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芥川龍之介漢詩全集
 附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈


[やぶちゃん注:底本は二首を除き(後述)岩波旧全集に拠ったが、芥川龍之介の漢詩の摘出に当たっては、二〇一〇年花書院刊の邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」で邱氏が渉猟されたものを参考にした。邱氏は総計三十四句の漢詩を恐らくは岩波版新全集から再録しておられる。
 本頁ではまず底本通りの白文で示し、次に私の訓読を「〇やぶちゃん訓読」として一時字下げで附した(原文には訓読文はない)。各首には便宜上、邱氏が附したのと同様に、通し番号を附した(但し、岩波版旧全集を底本としている関係上、書簡の配置が異なる箇所では順序が異なる箇所がある。例えば「一」では甲乙の各首の順は逆転する)。訓読に際しては邱雅芬氏の現代語訳や一部に編者(同編集部編であろうが人名等は不詳)によるルビが振られている筑摩書房全集類聚版などを多少、参考にさせて戴いている(あくまで参考であり、最終的には私の詩想に合致する読みを行っている。その結果として邱氏の訳などとは異なった含意となった箇所さえあることは断っておきたい)。因みに、中国人であられる邱氏の同評論中には訓読文は全くない。また、同氏の記載によれば、先行する初めて芥川の漢詩を採り上げた評論として、村田秀明氏による三十二首を挙げて読解論評した「芥川龍之介の漢詩研究」(一九八四年三月刊雑誌『方位』七)があるとあり、そこには訓読が示されている可能性があるが、私は全く未見である(学術論文なら、この事実だけで鼻白む方もおられようが、生憎、私はアカデミックな研究者ではなく、「藪の中の野人」なのである)。
 芥川の漢詩は圧倒的に書簡中に現れるものが多いが、同時期の複数の書簡中には同じ漢詩を詩句の一部を推敲・変改して記したものも多い。そうした複数句形のあるものは煩を厭わず、最初に掲げたものを「甲」としてその訓読後に、「乙」「丙」と全体を二字下げの同様の仕儀で配した(従ってこれらの場合は、「甲」ではなく、「乙」若しくは「丙」が芥川龍之介にとっての決定稿ということになる可能性が高いので注意されたい)。
 なお、「芥川龍之介の中国」には新全集由来の新発見書簡からの二首の採取が認められ、これは底本を「芥川龍之介の中国」として(私は新字体採用の新全集が好きになれず、新資料を多く含む二十一~二十三巻を除いて所持していない)、恣意的に正字に直したものを用いてある。
 特に偏愛する最終二句を除いて、現代語訳による通釈は基本的に行っていない。これは、私は邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の解説・語釈・現代語訳・評価等(これらの項目は当該書の評釈の各首に総て附されている)以上のものを示し得る能力を持たないからであり、是非、非常に優れた芥川龍之介の研究書である当該本をお読み戴きたいからでもある。特に、その「評価」の項での、先行する漢詩や唐詩との比較検討は素晴らしい。但し、所収する書簡などの書誌的データや書簡の一部引用及び作詩時の芥川の年譜的事実、難解と思われる語句と私の乏しい漢詩知識の中にあってもどうしても語りたい部分については、各首に私の注を附した。その一部では邱氏の語注も参考にしたが、そこでは総てに参考にした旨の記載を附してある。
   *
 さても以上のような仕儀で行ったブログ・カテゴリ「芥川龍之介」での単品公開時は、かくも禁欲的であったがために、鑑賞に対してはあまりにも淡泊になり過ぎた嫌いがあった。
 そこで本HP版では、注の後に私の教え子で中国語に堪能なT・S・君に、各詩を鑑賞して貰った評釈「やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈」を各所に附した。これは殆ど総てがブログでの単品公開の直後、私に発信された実は極めて新鮮なものであった。
 ここでどうしても言っておかなくてならぬのは、彼は邱氏の当該書を全く読んでいないということ、また、本評釈の後半部分の多くは、ブログで公開した際の私の注も意識的に読まないようにし、白文で、中国語の詩として評釈に挑戦していること、である。これは当初、この評釈を彼に依頼した際の私の希望でもあったが、半ば以上は、彼自身の意志に拠った仕儀である。
最後に。この彼への私の――「堪能」――という賛辞を甘く見てはいけない。彼は難関と言われる本邦の通訳案内士(中国語)国家試験に合格しており、現在、某日本企業の上海における責任者でもある。彼が、中国の田舎の巷間で現地の方と話している際、恐らくは、彼らの多くは、彼を、日本人だとは、思っていない。それほど「堪能」――いや――彼の魂は中国人に近い――と言ってよい。
 「風雅和歌集」や蕪村を好み、能の謠いを趣味とし、私の愛する漱石の「こゝろ」のどの箇所をも即座に諳んずることが出来、また、京劇をこよなく愛し、蘇軾の詩を嘯く男――しかも彼の大学で学んだのは日本文学でも中国文学でもない――なのである。
 ――彼の詩想に富んだ表現は、私の痩せた評言よりも、読者諸氏にとって遙かに有益であることは、これ、言を俟たないのである。藪野直史記【ブログ公開始動:二〇一二年十一月二十一日 ブログ公開終了:二〇一二年十二月二十七日 本HP版公開:二〇一二年十二月三十一日】]

芥川龍之介漢詩全集
   附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈

   一 甲

春寒未開早梅枝
幽竹蕭々垂小池
新歳不來書幄下
焚香謝客推敲詩

〇やぶちゃん訓読

 春寒 未だ開かず 早梅の枝
 幽竹 蕭々 小池に垂る
 新歳 來らず 書幄しよあくの下
 香をきて 客を謝し 詩を推敲す

    一 乙

  春寒未發早梅枝
  幽竹蕭々匝小池
  新歳不來書幌下
  焚香謝客獨敲詩

  〇やぶちゃん訓読

   春寒 未だひらかず 早梅の枝
   幽竹 蕭々 小池をめぐ
   新歳 來らず 書幌しよくわうの下
   香を焚きて 客を謝し 獨り敲詩す

[やぶちゃん注:芥川龍之介満二十歳(彼の誕生日は明治二五(一八九二)年三月一日)、第一高等学校二年(前年の九月に進級)。
「一甲」は明治四五(一九一二)年一月一日附山本喜與司宛葉書(岩波版旧全集書簡番号六五)に所載。
「一乙」は同日附井川恭宛葉書(岩波版旧全集書簡番号六六)所載。
これ以外の通信文を附さない年賀状である。
 山本喜與司(明治二五(一八九二)年~昭和三八(一九六三)年)府立第三中学時代からの親友で、文の叔父であり、後に二人の婚姻の仲立ちともなった人物である。東京帝国大学農科を卒業後、三菱合資会社に勤務して北京に滞在、その後はブラジルサンパウロで農場を経営、日系人社会のリーダー的存在として活躍した。井川恭(後に婚姻後に恒藤と改姓 明治二一(一八八八)年~昭和四二(一九六七)年)は一高時代の同級生で、後に京都大学法科に進学、法哲学者として同志社大教授・京大教授(昭和八(一九三三)年の京大事件で自ら退官)・大阪商科大学長を務めた(彼は内臓疾患と思われる病気で中学卒業後三年間の療養生活を送ったため龍之介よりも四歳年長である)。ともに芥川生涯の盟友であり、龍之介を語る上で非常に重要な人物でもある。
「書幄」「書幌」ともに粗末な書斎の意。「アク」「コウ」ともにとばりで、幄舎・幄屋と言えば四隅に柱を立て、棟や檐を渡して布帛ふはくで覆った仮小屋のことをいう。
 本詩について、邱氏は『中国宋代趙師秀(一一七〇~一二一九)の「約客」を思わせる詩境である。現時点で、趙師秀と芥川との関連性はまだ見つからないが』と記され、その「約客」を白文で引用されている。趙師秀は、字は紫芝、号は霊秀又は天楽と称し、永嘉(浙江省温州)の人、宋の王族で太祖趙匡胤ちょうきょういんの八世孫。紹熙元年(一一九〇)の進士で江南地方の各地の小官を歴任、晩年は銭塘(浙江省杭州)に住んだ。永嘉の四霊しれい(徐照(霊暉)・徐璣(霊淵)・翁巻(霊舒)・趙師秀(霊秀)の四人。南宋の後半期の四大詩人で、いずれも出身地又は居住地が永嘉(浙江省温州)であったことと、南朝宋の時代に太守として同地に赴任した謝霊運に字や号であやかったことに由る)の中で最も評価が高い。詩集に「清苑斎集」。ここに正字化した当該詩を示し、私の訓読を示しておく(なお、邱氏は結句を「閑敲碁子落花燈」となさっているが、韻としてもおかしく、本邦及び中文の複数のサイトの「約客」を見てみたところ、「花燈」は「燈花」である)。

    約客
   黄梅時節家家雨
   靑草池塘処処蛙
   有約不來過夜半
   閑敲碁子落燈花

  〇やぶちゃん訓読

     客と約す
    黄梅の時節 家家の雨
    靑草 池塘 処処の蛙
    約有れども來らず 夜半を過ぐ
    かん碁子ごしたたけば 燈花落つ

「燈花」燃え残った蠟燭の灯芯に生ずる花形の蠟の塊り。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:甲乙の違いはたった四箇所。しかし重大な四箇所です。これらの修正は、意味においても、眼に映る漢字の形象イメージにおいても、著しい効果を齎しました。「推敲」箇所を十分意識して詩境をイメージすれば、そのまま甲乙の格の違いを示唆することになります。

――春の気配はまだ遠いけれど、時機が来れば、梅の花は四方の寒気を衝いてひらくであろう。池をめぐる竹林の景を、此方から向こう岸へと眼で辿ってみたまえ。世界に満ちる凛と張りつめた気が感じられよう。この書斎で、柔らかな外光と芳香に包まれながら、客とも会わず、私はたった獨り、静かに、作詩の机に向かっている――

何度も朗誦していると、孤独で健やかな魂が抱く、未来への静かな期待と緊張が、徐々に胸に満ちてきます。これは、錯覚ではありません。]



   二

簷戸蕭々修竹遮
寒梅斜隔碧窓紗
幽興一夜書帷下
靜讀陶詩落燭花

〇やぶちゃん訓読

 簷戸えんこ 蕭々 修竹しや
 寒梅 斜めに隔つ 碧窓の紗
 幽興 一夜 書帷の下
 陶詩を靜讀すれば 燭花落つ

[やぶちゃん注:龍之介満二十一歳。
大正元(一九一二)年十二月三十日附小野八重三郎宛(岩波版旧全集書簡番号八三)に所載。
一九一二年は七月三十日に明治天皇が崩御し、明治四五年から大正元年に改元した。即ち、芥川龍之介の「一」の漢詩に始まったこの年は、「二」によって終わった(旧全集の同年の書簡は「一」が巻頭、この「二」が掉尾である)。それは恰もバッハの「ゴルトベルグ変奏曲」のように私には思われる。
小野八重三郎(明治二六(一八九三)年~昭和二五(一九五〇)年)は府立三中時代の一つ下の後輩で、後、東京帝国大学理科を中退、県立千葉中学校などの教諭を勤めた。龍之介はこの後輩を可愛がり、期待をかけていたという。彼の三中卒業時には自身が河合栄治郎(三中の龍之介の二年先輩で後に経済学者となった)から贈られたドイツ語独習書を贈っている(以上の小野の事蹟は新全集の関口安義氏の「人名解説索引」に拠った)。
 以下に当該消息文の全文を示す。

敬啓
諒闇中とて新年の御慶は御遠慮致すべく候
休暇の半を過ぎ候へども如例散漫に消光致居候
歳末歳始御暇の節御出下され度爐に火あり鼎に茶あり以て客を迎ふるに足るべく候
惡詩を以て近狀御知らせ申候へば御一笑下さるべく候
   簷戸蕭々修竹遮  寒梅斜隔碧窓紗
   幽興一夜書帷下  靜讀陶詩落燭花
                     不悉不悉
    十二月三十日
   長 恨 學 兄 案下

・「諒闇」は「りょうあん」「ろうあん」などと読み、「諒」は「まこと」、「闇」は「謹慎」の意で、天皇がその父母の崩御に当たって喪に服することをいう。
 なお、龍之介には、この前月十一月十一日に、横浜ゲーティ座でイギリス人一座の演じるオスカー・ワイルドの「サロメ」を観賞した際の思い出を綴った
Gaity座の「サロメ」――「僕等」の一人久米正雄に――』がある(リンク先は私の電子テキスト)。

「簷戸」廂と扉の意であるが、これで戸外を指すのであろう。
「修竹」長く伸びた竹。
「遮」遮る。
「寒梅 斜めに隔つ 碧窓の紗」とは、花を持った窓外の寒梅のシルエットが、緑色の紗(薄絹)のカーテンに写ったのを、パースペクティヴを反転させて「隔つ」(仕切っている)と表現したものであろう。
「幽興」奥深い情趣。
「書帷」書斎のカーテン。
「陶」陶淵明。
本詩は、邱氏も「芥川龍之介の中国」で述べられている通り、「一」の注に示した趙師秀の「約客」の詩想に極めて近似している(邱氏は転・結句が「約客」と『ほぼ同じ意味を表わし、趙詩を模倣した作と見てよかろう』と述べておられる。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「簷戸
yan2hu4」は家屋とその一帯を包括する感じ。「蕭々xiao1xiao1」は風の擬音語。竹林に隠れた彼の書斎が、竹葉そよぐ中にひっそり佇む様子が浮かびます。「斜xie2」は物理的な意味だけでなく、読む者の心に少しひねりを加える効果を持ちます。この一字だけで、単なる平面的な絵画でない、立体世界が立ち上がります。「碧bi4」はエメラルドグリーン。杜甫の有名な『江碧鳥逾白』の碧が、無意識に二重映しになります。それにしてもエメラルドグリーンのカーテンとは、なんとハイカラな。これは私の勝手な幻想かもしれませんが、大正という時代のイメージがほんの少し脳裏を掠めます。
 さて、最後の行。陶淵明を読んでいたなんて……。理想の隠逸生活というイメージが否が応でも濃厚に漂います。「落燭花
luo4zhu3hua1」の「花hua1」。長時間の読書の三昧境をあらわす以上に、この「花」は大切な一字ですね。「静jing4」「陶tao2」「詩shi1」「花」と、風雅度満点の漢字を立て続けに一気に繰り出すことによる効果! この詩を読み終えたに者の心に、しばらく華やかな明るい、しかし清浄な余韻が残ります。
 全体として、多少原色に近いコテコテ感はありますが、イメージは決して濁っていない。そして漢字ひとつひとつの持つ重み。漢詩も和歌と同じく、過去の蓄積から芳醇なエキスを抽出しつつ成り立っているイメージ世界なのですね。]



   三

寒更無客一燈明
石鼎火紅茶靄輕
月到紙窓梅影上
陶詩讀罷道心淸

〇やぶちゃん訓読

 寒更 客無く 一燈明らかなり
 石鼎せきてい 紅ゐにして 茶靄輕ちやあいかろ
 月 紙窓しさうに到り 梅影のぼ
 陶詩 讀みみて 道心淸し

[やぶちゃん注:龍之介満二十二歳。
大正二(一九一三)年十二月九日附淺野三千三宛(岩波版旧全集書簡番号一一五)に所載。
淺野三千三あさのみちぞう(明治二七(一八九四)年~昭和二三(一九四八)年)は三中の後輩。後に東京帝大薬科に進学、薬学者となって金沢医大薬専教授を経て、昭和一三(一九三八)年には東京帝大教授となった。地衣成分の研究や結核の化学療法剤の研究などで知られた(講談社「日本人名大辞典」に拠る)。
 詩の前には例によって『惡詩御笑ひ下され候』とあるが、当該書簡文にはその前の中間部に、漢文についての興味深い龍之介の所感が記されている箇所がある。当該部分を引用する。

此頃又柳宗元を少しづつゝよみ居を候小生は最柳文を愛するものに候昌黎が柳州の文をよむに先だち必薔薇水を以て手を洗へる誠にうべなりと思はれ候短かけれど至小邱西小石潭記に柳々州の眞面目を見るべく讀下淸寒を生ずる心地せられ候

・「柳宗元」(七七三年~八一九年)は中唐の自然詩人。唐宋八大家の一人。
・「昌黎」同じく中唐の詩人で唐宋八大家の一人で、柳宗元とともに宋代に連なる古文復興運動を起こした韓愈(七六八年~ 八二四年)の別名(昌黎(現在の河北省)の出身であると自称したことに由る)。
・「柳々州」柳宗元の最後の任地柳州(現在の広西壮チワン族自治区)に因んだ呼称。因みに中国語では記号「々」(しばしば勘違いしている高校生がいるが、これは漢字ではない)は本来ないので(現代では非公式には用いられるらしい)「柳柳州」と書くのが正しい。
・「小邱西小石潭記」は「小邱の西の小石潭に至る記」と訓読する。掲載書を所持しないので、中文サイト「大紀元文化網」に載るものを、一部表記を本邦で表記可能な漢字及び当該正字に直して示す(外の中文サイトを見ると表記の異なる部分があるが、取り敢えずこれで示す)。
從小丘西行百二十歩、隔篁竹、聞水聲、如鳴佩環、心樂之。伐竹取道、下見小潭、水尤淸冽。全石以爲底、近岸、卷石底以出、爲坻、爲嶼、為※2、爲岩。靑樹翠蔓、蒙絡搖綴、參差披拂。[やぶちゃん字注:「※1」=「山」+「甚」。]
潭中魚可百許頭、皆若空游無所依。日光下澈、影布石上、※3然不動、俶爾遠逝,往來翕忽、似與游者相樂。[やぶちゃん字注:「※2」=「亻」+「台」。]
潭西南而望、斗折蛇行、明滅可見。其岸勢犬牙差互、不可知其源。坐潭上、四面竹樹環合、寂寥無人、淒神寒骨、悄愴幽邃。以其境過清、不可久居、乃記之而去。
同游者、呉武陵、龔古、余弟宗玄。隸而從者、崔氏二小生、曰恕己、曰奉壹。
・「坻」は中洲。
・「※2」は、ごつごつとした岩の謂いであるが、次に「岩」とあるから、それよりも小さい川岸の石のことか。
・「※3然」、「※3」は進まないさまをいうが、別な中文個人ブログ月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「恬然」と表記し、「静止的様子」(割注原文は簡体字。以下同じ)とある。この割注は非常に分かり易いので以下『』はそれを引用させて戴いたことを示す。
・「俶爾」『忽然』。
・「翕忽」『飄忽』。急に出没するさま。忽然と同義。
・「斗折蛇行」『形容水流弯曲』。なお、これは本文から生まれた四字熟語「斗折蛇行(とせつだこう・とせつじゃこう)」として、斗(北斗七星)の如く折れ曲がり、蛇の如くうねりながら進むことから転じて、道や川などに曲折が多く、くねりながら続いていくさまをいう。
・「犬牙差互」『形容岸涯如犬牙交錯』。
・「隸」は月輪山氏の「古詩分析義」(表記は簡体字)の当該文では「隶」で『跟随』と割注する。これは本邦では「跟随こんずい」と読み、(「跟」はかかとの意で、人のあとについていくことをいう。

「茶靄」石製のかなえ(焜炉)で沸かしている茶の、立ち登る湯気。
「道心」ここでは、下で形容する「清らかな」に相応した泰然自若とした心境を謂う。
「梅影上る」梅の枝影が映る。
 この詩には静謐さと同時に強い寂寥感が漂うが、旧全集のこの詩の載る次の書簡、二十一日後ではあるが、年も押し詰まった大正二(一九一三)年十二月三十日附の盟友山本喜譽司宛(岩波版旧全集書簡番号一一六)の手紙に、これを解く非常に重大な鍵があるように私は思う。やや長くなるが全文を示したい。

あがらうあがらうと思つてゐるうちに今日になつてしまひましたあしたは君が忙しいし年内には御目にかゝる事もあるまいかと思ひます
廿日に休みになつてから始終人が來るのですどうかすると二三人一緒になつて狹いうちの事ですから隨分よはりました それに御歳暮まはりを一部僕がうけあつたものですから本も碌によめずこんな忙しい暮をした事はありません
今日は朝から澁谷の方迄行つてそれから本所へまはり貸したまゝになつてゐた本をとつてあるきました澁谷の霜どけには驚きましたが思ひもよらない小さな借家に思ひもよらない人の標札を見たのには更に驚きました小さな竹垣に椿がさいてゐたのも覺えてゐる 小間使と二人で伊豆へ馳落ちをして其處に勘當同樣になつたまゝ暮してゐるときいたのに思ひがけず其人は今東京の郊外にかうしてわびしく住んでゐる。向ふが世をしのび人をさける人でさへなくばたづねたいと思ひましたがさうした人にあふ氣の毒さを思ふと氣もすゝまなくなります
君がこの人の名をしり人をしつてゐたら面白いのだけれど

伊藤のうちへもゆきました 四葉會の雜誌と云ふものを見て來ました あゝして太平に暮してゆかれる伊藤は羨しい
あんな心もちをなくなしてからもう幾年たつかしら

お正月にはひとりで三浦半島をあるかうかと思ひます かと思ふだけでまだはつきりきまつたわけではありません
「佇みて」と「昨日まで」とをもつて噴い海べをあるくのもいゝでせう

こないだ平塚が來てとまりました 伊豆へ旅行したいつて云つてましたがどうしましたかしら
君の話しが出ました 平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません 僕が馬鹿だからこんな事を考へるのかもしれないけれど

廿二才がくれる 暮れる
大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある
何しろ二十二才が暮れる えらくなりたい ほんとうにえらくなりたい
    三十日夜                             龍
  喜 譽 司 梧下

・「伊藤」三中時代の同級生。
・「四葉會」不詳。
・「平塚」平塚逸郎ひらつかいちろう(明治二五(一八九二)年~大正七(一九一八)年。三中時代の同級生。第六高等学校(現在の岡山大学)に進学したが、後に結核に罹患、千葉の病院で病没した。龍之介にとっては非常に大切な友人の一人であり、その死を受けて龍之介は、大正一六(一九二七)年に彼をモデルとした「彼」を発表している。リンク先は私の詳細注を附したテクストである。是非、お読み戴きたい。
・「平塚は妬しい位君の事を思つてゐるんです 自分のもののやうに君の事を云ふときは少しにくい氣がしていけません」芥川龍之介の同性愛傾向は生涯通底しており、彼の精神発達史を考える時、避けて通れない非常に重要な一面で、彼には自身の同性愛史を綴った未定稿作品(
VITA SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」)もある(リンク先は私の電子テクストで別ページの詳細注も附してある。やはり、是非、御一読あれ)。
・「大學へ行つてから新しい友だちは一人も出來ない 淋しいけれど自由です 自由だけれどものたりない事もある」本詩の結句『陶詩 讀み罷みて 道心淸し』は、決して字面だけの上っ面のものでは、これ、ない、ということが、私には実感されるのである。
 この書簡は本漢詩と直接の関連はないものの、複雑なコンプレクス(心的複合)と掻き毟られるような煩悶の只中にあった若き日の芥川龍之介像を髣髴とさせる、非常に貴重な書簡である。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:芥川龍之介の漢詩を中国語(私の文章の中ではあくまでも北京官話のことですが)で朗誦してみるなど、ナンセンスなことかもしれません。しかし漢詩である以上、「御本家」の眼にはどのように映るのか、詮索して見るのも楽しいこと。必ずしも罪作りとは言えないでしょう……。
 起承そして結句の最終部分。「明
ming2」、「軽qing1」、「道心清dao4xin1qing1」。消え入るようなingの音が、孤独で静謐な彼の心象に実にふさわしい……。]
[やぶちゃん追伸:T・S・君は、以上の評釈を私に送って呉れてから一週間後、再度、本詩に関わって消息を呉れた。以下にそれを掲げる。
先生、「寒更無客一燈明」の詩、振り返ると僕の評釈はなんとも冷淡です。そこでこの詩だけ何かコメントを補いたいと、もう三時間も唸り続けているのですが、行き詰ってしまいました。この詩、確かに設定は文字通り画に描いたようですし、色彩豊かで、しかも清浄の気に満ちています。しかし正直に申し上げると、道具建てがやや過剰です。焦点も定まりにくい。陶詩で感得されたという「道心」に対しても、何か切実なものが感じられず、僕の心が添えません。僕の傲慢かつ曇った眼ではとても太刀打ちできません。僕の力では、百年早かった。すみません。取り急ぎご報告まで。]



   四

放情凭檻望
處々柳條新
千里洞庭水
茫々無限春

〇やぶちゃん訓読

 放情 らんもたれ 望めば
 處々 柳條りふでう 新たなり
 千里 洞庭の水
 茫々 無限の春

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。この大正四(一九一五)年四月一日に龍之介は「ひよつとこ」を『帝国文学』に発表している(リンク先は私の初出稿+決定稿附やぶちゃん注版)。
大正四(一九一五)年六月二九日(推定)附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一六五)所載。
 書簡冒頭には『手紙はよんだ 色々有難う 僕はまだ醫者に通つてゐる』とあって、かなり体調を崩している様が見て取れる。これは、実はこの年の初めに起った初恋の人吉田弥生との失恋(弥生が戸籍の移動が複雑で非嫡出子扱いであったことや吉田家が士族でなかったこと、龍之介と同年であったことなどから養家芥川家から激しい反対にあったためとされる)の痛手を遠因としており、新全集の宮坂覺氏の年譜の五月中旬の項には『一時は結核ではないかと心配し、週に二回ほどの通院が翌月末まで続いた』が、これについては『破恋の痛手から逃れるための吉原通いの影響も指摘されている』とある。その後文で『體の都合で七月の上旬か中旬迄は東京にゐなくてはいけないだらう それからでよければ出雲へは是非行きたい』と続くことから、井川の手紙は出雲行を誘うものであったことが判明する(「五」以下の漢詩及び注を参照のこと)。それに続けて東京帝国大学英文科二年の学年末試験が済んで『せいせいした その時いゝ加減に字を並べて』として本漢詩を掲げ、『と書いた それほど 樂な氣がしたのである』と記している(本書簡は以下も続き、非常に長いものであるが、それ以降の内容は直接、漢詩とは拘わらないので省略する)。
「放情」は「放情自娯」で「情をほしいままにしておのづからたのしむ」、自在な感懐を以って自由に楽しむの謂い。
「檻」は欄干。
「柳條新」柳の枝は新緑に萌えている。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:刺激的で不遜な言い方をします。日本人が接するとき、漢詩は既にもう「中国文学」ではない。例えば結句。日本人は「無限の春」としてイメージする。多かれ少なかれ、「無」「限」の二字をひとつの概念で括り、その意味を脳裏に印してしまう。限り無く……とレ点を付したとしても、そこを免れるのは至難です。しかし中国人にとっては、あくまで字義通りかつ順番通り「無限春」=「無
wu2」、「限xian4」、「春chun1」である。つまり日本語で捉えた場合と、中国語で捉えた場合では、イメージの佇まいが違うということです。李商隠の絶唱『夕陽無限好』の訓読を見るたびに、私はいつも中国語として受ける詩のイメージとのギャップに戸惑うのです。
 転句の「洞庭水」は実に気が効いています。ここは西湖や太湖でなく、やはり洞庭湖でなければならない。有名すぎる杜甫の『昔聞洞庭水』による通奏音云々の議論はさておき、実際に朗誦すると著しい効果があるのです。起句と承句の後半三文字は「凭檻望
ping2kan3wang4」「柳條新liu3tiao2xin1」。ところが転句は「洞庭水dong4ting2shui3」。前半のi音とa音の流れに、初めてo音とu音の大きなうねりが出てくる。感情が大きく波打ちます。
 それにしてもこの詩。佳品ですね! 縹渺と広がる湖面。私のあこがれは遥か彼方へと向かっていく。柳の芽の鮮やかな緑が、哀しく眼を刺す。懐かしい古来の文人も愛した広大な自然よ、私はあなたの中にいる。見渡す限りの春よ、どうかこの失意の私を包んでおくれ……。三好達治の詩「僕は」に非常に近い境地。嗚呼、先生!『昨日の戀はどこへ行つたか? やさしい少女は歸つてこない』のです。もう永遠に……。『それから、いろいろの悲しい憧憬れが、僕に、僕の頰に、少し泪を流したの』です……。これは、決して、比喩ではありません。]



   五

  波根村路

倦馬貧村路
冷煙七八家
伶俜孤客意
愁見木綿花

〇やぶちゃん訓読

  波根はね村路

 倦馬けんば 貧村のみち
 冷煙 七八家しちはつか
 伶俜れいべん 孤客こかくおも
 愁見しうけんす 木綿もめんの花

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。松江回想吟。
大正四(一九一五)年八月二十三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七四)所載。
以下、四首連続で当該書簡に載る(以下、四首では以上の注記を略す)。
 龍之介は大正四(一九一五)年八月三日から二十二日迄、畏友井川恭の郷里松江に来遊、初恋の人吉田弥生への失恋の傷心の痛手を癒した(この井川の誘いは勿論、それを目的とした確信犯である。それは龍之介自身もよく分かっていた)。本書簡は帰京した翌日に認められたそれへの返礼で、そこに忘れ難い旅の思い出を四首の漢詩で示したものである。なお、この度の直後、山陰文壇の常連であつた井川は、予てより自分の作品発表の場としていた地方新聞『松江新報』に芥川来遊前後を記した随筆「翡翠記」を連載、その中に「日記より」という見出しを付けた芥川龍之介名義の文章が三つ、離れて掲載された。後にこれらを合わせて「松江印象記」として、昭和四(一九二九)年二月岩波書店刊「芥川龍之介全集」別冊で初めて公開された(リンク先はその初出形を復元した私の電子テクスト)。
 書簡は『大へん世話になつて難有かつた 感謝を表すやうな語を使ふと安つぽくなつていけないからやめるが ほんとうに難有つた』と真心の謝辞に始まり、『非常にくたびれたので未だに眠いが今日は朝から客があつて今まで相手をしてゐた それで之をかくのが遲れしまつた 詩を作る根氣もない 出たらめを書く 少しは平仄もちがつてゐるかもしれない』(「遲しまつた」はママ)とあって以下に四首が示されている。
「羽根村」石見地方の石東地域(石見東部地域)に位置しする旧安濃郡あのぐん羽根村、現在の島根県大田市波根町と思われる。江戸時代は商港として繁栄したが、龍之介が訪れた当時は海浜の淋しい村落であったようである。ここで龍之介は井川と海水浴をしている。この旅で二人は仮称「松江連句」と呼ばれる連句をものしており、そこに、羽根での井川の句に、
〔駄〕 ゆく秋や五右エ門風呂に人二人        井
というのがある。これについては、以前に私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」で以下の注を附したので引用しておく。
   《引用開始》
やぶちゃん+協力者新注:「五右エ衛門」の「エ」は正しくは「ヱ」。前掲の寺本喜徳「蘇生した芥川龍之介――井川恭著「翡翠記」と「松江連句」との間――」では、『波根海岸で泳いだ後芥川が初めて五右エ門風呂に入ったときの、戸惑ったユーモラスな樣を彷彿させる。』と記す。これは井川の「翡翠記」の「二十」に現われる。泊まりで訪れた石見の波根海岸での、海水浴の後の場面である。該当箇所を「翡翠記」より引用する(四十八ページ)。
 海から上って二人は風呂場をさして行った。
「ヤッ五右衛門風呂ごえもんぶろだね。僕あ殆んど経験が無いから、君自信があるなら先へこゝろみ玉え」と龍之介が大に無気味がる。
「なあに訳は無いさ」と先ず僕から瀬踏みをこゝろみたが、噴火口の上で舞踏おどりをするような尻こそばゆい不安の感がいさゝかせないでも無い。
 僕の湯からあがると代って龍之介君が入って浸つかっていたが、
「こんど出るときは中々技巧を要するね」と言いながら片足をあげながら物騒がっている恰好には笑わされた。
   《引用終了》
「伶俜」落魄れて孤独なさま。勿論、「孤客」龍之介自身を指す。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:先生のブログ公開時には駆け足で通り過ぎましたが、落ち着いて読み返してみました。実はかわいらしい愛すべき詩でした。漢詩は字面も大切。目に飛び込む二十の漢字。「倦
juan4」「貧pin2」「冷leng3」「孤gu1」「愁chou2」と、各句に少なくともひとつは負の力を持った漢字が配されている。しかし短い五絶ですから重荷にはならないし、それぞれ自己主張も控えめです。結句。伶俜な旅人の目に映った「花」が、読者の心にそのまま残って詩が終わります。山陰地方でも栽培されている綿花――地味で小さなクリーム色の花――のようです。詩意にふさわしいですね。]


   六

  眞山覧古

山北山更寂
山南水空𢌞
寥々殘礎散
細雨灑寒梅

〇やぶちゃん訓読

   眞山しんやま覧古
 山北さんほく 山 更に寂し
 山南 水 空しく𢌞めぐ
 寥々れうれうとして 殘礎 散り
 細雨 寒梅にそそ

[やぶちゃん注:松江回想吟二首目。
「眞山」は松江市法吉町の北部にある標高二五六メートルの山。築城主は平忠度といわれるが、特に毛利元就が尼子氏の白鹿しらが城攻略のために陣を敷いたことで知られ、尾根や頂上部に僅かな城郭の跡が現存する。山頂からは松江市や日本海が見下せる(以上は主にゼンリンの「いつもNAVI」の「真山城址」の記載に拠った)。
「細雨灑寒梅」「五」の注で示したように龍之介が訪れたのは八月で、本詩の詩的映像全体は想像のものであって実景ではない。「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」の「松江連句(仮)」をお読みになれば分かるように、彼らは何度もこの山にある時は大汗をかいて、ある時はずぶ濡れになって登っては、その爽快を楽しんでいる。いや、故にこそ、彼の内面の、やはり癒し難い寂寥が反映した心象風景であったと言えるのであろう。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈――
 佳品です。中国語で朗誦すると、「山
shan1、山shan1、山shan1……」と、風景について何かぶつぶつ独りごとを言っているような起句と承句。承句の後半から詩人の視線は心持ち上向き、転句では「寥寥liao2liao2」と心が少し躍り上がります。注目したいのはこの「寥寥」。中国語では、“少ない、数えるほどしかない”という意味です。“ところどころ残る礎石も極めて少ない”というのが字義上の解釈。しかしこの「寥」という字は、明らかに寂寥に苛まれる彼の心の影です。そして結句。「灑」と「梅」の字が、詩にほんの少し淡い色彩を加えます。しかし、彼の心は、結局再び冷たい静かな雨の中に沈んでいきます。
 蛇足ながら、似たような芸術に接したことがあります。平均律クラヴィア曲集第一巻嬰へ短調のフーガ
BWV859! その主題。心は憂鬱から何度か立ち上がろうとするけれど、中途半端な高さで力尽き、再び灰色の澱の中に沈んでいく……。そして主題提示に続くフーガの部分。左手の下降音型は「細雨xi4yu3」を形容しているかのようです。]



   七 甲

 松江秋夕

冷巷人稀暮月明
秋風蕭索滿空城
關山唯有寒砧急
擣破思郷万里情

〇やぶちゃん訓読

  松江秋夕

 冷巷れいかう 人稀れに 暮月めいなり
 秋風 蕭索として 空城に滿つ
 關山くわんざん 唯だ有る 寒砧かんこきふ
 擣破たうはす 思郷万里しきやうばんりの情

     七 乙

  冷巷人稀暮月明
  秋風蕭索滿空城
  關山唯有寒砧急
  搗破思郷万里情

  〇やぶちゃん訓読

    松江秋夕

   冷巷 人稀れに 暮月明なり
   秋風 蕭索として 空城に滿つ
   關山 唯だ有る 寒砧の急
   搗破たうはす 思郷万里の情

[やぶちゃん注:松江回想吟三首目。これも秋で仮想の一首である。
「七甲」は前掲通りの井川書簡所載。
「七乙」は旧全集では前掲書簡の次に配されてある翌日の大正四(一九一五)年八月二十四日附石田幹之助宛(岩波版旧全集書簡番号一七五)所載。
石田幹之助(明治二四(一八九一)年~昭和四九(一九七四)は芥川や井川の一高時代の同級生で、当時は未だ東京帝国大学文科大学東洋史学科に在学しており、この翌年に卒業後、同大史学研究室副手となって中国に渡り、モリソン文庫の受託、またその後身である財団法人東洋文庫の発展に尽力、その後も歴史学者・東洋学者として國學院大學や大正大学・日本大学などで教授を勤めた。「七乙」は御覧の通り、結句の冒頭の一字が異なるだけであるが、総ての字の右に「〇」の朱圏が附されている。なお、圏点は本来は文字強調や詩の眼目となる「詩眼」の文字の脇などに附すもので、ウィキの「圏点」ではあくまで日本語で使用されると限定しているが、邱氏は「芥川龍之介の中国」の注で『中国的な雰囲気を出すために、石田に書き送った詩は一字一字に朱圏がつけられている』と記載しておられ、中国でもそうしたものとして普通に使われていたことが分かる。なお、この書簡は葉書前後に有意な消息文があるので以下に示す。中国史に詳しい石田にこれを送ったところから、龍之介としてはかなりの自信作であったことが窺われる。

乞玉斧(朱圏はつけると詩がうまさうに見えるからつけた 咎め立てをしてはいけない)
   冷巷人稀暮月明〇〇〇〇〇〇〇
   秋風蕭索滿空城〇〇〇〇〇〇〇
   關山唯有寒砧急〇〇〇〇〇〇〇
   搗破思郷万里情〇〇〇〇〇〇〇
關山は一寸洒落てみただけ天守閣も街も松江は大へんさびしい大概うちにゐますひまだつたらいらつしやい

「關山」関所のある山は辺塞の地の砦を意味している。
「寒砧急」寒い晩秋の夜に打たれるきぬたの音の気忙しい、それでいて荒涼として淋しい響き。以上から流石に誰もがお分かりになっているように、これは知られた李白の「子夜呉歌」の秋の一首をモデルとしている。

   子夜呉歌
  長安一片月
  萬戸擣衣聲
  秋風吹不盡
  總是玉關情
  何日平胡虜
  良人罷遠征

   長安 一片の月
   萬戸 衣をつの聲
   秋風 吹きて盡きず
   總て是れ 玉關の情
   何れの日にか胡虜を平らげて
   良人 遠征を罷めん

「子夜呉歌」は楽府題で、本来は子夜という娘が作った呉の民謡であるが、李白はこの曲をイメージしながら、四季を歌った四首の詞を書いた。その中の秋を歌ったもので本邦でも知らぬ者とてない詩である。これは楽府の辺塞詩の銃後版で、辺塞に徴用された夫を思う妻の夜鍋仕事のワーク・ソングの形を取っている訳だが、龍之介のそれは、それに仮託させた自身の帰らぬ初恋の人への堪えがたい絶唱として響いているように思われる。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:承句の「城cheng2」。詩人は松江城を念頭に置いたらしい。しかし中国語で“
cheng2”と詠んでしまうと、城壁で囲まれた、庶民が住む街そのものがイメージされます。松江の街の空に蕭然と吹き渡る秋風。そして人通りの少ない通りを煌々と照らす月光。私は起句と承句がお互いを支え合うこのイメージの方が、遥かに好ましいと思います。
 ちなみに自白すると、私は昔から李白の「萬戸擣衣聲」という句になかなか感情移入できないことを、密かに恥じてきました。一般に唐詩というのは、風物の上でも、風俗の上でも、現代の我々から見てかなり遠い。その点宋詩や宋詞は、詠み込まれた事物や感情に、心のカメラのピントが容易に合う。実にくっきり見える。「唐・宋」とひと括りにされがちですが、この違いはもっと意識されてもいいかもしれません。]



   八

  蓮

愁心盡日細々雨
橋北橋南楊柳多
櫂女不知行客涙
哀吟一曲采蓮歌

〇やぶちゃん訓読

    蓮

 愁心 盡日ぢんじつ 細々たるあめ
 橋北 橋南 楊柳やうりう多し
 櫂女たうぢよ 知らず 行客かうかくなみだ
 哀吟 一曲 采蓮歌さいれんか

[やぶちゃん注:松江回想吟四首目。
「櫂女」船を漕ぐ女。蓮採りの小舟を漕いでいる娘を指すのであろう。邱氏は『船家の女』と注されているが、これだと私は結句との自然な流れが損なわれるように思われる。
「采蓮歌」江南地方の女性が蓮を採る際に歌う民謡。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:しとしと降る江南の雨、柳、運河、橋、民謡、舟を漕ぐ女性。詩情画意の詰め込み、ちょっと出来過ぎの感もあります。
 しかしこれらの材料は、決して押し付けがましくないように詠い込まれている。また冒頭の「愁
chou2」。この一字で読者はしっかり身構えるため、風流三昧のお祭りには決してならない。そして、何より行客の涙。舟を漕ぐ女性は詩人の憂愁などには全く気づかない。つまり周囲の事物と行客の心は全く断絶している。以上の様々な要因によって詩の品位が保たれている。私が指摘するなど大それたことですが、詩人の力量には、改めて目を見張るものがあります。]



   九

黄河曲裡暮烟迷
白馬津邊夜月低
一夜春風吹客恨
愁聽水上子規啼

〇やぶちゃん訓読

 黄河 曲裡きよくり 暮れ 烟迷えんめい
 白馬 津邊しんへん 夜月 低し
 一夜ひとよの春風 客恨かくこんを吹き
 愁聽しうちやう 水上 子規ほととぎす啼く

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。
大正四(一九一五)年九月二十一日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一七九)所載。
詩の前には、心を動かす人としてミケランジェロ・レンブラント・ゴヤを挙げて、それぞれの感心した事柄を簡潔に述べた上で『かう云ふ偉大な作家は皆人間の爲に最後の審判の喇叭のやうな聲をあげて自分の歌をうたつてゐる その爲にどの位僕たちは心安く生きてゆかれるかしれない この頃は少し頭から天才にのぼせていゐる』と書き、続けて『櫻の葉が綠の中に点々と鮮な黄を点じていたのを見て急に秋を感じてさびしかつた それからよく見ると大抵な木にいくつかの黄色い葉があつた さうしたら最的確に「死」の力を見せつけられたやうな氣がして一層いやに心細くなつた ほんとうに大きなものが目にみえない足あとをのこしながら梢を大またにあるいてゐるやうな氣がした』(ここで改行と思われる)『新聞は面白くよんだ(自分のはあまり面白くもよまなかつたが「秋は曆の上に立つてゐた」と云ふのに感心した まつたく感心してしまつた 定福寺の詩は未だに出來ない その代り竹枝詞を一つ作つた』とあって表記の詩が記され、後には『あまりうまくない』と記している。以下、この書簡について「・」で注する。
・「新聞」とは「五」の注に記した『松江新報』に発表した芥川来遊前後を記した井川恭の随筆「翡翠記」のことを指す。「秋は曆の上に立つてゐた」は「翡翠記」の「十六」に現われる(厳密には「秋は已に曆の上に立つてゐた」。その冒頭を以下に引用しておく。引用は島根国語国文会一九九二年発行の寺本喜徳編「井川恭著 翡翠記」に拠ったが、これは新仮名新字体であるので、恣意的に正仮名正字体に代えてある。
   《引用開始》
古浦へ行つたあくる日、僕たち二人はかるい疲勞つかれが節々に殘つてゐる四肢てあしを朝の汽車の座席シーツのうへに長々と伸ばしてゐた。
 秋は已に曆の上に立つてゐた。窓框まどわくおとがひをもたせて茫然ぼんやりとながめると、きやかな水をひろびろと湛へてゐる湖の面がものうい眼のなかに一杯に映つた。十六禿はげのうすいあけのいろのがけが靜かな影を冴えた木の隈にひたしてゐる上には、眞山しんやま蛇山じややま澄水山すんづさやま漸次しだいにうすく成つて消えて行く峰の褶曲しわを疊みながら淡い雲を交へた北の空をかぎつてゐた。
 みづうみの手前の岸には白い莖をそろへて水葦が風にそよぎながら立つて居り、水のほとりの村里やを取り卷いてただよてゐるさびしい透明な氣分を一點にあつめた哀しい表情がかすかやどつてゐた。
 湯町ゆまち宍道しんぢと乘り降りの人の稀れな驛々を汽車はたゆたげにすぎて行つた。龍之介君はこのあたりの農家のうすく黄ばんだ灰色の壁がすてきに佳いなと云つて頻りに賞めてゐた。
   《引用終了》
因みに、これを読んでも井川(恒藤)恭の文才が並々ならぬものであることが分かる。ウィキの「恒藤恭」によれば、ここまでの井川の事蹟は(アラビア数字を漢数字に代えた)、『島根県松江市に兄弟姉妹八人の第五子、次男として生まれる。父・井川精一は漢詩、兄・亮は英語を好み漢文、英語の書物が身近にある環境で育った。文学少年で、島根県立第一中学校(後の松江北高等学校)時代から雑誌に随筆、短歌、俳句などの投稿をはじめる。「消化不良症」で体調が悪化し、中学卒業後三年間の療養生活を送る。療養中、小説「海の花」で『都新聞』(東京新聞の前身の一つ)の懸賞一等に当選し三五〇円の懸賞金を得、「井川天籟」の筆名で『都新聞』に連載された。懸賞金を得た恭は神戸市の神戸衛生院に一ヶ月半入院し、後に『白樺』最年少同人となる郡虎彦と出会う』。『健康を回復した恭は、一九一〇年に父・精一の死を経て、文学を志し上京、都新聞社文芸部所属の記者見習となる。第一高等学校の入学試験に合格し、第一部乙類(英文科)に入学。第一部乙類の同期入学には芥川龍之介、久米正雄、松岡讓、佐野文夫、同年齢の菊池寛らもいた。ちなみに入学後に一高で聴いた徳冨蘆花の「謀叛論」に大きな影響を受けている。二年生になり寮で同室となった芥川龍之介、長崎太郎、藤岡蔵六、成瀬正一らと親交を深めた。恭は一高時代も投稿を続け原稿料を稼いだ。少年雑誌『中学世界』には大学院時代まで「鈴かけ次郎」の筆名で投稿を続けている。またこの時期は思想的には、ロシア文学やフランス文学などの影響とともに、ベルクソンを中心としたいわゆる、「生」の哲学の影響を色濃く受けていると言える』。大正二(一九一三)年、『恭は文科から法科への進路変更について、芥川との交流で自身の能力の限界を知ったと述べている。京都帝国では佐々木惣一の影響を受けた。芥川とは文通による交流が続いた。芥川の勧めで第三次『新思潮』に載せるジョン・ミリングトン・シングの「海への騎者」(
Riders to the Sea)を翻訳した。また、失恋で失意にあった芥川を故郷の松江に招いている』とあり、その少年期や思春期はまさに文学という額縁に彩られていたことが分かる。
・「定福寺」以下、私の「やぶちゃん版芥川龍之介俳句全集 発句拾遺」から「松江連句(仮)」の「定福寺」という龍之介の句及び私の注を示してここの注に代える。
   《引用開始》
      定福寺
〔丶〕 禪寺の交椅吹かるゝ春の風          阿

[やぶちゃん+協力者新注:この「定福寺」は「常福寺」の誤りである。松江市法吉にある曹洞宗の寺。「交椅」は寺院に見かける上位僧の座る背もたれのついた折り畳み式の椅子のこと。なお、この誤りについては旧全集書簡番号一八九井川恭宛の大正四(一九一五)年十二月三日付芥川龍之介書簡に「定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「常」ではなささうだ」とあって、芥川の思い込みの頑なさが面白い。とりあえず芥川龍之介これが誤字と認識していたという事実を示しておく。]
   《引用終了》
この常福寺は、井川の馴染みでもあり、龍之介の滞在中、真山白鹿城登山の拠点として、住職の妻の接待を受けている(「翡翠記」二十三)。ここでは、謂わば、その御礼のための常福寺追想の漢詩を龍之介が作りたいと思いながら(それは恩義ある住職に龍之介のそれを返礼とせんがために井川から望んだものなのかもしれない)出来ないことを言っている。俳句では、やはり「松江連句(仮)」に、

〔駄〕 梵妻だいこくの鼻の赤さよ秋の風
         (この句を定福寺の老梵妻にささげんとす)   阿

とある(「梵妻」は僧侶の妻。大黒天が厨くりやに祀られたことから大黒だいこくとも言う)。
・「竹枝詞」以下、「竹枝詞 概説 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩」(このサイトは私が最も素晴らしいと思うネット上の漢詩サイトである)によれば、元は民間の歌謡で楚に生まれたものと伝えられる。唐代の北方人にとっては楚は蛮地でもあり、長安の文人には珍しく新鮮に映ったようである。そこで、それらを採録・修正したものが劉禹錫や白居易によって広められて竹枝詞と呼称されるようになり、地方色豊かな民歌として流行った。その後、唱われなくなったが(竹枝詞をうたうことは「竹枝」といわれ「唱」が充てられた)、詩文の、同様の形式や題となって他へ広がった。形式は七言絶句と似ているものが殆どである(二句だけの二句体や六言のものなどもある)。『竹枝を七絶と比較して見てみると、七絶との違いは、平仄が七絶より緩やかであって、あまり気にしていない。謡ったときのリズム感を重視するためか、同じことば(詩でいえば「字」)が繰り返してでてくることが屡々ある。また、一句が一文となっている場合が多く、近体詩の名詞句のみでの句構成などというものはあまりない。聞いていてよく分かるようになっている。これらが文字言語としての詩作とは、大きく異なるところである。また、白話が入ってくることを排除しない。皇甫松や孫光憲のものには、「檳榔花發竹枝鷓鴣啼女兒」のように、「竹枝」「女兒」という「あいのて」があるのも大きな特徴である』。『共通する点は、節奏は、七絶のそれと同じで、押韻も第一、二、四句でふむ三韻。この形式での作詞は根強く、現代でも広く作られている。現代の作品は、生活をうたった、典故を用いない、気軽な七絶という雰囲気である』とあり、更に『竹枝詞の内容は、男女間の愛情をうたうものが多く、やがて風土、人情もうたうようになる。用語は、伝統的な詩詞に比べ、単純で野鄙であり、典故を踏まえたものは少ない。その分、民間の生活を踏まえた歌辞(語句)や、伝承は出てくる。対句も比較的多い。男女関係を唱うものは、表面の歌詞の意味とは別に裏の意味が隠されている。似たフレーズを繰り返した、言葉のリズム、言葉の遊びというようなものが感じられる。また、(近現代の作品を除き)中国語で読んだときにすらっとしたなめらかな感じがあ』って、『これらの特徴は、太鼓のリズムに合わせ、楽器の音曲にのり、踊りながら唱うということからきていよう』と記されておられる。実作例はリンク先の下方に豊富に示されてあるので必見。

「烟迷」踏み迷うほどに濃い靄が立ち込めること。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:恨を抱く旅人が愁いを以って子規を聴くというにも係わらず、なぜか粘着性の鬱悶を感じないですね。竹枝詞たる所以か。それどころか未来を見極めんと視線を遠くに投げる詩人の眼差しまで感じられないこともない。「黄
huang2」「白bai2」という明度の高い色が読者の無意識に働きかける効果のせいでしょうか。それとも、深い靄、(多少時間が経過してから見えたのか)手の届きそうな低い月、深夜に至り吹き渡った春風、大河の水面を伝ってくる子規の声、それらが皆どこか粘性のない軽みを持つからでしょうか。脚韻を踏む「迷mi2」「低di1」「啼ti2」が軽いiという単母音を有するのも面白い。
 二十八文字に詩的素材を詰め込みすぎると、大抵はくどくなる。詩になりたくてなれなかった無残な“詩もどき”ができてしまう。それにも係わらずこの詩は、気張った、作為的な、これ見よがしの、重い感じを読者に与えない。やはり詩人の力だと思います。
 結句の闇を渡っていく動的なホトトギスで私の一枚の画は完成しました。]



   十

閑情飲酒不知愁
世事抛來無所求
笑見東籬黄菊發
一生心事淡於秋

〇やぶちゃん訓読

 閑情 酒を飲みて 愁ひを知らず
 世事 なげうちて 求むる所無し
 笑みて見る 東籬とうりに黄菊のひらくを
 一生 心事 秋よりも淡なり

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。この書簡の前月九月、龍之介は既に、かの名作「羅生門」を書き下ろして脱稿している(発表は十一月一日発行の『帝国文学』)。まさにこの漢詩は作家芥川龍之介誕生の前夜の創作になるものなのである。
大正四(一九一五)年十月十一日附井川恭宛所載。
なお、これは旧全集には所載しない新発見の書簡で、私は新全集の書簡の巻を所持しないので、ここのみ底本として二〇一〇年花書院刊の邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」(同書一三四~一三五ページ所載)のものを用いた。但し、例によって私のポリシーに則り、正字化してある。
 邱氏の当該項の「解説」によれば、『漢詩の後に、「これは実感ではない。かう云ふ字づらから起る東洋的な気分に興味を持つた丈の話だ」と書かれている』とある。
「笑みて見る 東籬に黄菊の發くを」これは言わずもがな、陶淵明の「飮酒二十首 其五」の「采菊東籬下 悠然見南山」を踏まえる。

   飮酒二十首 其五
  結廬在人境
  而無車馬喧
  問君何能爾
  心遠地自偏
  采菊東籬下
  悠然見南山
  山氣日夕佳
  飛鳥相與還
  此中有眞意
  欲辨已忘言

    飮酒二十首 其の五
   廬を結びて 人境に在り
   而も 車馬の かまびすしき無し
   君に問ふ 何ぞ能くしかるやと
   心 遠ければ 地 おのづからへんなり
   菊をる 東籬のもと
   悠然として 南山を見る
   山氣 日夕につせき
   飛鳥 相ひともに 還る
   此の中に眞意有り
   辨ぜんと欲して すでに言を忘る
  
「一生心事淡於秋」この結句の訓読と意味は、中国語に堪能な私の教え子T.S.君の教授を受けた。ここに謝意を表し、彼の、この部分の訳を示す。
――人生における悩みや煩悶など、取るに足りぬ。この秋よりずっと軽くて淡いものさ――]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:――この詩をものした時の芥川龍之介へ贈る――
……鮮やかな切れ味を持つ「愁
chou2」「求qiu2」「秋qiu1」の脚韻も、有名すぎる陶詩を気後れせず大胆に素材として用いた結構も、才気に満ちた若いあなたの清清しい呼吸を聞くようです。乾いた透明な秋よりも人生の悩みは軽いだなんて……。その後あなたに襲い掛かり、最終的にあなたの生命まで奪うことになる人生の様々な心事を、そして誠実だったあなたの痛ましい歩みを思うと、私は息が詰まります。この詩はこのまま何も触らず、若かったあなたの記念碑としてそのままそっと残して置きたい。どうか許してください。……]




   十一

叢桂花開落
畫欄煙雨寒
琴書幽事足
睡起煮龍團

〇やぶちゃん訓読

 叢桂そうけい 花開きて落つ
 畫欄ぐわらん 煙雨 寒し
 琴書 幽かに 事足れり
 睡起すゐきして 龍團りようだんを煮る

[やぶちゃん注:龍之介満二十三歳。なお、河出書房新社一九九二年刊鷺只雄「年表読本 芥川龍之介」によれば、この書簡の頃(十二月初旬)、動悸の岡田(後に改姓して林原)耕三の紹介で、久米正雄とともに夏目漱石を訪ね、以後、漱石のサロン、木曜会の常連となっている。まさにいろいろな意味で龍之介運命の出逢いの季節であった。
大正四(一九一五)年十二月三日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号一八九)所載。
この書簡は非常に長いもので、『この手紙をかくのが大へんおくれた それはさしせまつた仕事があつたからだ 仕事と云つても論文ではない』と始まる(旧全集ではこの前の井川宛書簡は十月一日附である)。勿論、この『仕事』とはかの「鼻」の執筆であった(鷺年譜によれば、「鼻」の起稿はこの前月十一月四日、脱稿は「手帳 一」によって翌大正五(一九一六)年一月二十日、それが第四次『新思潮』創刊号を飾ったのは、同年二月十五日のことであった)。しかし、以下の書簡の叙述を読むと卒業『論文のため読む本ばかりでも可成ある(テキストは別にしても)』と記しているから、卒論の作業だけでも相当に多忙であったことが窺われる。なお、書簡中に卒論の題名については『題は
W. M. as poet と云ふやうな事にして Poems の中に Morris の全精神生活を辿つて行かうと云ふのだが何だかうまく行きさうもない』と弱気なことを記しており、実際、新全集の宮坂覺氏年譜によれば、主題は“as man as artist” から“As a poet” 、更に“Young Morris” と縮小され、完成稿は邦題では「ウィリアム・モリス研究」となった、とある(但しこれは惜しくも第二次世界大戦の戦火によって焼失してしまう)。
 但し、もう一つ、彼には『仕事』があった。――それは塚本文に対する恋情と結婚への願望実現のための精神的な高揚という『さしせまつた』感懐に基づく『仕事』――行動志向である。文への思慕の萌芽はこの大正四年の八月頃と考えられ、本書簡の十二日前の文の叔父で親友の山本喜譽司宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一八八)で『僕の愛を文ちやんに向ける』と、文への恋情を仄めかしているのである。宮坂年譜でもこの日の項に『文への気持ちは翌月に入って高まった』(翌月とはまさにこの書簡が書かれた十二月のことを指す)とあるからである(宮坂年譜によれば、文とはその後の大正五年二月中旬に伯母フキらに逢わせたところ、好感を持たれたことから、龍之介は結婚の意志を固めた、とある)。
 前半は当代の美術作品の辛口批評に始まり、最近読んでいるトルストイの「戦争と平和」への共感、この夏の松江の追想、新作の現代詩を記す。前文を附して以下に示す(「どこへ云つても」はママ)。

田端はどこへ云つても黄色い木の葉ばかりだ 夜とほると秋の匀がする
   樹木は秋をいだきて
   明るき寂寞にいざなふ
   「黄」は日の光にまどろみ
   樹木はかすかなる呼吸を
   日の光にとかさむとす
   その時人は樹木と共に
   秋の前にうなだれ
   その中にかよへる
   やさしき「死」をよろこぶ

漢詩は、このやや後に現われる。

定福寺へはまだ手紙を出さずにゐる 中々詩を拵へる氣にならない「定」の字はこの前の君の手紙で注意されたが又わすれてしまつた「定」らしいから「定」とかく それとも「常」かな「淨」ではなささうだ
自分でつくる氣になつてつくる詩はある 今日でたらめにつくつたのを書く
   叢桂花開落
   畫欄煙雨寒
   琴書幽事足
   睡起煮龍團
どうも出來上つた時の心もちが日本の詩よりいゝ 日本の詩も一つ今日つくつたのを書く 何だかさびしい氣がした時かいた詩だから
   夕はほのかなる暗をうみ
   暗はものおもふ汝をうむ
   汝のかみは黑く
   かざしたる花も
   いろなく靑ざめたれど
   何ものかその中にいきづく
   かすかに
   されどやすみなく――
   夕はほのかなる暗をうみ
   暗はものおもふ汝をうむ
もう一度眞山にのぼつておべんとうをたべたい さるとりいばらにも實がなつてさうして落ちた時分だらう 山もすつかり黄色くなつたらう 赤い土や松はかはらずにゐるだらうか
おべんとうの卵やきはまつたくうまかつた あめ蝦もたべたい 僕はくひしん坊のせいか食べものを可成思ひ出す

この後、自作短歌が六首記され、掉尾の段落は(「動かれて」はママ)、

殆この手紙をかき出した時には豫期しなかつたある感激に動かれてこの手紙を完る 大きな風のやうなそれでゐてある形のある光の箭のやうなものが頭の中を通りぬけたやうな氣がする 今まで何だか人が戀しいやうなそれでゐて独りでゐたいやうな心もちにひたされながら何かしろ何かしろと云ふ聲がたへずどこかでしてゐると思つてゐた それが今は皆どこかへ行つてしまつた このまゝで何十年何百年でもじつとして「たへず變化すれども靜止し 流轉すれども恒久なる」一切をみてゐたいやうな氣がする 何故だかしらない 唯僕の意識の中には暗い眼が浮んでゐる 何度もそれが泣くのを見た眼である 僕はこの心もちを失ふのを恐れる この眼を失ふのを恐れる かなしいやうな氣もする
平和にさうして健康に暮し給へ
                                   龍
で終わる。「あめ蝦」は直感であるが、アマエビ(甘海蝦)、軟甲(エビ)綱十脚(エビ)目抱卵(エビ)亜目コエビ下目タラバエビ科タラバエビ属ホッコクアカエビ
Pandalus eous のことを指していると思われる。漢詩の後の追想には、松江訪問の記憶が強烈に龍之介に刻印されていることを感じさせて、個人的には非常に好きな部分である。また、掉尾の哲学的感懐に、私は――遠く龍之介の公的遺書たるところの、「或舊友へ送る手記」の「附記」にあるあの言葉――『僕はエムペドクレスの傳を讀み、みづから神としたい欲望の如何に古いものかを感じた。僕の手記は意識してゐる限り、みづから神としないものである。いや、みづから大凡下の一人としてゐるものである。君はあの菩提樹の下に「エトナのエムペドクレス」を論じ合つた二十年前を覺えてゐるであらう。僕はあの時代にはみづから神にしたい一人だつた。』――を、鮮やかに思い出していることを、告白しておきたい――。

「畫欄」花鳥の模様が装飾として彫り出された欄干。
「龍團」龍団茶。茶の進献が盛んであった宋代、福建省崇安県の南にある銘茶の産地武夷山などで摘まれた初春の新芽から製した極上の新茶で、天子に進献されたことから、龍茶・龍団茶・龍鳳団茶とも言った。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:邪道かもしれませんが、中国語で読み返していると、漢字を独立したひとつひとつの粒として捉える傾向が強まります。「開
kai1」と「落luo4」、「睡shui4」と「起qi3」。反対の概念の組み合わせで、時の推移が感知されます。こういう起句と結句の枠組みの中で、降雨と琴書(現在中国語の字義は琴による伴奏での物語りだが、ここは文芸一般を嗜む意か)が提示されることで、世間のざわめきとは隔絶した文人の静かな生活が持続してく様が感得されます。
 私は、詩人が意識して作り込んでいる気がする。実にうまい……。

――一叢の金木犀が咲き、そして散っていく。起居する書斎の欄干は、もう幾日目だろうか、晩秋の冷たい雨に包まれている。――私は、文芸をひそやかに嗜んでは満足したり、上等の茶を淹れては味わったりしている。静かに、時が流れ、移ろって行く――

そういった情感でしょうか。]



   十二

山閣安禪客
經牀世外心
空潭煙月出
處々聽春禽

〇やぶちゃん訓読

 山閣 安禪の客
 經牀けいしやう 世外せいぐわいの心
 空潭 煙月 出づ
 處々 春禽しゆんきんを聽く

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。前年七月に東京帝国大学文科大学英吉利文学科を卒業、九月一日には正式な文壇デビュー作「芋粥」が『新小説』に掲載、「猿」「手巾はんけち」「煙草と悪魔」などを矢継ぎ早に発表して、瞬く間に文壇の寵児となっていた。また、八月二十五日には塚本文へプロポーズの手紙を書き、十二月には一日附で海軍機関学校の英語学教授嘱託となって、鎌倉町和田塚(現在の鎌倉市由比ガ浜)に転居している(通勤尾便宜のためであるが、小説執筆のために田端と頻繁に往復しており、本書簡も田端発信である)。同月九日午後九時過ぎに夏目漱石逝去。また、同月には文と婚約が成立した。まさしく作家芥川龍之介の絢爛たるデビュウの只中の一首である。
大正六(一九一七)年三月二十九日附松岡讓宛(岩波版旧全集書簡番号二七九)所載。
松岡は『新思潮』の同人で盟友。この翌大正七年四月には漱石の長女筆子と婚約、結婚した。
 書簡は四ヶ月足らずで早くも『學校も永久にやめちまひたい氣がする』と愚痴り、『創作も氣のりがしない唯かうやつてボンヤリ生きてゐる丈でそれ丈で可成苦しいやうな氣がするそれ丈で生きてゐるやうな氣がする「偸盗」なんぞヒドイ』と、つい十四日前の三月十五日に脱稿(発表は翌四月一日の『中央公論』)したばかりの自作「偸盗」のひどさを具体にあげつらい、『僕の書いたもんぢや一番惡いよ一體僕があまり碌な事の出來る人間ぢやないんだ』とまで吐露している。ただその直後に、二度『熱が高くなつた時』『は死にさうな氣がしていやになつた死ぬとしたらアンマリくだらなすぎるから あんまり今までの僕のやり方が愚劣すぎるから 何だか考へも書くことも秩序立たないやうな氣がするまだ疲れてゐるせゐだらうそれでもこなひだ病間にサイして詩を一つ作つたよ』として、本詩を掲げている。詩の後には『それから詩をつくる氣にもなれない唯漫然と空バカリ見てゐる何だか情無くつていやになるよ』と手紙を締めくくっていることから分かるように、龍之介はインフルエンザに罹患し、職場も一週間程休んでいる。創作の産みの苦しみと病気のダブル・パンチがこの弱音には作用しており、詩にもそうした苦しい現実からの逃避願望が現われているとも言えよう。
「經牀」邱氏の注に『座禅をする場所』とある。
「世外」浮世を離れた場所。「せがい」とも読む。
「空潭」人気のない奥深い淵。この語と起承転句までは詩仏王維の知られた五律、

  過香積寺
 不知香積寺
 數里入雲峰
 古木無人徑
 深山何處鐘
 泉聲咽危石
 日色冷靑松
 薄暮空潭曲
 安禪制毒龍

   香積寺かうしやくじ
 知らず 香積寺
 數里 雲峰に入る
 古木 人徑 無し
 深山 何處いづこの鐘ぞ
 泉聲 危石にむせ
 日色 靑松に冷かなり
 薄暮 空潭の曲
 安禪 毒龍どくりやうを制す

の光景と禅味をインスパイアしている。
・「香積寺」長安の東南、終南山の山裾にある名刹。浄土教の祖善導所縁の地として知られる。
・「曲」は湾曲した流れの淵のほとり。
・「毒龍を制す」心中に蟠る妄念を「毒龍」とし、それを滅却した座禅する僧を配す。

「處々 春禽を聽く」これも言わずもがなであるが、孟浩然の、

   春曉
  春眠不覺曉
  處處聞啼鳥
  夜來風雨聲
  花落知多少

    春曉
   春眠 曉を覺えず
   處處 啼鳥を聞く
   夜來 風雨の聲
   花 落つること 知んぬ多少ぞ
の承句に基づく。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:まず偶然でしょうが、朗誦すると起句は印象的です。発音は
shan1ge2an1chan2ke4a音とe音(エとオの中間音)だけで、大手を広げて読者を迎えている。鍵は転句。これは偶然とは言えない。転句はこの詩の心臓です。理由はふたつ。ひとつは朗誦した場合の効果です。「空kong1」と「月yue4」。単母音oは詩中唯一。また、複合母音ueほど口中に響きが籠もる音は起承句にはない。すなわち、耳で聞いた場合、転句は明らかに世界が大きく変化しています。もうひとつは意味。転句以外の三句は客観的事実であり、述べられた事象の輪郭は明確です。眼に見えない心について述べる承句でさえ然り。しかし転句のみ、靄がかかっています。幽邃な山奥の淵に朧な月がかかる。それは果たして中空なのか。それとも水の中か。はたまた空虚な心の中か……。いやいや、そのような淵さえ、夢か、うつつか。現実世界にポッカリと口を開けた、虚無の、穴…………。]



   十三 甲

心靜無炎暑
端居思渺然
水雲涼自得
窓下抱花眠

〇やぶちゃん訓読

 心 靜かにして 炎暑 無く
 端居たんきよして 思ひ 渺然べうぜん
 水雲 涼として おのづから得たり
 窓下 花を抱きて眠る

     十三 乙

  心情無炎暑
  端居思渺然
  水雲涼自得
  窓下抱花眠

  〇やぶちゃん訓読

   心情 炎暑 無く
   端居して 思ひ 渺然
   水雲 涼として 自から得たり
   窓下 花を抱きて眠る

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。「十二」以降の出来事では、五月二十三日に第一作品集「羅生門」を阿蘭陀書房より刊行したことが特記される(漱石門下木曜会メンバーである評論家赤木桁平(池崎忠孝)の紹介による。以下、ご覧の通り、本漢詩は彼に贈られている)。
「甲」は大正六(一九一七)年八月十五日附赤木桁平宛(岩波版旧全集書簡番号三〇九)所載。
「乙」は大正六(一九一七)年九月四日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号三一七)所載。
赤木桁平宛では、
ボクは中々小説が出來ない十五日の〆切をのばして貰ひさうだ惡詩を一つ獻じる その中ゆく 頓首
  赤桁平先生淸鑒
として漢詩があり、次行末に
         學弟 椒圖道人百拜
とあるのが全文である。「淸鑒」は「せいかん」(清鑑)で、他人の鑑識の優れていることを敬っていう語で、一般には自分の詩文書画などを他人に見て貰う際に用いる。
ここで「〆切をのばして貰ひさうだ」った「小説」であるが、一つの可能性としては、この書簡を書いた後に辛くも完成、この日の締切に間に合った、という推理が成り立つ。その場合、ここで言う「小説」とは、この日に脱稿が確認されている、
「或日の大石内蔵助」
ということになる(発表は翌九月一日の『中央公論』)。――そうではなかったとすれば――これは、翌月九月八日に執筆が始まるところの、
「戯作三昧」
とも考えられる(その場合、この時点では構想の段階ということになる)。新しい切り口の江戸物への脱皮を図る前者、芸術至上主義的創作家のイマジネーションの産みの苦しみを描く後者、何れであっても、『ボクは中々小説が出來ない』の質量は途轍もなく重いのである。
因みに、書簡中の「椒圖道人」という雅号は、龍之介の私的な怪談記録帖「椒圖志異」に基づく(リンク先は何れも私の電子テクスト)。
 「十三 乙」の載る書簡には次の「十四」が載り、「十四」の詩を掲げた後に、『隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ』として、本詩を記している。この場合、『隱情盛な時に作つた詩』という条件は、自然、本詩へも作用するものとして龍之介は述べていると考えてよい。
「渺然」果てしなく広々としているさま。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:――初見で行き詰った。転結句。どうにも合理的な意味が取れない。そもそも「水雲
shui3yun2」とは何だ。確か飲み屋のモズクはこう書いたっけ。「水母」はクラゲか。あれこれ妄想は浮かぶ。けれど、故意に徒手空拳で対峙する私は身動きが取れない。先生の文章にも字義の解説はない。中国語で朗誦しても徒労だった。さあ、ほとほと困り果てた……。
 時間を措いて再度眺める。眼の焦点を合わせず、字面をぼうっと眺める。そうか……。「炎暑
yan2shu3」に対して「水雲shui3yun2」。「端居duan1ju1」に対して「抱花眠bao4hua1mian3」。よし、力を抜いて、漢字それ自体が持つ力に、運ばれてみよう。

――外界の炎熱などもう感じぬ。端座し、心を無私にしてマクロの境地に遊ぶ。はるか水平線のかなた、空と海の交わるところ、涼気のすみか……。ふっと気づけばそこはミクロの世界。強烈な陽射しを厭い日陰でまどろむ私の横に、涼しげな一輪の花――

 上記の評釈、完全な自己流。お恥ずかしい限りです。何事にも合理的な意味があるはずなどと無邪気に信じる、頭でっかちの私に下された天罰でしょうか。]



   十四

即今空自覺
四十九年非
皓首吟秋霽
蒼天一鶴飛

〇やぶちゃん訓読

 即今 空しく自覺す
 四十九年 非なるを
 皓首かうしゆ 秋霽しうせいを吟じ
 蒼天 一鶴 飛ぶ

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。この九月一日に龍之介は海軍機関学校への通勤の便から下宿を横須賀市汐入に移している。この前後、同僚の佐野慶造・花子夫妻との交流が深まっているが、私はこの佐野花子なる女性に対して龍之介は、ある種の恋愛感情を持っていたと確信している。彼女については多くの評者は、これを後の彼女の神経症的な思い込みに過ぎないと切り捨てているが、私はそうは思わないのである。「月光の女」以下、数篇の私のブログでの考察をお読み頂けると幸いである。
この漢詩は二つの書簡に同じものが載る。一つは、
Ⅰ 大正六(一九一七)年八月二十一日附菅虎雄宛(岩波版旧全集書簡番号三一一)
今一つは、前の(十三)乙を併載する(本詩を先に記す)、
Ⅱ 大正六(一九一七)年九月四日附井川恭宛(岩波版旧全集書簡番号三一七)
である。Ⅰの宛名人菅虎雄(元治元(一八六四)年~昭和一八(一九四三)年)はドイツ語学者。五高教授であった時、親友夏目漱石を招聘した。明治三四(一九〇一)年一高教授となり、その時の教え子に芥川竜之介や菊池寛らがいた。号を無為・白雲・陵雲などという能書家としても知られ、漱石の墓碑銘や芥川の「羅生門」の題字、芥川自宅書斎の「我鬼窟」の扁額なども彼の筆になる。龍之介より二十八歳年上の恩師である。当時、満五十三歳。
菅へのⅠには、
こなひだ迄原稿で忙しうございましたが今は甚泰平な日を送つて居ります詩を一つつくりましたから御笑覧に入れませう
として本詩を示し、
二十六年の非では引立ちませんから少々かけ値をして四十九年と致しました勿論皓首と申す程白髮などはございません鶴は私の宅の近所へよく來る白鷺を少し高尚にしたのでございます 頓首
とある。一方、盟友井川宛てのⅡには、手紙末に本詩を二段組で配し、承句の上に右に向かって音楽記号のスラーのような丸括弧を打って、句の右側に、
二十六年非ぢや平仄が合はない
と記して、菅宛とは異なった技術的な弁解を述べている(こっちが事実らしく見える)。その後に、
隱情盛な時に作つた詩だから、特に書き添へる 序にもう一つ
と書いて、「十三 乙」が示されている。但し、その文面は「十三 甲」の短い添書きと比すと雰囲気に遙かにゆとりが感じられるように思われる。その微妙な変化がこの詩にも反映しているようにも私には思えるのだが、如何か?……しかし……別な意味で、私はこの詩が気になるのである。……「四十九」は……本当に平仄や箔附けのつもりだったのだろうか? 龍之介は実際、この瞬間に自身の二十三年後(数え)の姿を幻視してはいなかったろうか? 僅か十年の後の同じ夏に、自らが自らの命を絶って、幽冥界の蒼天へと一羽の鶴の如く飛び去ってゆくことを……知らなかったにしても……。
「皓首」白髪頭。
「秋霽」秋の雨後の雲霧が晴れすっきりと晴れ渡ること。邱氏は『秋の虹』と注されているが、雨後の快晴なら虹も立つとは言えようが、「廣漢和辭典」にもそのような意味は「霽」に載らず、採らない。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:漢字は一字で完結した世界を持っている。文全体に如何に寄与するかは、順番や位置関係で決まる。逆に言えば、一字の独立性はそれほど強い。注釈も解説もなしで漢詩に立ち向かう。眼に飛び込んでくるのは漢字の集合体。この際、こんなことが起きる。例えば起句。“今この時、空しくも自覚したのだ。”分かりやすい句だ。しかし私は暫く意味が掴めなかった。「即今
ji2jin1」「自覚zi4jue2」だけだったら簡単。しかし間に「空kong1」を置いて、五文字が等間隔に並んだ途端、「空」の重力が働く。「即今」「自覚」各二字の間に働く力は見えにくくなる。今の空――、空の自分――、何だ、それは……。
 だから、漢詩は字面が大切になる。複数の漢字が同じ強さで自己主張し合っている。たった一字でも、全体に及ぼす視覚的な影響は無視できない。初めて全体を眺めた時、真っ先に眼に飛び込んできた漢字。私の場合は「四十九」であり「秋」であり「天」だった。いかに気を取り直して起句から読み直しても、これらの漢字が持つイメージの残像は、読み進める私の脳裏で、常に低音を発し続ける。クライマックスを過ぎて何か悟ったような、澄んだ秋の空のように明澄な心で人生を観照するような、そして娑婆を去って冥界に向かうような、一種解脱した独特の色調の持続。
 では、「四十九」は何故そんな力を持つのか。「人間五十年」の一歳手前・・・。何かある。四十九でなければならない理由が。無意識の中で何かを感じている。数字に色を見る人がいるらしいが、それと同じような次元の話。例えば……三十六では何か浮き浮きしすぎている。四十七では討ち入りになってしまう。四十八だと何か縁起が良さそうで詩意にそぐわない。冗談を言っているのではない。言語のイメージ想起の働きというのはそういうものだから……。
 気づいた! そう――四十九日』――人が亡くなった直後から、此岸と彼岸の間をさまようという日数。「藪の中」の最後の一文にも出てくる所謂――中有――の日数だ。「四十九」を見た瞬間から、私の無意識は、ずっと観ていたに違いない……。何か現世を離れた、生命の向こう側にある何かを。太陽光の届く、ほんの表層だけかもしれないが、私は無意識の海を一瞬覗き込んだような気がする。……

追伸:最後に先生に御報告します。一から九及び十ですが、今、調べましたところ、全ての文字は平仄において原則的に仄声を有しています。平仄を整えるための推敲であった可能性は小さいと思われます。]



   十五

潦倒三生夢
茫々百念灰
燈前長大息
病骨瘦於梅

〇やぶちゃん訓読

 潦倒たり 三生の夢
 茫々 百念 灰たり
 燈前 長大息
 病骨 梅よりもそうたり

[やぶちゃん注:龍之介満二十五歳。この書簡の出された同日、龍之介は後に社員となる『大阪毎日新聞社』への小説連載依頼を受諾している。これは翌十月二十日から始まり、十一月四日に終わるが、それは、小説家芥川龍之介の産みの苦しみとその秘密を抉り出した、かの渾身の名作「戯作三昧」であった。
大正六(一九一七)年九月二十日附久米正雄宛所載。
なお、これは旧全集には所載しない新発見の書簡で、私は新全集の書簡の巻を所持しないので、ここのみ底本として二〇一〇年花書院刊の邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」(同書一三九ページ所載)のものを用いた。但し、例によって私のポリシーに則り、正字化してある。
 邱氏の当該項の「解説」によれば、『その創作背景について、「ボクは文世でひどいめにあつた あんなにキュウキュウ云つて書いたことはない」と書かれている。「文世でひどいめにあつた」とは、「文章世界」一九一七年十月号掲載の小説「片恋」の原稿を急がされて書いたことを言っている』とある。「片恋」は、ある夏の午後、主人公「自分」は京浜電車の中で、一緒に大学を卒業した親友の「僕」と出逢い、その「僕」が語る話という設定である(途中に挟まる車内の会話から「自分」は小説家らしい)。「僕」は最近、「自分」と「僕」の旧知の、やはり仲間の「志村」がかつて岡惚れしていた水商売の女お徳に(志村は彼女に『臂を食は』されている)、相応の茶屋の宴席で再会したが、その彼女から、逢ったこともない洋画の俳優に片思いしたことを告白された、ということを述べる形で進行する小編である(特異なのは、先の会話以外殆んどが「僕」の一人称直接話法で語られ、この話を聴いた「自分」の感懐は行間を読む以外にはないという点である)。その映画は『結局その男が巡査につかまる所でおしまひになる』のだが、そのエンディングは、

 『大ぜいよつてたかつて、その人を縛つてしまつたんです。いゝえ、その時はもうさつきの往來ぢやありません。西洋の居酒屋か何かなんでせう。お酒の罎がずうつとならんでいて、すみの方には大きな鸚鵡の籠が一つ吊下げてあるんです。それが夜の所だと見えて、どこもかしこも一面に靑くなつてゐました。その靑い中で――私はその人の泣きさうな顏をその靑い中で見たんです。あなただつて見れば、きつとかなしくなつたわ。眼に涙をためて、口を半分ばかりあいて……』
 さうしたら、呼笛が鳴つて、写眞が消えてしまつたんだ。あとは白い幕ばかりさ。お德の奴の文句が好い、――『みんな消えてしまつたんです。消えて儚くなりにけりか。どうせ何でもそうしたもんね。』
 これだけ聞くと、大に悟つてゐるらしいが、お德は泣き笑ひをしながら、僕にいや味でも云ふやうな調子で、かう云ふんだ。あいつは惡くすると君、ヒステリイだぜ。
 だが、ヒステリイにしても、いやに眞劍な所があつたつけ。事によると、寫眞に惚れたと云ふのは作り話で、ほんとうは誰か我々の連中に片恋をした事があるのかも知れない。
(二人の乘つてゐた電車は、この時、薄暮の新橋停車場へ着いた。) (六、九、十七)

で終わっている(引用は岩波版旧全集を用いた)。脱稿は本書簡に先立つ三日前の九月十七日であった(宮坂年譜による。発表は十月一日)。本作について、本作については龍之介は他にも『ボクは文章世界で實際脂をしぼられたよ へんてこなものを書いて責をふさいぢやつた いくら何でも一日半ぢや碌なものは書けない』(本書簡同日附松岡讓宛岩波版旧全集書簡番号三二四)とぼやいており、評者からも『落語のやうなつまらないもの』(『文章世界』大正八(一九一九)年四月号の石坂養平「芥川龍之助論」)、『芥川の文学特有の締りがない』(河出書房新社一九六四年刊の進藤純孝「芥川龍之介」)と不評である(引用は勉誠出版平成一二(二〇〇〇)年刊「芥川龍之介作品事典」より孫引き)。私は必ずしも、本作をつまらぬとは思わぬ。そうして――このエンディングこそが、龍之介が実は書きたかった核心であるように思われてならないのである。
「潦倒」「れうたう(りょうとう)」「らうたう(ろうとう)」と読み、老衰していること。やつれて元気のないこと。また、落魄れてみすぼらしいこと。惨めであることを言う。
「三生」前世・現世・後世ごせの三世の意であるが、ここでは単に個人としての全人生の謂い。
「病骨」とあるが、実際に龍之介が病気になっていた事実はない。但し、この頃、龍之介はこの頃、海軍機関学校での教師生活に嫌気がさしており、専業作家になることを希望し始めていた。それは例えば、同月二十八日附の婚約者塚本文へ宛てた書簡(岩波版旧全集書簡番号三二八)などに明らかである(婚約者へ向けた言葉であるだけに経済的な意味でも重いものがある)。例えばそこには、

學校ばかりやつて、小説をやめたら、三年たたない中に死んでしまひますね 教へる事は大きらひです 生徒の顏を見ると うんざりするんだから仕方がありません その代り原稿用紙と本とインクといい煙草とあれば それで僕は成佛します 勿論その外に文ちやんがゐなくちや駄目ですよ

とあり、また最近、初対面の者がよく尋ねて来る、昨日も『工廠の活版工をして小説を書いてゐる人と 小説家志望のへんな女學生とがやつて來』たが、『彼等は唯世間で騷がれたさに 小説を書くん』であって『量見そのものが駄目な』んだ、

あんな連中に僕の小説がよまれるんだと思ふと實際悲觀してしまひます 僕はもう少し高等な精神的要求を充す爲に書いてゐるんですがね
もう十年か二十年したら さうしてこの調子でずつと進んで行けたら 最後にさうなる事を神がゆるしたら僕にも不朽の大作の一つ位は書けるかも知れません(が、又書けないかも知れません。何事もなるやうにしかならないのですから。)さう思ふと、體の隅々までに、恍惚たる悲壯の感激を感じます。世界を相手にして、一人で戰はうとする勇氣を感じます 況やさう云ふ時には、天下の成金なんぞ何百人一しよになつて來たつて びくともしやしません さう云ふ時が僕にとつて一番幸福な時ですね

私はこの注釈のために、この龍之介の文へのラブ・レターを手打ちしながら、すっかり本漢詩の孤高性を忘れ果てて、なんだか龍之介と文が、とても羨ましくなってきた。これを書いている/これを読んでいるそれぞれの二人の笑顔に――嫉妬する――と言い換えてもよい。因みに、このフィアンセへの手紙の最後は、

時々思ひ出して下さい さうしないと怒ります 頓首
とある。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:〔やぶちゃん注:今回はT・S・君の消息文をほぼそのまま(実際にはブログ公開時の返信の私への挨拶や添書きなどを除いて今までも殆んどそのままではあるのだが)掲載する〕。
――これらの漢字二十字だけから、ひとまずコメントを書き終えました。そして事後、先生の解説を拝読し、自らの誤りを漸く悟りました。そうかと言って、私の感じたイメージを消してしまうと何も残らない気がします……。そこで、恥を忍んで手を加えずにお見せすることにしました。それから、解説を受けてひと言だけ付け加えさせてください。『時々思ひ出して下さい さうしないと怒ります』……。この詩の向こう側には、確かに春が来ていたのですね。ああ、実に素敵です。 ――

「潦
liao2」は、当てもなく流れていくこと、またはそういう水のこと。現代中国語の「潦草liao2cao3」は、いい加減なという形容詞。「三生夢san1sheng1meng4」とは、輪廻における三回の人生のことか。生の区切りはないけれど、杜子春も仙人修行を数に入れれば、たしか三回夢を見た筈。同時に一炊之夢の故事も思い起こされる。そこでは夢中の人生は一回だから「三生夢」に当たらないが、どこか幽かに夢まぼろしや輪廻転生を感じさせる言葉だ。「茫茫mang2mang2」は、果てしなく広いさま。この「茫茫」と「長chang2」と「大da4」。それらの響きの、なんと字義にふさわしいことか。恐らく、数千年の時間の中で、漢字は、その義にぴったりの音へと蒸留されてきたのだろう。静かな歎息の底、一番深いところに仄かな光を感じさせるのは、「燈deng1」「梅mei2」という漢字の力のなせるわざか。

――生命の波間に漂い、夢まぼろしの人生を辿ること、実は何回であったのか……。人として味わった様々な情や念もとうに燃え尽き、灰となって遥か彼方に去っていった。ほら、厳しい寒気に苛まれ、色褪せて縮込まる、梅の枝のような私の身体……。一灯の下、私の長い歎息が消えていく先は、そこの闇か。それとも、未来か。そして――冬の底の静寂――]



   十六

沙淺蒲猶綠
石疎波自皺
遙思明月下
時有浣沙人

〇やぶちゃん訓読

 沙 淺くして  猶ほ綠なり
 石 まばらにして 波 おのづからしわ
 遙かに思ふ 明月のもと
 時に有り 浣沙くわんさの人

[やぶちゃん注:龍之介満二十五から二十七歳頃の作(推定)。
龍之介の遺稿として発見された手帳の一つ「我鬼句抄」に所載。
手帳「我鬼句抄」は、全集後記によれば、罫紙(又は半紙の何れか)を自分で綴じて作った古風な手帳に毛筆で書かれたものである(現在、所在不明)。旧全集は記載内容から末尾に編者によって『大正六年―大正八年』と記されてある。

「浣沙人」邱氏注に『浣沙は洗濯するの意』と記され、現代語訳では『時には洗濯の娘がいるだろうかと遥かなる思いをはせる。』と結句を訳されておられる。……なるほど久米の仙人か……作者が浮かべたのは川で洗濯する小娘か女の脛であったか……大正六(一九一七)年から大正八(一九一九)年にかけて、文との結婚(大正七年二月二日)、大正八年六月の「愁人」秀しげ子との出逢いとその後の彼女との不倫経験など……確かにこれは女なのかも知れないな……
……ただ……私は本詩を最初に読んだ際、違った印象を持った。私にはこの「時に有り 浣沙の人」は男、それも老人、と読んだのである。……それはきっと悲しい教師根性からであろう。……私は自分が教えた教材への深い思い入れに基づく思考の刷り込み効果がある。――だから――屈原の「漁父辭」なのだ。――だから私の川辺には――「纓」(冠の紐)、基、当然、足――を洗うておる老荘の世界に遊んでいる老人の姿が――見えたのである。……これは私の勝手な空想……お忘れあれ……]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:書き下し文も解説も拝見する前に、これはもう、完全に魅せられてしまいました。今でも初見時の興奮が冷めません。予備知識、参考知識なしという前提での私の印象をご報告するために、白文だけに基づいて書き散らした文章を、全く手を加えず、そのまま先生にご報告します。

 脚韻は踏んでいないと思われる。少なくとも中国語で、各句の末尾同士で発音の近似はない。しかし朗誦していると、これがかえって心の勢いを感じさせる。また、躍り上がるような波動を見せる起句の「蒲猶緑」の声調(//\)。この部分と対になる承句「波自皺」の声調( ̄\\)は、これにしっかり応えるようだ。発音も、前者は
pu, you ,lü 、後者はbo ,zi ,zhouというように母音が刻々と変化し、浮き立つ心を伝える。明月のもと、遥かに思うのは、恋しい人のことだろう。「浣huan4」は洗うこと、通常は「浣紗huan4sha1」と糸偏の紗を遣い、衣を洗う意。現代中国語でも十分通じる語彙だ。しかしここは“さんずい”の「沙sha1」、衣の洗濯というイメージは薄めても許されるだろう。素足で浅瀬に踏み入り、水面をじっと見つめているのか……、それとも汀でしゃがみ、片手を水につけて物思いに蹲っているのか……。少なくともこれは若い女の子。転句においてある人を遥かに思い、結句において河辺の娘を詠うのだから、これらふたりは同一人物ではない。しかし、詩心の観ずるところに限っていえば、当然ながら、全くの別人では、あり得ない。
――明月に誘われ、清渓のほとりに佇む。汀に茂る青い草も、浅瀬に透けて見える水底の小石も、月光に洗われ、不思議な艶かしささえ感じられる。ふと気づけば、さざなみが水面を渡っていく……。ああ、あそこだ。岸辺にしゃがみ、冷たさを確かめるように清水に片手を差し入れ、遠くを見つめる娘がひとり。背に束ねた長い髪も、まるで月明かりに濡れているよう。一体何を思い、あんなにも、じっと蹲っているのか……。嗚呼、私のあの人――忘れることのできないあの人……。あなたは、今、どうしておられるのでしょうか――

[やぶちゃん補注:最後の訳にはその後、T・S・君より細かな部分に二校が入った。彼のこだわりの訳である。]



   十七

鼎茶銷午夢
薄酒喚春愁
杳渺孤山路
風花似舊不

〇やぶちゃん訓読

 鼎茶ていちや 午夢ごむつく
 薄酒 春愁を
 杳渺えうべうたり 孤山の路
 風花ふうくわ 舊に似るやいな

[やぶちゃん注:龍之介満二十五から二十七歳頃の作(推定)。
龍之介の遺稿として発見された手帳の一つ「我鬼句抄」に所載。
手帳「我鬼句抄」は、全集後記によれば、罫紙(又は半紙の何れか)を自分で綴じて作った古風な手帳に毛筆で書かれたものである(現在、所在不明)。旧全集は記載内容から末尾に編者によって『大正六年―大正八年』と記されてある。なお、本詩は全く同じものが、やはり同様の手帳である短歌・俳句を書き込んだ「蕩々帖」にも最後にぽつんとこの漢詩が記されている。この「蕩々帖」(同じく現在、所在不明)の方は末尾に岩波版旧全集編者によって『大正九年―大正十一年』と記されてある。この推定年代が正しいとするなら、龍之介はこの詩を四年以上の間をあけて、別な手帳に再度記していることになり、彼がある種の愛着を持った詩であったと考えてよいと思われる。
・「鼎茶」は茶を煮るための道具で、ここは茶を立てることを指す。
・「つくし」通常は「けす」と訓ずるところだが、夢を貪る、夢を喰らい尽くす、の意で、かく訓じた。
・「杳渺」邱氏の注に『奥深く遠い様子』とある。
・「風花」風に吹かれる花であるが、視認する景色や景観を言う。
この詩は流石の私でも、王維の「雜詩三首」の第二首の転結句をインスパイアしたものであろうことが類推される。

 君自故郷來
 應知故郷事
 來日綺牕前
 寒梅着花未

  君 故郷より來たる
  應に 故郷のことを知るべし
  來日らいじつ 綺牕きそうの前
  寒梅 花をつけしや未だしや

「綺牕」美しく飾った、私の愛する妻の部屋の窓。
 なお、本詩を訓読した筑摩書房全集類聚版では、起承句は和訓を利かせて、

 鼎茶ていちやとかひるの夢
 薄酒はよばはる春の愁ひ
 杳渺えうべうたり 孤山の路
 風花ふうくわ 舊に似るやいな

と訓読している。魅力的ではあるが、転結句とのバランスが悪いように思われるので、採らない。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「風花
feng1hua1」。日本語で“かざはな”といえば、晴天時に雪が風に舞うこと。しかし私は一読、散る花、花吹雪をイメージした。中国語では花鳥風月のことを「風花雪月feng1hua1xue3yue4」という。だから、“美、憧れ、佳きもの”というニュアンスが漂う。文人の低回趣味のような停滞的な態度の描写、一貫して静かな光を湛えた起承句から、転句で雰囲気がガラリと変わる。大きな転折だ。“遥かひとり山道を行く。風花は昔に似るや否や”……短く、一気に、簡潔に、そして爽やかに詠い切る転結句の調子の高さ。健やかで高潔で、使命を自覚した詩人の内面を見るようだ。風を切る勢いを感じる。とりわけ転句「孤山路gu1shan1lu4」声調( ̄ ̄\)は、堂々と顔を昂げる感じがする。さらには、結句五文字の声調( ̄ ̄\\\)の三連続する第四声は、潔い決心を感じさせる。最後の一字、疑問詞として遣われる「不bu4」にも、作者の矜持が見えるようだ。

――春の昼下がり、茶を嗜み、夢を徒らに貪り、酒に愁いを見つめる……。いや、私はもうその部屋から歩み出る。ひとり山路を行くのだ。起伏は遥かに連なり、果てには霞の向こう、雪をいただく連山がかすかに望まれる。春浅い清らかな陽射しを浴びて空一面に燦めくのは、風に飛ばされた雪か。否。それはおそらく、人が生きていくこの世界の、純粋で美しい何か……。しかし、これまでになく一段と眩いのは何故だろう。そう、きっとまだ誰も気づいたことのない、私だけの、花だから……。私は行く。冷たい新鮮な大気を呼吸しながら。唯ひとり、どこまでも。私自身の歩調で、私自身のこの道を――

……なんという高邁。そして、なんという豊饒。転結句こそ、この詩世界の主旋律であり、詩人の心象そのものだろう。]



   十八

我鬼先生枯坐處
松風明月共蒼々
何知老魔窺禪室
一夜乍來脂粉香

〇やぶちゃん訓読

 我鬼先生 枯坐する處
 松風明月 共に蒼々
 何ぞ知らん 老魔 禪室をうかが
 一夜 たちまち來たる 脂粉の
[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。前々月の大正九(一九二〇)年一月二十八日には第四作品集「影燈籠」を出版している(専業作家となってからは最初の作品集)。「蜜柑」「沼地」「尾生の信」「疑惑」「魔術」等、歴史物から離れて新境地を開こうとする野心作が並ぶものの、彼自身が自覚的にこの時期を創作の停滞的状況と評したように、一般にはマンネリズムに陥っているとされる作品集として評価は低い(リンク先は私の電子テクスト)。更に、この前年の六月に龍之介は「愁人」秀しげ子と邂逅、九月には不倫関係に陥っている(が、この頃には早くも、彼女の独特の性格が既に龍之介を悩まし始めており、龍之介の中に「狂人の娘」(「或阿呆の一生」)と言うに至る嫌悪の萌芽が、既に芽生えていたと私は推定している)。また、この詩が載る書簡の前日の三月二日には日本女子大学国文科の学生で女流作家を夢見ていた森幸枝なる人物からの面談懇請に許可の手紙を書いており(この時は彼女を実見していないが、龍之介好みの美人であったという関係者の証言があり、この直後に来訪、頻繁に訪ね来るようになって龍之介から教授を受けるようになった。かなり個性的で情熱的な女性で美人であった。鷺氏年譜のコラムによれば、二代目市川猿之助(猿翁)との関係もあったとされるが、後に結核に冒され、昭和五(一九三〇)年、二十七歳で夭折している)、更にこの前後に、新規の意欲作であった「秋」の執筆情報を得たいという名目で、文から紹介された文の幼馴染み平松麻素子(ますこ)との交際が始まっている(龍之介が、この麻素子と自死の三ヶ月ほど前の昭和二(一九二七)年四月に帝国ホテルで心中未遂を起こしていることは知られた事実である)。私が何故、くだくだしい女性関係をここに記すかは、言うまでもあるまい……私には転句の「老魔」と結句の「脂粉の香」が、それらの龍之介に近づいて来る女人たちの体臭と混じり合った香水や白粉として、確かにリアルに匂って来るからである……。
大正九(一九二〇)年三月三日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六五八)所載。
小島政二郎(明治二七(一八九四)年~平成六(一九九四)年)は小説家で、龍門の四天王の一人。葉書の冒頭には、
島秀才示於予香奩體和歌二首即戲答見贈
とあって、詩が示され、次行下部に、
一笑一笑
とある。前書は訓読すると、
島秀才、予に香奩體かうれんたい和歌二首を示す、即ち戲れに答見して贈る。
である。
・「島秀才」は小島の尊称。
・「香奩體」とは中国の詩風の一体で、主に後宮の婦人や深窓の閨媛などを詠んだ艶麗・艶情・媚態・閨怨を主題とした官能的なものをいう。晩唐の詩人韓渥かんあくは、官能的な艶美の詩が得意で、そうした艶体の詩ばかりを集めた彼の詩集「香奩集」三巻が評判を呼び、後に「香奩体」という詩体の呼称になったものである。同大正九年十一月に発表した「漢文漢詩の面白味」を読むと、龍之介自身がこの香奩体自体に興味を持っていたことが窺われる(リンク先は私の電子テクスト)。
・「答見」とは「(和歌を)見て、その答えとして漢詩を詠み」の意であろう。
「老魔」とは「老獪なる魔」の意である。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「松風名月
song1feng1ming2yue4」の四文字に名曲“松風”を想起するのは、能好きの私だけかもしれない。恋慕の情を美しく歌う夢幻能のイメージのため、詩が表面上いくらか〈おどけ〉ていても、異性を恋い慕う感情の一途さ、真面目さを肯定する重低音は、かすかだけれども、一貫して途切れない。「蒼蒼cang1cang1」日本語では『青々とした』と取るのが普通だが、中国語には『灰色の、広大無辺の』という意味がある。ここは中国語で読みたい。「乍zha4」は突然の意。現代中国語で乍冷乍熱(zha4leng3zha4re4)といえば、急に寒くなったり熱くなったりということ。「脂粉zhi1fen3」。これは言うまでもない。「何知he2zhi1」の口調に、まるで他人のことを紹介するような、真面目腐った照れ隠しの仮面を見る。ただし彼、眼だけは、どうしたって笑っている。内容はもとより、ここでは、詠う彼自身の表情が印象的である。

――堅物の道学者先生。あ、誰か、とな……我鬼先生じゃよ。あのお方、枯淡の境地におられてな。松風名月を、此れ唯一の境涯とばかりに愛でておられたはず。ところがな、実は、妖魔が虎視眈々と狙っておったのじゃ。ある夜のこと、突然、五感をとろかす、その、なんだ……何とも美しいお方が先生の禅室を訪れてな。……何というか……(咳払い)まあ、そういうこと……なんじゃよ――

……先生、私は思うのですが、心身がとろけるようなその甘さと、息もできなくなるその苦しさは、体験してみないと分からない。彼の眼がにやけてしまうことに、私は人間、芥川龍之介を感じ、とても嬉しく思います。実に、『黒い長い髮で縛られた時の心持を知』らない男などつまらない。議論する気も起きません。]

   十九

 偶成

簾外松花落
几前茶靄輕
明窓無一事
幽客午眠成

〇やぶちゃん訓読

  偶 成

 簾外 松花 落つ
 几前の茶靄さあい かろ
 明窓 一事無く
 幽客 午眠 成る

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。この時、龍之介は「秋」の産みの苦しみに只中にあった。以下の①の同日附けの瀧田樗陰宛では、龍之介は同年三月十一日に脱稿した分の「秋」の改稿を申し入れている(鷺年譜によれば『従来の作風からの転換を企図した作品で、それだけに、異常ともいえるほど字句の修正に拘泥し、再三遂行の指示を編集者に出している』とある)。同じ「秋」の改稿要請はこの後にも行っている。更に同月末には「素盞鳴尊」の執筆にも行き悩み、かなり苦しんでいる様子が複数の書簡から見てとれる。一方、①で宛てた佐々木茂索に対しては、同月二十二日宛で、明らかに女性(秀しげ子か?)からの手紙を家人に怪しまれないための、隠蔽を目的とした封書表書きの依頼という如何にも胡散臭い要請を再三(これが初めてではない)行ってもいるのである。
 本詩は全く同一のものが、
①大正九(一九二〇)年三月 十六日附佐々木茂索宛(岩波版旧全集書簡番号六六八)
②大正九(一九二〇)年三月 十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六六九)
③大正九(一九二〇)年三月 十七日附瀧田鉄太郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七二)
④大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛 (岩波版旧全集書簡番号六七七)
⑤大正九(一九二〇)年四月 十一日附松岡讓宛  (岩波版旧全集書簡番号六九五)
に所載する。それぞれ、詩に関わっては、
①「一詩三十分」
②「實は夜遲いのでひるねするのです」
③「と云ふはどうですか徹夜して居ねむりをしてゐる所を詩にしたのです」
④「實は夜原稿を書く爲ひるまくたびれて寢てゐる所だ」
⑤「この頃は新聞へ糞の如き小説を書いてゐるので忙しい 夜起きてひるは大抵寐てばかりゐる」として詩を掲げ、「これはその寐た所を詩にしたのだ」
などと記している。④には後掲する漢詩「二十 乙」及び「二十二」を併載してもいる。なお、②の小島に対しては、その後、三月二十六日附(岩波版旧全集書簡番号六七八)で、やはり「二十二」を送っているのであるが、その前文に、
「題画竹の詩なぞきはどくつていけません 簾外松花落の五絶の萌芽遙に自信があります あの方が悠々としてゐると思ひませんか」
と本詩について自信に満ちた自身の感想を述べてさえいる(「題画竹の詩」は不詳。そうした自作の詩を龍之介が書いて小島に見せたもののようには受け取れる。最も可能性が高いのは次の「二十」の詩であろう。題名が「題空谷居士画竹」とある)。龍之介は、俳句では自信作を一定期間の間に複数の知人や俳句仲間への書簡に添書きしているのをしばしば見受けるが、同一の漢詩を五人に送り(しかもその内の一人である③の瀧田は遙か先輩)、かくも小島に対して本作への評言を別書簡の中で示すというのは、極めて特異であると言ってよい。龍之介は余程、この詩が気に入っており、また、相当な自信作でもあったことは、最早疑いがない。
 ①の宛名人佐々木茂索(明治二七(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は小説家で、龍門の四天王の一人であったが、後、文藝春秋新社(現在の文藝春秋)社長となった(彼が「佐佐木」と書くのは中国語に「々」がなくて表記出来ないことを芥川から脅されたことによると聞き及んでいる)。④の宛名人滝田哲太郎(明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)は出版人で、ペンネームは樗陰ちょいん。総合雑誌『中央公論』の辣腕編集長として、多くの超弩級作家を世に送り出した伝説的人物である。
「茶靄」茶を立てている、その煙。
「幽客」隠者。龍之介は正にその閑適の世界に遊んでいる。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「松花
song1hua1」は現代中国語で卵料理“ピータン”だが、ここはもちろん文字通り松の花。適切か否か自信はないが、松ぼっくりが落ちる、と取った。「幽客you1ke4」は、騒がしい現実世界から一歩遠のいた人。詩人本人と見て良かろう。「無一事wu2yi2shi4」がこの詩の核心。「軽qing1」「幽you1」は、「無一事」の周囲を回る衛星。これは“一瞬に永遠を見る”という一種の禅味を歌った詩のように思う。時の隙間に落ち込み、永遠という底なしの穴がポッカリと口を開けているのを目の当たりにした。そして、それだけを詩世界として定着したのだ。ところで、中国の人は傾向としてこのような詩を書いてきただろうか。私ごときが無責任な発言をしては叱られようが、多くの場合、“音がして、静かになった”という事実に加えて、“だから何なんだ”という連想のきっかけを、少しでも提供するような気がする。例えば、“あの友はどうしているか”とか、“故郷にはいつ帰れるのか”とか。少なくとも人間世界が、または生身の人間の人生が、どこかで顔を覗かせるのではないか。例えば王維の鹿柴。『空山不見人、但聞人語響、返景入深林、復照青苔上』。静けさは、芥川と確かに似ている。でも少し違う。どこが……。王維の詩には遠くに人がいる。人間世界のざわめきが、ほんの少しだが、心に聞こえる。だからこそ、静まり返った深い森の青い苔が生きてくる。人間世界を意識の片隅に据えつつ描かれた、奥深い自然の佇まい。これに対して、龍之介の詩。確かに茶立ての湯気は、人の活動の結果かもしれない。窓という人工物も目に入る。しかし、ともに一現象としての添え物に過ぎない。詩人は、人間世界を経由せずに、一気に時の隙間に落下して行く。これら二篇の詩、どちらが上等という議論ではない。それぞれ独自の深みに達しており、比較すること自体ナンセンスだ。こういう話になると、私はいつも京劇と能の差異を思う。ひいては、中華料理と日本料理の差異にも思いを致す。ちょっと不謹慎だろうか……。

――カサッ……。松かさの落ちた音。そして、静寂……。何時の間にか、うたた寝をしてしまったようだ。茶立てのかすかな音。白い湯気も先ほどと同様、悠然と立ち上っている。窓を見上げれば、高い枝のそのまた遥か上方に、藍くて深い、底なしの、秋――

[やぶちゃん補注:これには以下の前文が附されてあった。そのまま引用する。]
評釈を記した後で解説を拝読し、気づきました。最後の「成」。これは眠りに落ちたということなのですね。松かさの落ちる音を聞き、茶を立てているその湯気を眺め、そして眠りに落ちる。そう受け取れば、芥川の『悠々としている』という表現との間に、違和感を感じません。それに、仮に目覚めたと理解すると、眠っているうちに様々な出来事があったという風にも受け取れ、不自然です。ところが、私は初見で、目覚めたと取ってしまいました。恐らく読み違えたのです。眠りが成る。眠りが完成する。眠りという行為をしっかり完了、完結したのだから、目覚めたのだろうと。その結果私は、『悠々』という感覚ではなく、世界の“からくり”を垣間見てしまった時のような軽い戦慄を覚えました。誤読を犯したらしいとはいえ、自分で決めた規則です。お恥ずかしいですが、以下の通り、そのままご報告いたします。]



   二十 甲

 題空谷居士画竹

水邊幽石竹幾竿
細葉疎枝帶嫩寒
唯恐新秋明月夜
無端紙上露團々

〇やぶちゃん訓読

  空谷居士の画竹に題す

 水邊 幽石いうこく 竹 幾竿いくかん
 細葉 疎枝 嫩寒どんかんを帶ぶ
 唯だ恐る 新秋明月の夜
 紙上 端無はしなくも 露團々つゆだんだん

     二十 乙

   題空谷居士墨竹

  水邊幽石竹三竿
  細葉疎枝帶嫩寒
  唯怕淸秋明月夜
  無端紙上露團々

  〇やぶちゃん訓読

   空谷居士の墨竹に題す

  水邊 幽石 竹 三竿
  細葉 疎枝 嫩寒を帶ぶ
  唯だおそる 淸秋明月の夜
  紙上 端無くも 露團々

     二十 丙

   題空谷居士墨竹

  水邊幽石竹三竿
  細葉疎枝帶嫩寒
  唯恐淸秋明月夜
  無端紙上露團々

  〇やぶちゃん訓読

   空谷居士の墨竹に題す

  水邊 幽石 竹 三竿
  細葉 疎枝 嫩寒を帶ぶ
  唯だ恐る 淸秋明月の夜
  紙上 端無くも 露團々

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
「甲」は大正九(一九二〇)年三月十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七〇)
「乙」は大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛(岩波版旧全集書簡番号六七七)
「丙」は大正九(一九二〇)年四月四日附空谷先生宛(岩波版旧全集書簡番号六九二)
に所載する。「甲」の「画」はママ。「丙」が決定稿である。それぞれ、詩に関わっては、
「甲」には、
「又一つ拵へたから差上げます 忙中詩で半日つぶしました」
と後書きし、
「乙」には先行する「十九」と後掲の「二十二」の後に載せ、詩題は詩の後に「これは題空谷居士墨竹と號する詩だよ」と添書きしており、更に、
「どうもこんな事をして遊んでゐる方が小説を書くより面白いので困る」
と、漢詩創作への没頭ぶりを述懐している。
「丙」は、謂わば献じる相手への真正の決定稿である。これは書簡全体を以下に示す。


屏風早速御揮毫下さいまして難有く存じます 結構な御出來で皆大さう悦んで居ります
それから墨竹も厚く御礼申上ます あれでは唯今こんな詩を作りました 御笑ひまでに御覧下さい
     題空谷居士墨竹
   水邊幽石竹三竿  細葉疎枝帶嫩寒
   唯恐淸秋明月夜  無端紙上露團々
あの画には水石ともありませんが便宜上詩の中へは採用しました この邊が素人藝の妙と御思ひ下さい さもないと到底詩などゝ号する代物らしくも思はれませんから
いづれ御礼に參上しますが先はとりあへず感佩の意だけ手紙で申上げます 草々
   四月四日夜   我 鬼 生
  空 谷 先 生 侍史

この書簡によって、本詩が空谷先生から竹を(竹だけを)描いた水墨画を贈られたことへの謝意を込めた贈答詩であることが判明する。
 空谷先生は医師下島勳しもじまいさお(明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものし、空谷と号した。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。
「幽石」苔むした深山の岩石。
「嫩寒」「嫩」はもと、若いという意から、総て生じたばかりのものを言い、これで薄ら寒さの意である。
「端無くも」何の契機もなしにことが起こる・思いがけなく・偶然にの意の「端無く」と訓じてもよいが、ここはその強調形の本邦の常套句である「はしなくも」で訓じた。
「團々」露が多く集まっているさま。
 なお、邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の本詩の『評価』には、転結句を『生き生きとした表現』とし、『このような想像力に富んだ詩句で真に迫る画の素晴らしさを歌い、詩画一体の世界を演出している』と評されながらも、『ただし、中国では「三」という数字が神聖視されてはいるが、詩の象徴性を重視し、読者の想像力を要する伝統的な詩では「三竿」や「幾竿」のような具体的な言い方は好まれない』とあって、中国人と日本人の感覚の相違を感じさせて極めて興味深い。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:[やぶちゃん補注:今回は彼からの三通の書信をそのままに順次記す。]
〈第一信〉
 先生、評釈文を書き終えてから書き下しと解説を拝見しました。頭を殴られた思いです。詩とどう戦ったかという問題ではなく、はじめから試合のリングへ行く道を間違えて、救護室にでも行ってしまった気分です。取り繕って白々しい評釈文を新たに書くなど、今はとてもできません。どのように対処したらよいか、先生のご指導をお願いいたします。
 題名から判断すれば画に触発されての作であると分かる。しかし、この作品には苦しんだ。稀に見る大変な曲者である。起承句の字面だけ見ていると、負のイメージが湧いてくる。「幽石
you1shi2」は墓石と言う意味があるが、ここは庭石といった意味だろう。「嫩寒nen4han2」。嫩は若い。軽度の寒気のことだ。ちなみに奈良の若草山は嫩草山とも表記する。起句、水辺に庭石があるまではいい。しかし竹はたった三本だけ。細い葉と疎らな枝、それから白けた寒々しさ。まさか、画をけなしているのか……。更に困ったのが転結句だ。「唯恐wei2kong3」“唯、恐れるのは……”というが、何を恐れるのか。「団団tuan2tuan2」は丸くクルリと、というニュアンスをあらわすから、澄んだ秋の月夜、キャンバスの上に“まんまる”な物が現れることを恐れるのだ。やはり“まんまる”な月なのだろうか。そうとしか思えぬ。「露団団lu4tuan2tuan2」。どうも何か能天気かつ皮肉な表現だ……。方策は尽きた。「唯恐」という表現から見て、起承句はやはり肯定的な内容、転結句はどちらかというと否定的な内容のはずだ。もう開き直って、私の世界が共鳴するように、正直にイメージを作ってみるしかなかろう。

――池と石の傍らに竹が少々。枝も葉も疎ら。侘び、ほそみと言ってもよい淋しい景色。しかし、よく考えれば、世界、そして人生というのは、そういうものではないか。そういう意味でこれは世界を的確に捉えた画だとは言えまいか。ところでひとつお願いなのだが、大空というキャンバスの上に、伸び伸びと何の不足もない、“まあるい”月など、間違っても描かないでいただきたい。そんな罪作りな虚構、残酷な無邪気で、この画に自足し共感している私の真実を、決してぶち壊さないでくれ給え――

〈第二信〉
 先生、往生際悪いのですが、敗因を列挙させてください。
・起承句を肯定的に捉えられなかったこと。邱氏の指摘されるように、具体的な数字に引っ張られて(「幾」でも同じだったろう)、侘しい世界しか見えなかった。
・結句の露を「つゆ」と捉えられなかったこと。月→露と来れば、月が現われのだと思う。そもそも月夜、画の上に玉のような露を降ろすというのが、イメージできない。また団団も中国語から言えば、露よりも月と相性の良い言葉である。
 先生、以下、最後の捨て台詞です。私はまだ納得できていません。龍之介は本当に心から画に感心して詩を作ったのでしょうか……。どうも私にはストレートな感動が伝わってこないし、言葉遊びをしているようにも感じられます。不遜な感想を、どうかお許しください。

〈第三信〉
 先程の敗因列挙メール、読み返すと、生意気すぎです。イライラが募っているだけで、単なる恥の上塗りでした。申し訳ありません。謙虚に反省したいと思います。すみませんでした。]



   二十一

寂兮舞雩路
亞柯與風蘆
頽兮恩顧士
黄雲呼鴟哉

〇やぶちゃん訓読

 寂たり 舞雩ぶうの路
 亞柯あかたり 風蘆ふうろ
 たいたり 恩顧の士
 黄雲ただていよばふのみ

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
大正九(一九二〇)年三月二十二日附佐々木茂索宛(岩波版旧全集書簡番号六七四)
所載。以下に書簡全文を示す(詩中にある圏点はルビではない形で附した)。

 古詩一首
 〇
寂兮舞雩路
  〇
亞柯與風蘆
 〇
頽兮恩顧士
    〇
黄雲呼鴟哉
 註曰

〇ノ虛字をとるとセキフウウロ、アカブロ、タインコジ、オウウンコジとなる 非凡手 自感歎久之

「虛字」は中国語の実字(名詞・代名詞・形容し・動詞・副詞)に対して、前置詞・接続詞・終尾詞・感動詞などを言う。ここで用いられているのは概ね、何れもリズム調えたり、感動を表現する助字である。「セキフウウロ、アカブロ、タインコジ、オウウンコジ」の内、「セキフウウロ」と「アカブロ」は「赤風呂」で、元は佐々木茂索の兄の経営する古道具屋の屋号とあるが、佐々木はこれを自身の俳号としていた。更に、正式な漢字表記などは確認出来ないが、以下の「タインコジ」「オウウンコジ」というのも佐々木の俳号・雅号えと考えて差し支えあるまい。「非凡手 自感歎久之」は「非凡なる手 みづから感歎之れ久しうす」と読んでいよう。以上の書信から分かるように、これは完全なアナグラムを鏤めた戯詩である。
「舞雩」「雩」は、雨乞いを意味し、雨乞いの祀りには舞楽を伴ったことから、請雨の祈誓の儀式を「舞雩」と呼んだ。これは「論語」先進篇の「浴乎沂、風乎舞樗、詠而帰」(に浴し、舞雩に風して詠じて帰らん)に基づく。「論語」の当該条については、宮武清寛氏のブログ「論語を学ぶ旅〈大聖人孔子の故郷への旅〉(18)舞雩台」に詳しい。そこでは伊與田覺いよたさとる氏の注が引かれてあり、「舞雩」を「天を祀って雨乞いの祭りを行ったところ。樹木の茂る景色のよい台地。」とある。また、この場面では孔子の弟子である子路・曽皙そうせき冉有ぜんゆう・公西華の四人をトリック・スターとして彼の政治哲学が語られているのであるが、その中の一人、公西華の名は赤である。龍之介は佐々木の雅号とこの公西華を引っ掛けている、即ち、自らを孔子に、龍門の四天王をその弟子たちに擬えているようにも読めないことはない。
 また――この手紙の最後は、「十九」で述べた通り、
  二伸 ほんたうに狀袋を三四枚書いて送つてくれたまへ たのむ たのむ
と、明らかに女性(秀しげ子か?)からの手紙を家人に怪しまれないための、隠蔽を目的とした封書表書きの依頼という如何にも胡散臭い要請が記されてあるのである。さすれば、このアナグラムの戯れ事も、その後ろめたくおぞましい要請を佐々木に求めることへの含羞を孕んだ、多分にいやらしいくすぐりの贈答詩とも読めるのである。但し――いやだからこそか……この詩、何やらん、不吉な印象の古詩ではある……。
「亞柯」「亞」は少ない、「柯」は枝で、疎らな枝。
「風蘆」風に戦ぐ葦。
「頽」は思いに沈む様子。邱氏は以下の『祈祷師』が雨を請ずることが出来ず、『虚しい思い』に沈んでいるばかり、といったニュアンスで訳しておられる。
「恩顧士」邱氏は『人々に厚く信頼された』請雨の達人と讃えられた『祈祷師』とされる。
「黄雲は鴟を呼ふのみ」「鴟」は①鳶。②梟。木兎。③「山海経」に現われる怪鳥などの意があるが、ここは不吉で邪悪なる存在としての梟であろう。黄金色に輝く雲は、肝心の雨を齎すことなく、ただ不吉な梟を呼ばうばかり、といった意味であろう。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:今回は、例外として、書き下し文と解説を拝読してから感想を記す。知人の俳号・雅号を織り込み、意味としてのまとまりを維持しながら一篇の定型詩を作る。常人のなせる業ではない。詩人の該博と機知には、ただ驚くばかりだ。同時に、ついこの間まで、日本の文人がこういう芸当をやってのけることができたということに、複雑な感慨を抱いてしまう。この詩の呪術的で何やら気味の悪い内容も非常に印象的だが、私はここで特に深く語るものを持たない。
 ここでは、この詩に因み、日頃感じていることをひとつ書き記したい。虚字のうち、承句と結句の同じ位置に二度出てくる置き字の「兮」についてである。この字、特に具体的意味を持たない。日本語による書き下し文においては「~タリ」と読んだり、「~ヤ」と読んだりする。無視してしまうことすらある。しかし原語では、詩や文章の朗誦の際にリズムを整える大切な役割を果たし、音律上の素晴らしい効果を発揮する。発音は
xi1(シー)。例をふたつ挙げたい。まず“垓下歌”。『力抜山兮気蓋世、時不利兮騅不逝、騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何』(li4ba2shan1xi1qi4gai4shi4, shi2bu2li4xi1zhui1bu2shi4, zhui1bu2shi4xi1ke3nai4he2, yu2xi1yu2xi1nai4ruo4he2)。置き字のxi音と、時折出てくるshi音で、要所が引き締められた雄渾なリズム。一度味わってしまうと、書き下し文をまじめに朗誦する勇気が失せてしまう。「チカラハヤマヲヌキ~」などといくら力んでみたところで、一代の英雄項羽の褌が緩んでしまうのだ(尤も項羽は褌など締めていなかったが)。それから、蘇軾の“前赤壁賦”。『……桂棹兮蘭槳、撃空明兮溯流光、渺渺兮予懷、望美人兮天一方、……』(gui4zhao4xi1lan2jiang3, ji1kong1ming2xi1su4liu2guang1, miao3miao3xi1yu2huai2, wang4mei3ren2xi1tian1yi4fang1)。長い文章作品の冒頭から四分の一あたり。舞台設定が立ち現れ、景物が作者の流麗な語りによって一通り描写されたところで、鑑賞者の耳にこの「~xi1(シー)~、~~xi1(シー)~~」という舟客の歌声が響く。“はるかな私の想いよ、大空の彼方におられる心の中のあの人よ……。” 人の感情を直接発露する内容はそこまでの文中には出て来ないので、かき立てられてきた鑑賞者自身の憧れも、ここで初めて、大きく外に向かって解放される。通常、ここでのxi1は、十分に詠嘆の語気が添えられ、一拍半から二拍分の長さで発せられる。その効果は実に測り知れない。このように、原語の音律に陶酔してしまうとき、私はいつも思うのだ。中国伝統文学の魅力を、これまで日本人は半分しか味わって来なかったのではないかと……。]



   二十二 甲

 春 陰
似雨非晴幽意加
輕寒如水入窓紗
室中永昼香煙冷
簷角雲容簾影斜
靜處有詩三碗酒
閑時無夢一甌茶
春愁今日寄何處
古瓦樓頭數朶花

〇やぶちゃん訓読

   二十二 甲

  春 陰
 雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意いうい 加はる
 輕寒けいかん 水のごとく 窓紗さうさに入る
 室中しつちう 永昼えいちう 香煙冷かうえんさむ
 簷角えんかく 雲容うんよう 簾影斜れんえいななめなり
 靜處せいしよ 詩有り 三碗さんわんの酒
 閑時かんじ 夢無く 一甌いちおうの茶
 春愁しゆんしう 今日こんにち 何處いづくにか寄す
 古瓦こぐわ 樓頭ろうとう 數朶すうだはな

     二十二 乙

   春 陰
  似雨非晴幽意加
  輕寒如水入窓紗
  室中永昼香煙冷
  簷角陰雲簾影斜
  案有新詩三碗酒
  牀無殘夢一甌茶
  春愁今日寄何處
  古瓦樓頭數朶花

   〇やぶちゃん訓読

     二十二 乙

    春 陰
   雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意 加はる
   輕寒 水のごとく 窓紗に入る
   室中 永昼 香煙冷く
   簷角 陰雲 簾影斜なり
   案ずる有り 新詩 三碗の酒
   しやうする無く 殘夢 一甌の茶
   春愁 今日 何處にか寄す
   古瓦 樓頭 數朶の花

     二十二 丙

   春 陰
  似雨非晴幽意加
  輕寒如水入窓紗
  室中永昼香煙冷
  簷角重雲簾影斜
  案有新詩三碗酒
  牀無殘夢一甌茶
  春愁今日寄何處
  古瓦樓頭數朶花

   〇やぶちゃん訓読

     二十二 丙

    春 陰
   雨に似ず 晴るるに非らずして 幽意 加はる
   輕寒 水のごとく 窓紗に入る
   室中 永昼 香煙冷く
   簷角 重雲 簾影斜なり
   案ずる有り 新詩 三碗の酒
   牀する無く 殘夢 一甌の茶
   春愁 今日 何處にか寄す
   古瓦 樓頭 數朶の花

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
①「甲」は大正九(一九二〇)年三月二十二日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七五)
②「乙」は大正九(一九二〇)年三月二十三日附池崎忠孝宛(岩波版旧全集書簡番号六七七)
③「丙」は大正九(一九二〇)年三月二十二日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号六七八)
に所載する。①と③は同じ小島宛であり、「甲」を推敲したものを「丙」として示したものである。但し、次の引用から分かるように、この詩は最終句に小島の俳号である「古瓦」を詠み込んだ、一種の贈答詩であるからではある。それにしても、その他の以下の評言からは、龍之介にとってはこの七言律詩が相当な自信作であったことを窺わせる。
①では、冒頭、
古瓦樓の詩を一つ獻上
この詩蘇峯學人などよりうまいと思ふがどうでせう
七律が一つ出來ると甚得意です
とあり、また「二伸」(詩の前にある)では小島に
詩を讀む氣があつたら「絶句類選」と云ふものから御始なさい 好い絶句ばかり澤山集つてゐます 時代淸まであります よく行はれた本だから何處にでもありませう 高くつて二三円です(薄葉刷はもつと高い)安い活字本は五十錢位
と漢詩学習指南もしている。
・「蘇峯學人」はジャーナリスト徳富蘇峰(文久三(一八六三)年~昭和三二(一九五七)年)。彼は肩書に漢詩人とあるものもあり、漢詩の弟子として政治家後藤新平が挙がるほどである。
「絶句類選」津阪孝綽編輯、斎藤拙堂評語になる絶句類選評本。唐から清までの七絶三千首を、二十一類に分けて編集、欄外に簡単な批評文を添えた書。津藩の儒者津阪東陽(延享元・寛保四(一七四四)年~文政八(一八二五)年。孝綽は名)が文政七年に完成したものの、生前には刊行に至らなかったと思われ、子息の津阪有功らの手によって刊行に至ったのは死の三年後の文政十一年のことであった。 その後、同じ津藩の儒者斎藤拙堂(寛政九(一七九七)年~慶応元・元治二(一八六五)年。正謙は名)が主な詩に批評を書き加えた。この批評文を加えた書は、「絶句類選評本」として文久二(一八六二)年に刊行されたが、龍之介が所持し、小島に勧めているのは、恐らく明治一四(一八八一)年双玉書楼翻刻になる二冊本と思われる。本記載で参照した小林昭夫氏の「らんだむ書籍館」の「6」に画像と詳細な解説がある)。
・「薄葉刷」「うすようずり」と読む。薄手の鳥の子紙・雁皮紙で出来た江戸末期から明治初期の和書の装幀の一種。
②では、この前に「十九」を載せた後に既に述べた通り、
「實は夜原稿を書く爲ひるまくたびれて寢てゐる所だもう一つ序に披露する」
として本詩を掲げる。後に、
古瓦なる人間に寄せた春陰の詩だが井ノ哲先生の七律より少しうまいと云ふ自信がある如何もう一つ
として更に三つ目の詩「二十 乙」を載せて、これも既に述べたが、
どうもこんな事をして遊んでゐる方が小説を書くより面白いので困る
と記している。
・「井ノ哲」「いのてつ」と読む。国家主義者であった哲学者井上哲次郎(安政二(一八五六)年~昭和一九(一九四四)年)の通称。東京帝国大学で日本人初の哲学教授(明治二十三(一八九〇)~大正一二(一九二三)年)となった(
“metaphysical” の訳語「形而上」は彼になるもの)。文学史では近代詩集の濫觴として必ず覚えさせられる(読んでも頗る退屈な非詩的内容なのに)「新体詩抄」を、外山正一・矢田部良吉らとともに明治一五(一八八二)年に刊行、「孝女白菊詩」などの漢詩でも有名で、当時、現役の東大教授である。その彼より「少しうまい」とはこれ、龍之介のおちゃらけでは、毛頭、ないと言うべきである(以上はウィキの「井上哲次郎」を参考にした)。
③は、これ先に示したが、
題画竹の詩なぞきはどくつていけません 簾外松花落の五絶の方が遙に自信があります あの方が悠々としてゐると思ひませんか
と「十九」への自信を覗かせた直後に、
律は改めました
として③を配するのは、これ、我々が想像する以上の自信と読まねばなならぬ。最後に、
律の三、四句、五、六句は前後とも聯句だから一句だけ褒ちやいけません 褒めるなら一しよに御褒めなさい 一句だけぢや褒則貶に成るんだから作者は閉口します
どうも詩や俳句の方が小説を書くより氣樂で泰然としてゐて、風流なやうです
と記している。
・「褒則貶」は「ほうそくへん」と読んで居よう。毀誉褒貶からの造語。
これ、何だか人を小馬鹿にしたような謂いであるが、実は①の書簡の最後には詩の次行直下に「我鬼散人」とあって改行して「古瓦先生 淸鑒」とあるのであが、これは推測ながら、
小島は①の頷聯(三・四句)及び頸聯(五・六句)めの、それぞれの片句(若しくは一部)を、その返信で褒めたのではなかったろうか?
更に、龍之介が改めた箇所を見ると、小島が褒めた一箇所は、対句部分で唯一改稿しなかった頷聯の前句(四句目)、
簷角陰雲簾影斜
であったという推理が成り立つ。
 なお、この最後の芥川の口ぶりは考えて見ると、詩人や俳人を売文とする連中への皮肉のニュアンスも感じられぬでもないが、寧ろ、それだけ、この時期の龍之介の産みの苦しみの甚だしかったことを、再度認識すべきではあろう。
「幽意」幽意閑情などと使い、幽遠で奥深く暗い静謐さをいう。
「永晝」日永。春の長い昼の間の意。
「簷角」軒の角。軒先。
「閑時 夢無く」邱氏は『目が覚めると』と訳しておられる。
「甌」こしき。土器製のかめのような形のもので、上部が大きく、間がくびれてその下部は三脚又は四脚となっており、ものを煮るのに用いた。
「數朶の花」邱氏はこの尾聯(七・八句)は中唐の劉禹錫の「春詞」に影響されたものであろう、と注されておられる。「唐詩三百首」に載る。

   春 詞
  新粧宜面下朱樓
  深鎖春光一院愁
  行到中庭數花朶
  蜻蜒飛上玉搔頭

  〇やぶちゃん訓読

    春 詞
   新粧 おもてよろしく 朱樓を下る
   深く春光に鎖ざす 一院のしう
   行きて中庭に到り 花朶かだを數ふ
蜻蜒せいえん 飛上ひしやうす 玉搔頭ぎよくさうとう

・「花朶を數ふ」恋の花占はなうらであろう。
・「蜻蜒」オニヤンマ等の大型のトンボ。
この龍之介の詩の尾聯は、詩人の「春愁」を寄せる対象を求め(「詩経」の昔から「有女懐春」である)ており、それを受けるとすれば、「春詞」のインスパイアから行間に花占が潜むであろう。邱氏もここを『古瓦楼頭で花びらを数えればわかるであろう』と訳されておられる。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:丙の白文と対峙。芥川龍之介には珍しい律詩。意気込んで評釈に挑んだはいいが、なかなかイメージが立ち現れない。またまた苦戦。各句の意味は取りやすいのだが、意識して処理しないと、それらがなかなか連結しないのだ。この詩を読んでいると、彼の短編小説の一節を読んでいるような気になる。全ての文章が、他では代替のきかない意味と、一定以上の緊張を宿している。冴えわたった世界。この詩も何か似ている気がする。八つの句、意味の上でも、字面の上でも、弛緩したものは見当たらない。相応の重さ、意味の展開を持っている。だから、胆力の足りない私には、イメージ統合作業が手に余るのかもしれない。悪口を言っているのではない。その逆である。全てのイメージが繋がったときに感じる輪郭の鮮やかな詩世界は、揺らぐことのない強固な建築物を思わせる。それだけではない。淋しさ、希望、憧れ、孤独、そして明日へと投げかけられた静かな視線など、複雑な感情の縺れが託された計五十六文字の微妙な連携には、ただ驚かされるばかりだ。
 「永昼
yong3zhou4」は文字通り、永い昼、春の日永。「香煙xiang1yan1」は香を焚く煙というのが一般的だが、現代中国語ではタバコの意。“敷島”を好んでいたという彼の詩なら、そう取っても必ずしも叱られないかもしれない。「一瓯茶yi4ou1cha2」。“茶瓯”で湯飲みの意だから、一杯の茶。「花hua1」、詩意からすれば梅とも取れる。しかし梅は、やはり王安石の詠った『凌寒独自開』ように、厳しい寒さの中にあってほしい。すでに日が長くなっている時期、軽寒が室内に忍び入るくらいの時期の春の花で、かつ屋根の高さに見えるなら、やはり桜なのか。ただし、「数朶shu4duo1」というからには、豪華な一本桜ではなく、控えめな幾枝。なんと、もの淋しい……。灰色の空をバックに浮かび上がるこの「数朶」に託した彼の心は、寂寥か。いや、それだけではない。かすかな希望も、私には見える……。最終句、読者の視線は斜め上方に導かれ、春の曇り空を背景とした淋しい可憐な花の姿が、望遠でフォーカスされる。……

――春の陰鬱な曇り空。書斎には薄ら寒い午後の冷気が忍び込む。私はタバコをふかしつつ、もう何時間も格闘を続け、酒神の力も借りつつやっと一篇の詩をものした。寝床での夢ももう見飽きた。今はただ一杯の茶に、蒼ざめた現実世界を見る。私のこの愁いを、一体どこに投げ掛ければいいというのか。ああ、窓の外、あの屋根のすぐ上、陰気に押し黙った灰色の空に浮かぶ可憐な数朶の花よ――

明暗複雑に入り混じった作者の静かな心境は、最終句の描くシーンで、読む者の心に焼き付けられると言ってよい。]


   二十三

茅簷帶雨燕泥新
苔砌無人花落頻
遙憶輕寒鳧水上
長隄楊柳幾條春

〇やぶちゃん訓読

 茅簷ばうせん 雨を帶びて 燕泥新たなり
 苔砌たいせい 人無く 花落つること頻り
 遙かに憶ふ 寒鳧かんすゐ 水上すゐしやうに輕きを
 長隄ちやうてい 楊柳 幾條いくでうの春

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
大正九(一九二〇)年三月三十一日附恒藤恭宛(岩波版旧全集書簡番号六八六)
恒藤恭は井川恭のこと。大正二(一九一三)年に第一高等学校第一部文科卒業後は京都帝国大学法科大学政治学科へ進学、同大学院を退学後、この前年大正八年に三十一歳の若さで同志社大学法学部教授に就任していた。大正五(一九一六)年十一月に恒藤規隆(日本最初の農学博士の一人。沖大東島(ラサ島)で燐鉱石を発見してラサ島燐礦合資会社(後のラサ工業)を設立人した)の長女まさと結婚、婿養子となって恒藤姓となっている。この頃の恭はカント派の影響を受けて法哲学に関心を持つようになっており、河上肇・末川博らとも交流している(以上はウィキの「恒藤恭」に拠った)。
に所載。書簡冒頭に載り、頭には「乞玉斧」とある。また、末尾には、
二伸 その後御無沙汰した 僕病氣がちで困る 風なども去秋から殆ど引き續けだ 松岡は魚眼眞珠株式會社社長になつた 成瀨は支那へ遊びに行つた 菊池は胃病で困つてゐる 久米はよく働き遊んでゐる 皆さん御變りないだらうね 僕も近々父になる 何だか束縛されるやうな氣がして心細い 拙書一册送る 始の方を少しよんでくれ給へ 頓首
とある。「拙書」は前出の作品集「影燈籠」。「始の方」ということになると、「蜜柑」「沼地」・「きりしとほろ上人伝」辺りを指すことになる(リンクがあるものは私の電子テクスト)。「僕も近々父になる」この十一日後の四月十日に長男比呂志が誕生(戸籍上は三月三十日生で入籍している)。なお、詩とは直接拘わらないが、邱氏の解説には、この「松岡は魚眼眞珠株式會社社長になつた」について、非常に興味深い事実が記されているので引用する。『「松岡」とは友人の松岡譲を指すが、「魚眼真珠株式会社」について、新全集の「注釈」は「未詳」としている。実は「魚眼真珠」も中国古来の熟語「魚目混珠」に由来するもので、「にせもの」という意味である。したがって、これが戯れ言であり、芥川流のユーモアなのである。』あるのである。「魚目混珠ぎょもくこんしゅ」とは、魚の目玉と珠玉がよく似ていることから、本物と偽物が入り交じっていて紛らわしい喩えである。勿論、私もこの邱氏の解明には驚いた(ただ、龍之介のこうした悪戯好きはよく分かっているので、直ぐに腑には落ちた)が、アカデミックな国文学者として真面目に調べた新全集の注釈者をさえも困らせて――龍之介は今も悪戯っぽい目で、僕らを騙し続けているのである……
「茅簷」茅葺きの屋根。
「燕泥」詩語で燕の巣のこと。
「苔砌」「砌」はきざはしの下の石畳であるから、これは、びっしりと苔生しているそれを描写し、人の訪れの絶えていることをいう。
「寒鳧」「鳧」は野鴨。川に浮んだ寒そうにしている羽毛のほこほことしたカモや水鳥の類いをイメージしてよいが、これは同時に固有名詞としての京の賀茂川のことを指す(日本漢詩では「賀茂川」を「鴨水」としたりする)。ここは従って、新春の未だ寒々とした賀茂川の水の流れを同時に映像化する必要がある(但し、そのスケールは実は、架空の大陸の「鳧水」という河にも変換され、あたかも隠者の棲家とする不思議な山水が、そこに現前するように龍之介は創っているに違いない)。……私などは、つい、ここから東へと目が移って、鴨東こうとう――祇園の花街が視界の隅の方に見えてしまうのであるが。……
「長隄」賀茂川の長堤。今の賀茂川堤や高野川堤は、合わせて七百本を越える桜並木の名所となっている。但し、これも西湖の知られた白堤はくてい等が、自動的にオーバー・ラップされて、非日本的(だからここは「楊柳」でなくてはならない)な広角のランドスケープが浮かび上がってくるようになっている。起承句の隠者の庵の描写――それは京の山間の隠れ寺のようでもある――から、転結句では、京で読む恒藤の意識に一度、フォーカスを合わせたものが、そこから再びぼやけたかと思うと――広大無辺の静謐なる大陸的景観へと変容(メタモルフォーゼ)する――かく繫げてゆく龍之介の手腕は、やはり只者ではないという気がする。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「砌
qi4」は建築用の煉瓦、またはステップになっているところ。ここはステップか。「鳧fu2」は水鳥の一種。辞書にはマガモとある。他に特に難しい語はないだろう。屈折した表現もない。結構自体にも、特段指摘したい新機軸はない。とても素直な詩だ。ブツブツとひとり口の中で朗誦、反芻すること数十回、イメージが少しずつ膨らんでくる。この懐かしさの原因は何だろう。ひとつは湿り気だ。起句の「雨yu3」と「泥ni2」、承句の「苔tai2」、転句の「鳧」と「水shui3」。水気のある概念が三句に散りばめられている。しかも全て春の陽光を宿した柔らかい水。人は、どうしても水気のあるものに、生き物としての郷愁を感じるようにできているらしい。もうひとつは、柳の緑が眩しい春の堤。この詩の終着点の景色。私が連想したのは中国の詩人ではなかった……。そう、蕪村だ。「春風馬堤曲」。淀川水系の堤で、帰省途上の美しい娘と邂逅し、これに触発されて詠った春の歌。生命の躍動と郷愁と一抹の物寂しさが交じり合った不思議な吟行。そうして蕪村といえば忘れられないのが、「北寿老仙を悼む」。親しくしてくれた老人の死を悼む詠嘆のうた。江戸時代の詩だとは、俄かには信じられないロマンティックな調べ。この詩を読む私の胸には、濃厚に「春風馬堤曲」が、そしてどこかでかすかに「北寿老仙を悼む」が流れる。

――春雨に洗われた茅屋の軒下にも、いよいよ燕の夫婦が帰ってきたね。誰も見ていなくたって、ほら、苔の緑も、盛んに散っていく花も、生命をちゃんと祝福してくれているんだよ。鴨が水の上で余寒に耐えるようにしていたのが、もうかなり昔に思われる。手前からずうっと彼方へ、春霞の中に消えていく堤の柳の並木。時折そよ風に揺れる無数の葉のひと筋毎に春が宿っているのが見えるだろう。いつかは失われる生命。いや、しかしそんな定めなど、今は忘れてしまおう。さあ、あらゆる生命よ。春が来たのだよ。今このときを精一杯、そして思い切り味わおうではないか――

《以下、やぶちゃん補記》蕪村の「北寿老仙を悼む」は私の大好きな俳体詩である。どうしても以下に示しおきたい。

 北壽老仙をいたむ
君あしたにぬゆふべのこゝろ千々ちぢ
何ぞはるかなる
君をおもふて岡のべに行つ遊ぶ
をかのべ何ぞかなしき
蒲公たんぽぽの黄になづなのしろう咲きたる
見る人ぞなき
雉子きぎすのあるかひたなきになくきけ
友ありき河をへだてゝ住みにき
へげのけぶりのはとうちちれば西吹にしふく風の
はげしくて子笹原眞をざさはらますげはら
のがるべきかたぞなき
友ありき河をへだてゝ住にきけふは
ほろゝともなかぬ
君あしたに去ぬゆふべのこゝろ千々に
何ぞはるかなる
我庵わがいほのあみだ佛ともし火もものせず
花もまいらせずすごすごとたたずめる今宵は
ことにたうとき
                 釋蕪村百拜書

「北壽老仙」俳人早見晋我はやみしんが(寛文一一(一六七一)年~延享二(一七四五)年)。通称は次良左衛門、名は義久、北壽は号。下総結城の結城十人衆と称された代々名主を勤めた素封家で、酒造業を営むかたわら、榎本其角や佐保介我の門下として結城俳壇の中心人物として活躍、自宅に私塾を開いたりもした。与謝蕪村とも親交をむすび、七十五歳で亡くなった晋我の追善集「いそのはな」に蕪村(彼は享保元(一七一六)年生であるから、当時は未だ二十九歳であった)はこの俳体詩を献じ、師とも仰ぎ、兄とも慕った晋我への、その万感の思いを表現したのであった。]



   二十四

窮巷賣文偏寂寞
寒厨缺酒自淸修
拈毫窓外西風晩
欲寫胸中落木秋

〇やぶちゃん訓読

 窮巷 文を賣りて 偏へに寂寞せきばく
 寒厨かんちゆう 酒を缺きて おのづから淸修せいしう
 がうる 窓外 西風の晩
 うつさんと欲す 胸中落木の秋

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。丁度この頃、龍之介は上野の小料理屋清凌亭で仲居をしていた田島稲子(後の作家佐田稲子)と出逢って親交を結んでいる(自死の直前には自殺未遂経験のあった彼女に自殺決行当時の心境を問うている)。
大正九(一九二〇)年五月十一日附與謝野晶子宛(岩波版旧全集書簡番号七一五)
に所載する。詩の前に、鉄幹が「詩を作られる事を知」ったのは「愉快です」とあって(この「詩」とは漢詩のことと思われる)、
この頃人の書畫帖に下手な畫を描いた上同じく下手な詩を題しました景物に御らんに入れます
と書いて本詩を掲げている。「景物」とは、場に興を添えるもの、珍しい芸の意。本詩を画賛と記しているが、当該の画と思われるものは、一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したことがある。産經新聞社の同展解説書に載る「1-33」の「落木図」がそれである(但し、写真でモノクロームであるから、実物は現存しない可能性がある)。その解説には、
一九二〇(大正九)年晩秋、小穴隆一の実家にて游心帖に描いたもの。冬枯れの木も、龍之介が好んで描いたものの一つ。しかし、この画を描いた際の龍之介は、落木図を見せたかったのではなく、実はできたての七言絶句を示したかったのであろうといわれる。この七絶を、小穴は『黄雀風』の裏表紙に入れようとしたが、龍之介に断られている。
とある(晩秋とあるのが引っ掛かる。芥川はこれ以前に同様な画賛を誰かに贈っているのかも知れない。その礼節から大正一三(一九二四)年七月刊行の作品集「黄雀風」への装幀を拒絶したともとれる)。当該図版で確認すると、詩は冒頭に二行書き、
「缺」は「欠」
で、中央にくねった枯木の絵を配した後に(枯葉を数枚各所の枝先にぶら下げ、三葉が地面に散ったものであるが、御世辞にも上手い絵とは私は思わない)、
       庚申晩秋
         我鬼山人墨戲
と記す。
 書簡の文面は如何にも卑小な謙遜をしているが、未だ知り合って間もない天下の名歌人晶子(当時満四十二歳。鷺年譜によれば、龍之介が晶子の歌会に出て親しく接するようになったのは大正八(一九一九)年末頃と思われる)へ示すというのは、本詩への龍之介の自信の在りようが見て取れる。
「窮巷」「陋巷」と同じい。狭い路地。貧家の比喩。
「寒厨」寒々とした貧乏人のくりや。同じく貧家の比喩。
「淸修」仏教や道教で、人と交わらずにたった独りで瞑想修行することを指す。
「拈毫」筆を執る。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:承句「修
xiu1」と結句「秋qiu1」が脚韻を踏む。起承句では、実生活のことをあれこれ述べ立てているが、転結句では急速に描写の対象が深化、抽象化、純化していく。そして、生活臭を完全に去った結句で、風景に心を語らせる。よくある手法だなどと侮ってはいけない。転句と結句の作り方には、特筆すべきものがあると思う。この詩人、やはり只者ではない。転句、読者の目は作者によって窓外に導かれる。西風が吹く肌寒い晩秋の淋しい夜だ。もう真っ暗で、戸外は物の形も分からない。ところが結句、外の暗闇にあった読者の意識は、一気に心の中に引き戻される。その視線の振らせ方が絶妙だ。ほら見なさい、と遠くを指差しておきながら、実は私が見せたいのは私の(あなたの)心の中なのですよ、と告白される。不意を衝かれた読者は、ただ口を噤むしかない。そして振られた反動で、心のより深いところに一気に下りていき、闇をじっと見つめさせられる。その暗黒の風の中に、全ての葉を吹き落とされた木が一本、孤独に佇立しているのが見える。そういう意味で、「落木秋luo4mu4qiu1」が、この作品の核心とも言うべき存在だろう。この三字がなければ、全二十八字の詩世界は瓦解する。読者の心は最後にここに辿り着き、そこではじめて詩人の(いや、自分自身の)魂を凝視させられる。ところで、なぜ“落葉秋”と言わないのか。葉が落ちるのだから、その方が矛盾がないではないか。これは愚問を失礼。もう落ち葉のイメージさえ許されないくらいの淋しさなのだ。そして木という象形文字。画数の少ないこの字にしてはじめて、葉を全部落した晩秋の樹木の姿が、そして孤独な心の佇まいが、立ち現れてくる。いや、そして何よりも、“落葉秋”では、この詩で最も大切な、恐ろしいほどの寂寥感、“凄さ”が消えてしまうのだ。

――売文に勤しんでも金にならず、こうやってさびしい生活を続けるばかり。酒を買うにも事欠き、厨房には蓄えもない。西風が物寂しく窓を鳴らす夜、戸外の暗闇には何も見えない。しかし、目を閉じて見つめる……そこには見える……。やはり、描かずにはいられない。心の暗闇に佇立する、ぞっとするほど淋しい、この晩秋の木立を……この私というものを――

この、「ぞっとするほど」の「淋しさ」とは、西行の和歌『ふるはたのそばの立木にゐる鳩の友呼ぶこゑのすごき夕暮』にいう、「凄」さなのである。]



   二十五

 偶  成

瑟々侵階月
幽人帶醉看
知風露何處
欄外竹三竿

〇やぶちゃん訓読

  偶  成

 瑟々しつしつとして 階を侵す月
 幽人 すゐを帶びて看る
 知んぬ 風露ふうろ 何處いづくよりぞ
 欄外 ちく 三竿さんかん

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
大正九(一九二〇)年九月十日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号七六九)
で、葉書に本漢詩を記し、次行の下方に、
 我鬼窟主人 ㊞
(㊞は「我鬼」)とある。邱氏は転句を『読み取りづらい』とし、『最後の句はもと素晴らしい別天地を演出すべきであろうが、「三竿」では不十分である。』(これは「二十」で引用した邱氏の見解を参照されたい)と評されるのみで、三十四首の内で、最もそっけない。
「瑟々」風が寂しく吹くさま。
「幽人」隠者。
「風露」涼風と露。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:まず、字面が印象的だ。「瑟
se4」「幽you1」「酔zui4」「露lu4」「欄lan2」。画数が多くて異彩を放つ漢字が並ぶ。これらの漢字が、世界を立ち上げるために果している効果は、決して無視できない。視覚的な印象をも最大限に活かしながら、『力をも入れずして天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ』るのだ。詩とはそういうものだと思う。
 「瑟瑟
se4se4」は擬音語“カサコソ”。詩の内容とは直接関係ないが、「瑟」(二十五弦琴)という繊細で装飾的な字画を見ると思い出さない訳にはいかないのが、李商隠の詩中屈指の名作「錦瑟」。亡き人が弾いた琴にその面影を呼び起こすという、官能的で哀しい歌。冒頭の二字を見た者は、心の深いところで、その優美で哀しい、音無き音を聴く。無意識の中で聴く。この世界の向こう側の音を聞く。たとえその詩を知らずとも、この独特で不思議な字形は、見る者の心に、まず詩の世界を立ち上げるための土台を提供する。詩とはそういうものだと思う。
 「階月
jie1yue4」はよく分からない。「階jie1」は段、台を意味する。「月yue4」は文字通りの意味か。ちなみに「月台yue4tai2」には、鉄道のプラットホームの他に、バルコニーという意味もある。たとえ「月」がバルコニーを暗示するのだとしても、この詩に月のイメージは完全に寄り添う。それでいい。詩は、産み落とされた瞬間から、作者の意図や思惑から離れ、自分の力で鼓動し、呼吸し始める。やはり、詩とはそういうものだと思う。
 「幽人
you1ren2」は通常“隠者”の意。ここはもちろん作者自身。「三竿san1gan1」。中国語で「日上三竿ri4shang4san1gan1」といえば、日も高く上った、つまり朝遅い時間をいう。丈の高い竹林のことと理解したい。

――月夜、酒に酔い二階へと向かった私の耳に、かそけき葉ずれの音が聞こえる。空耳か……。一体どこから……。手すりの向こうを眺めれば、ちょうど目の高さに、時折微風にそよぐ竹林の、黒々としたシルエット。世界の向こう側から寄せてくるさざ波の囁きか。はたまた、時の隙間に遭遇してしまった者だけに聞こえる、秋の呟きか――

……私はこんな光景を描いた屏風絵を……いつかどこかで……見たような気がする。……]



   二十六

 昨夜歸途得短韻

十載風流誤一生
愁腸難解酒杯傾
煙花城裡昏々雨
空對紅裙話旧盟

〇やぶちゃん訓読

   昨夜の歸途、短韻を得

 十載じつさい 風流 一生を誤まる
 愁腸 解き難く 酒杯傾むく
 煙花 城裡 昏々たる雨
 空しく紅裙かうくんに對し 旧盟きゆうめいを話す

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。
大正九(一九二〇)年九月十六日附小島政二郎宛(岩波版旧全集書簡番号七七一)
に所載する。
「十載」これは杜牧の詩に基づくのであろうが、しかし実際の芥川龍之介に即して考える時、ある意味を持つように思われる。十年前は龍之介十八歳、明治四三(一九一〇)年であるが、この三月に府立第三中学校を卒業し、四月に第一高等学校文科(一部乙類)への進路を決定している。龍之介の「風流」たる文芸への道は、この時に決まったと考えてよい点が一つ、 今一つの人の「風流」たる(と私は思っているし、龍之介もそう思っていたと確信する)性への本格的な眼ざめや童貞喪失なども、私はこの十八の頃に推定するのである。それは芥川龍之介の赤裸々な未定稿
VITA  SEXUALISが『これで中學二年までのVITA  SEXUALISの筆を擱く』で終わっていることに基づく(龍之介には別にやはり大胆に同性愛経験を記した未定稿VITA  SODMITICUS(やぶちゃん仮題)」もある。未読の方は是非お読みあれ。リンク先はいずれも私のテクストである)。
「愁腸」憂愁に沈んだ心。
「煙花」妓女・芸妓、また、彼女らの境遇、花柳界のことを指すが、結句との絡みからもここは具体な遊廓をイメージしてよい。
「紅裙」妓女・芸妓。
「旧盟」昔、二人で交わした約束。ここでは作者のみでなく妓の老いも詩背に読むべきである。
 本詩は晩唐の杜牧の七絶「遺懷」をインスパイアしたものと考えてよい。以下に示した訓読は龍之介自身が、この直後の大正九(一九二〇)年十一月に『文章倶樂部』に発表した「漢文漢詩の面白味」の中で、漢詩の中で『抒情詩的リリカルな感情』のある例として示したものを、句読点を排除して示したものであるが、読みは私が振った(リンク先は私のテクスト)。

  遺懷
 落魄江湖載酒行
 楚腰纖細掌中輕
 十年一覺揚州夢
 贏得靑樓薄倖名

    遺懷

   江湖に落魄して酒を載せて行く
   楚腰そえう纖細 掌中に輕し
   十年一たび覺む 楊州の夢
   ち得たり 靑樓薄倖はつかうの名

起承は若き日の遊蕩のフラッシュ・バック、結句は「今の私の手の内にあるのは……『色町の浮気者』という不名誉な名ばかり……」の意である。承句の「楚腰繊細」を「楚腰腸斷」とするテクストもあり、すると更に龍之介の「愁腸」に隣接する。但し、この詩の背景は逆にポジティヴなもので、淮南節度使牛僧孺ぎゅうそうじゅの幕僚であった杜牧が八三五年三十三歳の春に監察御史に任命され、揚州を去って長安に向う直前の作と推定されており、一種の旧巷との離別や主君への謝意を自己卑下によって示したものであろう。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈: 「煙花
yan1hua1」。現代中国語では花火のことだが、ここは「煙花三月下揚州」の「煙花」、春の霞のことか。「城裡cheng2li3」は現代の中国の若者も普通に口にする“街中”という言葉。「昏昏hun1hun1」。中国語「昏」は、辞書に“夕闇、暗くてぼやけた”とある。重なった「昏」には字義通りの重さがあるけれど、私はそれと同時に、「昏昏hun1hun1」を一種の擬態語と捉えたい。さて結句。これが難解だった。「紅裙hong2qun2」を調べると、赤い着物の裾、または芸妓もしくは美人を指すとある。「旧盟jiu4meng2」は、字義通り理解すれば、“古い盟約”。「紅」が強すぎ、「盟」が固すぎて、上三句との不協和音に困る。ここは解釈を調整しよう。“特定の女性”との“昔の約束”だ。これなら安心して眼を瞑り、自分なりの世界を定着することができる。振り返ると、最も難しい結句七文字がなければ、この詩は何も始まらないのだった。

<ひとつの挿し絵>――車内販売の安物ウィスキーは苦いだけで、彼はもう口をつけるのを止めてしまった。夜行列車の窓の闇に浮かぶ水滴をうつけたように眺める彼の脳裏に消えないのは、もう取り返しのつかない、つい今しがたの光景である。――忘却の彼方に置き去りにされた、とある地方都市。その街外れの小さな喫茶店。通りに面した窓の脇で、彼らは向かい合わせに席を占めていた。彼女はさっきから押し黙り、口を固く結んだまま俯いて、目の前の冷めたコーヒーに視線を落している。いつかこんな日が来るかもしれないと、彼はもう何年も前から、どこかで予感していた。予感していながら、あと一歩を踏み出さなかった。何故……。今初めて、彼はうろたえた。そして、やっと声を絞り出した。「どうして……。遠く離れていたから……いけなかった……のかい。」半ば自分自身に向けて発した言葉であった。そうして、息詰まる、沈黙……。後れ毛のかかる彼女の愛らしい額の下に、睫毛が微かに震えている。それをじっと見つめていた彼は、ついに耐え切れなくなって、視線を窓外へと泳がせた。通りの向こう、薄暮の街を包み込む白い靄のような春の雨は、古ぼけてくすんだ瓦屋根の連なりを、やさしくしっとりと霑していく――

先生の解説を一読し判明しました。読み違いです。「紅裙」に素直に導かれていけば良かったのです。しかし、「煙花」に飛び込む力も不足していた私は、「紅裙」の鮮やかな色を故意に去ってしまいました。漢語を日常語とする中国人にとっては、日本人ほど誇張した“どぎつい”印象を、各漢字の意味に対して持たないですから……というのは言い訳です。私の読みは、「風流」「愁腸」や「酒杯」の世界とも多少ずれているようです。いずれにしましても、「脱色したらこんな読みになった」という笑い話として、恥を忍んでそのまま発信いたします。なお、私は解説を読みつつ、本作詩の翌年の龍之介の実体験である「上海游記」、「南国の美人」の章を思い出しておりました。明治から大正にかけての日本の妓女より、大戦前の中国のそれの方を鮮やかに思い描くことができるというのは、一体どうしたことでしょうか。以上、併せてご報告いたします。]



   二十七

 題倪先生隻鷄之圖

明燭似風消慘悽
淸香如水滌塵迷
展將一幅澄心紙
寫得中秋白羽鷄

〇やぶちゃん訓読

  倪先生隻鷄の圖に題す

 明燭 風に似て 慘悽さんせいを消し
 淸香 水のごとく 塵迷じんめいすす
 ささぐ 一幅の澄心紙ちようしんし
 寫し得たり 中秋白羽はくうけい

[やぶちゃん注:龍之介満二十七歳。この前後は新年号の執筆に多忙の日々を送っていたが、私は、本詩の香りともどこか通じる雰囲気の「秋山図」の原稿の改稿の一部を、正に同日附で、掲載予定の『改造』の当時の文芸欄担当記者であった瀧井孝作に送っている(岩波版旧全集書簡番号八一四)のが大いに気になっている(リンク先は青空文庫)。実は以下、私が注する画人が多く、「秋山図」には登場するからである。なお、他に大正一〇年新年号の発表作中「秋山図」以外で着目されるのは、「山鴫」(『中央公論』)と「アグニの神」(『赤い鳥』)の二作品である。
 本詩は、
大正九(一九二〇)年十二月六日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号八一六)
に所載する。小穴隆一おあなりゅういち(明治二四(一八九四)年~昭和四一(一九六六)年)は洋画家。芥川龍之介無二の盟友。芥川が自死の意志を最初に告げた人物、遺書で子らに父と思えと言い残した人物でもある。一游亭の号を持ち、俳句もひねった。芥川の二男多加志の名は彼の「隆」の訓をもらっている。
 詩の後に、
 臘初六日
のクレジットと、その下部に、
     雲 田 生 拜
次行に、
雲 林 庵 主 侍史
その後に、
二伸 この詩一時ばかりにて成るうまいかまづいかよくわからず 但し小島政二郎の句ようりはうまい自信があります
と記す。以上から分かるように、龍之介は自身を「雲田」、小穴を「雲林庵主」と呼称している。実はこの書簡の前にある小澤忠兵衞(碧童)宛書簡(岩波版旧全集書簡番号八一五)の中で前日(十二月五日)に瀧井孝作と改造社社長山本実彦が来て、六日中の「秋山図」脱稿を促されて『ずつとペンを握りつづけです』と書いてそれに続けて、『その後私雲田と云ふ號をつけると申した所、大分諸君子にひやかされました雲田の號がそんなに惡いでせうか』と記している(「その後」は前とは繋がっていない謂いで、この前に碧童に逢って以降、の謂いと思われる)。更にそれに先立つ同年十月三十日の小穴宛書簡(岩波版旧全集書簡番号七九五)の本文宛名には『倪小隆先生』とあり、同人宛十二月三日の書簡(岩波版旧全集書簡番号八一三)には『この頃四王呉惲の画集を借りました南田が一番好いやうです今度おめにかけます』と記して、ここでの宛名は『倪隆一先生』である。この『四王呉惲』は清初の正統派文人画家を代表する王時敏・王鑑・王翬おうき王原祁おうげんきの「四王」に、呉歴と惲寿平うんじゅへいを加えた清初六大家のことで、この最後の惲寿平が龍之介が称揚する惲南田(一六三三年~一六九〇年)で、また、雅号の中に現われる「倪」や「雲林」は、それより三百年ほど遡る元代の画家で元末四大家の一人、倪雲林(倪瓚げいさん 一三〇一年~一三七四年)の名前に因んだものである。以上から本詩も含めて、これらの雅号は謂わば、「勝手に雅号」、龍之介が小穴に勝手に附けたもの、真正の小穴の雅号ではないということが判明する。更に、この倪雲林について、中国旅行で現物を見た龍之介は、大正十一(一九二二)年十月発行の『支那美術』に掲載された「支那の畫」の冒頭の「松樹圖」で以下のように記している(底本は岩波版旧全集を用いたが、一部に私の読みを歴史的仮名遣で附した)。

     松樹圖

 雲林を見たのは唯一つである。その一つは宣統帝の御物、今古奇觀と云ふ畫帖の中にあつた。畫帖の中の畫は大部分、董其昌とうきしやうの舊藏に係るものらしい。
 雲林筆と稱へる物は、文華殿にも三四幅あつた。しかしその畫帖の中の、雄剄ゆうけいな松の圖に比べれば、遙かに畫品の低いものである。
 わたしは梅道人ばいだうじんの墨竹を見、黄大癡くわうたいちの山水を見、王叔明の瀑布を見た。(文華殿の瀑布圖ではない。陳寶琛ちんはうちん氏藏の瀑布圖である)が、氣稟きひんの然らしむる所か頭の下つた事を云へば、雲林の松に及ぶものはない。
 松は尖つた岩の中から、眞直に空へ生え拔いてゐる。その梢には石英のやうに、角張かどばつつた雲煙うんえんが横はつてゐる。畫中の景はそれだけである。しかしこの幽絶な世界には、雲林の外に行つたものはない。黄大癡の如き巨匠さへも此處へは足を踏み入れずにしまつた。況や明淸の畫人をやである。
 南畫は胸中の逸氣いつきを寫せば、他は措いて問はないと云ふが、この墨しか着けない松にも、自然は髣髴と生きてゐはしないか? 油畫は眞を寫すと云ふ。しかし自然の光と影とは、一刻も同一と云ふ事は出來ない。モネの薔薇を眞と云ふか、雲林の松をと云ふか、所詮は言葉の意味次第ではないか? わたしはこの圖を眺めながら、そんな事も考へた覺えがある。

・「宣統帝」清朝最後の皇帝愛新覚羅溥儀(一九〇六年~一九六七年)。
・「董其昌」(一五五五年~一六三六年)明末の文人で特に書画に優れた業績を残した。清朝の康煕帝が董の書を敬慕したことで有名で、その影響から清朝においては彼の書が正統とされた。また独自の画論は文人画(南宗画)の根拠を示し、その隆盛の契機をつくった。董が後世へ及ぼした影響は大きく、芸林百世の師と尊ばれ、本邦の書画にも多大な影響を与えている(ウィキの「董其昌」に拠る)。
・「文華殿」明代は皇太子の住居で国政の最高機関である内閣が置かれた。清代には紫禁城東南部に配され、乾隆帝が編纂した四庫全書が収納されて儒教の講義が行われた。中華民国に至り、開放されて旧帝室御物の書画陳列室となっていた。
・「梅道人」(一二八〇年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。名は呉鎮。墨竹を能くし、元の山水画様式を確立した。明代以降の画に大きな影響を与えている。
・「黄大癡」(一二六九年~一三五四年)は元代の文人画家で元末四大家の一人。本姓は陸、黄公望とも呼ばれた。山水画の正統的巨匠。諸学諸芸に通じ、詞曲や鉄笛も得意とした。道教の新興宗派であった全真教に入信している。
・「陳寶琛」(一八四八年~一九三五年)は清末の官僚。一九〇九年に北京に召し出されて礼学館総纂大臣となり、一九一一年には溥儀の帝師(侍講)となったが、翌年に溥儀は退位、そのまま溥儀に従って紫禁城にとどまり、「徳宗実録」の編纂に当たった。張勲復辟ちょうくんふくへき(一九一七年七月一日からの十二日間だけ安徽省督軍であった張勲が溥儀を復位させた事件。)の際には議政大臣に推薦されている。一九二五年以降は溥儀に従って天津で暮らすしたが、一九三二年の満州国成立には加わらず、天津で死去した。蔵書家として知られ、十万冊を有していたという(以上は主にウィキの「陳寶チン」に拠る)。
・「逸氣」昂ぶった気持ち。

以上からも、龍之介の南画家倪雲林及び惲南田への並々ならぬ傾倒振りが看て取れる。

「慘悽」凄惨な風景。ここはそうした妄想やイメージの謂いか。
「澄心紙」清澄な心を、清くまっさらな画紙にダブらせている。
 なお、本詩に関わって邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第一章 神話構築としての中国」の「創作の背景」で、まず龍之介の「或阿呆の一生」の、

      二十二 或 畫 家
 それは或雜誌の插し畫だつた。が、一羽の雄鷄の墨畫すみゑは著しい個性を示してゐた。彼は或友だちにこの畫家のことを尋ねたりした。
 一週間ばかりたつたのち、この畫家は彼を訪問した。それは彼の一生のうちでも特に著しい事件だつた。彼はこの畫家の中に誰も知らない詩を發見した。のみならず彼自身も知らずにゐた彼の魂を發見した。
 或薄ら寒い秋の日の暮、彼は一本の唐黍からきびに忽ちこの畫家を思ひ出した。丈の高い唐黍は荒あらしい葉をよろつたまま、盛り土の上には神經のやうに細ぼそと根を露はしてゐた。それは又勿論傷き易い彼の自畫像にも違ひなかつた。しかしかう云ふ發見は彼を憂欝にするだけだつた。
 「もう遲い。しかしいざとなつた時には………」

の前半部を掲げ、小穴と「秋山図」の誕生の深い関連性を考察された上で、この書簡や詩によって、『画家小穴隆一に自分の魂を発見したという芥川は、小穴隆一の面前、素直に中国南画に対する熱愛ぶり披露している。ということは、雄鶏の墨絵を描く小穴に巡り合うことがなかったら、王力谷・呉鎮。王時敏・王鑑・惲南田を登場させる「秋山図」を、芥川は創作しなかったかもしれないということである』と述べておられる。
 ――さすれば正に――この『一羽の雄鷄の墨畫』――こそが本詩の画題にほかならなかったと考えてよかろう。――そして――「秋山図」――芸術美の本質は、クリエーターによる絶対美の創造などにあるではなく、寧ろオーディエンスの、その瞬間の現存在こそが、美的感動の本質と大きな関わりを持っている、という立場を表明する、私の好きな「秋山図」という作品を視野に置いて本詩を読む時――実は結句にある「中秋白羽鷄」は――純白の「澄心紙」の、文字通り――心象の風景――「心景という白一色の画面」の中にこそ「描かれている」――と言えるのではあるまいか?]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:中国語で一読、驚いた。
i音の森……。
発音を声調なしで並べてみよう。
ming,zhu,si,feng,xiao,can,qi
qing,xiang,ru,shui,di,chen,mi
zhan,jiang,yi,fu,cheng,xin,zhi
xie,de,zhong,qiu,bai,yu,ji
この中からiの音を中核に有している字を全て抜き出してみる。「明(ミン)」「消(シヤオ)」「悽(チー)」「清(チン)」「香(シヤン)」「滌(ディー)」「迷(ミー)」「将(ジアン)」「一(イー)」「心(シン)」「紙(ジー)」「写(シエ)」「秋(チウ)」「鶏(ヂー)」。四つの句全最終字はもちろんのこと、全二十八字中、実に半分の十四字が、
i音を中核に有している。通常、音声上も大きな波動を見せる転句でさえ四文字の配分、他の句と同様の密度を持つ。詩人は意識したのだろうか。いや、偶然だろう。では、何に導かれたのか。おそらく、文字の霊とでもいうべきものに……。もちろん、私は各音母の平均的使用回数について、統計など取ったことはない。もしかしたらi音の出現回数は平均的かもしれない。しかし、開き直って言おう。それは問題ではない。白い秋の鶏の画。その浄化力で、詩人の心は穢れを去る。そんな心を以って、改めて画と対峙し続ける詩人。この詩境を支える力を持った音の織物。ここに意味があるのだ。透徹した心、清浄な気、そして秋の白い鶏。詩の冒頭から最後まで一貫したi音への回帰が、イメージ立ち上げと純化、そして深化に、どれだけの効果を齎しているか。

――私の佇むこの部屋、煌々と輝く一灯は諸々の雑念を、そして麗しい香りは雑多な妄念を追い払う。澄み切った浄紙に描かれた穢れなき世界の使者、白い秋の白い鶏。この画の力で、私の心から、まず色彩が消える。続けて、まっさらな白い心で対峙する私を、この画は、さらに無色透明な世界に引き込んで行く。清らかさもここまで突き詰めると、そこはもう現世を離脱した彼岸の世界。普段は生身の人間が来てはいけない空間。悩みも、喜びも、人生という幻影さえも、目の前から徐々に消える。消え失せていく……。それと同時に、全ての雑音も消える。最後に……、これは幻聴なのだろうか。魂が一点に収斂し、静止したときに聞こえる、人間の可聴範囲限界に近い高音の「シー……」という、かすかな、響き――

私は、今改めて思う。五行説は知らず、秋はやはり白かったのだ。そうして白の背後に、人が稀にしか感じることのできない、色無き色が控えていたのだ。]



   二十八

不負十年未醒名
也對秋風催酒情
拈筆含杯閑半日
寫成荒竹數竿聲

〇やぶちゃん訓読

 負はず 十年 未醒みせいの名
 また 秋風に對して 酒情を催す
 筆をねんじ 杯を含みて 半日はんにち 閑たり
 寫し成す 荒竹 數竿の聲

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。また、以下に示すように芥川龍之介の真作かどうかも疑おうと思えば疑われる。しかし、私は最終的に芥川龍之介の真筆と判断する。以下を是非、お読み戴きたい。
本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十九」「四十」と連続して書き込まれているものである。底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。
この「手帳(五)」は、
新全集後記では、大正一二(一九二三)年から晩年にかけて記されたもの
と推測している(但し、だからといって本詩の創作年代を遡ることが出来ないという理由にはならない)。邱氏のこれに大きく反するところの、
大正九(一九二〇)年前後説
というのは、後に示すように、
本詩がこの時期の複数の先行作品と類似していること
及び、
「手帳(五)」には書かれていない中国旅行中の記載が「手帳(六)」「手帳(七)」には現われていること
を証左となさっている(これはこれで説得力がある)。
但し、この「手帳(五)」に書かれたメモと関わる作品は新全集後記によれば、
「三つの宝」(一九二二年)・「貝殻」(一九二七年)・「侏儒の言葉」(一九二三年~二五年)・「玄鶴山房」(一九二七年)・「河童」(一九二七年)など、圧倒的に
大正一一(一九二二)年以降の作品群のヒントが多い
ことも事実ではある。
なお、この「手帳(五)」は現在では所在不明である。

「不負」とは負った期待に応えていないことを言う。
「未醒名」「未だ名をまさず」と訓ずることも出来るが(その場合は世間的な名声を得ない、若しくは、真の自身の存り方を悟っていない、といった謂いになろう)、ここは「未醒」を文字通り主人公の「名」と採りたい。そして「未醒」という雅号の持主は、芥川龍之介ではない。これは、芥川龍之介の友人であった洋画家小杉放庵(明治一四(一八八一)年~昭和三九(一九六四)年)の初期の画号である小杉未醒に他ならない。大正九(一九二〇)年当時、未醒は満三十九歳であったが前年に考え方の相違から二科会を、同年には日本美術院も脱退し、後の大正一一年には春陽会創立に参加している。また号も大正一三(一九二四)年に放庵と改めてもいる(すると、副次的にそこからも本詩が大正一三年よりも前の作であると断ずることも出来よう)。初期の画は東洋的ロマン主義の傾向を示し、また、未醒の号で書いた漫画は当時流行のアール・ヌーヴォー様式を採り入れ、岡本一平の漫画に影響を与えた。フランス帰国後(大正二(一九一三)年渡仏、翌年帰国)から東洋趣味に傾き、油絵をやめて墨画が多くなった。大正一四(一九二五)年に手がけた東京大学安田講堂の壁画はフランス画、特にピュヴィ・ド・シャバンヌなどの影響を残しているものの、天平風俗の人物を登場させて日本的な志向も示しているとされる。歌人としても知られ『故郷』などの歌集があり、『帰去来』などの随筆、唐詩人についての著作もある(以上の事蹟などはウィキの「小杉放庵」に拠る)。龍之介とは家が近くでもあり、また龍之介のパトロン的存在で、龍之介の加わっていた、田端の文芸サロンの中心的人物実業家鹿島龍蔵が作った道閑会のメンバーでもあったから、親しく交際していた。
 さて、この経歴から見た時、本詩が芥川龍之介の作品ではなく、小杉のものである可能性がここに浮上してくるとは言えるのである。即ち、龍之介が手帳に備忘として小杉未醒の詩をメモした可能性である。
 更に、芥川龍之介には大正一〇(一九二一)年三月の「小杉未醒氏」(『中央芸術』発表、発表時は大見出しが「小杉未醒論」で題は「外貌と肚の底」)があるが、そこにもそのような疑惑を起こさせる箇所があるのである。以下に全文を示す。

   小杉未醒氏
 一昨年の冬、香取秀眞氏が手賀沼の鴨を御馳走した時、其處に居合せた天岡均一氏が、初對面の小杉未醒氏に、「小杉君、君の畫は君に比べると、如何にも優しすぎるぢやないか」と、いきなり一拶を與へた事がある。僕はその時天岡の翁も、やはり小杉氏の外貌に欺かれてゐるなと云ふ氣がした。
 成程小杉氏は一見した所、如何にも天狗倶樂部らしい、勇壯な面目を具えてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀たる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも、寧ろ未醒蠻民と號しさうな邊方瘴煙の氣を感じたものである。が、その後氏に接して見ると、――接したと云ふ程接しもしないが、兎に角まあ接して見ると、肚の底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た。勿論今後猶接して見たら、又この意見も變るかも知れない。が、差當り僕の見た小杉未醒氏は、氣の弱い、思ひやりに富んだ、時には毛嫌ひも強さうな、我々と存外緣の近い感情家肌の人物である。
 だから僕に云はせると、氏の人物と氏の畫とは、天岡の翁の考えへるやうに、ちぐはぐな所がある譯ではない。氏の畫はやはり竹のやうに、本來の氏の面目から、まつすぐに育って來たものである。
 小杉氏の畫は洋畫も南畫も、同じように物柔かである。が、決して輕快ではない。何時も妙に寂しさうな、薄ら寒い影が纏はつてゐる。僕は其處に僕等同樣、近代の風に神經を吹かれた小杉氏の姿を見るやうな氣がする。氣取つた形容を用ひれば、梅花書屋の窓を覗いて見ても、氏の唐人は氣樂さうに、林處士の詩なぞは謠つていない。しみじみと獨り爐に向つて、
Rêvons……le feu s'allume とか何とか考へてゐさうに見えるのである。
 序ながら書き加へるが、小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。

・「香取秀眞」(かとりほつま 明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)は著名な鋳金工芸師。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の文字通りの隣人(実際に隣家)にして友人であった。
・「天岡均一」(あまおかきんいち 明治八(一八七五)年~大正一三(一九二四)年)は彫刻家。東京美術学校(現在の東京芸術大学)卒で高村光雲らに学んだ。
・「天狗倶樂部」は文士を中心としたスポーツ社交クラブ。黎明期のアマチュアスポーツ、特に野球と相撲の振興に努め、後に野球殿堂入りする人物を五人輩出している他、日本初の学生相撲大会を開催するなどしていた。中心人物は家の押川春浪(以上はウィキの「天狗倶楽部」に拠った)。
・「突兀」「とつこつ(とっこつ)」と読む。高く突き出ているさま。高く聳えるさま。
・「邊方瘴煙」「へんぱうしやうえん」と読む。辺りに立ち込めた瘴気(毒のある悪しき気)を含んだ煙。
・「梅花書屋の窓」窓辺に梅の花の咲く書斎という景。
・「唐人」画中の配された画家の分身たる中国人。
・「林處士」林逋(九六七~一〇二八)。林和靖。北宋初期の詩人。和靖先生は詩人として敬愛した第四代皇帝仁宗(一〇一〇~一〇六三:彼との縁は父第三代皇帝真宗の時から。)がいみなとして与えたもの。ウィキの「林逋」によれば、『西湖の孤山に盧を結び杭州の街に足を踏み入れぬこと』二十年におよんだとし、生涯仕官せず、独身を通して、『庭に梅を植え鶴を飼い、「梅が妻、鶴が子」といって笑っていた』。『林逋の詩には奇句が多』いが、『平生は詩ができてもそのたびに棄てていたので、残存の詩は少ない』(一部誤植を正した)とある。当該ウィキの最後にその詩「山園小梅」が載るが、確かに一筋繩では読みこなせない佶屈聱牙な詩である。こちらに三野豊氏の美事な当該詩の訳がある。
・「
Rêvons……le feu s'allume」フランス象徴派の詩人アルベール・サマン(Albert Samain一八五八年~一九〇〇年)の詩“Octobre est doux” (十月は穏やかだ……)の一節。「夢見よう……灯がともっている」といった意味か。以下に原詩を示しおく(こちらの仏文サイトより。私の力では訳せないので悪しからず)。

Octobre est doux...

Octobre est doux. - L'hiver pèlerin s'achemine
Au ciel où la dernière hirondelle s'étonne.
Rêvons... le feu s'allume et la bise chantonne.
Rêvons... le feu s'endort sous sa cendre d'hermine.

L'abat-jour transparent de rose s'illumine.
La vitre est noire sous l'averse monotone.
Oh ! le doux "remember" en la chambre d'automne,
Où des trumeaux défunts l'âme se dissémine.

La ville est loin. Plus rien qu'un bruit sourd de voitures
Qui meurt, mélancolique, aux plis lourds des tentures...
Formons des rêves fins sur des miniatures.

Vers de mauves lointains d'une douceur fanée
Mon âme s'est perdue ; et l'Heure enrubannée
Sonne cent ans à la pendule surannée...

以上の非芥川龍之介漢詩疑惑は最後に解明したい。
「也」は発語の辞。「亦」よりも軽く、多く詩や俗語で用いる。
「催酒情」銷憂物たる酒をあおりたくなる。邱氏は、過去形で採り、『秋風に向かい、酒で憂さを紛らしたこともある』と訳しておられる。

 最後に私の疑惑についての見解を述べたい。ここで着目したいのは、「小杉未醒氏」の最後にある「小杉氏は詩にも堪能である。が、何でも五言絶句ばかりが、總計十首か十五首しかない。その點は僕によく似てゐる。しかし出來映えを考へれば、或は僕の詩よりうまいかも知れない。勿論或はまづいかも知れない。」という部分である。ここから小杉は漢詩の自作をしたこと、龍之介はそれを実見していること、但し、それらが十五首ほどの「五言絶句ばかり」であったことが分かる。
 さて、翻って見ると本詩の起句は「未醒」という雅号を持った本人の詩と読むのがまず自然である。しかし、この詩は七絶であるから、龍之介の、この謂いとは齟齬を生じることになる。
 これが未醒の詩でないとすれば――残るのは龍之介が小杉未醒に仮託して詩を創った――という仮定は可能である。……しかし果たして、その場合、若年の龍之介が起筆から「不負十年未醒名」とやらかすかどうか、という疑問は依然として残る。
 ただ、
――「未醒」という号の如く、十年一日、うつらうつらと夢幻の中を生きてきた「唐人」と思しい人物が、「秋風」に吹かれながら「酒」に憂いを散ずる景色や、酒を含んで筆を執りつつ、のんびりと半日かけて、風の中の、淋しい、竹の立てるを描き出した――
というのは、未醒自身の自讃ととるより、龍之介の仮託による讃とする方が遙かに――詩的には――自然である、と私は思うのである。
 更に付け加えると、芥川龍之介の「手帳」群には、無論、古人の俳句や措辞の断片がメモされていることは、俳句全集を編集した際に、事実としてあることは私がよく知っている。しかし、この漢詩の載る「手帳(五)」には、これらの漢詩三首の後には直に続いて多量の龍之介の俳句草稿及び三首の自作短歌が載っており、この漢詩だけが(若しくは漢詩三首だけが)小杉未醒の詩のメモであるとうるには、如何にも不自然なのである。また、調べた訳ではないがこれらが小杉の詩であるという事実も現在のところは、ないようである。
 邱氏は、この詩について、
   《引用開始》
前半の二句「不負十年未醒名 也対秋風催酒情」は、二十六番詩として紹介された一九二〇年九月十六日小島政二郎宛書簡中の漢詩の前半部に類似している。後半の二句「拈筆含杯閑半日 写成荒竹数竿声」は、二十七番詩として紹介された一九二〇年十二月六日小穴隆一宛書簡中の漢詩の後半部に類似している。しかし、前出二作に比べ、読者に訴える力は弱い。
   《引用終了》
と、その「評価」の項に記しておられる。私は、これを全面的に支持すものである。それは――本詩が芥川龍之介自身の詩であり、且つ、彼が愛した画狂人小杉未醒への、既成の自信作を剽窃した(だから『前出二作に比べ、読者に訴える力は弱』くなってしまった、所詮、贈答詩にほかならない、という確信を持っているからである。従って(何が従ってと言われそうであるが)以下の二つの詩についても私は芥川龍之介の詩と断じて疑わず、以後の二つについても疑義論は論じないこととする。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「不負
bu2fu4」は「不辜負bu4gu1fu4」と同義、“無駄にする”の意。「醒xing3」は“眠りから目を覚ます”、すなわち「醒名xing3ming2」で“名を為す”と理解してよかろう。「也ye3」は、“そうして、なお”という語気か。「拈筆nian1bi3」で“筆を持って”の意。これ以外に特に難しい語はない。さあ、朗誦すること十数回……。私の感覚に間違いが無ければ……これは、不吉な、詩だ……。本気で自らの不甲斐なさを嘆いているのではない。明確な心の上昇線や下降線がどこにも見えない。通常、何らかの転折が設けられる転句には、意味と発音の上で、確かに展開はある。しかし、一向に波動を見せる気配がない。意味の上からも、音律の上からも、心に力が感じられない。眼が死んでいると言ってもいい。このまま崖っぷちまで吹き遣られていきそうな危うさを感じる。かといって、この詩はポーズであるともいえない。なぜなら、四つの句のどこにも、諧謔、自嘲、謙遜など、斜に構えた調子が感じられないから。意識的なポーズを作った場合に必ず見られる小さな起伏が、どこにも見られないではないか。酒に対する態度も同様だ。苦しみから逃れるために真剣に溺れるなら、それはそれでいい。しかし、そのような主体的な勢いが感じられない。詩人の情動は冒頭の「不負」から、沈鬱とも言える低い水準で平板な軌跡を描きながら、最後の「数竿聲」にまで達している。そう、この作者からは、周囲の事物を取り込んで消化しようという、生き物としての基本的機能が感じられない。私には、この詩が、よくできた蝋人形のようで、不気味だ。

――俺、満足イク作品ヲ、生ミ出セナイ。アタラ十年ヲ、無駄ニシタ。秋風ニ、酒ヲアオルシカ、ナイ。酒デ、気ヲ紛ラシ、絵筆ヲ、握リ、一日ノ大半ヲ、浪費シタ。描イタハ、数本ノ、荒ンダ竹。風ニソヨイデ、音ヲ立テル。アア、コレハ、モシカシタラ、俺、ナノカナ――

最後に、書き下しと解説を読んだ上で、以下の通り付け加えたい。魂の動きの感じられないこの詩の佇まい。これが単なる贈答詩であるなら、矛盾はなかろう。少なくとも私には、龍之介が己自身を籠めた詩だとは感じられない。百歩譲ってそうだとしても、これを作った龍之介の精神、あれほど魂の躍動を見せてくれていた彼の情動は、完全に昏睡に陥っている、と思われる。
   *
 先生、昨夜は一気呵成に評釈文を書き、眠ってしまいました。一晩置いて眺めると、私の文章も少し直線的に突っ走りすぎているところがあります。しかし、先生の信頼に全面的に応えたいとの一心で、白文だけしか眼に入らないように、白文だけ別ファイルにコピーしました。そうして何度も朗誦しました(十回読んだらもう暗誦しておりましたが)。そこで感じた違和感は事実です。はじめ、私は、ああ割と理解しやすいと喜びました。しかし、そのうち、どうもおかしいことに気づきました。なんと申しましょうか。詩が、”まばたき”をしないのです。不気味でした。暫く後、私は疑いました。もしかしたら、これは自殺直前の詩ではないかと。しかし、彼の辞世の句には、鋭い神経が生きている。では、これは……。とにかく、これを描いた詩人は、精神が眠っているか、病んでいるかのどちらかしかない。こう考えて、一気に文章を書きました。その後解説を拝見して、事の次第をやっと悟りました。これは私事ですが、詩が死んでいると、自分にも感じられたことが、なんとも嬉しく思われます。]



   三十九

山嶂同月色
松竹共風烟
石室何寥落
愁人獨未眠

〇やぶちゃん訓読

 山嶂さんしやう 月色に同じく
 松竹 共に風烟ふうえん
 石室 何ぞ寥落れうらく
 愁人 獨り未だ眠らず

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。
本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十八」「四十」と連続して書き込まれているものである。底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。「手帳(五)」については「三十八」の注を参照されたい。
「山嶂」「嶂」は高くけわしい山、又は、屏風のように連なる峰。
「風烟」風煙。風と、霞や靄。又は、風に靡く霞。
「石室」ここは所謂、「いわや」「岩室いわむろ」の謂いで、岩壁に自然にできた洞穴、又は岩に横穴を掘って住居とした、隠者の住居を謂う。窟だとまさに龍之介の書斎「我鬼窟」も容易に連想される(しかし、「根がティヴ」――これは文字遊び――な私などはどうしても墳墓の石室の雰囲気が画面にちらついて払拭出来ないで困ってしまう)。
「寥落」荒れ果ててすさまじいこと。荒廃すること。
「愁人」素直に読むならば、起句からの寂寞たる景の中にいるのは、心に愁いを抱いた詩人自身ととれる。ところが、である。これも実は私には困った熟語なのである。何故なら、不倫相手であった秀しげ子のことを龍之介は「愁人」と呼んでいるからである。初出は龍之介の日記「我鬼窟日錄」の大正八(一九一九)年の九月十二日で(リンク先は私のマニアック注附テクスト)、
九月十二日 雨
 雨聲繞簷。盡日枯座。愁人亦この雨聲を聞くべしなどと思ふ。
とある。ここの私の注も以下に引いておく。
 完全に、妖艶な蜘蛛の巣に絡め捕られた芥川龍之介がここに居る。小津安二郎のようなロー・アングルで雨音だけで撮ってみたい一日である。慄っとするほど素敵だ――。
・「雨聲繞簷」は「雨聲うせい のきめぐる」と読む。
・「愁人」は「しうじん(しゅうじん)」で、本来は文字通り、悲しい心を抱いている人、悩みのある人の意であるが、芥川龍之介は符牒として「秀しげ子」をこう呼んでいる。それは恋をして愁いに沈むアンニュイな翳を芥川がしげ子の容貌に垣間見たからででもあろうか? ともかくもファム・ファータル秀しげ子に如何にも相応しい(それに引き替え、「或阿呆の一生」で同人を「狂人の娘」と呼んだのは、これ、逆にいただけない)。但し、芥川は「月光の女」「越し人」等、こうした如何にもな気障な愛人呼称の常習犯では、ある。なお、高宮檀氏は「芥川龍之介の愛した女性」で、この符牒について、関口定義氏が「芥川龍之介とその時代」で『芥川が彼女を虚構の世界で美化してしまったことを示すものだ』とするのに対し、『むしろ「秀夫人」の「秀」を音読みして「夫」を省略した、芥川独特の洒落だっただのだろう』とする説を唱えておられる。何れもあり、という印象である。
 これがまた、邱氏の推定する大正九年であるとすれば、しげ子は龍之介の中でまだ強い嫌悪の対象にはなっていない時期であるから、この「愁人」の語に彼女を重ね合せるのは強ち見当はずれではないと言える。寧ろ、新全集の推定するように、これよりもずっと後の晩年の作とすると、「愁人」は彼女ではないと断言出来るのである。
「愁人獨未眠」邱氏も指摘しておられるように、一読、これは知られた韋応物の五絶「秋夜寄丘二十二員外」の結句に基づく。

   秋夜寄丘二十二員外   韋應物
  懷君屬秋夜
  散歩詠涼天
  山空松子落
  幽人應未眠

    秋夜 丘二十二員外に寄す
   君を懷ひて  秋夜にしよく
   散歩して  涼天に詠ず
   山 むなしうして 松子しようし落つ
   幽人いうじん まさに未だ眠らざるべし

「丘二十二員外」丘氏の排行二十二男の員外郎の意。作者の友人で名は丹。蘇州の人という。員外郎は公務員の定員外に補任された補佐官。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「嶂
zhang4」は屏風のように切り立った険峻な山の様子。「同tong2」は同じというニュアンスより、ふたつのものを並列させる働きの方が強いと思う。もちろん、ふたつのものは不可分の関係にある。「風烟feng1yan1」は、現代中国語において、風と霧を指したり、朦朧とした状態を表したりする。「石室shi2shi4」は、石の祠、墓室、洞窟といった意味がある。おそらく達磨大師も籠もられたような岩窟を指すのだろうが、墓室や玄室のイメージは最後まで付きまとった方が良い。この「何he2」は「なんと~」という間投詞に取りたい。「寥落liao2luo4」は、“稀である”または“零落している”という意を持つ。朗誦三回目。私は早くも恐るべき孤独を感じ、背中に寒気が走った。かつて誰も分け入ったことのない彼独自の文学の道、そして同時に、『塵労に疲れた彼の前に』『細細と一すじ断続している』薄暗い人生の路。彼は絶対的に孤独なのだ。死んだとしても孤独なままなのだ。朗誦を重ねるのが辛くなってくる。なぜだろう。それはきっと、彼の孤独は、私の孤独でもあるからだ……。

――世界は蒼い月光に包まれている。私の住むこの洞はもとより、千仞の崖遥か下方の細い糸のような渓流も、天を刺さんとばかりに眼も眩む上空へと伸びる切り立った山々も、急峻な傾斜にしがみつく松の木も、何もかもが、深い静寂に飲み込まれている。生き物の影さえ稀な、恐ろしいほど凄涼なこの世界。私はひとり……たったひとりだ。母を、友を、呼んだところで、その声は千仞の谷と無窮の空に吸い込まれ、さらに恐ろしい大地の沈黙が私を釘付けにするだろう。私は何故、いつから、そしていつまで、此処にこうしていなければならないのか。覚醒も睡眠も、もう、何の意味も成さぬ。ただ永劫の時が流れて行く――

当然だが、私の筆力の限界を痛感させられた。そこで終始脳裏に浮かんでいる名文を引用させていただく。

月は、依然として照つて居た。山が高いので、光りにあたるものが少かつた。山を照し、谷を輝かして、剩る光りは、又空に跳ね返つて、殘る隈々までも、鮮やかにうつし出した。
足もとには、澤山の峰があつた。黑ずんで見える峰々が、入りくみ、絡みあつて、深々と畝つてゐる。其が見えたり隱れたりするのは、この夜更けになつて、俄かに出て來た霞の所爲セヰだ。其が又、此冴えざえとした月夜を、ほつとりと、暖かく感じさせて居る。

折口信夫「死者の書」より]



   三十 甲

銅駝名惟在
春風吹棘榛
陌頭何所見
三五踏靑人

〇やぶちゃん訓読

 銅駝どうだ 名 惟だ在り
 春風 棘榛きよくはんを吹く
 陌頭はくたう 何の見る所ぞ
 三五 踏靑たうせいの人


     三十 乙

  銅駝名惟在
  春風吹棘榛
  陌頭何所見
  三五射鴉人

  〇やぶちゃん訓読

   銅駝 名 惟だ在り
   春風 棘榛を吹く
   陌頭 何の見る所ぞ
   三五 射鴉しやあの人

[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年前後、龍之介満二十七歳前後(邱氏推定)から、もっと後の三十歳から三十四歳前後の晩年の可能性も排除出来ない。
本詩は、岩波版全集で「手帳」と呼ばれるものの、「手帳(五)」(旧全集)の最後の方に、以下の「三十八」「三十九」と連続して書き込まれているものである。「底本では起句の頭に「〇」が打たれ、以下の承転結句が一字下げとなっている。手帳(五)」については「三十八」の注を参照されたい。
ここで「乙」としたものについて述べておきたい。実は邱氏は「甲」しか挙げておられない。では私の「乙」は何かというと、実は「手帳(五)」のこの詩の次の行には二字下げのポイント落ちの「射鴉」の字があり、次行からは俳句群が始まっているのである。そこを再現してみると、

〇銅駝名惟在
 春風吹棘榛
 陌頭何所見
 三五踏靑人
   射鴉
〇更鉢の赤畫も古し今年竹
 金網の中に鷺ゐる寒さかな
 白鷺は後姿も寒さかな
 茶のけむりなびきゆくへや東山
 霧雨や鬼灯殘る草の中
 冬瓜にこほろぎ來るや朝まだき[やぶちゃん注:以下、略。]

となる。邱氏はこの「射鴉」を後の俳句の前書と採られたのであろうと思われる。これは批判めいた謂いではない。何を隠そう、実は私も「やぶちゃん版芥川龍之介句集五 手帳及びノート・断片・日録・遺漏」の当該部分でそのように処理しているのである。しかし、今回、これを素直に眺めてみると、どうも前書としては「射鴉」は如何にも前書らしからぬ気がしてきた。句の皿の赤絵には鴉を射る絵が描かれていたということになるのであろうが、こんな前書による句のイメージの拡大は甚だ邪道で、龍之介らしからぬ。また、わざわざここでそれを前書とするなら、続く数句が「射鴉」の句であるべきであろう。しかし次は「鷺」である。網囲いの鷺を鴉から守るために射ている人が描かれた赤絵というのも苦し過ぎる。鷺の句は実景だ。そもそも実はこの「皿鉢の」以下続く二十七句には一箇所も前書きはない。さすれば――この
×「射鴉」は句の前書きではなく
この前の、五絶の結句、
〇「三五踏靑人」の「踏靑」の部分の推敲形
と読むのが正しいのではあるまいか?
そこで平仄を調べると「踏靑」「射鴉」は全く同じで変化は生じないから、代字としても平仄上は全く問題がない。
更に、実は筑摩書房の全集類聚版(これは私が岩波旧全集と読んでいるものの、その前の版(通称、小型版全集)を元としていると思われる)の当該部(第八巻一四九頁)を見ると、驚くべきことに(そのままの新字で示す)、

〇銅駝名惟在
 春風吹棘榛
 陌頭何所見
    射鴉
 三五踏青人
〇更鉢の赤画も古し今年竹[やぶちゃん注:以下、略。]

となっているのである。
以上から私は、「射鴉」は特異な語であるものの、「甲」の推敲形「乙」として挙げることとした。大方の識者の御意見を乞うものである。

「銅駝」「晋書」の「索靖傳」に載る故事に基づく。西晋の五行学者索靖さくせい(二三九年~三〇三年)の故事(原文は邱氏の引用されたものを正字化した。書き下しは私の勝手な読み)。
靖有先知遠量、知天下將亂、指洛陽宮門銅駝嘆曰、「會見汝在棘榛中耳」。
靖、先知遠量有り、天下の将乱を知りて、洛陽宮門の銅駝を指して嘆きて曰はく、「汝と會ひ見えんは、棘榛の中に在るのみ。」と。
この銅駝とは当時の晋都洛陽の宮城門外にあった青銅製の駱駝の対像。索靖は五行に基づく予知能力によって天下の混乱を予見、その銅駝を指さし、「あなたとはいばらの茂る廃墟の中で再会することとなろう。」と慨嘆した。後、五胡(匈奴・鮮卑・羯・氐・羌)の侵攻があって洛陽は半ばが灰燼に帰した。
「棘榛」荊棘。バラ・カラタチなどのとげのある低木類の総称。
「陌頭」道のほとり。街頭。
「踏靑」中国で仲春から晩春にかけて行われる郊外の散歩。文字通り、青き草を踏む意で、初春の野に春をさぐる「探春」に次ぐ遊びであり、唐代以後に盛んになった。地方によっては一定の日に行う行事であったが、一般には清明節前後、特に郊外への墓参の後、ついでに芳樹の下や桃や李の咲く中で酒宴を開いて、春の盛りの山野を楽しんだ。おそらく緑へのあこがれに基づく行事であろう。唐詩のなかに頻出する(以上は平凡社「世界大百科事典」の植木久行氏の記載に基づく)。
「射鴉」見かけない熟語ではある。「踏靑」の情景には子女の彩りのある姿が垣間見えるが、「射鴉」では如何にも男子、如何にも黒い印象が強くなる。また、これはもしかすると、中国の三本脚の烏の神話との関連があるか? 以下にウィキの「三足烏」から引用しておく(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を変更・省略した)。『東アジアでは三足烏の足が三本なのは、陰陽では偶数を陰、奇数を陽とするが、三は奇数であり太陽と同じ陽となるからだといわれている』。『鳥の神話は、世界に広がっており、太陽と関連付けられていることが多』く、中国では『三足烏(さんそくう・さんぞくう 拼音:
sānzúwū サンズゥウー)は、中国神話に登場する烏で、太陽に住むとされ(ただし他の神話もある)、太陽を象徴する。日烏(にちう 拼音: rìwū リーウー)や火烏ともいい、月の兎の月兎と対比される。しばしば三本の足をもつとされ、三足烏とも呼ばれる。また、金色という説もあり、金烏(きんう 拼音: jīnwū ジンウー)とも呼ばれる。なお三足烏の「金烏」の絵は、日本の一七一二年(正徳二年)刊の「和漢三才図絵」の天の部の「日」の項にも認められる』。『太陽に住んでいるとされ、太陽黒点を元にした神話であるとする説もある(中国では漢代までには黒点が発見されていた)。ただし太陽にいるのは金鶏(きんけい)であるとの神話もある。また別の神話では、太陽は火烏の背に乗って天空を移動する。ただしこれに対し、竜が駆る車に乗っているという神話もある』。また別の伝承として『このような物語もある。大昔には十の太陽が存在し、入れ替わり昇っていた。しかし尭帝の御世に、十の太陽が全て同時に現れるという珍事が起こり、地上が灼熱となり草木が枯れ始めたため、尭帝は弓の名手羿に命じて、九つの太陽に住む九羽の烏を射落とさせた。これ以降、太陽は現在のように一つになった(「楚辞」天問王逸注など)』という伝説である。さて、これが代字であるとした場合、この謎の「射鴉」、識者の御教授を切に乞うものである。
 因みに、邱氏は以上の三首を中国旅行(実質の滞中は大正一〇(一九二一)年三月三十日から同年七月中旬)よりも前の作と推定した上で、それ以前の「十八」から「二十七」の漢詩を含め(この全十三首を邱氏は芥川龍之介漢詩の第三期と位置付けている)、『芸術の新天地を模索する中国旅行前の一九二〇年に、芥川が多大な情熱を持って漢詩製作に没頭し、多くの自信作を残した』と述べ、本詩は、その一つとして『超現実的な神話世界を構築する重要な舞台としての「中国」を見る熱い思いが伝わってくる』と結んでおられる。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:甲と乙、両方しっかり眺めたい。中国語辞典を引く。「銅駝
tong2tuo2」は銅の駱駝のこと、また、古代の宮廷門前に置かれたことから宮廷そのものを指すようになったという。「惟wei2」は、“只”と“思う”というふたつの意を持っている。ここは前者か。「棘榛ji2zhen1」は荊の棘のこと。荒れた土地をも象徴するようだ。「陌頭mo4tou2」は庶民が頭に巻いた布、または街頭という意。「何所見he2suo3jian4」は、“特に何処ともなく”といったところか。「三五san1wu3」には実に様々な意味があるが、ここでは素直に、そう多くない数、ここでは“幾人かの”と取りたい。甲にある「踏青ta4qing1」は、いわば春のピクニックのような年中行事のひとつ。そして、乙にある「射鴉she4ya1」。何か手がかりをと、ネット上で、カラスを射る行事、もしくは故事を捜した。そこで、ひとつ気になった話がある。明末から清初にかけて成立した、白話小説集「今古奇観」の中の一挿話「女秀才移花接木」(第三十四話)。梗概は、男装の麗人が即座の婿選びに困り、自分が射たカラスを拾ってきた者を婿に、とした。そこまではよかったが、ある経緯から、これを持参したのは拾ったのではない男で……こういった物語であるらしい。要するに、婿選びの故事だ。未確認だが、これをテーマとする「女秀才」なる京劇の演目もあるらしい。龍之介は、これを典拠とする伝統演劇を見たことはなかったかもしれない。しかし「今古奇観」は読んでいたのではないか。そして、高揚する春のそぞろ歩きの気分を詠うために、配偶者選びのイメージを持つ「射鴉」を用いようとしたのではないだろうか。

――朝廷とは、最早名ばかり。国は治まらず、世は荒れるに任されている。しかし、この宇宙の運行から見れば、全く取るに足りないことだ。季節は巡る。そして、今、まさに春。吹く風には、まだどこかに冬の後ろ姿が感じられ、おまけに少々埃っぽい。けれど、
(甲:通りには、郊外へ向かうそぞろ歩きの老若男女が、ちらほらと認められる。)
(乙:通りには、異性を見定めようとする若い男女のそぞろ歩きが、至るところに見られる。)
ああ、彼らの華やぎを見給え。こんな春の“気”に浸っていると、自然、口元が綻び、気分も高揚してくる――

私には、甲も乙も、さらに彫り込むことが可能な、一種草稿的なもののように感じられる。「今古奇観」についての参考情報は「関西大学井上泰山研究室HP」の「繍像今古奇観 第三十一回~第三十五回」(原文)。]



   三十一

山徑誰相問
開窓山色靑
山頭雲不見
山際一游亭

〇やぶちゃん訓読

 山徑さんけい たれか相ひ問ふ
 窓を開けば 山色 靑し
 山頭 雲 見えず
 山際さんさい 一游亭

[やぶちゃん注:龍之介満三十歳。これ以前、大正一〇(一九二一)年の三月末から初夏にかけて毎日新聞特派員としての念願であった中国旅行を終えている。そこで龍之介は「多くの大陸の実相を見、感懐を得、それは「上海游記」(同年八月~九月)・「江南游記」(翌大正一一年一月~二月)・「長江游記」(大正一一年二月)・「北京日記抄」(大正一四(一九二五)年六月)・「雜信一束」(大正一四(一九二五)年十一月)といった中国紀行文集「支那游記」に結実したが、同時に、この旅は龍之介の肉体と精神を著しく消耗させ、結果として死期を早めさせた遠因の一つにも数えられている。作家としては、円熟期に入り、多くの作品集刊行と、この大正一一年一月の「藪の中」「俊寛」・「将軍」・「神々の微笑」、三月の「トロツコ」など、数々の新たな試みを施した名作群を生み出している。但し、大正一〇年の中国旅行後は、下痢や神経衰弱に悩まされ、同年末には睡眠薬をなしには眠れない状況に陥っている。それにはまた、「藪の中」のモデルともなった、秀しげ子が弟子格の南部修太郎とも関係を持っていたことが露見するというショッキングな私生活での変事にも起因している(龍之介の中国旅行決断の動機の一つは、彼にとってストーカー的な淫女として変貌し始めていたしげ子から距離をおくためであったとする見方もある。南部との三角関係は私の電子テクスト「我鬼窟日錄 芥川龍之介 附やぶちゃんマニアック注釈」の注釈を参照されたい)。
本詩は、
大正一一(一九二二)年四月二十四日附小穴隆一宛(岩波版旧全集書簡番号一〇二四)
に所載する。なお、龍之介はこの翌日から翌五月一杯、京都を経由した長崎再訪の旅に出ている。
「一游亭」は一宇の四阿あずまやの意であるが、同時に小穴の俳号でもある。即ち、本詩は彼へ、一時の旅の離別への挨拶の戯詩である。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:中国の古典詩の中には、同一字の重複も数多く見られる。ただし、その殆どは、詩経や、その他古体詩と呼ばれる形態の中での話。考えてみれば、規則に縛られる以前の自由な歌謡、人間の感情の発露としての“うた”に近い世界では、自然なことだ。例えば、頭韻や脚韻の位置に同一字を置き、音楽としてリズムを刻ませるのだ。しかし、時代が下り、詩の規則が整備されてくるにつれ、作詩は窮屈になる。原則、同字の重複は避けるべきとされる。とりわけ伝統に則った絶句、ましてやその中で最も短い五言になると、この規則の適用は非常に厳格だ。字義が明らかに違う場合や、単語としての重ね字である場合を除き、例外が認められることは、まずない。
 さて、そこでこの五言絶句。起句および転結句冒頭の「山
shan1」の連打。承句でさえ句中に「」を置く。しかも全て「山徑shan1jing4」「山色shan1se4」「山頭shan1tou2」「山際shan1ji4」と、「山」で始まる二字の漢語。同義の「山」の用例陳列。これは何と奇抜な……。伝統に対して、ものすごい挑戦状を、思い切り叩きつけてきたな……。どこかの国の政治スローガンでさえ、ここまでの破格を犯して火遊びをする勇気は誰にもないぞ……。などと思いきや、内容に触れれば、たちどころに見えてきた。一切深刻ぶらず、肩の力を思い切り抜いた、遊び心満点の詩人の笑みが……。意識して徹底的に「山」を繰り出し、そのたびに、読者の驚く表情を意味ありげにニヤリと見つめる、いたずら心満点の、楽しそうな龍之介が……。加えて、特徴をもうひとつ。用字の無邪気さだ。「山」をはじめ「開kai1」「窓chuang1」「青qing1」「雲yun2」「一yi1」「游you2」。よくぞこんなにも曇りなき原色の字を集めてきたものだ。まるで畳の上の“小学生漢字かるた”でも見るようだ。下手をすれば、幼児向雑誌の付録の、罪もない代わりに内容もない“絵本もどき”(失礼!)に堕してしまう危険すらはらんでいる。かなりの力量を持った詩人でないと、とんでもないことになってしまうだろう。また、これほどまでに翳りがないと、読者はハーケンを打ち込む場所を見出せず、滑落してしまいかねない。しかし、さすが芥川龍之介。打算なき純な心と、大手腕で統御しているため、作品の背筋はすっと伸びたままだ。読者は、ひと息で結句まで辿り着く。また無理やり定点を定めなくとも、終始遠くに見える山に視線を引っ掛けておくことができるので、遭難の危険はほとんどない。彼の力にしてはじめて可能な、豪華で贅沢な“あそび”だろう。それにしても、詩人はこの後、この青い山に登ることができたのだろうか。一点の曇りもない旋律、却ってかすかな不安も……。いや、それは今ここで考えるべきことではない。

――この山中で道を尋ねてくるのは誰だい。おお、君か。これはまた随分久しぶり。余計な話はまず抜きにして、ほら、あの山をご覧よ。この山小屋の窓からも、あんなに眩しく、くっきりと望まれるなんて……。オイオイ、見給え。山頂には一片の雲もないじゃないか。山容が、紺碧の空に怖いくらいくっきりと浮かび上がっているね。ああ、実に見事だねえ……。え? まあ、いいじゃないか。人生、そう先を急ぐなよ。暫くはこのまま、この山小屋で、話でもしていかないか。昨日の辛かったことを話したって一向に構わないし、それよりも、明日に待ち受けている、あのうっとりするような夢のことを語り合ったっていいんだぜ。そうだよ。なあ、君。是非、そう、し給え――

 評釈を終えて、解説を読み、またしても誤読に気づいた。最大の間違いは、起句の「誰」。反語的に読んで、「周囲には誰もいない」と読むのが正当だったのか……。確かにその通りだ。しかし、私は敢えてこのままご報告したい。この詩は、決して一人ぽっちの淋しさなんて歌っていない。常に傍らに友人の存在を意識している。だからこそ、私は「友人が語りかけてきた、そして終始横にいた」と受け取ったのだ。私の誤読は、厳しく叱られるほどのことでもないだろう。]



   三十二

買酒窮途哭
誰吟歸去來
故園今泯泯
廢巷暗蛩催

〇やぶちゃん訓読

 酒を買ひ 窮途きゆうとに哭す
 たれか吟ぜん 歸去來かへりなんいざ
 故園 今 泯泯びんびんたり
 廢巷はいかう 暗蛩あんきよう もよほ

[やぶちゃん注:龍之介満三十一歳。恐らくは関東大震災直後の嘱目絶唱である。
本詩は、大正一二(一九二三)年(年次推定)九月二十一日附高橋竹迷宛絵葉書(岩波版旧全集書簡番号一一四一)
に所収する。但し、本絵葉書は、
未投函
のものである。従ってこれは死後の全集の「書簡」で初めて日の目を見たものである(旧全集後記には本書簡に関する注記は一切ない)。以下にその書簡(絵葉書の絵は不明)を示す。

   買酒窮途哭誰吟歸去來故園今泯泯廢巷暗蛩催
乞玉斧

                   芥川龍之介
ワタシノウチハブジデスガ親戚皆燒カレマシタ

高橋竹迷(明治一六(一八八三)年~昭和二六(一九五一)年)は曹洞僧で文人。山梨県北巨摩郡秋田村(現在の北杜市長坂町大八田)の清光寺住持。本名矢島定坦、幼名喜一。岐阜生。美濃市の永昌院高橋慧定の養子となり、得度して定坦を名乗る。盤えんは書画に親しみ、多くの文人と親交があった。芥川と知り合ったのは、この前月の大正一二年八月二日に北巨摩郡教育委員会が主催した夏期大学講座の講師として招かれた(五日まで滞在し、毎日二時間の文学論を講義)際で、短い期間であったが、龍之介とは肝胆相照らす仲となった。到着したその日八月二日附の小穴隆一宛書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三四)には、『この山中の淸光寺にあり日々文學論なるものを講じ居り候淸光寺の方丈さんは高橋竹迷氏と申し曹洞宗中の文人なり 方丈さん畫を書き僕句を題す この間多少魔風流ありと思召され度候』とあり、また三日後の五日の、知り合いで南画家の岸浪靜山に宛てた書簡(岩波版旧全集書簡番号一一三六)では竹迷と寄せ書きまで成し、『夏期大學の先生に來たところ思ひかけず庵主は竹迷上人なり、爲に教育會のお客だか竹迷上人のお客だかわからぬやうに相成候』ともあって、龍之介が竹迷の名僧文人としての評判(もしかするとおの岸浪を介してかも知れない)逢う前から既に聴いていたことが窺われる(以上は主に新全集人名解説索引及び鷺年譜に拠った)。
 邱氏は本詩についてかなりの分量の記載をなさっており、本詩を龍之介の漢詩中でも、エポック・メーキングな眼目の詩と捉えておられるのがよく分かる。従って、ここでは例外的に邱氏の評を多く引用、提示したい。
 邱氏は、当該詩の「解説」で、『この詩はやはり中国旅行後の心情と深く関連するものと思われる。他の漢詩と違い、行分けせずに一行になっている異例な詩形にしてあるのは、自身の真の気持ちを隠したかったからか。「未投函」であることもその点を暗示している』とされ、『自身の真の気持ちが素直に表れたこの漢詩』を『告白を恥じる芥川は中国文化について深い造詣を持つ「曹洞宗中の文人」高橋に送る勇気を持たなかったのである』と記されておられる。これは非常に優れた洞察と私は読んだ。
「窮途哭」邱氏は『恵まれない酷い境遇にあることを指す』とされ、南北朝の宋の劉義慶の編になる小説集「世説新語」の、竹林の七賢の指導的人物であった阮籍(二一〇年~二六三年)の故事を部分的に引用されておられるが、ここで私は当該項である「棲逸第十八」の冒頭の、私の大好きな阮步(阮籍)の逸話に附された冒頭註である「魏志春秋」からの引用を以下に全文提示することとする(原文は明治書院の「新釈漢文大系 七十八 世説新語 下」を用いたが、訓読は私の勝手なものである)。

魏志春秋曰、阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反。嘗遊蘇門山、有隱者莫知姓名、有竹實數斛杵臼而已。籍聞而從之、談太古無爲之道、論五帝三王之義、蘇門先生翛然曾不眄之。籍乃嘐然長嘯、韻響寥亮。蘇門先生乃逌爾而笑。籍既降、先生喟然高嘯、有如鳳音。籍素知音、乃假蘇門先生之論、以寄所懷。其歌曰、日沒不周西、月出丹淵中、陽精晦不見、陰光代爲雄、亭亭在須臾、厭厭將復隆、富貴俛仰閒、貧賤何必終。
〇やぶちゃんの書き下し文
魏志春秋に曰く、「阮籍、常に意に率して獨り駕し、徑路に由らず、車跡、窮むる所、すなはち慟哭してかへる。嘗て蘇門山に遊ぶに、姓名の知る莫き隱者有り、竹の實數斛と杵と臼と有るのみ。籍、聞きて之に從ひ、太古無爲の道を談じ、五帝三王の義を論じるも、蘇門先生、翛然いうぜんとして曾て之をかへりみず。籍、乃ち嘐然こうぜんとして長嘯、韻響、寥亮れうりやうたり。蘇門先生、乃ち逌爾いうじして笑ふ。籍、既に降り、先生、喟然きぜんとして高嘯、鳳ののごとく有り。籍、素より知音ちいんなれば、乃ち蘇門先生の論を假りて、以て所懷を寄す。其の歌に曰く、
 日は沒す 不周の西
 月は出づ 丹淵のうち
 陽精 晦く 見えざれば
 陰光 代りて 雄と爲す
 亭亭として在るは須臾しゆゆ
 厭厭として將に復隆せんとす
 富貴 俯仰ふぎやうの閒
 貧賤 何ぞ必ずしも終はらんや
と。
以下、底本の語注や訳を参考に語注を附しておく。
・「阮籍常率意獨駕、不由徑路、車跡所窮、輒慟哭而反」龍之介がこの「窮途哭」の典拠とした部分である。私なりに訳すなら、
阮籍は、常に気が向く儘に馬車を走らせて――その時には既にある道に依らず、未だたれ一人通ったことのない道を切り開いては行き――遂に馬車の行かれぬ場所に行き当たってしまうと、大声を挙げて泣きながら帰った。
である。真理を求めた佯狂の隠逸人阮籍の面目躍如たるポーズではないか。
・「蘇門山」河南省輝県西北にある山。
・「五帝三王」神話伝説時代の帝王。三皇五帝。異説が多いが、例えば伏羲・神農・黄帝を三帝、五帝はこく・堯・舜・禹・湯などとする。
・「翛然」ものに捉われないさま。
・「寥亮」高らかに。
・「逌爾」表情を和らげて笑うさま。
・「知音」ここは文字通り、音・音楽を解する能力を持っているの謂い。阮籍が鳳凰の鳴き声のような仙人の長嘯に込められた神韻を瞬時に悟ったことをいうのであろう。
・「不周」不周山。崑崙山の西北にあるとされた伝説の山。
・「丹淵」阮籍の「詠懐詩」の「其二十三」にも出る。月の出る伝説上の淵か。明治書院版注には「山海経」の「大荒南経」に載る『甘淵の誤りか。甘淵は日輪の御者である羲和のむすめが浴する所』とある。
・「陽精」太陽。
・「陰光」月。
・「亭亭」高いさま。
・「須臾」ほんの一時。
・「厭厭」幽かで昏いさま。
・「將に復隆せんとす」(陽光が射しても直に)また昏い闇がまた降りて来て深くなる、という、夜の更けることの繰り返しの方で示したものか。私は訓読を誤っているかも知れない。
・「俯仰閒」うつむくことと仰ぎ見る間、見回している間であるが、ここは、一瞬の間の意。
・「何ぞ必ずしも終はらんや」(富貴もあっという間に凋落するように)貧賤と言ったって、そのままに終わるとは限らぬ、の謂い。
・「誰吟歸去來」「歸去來」は無論、陶淵明の「歸去來の辞」を指す。ここで、芥川龍之介は、深い愁いに、酒に酔うている――しかも愁いは、その酔いによってされぬばかりか――より増幅され自覚され――遂に彼は「道」に「窮」し、慟「哭」している。その慟哭の底から――龍之介の――声が聴こえて来るのである……震災の累々たる死骸の山……荒蕪と化した帝都東京……(しかしそれは龍之介が震災以前から抱いてきた何もかも壊れてしまうがよいという現実世界への強烈な呪詛の体現だったのではなかったか? ひいては彼の自死へと繋がる近代軍事国家と変貌しつつあった日本という現存在への深い絶望感へと直結するものではなかったか? と私[やぶちゃん]は直感しているのだが。この私の感懐は勝手なものであろうか? 最後に示させて戴いた邱氏の評言をお読みあれ)……「今の世に一体、誰があの「歸去來の辞」を吟ずるであろうか!?」……『最早、今となっては誰一人として「歸去來の辞」を吟ずることは、もう、ない――ああっ! 「田園將蕪」(田園將にれなんとす)――いや――田園――故郷――この世界は既に消え去ってしまおうとしているではないか!』……という龍之介の声である。
 ここで私は叫びたくなる。……
 芥川龍之介にとって、かの関東大震災は、我々にとっての三・一一のカタストロフと同じなのだ! 事実、帰るべき故郷を消失した福島第一原発の周辺の民を見るがよい! 故郷は見えない悪魔によって永遠に容易に消失するではないかッ!――しかし、間違ってはいけない!――決して震災は物理的な「喪失」の原因なのではない! この震災後の「喪失感」自体が、ずっとそれ以前からの、そして、それずっとそれ以後の、現代人の宿命的「喪失感」そのものの、一つの象徴であると私は言いたいのだ!……
 再度、断言する。
 関東大震災は、芥川龍之介にとって、魂や精神としての「日本という原風景としての故郷」の、永遠の喪失の一つのシンボルであったのである。
「泯泯」滅びること、消え去ること。
「暗蛩催」「蛩」はコオロギであるから、闇の瓦礫山の間から聴こえて来る蟋蟀のだけが、「催」、せきたてるように高く、真っ黒な画面に鳴り響いて、本詩は終わるのである。

 邱氏はその「評価」で、『多くの典故を用い、故郷に帰る望みのない悲しさを如実に反映した作品である。中国旅行後の心情の変化が表われ、芥川文学の神話構築と崩壊の実体が示唆される作品であろう』とまで述べられ、次に、後に既に自死を決しつつあった芥川龍之介が書いた『病中雜記――「侏儒の言葉」の代りに――』(『文藝春秋』大正一五(一九二六)年二月。後に『侏儒の言葉』に所収。リンク先は私の電子テクスト)の中の「二」、
僕の神經衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。その時には眠りに入らんとすれば、忽ち誰かに名前を呼ばるる心ちし、飛び起きたることも少からず。又古き活動寫眞を見る如く、黄色き光の斷片目の前に現れ、「おや」と思ひしことも度たびあり。十一年の正月、ふと僕に會ひて「死相がある」と言ひし人ありしが、まことにそんな顏をしてをりしなるべし。
の前半部を引用されて、起句の「買酒窮途哭」の評言は『この記述を思わせる』と述べておられる。一般的には龍之介の神経衰弱の原因の一つは、大正十(一九二一)年三月末から七月中旬迄の四ヶ月に亙る大阪毎日新聞社海外特派員としての中国旅行後の、過剰にして無理な創作活動に原因したとも言われている。邱氏は続けて言う。
   《引用開始》
……芥川にとって、阮籍、陶淵明らに代表される中国古典の世界がいかに重要であったかが想像されよう。人間の強欲により、中国と日本のとの間に悲惨な戦争が起り、芥川も永遠に自己の精紳の故郷を喪失した。「窮途」で慟哭した芥川はついに自殺を決するに至るのである。二十一世紀に入った今日でも、この詩を読むと芥川の純粋で一途な魂の同国がいまだに荒野に響いているように思われてならない。
   《引用終了》
 なお、震災からその直後の芥川龍之介の感懐については青空文庫所収の芥川龍之介「大正十二年九月一日の大震に際して」を参照されたい。但し、これは筑摩書房全集類聚版によるもので、恐らくは作品集「百艸」に載った震災関連作品を一つにし、上記のような題名を誰か(芥川龍之介ではない)が勝手に作成したものと考えられ(但し、閑連作品を総覧出来る便宜は頗るよい)、岩波版旧全集及び宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)にはこのような題名は所載していないことを付記しておく。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:まず眺めると、目に飛び込んでくる「窮
qiong2」「哭ku1」「故gu4」「泯min3」「廃fei4」「暗an4」という字。これらが読者に与える第一印象は強烈だ。何か辛い、侘しい、淋しいことを詠ったものに違いないと、読者は一応身構える。しかし、この詩はそう単純ではない。起句の「哭」はもちろん泣くこと。現代中国語ではめそめそ泣くのも「哭」だが、何しろ鬼哭啾啾の哭だ。軽い字ではない。「窮qiong2」は貧しいこと。“酒を買いに行ったけれど金がなくて、道々泣いている……”、そう読める。読者は、酒を買う行為の軽さと、その感情表現の鋭さにアンバランスを感じないだろうか。承句の「帰去来gui1qu4lai4」は、言わずと知れた陶淵明の帰去来辞。千年の風雪に耐えてきた陶詩のエッセンス。あまたの東洋の詩人が、忌まわしい現実から逃れたいと思ったとき、最後まで待ってくれていた心の拠り所。それを、“誰が吟じた……”という軽い口調、それもたった二字で放り出している。“誰が吟じたのだ、「帰去来辞」を……”。読者は、そのコントラストに、戸惑いを感じないだろうか。まだ詩全体の状況が完全に把握できない中、もしかしたら滑稽の感さえ感じる者はないだろうか。笑いを論じた書物の中で、その定義のひとつに、“緊張が緩んだときに起きる揺り戻しの一種”というのがあったと思う。それに似た笑いが、読者の口元に忍び寄ることはないだろうか。
 そして問題の転結句。戸惑った読者は、ここで最暗部に突き落とされる。戸惑いが消え、滑稽の手前まで行った振り子は、一気に反対側に振れる。そして初めて、詩人の魂に逢うことになる。転句の「泯
min3」。中国語の意は、消失すること。日本語でもほろぶと訓じる。この「泯」の字の重さはいうまでもない。この詩全体の重心は、この「泯泯」にある。火が消えるというニュアンスが勝る「滅」ではない。死んでこの世からいなくなるというイメージの強い「亡」でもない。何か、多量の湿り気を持った、まるで洪水に呑まれていくような、徹底的な“ほろび”……。“昔、あれほど心魅せられた花園の今のこの有様を見よ。見るも無残な廃墟ではないか”。結句の「巷」。“ちまた”のことだが、一般的に、中国語では日本語が指すより狭い面積、すなわち、ひとつの通りや居住区の一区画を表わす。「蛩」は、qiang2またはqiong2と発音し、イナゴの意、古くはコオロギのこと。「催cui1」は、催促すること、変化を促し加速させるという意味。“虫が鳴く……、そのことによって自分の思いが研ぎ澄まされ、増幅されていく”と理解してよかろう。“荒れ切ったこの土地の暗がりでひっそりとコオロギが鳴いている……”。この転結句、救いのかけらさえ、見出すことができない。このとき読者は驚愕する。ああ、詩人は、冗談を言っているのでも、自嘲しているのでも、おどけているのでも、ポーズを取っているのでも、なかったのだ。そして事の深刻さを悟り、振り返ることになる。そうか、起承句で見た鋭角的で激しい感情表現は、文字通りの話だったのだ。本心だったのだ。そして、もう呆然と立ち尽くすしかない。暗澹たる、救いようのない世界……。

<ひとつの挿話>

……私は先刻迄淺い眠りに落ちてゐた。轟々ぐわうぐわう鳴る三等列車は、依然夜の闇の底で、遙か東京へ向かふ鐵路をひた走つてゐる。私の手には、先生の手紙――先程讀み終へたばかりの長い手紙――が、しつかりと握られてゐる。私は恐ろしい夢を見た。襯衣シヤツの背中に滲み通つた氣味の惡い汗は、まだ乾いてゐない。……
……幸運なことに私は先生に行き遭つた。さうして何囘か一緒に散歩した路地を、皓々たる月明かりに導かれながら、連れ立つて先生のうちへ向かふことにした。
「私は、あなたに話さなければならない。行き詰つてしまつたのです。私の周圍は、もう八方が塞がれてしまつたのです」
 先生は歩きながら、突然低い聲でかう言つた。私は急に驚かされた。
「私が夢みたもの、憧れたものは、みなほろんでしまひました」
 その内容にそぐはず、先生の言葉は明晰だつた。私は先生の眞意を測りかねた。私は先生の顏を覗き込まうとしたが、背後から月光を浴びてゐる先生の表情は、陰になつてゐて讀めなかつた。
「先生、どうゐうことですか。おつしやる意味が能く解りません」
「私は人間全體を信用できなくなつた。ただし、自分だけは別であつた。しかし、その自信すら打ち碎かれた、――これは手紙に書いた通りです」
 その時、先生の宅の門が遠くに見えた。門と玄關の間のあの木犀の香りが、早くも私を包んだ。夏の間一度も先生の宅の玄關を跨がなかつた私に、懷かしい思ひが湧いた。
「しかし、私はそれでもまだ固く信じてゐました。人間にとつて最後の據り所ともなる、ある種の文學といひますか、さう――搖るぎない心の故郷といつてもいい――さういふものの存在を……」
 二人は門を入ると、芳香を放つその木犀の横を通つて、玄關の前に立つた。丁度その時、格子の向かふに玄關の電燈がふと點つた。先生の聲を聞きつけて、奧さんが出て來たのかもしれなかつた。
「ところが……です」
 その時、月の光も玄關の燈りも、一瞬間に落ちた。私は目の前が眞つ暗になつた。その刹那の後である。私は氣づいた。私はひとり廢屋の前に立つてゐた。私は棒立ちに立ち竦んだ。月は何事もなかつたかのやうに、この凄絶な光景を無言で照らしてゐる。半ば崩れた瓦屋根も、荒れ放題に任された植え込みも、蒼い光に殘酷な程くつきりと照らされてゐる。
「先生――」
 私は先生を呼んだ。しかし周圍は森閑と靜まり返つて、人の氣配すら感じられない。
「先生――」
 私は焦りつつ、さらにもう一度呼んだ。その時である。木犀の下の植え込みの奧底から、ひとすぢの艷やかなコオロギの聲が響いて來た。私は急に恐ろしくなつた。目の前の光景が官能を刺激して起こる單調な恐ろしさばかりではなかつた。この世界が持つ奈落の闇と、その崖つぷちに立つてゐる自分の存在そのものに對する恐ろしさだつた。私は喉元まで出掛かつた叫び聲を抑へつけるのがやつとだつた……

この詩は、重い。もしこの詩が芥川龍之介の人生の途を象徴するとしたら、あまりに傷ましい。[やぶちゃん補注:<ひとつの挿話>は私の独断で正字正仮名に変換してある。]]



   三十三

有客來相訪 通名是伏羲
泉石烟霞之主
但看花開落 不言人是非
與君一夕話 勝讀十年書
天若有情 天亦老 搖々幽恨難禁
悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖
書外論文 睡最賢
虛窓夜朗 明月不減故人
藏不得是拙 露不得醜

 〇やぶちゃん訓読(一行中の二句の間は二字分の空きを入れた)

 客有り 來つて相ひ訪ふ  通名 是れ 伏羲ふつき
 泉石烟霞の主なり
 但だ看る 花の開落せるを  言はず 人の是非
 君と一夕を話すは 十年書を讀むにまさ
 天 若し情有らば 天も亦 老いん  搖々たる幽恨 禁じ難く
 悲火 常に心曲を燒く  愁雲 頻りに眉尖びせんを壓す
 書外論文しよぐわいろんぶん  すゐ 最も賢し
 虛窓きよそう  朗らかにして  明月 故人を減ぜず
 かくし得ざるは 是れ せつ  露はし得ざるは これ 醜

[やぶちゃん注:龍之介満三十二歳。この詩が書かれた大正十三(一九二四)年九月十八日前後を管見すると、その六ヶ月前の大正一三(一九二四)年四月発行の『女性改造』に「岩見重太郎」、七月一日の『サンデー毎日』には「桃太郎」(この二作は中国旅行との関連が極めて濃厚な作である)が、当該九月一日には後の「長江游記」が「長江」として『女性』に発表されている。同年中では一月の「一塊の土」、四月の「寒さ」「少年」等が意欲作と見えるが、全体に「野人生計事」「新緑の庭」などのアフォリズム的な小品(それらがまたよいのであるが)が多い。龍之介の創作停滞への焦燥が見える一年ではある(リンク先は総て私の電子テクスト)。
私はこの詩は、龍之介の中で非常に大きな意味を持っているものであると考えている。それは何故か?――実は本詩について私は既に二〇一一年五月七日のブログ「芥川龍之介と李賀の第三種接近遭遇を遂に発見した」で論評しており、その内容以外の新しい附言をする必要を殆んど認めないのだが、本頁での評釈に合わせて記載をし直そうと思う。実は、この年の夏、龍之介は軽井沢で運命的な邂逅をしているのである。即ち、
かの「越し人」片山廣子との出逢い
である。片山廣子について、私は多くのテクストや論考を重ねてきたので、ここではもう詳述しないが(私のブログ・カテゴリ「片山廣子」等を是非、参照されたい)、私は、本詩を龍之介が創ったその時、龍之介の中では「越し人」廣子への、掻き毟りたくなりような切ない思いが、正に「悲火 常に心曲を燒く」如く燃え上がって、そのじりじりと焼け焦げるような焦燥の中にあったという事実を、この詩の背景として感じないわけにはいかないからである(その辺りの具体的な事実を、本詩を正当に訂正され評釈された邱氏が理解しておられたかどうかは定かではない。評釈の書き様からはそうした印象はあまり感じられないのが、やや残念ではある)。これが信じられない方のために、一つだけ言い添えるならば、恐らくはこの詩を創作する十三日前、龍之介は廣子から、あの情熱的な手紙(九月五日附)を受け取っているという事実を示すだけで足りよう。以下、私の電子テクスト「片山廣子芥川龍之介宛書簡《やぶちゃん推定不完全復元版》」から「片山廣子芥川龍之介宛書簡Ⅰ 大正一三(一九二四)年九月五日附(抄)」を引用する(記号類の意味や私の論考はリンク先を参照されたいが、論考は結構な量であるから覚悟されたい)。

〔略〕あんなに長いお手紙をいただいてたいへんにすみませんでした〔略〕
二十三日にお別れする時に、もう當分あるひは永久におめにかゝる折がないだらうと思ひました。それはたぶん來年はつるやにはおいでがないだらうと思つたからです わたくしがあそこにゐるといろいろうるさくお感じになるかもしれないと思つたのでした。それでたいへんおなごりをしくおもひました。夕方ひどくぼんやりしてさびしく感じました(略)
二十四日もたいそうよく晴れてゐました。もみじの部屋ががらんとして風がふきぬいてゐました。通りがかりにあすこの障子際にステッキが立つてゐないのを見るとひどくつまらなく感じましたそしてつるやぢゆうが靜になつたやうでした。(略)
二日か三日の夜でした氣分がわるくて少し早くねました星が先夜ほどではなくそれでもめについて光つてゐましたふいとあなたのことを考へて今ごろは文藝春秋に小説學の講義でも書いていらつしやるかしらと思ひました それから何も考へずにしばらくねてゐましたがそのあとでとんでもない遠いことを考へましたそれは(おわらひになつては困ります)むかしソロモンといふえらい人のところへシバの女王がたづねて行つて二人でたいへんに感心したといふはなしはどうしてあれつきりになつてゐるのだらうといふうたがひでした。(略)
わたくしたちはおつきあひができないものでせうか〔……〕あなたは今まで女と話をして倦怠を感じなかつたことはないとおつしやいましたが〔……〕

即ち、相愛の関係に発展していた廣子への、内なる恋情の炎の只中にあった龍之介の秘密の感懐、それが本詩なのである。
搖々幽恨難禁 悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖
とはまさに、その廣子への思いそのものである。そしてまたこの詩の中にこそ、龍之介がが愛し、私が愛する――李賀がいる――のである。……それは以下の語注に譲ろう。

本詩は、
大正十三(一九二四)年九月十八日に書かれた芥川龍之介のノート「ひとまところ」
に所載する。このノートは冒頭に以下の如き明確なクレジットを有するので、創作時期はこの時期と確定出来る。次の「三十三」も含まれるが、全体が一つの連続した龍之介の詩想の中で書かれたものと考えられることから、取り敢えず、ここにその旧全集所載の全文を示しておきたい。なお、底本は旧全集を元としつつ、現在所蔵する山梨県立文学館のものを底本とした新全集の字配(特に冒頭の前書きなど)で示した、
という前書きがある。

大正十三年九月十八日如例胃を病んで臥床す 「ひとまところ」は病中の閑吟を錄するもの也
              澄江子

   小庵
 朝寒や鬼灯のこる草の中
 秋さめや水苔つける木木の枝
   旅中
 秋風や秤にかゝる鯉の丈
 手一合零餘子貰ふや秋の風
   碓氷峠
 水引を燈籠のふさや秋の風
   枕べに樗良の七夕の畫贊を挂けたり
 風さゆる七夕竹や夜半の霧
   枕頭にきりぎりす來る
 錢おとす枯竹筒やきりぎりす
 煎藥の煙をいとへきりぎりす

 有客來相訪 通名是伏羲
 泉石烟霞之主
 但看花開落 不言人是非
 與君一夕話 勝讀十年書
 夭若有情 天亦老 搖々幽恨難禁
 悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖
 書外論文 睡最賢
 虚窓夜朗 明月不減故人
 藏不得是拙 露不得醜

 一目怪、人魂、傘、のつぺらぼう、竹林坊、

 異花開絶域 滋蔓接淸池
 漢使徒空到 神農竟不知

この内、俳句部分については、既に私の「やぶちゃん版芥川龍之介句集 発句拾遺」で「ひとまところ」所収分として抽出、語注を附してあるので参照されたい。
次に漢詩の間に挟まれた、不思議な「一目怪、人魂、傘、のつぺらぼう、竹林坊、」なる妖怪の名の羅列は、芥川龍之介画になる「化け物帖」(日本近代文学館蔵)の八点の題名とほぼ完全に一致する。当該画は一九九二~一九九三年に開催された「もうひとりの芥川龍之介――生誕百年記念展――」で実見したが、その解説書(産經新聞社刊)十四頁に全図(「1-7」~「1-12」)が載り、そこには一枚を除き、妖怪の絵に添えて題名が脇に添えてあって、
「一目怪」(1-9)、「人魂」(1-7)、「化傘」(1-11)、「のつぺらぼう」(1-10)、「竹林坊」(1-12)
とあるからである。無名の「1-8」は実は「1-7」を元にした彩色画と思われるもので、構図その他が酷似するから、正にこのメモは自画の「化け物帖」全画の備忘録(目録?)として書かれたものと断定出来るのである。
そして、既に、お気づきのことと思われるが、本詩の、
天若有情 天亦老 搖々幽恨難禁

夭若有情 天亦老 搖々幽恨難禁
となっていて異なることにお気づきになろう。これは、
旧全集も新全集も「夭」表記
となっているもので、旧全集ではなく現物に当たった新全集がこう表記しているということは、実際に現物が「天」ではなく「夭」に見えるということ
なのであろうが、これは邱雅芬氏の「芥川龍之介の中国」の「第二章 芥川と漢詩 第二節 芥川の漢詩」の本詩の「解説」で、初めて邱氏によって、
   《引用開始》
書き間違いか誤植か不明であるが、第六句「夭若有情」の「夭」は「天」の間違いである。
   《引用終了》
と指摘されたものである。邱氏がわざわざ『書き間違いか誤植か不明であるが』としながら、『間違いである』と断定なさっているのは、これが李賀の「金銅仙人辭漢歌」からの引用であり、中国語として「夭」では意味が通らないということが判然としており、「天」以外に文意が通じないからでもあろう。これは、実際に本詩を読もうした際、どうしても意味不明な事実からも明白であったなずなのだが、中国人の邱氏がこれを指摘なさるまで、これまで誰もこのことに気づかなかったというのは(邱氏に先行する村田秀明氏の「芥川龍之介の漢詩研究」(一九八四年三月刊雑誌『方位』七)で指摘されているかどうかは、当該論文を未見なため不明。芥川龍之介の、容易には目に入らないような研究者の論考での指摘は過去にあるのかも知れないが、一般人の目に入らないというだけで、その論文は――アカデミズムの所産であろうが何だろうが――「糞」でしかないと、私は考えている)、私を含めて「芥川龍之介を愛する日本人」として恥ずかしいことであると私は思うのである。それだけ、この奇抜な詩を本気で読もうとした自称「芥川龍之介研究者」が一人もいなかった、という衝撃的な哀しい事実が暴露されたことにほかならないからである。

 以下、本詩については語釈を示さず、邱氏の現代語訳を参考にしながら書いた私の訳を示す(訳中で語彙の分かるように勤めたつもりではある)。特に邱氏のそれでは、私のよく分からなかった最後の六句「書外論文 睡最賢/虚窓夜朗 明月不減故人/藏不得是拙 露不得醜」で啓示を得た。ただ私は、これを牽強付会と知りつつも、この「故人」を「旧知・旧友」(又は古き詩人の意か?)ではなく、「心焦がれる恋人」(勿論、廣子のこと)と採って訳したことを言い添えておく。

   *
客があったんだ――やって来てさ、私を訪ねたその相手は、通称伏羲、何と! かの中国の原初の神々のおさじゃないか! 天然自然の山水を愛する隠者だ!……
彼と二人、ただ花が咲き、そして、散るのを見てるんだよ……誰彼たれかれの人の、その善し悪しなんどは、口にしないでね……
君と一晩語らって得たもの――それは、十年書物を読み続けたのにも勝るものだった!……
天という存在に、もし情というものがあったとするなら、天もまた僕の宿命を悲しむ余り一気に年老いるに違いない! 目が眩むような激しい愁いが僕の胸の中にはあって、どうにもならないんだ!……
その悲しみは、火の如く心中に炎を上げてる! 僕の眉は、その愁いのために何時だって顰められてる!……
書物なんか、うっちゃっちまえ! 人の書いたものを批評するなんてぇのも、もう、やめだ! 何より遙かに賢いのは……ただ……眠ること、さ……

――今宵……明月は紗のカーテンの掛かった窓を照らし……その光りは焦がれる恋人の窓下にも同じ如、射している……
――隠し得ぬのは……これ、如何にもな私の「拙劣さ」であり……あなたに見せ得ぬのは……これ、私の真実まことの「醜さ」である……
   *
 以上の私の訳への疑義があれば、是非とも御教授願いたい。特に「明月不減故人」の部分はあやしい。
 一つ、付け加えると
「客があったんだ――やって来てさ、私を訪ねたその相手は、通称伏羲、何と! かの中国の原初の神々の長(おさ)じゃないか! 天然自然の山水を愛する隠者だ!……/彼と二人、ただ花が咲き、そして、散るのを見てるんだよ……誰彼たれかれの人の、その善し悪しなんどは、口にしないでね……」という部分は訳を考えながら、この年の夏の、軽井沢での廣子との思い出の情景のインスパイアに間違いないと、私には直感的な確証が生まれた。また、
「君と一晩語らって得たもの――それは、十年書物を読み続けたのにも勝るものだった!……」の部分は、
正に龍之介と廣子の関係、ソロモンとシバの女王の関係(先の「片山廣子芥川龍之介宛書簡《やぶちゃん推定不完全復元版》」及び芥川龍之介「三つのなぜ」の「二 なぜソロモンはシバの女王とたつた一度しか會わなかつたか?」を参照)、そして、「或阿呆の一生」の、

       三十七 越 し 人
 彼は彼と才力さいりよくの上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越しびと」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹にこゞつた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげがさ
   何かは道に落ちざらん
   わが名はいかで惜しむべき
   惜しむは君が名のみとよ。

の前書冒頭の「彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した」の一言を思い出させずにはおかないものであった。更に、
「天という存在に、もし情というものがあったとするなら、天もまた僕の宿命を悲しむ余り一気に年老いるに違いない!」には廣子との大きな年齢差(龍之介満三十二歳、片山廣子四十六歳で廣子が十四歳年上)が意識されているようにも思われる。
 さて、本詩の中に「いる」李賀について以下に述べる。芥川龍之介が李賀を愛読していたことは古くから知られていたことなのだが、私は未だ嘗て、それを裏付ける芥川龍之介自身の筆になる一次資料を見たことがない。邱氏の本詩の「評価」の欄の指摘によって、この「天若有情 天亦老」の部分こそが、李賀の「金銅仙人辭漢歌」からの援用であることが分かって初めて、私は芥川龍之介の作品の中に、明らかな「李賀の存在を現認した」のである。だからこそ「夭」は真正の誤りだと言えるのでもある。以下、李賀の「金銅仙人辭漢歌」を引用する(「序」があるが省略した)。

   金銅仙人辭漢歌   李賀
茂陵劉郎秋風客
夜聞馬嘶曉無跡
畫欄桂樹懸秋香
三十六宮土花碧
魏官牽車指千里
東關酸風射眸子
空將漢月出宮門
憶君淸涙如鉛水
衰蘭送客咸陽道
天若有情天亦老
攜盤獨出月荒涼
渭城巳遠波聲小

○やぶちゃんの訓読

   金銅仙人漢を辭するの歌   李賀
茂陵の劉郎 秋風の客
夜 馬のいななくを聞くも あかつきに跡無し
畫欄 桂樹 秋香を懸け
三十六宮 土花みどり
魏官 車を牽きて千里を指せば
東關の酸風 眸子ぼうしを射る
空しく漢月とともに宮門を出づれば
君を憶ひて 淸涙 鉛水のごとし
衰蘭 客を送る 咸陽の道
天若し情有らば 天も亦老いん
盤をたづさへて獨り出づるに 月 荒涼
渭城 巳に遠く 波聲小なり

この十句目に芥川が用いた、
天若有情天亦老
が現われるのである。我々は遂に芥川龍之介の直筆のラインに李賀を見出したのである。
 さて、この詩自体の解釈はそれだけで膨大なスペースが必要なので専門家の諸本に譲るが、要は人が非情無情とするところの対象(仙人の銅像)にも悲痛慷慨の思いがあるとし、李賀はそれに代わってその悲しみを詠んだものであり、私は――龍之介はこの金銅仙人の、否、その李賀の「思い」を――自身の廣子へのやるせなき「思い」と――ダブらせたのだと解釈するのである。
 なお、邱氏はその「評価」で、この漢詩全体が、幾多の中国古来の常套句や諺、複数の詩人の詩文からの「集句詩」であるということも指摘しておられ、諺や慣用句を逐一指摘(私は邱氏の著作権を侵害することを欲しない。当該書を参照されたい)、李賀以外では、『「悲火常燒心曲 愁雲頻壓眉尖」の部分が白楽天の「朱陳村詩」の「悲火焼心曲 愁霜侵髯根」を典拠とし』、「虛窓夜朗 明月不減故人」が『明代陳継儒(一五五八~一六三九)の詩句「幽堂昼深清風忽来好伴虚窓夜朗明月不減故人」の後半部によっている』と指摘され、最後に『中国旅行後に書かれたこの詩』は『作者が失われた神話世界に尚執着していたことを物語っている』の述べておられる。なお、邱氏が指摘しておられない部分で、私が新たにネット上から見出した部分がある。それは冒頭の「有客來相訪 通名是伏羲」の二句で、これは正に邱氏が「虚窓夜朗 明月不減故人」の部分で指摘された陳継儒の、また別の文「岩幽栖事」にそのままある句である(その全文は例えばこの中文サイトなどにある)。その文脈は「問是何往還而破寂寥 曰有客來相訪 通名是伏羲」である。最後に多くの霊感を頂戴し、引用をさせて戴いた邱雅芬氏に心より謝意を表して終わりとしたい。
……「天若有情 天亦老」……しかしもう……彼の宿命の時間は余り残されては、いなかったのである……]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:今回は唯一、長短不揃いの“詞”のような形式だ。そこで、この場をお借りして、いきなり脱線。まずどうしても書きたかったことを簡単にまとめたい。どうかお許しいただきたい。漢詩を日本語に翻訳するのは難しい。いや、そもそも、あらゆる詩は外国語に翻訳することが難しいと言うべきか。これにはひとつ、原詩の呼吸やリズムまで移すことが簡単ではないという理由がある。五絶や七律なら、まだなんとかなるかもしれない。しかし、句が長短不揃いである詞となると、もう殆ど絶望的と言っても良い。端的な例をふたつ。ひとつは、蘇軾の“水調歌頭”の冒頭。テレサ・テンも唄っているほど有名な宋詞のひとつ。『明月幾時有、把酒問青天、不知天上宮闕、今夕是何年、……』。五拍、五拍、六拍、五拍……と続く。三句目の六拍で、前二句よりもやや長い息に乗せて、感情の高まりを詠い、四句目の再度の五拍で、一旦のピリオドを打つ。句の長短に起因するリズムと息の長さの変化が、詞の表現の大きなウェイトを占めている。書き下してしまうと、これができなくなる。もうひとつはやや特殊。李清照の“聲聲慢”の冒頭。『尋尋覓覓、冷冷清清、凄凄惨惨戚戚、……』(シュン/シュン/ミー\ミー\, ロン∨ロン∨チン ̄チン ̄, チー ̄チー ̄ツァン∨ツァン∨チー\チー\)。四拍、四拍、六拍……と続く。同字の対で織り上げられた耳新しいメロディー。冒頭の四拍の繰り返しで、人は心の腰帯をまずグッと掴まれてしまう。そして次の六拍で、強い流れに一気に身体ごと持っていかれてしまう。喩えて言うなら、雪解けの頃、飛沫も立てず無言で、全てを速やかに押し流していく深い鈍色の、氷のように冷たい滔々たる流れ、そんなメロディー。これを書き下し文で、「~タリ、~タリ」などと間抜けに繰り返していては、原詞の持つ、この最も大切な力が消えてしまう。だから、申し上げたい。朗誦したときの一種のリズム感は、漢文学の重要な要素だ。日本で宋詞がそれほど受け入れられていないのも、そのためではないだろうか。実に、詞は、原語で朗誦した時に最も燦めくと思う。では、無駄口はここまでにする。
 さてそこで、この詞。まずは語義を把握。「伏羲
fu3xi1」は、中国古代神話の神、帝王。この宇宙の理を心得ていたという。「泉石烟霞quan2shi2」は隠逸の士の住処を指す。この詞の理解において、ここは非常に大切なところ。私は、いわゆる“世捨人”の世界などではなく、宇宙の理に通じていた伏羲の“天然自然”を指すと取りたい。ここでの「但dan4」は、“ただ~”というニュアンス。「是非shi4fei1」は、“事柄の正否”という意味。「若ruo4」は“もし~”という仮定。「幽恨you1hen4」は“人に言えない恨み”。「不減bu4jian3」は、“(前者は後者に)引けを取らない”。「不得bu4de2」は“(前に着く動詞の)行為ができない”という意味だ。全体として、中国語として実に自然な文法構造だ。リズムが複雑に変化し、比較的長い句も頻出する詞の形であればこそ、中国語の語法に則った構築が必要になってくるのだろう。例えば、「有+〔人〕+〔動作〕」、「〔物〕+之主」、「〔物〕+若有情」、「〔動作〕+不得」など。文語的言い回しを含めて、現代の中国人でも、何も違和感なく理解するだろう。そして使われる語彙の背後に、豊富な典拠の存在……。漢籍を読み込んでいた芥川龍之介。彼なら堂々たる中国語の文語文が書けたに違いない。さあ、繰り返し読む。声に出して。始めは、意味のつながりにギクシャクしたところがある。語句の意味も、すんなり全体世界に嵌り切らない。しかし、少しずつ見えてくるものがある……。もしかしたら、この詞……。そう、きっとそうだ。人間らしい喜怒哀楽、人間の自然な情動への賛歌ではないだろうか……。一度そう見えると、その磁力で全てが一気にまとまり始める。では、翻案してみよう……。
 *
――私のところに、ある方がいらした。世の人は、彼を伏羲と呼ぶ。そう、かの“天然自然”の主。彼こそ私の師だ。花は咲き、そして枯れる。この宇宙の運行に比べたら、人間の是非、行為の善悪などに何の意味があろう。その師と一晩語り合えたなら、書物の上での十年の修行さえ、取るに足りぬ。
私は人間だ……。非人情というわけには行かない。自らの情にこの身を焼かれることは、もはや免れぬ。もし天にも感情があったなら、天とて、またその辛さに憔悴することだろう……。
私は人間だ……。それでいい。何の不足があろう。書を捨てよう。そして、思い切り人情の世界で泳ぐのだ。そして、自由に活き活きと、自分自身の“うた”を歌うのだ。辛いことがあれば、眠りが救ってくれることだろう。なんと月の明るい、この夜の素晴らしい景色よ。まこと、親友との再会にも決して劣らぬ情趣だ。
私は人間だ……。そうだ、私は決心したのだ。“天然自然”の命ずるままに生きよう。ただし、そうなると、私の恥を隠し通すことはできない。まあ、それとて、何ほどのこともあるまい……。そうは言っても、私の醜さの全てをさらけ出すこともない。それはそれで、また結構なことだ――
情に流されたり、溺れたりして苦しむ弱い人間。しかし、だからこそ尊い。だからこそ美しい。だからこそ、愛する……。愛したい……。いや、愛させてくれ……。芥川龍之介という人は、いつでも、どんなときでも、そう言っているような気がする。]



   三十三

異花開絶域
滋蔓接淸池
漢使徒空到
神農竟不知

〇やぶちゃん訓読

 異花いくわ 絶域ぜついきに開く
 しげれるつる 淸池に接す
 漢使 いたづらに空しく到る
 神農しんのう つひに知らず

[やぶちゃん注:これは芥川龍之介が残した現在知られる生涯に最後の漢詩である。龍之介満三十二歳。以下、当時の事蹟その他については、前の「三十二」の注冒頭を参照のこと。
本詩は前の「三十二」と同じく、
大正十三(一九二四)年九月十八日に書かれた芥川龍之介のノート「ひとまところ」
の掉尾に置かれているものである。以下、前の「三十二」の注に掲載した「ひとまところ」全文を参照のされたい。――実は本詩について私は前の「三十二」と同様、既に二〇一一年五月七日のブログ「龍之介よ、スマトラのわすれな草の花、見つけたよ」で論評しており、その内容以外の新しい附言をする必要を殆んど認めないのだが、「三十二」と同じく、本頁での評釈に合わせて記載をし直して示すこととする。
 まず、本詩については平仄と韻を調べた。

 異花開絶域
 滋蔓接淸池
 漢使徒空到
 神農竟不知

 ●○○●●
 ○●●○◎
 ●●○○●
 ○○●●◎

これは平起式の五言絶句の平韻平仄式の、

 
○○●●
 
●●○◎
 
●○○●
 
●◎

に完全に則っており、韻字である「域」「知」はともに詩韻百六種の平声上平の第四韻「支」である。
 次に、私の勝手な自在なる現代語訳を示す。
   *
……不可思議な一つの花が……遙か遠い……絶海の孤島に……言葉に尽くせぬ美しさで……咲いている……
茂ったその蔓は……あくまで透き通った……そこにある……秘かな……清らかな池に……乙女が美しい手を挿すように……浸っている……
――漢からやって来た勅使――彼らはただ……徒らに空しく……そこに辿り着くだけ……彼らの眼に……その花は……見えぬ……
いや――かの本草の神たる神農でさえも――遂にその花を「示す」ことはおろか……「名指す」ことさえも……出来ぬのだ……

 邱氏は「芥川龍之介の中国」の「第四章 中国旅行後の芥川文学」の『「女仙」への帰着』で、本詩を同年に発表した「第四の夫から」(リンク先は青空文庫版)と関連させて解読されており、それによれば「絶域」は同作の舞台チベットであり、花はやはり同作に描写される仙境のシンボル桃花とされる。そうして龍之介は『中国に対する幻想を中国旅行によって破壊された芥川は、愛する田園詩人陶淵明らが生きた時代より、さらに古い漢の時代の中国の使者についてゆき、遠い西域で古き美しい夢をみようとしたのである。しかしこのような精神的な旅も、やはり「漢使」とともにしなければならないところが意味深い。芥川及び芥川文学と中国古典の世界とは切っても切れない関係にあることを物語っているのである』とし、先の「第四の夫から」の話との高い近似性を述べた上で、『夢が破れても、なお東洋のエピキュリアンとして、夢のような精神世界を求めずにはいられない芥川がのぞかれる』。そんな『他の誰にも劣らない生命力を持っていた』はずの『芥川からすべてを奪い去り、』『死に追い込んだのは「時代」である。中国旅行後の漢詩』(邱氏の推定を含め「三十一」から本「三十四」まで)『はわずか四首に過ぎないが、芥川文学の神話構築と崩壊の実態が示唆される点で不可欠な資料だと言える』と、この「第二章 芥川と漢詩」の「第二節 芥川の漢詩」を結んでおられる。「第三節 まとめ」などを含め、ここまでお付き合い戴いた方は、是非、邱氏の「芥川龍之介の中国」をお読み戴きたい。
 さて、以上の邱氏の「異花」についての見解は至当で十全に腑に落ちる解釈であるとは思うのだが、私は本詩を一読して、
「これこそ、あのスマトラのわすれな草の花だ!」
と思わず独りごちたことも事実なのである。――あの芥川龍之介の「沼」に現われる――スマトラのわすれな草の花――である。
   *
 沼にはおれの丈よりも高い蘆が、ひつそりと水面をとざしてゐる。おれは遠い昔から、その蘆の茂つた向ふに、不思議な世界のある事を知つてゐた。いや、今でもおれの耳には、
Invitation au voyage の曲が、絶え絶えに其處から漂って來る。さう云へば水の匀や蘆の匀と一しよに、あの「スマトラの忘れな草の花」も、蜜のやうな甘い匀を送って來はしないであらうか。
   *
この「スマトラの忘れな草の花」は、私が非常に高く評価する小沢章友氏の小説「龍之介地獄変」(二〇〇一年新潮社刊)の、龍之介が自死を間近に控えた終盤の、印象的なシークエンスで以下のようにも現れる(地の文は私の要約、『 』は引用)。
   *
――龍之介は多加志を連れて、二階の書斎に行く。そこでかねての多加志の所望であった絵を描くのであるが、楕円形の島を描き、花を描き、そして、
『その花に、愛らしい蝶の羽を生やさせた』。
訝る多加志に龍之介はこう言う。
『これはね、スマトラの忘れな草の花さ』
『いいかい、多加志。この日本のずうっとずうっと南に、ふしぎな島があるんだ。スマトラの忘れな草の島さ。その島にはとても匂いのいい、白いきれいな花が咲いている。その花はなんだと思う?』
『その花はね、魂なんだよ』
『そうさ、ひとは死ぬと、スマトラの忘れな草の島へ、蝶々のかたちをした魂になって飛んでいく。島にたどりつくと、蝶々は白い香り高い花に変わる。それから、時が来て、また花は蝶になって飛びたつのさ。こうやって』
と、もう一枚、その花が持っている蝶の羽を羽ばたかせて飛翔するさまを描いてやる。その二枚の絵をもらって、多加志はにこにこしながら階段を駆け下ってゆく――
   *
と描かれた、あの花である。私はこの漢詩の「異花」こそ、あの、「スマトラのわすれな草の花」なのだと――大真面目に――信じて疑わないのである。それは邱氏に言わせれば、中国神話の世界の仙境の霊花たる桃の花と同じだ、とされるであろうが――やはりこれは――絶望を知った者だけに見える島「ファタ・モルガーナ」の――常人には見えぬ「非在の異花」――「ときじくの花」――なのだ、と私は最後まで拘りたいのである。……私はかつて、「芥川多加志略年譜」の最後に、後、ビルマで戦死することとなる龍之介の次男『多加志は蝶々のかたちをした魂となって、ビルマの地からスマトラの忘れな草の島へ飛んでいった……そうして白い香り高い花に変わり……それから……時が来て、また蝶となって飛びたつであろう――』と書いた……よろしければ、そちらもお読み戴きたい。……さすれば、芥川龍之介と芥川多加志の二人の「スマトラのわすれな草の」花供養とも……なろうかと……存ずる……。]
[やぶちゃんの教え子T・S・君の評釈:「神農
shen2nong2」とは古代中国の伝説上の治世者。農業と医薬において特異な能力を持っていたという。「竟jing4」は“畢竟”、漱石が頻繁に遣った“必竟”の竟。“結局のところ、詰まるところ”の意。この詩の大きな特徴、それは転句の盛り上がりがないことだ。転句は起承句に修飾を加えるに留まり、結句も転句とほぼ並列しているだけ。つまり、この詩は、詩人が自分だけに向けて、ボソッと口にした言葉に思える。美、憧れ、芸術への信仰……。芸術家自身の、何の飾りもない独り言……。

――世に比べようもない妙なる“花”。人跡絶えた最果ての地にしか咲いていないという。蒼蒼と神さびた幻影の蔓が、永劫の泉に垂れているところ。漢の使者でさえ探し当てられなかった。そして、あの神農でさえ知らなかった。ましてや生身の人間の目に触れることなど、決してない。その、究極の、“花”……。しかし敢えて言おう。私の心はその存在を観ずることができる。その“花”は、確かに、ある。一体どこに……。そう、私の、この心の中に――

詩人の矜持が、憧れが単に甘ったるいものに変質しようとするのを、十分に防いでいる。

……彼の信じた“花”。今、私にも確かに見える。そしてあらゆる人が、この“花”を持っていることを、私は信じる……。芥川龍之介先生……僕はあなたが指し示してくれた“花”を、決して忘れない。これからの人生で、どんなことが待ち受けていても、私はあなたを、そして、あなたの教えてくれた“花”を信じ続ける。……]


【二〇一二年十二月二十八日附藪野直史へのT・S・君からの手紙】


……文学というものにきちんと取り組んだことがない私には、詩を仔細に読むのは初体験でした。ましてや評釈など、大それた行為でした。こんな私が口を開く意義があるとすれば、それは私の中国語を用いて読み解くことだと思いました。特に後半の取り組みにおいてですが、詩がブログにアップされるたびに、私は中国語で捉えようとしました。頭の中の日本語をオフにし、配線の乏しい未熟な中国語回路に電源を入れる。白文以外一切参照せず、北京語で声に出して読む。風景が感知されるまで。何度でも、繰り返し、無心に……。そして作品世界をある程度定着させることができたと思ったら、はじめて書き下し文と注を参照する。
 あるものは一二回の朗読で解きほぐすことができました。一方で十数回も繰り返さないと、世界が満足に立ち現れないものもありました。しかしいずれにしても、分かったと思える瞬間は予告なしにやってきました。限りなく自分自身の主観的な姿であったとはいえ、作品は霧が晴れるように感得され、言いたいことは、その瞬間にもう概ね浮かび上がっていました。それは脚韻の効果、音の響き方、イメージの作られ方、あるいは作者の心の動き方など様々でした。ここまで来れば、あとはそれを評釈として定着させるだけでした。
 ここで、取組みの中で印象に残ったことをふたつご報告します。まず、芥川龍之介の漢詩が実に多彩であること。時に憂愁を奏で、憧憬を歌い、理想を叙する。そうかと思えば、頓知あり、諧謔あり、自嘲あり。広い世界の鮮やかな一瞬をさっと掬い上げる彼の大手腕のほんの一端を眺め、私は今、驚嘆というより、恐怖に近いものを感じています。文学に取り組むというのはどれほど重い仕事なのか。私は、このことを考えるきっかけに近いものに、やっと触れることができたのかもしれません。次に感じたのは、当たり前ですが、ほとんどの詩が、言うべきこと、訴えるべきことをしっかり託されて、この世に送り出されていることです。他で代替の利くような作品はひとつとしてありません。それぞれの作品が、しっかりと自分の唯一無二の顔を持っています。彼にとって漢詩は、手遊みでなく、立派な表現行為だったに違いありません。
 最後に、個人的な事情を告白します。この秋、私の中には複雑に絡み合ったいくつもの悩みが大きく巣食っていました。まるで既にリンパ節に転移してしまった悪性腫瘍のように。私は密かに信じています。先生はきっと、そんな私への様々なご配慮から、余計な説明は何もおっしゃらずに、そっとこの機会を与えて下さったのです。取組みの中で、私は、芥川龍之介というひとりの人間の、しなやかな、そして孤独な魂を感じました。そして彼の作品に自分の心をこすり付けているうちに、負の感情の塊りが徐々に柔らかく解きほぐされ、整理されていくのが感じられました。
 そして、彼の後半の作品、とりわけ最後の作品群は、私にとって非常に重い意味を持つものとなりました。私は、自分に新しい魂を吹き込んでもらったような気がします。底無しの絶望。それをも踏まえた人間賛歌。そして、最も大切なものへの憧れ。まさに絶唱といっても言い過ぎではないでしょう。ここで、敢えて非常に不謹慎なことを書くことをお許しください。これらの作品に続くものを、私は想像することができません。私如きが当然でしょうが、逆に言えば、これらの作品を産み出した彼にこそ、この世から旅立つ資格が与えられたのではないか。私は今、こんな恐ろしいことさえ感じています。優れた芸術とは、そういうものなのかもしれません。私の愛するベートーヴェン。生涯に亙って書き続けられた全三十二曲のピアノソナタ。その最後の作品群、とりわけ最後の第三十二番に至る数曲の驚嘆すべき世界。これらの次に続くピアノソナタを、誰にも想像することができないように……。
 さて、見るも無残な評釈文を残しつつも、何とか最後の漢詩に辿り着いた私は、今朝、以前とは異なる世界に立っていることに気づきます。先生の現代国語の授業を三年間受講したのと同じくらいのインパクトと言えましょうか。素晴らしい機会を下さった上に、噴飯物の誤読、自分勝手な脱線、頓珍漢な感想の表明を、何も言わずにお許しになり、暖かく導いて下さった先生に、今ここで、心から感謝を申し上げます。
 最後に、ご報告です。この明け方、夢を見ました。中国杭州の西湖畔にある岳飛の墓に近づいていくと、墓前にふたりの人物が、こちらを向いて左右に並んで立っています。近づいてみれば、向かって左におられるのは、臙脂色のセーターを着た先生です。先生は微笑しながら腕組みをしておられましたが、突然、私に向けて左手をすっと上げられました。右の人物は……なんと、明るいグレーの背広を着た詩人その人でありました。その人は、両手を身体の前で軽く組み、前歯を少し見せてニコニコと、私を見ています。
「彼です」
先生がその人におっしゃいました。
「そうですか……。君、どうでしたか」
その人は微笑を湛えたまま、想像したより甲高い声で、やや早口に、私に向かってこう尋ねました。私は、緊張のあまり、何も言うことができませんでした……。

                         T・S・ 

平成二十四年十二月二十八日早朝 上海の自宅にて

芥川龍之介漢詩全集
附やぶちゃん訓読注+附やぶちゃんの教え子T・S・君による評釈 完