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[やぶちゃん注:大正五(1916)年五月発行の雑誌『新思潮』第一年第三号に掲載、後、作品集『羅生門』『煙草と悪魔』等に所収。初出には文頭に「――矢間雄二氏に獻ず――」とある。底本は岩波版旧全集を用いた。傍点「丶」は下線に代えた。後に、岩波版新全集から草稿を附した。但し、恣意的に正字に代えた。]

 

父   芥川龍之介

 

 自分が中學の四年生だつた時の話である。

 その年の秋、日光(につかう)から足尾へかけて、三泊の修學旅行があつた。「午前六時三十分上野停車場前集合、同五十分發車……」かう云ふ箇條が、學校から渡す謄寫版の刷物(すりもの)に書いてある。

 當日になると自分は、碌(ろく)に朝飯も食はずに家(いへ)をとび出した。電車でゆけば停車場まで二十分とはかからない。――さう思(おも)ひながらも、何となく心(こゝろ)がせく。停車場の赤い柱(はしら)の前に立つて、電車を待(ま)つてゐるうちも、氣が氣でない。

 生憎、空(そら)は曇つてゐる。方々の工場で鳴らす汽笛(きてき)の音が、鼠色の水蒸氣をふるはせたら、それが皆(みな)霧雨(きりあめ)になつて、降つて來はしないかとも思(おも)はれる。その退屈な空の下で、高架鐵道を汽車(きしや)が通る。被服廠へ通ふ荷馬車(にばしや)が通る。店の戸が一つづつ開(あ)く。自分のゐる停車場にも、もう二三人、人が立つた。それが皆、眠(ね)の足りなさうな顏を、陰氣らしく片づけてゐる。寒い。――そこへ割引の電車が來た。

 こみ合つてゐる中を、やつと吊皮(つりかは)にぶらさがると、誰か後から、自分の肩(かた)をたたく者がある。自分は慌ててふり向いた。

「お早う。」

 見ると、能勢五十雄(のせいそを)であつた。やはり、自分のやうに、紺のヘルの制服を着て、外套(ぐわいたふ)を卷いて左の肩からかけて、麻のゲエトルをはいて、腰(こし)に辨當の包やら水筒やらをぶらさげてゐる。

 能勢は、自分と同じ小學校を出て、同じ中學校(ちうがくかう)へはいつた男である。これと云つて、得意(とくい)な學科もなかつたが、その代りに、これと云つて、不得意なものもない。その癖(くせ)、ちよいとした事には、器用な性質(たち)で、流行唄と云ふようなものは、一度聞くと、すぐに節(ふし)を覺えてしまふ。さうして、修學旅行で宿屋へでも泊る晩なぞには、それを得意になつて披露する。詩吟、薩摩琵琶、落語、講談、聲色(こはいろ)、手品、何でも出來た。その上又、身ぶりとか、顏つきとかで、人を笑わせるのに獨特な妙(めう)を得てゐる。從つて級(クラス)の氣うけも、教員間の評判も惡(わる)くはない。尤も自分とは、互に往來(わうらい)はしてゐながら、さして親しいと云ふ間柄でもなかつた。

「早いね、君も。」

「僕はいつも早いさ。」能勢はかう云ひながら、ちよいと小鼻をうごめかした。

「でもこの間は遲刻したぜ。」

「この間?」

「國語の時間にさ。」

「ああ、馬場に叱られた時か。あいつは弘法にも筆(ふで)のあやまりさ。」能勢は、教員の名前をよびすてにする癖があつた。

「あの先生には、僕も叱られた。」

「遲刻で?」

「いいえ、本を忘れて。」

「仁丹(じんたん)は、いやにやかましいからな。」「仁丹」と云ふのは、能勢が馬場教諭につけた渾名(あだな)である。――こんな話をしてゐる中に、停車場前へ來た。

 乘つた時と同じやうに、こみあつてゐる中(なか)をやつと電車から下(お)りて停車場へはゐると、時刻が早いので、まだ級(クラス)の連中は二三人しか集つてゐない。互に「お早う」の挨拶(あいさつ)を交換する。先を爭つて、待合室の木(き)のベンチに、腰をかける。それから、何時(いつ)ものやうに、勢よく饒舌(しやべ)り出した。皆「僕」と云ふ代りに、「己」と云ふのを得意にする年輩である。その自ら「己」と稱する連中(れんぢう)の口から、旅行の豫想、生徒同志の品隲、教員の惡評などが盛んに出た。

「泉はちやくいぜ、あいつは教員用(けうゐんよう)のチヨイスを持つてゐるもんだから、一度も下讀みなんぞした事はないんだとさ。」

「平野はもつとちやくいぜ。あいつは試驗(しけん)の時と云ふと、歴史(れきし)の年代をみな爪へ書いて行くんだつて。」

「さう云えば先生だつてちやくいからな。」

ちやくいとも。本間なんぞは receive のiとeと、どつちが先へ來るんだか、それさえ碌(ろく)に知らない癖に、教師用でいい加減(かげん)にごま化しごま化し、教えてゐるぢやあないか。」

 どこまでも、ちやくいで持ちきるばかりで一つも、碌(ろく)な噂は出ない。すると、その中に能勢が、自分の隣(となり)のベンチに腰をかけて、新聞を讀(よ)んでゐた、職人らしい男の靴(くつ)を、パツキンレイだと批評した。これは當時(たうじ)、マツキンレイと云ふ新形の靴が流行(はや)つたのに、この男の靴は、一體に光澤(つや)を失つて、その上先の方がぱつくり口を開いてゐたからである。

「パツキンレイはよかつた。」かう云つて、皆一時に、失笑した。

 それから、自分たちは、いい氣(き)になつて、この待合室に出入(しゆつにふ)するいろ/\な人間を物色(ぶつしよく)しはじめた。さうして一々、それに、東京の中學生でなければ云へないやうな、生意氣な惡口を加(くは)え出した。さう云ふ事(こと)にかけて、ひけをとるような、おとなしい生徒(せいと)は、自分たちの中に一人もゐない。中でも能勢(のせ)の形容が、一番(ばん)辛辣(しんらつ)で、且一番諧謔に富んでゐた。

「能勢、能勢、あのお上さんを見ろよ。」

「あいつは河豚(ふぐ)が孕んだやうな顏をしてゐるぜ。」

「こつちの赤帽も、何かに似てゐるぜ。ねえ能勢。」

「あいつはカロロ五世さ。」

 しまいには、能勢が一人で、惡口(わるくち)を云ふ役目をひきうけるやうな事になつた。

 すると、その時、自分(じぶん)たちの一人は、時間表の前に立つて、細(こまか)い數字をしらべてゐる妙な男を發見した。その男は羊羹色(やうかんいろ)の背廣を着て、體操に使う球竿のような細い脚を、鼠の粗(あら)い縞のズボンに通してゐる。縁(ふち)の廣い昔風の黒い中折れの下から、半白(はんぱく)の毛がはみ出してゐる所を見(み)ると、もう可成な年配らしい。その癖頸(くび)のまわりには、白と黒と格子縞の派手(はで)なハンケチをまきつけて、鞭かと思うやうな、寒竹(かんちく)の長い杖をちよいと脇(わき)の下(した)へはさんでゐる。服裝と云ひ、態度(たいど)と云ひ、すべてが、パンチの插繪(さしゑ)を切拔いて、そのままそれを、この停車場の人ごみの中へ、立(た)たせたとしか思(おも)はれない。――自分たちの一人は、又新しく惡口の材料(ざいれう)が出來たのをよろこぶやうに、肩でおかしさうに笑ひながら、能勢の手をひつぱつて、

「おい、あいつはどうだい。」とかう云つた。

 そこで、自分たちは、皆その妙な男(おとこ)を見た。男は少し反(そ)り身(み)になりながら、チヨツキのポケツトから、紫の打紐のついた大きなニツケルの懷中時計(くわいちうどけい)を出して、丹念(たんねん)にそれと時間表の數字とを見くらべてゐる。横顏(よこがほ)だけ見て、自分はすぐに、それが能勢の父親だと云ふ事を知つた。

 しかし、そこにゐた自分たちの連中には、一人もそれを知つてゐる者(もの)がない。だから皆、能勢の口から、この滑稽(こつけい)な人物を、適當に形容(けいよう)する語を聞かうとして、聞いた後の笑(わら)ひを用意しながら、面白さうに能勢の顏(かほ)をながめてゐた。中學の四年生には、その時の能勢の心(こゝろ)もちを推測する明(めい)がない。自分は危く「あれは能勢の父(フアザア)だぜ。」と云はうとした。

 するとその時、

「あいつかい。あいつはロンドン乞食さ。」

 かう云ふ能勢の聲(こゑ)がした。皆が一時にふき出したのは、云(い)ふ迄(まで)もない。中にはわざわざ反(そ)り身(み)になつて、懷中時計を出しながら、能勢の父親の姿(スタイル)を眞似て見る者さえある。自分は、思(おも)はず下を向いた。その時の能勢の顏(かほ)を見るだけの勇氣が、自分には缺けてゐたからである。

「そいつは適評だな。」

「見ろ。見ろ。あの帽子を。」

「日かげ町か。」

「日かげ町にだつてあるものか。」

「ぢやあ博物館だ。」

 皆が又、面白さうに笑つた。

 曇天の停車場は、日の暮のやうにうす暗い。自分は、そのうす暗い中で、そつとそのロンドン乞食の方をすかして見た。

 すると、いつの間にか、うす日(び)がさし始めたと見えて、幅(はゞ)の狹い光の帶が高い天井の明(あか)り取りから、茫と斜めにさしてゐる。能勢の父親(ちゝおや)は、丁度その光の帶の中にゐた。――周圍(しうゐ)では、すべての物が動(うご)いてゐる。眼のとどく所でも、とどかない所でも動(うご)いてゐる。さうして又その運動が、聲(こゑ)とも音ともつかないものになつて、この大きな建物(たてもの)の中を霧のやうに蔽(おほ)つてゐる。しかし能勢の父親だけは動かない。この現代と縁(えん)のない洋服を着(き)た、この現代と縁のない老人(らうじん)は、めまぐるしく動く人間の洪水(こうずゐ)の中に、これもやはり現代を超越(てうゑつ)した、黒の中折(なかをれ)をあみだにかぶつて、紫の打紐(うちひも)のついた懷中時計を右の掌の上にのせながら、依然としてポンプの如く時間表の前に佇立してゐるのである……

 あとで、それとなく聞くと、その頃大學の藥局(やくきよく)に通つてゐた能勢の父親は、能勢が自分たちと一しよに修學旅行に行く所を、出勤(しゆつきん)の途すがら見ようと思つて、自分の子には知(し)らせずに、わざわざ停車場へ來(き)たのださうである。

 能勢五十雄は、中學を卒業(そつげふ)すると間もなく、肺結核に罹(かゝ)つて、物故した。その追悼式を、中學の圖書室(としよしつ)で擧げた時、制帽をかぶつた能勢の寫眞(しやしん)の前で悼辭(たうじ)を讀んだのは、自分である。「君、父母に孝に、」――自分はその悼辭の中(うち)に、かう云ふ句を入れた。

                     ――五年三月――







「父」草稿
[やぶちゃん注:底本とした新全集の編者による推定原稿順序を示すローマ数字は、それぞれの文頭行に付けられているが、前の行に移した。底本後記の記述からは、「紺珠十篇」という総題の「二」以外の他の項の原稿は、ないものと思われる。本文は、一部の読点無しの空欄がある。]


T
    紺珠十篇

       二 父
[やぶちゃん注:底本後記によれば、この題は「能勢五十雄」と書き、それを消して「父」としてある。]

自分が中學の四年生だつた時の事である。――或年の秋日光から足尾へかけて、三泊の修學旅行があつた。全級の生徒は午前七時までに上野の停車場に集合して、七時三十何分かの汽車で出發すると云ふ豫定である。

當日朝飯も碌に食はずに 割引の電車で上野へ行つて見ると、まだ級(クラス)の連中は五六人しか集つてゐない。皆紺のヘルの制服を着て、外套を卷いて左の肩からかけて、麻のゲエトルをはいて、腰に辨當の包やら圖嚢やらをぶらさげてゐる。その中に能勢五十雄もゐた。

能勢は自分と同じ小學校を出て 同じ中學校へはいつた男である。これと云つて得意な學科もなかつたが、その代り又これと云つて不得意なものもない。その癖ちよいとした事には器用な性質で詩吟でも薩摩琵琶でも一度聞くと、すぐに節(ふし)[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]を覺えてしまふ。さうして修學旅行で宿屋へ泊る晩などには、それを得意になつて披露する。手品、落語、講談、声色、何でも出來た。その上又身ぶりとか顏つきとかで人を笑はせるのに妙を得てゐる。從つて級(クラス)の氣うけも教員間の評判も惡くはない。尤も自分とは互に往來してゐながらさして親しいと云ふ間柄でもなつた。

自分たちは 顏を合せると、すぐ元氣よく饒舌り出した。丁度みんな 「僕」と云ふ代りに「己」と云ふのを得意にする年輩である。その自ら「己」と云ふ連中の口から 旅行の豫想 生徒同志の陰口 教員の惡評などが盛に出た。或級(クラス)の組長はカンニングで成蹟[やぶちゃん注:ママ。]がよいのだとか或英語の先生はreceiveと云ふ字を綴るのに eiとどつちが先だかわからなかつたとか一つも碌な噂はない。その内に能勢が 待合室の木のベンチに腰をかけて新聞を見てゐる男の顏を 大學目藥の廣告だと批評した。インバネスを羽織つて 色の變つた季節はづれのパナマの帽子をかぶつた職人の[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]親方らしい男である。それから自分たちは、いい氣になつて、この待合室に出入するいろいろな人間を觀察した。さうして一一それに 東京の中學生でなければ云へないやうな 生意氣な惡口をつけ加へた。さう云ふ事にかけて びけを取るやうなおとなしい生徒は、自分たちの中に一人もゐない。中でも能勢の形容が一番 諧謔に富んでゐた。

すると自分たちの一人は 時間表の前に立つて細い數字をしらべてゐる妙な男を發見した。その男は羊羹色の背廣を着て 體操に使ふ球竿のやうな細い脚を 茶の粗(あらい)[やぶちゃん注:「い」の送り仮名はママ。]い縞のズボンに通してゐる。縁の廣い昔風の中折れの下から 半白の毛がはみ出してゐる所を見ると  もう可成な年配なのであらう。さうかと思ふと頸のまはりには 格子縞の派手なハンケチを卷きつけて 後にまはした手には鞭かと思ふやうな漢竹の長い杖を持つてゐる。服裝と云ひ、態度と云ひ、どうしてもパンチの插繪を切拔いて そのま[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]

U-a

自分は そのうす暗い中でそつとそのロンドン乞倉方をすかして見た。

 すると 何時の間にか うす日がさし始めたと見えて 幅の狹い光の帶が高い天井の明り取りから 茫と斜にさしてゐる。能勢の父親は 丁度その光の帶の中にゐた。――周圍では一切の物が動いてゐる。さうしてその中から、聲とも音ともつかないものが生れて來て、それが又埃と一しよに、一切の物を包んでゐる。しかし能勢の父親だけは [やぶちゃん注:底本ではこの一字空けの後に編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]時計を右の掌(てのひら)にのせて、さながらポンプの如く時間表の前に、佇立してゐるのである。……

    *    *    *    *    *

あとで、それとなく聞くと、その頃、大學の藥局に通つてゐた能勢の父親は、能勢が自分たちと一しよに、修學旅行に行くところを、出勤の途すがら見やうと思つて、自分の子には知らせずに、わざわざ停車場へ來たのださうである。

自分は、その時、受けた異常な感動を、今[やぶちゃん注:底本ではこの一字空けの後に編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]でも、はつきり覺えてゐる。修身の講義で教へられた道徳律は、或は自分に命じて、能勢のこの行爲を、不孝の名の下に、指彈させやうとするかもしれない。しかしその感動は、常に自分を動かして、飽くまで能勢の爲に、一切の非難を辨護させやうとするのである。能勢五十雄は、中學を卒業すると間もなく、肺結核に罹つて、物故した。その追悼式を 中學の圖書室で擧げた時、制帽をかぶつた能勢の寫眞の前で、悼辭を讀んだのは 自分である。「君、父母に孝に、」自分はその悼辭の中に、かう云ふ句を入れた。[やぶちゃん注:底本ではこの一字空けの後に編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]

[やぶちゃん注: 以下の原稿部分は底本では二字下げポイント落としで表記。編者がU-aのプレ原稿と判断したためである。]

U-b

でも 忘れる事が出來ない。自分は この能勢の行爲を 修身の講義で聞いた道徳律に從つて、不孝の名の下に 卑むべきものであらうか 自分は 唯 その時の自分が 全身を以て 能勢に同情したのを知るばかりである。