やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ
鬼火へ
ブログ コメントへ

芥川龍之介「松江印象記」初出形

[やぶちゃん注:本稿は「松江印象記」の初出である。芥川龍之介は大正4(1915)年8月5日から21日迄、畏友井川(後に恒藤に改姓)恭の郷里松江に来遊、吉田弥生への失恋の傷心を癒した。その際、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に以下に示すような「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載されている。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(1929)年2月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で公開された(従って「松江印象記」という題名は芥川龍之介自身によるものではないと考えるべきである)。本稿は1992年寺本喜徳編島根国語国文会刊によって復刻された井川恭著「翡翠記」を底本とした。但し、これは新字体表記・パラルビであるので(芥川龍之介の「日記より」の部分は歴史的仮名遣を用いていると底本冒頭注があるのであるが、不審箇所が複数ある。煩瑣にはなるが、それらは逐一、異同を注した)、岩波版旧全集第一巻所収の「松江印象記」を元に正字に改め、ルビ表記についても、これと校合し、一部を削除追加した。現れる章番号は「翡翠記」のものである。ちなみに、この作品が、「芥川龍之介」という筆者名を用いた最初であり、この折りの印象は芥川の決定的な文学的原風景として残ることとなった。そのイメージは「江南游記 二十 蘇州の水」等、芥川文学の随所に現れている。
 恒藤恭(つねとうきょう 旧姓井川(いがわ) 明治21(1888)年~昭和42(1967)年)は法学者。芥川一高時代からの無二の親友。小説家を目指して上京したが、後に京都大学法学部に転じた。芥川の勧めで第三次『新思潮』にジョン・M・シングの「海への騎者」 (Riders to the Sea) を翻訳寄稿したりしている。彼は同京大大学院を退学後、同志社大教授(本書簡時。大正8(1919)年から大正11(1922)年12月迄)を経て、京大教授に就任したが、思想弾圧事件として知られる昭和8(1933)年の瀧川事件で退官、大阪商科大に転任。戦後は、大阪商科大学学長・大阪市立大初代学長を務めた。芥川の三男也寸志の名は彼の「恭」をもらっている。
 芥川龍之介は大正14(1925)年2月発行の『中央公論』に発表した「學校友だち」(大見出し「我が交友録」)の中に彼を挙げ、次のように綴っている(底本は岩波版旧全集を用いた)。
   *
恒藤恭 これは高等學校以來の友だちなり。舊姓は井川。冷靜なる感情家と言ふものあらば、恒藤は正にその一人なり。京都の法科大學を出、其處の助教授か何かになり、今はパリに留學中。僕の議論好きになりたるは全然この辛辣なる論理的天才の薫陶による。句も作り、歌も作り、小説も作り、詩も作り、畫も作る才人なり。尤も今はそんなことは知らぬ顏をしてゐるのに相違なし。僕は大學に在學中、雲州松江の恒藤の家にひと夏居候になりしことあり。その頃恒藤に煽動せられ、松江紀行一篇を作り、松陽新報と言ふ新聞に寄す。僕の恬然と本名を署して文章を公にせる最初なり。細君の名は雅子、君子の好逑と稱するは斯る細君のことなるべし。
   *
【2018年1月17日追記 藪野直史】ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」での井川恭著「翡翠記」の全電子化注に際して点検したところ、かなりのタイプ・ミスを発見したので訂し、また、読みも今少し増やして、注も一部を除去・追加した。
   *
【2018年1月21日追記 藪野直史】ブログ・カテゴリ「芥川龍之介」での井川恭著「翡翠記」の全電子化注の完遂を記念して、末尾に新全集に載る本篇の草稿断片二種を掲載した。]

 

    十四

 

日記より

   芥川 龍之介

 

       一

 

 松江へ來て、先(まづ)自分の心を惹かれたものは、此市(このまち)を縱橫に貫いてゐる川の水と其(その)川の上に架けられた多くの木造の橋とであつた。河流(かりう)の多い都市は獨(ひとり)松江のみではない。しかし、さう云ふ都市の水は、自分の知つてゐる限りでは大抵は其處に架けられた橋梁によつて少からず、その美しさを殺(そ)がれていた。何故と云へば、其都市の人々は必(かならず)その川の流れに第三流の櫛形鐵橋を架けてしかも其醜い鐵橋を彼らの得意な物と[やぶちゃん注:底本、「と」に編者による「ママ」表記あり。岩波全集版では「の」に変えられてある。]一つに數へてゐたからである。自分は此間(このかん)にあつて愛す可き木造の橋梁を松江のあらゆる川の上に見出し得たことをうれしく思ふ。殊に其橋の二三が古日本(こにつぽん)の版畫家によつて、屢々(しばしば)其構圖に利用せられた靑銅の擬寶珠(ぎぼしゆ[やぶちゃん注:全集版は「ぎぼし」。])を以て主要なる裝飾としてゐた一事(いちじ)は自分をして愈々深く是等の橋梁を愛せしめた。松江へ着いた日の薄暮雨にぬれて光る大橋の擬寶珠を、灰色を帶びた綠の水の上に望み得た懷しさは事新しく此處に書き立てる迄もない。是等の木橋(もくけう)を有する松江に比して、朱塗の神橋(しんけう)に隣る可く、醜惡なる鐵の釣橋を架けた日光町民の愚は、誠に嗤(わら)ふ可きものである。

 橋梁に次いで、自分の心を捉へたものは千鳥城の天主閣であつた。天主閣は其名を[やぶちゃん注:底本、「を」に編者による「ママ」表記あり。全集版では「の」に変えてある。]示すが如く、天主教の渡來と共に、はるばる南蠻から輸入された西洋築城術の産物であるが、自分達の祖先の驚く可き同化力は、殆何人(なんびと)もこれに對してエキゾテイツクな興味を感じ得ない迄に、其屋根と壁とを悉(ことごと[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ことごとく」。])日本化し去つたのである。寺院の堂塔が王朝時代の建築を代表するやうに、封建時代を表象すべき建築物を求めるとしたら天主閣を除いて自分達は何を見出すことが出來るだらう。しかも明治維新と共に生まれた卑しむ可き新文明の實利主義は全國に亙(わた)つて、此大いなる中世の城樓を、何の容赦もなく破壞した。自分は、不忍池(しのばずいけ)を埋めて家屋を建築しやうと云ふ論者をさへ生んだ嗤ふ可き時代思想を考へると、此破壞も唯微笑を以て許さなければならないと思つてゐる。何故と云へば、天主閣は、明治の新政府に參與した薩長土肥(さつちやうどひ)の足輕輩(はい)に理解せらる可く、餘りに大いなる藝術の作品であるからである。今日(こんにち)に至る迄、是等の幼稚なる偶像破壞者(アイコノクラスト)の手を免がれて記憶す可き日本の騎士時代を後世に傳へむとする天主閣の數(かず)は、僅に十指(じつし)を屈するの外に出ない。自分は其一つに此千鳥城の天主閣を數へ得る事を、松江の人々の爲に心から祝したいと思ふ。さうして蘆と藺(ゐ)との茂る濠(ほり)を見下して、かすかな夕日の光にぬらされながら、かいつぶり鳴く水に寂しい白壁の影を落してゐる、あの天主閣の高い屋根瓦が何時までも、地に落ちないやうに祈りたいと思ふ。

 しかし、松江の市(まち)は[やぶちゃん注:ママ。全集版は「が」。]自分に與へた物は滿足ばかりではない。自分は天主閣を仰ぐと共に「松平直政公銅像建設之地」と書いた大木の棒杭を見ない譯にはゆかなかつた。否、獨(ひとり)、棒杭のみではない。其傍(かたはら)の鐵網張(かなあみば)りの小屋の中に古色を帶びた幾面かのうつくしい靑銅の鏡が、銅像鑄造の材料として積重ねてあるのも見ない譯にはゆかなかつた。梵鐘(ぼんせう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「ぼんしよう」。])をもつて大砲を鑄(い)たのも、危急の際には止むを得ない事かもしれない。しかし泰平の昭代(せうだい)に好んで、愛すべき過去の美術品を破壞する必要が何處にあらう。まして其目的は、藝術的價値に於て卑しかる可き區々(くく)たる小銅像の建設にあるのではないか。自分は更に同じやうな非難を嫁ケ島[やぶちゃん注:「ケ」は全角。以下同様。これは全集版も同じ。]の防波工事にも加へることを禁じ得ない。防波工事の目的が、波浪の害を防いで嫁ケ島の風趣を保存せしめる爲であるとすれば、かくの如き無細工(ぶざいく)な石垣の築造は、其風趣を害する點に於て、正(まさ)しく當初の目的に矛盾するものである。「一幅淞波誰剪取(いつぷくのせうはたれかせんしゆせん[やぶちゃん注:「せう」はママ。全集版は「せん」。]) 春潮痕似嫁時衣(しゆんてうのあとはにたりかじのい)」と唱つた詩人石埭翁(せきたいをう)をしてあの臼を連ねたやうな石垣を見せしめたら、果して何と云ふであらう。

 自分は松江に對して同情と反感と二つながら感じてゐる。唯、幸(さいはひ)にして此市(このまち)の川の水は、一切の反感に打ち勝つ程、強い愛惜(あいじやく)を自分の心に喚起(よびおこ)してくれるのである。松江の川に就いては又、此稿を次ぐ機會を待つて語らうと思ふ。

 

    二十一

友は次のやうな松江印象記の第二篇を僕の机の上に遺(のこ)して置いた儘(まま)、彼がふるさとたる東京を指して歸つて行つて、その第一篇を紹介した僕は、此續篇をも公にする事を妥當と信じてゐる。[やぶちゃん注:これは勿論、井川恭の筆になるもので、恣意的に底本のそれを正字正仮名に改めておいた。]

   日記より(二)

                   芥川龍之助

[やぶちゃん注:「助」に編者による「ママ」表記あり。次の「日記より(三)」の署名も同様。]

 自分が前に推賞した橋梁と天主閣とは二つながら過去の産物である。しかし自分が是等の物を愛好する所以は決して單にそれが過去に屬するからのみではない。所謂「寂び」と云ふやうな偶然的な屬性を除き去つても、尚是等の物がその藝術的價値に於て、沒却すべからざる特質を有してゐるからである。この故に自分は獨り天主閣に止(とどま)らず松江の市内に散在する多くの神社と梵殺[やぶちゃん注:底本にはママ表記がない。岩波版全集では勿論、「梵刹」とある。]とを愛すると共に、 [やぶちゃん注:底本通り、一字空欄。全集版では読点も空欄もない。](殊に月照寺に於ける松平家の廟所と天倫寺(てんりんじ)の禪院とは最も自分の興味を惹いたものであつた。)新なる建築物の增加をも決して忌憚(きたん)しやうとは思つてゐない。不幸にして自分は城山(じやうざん)の公園に建てられた光榮ある興雲閣に對しては索漠[やぶちゃん注:ママ。全集版では「索莫」。]たる嫌惡の情以外に何物も感ずることは出來ないが、農工銀行を始め、二三の新なる建築物に對しては寧ろその功果(めりつと)[やぶちゃん注:「功」はママ。これは全集版も同じ。ルビの平仮名は全集版では「メリツト」に変えられてある。]に於て認む可きものが少くないと思つてゐる。

 全國の都市の多くは悉くその發達の規範を東京乃至(ないし)大阪に求めてゐる。しかし東京乃至大阪の如くになると云ふ事は、必しも是等の都市が踏んだと同一な發達の徑路に緣(よ)ると云ふ事ではない。否(いな)寧ろ先達(せんだつ)たる大都市が十年にして達し得た水準へ五年にして達し得るのが後進たる小都市の特權である。東京市民が現に腐心しつゝあるものは、屢(しばしば)外國の旅客に嗤笑(ししよう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「しせう」。])せらるゝ小人(ぴぐみい[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ピグミイ」に変えられてある。])の銅像を建設する事でもない。ペンキと電燈とを以て廣告と稱する下等なる裝飾を試みる事でもない。唯道路の整理と建築の改善とそして街樹(がいじゆ)の養成とである。自分はこの點に於て、松江市は他のいづれの都市よりも優れた便宜を持つてゐはしないかと思ふ。堀割に沿ふて造られた街衢(がいく)の井然(せいぜん)たる事は松江へ入(はひ)ると共に先づ自分を驚かしたものゝ一つである。しかも處々(しよしよ)に散見する白楊(ぽぷらあ[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「ポプラア」に変更されてある。])の立樹(たちき)は、如何に深くこの幽鬱(ゆううつ)[やぶちゃん注:ルビの「ゆう」はママ。全集版では「いううつ」。]な落葉樹が水郷(すゐけう[やぶちゃん注:ママ。全集版は「すゐきやう」。])の土(ち[やぶちゃん注:ママ。全集版は「つち」。])と空氣とに親しみを持つてゐるかを語つてゐる。そして最後に建築物に關しても、松江はその窓と壁と露臺(ばるこん[やぶちゃん注:ルビの平仮名は全集版では「バルコン」に変更されている。])とをより美しく眺めしむ可き大いなる天惠(てんけい)――ヴエ子テイアをしてヴエ子テイア[やぶちゃん注:上下共に「子」はママ。勿論、「ネ」と読む。全集版では「ネ」にかえられている。]たらしむる水を有してゐる。

 

   日記より(三)

                     芥川龍之助

 松江は殆ど、海を除いて「あらゆる水」を持つてゐる。椿が濃い紅(くれない[やぶちゃん注:ママ。全集版は「くれなゐ」。])の實をつづる下(した)に暗くよどんでゐる濠の水から、灘門(なだもん)の外に動くともなく動いてゆく柳の葉のやうに靑い川の水になつて、滑(なめらか)な硝子板(がらすいた[やぶちゃん注:ルビは全集版では「がらす」は「ガラス」に変更されている。])のやうな光澤のある、どことなく LIFELIKE な湖水の水に變るまで、水は松江を縱橫に貫流(くわんりう)して、その光と影との限りない調和を示しながら隨所に空と家とその間(あひだ)に飛び交ふ燕(つばくら)の影とを映して絶えず懶(ものう)い呟きを此處に住む人間の耳に傳へつゝあるのである。この水を利用して、所謂水邊(すゐへん)建築を企畫するとしたら、恐らくアアサア、シマンズ[やぶちゃん注:「、」はママ。全集では「・」となっている。]の歌つたやうに「水に浮ぶ睡蓮の花のやうな」美しい都市が造られる事であらう。水と建築とはこの町に住む人々の常に顧慮すべき密接なる關係に立つてゐるのである。決して調和を一(いち)松崎水亭(まつざきすゐてい)にのみ委(ゆだ)ぬべきものではない。

 自分は、此(この)盂蘭盆會(うらぼんゑ)に水邊(すゐへん)の家々にともされた切角燈籠(きりこどうろう)の火が樒(しきみ)の匀[やぶちゃん注:底本では「匂」であるが、岩波版旧全集が「匀」であり、芥川の好んだこちらを採用する。]にみちた黃昏(たそがれ)の川へ靜(しづか)な影を落すのを見た人々は容易(たやす)くこの自分の語(ことば)に首肯する事ができるだらうと思ふ。

 自分は最後にこの二篇の蕪雜な印象記を井川恭氏に獻じて自分が同氏に負つてゐる感謝を僅でも表したいと思ふことを附記して置く(をはり)[やぶちゃん注:この一文は全集では全体が一字下げでしかもポイント落ちとなっているが、底本に従った。]



芥川龍之介が松江で記した印象記の草稿と思われる「行人抄」二種

[やぶちゃん注:底本は岩波の新しい「芥川龍之介全集」第二十一巻(一九九七年刊)に『「松江印象記」草稿』として載るものを使用したが、私のポリシーに則り、漢字を概ね正字化して示した。標題も仮題でしかないので、以上のように変更した。私は現在の「松江印象記」はやめて、この両草稿に出る「行人抄」にすべきであろうという気さえしている
 私が【草稿(1)】としたものは、底本で『Ⅰ―a』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙二枚半相当のもので、同『後記』では、次の『1―b』に先行して書かれたものと推定されてある
 私が【草稿(2)】としたものは、底本で『Ⅰ―b』とされるもので、底本の『後記』によれば、四百字詰原稿用紙一枚相当のものであるが、原稿用紙の『下部三字を空けて』、『一行』当たり、十七『字の形で用いて』いるとある。同『後記』では、井川恭の「翡翠記」が掲載された『松江新報』『への提出原稿に極めて近いものと考えられる。但し』、『現行本文』(これは新全集の編者がどう考えて『現行本文』と謂ったものか知らぬが、厳密には、新旧の岩波全集の妖しげな「松江印象記」(仮題)ではなく、「翡翠記」の中の「十四」の芥川龍之介の「日記より」を指すと、当然、考えるべきものである)『ではこの書き出しの部分は削られている』とある。
 なお、「不可思儀」の「儀」はママ。「餘りに遲鈍である」の部分は底本の行末にあり、「しかし」と直に繋がるのはおかしいので(そうなっているが、これは改行と誤解されるのを防ぐために底本編者が行った仕儀と私は採った)、恣意的に一字空けを施した。【2018年1月21日:井川恭著「翡翠記」のブログでの完全電子化完遂を記念して追加 藪野直史】]

【草稿(1)】
 日本に生まれて 日本に育つた自分たちが屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記からさへも)從來自分たちの眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新しい「日本の不可思儀」に就いて 教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究が ゴンクールに依つて始められ 北齋の批評がフェノロサを待つて開かれたのも 偶〻 此事實の一端を洩らしてゐるものに過ぎない 自分たちが 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも その郷土に對して 屢 盲目の譏を免れないのは 不二山と椿の花と煎茶の煙とを 新しい刺戟として受入れるべく 餘りに長く 「紙と竹との家」の中に居住してゐるからである――自分の 行人抄を書くのが 必しも かう云ふ新しい不可思儀を示す爲であるとは云はない いや さう云ふ目的に役立つには 自分の感受性は 餘りに遲鈍である しかし 習慣を離れ 傳説を忘れて 周圍をあるがまゝに觀じ得る點で(たとへ それが自分の個性によつて色づけられてゐるにもせよ)或は寛大な士人の讀書慾を充す爲に幾分の意味があるかも知れない――行人抄は かう云ふ己惚れの中に胚胎した 一旅客の平凡な松江遊記である
 自分が松江へ來て 始めて見たものは 千鳥城の天主閣であつた 夏とは云ひながら 雨あがりの しめやかな日の午前である 内中原の路上に立つて 菱や蘭の茂つた靜な水の上に高い天主閣の白壁を仰いだ時には 蘆の茂みに鳴くかいつぶりの聲と共に 久しく忘れられた封建時代の記憶が あらゆるエキゾティックな思想の上に 漢詩と俳句とによつて陶冶された 愛すべき「寂(さ)び」をかけて 心さへ 遙な鬼瓦の影に暗くされたかと疑はれた 遠い櫓の下に掛けたつばくらの巢は見るよしもないが 一つ一つの石 山 つ一つの狹間は 昔ながらに 物寂びた城下の町々を見下して 白壁の一角にさした 微な日の光にも 云ふ可らざる追慕の情が喚び起される 自分は棕櫚と無花果とに圍まれた 小さな家つゞきの町を あのさびしい稻荷橋へ出るまで何度 足を止めて 所々にほのかな靑い色を浮かせた灰汁のやうな八月の空の下に この懷しい城樓の姿を眺めたかわからない
 天主閣は その名の示す如く 天主教の渡來と共に はるばる 南蠻から輸入された築城術が日本の戰術に新な變化を與ふ可く 齎し來た建築である……

   *

【草稿(2)】
       行人抄
 日本に生まれて日本に育つた自分達が 反て屢 ヘルンの「怪談」によつて 乃至 ロティの「お菊夫人」によつて(時としては 無名の一外客の日本印象記によつてさへ)從來自分達の眼に觸れ 耳に聞えなかつた 新なる「日本の不可思儀」を教へられる事の多いのは 掩ふ可らざる事實である 歌麿の研究がゴンクウルに依て始められ 北齋の批評がフェノロサを俟て開かれたのも 偶此事實の一端を洩してゐるものと云はなければならない 自分達が 誰よりも深く 自分たちの郷土を愛しながら しかも屢 其郷土に對して盲目の譏を免れないのは 一つは確に 自分達が 不二山と椿の花と煎茶の匂とを 新なる刺戟として受入れる可く 餘りに長く「紙と竹との家」の中に居住してゐる