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鬼火へ

病中雜記   芥川龍之介

   ――「侏儒の言葉」の代りに――

[やぶちゃん注:大正十五(1926)年二月及び三月発行の雑誌『文藝春秋』に掲載、後に『侏儒の言葉』に所収された。この頃、不眠と痔に悩まされ、1月15日から2月19日まで湯河原中西屋旅館で湯治。更に、齋藤茂吉の紹介で内科医神保孝太郎の診断を受けたところ、神経衰弱、胃酸過多症、胃アトニー等の診断を下され、「この分にては四十以上になると、とりかへしのつかぬ大病になるよし」を申し渡された(同年2月8日付片山廣子宛旧全集一四四四書簡)。なお、小穴隆一によれば、この年の4月15日に芥川は自裁の決意を彼に伝えたとする。底本は岩波版旧全集を用いた。後注を附した。]

 

病中雜記

   ――「侏儒の言葉」の代りに――

 

 一 毎年一二月の間になれば、胃を損じ、腸を害し、更に神經性狹心症に罹り、鬱々として日を暮らすこと多し。今年も亦その例に洩れず。ぼんやり置火燵に當りをれば、氣違ひになる前の心もちはかかるものかとさへ思ふことあり。

 

 二 僕の神經衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。その時には眠りに入らんとすれば、忽ち誰かに名前を呼ばるる心ちし、飛び起きたることも少からず。又古き活動寫眞を見る如く、黄色き光の斷片目の前に現れ、「おや」と思ひしことも度たびあり。十一年の正月、ふと僕に會ひて「死相がある」と言ひし人ありしが、まことにそんな顏をしてをりしなるべし。[やぶちゃん後注 二

 

 三 「墨汁一滴」や「病牀六尺」に「腦病を病み」云々とあるは神經衰弱のことなるべし。僕は少時正岡子規は腦病などに罷りながら、なぜ俳句が作れたかと不思議に思ひし覺えあり。「昔を今になすよしもがな」とはいにしへ人の欺きのみにあらず。[やぶちゃん後注 三※]

 

 四 月餘の不眠症の爲に〇・七五のアダリンを常用しつつ、枕上子規全集第五卷を讀めば、俳人子規や歌人子規の外に批評家子規にも敬服すること多し。「歌よみに與ふる書」の論鋒破竹の如きは言ふを待たず。小説戲曲等を論ずるも、今なほ僕等に適切なるものあり。こは獨り僕のみならず、佐藤春夫も亦力説する所。[やぶちゃん後注 四※]

 

 五 子規自身の小説には殆ど見るに足るものなし。然れども子規を長生せしめ、更に小説を作らしめん乎、伊藤左千夫、長塚節等の諸家の下風に立つものにあらず。「墨汁一滴」や「病牀六尺」中に好箇の小品少からざるは既に人の知る所なるべし。就中「病牀六尺」中の小提灯の小品の如きは何度讀み返しても飽かざる心ちす。[やぶちゃん後注 五※]

 

 六 人としての子規を見るも、病苦に面して生悟りを衒はず、歎聲を發したり、自殺したがつたりせるは當時の星菫詩人よりも數等近代人たるに近かるべし。その中江兆民の「一年有半」を評せる言の如き、今日これを見るも新たなるものあり。[やぶちゃん後注 六※]

 

 七 然れども子規の生活力の横溢せるには驚くべし。子規はその生涯の大半を病牀に暮らしたるにも關らず、新俳句を作り、新短歌を詠じ、更に又寫生文の一道をも拓けり。しかもなほ力の窮まるを知らず、女子教育の必要を論じ、日本服の美的慣値を論じ、内務省の牛乳取締令を論ず。殆ど病人とは思はれざるの看あり。尤も當時のカリエス患者は既に腦病にはあらざりしなるべし。(一月九日)[やぶちゃん後注 七※]

 

 八 何ゆゑに文語を用ふる乎と皮肉にも僕に問ふ人あり。僕の文語を用ふるは何も氣取らんが爲にあらず。唯口語を用ふるよりも數等手數のかからざるが爲なり。こは恐らくは僕の受けたる舊式教育の祟りなるべし。僕は十年來口語文を作り、一日十枚を越えたることは(一枚二十行二十字詰め)僅かに二三度を數ふるのみ。然れども文語文を作らしめば、一日二十枚なるも難しとせず。「病中雜記」の文語文なるものも僕にありてはやむを得ざるなり。

 

 九 僕の體は元爽甚だ丈夫ならざれども、殊にこの三四年來は一層脆弱に傾けるが如し。その原因の一つは明らかに巻煙草を無暗に吸ふことなり。僕の自治寮にありし頃、同室の藤野滋君、屢僕を嘲つて曰、「君は文科にゐる癖に卷煙草の味も知らないんですか?」と。僕は今や巻煙草の味を知り過ぎ、反つて斷煙を實行せんとす。當年の藤野君をして見せしめば、僕の進歩の長足なるに多少の敬意なき能はざるべし。因に云ふ、藤野滋君はかの夭折したる明治の俳人藤野古白の弟なり。[やぶちゃん後注 九※]

 

 十 第一の手紙に曰、「社食主義を捨てん乎、父に叛かん乎、どうしたものでせう?」更に第二の手紙に曰、「原稿至急願上げ候。」而して第三の手紙に曰、「あなたの名前を拜借して××××氏を攻撃しました。僕等無名作家の名前では効果がないと思ひましたからどうか惡しからず。」第三の手紙を書ける人はどこの誰ともわからざる人なり。僕はかかる手紙を讚みつつ、日々腹ぐすり「げんのしやうこ」を飮み、靜かに生を養はんと欲す。不眠症の癒えざるも當然なるべし。[やぶちゃん後注 十※]

 

 十一 僕は昨夜の夢に古道具屋に入り、青貝を嵌めたる硯箱を見る。古道具屋の主人曰、「これは安土の城にあつたものです。」僕曰、「蓋の裏に何か横文字があるね。」主人日、「これはヂキタミンと云ふ字です。」安土の城などの現れしは「安土の春」を讀みし爲なるべし。こは寧ろ滑稽なれど、夢中にも藥の名の出づるは多少のはかなさを感ぜざる能はず。[やぶちゃん後注 十一※1 ※2]

 

 十二 僕の日課の一つは散歩なり。藤木川の岸を徘徊すれば、孟宗は黄に、梅花は白く、春風殆ど面を吹くが如し。偶路傍の大石に一匹の蠅のとまれるあり。我家の庭に蠅を見るは毎年五月初旬なるを思ひ、茫然とこの蠅を見守ること多時。僕の病體、五月に至らば果して舊に復するや否や。[やぶちゃん後注 ※]



■やぶちゃん後注

二※:僕の神經衰弱の最も甚しかりしは大正十年の年末なり。
 一般には、大正十(1921)年3月末から7月中旬迄の4箇月に亙る大阪毎日新聞社海外特派員としての中国旅行後の、過剰にして無理な創作活動に原因したと考えられている。


三※:「昔を今になすよしもがな」
 「伊勢物語」第三十二段より。
 むかし、もの言ひける女に、年ごろありて、
  いにしへのしづのをだまきくりかへし
    むかしを今になすよしもがな
と言へりけれど、なにとも思はずやありけむ。


四※:アダリンを常用
 しかし、同年2月9日付小穴隆一宛旧全集一四四九書簡では『この頃も不相變不眠にて弱り候。但しアダリンを用ひぬだけ幾分快方に迎[やぶちゃん注:ママ。]ひしならんと存居り候。』とも記している。しかし、2月21日付與謝野寛宛旧全集一四五九書簡(但しこの書簡の年次は推定)では、與謝野寛からの講演依頼に『舊臘來體を損じ月々の仕事も出來ず、難澁致し居り候間まことに恐縮には候へども講演の儀は當分御免蒙り度願上候』と、断っている。アダリン Adalin はブロムジエチルアセチル尿素の商標名。わずかに苦みのある白い粉末で、催眠鎮静剤。


五※:「病牀六尺」中の小提灯の小品
 筑摩書房全集類聚版注釈では、ここで芥川が挙げている小品を、正岡子規の「熊手と提灯」を指すか、としているが、如何か。「熊手と提灯」は単独の小品で、芥川の言うような「病牀六尺」中の小品ではない。私は芥川が示しているのは、「病牀六尺」の「十三」ではないかと思う。以下に、当該部分を引用する。底本は1984年改版の岩波文庫「病牀六尺」を用いたが、これは新字体採用であり、私は子規全集を所持していないので、恣意的に一部を正字体に代え、また、底本編者によって恣意的に振られたと判断するルビもほとんど省略した(底本ルビは新仮名遣いであるので、振る場合は、正仮名遣いとした)。但し、「小提灯」の表記については、芥川龍之介の記載を信じて「提燈」とせず、「提灯」とした。向後、機会を見て全集での確認をしたい。

  十三

〇古洲よりの手紙の端に
  御無沙汰をして居つて誠にすまんが、實は小提灯ぶらさげの品川行時代を追懷して今日の君を床上に見るのは余にとつては一の大苦痛である事を察してくれ給へ。
[やぶちゃん注:底本では、以上の「御無沙汰……くれたまへ。」までの文は全体が二字下げとなっている。]
とあつた。この小提灯といふ事は常に余の心頭に留まつてどうしても忘れる事の出來ない事實であるが、さすがにこの道には經驗多き古洲すらもなほ記憶してをるところを以てみると、多少他に變つた趣きが存してゐるのであらう。今は色氣も艷氣もなき病人が寐床の上に懺悔物語として昔ののろけもまた一興であらう。
 時は明治二十七年春三月の末でもあつたらうか、四カ月後には驚天動地の火花が朝鮮の其處らに起らうとは固より知らず、天下泰平と高をくくつて遊び樣に不平を並べる道樂者、古洲に誘われて一日の日曜を大宮公園に遊ばうと行て見たところが、櫻はまだ咲かず、引きかへして目黒の牡丹亭とかいふに這入り込み、足を伸ばしてしよんぼりとして待つて居るほどに、あつらへの筍飯を持つて出て給仕してくれた十七、八の女があった。この女あふるるばかりの愛嬌のある顏に、しかもおぼこな處があつて、かかる料理屋などにすれからしたとも見えぬほどのおとなしさが甚だ人をゆかしがらせて、余は古洲にもいわず獨り胸を躍らして居つた。古洲の方もさすがに惡くは思はないらしく、彼女がランプを運んで來た時に、お前の内に一晩泊めてくれぬか、と問ひかけた。けれども、お泊りはお斷り申しまする、とすげなき返事に、もとよりその事を知つて居る古洲は第二次の談判にも取りかからずにだまつてしまふた。それから暫くの間雜談に耽つてゐたが、品川の方へ廻つて歸らう、遠くなければ歩いて行かうぢやないか、といふ古洲がいつに無き歩行説を取るなど、趣味ある發議に、余は固より贊成して共にぶらぶらとここを出かけた。外はあやめもわからぬ闇の夜であるので、例の女は小田原的小提灯を點じて我々を送つて出た。姐さん品川へはどう行ますか、といふ問に、品川ですか、品川はこのさきを左へ曲つてまた右に曲つて………其處まで私がお伴致しませう、といひながら、提燈を持つて先に駈け出した。我々はその後から踵いて行て一町餘り行くと、藪のある横町、極めて淋しい處へ來た。これから田圃をお出になると一筋道だから直ぐわかります、といひながら小提灯を余に渡してくれたので、余はそれを受取つて、さうですか有難う、と別れようとすると、ちよつと待つて下さい、といいながら彼女は四五間後の方へ走り歸つた。何かわからんので躊躇してゐるうちに、女はまた余の處に戻つて來て提燈を覗きながらその中へ小さき石ころを一つ落し込んだ。さうして、左樣ならご機嫌宜しう、といふ一語を殘したまま、もと來た路を闇の中へ隱れてしまふた。この時の趣、藪のあるような野外れの小路のしかも闇の中に小提灯をさげて居る自分、小提燈の中に小石を入れて居る佳人、餘は病床に苦悶してゐる今日に至るまで忘れる事の出來ないのはこの時の趣である。それから古洲と二人で春まだ寒き夜風に吹かれながら田圃路をたどつて品川に出た。品川は過日の火災で町は大半燒かれ、殊に假宅(かりたく)を構へて妓樓が商賣してゐる有樣は珍らしき見ものであつた。假宅という名がいたく氣に入つて、蓆圍(むしろがこ)ひの小屋の中に膝と膝と推し合ふて坐っている浮れ女(め)どもを竹の窓より覗いてゐる、古洲の尻に附いてうつかりと佇んでゐるこの時、我手許より燄(ほのほ)の立ち上るに驚いてうつむいて見れば、今まで手に持っておった提灯はその蠟燭が盡きたために、火は提灯に移つてぼうぼうと燃え落ちたのであつた。
     うたゝ寐に春の夜淺し牡丹亭
     春の夜や料理屋を出る小提灯
     春の夜や無紋あやしき小提灯      (五月二十五日)


六※:中江兆民の「一年有半」を評せる言
 明治34(1901)年、喉頭癌で余命一年半と宣告された中江兆民が記した評論集「一年有半」に対して、子規が十一月発行の雑誌『日本』誌上で「命のあまり」と題して発表した批評文を指す。


七※:女子教育の必要を論じ、日本服の美的慣値を論じ、内務省の牛乳取締令を論ず。
 芥川の言う、「女子教育の必要」は明治35(1902)年の「病牀六尺」の「六十五」(七月十六日)から「六十七」(七月十八日)までの記載、「日本服の美的慣値」は「墨汁一滴」の明治34(1901)年の(六月八日)の記載、「内務省の牛乳取締令」については、「病牀六尺」の「四十四」(六月二十五日)の記載を指すものと思われる。


九※:藤野古白
 明治四(1871)年~明治二十八(1895)年。愛媛県生。本名潔(きよむ)。正岡子規は四歳年上の従兄(古白の姉が子規の実母)であった。十九歳で古白と号し、一時期、新興俳句運動を刺激したが、次第に情緒不安となり、1985年3月、25歳でピストル自殺を遂げた。遺稿集として子規編になる『古白遺構』がある。

   今朝見れば淋しかり夜の間の一葉かな   古白

自裁した年の秋、子規が墓前にて捧げた弔句を挙げておく。

   我死なで汝生きもせで秋の風       子規


十※:腹ぐすり「げんのしやうこ」
 多年草のゲンノショウコ
Geranium nepaiense の乾燥品を煎じたもの。下痢・鎮痛、腸や胃の潰瘍の治癒促進、健胃整腸効果をもつ。和名は「現の証拠」で、下痢の際に飲用すると即座に効果が現れることから付けられた。


十一※1:「安土の春」
 大正十五(1926)年2月、雑誌『中央公論』に発表された正宗白鳥の戯曲「安土の春」を指す。


十一※2:「ヂキタミン」
 有毒植物ジキタリス
Digitalis purpurea 由来の強心配糖体を含む心臓薬の商標名と思われる。


十二※:藤木川
 湯河原温泉街を流れる川。芥川の定宿とした中西屋旅館はこの川のたもとにあった。