[やぶちゃん注:大正七(1918)年九月一日発行の雑誌『三田文学』に掲載され、後に『傀儡師』『戯作三昧』『沙羅の花』等に所収された。底本には岩波版旧全集を用いた。但し、繰り返し記号「/\」の濁点付は正仮名で表記した。なお、本作については、私の作成した作品集『傀儡師』底本版「奉教人の死」テクスト、芥川龍之介「風變りな作品二點に就て」及び「奉教人の死」参考資料である斯定筌(Michael Steichen 1857-1929)著「聖人傳」の「聖マリナ」も参照されたい。]
奉教人の死 芥川龍之介
たとひ三百歳の齡を保ち、樂しみ身に餘ると云ふとも、未來永々(えい/\)の果しなき樂しみに比ぶれば、夢幻の如し。 ――(慶長譯 Guia do Pecador)――
善の道に立ち入りたらん人は、御教にこもる不可思議の甘味を覺ゆべし。
――(慶長譯 Imitatione Christi)――
一
去んぬる頃、日本長崎の「さんた・るちや」と申す「えけれしや」(寺院)に、「ろおれんぞ」と申すこの國の少年がござつた。これは或年御降誕の祭の夜、その「えけれしや」の戸口に、餓(う)ゑ疲(つか)れてうち伏して居つたを、參詣の奉教人衆が介抱し、それより伴天連(ばてれん)の憐みにて、寺中に養はれる事となつたげでござるが、何故かその身の素性(すじやう)を問へば、故郷(ふるさと)は「はらいそ」(天國)父の名は「でうす」(天主)などと、何時も事もなげな笑に紛らいて、とんとまことは明した事もござない。なれど親の代から「ぜんちよ」(異教徒)の輩であらなんだ事だけは、手くびにかけた靑玉の「こんたつ」(念珠(ねんじゆ))を見ても、知れたと申す。されば伴天連(ばてれん)はじめ、多くの「いるまん」衆(法兄弟)も、よも怪しいものではござるまいと、おぼされて、ねんごろに扶持して置かれたが、その信心の堅固なは、幼(をさな)いにも似ず「すぺりおれす」(長老衆)が舌を捲くばかりであつたれば、一同も「ろおれんぞ」は天童(てんどう)の生れがはりであらうずなど申し、いづくの生れ、たれの子とも知れぬものを、無下にめでいつくしんで居つたげでござる。
して又この「ろおれんぞ」は、顏かたちが玉のやうに淸らかであつたに、聲ざまも女のやうに優しかつたれば、一しほ人々のあはれみを惹いたのでござらう。中でもこの國の「いるまん」に「しめおん」と申したは、「ろおれんぞ」を弟のやうにもてなし、「えけれしや」の出入りにも、必仲よう手を組み合せて居つた。この「しめおん」は、元さる大名(だいみやう)に仕へた、槍(やり)一すぢの家がらなものぢや。されば身のたけも拔群なに、性得(しやうとく)の剛力(がうりき)であつたに由つて、伴天連が「ぜんちよ」ばらの石瓦にうたるゝを、防いで進ぜた事も、一度二度の沙汰ではごさない。それが「ろおれんぞ」と睦じうするさまは、とんと鳩になづむ荒鷲(あらわし)のやうであつたとも申さうか。或は「ればのん」山の檜に、葡萄かづらが纏ひついて、花咲いたやうであつたとも申さうず。
さる程に三年あまりの年月は、流るゝやうにすぎたに由つて、「ろおれんぞ」はやがて元服もすべき時節となつた。したがその頃怪しげな噂が傳はつたと申すは「さんた・るちや」から遠からぬ町方の傘張(かさはり)の娘が、「ろおれんぞ」と親しうすると云ふ事ぢや。この傘張(かさはり)の翁(おきな)も天主の御教を奉ずる人故、娘ともども「えけれしや」へは參る慣であつたに、御祈の暇にも、娘は香爐(かうろ)をさげた「ろおれんぞ」の姿から、眼を離したと申す事がござない。まして「えけれしや」への出入りには、必髮かたちを美しうして、「ろおれんぞ」のゐる方へ眼づかひをするが定(ぢやう)であつた。さればおのづと奉教人衆の人目にも止り、娘が行きずりに「ろおれんぞ」の足を踏んだと云ひ出すものもあれば、二人が艷書をとりかはすをしかと見とどけたと申すものも出て來たげでござる。
由つて伴天連(ばてれん)にも、すて置かれず思されたのでござらう。或日「ろおれんぞ」を召されて、白ひげを嚙みながら、「その方、傘張(かさはり)の娘と兎角の噂ある由を聞いたが、よもやまことではあるまい。どうぢや」ともの優しう尋ねられた。したが「ろおれんぞ」は、唯憂はしげに頭を振つて、「そのやうな事は一向に存じよう筈もござらぬ」と、淚聲に繰返すばかり故、伴天達もさすがに我を折られて、年配と云ひ、日頃の信心と云ひ、かうまで申すものに僞はあるまいと思されたげでござる。
さて一應伴天連(ばてれん)の疑は晴れてぢやが、「さんた・るちや」へ參る人々の間では、容易に、とかうの沙汰が絶えさうもござない。されば兄弟同樣にして居つた「しめおん」の氣がかりは、又人一倍ぢや。始はかやうな淫な事を、ものものしう詮議立てするが、おのれにも恥しうて、うちつけに尋ねようは元より、「ろおれんぞ」の顏さへまさかとは見られぬ程であつたが、或時「さんた・るちや」の後の庭で、「ろおれんぞ」へ宛てた娘の艷書を拾うたに由つて、人氣ない部屋にゐたを幸、「ろおれんぞ」の前にその文をつきつけて、嚇(おど)しつ賺(すか)しつ、さまざまに問ひたゞいた。なれど「ろおれんぞ」は唯、美しい顏を赤らめて、「娘は私に心を寄せましたげでござれど、私は文を貰うたばかり、とんと口を利(き)いた事もござらぬ」と申す。なれど世間のそしりもある事でござれば、「しめおん」は猶も押して問ひ詰つたに、「ろおれんぞ」はわびしげな眼で、ぢつと相手を見つめたと思へば、「私はお主(ぬし)にさへ、噓をつきさうな人間に見えるさうな」と、咎めるやうに云ひ放つて、とんと燕か何ぞのやうに、その儘つと部屋を出て行つてしまうた。かう云はれて見れば、「しめおん」も己の疑深かつたのが恥しうもなつたに由つて、悄々(すご/\)その場を去らうとしたに、いきなり駈けこんで來たは、少年の「ろおれんぞ」ぢや。それが飛びつくやうに「しめおん」の頸を抱くと、喘(あへ)ぐやうに「私が惡かつた。許して下されい」と、囁いて、こなたが一言も答へぬ間に、淚に濡れた顏を隱さう爲か、相手をつきのけるやうに身を開いて、一散に又元來た方へ、走つて往んでしまうたと申す。さればその「私が惡かつた」と囁いたのも、娘と密通したのが、惡かつたと云ふのやら、或は「しめおん」につれなうしたのが惡かつたと云ふのやら、一圓合點の致さうやうがなかつたとの事でござる。
するとその後間(ま)もなう起つたのは、その傘張の娘が孕(みごも)つたと云ふ騷ぎぢや。しかも腹の子の父親は、「さんた・るちや」の「ろおれんぞ」ぢやと、正しう父の前で申したげでござる。されば傘張の翁は火のやうに憤つて、即刻伴天連(ばてれん)のもとへ委細を訴へに參つた。かうなる上は「ろおれんぞ」も、かつふつ云ひ譯の致しやうがござない。その日の中に伴天連を始め、「いるまん」衆一同の談合に由つて、破門を申し渡される事になつた。元より破門の沙汰がある上は、伴天連(ばてれん)の手もとをも追ひ拂はれる事でござれば、糊口のよすがに困るのも目前ぢや。したがかやうな罪人を、この儘「さんた・るちや」に止めて置いては、御主(おんあるじ)の「ぐろおりや」(榮光)にも關る事ゆゑ、日頃親しう致いた人々も、淚をのんで「ろおれんぞ」を追ひ拂つたと申す事でござる。
その中でも哀れをとゞめたは、兄弟のやうにして居つた「しめおん」の身の上ぢや。これは「ろおれんぞ」が追ひ出されると云ふ悲しさよりも、「ろおれんぞ」に欺かれたと云ふ腹立たしさが一倍故、あのいたいけな少年が、折からの凩が吹く中へ、しを/\と戸口を出かゝつたに、傍から拳をふるうて、したゝかその美しい顏を打つた。「ろおれんぞ」は剛力に打たれたに由つて、思はずそこへ倒れたが、やがて起きあがると、淚ぐんだ眼で、空を仰ぎながら、『御主も許させ給へ。「しめおん」は、己が仕業(しわざ)もわきまへぬものでござる』と、わなゝく聲で祈つたと申す事ぢや。「しめおん」もこれには氣が挫けたのでござらう。暫くは唯戸口に立つて、拳を空にふるうて居つたが、その外の「いるまん」衆も、いろ/\とゝりないたれば、それを機會(しほ)に手を束ねて、嵐も吹き出でようず空の如く、凄じく顏を曇らせながら、悄々(すご/\)「さんた・るちや」の門(かど)を出る「ろおれんぞ」の後姿を、貪るやうにきつと見送つて居つた。その時居合はせた奉教人衆の話を傳へ聞けば、時しも凩にゆらぐ日輪が、うなだれて步む「ろおれんぞ」の頭のかなた、長崎の西の空に沈まうず景色であつたに由つて、あの少年のやさしい姿は、とんと一天の火焰の中に、立ちきはまつたやうに見えたと申す。
その後の「ろおれんぞ」は、「さんた・るちや」の内陣に香爐をかざした昔とは打つて變つて、町はづれの非人小屋に起き伏しする、世にも哀れな乞食であつた。ましてその前身は、「ぜんちよ」の輩(ともがら)にはゑとりのやうにさげしまるゝ、天主の御教を奉ずるものぢや。されば町を行けば、心ない童部(わらべ)に嘲らるゝは元より、刀杖瓦石の難に遭うた事も、度々(どゞ)ござるげに聞き及んだ。いや、嘗つては、長崎の町にはびこつた、恐しい熱病にとりつかれて、七日七夜の間、道ばたに伏しまろんでは、苦み悶えたと申す事でござる。したが、「でうす」無量無邊の御愛憐は、その都度「ろおれんぞ」が一命を救はせ給うたのみか、施物の米錢のない折々には、山の木の實(み)、海の魚貝など、その日の糧(かて)を惠ませ給ふのが常であつた。由つて「ろおれんぞ」も、朝夕の祈は「さんた・るちや」に在つた昔を忘れず、手くびにかけた「こんたつ」も、靑玉の色を變へなかつたと申す事ぢや。なんのそれのみか、夜毎に更闌(かうた)けて人音も靜まる頃となれば、この少年はひそかに町はづれの非人小屋を脱(ぬ)け出(いで)いて、月を踏んで住み馴れた「さんた・るちや」へ、御主「ぜす・きりしと」の御加護を祈りまゐらせに詣でゝ居つた。
なれど同じ「えけれしや」に詣づる奉教人衆も、その頃はとんと、「ろおれんぞ」を疎(うと)んじはてゝ、伴天連はじめ、誰一人憐みをかくるものもござらなんだ。ことわりかな、破門の折から所行無慚の少年と思ひこんで居つたに由つて、何として夜毎に、獨り「えけれしや」へ參る程の、信心ものぢやとは知られうぞ。これも「でうす」千萬無量の御計らひの一つ故、よしない儀とは申しながら、「ろおれんぞ」が身にとつては、いみじくも亦哀れな事でござつた。
さる程に、こなたはあの傘張の娘ぢや。「ろおれんぞ」が破門されると間もなく、月も滿たず女の子を産み落いたが、さすがにかたくなしい父の翁も、初孫の顏は憎からず思うたのでござらう、娘ともども大切に介抱して、自ら抱きもしかゝへもし、時にはもてあそびの人形などもとらせたと申す事でござる。翁は元よりさもあらうずなれど、ことに稀有なは「いるまん」の「しめおん」ぢや。あの「ぢやぼ」(惡魔)をも挫がうず大男が、娘に子が産まれるや否や、暇ある毎に傘張の翁を訪れて、無骨な腕(かひな)に幼子を抱き上げては、にがにがしげな顏に淚を浮べて、弟と愛(いつく)しんだ、あえかな「ろおれんぞ」の優姿(やさすがた)を、思ひ慕つて居つたと申す。唯、娘のみは、「さんた・るちや」を出でてこの方、絶えて「ろおれんぞ」が姿を見せぬのを、怨めしう歎きわびた氣色であつたれば、「しめおん」の訪れるのさへ、何かと快からず思ふげに見えた。
この國の諺にも、光陰に關守なしと申す通り、とかうする程に、一年あまりの年月は、瞬くひまに過ぎたと思召されい。こゝに思ひもよらぬ大變が起つたと申すは、一夜の中に長崎の町の半ばを燒き拂つた、あの大火事のあつた事ぢや。まことにその折の景色の凄じさは、末期の御裁判(おんさばき)の喇叭の音が、一天の火の光をつんざいて、鳴り渡つたかと思はれるばかり、世にも身の毛のよだつものでござつた。その時、あの傘張の翁の家は、運惡う風下にあつたに由つて、見る/\焰に包れたが、さて親子眷族、慌(あわ)てふためいて、逃げ出(いだ)いて見れば、娘が産んだ女の子の姿が見えぬと云ふ始末ぢや。一定、一間(ひとま)どころに寢かいて置いたを、忘れてこゝまで逃げのびたのであらうず。されば翁は足ずりをして罵りわめく。娘も亦、人に遮られずば、火の中へも馳せ入つて、助け出さう氣色に見えた。なれど風は益加はつて、焰の舌は天上の星をも焦さうず吼(たけ)りやうぢや。それ故火を救ひに集つた町方の人々も、唯、あれよ/\と立ち騷いで、狂氣のやうな娘をとり鎭めるより外に、せん方も亦あるまじい。所へひとり、多くの人を押しわけて、馳けつけて參つたは、あの「いるまん」の「しめおん」でござる。これは矢玉の下もくぐつたげな、逞しい大丈夫でござれば、ありやうを見るより早く、勇んで焰の中へ向うたが、あまりの火勢に辟易致いたのでござらう。二三度煙をくぐつたと見る間に、背(そびら)をめぐらして、一散に逃げ出いた。して翁と娘とが佇(たゝず)んだ前へ來て、『これも「でうす」萬事にかなはせたまふ御計らひの一つぢや。詮ない事とあきらめられい』と申す。その時翁の傍から、誰とも知らず、高らかに「御主、助け給へ」と叫ぶものがござつた。聲ざまに聞き覺えもござれば、「しめおん」が頭(かうべ)をめぐらして、その聲の主をきつと見れば、いかな事、これは紛ひもない「ろおれんぞ」ぢや。淸らかに瘦せ細つた顏は、火の光に赤うかがやいて、風に亂れる黑髮も、肩に餘るげに思はれたが、哀れにも美しい眉目のかたちは、一目見てそれと知られた。その「ろおれんぞ」が、乞食の姿のまゝ、群る人々の前に立つて、目もはなたず燃えさかる家を眺めて居(を)る。と思うたのは、まことに瞬く間もない程ぢや。一しきり焰を煽つて、恐しい風が吹き渡つたと見れば、「ろおれんぞ」の姿はまつしぐらに、早くも火の柱、火の壁、火の梁(うつばり)の中にはいつて居つた。「しめおん」は思はず遍身に汗を流いて、空高く「くるす」(十字)を描きながら、己も「御主、助け給へ」と叫んだが、何故かその時心の眼には、凩に搖るゝ日輪の光を浴びて、「さんた・るちや」の門に立ちきはまつた、美しく悲しげな、「ろおれんぞ」の姿が浮んだと申す。
なれどあたりに居つた奉教人衆は、「ろおれんぞ」が健氣(けなげ)な振舞に驚きながらも、破戒の昔を忘れかねたのでもござらう。忽兎角の批判は風に乘つて、人どよめきの上を渡つて參つた。と申すは、『さすが親子の情あひは爭はれぬものと見えた。己が身の罪を恥ぢて、このあたりへは影も見せなんだ「ろおれんぞ」が、今こそ一人子(ひとりご)の命を救はうとて、火の中へはひつたぞよ』と、誰ともなく罵りかはしたのでござる。これには翁さへ同心と覺えて、「ろおれんぞ」の姿を眺めてからは、怪しい心の騷ぎを隱さうず爲か、立ちつ居つ身を悶えて、何やら愚しい事のみを、聲高にひとりわめいて居つた。なれど當の娘ばかりは、狂ほしく大地に跪いて、兩の手で顏をうづめながら、一心不亂に祈誓を凝らいて、身動きをする氣色さへもござない。その空には火の粉が雨のやうに降りかゝる。煙も地を掃つて、面(おもて)を打つた。したが、娘は默然と頭(かうべ)を垂れて、身も世も忘れた祈り三昧でござる。
とかうする程に、再火の前に群つた人々が、一度にどつとどよめくかと見れば、髮をふり亂いた「ろおれんぞ」が、もろ手に幼子をかい抱いて、亂れとぶ焰の中から、天くだるやうに姿を現いた。なれどその時、燃え盡きた梁(うつばり)の一つが、俄に半ばから折れたのでござらう。凄じい音と共に、一なだれの煙焰が半空(なかぞら)に迸つたと思ふ間もなく、「ろおれんぞ」の姿ははたと見えずなつて、跡には唯火の柱が、珊瑚の如くそば立つたばかりでござる。
あまりの凶事に心も消えて、「しめおん」をはじめ翁まで、居あはせた程の奉教人衆は、皆目の眩む思ひがござつた。中にも娘はけたゝましう泣き叫んで、一度は脛もあらはに躍り立つたが、やがて雷に打たれた人のやうに、そのまゝ大地にひれふしたと申す。さもあらばあれ、ひれふした娘の手には、何時かあの幼い女の子が、生死不定の姿ながら、ひしと抱かれて居つたをいかにしようぞ。ああ、廣大無邊なる「でうす」の御知慧、御力は、何とたたへ奉る詞(ことば)だにござない。燃え崩れる梁(うつばり)に打たれながら、「ろおれんぞ」が必死の力をしぼつて、こなたへ投げた幼子は、折よく娘の足もとへ、怪我もなくまろび落ちたのでござる。
されば娘が大地にひれ伏して、嬉し淚に咽んだ聲と共に、もろ手をさしあげて立つた翁の口からは、「でうす」の御慈悲をほめ奉る聲が、自らおごそかに溢れて參つた。いや、まさに溢れようずけはひであつたとも申さうか。それより先に「しめおん」は、さかまく火の嵐の中へ、「ろおれんぞ」を救はうず一念から、眞一文字に躍りこんだに由つて、翁の聲は再氣づかはしげな、いたましい祈りの詞(ことば)となつて、夜空に高くあがつたのでござる。これは元より翁のみではござない。親子を圍んだ奉教人衆は、皆一同に聲を揃へて、「御主、助け給へ」と、泣く泣く祈りを捧げたのぢや。して「びるぜん・まりや」の御子、なべての人の苦しみと悲しみとを己(おの)がものゝ如くに見そなはす、われらが御主「ぜす・きりしと」は、遂にこの祈りを聞き入れ給うた。見られい。むごたらしう燒けたゞれた「ろおれんぞ」は、「しめおん」が腕に抱かれて、早くも火と煙とのたゞ中から、救ひ出されて參つたではないか。
なれどその夜の大變は、これのみではござなんだ。息も絶え絶えな「ろおれんぞ」が、とりあへず奉教人衆の手に舁(か)かれて、風上にあつたあの「えけれしや」の門へ橫へられた時の事ぢや。それまで幼子を胸に抱きしめて、淚にくれてゐた傘張の娘は、折から門へ出でられた伴天連の足もとに跪くと、並み居る人々の目前で、『この女子は「ろおれんぞ」樣の種ではおじやらぬ。まことは妾(わらは)が家隣(いへどなり)の「ぜんちよ」の子と密通して、まうけた娘でおじやるわいの』と思ひもよらぬ「こひさん」(懴悔)を仕つた。その思ひつめた聲ざまの震へと申し、その泣きぬれた双の眼のかがやきと申し、この「こひさん」には、露ばかりの僞さへ、あらうとは思はれ申さぬ。道理かな、肩を並べた奉教人衆は、天を焦がす猛火も忘れて、息さへつかぬやうに聲を呑んだ。
娘が淚ををさめて、申し次いだは、『妾は日頃「ろおれんぞ」樣を戀ひ慕うて居つたなれど、御信心の堅固さからあまりにつれなくもてなされる故、つい怨む心も出て、腹の子を「ろおれんぞ」樣の種と申し僞り、妾につらかつた口惜(くや)しさを思ひ知らさうと致いたのでおじやる。なれど「ろおれんぞ」樣のお心の氣高(けだか)さは、妾が大罪をも憎ませ給はいで、今宵は御身の危さをもうち忘れ、「いんへるの」(地獄)にもまがふ火焰の中から、妾娘の一命を辱くも救はせ給うた。その御憐み、御計らひ、まことに御主「ぜす・きりしと」の再來かともをがまれ申す。さるにても妾が重々の極惡(ごくあく)を思へば、この五體は忽「ぢやぼ」の爪にかゝつて、寸々に裂かれようとも、中々怨む所はおぢやるまい。』娘は「こひさん」を致いも果てず、大地に身を投げて泣き伏した。
二重(へ)三重(へ)に群つた奉教人衆の間から、「まるちり」(殉教)ぢや、「まるちり」ぢやと云ふ聲が、波のやうに起つたのは、丁度この時の事でござる。殊勝にも「ろおれんぞ」は、罪人を憐む心から、御主「ぜす・きりしと」の御行跡を踏んで、乞食にまで身を落いた。して父と仰ぐ伴天連も、兄とたのむ「しめおん」も、皆その心を知らなんだ。これが「まるちり」でなうて、何でござらう。
したが、當の「ろおれんぞ」は、娘の「こひさん」を聞きながらも、僅に二三度頷いて見せたばかり、髮は燒け肌は焦げて、手も足も動かぬ上に、口をきかう氣色さへも、今は全く盡きたげでござる。娘の「こひさん」に胸を破つた翁と「しめおん」とは、その枕がみに蹲つて、何かと介抱を致いて居つたが、「ろおれんぞ」の息は、刻々に短うなつて、最期ももはや遠くはあるまじい。唯、日頃と變らぬのは、遙に天上を仰いで居る、星のやうな瞳の色ばかりぢや。
やがて娘の「こひさん」に耳をすまされた伴天連は、吹き荒ぶ夜風に白ひげをなびかせながら、「さんた・るちや」の門を後にして、おごそかに申されたは、『悔い改むるものは、幸ぢや。何しにその幸なものを、人間の手に罰しようぞ。これより益、「でうす」の御戒を身にしめて、心靜に末期の御裁判の日を待つたがよい。又「ろおれんぞ」がわが身の行儀を、御主「ぜす・きりしと」とひとしく奉らうず志はこの國の奉教人衆の中にあつても、類(たぐひ)稀なる德行でござる。別して少年の身とは云ひ――』あゝ、これは又何とした事でござらうぞ。こゝまで申された伴天連は、俄にはたと口を噤んで、あたかも「はらいそ」の光を望んだやうに、ぢつと足もとの「ろおれんぞ」の姿を見守られた。その恭しげな容子は、どうぢや。その兩の手のふるへざまも、尋常の事ではござるまい。おう、伴天連のからびた頰の上には、とめどなく淚が溢れ流れるぞよ。見られい。「しめおん」。見られい。傘張の翁。御主「ぜす・きりしと」の御血潮よりも赤い、火の光を一身に浴びて、聲もなく「さんた・るちや」の門に橫はつた、いみじくも美しい少年の胸には、焦げ破れた衣のひまから、淸らかな二つの乳房が、玉のやうに露れて居るではないか。今は燒けたゞれた面輪(おもわ)にも、自らなやさしさは、隱れようすべもあるまじい。おう、「ろおれんぞ」は女ぢや。「ろおれんぞ」は女ぢや。見られい。猛火を後にして、垣のやうに佇んでゐる奉教人衆、邪淫の戒を破つたに由つて「さんた・るちや」を逐はれた「ろおれんぞ」は、傘張の娘と同じ、眼なざしのあでやかなこの國の女ぢや。
まことにその刹那の尊い恐しさは、あだかも「でうす」の御聲が、星の光も見えぬ遠い空から、傳はつて來るやうであつたと申す。されば「さんた・るちや」の前に居並んだ奉教人衆は、風に吹かれる穗麥のやうに、誰からともなく頭を垂れて、悉「ろおれんぞ」のまはりに跪いた。その中で聞えるものは、唯、空をどよもして燃えしきる、萬丈の焰の響ばかりでござる。いや、誰やらの啜り泣く聲も聞えたが、それは傘張の娘でござらうか。或は又自ら兄とも思うた、あの「いるまん」の「しめおん」でござらうか。やがてその寂寞(じやくまく)たるあたりをふるはせて、「ろおれんぞ」の上に高く手をかざしながら、伴天連の御經(おんきやう)を誦せられる聲が、おごそかに悲しく耳にはいつた。して御經の聲がやんだ時、「ろおれんぞ」と呼ばれた、この國のうら若い女は、まだ暗い夜のあなたに、「はらいそ」の「ぐろおりや」を仰ぎ見て、安らかなほゝ笑みを脣に止めたまゝ、靜に息が絶えたのでござる。………
その女の一生は、この外に何一つ、知られなんだげに聞き及んだ。なれどそれが、何事でござらうぞ。なべて人の世の尊さは、何ものにも換へ難い、刹那の感動に極るものぢや。暗夜(やみよ)の海にも譬へようず煩惱心の空に一波をあげて、未出ぬ月の光を、水沫(みなわ)の中に捕へてこそ、生きて甲斐ある命とも申さうず。されば「ろおれんぞ」が最期を知るものは、「ろおれんぞ」の一生を知るものではござるまいか。
二
予が所藏に關る、長崎耶蘇會出版の一書、題して「れげんだ・おうれあ」と云ふ。蓋し、LEGENDA AUREA の意なり。されど内容は必しも、西歐の所謂「黄金傳説」ならず。彼土の使徒聖人が言行を錄すると共に、併せて本邦西教徒が勇猛精進の事蹟をも採錄し、以て福音傳道の一助たらしめんとせしものゝ如し。
體裁は上下二卷、美濃紙摺草體交り平假名文にして、印刷甚しく鮮明を缺き、活字なりや否やを明にせず。上卷の扉には、羅甸字にて書名を橫書し、その下に漢字にて「御出世以來千五百九十六年、慶長二年三月上旬鏤刻也」の二行を縱書す。年代の左右には喇叭を吹ける天使の畫像あり。技巧頗幼稚なれども、亦掬す可き趣致なしとせず。下卷も扉に「五月中旬鏤刻也」の句あるを除いては、全く上卷と異同なし。
兩卷とも紙數は約六十頁にして、載する所の黄金傳説は、上卷八章、下卷十章を數ふ。その他各卷の卷首に著者不明の序文及羅甸字を加へたる目次あり。序文は文章雅馴ならずして、間々歐文を直譯せる如き語法を交へ、一見その伴天連たる西人の手になりしやを疑はしむ。
以上採錄したる「奉教人の死」は、該「れげんだ・おうれあ」下卷第二章に依るものにして、恐らくは當時長崎の一西教寺院に起りし、事實の忠實なる記錄ならんか。但、記事中の大火なるものは、「長崎港草」以下諸書に徴するも、その有無をすら明にせざるを以て、事實の正確なる年代に至つては、全くこれを決定するを得ず。
予は「奉教人の死」に於て、發表の必要上、多少の文飾を敢てしたり。もし原文の平易雅馴なる筆致にして、甚しく毀損せらるゝ事なからんか、予の幸甚とする所なりと云爾。
――大正七年八月――