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鬼火へ
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俊寛   芥川龍之介
[やぶちやん注:大正十一(1922)年一月発行の雑誌『中央公論』に掲載された。底本は岩波版旧全集を用いた。冒頭の「源平盛衰記」引用は、表記の通り、すべてが三字下げとなっているのであるが、二つの引用文は底本ではそれぞれ一続きとなっており改行していない。ブラウザの関係上、恣意的に改行した。なお、本サイトの芥川龍之介の「
澄江堂雜記(1)」の最後にある「俊寛」を参照にされたい。最後に、芥川が素材・参考としたと思われる「源平盛衰記」及び「平家物語」の鬼界ヶ島に関わる原典部分を附した。]

 

俊寛

 

   俊寛云ひけるは……神明外になし。唯我等が一念なり。

   ……唯佛法を修行して、今度生死を出で給ふべし。   源平盛衰記

   (俊寛)いとど思ひの深くなれば、かくぞ思ひつづけける。

   「見せばやな我を思はぬ友もがな磯のとまやの柴の庵を。」 同上

 

 

       一

 

 俊寛樣の話ですか? 俊寛樣の話位、世間に間違つて傳へられた事は、まづ外にはありますまい。いや、俊寛樣の話ばかりではありません。このわたし、――有王自身の事さへ、飛でもない嘘が傳はつてゐるのです。現につひこの間も、ある琵琶法師が語つたのを聞けば、俊寛樣は御歎きの餘り、岩に頭を打ちつけて、狂ひ死をなすつてしまふし、わたしはその御死骸(おなきがら)を肩に、身を投げて死んでしまつたなどと、云つてゐるではありませんか? 又もう一人の琵琶法師は、俊寛樣はあの島の女と、夫婦の談らいをなすつた上、子供も大勢御出來になり、都にいらしつた時よりも、樂しい生涯を御送りになつたとか、まことしやかに語つてゐました。前の琵琶法師の語つた事が、跡方もない嘘だと云ふ事は、この有王が生きてゐるのでも、おわかりになるかと思ひますが、後の琵琶法師の語つた事も、やはり好い加減の出たらめなのです。

 一體琵琶法師などと云ふものは、どれもこれも我は顏に、嘘ばかりついてゐるものなのです。が、その嘘のうまい事は、わたしでも襃めずにはゐられません。わたしはあの笹葺の小屋に、俊寛樣が子供たちと、御戲れになる所を聞けば、思はず微笑を浮べましたし、又あの浪音の高い月夜に、狂ひ死をなさる所を聞けば、つい涙さへ落しました。たとひ嘘とは云ふものの、ああ云ふ琵琶法師の語つた嘘は、きつと琥珀の中の蟲のやうに、末代までも傳はるでせう。して見ればさう云ふ嘘があるだけ、わたしでも今の内ありの儘に、俊寛樣の事を御話しないと、琵琶法師の嘘は何時の間にか、ほんたうに變つてしまふかも知れない――と、かうあなたは仰有るのですか? 成程それも御尤もです。では丁度夜長を幸ひ、わたしがはるばる鬼界が島へ、俊寛樣を御尋ね申した、その時の事を御話しませう。しかしわたしは琵琶法師のやうに、上手にはとても話されません。唯わたしの話の取り柄は、この有王が目のあたりに見た、飾りのない眞實と云ふ事だけです。ではどうか少時(しばらく)の間、御退屈でも御聞き下さい。

 

       二

 

 わたしが鬼界が島に渡つたのは、治承三年五月の末、或曇つた午過ぎです。これは琵琶法師も語る事ですが、その日も彼是暮れかけた時分、わたしはやつと俊寛樣に、めぐり遇ふ事が出來ました。しかもその場所は人氣のない海べ、――唯灰色の浪ばかりが、砂の上に寄せては倒れる、如何にも寂しい海べだつたのです。

 俊寛樣のその時の御姿は、――さうです。世間に傳はつてゐるのには、「童かとすれば年老いてその貌にあらず、法師かと思へば又髮は空ざまに生ひ上りて白髮多し。よろずの塵や藻屑のつきたれども打ち拂はず。頸細くして腹大きに脹れ、色黒うして足手細し。人に似て人に非ず。」と云ふのですが、これも大抵は作り事です。殊に頸が細かつたの、腹が脹れてゐたのと云ふのは、地獄變の畫からでも思ひついたのでせう。つまり鬼界が島と云ふ所から、餓鬼の形容を使つたのです。成程その時の俊寛樣は、髮も延びて御出でになれば、色も日に燒けていらつしやいましたが、その外は昔に變らない、――いや、變らない所ではありません。昔よりも一層丈夫さうな、賴もしい御姿だつたのです。それが靜かな潮風に、法衣の裾を吹かせながら、浪打際を獨り御出でになる、――見れば御手には何と云ふのか、笹の枝に貫いた、小さい魚を下げていらつしやいました。

 「僧都の御房(ごぼう)! よく御無事でいらつしやいました。わたしです! 有王です!」

  わたしは思はず駈け寄りながら、嬉しまぎれにかう叫びました。

 「おお、有王か!」

 俊寛樣は驚いたやうに、わたしの顏を御覽になりました。が、もうわたしはその時には、御主人の膝を抱いた儘、嬉し泣きに泣いてゐたのです。

 「よく來たな。有王! おれはもう今生では、お前にも會へぬと思つてゐた。」

 俊寛樣も少時の間は、涙ぐんでいらつしやるやうでしたが、やがてわたしを御抱き起しになると、

 「泣くな。泣くな。せめては今日會つただけでも、佛菩薩の御慈悲と思ふが好い。」と、親のやうに慰めて下さいました。

 「はい、もう泣きは致しません。御房は、――御房の御住居は、この界隈でございますか?」

 「住居か? 住居はあの山の陰ぢや。」

 俊寛樣は魚を下げた御手に、間近い磯山を御指しになりました。

 「住居と云つても、檜肌葺きではないぞ。」

 「はい、それは承知して居ります。何しろこんな離れ島でございますから、――」

 わたしはさう云ひかけたなり、又涙に咽びさうにしました。すると御主人は昔のやうに、優しい微笑を御見せになりながら、

「しかし居心は惡くない住居ぢや。寢所(ねどころ)もお前には不自由はさせぬ。では一しよに來て見るが好い。」と、氣輕に案内をして下さいました。

 少時の後わたしたちは、浪ばかり騷がしい海べから、寂しい漁村へはひりました。薄白い路の左右には、梢から垂れた榕樹の枝に、肉の厚い葉が光つてゐる、――その木の間に點々と、笹葺きの屋根を並べたのが、この島の土人の家なのです。が、さう云ふ家の中に、赤々と竈の火が見えたり、珍らしい人影が見えたりすると、とにかく村里へ來たと云ふ、懷しい氣もちだけはして來ました。

 御主人は時々振り返りながら、この家にゐるのは琉球人だとか、あの檻には豕(いのこ)が飼つてあるとか、いろいろ教へて下さいました。しかしそれよりも嬉しかつたのは、烏帽子さへかぶらない土人の男女が、俊寛樣の御姿を見ると、必ず頭を下げた事です。殊に一度なぞは或家の前に、鷄を追つてゐた女の兒さへ、御時宜をしたではありませんか? わたしは勿論嬉しいと同時に、不思議にも思つたものですから、何か譯のある事かと、そつと御主人に伺つて見ました。

 「成經樣や康賴樣が、御話しになつた所では、この島の土人も鬼のやうに、情を知らぬ事かと存じましたが、――」

 「成程、都にゐるものには、さう思はれるに相違あるまい。が、流人とは云ふものの、おれたちは皆都人ぢや。邊土の民は何時の世にも、都人と見れば頭を下げる。業平の朝臣、實方の朝臣、――皆大同小異ではないか? ああ云ふ都人もおれのやうに、東(あづま)や陸奧(みちのく)へ下つた事は、思ひのほか樂しい旅だつたかも知れぬ。」

 「しかし實方の朝臣などは、御隱れになつた後でさへ、都戀しさの一念から、台盤所(だいばんどころ)の雀になつたと、云ひ傳えて居るではありませんか?」

 「さう云ふ噂を立てたものは、お前と同じ都人ぢや。鬼界が島の土人と云へば、鬼のやうに思ふ都人ぢや。して見ればこれも當てにはならぬ。」

 その時又一人御主人に、頭を下げた女がゐました。これは丁度榕樹の陰に、幼な兒を抱いてゐたのですが、その葉に後(うしろ)を遮られたせゐか、紅染めの單衣を着た姿が、夕明りに浮んで見えたものです。すると御主人はこの女に、優しい會釋を返されてから、

 「あれが少將の北の方ぢやぞ。」と、小聲に教へて下さいました。

 わたしはさすがに驚きました。

 「北の方と申しますと、――成經樣はあの女と、夫婦になつていらしつたのですか?」

 俊寛樣は薄笑ひと一しよに、ちよいと頷いて御見せになりました。

 「抱いてゐた兒も少將の胤(たね)ぢやよ。」

 「成程、さう伺つて見れば、かう云ふ邊土にも似合はない、美しい顏をして居りました。」

 「何、美しい顏をしてゐた? 美しい顏とはどう云ふ顏ぢや?」

 「まあ、眼の細い、頰のふくらんだ、鼻の餘り高くない、おつとりした顏かと思ひますが、――」

 「それもやはり都の好みぢや。この島ではまづ眼の大きい、頰のどこかほつそりした、鼻も人よりは心もち高い、きりりした顏が尊まれる。その為に今の女なぞも、ここでは誰も美しいとは云はぬ。」

 わたしは思はず笑ひ出しました。

 「やはり土人の悲しさには、美しいと云ふ事を知らないのですね。さうするとこの島の土人たちは、都の上臈[やぶちゃん字注:「くさかんむり」は(へん)・(つくり)全体の上に。以下、同じ。]を見せてやつても、皆醜いと笑ひますかしら?」

 「いや、美しいと云ふ事は、この島の土人も知らぬではない。唯好みが違つてゐるのぢや。しかし好みと云ふものも、萬代不變とは請合はれぬ。その證據には御寺々々の、御佛の御姿を拜むが好い。三界六道の教主、十方最勝、光明無量、三學無碍、億億衆生引導の能化、南無大慈大悲釋迦牟尼如來も、三十二相八十種好の御姿は、時代ごとにいろいろ御變りになつた。御佛でももしさうとすれば、如何か是美人と云ふ事も、時代ごとにやはり違ふ筈ぢや。都でもこの後五百年か、或は又一千年か、兎に角その好みの變る時には、この島の土人の女所か、南蠻北狄の女のやうに、凄まじい顏がはやるかも知れぬ。」

 「まさかそんな事もありますまい。我國ぶりは何時の世にも、我國ぶりでゐる筈ですから。」

 「所がその我國ぶりも、時と場合では當てにならぬ。たとへば當世の上臈の顏は、唐朝の御佛に活寫しぢや。これは都人の顏の好みが、唐土になずんでゐる證據ではないか? すると人皇何代かの後には、碧眼の胡人の女の顏にも、うつつをぬかす時がないとは云はれぬ。」

 わたしは自然とほほ笑みました。御主人は以前もかう云ふ風に、わたしたちへ御教訓なすつたのです。「變らぬのは御姿ばかりではない。御心もやはり昔の儘だ。」――さう思ふと何だかわたしの耳には、遠い都の鐘の聲も、通つて來るやうな氣がしました。が、御主人は榕樹の陰に、ゆつくり御み足を運びながら、こんな事も亦仰有るのです。

 「有王。おれはこの島に渡つて以來、何が嬉しかつたか知つてゐるか? それはあのやかましい女房のやつに、毎日小言を云はれずとも、暮されるやうになつた事ぢやよ。」

 

       三

 

 その夜わたしは結ひ燈臺の光に、御主人の御飯を頂きました。本來ならばそんな事は、恐れ多い次第なのですが、御主人の仰せもありましたし、御給仕にはこの頃御召使ひの、兔唇(みつくち)の童(わらべ)も居りましたから、御招伴に預つた譯なのです。

 御部屋は竹縁をめぐらせた、僧庵とも云ひたい拵へです。椽先に垂れた簾の外には、前栽の竹むらがあるのですが、椿の油を燃やした光も、さすがに其處までは屆きません。御部屋の中には皮籠(かはご)ばかりか、廚子もあれば机もある、――皮籠は都を御立ちの時から、御持ちになつてゐたのですが、廚子や机はこの島の土人が、不束ながらも御拵へ申した、琉球赤木とかの細工ださうです。その廚子の上には經文と一しよに、阿彌陀如來の尊像が一體、端然と金色に輝いてゐました。これは確か康賴樣の、都返りの御形見だとか、伺つたやうに思つてゐます。

 俊寛樣は圓座の上に、樂々と御坐りなすつた儘、いろいろ御馳走を下さいました。勿論この島の事ですから、酢や醤油は都程、味が好いとは思はれません。が、その御馳走の珍しい事は、汁、鱠、煮つけ、果物、――名さへ確かに知つてゐるのは、殆一つもなかつた位です。御主人はわたしが呆れたやうに、箸もつけないのを御覽になると、上機嫌に御笑ひなさりながら、かう御勸め下さいました。

 「どうぢや、その汁の味は? それはこの島の名産の、臭梧桐(くさぎり)と云ふ物ぢやぞ。こちらの魚も食うて見るが好い。これも名産の永良部鰻ぢや。あの皿にある白地鳥(しろちどり)、――さうさう、あの燒き肉ぢや。――あれも都などでは見た事もあるまい。白地鳥と云ふ物は、背の青い、腹の白い、形は鸛にそつくりの鳥ぢや。この島の土人はあの肉を食ふと、濕氣を拂うとか稱へてゐる。その芋も存外味は好いぞ。名前か? 名前は琉球芋ぢや。梶王などは飯の代りに、毎日その芋を食うてゐる。」

 梶王と云ふのはさつき申した、兔唇の童の名前なのです。

 「どれでも勝手に箸をつけてくれい。粥ばかり啜つてゐさへすれば、得脱するやうに考へるのは、沙門にあり勝ちの不量見ぢや。世尊さへ成道される時には、牧牛の女難陀婆羅の、乳糜(にうび)の供養を受けられたではないか? もしあの時空腹の儘、畢波羅樹下(ひつぱらじゆか)に坐つてゐられたら、第六天の魔王波旬は、三人の魔女なぞを遣すよりも、六牙象王の味噌漬けだの、天龍八部の粕漬けだの、天竺の珍味を降らせたかも知らぬ。尤も食足れば淫を思ふのは、我々凡夫の慣ひぢやから、乳糜を食はれた世尊の前へ、三人の魔女を送つたのは、波旬も天つ晴見上げた才子ぢや。が、魔王の淺間しさには、その乳糜を獻じたものが、女人ぢやと云ふ事を忘れて居つた。牧牛の女難陀婆羅、世尊に乳糜を獻じ奉る、――世尊が無上の道へ入られるには、雪山六年の苦行よりも、これが遙かに大事だつたのぢや。「取彼乳糜如意飽食、悉皆淨盡」――佛本行經七卷の中にも、あれ程難有い所は澤山あるまい。――「爾時菩薩食糜已訖從座而起。安庠漸々向菩提樹。」どうぢや。「安庠漸々向菩提樹」女人を見、乳糜に飽かれた、端嚴微妙の世尊の御姿が、目のあたりに拜まれるやうではないか?」

 俊寛樣は樂しさうに、晩の御飯をおしまひになると、今度は涼しい竹椽の近くへ、圓座を御移しになりながら、

 「では空腹が直つたら、都の便りでも聞かせて貰はう」とわたしの話を御促しになりました。

 わたしは思はず眼を伏せました。兼ねて覺悟はしてゐたものの、いざ申し上げるとなつて見ると、今更のやうに心が怯れたのです。しかし御主人は無頓着に、芭蕉の葉の扇を御手にした儘、もう一度御催促なさいました。

 「どうぢや、女房は相不變小言ばかり云つてゐるか?」

 わたしはやむを得ず俯向いたなり、御留守の間に出來(しゆつたい)した、いろいろの大變を御話しました。御主人が御捕はれなすつた後、御近習は皆逃げ去つた事、京極の御屋形や鹿ヶ谷の御山莊も、平家の侍に奪はれた事、北の方は去年の冬、御隱れになつてしまつた事、若君も重い疱瘡の為に、その跡を御追ひなすつた事、今ではあなたの御家族の中でも、たつた一人姫君だけが、奈良の伯母御前の御住居に、人目を忍んでいらつしやる事、――さう云ふ御話をしてゐる内に、わたしの眼には何時の間にか、燈台の火影が曇つて來ました。軒先の簾、廚子の上の御佛、――それももうどうしたかわかりません。わたしはとうとう御話半ばに、その場へ泣き沈んでしまひました。御主人は始終默然と、御耳を傾けていらしつたやうです。が、姫君の事を御聞きになると、突然さも御心配さうに、法衣の膝を御寄せになりました。

 「姫はどうぢや? 伯母御前にはようなついてゐるか?」

 「はい。御睦しいやうに存じました。」

 わたしは泣く泣く俊寛樣へ、姫君の御消息をさし上げました。それはこの島へ渡るものには、門司や赤間が關を船出する時、やかましい詮議があるさうですから、髻(もとどり)に隱して來た御文なのです。御主人は早速燈台の光に、御消息をおひろげなさりながら、ところどころ小聲に御讀みになりました。

 「………世の中かきくらして晴るる心地なく侍り。………さても三人一つ島に流されけるに、………などや御身一人殘り止まり給ふらんと、………都には草のゆかりも枯れはてて、………當時は奈良の伯母御前の御許に侍り。………おろそかなるべき事にはあらねど、かすかなる住居推し量り給へ。………さてもこの三とせまで、如何御心強く、有とも無とも承はらざるらん。………とくとく御上り候へ。戀しとも戀し。ゆかしともゆかし………あなかしこ、あなかしこ。………」

 俊寛樣は御文を御置きになると、ぢつと腕組みをなすつた儘、大きい息をおつきになりました。

 「姫はもう十二になつた筈ぢやな。――おれも都には未練はないが、姫にだけは一目會ひたい。」

 わたしは御心中を思ひやりながら、唯涙ばかり拭つてゐました。

 「しかし會へぬものならば、――泣くな。有王。いや、泣きたければ泣いても好い。しかしこの娑婆世界には、一々泣いては泣き盡せぬ程、悲しい事が澤山あるぞ。」

 御主人は後(うしろ)の黒木の柱に、ゆつくり背中を御寄せになつてから、寂しさうに御微笑なさいました。

 「女房も死ぬ。若も死ぬ。姫には一生會へぬかも知れぬ。屋形や山莊もおれの物ではない。おれは獨り離れ島に老の來るのを待つてゐる。――これがおれの今のさまぢや。が、この苦艱を受けてゐるのは、何もおれ一人に限つた事ではない。おれ一人衆苦の大海に、沒在してゐると考へるのは、佛弟子にも似合はぬ増長慢ぢや。「増長驕慢、尚非世俗白衣所宜」艱難の多いのに誇る心も、やはり邪業には違ひあるまい。その心さへ除いてしまへば、この粟散邊土の中にも、おれ程の苦を受けてゐるものは、恆河沙の數より多いかも知れぬ。いや、人界に生れ出たものは、たとひこの島に流されずとも、皆おれと同じやうに、孤獨の歎を洩らしてゐるのぢや。村上の御門第七の王子、二品中務親王六代の後胤、仁和寺の法印寛雅が子、京極の源大納言雅俊卿の孫に生れたのは、かう云ふ俊寛一人ぢやが、天が下には千の俊寛、萬の俊寛、十萬の俊寛、百億の俊寛が流されてゐる。――」

 俊寛樣はかう仰有ると、忽ち又御眼の何處かに、陽氣な御氣色が閃きました。

 「一條二條の大路の辻に、盲人が一人さまようてゐるのは、世にも憐れに見えるかも知れぬ。が、廣い洛中洛外、無量無數の盲人どもに、充ち滿ちた所を眺めたら、――有王。お前はどうすると思ふ? おれならばまつ先にふき出してしまふぞ。おれの島流しも同じ事ぢや。十方に遍滿した俊寛どもが、皆唯一人流されたやうに、泣きつ喚きつしてゐると思へば、涙の中にも笑はずにはゐられぬ。有王。三界一心と知つた上は、何よりもまづ笑ふ事を學べ。笑ふ事を學ぶ爲には、まづ増長慢を捨てねばならぬ。世尊の御出世は我々衆生に、笑ふ事を教へに來られたのぢや。大般涅槃の御時にさへ、摩訶伽葉は笑つたではないか?」

 その時はわたしも何時の間にか、頰の上に涙が乾いてゐました。すると御主人は簾越しに、遠い星空を御覽になりながら、

 「お前が都へ歸つたら、姫にも歎きをするよりは、笑ふ事を學べと云つてくれい。」と、何事もないやうに仰有るのです。

 「わたしは都へは歸りません。」

 もう一度わたしの眼の中には、新たに涙が浮んで來ました。今度はさう云ふ御言葉を、御恨みに思つた涙なのです。

 「わたしは都にゐた時の通り、御側勤めをするつもりです。年とつた一人の母さへ捨て、兄弟にも仔細は話さずに、はるばるこの島へ渡つて來たのは、その爲ばかりではありませんか? わたしはさう仰有られる程、命が惜いやうに見えるでせうか? わたしはそれ程恩義を知らぬ、人非人のやうに見えるでせうか? わたしはそれ程、――」

 「それ程愚かとは思はなかつた。」

 御主人は又前のやうに、にこにこ御笑ひになりました。

 「お前がこの島に止まつてゐれば、姫の安否を知らせるのは、誰が外に勤めるのぢや? おれは一人でも不自由はせぬ。まして梶王と云ふ童がゐる。――と云つてもまさか妬みなぞはすまいな? あれは便りのないみなし兒ぢや。幼い島流しの俊寛ぢや。お前は便船のあり次第、早速都へ歸るが好い。その代り今夜は姫への土産に、おれの島住ひがどんなだつたか、それをお前に話して聞かさう。又お前は泣いてゐるな? よしよし、ではやはり泣きながら、おれの話を聞いてくれい。おれは獨り笑ひながら、勝手に話を續けるだけぢや。」

 俊寛樣は悠々と、芭蕉扇を御使ひなさりながら、島住居の御話をなさり始めました。軒先に垂れた簾の上には、ともし火の光を尋ねて來たのでせう、かすかに蟲の這ふ音が聞えてゐます。わたしは頭を垂れた儘、ぢつと御話に伺ひ入りました。

 

        四

 

 「おれがこの島へ流されたのは、治承元年七月の始ぢや。おれは一度も成親の卿と、天下なぞを計つた覺えはない。それが西八條へ籠められた後、いきなり、この島へ流されたのぢやから、始はおれも忌々しさの餘り、飯を食う氣さへ起らなかつた。」

 「しかし都の噂では、――」

 わたしは御言葉を遮りました。

 「僧都の御房も宗人の一人に、おなりになつたとか云ふ事ですが、――」

 「それはさう思ふに違ひない。成親の卿さへ宗人の一人に、おれを數へてゐたさうぢやから、――しかしおれは宗人ではない。淨海入道の天下が好いか、成親の卿の天下が好いか、それさへおれにはわからぬ程ぢや。事によると成親の卿は、淨海入道よりひがんでゐるだけ、天下の政治には不向きかも知れぬ。おれは唯平家の天下は、ないに若かぬと云つただけぢや。源平藤橘、どの天下も結局あるのはないに若かぬ。この島の土人を見るが好い。平家の代でも源氏の代でも、同じやうに芋を食うては、同じやうに子を産んでゐる。天下の役人は役人がゐぬと、天下も亡ぶやうに思うてゐるが、それは役人のうぬ惚れだけぢや。」

 「が僧都の御房の天下になれば、何御不足にもありますまい。」

 俊寛樣の御眼の中には、わたしの微笑が映つたやうに、やはり御微笑が浮びました。

 「成親の卿の天下同樣、平家の天下より惡いかも知れぬ。何故と云へば俊寛は、淨海入道より物わかりが好い。物わかりが好ければ政治なぞには、夢中になれぬ筈ではないか? 理非曲直も辨えずに、途方もない夢ばかり見續けてゐる、――其處が高平太の強い所ぢや。小松の内府なぞは利巧なだけに、天下を料理するとなれば、淨海入道より數段下ぢや。内府も始終病身ぢやと云ふが、平家一門の爲を計れば、一日も早く死んだが好い。その上又おれにしても、食色の二性を離れぬ事は、淨海入道と似たやうなものぢや。さう云ふ凡夫の取つた天下は、やはり衆生の爲にはならぬ。所詮人界が淨土になるには、御佛の御天下を待つ外はあるまい。――おれはさう思つてゐたから、天下を計る心なぞは、微塵も貯へてはゐなかつた。」

 「しかしあの頃は毎夜のやうに、中御門高倉の大納言樣へ、御通いなすつたではありませんか?」

 わたしは御不用意を責めるやうに、俊寛樣の御顏を眺めました、ほんたうに當時の御主人は、北の方の御心配も御存知ないのか、夜は京極の御屋形にも、滅多に御休みではなかつたのです。しかし御主人は相不變、澄ました御顏をなすつた儘、芭蕉扇を使つていらつしやいました。

 「其處が凡夫の淺ましさぢや。丁度あの頃あの屋形には、鶴の前と云ふ上童があつた。これが如何なる天魔の化身か、おれを捉へて離さぬのぢや。おれの一生の不仕合はせは、皆あの女がゐたばかりに、降つて湧いたと云うても好い。女房に横面を打たれたのも、鹿ヶ谷の山莊を假したのも、しまひにこの島へ流されたのも、――しかし有王、喜んでくれい。おれは鶴の前に夢中になつても、謀叛の宗人にはならなかつた。女人に愛樂を生じたためしは、古今の聖者にも稀ではない。大幻術の摩登伽女には、阿難尊者さへ迷はせられた。龍樹菩薩も在俗の時には、王宮の美人を偸む爲に、隱形の術を修せられたさうぢや。しかし謀叛人になつた聖者は、天竺震旦本朝を問はず、唯の一人もあつた事は聞かぬ。これは聞かぬのも不思議はない。女人に愛樂を生ずるのは、五根の欲を放つだけの事ぢや。が、謀叛を企てるには、貪嗔癡の三毒を具へねばならぬ。聖者は五欲は放たれても、三毒の害は受けられぬのぢや。して見ればおれの知慧の光も、五欲のために曇つたと云へ、消えはしなかつたと云はねばなるまい。――が、それは兎も角も、おれはこの島へ渡つた當座、毎日忌々しい思ひをしてゐた。」

 「それはさぞかし御難儀だつたでせう。御食事は勿論、御召し物さへ、御不自由勝ちに違ひありませんから。」

 「いや、衣食は春秋二度ずつ、肥前の國鹿瀨の莊から、少將のもとへ送つて來た。鹿瀨の莊は少將の舅、平の教盛の所領の地ぢや。その上おれは一年程たつと、この島の風土にも慣れてしまつた。が、忌々しさを忘れるには、一しよに流された相手が惡い。丹波の少將成經などは、ふさいでゐなければ居睡りをしてゐた。」

 「成經樣は御年若でもあり、父君の御不運を御思ひになつては、御歎きなさるのも御尤もです。」

 「何、少將はおれと同樣、天下はどうなつてもかまはぬ男ぢや。あの男は琵琶でも掻き鳴らしたり、櫻の花でも眺めたり、上臈に戀歌でもつけてゐれば、それが極樂ぢやと思うてゐる。ぢやからおれに會ひさへすれば、謀叛人の父ばかり怨んでゐた。」

 「しかし康賴樣は僧都の御房と、御親しいやうに伺いましたが。」

 「所がこれが難物なのぢや。康賴は何でも願さへかければ、天神地神諸佛菩薩、悉あの男の云ふなり次第に、利益を垂れると思うてゐる。つまり康賴の考へでは、神佛も商人と同じなのぢや。唯神佛は商人のやうに、金錢では冥護を御賣りにならぬ。ぢやから祭文を讀む。香火を供える。この後の山なぞには、姿の好い松が澤山あつたが、皆康賴に伐られてしもうた。伐つて何にするかと思へば、千本の卒塔婆を拵へた上、一々それに歌を書いては、海の中へ抛りこむのぢや。おれはまだ康賴位、現金な男は見た事がない。」

 「それでも莫迦にはなりません。都の噂ではその卒塔婆が、熊野にも一本、嚴島にも一本、流れ寄つたとか申してゐました。」

 「千本の中には一本や二本、日本の土地へも着きさうなものぢや。ほんたうに冥護を信ずるならば、たつた一本流すが好い。その上康賴は難有さうに、千本の卒塔婆を流す時でも、始終風向きを考へてゐたぞ。何時かおれはあの男が、海へ卒塔婆を流す時に、歸命頂禮熊野三所の權現、分けては日吉山王、王子の眷屬、總じては上は梵天帝釋、下は堅牢地神、殊には内海外海龍神八部、應護の眦を垂れさせ給へと唱へたから、その跡へ並びに西風大明神、黒潮權現も守らせ給へ、謹上再拜とつけてやつた。」

 「惡い御冗談をなさいます。」

 わたしもさすがに笑ひ出しました。

 「すると康賴は怒つたぞ。ああ云ふ大嗔恚を起すやうでは、現世利益は兎も角も、後生往生は覺束ないものぢや。――が、その内に困まつた事には、少將も何時か康賴と一しよに、神信心を始めたではないか? それも熊野とか王子とか、由緒のある神を拜むのではない。この島の火山には鎭護の爲か、岩殿と云ふ祠がある。その岩殿へ詣でるのぢや。――火山と云へば思ひ出したが、お前はまだ火山を見た事はあるまい?」

 「はい、唯さつき榕樹の梢に、薄赤い煙のたなびいた、禿げ山の姿を眺めただけです。」

 「では明日でもおれと一しよに、頂へ登つて見るが好い。頂へ行けばこの島ばかりか、大海の景色は手にとるやうぢや。岩殿の祠も途中にある、――その岩殿へ詣でるのに、康賴はおれにも行けと云うたが、おれは容易には行かうとは云はぬ。」

 「都では僧都の御房一人、さう云ふ神詣でもなさらない爲に、御殘されになつたと申して居ります。」

 「いや、それはさうかも知れぬ。」

 俊寛樣は眞面目さうに、ちよいと御首を御振りになりました。

 「もし岩殿に靈があれば、俊寛一人を殘した儘、二人の都返りを取り持つ位は、何とも思はぬ禍津神ぢや。お前はさつきおれが教へた、少將の女房を覺えてゐるか? あの女もやはり岩殿へ、少將がこの島を去らぬやうに、毎日毎夜詣でたものぢや。所がその願は少しも通らぬ。すると岩殿と云ふ神は、天魔にも増した横道者ぢや。天魔には世尊御出世の時から、諸惡を行ふと云ふ戒行がある。もし岩殿の神の代りに、天魔があの祠にゐるとすれば、少將は都へ歸る途中、船から落ちるか、熱病になるか、とにかくに死んだのに相違ない。これが少將もあの女も、同時に破滅させる唯一の途ぢや。が、岩殿は人間のやうに、諸善ばかりも行はねば、諸惡ばかりも行はぬらしい。尤もこれは岩殿には限らぬ。奧州名取郡笠島の道祖(さへ)は、都の加茂河原の西、一條の北の邊に住ませられる、出雲路の道祖の御娘ぢや。が、この神は父の神が、まだ聟の神も探されぬ内に、若い都の商人と妹背の契を結んだ上、さつさと奧へ落ちて來られた。かうなつては凡夫も同じではないか? あの實方の中將は、この神の前を通られる時、下馬も拜もされなかつたばかりに、とうとう蹴殺されておしまひなすつた。かう云ふ人間に近い神は、五塵を離れてゐぬのぢやから、何を仕出かすか油斷はならぬ。このためしでもわかる通り、一體神と云ふものは、人間離れをせぬ限り、崇めろと云へた義理ではない。――が、そんな事は話の枝葉ぢや。康賴と少將とは一心に、岩殿詣でを續け出した。それも岩殿を熊野になぞらへ、あの浦は和歌浦、この坂は蕪坂なぞと、一々名をつけてやるのぢやから、まづ童たちが鹿狩と云つては、小犬を追ひまはすのも同じ事ぢや。唯音無の瀧だけは本物よりもずつと大きかつた。」

 「それでも都の噂では、奇瑞があつたとか申してゐますが。」

 「その奇瑞の一つはかうぢや。結願の當日岩殿の前に、二人が法施を手向けてゐると、山風が木々を煽つた拍子に、椿の葉が二枚こぼれて來た。その椿の葉には二枚とも、蟲の食つた跡が殘つてゐる。それが一つには歸雁とあり、一つには二とあつたさうぢや。合せて讀めば歸雁二となる、――こんな事が嬉しいのか、康賴は翌日得々と、おれにもその葉を見せなぞした。成程二とは讀めぬでもない。が、歸雁は如何にも無理ぢや。おれは餘り可笑しかつたから、次の日山へ行つた歸りに、椿の葉を何枚も拾つて來てやつた。その葉の蟲食いを續けて讀めば、歸雁二どころの騷ぎではない。『明日歸洛』と云ふのもある。『清盛横死』と云ふのもある。『康賴往生』と云ふのもある。おれはさぞかし康賴も、喜ぶぢやろうと思ふたが、――」

 「それは御立腹なすつたでせう。」

 「康賴は怒るのに妙を得てゐる。舞も洛中に並びないが、腹を立てるのは一段と巧者ぢや。あの男は謀叛なぞに加はつたのも、嗔恚に牽かれたのに相違ない。その嗔恚の源はと云へば、やはり増長慢のなせる業ぢや。平家は高平太以下皆惡人、こちらは大納言以下皆善人、――康賴はかう思うてゐる。そのうぬ惚れが爲にならぬ。又さつきも云うた通り、我々凡夫は誰も彼も、皆高平太と同樣なのぢや。が、康賴の腹を立てるのが好いか、少將のため息をするのが好いか、どちらが好いかはおれにもわからぬ。」

 「成經樣御一人だけは、御妻子もあつたさうですから、御紛れになる事もありましたろうに。」

 「所が始終蒼い顏をしては、つまらぬ愚痴ばかりこぼしてゐた。たとへば谷間の椿を見ると、この島には櫻も咲かないと云ふ。火山の頂の煙を見ると、この島には青い山もないと云ふ。何でも其處にある物は云はずに、ない物だけ並べ立ててゐるのぢや。一度なぞはおれと一しよに、磯山へ槖吾(つは)を摘みに行つたら、ああ、わたしはどうすれば好いのか、此處には加茂川の流れもないと云うた。おれがあの時吹き出さなかつたのは、我立つ杣の地主權現、日吉の御冥護に違ひない。が、おれは莫迦々々しかつたから、此處には福原の獄(ひとや)もない、平相國入道淨海もいない、難有い難有いとかう云うた。」

 「そんな事を仰有つては、いくら少將でも御腹立ちになりましたらう。」

 「いや、怒られれば本望ぢや。が、少將はおれの顏を見ると、悲しさうに首を振りながら、あなたには何もおわかりにならない、あなたは仕合せな方ですと云ふた。ああ云ふ返答は、怒られるよりも難儀ぢや。おれは、――實はおれもその時だけは、妙に氣が沈んでしもうた。もし少將の云ふやうに、何もわからぬおれぢやつたら、氣も沈まずにすんだかも知れぬ。しかしおれにはわかつてゐるのぢや。おれも一時は少將のやうに、眼の中の涙を誇つたことがある。その涙に透かして見れば、あの死んだ女房も、どの位美しい女に見えたか、――おれはそんな事を考へると、急に少將が氣の毒になつた。が、氣の毒になつて見ても、可笑しいものは可笑しいではないか? そこでおれは笑ひながら、言葉だけは眞面目に慰めやうとした。おれが少將に怒られたのは、跡にも先にもあの時だけぢや。少將はおれが慰めてやると、急に恐しい顏をしながら、嘘をおつきなさい。わたしはあなたに慰められるよりも、笑はれる方が本望ですと云ふた。その途端に、――妙ではないか? とうとうおれは吹き出してしもうた。」

 「少將はどうなさいました?」

 「四五日の間はおれに遇うても、挨拶さへ碌にしなかつた。が、その後また遇うたら、悲しさうに首を振つては、ああ、都へ返りたい、ここには牛車も通らないと云ふた。あの男こさうれより仕合せものぢや。――が、少將や康賴でも、やはり居らぬよりは、ゐた方が好い。二人に都へ歸られた當座、おれはまた二年ぶりに、毎日寂しゅうてならなかつた。」

 「都の噂では御寂しいどころか、御歎き死にもなさり兼ねない、御容子だつたとか申してゐました。」

 わたしは出來るだけ細々と、その御噂を御話しました。琵琶法師の語る言葉を借りれば、

 「天に仰ぎ地に俯し、悲しみ給へどかひぞなき。……猶も船の纜に取りつき、腰になり脇になり、丈の及ぶ程は、引かれておはしけるが、丈も及ばぬ程にもなりしかば、又空しき渚に泳ぎ返り、……是具して行けや、我乘せて行けやとて、おめき叫び給へども、漕ぎ行く船のならひにて、跡は白浪ばかりなり。」と云ふ、御狂亂の一段を御話したのです。俊寛樣は御珍しさうに、その話を聞いていらつしやいましたが、まだ船の見える間は、手招ぎをなすつていらしつたと云ふ、今では名高い御話をすると、

 「それは滿更嘘ではない。何度もおれは手招ぎをした。」と、素直に御頷きなさいました。

 「では都の噂通り、あの松浦の佐用姫のやうに、御別れを御惜しみなすつたのですか?」

 「二年の間同じ島に、話し合うた友だちと別れるのぢや。別れを惜しむのは當然ではないか? しかし何度も手招ぎをしたのは、別れを惜しんだばかりではない。――一體あの時おれの所へ、船のはひつたのを知らせたのは、この島にゐる琉球人ぢや。それが濱べから飛んで來ると、息も切れ切れに船々と云ふ。船はまづわかつたものの、何の船がはひつて來たのか、その外の言葉はさつぱりわからぬ。あれはあの男もうろたへた餘り、日本語と琉球語とを交る交る、饒舌つてゐたのに違ひあるまい。おれはともかくも船と云ふから、早速濱べへ出かけて見た。すると濱べには何時の間にか、土人が大勢集つてゐる。その上に高い帆柱のあるのが、云ふまでもない迎ひの船ぢや。おれもその船を見た時には、さすがに心が躍るやうな氣がした。少將や康賴はおれより先に、もう船の側へ駈けつけてゐたが、この喜びやうも一通りではない。現にあの琉球人なぞは、二人とも毒蛇に嚙まれた揚句、氣が狂つたのかと思うた位ぢや。その内に六波羅から使に立つた、丹左衞門尉基安は、少將に赦免の教書を渡した。が、少將の讀むのを聞けば、おれの名前がはひつてゐない。おれだけは赦免にならぬのぢや。――さう思つたおれの心の中には、わずか一彈指の間ぢやが、いろいろの事が浮んで來た。姫や若の顏、女房の罵る聲、京極の屋形の庭の景色、天竺の早利即利兄弟、震旦の一行阿闍梨、本朝の實方の朝臣、――とても一々數へてはゐられぬ。唯今でも可笑しいのは、その中にふと車を引いた、赤牛の尻が見えた事ぢや。しかしおれは一心に、騷がぬ容子をつくつてゐた。勿論少將や康賴は、氣の毒さうにおれを慰めたり、俊寛も一しよに乘せてくれいと、使にも賴んだりしてゐたやうぢや。が、赦免の下らぬものは、何をどうしても、船へは乘れぬ。おれは不動心を振ひ起しながら、何故おれ一人赦免に洩れたか、その譯をいろいろ考へて見た。高平太はおれを憎んでゐる。――それも確かには違ひない。しかし高平太は憎むばかりか、内心おれを恐れてゐる。おれは前(さき)の法勝寺の執行ぢや。兵仗の道は知る筈がない。が、天下は思ひの外、おれの議論に應ずるかも知れぬ。――高平太は其處を恐れてゐるのぢや。おれはかう考へたら、苦笑せずにはゐられなかつた。山門や源氏の侍どもに、都合の好い議論を拵へるのは、西光法師などの嵌り役ぢや。おれは眇たる一平家に、心を勞する程老耄れはせぬ。さつきもお前に云ふた通り、天下は誰でも取つてゐるが好い。おれは一卷の經文の外に、鶴の前でもゐれば安堵してゐる。しかし淨海入道になると、淺學短才の悲しさに、俊寛も無氣味に思うてゐるのぢや。して見れば首でも刎ねられる代りに、この島に一人殘されるのは、まだ仕合せの内かも知れぬ。――そんな事を思うてゐる間に、愈船出と云ふ時になつた。すると少將の妻になつた女が、あの赤兒を抱いた儘、どうかその船に乘せてくれいと云ふ。おれは氣の毒に思うたから、女は咎めるにも及ぶまいと、使の基安に賴んでやつた。が、基安は取り合ひもせぬ。あの男は勿論役目の外は、何一つ知らぬ木偶の坊ぢや。おれもあの男は咎めずとも好い。唯罪の深いのは少將ぢや。――」

 俊寛樣は御腹立たしさうに、ばたばた芭蕉扇を御使いなさいました。

 「あの女は氣違ひのやうに、何でも船へ乘ろうとする。舟子たちはそれを乘せまいとする。とうとうしまひにあの女は、少將の直垂の裾を摑んだ。すると少將は蒼い顏をした儘、邪慳にその手を刎ねのけたではないか? 女は濱べに倒れたが、それぎり二度と乘ろうともせぬ。唯おいおい泣くばかりぢや。おれはあの一瞬間、康賴にも負けぬ大嗔恚を起した。少將は人畜生ぢや。康賴もそれを見てゐるのは、佛弟子の所業とも思はれぬ。おまけにあの女を乘せる事は、おれの外に誰も賴まなかつた。――おれはさう思ふたら、今でも不思議な氣がする位、ありとあらゆる罵詈讒謗が、口を衝いて溢れて來た。尤もおれの使つたのは、京童の云ふ惡口ではない。八萬法藏十二部經中の惡鬼羅刹の名前ばかり、矢つぎ早に浴びせたのぢや。が、船は見る見る遠ざかつてしまふ。あの女はやはり泣き伏した儘ぢや。おれは濱べにじだんだを踏みながら、返せ返せと手招ぎをした。」

 御主人の御腹立ちにも關らず、わたしは御話を伺つてゐる内に、自然とほほ笑んでしまひました。すると御主人も御笑ひになりながら、

 「その手招ぎが傳はつてゐるのぢや。嗔恚の祟りは其處にもある。あの時おれが怒りさへせねば、俊寛は都へ歸りたさに、狂ひまはつたなぞと云ふ事も、口の端へ上らずにすんだかも知れぬ」と、仕方がなささうに仰有るのです。

 「しかしその後は格別に、御歎きなさる事はなかつたのですか?」

 「歎いても仕方はないではないか? その上時のたつ内には、寂しさも次第に消えて行つた。おれは今では己身の中に、本佛を見るより望みはない。自土即淨土と觀じさへすれば、大歡喜の笑ひ聲も、火山から炎の迸るやうに、自然と湧いて來なければならぬ。おれはどこまでも自力の信者ぢや。――おお、まだ一つ忘れてゐた。あの女は泣き伏したぎり、いつまでたつても動かうとせぬ。その内に土人も散じてしまふ。船は青空(あおぞら)に紛れるばかりぢや。おれは餘りのいぢらしさに、慰めてやりたいと思ふたから、そつと後手に抱き起さうとした。するとあの女はどうしたと思ふ? いきなりおれをはり倒したのぢや。おれは目が眩らみながら、仰向けに其處へ倒れてしまうた。おれの肉身に宿らせ給ふ、諸佛諸菩薩諸明王も、あれには驚かれたに相違ない。しかしやつと起き上つて見ると、あの女はもう村の方へ、すごすご歩いて行く所ぢやつた。何、おれをはり倒した譯か? それはあの女に聞いたが好い。が、事によると人氣はなし、凌ぜられるとでも思つたかも知れぬ。」

 

        五

 

 わたしは御主人とその翌日、この島の火山へ登りました。それから一月程御側にゐた後、御名殘り惜しい思ひをしながら、もう一度都へ歸つて來ました。「見せばやなわれを思はん友もがな磯のとまやの柴の庵を」――これが御形見に頂いた歌です。俊寛樣はやはり今でも、あの離れ島の笹葺きの家に、相不變御一人悠々と、御暮らしになつてゐる事でせう。事によると今夜あたりは、琉球芋を召し上りながら、御佛の事や天下の事を御考へになつてゐるかも知れません。さう云ふ御話はこの外にも、まだいろいろ伺つてあるのですが、それは又何時か申し上げませう。

 

 

 

■やぶちやんの参考資料:芥川龍之介が素材・参考としたと思われる「源平盛衰記」「平家物語」各部分原文

[やぶちゃん注:「源平盛衰記」は、平成五(1993)年三弥井書店刊「源平盛衰記」(本書は内閣文庫蔵慶長古活字版を底本とし、ほぼ新字正仮名である。私のコンセプトからは新字体には不本意であるが、「源平盛衰記」は本書しか所持していないので致し方ない)を用いたが、読み易さを考え、カタカナはひらがなに直した。踊り字に「ヽ」の濁音が用いられているが、濁音の関係上、「ゝ」「ゞ」とした。踊り字「/\」の濁音は正字に戻してある。漢文脈の返り点は省略した。本文が連続していない箇所には、「*」を附した。なお、底本では小見出しは頭注部分にある。

 「平家物語」は、1959年岩波書店刊の日本古典文學大系32「平家物語 上」を底本とした(こちらは正字正仮名である)。但し、底本は総ルビであるが、パラルビとし、編者による補訂漢字等は私の判断で採用不採用を判断し、各種校合記号も省略した。篇者による促音の〔ッ〕の補訂は、本来の原本を尊重し、見送った。踊り字「/\」の濁音は正字に戻してある。赦免の経緯が分かるように、また「源平盛衰記」との対比が出来るように、「足摺」の前の「卒都婆流」「蘇武」及び「赦文」の部分を引き、更に「僧都死去」の前の「有王」も引用した。なお、芥川龍之介の「俊寛」の有王が俊寛に語る部分の琵琶法師の「平家物語」の引用は、幾つかの「平家物語」の諸本を見てみたが、一致するものを、私は見出し得なかった。、もし、ご存知の方があれば、ご教授を乞う。

 「源平盛衰記」「平家物語」共に、原本そのものの歴史的仮名遣いの誤りについては、原則として注記を省略した。

芥川が「俊寛」で引用した部分に下線を引いた。]

 

□「源平盛衰記」


   「源平盛衰記」巻第七 俊寛成経等移鬼界島事

 

 薩摩方とは惣名也。鬼界は十二の島なれや、五嶋七嶋と名付たり。端五嶋は、日本に従へり。康頼法師をば五嶋の内、ちとの嶋に捨、俊寛をば白石の嶋に捨けり。彼嶋には白鷺多して石白し、故に白石の嶋と云。丹波少将をば、奥七嶋が内、三の迫の北、硫黄嶋にぞ捨たりける。尋常(よのつね)の流罪だに悲かるべきに、道すがら習はぬ旅にさすらひて、そゞろに哀を催けり。前途に眼を先立れば、早行(はやくゆく)事を歎(なげき)、旧里に心を通はせば、終(つひ)に還らん事難し。或は雲路遠山の遙なる粧を見ては、哀涙袖を絞り、或は海岸孤嶋の幽なる砌に臨ては、愁烟肝を焦しけり。さらぬだに、旅の憂(うき)寝は悲しきに、深夜の月朗(ほがらか)に木綿付(ゆふつけ)鳥も音信(おとづれ)り。遊子残月に行けん、函谷の有様思ひこそ出でけれ。日数ふれば、薩摩国に著にけり。遙々と海上を漕渡(わたり)て、嶋々にこそ被捨けれ。此嶋々へは、おぼろげならでは、人の通(かよふ)事もなし。嶋にも人稀也。自(おのづから)有者も此土の人には不似、身には毛長生(ながくおひ)、色黒して如牛、云事の言(ことば)も聞知ず、男は烏帽子もきず、女は髪もけづらず、木の皮を剥てさねかつらにしたり。ひとへに鬼の如し。眼(まなこ)に遮る物は、燃上(もえあがる)火の色、耳に満る物は、鳴下(なりくだる)雷の音、肝(きも)心も消(きゆる)計(ばかり)なれば、一日片時堪て有べき心地せず。賤が山田も打ざれば、米穀の類も更になく、園の桑葉も取ざれば、絹布服(けんぷのきもの)も稀也。昔は鬼の住ければ、鬼界の嶋とも名付たり。今も硫黄の多ければ、硫黄の嶋とぞ申ける。少将は中々被刎首たらんはいかゞせん、生ながら係(かかる)悲き嶋に放(はなた)れて、憂(うき)目をみん事の罪深さよと思はれける中にも、故郷に残留(のこりとどまり)て、此嶋の有様(ありさま)伝聞て歎らんこそ無慙なれと覚しけるこそ哀なれ。此人々始には、三の嶋に被捨、所々に歎けり。彼(かの)海漫々として風皓々たり。雲の浪、煙の波に咽らん、蓬莱・方丈・瀛州の三の神仙の嶋ならば、不死の薬も取なまし、此嶋々の中には慰事こそなかりけれ。責(せめ)ては三人一所にだにあらば、悲事も憂事も互に語て心をもやりなん、嶋をかへ海を隔て、所々に歎けるこそ無慙なれ。少将には門脇殿宰相より訪給けれ共、二人をば助る者もなし。僧都も入道も、身も悲しく人も恋しかりければ、後には網舟釣舟に手をすり腰をかゞめつゝ、俊寛も康頼も、硫黄が嶋へぞ寄会ける。

 

   「源平盛衰記」巻第七 康頼造卒都婆事

 

 少将と判官入道とは、痛く思沈たる事はなし。浦々嶋々見巡て、都の方をも詠(ながめ)けり。僧都は強(あながちに)歎痩て、岩の迫(はざま)に苔の下に倒伏て、浦吹(ふく)風に身を冷(すずむ)る事もなく、岸打(うつ)浪に思をも消さゞりけり。判官入道は、「泣悲ても由なし、只仏の御名をも唱、神にも祈申してこそ、二度都へ帰上らん事をも願(ねがひ)、後世菩提をも助(たすけ)め」とて、己が能也ければ、歌をうたひ舞をまふて、嶋の明神に手向けり。端嶋の者共、時々来て見けるが、興に入て舞などしけるぞ、歎の中にもをかしかりける。判官入道は都の恋さも猿(さる)事にて、殊に七十有余の母の、紫野と云所に在けるを思出侍けるに、いとゞ為方(せんかた)なくぞ思ける。「流されし時、かくと知せまほかしけれ共、聞給なば悶焦(こがれ)給はん事の痛はしくかなしさに、角(かく)とも云ずして下たれば、ながらへて今までもおはせば、此有様を伝聞ていかばかりかは歎給はん」と云つゞけては、唯泣(なく)より外の事なし。悲さの余には、角(かく)ぞ思つゞけゝる。

  薩摩潟沖の小嶋に我有(あり)と親には告よ八重の塩風

  思やれ暫しと思ふ旅だにもなほ古郷は恋しき物を

千本の卒都婆を造り、頭には阿字の梵字を書(かき)、面には二首の歌をかき、下に康頼法師と書て文字をば彫つゝ、誓ける事は、「帰命頂礼熊野三所権現若一王子、分ては日吉山王々子眷属、惣而(そうじて)は上梵天帝釈下竪牢地神、殊には内海外海竜神八部、憐を垂給(たれたまひ)、我書流(かきなが)す言葉、必(かならず)風の便、波に伝に日本の地につけ給(たまひ)、古郷におはする我母に見せしめ給へ」と祈つゝ、西の風の吹時は八重の波にぞ浮べける。行に百行あり、国土を治(おさむる)謀(はかりごと)、善に万善あり、生死を出る勤なり。卒都婆は万然の随一、諸仏是を勧喜し、孝養は百行の最長、竜天必ず哀愍す。漫々たる海上、塩路遙(はるか)の波の末、必(かならず)左(さ)とは思はねど、責(せめ)ても母の悲さに、角(かく)してこそは祈けれ。思ふ思(おもひ)も風と成(なり)、願ふ願(ねがひ)もこたへつゝ、竜神納受を垂給ひ、新宮の湊に卒都婆一本寄(より)たりけるを、浦人是を見咎て、熊野別当に奉たれ共、世を恐たりけるにや、披露はなし。安芸の厳嶋にも一本付たりけり。折節判官入道のゆかり也ける僧、康頼西海の浪に被流ぬと聞ければ、何となく都をあくがれ出て西国の方へ修行し行けるが、「便風あらば彼嶋へも渡らばや」と思ひけれ共、おぼろけにては船も人も通はず、自(おのづから)商人などの渡るも、僅に日よりを待得てこそ行(ゆけ)」など申ければ、いかにも尋行べき心地もせずは有けれ共、安芸国までは下にけり。厳嶋明神に参詣して両三日ぞ有ける。当社の景気を拝すれば、後は翠嶺山高して、吹(ふく)風効験の高(たかき)事を示し、前には巨海水深して、立(たつ)浪弘誓の深(ふかき)事を表す。さす塩社壇を浸(ひたす)時は、紺瑠璃を瑞籬に敷(しく)かと疑はる。引(ひく)塩神前を去(さる)時は、合浦の玉を庭上に蒔歟とうたがはる。和光同塵の利益は、何(いづれ)もとりどりなりといへ共、海畔の鱗(うろくづ)に契を結給らん、因縁誠に知難し。参詣合掌の我までも、八相成道の結縁は、憑しくこそ思けれ。此神明をば、平家の大相国、深く崇敬し給事ぞかしと思出るも恐し。繖(ぬさ)取敢ぬ事なれば、只法施をぞ手向奉ける。心中に祈念申けるは、帰命頂礼和光垂迹当社権現、硫黄嶋流人康頼が生死知せしめ給へ、猶も存命あらば、夜の守・昼の守と成給て、浪の便の言伝をも聞(きか)しめ、再(ふたたび)故郷の雲に返し入(いら)しめ給へと、祈けるこそ哀なれ。終日念誦したりける晩程に、社司神女御前の渚に遊覧す。月の出塩満けるに、そこはかともなく浪に流るゝもくづの中に、卒都婆一本見え来る。「あやしや。何(いか)なる事にか」とて、取上(とりあげ)見之(これをみれ)ば、二首の歌を書(かき)、下に康頼法師と書付たり。各(おのおの)手々に是を取渡し歌を詠じて、「哀なる事也、作者何者やらん」と云ける中に、社僧の有けるが云けるは、「糸惜(いとほしき)事かな、是は一年(ひととせ)都より薩摩方硫黄嶋へ三人の流人有き。法勝寺の執行俊寛・丹波少将成経・平判官康頼也。此康頼法師が故郷も恋く恩愛の親も悲くて、角(かく)書流せるにこそ。懸(かかる)様(ためし)昔も有とこそ聞(きけ)、是をば如何情なく捨ては置べき。都の妻子もさこそ恋し悲しと思て、ゆくへ聞まほしかるらめ、如何して是を故郷の親き者の許へ急ぎ慥に付べき」とぞ申ける。ゆかりの僧も見聞けり。心も消(きえ)涙もこぼれて嬉く悲かりける、中にも「是は明神の御計(はからひ)にや」と、忝(かたじけなく)貴(たつとく)ぞ思ける。社僧此僧を語ひ申けるは、「やゝ修行者の御坊、もし都へ上給はゞ、此卒都婆を事伝(ことづて)申さん、慥に平判官康頼が妻子の許へ伝給なんや」といへば、僧答て曰、[此事承るに、よにも有難く哀なる事にこそ。修行者の習、宿定らぬ事なれども、本(もと)都の者にて侍りしが、折節都へ還(かへり)上(のぼり)侍(はべり)。康頼がゆかり、ほの知て候へば、たしかに伝送べし。且は明神も御照覧候べし]とて、件(くだん)の卒都婆を請取て、笈の肩に挟み、泣々都へ上にけり。母の尼公、妻子、親類、招集て見せたりければ、もだえこがれ泣悲みける心の中、たゞ推量(おしはか)るべし。康頼は卒都婆に歌を書、名を注し、文字をば彫刻(ゑりきざみ)、其に墨を入たれば、塩にも浪にも消ずして、鮮にこそ見えたりけれ。此事京中に披露有ければ、既に及叡聞、彼(かの)卒都婆を被召つゝ、叡覧有りて、龍眼より御涙を流させ給ひ、「康頼法師未(いまだ)ながらへて彼(かの)嶋に有らん事こそ不便(ふびん)なれ。水茎の跡なかりせば知(しら)ざらまし」とて、御むつかり有ければ、御前に候ひける人々も各(おのおの)袖を絞けり。小松内府の被参たりけるに、「康頼法師が歌哀(あはれ)にこそ」とて賜下されたりければ、大臣も打見給つゝ、涙ぐみて御前を立て、父の入道に奉たれば、相国禅門もさすが哀にこれ覚しけめ。係(かかり)ければ判官入道未(いまだ)都へ帰上らざりけれ共、此歌は上下哀(あはれ)に翫(もてあそび)けるとかや。

 

 

   「源平盛衰記」巻第九 康頼熊野詣

 

[やぶちゃん注:底本ではここは改行せず、前の「宰相申預丹波少将」から、そのまま続いている。]七月上旬に丹波少将召返(めしかへす)とて、六波羅より使あり。入道の侍に、丹左衛門尉基安と云者也。宰相の許よりも私の使を相添られたり。漫々たる万里の波、浦々嶋々漕過つゝ、心は強(あながち)に急げども、満来(みちくる)塩に沂吹立(ふきたつ)浪も荒(あらく)して、海上に日数を経、八月下旬に薩摩の地に着、九月上旬にぞ硫黄嶋には渡ける。さても此人々、日比(ひごろ)露の命の消ざれば、さすが憂身の有程は、朝な夕なの渡居(わたらひ)を、さばくる者もなければ、何(いつ)習たるにはあらね共、手自(てづからみずから)営けるぞ無慙なる。少将山に入て爪木を拾(ひろふ)朝には、康頼沢に出て根芹をつみ、俊寛谷に下て水を結(むすぶ)夕には、少将浦に行て藻をかきけり。僧俗の品もなく、上下の礼も乱つゝ賄けるぞ糸惜(いとほしき)。角(かく)て春過夏闌ても、思を故郷に馳(はせ)、年を送(おくり)月を迎ても、悲を旧里に残す。月日の数も積ければ、島の者共のいふ言(ことば)も、各(おのおの)聞知給けり。彼等も此人々の言をも自(おのづから)聞知奉る。物語の次(ついで)に嶋の者共が申けるは、「此御棲より五十余町を去て一の離山あり、峯高して谷深し。其名を鸞岳と云。彼岳には夷三郎殿と申神を奉祝、岩殿と名付たり、此嶋に猛火俄に燃出て、殊に熱(あつく)たへ難(がたき)時は、様々の供物を捧て祈祭れば、火静(しづまり)風のどかに吹て、自(おのづから)安堵す」とぞ語りける。少将これを聞て、「係(かか)る猛火の山、鬼の住所にも、神と云事の侍(はべる)にこそ」と宣ば、康頼答けるは、「申にや及侍る。炎魔王界と申は、地の下五百由旬にあり。鬼類の栖として、猛火の中に侍、其にだにも十王とも申、十神共(とも)名付て、十体の神床(ゆか)を並て住給へり。況や此嶋は扶桑神国の内の嶋なれば、夷三郎殿もなどか住給はざらん。抑(そもそも)性照三十三度熊野参詣の宿願有りて、十八度までは参て今十五度を残せり。当来得道の為に、岩殿の御前にて果さばやと存(ぞんず)。露の命もながらへば、都還をも祈らんと思なり。大神も小神も屈請の砌に影向し、権者も実者も渇仰の前に顕現し給ふ事なれば、権現も定て御納受有べし、同心あらば然べし。各(おのおの)いかゞ思食(おぼしめす)」と云ければ、少将「成経はやがて入道を先達として可詣」とぞ悦給ける。俊寛の云けるは、日本は神国也。天開け地竪り、国興り人定て後、光を高間原に和げ、跡をあらかねの地に垂給ふ大小の神祇三千七百余所也。多(おほく)は久成正覚の如来、大悲闡提菩薩也、又吉備大臣神明の数を注たりけるには、上には一万三千、下は粟三石が員(かず)といへり。其名帳の中に、硫黄嶋の岩殿と云神よもあらじ、就中後生菩提の為ならば、乃至十念若不生者不取正覚と誓給へり、弥陀念仏をも唱(となふ)べし。都還の祈ならば、現世安穏後生善処とも説(とき)、病即消滅不老不死とも演(のべ)給へり。遠流の罪に行れて日積(つもり)、歎に悲(かなしむ)も是又病に非(あらず)や。されば法華経もよみ給べし、凡(およそ)神明には権実の二御座(おはします)。権者の神と申は、法性真如の都より出て、分段同居の塵に交り、愚癡の衆生に縁を結給(むすびたまふ)。実者の神と申は、悪霊死霊等の顕出て、衆生に崇をなす者也。彼を礼し敬(うやまへ)ば、永劫悪趣に沈。故に、或文に云、一瞻一礼諸神祇正受蛇身五百度現世福報更不来後生必堕三悪道と見えたり。されば漢朝に霊験無双の社あり、人崇之牛羊の肉を以て祭けり、其神体を尋れば、古釜にて有りけるとかや。一人の禅師来て、釜を叩て云(いはく)、『神何(いづれ)の処より来れるぞ、霊何の処にか有』と云て、さながら打砕て捨けり。禅師角(かく)して帰時、青衣の俗人現て、冠を傾け僧を礼云、『我こゝにして多(おほく)苦患を受き。而に禅師今無生の法をとき給ふ。吾聴聞して忽に業苦を離れて、天に生ずる事を得たり、其恩報じ難し』と云て、忽然として失にけり。されば我等(われら)が身には、今生の事更に不可思、偏に後世の苦をまぬかるゝ方便をこそ、あらまほしく侍れ。神明と申は、権者の神も、仏菩薩の化現として、仮に下給へる垂跡也、直(ぢき)に本地の風光を尋て、出離の道に入給べし。其に念仏を憑て、往生を期し給はゞ、行往坐臥念々歩々、口に名号を唱へ心に極楽を念て、臨終の来迎を待給べし。聖道の修行ならば、凡聖元(もと)より二なし。自身の外に仏を不可求、邪正自(おのづから)一如也、自土の外に浄土なし。三界一心と知ぬれば、地獄天宮外になし。心仏衆生一体と悟ぬれば、始覚本覚身を離れず、自性の本仏もとより己身に備(そなふ)と観ずれば、無窮の聖応響の声に応ずるが如し。生死断絶の観門、出過語言の要路也。達磨西来の、直指見性成仏の秘術、皆自身の宝蔵を開にあり。神明外になし、只我等が一念也、垂跡他に非(あらず)、専(もはら)自己の本宮にあり」なんど、たふ/\と云散す処に、此嶋の習なれば、暴風俄に吹て地震忽に起(おこり)、山岳傾崩て、石巌海に入(いる)。其時古詞を詠じけり。

  岸崩殺魚其岸未受苦、風起供花其風豈成仏

  崩れつる岸も我身もなき物ぞ有(あり)と思ふは夢に夢みる

詠じて、「只仏法を修行して、今度生死を出給べし。但我立杣の地主権現、日吉詣ならば伴なん、熊野の神は中悪」とて不与(くみ)けり。康頼申けるは、「教訓の趣は、誠に貴く侍り、尤(もつとも)甘心し奉る。但仏教の中に、神の御事希也と申せども、以(もつて)離るべきに非(あらず)。其故は、末世の我等が為には、後の世を欣(ねが)はん事も必神明に奉祈べしと見えたり。釈尊入滅の後二千余年、天竺を去事数万里也。僅に聖教渡るといへ共、正像既(すでに)過ぬれば、行する人も難く、其験(しるし)も希也。是以て諸仏菩薩の慈悲の余に、我等(われら)悪世無仏の境に生て浮(うかぶ)期無らん事を哀て、新道と垂跡して、悪魔を随(したがへ)仏教を守、賞罰を顕し信心を起し給ふ。是則(すなはち)利生方便の懇(ねんごろ)なるより始れり。是を和尚同塵の利益と名(なづけ)たり。我国の有様を見(みる)に、神明の御助なくば、争(いかでか)人民を安(やすく)し、国土も穏(おだし)からん。小国辺土の境なれば国の力も弱く、末世濁悪の此比(このごろ)なれば人の心も愚也、隠ては天魔の為になやまされ、顕ては大国の王にあなづらる。縦(たとひ)仏法渡給とも、魔障強(つよけれ)は濁世の今ひろまり難し、天竺は南州の最中にて、仏出世し給し国なれども、像法の末より、諸天の擁護漸(やうやく)衰へて、仏法亡給しが如(ごとし)。而を我国は、伊弉諾、伊弉冉尊より、百王の今に至まで、始終神国として、加護他に異也。剰(あまつさへ)神功皇后の古へは、新羅・高麗・支那・百済なんど申て、勢ひ大なる国をも随(したがへ)て、五濁乱漫の今までも、大乗広まり給へり。若(もし)国に逆臣あれば、月日を不廻(めぐらさず)亡之、若(もし)天魔仏法を妨れば、鬼王と成て対治し給。依之仏法も王法も不衰、土民も国土も穏也。公(きみ)の御為には高き大神と顕れ、民の為には賤き小神と示す。智者の前には本地を明(あきらか)にし、邪見の家には垂跡を現す。後世を不知輩も、猶祈て歩を運ぶ。因果に暗き人も、又罰を恐て奉仰。神明顕給はずは、何に依てか露計(ばかり)も、仏法に縁を結奉らん。化度利生の構は、彼(かの)榊、幣(みてぐら)より始(はじまり)、かたぐるきねが鼓の音までも、開示悟入の善巧は、哀に忝き御事也。故に為度衆生故、示現大明神とも説(とき)、和光同塵は結縁の始とも釈せり。現世の望をこそ仮の方便とかろしめ給とも、生死を祈らん為には、争(いかでか)済度の本懐を顕し給はざらん。民なくは君ひとり公(きみ)たらんや、神なくは法独(ひとり)法たらんや。是を以て薬師の十二神将・千手の廿八部衆・般若の十六善神・法花の十羅刹女、皆是神法を守り、法神に持(たも)たれたり。誘(いざ)給へ少将殿」とて、精進潔斎して、熊野詣と准て岩殿へこそ参けれ。俊寛は詞計(ばかり)は云散(ちらし)たりけれども、法華を読、己身を観ずる事もなく、日吉詣もせざりけり。唯歎臥たる計(ばかり)にて、聊も所作はなかりけり。少将と入道とは、岩殿に参拝して、熊野権現と思なぞらへて、証誠殿と申は、本地は弥陀如来、悲願至て深ければ、十悪五逆も捨給はず。垂跡権現は利生方便の霊神也、遠近尊卑にも恵を施し給へば、両人御前に跪き、南無日本第一、大霊験三所権現、和光の利益本誓に違ず、我等が至心の誠を照覧し給て、清盛入道の悪心を和げ、必(かならず)都へ還し入(いれ)給へ」と、祈誓しけるぞ哀なる。結願の日に成りけるに、康頼入道、社壇の御前にて、歌をうたひて、法楽に備けり。

  白露は月の光にて、黄土うるをす化(をしへ)あり、権現舟に棹さして、向の岸によする波

と、未(いまだ)謡(うたひ)も果ざるに、三所権現となぞらへ祝ひ奉る、何(いつ)も常葉(よきは)の榊の葉に、冷風吹来(きたり)、動揺する事良(やや)久(ひさし)。入道是を拝しつゝ、感涙を押へて、一首の歌をぞ読ける。

  神風や祈(いのる)心の清ければ思ひの雲を吹(ふき)やはらはん

少将も泣々十五度の願満ぬとて、

  流よる硫黄が嶋のもしほ草いつか熊野に廻出(めぐりいづ)べき

さて少将立あがりて入道を七度まで拝給ふ。性照驚(おどろき)、是は何事にかと申ければ、入道殿のすゝめに依て、先達に奉憑、十五度の参詣已(すでに)畢候ぬ、神明の御影向も厳重に御座(おはしま)せば、再(ふたたび)都へ帰らん事疑なし、さらば併(しかしながら)御恩なるべし、生々世々争(いかで)か忘れ奉べき」とて、声も不惜(をしまず)泣れけり。性照も己と我を拝み神として、効験を現し給へば、絞る計(ばかり)の袖也けり。其後康頼入道は小竹を切てくしとし、浦のはまゆふを御幣に挾(さしはさ)み、蒐草と云草を四手(しで)に垂(たれ)、清き砂を散供として、名句祭文を読上て、一時祝(のりと)を申けり。

[やぶちゃん注:以下の祝詞部分は底本では全文一字下げ。]

 「謹請再拝々々、維当歳次治承二年戊戌[やぶちゃん注:「戊戌」は底本では一字分に横書き。]、月の並十二月、日数三百五十四箇日、八月廿八日、神已来吉日良辰撰、掛忝日本第一大霊験熊野三所権現、并飛滝大薩埵交量、うづの弘前、信心大施主羽林藤原成経、沙弥性照、致清浄之誠、抽懇念之志、謹以敬白、夫証誠大菩薩者、済度苦海之教主、三身円満之覚王也、両所権現者、又或南方補堕落能化之主、入重玄門之大士、或東方浄瑠璃医王之尊、衆病悉除之如来也。若一王子者、娑婆世界之本主、施無畏者之大士、現頂上之仏面、満衆生之所願給へり。云彼云此、同出法性真如之都、従入和尚同塵之道以来、神通自在而、誘難化之衆生、善巧方便而、成無辺之利益。依之自上一人、至下万民、朝結浄水係肩、洗煩悩之垢、夕向深山運歩、近常楽之地。峨々峯高、喩是於信徳之高、分雲登、嶮々谷深、准是於弘誓之深、凌露下。爰不憑利益之地者、誰運歩於嶮難之道、不仰権現之徳者、何尽志於遼遠之境。然則証誠大権現、飛滝大薩埵、慈悲御眼並、牡鹿之御耳振立、知見無二之丹精、納受専一之懇志、現止成経性照遠流之苦、早返付旧城之故郷、当改人間有為妄執之迷、速令証新成之妙理而己[やぶちゃん注:ママ。底本の誤植か。ここは「巳」であろう。]。抑又十二所権現者、随類応現之願、本跡済度之誓、為導有縁之衆生救無怙之群情、捨七宝荘厳之栖、卜居於三山十二之籬、和八万四千之光、同形於六道三有之塵。故現定業能転衆病悉除之誓約有憑、当来迎引接必得往生之本願無疑。是以貴賤列礼拝之袖、男女運帰敬之歩。漫々深海洗罪障之垢、重々高峯仰懺悔之風。調戒律乗急之心、重柔和忍辱之衣、捧覚道之花、動神殿之床、澄信心之水、湛利生之池。神明垂納受、我等成所願乎、仰願十二所権現、伏乞三所垂跡、早並利生之翅、凌左遷海中之波、速施和光之恵、照帰洛故郷之窓、弟子不堪愁歎、神明知見証明。敬白再拝/\」

と読上て、互に浄衣の袖をぞ絞ける。さらぬだに尾上の風は烈きに、暮行(くれゆく)秋の山下風(おろし)、痛(いたく)身にしむ心地して、叢に鳴(なく)虫の音も、古里人を恋るかと、最(いと)物哀也けるに、峯吹嵐に誘れて、木葉乱て落散けり。其中に最(いと)怪き葉二飛来て、一は成経の前、一は性照が前にあり。康頼入道の前に落たる葉には帰雁と云二文字を、虫食にせり。少将前の葉には、二と云ふ文字を虫食へり。二の木葉を取合(あはせ)て読連(つづく)れば、帰雁二と有。二人取かはし/\、読ては、打うなづき/\して、「奇(あやし)や何(いか)なれば、帰雁二と有やらん、三人同(おなじく)流されて、誰一人漏べきやらん※[やぶちゃん字注:※=「うかんむり」+「倉」。](おぼつか)な。但信心参詣の志、権現争(いかで)か御納受なからんなれば、神明の御計(はからひ)にて、我等二人は被召返て、執行など残し置るべきやらん、又何な[やぶちゃん注:これは「れ」の衍字か。]もるべきぞや」と、共に安(やすき)心なし。係(かかる)程に又楢の葉の広かりける、何(いづ)くよりとも知ず飛来て、康頼入道の膝の上にぞ留りたる。取てみれば歌なり。

  襅振(ちはやふる)神に祈のしげゝればなどか都に帰らざるべき

是を見給けるにこそ、二の帰雁と有けるは、成経性照二人とは思定て嬉けれ。二人互に目を見合て、責(せめて)の事にはこれを、「若(もし)夢にやあらん」と語けるこそ哀なれ。今日を限の参詣也とて、少将も康頼も、御名残を奉惜て、去夜は是に留て、通夜法施を奉手向。暁方に康頼歌をうたひ、其終りに足柄を歌て、礼奠にそなへ奉る。さてちと、まどろみたりける夢の中に、海上を見渡せば、沖の方より白帆係(かけ)たる小船一艘浪に引れて渚による。中の紅の袴著たる女房三人、舟より上りて、鼓を脇に挾(はさ)みつゝ、拍子を打て、足柄に歌を合(あはせて)歌たり。

  諸の仏の願よりも、千手の誓はたのもしや、枯たる木草も忽に、花咲(さき)実なるとこそ聞(きけ)

と、三人声を一にして二返までこそ歌ひけれ。渚白(しらめば)女房達、舟にのらんとて汀の方に下けり。少将も康頼も名残惜(をしく)覚つゝ、遙に是を見送れば、女房立帰つゝ、「人々の都帰も近ければ名残を慕て来れり」とて、掻消(かきけす)様に水の中へぞ入にける。夢覚て後是を思え[やぶちゃん注:ママ。]ば、三所権現の御影向歟、西御前と申は、千手の垂跡に御座(おはしま)せば、襅振(ちはやふる)玉の簾を巻揚て、足柄の歌を感ぜさせ給けるにこそ、さらずは又、廿八部衆の内に、龍神の守護して海中より来給へる歟。夢も現(うつつ)も憑しくて、二人は終(つひ)に帰上にけり。俊寛此事を後悔して、独歎悲めども甲斐ぞなき。さても二人の人々は、新く用(もちゆ)べき浄衣も、こり払もなければ、都より著ならしたる古き衣を濯(すすぎ)て、新しがほに翫(もてなし)しつゝ、藁履(わらぐつ)はゞきもなかりければ、ひたすら跣(はだし)にてさゝれけり。人も通はぬ海の耳(はた)、鳥だに音せぬ山のそばを、泣々(なくなく)打列御座(うちつれおはし)けん、心の内こそ糸惜(いとひし)けれ。手にたらひ身にこたへたる態(わざ)とては、入江の塩にかくこり、沢辺の水にすゝぐ口、立ても居ても朝夕は、南無懺悔至心懺悔六根罪障と宿罪を悔(くい)、寝ても覚ても心に心を誡て三帰五戒を守つゝ、半日に不足道なれども、同所を往還(ゆきかへり)々々、日数を経(ふる)こそ哀なれ。峨々たる山をさす時は、高峯岩角蹈迷(ふみまよひ)、塩風寒(さむき)浪間の水何度足を濡(ぬらす)らん、霞籠(こめ)たるそばの道、柴折(しをり)を注(しるし)に過られけり。浦路浜路に赴て、さびしき処をさす時は、和歌・吹上・玉津嶋・千里の浜と思なし、山陰木影に懸(かかり)つゝ、嶮(けはしき)所を過(すぐる)には、鹿瀬・蕪坂・重点・高原・滝尻と志し、石巌四面に高して、青苔上に厚くむし、万木枝を交(まじへ)つゝ、旧草道を閉塞ぐ。谷河渡る時もあり、高峯を伝(つたふ)折もあり。岩田川によそへては煩悩の垢を洗、発心門に准ては菩提の岸にや至るらん。近津井・湯河・音無の滝・飛滝権現に至まで、和光の誓を憑つゝ、いはのはざま、苔の筵、杉の村立(むらだち)、常葉の松、神の恵の青榊、八千代を契る浜椿、心にかゝり目に及(および)、さもと覚る処をば、窪津の王子より八十余所に御座(おはします)王子々々と拝つゝ、榊幣(みてぐら)挾(はさ)れたる心の内こそ哀れなれ。奉幣御神楽なんどこそ、力無れば不叶と、王子/\の御前にて、馴子舞(なれこまひ)計(ばかり)をばつかまつらる。康頼は洛中無双の舞也けり。魍魎鬼神もとらけ、善神護法もめで給計(ばかり)なりければ、昔今の事思ひ出で、

  さまも心も替かな、落る涙は滝の水、妙法蓮華の池と成、弘誓舟に竿指て、沈(しづむ)む我等(われら)をのせ給へ

と、舞澄して泣ければ、少将も諸共に、涙をぞ流しける。日数漸(やうやく)重て、参詣已に満ければ、殊に今日は神御名残も惜(をしく)、何(いつ)もあらまほしくぞ思はれける。一心を凝(こら)し、抽(ぬきいでて)丹誠、彼(かの)岩殿の前に、常木(ときはぎ)三本折立て、三所権現の御影向と礼拝重尊し奉る。其御前にて性照申けるは、「三十三度の参詣已に結願しぬ、今日は暇(いとま)給(たまはり)て黒目に下向し侍(はべる)べければ、身の能施て、法楽に奉らん、我身の能には、今様こそ、第一と思侍れ」とて、神祇巻に二の内、

  仏の方便也ければ、神祇の威光たのもしや、叩ば必(かんらず)響あり、仰(あふげ)ば定て花ぞさく

と、三返是を歌ひつゝ、先(まづ)は証誠殿に手向奉り、二度三度は結・早玉に奉るとて、心を澄して歌ければ、権現も岩殿もさこそ哀におぼしけめ。神明遠(とほき)に非(あらず)、只志の内にあり。熊野の山は、一千五百の遠峯、硫黄嶋は西海はるかの浪の末、信心浄くすみければ、和光の月も移けり。帰雁二とあれば、赦免一定なるべし。秋此嶋に遷れて、春都へ帰べきにこそと憑しく覚る、中にも三人の女房の都還の名残こそ思合て嬉けれ。

[やぶちゃん注:以下の「我も覚えたり。」迄は、底本では全体が二字下げ。従って「道遠し」の和歌は実際には四字下げ。]

陸奥国に有りける者、毎年参詣の願を発(おこし)て、年久く参たりけるが、山川遠く隔て、日数を経(へ)国に下り著て、穴(あな)苦し、ゆゝしき大事也けりとて、休み臥たりけるに、権現夢の中に御託宣あり。

  道遠し程も遥(はるか)にへだたれり思ひおこせよ我も忘れじ

と、深(ふかき)志、権現争(いかで)か御納受なからんと覚えたり。

 「彼(かの)寛平法皇の御修業、花山院の那智籠、捨身の行とは申しながら、労(いたは)しかりし御事也。況(いはんや)我等が身として、歎(なげく)にたらぬ物なれ共、理忘るゝ涙なれば、袖のしがらみ解(とけ)やらず、係(かか)るうき嶋の習にも、自(おのづから)慰(なぐさむ)便もやとて、少将は蜑(あま)の女に契を結び給て、御子一人出来給ひけり。後はいかゞ成りにけん、そも不知。夫婦の中の契は、うかりし宿世と云ながら、最(いと)哀なりし事共也。

 二人の人々は、岩殿の御前を立ち、悦の道に成、切目の王子の水※[やぶちゃん字注:※=「葱」の「匆」を「公」に代える。](なぎの)葉を、稲荷の社の杉の枝に賜重(たまはりかさね)て黒目につくと思て、険(さがしき)山路を下りつゝ、遙(はるか)の浦路に出にけり。折節日陰のどかにして、海上遠く霽(はれ)渡り、五体に汗流(ながれ)て信心肝(きも)に銘(めいじ)ければ、権現金剛童子の御影向ある心地せり。遙に塩せの方を見渡(わたせ)ば、漫々たる浪の上に、怪(あやしき)物ぞゆられける。少将見之、やゝ入道殿、一年我等が漕来侍りし、舟路の浪間に、ゆられ来るは何やらんと問れければ、「あれは澪の浮州の浪にたゞよひ侍るにこそ」と申。次第に近付(ちかづく)をめかれもせず見給へば、舟也けり。端嶋の者共が、硫黄取に越るかと思程(ほど)に、近く漕よせ、舟の中に云音(こゑ)をきけば、さしも恋き都の人の声なり。穴(あな)無慙、何(いか)なる者の罪せられて、又此嶋にはなたるらん、思歎(おもひなげき)は身にも限らざりけりと思ながら、疾(とく)おりよかし、都の事をも尋聞んと思けるに、実に近付(ちかづけ)ば、今更やつれたる有様を見えん事の恥しさに、二人は礒を立退、木陰に忍て見給けり。舟こぎよせ急ぎおり、人々の忍(しのぶ)方へぞ進ける。僧都は余りにくたびれて、只夜も昼も悲の涙に沈み、神仏にも祈らず、熊野詣にも伴はず、岩のはざま苔の上に倒れ臥して居たりけるが、都の人の声を聞起あがれり。草木の葉を結集て著たりければ、蕀(おどろ)を戴ける蓑虫に似たり。頭(かしら)は白髪長く生(おひ)のびて、銀(しろかね)の針を研(みがき)立たる様也。見(みる)もうたてく恐し。二人の居たりける処へ進来れり。六波羅の使近付寄て、「是は丹左衛門尉基安と申者に侍(はべり)。六波羅殿より赦免の御教書候、丹波少将殿に進上せん」と云。人々余の嬉さに、只夢の心地ぞせられける。「成経是に侍り」とて、出合れたり。基安、立文二通取出て進(まゐらす)る。一通は平宰相の私の消息也。少将ばかり見之。一通は太政入道の免状也。判官入道披之読(よむ)に云、

[やぶちゃん注:以下の赦免状の引用は、底本では全体が一字下げ。従って最後の日付は実際には二字下げ。]

依中宮御産御祈禱、被行非常大赦之内、薩摩方硫黄嶋流人丹波少将成経并平判官康頼法師可帰洛之由、御気色所候也。仍執達如件。

 七月三日

とはありけれ共、俊寛僧都と云(いふ)四の文字こそ無かりけれ。執行は、御教書取上てひろげつ巻つ、巻つ披(ひらき)つ、千度百度しけれども、かゝねばなじかは有るべきなれば、やがて伏倒、絶入けるこそ無慙なれ。良(やや)有起あがりては、血の涙をぞ流しける。血の涙と申は、涙くだりて声なき血と云(いふ)といへり。言(ことば)は出さゞりけれ共、落る涙は泉の如し。理や争(いかで)かなからざらん、三人同罪にて、同嶋へ流されたるに、死なば一所に死に、還らば同く帰べきに、二人は召かへされて僧都一人留るべしとは思やはよりける。誠に悲くぞ思けん、遙に久(ひさしく)有て宣(のたまひ)けるは、「年比(ごろ)日比(ごろ)は、三人互に相(あひ)伴、(ともなひ)昔今の物語をもして慰つるすら猶忍かねたりき。今人々に打捨られ奉なば、一日片時いかにして堪過すべき。但三人同罪とて、同嶋に遷されたる者が、二人は免されて俊寛一人留めらるゝ、誠共(とも)覚えず。さらでは又別の咎もなき物をや。是は一定執筆の誤と覚たり。若(もし)又平家の思召忘給へるかや。執(とり)申者の無りけるかや。余(よ)も苦しからじ、唯各(おのおの)相具して登給へ。若(もし)御免(ゆる)されもなき物を具足し上たりとて御とがめあらば、又も此嶋へ被流返よかし。其は怨にもあらじ、今一度古郷に帰上(のぼり)、恋き物共をも見(みる)ならば、積る妄念をも晴(はれる)ぞかし」と口説けり。少将も判官入道も被申けるは、「さこそ思給らめなれども、御教書に漏たる人を具足せんも恐あり。同罪とて同所に被流ぬれば、咎の軽重あらじかし、中宮の御産に取紛れて、執筆の誤にてもあるらん。又平家の思忘たる事にも有らん。今は我等道広き身と成ぬ。僧都の赦免に漏て歎悲み給し事、不便(ふびん)也。被召返たらば、目出(めでた)き、御祈禱たるべき由、内外に付て申さば、などか御計(はからひ)なからん。其までの命をこそ神にも仏にも祈り申されめ。更に不可有疎略」なんど様々に誘(こしらへ)慰けり。僧都は、「日来の歎は思へば物の数ならず、古郷の恋しき事も、此嶋の悲き事も、三人語て泣つ笑つすればこそ慰(なぐさむ)便とも成りつれ。[やぶちゃん注:ここは「、」が正しいと思われる。「こそ……(已然形)」の逆接用法であろう。]其(それ)猶忍かねては憂音(うきね)をのみこそ泣つるに、打捨て上給なん跡のつれづれ、兼て思にいかゞせん、さて三年の契絶はてゝ、独(ひとり)留(とどめ)て帰上り給はんずるにや、穴(あな)名残惜や/\」とて、二人が袂をひかへつゝ、声も惜ずをめきけり。理や旅行一匹の雨に一樹の下に休み、往還上下の人、一河の流を渡れども、過別るれば名残惜く、風月詩歌の一旦の友、管絃遊宴の片時の語ひ、立去(たちさる)折は忍難くこそ覚ゆれ。況やうき嶋の有様(ありさま)とは云ながら、さすが三年の名残(なごり)なれば、今を限の別也、いかに悲く思らんと、打量(はか)りては無慙なれども、縦(たとひ)恋路の迷(まよふ)人も、我身に増るものやあると云けんためしなれば、執行をば打捨て、少将も判官入道も急ぎけるこそ悲けれ。判官入道は本尊持経を形見に留む。少将は夜の衾を残し置、風よく侍(はべり)とて水手等とく/\と進(すすめ)ければ、僧都に暇乞(こひ)船にのり、纜を解て漕出けり。責(せめて)の事に僧都は、漕行舟の舷に取付て、一町余出たれども、満(みつ)塩口に入ければ、さすがに命や惜かりけん、渚に帰て倒れ臥、足ずりをしておめき[やぶちゃん注:ママ。正しくは「をめく」。]けり。稚子の母に慕て泣かなしむが如(ごとく)也。彼(かの)喚叫(をめきさけぶ)音(こゑ)の、遙々と波間を分て聞えければ、誠にさこそ思らめと、少将も康頼も涙にくれて、漕(こぎ)行空も見えざりけり。僧都は千尋の底に沈まばやとは思けれ共、此人々の都に帰上て、不便の様をも申て、などか御免も無るべきと宥(なだめ)云ける憑なきことのはを憑て、それまでの命ぞ惜かりける。漕行(ゆく)船の癖なれば、浪に隠て跡形はなけれ共、責(せめて)の別の悲さに、遙々沖を見送て、跡なき舟を慕けり。昔大伴の狭手彦が遣唐使にさゝれて、肥前国松浦方より舟にのり漕出たりけるに、夫の別を慕つゝ、松浦さよ姫が、領巾麾(ひれふり)の嶺に上りて、唐(もろこし)舟を招つゝ悶焦(こがれ)けんも又角(かく)やと覚て哀也。日も既(すでに)暮けれ共、僧都はあやしの伏戸へも帰ず、天に仰ぎ地に臥(ふし)、首を扣き胸を打(うち)、喚叫(をめきさけび)ければ、五体より血の汗流て、身は紅にぞ成にける。只礒にひれふし、浪にうたれ露にしをれて、虫と共に泣明しけり。昔天竺に、早利即利と云し者、継母に悪(にくま)れて、海岸山に捨られつゝ、遙の嶋に二人居て、泣悲けん有様も、角(かく)やとぞ覚ゆる。彼は兄弟二人也、猶慰(なぐさむ)事も有けん。是は俊覚一人也、さこそは悲く思けめ。さても庵に帰りたれ共、友なき宿を守て、事問(こととふ)者も無れば、昨日までは三人同く歎きしに、今日は一人留りて、いとゞ思の深(ふかく)なれば、角(かく)ぞ思つゞけける。

  見せばやな我を思はん友もがな礒の蓬(とま)やの柴の庵を

少将は九月中旬に嶋を出て、心は強(あながち)に急けれども、海路の習也ければ、波風荒くして日数を過、同廿日余にぞ九国の地へは著給ふ。肥前国鹿瀬庄は、私には味木庄とも云けり。件(くだん)の所は舅平宰相の知行也。爰に暫く逗留して、日来のつかれをもいたはり給へり。湯沐(あみ)、髪すゝぎなどせられければ、冬も深く成て年も既に暮、治承も三年に成りにけり。

 

 

   「源平盛衰記」巻十 有王渡硫黄嶋事

 

 法勝寺執行俊寛は、此人々[やぶちゃん注:成経と康頼を指す。]に捨られつゝ、嶋の栖守(すもり)と成はてて、事問(こととふ)人もなかりけるに、僧都の当初(そのかみ)世に有し時、幼少より召仕ける童の、三人粟田口辺に有けるが、兄は法師に成て法勝寺の一の預也。二郎は亀王、三郎は有王とて、二人は大童子也。彼(かの)亀王は僧都の被流て、淀に御座(おはせし)処へ尋行て、「最後の御供是こそ限なれば、何所(いづく)までも参侍るべし」と、泣々申けるを、僧都は「誠に主従の好(よし)み、昔も今も不浅と云ながら、多(おほく)の者共有つれ共、世中に恐て問来(とひく)者もなし、其(それ)恨にあらず、あまたの中に尋来て、角(かく)申こそ返々も志の程うれしけれ。但我に限らず、少将も判官も人一人も不随とこそ聞け。御免あらば幾人も具したうこそあれ、され共其義なければ不及力。誠や薩摩国硫黄嶋とかやへ可被流ときけば、命ながらふべしとも覚ず。路の程にてはかなくもやならんずらん、我身の事は今はさて置、都の残留(のこしとどむる)女房、少(をさなき)者共の心苦きに、彼(かの)人々に付て朝夕の事をも見継(みつぐ)べし、我に随はんに露(つゆ)劣るまじ、とく帰上れ」など泣々宣通(のたまひかよ)はす処に、宣旨御使又六波羅の使、「何事申(まうす)童ぞ」と怪み尋ける恐しさに、亀王名残は惜けれども、泣々都へ帰上けり。其弟に有王と云けるは、僧都に別て後、仕はんと云人在けれ共、宮仕もせず、大原、閑原(しづはら)、嵯峨、法輪、貴(たつとき)所々に迷行て、峯の花をつみ谷の水を結て、山々寺々手向(たむけ)奉、我主に今一度合せ給へと、夜昼心をいたして祈けるこそ不便(ふびん)なれ。角(かく)て三年を経て、少将と判官入道と都へ還上ぬと披露有ければ、有王、我主の事何に成給ぬるやらんと、覚束なく思て、此人々の迎に行たりける人に合て尋聞ば、「上りしまでは御座(おはし)き、二人に捨られて歎悲み給し事、二人舟に乗給しに、舷に取付て、遙に出給たりし事、陸に帰上て浜の沙に倒ふし給事」、委く語答ければ、有王涙を流て、さては未(いまだ)此世に御座(おはす)るにこそ、誰育(はごくみ)誰憐(あはれみ)奉らんと悲くて、有王は只一人都をあくがれ出、未知薩摩方、硫黄嶋へ、遙々とこそ思立て、先(まづ)奈良に行、僧都の姫の御座(おはし)けるに、角(かく)と申て御文を賜りけり。姫宣けるは、「我身果報なき者と生て、父には生て別れぬ、母と妹には死して後(おく)れぬ、多(おほく)の人の中に角(かく)思立ける志の嬉さよ、余りに父の恋く思侍れば、男子の身ならば、走連(つれ)ても行(ゆか)まほしく侍れ共、女とて叶はぬ事の悲さよ。御文慥に進(まゐら)せて、相構て疾(とく)して御上(のぼり)あれと申べし」とて、やがて倒れ臥、声も不惜泣ければ、童も倶に袖を絞る。唐船の纜は、四月五日に解(とく)習にて、有王は夏衣たつを遅しと待兼て、卯月の末に便船を得、海人が浮木に倒つゝ、波の上に浮(うかぶ)時は、波風心に任せねば心細事多かりけり。歩を陸地にはこびて山川を凌ぐ折は、身疲(つかれ)足泥(なづみ)、絶入事も度々也。去共(されども)主を志にて行程に、日数も漸(やうやく)積ければ、鬼界嶋にも渡にけり。此嶋の挙動、都にて伝聞しよりも、まのあたり見(みる)は堪て有べき様なし。峯には燃上(もえあがる)ほむら行客の魂を消、谷には鳴下る雷、旅人の夢を破る。山路に日暮ぬれども、樵歌牧笛の音もなく、海上に夜を明せば、松風白浪心をいたましむ。童何事に付ても、慰思なければ、いかにすべし共不覚けれ共、主の行末の悲さに、谷に下て尋れば、岩もる水に袖しをれ、峯に上て求ば、松吹く嵐ぞ身にしみける。兎(と)にも角(かく)にも叶はねば、只涙を流して立たりけり。去程に嶋の住人と覚しくて、木の皮をはねかづらとして額に巻、赤裸にてむつきをかき、身には毛太く長く生て、長(たけ)は六七尺計(ばかり)なる者ぞ遇たりける。有王嬉て云けるは、「此嶋に法勝寺の執行僧都の御房御座(おはしま)し候なるは、何所(いづく)にて候やらん」と問ければ、打見たる計(ばかり)にて物も云はざりけり。法勝寺共(と)執行共(とも)争(いかで)か可知なれば、不答も理也。自(おのづから)言事も有けれ共、つや/\不聞知ければ、いとゞ力なく覚けり。責(せめ)ては死給たりとも、其骸骨は御座(おはす)らん、彼をなりとも尋得て形見ともするならば、いか計(ばかり)限なく志のかひも有べきに、御行へをだにも知ずして、空く都へ帰上らん事の悲さよと思て、猶深く山辺に尋入たれども、我主に似たる人もなし。立帰(たちかへり)遙々浦路に迷出たれば、礒の方より働来(はたらきくる)者あり。只一所に動立(ゆるぎたてる)様也。其形を見(みる)に、童かとすれば年老て、其※[やぶちゃん字注:「白」+下に「ハ」。](かたち)に非(あらず)、法師かと思へば又髪は空様(そらさま)に生(おひ)あがりて、白髪多し、銀の針を立たるが如し。万の塵や藻くづの付たれ共不打払、頸細して腹大(おおきに)脹(ふくれ)、色黒して足手細し、人にして人に似ず、左右の手には、小き生魚を二三づゝ把り、腰のまはりには荒和布の取纏付(つけ)けて、さけびきて、凡(およそ)力もなげ也。童思けるは、哀(あはれ)我主の角(かく)成給たるにもや在らん、いかにといへば、若干の法勝寺領を知行し給ながら、修理造営をばし給はず、恣に三宝の信施を受、あくまで伽藍の寺用を貪給し罪の報に、生ながら餓鬼道に落給たるやらん、餓鬼城の果報こそ、頸は細く腹は大に、色黒して首(かしら)蓬の如く有とは聞(きけ)など様々に思に、いとゞ悲て、近付き能々(よくよく)みれば、手も足もさすが人には違ず。都にも老衰たる者あり、片輪なる人もあり、去(され)ば此嶋にも係(かか)る者も有にこそと思て問ければ、「やゝ一年(ひととせ)此嶋へ三人流され給たりし人の、二人は免て上(のぼり)給ぬ、今僧の一人御座(おはす)なる、いづくにぞと云ければ、僧都は※[やぶちゃん字注:「白」+下に「ハ」。]こそ衰たりけれども、目と心とは昔に替(かはら)ず、童をば慥(たしかに)我(わが)召仕し有王とぞ被思ける。童は主の余に衰損じたれば、僧都とは知ざりけれ共、さすが又何とやらん覚て、つくづくと守立たり。僧都は顔の色をとかく変じて様々にぞ思ける。我こそ俊寛よと名乗んとすれば、果報こそ拙て、かゝる身とならんからに、心さへ替(かはり)けるよと思はん事も愧(はづか)し、恥を見んよりは死(し)をせよとこそ云に、さこそあらんからに、僧形として生魚を手に把(にぎり)たる心うさよ、只知ざる様にて過さばやと、千度百度案じけるが、又思けるは、此嶋にては疎(うと)く不知者也とも、都がかりの人に遇たらんはうれしく珍らしかるべし、況(いはんや)年比(としごろ)の主を悲て遙々と尋来たらん者を、其志を失(うしなひ)、空く返し上せん事、最(いと)不便(ふびん)也、我も又問聞たき事も多しと思返して、手に把(にぎり)たる魚をば後へ廻し、去(さり)げなき様に抛(なげすて)て、「あれは有王か、何(いか)にして是までは尋来れるぞや、我こそ俊寛よ。穴珍(あなめずらし)や/\。己一人を見たれば、捨別し妻子も住なれし古郷も、皆見つる心地のするぞや。いかに/\」とて、手すり足すり喚叫けり。其時こそ有王も、慥の主とは思けれ。

 係(かかる)様(ためし)も有けるにや。昔軽大臣の遣唐使に渡されて、形を他州にやつされ、燈台鬼となされつゝ、帰(かへる)事を不得けり。子息弼宰相、其向後(ゆくすゑ)の覚束なさに、大唐国に渡て尋れ共/\、目の前に有ながら明す者こそなかりけれ。父は子を見知つゝ、角(かく)と云まほしけれ共、物いはぬ薬をのませ、瘂(おし)になされたりければそも叶はず、額に燈械を打れつゝ、宰相に向て、只泣(なく)より外の事なし。宰相はやつれたる父なれば、面を並て不知けり。燈台鬼涙を流つゝ、指端を食切て、其血を以て宰相が前に角(かく)ぞ書連(つゞき)ける。

[やぶちゃん注:以下の漢詩は、底本では全体が一字下げ。]

我是日本花京客、汝則同姓一宅人。為父為子前世契、隔山隔海恋情苦。経年流涙宿蓬蒿、逐日馳思親蘭菊。形破他州成燭鬼、争帰旧里寄斯身。

と書きあらはしたりけるにこそ、宰相は我父の軽大臣共(とも)知けれ。執行も三年の思に衰痩、あらぬ形に成たれば、知ざりけるも理也。我こそ俊寛よと名乗けるより、有王は流す涙せきあへず、僧都の前に倒伏、良(やや)久(ひさしく)物も云ず、「さても老たる母をみすて、親(したしき)者にも知れずして、都を出て、遙(はるか)の海路を漕下(こぎくだし)、危(あやふき)浪間を分凌ぎ参しには、従(たとひ)疲損じ給たり共、斜(なのめ)なる御事にこそと存ぜしに、三年を過し程は、さすが幾(いくばく)ならぬ日数にこそ侍るに、見忘るゝ程に窄(やつれ)させ給ける口惜さよ、日比(ひごろ)都にて思やり進(まゐらせ)けるは、事の数にても侍らざりけり。まのあたり見進する御有様(おんありさま)、うつゝ共覚候はず。されば何(いか)なる罪の報にて、角(かく)渡らせ給覧(らん)」とて、僧都の顔をつくづくと守つゝ、雨(さめ)々とぞ泣臥たる。童良(やや)在て起あがりければ、僧都も又起なほりて、泣々宣けるは、「此嶋は遥なる海中、遠き雲の徐(よそ)なれば、おぼろげにても人の通(かよふ)事なし。己が兄の亀王が、淀まで訪(とぶらひ)下たりしをこそ、有難く嬉き事と思ひしに、有王が是まで思立見来(みえきたる)事、実に現とも覚ねば、もし夢にてや有らん、やをれ有王、さらば中々如何に悲しからん。そも恋しき者を見つれば、嬉(うれし)などは云も疎也。さても少将と判官入道との有し程は、憂事悲事云連(いひつらね)ては泣つ、思出有し昔物語をしては笑つ、互に慰しに、被打捨し後は、一日片時堪て有べし共覚ざりしに、甲斐なき命のながらへて、互に相見つる事の嬉さよ。加程の有様なれば、何事を思べきにあらね共、都の残留し者共の、忘るゝ間なく恋く聞まほしけれども、心に任せぬ旅なれば其も叶ず、是ほどの志の有けるに、などや此三年までは問ざりけるぞ。少将の迎の時は、何(いか)に文一は伝ざりけるぞ」と宣。童申けるは、「事も愚におぼしめしけるか、君西八条殿へ被召籠させ給し後は、御あたりの人をば上下を云ず搦捕て、獄舎に入られ家財を壊(こぼち)取しかば、成恐近習の人々も思々に落失ぬ。北方も鞍馬の奥、大悲山に忍ばせ給しが、明ても暮ても御歎浅からず、見えさせ給し程に、其積(つもり)にや日比悩せ給しが、去年の冬遂に隠れ御座(おはしまし)ぬと申も果ぬに、僧都は「穴(あな)哀や、さては女房は早(はや)はかなく成給けるにこそ。慰む便もなく知れる人もなき我だにも、係(かか)る嶋の有様に、三年の今までも在るぞかし。さすが人は少(をさな)き者共もあまた有き。我を見とも、思成てこそ有べきに、若や姫をば誰孚(はごく)めとて隠れ給ひけるぞや。其に就ても難面(つれな)かりける我命かな」とて、又臥倒(まろび)給けるに、有王泣々重て申けるは、「若君は父の渡らせ給なる所は何所(いづく)やらん、尋参れと仰候しかども、故北方の、穴賢(あなかしこ)そなたの方と知すな、少(をさな)き心に走出て、行へも知ず失(うす)る事もこそと承しかば、知せ進(まゐら)する人も候はざりし程(ほど)に、人の煩ひ合て侍し疱瘡(もがさ)と申御労(いたはり)に、去五月に又失させ給にき」と云ければ、僧都又臥倒(まろび)て、「やをれ有王、今は係(かか)る憂(うき)事をば、な語りそとよ。三人が中に法師一人捨置れぬれば、都に還上り、再(ふたたび)妻子を相見る事はよもあらじなれども、さても有らんと思やれば慰事も有にや、いつを限に惜べき身ならねども、此(これ)を聞(きき)彼(かれ)を聞(きく)に、絶入ぬべき心地なり。よし/\今はな語そ」と云けるこそ、責(せめ)ての事と哀れなれ。

 

   「源平盛衰記」第十一 有王俊寛問答事

 

 有王申けるは、「姫御前は、奈良の姨(をば)御前の御許に御渡(わたり)と承て、参て、『此嶋へ思立候、御言伝や』と申入て候しかば、端近(ちかく)出させ給ひ、不斜(なのめならず)御悦有て、『哀(あはれ)女の身程無甲斐事はあらじ、我身も父の恋しさは己にや劣るべき、可類(たぐふ)方なし、可思立道ならねば力なし、さても多(おほき)人の中に一人思立らん嬉さよ、平らかに参著たらば進(まゐら)せよ』とて御文あり。御詞には、『替(かはり)ぬる世の恨に筆の立所(たてど)も覚侍らず、泣々申候へば文字もさだかならず、御覧じ悪(にくう)こそ渡らせ給はんずらめ。御返事(おんへんじ)をも待見進(まゐら)せばいか計(ばかり)かはと申せ』とこそ仰候しか。昔ならば角(かく)直(じき)に承べしやと、哀に思進(まゐらせ)て、落(おつる)涙を押つゝ、奈良を出て罷下し程に、門司・赤間の関より始て、硫黄嶋へ渡ると申者をば、怪(あやしき)文などや持(もち)たると求捜(もとめさぐる)と承しかば、御文をば本結の中に結び籠て、難有して持て参たり」とて、取出して奉之。僧都は悲さの中にも、嬉く珍く思て、涙を押拭/\披(ひらき)見給へば、「其後便なき孤子と成果て、御向後(ゆくへ)をも承(うけたまはる)便もなし、身の有様(ありさま)をも知られ進(まゐら)せず、いぶせさのみ積れども、世中かきくらして晴(はるる)心地なく侍り。 さても三人同咎とて、一つ嶋に移されけるに、二人は被免に、などや御身一人残留給らんと、人しれぬ歎、唯思召やらせ給へ。人々嶋へ被流給て後、其ゆかりの者をば尋求て、手足を損じて責問べしなど聞え侍しかば、召仕し者共も、遠(とほき)国々へ落失て、旧里に一人も留らざれば、都には草のゆかりも枯はてゝ、立紛(たちまぎる)べき方もなく、哀糸惜(いとほし)と事問(こととふ)人もなし。君達も可被召捕など聞えしかば、母御前・弟・我身三人引具して、幽(かすか)なる便に付て、鞍馬の奥とかやへ迷入、日影も見えぬ山里に、住も習はぬ柴の庵に、忍居て候し程に、朝夕は御事をのみ歎給しに打副(うちそへ)、稚(をさなき)身々の向後(ゆくへ)いかにせんと隙(ひま)なき御物思の積(つもり)にや、病と成せ給たりしかば、弟と二人とかく労り慰進(まゐら)せしか共、不叶して空(むなしく)見成(みなし)進(まゐら)せぬ。生ての別、死(しして)の別れ、為方(せんかた)なければ、二人歎暮し泣明し侍し程に、又弟も疱瘡とかや申労(いたはり)をして、今年の五月に身罷侍り。同道にと歎しか共、はかなき露の命と云ながら、消もやらで、強面今までは草の庵に残留て侍れば、憂(うき)事も悲事も可思召知。拙(つたなき)果報の程こそ、宿世の身のつとめ辱(はづかし)く思侍れ。故母御前御労(いたはり)の時、『我死なば誰をか便と憑御座(おはします)べき。奈良の里に姨母(をば)と云人御座(おはしま)す。尋行き打歎かば、去共(さりとも)憐給はんずらん』と仰候しを承置て、当時は奈良の姨母御前の御許に侍り。 踈なるべき事にはあらねども、幽(かすか)なる住居推量(おしはかり)給へ。さても此三年迄、いかに御心強く有(あり)とも無(なし)とも承ざるらん。母御前にも弟にも後(おく)れて憑方なし、誰に預(あづけ)、何(いか)にせよと思召にか、疾(とく)して御上候へ。 恋し共(とも)恋し。床(ゆか)し共床(ゆか)し。三年の思歎、水茎に難尽侍れば、留(とどめ)候ぬ。穴賢(あなかしこ)/\と裏書・端書滋く薄く、みだし書にぞしたりける。僧都は此文を見て、巻つ披(ひらき)つ泣悲て云けるは、「俊寛が此の嶋へ流されし年は、姫は十に成しかば、今年は十二と覚ゆ。文は詞もおとなしく、筆の立所(たてど)も尋常也。去共(されども)切継たるやうに、とくして上れ、自ら申さんと書たるこそ、さすが稚(をさな)けれ。心に任たる道ならば、なじかは暫もやすらふべき。墓なき物の書様や」とて、声も惜まずをめき給ふ。「やをれ有王、此嶋の有様にて、今まで俊寛が命の有けるは、姫が文をも待見、又汝が志の切也けるに今一度見せんとて、神明の御助にて有けるにこそ。己一人を見たれば、都の人々を皆見たる心地こそすれ。係(かか)る※[やぶちゃん字注:「白」+下に「ハ」。](かたち)なれども見えぬれば、三年の思ひも晴ぬ。今は疾々(とく/\)帰上(かへりのぼれ)、僧都には人も不付しに、京より下て訪(とぶらふ)など聞えん事も恐あり」と宣へば、有王申けるは、「穴(あな)うたての御心や、是程の御有様にて世も恐しく命も惜(をしく)思召候か。御身のゆるぎ、御詞のいづれば人とや思召す。唯なましき骸骨の動(はたら)かせ給ひ候とこそ見進(まゐらせ)候へ」と申ければ、僧都、「我身は云に及ず、志深き己さへ我故に此嶋にて朽ん事の悲(カナシキ)にこそ」と宣へば、有王涙を流し、「老たる母をも捨て、兄弟にも角(かく)とも不申、はるばると参侍し事は、命を君に奉り、身を海底に沈めんと思定て候き。一度都にて捨て侍(はんべる)命を、二度此嶋にて可惜か」と申ければ、僧都打うなづきて世に嬉しげにて、「いざゝらば我(わが)夜の臥所(ふしど)へ」とて具して行く。住給ふ所を見れば、巌二(ふたつ)が迫(はざま)に、竹そ木の枝を取渡し、寄来(よりきたる)藻くづを取係(とりかけ)たり。雨露のたまるべき様もなし。僧都一人入給ぬれば、腰より下(しも)は外にありて、内には又所(ところ)もなし。有王はあらはにぞ居たりける。「穴(あな)心憂の御住居や、今は申て甲斐なき事なれども、京極の御宿所、白川の御坊中、鹿谷御山庄まで、塵もつけじとこそ瑩(みがき)立させ給しに、何と習はせる人の身なれば、懸る住居にも御座(おはし)ける事よ。京童部が築地の腹などに造りたる、犬の家には猶劣れる物ぞや」とて口説泣(なく)。京より菓子少々用意して持たりけるを取出て、奉勧。僧都被思けるは、「此等を食たり共、ながらふべきに命に非ず、中々由なけれ共、都より我為にとて、遙々持下(もてくだり)たる志を失て、打捨ん事も無念也」と覚して、食やうにして宣けるは、「此等は指(さし)も味もよかりし上、世に珍けれども、余に疲衰たる故にや、喉乾(かはき)口損じて、気味も皆忘にけり」とて、指(さし)置給けるぞ糸惜き。有王申しけるは、「是程の御有様にては、日比は何として、今迄もながらへさせ給けるぞ」と問ければ、僧都は其事也、三人被流たりしに、丹波少将の相節とて、舅門脇宰相の許より、一年に二度舟を渡しし也。春は秋冬の料を渡し、秋は春夏の料にとて渡しを、少将心様よき人にて、同嶋に流され、同所に有ながら、我一人生て、まのあたり各(おのおの)を無(なき)人と見ん事も口惜かるべし。三人あればこそ互に便ともなり、又なぐさめとて、一人が食物を三人に省(はぶき)、一人の衣裳の新きをば我身に著、古(ふるき)をば二人に著せつゝ、兎角(とかく)育(はぐくみ)し程は、人の体(てい)にて有しか共、去年此人々還上て其後は、事問(こととふ)者もなく、情を懸る人もなければ、遉(さす)が甲斐なき命の惜ければ、此人々の都にて申くつろげんなんど云しを憑て、力の有し程は嶋の者のするを見習て、此山の峯に登て硫黄を取て、商人の舟の著たるにとらせて、如形代を得て、日を送り命を続(つぎ)しか共、力弱り身衰て後は、山に登事も不足叶、硫黄を取事も力尽ぬ。さてもあられで、沢辺の根芹をつみ、野辺の蕨を折て、さびしさを慰しも、叶はぬ様に成はてゝ、今はする方もなければ、浪たゝぬ日は礒に出て、岩の苔をむしりて潮に洗て食物とし、汀に寄たる海松和布(みるめ)を取、和(やはらか)なる所をかみて、明し暮す。何(いつ)を期する事はなけれ共、責ての命のをしさに、網引者に向ては、手を合て魚を乞ひ、釣する海人に歎ては、膝を折て肉を貪る。得たる時は慰む、くれざる日は空く臥ぬ。角(かく)しつゝ一日二日とする程に、早(はや)四箇年にも成にれり。さて生たる甲斐有て、己を見つる嬉さよ。若(もし)此事夢ならば、覚て後はいかゞせん」と、噦噎(さくり)もし敢ず泣語給けり。有王つら/\と聞之、涙の乾間ぞなかりける。僧都又宣けるは、「俊寛は懸(かかる)罪深(ふかき)者なれば、業にせめられて今幾ほどか存せんずらん。己さへ此嶋にて歎事も不便(ふびん)也、疾々帰上(かへりのぼれ)と云れければ、有王、「尋参侍(はべる)程にては、十年五年と申とも、其期を見終進(はてまゐらせ)侍るべし、努々御痛(いたみ)有べからず、但御有様久かるべし共不覚、最後を見終(はて)奉らん程は、是にして兎(と)も角(かく)も労(いたはり)進(まゐらす)すべし」とて、僧都に被教、峯に登ては硫黄を堀て商人に売り、浦に出ては魚を乞て執行を養ふ。係(かかり)けれども、日来の疲も等閑ならず、月日の重るに随ていとゞ憑なく見えけるが、明年の正月十日比より打臥給ひぬ。有王は今は最後と思て立離ず看病して、兼て賢くも善知識して申けるは、「再(ふたたび)都へ帰上給はざる事、努々御妄念に思召べからず、北方も若君も、空き露と消させ給ぬ、姫君は奈良に御座(おはしま)せば、御心安かるべし。唯娑婆の定なき有様を思知給ふべし。仮令(たとひ)妻子を跡枕に居(すゑ)置奉、古き都にして終(はて)給とも、住馴し境界は御名残惜(をしく)思召べし。依之衆生無始より生死にめぐりて、三界を不出とこそ承り候へ。富貴栄花も終(つひ)には衰(おとろふ)、御身に宛て可知ぬ[やぶちゃん注:ここは返り点があって、「知(しん)ぬべし」と読む。]、長命と云共必(かならず)死す、昔より形を残す者なし。されば今は一筋に今生を穢土の終と思召切て、当来には必(かならず)浄土へ参らんと、心強(づよく)願御座(おはします)べし。無益の妄念を残して、心憂き境に廻給べからず。四五箇年の流罪猶以難忍、無量億却の悪趣、出期を不知といへり。今度厭給はずは、いつをか期(ごし)給べき」など、種々教訓申ければ、僧都息の下に、「二人は被召還、俊寛一人留し上は、思切てこそ有しか共、凡夫の習なれば、折々には去共(さりとも)と憑む心も在き、其(それ)云甲斐なし。己角(かく)理を以て云教れば、思切ぬ。昔は召仕し所従、今は可然善知識也。権化の善巧歟、大聖の方便歟。誠に此世の中の習、強(あながち)に都へ帰ても何にかはせん。玉の簾・錦の帳も、万歳の粧にあらず、尤(もつとも)可厭。金台・銀階、千秋の粧にあらざれば、無由。其上不待入息出息身なれば、朝露の日に向ふよりも危し、生死不定の命なれば、蜉蝣の夕べを待(まつ)よりも短し。殊に此二三年は、歎を以て月日を運、齢傾(かたぶき)勢衰て、悲を以て星霜を送つ、危(あやふき)寿(いのち)に病付ぬ、浮雲の仮宿とは知ながら、はかなく我身を起(おこし)て、帰洛を待き。草露の英なる命と思ながら、愚に常見を成て、怨念を含。終(つひ)には是山川の土なれども、捨難(がたき)は血肉の身也。思へば又野外の土なれども、欲惜(をしまんと)分段の膚也。碧緑の紺青の髪筋も、遂には塚際の芝に纏(まとはり)、荘厳・端直・柔和の姿も、亦路辺の骸骨也、尤(もつとも)可厭。争(いかで)か悲ざらん、蘭香の家も未(いまだ)無常の悲を免れず、桜梅の宿も猶生死の別には迷へり。況(いはんや)や俊寛が有様、今日とも明日とも不知身なれば、過去の修因今生の現果、拙かりける我かなと、所従なれ共恥し。されば肝(きも)心を砕ても骨肉を捨ても、求べきは菩提薩埵の行、血髄を屠(ほふり)身体を抛ても、望べきは安養浄土の境也。徒(いたづら)に身を野外に捨んよりは、同は覚悟の仏道に捨べし。空く心を苦海に沈めんよりは、須(すべからく)迷津の船筏を儲べし。而を身命を雪山に投じ、半偈の文眼に宛たれども、如不見。給仕を千歳に運し一乗の説掌に把(にぎれ)ども、似(にたり)不取。悲哉、無上の仏種をはらみながら、無始無終の凡夫たる事を。痛哉、二空の満月を備ながら、生死長夜の迷情たる事を。凡(およそ)此嶋に放(はなた)るゝ初には、思に沈て岩の迫(はざま)に倒臥て、今生の祈も後生の勤もなかりしか共、丹波少将も、康頼入道も、帰洛の後は、毎日に法華経一部を暗誦し、よもすがら弥陀念仏を唱て、一筋に後世の為と廻向して今に不怠、夫(それ)来迎の金蓮には、貴(たつとき)も賤(いやしき)も倶に乗(のせ)、弘誓の船筏には、富るも貧(まづしき)をも渡し給と聞ば憑あり。又妙法の二字には、諸法実相の理を兼、蓮華の両字には、権実本迹の義を含り。誠に貴(たつとき)御法也。昼誦(じゆし)夜唱る功徳、去(さり)とも後世は覚ゆれば、唯汝も念仏を勧よ、我も名号を唱ん」とて、明れば仏の来迎を待ち、暮(くる)れば最後の近(ちかづく)を悦て、日数をふる程に、次第に弱て云事も聞えず、息止(とまり)眼閉にけり。寂々たる臥戸に、泪泉に咽べども、巴峡秋深ければ、嶺猿のみ叫けり。閑々たる渓谷に思歎に沈ども、青嵐峯にそよいで、皓月のみぞ冷(すさま)じき。白雲山を帯て人煙を隔(へだて)たれば、訪来(とぶらひくる)人もなし。蒼苔露深して洞門に滋れども、憐思(あはれみおもふ)者もなし。童只一人営つゝ、燃藻(たくも)の煙たぐへてけり。荼※[やぶちゃん字注:※=(へん)「田」+(つくり「比」。)]事終(は)てければ、骨を拾て頸に掛、涙に咽て遙々と都へ帰上にけり。奈良の姫君に奉見ければ、悶焦て泣悲(かなしむ)事不斜(なのめならず)。さこそ有けめと想像(おもひやら)れて無慙也。童申けるは、「御文を御覧じてこそ御歎の色もまさる様に見えさせ給ひしか。硯も紙もなかりしかば、御返事は候はず、思召れし御心中、さながら空く止(やみ)にき」とて、恨事の次第細々と申ければ、姫君涙に咽て物も不被仰。出家の志有と仰ければ、有王丸兎角(とかく)して、高野の麓、天野の別所と云山寺へ奉具、其にて出家し給にけり。真言の行者と成て、父母の菩提を弔給ひけるこそ糸惜(いとほし)けれ。有王も其より高野山に登、奥院に主の骨を納、卒都婆を立、即(すなはち)出家入道して、同(おなじく)後世を弔ひけり。方士は貴妃を蓬莱宮に尋(たづね)、金言は厳父を狄(えびす)が城に尋けり。彼は恩愛の情に催れ、王命の背難(そむきがたき)によて也。主を硫黄嶋に尋ねける、有王が志こそ哀なれ。

 

 

 
□「平家物語」


   「平家物語」巻二 康頼祝言

 

 さる程に鬼界が島の流人共、露の命草葉のすゑにかゝて、おしむべきとにはあらねども、丹波少將のしうと平宰相の領、肥前國鹿瀬の庄より、衣食を常にをくられければ、それにてぞ俊寛僧都も康賴も命をいきて過しける。康頼は、流されける時、周防室づみにて出家してべれば、法名は性照(しやうせう)とこそついたりけれ。出家はもとよりの望なりければ、

つゐにかくそむきはてける世間(よのなか)をとく捨てざりしことぞくやしき。

 丹波少將・康賴入道は、もとより熊野信心の人なれば、「いかにもして此島の内に熊野の三所權現を勸請し奉て、歸洛の事をいのり申さばや」と云に、俊寛僧都は天性(てんぜい)不信第一の人にて、是をもちいず。二人はおなじ心に、もし熊野に似たる所やあると、嶋の内を尋まはるに、或林塘の妙なるあり、紅錦繍の粧しなじなに、或雲嶺の恠あり、碧羅綾の色一つにあらず。山のけしき、木のこだちに至るまで、外よりもなを勝れたり。南を望めば、海漫々として、雲の波煙の浪ふかく、北をかへりれば、又山岳の峨々たるより、百尺(はくせき)の瀧水漲落(みなぎりおち)たり。瀧の音ことにすさまじく、松風神さびたるすまひ、飛瀧權現のおはします那智のお山にもさもにたりけり。さてこそやがてそこをば、那智のお山とは名づけけれ。此峯は本宮、かれは新宮、是はそむぢやう其王子、彼王子など、王子々々の名を申て、康賴入道先達(せんだち)にて、丹波少將相具しつゝ、日ごとに熊野まうでの真似をして、歸洛の事をぞ祈ける。「南無權現金剛童子、ねがはくは憐みを垂させおはして、故郷へかへし入させ給へ、妻子どもをば今一度見せ給へ」とぞ祈ける。日數積りて、裁ちかふべき淨衣もなければ、麻の衣を身にまとひ、澤邊の水をこりにかいては、岩田河のきよきながれと思やり、高き所にのぼては、發心門とぞ觀じける。まいるたびごとには、康賴入道の祝言とを申に、御幣紙(おんぺいし)もなければ、花を手折てさゝげつゝ、

[やぶちゃん注:底本では、以下の祝詞「再拝。」までは全体が一字下げ。]

維(い)あたれる歳次、治承元年丁酉、月のならび十月二月、日の數三百五十餘箇日、吉日良辰を擇(えらん)で、かけまくも忝(かたじけ)なく、日本第一大領驗(りやうげん)、熊野(ゆや)三所權現、飛瀧大薩埵(さつた)の教令(けうりやう)、宇豆(うづ)の廣前(ひろまえ)にして、信心の大施主、羽林藤原成經、並に沙彌性照、一心清淨の誠を致し三業相應の志を抽(ぬきんで)て、謹でもて敬白(うたまつてまふす)。夫(それ)證誠大菩薩は、濟度苦海の教主、三身(さんじん)圓滿の覺王也。或東方淨瑠璃醫王の主、衆病悉除の如來なり。或南方補陀落能化(のふけ)の主、入重玄門の大士(だいじ)。若王子(にやくわうじ)は娑婆世界の本主、施無畏者の大士、頂上の佛面を現じて、衆生の所願をみて給へり。これによてかみ一人よりしも萬民に至るまで、或現世安穩のため、或は後生善所のために、朝(あした)には淨水を結で煩惱の垢を濯ぎ、夕には深山に向て寶號を唱ふるに、感應おこたる事なし。峨々たる嶺のたかきをば、神徳の高きに喩へ、嶮々たる谷のふかきをば、弘誓(ぐぜい)の深きに 准(なぞら)へて、雲を分てのぼり、露をしのいで下る。爰(ここ)に利益(りやく)の地をたのまずむば、いかんが歩を險難の道にはこばん。權現の徳をあふがずんば、何ぞかならずしも幽遠(ゆうをん)の境にましまさむ。仍(よつて)證誠大權現、飛瀧大薩埵、青蓮慈悲の眸(まなじり)を相ならべ、さをしかの御耳をふりたてて、我等が無二の丹誠(たんぜい)を知見して、一々の懇志を納受し給へ。然れば則、結・早玉の兩所權現、おの/\機に隨て、有縁(うえん)の衆生をみちびき、無縁の群類をすくはむがために、七寶莊嚴のすみかを捨てて、八萬四千の光を和げ、六道三有の塵に同じ給へり。故(かるがゆへ)に定業亦能轉(ぢやうごうやくのうてん)、求長壽得長壽(ぐちやうじゆとくぢやうじゆ)の礼拜(らいはい)、袖を連ね、幣帛禮奠(へいはくれいでん)を捧ぐる事ひまなし。忍辱(にんにく)の衣を重、覺道の花を捧て、神殿(じんでん)の床(ゆか)を動じ、信心の水をすまして、利生の池を湛たり。神明納受し給はば、所願何ぞ成就せざらむ。仰(あふぎ)願はくは、十二所權現、利生の翅(つばさ)を並て、遙に苦海の空にかけり、左遷の愁をやすめて、歸洛の本懷を遂げしめ給へ。再拜。

とぞ、康賴祝言をば申ける。

 

   「平家物語」巻二 卒都婆流

 

 丹波少將・康賴入道、つねは三所權現の御前にまいて、通夜する折もあけり。或時二人(ににん)通夜して、夜もすがら今樣をぞうたひける。曉がたに、康賴入道ちとまどろみたる夢に、おきより白い帆かけたる小舟を一艘こぎよせて、舟のうちより紅の袴きたる女房達二三十人あがり、皷をうち、こゑを調(とゝのへ)て、

よろづの佛の願(ぐはん)よりも  千手の誓ぞたのもしき、

枯れたる草木も忽に        花さき實なるとこそきけ

と三べんうたひすまして、かきけつやうにぞうせにける。夢さめて後、奇異の思をなし、康賴入道申けるは、「是は龍神の化現とおぼえたり。三所權現のうちに、西の御前と申は、本地千手觀音にておはします。龍神は則千手の廿八部衆の其一なれば、もて御納受こそたのもしけれ。」又或夜二人通夜して、おなじうまどみたりける夢に、おきより吹くる風の、二人が袂に木の葉をふたつふきかえたりけるを、何となう取て見ければ、御熊野の南木(なぎ)の葉にてぞ有ける。彼二の南木の葉に一首の歌を虫ぐひにこそしたりけれ。

千はやぶる神にいのりのしげければなどか都へ歸らざるべき

 康賴入道、古郷の戀しきまゝに、せめてのはかりごとに、千本の卒都婆を作り、 ※[やぶちゃん注:梵字の「ア」字。]字の梵字・年号・月日、假名(けみやう)實名、二首の歌をぞかいたりける。

さつまがたおきのこじまに我ありとおやにはつげよ八重のしほかぜ

おもひやれしばしとおもふ旅だにも猶なをふるさとはこひしきものを

是を浦にもて出て、「南無歸命頂礼、梵天帝尺、四大天王、堅牢地神(ぢじん)、鎭守諸大明神、殊には熊野權現、嚴島大明神、せめては一本成共(なりとも)都へ傳てたべ」とて、奥津(おきつ)しら波のよせてはかへるたびごとに、卒都婆(そとば)を海にぞ浮べける。卒都婆を作り出すに隨て、海に入れければ、日數のともれば、卒都婆のかずもつもり、そのおもふ心や便(たより)の風ともなりたりけむ。又神明佛陀もやをくらせ給ひけむ、千本の卒都婆のなかに一本、安藝國嚴嶋の大明神の御まへの渚にうちあげたり。

 康賴入道がゆかりありける僧、しかるべき便もあらば、いかにもして彼嶋へわたりて、其(その)行(ゆく)衞をきかむとて、西國修行に出たりけるが、先(まづ)嚴嶋へぞまいりたりける。爰に宮人(みやびと)とおぼしくて、狩ぎぬ裝束なる俗一人出きたり。此僧何となき物語しけるに、「夫、和光同塵の利生さまざまなりと申せども、いかなりける因縁をもて、此御神は海漫の鱗(うろくづ)に縁をばむすばせ給ふらん」ととひ奉る。宮人答けるは、「是はよな、娑竭羅龍王(しやかつらりうわう)の第三の姫宮、胎藏界の垂跡(すいしやく)也」。此嶋へ御影向(やうがう)ありし初より、濟度利生の今に至るまで、甚深の奇特の事共をぞかたりける。さればにや、八社の御殿甍をならべ、社はわだつみのほとりなれば、塩のみちひに月ぞすむ。しほみちくれば、大鳥居朱(あけ)の玉垣瑠璃の如し。塩引ぬれば、夏の夜なれど、御まへのしら洲に霜ぞおく。いよ/\尊く覺えて、法施まいせて居たりけるに、やう/\日くれ、月さし出て、塩のみちけるが、そこはかとなき藻くづ共のゆられけるなかに、卒都婆のかたのみえけるを、何となうとて見ければ、奥(おき)のこじまに我ありと、かきながせることのは也。文字をばゑり入(いれ)きざみ付たりければ、浪にも洗はれず、あざ/\としてぞみえたりける。「あなふしぎ」とて、これを取て笈(かひ)の肩にさし、都へのぼり、康賴が老婆の尼公妻子共が、一條の北、紫野と云所に忍つゝすみけるに、見せたりければ、「さらば此卒都婆が唐のかたへもゆられゆかで、なにしにこれまでつたひ來て、今更物をおもはすらん」とぞかなしみける。遙の叡聞に及て、法皇之を御覽じて、「あなむざんや。さればいままで此者共は、命のいきてあるにこそ」と、御涙を流させ給ふぞ忝(かたじけな)き。小松のおとゞのもとへをくらせ給ひたりければ、是を父の入道相國にみせ奉り給ふ。柿本人丸は、嶋がくれ行船を思ひ、山邊の赤人は、あしべのたづをながめ給ふ。住吉の明神はかたそぎの思をなし、三輪の明神は杉たてる門(かど)をさす。昔(むかし)素盞烏尊(すさのをのみこと)、三十一字のやまとうたをはじめをき給しよりこのかた、もろ/\の神明佛陀も、彼詠吟をもて百千萬端の思ひをのべ給ふ。入道も石木(いはき)ならねば、さすが哀げにぞ給ひける。

 

   「平家物語」巻二 蘇武

 

 入道相國の憐み給ふうへは、京中の上下、老たるもわかきも、鬼界が嶋の流人の歌とて、口ずさまぬはなりけり。さても千本迄作りたりける卒都婆なれば、さこそはちいさうもありけめ、薩摩潟よりはるばると、都までつたはりけるこそふしぎなれ。あまりにおもふ事はかくしるしあるにや。

 いにしへ漢王胡國を攻られけるに、はじめは李少卿を大(たい)將軍にて、三十万騎むけられたりけるが、漢王のいくさよはく、胡國のたゝかひつよくして、官軍みなうちほろぼさる。剩(あまつさ)へ大將軍李少卿、胡王のためにいけどらる。次に蘇武を大將軍にて、五十万騎をむけらる。猶漢のいくさよはく、えびすのたゝかひこはくして、官軍皆亡にけり。兵六千余人いけどらる。其中に、大將軍蘇武をはじめとして、宗(むね)との兵(つはもの)六百三十余人、すぐり出して、一々にかた足をきて、追放(おつぱ)なつ。則(すなはち)死する者もあり、ほどへて死ぬる者もあり。其なかにされ共蘇武はしざりけり。片足なき身となて、山にのぼては木の實をひろひ、春は澤の根芹を摘、秋は田づらのおち穗をひろひなどしてぞ、露の命を過しける。田にいくらもありける鴈(かり)ども、蘇武に見なれておそれざりければ、これはみな我古郷へかよふものぞかしとなつかしさに、おもふ事を一筆かいて、「相かまへて是漢王に奉れ」と云ふくめ、鴈の翅(つばさ)にむすび付てぞはなちける。かひがひしくもたのむの鴈、秋は必こし地より都へ來るものなれば、漢の昭帝上林苑(しやうりんえん)に御遊(ぎよゆふ)ありしに、夕ざれの空薄ぐもり、何となう物哀(ものあはれ)なりけるおりふし、一行(ひとつち)の鴈とびわたる。その中より鴈一(ひとつ)とびさがて、をのが翅を結付たる玉章(たまづさ)をくひきてぞおとしける。官人(くはんにん)これをとて、御門に奉る。披(ひらい)て叡覽あれば、「昔は巖窟の洞にこめられて、三春の愁歎ををくり、今は曠田の畝(うね)に捨られて、胡敵の一足(そく)となれり。設(たとひ)かばねは胡の地にさらすと云共、魂は二たび君邊につかへん」とぞかいたりける。それよりしてぞ文をば鴈書(がんしよ)ともいひ、鴈札とも名付たり。「あなむざんや、蘇武がほまれの跡なりけり。いまだ胡國にあるにこそ」とて、今度は李廣と云將軍に仰(おほせ)て、百万騎をさしつかはす。今度は漢の戰(たゝかひ)こはくして、胡國のいくさ破にけり。御方たゝかひかちぬと聞えしかば、蘇武は曠野の中よりはい出て、「是こそいにしへの蘇武よ」となのる。十九年の星霜を送て、片足はきれながら、輿にかゝれて、古郷へぞ歸りける。蘇武は十六の歳、胡國へ向けられけるに、御門(みかど)より給りたりける旗を、何としてかかくしたりけん、身をはなたずもたりけり。今取出して御門の見參にいれたりければ、きみも臣も感嘆なのめならず。君(きみ)のため大功ならびなかりしかば、大國あまた給り、其上天俗(てんしよく)國と云(いふ)司(つかさ)を下されけるとぞ聞えし。

李少卿は、胡國にとゞまて終(つひ)に歸らず。いかにもして、漢朝へ歸らむとのみなげゝども、胡王ゆるさねばかなはず。漢王これをばしり給はず、君のために不忠の者ものなりとて、はかなくなれる二親(にしん)の死骸(しかばね)をほり起いて打せらる。其外六親をみなつみせらる。李少卿此由を傳きいて、恨ふかうぞなりにける。さりながらも猶古郷を戀つゝ、君に不忠なき樣(やう)を一卷の書に作てまいらせたりければ、「さては不便(ふびん)の事ごさんなれ」とて、父母がかばねを掘いだいてうたせられたる事をぞ、くやしみ給ひける。

 漢家の蘇武は書を鴈の翅に附て舊里へ送り、本朝の康賴は浪のたよりに歌を故郷に傳ふ。彼は一筆(ふで)のすさみ、これは二首の歌、あれは上代、これは末代、胡國鬼界が嶋、さかひをへだて、世々はかはれども、風情は同じふぜい、ありがたかりし事ども也。

 

   「平家物語」卷第三 赦文

 

 治承二年正月一日、院(ゐんの)御所には拜礼をこはれて、四日の日朝覲(てうきん)の行幸(ぎやうがう)在けり。例にかはりたる事はなけれ共、去年の夏新大納言成親卿以下、近習の人々多く失れし事、法皇御憤いまだやまず、世の政も物うくおぼしめされて、御(おん)心よからぬ事にてぞありける。太政入道も、多田藏人行綱が告(つげ)しせて後(のち)は、君をも御後めたき事に思ひ奉て、うへには事なき樣(やう)なれ共、下(した)には用心して、にがわらひてのみぞありける。

 同正月七日彗星(せいせい)東方にいづ。蚩尤氣(しゆうき)とも申。又赤氣共(とも)申。十八日光をます。

 去程に、入道相國の御むすめ建禮門院、其比は未(いまだ)中宮と聞えさせ給しが、御惱(ごなう)とて、雲の上天が下の歎きにてぞありける。諸寺に御(み)讀經始まり、諸社へ官幣を立らる。醫家(いけ)藥をつくし、陰陽術(をんやうじゆつ)をきはめ、大法秘法一(ひとつ)として殘る處なう修せられけり。され共、御惱たゞにも渡らせ給はず、御懷姙とぞ聞えし。主上今年十八、中宮は二十二にならせ給ふ。しかれ共、いまだ皇子(わうじ)も姫宮も出きさせ給はず。もし皇子にてわたらせ給はばいかに目出(めでた)からんと、平家の人々はたゞ今皇子御誕生のある樣に、いさみ悦びあはれけり。他家の人々も、「平氏(へいじ)の繁昌折をえたり。皇子御誕生疑なし」とぞ申あはれける。御懷姙さだまらせ給しかば、有驗(うげん)の高僧貴僧に仰せて、大法秘法を修し、星宿佛菩薩につげて、皇子御誕生と祈誓せらる。六月一日、中宮御着帶有けり。仁和寺の御室(おむろ)守(しゆう)覺法親王、御參内あて、孔雀經の法をもて、御(おん)加持あり。天台座主覺快法親王、おなじうまいらせ給て、變成男子(へんじやうなんし)の法を修せらる。

 かゝりし程に、中宮は月のかさなるに隨て、御身を苦しうせさせ給ふ。一たびゑめば百(もも)の媚(こび)ありけん漢の李夫人の、昭陽殿の病の床(ゆか)もかくやとおぼえ、唐の楊貴妃、梨花一枝春の雨ををび、芙蓉の風にしほれ、女郎花(をみなへし)の露おもげなるよりも、猶いたはしき御さまなり。かゝる御惱の折節にあはせて、こはき御物怪共、取いり奉る。よりまし明王の縛にかけて、靈あらはれたり。殊には讃岐院の御靈、宇治惡左府の憶念、新大納言成親の死靈、西光法師が惡靈、鬼界の嶋の流人共が生靈(しやうりやう)などぞ申ける。是によて、太政入道生靈も死靈もなだめらるべしとて、其比やがて讃岐院御追號あて、崇徳(しゆとく)天皇と號す。宇治惡左府、贈官贈位をこなはれて、太政大臣正一位を贈らる。勅使は少内記惟基とぞ聞えし。件の墓所(むしよ)は、大和國添上(そうのかん)の郡(こほり)、川上の村、般若野の五三昧(ごさんまい)也。保元の秋掘りをこして捨られし後は、死骸路の邊(ほとり)の土となて、年々にたゞ春の草のみ茂れり。今勅使尋來て宣命を讀けるに、亡魂いかにうれしとおぼしけむ。怨靈は昔もかくおそろしきこと也。されば早良の廢太子をば崇道(しゆだう)天皇と号し、井上(いがみ)の内親王をば皇后の職位(しきゐ)にふくす。是みな怨靈を宥(なだ)められしはかりごと也。冷泉院の御物ぐるはしうまし/\、花山(くわさん)の法皇の十禅萬乘の帝位をすべらせ給しは、基方(もとかた)民部卿が靈とかや。三條院の御目も御覽ぜられざりしは、寛算供奉が靈也。

 門脇宰相か樣の事共傳へきいて、小松殿に申されけるは、「中宮御産の御祈さまざまに候也。なにと申候共、非常の赦に過たる事あるべしともおぼえ候はず。中にも鬼界の嶋の流人共めしかへされたらんほどの功徳善根、爭(いかで)か候べき」と申されければ、小松殿父の禪門の御まへにおはして、「あの丹波少將が事を宰相のあながちに歎申候が不便候(ざうらふ)。中宮御惱の御こと、承(うけたまはり)及ぶ如くんば、殊更成親卿が死靈など聞え候。大納言が死靈をなだめむと思召さんにつけても、生て候少將をこそめし返され候はめ。人のおもひをやめさせ給はば、おぼしめす事もかなひ、人の願ひをかなへさせ給はば、御願(ごぐわん)もすなはち成就して、中宮やがて皇子(わうじ)御誕生あて、家門の榮花弥(いよ/\)さかんに候べし」など申されければ、入道相國、日比にも似ず事の外に和らひで、「さて/\、俊寛と康賴法師が事はいかに」。「それもおなじう召しこそ返へされ候はめ。若一人も留められんは、中区罪業たるべう候」と申されたりければ、「康賴法師が事はさる事なれ共、俊寛は隨分入道が口入(こうじゆ)をもて人となたる物ぞかし。それに所しもこそ多けれ、わが山莊鹿の谷(たに)に城※[やぶちゃん字注:※=(へん)「土」+(つくり)「郭」。](じやうかく)をかまへて、事にふれて奇怪のふるまひ共が有けんなれば、俊寛をば思ひもよらず」とぞ給ける。小松殿かへて、叔父の宰相殿よび奉り、「少將は既に赦免候はんずるぞ。御心やすう思食(おぼしめ)され候。」とのたまへば、宰相手をあはせてぞ悦ばれける。「下りし時も、などか申請(まうしう)ざらんと思ひたりげにて、教盛(のりもり)を見候度ごとには涙をながし候しが、不便に候(ざうらふ)」と申されければ、小松殿、「まことにさこそはおぼしめされ候らめ。子(こ)は誰(たれ)とてもかなしければ、能(よく)々申候はん」とて入給ぬ。

 去程に鬼界が嶋の流人共めしかへるべき事さだめられて、入道相國許文下されけり。御(お)使すでに都をたつ。宰相あまりのうれしさに、御使に私の使をそへてぞ下されける。よるを晝にして急ぎ下(くだつ)たりしか共、心にまかせぬ海路(かいろ)なれば、浪風をしのいで行程に、都をば七月下旬に出たれ共、長月廿日比にぞ、鬼界が嶋には着にける。

 

   「平家物語」卷第三 足摺

 

 御使は丹左衞門尉基康といふ者なり。船よりあがて「是に都よりながされ給し丹波少將殿、法勝寺執行御房(ほつしやうじしゆぎやうごぼう)、平(へい)判官(はんぐわん)入道殿やおはする」と、聲々にぞ尋ける。二人の人々は、例の熊野まうでしてなかりけり。俊寛僧都一人殘たりけるが、是をきゝ、「あまりに思へば夢やらん。又天魔波旬の我心をたぶらかさんとていふやらむ。うつゝ共覺えぬ物かな」とて、あはてふためき、走るともなく、たをる共なく、いそぎ御使のまへに走りくかひ、「何事ぞ。是こそ京よりながされたる俊寛よ」と名乘り給へば、雜色(ざうしき)が頸に懸させたる文袋より、入道相國の許文取出いて奉る。ひらいてみれば、「重科は遠流に免ず。はやく歸洛の思ひをなすべし。中宮御産の御祈によて、非常の赦をこなはる。然間鬼界の嶋の流人、少將成經、康賴法師赦免。」とばかり書かれて、俊寛と云文字はなし。禮紙にぞあるらんとて、礼紙を見るにもみえず。奧より端へ讀み、端より奧へ讀けれ共、二人(ににん)とばかり書かれて、三人とはかゝれず。

 さる程に、少將や判官入道も出きたり、少將の取てよむにも、康賴入道が讀けるにも、二人とばかり書れて、三人とはかゝれざりけり。夢にこそかゝる事はあれ、夢かと思ひなさんとすればうゝつ也。うゝつかと思へば又夢の如し。其うへ二人の人々のもとへは、都より言付ぶみ共いくらもあけれ共、俊寛僧都のもとへは、事とふ文一(ひとつ)もなし。「抑(そも/\)われら三人は罪もおなじ罪、配所も一(ひとつ)所也。いかなれば赦免の時、二人はめしかへされて、一人(いちにん)こゝに殘るべき。平家の思ひわすれかや、執筆(しゆひつ)のあやまりか。こはいかにしつる事共ぞや。」と、天にあふぎ地に臥て、泣かなしめ共かひぞなき。少將の袂にすがて、「俊寛がかく成といふも、御へんの父、故大納言殿のよしなき謀反ゆへ也。されば/\よその事とおぼすべからず。ゆるされなれば、都迄こそかなはずと云共、此船にのせて、九國(くこく)の地へつけ給へ。をの/\の是におはしつる程こそ、春はつばくらめ、秋は田の面(む)の鴈(かり)の音づるゝ樣に、自ら古郷の事をも傳へ聞いつれ。今より後、何としてかは聞べき」とて、もだえこがれ給ひけり。少將、「まことにさこそは思召され候らめ。我等がめしかへさるゝうれしさは、さる事なれ共、御あり樣を見をき奉るに、行くべき空も覺えず。うちのせ奉ても上りたう候が、都の御使もかなふまじき由申すうへ、ゆるされもないに、三人ながら嶋を出たりなど聞えば、中々あしう候なん。成經まづ罷りのぼて、人々にも申あはせ、入道相國の氣色をもうかゞふて、むかへに人を奉らむ。其間は此日比おはしつる樣におもひなして待給へ。何としても命は大切の事なれば、今度こそもれさせ給ふ共、つゐにはなどか赦免なうて候べき」となぐさめたまへ共、人目も知らず泣もだえけり。

 既に舟出すべしとて、ひしめきあへば、僧都乘てはおりつ、降りてはのつ、あらまし事をぞし給ひける。少將の形見にはよるの衾(ふすま)、康賴入道が形見には、一部の法華經をぞとゞめける。ともづな解いておし出せば、僧都綱に取つき、腰になり、脇になり、たけの立(たつ)までは引かれて出、たけも及ばす成ければ、船に取つき、「さていかにをの/\、俊寛をば終に捨はて給ふか。是程とこそ思はざりつれ。日比の情も今は何(なに)ならず。たゞ理を枉てのせ給へ。せめては、九國の地まで」とくどかれけれ共、都の御使「如何にもかなひ候まじ」とて、取つき給へる手を引のけて、船をばつゐに漕出す。僧都せん方なさに、渚にあがりたふれふし、をさなき者のめのとや母などをしたふやうに、足ずりをして、「是乘てゆけ、具してゆけ」と、おめきさけべ共、漕行(こぎゆく)船の習(ならひ)にて、跡はしら浪ばかり也。いまだ遠からぬ船なれ共、涙に暮てみえざりければ、僧都高き所に走あがり、澳(おき)の方をぞまねきける。彼(かの)松浦佐用姫(まつらさよひめ)が、もろこし船をしたひつゝ、領布(ひれ)ふりけむも、是には過じとぞみえし。船も漕かくれ、日もくるれ共、怪(あやし)の臥どへも歸らず。浪に足うちあらはせ、露にしほれて、其夜はそこにてぞあかされける。さり共少將は情ふかき人なれば、よき樣に申事もあらんずらむと憑(たのみ)をかけ、sの瀨に身をもなげざりける心の程こそはかなけれ。昔(むかし)早離(さうり)・速離(そくり)が、海岳山(かいがくせん)へはなたれけんかなしみも、いまこそ思ひしられけれ。

 

 

   「平家物語」卷第三 有王

 

 去程に、鬼界嶋へ三人流されたりし流人、二人はめし返され都へのぼりぬ。俊寛僧都一人(いちにん)、うかりし嶋の嶋守に成にけるこそうたてけれ。僧都のおさなうより不便にして、めしつかはれける童(わらは)あり。名をば有王(ありわう)とぞ申ける。鬼界嶋の流人、今日すでに京都へ入と聞えしかば、鳥羽まで行むかふて見けれ共、わが主(しう)はみえ給はず。いかにと問へば、「それはなを罪ふかしとて、嶋にのこされ給ぬ。」ときいて、心うしなどもおろかなり。常は六波羅邊にたゝずみ歩(あり)いて聞けれ共、赦免あるべし共(とも)聞出ださず。僧都の御むすめの忍びておはしましける所へまいて、「この瀨にも漏れさせ給て、御のぼりも候はず。いかにもして彼嶋へわたて、御行えを尋まいらせんとこそ思ひなて候へ。御ふみ給はらん」と申ければ、泣々かいて給(た)うだりけり。いとまをこふ共(とも)、よもゆるさじとて、父にも母にもしらせず。もろこし船のともづなは、卯月皐月にも解くなれば、夏衣立を遲くや思けむ、やよひの末に都を出て、多くの波路を凌ぎ過ぎ、薩摩潟へぞ下りける。薩摩より彼嶋へ渡る船津にて、人あやしみ、きたる物を剥とりなどしけれ共、すこしも後悔せず、姫御前の御文ばかりぞ人に見せじとて、もとゆひの中に隱したりける。さて商人船(あきんどぶね)にのて、件の嶋へわたてみるに、都にてかすかにつたへ聞しは事のかずにもあらず。田もなし、畑もなし、村もなし、里もなし。をのづから人はあれ共、いふ詞も聞しらず。もしか樣(やう)の者共の中に、わが主の行えや知りたるものやあらんと、「物まうさう」といへば、「何事」とこたふ。「是に都より流され給し、法勝寺執行御房と申人の、御行えや知たる」と問に、法勝寺共(とも)、執行共、知たらばこそ返事もせめ。頸をふて知(しら)ずといふ。其中にある者が心得て、「いさとよ、さ樣の人は三人是に有しが、二人はめしかへされて都へのぼりぬ。いま一人は殘されて、あそこ爰(ここ)にまどひ歩(あ)りけ共、行えもしらず」とぞいひける。山のかたのおぼつかなさに、はるかに分入、嶺によぢ、谷に下れ共、白雲跡を埋(うづん)で、ゆき來の道もさだかならず。青嵐夢を破て、その面影もみざりけり。山にては遂に尋(たづね)もあはず、海の邊(ほとり)について尋るに、沙頭(さとう)に印(ゐん)を刻む鷗、澳(おき)の白洲にすだく濱千鳥の外は、跡とふ物もなかりけり。

 ある朝(あした)、いその方よりかげろふなどのやうににやせおとろへたる者よろぼひ出きたり。もとは法師にて有けると覺えて、髮は空さまへ生(お)ひあがり、よろづの藻屑とり付ゐて、をどろをいたゞいたるが如し。つぎ目あらはれて皮ゆたひ、身に着たる物は絹布の別(わき)も見えず。片手にはあらめを拾ひもち、片手には網人(あみうど)に魚をもらふてもち、歩むやうにはしけれ共、はかもゆかず、よろ/\として出きたり。「都にて多くの乞丐人(こつがいにん)見しか共、かゝる者をばいまだみ。ず、「諸阿修羅等故在大海邊(しよあしゆらとうこざいだいかいへん)」とて、修羅の三惡四趣は深山大海のほとりにありと、佛の解(とき)をき給ひたれば、しらず、われ餓鬼道に尋來るか」と思ふ程に、かれも是も次第にあゆみ近づく。もしか樣のものも、主の御ゆくえ知たる事やあらんと、「物まうさう」どいへば、「何ごと」とこたふ。「是に都よりながされ給し、法勝寺の執行御房と申人の御行えや知たる」と問に、童は見忘たれ共、僧都は何か忘べきなれば、「是こそそよ」といひもあへず、手に持る物を投捨て、すなごの上に倒れふす。さてこそわが主の行えも知てげれ。やがてきえ入給ふを、ひざの上にかきのせ奉り、「有王がまいて候。多くの浪路をしのいで、是まで尋まいりたるかひもなく、いかにやがてうき目をば見せさせ給ふぞ」と、泣々申ければ、やゝあて、すこし人心地出き、たすけおこされて、「誠に汝が是(これ)まで尋來たる心ざしの程こそ神妙なれ。明ても暮ても、都の事のみ思ひ居たれば、戀しき者共が面影は、夢にみる折もあり、まぼろしに立つ時もあり。身もいたく疲れ弱て後は、夢もうつゝも思ひわかず。されば汝が來れるも、ただ夢とのみこそおぼゆれ。もし此事夢ならば、さめての後はいかゞせん。」有王「うつゝにて候也。此御ありさまにて、今まで御命の延びさせ給て候こそ、不思議には覺候へ」と申せば、「さればこそ。去年(こぞ)少將や判官入道に捨られて後のたよりなさ、心の内をばたゞおしはかるべし。その瀨に身をもなげむとせしを、よしなき少將の、「今一度都の音づれをも待かし」など、なぐさめ置きしを、をろかに若しやとたのみつゝ、ながらへんとはせしか共、此嶋には人の食物たえてなき所なれば、身に力のありし程は、山にのぼて硫黄と云物をほり、九國(くこく)よりかよふ商人(あきんど)にあひ、食物にかへなどせしか共、日にそへて弱りゆけば、いまはその態(わざ)もせず。かやうに日ののどかなる時は、磯に出て網人(あみうど)に釣人(つりうど)に手をすり、膝をかゞめて、魚をもらい、 鹽干の時は貝をひろひ、あらめを取り、磯の苔に露の命をかけてこそ、今日までもながらへたれ。さらでは憂世を渡よすがをば、いかににしつらんとか思らむ。爰にて何事をもいはばやとはおもへ共、いざ我家へ」とのたまへば、こお御ありさまにても家をもち給へるふしぎさよと思て行程に、松の一むらある中に、より竹を柱にして、葦をゆひ、桁梁にわたし、上にも下にも松の葉をひしと取かけたり。風雨たまるべうもなし。昔は法勝寺の寺務職にて、八十餘箇所の庄務をつかさどられしかば、棟門平門(むねかどひらかど)の内に、四五百人の所從眷屬に圍繞(ゐねう)せられてこそおはせしか。目(ま)のあたりかゝるうきめを見給けるこそ不思議なれ。業(ごう)にさまざまあり。順現・順生・順後業(じゆんごごう)といへり。僧都一期の間、身にもちゐる所、大伽藍の寺物佛物にあらずと云事なし。さればかの信施無慚(しんぜむざん)の罪によて、今生に感ぜられけりとぞみえたりける。

 

 

   「平家物語」 僧都死去

 

 僧都現(うゝつ)にてありとおもひ定て、「抑(そも/\)去年(こぞ)少將や判官入道がむかへにも、是等が文と云ふ事もなし。今汝が便にも、音信のなきは、かう共(とも)いはざりけるか」有王涙にむせびうつぶして、しばしはものも申さず。やゝありておきあがり、泪をおさへて申けるは、「君の西八條へ出させ給しかば、やがて追捕の官人まいて、御内の人々搦取り、御謀反の次第を尋て、うしなひはて候ぬ。北方はおさなき人を隱しかねまいらせ給て、鞍馬の奧に忍ばせ給て候しに、此童ばかりこそ時々まいて宮仕つかまつり候しか。いづも御歎のをろなる事は候はざしか共、をさなき人は、あまりに戀まいらさせ給て、參り候たび毎に、「有王よ、鬼界の嶋とかやへわれ具してまいれ」とむつからせ給候しが、過候し二月(きさらぎ)に、もがさと申(もうす)事に失させ給候ぬ。北方は其御歎と申、是の御事と申、一方ならぬ御思にしづませ給ひ、日にそへてよはらせ給候しが、同三月二日の日、つゐにはかなくならせ給ぬ。いま姫御前ばかり、奈良の姑(をば)御前の御もとに御渡り候。是に御ふみ給(たまはり)てまいて候」とて、取いだいて奉る。あけて見給へば、有王が申にたがはず書れたり。奧には、「などや三人ながされたる人の、二人はめし返されて候に、いままで御のぼりさぶらはぬぞ。あはれ、高きもいやしきも、女の身ばかり心うかりける物はなし。男(おのこ)の子(ご)の身にてさぶらはば、わたらせ給ふ嶋へも、などかまいらでさぶらふべき。この有王御供にて、いそぎのぼらせ給へ。」とぞ書かれたる。「是みよ有王、この子が文の書やうのはかなさよ。己を供にて、いそぎのぼれと書たる事こそうらめしけれ。心にまかせたる俊寛が身ならば、何とてか三年(とせ)の春秋をば送るべき。今年は十二にあるとこそ思ふに、是程はかなくては、人にも見え、宮仕をもして、身をも助くべきか。」とて泣れけるにぞ、人の親の心は闇にあらね共、子をおもふ道にまよふ程も知れける。「此嶋へ流されて後は、暦もなれば、月日のかはり行をも知らず。たゞ自(をのづか)ら花の散り葉の落るを見て春秋(はるあき)をわきまへ、蝉の聲麥秋を送れば夏とおもひ、雪の積を冬としる。白月(びやくげつ)黒月のかはり行を見ては、卅日をわきまへ、指をおてかぞふれば、今年は六になるとおもひつるをさなき者も、はや先立けるごさんなれ。西八條へ出し時、この子が「我もゆかう」ど慕(したひ)しを、やがて歸らふずるぞとこしらへ置(をき)しが、いまの樣におぼゆるぞや。其を限りと思はましかば、いましばしもなどか見ざらん。親となり、子となり、夫婦の縁をむすぶも、みな此世ひとつにかぎらぬ契(ちぎり)ぞかし。などさらば、それらがさ樣に先立けるを、いままで夢まぼろしにも知らざりけるぞ。人目も恥ず、いかにもして命生(い)かうと思しも、是等を今一度見ばやと思ふ爲也。姫が事こそ心苦けれ共、それも生身なれば、歎ながらも過さむずらん。さのみながらへて、己にうきめを見せんも、我身ながらもつれなかかるべし」とて、をのづからの食事をとゞめ、偏に弥陀の名號をとなへて、臨終正念をぞ祈られける。有王わたて廿三日と云に、其庵りのうちにて遂にをはり給ぬ。年卅七とぞ聞えし。有王むなしき姿に取つき、天に仰ぎ地に伏て、泣かなしめ共かひぞなき。心の行程泣あきて、「やがて後世(ごせ)の御供仕べう候へ共、此世には姫御前ばかりこそ御渡候へ、後世弔ひまいらすべき人も候はず。しばしながらへて、後世とぶらひまいらせ候はん」とて、ふしどを改めず、庵を切かけ、松のかれ枝、蘆の枯葉を取おほひ、藻しほのけぶりとなし奉り、荼※[やぶちゃん字注:※=(へん)「田」+(つくり「比」。)]事(だびごと)終へにければ、白骨をひろひ、頸にかけ、又商人船(あきんどぶね)のたよりに、九國(くこく)の地へぞ着にける。

 僧都の御むすめのおはしける所にまいて、有(あり)し樣(やう)、始よりこまごまと申。「中々御文を御覽じてこそ、いとゞ御思ひはまさらせ給て候しか。硯も紙も候はねば、御(おん)返事にも及ばず。おぼしめされ候し御心の内、さながらむなしうてやみ候にき。今は生々世々(しやうじやうせせ)を送り、他生曠劫(たしやうくわうごう)をへだつ共、いかでか御聲をもきゝ、御姿をも見まいらさせ給べき」と申ければ、ふしまろび、こゑも惜(をしま)ず泣かれけり。やがて十二の年尼になり、奈良の法華寺に勤(つとめ)すまして、父母(ぶも)の後世を訪(とぶら)ひ給ふぞ哀(あはれ)なる。有王は俊寛僧都の遺骨を頸にかけ、高野へ登り、奧院に納めつゝ、蓮華谷にて法師になり、諸國七道修行して、主の後世をぞとぶらひける。か樣に人の思歎きのつもりぬる平家の末こそおそろしけれ。