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[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年三月一日発行の雑誌『改造』に「小品二種」の総題目で掲載された。ちなみに、この「沼」の後に併載されたのは、現在、「東洋の秋」という題で知られる「秋」であった。後に改題された「東洋の秋」と共に、『沙羅の花』『梅・馬・鶯』の作品集に所収された。底本は岩波版旧全集を用いた。但し、踊り字「〱」は生理的に嫌いなので、正字化した。因みに、「枝蛙」は「えだかはづ」と読ませているようだ。なお、この作品は同じ芥川龍之介の「尾生の信」をも参照のこと。後に岩波版新全集より草稿を附した。但し、恣意的に正字に代えた。]

   芥川龍之介

 

 おれは沼のほとりを步いてゐる。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。唯、どこかで蒼鷺の啼く聲がしたと思つたら、蔦葛に掩はれた木々の梢に、薄明かりの仄めく空が見えた。

 沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。水も動かない。藻も動かない。水の底に棲んでゐる魚も――魚がこの沼に棲んでゐるのであらうか。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、この沼のほとりばかり步いてゐた。寒い朝日の光と一しよに、水の匂や蘆の匂がおれの體を包んだ事もある。と思ふと又枝蛙の聲が、蔦葛に蔽はれた木々の梢から、一つ一つかすかな星を呼びさました覺えもあつた。

 おれは沼のほとりを步いてゐる。

 沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、 Invitation au voyage の曲が、絕え絕えに其處から漂つて來る。さう云へば水の匂や蘆の匂と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匂を送つて來はしないであらうか。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、その不思議な世界に憧がれて、蔦葛に掩はれた木々の間を、夢現のやうに步いてゐた。が、此處に待つてゐても、唯蘆と水ばかりがひつそりと擴がつてゐる以上、おれは進んで沼の中へ、あの「スマトラの忘れな草の花」を探しに行かねばならぬ。見れば幸、蘆の中から、半ば沼へさし出てゐる、年經た柳が一株ある。あすこから沼へ飛びこみさへすれば、造作なく水の底にある世界へ行かれるのに違ひない。

 おれはとうとうその柳の上から、思ひ切つて沼へ身を投げた。

 おれの丈より高い蘆が、その拍子に何かしやべり立てた。水が呟く。藻が身ぶるひをする。あの蔦葛に掩はれた枝蛙の鳴くあたりの木々さへ、一時はさも心配さうに吐息を洩らし合つたらしい。おれは石のやうに水底へ沈みながら、數限りない靑い焰が、目まぐるしくおれの身のまはりに飛びちがふやうな心もちがした。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。

 おれの死骸は沼の底の滑な泥に橫はつてゐる。死骸の周圍にはどこを見ても、まつ靑な水があるばかりであつた。この水の下にこそ不思議な世界があると思つたのは、やはりおれの迷だつたのであらうか。事によると Invitation au voyage の曲も、この沼の精が惡戲いたづらに、おれの耳をだましてゐたのかも知れない。が、さう思つてゐる内に、何やら細い莖が一すぢ、おれの死骸の口から、すらすらと長く伸び始めた。さうしてそれが頭の上の水面へやつと屆いたと思ふと、忽ち白い睡蓮の花が、丈の高い蘆に圍まれた、藻の匂のする沼の中に、的礫と鮮な莟を破つた。
 これがおれの憧れてゐた、不思議な世界だつたのだな。――おれの死骸はかう思ひながら、その玉のやうな睡蓮の花を何時までもぢつと仰ぎ見てゐた。







「沼」草稿

[やぶちゃん注:底本とした新全集の編者による推定原稿順序を示すローマ数字は、それぞれの文頭行に付けられているが、前の行に移した。また、「匂」という漢字については、芥川龍之介が好み、決定稿でも用いている「匀」に代えた。]

     〔沼〕

匂も、仄めいて來はしないだらうか。……

 おれは今蘆の中から生へてゐる、川楊の梢に上つて見た。水も動かない。藻も動かない。唯、うす明い光の中に、時々蒼鷺の聲が流れて來る。が、あの不思議な世界の姿は、もう這ひかかつた霧に隱れたのであらうか、どこを眺めても見當らなかつた。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。しかしおれはこの沼の中に、不思議な世界がある事を心得てゐる。度々おれの夢に見る「西[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]の花」も、蜜のやうな匂を送つて來はしないだらうか。

 晝か、夜か、それもおれにはわからない。おれはこの五六日、この不思議な世界に憧がれて、葛蘿に蔽はれた木々の間を、夢現ゆめうつつのやうに步いてゐた。一度は蘆の中から生へてゐる川楊の梢の上に上つて、銀箔のやうな沼の面を眺めやつた事さへある。が、水も動かない。藻も動かない。唯、うす明い水光りの中には、時々蒼鷺の聲が流れて來る。おれの夢みてゐる不思議な世界は、絕えず立ち昇るし瘴霧の中に、姿を隱してしまつたのであらうか。或は又始からこの沼の水の底に、底深く潛んでゐるのであらうか。

 そこでおれは外に仕方がないから、二度目に川楊の梢へ上つた時、あの不思議な世界に安住する爲に、思ひ切つて沼の中へ身を投げた。水が動く。藻が動く。蘆も一しきりは動いたらしい。おれは石のやうに水底へ沈みながら、數知れない靑いほのほが、目まぐるしくおれの周圍にゆら[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]めいては消えるやうな心もちがした。が、一瞬ののちには、すべてが元の通り、永遠の寂莫にかへつたのであらう。唯、うす明い水光の中には、時々蒼鷺の聲が流れて來る。

 おれは沼の底に橫はつてゐる。

 沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。水も動かない。藻も動かない。が、おれの屍骸の口からは、一すぢの細い莖が、すらすらとみづうへまで延びて行つて、その先にたまのやうな睡蓮の花をひらかせた。睡[やぶちゃん注:底本ではここに編者の原稿終了を示す鉤記号がある。]