やぶちゃん版芥川龍之介俳句集四 続 書簡俳句

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やぶちゃん版芥川龍之介句集四 続 書簡俳句

(大正十二年~昭和二年迄)附 辞世




大正十二(一九二三)年     三十一歳




山々を枕にしきぬみの蒲團

(一〇九七 一月六日 小穴隆一宛。表記違い。渡邊庫輔との寄書(渡邊も三句を掲げている)。小穴は前年の手術が手遅れで、一月四日に再手術、右足を切断した。この手術にも芥川は立ち会っている。小穴は以降、義足の生活となった。ちなみに、この一月一日に折りしも刊行された『文藝春秋』巻頭に、芥川は「侏儒の言葉」を毎号掲載し出す。)



  庭前
春の日や水に垂れたる竹の枝

  屋後
篠を刈る餘寒の山の深さかな

  鄰の客
膀胱の病にこもるうららかな

  山徑春寂寞
春風の篠に消えたる麓かな

  一日六囘入浴
温泉デユの壺底なめらかに日永かな

(一一一三 三月二十五日 室生犀星宛。湯河原から。静養のため、三月十六日から四月十五日まで湯河原の中西屋に滞在。ちなみに、三月一日には「雛」(『中央公論』)、「猿蟹合戦」(『婦人公論』)を、三月二十日には戯曲「二人小町」を『サンデー毎日』に発表している。)



  この頃の一句

おもひやる餘寒はとほし夜半の山

(一一一五 四月五日 室生犀星宛。湯河原から。)



菜の花は雨によごれぬ育ちかな

(一一一九 四月十三日 下島勳宛。この前日の十二日頃、「保吉の手帳から」を脱稿。発表は『改造』誌上で、五月一日。)



*俳句関連記載

[やぶちゃん注:四月十四日附一一二三高濱虚子宛書簡の文面を見ると、これとともに『ホトトギス』への句稿が同封されている。底本のこの書簡は『ホトトギス』大正十二年六月からの転載であって、現物は不明である。冒頭部分で「拝啓。その後製造した句をお目にかけます。御採用になれるのはホトトギスへ御採用下さい。次手に少し能書を述べます。これは皆寫生句です。それからなる可く際どくないやうに/\と思つて製造しました。どうかそれだけはお買ひ下さい。」とある。これらの句は、『やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句』の「その後製造した句(『ホトトギス』大正十二年六月)」を指す。但し、これには虚子の朱が入っていると考えてよく、同封句稿の復元は困難である。とりあえず繰り返しになるが、『やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句』から該当部分を複写して、書簡俳句の流れのを概観出来るようにしておく。

その後製造した句(『ホトトギス』大正十二年六月)

 春三句
   湯河原の宿
三月や茜さしたる萱の山

   あてかいな、あて宇治の生まれどす
茶畑に入日しづもる在所かな

荒あらし霞の中の山の襞

 夏七句

土用浪砂すひあぐるたまゆらや

   加茂川
たかんなの皮の流るゝ薄暑かな

木の枝の瓦にさはる暑さかな

   漢口
一籃の暑さ照りけり巴旦杏

蒲の穗はほほけそめつゝ蓮の花

   再び長崎に遊ぶ
唐寺の玉卷芭蕉肥りけり

   園藝を問へる人に
あさあさと麥藁かけよ草いちご

 秋五句
秋の日や竹の實垂るる垣の外

   碧童と飮す
枝豆をうけとるものや澁團扇

   病あり
赤ときや蛼鳴きやむ屋根の裏

線香を干したところへ桐一葉

野茨にからまる萩のさかりかな

 冬五句

初霜の金柑のこる葉越しかな

   伯母の云ふ
薄綿はのばし兼ねたる霜夜かな

霜解けに葉を垂らしたり大八ツ手

   菊池寛に贈る
時雨るゝや莟こぼるゝ寒さかな

 新年一句

 元日や手を洗ひ居る夕心

なお、書簡の最後に「この手紙は句稿と一つにし、郵便局の目をくらまして發送します。多分見つからないでせう。(四月十四日午後)」という記載がある。]



藤の花軒ばの苔の老いにけり

(一一三〇 六月二十六日 小穴隆一宛。句の後に「一句未定らず候へどもおんめにかけ候 匆々」とある。ちなみに、この一箇月前、五月十八日には第六短篇集『春服』を春陽堂より刊行。)



藤の花軒端の苔の老いにけり

(一一三二 七月十六日 小杉未醒宛。句の前の手紙文末尾に「高著の中の玉句を見いささか吟興を生じ惡句製造仕候御一笑下され度候」とある。)



松風や紅提灯も秋どなり  (我鬼)

(一一三七 消印八月九日 下島勳宛。絵葉書。小穴隆一、渡邊庫輔と寄書(芥川龍之介「我鬼」署名のこの句の前に渡邊の句と言葉が示されている)。この絵は、三人の手書きで、旧全集に写真が載っている。その写真では、絵の右上に「庭前小景」の字が入っている。八月七日頃、鎌倉の平野屋別荘に避暑、二十五日まで滞在する。ちなみに、この時同宿であった岡本かの子が、この時の体験をもとに「鶴は病みき」を書いた。そして、芥川の「大震雜記」には、八月というのに、藤の花がちらほら咲き、便所の窓から見下ろすと、八重の山吹も花をつけ、料亭の小町園の池には菖蒲も蓮と競い合っているのを見て、『どうもこれは唯事ではない。「自然」の發狂の氣味のあるのは疑ひ難い事實である。僕は爾來人の顏さへ見れば、「天變地異が起りさうだ」と云つた。」「僕等の東京に歸つたのは八月二十五日である。大地震はそれから八日目に起つた。』と書く。この預言者の言葉は、常に不吉なことに限って、当たる。)



朝顏や土に匍ひたる蔓のたけ

(一一四五 十月二十九日 香取秀眞宛。現存する書簡の、九月一日の関東大震災後の六通目、最初に現れる句である。震災直後は自身も被災し、新潮社から百円の前借等もしているが、しかし、その第一通目である九月十二日附小穴隆一宛一一四〇書簡は、早くも成った「大震雜記」の一一三七書簡注で示した予言部分に挿入するための、一游亭が当時鎌倉で作った「蓮と菖蒲と一しよに咲いてゐる句を」書いて教えてくれ、という書簡であった。この「大震雜記」は十月一日の『中央公論』に発表されている。)



  即興
草の家に柿十一のゆたかさよ

(一一四七 十一月二日 下島勲(空谷)宛。柿と榲桲マルメロを下島から貰ったその挨拶句。)



*俳句関連記載

[やぶちゃん注:十一月七日の勝峯晉風宛一一四九書簡中に「扨にひはりに何か書けとの仰せ拝承仕り候御厚意難有存じ候ほ句は餘技の又餘技位のところ故活字にするも臆面なき次第ながら持ち合せ居候句少々おん目にかけ候皆前書き澤山にて恐縮に候へどもこれも餘技たる所以おんめのがし下され度候」とある。これは「やぶちゃん版芥川龍之介句集二 発句拾遺」に示した『にひはり』に大正十二年十二月から大正十三年五月にかけて掲載された「澄江堂句抄」の原稿を送付した際の消息文である。この「餘技の又餘技」という謂いは謙遜の辞に過ぎないと私は読む。彼は既に前年の一月十九日附の渡邊庫輔宛九八四書簡で「現在の僕は俳句も短歌も男兒一生の事業とするに足らぬものとは思ひ居らず」と記している。]



夜寒さを知らぬ夫婦と別れけり  龍之介

(一一五〇 十一月十七日 久米正雄宛。東京神楽坂「ゆたか」から。久米の結婚披露宴の後、里見弴・小山内薫・直木三十五[この時は三十三のペンネームである。彼は年齢更新に合わせて筆名を換え、三十五で打ち止めとした。]・菊池寛他二人と共に待合「ゆたか」から送った絵を含む寄書。芥川の句は寄書の最初にある。ちなみに、この月の十日には「芭蕉雜記」を『新潮』に発表、脱稿は十月二十日頃。)



癆咳の頰うつくしや冬帽子

  久しぶりに姪を見て
かへり見る頰の肥りよ杏いろ

(一一五一 十二月一日 飯田武治(蛇笏)宛。前の句は、以下のように手紙文中に現れる。『冠省雲母落手難有く存じますいろいろ拙句に御高評をたまはり感佩いたして居ります拙句「癆咳の頰うつくしや冬帽子」と申すのは尊句「死病得て爪美しき火桶かな」からヒントを得たものと記憶しますこの頃舊來の句みないやになりと云つて新しい句境を拓くは容易ならず唯漫然と消光してゐますとりあへず御禮まで』とあって、「かへり見る」の句となる。「姪」とは芥川瑠璃子(大正五(一九一六)年~平成十九(二〇〇七)年)のこと。芥川の次姉ヒサ(葛巻義敏母)が再婚した西川豊との間に生まれた長女。彼女は後、芥川の長男比呂志と結婚した。同日、「あばばばば」を『中央公論』に発表、脱稿は十一月二〇日頃。)



  詩の御返事
露芝にまじる菫の凍りけり

  震災後に芝山内をすぎ
松風をうつつに聞くよ古袷

  久しぶりに姪にあひ
かへり見る頰の肥りよ杏いろ

(一一五四 十二月十六日 室生犀星宛。渡邊庫輔との寄書(但し、庫輔の執筆部分の明記なし)。犀星は、この年の十月に一家で金澤に戻っていた。なお、この手紙は、短歌と俳句のみで、次の十二月十八日附室生犀星宛一一五五書簡では、「この間は菫の詩をありがたう」とある。この詩について岩波版新全集注解で宮坂覺氏は未詳としながらも、参考知見として犀星が翌年の『婦人之友』二月号に「冬すみれ」という詩を発表している、と記されている。)



大正十三(一九二四)年     三十二歳



元日や啓吉も世に古箪笥

(一一六一 推定一月十一日 小穴隆一(一遊亭)宛。句の直前の手紙文に「菊池、啓吉ものばかり集め、「啓吉」と言ふ本を出すよし何とか句を題せと申候間」とあり、句の後に「としたため候なほいろいろしやべり度ことあれど拝晤の節にゆづり申候 頓首」とある。この「啓吉もの」とは菊池寛の、主人公が啓吉という名の一連の自伝的色彩の強い作品群を指す。「無名作家の日記」「青木の出京」「父の模型」等三十数編を数える。菊池は実際に、その内の二十編近くを編んで、この年の二月に玄文社より「啓吉物語」として出版している。『やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句』の該当句注も参照のこと。なお、この一月一日には、「一塊の土」を『新潮』に、「糸女覺え書」を『中央公論』に、「三衛門の罪」を『改造』に、「傳吉の敵討ち」を『サンデー毎日』に発表、全ての作品の脱稿は十二月十五日以前。)



木枯や宋一が顏おらが顏

おかるものくめるものなき寒さかな

(1247 一月二十一日 岡榮一郎宛。岩波版新全集第二十巻書簡Ⅳより。浜町二丁目「お柳」から直木三十五・菊池寛らとの寄書。「木枯や」の句が「龍」、「おかるもの」の句が「澄江堂」の署名。「宋一」は直木三十五の本名、植村宗一の誤記か。新発見句であるが、両句共に如何にもな戯句である。)



  この頃の句
春雨の中やいづこに山の雪

おらが家の花も咲いたる番茶かな

(一一六五 二月二十七日 小穴隆一宛。)



 この頃の句
  蛇笏に
春雨の中や雪おく甲斐の山

  南京城中の五分の三は麥隴なり
市中の穗麥も赤み行春ぞ

  夜宿淸光寺
木石の軒ばに迫る夜寒かな

  小閑を得たり
おらが家の花も咲いたる番茶かな

(一一六六 三月十二日 瀧井孝作宛。「麥隴」は「ばくろう」と読み、麦畑のこと。三年前の中国行の追想吟。「淸光寺」は現在の山梨県北杜市長坂町(旧北巨摩郡秋田村)にある曹洞宗の寺院で、前年の八月に山梨県教委委員会主催の夏期大学の文学論の講師としてここに招かれ、住職の高橋竹迷とも親しくなっていた。「おらが家の」の句は、『やぶちゃん版芥川龍之介句集 発句』の冒頭にある「癆咳の頰美しや冬帽子」の注を参照のこと。)



黑南風クロバエの大うみ凪げるたまゆらや

うすうすと曇りそめけり星月夜

  南京
市なかの穗麥も赤み行春ぞ

  龍門
莊嚴の梁をまぶすや麥ほこり

春雨の中や雪おく甲斐の山

咳ひとつ赤子のしたる夜寒かな

(一一七〇 四月十日 小澤忠兵衛宛。纏まっているので、同一句も省略せず挙げた。最後の「咳ひとつ」の句は、句の前に手紙文が入り、その末尾に「半月ばかり女中の一人もゐない爲、子供二人をかかへ、小生まで忙しい思ひをして居ります」とある。なお、四月一日には「第四の夫人から」と「文章」を『女性』に、「寒さ」を『改造』に、「少年」を『中央公論』に発表、脱稿は全ての作品の脱稿は三月二十日頃。)



塩釜のけふりをおもへ春のうみ

(一一八〇 五月十二日 香取秀眞宛。菊池寛より讃岐の塩釜にて焼いた鯛を貰い、そのお裾分けの添句。ちなみに、この五月一日に「續芭蕉雜記」を『新潮』に、「或戀愛小説」を『夫人クラブ』に、「文反古」を『婦人公論』に発表。)



乳垂るゝ妻となりつも草の餅

(一一九八 五月二十八日 室生犀星宛。句の前の手紙文に「金澤の作句左のとほり改作」とあるのは、五月十五日に、犀星の世話で兼六公園内の茶屋、三芳庵別荘に二泊した旅を指す。なお、これに先立つ五月二十三日には芥川龍之介編集になる中学生向けの興文社『近代日本文藝讀本』への収録許可を得る為に、京都で瀧井孝作の案内で志賀直哉と会っている、但し、志賀が疲れていて話ははずまなかった、と鷺只雄の「年表作家読本」にはある。)



    寸法狂ふなと前書して
曉のちろりに響けほととぎす

(一二〇三 六月十二日 香取秀眞宛。芥川は香取に銅印を注文しており、その寸法書きの絵がこの句の前にある。)



秋風や甲羅をあます膳の蟹

苔じめる百日紅や秋どなり

木石を庭もせに見る夜寒かな

(一二〇五 六月二十三日 小澤忠兵衛宛。)



  近頃
苔ばめる百日紅や秋どなり

木石を庭もせに見る夜寒かな

(一二〇六 六月二十六日 小穴隆一(一游亭)宛。「木石を」の句は全く同一だが、「近頃」の詞書の存在が前の句とのペアと捉えられるため、掲載した。)



日ざかりや靑杉こぞる山の峽

(一二一二 七月二十二日 渡邊庫輔宛。軽井沢鶴屋旅館より。なお、この十八日には新潮社より短篇集『黄雀風』を刊行。)



日ざかりや靑杉こぞる山のカヒ

(書簡番号なし〔新全集書簡番号1309〕 大正十三年七月二十五日 葛巻義敏宛。軽井沢から。「芥川龍之介未定稿集」より。前に書かれた消息文で『(一)紙挾みの中にある「澄江堂句抄」を送るべし(書留)』の指示がある。これは前年十二月と当年一月及び五月に『にひはり』に掲載された句群の原稿を指すものと思われる。これらの新たな推敲を思い立ったものか。前夜、浅間山鳴動、真っ赤な噴煙を吐くのを見る。)



靜脈の浮いた手に杏をとらへ(グリインホテルにて)   龍之介

落葉松の山に
白塗りのホテル
平らか
                              龍

(一二二〇 七月二十七日 久米正雄宛。軽井沢から。どちらも新傾向俳句とみなす。二十三日から軽井沢の鶴屋旅館に着、八月二十三日田端帰着まで約一ヶ月滞在した。このグリーンホテルは軽井沢千ヶ滝にあり、芥川は二十七日、ここに山本有三を訪問、一泊している。ちなみにこの日、鶴屋旅館には「越し人」片山廣子が到着している。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」を参照されたい。



日ざかりや靑杉こぞる山のカヒ

  山中の夜秋多し
据ゑ風呂に犀星のゐる夜寒かな

(一二二三 八月八日 小畠貞一宛。軽井沢から。八月三日に室生犀星が金沢から到着、同宿していた。「芥川龍之介輕井澤日録二種」の「輕井澤日記」も参照されたい。)



つくばひの藻もふるさとの暑さかな

(一二三四 八月十九日 室生犀星宛。軽井沢から。このつくばいは、大正十二年の大震災の後、犀星が東京を引き上げるに際して芥川家に残していったもの。なお、手紙文中『けふ片山さんと「つるや」主人と追分へ行つた非常に落ちついた村だつた北國街道と東山道との分かれる處へ來たら美しい虹が出た』とある。――この日は、芥川にとって「越し人」廣子との忘れ得ぬ生涯の一日であった。――俳句とは関係がないが、記しておく。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」に本書簡全文を掲載しているので参照されたい。



  室生犀星、金澤より
  「つくばひの藻も靑黑き暑さ哉」と言ひ洩しければ
  返す文に
つくばひの藻もふる郷の暑さかな

(一二四〇 八月二十六日 室生犀星宛。田端から。句直前の手紙文に「つくばひの句、藻もふる郷は僕の句也大兄の句を添削した次第にあらずたとへば」とあり、句の後に「と云ふ句になるのに候」とある。このつくばいは震災の後、犀星が芥川家に残していったもの。)



鐵線の花さきこむや窓の穴

(一二四五 九月二十五日 室生犀星宛。句直前の手紙文に「冠省高麗の花難有く存じ候装幀は大兄の詩集中一番よろしきのみならず劉生の装幀中にても一番よろしかる可く候今曉床の中にて髣髴として句を得たり御笑覧までに 頓首」とある。中田雅敏氏の「書簡俳句の展開」によると、この犀星の詩集「高麗の花」(同年九月新潮社刊)は岸田劉生装幀、表紙絵は鉄線の花をあしらったものであったとある。)



  即景
朝寒や鬼灯のこる草の中

(一二四六 九月二十五日 小酒井光次宛。)



  即景口占
朝寒や鬼灯垂るゝ草の中

(一二四八 十月八日 滝井孝作宛。「口占」は口ずさむこと、草稿を経ずに詩文を創ること。この後、十月二十二日附室生犀星宛一二五四書簡で同一表記でこの句を挙げ、句の後に「あの句はかう作定した」とある。「あの句」とあるが現存室生宛先行書簡には先行句はない。この一二五四書簡は「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」に本書簡全文を掲載しているので参照されたい。



  この頃
朝寒や鬼灯垂るゝ草の中

(一二五六 十月二十二日 岡本綺堂宛。前書違い。)



  老人相不變なり
幾秋を古盃や酒のいろ

(一二七三 推定十二月二十八日 小穴隆一宛。旧全集では月を同定できず、当年末尾の月不詳のパートに配されていたが、岩波版新全集第二十巻書簡Ⅳ(新書簡番号1353)は検討の末に十二月に移動している。それに従い、ここへ移動した。本文末尾に「おとつひ碧童老人にあつた」とあるので、この前書の「老人」は小澤碧童のこと。但し、小澤はこの年、未だ四十三歳ではある。)




鐵線の花咲き入るや窓の穴

(一二五九 推定十二月二十九日 小穴隆一宛。なお、二十五日には、両立社より「歴史物語傑作選集2」として『報恩記』が刊行されている。)



朝寒や鬼灯殘る草の中

(一二六〇 十月三十日 江口渙宛。)



  少し古いが
ぬかるみにともしび映る夜寒かな

(一二七〇 十二月二十六日 室生犀星宛。この二十日頃には「大導寺信輔の半生」を脱稿していた。発表は、翌大正十四年一月一日の『中央公論』。)



大正十四(一九二五)年     三十三歳



春雨や檜は霜に焦げながら

(一二七九 二月一日 水木京太宛。句の後に「この句はけふ作り、少々得意故書き加へます」とある。)


   與一游亭話

枝炭の火もほのめけや燒林檎

(一二八〇 二月二日 室生犀星宛。手紙文は「冠省先達は御見舞の品品難有く存候きのふ一遊亭より水墨の山茶花圖一帖とゞき候間お目にかけ候 お氣に入り候節は御手もとにお置き下され度候病中消閑の作句次手を以てお目にかけ候間御笑ひ下され度候」として前掲の「春雨や檜は霜に焦げながら」句を挙げ、その後に表記の句がある。)



冴え返る夜半ヨハの海べを思ひけり

(一二八四 二月二十一日 淸水昌彦宛。淸水昌彦(?~大正十四(一九二五)年)は芥川の江東小学校及び府立三中時代の友人。芥川の最初期の文章として知られる回覧雑誌『日の出界』の執筆者の一人でもある。この後、一月余りで永眠した。四月十三日の同じ同級生であった西川英次郎宛一三〇〇書簡では「淸水昌彦が死んだ。咽頭結核と腸結核とになつて死んだのだ。死ぬ前に細君に傳染してこの方が先へ死んでしまつた。孤兒四歳。」とその悲嘆を記す。)



  庭前
春雨や檜は霜に焦げながら

(一二八七 二月二十八日 土屋文明宛。句の後に「この頃發句を作つてゐるこれは景物までに 頓首」とある。なお、三月一日には『明星』に「越しびと」を発表。)



明星のちろりにひびけほととぎす

(一二九一 三月十二日 泉鏡太郎(鏡花)宛。これは大正十四年七月から刊行が開始される春陽堂版『鏡花全集』広告のために芥川が書いた「鏡花全集目録開口」への鏡花の礼状への返事。句直前の手紙文に「附録に一句御披露申し候間御一笑下され度候 置酒と前書きして、」とある。現存する鏡花宛書簡の最初のものであろう。ちなみに、当時、鏡花は五十歳。)



  この頃
臘梅や雪打ち透かす枝のタケ

(一三〇五 四月十六日 渡邊庫輔宛。修善寺新井旅館から。四月十日から、修善寺新井旅館に静養のため、五月三日頃まで滞在。父の病気で長崎に帰京したままになっている渡邊に小説を書いて送るよう促し、小説家としての精進を叱咤する手紙。ちなみに、この後の四月十七日附室生犀星宛一三〇六書簡に、「詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。」として、「越し人」片山廣子 への名吟、

また立ちかへる水無月の
歎きをたれにかたるべき
沙羅のみづ枝に花さけば、
かなしき人の目ぞ見ゆる。

が記されている。また、この一三〇六書簡の二伸では、萩原朔太郎から『近代日本文芸読本』の件について手紙を貰ったので、帰京後、是非会いたいとして、犀星への骨折りを依頼し、「それから僕の小説を萩原君にも讀んで貰ひ、出來るだけ啓發をうけたい。」とし、重ねて朔太郎との面会を依頼している。最後には「僕はちよつと大がかりなものを計畫してゐる。但し例によつて未完成に終るかもしれない。」と結んでいる。この「大がかりなもの」とは何か判然としないが、私には翌年の九月に脱稿する、「点鬼簿」を指すかと思われる。俳句と関係がないが、大変興味深いところなので、記しておく。)



*俳句関連

(四月十九日附石黑定一宛一三一〇書簡の文中に「このあとに歌か句か書くと好いのですが、生憎近頃は何も製造しません」とある。実際、この後、現存する書簡では六月二十一日まで、俳句が現れない。なお、この間の出来事で特筆すべきは、俳句では、五月十七日附佐藤春夫宛一三三三書簡で依頼している、作家十二人に俳句を書かせ、その短尺をセット販売するという下山霜山の企画の話と、俳句とは関係ないが、萩原朔太郎の「芥川龍之介の死」で言及されるところの、朔太郎の「郷土望景詩」を朝寝床で読んでの感激の余り、寝巻姿のまま、朔太郎の家を訪ねたエピソードが、六月初旬のことである。)



甲比丹のつんぼ咎めそほととぎす

(一三四一 六月二十三日 吉田東周宛。「甲比丹」はカピタン、長崎出島のオランダ商館長又はオランダ船の船長。ここは後者か。手紙文は、宛名人の澄江堂への来訪を多忙につき固辞する旨の後に添えた。吉田東周は未詳であるが、所謂、思い入れの昂じたファンの一人か。)



*俳句関連
(七月二十七日附小穴隆一宛葉書一三四八書簡を引いておく。
「冠省 僕の句は逆編年順に新しいのを先に書く事にする、君はどちらでも。僕は何年に作つたかとんとわからん。唯うろ覺えの記憶により排列するのみ。これだけ言ひ忘れし故ちよつと」
とある。続く八月五日附小穴隆一宛一三五〇書簡では、
「あのつけ句省くのは惜しいが 考へて見ると僕の立句に君の脇だけついてゐるのは君に不利な誤解を岡やき連に與へないとも限らずそれ故見合せたいと存候へばもう二句ほど發句を書いて下さい洗馬の句などにまだ佳いのがあつたと存候右當用耳」
と続き、八月十二日附小穴隆一宛一三五四書簡では、
「けふ淸書してみれば、君の句は五十四句あり、從つて四句だけ削る事となる 就いては五十四句とも改造へまはしたれば、校正の節 どれでも四句お削り下され度し。愚按ずるに大利根やもらひ紙は削りても、お蠶樣の祝ひ酒や米搗虫は保存し度し。匆々。」
最後に八月二十五日附小穴隆一宛一三五八書簡で、
「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に候。」
となって、出版社関係の個人名が挙げられ、経緯と今後の対応が綴られている。[ちなみに全集類聚版ではここが八二字削除されている]。結果として、大正十四(一九二五)年九月一日発行の雑誌『改造』第七巻第九号に小穴隆一の発句五十句と共に「鄰の笛」と題して掲載された。文末に以下の一文がある(以下、旧全集後記より転載)。
「後記。僕の句は「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少くない。小穴君には五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち、「改造」の紙面を借り、一まづ決算して見た所以である。 芥川龍之介記」
察するに、親友の小穴を軽く見た『改造』編集者への強い不快感があったのであろう。其れと関係があるやなしや分からぬが、翌大正十五年の『改造』の新年号の原稿を、芥川は十二月十日に断っている。ちなみに、この間、八月十日から九月七日まで、軽井沢鶴屋旅館に滞在、一三五八書簡には片山廣子が近く帰ることをさりげなく記している。許されざる恋情を絶とうとする龍之介の苦渋が逆に読み取れる。「芥川龍之介輕井澤日録二種」の「大正十四(一九二五)年八月二十四日(月)芥川龍之介輕井澤日録〔やぶちゃん仮題〕」及び「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」を参照されたい。



東雲しののめの煤降る中や下の關

(一三六五 九月一日 室生犀星宛。軽井沢鶴屋旅館から。句の直前の手紙文に「御覧の通り、軽井澤の句ではない。」とある。四年前の中国行出立の折の回想句である。この日、「海のほとり」を『中央公論』、「尼提」を『文藝春秋』に、「死後」を『改造』に発表。)



*俳句関連
(十月九日附村上成滿郎宛一三八〇書簡に、人に一茶を読めと言われたことを伝え聞き、『小生は既に一茶句集を讀み返し、往時とは所見を異に致し候爲、』その人の忠言を知って、『いたく感動仕り候。』と記している。芥川龍之介の一茶観を知る上で、貴重な謂いである。)



庭つちに皐月の蠅のしたしさよ

(一三八四 十月二十四日 室生犀星宛。諧謔味に富んだ長閑な陽性の句柄である。それとは無関係かも知れないが、この一箇月前の九月二十三日、澄江堂を南条勝代が初めて訪問している。南条については、鷺只雄の「年表作家読本」から以下に引用する。『彼女は二歳から十八歳までイギリスで育ち、そのため日本文学一般について個人教授を請うたのである。この指導は彼女が再び渡英する昭和二年一月まで続いた』。この指導を芥川は「お稽古」と称した。当日の九月二十三日附齋藤茂吉宛一三七六書簡には「美人一人(洋行がへりの少女)參り、大いにうらうらと致し居り候。御健羨下され度候」などと書いている。)



大正十五・昭和元(一九二六)年   三十四歳



*俳句関連
(一月十二日附佐藤豊太郎(春夫の父親)宛葉書一三四八書簡によると、佐藤春夫の依頼で、父親の豊太郎の求めに応じ、俳句を書いた小冊子を贈る。「大膽にも駄句を書きたる小帖一冊お手もとにさしあげ候間御笑覧下され候はば幸甚と存候」と記している。もしかすると、正にこれが死後に出る「澄江堂句集」の真の原型であったのかも知れない。――確信犯としての――である。)



栴檀の實の明るさよ冬のそら

(一四二四 一月十六日 室生犀星宛。湯河原から。なお、同日附山本有三宛一四二四書簡には、前夜、新聞で佐佐木茂索夫人房子の実父の自殺を知り、「なぜ僕の關係する縁談はかう不幸ばかり起るのかと思つて大いに神經衰弱を増進した」と記している。仲人をした岡榮一郎夫妻の前年の離婚等を前提に言う。)



道ばたの墓なつかしや冬の梅

(一四四四 二月八日 片山廣子宛。湯河原から。「越し人」廣子への手紙。手紙文中、「この間山の奥の隱居梅園と申す所へ行き、修竹梅花の中の茅屋に澁茶を飮ませて貰つた時は、僕もかう言ふ所へ遁世したらと思ひました。」と記すも、そこの老婆と話をして胸算用し、梅園を譲り受けるのには十万円はかかると分かると、「西行芭蕉の昔は知らず遁世も當節では容易ぢやありません。さう考へたら、隱居梅園も甚だ憂鬱になつてしまひました。」と書いている。「やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡十六通 附やぶちゃん注」に本書簡全文を掲載しているので参照されたい。この日、作品集『或日の大石内蔵助』『地獄變』を文藝春秋出版部より刊行。)



更けまさる火かげやこよひ雛の顏

(一四六七 四月九日 佐佐木茂索宛。手紙文では、佐佐木に薦められた睡眠薬アロナアル・ロッシュを二錠飲んだが効かず、とうとうアダリンを一グラム飲んでやっと眠るも、お蔭で翌日はぼーっとして暮らしたと記している。句直前の二伸文中に「この頃下島さんに賴まれ、悼亡の句一つ。」とある。下島勳の十四歳の娘の病死後、彼から懇請されていた。なお、小穴隆一の記すところによると、この直後の四月十五日に芥川が彼の下宿を訪ね、自殺の決意を伝えたとする。また、四月二十二日から鵠沼に養生に出かけ、当初の一ヶ月程の予定が大幅に延び、翌年の一月ごろまで滞在した。但し、時折、田端へ戻っている。)



さみだれや靑柴つめる軒の下

うららかに毛虫わたるや松の枝

(一四七五 五月二十一日 平木二六宛。鵠沼から。この月初め頃までに、興文社の『近代日本文藝讀本』の種々のごたごたのために疲弊する等、睡眠薬の濫用を始めていた模様〔後掲する一五一一書簡参照。〕。)



  破調
兎も片耳垂るる大暑かな

(一四七九 五月二十九日 室生犀星宛。「さみだれや」を後に併記。なお、この手紙には大正十五年六月号『日本詩人』の「青椅子」欄に載る萩原朔太郎の「中央亭騒動事件(実録)」を読んで感動した旨を記し、「敬愛する室生犀星よ、椅子をふりまはせ 椅子をふりまはせ」と記している。これは、大正十四年五月に開催された『日本詩集』大正十四年版出版祝賀会の席上に於ける騒動を指す。祝賀会の席上、批判的言辞を放ったように思われた岡本潤と朔太郎の一見不穏な雰囲気に、親友朔太郎身に対する暴挙と勘違いした室生犀星が、椅子を振り回して岡本潤に向かって行った行為を言っている。こうした犀星の純朴な直情径行に都会人芥川龍之介は何処か惹かれていた。)



  鵠沼所見
さみだれや靑柴つめる軒の下

(一四八〇 五月三十日 薄田泣菫宛。田端から。前書附き。)



*兎も片耳垂らす大暑かな【*推定】

*兎も片耳垂らしたる大暑かな【*推定】

(一四八二 六月一日 佐佐木茂索宛。鵠沼から。この書簡文中で、「この間の句は改作した(チヤコ樣によろしく)」と書き(「チヤコ」は佐佐木茂索の妻房子の愛称)、「破調」の詞書で「兎も片耳垂るる大暑かな」の句を挙げ、その後に『按ずるに「垂らす」或は「垂らしたる」とSの音はひりては大暑の感じかぶさり來たらず。「垂るる」と改めたる所以なり。』とあるので、以上から推定される推敲句形二句を掲げておく。また、手紙文では「鵠沼に一月ゐる間の客の數は東京に三月ゐる間の客の數に匹敵す」と記し、鷺只雄氏の「年表作家読本」には、芥川は「実際に客が帰ると縁側に倒れてしまうことも多かったと妻は後に語っている」とある。)



花はちす雀をとめてたわみけり

白じろとほそれる犬か松の風(コレハ未定稿)

白じろと犬もほそるか松の風(コレハ未定稿)

(一四九九 七月二十九日 室生犀星宛。鵠沼から。後の二つの「白じろと」の句は、底本では一行で中七のみ大括弧ではみ出し、左脇に「犬もほそるか」が入る。従って「(コレハ未定稿)」は実際には句末に一つであるので注意。「鵠沼雑記」の犬である。手紙文では借家の四方八方の騒音に悩まされ、鵠沼でも西の海岸の方へ引越そうかと思っていると洩らしている。)



花はちす雀をとめてたわわなる

松風に白犬細うすぎにけり

(一五〇二 八月九日 室生犀星宛。鵠沼から。句の前の手紙文中に「下痢をした。何も書けずにいらいらしている。この前の句はかう改めた。」とある。これは一四九九書簡を指すのであろう。但し、この後、九月十日附室生犀星一五一四書簡で、「この間の句は二句とも捨てた(松風に、花はちす)」と記している。後の句、やはり「鵠沼雑記」の犬である。更に「二伸 夏目先生のことに僕を引き合ひに出して貰ひ少からず恐縮した。」とあるが、これについて新全集注解で宮坂覺氏は室生犀星の『「漱石の発句」の中に「漱石の発句は後進の澄江堂の洗練がなく」「澄江堂龍之介は、年は若いが一粒づつよりぬいて手をゆるめてゐない」などの記述が見られる』ことを指すとされている。)



  即景
花はちす雀をとめてたわわなる

(一五〇九 八月二十四日 遠田信太郎宛。鵠沼から。鷺只雄氏の「年表作家読本」には、「この頃、妻と二人新婚生活を送った鎌倉を訪ねる」とある。大町辻、因みに前にも書いたが、ここは私の実家のすぐ傍で、私の実家から見える位置にあったと思われる。)



秋の日や疊干したる町のうら

(一五一一 九月二日 室生犀星宛。田端から。手紙末に「この間睡眠藥をのみすぎ夜中に五十分も獨り語を云ひつづけたよし。」とある。)



  この頃の一句
据ゑ風呂にくび骨さする夜寒かな

(一五一五 九月十六日 佐佐木茂索宛。鵠沼から。手紙文中に「點鬼簿に數枚つけ加えて改造に出したけれど、その數枚に幾日もかかり、小生前途暗澹の感あり。」とし、さらに身邊の瑣事を並べた後、「多事、多難、多憂、蛇のやうに冬眠したい。」と記している。なお、この日前後に「點鬼簿」を脱稿している。『改造』への発表は十月一日。)



  戲れに
ふりわけて片荷は酒の小春かな

(一五二七 十一月一日 小澤忠兵衛宛。鵠沼から。小穴隆一の絵あり。手紙文は下駄の履き間違えを謝する内容。下駄は小包で送っている。履き違えは酒席の帰りの出来事でもあったか。ちなみに小澤忠兵衛(碧童)は大の酒好きであった。)



かひもなき眠り藥や夜半の冬

(一五三七 十二月五日 下島勳宛。鵠沼から。いつも睡眠薬を処方してくれる下島への挨拶句。次の一五六三書簡注参照。十二月二日附佐佐木茂索宛一五三二書簡では「鴉片エキス、ホミカ、下劑、ヴエロナアル、――藥を食つて生きてゐるやうだ。」と記す。)



山蜂の劒を冷やすや手水鉢

(書簡番号なし 推定大正十五年 葛巻義敏宛。家にて小松芳喬氏の名刺に、と「芥川龍之介未定稿集」にあるもの。類型句なし。小松芳喬(明治三十九(一九〇六)年~平成十二(二〇〇〇)年)は経済学者。小松芳喬宛のものでは近々に昭和二(一九二七)年二月五日附一五七〇書簡があるので(但し、句はない)、書簡ではないが、便宜上、ここに示しておく。)



昭和二(一九二七)年     三十五歳



  即興
尿する茶壺も寒し枕ガミ

(一五六三 一月二十八日 齋藤茂吉宛。田端から。「尿する」の「尿」は「いばり・すばり・ゆばり」と三様に読める。筑摩全集類聚版の当該書簡では「いばり」とルビを振るが、芥川の言語感覚から私はサ行音の畳みかけから「すばり」と読みたい。「茶壺」に掛けるなら「ゆばり」か。この手紙で彼は、茂吉の短尺を依頼し、後で使いを遣るので、その時に Veronalと Neuronal を処方してくれるように依頼している。前年からの内憂外患のストレスに加え、この月の六日に義兄(姉ヒサの夫)西川豊が鉄道自殺、その後処理に奔走、極度に疲弊していた。義兄は前々日自宅が火災に遭っているが、その家に多額の保険金をかけた直後であったため、放火の嫌疑をかけられ、警察の取調べを受けていた。時に、このVeronalは自殺に用いたとされる薬物の一つである。共立出版一九六一年刊「化学大事典」によるとこれは商品名で、バルビツール酸のジエチル誘導体で、正式名バルビタール、催眠薬とあり、「ドイツ Farbenfabriken Bayer A. G. 製の商品名をベロナール(英 Veronal)という。一九〇三年E. Fischer および J. v. Mering により催眠性が認められ、今日のバルビツル酸系催眠薬確立の端緒となった。」と記す。Neuronal は全集類聚版注に神経安定剤とある。――しかし本当にこの数ヵ月後の自裁に用いられたのは――「ジャールとヴェロナール」であったのだろうか? 私は疑問に思っているのである――一月一日には「彼」を『女性』に(脱稿は十一月十三日)、「彼 第二」を『新潮』に(脱稿は十二月九日)、十二月十六日頃脱稿した「玄鶴山房」一、二章を『中央公論』一月号に、「悠々荘」を『サンデー毎日』に発表している。)



  即興
春返る支那餅食へやいざ子ども

(一五七二 二月七日 蒲原春夫宛。田端から。支那餅の礼。手紙文中、「僕は多忙中ムヤミに書いてゐる。婦人公論十二枚、改造六十枚、文藝春秋三枚、演劇新潮五枚、、我ながら窮すれば通ずと思つてゐる。」と記す。後に日附の代わりに「御大葬の夜」とある(前年の十二月二十五日に崩御した大正天皇の埋葬の儀は二月八日に行われれているが、前日からの準備を含めての謂いであろうか)。既に述べた通り、前月の一月六日、義兄西川豊が千葉県山武郡で鉄道自殺を遂げ、事後や残された借金の処理にために、疲労は極点に達していた。)



冴え返る枝もふるへて猿すべり

(一五八八 三月二十八日 齋藤茂吉宛。鵠沼から。芥川の内実が吐露される書簡である。以下に、手紙文全文を掲載する。

原稿用紙にて御免蒙り候。度々御手紙頂き、恐縮に候。「河童」などは時間さへあれば、まだ何十枚でも書けるつもり。唯婦人公論の「蜃氣樓」だけは多少の自信有之候。但しこれも片々たるものにてどうにも致しかた無之候。何かペンを動かし居り候へども、いづれも楠正成が湊川にて戰ひをるやうなものに有之、疲勞に疲勞を重ねをり候。(今日は午後より鵠沼へ參る筈。)尊臺のことなど何かと申すがらにも無之候へども、あまりはたが齒痒き故、ペンを及ぼし候次第、高免を得れば幸甚に御座候。一休禪師は朦々三十年と申し候へども、小生などは碌々三十年、一爪痕も殘せるや否や覺束なく、みづから「くたばつてしまへ」と申すこと度たびに有之候。御憐憫下され度候。この頃又半透明なる齒車あまた右の目の視野に廻轉する事あり、或は尊臺の病院の中に半生を了ることと相成るべき乎。この頃福田大將を狙撃したる和田久太郎君の獄中記を讀み、「しんかんとしたりや蚤のはねる音」「のどの中に藥塗るなり雲の峯」「麥飯の虫ふえにけり土用雲」等の句を得、アナアキストも中々やるなと存じ候。(一茶嫌ひの尊臺には落第にや)殊に「あの霜が刺さつてゐるか痔の病」は同病相憐むの情に堪へず、獄中にての痔は苦しかるべく候。來月朔日には歸京、又々親族會議を開かなければならず、不快この事に存じをり候。そこへ參ると菊池などは大した勢いにて又々何とか讀本をはじめ候。(小生は名前を連ねたるのみ。)唯今小生に慾しきものは第一に動物的エネルギイ、第二に動物的エネルギイ、第三に動物的エネルギイのみ。
   冴え返る枝もふるへて猿すべり

「朦々」は精神がはっきりしないさま。「尊臺の病院」は茂吉が院長をしていた青山脳病院を指す。和田久太郎は、関東大震災で憲兵甘粕大尉らによる友大杉栄殺害の仇を討つため、震災時の戒厳司令官であった陸軍大将福田雅太郎を大正十三(一九二四)年狙撃したが、失敗。彼は、事件の翌年に無期懲役の判決を受け、三年後、三十五歳で獄中で縊死自殺を遂げた。「親族會議」は義兄西川豊の自宅放火保険金詐欺の嫌疑、西川の鉄道自殺、彼の死後の多額の借金返済問題等に関わるものと思われる。菊池寛の始めた「何とか讀本」は興文社刊の全八十八巻になる『小学生全集』を指す。編纂者は菊池と芥川の共同となっている。)



冴返る鄰の屋根や夜半の雨

(一五九二 四月十日 飯田蛇笏宛。田端から。ここには個々の自作俳句に関わる大変重要な見解が示されているので、以下に全文を掲載する。

冠省「雲母」の選句高評ありがたく存候。専門家にああ云はれると素人少々鼻を高く致し候。但し蝶の舌の句は改作にあらず、おのづから「ゼンマイに似る」云々と記憶せしものに有之候。當時の句屑を保存せざる小生の事故「鐵條に似て」云々とありしと云ふ貴説恐らく正しかるべく、從つて、もう一度考へ直し度候。唯似る――niru[やぶちゃん注:ローマ字は底本では横書。]と滑る音、ゼンマイにかかりてちよつと未練あり、このラ行の音を欲しと思ふは素人考へにや。なほ又「かげろふや棟も落ちたる」は「棟も沈める」と改作致し候。あゝ何句もならべて見ると、調べに變化乏しくつくづく俳諧もむづかしきものなりと存候。この頃久保田君、句集を出すにつき、序を書けと云はれ、
   「冴え返る鄰の屋根や夜半の雨」
御一笑下され度候。二月號「山廬近詠」中、
   「破魔弓や山びこつくる子のたむろ」
人に迫るもの有之候。ああ云ふゝは東京にゐては到底出來ず、健羨に堪へず候。頓首
                      芥川龍之介
   四月十日
  飯田蛇笏樣

これは、大正十五(一九二六)年十二月二十五日、新潮社発行の単行本『梅・馬・鶯』に「發句」の題で収められたものへの、『雲母』誌上での蛇笏評に対する消息文である。
 なお、この前後に、芥川は心中未遂を起こしている。四月七日とも四月十六日ともされるが(菊池寛宛の遺書は菊池自身が十六日附と「芥川の事ども」に書き記している。但し、この菊池の言う「遺書」なるもの実態は、その叙述自体からやや不分明な点がある)、執筆場としていた帝国ホテルで、妻文の幼な友達の平松麻素子ますこと心中を計画したが、平松が小穴や、彼女の友人で歌人の柳原白蓮びゃくれんに告白し、白蓮や文本人の説得で、未遂に終わった。「或阿呆の一生」の「ダブル・プラトニツク・スウイサイド」である。
 更に脱線すると、私はその次の「四十八 死」で彼が青酸カリを既に所持していた事実を重く見る。
 青酸カリ。シアン化カリウムの通称。化学式KCN。水酸化カリウムとシアン化水素を反応させることで得られる潮解性を持った白色粉末状結晶。水に易溶性を持ち、アルコールにもやや溶ける。猛毒で、致死量〇・一五グラム。金・銀の冶金・メッキ等で利用する。――
 ――私は若い頃から、芥川龍之介の死因には疑問を持っていた。所謂、睡眠薬の多量服用では自殺の既遂(成功)の可能性がかなり低いからである。確実な死を望んでいた芥川がジャールやヴェロナールで安心したはずがない。致死性に於いて万全である、この青酸カリを描写している、その「四十八 死」を見よう。

       四十八 死

 彼は彼女とは死ななかつた。唯未だに彼女の體に指一つ觸つてゐないことは彼には何か滿足だつた。彼女は何ごともなかつたやうに時々彼と話したりした。のみならず彼に彼女の持つてゐた靑酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした。
 それは實際彼の心を丈夫にしたのに違ひなかつた。彼はひとり籐椅子に坐り、椎の若葉を眺めながら、度々死の彼に與へる平和を考へずにはゐられなかつた。

――私は高校時代からずっと、芥川の自殺に用いた毒物は青酸カリであろうと踏んでいた。ただ、ここに書かれたように、この平松麻素子から青酸カリを入手したというのは如何にも考えにくいと、やはりずっと思っていた。平松麻素子との心中未遂の一件について調べれば調べるほど、このシーンのように彼女が『持つてゐた青酸加里を一罎渡し、「これさへあればお互に力強いでせう、」とも言つたりした』とは考えられなかったからである。そうして――山崎光夫氏の「藪の中の家-芥川自死の謎を解く」に出逢った。――なるほど! そうか! 直ぐ近くに!――以下は、このスリリングな作品をお読みあれ!――ともかく芥川龍之介は青酸カリで自死に美事成功したのである――。また、この事件に大正期におのが恋を立て通した稀有の女性柳原白蓮が関わっているのも、何とも感慨深いと、また、感ずるのである。)



こぶこぶの乳も霞むや枯れ銀杏

(一五九四 五月二日 恒藤恭宛。田端から。手紙文中に「頭の中はまだ片づかない。從つて未だに病氣だ。唯書かざる可らざる必要があつて書いてゐるのだから、憫み給へ。來月も亦谷崎君に答へることにした。僕等の議論は君等には非論理的だらうが、僕の現在の頭の中を整理するためには必要なのだ。」とある。「現在の頭の中」――言い得て妙ではないか。四月一日『改造』連載を始めた「文藝的な、餘りに文藝的な」で起こった、谷崎潤一郎との『筋のない小説』論争を指す。五月一日には、「たね子の憂鬱」を『新潮』に発表している。)



  憶北海道
冴え返る身にしみじみとほつき貝

(一六〇五 五月二十四日 佐佐木茂索宛。絵葉書。句の後に「このほつき貝と云ふは恐るべきものだ。どこの宿にとまつても大抵膳の上に出現する。」とある。この「憶北海道」という詞書は、改造社版『現代日本文学全集』宣伝のための講演旅行で、里見弴との東北・北海道への旅を指す。五月十三日に旅立ち、五月十六日に函館着、札幌・旭川・小樽で講演、道内五泊の内、車中泊二泊の強行軍で、その後、二十一日の青森講演で終了した。ちなみに、この青森講演の演題は「漱石先生の話」で、聴衆の中にはには弘前高校在学中の太宰治がいた。その後、単身で、北陸回りで新潟に行き、二十三日もしくは二十四日に新潟高校で「ポオの一面」と題する講演を行った。この新潟高校講演行は芥川の三中在学時の校長が当時の新潟高校校長であったからという。五月二十四日附芥川文宛一六〇七書簡では「東北や北海道を廻つて來ると食ひもののうまいだけ難有い/どこへ行つても御馳走ぜめに弱つてゐる。就中北海道の「ホツキ」と云ふ貝はやり切れない。」と記しており、前掲した大正十一年十二月十七日附一〇九一書簡にあるようにホッキガイにあたった経験のある彼としては、真に「恐るべき」であったのかも知れない。また、中田雅敏氏は蝸牛文庫版の鑑賞文で、この句を『多分にエロチックな句で、動物的エネルギーの欠如を訴える精神の投影である』と記されるが、面白い読みである(「動物的エネルギーの欠如を訴える精神の投影」というのは、私には一種のパラドクスと聴こえもする)。――剥き身のホッキガイは、確かに、女性器を連想させる――さても、五月二十四日附里見弴宛一六一〇書簡の同句前書は「北海道を憶ふ」とこの漢文の単なる書き下しと解して採らない。)



  北海道二句
ひつじ田の中にしだるる柳かな

  ほつき貝と云ふ貝ありいづこの膳にものぼる
冴え返る身にしみじみとほつき貝

(一六〇六 五月二十四日 小穴隆一宛。絵葉書。五月二十四日附室生犀星宛一六〇九「ひつじ田の」の句の前書は「北海道」であるが、ここと同一とみなして採らない。「ひつじ」とは刈り取った後に再び伸びてくる稲のことを言う。「穭」と書く。秋の季語。――時に――この翌日か、翌々日――龍之介は秘かに軽井沢を訪れていた――それが私の確信的推理である――御興味のある方は是非、私の「片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による六つの変奏曲」をお読みあれ……)



  舊句 金澤にて
簀むし子や雨にもねまる蝸牛

(一六一二 六月十日 柳田國男宛。本句は「やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句」に所収するが、書簡ではここだけである。句前本文に『完省、先夜は失禮仕り候。「まひまひつぶろ」のぬき刷り、ありがたく拜受致し候。』とある。「まいまいつぶろ」は柳田の昭和四(一九三〇)年に完成を見る、著名な方言周圏論の名著「蝸牛考」の初出稿の一部を指すものと思われ、旧句とはいえ、挨拶句として如何にも相応しいものである。)



雪どけの中にしだるゝ柳かな

(一六一三 六月十四日 齋藤(西村)貞吉宛。田端から。句の後に「これは旭川の吟だ。」とある。この前後に芥川を最後の大きな衝撃が襲った。盟友宇野浩二の脳梅毒(齋藤茂吉診断)による重篤な統合失調症様症状の発症である(後年、治癒する)。芥川は実母フクからの「発狂の遺伝」を極度に恐れていた(但し、芥川の記すフクの症状は決定的なな遺伝的素因に基づく統合失調症とは私には思われない。抑鬱性の強い後天性心因性精神病と見る方が自然に思われる)。この発狂恐怖が、彼の死へのスプリング・ボードの一つとなったことは、最早、間違いないものと思われる。なお、六月一日には「齒車」の一を雑誌『大調和』に発表している。「齒車」の全文掲載は死後の十月の『文芸春秋』誌上であった。)


  旭川
雪どけの中にしだるゝ柳哉

(一六一四 六月二十一日 小手川金次郎宛。田端から。これが旧全集の中で日附の判明している書簡に所収する龍之介最後の俳句である。
 この前日の六月二十日、『彼は最後の力を盡し、彼の自敍傳を書いて見ようとした。が、それは彼自身には存外容易に出來なかつた。それは彼の自尊心や懷疑主義や利害の打算の未だに殘つてゐる爲だつた。彼はかう云ふ彼自身を輕蔑せずにはゐられなかつた。しかし又一面には「誰でも一皮剥いて見れば同じことだ」とも思はずにはゐられなかつた。「詩と眞實と」と云ふ本の名前は彼にはあらゆる自敍傳の名前のやうにも考へられ勝ちだつた。のみならず文藝上の作品に必しも誰も動かされないのは彼にははつきりわかつてゐた。彼の作品の訴へるものは彼に近い生涯を送つた彼に近い人々の外にある筈はない。――かう云ふ氣も彼には働いてゐた。彼はその爲に手短かに彼の「詩と眞實と」を書いて見ることにした。』と言う「或阿呆の一生」を脱稿する。生前最後の作品集『湖南の扇』が文藝春秋社出版部から出版されたのも、この日であった。)



 年月未詳書簡句



片戀や夕ひえびえと竹婦人

稻妻にあやかし船の帆や見えし

坂なかばいつしや月の虚無僧ぼろとなり

殘る夜や舟に蓮切る水明り

(一六二六 年月未詳 宛名不明。書きかけの葉書に記されたもの。最初の句は、大正七(一九一八)年一月二十九日附池崎忠孝宛三七九書簡に「冷え冷えと」の表記違いで載るので、下書きと思われる本書簡もその頃のものと推測される。「あやかし船」については「あやかし」が、船が難破する際の海上の超常現象を指すことから、そうした幽霊船の幻影を指すと考えられる。中田雅敏編著の蝸牛俳句文庫3「芥川龍之介」には『「あやかし」は海に現れる妖怪を言う。謡曲「船弁慶」や西鶴の「武家義理物語」に登場する。海上に閃光をひらめかした稲妻に、一瞬船を目の当たりにした。あれは恐らくあやかし船であったのだろうという意である。いかにもおどろおどろしき世界を好んだ芥川らしい句である。』と鑑賞されている。「虚無僧」の読みの「ぼろ」は、そのルーツにある乞食僧が梵論師ぼろんじ、ボロ、ボロボロ、暮露と呼ばれたことに由来。底本では三句目は、

坂かなばいつしや月の虚無僧ぼろとなり

となっている。この上句は永く私には不審であったのだが、岩波版新全集の当該書簡(新全集書簡番号1735)では「坂なかば」となっており、それで訂正した。)



  近作
夕立つや土間にとりこむ大萬燈

(一六三一 年月未詳 薄田淳介(泣菫)宛。岩波版新全集の当該書簡(新全集書簡番号1738)の宮坂覺氏注解では、幾つかの傍証を掲げて、本書簡の執筆時期を大正八(一九一九)年以降とする説と、大正十(一九二一)年以降とする水谷昭夫説を併記する。後者は使用されている便箋が唐紙であることから中国特派以降とする考察である。但し、句自体は「我鬼句抄補遺」の「夏」パートに「夕立や土間にとりこむ大萬燈」とあり、前後の句の後に「(七年)」の表記があるから、大正七(一九一八)年の吟であることは確実。「近作」という前書からも私は本書簡も大正七(一九一八)年と見るが、如何?)







   辞世



   自嘲
水涕や鼻の先だけ暮れのこる    龍之介





[やぶちゃん注:龍之介は、昭和二(一九二七)年七月二十四日午前一時か一時半頃、伯母フキの枕元にやってくると、
「伯母さん、これを明日の朝、下島さんに渡して下さい。先生が来た時、僕がまだ寝ているかも知れないが、寝ていたら、僕を起こさずに置いて、その儘まだ寝ているからと言って渡して下さい。」
と言って短冊を渡した。その後に、薬物を飲み、床に入り、聖書を読みながら、彼は永遠の眠りに就いた。
 これのみ、底本として、昭和五十三(一九七八)年九月一日発行の雑誌「墨 十四 特集 芥川龍之介」に所収する下島勲(空谷)宛オリジナル短冊写真版より起こした。
 短冊のサイズは三六〇×六〇。原型句自体は「澄江堂句集」によると、大正十二年頃の作か。「發句」所収のものとは、「殘る」のひらがな表記で相違する。
 しかし、慄っとするほど美事な彼の死のシルエットである。大正十四年の「土雛や鼻の先だけ暮れ殘る」の改案故に、この句を諧謔味に富んだ芥川の軽みの句境と解する向きには全く私は組しない。
 ――バッハ弾きの名手グレン・グールドは恐るべき怪演にして快演の「ゴルトベルグ変奏曲」で華々しく実質的にデビューし、その同じ「ゴルトベルグ変奏曲」の新録音演奏を以ってその最期を閉じた――
 ――芥川龍之介も漱石激賞の実質的なデビュー作「鼻」に始まり、その円環をやはり、この「鼻」の句で閉じた――のであった。
 それはとりもなおさず、自嘲的諧謔であると同時に、自己同一性証明への確信犯としての覚悟の一句であった。――
 ――ヴィトゲンシュタインが言った如く――我々は語り得ぬものについて、沈黙せねばならない――のである――]


やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏 へ