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寒さ   芥川龍之介

[やぶちゃん注:大正13(1923)年4月発行の雑誌『改造』に掲載され、後に『黄雀風』等に所収された。底本は岩波版旧全集を用いた。なお、底本は総ルビであるが、読みの振れるもののみのパラルビとした。傍点「丶」は下線に代えた。]

 

寒さ

 

 或る雪上りの午前だつた。保吉は物理の教官室の椅子にストオヴの火を眺めてゐた。ストオヴの火は息をするやうに、とろとろと黄色に燃え上つたり、どすKい灰燼に沈んだりした。それは室内に漂ふ寒さと戰ひつづけてゐる證據だつた。保吉はふと地球の外の宇宙的寒冷を想像しながら、赤あかと熱した石炭に何か同情に近いものを感じた。

 「堀川君。」

 保吉はストオヴの前に立つた宮本と云ふ理學士の顏を見上げた。近眼鏡をかけた宮本はズボンのポケツトへ手を入れたまま、口髭の薄い脣に人の好(い)い微笑を浮べてゐた。

 「堀川君。君は女も物體だと云ふことを知つてゐるかい?」

 「動物だと云ふことは知つてゐるが。」

 「動物ぢやない。物體だよ。――こいつは僕も苦心の結果、最近發見した眞理なんだがね。」

 「堀川さん、宮本さんの云ふことなどを眞面目に聞いてはいけませんよ。」

 これはもう一人の物理の教官、――長谷川と云ふ理學士の言葉だつた。保吉は彼をふり返つた。長谷川は保吉の後ろの机に試驗の答案を調べかけたなり、額の禿げ上つた顏中に當惑(たうあく)さうな薄笑ひを漲らせてゐた。

 「こりや怪しからん。僕の發見は長谷川君を大いに幸bノしてゐる筈ぢやないか?――堀川君、君は傳熱作用の法則を知つてゐるかい?」

 「デンネツ? 電氣の熱か何かかい?」

 「困るなあ、文學者は。」

 宮本はさう云ふ間(あひだ)にも、火の氣の映つたストオヴの口へ一杯の石炭を浚(さら)ひこんだ。

 「温度の異なる二つの物體を互(たがひ)に接觸せしめるとだね、熱は高温度の物體から低温度の物體へ、兩者の温度の等しくなる迄、ずつと移動をつづけるんだ。」

 「當り前ぢやないか、そんなことは?」

 「それを傳熱作用の法則と云ふんだよ。扨(さて)女を物體とするね。好(い)いかい? もし女を物體とすれば、男も勿論物體だらう。すると戀愛は熱に當る譯だね。今この男女を接觸せしめると、戀愛の傳はるのも傳熱のやうに、より逆上した男からより逆上してゐない女へ、兩者の戀愛の等しくなる迄、ずつと移動をつづける筈だらう。長谷川君の場合などは正にさうだね。……」

 「そおら、はじまつた。」

 長谷川は寧ろ嬉しさうに、擽(くすぐ)られる時に似た笑ひ聲を出した。

 「今Sなる面積を通し、T時間内に移る熱量をEとするね。すると――好いかい? Hは温度、Xは熱傳導の方面に計つた距離、Kは物質により一定されたる熱傳導率だよ。すると長谷川君の場合はだね。……」

 宮本は小さいK板へ公式らしいものを書きはじめた。が、突然ふり返ると、さもがつかりしたやうに白墨の缺(かけ)を抛り出した。

 「どうも素人の堀川君を相手ぢや、折角の發見の自慢も出來ない。――兎に角長谷川君の許嫁(いひなづけ)なる人は公式通りにのぼせ出したやうだ。」

 「實際さう云ふ公式がありや、世の中はよつぽど樂になるんだが。」

 保吉は長ながと足をのばし、ぼんやり窓の外の雪景色を眺めた。この物理の教官室は二階の隅に當つてゐる爲、體操器械のあるグラウンドや、グラウンドの向うの並松(なみまつ)や、その又向うの赤煉瓦の建物を一目に見渡すのも容易だつた。海も――海は建物(たてもの)と建物との間に薄暗(うすくら)い波を煙(けむ)らせてゐた。

 「その代りに文學者は上つたりだぜ。――どうだい、この間出した本の賣れ口は?」

 「不相變ちつとも賣れないね。作者と讀者との間には傳熱作用も起らないやうだ。――時に長谷川君の結婚はまだなんですか?」

 「ええ、もう一月ばかりになつてゐるんですが、――その用もいろいろあるものですから、勉強の出來ないのに弱つてゐます。」

 「勉強も出來ないほど待ち遠しいかね。」

 「宮本さんぢやあるまいし、第一家を持つとしても、借家のないのに弱つてゐるんです。現にこの前の日曜などにはあらかた市中(しちう)を歩いて見ました。けれどもたまに明いてゐたと思ふと、ちやんともう約定濟(やくぢやうず)みになつてゐるんですからね。」

 「僕の方ぢやいけないですか? 毎日學校へ通ふのに汽車へ乘るのさへかまはなければ。」

 「あなたの方ぢや少し遠すぎるんです。あの邊は借家もあるさうですね、家内はあの邊を希望してゐるんですが――おや、堀川さん。靴が焦げやしませんか?」

 保吉の靴はいつの間にかストオヴの胴に觸れてゐたと見え、革の焦げる臭氣と共にもやもや水蒸氣を昇らせてゐた。

 「それも君、やつぱり傳熱作用だよ。」

 宮本は眼鏡(めがね)を拭ひながら、覺束ない近眼の額ごしににやりと保吉へ笑ひかけた。

 

         *   *   *   *   *

 

 それから四五日たつた後(のち)、――ある霜曇りの朝だつた。保吉は汽車を捉(とら)へる爲、或る避暑地の町はづれを一生懸命に急いでゐた。路の右は麥畑(むぎばたけ)、左は汽車の線路のある二間ばかりの堤(つゝみ)だつた。人つ子一人いない麥畑はかすかな物音に充ち滿ちてゐた。それは誰(だれ)か麥の間を歩いてゐる音としか思はれなかつた、しかし事實は打ち返された土の下にある霜柱のおのづから崩れる音らしかつた。

 その内に八時の上り列車は長い汽笛を鳴らしながら、餘り速力を早めずに堤の上を通り越した。保吉の捉える下り列車はこれよりも半時間遲い筈だつた。彼は時計を出して見た。しかし時計はどうしたのか、八時十五分になりかかつてゐた。彼はこの時刻の相違を時計の罪だと解釋した。「けふは乘り遲れる心配はない。」――そんなことも勿論思つたりした。路に隣(とな)つた麥畑はだんだん生垣に變り出した。保吉は「朝日」を一本つけ、前よりも氣樂に歩いて行つた。

 石炭殼などを敷(し)いた路は爪先上(つまさきあが)りに踏切りへ出る、――其處へ何氣なしに來た時だつた。保吉は踏切りの兩側に人だかりのしてゐるのを發見した。轢死だなと忽ち考へもした。幸ひ踏切りの柵の側(そば)に、荷をつけた自轉車を止めてゐるのは知り合ひの肉屋の小僧だつた。保吉は卷煙草を持つた手に、後ろから小僧の肩を叩いた。

 「おい、どうしたんだい?」

 「轢(し)かれたんです。今の上りに轢かれたんです。」

 小僧は早口にかう云つた。兎の皮の耳袋(みゝぶくろ)をした顏も妙に生き生きと赫(かゞや)いてゐた。

 「誰が轢かれたんだい?」

 「踏切り番です。學校の生徒の轢かれさうになつたのを助けやうと思つて轢かれたんです。ほら、八幡前に永井つて本屋があるでせう? あすこの女の子が轢かれる所だつたんです。」

 「その子供は助かつたんだね?」

 「ええ、あすこに泣いてゐるのがさうです。」

 「あすこ」といふのは踏切りの向う側にゐる人だかりだつた。成程其處には女の子が一人、巡査に何か尋ねられてゐた。その側には助役らしい男も時時巡査と話したりしてゐた。踏切り番は――保吉は踏切り番の小屋の前に菰(こも)をかけた死骸を發見した。それは嫌惡を感じさせると同時に好奇心を感じさせるのも事實だつた。菰の下からは遠目にも兩足の靴だけ見えるらしかつた。

 「死骸はあの人たちが持つて行つたんです。」

 こちら側のシグナルの柱の下には鐵道工夫が二三人、小さい焚火を圍んでゐた。黄いろい炎をあげた焚火は光も煙も放たなかつた。それだけに如何にも寒さうだつた。工夫の一人はその焚火に半ズボンの尻を炙つてゐた。

 保吉は踏切りを通り越しにかかつた。線路は停車場に近い爲、何本も踏切りを横ぎつてゐた。彼はその線路を越える度(たび)に、踏切り番の轢かれたのはどの線路だつたらうと思ひ思ひした。が、どの線路だつたかは直(すぐ)に彼の目にも明らかになつた。血はまだ一條(ひとすぢ)の線路の上に二三分前の悲劇を語つてゐた。彼は殆ど反射的に踏切の向う側へ目を移した。しかしそれは無効だつた。冷やかに光つた鐵の面(おもて)にどろりと赤いもののたまつてゐる光景ははつと思ふ瞬間に、鮮かに心へ燒きついてしまつた。のみならずその血は線路の上から薄うすと水蒸氣さへ昇らせてゐた。………

 十分の後(のち)、保吉は停車場のプラットフォオムに落着かない歩みをつづけてゐた。彼の頭は今しがた見た、氣味の惡い光景に一ぱいだつた。殊に血から立ち昇つてゐる水蒸氣ははつきり目についてゐた。彼はこの間話し合つた傳熱作用のことを思ひ出した。血の中に宿つてゐる生命の熱は宮本の教えた法則通り、一分一厘の狂ひもなしに刻薄(こくはく)に線路へ傳はつてゐる。その又生命(せいめい)は誰のでも好(よ)い、職に殉じた踏切り番でも重罪犯人でも同じやうにやはり刻薄に傳わつてゐる。――さういふ考への意味のないことは彼にも勿論わかつてゐた。孝子でも水には溺れなければならぬ、節婦でも火には燒かれる筈である。――彼はかう心の中に何度も彼自身を説得しやうとした。しかし目(ま)のあたりに見た事實は容易にその論理を許さぬほど、重苦しい感銘を殘してゐた。

 けれどもプラットフォオムの人人は彼の氣もちとは沒交渉にいづれも、幸b轤オい顏をしてゐた。保吉はそれにも苛立たしさを感じた。就中(なかんづく)海軍の將校たちの大聲に何か話してゐるのは肉體的に不快だつた。彼は二本目の「朝日」に火をつけ、プラットフォオムの先へ歩いて行つた。其處は線路の二三町先にあの踏切りの見える場所だつた。踏切りの兩側の人だかりもあらかた今は散じたらしかつた。唯(たゞ)シグナルの柱の下には鐵道工夫の焚火が一點、黄いろい炎を動かしてゐた。

 保吉はその遠い焚火に何か同情に似たものを感じた。が、踏切りの見えることはやはり不安には違ひなかつた。彼はそちらに背中を向けると、もう一度人ごみの中へ歸り出した。しかしまだ十歩と歩かないうちに、ふと赤革(あかがは)の手袋を一つ落してゐることを發見した。手袋は卷煙草に火をつける時、右の手ばかり脱いだのを持つて歩いてゐたのだつた。彼は後ろをふり返つた。すると手袋はプラットフォオムの先に、手のひらを上に轉がつてゐた。それは丁度無言のまま、彼を呼びとめてゐるやうだつた。

 保吉は霜曇りの空の下(した)に、たつた一つ取り殘された赤革の手袋の心を感じた。同時に薄ら寒(さむ)い世界の中にも、いつか温い日の光のほそぼそとさして來ることを感じた。