やぶちゃんの電子テクスト:小説・評論・随筆篇へ
鬼火へ
[やぶちゃん注:大正8(1919)年7月発行の雑誌『中央公論』に掲載され、後に『影燈籠』に所収された。底本は岩波版旧全集を用いた。底本はルビが殆んどないが、難読と思われる字には独自に〔 〕で読みを附した。読みを迷うものは筑摩書房版全集類聚のルビを参考にした。( )は底本にルビとしてあるものである。一部に注を附した。]
疑惑 芥川龍之介
今ではもう十年あまり以前になるが、或年の春私は實踐倫理學の講義を依賴されて、その間かれこれ一週間ばかり、岐阜縣下の大垣町へ滯在する事になつた。元來地方有志なるものの難有迷惑な厚遇に辟易してゐた私は、私を請待〔しやうたい〕してくれた或教育家の團體へ豫め斷りの手紙を出して、送迎とか宴會とか或は又名所の案内とか、その外いろいろ講演に附隨する一切の無用な暇つぶしを拒絶したい旨希望して置いた。すると幸私の變人だと云ふ風評は夙にこの地方にも傳へられてゐたものと見えて、やがて私が向うへ行くと、その團體の會長たる大垣町長の斡旋によつて、萬事がこの我儘な希望通り取計らはれたばかりでなく、宿も特に普通の旅館を避けて、町内の素封家N氏の別莊とかになつてゐる閑靜な住居を周旋された。私がこれから話さうと思ふのは、その滯在中その別莊で偶然私が耳にした或悲慘な出來事の顛末である。
その住居のある所は、巨鹿〔ころく〕城に近い廓(くるわ)町〔まち〕の最も俗塵に遠い一區劃だつた。殊に私の起臥してゐた書院造りの八疊は、日當りこそ惡い憾はあつたが、障子襖も程よく寂びのついた、如何にも落着きの或座敷だつた。私の世話を燒いてくれる別莊番の夫婦者は、格別用のない限り、何時(いつ)も勝手に下つてゐたから、このうす暗い八疊の間は大抵森閑として人氣がなかつた。それは御影の手水鉢の上に枝を延ばしてゐる木蓮が、時々白い花を落すのでさへ、明に聞き取れるやうな靜かさだつた。毎日午前だけ講演に行つた私は、午後と夜とをこの座敷で、甚泰平に暮す事が出來た。が、同時に又、參考書と着換へとを入れた鞄の外に何一つない私自身を、春寒く思ふ事も度々あつた。
尤も午後は時折來る訪問客に氣が紛れて、さほど寂しいとは思はなかつた。が、やがて竹の筒を台にした古風なランプに火が燈ると、人間らしい氣息の通ふ世界は、忽其かすかな光に照される私の周圍だけに縮まつてしまつた。しかも私にはその周圍さへ、決して賴もしい氣は起させなかつた。私の後にある床の間には、花も活けてない青銅の瓶が一つ、威かつくどつしりと据えてあつた。さうしてその上には怪しげな楊柳觀音の軸が、煤けた錦襴の表裝の中に朦朧と墨色〔ぼくしよく〕を辨じてゐた。私は折々書見の眼をあげて、この古ぼけた佛畫をふり返ると、必ず炷〔た〕きもしない線香がどこかで匂つてゐるやうな心もちがした。それほど座敷の中には寺らしい閑寂の氣が罩〔こも〕つてゐた。だから私はよく早寢をした。が、床にはいつても容易に眠くはならなかつた。雨戸の外では夜鳥〔よどり〕の聲が、遠近を定めず私を驚かした。その聲はこの住居の上に或天主閣を心に描かせた。晝見ると何時(いつ)も天主閣は、蓊鬱〔をううつ〕とした松の間に三層の白壁を疊みながら、その反り返つた家根の空へ無數の鴉をばら撒いてゐる。――私は何時(いつ)かうと/\と淺い眠に沈みながら、それでもまだ腹の底には水のやうな春寒〔はるさむ〕が漂つてゐるのを意識した。
[やぶちゃん注:「楊柳観音」は、観音の三十三応現身の一つで、一般に右手に柳の枝を持ち、左の掌を上に向けて胸の前に当てる姿勢をとる。柳の枝で悪病を祓い清めるといい、薬王観音とも言う。「蓊鬱」は草木が鬱蒼と茂るさま。]
すると或夜の事――それは豫定の講演日數が將に終らうとしてゐる頃であつた。私は何時(いつ)もの通りランプの前にあぐらをかいて、漫然と書見に耽つてゐると、突然次の間との境の襖が無氣味な程靜に明いた。その明いたのに氣がついた時、無意識にあの別莊番を豫期してゐた私は、折よく先刻書いて置いた端書の投凾を賴まうと思つて、何氣なく其方を一瞥した。するとその襖側(ふすまぎは)のうす暗がりには、私の全く見知らない四十恰好の男が一人、端然として坐つてゐた。實を云へばその瞬間、私は驚愕――と云ふよりも寧ろ迷信的な恐怖に近い一種の感情に脅された。又實際その男は、それだけのシヨツクに價すべく、ぼんやりしたランプの光を浴びて、妙に幽靈じみた姿を具へてゐた。が、彼は私と顏を合はすと、昔風に兩肱を高く張つて恭しく頭を下げながら、思つたよりも若い聲で、殆機械的にこんな挨拶の言(ことば)を述べた。
「夜中、殊に御忙しい所を御邪魔に上りまして、何とも申し譯の致しやうはございませんが、ちと折入つて先生に御願ひ申したい儀がございまして、失禮をも顧ず、參上致したやうな次第でございます。」
ようやく最初のシヨツクから恢復した私は、その男がかう辯じ立ててゐる間に、始めて落着いて相手を觀察した。彼は額の廣い、頰のこけた、年にも似合はず眼に働きのある、品の好い半白の人物だつた。それが紋附でこそなかつたが見苦しからぬ羽織袴で、しかも膝のあたりにはちやんと扇面を控へてゐた。唯、咄嗟の際にも私の神經を刺戟したのは、彼の左の手の指が一本缺けてゐる事だつた。私はふとそれに氣がつくと、我知らず眼をその手から外らさないではゐられなかつた。
「何か御用ですか。」
私は讀みかけた書物を閉じながら、無愛想にかう問ひかけた。云ふまでもなく私には、彼の唐突な訪問が意外であると共に腹立しかつた。と同時に又別莊番が一言もこの客來を取次がないのも不審だつた。しかしその男は私の冷淡な言葉にもめげないで、もう一度額を疊につけると、相不變朗讀でもしさうな調子で、
「申し遲れましたが、私は中村玄道と申しますもので、やはり毎日先生の御講演を伺ひに出て居りますが、勿論多數の中でございますから、御見覺えもございますまい。どうかこれを御縁にして、今後は又何分ともよろしく御指導の程を御願い致します。」
私はここに至つて、漸くこの男の來意が呑みこめたやうな心もちがした。が、夜中書見の清興を破られた事は、依然として不快に違ひなかつた。
「すると――何か私の講演に質疑でもあると仰有るのですか。」
かう尋ねた私は内心ひそかに、「質疑なら明日〔みやうにち〕講演場で伺いませう」と云ふ體の善い撃退の文句を用意してゐた。しかし相手はやはり顏の筋肉一つ動かさないで、ぢつと袴の膝の上に視線を落しながら、
「いえ、質疑ではございません。ございませんが、實は私一身のふり方につきまして、善惡とも先生の御意見を承りたいのでございます。と申しますのは、唯今からざつと二十年ばかり以前、私は或思ひもよらない出來事に出合ひまして、その結果とんと私にも私自身がわからなくなつてしまひました。就きましては、先生のやうな倫理學界の大家の御説を伺ひましたら、自然分別もつかうと存じまして、今晩はわざわざ推參致したのでございます。如何でございませう。御退屈でも私の身の上話を一通り御聽き取り下さる譯には參りますまいか。」
私は答に躊躇した。成程專門の上から云へば倫理學者には相違ないが、さうかと云つて又私は、その專門の知識を運轉させてすぐに當面の實際問題への靈活な解決を與へ得る程、融通の利く頭腦の持ち主だとは遺憾ながら己惚れる事が出來なかつた。すると彼は私の逡巡に早くも氣がついたと見えて、今まで袴の膝の上に伏せてゐた視線をあげると、半ば歎願するやうに、怯づ々々私の顏色を窺ひながら、前より稍自然な聲で、慇懃にかう言葉を繼いだ。
「いえ、それも勿論強ひて先生から、是非の御判斷を伺はなくてはならないと申す譯ではございません。唯、私がこの年になりますまで、始終頭を惱まさずにはゐられなかつた問題でございますから、せめてその間の苦しみだけでも先生のやうな方の御耳に入れて、多少にもせよ私自身の心やりに致したいと思ふのでございます。」
かう言はれて見ると私は、義理にもこの見知らない男の話を聞かないと云ふ譯には行かなかつた。が、同時に又不吉な豫感と茫漠とした一種の責任感とが、重苦しく私の心の上にのしかかつて來るやうな心もちもした。私はそれらの不安な感じを拂ひ除けたい一心から、わざと氣輕らしい態度を裝つて、うすぼんやりしたランプの向うに近々と相手を招じながら、
「では兎に角御話だけ伺いませう。尤もそれを伺つたからと云つて、格別御參考になるやうな意見などは申し上げられるかどうかわかりませんが。」
「いえ、唯、御聞きになつてさへ下されば、それでもう私には本望すぎる位でございます。」
中村玄道と名のつた人物は、指の一本足りない手に疊の上の扇子をとり上げると、時々そつと眼をあげて私よりも寧床の間の楊柳觀音を偸み見ながら、やはり抑揚に乏しい陰氣な調子で、とぎれ勝ちにかう話し始めた。
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丁度明治二十四年の事でございます。御承知の通り二十四年と申しますと、あの濃尾の大地震がございました年で、あれ以來この大垣もがらりと容子が違つてしまひましたが、その頃町には小學校が丁度二つございまして、一つは藩侯の御建てになつたもの、一つは町方の建てたものと、かう分れて居つたものでございます。私はその藩侯の御建てになつたK小學校へ奉職して居りましたが、二三年前に縣の師範學校を首席で卒業致しましたのと、その後又引き續いて校長などの信用も相當にございましたのとで、年輩にしては高級な十五圓と云ふ月俸を頂戴致して居りました。唯今でこそ十五圓の月給取は露命も繋げない位でございませが、何分二十年も以前の事で、十分とは參りませんまでも、暮しに不自由はございませんでしたから、同僚の中でも私などは、どちらかと申すと羨望の的になつた程でございました。
家族は天にも地にも妻一人で、それもまだ結婚してから、漸く二年ばかりしか經たない頃でございました。妻は校長の遠縁のもので、幼い時に兩親に別れてから私の所へ片づくまで、ずつと校長夫婦が娘のやうに面倒を見てくれた女でございます。名は小夜と申しまして、私の口から申し上げますのも、異なものでございますが、至つて素直な、はにかみ易い――その代り又無口過ぎて、どこか影の薄いやうな、寂しい生れつきでございました。が、私には似たもの夫婦で、たとひこれと申す程の花々しい樂しさはございませんでも、まづ安らかなその日その日を、送る事が出來たのでございます。
するとあの大地震で、――忘れも致しません十月の二十八日、彼是午前七時頃でございませうか。私が井戸端で楊子を使つてゐると、妻は臺所で釜の飯を移してゐる。――その上へ家がつぶれました。それがほんの一二分の間の事で、まるで大風のやうな凄まじい地鳴りが襲ひかかつたと思ひますと、忽めきめきと家が傾(かし)いで、後は唯瓦の飛ぶのが見えたばかりでございます。私はあつと云ふ暇もなく、やにわに落ちて來た庇に敷かれて、暫くは無我無中[やぶちゃん注:ママ。]の儘、どこからともなく寄せて來る大震動の波に搖られて居りましたが、やつとその庇の下から土煙の中へ這ひ出して見ますと、目の前にあるのは私の家の屋根で、しかも瓦の間に草の生へたのが、そつくり地の上へひしやげて居りました。
その時の私の心もちは、驚いたと申しませうか。慌てたと申しませうか。まるで放心したのも同前で、べつたりそこへ腰を拔いたなり、丁度嵐の海のやうに右にも左にも屋根を落した家々の上へ眼をやつて、地鳴りの音、梁の落ちる音、樹木の折れる音、壁の崩れる音、それから幾千人の人々が逃げ惑ふのでございませう、聲とも音ともつかない響が騷然と煮えくり返るのをぼんやり聞いて居りました。が、それはほんの刹那の間で、やがて向うの庇の下に動いてゐるものを見つけますと、私は急に飛び上つて、凶(わる)い夢からでも覺めたやうに意味のない大聲を擧げながら、いきなり其處へ駈けつけました。庇の下には妻の小夜が、下半身を梁に壓されながら、悶え苦しんで居つたのでございます。
私は妻の手を執つて引張りました。妻の肩を押して起さうとしました。が、壓しにかかつた梁は、蟲の這ひ出す程も動きません。私はうろたへながら、庇の板を一枚々々むしり取りました。取りながら、何度も妻に向つて「しつかりしろ」と喚きました。妻を? いや或は私自身を勵ましてゐたのかも存じません。小夜は「苦しい」と申しました。「どうかして下さいまし」とも申しました。が、私に勵まされるまでもなく、別人のやうに血相を變へて、必死に梁を擡げようと致して居りましたから。私はその時妻の兩手が、爪も見えない程血にまみれて、震へながら梁をさぐつて居つたのが、今でもまざまざと苦しい記憶に殘つてゐるのでございます。
それが長い長い間の事でございました。――その内にふと氣がつきますと、どこからか濛々とした黒煙が一なだれに屋根を渡つて、むつと私の顏へ吹きつけました。と思ふと、その煙の向うにけたたましく何か爆(は)ぜる音がして、金粉のやうな火粉がばらばらと疎らに空へ舞ひ上りました。私は氣の違つたやうに妻へ獅嚙〔しが〕みつきました。さうしてもう一度無二無三に、妻の體を梁の下から引きずり出さうと致しました。が、やはり妻の下半身は一寸も動かす事は出來ません。私は又吹きつけて來る煙を浴びて、庇に片膝つきながら、嚙みつくやうに妻へ申しました。何を? と御尋ねになるかも存じません、いや、必御尋ねになりませう。しかし私も何を申したか、とんと覺えていないのでございます。唯私はその時妻が、血にまみれた手で私の腕をつかみながら、「あなた」と一言申したのを覺えて居ります。私は妻の顏を見つめました。あらゆる表情を失つた、眼ばかり徒に大きく見開いてゐる、氣味の惡い顏でございます。すると今度は煙ばかりか、火の粉を煽つた一陣の火氣が、眼も眩む程私を襲つて來ました。私はもう駄目だと思ひました。妻は生きながら火に燒かれて、死ぬのだと思ひました。生きながら? 私は血だらけな妻の手を握つた儘、又何か喚きました。と、妻も又繰返して、「あなた」と一言申しました。私はその時その「あなた」と云ふ言葉の中に、無數の意味、無數の感情を感じたのでございます。生きながら? 生きながら? 私は三度何か叫びました。それは「死ね」と云つたやうにも覺えて居ります。「己〔おれ〕も死ぬ」と云つたやうにも覺えて居ります。が、何と云つたかわからない内に、私は手當り次第、落ちてゐる瓦を取り上げて、續けさまに妻の頭へ打ち下(おろ)しました。
それから後〔のち〕の事は、先生の御察しにまかせる外はございません。私は獨り生き殘りました。殆町中を燒きつくした火と煙とに追はれながら、小山のやうに路を塞いだ家々の屋根の間をくぐつて、漸く危い一命を拾つたのでございます。幸か、それとも又不幸か、私には何にもわかりませんでした。唯その夜、まだ燃えてゐる火事の光を暗い空に望みながら、同僚の一人二人と一しよに、やはり一ひしぎにつぶされた學校の外の假小屋で、炊き出しの握り飯を手にとつた時とめどなく涙が流れた事は、未だにどうしても忘れられません。
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中村玄道は暫く言葉を切つて、臆病らしい眼を疊へ落した。突然こんな話を聞かされた私も、愈廣い座敷の春寒が襟元まで押寄せたやうな心もちがして、「成程」と云ふ元氣さへ起らなかつた。
部屋の中には、唯、ランプの油を吸ひ上げる音がした。それから机の上に載せた私の懷中時計が、細かく時を刻む音がした。と思ふと又その中で、床の間の楊柳觀音が身動きをしたかと思ふ程、かすかな吐息をつく音がした。
私は悸えた眼を擧げて、悄然と坐つてゐる相手の姿を見守つた。吐息をしたのは彼だろうか。それとも私自身だろうか。――が、その疑問が解けない内に、中村玄道はやはり低い聲で、徐に話を續け出した。
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申すまでもなく私は、妻の最期を悲しみました。そればかりか、時としては、校長始め同僚から、親切な同情の言葉を受けて、人前も恥ぢず涙さへ流した事がございました。が、私があの地震の中で、妻を殺したと云ふ事だけは、妙に口へ出して云ふ事が出來なかつたのでございます。「生きながら火に燒かれるよりはと思つて、私が手にかけて殺して來ました。」――これだけの事を口外したからと云つて、何も私が監獄へ送られる次第でもございますまい。いや、寧ろそのために世間は一層私に同情してくれたのに相違ございません。それがどう云ふものか、云はうとすると忽ち喉元にこびりついて、一言も舌が動かなくなつてしまふのでございます。
當時の私はその原因が、全く私の臆病に根ざしてゐるのだと思ひました。が、實は單に臆病と云ふよりも、もつと深い所に潜んでゐる原因があつたのでございます。しかしその原因は、私に再婚の話が起つて、愈もう一度新生涯へはいらうと云ふ間際までは、私自身にもわかりませんでした。そうしてそれがわかつた時、私はもう二度と人並の生活を送る資格のない、憐むべき精神上の癈殘者になるより外はなかつたのでございます。
再婚の話を私に持ち出したのは、小夜の親許になつてゐた校長で、これが純粹に私の爲を計つた結果だと申す事は私にもよく呑み込めました。又實際その頃はもうあの大地震があつてから、彼是一年あまり經つた時分で、校長がこの問題を切り出した以前にも、内々同じやうな相談を持ちかけて私の口裏を引いて見るものが一度ならずあつたのでございます。所が校長の話を聞いて見ますと、意外な事にはその縁談の相手と云ふのが、唯今先生のい[やぶちゃん注:ママ。]らつしやる、このN家の二番娘で、當時私が學校以外にも、時々出稽古の面倒を見てやつた尋常四年生の長男の姉だつたろうではございませんか。勿論私は一應辭退しました。第一教員の私と資産家のN家とでは格段に身分も違ひますし、家庭教師と云ふ關係上、結婚までには何か曰くがあつたらうなどと、痛くない腹を探られるのも面白くないと思つたからでございます。同時に又私の進まなかつた理由の後(うしろ)には、去る者は日に疎しで、以前ほど悲しい記憶はなかつたまでも、私自身打ち殺した小夜の面影が、箒星の尾のやうにぼんやり纏わつてゐたのに相違ございません。
が、校長は十分私の心もちを汲んでくれた上で、私位の年輩の者が今後獨身生活を續けるのは困難だと云ふ事、しかも今度の縁談は先方から達つての所望だと云ふ事、校長自身が進んで媒酌の勞を執る以上、惡評などが立つ謂はれのないと云ふ事、その外日頃私の希望してゐる東京遊學の如きも、結婚した曉には大いに便宜があるだらうと云ふ事――さう事をいろいろ並べ立てて、根氣よく私を説きました。かう言はれて見ますと、私も無下には斷つてしまふ譯には參りません。そこへ相手の娘と申しますのは、評判の美人でございましたし、その上御恥しい次第ではございますが、N家の資産にも目がくれましたので、校長に勸められるのも度重なつて參りますと、いつか「熟考して見ませう」が「いづれ年でも變りましたら」などと、だんだん軟化致し始めました。さうしてその年の變つた明治二十六年の初夏には、愈秋になつたら式を擧げると云ふ運びさへついてしまつたのでございます。
するとその話がきまつた頃から、妙に私は氣が欝して、自分ながら不思議に思ふ程、何をするにも昔のやうな元氣がなくなつてしまひました。たとへば學校へ參りましても、教員室の机に倚り懸りながら、ぼんやり何かに思ひ耽つて、授業の開始を知らせる板木の音さへ、聞き落してしまふやうな事が度々あるのでございます。その癖何が氣になるのかと申しますと、それは私にもはつきりとは見極めをつける事が出來ません。唯、頭の中の齒車がどこかしつくり合はないやうな――しかもそのしつくり合はない向うには、私の自覺を超越した祕密が蟠つてゐるやうな、氣味の惡い心もちがするのでございます。
それがざつと二月ばかり、續いてからの事でございましたらう。丁度暑中休暇になつた當座で、或夕方私が散歩旁々〔かたがた〕、本願寺別院の裏手にある本屋の店先を覗いて見ますと、その頃評判の高かつた風俗畫報と申す雜誌が五六册、夜窓鬼談や月耕漫畫などと一しよに、石版刷の表紙を並べて居りました。そこで店先に佇みながら、何氣なくその風俗畫報を一册手にとつて見ますと、表紙に家が倒れたり火事が始つたりしてゐる畫があつて、そこへ二行に「明治廿四年十一月三十日發行、十月廿八日震災記聞」と大きく刷つて或のでございます。それを見た時、私は急に胸がはずみ出しました。私の耳もとでは誰かゞ嬉しそうに嘲笑ひながら、「それだ。それだ。」と囁くやうな心もちさへ致します。私はまだ火をともさない店先の薄明りで、慌しく表紙をはぐつて見ました。するとまつ先に一家の老若が、落ちて來た梁に打ちひしがれて慘死を遂げる畫が出て居ります。それから土地が二つに裂けて、足を過つた女子供を呑んでゐる畫が出て居ります。それから――一々數へ立てるまでもございませんが、その時その風俗畫報は、二年以前の大地震の光景を再〔ふたたび〕私の眼の前へ展開してくれたのでございます。長良川鐵橋陷落の圖、尾張紡績會社破壞の圖、第三師團兵士屍體發掘の圖、愛知病院負傷者救護の圖――さう云ふ凄慘な畫は次から次と、あの呪わしい當時の記憶の中へ私を引きこんで參りました。私は眼がうるみました。體も震へ始めました。苦痛とも歡喜ともつかない感情は、用捨なく私の精神を蕩漾〔たうやう〕させてしまひます。さうして最後の一枚の畫が私の眼の前に開かれた時――私は今でもその時の驚愕がありあり心に殘つて居ります。それは落ちて來た梁に腰を打たれて、一人の女が無慘にも悶え苦しんでゐる畫でございました。その梁の横わつた向うには、黒煙が濛々と卷き上つて、朱を撥〔はじ〕いた火の粉さへ亂れ飛んでゐるではございませんか。これが私の妻でなくて誰でせう。妻の最期でなくて何でせう。私は危く風俗畫報を手から落そうと致しました。危く聲を擧げて叫ばうと致しました。しかもその途端に一層私を悸えさせたのは、突然あたりが赤々と明くなつて、火事を想はせるやうな煙の匂がぷんと鼻を打つた事でございます。私は強ひて心を押し鎭めながら、風俗畫報を下へ置いて、きよろきよろ店先を見廻しました。店先では丁度小僧が吊ランプへ火をとぼして、夕暗の流れてゐる往來へ、まだ煙の立つ燐寸殼を捨ててゐる所だつたのでございます。
[やぶちゃん注:「蕩漾」=「蕩搖」で揺り動かすこと。]
それ以來、私は、前よりも更に幽欝な人間になつてしまひました。今まで私を脅したのは唯、何とも知れない不安な心もちでございましたが、その後は或疑惑が私の頭の中に蟠つて、日夜を問はず私を責め虐むのでございます。と申しますのは、あの大地震の時私が妻を殺したのは、果して已むを得なかつたのだろうか。――もう一層露骨に申しますと、私は妻を殺したのは、始から殺したい心があつて殺したのではなかつたらうか。大地震は唯私のために機會を與へたのではなかつたらうか、――かう云ふ疑惑でございました。私は勿論この疑惑の前に、何度思ひ切つて「否、否」と答へた事だかわかりません。が、本屋の店先で私の耳に「それだ。それだ。」と囁いた何物かは、その度に又嘲笑つて、「では何故お前は妻を殺した事を口外する事が出來なかつたのだ」と、問い詰るのでございます。私はその事實に思ひ當ると、必ぎくりと致しました。ああ、何故私は妻を殺したなら殺したと云い放てなかつたのでございませう。何故今日までひた隱しに、それ程の恐しい經驗を隱して居つたのでございませう。
しかもその際私の記憶へ鮮に生き返つて來たものは、當時の私が妻の小夜を内心憎んでゐたと云ふ、忌わしい事實でございます。これは恥を御話しなければ、ちと御會得〔ごゑとく〕が參らないかも存じませんが、妻は不幸にも肉體的に缺陷のある女でございました。(以下八十二行省略)…………そこで私はその時までは、覺束ないながら私の道德感情が兎も角も勝利を博したものと信じて居つたのでございます。が、あの大地震のやうな凶變が起つて、一切の社會的束縛が地上から姿を隱した時、どうしてそれと共に私の道德感情も龜裂を生じなかつたと申せませう。どうして私の利己心も火の手を揚げなかつたと申せませう。私はここに立ち至つて、やはり妻を殺したのは殺すために殺したのではなかつたらうかと云ふ、疑惑を認めずには居られませんでした。私が愈幽欝になつたのは、寧自然の數〔すう〕とでも申すべきものだつたのでございます。
[やぶちゃん注:「(以下八十二行省略)…………」の部分は当時の検閲等の結果ではなく、芥川龍之介自身の作為的な記載である。]
しかしまだ私には、「あの場合妻を殺さなかつたにしても、妻は必火事のために燒け死んだのに相違ない。さうすれば何も妻を殺したのが、特に自分の罪惡だとは言はれない筈だ。」と云ふ一條の血路がございました。所が或日、もう季節が眞夏から殘暑へ振り變つて、學校が始まつて居た頃でございますが、私ども教員が一同教員室の卓子〔テエブル〕を圍んで、番茶を飮みながら、多曖もない雜談を交して居りますと、どう云ふ時の拍子だつたか、話題が又あの二年以前の大地震に落ちた事がございます。私はその時も獨り口を噤んだぎりで、同僚の話を聞くともなく聞き流して居りましたが、本願寺の別院の屋根が落ちた話、船町〔ふなまち〕の堤防が崩れた話、俵町の往來の土が裂けた話――とそれからそれへ話がはづみましたが、やがて一人の教員が申しますには、中町とかの備後屋と云ふ酒屋の女房は、一旦梁の下敷になつて、身動きも碌に出來なかつたのが、その内に火事が始つて、梁も幸燒け折れたものだから、やつと命だけは拾つたと、かう云ふのでございます。私はそれを聞いた時に、俄に目の前が暗くなつて、その儘暫くは呼吸さへも止るやうな心地が致しました。又實際その間は、失心したも同樣な姿だつたのでございませう。漸く我に返つて見ますと、同僚は急に私の顏色が變つて、椅子ごと倒れさうになつたのに驚きながら、皆私のまはりへ集つて、水を飮ませるやら藥をくれるやら、大騷ぎを致して居りました。が、私はその同僚に禮を云ふ餘裕もない程、頭の中はあの恐しい疑惑の塊で一ぱいになつてゐたのでございます。私はやはり妻を殺す爲に殺したのではなかつたらうか。たとひ梁に壓されてゐても、萬一命が助かるのを恐れて、打ち殺したのではなかつたらうか。もしあの儘殺さないで置いたなら今の備後屋の女房の話のやうに、私の妻もどんな機會で九死に一生を得たかも知れない。それを私は情無く、瓦の一撃で殺してしまつた――さう思つた時の私の苦しさは、ひとへに先生の御推察を仰ぐ外はございません。私はその苦しみの中で、せめてはN家との縁談を斷つてでも、幾分一身を潔くしようと決心したのでございます。
所が愈その運びをつけると云ふ段になりますと、折角の私の決心は未練にも又鈍り出しました。何しろ近々結婚式を擧げようと云ふ間際になつて、突然破談にしたいと申すのでございますから、あの大地震の時に私が妻を殺害した顛末は元より、これまでの私の苦しい心中も一切打ち明けなければなりますまい。それが小心な私には、いざと云ふ場合に立ち至ると、いかに自ら鞭撻しても、斷行する勇氣が出なかつたのでございます。私は何度となく腑甲斐ない私自身を責めました。が、徒に責めるばかりで、何一つ然るべき處置も取らない内に、殘暑は又朝寒〔あささむ〕に移り變つて、とうとう所謂華燭の典を擧げる日も、目前に迫つたではございませんか。
私はもうその頃には、何誰〔だれ〕とも滅多に口を利かない程、沈み切つた人間になつて居りました。結婚を延期したらと注意した同僚も、一人や二人ではございません。醫者に見て貰つたらと云ふ忠告も、三度まで校長から受けました。が、當時の私にはさう云ふ親切な言葉の手前、外見だけでも健康を顧慮しようと云ふ氣力さへ既になかつたのでございます。と同時に又その連中の心配を利用して、病氣を口實に結婚を延期するのも、今となつては意氣地のない姑息手段としか思はれませんでした。しかも一方ではN家の主人などが、私の氣欝の原因を獨身生活の影響だとでも感違ひをしたのでございませう、一日も早く結婚しろと頻に主張しますので、日こそ違ひますが二年前にあの大地震のあつた十月、いよいよ私はN家の本邸で結婚式を擧げる事になりました。連日の心勞に憔悴し切つた私が、花婿らしい紋服を着用して、いかめしく金屏風を立てめぐらした廣間へ案内された時、どれ程私は今日の私を恥しく思つたでございませう。私はまるで人目を偸んで、大罪惡を働かうとしてゐる惡漢のやうな氣が致しました。いや、やうな氣ではございません。實際私は殺人の罪惡をぬり隱して、N家の娘と資産とを一時盜もうと企てゝゐる人非人なのでございます。私は顏が熱くなつて參りました。胸が苦しくなつて參りました。出來るならこの場で、私が妻を殺した一條を逐一白状してしまひたい。――そんな氣がまるで嵐のやうに、烈しく私の頭の中を駈けめぐり始めました。するとその時、私の着座してゐる前の疊へ、夢のやうに白羽二重の足袋が現れました。續いて仄かな波の空に松と鶴とが霞んでゐる裾模樣が見えました。それから錦襴の帶、はこせこの銀鎖、白襟と順を追つて、鼈甲の櫛笄〔くしかうがい〕が重そうに光つてゐる高島田が眼にはいつた時、私は殆息がつまる程、絶體絶命な恐怖に壓倒されて、思はず兩手を疊へつくと、「私は人殺しです。極重惡の罪人です」と、必死な聲を擧げてしまひました。………
[やぶちゃん注:「はこせこ」は和装の女性が懐に入れて持つ箱形の紙入れのこと。実際には装飾である。「絶體絶命」はママ。]
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中村玄道はかう語り終ると、暫くぢつと私の顏を見つめてゐたが、やがて口もとに無理な微笑を浮べながら、
「その以後の事は申し上げるまでもございますまい。が、唯一つ御耳に入れて置きたいのは、當日限り私は狂人と云ふ名前を負はされて、憐むべき餘生を送らなければならなくなつた事でございます。果して私が狂人かどうか、そのやうな事は一切先生の御判斷に御任かせ致しませう。しかしたとひ狂人でございましても、私を狂人に致したものは、やはり我々人間の心の底に潜んでゐる怪物のせいではございますまいか。その怪物が居ります限り、今日〔けふ〕私を狂人と嘲笑つてゐる連中でさへ、明日〔あす〕は又私と同樣な狂人にならないものでもございません。――とまあ私は考えて居るのでございますが、如何なものでございませう。」
ランプは相不變私とこの無氣味な客との間に、春寒い焔を動かしてゐた。私は楊柳觀音を後にした儘、相手の指の一本ないのさへ問ひ質して見る氣力もなく、默然と坐つてゐるより外はなかつた。
――八年六月――