やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ
 

北京日記抄   芥川龍之介   附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:「北京日記抄」(ペキンにつきせう/ペキンにっきしょう)は大正一四(一九二五)年六月『改造』に掲載され、後に『支那游記』(「自序」の後、「江南游記」「長江游記」「北京日記抄」「雜信一束」の順で構成)に所収された。底本は岩波版旧全集を用いたが、底本は一部の漢文を除き総ルビであるため、訓読に迷うもののみのパラルビとした。また、一度、読みを提示したものは、原則(幾つかの宛て読みや誤読し易いものは除外)、省略してある。

 芥川龍之介は、大正一〇(一九二一)年五月一七日夜に上海を出航、長江を遡り、漢口へと向かい、蕪湖・九江・廬山等を経て、五月二八日頃に漢口に到着、五月二九日には洞庭湖へ赴き、五月日から六月一日の四日間の長沙滞在後の、六月六日夜、漢口を列車で出発、鄭州を経て、六月一〇日に洛陽到着。その後、六月一一日又は一四日説があり確定しないが北京に到着している。以後、七月一〇日迄の凡そ1ヶ月、北京に滞在、周辺各地の名所旧跡の遊覧、辜鴻銘や胡適といった文化人と会見したりした。本作は「日記抄」と名打っているものの、「自序」で既に『「北京日記抄」は必しも一日に一囘づつ書いた訣ではない。が、何でも全體を二日ばかりに書いたと覺えてゐる。』と種明かしをしているように、素材となった日記様メモは存在するが(特に本篇執筆時に活用されたと思われるのは岩波版旧全集第十二巻の「手帳(七)」)、これは純然たる後年(恐らく大正一四(一九二五)年五月中)の速成の創作物であって、日記の抄録などではない。

 各回の後ろに私のオリジナルな注を附した。私の注は実利的核心と同時に智的な外延への脱線を特徴とする。私の乏しい知識(勿論それは一部の好みの分野を除いて標準的庶民のレベルと同じい)で十分に読解出来る場合は注を附していない(例・「ワンタン」「チヤルメラ」「トルストイ」等)。逆に、当たり前の語・表現であっても『私の』知的好奇心を誘惑するものに対しては身を捧げてマニアックに注してしまう。そのようなものと覚悟して注釈をお読み頂きたい。なお、注に際しては、一部、筑摩書房全集類聚版脚注や岩波版新全集の細川正義氏の注解を参考にさせて頂いた部分があり、その都度、それは明示してある。また逆に、一部にそれらの注に対して辛辣にして批判的な記載もしてあるのであるが、現時点での「北京日記抄」の最善の注をオリジナルに目指すことを目的としたためのものであり、何卒御容赦頂きたい。私にはアカデミズムへの遠慮も追従もない。反論のある場合は、何時でも相手になる。本篇は多量の北京の名所旧跡が掲げられ、それが初出より後(最後の「五 名勝」で詳述されているケースが多いので、その部分を読解するに必要と思われる一部の注は煩瑣を厭わず繰り返してある。

 本紀行群に見られる多くの差別的言辞や視点についての私の見解は、既に「上海游記」の冒頭の注記に示しているので、必ず、そちらを御覧頂いた上で本篇をお読み頂きたい。なお、それに関わって私が本紀行群を初めて読んだ二一歳の時の稚拙な感想をブログにアップしてある。参考までにお読み頂ければ幸いである。

 本篇テクスト及び注釈は、二〇〇九年七月二十九日から八月三日にかけて、私自身のブログに連載したものであるが、本頁で一括掲載するに際し、注を全体にブラッシュ・アップしてあるので、公開時の内容とは一部異なっている。引用(必ず本ページからのものであることを明記)・リンクされる場合は、こちらを基本にされた方がよいと思う。【二〇〇九年八月九日】
 更に製作した以下の関連ページをリンクさせる。
芥川龍之介中国旅行関連書簡群(全53通) 附やぶちゃん注釈
芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊) 
二〇〇九年八月三〇日】
私の教え子で中国在住のT.S.君の写真を含む詳細な探査報告を「謝文節公祠」及び「窑臺」の注に追加した。【二〇一二年七月八日】
T.S.君の精査と彼が送って呉れた北京古地図によって「窑臺」に出る「三門閣」を発見、「窑臺」及び「三門閣下」の注に追加をした。【二〇一二年七月一三日】
T.S.君の探勝になる芥川龍之介が訪れた辜鴻銘の住居のあった場所を辜鴻銘の注に追加した。【二〇一二年八月一七日】
T.S.君の探勝になる天寧寺及び東配殿の写真を注に追加した。【二〇一三年八月八日】

T.S.君の探勝になる文天祥祠の写真その他を注に追加した。芥川龍之介の誤認が彼によって発見されたので、注の一部を取消線で削除した。【二〇一四年八月二十七日】]

 

北京日記抄

 

       一 雍和宮

 

 今日も亦中野江漢(なかのかうかん)君につれられ、午頃より雍和宮(ようわきう)一見に出かける。喇嘛寺(らまでら)などに興味も何もなけれど、否、寧ろ喇嘛寺などは大嫌ひなれど、北京名物の一つと言へば、紀行を書かされる必要上、義理にも一見せざる可らず。我ながら御苦勞千萬なり。

 薄汚い人力車に乘り、やつと門前に辿りついて見れば、成程大伽藍には違ひなし。尤も大伽藍などと言へば、大きいお堂が一つあるやうなれど、この喇嘛寺は中中そんなものにあらず。永祐殿、綏成殿(すゐせいでん)、天王殿(てんわうでん)、法輪殿などと云ふ幾つものお堂の寄り合ひ世帶なり。それも日本のお寺とは違ひ、屋根は黄色く、壁は赤く、階段は大理石を用ゐたる上、石の獅子だの、青銅の惜字塔(せきじたふ)だの(支那人は文字を尊ぶ故、文字を書きたる紙を拾へば、この塔の中へ入れるよし、中野君の説明なり。つまり多少藝術的なる青銅製の紙屑籠を思へば好し。)乾隆帝の「御碑(ぎよひ)」だのも立つてゐれば、兎に角莊嚴(しやうごん)なるに近かるべし。

 第六所東配殿に木彫りの歡喜佛(くわんきぶつ)四體あり。堂守に銀貨を一枚やると、繡幔(しうまん)をとつて見せてくれる。佛は皆藍面赤髮(らんめんせきはつ)、背中に何本も手を生やし、無數の人頭を頸飾にしたる醜惡無雙の怪物なり。歡喜佛第一號は人間の皮をかけたる馬に跨り、炎口(えんく)に小人(せうじん)を啣(くは)ふるもの、第二號は象頭人身の女を足の下に踏まへたるもの、第三號は立つて女を婬するもの。第四號は――最も敬服したるは第四號なり。第四號は牛の背上に立ち、その又牛は僭越にも仰臥せる女を婬しつつあり。されど是等の歡喜佛は少しもエロテイツクな感じを與へず。只何か殘酷なる好奇心の滿足を與ふるのみ。歡喜佛第四號の隣には半ば口を開きたるやはり木彫りの大熊あり。この熊も因縁を聞いて見れば、定めし何かの象徴ならん。熊は前に武人二人(藍面にして黑毛(くろけ)をつけたる槍を持てり)、後(うしろ)に二匹の小熊を伴ふ。

 それから寧阿殿なりしと覺ゆ。ワンタン屋のチヤルメラに似たる音せしかば、ちよつと中を覗きて見しに、喇嘛僧二人、怪しげなる喇叭(らつぱ)を吹奏しゐたり。喇嘛僧と言ふもの、或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽を頂けるは多少の畫趣あるに違ひなけれど、どうも皆惡黨に思はれてならず。幾分にても好意を感じたるはこの二人の喇叭吹きだけなり。

 それから又中野君と石疊の上を歩いてゐたるに、萬福殿(ばんふくでん)の手前の樓の上より堂守一人顏を出し、上(あが)つて來いと手招きをしたり。狹い梯子を上つて見れば、此處にも亦幕に蔽はれたる佛あれど、堂守容易に幕をとりてくれず。二十錢出せなどと手を出すのみ。やつと十錢に妥協し、幕をとつて拜し奉れば、藍面(らんめん)、白面(はくめん)、黄面(くわうめん)、馬面(ばめん)等(とう)を生やしたる怪物なり。おまけに又何本も腕を生やしたる上、(腕は斧や弓の外にも、人間の首や腕をふりかざしゐたり)右の脚(あし)は鳥の脚にして左の脚は獸(けもの)の脚なれば、頗る狂人の畫(ゑ)に類したりと言ふべし。されど豫期したる歡喜佛にはあらず。(尤もこの怪物は脚下に二人の人間を踏まへゐたり。)中野君即ち目を嗔(いか)らせて、「貴樣は譃をついたな。」と言へば、堂守大いに狼狽し、頻に「これがある、これがある」と言ふ。「これ」とは藍色(あいいろ)の男根なり。隆隆たる一具、子を作ることを爲さず、空しく堂守をして煙草錢(たばこせん)を儲けしむ。悲しいかな、喇嘛寺の男根や。喇嘛寺の前に喇嘛畫師(ゑし)の店七軒あり。畫師の總數三十餘人。皆西藏(チベツト)より來れるよし。恒豐號(こうほうがう)と言ふ店に入り、喇嘛佛の畫數枚を購(あがな)ふ。この畫、一年に一萬二三千元賣れると言へば、喇嘛畫師の收入も莫迦にならず。

 

[やぶちゃん注:冒頭から、如何にも感興を殺ぐ書き出しである。ここに既にして本篇を書き残すことの必然を芥川龍之介自身が、執筆時に於いて感じていない(恐らく『支那游記』の完結的体裁を繕う為の半ばはやっつけ仕事としての)という内実を感じさせる。――雍和宮は、名が示す通り、本来は清の第4代皇帝聖祖(16541722 康煕帝)が、1694年に第四子であった愛新覚羅胤禛(あいしんかくらいんしん 16781735:後の第5代皇帝世宗・雍正帝)のために建てた広大な御所。1722年の即位後、紫禁城移った雍正帝は、対外政策としてチベット・モンゴルへの介入を進めたが、その懐柔策の一つとして自身の雍和宮をラマ教(チベット仏教)ゲルク派の寺院として喜捨、1744年、正式に喇嘛寺となった(1725年に半分を既に喜捨していた)。南北400m(中央部480m)・東西120m、総面積約66,400㎡、現存する北京最大の寺院建築。「ラマ教」とは、チベットを中心に発展した仏教の一派を言うが、現在は「チベット仏教」と呼ぶのが正しい。以下、ウィキの「チベット仏教」から呼称の誤り部分も含めて引用しておく。『大乗仏教の系統を汲み、特に密教を大きな柱とすることから「チベット密教」と呼んでイコール的に見なされがちであるが、実際は顕教の諸哲学や上座部仏教的な出家戒律制度も広く包含する総合仏教である。独自のチベット語訳の大蔵経を所依とする教義体系を持ち、漢訳経典に準拠する北伝仏教と並んで、現存する大乗仏教の二大系統をなす。ラマと呼ばれる高僧、特に化身ラマ(転生活仏)を尊崇することから、かつては一般に「ラマ教」(喇嘛教、Lamaism )と呼び、ややもすると異質な宗教と見なす向きがあったが、歴然とした正統仏教の一派であると自任するチベット仏教の本質が理解されるにつれて、偏見を助長する不適当な呼称とされ、現在では推奨されなくなっている。』。

・「中野江漢」中国民俗研究家。本名は中野吉三郎(明治221889)年~昭和251950)年)。福岡生。大正31914)年(翌年という記載もあり)26歳で北京に定住、北京連合通信社を設立、約30年間在中した。「四 胡蝶夢」で芥川も語っている支那風物研究会を主宰し、『支那風物叢書』を刊行、同叢書の一つとして民俗学的にも考現学的にも優れた191020年代の卓抜な北京案内記「北京繁昌記」全3巻(大正111922)~大正141925)年刊)や、古書店の梗概に合理的性交の秘法や支那に於ける不老回春術及び秘薬とある発禁本「回春秘話」(昭和6(1931)年萬里閣書房刊)等、誠に興味をそそる著作多数。昭和141929)年には玄洋社(明治141881)年に 総帥頭山満ら旧福岡藩士を中心によって結成された大アジア主義を標榜する右翼団体)の一員として支那満蒙研究会機関誌『江漢雑誌』も創刊している。

・「永祐殿」建築群(内裏相当の旧御所)のほぼ中央にあり、雍正帝が皇子であった時の居宅であった。雍正帝の死後、一時遺体が安置された。

・「綏成殿」建築群の最も北にある。現在の観光用地図には「綏成楼」とある。これは門を付随した建造物であろう。

・「天王殿」内部の正門昭泰門を入って最初に正面にある、雍和宮時代の主殿の一。通常のラマ教寺院と同じくここには未来仏たる弥勒及び韋駄天が祀られている。そのすぐ北に狭義の雍和宮があり、そこには過去仏(燃灯仏=定光仏:「阿含経」に現れる釈迦に将来成仏することを予言したとされる仏。)・現在仏(釈迦)・未来仏(弥勒)を表わす3世仏及び十八羅漢像を安置する。

・「法輪殿」永祐殿の背後にあり、法要・読経を行う祭殿。本来の御所の一部をチベット仏教形式に改築しているため、建物は十字型をし、屋上にはラマ教独特の小型の仏塔が立ち、殿内にはチベット仏教ゲルク派開祖ツォンカパの銅像が安置されている。建築群中、最も大きい。

・「惜字塔」こうしたものが、雍和宮の各所に設けられていたものか。神戸大学附属図書館の「新聞記事文庫 都市(3-043)」の中に、台湾での記事であるが、興味深いものを見つけたので引用する。『台湾日日新報』大正71918)年5月6日の記事で、「台北市街の今昔(1) 二十年の変遷」という中で、中国の伝統的な道徳的風俗が近代化の波の中で失われてゆくのを惜しむ記者の記載である。

[引用開始]

最も惜しむべきは惜字塔の如きものである、即ち文字を惜んで苟くも字の書いてある紙は粗末にせぬと言う所から、この文字ある紙片を道路に求めて拾い歩く篤志家のあった事である、半白の疎髯を風に弄らせ日を遮るべく渋扇を開いて眉上に置き、辮髪を以て之を挟みて頗る風流なる日覆を作り、細き竹棒に細長き竹籠を一荷に担ぎ、手に長き竹箸を携えて悠然として大路小路を打廻る其雅趣ある姿は全く画題の人である、別に之が為に給料を貰って居る訳では無く、唯だ道徳観念からして之を行う篤志に過ぎない、斯くして拾い集めた文字ある紙は之を集めて焼くのである、其れが惜字塔である、台北の市内では旧淡水館の門前に建てられてあったのが未だに眼に残って居る、夕刻には必ずこの塔の中から淡い煙りが昇って居た全く詩的であった、この惜字塔の如きものは漸次破壊されて今日では田舎へ行かぬと余り見られぬが、廟の前などにはよく見受けるのだが、其の惜字籠を担いだ何となく崇高な聖人らしい風格の老爺の姿を見る事は殆んど無いのである、之等の風俗は今日尚大に保存したいものである

[引用終了]

芥川は「多少藝術的なる青銅製の紙屑籠を思へば好し」とおちゃらけているが、真にジャーナリストたらんとせば、芥川君よ、この記者を見習うべし!

・「乾隆帝」清第6代皇帝高宗(17111799)。

・「御碑」雍和門の左手前にある東八角碑亭と西八角碑亭のことか。1744年(乾隆8年)建立になる、雍和宮を喇嘛寺として喜捨した由来が白玉の石碑に、東に漢語と満州語、西に蒙古語とチベット語で記されているらしい。

・「第六所東配殿に木彫りの歡喜佛四體あり」東配殿は永祐殿の東背後に延びる建物。ここの歓喜仏、さぞや文化大革命で消失したであろうなあと思っていたのだが、「マディとワタシ」という個人の方の2007年8月17日のブログ「北京游記 4日目」に、東配殿で不自然に布をかけた4体の仏像を現認したという記載があり、芥川の見た四体は健在であることが分かる(但し、布は取って貰えず、写真も禁止とのこと)。ちなみにこの方の同じ記事に、何故、チベット仏教寺院に歓喜仏があるのかについて、竹中憲一著「北京歴史散歩」(竹内書店2002p.290)からの引用が載る。孫引きをお許し頂き、コピー・ペーストする(「ラマ教」表記はママ)。

[引用開始]

 ラマ教の歴史は七世紀ごろまでさかのぼる。インドよりチベットに伝わった仏教の一派シバ密教とチベット在来の鬼神崇拝のボン教が相互に影響しあって生まれたのがラマ教といわれている。ラマ教は守護神として鬼神羅漢(きしんらかん)と歓喜仏を祭るのは、その起源に由来するものである。

[引用終了]

恐らくは世界最古の宗教とされるインドの性愛信仰であったタントラ教の性交を通して宇宙的絶対原理と一体化するという考え方が、ヒンドゥー教に取り入れられたもので、竹中氏の謂いは、鬼神は御霊の絶大なパワーを意味し、歓喜仏は「性」のパワーは「生」のパワーと同義ということであろう。芥川の言う「第二號」が我々にはお馴染みの仏教の護法善神たる歓喜天の形象である。なお、この寺の宗派であるゲルク派によって、古くに存在したらしい実際の性行為による修行法の名残りは禁じられ、消滅した。【二〇一三年八月八日追記】T.S.君が撮って贈って呉れた東配殿の正面画像を以下に掲げる。



・「繡幔」刺繍を施したベール。「幔」は幕の意味であるが、縫い取りを施した綺麗な布・シーツであろうから、ベールとしておく。

・「炎口」口から火を噴いているということであろう。この芥川が言う「第一號」は、所謂、インド神話に登場する怪鳥ガルーダ、仏教に取り入れられて八部衆の一神となった迦楼羅(かるら)の形象に近いものではなかろうか。

・「小人」これは小さく見えるだけで、人間(罪人)であろう。

・「寧阿殿」これは、中央の狭義の雍和宮を囲むように東西の南北に建てられた4つの楼の内、西の北側に位置する扎寧阿殿(さつねいあでん)の誤りである。

・「怪しげなる喇叭」“dung chen”トゥンチェン。チベット仏教で用いられる民族楽器でアルペン・ホルンのような長さ5mにも及ぶ角笛形の金管楽器。チベット・ホルンとも呼ぶが、ここで芥川が見たものはもっと短いもののようである。

・「或は黄、或は赤、或は紫などの毛のつきたる三角帽」チベット仏教では地位や修行の階梯の中で帽子による識別が極めて重要な意味を持っているらしい。また、松枝到氏の「草原の中の象徴図像 ウランバートル」に以下の記載もある。

[引用開始]

チベットはこの時点で大きく宗教改革というものをねらっています。とくに黄帽派との闘争がありました。紅い帽子は、僧侶がかぶる決まりの帽子です。これは古いチベット仏教のグループがかぶっていたものです。ところが、長い間一定の宗派が生きていると、当然堕落であるとか教条主義であるとか、そういうものがはびこってきます。それを打開するために、ツォンカパという人が新たな宗派を起こそうとしたわけです。そして紅い帽子をわざと裏返して、裏の黄色い地を出してみんなの前で説教した。そしてそれに賛同した者は、自分たちも帽子をひっくり返して黄色い帽子をかぶり、古い宗派から新しい宗派へと、新たなチベット仏教の展開ということを決意として示しました。これがチベット密教の宗教改革だったわけです。

[引用終了]

ここで松枝氏が挙げているチベット仏教改革者ツォンカパこそ、この「喇嘛寺」の宗派ゲルク派の開祖なのである。

・「萬福殿」萬福閣が正しい。法輪殿と綏成殿(楼)の間中央にある。

・「喇嘛畫師」以下、ウイキの「チベット仏教」によれば、『文化面では、タンカと呼ばれる曼荼羅(仏画)や砂曼荼羅』が有名である、とある。

・「恒豐號」筑摩全集類聚版脚注に「喇嘛寺」の『前にあった古道具屋。宗徳泉の経営。』とある。何故か、この注、屋号に店主と異様に詳しい。宗徳泉なる人物は不詳。もしかすると、この注釈者は洋画ファンである(「上海游記」の「十四 罪」参照)と同時に骨董好きで、実はこの宗徳泉なる人物、その方面の世界では有名な鑑定家なのかも?

・「この畫、一年に一萬二三千元賣れると言へば、喇嘛畫師の收入も莫迦にならず」「一萬二三千元」鄧小平の指導体制の下、市場経済への移行が行われた改革開放(1978~)の初期には「万元戸」(まんげんこ)という語が大金持ちを指したが、これは年間収入が10,000元(現レートで14万円弱)を越える層を指した(現在は既に死語)ことを考えれば、この時代の13,000は途方もない莫大な金額である。しかし、これは古道具屋恒豐號の言うこと、中間搾取する彼らが豊かになるばかりで、恐らく喇嘛画師には雀の涙であったに違いない。尤も芥川は同じ芸術家(売文師)としての比較の中で、自身の不幸を歎じているに過ぎないのであるが。]

 

 

 

       二 辜鴻銘先生

 

 辜鴻銘(ここうめい)先生を訪ふ。ボイに案内されて通りしは素壁(そへき)に石刷(いしずり)の掛物をぶら下げ、床(ゆか)にアンペラを敷ける庁堂なり。ちよつと南京蟲はゐさうなれど、蕭散(せうさん)愛すべき庁堂と言ふべし。

 待つこと一分ならざるに眼光炯炯(けいけい)たる老人あり。闥(たつ)を排して入り來り、英語にて「よく來た、まあ坐れ」と言ふ。勿論辜鴻銘先生なり。胡麻鹽の辮髮、白の大掛兒(タアクワル)、顏は鼻の寸法短かければ、何處か大いなる蝙蝠(かうもり)に似たり。先生の僕と談ずるや、テエブルの上に數枚の藁半紙を置き、手は鉛筆を動かしてさつさと漢字を書きながら、口はのべつ幕なしに英吉利語をしやべる。僕の如く耳の怪しきものにはまことに便利なる會話法なり。

 先生、南は福建に生れ、西は蘇格蘭(スコツトランド)のエデインバラに學び、東は日本の婦人を娶(めと)り、北は北京に住するを以て東西南北の人と號す。英語は勿論、獨逸語も佛蘭西語も出來るよし。されどヤング・チヤイニイイズと異り、西洋の文明を買ひ冠らず。基督教、共和政體、機械萬能などを罵る次手(ついで)に、僕の支那服を着たるを見て、「洋服を着ないのは感心だ。只憾むらくは辮髮がない。」と言ふ。先生と談ずること三十分、忽ち八九歳の少女あり。羞かしさうに庁堂へ入り來る。蓋し先生のお孃さんなり。(夫人は既に鬼籍に入る。)先生、お孃さんの肩に手をかけ、支那語にて何とか囁けば、お孃さんは小さい口を開き、「いろはにほへとちりぬるをわか……」云々と言ふ。夫人の生前教へたるなるべし。先生は滿足さうに微笑してゐれど、僕は聊(いささか)センテイメンタルになり、お孃さんの顏を眺むるのみ。

 お孃さんの去りたる後(のち)、先生、又僕の爲に段を論じ、呉を論じ、併せて又トルストイを論ず。(トルストイは先生へ手紙をよこしたよし。)論じ來り、論じ去つて、先生の意氣大いに昂る(あが)や、眼は愈(いよいよ)炬(きよ)の如く、顏は益(ますます)蝙蝠に似たり。僕の上海を去らんとするに當り、ジヨオンズ、僕の手を握つて曰、「紫禁城は見ざるも可なり、辜鴻銘を見るを忘るること勿れ。」と。ジヨオンズの言、僕を欺かざるなり。僕、亦先生の論ずる所に感じ、何ぞ先生の時事に慨して時事に關せんとせざるかを問ふ。先生、何か早口に答ふれど、生憎僕に聞きとること能はず、「もう一度どうか」と繰り返せば、先生さも忌忌(いまいま)しさうに藁半紙の上に大書して曰、「老(らう)、老、老、老、老、……」と。

 一時間の後、先生の邸を辭し、歩して東單牌樓(とうたんぱいろう)のホテルに向へば、微風、並木の合歡花(がふくわんくわ)を吹き、斜陽、僕の支那服を照(てら)す。しかもなほ蝙蝠に似たる先生の顏、僕の眼前を去らざるが如し。僕は大通りへ出づるに當り、先生の門を囘看(くわいかん)して、――先生、幸(さいはひ)に咎むること勿れ、先生の老を歎ずるよりも先に、未だ年少有爲(いうゐ)なる僕自身の幸福を讚美したり。

 

[やぶちゃん注:辜鴻銘(Gū Hóngmíng グー ホンミン 18571928)清末から中華民国初期の学者。中国の伝統文化と合わせて西洋の言語及び文化に精通し、同時に東洋文化とその精神を西洋人知識人に称揚した。イギリス海峡植民地(現マレーシア)のペナンに生まれた(父は福建省出身のゴム農園管理人、母はポルトガル人)。1867年にゴム農園のオーナーと共に渡英、1870年にはドイツに留学、1877年に英国に戻ってエジンバラ大学で西洋文学を専攻する。1877年の卒業後、再びドイツのライプチヒ大学で土木工学、次いでフランスのパリ大学で法学を学ぶ。1880年にペナンに帰郷するが、ここで学識の外交官馬建忠に感化を受け、中国文化に目覚めた。1885年には清に赴き、秘書や上海黄浦江浚渫局局長を経て、1908年の宣統帝が即位後、外交部侍郎に任命された。1910年には上海南洋公学(現・上海交通大学)の監督となったが、1911年の辛亥革命により公職を去った。その後、1915年に北京大学教授に任命されてイギリス文学を講義した(1923年の蔡元培学長の免職に抗議して辞任。大正131924)年と、翌141925)年の2度、来日して講演活動を行い、帰国(1927)した翌年に北京で死去した。英語以外にもドイツ語・フランス語・イタリア語・ギリシア語・ラテン語・日本語・マレー語を話すことが出来、芥川の他にも、モームやタゴールといった高名な文人達が、彼を訪問している。「只憾むらくは辮髮がない」のウィットでお分かりの通り、「生在南洋、学在西洋、婚在東洋、仕在北洋」や「気平一生楽」、「男の心に通ずる道は食道、女の心に通ずる道は陰道」等、名言迷言の多い人物でもある(以上は主にウィキの「辜鴻銘」を参照した)。中国語での彼の纏まった著作集は1990年代後半に出版されており、一般的中国人に彼が思想家として知られるようになったのは極最近のことである。また、2度の来日はこの会見の後でありながら、芥川は来日中の彼に会った形跡も、講演を聴いた事実もない。
【二〇一二年八月一七日追記】教え子のT.S.君が芥川龍之介が訪れた辜鴻銘の住居のあった場所を探して呉れた。以下に、その二〇一二年八月一六日発信の彼の通信文と写真を追加する。
   《引用開始》
 辜鴻銘の居所は、東単牌楼からそう遠くない椿樹胡同十八号でした。椿樹胡同は一九六五年に柏樹胡同と名が変わり、旧宅は一九八〇年代に付近の家屋とともに取り壊されました。現在は柏樹胡同三十号として、王府井賓館という小さな旅館や、中華食堂などが入った四、五階建のビルになっています。芥川はその日、辜鴻銘宅の北門を出ると、夕陽を背に胡同を東へ約三〇〇メートル進み、当時の東四南大街、すなわち現在の東単北大街に直角に突き当たったところで右に折れ、今度は南に約九〇〇メートル進んで、東単牌楼の扶桑館に帰ったのです。昨日、北京で仕事を終えた私は街に飛び出し、芥川と同じ経路を歩いてみました。辜鴻銘宅があった地点から扶桑館の地点まで、所要十五分ほどでした。残念ながら合歓の花を見ることはできませんでしたが、通りには夕暮れの心地良い涼風が吹いていました。


写真①――辜鴻銘旧居前から柏樹胡同の東方を望む

写真①は柏樹胡同三十号の前から東を望んだところ。右側に現在の建物の一部が写っています。


写真②――東単北大街に出て柏樹胡同を振り返る

写真②は胡同の東の突き当たり、すなわち柏樹胡同が東単北大街にぶつかる角から、歩いてきた胡同を振り返ったところ。まさに『大通りへ出づるに當り、先生の門を囘看し』た彼が目にした光景の九十一年後です。たとえ障害物の少なかった当時のこととはいえ、三〇〇メートルの距離を隔てて肉眼で門を捉えることは不可能だったでしょうが、彼の心の眼は、門の佇まいを見ていたに違いありません。


写真③――柏樹胡同


写真④――柏樹胡同説明板

写真③はその角に設けられた柏樹胡同の由来を示すプレートと、胡同名の表示板。写真④はプレートのアップです。辜鴻銘が住んでいたことも書かれています。


写真⑤――東単北大街で南を望む

写真⑤は東単北大街を南へ向かいつつ前方を見通したところです。遠くには東単牌楼が見えたことでしょう。そして牌楼の手前右側に扶桑館はありました。九十一年前、支那服姿の彼は、確かにこの道を歩いたのです。
 なお数多くのホームページ上に、辜鴻銘の愛妾であった日本女性、吉田貞子が産んだ女児は娜娃という名だったと紹介されています。いろは歌を口にしたのは娜娃だったでしょう。辜鴻銘の死後、娜娃ともうひとりの娘(中国人の妻が産んだ長女)は、ともに誰にも嫁することなく蘇州に移り、剃髪して尼になったとのこと。娜娃が万一在世なら、今年百歳余りのはずです。
   《引用終了》
因みに、吉田貞子の画像は、例えばここにある(お間違えなきように――この中央の「少女」である)。

・「素壁」色を塗っていない白壁。芥川は古跡や寺院が黄や紅にどぎつく塗られているのを見てきたせいで、このすっきりとした白壁に恐らく好印象を持っている。

・「石刷」拓本。

・「アンペラ」中国南部原産の単子葉植物綱カヤツリグサ目カヤツリグサ科 Cyperaceae の仲間の湿地性多年草の茎の繊維を用いて編んだ筵。日覆いを意味するポルトガル語の“ampero”又はマレー語の“ampela”語源説や、茎を平らに伸ばして敷物や帽子などを編むことを意味する「編平」(あみへら)転訛説等がある。

・「庁堂」表座敷。大広間。

・「南京蟲」昆虫綱半翅(カメムシ)目異翅亜目トコジラミ科トコジラミ Cimex lectularius の別名。「トコジラミ」は、本種が咀顎目シラミ亜目Anopluraとは全く異なる以上、不適切な和名であると思う。私は木下順二のゾルゲ事件を題材とした『オットーと呼ばれる日本人』冒頭で、上海の共同租界でこれに刺される登場人物が「あちっ!」と言うのが、ずっと記憶に残っている。それは灼熱のような刺しでもあるのかも知れぬ。

・「蕭散」もの静かで、さびしいこと。落ち着いて心静かなこと。また、そのさま。

・「闥を排し」扉を勢いよく開いて、の意。これは「蒙求」の「樊噲排闥」(「史記」の「鴻門之会」で知られる樊噲登場のシーン)の語。「眼光炯炯」たる忠義の犬殺し樊噲が「時事に慨して」「闥を排し」て登場する様に擬えた。

・「大掛兒(タアクワル)」tàiguàér”男物の単衣(ひとえ)の裾が足首まである長い中国服のこと。「上海游記」に附された筑摩版脚注では「掛」は「褂」が正しいとある。

・「福建」福建省。台湾の対岸に位置する。古くは閩(びん)と呼ばれた。古くから多くの文人を輩出した一方、「客家(はっか)」として海外移住者も多い地方で、日本やシンガポール在住の華僑の多くは福建出身である。

・「エデインバラ」University of Edinburgh王立エディンバラ大学。1582年創立のイギリスの名門。

・「ヤング・チヤイニイイズ」“Young Chineise「上海游記」「十八 李人傑氏」で用いた『「若き支那」』と同義。ここで芥川は「少年中国学会」を意識して英語表記していると思われる。「少年中国学会」は1918630日に主に日本留学生によって企図された(正式成立は連動した五四運動直後の191971日)、軍閥の専制や日本帝国主義の侵略に反対することを目的として結成された学生組織の名称。当然のことながら、有意に共産主義を志向する学生が占めていた。但し、李人傑は少年中国学会の会員ではない。芥川は新生中国の胎動の中にある青年の理想、共産主義の機運を包括的に、このように呼んでいると考えてよいが、そこには当然、日本での本篇の検閲を見越しての巧妙なぼかしの意味もあると思われる。その証拠に「共産主義」「共産党」の一語だに芥川は本篇に用いていない。また、芥川は「侏儒の言葉」の「支那」の項で、同じ「若き支那」という語句を印象的に用いている(二項あるので、一緒に示す)。

 

       支  那

 

 螢の幼蟲は蝸牛を食う時に全然蝸牛を殺してはしまわぬ。いつも新らしい肉を食う爲に蝸牛を麻痺させてしまふだけである。我日本帝國を始め、列強の支那に對する態度は畢竟この蝸牛に對する螢の態度と選ぶ所はない。

 

       又

 

 今日の支那の最大の悲劇は無數の國家的羅曼主義者即ち「若き支那」の爲に鐵の如き訓練を與へるに足る一人のムツソリニもゐないことである。

 

なお以上の内、「少年中国学会」については中文事典サイト「百度百科」「少年中国学会」の記載を自己流に読み、参考にしたものである。

 

・「共和政體」辜鴻銘は辮髪姿からもお分かりの通り、保皇派で、清朝に貞節を尽くした。辛亥革命以降の政体には終始批判的であった。

・「辮髮」弁髪。モンゴル・満州族等の北方アジア諸民族に特徴的な男子の髪形。清を建国した満州族の場合は、頭の周囲の髪をそり、中央に残した髪を編んで後ろへ長く垂らしたものを言う。清朝は1644年の北京入城翌日に薙髪令(ちはつれい)を施行して束髪の礼の異なる漢民族に弁髪を強制、違反者は死刑に処した。清末に至って漢民族の意識の高揚の中、辮髪を切ることは民族的抵抗運動の象徴となってゆき、中華民国の建国と同時に廃止された。

・「八九歳の少女」この少女のその後については不詳。因みに、やや感興を殺ぐことを言わせて貰えば、辜鴻銘は「急須一つに茶碗複数はあっても、茶碗一つに急須複数は無い」と言ったという一夫多妻論者であった。

・「段」段祺瑞 Duàn Qíruì ドゥアン リールイ だんきずい 18651936)のこと。清末から中華民国初期の軍人・政治家。以下、ウィキの「段祺瑞」から部分引用する。『1895年、清末期に実力者となった袁世凱の新建陸軍に入り、軍の近代化を担った。1901年、袁世凱が直隷総督兼北洋大臣となって北洋軍を編成すると続けてその幕下に入』る。『1911年の辛亥革命のときには、第二軍軍統兼湖広総督に任命されて武漢三鎮で革命軍と戦ったが、理由をつけて退き、その後は袁世凱の内意を受けて多くの将校とともに清朝最後の皇帝・宣統帝に退位と共和制の実行を迫っ』た。『その後、袁世凱が中華民国の大総統になると、陸軍総長となって袁世凱を助けた』。次第に彼の『軍事力は北洋軍の中でも絶大なものとな』り、『1916年、袁世凱が死去すると、国務総理に就任して北京政府の事実上の指導者となった』が、『1920年、安直戦争に敗れて下野』した。しかし、『1924年、張作霖の支持を受けて北京における臨時政府の執政に就任。以後は反日運動を行なう学生らを弾圧するなど(三・一八虐殺事件)したが、これが原因で1926年、政府内から反発を受けて再び下野を余儀なくされた。その後、蒋介石に招聘されて上海に移』り、『同地で72歳の生涯を終えた。』。

・「呉」呉佩孚(Wú Pèifú  ウーペイフー ごはいふ 18741939)清末から中華民国初期の軍人・政治家。北洋軍閥直隷派の領袖。陸軍軍官学校出身。以下、ウィキの「呉佩孚」から部分引用する。『護国戦争や護法軍の鎮圧にも参加。1920年の安直戦争で段祺瑞率いる安徽派を北京政府から追い、直隷省・山東省・河南省3省の巡閲副使となる。ところが政府の主導権をめぐって同盟を結んでいた張作霖らの奉天派と対立。1922年に第一次奉直戦争に勝利して、陸軍参謀総長を経て直隷省・山東省・河南省3省の巡閲使・航空監督となる。1924年には第二次奉直戦争で再び奉天派と戦うものの、部下の馮玉祥の裏切りにあい敗北。湖北省へと逃れて孫伝芳らと、奉天派および奉天派と組んだ安徽派・馮らの国民軍に対し再度攻撃を仕掛ける。しかし1926年に北伐に来ていた国民政府軍に敗れて、四川省へと逃れる。』『盧溝橋事件以降は日本軍から協力を求められるが態度を鮮明とせず、1939年に死去。歯科医の抜歯直後に急死したため日本軍による暗殺説が囁かれ、国民政府からは陸軍一級上将を追贈された。』。

・「炬」篝火のような眼。物事を明らかに見分ける才能を陰喩する。

・「ジヨオンズ」Thomas Jones18901923)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第4次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正4(1915)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた(芥川も並んだその折の大正8(1919)年9月24日に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる)。この中国行での上海での出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和2(1927)年1月に発表した「彼 第二」はジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、「上海游記」「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい。

・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初の1373年に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(13601424 永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。

・「東單牌樓」の「牌樓」は「牌坊」と同義で、中国の伝統的建築様式の門の一種。単に坊とも呼ばれる(坊は本来は区画を言う)。所謂、中華街の東西南北の門を想起してもらえればよい。ウィキの「牌坊」によれば、『一般的に牌坊と牌楼は同じ意味で使われるが、屋根や斗拱(ときょう:斗組・軒などを支える木の組み物のこと)のないものが牌坊と呼ばれ、あるものが牌楼と呼ばれる』とある。実際には北京には方位に限らず沢山の「牌樓」があるが、その中でも著名な一つが「東單牌樓」で、紫禁城の東、天安門前にある長安街の東側に設けられている門を言う。

・「合歡花」バラ亜綱マメ目ネムノキ科ネムノキ Albizia julibrissin 。落葉高木。ネムノキ属 Albizia は熱帯原産であるが、本種は耐寒性が強く高緯度まで分布する。悪環境にも強く、荒地にも一早く植生する植物としても知られる。擬古文に合わせて音読みしているが、必ずしもネムの異例な呼称ではない。

・「一時間の後、先生の邸を辭し、歩して東單牌樓のホテルに向へば、微風、並木の合歡花を吹き、斜陽、僕の支那服を照す。しかもなほ蝙蝠に似たる先生の顏、僕の眼前を去らざるが如し。僕は大通りへ出づるに當り、先生の門を囘看して、――先生、幸に咎むること勿れ、先生の老を歎ずるよりも先に、未だ年少有爲なる僕自身の幸福を讚美したり。」私はこの最後のシーン、これは夏目漱石の「こゝろ」上三十五を下敷きにしているように思えてならない。学生と先生の邂逅の最後の、あの印象的な最後である。

 

 「また九月に」と先生がいつた。

 私は挨拶をして格子の外へ足を踏み出した。玄關と門の間にあるこんもりした木犀の一株が、私の行手を塞ぐやうに、夜陰のうちに枝を張つてゐた。私は二三歩動き出しながら、黑ずんだ葉に被はれてゐる其梢を見て、來るべき秋の花と香を想ひ浮べた。私は先生の宅と此木犀とを、以前から心のうちで、離す事の出來ないものゝやうに、一所に記憶してゐた。私が偶然其樹の前に立つて、再びこの宅の玄關を跨ぐべき次の秋に思を馳せた時、今迄格子の間から射してゐた玄關の電燈がふつと消えた。先生夫婦はそれぎり奥へ這入たらしかつた。私は一人暗い表へ出た。

 

ここで芥川は、さわやかにして艶なる合歓の花に心躍らせている。そうして先生の家の門を振り返って、思う。――先生、どうかお咎めになられないように……私は、実はこの時、掛け替えのない師が老を嘆かれたこの世の不幸より、それよりもまず先に、未だに年若い前途有望何でも来いといった意気揚々たる僕自身の幸福を心の内に讚美していたのでした――と。

 その不遜は恰もあの「枯野抄」の丈草のようではないか?

 ――しかし――しかし、である。――この「北京日記抄」を執筆した当時、大正141925)年当時の芥川龍之介は――そうではなかった――私は次の引用でこの篇の注を締め括るとこととする。「こゝろ」上三十六の掉尾である。

 

 「何つちが先へ死ぬだらう」

 私は其晩先生と奥さんの間に起つた疑問をひとり口の内で繰り返して見た。さうして此疑問には誰も自信をもつて答へる事が出來ないのだと思つた。然し何方が先へ死ぬと判然分つてゐたならば、先生は何うするだらう。奥さんは何うするだらう。先生も奥さんも、今のやうな態度でゐるより外に仕方がないだらうと思つた。(死に近づきつゝある父を國元に控えながら、此私が何うする事も出來ないやうに)。私は人間を果敢ないものに觀じた。人間の何うする事も出來ない持つて生れた輕薄を、果敢ないものに觀じた。

 

――辜鴻銘が亡くなったのは、芥川龍之介自裁の翌年であった。いや、芥川龍之介が自殺したその時、辜鴻銘は日本にいたと思われる。彼は嘗て会った「未だ年少有爲なる」一青年作家の自決をどのように思ったであろうか――

 

花合歡に風吹くところ支那服を着つつわが行く姿を思へ

 

――岩波版旧全集書簡番号九二一小穴隆一宛大正101921)年6月27日附絵葉書にある芥川の短歌である――]

 

 

       三 十刹海

 

 中野好漢君の私を案内してくれたるものは北海の如き、萬壽山(まんじゆざん)の如き、或は又天壇(てんだん)の如き、誰(たれ)も見物するもののみにあらず。文天祥祠(ぶんてんしやうし)も、楊椒山(さうせうざん)の故宅も、白雲觀も、永樂大鐘(えいらくだいしよう)(この大鐘は半ば土中に埋まり、事實上の共同便所に用ゐられつゝあり。)悉(ことごとく)中野君の案内を待つて一見するを得しものなり。されど最も面白かりしは今日中野君と行つて見たる十刹海(じつさつかい)の遊園なるべし。

 尤も遊園とは言ふものの、庭の出來てゐる次第にはあらず。只大きい蓮池のまはりに葭簾張(よしずば)りの掛茶屋(かけぢやや)のあるだけなり。茶屋の外(ほか)には針鼠だの大蝙蝠だのの看板を出した見世物小屋も一軒ありしやうに記憶す。僕等はかう言ふ掛茶屋にはいり、中野君は玫瑰露(まいくわいろ)の杯(さかづき)を嘗め、僕は支那茶を啜りつつ、二時間ばかり坐つてゐたり。何がそんなに面白かりしと言へば、別に何事もあつた訣にはあらず、只人を見るのが面白かりしだけなり。

 蓮花は未だ開かざれど、岸をめぐれる槐柳(くわいりう)のかげや前後の掛茶屋ゐる人を見れば、水煙管(みづぎせる)を啣へたる老爺あり、雙孖髻(さうじけつ)に結へる少女あり、兵卒と話してゐる道士あり、杏賣りを値切つてゐる婆さんあり、人丹(仁丹にあらず)賣りあり、巡査あり、背廣を着た年少の紳士あり、滿洲旗人(まんしうきじん)の細君あり、――と數へ上げれば際限なけれど、兎に角支那の浮世繪の中にゐる心ちありと思ふべし。殊に旗人の細君は黑い布か紙にて造りたる髷(まげ)とも冠(かんむり)ともつかぬものを頂き、頰にまるまると紅をさしたるさま、古風なること言ふべからず。その互にお時儀をするや、膝をかがめて腰をかがめず、右手をまつ直に地へ下げるは奇體にも優雅の趣ありと言ふべし。成程これでは觀菊の御宴(ぎよえん)に日本の官女を見たるロテイも不思議の魅力を感ぜしならん。僕は實際旗人の細君にちよつと滿洲流のお時儀をし、「今日は」と言ひたき誘惑を受けたり。但しこの誘惑に從はざりしは少くとも中野君の幸福なりしならん。僕等のはひりし掛茶屋を見るも、まん中に一本の丸太を渡し、男女は斷じて同席することを許さず。女の子をつれたる親父などは女の子だけを向う側に置き、自分はこちら側に坐りながら、丸太越しに菓子などを食はせてゐたり。この分にては僕も敬服の餘り、旗人の細君にお時儀をしたとすれば、忽ち風俗壞亂罪に問はれ、警察か何かへ送られしならん。まことに支那人の形式主義も徹底したものと稱すべし。

 僕、この事を中野君に話せば、中野君、一息に玫瑰露を飮み干し、扨(さて)徐に語つて曰、「そりや驚くべきものですよ。環城鐵道と言ふのがあるでせう。ええ、城壁のまはりを通つてゐる汽車です。あの鐵道を拵へる時などには線路の一部が城内を通る、それでは環城にならんと言つて、わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからですね。兎に角大した形式主義ですよ。」

 

[やぶちゃん注:十刹海は「什刹海」「河沿」とも言い、北海公園の北、地安門外の西側に広がる湖。蓮の名所として知られる。周囲には古刹が点在する。

・「北海」清代に作られた北海公園にある湖。現在は北海・西海に先の十刹海(前海)と積水潭(後海)を加えて北海公園と呼称している。総面積約400,000㎡(水面面積340,000㎡)。北京の有数の景勝地で、有名人の故宅等の旧跡が多い。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「萬壽山」北京の西北西郊外にある山。標高約60m。麓の昆明池の湖畔に沿って、1750年に乾隆帝が母の万寿を祝って築造した離宮があったが、アロー戦争末の1860年に英仏連合軍によって焼き払われた。後に西太后が改修、頤和園(いわえん)と名付けた。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「天壇」現在の北京市崇文区にある史跡。明・清代の皇帝が、冬至の時に豊穣を天帝に祈念した祭壇。敷地面積約2,730,000m²。祭祀を行った圜丘壇(かんきゅうだん)は大理石で出来た円檀で、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在であるここの祈年殿は、1889年に落雷より一度消失したが、1906年に再建されている(以上はウィキの「天壇」を参照した)。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「文天祥祠」現在の北京市東城区府学胡同にある文天祥を祀った社。以下に示すように元代の刑場であった。文天祥(12361283)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。『各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。獄中にあって『宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受け』たが、そこで彼は有名な「正気の歌(せいきのうた)」(リンクはウィキソースの現代語訳附きの「正気の歌」)を詠んで、宋への断固たる忠節を示した。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかった。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。』『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、本邦でも『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。』。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「楊椒山の故宅」現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居。松筠庵(しょういんあん)とも言う。本名は楊継盛(15161555)で、椒山は号。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため嘉靖34年に厳嵩により処刑された。年わずか40歳。その後1787年にここは楊椒山祠と改められる。1895年清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら200人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち中国近代史上有名な「公車上書」である。』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「白雲觀」現在の北京西城区白雲路にある道教の総本山。739年の創建で原名は天長観と言ったが、1203年に大極宮と改名。1220年代に元の太祖チンギス・ハンが道士丘処机(11481227)に全土の道教の総括を命じ、彼は大極宮住持に任命され、長春子と号した。1227年、死去した丘を記念して長春宮と改名されている。以後、戦火によって損壊するが、15世紀初頭、明によって重修され、現在の規模となって名も白雲観と改められた。総面積は10,000m²を越える(以上は真下亨氏の「白雲観」のページを参照した)。なお、後掲「五 名勝」参照。芥川のここへの言及がある。

・「永樂大鐘」「中国百科」の「永楽大鐘は45キロ先まで響き渡る」によれば、『北京にある大鐘寺には、永楽大鐘と名づけられた大きな鐘がある。この鐘は、重さ46.5トン、高さ6.75メートル、直径3.3メートルある。永楽大鐘には、すでに500年あまりの歴史がある。永楽大鐘は、地面に穴を掘って造型し、表面は陶製の鋳型を使って鋳造されたものである。鋳造の時数十の溶鉱炉が同時に稼働し、溶けた銅を溝にそって陶製の鋳型に注いで作るというもので、とても巧妙な作り方である。』『永楽大鐘の音は耳に快いものである。専門家の実験で、鐘の音が振動する頻度は音楽での標準頻度と同じか近いことが判明した。軽くたたくと、滑らかに響き、力を入れてたたくと、大きく優雅に響く、もっとも遠くまで響く場合は45キロも離れたところに伝わり、2分間以上も続く。』『毎年新年になると、永楽大鐘が鳴らされる。この鐘は、もう500年以上の歴史があり、今なおすばらしい音を響かせる。中国の科学専門家が、鐘の合金について研究した結果、永楽大鐘には銅、錫、鉛、鉄、マグネシウムのほか、金と銀の含有量も高くて、それぞれ金が18.6キロで、銀が38キロあった。専門家の分析では、銅器に金が入れると、さびどめになり、銀を入れると流し込み液の流動性が高くなるとのことである。これが、永楽大鐘が500年以上も良好なまま、美しい音色を響かせる原因である。』『外国の専門家は、「永楽大鐘の鋳造のすばらしさは、世界鋳造史上の奇跡である。科学が発達している現在でも、永楽大鐘のような鐘はなかなか作ることはできない」と話してい』ると記す。現在、ここまで評価される重宝の名鐘が、その当時、『半ば土中に埋まり、事實上の共同便所に用ゐられつゝあ』ったというのである――これは芥川の嘘なのか? 私は十分あり得た話と思う。いや、それは日本も同じだよ、芥川君。廃仏毀釈令で神仏習合の神社の仏閣は損壊され、仏像仏画が多量に海外に流失し、明治の鎌倉では大仏の掌に外国人を乗せて記念写真を撮っていたんだからね。

・「玫瑰露」恐らくバラから抽出した精油を含んだ酒のことと思われる。

・「支那茶」厳密な意味では「支那茶」は特殊な限定的なものに用いたようだが、ここで芥川が言うのは普通の烏龍茶のことと考えてよい。

・「槐柳」槐(えんじゅ)と柳。槐はバラ亜綱マメ目マメ科エンジュ Styphonolobium japonicum 。落葉高木。中国原産で、街路樹によく用いられる。志怪小説等を読むと中国では霊の宿る木と考えられていたらしい。

・「水煙管」喫煙具の一。煙を一度水中を通らせて吸う。ニコチンが水に吸収され味が穏やかになる。17世紀初頭にペルシアで発明され、アジア各地に広まり、特に中国で発達した。

・「雙孖髻」「孖」は双子のこと。本邦中宮寺弥勒菩薩像の髪型のような、二つに分けて頭の上部左右に丸い団子のようにして結った未婚女性の髪形である双鬟(そうかん)のことを言っているものと思われる。

・「人丹(仁丹にあらず)」筑摩書房全集類聚版脚注はこの人丹を仁丹のこととし、岩波版新全集の細川正義氏は注そのものを附していない。しかし、芥川はわざわざ「仁丹にあらず」と注しているのであって、これは、物そのものは本邦の「仁丹」だが表記が「仁丹」ではなく「人丹」である、という意味では、よもや、あるまい。そもそも中国では既に本邦の「仁丹」は著名であった(それは江南游記 二 車中(承前)で『しかしその橋が隠れたと思ふと、今度は一面の桑畑の彼方に、廣告だらけの城壁が見えた。古色蒼然たる城壁に、生生しいペンキの廣告をするのは、現代支那の流行である。無敵牌牙粉(むてきはいがふん)、雙嬰孩香姻(さうえいがいかうえん)、――さう云ふ齒磨や煙草の廣告は、沿線到る所の停車場に、殆(ほとんど)見えなかつたと云ふ事はない。支那は抑(そもそも)如何なる國から、かう云ふ廣告術を學んで來たか? その答を與へるものは、此處にも諸方に並び立つた、ライオン齒磨だの仁丹だのの、俗惡を極めた廣告である。』という叙述からも明白である)。そこで調べてみると、中国には「仁丹」でない「人丹」があったのである。個人のブログ「星期六的愉快研究」の「統制陶器 その5.仁丹・TOTOINAXに以下のように記されている(改行は「/」で示した)。『戦前から仁丹(森下仁丹)は広告、看板、販売促進のノベルティなどを使い広域的な宣伝活動を展開しており、中国も例外ではなかった。大々的な広告活動の効果があってか中国でもかなりの売れ行きがあり、仁丹は非常に知名度の高い商標であった。/中国における仁丹の歴史を語る上で、ふれるべきエピソードがある。/仁丹が市場を席巻するなか、民族ブランドの衰退を危惧した上海で薬局を経営する黄楚九が「仁丹」に対抗して「人丹」なる商標の薬を発売した。仁丹も人丹も中国の発音では共にレンダンである。人丹も広告活動に力を入れ知名度が上がってくると、仁丹はついに人丹を商標権の侵害で訴えを起こした。ところが法廷は仁丹の主張を認めず仁丹敗訴の結果に終わる。このことに加え反日団体の働きかけもあって、仁丹の広告掲載を中止した新聞もあったようだ。1920年代のことである。第一次世界大戦後、1919年山東省のドイツの権益を日本が引き継いだことに端を発したいわゆる五四運動に象徴される反日・愛国運動の社会情勢の影響を少なからず受けたに違いない。』――芥川のこの旅行は正に1921年、「仁丹」――基!――「人丹」飲めば、ほうれ! 斯くの如く、ぴたりすっきり、じゃが!――そもそも考えてみれば神仙の練「丹」術は中国の御家芸である。登録商標は早い者勝ちとは言え、「丹」の象徴する薬物的印象を持つ商標は中国に分があるように私は思う。「仁」に至っては御家芸儒教の核心的真理である。因みに星期六氏の言うように「人」と「仁」は共に“rén”で、完全な音通である。

・「滿洲旗人」清代、その支配層は8つの「旗」と呼ばれる社会・軍事組織によって編成されており、全国の要衝に八旗駐防という駐在地を置いて支配した。すべての満州人は8つの旗に配属され、後にはモンゴル人や漢人によって編成された八旗も創設された。この場合は、恐らく「北京八旗」で、旧清朝皇帝の近衛兵に属す満州人であろう(以上は主にウィキの「八旗」を参考にした)。

・「黑い布か紙にて造りたる髷とも冠ともつかぬもの」満州の婦人の独特の髪飾りの一種で、黒い布製。写真や絵を見ると頭頂上部に突き出した横長のものの左右に髷のように下がって張り出したものを付属した形態を成している。恐らくはこれが満州旗人の婦人たるステイタス・シンボルでもあった。

・「觀菊の御宴」以前毎年11月(日は不定)に新宿御苑で天皇皇后臨席のもとに催された観菊会。昭和121937)年の廃止されたが、昭和281953)年に秋の園遊会が行われるようになり、本来の観菊会の方は内閣総理大臣主催「菊を見る会」となって復活している。

・「ロテイ」Pierre Lotiピエール・ロティはフランスの海軍士官にして作家であった Louis Marie-Julien Viaud ルイ・マリー=ジュリアン・ヴィオー(18501923)のペンネーム。艦隊勤務の中、彼は明治181885)年と明治331900)年、二度の来日をしているが、その一度目の1110日、赤坂御所で催された観菊会に出席し、皇后陛下等に拝謁していることが、明治181885)年の体験を元にした1889年刊の“Japoneries d'automne”「秋の日本的なるもの」の「観菊御宴」に記載されている。

・「環城鐵道」須藤康夫氏の素晴らしいHP「百年の鉄道旅行」の現在の写真入り・当時の地図背景(だと思うでしょ? ところがクリックすると jpg 画像でしっかり見れるのが何とも嬉しい!)の「北京環城鉄路」を見ざるべからず! 全文引用せざるべからず!『京張鉄路は、もともと基点を豊台駅としていたが、1916年北京城の城壁の外側を回り込むように、環城鉄路が建設された。これにより、列車は北京正陽門に直接乗り入れが可能となった。京張鉄路の直通列車は初め豊台駅を始発駅としていたが、このルートを使用して1 934年から北京正陽門駅を始発駅とするようになった。環城鉄路は1954年に廃止され、1959年には新しい北京駅が完成し、1965年には城壁のほとんどが崩され道路となっている。ただ現在も東南角楼付近は城壁が残っており、「火車券洞」と呼ばれる環城鉄路の城壁アーチが残っている。また、近くには、京奉鉄路信号所とポイントの一部が保存されている。』(以下は写真のキャプション)『西直門付近でも、環城鉄路の一部が残っており、レールが道路に吸い込まれて消えて行く光景が見られる。』ここで言っているのはどこかな~って考えながら、地図を見ていたら何だか仕合せな気分になって来た(恐らく東南と東北の角の部分なんだろうな~)。

・「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたですからですね。」は口語的にはやはり「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたんですからですね。」「わざわざ其處だけは城壁の中へもう一つ城壁を築いたぐらいですからですね。」でないと私は朗読をしても落ち着かない。なお、前注参照。]

 

 

 

       四 胡蝶夢

 

 波多野君や松本君と共に辻聽花(つじちやうくわ)先生に誘はれ、昆曲(こんきよく)の芝居を一見す。京調の芝居は上海以來、度たび覗いても見しものなれど、昆曲はまだ始めてなり。例の如く人力車の御厄介になり、狹い町を幾つも通り拔けし後(のち)、やつと同樂茶園(どうらくちやゑん)と言ふ劇場に至る。紅(べに)に金文字のびらを貼れる、古き、煉瓦造りの玄關をはいれば、――但し「玄關をはいれば」と言ふも、切符などを買ひし次第にあらず、元來支那の芝居なるものは唯ぶらりと玄關をはいり、戲を聽くこと幾分の後、金を集めに來る支那の出方(でかた)に定額の入場料を拂つてやるを常とす。これは波多野君の説明によれば、つまるかつまらぬかわからぬ芝居に前以て金など出せるものかと言ふ支那的論理によれるもののよし。まことに我等看客(かんかく)には都合好き制度と言はざるべからず。扨(さて)煉瓦造りの玄關をはひれば、土間に並べたる腰掛に雜然と看客の坐れることはこの劇場も他(た)と同樣なり。否、昨日(きのふ)梅蘭芳(メイランフアン)や楊小樓(やうせうろう)を見たる東安市場(とうあんしぢやう)の吉祥茶園(きつしやうちやえん)は勿論、一昨日(をととひ)余叔岩(よしゆくがん)や尚小雲(しやうせううん)を見たる前門外の三慶園よりも一層ぢぢむさき位ならん。この人ごみの後(うしろ)を通り二階棧敷(さじき)に上(のぼ)らんとすれば、醉顏酡(だ)たる老人あり。鼈甲の簪(かんざし)に辮髮を卷き芭蕉扇を手にして徘徊するを見る。波多野君、僕に耳語(じご)して曰、「あの老爺(おやぢ)が樊半山(はんはんざん)ですよ。」と。僕は忽ち敬意を生じ、梯子段の中途に佇みたるまま、この老詩人を見守ること多時。恐らくは當年の醉(すゐ)李白も――などと考へし所を見れば、文學青年的感情は少くとも未だ國際的には幾分か僕にも殘りをるなるべし。

 二階棧敷には僕等よりも先に、疎髯(そぜん)を蓄へ、詰め襟の洋服を着たる辻聽花先生あり。先生が劇通中の劇通たるは支那の役者にも先生を押して父と倣(な)するもの多きを見て知るべし。揚州の鹽務官高洲太吉(たかすたきち)氏は外國人にして揚州に官たるもの、前にマルコ・ポオロあり、後に高洲大吉ありと大いに氣焰を吐きゐたれど、外國人にして北京に劇通たるものは前にも後にも聽花散人一人に止めを刺さざるべからず。僕は先生を左にし、波多野君を右にして坐りたれば、(波多野君も「支那劇五百番」の著者なり。)「綴白裘(てつぱくきう)」の兩帙(りやうちつ)を手にせざるも、今日だけは兎に角半可通の資格位(ぐらい)は具へたりと言ふべし。(後記。辻聽花先生に漢文「中國劇」の著述あり。順天時報社の出版に係る。僕は北京を去らんとするに當り、先生になほ「支那芝居」の著述あるを仄聞したれば、先生に請うて原稿を預かり、朝鮮を經て東京に歸れる後、二三の書肆に出版を勸めたれど、書肆皆愚にして僕の言を容れず。然るに天公その愚を懲らし、この書今は支那風物研究會の出版する所となる。次手を以て廣告すること爾(しか)り。)

 乃(すなは)ち葉卷に火を點じて俯瞰すれば、舞台の正面に紅(くれない)の緞帳を垂れ、前に欄干をめぐらせることもやはり他の劇場と異る所なし。其處に猿に扮したる役者あり。何か歌をうたひながら、くるくる棒を振りまはすを見る。番附に「火焰山」とあるを見れば、勿論この猿は唯の猿にあらず。僕の幼少より尊敬せる斉天大聖(せいてんたいせい)孫悟空ならん。悟空の側には又衣裳を着けず、粉黛を裝はざる大男あり。三尺餘りの大團扇(おほうちは)を揮つて、絶えず悟空に風を送るを見る。羅刹女(らせつぢよ)とはさすがに思はれざれば、或は牛魔王(ぎうまわう)か何かと思ひ、そつと波多野君に尋ねて見れば、これは唯(ただ)煽風機代りに役者を煽いでやる後見なるよし。牛魔王は既に戰(たたかひ)負けて、舞台裏へ逃げこみし後(のち)なりしならん。悟空も亦數分の後には一打十萬八千路、――と言つても實際は大股に悠悠と鬼門道(きもんだう)へ退却したり。憾むらくは樊半山に感服したる餘り、火焰山下の大殺(たいさつ)を見損ひしことを。

 「火焰山」の次は「胡蝶夢」なり。道服を着たる先生の舞臺をぶらぶら散歩するは「胡蝶夢」の主人公莊子ならん。それから目ばかり大いなる美人の莊子と喋喋喃喃(てふてふなんなん)するはこの哲學者の細君なるべし。其處までは一目瞭然なれど、時々舞臺へ現るる二人の童子に至つては何の象徴なるかを明かにせず。「あれは莊子の子供ですか?」と又ぞろ波多野君を惱ますれば、波多野君、聊か啞然として、「あれはつまり、その、蝶蝶ですよ。」と言ふ。しかし如何に贔屓眼に見るも、蝶蝶なぞと言ふしろものにあらず。或は六月の天なれば、火取蟲に名代(みやうだい)を賴みしならん。唯この芝居の筋だけは僕も先刻承知なりし爲、登場人物を知りし上はまんざら盲人の垣覗きにもあらず。今までに僕の見たる六十有餘の支那芝居中、一番面白かりしは事實なり。抑(そもそも)「胡蝶夢」の筋と言へば、莊子も有らゆる賢人の如く、女のまごころを疑ふ爲、道術によりて死を裝ひ、細君の貞操を試みんと欲す。細君、莊子の死を嘆き、喪服を着たり何かすれど、楚の公子の來り弔するや、…………

 「好(ハオ)!」

 この大聲を發せるものは辻聽花先生なり。僕は勿論「好!」の聲に慣れざる次第でも何でもなけれど、未だ曾て特色あること、先生の「好!」の如くなるものを聞かず。まづ匹(ひつ)を古今(ここん)に求むれば、長坂橋頭(ちやうはんけうとう)蛇矛(だぼう)を横へたる張飛の一喝に近かるべし。僕、惘(あき)れて先生を見れば、先生、向うを指して曰、「あすこに不准怪聲叫好と言ふ札が下つてゐるでせう。怪聲はいかん。わたしのやうに「好!」と言ふのは好いのです。」と。大いなるアナトオル・フランスよ。君の印象批評論は眞理なり。怪聲と怪聲たらざるとは客觀的標準を以て律すべからず。僕等の認めて怪聲と倣(な)すものは、――しかしその議論は他日に讓り、もう一度「胡蝶夢」に立ち戻れば、楚の公子の來り弔するや、細君、忽(たちまち)公子に惚れて莊子のことを忘るるに至る。忘るるに至るのみならず、公子の急に病を發し、人間の腦味噌を嘗めるより外に死を免(まぬか)るる策なしと知るや、斧を揮つて棺を破り、莊子の腦味噌をとらんとするに至る。然るに公子と見しものは元來胡蝶に外ならざれば、忽(たちまち)飛んで天外に去り細君は再婚するどころならず、却つて惡辣なる莊子の爲にさんざん油をとらるるに終る。まことに天下の女の爲には氣の毒千萬なる諷刺劇と言ふべし。――と言へば劇評位書けさうなれど、實は僕には昆曲の昆曲たる所以さへ判然せず。唯どこか京調劇よりも派手ならざる如く感ぜしのみ。波多野君は僕の爲に「梆子(ばうし)は秦腔(しんかう)と言ふやつでね。」などと深切に説明してくるれど、畢竟馬の耳に念佛なりしは我ながら哀れなりと言はざるべからず。なほ次手に僕の見たる「胡蝶夢」の役割を略記すれば、莊子の細君――韓世昌(かんせいしやう)、莊子――陶顕亭、楚の公子――馬夙彩(ばしゅくさい)、老胡蝶――陳榮會(ちんえいくわい)等なるべし。

 「胡蝶夢」を見終りたる後、辻聽花先生にお禮を言ひ、再び波多野君や松本君と人力車上の客となれば、新月北京の天に懸り、ごみごみしたる往來に背廣の紳士と腕を組みたる新時代の女子の通るを見る。ああ言ふ連中も必要さへあれば、忽――斧は揮はざるにもせよ、斧よりも鋭利なる一笑を用ゐ、御亭主の腦味噌をとらんとするなるべし。「胡蝶夢」を作れる士人を想ひ、古人の厭世的貞操觀を想ふ。同樂園の二階棧敷に何時間かを費したるも必しも無駄ではなかつたやうなり。

 

[やぶちゃん注:「上海游記」で花旦「緑牡丹」が「白牡丹」の誤りであったという真相解明でお世話になった「2008年上海外国語大学日本学研究国際フォーラム」(PDFファイルでダウンロード可能)の北京日本学研究センターの秦剛氏の論文「一九二一年・芥川龍之介の上海観劇」(p.134-135)の最後に『1921年6月30日「順天時報」 辻聴花「中国劇と日本人(五)」――「先日、波多野乾一君(大阪毎日新聞社特派員)が主人として瑞記飯店で席を設け、余に託して郝寿臣、尚小雲、貫大元の三俳優を招待させて、目下来遊中の著名小説家芥川文学士及び日本人数名に紹介させ、以って風雅の縁を結ぶという。誠に斯界稀な盛会で、大いに特筆大書すべきなり。」(注:「先日」とは6月19日)』という引用記載がある。本篇の経験はその6月19日前後(後か)に絞り込むことが可能かと思われる。

・「波多野君」筑摩全集類聚版脚注は不詳とし、岩波版新全集の細川正義氏は注を附さないが(以下に示す同新全集書簡部分の人名索引に譲ったのか。にしても注を附さないのは極めて不親切と言わざるを得ない)が、これは間違いなく波多野乾一である。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引によれば、『波多野乾一(18901963) 新聞記者。大分県生まれ。東亜同文書院政治学科卒。1913年大阪毎日新聞社に入社。その後、大阪毎日新聞社北京特派員、北京新聞主幹、時事新報特派員など一貫して中国専門記者として活躍した』(句読点を変更した)とある人物である。戦後は「産業経済新聞」の論説委員として中国共産党を研究、本家の中国共産党からも高く評価された(以下の江橋崇氏の記事を参照)という「中国共産党史」等の著作がある。彼はまた、本文にも記される通り、中国人も吃驚りの京劇通で、芥川の挙げる「支那劇五百番」の他にも「支那劇と其名優」「支那劇大観」等の著作がある。また、榛原茂樹(はいばらしげき)のペン・ネームで麻雀研究家としても著名であった。その京劇とその麻雀が結んだ梅蘭芳と由縁(えにし)を記した「日本健康麻雀協会」のHP江橋崇氏の「波多野乾一(榛原茂樹)と梅蘭芳」は必読である!

・「松本君」大阪毎日新聞社北京支局員であった松本鎗吉と思われる。岩波版新全集の人名索引に載る人物であるが、芥川書簡に2回出現するのみで詳細データは未詳である。しかしネット検索では先に登場する波多野乾一との共著になる論文「支那政党史稿」(東亜同文会調査編纂部編『支那』第8巻第15号・大正6(1917)年・東京・東亜同文会刊)や、「支那問題の解剖 」(昭和171942)年・東京・興亜書院刊)、同年刊行の「支那の新姿」 (弘道館)、戦後も「毛沢東伝」昭和211946)年高山書院刊)、「中国人の特性と生活」昭和22 1947)年明倫閣刊)等の多数の著作をものしている。

・「辻聽花先生」中国文学者の辻武雄(慶応4・明治元(1868)年~昭和6(1931)年)。上海や南京師範学校で教鞭を採り、京劇通として知られ、現地の俳優達の指導も行なった。ネット検索でも中文サイトでの記載の方がすこぶる多い。芥川は既に「上海游記 十 戲臺(下)」で彼について言及している。

・「昆曲」本注冒頭で示した秦剛氏の別な記事(「人民中国」)「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京(ここでは肩書きが細かく北京日本学研究センター准教授となっておられる)に、『500年の歴史を持つ崑曲は中国に現存する最も古い戯曲であり、長い間、貴族や文人の間で愛好されていたが、清末以降急激に衰退し始めた』と、記されている。

・「京調」現在、この語は京劇と同義で用いられるが、秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」によれば、実は芥川が渡中したこの頃、「京劇」という語は未だ定着していなかった、とある。所謂、当時、主流になりつつあった新劇としての「原」京劇は「皮黄戯」と呼ばれ、劇の曲想に主に二つの節があった。それを「西皮」調・「二黄」調と言う。西皮調は快濶で激しく、二黄調は落ち着いた静かな曲想を言った。

・「上海以來、度たび覗いても見し」「上海游記」「上海游記 九 戲臺(上)」及び「上海游記 十 戲臺(下)」参照。

・「同樂茶園と言ふ劇場」「茶園」は中国語で劇場の意。前掲の秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」に『前門外の大柵欄の胡同の中にある同楽園は、当時崑曲を上演する唯一の劇場であった』とある。

・「戲を聽く」日本語の「観劇」は、中国語では「聴劇」「看劇」と言う。

・「出方」芝居茶屋・相撲茶屋・劇場に所属して、客を座席に案内したり、飲食の世話や雑用をする人を言う。

 

・「梅蘭芳(メイランフアン)」(Méi Lánfāng メイ・ランファン 本名梅瀾 méi lán 18941961)は清末から中華民国・中華人民共和国を生きた著名な京劇の女形。名女形を言う「四大名旦」の一人(他は程硯秋・尚小雲・荀慧生)。ウィキの「梅蘭芳」によれば、『日本の歌舞伎に近代演劇の技法が導入されていることに触発され、京劇の近代化を推進。「梅派」を創始した。20世紀前半、京劇の海外公演(公演地は日本、アメリカ、ソ連)を相次いで成功させ、世界的な名声を博した(彼の名は日本人のあいだでも大正時代から「メイランファン」という中国語の原音で知られていた。大正・昭和期の中国の人名としては希有の例外である)。日中戦争の間は、一貫して抗日の立場を貫いたと言われ、日本軍の占領下では女形を演じない意思表示としてヒゲを生やしていた。戦後、舞台に復帰。東西冷戦時代の1956年、周恩来の指示により訪日京劇団の団長となり、まだ国交のなかった日本で京劇公演を成功させた。1959年、中国共産党に入党。1961年、心臓病で死去。』とある。最初の訪日は大正7(1918)年。芥川の「侏儒の言葉」には、

 

      「虹霓關」を見て

 

 男の女を獵するのではない。女の男を獵するのである。――シヨウは「人と超人と」の中にこの事實を戲曲化した。しかしこれを戲曲化したものは必しもシヨウにはじまるのではない。わたくしは梅蘭芳の「虹霓關」を見、支那にも既にこの事實に注目した戲曲家のあるのを知つた。のみならず「戲考」は「虹霓關」の外にも、女の男を捉へるのに孫呉の兵機と劍戟とを用ゐた幾多の物語を傳へてゐる。

 「董家山」の女主人公金蓮、「轅門斬子」の女主人公桂英、「雙鎖山」の女主人公金定等は悉かう言ふ女傑である。更に「馬上縁」の女主人公梨花を見れば彼女の愛する少年將軍を馬上に俘にするばかりではない。彼の妻にすまぬと言ふのを無理に結婚してしまふのである。胡適氏はわたしにかう言つた。――「わたしは『四進士』を除きさへすれば、全京劇の價値を否定したい。」しかし是等の京劇は少くとも甚だ哲學的である。哲學者胡適氏はこの價値の前に多少氏の雷霆の怒を和げる訣には行かないであらうか?

 

とある。ここで芥川が言う京劇の女傑は、一般には武旦若しくは刀馬旦と呼ばれる。これら二つは同じという記載もあるが、武旦の方が立ち回りが激しく、刀馬旦は馬上に刀を振るって戦う女性を演じるもので歌唱と踊りを主とするという中国国際放送局の「旦」の記載(邦文)を採る。そこでは以下に登場する穆桂英(ぼくけいえい)や樊梨花(はんりか)は刀馬旦の代表的な役としている。以下に簡単な語注を附す(なお京劇の梗概については思いの外、ネット上での記載が少なく、私の守備範囲外であるため、岩波版新全集の山田俊治氏の注解に多くを依った。その都度、明示はしたが、ここに謝す)。

○「人と超人と」は“Man and superman”「人と超人」で、バーナード・ショー(George Bernard Shaw 1856 1950)が1903年に書いた四幕の喜劇。モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」をモチーフとする。市川又彦訳の岩波書店目録に附されたコピーには『宇宙の生の力に駆られる女性アンは、許婚の詩人ロビンスンを捨て、『革命家必携』を書いた精力的な男タナーを追いつめ、ついに結婚することになる』と記す。岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、『女を猟師、男を獲物として能動的な女を描いた』ともある。

○「虹霓關」「こうげいかん」と読む。隨末のこと、虹霓関の守備大将であった東方氏が反乱軍に殺される。東方夫人が夫の仇きとして探し当てた相手は、自分の幼馴染みで腕の立つ美男子王伯党であった。東方夫人は戦いながらも「私の夫になれば、あなたを殺さない」と誘惑する。伯党は断り続けるが、夫人は色仕掛けで無理矢理、自分の山荘の寝室に連れ込み、伯党と契りを結ぼうとする。観客にはうまくいったかに思わせておいて、最後に東方夫人は王伯党に殺されるというストーリーらしい(私は管見したことがないので、複数のネット記載を参考に纏めた)。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『一九二四年一〇月、梅蘭芳の第二回公演で演じられた。』とし、芥川が観劇したのが梅蘭芳の大正8(1919)年の初来日の折でないことは、『久米正雄「麗人梅蘭芳」(「東京日日」一九年五月一五日)によってわかる』とある。しかし、この注、久米正雄「麗人梅蘭芳」によって初来日では「虹霓関」が演目になかったから、という意味なのか、それともその記載の中に芥川が初来日を見損なったことが友人久米の手で書かれてでもいるという意味なのか、どうも私が馬鹿なのか、意味が分らない。

○「孫呉」孫武と呉起の併称。孫武は兵法書「孫子」の著者で、春秋時代の兵家、孫子のこと。呉起(?~B.C.381)は兵法書「呉子」の著者で、戦国時代の軍人・政治家。孫武とその子孫である孫臏と並んで兵家の祖とされ、兵法は別名孫呉の術とも呼ばれる。

○『「戲考」』「上海游記」「十 戲臺(下)」にも現れるこれは、王大錯の編になる全40冊からなる膨大な脚本集(19151925刊)で、梗概と論評を附して京劇を中心に凡そ六百本を収載する。

○「兵機」は戦略・戦術の意。

○「董家山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『金蓮は、容姿、武勇ともに傑れた女傑。領主である父の死後、家臣と山に籠り山賊となり、一少年を捕虜とする。彼を愛して結婚を強要、その後旧知の間柄とわかり結ばれる』というストーリー。

○「轅門斬子」は「えんもんざんし」と読む。別名「白虎帳」。野村伸一氏の論文「四平戯――福建省政和県の張姓宗族と祭祀芸能――」(PDFファイルでダウンロード可能)によると、『宋と遼の争いのなか、楊延昭は息子の楊六郎(宗保)を出陣させる。ところが、敵の女将軍穆桂英により敗戦を強いられ、楊宗保は宋の陣営に戻る。しかし、父の楊延昭は息子六郎が敵将と通じるという軍律違反を犯したことを理由に、轅門(役所の門)において、息子を斬罪に処するように指示する。/そこに穆桂英が現れる。そして楊延昭の部下を力でねじ伏せ、楊六郎を救出する。こののち女将軍穆桂英と武将孟良の立ち回りが舞台一杯に演じられる。』(改行は「/」で示し、写真図版への注記を省略、読点を変更した)とあり、岩波版新全集の山田俊治氏の注解では、宋代の物語で、穆桂英は楊宗保を夫とし、楊延昭を『説得して、その軍勢に入って活躍する話』とする。題名からは、前段の轅門での息子楊宗保斬罪の場がないとおかしいので、野村氏の平戯の荒筋と京劇は同内容と思われる。

○「雙鎖山」岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『宋代の物語。女賊劉金定は若い武将高俊保へ詩をもって求婚、拒絶されて彼と戦い、巫術を使って虜にし、山中で結婚する』とある。

○「馬上縁」加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、唐の太宗の側近であった武将薛仁貴(せつじんき)の息子薛丁山が父とともに戦さに赴くも、敵将の娘の女傑樊梨花に一目惚れされてしまい、無理矢理夫にされてしまう、とある。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、二人は前世の因縁で結ばれており、梨花はやはり仙術を以って丁山と結婚を遂げるとある。

○「胡適」は「こせき」(又は「こてき」とも)(Hú Shì  ホゥ シ 18911962)。中華民国の学者・思想家・外交官。自ら改めた名は「適者生存」に由来するという。清末の1910年、アメリカのコーネル大学で農学を修め、次いでコロンビア大学で哲学者デューイに師事した。「上海游記」「六 域内(上)」の「白話詩の流行」の注でも記したが、1917年には民主主義革命をリードしていた陳独秀の依頼により、雑誌『新青年』に「文学改良芻議」をアメリカから寄稿、難解な文語文を廃し口語文にもとづく白話文学を提唱し、文学革命の口火を切った。その後、北京大学教授となるが、1919年に『新青年』の左傾化に伴い、社会主義を空論として批判、グループを離れた後は歴史・思想・文学の伝統に回帰した研究生活に入った。昭和6(1931)年の満州事変では翌年に日本の侵略を非難、蒋介石政権下の1938年には駐米大使となった。1942年に帰国して1946年には北京大学学長に就任したが、1949年の中国共産党国共内戦の勝利と共にアメリカに亡命した。後、1958年以降は台湾に移り住み、中華民国外交部顧問や最高学術機関である中央研究院院長を歴任した(以上の事蹟はウィキの「胡適」を参照した)。芥川龍之介はこの北京滞在中に胡適と会談している(芥川龍之介「新芸術家の眼に映じた支那の印象にその旨の記載がある)。

○「四進士」恐らく4人の登場人物の数奇な運命を描く京劇。岩波版新全集の山田俊治氏の注解によると、『明代の物語で、柳素貞が夫の死後身売りされ、商人と結ばれ、彼女を陥れた悪人を懲す話』で、外題にある四人の同期に科挙に登第した進士は、一人を除いて悪の道に入ってしまうといった『複雑な筋に比して、正邪が明確で、情節共に面白く、旧劇中の白眉と胡適が推称した』と記す。

 

――最後に。この「彼女」は誰(たれ)よりも美しい!

 

・「楊小樓」(Yáng Xiáolóu ヤン・シィアオロウ 18771937)、本名楊嘉訓は京劇武生(立ち回りを主とする武将・侠客の男性役で地声を使用)の名優。梅蘭芳・余叔岩とともに当時の京劇界の「三賢」の一人とされ、また「武生宗師」として京劇の正統的武生としての『楊派』を創始した。芥川が辻の掛け声の段で後掲する「三国志演義」の「長坂坡」の趙雲や、梅蘭芳と共演した名演「覇王別姫」の項羽が当り役であった。因みに岩波版新全集の細川正義氏の注解では『花旦(なまめかしい女性にふんする女形)の名優』と注するが、これは行者が大立ち回りの末に嬌声を上げて絶命する、楊小樓にとってとんでもない誤注となっている。

・「東安市場」北京最大の繁華街、東城王府井大街路の東長安門に面した大市場。現在は地下で繋がるランドマーク新東安市場に拡張され、2008年にはお洒落に「北京 apm」(am から pm までの意で夜の方に重点を置いた新しいスタイルのデパート・プロジェクトの名)と改名している。

・「吉祥茶園」王府井金魚胡同にあった老舗の劇場。1990年代後半に取り壊されたが、2001年に再建が始まり、現在、再び「吉祥戯院」として営業している。

・「余叔岩」(Yú Shūyán ユィ シゥイェン 18901943)本名余第祺は中華民国初期の老生(髭を付けた中高年の男性役で地声を使用)の名優「四大須生」(余叔岩・馬連良・言菊朋・高慶奎)の一人(「須生」は京劇で顔に隈取をせず髭をつけている役を言う)。

・「尚小雲」(Shàng Xiáoyún シァン シィアオユィン 18991976)本名尚徳泉は名花旦。若い頃は武生を学んだが、後に花旦となった。後に自身の劇団も結成したが、その芸風は武生経験を生かし、武功に優れた列女や貞操を堅固する節婦役を得意とした。後年は後進京劇俳優の指導育成にも力を注いだ。

・「前門外の三慶園」「前門外」は北京正陽門の大柵欄を言う。ここは古くから芝居小屋の並ぶ地域であったが、その中でもここにあった三慶園は老舗であった。

・「醉顏酡たる」「酡」は酒に酔って顔が赤らむさまを言う語。

・「芭蕉扇」唐扇の一種。単子葉植物綱ショウガ亜綱ショウガ目バショウ科バショウ Musa basjoo の葉鞘で作った円形のもの。

・「樊半山」(Fán Bànshān ファン パンシァン 18461931)本名樊増祥。樊山は号。清末から中華民国初期の著名な文人。秦剛氏の「芥川龍之介が観た 1921年・郷愁の北京」では、『生涯にわたって日常茶飯事的に詩を作り、詩作3万首、駢文百万言を残した当代きっての詩宗であった。民国時代には遺老として閑居し、詩酒と観劇を嗜む晩年を送った。』と事蹟が綴られ、『劇場というもっとも市井的な空間において、昔ながらの旧派文人の悠々と観劇する一瞬の横顔から、芥川は中国の伝統的な詩文精神の一端を垣間見たのである。』と結ばれている。

・「當年の醉李白」天馬空を翔ぶが如き飄々とした文士樊半山(当時75歳)を見て、酒好きであった酔った詩仙李白の面影を見た語。もし半山に囁いたら、きっと呵呵大笑、この痩身の有為の日本人青年作家と酒を交わしたに違いない。芥川よ、惜しかったね!

・「疎髯」まばらに生えたひげ。

・「揚州の鹽務官高洲太吉氏」の「鹽務官」は鹽務署の署長。中国では製塩は漢の武帝以来(当時は匈奴との戦乱による財政再建のため)、中華民国に至るまで官営であり、その産塩や品質の管理・個人製塩や盗難の防止・販売流通・塩に関わる徴税その他塩に関わる一切の行政権を掌る役所を塩務署と称した。「高洲大吉」は高洲太助の誤り。中文個人ブログ「三風堂」の「日本人高洲太助在揚州」(元は簡体字表記)に本篇の記載も含めて詳細な記事が載り、そこに「高洲太助」と明記、現在、揚州にある「萃園」という庭園がこの「高洲太助」なる人物の旧居であるらしい。更に、国立公文書館アジア歴史資料センターの検索をかけると52件がヒットし、明治391906)年に「清国杭州駐在領事高洲太助」宛委任状、明治401907)年に「清国長沙駐在領事高洲太助」宛委任状、ここや京都大学東南アジア研究センター『東南アジア研究』18巻3号(Dec-1980)中村孝志『「台湾籍民」をめぐる諸問題』(リンク先はHTMLバージョン)という論文の中にも、明治431910)年1月・12月・翌1911年1月附で日本の台湾領有によって生じた台湾籍民についての外務省機密文書が福建省の『福州領事高洲太助』なる人物に示されたことが記されている。この人物は同姓同名で同一人物である可能性が極めて高い。「江南游記」二十三 古揚州(上)を参照。地名の「揚州」についてもそちらを参照されたい。

・「聽花散人」「散人」は一般名詞としては俗世間に捉われず、暢気に暮らす人。また、官に就かない在野の人を言うが、そこから文人墨客が通常は自分の雅号に添えて風狂を自称するのに用いる。ここは恐らく、芥川が辻武雄の号である聽花に添えて、京劇の通人として敬意を表したものであろう。

・『「支那劇五百番」』波多野乾一著、大正111922)年支那問題社刊。

・『「綴白裘」』清代(1823)に成された昆曲集成(旧劇の台詞断片を含む)。玩花主人(かんかしゅじん)及び銭徳増編、共賞斎蔵版刊。1248巻。

・「兩帙」「帙」は和綴本の損傷を防ぐために包む厚紙に布を貼った覆いのことで、和本を数える際の単位。但し、「綴白裘」1248巻と大著であり、芥川が近代の2巻活字本を持っていたと合理的に考えるより、恐らく「綴白裘」全巻で、暗にそれを所持している(かとうかは確認していないが)自身の劇通を誇示しているのである。

・『「中國劇」』辻聴花著、大正9(1920)年順天時報社刊。

・『「支那芝居」』辻聴花著、大正121319231924)年支那風物研究会刊。全2巻。同車の『支那風物叢書』第4編及び6編。

・「順天時報社」北京で発刊された日刊中国語新聞『順天時報』(19011930)の日本人中島真雄なる人物の経営した新聞社。通常のニュース以外に京劇の劇評や俳優関連の記事等が載っていたものらしい。赤字経営で後に日本外務省に売却しているが、彼中島真雄は大陸にあって、ある種の政治的な役割をも担っていた人物と思われる。後の奉天の『満州日報』の創刊者でもあり、私には謂わば、芥川の『支那游記』に見え隠れする無数の、「怪しい中国人」ならぬ「怪しい日本人」の一団の一人に見える。因みに、芥川龍之介の「馬の脚」には実名の新聞名で出る。

・「天公」中国での世界の創造主(神)の意。

・「支那風物研究會」「一 雍和宮」に登場した中野好漢が主催した民俗学的な在野研究組織。月刊の『支那風物叢書』を出版する予定であったが、13編まで出して終わっている(筑摩全集類聚版脚注には6編とあるが、誤り)。

・『「火焰山」』現在の京劇「孫悟空三借芭蕉扇」の古形か。「西遊記」の中でも人気の一場。孫悟空が火焔山の火を消すため、牛魔王の家に芭蕉扇を借りに行くも、牛魔王は不在。懇請する妻の鉄扇姫は、自分の息子が孫悟空との戦いで負けた遺恨から、逆に悟空に対決を挑む。二人の丁々発止の乱闘が見せ場。因みに、私は敦煌へ行き、実際の火焔山を見たが、それは灼熱の実際の熱さ故より、急斜面を穿った水脈の跡がまこと火炎の燃え上がる形に確かに見えた。

・「斉天大聖」孫悟空が作中で名乗った称号。天にも斉(ひと)しい大聖者の意。暴れん坊の悟空を懐柔するために天に召された彼は、最初、与えられた地位が低いことに不満で脱走、仕方なく彼の望むこの不遜な称号を貰って、天の百薬である桃の園の番人になるが、その霊薬たる桃をありったけ食って手の付けられない万能の猿になって、御存知のように自由自在に暴れ回ることとなる。私はこの京劇をテレビで見たことがあるが、悟空役が上手ければ面白い芝居である。私はそれを見ながら、エノケンの孫悟空はやっぱり絶品だったな、などと何処かで思っていた。私はエノケンが大好きである。

・「羅刹女」通常この語は女性の羅刹天(鬼神)を指す普通名詞であるため、専ら「鉄扇公主」(てっせんこうしゅ)または「鉄扇仙」の名で呼ばれる。以下、ウィキの「羅刹女」の「あらすじ」が格好のここの注になるので、そのまま引用する(段落は/で示した)。『第59回「唐三蔵、火焔山に路を阻まれ孫行者ひとたび芭蕉扇を調しとる」から第61回に登場。火焔山より西南に千四五百里もの先にある翠雲山芭蕉洞に住み、火焔山の燃え盛る炎を消すことが出来る秘宝・芭蕉扇を持つ。牛魔王の妻であるが、牛魔王が愛人の玉面公主(正体は玉面狸)を作って芭蕉洞へ帰って来ないため不機嫌を募らせていたところに孫悟空が芭蕉洞を訪ね、火焔山の炎を消すために芭蕉扇を借りたいと頼み込む。ところが鉄扇公主にとって孫悟空は息子である紅孩児の仇であるため、彼女は烈火の如く怒り狂って、追い返そうと二振りの青峰の宝剣をもって襲い掛かる。2人は夕刻まで一騎打ちを続けるも、形勢不利と見た鉄扇公主が芭蕉扇で悟空をあおぎ吹き飛ばしてしまう。/悟空が一晩かかって吹き飛ばされた先は、かつて黄風大王の件で世話になった霊吉菩薩の住む小須弥山であった。悟空から事情を聞いた霊吉菩薩は風鎮めの秘薬「定風丹」を彼に与える。再び芭蕉洞に取って返した悟空は昨日と同じように鉄扇公主を呼び出し、両者は再び一騎打ちを始める。やがてひるんだ彼女は芭蕉扇で悟空をあおぐが、少しも飛ばされる気配が無い。せせら笑う悟空を気味悪がった公主は芭蕉洞に逃げ帰り、堅く扉を閉めてしまった。疲れて喉に渇きを覚えた彼女は、侍女に命じて茶を持ってこさせる。ところが、孫悟空が1匹の虫に化けてお茶に飛び込み、そうとは知らずにお茶を飲んだ鉄扇公主の胃の中で暴れ回ったため鉄扇公主は腹痛に苦しみ、遂にたまりかねて孫悟空に芭蕉扇を渡すと約束するが、その芭蕉扇は偽物であった。/さっそく悟空はそれを持って火焔山に向かうが、偽物であったため逆に火の勢いは強まり、全身に炎を浴び両股の毛まで焦げてしまう。ほうほうの態で引き返してきた彼の前に火焔山の土地神が現れ、公主の夫の牛魔王に頼むよう勧める。しかし悟空が牛魔王を訪ねる途中、玉面公主と偶然いざこざを起こしてしまった為、「俺の妻や妾に無礼を働くとは」と牛魔王とも交渉決裂となってしまった。この後、彼らの間で芭蕉扇をめぐって化けくらべや騙しあいなど、数々の戦いや駆け引きが繰り広げられる。/やがて哪太子たち天将の加勢もあって牛魔王が捕らえられたので、鉄扇公主も観念して悟空に本物の芭蕉扇を渡し、自らも正しい道に入るべく修行を積むために地上を去った。』[やぶちゃん字注:「※」=[口]+(「託」-「言」)。]。

・「牛魔王」悟空とは以前に義兄弟として天界に反逆した仲であったが、後に悟空が三蔵法師の弟子となった際、息子の紅孩児を観音菩薩の弟子にされてしまう等、その恨みから悟空と仇同士となる。

・「一打十萬八千路」悟空が自在に駆使する乗用出来る筋斗雲(きんとうん)のスピードである。ウィキの「觔斗雲」はウィキならではの頗る級に面白い記載となっている。飲用させて頂く(筆者は俗字の「觔」を用いている)『「觔斗」とは「宙返り」の意であり、孫悟空がより基礎的な雲に乗る術を披露した際にとんぼを切って雲に乗ったのを見た仙術の師である須菩提が、適性を判断して特に授けた術。「觔斗雲の術」は108000/1跳び(=宙返り1回)の速さで空を自在に飛ぶ。つまり、この術の使用中は術者は雲の上でとんぼ返りを切り続けることになり、猿の妖仙である孫悟空に実に相応しく、逆に、他の誰にも似つかわしくない術である。当然ながら、西遊記の演劇、ドラマ、映画、漫画、アニメなどのビジュアル化作品において、この設定が忠実に再現された事はほとんどない。京劇においては、斉天大聖が雲に乗る際に宙返りを披露することはこの役での見せ場の一つとされている。西遊記の孫悟空の行動や仕草には、このように実在の猿の行動を観察して取材されたと思われる描写が多い。』『中国の古い「里」は約560mなので、108000里はおよそ6500㎞、宙返り1回を1秒とすると、觔斗雲の速度はおよそマッハ176000、光速のほぼ20%(秒速6万㎞)となる。また、この108000里という距離は、西遊記において唐から天竺への取経の旅の行程距離ともされているが、これは地球一周半の距離であり、中国文学らしい途轍もない誇張である。』世の注なるもの、こんな記載を心掛けたいもの。学校の授業もこうなれば、みんな聴いてくれるはず。因みに「一打」の「打」は、この説明にある、雲の上でとんぼ返りを「打つ」ことの数詞、若しくは「トンボを切る」という動作の代動詞的数詞である。

 

・「鬼門道」中国の舞台の登退場口の元曲等に於ける古称。役者の退場(死ぬ)の意を掛ける。加藤徹氏の論文「宗教から初期演劇へ」の中の「初期演劇の気鳴楽器中心主義は、招魂儀礼のなごり」に、これがただの洒落でないことが説明されている。該当部分を引用させて頂く。

[引用開始]

 初期演劇の劇音楽以外でみると、祭礼音楽(特にその送葬音楽)、軍楽なども、世界的に気鳴楽器中心主義である。筆者は、ここに問題を解く鍵があると考える。これら弦鳴楽器を排除する傾向の強い音楽には、みな、宗教の影がさしているのである。

 初期演劇の本質は「疑似再出生体験」であった。中国劇では、役者が舞台に登場するときの出入口は、その名もずばり「鬼門道」と呼ばれていたが、その「幽霊の出入口」から死者を現世に一時的に復活させるために、劇音楽による「疑似再出生体験」の演出作業が行われたのである。

 打楽器は、心臓の鼓動の象徴だった。単旋律による声楽は、産声の再現である。気鳴楽器の音色は、古代人が生命そのものとしてとらえていた呼吸を連想させる。そんな音楽演出において、生命の表象と直接の関係を持たない弦鳴楽器は、邪魔になるだけである。

 一言でいえば、初期演劇が弦鳴楽器を排除する傾向を持つのは、古代の招魂儀礼の技術を継承した結果なのである。死者を冥界から舞台上に迎えるという非日常的体験を、観衆に自然に受け入れさせるためには、それなりの心理的演出が必要だった。

[引用終了]

大変、説得力のある説である。そこで、はたと思った。辜鴻銘先生にならって言うと――死の門は鬼門、生の門は陰門――

 

・「大殺」大立ち回り。殺陣(たて)の見せ場。

 

・『「胡蝶夢」』関漢卿(かんかんけい)作の清代の戯曲。「荘子」の「胡蝶の夢」をパロディ化した雜劇。私は本篇を読んで、この話、どこかで読んだという気がしていた。思い出した。これは明代に成立した白話小説「今古奇観」に所収する「荘子休鼓盆成大道」を元としている。「荘子休鼓盆成大道」の梗概を記すと、荘子は妻の田氏を誠意を試さんとして、仙術で仮死状態になってその荘子の魄を棺に横たえる。別に荘子の魂は分身の術によって美少年に変じて楚の王の子孫と称して田氏を弔問する。彼を見た田氏は忽ち少年に恋情を起こす。青年が不治の病と聞くや、荘子の柩を破壊して、荘子の遺骸からその妙薬たる人の脳を取り出して青年に与えようとした途端、荘子が柩から立ち上がって一喝、田氏は恥ずかしさのあまり縊死する、というストーリーで全くと言ってよい程、同じなのである。

 この、荘子が仮死して、妻が嘆くという設定自体は、「荘子」の「至楽第十八」、荘子が妻を失った際の、有名な次のエピソードの逆パロディでもある。

 

莊子妻死、惠子弔之、莊子則方箕踞鼓盆而歌。惠子曰、「與人居、長子老身、死不哭亦足矣。又鼓盆而歌、不亦甚乎。」莊子曰、「不然。是其始死也、我獨何能無概然。察其始而本無生、非徒無生也、而本無形。非徙無形也、而本無氣。雜乎芒芴之間、變而有氣、氣變而有形、形變而有生。今又變而之死。是相與爲春秋冬夏四時行也。人且偃然寢於巨室、而我噭噭然隨而哭之、自以爲不通乎命、故止也。」

 

○やぶちゃんの書き下し文

荘子の妻死す。惠子之を弔す。荘子は則ち方に箕踞(ききよ)し盆を鼓(こ)し、而して歌へり。惠子曰く、

「人と與(とも)に居りて、子を長(そだ)て身を老いしむるに、死して哭せざるは亦足れり。又、盆を鼓して歌ふは、亦甚だしからずや。」

と。荘子曰く、

「然らず。是れ其の始めて死するや、我獨り何ぞ能く概然たること無からんや。其の始めを察するに、而(すなは)ち本(もと)、生、無し。徒(ただ)生無きのみに非ず、而ち本、形、無し。徒(ただ)形無きのみに非ず、而ち本、氣無し。芒芴(ばうこつ)の間に雜(まじは)りて、変じて氣有り。氣、變じて形有り。形、變じて生有り。今、又、變じて死に之(ゆ)くのみ。是れ相與に春夏秋冬の四時の行(かう)を爲すなり。人且に偃然(えんぜん)として巨室(きよしつ)に寢ねんとするに、而も我、噭噭然(けうけうぜん)として、随ひて之を哭するは、自ら以て命(めい)に通ぜずと爲す。故に止(や)めたるなり。」と。

 

○やぶちゃんの現代語訳

 荘子の妻が死んだ。友人の恵子が弔問に訪れてみると、荘子はだらしなく足を崩して胡坐をかき、土の瓶(かめ)をほんほん叩いて拍子をとりながら、楽しそうに歌なんぞを歌っている。恵子は憤慨して、

「夫婦として共に暮らし、二人して子も立派に育て上げ、偕老同穴の睦まじい仲であったのに、その妻がこのように急死しながら慟哭しないというのは、それだけでも不人情と言うに十分である! 加えて、あろうことか、瓶をのほほんと叩いて楽しく歌を歌うとは! 余りに酷(ひど)いと言わざるを得ん!」

 すると、荘子は徐ろに答えた。

「そうではないのだよ。妻が亡くなったその折、どうして深い嘆きが私を襲わなかったなどということがあろう! 私は泣かずにはおられなかったよ。――しかし君、考えてみるがよい。総ての始まりというものを考察してみれば、本来、「生」というものは存在しなかった。否、「生」がなかったばかりではない、「形」もなかったのだ。否、元来、「形」もなかったばかりではない、「形」になるべき元素(エレメント)としての「気」さえもなかったのだ。混沌(カオス)の渾然一体の原初の玄妙な状態から、物化という下らぬ変化が起こって「気」が生じ、「気」が変じて「形」となり、「形」が変じて「生」となっただけのことである。そうして――妻の死――それは今、また、たわいのない変化をして「死」へと帰って行ったに過ぎないのだよ。――それこそ正に春夏秋冬の四季が繰り返し巡ってくる「自然」の自然な流れと同じことを繰り返しているということだ。――その「自然」という壮大な悠久のこの大自然という「部屋」の中にあって、人が安らかな眠りにつこうとしている――それだのに、大声を張り上げて泣き叫ぶというのは、どう考えても「自然」の摂理に反している――私はそれを知ったのだ。だから私は泣き叫ぶのをやめたのだ。」

と。

 

更に、加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」によれば、『新中国成立後は淫戯として上演禁止になったが、外国人の間では評価が高く、例えばアメリカの舞台芸術高級研究所(Institute for Advanced Studies in Theater Arts)では、A・C・スコット教授の指導のもと、京劇版『胡蝶夢』をアメリカ人俳優を使って公演して好評を博した(一九六一)。』とある。

 

・「それから目ばかり大いなる美人の莊子と喋喋喃喃するはこの哲學者の細君なるべし」言わずもがなであるが、ここは「それから、目ばかりが大きい美人で」(「の」は同格の格助詞)、「莊子と楽しげに会話を交わしている美人は、この哲學者の細君であるに違いない」の意。荘子が眼が大きい才人な訳ではない。

・「六月の天」芥川龍之介の北京滞在は6月11日(又は14日)~7月10日であるが、本篇冒頭の注で推測したように、本篇の経験はその6月19日前後と考えられ、正しく「6月の空、季節」というに相応しい。

・「火取蟲」灯火に集まってくる夜行性の昆虫の総称。子役の演技のなさ、可愛げのなさに、華麗な胡蝶ならぬ、おぞましい大きさの愚劣極まりない蛾である、と言いたいのであろう。確かにこれでは幼稚園か小学校の学芸会のようではある。

 

・「楚の公子」荘子は宋の出身であるが、楚の威王に宰相を懇請され、けんもほろろに拒絶するという「秋水第十七」の以下の著名なエピソードに基づくか。

 

莊子釣於濮水。楚王使大夫二人往先焉曰、「願以竟累矣。」莊子持竿不顧曰、「吾聞楚有神龜、死已三千矣。王巾笥而藏之廟堂之上。此龜者、寧其死爲留骨而貴乎。寧其生而曳尾於塗中乎。」二大夫曰、「寧生而曳尾塗中。」莊子曰、「往矣。吾將曳尾於塗中。」

 

○やぶちゃんの書き下し文

 莊子、濮水(ぼくすい)に釣す。楚王、大夫(たいふ)二人をして往かしめ、先(みちび)かしめて曰く、

「願はくは竟内(けいだい)を以て累(わづら)はさんことを。」

と。莊子、竿を持ちながらにして顧みずして曰く、

「吾れ聞く、楚に神龜有り、死して已に三千、王、巾笥(きんし)して之を廟堂の上に藏すと。此の龜は、寧ろ其の死して骨を留めて貴(たふと)ばるることを爲さんとするか、寧ろ其の生きて尾を塗中(とちゆう)に曳かんとするか。」

と。二大夫曰く、

「寧ろ生きて尾を塗中に曳かん。」

と。莊子曰く、

「往け。吾れ將に尾を塗中に曳かんとす。」

と。

 

○やぶちゃんの現代語訳

 荘子は濮水の畔りで釣りをしていた。丁度その時、楚の威王は二人の重臣を遣わして、招聘させようとした。

「どうか、国内(くにうち)のすべてのことを、貴方に委ねたい――宰相としてお呼びしたい――との王のお言葉です。」

と。しかし、荘子は釣竿を執ったまま、振り返りもせずに、こう訊ねた。

「――聞くところによると、楚の国には神霊の宿った亀がおり、かれこれ死んでから、とうに三千年、王はそれを絹の袱紗(ふくさ)に包んで厳かな箱(ケース)に収め、祖霊を祭る最も神聖な霊廟殿上に大事にお守りになられているらしいのう。――さても、お主ら、この亀の身になって考えて見よ――亀は自ら、殺された上にただ甲羅のみを残して、尊崇されることを望むであろうか? それとも――ほれ、見るがよい、この水辺に亀がおる――生き永らえて、このように自由気儘、泥の中に気持ちよく尾を引きずって、遊ぶことを望むであろうか?」

と。二人の重臣は口を揃えて答えた。

「それは、やはり、生き永らえて泥の中に尾を引きずって遊ぶことを望むものと存知ます。」

すると荘子はきっぱりと答えた。

「帰られい。儂もまた、正に泥の中に尾を引きずって生きて行こうとする者じゃて、の。」

と。

 

「公子」は本来は貴族の師弟の意であるから、威王の名代でやってきた貴族、王家の血筋を引く貴族という設定か。更に蛇足すれば、後述される脳味噌の話も、私には、芥川が「江南游記」「二 車中(承前)」で『腦味噌の焦げたのは肺病の薬だ』と語る人肉食や人血饅頭(マントウ)の話よりも、実は私の大好きな魯迅も「起死」でインスパイアした「至楽第十八」の有名な以下の話と何故かイメージがダブるのである。

 

莊子之楚、見空髑髏。髐然有形。撽以馬捶、因而問之曰、「夫子貪生失理、而爲此乎。將子有亡國之事・斧鉞之誅、而爲此乎。將子有不善之行、愧遺父母妻子之醜、而爲此乎。將子有凍餒之患、而爲此乎。將子之春秋故及此乎。」於是語卒、援髑髏、枕而臥。夜半、髑髏見夢曰、「子之談者似辯士、視子所言、皆生人之累也。死則無此矣。子欲聞死之乎。」莊子曰、「然。」髑髏曰、「死、無君於上、無臣於下。亦無四時之事、從然以天地爲春秋。雖南面王樂、不能過也。」莊子不信曰、「吾使司命復生子形、爲子骨肉肌膚、反子父母・妻子・閭里知識、子欲之乎。」髑髏深矉蹙曰、「吾安能棄南面王樂而復爲人間之勞乎。」

 

○やぶちゃんの書き下し文

 莊子楚に之(ゆ)くに、空髑髏(くうどくろ)を見る。髐然(けうぜん)として形有り。撽(う)つに馬捶(ばすい)を以てし、因りて之に問ふて曰く、

「夫れ、子は生を貪りて理を失ひ、而して此れと爲れるか。將(あるひ)は、子に亡國の事(こと)・斧鉞(ふえつ)の誅有りて、而して此れと爲れるか。將は、子に不善の行ひ有りて、父母妻子の醜を遺さんことを愧(は)ぢて、而して此れと爲れるか。將は子に凍餒(とうだい)の患(うれ)ひ有りて、而して此れと爲れるか。將は子の春秋、故より此れに及べるか。」

と。是に於いて語り卒(をは)り、髑髏を援(ひ)きて、枕して臥す。

 夜半、髑髏、夢に見(あら)はれて曰く、

「子の談は辯士に似るも、子の言ふ所を視れば、皆生人の累(わづら)ひなり。死すれば則ち此れ無し。子、死の説を聞かんと欲するか。」

と。莊子曰く、

「然り。」

と。髑髏曰く、

「死、上(かみ)に君無く、下(しも)に臣無し。亦四時の事無く、從然(しやうぜん)として天地を以て春秋と爲す。南面の王の樂しみと雖も、過ぐる能はざるなり。」

と。莊子信ぜずして曰く、

「吾れ、司命をして、復た子の形を生じ、子の骨肉肌膚を爲(つく)り、子の父母・妻子・閭里(りより)の知識に反(かへ)せしめんとす、子は之を欲するか。」

と。髑髏、深く矉蹙(ひんしゆく)して曰く、

「吾れ安くんぞ能く南面の王の樂しみを棄てて、復た人間(じんかん)の勞を爲さんや。」

と。

 

○やぶちゃんの現代語訳

 ある時、荘子は楚の国への旅の途中、道端に野ざらしになった空ろな髑髏(しゃれこうべ)を見つけた。カサついて光沢もないが、曲がりなりにも人ひとり分の欠けのない髑髏である。手にした馬の鞭でそれを軽く叩きながら、荘子は髑髏に語りかけた。

「御仁、――一体、貴方は、生を貪って道理を踏み外し、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、己が国の滅亡を目の当たりにし、戦場で切り刻まれて、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、悪事を働いてしまったがため、それで父母や妻子にまで恥を残すことになるのを羞じて、かくなり果てたのか――はたまた、貴方は、私のような旅の途次、餓凍の災難に遭遇し、かくなり果てたのか――はたまた、貴方の寿命は、もとよりここまでのものでしかなかったから、かく成ったのか――」

――語り終わった荘子は、この髑髏を引き寄せると、それを枕にして横になった。――

 その夜半のことである。――

 荘子の夢にその髑髏が現れると、こう語りかけてきた。

「――お主(おぬし)の語りは、美事な弁士のようじゃった。――しかし、お主の言うこと、よおく考えて見るがよい、それはのう、皆、生きている人間、この俗世というものの患いに過ぎぬのじゃ。――死んでしまえばそんなものは、総てなくなる。――お主、死の世界の話を聞きたいかね?――」

荘子は

「如何にも。」

と応えた。髑髏は語る。

「――さても、死の世界には、上に君主も下に臣下もない、四季の区別もない、ただただ心が遙か無限の彼方に広がって悠久の天地と一体となり、その永遠の時間を以て四季としている。――この楽しさは、人の世の南面する王者の楽しみと雖も、なかなか、この至福には及びもつかぬものじゃわい――」

 荘子は、しかし、聴きながら、なお信じかねて口を挟んだ。

「――御仁よ、――私は仙術を心得ておる、――だから私は、寿命を司る地獄の司命に乞うて、御仁の魄たる生身の肉体を蘇生させ、御仁を元の父母や妻子、故里の友どちのもとへとお帰ししようと思うておるのだが、――御仁は、それを望まれるか?」

すると、髑髏は激しく顔を歪め、

「――愚かな!――何故に、儂が南面の王者に過ぐる愉楽を捨て、疲勞と倦怠とそうして又不可解な、下等な、退屈な人生という馬鹿げた苦痛を、もう一度繰り返すことを選ぶはずが、どうしてあろう!――」

と、答えた――かと思うた、その時――荘子は、先ほどと同じ野中に、夜露にしとど濡れて髑髏を枕にしているたった一人の自分を見出したのであった。――

 

因みに私は荘子が大好きなのである。――なお、上の訳のエンディングには仕掛けがある。芥川ファンなら一目瞭然、しかし、掉尾はお分かりか? ハーン……(ヒント:私の電子テクストに両方とも、あるよ)

 

・「好(ハオ)!」“hǎo!”は「いいぞ!」「上手い!」「千両役者!」という掛け声。

・「匹」対等のもの。並ぶもの。

・「長坂橋頭蛇矛を横へたる張飛の一喝」「三国志」の中でも有名な場面で、京劇でも人気のシーン。ウィキの「張飛」の該当箇所から引用する。『208年、荊州牧・劉表が死ぬと、曹操が荊州に南下する。曹操を恐れた劉備が妻子も棄てて、わずか数十騎をしたがえて逃げ出すという有様の中、張飛は殿軍を任され、当陽の長坂において敵軍を迎えた(長坂の戦い)。張飛は二十騎の部下とともに川を背にして橋を切り落とし、「我こそは張飛。いざ、ここにどちらが死するかを決しよう」と大声でよばわると、曹操軍の数千の軍兵はあえて先に進もうとはせず、このために劉備は無事に落ち延びることが出来た』。「当陽の長坂」とは、荊州(現・湖北省)南郡当陽県の長坂坡(ちょうはんは)。「蛇矛」は蛇のように長い矛のこと。

・「惘れて」「惘」(音ボウ・モウ)は本来は、ぼーっとする、うっとりする、ぼんやりするの意であるが、国字として、あきれる、ことの意外なさまに驚くの意が生まれた。

・「不准怪聲叫好」訓読すれば「怪聲(くわいせい)好(かう)と叫(よ)ぶことを准(ゆる)さず」で、「奇矯な発声で『好(ハオ)!」』と掛け声を掛けてはならない」の意。

・「アナトオル・フランス」Anatole France アナトール・フランス(18441924)はフランスの小説家・批評家。本名 Jacques Anatole François Thibault ジャック・アナトール・フランソワ・ティボー。1921年ノーベル文学賞受賞。芥川が敬愛した作家で、若き日には彼の“Balthazar”(1889)を『新思潮』(大正31914)年)に翻訳しており(題名「バルタザアル」)、「侏儒の言葉」ははっきりと“Le Jardin d'Épicure”「エピクロスの園」(1895)を意識して書かれている。

・「印象批評論」既成の一般的普遍的に定まっている評価規準を排して、読者個人が読んだ際の主観的好悪や感懐を中心にして行われる芸術批評の一方法。以下、「日本大百科全書」の船戸英夫氏の「印象批評 impressionistic criticism」記載を全文引用しておく。

芸術作品が個々の批評家の感性や知性に与えた印象または感動によって評価する批評。これは19世紀後半から20世紀にかけて行われた批評方法であり、アリストテレスの『詩学』、ホラティウスの『詩論』としてその系譜に属する18世紀の批評があまりにも方則を厳守する態度であったのに対して、個性的な想像力や感性を重視した批評である。とはいっても軽薄な恣意(しい)的、思い付き的な批評ではなく、哲学的、審美的思考を長く続けたうえでの、また多くの作品に触れたうえでの自己裁断であって、フランスではサント・ブーブ、アナトール・フランス、イギリスではコールリッジ、ハズリット、マシュー・アーノルドなどによる批評がそれであり、とりわけ世紀末における唯美主義、絵画の印象主義などによってウォルター・ペイターやオスカー・ワイルドに完成をみた。20世紀の「新批評」はこれに対する科学主義だが、批評家の主観的印象を重視するこの立場は依然有力であり、日本では小林秀雄の批評にその優れた例をみる。』

因みに、私は小林秀雄が大嫌いである。

・「梆子」中国劇で用いられる舞台楽器で、竹製の拍子木の一種。

・「秦腔」は現在の陝西省・甘粛省・青海省・寧夏回族自治区・新疆ウイグル族自治区等の西北地区で行われている最大最古の伝統劇の名。京劇を中心としたあらゆる戯形態に影響を与えたことから「百種劇曲の祖」と呼ばれる。前掲のナツメの木で作った梆子を用いることから「梆子腔」という呼び方もある。その歌曲は喜怒哀楽の激しい強調表現を特徴とする(以上は「東来宝信息諮詢(西安)有限公司」の公式HPの「西安・陝西情報」→「民間藝術」にある「秦腔」の記載を参照した)。]

 

以下、4名の昆曲の俳優の注を設けたが、その多くは加藤徹氏のHPの「芥川龍之介が見た京劇」の記載を参照し、各人のほぼ全文を引用したことをお断りしておく(『 』(加藤徹氏)が直接引用部)。著作権を尊重して注の全文引用は避ける私がそうしたのは、実は私なりに意味がある(安易にコピー・ペーストしている訳ではないということである)。それは注の最後に記す。

 

・「韓世昌」(Hán Shìchāng ハン シチァン 1897 or 18981977)。崑曲の名花旦。『「北崑」すなわち北中国の崑曲の名優で、河北省高陽県河西村の人。『胡蝶夢』で荘子の妻の役を演じた。彼は貧農の家に生まれ、幼時から科班で崑曲を、陳徳霖に京劇を習った。芥川が自殺した翌年の二八年十月に日本公演を果たす。日中戦争中は舞台を自粛し、京劇女優の言慧珠や朝鮮舞踏家の崔承喜など若手の教育に専念。新中国成立後は、北方崑曲劇院院長を勤め、六〇年に中国共産党に入党。政治協商会議委員や中国戯劇家協会理事など、要職を歴任した』(加藤徹氏)。この昭和3年の彼の日本公演は満鉄肝いりの情宣活動の一環で、韓世昌はそれに利用されたのであった。

・「陶顕亭」陶顕庭(Táo Xiăntíng タオ シィエンティン 18701939)の芥川の誤記。『北崑の俳優、河北省安新県の人。『胡蝶夢』で荘子を演じた。孫悟空ものなどで人気を保ち続けたが、三七年に日中戦争が始まると、髭を伸ばし、日本人のために舞台に立つことを拒否した。三九年秋、天津で水害にあって困窮。その直後、故郷の家が日本軍の侵攻によって消滅したことを聞き、にわかに病を発して倒れ、その翌日に急死。』(加藤徹氏)。

・「馬夙彩」馬鳳彩Mă Fèngcăi マ フェンツァイ 18881939)の芥川の誤記。『北崑の俳優で、韓世昌と同じ村の出身。『胡蝶夢』で楚の公子を演じた。二八年には韓世昌とともに日本公演に参加。三七年、天津で崑曲の科班の教師となるが、ほどなく日中戦争が勃発して科班は解散。彼は生徒が故郷に帰るのを護送し、そのまま郷里で病没。』(加藤徹氏)。文中の「科班」は昔の京劇俳優養成所のこと。

・「老胡蝶」私はこの「胡蝶夢」を見たことがないのでこの配役が如何なるものか、不詳。ご存知の方、どうかお教えあれ。

・「陳榮會」(Chén Rónghuì チエン ルンホェイ 18731925)『北崑の俳優、河北省三河県の人。『胡蝶夢』で老胡蝶を演じた。芥川が舞台を見た四年後に病死。』(加藤徹氏)。

 

附記:加藤徹氏は、「芥川龍之介が見た京劇」のこれらの記載の直前に、私には正に甚だ共感出来る感懐を述べておられる。それを引用してこの極めて長大となった本注の結びとする。

 

[引用開始]

『胡蝶夢』に関心を持った芥川の深層心理では、もしかすると、このときすでに、六年後の自殺にむけての時限スイッチが入っていたのかもしれない。

 芥川が『支那游記』で名前をあげている『胡蝶夢』の出演者四人のうち、二五年に死んだ一人をのぞく三人が、三七年からの日中戦争で被害を受けた。

[引用終了]

 

補足すれば、本「北京日記抄」冒頭注で述べた通り、本作自体はもっと後年、恐らく大正141925)年5月中の執筆になる。だとすれば、或る意味、ここは――2年後の自殺にむけての時限スイッチはもう僅かに秒針を動かすばかりであった――と言い換えてさえ、よいように私は、思うのである――]

 

 

 

       五 名勝

 

 萬壽山(まんじゆざん)。自動車を飛ばせて萬壽山に至る途中の風光は愛すべし。されど萬壽山の宮殿泉石は西太后(せいたいこう)の惡趣味を見るに足るのみ。柳の垂れたる池の邊(ほとり)に醜惡なる大理石の畫舫(ぐわぼう)あり。これも亦大評判なるよし。石の船にも感歎すべしとせば、鐵の船なる軍艦には卒倒せざるべからざらん乎(か)。

 玉泉山。山上に廃塔あり。塔下に踞(きよ)して北京の郊外を俯瞰す。好景、萬壽山に勝ること數等。尤もこの山の泉より造れるサイダアは好景よりも更に好(かう)なるかも知れず。

 白雲觀。洪(こう)大尉の石碣(せきけつ)を開いて一百八の魔君(まくん)を走らせしも恐らくはかう言ふ所ならん。靈官殿、玉皇殿、四御殿(しぎよでん)など、皆槐(えんじゆ)や合歡の中に金碧燦爛(きんぺきさんらん)としてゐたり。次手に葡萄架後(かご)の墓所を覗けば、これも世間並の墓所にあらず。「雲廚寶鼎」の額の左右に金字の聯(れん)をぶら下げて曰、「勺水共飮蓬莱客、粒米同餐羽士家」と。但し道士も時勢には勝たれず、せつせと石炭を運びゐたり。

 天寧寺。この寺の塔は隋の文帝の建立のよし。尤も今あるのは乾隆二十年の重修なり。塔は緑瓦(りよくぐわ)を疊むこと十三層、屋縁(をくえん)は白く、塔壁は赤し、――と言へば綺麗らしけれど、實は荒廃見るに堪へず。寺は既に全然滅び、只(ただ)紫燕の亂飛(らんぴ)するを見るのみ。

 松筠庵(しようゐんあん)。楊椒山(やうせうざん)の故宅なり。故宅と言へば風流なれど、今は郵便局の横町にある上、入口に君子自重の小便壺あるは沒風流も亦甚し。瓦を敷き、岩を積みたる庭の前に諌草亭(かんさうてい)あり。庭に擬寶珠(ぎぼうしゆ)の鉢植ゑ多し。椒山の「鐵肩担道義、辣手著文章」の碑をラムプの臺に使ひたるも滑稽なり。後生(こうせい)、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や。

 謝文節公祠(しやぶんせつこうし)。これも外右(がいいう)四區(く)警察署第一半日學校の門内にあり。尤もどちらが家主(いへぬし)かは知らず。薇香堂(びかうだう)なるものの中に疊山(でうざん)の木像あり。木像の前に紙錫(ししやく)、硝子張(ガラスばり)の燈籠など、他(た)は只(ただ)滿堂の塵埃(じんあい)のみ。

 窑臺(えうだい)。三門閣下に晝寢する支那人多し。滿目の蘆萩(ろてき)。中野君の説明によれば、北京の苦力(クウリイ)は炎暑の候だけ皆他省へ出稼ぎに行き、苦力の細君はその間にこの蘆萩の中にて賣婬するよし。時價十五錢内外と言ふ。

 陶然亭。古刹慈悲淨林の額なども仰ぎ見たれど、そんなものはどうでもよし。陶然亭は天井を竹にて組み、窓を緑紗(りよくしや)にて張りたる上、蔀(しとみ)めきたる卍字(まんじ)の障子を上げたる趣、簡素にして愛すべし。名物の精進料理を食ひをれば、鳥聲頻に天上より來る。ボイにあれは何だと聞けば、――實はちよつと聞いて貰へば、郭公(ほととぎす)の聲と答へたよし。

 文天祥祠(ぶんてんしようし)。京師(けいし)府立第十八國民高等學校の隣にあり。堂内に木造並に宋丞相信國公文公之神位(そうじようしやうしんこくこうぶんこうのしんゐ)なるものを安置す。此處も亦塵埃の漠漠たるを見るのみ。堂前に大いなる楡(にれ)(?)の木あり。杜少陵ならば老楡行(らうゆかう)か何か作る所ならん。僕は勿論發句一つ出來ず。英雄の死も一度は可なり。二度目の死は氣の毒過ぎて、到底詩興などは起らぬものと知るべし。

 永安寺。この寺の善因殿は消防隊展望臺に用ゐられつつあり。葉卷を啣へて殿上に立てば、紫禁城の黄瓦(くわうぐわ)、天寧寺の塔、アメリカの無線電信柱等(とう)、皆歴歴と指呼すべし。

 北海。柳、燕、蓮池(はすいけ)、それ等に面せる黄瓦丹壁(たんぺき)の大淸皇帝用小住宅。

 天壇。地壇。先農壇。皆大いなる大理石の壇に雜草の萋萋(せいせい)と茂れるのみ。天壇の外の廣場に出づるに忽(たちまち)一發の銃聲あり。何ぞと問へば、死刑なりと言ふ。

 紫禁城。こは夢魔のみ。夜天(やてん)よりも庬大なる夢魔のみ。

 

[やぶちゃん注:これは最後の芥川龍之介の中国旅行ハイパー総括北京てんこ盛り、彼にしては、やや安易な印象を与えるアフォリズム風の筆致である。

・「萬壽山」北京の西北西郊外にある山。標高約60m。麓の昆明池の湖畔に沿って、1750年に乾隆帝が母の万寿を祝って築造した離宮があったが、アロー戦争末の1860年に英仏連合軍によって焼き払われた。後に西太后が改修、頤和園(いわえん)と名付けた。

・「西太后」(18351908)清の第9代皇帝文宗(18311861 咸豊(かんぽう)帝)の妃・第10代穆宗(ぼくそう 18561875 同治帝)の母。穆宗及び第11代徳宗(18711908 光緒帝)の摂政となって彼らを実質的な傀儡にし、政治権力を独占した。洋務派による行政近代化改革であった変法自強運動を弾圧、1900年の義和団の乱では、ヨーロッパ列強に宣戦布告する等、一貫して守旧派の中心にあった。

・「畫舫」は装飾や絵・彩色を施した中国の屋形船。遊覧船。但し、この場合は、本物の「船」ではない。

・「玉泉山」北京市西郊にある丘。前掲の頤和園の西。麓に湧水地があり、玉河と呼称し昆明池に注ぐ。古くは紫禁城の太液池に引かれ、北京市民の飲料水でもあった。名称はこの泉による。市民の行楽地となっており、清の第4代皇帝聖祖(16541722 康煕帝)が離宮静明園を造立、第6代高宗(17111799 乾隆帝)の天下第一泉碑があり、後には毛沢東が葬られ、その墓所がある。

・「廃塔」乾隆元年である1736年建立された玉泉山玉峰塔のことであろう。北京の磚塔(せんとう:煉瓦造りの塔。)としては貴重なものであるが、現在は軍事施設内にあり、登頂はおろか、立ち入ることも出来ない。

・「白雲觀」現在の北京西城区白雲路にある道教の総本山。739年の創建で原名は天長観と言ったが、1203年に大極宮と改名。1220年代に元の太祖チンギス・ハンが道士丘処机(11481227)に全土の道教の総括を命じ、彼は大極宮住持に任命され、長春子と号した。1227年、死去した丘を記念して長春宮と改名されている。以後、戦火によって損壊するが、15世紀初頭、明によって重修され、現在の規模となって名も白雲観と改められた。総面積は10,000m²を越える(以上は真下亨氏の「白雲観」のページを参照した)。

・「洪大尉の石碣を開いて一百八の魔君を走らせし」「水滸伝」の巻頭の重要なエピソード。以下、ウィキの「水滸伝」から該当箇所「百八の魔星、再び世に放たれる」を引用する。『北宋は第四代皇帝仁宗の時代、国の全土に疫病が蔓延し、打てる手を尽くした朝廷は最後の手段として、竜虎山に住む仙人張天師に祈祷を依頼するため、太尉の洪信(こうしん)を使者として派遣する。竜虎山に着いた洪信は様々な霊威に遭うが、童子に化身した張天師と会い、図らずも都へと向かわせることが出来た。翌日、道観内を見学する洪信は「伏魔殿」と額のかかった、厳重に封印された扉を目にする。聞けば、唐の時代に、天界を追放された百八の魔星を代々封印している場所で、絶対に開けてはならないという。しかし、これに興味を持った洪信は道士らの制止も聞かず、権力を振りかざして無理矢理扉を開けさせる。中には「遇洪而開(こうにあいてひらく)」という四文字を記した石碑があり、これを退けると、突如目も眩まんばかりの閃光が走り、三十六の天罡星(てんこうせい)と七十二の地煞星(ちさつせい)が天空へと飛び去った。恐れをなした洪信は、皆にこの事を固く口止めして山を降り、都へ戻った。』。この星の生まれ変わりである百八人が後に梁山泊に結集することとなる。

・「靈官殿」道教で最もポピュラーな守護神王霊官を祀る祭殿。通常、中国の道観では山門を入ってすぐにこの霊官殿がある。王霊官は棒状の鞭を振り上げた三眼有髯の威圧感のある神である。

・「玉皇殿」玉皇上帝・天公等と呼ばれる道教の事実上の最高神である玉皇を祭る祭殿。白雲観の中央に位置する。

・「四御殿」白雲観の一番奥に主殿三清殿と共に本殿を構成する祭殿。「経堂易学教室」の「易占トピックス」の「白雲観を訪ねて」によると、本尊は元始天尊を中央に、左に霊宝天尊、右に道徳天尊の三体を配し、三清と呼ぶ。これは老子の「道は一を生じ、一は二を生じ、二は三を生じ、三は万物を生ず」という思想に基づくとされる。『元始天尊は無極、霊宝天尊は太極、道徳天尊は陰陽(天地)と老子を象徴し』、『神像の構成は、仏教の釈迦三尊に似』て『仏教の影響が大きい』。『四御は三清を補助する4体の神々で、北極星や自然を神格化したものが多い。このほか、薬王殿、財神殿、非苦殿のような庶民の福禄寿の願いに応える宮殿もある。』とある。

・「金碧燦爛」鮮やかな緑の中に眩しいばかりに金色・紅色の見物が光を放って輝いているという意味であるが、実はこの「金碧」金碧山水で、中国の絵画用語である。山水画の描法の一つを言う。跡見学園女子大学の嶋田英誠氏の「中国絵画史辞典」の「金碧山水」によると、山石や烟霞等を輪郭線で描き、その中を群青・緑青等を用いて塗り込め、その輪郭線の内側に金泥の線或いはぼかしを加える手法である。唐代に完成、宋代に復興した。復興当時はただ着色山水と呼ばれていたが、北宋末から「金碧」の語が用いられ始めた、とある。

・「葡萄架後」葡萄棚の後ろ、の意。

・「雲廚寶鼎」「うんちゆうはうてい」と読む。

・「聯」これは正に対聯で、書画や彫り物を柱や壁などに左右に相い対して掛け、飾りとした細長い縦長の板状のものを合わせて言う語。佐々木芳邦氏の「コラム・中国雑談」『その18  中国の「対聯」』によれば、本来は春節を祝うものとして飾られ、「春聯」とも言うが、実は対聯と言った場合はもう一枚、その左右の上に貼るものをも含める。向かって右側のものを上聯、左側を下聯、上に張るものを横批と言う。この場合、「雲廚寶鼎」は正に横批相当ということになろう。

・『「勺水共飮蓬莱客、粒米同餐羽士家」』書き下すと「勺水(しやくすゐ)共に飮む蓬莱の客(かく)、粒米同じく餐羽士(さんうし)の家(いへ)」で、意は、「ここで柄杓ひと掬いの霊水を仙人の住む東方海上に浮かぶ蓬莱からやってきた客と分かち合って飲もう、その後のディナーはその羽化登仙の仙人の彼方の家で頂こう」といった意味か。

・「石炭を運びゐたり」ここは勿論、道士の厨房なのであろうが、芥川のこの描写は、もしかすると、ここで一般客相手に食事を供して、営業をしているという事実を受けての表現ではなかろうか。一柄杓(ひとびしゃく)の水と霞なんぞではとっても食っては行けない道士は、せっせと稼ぐために営業用の燃料として石炭を運んでいるというのではなかろうか? 識者の御意見を乞う。

・「天寧寺」北京広安門外にある北魏の孝文帝の時代に建てられた寺院。元末の戦火によって塔を残して亡失した。明代に復興して天寧寺と呼ばれたが、芥川の描写からはその後にやはり寺院は衰退したか。芥川がここに隋の文帝の創建で清の乾隆年間の重修と記す天寧寺塔であるが、ネット上の記載ではもっと古く、南北朝の北魏(386534)の時代に創建されたものである。8角13層で高さ57.8m。北京で現存する最も高い塔として知られる。遼高さ約58m8角形で13層ある。【二〇一三年八月八日追記】T.S.君が撮って贈って呉れた素晴らしい塔とその壁面レリーフを以下に掲げる。





・「隋の文帝」隋の初代皇帝。本名楊堅(541604 在位581604)。前注参照。

・「乾隆二十年」西暦1755年。ネット上の情報では乾隆211756)年の改修とある。

・「紫燕」通常のスズメ目ツバメ科ツバメ Hirundo rustica のこと。現代中国語では「家燕」、この「紫燕」恐らく本邦での燕の異名であろう。黒いことから「玄鳥」とも呼ぶが、ただ黒いのはお洒落じゃないと考えたか。

・「松筠庵」現在の北京市宣武区達智橋胡同にある楊椒山の旧居。松筠庵(しょういんあん)とも言う。楊椒山(15161555)は本名楊継盛、椒山は号。明代の忠臣。現地の解説プレートには『権臣の厳嵩が人民を苦しめていたことに対し、「請誅賊臣書」を上書し厳嵩の「五奸十大罪」を指摘したため嘉靖34年に厳嵩により処刑された。年わずか40歳。その後1787年にここは楊椒山祠と改められる。1895年清政府が屈辱的な下関条約を締結した時、康有為ら200人余りが松筠庵に集まり、国土割譲と賠償に反対し変法維新を求めた。すなわち中国近代史上有名な「公車上書」である。』という記載があると、個人ブログ「北京で勇気十足」氏の「北京 散歩 長椿街、宣武門外大街 后孫公園胡同の安徽会館」にある。

・「君子自重の小便壺」「君子自重」は「紳士ならば遠慮するべし」という意味であるが、こうした但し書きが貼られた上に小便壺が置かれていたとも思えないから、これは芥川の評言ととるべき。

・「諌草亭」楊椒山がここで奸臣厳嵩を弾劾する諫言「請誅賊臣書」を起草上書したとされる四阿。

・「擬寶珠」ユリ目ユリ科ギボウシ属 Hosta の総称。多年草、山間の湿地等に自生。白又は青色の花の開花はやはり夏であるから、咲いてはいない。

・『椒山の「鐵肩担道義、辣手著文章」』書き下すと「鐵肩道義を担ひ、辣手(らつしゆ)文章を著す」で、「鐵の如く堅固な肩に正義の意気を荷い込み、歯に物着せぬ辛辣な筆で諫言弾劾の書を草す」の意。

・「後生、まことに恐るべし。椒山、この語の意を知れりや否や」ここで芥川はかなりねじれた言い方をしている点に注意しなくてはならない。この孔子の「論語」の「子罕 第九」を出典とする故事成句は、よく誤った用事・用法を問う問題として出題される。即ち、孔子の謂うところの意味は、「後世」(後の世の者)ではなく、「後生」(後進の若い者)であり、その若者というのは未知数で、努力次第で驚くべき力量・才能を身につけるかも知れない、だから重々侮ることなく、寧ろ恐るべき存在である、の意である。ところが、この芥川の謂いはこれに全く当て嵌まらない。寧ろ、誤用例であるところの「後世」(後の世の者)は、古人の意気や刻苦勉励を全く理解せず、憂国の士として命を散らした楊椒山の血潮に満ちた魂を記した碑を、日常のランプ台に用いて屁とも思わない庶民(私には若者の映像さえ見えない。このランプを置くのは、高い確率で、孔子がこの話で諭した孔門十哲より遙かに年上の中年のオジサンオバサンである)は、正に恐るべき無知蒙昧の徒である、という意味でしっくりくるのである。芥川はここで確信犯的に誤用こそ真理であったという換喩の暗喩によって逆説を示しているのである。

・「謝文節公祠」「謝文節」(12261289)は本名謝枋得(しゃぼうとく)、南宋の文人政治家。元との戦いに敗れて捕らえられ、南宋滅亡後は山中に隠棲していたが、捕らえられ北京に護送された。その才能を惜しんだフビライ・ハンから慫慂を受けるも節を屈せず、遂に絶食して餓死し果てた。「文章軌範」全7巻の撰者として知られる。「文章軌範」は科挙試の受験生のために韓愈・柳宗元・欧陽修・蘇軾といった唐宋の作家を中心に69編の名文を集成したもの。彼を祀った謝文節公祠なるものは現在のネットでは邦文では掛かってこない。次の「外右四區」がその所在地を示す住所であるが、この地名表示そのものが現在は用いられていないのか、所在不明である。一体、今はどうなっているのであろうか。北京在住の方、御教授を乞う。【二〇一二年七月六日追記】私の中国在住の教え子T.S.君より、以下の報告を受けた。
『先生、謝文節公祠は、宣武区の法源寺近くにある、以下の場所ではないでしょうか。
「从谢公祠的现状看北京历史地段和文物建筑保护的若干难点(上)」(中文)
http://blog.sina.com.cn/s/blog_4cd2ebc7010008lt.html
当該ホームページは、謝文節公祠の保存が比較的難しい背景を分析した上で、この地域が保存される価値を持っていることを述べたものです。さて「外右四区」ですが、北京外城(右京)第四区という意味ではないでしょうか。添付した北京の古い地図をご覧ください(百度の図像検索で出てきたものなので著作権の所在は分かりません)。少々分かりにくいですが、北京城の西南、すなわち黄色に塗られた、向かって左下の地区に、「外四区」と書かれています。ここに謝文節公祠はあります。そして松筠庵も外四区にあります。謝文節公祠が(直前の章の松筠庵と同じく)外右四区にある、という彼の記述に照らしても矛盾は生じません。』以下に、彼の送って呉れた民国二五(一九三六)年の北京全図をこちらに示す。著作者安仙生氏の著作が切れているかどうかは不明であるので、申し出があれば撤去する。


・「薇香堂」「薇」はシダ綱ゼンマイ科ゼンマイ Osmunda japonica 又は同属の仲間を指す。「史記」列伝の冒頭を飾る「伯夷叔斉 第一」によれば、周の武王は父を亡くした直後、暴虐無比な圧政を続ける殷の紂王を伐つために挙兵したが、伯夷(はくい)と叔斉(しゅくせい)の兄弟がそれを止めて、父の葬儀もせず喪の明けぬうちに戦をする者は不孝者であり、暴虐の君主とは言え、臣下の身でそれを弑する者は不忠者であると諫めた。武王は攻略を刊行、美事殷を滅ぼすが、兄弟の言の全きことに心打たれ、招聘するも、伯夷と叔齊は、不義不忠の王の粟(=禄)を食(は)むを潔しとせず、として拒否し、首陽山に隠れ住んで「薇」――ゼンマイやワラビの類――を採って食い、「采薇歌」(以下示す)を作って、遂には餓死して死んだ。この堂の名は、謝文節の自死の志を伯夷叔斉に擬えたものである。

 

 采薇歌

登彼西山兮

采其薇矣

以暴易暴兮

不知其非矣

神農虞夏

忽焉沒兮

吾適安歸矣

吁嗟徂兮

命之衰矣

 

○やぶちゃんの書き下し文

 采薇の歌

彼の西山に登りて

其の薇を采る

暴を以て暴に易へ

其の非を知らず

神農(しんのう) 虞(ぐ) 夏(か)

忽焉として沒しぬ

吾れ 適(まさ)に安くにか歸せん

吁嗟(ああ) 徂(ゆ)かん

命の衰へたるかな

 

○やぶちゃんの現代語訳

 ぜんまい採り

あの西の方 首陽山に登って

そこのぜんまいを採って暮らす

暴力を暴力でねじ伏せて

それが人の道を踏み外していることを知らぬ者よ

あらたかな天地開闢の炎帝神農氏――聖王堯から位を譲られた尊王虞――尊王虞改め舜から禅譲を受けた夏改め賢王禹――

みんな あっというまに はいさようなら

私は 一体 何処(いづこ)へ行けばいいのか? 一体 何処へ去ればよい? いや それはもうあそこしか ない……

ああ さあ 行こう 私の運命も遂に窮まったのだ……

 

・「疊山」謝文節の号。

・「紙錫」飾りとして貼る錫(Sn)の薄い箔を紙に貼付したもの。

・「窑臺」筑摩全集類聚版脚注は一言『未詳。』とし、岩波版新全集の細川正義氏の注解には一言『遊廓。』とある。そうだろうか? そもそもこれは明白な固有名詞として芥川は示しているのである。従って細川氏の言うような一般名詞であろうはずがない。また、不思議なのは細川氏は次の「三門閣下」に注して『悟りを開くには空門、無相門、無作門の三つの解脱門を経るのになぞらえて、寺院の門のことを言う。一門でも三門という。』と記されている。意味が通じない。遊廓の門は亡八の門とでも言う洒落ならまだしも、そもそもこの三門は確かな実在する山門であろう(勿論、細川氏の意図は実際の寺院の門として注しておられるのであるが、それだけに分からない注になっているということである)。この「窑」は「窯」と同じである。ということは、ここに焼物の窯があったことから付いた地名ではないか? と私は推理した。そこでネット検索を続けると簡体字中文サイトの王代昌氏という筆者の「窑台茶館憶当年」という『北京日報』の摘録記の中に『三十年代、陶然亭没有公園、窑台可能是唐代窑留下的址、當然也是一般瓦窑、漸漸變成了土子。』(簡体字の一部を正字に直した)という文字列を発見した。「陶然亭」は以下に示した現在の公園である。私は再三申し上げる通り、中国語は読めない。機械翻訳でも意味不明。これは私の推測がもしかすると当たっているのかしら? 私の力ではココマデダ――誰か手を貸して下されい!【二〇一二年七月八日追記】以下、私教え子で中国在住のT.S.君が、昨日、一昨日の七月六日、ここを訪ねて呉れ、詳細な考証に写真を添えてワード文書に成形した報告を送って呉れた。以下はそのほぼ忠実な再現引用である。なお、彼の報告の表題「手帳  黑窑廠。窑臺。――三門閣」は、私の「芥川龍之介中国旅行関連(『支那游記』関連)手帳(計2冊)」の「手帳7」に出現する芥川龍之介の、本箇所に関わるメモ、
○黑窑廠。窑臺。――三門閣。閣下ひるね人多し。芦。北京のクリイ夏は外省へ出稼ぎに行く。その留守の女房賣淫す(15錢位)。芦長き故人目つかず。
○陶然亭樓上。土塀。遼の經塔。塀外柳。芦。窑臺の茶屋。夏天。天井。竹組み。郭公の聲。窓は麻(青)張り。蔀樣の卍障子。
に拠るもの。

   《引用開始》

2012.7.7

藪野先生

T.S.生


手帳  黑窑廠。窑臺。――三門閣


先生、昨日夕刻、夜行列車で上海に帰任するために北京南駅に向かった私は、少々時間に余裕があったのを幸い、経路上にある陶然亭公園に立ち寄りました。夕立を予感させる生温かくて粘性の高い灰色の靄の中、暫しの探索を楽しみました。(※以下中国語の邦訳は私自身によります)

1 藪野先生による引用文
三十年代、陶然亭還没有公園、窑台可能是唐代燒窑留下的遺址、當然也許是一般瓦窑、漸漸變成了土崗子。
三十年代、陶然亭には未だ公園はなかった。窑台は唐代の焼き窯の遺跡かもしれない。もちろん一般的な瓦焼窯だったのかもしれない。だんだんと土の小山に変わってきたのだ。

2 インターネット上からの引用文①
窑台,有点耳生。但是一提陶然亭公园,就都知道了。其实窑台就是进了陶然亭公园,对面的土山。您可别小看窑台,它在北京可算是老资历了,打唐朝那会儿,它就已经是烧窑的窑厂了。

窑台、少々耳慣れない言葉だ。しかし「陶然亭公園の」といえば、皆さんお分かりだろう。窑台は陶然亭公園に入ったところの正面にある土山だ。たかが窑台だといって馬鹿にしてはいけない。ここ北京にあって、どんなに長い年月そこに存在してきたことか。あの唐朝の頃にすでに焼き窯としてそこにあったのだ。

3 インターネット上からの引用文②
陶然亭公园的窑台,有着聚集放风筝的传统。早在上个世纪三四十年代,梨园名角梅兰芳、尚小云等人就常来公园窑台放风筝。明朝朱棣皇帝曾经在这一带设黑窑厂。窑厂前的小山上建有窑神庙,人们管这座小山叫“窑台”。清朝窑厂衰败,有人自发在窑台上搭凉棚,设茶具,不少游人来这里登高、饮茶、踏青、放风筝,“窑台登眺”逐渐成为南城一处名景。时至今日,来陶然亭放风筝的民俗仍在延续。为了给风筝爱好者提供交流技艺、相互学习的平台,清明节期间,陶然亭公园将推出风筝文化展,分飞禽动物、海洋动物、历史人物、儿童主题四个区域展出大型立体风筝,还将展示八大系列200余只精品风筝。老艺人现场表演风筝扎制,感兴趣的游客也可以一试身手。

陶然亭公園の窑台には人々が集って凧をあげる伝統がある。今を遡る前世紀30~40年代、梨園の名優梅蘭芳、尚小雲などはこの公園の窑台でよく凧あげをしたものだ。かつて明朝の朱棣皇帝はこの辺りに黒窑廠を設けた。そして人々はこの小山を窑台と呼んだ。清朝になり窯が廃れると、窑台の上に日除け棚を設ける者が現れ、茶器など取り揃えた。多くの遊客が集い、高みに登り、茶を飲み、春のピクニックを楽しみ、凧あげをした。そういう中で「窑台の高みで眺めを楽しむ」というのが少しずつ城南の名物のひとつとなっていった。今日でも陶然亭公園の凧あげの風習は続いている。凧愛好者が技や芸を見せ合い、学び合う。清明節には陶然亭公園で凧文化展も開かれる。猛禽・動物類、海洋生物、歴史上の人物、子供というテーマのもと4つのエリアで大型立体凧が展示される。8大系列200余りの凧の一級品だ。技能を持つ者による凧製作のパフォーマンスもある。ご興味を持たれる御仁は是非お試しあれ。

4 小説『魂帰陶然亭』 石評梅(1902~1928)作の一節
过了三门阁,便有一幅最冷静最幽美的图画展在面前,那坚冰寒雪的来侵令我的心更冷更僵连抖颤都不能。下了车,在这白茫茫一片无人践踏,无人经过的雪地上伫立不前。假如我要走前一步,白雪里便要留下污黑的足痕,并且要揭露许多已经遮掩了的缺陷和恶迹。
我低头沉思了半晌,才鼓着勇气踏雪过了小桥,望见挂着银花的芦苇,望见隐约一角红墙的陶然亭,望见高峰突起的黑窑台,望见天辛坟前的白玉碑。我回顾零乱的足印,我深深地忏悔,我是和一切残忍冷酷的人类一样。

三門閣を過ぎると、この上なくひっそりとした奥ゆかしい風景が立ち現れた。そして硬い氷と冷たい雪の襲来に、私の心は更に冷たく硬くなり、震えることさえできなくなった。車を降りる。誰も足を踏み入れ、通ったことのない茫々と白く広がる雪面。私は前に進むことができず立ち尽くした。もし一歩でも踏み出すなら、白い雪の肌に黒い汚れた足跡を残し、これまで覆い隠してきた傷や悪業を露わにしてしまう。
私は暫く俯いてじっと考えていたが、漸く勇気を出し、雪を踏んで小橋を渡った。そして白銀の花をつけた蘆を、そして赤い壁を僅かに見せる陶然亭を、高く突き出た黒窑台を、そして天辛墳の前の白玉碑を望み見た。私は私の乱れた足跡を振り返り、深く深く懺悔した。私も残忍冷酷な人類と同じなのだ。

5 参考写真

写真①:陶然亭公園案内図。北の一角に窑台、南の池中に陶然亭慈悲庵が見える。[やぶちゃん注:「窑台」の下に“kiln platform”とある。“kiln”は「窯」「爐」の意。]




写真②:窑台。高さ10メートル弱の小さな丘。東側から仰ぎ見たところ。




写真③:窑台の説明版。「別名黒窑廠」と書かれている。




写真④:窑台上から南を望む。こんなに木が生えていたのでは凧揚げは難しかろう。




写真⑤:窑台上から北を望む。




7 私の考え
陶然亭公園案内図(写真①)の向かって上方中程に窑台が見えます。現地の案内板(写真②)により、窑台、と黒窑廠(芥川の手帳に現れる)は同一のものだと判断されます。小説『魂帰陶然亭』に現れる黒窑台は恐らく窑台、黒窑廠と同じものでしょう。一方陶然亭は、同案内図下方中程にある慈悲庵の一角にあります。1920年代、1952年に開園することになる陶然亭公園はまだ存在せず、窑台と陶然亭は別個に存在していました。
三門閣は現代の地図上には見当たりません。陶然亭公園の係員に尋ねてみても「園内にそんな名の建物は存在しない」と怪訝な表情を返されました。しかし芥川は、陶然亭の章ではなく、窑台の章で、三門閣と、そこで昼寝する中国人と、蘆荻と、そこで「商売」する農婦を一緒に書き記しました。したがって三門閣は、窑台と池から至近にあった建物なのではないでしょうか。
さらに考えを進めます。小説『魂帰陶然亭』 石評梅(1902~1928)作の一節では、三門閣を過ぎ、程なく車(当然ながら自動車ではない)を降り、雪面を踏んで小橋を渡り、そこで葦の群落と陶然亭と黒窑台(窑台と同一視してよいと思う)と天辛墳の前の白玉碑を望見したといいます。天辛墳前の白玉碑は、残念ながら場所を特定できません。三門閣が窑台と池の至近にあったという前提で小説の設定を可能にするためには、三門閣は窑台の東北か西北の方角にあったというのが自然だと思います。

以上。

   《引用終了》
[やぶちゃん注:最後の一文の「東北か西北の方角に」に部分は、最初に彼より送られた文書では「東南か西南の方角に」とあったが、追伸で『「東北か西北の方角に」に訂正させてください。過去の文章を見ると、北京城内からやってくる者は、三門閣を抜けて窑台にやってくるようです。』と補正が入ったのに基づき、訂した。「4」に引用される印象的なシークエンスの小説の作者石評梅は、夭折した女流現代作家である。最後に、T.S.君の探査にの労に深謝するとともに、石評梅(リンク先は中文ウィキの写真附記載。別な写真の「百度百科」版はこちら)にも敬意を評して終わりとしたい。]
【二〇一二年七月十三日追記】《和製S・ホームズと相棒直史・ワトソン・藪野、遂に芥川龍之介の立った三門閣を発見せり!》つい先日のこと、件のT.S.君から、以下のような内容の消息を貰った。
――彼がネット上で見かけ、私に送って呉れた先の「謝文節公祠」の注に掲げた地図画像を拡大して見てみると、陶然亭(地図下辺の中央寄りやや左寄りの位置にある四つの池――東のものは独立し、西側の三つは水路様のもので繋がっている――)の北に延びる道の途中に、東側に南北に細長い建物があって、そこからこの道のところを塞ぐような形の建物が見えるが、それをよく見てみるとどうも三文字で、且つその最初の二文字は「三門」とあるように見える――
というのである。私も試みて見たが、確かに「三門」に見え、三文字目はそれらより複雑な画数で「閣」であって可笑しくないと思えた。ただ残念ながら画像の解像度が低く、断定は出来ないと返信したところ、本日、中国よりT.S.君が、民国十(一九二一)年作製の「新測北京内外城全図」(中国地図出版社二〇〇八年復刻)を送って呉れた。そこには――
『先生 支那服を着た笑顔の彼に遂に会えました。』
という附箋が、地図に貼り附けてあった。
――勿論、「彼」とは芥川龍之介、そうしてその附箋の示す箇所にははっきりと「三門閣」とあったのである!
以下に、地図の当該部分を示す。



――T.S.君と私と芥川龍之介の三人が――今、一緒に三門閣に立った――

・「三門閣下」前注参照。この窑台に寺院があった、若しくはあることをご存知の方は、御一報下されたい。それがこの「山門」の寺に間違いない。【二〇一二年七月十三日追記】北京KAIKOU(皆好)コンサルティングのHPの「北京陶然亭公園」の記載によれば、陶然亭公園は『宣武区の西南隅にある。園内に陶然亭がある。遼代の京都の郊外にあたり、元代になって寺廟が建てられ、明・清両代に窯廠(薄・瓦・陶器などを焼く工場)が開設された』(下線・藪野)とあり、これは清の康煕三十四(一六九五)年に工部郎中(「工部」は官営工場などを司った省の名で、「郎中」は役職。諸司の長の意)の江藻が建てたもので、初めは江亭といった。山門の軒下にかかる扁額の「陶然」という金字は江藻の遺墨で、白居易の「更に菊黄にして家酪の熟するを待って、君と共に一たび酔うて一たび陶然たらん」という詩句に基づく命名とあり、中国近代の革命史にあっては、一九一九年の五四運動の際に、ここ陶然亭で李大剣・毛沢東・周恩来らが革命活動を行ったとあり、一九七八年には革命記念地に指定された、とある。一九五〇年代、『東西両湖を開削し、その周囲に築山を設け、橋や小径を整え、木や草花を植えて公園とした。現在は、牡丹とバラの公園としても北京の市民に親しまれている』と記す。

・「蘆萩」本邦と同種ならばイネ目イネ科ヨシ Phragmites australis ヨシ(アシ)とイネ科ススキ属オギ Miscanthus sacchariflorus

・「苦力(クウリイ)」“ kǔで肉体労働者。

・「陶然亭」外城の南(現・北京市宣武区陶然亭路)にある人工池を持つ広大な庭園。菊の名所。この園名は白居易の詩「共君一醉一陶然」に基づく。ここは実は1919年の五四運動の記念の地でもある。芥川は秘かにその地として訪れたのではあるまいか? これはただの憶測である。

・「古刹慈悲淨林」古えから法灯を守る寺と仏の奥深い慈悲に満ちた清らかな修行の地の意。

・「緑紗」緑色に染めた薄絹・紗織り。「紗」(さ/しゃ)は生糸を用いたからみ織りの一種で、二本の縦糸が横糸一本毎に絡み合う織物。織り目が粗く、薄くて軽く、通気性が良いため夏の高級服地等に用いた。

・「蔀」本邦で平安期から住宅や社寺建築に用いられた格子を取り付けた板戸。上部に蝶番があり、上に水平に釣り上げて開ける。

・「郭公」余り理解されているとは思われないが、ホトトギスはカッコウと同族である。カッコウ目カッコウ科カッコウ属ホトトギ Cuculus poliocephalus。現代中文では「小杜鵑」で同一種であるが、芥川がその声を聴いてまるで分からなかったということは、別種か亜種が疑われるようにも思う。一応、以下に中文ウィキの「杜鵑科」に示された属を示す(標題ともに繁体字化した)。

   鳥鵑 Sturniculus lugubris

   噪鵑 Eudynamys scolopacea

   鷹鵑 Cuculus sparverioides

   筒鵑 Cuculus saturatus

   小杜鵑 Cuculus poliocephalus

   中杜鵑 Cuculus saturatus

   大杜鵑 Cuculus canorus

   栗斑杜鵑 Cuculus sonneratii

   四声杜鵑 Cuculus micropterus

   八声杜鵑 Cuculus merulinus

   棕腹杜鵑 Cuculus fugax

   布谷 Cuculus canorus

   冠郭公 Clamator coromandus

   番鵑 Centropus bengalensis

私は何となく日本にも夏鳥としてやってくる、♂が独特の筒を叩くように「ポポ、ポポ」と鳴く筒鵑 Cuculus saturatus、和名ツツドリ(筒鳥)ではないか、と思うのだが、鳥類のエキスパートの御教授を乞う。

・「文天祥祠」現在の北京市東城区府学胡同にある文天祥を祀った社。以下に示すように元代の刑場であった。文天祥(12361283)は南宋末期の文官。弱冠にして科挙に首席で登第して後に丞相となったが、元(モンゴル)の侵攻に対して激しく抵抗した。以下、ウィキの「文天祥」から引用する。『各地でゲリラ活動を行い2年以上抵抗を続けたが、1278年に遂に捕らえられ、大都(北京)へと連行され』た。獄中にあって『宋の残党軍への降伏文書を書くことを求められるが『過零丁洋』の詩を送って断った。この詩は「死なない人間はいない。忠誠を尽くして歴史を光照らしているのだ。」と言うような内容である。宋が完全に滅んだ後もその才能を惜しんでクビライより何度も勧誘を受け』たが、そこで彼は有名な「正気の歌(せいきのうた)」(リンクはウィキソースの現代語訳附きの「正気の歌」)を詠んで、宋への断固たる忠節を示した。『何度も断られたクビライだが、文天祥を殺すことには踏み切れなかった。朝廷でも文天祥の人気は高く、隠遁することを条件に釈放してはとの意見も出され、クビライもその気になりかけた。しかし文天祥が生きていることで各地の元に対する反乱が活発化していることが判り、やむなく文天祥の死刑を決めた。文天祥は捕らえられた直後から一貫して死を望んでおり、1282年、南(南宋の方角)に向かって拝して刑を受けた。享年47。クビライは文天祥のことを「真の男子なり」と評したという。刑場跡には後に「文丞相祠」と言う祠が建てられた。』『文天祥は忠臣の鑑として後世に称えられ』、本邦でも『幕末の志士たちに愛謡され、藤田東湖・吉田松陰、日露戦争時の広瀬武夫などはそれぞれ自作の『正気の歌』を作っている。』。【二〇一四年八月二十七日追記:また教え子のT.S.君(現在、職務の関係上、上海から北京へ移った)が先日、この「文天祥祠」の現状をリポートして呉れた。許可を得て、以下にその消息文を引用、後に現在の「文天祥祠」の写真を配する。
   《引用開始》
 先生、休日出勤の会社を抜け出し、夕方の京劇の前に府学胡同に直行しました。祠の最奥、享堂の右前に、樹齢何百年かという古木がありました。幹の一部に補修の跡もあり、目立たぬようにつっかえ棒も設置されています。丈は低いのですが、幹回りは大人ふたりでやっと囲めるくらいの太さ。説明書には、文天祥手植えの棗の木と伝えられることや、南方(南宋)に向かって枝を伸ばしているのが彼の想いを想起させること、などが書かれていました。確かに棗らしき実がいくつもなっていました。しかし、松と杉さえ見分けられぬほど植物音痴の僕には、これが楡の木と見紛うようなものなのか全く判断できません。ただし樹齢から言えば、龍之介が眼にしたというのは信じたいと思います。その棗の木や享堂内の写真を添付します。
追伸:何度読んでも、これら龍之介の短い文章は驚異的です。魯鈍な世間に全く曇らされることのない着想の鋭さ、言葉を紡いでいく際の誠実さ、日本語としての凝縮度、字裏行間に籠められたものの深さ……信じられない。
   《引用終了》

○現在の文天祥祠 一 廟の門(©T.S.)



○現在の文天祥祠 二 堂前の「棗」についての説明書き(©T.S.)



○現在の文天祥祠 三 文天祥廟堂(©T.S.)



○現在の文天祥祠 四 堂前の大いなる「棗」(©T.S.)



○現在の文天祥祠 五 「棗」(©T.S.)



 彼の消息にある説明書きと、何より彼の撮って呉れたこの実の写真から、芥川龍之介はこの「棗」の木を「楡」と誤認していることが今回はっきりした。恐らくこれは誰も気づいていないT.S.君唯一人の手柄である。】

・「京師」都。ここでは北京の謂い。

・「宋丞相信國公文公之神位」「信國公」は文天祥の諡(おくりな)。「宋の宰相であった『信国公』(と諡された)文(天祥)閣下の御霊」の意。

・「楡(?)の木」バラ目ニレ科ニレ属 Ulmus の一種。北半球の広範囲に分布し、多数の種が認められる。但し、その数は研究者によって20から45と一定しない。芥川の「?」は美事に科学的である。中文ウィキの楡の該当項を見ても、分類群のところに多様な種記載が示されている。芥川が見たものはこの中の何れかではあろうと思われる。【二〇一四年八月二十七日追記:芥川龍之介の推測誤認。これはクロウメモドキ目クロウメモドキ科ナツメ Ziziphus jujuba である。前の「文天祥祠」の追記と写真を参照されたい。】

・「杜少陵」杜甫の後世の別号。杜甫は以前、漢の宣帝の許后の陵墓(現在の陜西省西安市の東南に所在)の傍に住んでいたため、自身を「杜陵の布衣」「少陵の野老」と称した。杜甫には「貧交行」「兵車行」等の楽府題に似せた諷喩詩があるので、芥川はもし杜甫がこの忠節の士文天祥が祀られた社の荒廃を見たら「老楡行」という詩でも作って現代中国の非礼暗愚を諷喩するであろうと言っているのである。

・「二度目の死は氣の毒過ぎて」既に直前、文天祥と極めて似た憂国の悲劇の人謝文節の公祠を訪れているため、という意。内実は、似たような事蹟には飽きたという意と、ここもまた、荒廃していて後世の人々へのダメ押しの失望感から、とても詩想は浮かばぬという皮肉も込めていよう。

・「永安寺」筑摩全集類聚版脚注は『未詳。』とし岩波版新全集は注を挙げない。直後に北海を挙げているので、これは北海に浮かぶ瓊華島にあるチベット仏教寺院永安寺であろう。山上にラマ塔(白塔)が立つ(はずだが芥川は描写していない)。

・「善因殿」白塔の脇に立つ祭殿。上部は円形で下部は方形をしており、四方の壁には445体の菩薩像がレリーフされている。

・「歴歴と指呼すべし」一目で総てはっきりと見渡せ、それらがまた、指差して呼べば応えるように、極めて近くにある、という意。

・「北海」清代に作られた北海公園にある湖。現在は北海・西海に先の十刹海(前海)と積水潭(後海)を加えて北海公園と呼称している。総面積約400,000㎡(水面面積340,000㎡)。北京の有数の景勝地で、有名人の故宅等の旧跡が多い。

・「大淸皇帝用小住宅」誰もここに注を附していないが、芥川訪問時は、未だ中華民国臨時政府が居住権の許可を与えていた溥儀一族が内廷内に住んでいた(後、奉直戦争の中で起こった1924年の馮玉祥(ふうぎょくしょう)の内乱(北京政変)により強制退去させられた)が、これはまさにそれを言っているのではないかと私は思う。

・「天壇」現在の北京市崇文区にある史跡。明・清代の皇帝が、冬至の時に豊穣を天帝に祈念した祭壇。敷地面積約2,730,000m²。祭祀を行った圜丘壇(かんきゅうだん)は大理石で出来た円檀で、天安門や紫禁城とともに北京のシンボル的存在であるここの祈年殿は、1889年に落雷より一度消失したが、1906年に再建されている(以上はウィキの「天壇」を参照した)。以下の「地壇」「先農壇」も参照。これらは三つとも北京にある祭壇である九壇(社稷壇・祈穀壇・天壇・地壇・日壇・月壇・先農壇・太歳壇・先蚕壇)の一つである。

・「地壇」現在の北京市東城区の安定門外にある史跡。ウィキの「天壇」によれば、『明清代の皇帝が地の神に対して祭祀を行った宗教的な場所(祭壇)で』、その位置は『天壇が紫禁城の南東に築かれたのに対して、地壇は紫禁城の北東に築かれており、これは古代中国の天南地北説に符合する。』建築様式としては『天壇の主な建築が円形であるのに対して、地壇は方形である。これは『大清会典』の述べる「方(四角)は地を表す」に従っており、中国の天円地方の宇宙観を体現して』おり、『「天は陽、地は陰とみなす」という陰陽思想に従い、天壇の石塊や、階段、柱などはこぞって奇数(陽数)で構成されている』のに対し、『地壇は偶数(陰数)で構成されている。例えば方澤壇の階段は8段であり、壇は6方丈である。使用した石版の数も偶数であり、中華文化を反映している。』とある。

・「先農壇」現在の北京市宣武区にある史跡。明の1420年に造営され、明・清の歴代皇帝が三皇五帝の三皇の一人神農氏(百草を自ら嘗めて効能を試したとされる医術と農事を司る神。後に炎帝と習合)を祀った場所。

・「萋萋と」草が青々と生い茂っているさま。

・「紫禁城」明及び清朝の宮殿。明初の1373年に元の宮殿を改築して初代皇帝太祖(洪武帝)が南京に造営したものが最初。後、明の第3代皇帝太宗・成祖(13601424 永楽帝)が1406年に改築、1421年には南京から北京への遷都に伴い、移築した。1644年の李自成の乱により焼失したが、清により再建されて1912年の清滅亡までやはり皇宮として用いられた。

・「夢魔」夢の中に現れて人を苦しませる悪魔。転じて、不安や恐怖を感じさせる夢、の意。私は夢魔というと真っ先にスイス・イギリス・ロマン派の Johann Heinrich Fuseli(ヨハン・ハインリヒ・フュースリ 17411825)のThe Nightmare1781を思い出す(リンクは英文ウィキの精密画像)。あれは♂の夢魔 Incubus インクブス(ラテン語の“incubo”「あるものの上に寝る」の意)だが、紫禁城というと私には何だか中世の魔女も比せられた♀の夢魔 Succubus スクブス(サキュバス)(同じくラテン語の“sub”「下へ」+“cubo”(横たわる))の巣窟のように感じられた。紫禁城を歩く芥川龍之介には――秀 Succubus しげ子――の幻影が扉を掠めたのではなかったか――]

 

 

 

北京日記抄 芥川龍之介 附やぶちゃん注釈 完