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 「やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句」

 「やぶちゃん版芥川龍之介句集三 書簡俳句」

 「やぶちゃん版芥川龍之介句集四 続 書簡俳句 附 辞世」

 「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」

やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺

               
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[やぶちゃん注:底本は一九七八年刊岩波版旧全集第九巻・第十一巻と、一九八三年刊の同全集二刷に追加された第十二巻の「拾遺」及び一九九八年刊岩波版新全集第二十三巻・第二十四巻、一九六八年刊岩波版未定稿集、一九九二年蝸牛社刊蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」等を用いている。但し、新全集等の新字体については、旧字への独断による変更を加えている。なお、長い詞書については私の判断で読みやすく改行をしている箇所がある。「やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句」に所収する句の相同・相似句が散見されるが、そこで既に語句注釈しているものについては、原則としてここで重複して注してはいない。]



 淺春集 (大正七年三月『鐘が鳴る』)


包丁の餘寒曇りや韮を切る


鶯や軒に干したる蒸がれひ


鶯に藁たかだかと屋根修覆
[やぶちゃん注:「だか」の原文は濁点の踊り字。]


三門に鳶の夜啼く朧かな


[やぶちゃん注:旧全集後記よると、大正七(一九一八)年三月五日発行の雑誌『鐘が鳴る』の「俳句の世界」欄に「龍之介」の署名で、江口渙、菊池寛、赤木桁平、久米正雄の句と共掲載。全体の文末に「(集まるまゝに吐きすてたる句、いま記憶に殘れるもののみを録しつ、もとより宗匠ぶりて選みたるには非ざるなり。詠み捨てたるを拾ひしなれば、作者らとて苦情を云ふべき理もあらじ。)」と記す。また、同誌の巻末記事「混沌社より」の文中に、「本號の俳句之世界に載せた、淺春集は、舊「新思潮」の同人其他即ち、芥川龍之介、江口渙、菊池寛、赤木桁平、久米正雄の諸君が、芥川君の新婚披露の宴を催した砌の作なのださうです。今後も、時々、本誌で、發表して下さることと思ひます。」(やぶちゃん語注:「之」はママ)とあるとする。
 これは二月二日の結婚式当日、田端の天然自笑軒で行われた披露宴での作ということである。この自笑軒とは、宮崎直次郎という養父芥川道草の一中節の相弟子が経営していた会席料理屋で、田端への移転もこの宮崎の紹介であった。
 ちなみに結婚前後の発表作品を見ておくと、一月一日の「首が落ちた話」「西郷隆盛」「英雄の器」、二月二十四日の「南瓜」、四月一日の「袈裟と盛遠」「世之助の話」等である。]



 ホトトギス「雜詠」欄 (大正七年五月『ホトトギス』)


熱を病んで櫻明りにふるへ居る


冷眼に梨花見て轎を急がせし


[やぶちゃん注:この二句は岩波版新全集(一九九六年刊)の第三巻『ホトトギス「雜詠」欄』の冒頭に所収されている。後掲する「我鬼窟句抄」の「大正七年」の項にも全く同じ二句が載るが、それ以前に公開されていることがこの新全集によって判明したので、この位置にも採録しておく。「轎」は「かご」。新全集後記によればこの二句は「椒圖」の俳号で掲載された。これが本二句が岩波版旧全集から漏れた理由と思われる(以下の大正七年六月―九年一月『ホトトギス』掲載十七句はすべて「我鬼」の署名である)。因みに「椒圖」という雅号については斉藤英雄「芥川龍之介の『ホトトギス』投稿句について」(二〇〇一年三月刊・九州大谷短期大学研究紀要)に『龍之介が若い頃、「椒図」という雅号を使っていた』とし、『未定稿『白獣』の冒頭に「嘗、椒図と云ふ号をつけたことがある。椒図とは、八犬伝によると黙を好む龍だと云ふ」とある。』と記し、芥川龍之介の「椒圖志異」の話に及んでいる。なお、ここで斉藤氏が引用している「白獣」は「芥川龍之介資料集図版2」(一九九三年十一月山梨県立文学館刊行三十九頁)所収のもので活字化されておらず、私は未見である。]


 ホトトギス「雜詠」欄
 (大正七年六月―九年一月『ホトトギス』)


裸根も春雨竹の靑さかな


[やぶちゃん注:この句は、大正七(一九一八)年七月二十二と二十九日に『大阪毎日新聞』に掲載された「京都日記」中の「竹」にも現れる。そこでは、「不思議に京都の竹は、少しも剛健な氣がしない。如何にも町慣れた、やさしい竹だと云ふ氣がする。根が吸ひ上げる水も白粉の匂ひがしてゐさうだと云ふ氣がする。」等と記しており、この句を挙げて、その後で、「大阪へ行つて、龍村さんに何か書けと云はれた時、自分は京都の竹を思ひ出して、こんな句を書いた。それ程たけの多い京都の竹は、京都らしく出来上がつてゐるのである。」とある。]


蜃氣樓見むとや手長人こぞる

[やぶちゃん注:「和漢三才図会」に足長国の足長人、手長国の手長人は、常に足長人が手長人を背負い魚を取るとある。]


暖かやしべに蠟塗る造り花   (大正七年六月)


干し傘を疊む一々夕蛙


水面たゞ桃に流れ木を湖へ押す   (大正七年七月)

[やぶちゃん注:この句、底本の『ホトトギス』では
水の面たゞ桃に流れ木を湖へ押す
とあるのを、改めたと後記にある。]


鐵條ぜんまいに似て蝶の舌暑さかな

[やぶちゃん注:一五九二書簡参照。]


日傘人見る砂文字の異花奇鳥

[やぶちゃん注:中田雅敏編著の蝸牛俳句文庫「芥川龍之介」の鑑賞文によれば、砂文字は大道芸の一つで、色の付いた砂で絵を描いて見せたとあり、浅草辺りの嘱目吟であろうと推定しておられるが、同感である。]


靑簾裏畑の花をかすかにす   (大正七年八月)


秋風や水干し足らぬ木綿糸


黑く熟るゝ實に露霜やだまり鳥   (大正七年十月)


燭臺や小さん鍋燒を仕る

[やぶちゃん注:四代目柳家小さんの鍋焼きうどんを啜る芸を描く。]


癆痎ろうがいの頰美しや冬帽子   (大正七年十二月)

[やぶちゃん注:この句、底本の『ホトトギス』では
癆痎の頰美しさや冬帽子
とあるのを、改めたと後記にある。]


靑蛙おのれもペンキぬりたてか


怪しさや夕まぐれ來る菊人形   (大正八年三月)


もの言はぬ研師の業や露入空   (大正八年八月)

[やぶちゃん注:「露入空」は「ついりぞら」と読む。五六五書簡参照。]


夏山やいくつ重なる夕明り


濡れ蘆や虹を拂つて五六尺   (大正九年一月)


[やぶちゃん注:旧全集後記によると、大正七(一九一七)年六月から同九年一月まで雑誌『ホトトギス』の虚子選による「雜詠」欄他に掲載された芥川の句を纏めたもの。「癆痎の」の句までは署名がいずれも「鎌倉 我鬼」、以下の句はすべて「東京 我鬼」とする。この時期は、芥川の句作が最も盛んになる時期と一致している。]



 虚子庵小集 (『ホトトギス』大正七年九月)


  蓮
曉闇を彈いて蓮の白さかな


紅蓮花下何を窺ふゐもりならん


天竺に女人あまたや蓮の花


山雨來るらし蓮の花皆傾きて


  夏の月
バナヽ剥く夏の月夜に皮すてぬ

[やぶちゃん注:この句、底本の『ホトトギス』では
バナヽ剥く剥く夏の月夜に皮すてぬ
とあるのを、改めたと後記にある。]


[やぶちゃん注:旧全集注記によると、大正七(一九一八)年九月一日発行の『ホトトギス』に虚子他の句と共に、いずれも「我鬼」の署名で掲載。冒頭に「はじめ記」の署名で、『鎌倉に在住の芥川我鬼氏や滞在中の久米三汀氏の間に俳句會をやつて見やうといふ話があり菅忠雄、高濱としをの兩君が斡旋した。場所をどこにしようか、といふことになつて虚子先生が「僕は留守でも家を使つていゝ」といふことであつたので、話が進み、八日の夜に催すことになつた。先生も八時頃には歸鎌、前記諸氏の他に吉澤集流、三瀦末松、愛知謙三、富岡晴江及び私の五名が加はり「夏の月」「蓮」二題を通じて十句を課し、午後十二時近く散會した。/互選結果。我鬼(二十七點)。虚子(十四點)。三汀(十三點)。晴江(十一點)。としを(十點)。以下略。』とあるとする。また、この時の最高点は芥川の冒頭の「曉闇を」の句ので、六点であったと記されている。
 この句会の日時は同定できないが、季題が夏で、菅忠雄の紹介で虚子を知るのが五月頃、『ホトトギス』への三句初掲載が六月五日、発行雑誌の編集から考えて、六、七月のことかと推測される(私は句品から海軍機関学校の夏休みが始まった七月十八日以降七月下旬ではないかと思う)。
 なお、五月には「地獄變」を『大阪毎日新聞』に連載、七月一日には初めての童話「蜘蛛の糸」を雑誌『赤い鳥』に、同月十五日には「開花の殺人」を雑誌『中央公論』に発表している。なお、この雑誌発行の直前の鎌倉での彼の積極的な運座の開催については、四四三書簡を参照されたい。ちなみに雑誌発行の同日には、「奉教人の死」が『三田文学』に、一箇月後の十月一日には「枯野抄」が『新小説』に発表されている。]



 我鬼窟句抄 (『サンエス』大正八年十月)


勳章の重さ老軀の初明り


暖かや蕋に蠟塗る造り花


この匂藪木の花か春の月


時鳥山桑摘めば朝燒くる


赤百合の蕋黑む暑さ極まりぬ


夏山や空はむら立つ嵐雲


秋風や水干し足らぬ木綿糸


山の月冴えて落葉の匂かな


黄昏るゝ榾に木の葉や榾焚けば


凩にひろげて白し小風呂敷


[やぶちゃん注:旧全集後記によると、大正八(一九一九)年十月一日発行の雑誌『サンエス』に「我鬼」の署名で掲載。
 大正八年九月十一日佐佐木茂索宛五七五書簡で「サンエスとは何の雜誌なるか萬年筆廣告の爲なりや否や僕この頃世事に疎ければ高教を賜つた上で句を寄せようと思ふ」とある。ちなみに、この芥川の推測は正しく、サンエスとは、日本の万年筆メーカーの草分け的存在で、万年筆の広告を兼ねた雑誌として『サンエス』を発刊、横光利一や小川未明も小説を発表している。掲載句の句稿は九月十四日付佐佐木茂索宛五七八書簡を参照。ちなみに同日には、「妖婆」の続篇が『中央公論』に発表されている。]



 我鬼句抄 (『中央公論』大正十一年三月)

 句三十句


元日や手を洗ひ居る夕心


お降りや竹ふかぶかと町の空


荒々し霞の中の山の襞


殘雪や小笹にまじる龍の髯

[やぶちゃん注:後に掲げる「我鬼句抄」に「(先考の墓に詣づ、八年)」の詞書がある。「龍の髯」はユリ科の多年草。長さ十センチから三十センチ、幅三ミリ程の細長い葉は、束になって根元から生える。和名は葉の形に由来し、じゃのひげ(蛇の髭)とも。]


白桃の莟うるめる立ちかな


   一游亭來る
草の家の柱半ばに春日かな


春の夜や小暗き風呂に沈みゐる


草萌ゆる土手の枯草日かげかな


晝曇る水動かずよ芹の中


ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏


炎天に上りて消えぬ箕の埃


   洛陽
麥埃かぶる童子の眠りかな


五月雨や玉菜買ひ去る人暗し

[やぶちゃん注:「玉菜」はキャベツ。]


白南風しらばえの夕浪高うなりにけり


夏葱にかそけき土の乾きかな


曇天やまむし生きゐる罎の中


竹林や夜寒の路の右ひだり


秋の日や竹の實垂るる垣の外


秋の日や榎のうらの片なびき


野茨にからまる萩の盛りかな


桐の葉は枝の向き々々枯れにけり


   病中
赤ときや蛼鳴きやむ屋根のうら
[やぶちゃん注:二〇一〇年岩波書店刊加藤郁乎編「芥川竜之介句集」に前書を「病虫」とするは、誤植。]


寢てゐれば夜長の疊匂ふかな


木枯や東京の日のありどころ


癆咳ろうがいの頰うつくしや冬帽子


   伯母の云ふ
薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな


蠟梅や枝まばらなる時雨ぞら

[やぶちゃん注:蠟梅は芥川遺愛のもの。大正十五年四月、「文藝春秋」に連載中の「追憶」から「庭木」を以下に引用する。
      庭  木
 新しい僕の家の庭には冬靑、榧、木槲、かくれみの、蠟梅、八つ手、五葉の松などが植わつてゐた。僕はそれ等の木の中でも一本の蠟梅を愛した。が、五葉の松だけは何か無氣味でならなかつた。
「冬靑」は「もち」でモチノキ。「木槲」は「もっこく」でツバキ科の白花、紅い実をつける。「かくれみの」はウコギ科で緑から黒へと変わる実をつける。]


霜解けに葉を垂らしたる八つ手かな


風落つる枯藪高し冬日影


風澄むや小松片照る山のかげ


[やぶちゃん注:旧全集後記によると、大正十一(一九一二)年三月一日発行の雑誌『中央公論』に「現代藝術家餘技集」の大見出しで、「芥川龍之介」の署名で掲載。文中に「忘らえぬ丹の穗の面輪見まく欲り古江ぞ出でし河郎われは 我鬼」の歌を賛した芥川の河童の画の短冊がカットに使用されている。ちなみに、同日には「トロツコ」が雑誌『大観』に発表されている。]



 その後製造した句 (『ホトトギス』大正十二年六月)


 春三句

   湯河原の宿
三月や茜さしたる萱の山


   あてかいな、あて宇治の生まれどす
茶畑に入日しづもる在所かな


荒あらし霞の中の山の襞


 夏七句

土用浪砂すひあぐるたまゆらや


   加茂川
たかんなの皮の流るゝ薄暑かな


木の枝の瓦にさはる暑さかな


   漢口
一籃の暑さ照りけり巴旦杏


蒲の穗はほほけそめつゝ蓮の花


   再び長崎に遊ぶ
唐寺の玉卷芭蕉肥りけり


   園藝を問へる人に
あさあさと麥藁かけよ草いちご


 秋五句

秋の日や竹の實垂るる垣の外


   碧童と飮す
枝豆をうけとるものや澁團扇

[やぶちゃん注:小澤碧童は河東碧梧桐門下の俳人。]


   病あり
赤ときや蛼鳴きやむ屋根の裏


線香を干したところへ桐一葉


野茨にからまる萩のさかりかな


 冬五句

初霜の金柑のこる葉越しかな


   伯母の云ふ
薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな


霜解けに葉を垂らしたり大八ツ手

   菊池寛に贈る
時雨るゝや莟こぼるゝ寒さかな


 新年一句

 元日や手を洗ひ居る夕心


[やぶちゃん注:旧全集後記によると、大正十二(一九二三)年六月一日発行の雑誌『ホトトギス』に「芥川龍之介」の署名で、冒頭に大正十二年四月十四日付高濱虚子宛一一二三書簡を付して掲載とある。同書簡については、「やぶちゃん版芥川龍之介句集 四 続 書簡俳句」の該当番号箇所の「*俳句関連」の注を参照されたい。]



 澄江堂句抄 (『にひはり』大正十二年十二月―大正十三年五月)


   夜來の春雨、曉來霏霏たり。京都を發し、神戸に向ふ。
   京攝の山川、夢裏に在るが如し。
雨吹くやうすうす燒くる山のなり


   一游亭主人、病を伊香保に養はんとす。別情自ら愴然たり。
霜のふるよるを菅笠のゆくへかな


   鎌倉平野屋に遊ぶ。舊遊何年の前なるかを知らず。
藤の花軒端の苔の老いにけり


   大正十二年八月下浣、古原艸と共に一游亭を訪ふ。
   庭前に朝顏數鉢あり。即ち、戲れにこの句を作る。
   大震の後、再び一游亭に至る。一游亭主人、依然
   たる朝顏を指しつゝ、笑つて僕に語つて曰、
   「この家が燒けりやあの句が生きるんだがね。」
朝顏や土に匐ひたる蔓のたけ

[やぶちゃん注:「下浣」は下旬。「古原艸」は河東碧梧桐門下の俳人。]


   大震の後、偶芝山内を過ぎ、萬株の長松の恙なかりしを見る。
   宛然故人と相逢ふが如し。欣懷自ら禁ずること能はず。
松風をうつゝに聞くよ古袷   (『にひはり』大正十二年十二月)


   田舍びとは夜〔の〕あることを知らず。知れるは唯闇ばかりなるべし。
   夜とはともし火にも照らされたるものを、この田舍の闇のけうとかり
   ければ、
更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁

[やぶちゃん注:以下に示す内容は、今回、偶々披見していた岩波版新全集第十巻の口絵写真として用いられている山梨県立文学館蔵の『澄江堂句抄』のこの部分の自筆原稿を見ていて気がついた事柄である。以下にそれをスキャン画像で示す。



これをよく見て頂くと分かるように、芥川は『田舍びとは夜あることを知らず』の『田舍びとは夜』と『あることを』の間に『の』を書き込みしている。従って、これは校正漏れの可能性を排除できないと思われるため、独自に特に〔 〕を用いて「の」を補った(以上、本件は、芥川龍之介の本文校訂に関わる疑義を示すために画像を取り入れ示したもので、引用の範疇に属す。そもそも著作権の切れた平面的な作物をそのまま平面的に撮影したものには著作権は発生しないという文化庁の見解があり、それは本原稿にも適応されると考える)。]


   黑背廣に鼠色のソフトをかぶりたる俳諧師の心を思へ。
初秋や蝗つかめば柔かき


   鎌倉なる三汀を訪ふ。夜は何の風情もなけれど、
   庭の外なる砂畠の秋の色のおもしろかりければ、
唐黍やほどろと枯れし日のにほひ

   裏なる木の片かはは枯れ、片かはは茂れるを愛しつゝ、
秋の日や榎のうらの片なびき


   座敷には妻の古雛を飾りぬ。書齋には唯高麗の壺に
   手づから剪りたるひと枝をさしつつ、
白桃や莟うるめる枝の反り


   のどかとはかかる心なるべし。人の庭の廣きを喜びつつ、
   ひとり春の日をなまけ暮らしぬ。
庭芝に小みちまはりぬ花つつじ


   龍門山の石佛を見むと、洛陽の古都に至りしも、
   いつしか三年の昔となりぬ。城外の麥の黄ばみたる、
   辮髮したる農男農女の昔ながらに麥を打てる、今も
   なほ目前にあるが如し。
麥ほこりかゝる童子の眠りかな


   久しぶりにあひたる姪の大人さびしさまも可笑しければ、
かへり見る頰の肥りよ杏いろ   (『にひはり』大正十三年一月)

[やぶちゃん注:「かへり見る」の句の姪とは、姉ヒサの娘葛巻さと子(義敏の妹)。]


   園藝を問はれたる折に
あさあさと麥藁かけよ草いちご


   ホフマンの傳奇を好める頃、ひとり鎌倉の濱べに幻めける海を眺めつつ、
白南風しらばえの夕浪高うなりにけり


   藥酒の料にせんとや。
曇天や蝮生きゐる罎の中

[やぶちゃん注:この句は底本の『にひはり』では
曇天や蜆生きゐる罎の中
となっているのを、改めたと後記にある。]


   窺巷賣文太寂寞
木の枝の瓦にさはる暑さかな

[やぶちゃん注:この前書は昭和九(一九三四)年から十年にかけて発行された岩波版普及版全集では
「賣文に餬口するすべなさはけふも二階の八疊に日ねもすペンを動かしつづけぬ。」
となっている。詞書は
ちまたうかがぶんリテはなは寂寞じやくまく
と読むか。]


   祇園下河原の宿のあたりを。
町かどや入り日片照るひと茂り

[やぶちゃん注:この句は普及版全集にはない。]


   安孫子なる折柴を訪ふ。
蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花

[やぶちゃん注:この前書は岩波版普及版全集では「安孫子なる折柴を訪ふかへるさ。」となっている。折柴は瀧井孝作の俳号。]


   相模驛にただ見るままを。
野茨にからまる萩のさかりかな

[やぶちゃん注:この前書は岩波版普及版全集では「景の詩に入る、巧を用ふるに暇あらず。」となっている。]


   妻子は夙に眠り、われひとり机に向ひつゝ。
咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな


   晩に圓覺寺より歸る。景情おのづから晝裏に在るに似たり。
竹林や夜寒のみちの右ひだり

[やぶちゃん注:この前書は岩波版普及版全集では「晩歸」とのみある。]


   調は虚栗の佶屈を喜び、意は言水の幻怪を好める年少時代のさかしらなり。
惣嫁指の白きも葱に似たりけり

[やぶちゃん注:岩波版普及版全集では、この前書の最後が、「年少時のさかしらなり。」ではなく、「數年前のさかしらなり。」となっている。「虚栗みなしぐり」は榎本其角編になる蕉風俳諧確立の記念碑的作品集で、杜詩等による漢詩的佶屈に富む。「言水ごんすい」は池西言水、談林から蕉風へと移行した俳人で、「木枯しの果てはありけり海の音」で有名、俗に『木枯らしの言水』と称せられる。]


   湯河原の温泉にて。
初霜の金柑見つる葉越しかな

[やぶちゃん注:岩波版普及版全集では、この句、
初霜の金柑見ゆる葉越しかな
となっている。]


   飯田蛇笏へ贈る文のはしに
春雨の中や雪おく甲斐の山


   誰か言ふ、風流春醪にありと。
わが宿は餡ころ餠にちる花ぞ(『にひはり』大正十三年五月)

[やぶちゃん注:「春醪」は「しゆんらう(しゅんろう)」と読み、春に醸した濾過していないもろみ酒のことを言う。陶淵明の閑適を詠んだ詩によく登場する。芥川は下戸であった。
なお旧全集後記の最後では、岩波版の「普及版全集には」ここに更に「左の一句がある。」として

  小閑を得たるうつくしさに。
竹の芽も茜さしたる彼岸かな

を掲げている。]
[やぶちゃん注:旧全集後記によると、大正十二(一九二三)年十二月から翌年一月までの雑誌『にひはり』に「芥川龍之介」の署名で掲載。最初の『にひはり』大正十二年十二月のみ、表題「澄江堂句抄」ではなく「偶作」となっている。また、この号には冒頭に大正十二年十一月七日の勝峯晉風宛一一四九書簡が付されており、「扨にひはりに何か書けとの仰せ拝承仕り候。御厚意難有存じ候。ほ句は餘技の又餘技位のところ故、活字にするも臆面なき次第ながら、持ち合せ居候句、少々おん目にかけ候。皆前書き澤山にて恐縮に候へども、これも餘技たる所以、おんめのがし下され度候。」とあるとする。但し、この引用書簡は全文ではなく、また句読点は原文にはない。勝峯晉風は国文学者、俳人。俳諧研究家として著名で、「日本俳書大系」の編者。雑誌『にひはり』は子規との交流のあった俳人伊藤松宇を盟主とした秉燭会の俳誌で、明治四十四(一九一一)年創刊。この「餘技の又餘技」という謂いは謙遜の辞に過ぎないと私は読む。彼は既に前年の一月十九日附の渡邊庫輔宛九八四書簡で「現在の僕は俳句も短歌も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず」と記している。]



 鄰の笛
   ――大正九年より同十四年に至る年代順―― (『改造』大正十四年九月)


竹林や夜寒のみちの右ひだり


木枯や目刺にのこる海のいろ


臘梅や枝まばらなる時雨ぞら


お降りや竹深ぶかと町のそら


  一游亭來る
草の家の柱半ばに春日かな


白桃の莟うるめる枝の反り


炎天にあがりて消えぬ箕のほこり


桐の葉は枝の向き向き枯れにけり


元日や手を洗ひをる夕ごころ


  湯河原
金柑は葉越しにたかし今朝の露


  あてかいな、あて宇治の生まれどす
茶畠に入日しづもる在所かな


白南風しらばえの夕浪高うなりにけり


秋の日や竹の實垂るる垣の外


野茨にからまる萩のさかりかな


荒あらし霞の中の山の襞


  洛陽
麥ほこりかかる童子の眠りかな


秋の日や榎のうらの片なびき


  伯母の言葉を
薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな


庭芝に小みちまはりぬ花つつじ


  漢口
ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏


  病中
赤ときや蛼鳴きやむ屋根のうら


唐黍やほどろと枯るる日のにほひ


しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり


  再び長崎に遊ぶ
唐寺の玉卷芭蕉肥りけり


木の枝の瓦にさはる暑さかな


蒲の穗はなびきそめつつ蓮の花


  一游亭を送る
霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉


  園藝を問へる人に
あさあさと麥藁かけよ草いちご


山茶花の莟こぼるる寒さかな


  菊池寛の自傳體小説「啓吉物語」に
元日や啓吉も世に古簞笥


雨ふるやうすうす燒くる山のなり


  再び鎌倉の平野屋に宿る
藤の花軒ばの苔の老いにけり


  震災の後、増上寺のほとりを過ぐ
松風をうつつに聞くよ夏帽子


春雨の中や雪おく甲斐の山

[やぶちゃん注:『改造』初出はこれ。但し、この句、底本の岩波旧全集では、芥川龍之介の他でのこの句の上五が総て、

春雨の中や雪おく甲斐の山

となっていることから、誤植と判断して改めている(後記からの推定)。確かに「春風」では句としても変である。]


竹の芽も茜さしたる彼岸かな


風落ちて曇り立ちけり星月夜


小春日や木兎をとめたる竹の枝


切利支丹坂は急なる寒さ哉


初午の祠ともりぬ雨の中


乳垂るる妻となりつも草の餠

[やぶちゃん注:大正十三年五月二十八日付室生犀星宛一一九八書簡参照。]


松かげに鷄はらばへる暑さかな


苔づける百日紅や秋どなり


  室生犀星金澤の蟹を贈る
秋風や甲羅をあます膳の蟹


  一平逸民の描ける夏目先生のカリカテユアに
餠花を今戸の猫にささげばや


明星のちろりにひびけほととぎす


  寄内
臀立てて這ふ子おもふや笹ちまき


日ざかりや靑杉こぞる山のかひ


臘梅や雪うち透かす枝のたけ


春雨や檜は霜に焦げながら


鐵線の花さき入るや窓の穴
                         ――計五十句――

[やぶちゃん注:旧全集後記によると、大正十四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』に小穴隆一の発句五十句と共に、「芥川龍之介」の署名で掲載。文末に次の一文がある。

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

これについては「やぶちゃん版芥川龍之介句集 続 書簡俳句」の大正十四年七月付一三四八書簡以下の「*俳句関連」の注を参照されたい。]



 驢馬「近詠」欄 (『驢馬』大正十五年四月―十一月)


  偶作
庭つちに皐月の蠅の親しさよ


  旅情
しののめの煤ふる中や下の關   (大正十五年四月)


  即景
唐棕櫚の下葉にのれる雀かな


  鵠沼
陽炎や棟も落ちたる茅の屋根


  悼亡
更けまさる火かげやこよひ雛の顏   (大正十五年六月)


糸萩の風軟かに若葉かな


さみだれや靑柴つめる軒の下


  破調
兎も片耳垂るる大暑かな   (大正十五年九月)


[やぶちゃん注:底本では、「破調」の文字がややポイントを落として句の頭右寄りにあり、「兎」の字は3文字下げとなっているが、通常の句と同等に扱い、「破調」は前書とした。]


  夜寒
据ゑ風呂に頸すぢさする夜寒かな


  北京
灰捨つる路は槐の莢ばかり   (大正十五年十一月)


[やぶちゃん注:旧全集後記によると、大正十五(一九二六)年四月から十一月までの雑誌『驢馬』の「近詠」欄に掲載された句をまとめたもの。署名はすべて「芥川龍之介」。雑誌『驢馬』について以下、香川大学図書館のサイトの神原文庫資料展資料から引く(数字の表記を漢数字に変更した)。『詩雑誌。当時、東京・田端の室生犀星のもとに集まった中野重治、堀辰雄、窪川鶴太郎、西沢隆二、宮本喜久雄らの出した同人雑誌。誌名は堀辰雄の提案で、表紙文字は芥川龍之介の主治医で俳人の下島空谷が書いた。龍之介をはじめ、萩原朔太郎、佐藤春夫、高村光太郎、千家元麿など大正期芸術の作家たちから寄稿され、支持された。「驢馬」には主義と云ふ者がない。独り独りである。己れだけの有つてゐる特殊の属性を念入りに確りと育てゝ行く」という『日本詩人』(大正十五年三月)に載せられた創刊意図が、この雑誌の性格を言いあてている。総じて同人たちは先行芸術の良質部分を継承しているが、それと同時にレーニンやハイネ、コクトー、アポリネールなどを訳し、二十世紀的芸術革命への強い欲求も示している。』最後の「灰捨つる」の句は、同時期の作品「槐」にも引用されている。]



[やぶちゃん注:以下の「我鬼窟句抄」から「雑」に至る部分は、発句以外の記載を含むが、二冊の「蕩々帖」の後の方に載る「與茂平と試みし連句」と、「雑」中の和辻哲郎との連句「車中聯吟」以外は省略し、当該箇所に省略内容の概要を記した。「與茂平と試みし連句」及び「車中聯吟」は與茂平、和辻哲郎の句を含むが、俳諧の伝統に照らし、本俳句集に入集するに、異を唱える人はあるまい。新全集後記によると、「我鬼句抄」「我鬼句抄補遺」「蕩々帖」「蕩々帖補遺」は、現在、原資料不明。]

 我鬼窟句抄


  大正七年


遲櫻卵を破れば腐り居る


熱を病んで櫻明りにふるへ居る


この匀藪木の花か春の月


春の月常磐木に水際仄なる


草の戸の燈相圖や雉ほろと


冷眼に梨花見て轎を急がせし


蜃氣樓見んとや手長人こぞる


干し傘を疊む一々夕蛙


裸根も春雨竹の靑さかな


鐵條ゼンマイに似て蝶の舌暑さかな


炎天にはたと打つたるかな

[やぶちゃん注:「根つ木」は、根木ぶち、根木打ち等と言い、後のクギさしである。木の枝を切り、片方の端を削って尖らせ、それを地面に打ち刺して、相手が打ち付けて倒す子供の遊び。]


水打てば御城下町の匀かな


日傘人見る砂文字の異花奇禽


靑蛙おのれもペンキぬりたてか


時鳥山桑摘めば朝燒くる


靑簾裏畠の花をかすかにす


晝の月霍亂人が眼ざしやな

[やぶちゃん注:「霍亂」は現在の日射病、熱中症の類。昼の月を、白目を剥き出した病人の目に喩えた。]


松風や紅提燈も秋隣   (鵠沼谷崎潤一郎幽棲)


老骨をばさと包むや革羽織


秋風や水干し足らぬ木綿糸

[やぶちゃん注:「水干し」は木綿糸を作る際に行う作業で、干し方が不足すると強い糸に出来ない。]


黑き熟るる實に露霜やだまり鳥


癆咳の頰美しや冬帽子


惣嫁指の白きも葱に似たりけり


勳章の重さ老軀の初明り


われとわが綺羅冷かに見返りぬ   (偶感)


凩にひろげて白し小風呂敷


凩や東京の日のありどころ


篁に飛花堰きあへず居士が家


君琴彈け我は落花に肘枕


秋暑く竹の脂をしぼりけり


風蘭や冷光多き巖の隈


瓦色黄昏岩蓮華所々


春風の驢に鞭喝を寛うせよ   (原稿を斷る)

[やぶちゃん注:この句の元は中国での嘱目吟。「江南游記」の「十三 蘇州城内(上)」の冒頭に、「驢馬は私を乘せるが早いか、一目散に駈け出した。場所は蘇州の城内である。狹い往來の兩側には、例の通り招牌せうはいが下がつてゐる。それだけでも好い加減せせこましい所へ、驢馬も通る、轎子けうしも通る、人通りも勿論少くはない、――と云ふ次第だつたから、私は手綱引張つたなり、一は思はず眼をつぶつた。これは臆病でも何でもない。あの驢馬に跨つた儘、支那の敷石道を駈けて行くのは、容易ならない冐險である。そのあぶなさを經驗したい讀者は、罰金をとられるのを覺悟の上、東京ならば淺草の仲店、大阪ならば心齋橋通りへ、全速力の自轉車を驅つて見るが好い。」(一部を除きルビを省略)とある。「招牌」は看板、「轎子」は人を乗せて担ぐ駕籠。]


檣に瑠璃燈懸けよ海の秋


灰墨のきしみ村黌の返り花

[やぶちゃん注:「村黌」は村の小学校のこと。]


暖や蕊に蠟塗る造り花


飯食ひにござれ田端は梅の花   (松岡讓に)


  大正八年


梅花飛び盡せば風を見ざりけり(先考悼亡)

[やぶちゃん注:「先考」とは死んだ父の意。芥川の実父新原敏三は大正八年三月十六日にスペイン風邪により死去した。]


怪しさや夕まぐれ來る菊人形


水朧ながら落花を浮べけり


この頃や戲作三昧花曇り   (人に答ふ)


胸中の凩咳となりにけり   (三汀の病を問ふ我亦時に病床にあり)


醉ひ足らぬ南京酒や盡くる春   (細田枯萍を訪ふ)

[やぶちゃん注:細田枯萍とは長崎在、バーナード・ショーの「人と超人」の翻訳本があるので、英文学者であると思われる。]


春に入る竹山ならん微茫たる


殘雪や墓をめぐつて龍の髯


歸らなんいざ草の庵は春の風   (學校をやめる)

[やぶちゃん注:大正八(一九一九)年二月八日に、大阪新聞社入社が内定、この月内に英語教諭をしていた海軍機関学校へ退職願を提出している。四三九書簡注参照。]


引き鶴や我鬼先生の眼ン寒し


もの言はぬ研屋の業や梅雨入空
[やぶちゃん注:「梅雨入空」は後に芥川自身が注するように「ついりぞら」と読む。]



  長崎にて
粉壁や芭蕉玉卷く南京寺

[やぶちゃん注:ここに短歌二首が入る。なお、この直後には底本全集では三行に渡る空白がある。]


欄前に茶を煮る僮や竹の秋


黑塚や人の毛を編む雪帽子

[やぶちゃん注:「欄前に」と「黑塚や」の両句は新全集には不載。後記によると、新全集が底本とした一九九三年山梨県立文学館発行の「芥川龍之介資料集 図版2」に見出すことが出来ないとある。]


鵠は白く鴉は黑き涼しさよ


主人拙を守る十年つくね藷

[やぶちゃん注:「つくねいも」は「やまのいも」とも言い、自然薯よりも粘り気が強い。それが、たかがつくねいもの栽培への頑固な拘りとしての「拙を守る」に響き合う。]


夜半の秋算木や幾度置き換へし

[やぶちゃん注:「算木」は筮竹占いに用いる裏表(陰陽を示す。陰には中央に溝がある)を示す道具。この並び順で占う。]


飯中の八仙行くや風薫る

[やぶちゃん注:この句は杜甫の「飲中八仙歌」等で有名な、八仙人を描いた、目出度い絵柄とされる「八仙図」をパロったもの。]


靑嵐鷺吹き落す水田かな



 似無愁抄


  二十四日 時雨
時雨れんとす椎の葉暗く朝燒けて


柚落ちて明るき土や夕時雨


  二十五日 曇 春意あり
春に入る竹山ならん微茫たる


霞けり

[やぶちゃん注:この「霞けり」以下、底本では欠落又は判読不能を示す、最下部が開いた長方形の空欄記号が入る。最後に『(大正八年二月)』のクレジットがある。]



 我鬼句抄


  春


殘雪や小笹にまじる龍の髯   (先考の墓に詣づ、八年)


この匀藪木の花か春の月   (七年)


暖かや蕊に蠟塗る造り花   (七年)


歸らなんいざ草の庵は春の風   (教師をやめる、八年)


白桃はウルみ緋桃は煙りけり


晝見ゆる星うら/\と霞かな


春の夜や小暗き風呂に沈み居る   (九年)


曇天の水動かずよ芹の中


舌たるう蜜豆くひぬ桃の花


お降りや町ふかぶかと門の竹


雨吹くやうすうす燃ゆる山のなり


春雨の中やいづこの山の雪


おらが家の花もさいたる番茶かな ウマイウマイ


  夏


靑簾裏畠の花を幽にす   (六年)


時鳥山桑摘めば朝燒くる   (六年)


松風や紅提灯も秋隣   (鵠沼谷崎潤一郎幽棲、七年)


晝の月霍亂人が眼ざしやな   (七年)


日盛や松脂匀ふ松林   (八年)


靑蛙おのれもペンキぬりたてか   (七年)


風すぢの雨にも透る靑田かな   (八年)


笹原や笹の匀も日の盛   (八年)


三四人だんびら磨ぐや梅雨入空


向日葵も油ぎりけり午後一時


夏山や山も空なる夕明り   (八年)


水蘆や虹打ち透かす五六尺   (八年)


曇天や蛙生き居る罎の中   (八年)


寒天や夕まぐれ來る水のいろ


  秋


秋風や水干し足らぬ木綿糸   (七年)


怪しさや夕まぐれ來る菊人形   (七年)


松風の中を行きけり墓參人


花芒拂ふは海の鱗雲


竹林や夜寒の路の右左   (八年)


山蔦に朝露すべる葉數かな


  冬


木枯や東京の日のありどころ   (六年)


木枯にひろげて白し小風呂敷   (六年)


癆咳の頰美しや冬帽子   (七年)


凩や目刺に殘る海の色   (六年)


炭取の底にかそけき木の葉かな


蠟梅や枝疎なる時雨空


風落つる枯藪高し冬日影


[やぶちゃん注:以下に短歌六首及び漢詩一首、図録に関するメモ書きが入る。最後に『(大正六年――大正八年)』のクレジット。]



 我鬼句抄補遺


  春


 山椒魚動かで水の春寒き


 冴返る魚頭捨てたり流し元


ヽ草の戸の灯相圖や雉ほろと   (七年)


ヽ水朧ながら落花を浮べけり   (八年)


ヽ遲櫻卵を破れば腐り居る   (七年)


ヽ君琴彈け我は落花に肘枕   (教師をやめる、八年)


ヽ干し傘を疊む一々夕蛙   (七年)


ヽ引き鶴や我鬼先生の眼ン塞し   (七年)

[やぶちゃん注:「ン」は小文字]


 陽炎にもみ上げられし蝶々かな


ヽ冷眼に梨花見て轎を急がせし   (七年)


ヽ熱を病んで櫻明りに震へ居る   (七年)


ヽ篁に飛花堰きあへず居士の家   (教師をやめる、八年)


 牛に積む御料檜や梅の花   (六年)


 夕垢離や濡れ石に藤の花垂るゝ


 病間や花に遲れて蜆汁   (風を引いて寢る)


 花薊おのれは我鬼に似たるよぞ


 山藤や硫黄商ふ山の小屋


ヽ裸根も春雨竹の靑さかな


 葉牡丹はほぐれもあへぬ餘寒かな


 春雨の雨脚見えず海の上


 春の夜や鷄を飼はさぬ處神   (伯州美保關)


ヽ春返る竹山ならん微茫たる   (八年)


 日暦の日曜赤し福壽草   (八年)


ヽ勳章の重さ老軀の初明り   (八年)


 大風の障子閉しぬ桜餅   (七年)


 春風や山谷通ひの白ぐゝり


 篠懸の花咲く下に珈琲店カツフエかな


 瑠璃鳥や水に枝垂れて桃の花


 蓼科の山紫や百合根掘る   (七年)


   楚腰纖細掌中輕
 春の夜や蘇小にとらす耳の垢


  冴返る燕の喉赤かりし


  大寺は今日陽炎に棟上げぬ


 陽炎にもみ消されたる蝶々かな   (八年)


 祝砲やお降りなればどろどろと   (八年)


 初花の疎らに晝の曇りかな


 糸櫻かすかに晝の曇りかな


 夕闇や枝垂櫻のかなたより


 花とぶや加茂の小路の夕日影


 負うた子のあたま垂るゝや初蛙


 負うた子のあたま日永に垂れにけり


 春雨や枯笹ぬるゝ庭の隈


  夏


 宵闇や殺せども來る火取蟲   (八年)


 五月雨や枇杷つばら見ゆ藪に住む   (七年)


 五月雨や雨の中より海鼠壁


 向日葵の花油ぎる暑さかな   (七年)


ヽゼンマイに似て蝶の舌暑さかな   (七年)


 八朔の遊女覗くや靑簾


 足の裏見えて僧都の晝寐かな


 水玉の簪涼しき櫛目かな


ヽもの云はぬ研屋の業や梅雨入空ツイリゾラ   (八年)


 草薙げば釣鐘草や時鳥


 姫百合や行路病者に蠅群るゝ


 炎天や行路病者に蠅群るゝ

[やぶちゃん注:この二句、原文では初五下の行間に一行「行路病者に蠅群るゝ」が入り、その上に大きな「}」が付いている。]


行水の捨湯蛙を殺したり


 よべの風藺田にしるしや朝曇   (備後道中、八年)


 短夜や泰山木の花落つる   (七年)


 人相書に曰蝙蝠の入墨あり   (六年)


 鴆毒の壺も曝すやお虫干

[やぶちゃん注:ちんとは、中国に棲むという毒鳥で、この羽を酒に浸したものが鴆毒、王侯貴族の毒殺用として、文献にはしばしば登場する。犀角のみ解毒できるというが、鳥、毒共に実在は疑われる。]


 人はたと沈んで海の日午なり


 小ぎたなき古洋妾や花蓙に


 石所々葎に光る淸水かな


 み入りて葎に光る淸水かな

[やぶちゃん注:この二句、原文では初五の下の行間に一行「葎に光る淸水かな」が入り、その上に大きな「}」が付いている。]


 炎天や逆上の人もの云はぬ


 病間のダリアを見るや久米正雄


   久米正雄の病初夏に入つて漸く癒ゆ
 枕頭やアンナ・カレニナ芥子の花


ヽ瓦色黄昏岩蓮華所々   (七年)


 夕立や土間にとりこむ大萬燈


 大象も花笠したる祭かな   (七年)


 夕闇にめぐる怪體や煽風機


 門外の潭や幾樹の蝉時雨   (八年)


 石象の腹暖し夏の月


 麥秋や麥にかくるる草莓


 雨の中に風すぢしるき靑田かな   (八年)


 濡れ蘆の亂れゆゝしや虹五尺   (八年)


 虹ふくや亂れ伏したる川の蘆


 濡れ蘆や虹を拂つて五六尺   (八年)


 牡丹剪つて氣上る見たり夕曇   (八年)


 牡丹切れば氣あり一すぢ空に入る


 曇天に壓されて咲ける牡丹かな


 べたべたと牡丹散り居り土のツヤ   (八年)


 夏山や幾重かさなる夕明り   (八年)


 江の空や拳ほどなる夏の山   (八年)


 水ブネに寒天浮いて夕さりぬ


 蓄音機するや煤けし葭戸越し


 向日葵も油ぎりけり午後三時


  秋


 水墨の秋三竿の竹に見よ   (自畫贊)


 雁の聲落ちて芋の葉戰ぎけり


 雁啼くや燈火洩るゝ船に蘆


 雁啼くや提燈下げて粟畠


 川岸藏に月さす夜々や雁の竿


 雁百羽くの字に立つて月出づる


 月缺けてさかさに落す雁一羽


 月蝕や折れて崩れて雁の竿


 晴明の屋形の空や雁亂る


 夕燒や小田にり來る雁の數


 芒刈つて片岡廣し雁渡る


 唐黍の先に夕日や雁渡る


 月の雁貧しき町を渡りけり


 わが庵の上啼き渡れ月の雁


 缺月や身をさかしまに雁一羽


 行燈の丁字落すや雁の聲


 雁啼くや空城の草黄ばむべき


 雪舟が繪卷の端や雁一羽


 啼き渡れわれもさびしき月に雁


 雁啼くや軒に干したる薄荷草


 月の出や雁落ちかゝる佃島


 雁啼くや草黄ばみたる土饅頭   (八年)


ヽ秋暑く竹の脂をしぼりけり   (六年)


 古船の水かい出すや秋暑き   (六年)


 何となく墓をめぐるや墓參人


ヽ檣に瑠璃燈かけよ海の秋


 きりぎりすばさと來りし燈籠かな


 草の戸や來ん殿待つて高燈籠


 町行けば思はぬ空に花火かな


 亢として柚味噌靜かや膳の上


[やぶちゃん注:「こう」、高く聳えるの意。]


 秋雨や庭木植ゑつく土の色


 しどけなく白菊散るや秋の雨


 蘭の花碁鬼となるべき願あり


 月淸ら淸らに匀ふ落葉かな


 月今宵匀ふは何のすがれ花


 稻妻や何ぞ北斗の靜なる


 魅や招く伏木が下に鼠茸


 花芒拂つて高し海の雲


 雨や來る空すさまじき花火かな


 雲飛んで砧せはしき夜となりぬ


 朝寒やさざ波白き川の上


 夜寒さやカンテラとばす路普請


 角燈に流るゝ夜霧郵便屋


   漱石山房
 山房を出づれば露のわが

[やぶちゃん注:以下、底本では欠落又は判読不能を示す、最下部が開いた長方形の空欄記号が入る。]


 園竹のざわと地を掃く野分かな


 野分して屋根に茅なし杜小陵


 野分して屋根に茅なき庵かな

[やぶちゃん注:この二句、原文では一行「野分して屋根に茅な」が入り、その下に、大きな「}」が付いて、「し杜小陵」及び「き庵かな」が二行に分かち書きとなっている。]


 靜かさや野分の中に出づる月


 椋鳥を礫に打つて野分かな


 野分止んで一つ啼き出ぬちちろ蟲


 啼き出でて一つ蛼や野分あと


 野分朝木の葉散りたまる手水鉢


 二日月白無花果は熟れ早き   (八年)


   ドストエフスキイが「罪と罰」中ラスコルニコフ、
   ナタシアを知る段殊に感を惹く
 一痕の月に一羽の雁落ちぬ


 夕紅葉人なき縁の錫の茶器


 稻むらの上や夜寒の星垂るゝ   (八年)


 朝寒の葉を垂らしたる柏かな   (八年)


 新しき疊の匀ふ夜長かな


 松風や人は月下に松露を掘る   (八年)


 秋風にゆらぐや蓮の花一つ   (八年)


 木の葉掻きつくせば三日の月もなし   (八年)


 嚴かげに水滴るや二日月   (八年)


 天心のうす雲菊の氣や凝りし   (八年)


 白菊は暮秋の雨に腐りけり   (八年)


 顋引いて寫す細字や夜半の秋   (八年)


 夕燒や霧引く澤の楢林


 竹山は霧引きながら夕燒けぬ


 夕燒や霧這ひわたる藺田の水   (八年)


 明けがたや蔦の葉すべる露の音


 靑蔦にすべれる露か土じめり


 山蔦の露もとどめぬ靑葉かな


   冬


ヽ老骨をばさと包むや革羽織   (七年)


ヽ黑塚や人の毛を編む雪帽子


ヽ灰墨のきしみ村黌の返り花   (六年)


 拾得は焚き寒山は掃く落葉


 山の月冴えて落葉の匀かな


 榾焚けば榾に木の葉や山暮るる


 黄昏るゝ榾に木の葉や榾焚けば    (八年)


 澤畔の晝や靜に草枯るる    (八年)


 風に鳴る松や孤峯の草枯れて


 夕波や牡蠣に老いたる船の腹


 草枯るゝ夕々や松に風


 凍て杉に聲ある夕の谷間かな    (八年)


 夕空や凍て杉しんと立てりけり


 空低し一本杉や凍てゝ鳴る    (八年)


 時雨るゝや軒に日殘る干大根


 埋火の仄に赤しわが心    (ある人に、八年)


 竹切れば寒き朝日や竹の中    (八年)


 何の肉赤き廚ぞ軒の雪    (八年)


 人絶えし晝や土橋の草枯るゝ


 時雨るゝや灯りそめたるアアク燈


 或夜半の炭火かすかにくづれけり


 枯芝や根府川石の斜なる

[やぶちゃん注:「根府川石」は小田原市根府川・米神間に分布する溶岩流で、板状節理が極めて良く発達している。なめらかに弯曲した面で板状に割れる板状節理が特徴で、それをうまく利用して石塀基礎・石碑・飛石などに利用される。]


 枯芝や庭をよこぎる石の列


 飛び石は斜めに芝は枯れにけり    (八年)


       〔編者附記 本卷所載「我鬼句抄」中、作
       者ニヨツテ抹殺セラレタル發句ノ過半數ヲ
       此處ニ收ム。但、ヽ印ヲ附セルハ「我鬼窟
       句抄」中ニ既ニ收メラレタルモノヲ示ス。〕
[やぶちゃん注:この編集附記は底本の岩波版旧全集のものではなく、この全集が拠ったところの普及版全集の注記である。]



 蕩々帖
          我鬼


[やぶちゃん注:ここに短歌十二首が入る。]

    ○

  即事
野茨にからまる萩の盛りかな

    ○

木犀や夕じめりたる石だたみ

     コノ句折柴のお褒メニ預ル作者自身ハ
     アマリウマイト思ハズ
[やぶちゃん注:「のお褒メニ」の「のお」はママ。]

    ○

秋の日や竹の實垂るゝ垣の外
    ○

時雨るゝや層々暗き十二階

石崖に木蔦まつはる寒さかな
     二句共途上所見

    ○

  文壇の近事を知らず
黑船の噂も知らず薄荷摘み

    ○

[やぶちゃん注:ここに短歌六首が入る。]

    ○

  閑庭時雨(十一月四日)
濡れそむる蔓一すぢや鴉瓜

    ○

  大地茫々愁殺人
秋風や人なき道の草の丈 (十一月六日)

    ○

笹の根の土乾き居る秋日かな

    ○

[やぶちゃん注:ここに短歌四首が入る。この句について、小穴隆一「二つの繪」の「游心帳」に、小澤碧童の鬼趣図を見て芥川が詠んだ狂歌があるとして、

君が家の軒の糸瓜は今日の雨に臍腐れしや或はいまだ

笹の根の土乾き居る秋日かな

「歌と句を並べ、秋日かなの筆のつづきか、芥川は一輪の菊の上にとまつた蜻蛉を畫いてゐる。蜻蛉はしつぽをあげて土の字を指してゐる。」とある。私は、この後者の句は看過出来ない名句と思う。]

    ○

  澁谷の土娼に賃五錢なるものある由
白銅の錢に身を賣る夜寒かな

    ○

   十二月十日雪降る
夕暮やなびき合ひたる雪の竹

[やぶちゃん注:この句の後、二行空いて、短歌一首が入り、以下の句が続く。]


星赤し人無き路の麻の丈

[やぶちゃん注:新全集ではこの句を

風吹くや人無き路の麻の丈

としている。新全集後記によると『「風吹くや」の左横には「星赤し」とも記されているが、本文として「風吹くや」を採用した。』とある。]


炎天に上りて消えぬ箕の埃   (大正十年八月)


荒々し霞の中の山の襞


赤ときや蛼なきやむ屋根のうら


夕立の來べき空なり蓮の花


白南風の夕浪高うなりにけり


夏山や山も空なる夕明り


啼き渡る蝉一聲や薄月夜


初秋や朝顏ひらく午さがり


酒赤し、甘藷畑、草紅葉


五月雨や玉菜買ひ去る人暗し


草の家の柱半ばに春日かな


元日や手を洗ひ居る夕心


[やぶちゃん注:ここに一首短歌が入る。]


桐の葉は枝のむきむき枯れにけり


秋の日や榎の梢の片靡き


春雨や作り木細る路つづき
[やぶちゃん注:新全集ではこの句、
春雨や作り木細る庭つづき
となっている。新全集版は「蕩々帖」の原資料は不明とし、旧全集を採用したとある以上、これは新全集の誤植と判断して「路」を採っておく。]


ゆららかや杉菜の中に日は落つれ


風澄むや小松片照る山のかげ


石垣に火照りいざよふ夕べかな   (北京)


麥埃かぶる童子の眠りかな   (洛陽)


炭取の底にかそけき木の葉かな


  伯母の云ふ
薄綿はのばしかねたる霜夜かな


[やぶちゃん注:ここに漢詩一首が入る。最後に『(大正九年――大正十一年)』のクレジット。]



 蕩々帖
[やぶちゃん注:前のものと同題である。]


雨吹くやうすうす燒くる山のナリ


  五條はたご
タカンナの皮の流るる薄暑かな


  太秦
花降るや牛の額の土ぼこり


  五條はたご
新參の湯をつかひをる火かげかな


  あてかいな あて宇治のうまれどす
茶畑に入日しづもる在所かな


  恒藤恭とエンゲルスの話をする
  僕曰エンゲルスは金があつたのだろ
  恭曰西洋人は中々蕨ばかりは食はんさ
  僕曰僕も蕨ばかり食ふのは御免だ
  即戯れに
山住みの蕨も食はぬ春日かな

[やぶちゃん注:これは勿論、「史記」の「伯夷叔齊」のパロディである。前書は字間を空けての連続する文であるが、ブラウザ上の不都合を考え、以上のように示した。なお、以下に数行に渡るざれ歌一つがあり、一行空けて以下が続く。以下は、表記のように一字下げとなっている。]


   加茂の堤
 夏山やうす日のあたる一ところ


 ひと茂り入日の路に當りけり


   與茂平に代りておはまさんへ
 うき人もをさな寂びたり衣かへ


[やぶちゃん注:以下に佐賀語のメモ、永見家蔵幅という見出しの画幅目録、短歌一首、購入画幅目録、松本家画幅目録、道具屋が持ち込んだ画幅の芥川の評価付リスト。]


   與茂平曰涵九の句に
   「松が枝に朝日おめでたうござります」
   と云ふのがあります即ち口語句を試む。
   お若さんの庭に萱草の花あり
 萱草も咲いたばつてん別れかな

[やぶちゃん注:大正十三(一九二四)年九月刊の「百艸」に所収する「長崎日録」の大正十一年五月二十一日に以下の記載。

五月二十二日
 夏汀の家に雙樹園主人と遇ふ。夜、數人と鶴の家に飲む。林泉の布置、東京の料亭に見ざる所なり。春夫醉ふ事泥の如し。妓の侍するもの、照菊、菊千代、伊達奴等。戲れに與ふ。
       萱艸も咲いたばつてん別れかな

夏汀は永見夏汀。本名、永見徳太郎、劇作家にして長崎南蛮文化の研究家でもあった。なお、一〇四七書簡では、この句の前書として「妓お若に」とある。]


 別るゝや眞桑も甘か月もよか


  與茂平と試みし連句

     ○

   良寛樣も炭火もるなり      龍
 小屏風のうしろに猫は生まれつゝ   庫
   木の芽ふくらむ枝の向き々々   龍
 日南ぼこ面影見えて靜かなる     庫
   棚に裾ひく女人形        龍
 三日目もあはずに歸る夕霞      庫
     ○
 花を持ち荷蘭陀こちを向きにけり   龍
   空はすかひに落つる凧あり    庫
     ○
 麥藁の家に小人の夫婦住み      龍
   煙管持つ手ものばしかねたり   庫
     ○
   茶筌さばきもなれた涵九     庫
 花鳥の一間に風は吹きかよひ     龍
   つき合ひさけて禁書ひもとく   庫
     ○
 白鷺の聲たのめなや初時雨      庫
   藪は透きたる枯木一もと     龍

[やぶちゃん注:與茂平は渡邊庫輔くらすけ、長崎在の芥川の弟子。「花を持ち」は一〇三四書簡参照。「麦藁の」の句いついては、田中雅敏氏は蝸牛文庫版鑑賞で、『昔の虫籠には麦藁で作ったものがあったがその中に小人の夫婦を配した句柄。』と記している。しかし私には今一つ、その解釈の意味するところの諧謔性が分からないし、その解釈の連句としての前後の付け合せもある種の差別的な感覚抵抗があって理解できないのだが……。渡邊庫輔の著作権は存続しているが、連句という連衆・座の文学という性質上、あえて掲載した。]


 黑南風の海搖りすわる夜明けかな

[やぶちゃん注:「黑南風くろばえ」は梅雨の初めに吹く南風。]


 晝中は枝の曲れる茂りかな


   長崎晝
 日傘さし荷蘭陀こちを向きにけり


   人に
 あさあさと麥藁かけよ草苺


[やぶちゃん注:ここに短歌三首が入る。]


 風澄むや小松片照る山のかげ


   伯母の云ふ
 薄綿はのばしかねたる霜夜かな


 木の枝の瓦にさはる暑さかな


 庭芝に小みちまはりぬ花つつじ


 更くる夜を上ぬるみけり泥鰌汁


 晝深う枝さしかはす茂りかな


 葛水やコツプを出づる匙の丈


   北京北海
 來て見れば軒はふ薔薇に靑嵐


   送一游亭
 霜のふる夜を菅笠のゆくへかな


   古瓦新婚
 甘栗をむけばうれしき雪夜かな


[やぶちゃん注:「古瓦」は小島政二郎の俳号。]


   羅生門の初版を持ちし人に
 振り返る路細そぼそと暮秋かな

[やぶちゃん注:第一作品集「羅生門」初版は大正六(一九一七)年五月二十三日、阿蘭陀書房より刊行されている。この句の二句前の「霜のふる」が小穴隆一が大正十一年十一月に伊香保に療養に向かう時の送別句であり、二句後の長崎での句が同十一年五月の句であるから、本句を大正十一(一九二二)年と推測するならば、これは五年の歳月を「振り返」っての感懐である。因みに、この大正十一年三月には新作の「将軍」「猿」「運」「藪の中」「手巾」「虱」「秋」に旧作「羅生門」「鼻」を加えた九篇を収録した作品集が、『代表的名作選集三十七』として新潮社から、八月には「羅生門」を含む小説・童話二十篇と小品その他六篇を収録した作品集『沙羅の花』を改造社から刊行している。]


   菊池寛につかはす
 時雨るゝや堀江の茶屋に客一人


   再遊長崎
 唐寺の玉卷芭蕉肥りけり


 初秋や蝗握れば柔かき


 かげろふや猫にのまるる水たまり


 初霜や藪に鄰れる住み心


 竹の芽も茜さしたる彼岸かな


 冬の日や障子をかする竹の影


 藤の花軒端の苔の老いにけり


   一游亭
 朝顏や土に這ひたる蔓のたけ


   大災後芝山内をすぐ
 松風をうつつに聞くよ古袷


   飲與碧堂
 枝豆をうけとるものや澁團扇


 線香を干した所へ桐一葉


 山茶花の莟こぼるる寒さかな


 山峽の杉冴え返る谺かな


 初霜の金柑殘る葉越しかな


 三月や茜さしたる萱の山


   久しぶりに姪にあひて
 かヘり見る頰の肥りよ杏いろ


[やぶちゃん注:以下に短歌六首が入る。最後に『(大正十一年―大正十二年)』のクレジット。]



 蕩々帖補遺


刈り麥もこぼれかかりつ草莓


  伊勢長
鱧の皮水切りたらぬ餘寒かな

[やぶちゃん注:「伊勢長」は京料理の老舗。]


  加茂の堤
葉柳や河原は暮れぬ石のいろ


うねうねと枝に縫はるる茂りかな


風先に枝さし揃ふ若葉かな

    ○

竹の秋祠も見えぬ鳥居かな


  與茂平丸山へ行きたがる即
なぐれ來て膳に落ちたり火取蟲

[やぶちゃん注:「丸山」は丸山遊郭。]


  大村灣
夏山ははなれ立ちたる入江かな


  長崎畫十句ヲ試ム
花を持ち荷蘭陀こちを向きにけり


象の腹ぐぐりぬけても日永かな
     第二句成ラザル内二與茂平來リ十句吟御流レニナル

    ○

  與茂平に代りておたまさんに
夕立やわれは眞鶴君は鷺
     カウナルト俗ニ墮ツべシ作ラザルニ若カズ

    ○

石の垢ものうき水の日ざしかな


山風の曉落ちよ合歡の花


  旅中
水飮めば與茂平戀し閑古鳥


ひな芥子は花びら乾き莖よわし

    ○

沼のはに木のそそりたる霞かな


鴉瓜赤らみそめぬ時雨れつつ


春雨や竹の根土にあらはるゝ


春雨に落つるは椎の古葉かな


秋の日の道椎柴に入りにけり


びいどろに葛水ともし匙のたけ


竹の根の土うち越せる餘寒かな


麥刈ればつばらに見ゆる莓かな

[やぶちゃん注:「つばら」は、まんべんなく。すっかりくっきりと。]


竹の根の土に跨る暑さかな


庭芝もほどろにのびぬ花つつじ


日あたりや小屋の中から鴛鴦の首


日だまりに黍ほどろなる畠かな


星月夜山なみ低うなりにけり


線香の束とかばやな桐一葉


  子規忌
雨に暮るる軒端の糸瓜ありやなし


  一游亭に
いざさらば甘栗むかん雪夜かな


茶の色も澄めば夜寒の一人かな


ひと茂り入日の野路に起りけり


山山を枕にしきぬみの蒲團


つるぎ葉に花のおさるるあやめかな


盃中花さきに咲いたはあやめかな


冴え返る梨の莟や雨もよひ

      〔編者附記 本卷所載「蕩々帖」中、作者ニヨツテ抹殺セラレタルモノナリ。〕

[やぶちゃん注:この編集附記は底本の岩波版旧全集のものではなく、この全集が拠ったところの普及版全集の注記である。]



 ひとまところ

大正十三年九月十八日如何胃を病んで臥床す「ひとまところ」は病中の閑吟を録するものな也  澄江子


   小庵
 朝寒や鬼灯のこる草の中


 秋さめや水苔つける木木の枝


   旅中
 秋風や秤にかゝる鯉の丈


 手一合零餘子貰ふや秋の風

[やぶちゃん注:「零餘子むかご」。植物の栄養繁殖器官の一つ。以下、ウィキの「むかご」より引用する(改行を「/」で示した)。『葉の腋や花序に形成され、植物体から離れ、地面に落ちるとやがて発根し新たな植物体となる。/葉が肉質となることにより形成される鱗芽(オニユリなどにできる)と、茎が肥大化して形成された肉芽(ヤマノイモなどにできる)に分けられ、両者の働きは似ているが、形態的には大きく異なるものである。前者は小さな球根のような形、後者は小さな芋の形になる。いずれにせよ根茎の形になる。その点で、地上部の形で発生する不定芽とは異なる。/ヤマノイモなどで栽培に利用される。/日本で一般的な食材として単に「むかご」という言葉を使うときはヤマノイモのむかごを指す。灰色で球形から楕円形、表面に少数の突起があり、葉腋につく。塩でゆでる、煎る、米と一緒に炊き込むなどの食べ方がある。また零余子飯(むかごめし)は晩秋・生活の季語である』。これって、美味いんだよね。]


   碓氷峠
 水引を燈籠のふさや秋の風


   枕べに樗良の七夕の畫贊を挂けたり
 風さゆる七夕竹や夜半の霧

[やぶちゃん注:「樗良」は蕪村とも交わりのあった江戸中期の俳人で、天明中興俳諧六家の一人。「挂」は、「かく」と読む。掛ける。]


   枕頭にきりぎりす來る
 錢おとす枯竹筒やきりぎりす


 煎藥の煙をいとへきりぎりす

[やぶちゃん注:以下に漢詩一首、妖怪名メモ、漢詩一首が続く。]



雑《岩波旧全集第九巻「雜」の部に含まれるの句》

  ○

衣更へお半と申し白齒なり


むらさきは君が日傘やくれやすき


天に日傘地に砂文字の異艸奇花


楊州の夢ばかりなるうすものや


花笠の牡丹にみしれ祭人


靑簾裏畑の花をかすかにす


廢刀令出でて程なき黄帷子


よみたらぬじやがたら文や明易き


どくだみの花の暑さや總後架


[やぶちゃん注:「總後架」は江戸の長屋等の外に作られた共同便所。最後に『(以上九句、大正八年頃)』のクレジット。底本「雜」には、ここに『「行燈之食第一集」より』と題し、短歌三首が入る。]


 「布佐行絵卷」より

[やぶちゃん注:底本ではここに短歌一首、旋頭歌四首、短歌一首が入る。]


影多し師走河原の砂の隈


[やぶちゃん注:底本では以下に短歌二首と註が入る。最後に『(大正十年一月)』のクレジット。]


[やぶちゃん注:底本「雜」には、ここに『「了中先生渡唐迭別記念帖」より』と題し、短歌三首が入る。] 


 車中聯吟

ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏     芥川
  海水帽の連れ立ちて行く     和辻
雨音のいつかやみたる夕日影     
  庭下駄おろす露路の水苔     
月かげも竹むら越しに傾きて     
  沼ぞひ遠く梟のなく       和
ゥ死なうかとふと云ひ出せし鬢のかげ 
  堤にかはる芝居寂しき      芥
惜しまるゝ女形のぬけし一座にて   
  夕まぐれ來る屋根のうす雪    
文債に瘦せたる顏のひげののび    
  窓の穴より山水を見る      
竹むしろ晝寢の臺の斜めなり     
  伽藍の軒に子雀のなく      
天平の櫻しだるる朝ぼらけ      
  つかまされたる面の贋物     
三代の醫者はへたなる春風に     
  思ひあまれる妻のふるまひ    
黑えりに藍のみぢんぞなつかしき   
  刀の詮義忘れたる今日      
      〔編者附記 大正十三年五月、
       京都ヨリノ歸途、和辻哲郎氏
       卜同車、連句ヲ試ミシモナリ。〕

[やぶちゃん注:芥川は同年六月二十五日挙式する友人作家岡榮一郎の媒酌人を引き受けており、その岡の親族に京都で会うという実務と、室生との再会、大阪毎日新聞社を病気で退社した薄田淳介(泣菫)の見舞、『近代日本文藝読本』に短篇を所収するための掲載許諾を志賀直哉から受ける事などを目的とした、金沢・大阪・京都行に五月十四日に旅立っている。同月十五日に金沢着、同十八日大阪着、二十二日京都着、本連句は二十六日に京都を発った際の句である。後掲した大正十三(一九二四)年七月の和辻哲郎『潮音』掲載版をも参照のこと。和辻哲郎の著作権は存続しているが、連句という連衆・座の文学という性質上、あえて掲載した。この後、「金澤にて」と題し、短歌四首が入る。]



花葛のからみ會ひたる夜明かな(伊東忠太著『阿修羅帖第二巻』大正九年九月二十日)

[やぶちゃん注:これは、一九七八年刊岩波版旧全集の一九八三年二刷の第十二巻に追加された「拾遺」(六九八ページ)に所収する発句。二刷の現書は所持していないので、同書のコピーを底本に用いた。]


花葛のからみ合ひたる夜明かな

[やぶちゃん注:前掲句の一九九六年刊岩波版新全集の表記。「會ひたる」が「合ひたる」となっているので、別に掲げる。同後記によると、「阿修羅帖」は大正九(一九二〇)年九月二十日国粋出版社から発行された『伊東忠太・杉村広太郎(楚人冠)著「阿修羅帖 弐(第二巻)」に「伊国戦を土国に宣す」の題の下、芥川の自筆をそのまま印刷して掲載、署名は「我鬼」。上欄に「大正四年八月二十二日」の日付が入った伊東忠太の「漫画」が描かれている。『阿修羅帖』は全五巻。第一次世界大戦に関する伊東忠太の漫画を版画印刷し、それに杉村広太郎らが「賛」を付したもので、「一」巻は一九二〇年四月八日発行。「弐」巻は「101」から「200」までの漫画で、芥川のは、その「138」番目のもの。』とある。「伊国戦を土国に宣す」は伊土(いと)戦争、イタリア=トルコ戦争を言う。一九一一年九月から一九一二年十月の間にイタリア王国とオスマン帝国の間でリビア領有を巡って戦われた戦争のこと。]



雑《新全第二十三巻「雑」の部に含まれるの句》

[やぶちゃん注:以下の「松江連句」から「黑南風」までは、岩波版旧全集に未収録のもので、山梨県立文学館所蔵の原稿から起こされた一九九三年十一月刊同館発行「芥川龍之介資料集・図版1・2」の2で紹介されている写真版で初めて公となったものである。全集としては、岩波版新全集が初めて所収したもので、私は同「資料集」を保持していない為、岩波版新全集を一応、底本とした。が、私はこの全集の新字体採用という方針に肯んずることが出来ない。そこで全集冒頭に述べた通り、正字にし得る部分は、とりあえず殆んど正字に変えてある。表題の「(仮)」は、「松江連句」という題名は新全集編者が付けたものであることを示す。なお、ほかに当該巻の『俳句』には「雁啼くや(仮)」と称する発句と付句の形式の資料があるが、これは後ろに掲載した「未定稿集」の正字版があるので、ここでは省略した。「*」は私がそれぞれの各作品群の間を示すために便宜上用いた記号である。]

 
松江連句(仮)

[やぶちゃん注:芥川龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、畏友井川(後に恒藤に改姓)恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷心を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載した(その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されており、それが私の芥川龍之介の電子テクスト「日記より(一)(二)(三)=(「松江印象記」初出形)」である)。注に現われる「翡翠記」とはそれを指す(頁数は一九九二年寺本喜徳編島根国語国文会刊の復刻本による。本注記には当該書の語註も参考にさせてもらった)。なお、この「松江連句」(仮)に関してはネット上で知り合った「松江一中二十期ウェブ同窓会・別館」を運営されている方からの情報協力を得て(私の注との区別を明確にするため「やぶちゃん+協力者新注」とした)注記を充実出来た。なお新全集後記には、これはこの松江行の際に井川と創った連句と思われ、「阿」が芥川、「井」が井川の作で、句頭の評点は井川が記したものと思われる、と書かれている。なお、井川(恒藤)恭の著作権は存続しているが、連句という連衆・座の文学という性質上、あえて掲載した。]


〔愚〕 若草に城の女のいでゝ遊ぶ          井

[やぶちゃん
+協力者新注:「城」は松江城。井川と芥川が一夏を過した借家は、松江城の真西の、濠に臨んだささやかな平屋造の家であった。藪薇獸辭團



      感化院
〔丶〕 日もすがら居睡る豚や桃の花         阿

[やぶちゃん+協力者新注:「感化院」は内中原町一九〇番地にあった少年更生施設「家庭学院」を指す。二人の借家は内中原町一五七番地から三百メートル程北側にあった。ちなみにこの借家は、前年に志賀直哉が三ヶ月程滞在した家であり、志賀の小説「堀端の住まひ」の舞台でもある。]


〔愚〕 船ばたの水にひゞくや御忌の鐘        阿

[やぶちゃん注:「御忌の鐘」は春の季語で、「御忌」は「ぎょき」と読む。法然上人の忌日(忌日は旧暦一月二十五日である)法要期間の鐘を言う。]


     夏
      大根島
〔○〕 札白し牡丹畠の夕あかり           阿

[やぶちゃん+協力者新注:「だいこんじま」と読む中海にある島。現在は無謀な干拓事業(既に中止)による八束水門の護岸道路で陸と繋がる。十二万年から三〇万年前の火山活動により生まれたと推定され、島内にはかつての溶岩流が形成した百メートル前後に及ぶ溶岩トンネル(竜渓洞・幽鬼洞)が現存する。全国一の牡丹栽培と国内では数少ない朝鮮人参栽培で有名(火山灰の土質が両種の栽培に適した)。かつては八束やつか郡であったが、現在、松江市八束町。市観光文化振興課の松江市文化協会刊行の『松江文化情報誌 湖都松江』十六『特集 松江開府四〇〇年 描かれた「松江の美しさ」』(二〇〇八年九月刊)に所収する寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」よれば、『山陰路を訪れた文人たちの多くは、船で大根島を巡り、美保関で宿を取った』とあり、本句に表われる大根島は井川の「翡翠記」に登場しない地であり、『牡丹は初夏の花であるが、』これらの句(本句と
後掲の「石榻に」の句の二句を掲げている)は『実地に臨まないと作れない』句であると、大根島への芥川と井川の周遊の推定をなされている。なお、寺本喜徳氏は島根県立島根女子短期大学名誉教授、井川恭の『翡翠記』を発掘して世に出された研究者である。]


      同
〔丶〕 舟に醉ひし牡丹の客の涙かな         井

      同
〔駄〕 島人の分限を誇る牡丹かな          井

      同
〔駄〕 石榻に牡丹の客や晝曇り           阿

[やぶちゃん
+協力者新注:「石榻いししぢ」は石製の椅子。前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」では「せきとう」(歴史的仮名遣いでは「せきたふ」)とルビがある。これが岸本氏の依った真正の連句原稿にあるルビなのかどうかは確認出来ない。私(やぶちゃん)は「いししぢ」の響きの方が、雰囲気を伝えるとは思うが、全くの感触に過ぎない。]


〔駄〕 合歡の花ちるや魚板の響より         阿

〔駄〕 大橋を渡る踊りのかへりかな         井

[やぶちゃん+協力者新注:「かへり」という表現は、橋北で生まれ育った井川の感覚では恐らく、橋南からの帰りであろうと思われる。現地では大橋川の南というと、向こう側、北がこちら側、という感覚があると聞く。そうだとすれば当然、大橋川の『南側』で「踊り」があったということになる。『大橋川の南』で踊りがありそうなところというと、白潟天満宮であろうと思われる。一九九五年刊行の「松江八百八物語町内物語 白潟の巻」一七二~一七三ページに「天神祭り」の記事があり、それによれば、天神さんの祭りはもともとは二月二十五日(旧暦)だったものが、享保八(一七二三)年六月二十五日(旧暦)から夏祭りがおこなわれるようになった、とある。延亨(一七四四)から寛延(一七五〇)年間頃、松江藩士柳生軒虎千が著したと伝えられ、江戸期の出雲風土記とも言われる希書「出雲鍬」にも「童子共相撲ノ警固ニ入リテ踊リヲ催ス参詣ノ人々門前ニ市ヲナス」という記事があるとする。現在は七月二十五日に行われており、明治三十四(一九〇一)年に発行された「松江のしるべ」に「七月廿五日の大祭は、賽客詣人さいきゃくけいじん遠く隣国より至る。其雑遝ざっとう[やぶちゃん注:=雑踏]は、市内諸祭の最たり」という記述があるので《島田成矩しげのり「明治期松江の素描」(国書刊行会昭和五十四(一九七九)年刊「ふるさとの想い出 写真集 明治大正昭和 松江」一五八~一五九ページ)からの曾孫引き》、大正四年当時も七月二十五日に行われていたと思われる。]


〔丶〕 つぶつぶととぶ小鴉や麥の秋         阿

〔丶〕 繭買ふと夜もあるきけり弓が濱        井

[やぶちゃん+協力者新注:弓ケ浜は「夜見が浜」とも呼ばれ、中海の東側を仕切る緩やかな孤を描いた総延長17kmに及ぶ巨大な砂州(弓ヶ浜半島とも呼称)。その海岸線の延長線上に大山の壮観がある。その形から「出雲風土記」の国引き神話に登場する国引きの綱にも喩えられる。]


〔丶〕 いちはつや水にあけゆく大根島        阿

[やぶちゃん注:「いちはつ」はアヤメ科アヤメ属イチハツ
Iris tectorum。]


〔駄〕 みぢか夜を杵築の禰宜と語りけり       井

[やぶちゃん+協力者新注:『翡翠記』によると二人は出雲大社に詣でており、井川は「杵築と呼ぶ方がゆかしそうに思われる」と言っている(『翡翠記』四十一ページ)。出雲大社は『延書式』神名帳に杵築大社と記され、長くこの名で呼ばれてきたが、明治四(一八七一)年に出雲大社と正式に改称された。]


〔丶〕 なびく葉に曇を拂へ今年竹          阿

〔○〕 粽解いて道光和尚に奉らむ          阿

〔丶〕 つら憎き扇使ひや大若衆           阿

      ラフカデイオ・ヘルン氏
〔○〕 異人住む城見畷や花柘榴           井

[やぶちゃん+協力者新注:ハーンの旧居は松江市城見畷(現在の呼称は塩見縄手)にあった。]


〔駄〕 神々の國引きをして晝寐かな         井

〔駄〕 南薫に釋天鱗の晝寐かな           阿

[やぶちゃん+協力者注:「南薫」は甘くゆったりとした南風に包まれた午睡の雰囲気の表象であろう。芭蕉の「幻住庵の記」に『山は未申にそばだち、人家よきほどに隔たり、南薫峰よりおろし、北風湖を侵して涼し。』という用例がある。「釋天鱗」は松江の永泉寺二十二代住僧で、文政末期から明治にかけて活躍した。歌人としても優れ、賴山陽に激賞された天才的人物である。]


〔丶〕 いさゝかの旅のつかれや棉の花        井

〔駄〕 淸宮の赤き瓦や棉の花            井

〔丶〕 馬頭初めて見るや馬潟まがたの芥子の花       阿

[やぶちゃん+協力者新注:「馬頭」は馬頭観音であろう。但し、音数律から「めづ」と読ませていると思われる。「馬潟」の読みについては、「まかた」と読むのが現地では一般的である。このルビは芥川が附けたものと思われ、濁音よりも清音が本来である日本語から言っても、正しくは「まかた」であると付記しておきたい。]


      玉造
〔丶〕 瑪瑙掘る山のはざまの淸水かな        井

[やぶちゃん+協力者新注:「玉造」は旧八束郡玉湯町、現在の松江市玉湯町の玉造。温泉と勾玉発祥の地として著名。「古事記」に、須佐之男命が八岐大蛇退治の帰路、ここに立ち寄り、櫛明玉命(くしあかるたまのみこと)から勾玉を奉献され、須佐之男命はそれを姉天照大神に献上した。これが三種の神器の一つである「八坂瓊勾玉」になったとされる。前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」によれば、『山陰路を訪れた文人たちの多くは、船で大根島を巡り、美保関で宿を取った
>。また、玉造の湯を楽しんだ』とする。]


〔駄〕 川沿ひの家にまみ病むや合歡の花        井

〔駄〕 山かげの特殊部落や胡麻の花         阿

[やぶちゃん注:岩波版新全集のここには〔 〕による編者注があり、「本句には社会的差別にかかわる表現があるが」全集後記の「注を参照」せよとの文言がある。後記の当該部分には(注記)として「本巻には、差別的表現或いは差別に関わる用語が使用されている箇所があるが、芥川の表現・表記を尊重する立場から、敢えて原資料のまま翻刻した。」とある。言葉狩りや、かかる文学作品への差別不適切注記に対して、私はある種の異論を持つ者であるが(ここはそのような議論の場ではないので、言葉を狩っても差別はなくならないということ、意識そのものの改革なしに言葉狩りをすることの危険性を感じる故とだけ言っておく)、同和教育にも関わってきた私としては、この句をウェブ上で公開することには抵抗があった。この句には、差別意識と共に当然、葬られなければならないと私も考えている言辞が用いられているからである。しかし、ここでウェブ資料として、可能な限り、芥川龍之介の俳句の全貌を明らかにしたいと望む文学研究者としての私としては、岩波版新全集の編者同様、芥川の表現・表記を尊重する立場に立ち、敢えてそのままとすることとした。これが、単独の俳句であったならば、恐らく私は注記を施して、省略したと思う。それほどに、この言辞はおぞましいと私は感じる。が、これは連句であり、この句を省略した場合、連句としての構造を破壊し、全体の句意を不明なものとしてしまうことになると考えるからである。本句はおぞましい差別の事実として批判的に読まれることを、またそのような差別の撤廃の意識を新たにするものとして読まれることを、切に望む。最後に、この注は私の純粋に自律的な欲求によるものであることをここに表明しておく。]


    武者窓に簾下ろして百日紅          阿

    秋

     玉造
〔愚〕 秋の水瑪瑙の杯を洗ひけり          井
      同
〔愚〕 秋水に曲玉らむ靑瑪瑙           阿

〔愚〕 川渡る旗差物や秋の霧            井

〔丶〕 茫々として藪も畠も野分かな         阿

〔丶〕 棹の先に褌干して今朝の秋          阿

〔駄〕 ゆく秋や五右エ門風呂に人二人        井

[やぶちゃん
+協力者新注:「五右エ衛門」の「エ」は正しくは「ヱ」。前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」では、『波根海岸で泳いだ後芥川が初めて五右エ門風呂に入ったときの、戸惑ったユーモラスな樣を彷彿させる。』と記す。これは井川の「翡翠記」の「二十」に現われる。泊まりで訪れた石見の波根海岸での、海水浴の後の場面である。該当箇所を「翡翠記」より引用する(四十八ページ)。

 海から上って二人は風呂場をさして行った。
「ヤッ五右衛門風呂ごえもんぶろだね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」と龍之介が大に無気味がる。
「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏おどりをするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。
 僕の湯からあがると代って龍之介君が入ってつかっていたが、
「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。]


      出雲の國に からさで と云ふばけ物あり
      夜ふけて 厠の下より 手を出

      人のいしきをなづるとなん

〔駄〕 からさでの夜の厠の落葉かな         井

[やぶちゃん+協力者新注:「からさで」とは「神等去出」で、出雲で旧暦「神在月」と呼ぶことは良く知られている。旧暦十月十日の夜、稲佐の浜に斎燈を焚いて龍蛇神を祀り、「神迎え神事」が行われる。こうして八百万神が出雲に集まるわけだが、当然、それは神事が終われば帰るのである。十月十七日の夕刻に「神達去出祭からさでさい」(御忌祭)を行って神を御送る。出雲地方の人々は、この期間を「お忌みさん」と呼び、神々の会議の邪魔にならぬよう、物音も立てずひっそりと過ごす事を心得としていた、という。言わば、その神々の最後の晩餐を、本来は「からさで」と言うのである。読売新聞「島根の記憶(十三)多賀神社と河畔 幸せ願う素朴な世界」の記事の中の(ネット上にあるが、新聞記事の場合、容易に消滅するのでリンクは張らない)松江市内のお年寄りの記憶によれば、「夜、用を足していると神さまに尻をなでられるから、『夜は便所に行ったらだめ』というのが子供たちの常識だった。失礼に当たるということだったんでしょうねえ」とあるのは、不思議にこの井川の句にしっくりくる。「ばけ物」というのは、そうした物忌みの意識を子らに諭すためのものであったのかも知れない。が、ここではまた別に、古来の神々の、物の怪への零落のメカニズムを見るようでもあり、興味深い。奇しくも、水木しげる氏の出身地が弓ケ浜の先端、境港であるのも、私には偶然には思えないのだ。「いしき」とは「居敷」で、尻のこと。]


      美保の關
〔愚〕 三味線の調子狂ふや今朝の秋         阿

      同
〔丶〕 わたり鳥の中のおくれ鳥や美保の關      井
      井川の小説に日本海を描けるものあり


[やぶちゃん
+協力者新注:寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」よれば、『山陰路を訪れた文人たちの多くは、船で大根島を巡り、美保関で宿を取った』とある。なお、この「井川の小説」とは、井川恭が『都新聞』の懸賞小説に「鈴かけ次郎」というペンネームで応募、一等入選し、明治四十一(一九〇八)年八月十五日から九月二十三日に連載された長編小説「海の花」を指すものと思われる。]

[やぶちゃん注:次に一行空きがあり、表示はないが、春の句となる。]


      定福寺
〔丶〕 禪寺の交椅吹かるゝ春の風          阿

[やぶちゃん+協力者新注:この「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく。]


      床几山
〔○〕 小石原つばなに立つる床几かな        阿

[やぶちゃん注:「床几山しょうぎさん」は、松江旧市街地の南端にあり、標高四十一m、頂上からは松江市街や宍道湖が一望。床几山の山名は、掘尾吉晴と忠氏父子が松江城築城にあたり、この山頂に床几を据えて地勢を検分したという伝承に由来する。「つばな」はチガヤ(茅・茅萱)
Imperata cylindrica もしくはその若芽を言う。]

[やぶちゃん+協力者新注:以下は詞書・句共に「眞山」の誤り! 後注参照!]

      直山
〔○〕 蕨など燒く直山の烽火かな          井

[やぶちゃん+協力者新注:当初私は無批判に、この「直山」は、石見銀山の産地であった御直山おじきやまと呼ばれた代官所直営の操業地のことを言うか、等と言う好い加減な注を附していた(ここに石見銀山では如何にも場違いであった)。その後、この「直山」について、極めて大切な情報を入手した。「松江一中20期ウェブ同窓会・別館」を運営されている知人からの指摘である。以下にそのメールの一部を引用する。

これは「眞山」のことではないでしょうか? 少し後に、「再 眞山」、さらに「三度 眞山」とありますが、それ以前には「眞山」がなく、この「直山」しかないようです。眞山は松江の市街地の北側にあって、市民に親しまれている山です(私は登ったことがないのですが……)。井川と芥川も登っています(『翡翠記』五十七ページ)。また、「定福寺」と「三度 眞山」に出てくる定福寺やそこの梵妻の話も『翡翠記』の同じ場所に出てきます。

気がつかなかった! 一応、私のタイプミスかもしれないと思い確認してみたが、岩波版新全集は確かに「直山」としており、他はすべて「真山」である(私のポリシーで旧字に変換してあるが)。これは間違いなく芥川か井川の「真山」の誤記もしくは新全集編集上の誤植である。井川が出身地の地名を誤記することは考えにくいから、誤記(または誤転写)したのは芥川龍之介である可能性が高い(実際、本連句でも芥川は「常福寺」とすべきところを「定福寺」と記している)。更に言えば、本作が山梨県立文学館所蔵の原稿から起こされたものである以上、旧字の「眞」と「直」の類似性からも新全集編者の判読ミスも充分ありうると思われる。言わば、最新の岩波版新全集の校訂を、この知人と私はやったことになる。快哉! 真山は「しんやま」と読み、「新山」とも書く。平安時代末期、平忠度の築城と伝えられ、永禄六(一五六三)年、毛利軍が、尼子氏の拠点白鹿城攻略ために、吉川元春をここに布陣した。現在は本丸・一の床・二の床・三の床・石垣の一部を残すのみである。]


〔愚〕 登臨の人かすみけり天主閣          井

〔○〕 狹間さまの板ひらけば下に花菜かな        阿

[やぶちゃん注:「狹間」は、天守閣・櫓・塀等の壁面に武器を出して攻撃するために設けられた穴。「はざま」とも。]



      美保關
〔丶〕 寐まどひて鳴く鷄や春の夜          阿

      同上
〔丶〕 美保の神の足漕ぐ舟もかすみけり       井

[やぶちゃん+協力者新注:この美保関での連句二句は、現地は広く知られた、恵比須と揖屋いやの灘近くの美しい女神揖夜いや明神の逢引に関わる以下の伝説を踏まえたものである。「恵比須様と鶏」(東出雲町HP内)。]
[やぶちゃん注:ちなみに美保関について、小泉八雲は次のように印象的に綴っている。

「昼のうちは美保関は、じつに静かで、眠っているようだ。ごくたまに子供たちの笑う声が聞こえるか、船頭の艪をこぐ歌が聞こえるかするぐらいなものだ。ここの漁船は、私が熱帯地方で見たものを別とすれば、今まで見たうちでいちばん形が変わっている。屋台船のようなどっしりした船で、これをあやつるには十人の櫂夫かこの手がいる。櫂夫たちは、撞木しゅもく形の握りのついたかい(Tの字の縦の棒をぐーっとのばして、それを櫂身にしたものと思えばいい)を持って、すっ裸で作業にかかる。櫂を押すときには、みんな舟べりに片足を踏ん張って、押す力に勢いをつける。そして押す手をひかえるそのたびに、妙な繰返し文句に節をつけて歌うのである。その惻々とした哀調は、わたくしをして、西インドの海で聞いた、スペイン系のクリオル人の古風な調べを思い起させる。
 アラ ホーノ サノサ
 イヤ ホー  エンヤ!
        ギー!
        ギー!(下略)」

(一九七五年恒文社刊 小泉八雲著平井呈一訳「日本瞥見記 上」より)。]


      天倫寺
〔丶〕 梵鐘の銘さぐりよむ春の夕          阿

[やぶちゃん注:松江にある臨済宗妙心寺派の寺院。インターネット上の情報によれば、鐘楼にある梵鐘は朝鮮鐘で、細密精巧な彫刻が施されており、「高麗国東京内廻真寺」の鐘銘が刻まれた重要文化財。この鐘は本来、簸川郡多伎町田儀の本願寺にあったが、堀尾吉晴が陣鐘にするため徴収し、城内に置いたが、松平氏の世になってから、城内に梵鐘は不吉だと天倫寺に寄進された、とある。]


〔丶〕 肥の川に箸流るゝや春の水          阿

[やぶちゃん注:高天原から下った須佐之男命は肥川(斐伊川)に箸が流れてくるのを見、上流に人が住んでいることを知るという八岐大蛇伝説を踏まえる。]


〔駄〕 春水に流すや天の賀々美舟          阿

[やぶちゃん注:小人神である少彦名神スクナビコナノカミは、大国主命が出雲の御大ミホの岬にいる時、天の羅摩船カガミブネ(ガガイモの殻でできた小さな船)に乗って、ヒムシ(蛾のこと)の皮を着て現れたとある。]


      再 眞山
〔駄〕 蕨つみて一の床まで登りけり         井

[やぶちゃん+協力者新注:真山の城跡の「一の床」には麓の常福寺の住職の作った茅屋根の小亭があり、雨に降られた彼らがそこに憩ったことが「翡翠記」に出てくる(六十ページ)。]


〔丶〕 不昧公のおん指あとや春の土         井

[やぶちゃん注:斐伊川の畔、御代みじろの郷は、陶土が有名である。松江藩二代藩主綱隆は、ここ土の真価を見出して、藩の御用土に定めた。殊に第七代松平不昧公治郷の時代に全盛期を迎え、出雲一円の御用窯に送り出した。]


〔駄〕 水淸淺 梅も瘦せたり應擧寺         阿

[やぶちゃん+協力者新注:「應擧寺」は美方郡香美町にある大乗寺。行基開山。安永年間に伽藍再建、その際、客殿に円山応挙とその門弟十二名によって障壁画百六十五面が描れた。そのため応挙寺とも呼ばれる。「水淸淺」の後の一字空きはママ。なお、ここに地理的に離れた応挙寺の句が現われるのは奇異であるが、これについて協力者の方が、以下のような興味深い推測をされている。

芥川が松江に来る際、香住に立ち寄ったということはないのでしょうか? 『翡翠記』によると、当初芥川が城崎を朝発つ予定だったのを井川が昼過ぎの汽車に変えるよう電報を打ったとありますので、余った時間を使って応挙寺によった可能性もなくはないかと思うのですが(以下略)

芥川龍之介の年譜等にも流石にこの時期の詳細な記載はない。現在のところ、芥川龍之介が応挙寺を訪れたことをしめす後の文章等も見当たらないが、この推測は私には確度の高いもののように思われる。



〔駄〕 萬壽寺は一筋道ぞ春の草           阿

[やぶちゃん注:「萬寿寺」は松江市にある臨済宗の寺院。]


〔丶〕 蓴菜の水にしがなき戀なれば         井

[やぶちゃん+協力者注:蓴菜はジュンサイ
Brasenia schreberi で、松江名産である(蓴菜と鱸に関わって松江の命名由来説が、例えば幕末の津藩の学者であった斎藤拙堂の『鐵研餘滴甲集』巻三「松江鱸魚」に現われるが、これは後世の俗説と思われる)。本句は万葉集巻第七の一三五二歌
 わがこころゆたにたゆたに浮蓴うきぬなはにも沖にも寄りかつましじ
 訳:私のあなたを思う心は、揺れに揺れて、浮いて揺れに揺れているぬなわのように、岸辺にさえも沖にさえも寄ることは叶いますまい。
という恋心を詠んだ歌を下敷きとしていよう。井川はさりげなく芥川の傷心を汲んだのかもしれない。]


〔丶〕 手折る可き柳もなくて町はづれ        阿

〔丶〕 魚を買ふ町の女や春の雨           井

〔丶〕 みづうみに白魚上る暮となり         井

[やぶちゃん+協力者新注:「白魚」はキュウリウオ目シラウオ科シラウオ
Salangichthys microdon。宍道湖産は陸封型の貴重種。宍道湖七珍(シジミ・モロゲエビ=ヨシエビ・スズキ・コイ・シラウオ・アマサギ=ワカサギ・ウナギ)の一。白魚は春、産卵のために大橋川から宍道湖に遡上してくる(大橋川は宍道湖から中海に流れている)ことから、本句の「上る」はそれを指していると思われる。]


      三度 眞山
〔丶〕 さむざむさくや關路の山櫻          阿

〔駄〕 春の人鷹匠町へ折れにけり          井

[やぶちゃん+協力者新注:山陰中央新報社から平成十六(二〇〇四)年に刊行された『袖珍 翡翠記』には、『翡翠記』にはない「山に登る」「我が松江」「思ひ出の郷里」といった作品が追加されている(現在、品切)。その「我が松江」に収められた「松江美論その十二 松江小興」に次のような一節があり(一五四ページ)、鷹匠町に対する井川の印象が伺える。

 僕は内中原でうまれて、今も夏は内中原の家でくらす、そのせいか内中原、外中原のあたりがわけてなつかしい。
 お花畑とはやさしい名前、藪の町はおどけて居り、鷹匠町はゆかしい。
 このあたりのお堀の水の面には靑い藻の葉が一杯に塞がり浮いて居る、鮒やたなごの群れが菱の葉の裏をつゝく音がきこえるまでも四邊あたりはしづかで、岸に古びた侍屋敷の門長屋のれんじ窓から青白い顏をした女がぼんやり覗く。

鷹匠町たかじょうまちは、名前の通り、鷹匠が住んでいた地区である。外中原の西北の一画にある。]
[やぶちゃん注:以下、行空きも表示もなしに、秋の句となる。]


〔駄〕 秋風に卷くや入日の八反帆          阿

[やぶちゃん注:「八反帆」とは、四百から五百石積みの廻船を言う。]


〔○〕 篁の隱岐へ渡るや秋の風           井

[やぶちゃん注:「篁」は小野篁。承和元(八三四)年に遣唐副使に任ぜられたが、正使藤原常嗣と合わず、病気と称して渡唐を拒否、嵯峨上皇の怒りを買って二年間、隠岐に流された。]


〔◎〕 ぎやまんの燈籠ともせ海の秋         阿

[やぶちゃん+協力者新注:宍道湖畔に今も残る石灯籠がある(由来その他については協力者の友人のHP「石屋Jr.」の「白潟公園のとうろうのはなし」に詳しい)。その灯籠が『明治二十年頃からガラス張りにされ松江の名物となっていた』(前出『松江八百八町町内物語 白潟の巻』一八七ページ)とあり、大きな湖沼を「海」と表現するのは古歌に普通に見られ、これは青柳樓の灯籠(お加代灯籠)と同定してよいと思われる。]


〔駄〕 梵妻だいこくの鼻の赤さよ秋の風
         
(この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

[やぶちゃん+協力者新注:括弧内注記は底本でもポイントが小さく割注になっている。ここでも「常福寺」を「定福寺」と誤記している。「梵妻」は僧侶の妻。大黒天がくりやに祀られたことから大黒だいこくとも言う。「翡翠記」五十七ページに彼女が登場する。]


〔駄〕 手づくりの煎茶々碗や葉鷄頭         阿

〔丶〕 芋作る平侍と罵りけり            井

〔丶〕 新町の行燈白し散る柳            阿

〔駄〕 武者鞋ふむや山路の栗のいが         阿

[やぶちゃん+協力者新注:床几山の北麓に八雲が書いている洞光寺があり、その辺りを新町と呼称する(「山陰ケーブルテレビジョン」『ぶらっと松江ウォッチング 「新町」』参照)。芥川と井川が玉造への往復で通った可能性はあるが、この句の「新町」なるものが、その洞光寺付近の新町かどうかは不明。]


〔○〕 唐黍や日はあか/\と道普請         阿

〔丶〕 白潟や輿にながむる蘆の花          井

[やぶちゃん+協力者新注:白潟(これは「しらかた」と読む)というのは、大橋川と天神川に挟まれた一帯(白潟本町、天神町、和多見町等)を指す古名で、現在もその辺りのことを漠然と白潟と言ったりする。]


〔丶〕 板輿の隱岐に渡りて今朝の秋         阿

[やぶちゃん注:承久の乱で隠岐配流となって失意の内に死んだ後鳥羽上皇を想定していよう。上皇の配流は旧暦の七月九日である。]


   冬
〔○〕 日あか/\湖くらき寒さかな         井

〔丶〕 二の丸は櫨も銀杏も落葉かな         阿

[やぶちゃん+協力者新注:「櫨」はハゼ。
実物原稿から起こしたとする前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」では、下五が「落ち葉かな」となっている。]


〔丶〕 灘門なだもんに人のけはひす夜を寒み         井

[やぶちゃん+協力者新注:「灘門」は芥川の「松江印象記」に現われてくる。類聚版注記は「水門」か、としている。ここで言う水門とは、宍道湖には中海経由で潮水が入ってくるため、それが堀に逆流して田畑に塩害をもたらさないために作られたものを指すと思われるが(江戸末期の古地図を見ると二箇所に視認出来る)、これを本連句の「灘門」と解するには無理がある。本句及び後に出てくるやはり井川の句「雪あかり灘門とざす女かな」もどちらも夜の景で、おまけに後者では灘門を閉じているのは女性である。想像されるそれなりに大きな「水門」を、雪中の、夜に、女性が閉じに来るという景色は、一般的感覚では奇異不審である。
 時間がかかったが、現地の方々の協力を得て遂にこの問題を解決した。
 松江では、堀や川に面した住居にあっては、それらの水域を「灘」と呼称し、その水場への出入り口を「灘門」と言った。以下にその写真を掲げる(なお本写真は著作権の確認が出来ないが、本件では重要な資料であるので紹介する。万一、著作権抵触の指摘を受けた場合は公開を停止する)。



 また、本件への回答を下さった方(まさにこの注に相応しい、女性の方)の灘門の回想が素敵なので一部、公開する(表記の一部に手を加えた)。

(前略)灘門はね、下のほうに、十センチぐらいだったかしら? 少し隙間があるんです。水が増えてくると、そこへ降りる段段へ、それこそ「だんだん」水があがってきて、小さな魚や亀なんかが、うちのなかへ入ってくる状態になるんです。それが嬉しくて、楽しみで、大水になると日に何度もそこへいって見たものです。「○段目まであがったよー!」って親に報告するわけです。六、七段もあったでしょうか?

ちなみにこの回答された方の、回想されたお宅は、まさに上の写真の中にある、のである。]


〔丶〕 叉手網の氷まばゆき朝日かな         阿

[やぶちゃん注:「叉手網」は「さであみ」で、二本の竹を交差させて袋状に網を張った漁具。]


〔駄〕 水門を下れば町は雪あかり          井

      石埭翁に與ふ
〔丶〕 水仙に兎園册子の古びかな          阿

[やぶちゃん注:「石埭翁」は永坂石埭ながさかせきたい。弘化二(一八四五)年生、大正十三(一九二四)年没。医師であると同時に書家にして漢詩人。名古屋の人。上京後、神田松坂町お玉ヶ池に居を定め、そこを「玉池仙館」と称し、多くの文人墨客と交流を持った。また診察所も経営、一時期、帝国大学医学部の教授ともなったとする。漢詩界の泰斗で、森春濤門四天王の一人で書画・篆刻にも秀でた。彼の名は芥川龍之介の「松江印象記」の『「日記より」 一』にも登場する。「兎園冊子」は馬琴の「兎園小説」を指すか。ちなみに、芥川龍之介が「松江印象記」の当該部分でその転結句を引用する石埭の七言絶句「碧雲湖棹歌」(起承句の書き下し文は私の推測)

 美人不見碧雲飛   美人見えずして 碧雲飛び
 惆悵湖山入夕暉   惆悵ちうちやうたる湖山 夕暉せききに入る
 一幅淞波誰剪取   一幅の淞波しやうは 誰か剪取せんしゆせん
 春潮痕似嫁時衣   春潮の痕は似たり嫁時かじの衣

は、「翡翠記」語註によると、実に芥川来訪直前の大正四(一九一五)年六月、宍道湖に浮かぶ嫁ヶ島に詩碑が建立されている(この詩自体が松江の漢詩結社剪淞吟社の求めに応じて作詩されたもの)。]


〔○〕 別れむとしてうすら氷の隈碧みけり      井

〔駄〕 唐革の鎧縅すや冬ごもり           阿

〔駄〕 滋籐の弓の弦嚙む鼠かな           阿

[やぶちゃん注:「滋籐しげどうの弓」とは弓の幹を黒塗りにし、その上を白の引籐ひきとう(ヤシ科の蔓性植物ラタンから作った紐状のもの)で強くぎっしりと巻いた弓。一般には大将の弓。那須与一を始め、戦記物の武者に馴染みの名弓である。]


〔愚〕 向ふ町の隱居と語る寒さかな         井

〔駄〕 大雪や五右エ門風呂の窓あかり        阿

[やぶちゃん+協力者新注:前に引用した通り、「翡翠記」四十八ページに芥川と井川の五右衛門風呂のエピソードが現われる。「五右エ衛門」の「エ」は正しくは「ヱ」。]


      歐州戰爭
〔丶〕 冬ごもり馬鈴薯じやがたらいもに腹肥えぬ         井

[やぶちゃん注:第一次世界大戦はこの丁度一年前に勃発している。]


      同
〔丶〕 雪を嚙んで火酒ウオツカに代ふる師走かな       阿

[やぶちゃん注:この頃、東部戦線重視に戦略変更をしたドイツ軍の攻勢によってロシア軍は敗退、ポーランド等多くの領土を占領された。それを揶揄するか。]


〔丶〕 寒菊に水まゐらせん芭蕉堂          阿

[やぶちゃん+協力者新注:前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」によれば、「芭蕉堂」は松江『北田町の普門院境内に旧派宗匠山内曲川が建立したもの』とある。山内曲川。文化十四(一八一七)年生、明治三十六(一九〇三)年没。徘人にして茶人。島根郡松江に紙屋の長男として生まれる。妻・仕事(骨董商)も捨て、尊崇する芭蕉を慕って奥州を放浪した。以下、事蹟を追いながら、数句を掲げる。
   越して来た箱根はみえず富士の山   (日本橋)
   魚ひとつとらぬ湖水や秋のくれ   (中禅寺湖)
安政五(一八五八)年、四十一歳で松江に戻り、人々に俳諧と茶の湯を教えた。
   みたまはせ楽山の花おうの湖
   故郷や妻はなけれど更衣
明治二十六(一八九三)年、喜寿の年、普門院に芭蕉堂を建て、松江の名匠荒川亀斎の作になる松尾芭蕉の像を安置した。寺町の全龍寺境内には、
   何ひとつ見えねど露の明りかな
という句を刻んだ自然石と松一本を植え、そこを安住の地として明治三十六(一九〇三)年五月十八日、八十六歳の風雅の生涯を終えた。没後三年の命日の前日に当たる明治三十九(一九〇六)年五月十八日には松江の南の郊外、床机山山頂に、
   松島も見しが故郷の湖涼し
句碑が建てられた(以上の曲川の事蹟や俳句は、すべてネット上のサイト「松江現代文学館」平成十九(二〇〇七)年九月二十日付「島根日日新聞」掲載になる鹿田梨香氏の「俳人 山内曲川」を参照させて頂いた)。芥川龍之介は既に「床机山」の前書を持つ句をものしており、曲川のこの句碑を実見していた可能性が高いとも思われる。]



〔丶〕 夕ぐれの片側町を吹雪きけり         井

[やぶちゃん+協力者新注:本句の「片山町」について、協力者の方から極めて精密巧緻な分析を戴いた。以下の本注全文はその主要部分を纏めたものであり、その労はすべて協力者の賜物である。
 固有名詞としての「片側町」という町名はないものと思われる。従ってこれは古い通称と考えられる。地元の井川の句でもあり、具体的な場所をイメージしていたと考えるのが自然であろう。そのような観点から推すと候補は二つ。
 まず、井川自身が「片側町」と呼んでいる「城見畷あたり」である。「松江美論その十一 水郷十題 (三)」(井川恭『袖珍 翡翠記』一五〇ページ)に、次のような一節がある。

 中學校へかよふ頃あの城見畷あたりのけしきがどんなに心をなぐさめたか知れない。
 あの向ひ岸の城山の裏の森はほんとうにい森だ。夏はあの樹蔭に舟をよせると涼しいし、秋は樹々がくれなゐや黄や褐色かちいろやの彩をつくして深碧の水のうへにびろうど模様の影を落とす。
 春は落ち椿が汀を赤く埋め、冬は枯木こぼく蕭條せうぜう寒鴉かんあのむれを棲ませる。
 そこの片側町のつゞきにはハアン先生の舊宅もある。

城見畷は井川たちが滞在した家から少し北に進み、新橋をわたってまもなく右折したところ(直進すると西原、その先を左に行くと、芥川たちも行った摩利支天神社がある)にある。引用文中の「中学校」とは旧制松江中学校で、通称赤山と呼ばれた。旧制中学校は、城見畷側から入る道が表玄関になり、井川は城見畷から赤山の学校に通っていたはずである(井川が生まれ育ったのは、内中原と殿町の間にかかる「うべや橋」の西側の辺りで、さても中学校に城山の西を回ったか、東をまわっていったかははっきりしないけれども、うべや橋のたもとで生まれ育った私も中学へは城山の東側を回って通っており、その方がわずかに近かった、と協力者の方もここで証言されている)。
 なお、城見畷に至る前の、井川たちのいた家の付近については、志賀直哉と一緒に松江に滞在した里見弴が『今年竹』の中で、次のような描写をしている(向日書館昭和二十四(一九七九)年刊『今年竹』後編「濠沿の家」二五九~二六〇ページ)が、その中にも「片側道」という言葉が出てくる(その後の二六三ページにも「片側道」という言葉が現われる)。

 雲州松江の千鳥城は、死水の蒼さに淀み静まった深い濠に囲まれて、市の西北、亀田山の頂に、形ばかりの天守を遺して、今は却って世の泰平を語り顔に、従ってまた寂しげに、五層の甍黒々と、且つ壁白く佇んでいる。その城山の西境、要害堅固の断崕には、石垣もたゝまず、斧鉞の跡なき古木老樹が、長蛇の如く幹を横たへ、鬱蒼として葉を重ね、蛸足の逞しき根を浸しつゝ、ふかぶかと水の上まで覆ひかゝつて、昼なほ暗き影を沈める。
 このあたり、県庁、赤十字社、警察署、或は商品陳列館といふやうな、市の中枢からさして離れてゐないのだけれど、見あげるやうな監獄の煉瓦塀と、雨もよひの宵などには、きまって、プクプクと沼気を吐く、青みどろの堀割とに挟まれた、淋しい小路を五六丁も行つたばかりで、俄にひッそり閑とした町はづれになる。とは言へ、昔日は、あまり身分の賎しくない侍どもの住った跡か、場末らしくゴミゴミはしていないで、淡褐色をした砂土の往来は、雑草こそ生え広がらうとはしても、めつたに紙屑などは落ち散つてゐない。内中原と言つて、事実、出はづれの橋ひとつ渡れば、すぐもう法吉村のりよしむら[やぶちゃん+協力者注:後述の附注★参照。]の水田が展がる……。
 このさびれ果てた一廓を、南北に通ずる往来の東側は、南の町角から家数十七八を数へるあたりで、不規則に湾曲した濠に押し狭められながら、消えるやうに軒が杜絶えて、その先は、楊柳かはやなぎ、青草の岸に臨んだ、土塀の影もうら寂しい片側道になる。――前に言つた、濠を隔てゝ城山の森を、眉に近く見あげる眺めは、即この往来の、東べりの家からのみ専にされるわけである。
《やぶちゃん+協力者附注★:「出雲国風土記」嶋根郡法吉郷ほほきのさとを見ると、
法吉郷。郡家正西、一十四里二百卅歩。神魂命御子宇武賀比賣命、法吉鳥化而飛度靜坐此處。故云法吉。
法吉郷ほほきのさと、郡家の正西一十四里二百卅歩。神魂命かむむすびのみことの御子、宇武加比賣命うむかひひめのみこと法吉鳥ほほきどりりて飛び度りて此の處に靜まり坐しき。かれ、法吉と云ふ。
とあるから、この訓は誤りである。なお、この指摘は松江出身者の方の指摘によるものである。》

さて、ここに出てくる県庁南側の東西に走る道を西に進み、北に曲がると里見が記している右手が刑務所、左手が掘という「淋しい小路」になる。この道は昭和三十年頃でも、堀に殆んど水が流れておらず、ドブと言うのが相応しい在りようで、夜は暗くて寂しい場所であった(現在は埋め立てられて道路となっている)。ちなみに、この今はなき堀を北に進んで四十間堀に突き当たったところに東西方向にかかる橋(祖母橋というが現在は存在しない)があるが、この橋の東のたもとが、小泉八雲の妻セツの養家(セツは小泉家に生まれて稲垣家の養女となった)があった。「出はづれの橋ひとつ渡れば」とある箇所の「橋」とは新橋のことと思われる。ここでとりあえず総括すると、「片側道」と表現されているのは、現在の亀田橋付近から北の部分に当たると考えられる。以上の資料から、城山の西北から北側にかけてが「片側道」第一の候補となる(この辺りの橋の風景は個人HP「堀にかかる橋」でわずかに面影を感じ取ることが出来る)。
 第二の候補は片原かたはら町である。城の南方を東西に横切る京橋きょうはし川の南岸にあたる地域である。元来、城の西側の一帯は「中原村」と呼ばれていた。築城の際に南北に流れる四十間堀しじゅっけんぼりと京橋川で区切られ、四十間堀の西側が外中原(中原町という地名も残存する)、四十間堀西側で京橋川の北側が内中原、京橋川の南側の堀沿いの地域が片原と呼称されるようになったと思われる。松江市文化協会刊『松江文化情報誌 湖都松江』第十二号六十一ページのコラム「江戸時代の松江あれこれ2 豪商とその借家の町 末次・茶町・京店・片原の家並み」に以下の記載がある。
片原
 中原村の一部北側を堀にして残った部分中原の片側だから片原。豪商の別宅や裏口が軒を連ね、中橋と筋違[協力者注:すじかい]橋の間の大片原[協力者注:四十間堀の西側に小片原こがたはらという地名が残る。]辺りは船便の荷揚げ場として活気に溢れていた。また、ここには紺屋(染物屋)が多かった。
特異な名称でないだけに他にも候補地はあると思われるが、井川の生活圏等を中心にして考察すると、この二箇所の可能性が高いと思われる。但し、当時の「片原」は結構賑わっていたと思われ、本句の雰囲気とは合わないように思われ、以上より、やはり「片側町」とは、内中原のお花畑の北側から城見畷あたりにかけての堀沿いの一帯を指すと同定したい。]


〔駄〕 ねころびて蕎麥湯を啜る遊女かな       阿

〔丶〕 足輕の乾鮭さげて戻りけり          阿

〔駄〕 鷄小屋の蓆圍ひや枇杷の花          井

〔愚〕 感化院の不良少年や寒聲す          井

〔駄〕 二つ三つ柑子黄ばみぬ門長屋         阿

[やぶちゃん+協力者新注:「門長屋」とは門の横に門番が居住できるようになった、武家や富豪層の家屋の極めて格調の高い門を指す。当時は二人の居た借家の近く内中原うちなかばら等に、このような立派な門が数多く残存していた。
藪薇獸辭團


〔駄〕 靑みけり椋の梢も水鳥も           阿

〔丶〕 韮味噌をぬりて食はゞや犬の肉        阿

〔駄〕 紫蘇湯など煎じて見るや今朝の雪       井

〔駄〕 雪あかり灘門なだもんとざす女かな          井

〔駄〕 如意輪も櫁もぬらす時雨かな         阿

[やぶちゃん注:「櫁」=「樒」。シキミ
Illicium anisatum。枝を仏壇や墓に供えることから、寺院や墓地によく植えられる。]


〔丶〕 窓外まどそとの榎時雨や足袋を刺す          阿

〔駄〕 粉吹雪砂丘を下る獨りかな          井

〔駄〕 日あか/\砂丘なゝめに吹雪かな       井

〔駄〕 雪やみて砂丘の上に海晴れたり        阿

〔愚〕 寒月に影と三人のかなしさよ         阿

〔丶〕 茶の花のおぼつかなくも石佛         阿

〔丶〕 古戀や大根干したる軒庇           井

   追 記
葡萄嚙んではくや一百拾六句             井

子規蕪村芭蕉われらと五人かな            阿




 花火


花火より遠き人ありと思ひけり


かた戀もなんの花火とくだけけり


夜をひとり偶偶見たる花火かな

[やぶちゃん注:「偶」の二字目は、原文では一字目の右下の漢文の踊り字記号。]


ちる花火 水動けども靜なり

[やぶちゃん注:「ちる花火」の後の一字空きはママ。]


    l'imitation de Hiroshigé
夜をひくき火の見やぐらや遠花火

[やぶちゃん注:前書はフランス語で安藤「広重の模倣」といった謂い。]


    l'imitation de Buҁon
ふくる夜に母の使や遠花火

[やぶちゃん注:前書はフランス語で與謝「蕪村の模倣」といった謂い。]

夜も避暑地籐倚子に見る花火かな


[やぶちゃん注:新全集後記によると、執筆年代は大正五(一九一六)年頃。]



 
Impromptu

   1

たまさぐる玦もつめたし時鳥


わが指の白きを見守れば時鳥

[やぶちゃん注:「見守」の二字で「も」と読ませている。]


羅帷一重いちじやう燭一盞や 時鳥

[やぶちゃん注:「燭一盞や」の後の空きはママ。]

   2

山になづむ春や日かげの忍冬すひかづら


かたまりて木花きばな黄にさくや雪解水

[やぶちゃん注:“Impromptu”は、即興の意。新全集後記によると、執筆年代は大正五(一九一六)年頃。]



 
金を錬る(仮)


きんる竃も古りて蚊食鳥


蝙蝠に一つ火くらし羅生門


明旦必殺有らむと飛ぶ蚊食鳥


月赤し蝙蝠消えて野は蓬


したたらすやにも松とぞ春の山


欝として黑松に春の朝日せる


[やぶちゃん注:新全集後記によると、執筆年代は大正五(一九一六)年頃。]



 蝙蝠や(仮)


○舟牢にからむ草や蚊食鳥


○人相書に曰く蝙蝠の入墨あり


 辻君のくさめする夜や蛇食鳥
[やぶちゃん注:「蛇食鳥」は不審。「蛇食鳥」は一般にはキジのことを指す。例えば松尾芭蕉の『花摘』に載る「蛇食ふと聞けばおそろし雉子の聲」がある。この芭蕉の句は、其角が「『うつくしき顔掻く雉子のけ爪かな』と申したれば」と前書する句である。因みに当時の中国では街娼のことを「野雉(イエチイ)」“yĕzhì”と呼んだことともマッチはする。路をうろついて客をひくさまを野の雉に喩えたものであるが、後年、芥川は「上海游記」の「十四 罪」でも用いている。但し、この一群の「蝙蝠」句の中では「蛇」は「蚊」の芥川の誤字と解するのが自然であろう。従って本句は正しくは、

 辻君のくさめする夜や蚊食鳥
とあるべきなのではなかろうか。



○辻君は眇と見ゆれ蛇食鳥
[やぶちゃん注:前注同様、正しくは、

○辻君は眇と見ゆれ蚊食鳥

とあるべきではないだろうか。]


○蝙蝠やこの辻君どのはすがめなる。


○辻君は眇と見ゆれ蚊食鳥


 蝙蝠や夕燒見ゆる牢格子


 蝙蝠や燈入りの月に人ふたり


 夕やみににほふ火繩や蛇食鳥

[やぶちゃん注:前注同様、正しくは、

 夕やみににほふ火繩や蚊食鳥

とあるべきではないだろうか。]



 銀漢の瀨音聞ゆる夜もあらむ


 蝙蝠となりて殿御を恨むべし


 夕燒くる畜生塚や蚊食鳥

[やぶちゃん注:「畜生塚」は関白豊臣秀次一族の塚。秀吉の勘気に触れた彼は高野山青厳寺(現 金剛峯寺)」で七月十五日に自害、後に三条西河原で八月二日、秀次の妻妾、乳母、侍女、子供等三十九名が無惨に斬首遺棄された。後に、治水に功のあった角倉了以は、三条西河原に打ち捨てられたこの塚を哀れに思い、一宇を建立して瑞泉寺と号した。京都市三条木屋町東南角に現存。
この句も前注同様、正しくは、

 夕燒くる畜生塚や蚊食鳥

とあるべきではないだろうか。


 夕燒くる隱亡堀や蛇食鳥

[やぶちゃん注:「隠亡堀」は、現在の江東区岩井橋付近の旧境川と横十軒川の交差する辺りを言った。ここには江戸時代から砂村火葬場があった。四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の最も怪奇な舞台が砂村隠亡堀での一幕。ちなみに、この「岩井橋」という名称はお岩にちなむ。
この句も前注同様、正しくは、

 夕燒くる隱亡堀や蚊食鳥

とあるべきではないだろうか。]


[やぶちゃん注:以上「蝙蝠や(仮)」は、新全集後記によると、執筆年代は大正六(一九一七)年頃。なお「蚊食鳥」「蛇食鳥」は底本総て「食」であるが、「我鬼全句」の表記は何れも「蛇」は「蚊」であり(そうでないとまた該当書の歳時記編成には不具合を生ずる)に、「食」は「喰」である。既に注記した通り、こちらの方が意味も通り、印象も相応しい。これらを村山氏は「未定稿集」の俳句パートから引用し、且つ「食」を「喰」に直した可能性が高いと考えられるので、特に「喰」表記の句形を相似句としては提示しなかった。句頭の「○」表記は、何者によるものか、底本後記に記載なく不明である。なお、「やぶちゃん版 芥川龍之介俳句集 三 書簡俳句」の書簡三〇七及び三一三を参照。]



 ホトトギス投稿句(仮)


 五月雨や枇杷つぶら見ゆ籔に住む

[やぶちゃん注:「籔」はママ。]


 五月雨に鬼菱せめぐ水の面かな


 もどらずよ挽木のそりも短夜は


 うどんげの蝶となる間も明易き


 ほととぎす壁にぬりこむ藻のいきれ


 ほととぎす山桑摘めば朝燒くる


 はたと打つネツ木もけふの暑さかな


鐵條ゼンマイに似て蝶の舌暑さかな


 晝の月霍亂人が眼ざしやな


○牡丹燈寵消えて蚊帳に人を見ず


 蚊帳の目にかがる風景も朝燒けて


○水打てば御城下町のにほひかな


◎天に日傘地に砂文字の異鳥奇花


 むらさきは君が日傘や暮れ易き


◎靑簾裏畑の花をかすかにす


[やぶちゃん注:後記によると、「我鬼」の署名があり、大正七(一九一八)年『ホトトギス』八月号「雑詠」欄に投句されたもので、この内、「鐵條に」「天に日傘」「靑簾」の句が同欄に掲載されたが、「天に日傘」は「日傘人見る」と改められており、また、原資料では、「天に日傘」は「日傘人見る」、「水打てば」は「水打ちし」と、虚子の朱が入っている、とのことである。
 また、同後記は菅忠雄の一九二七年雑誌『文藝倶楽部』所収の「追憶を書くとは思はざりき――芥川龍之介氏に就いて」から以下のように引用、解説している。
『「その年の五月、東京から又鎌倉へ帰つた私に句稿を手紙と同封されて。高浜虚子さんへその句稿をみせてくれといふ事でした。句は十五句あり車中などで作つたの多くすき句にあらざるべしといふのでした。」として、この十五句を紹介、更に「以上十五句の内で高浜さんが抜かれたのは四句でその内、二重まるは「天に日傘‥」と「靑簾‥」の二句でしたが、「天に日傘地に」を消されて「日傘人見る」と高濱さんの朱筆が加へてありました。その他一重まるは「牡丹燈籠」と「水打てば」(此句も水打てばのてばをちしとなほしてありました)の二句でした。前の二句はホトトギスの雑詠に出たと記憶しています」とある。』(やぶちゃん注:表記はママ。傍点を下線に代えた。)
 なお、後記に記載のある、原資料の高濱虚子による◎や○の評点は、面倒なので、それぞれの頭に付した。「やぶちゃん版 芥川龍之介俳句集 三 書簡俳句」の四三八書簡参照。]



 黑南風の(仮)


中ぞらにかがよふ雪を靑あらし


黑南風の大うみ凪げるたまゆらや


峯の雪を胸つき坂の上に見る


遠つ峯にかがよふ雪を靑あらし


黑南風のおほ海凪げるたまゆらや


黑南風の潮鳴おつるたまゆらや


黑南風の潮騷ひけるたまゆらや


黑南風の大わだなげるたまゆらや


[やぶちゃん注:新全集後記によると、執筆年代は大正十二(一九二三)年から大正十二(一九二三)年頃。]




 「芥川龍之介未定稿集」に現われたる句

[やぶちゃん注:以下は、岩波書店一九六八年刊の葛巻義敏編「芥川龍之介未定稿集」の俳句の部を底本とした。既に掲載した句でも省略せず、俳句の部全文を採った。大変困るのは、岩波の新旧全集共に、彼の「未定稿集」を鬼ッ子扱いしていることである。そこには編集内容についての種々の問題があることは知られている。編者個人に対する批判もよく聞くところではある。しかし、そこは全集編者によって客観的にきっちりと「文学研究的に」批判校正されるべきであり、これが宙ぶらりんであるのは、重大な芥川研究の障害となっていると言ってよい。なお、〔 〕が編者注であるのは凡例で分かるが、各篇や句末尾等にある創作推定年代や未発表を記す( )表記の一部も、これは編者注と言うべきものであろう。]

 俳句

   ○

川せみの御座と見えたり捨小船


湯上りの庭下駄輕し夏の月


  倣惟然坊
水さつと拔き手ついついつーいつひ

[やぶちゃん注:ここに『(明治三十九年六月二日 回覽雑誌「流星」復刊――「曙光」、R・Aと署名 未発表)』と編者注がある。これら二句は、明治三十九(一九〇六)年、芥川龍之介満十四歳当時、東京府立第三中学校の友人らと作った回覧雑誌『曙光』に所収する。蕉門の廣瀨惟然の著名な句、「水さつと立てばふはふはふうはふは」(別案に「水さつと立てば鳥よふはふはふは」とも)と「水鳥やむかふの岸につういつい」の二句を巧みに合わせたもの。]

   ○

三門や落葉ふみゆく紫衣の僧


一つ家に灯のともりけり鴨の聲


山吹に薄月のこる夜明かな


冬ごもり土佐繪の軸のならびたる


春雨や嵯峨の野を行く市女笠


白梅や夕雨さむき奈良の町


繪日傘に京の人らし萩の寺


猫うめし庫裏のうしろや枇杷の花


戀塚に女郎花さく小雨かな


武者一騎小川をわたる枯野かな


落武者の夕日をひゆく薄原

[やぶちゃん注:中田雅敏氏は「書簡俳句の展開」で、最後の「武者一騎」と「落武者の」の二句を、明治四十三年「義仲論」執筆の折の句と推測している。以上、最後に『(明治四十二年三月六日夜記、墨書草稿 未発表)』の編者によるクレジット。]

   ○

星月夜岡につゝ立つ武者一騎

[やぶちゃん注:中田雅敏氏は「書簡俳句の展開」で、この句を明治四十一年「出師表を讀みて孔明を論ず」執筆の折の句と推測している。]


秋風や嵯峨をさまよふ蝶一つ


禪寺や拂子吹かるゝ秋の風


秋風や京極殿の屋根の漏


木犀や侍町の宵の闇


敕選の歌集よむ灯や菊白し


神橋を白馬ひきゆく紅葉哉

[やぶちゃん注:中田雅敏氏は「書簡俳句の展開」で、この句を明治四十二(一九〇九)年に修学旅行で日光を訪れ、「日光行」「日光ノオト」等を記した折の句と推測している。]


公孫勝劍を拔いたる野分哉

[やぶちゃん注:「公孫勝」は「水滸伝」中の妖術師。]


楓橋の夜泊に響くきぬた哉


小流に月のきらめく野分哉


小原女の枯柴たゝく霰哉


雲をつく杉千本や秋の月


[やぶちゃん注:最後に『(明治四十一、二年頃 未発表)』の編者によるクレジット。]

   ○

日もすがら海鳴る音や麥の秋


ぬか雨に茫々として麥の秋


麥の穗をすべる入日やなく鴉


麥秋やうつら/\と在所唄


[やぶちゃん注:最後に『(大正三年夏、上総一ノ宮滞在時代 未発表)』の編者によるクレジット。]


 IMPROMPTU

   1

たまさぐるたまもつめたし時鳥


わが指の白きを見守れば時鳥

[やぶちゃん注:「見守」の二字で「も」と読ませている。]


羅帷一重いちじゆう燭一盞や時鳥


   2


山になづむ春や日かげの忍冬すひかづら


かたまりて木花きばな黄にさく雪解水

   3

  Goya に獻ず

[やぶちゃん注:ここに『〔編者注――句なし〕』があり、最後に『(大正初年? 未発表) 』の編者によるクレジット。]

   ○

蝙蝠となりて殿御を恨むべし


夕燒くる畜生塚や蚊食鳥


夕燒くる隠亡塚や蚊食鳥


牛に積む御料檜や梅の花


このすぢは酒の赤さよ夏の月


靑空に一すぢあつし蜘蛛の糸

   ○

きんる竃も古りて蚊食鳥


蝙蝠に一つ火くらし羅生門


明旦必殺有らむと飛ぶ蚊食鳥


月赤し蝙蝠消えて野は蓬

   ○

吉原や凍てどけに敷く酒むしろ

[やぶちゃん注:「酒むしろ」は薦被りの酒樽のこも。凍った道にそれを敷き渡してあるさまである。]


死にたれど猶汗疹ある鬢の際


短日やかすかに光る皿の蝦蛄しやこ


行く春や踊り疲れし蜘蛛男


山鳴りに搖り出されてや赤蕪


この匀藪木の花か春の月

[やぶちゃん注:ここに『(大正七年頃 未発表)』の編者によるクレジット。]


したたらすやにも松とぞ春の山


鬱として黑松に春の朝日せる

   ×

包丁の餘寒曇りや韮を切る


鶯や軒に干したる蒸がれひ


三門に鳶の夜鳴く朧かな


鶯や仰ぐ火山の朝の雲

[やぶちゃん注:ここに『(新婚記念祝賀会「淺春集」――「鐘が鳴る」大正七年三月号)』の編者による詳細クレジットがある。]

   ×

秋風に吹かれて消えぬ晝花火


木枯しにひろげて白し小風呂敷


東紅や東京の日のありどころ

   ×

天に日傘に砂文字の異艸奇花

   ×

雲ひくし風呂の窓より瓜の花


海なるや長谷は菜の花花大根


酋長の笛ふく春の日ながかな


[やぶちゃん注:ここに『(大正六、七年頃 未発表)』の編者によるクレジット。]

   ×

澤蟹の吐く泡消えて明け易き

   ×

春の宵蘇小にとらす耳の垢

[やぶちゃん注:ここに『〔編者注――新書版全集に「春の夜や蘇小にとらす耳の垢」の句あり〕』の付記。]


ひきとむる素袍の袖や春の宵


[やぶちゃん注:ここに『(大正六、七年頃 未発表)』の編者によるクレジット。]


   ○

風すぢの雨にもとほる靑田かな


沼のべの柳もぞろと霞みけり


山にほふ落葉に月のほがらかな

[やぶちゃん注:「ほがら」は、形容動詞語幹の用法で、明るく光り輝くさま。]


ほがらなる月に落葉の匀ふかな


赤光や砲車ひきゆく馬の汗


夕かへる砲兵隊や馬の汗

 ――――――――――――――――――

ゆれ落つる月の赤さよ槍が嶽


山峽に竹むら低し風や疾き


[やぶちゃん注:ここに『(大正八年頃 未発表)』の編者によるクレジット。]

   ○

莊嚴の甍に暮れよ合歡の花


雪のこる盧山に來れば夜半の雨


七寶の柱に暮れよ合歡の花


喇嘛寺のさびしさつげよ合歡の花

[やぶちゃん注:「喇嘛」は「ラマ」と読ませるのであろう。ラマ教の寺院。]


金身の佛おがまん合歡の花


  龍門
莊嚴の梁をまぶすや麥ほこり


  旅中
炎天に蝶をとめたる馬の糞


  旅中
日の暮をすさびそめけり麥あらし


みんなみに曇り立ちけり星月夜


[やぶちゃん注:ここに『大正十年、未発表)』の編者によるクレジット。]

   ×

いく秋をふる盃や酒のいろ


山もとの夜長を笠のゆくへかな


山もとの夜を菅笠のゆくへかな


よこ山の夜を菅笠のゆくへかな


山本の霜夜を笠のゆくへかな


木枯や茅萱わけ入る笠の鳴り

   ×

雪消ゆる茜の産衣縫ひけらし


小春日の梟とまるや竹の枝


   春


盆梅の枝にかかるや梅のひげ


[やぶちゃん注:ここに『(以上、大正八年―大正十一、二年頃 未発表)』の編者によるクレジット。]


はつ時雨ありとも見えぬ飛行機や

   ×

風光る杉山かひに村一つ


ちりたまる花に起るや夕つむじ


月ほそる杉のあらしに入りにけり


風すぢの雪吹きあぐる夜みちかな

   ×

秋風やくずれんとして蓮の花


古池や蘆の中から蓮の花

   ×

咲きたらぬ庚申薔薇を靑嵐


この庵は軒はふ薔薇の靑嵐

   ○

七夕や夜をはなるる海の鳴り


藤の花雫とめたるたまゆらや


更くる夜を火星も流れ行秋や


庭もせににほふ落葉や月ほがら


   遠州灘
木がらしの海吹き凪げるたまゆらや


生垣に山茶花まじる片かげり
[やぶちゃん注:二〇一〇年岩波書店刊の「芥川竜之介句集」八六一番句では
生け垣に山茶花まじる片かげり
と「け」を送り、先行する「咲きたらぬ庚申薔薇を靑嵐」の句群の一つとしている。

   ○

茶の色も澄めば夜寒の一人かな


枯芝をすべり下れば室の花


たばこすふ煙の垂るる夜長かな


行秋の呉須の湯のみや酒のいろ

[やぶちゃん注:「呉須」は、酸化コバルトを主成分する焼き物の染付用の彩料。うわぐすりをかけ焼成すると藍青色になる。鉄釉てつぐすりに加えて上絵具うわえのぐの青としても用いる。]


燃えのこるあはれは榾の木の葉かな


[やぶちゃん注:ここに『(以上、大正八、九年頃―大正十二年頃 未発表)』の編者によるクレジット。]

   ×

みぞるるや犬の來てねる炭俵


山笹やみぞるる路の土のいろ


みぞれふる町に敷きけり酒むしろ


白鳥に酒まゐらせよ夕みぞれ

   ○

竹の秋茜の産衣ぬひけらし


麥秋の茜の産衣縫ひけらし


妻のぬふ産衣や秋の茜染め

   ○

ふりかへる道細ぼそと暮秋かな


中そらにかがよふ雪の靑あらし


峯の雪を胸つき坂の上に見る


遠つ峯にかがよふ雪の靑あらし


[やぶちゃん注:ここに『(以上、大正九年―大正十二年 未発表)』の編者によるクレジット。]

   ○

いろ鳥やあだ鹽とくる鰯かな


町かど入日片照るひと茂り

   ×

   木曾道中
春雨の寢ざめの蕎麥をすすらばや


蔟がれる小枝や雪のひと積り

[やぶちゃん注:「蔟」=簇。「むらがる」。]


木石の軒ばにせまる夜寒かな

   ×

風光る若葉盛りけり東山


黑潮や夜をはなるる瀨々の鳴り


靑うみの潮騷落つる午さがり

   ×

ちらほらと田舍の花や茶のけむり


地煙草の煙も垂るる夜長かな
[やぶちゃん注:二〇一〇年岩波書店刊の「芥川竜之介句集」一〇二五番句では
地煙草の煙も垂るる夜長哉
と「かな」を漢字表記とし、先行する「木石の軒ばにせまる夜寒かな」の句群の一つとしている。]


鉢前の葉蘭も今や別れ霜


山吹や雨に伏したる芝の上


山吹やしどろと伸びし芝の上


花ちるや踏み枯したる芝の上
[やぶちゃん注:二〇一〇年岩波書店刊の「芥川竜之介句集」九七八番句では、
花ちるや踏み枯らしたる芝の上
「ら」お送っている。]

   ×

生け垣はかたかげりつつ山茶花や


朝顏や鉢に餘れる蔓の丈

   ○

町中を曇りそめけり星月夜


薄うすと曇りそめけり星月夜


冷え冷えと曇り立ちけり星月夜

   ×

黑南風の天斜なる大ぞらや


黑南風のうみ斜めなる舟ばたや


黑南風の海搖りすわるたまゆらや


黑南風の空斜めなる大うみや


黑南風のうみ吹き凪げるたまゆらや

   ○

春雨や霜に焦げたる杉ながら


春雨や霜に焦げたる杉のうら


霜焦げに焦げたる杉を春の雨

   ○

竹藪の中見透かすや今朝の雪


曉になびくや竹の雪けむり

   ×

句を問へば無しと答へて寒き春   (「ホトトギス」記念)


茨とも見えぬ墨畫の茨かな   (高橋竹迷氏自画像の賛)
[やぶちゃん注:この句、小穴隆一の「芥川龍之介遺墨」に画像で見え、そこには、小穴による
大正十二年八月五日山梨縣秋田村淸光寺から。高橋竹迷と寄書、岸波靜山宛の手紙に、
として、一段下げで該当書簡を引用、
夏期大學の先生に來たところ思ひがけず庵主は竹迷上人なり、爲に教育會のお客だか竹迷上人のお客だかわからやうに相成候頓首
             龍之介
更に、小穴は
この消息にある淸光寺で、竹迷氏が畫いた芥川の肖像の贊である。
と記す(該当色紙は「山内金三郎藏」とする)。そしてこの色紙の画像では句の後に、
博賢龍褌人粲
     我鬼山人
とある。]


桃煙る中や筧の水洩るる


  久米正雄
微苦笑の小首かしげよ夏帽子


  菊池寛
花散るやまぶしさうなる菊池寛


菜の花は雨によごれぬ育ちかな

   ×

  悼亡
靜かさに堪へず散りけり夏椿

[やぶちゃん注:句の直下に『〔編者注――「夏椿」は沙羅の花の異名〕』とある。]


土雛や鼻の先だけ暮れ殘る

[やぶちゃん注:句の直下に『〔編者注――自ら「姉さま人形」の土雛を描きて〕』とある。ということは、この句には芥川龍之介自筆の「姉さま人形」の土雛の絵があったことになる。なお、この句については、どうしても「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏の私の最後の拙文をお読み頂きたい。なお、ここに『(以上二句、大正十四年)』の編者によるクレジットがあるが、そうするとその前の三十五句はクレジットがない、制作年代未詳の句ということになってしまう。不可解な注である。]


もつさりと鷄はらばへる暑さかな   (大正十五年)


かげらふや棟も落ちたる茅の屋根    (鵠沼にて、大正十五年)

   ×

松風に白犬細う過ぎにけり   (大正十五年)


行秋やくらやみとなる庭の内   (大正十五年)

[やぶちゃん注:本句は芥川龍之介の句ではなく、小澤碧童の句――その助詞一字の思い違いのメモランダ――であると私は断言したい。「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」後半にある『村山古郷編「芥川龍之介句集 我鬼全句」に現われたる句』の「×行秋やくらやみになる庭の内   大正十五」の項を必ず参照されたい。]


かひもなき眠り藥や夜半の冬   (大正十五年)


山蜂の劍を冷やす手水鉢   (大正十五年?)


据え風呂に首すじさする夜寒哉   (昭和二年)


  即興
春返る支那餅食へやいざ子供   (昭和二年)


冴え返る身にしみじみとほつき貝   (北海道、昭和二年)


[やぶちゃん注:ここに『(以上大正十二、三年―昭和二年 未発表)』の編者によるクレジット。]

   ○

雁啼くや花火燃ゆる裏河原
  仇めきたる暮露のものごし
きりぎりす晝の揚屋の曇りかな
  今は銚子に酒乾くらむ
雨落ちの石に櫻は散りつくし
  道心きざすあかつきの月
片戀や茗荷花さく門畑
  彦根の城に雲の影さす

[やぶちゃん注:この一見、和歌形式である四首は新字体で岩波版新全集にも「雁啼くや(仮)」という題で採られている。構造上は短歌であるが、意味内容は明らかに発句とその付句と考えられるものである。末尾に『(大正七年頃)』の編者によるクレジットがある。




落葉焚いて葉守りの神を見し夜かな


[やぶちゃん注:これは大正十四(一九二五)年六月一日発行 雑誌「俳壇文藝」第一年第六號に掲載された芥川龍之介の随筆、「わが俳諧修業」に尋常四年(但し、鷺只雄編著「年表作家読本 芥川龍之介」をみると尋常小学校三年の次は、尋常小学校高等科一年となっている)の作として披露されている句で、これが正しければ、明治三十五(一九〇二)年、芥川龍之介満十歳、現存する芥川が創作した最初の発句ということになる。底本には岩波版旧全集第七巻を用いた。特にここに掲げておく。]



 二〇〇八年十二月刊行の岩波版新全集第二十四巻〔第二次版〕に現れたる俳句(書簡を除く)

[やぶちゃん注:以下は、二〇〇八年十二月刊行の岩波版新全集第二十四巻〔第二次版〕本文「補遺一〔一九九八年〕」及び「補遺二〔二〇〇八年〕」に現れた、書簡内俳句を除く全てを掲載する(書簡俳句は別掲)。これが現在の公式な最新拾遺句群ということになろうから、重複を厭わず、全て掲げた。但し、私のポリシーに則り、恣意的に正字に代えてある。]


 御靈前へ


黄昏るゝ菊の白さや遠き人


[やぶちゃん注:「補遺一」より。大正六(一九一七)年十二月十二日発行の『渋柿』四十四号(漱石忌記念号)に十五人の門下生等と名を連ねて「芥川龍之助」の署名で掲載。夏目漱石逝去翌年の一周忌の会での追善の句。漱石は大正五(一九一六)年十二月九日に亡くなっているが、この会はその翌年、大正六(一九一七)十二月八日午後四時から十一時まで神楽坂「末よし」で催された。漱石の門下生三十余名が出席、運座が開かれた。但し、この句は事前に創られていたものであろう。底本注解で石割透氏はこの句は漱石の「思ひ出す事など」「七の下」に現れる大塚楠緒子逝去の際の漱石の俳句、「有る程の菊投げ入れよ棺の中」が意識されていたのかも知れない、と記すが如何。大塚楠緒子(おおつかくすおこ・なおこ 明治八(一八七五)年~明治四十三(一九一〇)年)は明治末に活躍した歌人・作家。美学者・大塚保治の妻であったが、一説に漱石の恋人(失恋相手)であったとされる女性である。しかし、私はこの句と当該漱石句の直接的連関を意識的に感じる時、この作の良さは失われる気がする(勿論、その連想は働いたであろうとは思われる)。同年十一月二十五日附池崎忠孝宛三五四書簡に「たそがるる菊の白さや遠き人」と現れるが、同十一月二十四日附松岡讓宛三五三書簡の「人去つて空しき菊や白く咲く」とある方が私には興味深い。]



 逮夜連座


  題 木枯
木枯にひろげて白し小風呂敷


木枯や東京の陽のありどころ


  無門關一則
刹竿に動くは旗か木枯か


[やぶちゃん注:「補遺一」より。大正六(一九一七)年十二月十二日発行の『渋柿』四十四号(漱石忌記念号)に所載。夏目漱石逝去翌年の一周忌の会での句。漱石は大正五(一九一六)年十二月九日に亡くなっているが、この会はその翌年、大正六(一九一七)十二月八日午後四時から十一時まで神楽坂「末よし」で催された。漱石の門下生三十余名が出席、運座が開かれたが、そ句座での句。冒頭にこちらは(前掲句注参照)「芥川龍之介」の署名を冒頭に持つ。ここに掲載されている参加者は他は小宮豊隆・津田青楓・林原耕三・内田栄三・森田草平・江口渙・松根東洋城で計八名。前者二句は共に漢字表記を変更したもの等(「木枯」→「凩」、「陽」→「日」)で既出。
 「刹那竿に」の句は類句なしの新発見句。「無門關」は、宋代の禅僧無門慧開によって編された公案集。様々な語録から撰集された公案が四十八掲げられ、解説される。宋代に始まったとされる禅の教導法である看話禅かんなぜんでは初学者に必ず用られる。冒頭の「一 趙州狗子」「趙州じょうしゅう狗子くす」の公案は著名で、「犬に仏性有りや」の公案の答えは「無」であるが、芥川龍之介がこの句で示すのは、その「二十九 非風非幡」、

六祖、因風颺刹幡。有二僧、對論。一云、幡動。一云、風動。往復曾未契理。祖云、不是風動、不是幡動、仁者心動。二僧悚然。

であろう。書き下すと

六祖。因みに風、刹幡せつばんぐ。二僧有り、對論す。いつは云く、
はた、動く。」
と。一は云く、
「風、動く。」
と。往復して曾て未だに理にかなはず。
 祖云く、
「是れ、風、動くにあらず、是れ、幡、動くにあらず、仁者じんしやが心、動くなり。」
と。
 二僧悚然しようぜんとす。

訳せば、

 六祖慧能の話である。
 機縁があって、風が、寺の門前の竿の上の、説法を告げる旗をばたばたと靡かせていた。
 その時、二人の僧がおって、言い争っている。一人は、
「あれは旗が動くのだ。」
と言うが、一人は、
「いいや、あれは風が動くのだ。」
と言い張る。互いに自分の主張を譲らず、決着がつかない。
 すると、それを見ていた祖師が言い放った。
「これ、風、動くにあらず――これ、旗、動くにあらず――そなたたちの心、これが動くのじゃ――」
 それを聴いたとたん、二人の僧は心底、慄っとした。

「刹竿」とは寺の門前にあって説法等を知らせるための旗ざお・旗(幡)のことを言う。これに附したじゅで慧開は、

風幡心動
一状領過
只知開口
不覺話墮

訳すならば、

風も幡も心もどれも 大揺れ揺れの大激震
風も幡も心もどれも 同罪なれば一蓮托生
六祖の爺さん 良かれと思い
口を開いて語るに墜ちた

といった具合。御興味のある方は、
私の「無門關 二十九 非風非幡」の小生淵藪えんそう野狐禪師訳でお読みあれ。但し、野狐禅訳であることを御覚悟の上で、である。]



 雜詠


杉凍てゝ聲あらんとす峽間哉


老骨をばさと包むや革羽織


癆咳の頰うつくしや冬帽子


葱に似て指の白きも惣嫁かな


縫箔の糸に今朝冬の光り見よ


大いなる手つと來て茨の實を摘めり


勳章の重さ老軀の初明り


[やぶちゃん注:「補遺一」より。大正七(一九一八)年十二月三日附『読売新聞』に「雜詠 芥川我鬼」の署名で掲載。これは「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」で既に掲載済みのものであるが、今回、新全集が全句を本文採用したため、掲げておく。これは以前から知られていたもので、新発見ではない(以下に上記頁の私の当該三句についての注をコピー・ペーストしておく)。
 岩波版旧全集第九巻に挟まれた一九七八年四月クレジットの「芥川龍之介全集月報9」の「編集室より」に該当巻の芥川龍之介の俳句には異型句が数多く見られることを言い、『本全集に収めることを躊躇した句に左のようなものがあります。今後の検討を俟ちたいと思います。』として、『大正七年十二月三日の『読売新聞』に「雑咏 我鬼」として掲載された七句中本全集不載の三句』とある。続いて『読売掲載の七句について芥川は同年十二月八日付下島勲宛書簡に「読売の句は小生の出したものではなく誰かが好い加減に句屑を集めて勝手に発表したものであります」と記してい』ることを根拠として全集に採録しなかったらしい。しかし、この芥川の書簡中の語『誰かが好い加減に句屑を集めて勝手に発表した』という言い方は、句が自分のものではない贋作だというのではなく、自分の本意ではなかったという不満の表現ととれないだろうか。少なくとも二句目は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 発句拾遺」の「我鬼窟句抄」にある「惣嫁指の白きも葱に似たりけり」の別稿と考えられるではないか。そう考えると、これら三句もないがしろには出来ない句であるというべきである。]



 芥川氏病床慰藉句会席上


街の敷石耗り春雨流るゝ


吾子が自由畫の目白うららか


星空暖かに家根々々の傾き


春雨が暖かい支那人顏の汚れ


[やぶちゃん注:「補遺一」より。大正十五(一九二六)年十一月十一日、上海で刊行された島津四十起の句集『荒彫』に、表記の題で四十起の句六句と併せて「我鬼」の署名で掲載され、末尾には「一九二一年四月一六日」「(我鬼は芥川氏の俳号)」という注記がなされているとする(底本後記)。四句すべてが類型句も全く見られない完全な新発見句である。島津四十起しまづよそき(明治四(一八七一)年~昭和二十三(一九四八)年)は俳人・歌人で、明治三十三(一九〇〇)年から上海に住み、金風社という出版社を経営、大正二(一九一四)年には「上海案内」「支那在留邦人々名録」等を刊行する傍ら、自由律俳誌『華彫』の編集人を務めたりした。戦後は生地兵庫に帰った。本作は大正十(一九二一)年の中国行の初め、乾性肋膜炎の診断を受けて急遽、上海の里見病院に入院(四月一日)、同月二十三日に退院しているが、その間のものと同定できる。「上海游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈」を参照のこと。「耗り」は「すりへり」と読ませているものと思われる。]



 北國俳壇 二句


簀むしこの雨にねまる蝸牛


草餠や世を古妻の乳の垂り


[やぶちゃん注:「補遺二」より。大正十三(一九二四)年五月二十二日附『北國新聞』の「北國俳壇 未翁選」の欄に掲載された。底本後記によると『「去る十七日の夕べ芥川澄江堂氏來澤を期とし室生犀星氏外二三子北間樓の青緑鮮かな室で小集會頭の折句作を試む」の一文の後に掲載』とある。芥川は翌月二十五日挙式する友人作家岡榮一郎の媒酌人を引き受けており、その岡の親族に京都で会うという実務と、室生との再会、大阪毎日新聞社を病気で退社した薄田淳介(泣菫)の見舞、『近代日本文藝読本』に短篇を所収するための掲載許諾を志賀直哉から受ける事などが金沢・大阪・京都行の目的であった。同月十五日に金沢着、室生の世話で兼六園内の茶屋三芳庵別荘に二泊して、十七日夜に大阪へと発っている。「發句」に

簀むし子や雨にもねまる蝸牛

が乗るが有意に句形が異なる。また後者も

乳垂るる妻となりつも草の餠

等の相似句であり、句案の一つであったと思われるが、相同句はない。一応、新発見句とする。]



 車中聯吟(試作)

 一籃の照らしつけたり巴旦杏     芥川
  海水帽の連れ立ちて行く      和辻
 雨はれて雲間をもるる夕日影     芥
  庭下駄おろす露地の水苔      和
 月影も竹むら越しに傾きて      芥
  沼ぞひ遠く梟の啼く        和
ゥ死なうかとふと云ひ出たる鬢の蔭   和
  堤に變る芝居淋しき        芥
 惜しまるる女形のぬけし一座にて   和
  夕まぐれ來る屋根の薄雪      芥
 文債に瘦せたる顏の髯ののび     和
  窓の穴より山水を見る       芥
 竹むしろ晝寢の臺の斜なり      芥
  伽藍の軒に子雀の聲        和
 天平の櫻しだるる朝ぼらけ      芥
  つかまされたるめんの贋物       和
 三代の醫者は下手なる春風に     芥
  思ひかねたる妻のふるまひ     和
 黑えりに藍のみぢんぞなつかしき   和
  刀の詮義忘れたる今日       芥

[やぶちゃん注:大正十三(一九二四)年七月発行の『潮音』第一〇巻第七号に表記の題(目次は「車中聯吟(連句)」で掲載。これは本頁に既に旧全集から掲載しているものにほぼ同様のものがあるが、新全集後記によれば、この旧全集所収のものは『芥川の「手帳」に書き留められてあったもの』であるが、その手帳は現在所在不明であるとする。またこちら(『潮音』版)には『「先日京都よりの帰途、芥川龍と同車、連句をつくりました。芥川の手紙にかきつけたのですが、不思議に記憶してゐたので、ここに御笑覧に供へます(水穂宛書簡)』とあるとする(水穂は『潮音』主宰の歌人太田水穂)。芥川は同年六月二十五日挙式する友人作家岡榮一郎の媒酌人を引き受けており、その岡の親族に京都で会うという実務と、室生との再会、大阪毎日新聞社を病気で退社した薄田淳介(泣菫)の見舞、『近代日本文藝読本』に短篇を所収するための掲載許諾を志賀直哉から受ける事などを目的とした、金沢・大阪・京都行に五月十四日に旅立っている。同月十五日に金沢着、同十八日大阪着、二十二日京都着、本連句は二十六日に京都を発った際の句である。
 なお、これは和辻哲郎の記憶によるものなわけで、底本後記を記す海老井英次氏も述べているように、極めて問題のあるソースである。本来ならば疑義句に所収すべきところであろうが、新全集が本文採用(!)していることから、暫くはここに置くこととする。従って、当然の事ながら、本作は旧全集版とはかなり有意な異同が見られる。以下、目ぼしいものを見ると(芥川関連部分に傍線を引いた)、
芥川の発句の大きな違い
   ひと籃の暑さ照りけり巴旦杏
芥川の第三句の大きな相違
   雨音のいつかやみたる夕日影
和辻の第四句の表記違い、
   庭下駄おろす露路の水苔
芥川の第五句の表記違い
   月かげも竹むら越しに傾きて
和辻の第六句の表記違い、
   沼ぞひ遠く梟のなく
裏の、和辻の表記違い、
   死なうかとふと云ひ出せし鬢のかげ
次の芥川の第八句の表記二箇所の違い
   堤にかはる芝居寂しき
芥川の第十句の表記違い
   夕まぐれ來る屋根のうす雪
和辻の第十一句の表記違い、
   文債に痩せたる顏のひげののび
芥川の第十三句の送り仮名無表記
   竹むしろ晝寢の臺の斜めなり
和辻の第十四句目の大きな相違、
   伽藍の軒に子雀のなく
芥川の第十七句の表記違い
   三代の醫者はへたなる春風に
そして和辻の十八句目の大きな相違、
   思ひあまれる妻のふるまひ
他、繰り返し記号・ルビの有無も含めれば、相違点は実に十四箇所、芥川の句にに限っても七箇所に及ぶ(底本後記によると『潮音』では更に発句の「一籃」が「一藍」となっているのを改めたとあるので十五箇所である。これは旧全集の誤植である)。和辻哲郎の著作権は存続しているが、連句という連衆・座の文学という性質上、あえて掲載した。なお、底本注解で石割透氏は挙句について、『前の和辻の「みじん」から微塵流剣法を連想し、刀で斬られたことの取調べの意を含む。』と注する。微塵流とは一羽流を汲む根岸兎角を祖とする剣の流派の名。]



 輕井澤にて

川柳みやこを讀んでゐるうちに、小生もちよつとまねをして見たくなりましたから、汽車の中で二句ばかり製造しました。これは空前絶後の事ですから、ちよつと御吹聽申します、但し下手でも笑つちやいけません。
きぬぎぬや耳の根ばかりあでやかに
  死ねとも思ふ秋風の末

[やぶちゃん注:岩波版旧全集ではこの末尾には『(大正十四年九月)』の創作推定年が示されているが、最新の新全集が初出誌を確認、大正十四(一九二五)年十一月刊の雑誌『川柳みやこ』第十二篇に掲載されたものであることが判明した。「二句ばかり」とあるのは、川柳の発句に付句した都合二句の謂いである。私は当初、芥川が自身で「川柳」と断っているいるにも拘らず愚かにもこれ全体を頑なに短歌形式と思い込み続けていた(俳句を原型とした川柳の発句と付句という関係だと認めたくない思いがあった)。今回、芥川龍之介の歌集を翻刻するに作業の中で、その愚挙に遅まき乍ら気づいたので、ここに掲げるものである。雑誌『川柳みやこ』は川柳作家前田雀郎じゃくろう(明治三十(一八九七)年~昭和三十五一九〇六)年)が大正十三一九二四)年に東京の都川柳会を再興、そこから発行されていた川柳雑誌である。雀郎は川柳の原点を明確に俳諧に求めた作家として高く評価されている人物である。なお、この句について石割透氏は同巻注解で芭蕉の「きぬぎぬやあまりか細くあでやかに」を意識した作と推測されている。その根拠は芥川龍之介が、その「芭蕉雜記」(大正十二(一九二三)年十一月~十三(一九二四)年発表)の「十二 詩人」で、『是等の作品を作つた芭蕉は近代の芭蕉崇拜者の芭蕉とは聊か異つた芭蕉である。たとへば「きぬぎぬやあまりか細くあでやかに」は枯淡なる世捨人の作品ではない。菱川の浮世繪に髣髴たる女や若衆の美しさにも鋭い感受性を震はせてゐた、多情なる元祿びとの作品である。「元祿びとの」、――僕は敢て「元祿びとの」と言つた。是等の作品の抒情詩的甘露味はかの化政度の通人などの夢寐にも到り得る境地ではない。彼等は年代を數へれば、「わが稚名を君はおぼゆや」と歌つた芭蕉と、僅か百年を隔つるのに過ぎぬ。が、實は千年の昔に「常陸少女を忘れたまふな」と歌つた萬葉集中の女人よりも遙かに縁の遠い俗人だつたではないか?』と絶賛しているからであるとする。底本は冒頭の消息文全体が二字下げで、川柳発句は頭から付句は表記通り二字下げである。但し、新全集では上句に続いて下句が分かち書きせずに記されている(但し、これは未だ初出誌の判明していない第一次出版時の新全集の折りの仕儀で編者によるものではある)。]



 
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