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芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)へ
或日の大石内藏助 芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正6(1917)年九月発行の雑誌『中央公論』に掲載され(署名は「芥川龍之助」)、後に『煙草と悪魔』『傀儡師』『或日の大石内藏助』『沙羅の花』等に所収された。底本は昭和55(1980)年ほるぷ社『特選 名著復刻全集 近代文学館』で復刻された大正8(1919)年新潮社刊の『傀儡師』を用いた。但し、繰り返し記号「〱」は「\/」で示したが、その濁点付「〲」は正仮名で表記した。簡単な注を作品末に附した、但し、あくまで芥川龍之介の本作を読むに必要と思った最初限度の注を心掛けた。忠臣蔵に纏わる人物群像や討ち入りの歴史的事実の細部についてを注で描こうとは全く考えていないので、ご注意あれ。なお、固有名詞につく「町」の読みは千差万別であるが、注が煩くなるばかりで実りが少ないと判断し、本注では省略した。]
或日の大石内藏助 大正六年八月
立てきつた障子にはうららかな日の光がさして、嵯峨たる老木の梅の影が、何間かの明みを、右の端(はじ)から左の端まで畫の如く鮮に領してゐる。元淺野内匠頭家來、當時細川家に御預り中の大石内藏助良雄(よしかつ)は、その障子を後にして、端然と膝を重ねた儘、さつきから書見に餘念がない。書物は恐らく、細川家の家臣の一人が借してくれた三國誌の中の一册であらう。
九人一つ座敷にゐる中で、片岡源五右衞門は、今し方厠へ立つた。早水藤左衞門は、下(しも)の間(ま)へ話しに行つて、未にここへ歸らない。あとには、吉田忠左衞門、原惣右衞門、間瀨久太夫、小野寺十内、堀部彌兵衞、間喜兵衞の六人が、障子にさしてゐる日影も忘れたやうに、或は書見に耽つたり、或は消息を認めたりしてゐる。その六人が六人とも、五十歲以上の老人ばかり揃つてたせゐか、まだ春の淺い座敷の中は、肌寒いばかりにもの靜である。時たま、しはぶきの聲をさせるものがあつても、それは、微(かすか)に漂つてゐる墨の匂を動かす程の音さへ立てない。
内藏助は、ふと眼を三國誌からはなして、遠い所を見るやうな眼をしながら、靜に手を傍の火鉢の上にかざした。金網(かなあみ)をかけた火鉢の中には、いけてある炭の底に、うつくしい赤いものが、かんがりと灰を照らしてゐる。その火氣を感じると、内藏助の心には、安らかな滿足の情が、今更のやうにあふれて來た。丁度、去年の極月十五日に、亡君の讐を復して、泉嶽寺へ引上げた時、彼自ら「あらたのし思ひははるる身はすつる、うきよの月にかかる雲なし」と詠じた、その時の滿足が歸つて來たのである。
赤穗の城を退去して以來、二年に近い月日を、如何に彼は焦慮と畫策との中に、費した事であらう。動もすればはやり勝ちな、一黨の客氣を控制して、徐に機の熟すのを待つただけでも、並大抵な骨折りではない。しかも讐家(しうか)の放つた細作は、絕えず彼の身邊を窺つてゐる。彼は放埒を裝つて、これらの細作の眼を欺くと共に、併せて又、その放埒に欺かれた同志の疑惑をも解かなければならなかつた。山科や圓山の謀議の昔を思ひ返せば、當時の苦衷が再心の中によみ返つて來る。――しかし、もうすべては行く處へ行きついた。
もし、まだ片のつかないものがあるとすれば、それは一黨四十七人に對する公儀の御沙汰だけである。が、その御沙汰があるのも、いづれ遠い事ではないのに違ひない。さうだ。すべては行く處へ行きついた。それも單に、復讐の擧が成就したと云ふばかりではない。すべてが、彼の道德上の要求と、殆完全に一致するやうな形式で成就した。彼は、事業を完成した滿足を味つたばかりでなく、道德を體現した滿足をも、同時に味ふ事が出來たのである。しかも、その滿足は、復讐の目的から考へても、手段から考へても、良心の疚しさに曇らされる所は少しもない。彼として、これ以上の滿足があり得ようか。……
かう思ひながら、内藏助は眉をのべて、これも書見に倦んだのか、書物を伏せた膝の上へ、指で手習ひをしてゐた吉田忠左衞門に、火鉢のこちらから聲をかけた。
「今日は餘程暖(あたゝか)いやうですな。」
「さやうでございます。かうして居りましても、どうかすると、あまり暖いので、睡氣がさしさうでなりません。」
内藏助は微笑した。この正月の元旦に、富森助右衞門が、三杯の屠蘇に醉つて、「今日も春恥しからぬ寢武士(ねぶし)かな」と吟じた、その句がふと念頭に浮んだからである。句意も、良雄が今感じてゐる滿足と變りはない。
「やはり本意を遂げたと云ふ、氣のゆるみがあるのでございませう。」
「さやうさ。それもありませう。」
忠左衞門は、手もとの煙管をとり上げて、つゝましく一服の煙を味つた。煙は、早春の午後をわづかにくゆらせながら、明(あかる)い靜かさの中に、うす靑く消えてしまふ。
「かう云ふのどかな日を送る事があらうとは、お互に思ひがけなかつた事ですからな。」
「さやうでございます。手前も二度と、春に逢はうなどとは、夢にも存じませんでした。」
「我々は、よく\/運のよいものと見えますな。」
二人は、滿足さうに、眼で笑ひ合つた。――もしこの時、良雄の後の障子に影法師が一つ映らなかつたなら、さうして、その影法師が、障子の引手へ手をかけると共に消えて、その代りに、早水藤左衞門の逞しい姿が、座敷の中へはいつて來なかつたなら、良雄は何時までも、快い春の日の暖さを、その誇らかな滿足の情と共に、味はふ事が出來たのであらう。が、現實は、血色の良い藤左衞門の兩頰に浮んでゐる、ゆたかな微笑と共に、遠慮なく二人の間へはいつて來た。が、彼等は、勿論それには氣がつかない。
「大分下の間(ま)は、賑かなやうですな。」
忠左衞門は、かう云ひながら、又煙草を一服吸ひつけた。
「今日の當番は、傳右衞門殿ですから、それで餘計話がはずむのでせう。片岡なども、今し方あちらへ參つて、その儘坐りこんでしまひました。」
「道理こそ、遲いと思ひましたよ。」
忠左衞門は、煙にむせて、苦しさうに笑つた。すると、頻りに筆を走らせてゐた小野寺十内が、何かと思つた氣色で、ちよいと顏をあげたが、すぐ又眼を紙へ落して、せつせとあとを書き始める。これは恐らく、京都の妻女へ送る消息でも、認めてゐたものであらう。――内藏助も、眦の皺を深くして、笑ひながら、
「何か面白い話でもありましたか。」
「いえ。不相變(あひかはらず)の無駄話ばかりでございます。尤も先刻、近松が甚三郞の話を致した時には、傳右衞門殿なぞも、眼に淚をためて、聞いて居られましたが、その外は――いや、さう云へば、面白い話がございました。我々が吉良殿を討取つて以來、江戶中に何かと仇討じみた事が流行(はや)るさうでございます。」
「はゝあ、それは思ひもよりませんな。」
忠左衞門は、けゞんな顏をして、藤左衞門を見た。相手は、この話をして聞かせるのが、何故(なぜ)か非常に得意らしい。
「今も似よりの話を二つ三つ聞いて來ましたが、中でも可笑(をか)しかつたのは、南八丁堀の湊町邊にあつた話です。何でも事の起りは、あの界隈の米屋の亭主が風呂屋で、隣同志の紺屋の職人と喧嘩をしたのですな。どうせ起りは、湯がはねかつたとか何とか云ふ、つまらない事からなのでせう。さうして、その揚句に米屋の亭主の方が、紺屋の職人に桶で散々撲(なぐ)られたのださうです、すると、米屋の丁稚が一人、それを遺恨に思つて、暮方その職人の外へ出る所を待伏せて、いきなり鉤を向うの肩へ打ちこんだと云ふぢやありませんか。それも「主人の讐、思ひ知れ」と云ひながら、やつたのださうです。……」
藤左衞門は、手眞似(てまね)をしながら、笑ひ\/、かう云つた。
「それは又亂暴至極ですな。」
「職人の方は、大怪我をしたやうです。それでも、近所の評判は、その丁稚の方が好いと云ふのだから、不思議でせう。その外まだ其の通町三丁目にも一つ、新麹町の二丁目にも一つ、それから、もう一つは何處でしたかな。兎に角、諸方にあるさうです。それが皆、我々の眞似ださうだから、可笑(をか)しいぢやありませんか。」
藤左衞門と忠左衞門とは、顏を見合せて、笑つた。復讐の擧が江戶の人心に與えた影響を耳にするのは、どんな些事にしても、快いに相違ない。ただ一人内藏助だけは、僅に額へ手を加えた儘、つまらなさうな顏をして、默つてゐる。――藤左衞門の話は、彼の心の滿足に、かすかながら妙な曇りを落させた。と云つても、勿論彼が、彼のした行爲のあらゆる結果に、責任を持つ氣でゐた譯ではない。彼等が復讐の擧を果して以來、江戶中に仇討が流行した所で、それはもとより彼の良心と風馬牛なのが當然である。しかし、それにも關らず、彼の心からは、今までの春の溫もりが、幾分か減却したやうな感じがあつた。
事實を云へば、その時の彼は、單に自分たちのした事の影響が、意外な所まで波動したのに、聊驚いただけなのである。が、ふだんの彼なら、藤左衞門や忠左衞門と共に、笑つてすませてる筈のこの事實が、その時の滿足しきつた彼の心には、ふと不快な種を蒔く事になつた。これは恐らく、彼の滿足が、暗々の裡に論理と背馳して、彼の行爲とその結果のすべてとを肯定する程、蟲の好い性質を帶びてゐたからであらう。勿論當時の彼の心には、かう云ふ解剖的な考へは、少しもはいつて來なかつた。彼はただ、春風の底に一脈の氷冷の氣を感じて、何となく不愉快になつただけである。
しかし、内藏助の笑はなかつたのは、格別二人の注意を惹かなかつたらしい。いや、人の好い藤左衞門の如きは、彼自身にとつてこの話が興味あるやうに、内藏助にとつても興味があるものと確信して疑はなかつたのであらう。それでなければ、彼は、更に自身下の間(ま)へ赴いて、當日の當直だつた細川家の家來、堀内傳右衞門を、わざ\/こちらへつれて來などはしなかつたのに相違ない。所が、萬事にまめな彼は、忠左衞門を顧て、「傳右衞門殿をよんで來ませう。」とか何とか云ふと、早速隔ての襖をあけて、氣輕く下の間へ出向いて行つた。さうして、程なく、見た所から無骨らしい傳右衞門とつれ出て、不相變の微笑をたゝへながら、得々として歸つて來た。
「いや、これは、とんだ御足勞を願つて恐縮でございますな。」
忠左衞門は、傳右衞門の姿を見ると、良雄に代つて、微笑しながらかう云つた。傳右衞門の素朴で、眞率(しんそつ)な性格は、お預けになつて以來、夙に彼と彼等との間を、故舊のやうな溫情でつないでゐたからである。
「早水氏が是非こちらへ參れと云われるので、御邪魔とは思ひながら、罷り出ました。」
傳右衞門は、座につくと、太い眉毛を動かしながら、日にやけた頰の筋肉を、今にも笑ひ出しさうに動かして、萬遍なく一座を見廻した。これにつれて、書物を讀んでゐたのも、筆を動かしてゐたのも、皆それぞれ挨拶をする。内藏助もやはり、慇懃に會釋をした。唯その中で聊滑稽の觀があつたのは、讀みかけた太平記を前に置いて、眼鏡をかけた儘、居眠りをしてゐた堀部彌兵衞が、眼をさますが早いか、慌ててその眼鏡をはづして、丁寧に頭を下げた容子である。これにはさすがな間喜兵衞も、よく\/可笑しかつたものと見えて、傍の衝立(ついたて)の方を向きながら、苦しさうな顏をして笑をこらえてゐた。
「傳右衞門殿も老人はお嫌いだと見えて、兎角こちらへはお出になりませんな。」
内藏助は、何時(いつ)に似合わない、滑な調子で、かう云つた。幾分か亂されはしたものの、まだ彼の胸底には、さつきの滿足の情が、暖く流れてゐたからであらう。
「いや、さう云ふ譯ではございませんが、何かとあちらの方々に引とめられて、ついその儘、話しこんでしまふのでございます。」
「今も承れば、大分面白い話が出たやうでございますな。」
忠左衞門も、傍から口を挾んだ。
「面白い話――と申しますと……」
「江戶中で仇討の眞似事が流行(はや)ると云ふ、あの話でございます。」
藤左衞門は、かう云つて、傳右衞門と内藏助とを、にこ\/しながら、等分に見比べた。
「はあ、いや、あの話でございますか。人情と云ふものは、實に妙なものでございます。御一同の忠義に感じると、町人百姓までさう云ふ眞似がして見たくなるのでございませう。これで、どの位じだらくな上下の風俗が、改まるかわかりません。やれ淨瑠璃の、やれ歌舞伎のと、見たくもないものばかり流行(はや)つてゐる時でございますから、丁度よろしうございます。」
會話の進行は、又内藏助にとつて、面白くない方向へ進むらしい。そこで、彼は、わざと重々しい調子で、卑下の辭を述べながら、巧にその方向を轉換しやうとした。
「手前たちの忠義をお褒め下さるのは難有いが、手前一人の量見では、お恥しい方が先に立ちます。」
かう云つて、一座を眺めながら、
「何故(なぜ)かと申しますと、赤穗一藩に人も多い中で、御覽の通りこゝに居りまするものは、皆小身者ばかりでございます。尤も最初は、奧野將監などと申す番頭(ばんがしら)も、何かと相談にのつたものでございますが、中ごろから量見を變へ、ついに同盟を脫しましたのは、心外と申すよりほかはございません。その外、新藤源四郞、河村傳兵衞、小山源五左衞門などは、原惣右衞門より上席でございますし、佐々小左衞門なども、吉田忠左衞門より身分は低うございますが、皆一擧が近づくにつれて、變心致しました。その中には、手前の親族の者もございます。して見ればお恥しい氣のするのも無理はございますまい。」
一座の空氣は、内藏助のこの語と共に、今までの陽氣さをなくなして、急に眞面目な調子を帶びた。この意味で、會話は、彼の意圖通り、方向を轉換したと云つても差支へない。が、轉換した方向が、果して内藏助にとつて、愉快なものだつたかどうかは、自ら又別な問題である。
彼の述懷を聞くと、先(まづ)早水藤左衞門は、兩手にこしらへてゐた拳骨を、二三度膝の上にこすりながら、
「彼奴等(きやつら)は皆、揃ひも揃つた人畜生ばかりですな。一人として、武士の風上にも置けるやうな奴は居りません。」
「さやうさ。それも高田群兵衞などになると、畜生より劣つていますて。」
忠左衞門は、眉をあげて、賛同を求めるやうに、堀部彌兵衞を見た。慷慨家の彌兵衞は、もとより默つていない。
「引き上げの朝、彼奴に遇つた時には、唾を吐きかけても飽き足らぬと思ひました。何しろのめ\/と我々の前へ面をさらした上に、御本望を遂げられ、大慶の至りなどと云ふのですからな。」
「高田も高田じやが、小山田庄左衞門などもしようのないたわけ者じや。」
間瀨久太夫が、誰に云ふともなくかう云ふと、原惣右衞門や小野寺十内も、やはり口を齊しくして、背盟の徒を罵りはじめた。寡默な間喜兵衞でさへ、口こそきかないが、白髮頭をうなずかせて、一同の意見に賛同の意を表した事は、度々ある。
「何に致せ、御一同のやうな忠臣と、一つ御藩に、さやうな輩(やから)が居らうとは、考へられも致しませんな。さればこそ、武士はもとより、町人百姓まで、犬侍の祿盜人のと惡口を申して居るやうでございます。岡林杢之助殿なども、昨年切腹こそ致されたが、やはり親類緣者が申し合せて、詰腹を斬らせたのだなどと云ふ風評がございました。又よしんばさうでないにしても、かやうな場合に立ち至つて見れば、その汚名も受けずには居られますまい。まして、餘人は猶更の事でございます。これは、仇討の眞似事を致す程、義に勇みやすい江戶の事と申し、且はかねがね御一同の御憤りもある事と申し、さやうな輩を斬つてすてるものが出ないとも、限りませんな。」
傳右衞門は、他人事(ひとごと)とは思はないやうな容子で、昂然とかう云ひ放つた。この分では、誰よりも彼自身が、その斬り捨ての任に當り兼ねない勢である。これに煽動された吉田、原、早水、堀部などは、皆一種の興奮を感じたやうに、愈手ひどく、亂臣賊子を罵殺しにかかつた。――が、その中に唯一人、大石内藏助だけは、兩手を膝の上にのせた儘、愈つまらなさうな顏をして、だんだん口數をへらしながら、ぼんやり火鉢の中を眺めてゐる。
彼は、彼の轉換した方面へ會話が進行した結果、變心した故朋輩の代價で、彼等の忠義が益褒めそやされてゐると云ふ、新しい事實を發見した。さうして、それと共に、彼の胸底を吹いてゐた春風は、再幾分の溫もりを減却した。勿論彼が背盟の徒の爲に惜んだのは、單に會話の方向を轉じたかつた爲ばかりではない、彼としては、實際彼等の變心を遺憾とも不快とも思つてゐた。が、彼はそれらの不忠の侍をも、憐みこそすれ、憎いとは思つてゐない。人情の向背も、世故の轉變も、つぶさに味つて來た彼の眼から見れば、彼等の變心の多くは、自然すぎる程自然であつた。もし眞率と云ふ語が許されるとすれば、氣の毒な位な眞率であつた。從つて、彼は彼等に對しても、終始寬容の態度を改めなかつた。まして、復讐の事の成つた今になつて見れば、彼等に與ふ可きものは、ただ憫笑が殘つてゐるだけである。それを世間は、殺しても猶飽き足らないやうに、思つてゐるらしい。何故我々を忠義の士とする爲には、彼等を人畜生としなければならないのであらう。我々と彼等との差は、存外大きなものではない。――江戶の町人に與へた妙な影響を、前に快からず思つた内藏助は、それとは稍ちがつた意味で、今度は背盟の徒が蒙つた影響を、傳右衞門によつて代表された、天下の公論の中に看取した。彼が苦い顏をしたのも、決して偶然ではない。
しかし、内藏助の不快は、まだこの上に、最後の仕上げを受ける運命を持つてゐた。
彼の無言でゐるのを見た傳右衞門は、大方それを彼らしい謙讓な心もちの結果とでも、推測したのであらう。愈彼の人柄に敬服した、その敬服さ加減を披瀝する爲に、この朴直な肥後侍(ひござむらい)は、無理に話頭を一轉すると、忽(たちまち)内藏助の忠義に對する、盛な歎賞の辭をならべはじめた。
「過日もさる物識りから承りましたが、唐土(もろこし)の何とやら申す侍は、炭を呑んで啞になつてまでも、主人の仇をつけ狙つたさうでございますな。しかし、それは内藏助殿のやうに、心にもない放埒をつくされるよりは、まだ\/苦しくない方ではございますまいか。」
傳右衞門は、かう云ふ前置きをして、それから、内藏助が濫行を盡した一年前の逸聞を、長々としやべり出した。高尾や愛宕の紅葉狩も、佯狂の彼には、どの位つらかつた事であらう。島原や祇園の花見の宴も、苦肉の計に耽つてゐる彼には、苦しかつたのに相違ない。……
「承れば、その頃京都では、大石かるくて張拔石(はりぬきいし)などと申す唄も、流行りました由を聞き及びました。それほどまでに、天下を欺き了せるのは、よく\/の事でなければ出來ますまい。先頃天野彌左衞門樣が、沈勇だと御賞美になつたのも、至極道理な事でございます。」
「いや、それ程何も、大した事ではございません。」内藏助は、不承々々に答えた。
その人に傲(たかぶ)らない態度が、傳右衞門にとつては、物足りないと同時に、一層の奧床しさを感じさせたと見えて、今まで内藏助の方を向いてゐた彼は、永年京都勤番をつとめてゐた小野寺十内の方へ向きを換えると、益、熱心に推服の意を洩し始めた。その子供らしい熱心さが、一黨の中でも通人の名の高い十内には、可笑(をか)しいと同時に、可愛かつたのであらう。彼は、素直(すなほ)に傳右衞門の意をむかへて、當時内藏助が仇家の細作を欺く爲に、法衣をまとつて升屋の夕霧のもとへ通ひつめた話を、事明細に話して聞かせた。
「あの通り眞面目な顏をしてゐる内藏助が、當時は里げしきと申す唄を作つた事もございました。それが又、中々評判で、廓中どこでもうたはなかつた所はなかつた位でございます。そこへ當時の内藏助の風俗が、墨染の法衣姿で、あの祇園の櫻がちる中を、浮(うき)さま\/とそやされながら、醉つて步くと云ふのでございませう。里げしきの唄が流行(はや)つたり、内藏助の濫行も名高くなつたり致したのは、少しも無理はございません。何しろ夕霧と云ひ、浮橋と云ひ、島原や撞木町の名高い太夫たちでも、内藏助と云へば、下にも置かぬやうに扱ふと云ふ騷ぎでございましたから。」
内藏助は、かう云ふ十内の話を、殆侮蔑されたやうな心もちで、苦々(にが\/)しく聞いてゐた。と同時に又、昔の放埒の記憶を、思ひ出すともなく思ひ出した。それは、彼にとつては、不思議な程色彩の鮮(あざやか)な記憶である。彼はその思ひ出の中に、長蠟燭の光を見、伽羅の油の匂を嗅ぎ、加賀節の三味線の音を聞いた。いや、今十内が云つた里(さと)げしきの「さすが淚のばら\/袖に、こぼれて袖に、露のよすがのうきつとめ」と云ふ文句さへ、春宮の中からぬけ出したやうな、夕霧や浮橋のなまめかしい姿と共に、歷々と心中に浮んで來た。如何に彼は、この記憶の中に出沒するあらゆる放埒の生活を、思ひ切つて受用した事であらう。さうして又、如何に彼は、その放埒の生活の中に、復讐の擧を全然忘却した駘蕩たる瞬間を、味つた事であらう。彼は己を欺いて、この事實を否定するには、餘りに正直な人間であつた。勿論この事實が不道德なものだなどと云ふ事も、人間性に明な彼にとつて、夢想さへ出來ない所である。從つて、彼の放埒のすべてを、彼の忠義を盡す手段として激賞されるのは、不快であると共に、うしろめたい。
かう考へてゐる内藏助が、その所謂佯狂苦肉の計を褒められて、苦い顏をしたのに不思議はない。彼は、再度の打擊をうけて僅に殘つてゐた胸間の春風が、見る\/中に吹きつくしてしまつた事を意識した。あとに殘つてゐるのは、一切の誤解に對する反感と、その誤解を豫想しなかつた彼自身の愚に對する反感とが、うすら寒く影をひろげてゐるばかりである。彼の復讐の擧も、彼の同志も、最後に又彼自身も、多分この儘、勝手な賞讃の聲と共に、後代まで傳へられる事であらう。――かう云ふ不快な事實と向ひあひながら、彼は火の氣のうすくなつた火鉢に手をかざすと、傳右衞門の眼をさけて、情無ささうにため息をした。
――――――――――――――――――
それから何分かの後である。厠へ行くのにかこつけて、座をはづして來た大石内藏助は、獨り緣側の柱によりかゝつて、寒梅の老木が、古庭の苔と石との間に、的皪(てきれき)たる花をつけたのを眺めてゐた。日の色はもううすれ切つて、植込みの竹のかげからは、早くも黃昏がひろがらうとするらしい。が、障子の中では、不相變面白さうな話聲がつゞいてゐる。彼はそれを聞いてゐる中に、自(おのづか)らな一味の哀情が、徐に彼をつゝんで來るのを意識した。このかすかな梅の匂につれて、冴返る心の底へしみ透つて來る寂しさは、この云ひやうのない寂しさは、一體どこから來るのであらう。――内藏之助は、靑空に象嵌(ぞうがん)をしたやうな、堅く冷(つめた)い花を仰ぎながら、いつまでもぢつと彳んでゐた。
■やぶちゃん注
・かんがりと:赤々ととか、赤く輝くさまを言うと思われるが、一般的な標準語ではない。私はこの小説以外で目にしたことがない。
・控制:牽制。押さえとどめること。引き留め、制止させること。
・細作:間諜。間者。諜者。
・早水藤左衛門:姓は「はやみ」と読む。
・動もすれば:「動(やや)もすれば」と読む。
・疚しさ:「疚(やま)しさ」と読む。
・傳右衞門:堀内伝右衛門重勝。細川越中守綱利家臣。討ち入りした赤穂藩士四十七士(実際には吉田忠左衛門の足軽であった寺坂吉右衛門信行が討ち入り後に一行から退去して生き残っているので46人)の内、大石以下17名が細川家に預けられたが、その際、この堀内伝右衛門は付き添い役として何かと彼らに尽力し、彼らからの聞き取りである「細川家御預義士十七人一件」(「堀内伝右衛門覚書」等とも呼ばれるようである)を遺している。
・眦:「まなじり」と読む。
・近松:赤穂浪士四十七士の一人。近松勘六行重。
・甚三郞:近松勘六行重の忠僕。討ち入り前夜には大石から瑤泉院宛の「金銀請払帳」等を届ける役を仰せ付かっている。討ち入り当夜は門外の警護役を自ら果たし、浪士一行の泉岳寺へ引き揚げに際しては、祝ぎの言葉をかけつつ、浪士に蜜柑や餅を手渡して回ったとされる。後世、義僕と称せられる。
・紺屋:「こうや」と読む。染物屋。
・風馬牛:「春秋左氏伝」僖公四年の「風馬牛相及ばず」による。「風」は発情して雌雄が相手を求めるの謂いで、惹かれ合う馬や牛の雌雄でさえも逢うことが出来ないほどに遠く離れていることを言い、転じて、全く関係がないことを言う。
・春風:筑摩書房全集類聚版では「しゆんぷう」とルビを振る。
・見た所から無骨らしい傳右衞門とつれ出て:岩波版旧全集は後発の作品集『或日の大石内藏助』によって「見た所から無骨らしい傳右衞門とつれだつて」とする。
・故舊:昔馴染み。
・奧野將監:「將監」は「しやうげん」と読む。奥野定良(おくのさだよし)。赤穂藩士。逐電してしまった家老大野九郞兵衛に代わって筆頭家老大石内蔵助と共に赤穂城明け渡しを行った組頭(=番頭)。当初は仇討ちに賛成するが、直後に脱盟している。それについて、大石が吉良を打ち洩らした際の二の手を担当していたとも、浅野長矩の隠し子の姫の養育のためとも伝えられるが、真相は不明。
・佐々小左衞門なども、吉田忠左衞門より身分は低うございますが:初出は「佐々小左衞門なども、吉田忠左衞門より身分は上でございますが」とし、岩波版旧全集もそれを採用する。私は「佐々小左衞門」なる人物の事蹟を知りえないので如何とも言いがたいが、叙述の自然さからは初出の方が当然、腑に落ちる。
・小山田庄左衛門:赤穂藩士。盟約に加わりながら、以前に夫婦約束をしていた女性と似た湯屋の遊女に入れ込んだ挙句に借金を重ね、討ち入り直前、片岡源五右衛門の金子三両と小袖を盗んで逐電した。
・岡林杢之助:「杢之助」「もくのすけ」と読む。岡林直之(なおゆき)。赤穂藩浅野家重臣。大石らとは終始距離を置いていたが、赤穂城開城の際の実務処理等を若いながら堅実にこなした。討ち入り後、世間体を氣にした兄の旗本松平忠郷(たださと)によって殉死切腹を強いられた。
・里げしき:大石うき(良雄)作詞になる地唄。参考書やネット上の複数の記述を参考にしたが、やや不確かな部分が残るものの、以下の通りである。
更けて廓のよそほひ見れば
宵の燈火うちそむき寢の
夢の花さへ散らす嵐のさそひ來て
閨につれ出すつれ人をとこ
餘處(よそ)のさらばも猶あはれにて
裏(うち)も中戶をあくる東雲(しののめ)
送る姿の一重帶
解けてほどけて寢亂れ髮の
黃楊(つげ)の小櫛も
さすが淚のはらはら袖に
こぼれて袖に
露のよすがの憂きつとめ
こぼれて袖に
つらきよすがのうき勤め
・春宮:「しゆんきゆう」と読む。春画。枕絵。
・傳右衞門の眼をさけで、情無ささうにため息をした:「傳右衞門の眼をさけて、」の誤植。
・的皪:鮮やかに白く輝くさま。