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芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)へ

首が落ちた話   芥川龍之介

[やぶちやん注:大正7(1918)年1月発行の雑誌『新潮』に掲載された。後に単行本『傀儡師』『地獄變』『芥川龍之介集』に所収された。底本は昭和551980)年ほるぷ社『特選 名著復刻全集 近代文学館』で復刻された大正8(1919)年新潮社刊の『傀儡師』を用いた。踊り字「/\」の濁音は正字に、傍点「ヽ」は下線に代えた。なお、ユニコードで表示が出来なかったのは「上」の第4段落目の「軍刀の【※1】」の刀の欛(つか)の「つか」に相当する、

【※1】=(へん)「木」+(つくり){「覇」-(かんむり)+〔「覈」-「敫」〕}

及び、「中」の第1段落目の「又どこかへ【※2】然(しうぜん)と消えてしまふ。」の、

【※2】=「翛」の(にんべん)及び3画目の縦画をも合わせて、全て「羽」の上に持っていった字体。

文中では【※1】及び【※2】で示した。簡単な注を末尾に附した。]

 

首が落ちた話 大正六年十二月

           芥川龍之介

 

       上

 

 何小二(かせうじ)は軍刀を抛り出すと、夢中で馬の頸にしがみついた。確かに頸を斬られたと思ふ――いや、これはしがみついた後で、さう思つたのかも知れない。唯、何か頸へずんと音を立てゝ、はいつたと思ふ――それと同時に、しがみついたのである。すると馬も創を受けたのであらう。何小二が鞍の前輪(まえわ)へつつぷすが早いか、一聲高く嘶いて、鼻づらを急に空へ向けると、忽ち敵味方のごつたになつた中をつきぬけて、滿目の高粱畑をまつしぐらに走り出した。二三發、銃聲が後から響いたやうに思はれるが、それも彼の耳には、夢のやうにしか聞えない。

 人の身の丈よりも高い高粱は、無二無三に駈けてゆく馬に踏みしだかれて、波のやうに起伏する。それが右からも左からも、或は彼の辮髮を掃(はら)つたり、或は彼の軍服を叩いたり、或は又彼の頸から流れてゐる、どす黒い血を拭つたりした。が、彼の頭には、それを一々意識するだけの餘裕がない。唯、斬られたと云ふ簡單な事實だけが、苦しい程はつきり、腦味噌に焦げついてゐる。斬られた。斬られた。――かう心の中に繰返しながら、彼は全く機械的に、汗みずくになつた馬の腹を何度も靴の踵(かゝと)で蹴つた。

 

         ――――――――――――――――――

 

 十分程前、何小二は仲間の騎兵と一しよに、味方の陣地から川一つ隔てた、小さな村の方へ偵察に行く途中、黄いろくなりかけた高粱の畑の中で、突然一隊の日本騎兵と遭遇した。それが餘り突然すぎたので、敵も味方も小銃を發射する暇がない。少くとも味方は、赤い筋のはいつた軍帽と、やはり赤い肋骨のある軍服とが見えると同時に、誰からともなく一度に軍刀をひき拔いて、咄嗟に馬の頭(かしら)をその方へ立て直した。勿論その時は、萬一自分が殺されるかも知れないなどと云ふことは、誰の頭にもはいつて來ない。そこにあるのは、唯敵である。或は敵を殺す事である。だから彼等は馬の頭を立て直すと、いづれも犬のやうに齒をむき出しながら、猛然として日本騎兵のゐる方へ殺到した。すると敵も彼等と同じ衝動に支配されてゐたのであらう。一瞬の後には、やはり齒をむき出した、彼等の顏を鏡に映したやうな顏が、幾つも彼等の左右に出沒し始めた。さうしてその顏と共に、何本かの軍刀が、忙しく彼等の周圍に、風を切る音を起し始めた。

 それから後の事は、どうも時間の觀念が明瞭でない。丈の高い高粱が、まるで暴風雨にでも遇つたやうにゆすぶれたり、そのゆすぶれてゐる穗の先に、銅(あかがね)のやうな太陽が懸つてゐたりした事は、不思議な位はつきり覺えてゐる。が、その騷ぎがどの位つづいたか、その間にどんな事件がどんな順序で起つたか、かう云ふ點になると、殆何一つはつきりしない。兎に角その間中何小二(かせうじ)は自分にまるで意味を成さない事を、氣違ひのやうな大聲で喚きながら、無暗に軍刀をふりまはしてゐた。一度その軍刀が赤くなつた事もあるやうに思ふがどうも手答へはしなかつたらしい。その中に、ふりまはしてゐる軍刀の【※1】が、だん/\脂汗でぬめつて來る。さうしてそれにつれて、妙に口の中が渇いて來る。そこへ殆眼球がとび出しさうに眼を見開いた、血相の變つてゐる日本騎兵の顏が、大きな口を開(あ)きながら、突然彼の馬の前に跳り出した。赤い筋のある軍帽が、半ば裂けた間からは、いが栗坊主の頭が覗いてゐる。何小二はそれを見ると、いきなり軍刀をふり上げて、力一ぱいその帽子の上へ斬り下した。が、こつちの軍刀に觸れたのは、相手の軍帽でもなければ、その下にある頭でもない。それを下から刎ね上げた、向うの軍刀の鋼(はがね)である。その音が煮えくり返るやうな周圍の騷ぎの中に、恐しくかんと冴え渡つて、磨いた鐵の冷(ひやゝ)かな臭を、一度に鋭く鼻の孔の中へ送りこんだ。さうしてそれと共に、眩(まばゆ)く日を反射した、幅の廣い向うの軍刀が、頭の眞上へ來て、くるりと大きな輪を描いた。――と思つた時、何小二の頸のつけ根へは、何とも云えない、つめたい物が、ずんと音をたてて、はいつたのである。

 

        ―――――――――――――――――

 

 馬は、創の痛みで唸つてゐる何小二を乘せたまま、高粱畑の中を無二無三に駈けて行つた。どこまで駈けても、高粱は盡きる容子もなく茂つてゐる。人馬の聲や軍刀の斬り合ふ音は、もう何時(いつ)の間(ま)にか消えてしまつた。日の光も秋は、遼東と日本と變りがない。

 繰返して云ふが、何小二は馬の脊に搖(ゆ)られながら、創の痛みで唸つてゐた。が、彼の食いしばつた齒の間を洩れる聲には、唯唸り聲と云ふ以上に、もう少し複雜な意味がある。と云ふのは、彼は獨り肉體的の苦痛の爲にのみ、呻吟してゐたのではない。精神的な苦痛の爲に――死の恐怖を中心として、目まぐるしい感情の變化の爲に、泣き喚いてゐたのである。

 彼は永久にこの世界に別れるのが、たまらなく悲しかつた。それから彼をこの世界と別れさせるやうにした、あらゆる人間や事件が恨めしかつた。それからどうしてもこの世界と別れなければならない彼自身が腹立しかつた。それから――こんな種々雜多の感情は、それからそれへと縁を引いて際限なく彼を虐(さいな)みに來る。だから彼はこれらの感情が往來するのに從つて、「死ぬ。死ぬ。」と叫んで見たり、父や母の名を呼んで見たり、或は又日本騎兵の惡口を云つて見たりした。が、不幸にしてそれが一度彼の口を出ると、何の意味も持つてゐない、嗄(しはが)れた唸り聲に變つてしまふ。それほどもう彼は弱つてでもゐたのであらう。

「私程の不幸な人間はない。この若さにこんな所まで戰に來て、しかも犬のやうに譯もなく殺されてしまふ。それには第一に、私を斬つた日本人が憎い。その次には私たちを偵察に出した、私の隊の上官が憎い。最後にこんな戰爭を始めた、日本國と清國とが憎い。いや憎いものはまだほかにもある。私を兵卒にした事情に幾分でも關係のある人間が、皆私には敵と變りがない。私はさう云ふいろ/\の人間のおかげで、したい事の澤山あるこの世の中と、今の今別れてしまふ。あゝ、さう云ふ人間や事情のするなりにさせて置いた私は、何と云ふ莫迦だらう。」

 何小二はその唸り聲の中にこんな意味を含めながら、馬の平首にかぢりついて、何處までも高粱の中を走つて行つた。その勢に驚いて、時々鶉の群が慌しくそこここから飛び立つたが、馬は元よりそんな事には頓着しない。背中に乘せてゐる主人が、時々ずり落ちさうになるのにもかまわずに、泡を吐き/\駈けつゞけてゐる。

 だからもし運命が許したら、何小二はこの不斷(ふだん)の呻吟の中に、自分の不幸を上天に訴へながら、あの銅(あかゞね)のやうな太陽が西の空に傾くまで、日一日馬の上でゆられ通(とほ)したのに相違ない。が、この平地(へいち)が次第に緩(ゆる)い斜面をつくつて、高粱と高粱との間を流れてゐる、幅の狹い濁り川が、行手(ゆくて)に明(あかる)く開けた時、運命は二三本の川楊(かはやなぎ)の木になつて、もう落ちかかつた葉を低い梢(こずゑ)に集めながら、嚴(いかめ)しく川のふちに立つてゐた。さうして、何小二の馬がその間を通りぬけるが早いか、いきなりその茂つた枝の中に、彼の體(からだ)を抱(だ)き上(あ)げて、水際(みづぎは)の柔らかな泥の上へまつさかさまに抛り出した。

 その途端に何小二は、どうか云ふ聯想の關係で、空(そら)に燃えてゐる鮮やかな黄いろい炎が眼に見えた。子供の時に彼の家の廚房(ちうばう)で、大きな竈の下に燃えてゐるのを見た、鮮やかな黄いろい炎(ほのほ)である。「あゝ火が燃えてゐる」と思ふ――その次の瞬間には彼はもう何時(いつ)か正氣を失つてゐた。………

 

       中

 

 馬の上から轉げ落ちた何小二(かせうじ)は、全然正氣を失つたのであらうか。成程創の疼みは、何時(いつ)か殆しなくなつた。が、彼は土と血とにまみれて、人氣のない川のふちに横はりながら、川楊の葉が撫でてゐる、高い蒼空(あをぞら)を見上げた覺えがある。その空は、彼が今まで見たどの空よりも、奧深く蒼(あを)く見えた。丁度大きな藍(あゐ)の瓶(かめ)をさかさまにして、それを下から覗いたやうな心もちである。しかもその瓶の底には、泡(あわ)の集(あつ)まつたやうな雲がどこから生(うま)れて來て、又どこかへ【※2】然(しうぜん)と消えてしまふ。これが丁度絶えず動いてゐる川楊の葉に、かき消されて行くやうにも思はれる。

 では、何小二は全然正氣(しやうき)を失わずにゐたのであらうか。しかし彼の眼と蒼空(あをぞら)との間(あひだ)には實際そこになかつた色々な物が、影(かげ)のやうに幾(いく)つとなく去來(きよらい)した。第一に現れたのは、彼の母親のうすよごれた裙子(くんし)である。子供の時の彼は、嬉しい時でも、悲しい時でも、何度この裙子にすがつたかわからない。が、これは思はず彼が手を伸ばして、捉えようとする間もなく、眼界から消えてしまつた。消える時に見ると、裙子は紗(しや)のやうに薄くなつて、その向うにある雲の塊(かたまり)を、雲母(きらゝ)のやうに透かせてゐる。

 その後(あと)からは、彼の生まれた家の後(うしろ)にある、だだつ廣(ぴろ)い胡麻畑(ごまばたけ)が、辷るやうに流れて來た。さびしい花が日の暮を待つやうに咲いてゐる、眞夏(まなつ)の胡麻畑である。何小二はその胡麻の中に立つてゐる、自分や兄弟(きやうだい)たちの姿を探して見た。が、そこに人らしいものゝ影は一つもない。唯色の薄(うす)い花と葉とが、ひつそりと一つになつて、薄(うす)い日(ひ)の光(ひかり)に浴(よく)してゐる。これは空間(くうかん)を斜に横(よこ)ぎつて、吊り上げられたやうにすつと消えた。

 するとその次(つぎ)には妙なものが空をのたくつて來た。よく見ると、燈夜(とうや)に街(まち)をかついで歩く、あの大きな龍燈である。長さはおよそ四五間もあらうか。竹で造つた骨組みの上へ紙を張つて、それに青(あを)と赤(あか)との畫の具で、華やかな彩色が施してある。形(かたち)は畫(ゑ)で見る龍(りう)と、少しも變りがない。それが晝間だのに、中へ蠟燭らしい火をともして、彷彿(ほうふつ)と蒼空(あをぞら)へ現れた。その上不思議な事には、その龍燈が、どうも生きてゐるやうな心もちがする、現に長い鬚(ひげ)などは、ひとりでに左右(さいう)へ動くらしい。――と思ふ中にそれもだん/\視野(しや)の外(そと)へ泳いで行つて、そこから急に消えてしまつた。

 それが見えなくなると、今度は華奢(きやしや)な女の足が突然空へ現れた。纏足(てんそく)をした足だから、細さは漸く三寸あまりしかない。しなやかにまがつた指の先には、うす白い爪が柔らかく肉(にく)の色(いろ)を隔ててゐる。小二の心にはその足を見た時の記憶が夢(ゆめ)の中(なか)で食はれた蚤(のみ)のやうに、ぼんやり遠い悲しさを運(はこ)んで來た。もう一度あの足にさわる事が出來たなら、――しかしそれは勿論もう出來ないのに相違ない。こゝとあの足を見た所との間(あひだ)は、何百里と云ふ道程(みちのり)がある。さう思つてゐる中に、足は見る/\透明になつて、自然(しぜん)と雲(くも)の影(かげ)に吸われてしまつた。

 その足が消えた時である。何小二は心の底から、今までに一度も感じた事のない、不思議な寂しさに襲はれた。彼(かれ)の頭(あたま)の上には、大きな蒼空(あをぞら)が音もなく蔽ひかかつてゐる。人間はいやでもこの空の下で、そこから落ちて來る風に吹かれながら、みじめな生存を續けて行かなければならない。これは何と云ふ寂しさであらう。さうしてその寂しさを今まで自分が知らなかつたと云ふ事は、何と云ふ又不思議な事であらう。何小二は思はず長いため息をついた。

 この時、彼の眼と空との中には、赤い筋のある軍帽をかぶつた日本騎兵の一隊が、今までのどれよりも早い速力で、慌しく進んで來た。さうして又同じやうな速力で、慌しくどこかへ消えてしまつた。ああ、あの騎兵たちも、寂しさはやはり自分と變らないのであらう。もし彼等が幻でなかつたなら、自分は彼等と互に慰め合つて、せめて一時(とき)でもこの寂しさを忘れたい。しかしそれはもう、今になつては遲かつた。

 何小二の眼には、とめどもなく涙があふれて來た。その涙に濡(ぬ)れた眼でふり返つた時、彼の今までの生活が、いかに醜いものに滿ちてゐたか、それは今更云ふ必要はない。彼は誰にでも謝(あやま)りたかつた。さうして又、誰をでも赦(ゆる)したかつた。

「もし私がこゝで助かつたら、私はどんな事をしても、この過去を償(つぐな)ふのだが。」

 彼は泣きながら、心の底でかう呟(つぶや)いた。が、限りなく深い、限りなく蒼い空は、まるでそれが耳へはいらないやうに、一尺ずつ或は一寸ずつ、徐々として彼の胸の上へ下つて來る。その蒼い灝氣(かうき)の中に、點々としてかすかにきらめくものは、大方晝見える星であらう。もう今はあの影のやうなものも、二度と眸底(ばうてい)は横ぎらない。何小二はもう一度歎息して、それから急に唇をふるはせて、最後にだん/\眼をつぶつて行つた。

 

       下

 

 日清兩國の間の和が媾ぜられてから、一年ばかりたつた、ある早春の午前である。北京にある日本公使館内の一室では、公使館附武官の木村陸軍少佐と、折から官命で内地から視察に來た農商務省技師(ぎし)の山川理學士とが、一つテエブルを圍みながら、一碗の珈琲と一本の葉卷とに忙しさを忘れて、のどかな雜談に耽つてゐた。早春とは云ひながら、大きなカミンに火が焚(た)いてあるので、室の中はどうかすると汗がにじむ程暖い。そこへテエブルの上へのせた鉢植ゑの紅梅(こうばい)が時々支那めいた匂(にほひ)を送つて來る。

 二人の間の話題は、しばらく西太后(せいたいこう)で持ち切つてゐたが、やがてそれが一轉して日清戰爭當時の追憶になると、木村少佐は何を思つたか急に立ち上つて、室の隅に置いてあつた神州日報(しんしうにつぽう)の綴ぢこみを、こつちのテエブルへ持つて來た。さうして、その中の一枚を山川技師の眼の前へひろげると、指で或箇所をさしながら、讀み給へと云ふ眼つきをした。それがあまり唐突(たうとつ)だつたので、技師はちよいと驚いたが、相手の少佐が軍人に似合わない、洒脱(しやだつ)な人間だと云ふ事は日頃からよく心得てゐる。そこで咄嗟(とつさ)に、戰爭に關係した奇拔な逸話(いつわ)を豫想しながら、その紙面へ眼をやると、果してそこには、日本の新聞口調(くてう)に直すとこんな記事が、四角な字ばかりで物々しく掲げてあつた。

 ――街(がい)の剃頭店(ていとうてん)主人(しゅじん)、何小二なる者は、日清戰爭に出征して、屢々勳功を顯したる勇士なれど、階戦後兎角素行修らず、酒と女とに身を持崩(もちくづ)してゐたが、去る―日、某酒樓(ぼうしゆろう)にて飮(の)み仲間(なかま)の誰彼(たれかれ)と口論(こうろん)し、遂に摑(つか)み合(あ)いの喧嘩となりたる末、頸部に重傷を負い即刻絶命したり。ことに不思議なるは同人の頸部(けいぶ)なる創(きず)にして、こはその際兇器にて傷けられたるものにあらず、全く日清戰爭中戰場にて負ひたる創口(きずぐち)が、再(ふたゝび)、破(やぶ)れたるものにして、實見者(じつけんしや)の談(だん)によれば、格鬪中(かくとうちう)同人(どうにん)が卓子(たくし)と共に顛倒するや否や、首は俄然喉(のど)の皮(かは)一枚を殘して、鮮血と共に床上に轉び落ちたりと云ふ。但當局はその眞相(しんさう)を疑ひ、目下犯人嚴探中の由なれども、諸城(しよじやう)の某甲(ぼうかふ)が首(くび)の落(お)ちたる事は、載(の)せて聊齋志異(れうさいしい)にもあれば、該(がい)何小(かせう)二の如きも、その事なしとは云ふ可らざるか。云々。

 山川技師は讀み了ると共に、呆れた顏をして、「何だい、これは」と云つた。すると木村少佐は、ゆつくり葉卷の煙を吐きながら、鷹揚に微笑して、

「面白いだらう。こんな事は支那でなくつては、ありはしない。」

「さうどこにでもあつて、たまるものか。」

 山川技師もにや/\しながら、長くなつた葉卷の灰を灰皿の中へはたき落した。

「しかも更に面白い事は――」

 少佐は妙に眞面目な顏をして、ちよいと語(ことば)を切つた。

「僕はその何小二と云ふやつを知つてゐるのだ。」

「知つてゐる? これは驚いた。まさかアツタツシエの癖(くせ)に、新聞記者と一しよになつて、いゝ加減な嘘を捏造するのではあるまいね。」

「誰がそんなくだらない事をするものか。僕はあの頃――屯(とん)の戰で負傷した時に、その何小二と云ふやつも、やはり我軍の野戰病院へ收容(しうよう)されてゐたので、支那語の稽古かたがた二三度話しをした事があるのだ。頸に創があると云ふのだから、十中八九あの男に違ひない。何でも偵察か何かに出た所が、我軍の騎兵と衝突して頸へ一つ日本刀をお見舞申されたと云つてゐた。」

「へえ、妙な縁(えん)だね。だがそいつはこの新聞で見ると、無賴漢だと書いてあるではないか。そんなやつは一層(そ)その時に死んでしまつた方が、どの位世間でも助かつたか知れないだらう。」

「それがあの頃は、極(ごく)正直(しやうぢき)な、人の好い人間で、捕虜の中にも、あんな柔順なやつは珍らしい位だつたのだ。だから軍醫官でも何でも、妙にあいつが可愛いかつたと見えて、特別によく療治をしてやつたらしい。あいつは又身の上話をしても、中中面白い事を云つてゐた。殊にあいつが頸(くび)に重傷(ぢうしやう)を負(お)つて、馬から落ちた時の心もちを僕に話して聞かせたのは、今でもちやんと覺えてゐる。或川のふちの泥(どろ)の中にころがりながら、川楊(かはやなぎ)の木の空を見てゐると、母親の裙子(くんし)だの、女の素足だの、花の咲いた胡麻畑だのが、はつきりその空へ見えたと云ふのだが。」

 木村少佐は葉卷を捨てゝ、珈琲茶碗を唇へあてながら、テエブルの上の紅梅(こうばい)へ眼をやつて、獨(ひと)り語(ごと)のやうに語(ことば)を次いだ。

「あいつはそれを見た時に、しみじみ今までの自分の生活が淺ましくなつて來たと云つてゐたつけ。」

「それが戰爭がすむと、すぐに無賴漢(ぶらいかん)になつたのか。だから人間はあてにならない。」

 山川技師は椅子の背へ頭(あたま)をつけながら、足をのばして、皮肉に葉卷の煙を天井へ吐いた。

「あてにならないと云ふのは、あいつが猫をかぶつてゐたと云ふ意味か。」

「さうさ。」

「いや、僕はさう思はない。少くともあの時は、あいつも眞面目にさう感じてゐたのだらうと思ふ。恐らくは今度も亦、首が落ちると同時に(新聞(しんぶん)の語(ことば)をその儘使へば)やはりさう感したらう。僕はそれをこんな風に想像する。あいつは喧嘩をしてゐる中に、醉(よ)つてゐたから、譯なく卓子(たくし)と一しよに抛(はふ)り出(だ)された。さうしてその拍子に、創口(きずぐち)が開いて、長い辮髮をぶらさげた首が、ごろりと床の上へころげ落(お)ちた。あいつが前に見た母親の裙子(くんし)とか、女の素足とか、或は又花のさいてゐる胡麻畑とか云ふものは、やはりそれと同時にあいつの眼の前を、彷彿として往來した事だらう。或は屋根があるにも關らず、あいつは深い蒼空(あをぞら)を、遙(はる)か向(むか)うに望(のぞ)んだかも知れない。あいつはその時、しみじみ又今までの自分の生活が淺ましくなつた。が、今度はもう間に合わない。前には正氣を失つてゐる所を、日本の看護卒が見つけて介抱してやつた。今は喧嘩の相手が、そこをつけこんで打(ぶ)つたり蹴(け)つたりする。そこであいつは後悔した上にも後悔しながら息をひきとつてしまつたのだ。」

 山川技師は肩をゆすつて笑つた。

「君は立派な空想家だ。だが、それならどうしてあいつは、一度さう云ふ目に遇ひながら、無賴漢なんぞになつたのだらう。」

「それは君の云ふのとちがつた意味で、人間はあてにならないからだ。」

 木村少佐は新しい葉卷に火をつけてから、殆得意に近い程晴々した調子で、微笑しながらかう云つた。

「我々は我々自身のあてにならない事を、痛切に知つて置く必要がある。實際それを知つてゐるもののみが、幾分でもあてになるのだ。さうしないと、何小二の首が落ちたやうに、我々の人格も、いつどんな時首が落ちるかわからない。――すべて支那の新聞と云ふものは、こんな風に讀まなくてはいけないのだ。」

 

□バーチャル・ウェブ版芥川龍之介作品集『傀儡師』の次篇「毛利先生」へ

 

■やぶちゃん注

 

   上

 

・平首:馬の首の鬣(たてがみ)のある部分の、左右の平らな箇所。

・川楊:双子葉植物綱ヤナギ目ヤナギ科ヤナギ属のネコヤナギSalix gracilistylaのこと。

 

   中

 

・どこから生れて來て:「どこからか生れて來て」の脱字と思われる。

・裙子:中国で女性が腰から下につける衣。も。もすそ。

・燈夜:元宵(上元)節の夜。中国で、陰暦正月一五日の夜(元宵)に行われる祭りでは、各家の門前に灯籠を飾って祝う。

・灝氣:広々と澄み渡った大気。

・眸底:目の奥。眼。

 

   下

 

・媾ぜられてから:1895417日の日清講和条約(正しくは「日清媾和條約」。日本では下関条約、中国では馬関条約と言う)の締結を指す。現在の山口県下関市(別称・馬関)

・カミン:ロシア語の“камйн”。壁に据え付けられた暖炉。

・神州日報:同名の新聞では、上海で革命家楊毓麟(よういくりん)・于右任らが発刊した『神州日報』があるが、これは1807年の発行であるから、1896年という作中設定には合わない。筑摩書房全集類聚版では『イギリス人が上海で発行した中国語新聞』か、とする。暫く、これに従っておく。

・アツタツシエ:フランス語の“attaché(e)”。大(公)使館員。厳密には、ここでは木村陸軍少佐を指しているので、“attaché militare”、公使館付陸軍武官を指す。

・屯:中国に於ける行政区画の名称で、地名の下に付ける。村の一種。

・やはりさう感したらう:「感じたらう」の誤植。