やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ
點心 芥川龍之介 《初出復元版》 附やぶちゃん注

[やぶちゃん注:大正十(1921)年2月及び3月発行の『新潮』に掲載された。後に「時弊一つ」を削除したものが『點心』に所収、また「御降り」「池西言水」の二篇は『沙羅の花』にも、また、「御降り」と「蕗」の二篇は『梅・馬・鶯』にも所収された。「御降り」は特に遺愛の一品であったようである。底本は岩波版旧全集を用いたが、削除された「時弊一つ」(底本では別稿と呼称して後に附している)は本来の位置に戻してテクスト化した。特に差別化をする必要性を認めないので、「むし」の傍点「○」と、「時弊一つ」の傍点「・」は同じ下線に代えた。各章の末尾に私の注を附した(注では筑摩書房全集類聚版脚注及び岩波版新全集注解を一部参考にした)。]

 

 

點心

 

       御降り

 

 今日は御降りである。尤も歳事記を檢べて見たら、二日は御降りと云はぬかも知れぬ。が蓬萊を飾つた二階にゐれば、やはり心もちは御降りである。下では赤ん坊が泣き續けてゐる。舌に腫物が出來たと云ふが、鵞口瘡にでもならねば好い。ぢつと炬燵に當りながら、「つづらふみ」を讀んでゐても、心は何時かその泣き聲にとられてゐる事が度々ある。私の家は鶉居ではない。娑婆界の苦勞は御降りの今日も、遠慮なく私を惱ますのである。昔或御降りの座敷に、姉や姉の友達と、羽根をついて遊んだ事がある。その仲間には私の外にも、私より幾つか年上の、おとなしい少年が交つてゐた。彼は其處にゐた少女たちと、悉仲好しの間がらだつた。だから羽根をつき落したものは、羽子板を讓る規則があつたが、自然と誰でも私より、彼へ羽子板を渡し易かつた。所がその内にどう云ふ拍子か、彼のついた金羽根(きんばね)が、長押しの溝に落ちこんでしまつた。彼は早速勝手から、大きな踏み臺を運んで來た。さうしてその上へ乘りながら、長押しの金羽根を取り出さうとした。その時私は背の低い彼が、踏み臺の上に爪立つたのを見ると、いきなり彼の足の下から、踏み臺を側へ外してしまつた。彼は長押しに手をかけた儘、ぶらりと宙へぶら下つた。姉や姉の友だちは、さう云ふ彼を救ふ爲に、私を叱つたり賺したりした。が、私はどうしても、踏み臺を人手に渡さなかつた。彼は少時下つてゐた後、兩手の痛みに堪へ兼たのか、とうとう大聲に泣き始めた。して見れば御降りの記憶の中にも、幼いながら嫉妬なぞと云ふ娑婆界の苦勞はあつたのである。私に泣かされた少年は、その後學問の修業はせずに、或會社へ通ふ事になつた。今ではもう四人の子の父親になつてゐるさうである。私の家の御降りは、赤ん坊の泣き聲に滿たされてゐる。彼の家の御降りはどうであらう。(一月二日)

御降りや竹ふかぶかと町の空

■「御降り」やぶちゃん注

・御降り:「おさがり」と読む。元日三が日の雨又は雪を言う。新年の季語。

・鵞口瘡:「がこうそう」。カンジタ性口内炎の広範に広がったもの。

・「つづらふみ」:「藤簍冊子」。文化3(1806)年刊の上田秋成の紀行・歌文集。

・鶉居:「じゆんきよ(じゅんきょ)」。鶉の巣が定まらないことから、この世に於いて居場所の定まらないさま。仮の住まいのことを言う。

・長押し:「なげし」。

・賺したりした:「賺(すか)したりした」。

■「御降り」やぶちゃん注終

 

 

       夏雄の事

 

 香取秀眞氏の話によると、加納夏雄は生きてゐた時に、百圓の月給を取つてゐた由。當時百圓の月給取と云へば、勿論人に羨まれる身分だつたのに相違ない。その夏雄が晩年床に就くと、屢枕もとへ一面に小判や大判を並べさせては、しけじけと見入つてゐたさうである。さうしてそれを見た弟子たちは、先生は好い年になつても、まだ貪心が去らないと見える、淺間しい事だと評したさうである。しかし夏雄が黃金を愛したのは、千葉勝が紙幣を愛したやうに、黃金の力を愛したのではあるまい。床を離れるやうになつたら、今度はあの黃金の上に、何を刻んで見ようかなぞと、仕事の工夫をしてゐたのであらう。師匠に貪心があると思つたのは、思つた弟子の方が卑しさうである。香取氏はかう病牀にある夏雄の心理を解釋した。私も恐らくさうだらうと思ふ。所がその後或男に、この逸話を話して聞かせたら、それはさもあるべき事だと、即座に贊成の意を表した。彼の述べる所によると、彼が遊蕩を止めないのも、實は人生を觀ずる爲の手段に過ぎぬのださうである。さうしてその機微を知らぬ世俗が、すぐに兎や角非難をするのは、夏雄の場合と同じださうである。が、實際さうか知らん。(一月六日)

■「夏雄の事」やぶちゃん注

・香取秀眞:かとりほづま。明治7(1874)年~昭和291954)年。千葉生。鋳金工芸師。東京美術学校(現・東京芸術大学)教授・帝室博物館(現・東京国立博物館)技芸員・文化勲章叙勲。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の隣人にして友人であった。

・加納夏雄:かのふなつを(かのうなつお)。文政111828)年~明治311898)。彫金工芸師。京都生。彫金術は独学で学び、明治になってからは明天皇の御剣や金貨・銀貨・勲章の製作に携わる。東京美術学校教授・芸術院会員・帝室博物館技芸員。香取秀眞の指導をしたこともある。

・千葉勝:これは通称で本名は千葉勝五郎。天保5(1834)年~明治361903)年。興行師・実業家。東京歌舞伎座を福地源一郎(桜痴)との共同で明治221889)年11月創立したことで知られるラムネ販売(明治5(1872)年に許可を受けている)の元祖でもある。

■「夏雄の事」やぶちゃん注終

 

 

       冥途

 

 この頃内田百間氏の「冥途」(新小説新年號所載)と云ふ小品を讀んだ。「冥途」「山東京傳」「花火」「件」「土手」「豹」等、悉夢を書いたものである。漱石先生の「夢十夜」のやうに、夢に假託した話ではない。見た儘に書いた夢の話である。出來は六篇の小品中、「冥途」が最も見事である。たつた三頁ばかりの小品だが、あの中には西洋じみない、氣もちの好い Pathos が流れてゐる。しかし百間氏の小品が面白いのは、さう云ふ中味の爲ばかりではない。あの六篇の小品を讀むと、文壇離れのした心もちがする。作者が文壇の塵氛の中に、我々同樣呼吸してゐたら、到底あんな夢の話は書かなかつたらうと云ふ氣がする。書いてもあんな具合には出來なからうと云ふ氣がする。つまり僕にはあの小品が、現在の文壇の流行なぞに、囚はれて居らぬ所が面白いのである。これは僕自身の話だが、何かの拍子に以前出した短篇集を開いて見ると、何處か流行に囚はれてゐる。實を云ふと僕にしても、他人の廡下には立たぬ位な、一人前の自惚れは持たぬではない。が、物の考へ方や感じ方の上で見れば、やはり何處か囚はれてゐる。(時代の影響と云ふ意味ではない。もつと膚淺な囚はれ方である。)僕はそれが不愉快でならぬ。だから百間氏の小品のやうに、自由な作物にぶつかると、餘計僕には面白いのである。しかし人の話を聞けば、「冥途」の評判は好くないらしい。偶僕の目に觸れた或新聞の批評家なぞにも、全然あれがわからぬらしかつた。これは一方現狀では、尤ものやうな心もちがする。同時に又一方では、尤もでないやうな心もちもする。(一月十日)

■「冥途」やぶちゃん注

Pathos:哀れみや同情を感じさせる性質。哀感。ペーソス。

・塵氛:「じんぷん」と読む。汚れた俗気。

・廡下:「ぶか」。軒下。

・膚淺:「ふせん」。思慮の浅いこと。浅はか。

■「冥途」やぶちゃん注終

 

 

       長井代助

 

 我々と前後した年齡の人々には、漱石先生の「それから」に動かされたものが多いらしい。その動かされたと云ふ中でも、自分が此處に書きたいのは、あの小説の主人公長井代助の性格に惚れこんだ人々の事である。その人々の中には惚れこんだ所か、自ら代助を氣取つた人も、少くなかつた事と思ふ。しかしあの主人公は、我々の周圍を見𢌞しても、滅多にゐなさうな人間である。「それから」が發表された當時、世間にはやつてゐた自然派の小説には、我々の周圍にも大勢ゐさうな、その意味では人生に忠實な性格描寫が多かつた筈である。しかし自然派の小説中、「それから」のやうに主人公の模傚者さへ生んだものは見えぬ。これは獨り「それから」には限らず、ウエルテルでもルネでも同じ事である。彼等はいづれも一代を動搖させた性格である。が、如何に西洋でも、彼等のやうな人間は、滅多にゐぬのに相違ない。滅多にゐぬやうな人間が、反つて模傚者さへ生んだのは、滅多にゐぬからではあるまいか。無論滅多にゐぬと云ふ事は、何處にもゐぬと云ふ意味ではない。何處にもゐるとは云へぬかも知れぬ、が、何處かにはゐさうだ位の心もちを含んだ言葉である。人々はその主人公が、手近に住んで居らぬ所に、惝怳の意味を見出すのであらう。さうして又その主人公が、何處かに住んでゐさうな所に、惝怳の可能性を見出すのであらう。だから小説が人生に、人間の意欲に働きかける爲には、この手近に住んでゐない、しかも何處かに住んでゐさうな性格を創造せねばならぬ。これが通俗に云ふ意味では、理想主義的な小説家が負はねばならぬ大任である。カラマゾフを書いたドストエフスキイは、立派にこの大任を果した、敬禮すべき先達の一人だつた。今後の日本では抑誰が、かう云ふ性格を造り出すであろう。(一月十三日)

■「長井代助」やぶちゃん注

・模傚者:「もはうしや(もほうしゃ)」と読む。模倣者に同じ。

・ルネ:フランスの政治家にして作家であったFrançois-René de Chateaubriandフランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアン(17681848)が書いた青春小説“René”の同名の主人公の名。筑摩版注によれば『近代的憂愁に悩む清純な青年を描く』。

・惝怳:全集類聚版は「しやうけい(しょうけい)」とルビを振るが、正しくは「しやうくわう(しょうこう)」と読む。意味はがっかりするさま、驚きぼんやりするさま、であるがそれでは意味が通じない。ぼんやりと判然としない憧憬、というような意味で芥川は用いているようである。実は、この語は芥川が好きな語であったらしく、「西方の人」の「18 キリスト教」でも用いている。なお且つ、ここでもルビが「しやうきやう(しょうきょう)」と誤った、こことはまた異なったルビが振られており、おまけに意味もここでの誤った用法と同じである。博覧強記の芥川龍之介にして、「惝怳」の読み・意味共に、全く誤った思い込みのまま使い続けたというケースは珍しい。

・ドストエフスキイは、立派にこの大任を果した、敬禮すべき先達の一人だつた。:ここは『點心』(=底本の本文)では「ドストエフスキイは、立派にこの大任を果してゐる。」と芥川によって書き換えられている。

・抑:「そもそも」。

・(一月十三日):この末尾クレジットは初出では(十月十三日)となっているがこれは単純な誤植であるので、『點心』(=底本の本文)に従った。

■「長井代助」やぶちゃん注終

 

 

       嘲魔

 

 一かどの英靈を持つた人々の中には、二つの自己が住む事がある。一つは常に活動的な、情熱のある自己である。他の一つは冷酷な、觀察的な自己である。この二つの自己を有する人々は、ややもすると創作力の代りに、唯賢明な批評力を獲得するだけに止まり易い。M. de la Rochefoucauld はこれである。が、モリエエルはさうではない。彼はこの二つの自己の分裂を感じない人間であつた。不思議にもこの二つの自己を同時に生きる人間であつた。彼が古今に獨歩する所以は、かう云ふ壯嚴な矛盾の中にある。Sainte-Beuve のモリエエル論を讀んでゐたら、こんな事を書いた一節があつた。私も私自身の中に、冷酷な自己の住む事を感ずる。この嘲魔を却ける事は、私の顏が變へられないやうに、私自身には如何とも出來ぬ。もし年をとると共に、嘲魔のみが力を加へれば、私も亦メリメエのやうに、「私の友人のなにがしがかう云ふ話をして聞かせた」なぞと、書き始める事にも倦みさうである。殊に虚無の遺傳がある東洋人の私には容易かも知れぬ。L'Avare Ecole des Femmes を書いたモリエエルは、比類の少い幸福者である。が、奸妻に惱まされ、病肺に苦しまされ、作者と俳優と劇場監督と三役の繁務に追はれながら、しかも猶この嘲魔の毒手に、陷らなかつたモリエエルは、愈羨望に價すべき比類の少い幸福者である。(一月十四日)

■「嘲魔」やぶちゃん注

M. de la RochefoucauldFrançois VI, duc de La Rochefoucauldラ・ロシュフコー公爵フランソワ6世(16131680)。フランスのモラリスト。「侏儒の言葉」の手本たるアフォリズム集「考察と箴言」の作者。

Sainte-BeuveCharles Augustin Sainte-Beuveシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ(18041869)はフランス・ロマン主義の文芸評論家・小説家・詩人。近代批評の父。ここで芥川龍之介が言っているモリエール論は、全集類聚版の「Sainte-Beuve」の脚注の書き方からすると、彼がアカデミー・フランセーズに提出した「十六世紀のフランス詩・演劇の史的批評的概観」という論文を指すらしい。

L'AvareMolièreモリエール(16221673)の代表作、喜劇「守銭奴」(1668年初演)。但し、正確には“L'Avare ou L'École du mensonge”で、「吝嗇又は嘘の学校」の意味。

Ecole des Femmes:モリエールの出世作である喜劇「お嫁さんの学校」(1662年初演)。正しいフランス語綴りでは“L'École des femmes”。

■「嘲魔」やぶちゃん注終

 

 

       池西言水

 

 「言ひ難きを言ふは老練の上の事なれど、そは多く俗事物を詠じて、雅ならしむる者のみ。其事物如何に雅致ある者なりとも、十七字に餘りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめん事は、殆ど爲し得べからざる者なれば、古來の俳人も皆之を試みざりしに似たり。然れども一二此種の句なくして可ならんや。池西言水は實に其作者なり。」これは正岡子規の言葉である。(俳諧大要。一五六頁)子規はその後に實例として、言水の句二句を掲げてゐる。それは「姨捨てん湯婆に燗せ星月夜」と「黑塚や局女のわく火鉢」との二句である。自分は言水のこれらの句が、「十七字に餘りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」たとするには、何の苦情も持つて居らぬ。しかしこの意味では蕪村や召波も、「十七字に餘りぬべき程の多量の意匠を十七字の中につづめ」てはゐないか。「御手打の夫婦なりしを衣更へ」や「いねかしの男うれたき砧かな」も、やはり複雜な内容を十七字の形式につづめてはゐないか。しかも「燗せ」や「わく」と云ふ言葉使ひが耳立たないだけに、一層成功してはゐないか。して見れば子規が評した言葉は、言水にも確に當て嵌まるが、言水の特色を云ひ盡すには、餘りに廣すぎる憾みはないか。かう自分は思ふのである。では言水の特色は何かと云へば、それは彼が十七字の内に、萬人が知らぬ一種の鬼氣を盛りこんだ手際にあると思ふ。子規が掲げた二句を見ても、すぐに自分を動かすのは、その中に漂ふ無氣味さである。試に言水句集を開けば、この類の句は外にも多い。

     御忌の鐘皿割る罪や曉の雲

     つま猫の胸の火や行く潦

     夜櫻に怪しやひとり須磨の蜑

     蚊柱の礎となる捨子かな

     人魂は消えて梢の燈籠かな

     あさましや蟲鳴く中に尼ひとり

     火の影や人にて凄き網代守

 句の佳否に關らず、これらの句が與へる感じは、蕪村にもなければ召波にもない。元祿でも言水唯一人である。自分は言水の作品中、必しもかう云ふ鬼趣を得た句が、最も神妙なものだとは云はぬ。が、言水が他の大家と特に趣を異にするのは、此處にあると云はざるを得ないのである。言水通稱は八郎兵衞、紫藤軒と號した。享保四年歿。行年は七十三である。(一月十五日)

■「池西言水」やぶちゃん注

・池西言水:「いけにしごんすゐ(いけにしごんすい)」と読む。慶安3(1650)年~享保7(1722)。江戸中期の俳人。奈良生。松江重頼(しげより)門。初期は談林風であったが、後に蕉風に近づいた。代表作の「木枯の果てはありけり海の音」から『木枯しの言水』と通称される。

・子規はその後に實例として、言水の句二句を掲げてゐる:以下にその「俳諧大要」の部分を全て引用する(底本は岩波書店1983年刊行の岩波文庫改版正岡子規「俳諧大要」を用いた。なお、底本では冒頭の「一」の行以降は全て一字下げとなっているが、ブラウザの関係上、無視した。表示不能の字は[「※」=「酉」+「間」])。

一、ここに一の意匠あり、其意匠は極めて古き代の事を当時自身がその事に当りしことの如くに詠ずるなり。昔は老年になりてものの役に立たぬ人を無残にも山谷(さんこく)に捨てし地方もありきとぞ。信州の姨捨山は其遺跡となん聞えし。其頓の事にして時は冬の夜の寒く晴れれわたり満天糠星(ぬかぼし)のこぼれんばかりに輝ける中を、今より姨捨てに行かなんとて湯婆(たんぽ)を暖めよと命ずるなり。これだけの趣向がいかで十七字にはつゞまるべきと誰しも思はんを、さて詠みたりや、

 

              姨拾てん湯婆(たんぽ)に※せ星月夜      言水

 

情景写し出だして少しも窮する所を見ず。真に是れ破天荒(はてんこう)と謂(いい)つべし。(但し此句につきては我未だ全く解せざる処あり。湯婆に※せとは果して何のためにするにや。只々寒き故に自ら手足を暖めんとにや、又は他に意味あるにや。大方の教(おしえ)を俟つ)

一、これらの句は言水に於ても他に多くの例を見ず。

 

              黑塚や局女(つぼねおんな)のわく火鉢          言水

 

の一句、僅(わず)かに前の湯婆の句と種類を同じうするのみ。此句の意は黑塚の鬼女が局女を捕へて其肉か子ごもりを載(き)り取り、これを火鉢の上にて炎りなどしをる処なるべし。前の句も冬季としたるために凄味を添へ此句も亦冬季なるを以て一きは恐ろしき心地す。

 

ちなみにここで子規は不審がっているが、逆に私にはこの句、初読で、ある種、不思議な落ちつき方をした。それは二つの解である。一つは、子規の言うように背負う子が「只々寒き故に自ら手足を暖めんと」するための湯たんぽであり、そこには母の死への一抹の罪障感もなく、非情なる仕儀としての湯たんぽである。子は背負って捨てる行為をこの寒空の下、したくもない「仕事」と割り切っているという凄絶な解である。しかし、今一つの解が私には生ずる。それは、この湯たんぽは母へのものであり、捨てれば飢える前にすぐに凍え死にしてゆくに違いない母への、これは最後の、甲斐ない哀しい、しかし共感できる思いやりなのではなかろうか、という解である。――どちらを採るか。芥川の言う無気味さ、ホラーとしての精髄をゆくとなれば前者だが、私は小市民である――後者のそれが言辞と不条理の表面的な滑稽感から、微かな哀感を誘い出すのであってみれば、やはり私は自分の後者の解をとりたい。誤りとならば、大方の教えを俟つ。

・湯婆:「たんぽ」と読む。湯たんぽのこと。

・※せ:「※」=「酉」+「間」。「かんせ」で「燗せ」で、湯を注いで暖めよ、の意。

・局女:「つぼねをんな(つぼねおんな)」。局女郎(つぼねじょろう)のこと。近世の最下級の遊女。全集類聚版注に『局という間口八尺、奥行二間または六尺の小部屋にいて客をとる遊女。端女郎の下位。』とあるが、端(はし)女郎とは恐らく大きな同じ下位グループである。単につぼねとも呼んだ。

・わく火鉢:この「わく」について全集類聚版注は『黒塚の鬼女が局女を捕えて截りとるという筋。』という不思議な注を附している。これは読もうなら、女の肉を焼いている火鉢の「枠」に、「黒塚」の話の筋=「枠」を掛けているということか。初見、私は「わく」は女の肉を火鉢の「枠」の上で「剖(わ)く」と読んだのだが……。こちらも、大方の教えを俟つ。

・いねかしの男うれたき砧かな:帰ってきた夫が、さても抱こうと思っていた妻に「寝ちまいな」とすげなく言われて、腹を立てている。ふて寝をした向こうで夜なべ仕事の砧を打つ妻が居て、その音がまた不愉快で、まんじりともせぬ夫……といった景か。砧は漢詩文の辺境に赴いた夫を思う妻の悲しみと結びつくから、更に冗談がきつい感じがする。砧のリズムは、コイツスの皮肉な比喩とも取れる。穿ち過ぎの解とあらば、ダメ押しの大方の教えを俟つ。

・御忌:「ぎよき(ぎょき)」。高貴な僧や貴人の年忌の法会を言う。新年及び春の季語。この句は「番町更屋敷」をベースとするが、特に既存の当該説話に御忌に関わるシーンはないように思われ、法会にストーリーを付会させ、鐘の音をSE(効果音)として出したか。

・つま猫:恋猫。春の季語。発情期の雌猫のこと。

・潦:「にはたづみ(にわたずみ)」。降雨中や雨後、溜まった雨水の流れを言う。

・蜑:「あま」。漁夫。

・網代守:「あじろもり」。川漁の一風物。冬場、網代(瀬に竹や木石で簀を組んで、魚を誘い込む装置)で篝火を焚いて番をしている漁夫のことである。

■「池西言水」やぶちゃん注終

 

 

       托氏宗教小説

 

 今日本郷通りを歩いてゐたら、ふと托氏宗教小説と云う本を見つけた。價を尋ねれば十五錢だと云ふ。物質生活のミニマムに生きてゐる僕は、この間渦福(うづふく)の鉢を買はうと思つたら、十八圓五十錢と云ふのに辟易した。が、十五錢の本位は、仕合せと買へぬ身分でもない。僕は早速三箇の白銅の代りに、薄つぺらな本を受け取つた。それが今僕の机の上に、古ぼけた表紙を曝してゐる。托氏宗教小説は、西暦千九百有七年、支那では光緒三十三年、香港の禮賢會(Rhenish Missionary Society)が、剞劂に付した本である。譯者は獨逸の宣教師 Genähr と云ふ人である。但し飜譯に用ひた本は、Nisbet Bain の英譯だと云ふ、内容は名高い主奴論以下、十二篇の作品を集めてゐる。この本は勿論珍書ではあるまい。文求堂に賴みさへすれば、すぐに取つてくれるかも知れぬ。が、表紙を開けた所に、原著者托爾斯泰の寫眞があるのは、何となしに愉快である。好い加減に頁を繰つて見れば、牧色(ムジイク)、加夫單(カフタン)、沽未士(クミス)なぞと云ふ、西洋語の音譯が出て來るのも、僕にはやはり物珍しい。こんな飜譯が上梓された事は原著者托氏も知つてゐたであらうか。香港上海の支那人の中には、偶然この本を讀んだ爲めに、生涯托氏を師と仰いだ、若干の靑年があつたかも知れぬ。托氏はさう云ふ南方の靑年から、遙に敬愛を表すべき手紙を受け取りはしなかつたであらうか。私は托氏宗教小説を前に、この文章を書きながら、そんな空想を逞しくした。托氏とは伯爵トルストイである。(一月二十八日)

 「西洋の民は自由を失つた。恢復の望みは殆ど見えない。東洋の民はこの自由を恢復すべき使命がある。」これは次手に孫引きにしたトルストイの書簡の一節である。(一月三十日)

■「托氏宗教小説」やぶちゃん注

・托氏宗教小説:「托氏」は「とし」と読む。トルストイ宗教小説集の謂い。これに関わって、2000年3月31日発行の「大阪経大論集」第50巻第6号に掲載されている樽本照雄「トルストイ最初の漢訳小説――「枕戈記」について」の中に、郭延礼「中国近代翻訳文学概論」(漢口・湖北教育出版社1998年刊行)に以下のような樽本氏の訳になる詳細な記述がある(「清末小説研究会」のサイトの該当論文ページよりそのままコピー・ペーストで引用した)。

 

 トルストイ最初の中国語訳本は、1907年(光緒三十三年)に香港礼賢会より出版され、日本横浜で印刷、香港とわが国内で発行された『托氏宗教小説』だが、しかしこの訳本は、ドイツの牧師葉道勝と中国人麦梅生(潤色)の共同訳であり、トルストイ翁が宗教を題材として描いた12個の「民間物語」である。すなわち「主奴論」(現在の訳は「主与僕」)、「論人需土幾何」、「小鬼如何領功」、「愛在上帝亦在」(現在の訳は「愛之所在即有上帝」)、「以善勝悪論」(現在の訳は「蝋燭」)、「火勿ママ(忽)火勝論」、「二老者論(現在の訳は「二老人」)、「人所憑生論(現在の訳は「人依何而生」)、「論上帝鑒観不爽」、「論蛋大之麦」(現在の訳は「鶏蛋大的穀子」)、「三耆老論」(現在の訳は「三隠士」)、「善担保論」(現在の訳は「教子」)だ。作品の物語は、筋は生き生きとしてむだがなく、言葉は簡潔かつ素朴で、読者に歓迎された。その中の6篇は先に教会の刊行物『万国公報』および『中西教会報』に発表され、その時間は、おおよそ1905-1907年間である。この小説集の翻訳は、伝教が目的であったとはいえ、また主に西洋の伝教士が翻訳し出版したものであるとはいえ、はじめて中国人民にトルストイの小説を紹介し、読者に「ロシアにも至善の著作家がいることを知らせた」その功績は埋もれさせるべきではない。(385頁)

 

これが芥川がここで入手した本と見てよいであろう。文中の「ドイツの牧師葉道勝」が本文中の「獨逸の宣教師 Genähr」であろう。「葉道勝」は中国音に直すと“Yèdàoshēng”、私は中国語に暗いが、発音は似ているように思われる。ちなみに、その採録作を、後掲するこの漢訳の底本である英訳本であるROBERT NISBET BAINTALES FROM TOLSTOI”(LONDON,1901)の題名(英文のインターネット・アーカイブにあるフル・テクストを参照にした)と、現在の一般的な邦訳作品名に当て嵌めて推定すると、まず本文にも現れるイソップを原話とする

「主奴論」=“MASTER AND MAN”=「主人と下男」

以下、

「論人需土幾何」=“HOW MUCH LAND DOES A MAN REQUIRE?”=「人はどれだけの土地がいるか」

「小鬼如何領功」=“HOW THE LITTLE DEMON EARNED HIS STOLEN CRUST OF BREAD ”=「小悪魔がパン切れの償いをした話」

「愛在上帝亦在」=“WHERE LOVE IS THERE GOD IS ALSO”=「愛あるところは神がある」

「以善勝悪論」=“THE CANDLE: OR HOW THE GOOD MUZHIK OVERCAME THE EVIL OVERSEER”「ろうそく」

「火忽火勝論」=“NEGLECT A FIRE, AND 'TWILL OVERMASTER THEE”=「小さな火種も大火事となる」

「二老者論」=“TWO OLD MEN”=「二人の老人」

「人所憑生論」=“WHAT MEN LIVE BY”=「人は何で生きるか」

「論上帝鑒観不爽」=“GOD SEES THE RIGHT, THOUGH HE BE SLOW TO SPEAK”=?

「論蛋大之麦」=“THE GRAIN THAT WAS LIKE AN EGG”=「鶏の卵ほどの穀物」

「三耆老論」=“THREE OLD MEN”=「三人の隠者」

「善担保論」=“THE GODFATHER”=「正義の必要経費」?

が該当作となろうか。「論上帝鑒観不爽」は漢訳題は「神が見て不快になった話」という意味であろうが、該当作品が分からない。「善担保論」も漢訳からの当てずっぽうに過ぎぬ。識者の御教授を乞うものである。

・渦福の鉢:「渦福」とは陶器の銘の一つで、渦を巻いた印の中に草書体の「福」の字を配したもの。古伊万里の柿右衛門様式にしばしば現れるため、名品の証しとされる。

・光緒:「こうしよ(こうしょ)」又は「こうちよ(こうちょ)」。清の徳宗の治世中(18751908)の元号。徳宗は一世一元制を採用したため、光緒帝と称される。

・剞劂:「きけつ」。版木を彫ることで、出版の意。

Nisbet Bainの英譯:前掲の楢本論文に『ニスベット・ベイン(R. NISBET BAIN)英訳“TALES FROM TOLSTOI”(LONDON,1901)』とある。

・文求堂:文京区本郷町にあった中国関係専門書店。

・托爾斯泰:「トルストイ」。

・牧色(ムジイク):“мужик の漢訳。ロシア語で「百姓」「男」「亭主」「田舎者」の意。

・加夫單(カフタン):“кафтан の漢訳。ロシア語のカフタン、昔風の裾の長いロシア独特のコートの名。

・沽未士(クミス):“кумыс の漢訳。ロシア語の「馬乳・馬乳酒」のこと。モンゴルや東部ロシアで伝統的に作られる馬の乳を用いたアルコール性乳製品。強い酸味を有し、アルコール含有量は1~2%と低く、ヨーグルトのようなものである。

・伯爵トルストイ:Лев Николаевич ТолстойLev Nikolajevich Tolsto レフ・ニコラエヴィチ・トルストイ 18281910)の祖先はアレクサンドル1世の側近であり、彼はロシアの名門伯爵家の四男として生まれた。

・トルストイの書簡の一節:岩波版新全集の吉田司雄氏の注解から次手(ついで)に孫引きすれば、これは『「ある中国人に与える書」(一九〇六)にある一節』だそうだから、芥川の「空想」は満更、根拠のない、否、オリジナルな空想ではない可能性がある。

■「托氏宗教小説」やぶちゃん注終

 

 

       印税

 

 Jules Sandeau のいとこが Palais Royal のカツフエへ行つてゐると、出版書肆のシヤルパンテイエが、バルザツクと印税の相談をしてゐた。その後彼等が忘れて行つた紙を見たら、無暗に澤山の數字が書いてあつた。サンドオがバルザツクに會つた時、この數字の意味を問ひ訊すと、それは著者が十萬部賣切れた場合、著者の手に渡るべき印税の額だつたと云ふ。當時バルザツクが定めた印税は、オクタヴオ版三フラン半の本一册につき、定價の一割を支拂ふのだつた。して見ればまづ日本の作家が、現在取つてゐる印税と大差がなかつた譯である。が、これがバルザツクがユウジエニエ・グランデエを書いた時分だから、千八百三十二年か三年頃の話である。まあ印税も日本では、西洋よりざつと百年ばかり遲れてゐると思へば好い。原稿成金なぞと云つても、日本では當分小説家は、貧乏に堪へねばならぬやうである。(一月三十日)

■「印税」やぶちゃん注

Jules Sandeau:ジュール・サンド(18111883)は、あのGeorge Sandジョルジュ・サンド(18041876)の恋人。ジャーナリスト・小説家、バルザックの秘書でもあった。ジョルジュ・サンドは本名をAmandine-Aurore-Lucile Dupinオーロール・デュパンといい、George Sandとは恋人の名をもじった男装のペンネームなのである。

Palais Royal:パレ・ロワイヤル。ルーブルの北側にある元宮殿。フランス革命後は劇場・賭博場・証券取引場などに用いられつつ、1階回廊部分にはカフェ・商店・ダンスホールなどがあって、パリ市民の憩いの場となった。

・シヤルパンテイエ:全集類聚版脚注によれば、Charpentierは当時『パリで有名だった出版屋』。

・オクタヴオ版:イタリア語の“octavo”。印刷・出版社用語で、製本時の標準的な折り方で、「八つ折り」又は「16ページ折り」と言う。3回直角に折り、小口8枚・16ページとなる。大きさ6×9.5㏌(=15×22㎝)。“eightvo”とも言う。

・ユウジエニエ・グランデエ:“Eugénie Grandet”「ウージェニー・グランデ」は 1833年に発表したHonoré de Balzacオノレ・ド・バルザック(17991850)の傑作の一つ。

■「印税」やぶちゃん注終

 

 

 

       日米關係

 

 日米關係と云つた所が、外交問題を論ずるのではない。文壇のみに存在する日米關係を云ひたいのである。日本に學ばれる外國語の中では、英吉利語程範圍の廣いものはない。だから日本の文士たちも、大抵は英吉利語に手依つてゐる。所が英吉利なり亞米利加なり、本來の英吉利語文學は、シヨオとかワイルドとか云ふ以外に、餘り日本では流行しない。やはり讀まれるのは大陸文學である。然るに英吉利語譯の大陸文學は、亞米利加向きのものが多い。何故と云へばホイツトマン以後、藝術的に荒蕪な亞米利加は、他國に天才を求めるからである。その關係上日本の文壇は、さ程著しくないにしても、近年は亞米利加の流行に、影響される形がないでもない。イバネスの名前が聞え出したのは、この實例の一つである。(僕が高等學校の生徒だつた頃は、あの「大寺院の影」の外に、英吉利語譯のイバネスは何處を探しても見當らなかつた。)向う河岸の火の手が靜まつたら、今度はパピニなぞの伊太利文學が、日本にも紹介され出すかも知れぬ。これは大陸文學ではないが、以前文壇の一角に、愛蘭土文學が持て囃されたのも、火の元は亞米利加にあつたやうだ。かう云ふ日米關係は、英吉利語文學が流行しないだけに存外見落され勝ちのやうである。偶丸善へ行つて見たら、イバネス、ブレスト・ガナ、デ・アラルコン、バロハなぞの西班牙小説が澤山並べてあつた爲め、こんな事を記して置く氣になつた。(二月二日)

■「日米關係」やぶちゃん注

・イバネス:Vicente Blasco-Ibañezヴィセント・ブラスコ=イバーニェス(18671928)。スペインの小説家。バレンシア生。青年時代より共和派の運動に加わり、逮捕・懲役刑を受けた。「血と砂」「黙示録の四騎士」等で世界的に有名となる。彼の作品は多くが映画化されている。

・「大寺院の影」:イバーニェスの“La catedlal”(1903)か。

・パピニ:Giovanni Papiniホヴァンニ(ジョヴァンニ)・パピーニ(18811956)。イタリアの小説家。二十世紀初頭イタリアの文化革新運動の思想的指導者の一人。未来派運動を推進する中でナショナリストとして参戦論を主張したが、第一次大戦後は欧州の精神的退廃に失望してカトリックに回心した。「逃げてゆく鏡」「泉水のなかの二つの顔」(共に個人的に好きな作品を挙げたが、所持する国書刊行会版「バベルの図書館30 逃げてゆく鏡 パピーニ」のどこにも発表年が記されていない)等、好きな作家である。「泉水のなかの二つの顔」を、その後ずっと後になって澁澤龍彦が「ドラコニア綺譚集」の「鏡と影について」で確信犯として原作を示さずに中国の伝奇小説仕立てで翻案しても、長く気付かれなかったことをもってすれば(私はそれを剽窃というつもりは更々ない。澁澤は「確信犯」なのである。生前にその点を指摘されることがなかったことを寧ろ彼は残念に思っているはずである)、芥川のこの希望的観測は必ずしも当たったとは言えぬのかも知れぬ。

・ブレスト・ガナ:幾つかの綴りをネット検索で試みてみたが、全く不詳である。筑摩版も岩波版新全集も未詳とする。既にこの随筆が出て90年が経とうというのに――これは、もしや芥川お得意のでっち上げだったりして!?(しかし、だとすると「れげんだ・おうれあ」みたように実は実在するというのが芥川流でもある?)

・デ・アラルコン:Pedro Antonio de Alarcón y Arizaペトロ・アントニオ・デ・アラルコン(1833-1891)。スペインの小説家。「三角帽子」(1874)「醜聞」(1875)等。特にスペイン土着の伝承歌謡ロマンセを素材とした名作「三角帽子」は後、1917年のディアギレフの依頼によるファリヤのバレエ音楽化でも有名である。

・バロハ:Pío Barojaピオ・バロハ(18721956)スペインの小説家。スペインの新しい文学運動の一翼を担った『98 年の世代』に属した。「大辞林」によれば「真摯な情熱を内に秘めた懐疑的・厭世的人生観に基づき、虚偽的な社会を辛辣に告発した」とある。「冒険家サラカイン」(1909)・「知恵の木」(1911)等。

■「日米關係」やぶちゃん注終

 

 

       Ambroso Bierce

 

 日米關係を論じた次手に、亞米利加の作家を一人擧げよう。アムブロオズ・ビイアスは毛色の變つた作家である。(一)短篇小説を組み立てさせれば、彼程鋭い技巧家は少い。評論がポオの再來と云ふのは、確にこの點でも當つてゐる。その上彼が好んで描くのは、やはりポオと同じやうに、無氣味な超自然の世界である。この方面の小説家では、英吉利に Algernon Blackwood があるが、到底ビイアスの敵ではない。(二)彼は又批評や諷刺詩を書くと、辛辣無双な皮肉家である。現にレジンスキイと云ふ、確か波蘭土系の詩人の如きは、彼の毒舌に飜弄された結果自殺を遂げたと云はれてゐる。が、彼の批評を讀めば、精到の妙はないにしても、犀利の快には富んでゐると思ふ。(三)彼は同時代の作家の中では、最もコスモポリタンだつた。南北戰爭に從軍した事もある。桑港の雜誌の主筆をした事もある。倫敦に文を賣つてゐた事もある。しかも彼は生きたか死んだか、未に行方が判然しない。中には彼の惡口が、餘りに人を傷けた爲め暗殺されたのだと云ふものもある。(四)彼の著書には十二卷の全集がある。短篇小説のみ讀みたい人は In the Midst of Life 及び Can Such Things Be ? の二卷に就くが好い。私はこの二卷の中に、特に前者を推したいのである。後者には佳作は一二しか見えぬ。(五)彼の評傳は一册もない。オウ・ヘンリイ等に比べると、此處でも彼は薄倖である。彼の事を多少知りたい人は、ケムブリツヂ版の History of American Literature 第二版の三八六―七頁、或は Cooper Some American Story Tellers のビイアス論を見るが好い。前に書くのを忘れたが、年代は一八三八―一九一四? である。日本譯は一つも見えない。紹介もこれが最初であらう。(二月二日)

■「Ambroso Bierce」やぶちゃん注

Algernon BlackwoodAlgernon Henry Blackwoodアルジャーノン・ブラックウッド(18691951)。イギリスの幻想作家。「柳」(1907)が代表作であろうが、個人的には一連の『心霊博士ジョン・サイレンス』(1908・一部に1914を含む)シリーズがお薦めである。

・波蘭土:「ポオランド(ポーランド)」と読む。

・精到:精密詳細で、細部にまで眼が行き届いているさま。

・犀利:才能が鋭く、対象を観察する眼が正確なさま。

・桑港:「サンフランシスコ」。

・倫敦:「ロンドン」。

In the Midst of Life:ビアスの短編集。1891年に Tales of Soldiers and Civilians 「兵隊と市民の物語」として出した後、現在の書名に改題し、更に増補・差替を行って、最終改訂版は1898年に完成した。内訳は兵隊の物語15篇・市民の物語11篇である。本邦では「いのち半ばに」「いのちのさ中にも」等と訳される。題名の不吉さ通り、26篇のほとんどが意外な死をエンディングに据える。

Can Such Things Be ?1893年出版のビアスの24篇からなると思われる(英文のオン・ライン・の目次で数えた)短編集。「そんなことが出来るか?」という意味であるが、本邦では近似的な邦訳はなく、抜粋版は篇中の一作の同題名をアンソロジー名に援用した「死の診断」(角川)、「ビアス怪談集」(講談社)等の名称で、創土社の完訳版も如何にも無粋な「完訳 ビアス怪奇譚」である。

・好い:芥川龍之介は「よい」と読む傾向がある。全集類聚版でもそうルビを振る。

History of American Literature:岩波版新全集第七巻の吉田司雄氏の注解によれば、『W.P.Trentら編『アメリカ文学史』(一九一七―一八年)』。

Cooper Some American Story Tellers:岩波版新全集第七巻の吉田司雄氏の「Cooper」の注解によれば、『クーパー(Thompson Cooper)。一八三七―一九〇四年。アメリカの伝記作者、ジャーナリスト。』とある。ちなみにネット検索をかけると、Frederic Taber Cooperなる作者の“Some American Story Tellers”が1911年の刊行で引っ掛かるにだが? 識者の御教授を乞う。

■「Ambroso Bierce」やぶちゃん注終

 

       むし

 

 私は「龍」と云ふ小説を書いた時、「虫の垂衣をした女が一人、建札の前に立つてゐる」と書いた。その後或人の注意によると、虫の垂衣が行はれたのは、鎌倉時代以後ださうである。その證據には源氏の初瀬詣の條にも、虫の垂衣の事は見えぬさうである。私はその人の注意に感謝した。が、私が虫の垂衣云々の事を書いたのは、「信貴山緣起」「粉河寺緣起」なぞの畫卷物によつてゐたのである。だからさう云ふ注意を受けても、剛情に自説を改めなかつた。その後何かの次手から、宮本勢助氏にこの事を話すと、虫の垂衣は今昔物語にも出てゐると云ふ事を教へられた。それから早速今昔を見ると、本朝の部卷六、從鎭西上人依觀音助遁賊難持命語の中に、「轉(うた)て思すらむ。然れども晝牟子を風の吹き開きたりつるより見奉るに、更に物不思罪免し給へ云々」とある。私は心の舒びるのを感じた。同時に自説は曲げずにゐても、矢張文獻に證據のないのが、今までは多少寂しかつたのを知つた。(二月三日)

■「むし」やぶちゃん注

・虫の垂衣:「苧(むし)の垂れ衣」のこと。「枲」(むし)とも書く。「虫」は当て字。平安から鎌倉期、中流以上の女性の外出時に、市女笠の周囲に苧麻(からむし)の繊維で織った極めて薄い布を長く垂らしたものを言う。むし。むしたれ。なお、カラムシBoehmeria nivea var. nipononiveaはイラクサ目イラクサ科の多年生植物。茎の皮から極めて強靭な繊維が作られた。別名、苧麻(ちょま)・青苧(あおそ)・紵(お)・山紵(やまお)などとも呼ぶ。

・「源氏の初瀬詣の條」:「源氏物語」の「玉鬘」の巻と思われる。夕顔の遺児玉鬘が、筑紫から京都へ、そして初瀬の観音へと徒歩で詣でるシーン(その後御利益を受けて彼女は源氏に引きとられるのである)。

・「信貴山緣起」:「しぎさんえんぎ」と読む。平安時代末期の絵巻物で、奈良県生駒郡平群町の信貴山にある真言宗総本山朝護孫子寺所蔵。当山中興の祖とされる命蓮(みょうれん)に関する説話を描く。特に「飛倉」のシーンで有名。

・「粉河寺緣起」:「こかわでらえんぎ」と読む。和歌山県粉河寺蔵。絵巻物で、平安後期12世紀頃の成立。奈良朝末期の紀伊国那賀郡の大伴孔子古(くじこ)を主人公とした、粉河寺本尊である千手観音立像に纏わる縁起譚。

・宮本勢助:風俗史の中でも服飾史を中心とした民俗学者(明治171884)年~昭和171942)年)。彼と芥川龍之介の交流については、彼を顕彰した「宮本財団」「宮本勢助と芥川龍之介」に詳しい。

・本朝の部卷六、從鎭西上人依觀音助遁賊難持命語:これは芥川龍之介の誤りで、巻六ではなく巻十六の第二十である。以下に小学館古典全集を底本として原文を引用し(漢字は恣意的に正字化した)、私の語注と現代語訳を附した。但し原文はパラルビとし、読みやすくするために捨て仮名や捨て字の一部を省略した。訳は逐語訳ではなく、音読したさいの自然さを旨とした意訳で、改行も自由に行っている(但し、本文の段落は一行空きで有意に分かるようにはしてある)。また本文で主語が三人称から一人称に変わる部分は、訳でも適応して臨場感を出してある。全体としての不統一が生じはするが、確信犯とご理解頂きたい。勿論、古典全集版の頭注や訳を参考にはしたが、意識的にオリジナルな解釈による訳を心がけて距離をおいた。私としては確かに私の訳であることを表明する。

 

鎭西より上る人、觀音の助けに依りて賊の難を遁(のが)れ命を持(たも)つ語(こと)

今昔、大宰ノ大弐(だいに)    ト云フ人有ケリ。子共数(あまた)有ケル中ニ弟子(おとご)ナル男有ケリ、年未ダ若クシテ僅ニ二十許也、形チ美麗ニシテ心賢ク思量(おもばかり)有ケリ。武勇ノ家ニ非ズト云ヘドモ、力ナド有テ極テ猛(たけ)カリケリ。

 父母(ぶも)此レヲ愛スルニ依テ、相具シテ鎭西ニ有ルニ、其ノ時ノ小卿(せうきやう)トシテ筑前ノ守     ト云フ人有ケリ。其娘有リ、形チ端嚴(たんごむに)シテ心嚴(いづく)シ、年未ダ二十不満ズ。父母、此レヲ寵スル故ニ、相具シテ  國ニ有リ。

 而ル間、大弐、「我ガ男子(をのこご)ニ此ノ小卿ノ娘ヲ合セヨ」ト切(せち)ニ云ニケレバ、守大卿(だいきやう)ノ云フ事難背(そむきがた)キニ依テ、吉日(きちひ)ヲ以テ合セテケリ。

 其ノ後、夫妻(めをうと)トシテ契リ深クシテ相ヒ思テ有ケルニ、此ノ男、本ヨリ官(つかさ)ノ望有テ、京ニ上(のぼり)セムト為ルニ、男此ノ妻(め)ヲ片時難去ク思テ、「相具シテ上ラム」ト云ヘバ、云フニ隨テ相具シテ上ル。「船ノ道ハ定メ無シ」トテ、歩(かち)ヨリ上ルニ、忩(いそ)グ道ニテ、郎等共撰ビ勝(すぐり)テ廾人許ナム有ケル、歩ノ人多ク、物負タル馬共數(あまた)有リ。

 夜ヲ晝ニ成シテ上ル間ニ、幡磨ノ國、印南野(いなみの)ヲ過ルニ、申(さる)打下(さが)ル程ニ、十二月(しはす)ノ比(ころほひ)ニテ、風打吹キ、雪ナド少シ降ル。而ル間、北ノ山ノ方ヨリ、馬ニ乘タル法師出來タリ。近ク寄來(よりきたり)テ馬ヨリ下(お)ルヽヲ見レバ、年五十餘許ニテ、太リ宿德氣ナル法師ノ、赤色(あかいろ)ノ織物ノヒタ丶レ、紫ノ指貫(さしぬき)ヲ着テ、藁沓(わらぐつ)ヲ履テ、塗タル鞭ヲ持テ、早ル馬ニラ天(でん)ノ鞍置テ乘タリ。畏マリテ云ク、「己レハ、筑前ノ守殿(かうのとの)ノ年來(としごろ)ノ仕リ人也。此ノ北渡ニナム住侍ベルガ、自然(おのづか)ラ、『御京上(おほむきやうのぼり)有リ』ト承ハリテ、『御馬ノ足モ息(やすめ)サセ給ハムガ爲ニ、怪(あやし)ノ宿ニ入ラセ給ヘ』トテ參ツル也」ト云フ樣、極テ便々(つきづき)シ。其ノ時ニ、郎等モ皆下ヌ。主人モ馬ヲ引キ云ク、「大切ナル事有テ、夜ヲ晝ニテ上レバ、此ク志有ケレバ、年返テ下ラムニ必ズ參リ來ム」ト。法師強(あなが)ニ留レバ、引放チ難キ程ニ、日モ山ノ葉近ク成ヌ。郎等ナドモ、「此ク強ニ被申(まうさる)ルニナム」云ヘバ、「然(さ)ラバ」トテ行ケバ、法師、喜テ前ニ打テ行ク。「只此ゾ」ト云ツレドモ、三四十町許行テ、山邊(やまのほとり)ニ築垣(ついがき)高クシテ屋(や)共數有ル所也。打入テ、寢殿ト思シキ南面(みなみおもて)ニ居ヌ。階々(しなしな)ノ儲(まうけ)共有リ。遙ニ去(さり)タル所ニ侍有リ、饗(あるじ)共器量(いかめ)シク、馬共ニ草食ハセ、騷グ事無限(かぎりな)シ。我ガ有ル所ニハ女一兩(ひとりふたり)ナム有ル。此クテ裝束ナド解テ臥シヌ。前ノ物ナド器量(いかめ)シク、酒ナド有レドモ、苦サニ惱シクテ不見入(みいれ)ズ。前ナル女房ナド、皆物食ヒ酒ナド飮テ臥ヌメリ。我レ、妻夫(めをうと)ハ苦サニ不被める寢(ねられ)デ、物語ナドシテ哀ナル契(ちぎり)ヲシテ、「此(かか)ル旅ノ空ニテ何ナルベキニカ、怪シク心細ク思ユルカナ」ト云フ程ニ、夜漸ク深ク成ヌ。

 而ル間、奥ノ方ヨリ人ノ足音シテ來ル。怪(あや)シト思フ程ニ、近ク來(きたり)テ、枕上ナル遣戸ヲ引開ク。男、「誰(た)レゾ」ト思テ、起上ル、髮ヲ取モ只引キニ引出ス。力有ル人ナレドモ、俄ノ事ナレバ、我ニモ非デ被引(ひか)ル程ニ、枕ナル刀ヲダニ不取敢(とりあへ)ズ。蔀(しとみ)ノ本ヲ放(はなち)テ、男ヲ押シ出シテ云ク、「金尾丸(かなをまろ)有ヤ。例ノ事吉(よ)ク仕(つかまつれ)」。怖シ氣ナル音(こゑ)ニテ「候フ」ト答テ、我ガ立頸(たてくび)ヲ取テ、引キ持行ク。早ク、片角ニ築垣ヲ築𢌞(つきめぐら)シテ、脇戸ヲモテ其ノ内ニ、深サ三丈許、井ノ樣ナル穴ヲ堀テ、底ニ竹ノ鋭杭(とぐひ)ヲ隙無ク立テ丶、年來如此(かくのごと)ク上リ下ル人ヲ謀(たばか)リ入レテ、一日(いちにち)一夜死タルガ如ク酔フ酒ヲ構(かまへ)テ、其レヲ飮セテ、主ヲバ此ノ穴ニ突キ入レテ、從者共ノ酔死タル物ヲ剝ギ取リ、可殺(ころすべき)キヲバ殺シ、可生(いくべ)キヲバ生(い)ケテ仕ヒケル也。其レヲ不知ズシテ來タル也ケリ。

 然(さ)テ、金尾丸我レヲ引テ其ノ穴ノ許ニ引キ持テ行テ、脇戸ヲ開テ、金尾丸、脇戸ノ此方(こなた)ニ立テ突キ入ル丶ニ、脇戸ノ保々立(ほほだち)ヲ捕ヘテ不被突入(つきいれられ)ネバ、金尾丸、穴ノ方ニ立テ引キ入ムト爲ルヲ、少シ小坂(こさか)ナルニ、去樣(のきざま)ニ金尾丸ヲ強ク突ケバ、逆ニ穴ニ落入ヌレバ、脇戸ヲ閉(とぢ)テ、延ノ下ニ曲(かがま)リ居テ思フニ、爲ム方無シ。眷屬共ヲ起シニ行カムト爲レバ、皆醉ヒ死タルニ、只壍(ほりき)ヲ隔テ丶橋ヲ引テケリ。

 和(やは)ラ板敷ノ下ニ入テ聞ケバ、法師、我ガ妻ノ許ニ來テ云フナル樣、「轉(うたて)ト思スラム。然レドモ、昼、牟子(むし)ヲ風ノ吹キ開タリツルヨリ見奉ツルニ、更ニ物不思ズ。罪免シ給ヘ」トテ、打覆(うつふし)テ臥シヌ。然レドモ女ノ云ク、「我レ、宿願有テ百日ノ精進ヲナムシテ上ツルニ、今只三日(みか)有ルヲ、同(おなじ)クハ、其レ畢(はて)テ云ハム事ニ隨ハム」ト。法師ノ云ク、「其レニ增タル功德ヲ造ラセ奉ラム」ト云ヘドモ、女、「憑(たのみ)タリツル人ハ此ク目前(めのまへ)ニ無ク成ヌレバ、今ハ身ヲ任セ可奉キ身ナレバ、可辭(いなぶべき)ニ非ズ。更ニ忩(いそ)ギ不可給(たまふべから)ズ」ト云テ、親(したし)クモ不成(なら)ネバ、法師、「現(げ)ニ然(さ)モ有ル事也」ト云テ、内ヘ入ヌ。

 女ノ思ハク、「然(さ)リトモ、我ガ男ハ、世モ無下(むげ)ノ死ニハ爲(せ)ジ物ヲ」ト思フニ、板敷ノ下(した)ニシテ、此レヲ聞クニ、妬(ねた)ク悲シ。此ノ妻ノ居タル前ノ程ニ、板敷ニ大ナル穴有ケリ。其レヲ見付テ、木(き)ノ端(はし)ヲ以テ穴ヨリ指上(さしあげ)タルヲ、妻見付テ「然バコソ」ト思テ其ノ木ヲ引キ動シタレバ、「心得テケリ」ト思フニ、此ノ法師、度々來テ語フト云ヘドモ、女、トカク云ヒツ丶不聞(きか)ネバ亦入ヌ。

 其ノ時ニ、女和(やは)ラ蔀ヲ放(はなちた)レバ、板敷ノ下ヨリ出デ丶、入來テ、先ヅ互ニ泣ク事無限シ。「死ヌトモ共ニ死ナム」ト思テ、「大刀(たち)ハ何ガシツル」ト問ヘバ、「被引出(ひきいでされ)シ程ニ、疊ノ下ニ指入タリ」トテ取出シタレバ、男、喜テ、衣一ツ許着セテ、大刀ヲ持テ、北面(きたおもて)ノ居タル方ニ和ラ行テ臨ケバ、長地火炉(ながちくわろ)ニ俎共七八ツ立テ丶、万(よろづ)ノ食物(じきもつ)置テ散シテ男共有リ。弓・胡錄(やなぐひ)・甲冑・刀釼(たうけん)立並(たてならべ)タリ。法師ハ前ニ台一双ニ銀ノ器(うつはもの)共ニ物食散シテ、脇足(けふそく)ニ押シ係テ打チ低(かたぶ)キテ、居乍ラ    ヲシテ寢タリ。

 其ノ時ニ、此ノ人思ハク、「長谷(はつせ)ノ觀音、我ヲ助ケ給テ、父母ニ今一度(ひとたび)値(あ)ハセ給ヘ」ト念ジテ、「此ノ法師ノ不思係(おもひかけ)ズシテ寢タルヲ、走リ寄テ頸切テ共ニ死ナム。何(いか)ニモ我レ可遁(のがるべ)キ樣(やう)無シ」ト思ヒ得テ、和ラ寄テ、低(かたぶき)タル頸ヲ差シ宛テ丶強ク打タレバ、「耶々(やや)」トテ手ヲ捧(ささげ)テ迷フニ、次(つづ)ケテ打ケレバ死ケリ。

 其ノ程、前ナル男共其員(かず)有リト云ヘドモ、實(まこと)ニ觀音ノ助ケ給ヒケレバ、「多ノ人忽(たちまち)ニ入來テ、此ノ法師ヲ殺シツルゾ」ト思(おぼ)エケルニ、亦、心ニ非ズ皆如此クシテ被取タリケル者共ナレバ、「手迎ヘセム」ト不思(おもは)ズ。况ヤ、主(あるじ)ト有ツル者ハ死(し)ヌ。今ハ甲斐無クテ、各々口々ニ「己等(おのれら)ハ、過(とが)シタル事不候(さむらは)ズ、然々(しかしか)ノ人ノ從者ニテ有シヲ、如此クシテ不意(おもはぬ)ニ侍ル也」ト云ヘバ、可然(さるべ)キ所々ニ追ヒ籠(こめ)テ、人數(あまた)有ル樣(やう)ニ翔(ふるま)ヒ成シテ、夜ノ※1(あくる)ヲ待ツ程、極テ心モトナシ。適(たまた)マ暛(あけ)ヌレバ、郎等共召出シテ見ルニ、夢ノ心地シツ丶、目押摺リナムドシテ酔ヒ醒(さま)シテ出來タリ。「此(か)ク」ト聞テゾ、酔モ悟(さめ)ケル。[やぶちゃん字注:「※1」=「暛」-「差」+「着」。]

 彼ノ脇戸ヲ開テ行テ見レバ、深キ穴ノ底ニ、竹ノ鋭杭(とぐひ)ヲ隙(ひま)無ク立テ丶、其レニ被貫ル者、舊キ新キ多カリ。夜前(やぜん)ノ金尾丸ハ長(たけ)高キ童ノ瘦タルガ、賤(あや)シキ布衣(ほい)一(ひとつ)ヲ着テ、平足駄(ひらあしだ)ヲ履(はき)乍ラ被貫レテ、未ダ死(しに)モ不畢(はて)デ動ク。「地獄ト云フ所モ此クヤ有ラム」ト見テ、夜前此ノ家ニ有シ男共ヲ召出セバ、皆出來テ、年來(としごろ)不意(おもは)ヌ事共ヲ申シ合(あひ)タリ。然(しか)レバ、咎(とが)ヲ不行(おこなは)ズ。使(つかひ)ヲ上(のぼせ)テ、京ニ此ノ由ヲ申シタレバ、公(おほやけ)聞(きこ)シ召シテ、「賢キ態(わざ)シタリ」ト感ゼサセ給ケリ。京ニ上テ、官(つかさ)給ハリテ、思フ樣(やう)ニテナム此ノ妻ト住テナム有ケル。何(いか)ニ泣見(なきみ)咲(わら)ヒ見、有シ事共云ケン。盜人(ぬすびとの)法師ハ、其緣ト云フ人モ聞エデ止(やみ)ニケリ。

 心バセ賢ク思量(おもばかり)有ル人ハ此(かか)ル態(わざ)ヲナムシケル。但シ、人、此レヲ聞テ、知ザラム所ヘ※2(やさし)シク不可行ズ。[やぶちゃん字注:「※2」=(上)「メ」+(下){「宏」-(うかんむり)}。]

 亦、此レ偏ニ觀音ノ御助(おほむたすけ)也。觀音ノ人ヲ殺サムトハ不思食(おぼしめさ)ネドモ、多ノ人ヲ殺セルヲ惡(あ)シト思食ケルニヤ。

 然レバ、惡人ヲ殺スハ菩薩ノ行(ぎやう)也、トナム語リ傳ヘタルトヤ。

 

●やぶちゃん語注:

・大宰ノ大弐    :「大宰ノ大弐」は大宰府の次官級の職。帥(そち)・権帥(ごんのそち)の下、小弐(しょうに)の上であるが、親王が帥に任じられて権帥も配されないときは、実質的な最高指揮者であった。「    」の意図的な欠字は、原話である「長谷寺験記」(はせでらげんき:13世紀の成立。長谷寺の観音に纏わる霊験譚)では「小野好古」(おののよしふる)とある。小野好古(元慶8(884)年~康保5(968)年)は実在する人物で、小野氏は小野妹子を祖とする代々大宰大弐を輩出した名家。祖父は小野篁であり、弟は能筆家の小野道風である。好古は二度、大宰大弐として大宰府に赴任しており、一度目は天慶8(945)年~天暦4(950)年、二度目は天徳4(960)年~康保3(966)年である。訳では復元した。

・小卿:大宰小弐の別称。

・筑前ノ守     :「     」の意図的な欠字は原話である「長谷寺験記」では「藤原ノ永保」とある。名前では藤原南家(巨勢麿流)に実在するが、彼が本話相当の人物であるかは不明。訳ではそのまま復元した。

・端嚴(たんごむに):「たんごんなり」で形容動詞。容貌が端整でおごそかなさま。男女いずれにも用いる。

・嚴(いづく)シ:「美し」とも書く。心が真っ直ぐで非の打ち所がない。

  國:意図的な欠字は父の大宰府赴任から筑前である。訳では復元した。

・大卿:大宰大弐の別称。

・京ニ上(のぼり)セム:用例としては特異。「京に上らむ」「京上りせむ」とあるべきところ。

・「船ノ道ハ定メ無シ」:海路が不安であることを言う。天候に左右され旅程がうまく運ばないことが多く、遭難や海賊の危険が常に付き纏っていた。

・忩(いそ)グ:正字は「悤」で、あわてる、いそぐ、慌しいの意。後で主人公が述べるように、任官に先立つ何らかの予定が差し迫っていた。

・幡磨ノ國、印南野:「幡」は「播」の通用字。播磨国印南(現在の兵庫県加古郡稲美町印南周辺)の野辺。

・守殿(かうのとの):「かみのとの」のウ音便。

・申打下ル程:申の刻を過ぎて酉の刻に近い頃。現在の午後五時前頃。

・宿德:年老いて人徳の優れたさま。

・ラ天(でん):当て字。鞍の側面に豪華な螺鈿細工施してあるのである。

・郎等ナドモ、「此ク強ニ被申ルニナム」云ヘバ:先前、法師の言葉を受けて郎等が「其ノ時ニ、郎等モ皆下ヌ」と、即座に馬を下りたことと考え合わせると、相当な強行軍であったことが知れる。この時、郎等はもう歩みを進めたくなかった、すっかり疲れていたということを如実に示しているのであるが、こうした一見不要に見える描写を畳みかけて、選りすぐったはずの郎等のこうしたやる気のなさを見せているのは、実は後半の危急の際に、彼らがまるであてにならない、愚鈍な連中であったというシチュエーションへの伏線でもある。

・三四十町許:約3~4㎞。

・饗(あるじ)共器量(いかめ)シク:「饗」は饗応、「共」は「(主と妻の饗応と)同じく」、「器量(いかめ)シク」は豪勢な、立派なさま。

・三丈許:約9m

・保々立:底本頭注によれば、『「ホコタチ」の音便。門柱の脇に立てた低い小柱で、扉を付けるもの。』とあり、漢字としては「門頰」「桙立」「後立」などの表記を当てるとする。

・長地火炉(ながちくわろ):方形でない部屋に合わせた長方形の囲炉裏。

・胡錄(やなぐひ):矢を入れて携帯するための武具。通常右腰に装着する。

・居乍ラ    ヲシテ寢タリ:ここ底本の注では『漢字表記を期した意識的欠字で、「ウタヽネ」が擬せられる』とある。それで現代語訳してある。私はこの「漢字表記を期した意識的欠字」という語がどうも理解出来ない。漢字が思い出せなかったので、後から書こうと思って空けておいたが、筆者に何事かが起こって最早書けなくなったということなのか。それならば、そうした欠字の統一性が認められるはずなのだが、そういう資料はあるんだろうか。識者の御教授を乞いたいものである。

・「多ノ人忽ニ入来來テ、此ノ法師ヲ殺シツルゾ」:底本頭注によれば、「長谷寺験記」にはこの部分冒頭が「數千人武者討入リタリトミテ」となっており、「長谷寺験記」にはここより前に実際に『従者二十人ばかりが現れたが、いずれも観音が現出させた仮の従者で、事後で忽然と消失した』とあるとする。

・※(あくる):[「※」=「暛」-「差」+「着」。]底本頭注はこれを『下の「暛」の異体字であろう』としているが、少なくとも「廣漢和辭典」には所収しない。漢字表記を期した意識的欠字をするような人物が、極めて特異な異体字を知っているというのはおかしくはないか? 何故、素直に「暛」の字の誤植と言わないのであろうか。意味は夜が明ける、である。

・※2シク:[「※2」=(上)「メ」+(下){「宏」-(うかんむり)}。]底本頭注には、『前後の文脈より推して、「※ク」は不用意に、軽率にの意』とする。

・惡人ヲ殺スハ菩薩ノ行:底本頭注に曰く、『殺生は五戒・十戒の一で、仏教で固く禁ずるところ。それを観音が犯した矛盾を菩薩の衆生済度の方便行と釈明した句』。オウム真理教のポアみたようなもんだな。

 

●やぶちゃん現代語訳:

さても今となっては遠い昔のこととなってしまったが、太宰の大弐で、小野好古という人がおった。子供を沢山もうけたが、その末っ子は男の子であった。やっと二十歳(はたち)になったばかりの若さに、容貌も端整で美しく、賢い上に思慮深かった。武門の家柄ではなかったけれども、力持ちで勇猛果敢な気性でもあった。

 

父母はこの子を特に可愛がっていたため、相伴って任地の九州大宰府まで連れて行っていたのであるが、さて、その折の部下であった太宰小弐に筑前守藤原永保という人があって、その彼にも娘がおり、たいそう見目麗しく気立てもよい。年も未だ二十に満たぬ。娘の父母もこの娘をことさらに愛(いつく)しみ、やはり同じごと、筑前国へ連れ来たっておった。

 

 ある時、大弐が小弐に向かって、

「私の息子に貴殿の娘を嫁として娶(めあ)わせようと思う。」

と切に求めたので、筑前守も上司である大弐の命にはさすがに背きがたく、掌中の玉となす娘ではあったが、よき日を定めてめでたく結婚とは相成った。

 

 その後、二人は夫婦(めおと)として濃やかな愛情に結ばれ、相思相愛で仲良く暮らしていたのであるが、この男には、もともとちゃんとした仕官をしたいという望みがあり、京に上って相応の準備をと常々考えておった。しかしまた、この妻とは片時も離れがたいとも思っておった故に、思いあぐねた末、

「お前も一緒に京へ上ろう。」

と言うと、妻はすんなりと承知して伴に上京する運びとは相成った。

 人が、

「船旅では何かと危険な上に不安でもある。」

というので、陸路、京へと出立したのだが、任官の時期等も考え合わせると急がねばならない道中と決したので、選り抜きの郎等らに限った二十人ほどの小人数の旅となった。同行の者の内には徒歩(かち)の者が多く、荷物を背負った馬なども沢山連れておった。

 

 昼夜兼行で道を行くうち、播磨国の印南(いなみ)の野辺を過ぎた頃、申の刻を過ぎたあたり、折しも師走の頃おい、風が吹いて、雪さえも舞い始めた。

と、北の山手の方(かた)から、馬に乗った法師がやってくる。

 近くまで来て馬を降りたその姿を見ると、年の頃五十余り、太って如何にも堂々とした如何にも人品を感じさせる法師である。赤の織物の直垂(ひたたれ)に紫の指貫(さしぬき)を穿き、藁沓を履いて、漆塗りの鞭を手にして、しきりにはやる乗ってきた馬を見れば、その背には螺鈿の細工を施した立派な鞍が置かれている。

法師は俄かに畏まって、

「拙者は筑前守殿に長年お仕え申し上げておりました者に御座る。この北の辺りに住まいしておりまするが、風の便りに『主君筑前守殿の姫君とその婿殿であらせられる大弐の御子息が京へお上りになられる』というお話を承りまして、『せめて御馬の足休めなどなさって戴かんがために、茅屋なれどお立ち寄りあれかし』と参上致しました次第に御座りまする。」

と言う。いや、その態度たるや、まっこと礼儀正しく似つかわしい。

 数少ない馬上の郎等らも、早くも皆、馬から降りてしまう。

 主人はしかし、馬を留めさせながら言う。

「只今、大切な用件があり、夜を日に継いで上洛を急いでおりますれば、誠に済まぬが、この度は御遠慮願い上げたい。されど、かほどに有り難いお志にてありますれば、来年の下向の砌(みぎり)には、必ずや参上致しまする。」

と。

 それでも法師が熱心に引き止めるので、なかなかに振り切って出立することも出来ずにいるうち、陽もすっかり山の端(は)近くに傾むいてしまった。郎等なども、

「こちら様が、かく熱心に申し上げなさる以上……。」

とさも行きたげに呟くので、主も仕方なく、

「それならば。」

と好意に甘えることとして法師について行くと、法師は如何にも喜んで馬に鞭して先導する。

「拙宅はすぐ其処で御座る。」

とは言ったものの、三、四十町ほども行く。

 辿り着いたのは、山の麓に土塀をことさらに高く巡らして、多くの家が立ち並んでいる場所であった。法師に導かれた主と妻は中に入って、寝殿と思しい座敷の南面に座る。そこには既に様々な馳走が据えられておった。母屋から妙に離れた所に侍どもの詰所があって、そこで郎等らにも同じように豪華な饗応がなされて、また、一行の馬にも秣(まぐさ)を食わせたりしてくれるなど、下に置かぬもてなしようである。この法師はと見れば、僧であるにも拘わらず、近くに一、二名の侍女が常に付き添うている。

 かくあったのだが、とりあえず二人は旅装束を解いて休むこととした。目の前には美事な食膳が調えられ、酒なども置かれてはおったのだが、慣れぬ旅に疲労困憊、箸を取る気も起こらないのであった。いつの間にか法師は下がったものの、先前の侍女らは如何にも不作法に食べたり飲んだりしている。が、その連中もいつか寝所へと引き上げた。やっと寝られると思いつつも、かえって二人とも疲れのために寝つかれない。寝物語をもし、あっさありとしたまぐわいも交わした中、主はぽつりと、

「このような旅のみ空で、この先一体、どうなるのだろう……何かどうも不吉に、心細い気持ちがしてくるんだ……。」

と言っているうちにも、夜は次第に更けて行く――。

 

 ――と、何やら奥の方から人の足音がして、誰かがやって来る。怪訝に思っているうちに、みるみる近づいて来て枕上の遣戸を荒々しく引き開けた。主は、

「何者ならん!」

と思い、起き上がるか上がらぬかのうちに、その何者かは彼の髪をむんずと掴み、もの凄い力で部屋から彼を引きずり出そうとする。主も力の強い男であったが、突然のこととて、不覚にも体なく引きずり出されてしまったため、枕上に置いた刀をさえ手に執ることが出来ない。相手は下蔀(したじとみ)を荒々しく蹴破ると主を外にどんと押し出し、

「金尾丸(かなおまろ)はおるか! いつも通り、うまくやれや」

と叫ぶ。

 すると闇の中から如何にも恐ろしげな声がして、

「ここに候!」

と答えるや、飛び出してきた男は、主の襟首をぐいと摑むと、ずるずると物のごとく引きずって行く――――

 引きずられて行った場所――そこは、何とまあ――この屋敷の片隅、そこにやはり高い土塀を築き巡らして、一角に小さな扉があり、その中には深さ三丈ほどもあろうかという井戸のような穴を掘り、その底には先をとがらした杭を隙間なく立て並べあったが――これこそ、長い年月、このように街道を上り下りする旅人を欺して家に引き入れ、飲めば一日一晩死んだように酔う酒を用意して、やおらそれを飲ませては、一行の主はこの穴に突き落とし、また、死んだように酔い臥している郎等らの持物をば一切剥ぎ取って、殺すべき者は殺し、生かすべき者は生かしておいて奴隷のように使うという悪所であったのだ! 私たちはそれと知らずに、おめおめとこの屋敷へと来てしまったのであった――。

 

 ――さて、金尾丸と呼ばれた男は私を引きずってその穴の近くに持って行き、扉を開けると、自身は扉のこちら側に立って、私を中の穴に突き入れようとした。ところが私は扉を取り付けた左右の小柱をぎゅっと捕まえて突き入れられないようにふんばった。そこで金尾丸は油断して内側の穴の脇に入って立ち、力を込めて引き入れようとした。もともと穴の縁はやや内側に向かって傾斜していたのだが、私はさっと身を翻すや、金尾丸をどんと強く突いた。あわれ、金尾丸は穴の底に真っ逆さま――私は静かに扉を閉め、母屋の縁の下に潜り込んでしゃがみ込んだまま、さてもどうすべきかと考える。考えるが、どうにも、ならぬ。郎等たちを起こしに行こうにも、まず、遠めに見ても皆酔って死んだように眠っている上に、巧妙にもこの母屋との間には堀があって、更にその上の橋は引きはずされてある――。

 

 とりあえず、この縁の下に潜んだまま聞き耳を立てていると、あの法師が自分の妻のそばにやって来て、

「こんなことを申せば、さぞいやらしい輩とお思いになるじゃろうが――じゃが、昼、彼処で馬上のおぬしの苧(むし)の垂れ衣が風で翻った折、ちらと拝顔致いただけで――最早、心奪われてしもうたのじゃ。御無礼の段は、重々お許し下されい。」

と言いつつ、妻の横に添い寄ろうとする衣擦れの気配が頭上でする。ところが、とっさの間に妻は、

「……私には、かねてより人に秘したる宿願があって、その百日の精進をしつつの上洛……今、まさにその百日が、あと三日残っておりますれば……最早、悪あがきをしようとも思いませぬ故……どうか同じ身を任せるとならば、その満願を終えての後、お言葉に従いましょうぞ。」

と言う。法師は、

「ふふふ――何、今すぐにでも痺れるような功徳を貴女のうちに、つくらせて申し上げましょうぞ。」

と更に迫った。が、女は、

「頼りとしていた夫も、かくの如く目前に消え失せてしまい……今はもう、あなた様に身をおまかせする外、御座いませぬ故……いやとは決して申しませぬ……ですから……それ……そのようにお急(せ)きになりまするな……」

と言いいつつ、一向に体をまかそうとはしなかった。そこで法師は、

「成る程――焦ることも、確かにあるまい。」

と独りごちて、奥の方へと戻ってゆく。

 一人っきりになった妻は、

『そうは言っても、私の夫は、よもやむざむざと死にはするまいに……』

と思っている。

 縁の下で頭上のやり取りをまんじりともせず聞いていた私は、妬ましくも、悲しいばかり。

 ふと見上げると、この妻の座っている前の辺りの床の板敷に、大きな穴が開(あ)いているではないか。私はそれを見つけるが早いか、そばに落ちていた木っ端切れを穴へさし込んで、それをぐいと刺し出した。

 妻はそれを見つけると、

『やっぱり、夫は無事だったのだわ!』

と思い、その木をぎゅっと握って上下に引き動かしたので、私も、

『さても妻も気づいてくれた!』

と思うた。

 されば、その後も、かの法師は間を置かず頻繁に妻の元にやって来ては、例の調子で言い寄ろうとするのであったが、妻はこれまた何やかやと理由をつけて、身を固くして聞き入れない。法師は苛立ちながら、再三、奥へと戻って行った。

 

 その折を逃さず、妻がそっと蔀を外したので、私は縁の下から這い出(い)で、室内に入るや、まず悲嘆の涙に暮れるばかり。私は、

『同じ死ぬのなら、共に死のう。』

と思い定めて、

「太刀は如何した?」

と妻に問えば、

「あなたが引き出されなさった折、畳の下に差し入れて隠しました。」

と言いつつ、取り出した――――

 主は喜んで、妻に着物を一枚着せ、自身は太刀を持って北面(きたおもて)のこの家の者どもがいるとおぼしい居間の方をへと忍び行き、やおら中を覗いてみる。と、長い囲炉裏の横に俎を七つ八つ置いて、数人の男が食い物を据えて、如何にも汚げに食い散らかしている。その背後には弓・胡録(やなぐい)・甲冑・刀剣がずらっと立て並べてある。

 あの法師はと見れば、自分の前に台を二つ並べ、それぞれの上に、銀で出来た豪華な食器をあまた並べ、散々に食い散らかした上、脇息にもたれ掛かって頭(こうべ)を垂れ、座ったまますっかり眠りこけておった。

 

 これを見た瞬間、この主は、

「どうか長谷の観音様よ、私をお助け下すって、父母に今一度(ひとたび)逢わせて下されい!」

と念じて、

「この法師め、すっかり油断して眠りこけておる。走り寄ってざっくと首に切りつけ、共に死のうぞ! それ以外に私がこの絶望の地獄から抜け出す法は、ない!」

とそうっと静かに近寄ってゆくや、傾けた首目がけて抜き打ちざま、ばらりずんと激しく太刀を振り降ろせば、

「ああっ!!!」

と叫んで両手を掲げて転がり回るのを、すかさず追い打ちをかける。

 さんざんに斬りつければ、かの法師はあっけなく死んだ――。

 

 この間(かん)、法師の前にいた手下どもは、勿論、相当な数ではあったのだが――さても実に観音の御加護があらせられたのである――何とまあ、これ幸い、

『大勢の者どもが急に攻め込んで来て、この法師を殺してしまった!』

と思い込んだ上に、また、元はと言えば彼等も、心ならずも皆、その昔、この一行と同様にここの捕虜にされた者どもでもあったから、『手向かいしよう』なんどともさらさら思わない訳である。ましてや今まで「親分」と仰いでおった者はとうに死んでしまった。今やすっかり戦意を喪失し、それぞれ口々に、

「儂(わし)らは何一つ罪を犯したことは御座りませぬ。はい、儂は元、これこれという方の従者で御座いましたが、このような理不尽なる仕儀を受けた結果、心ならずもこのようにしておるので御座りまする。」

と逆に被害者ぶる始末。取りあえず、この者どもを然るべき監禁出来る場所に追い込んだ。その間も主は彼等に、大勢の者が急襲して来たかのように見せかけることも決して忘れなかった。そうして夜が明けるのを待ったが、ともかくも曙が待ち遠しくてたまらない。

 ようやっと夜も明けきったので、何とか橋を渡して侍の詰所まで行き、自身の郎等どもを呼び出して見たところが、皆(みんな)が皆、夢見心地のまま、しきりに目を押さえたり擦(こす)ったりして、酔いを冷まし冷ましのろのろと出てくる。主が

「かくてあり!」

と昨夜のことを語るのを聞くや、皆、瞬く間に酔いも醒めてしまった。

 

 さて、あの地獄の穴のある土塀の扉を開けて見ると、深い穴の底に、竹の尖った杭が隙間もなく立ててある中、それに貫かれている者は、古き死骸も新しき死骸もあまたある。

 昨夜の金尾丸はと見れば、何のことはない、長身の痩せた未だ少年で、粗末な麻布の衣一枚を引っかけて、平下駄を履いたそのままに何本もの鋭い竹杭に貫かれて、未だ死にもせず、呻きつつ動めいておる――。

 主は、

『地獄という処もまたこのようなものであろうか。』

とも思うのであった――。

 昨夜、この家にいた下男どもを召し出してみると、皆、出て来る、出て来る。しかしてはたまた、手下ども同様に、長年よんどころなく、心ならずも召し使われていたことなんどを口々に言い合い、命乞いと相成る。されば主は、これらの者を罰しなかった。

 そうして、すぐに使者を上京させ、京にかかる次第を奏上したところ、朝廷におかせられてはこれをお聞きになられ、

「天晴れの仕儀なり。」

と殊の外の御感興を覚えさせ給うたということであった。

 さてもその主は、すぐに京に上り、任官を承りて、思い通り、この妻と二人して仲睦まじく住み暮らしたということである――。

 きっと時々は、あの折のことを互いに思い出して、泣いたり笑ったりし合ったこともあったであろが、いや、それもまた、夫婦(めおと)の更なる睦まじさを増すものであったろうのう――。

 一方、盗人の法師に縁があるという人物も現われず、彼は正体不明のまま、捨て置かれてしまった――。

 

 心健やかにして思慮深い人は、このような仕儀を成し得るものなのである。とは申せ、人々よ、この話を聞いたからには、ゆめゆめあやしい不審なる場所へ不用意に行ってはならないのである。

 

 また、これはひとえに観音様のお助けによるものである。観音様は勿論、人を殺そうとはお思いにはならぬけれども、この法師の最期は、過去にあまたの人をむごたらしく殺してきたことを救い難き悪行とお思いになって、観音様が下された罰でもあったのであろう。

 

 それゆえ、悪人を殺すことは即ち菩薩行である、と、このように語り伝えているということである。

 

・「轉(うた)て思すらむ。然れども晝牟子を風の吹き開きたりつるより見奉るに、更に物不思罪免し給へ云々」:前掲本文のカタカナを平仮名に直し、芥川の引用と句読点を一致させて正字に直し、返り点・下線を除去すると、

轉(うた)て思すらむ。然れども晝牟子を風の吹き開きたりつるより見奉るに、更に物不思罪免し給へ

轉(うたて)と思すらむ。然れども昼牟子を風の吹き開たるつるより見奉るに、更に物不思ず罪免し給ヘ

とほぼ綺麗に一致する。ちなみに、このシーンが翌大正111922)年1月発表の「藪の中」で、多襄丸が真砂を垣間見て欲情を起こすシーンに用いられたことは、最早、疑いないし、また、夫婦の木っ端による言葉なき以心伝心は、その枠組みが、同様に「藪の中」の悲劇的な「真砂」証言と「武弘(死霊)」証言の視線の解釈の齟齬と美事にダブってくるように思われるが、如何か?

・舒びる:「舒(の)びる」と読む。心が晴れ晴れとする。

■「むし」やぶちゃん注終

 

 

       時弊一つ

 

 「彼(一茶)の結婚生活も決して幸福なものではなかつた。生れる子供も、生れる子供も、皆夭折して行くのであつた。(中略)さればこそ「唯賴め櫻はたはたあの通り」と云ふやうな、宗教的な句に對しても、陳腐な感じを起すよりも、寧ろ吾々は何ともいへない嚴かな感じを起すのである。」これは西宮藤朝氏が一茶の生活を論じた文章である。(「国粹」十二月號所載、「家庭生活の諸相」)が、私は一茶の生活を知ると知らざるとに關らず、この句は一茶の作中でも、見るに堪へない俗句だと思ふ。この句に嚴かな感じを起すと云へば、西宮氏は全然私たちとは、異つた神經の所有者である。しかし単にそれのみなら、私は何も物知り顔に、この句の價値なぞは喋々しない。私が西宮氏を難ずる所以は、時弊の一つが氏の態度に現れてゐると思ふからである。私の見る所を云へば、西宮氏はこの句を鑑賞する際、一茶傳記を知つてゐた爲めに、眼先が昏んでしまつたのである。云はばこの句の正體も極めず、一茶の傳記が句の上に懸けた、圓光ばかりを拝んだのである。この態度は宗匠連が、芭蕉の 「古池や」を難有がるのと、邪道に堕在した上から見れば、五十歩百歩と云ふ外はない。これは獨り句のみならず、小説でも畫でも同じ事である。評家は常に作品にのみ、作品の價値を求めねばならぬ。もし作品の鑑賞上、作家の傳記が役立つとすれば、それは作品が與へた感じに、脚註を加へるだけのものである。この限界を守らぬ評家は、たとひ作品の價値如何に全然盲目でないにしても、すぐに手輕な「鑑賞上の浪曼主義」に陷つてしまふ。惹いては知見に囚はれる餘り、味到の一大事を忘却した、上の空の鑑賞に流れ易い。私はかう云ふ弊風が、多少でも見えるのを好まぬのである。ユウゴオ、芭蕉、ベエトオフエンなぞが輕々に談られるのを好まぬのである。引き合ひに出された西宮氏には、気の毒な心地がしないでもない。(二月五日)

■「時弊一つ」やぶちゃん注

・西宮藤朝:評論家・翻訳家(明治241891)~昭和451970)年)。

・「唯賴め櫻はたはたあの通り」:岩波書店1990年刊の丸山一彦校注「新訂 一茶俳句集」には

  観音法楽(ほふらく)

たゞ頼め花ははら/\あの通り (文化六年句日記)

で本文所載し、脚注で「文化句帖補遺」には、「高蔵寺」と前書し、

たゞ頼め桜ぼた/\あの通り

とあり、また同文政版には「観音奉納」と前書して、

たゞ頼め花もはら/\あの通り

の異形句を示すのみである。これを考えると、ここで西宮が取り上げ、芥川が論じているのは、正しい一茶の句形とは言い難いとは言える。なお、同脚注で、『高蔵寺は千葉県木更津市矢部にある寺。俗称高倉観音。坂東霊場の第三十番札所。』とある。高蔵(たかくら)寺は藤原鎌足開基と伝えられる古刹で、一茶は好んで参拝したらしい。本句は文化6(1809)年3月1日の高倉寺宿泊の際の嘱目吟と思われる。

・味到の一大事:対象の内容を十分に味わい知ることの大切さ。

■「時弊一つ」やぶちゃん注終

 

 

     蕗

 

 坂になった路の土が、砥の粉のやうに乾いてゐる。寂しい山間の町だから、路には石塊も少くない。兩側には古いこけら葺の家が、ひつそりと日光を浴びてゐる。僕等二人の中學生は、その路をせかせか上つて行つた。すると赤ん坊を背負つた少女が一人、濃い影を足もとに落しながら、靜に坂を下つて來た。少女は袖のまくれた手に、莖の長い蕗をかざしてゐる。何の爲めかと思つたら、それは眞夏の日光が、すやすや寢入つた赤ん坊の顏へ、當らぬ爲の蕗であつた。僕等二人はすれ違ふ時に、そつと微笑を交換した。が、少女はそれも知らないやうに、やはり靜に通りすぎた。かすかに頰が日に燒けた、大樣の顏だちの少女である。その顏が未にどうかすると、はつきり記憶に浮ぶ事がある。里見君の所謂一目惚れとは、こんな心もちを云ふのかも知れない。(二月十日)

■「蕗」やぶちゃん注

・砥の粉:「とのこ」。

・里見君の所謂一目惚れ:「里見君」は里見弴を指すと思われるが、彼の小説を一篇だに真剣に読んでいない私には「所謂一目惚れ」が如何なる作品を指すかは不詳(これは当時の読者にピンとくる作品を指すはずである。でなければ芥川らしくない不適切な発言である。この話にそんな意地悪をする程、芥川は愚劣ではないはずだ)。筑摩版、岩波版新全集共にここには注を附していない。さても注釈者にとってこれは注を附すまでもない自明なことなのであろうか? だとしても、ここにこそ注が必要ではあるまいか? この愚昧な私のような者には? 何もかも自明なる識者の御教授を切に乞うものである。

■「蕗」やぶちゃん注終