やぶちゃんの電子テクスト集:小説・戯曲・評論・随筆・短歌篇
鬼火へ

我鬼窟日錄   芥川龍之介
             附やぶちゃんマニアック注釈
                     ⇒ 同縦書版へ
[やぶちゃん注:底本は岩波版旧全集に拠った。表題は「がきくつにちろく」と読む。本日録起筆(現存の)に先立つ一ヶ月前の大正八(一九一九)年四月二八日、大阪毎日新聞客員社員となった芥川龍之介は鎌倉の借家から新妻ふみとともに田端へ引き上げ(海軍機関学校の辞任は辞令上は四月中、実際の最後の授業は三月二八日であった)、英語教官と小説家の二重生活に別れを告げた(芥川の文との結婚は前年大正七年の二月二日。当時、彼女は満十八歳であった)。その際、二階にあった八畳の書斎に第一高等学校の恩師ドイツ語教師菅虎雄すがとらお筆になる扁額「我鬼窟」を掲げた。「我鬼」という芥川龍之介のペン・ネームの使用の現在残る最も古いものは、大正六(一九一七)年十二月十一日附下島勲宛書簡とされる。芥川は同年二月頃より俳句に熱中し始めており、この「我鬼」も俳号である(その由来については「五月廿五日」の私の注を参照)。
 本日録は、大正八年の、
五月二五日から十月一日
までの日記であるが、七月は一六日から一八日までの三日間のみで、
×七月 一日~一五日 まで欠(底本ではこの空隙に永い縦罫が配される)
×七月一九日~三一日 まで欠
×八月        は全欠
×九月 一日~ 八日 まで欠(底本ではこの空隙に永い縦罫が配される)
×九月一八日~二〇日 まで欠
×九月二七日~二八日 両日欠
となっている(空隙の永い縦罫は底本編者による可能性が高い)。
 この内、前月の五月は四日から十八日まで菊地寛と長崎・大阪・京都への旅行に出ているから(既に見たようにその前の田端転居と我鬼窟入窟が同年四月二十八日)、最初のクレジット五月二十五日以前に、日録の大きな脱落があるようには思われない。七月下旬の欠落は、連載の「路上」の行き詰まりが頂点に達して、連載打ち切りを切り出す時期と一致しており、書かれなかった可能性も高く、また、八月一杯の欠損も、本頁で補塡解説したように、「路上」の連載中止が決まり、中断への内心忸怩たる思いはありながらも、長かった鬱滞から一時的に解放され、三浦や鎌倉に遊蕩、殆んど田端にいなかった。従って、やはり、本日録が書かれなかった可能性は高い、と私は推測するものである(何れも、あくまで推測ではあるが)。また、芥川は大正一一(一九二二)年三月末に書斎を、この「我鬼窟」から同年に使用を始めたペン・ネーム「澄江堂」(芥の川から澄んだ川への洒落)に改めている(扁額は下島勲筆による)から、「我鬼窟日錄」は続きがあるとしても(ある可能性は大である)、その下限は、この大正一一年三月を下限とすることになる。
 以上から分かる通り、本日録は、皮肉なことに、芥川が専業作家となった直後、強烈なスランプに陥って二進にっちさっち三進も行かなくなった苦境の只中をドキュメントするものなのである。――そして更に――芥川龍之介の自死の一つの遠因ともなった『宿命の女ファム・ファータル』秀しげ子との邂逅から不倫そして肉体関係へと堕ちてゆくところの『転落の詩集』の記録――でも、あるのである。本頁の私の注は、全体のコンセプトをそこに置いて作成してある、かなりマニアックな注であることは最初に断っておきたい。
 なお、この内、
☆五月二五日~六月二六日
の分は、差し障りのある箇所を削除・改変・再編などの恣意的な手を加えて、
大正九(一九二〇)年三月一日発行の雑誌『サンエス』に「私の日常生活㈢」の見出しで、
『「我鬼窟日錄」より』
として生前に発表されている(リンク先は私の電子テクスト)。なお、この貴重な芥川龍之介の「我鬼窟日錄」の原本は、不思議なことに現在は所在不明である。まだ見ぬ幻のこの前後を含めて「我鬼日録」部分が存在する可能性は十分あるとは言える。
 注では大正九(一九二〇)年三月発行の雑誌『サンエス』の「私の日常生活㈢」の見出しで載る『「我鬼窟日錄」より』に同日の条が載るものは、まずその公表本文を示し、その後に実際の日記には登場しない対象で注を必要とすると考えたものを「*」で注した。
 本文の注については、私のように芥川龍之介の日記を覗き見しようというほどの者ならば普通は知っていると考えられる芥川の近しい人物や東西文学史上の有名作家・作品などについては注を附けていないか、ごく簡単にしてあるので了承されたい。
 注に際しては、筑摩書房全集類聚版注を参考にさせて頂いたが、無批判に引用する愚は極力避けており(主な引用の場合は引用を明記した)、多くの『不詳』をも解明してある(新全集の「我鬼窟日録」には注がない。将来の改版では是非、注が望まれる。なお、私は新全集の『「我鬼窟日錄」より』を含む巻を所持していないので、同書に載る注は全く披見していない)。注で使用した年譜的事実については、鷺只雄氏の「年表読本 芥川龍之介」(河出書房新社一九九二年刊)及び岩波版新全集(二〇〇八年)第二十四巻所収の宮坂覺氏の年譜を主に参考にさせて戴いた。人名については、ウィキペディアや講談社のデジタル版「日本人名大辞典」・平凡社「世界百科事典」などを中心に信頼に足ると判断したネット記事などの複数のソースを参考にするように努めて記述した。従って人名注記に関しては、ほぼそのままの多量引用でない限りは(若しくは他で見られない単独資料以外は)引用注記を省略させて貰ったものが多いので、了承されたい。
 本注記附テクストは、私のブログが、二〇〇六年五月十八日のニフティのブログ・アクセス解析開始以来、四〇〇〇〇〇アクセスとなった、その記念として公開するものである。【二〇一二年九月二〇日 藪野直史】]

 我鬼窟日錄

       
大正八年

 五月廿五日 晴
 朝一囘出來る。今村隆、菊池の本の裝幀の見本を持つて來る。出來思はしからず。裝幀なんぞ引受けなければよかつたと思ふ。午後になつて塚本八洲來る。十七で一高の試驗を受けるのだから及第すれば二十三で學士になる訣である。
[やぶちゃん注:大正九(一九二〇)年三月発行の雑誌『サンエス』の「私の日常生活㈢」の見出しで載る『「我鬼窟日錄」より』には、
 五月二十五日 晴
 今村隆氏菊池の本の装幀の見本を持つて來る。出來思はしからず。裝幀なぞ引受けなければよかつたと思ふ。午後塚本八洲來る。一高の入學試驗を受ける由。
とある。
・「朝一囘」「路上」の「一」(リンク先は青空文庫)。翌月の六月三〇日より八月八日まで大阪毎日新聞に連載されたが、途中七月中に間歇的に四回休載しており、ニル・アドミラリに陥っている帝大生俊介を主人公とした青年群像を描かんとする芥川の現代長編小説として新しい試みであったが、未完に終わった挫折作品であった。本日記でも、その苦渋の執筆の有様が手に取るように分かる。
・「今村隆」春陽堂書店社員。同社の雑誌『新小説』の編集担当者として龍之介とは旧知。
・「菊池の本の裝幀」古いオークション・データの中から発見した。大正八(一九一九)年七月春陽堂刊の菊池寛の小説集「我鬼」(私は未見)である。データには芥川龍之介装幀と明記されていた。題名が如何にもであるが、関口安義編「芥川龍之介新事典」(翰林書房二〇〇三年刊)の「我鬼窟」の項によれば、『「我鬼」の由来については、菊地寛の小説「我鬼」の中の次のくだりが、よく知られている。「彼は、ふとAと云ふ友人が、『我鬼』と云ふ俳号を付けて居るのを思ひ出した。Aは、俳号の謂れを訊かれる度に、「君、支那人は自我エゴと云ふ意味を、我鬼と云ふのだ。さすがは支那人丈あつて、うまく云つてあるだらう。」と、何時でも得意になつて説明した」。』とある。
・「塚本八洲」(つかもとやしま 明治三六(一九〇三)年~昭和一九(一九四四)年)妻文子の弟。長崎県生。後、一高に入学、将来を期待されたものの、結核に罹患して後を闘病生活で送った。龍之介は彼の才能を高く評価していたとされる。この叙述から、この大正八年の七月(当時は七月試験九月入学)の入学試験を受験したものと考えられる。]

 五月廿六日 陰晴定ラズ
 この頃の若葉は見てゐても恐しいやうな勢あり。手水鉢の上の椎の木、今年は無暗に花をつける。今朝手を洗ひながら、その匀の濃いのに驚かされた。小説一向捗取らず。
 新聞で菊池の雜感三則を讀む。同感。
 午後谷崎潤一郎來る。赤いタイをしてゐた。一しよに外へ出て富坂の菊池の所へゆく。留守。更に本郷三丁目へ出、又須田町まで行つてミカドで飯を食ふ。それから神田の古本屋を門並み冷やかして十二時年頃歸る。谷崎が維新時代の小説を書くなら半井桃水の何とか云ふ通俗小説を讀めと云つてゐた。受信、南部、岩井京子、野口眞造。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 五月二十六日 陰晴定らず
 手水鉢の上の椎の樹、今年は無暗に花をつける。今朝手を洗ひながら、その匂の濃いのに驚かされた。小説一向捗らず。新聞で菊池の「雜感三則」を讀む。同感なり。午後谷崎潤一郎來る。赤いタイをしてゐた。夕方一しよに菊池を訪ふ。留守なり。ミカドにて夕飯、それから神田の古本屋を門並ひやかす。神保町のカフエーヘはいつたら、給仕女が谷崎のタイを襃めた。白山まで歩いて分れる。歸つたら十二時半。
とある。
・『菊池の「雜感三則」』筑摩書房全集類聚版注に、五月二六日附東京日日新聞に掲載された菊地寛の「時感三則」とある(私は未読なので、芥川がどのような点に同感したかは不詳。後日の調査に期したい)。
・「赤いタイ」全集類聚版注に、『谷崎はよく気取った赤い』ネクタイをしていた旨の注が附されている。これについては、芥川龍之介の「谷崎潤一郎氏」(発表はずっと後年の大正一三(一九二四)年二月発行の『新潮』。発表時は「人間隨筆(其三)――最近の谷崎潤一郎氏」の大見出しのもとに「紅薔薇の樣なネクタイ」の題で初出)という一文に、この時の経験に基づくものかと思われるシークエンスとして登場しているので、以下に全文を示す(底本は岩波旧全集に拠った)。
 谷崎潤一郎氏
 僕は或初夏の午後、谷崎氏と神田をひやかしに出かけた。谷崎氏はその日も黑背廣に赤い襟飾りを結んでゐた。僕はこの壯大なる襟飾りに、象徴せられたるロマンティシズムを感じた。尤もこれは僕ばかりではない。往來の人も男女を問はず、僕と同じ印象を受けたのであらう。すれ違ふ度に谷崎氏の顏をじろじろ見ないものは一人もなかつた。しかし谷崎氏は何と云つてもさう云ふ事實を認めなかつた。
 「ありや君を見るんだよ。そんな道行きなんぞ着てゐるから。」
 僕は成程夏外套の代りに親父の道行きを借用してゐた。が、道行きは茶の湯の師匠も菩提寺の和尚も着るものである。衆俗の目を駭かすことは到底一輪の紅薔薇に似た、非凡なる襟飾りに及ぶ筈はない。けれども谷崎氏は僕のやうにロヂックを尊敬しない詩人だから、僕も亦強ひてこの眞理を呑みこませようとも思はなかつた。
 その内に僕等は裏神保町の或カッフエへ腰を下した。何でも喉の渇いたため、炭酸水か何か飮みにはひつたのである。僕は飮みものを註文した後も、つらつら谷崎氏の喉もとに燃えたロマンティシズムの烽火を眺めてゐた。すると白粉の剝げた女給が一人、兩手にコツプを持ちながら、僕等のテエブルへ近づいて來た。コツプは眞理のやうに澄んだ水に細かい泡を躍らせてゐた。女給はそのコツプを一つづつ、僕等の前へ立て竝べた。それから、――僕はまだ鮮かにあの女給の言葉を覺えてゐる! 女給は立ち去り難いやうにテエブルへ片手を殘したなり、しけじけと谷崎氏の胸を覗きこんだ。
 「まあ、好い色のネクタイをしていらつしやるわねえ。」
 十分の後、僕はテエブルを離れる時に五十錢のティップを渡さうとした。谷崎氏はあらゆる東京人のやうに無用のティップをやることに輕蔑を感ずる一人である。この時も勿論五十錢のティップは谷崎氏の冷笑を免れなかつた。
 「何にも君、世話にはならないぢやないか?」
 僕はこの先輩の冷笑にも羞ぢず、皺だらけの札を女給へ渡した。女給は何も僕等の爲に炭酸水を運んだばかりではない。又實に僕の爲にはヽヽヽヽヽ赤い襟飾りに關する眞理を天下に擧揚してくれたのである。僕はまだこの時の五十錢位誠意のあるティップをやつたことはない。
谷崎をトリック・スターに仕立て上げて、芥川らしい洒落たアイロニカルなコントに仕上がっている面白い作品である。
・「ミカド」神田万世橋近くにあった西洋料理店。
・「維新時代の小説」これは、前年の大正七(一九一八)年七月発表の「開化の殺人」や四ヶ月前の二月発表の「開化の良人」を受けての谷崎の忠告と思われる。しかし、この後の開化物は四年後の大正一二(一九二三)年九月発表の「お富の貞操」まで、ない。 ・「半井桃水」(なからいとうすい 万延元(一八六一)年~昭和元(一九二六)年)は小説家。明治二一(一八八八)年に東京朝日新聞社入社、翌年に同紙に「唖聾子おしつんぼ)」を発表して好評を博し、新聞小説家としての地位を確立、明治二四(一八九一)年から翌年にかけて連載した長編「胡沙こさ吹く風」を代表作とする。樋口一葉とは師弟関係にあり、一葉の「にごりえ」(明治二八(一八九五)年)の結城朝之助は桃水がモデル。二人が恋愛関係にあったという噂は有名。
・「南部」南部修太郎。
・「岩井京子」不祥。但し、旧全集初書簡番号五三五の大正八年五月二十七日附(この翌日)で田端発信の佐野慶造(海軍機関学校教官時代に親しくしていた物理教官)宛に以下のように出る。
   *
啓 御無沙汰致しました皆さん御變りもございませんか私は毎日甚閑寂な生活をしてゐます時々いろんな人間が遊びに來て気焰をあげたりのろけたりして行きます所で王橫須賀の女學校を昨年か一昨年卒業したのに岩村京子と云ふ婦人が居りませうかこれは奥樣に伺ふのですもし居たとすれば容貌人物等大體を知りたいのですが如何でせう手前勝手ながら當方の名前が出ない範圍で御調べ下さればあり難有いと存じます 以上
   この頃や戲作三昧花曇り
                 芥川龍之介
   佐 野 樣 侍曹
   *
これから、この「岩本京子」とは恐らく、愛読者として何かを書き送ってきた文学少女であり、出身校が当時、佐野慶造の妻花子(彼女とも龍之介は親しかった)の勤めていた汐入の横須賀高等女学校卒であったことに由来する依頼であろう。「侍曹」は「じさう(じそう)」と読み、脇付の一つ。「そばに侍する者」の意で「侍史」に同じい。

・「野口眞造」(明治二五(一八九二)年~昭和五〇(一九七五)年)染織工芸家。東京生。私立商工中学校(現在の日本大学付属第三高等学校)卒。日本橋にあった呉服屋「大彦だいひこ」の次男で、芥川の江東尋常小学校附属幼稚園入学時からの友人。後、大正一四(一九二五)年には「大彦」を継ぎ、昭和二(一九二七)年、大彦染織美術研究所を創設、伝統工芸としての染色刺繡の研究や復元に努めた。戸板女子短期大学教授。芥川の「学校友だち」には、『野口眞造 これも小學以來の友だちなり。呉服屋大彦の若旦那わかだんな。但し餘り若旦那らしからず。品行方正にして學問好きなり。自宅の門を出る時にも、何か出かたの氣に入らざる時にはもう一度家へ引返し、更に出直すと言ふ位なれば、神經質なること想ふべし。小學時代に僕と冐險小説を作る。僕よりもうまかりしかも知れず。』と記している通り、芥川とともに回覧雑誌『日の出界』『流星』を創っている。同じ染織家で独立した兄の功造とも芥川は昵懇であった(六月一日の条を参照)。]

 五月廿七日 陰 雨來ラントシテ來ラズ
 午後小林勢以子來る。大へん柄の好いセルを着てゐた。長唄を浚つて夜になつてから歸る。
 夜引き横き小説を書く
。 [やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、この日は所収しない。
・「小林勢以子」(明治三十二(一九〇二)年~平成八(一九九六)年)は谷崎潤一郎の先妻千代夫人の妹。後に映画女優となり、芸名を「葉山三千子」と称した。谷崎の「痴人の愛」の小悪魔的ヒロイン・ナオミのモデルとされる。
・「セル」オランダ語の「セルジ」を「セル地」と解したところから、主に梳毛糸そもうし(洗毛後の比較的繊維の長い羊毛をくしけずって平行に引き揃えた羊毛糸)を使った平織り又は綾織りの和服用毛織物。
・「小説」「路上」であろう。]

 五月廿八日 晴
午後南部修太郎來る。辰子の寫眞を見せたら貸してくれと云つて持つて行つた。夕方一しよに鉢ノ木で飯を食ふ。それから菊池へ行つたら後から小島政二郎が來た。菊池剃刀負けがし繃帶を頭から頤へ卷いてゐる事クリスマスキヤロルへ出る幽靈の如し。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 五月二十八日
 午後南部修太郎來る。T子の寫眞を貸してやる。夕方一しよに鉢の木で飯を食ふ。それから菊池の所へ行く。後から小島政二郎來る。菊池剃刀負けがして繃帶を頭から顋へ卷いてゐる事、クリスマス・キヤロルヘ出る幽靈の如し。歸りに牡丹を買ふ。
とある。
・「辰子」不詳であるが、彼が当時執筆している「路上」の主人公安田俊助が一目惚れする京都の女学校を出た娘の名が「辰子」であり、これは偶然とは思われない。芥川は執筆の際のイメージとして実在する若い娘をモデルとし(本当に辰子という名であったかどうかは分からない)、執筆の際にその写真を傍に置いていたのかも知れない。
・「鉢ノ木」東京帝国大学赤門前にあったフランス料理店。]

 二十九日 晴
 午後社へ顏を出し松内氏と文藝欄の打合せをする。畑を尋ねたがゐなかつた。又ジヨオンズを尋ねたが留守なり。新橋の二階の東洋軒で飯を食ふ。二階の窓から見ると驛前の甘栗屋が目の下に見えて赤い提燈と栗をかきまぜる男とが甚風流だつた。古本屋を根氣よく探す。俳書六七册買ふ。月評を書き出す。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 五月二十九日 晴
 今日よりトオデの、ミケルアンジエロを讀み出す。午後社に行き、松内氏と文藝欄の打合せをなす。序にロイテルヘ行き、ジヨオンズを尋ねたが留守なり。受附の男東洋軒にゐられるかも知れませんと云ふ。新橋驛の東洋軒へ行く。二階の窓から見ると、驛前の甘栗屋が目の下に見えて、赤い提燈と栗をかきまぜる男とが甚だ風流だつた。食後白山の窪川へ行き、俳書五六册購ふ。夜月評を書き出す。
とある。
*「トオデの、ミケルアンジエロ」とはドイツの芸術史家ヘンリー・トーデ(Henry Thode 一八五七年~一九二〇年)のミケランジェロの未完成作品に対するキリスト教・非キリスト教的解釈を展開した“Michelangelo: Kritische Untersuchungen Ber Seine Werke”(一九〇八年~一九一三年)のこと。
*「白山の窪川」小石川白山通りにあった有名な古書店で、反町茂雄「蒐書家・業界・業界人」(八木書店一九七四年刊)によれば、本邦の近代古書業者の中でも、初めて本格的な明治文学の蒐集を手掛けた人物であるとする。
・「社」芥川が社員である大阪毎日新聞社傘下の東京日日新聞社(明治四四(一九一一)年に買収された)。
・「松内」東京日日新聞社記者の松内則信。大阪毎日新聞社学芸部長薄田淳介(泣菫)宛の旧全集八六三号書簡に中国特派のための相当な額であるはずの費用をこの人物から、直接、受け取った旨の記載があり、全集類聚版の「文芸欄」の注には当時、『文芸欄を拡張しようとしていた』とあることから、そのような企画も手掛けている実務肌で実力派の記者であったと思われる。後に毎日新聞社重役となった、と同類聚版注にある。
・「畑」同社学芸部記者(翌年十月の志賀直哉「暗夜行路」連載破棄事件の際には学芸部長の肩書となっている)であった小説家畑耕一(明治一九(一八八六)年~昭和三二(一九五七)年)。後に松竹キネマ企画部長・国民新聞学芸部長・明治大学教授・日本大学講師などを歴任した。大正二(一九一三)年、『三田文学』の「怪談」で文壇デビュー、続けて同誌に「淵」(大正三(一九一四)年)「道頓堀」(大正五(一九一六)年)などの耽美的作品を発表、その後新聞・演劇・映画の実務を熟しながら批評・随筆・戯曲・小説・作詞といった多彩な文筆活動を行う。昭和三(一九二八)年ヒット曲「浅草行進曲」は彼の多蛾谷素一名義の作詞になる。昭和一五(一九四〇)年、全ての職を辞し、作家生活に入り、創作に専念する生活を選ぶ。この時、眼前の大東亜戦争の端緒たるものという認識のもと、日清戦争の銃後史を描いた「広島大本営」(昭和一八(一九四三)年)は、畑の作品中でも特異な代表作の一つとされる。戦後は児童文学や評伝などを書いたが、昭和三二(一九五七)年十月六日、広島赤十字病院で胃癌のため逝去した(なお、この生年については、過去の多くの記載が明治二九(一八九六)とするのは完全な誤りである。私の電子テクスト「畑耕一句集 蜘蛛うごく」の冒頭注を参照されたい。
・「ジヨオンズ」トマス・ジョーンズ(Thomas Jones 一八九〇年~一九二三年)。岩波版新全集書簡に附録する関口安義らによる人名解説索引等によれば、芥川龍之介の参加した第四次『新思潮』同人らと親密な関係にあったアイルランド人。大正四(一九一五)年に来日し、大蔵商業(現・東京経済大)で英語を教えた。芥川との親密な交流は年譜等でも頻繁に記されている。後にロイター通信社社員となった彼は、当時、同通信社の上海特派員となっていた。芥川も並んだその折の大正八(一九一九)年九月二四日(後条)に鶯谷の料亭伊香保で行われた送別会の写真はよく知られる。「上海游記」の「二 第一瞥(上)」以降の主に三章に記された出逢いが最後となり、ジョーンズは天然痘に罹患、上海で客死した。芥川龍之介が『新潮』に昭和二(一九二七)年一月に発表した「彼 第二」は、私遺愛の芥川龍之介のジョーンズへのオードである。ジョーンズの詳細な事蹟は、「上海游記」の「三 第一瞥(中)」の冒頭注及び「彼 第二」の私の後注を参照されたい(リンク先は総て私の電子テクスト)。
・「東洋軒」新橋駅の楼上にあった西洋料理店。ネット上の情報によれば、明治二八(一八九五)年に本邦で初めてパスタをメニューに載せた店とある。
・「月評」同年六月四日から十三日の間で五回に亙って『大阪毎日新聞』に「六月の文壇」の題で連載された全集所収の「大正八年六月の文壇」の一部を指す。]

 三十日 晴
 午後畑耕一來る。久保正夫が友だちを集めてインフェルノを伊大利語にて講義せし事を話す。菊池來り三人で文藝欄擴張の話を少しする。夕方谷崎潤一郎小林勢以子を同道して來る。皆で晩飯を食ふ。谷崎が北原白を除き詩人は皆酢豆腐だと云つた。九時過ぎに皆歸る。後で俳諧江戸調を讀む。俗惡句を成さざるもの頻出す。猫を貰ふ。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 三十日 晴
 午後畑耕一、菊池寛來る。夕方谷崎潤一郎來る。皆の歸つたのは九時なり。今日猫を貰ふ。
とある。
・「久保正夫」(明治二四(一八九四)年~昭和四(一九二九)年)翻訳家・評論家。芥川の一高時代の後輩で、後に哲学を専攻した。第三高等学校講師。訳書に聖フランチェスコの「小さき花」やゲーテの「親和力」など。
・「インフェルノ」ダンテの「神曲」の「地獄篇」のこと。
・「酢豆腐」いい加減な知識しかないのに通人ぶること。半可通。原拠は落語の「酢豆腐」に拠る(咄の内容はウィキの「酢豆腐」を参照されたい)。
・「俳諧江戸調」俳人熊谷無漏くまがいむろう編になる明治四四(一九一一)年中島辰文館刊の近世俳句史。]

 五月卅一日 晴 後ニ陰 風アリ
 客を謝して小説を書く。第一囘から改めて出直す事にした。
 午過ぎ久しぶりに詩を作る。五絶三、七律一。
 夕方萬世橋驛のミカドにあるホイツトマン百年祭へ行く。有島武郎氏、與謝野晶子氏、鐡幹氏などに合ふ。卓上演説もやつた。室生犀星、多田不二の兩氏と一しよに歸る。雷雨大に催す。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 五月三十一日
 客を謝して小説を書く。第一囘から改めて出直す。午すぎはトオデ。夕方ミカドのホイツトマン百年祭に行く。始めて有島武郎氏、與謝野鐡幹氏夫妻に合ふ。齋藤勇氏と有島氏とホイツトマンの詩を朗讀す。列席の諸君子わかつたやうな顏をして聞いてゐれど、大半はわからないのに相違なし。勿論ボクにも分らず。食卓演説をなす。生まれて二度目なり。歸途室生犀星、多田不二の兩氏と一しよに歸る。雷雨大いに催す。
とあり、「路上」創作の逡巡が垣間見える。
*「齋藤勇」斎藤勇(さいとうたけし 明治二二(一八八七)年~昭和五七(一九八二)年)は英文学者。後、東京帝国大学名誉教授から東京女子大学学長となり、昭和一四(一九四九)年には福原麟太郎や弟子中野好夫らとともに日本英文学会を設立した。昭和二五(一九五〇)年から始まった伊藤整訳になるロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』猥褻物頒布罪の裁判では検察側証人として出廷したものの、ただ「文学的に優れているとは思えない」と証言したのみに終わり、伊藤整は自著で、その態度に好感を抱いたと記している。昭和二八(一九五三)年の国際基督教大学の創学に参加して国際基督教大学教授となった。自らのプロテスタント信仰を背景に本邦に於ける英文学研究の基礎を成した人物とされるが、一九八二年七月四日、自宅で当時二十七歳であった孫(父は勇の次男で東大名誉教授の政治学者齋藤真)に『襲撃され、不慮の死を遂げた。孫は統合失調症ゆえに責任能力なしと診断され、精神科病院に収容された。なお当の孫とはほとんど会話がなかったとされる』。九十五歳の、非業の死であった(以上はウィキの「斎藤勇」に拠る。その最期に関しては「無現回廊」の「斎藤勇東大名誉教授惨殺事件」を参照されたい)。
・「五絶三、七律一」この時の創作と思われる当該の五言律詩・七言律詩は現存しない。
・「萬世橋驛」中央本線の神田駅と御茶ノ水駅との間にあった駅。昭和一八(一九四三)年に休止(実質上の廃止)された。
・「ホイツトマン百年祭」大正八(一九一九)年はアメリカの国民詩人Walter Whitman(一八一九年~一八九二年)の生誕百年に当たった。本邦では明治後期に夏目漱石によって紹介され、民主主義詩人として爆発的な支持を得た。私も高校生の頃に心酔したのを忘れない。
・「多田不二」(明治二六(一八九三)年~昭和四三(一九六八)年)は詩人。東京帝大卒。室生犀星らが創刊した『感情』の同人となり、大正六(一九一七)年の詩話会結成に参加、大正九年に詩集「悩める森林」を発表した。詩誌『帆船』主宰。後、NHK松山放送局長を勤めた。]

 六月一日 晴
 朝室生犀星愛の詩集第二を持つて來てくれる。長崎で買つた和蘭陀燒の茶碗を見て大丈夫本物ですと云ふ。
 午後大彦の若主人來る。日暮から一しよに柳橋へ行つて花長の天ぷらを食ひ更に待合へ行つて藝者を見る。御孃樣のやうな無邪氣な藝者に合つて甚敬意を生じた。
 熊本の高等學校にゐる西村熊雄なる人「猿」を英譯し發表しても好いかと云つて來る。好いと答へる。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月一日 晴
 朝室生犀星來る。「愛の詩集」第二を貰ふ。長崎で買つた阿蘭陀の茶碗を見せると本物だらうと云ふ。
 午後野口功造來る。柳橋で御馳走になる。御孃樣のやうな藝者を見て、甚だ敬意を生じた。昔の藝者の質素なりし話、やきもちの話、松の鮨の話。
とある。
*「松の鮨」全集類聚版注に『本所にあった有名な鮨屋』とある。
・「愛の詩集第二」室生犀星の処女詩集「愛の詩集」は大正七(一〇一八)年七月に感情詩社から限定五五〇部で刊行されたが、これは、同題の第二詩集で大正八年五月五日に文武堂書店から刊行されたもの。サイト「室生犀星書籍博物館」「第二愛の詩集」で現物の映像が見られる。
・「和蘭陀燒」オランダ焼き。江戸時代に出島貿易のオランダ船で運ばれてきたヨーロッパ産陶磁器の総称。日本の柿右衛門などに影響を受けたものが多く輸入されたという。この年の五月の初めての長崎旅行(帰京は日録の始まる一週間前の五月一八日であった)の際に知り合ったものか。この芥川蔵の茶碗は現存する遺品には存在しない模様である。二日後の六月三日附岡榮一郎宛書簡(旧全集書簡番号五三六)に、
  即興
荷蘭陀の茶碗行く春の苦茗かな
とある。「苦茗」は「くめい」と読み、品質の悪いお茶のこと。自家の茶の謙遜語で、句の直前手紙文末尾にある「この頃客を謝してとりいそぎ執筆中もう一週間ばかりしたら夜分にても御出を乞ふ 和蘭燒の茶碗にて御茶を獻ずべし」を受けた挨拶句であるが、正にこの「和蘭陀燒」の茶碗を詠んだ句である。
・「大彦の若主人」前掲注「野口眞造」の兄で、日本橋の呉服屋「大彦だいひこ」の長男野口功造。この頃はまだ彼らの父が生きており、若旦那格であった(前掲した通り、後、店は弟に譲り、独立して呉服商「大羊居」を創業した)。岩波新全集の人名解説索引には、『美術や文学に個性的で独特の見識を持っていた』とある。
・「花長」「はなちょう」と読む。柳橋の有名な老舗天麩羅屋で、海老の天麩羅が大好きだった喜劇王チャップリン御用達の店として知られ、現在も大田区東糀谷の鳥居駅穴守稲荷近くで営業している。
・「熊本の高等學校にゐる西村熊雄」第五高等学校(現・熊本大学)教授。
・「猿」大正五(一九一六)年作(青空文庫版)。全集類聚版注に『この時英訳されたか未詳』とある。私も調べ得なかった。]

 六月二日 晴
 午後弟と淺草へ行つて電氣館の「呪の家」を見る。活動寫眞程見て忘れるものなし。事件の繼起する速度が人間の記憶能力をどこかで超越してゐるのぢやないかと思ふ。
 午頃中根氏羅生門の扉、表紙等を持つて來て見せる。里見弴の建てた土藏の話を聞いて少し羨しくなつた。
 舟木重信「悲しき夜」を書いて、芥川龍之介、長與善郎の徒を退治す。
[やぶちゃん注:次に示す『「我鬼窟日錄」より』を併読すると、芥川龍之介の映画への感性の在り方や、軍人への揶揄、土蔵を新造したブルジョワ里見への淡い羨望など、さまざまな芥川の感懐が窺われて、頗る興味深い。
 六月二日 晴
 西村熊雄氏より來翰、「猿」を英譯して發表したいが好いかと云つて來る。好いと答へる。前に「貉」の英譯あり。今又「猿」の英譯成る。ボクの小説の英譯せられる爲には、獸の名を題とせざる可らざるに似たり。午頃中根氏來る。「羅生門」の表紙、扉等を見せる。里見弴の土藏の話。○○大將全國を騎馬旅行し、大いに靑年の志氣を鼓舞する傍、女中に子を産ませる由、敬服至極。午後弟と淺草へ活動寫眞を見に行く。見ながら活動寫眞論を考へる。寫眞――現實――假感――藝術
*「○○大將」以下の話は後掲される六月四日の記事の同じ中根の話を、西村の話は前日の出来事を、それぞれ、ここに集合させた虚構である。詳細は六月四日の注に譲る。
*「假感」は恐らく仏教用語の「仮観けがん」からの造語であろう。仮観とは『世界の全ての事象は仮の存在である』という考え方であるから、仮構や仮象といったニュアンスを孕むものと考えてよい。
・「貉」大正六(一九一七)年作(青空文庫版)。全集類聚版注に『ここでいっている英訳未詳』とある。私も調べ得なかった。
・「弟」異母弟新原得二にいはらとくじ(明治三二(一八九九)年~昭和五(一九三〇)年)。実父新原敏三と実母フクの妹フユとの間の子で、芥川とは七つ違い。当時、満二〇歳。上智大学中退の前後か。
・「電氣館」浅草にあった日本初の映画専門の劇場で、明治三六(一九〇三)年に浅草公園六区に設立された輸入サイレント映画の常設活動専門館(後に浅草電気館改称して国産映画の専門館となった)。
・「呪の家」原題“House of Hate”。邦題は「家の呪」が正しい。ジョージ・ブラケット・サイツ(George Brackett Seitz  一八八八年~一九四四年)監督、連続銀幕活劇の麗人パール・ホワイト(Pearl White 一八八九年~一九三八年)主演の一九一八年本邦公開のアメリカ映画。サイレント。配給日活。全二〇篇。芥川らが観たものは、労作のHP「空想映画公開リスト」「大正8年」のデータでは、その第十九篇“Chapter 19: The Hooded Terror Unmasked”と思われるが、公開は六月四日となっている。内容は英文ウィキの“House of Hate”によればサスペンス・ミステリーである。
・「中根氏」中根駒十郎(明治一五(一八八二)年~昭和三九(一九六四)年)は当時の新潮社支配人。
・「羅生門」同月二〇日に刊行されることになる第一作品集「羅生門」(大正六(一九一七)年阿蘭陀書房刊)の新潮社による再刊本のこと。
・『舟木重信「悲しき夜」』舟木重信(明治二六(一八九三)年~昭和五〇(一九七五)年)は小説家・ドイツ文学者。東京帝国大学卒、この翌年の大正九年に早稲田大学教授となっている。「悲しき夜」はこの年の「新小説」六月号に載った彼の小説。同年には短編集「楽園の外」も刊行、後、ハイネやゲーテの研究に勤しんだ。因みに作家の島田清次郎は、この舟木重信の妹舟木芳枝とのゴシップ(ファンであった芳枝に対して監禁・陵辱・強姦を行ったとして父で海軍少将の舟木錬太郎から告訴される事件)によって、作家としては完全に破滅させられている。「悲しき夜」は私は未読であるが、芥川のこの評価の高さは尋常ではない。逆にこの時期の芥川が、大きな壁にぶつかっていたその激しい焦燥感が見て取れると言える。]

 六月三日 晴
 勉強して月評を書く。大阪毎日より原稿早く送れの電報あり。大に恐縮す。
 長崎の武藤長藏、盛に本を送つて人を惱ます。
[やぶちゃん注:
・「月評」前掲『大阪毎日新聞』の「六月の文壇」。
・「原稿」これは一見、前の「六月の文壇」の原稿を指すもののようにも思われるが(新全集の宮坂覺氏の年譜ではそうとっておられるように読めてしまう)、しかし次の「六月四日」の条には『大阪毎日へ電報を打つて小説を延期して貰ひたいと云つてやる』とあり、これは遅滞に遅滞している「路上」の原稿である。
・「武藤長藏」(明治一四(一八八一)年~昭和一七(一九四二)年)は経済学者・歴史家。当時、長崎高等商業学校(現・長崎大学経済学部)の名物教授であった。五月の長崎旅行の際に知り合ったものか。ここ以外、書簡などにも一切登場しない。]

 六月四日 陰 後雨
 高等工業學校文藝部より講演を賴む。平に御免を蒙る。
 中根氏羅生門の印税を持つて來る。福島大將がムヤミに女中へ手をつける話をして行つた。
 午後雨聲を聽きながら晝寐をする。
 大阪毎日へ電報を打つて小説を延期して貰ひたいと云つてやる。
       細田枯萍へ送るの句
     惜め君南京酒に盡くる春
[やぶちゃん注:
・「高等工業學校」東京高等工業学校(現在の東京工業大学)。
・「福島大將」『「我鬼窟日錄」より』に、
○○大將全國を騎馬旅行し、大いに靑年の志氣を鼓舞する傍、女中に子を産ませる由、敬服至極。
とした、この年の二月に亡くなった陸軍大将福島安正(嘉永五(一八五二)年~大正八(一九一九)年)。以下、ウィキの「福島安正」によれば、明治二五(一八九二)年の少佐時代には、情報将校として滞在していたベルリンからの帰途、冒険旅行という称してシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク・エカテリンブルク・外蒙古・イルクーツク・東シベリアまでの約一万八千キロを一年四ヶ月をかけて騎馬で横断、実地調査を行った(後に「シベリア単騎横断」と呼称される)。明治二七(一八九四)年、第一軍参謀として日清戦争に出征。後、陸軍参謀本部編纂課長・参謀本部第二部長・西部都督部参謀長等を歴任、明治三三(一九〇〇)年の義和団事件の際は鎮圧のための臨時派遣隊司令官となり、北清連合軍総司令官幕僚として作戦会議で司会を務め、英・独・仏・露・北京官語を駆使して調停役となっている。明治三七(一九〇四)年、大本営参謀に就任、同年六月から日露戦争に於ける満州軍総司令部参謀として、特に諜報部において手腕を振るった。特に、満州馬賊を率いて戦った遼西特別任務班・満州義軍の総指揮を行ったことは、一般にあまり知られていない。その後、参謀次長や関東都督に就任、軍功によって男爵となり、大正三(一九一四)年、陸軍大将進級と同時に後備役となって帝国在郷軍人会副会長に就任した。最晩年には「剛健主義」を掲げて全国騎馬旅行などをして過ごした、とある。ここに記されたのは、その還暦もとっくに過ぎた彼の、最後のその方面の『武勇伝』という訳である。
・「小説」前掲した通り、「路上」であろう。
・「細田枯萍」「ほそだこへい」と読む。長崎在でバーナード・ショーの「人と超人」の翻訳本があるので、英文学者と思われる。やはり五月の長崎旅行の際に知り合ったものかと思われる。
・「惜め君南京酒に盡くる春」「我鬼句抄」大正八年に、
  醉ひ足らぬ南京酒や盡くる春(細田枯萍を訪ふ)
の類型句がある(「やぶちゃん版芥川龍之介句集 二 発句拾遺」参照)。「南京酒」とは老酒のことであろう。]

 六月五日 雨 後陰
 午後菊池と一しよに中戸川吉二を訪ふ。鉢ノ木で飯を食つてから小柳へ伯山を聞きに行く。伯山の藝なるもの汲手すぎて蒼勁の趣なきものゝ如し。
 菊池東洋大學で演説をする由。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月五日 雨後晴
 午後菊池來る。一しよに中戸川の所へ行く。夕飯後小柳へ伯山を聞きに行く。伯山の藝なるもの、派手すぎて蒼勁の趣なし。菊池大いに伯山を辯護す。
とある。
・「中戸川吉二」(明治二十九(一八九六)年~昭和十七(一九四二)年)は小説家。里見弴に師事。代表作「イボタの虫」。吉井勇・田中純らの雑誌『人間』にも参加、第五次『新思潮』同人でもあったが、次第に創作から手を引き、後は専ら批評家として活動した(ウィキの「中戸川吉二」に拠った)。
・「小柳」神田須田町にあった正徳四(一七一四)年創業と称した有名な講談専門の寄席。
・「伯山」浪曲師の名跡三代目神田伯山はくざん(明治五(一八七二)年~昭和七(一九三二)年)のこと。東京生。歴代中、最大の人気を誇った。参照したウィキの「神田伯山」によれば、『彼が出演する寄席では大入りの満員となった。反面、その周辺(八丁)の寄席は皆、客を取られてしまうので「八丁荒し」の異名を取った』。『「清水次郎長伝」を最大の売り物とした。そのため三代目は「次郎長伯山」との異名がある。清水次郎長物の講談は、元々血生臭い話であった』が、彼は、そのストーリーそのものを変え『天田愚庵の「東海遊侠伝」を参照する等して、義理人情を盛り込み、愛されるキャラクターの次郎長像を創作して独自の型として完成させたのである。「名も高き富士の山本」という演題とした』とされる。後にやはり名人とされる浪曲師二代目広沢虎造の講じた『「清水次郎長伝」は、この伯山の演じた型をベースにしている』とある。
・「蒼勁」は「さうけい(そうけい)」と読み、枯れた味があって、且つ力強いことをいう。]

 六月六日 晴
 午前小林勢以子來る。
 今日にて月評を終る。
 夕方久米の所へ行く。湯ケ原より歸り立てなり。山本勇三と落合ふ。山本大に國民文藝協會の芝居の惡口を云つてゐた。
 久米と菊池、小島、岡、を訪ふ。皆留守なり。今日華氏八十四度。我鬼先生閉口す。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月六日 晴
 月評今日でおしまひ。夕方久米の所へ行く。湯河原より歸り立てなり。山本有三と落合ふ。久しぶりなり。今日華氏八十四度、庭の土にある日色、既に盛夏の如し。
最後の部分など、本来退屈な日記を、微妙に変えて読者に映像を想起させようとする工夫が見られる。
・「山本有三」は芥川龍之介と一高で同級。東京帝大独文科卒で、当時は早稲田大学講師であった。
・「國民文藝協會」これは坪内逍遙や島村抱月の「文芸協会」の流れを汲む東儀鉄笛とうぎてってきらによって大正八年六月に組織された新劇団体「新文芸協会」のこと。但し、当時、彼らがどのような芝居を上演していたかまでは調べきれなかった。せめて上演作品が分かれば、山本の悪口も多少は類推出来そうなのだが。識者の御教授を乞うものである。
・「岡」劇作家岡栄一郎(明治二三(一八九〇)年~昭和四一(一九六六)年)。東京帝大卒。漱石門下で芥川の勧めで戯曲を執筆、新解釈による史劇や演劇評論などで活躍した。代表作「槍持定助」など。日活で映画製作にも携わった(講談社「日本人名大辞典」デジタル版に拠った)。
・「華氏八十四度」約摂氏二八・八八度。]

 六月七日 陰
 やはり暑し。午前瀧田樗陰先生、大な書畫帖を二册かつぎこみ句と歌とを書かせる。
 午後木村幹來り一しよに平塚雷鳥を訪問す。序に叔父ワニヤの舞臺稽古を見る。
 今日朝から晩まで癇癪の起しつづけなり。私に自ら恥づ。大觀、大隈侯の名にて茶話會に招待す。斷る。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月七日 陰
 朝瀧田樗陰君大きな書畫帳を二册かつぎこみ、句と歌とを書かせる。字も句も歌もものにならず。午後木村幹來る。一しよに平塚雷鳥さんを訪ひ、序に「叔父ワニヤ」の稽古を見る。畫室の中には大勢の男女。戸口の外には新綠の庭。隅の椅子に腰を掛けて見てゐると、好い加減の芝居より面白い。「大觀」大隈侯の名で茶話會に招待する。斷る。
とある。
・「瀧田樗陰」(たきたちょいん 明治一五(一八八二)年~大正一四(一九二五)年)は『中央公論』の名編集長。東京帝国大学法科卒(英文から転科)。
・「木村幹」(きむらもとき 明治二二(一八八九)年~?)小説家・翻訳家。東京帝国大学仏文科卒。豊島與志雄らと『自画像』を創刊、後に江口渙・佐藤春夫らの『星座』同人。「銀座の帰り」などの小説を書いた。翻訳にゾラ「居酒屋」「夢」など。鷺只雄の「年表読本 芥川龍之介」では当時の彼を新聞記者とするが、新聞社は特定出来ず。
・「平塚雷鳥」作家で婦人運動家であった平塚らいてう(明治一九(一八八六)年~昭和四六(一九七一)年)は当時、女性解放を目指す青鞜社を組織していたから、このアトリエというのは、その演劇部門の稽古場であったか。但し、ここで稽古しているのは青鞜社ではなく、新劇協会で、芥川はその本番をこの後、十六日に観ている(六月十六日の条を参照)。
・「叔父ワニヤ」チェーホフの四大戯曲の一つ「ワーニャ伯父さん」梗概などが知りたい方のためにウィキの「ワーニャ伯父さん」をリンクしておく)。
・「大觀」大観社。大正五(一九一六)年に総合雑誌『大観』を創刊。芥川の作品もしばしば掲載された。
・「大隈侯」大隈重信。大観社の主宰であった。大正五(一九一六)年一〇月に内閣総辞職して以降は政治からは引退していた。]

 六月八日 陰
 午前高等工業學校の中原氏來訪。俳談を少々やる。しまひに例の講演を賴まれ遂に承諾す。
 午後赤木桁平、小島政二郎、富田碎花、室賀文武等來る。桁平先生聖德太子を論じ平子鐸嶺を論じ白井壽美代を論じ意氣軒昂なり。先生日常その卓勵風發を以て僕と相當ると倣す。豈敢て當らんや。
 富田碎花に草の葉の譯を貰ふ。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月八日 陰
 午前高等工業學校の中原虎男氏來る。俳談を少々やる。しまひに例の講演を賴まれ、トウトウ承諾す。
午後赤木桁平、小島政二郎、富田碎花、室賀文武の諸氏來る。桁平先生例の如く氣焰萬丈なり。先生常にその卓勵風發を以て僕と相當ると倣す。豈敢て當らんや。富田氏に「草の葉」の飜譯を貰ふ。皆十時頃歸る。今夜牡丹悉く散つてしまふ。下女散つた花片を掃かうとする。その儘にして置けと云ふ。
とある。
・「高等工業學校の中原氏來訪。俳談を少々やる。しまひに例の講演を賴まれ遂に承諾す」は六月四日に記された東京「高等工業學校文藝部より講演を賴」まれるも断ったことを受けており、この「中原氏」(『「我鬼窟日錄」より』では「中原虎男氏」とフル・ネームで記す)というのは、俳句談義を交わしているところから見ても、東京工業高等学校文芸部の学生と思われる。全集類聚版注でも同じ推測を記す。『「我鬼窟日錄」より』が発表された時、この中原虎男君は喜悦に浸ったであろう。天下の芥川龍之介の作品に、殆んど最年少の無名人である我が名が、歴々たる作家のネームと並んで記されているのだから。掉尾の「六月二十四日」の最後の一文も彼のネームで終わるのである。
・「赤木桁平」(あかぎこうへい 明治二四(一八九一)年~昭和二四(一九四九)年)は評論家・政治家。本名、池崎忠孝。漱石の最初の伝記作家として知られ、また、大正五(一九一六)年に朝日新聞に載せた「『遊蕩文学』の撲滅」による花柳小説批判も一世を風靡した。昭和一一(一九三六)年には衆議院議員に当選、第一次近衛内閣で文部参与官を務めたが、盛んに対米戦争を煽ったため、戦後はA級戦犯として巣鴨プリズンに収監された。後に病気のために釈放されたが、そのまま不遇のうちに死去した(以上は、ウィキの「赤木桁平」に拠る)。芥川龍之介の死後書かれた評論「亡友芥川への告別」では『知識によつて人生を描くことは』『人生そのものゝ生きた姿を捉へて活潑々地に躍動させる所以ではな』く、『況んや、知識は時として知識に尽きる』といった厳しい言辞で、殆んど全否定に近い批判をしている(引用は筑摩書房芥川龍之介全集別巻所収のものを用いた)。但し、処女作品集「羅生門」出版の仲介をしたり、「手巾」を評価したりと、芥川とは晩年まで良き先輩として良好な関係を保った。極めつけの議論好きであった彼の様子が髣髴としてくる記載である。
・「富田碎花」(とみたさいか 明治二三(一八九〇)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人・歌人。当初、明星派に属する浪漫的歌人として知られたが、後、社会主義に向かい、民衆派詩人として活躍した。
・「室賀文武」(むろがふみたけ 明治二(一八六九)年~昭和二四(一九四九)年)。芥川の実父新原敏三の経営した牧場耕牧舎の使用人で、龍之介の子守なども経験している。後、行商・聖書会社等に勤務。無教会系のキリスト教に入信して内村鑑三に師事、一高時代に芥川と再会、その後も自死する直前まで芥川の相談に乗り、その過程でキリスト教への入信をも勧めている。「歯車」の「或老人」のモデルである。俳人として句集「春城句集」を出版した際には序を芥川に依頼している。「素描三題」では「三 武さん」の一章総てが彼を主人公としている(リンク先は総て私のテクスト)。
・「平子鐸嶺」(ひらこたくれい 明治一〇(一八七七)年~明治四四(一九一一)年)は美術史家。東京美術学校(現・東京芸術大学)日本画科卒。日本美術史及び仏教史を専門とする。東京帝室博物館嘱託兼内務省嘱託から内務省古社寺保存会委員となった。「日本書紀」の記載を誤りとする当時としては画期的な主張で法隆寺非再建説を唱えた。結核のため、三十三歳で夭折した。
・「白井壽美代」全集類聚版では『不詳』とあるが、舞台女優と思われる。こちらのブログ記事にある明治四四(一九一一)年十月一日発行の帝国劇場「十月狂言 絵本筋書」(パンフレット)の演目の第三歌劇駿河町人作「胡蝶の舞」のキャスト一覧「兒蝶」の中に「白井壽美代」の名が見える。この解説を読むに、この明治四四年現在は、彼女は帝国劇場専属俳優で、且つ恐らくは帝国劇場付属技芸学校卒と思われる。リンク先には当該歌劇の舞台写真もあり、この中に彼女が映っているはずである。また、洋画家黒田清輝の日記の大正元(一九一二)年一一月二四日の条にも(黒田清輝記念館の資料に基づく)、
 十一月二十四日 日 午前中曇 午後晴
 大掃除ニテ離座敷ニ籠ル 十一時頃白井壽美代來ル 後荻原氏モ來ル 共ニ午時ニ去ル (以下略)
彼女の名前が見出される。これらが総て同一人物であるかどうかは確かめようもないが、私の勘では間違いないように思われる。それにしても――「『遊蕩文学』の撲滅」を豪語し、軟弱な文弱連を論難した、あの右派硬派の論客赤川が――このどちらかと言えば、それこそ胡蝶の如く飛んでたであろう彼女を――どう芥川に論じたのか、これは、興味のあるところである。
・「卓勵風發」「卓厲風發たくれいふうはつ」の誤り。議論などが人よりも優れて鋭く、風のように勢いよく口から出ること。才気が優れて主張悉く正しいさま。
・「倣す」は「なす」と訓じていよう。「倣」は「ならう」で真似るの意であるが、ここは赤川が芥川と逢う時は、常に毎回、判で押して真似たように、卓厲風発で対峙しようとする、といった意であろう。それを受けて、芥川は「豈に敢て當らんや」と反語の強調形で、『そんな風に構えて來るのだから、そうむやみに相手になって議論しようか、いや、とてもまともに議論などしようもんなら、こっちに命が幾つあっても足らない。』といった意味でいなしているのではなかろうか。
・『富田氏に「草の葉」の飜譯を貰ふ』ホイットマンの代表詩集。一八五五年刊。「草の葉 ウオールト・ホヰツトマン 富田碎花譯」は、五月三十一日の記事にも出た通り、ホイットマン生誕百年祭に合わせて、この年から翌年にかけて大鐙閣だいとうかくから刊行されたもの。]

 六月九日 陰 後ニ雨
午後木村幹來る。一しよに谷崎を訪ふ。久米、中戸川、今、などが來てゐた。夕方雨の中を久米、木村、谷崎と四人づれで烏森の古今亭へ飯を食ひに行く。谷崎例の如くよく食ふ。夜自働車で谷崎の家へ歸りそこから又俥で歸宅。谷崎の説によれば香水を澤山集めて香を嗅ぎ分けようとしたら判然しないばかりか頭痛がして來た由。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月九日 陰後雨
 大阪より原稿催促の電報來る。モウ送ツタと返電する。午後木村幹來る。一しよに谷崎の家へ行く。久米、中戸川、今東光の三人が來てゐた。夕方雨の中を谷崎、久米、木村と四人づれで烏森の古今亭へ飯を食ひに行く。谷崎例の如くよく食ふ。久米食前に飮む藥を忘れ、手を束ねて我々の食ふのを見てゐる。夜タキシで谷崎の所まで行き、それから又俥で歸る。谷崎の説によれば、香水を澤山集めて、匂を嗅ぎ分けようとしたら、判然しないばかりか頭痛がして來た由。日本や支那の香の事も調べて見たら面白からう。
とある。
*「大阪より原稿催促の電報來る。モウ送ツタと返電する。」この部分、私は面白いと思う。何故なら、これは実際の日録には書かれていない。書かれていない、ということは芥川はある読者への受けを狙って『「我鬼窟日錄」より』に付け加えて書いたのだとしか私には思われないからである。――これは事実であるなら、糞面白くもない事実である。芥川はこの頃、小説が書けなかったことを読者に伝えたかった、なんどという下らぬ解釈も私は肯んじ得ない。――これは嘘なのだ!――厳密に言うと一種のとぼけた返事なのだと思うのである。この「催促」は勿論、六月三日の催促と同じく「路上」の原稿催促である。実は六月六日の項で彼は大阪毎日のノルマである「月評」を書き上げていることを記している。それを芥川は直ぐに出さず、この九日前後に投函したのではなかったか? そして明らかに「路上」の原稿催促の「ゲンコウオクレ」の電報に対して、彼は「モウオクツタ」と返電、後で問題になった時は「いや、あれは『月評』の原稿を「オクツタ」と言ったのです」とでもごまかそうという芥川のお茶目な魂胆ではなかろうか、と思うのである。何れにせよ、「路上」執筆は、以下の日録でも、明らかに難渋停滞しているのである。こんな憂さ晴らしでもしなくてはやってられないほどに、苦痛なのである。
・「今」今東光(明治三一(一八九八)年~昭和五二(一九七七)年)は、天台宗。当初志していた絵筆を折り、詩を書き散らしたりしていた彼は、この前年の大正七(一九一八)年秋に駒込にあった佐藤春夫宅で谷崎潤一郎に遇い、当時は谷崎の非常勤無給秘書を務めていた(ウィキの「今東光」に拠る)。
・「烏森の古今亭」烏森神社のある、現在の新橋駅西側の新橋二丁目にある創業明治二十七(一八九四)年の鳥料理の割烹。現在も営業している。]

 六月十日 雨
 紀州の東俊三書生に置いてくれと云つて來る。置きたくも置く所なし。斷り狀を書く。
 夕方より八田先生を訪ふ。留守。
 それから十日會へ行く。會するもの岩野泡鳴、大野隆德、岡落葉、在田稠、大須賀乙字、菊池寛、江口渙、瀧井折柴等。外に岩野夫人等の女性四五人あり。遲れ馳せに有島生馬、三島章道を伴ひ來る。
 それから更に室生犀星の愛の詩集へ行く。行けば會既に散じたる所にて北原白秋、小松玉巖、近藤義二、川路柳虹、加能作次郎、室生犀星等と平民食堂へ行く。食堂の名を百萬石と云ふ。蓋前田家の近傍なればなり。白秋醉つて小笠原島の歌を歌ふ。甚怪しげな歌也。歸りに夏帽子を買ふ。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月十日 雨
 頭の調子非常によし。イバネスの長篇卒業。夕方八田先生を訪ふ。留守なり。十日會へ行く。始めてなり。岩野泡鳴氏と一元描寫論をやる。それから室生犀星の「愛の詩集」の會へ顏を出す。もう會が散じた所で、北原白秋氏等と平民食堂百萬石へ行く。白秋醉つて小笠原島の歌をうたふ。歸りに夏帽子を買つた。この頃夜往來を歩くと、若葉の匂、花の匂、苔の匂、樹の肌の匂などが盛にする。その中で錢湯の匂などがすると、急に人間臭い氣がして不愉快になる。
とある。この末尾は、明らかに「一元描写」を皮肉に意識した如何にも日記らしい日記、しかし実際の芥川龍之介は実は日記に書かないような「描写」である。「感懐」もアイロニックに私には響く。
*「イバネスの長篇」「イバネス」はスペインの政治家にして小説家 Vicente Blasco Ibáñez(ブラスコ・イバーニェス 一八六七年~一九二八年)。バレンシア生。共和党の急進派で入獄や亡命を経験した。「長篇」とは恐らく彼の中期の代表作マドリードの闘牛士の盛衰を描いた「血と砂」(一九〇八年)と思われる。
*「一元描寫論」は泡鳴が晩年のこの頃唱えたもので、作中の総ての対象は主人公の目を通して描かれるべきとする小説描写論。
・「東俊三」不詳。『文章俱楽部』の中に同姓(「ひがし」ではなく「あずま」であるらしい)同名の投稿者を見出せる(グーグル・ブックスの保昌正夫「文章俱楽部総目次・執筆者索引: 大正五年五月(創刊号)―昭和四年四月(終刊号)」の「投稿者索引」の「ア15」の頭に『東俊三 ①4品』とある(記号の意味は凡例部が閲覧出来ないため意味不明)。画像で視認した)。
・「八田先生」八田三喜はったみき(明治六(一八七三)年~昭和三八(一九六二)年)。金沢生。東京帝国大学理科大学数学科に入学するも、自らの能力に限界を感じ、東大文科大学哲学科に再入学、明治三一(一八九八)年に卒業後、新潟県佐渡中学校(現・県立佐渡高校)校長に着任。同校校長時代には、国家と社会が共に進歩してゆく必要があるとする社会共棲論を説き、北一輝の国家社会主義思想形成に影響を与えた一人とされている。明治三四(一九〇一)年、東京府第三中学校(現在の都立両国高等学校)校長に就任。府立一中や四中が上級学校への受験を一義としていたのに対して、八田は三中では厳しいながらも生徒の自主自律精神を高める教育を実施した。学友会を組織し、生徒の不祥事に対しては父兄と相談しつつ、罰を課するよりも直接、行いを正す方針をとった。忠君愛国教育の実施や、教諭による体罰も日常的に課し、スパルタも見られたが、同時に自由との共存もみられたように、この頃の明治人の共通項としてみることができる。府立三中の校風の基礎を築き、同校校長を一八年続けた後、この大正八(一九一九)年に旧制新潟高等学校の初代校長となり、「自由・進取・信愛」をモットーに学校発展に尽力した(以上はウィキの「八田三喜」を殆んど引用させて頂いた)。芥川龍之介自死の年の五月、彼の招聘を受けて新潟高等学校で「ポオの一面」と題して講演を行っている。
・「十日會」当初は大久保辺に住んでいた作家岩野泡鳴宅を会場として蒲原有明・戸川秋骨らが集まって行っていた文学サロンで、大正五・六年から一二年の大震災までの時期は万世橋の西洋料理店「ミカド」で徳田秋声・齋藤茂吉・広津和郎らの主に若手の文学者や女流作家(画家や歌人が多かった)・作家志望の青年などが参加していた。毎月一〇日に泡鳴からの案内ハガキにより会費制で開かれていた。そうして――当日の参加者の中に――芥川龍之介のファム・ファータル歌人秀しげ子――がいた。
秀しげ子(明治二十三(一八九〇)年~?)。歌人。既婚者。夫は帝国劇場電気部主任技師秀文逸。当時、彼女は満二十九歳、芥川龍之介より二歳年上である。
龍之介としげ子との宿命的な出逢いはこの時と断定されている。以下、広津和郎の小説「彼女」(昭和三五(一九六〇)年)などを参考にして再現された高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社二〇〇六年刊)を参照にこの日の十日会の芥川龍之介を見てみると、彼はまず『茶無地の羽織に茶献上の帯を小粋にしめて』会場に現れている(「茶献上」は茶色の博多織の帯のこと。呼称は黒田藩が幕府へ献上したことに由る)。しげ子は広津によれば、『兎に角都会的に灰汁あく抜けしている点で一人目立った。小柄な彼女は派手好みではなく、むしろ地味づくりであったが、会に来る度毎に着物から帯から半襟の色気など、目立たない中に調和を考えているようなところが、他の女達の無造作な服装に比べて灰汁抜けてい』た、とある。そうして、芥川は彼の方から、以前から十日会の会員で、しげ子を知っていた友人の広津に、
「おい、俺をあの人に紹介してくれよ」
とせがんだ、とある(広津の創作の可能性も排除出来ないが、芥川龍之介なら、さもありなん、である)。
広津から芥川を紹介されたしげ子は、
「あら、芥川さん……一度、お目にかかりたいと思っておりましたのよ」
と答えた、とある(私は広津の「彼女」という小説は未見であるので、本シーンが「彼女」の引き写しであるのか、それとも多少の高宮氏の「彼女」の更なる潤色があるのかは不明である)。なお、高宮氏はしげ子について、
『芥川の友人であり、その日の会合にも出席した江口渙によれば、しげ子は《ちょっと見たところ相当きれいに見える女ではあるが、それほどきわだった美人ではない。だが、中肉中背のしなやかなからだに、ほのぼのとした媚態をふかくかくしながら、つね日ごろはそれをあらわには外に見せず、しかも必要とあらば適当な量において、効果的にそれを示す技術をよく心得ていた女である》(『わが文学半生記』)』
と引用されている。
・「大野隆德」(りゅうとく/たかのり 明治一九(一八八六)年~昭和二〇(一九四五)年)洋画家。大正八(一九一九)年第一回帝展特選。大正一一(一九二一)年渡欧、帰国後に帝展無鑑査となり、昭和六(一九三一)年、大野洋画研究所設立。光風会会員。
・「岡落葉」(おからくよう 明治一二(一八七九)~昭和三七(一九六二)年)画家。蘭医シーボルトの高弟長崎鳴滝塾頭岡研介の子孫に当たる。国木田独歩らと親しみ、かの「武蔵野」の装幀画を担当している。全集類聚版注には『春陽堂社員。』の一言があるのみで、画家という記載は、ない。 ・「在田稠」(ありたしげる 生没年未詳)全集類聚版注は『不詳』とするが、画家・漫画家。ネット検索をかけると、芥川と関係の深い『時事新報』の記者(又は編集者)であったことがあるようである。 ・「三島章道」三島通陽(みちはる 明治三〇(一八九七)年~昭和四〇(一九六五)年)。小説家・劇作家・演劇評論家。元子爵で貴族院議員や参議院議員、文部政務次官を務めた。三島章道しょうどうはペンネーム。ボーイスカウト日本連盟初代理事長としても知られる。
・「室生犀星の愛の詩集へ行く」本郷のフランス料理店燕楽軒(中央公論社の道路を隔てた真向い)で行われた『第二 愛の詩集』出版記念会。
・「小松玉巖」作曲家・音楽評論家小松耕輔(明治一七(一八八四)年~昭和四一(一九六六)年)の雅号。山田耕筰とほぼ同じ時代に活躍した。
・「近藤義二」未詳。
・「平民食堂」「百萬石」「前田家の近傍」当時の本郷三丁目市電停車場と現在の東大赤門の間の上野寄り裏通りにあった食堂。現在の本郷三丁目以北の東京大学敷地の多くは旧加賀藩上屋敷である。
・「白秋醉つて小笠原島の歌を歌ふ」北原白秋は大正三(一九一四)年に肺結核に罹患した妻俊子(例の姦通罪絡みの隣家の女性で前年春に結婚していた)の療養のため、小笠原父島に移住している(但し、直に帰郷し離縁している)。大正八年当時の白秋は処女小説「葛飾文章」「金魚」、歌謡集「白秋小唄集」や童謡集「とんぼの眼玉」などを刊行、生活に漸く落ち着きが出て来た頃であった。]

 六月十一日 雨
 午前高桑義生、新小説の用事にて來る。
 午後菊地を訪ふ。あらず。ジヨオンズを訪ひ東洋軒にて食事。
[やぶちゃん注:高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」によれば、この日、芥川はしげ子へ手紙と自分の作品集(直近の「傀儡師」か)を送っている。高宮氏はこの事実は、この日の早朝(当時の郵便局の窓口の営業開始は午前六時)早くに速達で出され、夕方に届けられたと推定、宇野浩二が芥川を『早業の達人』(宇野浩二「芥川龍之介」)と呼んだ所以であろう、と記されておられる(リンク先は私のテクスト)。その手紙には『昨夜は愉快でした。貴女が私の最も好きな或る女性に似ておられたので、などと歯の浮くような文句がつらねられていた』とし、また、それら(この手紙の内容)が同年九月号の『新潮』に「文壇風聞記 芥川氏の社交振り」と題するゴシップ記事として取り上げられてしまった、とある。この内容漏洩については、関口定義氏は「芥川龍之介とその時代」(筑摩書房一九九九年刊)で『彼女には芥川の手紙の一件をたちまち公開するはしたなさがあった』とリーク元をしげ子自身としている。
・「高桑義生」(たかくわぎせい 明治二七(一八九四)年~昭和五六(一九八一)年)は小説家・俳人。土岐善麿に生活派短歌を学び、時代小説などを書いた。昭和一二(一九三七)年、日活京都撮影所脚本部長。戦後は嵯峨野俳句会を主宰。当時は春陽堂書店発行の『新小説』の記者であった。]

 十二日 雨
 夜第三中學校へ行く。圖書館設立寄附金を募るの議に與る爲なり。久住、山口の諸君と歸途ミカドで珈琲を飮む。今村隆來訪。
[やぶちゃん注:・「第三中學校」現在の都立両国高等学校。芥川龍之介の母校。
・「與る」は「くみする」と読む。
・「久住」久住清次郎。芥川の第三中学校の同級で東大経済学部卒。当時は沖電気株式会社社員であったか。
・「山口」山口貞亮。芥川の第三中学校の一年後輩。中央大学卒。
・「今村隆來訪」連日の春陽堂書店社員の来訪は、『新小説』の原稿催促であることが、十四日の日録の『新小説の寄稿をやめる事にする』で推定出来る。]

 十三日 雨
 午前弟、午後土田善章來る。弟これから英語を勉強すると云ふ。
 夕方弟と鉢ノ木へ飯を食ひに行く。それから二人で久米の所へ行つたら小説が出來ないと云つて悄氣てゐた。
[やぶちゃん注:・「土田善章」不詳。大正一〇(一九二一)年に「歌はぬ鸚鵡」(自分達社刊)という詩集を出している同姓同名の「つちだよしあき」なる人物がいる。]

 十四日 雨
 午後成瀨來る。一しよに晩飯を食ふ。紐育で靑樓へ行つたら既に警察の手が廻つた後で巡査に Get away, you dirty dog! とドナられた話などして行つた。新小説の寄稿をやめる事にする。
[やぶちゃん注:この六月十四日附龍村平藏宛書簡(旧全集書簡番号五三八)で、
  偶懷
鵠は白く鴉は黑き涼しさよ
という句を披露している。「鵠」は「くぐひ」と読ませているか。白鳥又はコウノトリを指すが、前者であろう。『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月十四日 雨
 午後成瀨來る。一しよに晩飯を食ふ。ロオラン曰、藝術の窮る所無限の靜なり。プウサンを見よ。ミシエルアンジユの如きは未しと。又曰年長じて愈ゲエテの大を知ると。いづれも至極御尤なり。九時頃成瀨歸る。
とある。成瀬正一のニューヨークでの娼婦宿の一件は友達甲斐に削除されているが、逆に仏文学者然とした大上段論議を茶化して、両方を読むと、書き換えに当たって芥川独特の機知が働いていることが分かり、非常に面白い。
*「ロオラン」ロマン・ロラン。
*「プウサン」バロック期のフランスの画家ニコラ・プッサン(Nicolas Poussin)。
*「ミシエルアンジユ」ミケランジェロのフランス語風の読みの音写。
・「dirty dog」は俗語で、見下げ果てた奴、卑劣漢の意。
「新小説の寄稿をやめる事にする」というのは七月号の『新小説』への創作を一旦受けていたものが、大阪毎日新聞に連載中の「路上」でさえ行き詰って書けないため、遂に断ったことを意味していよう。恐らくは原稿締切は既に過ぎていたものと思われる(十二日の注参照)。]

 十五日 陰
 午後來客、稻葉實、中村眞雄、小林勢以子、今東光。
 夜に入つて瀧井折柴が來て又俳論を鬪はせた。海紅句集を一册呉れる。
 細君の齒痛未癒。大に齒醫者を輕蔑してゐた。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月十五日 陰
午前御客四人。夜瀧井折柴が來て又俳論を鬪はせる。海紅句集を一册呉れる。細君の齒痛未癒えず。大に齒醫者を輕蔑してゐた。細君のこの態度は甚だ月評家の態度に似てゐる。
とある。最後の一文は、面白い。恐らく、文は当初、この歯科医を高く買って褒めていたのに違いない。それが、ただ痛みがとれないからと言って豹変したからこそ(彼女の歯痛は虫歯ではなく、恐らく根が感染して膿が溜まってチステが生じた状態であったのかも知れない。当時、放置が長ければ、この痛みはそう簡単にはとれなかったはずである)、先月号で褒めておいて、今月号では見当違いの見方で俄然評価を落とすような、無責任な月評子への痛烈な皮肉となっているのである。ここが公開版で虚構された面白さなのである。なお、如何にものんびりとして、妻の観察などしているように見えるが、当日の書簡などからは、小説(連載中の「路上」)が一向捗らずに閉口している、とぼやいている。
・「海紅句集」自由律俳句雑誌『海紅』作家による総合第一句集。『海紅』は河東碧梧桐が大正四(一九一五)年に主宰した俳誌であったが、直ぐに中塚一碧楼に譲っている。当時、『時事新報』の文芸記者であった瀧井折柴(孝作)は、この『海紅』の編集者の一人でもあった。]

 十六日 陰 後に雨
 夜成瀨と有樂座へ「伯父ワニヤ」を見に行く。玄關で岡榮一郎と岩淵の奧さんに遇つた。「ワニヤ」はチエホフが戲曲と云ふオディソイスの弓を小説の所まで引いて見せた好例なるべし。所々に獨白を挾まざるを得ざりしは畢竟やむを得ざるに出づるなり。二幕目、四幕目殊に感に堪へた。聊戲曲が書いて見たくなる。廊下で万太郎、長江、秀雄、泡鳴、樗陰等の諸先生に遇ふ。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月十六日 陰後雨
 夜成瀨と有樂座へ「叔父ワニヤ」を見に行く。玄關で岩淵の奥さんに遇つた。ワニヤは戲曲國小説郡の産物なり。二幕目四幕目殊に感服した。但し見物の諸先生存外冷靜なり。僕と感服を同くしたのは、唯久保田万太郎氏のみ。幕合ひに廊下を歩いてゐると、妙に戲曲が書いて見たくなる。はねてから成瀨、岡其他の諸氏と牛肉を食ふ。
とある。
*「僕と感服を同くしたのは、唯久保田万太郎氏のみ」これについて、佐藤嗣男氏は論文「芥川とチエホフ」で(リンク先は当該論文のPDFファイル)、
《引用開始》
 有楽座では文壇のそうそうたるメンバーに出会うわけだが、万太郎について芥川は、感服したのは芥川と万太郎の二人だけだったという。後年、万太郎について芥川は、

 久保田君の主人公は常に道徳的薄明りに住する閭巷無名の男女なり。是等の男女はチエホフの作中にもしばしばそのおもてを現せども、チエホフの主人公は我等読者を哄笑せしむること少しとなさず。久保田君の主人公はチエホフのそれよりも哀婉なること、なほ日本の刻み煙草のロシアの紙巻よりも柔和なるが如し。(略)久保田君をして一たびあきらしめよ。てもでも棒でも動くものにあらず。談笑の間もなほ然り。酔うて虎となればいよいよ然り。久保田君の主人公も、常にこの頑固さ加減を失ふ能はず。これ又チエホフの主人公と、面目を異にする所以なり。(大正十三年五月、「久保田万太郎氏」)

と書いている。万太郎が『叔父ワニヤ』に感服する秘密の一端を解き明かしてくれそうな文章である。同時にまた、チエホフと万太郎の連続する面とそうでない面とが指摘されていて面白い。とりわけ、チエホフの作品にしばしば登場する主人公が「常に道徳的薄明りに住する閭巷無名の男女」であって、彼らが「我等読者を哄笑せしむること少しとなさ」ぬ存在であることをキャッチしていた芥川の鑑賞眼のありようが注目される。が、ともあれ、ここでは新劇協会の『叔父ワニヤ』に感動した文壇人がそうはいなかったということと、芥川の感動が久保田万太郎とも異なって独自の意味合いをもってくるということに目を向けておきたいと思う。
 いつ手に入れたのかは定かでないが、ガーネット版の The tales of Tchehov の第一巻から第六巻までを、この公演の行なわれた一九一九(大正八)年の夏から秋と、芥川は集中的に読んだものと判断される。そしておそらくは、そのようにして得られたチエホフ文学の集中的鑑賞体験が、単に「戯曲が書いて見たくなる」といった『叔父ワニヤ』観劇直後の即時的反応にすぎない想いをさらに発展させ、深め、持続させていくことになるのであろう。観劇での感動体験――鑑賞体験がバネとなって、チエホフの見直しが行なわれ、芥川自身の新たなる創作への道が切り拓かれていくのである。
   《引用終了》
と、目から鱗の美事な推論を展開しておられる。是非、全文の一読をお薦めする。
・「有樂座」数寄屋橋の東北の外濠面した場所に明治四一(一九〇八)年に開場した日本最初の洋風劇場。文芸協会(坪内逍遙)・自由劇場(小山内薫)・芸術座(島村抱月)・近代劇協会(上山草人)等、新劇上演の拠点となったが、大正一二(一九二三)年九月一日の関東大震災で焼亡、再建されなかった。
・「叔父ワニヤ」は有楽座で大正八年六月一六日から一八日まで、新劇協会(畑中蓼波・長田秀雄・友田恭助ら)第一回公演で上演された。翻訳は瀬沼夏葉せぬまかよう(明治八(一八七五)年~大正四(一九一五)年:小説家・翻訳家。旧本名は山田郁子。尾崎紅葉門下で、明治三六(一九〇三)年にチェーホフの「写真帳」を翻訳〔紅葉山人と連名であるがチェーホフ作品の本邦初訳である〕、後、トルストイの「アンナ・カレーニナ」を途中まで翻訳している。但し、参照したウィキの「瀬沼夏葉」には、中村健之介・悦子「ニコライ堂の女性たち」によれば、『夏葉は疑問の人物であり、男性関係が不羈奔放でニコライを悩ませ、その翻訳も、夏葉ではなく恪三郎がしたものではないかとされている。事実、恪三郎はトルストイ宛に、『アンナ』の翻訳について手紙を書いているが、そこには自分が訳していると書いてある』とあることを付記しておく。)。併演は長田秀雄(後注)の「轢死」。
・「岩淵の奥さん」歌人岩淵百合子(明治一八(一八八五)年~昭和三四(一九五九)年)。与謝野鉄幹・晶子の新詩社に属し、後に平塚らいてうの「青鞜」に参加、明星調の作品を発表。大正元(一九一二)年に白星社を創立。北原白秋とも親交があった。
・『「ワニヤ」はチエホフが戲曲と云ふオディソイスの弓を小説の所まで引いて見せた好例なるべし』「オディソイスの弓」はホメロスの叙事詩「オデュッセイア」の一幕に出るアイテム。オデッセウスはトロイ戦争へ従軍して帰らず、多くの男が彼の妻ペネロペに言い寄る。オデッセウスの息子テレマコスは父の残した弓を引くことが出来た者がペネロペの夫になれると宣言するが、誰もオデッセウスの弓を引くことが出来ない。そこへ乞食に身を窶したオデッセウスが現われて弓を見事引いて見せ、アテナの加護を受けたオデッセウスとテレマコスが求婚者たちを一網打尽にして大団円となる。この謂いを考えると、芥川は、恐らく戯曲と言うジャンルを小説とは最も遠いもの、その構成や台詞に至る作劇法や観客の感受の在り方に非小説的なるものを認識していたものと思われる。ところが、このチェーホフの「ワーニャ伯父さん」は、そうした戯曲の絶対的属性と思われた非小説性(「オディソイスの弓」)を打破し、小説のように感動させ得る美事な作劇を行っている、と述べているのであろう。どこがその部分かは芥川自身に訊かねば分からぬが、例えばウィキの「ワーニャ伯父さん」にも示されるように、『絶望に耐えて生きていかなければならない人たちの姿を描き出す劇』という構成上の新味や(芥川が「感に堪へた」と言う第三幕目はそのカタストロフのクライマックスである)、『「絶望から忍耐へ」、「忍耐から希望へ」というチェーホフ作品に通底するモティーフが』『端的に表れている』ところの、その結末、やはり芥川が「感に堪へた」と言う第四幕目の『この戯曲の核ともいえる部分』である『ソーニャがワーニャを慰めようとして語りかける幕切れの』台詞辺りにそれを求めることが出来るかも知れない。因みに、この台詞は『チェーホフ劇の中でも最も美しいセリフとして親しまれ』、『チェーホフを師として慕った作家、劇作家のマクシム・ゴーリキーはこの劇を見て「女のように泣いた」と告白している』とある。『「我鬼窟日錄」より』の「戲曲國小説郡」は、それを大衆に分かり易く述べようとした言い換えであろうが、寧ろ、日記では「所々に獨白を挾まざるを得ざりしは畢竟やむを得ざるに出づるなり」と述べて分かり易い小説性が、この謂いでは逆に分り難くなっているように思われ、また、芥川が「妙に戲曲が書いて見たくな」ったという見逃し難い大きな心的な変化を、平板で卑小な呟きにしてしまう虞れがあるように思われる。――しかし――これ以前の、若き日の「青年と死と」などの習作風のものは別として、芥川龍之介は遂に――戯曲を書くことはなかった。――寧ろ、彼の関心は新興芸術としての、戯曲とはやはり最も縁遠い映画の、そのシナリオ執筆へと向かい、最晩年の「誘惑」「浅草公園」といった名作を生み出すこととなった。
・「長江」生田長江。
・「秀雄」長田秀雄(ながたひでお 明治一八(一八八五)年~昭和二四(一九四九)年)は詩人・劇作家。当初は『明星』の詩人として北原白秋や木下杢太郎らとともに活躍。パンの会及び『スバル』にも参加した。最初の戯曲「歓楽の鬼」が自由劇場で上演され、以後、劇作家として新劇運動に加わった。大正九(一九二〇)年には大作「大仏開眼」を発表し、以後は多くの歌舞伎劇の史劇物を書いた(以上はウィキの「長田秀雄」に拠った)。]

 十七日 陰
 夕方久米正雄の見舞に行く。關根正二の葬式に行つてまだ歸らず。暫くして黑縞の紋附で大いに男振りを上げながら歸つて來る。關根は死ぬまで畫を描く眞似をしてゐたさうだ。今宗教畫めいたものが大概出來てゐると云ふ。關根は行年二十一。今死んでは予よりも猶死にきれざるべし。生きてゐる内に一刻でも勉強する事肝腎なり。留守に土田善章ピアストロの音樂會の切符を持つて來てくれる。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月十七日 陰
 今日トオデ一册だけ卒業。夕方久米の風見舞に行く。關根正二氏葬式に出かけた由にて、留守なり。暫くの後黑縞の紋附で、大いに男振りをあげながら歸つて來る。關根は死ぬまで畫を書く眞似をしてゐたと云ふ。今宗教畫のやうな物が大半出來てゐると云ふ。病氣は風邪だつたと云ふ。二十一位で死んだのぢや、死に切れない。關根に君の體は強さうだなと云つた事を思ひ出す。あの時は確、一週間位は徹夜しても平氣だと云ふ答があつた。關根が死んでボクが生きてゐるのは偶然も甚しい氣がする。夜うちへ歸つたら、留守に土田善幸君がピアストロの音樂會の切符を屆けてくれた。
とある。ここで、我々は芥川龍之介と関根正二の接点があったことを知ることになる(その経緯の推測は後注を参照)。恐らく芥川龍之介サイドの研究家の中でこれを問題にしている方は殆んどいないのではあるまいか? しかし、この『「我鬼窟日錄」より』の方の記載は、明らかに芥川と関根が直接に会話を交わしているのである(葬式は出向いていないところをみると、それほど親密であった訳ではないのであろう。しかし私はこの下りを始めて読んだ時、何か、慄っとするものさえ感じた)。芥川龍之介と関根正二――これは、もっともっとディグされねばならない。
*「今宗教畫のやうな物が大半出來てゐる」これは関根正二が死の前日、母や姉に介助されながら署名しようとして遂に果たせなかった「慰められつゝ悩む」(油彩。現在、所在不明)のことを言っているように私には思える。以下に現存する写真を示す。当該作品の画像が残っており、ネット上では植田智晴氏のサイト「関根正二研究所」で閲覧可能である。是非、ご覧戴きたい。ここには、植田氏曰く、『日本近代文学館が所蔵する「新思潮社連絡ノート」(植田による仮称)には関根正二自身による連絡文が二回書き込まれている』とし、その『関根の連絡文の内容と書き込みをした時期について考察し、関根と『新思潮』(第四次)の同人であった芥川龍之介の交流について紹介した』論文をお書きになっておられる旨、記載がある。素晴らしい。確かに、芥川と関根という、この稀有の二人の芸術家が、一瞬でも肉声で交差していたのであった。
「關根正二」前日六月十六日、二十歳で夭折した洋画家関根正二(明治三二(一八九九)年~大正八(一九一九)年)と久米正雄の接点については、一九九九年七月の「生誕一〇〇年 関根正二展図録」の「作家解説」の「久米正雄」の項の後半に以下のようにある(アラビア数字を漢数字に代えた。最後のイニシャルは執筆者のもの)。
   《引用開始》
 久米正雄と関根の接点は、多方面に及んでいる。まず久米正雄が書き、一九一八(大正七)年五月に有楽座で上演した喜劇『地蔵教由来』に、関根は今東光、東郷青児、佐々木茂索らとともに端役の農民役で出演している。それよりやや前、関根は年来患っていた蓄膿症を手術しているが、これは久米の援助によるものといわれている。同じ一八年一二月、久米は関根正二の失恋事件を題材にした『鼻を切ったS君』という短編小説を書いている。関根との交友があった頃、久米は絵も描いていた。関根が樗牛ちょぎゅう賞を受けた第五回二科展に、久米も≪山中の湖水≫という三〇号ほどの油絵を出品したが落選している。さらに翌一九年一月には、関根、奥村博史、海老名文雄、林倭衛、普門暁らが開いた一月会というグループ展に、久米も油絵を出品している。
 関根の死後、久米正雄は雑誌や新聞に関根の思い出を語っており、それは関根を直接知る人の貴重な記録となっている。                 (K.I.)
   《引用終了》
関根と芥川の盟友久米がこれだけ親密で、しかも植田智晴氏の指摘されるように、『新思潮』にも関根が関わったとなれば、実際の「我鬼窟日錄」には記載がないとしても、『「我鬼窟日錄」より』の芥川と関根の直接対話は間違いなく本物と言ってよい。
「ピアストロ」Michel Piastro はヴァイオリニスト・指揮者。ロシア人。全集類聚版注には『声楽家マダム・インゼマンらの一行と共に来日。六月三日帝劇で初演。青年会館その他で演奏した。』とある。詳細データは調べきれなかった。]

 十八日 雨
 無事。又詩を作る。五律二。細君、弟、姊「ワニヤ」見物。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月十八日 雨
 姉、弟、細君、「ワニヤ」見物。紫陽花を澤山剪つて瓶にさす。橋場のどこかの別莊に紫陽花が澤山咲いてゐたのを思ひ出す。丸善より本來る。コンラツド二、ジヨイス二。
とある。
*「橋場」台東区北東部に位置する橋場町と思われる。北辺は隅田川で、大正二(一九一三)年までは最も古い渡しである橋場の渡しがあった。芥川の幼年期の記憶ででもあろうか。
*「ジヨイス二」これについて、鈴木暁世氏はその論文「芥川龍之介とジェイムズ・ジョイス―『若い芸術家の肖像』翻訳と『歯車』のあいだ―」で(リンク先は当該論文のPDFファイル)、日本で最初にジョイスが紹介されたのは大正七(一九一八)年の『学燈』(丸善)に掲載された野口米次郎の「画家の肖像」で、野口はそこで『ステフェン・ドクラスの肖像は各の方面で不興忿怒を感ぜしめずには止むまい。愛蘭土に喜ばれるにはこの小説は余りにアイリッシュ的である』と、作品内に描かれた当時のアイルランドとイギリスの歴史的・社会的・経済的な支配―被支配の関係性、カトリックへの異議申し立て、アイルランド人が使用している英語への違和感が主人公スティーブンに落とす影について指摘しており、更に『僕の第一の注意はこの文法的方式の上にあつたのです。清澄明瞭で如何にもきびきびした文体、叙述の適格で何処までも経済的な省略は僕を驚かし且つ喜ばしめました』と文体に着目しているとし、芥川はこの『学燈』に掲載された野口の文章を読んで興味を惹かれ、丸善より取り寄せたのではないかと推測できる、と述べておられる。
・「五律二」この時の創作と思われる当該の五言律詩は現存しない。
・「姊」西川ヒサ。芥川の実姉。葛巻義定(葛巻義敏の実父)と離婚後、大正五(一九一六)年に弁護士西川豊と再婚していた。]

 十九日 陰
 朝香取秀眞氏の所へ花瓶を賴みに行く。雲坪の話。奈良の大佛の話。左千夫の話。歸ると今村隆が來て舊稿バルタザアルを新小説へくれと云ふ。仕方なく承知する。大毎から原稿の催促あり。
[やぶちゃん注:「香取秀眞」は、「かとりほつま」と読み、著名な鋳金工芸師(明治七(一八七四)年~昭和二九(一九五四)年)。アララギ派の歌人としても知られ、芥川龍之介の文字通りの隣人(実際に隣家)にして友人であった。
・「雲坪」長井雲坪うんぺい(天保四(一八三三)年~明治三二(一八九九)年)南画家慶応三(一八六七)年に清に渡り、翌年帰国、各地を遍歴の後に長野戸隠山に隠棲して晩年は善光寺付近に住んだ。清貧を旨とし、蘭を好んで描いた。
・「左千夫」歌人伊藤左千夫。
・「舊稿バルタザアルを新小説へくれ」「バルタザアル」は大正三(一九一四)年二月発行の『新思潮』第一巻第一号に「バルタサアル(アナトオル・フランス)」の表題、「柳川隆之介」名義で掲載された旧稿で、七月号『新小説』への出稿を断ってしまった芥川に、今村が切羽詰って詰め寄った形である(リンク先は青空文庫版)。実際に翌七月一日発行の『新小説』に再録された。その際、芥川は無題の文章(後の作品集「点心」で『「バルタサアル」の序』とした)を文頭に附している。これは現在、ネット上に存在しないこともあり、本日記執筆当時の彼の心境をよく伝えるものとして、ここにテクスト化しておく(底本は岩波旧全集を用いた)。

 「バルタザアル」の序
 自分も多くの靑年がするやうに、始めて筆を執つたのは西洋小説の飜譯だつた。當時第三次新思潮の同人だつた自分は、その飜譯の原文をアナトオル・フランスの短篇に求めた。「バルタザアル」の一篇がそれである。
 今、新小説記者の請に應じて、自分はこの譯文を再剞劂に附する事となつたが、それにつけても思ひ出すのは、まだ無名の靑年だつた新思潮同人の昔である。その頃はたとひ如何なる大作を書いたにした所で、天下の大雜誌が我々同人の原稿を買ふ事なぞは絶對になかつた。が、今ではこの片々たる舊稿さへ、二度も日の目を見る機會を得たのである。公平か、不公平か、自分は唯往時を追懷して、苦笑を洩すより外に仕方がない。
 時代は遠慮なく推移するものである。だから恐らくは自分の小説の如きも、活字にさへ容易にならない時が遲かれ早かれ來るのに相違ない。が、自分はその時もやはり現在のやうに苦笑を洩して、一切を雲煙の如く見ようと思ふ。その外に自分は時代に對する禮儀を心得てゐないからである。
 生温いとも、不徹底とも、或は又煮え切らないとも、評するものは勝手に評するが好い。自分は唯その前にも、同じ苦笑の一拶を與へようと思つてゐるものである。

「剞劂」は「きけつ」と読む。「剞」は曲がった刀、「劂」は曲がったのみの意で、本来は彫刻用の小さい刃物を言い、転じて版木を彫ること、上梓の謂いとなった。
 なお、勉誠出版「芥川龍之介作品事典」には初出『掲載号巻末の「校正卓上」で久米正雄が、ジョン・レイン夫人の英訳からの重訳ではあるが、原作者を理解し、作品への研究が行き届いている旨を紹介するように、同人の評判は高かった』とあり、また『後に中村慎一郎も「正にアナトール・フランスと森鷗外とのアマルガムであり、日本語の小説の文体に新しい可能性を拓くもの」(「翻訳について――編集余話(その一)――」『芥川龍之介全集』第一巻「月報Ⅰ」岩波書店 一九七七・七・一三)と評価している』と記す。
・「大毎から原稿の催促あり」「路上」である。書き継げない塗炭の苦しみが伝わってくる。]

 二十日 陰
 紫陽花既に開く。中央公論の小説「疑惑」起稿。
[やぶちゃん注:この六月二十日附岡榮一郎宛(旧全集書簡番号五四三)で、
  偶懷
花薊おのれも我鬼に似たるよな
という句を披露している。『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月二十日 陰
 朝香取先生の所へ行く。雲坪の話、奈良の大佛の話、左千夫の話。歸ると今村隆氏が來て「バルタザアル」を新小説にくれと云ふ。仕方なく承知する。又大阪から電報で原稿の催促あり。
とあって、実際の十九日分をここに移し、この実際の二十日の内容は記載されていない。意味が分からぬ。「紫陽花」は十八日に使ってしまったからか? にして自邸の紫陽花が開いたという記事はダブらないから残せばいい。――どうも気になる。この二日間には何かが隠れている。それが分からない。――なお、この二十日には新潮社より『羅生門』の再刊本が刊行されている。
・「疑惑」大正八(一九一九)年七月発行の雑誌『中央公論』に掲載された。私は芥川龍之介の作品の中でも一読、陰惨な映像がこびりつく、ドストヘフスキイを彷彿とさせる――芥川は書簡で『「疑惑」惡作讀む可らず』(同年七月八日佐々木茂索宛)などと言っているが――問題作であると感じている。私のテクストはこちら。このスランプの時期に起筆して、六月二十四日に脱稿している。たった五日、それも以下に見る通り、音楽会や亡父の百ヶ日、それに「路上」停滞の焦燥の中で、である。芥川龍之介という超人がここに見えてくる思いがするのである。]

 二十一日 晴
 夜瀧井折柴來る。忙しいからと云つて歸つて貰ふ。「我等の句境」を貰ふ。いろいろ貰つてばかりゐて恐縮なり。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月二十一日 晴
 夜折柴來る。忙しいから玄關で歸つて貰ふ。折柴我等の句境をくれる。いろいろ貰つてばかりゐて恐縮なり。
とある。
・「我等の句境」当年当月海紅刊の、瀧井の属する『海紅』主宰中塚一碧楼の俳論。本名の中塚直三名義。]

 二十二日 雨
 赤い鳥の音樂會へ行く。井汲淸治、澤木梢の諸先生に始めて會ふ。オーケストラの連中演習足らず甚危げなり。南部、江口夫婦、小島政二郎の令姊と東京ランチヘ行く。その後南部と風月にて食事。慶應へ行つてピアストロ、ミロウィツチを聞く。安倍能成氏、ミロウィッチが公衆を眼中に措かない所がえらいと云つて褒める。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月二十二日 雨
 午から「赤い鳥」の音樂會へ行く。澤木梢、井汲淸治の諸氏に合ふ。オーケストラの連中練習足らず。甚危うげなり。三重吉氏「赤い鳥」の羽根を胸にさして得意になつてゐる。尤も紅茶と菓子とを我々に御馳走してくれたから、あの位得意になつても差支へない。風月で夕飯、慶應へ行き、ピアストロ、ミロウイツチ兩氏の演奏を聞く。休憩時間南部と外へ出て煙草をのむ。安倍能成氏に遇ふ。能成氏、ミロウイツチの公衆を眼中に置かない所が偉いと云つて褒める。
とある。
・「赤い鳥の音樂會」全集類聚版注及び新全集の宮坂年譜によれば、これは雑誌『赤い鳥』主催になる「山田耕筰帰朝歓迎音楽会」で、この日の午後一時から帝国劇場に於いて行われた。演目は山田耕筰指揮になる少年合唱、外山国彦のバリトン独唱、佐藤謙三のヴァイオリン独奏であった。
・「井汲淸治」(いくみきよはる 明治二五(一八九二)年~昭和五八(一九八三)年)は評論家・仏文学者。岡山県津山市生。慶応大学仏文科在学中に永井荷風の『火曜会』に参加、卒業後は『三田文学』を拠点として文芸批評で活躍、後に同誌編集発行者となった。昭和初期にフランスへ留学後、母校慶応大学仏文科主任教授となった。代表作に「大正文学史考」など。参照した「吉備路文学館」の「井汲清治」には、『その論調は伝統と進歩との調和を図ろうとする理想主義的なモラリストとしての特徴を持っている』とある。
・「澤木梢」沢木四方吉よもきち(明治一九(一八八六)年~昭和五(一九三〇)年)は美術史家。秋田県生。ヨーロッパ留学を経て慶大教授となり、西洋美術史と美学を教授。『三田文学』の編集主幹も勤めた。こずえは雅号。
・「東京ランチ」不詳。
・「風月」銀座七丁目の並木通りの風月堂と思われる。当時、風月堂は西洋料理店「米津分店南鍋町風月堂」(米津は風月堂の元番頭で暖簾分けした米津松造。米津分店南鍋町は京橋にあった本店に相当する店。こちらの料理店は彼の次男の出店になる)を経営していた。その後、経営権や経営者の変遷を経て、現在の菓子店としての株式会社銀座風月堂へと繋がっている。風月堂と言えば、「ゴーフル」が知られるが、これは南鍋町米津風月堂による考案で、昭和二(一九二七)年に販売が開始されたものである(以上は、ウィキの「風月堂」の記載を、風月堂の公式HPの「沿革」で補正した)。芥川は残念ながらゴーフルを食べていない。きっと芥川なら好きになったろうに……。
・「ミロウイツチ」Alfred Mirovitch(一八八四年~一九五九年)はピアニスト。ロシア人。
・「慶應へ行つてピアストロ、ミロウィツチを聞く」全集類聚版注に『ミロウィッチ氏ら告別演奏会として慶応オールホワイトボーイズ・体育部主催で行われたのは六月二十一日午後七時。誤りか?』と記す。この精査は現在の年譜類に何故か反映されておらず、鷺只雄氏の「年譜読本 芥川龍之介」も新全集宮坂覺氏の年譜も、この二十二日に配している。本当に正しいのか? 気になる部分である。]

 二十三日 晴 後陰小雨
 亡父百ケ日なり。但寺へ行かず。夕方より芝へ行く。歸りに龍泉堂で詩箋を買ふ。
[やぶちゃん注:この六月二十三日附内田百閒宛(新発見書簡で新全集書簡番号601)で、
榾焚けば榾に木の葉や山暮るる
という句を披露、句の後の手紙文に『この句勝手に感心し給へ 一月ぶりで始めて作つた句だ』と自慢している。『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月二十三日 晴後陰
 先考百ケ日なり。但寺へは行かず。芝の家にて夕飯。歸りに龍泉堂で詩箋を買ふ。
とある。
*「先考」死亡した父のことを言う語。対義語は「先妣せんぴ
・「亡父百ケ日」芥川龍之介の実父新原敏三はこの大正八(一九一九)年三月十六日にスペイン風邪によって東京病院で死去している。
・「寺」新原家の墓は現在の台東区谷中一丁目の言問通りの信行寺にあった。もともと決められていたことでもあろうが、芝(現在の港区)の実家に行って食事するという総計時間を考えれば、田端にごく近く、歩いて行ける距離にある墓に墓参をしないというのは、常識的に考えても普通ではない。寧ろ、百ヶ日の法要に出て、精進落としを欠席する方が、ずっと時間を節約出来る。「疑惑」執筆などの仕事上の理由や彼の体調及び執筆習慣との関係からの選択という可能性も考えられるが、やはり芥川の実父への屈折した感情が、この不可解さには窺えるように私には思われるのである。
・「龍泉堂」全集類聚版は『未詳。』とするが、これは当時銀座にあった古美術商繭山まゆやま龍泉堂のことではあるまいか? 繭山龍泉堂は近代的美術商の草分けとして活躍した繭山松太郎(明治一五(一八八二)年~昭和一〇(一九三五)年)が大正五(一九一六)年、東京銀座に開店した骨董店である。現在も京橋で東洋古美術商として営業している。一見、「詩箋」(漢詩を書くのに用いる紙。罫や模様を漉き込んであるものが多い。吟箋とも)をここで買うのは奇異に思われるかも知れないが、現在の骨董商でも和紙や小物など、独自の仕入れ先からの骨董でない新物の和物・洋物を販売しているから、全く以て不思議ではあるまい。同店及び創業者繭山松太郎については同社公式HPの「繭山龍泉堂 百年のあゆみ」に詳しい。]

 二十四日 晴
 午後菊池と久米の所へ行く。久米の前に下宿してゐた家の婆さん二人中、一人は發狂して歸國し、一人も今度その發狂したのと一しよになる爲歸國すると云ふ。但歸るのがいやだと云つて泣く由。甚同情す。
 高工の中原君より櫻實を一箱貰ふ。
[やぶちゃん注:『「我鬼窟日錄」より』には、
 六月二十四日 晴
 午後菊池を誘つて、久米の所へ行く。久米の前の下宿の婆さん等、一人は發狂して既に歸國し、もう一人はその世話をする爲これから歸國すると云ふ。但し東京を去るのがいやだと云つて泣く由。氣の毒千萬なり。一しよに鉢の木へ行く。淺倉屋で方秋崖詩鈔を買ふ。留守に中原虎男君來り、櫻ん坊を一箱くれる。
とある。これが『「我鬼窟日錄」より』の掉尾で、切りのいいはずの元日録の六月分残り二日分(もっとあったのかも知れない)をカットし、青年の呉れたサクランボのアップで終わるという心憎いエンディングの演出である。
*「淺倉屋」芥川龍之介は「大正十二年九月一日の大震に際して」の「七 古書の燒失を惜しむ」の中に焼亡した古書店として掲げている。全集類聚版の第四巻のその注に『台東区浅草広小路にあった古書店。店主は吉田久兵衛。東京で最も古く、蔵書数も最も多かった。主として歴史考証学関係の和書を売った』とある。
*「方秋崖詩鈔」方岳(一一九九年~一二六二年)は南宋の文人政治家。字は巨山。秋崖は号。現在の安徽省生。一二三二年に進士に登第、後に南康・袁州(ともに現在の江西省)知事となった。才気鋭く、詩文に優れて名言佳句が多くある。元は農民出身であるらしく、農村の景物を詠う詩が多い(「詩吟・香雲堂吟詠会浪岡鼕山教室」のこちらの記載を参照した。彼の詩「雪梅」が読める)。
・「高工の中原君」「中原虎男」六月八日に既出。東京工業高等学校文芸部の学生と思われる人物。]

 二十五日 晴
 夕方赤城の山本へ行く。來月中旬支那へ行く筈。暮まで向うにゐると云ふんだから大變だ。
[やぶちゃん注:・「赤城の山本」芥川龍之介の昔馴染みの親友で、牛込赤城台に住んでいた文夫人の叔父山本喜与司。芥川とは府立第三中学校の同級で親友、その山本家にいた塚本文を芥川は見初めた経緯があり、山本は彼のキューピットでもあり、またそれ以前の芥川の同性愛的対象者でもあった。大正六(一九一七)年に東京帝国大学農科を卒業後(彼の進路は、一高の受験失敗、慶応理財科に合格するも一高を再受験するといった紆余曲折があるため卒業が遅くなっている)、三菱合資会社に入社、この翌月(大正八年七月)に北京に赴任予定であった。後年はブラジルのサンパウロで牧場を経営、日系社会のリーダーとして活躍した。]

 二十六日 雨
 夜菊池の所へ行く。久米、佐治來る。後鉢ノ木へ行き佐治の Poe 論を聞く。荒唐無稽も甚しいものなり。
[やぶちゃん注:「佐治」佐治祐吉(さじゆうきち 明治二七(一八九四)年~昭和四五(一九七〇)年)は小説家。第五次『新思潮』同人。後に澁澤栄一の秘書となり、その死後『澁澤栄一伝記資料』の刊行に携わった。彼の短編集「恐ろしい告白」(大正十(一九二一)年宝文社刊)はホモセクシャルとサディズムが露骨に表出した作品で、詩人で評論家であっや井東憲(いとうけん 明治二八(一八九五)年~昭和二〇(一九四五)年)がその著「変態作家史」の中で「大正の変態心理小説」と呼称する代物である(以上は小田光雄氏のブログ「出版・読書メモランダム」「古本夜話三十三 佐治祐吉の『恐ろしい告白』」からほぼ孫引きさせて頂いた。リンク先には「恐ろしい告白」(私は未読)の梗概もある。是非、ご覧あれ)。「荒唐無稽も甚しいものなり」と何時になく厳しい評言であるが、私の直感的に、芥川が一番嫌いそうなタイプの人間という気がする。]

[やぶちゃん注:以下、日録の欠落部分の内、重要と思われる箇所を鷺氏及び宮坂氏の年譜などから補っておく。《 》で私の呟きを入れた。

●六月二十八日 土曜
 午後、日録に出て来たように、東京高等工業高等学校文芸部主催の講演会で「小説の読み方」という演題で講演をする。これは作家芥川龍之介として初めての講演であった。

●六月二十九日 日曜
 自宅で「我鬼窟百鬼会」と名打った句会を開く。室生犀星らが出席。旧全集書簡番号五四六(七月二日 佐佐木茂索宛)に、
敬啓 當日の句記憶に殘れるは唯左の一句のみ艸稿は既に悉廢紙と致し候
   眼底にうごめくものや白絽幮
とある句は、この折りの吟詠と思われる。「絽幮」は「ろちゆう(ろちゅう)」と読み、透いたとばり、蚊帳等を言う。
《芥川の妖艶句の一つである。七月五日の同氏への返信と合わせ読むと興味深い。》

●七月一日
 「疑惑」が『中央公論』七月号に発表される(リンク先は私の電子テクスト)。この初旬頃、一向に進まない「路上」のために日曜以外を面会謝絶とする。
《懸命にスランプを脱せんとする孤独な焦燥が感じられる。なお、勉誠出版「芥川龍之介作品事典」の「我鬼窟日録」によれば、関口安義「芥川龍之介とその時代」を元に芥川が『日曜日を面会日とするのは機関学校時代からの習慣であったようだが、日録に見える芥川は、毎日のように来客を迎えたり外食や観劇を楽しんだりしている。時間に縛られないこのような交友は、芥川が機関学校を辞して』鎌倉から『上京した目的の一つだったはずだが、結果的に執筆や読書の時間は乏しくなり』、この日録欠落部の直後、七月十八日の条に、「この上書けば頭は一年たゝぬ内に空になるべし」などとあることを示し、芥川が本日録の一部を『「我鬼窟日錄」より』として『発表していること自体に、この期の芥川の手詰まりを見てもよいかもしれない』とも記して、暗にこうした芥川が自ら望んだ専業売文業の生活が、逆に執筆の停滞や作家としてのスランプの遠因になっているように書かれてある(執筆者は篠崎美生子氏)。これは私も肯んずることが出来る。そもそも彼が英語教師(実現しなかったが大正七(一九一八)年十一月には海軍機関学校を辞めて慶応義塾大学へ移るという工作も行っている)との二足の草鞋を履いていれば、多様な意味に於いて、彼の人生はかくも短くは終わらなかったようには思われる。但し、その場合、私は生き延びた芥川という作家の作品に魅力を感じなかったに違いないとも思うのである。》

●七月五日 土
《佐佐木茂索に、
バルタザアル一寸面白い作品だからおよみなさい 君はね行住坐臥に職業を以て終始してゐるでせう(たとへば運座へ來ると句を雜誌へ出さうと云ふ如き)所が當方は君を唯佐々木茂索氏として見てゐるだけなんだからそこに困ることが出來てくるのです今後はなるべく非職業的に御交際願ひたいと思ふがどうですか
と書き送る(旧全集書簡番号五五〇)。これを見ても実は、不満を公にしている「バルタザアル」の翻訳に、彼が秘かな自信を持っていたことが窺われる。また、後の昭和四(一〇二九)年に菊池寛に招かれ、文芸春秋社総編集長となって結局は筆を折ってしまう佐佐木の未来を……芥川イエスは……どこか既に予見してでも、いたのかも知れない。……》

●七月七日
 夜、谷崎潤一郎とスッポンを食う。
《何故、今、そんなに精力をつけるのかな? 芥川君?……》

●七月十日
 夜、神田ミカドの十日会に出席したか(宮坂年譜推定。七月二日の「よみうり抄」に開催予告があって、その幹事を芥川と菊地が務めるという記事があるとする)。
《出席していれば、当然、秀しげ子と逢いましたね、芥川君?……》

●七月十二日 土曜
 「改造」八月号への出稿を断念する旨の手紙を出す(旧全集書簡番号五五五)。

●七月十三日 日曜頃
 この前後に社員であった大阪毎日新聞社から中国特派の話があったか(宮坂年譜推定。当日附東京日日新聞の「芸術消息」欄に『芥川龍之介氏本年九月頃支那旅行すべし』とあり、七月三十日附の大阪毎日新聞社学芸部部長薄田淳介(泣菫)宛て書簡(旧全集書簡番号五五五)には「路上」の鬱滞を訴え、中途で切り上げたい希望を述べた中で、後を菊地寛に継ぎたいと願い出、そこに『小生は支那旅行をしない限り九月頃又書いても差支へ無之候』とも記している)。
《芥川龍之介の中国行の一つの秘めた理由として、ストーカー秀しげ子からの逃避としばしば研究者の間で言われるが、それは後付け(後付けでも結果として芥川自身にそうしたニュアンスがなかったとは言えず、完全な誤りとは言えないが)であって、現象的にはしげ子との関係が泥沼にはまったしまう遙か以前に中国行は考えられていた事実が明らかになる。》]

[やぶちゃん注:この三日間を埋める年譜的記載は現在もない。]

          ――――――――――――――――――――

 七月十六日 晴
 夜鹿島龍藏氏邸の御馳走に招かる。香取秀眞、山本鼎、菊池寛、予の四人なり。針重氏も來る筈の所飮みすぎて下痢を起した由にて斷る。小杉未醒君亦奧州へ行つてゐて出席せず。十一時年まで話して歸る。
[やぶちゃん注:・「鹿島龍藏」(たつぞう 明治一三(一八八〇)年~昭和二九(一九五四)年)は当時の鹿島建設鹿島組(後に現在の鹿島建設)副社長。彼は芥川の心酔者で田端文士村でサロン「道閑会」を組織し、芸術家たちのパトロンでもあった。芥川は鹿島龍蔵について、その随筆「田端人」(大正一四(一九二五)年三月発行『中央公論』所載)の中で、次のように記している(底本は岩波版旧全集を用いた)、
鹿島龍藏 これも親子ほど年の違ふ實業家なり。少年西洋に在りし爲、三味線や御神燈を見ても遊蕩を想はず、その代りに艷きたるランプ・シエエドなどを見れば、忽ち遊蕩を想ふよし。書、篆刻、謠、舞、長唄、常磐津、歌澤、狂言、テニス、氷辷り等通ぜざるものなしと言ふに至つては、誰か啞然として驚かざらんや。然れども鹿島さんの多藝なるは僕の尊敬するところにあらず。僕の尊敬する所は鹿島さんの「人となり」なり。鹿島さんの如く、熟して敗れざる底の東京人は今日既に見るべからず。明日は更に稀なるべし。僕は東京と田舍とを兼ねたる文明的混血兒なれども、東京人たる鹿島さんには聖賢相親しむの情──或は狐狸相親しむの情を懷抱せざる能はざるものなり。鹿島さんの再び西洋に遊ばんとするに當り、活字を以て一言を餞す。あんまりランプ・シエエドなどに感心して來てはいけません。
文中の「歌澤」は歌沢節うたざわぶしのこと。俗謡で、主に端唄はうたをアレンジし、気品のあるゆっくりとした謡いを特徴とする。
・「山本鼎」(かなえ 明治一五(一八八二)年~昭和二一(一九四六)年)版画家・洋画家。愛知県岡崎市生。美術の大衆化と民衆芸術運動に尽力した。画家で詩人の村山槐多は従弟に当たる。
・「針重」全集類聚版注は『未詳。』とするが、これは押川春浪が創立した武侠世界社の社員で、当時絶大な人気を博した少年雑誌『武侠世界』の主筆であった針重敬喜(はりしげけいき 明治一八(一八八五)年~昭和二七(一九五二)年)であろう。彼はアマチュア・テニス選手でもあり、本邦のテニスの普及振興に尽力した人物としても知られる。後掲される小杉未醒と親しく、「ポプラ倶楽部」というテニスを主な活動とする芸術家の社交団体を結成するなどしている。また、小杉の次男と針重の次女が結婚したため縁戚関係にもあった(以上はウィキの「針重敬喜」を参照した)。
・「小杉未醒」小杉放庵(こすぎほうあん 明治一四(一八八一)年~昭和三九(一九六四)年)のこと。洋画家。本名国太郎、未醒は別号。「帰去来」等の随筆や唐詩人についての著作もあり、漢詩などもよくした。芥川龍之介とは親しく、『芥川の中国旅行に際し、自身の中国旅行の画文集「支那画観」(一九一八)を贈った。芥川は中国旅行出発前には、小杉未醒論(「外貌と肚の底」中央美術)を発表』している(以上の引用は神田由美子氏の「江南游記」岩波版新全集注解から)。その「外貌と肚の底」(発表は大正一〇(一九二一)年三月発行の『中央美術』)現在は後に改題された「小杉未醒氏」の表題で全集類に載る)の中で芥川は彼の風貌を、『小杉氏は一見した所、如何にも』『勇壯な面目を具へてゐる。僕も實際初對面の時には、突兀とつこつたる氏の風采の中に、未醒山人と名乘るよりも寧ろ未醒蛮民と号しそうな辺方瘴煙の氣を感じたものである。が、その氏に接して見ると』『はらの底は見かけよりも、遙に細い神經のある、優しい人のやうな氣がして來た』と記している。五百羅漢を髣髴とさせる描写ではある。芥川より十一歳年上であった。]

 七月十七日 晴
 めつきり暑くなる。妻新富座へ行く。叔母、姊同行なり。
[やぶちゃん注:・「新富座」京橋区新富町六丁目(現在の中央区新富二丁目)に明治八(一八七五)年に守田座を改称して設立された株式会社組織の劇場。経営者は歌舞伎役者第十二代守田勘弥。全集類聚版注によれば、この『七月三日初日で「木曽川治水記」「義経腰越状」など』を上演中であったとする(「木曽川治水記」とは田村西男作の薩摩義士を顕彰する新作歌舞伎)。関東大震災で被災、再建されずに廃座となった。
・「叔母」新原フユ。実母フクの妹であり、実父敏三の後妻。彼女はこの翌大正九(一九二〇)年、敏三の一周忌の凡そ一ヶ月後の四月二十一日に腹膜炎のために没した(その十一日前に長男比呂志が生まれている)。]

 七月十八日 半晴半陰
 太陽の鈴木德太郎何でも書けと云ふ手紙をよこす。書けと云つても書けないんだから仕方がない。この上書けば頭は一年たゝぬ内に空になるべし。
[やぶちゃん注:・「太陽」博文館が明治二八(一八九五)一月から昭和三(一九二八)年二月まで発行した日本初の総合雑誌。
・「鈴木德太郎」博文館社員。震災後の経歴であるが、同社の娯楽雑誌『ポケット』の編集長を務めており、そこでは大仏次郎のヒット・シリーズ「鞍馬天狗」を世に送り出している。]

[やぶちゃん注:以下、日録の欠落部分の内、重要と思われる箇所を鷺氏及び宮坂氏の年譜などから補っておく。《 》で私の呟きを入れた。この間の一週間を埋める年譜的記載は、ない。

●七月二十四日
《この日に書いた赤木桁平宛書簡(旧全集書簡番号五五八)で、
山の月冴えて落葉の匀かな
榾焚けば榾に木の葉や山暮るる
の句を披露した後に『こんな境涯が今の僕には住し易いのだ 頓首』と記している。当時の芥川の寂寥孤独な心情が伝わってくる句柄である。》

●七月二十五日
 午後五時半、ミカドで行われた江口渙「赤い矢帆」出版記念会に出席(発起人の一人)この席で初めて後の盟友となる宇野浩二と逢っている(「矢帆やほ」とは「弥帆」とも書き、「や」は重ねるの意で、本帆に対して重ねて懸けるところから、大船の舳に張る小さな補助帆のこと)。宇野浩二は「芥川龍之介」でその時の思い出を以下のように綴っている。

 さて、私がはじめて芥川と顔をあわしたのは、大正九年の、たしか、七月頃、江口 渙の短篇集『赤い矢帆』の出版記念会が、万世橋の二階の「みかど」という西洋料理店であった。(この「みかど」はその頃の文学者の会合のよく行われたところである。)この会の発起人であり世話役であったのは、たしか、芥川である。芥川は、その前の前の年(つまり、大正六年)の六月に開かれた、自分の『羅生門』の出版記念会、江口の世話あったので、その礼のつもりであったのだ。芥川にはこういう物堅い実に謹直なところがあった。これは芥川の友人たちにとって忘れがたい美徳であった。(これを書きながら、またまた、私情をのべると、私は涙ぐむのである。私の目から涙がながれるのである。ああ、芥川は、よい人であった、感情のこまかい人であった。深切な男であった。昨日も、廣津がいった。芥川が死んだ時だけは悲しかった、あの朝、銀座であった、吉井 勇も、やはり、悲しい、といった、と。)
 さて、その『赤い矢帆』の会では、長いテエブルの向う前に人びとが腰をかけた、江口が正座に、江口の右横に芥川が、江口のむかいに廣津が、廣津の左横に私が、それぞれ、席についていた。そのテエプルにむかいあって腰かけていた人たちは、おもいおもいに、雑談をしていた。といって、話をするのは、となり同士か、せいぜい一つおいた隣の人であった。私は、そういう会になれていなかったので、たいてい、となりの廣津とばかり、話をしていた。と、突然、むこう側の三人目の席の方から、
「宇野君、……僕が君を撲滅する主唱者になるって噂があったんだってね、おどろいたよ、僕は、それを聞いて……」と、芥川が、いった。
「……もし、それが、本当だったら、君なら、相手にとって、不足はないよ、」と私がこたえた。
 これが、つまり、私が芥川とはじめて逢った時の思い出である。

以上は私の電子テクストから抜粋した。
なお、芥川は先立つ七月二日に、恐らく江口から贈呈された本書の礼をしたためて、
黑ばえやたそがるゝ矢帆赤かりし
という江口の短編集題名「遠い矢帆」に掛けた句を添えて挨拶句としている。
《……芥川君……逢ったのは宇野浩二だけですか? 江口渙は十日会のメンバーでもありますね? それに会場も同じミカドだ……秀しげ子は呼ばれてなかったのかな?……》

●七月二十七日
 この日の時事新報「文芸消息」欄に『芥川龍之介氏 来春桃の咲く頃支那漫遊に出発揚子江を遡行する』と載る(宮坂年譜)。《これはもうはっきりとした確定事実の記事である。》

●七月二十九日
 当日附佐佐木茂索宛書簡(旧全集書簡番号五五九)で佐佐木の諸原稿の中で「おぢいさんとおばあさんの話」を冒頭で『壓卷』と激賞している(鷺年譜によれば、この作品は芥川が後に部分的に手を入れさせた上、『新小説』に紹介、同誌の大正九(一九二〇)年一月号に発表の労をとった、とある)。

●七月三十日
 遂に「路上」の執筆が行き詰まって連載打ち切りを打診する。
《十三日の項に挙げた七月三十日附の大阪毎日新聞社学芸部部長薄田淳介(泣菫)宛て書簡(旧全集書簡番号五五五)である。その二伸では、
二伸右の件御面倒ながら至急御返事願上候この頃「路上」に氣を腐らし何をしても面白くなく甚閉口致居候中央公論の「疑惑」所々で褒められ候も小生の見によれば同じく愚作にてこれ又褒められる丈不快千萬に候以上
というナーバスな抑鬱状態を記載している。これは打ち切りへの弁解というより、正直な述懐であり、芥川は「路上」の結滞のために殆んどノイローゼに近い状態に近づいていたように私には見えるのである。》


●八月一日
「雑詠」が『ホトトギス』雑詠欄に掲載。

●八月七日
 数日、三浦半島(金沢八景及び鎌倉)に出かけていたが、一時帰宅している。
《この前後や肝心の三浦行については公的な年譜には詳細が載らない。》

●八月八日
 遂に「路上」の連載を中止。最終回の掉尾には『(以上を以て「路上」の前篇を終るものとす。後篇は他日を期する事とすべし。)』と注したが、遂に後篇は書かれずに未完で終わった。

●八月九日 土曜
 再び三浦半島方面(主に金沢八景)方面に出かける。
《これら旅は公的な年譜には詳細が載らないものの、外部へ秘密裡のものではなかった。宮坂年譜によれば、この日から一週間後の十六日附時事新報「文芸消息」欄に『芥川龍之介氏 武州金沢に避暑』とあるからである(宮坂年譜)。》

●八月十三日
 「じゆりあの・吉助」脱稿(『新小説』九月号に掲載。リンク先は青空文庫版)。

●八月十五日
 「忘れられぬ印象」が高木角治郎編「伊香保みやげ」(伊香保書院刊)に載る。
《この八月十五日秦豐吉宛書簡(旧全集書簡番号五六五)には旧作を多く含むが多量の俳句が載る。以下に示す。
宵闇や殺せども來る灯取虫
もの云はぬ研屋の業や梅雨入空(これをツイリゾラと讀む素人の爲に註する事然り)
時鳥山桑摘めば朝燒くる
靑蛙おまえもペンキぬりたてか(この句天下有名なり俗人の爲に註する事然り)
秋暑く竹の脂をしぼりけり
松風や紅提灯も秋隣(この句谷崎潤一郎が鵠沼の幽棲を詠ずる句なり勿體をつける爲註する事然り)
春の夜や蘇小に取らす耳の垢(美人の我に侍する際作れる句なり羨ましがらせる爲に註する事然り)
句の直前手紙文末尾に「この頃僕の句も新進作家にて君の水仙の句にも劣らず名句を盛に吐き出して居り候へば左に一二を録すべく御感服御嘆賞御愛吟御勝手たるべく候」とある。前出句があるが、まとまっており芥川の洒脱な註が面白い。最後の「春の夜や」の句と註は最後尾「二伸」の末尾にあり、二伸の最後、句の直前に改行して「近來句あり」とある。但し、この明るさはこの書簡の目的である秦への苦言というネガティヴな内容を和らげるためのものとも言える。この手紙文の冒頭には、「久米へ勢以子と小生との関係につき怪しからぬ事を申された由勢以子女史も嫁入前の體殊に昨今は縁談もある容子なれば爾今右樣の事一切口外無用に願ひたし僕大に辯じたればこの頃は久米の疑全く解けたるものの如くやつと自他の爲喜び居る次第なりこれ冗談の沙汰にあらず眞面目に御頼み申す事思召し下されたし谷崎潤一郎へでも聞えて見給へ冷汗が出るぜ」という内容へのクッションである。》

●二十三日 土
 性病検査の入院のために金沢八景にある田中病院に検査入院。
《同日附の相州金澤(現在の横浜市金沢区金沢八景)からの藤岡蔵六宛書簡(旧全集書簡番号五六七)によれば、茶屋遊びをするも、女中相手に五十銭で一夜遊べるというひどさに辟易し、特等三円という安価な病院に宿泊するも、寝冷えで熱を出し、その苦しみを忘れんがために、
朝寒やねればがさつく藁蒲團
病室の膳朝寒し生玉子
といった句を作っている、と記している。宮坂年譜も本書簡から『風のため、金沢八景の田中病院に入院。』と記すのであるが、これについて新全集の注解で関口安義氏は、田中輝雄という方の「芥川龍之介と金沢」という文章を引いて、この病院が田中病院という名であること、更に『実は性病検査のための入院であったという』と明らかにしている。書簡からみても、この旅行はかなり羽目を外した怪しげなものであったことが窺える。この入院中に「妖婆」を半分まで執筆(リンク先は青空文庫)、未完のままで「前篇」として九月一日発行の『中央公論』に発表した。》

●八月二十六日頃
 金沢八景から田端へ帰宅。宮坂年譜に九月二日の時事新報「文芸消息」に『芥川龍之介氏 月末金沢から帰京感冒にて臥床中なるが稍々軽快』と載る、とある。

●八月二十九日
 午後二時頃から自宅で運座を開く。小島、瀧井らを誘っている。

●九月一日
《「じゆりあの・吉助」(『新小説』)、「妖婆(前篇)」(『中央公論』。リンク先は青空文庫)発表。八月三十日から十日間を埋める年譜的記載は現在もない。》]

          ――――――――――――――――――――

 九月九日 晴 風強し
 既に秋意あり。
 朝大鐙閣の由良農學士來る。舊譯のイエーツを送る事を諾す。
 閑に良寛詩集を讀む。二三を抄錄す。

   囘首七十有餘年  人間是非飽看破
   往來跡幽深夜雪  一炷線香古窓下

   君抛經卷低頭睡  我倚蒲團學祖翁
   蛙聾遠近聽不絶  燈火明滅疎簾中

   籬外蔓華兩三枝  喬林蕭疎寒鴉飛
   千峯萬嶽唯夕照  正是收鉢僧歸時

   千峯凍雲合  萬徑人跡絶
   毎日唯面壁  時聞灑窓雪

   手把兎角杖  身被空華衣
   足著龜毛履  口吟無聲詩

   文珠騎獅子  普賢跨象王
   妙音化寶臺  維摩臥一床

   靑天寒雁啼  空山木葉飛
   日暮煙村路  獨掲空盂歸
詩皆巧ならず。然而遺情無限。
[やぶちゃん注:・「大鐙閣」は「だいとうかく」と読み、『中央公論』及び『改造』と肩を並べた左派の総合雑誌『解放』の出版社として知られる。関東大震災で社屋が全焼、事実上倒産した。
「由良農學士」未詳。宮坂覺編「芥川龍之介全集総索引」(一九九三年岩波書店刊)によれば、この由良姓の人物は本日録のここ以外に旧全集中には出現しない。『解放』の記者と思われる。わざわざ「農學士」と記した意図はなんだったのだろう。
「舊譯のイエーツ」「春の心臓」(リンク先は青空文庫)。大正三(一九一四)年六月一日発行の『新思潮』第五号に「押川隆之介」(目次は柳川隆之介)名義で掲載されたもの。この折りの許諾にによって、大正八年十月一日発行の『解放』第五号に「W.B.Yeats 作 芥川龍之介譯」の署名で再録された。再録版の文末には、
この小説はイヱツが A・E に獻じたる Secret Rose 中の一篇なり。初版千八百九十七年。改訂版千九百八年。予の飜譯は改定版に依れり。
芥川龍之介の新たな添書が附された。「A・E」とはアイルランドの民族主義者で詩人のジョージ・ウィリアム・ラッセル(George William Russell 一八六七年~一九三五年)のペン・ネーム“Æ”。これはラテン語の“aeon”(アイオーン:古代ギリシア語で、「ある期間の時間」を指し、時代・世紀・生涯といった意味を持つ。)に由来する。イェイツとは学友であり、一八八五年にはともにダブリンにヘルメス協会を設立、一九〇二年にはジェイムズ・ジョイスと邂逅、彼をイェイツを含むアイルランド文学者に紹介した人物でもある(ウィキの「ジョージ・ウィリアム・ラッセル」に拠る)。
・「良寛詩集」全集類聚版注にここで芥川が読んだものは『相馬御風編「良寛和尚詩歌集」(大正七年二月春陽堂刊)であろう』と推測している。詩人相馬御風(明治一六(一八八三)年~昭和二五(一九五〇)年)と芥川は直接の接点はないようである。
・「二三を抄錄す」以下、抄録された七つの章句について、原題を示して私なりの訓読を試み、簡単な注を附す(注は岩波版「良寛詩集」(大島・原田訳注一九三三年刊)を一部参考にした)。

◎第一首目は「偶作」の一篇。後に独立して「草庵雪夜作」として知られる。

      草庵 雪夜の作
かうべめぐらせば 七十有餘年
人間じんかんの是非 看破に飽く
往來の跡 幽かにして 深夜 雪ふる
一炷いつしゆの線香 古窓のもと

〇「一炷」一つきりした燈火。

◎第二首目は、第一首目と同じ「偶作」中の一篇。

君 經卷をなげうち かうべれてねぶ
我 蒲團に倚りて 祖翁を學ぶ
蛙聾 遠近 聽くに絶えず
燈火 明滅 疎簾それんうち

〇「祖翁」達磨大師。岩波版「良寛詩集」(大島・原田訳注一九三三年刊)では「疎簾」を「疏簾」とする。

◎第三首目は、第一首目第二首目と同じ「偶作」中の一篇。

籬外りがいの蔓華 兩三枝
喬林けうりん  蕭疎せうそ  寒鴉かんあ飛ぶ
千峯 萬嶽ばんがく 唯だ夕照せきせう
正に是れ 鉢を收めて 僧 歸るの時

〇岩波版「良寛詩集」では「籬菊纔殘」とあり、これだと「まがきの菊 纔かに殘る」となる。同じく結句は大きく違って「老僧收鉢傍溪歸」で「老僧 鉢を收めて 溪にふて歸る」となる。

◎第四首目。題「天放老人」。
千峯 凍雲とううん 合し
萬徑 人跡 絶ゆ
毎日 唯だ面壁めんぺき
時に聞く 窓にそそぐ雪

「天放老人」は良寛越後国西蒲原郡粟生津あわうづ村(現在は新潟県西蒲原郡吉田町内)の儒者鈴木隆造。医師であり詩もよくした。

◎第五首目。「過鶴屋逢米屋舍弟」(鶴屋を過ぎて米屋の舍弟に逢ふ)の中の一篇。
手に 兎角とかくの杖を
身に 空華くうげの衣をまと
足に 龜毛きまうくつ
口に 無聲むせいの詩を吟ず

〇四句すべてが、我が身は言葉だけで存在しないものをこそ私は身に具えているとして逆説的に一切の執着を離れた「無相」の三昧境を述べたもの。「ないはずの兎の角で出来た杖」を執り執り、「未だ咲いていない花を散らした花衣」を着、「毛や皮のないはずの亀の毛皮で出来た履」を履き、「吟じているのは声にならない詩」なのである。但し、これは「寒山詩」の一節、
 身着空花衣
 足躡龜毛履
 手把兎角弓
 擬射無明鬼
  身に 空花の衣を着
  足に 龜毛の履を
  手に 兎角の弓を把り
  無明の鬼を射んと擬す
に基づくもので、良寛のオリジナルとは言い難い。

◎第六首目。第五首目と同じく「過鶴屋逢米屋舍弟」の中の一篇。

文珠は 獅子に騎し
普賢は 象王ざうわうまたが
妙音は 寶臺はうだい
維摩ゆゐまは 一床に臥す
〇「妙音」は妙音菩薩。東方の一切浄光荘厳国から釈尊を供養し、法華経を聞くために霊鷲山りょうじゅせんへとやって来た菩薩。「法華経(妙音菩薩品)」の主仏で、無量の三昧を得、七宝蓮華のうてなを降らせて衆生に説法し、済度する。
〇「維摩」は維摩居士。古代インドの商人で、釈迦の在家の弟子。
〇「一床に臥す」在家仏教徒の守るべき生活規則八斎戒はっさいかい)の一つを守ったことを言う。天蓋付きで足の高いベッドに寝てはならない、則ち、地上に敷いた床のみに臥すということである。

◎第七首目。「空盂くうう二首」の前篇。
靑天 寒雁かんがん啼き
空山 木葉飛ぶ
日暮 煙村えんそんの路
獨り 空盂を掲げて歸る

「盂」とは飲食物を盛る椀で、題名は空っぽの托鉢用の鉢の謂いである。]

 九月十日 雨
 午後菊池の家へ行く。宮島新三郎が來てゐる。三人で月評を作る。
 夕方から十日會へ行く。
 夜眠られず。起きてクロオチエがエステテイクを讀む。
[やぶちゃん注:この「夕方から十日會へ行」ったことと、「夜眠られず」には連関が疑われる。そこには秀しげ子が出席していた――芥川の恋情が揺す振られ出した――いや、何らかの秘密の逢瀬が約束された――だから……眠れない……鷺年譜では『恐らくこの夜も秀しげ子に会い、密会の連絡をしたと思われる』と踏み込んだ記載をなされており、こうしたことに禁欲的な宮坂年譜でも『夕方、十日会に出席し、秀しげ子と会うか。夜、眠れない』と意味深な書き方がなされている。高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」でも、ここで運命の日、『同月十五日の逢い引きの約束がなされたと思われる。』とある。
・「宮島新三郎」(明治二五(一八九二)年~昭和九(一九三四)年)は英文学者・文芸評論家。早稲田大学英文科卒。島村抱月に師事し、翻訳を行う傍ら、現代日本文学の評論を『早稲田文学』で展開した。昭和二(一九二七)年、早大教授。
・「クロオチエ」ベネデット・クローチェ(Benedetto Croce 一八六六年~一九五二年)はイタリアの哲学者・歴史学者。ヘーゲルの哲学と生の哲学を結びつけてイタリア精神界に大きな影響を与えた人物で、当初はファシズムが台頭するに及び、これを支持する姿勢もみせたが、一九二五年頃より反ファシストの立場に転じ、その後は一貫してファシズム批判を続けた(ウィキの「ベネデット・クローチェ」に拠る)。
・「エステテイク」クローチェの“Brevario di estetica”(「美学綱要」一九一二年刊)の英訳本であろう。]

 九月十一日 雨
 妖婆續篇の稿を起す。
 この頃どう云ふものか傷神し易し。努めてむづかしき本を讀む事にしたり。
[やぶちゃん注:「妖婆」の後篇を起筆した、正にこの日附の書簡(旧全集書簡番号五七六)で、南部修太郎の『妖怪が谷崎程書けていない』という「妖婆」批判に対し、かなり厳しい口調で反論している(私は南部が谷崎の名を出して比較したのが災いしていると思う)。最後には『あれでも路上より傑作だと思ふが如何』と、放り投げた「路上」と比較して『傑作』という辺り、芥川らしくない。やっぱりおかしい。――芥川君、何か変だよ。――南部との書簡の応酬は、この後も十三日・十六日・十八日と続いている。
・「傷神」は傷心で、心に痛手を受けて悲しい思いに沈むことを言うが、これは芥川が妙に食い下がっている南部の「妖婆」批判などとは、実は無縁な気がする(しかし、正にこのタイミングで南部の名が出てくるのには正直、因縁を感じる。後に秀しげ子は南部とも関係を持ち、芥川がそれを知って愕然とするという衝撃的な事実があるからである)。これは寧ろ、秀しげ子に止めどもなく傾斜してゆく自分の心への、良心の警鐘の忸怩たる思いの反映した抑鬱気分である。]

 九月十二日 雨
 雨聲繞簷。盡日枯座。愁人亦この雨聲を聞くべしなどと思ふ。
[やぶちゃん注:完全に、妖艶な蜘蛛の巣に絡め捕られた芥川龍之介がここに居る。小津安二郎のようなロー・アングルで雨音だけで撮ってみたい一日である。慄っとするほど素敵だ――。 ・「雨聲繞簷」「雨聲うせい  のきめぐる」と読む。
・「愁人」は「しうじん(しゅうじん)」で、本来は文字通り、悲しい心を抱いている人、悩みのある人の意であるが、芥川龍之介は符牒として「秀しげ子」をこう呼んでいる。それは恋をして愁いに沈むアンニュイな翳を芥川がしげ子の容貌に垣間見たからででもあろうか? ともかくもファム・ファータル秀しげ子に如何にも相応しい(それに引き替え、「或阿呆の一生」で同人を「狂人の娘」と呼んだのは、これ、逆にいただけない)。但し、芥川は「月光の女」「越し人」等、こうした如何にもな気障な愛人呼称の常習犯では、ある。なお、高宮檀氏は「芥川龍之介の愛した女性」で、この符牒について、関口定義氏が「芥川龍之介とその時代」で『芥川が彼女を虚構の世界で美化してしまったことを示すものだ』とするのに対し、『むしろ「秀夫人」の「秀」を音読みして「夫」を省略した、芥川独特の洒落だっただのだろう』とする説を唱えておられる。何れもあり、という印象である。]

 九月十三日 陰
 菊池へ行く。佐治に遇ふ。「妖婆」評を六枚書いた由。聊恐縮す。松坂屋にて晝食。兩人に別れて歸る。
 今日惲南田畫集、雲林六墨を購ふ。留守に瀧田樗陰來りし由。
 衷心孤寂。妖婆續篇の稿進まず。
[やぶちゃん注:・「惲南田」清初の画家惲格うんかく(一六三三年~一六九〇年)字は寿平、南田は号。山水画を得意とした。
・「雲林六墨」元末明初の文人画家倪瓚げいさん(一三〇一年~一三七四年)。元末の四大家の一人で気韻第一とされた。字は元鎮、雲林は号。簡略な構図で枯淡な趣きの山水画を描いた。詩にも長けて「清閟閣集」などがある。
・「衷心孤寂」「妖婆續篇の稿進まず」これらも一見すると、南部の「妖婆」批判と絡めて読まれそうだが、実際、書簡での芥川の反論を読む限りでは、南部の批評は見当違いであり、癪に触っていることは確かであるが、心の奥底から孤独な寂寥を感ずるようなものではない。寧ろ、彼と半ば冗談で対決しようという茶化したポジティヴなポーズさえ示している。やはり、この「衷心孤寂」「妖婆續篇の稿進まず」は不倫へと一散に滑ってゆく自分の影への荒涼たる無意識の呵責が成さしめたものと私には読めるのである。]

 九月十四日 雨
 日曜なれど終日客なし。塚本八洲來る。
 夜に入つて風雨大に催す。
[やぶちゃん注:この日の日附で富田碎花とみたさいか明治二三(一八九〇)年~昭和五九(一九八四)年)は詩人・歌人。当時、『解放』の編集者であったらしい)宛書簡(旧全集書簡番号五七九)があるが、極めて興味深い内容なので引用する(角川書店刊の「芥川龍之介全集別巻」からの転載書簡で年次も推定であるが間違いない)。
恐縮つづきで手紙も書けません 原稿送ります なる可く誤植を少くして下さい 唯さへ詩文の價値が怪しいのだから 誤植があるとゼロになるのです それから「解放」でも僕のゴシップなぞ餘りのせないで下さい この頃少しゴシップに祟られすぎてる 實際問題として困る事が持ち上ると迷惑だから
    九月十四日                       龍 之 介
   碎 花 先 生 梧右
「梧右」は「ごいう(ごゆう)」で、「梧」は桐の机の意。手紙の脇付。机下。梧下。「この頃少しゴシップに祟られすぎてる 實際問題として困る事が持ち上ると迷惑だから」とはまことに興味深い。これは既に示したように、芥川は秀しげ子に送った『昨夜は愉快でした。貴女が私の最も好きな或る女性に似ておられたので、などと歯の浮くような文句がつらねられていた』手紙の一件がこの九月号『新潮』に「文壇風聞記 芥川氏の社交振り」と題するゴシップ記事として取り上げられてしまったことを受けている。しかし――これを私が「まことに興味深い」と言うのは――次の八月十五日の条をご覧になれば――膝を叩いて納得戴けるものと、思うのである。
 また、同日附佐佐木茂索宛(旧全集書簡番号五七八)で、句稿原稿の送付が行われている。やはりこの時期の芥川の感覚を知る上で参考になろうと思うので、以下に転記する。これらの句は大正八(一九一九)年十月一日発行の『サンエス』第一巻第一号に「我鬼」の署名で、指示通りの入れ替えが行われて掲載された。ここで示すものの底本は旧全集書簡ではなく、二〇〇九年二玄社刊の「芥川龍之介の書画」によって実見出来た本書簡の現物(封筒表裏を含む)画像から私が起こしたものである。ちなみに、この「山の月」の句は余程の自信作であったものか、公表後、二箇月も経っているにも拘わらず、十二月十四日附大須賀乙字宛六二六書簡で「乞玉斧」と前書きまでして記している。

勳章の重さ老躯の初明り
暖かや蕋に蠟塗る造り花
この匀藪木の花か春の月
時鳥山桑摘めば朝燒くる
赤百合の蕋黒む暑さ極まりぬ
秋風や水干し足らぬ木綿糸
夏山や空はむら立つ嵐雲
山の月冴えて落葉の匀かな
黄昏るヽ榾に木の葉や榾焚けば
凩にひろげて白し小風呂敷
 秋風の句を夏山の句と入れ換へられたし 題は我鬼句抄/署名は唯我鬼

封筒の消印は駒込局内で九月十六日午後四時から六時の間、宛名は「牛込区天神町十三」の「佐々木茂索樣」(「々」はママ)、添書きに「SSS句稿在中」(「SSS」は横書)とあり、裏は手書きの「緘」に右に「九月十四日」中央下部に「芥川龍之介」と記して、住所はない)。]

 九月十五日 陰
 午後江口を訪ふ。後始めて愁人と會す。夜に入つて歸る。
 心緒亂れて止まず。自ら悲喜を知らざるなり。
[やぶちゃん注:「午後江口を訪ふ」高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」によれば、江口は当時、『谷中清水町一番地に住んでいた(『わが文学半生記』)』とあり、また、この「わが文学半生記」と小島政二郎の「長編小説 芥川龍之介」には、『しげ子が上野桜木町十七番地の弟の家へときどき遊びにきていたことが記されて』おり、『谷中清水町と上野桜木町とはすぐそばにあ』るから、『江口訪問後の芥川と弟の家へ遊びにきたしげ子のふたりは、両家の近くで落ち合ったという推理』をなさっておられる。そこから、ここに芥川龍之介がしげ子とのランデブウを下敷きにしたと高宮氏が言う「妙な話」を傍証として、二人が落ち合った場所を上野停車場と措定されるのである。その後、まず向島の料亭へ行き、そこで芥川は『自分をゲーテにし、彼女をゲーテの何番目かの恋人にして口説いたそうだ』(いずれも小島の前掲書に拠り、小島はこれを直接秀しげ子から聞き取りしたとしている)とある(高宮氏はこの向島の料亭も同定されている)。その後――二人は人力車を雇って――向島から深川へと向かった(高宮氏推定)。これが「或阿呆の一生」(リンク先は私のテクスト)の「二十一 狂人の娘」の情景であるという高宮氏の推定は私も以前から、そう考えて来た。

      二十一 狂人の娘
 二台の人力車は人氣のない曇天の田舍道を走つて行つた。その道の海に向つてゐることは潮風の來るのでも明らかだつた。うしろの人力車に乘つてゐた彼は少しもこのランデ・ブウに興味のないことを怪みながら、彼自身をここへ導いたものの何であるかを考へてゐた。それは決して戀愛ではなかつた。若し戀愛でないとすれば、――彼はこの答を避ける爲に「兎に角我等は對等だ」と考へない譯には行かなかつた。
 前の人力車に乘つてゐるのは或狂人の娘だつた。のみならず彼女の妹は嫉妬の爲に自殺してゐた。
 「もうどうにも仕かたはない。」
 彼はもうこの狂人の娘に、――動物的本能ばかり強い彼女に或憎惡を感じてゐた。
 二台の人力車はその間に磯臭い墓地の外へ通りかかつた。蛎殼かきがらのついた粗朶垣そだがきの中には石塔が幾つも黑んでゐた。彼はそれ等の石塔の向うにかすかにかがやいた海を眺め、何か急に彼女の夫を――彼女の心を捉へてゐない彼女の夫を輕蔑し出した。………

そうして……この後は……是非、当日の気象状況や当時の調べ得る限りの資料を渉猟して、正にホームズのように、二人のしけ込んだ待合を特定するに至る、高宮檀氏の「芥川龍之介の愛した女性」(彩流社二〇〇六年刊)をお読み戴きたい。――最後には、以前に私が「藪の中」の最終講義で明かした(ブログでも記載したが、ここではネタバレの謗りを受けぬよう、厳に伏せておくこととする)――驚愕の事実が――待っている……。
……ともかく、早くは(一九九二年)鷺只雄氏がその年譜で、この日、
――『秀しげ子と初めて二人だけで会い、恐らくワリナイ仲とな』った――
と記したように、
――芥川龍之介はこの日、秀しげ子と肉体関係を持った――
と明言してよい。それは、この日録本文末尾の、芥川苦渋の感懐が如実に物語っている。ただ、「或阿呆の一生」の芥川の心境部分は正に死を決意して後に書かれた後年のものであり、共時的に真実を語っているとは必ずしも思われない。ただ、芥川がこの体験の前後に、彼自身が論理的に納得出来ないような、ある『ぼんやりとした不安』(「或舊友へ送る手記」)を感じていたことは、想像に難くないのである(リンク先は私のテクスト)。なお、芥川龍之介の妻芥川文は後年の「追想 芥川龍之介」(芥川文述・中野妙子記 一九七五筑摩書房刊)で、
『或阿呆の一生』の中に現われる、月の光の中にいるような彼女であり、狂人の娘であったり、□夫人であったりした彼女だと、私は思うのですけれど、はじめのうちは、日曜ごとに私の家を訪れて、主人と話をして帰りました。
 私にも、高価な刺繡の半襟や、その他のものを贈物にしました。
 老人達はあまりにもしげしげと訪ねて来る彼女に不審を抱いている様子でした。
 そんな時に私は、言訳役に廻って老人達の不審をといていたほどで、あまり気にかけておりませんでした。
と述懐している(当該書を所持しているが見当たらないので、山崎光夫氏の「藪の中の家」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)から孫引きした)。しげ子は面会日を必ずターゲットとしてやって来るのだ。芥川家の文を除く親族が皆、不審がるほどの親密さだ。この叙述は恐らく、芥川龍之介と関係を持ってからのことと考えてよい。一部に、芥川龍之介や周囲の取り巻きが秀しげ子を不当に悪女に仕立て上げたとして彼女を再評価する論評が一部に見られる。勿論、それは大切な視点ではある。しかし、この芥川文の控えめな一文は、逆に、しげ子の内に潜在しているところの『ファム・ファータル』の要素を、如実に示しているように思われてならないのである。]

 九月十六日 陰 時二雨
 終日鬱々。夜岡榮一郎を訪ふ。
[やぶちゃん注:悶々とした芥川の複雑な孤寂――良心の呵責としげ子の実像を知った戸惑い、しかし、その誘惑を断ち難いというアンビバレンツ――が「終日鬱々」の四文字に凝縮している。]

 九月十七日 晴
 午後大彦來る。一しよにミカドへ晩飯を食ひに行く。後小島を訪ふ。江口あり。十時に至つて歸る。
 不忍池の夜色愁人を憶はしむる事切なり。
[やぶちゃん注:高宮氏の「芥川龍之介の愛した女性」には、小島政二郎の自宅は根岸にあり、しげ子がしばしば訪れた彼女の弟の住まいのあった上野桜木町と、ここで芥川が田端への帰途に佇んでいる不忍池の『三地域はごく近くにある。芥川は小島の根岸の家へ行ったついでに不忍池まで足をのばして、そこでしげ子のことを憶ったのであろう』と記される。至当である。]
 九月二十一日 陰
 久保田萬太郎、南部修太郎、佐佐木茂索、ジヨオンズ等來る。
 夕方久保田を除き三人にて更科へ蕎麥を食ひに行く。爛酒の中に蚊あり。ジヨオンズ洒落れて曰、この酒を蚊帳で漉して來て下さい。
[やぶちゃん注:「更科」蕎麦屋の屋号ではしばしば見受けられる。老舗としては、現在も営業している麻布永坂高稲荷下の寛政元(一七八九)年創業になる「更科堀井」がある。但し、その公式HPの記載の最後にも『現在、麻布十番界隈には三店の「更科」があるが他の二店はまったく別の経営である』とあるから同定は困難。
「爛酒の中に蚊あり。ジヨオンズ洒落れて曰、この酒を蚊帳で漉して來て下さい。」――大好き! トマス・ジョーンズ! シークエンスを想像するだけで――彼に逢いたくなってしまう――。]

 九月二十二日 晴
 妖婆續篇の稿やつと終る。夜十二時なり。
 無月秋風。臥榻に横はつて頻に愁人を憶ふ。
[やぶちゃん注:やはり、あの日以来、錯綜しブレる感情的複合コンプレクスが収まらない様子が見て取れる。
・「妖婆續篇」は後篇として『中央公論』十月一日に発表された。
・「臥榻」は「ぐわたふ(がとう)」と読む。広義には寝床のことだが、ここは寝椅子であろう。]

 九月二十三日 晴
 句作。秋十句を得たり。
 夜空谷居士より愛石が柳陰呼渡の一軸を贈らる。淡々の意愛す可し。
[やぶちゃん注:残念なことに、この「秋十句」なるものは纏まった形では残されていない(但し、芥川は旧作を平気で新作の如く披露するので、後年の秋の句の中にそれが含まれていないとは言えない。いや、寧ろ、多く含まれていると言って構わない。芥川龍之介の俳句については、私の「やぶちゃん版芥川龍之介全句集(全五巻)」(リンク先は「やぶちゃん版芥川龍之介句集 一 発句」)を参照されたい。因みに、その句の中の一句だけは判明している。同日附菅虎雄宛書簡(旧全集書簡番号五八二)に披露した、
秋風や黑子に生えし毛一コン
である。句の直前手紙文末尾に「昨日湯にはいつたら、胸のホクロに毛が一本はえてゐました。」とある。
・「空谷居士」下島勲(明治三(一八七〇)年~昭和二十二(一九四七)年)の俳号。医師。日清・日露戦争の従軍経験を持ち、後に東京田端で開業後、芥川の主治医・友人として、その末期を看取った。芥川も愛した俳人井上井月の研究家としても知られ、自らも俳句をものした。また書画の造詣も深く、能書家でもあった。芥川龍之介の辞世とされる「水涕や鼻の先だけ暮れのこる」の末期の短冊は彼に託されたものであった。
・「愛石」全集類聚版注は『不詳。』とするが、江戸時代後期の画僧愛石あいせき(生没年未詳)であろう。紀伊生。文化・文政期(一八〇四年~一八三〇年)に活躍、池大雅の画風を慕い、水墨淡彩の山水画を得意とした。介石・長町竹石と合わせて「三石」と称された。名は真瑞、字は黙叟(講談社「日本人名大辞典」に拠った)。
・「柳陰呼渡」「りういんこと(りゅういんこと)」と読み、山水画の画題。柳の蔭から対岸の渡し守を呼んでいる情景。なお、この愛石の一幀は芥川龍之介の「わが家の古玩」中に示されている(リンク先は青空文庫)。]

 九月二十四日 陰
 久米を訪ふ。今夜成瀨やジヨオンズと飯を食はん打合せの爲なり。久米帝劇のマチネエヘ行つてから歸りに茶屋へ來ると云ふ。茶屋は鶯溪の伊香保なり。
 歸れば留守に瀧井折柴が來た由。後魏中岳嵩高靈廟碑と宋拓禮器碑との拓本を置いて行つてくれた。會はなくて殘念なり。
 夜伊香保で久米、成瀨とジヨオンズの爲に別宴を開く。ジヨオンズに畫を書かせ久米と二人で贊をする。
     一もとの桔梗ゆらぐや風の中      三  汀
     搔けば何時も片目鰻や五月雨      我  鬼
[やぶちゃん注:・「マチネエ」マチネー(仏語 matine)。演劇・音楽会などの昼間興行。全集類聚版注に『九月二十一日から二十四日までロシア・グランドオペラの上演中』であったと記す。久米は実に多芸多趣味である。
・「鶯溪の伊香保」杉村覚氏の個人のHP「台東区」「新坂」のページに、新坂下にあった温泉料理店として「伊香保」が挙げられおり、大正元(一九一二)年刊の「下谷繁盛記」(明治教育社発行。同氏のHP内には刊行を大正三年とする記載もあるが、改版か)からの引用で、
「伊香保」
鶯谷域内にありて、温泉と滋味ある料理とを以て名高し。又庭内に乾山の墓在り。之元善養寺境内にありしを、同寺移転と共に此処へ移せるものなり。又此処に国華倶楽部事務所あり。
とある。
・「後魏中岳嵩高靈廟碑」現在のてい嵩山すうざん太室山の南部、黄蓋峰にある秦代に創建された中国でも最も古い道教寺院である中岳廟の峻極殿(中岳大殿)の壁に、南北朝期の北魏に刻まれた寇謙の撰の碑文。書道家の間では名筆として著名なものであるらしい。
・「宋拓禮器碑」宋代に拓本された礼器碑れいきひの意で、礼器碑は後漢永寿二(一五六)年に刻された石碑。「史晨碑」と「乙瑛碑」と共に「孔廟三碑」と称され、内容は魯の相である韓勅が孔子廟と祭器を修造して礼楽を復興し、顔氏と并官氏の子孫に恩典を与えたことを顕彰したもの。現在は山東省曲阜市の孔子廟の漢魏碑刻陳列室にある(以上は「株式会社書道ジャーナル研究所」の「礼器碑」のページを参照した。リンク先には芥川も見たであろう拓本の画像もある)。
・「ジヨオンズの爲に別宴を開く」ロイター通信の記者であったトマス・ジョーンズが上海特派員として赴任することになったための送別会。
・「久米と二人で贊をする」これは当然、ジョーンズに選別として贈られたものと思われ、現存しない。見たい。
・「三汀」久米正雄の俳号。
・「搔けば何時も片目鰻や五月雨」という句は小説家南新二の「片目鰻」(明治二六(一八九三)年刊)などで知られる怪談譚をイメージした怪奇句である。東洋幻想に憧れたアイルランド人ジョーンズの送別に相応しい。因みに、実はこの日帰宅後に書いたと思われる同日附の瀧井孝作宛書簡(旧全集書簡番号五八三)に、
秋風にゆらぐ蓮の花一つ
という句が披露され、句の直前手紙文末尾に「この頃は一向句を作らない 今日不忍池の側を通つて即景の句を一つ得た」などと神妙な口吻であるが――この句、どう見ても、この久米の、
一もとの桔梗ゆらぐや風の中
の句の剽窃である。芥川君、バレましたゼ――]

 九月廿五日 雨
 午後院展と二科とを見る。安井曾太郎氏の女の畫に敬服する。
 愁人と再會す。
 夜歸。失ふ所ある如き心地なり。
    こゝにして心重しも硯屏の靑磁の花に見入りたるかも
 數年來始めて歌興あり。自ら驚く。
[やぶちゃん注:「愁人と再會す」「夜歸」「失ふ所ある如き心地なり」「心重し」は意味深長である。人によっては、この日を以って秀しげ子と最初の肉体関係を結んだとするが、高宮氏は「芥川龍之介の愛した女性」で、主に気象条件を精査されて、これを退けている。優れた考証である。ただ、高宮氏が、芥川が盟友小穴隆一に秀しげ子とは『ただ一度の情交』であったと告白していることについて(小穴「二つの絵」)、『この話は事実と思われる』とされていることについては微妙に留保するものである。それは小穴の証言が嘘だ(事実でない)という意味では、ない。事実、芥川は小穴に『ただ一度の情交』と言ったのである。しかし私は小穴の「二つの絵」のこの箇所を読んだ時、正直――ニヤリ――としたことを告白しておく。正に微妙な言い方をさせて戴くならば――あなたが芥川であったとして、例えば自身の不倫を信頼に足る友人に告白する場合――『ただ一度』でないが、二度か三度であった場合に――外見上のスマートさを何より気にする、あなた芥川は『二度っきり』『三度だけだった』などと正直に言うか? という素朴な疑問である。――更に言えば、厳密な意味でのコイツスは芥川が言う通りに『ただ一度』だったが、そこまで至らないような前戯行為は何度もあった可能性を排除出来まい。この日の、
「愁人と再會す」「夜歸」「失ふ所ある如き心地なり」
という記載は、
「愁人と會す」「夜に入つて歸る」「心緒亂れて止まず」「自ら悲喜を知らざるなり」
という十日前の最初の晩と余りにも酷似した記載である。
私は、
――この九月二十五日も芥川龍之介は秀しげ子と関係を持った――
若しくは、くだくだしく下世話に言わせて貰うならば(私は実は「くだくだし」いとも「下世話」だともさらさら思っておらず、大真面目なのだが)、
――この九月二十五日も芥川龍之介は秀しげ子と関係を持ったが、しかし、ペッテイングまででコイツスまでは至らずに終わってしまった(若しくは彼女か芥川の何れかの、何らかの意志又は気分によって、コイツスに至らずに終わらせてしまった)――
のだと考えている。また、小穴に、その後は彼女に一指も触れていない、と断じた芥川龍之介を、実は私はその点については、信じていない、と告白しておく。――何故、そう思うか? それは、私がそう確信するからだ――とだけ、申し上げておこう――。
・「院展」日本美術院の第六回展(同年九月一日~二十八日)。全集類聚版は『帝国美術院』とするが、誤り。日本美術院は帝国美術院の文展(文部省美術展覧会:現在の日展こと日本美術展覧会)に不満を持つ横山大観や下村観山らが、大正三(一九一四)年にかつて岡倉天心の創建したそれを再興した団体である。
・「二科」二科会の第六回展(同年九月一日~三十日)。二科会は日本美術院と同じく、大正三(一九一四)年に文展から分離して在野の美術団体として結成されたもの。
・「安井曾太郎の女の畫」安井は当時、二科会会員であった。但し、当時の彼は低迷期で、私は彼の絵を好まないので、女性像の多い彼の、どの「女の畫」かは不詳。芥川が「敬服」したという点では見てみたい気がする。
・「數年來始めて歌興あり。自ら驚く」芥川龍之介は初恋吉田弥生との悲恋にあっても短歌をものし、また後年の最愛の『越し人』片山廣子への切ない恋情を七五調定型詩に詠み(小品「沙羅の花」参照)、それを哀しくも断ち切るに際しても「越びと 旋頭歌二十五首」を絶唱した。実に芥川龍之介と恋愛と和歌は三位一体なのである(この芥川龍之介の魂の短歌上の遍歴を知りたい方は私の「やぶちゃん版編年体芥川龍之介歌集 附やぶちゃん注」をお読みになられんことを強くお薦めする)。]

 九月廿八日 晴
 午後瀧井、菅忠雄、佐佐木來る。夕方菅、佐佐木同伴、自由劇場を見に帝劇へ至る。ブリユウの「信仰」は二三十年時代遲れの問題劇なり。後日比谷カツフエヘ行き久しぶりで安成貞雄に遇ふ。カツフエに醉漢一人あり。山田憲を死刑にして見ろ承知しないぞと云つて卓を打つ。出づれば電車なし。Taxiにてかへる。
[やぶちゃん注:・「菅忠雄」(すがただお 明治三二(一八九九)年~昭和一七(一九四二)年)は編集者・小説家。芥川龍之介の恩師で、第一高等学校の名物教授であったドイツ語学者菅虎雄の子であったため、古くから芥川とも親しい関係にあった。文芸春秋社に入社し、『文芸春秋』編集長などを務めた。後の大正一三(一九二四)年には川端康成らと『文芸時代』を創刊してもいる。
・「自由劇場」小山内薫と二代目市川左團次が明治時代に起こした新劇運動。明治四二(一九〇九)年十一月の有楽座での旗揚げ公演では小山内が森鷗外にイプセンの「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」の翻訳を依頼、ボルクマンを左團次が演じた。ここで芥川が見たのはその第九回公演(九月二十六日~三十日)ウジェーヌ・ブリュー作小山内薫訳「信仰」であったが、これが自由劇場最後の公演となった。
・「ブリユウ」劇作家ウジェーヌ・ブリュー(Eugène Brieux 一八五八年~一九三二年)。全集類聚版注に『真面目な社会劇を書く。「信仰」はその代表作』とある。アカデミー・フランセーズ会員。
・「信仰」原題・初演不詳。識者の御教授を乞う。
・「安成貞雄」(明治一八(一八八五)年~大正一三(一九二四)年)評論家。秋田県生。早稲田大学英文科卒。大正三奇人のひとりとして、酒・コカイン・ヨタリストなどの言葉が連想されるが、大館中学時代は俳句に頭角を現し、早稲田社会学会に属して平民社に出入し、『近代思想』『新社会』などにかかわった犀利な批評家・翻訳家でもあった。しかし、職は各新聞社・実業之世界社などを転々とし、旺盛な読書力と優れた英語力をもって「学東西に亘り、識古今を貫き」と称したほどであったが、その才を生かしきれず終わった。主著「文壇与太話」。親友荒畑寒村の「悪友行状記」がよくその面影を伝える(以上は「朝日日本歴史人物事典」の堀切利高氏の解説に拠ったが、これ、奇抜な事典記載である)。
・「山田憲」(やまだけん 明治二三(一九二一)年~(大正一〇(一九二一)年)は農商務省技師。東京農科大学(現・東京大学農学部。鷺年譜は東大法学部とするが、誤りである)卒。「鈴弁殺し」または「山憲事件」と呼ばれたバラバラ殺人事件の主犯。米相場で生じた損失を補塡するために外米の指定商を狙って運動していた横浜の輸入商鈴木弁蔵から賄賂を取ったが、指定商になれない鈴弁から返金を要求され、大正八(一九一九)年五月三十一日、同人を後輩と一緒にバットで殴打した上、絞殺、更に鋸などで遺体を切断してトランク二個に分け、後輩及び親族の共犯者に故郷新潟の信濃川に遺棄させた。同年六月九日に逮捕、同十二月二日に東京地裁で死刑判決を受け、大正十年四月二日、市ヶ谷にて死刑が執行された。この酔漢の擁護は、山田がラスコリニコフよろしく、法廷で鈴弁のことを「彼は暴利を貪る奸商なので天誅を加えたのだ」と述べたことに基づくものであろう。事件はなかなか複雑で正力松太郎まで関わっている。仔細を知りたい方は「殺人博物館」の「山田憲」や、「オワリナキアクム」の「鈴弁殺し事件(山憲事件)」などを参照されたい。]

 九月廿九日 陰
 菊池、佐佐木と社へ行く。初音で夜食。佐佐木の原稿を春陽堂へ持つて行く。
 芝へ行つて泊る事にする。愁人今如何。
[やぶちゃん注:・「社」東京日日新聞社。
・「初音」日本橋にあった鳥料理屋。現存しない模様。
・「佐佐木の原稿」私の補注の七月二十九日の項に記した、佐佐木茂索の「おぢいさんとおばあさんの話」。先に書いた通り、春陽堂発行の『新小説』大正九(一九二〇)年一月号に掲載された。
・「芝へ行つて泊る事にする。愁人今如何」これについて、高宮檀氏は「芥川龍之介の愛した女性」の中で、『芥川の実家のあった芝区新銭座町十六(大正八年三月二十六日、芥川の実父・新原にいはら敏三が亡くなったあと、芥川の異母弟。新原得二が家督を相続した)と、当時秀文逸・しげ子夫婦の住んでいた芝区桜川町八とは、直線距離にして一・二キロほどである。芥川はしげ子の家の近くに泊まることによって、文字通り彼女のことを身じかに感じたのであろう』と記されておられる。高宮氏の著作を読んだ六年前はこの下りを読んで、深読みであろうと思ったが、今は激しく賛同する。こうして日録を一条ずつ検証してゆくと――気になるのだ――何故ここは改行して――何故、二文を続けたのか?――と。すると、この高宮氏の推定が目から鱗なのである。]

 九月卅日 雨
 朝芝から久米を訪ふ。縁談の件なり。
[やぶちゃん注:最早、久米正雄は読まれることも少ないが、この頃の久米について、ウィキの「久米正雄」から引用しておく。大正五(一九一六)年『年末に漱石が急死し、夏目家へ出入りするうち、漱石の長女筆子に恋して、漱石夫人鏡子に結婚の許しを請うたところ、筆子が同意するなら許すとの言質を得たが、筆子は松岡譲を愛していた。それに加えて、筆子の学友の名を騙る何者かが、久米を女狂い・性的不能者・性病患者などと誹謗中傷する怪文書を夏目家に送りつける事件が発生した(関口安義『評伝松岡譲』によると、この怪文書の作者は久米と長年にわたり反目していた山本有三だったという)。筆子は久米があまり好きではなく松岡が好きであった。じきに自分が筆子と結婚する予定であるかのような小説を発表し、結婚は破断となり』、久米は失意の内に郷里長野上田へ帰るが、大正七(一九一八)年には再上京、『「受験生の手記」などを発表する。これは大学受験の失敗と失恋の苦悩を綴ったもので、同年の短編集『学生時代』に収められ、長く読まれた。しかしその四月、松岡と筆子の結婚が報じられると、久米は恨みをこめた文章をあちこちに書いた。菊池が同情して、「時事新報」に「蛍草」を連載させ、この通俗小説は好評を博した。以後、数多くの通俗小説を書いた。大正一一(一九二二)年には『筆子への失恋事件を描いた小説「破船」を『婦人之友』に連載、これによって、主に女性読者から同情を集めた』。翌大正一二(一九二三)年に奥野艶子と結婚しているが、本日録との関連は不明。恐らく無関係であろう。]

[やぶちゃん注:以下、「我鬼窟日錄」最後の十月一日の条であるが、これはここまでの記載とは、全く異なる記述式になっている。則ち、その殆んど(というかもしかすると総て)が引用であるからである。この条はまず、その全体を示した後、再度、詳細注を施したものを掲載する(前半部は特に特別に行宛て注を附した)。最後の句断片(恐らく総て引用)を含め、これはこの十月一日の日録記載ではなく、単なる日録の余白への、後日のメモ書きである可能性も疑われる(寧ろ、その可能性の方が高い)。なお、この日、「妖婆」(続篇)が『中央公論』に(リンク先は青空文庫)、谷崎の作品集「人魚の嘆き・魔術師」の広告文(『新小説』)、「もう七八年前に」(『新潮』)、「我鬼句抄」(『サンエス』)が発表されている(リンク先は私の芥川龍之介全句集)。)]

 十月一日
 百不識者の然々は一識者の否々に若かず。
 見る所少ければ怪しむ所多し。
 下士は道を聞いて乃ち大に之を笑ふ。
 若夫淺薄固執の人今日之を爲して是の如く明日之を爲して亦是の如し。即ち終身之を爲して亦是の如きに過ぎざる者は印板の畫なり。
 鄙吝滿懷。淺嘗薄植。
 人の學を爲す貴きこと志を立つるに在るを若し先づ其志を隳さばその爲さゞるの逸なるに若かじ。
 筆墨は本通靈の具也。
 好手響を絶つ。
 躁急の筆を以て速成を幾ふときは但神韻の短淺なるのみならず亦且つ暴氣將に乘らんとす。
 (油滑佻※の弊)其弊一度成るや畢生挽く無し。
[やぶちゃん字注:「※」=「噠」-「口」+「亻」。]
 猛烹極煉の功に在らずして一生の醞釀と云ふ者なり。
 外丹成れば即内丹成る。
 爭競躁戻の氣を平にし機巧便利の風を息めよ。
 黄梁夢、英雄の器、蛙、女體。
 時鳥雨のかしらを鳴いて來る
 山亢として(五月雨の)
 日の暑さ
 照り曇る十方くれの暑さかな
 蒸しのぼすの堤の息や
 葉の動き(止)
 入道のよゝと參りぬ納豆汁
 埋火に我夜計るや枕上
 白鷺曇る
 夏にふたする
 淋しさ凝りて

[やぶちゃん注:以下、各注を附して再掲する。]

 十月一日
 百不識者の然々は一識者の否々に若かず。
[やぶちゃん注:出典不詳。識者の御教授を乞う。『百人の不見識の輩の唯々諾々は、一人の知識の言うきっぱりとした否定に及ばない。』の意か。]

 見る所少ければ怪しむ所多し。
[やぶちゃん注:出典不詳。識者の御教授を乞う。『確かな考察によった見聞が不足していると、世界の多くは皆、奇々怪々にしか見えない。』の意か。]

 下士は道を聞いて乃ち大に之を笑ふ。
[やぶちゃん注:「老子」第四十一章の一節。
〇原文
上士聞道、勤而行之、中士聞道、若存若亡、下士聞道、大笑之、不笑不足以爲道、故建言有之、明道若昧、進道若退、夷道若纇、上德若谷、太白若辱、廣德若不足、健德若偸、質眞若渝、大方無隅、大器晩成、大音希聲、大象無形、道隱無名、夫唯道善貸且成。
〇やぶちゃんの書き下し文
 上士は道を聞くに、勤めて之を行ふ。中士は道を聞くに、存するがごとくし、亡するがごとくす。下士は道を聞くに、大いに之を笑ふ。笑はれずんば以て道とすに足らず。故に建言に之れ有り、『明なる道はくらきがごとく、進む道は退くがごとく、たいらかなる道はるいなるがごとし。上德は谷のごとく、太白はけがされたるがごとく、廣德は足らざるがごとく、健德はおこたれるがごとく、質眞はかはれるがごとし。大方たいはうぐう無く、大器は晩成し、大音は聲希れにして、大象たいしやうは形無し。』と。道は隱れて名無し。夫れ唯、道は善く貸して且つ成す。
〇やぶちゃんの勝手自在現代語訳
 最も優れた士というものは、道について聞き知ったなら、力を尽くして、これを実行しようとする。中程度の士というものは、道について聞き知っても、それを知っているようにも、逆に忘れてしまっているようにも振る舞う。最も劣った士というものは、道について聞き知っても、ただこれを大笑いするだけである。――さすれば則ち、笑われないようなものは、逆に道としての価値がなく、そもそもが、これ、道では、ない。それ故、「建言」という書に以下のように記すのである。『明らかな正しき道というものは逆に昏い感じで明白には見えぬもので、進むべき正しき道というものは逆に後ろへ退くかの如く見えるもので、平坦なる正しき道というものは逆に凸凹として見えるものである。最上の徳というものは逆に深くくらい谷のようなものであり、絶対の純白な存在というものはものは逆に汚されたように黒ずんで見えるものであり、広大な徳は逆に何か大事なものが欠けているように見えるものであり、壮健なる健全な徳というものは逆に怠惰なる存在に見え、質朴で真に純粋不変の存在というものは逆に色褪せて見えるものである。大いなる方形という存在には四隅がなく、大いなるものを湛える器は出来上がるのに時が必要で、大いなる天然自然の楽のというものは、その響きを聴き得ることは稀で、大いなる形象という存在は、実は形状そのものが、ない。』と。道という存在は隠れており、名は、ない、のである。それ、道とは、――商取引に譬うるならば、無条件に無限に対物を貸し与えておきながら、尚且つ、しかも当方の蔵には豊かな物が充満しておるような――ただ惜しみなく総てを与えながら、その与え続ける結果として我らの内の充実が、久遠に成就することを言う。
(訓読及び訳に際しては小川環樹訳注「老子」(昭和四八(一九七三)年中央公論社刊)を一部参照にしたが、従わなかった部分も多い。学術的には小川氏のものを精読されたい)。]

 若夫淺薄固執の人今日之を爲して是の如く明日之を爲して亦是の如し。即ち終身之を爲して亦是の如きに過ぎざる者は印板の畫なり。
[やぶちゃん注:出典不詳。識者の御教授を乞う。『もし、それ、軽薄にして依怙地な人というものは、今日何か新しいことを成したとしても軽薄にして依怙地な結果及び存在であることに変わりなく、明日何かまた新しいことを成したとしても、やはり軽薄にして依怙地な結果、存在でしかない。即ち、生涯を通じて、これを繰り返して同じ結果・存在であるに過ぎない人間存在とは――版画の絵と同じで、無限に軽薄にして依怙地な存在を複製し続けたに過ぎないのである。』と言った意味か。]

 鄙吝滿懷。淺嘗薄植。
[やぶちゃん注:読みは全集類聚版のルビでは完全も音読みして「鄙吝滿懷ひりんまんくわい。薄植淺嘗せんしやうはくしよく。」とある。清の沈宗騫しんそうけん(一七三四年~一八一七年)の画論書「芥舟かいしゅう学画編」(本邦でも南画の指導書として用いられた。「芥舟」は雅号)の章句であるが、連続したものではない。「鄙吝滿懷」は「鄙吝」は賤しく吝嗇けちなことであるから、胸に一杯賤しい思いが満ち満ちているということか。「淺嘗薄植」は浅く嘗めて薄く植えるで、「浅薄」と同義、思慮が浅く智慧がないことの形容か。なお、芥川龍之介はこの翌年、大正九(一九二〇)年の九・十・十一月発行の雑誌『人間』に三回に亙って掲載した「雜筆」の中の「不朽」の章で、「芥舟学画編」に絡んで次のように述べている(リンク先は私のテクスト)。
      不朽
 人命に限りあればとて、命を粗末にしていとは限らず。なる可く長生をしようとするのは、人各々の分別なり。藝術上の作品も何時かは亡ぶのに違ひなし。畫力は五百年、書力は八百年とは、王世貞既にこれを云ふ。されどなる可く長持ちのする作品を作らうと思ふのは、これ亦我々の隨意なり。かう思へば藝術の不朽を信ぜざると、後世に作品を殘さんとするとは、格別矛盾した考へにもあらざるべし。さらば如何なる作品が、古くならずにゐるかと云ふに、書や畫の事は知らざれども、文藝上の作品にては簡潔なる文體が長持ちのする事は事實なり。勿論文體即作品と云ふ理窟なければ、文體さへ然らばその作品が常に新なりとは云ふべからず。されど文體が作品の佳否に影響する限り、絢爛目を奪ふ如き文體が存外古くなる事は、殆疑なきが如し。ゴオテイエは今日讀むべからず。然れどもメリメエは日に新なり。これを我朝の文學に見るも、鷗外先生の短篇の如き、それらと同時に發表されし「冷笑」「うづまき」等の諸作に比ぶれば、今猶淸新の氣に富む事、昨日校正を濟まさせたと云ふとも、差支へなき位ならずや。ゾラは嘗文體を學ぶに、ヴオルテエルの簡をむねとせずして、ルツソオの華を宗とせしを歎き、彼自身の小説が早晩古くなるべきを豫言したる事ある由、善く己を知れりと云ふべし。されど前にも書きし通り、文體は作品のすべてにあらず。文體の如何を超越したる所に、作品の永續性を求むれば、やはりその深さに歸着するならん。「凡そ事物の能く久遠に垂るる者は、(中略)切實の體あるを要す」(芥舟學畫編かいしうがくぐわへんとは、文藝の上にも確論だと思ふ。(十月六日)
簡単な語注を附す。
*「王世貞」(一五二五年~一五九三年・異説あり)は明代中期の文人政治家。李攀竜りはんりょうとともに古文復古運動を主導した古文辞派後七子こうしちし(李攀竜・王世貞・謝榛しゃしん・宗臣・梁有誉・徐中行・呉国倫の七人)の一人。詩文のみならず書画の学究者としても知られる。
*「鷗外先生の短篇」森鷗外が陸軍軍医総監に上り詰めた後、夏目漱石の刺激を受けて反自然主義作家として文壇に復帰した観潮楼時代後期、明治四〇年代に矢継ぎ早に発表した短編群を指す。「半日」「ヰタ・セクスアリス」「鶏」(明治四二(一九〇九)年)、「青年」「生田川」「普請中」「花子」「あそび」(明治四三(一九一〇)年)、「妄想」「心中」「雁」(明治四四(一九一一)年)等を指している。
*「冷笑」は永井荷風の小説。明治四二(一九〇九)年十二月から翌年二月まで新聞連載(出版は翌年)。ちなみにこの翌年、荷風は慶応大学文学科顧問となった鷗外の推薦を受けて教授となっている。
*「うづまき」は上田敏の自伝的小説。明治四三(一九一〇)年一月~三月に新聞連載(同年出版)。ちなみに彼は自身の訳詩集「海潮音」をその巻頭で鷗外に献ずる辞を記す程に尊敬し、大正五(一九一六)年の四十一歳で急死した時も、鷗外を訪問する直前のことであった。
なお、この「不朽」では、本日録の前の行の引用とは、やや矛盾することを述べているようにも私には窺われるのであるが、如何?]

 人の學を爲す貴きこと志を立つるに在るを若し先づ其志を隳さばその爲さゞるの逸なるに若かじ。
[やぶちゃん注:経書の集注しっちゅうの一節のように思われるが、出典不詳。識者の御教授を乞う。「隳さば」は「くづさば」(崩さば)と訓ずる。これは、
 人の學をすや、貴き志を立つることに在る。然るを、し先づ、其志をくずさば、その爲さゞるのいつなるにかじ。
で、『人が学ぶということは、何よりもまず、貴い志しを立てるということに始まる。しかし、もし真っ先にその立志が崩れてしまったとしたら、元々学ぶこと自体をしないという懸命さには、及ばない。』というオール・オア・ナッシング、スタートの純粋さが失われた学問は、最早、無知であるのに及ばない、というパラドックスであろうか。]

 筆墨は本通靈の具也。
[やぶちゃん注:出典不詳。識者の御教授を乞う。「本」は「もと」で、『筆墨という行為は本来、神霊との交換の祭具であった。』という意味か。]

 好手響を絶つ。
[やぶちゃん注:お手上げである。出典不詳、意味不詳。識者の御教授を乞う。禅語録っぽい。]

 躁急の筆を以て速成を幾ふときは但神韻の短淺なるのみならず亦且つ暴氣將に乘らんとす。
[やぶちゃん注:出典不詳。画論書か書道書若しくは漢詩文の詩論の一節のように思われる。識者の御教授を乞う。「躁急」は「さうきふ(そうきゅう)」と読み、いら立って急ぐこと。せっかちに事を運ぼうとすること。「幾ふ」は「ねがふ」(願ふ)。『性急な筆で以って作品を速成をせんとするという時は、ただ優れた芸術作品を産み出すところの神韻が降りて来ぬということのみに留まらず、尚且つ、命をも危うくするような悪しき「気」が今にも、その人の魂を乗っ取らんとする危険が危ない瞬間である。』といった謂いか]

 (油滑佻※の弊)其弊一度成るや畢生挽く無し。
[やぶちゃん注:「※」=「噠」-「口」+「亻」。これは遁れる、行っても会わないの意。「油滑佻※」は軽佻浮薄の類語か。「挽く」は「ひく」で元に戻す、の意であろう。出典不詳。識者の御教授を乞う。]

 猛烹極煉の功に在らずして一生の醞釀と云ふ者なり。
[やぶちゃん注:出典は先の沈宗騫「芥舟学画編」巻一であることは突き止めた。
ネット上の中文の書籍サイトにあった胡經之編「中國古典文藝學叢編」(北京大學出版社二〇〇一年刊)の内容紹介から当該箇所を引用しておく(カンマを読点に代え、漢字の一部を本邦の正字に直した)。
有畢生之醞釀者、有一時之醞釀者。少壯之時兼收並蓄、凡材之堪爲吾用者、盡力取之、惟恐或後、惟恐不多、若少緩焉其難免失時之嘆。及至取資已富、別擇已精、則當平其心氣、抑其才力、以求古人之所以陶淑其性情而自成一種氣象者、又不在於猛烹極煉之功、是則一生之醞釀者也。因有所觸、乘興而動、則兔起鶻落、欲罷不能、急起而隨之、蓋恐其一往而不復再覯也。若其跡象既成、林壑畢現、又當靜檢其竦失、細熨其矜暴、聚之以致其堅凝、融之以至於熔化、粹然以精、穆然以深、務令意味醇厚咀嚼不盡而後已、是則一時之醞釀者也。
「猛烹極煉」は「まうはきよくれん(もうほうきょくれん)」、「醞釀」は「うんぢやう(うんじょう)」と読む。引用してはみたものの、お手上げである。引用部分の邦訳が可能な方の援助を求めるものである。]

 外丹成れば即内丹成る。
[やぶちゃん注:引用書は明らかでないが、意味は分かる(シンプル過ぎて検索に引っ掛からないが「抱朴子」などの神仙道の理論書からの抜粋か略引用であろう)。「外丹」は丹砂(水銀の化合物)などの鉱石を調合して不老不死の仙人となる薬を作る煉丹術、練金術の中国版。これが薬物の服用による外的な登仙法である(こちらの歴史の方が遙かに古い)のに対し、体内の「気」を制御することで登仙する法を「内丹」と言う。]

 爭競躁戻の氣を平にし機巧便利の風を息めよ。
[やぶちゃん注:出典不詳。識者の御教授を乞う。「爭競躁戻」は「さうきやうさうれい(そうきょうそうれい)」で争い競いで騒いでは背き合うという意か。「息めよ」は「やめよ」と読む。『競い合って騒いでは議論するという乱れた気を平かにし、小賢しい才知を働かし、自分に都合のよいことばかりを考える気風を止めよ。』という謂いか。]

 黄梁夢、英雄の器、蛙、女體。
[やぶちゃん注:これら四つの語句は、総て既発表の同名の芥川龍之介作品がある。
黄梁夢こうりょうのゆめ」は初出『中央文学』(大正六(一九一七)年一〇月)で、後に『影燈籠』に所収。
「英雄の器」は初出『人文』(大正七(一九一八)年一月)で、後に『影燈籠』に所収。
「蛙」は初出『帝国文学』(大正六(一九一七)年一〇月)、表題「蛙と女體」のもと、小見出し「蛙」として小説「女體」とともに発表。単行本には未収録。
女體にょたい」は前の通りで、これは後に『影燈籠』に所収されている。
 このメモ書きはもしかすると大正九(一九二〇)年一月二十八日に春陽堂書店刊行することになる第四作品集『影燈籠』の作品選定メモなのかも知れない。「蛙」以外は「尾生の信」と合わせて同書に『小品四種』として収録された中国古典志怪物である。
 先の六月十六日の注に引いた佐藤嗣男氏の論文「芥川とチエホフ」には、この箇所について、私と同様、『影燈籠』への収録予定の作品覚え書きと思われる、と記された後、氏の芥川龍之介チェーホフ体験を軸とした創作推移の経緯を踏まえ、
   《引用開始》
この時期、こうしたメモがとられていたことは見逃せない。チエホフ体験第一期が生み出した小品群である。それがチエホフの再発見を可能にしたこの時期に改めて思い出されているのである。なおかつ、それらが発表順に思い起こされているのではなく配列し直されて、である。執筆時点とは異なった主題的発想の深まりがなせる技であったのだろう。主題的発想の深まりは実際に『影燈籠』に収録するにあたって『蛙』をカットし新たに『尾生の信』を採用するということになってあらわれてくる。「小品四種」と題して、二、黄梁夢 二、英雄の器 三、女体 四、尾生の信」の順になるのである。
 第一期におけるチエホフの懐疑の発見は芥川に視点の転換の重要性への認識をもたらしている。そうした認識は、『羅生門』の第二次改稿の過程において、下人像をとおして〈人間の可能性と可変性〉を、言い換えれば〈現実の多義性〉を発見することを可能にした。一義的に現実を見つめるところから現実の多義性に眼を向けた芥川が、再びチエホフにふれて見出したものは、人生の意義や目的をありのままの現実のなかにではなく〈何かもっと賢明な、偉大なもののなかに〉求め続けた真のリアリストの姿である。懐疑の精神に支えられた視点の転換とは、利益主義=実益主義に見られるような目先きの利益を求めてくるくる変わるといったようなものではない。一貫して行なわれる徹底した自他への批判をとおして〈何か来るべき不可思議なものばかり〉を待ち見得る視点を獲得するということに他ならない。芥川がチエホフの再発見をとおしてつかみ得たものはまさにそうした意味での〈転換された視点〉であり、懐疑の精神である。四つの小品の配列メモから『影燈籠』の「小品四種」に落ち着くまでの過程は、『尾生の信』の誕生を必至的な不可欠のものとしながら、チエホフ摂取のプロセスが必然的に生み出していったものであった。
   《引用終了》
と述べておられる。以上、これ以上のこの条に対する緻密な注は望めぬものと思われるので、あえて長々と引用させて貰った。
 なお、本作品集は作家活動に専念し始めてから最初の作品集でありながら、一種のマンネリズムに陥った作品群として、頗る評価が低い。しかし、この前部の、一連の異様なアフォリズム引用は、正にそうした惨憺たる内憂外患の苦境にありながらも、芥川龍之介の精一杯の、自己像の解体と成長への叫びででも、あったのかも知れない。]

 時鳥雨のかしらを鳴いて來る
 山亢として(五月雨の)
 日の暑さ
 照り曇る十方くれの暑さかな
 蒸しのぼすの堤の息や
 葉の動き(止)
 入道のよゝと參りぬ納豆汁
 埋火に我夜計るや枕上
 白鷺曇る
 夏にふたする
 淋しさ凝りて
[やぶちゃん注:まず、この中で、完全な発句の体を成している四句については、村山古郷編「芥川龍之介句集 我鬼全句」(永田書房平成三(一九九一)年刊)解題で、いずれも古俳諧で芥川の句でない旨が記されている。以下に、村山氏の同定された作者を各発句の後に【 】で明記した。
時鳥雨のかしらを鳴いて來る   【浪化】
照り曇る十方くれの暑さかな   【毛紈】
入道のよゝと參りぬ納豆汁    【蕪村】
埋火に我夜計るや枕上      【召波】
さて、これらは芥川の自句ではないが(前後途中に現われる単独語句群も極めて高い確率で古俳諧からの引用の可能性が疑われる)、村山氏の推測されているように、何らかの作句の参考にしようと書きとめたものと思われる(傍線などはない単独語句もあって、その意味は必ずしも判然としないが、単に面白い表現と思ってメモ書きしたものであろう)。なお、全集類聚版では「亢」に「こつ」というルビが振られているが、これは「かう(こう)」で、高く聳えるの意である。類聚版編者は「兀」と見誤ってルビを振ったものと思われる。「やぶちゃん版芥川龍之介句集 発句拾遺」の「我鬼句抄補遺」に「亢として柚味噌靜かや膳の上」の用例がある。
 なお、この日附の佐佐木茂索宛(旧全集書簡番号五八六)で芥川は、
天心のうす雲菊の氣や凝りし
を披露している。]

[やぶちゃん注:以上で現存する「我鬼窟日錄」の記載は突然、断ち切られている。
 以下、本日録の大きなブラック・ホールである、秀しげ子との関係について(秀しげ子がブラック・ホールなのでは、ない。芥川龍之介が秀しげ子と結んだ運命が、それ、なのである)、この後の関連を、「臭わせるもの」も含めた年譜的事実を示して終わりとしたい。フェミニズムの観点から秀しげ子の復権や再評価を主張される方々には不快な注であろうとも思われるが、これは私にとってどうしても必要な注記なのである。お付き合い願いたい。これらの事実や推測をどう考え、どう使い、どう使わないかは、あなた方の自由であると同時に、この提示は私の芥川龍之介研究の中でどうしても無視出来ない部分でもあるのである。なお、芥川龍之介の盟友であった宇野浩二の「芥川龍之介」は、秀しげ子についての記載や、宇野自身が巻き込まれたしげ子との不倫冤罪事件など、話題の提供にこと欠かない。一読をお薦めする(リンク先は、それらが多出する私の電子テクスト「芥川龍之介 上」)。但し、彼の推測には明らかな誤認が多く含まれている(私は当該テクストの注でそれらを極力示した積りではある)ので、注意されたい。そしてまた同様に、私の以下の注も、その危険性を免れぬことも附記しておく。

       ■大正八(一九一九)年
●十月二十一日
 この日より以前に、ある女性からの来信を家人に気付かれないようにするため、封筒の表書きを(恐らく何通分も)佐々木茂索に依頼していたことが分かるこの日のクレジットのある書信が残る。この封筒の偽造依頼は後日の二十九日にも佐佐木に依頼している、と宮坂年譜にはある(佐々木茂索宛旧全集書簡番号五九六)。この、ある女性について宮坂年譜は『秀しげ子か』とわざわざ割注されている。必ずしも断定出来る根拠はないが、暫く掲げておく。

●十月二十五日
 ある女性と深夜まで会っており、別れ際にこの女性から粋な財布を贈られている。この事実を家人に隠すために、芥川は翌二十六日附で岡榮一郎に宛てて封函葉書を出している。その中で芥川は――この夜は、岡の家にいたことにしてもらい、財布も岡に貰ったことにして口裏を合わせて呉れ――という主旨を含ませた奇妙な書信をしたためている。この、ある女性について鷺年譜では『馴染の芸者か』と割注されている。暫く掲げておく。

■大正九(一九二〇)年
●一月上旬
 前年から行われていた、茅野雅子主催の春草会の歌会に出席する。この会には秀しげ子も毎回出席していた。芥川はここ数年俳句に関心が集中していたが、前年六月の秀しげ子との邂逅が刺激となって再び短歌に関心を示している(宮坂年譜に拠る)。

●四月一日
 恐らく三月より執筆を始め、改稿に継ぐ改稿を施した自信作「秋」を『中央公論』に発表。この小説の素材を提供したのは秀しげ子である。後、秀しげ子は十月号の『新潮』に寄稿した「根本に触れた描写」で、素材提供者として『あゝ云ふ材料をあゝもすらすらと片付づてしまはずにもつと信子や照子の心理状態を深刻に解剖して知識階級にある現代婦人の人生に対する人間苦を如実に描写してほしいと思ひます。私には現代の作家が女性を描くのに何故もつと積極的に取り扱はないのかと不思議に思ひます』と批判を加えている(勉誠出版「芥川龍之介作品事典」より孫引き)。これは我々が短歌以外で目にすることの出来る数少ない秀しげ子の肉声であり、その正直で素直な感想は鋭く、現代にあっても有効である。なお、本作執筆時には後に芥川が一緒に心中未遂を起こす、妻文の幼馴染み平松麻素子ますこも情報提供者として挙がっており、これに先立つ三月上旬頃に初めて邂逅している。なお、佐藤嗣男氏は論文「芥川とチエホフ」で、この「秋」は芥川龍之介がチェーホフを再発見した体験に基づくものであると論考されておられる。繰り返しになるが、是非、一読されんことをお薦めする。

●五月上旬
 再度、毎日新聞社特派員としての中国行が浮上する。先にも記したように、秀しげ子からの逃避願望が中国行には作用している、という主張がある。

●九月二十五日 土曜
 午後五時、日本橋亀嶋町の偕楽園で開かれた三土会の九月定例会に出席したか(宮坂年譜)。三土会は大正六(一九一七)年に芥川龍之介・久米正雄・松岡譲が中心となって作った若手文学者の自由なサロンであったが、大正八年に一時中断(久米と松岡の夏目筆子を巡る確執のためとも言われる)、この大正九年四月に会員が増えて再開した。だが、正にこの九月二十五日の例会後、菊地寛・豊島與志雄の他、龍門の四天王の南部修太郎・小島政二郎・佐佐木茂索らが脱会して、純正三土会として分裂している。そうしてその脱会者七名の中に「秀しげ子」の名を見出せるのである(今一人は後の佐佐木の妻で小説家大橋房子)。芥川龍之介は脱会者に含まれていない。ただ、翰林書房「芥川龍之介新事典」によれば、この二つの会について芥川龍之介との密接な関係は認められず、目ぼしい資料もないとある。

       
■大正十(一九二一)年
●四月十九日 日曜
 中国特派旅行出発(詳細は私の「上海游記」を始めとする中国紀行を参照されたい)。

●七月二十九日頃
 中国特派旅行を終え、田端に帰宅。肉体的にも精神的にも疲弊しきっていた。

●九月二十四日
 高宮檀氏の「芥川龍之介を愛した女」の推定によれば、この日の午後二時前、小島政二郎と一緒に日本橋食傷人道じんみちにあった日本料理店中華亭で食事をした芥川龍之介は、直後に丸善で逢う予定になっていた南部修太郎が、その中華亭の奥座敷から秀しげ子と同伴で出てくると鉢合わせしてしまう。以下、小島の視点で。『芥川もさすがに意表を衝いたこの出会いに表情を変え』、相手の二人も『表情を変えたことは云うまでもない。が、芥川は表情を堅くした』ものの、黙っていた。『南部の方は顔の色を変えて、見ていられないくらいヘドモドした。目のやり場に困っていた』。しげ子は『南部の蔭に姿を隠してしまった。私が南部の次ぎに彼女を見た時には、彼女は視線を落としていた』(孫引きした小島政二郎「長編小説 芥川龍之介」などを資料とする推定。小説では名は『〇〇子』と伏せられているし、「小説」と名打ってはいる。しかし、ここには如何しても出さざるを得ない、芥川龍之介自身にとって衝撃的な出来事であった)。

●十月一日
 神経衰弱状態(芥川の自称)の芥川は南部修太郎を伴って湯河原へ静養に出かける。この湯治と南部との同行の約束は前月の二十日なされたものである(即ち、前述の鉢合わせ以前である)。田端帰還は二十五日頃で、この間、南部との間で秀しげ子との問題が話し合いが持たれ、友人として一応の和解をしたものと推定される。

●十二月二十日頃
 病軀を押して「藪の中」を脱稿する(発表は翌大正十一年元日発行の『新潮』。リンク先は私のテクスト)。「藪の中」は明らかに芥川龍之介と秀しげ子と南部修太郎の三角関係を、その大きな執筆の原動力とするものであり、多㐮丸には南部が擬され、武弘には同じように自死することになる芥川自身の影が色濃く反映しており、真砂には――この時、芥川が秀しげ子に対して抱いた、そして恐らくそれは自死の瞬間まで変わらず、寧ろ醸成され続けたところの――抜け目のない、「女」の持つ原悪女性への嫌悪と忌避が体現されていると私は考えている。南部が本作をどう考えたかは資料がないので不詳だが、是非ともその感想を聞いてみたかった。

       
■大正十一(一九二二)年
●八月七日
 『南部修太郎との間にトラブルがあり(手紙に削除があるので不詳)、喧嘩、絶交の瀬戸際までいく』(鷺年譜)。これは同日附田端発信の南部宛書簡(旧全集書簡番号一〇六四)に基づく。以下に全文を引用しておく(底本は岩波版旧全集)。

拜啓 原稿用紙で失敬する。君の手紙は難有く讀んだ。君はあの手紙を書いて好い事をした。しかしもつと早く書いてくれるとなほ好かつた。僕のした事の動機は純粹ではない。が、惡戲氣ばかりでした事ではない。純粹でない爲にはあやまる。惡戲氣ばかりでない爲にはいつか君にわかつて貰ふ時が來るだらう。人生と云ふやつは妙なものだ。君と僕とはお互に何の惡感も持つてゐない。その癖かう云ふ事になるのだ。〔五十九字削除〕それだけは承知してゐてくれ給へ。交を絶つ絶たないは僕がきめるべき事ではない。君の判斷に一任すべき事だ。しかしお互の爲に計れば喧嘩なぞせぬ方がよいかも知れない。
結婚する事は小島に聞いた。君の爲にこの位喜ぶべき事はない。結婚後も君はあすこにゐるのか?
もし君が絶交すると云はなければ、君らしい物でも祝はうかと思ふ。わが友南部修太郎よ。結婚し、愛し、而して苦め。作家たる君に缺けてゐるのは、唯この甘酸窮りなきリアルライフの體驗ばかりだ。僕は今忙しい。毎日原稿に追はれてゐる。おまけに僕の家は暑い。一方ならない苦しさだ。君の返事を待つてゐる
    七日                           我  鬼
 南部修太郎樣

これが秀しげ子との関係に基づくものであるかどうかは不明であるが、全く関係ないとは到底思われず、寧ろ――一年前の中華亭事件――それを素材にした「藪の中」――辛うじて残された書簡中の意味ありげな文々の数々……と並べて行けば、積極的に彼女との三角関係の問題が深く関わっていると考えた方が自然であろう(文学上の論争等によるものであったならこんな削除をするはずがない)。なお、南部への書信は旧全集では前年の十一月十六日以降、この書信まで一通もない。

●八月二十五日若しくは二十六日
 先の南部との関係悪化に対し、『芥川が冷静に対処したこともあって無事収まり、南部は小穴と共に芥川家に一泊し』(鷺年譜)、二十六日附で南部が芥川家に宿泊したことの證文が南部家執事宛・田端奉行(花押附)署名のパロディで残されている(旧全集書簡番号一〇六七)。

       
■大正十二(一九二三)年
●二月二十一日
 渡辺庫輔、秀しげ子が来訪。夜になって下島勲も来、皆で午後十時頃まで談笑(宮坂年譜)。渡辺庫輔くらすけ(明治三十四(一九〇一)年~昭和三十八(一九六三)年)は作家・長崎郷土史家。芥川が嘱望し、最も目をかけた弟子の一人である。問題は彼が大正八(一九一九)年五月に長崎を訪れた際に知り合い、大正十一年に再訪した芥川と交友を結んでいる、芥川の後期の弟子であることである(この頃は上京して芥川について小説を学んでいた)。宮坂年譜は恰も二人が連れ立って芥川を訪問しているように見えるのである。但し、この宮坂氏のソースは山崎光夫氏の「藪の中の家」(平成九(一九九七)年文藝春秋刊)に載る芥川主治医でもあった下島勲の日記によるものだが、そこには、
 二十一日
夕食後芥川氏を訪ふ。金トーシンの画と悟竹の書(レイ)とを見る。坐に渡辺氏と歌人秀女史あり。雑談して十時頃帰る。道悪し。
とあって、これは寧ろ、渡辺と秀しげ子は偶々同日に来訪していたに過ぎないようにも読める。それにしても自分が嘱望した若き作家志望の青年と俳句を嗜む主治医に、この秀しげ子の取り合わせの深更に及ぶ雑談というのは、何だか奇異な感じがする。そこに彼らの対等の地位で――あたかも芥川龍之介が特別扱いをする「女」として、渡辺や下島の相手として座っている彼女は――如何にも不可思議な存在ではあるまいか。そうしてこれは、秀しげ子と芥川龍之介の縁が切れるどころか、未だに外見上は如何にも親しい間柄として周囲に映っていた、しげ子も芥川もそう振る舞って見せていたことを証明する、貴重な資料でもあるのだ。なお、下島の日記の『金トーシン』は金農きんのう(一六八七年~一七六三年頃)で、清代の画家・書家。浙江省生。号は冬心とうしん。墨梅・墨竹・花果を得意とし、独特の書風で知られた。『悟竹』は中林梧竹(文政一〇(一八二七)年~大正二(一九一三)年)。六朝の書風によって当時の書道界を刷新、日下部鳴鶴・巌谷一六とで「明治の三筆」の一人に称せられる書家である。『レイ』隷書。

●五月十一日  秀しげ子が来訪する。夜、下島勲も加わり、皆で談笑する(宮坂年譜)。これも山崎光夫「藪の中の家」の下島日記による。
 十一日
 夕食後芥川氏を訪ふ。坐に日出女史あり。雑談して帰る。
である。行ったらまたまた『坐に日出女史あり』だ。それも夜(下島は食事後である)だ。下島は言うに及ばず、芥川家の家人はどう思ったであろうか? 私だったら、とても文学談義の尋常の訪問とは、思われない。

       
■大正十三(一九二四)年
*この年の現在の年譜的記載には秀しげ子の名は現れない。しかし、年譜に現れないからと言って芥川が彼女と手を切ることが出来た、『絶縁』(後掲する「或阿呆の一生」の「三十八 復讐」)出来たという訳では、哀しいことに、ない。但し、この年の七月から八月にかけて、芥川龍之介が歌人にしてアイルランド文学者の才媛「越し人」片山廣子片山廣子ペン・ネーム松村みね子(明治十一(一八七八)年~昭和三十二(一九五七)年)と親しく邂逅し得たことが、唯一の救いであるように私には思われる。芥川龍之介は人生の最後に、この十四も年上の女性を真に愛し、翌年にかけて、彼は廣子への思いに苦悩して、二月には絶唱「越しびと 旋頭歌二十五首」、四月には後に「相聞」と題される詩などを詠んで、遂には廣子への恋情を断ち切るという、苦渋の決断をするに至る。……もうお分かり戴いていることと思うが……私は、
秀しげ子は――彼女の意志とは関係なく(無関係とは口が裂けても表現出来ない)――芥川龍之介の「復讐の神」、自死への『宿命の女ファム・ファータル』であった――
そして、
芥川龍之介が生涯の最後に心から愛したのは――この女神ミューズ片山廣子だけであった――
と、殆んど信仰に近い程にお目出度くも確信しているのである。悪しからず。
 以下、その「或阿呆の一生」の、片山廣子への思いを述懐した一節を示しておく。

       三十七 越 し 人
 彼は彼と才力の上にも格鬪出來る女に遭遇した。が、「越し人」等の抒情詩を作り、僅かにこの危機を脱出した。それは何か木の幹にこゞつた、かゞやかしい雪を落すやうに切ない心もちのするものだつた。

   風に舞ひたるすげ笠の
   何かは道に落ちざらん
   わが名はいかで惜しむべき
   惜しむは君が名のみとよ。

 なお、片山廣子の歌集・小説・翻訳・随筆などのテクストについては、私のテクスト集を参照されたい。

       
■大正十四(一九二五)年
●五月二十六日
 秀しげ子が来訪(宮坂年譜)。宮坂覺氏はり山崎光夫「藪の中の家」をソースとして以下、午後四時過ぎ、『フキの往診を終えた下島勲を誘って室生犀星を訪ね、俳談などして帰る』とあるのだが、失礼ながらこれは、次の六月二十六日の記事を誤って重複記載なさっているのではないかと私は疑っている(ソースもとには次項の記事しかないように思われるのである。次項参照)。一応、掲げておく。

●六月二十六日
 秀しげ子が来訪(宮坂年譜)。宮坂覺氏は以下、午後四時過ぎ、『フキを診察するため、下島勲が来訪する。診察を終えてやはり書斎を訪ねると、秀しげ子が来訪しており、三人で室生犀星を訪ねる』とし、やはり山崎光夫「藪の中の家」をソースとして挙げておられる。「藪の中の家」の下島日記には、こうある。
 二十六日 晴 暑はなはだ
午後四時頃澄江堂へおばさんの診察に行く。大分よし。終つて書斎へ行く。坐にヒデさんが居た。久々にて逢ふ。主人曰く、之から魚眠洞へ同道しないかと云ふ。承諾、同道にて格子戸を開けて出ると三十四五才の婦人、門扉を開ひて入り来るに逢ふ。道々用事を聞かんとて、これまた同道にて出る。道々談しつゝ行き停車場へ降る処で婦人に別れる。そして曰く、今の婦人は誰であつたらうと、……僕にわかる道理はないが随分呑みこんた拶挨振りであつたがわからんとは不思議な話だ……、そこで僕は時々こんなことがあると答へた……、奥うめをさんだと思うがと云ふ……、私も以前よく電話をかけに来た(平塚雷鳥氏田端在住のおり殊に□□□請願運動の時)奥夫人は一寸知つてゐた。成程眠が似てゐたやうに思なと云つて魚眠洞に至る。俳談などして夕方帰る。
底本には『魚眠洞』の下に『(注・室生犀星)』とあり、『拶挨』の右に『(ママ)』注記、『奥うめ』の「う」の右に『(む)』、『□□□』の右に『(不明)』の傍注がある。この『おばさん』とは芥川の伯母フキである。この内容は、宮坂年譜の五月二十六日の条と、あまりに酷似していて違和感を覚えるのである。――ともかくも――『久々にて逢ふ』とは言っているものの、またしても『坐にヒデさんが居た』である。この叙述から一年半以上もの間、秀しげ子が芥川龍之介を訪れなかったのだ、なんどと考える方は、とても、おるまい。更に付け加えるなら、この日記には芥川龍之介自身の神経症的な感覚が記されていて、興味深い(直に思い出すほどの、それほど大した物忘れでもないのに、芥川自身はそれを何か病的な現象であるかのように思っている節があるのである。これは芥川龍之介の病跡学上の重要な記載である)。

       
■大正十五(一九二六)年(十二月二十五日改元 昭和元年)
●四月六日
 夜、小穴隆一、秀しげ子が来訪する(宮坂年譜)。小穴と秀しげ子はこの頃には旧知ではあった。このソースでもある小穴の「二つの絵」(昭和三一(一九五六)年中央公論社刊)によれば、この九日後、芥川龍之介は小穴に自殺の決意を告げている。

●七月上旬
 神経衰弱その他で体調頓に衰え、齋藤茂吉の勧めもあって鵠沼の東屋貸別荘に転居したが、その引っ越しの翌日、秀しげ子が子供を連れて見舞いに来訪した(宮坂年譜)。これにはもう、芥川は心底慄っとしたろうと、私はしみじみ思うのである。

       
■昭和二(一九二七)年
*自死に至るまで、年譜上の秀しげ子の記載はない。しかし、小穴の「二つの絵」に、以下の記載がある。
 勿論昭和二年のことであるが、芥川が朝下宿にやつてきて、「今日は河童がくるから、君六時に僕のところにきて、河童が歸るまでそばにゐえくれないか、」といつて歸り、かれこれ六時に、義ちやん(葛卷義敏)かきましたよといつて迎へにきたので、芥川の家にいつて、□夫人の邪魔をして魔をしてゐたが、□夫人が芥川と會つたのはその日が最後となつてゐるのであらう。僕はつまらない役をさせられたものだと思つてゐるが、出向いてみると芥川はそのとき、なんとしたことか重病人のやうに布團のなかにはいつてゐたものだ。芥川の枕もとに坐つてゐた□夫人はその日出來上つた茶室のことと茶掛けの掛けのことを言つてゐた。僕は□夫人がどういふ人であらうともなにかあはれにもなつてゐた。(後略)
この『□夫人』は言うまでもなく秀しげ子である。
芥川の「愁人」は――
その晩年には「河童」となり――
死の直近の「齒車」「或阿呆の一生」では遂に「復讐の神」「狂人の娘」となったのである……

       
■遺書
*秀しげ子の名が登場する遺書は小穴隆一宛の一通である。総ての遺書類を原本から忠実に起こした私のオリジナル遺書テクストがあるが、その中から当該遺書の読み易くした整序版のみを以下に掲げる。その詳細な注釈もリンク先を是非参照されたい。

 僕等人間は一事件の爲に容易に自殺などするものではない。 僕は過去の生活の總決算の爲に自殺するのである。 しかしその中でも大事件だつたのは僕が二十九歳の時に秀夫人と罪を犯したことである。 僕は罪を犯したことに良心の呵責は感じてゐない。 唯相手を選ばなかつた爲に(秀夫人の利己主義や動物的本能は實に甚しいものである。) 僕の生存に不利を生じたことを少なからず後悔してゐる。 なほ又僕と恋愛關係に落ちた女性は秀夫人ばかりではない。 しかし僕は三十歳以後に新たに情人をつくつたことはなかった。 これも道德的につくらなかつたのではない。 唯情人をつくることの利害を打算した爲である。 (しかし恋愛を感じなかつた訣ではない。 僕はその時に「越し人」「相聞」 等の抒情詩を作り、 深入りしない前に脱却した。) 僕は勿論死にたくない。 しかし生きてゐのも苦痛である。他人は父母妻子もあるのに自殺する阿呆を笑ふかも知れない。 が、 僕は一人ならば或は自殺しないであらう。 僕は養家に人となり、 我侭らしい我侭を言つたことはなかつた。(と云ふよりも寧ろ言ひ得なかったのである。 僕はこの養父母に對する「孝行に似たもの」も後悔してゐる。 しかしこれも僕にとつてはどうすることも出來なかつたのである。) 今僕が自殺するのは一生に一度の我侭かも知れない。 僕もあらゆる靑年のやうにいろいろの夢を見たことがあつた。 けれども今になつて見ると、畢竟氣違ひの子だつたのであらう。 僕は現在は僕自身には勿論、 あらゆるものに嫌悪を感じてゐる。

            芥川龍之介

 P.S. 僕は支那へ旅行するのを機会にやつと秀夫人の手を脱した。 (僕は洛陽の客桟にストリントベリイの「痴人の懺悔」を讀み、 彼も亦僕のやうに情人に譃を書いてゐるのを知り、 苦笑したことを覚えてゐる。) その後は一指も触れたことはない。 が、 執拗に追ひかけられるのには常に迷惑を感じてゐた。僕は僕を愛しても、僕を苦しめなかつた女神たちに(但しこの「たち」は二人以上の意である。 僕はそれほどドン・ジユアンではない。)衷心の感謝を感じてゐる。

 終わりに、「或阿呆の一生」の次の一節を示す。

     三十八 復  讐
 それは木の芽の中にある或ホテルの露台だつた。彼はそこに畫を描きながら、一人の少年を遊ばせてゐた。七年前に絶縁した狂人の娘の一人息子と。
 狂人の娘は卷煙草に火をつけ、彼等の遊ぶのを眺めてゐた。彼は重苦しい心もちの中に汽車や飛行機を描きつづけた。少年は幸ひにも彼の子ではなかつた。が、彼を「をぢさん」と呼ぶのは彼には何よりも苦しかつた。
 少年のどこかへ行つた後、狂人の娘は卷煙草を吸ひながら、媚びるやうに彼に話しかけた。
 「あの子はあなたに似てゐやしない?」
 「似てゐません。第一………」
 「だつて胎教と云ふこともあるでせう。」
 彼は默つて目を反らした。が、彼の心の底にはかう云ふ彼女を絞め殺したい、殘虐な欲望さへない譯ではなかつた。

これは、秀しげ子とその次男との邂逅場面である。ここで着目したいのは、芥川が『七年前に絶縁した』と述べていることである。この叙述を自死の昭和二(一九二七)年とすることに読者の異存はあるまい。秀しげ子の次男の誕生は大正十(一九二一)年であるから、当時は正しく満六歳で、『おじさん』と語り掛ける『少年』の年齢である。更にそこから七年前に遡ってみると、それは大正九年の謂いとなる。彼はここで大正九(一九二〇)年に彼女とは『絶縁した』と述べているのである。それは、この私がここで最後に並べた諸事実とは明らかに齟齬を生じる。
――結局、芥川龍之介は彼女とは終生、縁を切れなかった
――切ることが出来なかったのである。
 しかしこれは、秀しげ子のストーカー的気質による、と言うよりも、私は寧ろ、
――芥川自身の女性に対する特異的な優柔不断さ、文字通り、芥川龍之介の「さが」「せい」の不徳と致すところ
――自死へと一散に滑って行く
――滑って行かざるを得なかった、擦り切れた芥川龍之介の魂の所産であった。
そう捉える余裕を芥川龍之介と秀しげ子との連関を考察する上では持つべきことも、私としては心得ているつもりである。
 向後は――フェミニズムの――という分類学的イデオロギーに乗るのではなく(私はこの「フェミニズム」という語がどうも好きになれないのである)、秀しげ子の視点から芥川龍之介を観想する研究が望まれることは、これ、言を俟たない。
――しかし尚且つ――
私は、
『芥川龍之介という現象の中の心象』にあって『秀しげ子という存在』は、間違いなく確かな『ファム・ファータル』であった
と断言するものである。

 本当の私の注の最後の最後に。――まだ見ぬ幻の「我鬼日録」部分を含め――原典の探索が切に望まれる。

 そして――芥川龍之介が愛した瞬間の秀しげ子へ――“Here's looking at you, kid!”――君の瞳に乾杯!]



芥川龍之介「我鬼窟日錄」 附やぶちゃんマニアック注釈 完