やぶちゃんの電子テクスト:小說・随筆篇へ
鬼火へ

[やぶちゃん注:大正九(1920)年七月一日発行の雑誌『中央公論』に掲載、のちに『夜來の花』等に所収された。底本には岩波版旧全集を用いたが、総ルビであるので、難読語及び読みに迷うと判断した語句を除いて、読みは排除した。【二〇二一年七月二十一日藪野直史追記:非常に古い時機の私の電子化であったため、今回、正字不全その他の修正等を行った。】]

 

南京の基督   芥川龍之介

       

 

 或秋の夜半であつた。南京奇望街の或家の一間には、色の蒼ざめた支那の少女が一人、古びた卓(テーブル)の上に頰杖をついて、盆に入れた西瓜の種を退屈さうに嚙み破つてゐた。

 卓の上には置きランプが、うす暗い光を放つてゐた。その光は部屋の中を明くすると云ふよりも、寧ろ一層陰鬱な効果を與へるのに力があつた。壁紙の剝げかかつた部屋の隅には、毛布のはみ出した籐の寢臺(ねだい)が、埃臭さうな帷(とばり)を垂らしてゐた。それから卓の向うには、これも古びた椅子が一脚、まるで忘れられたやうに置き捨ててあつた。が、その外は何處を見ても、裝飾らしい家具の類(るゐ)なぞは何一つ見當らなかつた。

 少女はそれにも關らず、西瓜の種を嚙みやめては、時々凉しい眼を擧げて、卓の一方に面した壁をぢつと眺めやる事があつた。見ると成程その壁には、すぐ鼻の先の折れ釘に、小さな眞鍮の十字架がつつましやかに懸つてゐた。さうしてその十字架の上には、稚拙な受難の基督(キリスト)が、高々と兩腕をひろげながら、手ずれた浮き彫の輪廓を影のやうにぼんやり浮べてゐた。少女の眼はこの耶蘇を見る每に、長い睫毛の後(うしろ)の寂しい色が、一瞬間何處かへ見えなくなつて、その代りに無邪氣な希望の光が、生き生きとよみ返つてゐるらしかつた。が、すぐに又視線が移ると、彼女は必吐息を洩らして、光澤のない黑繻子(くろしゆす)の上衣の肩を所在なささうに落しながら、もう一度盆の西瓜の種をぽつりぽつり嚙み出すのであつた。

 少女は名を宋金花と云つて、貧しい家計を助ける爲に、夜々その部屋に客を迎へる、當年十五歳の私窩子(しくわし)であつた。秦淮(しんわい)に多い私窩子の中には、金花程の容貌の持ち主なら、何人でもゐるのに違ひなかつた。が、金花程氣立ての優しい少女が、二人とこの土地にゐるかどうか、それは少くとも疑問であつた。彼女は朋輩の賣笑婦と違つて、噓もつかなければ我儘も張らず、夜每に愉快さうな微笑を浮べて、この陰鬱な部屋を訪れる、さまざまな客と戲れてゐた。さうして彼等の拂つて行く金が、稀に約束の額より多かつた時は、たつた一人の父親を、一杯でも餘計好きな酒に飽かせてやる事を樂しみにしてゐた。

 かう云ふ金花の行狀は、勿論彼女が生れつきにも、據つてゐるのに違ひなかつた。しかしまだその外に何か理由があるとしたら、それは金花が子供の時から、壁の上の十字架が示す通り、歿くなつた母親に敎へられた、羅馬加特力(ローマカトリツク)敎の信仰をずつと持ち續けてゐるからであつた。

 ――さう云へば今年の春、上海の競馬を見物かたがた、南部支那の風光を探りに來た、若い日本の旅行家が、金花の部屋に物好きな一夜を明かした事があつた。その時彼は葉卷を啣へて、洋服の膝に輕々と小さな金花を抱いてゐたが、ふと壁の上の十字架を見ると、不審らしい顏をしながら、

 「お前は耶蘇敎徒かい。」と、覺束ない支那語で話しかけた。

 「ええ、五つの時に洗禮を受けました。」

 「さうしてこんな商賣をしてゐるのかい。」

 彼の聲にはこの瞬間、皮肉な調子が交つたやうであつた。が、金花は彼の腕に、鴉髻(あけい)の頭を凭(もた)せながら、何時もの通り晴れ晴れと、絲切齒の見える笑を洩らした。

 「この商賣をしなければ、阿父樣(おとうさん)も私も餓ゑ死をしてしまひますから。」

 「お前の父親は老人なのかい。」

 「ええ――もう腰も立たないのです。」

 「しかしだね、――しかしこんな稼業をしてゐたのでは、天國に行かれないと思やしないか。」

 「いいえ。」

 金花はちよいと十字架を眺めながら、考深さうな眼つきになつた。

 「天國にいらつしやる基督樣は、きつと私の心もちを汲みとつて下さると思ひますから。――それでなければ基督樣は姚家巷(ようかかう)の警察署の御役人も同じ事ですもの。」

 若い日本の旅行家は微笑した。さうして上衣の隱しを探ると、翡翠の耳環を一雙出して、手づから彼女の耳へ下げてやつた。

 「これはさつき日本へ土產に買つた耳環だが、今夜の記念にお前にやるよ。」――

 金花は始めて客をとつた夜から、實際かう云ふ確信に自ら安んじてゐたのであつた。

 所が彼是一月ばかり前から、この敬虔な私窩子は不幸にも、惡性の楊梅瘡を病む體になつた。これを聞いた朋輩(ほうばい)の陳山茶(ちんざんさ)は、痛みを止めるのに好(い)いと云つて、鴉片酒を飮む事を敎へてくれた。その後又やはり朋輩の毛迎春は、彼女自身が服用した汞藍丸(こうらんぐわん)や迦路米(かろまい)の殘りを、親切にもわざわざ持つて來てくれた。が、金花の病はどうしたものか、客をとらずに引き籠つてゐても、一向快方には向はなかつた。

 すると或日陳山茶が、金花の部屋へ遊びに來た時に、こんな迷信じみた療法を尤もらしく話して聞かせた。

 「あなたの病氣は御客から移つたのだから、早く誰かに移し返しておしまひなさいよ。さうすればきつと二三日中に、よくなつてしまふのに違ひないわ。」

 金花は頰杖をついた儘、浮かない顏色を改めなかつた。が、山茶の言葉には多少の好奇心を動かしたと見えて、

 「ほんたう?」と、輕く聞き返した。

 「ええ、ほんたうだわ。私の姉(ねえ)さんもあなたのやうに、どうしても病氣が癒らなかつたのよ。それでも御客に移し返したら、ぢきによくなつてしまつたわ。」

 「その御客はどうして?」

 「御客はそれは可哀さうよ。おかげで目までつぶれたつて云ふわ。」

 山茶が部屋を去つた後、金花は獨り壁に懸けた十字架の前に跪いて、受難の基督を仰ぎ見ながら、熱心にかう云ふ祈禱を捧げた。

 「天國にいらつしやる基督樣。私は阿父樣(おとうさま)を養ふ爲に、賤しい商賣を致して居ります。しかし私の商賣は、私一人を汚す外には、誰(たれ)にも迷惑はかけて居りません。ですから私はこの儘死んでも、必天國に行かれると思つて居りました。けれども唯今の私は、御客にこの病を移さない限り、今までのやうな商賣を致して參る事は出來ません。して見ればたとひ餓ゑ死をしても、――さうすればこの病も、癒るさうでございますが、――御客と一つ寢臺に寢ないやうに、心がけねばなるまいと存じます。さもなければ私は、私どもの仕合せの爲に、怨みもない他人を不仕合せに致す事になりますから。しかし何と申しても、私は女でございます。いつ何時どんな誘惑に陷らないものでもございません。天國にいらつしやる基督樣。どうか私を御守り下さいまし。私はあなた御一人の外に、たよるもののない女でございますから。」

 かう決心した宋金花は、その後(ご)山茶や迎春にいくら商賣を勸められても、剛情に客をとらずにゐた。又時々彼女の部屋へ、なじみの客が遊びに來ても、一しよに煙草でも吸ひ合ふ外に、決して客の意に從はなかつた。

 「私は恐しい病氣を持つてゐるのです。側へいらつしやると、あなたにも移りますよ。」

 それでも客が醉つてでもゐて、無理に彼女を自由にしようとすると、金花は何時もかう云つて、實際彼女の病んでゐる證據を示す事さへ憚らなかつた。だから客は彼女の部屋には、おひおひ遊びに來ないやうになつた。と同時に又彼女の家計も、一日每に苦しくなつて行つた。…………

 今夜も彼女はこの卓に倚つて、長い間ぼんやり坐つてゐた。が、不相變(あひかはらず)彼女の部屋へは、客の來るけはひも見えなかつた。その内に夜は遠慮なく更け渡つて、彼女の耳にはひる音と云つては、唯何處かで鳴いてゐる蟋蟀(こほろぎ)の聲ばかりになつた。のみならず火の氣のない部屋の寒さは、床(ゆか)に敷きつめた石の上から、次第に彼女の鼠繻子(ねずみしゆす)の靴を、その靴の中の華奢な足を、水のやうに襲つて來るのであつた。

 金花はうす暗いランプの火に、さつきからうつとり見入つてゐたが、やがて身震ひを一つすると翡翠の輪の下つた耳を搔いて、小さな欠伸(あくび)を嚙み殺した。すると殆その途端に、ペンキ塗りの戶が勢よく開いて、見慣れない一人の外國人が、よろめくやうに外からはひつて來た。その勢が烈しかつたからであらう。卓の上のランプの火は、一しきりぱつと燃え上つて、妙に赤々と煤けた光を狹い部屋の中に漲らせた。客はその光をまともに浴びて、一度は卓の方へのめりかかつたが、すぐに又立ち直ると、今度は後(あと)へたぢろいで、今し方しまつたペンキ塗りの戶へ、どしりと背を凭せてしまつた。

 金花は思はず立ち上つて、この見慣れない外國人の姿へ、呆氣にとられた視線を投げた。客の年頃は三十五六でもあらうか。縞目のあるらしい茶の背廣に、同じ巾地(きれぢ)の鳥打帽をかぶつた、眼の大きい、顋髯(あごひげ)のある、頰の日に燒けた男であつた。が、唯一つ合點の行かない事には、外國人には違ひないにしても、西洋人か東洋人か、奇體にその見分けがつかなかつた。それが黑い髮の毛を帽の下からはみ出させて、火の消えたパイプを啣へながら、戶口に立ち塞つてゐる有樣は、どう見ても泥醉した通行人が戶まどひでもしたらしく思はれるのであつた。

 「何か御用ですか。」

 金花は稍無氣味な感じに襲はれながら、やはり卓の前に立ちすくんだ儘、詰(なじ)るやうにかう尋ねて見た。すると相手は首を振つて、支那語はわからないと云ふ相圖をした。それから橫啣へにしたパイプを離して、何やら意味のわからない滑かな外國語を一言洩らした。が、今度は金花の方が、卓の上のランプの光に、耳環の翡翠をちらつかせながら、首を振つて見せるより外に仕方がなかつた。

 客は彼女が當惑らしく、美しい眉をひそめたのを見ると、突然大聲に笑ひながら、無造作に鳥打帽を脫ぎ離して、よろよろこちらへ步み寄つた。さうして卓の向うの椅子へ、腰が拔けたやうに尻を下した。金花はこの時この外國人の顏が、何時何處と云ふ記憶はないにしても、確に見覺えがあるやうな、一種の親しみを感じ出した。客は無遠慮に盆の上の西瓜の種をつまみながら、と云つてそれを嚙むでもなく、じろじろ金花を眺めてゐたが、やがて又妙な手眞似まじりに、何か外國語をしやべり出した。その意味も彼女にはわからなかつたが、唯この外國人が彼女の商賣に、多少の理解を持つてゐる事は、朧げながらも推測がついた。

 支那語を知らない外國人と、長い一夜を明す事も、金花には珍しい事ではなかつた。そこで彼女は椅子にかけると、殆習慣になつてゐる、愛想の好い微笑を見せながら、相手には全然通じない冗談などを云ひ始めた。が、客はその冗談がわかるのではないかと疑はれる程、一言二言しやべつては、上機嫌の笑ひ聲を擧げながら、前よりも更に目まぐるしく、いろいろな手眞似を使ひ出した。

 客の吐く息は酒臭かつた。しかしその陶然と赤くなつた顏は、この索寞とした部屋の空氣が、明くなるかと思ふ程、男らしい活力に溢れてゐた。少くともそれは金花にとつては、日頃見慣れてゐる南京の同國人は云ふまでもなく、今まで彼女が見た事のある、どんな東洋西洋の外國人よりも立派であつた。が、それにも關らず、前にも一度この顏を見た覺えのあると云ふ、さつきの感じだけはどうしても、打ち消す事が出來なかつた。金花は客の額に懸つた、黑い捲き毛を眺めながら、氣輕さうに愛嬌を振り撒く内にも、この顏に始めて遇つた時の記憶を、一生懸命に喚び起さうとした。

 「この間肥つた奧さんと一しよに、畫舫(ぐわぼう)に乘つてゐた人かしら。いやいや、あの人は髮の色が、もつとずつと赤かつた。では秦淮の孔子樣の廟へ、寫眞機を向けてゐた人かも知れない。しかしあの人はこの御客より、年をとつてゐたやうな心もちがする。さうさう、何時か利渉橋(りせふけう)の側の飯館の前に、人だかりがしてゐると思つたら、丁度この御客によく似た人が、太い籐の杖を振り上げて、人力車夫の背中を打つてゐたつけ。事によると、――が、どうもあの人の眼は、もつと瞳が靑かつたやうだ。……」

 金花がこんな事を考へてゐる内に、不相變愉快さうな外國人は、何時(いつ)かパイプに煙草をつめて、匂の好(い)い煙を吐き出してゐた。それが急に又何とか云つて、今度はおとなしくにやにや笑ふと、片手の指を二本延べて、金花の眼の前へ突き出しながら、?と云ふ意味の身ぶりをした。指二本が二弗(どる)と云ふ金額を示してゐることは、勿論誰(だれ)の眼にも明かであつた。が、客を泊めない金花は、器用に西瓜の種を鳴らして、否(いや)と云ふ印に二度ばかり、これも笑ひ顏を振つて見せた。すると客は卓の上に橫柄な兩肘を凭せた儘、うす暗いランプの光の中に、近々と醉顏をさし延ばして、ぢつと彼女を見守つたが、やがて又指を三本出して、答を待つやうな眼つきをした。

 金花はちよいと椅子をずらせて、西瓜の種を含んだ儘、當惑らしい顏になつた。客は確に二弗の金では、彼女が體を任せないと云つたやうに思つてゐるらしかつた。と云つて言葉の通じない彼に、立ち入つた仔細をのみこませる事は、到底出來さうにも思はれなかつた。そこで金花は今更のやうに、彼女の輕率を後悔しながら、凉しい視線を外へ轉じて、仕方なく更にきつぱりと、もう一度頭を振つて見せた。

 所が相手の外國人は、暫くうす笑ひを浮べながら、ためらふやうな氣色を示した後、四本の指をさし延ばして、何か又外國語をしやべつて聞かせた。途方に暮れた金花は頰を抑へて、微笑する氣力もなくなつてゐたが、咄嗟にもうかうなつた上は、何時までも首を振り續けて、相手が思ひ切る時を待つ外はないと決心した。が、さう思ふ内にも客の手は、何か眼に見えないものでも捉へるやうに、とうとう五指とも開いてしまつた。

 それから二人は長い間、手眞似と身ぶりとの入り交つた押し問答を續けてゐた。その間に客は根氣よく、一本づつ指の數を增した揚句、しまひには十弗の金を出しても、惜しくないと云ふ意氣ごみを示すやうになつた。が、私窩子には大金の十弗も、金花の決心は動かせなかつた。彼女はさつきから椅子を離れて、斜に卓の前へ佇んでゐたが、相手が兩手の指を見せると、苛立たしさうに足踏みして、何度も續けさまに頭を振つた。その途端にどう云ふ拍子か、釘に懸つてゐた十字架がはづれて、かすかな金屬の音を立てながら、足もとの敷石の上に落ちた。

 彼女は慌しい手を延べて、大切な十字架を拾ひ上げた。その時何氣なく十字架に彫られた、受難の基督の顏を見ると、不思議にもそれが卓の向うの、外國人の顏と生き寫しであつた。

「何でも何處かで見たやうだと思つたのは、この基督樣の御顏だつたのだ。」

 金花は黑繻子の上衣の胸に、眞鍮の十字架を押し當てた儘、卓を隔てた客の顏へ、思はず驚きの視線を投げた。客はやはりランプの光に、酒氣を帶びた顏を火照らせながら、時々パイプの煙を吐いては、意味ありげな微笑を浮べてゐた。しかもその眼は彼女の姿へ、――恐らくは白い頸すぢから、翡翠の環を下げた耳のあたりへ、絕えずさまよつてゐるらしかつた。しかしかう云ふ客の容子も、金花には優しい一種の威嚴に、充ち滿ちてゐるかのやうな心もちがした。

 やがて客はパイプを止めると、わざとらしく小首を傾けて、何やら笑ひ聲の言葉をかけた。それが金花の心には、殆巧妙な催眠術師が、被術者の耳に囁き聞かせる、暗示のやうな作用を起した。彼女はあの健氣(けなげ)な決心も、全く忘れてしまつたのか、そつとほほ笑んだ眼を伏せて、眞鍮の十字架を手まさぐりながら、この怪しい外國人の側へ、羞(はづか)しさうに步み寄つた。

 客はズボンの隱しを探つて、じやらじやら銀の音をさせながら、依然とうす笑ひを浮べた眼に、暫くは金花の立ち姿を好ましさうに眺めてゐた。が、その眼の中のうす笑ひが、熱のあるやうな光に變つたと思ふと、いきなり椅子から飛び上つて、酒の匀のする背廣の腕に、力一ぱい金花を抱きすくめた。金花はまるで喪心したやうに、翡翠の耳環の下がつた頭をぐつたりと後(うしろ)へ仰向けた儘、しかし蒼白い頰の底には、鮮(あざやか)な血の色を仄めかせて、鼻の先に迫つた彼の顏へ、恍惚としたうす眼を注いでゐた。この不思議な外國人に、彼女の體を自由にさせるか、それとも病を移さない爲に、彼の接吻を刎(は)ねつけるか、そんな思慮をめぐらす餘裕は、勿論何處にも見當らなかつた。金花は髯だらけな客の口に、彼女の口を任せながら、唯燃えるやうな戀愛の歡喜が、始めて知つた戀愛の歡喜が、激しく彼女の胸もとへ、突き上げて來るのを知るばかりであつた。…………

 

       

 

 數時間の後(のち)、ランプの消えた部屋の中には、唯かすかな蟋蟀の聲が、寢臺を洩れる二人の寢息に、寂しい秋意(しうい)を加へてゐた。しかしその間(ま)に金花の夢は、埃じみた寢臺の帷(とばり)から、屋根の上にある星月夜へ、煙のやうに高々と昇つて行つた。

         *   *   *   *   *

 ――金花は紫檀の椅子に坐つて、卓の上に並んでゐる、さまざまな料理に箸をつけてゐた。燕の巢、鮫の鰭、蒸した卵、燻(いぶ)した鯉、豚の丸煮、海參(なまこ)の羹(あつもの)、――料理はいくら數へても、到底數へ盡されなかつた。しかもその食器が悉(ことごとく)、べた一面に靑い蓮華や金の鳳凰を描き立てた、立派な皿小鉢ばかりであつた。

 彼女の椅子の後には、絳紗(こうしや)の帷を垂れた窓があつて、その又窓の外には川があるのか、靜(しづか)な水の音や櫂(かひ)の音が、絕えず此處まで聞えて來た。それがどうも彼女には、幼少の時から見慣れてゐる、秦淮らしい心もちがした。しかし彼女が今ゐる所は、確に天國の町にある、基督の家に違ひなかつた。

 金花は時々箸を止めて、卓の周圍を眺めまはした。が、廣い部屋の中には、龍の彫刻のある柱だの、大輪の菊の鉢植ゑだのが、料理の湯氣に仄めいてゐる外は、一人も人影は見えなかつた。

 それにも關らず卓の上には、食器が一つからになると、忽ち何處からか新しい料理が、暖な香氣を漲らせて、彼女の眼の前へ運ばれて來た。と思ふと又箸をつけない内に、丸燒きの雉なぞが羽搏きをして紹興酒の瓶(びん)を倒しながら、部屋の天井へばたばたと、舞ひ上つてしまふ事もあつた。

 その内に金花は誰(たれ)か一人、音もなく彼女の椅子の後へ、步み寄つたのに心づいた。そこで箸を持つた儘、そつと後を振り返つて見た。すると其處にはどう云ふ譯か、あると思つた窓がなくて、緞子(どんす)の蒲團を敷いた紫檀の椅子に、見慣れない一人の外國人が、眞鍮の水煙管(みづぎせる)を啣へながら、悠々と腰を下してゐた。

 金花はその男を一目見ると、それが今夜彼女の部屋へ、泊りに來た男だと云ふ事がわかつた。が、唯一つ彼と違ふ事には、丁度三日月のやうな光の環が、この外國人の頭の上、一尺ばかりの空に懸つてゐた。その時又金花の眼の前には、何だか湯氣の立つ大皿が一つ、まるで卓から湧いたやうに、突然旨さうな料理を運んで來た。彼女はすぐに箸を擧げて、皿の中の珍味を挾まうとしたが、ふと彼女の後にゐる外國人の事を思ひ出して、肩越しに彼を見返りながら、

 「あなたも此處へいらつしやいませんか。」と、遠慮がましい聲をかけた。

 「まあ、お前だけお食べ。それを食べるとお前の病氣が、今夜の内によくなるから。」

 圓光を頂いた外國人は、やはり水煙管を啣へた儘、無限の愛を含んだ微笑を洩らした。

 「ではあなたは召上らないのでございますか。」

 「私かい。私は支那料理は嫌ひだよ。お前はまだ私を知らないのかい。耶蘇基督(やそキリスト)はまだ一度も、支那料理を食べた事はないのだよ。」

 南京の基督はかう云つたと思ふと、徐(おもむろ)に紫檀の椅子を離れて、呆氣にとられた金花の頰へ、後から優しい接吻を與へた。

         *    *    *    *    *

 天國の夢がさめたのは、既に秋の明け方の光が、狹い部屋中にうすら寒く擴がり出した頃であつた。が、埃臭い帷を垂れた、小舸(せうか)のやうな寢臺の中には、さすがにまだ生暖い仄かな闇が殘つてゐた。そのうす暗がりに浮んでゐる、半ば仰向いた金花の顏は、色もわからない古毛布に、圓い括(くく)り顋(あご)を隱した儘、未に眠い眼を開かなかつた。しかし血色の惡い頰には、昨夜の汗にくつついたのか、べつたり油じみた髮が亂れて、心もち明いた唇の隙(すき)にも、糯米(もちごめ)のやうに細い齒が、かすかに白々と覗いてゐた。

 金花は眠りがさめた今でも、菊の花や、水の音や、雉の丸燒きや、耶蘇基督や、その外いろいろな夢の記憶に、うとうと心をさまよはせてゐた。が、その内に寢臺の中が、だんだん明くなつて來ると、彼女の快い夢見心にも、傍若無人な現實が、昨夜不思議な外國人と一しよに、この籐の寢臺(ねだい)へ上つた事が、はつきりと意識に踏みこんで來た。

 「もしあの人に病氣でも移したら、――」

 金花はさう考へると、急に心が暗くなつて、今朝は再(ふたゝび)彼の顏を見るに堪へないやうな心もちがした。が、一度眼がさめた以上、なつかしい彼の日に燒けた顏を何時までも見ずにゐる事は、猶更彼女には堪へられなかつた。そこで暫くためらつた後、彼女は怯づ怯づ眼を開いて、今はもう明くなつた寢臺の中を見まはした。しかし其處には思ひもよらず、毛布に蔽はれた彼女の外は、十字架の耶蘇に似た彼は勿論、人の影さへも見えなかつた。

 「ではあれも夢だつたかしら。」

 垢じみた毛布を刎ねのけるが早いか、金花は寢臺の上に起き直つた。さうして兩手に眼を擦つてから、重さうに下つた帷を揭げて、まだ澁い視線を部屋の中へ投げた。

 部屋は冷かな朝の空氣に、殘酷な位歷々と、あらゆる物の輪廓を描いてゐた。古びた卓、火の消えたランプ、それから一脚は床に倒れ、一脚は壁に向つてゐる椅子、――すべてが昨夜の儘であつた。そればかりか現に卓の上には、西瓜の種が散らばつた中に、小さな眞鍮の十字架さへ、鈍い光を放つてゐた。金花は眩い眼をしばたたいて、茫然とあたりを見まはしながら、暫くは取り亂した寢臺の上に、寒さうな橫坐りを改めなかつた。

 「やつぱり夢ではなかつたのだ。」

 金花はかう呟きながら、さまざまにあの外國人の不可解な行く方(へ)を思ひやつた。勿論考へるまでもなく、彼は彼女が眠つてゐる暇(ひま)に、そつと部屋を拔け出して、歸つたかも知れないと云ふ氣はあつた。しかしあれ程彼女を愛撫した彼が、一言も別れを惜まずに、行つてしまつたと云ふ事は、信じられないと云ふよりも、寧ろ信じるに忍びなかつた。その上彼女はあの怪しい外國人から、まだ約束の十弗の金さへ、貰ふ事を忘れてゐたのであつた。

 「それとも本當に歸つたのかしら。」

 彼女は重い胸を抱きながら、毛布の上に脫ぎ捨てた、黑繻子の上衣をひつかけようとした。が、突然その手を止めると、彼女の顏には見る見る内に、生き生きした血の色が擴がり始めた。それはペンキ塗りの戶の向うに、あの怪しい外國人の足音でも聞えた爲であらうか。或は又枕や毛布にしみた、酒臭い彼の移り香が、偶然恥しい昨夜の記憶を喚びさました爲であらうか。いや、金花はこの瞬間、彼女の體に起つた奇蹟が、一夜(や)の中に跡方もなく、惡性を極めた楊梅瘡を癒した事に氣づいたのであつた。

 「ではあの人が基督樣だつたのだ。」

 彼女は思はず襯衣(したぎ)の儘、轉ぶやうに寢臺を這ひ下りると、冷たい敷き石の上に跪いて、再生の主(しゆ)と言葉を交した、美しいマグダラのマリアのやうに、熱心な祈禱を捧げ出した。…………

 

       

 

 翌年の春の或夜、宋金花を訪れた、若い日本の旅行家は、再うす暗いランプの下に、彼女と卓を挾んでゐた。

「まだ十字架がかけてあるぢやないか。」

 その夜彼が何かの拍子に、ひやかすやうにかういふと、金花は急に眞面目になつて、一夜南京に降(くだ)つた基督が、彼女の病を癒したと云ふ、不思議な話を聞かせ始めた。

 その話を聞きながら、若い日本の旅行家は、こんな事を獨り考へてゐた。――

「おれはその外國人を知つてゐる。あいつは日本人と亞米利加人との混血兒(こんけつじ)だ。名前は確か George Murry とか云つたつけ。あいつはおれの知り合ひの路透(ロイテル)電報局の通信員に、基督敎を信じてゐる、南京の私窩子を一晩買つて、その女がすやすや眠つてゐる間に、そつと逃げて來たと云ふ話を得意らしく話したさうだ。おれがこの前に來た時には、丁度あいつもおれと同じ上海のホテルに泊つてゐたから、顏だけは今でも覺えてゐる。何でもやはり英字新聞の通信員だと稱してゐたが、男振りに似合はない、人の惡るさうな人間だつた。あいつがその後(ご)惡性な梅毒から、とうとう發狂してしまつたのは、事によるとこの女の病氣が傳染したのかも知れない。しかしこの女は今になつても、ああ云ふ無賴な混血兒を耶蘇基督だと思つてゐる。おれは一體この女の爲に、蒙を啓(ひら)いてやるべきであらうか。それとも默つて永久に、昔の西洋の傳說のやうな夢を見させて置くべきだらうか……」

 金花の話が終つた時、彼は思ひ出したやうに燐寸(まつち)を擦つて、匀の高い葉卷をふかし出した。さうしてわざと熱心さうに、こんな窮した質問をした。

「さうかい。それは不思議だな。だが、――だがお前は、その後(ご)一度も煩はないかい。」

「ええ、一度も。」

 金花は西瓜の種を嚙りながら、暗れ晴れと顏を輝かせて、少しもためらはずに返事をした。

   本篇を草するに當り、谷崎潤一郞氏作「秦淮の一夜」に負ふ所尠からず。附記して感謝の意を表す。