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芥川龍之介作品集『傀儡師』やぶちゃん版(バーチャル・ウェブ版)へ

るしへる   芥川龍之介

[やぶちゃん注:『大阪毎日新聞』夕刊に大正7(1918)年11月発行の雑誌『雄辯』の11月特別号「新人之世界」に掲載された。後に単行本『傀儡師』『沙羅の花』『報恩記』『芥川龍之介集』に所収された。底本は昭和551980)年ほるぷ社『特選 名著復刻全集 近代文学館』で復刻された大正8(1919)年新潮社刊の『傀儡師』を用いた。本文中に芥川自身が( )を用いて表記している部分があり、その直前の語句にルビが振られている場合は、ルビ相当の読みの部分を私のテクストの常套である( )ではなく、〔 〕に変えて区別した(例えば冒頭の「輅齊布兒〔るしへる〕(中略)」等)。また、濁音の「/\」は正字に直した。岩波版旧全集本文との相違箇所及びオリジナルな注を別ページで作成した。別ウィンドウで開いておいて読み進められることをお勧めする。

■芥川龍之介「るしへる」やぶちゃん注へ

なお、ユニコードで表示が出来ない出来なかったのは一字だけで、主人公の名「巴※弇(はびあん)」の「び」に相当する字である。

※=(へん)「田」+(つくり)「比」

文中では「※」で示した。「金毘羅様」の「毘」と同字である。]

 

るしへる 大正七年八月

       芥川龍之介

 

天主初成世界 隨從三十六神 第一鉅神云 輅齊布兒〔るしへる〕(中略) 自謂其智與天

主等 天主怒而貶入地獄(中略) 輅齊雖入地獄受苦 一半魂神作魔遊行世間

退人善念            ――佐關第三闢裂性中艾儒略荅許大受語――

 

        

 

 破提宇子(はでうす)と云ふ天主教を辯難した書物のある事は、知つてゐる人も少くあるまい。これは、元和六年、加賀の禪僧巴※弇(はびあん)なるものの著した書物である。巴※弇は當初(たうしよ)南蠻寺(なんばんじ)に住した天主教徒であつたが、その後何かの事情から、DS(でうす)如來を捨てゝ佛門に歸依する事になつた。書中に云つてゐる所から推すと、彼は老儒の學にも造詣のある、一かどの才子だつたらしい。

 破提宇子の流布本は、華頂山文庫(くわちやうさんぶんこ)の藏本を、明治戊辰の頃、杞憂道人鵜飼徹定の序文と共に、出版したものである。が、そのほかにも異本がない譯ではない。現に予が所藏の古寫本の如きは、流布本と内容を異にする個所が多少ある。

 中でも同書の第三段は、惡魔の起源を論じた一章であるが、流布本(るふほん)のそれに比して、予の藏本では内容が遙に多い。巴※弇自身の目撃した惡魔の記事が、あの辛辣な辨難攻撃の間に態々引證されてあるからである。この記事が流布本に載せられてゐない理由は、恐らくその餘りに荒唐無稽に類する所から、かう云ふ破邪顯正を標榜する書物の性質上、故意の脱漏を利(り)としたからでもあらうか。

 予は以下にこの異本第三段を紹介して、聊巴※弇の前に姿を現した、日本の Diabolusを一瞥しようと思ふ。猶巴※弇に關して、詳細を知りたい人は、新村博士の巴※弇に關する論文を一讀するが好い。

 

        

 

 提宇子のいはく、DS(でうす) は「すひりつあるすたんしや」とて、無色無形(むしよくむけい)の實體にて、間に髮を入れず、天地いつくにも充滿して在ませども、別して威光を顯し善人に樂を與へ玉はん爲に「はらいそ」とて極樂世界を諸天の上に作り玉ふ。その始人間よりも前に、安助〔あんじよ〕(元使)とて無量無數の天人を造り、いまだ尊體を顯し玉はず。上一人の位を望むべからずとの天戒を定め玉ひ、この天戒を守らばその功德に依つて、DSの尊體を拜し、不退の樂を極むべし。若し又破戒せば「いんへるの」とて、衆苦充滿の地獄に墮し毒寒毒熱の苦難を與ふべしとの義なりしに、造られ奉つて未だ一刻をも經ざるに、即ち無量の安助の中に「るしへる」と云へる安助、己が善に誇つて我は是 DS(でうす)なり、我を拜せよと勸めしに、かの無量の安助の中、三分の一は「るしへる」に同意し、多分は與せず、ここにおいて DS「るしへる」を初とし、彼に與せし三分の一の安助をば下界へ追ひ下し、「いんへるの」に墮せしめ給ふ。即安助高慢の科に依つて、「ぢやぼ」とて天狗と成りたるものなり。

 破していはく、汝(なんぢ)提宇子(でうす)、この段を説く事、ひとへに自繩自縛なり、まず DS(でうす)はいつくにも充ち滿ちて在ますと云ふは、眞如法性本分の天地に充塞し、六合に遍滿したる理を、聞きはつり云ふかと覺えたり。似たる事は似たれども、是なる事は未だ是ならずとは、如此の事をや云ふ可き。さて汝云はずや。DSは「さひえんいしも」とて、三世了達の智なりとは。然らば彼安助を造らば、即時に科(とが)に落つ可きと云ふ事を知らずんばあるべからず。知らずんば、三世了達の智と云へば虚談なり。又知りながら造りたらば、慳貪の第一なり。萬事に叶ふ DSならば、安助の科に墮せざるやうには、何とて造らざるぞ。科に落つるを儘に任せ置たるは、頗る天魔を造りたるものなり。無用の天狗を造り、邪魔を爲さするは、何と云ふ事ぞ。されど「ぢやぼ」と云ふ天狗、もとよりこの世になしと云ふべからず。唯、DS安助を造り、安助惡魔と成りし理、聞えずと辯ずるのみ。

 よし又、「ぢやぼ」の成り立は、さる事なりとするも、汝がこれを以て極惡兇猛の鬼物となす條、甚以て不審なり。その故は、われ、昔、南蠻寺に住せし時、惡魔「るしへる」を目のあたりに見し事ありしが、彼自らその然らざる理を述べ、人間の「ぢやぼ」を知らざる事、夥しきを歎きしを如何。云ふこと勿れ、巴※弇、天魔の愚弄する所となり、妄に胡亂(うろん)の言をなすと。天主と云ふ名に嚇されて、正法の明なるを悟らざる汝提宇子こそ、愚痴のたゞ中よ。わが眼より見れば、尊げに「さんた・まりあ」などと念じ玉ふ、伴天連の數は多けれど、惡魔「るしへる」ほどの議論者は、一人もあるまじく存ずるなり。今、事の序なれば、わが「ぢやぼ」に會ひし次第、南蠻の語にては「あぼくりは」とも云ふべきを、あら/\下に記し置かん。

 年月の程は、さる可き用もなければ云はず。とある年の秋の夕暮、われ獨り南蠻寺の境内なる花木の茂みを歩みつゝ、同じく切支丹宗門の門徒にして、さるやんごとなきあたりの夫人が、涙ながらの懺悔(こひさん)を思ひめぐらし居たる事あり。先つごろ、その夫人のわれに申されけるは、「この程、怪しき事あり。日夜何ものとも知れず、わが耳に囁きて、如何ぞさばかりむくつけき夫のみ守れる。世には情ある男も少からぬものをと云ふ。しかもその聲を聞く毎に、神魂たちまち恍惚として、戀慕の情自ら止め難し。さればとて又、誰と契らんと願ふにもあらず、唯、わが身の年若く、美しき事のみなげかれ、徒らなる思に身を焦すなり」と。われ、その時、宗門の戒法を説き、且嚴に警めけるは、「その聲こそ、一定(いちぢやう)惡魔の所爲とは覺えたれ。總じてこの「ぢやぼ」には、七つの恐しき罪に人間を誘ふ力あり、一に驕慢、二に憤怒、三に嫉妬、四に貪望、五に色慾、六に餮饕、七に懈怠、一つとして墮獄の惡趣たらざるものなし。されば DSが大慈大悲の泉源たるとうらうへにて、「ぢやぼ」は一切諸惡の根本なれば、苟くも天主の御教を奉ずるものは、かりそめにもその爪牙に近づくべからず。唯、專念に祈禱を唱へ、DS の御德にすがり奉つて、萬一「いんへるの」の業火に燒かるる事を免るべし」と。われ、更に又南蠻の畫にて見たる、惡魔の凄じき形相など、こまごまと談りければ、夫人も今更に「ぢやぼ」の恐しさを思ひ知られ、「さてはその蝙蝠の翼、山羊の蹄、蛇(くちなは)の鱗(うろこ)を備へしものが、目にこそ見えね、わが耳のほとりに蹲りて淫(みだ)らなる戀を囁くにや」と、身ぶるひして申されたり。われ、その一部始終を心の中に繰返しつゝ、異國より移し植ゑたる、名も知らぬ草木の薫しき花を分けて、ほの暗き小路を歩み居しが、ふと眼を擧げて、行手を見れば、われを去る事十歩ならざるに、伴天連めきたる人影あり。その人、わが眼を擧ぐるより早く、風の如く來りて、問ひけるは、「汝、われを知るや」と。われ、眼を定めてその人を見れば、面はさながら崑崙奴(こんろんぬ)の如く黑けれど、眉目さまで卑しからず、身には法服(あびと)の裾長きを着て、首のめぐりには黄金(こがね)の飾りを垂れたり。われ、遂にその面を見知らざりしかば、否と答へけるに、その人、忽ち嘲笑(あざわら)ふが如き聲にて、「われは惡魔「るしへる」なり」と云ふ。われ、大に驚きて云ひけるは、「如何ぞ、「るしへる」なる事あらん。見れば、容體も人に異らず。蝙蝠の翼、山羊の蹄、蛇の鱗は如何にしたる」と。その人答ふらく、「惡魔はもとより、人間と異るものにあらず。われを描いて、醜惡絶類ならしむるものは畫工のさかしらなり。わがともがらは、皆われの如く、翼なく、鱗なく、蹄なし。況や何ぞかの古怪なる面貌あらん。」われ、更に云ひけるは、「惡魔にしてたとひ、人間と異るものにあらずとするも、そは唯、皮相の見に止るのみ。汝が心には、恐しき七つの罪、蝎の如くに蟠(わだかま)らん、」と。「るしへる」再、嘲笑ふ如き聲にて云ふやう、「七つの罪は人間の心にも、蝎の如くに蟠れり。そは汝自ら知る所か」と。われ罵るらく、「惡魔よ、退け、わが心は DS(でうす) が諸善萬德を映すの鏡なり。汝の影を止むべき所にあらず、」と。惡魔呵々大笑していはく、「愚(おろか)なり。汝がわれを唾罵する心は、これ即驕慢にして、七つの罪の第一よ。惡魔と人間と異らぬは、汝の實證を見て知るべし。若し惡魔にして、汝ら沙門の思ふが如く、極惡兇猛の鬼物ならんか、われら天が下を二つに分つて、汝が DSと共に治めんのみ。それ光あれば、必ず暗あり。DSの晝と惡魔の夜と交々この世を統(す)べん事、あるべからずとは云ひ難し。されどわれら惡魔の族はその性(さが)惡なれど、善を忘れず。右の眼は「いんへるの」の無間の暗を見るとも云へど、左の眼は今も猶、「はらいそ」の光を麗しと、常に天上を眺むるなり。さればこそ惡において全からず。屢 DSが天人の爲に苦しめらる。汝知らずや、さきの日何が懺悔を聞きたる夫人も、「るしへる」自らその耳に、邪淫の言を囁きしを。唯、わが心弱くして、飽くまで夫人を誘ふ事能わず。唯、黄昏と共に身邊を去來して、そが珊瑚の念珠と、象牙に似たる手頸とを、えもならず美しき幻の如く眺めしのみ。もしわれにして、汝ら沙門の恐るゝ如き、兇險無道の惡魔ならんか、夫人は必ず汝の前に懺悔の涙をそゝがんより、速に不義の快樂(けらく)に耽つて、墮獄の業因を成就せん」と。われ、「るしへる」の辯舌、爽なるに驚きて、はかばかしく答もなさず、茫然として唯、その黑檀の如く、つやゝかなる面を目戍り居しに、彼、たちまちわが肩を抱いて、悲しげに囁きけるは、「わが常に「いんへるの」に墮さんと思ふ魂は、同じく又、わが常に「いんへるの」に墮すまじと思ふ魂なり。汝、われら惡魔がこの悲しき運命を知るや否や。わがかの夫人を邪淫の穽(あな)に捕へんとして、しかも遂に捕へ得ざりしを見よ。われ夫人の氣高く清らかなるを愛づれば、愈夫人を汚さまく思ひ、反つて又、夫人を汚さまく思へば、愈氣高く清らかなるを愛でんとす。これ、汝らが屢七つの恐しき罪を犯さんとするが如く、われら亦、常に七つの恐しき德を行わんとすればなり。ああ、われら惡魔を誘うて、絶えず善に赴かしめんとするものは、抑又汝らが DSか。或は DS以上の靈か」と。惡魔「るしへる」は、かくわが耳に囁きて、薄暮の空をふり仰ぐよと見えしが、その姿忽ち霧の如くうすくなりて、淡薄たる秋花の木の間に、消ゆるともなく消え去り了んぬ。われ、即ち匇惶として伴天連の許に走り、「るしへる」が言を以てこれに語りたれど、無智の伴天連、反つてわれを信ぜず。宗門の内證に背くものとして、呵責を加うる事數日なり。されどわれ、わが眼にて見、わが耳にて聞きたるこの惡魔「るしへる」を如何にかして疑ふ可き。惡魔亦性善なり。斷じて一切諸惡の根本にあらず。

 ああ、汝、提宇子(でうす)、すでに惡魔の何たるを知らず、況や又、天地作者の方寸をや。蔓頭の葛藤、截斷し去る。咄。



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