した。
・「菊池」は菊池寛のこと。]
八六八 三月十六日
田端から 田村松魚宛
拜啓 うづ福の茶碗わざわざ御持參下され恐入りそろ仰せの如く形も色も模樣も見事と申す外無之そろ御祕藏の品を頂戴仕候事心苦しくも難有くそろ早速拜趨申上ぐ可きのところ新聞社より支那旅行を申しつかり居り出發の日どりも二三日中に迫り居る次第につき何かと忙しく候へば失禮ながら書面にて御免蒙り候その段不惡御海恕下されたくひとへに願上そろいづれ歸來の節は拜眉の上御禮申上ぐ可くまづはとりあヘず鳴謝まで如斯に御座そろ
渦福のうつはの前に阿彌陀ぐみ夜來花庵主は涙をおとす
手にとればうれしきものか唐草はこと國ぶれる渦福の鉢
渦福の鉢ながむればただに生きしいにしへ人の命し思ほゆ
この鉢のうづの青花たやすげに描きて死にけむすゑものつくり
惡歌一咲をたまはらば幸甚にそろ
三月十六日 芥川龍之介
田村先生 侍史
[やぶちゃん注:新全集書簡番号935。封筒はないものと思われる。田村松魚(たむらしょうぎょ 明治10(1877)年~和23(1948)年)は幸田露伴の高弟として活躍した作家である。万朝報社勤務。作家田村俊子は彼の元妻である(但し、彼女は大正7(1918)年に愛人を追って逃避行した)。八六六書簡でも芥川が少し仄めかしているが、この書簡については聊か説明が必要である。この「うづ福の茶碗」というのは「渦福」、陶器の銘の一つで、渦を巻いた印の中に草書体の「福」の字を配したものを言う。古伊万里の柿右衛門様式にしばしば現れるため、名品の証しとされる。実は、出発直前の3月16日のこと、芥川家に突如「渦福の鉢」が贈られてきた。これは彼が『新潮』の同3月号に掲載した「點心」の「托氏宗教小説」(「トルストイ宗教小説」の中国語訳)の冒頭で、
今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。價を尋ねれば十五錢だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福(うづふく)の鉢を買はうと思つたら、十八圓五十錢と云ふのに辟易した。が、十五錢の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。[やぶちゃん補注:以下略。上記の僕の電子テクストを参照されたい。]
と書いたのを読んだ、先輩作家田村松魚が「渦福」の茶碗を贈ってよこしたであった。芥川は松魚とは逢ったことがなく、恐縮して礼状を認めたのがこの書簡である。「渦福の鉢」は「上海游記」の冒頭「一 海上」に田村松魚への感謝の意を示して使われている。
・「鳴謝」厚く御礼申し上げること。深謝。
・「阿彌陀ぐみ」筑摩全集類聚版脚注ではこれを『芥川の造語か。阿弥陀仏のような坐り方をいうか。』と記す。一首の描く気色としては面白い解釈ではある。勿論、「あみだぐみ」は「なみだぐみ」に掛けてあるのでもあろうが、下の句に「涙」がそのまま出るから修辞的にはうまくない。
・「夜來花庵主」出したばかりの作品集『夜来の花』をもじった庵号。
・「こと國」は異国。
・「すゑものつくり」は陶工。陶芸師。
・「一咲」は「いっしょう」と読み、「一笑」と同義。]
八六九 三月十六日
田端から 澤村幸夫宛
拜啓 角山樓類腋昨日落手致しました旅行中御言葉に甘へて拜借致します難有うございました又小生の支那旅行につきいろいろ御配慮下さつた事を厚く御禮申上ます十九日朝東京發廿一日門司出帆の豫定故次便は禹域の地から差上げる事になるだらうと存じます右とりあへず御禮の爲草毫を走せました
留別
海原や江戸の空なる花曇り
三月十六日 芥川龍之介
澤村先生 侍史
[やぶちゃん注:新全集書簡番号936。封筒はないものと思われる。澤村幸夫(明治16(1883)年~昭和17(1942)年)は大阪毎日新聞社本社社員。外国通信部を経て支那課長・上海支局長を勤めた。芥川の中国行について多くの便宜を図った。戦前の中国・上海関連の民俗学的な複数の著作に同名の作者が居り、同一人物と思われる。彼はまたゾルゲ事件の尾崎秀実とも親しかった。更に芥川龍之介の遺稿「人を殺したかしら?――或畫家の話――」のエピソード(左記の私の電子テクスト冒頭注参照)に現れる「沢村幸夫」なる大阪毎日新聞社記者とも同一人物と思われ、実は、なかなかに謎めいた人物ではある。
・「角山樓類腋」諸注すべて未詳とするが、これは「韻海大全角山樓類腋」であろう。清代の仁壽室主人の輯になる、詩書(漢詩創作指南書)か。「香港中文大學圖書館」の以下の「中國古籍庫」に記載がある(が私には読めない)。
・「禹域」「ういき」と読む。中国古代の伝説の聖王禹が洪水を治めて広大な地域を統治して夏王朝を打ち立てたことから、中国の異称。
・「草毫」急ぎの筆。取り急ぎ。]
八七〇 三月十七日
本郷區湯島三組町三十九 瀧井折柴樣
十七日 芥川龍之介 (葉書)
秋海棠が簇つてゐる竹椽の傾き
昨日は失禮その節は結構なものを難有う 頓首
[やぶちゃん注:新全集書簡番号937。瀧井折柴は俳人・小説家である瀧井孝作(たきい こうさく、1894年(明治27年)4月4日 - 1984年(昭和59年)11月21日)の俳号。俳句は河東碧梧桐・荻原井泉水に、小説は志賀直哉に師事した。大正8(1919)年に『時事新報』文芸部記者として、芥川龍之介を知り、逆に先の小穴隆一や小澤碧童・遠藤古原草といった人物を紹介している。但し、丁度この大正10(1921)年には記者をやめ、後の小説「無限抱擁」の原型となる小説を雑誌に発表し始めていた。掲載を始めていた(「無限抱擁」の出版は芥川自死後の昭和2(1927)年9月であった)。龍門の四天王(南部修太郎・佐々木茂索・小島政二郎)の一人本書簡は中国旅行についての言及もなく無関係であるが、これだけを省略するのもおかしいので、出立前の慌しい雰囲気を伝えるための一つとして置いておく。]
八七一 三月十七日
本郷區湯島三組町三十九 瀧井孝作樣(速達印)
十七日 芥川龍之介
啓
十八日午後御光來下さるやう申候も風邪の爲當日御面會いたしかね候十九日午後五時半門司へ下る筈に候へば十九日午後にても御ひまの節は御來駕下され度候 頓首
[やぶちゃん注:新全集書簡番号938。予定していた18日午後の瀧井との面会を感冒のために断わる速達。次の八七二書簡も参照。]
八七二 消印三月十七日
京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君(速達印)
芥川龍之介 (葉書)
啓 十八日午後御光來の由申候へども小生風邪につき十九日午後に御くりのべ下され度候 十九日午後五時半發門司へ下る可く候 頓首
[やぶちゃん注:新全集書簡番号939。八七一書簡と同じく、予定していた18日午後の佐々木との面会を感冒のために断わる速達。記載内容からは瀧井と佐々木の面会はセットであるように思われる。この感冒が中国旅行の思わぬ悪因となるのである。]
八七三 三月十七日
本郷區東片町百三十四 小穴隆一君 (速達印)(葉書)
出發は十九日午後五時半になりましたとりあへず御知らせします碧、古兩先生にも通知しました 頓首
十七日 芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号940。「碧、古兩先生」小澤碧童と遠藤古原草のこと。]
八七四 三月十九日
田端から中根駒十郎宛
啓 立つ前に參上する筈の所何かと多用の爲その機を得ず今日に至り候就いては別紙の諸先生へ拙著一部づつ書きとめにて御贈り下され度願上候代金は勝手ながら歸京の日までお待ち下され度候書き留めの受取りは御面倒ながら上海日本領事館氣附にて小生宛御送り下され度願上侯とりあへず當用のみ如斯に御座候 頓首
三月十九日 芥川龍之介
中根駒十郎樣
菊地寛 久米正雄 久保田万太郎 小宮豐隆 齋藤茂吉 島木赤彦 藤森淳三 岡榮一郎 佐佐木茂索 中村武羅夫 岡本綺堂 薄田泣菫 瀧井折柴 與謝野晶子 豐島與志雄 宇野浩二 江口渙 南部修太郎 加藤武雄 室生犀星 谷崎潤一郎
[やぶちゃん注:新全集書簡番号941。封筒はないものと思われる。第五作品集『夜来の花』謹呈者の名簿は、底本では全体が二字下げ。書留云々は『夜来の花』の印税の送付について言っているのであろう。名簿の作家は殆んどが著名人ばかりなので、私が作品も何も分からない以下の三名のみの注記に抑える。
・「藤森淳三」(明治30(1897)年~昭和55(1980)年)小説家・評論家。横光利一らと同人雑誌『街』を創刊(横光とは中学の同窓)、芥川が寄稿した雑誌『サンエス』などの編集に従事しながら小説を書いた。童話集『小人国の話』(こびとこくのはなし 武井武雄・絵 大正15(1926)年実業之日本社刊)、バアネット原作藤森淳三訳「秘密の花園」(昭和7(1932)年春陽堂刊)等。
・「岡榮一郎」(明治23(1890)年~昭和41(1966)年)劇作家・脚本家。夏目漱石門として芥川と親しくなり、芥川の勧めで戯曲に手を染める。旧来の歴史認識とは異なる新解釈の史劇「返り討」(「意地」改題)「槍持定助」「松永弾正」や演劇評論、更には「中山安兵衛」(大正14(1925)年マキノプロダクション製作)等の映画脚本にも関わった。
・「加藤武雄」(明治21(1888)年~昭和31(1956)年)小説家。新潮社編集者として芥川も寄稿した『文章倶楽部』『文学時代』等を編集した。1919年に農村を描いた自然主義的な短編集『郷愁』で作家デビュー、「久遠の像」(大正11(1922)年~大正12(1923)年)以後、通俗小説・少女小説作家として一世を風靡したが、戦時下には戦意高揚小説、戦後は陳腐な通俗小説を量産し、現在では最早忘れられた作家となった(以上はウィキの「加藤武雄」を主に参照した)。]
八七五 三月二十六日
東京市外田端四百三十五 芥川道章樣
消印二十八日 三月廿六日朝 大阪市東区大川町北川旅館 芥川龍之介
啓 その後皆々樣おかはりなき事と存候 私東京發以來汽車中にて熱高まり一方ならず苦しみ候その爲大阪に下車致し停車場へ參られし薄田氏と相談の上新聞社の側の北川旅館へ投宿仕りすぐに近所の醫者に見て貰ひ候その醫者至極舊弊家にて獸醫が牛の肛門へ插入するやうな大きな驗温器なぞを出し候へば一向信用する氣にならずやはり唯の風邪の由にて頓服二日分くれ侯へどその藥はのまず私自身オキシフルを求めて含漱劑を造りそれから下島先生より頂戴の風藥服用しなほその上に例のメンボウにて喉ヘオキシフルを塗りなぞ致し候へば三十九度に及びし熱も兎に角三日ばかりの内に平温まで降り候然れば船も熊野丸は間に合はず廿五日門司發の近江丸に乘らんかと存居候さて大阪まで來りて見れば鋏、萬創膏、驗温器、ノオトブックなぞいろいろ忘れ物にも氣がつきそれらを買ひ集め侯へば自然入れ物が足りなくなりやむを得ずバスケット一つ買ふ事に致し候なほ私病氣は最早全快につき(今朝卅六度四分)御心配下さるまじく候 次便は上船前門司より御手許へさし上ぐべく候 草々
三月廿三日 龍之介
芥川道章樣
二伸 中川康子、菅藤高德 武藤智雄 野口米次郎(動坂ノ住人)四氏の宿所並に「新文學」の新年號の卷末にある文士畫家の宿所録を支那上海四川路六十九號村田孜郎氏氣附芥川龍之介にて送られたし 宿所録は「新文學」から其處だけひつ剥して送られたし
三伸 留守中は何時なん時紀行が新聞に出るか知れぬ故始終新開に注意し切拔かれ置かれたし
四伸 唯今薄田氏來り愈廿八日の船ときまり候廿六日か七日大阪を立ち候 宿所録はやはり上海へ送られたしこちらへ送つたのでは間に合はず候
五伸 大阪滯在中大阪毎日に一日書き候(日曜附録)それをも切拔かれたく候
まだ煙草の味も出ず鼻は兩方ともつまり居り不愉快甚しく候
同封の新聞は上海の新聞に侯小生の寫眞あれば送り候
伯母さんの風如何に候や無理をすると私のやうにぶり返し候間御用心大切に侯
比呂志事はおじいさん、おばあさん もう一人のおばあさんが面倒を見て下さる故少しも心配致さず侯
兎に角旅中病氣になると云ふ事はいやなものに候
早速下島先生の藥の御厄介になつた事よく先生に御禮申し下され度願上候
二十五日
[やぶちゃん注:新全集書簡番号942。底本には「大阪から 芥川道章宛」とあるのみで封筒データがないが、新全集で補った。芥川道章(あくたがわどうしょう 嘉永2(1849)年~昭和3(1928)年)は芥川龍之介の養父。龍之介の生母新原フク(にいはらふく 安政7・万延元(1860)年~明治35(1902)年)の兄。フクの精神病発症に伴い、生後十ヶ月の龍之介は子供のいなかった道章の預かりとなった(正式な養子縁組は明治37(1904)年8月30日12歳の時)。芥川道章は龍之介6歳、明治31(1898)年に東京府内務部長第五課長を最後に退職したが、一中節・囲碁・盆栽・発句・南画等に親しむ風流人でもあった。新聞の切り抜きが同封されており、そこには中国周遊に向かう芥川龍之介氏といったキャプションと共にかなり大きめな芥川の写真が載っている(新全集注解346pにその同封切抜きが写真で掲載されているが、画像が不鮮明で読み取りにくい)。
・「含漱劑」「がんそうざい」と読む。うがい薬のこと。
・「メンボウ」ママ。綿棒。とびきり大型のものをカタカナで示したのであろう。
・「おじいさん、おばあさん もう一人のおばあさん」芥川道章・芥川儔(とも)・芥川フキ(儔とフキについては後注参照)。
・「中川康子」新全集人名解説索引でも『未詳』とある。気になる人物である。識者の御教授を乞う。
・「菅藤高德」(かんどうたかのり 生没年未詳)筑摩全集類聚版脚注によれば、ドイツ文学者。大正10(1921)年東大独文科卒。明治大学教授で、芥川はこの人物と青根温泉で大正9(1920)年8月の避暑で同宿したことがある旨、記載されているが、その典拠は不明。シルレルやヴェーデキントの翻訳がある。識者の御教授を乞う。
・「武藤智雄」八七四書簡注参照。
・『「新文學」』大正10(1931)年1月より博文館発行の文芸雑誌『文章世界』が改題したもの。
・「村田孜郎」(むらたしろう ?~昭和20(1945)年)。大阪毎日新聞社記者で、当時は上海支局長。中国滞在中の芥川の世話役であった。烏江と号し、演劇関係に造詣が深く、大正8(1919)年刊の「支那劇と梅蘭芳」や「宋美齢」などの著作がある。後に東京日日新聞東亜課長・読売新聞東亜部長を歴任、上海で客死した。
・「廿八」の下線は底本では傍点「○○」。
・「大阪滯在中大阪毎日に一日書き候」これについては新全集年譜で宮坂氏は『大阪滞在中、「大阪毎日新聞」の「日曜附録」に「おとぎ話」を執筆したが結局掲載されず、のち返却を求めている』と記す。『のち返却を求めている』というには岩波版旧全集の大正10(1921)年9月8日附薄田淳介宛九三七書簡のことで、二伸として『おとぎ話(小生作)日曜附録に出なかつた由御迷惑ながらあの原稿小生まで御返送下さいあの原稿を百圓に買ふと云ふ編輯者が現れましたから』とあることを指す。ここで我々は芥川龍之介の幻の作品に遭遇することとなる。現在、如何なる芥川龍之介全集にも「おとぎ話」と題する作品は所収しないのである。本篇は恐らく大阪毎日新聞社から返却されていないのではなかろうか。もしかすると今も大阪毎日新聞社の何処かに芥川の「おとぎ話」が眠っているのかもしれない……
・「伯母さん」芥川儔(あくたがわとも 安政4(1857)年~昭和12(1937)年)芥川龍之介の養母。森鷗外の史伝にも書かれた幕末の大通細木香以(本名藤次郎)の姪であった。昔話に通じ、芝居好きの夫人であった。
・「おばあさん」芥川フキ(安政3(1856)年~昭和13(1938)年)芥川龍之介の伯母。生母フクの姉。生涯独身を通し、龍之介を乳飲み子の頃から実質的な母親代わりとなって育てた。芥川龍之介にとって彼女の存在は極めて大きい。自殺決行の直前、主治医下島勲医師への辞世短冊「水洟や鼻の先だけ暮れ殘る」を託したのも、このフキであった。そうした事柄も含めて、私のブログ「芥川龍之介の出生の秘密」をお読みあれ。但し、ここに記された驚くべき小穴隆一の推測を私は無批判に信じている訳ではないとだけは言っておく。]
八七六 三月二十六日
大阪から 澤村幸夫宛
拜啓 支那の本中楊貴妃の生殖器等の事を書いた本と云ふのは何と云ふ本ですか御教示下されば幸甚ですなほそんな本で面白いのがあつたら御教へ下さいませんか僕の知つてゐる誨淫の書は金瓶梅。肉蒲團。杏花天。牡丹奇縁。痴婆子。貪官報。歡喜奇觀。殺子報。野叟曝言。如意君傳。春風得意奇縁。隔簾花影等です以上
三月二十六日 芥川龍之介
澤村幸夫樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号943。封筒はないものと思われる。ここに掲げられた淫書の殆んどは芥川龍之介の「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」(大正9(1920)年)の、文字通り「誨淫の書」の章に現れる。
・「誨淫」「誨」は、教える、の意。猥褻本。ポルノ。
・「金瓶梅」明代。蘭陵笑笑生。中国の四大奇書にも数えられる著名なポルノ小説。
・「肉蒲團」淸代。劇作家李漁の作と伝えられる。別名「覚後禅」。
・「杏花天」淸代。作者未詳。「金瓶梅」と並び称される好色本。
・「牡丹奇縁」淸代。徐震の作である「桃花影」の改題。
・「痴婆子」明代。作者未詳。
・「貪官報」これは恐らく「貪歡報」の誤り。淸代。西湖漁隠主人作。別名「歓喜冤家」「歡喜奇觀」。
・「歡喜奇觀」前掲と同一書。別名を取り違えたものと思われる。
・「殺子報」成立時代不詳。作者不詳。
・「野叟曝言」淸代初期。夏敬渠の作。
・「如意君傳」明末淸初。徐松齢の作。
・「春風得意奇縁」未詳。
・「隔簾花影」未詳。似たような題名で「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」の「誨淫の書」で挙げているものに「花影奇情伝」(成立時代不詳・建光作)がある。]
八七七 三月二十九日
日本東京市外田端四三五 芥川樣
二十九日 筑後丸船中 芥川龍之介 (繪葉書)
啓 咋日玄海灘にてシケに遇ふ船搖れて卓上の皿ナイフ皆床に落つ小生亦舟醉の爲もう少しにてへドを吐かんとす今日は天氣晴朗波靜にして濟州島の島影を右舷に望む明日午頃上海入港の筈 頓首
叔母さん風如何にや小生はもう全快し用心の爲禁煙致居候 以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号941。底本ではデータが「筑後丸から 芥川宛(繪葉書)」とあるのみであるが、新全集で補った。
洋上での消息文。「上海游記 一 海上」を参照。
・「筑後丸」は日本郵船会社所属(但し、国産ではなくイギリスからの輸入船)。三輪祐児氏のHP「■近代化遺産ルネッサンス■戦時下に喪われた日本の商船」の「筑後丸」のページには、写真とデータに加えて、何と本「上海游記」の記載があり、この大正10(1921)年からこの筑後丸が昭和17(1942)年11月3日に潜水艦の雷撃によって撃沈するまでの約20年が走馬灯のように印象的に綴られている。必読の一篇である。]
八七八 三月二十九日(推定)
小澤忠兵衛 小穴隆一宛 (封筒缺)
小澤忠兵ェ衛樣
小 穴 隆 一 樣
啓 出發の際は御見送下され難有存じます その後汽車の中にて發熱甚しくなり とうとう大阪に下車 一週間程北濱のホテルにねてゐました それから廿七日に大阪を立ち 廿八日門司から筑後丸へ乘りました。所が玄海にてシケを食ひ船の食卓の上の皿、ナイフなぞ皆ころげ落ちる始末故小生もすつかり船に醉ひ少からず閉口しました 舟醉と云ふものは嫌なものですな 頭がふらふらして胸がむかむかしてとてもやり切れません 尤も醉つたのは僕のみならず船客は勿論船員の中にも醉つた先生があります 船客中醉はなかつたのは亞米利加人一人、この男は日本人の妾同伴ですがシケ最中携帶のタイプライタアなぞ打つて悠々たるものでした
今日は天氣晴朗、午前中は濟州島が右舷に見えました 淡路より少し大きい位ですが住んでゐるのが朝鮮人で 朝鮮風の掘立小屋しかないせゐか甚人煙稀薄の觀があります
上海へは明日午後三時か四時頃入港の豫定、今日は船醉はしませんが昨日のなごりでまだ頭がふらふらするやうです
この手紙御讀みずみの上は小穴氏におまはし下さい 以上
筑後丸サルーンにて 芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号945。この八七八書簡は底本でも横書である。宛名の小澤忠兵衛は小澤碧童の本名。「サルーン」は“saloon”で汽船の大広間・談話室の謂い。]
八七九 三月二十九日
日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣
消印三十一日 二十九日 筑後丸船中 芥川龍之介(繪葉書)
啓二十八日門司發筑後丸へ乘りました門司を出て玄海へかかると忽ち風波に遇ひ小生も危くヘドを吐く所でした尤も舟醉をしたのは僕ばかりでなく船客は勿論船員さへ醉つてゐました 今日は天氣晴朗かうなると航海も愉快です
[やぶちゃん注:新全集書簡番号943。新全集により消印データを補った。下島勲(明治3(1870)年~昭和22(1947)年)の俳号。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、また書画の造詣も深く、能書家であった。]
八八〇 四月二十日
日本東京下谷笹下谷町一ノ五 小島政二郎樣(上海、南京路の繪葉書)
南京路は上海の銀座通り、僕の行くカツフェ、本屋等皆此處にあり新しい支那の女學生は額の髮へ火鏝を入れ赤い毛布のシヨオルをする それがこの通りを潤歩する所は此處にのみ見らるべき奇觀ならん
二十日 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号947。小島政二郎(こじままさじろう 明治27(1894)年~平成6(1994)年)は小説家・随筆家。龍門の四天王(佐々木茂索・瀧井孝作・南部修太郎)の一人。八七九書簡から一気に一ヶ月弱飛んでいる点に注意。ご存知の通り、この間、芥川龍之介は上海の里見病院に乾性肋膜炎のために入院していた。詳しくは「上海游記 五 病院」を参照。]
八八一 四月二十三日
日本東京市本郷區湯島天神町一ノ九八 岡榮一郎君
消印三十日 二十三日 (「Shanghai City Tea House」と題した繪葉書)
これは上海城内の湖心亭なりこの中に支那人たち皆鳥籠携へ來りて雲雀、目白の聲なぞに耳を傾つつ悠然として茶を飮んでゐる但し亭外は尿臭甚し
上海西華德路萬歳館 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号948。底本では「上海から 岡榮一郎宛(繪葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。岡榮一郎(明治23(1890)年~昭和41(1966)年)は劇作家・脚本家。夏目漱石門として芥川と親しくなり、芥川の勧めで戯曲に手を染める。旧来の歴史認識とは異なる新解釈の史劇「返り討」(「意地」改題)「槍持定助」「松永弾正」や演劇評論、更には「中山安兵衛」(大正14(1925)年マキノプロダクション製作)等の映画脚本にも関わった。この叙述は「上海游記」の六・七・八の「城内」を参照。
・「湖心亭」現在、上海随一の伝統的中国式庭園豫園(よえん)の荷花池の上、屈曲した九曲橋の中ほどに建つ、150年の歴史を持つ茶館。但し、明代をルーツとするその庭園と共に清末には荒廃甚だしく、芥川が訪れた際のその普請も本文に示される通りである。現在の豫園ものは新中国成立後に改修されたもので、芥川が見たものは、荒れ果てていながらも屋根の先が大きく反った江南風の特徴を持った清朝建築様式であったはずである。ちなみに、私は八年前の夏、夕暮れの人気のないそこを一度訪ねただけで、すっかり気に入ってしまったものである。
・「皆鳥籠携へ來りて雲雀、目白の聲なぞに耳を傾つつ悠然として茶を飮んでゐる」新全集注解で宮坂覺氏は、中国人には『遛鳥といって、鳥かごをささげて公園など閑静なところを散歩する習慣がある』とする。
・「萬歳館」は筑摩書房全集類聚版脚注によれば、『上海西華徳路にあった日本人むけの旅館。』とある。]。
]
八八二 四月二十四日
日本東京市外田端四百三十五 芥川道章樣 平信
消印二十五日 四月二十四日 支那上海萬歳館内 芥川龍之介
拜啓上海着後風邪の全快致し居らざりし爲乾性肋膜炎を起しただちに里見病院へ入院、治療し候所幸手當早かりし經過よろしく今日退院致す事と相成候されどこの爲約三週間あまり病院生活を致し侯爲豫定に大分狂ひを生じ候へば北京へ參るのも五月下旬に相成る事と存じ侯もし今後體の具合惡く候はば北京行きは見合せ、揚子江南岸のみを見物して歸朝致すべく候入院中手紙かんかと思ひ候も入らざる御心配をかけて詮なき事と存じ今日までさし控へ候されど一時は上海にて死ぬ事かと大に心細く相成候幸西村貞吉、ジヨオンズなど居り候爲何かと都合よろしくその外知らざる人もいろいろ見舞に來てくれ、病室なぞは花だらけになり候且又上海の新聞などは事件少き故小生の病氣の事を毎日のやうに掲載致し候井川君の兄さんには「まるで天皇陛下の御病氣のやうですな」と苦ひやかされ候今後は一週間程上海に滯留の上杭州南京蘇州等を見物しそれより漢口の方へ參るつもりに候 以上
四月二十四日 上海萬歳館内 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 宿所録並に父上文子の手紙確に落手致候今後も北四川路村田孜郎氏方小生宛手紙を下さらばよろしく候その節はなる可く母上伯母上も御かき下され度日本を離れると家書を讀む事うれしきものに候
末筆ながら父上御酒をすごされぬやう願上候病氣以來小生も支那旅行中一切禁煙の誓を立て候兎に角病氣になると日本へ歸りたくなり候されど社命を帶びて來て見ればさうも行かずこの頃は支那人の顏を見ると病にさはり侯
[やぶちゃん注:新全集書簡番号949。底本では「上海から 芥川道章宛」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。詳しくは「上海游記 五 病院」を参照。
・「乾性肋膜炎」乾性胸膜炎。肺の胸膜(=肋膜)部の炎症。癌・結核・肺炎・インフルエンザ等に見られる症状。胸痛・呼吸困難・咳・発熱が見られ、胸膜腔に滲出液が貯留する場合を湿性と、貯留しない乾性に分れる。以前にこの乾性肋膜炎の記載を以って芥川を結核患者であったとする早とちりな記載を見たことがある。この初期の芥川の意識の中に、そうした不安(確かに肋膜炎と言えば結核の症状として典型的であったから)が掠めたことは事実であろうが、旅のその後、それらを帰国後に記した「上海游記」の筆致、更にはその後の芥川の病歴を見ても、結核には罹患していない。
・「里見病院」神田由美子氏の岩波版新全集「上海游記」注解によると、院長は内科医里見義彦で、『密勒路A六号(当時この一帯は日本人街。現、上海氏虹口区峨嵋路十八号)にあった赤煉瓦四階建の左半分が里見病院。芥川の病室は二階の細い通路に面したベランダつきの一室』とある。現在はアパートになっているが、建物そのものは現存しているらしい。芥川の渡中の出迎えにも出た大阪毎日新聞社上海支局長村田孜郎が、院長の俳句の仲間であった縁故での入院。
・「北京へ參るのも五月下旬に相成る事と存じ侯」実際には北京着は大きくずれ込み、6月14日。
・「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。「長江游記」の「一 蕪湖」等も参照。
・「ジヨオンズ」Thomas Jones(1890~1923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、「上海游記」の「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい。
・「井川君の兄さん」は、井川亮。当時、南満州鉄道株式会社に勤務していた、八六二書簡の相手である芥川の一高時代の無二の親友井川恭の兄である。この頃、上海に滞在していた]
八八三 四月二十四日
上海から 薄田淳介宛
拜啓その後御無音にうちすぎました度々御見舞を頂き難有く存じます小生の病氣はやはり大阪の風邪が十分癒つてゐなかつた爲乾性肋膜炎を起したのです醫者は一月程靜養しろと云ひましたが手當てが早かつたせゐか咽喉の加太兒を除き殆平癒しましたから早速見物旅行に出かけようと思ひますもしその途中又惡くなつたら見物は一まづ長江沿岸宜昌までに切り上げ一度歸京養生の上北京へは秋に行かうかとも思つてゐます勿論この儘體の具合がよければすぐに漢口から北京へ向ひます出直すとなると億劫ですから。この手紙はとうに書くつもりでしたが病中病後の懶さの爲今日まで延引しました不惡御ゆるし下さい昨日退院今日はこれから村田君と支那文人訪問に出かける所です。昨日は退院後すぐに城内を見物、乞食と小便臭いのとに少からず驚嘆しました 以上
四月廿四日 上海萬歳館 芥川龍之介
薄田淳介樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号950。封筒はないものと思われる。
・「加太兒」「カタル」と読む。外来語。“catarrhe”(オランダ語)又は“Katarrh”(ドイツ語)で粘膜の滲出性炎症のこと。粘液分泌が顕著に見られ、上皮組織の剥離・充血を伴う症状。
・「宜昌」湖北省西部、長江の三峡下流に位置する港湾都市。長江遊覧や貨物船の寄港地。してみると芥川は三峡だけは見たいと思っていたらしいことが窺われる(実際には取り止めている)。
・「今日はこれから村田君と支那文人訪問に出かける所です」この叙述が正しいとすると、現在、芥川龍之介年譜で「26日」にクレジットされている芥川の鄭孝胥(彼とは2回会見しているがその初回に相当)・章炳麟の訪問は「24日」であったことになる。これは年譜上大きな変更点となる。そもそも鷺只雄氏が河出書房新社1992年刊の「年表作家読本 芥川龍之介」で「26日」とした根拠は何だったのだろう。新全集の宮坂氏も「26日」とし、この書簡ではなく、後掲する八八五書簡(新全集書簡番号952)を根拠として挙げられているのだが、何故、こちらを取らず、あっちを取るのか? 私には分からない。
・「村田君」は前掲の村田孜郎。]
八八四 四月二十五日
東京市本郷區湯島天神町一ノ九八 岡榮一郎君
(「Shanghai Public Garden」と題した繪葉書)
この公園Public Gardenと云へど支那人の入るを許さずしかもシベリア邊から流れこんだ碧眼の立ん坊はぞろぞろ樹下を徘徊してゐる
四月二十五日 上海 芥川生
[やぶちゃん注:新全集書簡番号949。底本では「上海から 岡榮一郎宛(繪葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。「上海游記」の「十二 西洋」及び「十四 罪」を参照。
・「Public Garden」現在、上海随一の観光スポットである外灘(“Wàitān”ワイタン『外国人の河岸』の意 英語名“The Bund”バンド)にある黄浦公園が相当するが、大きさは往時とは全く異なる。外灘は黄浦江岸の中山路(中山東路)に沿ってあるが、その東側にこの“Public Garden”パブリック・ガーデンが広がっていた。1868年にイギリスが領事館前の浅瀬を埋め立てて造成した公園。現在は中山路の拡張に伴い、細い帯のようにしか公園は残っていない。
・「支那人の入るを許さず」“Public Garden”には入口に「華人與狗不得入内」という看板が立っていたことで有名であるが、租界内の公園はどこも同様で、1928年までこの立入禁止は続いた。]
八八五 四月二十六日
日本東京市京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君
二十六日 (繪葉書)
鄭孝胥、章炳麟なぞの學者先生に會つた鄭先生要は書ではずつと前から知つてゐたから會つた時にはなつかしい氣がした 章先生も同樣。この先生はキタナ好きだものだから細君に離婚を申込まれたさうだが襟垢のついた着物を着て古書堆裡に泰然としてゐる所は如何にも學究らしかつた
上海 龍
二伸「その日次の日」新潮に載る由可賀稻田君にはがきを書きたいが住所不明につき書けない よろしく云つてくれ給へ
[やぶちゃん注:新全集書簡番号952。「上海游記」の「十一 章炳麟」及び「十三 鄭孝胥」を参照。
・「鄭孝胥」(Zhèng Xiàoxū ヂョン シアオシュー 1860~1938)は清末の1924年総理内務府大臣就任(最早、清滅亡を眼前にして有名無実の職であったが、失意の溥儀によく尽くし、後、満州国にあってもその誠心を貫いた)、後、満州国国務院総理(首相)となった。詩人・書家としても知られる。ウィキの「鄭孝胥」によれば、1932年の『満州国建国に際しても溥儀と一緒に満州入りし』、1934年、初代国務院総理となったが、『「我が国はいつまでも子供ではない」と実権を握る関東軍を批判する発言を行ったことから』1935年辞任に追い込まれた。
・「章炳麟」(Zhāng Bĭnglín ヂャン ビンリン 1869~1936)は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは本文で本人が直接話法で語るように、彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅(Lǔ Xùn ルー シュン 本名周樹人 1881~1936)は生涯に渡って一貫して師としての深い敬愛の情を示し続けた(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。
・『「その日次の日」』これは「ある死、次の死」の誤りである(筑摩全集類聚版では「その死次の死」と記されており、宮坂覺氏の新全集注解ではそのまま「その日次の日」で誤記表記がない)。同年5月の『新潮』掲載された佐々木茂索の小説。今後、芥川龍之介全集では誤記注記が不可欠である。
・「稻田君」筑摩全集類聚版脚注・宮坂覺氏新全集注解共に『未詳。』。新潮社の社員か? 識者の御教授を乞う。]
八八六 四月三十日
上海から澤村幸夫宛
拜啓先達は御手紙難有く存じますその後やつと病氣快復毎日人に會つたり町を歩いたりして居りますさうなつて見ると何處へ行つても必人が「澤村さんから手紙が來ましてetc.」と云ひます私の爲にあなたが方々へ紹介状を出して下さつた難有さが異國だけに身にしみますおかげで短い日數にしては可成よく上海を見ましたこれは村田君も保證してくれます人では章炳麟、鄭孝胥、李經(?)邁等の舊人及余穀民李人傑等の新人に會ひました李人傑と云ふ男は中々秀才です場所は徐家匯以外大抵一見をすませました徐家匯は領事館がまだ見物許可證をくれないのです御教示の書物はまだ見つかりません明後日は杭州へ出かけます 頓首
四月三十日 芥川龍之介
澤村先生 侍史
[やぶちゃん注:新全集書簡番号953。封筒はないものと思われる。底本では「徐家匯」の「匯」は(くがまえ)の左に(へん)として「氵」が出る字体であるが、通用字体に改めた。
・「村田君」は前掲の村田孜郎。
・「李經(?)邁」筑摩全集類聚版脚注『未詳。』、新全集人名索引に挙げず。人名間違い連発の芥川が「?」を打つとなると、「經」の字自体が甚だ怪しいのだが、実は「李經邁」なる人物が、いるのである。李鴻章の子である。駐英公使であり、溥儀に初めてのヨーロッパ人教師(帝師)ジョンストトンを推薦した人物でもある。芥川もその旅行の参考にした徳富蘇峰の中国行で、蘇峰が面会している人物でもある。識者の御教授を乞うものである。因みに父親の李鴻章Lĭ Hóngzhāng(りこうしょう、リ・ホゥォンチャン 1823~1901)は清代の政治家。1850年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となる。1853年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ねて北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、25年間その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとした運動中国で19世紀後半におこった上からの近代化運動)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争(明治27(1894)年~明治28(1895)年)の敗北による日本進出や義和団事件(1900~1901)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」及び中国国際放送局の「李鴻章―清の末期の政治家」の記載を主に参照した)。
・「余穀民」は「上海游記 十五 南國の美人」に登場する「余洵」であるが、その注で私はこれを「右任」(ゆうじん)の誤りではなかろうかと記した。于右任(Yú Yòurèn ユー ヨウレン 1879~1964 和訓では「うゆうじん」又は「うゆうにん」)は清末から中華民国にかけての文士・書家にして政治家・軍人・実業家。中国同盟会以来の古参の革命派であり、国民政府の監察院院長として知られる。「神州日報」を創刊し社長となった。若き日には日本に留学しており、後述される「徳富蘇峰氏を感激させた」話とも合致する。「穀民」という号など一致する資料を見出せないが、「右任」の音「ゆうじん」は「ゆじゅん」と極めて発音が近くはないか? 但し、ウィキの「于右任」の記載には、『1912年(民国元年)1月、南京で中華民国臨時政府が設立されると、交通部次長に任命された。翌年3月に、宋教仁が暗殺されると、袁世凱打倒のために、二次革命(第二革命)などに参与した。護法運動開始後の1918年(民国7年)、故郷に戻り、胡景翼と共に陝西靖国軍を組織して、于右任が総司令となった』とし、直後に『1922年(民国11年)5月、上海に遷り、葉楚傖と共に国立上海大学を創設し、于右任が校長となった』という記載がある。この文脈から言うと、1921年当時、于右任は上海ではなく、出身地の陝西省三原県にいたことになる。しかし、「神州日報」の社長で在り続けたとすれば、芥川の上海滞在時に、彼と上海で逢ったとしても、決して不自然ではない。識者の御教授を乞う。
・「李人傑」李人傑は李漢俊(Lĭ Hànjùn リ ハンチュィン 1890~1927)の別名。日本に留学、1918年東京帝国大学卒業後、上海で翻訳著述に携わりながら、革命を鼓吹。1920年8月に陳独秀らと上海で共産主義グループを組織、週間雑誌『労働界』を創刊した。1921年7月には中国共産党第1次全国代表大会に参加、創立メンバーの一人となった(後に党は離脱している)。その後、上海大学・武昌中山大学等の教授をし、国民党支配の時代には湖北省政府教育庁長となるが、国民党右派の反共活動には終始抵抗し続けた。辛亥革命失敗後に逮捕・殺害された。享年37歳。解放後、中央人民政府は現在、彼を烈士の列に加えている。芥川は28歳とするが、この時彼は、31歳であった(中文「紅色旅游」の以下のページを自己流に読み、参考にした)。「上海游記 十八 李人傑」参照。
・「徐家匯」「じょかわい」と読む。現在の上海市西部にある徐匯区のこと。その主な部分は旧徐光啓の邸宅跡である。19世紀にはフランスのイエズス会の天主堂が置かれ、中国でのカトリック教会布教本部となった。日本が設置した私立学校同文書院もここにあった。現在は市区と郊外とを結ぶ交通の中心で、上海を代表する商業エリアでもある。徐光啓その他徐家匯については「上海游記 二十 徐家匯」を参照のこと。]
八八七 五月二日
日本東京市牛込區早稻田南町七夏目樣方 松岡讓樣 (繪葉書)
杭州より一筆啓上、西湖は小規模ながら美しい所なりこの地の名産は老酒と美人、
春の夜や蘇小にとらす耳の垢
五月二日 芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号954。松岡譲(まつおかゆずる 明治24(1891)~昭和44(1969)年 本名松岡善譲(ぜんじょう))は小説家。以下、思うところあってウィキの「松岡譲」の記述を引用する(改行部は/を置いた)。『新潟県古志郡石坂村大字鷺巣(現長岡市鷺巣町)出身。父親は真宗大谷派定正院の僧侶。』『本来なら父を継いで僧侶になるべき立場だったが、幼い頃から仏門の腐敗を目の当たりにして育ち、生家に強く反撥した。第一高等学校を経て東京帝国大学文学部哲学科に在学中、夏目漱石の門人となる。漱石の長女筆子の愛を巡って同門の久米正雄から嫉視される。筆子からの愛の告白に応じ、1918年、大学卒業の翌年に筆子と結婚。/1922年、久米が小説『破船』の中に松岡を卑劣漢として登場させ、あたかも不正な術策を弄して筆子を掠奪したかのように事実を歪めて描いたため、松岡は永らく誤解を受け、社会からの冷遇に苦しんだ。』『自伝小説『法城を護る人々』はベストセラーとなった。法蔵館より全3巻で再刊された。ほかに20世紀初めの敦煌を舞台にした『敦煌物語』が講談社学術文庫で、のちに平凡社で再刊された。/また漱石夫人夏目鏡子の談話をまとめた『漱石の思ひ出』も文庫などで広く読まれた。/筆子の一件以来、久米とは不倶戴天の間柄だったが、久米の死の直前に和解を果たしている。』……全く以って芥川には何の関係もないのだが……私は不勉強にして松岡譲の細かな事蹟を今回始めて知ったのだが……これはあの「彼」に似ていないか? あの「K」に……。
「江南游記」の西湖の章群(特に「七 西湖(二)」)を参照。
・「蘇小」は「蘇小小」で、5世紀末の南斉の銭塘(せんとう:現・浙江省杭州市の古名)にいたという名妓。現在の彼女の墓は西湖の北西、西泠(せいれい)橋畔にある。後に名妓の一般名詞となった。]
八八八 五月二日
日本東京京橋區尾張町時事新報社内 佐々木茂索君 (繪葉書)
西湖は余り纖巧な美しさが多すぎて自由な想像を起させない(雷峰塔だけは例外だが)今日西湖見物の序に秋瑾女史の墓に詣でた墓には「鑑湖秋女俠之墓」と題してある女史の絶命の句に曰「秋風秋雨愁殺人」この頃の僕には蘇小々より女史の方が興味がある
五月二日 龍之介
二伸 僕の通信は時事には發表しないでくれ給へ社の方がやかましいから 以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号955。「江南游記」の西湖の章群(特に「七 西湖(二)」)を参照。
・「雷峰塔」雷峰は西湖湖畔の浄慈寺の前にある丘の名。西湖北岸にある宝石山保俶塔と対した南山の景勝。昔、雷氏が庵を造ったので雷峰という地名を得た。雷峰塔は呉越王の王妃黄氏の男子出産を喜んで造営した黄妃塔であるが、芥川が見た後、1924年に倒壊し、現在のものは2002年の新造。
・「秋瑾」(Qiū Jĭn チィォウ チン しゅうきん 1875~1907)清末の女性革命家。18歳で官僚に嫁したが、義和団運動に影響されて家庭を捨てて、日本に留学、革命を鼓吹するとともに、女性の自立を訴える文章を発表、明治38(1905)年の帰国後は教員をしながら、浙江省の革命秘密結社光復会の会員として本格的な革命運動に身を投じた。1907年、徐錫麟(じょしゃくりん 1873~1907)らとともに武装蜂起を計画したが失敗、同年7月、浙江省紹興軒亭口の刑死場で斬首処刑された。享年32歳。遺骨は各地を転々とし、処刑4年後の辛亥革命の後には、芥川が参った場所に移されて孫文の献辞も掲げられたが、その後、文化大革命で墳墓は荒らされ、遺骨も散逸した。文革後に遺骨の再追跡調査がなされ、再び西冷橋畔に建立されたという。従って現在のものは頗る新しいものである(秋瑾の事蹟は主に小学館「日本大百科全書」の伊藤昭雄氏の記載を参照した)。
・「鑑湖秋女俠之墓」の「鑑湖秋女俠」は秋瑾の号。「鑑湖」は紹興(秋瑾の原籍地)の南西にある湖の名。
・「秋風秋雨愁殺人」「秋風秋雨 人を愁殺す」は秋瑾が紹興での処刑に臨んで詠んだ辞世のと伝えられている詩。
・「時事」は雑誌『時事新報』のこと。当時、佐々木は時事新報社文芸部長であった。
・「社」芥川龍之介は大阪毎日新聞社社員であった。]
八八九 五月四日
杭州から 南部修太郎宛(繪葉書)
杭州に來た今新々旅館の一室に名物の老酒をひつかけてゐる窓の外には月のない西湖、もうの螢の飛ぶのが見える多少のノスタルジア 以上
二伸 立つ前に寫眞を難有う
[やぶちゃん注:新全集書簡番号956。南部修太郎(明治25(1892)年~昭和11(1936)年)は小説家。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。そして――秀しげ子――芥川が中国行を望んだもう一つの理由であった不倫しながら既に嫌悪の対象となっていた彼女からニグザイルすること――そのしげ子の肉体を芥川が知らずに共有していた男でもある。
・「新々旅館」西湖湖畔を望む現・杭州新新飯店“HANGZHOU THE NEW HOTEL”。洋風建築のホテル。蒋介石・宋美齢・魯迅といった著名人ゆかりのホテルで、孤雲草舎(1913年に建てられた西楼)、新新旅館(1922年に建てられた中楼。現在、省級文物保護建築群に指定されている)、秋水山荘(1932年に建てられた東楼)から成る、と中国旅行会社サイトなどにある。この記載から見ると、芥川が泊まったのは孤雲草舎である(写真で見る限り、これも西洋建築)。
・「もうの螢の飛ぶのが見える」「江南游記」の「四 杭州の一夜(中)」で芥川は以下のように述べている。
ふとあたりを透かして見ると、何時か道が狹くなつた上に、樹木なぞも左右に茂つてゐる。殊に不思議に思はれたのは、その樹の間に飛んでゐる、大きい螢の光だつた。螢と云へば俳諧でも、夏の季題ときまつてゐる。が、今はまだ四月だから、それだけでも妙としか思はれない。おまけにその光の輪は、ぽつと明るくなる度に、あたりの闇が深いせいか、鬼灯(ほほづき)程もありさうな氣がする。私はこの青い光に、燐火を見たやうな無氣味さを感じた。と同時にもう一度、ロマンテイツクな氣もちに涵(ひた)るやうになつた。
なお、勿論、このホタルは大きさも成虫になる時期からも本邦の鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目ホタル上科ホタル科Lampyridaeホタル亜科 Luciolinaeの代表種ゲンジボタルLuciola cruciataやヘイケボタル Luciola lateralis等とは異なった種である。中文のウィキの「螢科」(元は簡体字)のページを見るとホタル科Lampyridae以下に、下記9属が示されている。
脈翅螢屬 Curtos
雙櫛角螢屬
Cyphonocerus
弩螢屬
DrilasterEllychnia
Hotaria
螢屬 Lampyris
鋸角螢屬 Lucidina
熠螢屬 Luciola
Photinus
Photuris
黑脈螢屬
Pristolycus
Pyractomena
窗螢屬 Pyrocoelia
垂鬚螢屬
Stenocladius
リストの内、「熠螢屬」が本邦のホタル属と同属であるが、掲げられた種名は異なっている(本邦産Luciola属のルーツは中国でないかと推定され、現在、その検証プロジェクトが進行している模様である)。また、この中の中文属名「螢屬」に、中文名で雌大螢火虫Lampyris noctilucaというのがおり、中文ウィキにはその画像もある。これは相当にデカいが、芥川が見たものがこれであるかどうかは不明。昆虫にお詳しい識者の御教授を乞うものである。]
八九〇 五月五日
日本東京下谷區上野桜木町十七 江口渙宛
(繪葉書)
西湖から又上海へ歸つて來たもう上海も一月になる尤もその間二十日は病院にゐた今日は蒸暑い雨降り、隣の部屋には支那の藝者が二人來て胡弓を引いたり唱つたりしてゐる二三日中には蘇州から南京の方へ行くつもりだ
燕や食ひのこしたる東坡肉
五月五日 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号957。底本では「上海から 江口渙宛(繪葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。江口渙(えぐちかん 明治20(1887)年~昭和50(1975)年)は小説家。漱石門下。大正9(1920)年、日本社会主義同盟中央執行委員。昭和2(1927)年、無産派文芸連盟結成(翌年解散)、昭和3(1928)年、日本左翼文芸家総連合結成に参加、昭和5(1930)年、日本プロレタリア作家同盟中央委員長。昭和8(1933)年、小林多喜二葬儀委員長(それを理由に検挙さる)。戦後も一貫して民主主義作家としての地位にあった。昭和36(1961)年には日本共産党中央委員に選出されるが、昭和39(1964)年に新日本文学会から除名される。翌昭和40(1965)年に非共産系の日本民主主義文学同盟創立大会で議長となり死去までその職にあった(以上はウィキの「江口渙」を参照した)。
・「東坡肉」中国杭州の浙江料理として名高い東坡肉(トンポォロウ)。豚バラ肉を柔らかく煮込んだもの。脂っこい。北宋の詩人にして政治家蘇軾(東坡は号)がここへ左遷された時、好んで食べたとも、自ら料理したとも言われることからこの名を持つ。]
八九一 五月五日
日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
上海 我鬼 (繪葉書)
昨日杭州より歸來、西湖は明畫じみた景色です 夜はもう湖の上に螢が飛んでゐるのに驚きました 杭州は名高い老酒の産地ですが僕のやうな下戸では仕方がありません
燕や食ひ殘したる東坡肉
東坡肉と云ふ料理が脂つこい所を見ると東坡も今の支那人のやうに脂つこいものが好きだつたのでせう
五月五日
[やぶちゃん注:新全集書簡番号958。
・「明畫」明代には、まさにこの浙江地方を拠点とした職業画家による重要な画派としての浙派が誕生している。明画の特徴は山水画にあっては明るい躍動感やアクロバチックな筆法にあり、人物花鳥画では通俗的なマニエリスムが支配するが、全体に庶民的な陽気さを持っているとされる。]
八九二 五月五日
□□(日本)東京市外田□(端)四三五 芥川道章樣
消印九日 五月八日 上海萬歳館 芥川龍之介
拜啓その後無事消光いたし居候間御安心をねがひます昨日杭州からかへりました二三日中には蘇州南京から漢口の方へ行くつもりです今日五月五日につき比呂志の初の節句だなと思ひました皆々樣御丈夫の事と存じます御用の節は(御用がなくても)支那湖北漢口英租界武林洋行内宇都宮五郎氏氣附僕にて手紙を頂けば結構です梅雨前は日本も氣候不順と思ひます伯母樣なぞは特に御氣をおつけ下さいお父樣もあまり御酒をのむべからず支那にもお母樣のやうな鼻をしたお婆さんがゐます文子よりもつと肥つた女もゐますなほ別封は上海の新聞切拔です僕の事が三日續きで出るなぞは恐縮の外ありませんそれから上海から小包にて本を送りました南京蟲をよくしらべた上二階にでもお置き下さいずゐぶん澤山の本ですよ 以上
二伸この間家へかへつた夢を見ました本所の家でした義ちやんが來てゐました皆が幽靈だと云つて逃げました伯母さんは逃げませんでした眼がさめたら悲しくなりました夢の中では比呂志がチヨコチヨコ駈けてゐました上海の奧さん連が僕に銀のオモチヤをくれました(一つ二十圓位のを二つ)文子の御亭主上海では大持てです 以上
五月五日 龍之介
皆々樣
[やぶちゃん注:新全集書簡番号959。底本では「上海から 芥川道章宛」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った(「□」は新全集編者による判読不能字であるが推測して下に丸括弧で補った)。芥川は前日の4日夕方に西湖から上海に戻っている。
・「消光」月日を送ること、日を過ごすことの意であるが、通常は手紙文で自分の側について、健康に大過なく過ごしているという定式的な意味で、「小生は無事消光致しております」等としか用いない。
・「二三日中には蘇州南京から漢口の方へ行くつもりです」これによって芥川は当初、南京から漢口、そして北京へとストレートの向かおうと思っていたことが伺われる。実際には、南京で体調の異常を感じ、上海に一度戻っている。
・「五月五日につき比呂志の初の節句だなと思ひました」芥川は比呂志の初節句の祝いに南京で祝いの着物を買っていることが九〇〇書簡に現れる。
・「宇都宮五郎」(生没年未詳)。岩波新全集関口安義・宮坂覺編になる「人名解説索引」に『1920年代の中国漢口(現・武漢)イギリス租界にあった武漢洋行の商社マン。芥川の中国特派旅行の際、漢口における連絡先となっており、芥川の漢口滞在には黄鶴楼をはじめとする名所を案内している』「人名解説索引」は『武漢洋行』とし、書簡では『武林洋行』とあるのが不審。「雜信一束」の新全集注解では『英租界武林へ洋行中の宇都宮五郎』という驚天動地の記載が載る。これは、恐らくこの書簡にある通り、「武林洋行」が正しいのではなかろうか。中文サイトの近代史の複数の記述に、当時の租界に進出した企業の中に同名の「武林洋行」という社名を見出せるからである。
・「本所の家」旧の芥川道章の家。本所区小泉町15番地(現・墨田区両国3丁目22番11号)にあった。
・「義ちやん」葛巻義敏(明治42(1909)年~昭和60(1985)年)のこと。芥川の姉ヒサの子。芥川が可愛がった甥。小説家を目指したが、芥川龍之介没後は専ら数多く所持した芥川関連資料(原稿・草稿・メモ)を小出しに公刊する「芥川研究家」であった。但し、そのやり口には多くの疑義や批判が向けられており(校訂の杜撰さや無断加筆等)、研究者の間では頗る評判が悪い。龍之介の盟友小穴隆一などは、芥川の死後、その著作の中で芥川の資料を恣意的に占有しようとしているとして、彼のことを『芥川家に巣食う家ダニ』と呼び、徹底的に糾弾している。私もこの男、如何にも胡散臭く感じる。但し、小穴を父と思え、という芥川の遺書に反して、芥川家は龍之介の死後は小穴と疎遠になる。それはある意味、小穴も自分勝手で恣意的な芥川の真偽不明の怪情報(例えば私のブログ記事「芥川龍之介の出生の秘密」など)をその著作で垂れ流したからでもあろう。]
八九三 上海から(推定)
宛名不明 (下書き)
目下上海にぶら/\してゐる 上海語も一打ばかり覺えた この地の感じは支那と云ふより西洋だ しかも下品なる西洋だね 僕の今坐つてゐる料理屋にも日本人の客は僕一人あとは皆西洋人だ 壁上の英國の皇后陛下の寫眞がそれを愉快さうに見下してゐる
[やぶちゃん注:新全集書簡番号960。本件記載は、私には「上海游記 十二 西洋」を髣髴とさせる。語調も極めて似ている。
・「打」は「ダース」と読む。]
961 五月十日
日本東京下谷區入谷町百六 小澤忠兵エ樣
五月十日 支那江蘇省蘇州 芥川龍之介
啓その後御無沙汰いしました 實は風から肋膜炎を起し二十日ばかり上海にねてゐたのです 四五日前病起やつと杭州から蘇州へ來ました 昔の姑蘇の都ですが稍頽廢の氣味のある、人氣の好い水の多い所です 乘物に人力車がない爲此處では轎子、驢馬によるばかりです 昨日一日驢馬に乘つたので大分もう腰が据わりました頸へ鈴をつけた順良な驢馬です 城外は桑麻蕭條瑞光寺の廢塔には頂上まで草が生へてゐます今日は天平山、虎邱、寒山寺を見物するつもり、この紙は支那の逢ひ状です 以上
五月九日
最仲先生
[やぶちゃん注:底本にはなく、岩波版新全集第十九巻書簡Ⅲに所載するもの。
・「姑蘇」蘇州の別名。春秋時代の呉の都。南西にある姑蘇山から附いた。厳密には当時の都の位置は現在の江蘇省呉県、蘇州市の南に当たる。
・「轎子」お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を8~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現代中国でも高山の観光地などで見かけることがある。
・「頸へ鈴をつけた順良な驢馬です」この驢馬である。私は何故かこの蘇州北寺の塔の前で撮られた驢馬に跨る芥川龍之介の写真が好きである。芥川が言う通り如何にも「純良な」この驢馬も好きなのである――
・「瑞光寺の廢塔」蘇州で最も古い城門である盤門(元代の1351年の再建になる)の北側にそびえる瑞光寺塔のこと。禅寺として三国時代の241年に創建された。八角七層の塔は北宋初期のもので、高さ43.2m。
・「天平山」天平山は蘇州市西方約14㎞に位置する山で、標高382m(221mとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる。
・「虎邱」は「こきゅう」と読む。虎邱は蘇州北西の郊外約5㎞に位置する景勝地。春秋時代末期、「臥薪嘗胆」で知られる呉王夫差(?~B.C.463)が父王闔閭(こうりょ:?~B.C.496)を葬った場所。埋葬後、白虎が墓の上に蹲っていたことから虎邱と呼ばれるという(丘の形が蹲った虎に似ているからとも)。標高36m。五代の周の961年に建てられた雲岩寺塔が立つ。別名、海涌山(かいゆうざん)。現在は「虎丘」と表記。
・「寒山寺」蘇州中心部から西方5㎞の楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(502~519)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(627~649)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある。言わずと知れた張継「楓橋夜泊」で日本人にはよく知られる。
・「支那の逢ひ状」「逢ひ状」は「差し紙」とも言う。京阪の遊郭で、他の客席に出ている芸妓に対して馴染み客が「その席をはずして自分の方へ来い」招くための札。一般には半紙の四つ切りにしたものの上部を紅く染め(「天紅」と言う)、「誰々様ゆへ千代(ちよい)とにてもおこしの程待入り参らせ候かしく」等と記し、差出人の客の居る茶屋と妓の名を記したもの。以下の辞典頁の「逢い状」の項の記載を参照したが、そこには『これはわが国だけでなく、大正年間に上海でも見たことがある』とある。現在でも、芸者衆が見番から受ける「お出先」へのシフトを記した伝票を「逢い状」と呼んでいるらしい(「花柳界豆事典」の「逢い状」の項による)。「上海游記 十五 南國の美人(上)」に詳しく描かれる。芥川は酒楼で用いられていたその紙を持ち帰って風流に便箋に用いたのである。
・「最仲」は小沢の庵号。八六六書簡参照。]
八九四 五月十日
日本東京市外田端四三五 芥川宛
消印二十一日 五月十日 蘇州にて 龍 (繪葉書)
その後ずつと丈夫です一昨日當地著明日は揚州へ參ります本はつきましたか明日は揚州明後日は南京へ行きます 以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号962。底本では「蘇州から 芥川宛(繪葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。]
八九五 五月十日
東京市本郷區湯島天神町一ノ九八 岡榮一郎宛
消印二十一日 (「蘇州城外虎邱岳劍池」と題した繪葉書)
一昨日蘇州着蘇州は杭州より遙に支那的なり水に臨める家家の気色は直に聯芳樓記を想起せしむは 今日蘇州發明日揚州にある可く候 以上
五月十日 芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号963。底本では「蘇州から 岡榮一郎宛(繪葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。芥川が蘇州に好感を持ったことが、そすいてそれが伝統的文化を自然に感じさせるという意味に於いて素直に中国的であるが故にであったことが分かる。
・「聯芳樓記」は明代の文人瞿佑(くゆう 1341~1427)の伝奇集「剪灯新話」の一篇。楼上の呉郡(蘇州)の金満家薛(せつ)氏の娘、姉の蘭英・妹の蕙英(けいえい)と、楼下の舟に泊まる青年鄭(てい)の詩の遣り取りによる恋愛の成就の物語(「剪灯新話」の主調である志怪性は全くない)。才子佳人譚小説の先駆的作品。この感懐は「江南游記 二十 蘇州の水」で生かされることとなる。]
八九六 五月十日
日本東京本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
五月十日 蘇州 我鬼(繪葉書)
上海にずつと風の爲寢てゐたその爲無沙汰してすま亨なく思ひます昨今やつと旅行開始手始に杭州から蘇州へ來ましたこの孔子廟は宏大なものだが蝙蝠の巣になつてゐる 行くと廟内に雨のやうな音がするから何かと思ふと蝙蝠の羽音だと云ふから驚く 床は糞だらけ、恐る可く臭い明日は揚州へ參る筈 以上
二伸 碧童先生宛の手紙は皆よんでくれましたか
[やぶちゃん注:新全集書簡番号964。
・「孔子廟」蘇州文廟とも。宋の1035年に教育行政の一環として蘇州知事范仲掩によって創建された江南最大の孔子廟である。現在は廟内にある蘇州碑刻博物館としての肩書の方が知られ、儒学・経済・孔廟重修記碑等多数が展示されている。ここに記された蝙蝠のエピソードは「江南游記 十五 蘇州城内(下)」に生かされることになる。]
八九七 五月十日
日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
消印五月十八日 五月十日 我鬼(繪葉書)
外はともかく蘇州だけは先生におめにかけたいと思ひました 寒山寺は俗惡無双ですが天平山の如きは一山南画中の山景です 以上
二伸 明日は揚州に入るつもりです
[やぶちゃん注:新全集書簡番号965。新全集により消印データを補った。宛名にある「天然自笑軒」は宮崎直次郎という養父芥川道草の一中節の相弟子が経営していた会席料理屋で、田端への移転もこの宮崎の紹介であった。芥川龍之介の結婚披露宴もここで行われ、芥川家からも目と鼻の先である。下島医師の家は、この天然自笑軒の道を挟んだ西北斜め前にあった。
・「先生におめにかけたい」前に掲げた下島のデータにも記したが、彼は書画骨董にも造詣が深かった。
・「寒山寺」蘇州中心部から西方5㎞の楓橋鎮にある寺院。南北朝の梁(南朝)武帝の天監年間(502~519)に妙利普院塔院として創建されたが、唐の貞観年間(627~649)に伝説的禅者であった寒山がここに草庵を結んだという伝承から、後、寒山寺と改められた。空海が長安への道中、船旅で立ち寄っている所縁の地でもある。言わずと知れた張継「楓橋夜泊」で日本人にはよく知られる。この『俗惡無双』の寒山寺については「江南游記 十九 寒山寺と虎邱と」を参照。
・「天平山」蘇州市西方約14㎞に位置する山で、標高382m(221mとするものもある)、奇岩怪石と清泉、楓の紅葉で知られる。こちらの感懐は「江南游記 十六 天平と靈巖と(上)」を参照。]
八九八 五月十四日
南京から 中戸川吉二宛(繪葉書)
蘇州では留園と西園とを見た西園は留園の規模宏壯なのに到底及ばぬしかしどちらも太湖石や芭蕉や巖桂が白壁の院落と映發してゐる所は中々見事だ願くばあんな邸宅に一日中支那博奕でも打ちくらして見たい
[やぶちゃん注:新全集書簡番号956。中戸川吉二(明治29(1896)年~昭和17(1942)年)は小説家。芥川らの後を受けた第5次『新思潮』の同人で、芥川が期待していた同時代人の一人であった。「団欒の前」「イボタの虫」「反射する心」等。ここでの感懐は「江南游記 二十 蘇州の水」を参照。
・「留園」明の嘉靖年間(1522~1566)の1525年に太朴寺(記載によっては太僕寺)の少卿(寺院の管理を司る長官か)であった徐時泰が私邸の庭「東園」として造園、18世紀末(清の乾隆末)に劉恕の所有となり、改築されて「寒碧荘」、嘉慶年間(1796~1820)に改修され、園主の姓に因んで俗称が「劉園」となり、さらに1874(同治12)年に盛康に買い取られた際、劉の音通で「留園」となった。蘇州四大名園の一つとして「呉下名園之冠」と呼ばれるだけでなく、中国四大名園の一つに数えられている。敷地面積23,310㎡、約2haに及び、東・中・西・北部の4パートに分かれる。東部の居住建築群、中央部は池泉を置き、西に山林、北に田園の風景の趣を造る。それらを巡る回廊にある「漏窓」と称する、多様なデザインの透かし窓からの眺めが、また計算された風景画となっている。私はもう一度行って見たい中国のランドマークの一番にこの「留園」を挙げたいくらい、ここが気に入っている。
・「西園」厳密には戒憧律寺と西花園放生池を総称する俗称。元代に建造・造園、本来の寺名は帰元寺。虎丘路を挟んで留園と隣り合う。
・「太湖石」蘇州近郊の主に太湖周辺の丘陵から切り出される多くの穿孔が見られる複雑な形状をした石灰岩を主とする奇石を総称して言う。
・「巖桂」双子葉植物綱ゴマノハグサ目モクセイ科モクセイ属Osmanthusに属する常緑小高木の総称する語(中国名では桂花)。中国原産。通常、日本で「木犀」と言った場合はギンモクセイ(銀木犀・中国名は銀桂)Osmanthus fragrans var. fragransが多いとされるが、例えば私の場合は圧倒的にキンモクセイ(金木犀・中国名は丹桂)Osmanthus fragrans var. aurantiacusを想起する。また中国では別に「金桂」なるものOsmamthus fragrans var. thunbergiiがあり、こちらは和名でウスギンモクセイと言う。
・「院落」垣根を巡らした建物、若しくは屋敷の中にある中庭。
・「支那博奕」「しなばくち」と読ませるのであろう。筑摩全集類聚版脚注は麻雀のことか、とするが、私はあの俗世離れした留園で打つのには、麻雀では聊か五月蠅すぎる(そもそも四人は閑適には多過ぎる)。これは象棋(xiàngqí シャンチー)若しくは爛柯(囲碁)でなくてはならない気がする。風雅としては囲碁であるが、将棋好きの芥川がわざわざ「支那博奕」としたところを見ると、中国旅行で親しく実見した大きな丸い駒をぱんと打つ(私が南京を訪れた時も路傍で象棋を打つ老人らが如何にも古き好き中国の香りがして印象深かった)あの象棋(シャンチー)であったと私は思うのである。]
八九九 五月十六日
日本東京市本郷區片町百三十四 小穴隆一君
消印二十二日 (繪葉書)
明後日上海鳳陽丸にて漢口へ向ふ筈、どうも健康が確かでないから廬山に登る事は見合せすぐに漢口から北京へ行かうと思ふ支那へ來てもう河童の畫を二枚書いた
五月十六日 上海 龍之介
[やぶちゃん注:底本ではここに空行なしで『〔裏に南京名所烏龍潭の寫眞あり。余白に〕』とある。次の一文が、この洋装の兵隊が写りこんだ烏龍潭の繪葉書の裏の写真の余白に書き入れられているということである。]
支那ノ風景ハ全然西洋ノ文明ト調和シナイ コノ兵隊ノ無風流サヲ見給へ
[やぶちゃん注:新全集書簡番号967。新全集により消印データを補った。この日付から言うと、彼が上海を発つのは、字面通りなら「5月18日」となる。少なくとも鷺氏が「年表作家読本 芥川龍之介」で記す「5月16日」というのは有り得ない。新全集年譜で宮坂氏は上海出発を「5月17日」にクレジットしているが、芥川は誤って書いたのか。しかし、これは実は正しいとも言えるように思われる。即ち、芥川は鳳陽丸の「5月17日深夜」出港を明後日「5月18日」と言っているのである。次の5月17日附九〇〇書簡では、逆にはっきり『今晩船に乘り』と言っているのである。実際にこの出港は相当に遅れたことが「長江游記」の「一 蕪湖」に『西村は私を招く爲に、何度も上海へ手紙を出してゐる。殊に蕪湖へ着いた夜なぞはわざわざ迎への小蒸氣(こじようき)を出したり、歡迎の宴(えん)を催したり、いろいろ深切を盡してくれた。(しかもわたしの乘つた鳳陽丸は浦口(プウカオ)を發するのが遲かつた爲に、かう云ふ彼の心盡しも悉(ことごとく)水泡に歸したのである。)』とある。乗船は「5月17日」であったが、出港は正しく「5月18日」未明であったと考えてよい。
・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客 は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3等200名。昭14(1939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。
・「河童の畫」この二匹の河童は今も中国の何処かで、あの目を炯々とさせてこっそりと筐底に眠っているのであろうか――。
・「烏龍潭」南京市西部清涼門東に位置する、現在の烏龍潭公園(ウーロンタンこうえん)ウィキの「烏龍潭公園」によれば、『公園内には紅楼夢の曹雪芹紀念館、烏龍壁、諸葛飲馬処などがある。かつては諸葛孔明を祀る武候祠があったが2000年頃の再開発で取り壊されている。諸葛飲馬処は諸葛孔明が呉の孫権に謁見するために訪れた際に、この地で馬に水を飲ませたので諸葛飲馬処と称されるようになった場所である。すぐ近くには諸葛孔明が馬を停め休息をとったとされる駐馬坡のある清涼山公園がある。南京での数少ない三国志関連の観光地である』とある。私は妻とその教え子と散策した、この公園が好きである。願くばあんな公園に一日中三国志でも読みくらして見たい――。
・「廬山に登る事は見合せ」廬山には結局登っている。]
九〇〇 五月十七日
日本東京市外田端四百三十五番地 芥川道章樣 平信
消印二十日 五月十七日 上海萬歳館内 芥川龍之介
その後杭州、揚州、蘇州、南京等を經めぐりましたこの分で悠々支那旅行をしてゐると秋にでもならなければ歸られないかも知れませんそれでは閉口ですから廬山、三峽、洞庭等は悉ヌキにしてこれからまつすぐに漢口から北京へ行つてしまふつもりですいくら支那が好いと云つても宿屋住まひを二月もしてゐるのは樂なものぢやありません體は一昨日もここの醫 者に見て貰ひましたが、一切故障はないと云ふ事でした寫眞はとどきましたかもう少しすると揚州や蘇州で寫した寫眞がとどきます南京で比呂志の着物を買ひました支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから此呂志の體ははひらないかも知れません尤もたつた一圓三十錢です僕は見つかり次第本や石刷を買ふ爲目下甚貧乏です北京へ行つたら大阪の社から旅費のつぎ足しを貰ふつもりです(病院費用も三百圓程かかりましたから)一日も早く北京へ行き一日も早く日本へ歸りたいと思つてゐます今晩船に乘り五日目に漢口着そこから北京は二晝夜ですからもう一週間すると北京のホテルに落着けます手紙は北京崇文門内八寶胡同波多野乾一氏氣附で出して下さい皆々樣御無事の事と思つてゐます叔母さんは注射を續けてゐますか、注射は靜脈注射よりも皮下注射の方がよろしいやつてゐなければこの手紙つき次第お始めなさい支那には草決明と云ふお茶代りの妙藥があります僕の實驗だけでも非常に效き目が顯著です歸つたら叔母さんにもお母さんにも飮ませますそれから文子へ、もし人參のエキスがなくなつてゐたら、早速買つてお置きなさいあれば誰でものむけれどないとついのまないから。ついのまないと云ふのが養生を怠る一歩です。
五月十六日 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 唯今手紙落手しました呉服なぞは目下貧乏で買へません土産は安物ばかりと御思ひ下さい
[やぶちゃん注:新全集書簡番号968。底本では「上海から 芥川道章宛」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。ここまで読むと芥川は異常に金銭に細かい(というか神経症的に気にする)男であることが知れてくる。
・「廬山、三峽、洞庭等は悉ヌキにして」とあるが、駆け足ながら廬山・洞庭湖は訪れている。西安にも行く予定であったらしいが、それは取りやめている。
・「もう一週間すると北京のホテルに落着けます」これは直前で記している通り、総ての途中の訪問地を取り止めた場合のことを言っている。実際には彼が北京に着いたのは6月14日(新全集年譜で宮坂氏は11日とするが、この書簡の漢口から北京は二昼夜という叙述が正しければ、11日の早朝便の北京行の汽車があったと仮定して西に入った洛陽から出発したとして、鄭州を経て北京までをその日の内に駆け抜けることはどう考えても不可能である。10日の深夜であったとしてもギリギリであろう。私はやはり11日北京到着説には無理がある気がする。あるとすれば、関口氏が「特派員芥川龍之介」で言う12日が最速限界であろうと思われる)頃、一週間どころか凡そ一ヵ月後であった。
・「波多野乾一」(明治23(1890)年~昭和38(1963)年)は大阪毎日新聞社北京特派員。後に北京新聞主幹・時事新報特派員等を歴任した。戦後は「産業経済新聞」の論説委員として中国共産党を研究、本家の中国共産党からも高く評価された(以下の江橋崇氏の記事を参照)という「中国共産党史」等の著作がある。彼はまた中国人も吃驚りの京劇通で、「支那劇五百番」「支那劇と其名優」「支那劇大観」等の著作がある。また、榛原茂樹(はいばらしげき)のペン・ネームで麻雀研究家としても著名であった。その京劇とその麻雀が結んだ梅蘭芳と由縁(えにし)を記した「日本健康麻雀協会」のHPの江橋崇氏の「波多野乾一(榛原茂樹)と梅蘭芳」は必読。
・「草決明」漢方名は「決明子」(ケツメイシ)とも。バラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属エビスグサSenna obtusifolia、シノニム Cassia obtusifoliaの成熟種子。平行四辺形の独特の形状を成す。目薬や便秘薬として用いられ、健康茶「ハブ茶」としても古くから用いられた。なお本邦で現在、「ハブ茶」と言った場合、このエビスグサSenna obtusifoliaの種子を原料とする。同属にはバラ亜綱マメ目ジャケツイバラ科センナ属ハブソウSenna occidentalisという草があるが、漢方薬処方としては用いられないので注意を要する(こちらの種の和名は江戸時代に毒虫・毒蛇特に南西諸島のハブに咬まれた際の民間薬として用いられたことに由来)。これは「江南游記 二十五 古揚州(下)」詳しい。
・「叔母さんは注射を續けてゐますか」静脈注射又は皮下注射を定期的に行うという伯母フキの病気は不詳である(識者の御教授を願う)が、フキへの芥川の特別な気遣いが感じられる一節である。
・「人參」双子葉植物綱セリ目ウコギ科トチバニンジン属オタネニンジンPanax ginseng。朝鮮人参。朝鮮人参の正式和名はオタネニンジンである。]
九〇一 五月二十日
日本東京市本郷區片町一三四 小穴隆一君
蕪湖 龍 (「天馬會第一回繪畫展覧會出品(高璞女士像)丁悚油繪」と題した繪葉書)
これは現代支那の洋畫なり日本畫でも近頃上海の日本人倶樂部に展覧會を催した支那人ありこの先生は栖鳳なぞの四條末派の影響を受けてゐた要するに現代支那は藝術的にダメのダメのダメなり、
五月二十日
[やぶちゃん注:新全集書簡番号969。新全集により絵のキャプションの正式データを補った。安徽省蕪湖唐家花園西村貞吉の自宅でしたためた消息。
・「丁悚」(dīngsŏng ティンスゥォン ていしょう 1891~1972)中華民国初期の文芸雑誌『礼拝六』(1921年3月~1923年2月刊行分=『礼拝六』「後百期」:芥川が在中時とリンクする)の表紙の多くを手がけた画家にこの名を見出せ、その表紙絵の多くは流行の服に身を包んだ美人画であったという記載がネット上から探し出せた。また、その他の中文記事等を散見すると彼は一種の風刺漫画も書いていたことが分かる。この人(リンク先は簡体字「中華捜蔵 芸術家 丁悚」)であろう。
・「高璞女士像」「璞」は音「ハク」で、あらたま、出土したままの宝玉のことで、天然の美しさを意味する語であるから、高貴で素顔の美しい徳行学識兼備の女性像という一般名詞としてもとれるか。しかし、これは「高璞」を固有名詞の姓名ととるべきであろうか。「女士」は一般に女子の姓名に付ける敬称だからである。姓名なら高璞(gāopú カオプゥ)である。
・「栖鳳」日本画家竹内栖鳳(元治元(1864)年~昭和17(1942)年)のこと。最初は棲鳳と号した。近代日本画の先駆者にして京都画壇の大家。明治33(1900)年にパリ万博で受賞、明治42(1909)年、京都市立絵画専門学校(現・京都市立芸術大学)教授となる。大正2(1913)年に帝室技芸員、大正8(1919)年に芸術院会員、昭和12(1937)年には文化勲章を授章している。芥川は偶然、鳳陽丸で一緒になり、廬山まで同行した。
・「四條末派」現代に続く四条派という意。四条派は現在も連綿と続く日本画壇の最大派閥である。江戸中期の松村呉春(宝暦2(1752)年~文化8(1811)年)を祖として京都画壇の一大勢力となった。竹内栖鳳は明治10(1877)年に四条派の土田英林に絵を習い始め、明治14(1881)年、17歳でやはり四条派の名手であった幸野楳嶺(こうのばいれい)の私塾に入門しているバリバリの四条派である。]
九〇二 五月二十二日
廬山から 石黑定一宛 (繪葉書)
上海を去る憾む所なし唯君と相見がたきを憾むのみ
留別
夏山に虹立ち消ゆる別れかな
大正十年五月二十二日 廬山 芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号970。石黒定一(明治29(1896)年~昭和61(1986)年)は当時、三菱銀行上海支店に勤務しており、上海で知り合った人物で、この書簡を見ても芥川に非常に強い魅力を感じさせた人物であることが分かる。更に、芥川龍之介の「侏儒の言葉」には彼に捧げられた一節さえあるのである。
人生
――石黑定一君に――
もし游泳を學ばないものに泳げと命ずるものがあれば、何人も無理だと思ふであらう。もし又ランニングを學ばないものに駈けろと命ずるものがあれば、やはり理不盡だと思はざるを得まい。しかし我我は生まれた時から、かう云ふ莫迦げた命令を負はされてゐるのも同じことである。
我我は母の胎内にゐた時、人生に處する道を學んだであらうか? しかも胎内を離れるが早いか、兎に角大きい競技場に似た人生の中に踏み入るのである。勿論游泳を學ばないものは滿足に泳げる理窟はない。同樣にランニングを學ばないものは大抵人後に落ちさうである。すると我我も創痍を負はずに人生の競技場を出られる筈はない。
成程世人は云ふかも知れない。「前人の跡を見るが好い。あそこに君たちの手本がある」と。しかし百の游泳者や千のランナアを眺めたにしろ、忽ち游泳を覺えたり、ランニングに通じたりするものではない。のみならずその游泳者は悉く水を飮んでおり、その又ランナアは一人殘らず競技場の土にまみれてゐる。見給へ、世界の名選手さへ大抵は得意の微笑のかげに澁面を隱してゐるではないか?
人生は狂人の主催に成つたオリムピツク大會に似たものである。我我は人生と鬪ひながら、人生と鬪ふことを學ばねばならぬ。かう云ふゲエムの莫迦莫迦しさに憤慨を禁じ得ないものはさつさと埒外に歩み去るが好い。自殺も亦確かに一便法である。しかし人生の競技場に踏み止まりたいと思ふものは創痍を恐れずに鬪はなければならぬ。
又
人生は一箱のマツチに似てゐる。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危險である。
又
人生は落丁の多い書物に似てゐる。一部を成すとは稱し難い。しかし兎に角一部を成してゐる。]
九〇三 五月二十三日
日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣
五月二十三日 (繪葉書)
廬山をすつかり見物するには一週間ばかりかかるさうです 旅程を急ぐ爲山上に一夜とまつて明朝九江へ下りすぐに漢口へ上るつもりです 今の廬山は殆西洋人どもの避暑地にすぎません
二伸 蕪湖にて御手紙拜見、難有く御禮申上げます 廬山行同行は竹内栖鳳氏、
[やぶちゃん注:新全集書簡番号971。末尾読点はママ。]
九〇四 五月三十日
長沙から 與謝野寛 同晶子宛 (繪葉書)
しらべかなしき蛇皮線に
小翠花(セウスヰホア)は歌ひけり
耳環は金(きん)にゆらげども
君に似ざるを如何にせむ
コレハ新體今樣デアリマス長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ 以上
五月三十日 湖南長沙 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号972。「與謝野寛」は歌人与謝野鉄幹(明治6(1873)年昭和10(1935)年)の本名、「同晶子」は歌人与謝野晶子(明治11(1878)年~ 昭和17(1942)年 本名「志よう」)。芥川龍之介は与謝野鉄幹主宰の『明星』第二次(大正10(1921)年11月~昭和2(1927)年4月・明星発行所刊)の大正11(1923)年1月の第一巻第三号に「本の事」(内容の一部である「各国演劇史」「天路暦程」は同趣旨のものを大正9(1020)年発表の「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」に所収しており、リンク先の私の注で「本の事」版と比較して読める)を寄稿しており(同時期の寄稿者には旧来の星菫派以外に森鷗外・永井荷風・佐藤春夫・堀口大学らがいたが、この時期の『明星』は最早、本来第一次『明星』が内包していた文学的革新性からはほど遠い文芸総合誌の一つに過ぎない)、与謝野晶子とも親しかった(彼女は上野精養軒での芥川中国漫遊の送別会にも出席している)。また後も大正12(1923)年9月第四巻第三号には、この「洞庭舟中」を、そうして芥川の絶唱である恋情抑えがたき片山廣子への「越びと 旋頭歌二十五首」も大正14(1925)年3月第六巻第三号『明星』に載る。
・「蛇皮線」は「じゃびせん」と読む。中国伝統の弦楽器、三弦(弦子)のこと。沖繩の三線(さんしん)や三味線のルーツ。
・「小翠花(シヤウスヰホア)」“xiăcuìhuā”は名花旦として知られた于連泉(1900~1967 本名桂森)を指す。但し、正しい芸名は筱翠花“xiăocuìhuā”(シィアォツォェイホア しょうすいか)である(「筱」は「篠」の本字)。幼い時に郭際湘(芸名水仙花)に師事し、芸名を「小牡丹花」と名乗った。特に花旦の蹻功(きょうこう:爪先立った歩き方の演技を言うと思われる)に優れていた。北京市戯曲研究所研究員を務め、晩年は中国戯曲学校で人材の育成に力を尽くした(以上の事蹟はこちらの個人の京劇サイトの「歴代の主な京劇俳優一覧」を参照させてもらった)。芥川は上海で「彼女」の舞台を見ている。「上海游記」の「九 戲臺(上)」を参照されたい。
・「新體今樣」「今様」は催馬楽や神楽歌といった古歌謡に対して平安中期に起こった新様式の流行歌謡の一つで、和讃の影響を受けており、七五調四句からなる。その現代風にアレンジしたものという謂い。]
九〇五 五月三十日
長沙から松岡讓宛(繪葉書)
揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした漢口ヘ引返し次第直に洛陽、龍門へ向ふ筈
二伸先生の所に孝胥の書が一幅あつたと思ふが如何上海で僕も孝胥に會つた 頓首
長沙 卅日 芥川生
[やぶちゃん注:新全集書簡番号973。
・「澤國」河川・湖沼等の水域の多い地方・国。
・「先生」夏目漱石。松岡の義父である。
・「孝胥」鄭孝胥のこと。八八五書簡注及び「上海游記」の「十三 鄭孝胥」を参照。]
九〇六 五月三十日
長沙から 吉井勇宛 (繪葉書)〔轉載〕
[やぶちゃん注:「〔轉載〕」はこの書簡文が原書簡から起こしたのではなく、昭和4(1929)年2月27日発行の『週刊朝日』からの転載であることを示している。但し、昭和4年7月『相聞』にもこの書簡の影印が掲載されている、と後記にはある。それ以降に、所在が分からなくなったものらしい。]
河豚ばら揚子(ヤンツエ)の河に呼ぶ聞けば君が新妻まぐと呼びけり
五月三十日 湖南長沙 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号974。吉井勇(明治19(1886)年~昭和35(1960)年)は歌人・劇作家。伯爵。歌集に『酒ほがひ』(明治43(1910)年 処女歌集)。芥川は若い頃、彼の歌に傾倒した時期があった。この芥川の短歌の口柄も勇の調べをパロったものである。
・「河豚」イルカ。何と! 芥川は「長江女神」と呼ばれた絶滅した(と推定される)クジラ目ハクジラ亜目ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ属ヨウスコウカワイルカ(揚子江河海豚)Lipotes vexilliferを見、その声を聞いていた! それどころかそれを歌にしていた! ヨウスコウカワイルカの声と姿を詠み込んだ日本の詩歌は恐らく非常に少ないのではあるまいか? 九一二書簡の俳句も参照のこと。
・「ばら」卑小の複数を示す接尾語。
・「揚子(ヤンツエ)」“Yángzĭ”。
・「まぐ」求める、探す、尋ねるの意。この時、吉井勇はこの年に結婚している。但し、ウィキの「吉井勇」の「家族」欄には以下の記載がある。『最初の妻・徳子は、歌人柳原白蓮の兄である伯爵柳原義光の次女。1921年に結婚したが、1933年の不良華族事件で徳子が中心人物であることが発覚してスキャンダルとなる。事件後は離婚して隠居し、高知県香美郡の山里に隠棲した。』『1937年、国松孝子と再婚。芸者の母を持ち、浅草仲見世に近い料亭「都」の看板美人と謳われていた。翌年、二人で京都へ移住する。勇は「孝子と結ばれたことは、運命の神様が私を見棄てなかつたためといつてよく、これを転機として私は、ふたたび起つことができたのである」(「私の履歴書」)と書いている。』この不良華族事件というのも、不学にして知らなかった。ウィキの「不良華族事件」から引用する(改行は「/」で示した)。『1933年(昭和8年)に発覚した華族の恋愛・不倫事件のこと。/歌人の伯爵吉井勇の妻、徳子(柳原義光の次女・柳原白蓮の姪)は、溜池などのダンスホールを舞台に近藤廉平男爵の次男の近藤廉治と「自由恋愛」を享楽し、廉治の妻近藤泰子(白洲正子の姉)はダンス教師と恋仲となり、有閑マダムにダンス教師の紹介、男性交換など、反社会的な乱倫な行為は華族社会を震撼させた。/さらに花札賭博、麻雀賭博についても摘発された。このとき検挙、召喚されたのは里見弴(46)、文藝春秋専務の佐々木茂索夫妻、久米正雄(43)、川口松太郎(35)など15名だった。/その事件の結果、徳子は「華族の礼遇を停止」、近藤夫妻は「華族の族称を除く」処分となった。』芥川龍之介亡き後であるが、吉井勇・妻徳子・柳原白蓮・里見弴・佐々木茂索夫妻・久米正雄……唖然とするのは、これ皆、芥川と縁の深い人物ばかりであることだ。……おまけに見つけたのは今や大ブレイクの、私の嫌いな白洲次郎の妻である私の嫌いな白洲正子の名……芥川も生きていたら……これは、我鬼先生、失礼をば――]
九〇七 五月三十日
長沙から 石田幹之助宛 (繪葉書)
長沙に來り葉德輝の藏書を見たり葉先生今蘇州にありあの藏書三十五萬卷皆賣拂ふ意志ある由君の所では買はないか好ささうな本があるぜ詳しくは觀古堂藏書目四卷見るべし僕明朝漢口に歸り、二三日後洛陽へ行く筈 以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号975。石田幹之助(明治24(1891)年~昭和49(1974))のこと。歴史学者・東洋学者で、芥川・恒藤の一高時代の同級生。東京帝国大学史学科卒業後、東大に残って史学研究室副手となり、学術調査で中国に渡ってモリソン文庫を受託(大正6(1917)年三菱財閥総帥岩崎久弥が中華民国総統府顧問ジョージ・アーネスト・モリソン所蔵の中国関連欧文文献の膨大なコレクションを購入した際のモリソン文庫主任としての仕事を指す)、その後身である財団法人東洋文庫主事となって17年間に渡って文庫の充実に尽力した。
・「葉德輝」(1864~1927)淸末民初の儒者。保守派の巨頭として中華民国初期には湖南省教育会会長等に着任しているが、政変により逃亡、この頃には長沙に流謫していた。但し、その該博な考証学的知力やその蔵書の多さで富に知られた学者であった。1927年、当時の農村での急激な共産主義運動の中で生まれた長沙農民協会及び人民革命そのものを激しく批判する文書を書き、人民裁判によって死刑判決を受け、斬首の上、晒し首となった。その批判詩が「詩詞世界 碇豊長の漢詩 燦爛陽光之歌 文化大革命期の詩歌 葉徳輝 絶命詞」で読める。
・「君の所」東洋文庫。但し、正式な財団法人としての東洋文庫の設立は大正13(1924)年である。
・「觀古堂藏書目四卷」湘潭葉徳輝刻「観古堂書目叢刻」4巻本のこと。観古堂は葉徳輝の堂号。即ち葉徳輝所蔵蔵書目録が既に刊行されていたということである。刊行するに足る物量と価値があったということで、因みに、こうした古い蔵書家の目録は現在も出版されている。例えばこれ。本書も所収している。
・「二三日後洛陽へ行く筈」実際の出発は6月6日夜であった。]
九〇八 五月三十一日
日本東京市外田端五七一 瀧井折柴樣
消印六月二日 五月卅一日 長沙 我鬼 (繪葉書)
君はもう室生氏のあとへ引きこした由僕は本月中旬にならぬと北京へも行けぬ上海臥病の崇りには辟易した長沙は湘江に臨んだ町だが、その所謂淸湘なるものも一面の濁り水だ暑さも八十度を越へてゐるバンドの柳の外には町中殆樹木を見ぬ 此處の名物は新思想とチブスだ 以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号976。新全集により消印データを補った。これは「雜信一束」で、
六 長沙
往來に死刑の行はれる町。チフスやマラリアの流行する町、水の音の聞える町、夜になつても敷石の上にまだ暑さのいきれる町、鷄さへ僕を脅すやうに「アクタガハサアン!」と鬨(とき)をつくる町、………
となり、更に「新思想」と「往來に死刑の行はれる町」に関わって、大正15(1926)年1月、名品「湖南の扇」にインスパイアされることとなる。
・「室生氏」室生犀星。室生の転居先は不明。田端の中で動いた可能性があるか。
・「淸湘」は漢語で湘江の流れの清らかなことを言う美称。
・「八十度」勿論、華氏80 度。80°F=26.7℃。
・「バンド」“bund”は英語で海岸通り・堤防・築堤・埠頭の意(語源はヒンディ語)。上海の場合は、バンド自体が地名の固有名詞として現地で普通に使われるが、ここでは特に特定地区を指すのではなく、普通名詞としての「海岸通り」であろう。
・「チブス」“epidemic typhus”発疹チフス。リケッチアの一種であるRickettsia prowazaekiiの感染を原因とする。主に昆虫綱咀顎目シラミ亜目ヒトジラミ科 PediculidaeのコロモジラミPediculus humanus又はアタマジラミPediculus humanus humanusにより媒介される。ウィキの「発疹(ほっしん)チフス」によれば、潜伏期は1~2週間で、発熱・頭痛・悪寒・手足の疼痛等が突発的に発症し、高い熱を示しながら『全身に広がる発疹が特徴的症状である。皮疹は体幹の斑状の紅斑や丘疹からはじまり次第に手足に広ってゆく。手掌、足蹠をおかさないとされる。重症例では点状出血様になる。頭痛・精神錯乱などの脳症状が強いのも特徴である。致死率は年齢により異なり、20歳まででは5%以下であるのに対して、加齢に伴い増加し、60歳以上では100%近くなる』とある。]
九〇九 六月二日
漢口から 薄田淳介宛
啓最初約束すらく「原稿は途中から送ります」と今にして知るこの約束到底實行しがたしその故は僕陸にあるや名所を見古蹟を見芝居を見學校を見るの餘暇は歡迎會に出席し講演會に出席し且又動物園の山椒魚を見んと欲する如く僕を見んと欲する諸君子を僕の宿に迎へざるを得ず、僕水にあるや船長につかまり事務長につかまり、時にその所藏の贋書僞畫を恭しく拜見せざる可らずその間に想を練り筆を驅らんとせば唯眠を節すべきのみこれ僕を神經衰弱にする所以にして到底長續きすべからず(二日程やつて辟易せり)私に思ふ澤村先生紹介の藥聊利きすぎたるものの如し是に於て僕やむを得ず歸朝後に稿を起さんと欲す、しかも目に見る所、耳に聞く所、忘却し去るを恐るゝが故に、街頭にあると茶樓にあるとを問はず直に手帖を出してノオトを取るこれ僕の近状なり。僕の約を守らざる、責められざれば幸甚なり。且僕上海に病臥する事二旬、時當に孟夏に入らんとす。即ち宜昌峽を見るを抛ち、西安行きを抛ち、僅に洛陽龍門を見て匆々北京に赴かんと欲す。蓋宜昌峽を見るは必しも僕の任にあらず。西安は戰塵未收まらずして實は龍門さへ行かれぬやうな風説を塗に聞くが故なり。天愈暑からんとして嚢底漸冷かならんとす。遊子今夜愁心多し。草々不宜
芥川龍之介拜
薄田先生 侍史
[やぶちゃん注:新全集書簡番号977。封筒はないものと思われる。「澤村先生紹介の藥」は四月三十日附澤村幸夫宛八八六書簡と対比すると面白い。病室からやっと開放された芥川は、そこで『その後やつと病氣快復毎日人に會つたり町を歩いたりして居りますさうなつて見ると何處へ行つても必人が「澤村さんから手紙が來ましてetc.」と云ひます私の爲にあなたが方々へ紹介状を出して下さつた難有さが異國だけに身にしみますおかげで短い日數にしては可成よく上海を見ましたこれは村田君も保證してくれます』と旅行前に中国通の澤村幸夫が在中の多くの知人識者に芥川の来訪を告げ、事前に心配りをしてくれていたことに心底感謝していたものが、一月経って見ると有難迷惑という口振りである。これは如何にも芥川の我儘と言うべきであろう。少なくともそれを同時紀行文発信が不可能な理由の挙げるのは如何にもフェアじゃない(と私は思う。関口安義氏は「特派員芥川龍之介」で芥川に対してかなり好意的に解釈しているけれども)。病み上がりの不安の中にあったとしても、かなり図々しい(都合のいい部分だけはちゃっかり享受していることは『支那游記』を読めば一目瞭然である)。且つ又、彼の筆致は、そうならざるを得ない事実のみを都合よく畳み掛けておいて、はじめっから、紀行文はもう帰国するまで書きません、という独り決めをして書かれている書簡である。おまけに最後にゃ、懐が淋しいなんぞという洒落にならない対句の愚痴まで聞かされた日にゃ、私が薄田ならこの書簡、確実に引き裂いてこの世に存在しないであろう。
・「宜昌峽」このような言い方は通常しないが、これは恐らく長江の「三峡」全体のことを言っている。三峡は長江上流から順に瞿塘峡・巫峡・西陵峡となるが、その最後の西陵峡を出たところにある町が宜昌で、三峡遊覧の拠点。
・「塗」行路の途中、さ中。]
九一〇 六月六日
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
(「A Scene at White Deer Grotto」と題した繪葉書)
子供に御祝の畫を下すつた由家書を得て知る、難有く御禮申上げますこれは朱子の白鹿書院、うしろの山は廬山です僕聊支那に飽き、この頃敷島の大和心を起す事度々
六月六日 漢口 龍之介
金農と云ふ淸朝の畫かき君のやうな書を書く號を多心先生、詩も作る歸つたら複製を御めにかけます
[やぶちゃん注:新全集書簡番号979。新全集では次の九一一書簡と順序が入れ替わる。新全集により絵のキャプション・データを補った。
・「朱子の白鹿書院」の「朱子」は南宋の儒学者である朱熹(しゅき 1130~1200)。儒学を中興、儒教解釈学のチャンピオンである朱子学を打ち立てた。「白鹿書院」は正しくは白鹿洞書院。江西省星子県白鹿洞、廬山東南の麓にあった。朱子学の学問所。唐代に創立後、盛衰を繰り返したが、南宋期に当地の知事となった朱熹が復興、朱熹の名声と共に中国筆頭の書院(講学所)となった。名は創始者であった唐の李渤が敷地内に白鹿を飼い、その地の風情が丘陵に囲まれて洞(ほら)のようであったことに由来する。
・「金農」清の書家・画家であった金冬心(1687~1763)の本名。号は冬心の他、多心・稽留山民・昔邪居士・心出家など。各地を遊歴、生涯在野の自由人として生きた。絵は50歳以後の技で、晩年は揚州で活躍、当時のオリジナリティに富んだ文人画家群を呼ぶ「揚州八怪」の中でも最も知られる一人であった。]
九一一 六月六日
日本東京市外田端四百參拾伍 芥川道章樣 平信
消印二十一日 六月六日 支那漢口 芥川龍之介
拜啓 御手紙漢口にて拜見その後多用の爲御返事今日まで延引しました體はますます壯健故御安心下さい小包の數不審です、今日までに送つたのは
上海より箱六つ 包三つ(コノ内一ツハ後ニテ出シタリ古洋服包)
南京より靴と古瓦(コレハ幾ツニ包ンダカ知リマセン賓來館ノ亭主ニマカセタカラ)
この手紙に書留めの受取りを同封しますから全體の數が合はなかつた節は受取を郵便局へ持ち行き御交渉下さい但し箱幾つ包み幾つと云ふ事は僕の記憶ちがひもあるか知れぬ故全體の數にて御教へ下さい(但シ受取は上海より出した最初の八つだけのです。つまり古洋服包みの外八つあればよいのです)それから箱の上に書いた册數は出たらめです。又中につめた古新聞は當方にてつめたのです。それ故もし小包の數さへ合へば包みを解き、中の本を揃へて下さい。御面倒ながら願ひます。
多分小包みは紛失してもゐず、中の本も紛失してゐぬ事と思ひます 又漢口にて五六十圓本を買ひましたから、明日送ります 包みの數はまだわかりません。僕むやみに本を買ふ爲その他の費用は大儉約をしてゐます漢口では住友の支店長水野氏の家に厄介になつた爲、全然宿賃なしに暮せました。支那各地至る所の日本人皆僕を優遇します。小説家になつてゐるのも難有い事だと思ひました。
明日漢口發、洛陽龍門を見物(三四日間)それから北京へ入ります。漢口を出れば旅行は半分以上すんだ事になります。
小澤、小穴の親切なのは感心です。ハガキの禮状を出しました
内地にゐるとわからないでせうが、僕晝間は諸所見てあるき、夜は歡迎會に出たり、ノオトを作つたりする爲非常に多忙です。新聞の紀行も歸朝後でないととても書けぬ位です。ですからこの位長い手紙を書くのは大骨です。諸方へはがきを書く爲、睡眠時間をへらしてゐる位です。
もう當地は七月の暑さです。
九江にて池邊(本所の醫者)のオトさんに遇ひました二十年も日本で遇はぬ人に九江で遇ふとは不思議です。今は松竹活動寫眞の技師をしてゐます。
皆樣御體御大切に願ひます。夜眼をさますとうちへ歸りたくなる。さやうなら
龍之介 拜
芥川皆々樣
二伸 北京の山本へも手紙を出しました。伯母さんは注射を續けてゐますか。あんまり芝へばかり行つてゐると芝の子が可愛くなつてうちの子が可愛くなくなる。なるべくうちにゐなさい。
[やぶちゃん注:新全集書簡番号962。底本では「六月」と日付を示さず「漢口から 芥川道章宛」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。小包に関する部分は芥川の神経症的とも言える性格が知られる書簡である。
・「賓來館」南京下関にあった日本人経営の旅館。
・「住友の支店長水野氏」未詳。この「住友」は大正6(1917)年に開業されている住友銀行漢口支店と見てよいか。
・「松竹活動寫眞」映画会社名。正式には松竹キネマ株式会社。大正9(1920)年2月に松竹キネマ合名会社が設立されて映画製作を開始し、同年11月には帝国活動写真株式会社が設立された(現在の松竹の創業とされる)。大正10(1921)年に帝国活動写真株式会社を松竹キネマ株式会社と改称する共に松竹キネマ合名会社を合併している。
・「北京の山本」山本喜誉司(明治25(1892)年~昭和38(1963)年。三中時代の親友であり、芥川の妻文子の母方の叔父に当る。東京府立第三中学校では芥川と同級で、極めて親しい交友がその現存する多量の山本宛書簡から伺われる。芥川が塚本(旧姓)文子との出逢ったのも山本の家でであった。当時、三菱合資会社社員として、北京に勤務していた。後年はブラジルに移住、当地の日本人社会のリーダーとして活躍した。
・「池邊(本所の醫者)のオトさん」芥川家は明治43(1910)年10月まで(龍之介18歳)本所小泉町に住んでいた(同月東京府豊多摩郡内藤新宿2丁目71番地(現・新宿区新宿2丁目)の牛乳搾取販売業を営んでいた実父新原敏三の耕牧舎牧場脇の敏三の持ち家に転居)が、その頃の隣組か何かだった、医師「池邊」の、その息子の池邊オトさん、という意味か。
・「伯母さん」芥川フキ。
・「芝」芝新銭座町16番地(現・港区浜松町1丁目)にあった芥川龍之介の実家新原(にいはら)家。
・「芝の子」がよく分からない。芥川には異母弟がいて、龍之介の実母フクの精神病発症後、実父新原敏三にはフクの妹フユ(芥川道章の末妹)が後妻に入って龍之介の7つ違いの異母弟新原徳二(明治32(1899)年~昭和5(1930)年)を生んでいる。この時、新原徳二は22歳であるが、結婚して子供がいたとは思われない。これは推測に過ぎないが、「うちの子」芥川比呂志と並ぶような幼児となると、龍之介の姉ヒサの再婚相手である弁護士西川豊(後に火災保険金詐欺疑惑の中で鉄道自殺)との間に出来た西川晃(大正7(1918)年生まれであるから、この時3歳である)ぐらいしか居ない。しかし、西川晃を「芝の子」と呼ぶのは無理があるようにも思う。識者の御教授を乞う。
・「うちの子」とは芥川比呂志のこと。大正9(1920)年3月11日生まれ。この時満1歳と3ヶ月。]
九一二 六月六日
日本東京市下谷區下谷町一ノ五 小島政二郎樣 (繪葉書)
今夜漢口を發して洛陽に向ふ、龍門の古佛既に目前にあるが如し 然れど漢口に止まる一週日、去るに臨んで多少の離愁あり
白南風や大河の海豚啼き渡る
六月六日 漢口 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号980。
・「白南風」梅雨が明ける6月末頃から吹く南風。「白」は、このそよ風が吹くと空が明るくなることから。しろはえ。しらはえ。夏の季語。
・「海豚」イルカ。九〇六書簡も参照。何ここでも芥川は「長江女神」と呼ばれた絶滅した(と推定される)クジラ目ハクジラ亜目ヨウスコウカワイルカ科ヨウスコウカワイルカ属ヨウスコウカワイルカ(揚子江河海豚)Lipotes vexilliferを見、その声を聞いている。それどころかそれを俳句にしていた。ヨウスコウカワイルカの声と姿を詠み込んだ日本の詩歌は恐らく非常に少ないのではあるまいか? 九一二書簡の短歌も参照のこと。
・「龍門」は河南省洛陽市南方13㎞の伊河の両岸に形成された石窟寺院。中国仏教彫刻史の雲崗期の後を受けた龍門期(494~520)と呼ばれる時期を代表するが、その後も造営維持管理は継続し、龍門石窟自体は唐代の第3代皇帝高宗(628~683)の頃に最盛期を迎える。それを代表するものが高宗の発願になる龍門最大の石窟である675年造営になる奉先寺洞である。]
九一三 六月十日
日本東京市外田端天然自笑軒前 下島勳樣
六月十日 河南鄭州 我鬼生 (葉書)
やつと洛陽龍門の見物をすませました龍門は天下の壯觀です 洛陽は碑林があるばかり、城外には唯雲の如き麥畑が續いてゐます 支那もそろそろ陝西の戰爭がものになりさうです 小生も側杖を食はない内に北京へ逃げて行く事にします 以上
(コノ旅行ハ支那宿、支那馬車ノ苦シイ旅行デス)
[やぶちゃん注:新全集書簡番号981。
・「碑林」西安碑林。西安の孔子廟にある漢代から近代に至る碑石・墓誌群。約2500点。
・「陝西の戰爭」これは恐らく陳樹藩を頭目とする軍閥内抗争を「戰爭」と呼んでいるものと思われる。清末民国の軍人・政治家であった陝西省出身の陳樹藩(1885~1949)は、袁世凱亡き後の軍閥の抗争では段祺瑞(だんきずい)を中心とする安徽派に属し、1916年には陝西督軍となり、実質的な陝西省の支配権を掌握した。しかし、北京政府の主導権を巡って華北地方で段祺瑞と直隷派の曹錕(そうこん)が1920年7月14日に会戦したが、わずか5日間で安徽派の敗北に終わり、段祺瑞は失脚した(安直戦争)。これによって陳樹藩軍は孤立、芥川本書簡の直前である1921年5月、直隷派によって陝西督軍の地位が剥奪され、陳の軍隊はただの流浪不逞集団とされてしまう。同年12月に四川軍により撃破されると、陳は天津へ逃亡、以後、表舞台を去った。(本注は主にウィキのそれぞれの人物の該当記事を参考にした。次の九一四書簡の「唯今支那各地動亂の兆あり」の注も参照されたい)。「ものになりさう」という芥川の謂いは、現在の軍閥割拠の混乱から、とりあえず直隷派による北京政府の実権掌握へと大勢が向かっていること(1922年4月直隷派単独政権樹立)――その最後の戦いのキナ臭さがし始めているから危ないということ――を指しているものか。これは後に「上海游記 六 城内(上)」に生かされるエピソードであると私は思っている。]
九一四 六月十四日
日本東京市外田端四三五 芥川道章樣
消印二十一日 大正十年六月二十四日
支那北京御旅館扶桑館 電話東局六十三番九十三番 芥川龍之介
北京着山本にあひました唯今支那各地動亂の兆あり餘り愚圖々々してゐると、歸れなくなる惧あれば北京見物すませ次第(大同府の石佛寺まで行き)直に山東へ出で濟南、泰山、曲阜、見物の上、青島より海路歸京の筈、滿洲朝鮮方面は一切今度は立ち寄らぬ事としましたその爲旅程は豫期の三分の二位にしかなりませぬが、やむを得ぬ事とあきらめます今度の旅(漢口より北京まで)は至つて運よく、宜昌行きを見合せると宜昌に掠奪起り、漢口を立てば武昌(漢口の川向う)に大暴動起り(その爲に王占元は部下千二百名を銃殺したと云ふ一件)すべて騷動が僕の後へ後へとまはつてゐますこれが前へ前へまはつたら、どんな目にあつたかわかりません體はその後ひき續き壯健この頃は支那の夏服を着て歩いてゐます支那の夏服はすつかり揃つて二十八圓故、安上りで便利ですしかも洋服より餘程涼しい北京は晝暑くても夜は涼しい所です六月末か遲くも七月初には歸れますからそれが樂しみです。山東は殆日本故、濟南へ行けばもう歸つたやうなものです。漢口よりの本屆きましたかあれは運賃荷造り費共先拂ひ故よろしく願ひますまだ北京でも本を買ひます叔母さんにさう云つて下さい袋はとうとう使はずじまひです。南京蟲に食はるのなぞは當り前の事になつてしまひました。僕が東京へ歸る日は前以て電報を打つ故皆うちにゐられたし伯母さんもその日は芝へ行かずにゐられたし芝と云へば弟は眞面目に商賣をやつてゐますか 以上
六月十四日 芥川龍之介
芥川皆々樣
二伸 文子雜誌に何か書いた由諸所の日本人より聞き及びたれどまだ僕自身は讀まず惡い事ならねば叱りはせねど餘り獎勵もせぬ事とは存ぜられたし山本瑤子よりは芥川比呂志の方利巧さうなりもう立てるやうになりしや否や
[やぶちゃん注:新全集書簡番号982。底本では「北京から 芥川道章宛」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。なお、新全集にはこの書簡に同封されていたものとして『新聞切り抜き「文壇の寵児芥川龍之助氏と語る」(一)~(三)三枚』というデータも記されている(「助」はママ)。
・「扶桑館」北京にあった日本人経営になる旅館。【二〇一二年八月七日追記】私の教え子で中国在住のT.S.君が、芥川龍之介が愛した北京での宿であるこの扶桑館について写真を含む詳細な探査報告を送って呉れた。私が要約することによる内容の改悪を恐れるので、ほぼそのままの形で以下に示す(古い写真は何れも九十年以上前のものであり、私藪野直史の責任で掲載した。万一、著作権に抵触するものがあれば御連絡頂きたい)。
*
芥川の北京での宿泊先は、東単牌楼の扶桑館であることが彼の書簡などから確認できます。胡同の名などを用いず「東単牌楼の」扶桑館というくらいですから、牌楼の至近にあったと想像されます。天安門前から東に伸びる東長安街と、南北の崇文門内大街がぶつかる地点です。当時の詳細な地図があれば容易にその位置を特定できますが、これまで調べた限りでは扶桑館を表記した地図はありません。以下、限られた情報を用いてその場所を推定します。
まず扶桑館です。ネットで検索したところ、たった一枚だけですが、写真が確認できました。ホテルのラベルを集めたホームページ上に、満鉄ゆかりの宿泊施設として紹介されています(写真①)。付記によれば同館は明治三十九年(一九〇六年)創業です。
[①扶桑館]
ここで確認できる重要なことは、屋上中央に特徴的な小さいドームを持つ二階建ての洋館であること、正門前の通りはかなり広い(胡同などではなさそう)こと、そして陰影の具合から正門は東または南に面していたと判断できること、です。
次に周辺の古い写真を当たります。まず崇文門内大街。入手できた写真が②~⑤の四枚です。
[②崇文門内大街1(東単牌楼視認可)]
[③崇文門内大街2]
[④崇文門内大街3]
[⑤崇文門内大街4(東単牌楼ヲ望ムとあるが視認不能)]
当時、東単牌楼以東には大通りはなく、胡同が入り組む地域でした。東長安街に接続する形で建国門内大街が一直線に東に伸びている現在の北京とは大きく異なります。②④⑤は東単牌楼から約七〇〇メートル南の崇文門から北を望んだものです。②には遠く北方に東単牌楼が見えています。④⑤の左側には同仁医院の建物と見られる洋館も見えます。当時の北京広域地図を参考にしつつ、これらの写真を見て分かるのは、東単牌楼の西南側の敷地は列強各国の馬場などに使われていて大きな建物が存在しないこと、東長安街の牌楼に面した辺りつまり牌楼の西側には、扶桑館らしい建物は見えないこと、崇文門内大街の東側は住宅等が密集しているものの扶桑館らしい大きな建物は見えないこと、です。
次に東単牌楼の写真です。入手できた写真が⑥~⑩の五枚です。
[⑥東単牌楼南面1]
[⑦東単牌楼南面2(一九一六年以前)]
[⑧東単牌楼南面3(一九一六年以前)]
[⑨東単牌楼南面4(一九一六年以降一九二三年以前)]
[⑩東単牌楼北面(一九一六年以降一九二三年以前:遠方に崇文門)]
ネット上では東四牌楼や西四牌楼の写真と混同されることが多いので注意が必要です。特定にあたって最も確実な証拠は、牌楼に掲げられた額です。一九一六年以前は「就日」、一九一六年以降一九二三年の牌楼撤去までは「景星」でした。また光線の当たり具合と左右の家並などから、南面か北面か判断できます。⑨と⑩は「景星」ですから、まさに芥川来訪の頃です。⑩は牌楼から南を眺めた光景で、一九六六年に撤去されることになる崇文門の城楼が遠くに見えます。先ほどの②を逆から捉えた写真です。牌楼の東側にはやはり扶桑館らしき建物はありません。
さて、いくつか立地の候補が消えました。しかしひとつだけまだ可能性が残っています。東単牌楼の北側で、かつ大通りの西側です。当時の北京広域地図によれば、牌楼から二〇〇メートル余り北に進むと協和医院の敷地になるので、それより南側という条件がつきます。
そういう目で写真を見直します。すると、先生! 写真⑨をもう一度ご覧ください!
[⑨東単牌楼南面4(一九一六年以降一九二三年以前)]
画面の左、空に突き出た屋根の形。これは何でしょうか! これこそ扶桑館のドームの屋根ではないでしょうか。目測ですが、牌楼の北側約一〇〇メートル余りのところです。今のところこれ以上の証拠物件はありません。しかし、以上に述べた様々な間接的理由を背景に、この結論はまず間違いないと感じます。一九一六年以前の写真には、写っていても良さような場所にそのドームは見えませんが、ある日改修になってはじめて、ドーム付洋館になったのかもしれません。
では、以上の前提で、現在の同地点の様子をご報告します。東単牌楼は現在の東単交差点にあり、南北の大通りを跨いでいました。そもそもこの地名こそ、東単牌楼の最初の二文字が残ったものです。写真⑪⑫は現在の東単の交差点です。交差点から北を見た⑪をご覧ください。
[⑪現在の東単交差点(南側の歩道橋より北を望む)]
交差点の北側、歩道橋のさらに向こう、通りの左側に、屋根の上に東屋のような構造物を乗せた七階建てくらいの肌色のビルが見えます。ここから奥が協和医院の敷地です。東単牌楼の建っていた地点は、当時の広域地図や付近の胡同の位置関係などから推定すると、ちょうど交差点の真ん中からやや南(手前)にかけてです。今では当時の面影を伝えるものは完全に一掃されてしまいました。あくまでも推定ですが、扶桑館は、見えている歩道橋の左側の橋脚周辺にあったと思われます。写真⑫は、⑪で捉えた歩道橋の上から南を眺めたところです。
[⑫現在の東単交差点(北側の歩道橋より南を望む)]
従って、まさにちょうど扶桑館のあったと思われる地点から崇文門方向を眺めたところです。写真⑩の現在版です。約七〇〇メートルほど向こうの大通り右側に十五階建てくらいの肌色のビルが見えます。これが同仁医院。そのまたほんの少し向こうが崇文門の交差点です。通りの真ん中には、城楼が聳えていたはずです。
最後に、大阪毎日新聞社北京支局は八宝楼胡同という路地にありました。東単牌楼からは至近距離です。⑫の写真の歩道橋の向こう左側に「内蒙古大廈」というビルが見えますね。その東(左)側に八宝楼胡同があります。歩いて約五分程度。ここも再開発が進み、昔の面影はほとんどありません。八宝楼胡同という名さえも、区画整理によって失われつつあるようです。写真⑬がその現在の様子です。
[⑬現在の八宝楼胡同(南から北を望む)]
芥川は扶桑館と新聞社の間を往復したでしょうから、写真⑨⑩の「景星」という額の下を何回かは歩いたに違いありません。写真に支那服姿の彼が写りこんでいないか、私は何度も確かめてしまいました。
追伸:写真⑥⑦には、牌楼のはるか北方に、もう一つ白っぽい牌楼がかすかに写っています。これは一九〇〇年にドイツ公使ケットラーが義和団に殺害されたのを契機に、彼を哀悼する目的で清朝政府によって建てられた(建てざるを得なかった)克林徳牌坊です。一九〇一年から建設が始まり、一九〇三年に完成され、一九一八年に撤去されました。どうも⑥の額も、⑦同様、「就日」のように見えます。従って撮影時期は、一九〇三年頃より後、かつ「就日」の額が外される一九一六年より前の写真ということになります。
この時期の写真に扶桑館のドームが写っていないというのは、一九〇六年の扶桑館創業以前の撮影である可能性、もしくは扶桑館のドームが一九一六年以降に作られたものである可能性の、両方が考えられると思います。
*
私には、この写真の中に……この教え子が探した芥川が、私と教え子と三人で歩く芥川龍之介が、見えるような気がする……。
・「山本」山本喜誉司。龍之介の親友にして妻文の叔父。九一一書簡参照。
・「唯今支那各地動亂の兆あり」袁世凱が1916年に死去によって求心力を失った北洋軍閥は段祺瑞の安徽派、馮国璋の直隷派に分かれて激しく抗争するとともに、内部抗争も激化した。更に孫文が広東軍政府を組織し中華民国からの独立を宣言、その対応を巡って抗戦を主張する国務総理段祺瑞と講和を主張する大総統代理馮国璋が衝突(「和戦の争い」)、段祺瑞は袁世凱死後の東北地方を牛耳っていた張作霖の奉天派と連合して武力制圧による南方政策を敢行、馮国璋の追放に成功する。その馮国璋が1919年に病死すると、直隷派は保定派(曹錕派)と洛陽派(呉佩孚派)に分裂するが、1920年7月の安直戦争によって直隷派が実権を握る。寝返った奉天派と保定派・洛陽派の三つ巴の内部対立を経て、1922年4月の第一次奉直戦争で曹錕を棟梁とする直隷派が奉天派を破って漸く直隷派単独政権を樹立するに至る(以上はウィキの「直隷派」を参照した)。人民は取り残されて、貧困と圧制に苦しんでいたのである。
・「大同府」現在の山西省北部に位置する大同市。遊牧騎馬民族の鮮卑が建国した北魏はこの地に都を定めた。明代には防衛システムとしての万里の長城への物資輸送に於ける中継地として重要な役割を果たした(以上はウィキの「大同市」を参照した)。
・「石佛寺」は雲崗石窟のこと。山西省大同市西方20㎞の武周山南側にある東西約1㎞、約40窟を有する石窟寺院。本来は霊巌寺と呼んだが、現在は雲崗石窟又は石仏寺と呼称する。南北朝時の460年頃、北魏の僧曇曜(どんよう)が第5代皇帝文成帝(440~465)に上奏し開いた通称「曇曜五窟」(第16~20窟)に始まり、その後も造窟造仏が行われた。493年に北魏は平城から洛陽へ遷都、これ以降、北魏は凋落、534年に東魏・西魏に分かれてしまうが、中国仏教彫刻史ではこの460年から494年頃まで期間を本窟を代表させて雲崗期と呼ぶ。日本人建築学者伊東忠太が発見した。
・「濟南」山西省西部に位置する省都。黄河文明の中心地であった推測されており、後代も文人墨客に愛された文化都市でもあった。淸以降は商業都市としても栄え、その関係上、日本人居留者も多かった。実際には旅程が変更され、これ以下の場所には芥川は訪問していない。
・「泰山」道教の聖地五岳の一。五岳独尊と呼称、五岳中の最高位、中国にあって最も神聖な名峰である。山東省泰安市の北方に位置し、最高峰玉皇頂は標高1,545m。天帝から皇帝が支配権の継承を許諾される封禅の儀を行った山として知られる。
・「曲阜」山東省南西部の現在の済寧市にある都市。省都済南からは約130kmの距離がある。春秋時代は魯と称した国の故地で、孔子の生地として知られる。広大にして壮麗な孔家廟(孔子廟)や孔府(直系の子孫の居住する宮殿)、市内北方の約10万と言われる孔林(孔家の墓所で一つの家系の集合墓地としては世界最大級)の他、弟子顔回を祀る顔廟・孔子が理想とした周公廟・漢魯王墓・石門寺や魯時代の古城など、遺跡遺物が多い。
・「青島より海路歸京の筈」「青島」は山東省南西部、膠州湾南東端に位置する港湾都市。以下、ウィキの「青島」より引用する。『日清戦争後、三国干渉で中国に恩を売ったドイツは1897年膠州湾一帯に目をつけ、宣教師が山東で殺された事件を口実に上陸し翌1898年には膠州湾を99年間の租借地とした。膠澳にはドイツ東洋艦隊の母港となる軍港が建設された。ドイツはこの地を極東における本拠地とし、鉄道敷設権と鉱山採掘権などを通じ山東半島一帯を勢力下に置いた。青島はドイツのモデル植民地として街並みや街路樹、上下水道などが整えられ、今なお残る西洋風の町並みや青島ビールなどドイツがこの町に与えた影響は大きい。』『第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本は1914年膠州湾のドイツ要塞を陥落させて占領下に置き、1922年に中国に返還した。北洋政府はここを中央政府直轄の特別行政区である膠澳商埠とし、国民党政府は1929年青島特別市を成立させ、1930年青島市と改称している。1938年日中戦争が始まると、青島は再び日本軍の占領下に置かれた』。実際には、旅程は変更され、芥川は天津から奉天へと向かい、朝鮮半島を縦断して釜山から海路で帰京した。
・「漢口を立てば武昌(漢口の川向う)に大暴動起り」「武昌」は現在の湖北省武漢市の一部である武昌区(但し、現地では武漢市の長江以南(右岸)の武昌区・青山区・洪山区・東湖新技術開発区の4つの行政区画を総称して武昌と呼んでいる。また、武漢市市政府は対岸の漢口の江岸区にあるものの、武昌区には湖北省委員会・湖北省政府・湖北省人民代表大会及び湖北省政治協商会議などの省の公的機関があり、湖北省の実質的な政治的中心である)。「大暴動」は次の王占元の注に現れる兵士の反乱を指すものと思われる(以上の武昌のデータはウィキの「武昌区」を参照した)。
・「王占元」(Wáng Zhànyuán ワン ヂェンユエン 1861~1934)は清末民初の軍人。北京政府直隷派の有力者。北京政府の実権を握った直隷派(保定派)の指導者曹錕の有力な支持者で、1920年7月の安直戦争での功績よって、湖北一体を実質統治することとなる。しかし彼の政策は苛烈を極め、給料遅配等から部下の兵士でさえ繰り返し反乱を起こす等した。そのため、湘軍(湖南軍)の趙恒惕と連合した湖北省有力者李書城らによって攻められ、1921年8月、天津に逃亡、晩年は実業家となり財を成した(以上はウィキの「王占元」を参照した)。
・「山東は殆日本故、濟南へ行けばもう歸つたやうなもの」先の青島の注で判る通り、この当時、日本は青島を中心として広く山東に於ける実質的権益を得ていた。芥川はそれを誇張して「殆日本」と言っているのであるが、この大正10(1921)年に一般大衆が、そしてまたリベリストであった芥川龍之介でさえこのような認識を持っていたという事実は極めて興味深い。同僚の世界史の教師も、この部分を読んでちょっと意外であると述べていた。
・「弟は眞面目に商賣をやつてゐますか」の「弟」とは芥川の異母弟新原得二(明治32(1899)年~昭和5(1930)年)のこと。芥川の実父新原敏三には、龍之介の実母フクの精神病発症後、フクの妹フユ(芥川道章の末妹)が後妻に入って龍之介の7つ違いの彼を生んでいる。兄を意識してか、岡本綺堂に弟子入りして戯曲を書いたりしたが、ものにならず、後、日蓮宗に入って狂信的になり、晩年の芥川の悩みの種となった。小穴隆一によれば芥川龍之介の消滅した遺書の一部には、この得二とは義絶せよ、との一文があったとする(私の電子テクスト芥川龍之介遺書の注を参照)。
・「文子雜誌に何か書いた由」諸注、未詳。公刊されたものであることが分かるから、それほど突き止めるのに苦労はない気もするのだが。識者の御教授を願う。
・「山本瑤子」山本喜誉司の娘のことと思われる。比呂志と同年輩であったのであろう。]
九一五 六月十四日
日本東京本郷區湯島天神町一ノ九八 岡榮一郎樣
消印二十一日 (「北京鼓樓上ヨリ見タル景山北海附近ノ景」と題した絵葉書)
北京着北京はさすがに王城の地だ此處なら二三年住んでも好い
夕月や槐にまじる合歡の花
六月十四日 東單牌樓 我鬼生
[やぶちゃん注:新全集書簡番号949。底本では「北京から 岡榮一郎宛 (絵葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。芥川龍之介北京憧憬の表明としてよく引用される書簡である。
・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。
・「合歡」バラ亜綱マメ目ネムノキ科ネムノキAlbizia julibrissin。落葉高木。ネムノキ属Albiziaは熱帯原産であるが、本種は耐寒性が強く高緯度まで分布する。悪環境にも強く、荒地にも一早く植生する植物としても知られる。夏の季語。何故分かりきった植物なのに注をするのか、って? 私は合歓の花が大好きだからさ。]
九一六 六月二十一日
北京から 室生犀星宛 (繪葉書)
拜啓北京にある事三日既に北京に惚れこみ侯、僕東京に住む能はざるも北京に住まば本望なり昨夜三慶園に戲を聽き歸途前門を過ぐれば門上弦月ありその景色何とも云へず北京の壯大に比ぶれば上海の如きは蠻市のみ
[やぶちゃん注:新全集書簡番号984。室生犀星(明治22(1889)年~昭和37(1962)年 本名照道)は詩人・小説家。大正7(1918)年1月13日、鴻巣で行われた一高時代から知遇のあった詩人日夏耿之介の第一詩集『転身の頌』出版記念会で知り合い、当時、同じ田端に住んでいたことから親しくなった。芥川より3歳年上である。九一六書簡同様、芥川龍之介北京憧憬の表明としてよく引用される書簡である。
・「三慶園」北京正陽門の大柵欄にあった老舗の劇場。「北京日記抄」の「四 胡蝶夢」参照。
・「戲を聽き」日本語の「観劇」は、中国語では「聴劇」「看劇」と言う。
・「前門」北京正陽門。現在の天安門広場の南にある内城の正門。高さ42m、現存する北京の城門中、最も大きい。]
九一七 六月二十四日
日本東京市外田端四三五 芥川道章樣
消印二十一日 二十四日 龍之介 (繪葉書)
ボク大同へ行かんとする所にストライキ起り汽車不通となる。やむを得ず北京に滯在、漢口より送りし本とどき候や香やこちらはもう眞夏なり、この手紙に返事出す事勿れ返事が來るには十日かかる十日たてばもう北京にゐない故に御座候 以上
下島先生より度々手紙頂き候お禮を申上下され度候
上海より村田君章氏の書を送つた由これ又とどき候事と存じ候
[やぶちゃん注:新全集書簡番号985。底本では「北京から芥川宛(繪葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。
・「ボク大同へ行かんとする所にストライキ起り汽車不通となる」芥川龍之介は北京滞在中の6月25日から7月9日の間に雲崗石窟を見学している。この雲崗石窟は6月24日に訪問する予定であったが、列車のストライキにより行けなかったことが分かっている。民衆そっちのけの軍閥抗争に北京政府への不満は最高潮に達していた。因みに、この頃、芥川も訪れた長沙を中心とした湖南一帯では、実質支配をしていた安徽派の軍人張敬堯(ちょうけいぎょう)の圧制に抗議して北京政府に彼の罷免要求請願運動が行われていたが、そのリーダーは長沙師範学校付属小学校長であった若き日の毛沢東(当時28歳)であった。毛沢東も出席した中国共産党の結党設立会議、中共一大会議(中国共産党綱領議決と役員選挙が行われた)はまさにこの芥川書簡の一ヵ月後、芥川の帰国直後の1921年7月23日~7月31日、やはり芥川が通り過ぎたであろう上海市フランス租界内博文女学校で開催されたのであった。
・「村田君」は前掲の村田孜郎。
・「章氏」は前掲の章炳麟。]
九一八 六月二十四日
日本東京市外田端五七一 瀧井折柴君(繪葉書)
北京は王城の地なり壯觀云ふべからず御府の畫の如き他に見難き神品多し 目下大同の石佛寺に至らむとすれどストライキの爲汽車通ぜず北京の本屋をうろついてゐる 以上
二十四日 龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号986。
・「御府」は「ぎょふ」と読む。天子の収集した書画=御物(ぎょぶつ)が納められている宮中の倉庫。]
九一九 六月二十四日
日本東京市外田端自笑軒前 下島勳樣 (繪葉書)
度々御手紙ありがたう存じます 僕目下支那服にて毎日東奔西走してゐます 此處の御府の畫はすばらしいものです(文華殿の陳列品は貧弱)北京なら一二年留學しても好いと云ふ氣がします 又本を買ひこみました
二十四日 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号987。
・「文華殿」北京紫禁城の外朝(内廷の外側)にある建物。明代には東宮として皇太子の居住区であるとともに、明・清を通じて内閣大学士を構成員とする「内閣」(実質上政治最高機関で日本の内閣という呼称の由来)が置かれた。ここの北側にある文淵閣は、清代に複数浄書(正本7部・副本1部)された四庫全書(中国史上最大の漢籍叢書。完成は乾隆46(1781)年で、9年を要した。経・史・子・集の4部に分類され、総冊数は36000冊に及ぶ)の所蔵で知られた(現在は台湾故宮博物院に所蔵)。現在、故宮博物院となっているが、芥川が訪問した当時、既に、明・清代の御物が展示されて一般に公開されていたものと見える。因みに、芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月14日以降、この書簡の6月24日までの間に紫禁城を見学している。因みに、この書簡の意味がよく飲み込めなかった。「御府の畫はすばらしい」と言った直後に「文華殿の陳列品は貧弱」と述べている点である。文華殿は御府であろう。ここで芥川は四庫全書で有名な文華殿の御物を期待していたがそこは失望するほど貧弱であったということなのか。「人民中国」の北京日本学研究センター准教授秦剛氏「芥川龍之介が観た1921年・郷愁の北京」によれば、この時、「古物陳列所」として紫禁城内で開放されていたのはこの文華殿と武英殿だけであったと記されている。この武英殿をウィキの「紫禁城」で見ると『明朝を滅ばした李自成が即位した場所。また、清朝の順治帝の摂政ドルゴンが首都を盛京から北京へ遷都する詔書を発布したところである。明代には紫禁城を居城とした明朝歴代皇帝の斎戒や大臣接見の場となり、清代には御用絵師のアトリエになった。文武二殿の一つ』とある。更に、秦氏の参考にしたと思われる芥川龍之介の手帳を見ると、
○古木寒泉圖、文衡山。山水、李世偉。山水、雛一柱(淸)。震澤烟樹、唐寅(明)。本仁殿。
○大乙觀泉、王家。萬壑松風、文伯仁(明)。墨竹、張※(明)。煙江疊嶂圖、王原祈。職青圖、立本(僧)。桐陰玩鶴圖(石田)ノ木の色つよすぎる。芙蓉秋鴨圖、王維烈(明)。沈周藍瑛僞筆。仇英遊子昂。南田の山水、俗。
[やぶちゃん字注:「※」=「音」+「也」。]
○集義殿、南田の牡丹。※維城、泉林雨景のみ。臣何とか繪中よし。王蒙――長松飛瀑圖、僞? 李公麟、十六應眞、俗。
[やぶちゃん字注:「※=「金」+「義」。]
という記載がある。秦氏の論文によれば、これらは紫禁城内の恐らく「古物陳列所」に展示されていたものである、と考えられるのだが、この芥川の手帳の記載には、紫禁城東南部にある集義殿という、秦氏の言う文華殿でも武英殿でもない、もう一つの殿名が出てきており、まさにそこで芥川は、『南田の牡丹』と清代の銭維城の「林泉雨景図」に目を奪われた、元代の王蒙の「長松飛瀑図」は贋作では? と思った、と記しているのである(一部に上記秦剛氏の論文記載の画家名・画題表記を用いた)。この集義殿は「古物陳列所」ではなく、また偶々公開されていて、そこに南田と維城の絵が掲げられていて目を奪われた、というのであろうか? どうもすっきりしない。]
九二〇 六月二十四日
北京から 中原虎雄宛 (繪葉書)
僕は今北京にゐます北京はさすがに王城の地です、僕は毎日支那服を着ては芝居まはりをしてゐます 以上
六月二十四日 北京東單牌樓 芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号988。中原虎雄(明治30(1897)年~昭和34(1959)年)は、新全集人名索引によれば、紡績学者で東京高等工業(現・東京工業大学)紡織科卒、在学中は文芸部員であったことから芥川と関わるか。後に東京工業大学・京都工芸繊維大学教授となり、特にメリヤス工業発展に尽力したとある。ガラス繊維の研究もしていたらしい。
・「東單牌樓」「とうたんぱいろう」と読む。「牌樓」は「牌坊」と同義で、中国の伝統的建築様式の門の一種。単に坊とも呼ばれる(坊は本来は区画を言う)。所謂、中華街の東西南北の門を想起してもらえればよい。ウィキの「牌坊」によれば、『一般的に牌坊と牌楼は同じ意味で使われるが、屋根や斗拱(ときょう:斗組・軒などを支える木の組み物のこと)のないものが牌坊と呼ばれ、あるものが牌楼と呼ばれる』とある。実際には北京には方位に限らず沢山の「牌樓」があるが、その中でも著名な一つが「東單牌樓」で、紫禁城の東、天安門前にある長安街の東側に設けられている門を言う。但し、ここではそこにあったホテルの名前と考えられる。
・「芝居まはりをしてゐます」芥川は中国滞在中に演目数にして60本以上を聴劇している。]
九二一 六月二十七日(推定)
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一樣
二十七日 (繪葉書)
花合歡に風吹くところ支那服を着つつわが行く姿を思へ
二科の小山と云ふ人に遇つた君と同郷だと云つてゐた文華殿の畫は大した事なし、御府の畫にはすばらしいものがある畫のみならず支那を是非一度君に見せたい
[やぶちゃん注:新全集書簡番号989。
・「二科の小山と云ふ人」「二科」は大正3(1914)年に文部省美術展覧会(文展)から分離して結成された美術団体。当時の文展日本画部門は旧と新の二科に分かれており、新人の日本画家の発表の場として相応の活動が行えたが、洋画部門にはそれがなく、特に外遊から帰った新人洋画家達は大いに不満を持っていた。彼等は特に大正2(1913)年の文展審査に不満を持ち、日本画同様の新旧二科制のシステム構築を求める建白書を政府に提出したが、一向に進展が見られないため翌年文展を脱退、文展に出展しないことを参加条件とした在野団体である二科会を結成した。創立メンバーには石井柏亭・津田青楓・梅原龍三郎・小杉未醒・有島生馬・坂本繁二郎らの名前が見える(以上はウィキの「二科会」を参照した)。「小山と云ふ人」について、新全集注解で宮坂覺氏は小山敬三(明治30(1897)年~昭和62(1987)年)に同定している。この書簡で芥川は小穴隆一と『同郷だと云つてゐた』と記すが、小穴の出身は長野県塩尻、当時、二科会にあった小山敬三は長野県小諸の出身ではある。またこの当時、小山敬三は日本にいなかったことも事実である。彼は大正9(1920)年から昭和3(1928)年まで、フランスに遊学中であった。但し、その彼が、この時、北京に来ていたという事実までは確認し得なかった。識者の御教授を乞う。小山敬三は洋画家。大正7(1918)年二科展で初入選、父と親交のあった島崎藤村の薦めもあってフランスに遊学、帰国後は一水会・日展等で風景画を中心に描いた。昭和35(1960)年には日本芸術員会員となっている(以上は小諸市の「小山敬三画伯」を主に参照した)。]
990 六月二十七日
日本京都市下加茂松原中の町 恒藤恭樣
東單牌樓 我鬼 (年月推定)(繪葉書)
北京の新人たちは河上さんが二三ヶ月北京へ來てくれると好いと云つてゐる、來てくれゝばラッセン以上の持て方をするのは事實だ來ないかね、僕はまだ少時北京にゐる 芝居、建築、繪畫、書物、藝者、料理、すべて北京が好い 以上
二十七日
[やぶちゃん注:底本にはなく、岩波版新全集第十九巻書簡Ⅲに所載するもの。
・「新人」芥川が実際に会見した五四運動以降の改革運動の旗手であった青年達。芥川龍之介が「上海游記」の「十八 李人傑」等で言うところの『「若き支那」』である。ここで芥川は「少年中国学会」を意識して『「若き支那」』と括弧書きしていると思われる。「少年中国学会」は1918年6月30日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五四運動直後の1919年7月1日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。当然のことながら、有意に共産主義を志向する学生が占めていた(但し、李人傑は少年中国学会の会員ではない)。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想=共産主義の機運を包括的にこのように呼んでいると考えてよい。
・「河上さん」当時、京都帝国大学教授であった経済学者河上肇(明治12(1879)~昭和21(1946)年1月30日)。マルクス経済学の研究として知られ、昭和3(1928)年には教授職を辞し、昭和8(1933)年日本共産党党員となって地下活動に入り、治安維持法違反で検挙され、昭和12(1937)年まで獄中生活を送った。カール・マルクス『資本論』の翻訳(第一巻の一部分の翻訳のみ)やコミンテルン32年テーゼの翻訳の他、名文家でもあり、『貧乏物語』や『自叙伝』(死後刊行)等が知られる。
・「ラッセン」イギリスの論理学者・数学者・哲学者Bertrand Arthur William Russellバートランド・アーサー・ウィリアム・ラッセル(1872~1970)のこと。以下、主に驚異的な詳細さを持った『松下彰良(編)「バートランド・ラッセル年譜」』を参照にしながら、彼の事蹟と私が発見した驚くべき芥川との偶然の物理的接近の事実を見てみよう。第一次世界大戦中、彼は平和主義者として徹底した非戦論を主張し、1916年にケンブリッジ大学の論理学・数理哲学教授職を追われ、1918年には5ヶ月間に渡って投獄されてもいる。第一次大戦後は社会主義のシンパとなり、労働党に入党、1920年5月にはイギリス労働党代表団に参加してソヴィエト連邦を訪問、レーニンやトロツキイと会見した。同年10月には中国を訪問、翌1921年7月まで北京大学客員教授の職にあった(10月末には芥川も訪れることとなる長沙で「ボルシェビーキと世界政治」という演題で講演している)。即ち、ここで書簡に「ラッセン」が登場する意味が分かってくる。即ち芥川が北京に滞在中、ラッセルも北京にいたのである(ラッセルに逢ってはいないであろうが、芥川はラッセルが客員教授をしていた北京大学を訪問していた可能性が極めて高い。芥川龍之介談「新藝術家の眼に映じた支那の印象」参照)。更に芥川が北京を汽車で発った7月12日であるが、まさにその日に、何とラッセルは一足先に、まさに天津から日本への船に乗ったのであった! ラッセルは7月17日に神戸に到着した後、7月18日には大阪ホテルで大阪毎日新聞副主幹と午餐を摂っている(芥川龍之介は毎日新聞社社員であり、また奇しくもこの頃、まさに大阪毎日新聞社に芥川は帰国の報告をしに立ち寄っていたと思われるのである!)。その後、ラッセルは奈良を周遊、7月21日には京都帝国大学の荒木総長と会見、その日の午後5時からは改造社主催の都ホテルでの歓迎会に出席している。ここにはまさに京都大学教授その他の学者二十数名が出席している(恒藤は当時は同志社大法学部教授)。京都見学後、7月24日夜に横浜着。7月25日夕刻、入京し、同夜には改造社の山本社長の案内で帝劇を見物している(『改造』はまさに芥川御用達の雑誌である)。翌7月26日午前11時より宿泊していた帝国ホテルに於いて日本の著名な思想家達と会見している(大杉栄・堺利彦・阿部次郎・和辻哲郎・与謝野晶子、福田徳三他多数。帝国ホテルは芥川の定宿の一つ)。7月27日には都下新聞記者20名と共同記者会見を行い、午後は上野及び日本橋丸善を散策している(この時、上野公園のラッセルと田端の芥川の物理的距離は最も短かった)。7月28日夜、小泉信三らの尽力により慶応大学大講堂にて講演、7月29日横浜泊、7月30日午後の船便でバンクーバーへ向けて日本を離れている。――ただの偶然ではある。しかし不思議なものを感じる。因みにラッセルが芥川龍之介に物理的異常接近をしていたこの時、芥川はどうしていたのか? 彼は旅行後の体調不良に悩まされていた。特に胃腸の衰弱著しく、一ヶ月以上、寝たり起きたりの生活が続く。この不思議な7月下旬の漸近線的芥川-ラッセル接近現象は、芥川の下痢により遂に接することはなかったのであった――。私はこれを勝手に“Akutagawa- Russell Close Encounter of the Second kind”(芥川-ラセッル第二種接近遭遇)と呼称することとする。――]
九二二 七月十一日
北京崇文門内八寶胡同大阪毎日通信部内 鈴木鎗吉樣
七月十一日朝 蠻市瘴煙深處 芥川龍之介
天津貶謫行
たそがれはかなしきものかはろばろと夷(えびす)の市にわれは來にけり
夷ばら見たり北京の駱駝より少しみにくし駿馬よりもまた
ここにしてこころはかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
支那服を着つつねりにし花合歡の下かげ大路思ふにたへめや
我鬼戲吟
二伸 波多野さんによろしく
三伸 福田氏(上海)への三弗こちらから送ります 御送に及びません 唯扶桑舘の茶代及女中の心づけを多からず少からず願ひます 多すぎる心配は無用だらうと思ひますが、
それから立つ前中山君に會ひながら扇の御禮を云はずにしまつた よろしく御禮を云つてくれ給へ
索漠たる蠻市我をして覊愁萬斛ならしむ一日も早く歸國の豫定
[やぶちゃん注:新全集書簡番号991。鈴木鎗吉(生没年不詳)は表記データからの大阪毎日新聞社社員、北京通信部所属以外は不明。挨拶歌四首と依頼内容、北京への素直なノスタルジアの表明といい、芥川が北京滞在中に極めて好感を持って接することが出来た人物であったのであろうことが窺われる。
・「蠻市瘴煙深處」「蠻市(ばんし)瘴煙(しょうえん)深き處」で、野蛮な田舎町で瘴気(毒気)に満ち満ちた場所、の謂いである。――日本の軍閥が幅をきかせ、街行く日本人も多い旅の終わりの西洋風の建物の立ち並ぶ天津に、芥川は深い違和感と失望を抱いている――実際に「何かひどく嫌なこと」に芥川は天津から奉天の間で遭遇したのではないかと私は感じている。そうでなければ、この7月12日から田端出現の20日までの謎の8日間の空白は説明出来ないという気がするのである(但し、それとは別に、私は日本に帰ってからの芥川は人に言えない所に立ち寄った可能性を考えている。……鎌倉辺り……「怪しい中国人」の格好をした芥川が……あの料亭へ、あの女のところへ……)――いや、勿論、それだけ北京が彼にとって魅惑と郷愁の街であったということ、加えて、幾分かは旅の終わりというセンチメンタルに浸る芥川龍之介、でもあろうとは思うのだが――
・「貶謫」は、本来は失脚して官位を下げられ、辺地に左遷されることを言う。芥川のこの後の残された人生を考えると、それは――軍靴の足音の中、その鋭敏な感覚によって一早く真の「貶謫」を予期して現世を去った――とも言えるかも知れぬ。
・「波多野さん」波多野乾一のこと。九〇〇書簡参照。
・「福田氏」大阪毎日新聞社の上海通信部の社員か。芥川が支払うべきであった何ものか(恐らく後に続く文から見て接待関連の遊興費用に関わるものであろうと推測する)を立て替えていたのであろう。
・「三弗」3ドル。
・「扶桑舘」北京にあった日本人経営の旅館。北京滞在中、芥川はここを宿舎とした。
・「中山君」諸注も未詳。
・「覊愁萬斛」の「覊愁」は旅先で感じるもの悲しい思い、旅愁、の謂い。「斛」は石(こく)と同義で十斗のことを言う。そこから、量りきれないほど多い分量の謂い。]
九二三 七月十二日
天津から 南部修太郎宛(繪葉書)
昨日君の令妹の御訪問をうけて恐縮したその時君の手紙も受取つた偉さうな事など云はずに勉強しろよ僕は近頃文壇とか小説とか云ふものと全然沒交渉に生活してゐる、さうして幸福に感じてゐる寫眞中書齋に於ける僕は美男に寫つてゐるから貸してやつても好い窓の所で寫たのは唐犬權兵衞の子分じみてゐるから貸すべからず 以上
[やぶちゃん注:新全集書簡番号992。
・「君の令妹」南部修太郎の妹が嫁いだ男が天津勤務であったか。識者の御教授を乞う。
・「唐犬權兵衞」ヤクザのルーツ、幡随院長兵衛の子分。以下、宮坂覺氏の新全集注解から引用する。『江戸時代末期の町奴』で、『幡随院長兵衛を殺した水野十郎左衛門の耳や鼻をそぎ、獄門に処せられた』伝説的人物、と記す。侠客の、しかし所詮、チンピラである。]
九二四 七月十二日
日本東京市本郷區東片町百三十四 小穴隆一君
七月十二日 (繪葉書)
天津へ來た此處は上海同樣蠻市だ北京が戀しくてたまらぬ
たそがれはかなしきものかはろばろと夷(エビス)の市にわれは來にけり
此處にして心はかなし町行けどかの花合歡は見えがてぬかも
天津 我鬼
二伸 一週間後はもう東京にゐる
[やぶちゃん注:新全集書簡番号993。
・「一週間後はもう東京にゐる」実際の芥川の田端帰還は7月20日頃である。]
九二五 七月十二日
日本東京市外田端四三五 芥川皆々樣
(繪葉書)
今夜半發の汽車にて歸京す暑氣甚しければ泰山、曲阜皆やめにしたり一週間後には必東京にあるべし右とりあへず御報まで
七月十二日 天津 芥川龍之介
[やぶちゃん注:新全集書簡番号956。底本では「天津から 芥川宛 (繪葉書)」とあるのみであるが、新全集により詳細データを補った。「泰山」や「曲阜」は九一四書簡注を参照。]
九二六 七月十二日
天津から
安徽省蕪湖唐家花園 齋藤貞吉樣 (日推定)(繪葉書)
お前の手紙は英語のイデイオムを使ひたがる特色ありこは無きに若かざる特色なりされど亦お前を愛せしむる特色なり僕はお前の手紙を讀んでお前が一層可愛くなつたお前を可愛がらぬ五郎は莫迦なり僕お前の所へChinese Profilesと云ふ本を忘れたりあの本紀行を書くには入用故東京市外田端四三五僕まで送つてくれ兎に角蕪湖でお前の世話になつた事は愉快に恩に着たき氣がする僕北京で腹下しの爲め又醫者にかかつた今夜歸國の程に上る一週間後はもう東京にゐるべしお前の健康を祈る北京で蝉の聲をききお前を思ひ出した蕪湖には今もブタが横行してゐるだらうな何だかゴタゴタ書いたもう一度お前の健康を祈る僕のやうに腹下しをするなよ さやうなら
天津 我鬼
[やぶちゃん注:新全集書簡番号995。底本では日付なく「七月」とあるのみ。新全集により推定日付を補った。齋藤貞吉は八八二書簡本文にも現れた西村貞吉と同一人物(西村は旧姓)。芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。「長江游記」の「一 蕪湖」等も参照。僕お前と呼び合う間柄、ぶっきらぼうな表現の中に、如何にも芥川らしいさりげない優しさが伝わってくる。
・「五郎」宮坂覺氏は新全集第十九巻注解でこの「五郎」を八九二書簡に現れる漢口イギリス租界にあった武漢洋行の商社マン宇都宮五郎とするが如何? 彼は、芥川帰国後の同年の8月27日附齋藤貞吉宛書簡(旧全集書簡番号九三三・新全集書簡番号1003)の二伸にも出現するが、そこでも『五郎のこともつつと傷心せよ傷心はくすりなり』とある。「お前を可愛がらぬ」と言い、これと言い、「五郎」なる人物は男とは思われない。筑摩全集類聚版脚注では未詳としつつも『芸妓の名か。』とあり、私には目から鱗である。
・「Chinese Profiles」英文の中国ガイド・ブック若しくは中国紳士録(人名録)か。
・「蕪湖には今もブタが横行してゐるだらうな」「長江游記 一 蕪湖」の本文に、このエピソードが生きることとなる。]
996 七月二十一日
齋藤貞吉宛(宛名推定)(封筒欠)
(月推定)
齋藤先生
淸鑒
秋立つや金剛山に雲も無し
八道の山ははげたり今朝の秋
芙蓉所々昌德宮の月夜かな
七夕は高麗の女も祭るべし
八道の新酒に醉つて歸けむ
妓生の落とす玉釵そぞろ寒
學弟 芥川龍之介 頓首
廿一日
[やぶちゃん注:底本にはなく、岩波版新全集第十九巻書簡Ⅲに所載するもの。山梨県立文学館蔵書簡。芥川は七月十二日に天津から南満州鉄道に乗り、奉天(瀋陽)を経て朝鮮半島を縦断、釜山から門司から帰国の途についた。7月20日には田端に着いたものと思われ、帰国の途次の嘱目吟を気のおけない齋藤に送ると共に、世話になった御礼の挨拶句群でもある。前掲九二六書簡と合わせて芥川の齋藤への友情が、一見、慇懃無礼な表記の中に、しみじみと伝わってくる。
・「淸鑒」は「せいかん」と読む。相手の鑑識眼を敬って言う語。自身の書画詩文を人に見せる際に用いる謝辞。
・「金剛山」は「クムガンさん」と読ませていると思われる。現在の朝鮮民主主義人民共和国江原道(カンウォンド)にある太白山脈の山。朝鮮半島では白頭(ペクトゥ)山と並ぶ名山である。
・「高麗」は「こま」と読ませている。
・「八道」は朝鮮王朝が配した京畿道(キョンギド)・忠清道(チュンチョンド)・慶尚道(キョンサンド)・全羅道(チョルラド)・江原道・平安道(ピョンアンド)・黄海道(ファンヘド)・咸鏡道(ハムギョンド)の朝鮮八道を指すが、ここでは朝鮮全体、漠然とした朝鮮半島の山並みを言うのであろう。
・「昌德宮」は朝鮮語読みでは「チャンドックン」、ソウルにある李氏朝鮮時代の宮殿で、王宮景福宮(キョンボッグン)の離宮。創建当時(1405年)の面影を現在も残すと言われる。
・「妓生」は「キーセン」と読ませているか。
・「玉釵」は「たまぐし」と読ませているか。]
芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈 完