やぶちゃんの電子テクスト:小説・随筆篇へ

 

  岩見重太郎   芥川龍之介 附やぶちゃん注釈

 

[やぶちゃん注:大正131924)年4月発行の『女性改造』第三巻第四号に「僻見」の総標題で載ったもので、底本は岩波版旧全集を用いたが、新全集は生原稿と校合しているため、最後にそちらとも本文校合(新全集のルビ編者によるものなので対象としない)し、私の判断で一部は原稿を採用したため、特に掉尾は現在知られている本篇とは大きく異なる形となったことをお断りしておく。但し、底本は総ルビであるため、音読に迷う文字のみのパラルビとした(底本の「かはず」の誤りは訂正した)。「僻見」は全集で纏められたもので、「広告」に始まり、「齋藤茂吉」「岩見重太郎」「大久保湖州」(これは現在、全集では「僻見」から独立して所収されている)「木村※齋」[やぶちゃん字注:「※」=「簨」-「竹」。「きむらそんさい」と読む。]の5篇があるが、章炳麟が登場する『支那游記』関連作として本篇のみを抜き出してテクスト化した。この篇、ただ章炳麟が登場するばかりではない。不勉強な向きは「江南游記」「十四 蘇州城内(中)」に現れた、私の愛する芥川の豪傑理論をお読みになるがよい。私が本篇を『支那游記』との強い関連を感じた意味がお分かり頂けるであろう。末尾に私の注を附した。【2009年9月13日】注に「桃太郎」を追加。【2009年9月14日】]

 

       岩見重太郎

 

 岩見重太郎と云ふ豪傑は後(のち)に薄田隼人(すゝきだはやと)の正(しやう)兼相(かねすけ)と名乘つたさうである。尤もこれは講談師以外に保證する學者もない所を見ると、或は事實でないのかも知れない。しかし事實ではないにもせよ、岩見重太郎を輕蔑するのは甚だ輕重(けいちよう)を失したものである。

 第一に岩見重太郎は歴史に實在した人物よりもより生命に富んだ人間である。その證據には同時代の人物――たとへば大阪五奉行の一人、長束(ながつか)大藏(おほくら)の少輔(せうゆう)正家(まさいへ)を岩見重太郎と比べて見るが好(よ)い。武者修業の出立(いでた)ちをした重太郎の姿はありありと眼の前に浮んで來る。が、正家は大男か小男か、それさへも我々にははつきりしない。且又かういふ關係上、重太郎は正家に十倍するほど、我々の感情を支配してゐる。我々は新聞紙の一隅に「長束正家儀、永々(ながなが)病氣の處、藥石效無く」と云ふ廣告を見ても、格別氣の毒とは思ひさうもない。しかし重太郎の長逝を報ずる號外か何か出たとすれば、戲曲「岩見重太郎」の中にこの豪傑を飜弄した、無情なる菊池寛と雖も、憮然たらざるを得ないことであらう。のみならず重太郎は感情以上に我々の意志をも支配してゐる。戰ごつこをする小學生の重太郎を眞似るのは云ふを待たない。僕さへ論戰する時などには忽ち大蛇(おろち)を退治する重太郎の意氣ごみになりさうである。

 第二に岩見重太郎は現代の空氣を呼吸してゐる人物――たとへば後藤子爵よりもより生命に富んだ人間である。成程子爵は日本の生んだ政治的豪傑の一人かも知れない。が、如何なる豪傑にもせよ、子爵後藤新平なるものは恰幅の好い、鼻眼鏡をかけた、時々哄然と笑ひ聲を發する、――兎に角或制限の中にちやんとをさまつてゐる人物である。甲の見た子爵は乙の見た子爵よりも眼が一つ多かつたなどと云ふことはない。それだけに頗る正確である。同時に又頗る窮屈である。もし甲は象の體重を理想的の體重としてゐるならば、象よりも體重の輕い子爵は當然甲の要求に十分の滿足を與へることは出來ぬ。もし又乙は麒麟の身長を理想的の身長としてゐるならば、麒麟よりも身長の短かい子爵はやはり乙の不賛成を覺悟しなければならぬ筈である。けれども岩見重太郎は、――岩見重太郎もをのづから武者修業の出立をした豪傑と云ふ制限を受けてゐないことはない。が、この制限はゴム紐のやうに伸びたり縮んだりするものである。甲乙二人の見る重太郎は必しも同一と云ふ譯には行かぬ。それだけに頗る不正確である。同時に又頗る自由である。象の體重を惝怳(せうけい)する甲は必ず重太郎の體重の象につり合ふことを承認するであらう。麒麟の身長を謳歌する乙もやはり重太郎の身長の麒麟にひとしいことを發見する筈である。これは肉體上の制限ばかりではない。精神上の制限でも同じことがある。たとへば勇氣と云ふ美德にしても、後藤子爵は我々と共にどの位勇士になり得るかを一生の問題としなければならぬ。しかし天下の勇士なるものはどの位重太郎になり得るかを一生の問題にしてゐるのである。この故に重太郎は後藤子爵よりも一層我々の情意の上に大いなる影響を及ぼし易い。我々は天の橋立に大敵と戰ふ重太郎には衷心の不安を禁ずることは出來ぬ。けれども衆議院の演壇に大敵と戰ふ後藤子爵には至極に冷淡に構へられるのである。

 岩見重太郎の輕蔑出來ぬ所以はあらゆる架空の人物の輕蔑出來ぬ所以である。架空の人物と云ふ意味は傳説的人物を指すばかりではない。俗に藝術家と稱へられる近代的傳説製造業者の造つた架空の人物をも加へるのである。カイゼル・ウイルヘルムを輕蔑するのは好い。が、一穗(すゐ)のともし火のもとに錬金の書を讀むフアウストを輕蔑するのは誤りである。フアウストの書いた借金證文などは何處の圖書館にもあつたことはない。しかしフアウストは今日(こんにち)もなほベルリンのカフエの一隅に麥酒(ビール)を飮んでゐるのである。ロイド・ヂヨオヂを輕蔑するのは好い。が、三人の妖婆の前に運命を尋ねるマクベスを輕蔑するのは誤りである。マクベスの帶びた短刀などは何處の博物館にもあつたことはない。しかしマクベスは相不變ロンドンのクラブの一室に葉卷を薰(く)ゆらせてゐるのである。彼等は過去の人物は勿論、現在の人物よりも油斷はならぬ。いや彼等は彼等を造つた天才よりも長命である。耶蘇(ヤソ)紀元三千年の歐羅巴(ヨーロツパ)はイブセンの大名をも忘却するであらう。けれども勇敢なるピイア・ギユントはやはり黎明の峽灣(けふわん)を見下してゐるのに違ひない。現に古怪なる寒山拾得は薄暮の山巒(さんらん)をさまよつてゐる。が、彼等を造つた天才は――豐干(ぶかん)の乘つた虎の足跡も天台山の落葉の中にはとうの昔に消えてゐるであらう。

 僕は上海のフランス町(まち)に章太炎先生を訪問した時、剥製の鰐をぶら下げた書齋に先生と日支の關係を論じた。その時先生の云つた言葉は未だに僕の耳に鳴り渡つてゐる。――「予の最も嫌惡する日本人は鬼が島を征伐した桃太郎である。桃太郎を愛する日本國民にも多少の反感を抱かざるを得ない。」先生はまことに賢人である。僕は度たび外國人の山縣公爵を嘲笑し、葛飾北齋を賞揚し、澁澤子爵を罵倒するのを聞いた。しかしまだ如何なる日本通もわが章太炎先生のやうに、桃から生れた桃太郎へ一矢(し)を加へるのを聞いたことはない。のみならずこの先生の一矢はあらゆる日本通の雄辯よりもはるかに眞理を含んでゐる。桃太郎もやはり長命であらう。もし長命であるとすれば、暮色蒼茫たる鬼が島の渚に寂しい鬼の五六匹、隱れ蓑や隱れ笠のあつた祖國の昔を嘆ずるものも、――しかし僕は日本政府の植民政策を論ずる前に岩見重太郎を論じなければならぬ。

 前に述べた所を繰り返せば、岩見重太郎は古人はもとより、今人(こんじん)よりも生命に富んだ、輕蔑すべからざる人間である。成程豐臣秀吉は岩見重太郎に比べても、少しも遜色はないかも知れない。けれどもそれは明らかに繪本太閤記の主人公たる傳説的人物の力である。さもなければ同じ歴史の舞臺に大芝居を打つた德川家康もやはり豐臣秀吉のやうに光彩を放つてゐなければならぬ。且又今人も無邪氣なる英雄崇拜の的になるものは大抵彼等の頭の上に架空の圓光を頂いてゐる。廣い世の中には古往今來、かう云ふ圓光の製造業者も少からぬことは云ふを待たない。たとへばロマン・ロオラン傳を書いた、善良なるステフアン・ツワイグは正に彼等を代表するものである。

 僕の岩見重太郎に輕蔑を感ずるのは事實である。重太郎も國粹會の壯士のやうに思索などは餘りしなかつたらしい。たとへば可憐なる妹お辻の牢内に命を落した後、やつと破牢にとりかかつたり、妙に夢知らせを信用したり、大事の讐打(かたきう)ちを控へてゐる癖に、狒(ひひ)退治や大蛇(おろち)退治に力瘤を入れたり、いつも無分別の眞似ばかりしてゐる。その點は菊池寛の爲に飜弄されるのもやむを得ない。けれども岩見重太郎は如何なる惡德をも償ふ位、大いなる美德を持ち合せてゐる。いや、必しも美德ではない。寧ろ善惡の彼岸に立つた唯一無二の特色である。岩見重太郎は人間以上に強い。(勿論重太郎の同類たる一群の豪傑は例外である。)重太郎の憤怒を發するや、太い牢格子も苧殼(をがら)のやうに忽ち二つにへし折れてしまふ。狒や大蛇も一撃のもとにあへない最期を遂げる外はない。千曳(ちびき)の大岩を轉がすなどは朝飯前の仕事である。由良が濱の沖の海賊は千人ばかり一時に俘(とりこ)になつた。天の橋立の讐打ちの時には二千五百人の大軍を斬り崩してゐる。兎に角重太郎の強いことは天下無敵と云はなければならぬ。かう云ふ強勇はそれ自身我々末世の衆生の心に大歡喜を與へる特色である。

 小心なる精神的宦官(かんくわん)は何とでも非難を加へるが好い。天つ神の鋒(ほこ)から滴る潮(うしほ)の大和島根を凝り成した以來、我々の眞に愛するものは常にこの強勇の持ち主である。常にこの善惡の觀念を脚下に蹂躙する豪傑である。我々の心は未だ嘗て罪惡の意識を逃れたことはない。青丹よし奈良の都の市民は卵を食ふことを罪惡とした。と思へば現代の東京の市民は卵を食はないことを罪惡としてゐる。これは勿論卵ばかりではない。「我(が)」に對する信仰の薄い、永久に臆病なる我々は我々の中にある自然にさへ罪惡の意識を抱いてゐる。が、豪傑は我々のやうに罪惡の意識に煩はされない。實踐倫理の教科書はもとより、神明佛陀の照覽さへ平然と一笑に附してしまふ。一笑に附してしまふのは「我」に對する信仰のをのづから強い結果である。たとへば神代の豪傑たる素戔嗚(すさのを)の尊(みこと)に徴すれば、尊は正に千位置戸(ちくらのおきど)の刑罰を受けたのに相違ない。しかし刑罰を受けたにしろ、罪惡の意識は寸毫も尊の心を煩はさなかつた。さもなければ尊は高天が原の外に刑餘の姿を現はすが早いか、あのやうに恬然(てんぜん)と保食(うけもち)の神を斬り殺す勇氣はなかつたであらう。我々はかう云ふ旺盛なる「我」に我々の心を暖める生命の炎を感ずるのである。或は我々の到達せんとする超人の面輪(おもわ)を感ずるのである。

 まことに我々は熱烈に岩見重太郎を愛してゐる。のみならず愛するのに不思議はない。しかしかう云ふ我々の愛を唯所謂強者に對する愛とばかり解釋するならば、それは我々を誣(し)ひるものである。如何にも何人かの政治家や富豪は善惡の彼岸に立つてゐるかも知れない。が、彼岸に立つてゐることは常に彼等の祕密である。おまけに又彼等はその祕密に對する罪惡の意識を逃れたことはない。祕密は必しも咎めるに足らぬ。現に古來の豪傑も家畜に似た我々を驅使する爲には屢々假面を用ひたやうである。けれども罪惡の意識に煩はされるのは明らかに豪傑の所業ではない。彼等は強いと云ふよりも寧ろ病的なる欲望に支配されるほど弱いのである。もし嘘だと思ふならば、試みに彼等を三年ばかり監獄の中に住ませて見るが好い。彼等は必ずニイチエの代りに親鸞上人を發見するであらう。我々の愛する豪傑は最も彼等に遠いものである。もし彼等に比べるとすれば、活動寫眞の豪傑さへ數等超人の面影を具へてゐると云はなければならぬ。現に我々は彼等よりも活動寫眞の豪傑を愛してゐる。ハリケエン・ハツチの近代的富豪にはり倒される光景は見るに堪へない。しかし近代的富豪のハリケエン・ハツチに、――ハリケエン・ハツチもはり倒すほど、臆病なる彼等の一團に興味を持つかどうかは疑問である。

 岩見重太郎の武勇傳の我々に意味のあることは既に述べた通りである。が、重太郎の冐險はいづれも末世の我々に同じ興味を與へる譯ではない。その最も興味のあるものは牢破りと狒退治との二つである。一國の牢獄を破るのは國法を破るのと變りはない。狒も單に狒と云ふよりは、年々人身御供(ひとみごくう)を受けてゐた、牛頭明神(ごづみやうじん)と稱する妖神である。すると重太郎は牢破りと共に人間の法律を蹂躙し、更に又次の狒退治と共に神と云ふ偶像の法律をも蹂躙したと云はなければならぬ。これは重太郎一人に限らず、上(かみ)は素戔嗚の尊から下はミカエル・バクウニンに至る豪傑の生涯を象徴するものである。いや、更に一歩を進めれば、あらゆる單行獨歩の人の思想的生涯をも象徴するものである。彼等は皆人間の虚僞と神の虚僞とを蹂躙して來た。將來も亦あらゆる虚僞を蹂躙することを辭せぬであらう。重太郎の退治した狒の子孫は未だに人身御供を貪つてゐる。牢獄も、――牢獄は市が谷にあるばかりではない。囚人たることにさへ氣のつかない、新時代の服裝をした囚人の夫婦は絡繹(らくえき)と銀座通りを歩いてゐる。

 人間の進歩は遲いものである。或は蝸牛(くわぎう)の歩みよりも更に遲いものかも知れない。が、如何に遲いにもせよ、アナトオル・フランスの云つたやうに、「徐(おもむ)ろに賢人の夢みた跡を實現する」ことは事實である。いにしへの支那の賢人は車裂(しやれつ)の刑を眺めたり、牛鬼蛇神(ぎうきだじん)の像を眺めたりしながら、堯舜の治世を夢みてゐた。(將來を過去に求めるのは常に我々のする所である。我々の心の眼(め)なるものはお伽噺の蛙(かはづ)の眼と多少同一に出來てゐるらしい。)堯舜の治世(ぢせい)は今日もなほ雲煙のかなたに横はつてゐる。しかし車はいにしへのやうに車裂の刑には使はれてゐない。牛鬼蛇神の像なども骨董屋の店か博物館に陳列されてゐるばかりである。よし又かう云ふ變化位を進歩と呼ぶことは出來ないにしろ、人間の文明は有史以來僅々(きんきん)數千年を閲(えつ)したのに過ぎない。けれども地球の氷雪の下(した)に人間の文明を葬るのは六百萬年の後ださうである。人間も悠久なる六百萬年の間には著しい進歩をするかも知れない。少くともその可能性を信ずることは痴人の談とばかりも云はれぬであらう。もしこの確信を事實とすれば、人間の將來は我々の愛する岩見重太郎の手に落ちなければならぬ。牢を破り狒を殺した超人の手に落ちなければならぬ。

 僕の岩見重太郎を知つたのは本所御竹倉(おたけぐら)の貸本屋である。いや、岩見重太郎ばかりではない。羽賀井一心齋を知つたのも、妲妃(だつき)のお百を知つたのも、國定忠次を知つたのも、祐天上人を知つたのも、八百屋お七を知つたのも、髮結新三を知つたのも、原田甲斐を知つたのも、佐野次郎左衞門を知つたのも、――閭巷(りよこう)無名の天才の造つた傳説的人物を知つたのは悉くこの貸本屋である。僕はかう云ふ間(あひだ)にも、夏の西日のさしこんだ、狹苦しい店を忘れることは出來ぬ。軒先には硝子(がらす)の風鈴が一つ、だらりと短尺をぶら下げてゐる。それから壁には何百とも知れぬ講談の速記本がつまつてゐる。最後に古い葭戸(よしど)のかげには梅干を貼つた婆さんが一人、内職の花簪(はなかんざし)を拵へてゐる。――ああ、僕はあの貸本屋に何と云ふ懷かしさを感じるのであらう。僕に文藝を教へたものは大學でもなければ圖書館でもない。正にあの蕭條たる貸本屋である。僕は其處に並んでゐた本から、恐らくは一生受用しても盡きることを知らぬ教訓を學んだ。超人と稱するアナアキストの尊嚴を學んだのもその一つである。成程超人と言ふ言葉はニイチエの本を讀んだ後、やつと僕の語彙になつたかも知れない。しかし超人そのものは――大いなる岩見重太郎よ、兩手に大刀(だいたう)をふりかぶつたまま、大蛇(おろち)を睨んでゐる君の姿は夙(つと)に幼ない僕の心に、敢然と山から下つて來たツアラトストラの大業(たいげふ)を教へてくれたのである。あの貸本屋はとうの昔に影も形も失つたであらう。が、岩見重太郎は今日(こんにち)もなほ僕の中に潑溂と命を保つてゐる。いつも目深い編笠の下に薄暗い世の中を睨みながら。

 

[やぶちゃん注:岩見重太郎とは安土桃山時代の読本・講談・歌舞伎等で知られる伝説的豪傑の名。小早川隆景の家臣であったが、武者修行のため諸国を遍歴、その間、狒狒・大蛇・凶悪な山賊といった外道の異類を退治して勇名を馳せた、とする。芥川が冒頭で述べるように、実在した小早川隆景の家臣の薄田兼相(?~慶長201615)年)に比定されるとも言う。ウィキの「薄田兼相」のよれば、兼相は初名は古継、通称を隼人正と言った。隆景の剣術指南役岩見重左衛門の二男であったが、叔父薄田七左衛門の養子となって武者修行に出、帰参後は薄田隼人と名乗った。隆景の死後、浪人となった後、豊臣秀頼に仕え、慶長161611)年の「禁裏御普請衆」の中にはその名が残っている。慶長191614)年、『大坂冬の陣においては浪人衆を率いて博労ヶ淵砦を守備したが、遊郭に通っている最中に砦を徳川方に陥落されるという失態を犯し(博労淵の戦い)、味方から「橙武者」と呼ばれた、これは『橙は酸味が強い為正月飾りにしか使えないので、見かけ倒し』という意味で、『失態を恥じた兼相は、大坂夏の陣の道明寺の戦いにおいて陣頭指揮を取り、奮戦した後に華々しい戦死を遂げた。』とある。岩波新全集注解で篠崎美生子氏は明治441911)年には、当時、青少年に絶大の人気を誇った巷談読本である立川文庫(たつかわぶんこ)の『一冊として『武士道精華岩見重太郎』が刊行され』ており、大正111922)年には『東京朝日新聞に小金井蘆州が「岩見重太郎」を連載した。』ともある。

・「大阪五奉行」秀吉が新たに定めた自分の死後の秀頼の後見を目的として定めた役職の一つ。立法を司る最高機関としての有力大名の五大老(徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家)の下で働く実務機関。五奉行を定めた。秀吉の忠実な家臣群で、石田三成を筆頭に、増田長盛(ましたながもり)、芥川が挙げた長束正家、前田玄以に浅野長政の五人。

・「長束大藏の少輔正家」は、長束正家(永禄5(1562)年?~慶長5(1600)年)のこと。官位が従五位下大蔵大輔であったために、こう呼称する。読みは「なつかまさいえ」及び「ながつかまさいえ」の二つが通用する。ウィキの「長束正家」によれば、天正131585)年に『豊臣秀吉の奉公衆に抜擢され、丹羽氏が大減封処分を受けると豊臣氏直参の家臣になった。高い算術能力を買われて財政を一手に担い、豊臣氏の蔵入地の管理や太閤検地の実施に当たった。九州の役・小田原の役・文禄・慶長の役の際には、兵糧奉行として兵糧の輸送に活躍』、文禄4(1595)年には『五奉行の末席に名を連ねる。秀吉没後は石田三成方に与し、家康打倒の謀議に参加、水口にて会津征伐へ向かう家康の暗殺を謀るも失敗』、慶長5(1600)年には『三成らとともに毛利輝元を擁立して挙兵する。初め伊勢の安濃津城を攻略し、関ヶ原の戦いでは毛利秀元・吉川広家とともに南宮山(岐阜県不破郡)に布陣したが、広家の妨害のため、秀元や長宗我部盛親ら同様に本戦に参加できず、西軍が壊滅すると敗走した。水口城を目前に、追手の池田輝政・長吉に包囲され、弟直吉と共に自刃した。享年39』であったとされ、『首は京都三条橋で晒され』た、とある。

・『戲曲「岩見重太郎」菊池寛が大正111922)年4月に発表した脚本。岩波新全集注解で篠崎美生子氏によれば『「allegory」という副題が付いている。重太郎の一時的な人助けが仇となって無駄に人命が失われる』というストーリーで、ヒロイックな重太郎をわざと皮肉に描いた寓話である。

・「後藤子爵」医師・政治家であった後藤新平(安政41857)年~昭和4(1929)年)のこと。大正111922)年に男爵から子爵となり、後、昭和3(1928)年に伯爵。明治151882)に愛知県医学校学校長兼院長から内務省衛生局入りし、台湾総督府民政長官・南満洲鉄道初代総裁・初代内閣鉄道院総裁・寺内内閣内務大臣・外務大臣・東京市長などを歴任した。本作発表年には、社団法人東京放送局初代総裁(NHKの前身)であったか、と思われる。岩波新全集注解で篠崎美生子氏は、当時『東京市長在任中』とするが、私が参照したウィキの「後藤新平」によれば、東京市長の在任は大正91920)年1217日~大正121923)年4月20日とあり、直前でも第2次山本内閣での内務大臣再任(大正121923)年9月2日~大正131924)年1月7日内閣総辞職による)であるから、誤り。

・「惝怳」:「せうけい」の読みは誤りで、「しやうくわう(しょうこう)」と読む。意味は、がっかりするさま、驚きぼんやりするさま、であるがそれでは意味が通じない。ぼんやりと判然としない憧憬、というような意味で芥川は用いているようである。実は、この語は芥川が好きな語であったらしく、「點心」の「長井代助」や「長江游記」「一 蕪湖」「西方の人」の「18 キリスト教」等でも用いている。それらでの意味もここでの誤った用法と同じである。博覧強記の芥川龍之介にして、「惝怳」の意味と読み共に全く誤った思い込みのまま使い続けたというケースは珍しい。

・「天の橋立に大敵と戰ふ重太郎」岩波新全集注解で篠崎美生子氏は、先に示した『立川文庫版では、重太郎はここで父の三人の敵と千人の助太刀の侍を討ったことになっている。』とする。伝説としても知られており、宮津の天の橋立には試し切りの石の跡と称するものや碑なども現存する。oo映画の昭和291954)年渡辺邦男監督・柳川真一脚本の映画「岩見重太郎 決戦天の橋立」の粗筋から該当箇所を抜粋したい。武者修行の途中、狒狒に化けて村人を襲っていた山賊らを平らげた岩見重太郎であったが、彼の『父は国許で広瀬軍蔵のため暗殺され』ていた。『重太郎の弟重蔵と妹お継は兄に急を告げるため旅に出たが、運悪く広瀬一味のため重蔵は返り討ちになり、お継は通り合せた塙団右衛門に救われた。旅を続ける女歌舞伎一座は山賊に捕えられたが、通りかかった後藤又兵衛に助けられた。そこへ重太郎と団右衛門も来合せた。重太郎は初めて父と弟の死を知り、広瀬の後を追う途中、重太郎を父の仇と逆恨みする早川姉妹に狙われるが、姉妹も誤解をといて、広瀬が丹後宮津藩に仕えた事を重太郎に教える。重太郎は正式に藩主に仇討を届けたが、卑劣な藩主に仇討赦免状をとり上げられる。又兵衛は機智をもって立合いを約束させたが、藩は広瀬に五百名の助太刀を出した。それを知った団右衛門と又兵衛は重太郎を助け、天の橋立二百五十番斬りの幕が切って落された。』とある。見たいネエ! この映画! だってキャストは岩見重太郎が嵐寛、塙団右衛門が月形龍之介、後藤又兵衛は私の「惝怳」する大河内傳次郎だもん!

・「カイゼル・ウイルヘルム」Wilhelm Ⅱ(ヴィルヘルム2世 18591941)は第9代プロイセン王国国王・第3代ドイツ帝国皇帝(在位18881918)。帝国主義的な膨張政策を展開したが、拙劣な外交で列強との対立を招き、ドイツを第一次世界大戦とその敗北へと導いた。1918年にはヒンデンブルクとルーデンドルフの命を受けた宰相マックス・フォン・バーデンによって強制的に退位させられ、オランダに亡命した。参照したウィキの「ヴィルヘルム2世」によれば、その後は『ユトレヒト州ドールンで、かつての臣下を罵りながら趣味として木を伐る余生を過ご』しながら、『歴史に埋没して行った。』とある。

・「ロイド・ヂヨオヂ」David Lloyd George(デビッド・ロイド・ジョージ 18631945)は第一次世界大戦を勝利に導いたイギリス首相(首相在任は19161922)であったが、『やがて戦後不況が訪れると英国各地でストライキが頻発』、『これに対し彼の内閣は軍事力を背景とした弾圧政策を以って臨み、192010月には非常事態措置法を制定しストライキに圧力をかけた。結果的にストライキは一応の沈静化を見たものの、リベラルとして名のあった自由党の求心力は大幅に低下し、中近東での外交的失敗も加わって彼の人気はいよいよ失墜、ついに192210月、保守党も連立を解消し内閣は辞職した。その後、内閣を引き継いだ保守党の下で総選挙が行われるが、自由党は分裂していたこともあって61議席と完敗し、以後自由党は衰退、英国政界は右派の保守党と左派の労働党が票田を二分する二極化の時代に入』り、この後、ロイドは遂に政治の表舞台に復帰することはなかった(以上、引用はウィキの「ロイド・ジョージ」より)。

・「ピイア・ギユント」“Peer Gynt”(ペール・ギュント)は、ノルウェーの劇作家Henrik Johan Ibsen(ヘンリック・イプセン 18281906)が1867年に作った同名の劇詩の主人公の名。ウィキの「ペール・ギュント」の粗筋から引用する。『落ちぶれた豪農の息子ペール・ギュントは母と暮らしている夢見がちな男。かつての恋人イングリを結婚式から奪取して逃亡する。イングリに飽きたら捨てる。トロルの娘と婚礼寸前まで行くが逃げ出す。純情な女ソルヴェイと恋に落ちるが、彼女を待たせたまま放浪の旅に出る。山師のようなことをやって金を儲けては無一文になったり、精神病院で皇帝になったりした後、老いて帰郷する。死を意識しながら故郷を散策していると、ボタン職人と出会う。彼は、天国に行くような大の善人でもなく地獄に行くほどの大悪党でもない「中庸」の人間をボタンに溶かし込む役割の職人だ。「末路がボタン」というのだけは御免だと、善悪を問わず自分が中庸ではなかったことを証明しようと駆けずり回るが、トロルの王も「やせた男」もそれを証明してくれない。最後の証人として会ったソルヴェイに子守唄を歌ってもらいながら、永眠する』物語。本作を元にしたグリーグの組曲やシュニトケのバレエ音楽と通して人口に膾炙する主人公である。

・「山巒」山岳。

・「豐干」唐代の僧(生没年未詳)。天台山国清寺の禅僧で後の名僧寒山・拾得の師として知られるが、今はその事実と芥川が語る虎に跨った等の奇行のみが伝わるばかりである。

・「天台山」浙江省中部、天台県北方2㎞にある中国三大霊山の一。麓にある国清寺は中国天台宗の開祖である智顗(ちぎ)の所縁の寺である。

・「フランス町」フランス租界。

・「章太炎先生」章炳麟(Zhāng Bĭnglín ヂャン ビンリン 18691936)のこと。太炎は彼の号。章炳麟は清末から中華民国初期にかけて活躍した学者・革命家。民族主義的革命家としてはその情宣活動に大きな功績を持っており、その活動の前後には二度に亙って日本に亡命、辛亥革命によって帰国している。一般に彼は孫文・黄興と共に辛亥革命の三尊とされるが、既にこの時には孫文らと袂を分かっており、袁世凱の北洋軍閥に接近、その高等顧問に任ぜられたりした。しかし、1913年4月に国民党を組織して采配を振るった宋教仁が袁世凱の命によって暗殺されると、再び孫文らと合流、袁世凱打倒に参画することとなる。その後、芥川の言葉にある通り、北京に戻ったところを逮捕され、3年間軟禁されるも遂に屈せず(その間に長女の自殺という悲劇も体験している)、1916年、中華民国北京政府打倒を目指す護法運動が起こると孫文の軍政府秘書長として各地を転戦した。しかし、この芥川との会見の直前には1919年の五・四運動に反対して、保守反動という批判を受けてもいる。これは彼が中国共産党を忌避していたためと考えられる。奇行多く、かなり偏頗な性格の持ち主であったらしいが、多くの思想家・学者の門人を育てた。特に魯迅(Lǔ Xùn ルー シュン 本名周樹人 18811936)は生涯に渡って一貫して師としての深い敬愛の情を示し続けた(以上はウィキや百科事典等の複数のソースを参照に私が構成した)。以下の訪問については芥川龍之介「上海游記」「十一 章炳麟氏」を参照されたい。

・「桃太郎」ここでの章炳麟の談話から、痛快無類にして残虐無比の桃太郎の、鬼にシンパシーを感じさせる風刺譚たる芥川龍之介「桃太郎」が発想されることになる。「桃太郎」の脱稿は恐らく僅かにこの2ヶ月後、大正131924)年6月(発表は7月1日発行の『サンデー毎日』)のことであった。

・「山縣公爵」明治期の政治家・軍人であった山縣有朋(天保9(1838)年~大正111922)年)のこと。国軍の父として陰に陽に保守勢力の中心にあった。明治の妖怪の異名を持つ。

・「澁澤子爵」明治~大正初期の大蔵官僚にして実業家であった渋沢栄一(天保111840)年~昭和6(1931)年)のこと。儒教道徳に基づく経済理論に則り、第一国立銀行・王子製紙・日本郵船・東京証券取引所等の設立経営に深く関わった経済界のフィクサー。日本資本主義の父の異名を持つ。

・「日本政府の植民政策」明治281895)年の日清戦争敗戦に伴う清朝の台湾割譲、明治431910)年の韓国併合による朝鮮領有や、大正4(1815)年に日本が権益と侵略のために中華民国袁世凱政権に受諾させた条約「対華21ヶ条要求」(中国では「二十一条」。本条約には正式名称がない)、1億7700万円に登った西原借款等による中国への経済進出等を指す。

・「繪本太閤記」は784冊からなる読本。寛政9(1797)年から享和2(1802)年刊。伝武内確斎著、岡田玉山画になる豊臣秀吉の一代記であるが、当時は禁書となったが、後に脚色されて人気を博した。

・「ステフアン・ツワイグ」オーストリアの作家・評論家であるStefan Zweig(シュテファン・ツヴァイク 18811942)のこと。マリー・アントワネットの評伝“Marie Antoinette”(1933)が著名。Romain Rolland(ロマン・ロラン 18661944)とは知己で共に平和運動に関わった。評伝“Romain Rolland: the man and his work”(1921)がある。

・「國粹會」は右翼団体の一つ。正式名称は大日本国粋会。大正8年(1919)年に結成された土建業者・博徒を含む超党派的純国家主義思想団体。現在の暴力団組織のルーツである。

・「妹お辻」「天の橋立に大敵と戰ふ重太郎」の注の映画「岩見重太郎 決戦天の橋立」のストーリーで言うところの「お継」(これは所謂、立川文庫等の流れでの設定名らしい)。仇討ちのために女郎に身をやつし、あわや敵の刃にかからんとし、果ては冤罪のために獄死するという、如何にもな薄幸の女として設定されている。

・「苧殼」皮をはいだ麻の茎。盂蘭盆の迎え火・送り火の焚きものとし、また、供え物に添える箸とする。

・「狒退治」長野県飯田市上郷商工会のHP内の「野底山・姫宮の伝説 岩見重太郎のヒヒ退治」によれば、以下のような伝説が記されている。上郷村の野底の山奥にある姫宮は、杉が鬱蒼と生い茂る暗く淋しい場所であったが、毎年、春祭りの前日になると、上郷村の美しい娘のいる家に白羽の矢が立って、その娘を人身御供としてその姫宮の神に供えないと、神が田畑を荒らして作物をだめにするという言い伝えがあった。ある年の春祭りの際、岩見重太郎という旅の侍が村を通りがかり、その話を聞くと、『「これはきっと、なにか悪者の仕業に違いない。神様がそのような事をするはずはない。今夜は私が身代わりに人身御供になってお宮に赴き、その悪者を退治して進ぜましょう。」』ということになった。やがて辺りが暗くなり、村人四人の手で、人身御供を入れる大きな白木の棺が姫宮の神殿に供えられた。実は中には重太郎が忍んでいる。村人が去り、夜も更けてくると、急に黒雲が広がり稲妻が走る。闇の中からは『ズシンズシンと山を踏み分けて忍び寄る怪しい物音』、重太郎が棺の隙間から覗いてみると、巨大な黒い影がだんだんと棺の方に近づいてくる。重太郎は素早く棺から踊り出ると、その大きな影の胸とおぼしい辺りを目掛けて、一気に斬りつけた。すると化物は激しい悲鳴を挙げてよろよろと闇の中にに消えて行った。東の空が白み始めた頃、虚空蔵山の麓、重太郎の上げた狼煙を見出した村人たちは、おっとり刀で姫宮に来てみると、重太郎は無事に皆の来るのを待っていた。『大勢で血の痕をたどって権現山の奥へと分け入ってくと、大きな岩陰の洞窟に、血みどろになって死んでいる大きなヒヒがおったんな。「やっぱ神様じゃなかったんだなむ。」「いままで娘たちを…。ほんとに、むごいことをしてきたもんだ…。」と、村の人たちは恐々中を覗きこんでささやきあっとったっちゅうに。その年から人身御供はなくなったんだって。めでたし、めでたし』。岩波新全集注解で篠崎美生子氏は幕末頃に成立した「岩見武勇伝」(全50巻)では同信濃飯田物見大明での話とし、立川文庫版「武士道精華岩見重太郎」では『信州松本吉田村の国常明神社で、重太郎が白毛の大狒を退治して人身御供を救』う話となっている、とする。

・「大蛇退治」「怪異・妖怪伝承データベース」の「大蛇,人身御供」によれば、大阪府大阪市西淀区に『岩見重太郎が大蛇を退治したという池があり、官女に扮した少女の人身御供の風習が、現在でも奇祭として残っている。』とある。岩波新全集注解で篠崎美生子氏は、「岩見武勇伝」では仙台の青葉山での話とする。

・「由良が濱」京都府宮津市由良地内にある海岸。「百人一首」の曽禰好忠の「由良の戸を渡る船人梶を絶え行方も知らぬ恋の道かな」や鷗外の「山椒大夫」で安寿が潮汲みをさせられる場所として有名で、岩見重太郎仇討ちの場である天橋立にも極めて近い。

・「天つ神の鋒から滴る潮の大和島根」の「大和島根」は日本の古称、大和島のことで、「古事記」等に伝える国産み神話で、伊邪那岐(いさなき)と伊邪那美(いさなみ)二神が別天津神(ことあまつがみ)らにくらげなすカオスの大地の完成を命じられ、天浮橋(あめのうきはし)に立った二人は別天津神から授かった天沼矛(あめのぬぼこ)を以ってこおろこおろとどろどろの大地をかき混ぜ、すっぽんと抜いた、その時、矛の先から滴り落ちたものが、積もって凝り固まり、島となった。そしてこの島に淤能碁呂島(おのごろじま)と名付けたが、これが大和島根の始まりとなることを言う。因みに私はこの天沼矛の分かり易いセクシャルな象徴が殊の外お気に入りで、好んでこの話をしては女子生徒から嫌われるのである。

・「奈良の都の市民は卵を食ふことを罪惡とした」仏教の殺生戒から白鳳3(675)年4月17日に発せられた天武天皇の詔によって4月1日から9月30日までの間は牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食うことが禁じられたが、どうもその中に鶏卵も含まれていたらしい。

・「照覽」神仏がそれを見知って判断すること。

・「千位置戸の刑罰」古代にあって罪を犯した場合には、その償いとして多くの贖物(あがもの)を出さねばならない。言わば全財産没収であるが、実は須佐之男命(すさのをのみこと)の高天原での乱暴狼藉はそれでも足りず、『また鬚を切り、手足の爪を拔かしめ』(「古事記」)た上、天界を追放されたのである。

・「恬然」物事にこだわらず平然としているさま。

・「保食の神を斬り殺す」食物創成神である「保食の神」は「古事記」では大気津比売(おほげつひめ)で、「保食の神」として出る「日本書紀」では相手は須佐之男命ではなく、「月読命」となる。「古事記」に従うと、地上に追放された建速須佐之男命(たけはやすさのおのみこと 須佐之男命の正式名)が『食物(をしもの)を大氣津比賣に乞ひき。爾(ここ)に大氣都比賣、鼻口及尻より、種種(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出して、種種作り具へて進(たてまつ)る時に、速須佐之男命、其の態(しわざ)を立ち伺ひて、穢-汚(けが)して奉進(たてまつ)ると爲(おも)ひて、乃ち其の大宜津比賣神を殺しき。故(かれ)、殺さえし神の身に生(な)れる物は、頭に蠶生り、二つの目に稻種(いなだね)生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰(ほと)に麥生り、尻に大豆生りき。故是に神産巣日御祖命(かみむすひのみおやのみこと)、茲(こ)れを取らしめて、種と成しき。』という場面である。

・「面輪」「輪」は輪郭の意で、顔、顔面のこと。

・「誣ひる」事実を曲げて言う。作り事を言う。

・「ニイチエの代りに親鸞上人を發見する」篠崎美生子氏の岩波新全集注解の本篇の「親鸞」の語注の最後を、『高山樗牛はニーチェ流の天才主義を唱えた後、晩年には親鸞に傾倒した。』と終らせておられる。芥川が、ここの部分を、樗牛を意識して書いたのだとおっしゃりたいらしいが、余りにも専門家的にディグし過ぎた(芥川研究家対象ならまだしも、こんな唐突な注が一般人の本篇の読解に効果的であるとは私には思えない)、一人合点の不親切な注ではあるまいか?

・「ハリケエン・ハツチ」西部劇の主人公。監督・George B. Seitz ジョージ・B・サイツ、原作・Charles Hutchison チャールズ・ハッチソン、脚本・Bertram Millhauser バードラム・ミルハウザー、主役Larry Hutchdaleラリー・ハッチデールを演じたCharles Hutchison チャールズ・ハッチソン自らの原作になる1921年製作のアメリカ映画。goo映画「ハリケーン・ハッチ」によれば『「天空の怪物」「黄色の腕」に続いてパテー社が発売した連続活劇で、「大旋風」「冒険の冒険」などの主役チャールズ・ハッチソンの主演である。氏自ら原作を書き、これをバートラム・ミルハウザーが脚色し、ジョージ・B・サイツが監督したもの。悪役としてワーナー・オーランド、ハリー・シーメルスの2人、ヒロインとして新進のルシー・フォックスが出演する。』粗筋は『ナンシー・ケロッグは自分の財産である紙工場をクリフトン・マーロウに抵当として入れた。マーロウはこの工場の所有権を得んとしてナンシーと結婚しようとするが、彼女は勤勉なるラリー・ハッチデールを愛していた。アン・ハヴィランドという女は祖父が臨終の際「海草から紙を作る式を書いた書類の隠し場所があるスカーフに織り込んである。それを得て巨万の富を成せ」といわれたので、スカーフの持ち主ベラ・ブリンクリーからこれを奪おうとする。マーロウもこれを知ってジム・タイガーリーを語らってスカーフを奪わんとする。ベラの父ジョンはナンシーの父の発明せる式を盗んでこれを隠し、スカーフにその所在地を織り込んで娘に残し、身は国外へ逃れたのであった。ベラは危きをハッチに救われ、そのスカーフを感謝の印としてナンシーに与える。マーロウがそのスカーフを奪わんとする恐しい企みから、「ハリケーン」と呼ばれたハッチの大活躍の幕は開かれるのである。』ストーリーからはやや分かり難いが、ハリケーン・ハッチは熱血漢の二挺拳銃の使い手である。

・「ミカエル・バクウニン」Михаил Александрович БакунинMikhail Alexandrovich Bakunin ミハイル・アレクサンドロヴィッチ・バクーニン 18141876)はロシアの思想家・無政府主義者。ヨーロッパ各地の革命に参加するも、1851年に捕縛され、1857年にはシベリアに終身流刑となるも1961年に脱走、日本やアメリカを経てロンドンに亡命した。第一インターナショナルに参加したがマルクスと対立して除名、その後はスペイン革命に深く関わった。

・「絡繹」人馬の往来が絶え間なく続くこと。

・「牛鬼蛇神」牛鬼は牛頭馬頭(ごずめず)の一、牛頭人身の妖怪。蛇神は宇賀神様の鬼神で、人面蛇身。

・「本所御竹倉」現在の両国駅から北側一帯(墨田区横網町)にかけては嘗ての幕府材木倉・竹倉・米蔵などの御蔵屋敷跡の一部であった。芥川が幼・少年期を過した頃の芥川家は、ここの南に隣接する旧本所区小泉町15番地(現・墨田区両国3丁目2211号)にあった。芥川龍之介の「本所兩國」等も参照されたい。

・「羽賀井一心斎」(生没年未詳)は「はがゐいつしんさい(はがいいっしんさい)」と読み、江戸前期の剣術家。新陰流。17歳で山形藩に仕えるも、家老謀反の企みを知って家老一族郎等を斬殺脱藩、後、備中飯山に道場を開いた。柳生宗冬の師。寛永9(1632)年9月22日江戸城内武術御撰広芝御稽古場で行われた徳川家光御前試合での磯端伴蔵との他流試合、由比正雪一味との抗争等、時代小説の魅力的剣豪として知られる。

・「妲妃のお百」(生没年不詳)江戸中期の毒婦として虚構化された女性。京都祇園の遊女であったが、次々に男を換え、秋田藩士那河忠左衛門の内妻となった。ところが宝暦7(1757)年に忠左衛門が御家騒動によって斬罪に処せられた結果、伝説的な淫婦悪女として殷を滅亡させた紂王ので妃典型的なサディストにしてインクブス妲己(だっき)に擬えられるようになってしまった。特に講談「妲妃のお百」では廻船問屋桑名屋徳兵衛や秋田藩奥医師殺しの張本人として描かれ、慶応3(1867)年の河竹黙阿弥作の歌舞伎「善悪両面児手柏」(ぜんあくりょうめんこのてかしわ)等によって江戸末期には代表的毒婦のイメージが定着していた。

・「髮結新三」は「かみゆひしんざ(かみゆいしんざ)」と読む。明治6(1873)年初演の河竹黙阿弥の世話物「梅雨小袖昔八丈」(つゆこそでむかしはちじょう)の小悪党。本作の別名でもある。

・「佐野次郎左衞門」(生没年不詳)江戸中期の百姓(町人とも)。吉原の遊女八ツ橋に恋慕したがその不実を恨んで彼女以下多数の妓女や客を斬り殺して、吉原百人斬りと言われた。歌舞伎の並木五瓶作「青楼詞合鏡」(さとことばあわせかがみ)や鶴屋南北作「杜若艶色紫」(かきつばたいろもえどぞめ)、三代河竹新七作「籠釣瓶花街酔醒」(かごつるべさとのえいざめ)等に脚色されて人口に膾炙する殺人鬼。

・「閭巷」村里。民間。

・「葭戸」葭簀(よしず。ヨシの茎を編んで作った簀、すだれのこと)を張った戸障子。夏の暑い時期、襖の代用とした。葦障子。

・「花簪」造花で作った安物のかんざし。

・「しかし超人そのものは――大いなる岩見重太郎よ、兩手に大刀をふりかぶつたまま、大蛇を睨んでゐる君の姿は夙に幼ない僕の心に、敢然と山から下つて來たツアラトストラの大業を教へてくれたのである。あの貸本屋はとうの昔に影も形も失つたであらう。が、岩見重太郎は今日もなほ僕の中に潑溂と命を保つてゐる。いつも目深い編笠の下に薄暗い世の中を睨みながら。」の部分は岩波版新全集後記に載る原稿版を採用した。底本及び従来のテクストは以下の通りである。

しかし超人そのものは――大いなる岩見重太郎よ、傳家の寶刀を腰にしたまま、天下を睨んでゐる君の姿は夙に僕の幼な心に、敢然と山から下つて來たツアラトストラの大業を教へてくれたのである。あの貸本屋はとうの昔に影も形も失つたであらう。が、岩見重太郎は今日もなほ僕の中に潑溂と命を保つてゐる。いつも人生の十字街頭に悠々と扇を使ひながら。

私は原稿を断然、よしとするものである。]