やぶちゃんの電子テクスト:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇へ
鬼火へ
 

やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注
                   
縦書版へ

 

[やぶちゃん注:以下は、芥川龍之介の書簡中、「越し人」片山廣子宛書簡4通の外、片山廣子に関連すると思われる書簡12通を私の判断で編年体で抽出したものである。底本は岩波版旧全集第十巻及び第十一巻を用いた。一部詩句の前後に行間を設けて見やすくし、傍点「ヽ」は下線に代えた。宛名の字配の空きは省略して詰めた。各書簡に私の注を施したが、今回のテクストは片山廣子関連書簡という点に力点を置いたものであることから、どう考えても廣子とは無縁な叙述部分の語注は、最小限度に留めてある(それでも完全主義傾向を持つ私の注は、無駄に五月蠅いと思われるかも知れない)。なお、本頁は私のブログの250000アクセス突破記念として作製した。【2010年10月17日+18日】主に川村湊「物語の娘 宗瑛を探して」(講談社2005年刊)の記載等を参照に、幾つかの注を大幅に増補し、誤植も補正した。【2010年10月23日】参考資料として「芥川龍之介輕井澤日録二種」を別に公開、注を更に推敲増補し、リンク等も追加した。【2010年10月24日】言うまい。ひそやかに一文(リンク附き)を追加しておいた。【2010年10月25日】新たに製作した未公開片山廣子芥川龍之介宛書簡(計6通7種)のやぶちゃん推定不完全復元版のリンクを張り、これに対応させるために本頁書簡に通し番号を打った。注の一部を追加、表現も手直しし、ページ設定を変更した。【2010年12月28日】]

 

やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡

 

■書簡1 旧全集二九四書簡 大正6(1917)年6月10日

片山廣子宛

 

拜啓

御著書を頂いて難有うございます かう申上げる事が生意氣でなければ大へん結構に譯も出來てゐるやうに拜見致しました

坪内先生の序文は先生がモリス・ブルジョアを讀んでゐない事を暴露してゐるので少々先生に氣の毒な氣がしました

裝釘も非常に氣もちよく思はれます

とりあへず御禮まで 以上

    六月十日                         芥川龍之介

   片山廣子樣

 

[やぶちゃん注:芥川龍之介が「新思潮」に片山廣子の歌集「翡翠」の評を書いたのは、この書簡に先立つ1年前、大正5(1916)年6月のことであるが、この前に廣子が龍之介に「翡翠」を献本した可能性が高いと私は考えている。勿論、唐突に廣子が自分の処女歌集を未知の龍之介に送ることは考えられないから、恐らくはそれ以前に、廣子の何らかの翻訳作品を介在として、英文学専攻の龍之介と彼女は接点があったものと思われる。但し、この時点では私は少なくとも廣子からのアプローチではなく、龍之介の方からの、稀有の才能を持った数少ないアイルランド文学の女流翻訳家の『おばさん』――廣子には礼を失することを承知で敢えてそう言っておこう――という好奇心に過ぎなかったのではあるまいか? 廣子、この時39歳、既に二人の子持ちで夫の日本銀行重役片山貞次郎も健在、芥川龍之介は25歳の独身(但し既に文とは婚約しており、翌年2月2日に結婚式を挙げている)で、横須賀海軍機関学校英語学教授嘱託になっており、鎌倉和田塚(現在の鎌倉市由比ヶ浜)にあった海浜ホテル隣の、野間クリーニング店の離れに下宿していた。さて、本書簡の年次は底本編者による推定で、更に本書簡は吉田精一氏が昭和四十(1965)年6月雑誌『文学』に発表されたものの転載であって、現物からの活字起こしではない点に注意されたい。文面は廣子が献本したJ.M.シング松村みね子訳「いたづらもの」(序文坪内逍遙。後に「西の人気男」として改訳する“The Playboy of the Western World”(1907)であろう)への返礼である。この10日前の6月1日には「東京日日新聞」に芥川龍之介第1作品集となる『羅生門』の広告が掲載されている(刊行は前月5月23日であった)。『燦然たる文壇の新星!! 第一作品集出づ!! 羅生門は新進作家の雄にして、且つ先蹤の諸大家を圧倒するの概ある芥川氏の第一作品集也。その觀察の鋭雋にしてその文品淸洒なる殆んど現文壇その比儔を見ず。本集収むる處卷頭羅生門を始め鼻、父、猿、孤獨地獄以下十數篇總て文壇の耳目を聳動せしめしもの、敢て芳醇なる新興藝術に接せんとする士に薦む』(新全集宮坂覺氏編の年譜に引くものを底本としたが、恣意的に正字に直してある)。これを廣子も見たであろう。もしかするとこの時既に芥川から『羅生門』が献本されていた可能性さえある。廣子の献本は実はそれに応えるものではなかったか? 後年、出身校である東洋英和学院に寄贈された廣子の蔵書の中に芥川龍之介の『羅生門』があり、そこには芥川龍之介の「おひまの節およみ下さい」と書かれた名刺が挟まっているのである。

・「モリス・ブルジョア」綴るなら“Morris Bourgeois”であるが、このような名の作家は近現代にはいない。『モダンデザインの父』と呼ばれたイギリスの詩人で、デザイナーでありマルクス主義者でもあったウィリアム・モリス(William Morris 1834年~1896年)のことか。知られている通り、芥川龍之介の卒業論文は「ウィリアム・モリス研究」であった。以下、ウィキの「ウィリアム・モリス」から一部引用しておく。

 《引用開始》

・1834年、ロンドン・シティの証券仲買人の子として生まれた。父は投資で巨額の富を得たが、モリス3歳のときに死去。 聖職者になることを志し、オックスフォード大学に入学。ジョン・ラスキンの著書を愛読し、大きな影響を受けた。成年になり父の遺産を相続。友人エドワード・バーン=ジョーンズらとフランスに旅行し、芸術家を志望するようになった。

・1856年、建築家ストリートの事務所に入所、フィリップ・ウェッブと知り合う。事務所を辞めた後、インテリア装飾や詩集の自費出版などを行う。

・1859年、ジェーン・バーデンと結婚、翌年フィリップ・ウェッブ設計の新居・レッドハウス(赤い家、1860年)に移る。ジェーンはモリスの年長の友人である画家ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティをはじめとするラファエル前派のモデルで、2人はそこで知り合った。レッドハウスは、市街地から離れた郊外にあり、ジェーンが寂しさの余りノイローゼ気味になってしまったため数年後に転居した。

・1861年、モリス・マーシャル・フォークナー商会を設立し、ステンドグラス、家具などを制作。

・1865年、ブルームズベリに移転。叙事詩「地上の楽園」を1861―1870年に完成させ、詩人としても名声を得た。

・1871年、ケルムスコットの邸宅を別荘として借りた。

・1875年、モリス・マーシャル・フォークナー商会を解散し、単独でモリス商会を設立。

・1878年、ハマースミスに転居し、別荘のあったケルムスコットに因んで「ケルムスコット・ハウス」と名付けた。

・1883年、民主同盟に参加し、マルクスの『資本論』を読んだ。

・1885年、社会主義同盟を結成。

・1891年、ケルムスコットプレスを設立、美しい装丁の書物を出版した(後に『チョーサー著作集』などを刊行)。

・1892年、テニスンが死去し、モリスは桂冠詩人に推薦されたが辞退した。

・1896年、病気のため死去。

 《引用終了》

以下、活動の項。『ヴィクトリア朝のイギリスでは産業革命の成果により工場で大量生産された商品があふれるようになった。反面、かつての職人はプロレタリアートになり、労働の喜びや手仕事の美しさも失われてしまった。モリスは中世に憧れて、モリス商会を設立し、インテリア製品や美しい書籍を作り出した(植物の模様の壁紙やステンドグラスが有名)。生活と芸術を一致させようとするモリスのデザイン思想とその実践(アーツ・アンド・クラフツ運動)は各国に大きな影響を与え、20世紀のモダンデザインの源流にもなったといわれる』。『プロレタリアートを解放し、生活を芸術化するために、根本的に社会を変えることが不可欠だと考えたモリスはマルクス主義を熱烈に信奉し、エリノア・マルクス(カール・マルクスの娘)らと行動をともにした。エリノアらと民主同盟を脱退し、1885年、社会主義同盟を結成、その後、再びエリノアらと脱退し、エリノアらとハマスミス社会主義協会を結成した』。主な著作には「民衆の芸術」(1879年の講演筆記禄)・ワット・タイラーの乱を題材にした小説「ジョン・ボールの夢」(1888年)・「ユートピアだより」(1890年)・「サンダリング・フラッド 若き戦士のロマンス」(遺作)等がある、とある。以上の経歴を見ると一目瞭然、彼は「ブルジョア」出身、終世「ブルジョア」であり続けたことが分かる。社会主義者でありながらブルジョワであったことから、芥川はかく、やや皮肉に「モリス・ブルジョア」と呼んだのかも知れない。兎も角も坪内逍遙の序を読み、廣子の当該来信書簡を読むことなしには、この意味は分からない。なお且つ、調べたところでは、モリスはエイリクル・マグヌソンとの共訳でアイルランドの叙事詩「ヴェルスンガ・サーガ」を“Völsung Saga: The Story of the Volsungs and Niblungs, with Certain Songs from the Elder Edda with Eiríkr Magnússon (1870) (from the Volsunga saga)”に英訳しており、アイルランド文学との接点もあるようであるから、シングの作品の邦訳の序で逍遙が彼の名を出したとしてもおかしくはない。しかし、とんでもない私の誤解かも知れない。識者の御教授を乞うものである。

 

 

■書簡2 旧全集一六二五書簡 大正6(1917)年7月24日

 片山廣子宛

 

拜啓

原稿用紙でごめんを蒙ります

False honests は誇張だから、惡くとつちやいけません あなたの事だから true modesty だと確信してゐます

心の花では、あなたの方が先輩です ですからお話しを伺ひに出るのなら、私の方から出ます あなたにあまり謙遜な手紙を頂くと私のやうな野人は 狼狽していけません 將來何等かの意味で、私の手紙が尊大に見えても 氣にかけないで下さい 私はこれを書きながら 田端へ來て頂きたいなどと云つたのが、惡かつたやうな氣がして 少し後悔してゐます

夏疫流行の爲 私も今日東京へかへります

   七月廿四日                         芥川龍之介

  片山廣子樣 粧次

 

[やぶちゃん注:底本の旧全集では書簡集最後の「年月未詳」パートに配されているが、新全集ではこれを上記の年に同定している。その同定の根拠は恐らく新全集後記にある、本書簡の封筒による確認と思われる(田端文士村記念館蔵。但しこれは封筒のみの所蔵である)。但し、この年推定は既に旧全集後記でも示されていた。そんなことよりも、問題は本書簡の出所である。その旧全集後記によれば、本書簡はまたしても、昭和40(1965)年6月の『文學』に吉田精一氏によって発表されたものを転載した旨の注記がある。従って前の書簡と同様に、現物からの活字起こしではない点に注意せねばならぬ。少なくとも――ここに吉田氏の操作が加わっていないとするならば――この文面からは龍之介と廣子が、この時点では未だ実際に対面した印象はないと私は感触している。

・「False honests」“false”には、①正しくない、誤った、正確でない、狂っている。②いわれのない、見当違いな、適切でない、軽率な。③本物でない、偽の、誤魔化しの。④人工の。⑤人が虚偽を述べる、嘘を言う、虚偽の。⑥不実な、裏切りの。⑦代用の、仮の、一時の。⑧似非の、仮性。といった意味がある。しかし、問題は寧ろ、“honests”という複数形にありはしないか? これは“honest”が名詞であることを意味する。その場合、これは我々の知っている「誠実な、正直な、頼もしい」といった意味ではなく、「信用出来る人物」を意味する口語である。ここでは廣子の来信を読めぬ以上、如何なる意味であるか、同定を避けるが、芥川龍之介は廣子への先の手紙で“False honests”=信用出来ない人々、という言葉を用いたのだが、その中に廣子が含まれないことを暗に弁解した言葉ではなかったか、と僕は踏んでいる。

・「true modesty」“modesty”は謙遜、控えめ、上品、素朴さ、節度といった意味がある。言うなら、「真実(まこと)の慎ましさ」ということになる。廣子への賛辞として、至当と理解出来る。

・『「心の花」』短歌雑誌。明治31(1898)年に佐佐木信綱の主宰する短歌同人竹柏(ちくはく)会機関誌として創刊された、現在も続く日本近現代歌壇中、最古の歴史を持つ短歌雑誌。信綱の「広く深くおのがじしに」を理念とする。廣子は東洋英和女学校の学生であった18歳の明治29(1896)年に同級生新見かよ子と共に信綱の門を敲き、『心の花』に先行する信綱主宰の短歌雑誌『いささ川』(明治31(1898)年2月に『心の花』に改題)の第3号(明治30(1897)年刊)に既に歌を発表しており、非常に早い時期に会員となっている。

・「私も今日東京へかへります」前書簡注で述べた通り、龍之介はこの時、鎌倉に下宿していた(但し、大学時代の寮生活と同様、週末には実家に戻っていた)。この時は、海軍機関学校の夏季休暇(8月31日迄)が始まったための田端引き上げであって、「夏疫流行の爲」などとあるが、特に体調不良のためなどではない。]

 

 

■書簡3 旧全集四九九書簡 大正8(1919)年2月28日 田端発信

片山廣子宛

 

敬啓 御見舞下すつて難有う存じます私の方はもう二三日中に床をはなれられさうですがそちらの御病氣は如何ですか氣候不順の際吳々も御大事になさい私の方からも御禮旁々御見舞まで 頓首

    卽景

時雨れんとす椎の葉暗く朝燒けて

   二月廿八日朝                        芥川龍之介

片山廣子樣 粧次

 

[やぶちゃん注:本書簡は後記注記がないところを見ると、数少ない片山廣子から全集編集時に提供された書簡である(実は片山家には多量の芥川龍之介書簡があったことが知られている。しかし廣子の死後、娘の總子が「すべて燃やしてしまったため」(平成4(1992)年9月11日朝日新聞夕刊『散策思索』欄掲載になる辺見じゅん『芥川と「越し人」』より)現存しない)。芥川はこの2月17日にインフルエンザに罹患して発熱、鎌倉から田端の実家に移って療養、3月3日になるまで床を上げられず、海軍機関学校も翌月初旬まで休んでいる(実際には、この二日前の2月15日に大坂毎日新聞社入社が内定しており、芥川自身、英語教師には飽き飽きしており、この月の24日までに機関学校へ退職願を提出している)。几帳面な芥川の性格から考えると、この2月28日の午後に恐らく片山廣子は芥川家を見舞いに訪れたものと考えてよい。廣子、この時41歳、この翌年3月14日に夫貞次郎が病死する。この日は芥川龍之介満26歳最後の日(龍之介の誕生日は3月1日)、前月の1月15日には第2作品集『傀儡師』を刊行し(リンク先は私の作製したバーチャル・ウェブ版作品集『傀儡師』)、最も脂が乗り切った時期であった。そもそも廣子は何故、突然、芥川を見舞ったのか? これももしかすると、芥川がこの『傀儡師』を前月末に廣子に献本したのではなかったか? 東京英和学院寄贈本には『傀儡師』は含まれていないが、几帳面な芥川が、既に『羅生門』を寄贈した彼女を寄贈リストから洩らすはずがないと私は踏む(実際に廣子の書斎の書棚には龍之介の著作が並んでいるのを私は廣子の「乾あんず」のテクスト注で推理した)。それに廣子が礼の手紙を認(したた)め、それに返事を書いたのが、丁度インフルエンザに罹患した直後であったとしたら、当然、その病状を書簡中に書いたであろうから、辻褄が逢う。そしてここで芥川が俳句を添えている辺り、礼儀的なただの返礼ではない。「そちらの御病氣」は文面から廣子自身の病気としか読めないが、これは不詳である。そして――そしてこの日こそ、初めて芥川龍之介が運命の女廣子の顔をしみじみと見た日だったのではなかったか? 但し、現在の廣子の年譜には、この事実の記載がない。それとも廣子は、玄関先で見舞を述べるのみで、芥川に逢うことなく、ただ帰ったのであろうか?……何時どの瞬間に、龍之介は凝っと廣子の顔を見たのか――はなはだ下卑てはいるが、私の興味は尽きないのである。――]

 

 

■書簡4 旧全集一二二二書簡 大正13(1924)年7月28日 軽井沢発信

 室生犀星宛 絵葉書

 

   この里にも鮎はあるゆゑ賜(タ)ぶとならば茶うけに食はん菓子を賜びたまへ

   左團次はことしは來ねど住吉の松村みね子はきのふ來にけり

    七月二十八日                           龍

二伸 クチナシの句ウマイナアと思ひましたボクにはとても出來ない

 

[やぶちゃん注:龍之介はこの年、初めて軽井沢に避暑した。7月22日に軽井沢鶴屋旅館に到着、8月23日迄一ヶ月間の滞在であった。片山廣子(ペン・ネーム松村みね子)は7月27日の日曜日、17歳の娘總子(ペン・ネーム宗瑛(そうえい))と一緒に同じ鶴屋旅館に入り、一ヶ月同じ屋根の下で暮らした。この一ヶ月が廣子との運命的な出逢いとなった(川村湊氏の「物語の娘 宗瑛を探して」(講談社2005年刊)によると、この間の龍之介と片山母子の間柄は決して高雅高尚な精神的もののみであった訳ではなく、『花札をしたり、あるいは、つるや旅館旧館の前に生えていた松の木に芥川がよじ登って、片山親子の女部屋を覗こうとしたしたというイタズラッ気もあった』という記載があり、文字通り「もう一度廿五才」の学生気分「になつたやうに興奮してゐ」(後掲書簡参照)た龍之介の茶目っ気も垣間見れる)。以下、宮坂覺編になる新全集の年譜を参考に、廣子と犀星の相互関連の強い記載を記載を私の推測を交えて拾っておく。犀星は8月3日に来訪(推測であるが、彼は既に五年連続で軽井沢を訪れており、廣子とは初対面ではなかったのではないかと思われる。また、この8月3日から6日迄の芥川龍之介の日記は彼自身の公開によって残っている。参照されたい。但し、そこには廣子に関わる記載は一切ない。この時既に龍之介の恋情は蠢いていたはずであるから、これは意図的な除外であろうと思われる)、鶴屋旅館旧館から同館所有の離れに移って犀星とは隣り合わせの部屋をとった。5日夜、犀星の部屋で廣子を交えて談笑、龍之介が犀星にいつか廣子を夕食に誘いたい旨、語っている。8日夜、廣子と總子、犀星と龍之介4人で散歩している。川村湊「物語の娘 宗瑛を探して」によれば、この時のこととして、室生犀星の日録記載の中に「松村さんと予との間に風月論が出た。澄江堂は松村さんに議論を吹きかけた。松村さんな穏やかな人である」と記されているとある。10日の日曜日には廣子が二階から落ち、犀星と2人で見舞いの句を送っている(階段を踏み外したか? 怪我などはなかった模様である)。やはり川村氏の「物語の娘」には犀星の日記体文章である『「碓氷山上之月」の八月十日の項に、犀星は、「晩、二人で松村さんの部屋へはじめて遊びにゆく」と書いて』あるとある。13日の夜には、犀星、廣子、總子、龍之介及び鶴屋の主人の5人で碓氷峠に月見のドライブに出かけている。たびたび引くが、川村氏の「物語の娘」によれば、この鶴屋旅館の主人は佐藤不二男といい、『旅館の主というより、文人たちの友人やスポンサーというべき人物だった』とあって、更に犀星の「碓氷山上之月」の八月十三日の項を以下のように引用されている(「/」部分は改行と判断して戻した。「(中略)」は川村氏によるもの。私は犀星の「碓氷山上之月」を所持していないし、未見であれば川村氏の著作からの孫引きをお許し願いたい)。

 

 夕方から碓氷峠の上へ月を見に行かうといふことになり、松村さんとお嬢さん、旅館の主人、澄江堂と予とが自動車に乗つた。峠へは登り道ばかりで、松村さんは少し蒼い顔をして

「恐うございますね。」

と言った。

お嬢さんは十七であるのに、お母さんにしつかり抱きついてゐた。(中略)

 松村さんもお嬢さんも権現さまの石段の下で羽織を着た。見晴台へ行くと、妙義山一帯の山脈が煤まみれのむら雲の中に、月の片曇りをあびながらどんより重畳してゐた。茫茫たる歳月を封じ込んでゐるやうで、むしろ騒騒しい挑んだ荒涼たる景色であった。(中略)

こんな景色は絵よりも文章よりも音楽に近いかなあと澄江子が言つた。

「そんなにおさむくはございませんね。」

松村さんは羽織着のほつそりとした姿で、旅館のあるじとさう話してゐる。

 

貴重な芥川龍之介の肉声が、しっとりとした廣子のそれとともに聴こえてくる美事なワン・シーンである(「権現さま」は見晴台手前にある熊野皇大神社のことであろう)。なお、川村氏はこの後に『翌八月十四日には、「ことしは何かさびしいやうですね」とか「お国にいらつしやるとお年を召すやうな気がいたしませんか?」といった会話を』犀星が廣子と交わした旨の記載をされている(これも貴重な廣子の肉声である)。その日の午後11時、室生は夜行列車で金沢に帰った。そうして、あの8月19日がやって来る(後掲書簡参照)。この日、廣子と龍之介、鶴屋主人の3人で追分に出かけた。ここは中山道と北国街道の分岐に当たり、古来、江戸から親しく長旅をしてきた旅人同士がここで別れを惜しんで袂を分かったことに由来する、「分去(わかさ)れの道標」が立つ。廣子46歳、龍之介32歳、ここで二人して、美しい虹が上がるのを見た――。ご存知の通り、後の書簡中の歌にも現われるように、龍之介は後に廣子のことを「越びと」と呼ぶようになるのであるが、私はそれが、この時の――碓氷峠と追分分去れでの思い出に基づくものと解釈している。それは遂に例の絶唱「越びと 旋頭歌二十五首」となって公的に示される。その廣子への芥川龍之介の秘やかな(多くの読者は「越し人」が誰であるかは分からなかった)呼称自体は、直接の淵源としては「片山廣子歌集 翡翠」の中の「輕井澤にてよみける歌十四首」の巻頭を飾る次の一首、

 空ちかき越路の山のみねの雪夕日に遠く見ればさびしき

基づくものであろうと考えられる(これは川村湊氏も「物語の娘 宗瑛を探して」で同様の推定をされておられる)。この歌自身は勿論、廣子が龍之介に出逢うずっと以前に詠まれたものであるが、後に龍之介が廣子と運命的な出逢いをすることとなった軽井沢を詠み込んだ一首は――廣子との思い出の碓氷峠に纏わる「越路」というイメージを鮮烈に結ぶものとしても――廣子に切々たる恋情を抱いた龍之介に強く刻まれることとなったものと考えられる。この歌を口ずさむ龍之介には、間違いなく、廣子のペンネーム「みね」子への連想も付随していたに違いない。その龍之介の切ない「みね」子への「さびしき」思いの、その予兆的一首として、晩年の龍之介にそれが意識されたのだと私は思うのである。私は越しの国新潟へと越えてゆく碓氷峠――そして二人して別れ行く――乗り越して行かねばならぬ「越し」の「分去(わかさ)れの道標」――美しく全てを越えてゆく虹の思い出の中の、運命の女(ひと)――正しきファム・ファータル――これこそが「越し人」の謂いであったと、私は信じて疑わぬのである。

・「左團次はことしは來ねど」とあるが、芥川龍之介の軽井沢訪問はこの時が初めてである。これだけでなく、この叙述は全体がおかしい。何故なら市川左団次(五代目)はこの直前、7月23日に鶴屋に来ており、芥川龍之介も面会しているものと思われる(談話を交わしたかどうかは不明)。ただ同24日夜に浅間山が鳴動、噴火の火が夜空を染めて、それに恐れをなした左団次は早々に25日に帰京したのである(芥川家宛7月25日附旧全集一二一七書簡に具体的に左団次についての以上の記載がある)。この一首には、何か言外の仕掛けがあるのかも知れない。

・「住吉」大阪市南西部にある、現在の住吉区と住之江区の一部を指す旧地名(古くは「すみのえ」と呼んだ)。住吉神社を中心に美しい松原があったことから「松」の歌枕で、廣子のペン・ネーム「松村」を引き出すための枕詞である。

・「クチナシの句」は不詳であるが、犀星は既に知人であった廣子を梔子夫人(無口な、の意を利かせた掛詞)と秘かに呼んでおり、芥川もその符牒を盛んに用いていたから、この犀星の「クチナシの句」は廣子を言外に詠んだものである可能性が高い。現在、調査中。]

 

 

■書簡5 旧全集一二三四書簡 大正13(1924)年8月19日 輕井澤発信

 室生犀星宛 淺間山風景の写真の裏面に記載

 

御手紙拜見

   つくばひの藻もふるさとの暑さかな

朝子孃前へ這ふやうになつたよし、もう少しすると、這ひながら、首を左右へふるやうになるさうすると一層可愛い雉子車は玩具ずきの岡本綺堂老へ送る事にした、けふ片山さんと「つるや」主人と追分へ行つた非常に落ついた村だつた北國街道と東山道との分れる處へ來たら美しい虹が出た

廿日は廿十九日頃かへるつもり

                                 龍 之 介

 室生君

 

[やぶちゃん注:「北國街道と東山道との分れる處へ來たら美しい虹が出た」――これが芥川龍之介の、美しくも哀しい――人生最後の恋の象徴であったのではなかったか――と私は思うのである――

・「つくばひ」このつくばいについては、大正13(1924)年1月6日発行『サンデー毎日』に発表した「野人生計の事」の「二 室生犀星」に以下のようにある。

 

       二 室生犀星

 

 室生犀星の金澤に歸つたのは二月ばかり前のことである。

「どうも國へ歸りたくてね、丁度脚氣になつたやつが國の土を踏まないと、癒らんと云ふやうなものだらうかね。」

 さう言つて歸つてしまつたのである。室生の陶器を愛する病は僕よりも膏肓にはひつてゐる。尤も御同樣に貧乏だから、名のある茶器などは持つてゐない。しかし室生のコレクションを見ると、ちやんと或趣味にまとまつてゐる。云はば白高麗も畫唐津も室生犀星を語つてゐる。これは當然とは云ふものの、必しも誰にでも出來るものではない。

 或日室生は遊びに行つた僕に、上品に赤い唐艸の寂びた九谷の鉢を一つくれた。それから熱心にこんなことを云つた。

 「これへは羊羹を入れなさい。(室生は何何し給へと云ふ代りに何何しなさいと云ふのである。)まん中へちよつと五切ればかり、まつ黑い羊羹を入れなさい。」

 室生はかう云ふ忠告さへせずには氣のすまない神經を持つてゐるのである。

 或日又遊びに來た室生は僕の顏を見るが早いか、團子坂の或骨董屋に靑磁の硯屛の出てゐることを話した。

 「賣らずに置けと云つて置いたからね、二三日中にとつて來なさい。もし出かける暇がなけりや、使でも何でもやりなさい。」

 宛然僕にその硯屛を買ふ義務でもありさうな口吻である。しかし御意通りに買つたことを未だに後悔してゐないのは室生の爲にも僕の爲にも兎に角欣懷と云ふ外はない。

 室生はまだ陶器の外にも庭を作ることを愛してゐる。石を据ゑたり、竹を植ゑたり、叡山苔を匍はせたり、池を掘つたり、葡萄棚を掛けたり、いろいろ手を入れるのを愛してゐる。それも室生自身の家の室生自身の庭ではない。家賃を拂つてゐる借家の庭に入らざる數寄を凝らしてゐるのである。

 或夜お茶に呼ばれた僕は室生と何か話してゐた。すると暗い竹むらの蔭に絕えず水のしたたる音がする。室生の庭には池の外に流れなどは一つもある筈はない。僕は不思議に思つたから、「あの音は何だね?」と尋ねて見た。

「ああ、あれか、あれはあすこのつくばひへバケツの水をたらしてあるのだ。そら、あの竹の中へバケツを置いて、バケツの胴へ穴をあけて、その穴へ細い管をさして……」

 室生は澄まして說明した。室生の金澤へ歸る時、僕へかたみに贈つたものはかういふ因緣のあるつくばひである。

 僕は室生に別れた後、全然さういふ風流と緣のない暮しをつづけてゐる。あの庭は少しも變つてゐない。庭の隅の枇杷の木は丁度今寂しい花をつけてゐる。室生はいつ金澤からもう一度東京へ出て來るのかしら。

 

語注は私の芥川龍之介「野人生計の事」の注を参照されたい。

・「朝子」犀星の長女。大正12(1923)年8月に生まれた。「杏つ子」のモデル。後に小説家となった。平成14(2002)年没。

・「北國街道」別名、善光寺街道。江戸時代、脇街道として北国脇往還と呼ばれた街道である。ここ追分で中仙道と分かれ、小諸・上田、そして長野善光寺を経て高田から直江津で北陸道に合流、善光寺参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として5街道に次ぐ重要な役割を果たした(以上は主にウィキの「北国街道(信越)」を参考にした)。

・「東山道」本来は本州中央山岳地帯から東北に至る十三ヶ国をこう言うが、これらに通ずる道が、やはり古くは東山道(とうさんどう)と呼称されていた(孝徳天皇(大化)2(646)年の大化の改新以降と推定されている)。碓氷峠を「越え」てここ追分で北国街道と分岐している。それが――この後に彼に訪れる決定的な廣子との別れとしての――いや、それは現世との別れをも――死出の山の越路をも意味するものとしての――「越し」と言う語に直結しているようにも思われる。序でに言えば――廣子のペン・ネームは「みね子」――「越し」て行くその「峰」でもあるのである。――

・「北國街道と東山道との分れる處へ來たら美しい虹が出た」よく知られていることであるが、この場面は後に堀辰雄の「楡の家」(昭和9(1934)年に脱稿された第一部)に用いられている。本作は廣子をモデルとしたヒロインの日記体で、冒頭に『一九二六年九月七日、O村にて』のクレジットを打つ。該当箇所を引用しておく(底本は昭和43(1968)年刊の新潮文庫版所収のものを用いた)。

 

 稲妻がときどき枝を折られたそれらの灌木を照らしていた。

 それからまだしばらく雷鳴がしていたが、やっとのことで向うの雑木林の上方がうっすらと明るくなりだした。私たちは何んだかほっとしたような気持がした。そうしてだんだん草の葉が日にひかり出すのをまぶしそうに見ていると、又しても、屋根板にぱらぱらと大きな音がしだした。私たちは思わず顔を見合せた。が、それは楡の木の葉のしずくする音だった……

「雨が上ったようですから、少しそこいらを歩いて御覧になりません?」

 そう云って私はあの方と向い合った椅子からそっと離れた。そうしてお隣りへお前を迎えにやって置いて、一足先に、村のなかを御案内していることにした。

 村は丁度養蚕の始まっている最中だった。家並みは皆で三十軒足らずで、その上大抵の家はいまにも崩壊しそうで、中にはもう半ば傾き出しているのさえあった。そんな廃屋に近いものを取り囲みながら、ただ豆畑や唐黍畑(とうきびばたけ)だけは猛烈に繁茂していた。それは私たちの気もちに妙にこたえて来るような眺(なが)めだった。途中で、桑の葉を重たそうに背負ってくる、汚れた顔をした若い娘たちと幾人もすれちがいながら、私たちはとうとう村はずれの岐(わか)れ道まで来た。北よりには浅間山がまだ一面に雨雲をかぶりながら、その赤らんだ肌(はだ)をところどころ覗(のぞ)かせていた。しかし南の方はもうすっかり晴れ渡り、いつもよりちかぢかと見える真向うの小山の上に捲(ま)き雲が一かたまり残っているきりだった。私たちが其処にぼんやりと立ったまま、気持ちよさそうにつめたい風に吹かれていると、丁度その瞬間、その真向うの小山のてっぺんから少し手前の松林にかけて、あたかもそれを待ち設けでもしていたかのように、一すじの虹(にじ)がほのかに見えだした。

「まあ綺麗(きれい)な虹だこと……」思わずそう口に出しながら私はパラソルのなかからそれを見上げた。森さんも私のそばに立ったまま、まぶしそうにその虹を見上げていた。そうして何だか非常に穏やかな、そのくせ妙に興奮なさっていらっしゃるような面持(おももち)をしていられた。

 

「お前」が廣子の娘總子(宗瑛)、「森」が芥川龍之介である。堀は芥川自身からこの時のことを直(じか)に聴いたものと思われ、二人きりの印象的な場面に仕上げられてある。「何だか非常に穏やかな、そのくせ妙に興奮なさっていらっしゃるような面持」は、正しくこの時の龍之介の心情を捉えて言い得て妙と言うべきであろう。]

 

 

■書簡6 旧全集一二三五書簡 大正13(1924)年8月19日

 東京市本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣

 十九日 龍之介 絵葉書(次と二枚連続)

 

君の来られないのに少々失望した。萬事その手筈にして置いたから。廿二日の搬入には吉例により、手傳へる事と思ふ。僕は短篇を一つしか書かず、無暗に本をよんでゐるしかしもう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる 事によると時候のせゐかも知れない。事によると、何か書けるかも知れない 此處へ來る前に石川君に「碧」を送つて貰つたり何かいろいろ世話になつてゐる。(次へ)

 

[やぶちゃん注:ここで龍之介が「もう一度廿五才になつたやうに興奮してゐる」というのは、芥川龍之介満24歳、大正5(1916)年の、後の妻塚本文への8月25日のプロポーズの手紙に始まる、その恋情から同年12月の婚約の頃の心情を指している。この時、龍之介は遠い花火ではない、瀧の如く振り注ぐ花火の火の粉を受けながら、若き日と同じ懸恋の切ない情と、そのエクスタシーに浸っているのである――

・「小穴隆一」(おあな りゅういち 明治27(1894)年~昭和41(1966)年)洋画家。芥川龍之介無二の盟友。大正8(1919)年11月に瀧井孝作の紹介で逢って以来、芥川の単行本の装丁も手がけ、芥川が自死の意志を最初に告げた人物でもある。芥川より2歳年下。

・「廿二日の搬入」小穴の何らかの秋の展覧会(彼はこの2年前に春陽会に移っているが、春陽会の展覧会は春であるから、旧所属の二科か)への作品搬入の立会いであるが、芥川龍之介が帰郷したのは23日であったから、これは実際には実現しなかったものと考えられる。

・「吉例」「きつれい」とも読み、目出度い仕来りのことであるが、恐らく過去の搬入の際にも芥川が付き添い、その時に小穴の作品が受賞をしたといった事実があったのではないか。若しくは龍之介をモデルに描いた、大正11(1922)年9月二科出品の小穴の「白衣」が大層好評であったことなどから、その縁起担ぎ(小穴のラッキー・マン)にというニュアンスをも私は感ずるものである。

・「短篇を一つしか書かず」この軽井沢で脱稿出来たのは、雑誌『改造』記者の居催促による、半ば力技の「十円札」一本だけであった。

・「何か書けるかも知れない」これは、その後の芥川龍之介の作品年譜から推して、翌年1月1日に発表する(脱稿は12月20日頃。擱筆のクレジットは12月9日)「大導寺信輔の半生」のインスピレーションであったと考えてよいであろう。

・「石川君」不詳であるが、この書簡の2ヵ月後の大正13(1924)年10月22日に芥川は石川太一なる人物に宛てて書簡を出している(旧全集一二五五書簡)。その内容から判断するに、戦前の政治家・労働運動家であった麻生久(東京日日新聞記者から無産政党であった社会大衆党党首となった左派活動家。但し、日中戦争後は軍部や大政翼賛会を支持し、変節した)の、左翼シンパの若者と考えられる。

・『「碧」』俳句雑誌。河東碧梧桐が大正12(1923)年1月に約1年の外遊(イタリア・フランス・イギリス・アメリカ)から帰国後、翌2月に刊行した個人雑誌である。俳句の他、随筆・紀行・評論の他、短詩(無季語)と呼称した実験的句形式も試みている。]

 

 

■書簡7 旧全集一二三六書簡 大正13(1924)年8月19日

 東京市本鄕區東片町百卅四 小穴隆一樣

 十九日 龍之介 絵葉書(前と二枚連続)

 

しかし宿所のわからない爲つい御禮も出さずにゐる。どうかお會ひの節はよろしく。

黃雀一讀。神代の校正に少々憤慨してゐる。

世帶を持つ件はどうにでもなる 氣を廣く持つ事なり これは又いづれ拜晤の節。

室生もかへり、この數日全然一人暮らしてゐる。内田マコがちよつと來た。マコの渾名は河馬と云ふよし。皆に莫迦にされてゐて可哀さうな男なり 以上

 

[やぶちゃん注:「全然一人暮らしてゐる」――この叙述こそ、龍之介の心の変異の証しである――

・「黄雀」芥川龍之介が前月7月18日に新潮社より刊行した作品集『黄雀風』(こうじゃくふう)。装幀は小穴隆一。

・「神代種亮」(こうじろたねすけ 明治16(1883)年~昭和10(1935)年)書誌研究家。「校正の神様」と称された。島根県津和野町出身。松江師範学校を卒業して上京、海軍図書館などに勤務するかたわら、独自に明治文学の研究に従事、明治文化研究会の一員であった。校正術に秀で、雑誌『校正往来』を発刊した。芥川龍之介は自作の作品刊行の際に校正を頼んでいた。

・「拜晤」お目にかかること。「面会」の謙譲語。

・「内田マコ」不詳。]

 

 

■書簡8 旧全集一二四〇書簡 大正13(1924)年8月26日 田端発信

 室生犀星宛

 

冠省二十三日に歸京、中央公論はとう/\出來ず改造のは全然失敗し不愉快に消光いたし居候「鯛の骨」の句は今もなほ精彩を減ぜず大兄一代の名什と存候追分の近く假宿(カリヤド)と云ふ所に坪一圓五十錢の地所あり林間の地にて、もしよければ山梔子夫人も買ふよし僕も買ふ氣なり君は如何 つくばひの句、藻もふる鄕は僕の句也大兄の句を添削した次第にあらずたとへば

     室生犀星、金澤より「つくばひの藻も靑黑き暑さ哉」と言ひ洩しければ返す文に

   つくばひの藻もふる鄕の暑さかな

と云ふ句になるのに候

輕井澤土產は男もち麻の手巾一打、女もち絹の手巾二打半、毛糸の子供用スウェタア二つ、淺間葡萄飴、いそ部せんべい、その外は何やらわからぬ愁心のみ 匆々

    八月二十六日                         澄江子

 犀 星 先 生 侍史

  二伸 神代君の談によれば「高麗の花」近々出來のよし神代君は

 もし輕井澤へ行つたら室生さんにさう云つてくれと中根に言づか

 つたよし神代君は僕と行き違ひに輕井澤へ行つた故けふ僕にその

 言づてをする也

 

[やぶちゃん注:「その外は何やらわからぬ愁心のみ」は、廣子への恋情を犀星に率直に告げている大事な一句である。犀星も、それを十全に理解していたはずである――

・「神代君」神代種亮。前出。一二三六書簡注参照。

・「中央公論はとう/\出來ず」翌年1月1日に同誌に発表(脱稿は前年12月20日頃)している「大導寺信輔の半生」か。

・「改造のは全然失敗し不愉快に消光いたし居候」9月号に発表した「十円札」を指す。

・『「鯛の骨」の句』犀星の句「鯛の骨疊に拾ふ夜寒かな」を指す。

・「名什」優れた詩篇を言う語。

・「假宿(カリヤド)」軽井沢町仮宿。沓掛(中軽井沢)から追分に行く途中にある。個人ブログ「目からウロコの地名由来」の『「狩宿・借宿」の地名由来』に以下のようにある。『宿(やど)は宿屋ではない』。『宿を「しゅく」と読む地名は、概ね鎌倉時代の宿場に由来するものが多いが、「やど」と読む地名は、「矢戸・谷戸・谷地」というように、谷間や湿地になっている地形を表す。一方、「かり」は、刈り払われたような急斜面の意味だから、「かりやど」は、急斜面に挟まれた谷間や湿地の地形名ということだ。(中略)長野県軽井沢町の借宿(かりやど)は、中山道の追分宿と沓掛宿の間にあり、中山道の「間の宿」としての機能を備えた宿場地名だ。「宿」地名としては例外的なものだ。隣にある古宿(ふるじゅく)という地名は、中世の宿場地名か、単にじゅくじゅくした湿地地名かもしれない』とある。

・「山梔子夫人」片山廣子の犀星や龍之介の仲間内での美称符牒。口数の少ない、クチナシの花の如き「にほひたつ」ような美しき御夫人の意。

・「つくばひの句」以下は、前掲一二三四書簡参照。

・「いそ部せんべい」群馬県碓氷郡(現在は安中市)磯部鉱泉の名物。当地の炭酸水素塩強塩泉を用いて作った薄焼き煎餅。

・『「高麗の花」』同年9月に犀星が新潮社から刊行した詩集。

・「中根」中根駒十郎。新潮社社長佐藤義亮の片腕と呼ばれた敏腕社員で、芥川龍之介の作品を雑誌『新潮』に積極的に掲載、芥川の作品集『夜来の花』や『黄雀風』等の出版にも尽力した。]

 

 

□吉田精一氏の「芥川龍之介の恋人」(昭和46(1971)年11月刊・中央公論社『歴史と人物』掲載)や辺見じゅん氏の『芥川と「越し人」』(平成4(1992)年9月11日朝日新聞夕刊『散策思索』欄掲載)によって、この間、大正13(1924)年9月5日付で片山廣子から龍之介が手紙を受け取っていることが判明している。その手紙は現存し(現在は辺見じゅん氏所有)、そこには、

「二十三日にお別れする時に、もう當分、あるひは永久におめにかかる折がないだらうと思ひました。それはたぶん、來年はつるやにはおいでがないだらうと思つたからです。それでたいへんになごりおしくおもひました。夕方ひどくぼんやりしてさびしく感じました」

とあり(辺見『芥川と「越し人」』)、

「二十四日もたいそうよく晴れてゐました。もみじの部屋ががらんとして風がふきぬいてゐました。通りがかりにあすこの障子際にステッキが立ってゐないのを見るとひどくつまらなく感じましたそしてつるやぢゆうが靜になつたやうでした」

とも書かれている(吉田「芥川龍之介の恋人」)。そしてその後に廣子は、

「わたしたちはおつきあひができないものでせうか。ひどくあきあきした時におめにかかつてつまらないおしやべりができないものでせうか。」

と続けるのである(辺見『芥川と「越し人」』)。

 これはラブ・レター以外の何ものでもない

 この手紙は、

「わたしが女でなく男かあるひはほかのものに、鳥でもけものでもかまいひませんが女でないものに出世しておつきあひはできないものでせうか」

と終わる(らしい。辺見『芥川と「越し人」』ではここで引用が終わっており、「以下略」等の指示がない)。これでも――あなたは、これがラブ・レターではない――と言うか? これらの芥川龍之介宛片山廣子宛書簡については、不完全ながら(我々に与えられているのは、この吉田と辺見のエッセイ染みた小文だけなのだ!)、別頁でテクスト化を試みた。一言だけ呟いておこう。――廣子の「五月と六月」の碓氷峠のシーンをお読みなさい――そうして――そうしてこの廣子の手紙の最後の一文をもう一度、読んで御覧なさい――]

 

 

■書簡9 旧全集一二五四書簡 大正13(1924)年10月22日 田端発信

室生犀星宛

 

冠省その後如何けふ平木君下島さんへ來り、君が東京へ出る事を話したよし、酒井に家を明けさせる件ならば下島さんと僕とで引受けてもよい又渡邊町へ家を探がす事も引受けてもよい御命令を待つてゐるから遠慮なしに言つてくれ給へ片山さんへは訪問する機會を得ない胃病になつたり食道癌の叔父に死なれたり、蕭條と暮らしてゐる

   朝寒や鬼灯垂るゝ草の中

あの句はかう作定した 頓首

    十月二十二日

澄江子

  照道先生侍史

 

[やぶちゃん注:書簡主意は犀星が再上京することを知り、その新居探しの手伝いの申し出である。「片山さんへは訪問する機會を得ない」――私がこの書簡の直前に挿入した廣子の来信文をお読みになれば、この龍之介の掻き毟りたくなるような焦燥感と、その「蕭條」たる内心が――痛いほど分かる――

・「平木」平木二六(明治36(1903)年~昭和59(984)年)詩人・俳人。大正8(1919)年、東京日本橋の小間物問屋の息子であったが家業を継ぐことを嫌って、田端に小牧場を入手、山羊数頭を飼っていたが、ここで室生犀星の知遇を得、その門下扱いで詩作に入った。大正15(1926)年に犀星の序と芥川の跋になる詩集「若冠」(近代詩歌社)を上梓して注目された。後、堀辰雄・中野重治らと犀星のバックアップになる雑誌『驢馬』を創刊している。

・「下島」諸注は注していないが、これは下島勲(明治3(1870)年~昭和22(1947)年)のことであろう。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。俳句もものし、井上井月の研究家としても知られる。芥川がかの辞世「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」を残した相手でもある。

・「酒井」酒井真人(明治31(1898)年~?)小説家・評論家。犀星と同郷の金沢生。東京大学英文科卒。川端康成らと共に第6次『新思潮』の発刊に加わった。後『文芸春秋』編集同人や『文芸時代』同人となった。後に映画評論に転じ、昭和5(1930)年刊「映写幕上の独裁者」等がある。参考にした岩波新全集の人名解説索引には没年が記されていないが、昨今の高齢者の生存疑惑からも、112歳で生きているとは思われないので、「?」とした。

・「渡邊町」東京都荒川区の町名。田端に近い。

・「胃病になつたり」特にこの直近では、大きな胃病の記載は年譜には見当たらない。ここ数年来の胃炎(私は恐らくは神経性胃炎と喫煙による糜爛性胃炎の合併的症状であると推測している)の症状を言うか。芥川がしばしば使う胃アトニーは胃下垂の意で、基本的には胃下垂は特殊なケース以外は病気とは言えない。

・「食道癌の叔父に死なれたり」養父道章の弟である叔父竹内顕二のこと。測量技師であった。この日付の二日前、10月20日に72歳で亡くなっている。この叔父の病状が深刻であったために、この10月に入ってからは芥川はそれに関わって外出が多く、多事多忙であった。

・「あの句」先行する同年九月二十五日附一二四六小酒井光次(不木)宛書簡中に、

  卽景

朝寒や鬼灯のこる草の中

とあり、同十月八日一二四八瀧井孝作宛書簡中には、

  卽景口占

朝寒や鬼灯垂るゝ草の中

また、同十月八日一二五二岡本敬二(綺堂)宛書簡中には、前書を変えて、

  この頃

朝寒や鬼灯垂るゝ草の中

同十月三十日一二六〇江口渙宛書簡中には、前書なしで再び初形に戻し、

朝寒や鬼灯殘る草の中

としている。「あの句」とあるが、現存する室生宛先行書簡には先行句はない。こうして時系列で並べてみると芥川の作定苦吟の跡がよく分かる。「やぶちゃん版芥川龍之介俳句集四 続 書簡俳句」の該当部分も参照されたい。]

 

 

■書簡10 旧全集一二八二書簡 大正14(1925)年2月14日 田端発信

 與謝野晶子宛

 

冠省先達は御本をありがたうございました。病中床の上でゆつくり拜見しました。あの連作のお歌は地震のならば地震の、溫泉のならば溫泉のと言ふやうに別丁を一頁づつ入れて頂くと讀む方で大へん助かりますが如何ですか。それから仮名づかひ改定案につき、小生も改造に(三月の)惡口を書きました。但し小生のは要するに啖呵を切つたやうなものですが。この手紙と同封して旋頭歌を少々御覽に入れます。御採用下さるのならば明星におのせ下さい。落第ならば御返送下さつても結構です。小生自身には大抵落第してゐる歌ですから。右とりあへず當用のみ 頓首

    二月十四日                        芥川龍之介

   與謝野晶子樣

 

[やぶちゃん注:廣子への絶唱「越びと 旋頭歌二十五首」の、歌壇の女王與謝野晶子への、かの恋愛至上主義を謳歌した伝説の『明星』への(この時は大正10(1921)年11月に創刊された第二次)、自作の直接投稿と依頼文である。芥川は既に以前から與謝野晶子・鐵幹夫妻と親しくしていたが、この晶子本人宛の『明星』への掲載依頼というのは、常識から考えると尋常なものではない。――しかし、文壇の寵児、小説の魔術師芥川龍之介の、何と当代稀有の旋頭歌形式となれば、晶子が掲載を渋るはずもなかろう。――またロマン主義の回帰期にあった晶子にしてみれば、その古式に反して鮮烈にして赤裸々なる詩想に心動かされぬはずも、これまた、ないと言ってよい――これら諸々の効果を芥川龍之介は十分に計算した上で晶子に原稿を託したものと思われる。――勿論、これは翌3月発行の雑誌『明星』に美事に芥川龍之介名義で掲載された。なお、この「越びと 旋頭歌二十五首」についての私の諸注釈は、「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」の方に併載している「越しびと 旋頭歌二十五首」の方を参照されたい(こちらのテクストは飽くまで鑑賞用に私が配したものであるから)。

・「御本」この年の1月に震災後に最初に晶子が上梓した第二十歌集『瑠璃光』(アルス社)。598首収載。一首引いておく。これは晶子の有島武郎追悼歌である。――これといって他意はない。――ないが、一読、何か感ずるものが私にはあるのである――

 君亡くて悲しと云ふを少し越え苦しと云はば人怪しまん

・「病中」芥川はこの14日前後、流行性感冒罹患のため、数日間外出していない模様である。

・「仮名づかひ改定案につき、小生も改造に(三月の)惡口を書きました」同年3月1日発行の『改造』に載せた「文部省の假名遣改定案について」を指す(リンク先は本注のために私が急遽作成した初出形復元テクストである)。]

 

 

■書簡11 旧全集一二五四書簡 大正14(1925)年4月17日 修善寺発信

室生犀星宛

 

澗聲の中に起伏いたし居候。ここに來ても電報ぜめにて閉口なり。三階の一室に孤影蕭然として暮らし居り、女中以外にはまだ誰とも口をきかず、君に見せれば存外交際家でないと褒められる事うけ合なり。又詩の如きものを二三篇作り候間お目にかけ候。よければ遠慮なくおほめ下され度候。原稿はそちらに置いて頂きいづれ歸京の上頂戴する事といたし度。

 

   歎きはよしやつきずとも

   君につたへむすべもがな。

   越(こし)のやまかぜふき晴るる

   あまつそらには雲もなし。

 

   また立ちかへる水無月の

   歎きをたれにかたるべき

   沙羅のみづ枝に花さけば、

   かなしき人の目ぞ見ゆる。

 

但し誰に見せぬやうに願上候(きまり惡ければ)尤君の奥さんにだけはちよつと見てもらひたい氣もあり。感心しさうだつたら御見せ下され度候。末筆ながらはるかに朝子孃の健康を祈り奉り候この間君の奥さんの抱いてゐるのを見たら椿貞雄の畫のとよく似た毛糸の帽子か何かかぶつてゐた。以上

    十七日朝

澄江生

   魚眠老人梧下

二伸 例の文藝讀本の件につき萩原君から手紙を貰つた。東京へ歸つたら是非あひたい。御次手の節によろしくと言つてくれ給へ。それから僕の小說萩原君にも讀んで貰らひ、出來るだけ啓發をうけたい。何だか田端が賑になつたやうで甚だ愉快だ。僕は月末か來月の初旬にはかへるから、さうしたら萩原君の所へつれていつてくれ給へ。僕はちよつと大がかりなものを計畫してゐる。但し例によつて未完成に終るかも知れない。

 

[やぶちゃん注:この時、芥川は静養のため、4月10日から修善寺温泉新井旅館に滞在していた(翌5月3日迄)。後に「相聞」という題で知られるようになる――やや大袈裟に思われるが、マチネ・ポェティクの連中は近代以降の日本の定型詩の数少ない名品と絶賛する――廣子への絶唱歌群である。後半は龍之介の大正14(1925)6月1日発行の雑誌『新潮』に掲載された「澄江堂雑詠」の「六 沙羅の花」(私の抽出電子テクスト版)にも現われる。「やぶちゃん版芥川龍之介詩集」の私の注なども参照されたい。

・「朝子孃」犀星の長女。前出。一二三四書簡注参照。

・「椿貞雄」(明治29(1896)年~昭和32(1957)年)洋画家。岸田劉生に師事し、草土社や春陽会(小穴隆一も同会員)、大調和会と常に劉生と行動を共にした。昭和4(1929)年国画会会員。武者小路実篤・長与善郎ら「白樺」同人とも親しかった。

・「大がかりなものを計畫してゐる」書簡6の注で示した「大導寺信輔の半生」であろう。

 

 

■書簡12 旧全集一三一六書簡 大正14(1925)年4月29日

 東京市小石川區東丸山町三〇小石川アパトメント内

 小穴隆一樣

 四月二十九日 靜岡縣修善寺町新井うち 芥川龍之介

 

原稿の居催促をうけて弱つてゐる。この間例の大男の話を急行にかいてしまつた。勿論書けてゐるかどうか心もとない。今泉鏡花先生滯在中、奥さん中々世話やきにて、僕が仕事をしてゐると、「あなた、何の爲に湯治にいらしつたんです?」などと言ふ。屋前屋後の山々は木の芽をとほり越して若葉なり。一夜安來節芝居を覗いたら、五つになる女の子が「蛸にや骨なし何とかには何とかなし、わたしや子供で色氣なし」とうたつてゐた。大喝采だつた。うちの子も五つになるが、ああ言ふ唄をうたつて大喝采をうけぬだけ仕合せならん。この間又夜ふかしをして、湯がなくなつた故、溫泉で茶を入れたら、變な味がしたよ。ちょつと形容の出來ぬ、へんな味だ。その癖珈琲に入れると、余り變でもない。僕はいつも溫泉へ來ると肥るのだが今度はちつとも肥らん。遠藤君によろしく。前の家だと尾張町だけでも手紙が出せるが今度はさうも行かない。又今樣を作つて曰く、

 

   歎きはよしやつきずとも

   君につたへむすべもがな

   越(コシ)の山かぜふきはるる

   天つそらには雲もなし

 

    二十九日                             龍

  二伸 惡錢少々同封す。支那旅行記の裝幀料と思はれたし。

 

[やぶちゃん注:室生犀星とこの小穴隆一、そして弟子格である堀辰雄の三人は、芥川周辺でも、その廣子への龍之介の執心の核心を理解していた数少ない人々であった。

・「例の大男の話」大正14(1925)年6月号の雑誌『女性』に発表した修善寺の民話を素材とする「温泉だより」を指す。作中に「丈六尺五寸、体重三十七貫」の大工萩野半之丞が登場する。「温泉だより」起筆は16日。

・「今樣」平安中期から鎌倉期にかけて流行した歌謡形式の一つ。多くは七五調の四句からなる。

・「遠藤」遠藤古原草(明治26(1893)年~昭和4(1929)年 本名清平衛)。俳人・蒔絵師。「海紅」同人。小穴を通した共通の友人で俳句仲間でもあった。

・「支那旅行記の裝幀料」この後、大正14(1925)年11月3日に改造社から刊行される中国紀行集成『支那游記』(私の「心朽窩旧館」にはこの全篇の注釈付テクストが完備してある)。装幀は小穴隆一。この時、既に小穴から装幀案が示されていたのかも知れない。]

 

 

■書簡13 旧全集一三五八書簡 大正14(1925)年8月25日

 東京市小石川區東丸山町三十小石川アパトメント内

 小穴隆一樣

 二十五日 かるゐざはつるやうち 芥川龍之介

 

御手紙拜見仕り候。改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に存候。それから高橋文子女史より來翰、(田端へ)その中に西田さんの手紙も同封しあり。西田さんの手紙には「眞に人物がまじめにて將來發展の天分がたしかならば、今の所少し苦しくとも面白いとも思ひますが」云々語有之候。いづれ歸京後は君も小生と共に得能さんに合ふ事と相成る可く、その段御覺悟ありて然る可く候。輕井澤はすでに人稀に、秋涼の氣動き旅情を催さしむる事多く候。室生も今日歸る筈、片山女史も二三日中に歸る筈。二三日前、室生と碓氷峠へ上り候所、室生、妙義山を眺めて感歎して曰、「あの山はシヤウガのやうだね。」小生も九月の始めにかへる筈、その頃七十五円を利用し、ちよつと一度御來遊ありては如何(七十五円とはケチ也 百円くれるかと思つてゐた)但し前にて申上げ候如く既に避暑地情調は無之ものと御覺悟なさるべく候 頓首

   八月二十五日                          龍之介

隆一樣

 

[やぶちゃん注:この年、龍之介にとっては、二度目の、そして最後の軽井沢避暑となった。昨年の訪問で彼は軽井沢を大変気に入っていたが、この年、彼は避暑客が去って秋風の立つ8月20日になって鶴屋旅館に入った。これは正に自己の廣子への恋情を抑えるため、廣子との接触を出来る限り避けるための、彼の苦渋の決断であった。以下、宮坂覺編になる新全集の年譜を参考に、この廣子と一緒であった数日の記載を拾っておく。23日頃、室生犀星・堀辰雄と共に碓氷峠に登っている(廣子は同伴していない模様である)。24日には萩原朔太郎が妹のユキ及びアイを伴って犀星を訪ねて来たため、堀も交えて交遊(この日の日録が芥川龍之介によって詳細に残されている(「大正14(1925)年8月24日(月)芥川龍之介輕井澤日録」〔やぶちゃん仮題〕)が、そこには「K」という符牒で――但し、その日録は一目瞭然、登場人物は総てイニシャルである――名前だけが2度示されるだけで、画面の中には同じ旅館内にいるにも拘わらず、廣子も總子も実際には登場しない。ここから正に恋情を抑えつけんがために、意識的に廣子との接触を避けている龍之介の苦渋が、逆にはっきりと読み取れる。また、この日録を読むと、廣子に対しては室生犀星も――というよりも龍之介よりも先に――ある種の特別な好意を寄せていたことも分かる)、25日には犀星が帰京するが、その日に本書簡が書かれている。26日には『改造』の記者の居催促を受けて、死んだ自分の夢を見るという不吉な影に包まれた「死後」を脱稿したと推定される。この25~27日頃に、堀・廣子・總子と4人で追分へドライヴに出かけたのが、現在唯一知られるこの夏の軽井沢の、夏の終わりの廣子との思い出となった。因みに、この時の経験を堀は後の「ルウベンスの偽画」に利用している。該当箇所を引用しておく(底本は昭和43(1968)年刊の新潮文庫版所収のものを用いた)。

 

 翌日、彼女たちはドライヴに彼を誘った。

 自動車は夏の末近い寂しい高原の中を快い音を立てながら走った。

 三人は自動車の中ではほとんど喋舌らないでいた。しかし風景の変化の中に三人ともほとんど同様の快さを感じていたので、それは快い沈黙であった。ときどきかすかな声がその沈黙を破った。が、それはすぐまた元の深い沈黙の中に吸いこまれてしまうので誰も何も言わなかったのではないかと思われるほどのものであった。

「まあ、あの小さい雲……(夫人の指に沿ってずっと目を持ってゆくと、そこに、一つの赤い屋根の上に、ちょうど貝殻のような雲が浮んでいた)ずいぶん可愛らしいじゃないの」

 それから後は浅間山の麓のグリイン・ホテルに着くまで、ずっと夫人の引きしまった指と彼女のふっくらした指をかわるがわる眺(なが)めていた。沈黙がそれを彼に許した。

 ホテルはからっぽだった。もう客がみんな引上げてしまったので今日あたり閉じようと思っていたのだ、とボオイが言っていた。

 バルコニイに出て行った彼等は、季節の去った跡のなんとない醜さをまのあたりの風景に感じずにはいられなかった。ただ浅間山の麓だけが光沢のよいスロオプを滑(なめ)らかに描いていた。

 バルコニイの下に平らな屋根があり、低い欄干をまたぐと、すぐその屋根の上へ出られそうであった。そんなに屋根が平らで、そんなに欄干が低いのを見たとき、彼女が言った。

「ちょっとあの上を歩いてみたいようね」

 夫人は、彼と一しょに下りてもらえばいいじゃないのと彼女に応(こた)えた。それを聞くと彼は無造作に屋根の上に出て行った。彼女も笑いながら彼について来た。そして二人が屋根の端まで歩いて行った時、彼はすこし不安になりだした。それは屋根のわずかな傾斜から身体の不安定が微妙に感じられるせいばかりではなかった。

 その屋根の端で彼はふと彼女の手とその指環(ゆびわ)を見たのである。そして彼女が何でもなかったのに滑りそうな真似(まね)をして指環が彼の指を痛くするほど、彼の手を強く摑(つか)むかも知れないと空想した。すると彼はへんに不安になった。そして急に彼は屋根のわずかな傾斜を鋭く感じだした。

「もう行きましょう」そう彼女が言った時、彼は思わずほっとした。彼女は先に一人でバルコニイに上ってしまった。彼もそのあとから上ろうとして、バルコニイで夫人と彼女の話しあっているのを聞いた。

「何か見えて?」

「ええ、私達の運転手が、下でブランコに乗ってるのを見ちゃったのよ」

「それだけだったの?」

 皿とスプウンの音が聞えてきた。彼はひとりで顔を赧くしながら、バルコニイへ上って行った。

 夫人の「それだけだったの?」を彼はお茶をのんでいる間や、帰途の自動車の中で、しきりに思い出した。その声には夫人の無邪気な笑いがふくまれているようでもあった。また、やさしい皮肉のようでもあった。それからまた、何んでも無いようでもあった。……

 

ここでは、しかし、御覧の通り最早、芥川龍之介は――正に彼が直前に書き上げた「死後」の彼の如く――その姿を掻き消している。但し、我々は特にこの冒頭のシーンに龍之介の視線感ずることが出来、「夫人」のこの台詞を廣子が龍之介に向けたものとして聴くことが出来る。27~28日頃には、廣子母子は帰京したものと思われる。――但し――私はその後――もう一度、龍之介と廣子は軽井沢で逢っている――と睨んでいる。それについては是非、私の「松村みね子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による六つの変奏曲」をお読み頂きたい。

・「改造の廣告に君の名前出て居らず、不愉快に存候」同年9月号『改造』には芥川龍之介の俳句群「鄰の笛――大正九年より同十四年に至る年代順――」が所収されたが、これは俳人でもあった小穴隆一の発句五十句と共に、「芥川龍之介」の署名で掲載されたもので、文末に次の一文がある。

後記。僕の句は「中央公論」「ホトトギス」「にひはり」等に出たものも少なくない。小穴君のは五十句とも始めて活字になつたものばかりである。六年間の僕等の片手間仕事は畢竟これだけに盡きてゐると言つても好い。即ち「改造」の誌面を借り、一まづ決算をして見た所以である。 芥川龍之介記

即ち、芥川にとってはこの翌月号に載る作品は自分と小穴の共作なのであった。にも拘らず、前号の次号予告に自分の名のみが記され、小穴の名が示されていないことに不快感を示しているのである。芥川龍之介の「鄰の笛――大正九年より同十四年に至る年代順――」50句については、私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 発句拾遺」を参照されたい。

・「高橋文子女史」新全集の宮坂覺氏の注解によれば哲学者西田幾多郎の妹である隅の娘である高橋文子のことか、と推測されている。『小穴と縁談があったようで』、『この話は翌年にも継続しており』、大正15(1926)年1月21日附小穴隆一宛書簡(旧全集書簡番号一四三三)には『文の妹である民の名も見出され』、更に大正15(1926)年2月21日附小穴隆一宛書簡(旧全集書簡番号一四四二)の関連記載からも西田『幾多郎が何らかの形で関与していたものと考えられる。翌月の三月末には幾多郎の息子、西田外彦』『夫妻が民とともに芥川宅を訪れており』(大正15(1926)年4月1日附小穴隆一宛書簡・旧全集書簡番号一四六五)、芥川は小穴のために仲介の労をとっている』ことが如実に見てとれる。

・「西田」西田幾多郎(きたろう 明治3(1870)年~昭和20(1945)年)哲学者。京都大学教授から名誉教授。京都学派の創始者。

・「得能」得能文(とくのうぶん 慶応2(1886)年~昭和20(1945)年)哲学者。東京大学哲学科選科修了。東京大学や東京高等師範学校で教鞭を執った。恐らく芥川龍之介も彼の講義を受けたりして、知り合いであったか。この人物なら西田幾多郎と旧知の仲であったとして(ここでの仲介役として)おかしくない。

・「七十五円」上記注の『改造』の「鄰の笛――大正九年より同十四年に至る年代順――」の小穴の俳句の原稿料であろう。新全集の宮坂覺氏の注解は、先行する実家の文への書簡(旧全集一三〇三)中に現れる「百円」の注を参照とあるが、私が馬鹿なのか、この注(『百円 うな重五〇銭、時刻表五〇銭、「広辞林」四円八〇銭、ゴールデンバット七銭。』)というのを見ても、宮坂氏の言わんとするところが、全く分からない。識者の御教授を乞うものである。]

 

 

■書簡14 旧全集一三六五書簡 大正14(1925)年9月1

東京市外田端西大通り 室生犀星樣

 九月一日 輕井澤つるや 芥川龍之介

 

三好さんへ四十錢かへせと言ふことづけ、うれしく思つた。君の癇癪を起したあとだつたから、余計嬉しく思つたのかも知れない。三好さんにすぐにかへすのは嬉しさの手前ちよつと勿体ない氣がした故、二三日おいてから返した。かう言ふ心もちは君もわかつてくれることと思ふ。

三好さんはあしたかへる。片山さんも二十七日か八日かにかへつた。その代り今は小穴や佐々木夫婦が來てゐる。小穴は毎日義足をつけて午前と午後と二囘づつ寫生に出てゐる。

この二三日は輕井澤も非常に暑い。かう言ふ暑さでは萩原君の會も少し延ばしてはどうか?

「妻が里」を讀んだ。君はやはり豫想したやうに僕の失敗する所を如何にも樂々と成功してゐる。

小穴と一しよに道具屋をまはり、古い布を一枚買つた。その外には殆ど買ふべきものなし。けふは最後のオオクシヨンへ行き、安ものを少し買つて來る筈。その後句を一つ作つた。しかし御覽の通り、輕井澤の句ではない。

   東雲(しののめ)の煤降る中や下の關

    八月卅一日                          龍之介

  犀星詞兄侍史

 

[やぶちゃん注:何がどうと言うのではないが――龍之介の心の風穴を抜ける淋しい笛のような音(ね)が聞こえてくるように私には感じられてならない書簡である。――「かう言ふ心もちは君もわかつてくれることと思ふ」というところに――この「三好」なる人物とは背馳した――言外の廣子に繋がる感懐が感じられて仕方がないのである――

・「三好さんへ四十錢かへせ」三好なる人物も、この金銭の謂いも未詳にして意味不明である。

・「君の癇癪を起したあと」室生犀星が短気で喧嘩早く、文人の会合でも怒って椅子を振り回す(大正15(1826)年『日本詩集』出版記念会で萩原朔太郎のスピーチの岡本潤が文句をつけ、離れたところからこれを見た犀星が喧嘩と早とちりして椅子を振り上げて朔太郎の助勢をしたという、所謂「中央亭騒動事件」。芥川龍之介はこれを殊の外に痛快に感じ、「椅子を振り上げろ」と激励の手紙を送っている)など、直ぐに手を出す性質(たち)であったことは、文壇では頓に有名なことであった。そうしたお坊ちゃん芥川にはない直情径行の「直き心」を、逆に芥川は愛したのである。

・「佐々木夫婦」作家佐佐木茂索夫妻。佐佐木茂索(明治27(1894)年~昭和41(1966)年)は小説家・出版人。龍門の四天王(南部修太郎・滝井孝作・小島政二郎)の一人。後、「文芸春秋」編集長を経て、昭和21(1946)年、文芸春秋社社長(当時の名称は文芸春秋新社)となった。芥川より2歳年下。

・「小穴は毎日義足をつけて」小穴隆一は大正11(1922)年1月に右足に怪我をして細菌感染のため、足の痛みが続いた。芥川は同年1月21日付小穴隆一宛(旧全集九八九書簡)で「足の手あて怠るべからず怠ると跛になる」と書くが、それは不吉にも的中し、同年11月27日には脱疽と診断、翌年、右足首から下を切断した。芥川はこの間、二度の手術立ち会うなど、その後も極めて親身に小穴の世話を焼いている。

・「萩原君の會」当時、犀星を通じて知り合い、急速に親しくなっていた萩原朔太郎の『純情小曲集』(前月8月12日新潮社から刊行された)の出版記念会である。この出版記念会は筑摩版萩原朔太郎全集年譜によれば、この月9月17日に行われている。芥川龍之介の出席は芥川龍之介年譜からも朔太郎年譜からも確認出来ない。不参加であったか? 因みに、朔太郎の悲痛梗概の追悼「芥川龍之介の死」を未だお読みでない方は、是非、私のテクストでお読みあれ。シルエットの龍之介へ、大きく手を振る朔太郎の映像が、涙を禁じえない。

・『「妻が里」』『中央公論』9月号に発表した室生犀星の小説。

・「東雲の煤降る中や下の關」これは4年も前の回想吟。その顛末を記すと、大正10(1921)年3月、大阪毎日新聞社海外視察員として中国への特派となり19日に東京発、21日に門司発の上海行きに乗船予定であったが、出発前に一旦治まった風邪がぶり返し、車中で発熱、20日に大阪で途中下車、毎日新聞社近くの旅館で療養、27日に大阪発、28日門司から筑後丸に乗った。ちなみにその後、船は玄界灘でシケに遭い、船酔い、30日に上海に着いてからも体調悪く、4月1日には湿性肋膜炎の診断を受け、上海の里見病院に入院となる。退院は、4月23日であった(私のテクスト「上海游記」注及び「やぶちゃん版芥川龍之介句集一 発句」も参照されたい)。――但し、これも私は、ただの回想吟ではないと読む。――今現在の、廣子を愛しながら、訣別しようとする、悲痛で孤独な芥川龍之介という、人生の旅人の――「關」を「越え」て行かねばならない、その暗澹たる心象風景だったのでは――あるまいか――そうして――そうして龍之介は、あの軽井沢レクイエムを描くのだ――「さやうなら。手風琴の町、さようなら、僕の抒情詩時代。」をコーダとする、あの「輕井澤で――「追憶」の代はりに――」を――]

 

 

■書簡15 旧全集一四四四一書簡 大正15(1926)年2月8日 湯河原発信

 片山廣子宛

 

冠省。唯今宅より手紙參り、御見舞のお菓子を頂いたよし、難有く存じます。この前のはがきにはこちらの宿所を書かなかつたものと見えます。さもなければ、こちらへ頂戴いたし、この手紙をしたゝめる頃には賞玩してゐたらうと思ひますから。僕は神經衰弱胃酸過多症とアトニイと兩方起つてゐるよし、又この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし、實に厄介に存じてゐます。何を書く氣も何を讀む氣もせず、唯德富蘇峰の織田時代史や豐臣時代史を讀んで人工的に勇氣を振ひ起してゐる次第、何とぞこのリディキユラスな所をお笑下さい。(但し僕自身は眞面目なのです。)湯河原の風物も病人の目にはどうも頗る憂鬱です。唯この間山の奥の隱居梅園と申す所へ行き、修竹梅花の中の茅屋に澁茶を飮ませて貰つた時は、僕もかう言ふ所へ遁世したらと思ひました。が、梅園のお婆さん(なもと言ふ岐阜辯を使ひます。)と話して見ると、この梅園を讓り受けるとして、地價一萬二三千圓、家屋新築費一萬圓、溫泉を掘る費用一萬圓、合計少くとも三萬二三千圓の遁世費を要するのを發見しました。その上何もせずに衣食する爲に信託財產七八萬圓を計上すると、どうしても十萬圓位入用です。西行芭蕉の昔は知らず遁世も當節では容易ぢやありません。さう考へたら、隱居梅園も甚だ憂鬱になつてしまひました。いづれ一度お目にかかり、ゆつくり肉體的並びに精神的病狀を申し上げます。

   道ばたの墓なつかしや冬の梅

    二月八日                         芥川龍之介

   片山廣子樣 粧次

 

[やぶちゃん注:この年、1月15日に静養のため、湯河原の中西屋旅館に赴き、翌月19日迄滞在した(途中、28日から31日まで田端に帰還後、鎌倉に菅虎雄を訪ね、その足で湯河原に戻っている)。またこの2月8日には、作品集『地獄變』『或日の大石内蔵助』の再刊本が文藝春秋出版部より刊行されている。この書簡が、今、私たちの読める唯一の龍之介最後の廣子宛書簡である。

・「アトニイ」胃下垂。

・「德富蘇峰」(文久3(1863)年~昭和32(1957)年)ジャーナリスト・歴史家・評論家。本名徳富猪一郎。肥後藩郷士の子。熊本洋学校から同志社英学校へ進学後、退学。熊本で大江義塾を設立。明治19(1886)年の「将来之日本」が好評を得て上京し、民友社を創設した。『国民之友』『国民新聞』を発刊し、平民主義を唱える。その後国粋主義へと転換、明治30(1897)年には松方内閣内務省勅任参事官に就任、桂内閣にも深く関与した。昭和4(1929)年に国民新聞社を退いて大阪毎日新聞社賓となる。昭和17(1942)年には日本文学報国会及び大日本言論報国会会長、昭和18(1943)年には文化勲章。敗戦後はA級戦犯容疑者に指名されて公職追放された。昭和27年(1952)年には大著「近世日本国民史」100巻をものした(完成は死後の昭和38(1963)年)。小説家徳富蘆花の兄。

・「織田時代史」前注に示した「近世日本国民史」の第1巻から第3巻の「織田氏時代」パート。「織田氏時代前篇」が大正7(1918)年12月、「織田氏時代中篇」が 大正8(1919)年6月、「織田氏時代後篇」が大正8年10月に初版が出ている。

・「豊臣時代史」前々注に示した「近世日本国民史」の第4巻から第10巻の「豊臣氏時代」パート。「豊臣氏時代甲篇」が大正(1920)年3月に初版が出て、以降、「豊臣氏時代 乙篇」(大正年12月)・「丙篇」(大正10(1921)年6月)・「丁篇 朝鮮役上巻」(大正10年5月)・「戊篇 朝鮮役中巻」(大正11(1922)年1月)・「己篇 朝鮮役下巻」(大正11年5月)・「庚篇 桃山時代概観」(大正11年9月)に初版発行。

・「リディキユラスな所」“ridiculous”は、おかしな、馬鹿げた、途方もない、嘲笑に値する、の意。

・「山の奥の隱居梅園と申す所」現在、湯河原の知られた梅園は幕山公園の梅林は非常に新しく、これではない。同定不能。郷土史研究家の御教授を是非とも乞いたい。

・「修竹」長く伸びた竹の意。

・「十萬圓」この書簡の6年前の大正9(1920)年のデータを見ると、内閣総理大臣の月給が1000円、国会議員月給250円、公立小学校教員初任給50円である。昭和元年とあるデータでは、白米10㎏の値段が3円20銭から2円52銭であるから、十万円というのはとんでもない値(あたい)と考えてよい。この叙述――その不可能なこと――即ち、廣子と一緒になること――を暗に示す叙述のようにも読めるが……豈図らんや、廣子がその気なら――彼女にはその気は十分にあったと私は思っているが――それを叶えるだけの財力も決心も覚悟も――彼女には――あった――と、私は思っている――]

 

 

■書簡16 旧全集一四九四書簡 大正15(1926)年7月14日 鵠沼発信

室生犀星宛

 

冠省、手紙をありがたう。まだ君は東京にゐることゝ思ふ。僕は腹工合だけ少しよくなつた。その代りに便祕してゐる。こちらは不景氣のせゐかまだ寂しい。二十日過ぎに子供で來たら、ちよつと海へはひり、砂に腹を暖めてゐようと思ふ。輕井澤へ行つたら、片山さんや何かによろしく。それから奥さんもお大事に。

    七月十四日                        芥川龍之介

   室生犀星樣

 

[やぶちゃん注:「片山さんや何かによろしく」――前月6月23日下島勲医師の見立てでは大腸カタルによる衰弱。痔も相当に進行しており、30日には小島政二郎から紹介された痔の手術について、胃腸の衰弱を理由に延期したい旨、書簡を認めている。6月下旬には初夏であるにも拘わらず、足の裏にカラシを塗り、足袋を履いて、脚湯を使うほどに下肢冷感が進行している。7月6日に齋藤茂吉の勧めもあって、鵠沼東屋の貸別荘へと移った。満身創痍であった。――この書簡を認めた翌日の7月15日、悪化する神経衰弱の中で芥川龍之介は――あのソロモンとシバに最後の龍之介と廣子の面影を投射した「三つのなぜ」を脱稿しているのである――「片山さんや何かによろしく」――]

 

□最後に。こんな病み呆けたような龍之介書簡で――こんな淋しい本頁の終わり方は……私には気に入らない。

2010年8月29日の私のブログに記載した「芥川龍之介が永遠に最愛の「越し人」片山廣子に逢った――その最後の日を同定する試み」を示して、本稿を終えたいと思う。

僕は2004年月曜社刊の片山廣子「燈火節」を求め、その巻末にある略年譜に目を通した際、おやっと思った。それは昭和2(1927)年、芥川龍之介が自死した年の記載である。

六月末、堀辰雄の案内で芥川龍之介が廣子の自宅を訪ねる。

とあったからだ。その次の行には、

七月二十四日、芥川龍之介、自宅で服毒自殺。

とある。

僕が不思議に思ったのは、芥川龍之介の年譜的事実の中に、この芥川龍之介の廣子訪問という記載は全く記憶になかったからである。直ぐに、芥川龍之介詳細年譜の濫觴にして僕の御用達本である鷺只雄氏の年譜(1992年河出書房新社刊「年表作家読本 芥川龍之介」)及び新全集の宮坂覺氏の最新詳細年譜を確認したが、やはり僕の失念ではなかった。――全く記載がない。

更に、本年春に僕が公開した昭和2(1927)年8月7日付片山廣子書簡(山川柳子宛)の中にも、次の一節を見出すことが出来る。

 

六月末にふいとわたくしの家を訪ねて下さいました堀辰雄さんを案内にして何かたいへんにするどいものを感じましたが、それが死を見つめていらつしやるするどさとは知りませんでした わたくしはいろいろと伺ひたい事もあつたのでしたが何も伺はずただ「たいへんにお黑くおなりになりましたね、鵠沼のせゐでせうか」などとつまらない事を云つておわかれしました それから一月經つてあの新聞を見た時の心持をおさつし下さいまし

 

勿論、「それから一月經つてあの新聞を見た時」という言葉は、7月24日の芥川龍之介自殺の報知を指していることは言うまでもない。

これらから、

自死の凡そ1ヶ月前の昭和2(1927)年6月末に芥川龍之介は弟子堀辰雄の案内で当時大田区の新井新宿3丁目(現在の山王3丁目)にあったと思われる片山廣子の自宅を訪問した事実

ははっきりしているのである。

そうして、これが芥川龍之介とその永遠の恋人越し人片山廣子の最後の邂逅の日であったと考えてよい。

今になって僕は、この日を同定したい欲求に駆られてきた。

鷺・宮坂両氏のこの月の記載には大差がないが、宮坂年譜がやはりより詳細で、何より最新データではあるので、それをベースとする。廣子の記載は、その書簡全体を読んで戴ければ分かる通り、亡き芥川龍之介への極めて悲痛なる思いを素直に親友へ語った私信であり、それに付随するこの記載は十分に信頼におくものである。なれば、言葉通り6月下旬月末に絞ってよい(そもそもこの6月の上旬は、芥川の盟友宇野浩二の発狂騒ぎで、芥川自身が中心になって入院手続などに奔走しており、龍之介自身に外出する余裕は殆んどなかったと言ってよい)。中旬以降から見よう(宮坂年譜に見られる根拠注記は総て省略した)。

 

15日

佐佐木茂索を鎌倉に訪ね(当時、佐佐木夫妻は鎌倉在住)、偶然遊びに来た菅忠雄、川端康成と会う。この日は鵠沼一泊。[やぶちゃん注:鷺年譜では更にここに「夕食をご馳走になり、タクシーを呼んで鵠沼に泊まる」とある。]

16日

鵠沼から田端の自宅に戻る。

20日

「或阿呆の一生」を脱稿。久米正雄に原稿を託す文章を書く。生前最後の創作集『湖南の扇』(初刊本)刊行。[やぶちゃん注:『湖南の扇』刊行元は文藝春秋出版部。]

21日

「東北・北海道・新潟」を脱稿。

25日(土)

小穴隆一とともに谷中墓地に出かけ、新原家の墓参をする。浅草の「春日」に行き、馴染みに芸者小亀と会う。この日は、小穴が泊まっていく。この月、人を介して中野重治に面談を申し入れたが、中野の方から来訪し、夕食を共にする。

 

以下は既に7月の項となっている。

以上の記載と、廣子がはっきりと「六月末」、自死の7月24日の「一ヶ月」前と言っている点から、まず21日以降であることは間違いないと判断出来る。16日の田端帰還後は、芥川龍之介畢生の遺作たる「或阿呆の一生」の最終執筆と確認作業に、彼は細心の注意を払って入ったと思われ、また、よく知られた「或阿呆の一生」のあの久米への文章は、その最後に、言わば久米への準遺書という認識の中で書かれたものと考えてよい。これらの脱稿までには、物理的にも精神的にも龍之介に廣子を訪ねる余裕は全くなかったはずであるからである。また、『湖南の扇』の刊行、その献呈本が手元に届くのを待つ必要があったのではないか、と僕は考えているからである(芥川は訪問の際、間違いなくこの『湖南の扇』を手土産として携えて行ったに違いないと思われるからである。残念ながら廣子の蔵書の中にそれを現在確認することは出来ない。しかし廣子の「乾あんず」を読み給え。彼女の書棚には確かに、恐らく芥川から献本されたのであろう「羅生門」「支那游記」等の多くの著作が並んでいるではないか)。更に、「東北・北海道・新潟」の執筆があった。勿論、これはかねてより概ね完成していた原稿かも知れない。しかし、「或阿呆の一生」の超弩級の重量に比すれば、如何にも軽いアフォリズム集であり、私は同21日のうちに速成に書き上げて(当然、旅行中のメモを元にしているのであろうから芥川には一日で仕上げるのは、それ程困難なことではなかったはずである)脱稿出来たものと判断するからである。いや――実に、この二作「東北・北海道・新潟」「或阿呆の一生」こそ、芥川龍之介の傷ましき心が、廣子とダイレクトにジョイントする作品でもある――ということに気づいて欲しいのである。

「或阿呆の一生」には、芥川龍之介の明白な廣子讃歌と、同時にその廣子への恋情を断ち切る傷心の悲歌「三十七 越し人」が載ることは、言わずもがな、である。

 

      三十七 越 し 人

 彼は彼と才力(さいりよく)の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人(びと)」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脫出した。それは何か木の幹に凍(こゞ)つた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠(がさ)の

   何かは道に落ちざらん

   わが名はいかで惜しむべき

   惜しむは君が名のみとよ。

 

この「或阿呆の一生」脱稿直後、龍之介が、その心の中心に捉えていたのは――廣子の面影以外の何ものでもなかった――と僕ははっきりと言おう。

そして後者、「東北・北海道・新潟」である。これ自体読んでいる方は、恐らく、そう多くはあるまい。

これは前述した通り、ルナール張りのアフォリズムの『如何にも軽いもの』ではある――であるが、芥川には――『ある記憶』を呼び覚まさせる強力な効果があるもの――と僕は思っているのである。それについて、僕は僕の「東北・北海道・新潟」テクスト冒頭注で詳細な推理を展開してあるので、詳しくはそれをお読み戴きたいのであるが、要は則ち、あの講演旅行の新潟からの帰り、

――昭和2(1927)年5月下旬の一日、芥川龍之介は軽井沢で廣子に逢った――

というのが僕の説なのである。これは殆ど確信に近い(宮坂年譜の日録では僕の推論は成立する可能性が著しく減少するのであるが――完全に無理とは言えない――鷺年譜では僕の推理の入り込む余地が十分にある。補足すると、宮坂年譜がこの旅からの5月25日帰郷を同定している、その根拠(下島勳の随筆。未見)を僕自身検証しておらず、宮坂年譜のこの箇所の是非を論ずる資格がない)。

……その忍び逢いのシークエンスを、廣子は後に「五月と六月」というエッセイに記したのではなかったか?……と僕の思いは、かつてみるみる増殖した。その増殖のやや強引な実地検証が、昨年末にアップした僕の評論、

「片山廣子「五月と六月」を主題とした藪野唯至による七つの変奏曲」

であった。

 

とりあえず、僕のこの夢想に付き合ってもらおう。

そうすると、この『21日 「東北・北海道・新潟」を脱稿。』という年譜的事実が、ある重大な心理的効果を以って見えてくるのである。

則ち、ほぼこの脱稿の丁度一ヶ月前の5月25日か26日が、その廣子との軽井沢での密会であった(そこには、この邂逅と同じく正に堀辰雄と思しい人物の影も動いている! と私は推理しているのである)とすれば、「或阿呆の一生」と「東北・北海道・新潟」の脱稿の直後には、芥川には胸掻き毟る如き廣子への思いが、フラッシュ・バックを繰り返して昂まってきていたと考えてよい。

すると、年譜の6月22日から24日迄の空白が、俄然、大きくクロース・アップされて僕には見えてくるのだ。

――21日の「東北・北海道・新潟」の脱稿の後、芥川龍之介は即座に堀辰雄に連絡をとった。片山廣子と逢うための手筈をつけてもらうために。――廣子が『堀辰雄さんを案内にして』という言い方をしたのは、廣子宅への芥川訪問に際して、都合やその他の伺いなどを、堀を通してかなり細心丁重に仕回したことを暗示させる。それには一日や二日は必要であろう(性急に、伺いを立てた翌日なんどに訪問するというのは、ダンディな芥川にとって、特に女性に対しては礼を失する行為として許されなかったはずである)。――そして堀を伴うことを自らの条件とした。……「或阿呆の一生」という賽は、最早、投げられてしまったのであった……決して何かがあっては、ならない……何も起こらぬ……それはシバの女王への、ソロモンの最期の別れの挨拶でなくてはならぬ……

言おう。芥川龍之介が片山廣子をその自宅に訪問したのは

――芥川龍之介が永遠に愛した「越し人」片山廣子に逢った、その最後の日は――

昭和2(1927)年6月23日若しくは24日

ではなかったか。いや、もっと恣意的なる牽強付会が許されるとするのなら、龍之介と廣子の、その最期の邂逅は、

芥川龍之介自死の命日7月24日と同日――

昭和2(1927)年6月24日

のことではなかったか。

廣子の後ろ髪引かれる如き、芥川の死の決意を汲み取れなかったことへの強い悔悟の念は、その訪問の日が自死と同日であったことによって、より高められてしまったのではなかったろうか?

――勿論、「月末」である以上、例えば年譜の空白である26日から30日であってもおかしくはない。しかし、25日の谷中の実家新原家墓参は、亡き母及び父という己の宿命的血脈(けちみゃく)たる先祖への愛憎半ばした別れのためと読むことが出来る。その日、馴染み芸者を揚げたのも、この小亀なる贔屓の芸妓へ別れを告げるためであった(鷺年譜ではまさにそう書いてある)。

――則ち、この時点で芥川龍之介は総てを――『滅びとしての或阿呆の一生』という現実の自分という作品を――既にして『脱稿してしまっていた』のではなかったか?

――先祖の墓参、そこから精進落としのように芸妓を揚げての別れ――これは『総ての完了』を意味しているように、僕にはとれるのである。

――だからこそ、僕はそれ以前に――最後に愛した永遠の聖女廣子との別れを――どうしても配しておきたいのである。――

――これはもう、それぞれの生理的な趣味の問題の相違かも知れない。

――そうした後に聖女には逢いたい――とされる方もおられるかも知れぬ。

――そういうあなたには――私が『総てが終わる前に逢う』という訳が明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右だとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は個人の有って生れた性格の相違と云った方が確かも知れません――と先生のように言うしか、今の僕にはない、とのみ言っておこう。――

昭和2(1927)年6月24日――この時、廣子49歳、龍之介35歳――

最後に。

少なくとも、次回の芥川龍之介全集の年譜にあっては、この昭和2(1927)年6月末の部分に、

『月末、堀辰雄を介して片山廣子の自宅を訪問、これが廣子との最後の邂逅となった。』

という記載を、是非載せて貰いたいというのが、僕のささやかな望みである。それは僕のためにではない――龍之介と廣子の美しくも哀しき純愛のために――である――



やぶちゃん編 芥川龍之介片山廣子関連書簡16通 附やぶちゃん注 完