やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ

鬼火へ

 

長江游記   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:「長江游記」(ちやうかういうき/ちょうこうゆうき)は大正131924)年9月1日発行の雑誌『女性』に「長江」の題で掲載され、後に『支那游記』(「自序」の後、「上海游記」を筆頭に「江南游記」・「長江游記」・「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に表記の題で所収された。『支那游記』の「自序」に『「長江游記」も「江南游記」の後にやはり一日に一囘づつ執筆しかけた未完成品である。』とある。実際に、「前置き」にあるように廬山以降、長江を溯って「漢口」「洞庭湖」「長沙」への旅があったが、それは記されておらず、あたかも途中で放り出されたかのように、中断して見える。しかし、私は本作が「江南游記」の直後に書かれたものではない、正に、大正131924)年の8月に新たに書きおろされたものに違いないと感じている。それは本文注で明らかにしたい。「長江游記」底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。傍点「ヽ」は下線に代えた。各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。
 私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「ヘルン」(代わりに違った付け方をしてある)「ノスタルジア」「怒火心頭に發した」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の篠崎美生子(みおこ)氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「長江游記」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。
 その部分を読解するに必要と思われる一部の注は繰り返したが、頻繁に登場する人物や語は初出の篇のみに附した。通してお読みでない場合に、不明な語句で注がないものは、まずは全体検索をお掛けになってみることをお勧めする。
 本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。なお、それに関わって私が本紀行群を初めて読んだ21歳の時の稚拙な感想をブログにアップしてある。参考までにお読み頂ければ幸いである。
 本篇テクスト及び注釈は、2009年7月24日の82年目の河童忌から7月28日にかけて、私自身のブログに連載したものであるが、本頁で一括掲載するに際し、注を全体にブラッシュ・アップしてあるので、公開時の内容とは一部異なっている。引用(必ず本ページからのものであることを明記)・リンクされる場合は、こちらを基本にされた方がよいと思う。【二〇〇九年七月二十九日】
 更に製作した以下の関連ページをリンクさせる。
芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈
芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊) 
二〇〇九年八月三十日】
 教え子T.S.君が「一」の舞台である蕪湖を探勝して呉れた、その紀行文と写真を注に追加した。【二〇一三年八月八日】]

 

長江游記

 

       前置き

 

 これは三年前支那に遊び、長江を溯つた時の紀行である。かう云ふ目まぐるしい世の中に、三年前の紀行なぞは誰にも興味を與へないかも知れない。が、人生を行旅とすれば、畢竟あらゆる追憶は數年前の紀行である。私の文章の愛讀者諸君は「堀川保吉(ほりかわやすきち)」に對するやうに、この「長江」の一篇にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?

 私は長江を溯つた時、絶えず日本を懐しがつてゐた。しかし今は日本に、――炎暑の甚しい東京に汪洋(わうやう)たる長江を懐しがつてゐる。長江を?――いや、長江ばかりではない、蕪湖(ウウフウ)を、漢口(ハンカオ)を、廬山(ろざん)の松を、洞庭の波を懐しがつてゐる。私の文章の愛讀者諸君は「堀川保吉」に對するやうに、この私の追憶癖にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が上海を発って、長江溯上の旅に赴いたのは、大正101921)年5月16日のことであった。本作発表の実に3年3箇月半前のことであった。これはどう見ても、原稿依頼に窮した彼が、力技で捻り出した苦肉の策ならぬ作と言わざるを得ない。実際に本作の大正131924)年9月1日発表前を見ると、小説らしい小説は4月1日の「文章」「寒さ」、4月1日と5月1日にカップリングされた「少年」、7月1日の「桃太郎」、同月発表の「十円札」以外はなく、「芭蕉雑記」の続編二種、6月1日のルナール風(換骨奪胎とはとても言えない)アフォリズム「新緑の庭」が目に付く程度のスランプの時期にあった。本作を実質的に書いたと思しい8月中も、軽井沢に避暑しながら、創作意欲が湧かず、終日文章が書けない状態が続いた模様である。

・「人生を行旅とすれば、畢竟あらゆる追憶は數年前の紀行である」この芭蕉の「奥のほそ道」を髣髴させる言葉は、よく考えると不吉である。よく読むと、これは実は、一般論として語られたものではないことに気づくからである。そもそも人生は旅という哲学から引き出される真理が結局「あらゆる追憶は數年前の紀行である」という命題では普遍則とならないことからも明らかである。ここで芥川はさりげなく、個人的なある感懐を述べていると考えるべきである。即ち、『(私の短かった)人生を「旅」に譬えるとすれば、所詮、私の短い疲労と倦怠に満ちた人生の中で経験した、忘れがたいあらゆる追憶というものは、畢竟、あの數年前の中国の旅の思い出に、――あの疲労と倦怠に満ちた(満ちているとその時には感じて故国へ帰らんと欲した)あの旅の思い出に尽きるのである。』という意味と考えた時、初めて私にはこの冒頭の文が腑に落ちるのである。即ち、私はこの時既に、芥川の意識の中に、ある種の死への傾斜が始まっていると、私には思えるのである。

・『「堀川保吉」』:芥川龍之介自身をモデルとしていることが一目瞭然の堀川保吉を主人公とする芥川の作品群を指す。芥川龍之介の小説の中で、彼(広義には彼らしい=作者芥川龍之介らしい人物)を主人公とする極めて私小説的色彩の濃い作品群を、研究者の間では『保吉物』と称する。正式な初登場は大正121923)年5月の『改造』に掲載した「保吉の手帳」の冒頭で、『堀川保吉(やすきち)は東京の人である。二十五歳から二十七歳迄、或地方の海軍の學校に二年ばかり奉職した。以下數篇の小品はこの間の見聞を録したものである。保吉の手帳と題したのは實際小さいノート・ブツクに、その時時の見聞を書きとめて置いたからに外ならない、』(初刊本『黄雀風』(こうじゃくふう)の再録では題名を「保吉の手帳から」とし、この部分を全文削除している)とあり、これは芥川龍之介大正5(191612月~大正8(1919)年3月迄、2年3ヶ月、数えで二十五歳から二十七歳迄、芥川龍之介が横須賀海軍機関学校教授嘱託(英語)に就任していたことと完全に一致する。芥川は大正8(1919)年頃から現代物を書き始めたが、「保吉」のルーツは主人公「私」の設定といい、その内容といい、同年5月の「蜜柑」にこそ求められるように思う(そうしてこれが最も成功した『保吉物』であったとも思う)。以下、大正111922)年8月の「魚河岸」(初出の主人公「わたし」が『黄雀風』で「保吉」に変更)、「保吉の手帳、「お時儀」「あばばばば」「或恋愛小説」で保吉を主人公とする。そして正に上記で示した、この時の近作「文章」「寒さ」「少年」(これは保吉の4~9歳前後までの回想を主軸としており、やや他の現在時制的『保吉物』とは異なる)「十円札」でも主人公としてフルネームで堀川保吉が登場している。長く自然主義的な自己告白を軽蔑してきた彼が、王朝物のマンネリズムの中でスランプに陥った自己を打破するために、また、自分なら実体験を小説にこう生かすという表明としての実験的作品群である。そうして実はちゃっかりした芥川らしい作品の売り込みでもあるのである。

・『「長江」』本「長江游記」冒頭注参照。初出の表題は「長江」であった。

・「炎暑の甚しい東京」この年の夏は暑かった。芥川は初めて軽井沢に避暑に赴く。彼がこの時、軽井沢が初めてであったことを記憶されたい。因みに、その軽井沢で親しく接した女性が、越し人、片山廣子であったのである。

・「汪洋」水量が豊富で、水面が遠く広がっているさま。また、ゆったりとして、広々と大きいさま。

・「蕪湖(ウウフウ)」“Wúhú”は長江中流に位置する港湾都市。現在の安徽省南東部、蕪湖市蕪湖県。「一 蕪湖」参照。

・「漢口(ハンカオ)」“Hànkǒu ”は中国湖北省にあった都市で、現在の武漢市の一部に当たる。明末以降、長江中流域の物流の中心として栄えた商業都市で、1858年、天津条約により開港後、上海のようにイギリス・ドイツ・フランス・ロシア・日本の5ヶ国の租界が置かれ、「東方のシカゴ」の異名を持った。芥川は廬山を見た後、5月26日に漢口に着き、30日迄滞在しているが、このように示しながら「長江游記」本文には現れない。「雜信一束」の冒頭で、

 

       一 歐羅巴的漢口

 この水たまりに映つてゐる英吉利の國旗の鮮さ、――おつと、車子(チエエズ)にぶつかるところだつた。

       二 支那的漢口

 彩票や麻雀戲(マアジヤン)の道具の間に西日の赤あかとさした砂利道。

 其處をひとり歩きながら、ふとヘルメツト帽の庇の下に漢口の夏を感じたのは、――

   ひと籠の暑さ照りけり巴旦杏(はたんきやう)

 

と綴るのみである(語注等は「雜信一束」の私の注を参照されたい)。

 

・「廬山」江西省九江市南部にある名山。「三 廬山(上)」以下を参照。

・「洞庭」洞庭湖のこと。芥川龍之介は5月29日に訪れているが、このように示しながら「長江游記」本文には現れない。やはり「雜信一束」の冒頭で、

 

       五 洞庭湖

 洞庭湖は湖(みづうみ)とは言ふものの、いつも水のある次第ではない。夏以外は唯泥田の中に川が一すぢあるだけである。――と言ふことを立證するやうに三尺ばかり水面を拔いた、枯枝の多い一本の黑松。

 

芥川の本件の記載は、干上がったその無惨な(荒涼としたでも、汚いでもよい)洞庭湖を見たことのみを表明している。5月30日附與謝野寛・晶子宛旧全集九〇四書簡(絵葉書)では、自作の定型歌(「江南游記 二十五 古揚州(下)」の「明星派」の注を参照)を掲げ『長江洞庭ノ船ノ中ハコンナモノヲ作ラシメル程ソレホド退屈ダトオ思ヒ下サイ』とし、同じく同日附松岡譲宛旧全集九〇五書簡(絵葉書)では、『揚子江、洞庭湖悉濁水のみもう澤國にもあきあきした』とさえ記している(中国中東部の長江中・下流域の平原部は「長江中下游平原」或いは無数の湖沼の間を水路が縦横に走ることから「水郷沢国」と呼ばれる)。芥川は詩に歌われ、古小説の美しい舞台として憧憬していた洞庭湖に、実は実見直後、激しく失望していたことが明らかである。以上、本作はその冒頭から「書く気の無さ」を表明していると言ってよいと私は考えている。いやな感懐を畳み掛けてゆけば、当然の如く「書くのが厭になる」いや、もともと「郷愁に駆られた感じで、廬山で截ち切ったように、逆に余韻を持たせるように終わらせよう」という確信犯的作為をさえ、私は感じるのである。]

 

 

 

       一 蕪湖

 

 私は西村貞吉(にしむらていきち)と一しよに蕪湖(ウウフウ)の往來を歩いてゐた。往來は此處も例の通り、日さへ當らない敷石道である。兩側には銀樓だの酒棧(チユザン)だの、見慣れた看板がぶら下つてゐるが、一月半も支那にゐた今では、勿論珍しくも何ともない。おまけに一輪車の通る度に、きいきい心棒を軋ませるのは、頭痛さへしかねない騷騷しさである。私は暗澹たる顏をしながら、何と西村に話しかけられても、好い加減な返事をするばかりだつた。

 西村は私を招く爲に、何度も上海へ手紙を出してゐる。殊に蕪湖へ着いた夜なぞはわざわざ迎への小蒸氣(こじようき)を出したり、歡迎の宴(えん)を催したり、いろいろ深切を盡してくれた。(しかもわたしの乘つた鳳陽丸は浦口(プウカオ)を發するのが遲かつた爲に、かう云ふ彼の心盡しも悉(ことごとく)水泡に歸したのである。)のみならず彼の社宅たる唐家花園(たうかくわゑん)に落ち着いた後(のち)も、食事とか着物とか寢具とか、萬事に氣を配つてくれるのには、實際恐れ入るより外はなかつた。して見ればこの東道(とうだう)の主人の前へも、二日間の蕪湖滯在は愉快に過さねばならぬ筈である。しかし私の紳士的禮讓も、蝉に似た西村の顏を見ると、忽(たちまち)何處かに消滅してしまふ。これは西村の罪ではない。君僕の代りにお前おれを使ふ、我我の親みの罪である。さもなければ往來の眞ん中に、尿(いばり)をする豚と向ひ合つた時も、あんなに不快を公表する事は、當分差控へる氣になつたかも知れない。

 「つまらない所だな、蕪湖と云ふのは。――いや一蕪湖ばかりぢやないね。おれはもう支那には飽き厭きしてしまつた。」

 「お前は一體コシヤマクレテゐるからな。支那は性に合はないのかも知れない。」

 西村は横文字は知つてゐても、日本語は甚(はなはだ)未熟である。「こましやくれる」を「コシヤマクレル」、鷄冠を「トカサ」、懷を「フトロコ」、「がむしやら」を「ガラムシヤ」――その外日本語を間違へる事は殆(ほとんど)擧げて數へるのに堪へない。私は西村に日本語を教へにわざわざ渡來した次第でもないから、佛頂面をして見せたぎり、何とも答ヘず歩き續けた。

 すると稍(やや)幅の廣い往來に、女の寫眞を並べた家があつた。その前に閑人(ひまじん)が五六人、つらつら寫眞の顏を見ては、何か靜に話してゐる。これは何だと聞いて見たら、濟良所だと云ふ答があつた。濟良所と云ふのは養育院ぢやない。自由廢業の女を保護する所である。

 一通り町を遍歴した後、西村は私を倚陶軒(いとうけん)、一名大花園と云ふ料理屋へつれて打つた。此處は何でも李鴻章の別莊だつたとか云ふ事である。が、園へはひつた時の感じは、洪水後の向島あたりと違ひはない。花木は少いし、土は荒れてゐるし、「陶塘」(たうたう)の水も濁つてゐるし、家の中はがらんとしてゐるし、殆(ほとんど)御茶屋と云ふ物とは、最も縁の遠い光景である。我我は軒(のき)の鸚鵡の籠を見ながら、さすがに味だけはうまい支那料理を食つた。が、この御馳走になつてゐる頃から、支那に對する私の嫌惡はだんだん逆上の氣味を帶び始めた。

 その夜唐家花園のバルコンに、西村と籐椅子を並べてゐた時、私は莫迦莫迦しい程熱心に現代の支那の惡口を云つた。現代の支那に何があるか? 政治、學問、經濟、藝術、悉(ことごとく)墮落してゐるではないか? 殊に藝術となつた日には、嘉慶道光の間(かん)以來、一つでも自慢になる作品があるか? しかも國民は老若を問はず、太平樂ばかり唱へてゐる。成程若い國民の中には、多少の活力も見えるかも知れない。しかし彼等の聲と雖も、全國民の胸に響くべき、大いなる情熱のないのは事實である。私は支那を愛さない。愛したいにしても愛し得ない。この國民的腐敗を目撃した後も、なほ且支那を愛し得るものは、頽唐を極めたセンジュアリストか、淺薄なる支那趣味の惝怳者(しやうけいしや)であらう。いや、支那人自身にしても、心さへ昏(くら)んでゐないとすれば、我我一介の旅客(りよかく)よりも、もつと嫌惡に堪へない筈である。………

 私は盛に辯じ立てた。バルコンの外の槐(ゑんじゆ)の梢は、ひつそりと月光に涵(ひた)されてゐる。この槐の梢の向う、――幾つかの古池を抱へこんだ、白壁の市街の盡きる所は揚子江の水に違ひない。その水の汪汪(わうわう)と流れる涯には、ヘルンの夢みた蓬莱のやうに懷しい日本の島山(しまやま)がある。ああ、日本へ歸りたい。

 「お前なんぞは何時でも歸れるぢやないか?」

 ノスタルジアに感染した西村は月明りの中に去來する、大きい蛾の姿を眺めながら、殆(ほとんど)獨語(ひとりごと)のやうにかう云つた。私の滯在はどう考へても、西村には爲にならなかつたらしい。

 

[やぶちゃん注:現在安徽省第二の大都市となった蕪湖“Wúhú”(ウホウ)は上海から約390km・南京から約90kmの長江中流に位置する。昔から四大穀倉地帯の一つとして、また長江中流の物産の集積する港町として栄えてきた。街中には水路・運河・湖や池が多く、河岸には問屋街が並ぶ。由緒ある古寺や中国四大仏教聖地の一つである九華山、名山と知られる黄山等がある景勝地である。5月19日夜。芥川は蕪湖に2日滞在している。

・「西村貞吉」芥川の府立三中時代の同級生で、東京外国語学校(現・東外語大学)卒業後、各地を放浪の後、中国安徽省蕪湖唐家花園に居を定めていた。芥川が中国から帰還した直後の大正101921)年9月に『中央公論』に発表した「母」は、蕪湖に住む野村敏子とその夫の物語であるが、この夫は明らかに彼をモデルとしている。

・「銀樓」貴金属店。金銀を用いた細工店。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。居酒屋。

・「一輪車」所謂、木製で出来た一輪車を向きを逆にして、牛や驢馬の後方に連結したものを言うのであろう。

・「小蒸氣」は「小蒸気船」の略。港湾にあって大型船舶の旅客の送迎や通船等に当たる小型の動力船のこと。“launch”(ランチ)。

・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客 は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3200名。昭141939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「浦口(プウカオ)」“pŭkŏu”は現在の江蘇省南京市浦口区。南京市街とは長江を挟んで反対側にあり、1968に竣工した南京長江大橋が出来るまでは、南京への渡し場・長江の港町として栄えた。

・「唐家花園」ネット検索では掛からない。現在はこの地名(宅地名)は現存しないか。先に示した西村をモデルとした「母」には、その夫の台詞の中に蕪湖の「雍家花園(ようかかえん)」という地名が現れる。しかし、これもネット検索では掛からない。識者の御教授を乞う。

・「東道」は「東道の主」若しくは「東道の主人」の略。「春秋左伝」僖公(きこう)三十年の記載を故事とする語。本来は、東方へ赴く旅人をもてなす主人の意である。そこからホストとしてゲストの世話をする者を言う。

・「禮讓」相手に対して、礼儀正しく、へりくだった態度をとること。

・「濟良所」筑摩全集類聚版脚注等によれば、中華民国時代に置かれた官営機関。官妓や公娼の中で、誰かに引かされたのではなく、自分の意思でやめた者(「自由廢業」)は一般の仕事に就き難くかった。そこでここで手仕事や新時代の一般教養を習得させて、正業に就かせようとした。

・「倚陶軒、一名大花園と云ふ料理屋」未詳。現存しない模様。

・「李鴻章」Lĭ Hóngzhāng(りこうしょう、リ・ホゥォンチャン 18231901)は清代の政治家。1850年に翰林院翰編集(皇帝直属官で詔勅の作成等を行う)となる。1853年には軍を率いて太平天国の軍と戦い、上海をよく防御して江蘇巡撫となり、その後も昇進を重ねて北洋大臣を兼ねた直隷総督(官職名。直隷省・河南省・山東省の地方長官。長官クラスの筆頭)の地位に登り、以後、25年間その地位にあって清の外交・軍事・経済に権力を振るった。洋務派(ヨーロッパ近代文明の科学技術を積極的に取り入れて中国の近代化と国力強化を図ろうとしたグループ。中国で十九世紀後半に起った上からの近代化運動の一翼を担った)の首魁として近代化にも貢献したが、日清戦争(明治271894)年~明治281895)年)の敗北による日本進出や義和団事件(19001901)での露清密約によるロシアの満州進出等を許した結果、中国国外にあっては傑出した政治家「プレジデント・リー」として尊敬されたが、国内では生前から売国奴・漢奸と分が悪い(以上はウィキの「李鴻章」及び中国国際放送局の「李鴻章清の末期の政治家」の記載を主に参照した)。

・「洪水後の向島」現在の墨田区向島は、近代史上最大の明治431910)年8月11日の大洪水。向島は巨大な湖のようになったと当時の新聞は報じている。芥川は当時18歳で、第一高等学校に無試験合格した直後で、卒業したばかりの府立第三中学校が避難所となったため、慰問品を持って三中で救護に当たった。その際の救護活動を綴ったものが同年11月発行の『東京府立第三中学校学友会雑誌』に「水の三日」という標題で載っており、芥川は具にその惨状を見ている(「水の三日」は、但し、極めて面白可笑しい体験をお洒落に配した綴り方で、「惨状」の描写等は微塵もなく、そのようなシリアスなものを期待すると完璧に失望するものである)。

・「陶塘」筑摩全集類聚版は『「塘」はつつみ、陶堤というに同じ。』とあるが、では「陶堤」とは何か、記していない。わざわざ芥川が鍵括弧を附した意味が分からぬ。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解は「未詳。」とする。彼女は鍵括弧を附した特別な意味を感じ取って、敢えて注釈者としてはやりたくない「未詳」を附したのであろう。これは、蕪湖市内にある鏡湖の古名である。中国旅行社の「黄山旅遊網」の日本語版の「蕪湖」のページによれば、南宋期の詩人の詩に「田百畝を献し、合流して湖に成り」、その豊かなる田園の様は陶淵明を慕うかのようであるから、「陶塘」と名付けるというようなことが記されており(やや日本語と構文がうまくない)、『歴代の拡張工事によって、今の鏡湖は面積が15万平方メートルもあり、へ平均水深が2メートル、水面が鏡のように透き徹ってい』るとあり、『湖堤には柳が揺らぎ、蕪湖八景の一つ「鏡湖細柳」はここで』あると記す。芥川はかの有名な陶淵明所縁の「陶塘」と風雅に呼ばれた鏡湖、の意味(その清らかな靖節先生、「鏡」の湖が、「濁つてゐる」という皮肉)を込めて鍵括弧を附したのである。

・「嘉慶道光の間」1796年から1850年の凡そ半世紀の間。「嘉慶」は清第7代皇帝仁宗の治世の年号(17961820)、「道光」はその息子である第7代皇帝清の宣宗の治世の元号(18211850)。

・「太平樂」雅楽の一曲である「太平楽」が如何にも悠長な曲想であることから、人が勝手気儘なことを言い放題で暢気に暮らすこと、勝手気儘な振舞いを言う語。

・「頽唐」退廃。反道徳的で不健全なさま。この場合の「唐」は、とりとめがない、虚しいの意。

・「センジュアリスト」“sensualist”は、「官能主義者」「肉欲(酒色)に耽る人」、美術上の「肉感主義者」や哲学上の「感覚論者」の意味もあるが、ここではもう「官能主義者」「肉感的耽美主義者」の謂いである。

・「惝怳者」底本「しやうけい(しょうけい)」とルビを振っているが、正しくは「しやうくわう(しょうこう)」と読む。意味は、がっかりするさま、驚きぼんやりするさま、であるがそれでは意味が通じない。ぼんやりと判然としない憧憬、というような意味で芥川は用いているようである。実は、この語は芥川が好きな語であったらしく、「點心」の「長井大助」、「西方の人」の「18 キリスト教」でも用いている。なお且つ、「18 キリスト教」でもルビが「しやうきやう(しょうきょう)」と誤った、こことはまた異なったルビが振られており、おまけに意味もここでの誤った用法と同じである。博覧強記の芥川龍之介にして、「惝怳」の読み・意味共に、全く誤った思い込みのまま使い続けたというケースは珍しい。

・「槐」バラ亜綱マメ目マメ科エンジュStyphonolobium japonicum。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「汪汪」水が豊かに湛えられているさま。

・「ヘルンの夢みた蓬莱のやうに懷しい日本の島山」この部分は、小泉八雲の「怪談」の掉尾をなす「蓬莱」の記述に基づく。まずLafcadio HearnHôrai”の、その冒頭原文を掲げる(引用は“K.Inadomi's Private Library”所収のものを用いた)。

   *

Blue vision of depth lost in height, — sea and sky interblending through luminous haze. The day is of spring, and the hour morning.

Only sky and sea, — one azure enormity. . . . In the fore, ripples are catching a silvery light, and threads of foam are swirling. But a little further off no motion is visible, nor anything save color: dim warm blue of water widening away to melt into blue of air. Horizon there is none: only distance soaring into space, — infinite concavity hollowing before you, and hugely arching above you, — the color deepening with the height. But far in the midway-blue there hangs a faint, faint vision of palace towers, with high roofs horned and curved like moons, — some shadowing of splendor strange and old, illumined by a sunshine soft as memory.

 

. . . What I have thus been trying to describe is a kakémono, — that is to say, a Japanese painting on silk, suspended to the wall of my alcove; — and the name of it is SHINKIRÔ, which signifies "Mirage." But the shapes of the mirage are unmistakable. Those are the glimmering portals of Hôrai the blest; and those are the moony roofs of the Palace of the Dragon-King; — and the fashion of them (though limned by a Japanese brush of to-day) is the fashion of things Chinese, twenty-one hundred years ago. . . .

   *

この作品の訳を示すに、平井呈一先生の訳以外に名訳を私は知らない。特に先生は、この冒頭に二段落分を擬古文に訳されており、それがこの芥川のそれと美事に照応するかのように美しい。ここにそれを引用せずにはおられない(1975年恒文社刊「怪談 骨董他」所収の「蓬莱(ほうらい)」を用いたため、恐らく初訳の際はそうであったであろう歴史仮名遣は残念ながら現代仮名遣に改められている。もとに戻した願望に駆られるが、著作権存続中の作品の引用であるので、そのままとする。読者は是非、歴史的仮名遣且つ正字に直して鑑賞・対比されると、芥川龍之介――小泉八雲――平井呈一という稀有の美しいラインが見えてくる)。

   *

 水や空なるわだの原。霞にけぶる空と水。時は春なり、日は朝(あした)。

 見わたせば、ただ渺々の海と空(そら)。見る目くまなき群青(ぐんじょう)の、こなたに寄する岸の波。ただよう五百(いお)の水泡(みな)くずは、銀の光をとらうらん。その岸べより沖かけて、目路(まじ)には動くものもなく、ただ一刷毛の藍の色、日に蒸れけむる碧水の、蒼茫として碧天に、つらなるきわを眺むれば底(そこひ)も知らぬ穹窿(きゅうりゅう)の、帰墟(ききょ)の壑(たに)にも似たるかや。高きとともにその色の、ひときわ深き中空に、反りたる屋根の新月に、まがうと見ゆる高楼(たかどの)の、ほのかに遠くかかれるは、げにそこはかとなき思い出の、姿もかくやほのぼのと、朝日に映(は)ゆるとつ国の、古き栄華のまぼろしぞこれ。

 

 上に試みに訳したのは、一幅の掛物である。素絹に描いて、わが家の床の間にかけてある、日本の絵だ。題を「蜃気楼」という。「蜃気楼」とは「まぼろし」の意である。しかし、この蜃気楼は形がさだかである。これに見えるのは、仙境蓬莱に輝く光りの門、あれに見ゆるは、竜宮の月の屋根である。その様式は、(現代の日本の画家が描いたものだが)二千年前の中国の様式だ。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

 

   *

 

小泉八雲は以下、常世としての蓬莱の不老不死等について語りながら、悲しみや死が犯さない世界などあるはずがない、と否定はする。しかし、すぐに蓬莱の語りの魅力に負けて、その大気が空気ではなく、幾千万億という太古の霊魂の精気によって構成されており、それを摂取することよって蓬莱に生きるものの感覚は我々とは異なったものになると語り出す。蓬莱では正邪の観念がない。故に老若もない。不死ではないが、その死の瞬間以外は、常ににこやかに微笑んでいる。蓬莱では全ての人々が家族のように愛と信頼の絆によって結ばれている。そうして蓬莱の「女」の人の心やその語りかける言葉は、小鳥の魂のように軽やかである。蓬莱では死の瞬間の別れの悲しみ以外には、何一つ、人に隠すことがない(神は死の瞬間の悲しみがその当人の表情から消え去るまで、その顔を蔽うのである)から、もとより恥を感ずるいわれもない。他者から何かを盗む必要も、盗まれるという恐れの感情も不要だから、戸閉まりをする必要もない。そこに住む人々は皆、神仙である。だから、その世界のものは殆んどが極めて小さくて奇妙に見える。彼らは極めて小さな茶碗で飯を食い、極めて小さな杯で酒を飲む……。八雲はここでこれらの霊妙なるものの核心を総括する。それは、理想、即ち古き世の希望の光、に対する憧憬であるとする。その希望の『無私の生涯の朴直な美しさ』(平井氏訳)が蓬莱の「女」の人の誠実な優しさに現われている……と。もう、この八雲が語る「蓬莱」なるものが何辺にあるか、何処であるか、お分かり頂けたものと思う。

 

 最終段落は象徴的である。そうしてこれが芥川の最後の一文に直に繋がる(引用は原文・訳文共に前記引用に同じ)。

 

   *

 

Evil winds from the West are blowing over Hôrai; and the magical atmosphere, alas! is shrinking away before them. It lingers now in patches only, and bands, — like those long bright bands of cloud that trail across the landscapes of Japanese painters. Under these shreds of the elfish vapor you still can find Hôrai — but not elsewhere. . . . Remember that Hôrai is also called Shinkirô, which signifies Mirage, — the Vision of the Intangible. And the Vision is fading, — never again to appear save in pictures and poems and dreams. . . .

 

   *

 

 ――西の国からくる邪悪の陰風が、蓬莱の島の上を吹きすさんでいる。霊妙なる大気は、かなしいかな、しだいに薄らいで行きつつある。いまは、わずかに、日本の山水画家の描いた風景のなかにたなびく、長い光りの雲の帯のように、片(きれ)となり、帯となって、漂うているばかりである。その一衣帯の雲の下、蓬莱は、その雲の下にのみ、今は存しているのである。それ以外のところには、もはやどこにも存在していない。蓬莱は、又の名を蜃気楼という。蜃気楼とは手に触れることのできない、まぼろしの意である。そうして、そのまぼろしは、今やすでに消えかかりなんとしつつある。――絵と、歌と、夢とのなかにあらざれば、もはやふたたびあらわれぬかのように。[やぶちゃん注:以上、平井呈一訳引用終わり。]

 

因みに、この注は芥川龍之介「骨董羹―壽陵余子の假名のもとに筆を執れる戲文―」に私は注したものを援用している。お読みでない方は、お読みあれ。そうしてまた、私の文章の愛讀者諸君は、この「長江」の一篇に對するやうに、出来れば、その擬古文を暴虎馮河で私が現代語訳した『芥川龍之介「骨董羹―寿陵余子の仮名のもとに筆を執れる戯文―」に基づくやぶちゃんという仮名のもとに勝手自在に現代語に翻案した「骨董羹(中華風ごった煮)―寿陵余子という仮名のもと筆を執った戯れごと―」という無謀不遜な試み 』〔やぶちゃん(copyright 2009 Yabtyan)〕にもちらりと目をやつてはくれないであらうか?

【二〇一三年八月八日追記】教え子T.S.君が「一」の舞台蕪湖を探勝、その紀行文と写真を送って呉れた。その文章は、芥川龍之介の中国滞在中の当時の中国に対するアンビバレントなパトスに勝るとも劣らぬ優れたものと私には映った。そこで彼の許諾を得て、教え子T.S.君蕪湖での感懐を綴った消息文全文(二〇一三年七月二十二日附メール)と彼の撮影になる写真四葉を以下に掲げる。
   《引用開始》

 『李鴻章の別莊だつた』『倚陶軒(いとうけん)、一名大花園と云ふ料理屋』はどこにあったのか。龍之介はここで『ご馳走になつてゐる頃から、支那に對する』『嫌惡』が次第に『逆上の氣味を帶び始め』、その夜の『唐家花園のバルコン』における中国への痛罵に至ったのです。唐家花園が特定できなくとも、なんとかしてその料理屋のあった場所を見てみたい。これが私の願いでした。その料理屋から濁った『「陶塘」の水』が眺められたというからには、「陶塘」すなわち現在の鏡湖のほとりにあったのは明らかです。
 事前に調べてわかったことがいくつかあります。李鴻章が当時鏡湖のほとりに修築した別荘は大花園だけに留まらず、他に西花園、景春花園、長春花園、柳春園などがあり、また藕香居や煙雨墩という建築物も整備したということ。そしてこれらの別荘群は鏡湖の南岸に連なり合ってひとつの大きな庭園を形成しており、これら全体を指して大花園と呼ばれることもあったこと。この大庭園の正門は鏡湖の西の畔、新蕪路の東端にあり、裏門は鏡湖の南の畔、渡春路と上二街の間の景春花園にあったということ。また、倚陶軒は一九三〇年代頃までは高級徽州料理店として有名であったことも判りました。柳春園、煙雨墩、景春花園は、現在も湖畔の一角に名を留めています。
 蕪湖に着いた私がまず向かったのが、その鏡湖のほとりです。事前にインターネットで確認したところでは、南の湖畔に図書館があるとの情報でした。当時の地図を探したいと思ったのです。しかし現地で人に尋ねてやっと判ったのは、図書館は現在四キロあまり北方に統合移転されているということでした。図書館のホームページには何の案内もありませんでした。気を取り直して改めて向かった図書館で、またしても当てが外れます。図書館の中の郷土資料閲覧室は、週末は開放されていなかったのです。
 この国に慣れた私でも、四百キロの道をわざわざやってきた意気込みが殺がれ、不徹底と不親切に憤慨しました。半ば肩を落としつつ図書館を後にすると、タクシーを呼び止め、もう一度鏡湖に向かいました。
 五十六歳の土地っ子だというタクシー運転手は、歴史研究のために上海から来たと自己紹介した私に、いろいろ話してくれました。李鴻章がいかに中華の民を裏切った罪深い男だったかというありふれた講談の中に、現在の新蕪路の東端の湖畔周辺が大花園と呼ばれたという話があり、私は興奮しました。すなわち大庭園の正門のあったという西の湖畔です。たしかそこには花園飯店という小さなホテルもあったはずです。龍之介の立ち寄った倚陶軒は、その辺りにあったと考えて間違いなさそうです。
 十分後、私はその西の湖岸に立っていました。真夏の炎熱に白けたように静まり返る湖水を眺めながら、私は思いました。
――龍之介よ。あなたは一体何に憤慨したのだろう。もちろんあなた自身書いた通り、藝術を含めた何もかもが『悉(ことごとく)堕落し』、『大いなる情熱』もなく『太平樂ばかり唱へて』おり、まさに『國民的腐敗』の様相を呈していたこの大国に苛立ったのだ。
――しかし痛罵の言葉を吐く前提として、必ずや何らかの期待があったに違いない。恐らくは、白楽天や陶淵明や、その他鬱蒼たる古典の森に培われた夢も、そこにはあったことだろう。彼は裏切られたのだ。何をするにも、きめ細かさと、ある種の徹底した潔癖に対する価値観を(その真偽と正否は別として)、当然のこととして人も社会も持っている、人口稠密な東方の島国から来た彼。その彼は、大雑把で、いい加減で、富める者は日々の安逸に耽溺し、貧する者は今日の糊口を凌ぐことだけに汲汲とせざるを得ないでいるこの老大国に戸惑ったのだ。つまり……、一杯食わされたのだ。
――それから一世紀。この国は一体変わったのだろうか……。いや、私は思うのだ。そもそもこの国が変わるべきだなどと、何を偉そうに言うのか。人を食った混沌……、これこそがこの国の本質なのではないか。この国に暮らす民の力なのではないか。そして、この国に咲いた数多の美しい華は、いわばこの『濁つてゐ』る「陶塘」の水上に咲くハスの花なのではないか。
 私は、この街で味わったいくつかの失望を思い出しました。しかし同時に、道を案内してくれた路傍の人々の親切さや、幼い頃の思い出を強い訛りで親しく話してくれたあのタクシー運転手の人懐こさ、私が返そうとした二元の釣銭をどうしても受け取ろうとしなかった生真面目さを思い返しました。そうして首筋に流れる汗を拭いながら、この世の騒がしさから超然と佇む対岸の白い太鼓橋を、ぼんやりと眺めておりました。

   《引用終了》
 以下、T.S.君の写真。



写真①

写真①:鏡湖南岸の柳春園から西岸を眺める(中央奥樹木茂る辺りが倚陶軒のあった地点かと思われます。その後ろは花園飯店です)。



写真②

写真②:鏡湖の風景(倚陶軒のあったと思われる地点から対岸を眺めた景観です。)




写真③

写真③:一九一九年竣工の旧蕪湖税関(龍之介はこの辺りに上陸した筈。必ずやこの建物を眼にしたものと思われます)。




写真④

写真④:旧蕪湖税関前の長江。川幅は約二キロ(下流、すなわち北方を眺めたところです)。]

 

 

 

       二 溯江

 

 私は溯江の汽船へ三艘乘つた。上海(シヤンハイ)から蕪湖(ウウフウ)までは鳳陽丸、蕪湖から九江(キウキヤン)までは南陽丸、九江から漢口(ハンカオ)までは大安丸である。

 鳳陽丸に乘つた時は、偉い丁抹人(デンマアクじん)と一しよになつた。客の名は盧糸(ろし)、横文字に書けばRooseである。何でも支那を縱横する事、二十何年と云ふのだから、嘗世のマルコ・ポオロと思へば間違ひない。この豪傑が暇さへあると、私だの同船の田中君だのを捉(つかま)へては、三十何呎(フイイト)の蟒蛇(うわばみ)を退治した話や、廣東(カントン)の盜俠(たうけふ)ランクワイセン(漢字ではどんな字に當るのだか、ルウズ氏自身も知らなかつた。)の話や、河南直隷(ちよくれい)の飢饉の話や、虎狩豹狩の話なぞを滔滔と辯じ來り辯じ去つてくれた。その中でも面白かつたのは、食卓(テエブル)を共にした亞米利加人の夫婦と、東西兩洋の愛を論じた時である。この亞米利加人の夫婦、――殊に細君に至つては、東洋に對する西洋の侮蔑に踵(かかと)の高い靴をはかせた如き、甚(はなはだ)横柄な女人(によにん)だつた。彼女の見る所に從へば、支那人は勿論日本人も、ラヴと云ふ事を知つてゐない。彼等の蒙昧は憐むべしである。これを聞いたルウズ氏は、カリイの皿に向ひながら、忽(たちまち)異議を唱へ出した。いや、愛の何たるかは東洋人と雖も心得てゐる。たとへば或(ある)四川の少女は、――と得意の見聞を吹聽すると、細君はバナナの皮を剥きかけた儘、いや、それは愛ではない、單なる憐憫に過ぎぬと云ふ。するとルウズ氏は頑強に、では或日本東京の少女は、――と又實例をつきつけ始める。とうとうしまひには相手の細君も、怒火心頭に發したのであらう、突然食卓を離れると、御亭主と一しょに出て行つてしまつた。私はその時のルウズ氏の顏を未にはつきり覺えてゐる。先生は我我黄色い仲間へ、人の惡い微笑を送るが早いか人さし指に額を叩きながら、「ナロウ・マインデット」とか何とか云つた。生憎この夫婦の亞米利加人は、南京(ナンキン)で舶を下りてしまつたが、ずつと溯江を續けたとすれば、もつといろいろ面白い波瀾を卷き起してゐたのに相違ない。

 蕪湖から乘つた南陽丸では、竹内栖鳳氏の一行と一しよだつた。栖鳳氏も九江に下船の上、廬山に登る事になつてゐたから、私は令息、――どうも可笑しい。令息には正に違ひないが、餘り懇意に話をしたせゐか、令息と呼ぶのは空空しい氣がする。が、兎に角その令息の逸(いつ)氏なぞと愉快に溯江を續ける事が出來た。何しろ長江は大きいと云つても、結局海ではないのだから、ロオリングも來なければピッチングも來ない。船は唯機械のベルトのやうにひた流れに流れる水を裂きながら、悠悠と西へ進むのである。この點だけでも長江の旅は船に弱い私には愉快だつた。

 水は前にも云つた通り、金鏽(かなさび)に近い代赭である。が、遠い川の涯は青空の反射も加はるから、大體刃金(はがね)色に見えぬ事はない。其處を名高い大筏(おほいかだ)が二艘も三艘も下つて來る。現に私の實見した中にも、豚を飼つてゐる筏があつたから、成程飛び切りの大筏になると、一村落を載せたものもあるかも知れない。又筏とは云ふものの、屋根もあるし壁もあるし、實は水に浮んだ家屋である。南陽丸の船長竹下氏の話では、これらの筏に乘つてゐるのは雲南貴州等の土人だと云ふ。彼等はさう云ふ山の中から、萬里の濁流の押し流す儘に、悠悠と江(かう)を下つて來る。さうして浙江安徽等(とう)の町町へ無事に流れついた時、筏に組んで來た木材を金に換へる。その道中短きものは五六箇月、長きものは殆(ほとんど)一箇年、家を出る時は妻だつた女も、家へ歸る時は母になるさうである。しかし長江を去來するのは、勿論この筏のやうに、原始時代の遺物に限つた訣ぢやない。ー度は亞米利加の砲艦が一艘、小蒸氣(こじようき)に標的を牽かせながら、實彈射撃なぞをしてゐた事もある。

 江の廣い事も前に書いた。が、これも三角洲(デルタ)があるから、一方の岸には遠い時でも、必(かならず)一方には草色(さうしよく)が見える。いや、草色ばかりぢやない。水田の稻の戰ぎも見える。楊柳の水に生え入つたのも見える。水牛がぼんやり立つたのも見える。青い山は勿論幾つも見える。私は支那へ出かける前、小杉未醒氏と話してゐたら、氏は旅先の注意の中にかう云ふ事をつけ加へた。

 「長江は水が低くつてね、兩岸がずつと高いから、船の高い所へ上(あが)るんですね。船長のゐる、何と云ふかな、あの高い所があるでせう。あすこへ上らねえと、眺望が利きませんよ。あすこは普通の客はのせねえから、何とか船長を護摩かすんですね。………」

 私は先輩の云ふ事だから、鳳陽丸でも南陽丸でも、江上の眺望を恣(ほしいまゝ)にする爲に、始終船長を護摩かさうとしてゐた。處が南陽丸の竹下船長はまだ護摩かしにかからない内からサロンの屋根にある船長室へ、深切にも私を招待してくれた。しかし此處へ上つて見ても、格別風景には變りもない。實際又甲板にゐても、ちやんと陸地は見渡せたのである。私は妙に思つたから、護摩かさうとした意志を白状した上、船長にその訣を尋ねて見た。すると船長は笑ひ出した。

 「それは小杉さんの來られた時はまだ水が少かつたのでせう。漢口あたりの水面の高低は、夏冬に四十五六呎(フイイト)も違ひますよ。」

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介の長江溯江は、上海から蕪湖は5月16日夜出航で19日夜着(前章参照)、蕪湖から九江は5月22日で、翌23日に後掲の廬山へ行き、翌日24日には廬山を発って九江へ向かい、そこから漢口に向かった。漢口着は5月26日頃である(これ以降、北京迄の旅程は、書簡から探るのみで一部は現在でも定かでない)。

・「鳳陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期-大正期」のページに、日清汽船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号15)。その資料によれば、大正4(1915)年に貨物船「鳳陽丸」“ FENG YANG MARU”として進水、船客 は特1等16名・1等18名・特2等10名・2等60名・3200名。昭141939)年に東亞海運(東京)の設立に伴って移籍した。そして『1944.8.31(昭19)揚子江の石灰密(30.10N,115.10E)で空爆により沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「九江(キウキヤン)」“Jiŭjiāng”(チィォウチォイアン)は江西省北部、長江の南岸に位置する港湾都市。南に廬山を臨む。地名は多くの河川がこの地で合流し、長江の水勢を増すことから。

・「南陽丸」同名の船が長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「明治後期」のページに、日本郵船所有船舶として写真付きで掲載されている(通し番号155)。その資料によれば、明治401907)年に「南陽丸」“NANYO MARU”として進水、船客は特1等が16室・1等20室・2等46室・3等252室、明治401907)年に日清汽船(東京)に移籍後に南陽丸“NAN YANG MARU”と改名している。昭和121937)年に『上海の浦東水道(Putong Channel)で中国軍の攻撃を受けて沈没』とあるので、この船に間違いないと思われる。

・「大安丸」同名の船は長澤文雄氏のHP「なつかしい日本の汽船」の「太平洋戦争の残存船舶」のページに、Canadian Vickers Ld.造船になる5,412tの東洋海運所有船舶として掲載されている(通し番号71)。が、この「大安丸」“Taian Maru”は中国で就航していた事実も確認出来ず、更にその進水年が大101921)年で、芥川が渡中したその年でもあるため、この船とは同定し難い気がする。またウィキのアメリカ海軍潜水艦ガーナード (USS Gurnard, SS-254) の記載の中に昭和171942)年『9月6日、ガーナードは3回目の哨戒で東シナ海に向かった。10月7日深夜、ガーナードはルソン島ボヘヤドール岬西北西120キロの地点で5隻からなる772船団を発見。翌10月8日1時39分に攻撃し、大日丸(板谷商船、5,813トン)と大安丸(太洋海運、5,655トン)の2隻を撃沈した。』という記載が現れる。「大安丸」という名は複数あってもおかしくない名である。

・「偉い」この「えらい」は程度が常識を外れている、とんでもなく変わった、という意味である。

・「盧糸、横文字に書けばRoose」不詳。芥川は明らかに、このとんでもないデンマーク人に親しみを覚えているのが分かる。私はこれがあの芥川の親友トーマス・ジョーンズに相似た面影を感じさせたからではないかと推測している(ジョーンズについては「上海游記 三 第一瞥(中)」の注を参照されたい)。「上海游記 十四 罪」の中に『或丁抹人が話したのでは、四川や廣東には六年ゐても、屍姦の噂は聞かなかつたのが、上海では近近三週間の内に、二つも實例が見當つたさうです。』という話のネタ元はこのRooseであろう。

・「同船の田中君」不詳。芥川龍之介の中紀行の中に「田中」姓の人物は他には見当たらない。毎日新聞社の社員が同船した可能性はないではないが、北京までは基本的に芥川龍之介の一人旅である。恐らく、「上海游記 一 海上」の「馬杉君」同様、「同じ船室に當つた」に過ぎない日本人旅行者かビジネスマンであろう。

・「三十何呎の蟒蛇」1feet30.48㎝であるから、10mを悠に越える大蛇、ということになる。初出は「二十何呎の蟒蛇」で、これだと6m強で、如何にもいそうな大きさである。アジアの最大種としてはヘビ亜目ニシキヘビ科ニシキヘビ属アミメニシキヘビPython reticulatusで、ウィキの「アミメニシキヘビ」には最大全長9m90㎝とある。しかし中国版のアミメニシキヘビ当該項「網紋蟒」には、ズバリ最大長14m86㎝という記載があるから、Roose氏の言、必ずしも法螺ならずか。

・「廣東(カントン)」“guǎngdōng”。中国大陸の南、南シナ海に面した広州を州都とする現在の広東省を中心とした地方。海南島や旧租借地であった香港・マカオを含む。

・「盜俠」義賊。

・「ランクワイセン」不詳。漢字の一字でも分かれば糸口となりそうだが。識者の御助言を乞う。

・「河南直隷の飢饉」「河南」地方は黄河中流域の現在の河南省。現在、中国最大の人口(約1億)を抱える。中国7大古都の内、殷周の安陽・漢以降の洛陽・宋の開封の3大古都を有する。黄河を挟んで北に位置する「直隷」地方は現在の河北省とほぼ同域。明代以降、大韓民国前期まで黄河下流の北部地域を指した行政区画。「直隷」は「皇帝のお膝元」の意。1928年(民国17年)に北京から南京に遷都した際、河北省と改名した(以上は「河南省」「直隷」それぞれのウィキを参照した)。黄河の氾濫等により、しばしば飢饉に見舞われた。公開が女性誌であるからか、芥川は書いていないが、恐らく人肉食の話に及んだものと思われる。

・「虎」/「豹」この「虎」はネコ目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウ属トラPanthera tigrisの亜種で、中華人民共和国南部及び西部に生息するアモイトラPanthera tigris amoyensisを指していると考えてよい。全長は♂230265㎝・♀220240㎝。体重♂130175㎏、♀100115㎏。腹面には狭い白色の体毛があり、縞は太く短く、縞の本数は少ない。既に絶滅が疑われている。「豹」は北方種ならばネコ亜目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウPanthera pardusの亜種で、中国東北部に分布するキタシナヒョウPanthera pardus japonensis又はアムールトラPanthera pardus orientalis(前者は自然界では絶滅危惧種。後者は絶滅が疑われている)、南方種ならばインドとの国境付近に生息するインドヒョウPanthera pardus fuscaの何れかと考えられる(主にウィキの複数の記載を参照した)。

・「四川」中国大陸の西南部に位置する、成都を州都とする現在の四川省とほぼ同域を指す地方名。旧来の「巴蜀」と考えた方がよい。峻険な山岳地帯。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解には『西安を含む黄河上流域の省』とあるが、これは陝西省と取り違えている、とんでもない誤りである。

・『「ナロウ・マインデット」』“narrow minded”「何て心の狭い!」若しくは「酷い偏見だね!」の意。

・「南京(ナンキン)」“Nánjīng”。

・「竹内栖鳳」(元治元(1864)年~昭和171942)年)は日本画家。最初は棲鳳と号した。近代日本画の先駆者にして京都画壇の大家。大正2(1913)年、帝室技芸員。この時、57歳。

・「その令息の逸氏」竹内逸三(たけうちいつぞう 明治241891)年~昭和551980)年)美術評論家。逸はペン・ネーム。竹内栖鳳の長男。美術評論家・随筆家。国画創作協会の機関誌「制作」の編集に携わる一方、「文藝春秋」等に評論を発表、小説も手掛けた。芥川とは一つ年上の同世代で話も合ったのであろう、彼とは特に懇意になったことが伺われる。

・「南陽丸の船長竹下氏」芥川は、この船長とは懇意にしたらしく、「上海游記 十九 日本人」にも竹下氏の話が引用されている。

・「雲南貴州」「雲南」は現在の中華人民共和国最西南端に位置する雲南省と同域(州都は昆明)。ベトナム・ラオス・ミャンマーと国境を接し、亜熱帯樹林及び北部高原域では亜寒帯樹林もある生物多様性には富んだ地域である。「貴州」は雲南省北東部に接する地域で、現在の貴陽を州都とする貴州省。ここは貴州高原と呼ばれ、その80%がカルスト地形からなる。両省は中国の省の中では人口の少数民族の占める割合が比較的高く、民族数も多い。共に経済的には現在も貧しい地方である。

・「浙江安徽」「浙江」は上海の南、長江河口域に位置する、杭州を州都とする浙江省、「安徽」は浙江省の北西部に接する長江中下流域に位置する、合肥(がっぴ/ごうひ)を州都とする安徽省に相当。現在、浙江省は経済発展著しい省である。

・「ロオリング」“rolling”船の横揺れ。

・「ピッチング」“pitching”船の縦揺れ。

・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん、明治141881)年~昭和391964)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外観と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の岩波版新全集注解から)。その「外観と肚の底」の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀(とつこつ)たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後(ご)氏に接して見ると』『肚(はら)の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より11歳年上。同じ田端に住んでいた。

・「四十五六呎」1feet30.48㎝であるから、13mから14m。ほんまかいな?! と疑って検索してみると、2003年7月17日の武漢で、長江の水位が27.3メートルに迫り、展望台に水が迫り、漢口龍王廟付近で 水遊びをしている子供の画像があるかと思うと、2008年1月8日の長江の漢口水文観測所での水位が13.98mと記録的な最低位を示したという記事もあった。27.313.9813.32m(!)、船長、嘘つかない!]

 

 

 

       三 廬山(上)

 

 若葉を吐いた立ち木の枝に豚の死骸がぶら下つてゐる。それも皮を剥いだ儘、後足(あとあし)を上にぶら下つてゐる。脂肪に蔽はれた豚の體は氣味の惡い程まつ白である。私はそれを眺めながら、一體豚を逆吊(さかつ)りにして、何が面白いのだらうと考へた。吊下げる支那人も惡趣味なら、吊下げられる豚も間が拔けてゐる。所詮支那程下らない國は何處にもあるまいと考へた。

 その間に大勢の苦力(クウリイ)どもは我我の駕籠の支度をするのに、腹の立つ程騷いでゐる。勿論苦力に碌な人相はない。しかし殊に獰猛なのは苦力の大將の顏である。この大將の麦藁帽は Kuling Estate Head Coolie No* とか横文字を拔いた、黒いリボンを卷きつけてゐる。昔 Marius the Epicurean は、蛇使ひが使ふ蛇の顏に、人間じみた何かを感じたと云ふ。私は又この苦力の顏に蛇らしい何かを感じたのである。愈(いよいよ)支那は氣に食はない。十分の後(のち)、我我一行八人は籐椅子の駕籠に搖られながら、石だらけの路を登り出した。一行とは竹内栖鳳氏の一族郎黨、並に大元洋行(たいげんやうかう)のお上さんである。駕籠の乘り心地は思つたよりも好(よ)い。私はその駕籠の棒に長長と兩足を伸ばしながら、廬山の風光を樂んで行つた。と云ふと如何にも體裁が好いが、風光は奇絶でも何でもない。唯(ただ)雜木(ざふき)の茂つた間(あひだ)に、山空木(やまうつぎ)が咲いてゐるだけである。廬山らしい氣などは少しもしない。これならば、支那へ渡らずとも、箱根の舊道を登れば澤山である。

 前の晩私は九江にとまつた。ホテルは即ち大元洋行である。その二階に寢ころびながら、康白情氏の詩を讀んでゐると、潯陽江(じんやうかう)に泊した支那の船から、蛇皮(じやびせん)線だか何だかの音がして來る。それは兎に角風流な氣がした。が、翌朝になつて見ると、潯陽江に候(さふらふ)と威張つてゐても、やはり赤濁りの溝川(どぶかは)だつた。楓葉荻花秋瑟瑟(ふうえふてきくわあきしつしつ)などと云ふ、洒落れた趣は何處にもない。川には木造の軍艦が一艘、西郷征伐に用ゐたかの如き、怪しげな大砲の口を出しながら、琵琶亭のほとりに繋つてゐる。では猩猩は少時(しばらく)措き、浪裡白跳(らうりはくてう)張順か黒旋風李逵(りき)でもゐるかと思へば、眼前の船の篷(とま)の中からは、醜惡恐るべき尻が出てゐる。その尻が又大體にも、――甚(はなはだ)尾籠な申し條ながら、悠悠と川に糞をしてゐる。

 私はそんな事を考へながら、何時かうとうと眠つてしまつた。何十分か過ぎた後、駕籠の止まつたのに眼をさますと、我我のつい鼻の先には、出たらめに石段を積み上げた、嶮(けは)しい坂が突き立つてゐる。大元洋行のお上さんは、此處は駕籠が上らないから、歩いて頂きたいと説明した。私はやむを得ず竹内逸氏と、胸突き八町を登り出した。風景は不相變平凡である。唯(ただ)坂の右や左に、炎天の埃を浴びながら、野薔薇の花が見えるのに過ぎない。

 駕籠に乘つたり、歩かせられたり、いづれにもせよ骨の折れる、忌忌(いまいま)しい目を繰返した後、やつとクウリンの避暑地へ來たのは彼是午後の一時頃だつた。この又避暑地の一角なるものが輕井澤の場末と選ぶ所はない。いや、赤禿(あかはげ)の山の裾に支那のラムプ屋だの酒棧(チユザン)だのがごみごみ店を出した景色は輕井澤よりも一層下等である。西洋人の別莊も見渡した所、氣の利いた構へは一軒も見えない。皆烈しい日の光に、赤や青のペンキを塗つた、卑しい亞鉛(トタン)屋根を火照らせてゐる。私は汗を拭ひながら、このクウリンの租界を拓いた牧師エドワアド・リットル先生も永年支那にゐたものだから、とんと美醜の判斷がつかなくなつたのだらうと想像した。

 しかし其處を通り拔けると、薊や除蟲菊の咲いた中に、うつ木(ぎ)も水水しい花をつけた、廣い草原が展開した。その草原が盡きるあたりに、石の垣をめぐらせた、小さい赤塗りの家が一軒、岩だらけの山を後(うしろ)にしながら、翩翩(へんへん)と日章旗を飜してゐる。私はこの旗を見た時に、租國を思つた、と云ふよりは、祖國の米の飯を思つた。なぜと云へばその家こそ、我我の空腹を滿たすべき大元洋行の支店だつたからである。

 

[やぶちゃん注:5月23日。

・「一體豚を逆吊りにして、何が面白いのだらうと考へた」――芥川さん、あなたは考えてない。面白くてやってるのじゃない。頚動脈を切って、速やかに血抜きをする方法として、これは至極論理的な当たり前の処理方法なのですよ。中華料理を至極に旨いと連発するあなたにして、如何にも思慮なく、幼稚な感想、失望しました。――

・「苦力(クウリイ)」)」“ kǔ”は本来は肉体労働者の意であるが、ここでは所謂、荷揚げ人夫。芥川一行が乗っている「駕籠」というのは「轎子(きょうし)」で、お神輿のような形をした乗物。お神輿の部分に椅子がありそこに深く坐り、前後を4~2人で担いで客を運ぶ。これは日本由来の人力車と違って、中国や朝鮮の古来からある上流階級の乗物である。現在も廬山には4人持ちのものがあるらしい。

・「Kuling Estate Head Coolie No*」は「牯嶺苦力頭*番」の英訳。「牯嶺」は後掲する別荘地「クウリン」のこと。“*”は任意の数字。

・「Marius the Epicurean」初出はカタカナ表記で「マリアス・ズイ・エピキユリアン」。これはイギリスのヴィクトリア朝時代の評論家・作家であるWalter Horatio Pater(ウォルター・ホレイシオ・ペイター 18391894)の1885年のアウレリウス帝時代のローマを舞台にした小説“Marius the Epicurean: His Sensations and Ideas”「享楽主義者マリウス、その感覚と観念」の主人公。岩波版新全集の篠崎美生子氏の注解によれば、芥川が大正8(1919)年に漱石の「三四郎」に似た構想のもとに執筆しながら未完で投げ出してしまった「路上」の主人公(明らかに芥川自身を思わせる)安田俊助を『マリウスになぞらえているほか、一九一七年八月29日付井川(恒藤)恭宛書簡では自分を「東洋的エピキュリアン」だと語っている』とある。「エピキュリアン」は快楽主義者。享楽主義者の意。古代ギリシアのヘレニズム期のエピクロス派の始祖であった哲学者Epikūrosエピクロス(B.C.341B.C.270)の教義に基づくが、本来の彼の人生の「快」は精神的なものであって、肉体的快楽はそれを「苦」と捉えていた。

・「大元洋行」筑摩全集類聚版脚注に『九江最大の日本人旅館。後、増田旅館と改名。』とあり、本文で見るように、廬山に支店を持っており、当時、日本人の廬山観光はこの旅館が一手に担っていたらしい。

・「山空木」和名のヤマウツギは、まず、バラ亜綱ムクロジ目ミカン科コクサギOrixa japonicaの別名(「和名抄」)として用いられるが、分布や花の開花期は本記載と一致するものの、花自体が目立たないものなので、同定から除外する。次にキク亜綱マツムシソウ目スイカズラ科タニウツギ属ハコネウツギ(ベニウツギ)Weigela coraeensisの別名(「大和本草」)として用いられるが、本種が中国に分布するかどうかは確認出来ないし、本邦の海岸近くに植生するという点からも除外される(因みに「箱根」が本文に出るのでこれを同定したいところであるが、このハコネウツギ、箱根とは無関係で、箱根には僅かにしか植生しない)。そうなると、広範な意味でのウツギ、バラ亜綱バラ目アジサイ科ウツギ属Deutziaに属するもので、大陸性のものを選ぶしかないが、ウィキの「ウツギ」によると、マルバウツギDeutzia scabra・ヒメウツギDeutzia gracilis等の『同属の類似種多く、東アジアとアメリカに60種ほど分布する』とあるのみとあるのみで、しかも中文ウィキの「ウツギ」の相当するページには、本邦のウツギ属ウツギ Deutzia crenata をごく短く載せるにとどまるばかりである。ところが同種は所謂、「卯の花」で原種の花は白い。これまでである。識者の御教授を乞う。

・「康白情」kāng báiqíng(カン パイチン 18951959or1954)は、本名康鴻章、詩人。胡適・陳独秀らの影響を受け、1919年の五四運動に参加、散文形式の白話詩人として好評を博した。アメリカ留学を経て、解放後まで華南大学文学部教授等を歴任した。詩集「草児」「河上集」等。

・「潯陽江」現在の江西省揚子江岸九江市付近には、古代に置かれた潯陽郡潯陽県が置かれたことから、この九江の北を流れる揚子江のことを特に潯陽江と呼んだ。以下の白居易の詩「琵琶行」巻頭を意識した表現。

・「蛇皮線」中国伝統の弦楽器、三弦(弦子)のこと。沖繩の三線(さんしん)や三味線のルーツ。

 

・「楓葉荻花秋瑟瑟」白居易の「琵琶行」の冒頭は以下のように始まる。

 

潯陽江頭夜送客

楓葉荻花秋瑟瑟

 

○やぶちゃん書き下し文

潯陽江頭 夜 客を送る

楓葉荻花 秋 瑟瑟

 

○やぶちゃん現代語訳

潯陽江のほとりで

旅立つ人を送る宴を張った――

紅葉した楓の葉――白い荻(おぎ)の穂――

そこを吹き抜けるのは

ただ淋しい風の音(ね)――

 

「瑟瑟」を「索索」とするもの一本がある。「瑟瑟」は“sèsè”(セセ)、「索索」“suŏsuŏ”(シュオシュオ)で、本来ならここは、逐語訳すれば「ヒューヒュー」に相当する「楓葉荻花」を吹き抜ける風の音そのものの擬音語である。その他、この「琵琶行」については、「上海游記 十六 南國の美人(中)」の私の注を参照されたい。

 

・「西郷征伐」西南の役。

・「琵琶亭」現在の九江にある長江大橋の東側にある、白居易が「琵琶行」を詠んだとされる場所に、後世建てられた亭。

・「猩猩は少時措き」の「猩猩」は中国の伝説上の動物で、延びた体毛に覆われた少年のようななりをしており、人語を解し、赤い顔をしていて酒を好むとされる。筑摩全集類聚版脚注は同内容を記して終わる。岩波版新全集の篠崎美生子氏は注を附していない。それで読者は分かるのか? では諸注が読者の誰にも分かっているとして書かない言わずもがなの注を記すとしよう。これは「猩猩」で「酔っ払い」を指している。「猩猩」はその性質から大酒家の渾名に用いられる。これは白居易「琵琶行」の主人公が、友の送別を河畔にした白居易は友と酒杯を挙げ、琵琶引きを呼び、その哀しい音色に心打たれ、酔った勢いでこの長詩を詠んだという設定である。そこに感涙極まった赤ら顔の白居易の姿を芥川はまず浮かべたのである。しかし、時刻はもとより、見える景色も如何にもそぐわないから、それはまあ、仕方がなく想像をやめて、の意である。ここは「琵琶行」を知らなくては、全く意味が分からない部分である。筑摩脚注者や篠崎美生子氏は当然御存知であった。そうして日本国民の一般人はここを読んで即座に白居易「琵琶行」を想起し、その内容から類推して「猩猩」を「酔っ払い」、酔っ払い即ち白居易とコンピュータ並みに迅速に理解出来るらしい。僕は確認のために「琵琶行」を再読しつつ、「猩猩」を調べてみて、はたと気づいた大馬鹿者であった。本篇冒頭注に掲げた『私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合』の丸括弧注は降ろした方が良いらしい。

・「浪裡白跳張順」は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「張順によれば、渾名は浪くぐりのハヤを意味する。登場の始めは兄の張横と『揚子江で闇渡し舟をして旅人の金銭を巻き上げていたが』、宋江と知り合い梁山泊入りを果たす。『大変な泳ぎの達人で、四、五十里(約20km)を泳ぎ、数日間を水中で過ごすことができるという、水泳の達人が多い水軍頭領の中でもずば抜けた水泳技能を持っていた。梁山泊では水軍頭領のひとりとして活躍した。』梁山泊が官軍となった後、反乱賊軍の首魁方臘(ほうろ)『討伐の中盤、敵軍が杭州城に篭城すると川を泳いで城内に忍び込むことを進言。単独城門前まで忍び寄るが、備えがあったために敵兵に発見される。あわてて水中に逃げ込もうとするが、一瞬遅く矢や投げ槍、岩で攻撃されて戦死した。その夜、宋江の夢に現れて別れを告げた。杭州城が陥落すると、張横の体に乗り移って敵指揮官の方天定を殺害、宋江の前に首を捧げる。張順は竜王によって神に封じられ、魂魄となって方天定についていたところ張横を見かけたので、体を借りて成敗したと告げて去った。』とある。如何にも芥川好みの暴虎馮河ではないか。

・「黒旋風李逵」は「水滸伝」中の梁山泊の豪傑の一人。ウィキの「李逵」によれば、『二挺の板斧(手斧)を得意と』し、そのすばしっこさと荒々しい強さに加えて、『色の黒さからよく「鉄牛」とも呼ば』れた。『怪力で武芸に優れた豪傑であるが、性格は幼児がそのまま大きくなったように純粋であり、物事を深く考えることは無く我慢もきかないため失敗も多い。』『一方で幼児独特の残虐性や善悪の区別の曖昧さもそのまま引き継いだために、人を殺すことをなんとも思っておらず、無関係の人間を巻き添えにしたり女子供を手にかけることも厭わない』ため、なついて尊崇する宋江等からも『叱責を買うことも多い』。ある意味、『破茶滅茶で失敗も多いが憎めない部分もあるトリックスター的存在で、この手の破壊的快男子が喝采を浴びる中国では群を抜く人気を誇っている。しかし日本ではあまりに行動が短絡的で、無節操に人を殺すせいか辟易する読者も多く、好き嫌いがはっきり分かれる人物のようである』とある。その宋江との意外な別れは魅力的であり、『死後も徽宗の夢の中に現れ奸臣にいいように騙された事を罵って斬りかかったり』するなど、如何にも芥川好みのプエル・エテルヌス・ピカレスクではある。

・「篷」「苫(とま)」に同じ。菅(すげ)や茅(かや)等で編んで作った莚(むしろ)。雨露を凌ぐために小船等をこれで覆った。

・「クウリン」“Gǔlĭng”漢字表記は「牯嶺(これい/くれい)」。牯嶺鎮。「北京太極拳気功養生会」「廬山」のページによれば、廬山の北方の峰にあり、三方を山に囲まれ、一方は谷に面しており、その鎮(村)全体の形が牝牛のような形をであることから、この名が付いたとある。現在も別荘が集中する地域で、『ホテルやレストランがこの小さな町の街道に沿って両側に並び、観光客がにぎわっている』とある。

・「この又避暑地の一角なるものが輕井澤の場末と選ぶ所はない。……輕井澤よりも一層下等である。」ここで芥川が軽井沢と廬山を対比している点に注意されたい。これは、廬山でのアップ・トゥ・デイトな感懐ではないということである。何故なら、廬山を訪れた際の芥川は軽井沢に行ったこともなかったからである。彼が始めて軽井沢に避暑に赴いたのは、まさにこの「長江游記」が公開される直前、大正131924)年の7月22日のことであった。彼はこの初めての軽井沢が大変気に入って、8月23日の田端帰還まで、都合、一ヶ月を過している。そして、冒頭注でも述べた通り、ここで越し人、片山廣子と運命の出逢いをしたのであった。本「長江游記」はそのような特殊な雰囲気の中で書かれたものでことを知って読んでみると、何気ない感懐や言葉尻りが、不思議に意味深長なものに見えてくるのである。この大正101921)年の廬山の芥川は、同時に大正131924)年8月の軽井沢の芥川として読めるということである。

・「酒棧(チユザン)」“jiŭzhàn”。居酒屋。

・「亞鉛(トタン)」トタン板。薄い鋼板に亜鉛メッキをしたもの。かつてはよく屋根板に用いられた。この呼称はポルトガルで亜鉛を意味する“tutanaga”に由来するとも言われる。

・「クウリンの租界」こんな山ん中に租界があるんかい、と思って検索すると、「廬山避暑紀行ダイジェストのページに、パール・バックや蒋介石の別荘等の写真入りで、清末に牯嶺の『東谷と称される一帯の租借権が英国人宣教師に与えられ、外国人避暑地として開発された、軽井沢のような地でもある。』という記載(これはその入り口の「廬山避暑紀行」のページのキャプション)を発見、眼から鱗、廬から牯牛!

・「エドワアド・リットル」Edward Selby little(エドワード・セルビー・リットル 18641939)、中国名李徳立は、イギリス人宣教師として清後期(光緒年間:18751908)に来中(在中は18901910)し、この牯嶺東谷を租借地として借り受け、避暑用別荘地として開拓をした。その際、「廬山避暑紀行ダイジェスト」のページによれば、このリットル氏が『英語の「cooling」にも通ずる名称として、同地の「牯牛嶺」という地名をもとに、別荘地一帯を「牯嶺」と命名し、ウェード式ローマ字では「Kuling」と表記した。』とある。またまた、眼から鱗、牯(めうし)から涼!

・「翩翩」翩翻(へんぽん)に同じ。]

 

 

 

       四 廬山(下)

 

 飯を食つてしまつたら、急に冷氣を感じ出したのはさすがに海拔三千尺である。成程廬山はつまらないにもしろ、この五月の寒さだけは珍重に値するのに違ひない。私は窓側の長椅子に岩山(いはやま)の松を眺めながら、兎に角廬山の避暑地的價値には敬意を表したいと考へた。

 其へ姿を現したのは大元洋行の主人である。主人はもう五十を越してゐるのであらう。しかし赤みのさした顏はまだエネルギイに充ち滿ちた、逞しい活動家を示してゐる。我我はこの主人を相手にいろいろ廬山の話をした。主人は頗る雄辯である。或は雄辯過ぎるのかも知れない。何しろ一たび興(きよう)到(いた)ると、白樂天と云ふ名前をハクラクと縮めてしまふのだから、それだけでも豪快や思ふべしである。

 「香爐峰と云ふのは二つありますがね。こつちのは李白の香爐峰、あつちのは白樂天の香爐峰――このハクラクの香爐峰つてやつは松一本ない禿山でがす。………」

 大體かう云ふ調子である。が、それはまだしも好(よ)い。いや、香爐峰の二つあるのなどは寧ろ我我には便利である。一つしかないものを二つにするのは特許權を無視した罪惡かも知れない。しかし既に二つあるものは、たとひ三つにしたにもせよ、不法行爲にはならない筈である。だから私は向うに見える山を忽(たちまち)「私の香爐峰」にした。けれども主人は雄辯以外に、廬山を見ること戀人の如き、熱烈なる愛着を蓄へてゐる。

 「この廬山つて山はですね。五老峰とか、三疊泉とか、古來名所の多い山でがす。まあ、御見物なさるんなら、いくら短くつても一週間、それから十日つて所でがせう。その先は一月でも半年でも、尤も冬は虎も出ますが………」

 かう云ふ「第二の愛郷心」はこの主人に限つたことぢやない。支那に在留する日本人は悉(ことごとく)ふんだんに持ち合はせてゐる。苛(いやしく)も支那を旅行するのに愉快ならんことを期する士人は土匪(どひ)に遇ふ危險は犯すにしても、彼等の「第二の愛郷心」だけは尊重するやうに努めなければならぬ。上海(シヤンハイ)の大馬路(ダマロ)はパリのやうである。北京の文華殿にもルウブルのやうに、贋物(がんぶつ)の畫(ゑ)などは一枚もない。――と云ふやうに感服してゐなければならぬ。しかし廬山に一週間ゐるのは單に感服してゐるのよりも、遙に骨の折れる仕事である。私はまづ恐る恐る、主人に私の病弱を訴へ、相成るべくは明日(あした)の朝下山したいと云ふ希望を述べた。

 「明日もうお歸りですか? ぢや何處も見られませんぜ。」

 主人は半ば憐むやうに、又半ば嘲るやうにかう私の言葉に答へた。が、それきりあきらめるかと思ふと、今度はもう一層熱心に、「ぢや今の内にこの近所を御見物なさい。」と勸め出した。これも斷つてしまふのは虎退治に出かけるよりも危險である。私はやむを得ず竹内氏の一行と、見たくもない風景を見物に出かけた。

 主人の言葉に從へば、クウリンの町は此處を距(さ)ること、ほんの一跨(また(ぎだと云ふことである。しかし實際歩いて見ると、一跨ぎや二跨ぎどころの騷ぎではない。路は山笹(やまざさ)の茂つた中に何處までもうねうね登つてゐる。私はいつかヘルメットの下に汗の滴るのを感じながら、愈(いよいよ)天下の名山に對する憤慨の念を新にし出した。名山、名畫、名人、名文――あらゆる「名」の字のついたものは、自我を重んずる我我を、傳統の奴隸にするものである。未来派の畫家は大體にも、古典的作品を破壞せよと云つた。古典的作品を破壞する次手に、廬山もダイナマイトの火に吹き飛ばすが好(い)い。………

 しかしやつと辿り着いて見ると、山風に鳴つてゐる松の間、岩山を綴らせた目の下の谷に、赤い屋根だの黒い屋根だの、無數の屋根が並んでゐるのは、思つたよりも快い眺めである。私は道ばたに腰を下し、大事にポケツトに蓄へて來た日本の「敷島」へ火を移した。レエスを下げた窓も見える。草花の鉢を置いたバルコンも見える。青芝を劃(かぎ)つたテニス・コオトも見える。ハクラクの香爐峰は姑(しばら)く問はず、兎に角避暑地たるクウリンは一夏を消(せう)するのに足る處らしい。私は竹内氏の一行のずんずん先へ行つた後も、ぼんやり卷煙草を啣へた儘、かすかに人影の透いて見える家家の窓を見下してゐた、いつか東京に殘して來た子供の事などを思ひ出しながら。

 

[やぶちゃん注:5月23日。

・「海拔三千尺」1尺=30.3㎝であるから、凡そ909m。廬山は最高峰である漢陽峰が海抜1,474mであるから(ウィキの「廬山」の記載)、565mも足りない。「四千尺」でもまだ262m足りない。いっそ実測の近似値「五千尺」でなんら問題はない。もう実見から三年も経った芥川には、中国の誇張表現癖が抜けてしまいのであろうか。いやいや、これは確信犯、李白の「望廬山瀑布」の転句「飛流直下三千尺」をもとにした表現だからである。

 

 望廬山瀑布

日照香爐生紫煙

遙看瀑布挂前川

飛流直下三千尺

疑是銀河落九天

 

○やぶちゃんの書き下し文

 廬山瀑布を望む

日 香爐を照らし 紫煙生ず

遙かに看る 瀑布の前川(ぜんせん)に挂(か)くるを

飛流直下三千尺

疑ふらくは是れ 銀河の九天より落つるかと

 

○やぶちゃんの現代語訳

 廬山の大瀧を眺める

陽が香爐峰を照らす――すると立ち上るは紫がかった香煙のような雲

遙かに見渡す――目前の川に掛かるかのような大瀧

飛流直下三千尺!

あたかもそれは 銀河が天空の頂点から落ちたのではないか?! と思わせる――

 

・「李白の香爐峰、あつちのは白樂天の香爐峰」余りにも有名な「香爐峰」は、その峰の形状とそこから雲気が立ち上る様が香炉に似ることからの命名。ここで大元洋行の主人が言う話は眉唾ではなく、事実、廬山の北西部分にある香爐峰は南北の二峰が存在する。この言に従えば前掲の李白の七絶「望廬山瀑布」の起句「日照香爐生紫煙」等は南の香炉峰で、白居易が「香爐峰雪撥簾看」と詠じたのは北の香炉峰ということになる。

・「五老峰」海抜1,378m1,358 mとも)にある廬山の中で最も険しい峰(ここを最高峰とする記載が多いが、先のウィキの漢陽峰を最高峰とする記載を採る)。山麓から見上げると五人の老人が座って仰ぎみるような形に見える。牯嶺(クウリン)からは約9㎞も離れている。

・「三疊泉」は三段の瀧の名。五老峰近くにあり、廬山第一、廬山に来てここを見なければ来た意味がない、とまで呼ばれる名所である。落差約155m

・「虎」「二 溯江」でも示した通り、この「虎」はネコ目ネコ科ヒョウ亜科ヒョウ属トラPanthera tigrisの亜種で、中華人民共和国南部及び西部に生息するアモイトラPanthera tigris amoyensisを指していると考えてよい。全長は♂230265㎝・♀220240㎝。体重♂130175㎏、♀100115㎏。腹面には狭い白色の体毛があり、縞は太く短く、縞の本数は少ない。既に絶滅が疑われている。

・「土匪」土着民で生活の困窮から、武装して略奪や暴行殺人を日常的に行うようになった盗賊集団を言う。

・「大馬路(ダマロ)」“dàmălù”。上海市内を東西に走る繁華街。現・南京路。「馬路」とは中国語で都市の大通りのことを言う。

・「文華殿」北京紫禁城の外朝(内廷の外側)にある建物。明代には東宮として皇太子の居住区であるとともに、明・清を通じて内閣大学士を構成員とする「内閣」(実質上政治最高機関で日本の内閣という呼称の由来)が置かれた。ここの北側にある文淵閣は、清代に複数浄書(正本7部・副本1部)された四庫全書(中国史上最大の漢籍叢書。完成は乾隆461781)年で、9年を要した。経・史・子・集の4部に分類され、総冊数は36000冊に及ぶ)の所蔵で知られた(現在は台湾故宮博物院に所蔵)。現在、故宮博物院となっているが、芥川が訪問した当時、既に、明・清代の御物が展示されて一般に公開されていたものと見える。因みに、芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)。芥川龍之介は北京到着の6月14日以降、恐らく6月24日までの間に見学しているが、唯一「北京日記抄」の掉尾に(引用は岩波版旧全集から)、

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天よりも厖大(ぼうだい)なる夢魔のみ。

とあるのみである。

・『日本の「敷島」』「敷島」は国産の吸口付き煙草の銘柄。明治・大正・昭和初期迄の小説に頻繁に登場する、言わば文士のアイテムである。明治371904)年に発売され、昭和181943)年販売終了。口付とは、紙巻き煙草に付属した同等かやや短い口紙と呼ばれるやや厚手の紙で出来た円筒形の吸い口のことで、喫煙時に十字や一文字に潰して吸う。確か私の大学時分まで「朝日」が生き残っていて、吸った覚えがある。ここで芥川は「日本の」と振り、更に「敷島」を鍵括弧で括ることで(これは煙草の銘柄であることを示すための鍵括弧では、断じてない。芥川の他の作品や他作家の小説でも煙草の敷島を「 」で括ったりはしない)、ダブルの枕詞として、読者に効果的な「愛郷心」としての「大和」=「日本」のイメージを引き出しているのである。「敷島」という語は奈良県磯城(しき)郡の地を示す語で、崇神・欽明両天皇の都が置かれた場所であることから、大和国の、更に日本国の別称となった。そこから「敷島の」は「やまと」に掛かる枕詞になったのである。

・「東京に殘して來た子供の事」芥川比呂志のこと。中国旅行当時、長男の比呂志は、満一歳であった(旅行前年の大正9(1920)年4月10日生)。先立つ5月12日頃、南京にいた芥川は、体調の不調を訴えながらも比呂志の初節句の祝に着物を買っている。『支那の子供がお節句の時に着る虎のやうな着物ですあまり大きくないから比呂志の體ははひらないかもしれません尤もたつた一圓三十錢です』(517日上海から芥川道章宛岩波旧全集書簡番号九〇〇)。因みに、本「長江游記」発表時には、既に次男多加志も誕生しており(大正11192211月8日生)、やはり執筆時には満一歳であった。芥川が子煩悩であったことは、その遺書を見ても分かる。そうして、そうして実は計算された印象的な孤独な一人の、高みからのシーン(過去の「江南游記」の中でしばしば試みられた「第三の男」的手法である)に“Fin”が入るという憎い演出なのである――大事大事に抱えてきた湿ったまずい日本煙草を燻らせて――一人尾根に取り残されて――山上から下界を見下ろしながらノスタルジックに日本を思う堀川保吉――風の音が聞こえる――]

 

長江游記 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈 完