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鬼火へ

澄江堂雜記   芥川龍之介
[やぶちゃん注:大正十一(1922)年四月発行の雑誌『新潮』に掲載され、後に後に『百艸』『梅・馬・鶯』に「一 大雅の畫」から「十二 俊寛」までの通し番号を付して所収された。底本は岩波版旧全集を用いた。傍点「丶」は下線に代えた。保存する際の判別の便宜を考えて、ページタイトルを「澄江堂雑記1」とした。複数ある全く同題の「澄江堂雜記」の読み方については、私のこちらのブログ記事を参照されたい。]

 

澄江堂雜記   芥川龍之介

 

       大雅の畫

 

 僕は日頃大雅の畫を欲しいと思つてゐる。しかしそれは大雅でさへあれば、金を惜まないと云ふのではない。まあせいぜい五十圓位の大雅を一幅得たいのである。

 大雅は偉い畫描きである。昔、高久靄涯は一文無しの窮境にあつても、一幅の大雅だけは手離さなかつた。ああ云ふ英靈漢の筆に成つた畫は、何百圓と雖も高い事はない。それを五十圓に値切りたいのは、僕に餘財のない悲しさである。しかし大雅の畫品を思へば、たとへば五百萬圓を投ずるのも、僕のやうに五十圓を投ずるのも、安いと云ふ點では同じかも知れぬ。藝術品の價値も小切手や紙幣に換算出來ると考へるのは、度し難い俗物ばかりだからである。

 Samuel Butler の書いた物によると、彼は日頃「出來の好い、ちやんと保存された、四十シリング位のレムブラント」欲しがつてゐた。處が實際二度までも莫迦に安いレムブラントに遭遇した。一度は一傍と云ふ價の爲に買はなかつたが、二度目には友人の Gogin に諮つた上、とうとうそれを手に入れる事が出來た。その畫はどう云ふ畫だつたか、どの位の金を拂つたか、それはどちらも明らかではない。が、買つた時は千八百八十七年、買つた場所はストランド(ロンドン)の或質店の店さきである。

 かう云ふ先例もあつて見ると、五十圓の大雅を得んとするのは、必しも不可能事ではないかも知れぬ。何處か寂しい町の古道具屋の店に、たつた一幅賣り殘された、九霞山樵の水墨山水――僕は時時退屈すると彌勒の出世でも待つもののやうに、こんな空想にさへ耽る事がある。

 

       に き び

 

 昔「羅生門」と云ふ小説を書いた時、主人公の下人の頰には、大きい面皰のある由を書いた。當時は王朝時代の人間にも、面皰のない事はあるまいと云ふ、謙遜すれば當推量に據つたのであるが、その後左經記に二君とあり、二君又は二禁なるものは今日の面皰である事を知つた。二君等は勿論當て字である。尤もかう云ふ發見は、僕自身に興味がある程、傍人には面白くも何ともあるまい。

 

       將  軍

 

 官憲は僕の「將軍」と云ふ小説に、何行も抹殺を施した。處が今日の新聞を見ると生活に窮した癈兵たちは、「隊長殿にだまされた閣下連の踏臺」とか、「後顧するなと大うそつかれ」とか、種種のポスタアをぶら下げながら、東京街頭を步いたさうである。癈兵そのものを抹殺する事は、官憲の力にも覺束ないらしい。

 又官憲は今後と雖も、「○○の○○に○○の念を失はしむる」物は、發賣禁止を行ふさうである。〇〇の念は戀愛と同樣、虛僞の上に立つ事の出來るものではない。虛僞とは過去の眞理であり、今は通用せぬ藩札の類ある。官憲は虛僞を強ひがら、○○の念を失ふなと云ふ。それは藩札をつきつけながら、金貨に換へろと云ふのと變りはない。

 無邪氣なるものは官憲である。

 

       毛生え藥

 

 文藝と階級問題との關係は、頭と毛生え藥との關係に似てゐる。もしちやんと毛が生えてゐれば、必しも塗る事を必要としない。又もし禿げ頭だつたとすれば、恐らくは塗つても利かないであらう。

 

       藝術至上主義

 

 藝術至上主義の極致はフロオベルである。彼自身の言葉によれば、「神は萬象の創造に現れてゐるが、しかも人間に姿を見せない。藝術家が創作に對する態度も、亦斯くの如くなるべきである。」この故にマダム・ボヴァリイにしても、ミクロコスモスは展開するが、我我の情意には訴へて來ない。

 藝術至上主義、――少くとも小説に於ける藝術至上主義は、確かに欠伸の出易いものである。

 

       一切不捨

 

 何の某は帽子ばかり上等なのをかぶつてゐる、あの帽子さへなければ好いのだが、かう云ふ言葉をなす人がある。しかしその帽子を除いたにしても、何の何某の服裝なるものは、寸分も立派になる次第ではない。唯貧しげな外觀が、全體に蔓延するばかりである。

 何の某の小説はセンティメンタルだとか、何の某の戲曲はインテレクチュアルだとか、それらはいづれも帽子の場合と、選ぶ所のない言葉である。帽子ばかり上等なるものは、帽子を除き去る工夫をするより、上着もズボンも外套も、上等ならしむる工夫をせねばならぬ。センティメンタルな小説の作者は、感情を抑へる工夫をするより、理智を活かすべき工夫をせねばならぬ。

 これは獨り藝術上の問題のみではない。人生に於ても同じ事である。五欲の克服のみに骨を折つた坊主は、偉い坊主になつた事を聞かない。偉い坊主になつたものは、常に五欲を克服すべき、他の熱情を抱き得た坊主である。雲照さへ坊主の羅切を聞いては、「男根は須く隆隆たるべし」と、弟子共に教へたと云ふではないか?

 我等の内にある一切のものはいやが上にも伸ばさねばならぬ。それが我等に與へられた、唯一の成佛の道である。

 

       赤西蠣太

 

 或時志賀直哉氏の愛讀者と、「赤西蠣太の懸」の話をした事がある。その時僕はこんな事を云つた。「あの小説の中の人物には榮螺とか鱒次郎とか安甲とか、大抵魚貝の名がついてゐる。志賀氏にもヒュウモラス・サイドはないのではない。」すると客は驚いたやうに、「成程さうですね。そんな事には少しも氣がつかずにゐました」と云つた。その癖客は僕なぞよりも「赤西蠣大の戀」の筋をはつきり覺えてゐたのである。

 客は決して輕薄兒ではない。學問も人格も兼備した、寧ろ珍しい文學通である。しかもこの事實に氣つかなかつたのは、志賀氏の作品の型とでも云ふか、兔に角何時か頭の中に、さう云ふ物を拵へた上、それに囚はれてゐた爲であらう。これは獨り客のみではない。我我も氣をつけねばならぬ事である。

 

       釣名文人

 

 古來作家が本を出した時、その本の好評を計る爲に、新聞雜誌に載るべき評論を利用する事は稀ではない。中には手加減を加へるどころか、作者自身然るべき匿名のもとに、手前味噌の評論を書いたのもある。

 ド・ロシュフコオルは名高い格言集の作家である。處がサント・ブウヴの書いたものによると、この人さへジュルナアル・デ・サヴァアンに出た評論には、彼自身修正を施したらしい。しかもジュルナアル・デ・サヴァンは、當時發行された唯一の新聞であり、その評論の載つたのは、千六百六十五年三月九日だと云ふのだから、作家の評論を利用するのも、ずゐぶん淵源は古いものである。僕はロシュフウコオルの格言を思ひながら、この記事を讀んだ時、實際苦笑せずにはゐられなかつた。それを思へば日本の文壇は、新開地だけに惡風も少い。賣笑批評とか仲間褒め批評とか云つても、まづ害毒は知れたものである。

 因に云ふ。この評論の筆者はマダム・ド・サブレ、評論されたのは例の格言集である。

 

       歷史小説

 

 歷史小説と云ふ以上、一時代の風俗なり人情なりに、多少は忠實でないものはない。しかし一時代の特色のみを、――殊に道德の特色のみを主題としたものはあるべきである。たとへば日本の王朝時代は、男女關係の考へ方でも、現代のそれとは大分違ふ。其處を宛然作者自身も、和泉式部の友だちだつたやうに、虛心平氣に書き上げるのである。この種の歷史小説は、その現代との對照の間に、自然或暗示を與へ易い。メリメのイザベラもこれである。フランスのピラトもこれである。

 しかし日本の歷史小説には、未だこの種の作品を見ない。日本のは大抵古人の心に、今人の心と共通する、云はばヒュマンな閃きを捉へた、手つ取り早い作品ばかりである。誰か年少の天才の中に、上記の新機軸を出すものはゐないか?

 

       世  人

 

 西洋雜誌の載せる所によると、二十一年の九月巴里にアナトオル・フランスの像の建つた時、彼自身その除幕式に演説を試みたと云ふ事である。この頃それを讀んでゐると、かう云ふ一節を發見した。

 「わたしが人生を知つたのは、人と接觸した結果ではない。本と接觸した結果である。」しかし世人は事物に親しんでも、人生はわからぬと云ふかも知れない。

 ルノアルの言つた言葉に、「畫を學ばんとするものは美術館に行け」とか云ふのがある。しかし世人は古名畫を見るよりも、自然に學べと云ふかも知れない。

 世人とは常にかう云ふものである。

 

       火渡りの行者

 

 社會主義は、理非曲直の問題ではない。單に一つの必然である。僕はこの必然を必然と感じないものには、恰も火渡りの行者を見るが如き、驚嘆の情を禁じ得ない。あの過激思想取締法案とか云ふものの如きは、正にこの好例の一つである。

 

       俊  寛

 

 平家物語や源平盛衰記以外に、俊寛の新解釋を試みたものは現代に始まつた事ではない。近松門左衞門の俊寛の如きは、最も著名なものの一つである。

 近松の俊寛の島に殘るのは、俊寛自身の意志である。丹左衞門尉基康は、俊寛成經康賴等三人の赦免状を携へてゐる。が、成經の妻になつた、島の女千鳥だけは、船に乘る事を許されない。正使基康には許す氣があつても、副使の妹尾が許さぬのである。妻子の死を聞いた俊寛は、千鳥を船に乘せる爲に、妹尾太郎を殺してしまふ。「上使を斬りたる咎によつて、改めて今鬼界が島の流人となれば、上の御慈悲の筋も立ち、御上使の落度いささかなし。」この英雄的な俊寛は、成經康賴等の乘船を勸めながら、從容と又かうも云ふのである。「俊寛が乘るは弘誓の船、浮き世の船には望みなし。」

 僕は以前久米正雄と、この俊寛の芝居を見た。俊寛は故人段四郎、千鳥は歌右衞門、基康は羽左衞門、――他は記憶に殘つてゐない。俊寛が乘るは云云の文句は、當時大いに久米正雄を感心させたものである。

 近松の俊寛は源平盛衰記の俊寛よりも、遙かに偉い人になつてゐる。勿論舟出を見送る時には、嘆き悲しむのに相違ない。しかしその後は近松の俊寛も、安らかに餘生を迭つたかも知れぬ。少くとも盛衰記の俊寛程、悲しい末期には遇はなかつたであらう。――さう云ふ心もちを與へる限り、「苦しまざる俊寛」を書いたものは、夙に近松にあつたと云ふべきである。

 しかし近松の目ざしたのは、「苦しまざる俊寛」にのみあつたのではない。彼の俊寛は「平家女護が島」の登場人物の一人である。が、倉田、菊池兩氏の俊寛は、俊寛のみを主題としてゐる。鬼界が島に流された俊寛は如何に生活し、又如何に死を迎へたか?――これが兩氏の問題である。この問題は殊に菊池氏の場合、かう云ふ形式にも換へられるであらう。――「我等は俊寛と同じやうに、島流しの境遇に陷つた時、どう云ふ生活を營むであらうか?」

 近松と兩氏との立ち場の相違は、盛衰記の記事の改めぶりにも、窺はれると云ふ事を妨げない。近松はあの俊寛を作る爲に、俊寛の悲劇の關鍵たる赦免狀の件さへも變更した。兩氏も勿論近松に劣らず、盛衰記の記事を無視してゐる。しかし兩氏とも近松のやうに、赦免狀の件は改めてゐない。與へられたる條件の内に、俊寛の解釋を試みる以上、これだけは保存せねばならぬからである。

 丁度その場合と同じやうに、倉田氏と菊池氏との立ち場の相違も、やはり盛衰記の記事を變更した、その變更のし方に見えるかも知れぬ。倉田氏が俊寛の娘を死んだ事にしたり、菊池氏が島を豐沃の地にしたり、――それらは皆兩氏の俊寛、――「苦しめる俊寛」と「苦しまざる俊寛」とを描出するに便だつた爲であらう。僕の俊寛もこの點では、菊池氏の俊寛の蹤を追ふものである。唯菊池氏の俊寛は、寧ろ外部の生活に安住の因を見出してゐるが、僕のは必しもそればかりではない。

 しかし謠や淨瑠璃にある通り、不毛の孤島に取り殘された儘、しかもなほ悠悠たる、偉い俊寛も考へられぬではない。唯この巨鱗を捉へる事は、現在の僕には出來ぬのである。

 附記 盛衰記に現れた俊寛は、機智に富んだ思想家であり、鶴の前を愛する色好みである。僕は特にこの點では、盛衰記の記事に忠實だつた。又俊寛の歌なるものは、康賴や成經より拙いやうである。俊寛は議論には長じてゐても、詩人肌ではなかつたらしい。僕はこの點でも盛衰記に、忠實な態度を改めなかつた。又盛衰記の鬼界が島は、たとひタイティではないにしても、滿更岩ばかりでもなささうである。もしあの盛衰記の島の記事から、邊土に對する都曾人の恐怖や嫌惡を除き去れば、存外古風土記にありさうな、愛すべき島になるかも知れない。